シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あ…!)
学校からの帰り道。ブルーの前をふわりと横切った綿毛。バス停から家まで歩く途中で。小さな小さなプロペラみたいに、羽根をくっつけた何かの種。柔らかそうな、白い羽根を。
目の高さくらいでスウッと通り過ぎたのに、上手い具合に風に乗ったらしい種。ふうわりと空に舞い上がってゆく。そのまま道端に着地するのかと思ったのに。
(飛んで行くよ…)
羽ばたきもせずに飛んでゆく種。生垣を軽く飛び越えて行った。引っ掛からないで。
今の自分は飛べないのに。前と同じにタイプ・ブルーでも、とことん不器用に生まれたせいで。どう頑張っても空は舞えない。生垣の高さにだって飛べない。
あんなに小さな種が軽々と飛んでゆくのに。気持ち良さそうに風に乗ってゆくのに。
(…いいな…)
何もしないでも飛べるなんて、と羨ましい気持ちで見上げた種。チビの自分よりもずっと小さい種。何かの植物の赤ん坊。生まれたばかりで、空に飛び立った所。この世界へと。
(種だけど、やっぱり赤ちゃんだよね?)
でなければ卵かもしれない。雛が孵る前の卵の旅。何処かに落ちたら雛が孵って、とても小さな芽が出るのだろう。気を付けていないと、見落としそうなくらいに小さいのが。
赤ちゃんなのか、それとも卵か。どっちなのかな、と見ている間も、種はぐんぐん昇ってゆく。いい風に乗って。生垣の次は庭を飛び越えて、お次は家。
二階の屋根より高く舞い上がって、光の中に溶けてしまった。とても小さな種だったから。白く光を弾く綿毛よりも、太陽の輝きが強かったから。
種は見えなくなってしまったから、何処まで行くかはもう分からない。今の自分は、サイオンの目では追えないから。前の自分の頃と違って。
不器用な自分が飛べない空を、フワフワと飛んで行った種。風に乗っかって、広い空へと。
(うんと遠くまで行っちゃうかもね?)
ああやって空の旅をして。もしかしたら、上昇気流にも乗って。
風船が思いがけなく遠い所まで旅をするように、あの種だって行くかもしれない。バスの終点を軽く飛び越して、もっと遠くへ。隣町とか、その向こうとか。
(遠くまで旅をしなくても…)
種が飛び立った場所とは違った、知らない所へ飛んでゆく旅。ほんのちょっぴりだけの旅でも。家を幾つか越えただけでも。
初めて見る場所にふうわりと落ちて、地面の中で眠って、冬を越して。春になったら…。
(何が育つのかな?)
あの綿毛から。地面に落ちたら、多分、綿毛は役目を終えて外れるのだろう。種が旅するための綿毛はもう要らないから。
種はゆっくり眠り続けて、春の暖かな光で芽を出す。小さな葉っぱが顔を覗かせて、その葉から太陽の光を貰って、根からは土の中の養分。新しい場所で育ち始める命。
すくすく育ってゆくだろうけれど、後は綿毛の正体と運。雑草が生えた、と抜かれてしまうか、逞しく育ち続けてゆくか。「いいものが生えた」と歓迎されるか、綿毛だけでは分からない。
(綿毛、色々なのがあるから…)
雑草でなくても、様々な園芸植物の類。あの種が何かは分からないけれど。
(土があったら、芽を出せるよね?)
道路なんかに落ちなかったら、無事に芽を出すことだろう。着地した場所で、春になったら。
いい旅を、と心で呼び掛けた綿毛。今の自分は空を飛べないから、心の底から。素敵な所へ旅をしてねと、気持ちいい所へ飛んで行ってね、と。
もう見えなくなった種を見送って、家に帰って、おやつを食べて戻った部屋。二階の窓から外を眺めたら、綿毛のことを思い出した。帰り道に空を飛んで行った種。
風に乗って高く舞い上がった種は、あれから何処へ行ったのだろう?
(この辺りだったら、土のある場所は、うんと沢山…)
何処の家にも庭があるから、其処にふわりと落ちたなら。公園もあるし、家の外にまで植木鉢を並べた家だって。
屋根に落ちても、雨で流れて着地出来そうな庭。花壇にだって着くかもしれない。綿毛の正体が雑草だとしても、芽を出すことは出来る筈。冬が終わって、暖かな季節が巡って来たら。
もっと遠くまで飛んでゆけたら、広い野原にも着けるだろう。何の種でものびのび育てる、誰も抜いたりしない場所。雑草の種でも、綺麗な花が咲く植物でも。
(素敵な所まで飛べるといいね…)
幸せに育ってゆける場所まで。庭で芽を出しても大きくなれる家だとか。うんと遠くの町外れに広がる野原にだって。
もしも雑草の種だったならば、庭では歓迎されないから。ある程度までは大きくなれても、空を飛んでゆける種が出来上がる前に、引っこ抜かれてしまいそうだから。
どんな種でも立派に成長出来る場所なら、郊外の野原。其処が一番。
帰り道に出会った綿毛の正体は分からないから、野原まで飛んで行けたらいいい。空を旅して、町の外まで辿り着けたら大丈夫、と思った所でハタと気付いた。
(町の外って…)
人間が住んでいる家が見えなくなったら、広がっている野原や緑の山や。沢山の木が茂った山を越えて行っても、続いてゆく植物の種が生きられる地面。山の向こう側も、木々に覆われた斜面。其処を下れば、林や野原。
当たり前に思っていたのだけれども、その光景は今だからこそ。青く蘇った地球の恵みで、前の自分は知らない風景。町の外まで緑の地面が続く景色は。
(アルテメシア…)
白いシャングリラが長く潜んだ、雲海の星。緑溢れる町もあったし、海も広がっていたけれど。
(全部、人間が暮らすためのもので…)
本来の星の姿を改造したもの。人間が其処で生きてゆくのに適した姿に。
テラフォーミングされた場所を除けば、アルテメシアは荒地のままだった。同じ星の上にあった二つの都市の間でさえも、不毛の地だった峡谷が挟まっていた有様。
険しい断崖と深い峡谷、水さえ流れていなかった。そんな所に緑が育ちはしない。どんな雑草も生えていなくて、荒涼とした谷。町の外も同じに荒れた土だけ、草は一本も育たなかった。
(あそこだと、種が風に乗っても…)
高く、遠くと舞い上がれても、幸せにはなれなかっただろう。旅をした先に、植物の種を育ててくれる地面は無いから。長い空の旅を続けた果てには、不毛の大地があっただけだから。
人間のために整備されていた区域の中でしか、雑草でさえも芽を出せなかったアルテメシア。
綿毛の羽根で空を飛べても、自由にはなれなかった星。人間が作った世界からは。
けれども、今日の綿毛は違う。町の外まで飛んで行ったら、本当に自由。雑草の種でも、抜いて捨てられはしないから。山で、野原で、大きく育ってゆけるのだから。
(今は人間の方が遠慮してる時代…)
人間の都合で星を、自然をどんどん改造したりはしない。テラフォーミングをするのだったら、星ごと変えてゆくのが基本。人間の住む場所以外であっても、自然が息づく星になるように。
(砂漠とかも、ちゃんとあるけれど…)
それは、その方が自然だから。この惑星ならどうすべきか、と検討して自然を作ってゆくから。もっと人間の住める地域を、と欲張らないで。他の生き物が暮らす範囲を最優先で。
特に地球では、厳しい決まり。一度滅びて、奇跡のように蘇って来た星だから。
この星の上では、他の動物や植物のためにある場所の方が多くて、人間は其処に住ませて貰うといった雰囲気。彼らの邪魔をしないようにと遠慮しながら。
(アルテメシアにあったみたいな高層ビルは…)
今の時代は、もう作られない。地球でなくても、何処の星でも。
中でも地球が一番厳しい、と学校で習う。ビルも道路も、自然を損ねてしまわないよう、とても気を配って作られていると。滅びる前の地球とは違うと。
賑やかな街の真ん中にだって、きちんと作られている公園。人が緑と触れ合えるように。小鳥や虫たちが暮らせるように。
町の外には、豊かな緑。野原も山も、「此処で終わり」と不毛の大地に変わりはしない。
(だからあの種、何処へでも行けて…)
着いたその場所で育ってゆける。家の庭でも、町の外でも。土のある場所に下りられたならば、冬の後には芽を、根を出して。
前の自分が生きた時代は、そんな風にはいかなかったけれど。世界はとても狭かったけれど。
(凄いよね、地球は…)
風に運ばれた種が、何処ででも暮らしてゆける星。土さえあれば、春になったら芽を出して。
なんて幸せな星なんだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、口にしてみた。
「ねえ、地球って幸せな星なんだね。…ホントに幸せ」
地球に来られて良かったと思うよ、今の青い地球に。
「はあ? 幸せって…」
そりゃ幸せだろ、前のお前が行きたがってた夢の星だぞ。しかも今では青い地球だ。
前のお前が生きてた時代は、こんな地球は何処にも無かったが…。
滅びちまった時と変わらないままの、そりゃあ無残な星だったんだが…。
こうして元に戻ったからには、最高に幸せな星だってな。人間を生み出した星なんだから。
何を今更、という顔をされてしまったから、説明をすることにした。幸せな星だと思った理由。今の青い地球と、遠い昔のアルテメシアは違ったことを。
「あのね、綿毛が飛んでたんだよ。…今日の帰り道に」
植物の種がくっついた綿毛。ぼくの前を横切って、風に乗って飛んで行っちゃった。家の屋根を越えて、そのまま見えなくなっちゃったんだよ。
でもね、その種…。何処へ行っても、生きてゆけるでしょ?
うんと遠くへ飛んで行っても、春になったら、ちゃんと芽を出して。
「おいおい、道路とかだと駄目だぞ」
芽を出すためには土が無いとな。道路に落ちたらどうにもならんぞ、土が無いから。
「それはそうだけど…。そんなのじゃなくて、人間の住んでいない所でも、っていう意味」
町の外まで飛んで行っても、山も野原もあるじゃない。山を越えても、育つ場所は一杯。
だけど…。アルテメシアじゃ駄目だったよ。前のぼくたちが生きてた頃の。
アタラクシアも、エネルゲイアも、町の外に出たら緑はおしまい。人間が暮らす都市から見える範囲だけしか、テラフォーミングしてはいなかったから。
「そういや、そうだな…。山を越えたら荒地だっけな」
草一本生えやしなかった。そういう風には出来てなかったし、種が落ちても芽は出せないか…。
あの時代だと、完全に人が住める状態だった星は、ノアくらいだな。
人類が最初に入植に成功した星だったから、荒地のままで置いておくより、テラフォーミングをして住める場所を増やしていかないと。ポツン、ポツンと町を作るよりかは。
しかし、ノアでも今の地球には及ばんなあ…。青い星には見えたんだがな。
海もあったし、綺麗な星ではあったんだ、と話すハーレイ。
前のハーレイが白いシャングリラから目にしたノアは、他の星よりも遥かに美しかったという。星を取り巻く白い輪が無ければ、地球かと間違えそうなくらいに。
「ノアがこんなに綺麗だったら、地球はどれほど凄いんだろう、と誰もが夢を見ていたもんだ」
もっと青くて、息を飲むしかないんだろうと。…残念ながら、本物の地球は酷かったが。
あのレベルまで行ってたノアでも、今の地球には敵わなかった。技術の限界といった所か。
「ね、そうでしょ? 一番整備されてたノアでも、そんなのだから…」
アルテメシアだと、ホントに駄目。植物の種が町の外に出たら、芽は出せなかったよ。
だから、地球は幸せな星だと思って…。
ぼくたちも幸せに生きているけれど、植物だって幸せなんだよ。
「確かにな。綿毛が旅をして行った先が、不毛の土地だっていうことはないな」
此処は砂漠の地域じゃないから、土さえあったら、何処でも自由に育ってゆける、と。
もっとも、そうして芽を出したって、運が悪けりゃ、抜かれちまうが…。
雑草が生えた、と抜かれちまったら、それでおしまいなんだがな。
「そうなんだけどね…。雑草の種は嫌われちゃうから」
ぼくが見た種、何の種だか分からないんだよ。雑草かもしれないし、花壇の花かも…。
だけど、気持ち良さそうに空を飛んでた。ぼくは飛べないのに、風に乗ってね。
いい旅をしてね、って思っちゃった。あの種が幸せになれる場所まで。
幸せな空の旅を続けて、何処かで幸せに育つといいな、と夢を語ったら。
「そうだな、そういうのも今の地球ならではだな」
空の旅をする色々な種。そいつが沢山あるというのも、地球の良さだ。
幸せな場所を目指して旅に出るのは、お前が見掛けた綿毛だけではないからな。
「うん…。他にも幾つも飛んでいるよね」
あれと一緒に風に乗った種、きっと一杯あっただろうし…。
その中の一つをぼくが見ただけで、色々な所に飛んでったと思う。行き先も色々。
「綿毛だけではないんだぞ? 空を飛ぶ種は」
もっと他にも幾つもあるんだ。自分で飛んで行く種だってあるが、運んで貰うのもあるからな。
綿毛なんかはついていなくて、ただの種のままで。
「なに、それ? ただの種って…」
運んで貰って空を飛ぶって、飛行機か何か?
そういう種まき、あるって聞くけど…。広い畑だと、飛行機を使って、空から種まき。
「違うな、それじゃ人間の都合で栽培されてるだけだろうが」
行き先は畑で、あまり自由じゃなさそうだぞ。快適な環境で育ってゆけるのは確かだがな。
俺が言ってるのは、それじゃない。空を飛ぶのは飛行機じゃなくて、生き物だ。
空を飛ぶ生き物とくれば鳥だろ、鳥に食べて貰って飛んでゆくんだ。
美味しい実をどうぞ、とドッサリ実らせて、種ごと飲み込んで貰ってな。
鳥が運んでゆくという種。それなら前にハーレイに聞いた。ヤドリギの実がそうなのだと。高い木の枝に生えるヤドリギ、こんもりと丸い姿に育つ寄生植物。
実の中の種は粘り気があって、小鳥を捕まえるためのトリモチが作れる。けれど、種の粘り気はトリモチの材料になるためではなくて、木の枝にしっかりくっつくためだ、と。
実を食べて種を飲み込んだ鳥が、高い木の枝に残してゆく糞。それに混じってくっついた種が、雨風で流されてしまわないようにと、強い粘り気。
「ああ、ヤドリギ…!」
木の枝にくっつかなくちゃ駄目だから、粘り気のある種なんだよね?
それでトリモチが作れるくらいに凄いって…。ヤドリギの種は空を飛ぶよね、綿毛無しで。
「覚えてたか? ヤドリギはそのために美味い実をつける、と」
鳥に運んで貰って増えるんです、っていう植物の代表みたいなモンだな、ヤドリギ。他の木まで運んで貰うとなったら、鳥にしか頼めないからな。
それが専門の植物もあるが、そうでもないのに、鳥に運んで貰って凄い所で育つこともあるぞ。
もちろん、鳥に運んで貰って遠くへ行こうとはしたんだろうが…。
本当だったら、そんな所で育つ植物じゃなかったよな、という凄いヤツが。
「それって、どんなの?」
変な所に生えてるんだよね、その植物。何の種だったの?
「聞いて驚け、松に桜だ」
松の木の上に桜が咲くんだ。小ぶりだとはいえ、立派に枝を広げてな。
「ええっ!?」
桜って、春に咲く綺麗な桜のことだよね?
それが松の木の上で咲いてるだなんて、なんだか信じられないんだけど…!
嘘みたい、と目を丸くしたけれど、本当の話。ハーレイは写真で見たという。その桜の木がある辺りでは、よく知られた木。花の季節には写真を撮ろうと愛好家たちが出掛けてゆく。
「もちろん、花見の人だって行くぞ? ただ、松の木の上だからなあ…」
何メートルも上で咲いてるんだから、普通の花見とは違うだろうな。見上げりゃ首も痛くなる。周りに桜が沢山咲いてるわけでもないし…。まあ、珍しいものを見に行くってトコか。
他にも、木の上に他の木が生えるってヤツは幾つもあるわけだ。
寄生植物じゃなくても、たまたま鳥が落として行った種が芽を出したらな。
「それって凄いね、木の上に別の木だなんて…」
ヤドリギだったら分かるけれども、桜なんかは木の上に生える木じゃないのに。
「な、地球ならではの景色だろ?」
人間が住んでる所だけしか緑が無い、って所じゃ無理だ。
鳥が自由に実を食べて飛んで、気の向いた木の枝で休憩するから、凄い所で種が育つ、と。
「ホントだね…。鳥だって好きに飛んで行けるものね」
今の地球だと、渡り鳥だっているんだもの。冬に来る鳥とか、夏の鳥だとか。
前のぼく、そんなのは少しも想像出来なかったよ。種を運ぶ鳥も、渡り鳥だって。
渡り鳥のことは色々な本に載っていたけど、そういう種類の鳥なんだな、って思っていただけ。
「アルテメシアに鳥はいたがだ、あれだって人間が作った町だけにしかいなかったし…」
おまけに、シャングリラには鳥がいなかったからな。…鶏しか。
「そう…! 卵を産んでくれて、肉も食べられる鶏だけ…」
前のぼくが欲しかった青い鳥は駄目で、みんなの役に立つ鶏しか飼えなかったんだよ。
鶏は空を飛べなかったし、種を運ぶ以前の問題だよね。
人類に追われたミュウたちのための、箱舟だったシャングリラ。白い鯨に改造された後は、自給自足で生きていた。船の中だけが世界の全てで、何もかもを船で作り出して。
余計な生き物は必要無い、と飼育されなかった空を飛ぶ鳥。手間がかかるだけだ、と鶏だけしか船で飼ってはいなかった。空を飛べない、歩き回るだけの鶏たち。
「ねえ、ハーレイ。シャングリラに鳥はいなかったけど…」
鶏だけしかいなかったけれど、もし、あの船に空を飛ぶ鳥がいたって…。
植物の種を運んで行くことは出来なかったよね。木の実を好きに食べられないもの。
シャングリラで育てていた植物は全部、人間のための植物だったから…。
観賞用に植えてあっても、それを眺めるのは人間でしょ?
大切な実を鳥が食べちゃうだなんて、絶対、駄目。…食べられないように工夫した筈だよ。
食べられない実の種は運べないから、空を飛べる種は無かったよ、きっと。
鳥がシャングリラの中を飛んでいたって、一緒に空を飛ぶ種は一つも無かったと思う。
「あの船の植物は、どれもそういうヤツだったしなあ…」
収穫するのは人間の役目で、鳥の出番は無かったな。いたとしたって。
鳥が木の実を食おうとしたなら、ゼルやヒルマンが対策を考えただろう。食われないように。
種は決して空を飛べんな、あの船ではな。
…そういや、綿毛も無かったかもしれん。自分で風に乗って行ける種。
アルテメシアの話じゃないがだ、飛んで行っても、船の中じゃどうにもならんしなあ…。
いや、あったか?
観賞用か何かで、そういう植物。…綿毛がついてる種が出来るヤツ。
「どうだったっけ…?」
花壇の花でも、綿毛のついた種が出来るのは色々あるけれど…。
シャングリラで育てていたかな、それ。…公園は幾つもあったんだけれど…。
白いシャングリラにあった植物。鳥ほど手間はかからないから、観賞用のも多かった。人の心を和ませてくれる植物たちは、大いに歓迎されていたから。
けれど、その中に綿毛のついた種を結ぶものはあっただろうか?
百合も薔薇も綿毛をつけはしないし、スズランも、スミレやクローバーも。
二人して公園の花を幾つも思い出しては、「これも違う」と数える間に、ふと蘇って来た野花の記憶。まるで小さな太陽のような、黄色い花を咲かせたタンポポ。
「そうだ、タンポポ…!」
タンポポの花が咲いていたっけ、あれの種は風で飛んで行くんだよ。
花が終わったら、真っ白な綿毛がふんわりくっついていたじゃない…!
「あったな、タンポポ…。ブリッジの下の公園にな」
春になったら咲いてたんだった、あっちこっちに。あの公園でしか咲かなかったが。
「うん…。根っこが深くて、嫌われてたけど…」
公園の手入れをしていた係に。
大きく育ったタンポポの根っこはうんと深くて、引っ張っただけじゃ抜けないから…。
小さい間に抜いてしまわないと、ホントに手間がかかっちゃうから。
「だが、タンポポを植えないと、とヒルマンが押し切ったんだっけな、あの公園」
船の子供たちに、植物が増えてゆく仕組みを教えたいから、と。
種を蒔いたら増えるもんだが、それじゃ駄目だ、と言ったんだった。
自然の中では勝手に増えてゆくものなんだし、船の中だからこそ教えたい、とな。
タンポポってヤツは、人の手を借りずに増えるからなあ、あの種が風に乗っかって。
種を落とすだけのスミレやクローバーとかとは違って、見た目で分かる。種が飛ぶのが。
是非植えたい、と言われちまったら、厄介なヤツでも仕方ないよな。
船の中だけが世界の全てだった、白いシャングリラ。救い出した子供たちを乗せた箱舟。外には出られない子供たちに自然を教えるためには、タンポポは格好の教材だった。
ある日、長老たちを集めて「タンポポを植えたい」と言ったヒルマン。
「育ててみようと思うのだよ。この船でね」
タンポポは植えておくべきだ。一ヶ所だけでもかまわないから。
「ちょいと、タンポポって…。雑草をかい?」
あんなのが何の役に立つのさ、とブラウが尋ねた。綺麗な花でもないじゃないか、と。
「観賞用の植物だけが全てではないよ」
それでは駄目だ。自然をそっくり再現しようとは言わないが…。タンポポは欲しい。
「もう色々と植えてあるわい、スミレもクローバーも植えたじゃろうが」
追加は要らん、とゼルが苦々しい顔をしたけれど、ヒルマンは「いいや」と首を横に振った。
「確かにあれこれ植えたがね…。公園で見るには充分なのだが…」
生憎と、今ある植物たちの種は、旅をしてくれないものばかりだ。ただ増えるだけで。
「旅だって?」
誰もが首を傾げた「旅」という言葉。
長い旅なら、前の自分たちもして来たけれども、植物の旅とは何だろう?
しかも種とは、と不思議に思った前の自分たち。
人間だったら宇宙船などで旅をするものだけれど、植物が何故、と。
植物は自分で歩いてゆきはしないから。根を下ろした場所から少しも動きはしないのだから。
アルタミラの地獄から脱出した後、長く宇宙を旅していた。白い鯨に改造を終えて、雲海の星に辿り着くまで。アルテメシアの雲に潜むまで。
其処で保護したミュウの子供たち。幼い子たちが船に加わり、ヒルマンはその教育係。旅をする種が必要だから、とタンポポの導入を唱えたヒルマン。
「タンポポはね…。種に綿毛があるのだよ」
本などで見たことがあるだろう。タンポポの種の写真くらいは。丸い綿毛の塊をね。
あの種は、綿毛を使って風に運ばれて、落ちた先の地面で芽を出すものだ。
それが旅だよ、タンポポの種の。…ほんの短い距離にしたって、自然を実感出来るだろう。
この船の公園に吹いている風は、人工の風には違いないが…。
それでも、そうして風が吹いたら、タンポポの種の旅が始まる。その風に乗って。
子供たちが息を吹き掛けて散らした時にも、やはり同じに旅をしてくれる。風のままにね。
本来、自然はそういったものだ。人間の力を借りることなく、次の世代を育ててゆく。
船の中しか知らずに育つ子供たちにも、自然の仕組みを教えておきたい。
…どうだろうかね?
タンポポを植えるのは駄目だろうか、という質問に反対する者はもういなかった。旅をする種は船に必要だろうから。自然の教材は、きっと子供たちの役に立つから。
「いいじゃろう。…そういうわけなら、反対せんわい」
「あたしも植えるべきだと思うよ。…どうだい、ソルジャー?」
ブラウに訊かれたから、「いいと思う」と前の自分も応じた。ハーレイたちも。
ヒルマンは嬉しそうに頷き、それから髭を引っ張っていた。
「ただ、問題はタンポポの性質でね…」と、「増えすぎると抜くのが厄介らしいが」と。
繁殖力が旺盛な上に、深く根を張るから嫌われ者の植物なのが難点だがね、と。
そんな遣り取りを経て、シャングリラにタンポポが植えられた。前の自分が種を採りに降りて、綿毛を公園に吹く風に乗せて。ブリッジが見える一番大きな公園で。
ヒルマンが連れて来た子供たちがワッと揃って上げた歓声。綿毛が風に乗って散ったら。
やがてタンポポの種は芽を出し、公園のあちこちで育ち始めた。それまでは無かった植物が。
「植えたんだっけね、タンポポの種…」
前のぼくが最初に蒔いたんだったよ、タンポポの種。…ううん、タンポポは自分で飛んでった。風に乗せたら、ぼくの方なんか見向きもせずに。
何処へ飛ぶかな、って見送っていたよ、ヒルマンや子供たちと一緒に。タンポポの旅を。
後で生えて来たら、ビックリするほど色々な所にあったっけ…。あの時のタンポポ。
「うむ。雑草なだけに、生命力が強かったからな」
もれなく発芽したんじゃないのか、お前が公園に蒔いてやった種。
いや、お前はタンポポの種を採って来ただけで、後はタンポポが旅をしただけか。
あの公園は広いというのに、呆れるほどの範囲で芽が出たぞ。
でもって、黄色い花が幾つも咲いてだ、花が終わったら綿毛の番で…。
そいつらが旅を始めたっけな、公園に吹いてた風に乗っかって。
子供たちもフウフウ吹いて飛ばして、シャングリラ生まれのタンポポが旅をしたんだが…。
次の季節にはワンサカ増えてて、増えすぎたから、と係に手入れを頼んだら…。
「…抜けなかったんだよね、根っこが深くて」
引っ張っただけではビクともしなくて、無理に引っ張ったら千切れちゃって。
残った根っこからまた新しい葉っぱが生えてくるから、係が悲鳴を上げてたっけね…。
ヒルマンが厄介者らしいと言った通りに、厄介だったシャングリラのタンポポ。公園の整備係を困らせたそれは、教材だからと居座ったまま。花が終わったら種を飛ばして、また増えて。
「実に厄介な植物だったが、お前も遊んでいたっけな」
子供たちと一緒に、タンポポの種で。綿毛を息で吹き飛ばしてな。
「競争してたよ、誰が一番遠くまで種を飛ばせるか、って」
それにサイオンで風も起こしてたっけ。公園の風より強い風をね。
子供たちに「やって見せて」って頼まれた時は、タンポポの周りに、うんと強い風を。
そしたら種がブワッと飛ぶから、みんな大喜びで見上げていたよ。あんなに飛ぶね、って。「ブリッジにもたまに落ちて来てたぞ、タンポポの綿毛」
お前がわざわざ飛ばさなくても、風の加減というヤツで。
こんなトコまで飛んで来たな、と拾っては公園に返したもんだ。ブリッジに土は無いからな。
ついでに、誰かの服にくっついて、他の所で生えたら困るし。
「あの公園でしか育てていなかったんだよね、タンポポは…」
植える前にヒルマンが言ってた通りに、ホントに厄介者だったから。
抜いても抜いても次が生えて来るし、引っこ抜く時も掘り起こさなくちゃ駄目だったから…。
「嫌われ者っていうヤツだよなあ、頼んでないのに次々と増えて」
好き勝手に旅をしては増えるから、どうにもならん。何処に生えるのもヤツらの自由で。
教材としては立派だったが、嫌われっぷりも酷かったぞ。公園の係がブツブツ文句だ。
他の公園で見付かった、ってニュースが入ろうもんなら、係のヤツらが飛んでったっけな。飯の途中でも放り出しちまって、タンポポ退治。
早い間に根絶やしにしないと、またタンポポが増えるしな?
本当に、よっぽど厄介だったんだろうな、飯も後回しで退治しておきたいくらいにな。
「多分ね…。後で、って思って忘れちゃったら、おしまいだものね」
種が飛んじゃったら、もう拾えないし。…生えてくるまで、何処にあるのか謎なんだから。
白いシャングリラのブリッジが見えた広い公園。其処にしか生えていなかったタンポポ。綿毛の旅は公園の係泣かせで、他の公園では端から退治されていたから。
「…ぼくが見た綿毛、タンポポだったのかなあ?」
今日の帰りに飛んでった綿毛。もっと良く見ておけば良かった、タンポポだったら。
こんな懐かしい話になるんだったら、もっとしっかり。
「タンポポだったかもしれないな。秋にも咲くしな、気候が良けりゃ」
なんたって、相手はタンポポなんだ。厄介者で嫌われ者だった、あの頑丈な雑草だぞ?
花を咲かせたら、きっと綿毛を作るだろうしな。咲いただけでは終わらないで。
「厄介者かもしれないけれど…。今の時代でも、タンポポ、厄介なんだけど…」
ママが「また生えちゃったわ」って抜いているけど、あの種がタンポポだったなら…。
厄介者だって言われない場所で、うんと幸せになって欲しいな。
シャングリラのことを思い出せたから、嫌われない場所で、花を咲かせて。
「うーむ…。俺もタンポポには手を焼くんだが…」
庭の芝生に生えちまったら、たまに泣かされているんだが…。
お前が見た種がタンポポだったとしても、きっと幸せになれるだろうさ。地球なんだから。
今度が駄目でも、また次ってな。
「次って…。花を咲かせられなくても、その次があるの?」
引っこ抜かれた根っこの残りから、また新しい葉っぱを出すってこと?
「そうじゃなくてだ、俺たちみたいに生まれ変わって」
次もタンポポになって旅をするとか、もっと喜ばれる花の種になって旅をしてゆくとかな。
綿毛で増える花壇の花とか、鳥に食べられて空の旅をする木の実だとか。
「そっか…! 空の旅だって色々だっけね」
地球なんだもの、空を旅する種も色々。旅をしてゆく方法も色々…。
あの種もきっと幸せになれるね、地球なんだものね。タンポポの種でも、何の種でも。
幸せに旅が出来ますように、と窓の向こうに目をやった。
あの種は今も飛んでいるのか、何処かにふわりと舞い降りたのか。家の庭か、野原か、それとも山か。歓迎される場所に降りたか、すくすく育ってゆけるのか。
何処へ降りても、植物の種でも、幸せに生きてゆけるのが地球。
今度が駄目でも、またタンポポになって空を舞うとか、鳥に運んで貰うとか。
種だって幸せになれる時代は、何に生まれても、きっと幸せ。
死の星だった地球は青く蘇って、他の星でも、今は誰もが幸せだから。
その幸せな世界に生まれて来られた、今の自分と今のハーレイも。
今度は幸せに生きてゆけるから、いつまでも、何処までも、二人で旅してゆけるのだから…。
旅をする綿毛・了
※今の地球だと、何処に落ちても育ってゆける植物の綿毛。旅をする種をつける植物は色々。
シャングリラでも、子供たちの教材にタンポポを育てていたのです。増えすぎる嫌われ者を。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えっ…?)
帰り道のバスでブルーが感じた視線。いつものように学校からの帰りに乗っているのだけれど。窓の外から、誰かに見られている感じ。今は信号待ちで停車中のバス。
(誰…?)
今日はたまたま、真っ直ぐ前を向いていた。一番前の席に座っているから、前の景色を見放題。これからバスが走ってゆく先も、前をゆく車や自転車なども。
自分で運転しているみたい、と前に夢中で、見ていなかった窓の方。そっちから感じる、誰かの視線。バスの車高は高いのに。
(なんで…?)
背伸びしたくらいじゃ覗けないよ、と視線の方へと顔を向けたら…。
「キャーッ!」
明るい叫びが弾けた気がした。バスの防音はしっかりしているから、聞こえなかったけれど。
隣の車線に、子供たちの顔がズラリと並んだ観光バス。下の学校の子供たち。誰もが見ている、こちらのバス。それも自分が座っている場所を。
ワイワイガヤガヤ、騒いでいる声が此処まで届きそう。指差している子や、見詰めている子。
(えっと…?)
ぼくの方を見ているんだよね、と浮かんだ苦笑。きっと誰かが偶然、気付いた。この顔に。赤い瞳に銀色の髪のソルジャー・ブルー。まだ少年ではあるけれど。
(ソルジャー・ブルーが乗ってるよ、って…)
それで騒ぎになったのだろう。「本物そっくり!」と指差したりして。
十歳になったか、ならないかくらいの子供たち。失礼だとか思いはしないし、あのバスの中は、きっと賑やかなのに違いない。先生の声も届かないくらいに。
伸び上がって見ている子も大勢いるから、手を振ってみた。どうなるのかな、と。ワッと歓声が上がったのだろう、子供たちのバス。小さな手が一斉に振られたけれど。
(あれ…?)
シャッとカーテンを閉めた女の子が一人。すぐ隣だから、よく分かる。カーテンを閉めた子供が誰だったのかも、ついさっきまでは開いていたことも。
(どうしちゃったわけ?)
手を振ったらカーテンを閉めちゃうなんて、とキョトンとしている間に、感じた視線。その方向から。よく見てみると、カーテンの隙間から覗いている子。こちらを、じっと。
顔は真っ赤で恥ずかしそうで、それでも視線。見るのをやめられないらしい。カーテンを閉めてしまったくせに。自分で慌てて閉めていたくせに。
(ソルジャー・ブルー…)
きっと、あの子の憧れの人。前の自分が、あの女の子が大好きな夢の王子様。
その王子様にそっくりなチビが今の自分で、隣のバスに乗っていた。ソルジャー・ブルーの服と違って、学校の制服を着た王子様。
(見ていたいけど、恥ずかしいんだ…)
ぼくに姿を見られちゃうのが、と思い至った女の子の気持ち。すぐ隣だから、余計なのだろう。少し離れた窓からだったら、気にしないで見ていられたろうに。他の大勢の子たちに紛れて。
(んーと…)
隠れながらも、その子はこちらを見ているから。「大丈夫」と視線を合わせて、また振った手。閉じたカーテンは開かなかったけれども…。
(ぼくの顔、見てる…)
嬉しそうな顔の女の子。隠れたままで小さく手を振りながら。
信号が変わって青になったら、動き始めた両方のバス。暫く並んで走った後で、観光バスの方が先に行ってしまった。あちらはバス停に止まらないから、速度を上げて。
乗っていた大勢の子供たちの方は、遠ざかるまで手を振っていた。後ろの窓に貼り付いてまで。はしゃぐ声が此処まで聞こえて来そうな勢いで。
それでも開かなかったカーテン。女の子が閉めてしまったままで。
(もう開けたとは思うんだけど…)
観光バスは見えなくなったし、また並ぶことは二度と無い筈。隣同士になってしまって、自分と顔を合わせることも。
(隠れなくてもいいのにね?)
カーテンの陰から見るくらいなら。こちらへと手を振り続けるのなら。
どうせだったら、しっかり見物すればいいのに、と思ってしまう自分の顔。ソルジャー・ブルーそっくりのチビ。遠慮しないでジロジロ眺めて、大きく手を振れば良さそうなのに。
動物園でゾウやキリンに手を振るみたいに、ライオンやカバを見詰めるみたいに。
そっちの方がお得だよね、と思うけれども、相手は憧れのソルジャー・ブルー。少しチビでも、夢の王子様に瓜二つの顔の「お兄ちゃん」。
恥ずかしくなって、隠れてしまう子もいるのだろう。
隣り合った別々のバスの中でも。挨拶すらも要らない場所でも、カーテンを閉めて。
可笑しかった、と思い返しながら帰った家。恥ずかしがり屋の子に会っちゃった、と。
ダイニングでのんびりおやつを食べて、部屋に戻ったら、また思い出した。カーテンをシャッと閉めていた女の子。十歳くらいの小さな子。
(あのバス…)
何処まで走って行ったのだろう。賑やかな子たちや、恥ずかしがり屋の女の子を乗せて。
もう学校が近かったのか、もっと遠くへ帰ってゆく途中だったのか。
(見忘れちゃった…)
バスのナンバープレートを。この町のバスか、他の町から来たバスなのかも分からない。何処へ走って行ったのかも。
窓のカーテンを閉めていた子は、自分の家に帰ったろうか。家で話しているのだろうか、バスの窓から見付けた小さなソルジャー・ブルーのことを。学生服のチビの王子様に出会ったことを。
(家でも恥ずかしがり屋の子なのかな?)
話したくても「えっと…」と何度も詰まってしまって、なかなか喋れないだとか。それとも逆に元気一杯、大はしゃぎで家族を捕まえているか。「ね、今日はね…」と。
まだ帰り着いてはいなかったとしても、夕食の頃には話題になりそう。もじもじしながらでも、頬を紅潮させての報告でも。
(こんな顔でも、役に立つなら嬉しいよね…)
きっと遠足のいい思い出になったろう。あの子にとっては。
ソルジャー・ブルーにそっくりの顔をした、学生服のチビの王子様を見た、と。
じっと見ていた女の子。バスの窓から見えなくなるまで、こちらを眺めていたのだろう。
(だけど、カーテン、閉めなくても…)
堂々と見てれば良かったのに、と今でも思ってしまうカーテン。他の子たちは見ていたのだし、一人だけ慌てて隠れなくても平気だと思う。こちらから見れば、大勢の中の一人なのだから。
(ホントに恥ずかしがり屋さんだよね…)
お蔭で印象に残ったけれども、其処まで計算するわけがない。咄嗟に隠れてしまっただけ。何も考えずに、大慌てで。恥ずかしいからと、カーテンを閉めて。
外が見えにくくなってしまうのに。見ていたい顔も見えなくなるのに。
(ぼくの顔、カーテンに隠れちゃって、あんまり見えない…)
視線はこちらを向いていたけれど、きっと見づらい、と思った途端。
(んーと…?)
意外に外が見えるんだよね、と浮かんだ考え。カーテンの隙間からでも良く見える、と。
自分もアレをやったのだろうか、観光バスの窓のカーテンを閉めて。その隙間から外を見ていたことでもあったのだろうか、小さな頃に。
良く見える、と思うからには、何処かで経験していた筈。カーテンの隙間から見るということ。あの女の子がやっていたように、そのカーテンの陰に隠れて。
いつだったろう、と遡り始めた記憶。カーテンの陰から外を覗いていた自分。
(学校の遠足…?)
観光バスなら、多分、遠足。幼稚園の時にも乗っていた。今日の子供たちと同じように。大勢の友達を乗せたバスで出掛けた、色々な所。学校からも、幼稚園からも。
(サルと目を合わせないように、って…)
そういう注意をされたことがあった。下の学校の時に行った遠足。野生のサルが道に出て来る、山の中の道路を走ってゆく間の注意事項。
気の荒いサルは、視線が合ったら襲い掛かって来るのだという。相手が窓の向こう側でも、車の中でも、かまうことなく。
その山の中を走っていた時、カーテンを閉めていた自分。サルの姿が見えたから。道のすぐ側、ガードレールに座っていたサル。あれに見付かったら、きっと大変、と。
(怖かったっけ…)
ボスザルなのかと思ったくらいに大きかったサル。視線が合ったら、襲って来そうだったサル。いくら自分がバスの中でも、歯をむき出して、飛び掛かって来て。
バスの窓枠をしっかり掴んで、振り落とされないように貼り付いていそう。バスが止まったら、中の自分を襲ってやろうと、何処までだって。
あの時はカーテンを閉めたけれども、相手はサル。人間を相手に閉めてはいない。姿が見えたと慌てて閉めて、隠れたことなど無かったと思う。
恥ずかしいからとカーテンに隠れてしまいたいほど、憧れていた人もいなかったから。瓜二つの人を窓から見付けて、慌ててカーテンを閉めるような人。
そうなってくると…。
(サルの時かな…?)
確かにカーテンの隙間から見ていたサル。ずいぶん大きいと、ボスザルだろうかと。カーテンの陰に隠れていたって、よく見えた。悠然と座っていたサルが。
きっとアレだ、と考えていたら、聞こえたチャイム。それを鳴らしているだろう人は…。
(ハーレイ…!)
恋人の来訪に気付いた瞬間、思い出した。サルじゃなかった、と。
カーテンの隙間から外を見ていたのは、自分ではなくて前の自分。視線の先には前のハーレイ。意外に見える、と思ったのだった。こんなに細い隙間からでも、と。
ハーレイの姿も、その動きも。何処へ行こうとしているのかも。
まだハーレイと恋人同士ではなかった頃。病気で寝込んでしまった自分。白い鯨は出来上がっていたから、あの大袈裟な青の間のベッドで。
大した病気ではなかったけれども、ベッド周りのカーテンをノルディがピッタリと閉めた。熱が下がるまで安静に、と。「ベッドから出ないで下さい」と。
(だから、ハーレイが来た時に…)
朝の報告に来たハーレイは、必要な報告だけを済ませて、直ぐに出て行った。ベッドを取り巻くカーテンの向こうへ、「では、これで」と一礼して。
野菜スープを作ってくるとも、帰るとも言わずに、たったそれだけ。
カーテンがふわりと揺れた後には、もうハーレイの姿は無かった。ベッド周りの空間には。
(いつもだったら、ちゃんと見えるのに…)
ハーレイが何処へ向かっているのか、ベッドに横になったままでも。カーテンさえ大きく開いていれば。…ピタリと閉められていなかったなら。
けれども、ノルディが閉めたカーテン。その向こう側は見えはしなくて。
(サイオンで透視しても良かったんだけど…)
何故か、覗こうとした前の自分。
「出ないで下さい」と言われたベッドから下りて、カーテンの隙間から外の様子を。ハーレイは奥のキッチンへ野菜スープを作りに行くのか、出口に向かっているのかを。
其処まで記憶を辿った所で、ハーレイが部屋にやって来た。キャプテンではない今のハーレイ。母が案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて行ったのだけれど。
(ハーレイだっけね…)
あの時もハーレイで今もハーレイ、と前の自分の記憶が重なった。カーテンの隙間、と。
「おい、どうした?」
俺の顔がどうかしたのか、と鳶色の瞳が見詰めるから。
「え、なんでも…。なんでもないよ、ホントだよ」
「そんな風には見えないが? バツが悪そうな顔をしてるぞ、今のお前は」
いったい何をやらかしたんだ、俺が来る前に。…それとも、悪戯を計画していた真っ最中か?
「そうじゃなくって…。サルかと思ったらハーレイだったんだよ」
サルだったっけ、って思っていたのに、サルじゃなくってハーレイで…。
「はあ? サルって…」
そりゃあ確かにバツが悪いな、俺がサルだってか。サルがチャイムを鳴らしたか?
でなきゃ、窓から見下ろした時に、俺がサルみたいに見えてたってか?
「ハーレイとサルが重なったんだよ、ぼくの頭の中」
そっくりって意味じゃないけれど…。ハーレイがサルに見えてたわけじゃないけれど。
ハーレイがサルだなんて言いはしないよ、サルに見えるわけないじゃない。
前のぼくだった時からずっと一緒で、ずっと恋人なんだから。
カーテンの記憶だったんだよ、と説明した。それを思い出した切っ掛けがサル、と。
「下の学校の時にバスで遠足に行って…。山の中にサルがいたんだよ」
サルと視線を合わせないように、って言われていたから、窓のカーテン、閉めちゃった。だけど気になって、カーテンの隙間からサルを見てたよ。大きかったから、ボスザルかな、って。
それを思い出す前は、今日の帰りに隣を走ってたバスに乗ってた女の子。十歳くらいの。
ぼくが乗ってたバスの隣に止まったら、大勢の子供がこっちを覗き込んでて…。きっとこの顔がお目当てだよね、って気が付いたから、手を振ったんだけど…。
その女の子だけが、カーテンを慌てて閉めちゃって…。なのに、陰から覗いてたんだよ。ぼくが隙間からサルを見ていた時みたいに。
「カーテンなあ…。たまにいるよな、シャッと閉めるヤツ」
好奇心一杯で見てたくせして、こっちが気付いたと分かった途端に。
「ハーレイも見るの、そういう子供を?」
慌ててカーテンを閉めちゃう子たちを、見たことがあるの?
「当たり前だろ、この姿だぞ。どう見てもキャプテン・ハーレイなんだから」
お前はチビだし、ソルジャー・ブルーにそっくりと言ってもまだマシだ。チビな分だけ。
ところが俺だと、そっくりそのままの姿だろうが。顔も、ついでに身体つきも。
お前以上に、もう格好の見世物だ。大勢で観光バスに乗ってる、ガキの団体に見付かったらな。
ヤツら、遠慮なくまじまじ見詰めて、賑やかに見物してるわけだが…。
俺が気付いて手を振ってやったり、笑い掛けたら、今日のお前と同じ末路だ。
ビックリしたようにカーテンを閉めるヤツらが多い、とハーレイが浮かべた苦笑い。あちこちの窓のカーテンがシャッと閉まって、隙間からガキどもが覗いてるんだ、と。
「俺としては、サービスしてやったつもりなんだが…。そのガキどもに」
手も振ってやったし、おまけに笑顔だ。サービスなんだが、カーテンが閉まる。
そんなに怖そうに見えるのか、俺は?
笑顔をサービスしてやってるのに、カーテンの陰に隠れるくらい。…お前が言ってたボスザルと同じ扱いなんだが、視線を合わせちゃ駄目だってヤツ。
「うん、多分…。小さな子供から見れば、そうなんじゃないかな」
ぼくだって、キャプテン・ハーレイの写真を初めて見た時は、怖そうだって思っていたし。
…実際、ハーレイ、怖いんだし。
「怖い? …俺がか、お前も俺が怖いのか?」
「そう。カーテンの隙間から見てるとね」
今日の女の子や、サルを見ていた時のぼくみたいに、カーテンの隙間からハーレイを見たら。
「なんだ、それは?」
何処からカーテンが出るって言うんだ、その窓のトコのカーテンか?
アレの隙間から俺を見てたら、怖い顔に見えるというわけなのか?
「違うよ、前のぼくの時だよ」
まだハーレイとは仲のいい友達だった頃…。もう青の間は出来てたけれど。
病気になって、ノルディがベッドの周りのカーテンをすっかり閉めちゃって…。
「アレか…!」
お前、隙間から見てたんだ。安静にしろと言われたくせにな。
ベッドから下りて、あのカーテンの隙間から…。簡単に透視出来ただろうに。
思い出したぞ、とハーレイの眉間に寄せられた皺。そういう事件があったっけな、と。
(ほらね、やっぱり今でも怖い顔になっちゃうし…)
前のぼくが怖い顔をされちゃったのも当然だよね、と竦めた首。キャプテンに叱られてしまったソルジャー・ブルー。あの時、隙間から覗いたばかりに。
(でも、ハーレイが気になったから…)
閉ざされたカーテンの向こう側に行ってしまったハーレイ。横たわったベッドからはハーレイの姿が見えなかったから、起き上がって裸足で床へと下りた。透視する代わりに。
裸足だから足音は聞こえない。丁度いい、とカーテンの側まで近付いて行って、隙間からそっと覗いてみたら。
(ハーレイ、帰っていくトコで…)
青の間の入口に続くスロープを下りてゆくところ。こちらを振り返りもせずに。ただ真っ直ぐに去ってゆく背中を、ハーレイのマントを、泣きそうな気持ちで見送っていた。
このまま行ってしまうのだ、と。今日はスープは駄目なんだ、と。
もしも時間があるのだったら、逆の方へと向かう筈だから。青の間の奥のキッチンへ。
(ハーレイのスープ…)
体調を崩して寝込んだ時に、よく作ってくれる野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ優しい味。
何も食べたくなかった時でも、あのスープだけは喉を通った。それを作って欲しいと思うのに、今日はどうやら駄目らしい。ハーレイはスロープを下ってゆくから。奥の方へは向かわずに。
途中で引き返してくれないだろうか、と見詰めていたけれど、消えてしまったハーレイの背中。
スロープを下りて、青の間の外へ。見えなくなってしまったマント。後姿も。
(キャプテンだって、忙しいから…)
そのことは誰よりも分かっている。ブリッジで舵を握る他にも、キャプテンを待っている沢山の仕事。船の最高責任者だから。仕事の中身は、ソルジャーよりも多岐にわたるのだから。
けれど、寂しくて、独りぼっちで。
野菜スープは作って貰えない上に、ガランと広い青の間に一人。安静に、とノルディがピタリと閉めたカーテン、部屋付きの係も中に入って来はしない。そのために閉めてあるのだから。
(食事の時まで、誰も来ないよ…)
その食事だって、こう寂しくては食べたくもない。係に声を掛けられたとしても、中へ運べとは言わないだろう。「其処でいいよ」と、カーテンの向こうのテーブルに置かせておくのだろう。
(どうせ、食べたい気分じゃないし…)
ハーレイのスープとも違うのだから、放っておいてもかまわない。冷めてしまっても、柔らかい料理がすっかり固くなってしまっても。
(あのテーブルの上に置いて貰えば…)
それでいいのだ、と眺めたテーブル。具合のいい日はハーレイと朝食を食べるテーブル。其処にハーレイの姿は無いから、テーブルと椅子だけ。誰もいない部屋。
カーテンの隙間から順に視線を移していったら、色々なものが見えてくる。少し前にハーレイが消えた扉や、緩やかな弧を描いて下るスロープ。ぼんやりと青く浮かび上がる部屋も、カーテンの周りに据えられた灯りも。
そういった物を眺め回しながら、思ったのだった。「意外に外がよく見える」と、細い隙間から目を凝らして。透視しなくても、外の様子がこんなに見える、と。
それが今の自分が思い出した記憶。カーテンの陰からでも外は意外に見えるものだ、と。サルを見た時のことではなかった。カーテンの向こうに探していたのは、ハーレイだった。
(入って来たら、直ぐに分かるから…)
カーテンの隙間から、よく見える入口。其処が開いたら、きっとハーレイがやって来る。仕事が一段落したら。午後になるかもしれないけれども、夜まで待たなくても、きっと。
(…具合が悪いの、知ってるんだし…)
野菜スープを作る時間は取れないとしても、様子は見に来てくれるだろう。その時に、此処から覗けたらいい。「ハーレイが来た」と喜べたらいい。
この隙間からは、スロープも入口も見えるのだから。カーテンをピタリと閉められていても。
(何度も覗きに来よう、って…)
前の自分はそう考えた。カーテンの隙間から外を見ようと。何度も覗いてハーレイを待とうと。
けれども、今は独りぼっち。いつ来るのかも分からないハーレイ。
ベッドに戻れば、もうカーテンの隙間は見えない。こうして外を覗けはしない。ベッドに戻って眠らなければと思うけれども、「もう少し」とも思う、見ていたい外。
カーテンの陰からはよく見えるから。意外なくらいに、外の様子がよく分かるから。
もう少しだけ、と外を眺める間に、襲って来た眠気。元から具合が悪かったのだし、一つ小さな欠伸が出たら、重くてたまらなく感じた瞼。カーテンの向こうが遠くなってゆき、いつの間にやら捕まった睡魔。ベッドに戻ることも忘れて、其処でウトウト眠ってしまって…。
「ブルー?」
降って来た声で、浮上した意識。ぼんやりと目を開けたら、ハーレイの顔。
「…ハーレイ…?」
来てくれたんだ、と言おうとしたけれど、ハーレイの声に遮られた。それも慌てている様子。
「どうしてこんな所にいらっしゃるのです、ブルー?」
御気分でもお悪いのですか、と逞しい腕で抱き上げられた。眠り込んでいた床の上から。大股でベッドまで運ばれて行って、横たえられて、上掛けを被せられて。
それが終わったら、問いが降って来た。「何故、あんな所に倒れておられたのです」と。
「…倒れていないよ、眠かっただけ…」
あそこにいたら、急に眠くなってしまったから…。そのままウトウトしてしまって…。
「ベッドで眠っておられたのでは?」
私が出てゆく時はベッドにおられましたが…。あの場所に何か御用でも?
そういう時には、係の者をお呼び下さい。ご自分で行こうとなさらないで。
「…別に、用事があったわけじゃなくて…。カーテンの向こうが気になったんだよ」
君は帰るのか、それとも野菜スープを作ってからブリッジに出掛けるのか。
どっちなんだろう、と思ったけれども、透視するより、直接見たいと思ってしまって…。
それで起き上がって、カーテンの間から覗いてみたんだ。どちらなのかと。そうしたら…。
君は帰ってゆく所だったから、とベッドの上からハーレイを見上げた。まだ眠いような気がする瞼を押し上げながら、何度か瞬きをして。
「スロープを下りてゆく後姿が見えたから…。出て行くんだと分かったから…」
君が出てゆくのを見送った後は、寂しくて…。今日は野菜のスープも無しだ、と寂しくなって。
独りぼっちだ、と思って部屋をボーッと見てた。…テーブルや椅子や、灯りなんかを。
よく見えるんだよ、あんなカーテンの隙間からでも。
本当なんだよ、サイオンで透視しなくても充分、あの隙間からこの部屋が見える。スロープも、入口も、あそこから全部。
「…それで、そのまま見ておられたと?」
ベッドにお戻りにならないで。…あんな所に座り込んで?
「発見したからね、よく見えるんだと。…意外な発見は嬉しいだろう?」
君が入って来る時も此処から見える、と思ったんだよ。だから何度も覗きに来ようと。
それまではベッドに戻らなくちゃ、と頭では分かっていたんだけどね…。
ベッドに戻れば、もう隙間からは見えないだろう?
だから、もう少し、と覗いている間に、眠くなってしまって…。それであそこで…。
「あなたでしたら、カーテンの隙間から覗かなくても、此処から御覧になれる筈ですが?」
このカーテンを透視なさるくらいは、あなたには何でもない筈です。御病気の時でも。
それをわざわざベッドから起き出して、サイオンは抜きでカーテンの隙間からなどと…。
次からはサイオンで御覧下さい、ベッドから!
ノルディが安静にと閉めて行った意味が、あなたはお分かりにならないのですか?
どうかベッドでお休み下さい、あんな所から覗こうとしたりなさらずに…!
カーテンの隙間は二度と禁止です、と怖い顔で睨まれたのだった。ベッドから勝手に抜け出した上に、床で眠ってしまうなど、と。
「病気だという自覚がおありですか? なんという無茶をなさるのです…!」
まったく信じられません、とハーレイに酷く叱られた。床で眠るなど、元気な時でも風邪を引く元になるだろうに、と。
首を竦めて聞いているしかなかった自分。ハーレイの言うことは正しかったから。
そのハーレイに、野菜スープは作って貰えたけれど。叱られた後で昼の分を貰って、夕食の時も作りに来てくれたけれど…。
「あの日はずっと叱られたんだよ、夜になっても」
もっと具合が悪くなったらどうするんです、って睨み付けられて、何度も何度も叱られて…。
カーテンは本当に禁止ですから、って指を差しては怒るんだよ。
どんなに眺めが良かったとしても、次からはサイオンで透視して下さい、って。
「当前だろうが、お前の身体が大切なんだ。床なんかで寝られてしまっちゃたまらん」
忘れちまったか、あの日は夜中も監視していたが?
ブリッジで仕事をしていた間は行けなかったが、仕事が終わって暇になった後は。
「夜中って…。それに、監視って…?」
ハーレイ、ぼくを見張ってたわけ?
いったいそれって、なんのために…?
「決まってるだろう、お前が隙間から外を覗きに行かないようにだ」
意外な発見をしたなんて言うもんだから…。お前、気に入ったようだったからな、あの隙間から外を覗くのが。…サイオン抜きでも良く見えるんだ、と。
放っておいたら、またやりそうだから、ベッドの脇にだ…。椅子を置いて眠ることにした。
前のお前に妙な癖がついたら、どうにもならん。透視するより、此処から覗く、と。
「そういえば…」
ああいうのは癖になるから、ってハーレイ、怒ったんだっけ…。一度やったら、二度、三度って続けてやりたくなるものなんだ、って。…そしてすっかり癖になる、って…。
前のハーレイがベッドの脇に運んで来た椅子。キャプテンの仕事が終わった後で。
いつも朝食の時に使っている椅子を、ベッドの側にドンと据えられた。「此処で眠ります」と。
けして座り心地の悪いものではなかったけれども、ベッドと椅子とは違うもの。
それでは身体が休まらないだろうと、前の自分は懸命に止めた。「それは駄目だ」と。
「椅子で眠るなんて…。無茶だよ、身体が疲れてしまうよ」
君は一日、仕事をして来た後なのに…。明日も朝から仕事なのに。
操舵の間は立ちっ放しだし、ベッドで眠った方がいい。身体の疲れが取れないから。
ぼくなら、心配しなくても…。
起きて隙間から覗きはしないし、ちゃんとベッドで寝ているから…!
「いいえ、この椅子で大丈夫です。私は頑丈に出来ていますから」
弱くてらっしゃる、あなたが床で寝ておられたのです。しかも御病気でいらっしゃるのに。
それに比べたら、健康な私が椅子で眠るくらいは大したことではありません。
ベッドで寝るのと大して変わりはしませんからね。…制服のままでも、椅子で眠っても。
私の身体の心配などより、ご自分のお身体を大事になさって下さい、と譲らなかったハーレイ。
あなたのお身体が大切ですから、と本当に椅子に座って眠った。
前の自分が、ベッドから起きて行かないように。カーテンの隙間から覗く新鮮さを、ワクワクと味わいに行かないように。
夜中に何度か目が覚めたけれど、その度にハーレイも目を覚ましていた。
「どうなさいました?」と、「私なら此処におりますから」と。
カーテンの隙間から覗いて捜そうとなさらなくても、こうしてお側におりますからね、と。
心の底から申し訳ないと思った、前のハーレイを椅子で寝させたこと。自分には暖かなベッドがあるのに、ハーレイは毛布も無しで椅子だけ。腰掛けたままの姿勢で朝まで眠ったハーレイ。
何度目覚めても、ハーレイは椅子に座っていたから。気遣う言葉を掛けてくれたから…。
(ホントに、ハーレイに申し訳なくて…)
二度と隙間から覗こうとはしなくなったのだった。青の間のベッドの周りにあったカーテン。
それがピタリと閉められた時は、大人しくベッドに横になっていた。外の様子が気になった時も透視で眺めた。隙間から見えると分かってはいても、起きてゆかずに。
「…カーテンの隙間、よく見えたんだけどね…」
意外に外がよく見えるんだ、って思ったけれども、ハーレイに叱られちゃったから…。
あれっきりになって、忘れちゃってた。カーテンのことも、ぼくが隙間から見ていたことも。
今のぼくがサルを見てた時かな、って思うくらいに忘れていたよ。
「俺もだが…。いや、あの時は驚いたぞ」
ブリッジの仕事が一段落したから、野菜スープを作りに行くか、と入って行ったら…。
お前は多分寝てるだろうし、とカーテンを細めに開けて覗いたら、お前が床で寝てるんだから。
てっきり倒れたのかと思っちまって、慌てたもんだ。まさか床で寝るとは思わないからな。
「ごめんね、椅子で寝させてしまって…」
ぼくに妙な癖がつかないように、って一晩中、監視させちゃったなんて…。
いくらハーレイが頑丈に出来てても、椅子じゃ寝た気がしなかったよね。座ったままだし。
「なあに、お前が病気を悪化させるよりかはマシだからな」
病気の度にベッドから出ては、カーテンの隙間から外を眺めて床で寝ちまう。
そんなとんでもない癖がつくよりは、あそこでガツンとお仕置きだってな。
お前を叱っておくのはもちろん、俺にも迷惑をかけちまったと思わせるのが一番だ。前のお前は周りのヤツらに気を遣ってたし、そいつが一番効くんだ、うん。
今度のお前も、カーテンの隙間から覗くんじゃないぞ、と言われたけれど。
具合が悪い時にはベッドから出ないで、大人しく寝ていろと注意されたけれど。
(…今は覗いても仕方ないけど…)
いつかハーレイと二人で暮らすようになったら、覗きたくなる日が来るかもしれない。
ハーレイが仕事で出掛けてゆく日に、病気になってしまったら。
家で寝ているしかなくなったならば、ハーレイが「行ってくるぞ」と出掛けた後で。
ちょっと見ようと、少しだけだよ、と窓のカーテンの隙間から。
でも、ハーレイをまた椅子で寝させたら、悪いから。叱られるのも、悲しいから。
ハーレイを困らせてしまわないよう、怒らせないよう、急いでベッドに戻らなくては。
窓から外を見ている間に、ハーレイの車が行ってしまったら。
ガレージから通りに出て行った後に、見えなくなってしまったら。
(…そこまでで終わりにしなくちゃね?)
カーテンの隙間から見える景色が素敵でも。外の日射しが優しくても。
意外に外がよく見える、と覗いていないで、カーテンを閉めて、早く治しにベッドへと。
その方がきっと、ハーレイは喜んでくれるから。
一日も早く病気を治して、ハーレイと二人で、あちこち出掛けてゆきたいから…。
カーテンの隙間・了
※前のブルーが気付いた、カーテンの隙間から眺める外の光景。意外によく見えるものだ、と。
透視する代わりに眺め続けて、床で眠ってハーレイに叱られた上に、迷惑をかけた思い出。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あっ、可愛い!)
服の中から猫が覗いてるよ、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、ダイニングで。おやつの用意を待っている間に広げた新聞。自慢のペットの紹介コーナー。
飼い主が着ている服の胸元、可愛らしい猫が顔を覗かせている。クルンとした目で。
(ぼくも、服の中に猫…)
入れてみたいな、と羨ましくなるのは、写真の猫が真っ白だから。顔だけしか覗かせていない猫だし、身体はブチかもしれないけれど…。
(真っ白なら、ミーシャ…)
ハーレイが子供時代に一緒に暮らしていたミーシャ。隣町の家でハーレイの母が飼っていた猫。前に写真を見せて貰ったから、それ以来、真っ白な猫を見る度に「ミーシャだ」と思う。
(ハーレイだって、こんな風に入れてたかもね?)
真っ白なミーシャを服の中に入れて、ちょっと散歩に出掛けてゆくとか。だから自分も真似してみたい。ただでも猫は可愛らしいから、写真で見ればなおのこと。
ほんのちょっぴり入れてみたいな、と眺めていたら。
「ブルー、熱いから気を付けるのよ?」
母が置いて行ってくれたホットミルク。おやつのケーキのお皿の隣に。マヌカの蜂蜜が入った、シロエ風のシナモンミルクだけれど。
猫の写真に夢中だったから、なんとも思わずに手を伸ばして…。
(熱っ…!)
見事に火傷してしまった舌。冷ましてもいないホットミルクは熱すぎた。慌てて舌を口の外へと出してみたって、それで冷やせるわけがない。
(火傷しちゃった…)
酷い目に遭った、と後悔しても既に手遅れ。舌はヒリヒリ、腫れているかと思うほど。
通り掛かった母も「だから言ったでしょ」と呆れ顔だけれど、もう遅い。ホットミルクの残りは冷まして飲んだ。すっかり冷たくなるくらいまで。
やっちゃった、と肩を落とすしかない火傷。ウッカリしていたのが悪いよね、とは思っても…。
(今日はしみるかも…)
熱い料理や、香辛料とかが。それに痛い、と帰った部屋。まだ痛いような気がする舌。鏡で舌を眺めたけれども、よく分からない火傷した場所。でも残っている舌の違和感。
ピリピリするよ、と自分の失敗を嘆いていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれた所まではいいけれど。
母が運んで来た、お茶とお菓子と。紅茶のカップやポットをテーブルに並べてゆきながら…。
「はい、どうぞ。ブルーはちゃんと冷まして飲むのよ」
「ママ…!」
「火傷したでしょ、気を付けて」
同じ目に遭うのは嫌でしょう、と母は微笑んで出て行った。「ごゆっくりどうぞ」と。
(ママったら…!)
ハーレイに聞かれた赤っ恥。何処から聞いても、熱い飲み物で舌を火傷した話。あんまりだ、と頬が真っ赤に染まったけれども、湯気を立てている紅茶のカップが怖い。立ち昇る湯気が。
しっかり冷まして飲まないと、と用心してしまう熱い紅茶。ただでも舌を火傷した後だし、また火傷したら大変だ、と。
フウフウと紅茶に息を吹きかけていたら、鳶色の瞳に覗き込まれた。
「こりゃまた、ずいぶん冷ますんだな…。火傷、そんなに酷いのか?」
いったい何でやったか知らんが、痛くて紅茶も飲めないほどか?
「ううん、そこまで酷くないけど…。でも、火傷したら嫌だしね」
さっきの火傷の上から火傷。きっと痛いよ、今度こそ紅茶も飲めなくなってしまいそうだし。
「そりゃそうだ。用心するのに越したことはない」
火傷しちまったら、紅茶どころか、せっかくのケーキも台無しだからな。舌が痛くて。
だが、お前…。弱くなったな、いいことだ。
「え?」
弱くなったって…。何の話?
「火傷だ、火傷。今の話だと、それしか無いだろ?」
「舌の火傷…?」
キョトンと見開いてしまった瞳。多分、ハーレイが話しているのは、前の自分のこと。遠い昔に生きたソルジャー・ブルー。けれど、舌に火傷をしていたろうか…?
「舌に火傷もしてたんだろうが、前のお前は我慢強かったから…。弱くなったな、と」
たかが舌の火傷くらいで大騒ぎだなんて、弱くなったと思うじゃないか。
前のお前なら、火傷の内にも入らなかったんだろうしな。舌なんかは。
「…火傷、したっけ…?」
今でもハーレイが覚えているような火傷、前のぼく、してた…?
「忘れちまったか…。そりゃあ酷いのをやっちまったが…」
火傷と聞いたら思い出したが、お前、覚えちゃいないのか?
両手に火傷、と言われたけれども、思い出せない。そんな火傷をしただろうか?
第一、両手には常に手袋。火傷などをするわけがない。あの手袋は特別な素材だったし、特殊な素材になる前の時代も、ある程度の熱なら防げた筈。
「えっと…。前のぼくの手、火傷しなかったと思うけど…」
いつも手袋をはめていたもの。夜まで外しはしなかったんだし、両手に火傷はしない筈だよ。
「手袋って…。本当にすっかり忘れたんだな、痕も残らなかったから…」
綺麗に治っちまったお蔭で、火傷したことまで忘れたってか。
「それ、いつの話?」
もしかして、手袋、はめてなかった?
手袋をはめるよりも前の話で、ぼくはホントに火傷したわけ?
「嘘をつくわけがないだろう。お前は手袋をしていなかったな、俺が厨房にいた頃なんだし」
俺も今まで忘れていたが…。火傷しちまったという話を聞くまで。
ついでに、用心しているお前を見るまで、俺だって忘れちまってた。
火傷して以来、お前、用心していたからな。
また同じことをやらないようにと、おっかなびっくりといった感じで。
お蔭で俺は思い出したが、という話を聞いても戻らない記憶。
前の自分は、どうして火傷をしたのだろう。事故に遭ったのなら、今でも覚えていそうなのに。
分からないや、と首を傾げるしかなくて、一向に思い出せなくて。
「火傷って…。何処で?」
ちっとも覚えていないんだけれど、前のぼくは何処で火傷をしたの?
「俺の目の前だ、厨房だな。いわゆる不幸な事故ってヤツだ」
お前、ヒョイと両手で持ち上げちまったんだ。熱くなってたオーブンの天板を。
「熱い天板って…。そんなの、持たないと思うけど?」
小さな子供だったら危ないけれども、今のぼくだって持たないよ。火傷するもの。
前のぼくだって、オーブンの仕組みは分かっていたし…。触ろうとしない筈なんだけど?
「事故だと言ったぞ、それも不幸な」
オーブンから出して上の料理をどけちまったら、分からんだろうが、見た目には。
真っ赤に焼けた鉄じゃないんだし、その天板が熱いかどうかは。
手を近付けたら、熱が伝わって来るから分かりはするが…。
最初から用心しているからこそ、確認しようとするわけで…。それが無ければまず分からん。
触っちまって火傷してから、「熱かったのか」と気付くのがオチだ。
前のお前もそのクチだったんだ、よく聞けよ…?
始まったハーレイの昔話。厨房で料理の試作をしていた時のこと。
出来上がったオーブン料理を取り出し、天板ごとドンと置いたテーブル。熱い天板を置いても、焦げない頑丈なテーブルだから。
それから料理の器を天板の脇へ。大きめの耐熱容器を使っていたから、汚れなかった天板。
「まずは料理を出すもんだろ? オーブンから出して来たんだから」
天板の片付けはその後だ。俺が料理の器を出した所へ、お前が覗きにやって来て、だ…。
手伝うつもりで、出しっ放しの天板をオーブンに片付けようと…。
よく手伝ってくれていたしな、俺の片付け。
「思い出した…!」
熱いなんて知らなかったから…。綺麗だったし、洗ってあるんだと思い込んじゃって…。
早く片付けた方がいいよね、って。
「ぼくがやるよ」と、いつもの調子で持った天板。オーブンの中に戻しておこうと。
ハーレイが「おい!」と止めた時には、もう掴んでいた。両方の手で。
思ってもみなかった熱い天板。一瞬の内に焼かれた肌。
あまりの熱さに放り出したけれど、その前にしっかり掴んでいたから。熱いとも知らずに焼けた天板を掴んだのだから、たまらない。
両手は真っ赤になってしまって、呆然とするしかなかった自分。火傷したんだ、と。
「ブルー!」と大声を上げたハーレイ。まるでハーレイが火傷したかのように。
「見せてみろ」と言うから、差し出した両手。「火傷しちゃった」と。すっかり真っ赤になっていた手を、無残に色を変えてしまった手を。
ハーレイは見るなり声を失い、「来い!」と洗い場に引っ張ってゆかれて、冷たい水を蛇口から浴びせられた。両手が痺れてしまいそうなほどに、それは冷たいのをザーザーと。
その間にハーレイが用意していた、氷や、濡らしたタオルやら。
冷えて感覚が無くなった手を、氷入りの濡れタオルでグルグル巻かれて…。
厨房での応急手当はそこまで。火傷の薬は置いてあるらしいけれど、酷い火傷には役立たない。ちょっと赤くなった程度の火傷用。
だからハーレイは、前の自分をノルディの所へ連れて行った。「行くぞ」と大慌てで、火傷した両手を冷やしながら。
ノルディが常駐していた部屋に駆け込むなり、「診てやってくれ!」と叫んだハーレイ。両手に酷い火傷をしたと、熱い天板を素手で持っちまった、と。
氷入りのタオルをノルディがほどいて、始めた治療。消毒したり、薬を塗ったり。
前の自分はそれを見ていただけだったけれど、ハーレイの方は心配そうに覗き込みながら。
「どうだ、治りそうか? ブルーの火傷」
俺がウッカリしてたんだ。あんな熱いのを置きっ放しにしてただなんて…。
ちゃんと治してやってくれ、と頼まれたノルディは治療の手を休めずに。
「こいつは暫くかかるだろうな。治るのは治るが、その後だ」
痕が残らないといいんだが…。酷い火ぶくれになっているから。
かなり深くまで火傷していたら、痕が残るということもある。火傷自体は治ってもな。
「…痕が残ったらどうなるんだ?」
ブルーの手に火傷の痕なんて…。それは消えるのか、時間が経ったら?
「深い火傷なら、消えないだろうな。…今の船ではどうしようもない」
痕を消すには、皮膚の移植が必要になる。だが、この船では移植手術は出来ない。
もっと設備が整わないと無理だ、それから医療スタッフも。
そこまで深い火傷でなくても、きちんと治療しないと痕が残るぞ。引き攣れたような。
痕を消すには皮膚移植しか無くて、そっちは今は無理ってことだ。
全力を尽くすが、今の段階で出来る治療には限りがある。後はブルーの運次第だな。
治るといいが…、と包帯で巻かれてしまった両手。飲み薬まで処方された。痛み止めに、感染症予防の薬。それから痕が残りにくくするための飲み薬も。
けれど、両手を火傷したから、手では持てない。サイオンで受け取ろうとしたら、横から褐色の手が掴んだ薬の袋。「俺が持つから」と。
ハーレイは部屋まで薬を運んでくれて、部屋に入るなり謝った。
「すまん、ブルー…。酷い火傷をさせちまって」
俺がサッサと片付けていたら、お前、火傷なんかしなかったのに。
痛いだろう、と包帯に包まれた両手を痛々しそうに見るから、「大丈夫だよ」と返した答え。
「平気だってば、このくらい。…ちょっと痛いけど」
だけど、そんなに痛いってことも…。手だけなんだから。それも手のひらだけ。
火傷だって、それほど酷くはないし…。ぼくは平気だよ、心配しないで。
「酷くはないって…。酷いだろうが!」
ノルディも心配していたじゃないか、痕が残らなければいいんだが、と。
それだけ火傷が酷いってことだ、平気な筈がないだろう!
「…大丈夫。もっと酷い目に遭っていたから」
火傷どころか、焦げそうなくらい。…燃えて死んじゃいそうなくらいに。
アルタミラでね、とハーレイに話した前の自分。それは本当だったから。ハーレイは息を飲み、前の自分をまじまじと見た。
「焦げそうって…。そんな実験をされていたのか?」
お前の腕にあった注射の痕なら知ってたが…。酷い目に遭ったとも聞いてはいたが…。
火傷するような実験って…。燃えて死にそうな実験だなんて、あの研究者どもがやったのか?
「そう。高温の蒸気が噴き出して来たこともあったし、本物の火が出て来たことだって…」
熱いって叫んでも止めてくれなくて、ぼくが倒れるまで実験してた。
もう駄目だ、って倒れちゃうまで。死んじゃうんだな、って思いながら意識が無くなるまで。
それでも死ななかったけど…。また檻の中で目が覚めるんだけど。
「お前…。そんな目に遭って、よく生きてたな」
俺みたいに頑丈だったらともかく、細っこい身体のチビなのに…。
とても生き残れそうにないのに、お前、それでも生きてたってか。凄いな、お前。
「ぼくもそう思うよ、死ななかったのが不思議」
いつも治療をされていたけど、死んじゃっても不思議じゃないのにね?
きっと色々と調べてたんだよ、実験中も。死なないように、ギリギリの所でやめられるように。
タイプ・ブルーは一人しかいないし、死んでしまったら実験出来なくなるんだもの。
何度も焦げたり火傷してたよ、焦げる時には焦げちゃうんだよ。…ちょっぴりだけど。
でもね…、と髪を指差した自分。今と同じに銀色だった髪。
どんなに熱くても、髪の毛は焦げないんだよね、と。
「ホントだよ? 実験室に鏡は無かったけれども、ちゃんと分かった」
髪の毛は焦げていないってこと。本物の火で焼かれちゃっても。
「焦げないって…。何故だ、そんなに強いのか、髪は?」
お前の髪の毛、こうして触っても柔らかいんだが…。
それは見かけだけで、本当は火傷した手よりも丈夫に出来てるってか?
髪の毛なんかは直ぐに焦げるぞ、現に俺だって焦がしちまったことが何回か…。実験じゃなくて料理中のことで、景気よく火を使った時なんかに。
「丈夫なのかどうかは分からないけど…。そういえば、顔も焦げてなかったよ」
顔も火傷はしてないと思う。ぼくの意識があった間は。
ハーレイ、ビックリしてるみたいだし…。顔とか髪の毛、焦げた方が良かった?
その方が普通で良かったのかな、熱くても少しも焦げないよりは。
「いや、そんなお前は可哀相でとても見ていられない…。髪や顔まで焦げるだなんて」
想像だってしたくはないし、焦げなかったと聞いたらホッとした。無事だったんだ、と。
…しかし、火傷はしたんだな?
顔と髪の毛が無事だっただけで、その他の手とか足とかは?
「何度もね。…何度も焦げたし、火傷も一杯」
今日みたいに手のひらだけじゃなくって、身体中に。
最初の間は火傷しなくても、力が抜けて来ちゃったら駄目…。
あの頃の自分はシールドという言葉を知らなかったけれど、無事だったのはそれのお蔭だろう。無意識の内にシールドを張って、自分の身体を守ろうとした。
髪の毛や顔が焦げなかった理由は、恐らくは頭部だったから。サイオンを秘めた脳が入っている部分。なんとしても脳を守らなければ、と懸命に死守していた頭部。意識しなくても。
だから倒れてしまった後にも、顔も髪も焦げはしなかった。火傷は一度も負わなかった。
そう話しても、前のハーレイは怖い顔をして腕組みで。
「やはりあいつら、許し難いな」
お前みたいなチビに、火だの蒸気だのと…。倒れちまうまで実験だなんて、俺は許せん。
火傷だらけだった上に、焦げただと?
顔と髪の毛が焦げてなくても、他の部分が火傷だったら痛いなんてモンじゃないだろうが。
今日の火傷だって酷いというのに、お前、平気だと言うんだから…。
もっと酷い目に遭っていたから、それに比べたら酷くはないと。
研究者どもめ、こんなに小さいお前に無茶をしやがって…!
「実験は酷かったかもしれないけれど…。ぼくも酷い目に遭っちゃったけど…」
だけど治療は上手だったよ、どんな時でも。
ぼくの身体に傷は無いでしょ、注射の痕も消えちゃったから…。
火傷とかの痕は残っていないよ、上手に治療していたんだよ。それも実験かもしれないけれど。
「うーむ…。確かに傷痕は無いな、お前が言わなきゃ分からなかったほどに」
火傷の痕なんか残っちゃいないし、聞かなかったら俺は知らないままかもしれん。
顔と髪の毛以外は焦げちまったとか、火傷だらけになってただとか。
そんな目に遭っていたなんて…、と痛ましそうな顔になったハーレイ。
せっかく地獄から逃げ出したのだし、その火傷の痕、残らないといいな、と。
「ぼくはいいけど? 残っちゃっても」
別に困らないよ、痕くらいなら。…何かをするのに困るわけじゃないし、見た目だけだもの。
それに手のひらだから、他の人だって滅多に見ないものね。
「お前はいいかもしれないが…。俺は困るな」
お前が火傷しちまったのは、俺のせいだし。…痕が残ったら、辛いだろうな。
「そうなの?」
「俺がきちんと気を付けていたら、火傷なんかは…」
天板は直ぐに片付けるだとか、お前が厨房に入って来た時点で「危ないぞ」と声を掛けるとか。
俺はどっちもしなかったんだし、明らかに俺のミスってヤツだ。
今でも充分、申し訳ないのに、その上、痕まで残っちまったら…。
見る度に辛い、とハーレイが唇を噛むものだから。
「じゃあ、頑張って治すことにするよ」
ハーレイのためにも、痕なんか残らないように。
ぼくが両手に火傷したこと、ハーレイも忘れてしまうくらいに。
「治すって…。お前、そんなことまで出来るのか?」
サイオンを使って痕を消すとか、傷の治りを良くするだとか。
「ううん、そういう使い方をするのは無理そうだから…」
ノルディの治療にきちんと通うよ、そうするのが大切みたいだから。痕を残さないように治療をするには、診て貰うのが良さそうだから。
サボッたりしないで治療するよ、と宣言したのが前の自分。ハーレイのために、と。
ハーレイは「俺のせいだ」と悔やんでいたけれど、火傷の原因は自分にだってあったのだから。
厨房がどういう所なのかを、よく考えもしないで入って行った。
オーブン料理を作っていたなら、天板が熱いのは当然なのに。天板の横に置かれた料理にチラと視線を向けていたなら、出来立てなのだと分かったろうに。
(…作り立ての料理が置いてあったら、天板だって…)
まだオーブンから出されたばかりで、熱い筈。厨房で料理を作っていたなら誰でも分かる。前の自分も何度も覗きに行っていたのに、分かったつもりになっていただけ。厨房という場所を。
(ぼくが自分で作らないから、気が付かなくて…)
ハーレイに迷惑をかけてしまった、と反省しきりだった両手の火傷。
試作中の料理が出来上がったのに、放り出させてしまった自分。ハーレイは大慌てでノルディの所まで連れて行ってくれたし、診察の後は部屋まで送ってくれた上に話し込んだから…。
(…料理だって、すっかり冷めちゃったよね…)
もしかしたら、同じのを作り直したかもしれない。出来立ての味が分からないから、最初から。
作り直す間にも、ハーレイはきっと心を痛め続けただろう。「俺が用心していれば」と。
オーブンで加熱するのが終わって、出す時にはもっと。
「何故、天板を直ぐに仕舞わなかった」と、「ブルーが来たのに気付かなかった」と。
ハーレイは少しも悪くないのに。
厨房だったら当たり前の作業を、いつもと同じにやっていたというだけなのに。
自分が入って行かなかったら、天板を掴まなかったなら。
火傷したりはしなかったのだし、ハーレイが悔やむことも無かった。辛そうな顔で。
「すまん」と謝ることだって無くて、普段と変わらない時間が流れ続けていた筈。皆に美味しい料理を出そうと、鼻歌交じりに試作しながら。
自分の方でも、「今日の食事は、どんなのかな?」とハーレイの料理を楽しみにして。明らかに新作だと分かる料理が出て来たならば、ワクワクと心躍らせて食べて、喜んだだろう。ハーレイに顔で、言葉で「美味しいよ」と伝えて、それは御機嫌で。
けれども、それを壊してしまった。よりにもよって自分の不注意で。
(…ぼくのせいだよ…)
ハーレイは悪くないんだもの、と思うけれども、きっとハーレイは「違う」と言うから。
「俺のせいだ」と譲らないのに決まっているから、ウッカリ者の自分に出来ることといったら、痕が残らないように治すことだけ。
ただそれだけしか出来はしなくて、他には何も出来ない自分。ハーレイのために。
(ぼくがハーレイを悲しませたのに、たったそれだけ…)
なんとも悔しい、自分の無力さ。火傷の治療しか出来そうにない。それも治して貰うだけ。
ノルディは「運次第だ」と言いはしたけれど、やはり努力はしなければ。彼の指示通りに診察に通って、薬を塗ったり、飲んだりして。
(前のぼく、ホントに頑張ったっけ…)
ハーレイを悲しませたくはないから、火傷を綺麗に治そうと。痕が少しも残らないようにと。
毎日、ノルディの所に通った。包帯の下の手を診て貰っては、言われる通りに塗り薬を塗った。飲み薬も忘れないように。飲み薬は嫌いだったのだけれど、我慢をして。
(だけど、両手に包帯だったから…)
両方の手のひらを火傷したから、何かと不自由で使えない両手。食器も持てない。
サイオンを使えばちゃんと出来るのに、ハーレイが世話をしてくれた。「俺のせいだから」と。
厨房で料理をしていない時は、時間を作って部屋に来てくれて。食事の時間には、食堂で。
「ほら、食べろ」と食べさせて貰った食事。切り分けるのもハーレイだった。食べやすいよう、パンも千切ってくれた。薬を飲む時は水を用意して、薬を一つずつ口に入れてくれて。
着替えも、シャワーも、全部ハーレイの手を借りた。
「お前、両手が使えないんだから」と、朝の着替えから、眠る時まで。
顔を洗うのも、歯磨きもハーレイ。「これでいいか?」と「痛くないよな」と確認しながら。
シャワーの時には、火傷した手に気を付けながら。
(火傷、治療用シートの下だったから…)
ノルディが何度も張り替えてくれた、傷の保護を兼ねた治療用のシート。それに覆われた火傷は見えない。下の火ぶくれが潰れないよう、治してゆくために貼られていたから。
シャワーを浴びる時も、シートは取らない。包帯だけを外して、シートはそのまま。何か所かをテープで留めてあるから、それが外れないようにシャワーを浴びて、また包帯。
ハーレイは「火傷、どうだ?」と訊きはしたけれど、透視したりはしなかった。シートの下を。
覗き見るのが怖かったのか、マナー違反は良くないと考えていたものか。
(…見なくて正解だったんだけどね…)
もしもハーレイが見ようとしたなら、止めただろう。でなければサイオンで弾いていたか。
治るまでの過程で、見るも無残な様相だった時期があったから。火傷した部分から滲み出て来た滲出液。火ぶくれも癒えていなかっただけに、自分でも目を背けたほど。
これはハーレイには見せられない、と何度も思った。きっと苦しませてしまうから。
今から思えば、ハーレイは知っていたかもしれないけれど。ノルディの所へ訊きに出掛けて。
(でも、今頃になって訊くのもね…?)
ハーレイの古傷を抉るようだから、尋ねないのがいいのだろう。今は、きっと。
酷かった時期もあったのだけれど、治療に通った前の自分の努力は報われた。世話をしてくれたハーレイの努力も。
ようやく包帯が取れて、治療用のシートも薄いものになって、ついには要らなくなって…。
「ほらね、綺麗に治ったでしょ?」
何処を火傷したか、もう分からないよ。今はちょっぴり、まだ赤いけど…。
ノルディが言ったよ、赤みが消えたら元通りだって。痕は残っていないから。
見て、と広げてみせた手のひら。「もう大丈夫」と。
「良かった…。これなら、じきに治るな」
厨房の塗り薬も要らない程度の赤さだ、放っておいても治るって火傷。
本当に良かった、痕が残らなくて。…今の船じゃ、火傷の痕を治す治療は出来ないんだから。
それから更に何日か経って、白い肌が戻って来た手のひら。その手を何度も撫でて確かめては、「元通りだな」と安堵していたハーレイ。「お前の手に痕が残らなくて良かった」と。
今のハーレイも、「本当に心配したんだぞ」と鳶色の瞳でじっと見詰めて。
「あんな火傷でも、お前と来たら、俺の心配をしてたのに…」
俺が後々、気に病まないように、きちんと治すと言ってたくらいに強かったのに。
今のお前だと、舌の火傷で騒ぐらしいな。紅茶か何かで火傷したくせに。
そういう火傷は、知らない間に治っちまうと相場が決まっているモンなのに。
しかしだ、それはいいことだ、うん。
舌の火傷で大騒ぎなのも。
「いいことって…。どうして?」
我慢強い方が、ずっと良くない?
両手に酷い火傷をしたって、泣いたりしないでいる方が…。ハーレイの心配を出来る方が。
「そうは思わんな、今のお前の方がいいに決まってる」
痛い時は痛いと言えるだろ、お前。…前のお前みたいに我慢しないで、素直に「痛い」と。
前のお前が痛くなかったわけがないんだ、今のお前と同じで人間だったんだから。
火傷でも怪我でも、痛いものは痛い。…それなのに、前のお前は酷い目に遭いすぎて、何処かが普通じゃなかったんだな。痛さの基準が違いすぎた。
そんなお前が、今だと舌の火傷で痛がる。
いい世界じゃないか、痛い時は痛いと言えるんだから。
そっちのお前が断然いい、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「うんと痛がれ」と。
「舌の火傷だって、痛いモンだしな?」
痛けりゃ痛いと
言っていいんだ。恥ずかしいなんて思わずに。
前のお前が我慢強すぎた分まで、今のお前は痛がっていいと思うがな。…俺は。
今度は大いに痛がるといい、とハーレイはパチンと片目を瞑った。前の分まで、と。
「そっか…。前のぼくの分まで、痛がっていいんだ…」
舌が痛いの、我慢しなくていいんだね。今もちょっぴりヒリヒリするけど…。痛いんだけど。
でも、残念。舌の火傷だと、ハーレイに世話して貰えないもの。
「はあ?」
俺が世話するって、どういう意味だ?
なんだってそういう話になるんだ、俺がお前の世話なんていう。
「前のハーレイ、してくれたでしょ?」
ぼくが両手に火傷した時。サイオンで出来るって言っていたのに、治るまでずっと。
あの時みたいに、食べさせて貰うとか、お風呂に入れて貰うとか…。
ハーレイに世話をして欲しいけれど、舌の火傷じゃ無理だよね…?
「お前なあ…!」
調子に乗るなよ、俺が優しくしてやったからって…!
痛がってもいいと言いはしたがだ、お前のは舌の火傷だろうが!
大袈裟に「痛い」と騒ぐ分には、いくらでも優しく見守ってやるが…。
そんなヤツの世話までする義理は無いな、舌の火傷は放っておいても治るんだから。
前のお前の時と違って、薬の出番も無いんだからな。
俺は知らん、と突き放されたけれども、きっとハーレイは優しい筈で。
舌の火傷でなかったとしたら、今度も世話をしてくれるだろうと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…またぼくが両手を火傷しちゃったら、世話してくれる?」
前のぼくにやってくれたみたいに、食事の世話とか、着替えだとか。
「火傷しなくても、お前の世話ならいくらでも…な」
もっとも、今はしてやれないが。
お前が両手を火傷しちまったとしても、今は駄目だな。
世話をしてくれる人が、ちゃんといるだろ。お母さんがいるし、お父さんだって。
「…やっぱり駄目?」
パパとママがいるから、ハーレイの出番は無くなっちゃうの?
ぼくの世話はママたちがしてくれるんだし、ハーレイは駄目…?
「当然だろうが、お前はお母さんたちの子供なんだぞ?」
この家でお母さんたちと暮らすチビでだ、面倒を見てくれるのもお母さんたちだ。
お前が此処に住んでる間は、病気になった時の野菜スープが限界ってトコか。
あれなら野菜スープのシャングリラ風だし、俺にしか作れないからな。
お前、あれしか食べない時もあるから、お母さんだって認めてくれるが…。
その他の世話はちょっと無理だな、俺の仕事じゃないんだから。
駄目だ、と軽く睨まれた。「チビの間は野菜スープだけだ」と。子供の間は、世話をしてくれる人たちいるだろうが、と。
「いいか、お母さんたちの役目を俺が取ったら駄目なんだ」
お前を可愛がってくれるお母さんたちだぞ、膨れっ面なんかするんじゃない。本物のお母さんとお父さんなんだ、甘えられる間にしっかり甘えておけ。世話をお願い、と。
その代わり、俺と結婚したら。…舌の火傷でも、ちゃんと面倒を見てやるから。
「ホント?」
舌の火傷でも世話してくれるの、どうやって?
紅茶とかをハーレイが冷ましてくれるの、ぼくの代わりに…?
「違うな、お前が楽しみにしているキスだ」
お前にキスして、「痛いの、痛いの、飛んでけ」とな。
何処が痛いか、お前に訊いて。
痛い所を治してやるってことになるなあ、それで治るだろ?
本当に治るかどうかはともかく、気分だけでも。
「うん、治りそう…!」
きっと治るよ、ハーレイのキスで。
舌を火傷してヒリヒリしてても、火傷して直ぐの痛い時でも…!
約束だよ、とハーレイと小指を絡ませた。いつか治して、と。
舌の火傷は痛いけれども、そういう手当てをして貰えるのなら、してみたい。
いつかハーレイと暮らす家でも、熱いホットミルクや紅茶で火傷。
そして思い切り甘えてみよう。
「キスで治して」と言った後には、「まだ痛いよ」と。
火傷したから、世話をしてよと。
食べさせて貰って、お風呂も、着替えも、と。
前の自分が両手に火傷をしていた時に、ハーレイに世話して貰ったように。
色々と面倒を見て貰ったように、舌の火傷でも甘えてみよう。
あの頃は恋人同士ではなかったけれども、今度は同じ家で暮らしている恋人同士。
もっと沢山、世話をして貰えそうだから。
ハーレイの時間を一人占めして、あれもこれもと強請れそうだから…。
火傷・了
※舌に火傷をしたブルー。痛いのですけど、前のブルーだと、その程度なら平気だったのです。
船で負った火傷を治すのに、懸命に治療に通った日々。前のハーレイとの思い出の一つ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「さて、今日は…」
コレだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。古典の授業の真っ最中。居眠りしそうな生徒の集中力を取り戻すために、挟み込まれるお得意の雑談。
(ザクロ…?)
何を話すのかな、と眺めたブルー。今はザクロの旬だけれども、食べ方か、お菓子の作り方か。そういった中身かと思い込んだし、クラスメイトたちも多分、そうだったろう。
ところが、ハーレイが始めた話は…。
「お前たち、ザクロの食べ方ばかり考えてるな? まあ、美味いんだが…」
残念ながら、俺の話は少し違うぞ。ザクロには色々と伝説があってだな…。
古いヤツだと、ギリシャ神話のが有名だ。冥界の王がペルセポネという娘を攫った。それがだ、豊穣の女神の娘だったから大変だ。女神は仕事を放り出しちまって、地上が荒廃しちまった。
そこで娘を返すように、という交渉が纏まったんだが…。
冥界の王は狡かった。ペルセポネにザクロの実を食べさせてから地上に帰した。冥界の食べ物を口にしちまったら、冥界の住人になるしかない。
たった四粒とも七粒ともいう、小さなザクロの実なんだが…。冥界の掟は掟ってことだ。
仕方ないから、ペルセポネは冬の間だけ冥界で暮らすことになって、豊穣の女神がまた悲しむ。冬に作物が実らないのは、そのせいだという伝説だ。
どうだ、なかなか面白いだろう?
しかし、とハーレイがコンと叩いたボード。「日本だって負けちゃいないんだぞ」と。
「この地域は、ずっと昔に日本があった辺りだが…。日本にもユニークなヤツがあるんだ」
ザクロの伝説。日本で生まれた伝説のくせに、これがとびきり凄くってな。
「どんな話ですか?」
皆が口々に尋ね始めたら、ニヤリとして教室を見渡したハーレイ。
「ザクロの味についての話だ。本当に日本だけでの話なんだが…」
人の肉の味がすると言うんだ、ザクロの実は。
「ええっ!?」
たちまち教室で上がった悲鳴。人というのは人間なのか、と。
「その通りだが? お前たちよりは小さい子供の肉なんだろうな、伝説によると」
鬼子母神という神様がいた。元は鬼でな、人間の子供を攫って食べていたわけだ。
それを止めさせようと、お釈迦様が鬼子母神の子供の一人を隠しちまった。五百人もいた子供の中でも、特に可愛がっていた一人をな。
いくら捜しても見付からないから、鬼子母神は酷く悲しんだわけだが…。
お釈迦様が言うには、命の重さと子供を可愛いと思う心は、人間も鬼神も変わらない。五百人の中の一人が消えても悲しいのなら、もっと子供の数が少ない人間の親の気持ちはどうだ、と。
鬼子母神はやっと自分の罪に気付いて、それからは子供を攫わなくなった。
お釈迦様に仕えるいい神様になったわけだが、元々の伝説は此処までで…。日本で勝手に増えた話がこの後なんだ。
元々は子供を食べていたのが鬼子母神。また子供の肉を食べたくならないようにと、与えられた果物がザクロだという。子供を食べたくなった時には、代わりにザクロ。人の肉の味がするから、それを食べれば収まるだろう、と。
「そんな伝説があるもんだから、鬼子母神の像は右手にザクロを持っているんだ」
左手には子供を抱いているんだが、右手のザクロが怖いわけだな。人の肉の味がするんだから。
「本当に人の肉の味なんですか?」
おっかなびっくり尋ねた生徒に、ハーレイは「まさか」と軽く両手を広げてみせた。
「日本で出来た伝説なんだと言っただろうが。此処から後は、と」
鬼子母神は吉祥果という果物を持っているそうだ。そいつが中国でザクロになった。子孫繁栄の意味があるから、吉祥果にはピッタリだとな。
その鬼子母神が日本に伝わった時に、誰かが間違えちまったんだ。子供を食べたくなった時には代わりにザクロを食べるらしい、と。
「じゃあ、人の肉の味は…。しないんですか、ザクロ?」
「するわけがない。ザクロはザクロだ、甘酸っぱくて美味いだろうが」
肉の味とは全く違うぞ、あれは立派に果物だってな。血の味もしないし、生臭くもない。
だが、伝説は一人歩きをするもんだ。人の肉の味がするから不吉だ、と嫌っていた場所もあったそうだぞ。ザクロは決して食べないだとか、植えるだけでも不吉だとか。
ザクロにしてみたら、いい迷惑だな。せっかく美味い実をつけるのに。
鬼子母神の方も気の毒だよなあ、子供は二度と食べないから、と改心したのにザクロの伝説。
子供の肉を食べる代わりに、ザクロを食べると思われたんじゃな。
まあ、伝説には何かと尾ひれがつくもんだが。
授業に戻るぞ、とボードから消された「ザクロ」の文字。今が旬の果実。
(ザクロ…)
家の近くにもあったよね、とブルーの頭に浮かんだ家。庭にザクロの大きな木。バス停から家に向かう道とは違うけれども、ザクロの話を聞いたからには見てみたい。
(一粒くらいなら、取って食べても…)
かまわないだろう、ザクロの中には小さな実がビッシリ詰まっているのだから。人の肉の味ではないそうだけれど、勘違いされたザクロの実。
(帰りにちょっと見に行こうっと)
手が届きそうな所に実っていたなら、中身を一粒。
今日は学校の帰りにザクロ、と心に決めて、迎えた放課後。いつもの路線バスに乗る所までは、普段と同じ。バスを降りたら、違う道へと。
(えーっと…)
この先だっけ、と歩いて行って、「あった」と見上げたザクロの木。生垣の向こう、大きな木の枝は道の方にも張り出しているから。
(…下の方の実、届くかな?)
一粒だけでいいんだけどな、と眺めていたら、「ブルー君?」と庭に現れたご主人。今年も沢山実ったんだよ、とザクロの木の実を数え始めて…。
「見えている分だけでこれだけだしねえ、もっと沢山あるってことだね」
欲しいなら持って帰るかい、とハサミでチョキンと切って貰ったザクロの実。それも三つも。
一粒だけでも味見したい、と回り道をしたのに、赤く弾けたザクロごと貰えた。中にギッシリ、艶やかな実。ハーレイの授業で教わった実が。
(美味しそう…)
ほんの数粒食べたばかりに、冥界の住人になってしまったペルセポネ。彼女の瞳にも、魅力的に映ったのだろう。一粒、二粒とつまんだくらいに。
(あっちは人の肉の味じゃないんだけどね?)
本当のザクロの味はそっち、と日本で生まれた伝説を思う。ついつい食べたくなるのがザクロ。一粒、二粒とつまんだ女神もいたというのに、日本だと人の肉の味だなんて、と。
(貰ったんだし、家でゆっくり…)
味わって食べよう、と持って帰ったら、目を留めた母。
「あら、ザクロ…。頂いたの?」
今年もドッサリ実ってるものね、上の方まで。一番上のは二階の窓から採るのかしら?
でも、帰り道とは違うわよ、あそこ。回り道したの?
「今日の授業で聞いたから…。ザクロ、あの家にあったっけ、って」
ちょっと味見が出来たらいいな、って見に行ってみたら、三つも切って貰えたんだよ。
「授業でザクロのお話ってことは、ハーレイ先生ね?」
「うんっ! 今日の雑談、ザクロだったよ」
だから食べたくなっちゃって…。
着替えておやつの時に食べるよ、ザクロ、とっても美味しそうだもの。
そう宣言して、おやつの時間に食べてみたザクロ。弾けた果実をエイッと割って、詰まっている粒を指でつまんで。
甘酸っぱい味がするけれど。遠い昔の日本の人たちは、人の肉の味だと言ったそうだけれど。
(人間なんか、食べたことがないから…)
どんな味だか分からないんだし、比べようがないよ、と思った途端。
(人間を食べる…?)
何処かで聞いた、その響き。食べたことなど無い筈なのに。
今の自分も、前の自分も、人間の肉を食べたりはしない。同じ人間を食べるわけがない。今日の雑談でハーレイが話した命の重さ。人類とミュウが争った時代もそれは同じ、と考えたけれど。
「ヤツらは人間の精神を食べる」
「そうだ、あいつらは人間を食い殺すんだ」
不意に頭に響いて来た声。蔑むような男たちの声。
(アルタミラ…!)
あそこだった、と蘇った記憶。前の自分が閉じ込められていた研究施設。
サイオンを持ち、人の心を読む化け物への評価。「人間を食い殺す」と言った研究者たち。
ミュウは食べたりしないのに。人の心を読み取れるだけで、心を食べはしないのに。
嫌だ、と頭から振り払った声。前の自分が聞いていた言葉。
(今の時代は、みんなミュウだから…)
間違った考え方をする人類はいないし、SD体制の崩壊と共に人類とミュウは手を取り合った。化け物と呼ばれる時代は終わった。
(忘れなくっちゃ…)
酷い言葉は、と母が焼いてくれたケーキに集中。ザクロよりもケーキ、と。
人の肉の味だと勘違いされたザクロはとても美味しいけれども、今はケーキの方がいい。人間を食べると忌み嫌われていた、あの頃の記憶が蘇るから。
幸い、そこまでで終わった記憶。母のケーキが、今の時代にしっかりと繋ぎ止めてくれたから。
とはいえ、ハーレイのせいで思い出す羽目になったのだから…。
(文句、言わなきゃ…)
仕事の帰りに訪ねて来たなら、ハーレイに文句。嫌なことを思い出したじゃない、と。ウッカリ忘れてしまわないよう、ザクロを部屋に置くことにした。
三個も貰って来たわけなのだし、まだ割っていない二つの内の片方を。
母には「部屋に飾って眺めながら食べるよ」と説明したから、種を入れるためのお皿も貰えた。ザクロの実には小さな種。一粒に一つ入っているから、食べる時には吐き出す種。
そうやって部屋に運んだザクロをまじまじと見る。人の肉の味だなんて、とんでもない。綺麗な実が幾つも詰まっているのに。一粒、二粒とつまんだ女神もいたほどなのに。
(ハーレイ、来るといいんだけどね?)
文句を言おうと待っているのだし、是非来て欲しい。ザクロも用意したのだから。
それとも、苛められると分かっているから来ないだろうか。
予知能力は無い筈だけれど、なんだか嫌な予感がすると。今日は真っ直ぐ家に帰ろうと。
(逃げたら逃げたで、ザクロを残しておくもんね)
そう簡単には傷まないだろうし、割らなかったら三日くらいは持つだろう。その間にハーレイはきっと来るから、「これ!」とザクロを指差して文句。今日でなくても、三日後でも。
此処にザクロの実がある間は時効じゃないよ、と考えていたらチャイムの音。部屋にハーレイがやって来たけれど、アルタミラの記憶と結び付いたとは知りもしないから。
「おっ、ザクロか。早速、何処かに貰いに行って来たんだな」
いいことだ、と笑顔のハーレイ。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで。
そのテーブルの上にザクロもあるから、「どうだ、人間の肉の味がしたか?」と訊くハーレイ。此処は昔は日本なんだし、そっちの気分でザクロだよな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
人の肉の味だなんて言うんだもの…!
ザクロ、貰いに行って来たけど、頭がそっちに行っちゃったよ…!
「…このザクロ、そういう味だったのか?」
俺は甘酸っぱい実だと思ってたんだが、このザクロは違う味なのか?
血の味がするのか、それなら鉄分が多いザクロということになるが…。ザクロに鉄分…?
確かに入っちゃいるんだが…、とハーレイはザクロの栄養価を考え始めたから。
「ううん、血の味じゃなくて、アルタミラ…」
「はあ?」
アルタミラって…。前のお前か?
あそこでザクロを食っていたのか、餌の他にも貰えたのか…?
前のお前は特別待遇だったのか、と更に勘違いをしたハーレイ。研究所の檻で食べていたのは、誰もがただの餌だったから。餌と水だけ、果物などは無かったから。
「違うよ、ぼくが言われたんだよ! 前のぼくが!」
人間を食べる化け物だ、って…。ミュウは人間の精神を食べて、食い殺すんだって。
「そういや、あいつら、言ってたなあ…」
俺も聞いたぞ、その台詞は。…人の肉の味で、そいつを思い出したってか?
「ハーレイのせいだよ、ザクロの話なんかをするから!」
人の肉の味だって話をするから、アルタミラ、思い出しちゃった…。
ぼくは人間を食べたりしないのに、いつも化け物扱いで…!
「それは気の毒だが、このザクロの実を貰いに行ったの、お前だろうが」
俺の授業で気分が弾んで、いそいそ貰いに出掛けた筈だぞ。
「そうだけど…! ちょっと一粒味見したいな、って回り道をして帰ったんだけど…」
家の人が出て来て、三つも貰えて、嬉しい気分で帰って来たのに…!
おやつの時間にワクワクしながら食べ始めたのに、人間を食べる化け物だなんて…!
ぼくは人間を食べてないのに、食い殺しなんかしないのに…!
アルタミラの記憶なんかは要らなかった、とプンスカ膨れた。せっかく貰ったザクロの実だって台無しだよ、と。
「そうでしょ、値打ちが全部台無し! 美味しいね、って食べていたのに…」
こんな味なんだ、ってつまんでいたのに、人間を食べる化け物だって言われちゃったよ!
「うーむ…。そいつを言ってた研究者どもは、とっくの昔にいないんだが…」
人類のヤツら、改心ってヤツをしなかったしなあ…。
鬼子母神みたいに改心してたら、ミュウを見る目も変わったんだろうが…。
化け物じゃなくて、そういう種類の人間だってことに気付いてくれれば。
「でしょ? 人類は少しも反省したりはしなかったんだよ」
ミュウは化け物で、人間の精神を食べるから…。食い殺すんだから、殺してもいいって。
酷い実験をして死んでしまっても、これで一匹処分出来た、って笑ってたんだよ。
前のぼくのサイオンは封じられてたけど、そんな目に遭った仲間の残留思念が幾つも、幾つも。檻から出されて実験室に連れて行かれたら、仲間の悲鳴が残ってて…。
「その人類だが、そもそも説教をしていないしな」
「えっ?」
説教ってなあに、なんの話なの…?
「授業で言ったろ、お釈迦様の話。鬼子母神の子供を一人隠して、どう諭したか」
命の重さは同じなんだ、と説教したのがお釈迦様だぞ。人間の子供も、鬼子母神の子も。
ミュウと人類の命の重さも同じだったが、それを教えるヤツが一人もいないんではなあ…。
「そうだね…。誰も人類にそれを教えていないよね…」
第一、ぼくたちが話そうとしたって、話なんか聞いてくれないし。
人間扱いしていないんだから、ぼくたちの言葉は人類の耳には届かないよね…。
鬼子母神の子供も、人間の子供も命の重さは変わらない。人類とミュウの命の重さも全く同じ。
人類が其処に気付かない限り、ミュウは化け物。人間の精神を食べると忌み嫌われた化け物。
本当は、そうではなかったのに。
人類という名の鬼子母神に狩られ、食べられていたのがミュウだったのに。
「…ミュウは食べられちゃう方だったんだよ。人間を食べていたんじゃなくて」
人類はミュウを殺してたんだし、人類が鬼子母神みたい。ミュウを食べてはいないけど…。
殺してただけで、ミュウを殺して食べることまではしなかったけど…。
「なるほどなあ…。鬼子母神は人類の方だってか。化け物と呼ばれたのは俺たちだったが」
そういえば、マザー・システムが統治してたんだっけな、あの時代には。
マザーと名乗るくらいなんだし、あれこそが鬼子母神ってトコだったかもな。改心する前の。
お釈迦様に説教をされて、いい神様になるよりも前の鬼子母神だな。ミュウだと分かれば端から殺す。食わなかっただけで、途方もない数のミュウを殺していたんだから。
「マザー・システムは最後まで改心しなかったよね…」
だから壊されて、SD体制もそれでおしまい。悪い鬼子母神のままだったから。
「ああ。改心どころか、マザー・システムは自分の子供も殺しちまった」
「え?」
自分の子供って…?
「キースだ。あいつはマザー・システムが無から作った生命だったろうが」
つまりはマザー・システムの子供だ、鬼子母神のな。
俺はあいつが好きではないが…。
その点だけは同情するな。キースは自分を生み出した親に処分されたんだ。
作ったのはマザー・イライザだったが、作るようにと命令したのはグランド・マザーだ。作れと命じて、出来上がったキースを意のままに動かそうと考えた。
なのにキースが逆らった途端、あっさりと処分しちまった。鬼子母神より酷かったんだ。
改心する前の鬼子母神でも、自分の子は可愛がったのに。
もしもその子が逆らったとしても、食い殺したりはしなかったろうに…。
まして人間の親となったら…、とハーレイはフウと溜息をついた。SD体制の時代の養父母ならともかく、本物の親なら殺さないと。子供を処分したりはしない、と。
「だからキースに同情すると言ったんだ。親に殺されちまったんだから」
作られた生命体にしたって、親は親だし…。養父母なんかより縁は濃かった。望まれて生まれた子供なんだからな。グランド・マザーに。
しかし、子供を殺してもいいと考えたのがグランド・マザーだ。逆らった子供を殺しちまった。
その場で直ぐには死ななかったが、殺すつもりで処分したからには、殺したのと変わらん。
剣でグサリと貫いておいて、「処分終了」と言ったそうだからな。グランド・マザーは。
「うん…。歴史の授業で教わるよね」
その後はジョミーが戦ったけれど、グランド・マザーに逆らったのはキース。
最初から逆らうつもりでいたから、メッセージまで残して行って。
ミュウは進化の必然だったから、マザー・システムはもう時代遅れ。一人一人が自分で考えて、どうするべきかを決める時代だ、って…。
あんなメッセージを流してしまったら、処分されるに決まってるのに。
「…命懸けで説教をしたってわけだな、グランド・マザーに」
人類もミュウも同じ人間だと、命の重さに変わりはないと。国家主席がそれを認めたら、決して生きてはいられないだろうに…。自分の子供でも殺しちまうような機械が相手なんだから。
説教をしたキースは処分されたが、説教の中身は人類に届いた。そして人類は、考え方を変える方へと行ったんだ。ミュウと戦うより、手を取り合おうと。
本当だったら、キースのメッセージだけしか、後の時代に残らなかったかもしれない。
他の色々なことが分かっているのは、ジョミーが遺した記憶装置のお蔭だ。
「そうだったっけね…」
あれが全てを記憶したんだよね、全部トォニィに伝わるように。
次のソルジャーの役に立つようにと、ジョミーが見ていた何もかもを全部。
崩れゆく地球の地の底で、ジョミーがトォニィに託した補聴器。
記憶装置を兼ね備えたそれは、元は前の自分の物だったもの。ソルジャー・ブルーの記憶装置。メギドへ飛ぶ前に、フィシスにそっと手渡した。何も言わずに。
フィシスは前の自分の意図を分かってくれて、メギドが沈んだ後にジョミーに渡した。その中に入った、前の自分の記憶の全てを。
(多分、ジョミーの役に立ったから…)
ジョミーもトォニィに同じことをした。致命傷を負った自分に代わって、ソルジャーになれと。次の世代を導いてくれと、補聴器をトォニィに託したジョミー。
その補聴器が全てを憶えていた。記憶装置の役目を果たして、トォニィに伝えた。キースが地の底で何をしたのかを。
グランド・マザーにどう逆らって、処分されるに至ったのかを。
けれど…。
今の自分だから、不思議に思ってしまうこと。歴史の授業では教わらないこと。
「ねえ、ハーレイ。…キースは、どうして気付いたんだろう?」
人類もミュウも、命の重さは同じだってことに。…ミュウを排除しちゃいけないことに。
前のぼくがキースと話し合えていたら、歴史を変えられたような気がするけれど…。
きっとそうだと思うんだけれど、そういうチャンスは来なかったよ。…メギドでもね。
キースは何も言わずにぼくを撃ったし、ぼくも何一つ話さなかった。どうしてなのかな、神様がそう決めちゃっていたのかな…。人類とミュウが話し合うにはまだ早い、って。
あの頃のキースは、まだ少佐で…。人類の世界で発言力はそれほど大きくなかったから。
でもね、話が出来たら変わったかもしれない、たったそれだけ。ただの可能性。
キースの中には、まだシステムへの疑問くらいしか無かったんだよ。矛盾してる、って。
「ふうむ…。お前だからこそ、読み取れたってか?」
今の不器用なお前と違って、キースの心に入り込めたと言ってるしな?
一瞬の内にそこまで読んだか、流石はソルジャー・ブルーだったと言うべきか…。
読み取ったものの、あいつの中にはシステムへの疑問だけしか無かった、と…。
前のお前が話し合う方向に持って行けるほどの、決定打ってヤツは無かったんだな?
「そう。…メギドの制御室で会った時にも、キースは変わっていなかったと思う」
あの時点で思う所があったら、撃つよりも前にぼくに訊いただろうから。
ミュウはどういう生き物なのか、前のぼくが命を捨ててまで守り抜く価値があるものなのか。
命の重さに気付いていたなら、きっと尋ねていたんだと思う。
大勢の仲間を助けるためだけに、命を捨てに来たのかと。…そうまでして守りたいのかと。
だけどキースは訊かなかったよ、敵としてぼくを撃ちに来ただけ。…ミュウの大物だったから。
迷いもしないで何発も撃って、反撃しないのを嘲笑ってた。前のぼくとは、それで終わりで…。
それから後には、キースは一度もミュウと接触していないのに…。
マツカが側にいたというだけで、他のミュウとは話す機会も無かったのに。
いったい何処で気付いたんだろう、とハーレイに向かって投げ掛けた問い。
キースはどうして変わったのかと、人類とミュウの命の重さは同じなのだと気付いたのか、と。
「…命の重さが同じだってことに気付かない限りは、キースの考えも変わらないでしょ?」
ミュウは排除しなくちゃ駄目な生き物で、前のぼくをメギドで撃ったみたいに、撃って当然。
そんなキースが変わってしまって、マザー・システムへの疑問どころじゃなくなって…。
とうとう逆らって、殺されるトコまで行っちゃった。…グランド・マザーに。
キースを変えたのは誰なんだろうね、マツカだろうとは思うけど…。
学校でもそう教わるけれども、本当にマツカだけなのかな…?
「マツカの存在も大きいんだろうが…。色々なことの積み重ねだろうな」
あいつはステーション時代にシロエに会ってる。ミュウ因子を持ったシロエにな。候補生の頃は知らなかっただろうが、後になったら分かった筈だ。シロエは実はミュウだった、と。
人類だとばかり思っていたんだろうに、ミュウだったんだぞ? これは大きい。
ミュウは敵だと決まったものでもなかったのか、と思った筈だ。シロエはキースをライバル扱いしていただけで、敵だと考えたわけじゃない。殺そうとしたわけでもない。
…ただシステムに逆らっただけで、シロエは抹殺されちまった。それもキースの手で。
自分は間違っていなかったか、と思うことだってあっただろう。…俺の推測に過ぎないがな。
そして無害なマツカに出会った。キースを庇って死んだマツカだ、何度もキースを救った筈だ。
この二人はキースと親しかったミュウだが、前のお前だって…。
キースの敵ではあったわけだが、何らかの影響は与えたんじゃないか?
メギドの制御室に入り込んだお前と、ギリギリまで睨み合っていたそうだからな。
マツカが助けに来なかったならば、お前、キースを巻き添えに出来たらしいじゃないか。
…そんなに粘って、キースは何をしたかったのか。この辺も大切な鍵かもしれん。
「前のぼくも、キースが変わる鍵だった?」
「多分な。…おっと、これ以上の考察は御免蒙る。俺はあいつを許してはいない」
今もやっぱり許せないんだ、あいつについては深く考えたくもない。
英雄にしてやりたい気分もしないな、今でもな…。
記念墓地で一緒にされちまったが、と眉間に皺を寄せるハーレイ。「なんであいつと」と。
「マードック大佐はまだいいんだ。ナスカで残党狩りをしなかった話は有名だしな」
早い時期から、ミュウと人類の命の重さは同じなことに気が付いていた、と。
軍人という立場にいたから、自分の意見を述べなかっただけで。
だから、マードック大佐と一緒の墓地でも別にかまわん。パイパー少尉も。
だがな、キースは出来れば引越して貰いたい。あいつが引越さないと言うなら、俺が別の場所に引越ししたいくらいなんだが…。前のお前と一緒の墓地だし、仕方なく我慢してるってな。
「えーっと…。お墓を引越ししたいくらいに、キースが嫌い?」
前のぼくのお墓が一緒にあるから、我慢して入っているってくらいに?
「当然だろうが。あいつはお前に何をしたんだ、前のお前に!」
お前はあいつに何発も撃たれて、俺の温もりを失くしちまった。
独りぼっちだと泣きじゃくりながら死んだんだろうが、違うのか?
お前をそんな目に遭わせた野郎を、俺は今でも許せないんだ。お前自身が許していてもな。
俺はキースが大嫌いだし、お前がどんなに「許す」と言っても、許す気持ちにはなれないな。
前のお前を殺しちまった大悪党なのに、英雄扱いされているのも気に食わん。
その上、あいつを殴り損ねた。地球で会った時、普通に挨拶しちまったんだ。前のお前を撃った男だと知っていたなら、あの場で一発お見舞いしたのに。
考えただけで腹が立ってくる、とハーレイが視線を落とした先にザクロの実。弾けて口を開けているだけで、コロンと転がっているザクロ。
「ふむ…。ザクロが人の肉の味だというのが発端だっけな、キースの話」
最初はお前の恨み節だったが…。アルタミラ時代を思い出しちまった、という文句だったが。
人の肉の味がするというなら、キースだと思って食ってやるとするか。こいつを一粒。
これがキースだ、とハーレイが弾けた実から一粒つまんで取り出したザクロ。
一粒ならポイと口の中に入りそうなのに、わざわざ前歯でガブリと噛んで。それからモグモグと口を動かして、皿の上にペッと吐き出した種。「スッキリした」と。
「…ハーレイ、それがキースって…」
人の肉の味なら食べるってくらいに、キースが嫌い?
ザクロの実をキースのつもりで齧って、種を吐き出して、スッキリしたって…。
「嫌いだな。さっきも言ったが、まだ許せない」
墓も引越ししたいくらいに、俺はキースが憎くてたまらん。…お前はキースが好きなようだし、仕方なく話に付き合ってやるが。
「でも、ハーレイ…。ぼくはキースの話もしたいよ。今の世界を作ってくれた英雄なんだよ?」
だからね、いつかは好きになってくれる?
今は無理でも、その内に。…ぼくと話が出来るくらいに、キースのことを。
「お前をすっかり取り戻したらな」
前の俺が失くしちまったお前が、もう一度、ちゃんと帰って来たら。
チビのお前も可愛らしいが、キースに撃たれてしまったお前。あの時のお前が戻って来たら。
今度こそ失くさなくて済むんだ、と俺が本当に納得したら…。
その時は考えてやってもいい。あの悪党を許すことをな。
今は無理だ、とハーレイは本当にキースが嫌いらしいから。許すつもりも無いようだから。
「ハーレイも鬼子母神みたい…」
なんだか、そんな気がしてきたよ。怖いけれども、悲しいよねって。
「鬼子母神だと? この俺がか?」
どうしたら、そういうことになるんだ。俺は人間の肉は食わんぞ。…キースなら食うが。
「ほらね。ザクロの実をキースだと言って食べたよ、キースの肉を」
それにね、前のぼくがいない、って捜し回って…。
前のぼくをすっかり取り戻すまでは、って…。子供を必死に捜してる鬼子母神とおんなじ。
人間の子供を食べる鬼子母神は怖いけれども、自分の子供がいなくなって捜すのは可哀相…。
ねえ、ハーレイ。命の重さは、ぼくもキースも同じだよ?
キースを許してあげて欲しいよ、怖い顔してザクロの実なんか食べないで。
「駄目だな、言いたいことは分かるが…。所詮、お前はチビだしな?」
お釈迦様の立派なお説教ほどには、説得力が無いってこった。
俺の雑談の受け売りなだけで、それでは俺を説得は出来ん。
とにかくキースは大悪党で、俺にとっては八つ裂きにしても飽き足りないほどの仇だってな。
前のお前の。
だからキースだと思って食っておくんだ、とまたハーレイがザクロの実を齧っているから。
一粒つまんで前歯でわざと潰しているから、鬼子母神にも見えるハーレイ。人の肉の味だという実を齧るから。キースのつもりで食べているから。
(キースの味なの…?)
ホントにそうかな、と齧ってみたザクロは甘酸っぱいだけ。ただの果物。
それをキースに擬えて食べるハーレイは酷いと思うけれども、そうさせたのは自分だから。
キース嫌いにさせてしまったのは、前の自分のせいだから。
「分かった、お説教が上手くなるように頑張るよ」
ハーレイがザクロのキースを齧らなくてもいいように。
あいつは嫌いだとか、許せないだとか、言わなくてもいい日が早く来るように。
「おいおいおい…。俺に説教を聞かせているより、いい方法があるんだが?」
ゆっくりでいいから、前のお前と同じに育て。そうすれば、俺はお前を取り戻せる。いつまでもキースを恨んでいないで、お前と一緒にやり直せるしな。
育った方が早いと思うぞ、前と同じに。…俺に懇々と説教を垂れているよりもな。
「どっちも頑張る!」
前のぼくと同じに育つって方も、お釈迦様に負けないお説教も。
きっとハーレイも、キースのことが大好きになるよ。ぼく、本当に頑張るから。前のぼくと同じ姿になるのも、ぼくのオリジナルのお説教も…!
頑張るからキースを好きになってね、と一粒つまんだザクロ。甘酸っぱい味がする果実。
人の肉の味がするというのは、遠い昔の日本で起こった勘違い。日本だけにしか無い言い伝え。
そのザクロの実でキースを食べた気になる、鬼子母神なハーレイは辛いから。
今もハーレイを苦しめている、と胸が締め付けられるから。
いつかキースを好きになって貰えるように、頑張ろう。
前と同じに大きく育って、「そうかもな」と頷いて貰える、お説教だって考えて。
頑なにキースを嫌い続ける、ハーレイの心が融けてほぐれてゆくように。
「キースも悪いヤツではないよな」と、笑顔で話をしてくれる日が来るように。
昔話は、二人で楽しく語りたいから。
あんなこともあったし、こんなこともあった、と幸せに語り合いたいから…。
ザクロの味・了
※人間の子供を食べないように、ザクロの実を与えられた鬼子母神。人の肉の味がする実を。
その鬼子母神のように、「キースだ」とザクロを齧るハーレイ。許せる日はまだ先なのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「…どうしても駄目?」
ママ、と縋るような目でブルーは母を見上げたけれど。ベッドの中から、顔だけ出して。
お願い、と目と言葉とで訴えたけれど、母は見下ろして「駄目ね」と睨んだ。
「今日で三日目でしょ。まだ熱が下がらないじゃない」
約束だから、と母の口調は変わらない。いつもは優しい母だけれども、今は学校の先生のよう。宿題をしないでやって来た子に、「休み時間にやりなさい」と言い渡す時の。
(…ママ、酷い…)
一昨日の夜から出ていた熱。微熱だけれど、喉が痛むから間違いなく風邪。金柑の甘煮を食べて治そうと頑張っていたのに、下がらない熱。ちゃんと薬も飲んでいたのに。
熱が下がってくれないせいで、今から注射に連れて行かれる。家から近い病院まで。痛い注射は大嫌いなのに。出来れば打たずに済ませたいのに。
ベッドの側から動かない母に、もう一度だけ頼んでみた。
「ママと約束したけれど…。注射、嫌いなの、知ってるでしょ?」
もう一日だけ。明日まで待ってよ、熱が下がるかもしれないから…。
「いい加減にしなさい、今日まで待ってあげたんだから」
注射をしたら、直ぐに下がるの。風邪だってアッと言う間に治るわ。
第一、熱が下がらなかったら、ハーレイ先生にも御迷惑でしょ。
毎日がスープ作りじゃない、と言われたらそう。仕事の帰りに寄ってくれるハーレイ。寝込んでしまった自分のために、野菜スープを作ってやろうと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。その味が今も好きだった。前の自分が好んだ味が。
ハーレイが作る、野菜スープのシャングリラ風。今はそういう名前がついた、病気になった時の定番。熱を出して学校を休んだ日から、ハーレイは毎日来てくれていて…。
(今日が木曜…)
野菜スープは今までに何回作って貰ったっけ、と指を折りかけたら、母が顔を覗き込んで来た。
「注射が嫌なのはいいけれど…。治らないままで土曜日がいいの?」
ハーレイ先生が来て下さっても、ベッドから出られないままね。
お茶もお菓子も、テーブルじゃ駄目。ブルーはベッドの中で食べるの。
「それは嫌だよ!」
せっかくハーレイが来てくれるのに、と声を上げたら、「注射に行くわね?」と念を押された。迎えのタクシーを呼んでおくから、着替えて下りていらっしゃい、と。
(…治らなかったら、ベッドの中…)
ハーレイと過ごせる素敵な時間が、きっと台無し。テーブルを挟んでのお茶もお菓子も、向かい合わせで食べる昼食も、すっかり駄目になってしまうから。
両親も一緒に囲む夕食も、仲間外れになるだろう自分。ハーレイはダイニングで両親と食べて、病気の自分は部屋でポツンと独りぼっち。
(野菜スープのシャングリラ風は、部屋に届けて貰えても…)
ハーレイが側で食べさせてくれても、夕食のテーブルにはいられない。寝ていなさい、と両親に叱られるから。パジャマ姿で下りて行っても、追い返されてしまうから。
悲しい土曜日を迎えるのは嫌。注射はとても嫌いだけれども、寂しい土曜日は来て欲しくない。母の言葉は正しいのだから、仕方なく起きて着替えた服。病院に出掛けてゆくために。
階段を下りて下に行ったら、支度を整えて待っていた母。タクシーも直ぐにやって来た。病院は家から近いけれども、歩いてゆくには遠すぎる。
(注射…)
このタクシーに乗って行ったら注射、と泣きそうな気持ちで向かった病院。待合室が大勢の人で混み合っていたらいいのに、と。痛い注射を打たれる時を、少しでも先延ばしにしたいから。
けれど、着いてみたら少なかった人。「注射は嫌だ」と泣き叫びそうな子供もいなくて、じきに回って来た順番。母は診察室の中まで付いて来た。「注射は無しで」と勝手に断らないように。
顔馴染みの医師は、とても温厚な人なのだけれど…。
「注射を打っておきましょう。なあに、このくらい直ぐに治りますよ」
一本打って、家で大人しく寝ていれば、と出て来た注射器。
(やっぱり…!)
嫌だ、と逃げ出したい気分。まるで小さな子供みたいに、泣けたらどんなにいいだろう。目からポロポロ涙を零して、大暴れして。
幼い頃から、注射が嫌いで苦手だった自分。他の子たちは大きくなったら我慢するのに、自分はどうしても駄目だった。一向に慣れはしなかった。
その上、今では前よりも怖くて苦手な注射。前の自分の記憶が戻って来たせいで。
(注射されたら…)
酷い目に遭わされるんだから、と前の自分が悲鳴を上げる。注射は嫌、と。
此処から逃げて帰りたいのに、看護師がまくり上げる袖。消毒されて、医師が手にした注射器。大嫌いな針がブスリと刺さって、とびきり痛くて、前の自分と一緒に悲鳴。
十四歳にもなって、叫ぶ子供もいないだろうに。医師も看護師も笑っているのに。
散々な目に遭ったけれども、なんとか終わった注射の刑。処方された飲み薬を母が受け取って、呼んで貰ったタクシーで家に帰ったら…。
(ちょっとマシかな?)
そう思えた身体。服からパジャマに着替える時に、出掛ける前よりも楽な気がした。ほんの少し身体が軽くなったような、そういう感じ。
ベッドに入って、暫くしたらスウと眠って。昼食は母に運んで貰って、薬を飲んでまた眠って。
夕方にはすっかり下がっていた熱。今朝までの熱が嘘だったように。
これなら明日は学校に行けそう、と思っていたのに、ホットミルクを持って来てくれた母は…。
「熱が下がって良かったわね。でも、明日も学校は休むのよ?」
先生がそう仰ってたから。無理をしないで、家でゆっくりするように、って。
「えーっ!」
そんな、と懸命に抗議したけれど、三日も続いていた微熱。ただでも虚弱な身体なのだし、熱が下がって直ぐに動いたら、ぶり返すこともあるだろう。医師が心配している通りに。
幼い頃から診てくれている医師の見立ては間違っていない。明日も休むのが治す早道。
熱は無くても、家で大人しく。疲れたら直ぐに眠れるように、自分の部屋で。
頭では分かっているのだけれど。だから渋々頷いたけれど、母が出て行ったら零れた涙。
せっかく注射に耐えたのに。嫌な注射を我慢したのは、学校に行けばハーレイに会えると思ったからなのに。…ハーレイが仕事をしている昼間も、挨拶をしたり、姿をチラと見掛けたり。
(…ハーレイ先生って呼ばなきゃ駄目でも、ハーレイはハーレイ…)
家で一人で寝ているよりは、ハーレイに会えるチャンスが幾つも転がっている学校。廊下とか、朝のグラウンドとか。そっちの方が断然いいのに、明日も欠席。
今日は木曜で明日は金曜、学校に行けないままで週末。ハーレイと一日一緒にいられるけれど、それまでの時間を損した気分。今日と、それから明日の分とを。
(…明日も学校で、ハーレイに会えない…)
昼の間は絶対会えない、と悲しんでいたら、聞こえたチャイム。この時間ならきっとハーレイ。仕事の帰りに、野菜スープを作りに来てくれたのだろう。
少ししてから、扉をノックする音。扉が開くと、ハーレイの姿。母は一緒に来ていない。お茶やお菓子を運んで来たって、自分はベッドの住人だから。テーブルに着けはしないから。
昨日も一昨日も、ハーレイのお茶は部屋に届きはしなかった。きっと野菜スープを煮込む間に、母が「どうぞ」と出すのだろう。ケーキなんかも添えたりして。
今日もそうだ、と視線をやったら、「起きてたか?」と微笑むハーレイ。
「熱が出てたの、下がったんだってな。注射に行って。…偉いぞ、お前」
お前、注射は嫌いなのにな、と大きな手で撫でて貰えた頭。俺がいなくてもよく頑張った、と。
「え…?」
ハーレイがいなくても、って…。どういう意味なの、いつもハーレイ、いないじゃない。
ぼくが病院に注射に行く時、ハーレイはついて来ないでしょ?
病院に行くなら、付き添いは母。大きな病院だったら両親。病院に連れて行くのは家族。それが家族の役目なのだし、ハーレイに代わりを頼みはしない。家族同様の付き合いでも。
ハーレイは何を言うのだろう、とベッドの中で首を傾げていたら…。
「いや、今日はお前が注射に行ったと、お母さんから聞かされたら、だ…」
思い出しちまった、昔のことを。…前のお前のことを一つな。
「昔のことって…。その話、ぼくに聞かせてくれるの?」
「それはかまわないが…。俺のスープがお留守になっちまう」
野菜スープを作るんだったら、キッチンに行かんと無理だからな。此処じゃ作れん。
昔話をしている間に、晩飯の時間になっちまったら…。今日のお前は野菜スープは無しだ。
スープ無しでも気にしないんなら、昔話をしてやるが。
「いいよ、ハーレイの野菜スープは無しでも」
この風邪、食欲は落ちてないから…。あのスープしか欲しくないようなヤツじゃないから。
でも、ママに頼みに行かなくていいの?
野菜スープは今日は作らないから、ぼくの食事はお願いします、って。
「その心配は要らないってな。お母さんから注射の話を聞いた途端に思い出したし…」
昔話を一つ思い出しましてね、と言っておいたんだ。お前の体調がいいようだったら、懐かしい話をしたいんですが、と。
だからだ、俺がキッチンに下りて行かなきゃ作ってくれるさ。俺の代わりに、お前の晩飯。
俺はベッドで寝ているお前に、昔話を聞かせてやっているんだから。
「そっか…。それなら安心だね」
ママだって直ぐに分かってくれるね、ハーレイが下りて行かなかったら。
昔話で忙しいんだ、って晩御飯の支度をしてくれるよね…。
普段だったら、「スープを作りに行くとするかな」と、頃合いを見て下りてゆくのがハーレイ。そうでなければ、先に作って「お前のスープが出来てるぞ」と、トレイを手にして現れるか。
そのハーレイが昔話と言って来たなら、母もその内に気付くだろう。今日は野菜スープの出番は無くて、昔話の日なのだと。ハーレイの仕事は昔話、と。
野菜スープのシャングリラ風は好きだけれども、今は昔話を聞きたい気分。前の自分の。
「ハーレイ、昔話って…。「俺がいなくてもよく頑張った」って、何のこと?」
注射だっていうのは分かるけれども、なんでハーレイ…?
「そいつが俺の昔話だ。前のお前の思い出ってヤツだ」
お前、注射が大嫌いだっただろうが。生まれ変わっても、記憶が戻る前から嫌いだったほどに。
前のお前は、最初から酷い注射嫌いで、今のお前もそれを引き摺ってる。
もっとも、シャングリラは、最初は注射が無かったんだが。
病気になっても、注射を打つってことは無かった。…あの船の初期の頃にはな。
「そういえば…。無かったっけね、いつも薬で」
注射の代わりに、飲み薬が出てたんだったっけ…。
前のぼく、そっちも嫌いだったけど…。薬の味も苦手だったんだけど。
アルタミラの檻で暮らしていた頃、飲み水に何度も薬を入れられてたから…。あの味も嫌い。
注射よりかはマシだけれども、薬も好きにはなれないよ、ぼく。
病気になったら、苦手な薬を飲まされた船。それでも、船に注射は無かった。最初の頃は。
ノルディが医師を始めるまでは、無かった注射。
船に注射器はあったけれども、医師代わりだったヒルマンは使わなかったから。ヒルマンは皆の怪我や病気を診てはいたものの、「素人だしね」が口癖だった。少し知識があるだけだから、と。
博識だったから、医者の代わりをしていただけ。それがヒルマン。
けれど、ノルディの方は違った。仲間の病気や怪我を治そうと、倉庫に薬を貰いに出掛けていたノルディ。備品倉庫の管理をしていたハーレイが、「病気がちなのか」と思ったくらいに。
そんな具合だから、ノルディはいずれ医師になろうと決めていた。病気も怪我も治せる医師に。
腕を磨いて、知識を増やして、ノルディは医師への道を進んだ。
独学の医師で、何の資格も無かったけれども、ハーレイがキャプテンになるよりも前に、皆からドクターと呼ばれたノルディ。病気も怪我も治してくれる、と。
ハーレイは「覚えてるか?」とノルディの思い出を話してくれた。物資を奪いに行くのなら、と薬品などを注文し始めたノルディ。これがあったら早く治せるとか、これが欲しいとか。
「それでだ、前のお前が医療用具を纏めてドカンと奪って来て…」
メディカル・ルームの基礎が出来たら、練習用の人形をお前に注文したんだ、ノルディのヤツ。
注射を練習したいから、と医者とかを養成するステーションで使っていた人形を。
人間相手じゃ何度も練習出来はしないが、人形だったら練習し放題だしな。
失敗したって文句は言わんし、痛そうな顔をするわけじゃなし。…腕に打とうが肩に打とうが。
「やってたっけね、注射の練習…。暇が出来たら」
注射器を持って、人形相手に。この薬品を打つんだったら、此処だ、って。
本とか映像を見ながら練習していて、見ていて、とても怖かったんだよ。
だって、注射の練習だもの…。覚えるためにやっていたんだもの。
前の自分は、あれが怖かったのだった。人形を相手に、注射の練習を繰り返すノルディ。
覚えたが最後、自分も注射されるだろうと。今は薬で済んでいるけれど、いずれは注射、と。
だから恐怖を分かって欲しくて、前のハーレイを捕まえた。厨房の仕事が終わった後に、部屋へ帰る所を呼び止めて。「ちょっと来て」と、自分の部屋まで引っ張って行って。
「ねえ、ハーレイ…。聞いて欲しいことがあるんだけれど…」
「どうしたんだ?」
何か食べたい料理でもあるのか、と訊かれて、「ううん」と横に振った首。
「ノルディの注射…。毎日、練習してるでしょ?」
ぼくが奪って来た人形で。「今のは痛すぎたかもしれないな」なんて言いながら…。
「ああ、あれか。頼もしいよな、その内に注射一本で治るようになるぞ」
今だと、薬を何回も飲まなきゃいけない病気が。注射ってヤツはよく効くらしい。
ノルディが注射を覚えてくれたら、寝込むヤツらも減るってもんだ。
「そうじゃなくって…。ぼくはノルディが怖いんだよ…!」
今はいいけど、その内に注射を覚えちゃう。そしたら、ぼくにも注射するんだよ。
ぼくは弱くて直ぐに寝込むから、薬の代わりに注射をしそう。
でも、ぼくは注射がとても嫌いで…。注射を覚えようとしてるノルディも怖いんだよ…!
注射は嫌だ、とハーレイに向かって訴えた。本当に怖くてたまらなかったから。注射への恐怖を誰かに聞いて欲しかったから。
「ぼく、アルタミラで酷い目にばかり遭ってたんだよ…! 注射のせいで…!」
研究者たちに何度も何度も注射されてて、その度に酷い目に遭って…!
だから注射は怖いんだってば、研究者じゃなくてノルディでも…!
「注射って…。ノルディの注射も怖いって…」
そういや、俺と初めて出会った頃のお前の腕…。酷かったっけな…。
「注射の痕だらけだったでしょ? どっちの腕も」
見て分かる分だけで、あれだけの数。…消えかかっていたのが、もっと沢山。
とっくに消えてしまった分なら、あんな数では済まないんだから…。百とか千とか、数えられる数じゃなかったんだから…!
ぼくが覚えていない分だって、きっと山ほど。消えちゃった記憶も多い筈だから。
何度打たれたか分からないよ、と身体を震わせた注射の忌まわしい記憶。実験のために打たれた薬物、それに結果を調べるための採血だって。
幾度となく針を刺されていたから、恐ろしかった。苦痛の記憶しか無い注射が。
「おいおい…。治療用だってあった筈だぞ、注射」
嘘みたいに痛みが消えるヤツとか、ぐっすり眠れるヤツだとか。
どれもが酷い注射ばかりじゃないだろ、マシな気分になれる注射もあっただろうが。
「マシな気分って…。苦しい注射の方ばっかりだよ…!」
いつだって痛くて、チクッとして。酷い時だと、針が刺さった時からズキズキ。
そして注射をされた後には、うんと苦しくなるんだよ。身体が辛くて丸くなりたいのに、実験のために手足を固定されてて…。もがくことだって少しも出来ずに、苦しいだけ。
その間にまた注射されるんだよ、薬の追加をするだとか…。
ぼくの身体がどうなっているか、調べるために血を抜くだとか…!
気分が良くなった注射は知らない。そんな注射をされてはいない。ただの一度も。
もしも打たれていたとしたって、記憶の形になってはいない。激しい苦痛でのたうち回る自分に研究者たちが打っていたって、苦しさしか覚えていないのだから。
ハーレイが言う「気分がマシになる注射」をされていたって、苦しみもがいた自分は知らない。
唯一のタイプ・ブルーだった自分は、死なないように治療されたけれども、それだけのこと。
実験でボロボロになった身体が回復したなら、また実験が待っていたから。
苦痛ばかりの毎日の中で、あの狭い檻で目覚めた時。腕に注射の痕が幾つあろうが、まるで関係無いのだから。古い痕なのか、新しい痕か、それさえも。また注射されるだけのこと。
だから知らない、治療用の注射。気分が良くなる注射などは。
「そうなのか…。俺は身体がデカイからなあ、負荷をかける実験の方が多かったし…」
どの程度まで耐えられるのか、という実験だけに、俺の身体を治さないとな?
身体が駄目になっちまったなら、そいつを治して次に備える。腕でも、足でも。
そういう時には注射だったし、俺が打たれた注射は治療用の方が多いんじゃないか?
お蔭で治ると知っているわけだ、具合が悪い時には注射、と。
なあに、お前も心配は要らん。
安心して打って貰うといいと思うぞ、ノルディが注射をマスターしたら。
「でも、怖い…!」
ぼくは注射が怖いことしか覚えていないし、打って欲しいと思わないんだけど…!
注射をされるくらいだったら、薬を山ほど飲まされた方がマシなんだけど…!
「今から心配しなくても…。一度打ったら気分も変わるさ」
確かに針はチクッとするがな、じきに気分が良くなるから。
そういうモンだと分かってしまえば、お前も注射の良さに気付くぞ。実に役立つと。
怖いのは最初の一回だけだが、注射をするのはノルディなんだ。研究者たちとは違って仲間だ。
お前が怖いと思っていたって、アッと言う間に済ませてくれるに決まってる。
もう終わりか、と目を丸くするぞ、きっと手早いだろうしな。
怖がらなくても大丈夫さ、とハーレイは肩をポンポンと叩いてくれたのだけれど。直ぐに注射も平気になれる、と繰り返し言ってくれたのだけれど。
(大丈夫だ、って言われても…)
嫌なものは嫌だ、と思った注射。あんな怖いものは絶対嫌だ、と。
それからどのくらい経った頃だったか。ある日、体調を崩してしまった。朝、目覚めたら重たい身体。朝食を食べに行く元気も無いから、ハーレイに部屋まで運んで貰った。
食べ終わった後、ベッドでウトウトしていたら、やって来たノルディ。医療用の鞄を提げて。
多分、ハーレイがノルディに知らせたのだろう。往診に行ってくれるようにと。いつもと同じに診察と問診、それが済んだら再び開けている鞄。きっと中から薬が出て来る。
(…薬も嫌いだったけど…。飲まないと治らないもんね…)
量が少ないといいんだけどな、と眺めていたら、「これで治る」とノルディが取り出した注射。一本打ったら熱も下がるし、身体がグンと楽になるから、と。
そうは言われても、注射は嫌。怖い思いしかしていないのだし、悲鳴を上げた。
「やめてよ、注射は嫌なんだよ!」
痛くて怖いし、それだけはやめて。お願い、我慢して薬を飲むから…!
「薬よりいいぞ、早く治るから。薬だったら三日はかかるが、注射だったら一日ってトコだ」
半日も経たずに気分が良くなる。体力も消耗しないで済むし。
この方がいい、と注射の準備を始めたノルディ。注射器に薬品をセットしてゆく。
「嫌だってば! ぼくはホントに注射が嫌で…!」
やめて、お願い。薬を少なくしてって言ったりしないから…!
薬がドッサリでもかまわないから、注射はしないで…!
涙交じりで叫んでいるのに、ノルディは注射をするつもり。消毒用の綿が入ったケースも出して来たものだから、飲み薬ではとても済みそうにない。
「やめてよ、ホントにお願いだから…! 注射はやめて…!」
お願いだってば、聞こえないの、ノルディ!?
誰か助けて、助けて、ハーレイ…!
声の限りに叫んだ自分。無意識の間に思念波で助けを呼んでいたらしくて、ハーレイが大慌てで飛び込んで来た。部屋の扉を乱暴に開けて、凄い勢いで。
「どうしたんだ、ブルー!?」
なんだ、何があった!?
「ハーレイ…!」
助かった、と思った瞬間。これで注射を打たれずに済むと。
ハーレイの方はノルディの姿に驚いたようで、何事かとキョロキョロしているから。この状況を説明しないと、とノルディの方を指差した。「注射を打つって言うんだよ」と。
薬でいいと言っているのに、注射をする気だ、と叫んだら事情は分かって貰えたけれど。危機も理解してくれたようだけれども、其処までだった。
「なるほど」と大きく頷いたハーレイ。「ついに注射か」と、「嫌なのは分かるが…」と。
「しかしだ、それなら打って貰わないとな」
嫌がっていたんじゃ治らないから。…駄々をこねずに、注射して貰え。
「え? 注射って…」
前に言ったじゃない、ぼくは注射が怖いんだ、って…!
酷い目に遭ったことしかないから、注射は怖くて嫌なんだよ…!
覚えてるでしょ、と懸命に助けを求めているのに、ハーレイの答えはこうだった。
「それを言うなら、俺もお前に言った筈だぞ。一度打ったら気分も変わる、と」
お前は注射の良さを知らないんだ、これで劇的に治るってことを。
そのままじゃ一生、損をするってな。注射だったら直ぐに治るのに、無駄に何日も寝込む羽目になって。それだとお前の身体も辛いし、辛い時間も長引いちまう。早く治すのが一番だ。
やってくれ、ノルディ。こいつの言うことは聞かなくていい。
「そんな…! 酷いよ、ハーレイ!」
ぼくを助けに来てくれたんでしょ、ぼくが呼んだから…!
なのにノルディに味方するなんて、ハーレイ、何かを間違えてない…?
「俺は間違えてはいない筈だぞ。お前の病気を治す手伝いをしてやるんだから」
いいか、我慢して注射して貰うんだ。それがお前の身体のためだし、お前のためだ。
俺は料理の途中だったのを、放り出して駆け付けて来たんだからな。
全力で走った俺の気持ちを無駄にするなよ、お前を助けてやるために。
注射からお前を助け出すのか、病気から助けるかだけの違いだ。同じ助けるなら、病気の方から助け出すのが正しいだろうが。誰に訊いても、そう言うだろうな。
「ハーレイ…!?」
ぼくは注射から助けて欲しいんだけど…!
病気の方はどうでもいいから、ぼくを助けて!
お願い、病気で寝込むくらいは、アルタミラに比べたら何でもないから…!
実験に比べたら病気なんか…、と心の底から思ったのに。熱も辛さも我慢出来ると考えたのに、一蹴された。「お前の知ってる注射とコレとは違うんだ」と。
「気分が良くなる注射ってヤツを覚えておけ」と、ベッドに腰を下ろしたハーレイ。前の自分の願いとは逆に、ノルディに協力するために。
注射から助けてくれるどころか、そのまま押さえ込まれてしまった。強い腕でグイと抱えられた身体。「こっちでいいか」と袖を捲られ、剥き出しにされた細い左腕。
「嫌だよ、やめて!」
助けてって言っているじゃない!
お願い、ぼくを放して、ハーレイ…!
「助けに来たと言っただろうが。こいつで病気が治るんだから」
ノルディ、早いトコやっちまってくれ。下手に暴れたら、余計に熱が出るからな。
こいつは俺が押さえておくから、とハーレイに掴まれた腕は動かせなくて。暴れようにも、足もハーレイの逞しい足に絡め取られて、奪われてしまった身体の自由。
「嫌だ」と涙を零しているのに、ノルディは斟酌しなかった。腕を消毒され、血管の位置を指で探られて、ブスリと打たれた恐ろしい注射。グサリと刺さった注射の針。
痛くて悲鳴を上げたけれども、痛みは多分、チクッとした程度だっただろう。ノルディは何度も練習を重ねて、自信をつけてから注射器を手にした筈だから。
それでも「痛い」と叫んだのが自分。嫌な思い出しか持たない注射は、恐怖で痛く感じるもの。ほんの僅かな痛みであっても、まるで槍でも刺さったかのように。
ノルディが「もう終わったぞ」と針を刺した場所にテープを貼ってくれた後も、まだポロポロと零れていた涙。注射は酷く痛かった上に、ハーレイも助けてくれなかった、と。
とんでもない目に遭った注射だけれども、病気は治った。いつもだったら熱にうかされて過ごす所を、ほんの半日で下がった熱。夕方には楽になっていた身体。
その代わりに見た、アルタミラの悪夢。ベッドで眠っていた筈なのに、気付けば実験室に居た。白衣の研究者たちに取り巻かれていて、打たれる注射。「どのくらい入れる?」と。
(やめて、助けて…!)
そう叫ぶ声は声にならなくて、腕に何度も針が刺される。「もっと多く」と、「次の薬だ」と。薬の量を増やされたならば、もっと苦しくなるというのに。もう充分に苦しいのに。
(お願い、やめて…!)
誰か助けて、と叫んだ声で目が覚めた。実験室でも檻でもなくて、ベッドの上で。
苦痛は少しも残っていないし、もう消えていた熱っぽさ。だるさも、手を動かすのも辛く感じた身体の重さも。
(…ノルディの注射…)
あれが効いたんだ、と眺めた腕。袖を捲ったら、腕に貼られているテープ。
(こんなの、貼って貰っていない…)
アルタミラでは、テープなど貼って貰えなかった。実験動物だったから。患者ではなくて、治療するのも次の実験のためだったから。
実験動物の肌などは守らなくていい。注射を打つ前に消毒したから、感染症の心配は無い。針を刺した痕から血が流れようが、流れ出した血が肌にこびりつこうが。
初めて見た、と指先で撫でてみたテープ。もう剥がしてもいい筈だけれど、そのまま腕に残しておいた。「今の注射は治る注射」と、「怖い注射とは全然違う」と。その印のテープ、と。
そうは思っても、怖かった注射。少しも減らない注射の恐怖。身体は楽になったけれども、怖い気持ちは残ったまま。腕にテープが貼ってあっても、違う注射だと分かってはいても。
やっぱり駄目だ、と横になっていたら、夕食を運んで来てくれたハーレイ。まだ食堂に来るのは無理だろうから、とトレイに乗せて。
「どうだ、身体は楽になったか? 顔色は良くなったみたいだが」
熱は下がったか、と額に当てられた手。「よし」とハーレイが浮かべた笑み。下がったな、と。
「そうみたい…。身体もずいぶん楽になったよ」
朝は手足が重かったけれど、もう大丈夫。だるい感じも無くなったから。
「ほらな、そいつは注射のお蔭だ」
ノルディが言ってた通りだろう? 半日も経たずに気分が良くなる筈だとな。
お前は酷く嫌がっていたが、注射は効くんだ。これでお前も分かっただろうが、注射の良さが。
「でも、怖いってば…!」
怖い気持ちは消えていないよ、注射を打たれる前とおんなじ。今もやっぱり怖いままだよ。
寝てる間に、アルタミラの夢も見ちゃったし…。夢の中で注射を打たれちゃったし。
きっとこれからも、注射される夢を見るんだと思う。ノルディに注射をされちゃったら。
だから嫌だよ、注射だけは。ぼくは飲み薬でいいんだってば…!
「駄目だな、注射の方が早く治るとノルディも言っていたろうが」
お前の弱い身体のためにも、注射で治すべきだってな。すっかり消耗しちまう前に。
アルタミラの怖い夢ってヤツはだ、その内に見なくなるってもんだ。
治る注射だと覚え直したら、嫌な思い出は消えちまうからな。
ハーレイに諭されたのだけれども、どうしても恐怖が消えなかった注射。痛い針が腕にグサリと刺さる注射器。逃げ出したくてたまらないのに、注射の評判が上がる一方だった船。
あれのお蔭で早く治ると、病気の時は注射に限ると。注射は怖いものなのに。
「…なんで、みんなは平気なわけ?」
ぼくはいつでも逃げたくなるのに、みんなは自分で行っちゃうわけ?
ノルディの所へ、「注射を頼む」って。…薬を飲んで、寝ていればいいと思うのに…。
みんな変だよ、とハーレイに零したら、「俺と同じってことなんだろうな」と返った返事。
「注射で治ることだってある、と知っているんだ。…アルタミラの檻にいた頃からな」
もちろん、中には酷い注射を打たれたヤツもいるだろう。お前みたいに。
しかし、そういう目に遭った後は、ちゃんと治療用のを打って貰って、治ったわけだ。そいつを覚えているってことだな、注射でマシな気分になった、と。
その時の気分や、楽になった記憶。そいつを今も忘れてないから、注射がいいと考える。何日も苦しい思いをするより、注射で早く治したいと。
つまりだ、お前ほどの目には遭っていないということだろうな、この船のヤツら。
治療用の注射を打たれた記憶も残らないほど、実験ばかりの日々を過ごしちゃいなかった。
苦しい思いはしたんだろうが、お前よりかはマシだったんだ。…俺も含めて、一人残らず。
それで注射をされても平気で、自分から頼みに行くんだろうな。
誰の記憶にもあった、治る方の注射。身体が楽になる注射。
残念なことに、前の自分にだけは無かった記憶。注射は苦痛を運んで来るもので、いつも苦しみ続けただけ。注射の針を刺される度に。薬を身体に入れられる度に。
アルタミラで打たれた、数え切れない恐ろしい注射。ノルディが打ってくれる注射は、その数に及びはしなかった。
「楽になった」と何度思っても、忌まわしい記憶は消えないまま。注射の後に貼られるテープを何度眺めても、「今の注射は病気が早く治る注射」と思おうとしても。
だから、最後の最後まで…。
「お前、抵抗し続けたんだ。注射を打たれるってことになったら」
ソルジャーになっても、青の間が出来ても、一向に慣れやしなかった。
注射は嫌いで、それは嫌だと文句ばかりで。
「だって、注射はホントに嫌だったから…。どうしても慣れなかったから…」
ノルディが治療にやって来る度、「注射とは違う方法がいい」とゴネたソルジャー。それが前の自分。船の仲間たちは誰も知らなくて、ノルディとハーレイが知っていただけ。
「お蔭で、俺はいつでもお前を宥める役だったんだ。…ノルディに呼ばれて」
他のヤツらに知られないよう、俺に思念を寄越すんだ、あいつ。注射するから、と。
「そうだったっけね…」
いつもハーレイが急いで来てたよ、ノルディが注射をする時には。
ホントに忙しかった時は仕方ないから、ぼくだって我慢してたけど…。でも、嫌なものは嫌。
ハーレイが「これで治るから」って言ってくれなきゃ、アルタミラしか思い出さないし…。
ぼくの寿命が残り少なくなって来た頃にだって、ハーレイ、いつも来てくれたっけね。
注射をされることになったら、ぼくの付き添い。
前の自分にノルディが注射を打とうとする度、付き添うために来ていたハーレイ。流石に身体を押さえ付けることは無かったけれども、「大丈夫ですよ」と何度も掛けてくれた声。これで身体が楽になりますからと、注射が一番効きますからね、と。
「まったく、何回、お前の注射に付き合ったんだか…」
前のお前は、基本は我慢強かったのに…。注射の針の痛みなんかは、きっと痛みの内にも入っていなかったろうに。
「痛さは関係無かったんだよ、本当の痛さがどのくらいかは…!」
もっとグッサリ縫い針とかが刺さっていたって、平気だったと思うけど…。消毒して貰って薬を塗らなきゃ、と思いながら針を抜いただろうけど…。
注射だけはホントに駄目だったんだよ、ノルディに何回注射されても…!
そのせいで今のぼくも駄目だよ、記憶が戻ったら余計に駄目。
三百年以上も嫌いなままで生きてたんだし、注射は今も嫌なんだってば…!
注射なんかは無い世界がいいな、と文句を言ってみたけれど。
前の自分たちが生きた頃からずいぶん経つのに、どうして今もあるんだろう、と注射の存在する世界に苦情を述べたけれども。
「お前なあ…。今の時代もあるってことはだ、やっぱり注射が一番なんだ」
なんと言っても、よく効く薬を身体に直接入れられるんだし…。注射が一番効くのが早い。
ノルディも研究を重ねてはいたが、いつも最後は注射の出番になっただろうが。
前のお前が文句を言うから、極力、打たないようにしてても。
それと同じだ、今の時代も。お前がどんなに注射嫌いでも、今日みたいに打つしかないってな。
「酷い…!」
ぼくはこれからも、ずっと注射を打たれちゃうわけ?
病気になったら病院に行って、注射されるしかないって言うの…?
「うーむ…。俺の家の近所の医者ってヤツもだ、問答無用で打つタイプだが…」
早く治すには注射に限る、と飲み薬よりも前に注射なんだが、庇ってはやる。
お前の注射嫌いってヤツは、俺も充分、知ってるからな。
「よろしくね。ぼくが注射を打たれないように」
ちゃんと頼んでよ、ぼくは注射が苦手なんだから。…飲み薬の方でお願いします、って。
「そりゃまあ…なあ? 俺の大事な嫁さんなんだし、頼んではやるが…」
早く治るのがいいんじゃないかと思うがな?
付き添ってやるから、注射を一本、打って貰うのが一番だろうが。
「分かってるけど…」
駄目なものは駄目。前のぼくだって、最後まで苦手なままだったでしょ…?
ハーレイが聞かせてくれた思い出話。ソルジャー・ブルーも嫌っていた注射。
どうしても打つしかないとなったら、付き添いが呼ばれていたほどに。
ドクター・ノルディが思念を飛ばして、キャプテン・ハーレイを呼び出したほどに。
注射で治ると分かっていたって、苦手なままだった前の自分。本当に最後の最後まで。
今日も注射で治ったけれども、やっぱり注射は嫌だから。早く治ると分かっていたって、注射が嫌いでたまらないから。
(…ハーレイに付き添い、お願いしないと…)
今度も注射を打たれる時には、ハーレイに側にいて貰おう。
いつか大きくなったなら。ハーレイと二人で暮らし始めたら、注射に行く時はハーレイと一緒。
前の自分がそうだったように、温かな声で守って貰おう。
「大丈夫だから」と、「怖くないから」と。
これですっかり良くなるからと、「痛くても我慢するんだぞ」と。
それに今度は、手だって握って貰えるだろう。「俺が一緒だ」と、大きな手で。
今度は結婚するのだから。ハーレイが手を握ってくれていても、誰も咎めはしないのだから…。
嫌だった注射・了
※注射が嫌いだった前のブルー。青の間が出来た後になっても、付き添いが必要だったほど。
生まれ変わっても同じに苦手で、今度も付き添いが要りそうです。注射の時はハーレイ。
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