シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(魔法のランプ…)
あったっけね、とブルーが覗いた新聞の記事。学校から帰って、おやつの時間に。
遠く遥かな昔の地球。其処で生まれた不思議な伝説。願い事を叶えて貰える魔法のランプ。
独特な形の金属製のランプ、それを擦るとランプの精が現れる。願い事を三つ、叶えるために。新聞に載っているランプの写真。「こういう形のランプですよ」と。
小さい頃に童話を読んでいたから、写真だけでピンと来るランプの形。魔法のランプ、と。
それから三つの願いのことも。
(三つだから…)
今の自分が魔法のランプを手に入れたならば、願い事の一つは背丈を伸ばして貰うこと。少しも伸びてくれない背丈を、前の自分と同じ背丈に。それが最初の願い事。
二つ目は十八歳にして貰うこと。十八歳になれば、ハーレイと結婚出来るから。
(三つ目は結婚…)
ハーレイと結婚させて貰って、めでたし、めでたし。
それで全部、と大満足で指を折ってから、「ぼくって馬鹿だ…」と頭を振った。三つ目の願いは結婚だなんて、文字通りの馬鹿としか言えない。
最高のハッピーエンドに思えるけれども、背丈が伸びて十八歳になれば、何の障害も無い結婚。何もしなくてもプロポーズされて、結婚出来るに決まっているから。
つまりは要らない、「結婚させて」という三つ目の願い。無駄に使った願い事。もうそれ以上は頼めないのに、願い事は三つでおしまいなのに。
(こんな風に三つとも、使っちゃうんだ…)
きっとそうだ、と新聞のランプの写真を眺めた。ランプの精が住んでいそうな形のランプ。
本物の魔法のランプがあったとしたなら、今のようなことになるのだろう。ランプの精が現れた途端に、ワクワクしながら願い事を三つ。
深く考えたりもしないで、アッと言う間に三つとも。願わなくても叶うようなことまで。
馬鹿だった、と情けない気持ちで帰った部屋。これじゃホントにただの馬鹿だ、と。
けれど、せっかくの機会だから、と勉強机の前に座って、真面目に考えることにした。そういうチャンスは無さそうだけれど、魔法のランプを手に入れた時の願い事。
少しは利口な考え方が出来るようになるかもしれないから。これも考え方の練習、頭の体操。
(願い事が三つ…)
この数だけは変えられない。魔法のランプの童話にもあった約束事。願い事が叶う数を増やして欲しいと願っても、ランプの精は叶えてくれない。「それは駄目です」と。
三つしか出来ない願い事。今度はきちんと考えなければ、さっきのようにならないものを。
(…でも、一つ目は…)
背丈を伸ばして貰うことで決まり。ハーレイと再会した日から、一ミリも伸びてくれない背丈。前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスも出来ないのだから。
(ちゃんと大きく育ったら…)
結婚が出来る十八歳になる方は、我慢して待っていたっていい。前の自分と同じ姿になったら、ハーレイはキスを許してくれる。二人でデートも出来るわけだし、今より素敵な日々になる筈。
キスにデートと充実していたら、きっと短く感じる時間。結婚までの年数だって。
(休みの日には、ドライブとか食事…)
一週間が経つのが直ぐだろう。週末を楽しみにカレンダーを眺めて、今よりも早く流れる時間。ふと気が付いたら十八歳の誕生日が直ぐそこに来ているのかも…。
懸命に我慢しなくても。まだまだ先だと、何度も溜息をつかなくても。
「十八歳にして下さい」という願い事をしないのだったら、叶えて貰える願いは二つ。さっきは使ってしまったけれども、慎重になったら使わなくてもいい願い事。十八歳にして貰うことは。
叶えて貰える数が一つ増えた、と嬉しくなった。少しは利口になったらしい自分。残った二つの願い事をどう使おうか?
ランプの精に、二つ目の願い事をするのなら…。
(幸せになれますように、って…)
それが一番かもしれない。ハッピーエンドを迎えた後も幸せに。「ハーレイと二人で」と頼んでおけば、もう完璧。
(三つ目は…)
ハーレイといつまでも一緒にいられますように。本当に二人、いつまでも一緒。
これで間違いなく幸せな人生、三つの願いはこれだ、と満足感に浸ったのだけれど…。
(また失敗…!)
失敗しちゃった、と頭を抱えた。また三つ目で失敗した、と。
前の生では引き裂かれるようにハーレイと別れてしまったけれども、今は二人で青い地球の上。長い長い時を二人で飛び越え、この地球の上で再会出来た。きっとそれまでも何処かで二人、同じ所にいたのだろう。何も覚えていないだけで。
生まれ変わっても一緒なのだし、ランプの精に頼まなくても二人一緒に決まっている。どんなに時が流れて行っても、何回生まれ変わろうとも。
ハーレイと二人、いつまでも、きっと。何処までも二人、離れないままで。
今度は頑張って考えていたのに、また三つ目で失敗した願い事。無駄に使ってしまった三つ目。ランプの精に頼まなくても、その願い事は叶うのに。
また失敗、と三つ目を考え直すのだけれど、ハーレイと結婚して幸せになった自分だと…。
(三つ目、なあに…?)
これというのを思い付かない。幸せ一杯に暮らす自分に、切実な願いは無さそうだから。いくら考えても浮かばないから、三つ目の願いは取っておくのがいいのだろうか。
(ランプの精、ちゃんと待っててくれるよね…?)
時間切れがあるとは、童話には書かれていなかったと思う。いつか願いを思い付くまで、待って貰うのもいいかもしれない。「まだ無いから」と。
それともハーレイに譲ろうか。自分は二つも叶えたのだし、ハーレイにも一つ。魔法のランプで叶えたいことが、ハーレイにもあるかもしれないから。
(それもいいかも…)
三つ目の願いはハーレイの分、と頬が緩んだ。ハーレイは何を願うのだろう?
(…三つじゃなくって、一つだけだから…。慎重だよね?)
無駄遣いなんかしない筈、と思ったけれども、気付いたこと。ランプの持ち主は自分なのだし、その願い事をハーレイに譲ろうというのなら…。
(三つ目はハーレイに譲ります、っていうのがお願いになる?)
自分以外の誰かの主人になって欲しい、とランプの精に頼むのだから願い事。三つ目の願い事はそれでおしまいらしい。ハーレイに一つ譲る代わりに、何の願いも叶わないままで。
(三つとも叶えましたから、ってランプの精が消えちゃって…)
また無駄遣いになった三つ目の願い。今度こそは、と精一杯に努力したのに。
せっせと頭の体操をしても、上手くいかない三つの願い。魔法のランプは無いけれど。
(前のぼくなら…)
どうなったろうか、三つの願いが叶うとしたら。ソルジャー・ブルーだった頃の自分なら。
ソルジャー・ブルーならば、今の自分よりも、ずっと有効に願いを使えたことだろう。ミュウのためにと懸命に生きていたのだから。…最後は命までも投げ出したほどに。
あの頃の自分が魔法のランプを手に入れたなら…、と青の間に戻った気分で考え始めた。
(一つ目は、地球に行くことで…)
前の自分が夢に見た地球。他の仲間も望んでいたから、それが一つ目。
二つ目は人類とミュウが仲良くなること。そうすれば追われることはなくなり、戦いも終わる。平和な時代が訪れるのだから、そうしたら…。
(ハーレイと結婚させて下さい、って…!)
これで三つ、と喜んだ。流石はソルジャー・ブルーだった、と。
チビの自分とは比較にならない、立派な願い。地球に行くことと、人類との和解。世界のために二つも使って、最後の一つを自分のために。願いは三つもあったのに。
なんて立派で欲の無い使い方だろう、と自分の素晴らしさに酔いかけたけれど。
(…地球に行って、ミュウと人類が仲良くなったら…)
もうソルジャーは要らないのだった。白いシャングリラもお役御免で、要らないキャプテン。
そういう時代が訪れたならば、ただのブルーとハーレイなだけ。結婚出来て当然だった。ずっと隠し続けていた恋を明かして、大勢の仲間に祝福されて。
(また三つ目で失敗しちゃった…)
ランプの精に頼らなくてもいい結婚。それを頼んで、三つの願いは全ておしまい。
前の自分で考えてみても、上手くいかない願い事。チビの自分が考えるからか、前の自分が同じことをしても駄目なのか。
なにしろ、魔法のランプだから。そうそう上手く使えるものでもなさそうだから。
(…前のぼくでも大失敗かも…)
難しそうだし、と考え込んでいたら、チャイムが鳴った。窓から覗けば、門扉の向こうで大きく手を振っているハーレイの姿。今日は仕事が早めに終わったのだろう。
母がお茶とお菓子を運んで来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。さっきからの考え事をハーレイにも訊いてみようかな、と思ったから。
「あのね、三つのお願い、知ってる?」
そう尋ねたら、「三枚の御札か?」と返したハーレイ。
「有名な昔話だな。…日本の古典というヤツだ」
「え?」
「アレだろ、お使いに出掛ける小僧さんが持って行く御札。和尚さんに貰って」
ハーレイが教えてくれた昔話。お使いに出掛けて、山姥に食べられそうになった小僧の話。遠い昔の日本が舞台で、魔法のランプの話とは違う。
三枚の御札は上手く使われていたけれど。たった三枚で、小僧は寺まで逃げられたから。山姥に食べてしまわれはせずに、和尚が助けてくれる寺まで。
とはいえ、それは自分が言いたい三つの願いとは違う伝説。
「それじゃなくって、魔法のランプ…!」
御札と違ってランプの精だよ、願い事が三つ叶うんだよ。ランプを擦ったら、ランプの精が三つ叶えてくれるんだってば…!
でも…、とシュンと項垂れた。「御札みたいに上手く使えればいいんだけれど」と。
「魔法のランプが手に入ったとしても、ぼくだと、上手く使えないみたい…」
いくら考えても、三つ目で失敗しちゃうんだよ。お願いしなくてもいいことを頼んだり、もっとつまらない失敗をしたり。
…前のぼくになったつもりで考えてみても、やっぱり失敗…。
「魔法のランプの方だったのか…。今の俺だと、三枚の御札の方が馴染み深いんだが…」
懐かしいよなあ、よく話してたな。魔法のランプっていうヤツのことも。
「話してたって…。誰と?」
「前のお前だが?」
懐かしいって言ったらそれしか無いだろ、今の俺なら三枚の御札なんだから。
「前のぼく…?」
魔法のランプの話なんかをしてたっけ?
それに、ハーレイと話してたんだよね、魔法のランプ…?
「忘れちまったか?」
元々は魔法のランプじゃなくてだ、ごく平凡なランプから始まった話だったが…。
シャングリラでランプを作った時に。…白い鯨が出来上がった後だな、オイルのランプだ。
「オイルランプ…?」
それって、オイルを使うヤツだよね。元からあったと思うんだけど…。白い鯨になる前から。
非常用にってあった筈だよ、エネルギー系統が駄目になっちゃった時に備えて。
「まあな。…真っ暗な宇宙を飛んでいるんだ、明かりが消えたらどうにもならんし…」
修理しようにも、船自体が真っ暗な中ではなあ…。幸い、そんな目には一度も遭わなかったが。
そういう時のためのヤツだろ、お前が言うのは。オイルで灯すランプ。
そのオイルをだ、白い鯨に改造した後、一部をオリーブオイルに替えたってわけだ。オリーブ、あの船で作っていたんだから。
自給自足で生きてゆく船に生まれ変わったシャングリラ。白い鯨は全てを船の中だけで賄えた。様々な作物を育てたけれども、オリーブの木もその一つ。良質な油が採れるから。
その栽培が軌道に乗って、オリーブオイルが充分に採れるようになった後。
本物のオリーブオイルがあるのだから、とランプの一部をオリーブオイルのランプに切り替える話になった。元から船にあった非常用のランプ、それのオイルを天然素材で、と。
「覚えていないか、切り替えたのは作業用のランプじゃなかったから…」
公園とかで使うヤツをオリーブオイルのにしたわけだから。
…どうせなら、とヒルマンとエラが懲りたがったんだ。昔風のデザインのランプにしたい、と。
古代ギリシャ風だっけな、陶器のヤツで…。魔法のランプを平たくしたようなデザインで。
「あったっけね…!」
思い出したよ、それにするんだ、ってヒルマンとエラが言ったから…。
別に反対する理由も無いから、いいと思う、って前のぼくも賛成してたんだっけ。ブラウたちも賛成で、作ることになって…。
そういう作業が得意な仲間が、資料を貰って作ったっけね…。
とても古風な陶器のランプ。古代ギリシャ風の素朴なオイルランプが幾つも出来た。
魔法のランプを平たくしたような形、と今のハーレイは表現したけれど、まさにそういう平たいランプ。取っ手と、オイルを満たす本体と、注ぎ口のようになった火口と。
オリーブオイルに浸した灯芯に火を点けるだけで、優しい焔が火口に灯る。白いシャングリラに生まれたランプは、新しいけれど古風なもの。
ギリシャ式の黒絵に赤絵とヒルマンとエラは言ったのだったか、黒と茶色にも見える赤褐色とで絵が描かれていた。ギリシャ神話や、古代ギリシャ風の動物などの絵が。
非常用のランプとはいえ、公園にも備えられたから。
夜になったら灯してもいい、と許可が出されていたから、たまに灯している仲間がいた。公園に明かりはあったのだけれど、それとは別に。
少し暗い場所にあるようなテーブルでオイルランプを灯して、ゆっくりと語らう仲間たち。
グループで灯す者たちも多かったけれど、後には恋人同士が増えた。居住区に幾つも鏤められた小さな公園、そちらはカップルの御用達。
先客がいなければ、オイルランプを灯してデート。明るすぎないのが好まれていた。
前の自分も、ハーレイと…。
灯したのだった、と懐かしくなった陶器のランプ。白いシャングリラの公園で。
「あれを灯して、ハーレイとデートしてたんだっけ…」
ハーレイの仕事が早く終わったら、公園に行って。…他のカップルがやってたみたいに。
「間違えるなよ、最初はデートじゃなかったんだぞ」
単なる友達同士だったんだからな。グループじゃなかったというだけのことだ、たまたま二人で座ってただけだ。夜の公園で、ランプを灯して。
ただのソルジャーとキャプテンの視察だっただろうが、一番最初は。
古めかしいランプを作ってはみたが、使い勝手はどんなものか、と二人で出掛けて行ったんだ。暗すぎるだとか、使いにくいとか、そんなのだと話にならないからな。
ヒルマンとエラが何と言おうが、役に立たないランプは駄目だし。
「そういえば、ハーレイ、そう言ったっけね…」
駄目なようなら、キャプテンとして元のランプに戻させる、って…。
だから最初は、ランプを灯して座る代わりに、あちこち二人で歩いたんだっけ。…暗い所でも、足元がちゃんと見えるかどうか。
持って歩いても消えたりしないか、そんなのまでチェックしてたんだっけね…。
ランプの使い勝手のチェックをしていた、一番最初のランプでの視察。前のハーレイはランプが役に立つものと判断したから、素朴なランプはそのまま残った。
オリーブオイルを使った非常用のランプ。いつの間にやら、恋人たちの夜のデートの定番。
けれど、ソルジャーとキャプテンの視察だと言えば、堂々と灯しにゆけるから。ハーレイと恋人同士になった後にも、デートを続けたのだった。視察のふりをして、ロマンチックなひと時を。
「あれで、お前が部屋にも欲しいと言い出してだな…」
そうそうデートに行けはしないし、青の間にも一つ欲しいんだ、とな。
「…作って貰えたんだっけ?」
覚えていないよ、青の間にあんなランプがあったということは。…忘れちゃったかな?
「今更無理だろ、と前の俺が呆れて言ったんだ。…そういう言い方はしなかったがな」
あの頃は敬語で話してたんだし、「今更、無理だと思いますが…」ってトコだったろうな。
ランプが出来てから、何年経っていたんだか…。出来て間もない頃ならともかく、遅すぎた。
なんだって今頃、そんなランプを欲しがるんだ、と勘繰られるぞ、と注意したんだが…。
そしたら、お前は屁理屈をこねた。「魔法のランプにすればいいよ」と。
「…そうだったっけ…」
魔法のランプが欲しかったんじゃなくて、欲しかったのはランプだったんだけど…。
公園でいつも灯してたヤツが欲しかったけれど、ハーレイが「無理だ」って言ったから…。
それなら魔法のランプにすれば、って前のぼく、思ったんだっけ…。
すっかり忘れていたけれど。前の自分がランプを欲しいと思ったことさえ、今の今まですっかり忘れていたのだけれど。
青の間にも一つあればいいのに、と願ったランプ。それを灯せばデートの気分になれるから。
公園のと同じ陶器のランプは駄目だと言うなら、ランプのデザインを変えればいい。ヒルマンやエラも納得しそうな魔法のランプ。その形ならば押し通せるかも、と考えたのだった。
「いいと思うんだけどね、魔法のランプは」
エラは何かと、ぼくを特別に扱いたがるし…。この部屋にも特別な非常灯を置きたい、と言えば納得するんじゃないかな。…普通のランプは駄目でもね。
それに、魔法のランプだから…。運が良ければ、願いが三つ叶うってこともありそうだから。
「はあ…。特別な形のランプというのは、確かにエラも前向きに考えてくれそうですが…」
魔法のランプが気になりますね。…三つの願いは何になさるんです?
もしも本当にランプの精が現れたならば、どんな願い事をなさるおつもりですか…?
「それはもちろん…。ミュウの未来と、地球に行くことと、平和かな?」
ミュウが人類に殺されずに生きていける未来と、地球に行くこと。…それから平和な時代だよ。
これで三つになるわけだからね、願いが叶えば嬉しいじゃないか。
「…そういう世界は素晴らしいですが…。三つの願いをする価値も充分ありそうですが…」
本当にそれでいいのですか?
三つの願いは、本当にそれでかまわないと…?
「もちろんだよ。…ぼくの願いが叶うのならね」
ぼくが願うのは、今、言った三つ。それよりも他に望みはしない。ランプの精が現れたなら。
だけど、所詮は魔法のランプに似ているだけ。…魔法のランプにはならないと思うよ、どんなに欲しいと望んでもね。
「どうでしょう…?」
今の時代は、遠い昔とは違いますから…。けして有り得ないと言えるかどうか…。
人類も忘れているでしょうから、と心配そうな顔をしたハーレイ。
「彼らも知ってはいるでしょう。…魔法のランプの伝説くらいは」
ですが、その伝説を信じる心を人類が持っているのかどうか…。こういう時代ですからね。
誰も信じていないのだったら、ランプの精も行き場を失くしたことでしょう。何処へ行こうかと彷徨っているかもしれません。…地球を離れて、この宇宙を。
そんな時代に、あなたが魔法のランプを作ろうと仰っておられるのですよ?
ランプの精がそれを見付けたら、丁度いいと入り込みそうですが…?
「偽物のランプが本物になると言うのかい?」
この船で作った形が似ているだけのランプに、本物のランプの精が入って…?
「絶対に無いと言い切れますか?」
我々が持っているサイオン。…これも人類にとっては信じられない力です。忌み嫌うほどに。
けれど、我々は生きていますし、作り話ではありません。…ランプの精も同じことです。絶対にいないとは誰にも言えないことでしょう。…少なくとも私は言い切れません。
もしも、本当にランプの精があなたの前に現れたなら。
三つの願いを叶えてやろうと言われたならば…。その願い事で後悔なさいませんか?
元の話では、三つの願いが叶った後には、心に悔いが残るようですが…。
「…どうなんだろう?」
ぼくも話は知っているから、魔法のランプと言ったんだけれど…。
三つの願いは、あれで正しいと思うんだけれど、ぼくは間違っているんだろうか…?
「いえ、間違ってはいらっしゃいません。…とても素晴らしい願い事だと思います」
平和な時代が訪れるでしょうし、皆も喜ぶことでしょう。
ですから、ソルジャーとしては正しい願い事ですが…。ソルジャーではない、あなたの方は…?
他に三つの願い事を持っておられませんか?
「…ぼくの願い事…」
ソルジャーではなくて、ぼく自身の…。それは…。
まるで考えてもいなかったこと。ソルジャーではなくて、ただのブルーとしての願い事。
ランプの精に頼みたいことは、三つではとても足りないだろう。欲張りと言ってもいいほどに。
(…ぼくの願い事は…)
失くした記憶を取り戻したいし、ハーレイと幸せに生きてゆきたい。これでもう二つ、一つしか残らない願い事。他にも山ほどあるというのに。
地球に行きたいし、人類に追われない世界も欲しい。出来れば地球で暮らしてみたいし…。
どれを願えばいいのだろう。三つ目の願いを言うのなら。
それよりも前に、ソルジャーとして三つの願いをしたなら、自分のためにはただの一つも…。
(…残らないんだ…)
叶うことは地球に行くことだけ。ミュウの未来も、平和な時代も、失くした記憶を自分にくれはしないだろう。ハーレイと幸せに生きてゆけるかどうかも、多分、自分の運次第。
「…ハーレイ…。ぼくは後悔するんだろうか?」
三つの願いを叶えた後には、やっぱり後悔するんだろうか…?
みんなが喜んでくれたとしたって、ぼくの願いは叶わなかった、と…。
「なさるような気がいたしますが…?」
ですから、こうして申し上げているのです。…ランプの精が現れた時が心配ですから。
あなたが後悔なさらないだろうと思っていたなら、私は止めはいたしません。
魔法のランプにそっくりのランプをお作りになろうが、それが本物になってしまおうが。
本当に心配そうだった前のハーレイ。忠告の意味もよく分かった。
(ランプの精なんて、いないとは思ったんだけど…)
絶対とは確かに言えない世界。現に自分も、思いもしなかったミュウへと変化したのだから。
それを思うと、魔法のランプは恐ろしい。本物になってしまった時には、ランプの精が現れる。三つの願いを叶えるために。
(…ソルジャーとしての願い事なら、本当にあの三つだけれど…)
自分自身のこととなったら、三つでは足りない願い事。ソルジャーとして願えば、三つの願いはおしまいなのに。…自分のためには残らないのに。
けれど、最初から自分のためにと願えはしない。船の仲間を、ミュウの未来を放っておくなど、自分には出来はしないから。願っても悔いが残るだけだから。
(…ぼくだけ幸せになったって…)
他の仲間たちのことを思っては、心が痛み続けるのだろう。なんということをしたのか、と。
逆に、仲間たちのために三つの願いを使ったならば。
(…ぼくには一つも残らなかった、って…)
きっと悲しむ日が来るだろう。どうしてあの時、これを願わなかったのかと。
三つの願いを叶えて貰って、後悔したくはなかったから。
魔法のランプを模したランプを作らせることはやめたのだった。前の自分は。
青の間にランプを置くことも諦めざるを得なくて、ランプを灯してのデートは公園でだけ。夜の公園でハーレイと二人、そっと灯して過ごしただけ。
仲間には視察のふりをして。…抱き合うこともキスも出来ない、二人きりのデート。それでも、充分幸せだった。今夜は恋人同士でデート、と。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が欲しがったランプ。
本物の魔法のランプが欲しかったわけではなかったけれども、その形を模したランプを、と。
そう願ったから、前のハーレイと魔法のランプの話になった。三つの願いをどうするのか、と。
ソルジャー・ブルーだった前の自分の、迷いない答え。
一つ目の願いは、ミュウたちの未来。二つ目の願いは地球へ行くこと。三つ目の願いは、平和な時代。それで全部だと、叶えばいいと。
それは立派な答えだったけれど、あくまでソルジャー・ブルーの願い。前の自分の本当の願いは一つも入っていなかった。
(地球へ行くことは重なるけれど…)
ソルジャーとしての願いでないなら、それは一つ目にはならない願い。
自分のために三つの願いを使っていいなら、失くした記憶を取り戻すこと。そして、ハーレイと幸せに生きてゆくこと。これで二つ、と前の自分は考えたから。
(三つ目で、地球に行ったって…)
きっと嬉しくはなかっただろう。純粋に自分自身のためでも、他に何かがあった筈だ、と。
三つの願いを叶えた後には、必ず残っただろう悔い。
ソルジャー・ブルーとして願った時には、「ぼくのためには一つも使えなかった」と。
自分自身のために願ったら、「どうして仲間のために使わなかったのだろう」と。
考えた末に、魔法のランプを諦めた自分。
本物ではなくて、その形を模したランプだったのに、前の自分は恐れてやめた。
もしも本物になったならば、と怖かったから。…きっと後悔するだろうから。
今の自分は、三つ目で失敗ばかりだと嘆いていたけれど。
結婚だとか、ハーレイといつまでも一緒がいいとか、三つ目の願いはハーレイに、とか。幾つも失敗を重ねた三つ目、どれも前の自分の願いにはとても及ばない。
前の自分なら、そんな願いをしようとも思わなかったから。
(他に一杯、もっと大切な…)
叶えたかった願い事。ソルジャー・ブルーとしてなら三つで、それは見事に使えたけれど。三つ叶えてしまった後には、叶えられなかった自分自身の願いが沢山。
そうしてソルジャー・ブルーが後悔しただろう、自分のための願い事。
今の自分とは比べようもなく、切なく、悲しい願いの数々。
(ハーレイと幸せに生きていきたかったのに、って…)
きっと悲しんだろうソルジャー・ブルー。今の自分は願わなくても、幸せになれる人生なのに。
(失くした記憶は、どうしようもないけど…)
ぼくも忘れたままなんだから、と考えたけれど、今の自分は忘れてはいない。蘇った青い地球に生まれて、今日まで生きて来た日々を。両親も、家も、友達も、全部。
(…今のぼくの方が、ずっと幸せ…)
前の自分よりも遥かに幸せに生きている分、減っているだろう願いの切実さ。
だから余計に失敗をする。願いを軽く思っている分、三つ目で何度も重ねた失敗。
そうではなかったソルジャー・ブルーも、駄目だと願いを諦めたのに。
叶えたいことが沢山あっても、自分にはとても願えはしないと。
願った後には悔いが残るから、魔法のランプを作りはすまい、と…。
前の自分がどう考えたのかを思い出したら、手に負えないと気が付いた。
魔法のランプが叶えてくれる三つの願い。失敗するのは当然なのだと、今の自分が使いこなせる筈が無かった代物なのだ、と。
「そっか、魔法のランプのお願い…。前のぼくでも無理だったんだ…」
今のぼくには上手く使えない、って思ってたけど…。前のぼくのつもりで考えても駄目だ、って思ったけれど…。
前のぼく、ホントに考えてたんだ、ぼくよりもずっと真剣に…。
ハーレイに言われたからだったけれど、ちゃんと考えて、後悔するのが怖くなっちゃって…。
本物の魔法のランプになったら大変だから、って偽物のランプもやめちゃった…。
ぼくに使えるわけがないよね、前のぼくでも無理だと思っていたんだから。
「そういうことだな。お前もすっかり思い出したか」
魔法のランプは、ソルジャー・ブルーでも使いこなせなかったんだ。お前じゃ無理だな、チビで弱虫なんだから。…失敗した、って泣き出すに決まっているんだから。
しかしだ、今のお前は魔法のランプをとっくに持っているんだが…?
わざわざ探しに行かなくっても、前のお前みたいにそっくりなヤツを作らせなくても。
でもって、お前の願いを叶えに現れるランプの精はだな…。
俺だ、と自分を指差したハーレイ。
「いいか、俺がお前のランプの精だ。…お前が俺の御主人様だ」
願いは三つしか叶えられないとか、そういうケチなことは言わない。
どんな願いでも、幾つでもいい。俺の力で叶うことなら、俺は幾つでも叶えてやる。
お前のためなら、俺は何でも出来るんだ。…無茶なことさえ言われなければ。
「ホント?」
…ハーレイがぼくのランプの精なの、三つよりも沢山言ってもいいの?
ハーレイだったら、ぼくのお願い、簡単に叶えられそうだけど…。
ぼくの背丈は伸ばせなくても、大きくなったら結婚して一緒にいてくれるんだし…。
「なるほど、今のお前の願いは大体、分かった」
大きく育って、俺と結婚したいってトコだな。その辺りで三つとも使っちまった、と。
安心しろ、三つの願いで終わりだとは俺は言わないから。…もっと我儘も言っていいから。
俺は今度こそ、お前のために生きると決めているんだ。お前のランプの精みたいに。
お前の願いは何でも叶える。…前の俺が出来なかった分までな。
うんと欲張りに願ってもいいし、ランプを擦らなくてもいいぞ、と頼もしいランプの精だから。
今の自分は、ハーレイが住んでいる魔法のランプをとっくに持っているらしいから。
三つの願いに頼らなくても、願わなくても、きっと幸せになれるのだろう。
いつか背丈が伸びたなら。
ハーレイという名前のランプの精と、結婚して一緒に暮らし始めたら…。
魔法のランプ・了
※ブルーが欲しくなった魔法のランプ。前のブルーも、魔法のランプを欲しがったのです。
けれど願いを叶えたなら、必ず残る悔い。今のブルーには、願い事は無限なランプの精が。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
朝から爽やかに晴れた土曜日。今日はハーレイが来てくれる日、とブルーの心は弾むよう。
天気がいいから、ハーレイは歩いてやって来るのだろう。運が良ければ、お土産もある。途中で買って来てくれて。
(お土産、あるといいんだけれど…)
チビの自分が貰えるお土産は、食べ物ばかり。残しておける物は貰えない。それでも欲しくなるお土産。あるといいな、と。
朝食を食べて、部屋の掃除も綺麗に済ませて。そろそろかな、と何度も窓を覗いてみるのに。
(…ハーレイ、まだ…?)
いつもだったら、とうに来ている時間。なのに、ハーレイは歩いて来ない。車も見えない。前のハーレイのマントの色をしている愛車。それも走って来はしない。
時計を眺めては、窓を覗いて待っているのに。朝からずっと待っているのに、来ないハーレイ。
(まだなのかな…?)
遅すぎるよ、と階段を下りて玄関先まで行ってみたけれど、鳴らないチャイム。扉を開けても、庭を隔てた門扉の向こうにハーレイはいない。
出くわした母に「ハーレイに通信を入れてみてよ」と頼んだら…。
「ハーレイ先生にも御都合があるでしょ?」
お出掛けになる時間が遅れることだってあるわ、ほんの少し遅いだけじゃない。
急な用事で来られなくなったなら、ハーレイ先生から連絡が来るに決まっているでしょ。
遅いと思うのはブルーの都合ね、と取り合ってくれなかった母。
それもそうか、と納得して部屋に戻ったけれど。
更に待っても、ハーレイは家に来てくれないまま。歩いて来る姿も、車も、どちらも見えない。窓から顔を出して覗いても、伸び上がっても。
(なんで…?)
時計を見れば、いつもの時間をとうに一時間は過ぎている。いくらなんでも遅すぎる時間。
これは変だ、と母の所へ言いに行ったのに。
「そうねえ、確かに遅いけど…。お昼御飯に遅れそうなら、通信が入ると思うわよ」
でも、通信は来ていないから…。その内にいらっしゃるわよ、きっと。
部屋に戻って待ってらっしゃい、窓から見てればいいでしょう?
「えーっ!」
ママ、通信は?
まだ家ですか、って訊いてくれないの?
「さっきも言ったわ、ハーレイ先生にも御都合があるの」
家を出ようとなさってる時に通信が入ったら、また戻らなくちゃいけないのよ?
ご迷惑をお掛けするから駄目、と断られた通信。ハーレイの家への連絡手段。母は通信機のある部屋とは別の所にいたから、自分でコッソリ入れようかどうか迷ったけれど。
通信機の前で暫く眺めて、諦めた。
登録してあるハーレイの番号。呼び出しても留守ならかまわないけれど、繋がったならば。
ハーレイが出て、「丁度良かった。今日は行けなくなったんだ」と言われたりしたら、その場で泣き出してしまいそうだから。「そんな…」と涙をポロポロ零して。
それに、母にも叱られるだろう。「駄目だと言ったのに、通信、入れたの?」と。
ハーレイが来られなくなったのならば、自分が伝えに行くしかないから。
悲しい情報を伝えなくてはいけない上に、叱られたのでは踏んだり蹴ったり。それは嫌だから、通信を入れるのは諦めるしかないだろう。
仕方ないから部屋に戻って、待つのだけれど。やっぱり来てはくれないハーレイ。
窓の向こうを覗くのも悲しくなってきたから、机で本を読むことにした。もっとも頭はすっかりお留守で、文字を眺めているというだけ。少しもページを捲れはしない。
(お土産を買いに出掛けて、遅くなったりはしないだろうし…)
どうなっちゃったの、と頭の中身はハーレイばかり。本など読んでいないのと同じ。ハーレイのことしか考えられなくて、ぐるぐるしていたらチャイムが鳴った。
(ハーレイ…!)
やっと来てくれた、と駆け寄った窓。門扉の向こう、手を振るハーレイが左手に提げている箱。
(お土産!)
遅くなった原因はこれだったのか、と一気に機嫌が良くなった。あれを買うために行列したか、遠い所まで行って来たのか。きっと素敵なお土産だろう、と心が浮き立つ。箱を見ただけで。
ハーレイが母に案内されて来たから、早速、訊いた。お茶とお菓子はまだだけれども。
「お土産、なあに?」
箱が見えたよ、何のお土産?
「ケーキじゃないのか、お母さんに渡して来たんだが」
「えっ…?」
ハーレイ、中身、知らないの…?
そういう売り方のケーキだろうか、と考えていたら、母が運んで来たケーキが幾つも入った箱。色々あるから、好きなのをどうぞ、と。
「んーと…。どれにしようかな…」
箱の中を覗いて、迷って、「これ」と選んでお皿に載せて貰ったケーキ。ハーレイも一個。母は残りを運んで行って、代わりに紅茶のカップやポットを持って来た。「ごゆっくりどうぞ」と。
いつもの土曜日より遅いけれども、やっとハーレイと二人きり。お土産もあるし、とハーレイがくれたケーキを御機嫌で眺めていたら。
「こりゃまた、美味そうなケーキだなあ…」
そうハーレイが口にしたから、驚いた。ケーキはハーレイが持って来たのに。
「…美味しそうって…。ハーレイが買って来たんでしょ?」
中身は最初から詰めてあったのかもしれないけれど…。選べないお店かもしれないけれど。
見本のケーキは出ていなかったの、こんなケーキが入っています、って…。
「選ぶも何も…。俺は箱ごと貰ったんだ」
「貰った!?」
「うむ。…遅刻のお詫びだ」
遅くなったろ、いつもよりずっと。…そいつのお詫びに貰ったってわけだ。
「それなら買うでしょ、お詫びなんだから」
なんで貰うの、話が変だよ?
「それはまあ…。遅刻したのは俺なんだが…」
遅刻の原因は、俺じゃなかったってことだ。遅刻しないよう、きちんと家を出たんだから。
そいつが途中で狂っちまった、のんびりと道を歩いていたらな。
普段通りに着けるように、と歩き始めたハーレイだけれど。此処に着くまでの真ん中辺り。丁度そういう辺りの所で、ハーレイが出会った迷子の子猫。
最初は迷子と気付かなかったらしい。道端の植え込み、其処から声が聞こえたから。
「ヒョイと覗いたら、ブチのチビでな。撫でてやって、歩き出そうとしたら…」
俺を呼ぶんだ、「行かないでくれ」って。…そういう声って、あるだろうが。
よくよく見たら、なんだか心細そうで…。試しに歩き出したら、植え込みの中に潜っちまって。
戻って行ったら、中でブルブル震えてるんだ。隠れてます、って感じでな。
これは変だ、と気付くだろ?
何かに追い掛けられたのだろう、とハーレイは考えたらしい。それで怖くて怯えていると。
可哀相だからと子猫を抱き上げてやって、誰か預かってくれそうな人は、と見回しながら歩いていたら張り紙があった。迷子の子猫を探す張り紙。昨日から行方不明と書かれて、写真も。
まさか、と腕の中の子猫を見たら、その猫だった。模様も、真ん丸な瞳の色も。
「それで届けに行って来たんだ、見付けちまったら行くしかないだろ」
ただ、子猫の家が遠くてなあ…。俺にとっては大した距離じゃないんだが。
此処へ来るには回り道ってヤツだ、まるで違う方へと行っちまったから。…遅くなってすまん。
「…子猫…」
迷子の子猫を届けてたんだ…。凄く遅いと思ったけれど…。
「本当にすまん。…おまけに、御礼を買って来ますから、って言われちまって…」
直ぐですから、ってケーキを買いに行ってくれたんだ。ちょっと待ってて下さいね、とな。
待ってる間に、通信、入れれば良かったなあ…。その家で借りて、「遅くなるから」、って。
でなきゃ、途中の何処かで入れても良かったんだ。…通信機、幾つかあるのにな。
俺としたことがウッカリしていた、子猫が無事に家に帰れたもんだから…。
良かったな、って思っちまって、肝心のチビを忘れてた。
此処にもチビがいるっていうのに、チビの子猫の心配ばかりで。
ハーレイが迷子の子猫を届けに出掛けて行った家。
その家に着いたら、母猫がいたのだという。兄弟のチビの子猫たちも。迷子だった子猫を連れて入った途端に、転がるように走って来た母猫。兄弟猫も急いでやって来た。
「母親が顔を舐めてやってな、他のチビどももミャーミャー鳴いて…」
俺が連れてったチビは、もう俺なんか見ちゃいなかった。家族の方がいいに決まっているしな。
「そうだよね…」
お母さんとかの方がいいよね、いつも一緒にいたんだもの。
「だろうな、迷子になっちまうまでは。…離れたことなんか無かっただろう。可哀相に」
その家の人に聞いた話じゃ、庭で遊んでいて、行方不明になっちまったそうだ。
お前の家と同じで生垣だったし、出たり入ったりして遊んでたんだな。ところが、ヒョイと表へ出てった途端に、通り掛かった犬に吠えられて駆け出しちまって…。
家の人が慌てて飛び出してったが、それっきりだ。…チビは見付からなかったんだ。
「…それで昨日から行方不明だったの?」
張り紙も張ってあったのに…。家の人だって、ずいぶん探していたんだろうに。
「子猫だから、怖くて隠れちまっていたんだろう。人が来た時は」
名前を呼ばれて出ようとしたって、他の人が歩いていたんじゃなあ…。
サッと引っ込んで隠れるしか道が無かったってことだ、怖い目に遭いたくないんなら。
それでも我慢の限界ってトコで、たまたま俺が通ったわけだ。動物には好かれるタイプだし…。声を掛けても大丈夫だろうと思ったんだな、あのチビも。
「…子猫、お腹が空いてただろうね…」
ハーレイが通るまで、きっと御飯は無かっただろうし…。子猫じゃ狩りも出来ないし。
「そりゃなあ…。あんなチビじゃ無理だ」
ようやく子猫用の食事が出来るようになったくらいのチビなんだぞ?
水くらいは舐めていたかもしれんが、飯は無理だな。
母猫たちに囲まれた後は、ガツガツと食べていたらしい子猫。たっぷりと入れて貰った食事を。子猫用の柔らかいキャットフードに、ミルクも飲んで。
ハーレイは正しいことをして遅刻したのだから、怒る気持ちはなくなった。
「良かった…。子猫が家に帰れて」
回り道でも、遅くなっても、ハーレイが子猫を送ってあげてくれて。
「おっ、俺を許してくれるのか?」
肝心のチビを忘れちまって、通信も入れずに遅刻したんだが…。悪いと思っているんだが。
「だって、ハーレイが子猫を見付けなかったら、もっと大変…」
ハーレイだったから、子猫も声を掛けられたんだよ、「助けて」って。
「行かないで」っていう声で鳴いてたんでしょ、きっと本当に心細かったんだと思うから…。
もしもハーレイが見付けて助けてあげなかったら、子猫、家には帰れなかったかも…。
「そうかもなあ…」
俺の代わりにデカイ犬でも連れた人が来たら、逃げるんだろうし。…此処も駄目だ、と。
怯えて隠れて逃げてる間に、どんどん遠くへ行っちまうこともあるからなあ…。
張り紙を見てくれる人もいないような所になったら、もう帰れんし…。
あんなチビだと、そうなっちまうことも少なくないし。
小さな子猫が迷子になったら、帰れないことも多いのだという。家から離れ過ぎた場合は。
誰かが拾って飼ってくれるけれど、もう独りぼっち。親も兄弟もいなくなって。
「やっぱり、帰れなくなっちゃうんだ…。早く見付けて貰えなかったら」
そんなことになったら可哀相だよ、前のぼくみたい。子猫、帰れて良かったよ…。
「前のお前だと?」
どうしてそういうことになるんだ、お前、迷子になってたか?
いくらシャングリラがデカイ船でも、前のお前なら何処からでもヒョイと飛べただろうが。今の不器用なお前と違って、行きたい所へ瞬間移動で。
「迷子じゃないけど、独りぼっち…。そっちの方だよ」
前のぼく、メギドでそうなっちゃったよ。…ハーレイの温もりを失くしたから。
帰れないのは分かっていたけど、独りぼっちになるなんて思っていなかったから…。ハーレイと一緒なんだと思ってたから、前のぼく、泣きながら死んじゃった…。
子猫がそうならなくて良かった、独りぼっちは悲しいもの。どんなに優しい人が見付けて飼ってくれても、独りぼっちは寂しいもの…。
「それか…。メギドと重ねちまったか」
確かにそうかもしれないな。…犬に吠えられてビックリするのも、撃たれちまうのも似たようなモンか…。あの子猫は家に帰れなくなって、前のお前は右手が凍えちまって。
どっちも独りぼっちだなあ…。
子猫は無事に家に帰れたが、前のお前はそれっきりか…。だが…。
ちゃんと帰って来たじゃないか、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「少々、小さくなっちまったが…。お前もちゃんと帰って来ただろ?」
あの子猫みたいに、俺の所へ。多分、神様に拾って貰って。
「うん…。誰かが拾ってくれたんだとしたら、神様だと思う。…帰る所を探してくれたんなら」
でも、ハーレイかもしれないよ?
独りぼっちのぼくを見付けて、今日の子猫みたいに拾ってくれて。…地球に行こう、って。
ハーレイだったら見付けてくれそう、ぼくが隠れて震えていても。
もう酷い目に遭うのは嫌だ、って誰にも会わずに隠れていても。
…きっとハーレイなら見付けてくれるよ、「もう怖くないから、俺と行こう」って。
その途端に、ぼくも気が付くんだよ。もう出て行っても平気なんだ、って。誰が呼んでるのか、声で分かるもの。…ハーレイの声は分かるんだもの…。
ハーレイが見付けてくれたのかも、と話していて思い出したこと。
今日のハーレイは子猫を助けて遅刻したけれど、前のハーレイもそれに似ていたっけ、と。
「そうだ、前のハーレイも遅刻してたっけね」
今のハーレイみたいな感じで。…子猫は拾っていないけれども。
「はあ? 遅刻って…」
ブリッジにでも遅刻してたか、お前の記憶に残るほど派手に遅れてはいない筈だが…。
せいぜい五分くらいってトコだぞ、ブリッジにしても、会議にしても。
「…そういうのはね。ハーレイが仕事で遅刻していたことは無かったよ」
遅れたとしても、ホントに少し。遅れた理由も仕事のせい。…ちゃんとしなくちゃ、ってキリのいいトコまで手を抜かないから。
ぼくが言うのは、今日とおんなじ。…ぼくの所に遅刻するんだよ、青の間に遅刻。
ちゃんと行きます、って約束してても、みんなの悩みを聞いてあげたりしている間に。
もう来るかな、って紅茶とかを用意して待っているのに、ハーレイ、ちっとも来ないんだよ。
五分くらいの遅刻じゃなくって、三十分とか、一時間とか。
「あったっけなあ…!」
仕事が終わったら直ぐに行くから、と言っておいたのに凄い遅刻とか…。
昼間に時間が取れそうだから、って約束したのに、その時間をとっくに過ぎちまったとか。
すまん、とハーレイが頭を下げた。今度の俺もやっちまった、と。
「…お前をすっかり待たせちまった、そんなつもりはなかったのにな」
前の俺だった頃と全く同じだ、お前が思い出した通りに。
ただし、今日のは猫だったが…。仲間の相談に乗っていたならまだしも、子猫なんだが…。
おまけに、通信を入れるのも忘れちまってた。…俺を待ってるチビがいるのに。
「今だからだよ、ハーレイが助けてあげる相手が子猫になるのは」
助けて、って呼ぶのが子猫なんでしょ、平和な証拠。
今は平和な時代なんだもの、ハーレイだけが頼りだっていう人はいないでしょ?
子猫しか困っていなかったんだよ、ハーレイを遅刻させるほどには。
人間はハーレイに頼らなくても、ちゃんと他にも道があるから。
「まあなあ…。困っていたって、誰かはいるな。人間だったら」
あの子猫には、俺しかいなかったみたいだが…。俺より前には、頼りになりそうなヤツが一人も通らなかった、と。でなきゃ、通っても気付かなかったか。寝ちまっていたら気付かないしな。
だが、人間なら、わざわざ俺を呼び止めなくても、他に頼れるヤツがいるわけで…。
教え子には親がついてるもんだし、先にそっちに行くだろうなあ…。
親にはちょっと、と思うにしたって、友達だって大勢いるし。
お前の言う通り、子猫くらいなものかもしれんな。…俺を呼び止めて遅刻させるヤツ。
シャングリラの時代とは違うからな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
平和な時代になってしまったら、キャプテン・ハーレイに用があるのは子猫くらいか、と。
「俺の行き先も、青の間から此処に変わっちまったし…」
来るのが遅いと待っているのも、ソルジャー・ブルーじゃなくてチビだし。
それだけ変われば、俺を呼び止めるのがチビの子猫になっちまうのも無理はないかもな。…ん?
待てよ、シャングリラの頃でも似たようなモンだと思うんだが?
平和な時代かどうかはともかく、俺を呼ばなくても相談に乗ってくれそうなヤツは…。
今と同じにいたんじゃないのか、シャングリラには仲間が大勢いたんだから。
「それはそうだけど…。親はいなかったよ、シャングリラにいた仲間たちには」
本物の親はトォニィたちの時代までいないし、養父母だって…。
前のぼくたちみたいに最初からいないか、アルテメシアでミュウだと分かってお別れになるか。
親は誰にもいなかったじゃない、どんなに相談したくても。
…今の時代は本物の親がいるけれど。トォニィたちみたいに、血の繋がった親が。
それに、シャングリラだと、友達に相談するにしたって、船の仲間しかいなかったんだよ?
船の中が世界の全部なんだし、友達だって、その中だけ。
言いにくいこともあったと思うよ、友達には。
その友達の友達は誰だろう、って考え始めたら、船中に相談するのとおんなじ。
筒抜けになりはしないけれども、そうなっちゃったらどうしよう、って怖くならない…?
今の時代は、いくらでもいる相談相手。悩みに応じて、相手も色々。
自分のような子供だったら、真っ先に思い浮かべるのが親。頼りにもなるし、一番身近。一緒の家で暮らしているから、いつでも気軽に相談出来る。好きな時間に。
学校のテストの成績を親に言うのが怖い、という悩み事なら、これは友達。自分の場合は一度も経験していないけれど、そういう悩みも子供には多い。「家に帰れない」としょげているとか。
その友達と喧嘩したなら、仲直りさせてくれそうな友達に相談に行く。実はちょっと、と。
大人の場合も、きっと似たようなものだろう。
子供よりも世界が広い分だけ、相談相手も増えてゆく。結婚したなら、結婚相手が親よりも近い相談相手。親にも変わらず相談出来るし、結婚相手の親にだって。
仕事を始めたら、仕事仲間や、仕事で出会った大勢の人や。
友達にしたって、色々な機会にどんどん増える。上の学校に進めば増えるし、仕事場でも。旅をしたなら、その旅先でも。
もちろん悩みも増えるだろうけれど、相談相手も増えているから大丈夫。
仕事のことなら、仕事で出来た仲間が大いに頼れるだろうし、他の仕事に就いた友達も、きっと頼りになるのだろう。「俺の場合は…」といった具合に。
人間関係の悩みにしたって、子供の頃より広がった世界は、きっと遥かに頼もしいから。
知り合いの数が増えた分だけ。友達の数が増えた分だけ、頼りになる人も増えるから。
けれど、白いシャングリラは今の時代とは全く違った。
船の中が全てで、閉じていた世界。人間も船の仲間が全て。
しかも人間は多くなかった。子供から大人までを全て数えても、町の住人にはとても及ばない。大規模な上の学校だったら、生徒だけでシャングリラの人口を越える。
たったそれだけの人数な上に、その中に混じる大人と子供。
同じ大人でも、アルタミラ時代からの古参もいれば、アルテメシアから加わった者も。
おまけに、無かった本物の家族。大人にも、それに子供にも。
一番身近な相談相手がいない世界で、船の外には出られない世界。生まれた悩みを相談したいと思った時にも、船の仲間しか頼れない。
仕事の悩みだったらともかく、人間関係の悩みとなったら大変だった。大人も、子供も。
誰かと喧嘩をしてしまったから、と相談しようにも、船の中の世界が狭すぎて。
友達同士も繋がっているのが普通だったから、下手に相談すればこじれてしまいかねない。誰に相談すべきなのかを見定めないと、失敗することも多かった船。
相談を受けた相手が「それは嘘だ。こう聞いている」と話を聞いてくれなかったり、喧嘩相手の肩を持つのはよくある話。
ソルジャー候補だったジョミーでさえもが、前の自分が深い眠りに就いた後には孤立したほど。
船の仲間と上手くやってゆけずに、引きこもっていたと今のハーレイに聞いた。
人類に送った思念波通信、それが失敗に終わったせいで。
シャングリラは人類軍に追われ始めて、ジョミーを責める者たちが増えた。なのに、ジョミーは持っていなかった相談相手。ソルジャー候補としての悩みは前の自分が聞いていたから。
(…前のぼくが、ちょっと気配り不足…)
今にして思えば、そうだったろう。
全てジョミーに任せるのではなくて、人脈を作らせておくべきだった。ソルジャーという立場にいたって、相談相手が必要な時もあるのだから。
(前のぼくには、ハーレイがいて…)
いつでも、何でも相談出来た。前のハーレイの「一番古い友達」、それが前の自分だったから。
最初は友達、後には恋人。どんなことでも、ハーレイにだけは打ち明けられた。
(フィシスを攫って来た時も、そう…)
人間でさえもなかったフィシス。機械が無から創った生命。
それをミュウだと偽って船に迎え入れた時も、ハーレイだけは知っていた真実。自分一人だけで抱えずに済んだ。フィシスの秘密を。
前の自分は相談相手を持っていたのに、ジョミーにもそれが必要なのだと気付かなかった。そのせいで孤立したジョミー。相談相手がいなかったから。
(…ハーレイ、前のぼくの恋人だったから…)
懸命に仲を隠していたから、その重要さが分かっていなかった自分。ソルジャーとキャプテン、そういう仲だと「ソルジャーとしては」思っていたから。
ソルジャーには補佐役がいればいいのだと、前の自分は勘違いした。前のハーレイは、傍目には補佐役だったから。ソルジャー・ブルーの右腕で、キャプテン。
(…だけど、恋人で、友達…)
それを失念していた自分。ジョミーにもハーレイとの仲を悟られないよう、それまで以上に隠し続けたから。ハーレイがどういう存在なのかを。
だから思いもしなかった。ジョミーにも誰か、相談相手を作らねば、とは。
ソルジャー候補の悩みは自分が聞けばいいことなのだし、一人立ちした後はキャプテンや長老がいれば充分だろうと、前の自分は考えた。自分自身の相談相手はキャプテンだけで足りたから。
シャングリラという特殊な世界の中では、難しかった悩みの相談。
前の自分の配慮が足りずに、ジョミーが孤立したほどに。きっとジョミーも怖かったのだろう。相談相手を間違えたならば、どうなるか分かっていただろうから。
下手に誰かに相談したなら、船中に知れてしまわないかと、それも恐ろしかっただろう。
「…ハーレイ、前のぼくも失敗しちゃったんだよ。…ジョミーのことで」
ジョミーが何でも相談出来る友達を作るの、忘れちゃってた…。ぼくにはハーレイがいたのに、恋人だから、って思い込んでて、隠してて…。
そのせいでジョミーは独りぼっちになっちゃったんだよ、誰にも相談出来なかったから。
思念波通信が失敗した時、相談相手がちゃんといたなら…。ジョミーは孤立しなかったと思う。悩みを何でもぶつけられるし、頼りになるし…。
ぼくはその役、ハーレイでいいと勝手に思い込んじゃってたよ。ハーレイ、いろんな仲間たちの相談、聞いていたから…。聞いては遅刻しちゃってたから。
でも、ジョミーにハーレイをきちんと紹介してもいないのに、そうそう相談出来ないよね…。
「そう言われれば、そうかもなあ…」
思念波通信をしようと思う、っていう相談には来ていたんだが…。
失敗した後には来ていなかったな、そういえば。…俺に叱られると思っていたかもしれないな。
「どうしてブリッジに来ないんだ」と小言ばかりで、怖かったかもしれん。
俺の方でも、キャプテンとしての立場ってヤツがあるからなあ…。
うん、俺も失敗しちまったんだ。前のお前と同じでな。
ジョミーに一言、こう言ってやれば良かったんだ。「悩みがあるなら聞いてやるぞ?」と。
「長年そいつをやって来たから、人生相談のプロなんだ」とな。
なにしろ子供の人生相談までしていたわけで…、とハーレイが言う通り。
キャプテン・ハーレイは子供たちにも呼び止められた。青の間へ行こうとしていた時に。
「そっか、子供もいたっけね…」
大人ばかりじゃなかったよね、と思い浮かべた子供たちの顔。幼かった頃のヤエや、シドやら。
「将来はどうしたらいいのだろう」と真剣な顔でキャプテンを呼び止めた子供たち。この船での将来に不安がある、と子供なりに将来を心配している顔で。
ハーレイが話を聞いてやったら、子供たちの相談事は「なりたいもの」の話ではなくて…。
「まったく、何が将来なんだか…。あいつらときたら」
そう言って俺を呼び止めるくせに、大抵、喧嘩とかなんだ。相談事も、悩みってヤツも。
船での将来には違いないがな、喧嘩したままだと遊び場はお先真っ暗なんだし。
しかしだ、普通は将来と言えば、船でどういう仕事をするとか、そんな話だと思うだろうが。
「でも…。大人の時だって、そうじゃない」
ハーレイを呼び止めてた大人。…将来って言い方はしなかったけれど、どうやって生きていけばいいだろうとか、そんな感じで。
生きるか死ぬかって顔をしてるから、ハーレイ、何か大失敗でもしたんだろうかと思うのに…。
話を聞いたら子供たちと同じ。誰かと喧嘩をしちゃっただとか、そんなのばかり。
本当にキャプテンに相談するしかなさそうなことは、誰も相談しないんだよ。
「当然と言えば当然だろうな、それが大人の場合はな」
…キャプテンの指示を仰ぐようなことは、まずは自分の持ち場で相談。
そっちで話をきちんと纏めて、しかるべき場所で訊くもんだ。会議に出すとか、ブリッジとか。
歩いている俺を捕まえてみても、「資料はどうした」と言われるのがオチだ。
まったく、子供も、大人ってヤツも…。俺を何だと思ってたんだか、キャプテンなのにな?
船を纏めるのが仕事ではあるが…、と困ったような顔で笑うハーレイ。
キャプテンという立場にいたのに、ハーレイは少しも偉そうな顔をしなかった。怒った時でも、頭ごなしに怒鳴るようなことは無かったキャプテン。
だから余計に皆に頼られ、いつの間にやら相談係になっていた。前の自分は、それをジョミーに伝え忘れてしまったけれど。
「ハーレイ、ホントに人生相談のプロだったものね…」
子供から大人まで、ちゃんと真面目に話を聞いて。アドバイスだって、きちんとして。
…キャプテンなんだもの、船の仲間が喧嘩したままだと、上手くいかないのを知ってるものね。
人間関係が壊れちゃったら、シャングリラはもう、おしまいだもの。
「そういうこった。…喧嘩はほどほどにしておかんとな」
相談に来たヤツの悩みに合わせて、その辺のトコを説明する、と。子供だったら、子供向けに。
それで大抵、丸く収まる。…ジョミーの場合は、俺は相談に乗り損ねたが。
でもって、その手の人生相談。
いつも捕まっては、遅刻だってな。…お前が青の間で待っているのに。
「遅刻したって、怒らなかったよ?」
「前のお前はお見通しだったからなあ、サイオンで」
シャングリラの外の世界まで自由自在に見られたんだし、軽いモンだろ。
いくら待っても俺が来ないんなら、何処で油を売っているのか、ヒョイと覗いて。
「…そうだった…」
ハーレイ、遅いな、って船の中を探れば見付かったから…。
人生相談をやっているのも直ぐに分かったから、終わるまで待とうって思ってただけ。
どうして遅刻か理由が分かれば、怒る理由も無いものね?
ヒルマンやゼルとお酒を飲んでて遅刻だったら怒るけれども、人生相談の方なら怒らないよ。
迷子の子猫を送ってあげて遅刻するのと同じだもの、と言ったけれども。
今の自分は、ハーレイが子猫の家を探して歩いていたのも、まるで知らないままだった。迷子を送り届けた御礼に、ケーキを貰って来たことも。
サイオンが不器用な今の自分はハーレイの様子を探れはしないし、社会のルールもそういう風になっている。サイオンの使用は控えるのがルール、人間らしい生き方を、と。
「えーっと…。ハーレイ、また今日みたいに遅刻しちゃう?」
迷子の子猫にまた呼ばれたとか、人間の迷子を見付けちゃったとか…?
「やっちまうかもしれないが…。次からは通信を入れることにする」
お前をすっかり待たせちまうし、何処かで「遅れそうだ」と連絡するさ。
今日みたいに忘れていなければな。…本当にすまん、忘れちまって。
「忘れてもいいよ」
…忘れちゃってもいいよ、そういう理由で遅刻だったら。
「おい、いいのか?」
「いいよ、前のハーレイの頃から遅刻してたし…。ハーレイが優しいからなんだし」
遅れてもいいから、ぼくの所へ来てくれれば。
ちゃんと家まで来てくれるんなら、遅刻しちゃっても、通信を入れるのを忘れていても。
「来ない筈なんかないだろう…!」
今日だって俺はいつも通りに家を出たんだぞ、子猫に会わなきゃ時間ピッタリに着く筈だった。
子猫を送り届けた後にも、せっせと急いでいたんだからな…?
お前と一緒に暮らし始めるまでは、俺はきちんと通ってくるさ、とハーレイが片目を瞑るから。
今日のような遅刻はあるかもしれないけれども、来てくれるのを待っていよう。
誰にでも優しいハーレイだからこそ、遅刻してしまうことになるから。
迷子の子猫を送り届けたり、シャングリラで人生相談をしたり。
いつかはそういうハーレイと同じ家で暮らして、帰りを待つことになるのが自分。
ハーレイの帰りを待って待ち続けて、「遅くなってすまん」と言われることもあるのだろう。
前の自分が待ちぼうけを食らった、青の間のように。
困っている誰かをハーレイが助けて、帰りがすっかり遅くなって。
(…だけど、青の間とは違うしね?)
今度はハーレイと二人で生きてゆくのだから。
二人きりの家で暮らすのだから、遅刻されてもかまわない。
その日は遅くなったとしたって、いつまでも二人、一緒だから。
何処かでゆっくり、心ゆくまで、二人だけの甘くて幸せな時間を持てるのだから…。
遅刻の理由・了
※迷子の子猫を送り届けて、遅刻して来たハーレイ。前の生でも、似たようなことが何度も。
人生相談の達人だったのに、前のブルーはジョミーを紹介し忘れたのです。可哀想に…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、新しい年も平和にスタートしたのですが。元老寺での除夜の鐘やら、アルテメシア大神宮への初詣なんかも無事に終わって、学校の新年恒例行事もすっかり終了、次は入試かバレンタインデーか、といった辺りの今日この頃ですが…。
「おいおい、今日も副業やってんのかよ?」
サム君がシロエ君に声を掛けている放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。シロエ君は一心不乱に作業中というか、副業と言うか。カシスオレンジのチーズケーキは半分以上残っていますし、紅茶だって冷めてしまったのを「そるじゃぁ・ぶるぅ」が入れ替えています。
「おい、シロエってばよ!」
「あ、すみません…。何でしたっけ?」
全く聞いていませんでした、と手を止めて顔を上げたシロエ君。
「明日の予定のことでしたか?」
「いや、そうってわけでもねえけどよ…。予定も何も…なあ?」
「どうせブルーの家だよね?」
土曜日だしね、とジョミー君が笑って、キース君も。
「寒い時期だしな、特にイベントも無いからな…。しかしシロエはこの調子では…」
「間違いなく明日も副業でしょう」
今日も注文多数でしたし、とマツカ君が言い、スウェナちゃんが。
「すっかりブームになっちゃったものねえ…」
「元は柔道部からだったよね?」
確か、とジョミー君が訊くと、キース君が「ああ」と。
「これが遊べたら楽しいのにな、と古いゲーム機を持って来やがったヤツが最初だったな」
「そうです、そうです。それでシロエが持って帰って直してしまって…」
それ以来ですよ、とマツカ君。
「大抵の家にはあるんですよね、ゲーム機もソフトも」
「一時期、相当流行ったからなあ…。無理もないが」
そしてゲーム機はとうにオシャカの筈なんだが、とキース君がシロエ君の手元を見詰めて。
「シロエにかかれば劇的に直ると評判が立ってしまったからな」
「持ち込みが後を絶たないよねえ…」
いっそ料金を取ればいいのに、とジョミー君。タダでは気前が良すぎないか、と。
「いえ、ぼくはこういうのが好きですから…」
「…駄目だな、これは」
明日も副業まっしぐらだな、とキース君が苦笑して、案の定…。
「うわあ、それだけ持って来たのかよ!」
今日の昼飯、カニ鍋だぜ? と呆れるサム君。雪模様の中、会長さんの家の近くのバス停に降り立ったシロエ君は大きな袋を提げていました。中身はゲーム機と修理用の工具に違いありません。
「あのさあ…。カニ鍋でそれやってるとさ…」
確実に負けるよ、とジョミー君が呆れた顔で。
「ただでもみんなが無言なのにさ、シロエがそっちにかかりっきりだと…」
「俺たちで全部食っちまうぜ?」
副業しながらカニを食うのは無理だもんな、とサム君が。
「カニを毟った手で弄れねえしよ、まったく何を考えてんだか…」
「そのカニですけど、ぼくは毟らなくてもいいそうですよ?」
食べるだけで、とシロエ君がサッサと歩きながら。
「ぶるぅが毟ってくれるそうです、昨日の夜に思念波で連絡が来ましたから」
「「「えーーーっ!!!」」」
それは反則とか言わないか、と一気に集中する非難。自分でカニを毟らなくても食べられるカニ鍋、そんな美味しすぎる話があってもいいんでしょうか?
「ずるいよ、ぶるぅに毟って貰って食べるだけなんて!」
ジョミー君が責め、サム君だって。
「ぶるぅはプロだぜ、お前、食いっぱぐれねえに決まっているし!」
「いいんですってば、ぶるぅが言ってくれたんですから」
今日のぼくは副業しながらカニ鍋です、と言い切られては反論出来ません。行き先は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の家ですし…。
「くっそ~、シロエが羨ましいぜ!」
「ぼくも羨ましくなってきた…」
毟らなくても食べられるカニ、とシロエ君が提げた袋をみんなでジロジロ、袋の中身は免罪符ならぬゲーム機の山と来たものです。
「いいなあ、毟らずに食べられるカニ…」
「でもよ、副業があるからだしなあ…」
無芸大食だとぶるぅも世話してくれねえよな、というサム君の台詞でグッと詰まった私たち。食べるだけなら誰でもお箸と器があったら可能ですけど、古いゲーム機の修理なんかは…。
「…俺には無理だな、どうあがいてもな」
「ぼくも無理だよ…」
仕方ないか、とキース君にジョミー君、他のみんなも。今日のカニ鍋、シロエ君の勝利…。
かくしてシロエ君は大量のゲーム機を修理しながら午前中のおやつを平らげ、カニ鍋の方も。食べるのがお留守にならないように、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がマメに声掛けした結果。
「…シロエが一番食ったんじゃねえか?」
カニの殻から察するに、とサム君が指差し、みんなで溜息。
「…負けたようだな…」
俺も頑張って食ったんだが、とキース君がぼやいて、ジョミー君が。
「ぼくも負けないつもりだったのに…。カニの量では敗北したよ!」
でも雑炊では負けないからね、と締めの雑炊をパクパクと。シロエ君の方は雑炊が冷めるに違いない、と眺めていれば。
「終わりましたーっ!」
これで全部、とシロエ君、いきなり戦線復帰と言うか参戦と言うか。修理を終えたゲーム機を置くなり雑炊をパクパク、それも熱い内に。
「嘘だろ、おい…!」
このタイミングで戻って来るなよ、というサム君の声は無駄に終わって、シロエ君が。
「すみません、こっちに刻み海苔を多めで!」
「かみお~ん♪ おかわり、たっぷりあるからねーっ!」
はい、刻み海苔! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がシロエ君の雑炊にパラパラと。熱々の雑炊、シロエ君もリアルタイムで食べるようです。いろんな意味で負けた気がします、今日のカニ鍋…。
せっせとカニを毟った人より、毟らなかった人が勝ったカニ鍋。なんだかなあ…、と溜息をつきつつ、食べ終えてリビングへ移動した後は飲み物片手にお喋りですが。
「そのゲームってヤツ、マジで評判高いよなあ…」
シロエに修理の依頼が山ほど殺到するんだし、とサム君がゲーム機を手に取って。
「なんだったっけか、モンスター狩り…?」
「そうですよ?」
往年の名ゲームですよ、とシロエ君。
「ぼくも少しだけやってましたね、機械弄りの息抜きですけど」
「そいつが何故だか大流行り、というのが今のシャングリラ学園か…」
一般にはもう流通すらもしていないんだが、とキース君。
「シロエの副業で時ならぬブームだ、そうなってくると調べるヤツらも増えてくるしな」
かつてのゲームの遊び方を…、という話から。
「流行りは裸縛りってヤツだったっけ?」
「らしいぜ、キノコ縛りとな」
ジョミー君とサム君が頷き合って、スウェナちゃんが。
「何なの、それは? 裸縛りとかキノコ縛りって…」
「なんか使わないって意味らしいよ?」
ぼくもゲームはやってないけど、とジョミー君が言えば、シロエ君が。
「簡単に言ってしまうとですね、特定のアイテムを使わないでゲームを進めるんですよ」
「そうか…」
あれはそういうヤツだったのか、とキース君。
「そうじゃないかとは思ったんだが、どういう風にだ?」
「裸縛りだと防具無しです、裸一貫っていう感じですね。防御力がグッと落ちるわけです」
「なるほど…。それは難しいかもしれないな」
「そうなりますね。その状況で何処までやれるか、仲間と競って遊ぶんですよ」
キノコ縛りはキノコ無しです、という説明ですが。
「「「キノコ?」」」
「ゲームの世界のアイテムですよ。キノコを食べると回復だったり、効果が色々…」
「それを食わずに進めるんだな、なるほどな…」
面白い縛りがあったものだ、とキース君がニッと。
「俺はゲームはやっていないが、同じやるならキノコよりも裸縛りだな」
そっちの方が楽しそうだ、という意見。キノコよりも裸なんですか…?
シロエ君が修理したゲーム機で流行っているゲーム。同じ遊ぶならキノコ縛りより裸縛りだ、とキース君が言い出しましたが、どうしてそっちの方がいいわけ?
「あくまで俺の個人的な意見ということになるが…。武道を志す者としてはな」
防具無しの方を選びたい、と柔道部ならではの見解が。
「ああ、分かります! ぼくもやるなら、断然、裸縛りの方ですね」
今は修理に忙しいのでやりませんが、とシロエ君。
「一段落したら、ちょっとやろうかと思ってるんです、久しぶりに」
「おっ、やるのかよ?」
お前も参戦するのかよ、とサム君が訊くと。
「もちろんですよ! これだけ流行ってるんですからねえ、やっぱり一度は遊ばないと…」
「それじゃ、シロエも裸縛りでやろうってわけ?」
キノコじゃなくて、とジョミー君。
「縛るんだったら裸でしょう。キノコくらいはどうとでもなります」
「…そういうもの?」
「そんなものですよ、一種のコツがありますからね」
キノコが無くても抜け道色々、とシロエ運。
「ですからキノコを縛るよりかは、裸縛りの方が面白味ってヤツがあるんですよ」
もう本当に運次第で…、とシロエ君が語れば、会長さんも。
「そうだろうねえ、ぼくもゲームはやってないけど、やるならそっちの方を選ぶよ」
「会長もやってみませんか? そうだ、いっそみんなで遊ぶというのも…!」
この際、みんなで裸縛りで…、とシロエ君は乗り気で。
「面白いですよ、あのゲームは」
「そうなのかい? お勧めだったら、その内に遊んでみるのもいいかな…」
「是非やりましょう!」
誰が勝者になるかが全く読めませんからね、と言われてみれば…。
「そっか、ゲームで競ったことって…」
無かったかな、とジョミー君が首を捻って、マツカ君が。
「無いですねえ…。長い付き合いですけれど」
「ね、そうでしょう? 一度みんなで!」
「それもいいねえ…」
悪くないね、と会長さんが頷きました。シロエ君の副業とやらが一段落したら、みんなでゲーム。キノコ縛りだか裸縛りだかで、腕を競おうというわけですか…。
「ぼくは裸縛りを推しますね!」
やるならソレです、とシロエ君が熱く勧めて、キース君も。
「キノコ縛りよりは、そっちだという気がするな…」
「縛り無しっていうのは?」
ジョミー君が声を上げましたが、サム君が。
「同じやるなら縛りつきだろ、無しだとイマイチ面白くねえよ」
「ぼくもそっちに賛成だよ!」
「「「!!?」」」
あらぬ方から声が聞こえて、振り向いてみればフワリと翻る紫のマント。ソルジャーがツカツカとリビングを横切り、空いていたソファに腰を下ろして。
「ぶるぅ、ぼくにも何か飲み物! おやつもあると嬉しいんだけど…」
「かみお~ん♪ そろそろおやつも入りそうだしね!」
サッとキッチンに走って行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がアーモンドクリームタルトを切り分けて運んで来てくれました。紅茶やコーヒー、ココアなんかも注文を聞いて熱いのを。
「はい、どうぞ!」
「「「いっただっきまーす!」」」
うん、美味しい! と頬張った所で、ソルジャーが。
「それでさ、さっきの裸縛りの話だけどさ…」
ぼくたちもやってみたいんだけど、とタルトを口に運ぶソルジャー。えっと、ぼくたちって…?
「決まってるだろう、ぼくとハーレイ!」
遊ばせてよ、と言われましても。
「あのぅ…。そういうゲームですよ?」
シロエ君が念を押しましたが。
「ゲームだからこそ、やりたいんじゃないか! 裸縛りを!」
是非ともそれで遊んでみたい、と熱意溢れるソルジャーの瞳。そんなにゲーム好きでしたっけ?
「モノによるんだよ、ハーレイとはレトロなボードゲームもやったりするしね」
「ああ、なるほど…。分かりました」
それじゃ二人分を余分に調達します、とシロエ君。
「なにしろ昔のゲームですから、行く所へ行けばタダ同然で売られてますしね」
「…売られてるって…。タダ同然で!?」
なんて素晴らしい世界だろう、と妙に感激しているソルジャー。誰も遊ばなくなったようなゲームとゲーム機、そういうものだと思いますけどね?
ゲームをするなら混ぜてくれ、と現れたソルジャーはシロエ君の言葉に感動しきりで。
「それじゃシロエに任せておくけど、アレだね、シロエも顔が広いね」
「それはまあ…。こういう道では長いですから」
行きつけの店も多いんですよ、とシロエ君。
「バイトから店長になった知り合いも大勢いますし、情報も豊富に入って来ますよ」
「素晴らしすぎるよ! まさかシロエにそんな特技があっただなんて!」
知らなかった、と嬉しそうなソルジャー。
「だったら、これからはノルディばかりに頼っていないで、そっちのルートも活用しなくちゃ!」
「「「は?」」」
どうして其処でエロドクターの名前が出るのだ、と思いましたが。
「だってそうだろ、シロエの方でもルートがあるっていうんだからさ!」
しかもタダ同然で色々なアイテムが手に入るルート、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「あの手のヤツって、ぼったくりだと思ってたけど…。ある所にはあるんだねえ!」
「…何がです?」
何のことです、とシロエ君が訊き返すと。
「嫌だな、今更、照れなくっても…。裸縛りのゲームに使うアイテムだってば!」
「ああ、それは…。ぼったくる店もありますけどね」
店の見分けが大切なんです、とシロエ君。
「マニアとかコレクター向けの店だと、プレミアがついて高値になるのがお約束です。でもですね、そういったものには見向きもしないような人が多い店だと…」
「安いってわけだね、それはそうかも…」
その趣味が無い人には売れないだろうね、とソルジャー、納得。
「高い値段をつけておくより、安くても売れる方がいい、と」
「そうです、そうです。仕入れたからには売らないと店も損をしますし…。それに売りに行く方も心得てますよ」
詳しい人なら、とシロエ君は得々として。
「タダでも引き取って貰えそうにないものと、自分にとってはどうでもよくても世間で人気の高いものとを持ってってですね、セットでなければ売りません、と言うわけですよ」
「なるほどねえ…! そうやって成り立っているわけなんだね、あの業界は」
「チェーン店だと駄目ですけどね」
その手の技が通用しません、と得意げに語られる玄人ならではの知識の数々。狙い目は個人経営の店なんですか、そうですか…。
シロエ君の話に聞き入ってしまった私たち。ソルジャーも相槌を打ったり質問したりと、大いに満足したようで。
「それじゃよろしく頼むよ、シロエ。ぼくとハーレイも混ぜて貰うってことで!」
「いいですよ。…用意が出来たら連絡ってことでいいですか?」
「どうしようかなあ…。次の週末、暇なんだけどね?」
「次ですか…」
シロエ君は壁のカレンダーを眺めて、それから指を折ってみて。
「その辺りだったら、なんとか間に合うと思いますよ。副業の方は当分忙しそうですが…」
たまには息抜きに遊んでみます、という返事。ソルジャーは「いいのかい?」と嬉しそうで。
「そこならハーレイも休めるんだよ、帰ったら早速、休暇届けを出しとかなくちゃ!」
「…遊び方の説明とかは要らないんですか?」
要るようでしたら付けときますが、とシロエ君。
「初めて遊ぶって人ばかりですしね、入門書をサービスしてるんです。ぶっつけ本番がいいって人も多いんですけど、入門書希望の人もけっこう…」
「ふうん…? 入門書まで作っているのかい?」
「ごく簡単なヤツですけどね。ページ数はそんなに無いんですよ」
基本のプレイと使い方くらいで、とシロエ君は謙遜していますけれど、その入門書。一度は要らないと断った人が貰いに来るほど、実は人気の品だったりします。分かりやすいと評判も高く、基本と言いつつ裏技も多数。
「へええ…。シロエがそういう入門書をねえ…」
流石は裸縛りの達人、とソルジャーはいたく感心したようで。
「ぼくも入門書は要らないってクチの人間だけどさ、それは貰っておこうかなあ…」
「分かりました。ゲームとセットで渡せるようにしておきますよ」
「…先には貰えないのかい?」
その入門書、とソルジャーが。
「入門書だけ先に貰えるんなら、ぼくのハーレイと是非、読みたいんだけど!」
「いいですけど…。生憎と今日は持って来てなくて…」
「君の家にはあるのかい?」
「ありますよ。人気ですしね、昨夜も何冊か作ってたんです」
余裕のある日に作っておかないと在庫切れになってしまいますし…、という計画性の高さ。この几帳面な性格が反映されてる入門書ですから、そりゃあ人気も出ますってば…。
シロエ君の家にはあるらしいですが、持って来てはいない入門書。ソルジャーはそれに興味津々、少しでも早く欲しいらしくて。
「シロエの家にあるんだったら、一冊、欲しいな…。それとも二冊貰えるのかい?」
ぼくの分とハーレイの分とで二冊、とソルジャーが訊くと。
「もちろんです。サービスですから、一人一冊は基本ですよ」
「嬉しいねえ! …出来れば持って帰りたいけど、君の家だし…」
瞬間移動で取り寄せるのは反則だよね、と残念そうにしているソルジャー。
「普段から馴染みの家なんだったら、ヒョイと取り寄せちゃうんだけれど…。シロエの家とは馴染みが無いから、家探しみたいになっちゃうし…」
「かみお~ん♪ ぼく、お手伝い出来ちゃうよ!」
シロエを家まで送ればいいの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が名乗り出ました。
「しょっちゅう送り迎えをしてるし、瞬間移動で送ってあげれば、シロエが入門書を二冊用意して帰って来られるよ、合図一つで!」
「本当かい? …シロエ、そのコースでお願い出来るかな?」
ソルジャーがシロエ君に視線を向けると。
「いいですよ? えーっと…。ぶるぅ、ぼくの部屋まで送って貰えますか?」
「お部屋でいいの? 作業部屋じゃなくて?」
「入門書は部屋の方なんですよ」
「オッケー! 行ってらっしゃーい!」
帰りは思念波で合図をしてね! とキラッと光った青いサイオン。シロエ君の姿がパッと消え失せ、ソルジャーは「有難いねえ…」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に御礼の言葉を。
「ありがとう、ぶるぅ! 君はいい子だよね、ぼくのぶるぅと違ってね」
「えーっ!? ぶるぅもいい子だと思うんだけど…」
「アレはダメだね、だからゲームにも混ぜてやる気は無いんだよ、うん」
ぼくのハーレイだってやる気を失くしてしまうから…、とブツブツと。
「いくら周りが盛り上がっていたって、ぶるぅはねえ…」
「ぶるぅ、駄目なの?」
「よくないね! なにしろ悪戯が生き甲斐だけにね!」
ついでに覗き…、とソルジャー、溜息。
「せっかくのゲームがパアになるんだよ、ぶるぅがいるっていうだけで!」
「「「あー…」」」
それはそうかも、と私たちも深く頷きました。悪戯されたらゲームどころじゃないですしね…。
間もなくシロエ君から「用意出来ました」と思念波が。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のサイオン発動、シロエ君はリビングに青い光と共に戻って来て。
「昨夜作った甲斐がありましたよ、休日に二冊も出るなんて思っていませんでしたし…」
「申し訳ないね、急に我儘言っちゃって…」
「いえ、せっかくのゲームですから…。早めに知識を入れておいたら有利ですよ」
どうぞ、と差し出された入門書が二冊。
「あっ、俺も貰っておきてえな、それ!」
「ぼくも早めに欲しいんだけど!」
サム君とジョミー君が声を上げ、キース君も腰を浮かせています。そういうのは早めに言ってあげたらシロエ君も一回の往復で済んだのに…、と思ったのですが。
「…モンスター狩り入門ねえ…」
ある意味、モンスター狩りかもね、と表紙を眺めているソルジャー。
「普通の人には敷居が高いものだとも聞くし、ぼくとハーレイにしたってねえ…。ハーレイはヘタレが基本だからねえ、モンスターに挑むようなものだよね、うん」
「「「は?」」」
キャプテンのヘタレとゲームで遊ぶのとにどう関係があるんだか、と首を傾げていれば、ソルジャーは入門書をウキウキ開いて。
「…えっ?」
キョトンと目を見開いているソルジャー。異世界のゲーム機の操作方法が謎だったのか、ゲーム機そのものに馴染みが無いのか。どっちだろう、と観察していると。
「…これって、ゲーム機の使い方のように見えるんだけど?」
「そうですよ? まずは其処から書かないと…。今のとは形が変わって来ますし」
「ふうん…? じゃあ、この先が問題ってことで…」
ゲーム機を何に使うんだろう、とソルジャーはページをパラパラめくっていましたが…。
「ちょっと訊いてもかまわないかな?」
これについて、と指差す入門書。
「いいですけど? 分からない単語でも出て来ましたか?」
「そうじゃなくって…。これの何処が裸縛りなわけ?」
「ああ、それはですね…。入門書には書いていないんですよ、そういう遊び方までは」
防具無しっていう意味ですね、とシロエ君はソルジャーに解説しました。入門書にも載っているような基本の防具も無しで遊ぶのが裸縛りで、防具無しだけにリスクが高いと。それだけに達成感も大きく、キノコ縛りも人気なのだと。
「…裸縛りって…。そんな遊びのことだったわけ!?」
おまけにキノコ縛りなんていうのもあったのか、とソルジャーは愕然とした表情で。
「どおりでシロエが詳しい筈だよ、入門書まで作るくらいにね…」
「…どうかしたわけ?」
君は何かを間違えたのかい、と会長さんがニヤニヤと。
「ぼくたちと一緒にゲームしたいとか、君のハーレイまで連れて来るとか、妙に嬉しそうにしていたからねえ、あえて訊くような無粋な真似はしなかったんだけれどね?」
「分かってたんなら、無粋なチョイスで良かったんだよ!」
ぼくの期待を返してくれ、とソルジャーの泣きが入りました。
「シロエが詳しいっていう店の方も、どういう店だか分かったよ! ぼくが思ってたような店じゃなくって、シロエでも堂々と入れる店で!」
「…何の店だと思ってたんです?」
売る時には身分証明書とかが要るんですけど、とシロエ君が訊くと、ソルジャーは。
「そういう店の逆だってば! 身元なんかは分からない方が良くて、十八歳未満かどうかの確認くらいで、それだって微妙なくらいのお店!」
早い話がアダルトショップ、と出て来た言葉に唖然呆然。万年十八歳未満お断りと言われる私たちですが、アダルトショップが何かくらいは分かります。シロエ君とソルジャーが盛り上がっていたのがアダルトショップと勘違いしての話となったら、裸縛りの方だって…。
「そうだよ、ぼくは裸で縛り上げる方の遊びだとばかり…!」
真っ裸にしたり、真っ裸にされたり、それをロープや紐やらで…、と斜め上な台詞。それってどういう遊びなんですか、ソルジャーの言う裸縛りとは…?
「いわゆるSMプレイだよ! それをやろうとしているんだと思ってさ…!」
だから混ざりたかったのだ、とソルジャーはシロエ君が作った入門書を手にしたままで。
「ハーレイにだって休暇を取らせて、こっちの世界でSM三昧! 次の週末はそれに限ると、ぶるぅなんかは混ぜたら終わりだと思ったのにさ…!」
なんてこった、とガックリ眺める入門書。本当に本物のモンスター狩りのゲームだったと、SMプレイというモンスターに挑むわけではなかったと。
「…あのねえ…。気付かない方がどうかしてると思うんだけどね?」
この面子で、と会長さんが私たちの方を順に指差しました。
「普段から何も分かっていないと評判の面子! これでどうやってそういう遊びを?」
「…シロエが詳しいって聞いたから余計に騙されたんだよ…」
ちゃんと話が噛み合ってたから、と項垂れられても困りますってば、そんな勝手な勘違い…。
自分に都合よく聞き間違えたか、取り違えたか。裸縛りをしたかったらしいソルジャーの思惑は分かりましたが、アヤシイ遊びに付き合う義理はありません。シロエ君は「じゃあ、この冊子は要らないんですね?」と入門書二冊を回収すると。
「ゲーム機とソフトの手配も要りませんよね、勘違いですし」
手間が省けて助かります、と立ち直りの早さは頭脳派ならでは。いえ、柔道も凄いですから文武両道と言うのでしょうけど…。ダメージの深さはソルジャーの方が大きそうだな、と見ていると。
「待ってよ、ゲーム機はどうでもいいけど、裸縛りの方だけは…!」
そっちは諦め切れないのだ、とソルジャーが始めた悪あがき。次の週末は裸縛りで遊びたいのだと、裸縛りをやってみたいと。
「あのですね…。ゲーム機が無いと出来ませんからね、裸縛りは!」
ついでにキノコ縛りも無理です、とシロエ君が毅然と切り返しを。
「ぼくたちが遊びたい裸縛りはゲーム機が無いと不可能です! キノコ縛りも!」
「待ってよ、キノコ縛りというのは何なんだい?」
それも魅力的な響きだけれど…、と食い下がるソルジャー。シロエ君は「キノコと言ったらキノコですよ」とバッサリと。
「ゲームの中で使うアイテムなんです、キノコを食べれば色々な効果があるわけですが…。それを一切使わないのがキノコ縛りというプレイです!」
「…たったそれだけ?」
「それだけです!」
それ以上でも以下でもないです、とシロエ君は容赦がありませんでした。…って言うか、ソルジャー相手にここまで戦えた人が今までに誰かいただろうか、と思うくらいに強いシロエ君。あのソルジャーにはキース君はおろか会長さんでも歯が立たないのが私たちの常識だったんですが…。
「そのキノコの効果って、どんな風に…?」
色々というのはどんな感じで…、とソルジャーはまだ未練たらたら。シロエ君は「そんなのを知ってどうするんです!」と一刀両断、ゲームもしないのに意味など無い、と言いつつも。
「回復薬とか強化薬とか、栄養剤とか、秘薬とか…。いにしえの秘薬もありましたね、ええ!」
どれも関係無いですけどね、とツンケンと。
「知りたかったら、まずはゲームを始めて下さい。それからだったら相談に乗ってもいいですよ」
裏技だろうが、キノコ縛りの抜け道だろうが…、と言われたソルジャー、悄然として。
「…そのキノコ、全部、ゲームの世界のものなんだ…?」
おまけに縛るのもゲーム用語か、とそれはガックリきている様子。キノコなんかを縛った所で何かの役に立つんでしょうかね、この現実の世界ってヤツで…?
裸縛りを勘違いしてSMプレイがしたかったソルジャー、今度はキノコに御執心。キノコを縛って何の得があるというのやら…、と思っていたら。
「だって、キノコを縛るんだよ!?」
ぼくのハーレイにもそれは立派なキノコが一本! とソルジャーはキッと顔を上げて。
「ぼくにもそれほど立派じゃないけど、キノコってヤツがついてるんだよ! 正確に言えばキノコじゃないけど、キノコそっくりの部分がアソコに!」
此処に、とソルジャーが指差す股間。ハーレイのアソコは立派なキノコだと、こっちの世界で言う松茸だと。
「「「…ま、松茸…」」」
なんというものに例えてくれるのだ、と今の季節が秋でなかったことに感謝しました。松茸の季節はとうに終わって今は真冬で、当分の間、松茸には会わずに済む筈です。松茸も、他のキノコにも。けれどソルジャーは「キノコなら此処にあるじゃないか」と譲らなくて。
「裸縛りも魅力的だけど、キノコ縛りだって…! しかも強化薬とか秘薬だなんて…!」
いにしえの秘薬もあるだなんて、とシロエ君が挙げたラインナップをズラズラと。
「それでこそ最高のキノコなんだよ、食べればもれなくパワーアップ!」
しっかり縛って、それから食べる! とグッと拳を。
「ハーレイのアソコをキッチリ縛れば、きっとパワーが漲るわけで!」
「…勝手にやっててくれませんか?」
次の週末はぼくたちはゲームをするんです、とシロエ君はまさに最強でした。
「ゲーム機を持たずに参加はお断りです、キャプテンと二人でお好きに遊んでおいて下さい」
「…裸縛りとキノコ縛りで?」
「遊び方は人それぞれですから、縛らない人も中にはいますよ」
縛ったら最後、まるでゲームが進まない人も多いんですから、と当然と言えば当然な話。
「縛りプレイは猛者向きなんです、素人さんにはそうそうお勧めしませんね!」
でもぼくたちはやりますけどね、とキッパリと。
「キース先輩も乗り気でしたし、他のみんなもやるなら裸縛りなんだということですし…。次の週末はゲームなんです、ゲーム機を持たずに来て頂いても、いいことは何もありませんから!」
「…そういうオチかい、ぼくはわざわざやって来たのに?」
「ぼくだって、わざわざ入門書を取りに帰りましたよ!」
勘違いのせいで瞬間移動はお互い様です、と言い返されたソルジャーは。
「ぼくのは空間移動なんだけど…」
「ほんの一文字、違うだけです!」
どっちもサイオンで移動ですから、とシロエ君も負けていませんでした。かくしてソルジャー、手ぶらで帰って行く羽目になって…。
「すげえな、シロエ! 追い返したぜ、あいつをよ!」
サム君がシロエ君の肩をバンバンと叩いて、キース君が。
「俺はお前を見直さないといけないな…。柔道の方なら負けはしないが、あいつの扱いについては負けた。一本取られたという気がするぞ」
「本当ですか、キース先輩!?」
ぼくは先輩に勝ったんですか、とシロエ君は感無量で。
「夢を見ているような気分ですよ。ぼくはゲームについて語っただけなんですが…」
「いや、充分に凄かった。流石はゲーム機を修理出来るだけの達人ではある」
しかもゲームもやり込んだんだな、とキース君はシロエ君を絶賛しました。だからこそソルジャーに口先だけで勝利できたと、見事に叩き出せたのだと。
「俺は猛烈に感動している。まさかあいつに勝てるヤツが存在していたとは…」
「ぼくも同感だよ、シロエがアッサリ勝つだなんてね」
あのブルーに…、と会長さんも大感激で。
「話が最初から噛み合ってないことは分かっていたけど、シロエがいなけりゃ、今頃はね…。もう間違いなく大惨事ってね」
「そうでしょうか?」
「うん、保証する。次の週末はゲームどころか仮装パーティーとかにされていたね」
そして裸で縛りなのだ、と会長さんは吐き捨てるように。
「ぼくたちは絶対参加しないと言ったってさ…。相手はなにしろブルーだからねえ?」
もう強引に押し掛けて来るに決まっている、と言われて私たちも「うん、うん」と。ソルジャーだけに教頭先生を巻き込むこともありそうで…。
「その線も大いにあっただろうねえ、仮装パーティーをやらかすならね!」
真っ裸にされて縛り上げられたハーレイを肴に飲む会だとか…、と会長さんの発想の方もソルジャーに負けず劣らず酷いものでした。教頭先生を裸縛りだなんて…。
「だけどブルーは好きそうだろ? そういうのもさ」
「…好きそうですね、あの性格なら」
裸もキノコも縛りますよ、とシロエ君が溜息をついて、ソルジャーの手から回収して来た入門書の表紙を手でパタパタと軽くはたいて。
「この二冊、誰か要りますか? 今ならお得な裏技ペーパーをサービスしますが」
裏技ペーパーのお届けは明日に会った時に、という声に「ハイ、ハイッ!」と挙がる手が多数。ジャンケン勝負の末にサム君とマツカ君がゲットしました、マツカ君、ジャンケン、強かったんだ?
シロエ君がソルジャーを追い返したお蔭で、一週間は何事も無く過ぎてゆきました。水曜日には「早めに慣れておいて下さい」とシロエ君からゲームソフトとゲーム機が配られ、入門書も。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で練習を重ね、家でも練習をして…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日はみんなでゲームだよね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出迎えてくれた、土曜日の朝の会長さんの家。寒波襲来で寒かったですから、まずは身体と手を温めて…。
「よーし、やるぞーっ!」
負けないぞ、とジョミー君がゲーム機の電源を入れて、私たちも。会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」もシロエ君が修理した古いゲーム機でスタンバイです。
「会長、サイオンは抜きですよ? それに、ぶるぅも」
「分かってるよ。ついでに裸縛りだっけね」
「かみお~ん♪ 防具無しでも頑張るんだもん!」
さあやるぞ、とゲーム画面に向かった時。ピンポーン♪ と玄関チャイムが鳴って。
「誰かな、いきなり出鼻をくじいてくれたのは?」
宅配便かな、と会長さんがチッと舌打ち、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出てゆきましたが…。
「えとえと…。誰か、ハーレイ、招待してた?」
「「「はあ?」」」
なんだ、と顔を上げれば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の後ろに教頭先生が。コートを手にして、何故だか大きな紙袋まで。まさか中身はゲーム機では…、と注目したら。
「…そ、そのう…。今日はゲームだと聞いたのだが…」
「ゲームの日だけど?」
見ての通りで、と会長さんが自分のゲーム機を持ち上げて見せて。
「忙しいんだよ、今から始めるトコだから!」
「そうか、間に合ったようで良かった。注文の品を色々と揃えて来たものだから…」
これだ、と指差された紙袋。差し入れの食料か何かでしょうか? でも誰が…?
「ありがとう、ハーレイ! 買って来てくれた!?」
「「「!!?」」」
いきなり降って湧いたソルジャー、それも私服ときたものです。隣には私服のキャプテンまでが。
「どうも、ご無沙汰しております。本日はよろしくお願いします」
「いえ、私の方こそ…。お役に立てればいいのですが」
こういった縛りは初めてでして…、と挨拶している教頭先生。もしや紙袋の中身はゲーム機でも差し入れの食料でもなくて、もっとイヤンなものだとか…?
「ゲーム機はちゃんと用意して来たよ、この通り!」
こっちのハーレイも、ぼくのハーレイもゲーム機でね、とソルジャーは胸を張りました。この二台を使って裸縛りにキノコ縛りだと、ぼくも縛って貰うのだと。
「ちょ、ちょっと…!」
なんで何処からそういう話に…、と会長さんが慌てたのですが。
「君のアイデアがヒントになってね! 仮装パーティーなんてケチなことは言わずに、しっかりゲーム! 縛って遊んで、朝までガンガン!」
脱いで、脱いで! とソルジャーが促し、キャプテンが。
「脱がないことには始まらないそうです、ご一緒しましょう」
二人でしたら私も多少は心に余裕が…、と教頭先生に声を掛け、教頭先生が頷いて。
「そうですね…。脱がないと裸縛りになりませんしね、買って来た道具も無駄になりますね」
「ちょ、道具って…!」
いったい何を買ったわけ!? と会長さんが叫べば、ソルジャーが。
「それはもう! 紐にロープに他にも色々、栄養ドリンクとか精力剤とか!」
いにしえの秘薬も、それっぽいのを漢方薬店で特別配合! と強烈な台詞。
「これを使って裸縛りにキノコ縛りだよ、ちゃんとゲームに参加するから!」
特別休暇は取って来た! という声が響いて、ソルジャーはセーターをバサリと脱ぎ捨てました。
「さあ、始めるよ、裸縛りを! はい、脱いで、脱いで!」
「…だそうです、脱ぎましょうか」
まずはセーターを、とキャプテンが脱いで、教頭先生もセーターをポイと。
「そういうゲームの日じゃないんだけど!」
あくまで今日のは…、と会長さんがシロエ君の方を振り向いて。
「シロエ、あれを止めて! もう止められるのは君しかいない!」
「…え、えーっと…」
ぼくもこういうのは範疇外で…、とシロエ君も今回はお手上げでした。一度はソルジャーを追い返したというシロエ君でも駄目となったら…。
「…は、裸縛り…」
「キノコ縛りも来るのかよ!?」
もうこうなったらゲームに集中、それしか道はありません。ゲーム画面を見ている限りは…。
「「「何も視界に入らない!!!」」」
徹夜で朝までゲームしてやる、と決意したものの、狂乱の宴に勝てるのでしょうか? いえ、その前に教頭先生はどうなるんでしょうか、早くも鼻血で轟沈ですが…、って見ている場合じゃないですね? ゲーム、とにかくゲームです。裸縛りで頑張りますーっ!
ゲームで縛れ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
シロエ君が始めた副業のお蔭で、あのソルジャーを相手に、劇的な勝利でしたけど。
なんと言ってもソルジャーなだけに、まさかの逆転。悲惨な徹夜ゲームの行方が心配です。
次回は 「第3月曜」 6月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月はGWも終わった平日のお話。キース君が朝から災難で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(えっ…?)
とんでもない、とブルーが目を丸くした新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
何気なく見たら「新婚旅行」という文字が目に入ったから、読むことにした。SD体制が始まる前の、遠く遥かな昔のイギリス。その時代の貴族の新婚旅行についての記事。
広い領地に豪華な邸宅、特権階級だった貴族たち。きっと素敵な旅行だろうと思ったのに。
(お嫁さん、いきなり仕事なの…?)
そう書かれていたから、驚いた。貴族だったら、仕事なんかは無さそうだから。大勢の使用人がいる筈なのだし、家事は一切しなくていい。まして新婚旅行ともなれば、本当に遊び暮らすだけ。そういうイメージで読み始めたのに…。
(…なんだか違う…)
全然違う、と仰天させられた遠い昔の新婚旅行。
後の時代には事情が変わって、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったけれども。その前の時代は全く違った。長い旅には違いなくても、その行き先。
(…他所の家だなんて…)
親戚や友人の屋敷を丸ごと空けて貰って、其処に滞在したという。貴族どころか、王族だって。
家はもちろん、馬車も使用人もそのまま借りる。屋敷の持ち主は他の所へ移っているから…。
(…着いた日の、御飯…)
そのくらいは用意されているかもしれないけれど。次の日からは、下手をしたら着いた日の夕食辺りから、使用人に出さねばならない指示。「これを用意して下さいね」と。
食べたい食事を、食べたい時間に。お茶を飲みたくても、そのように。
いきなり家事の一切合切、それの指図が花嫁の仕事。自分で用意をしなくて済むだけ、使用人がしてくれるというだけ。
(…御飯も、掃除も…)
洗濯だって、指示をしないと上手く回らない貴族の生活。放っておいたら、自分の望み通りには何一つして貰えない。屋敷を貸してくれた人のやり方でしか動かないだろう使用人たち。
この時間に食事をしたいと思うのだったら、時間を指示して、メニューまで。
そうしなかったら、何が出たって言えない文句。下手をすれば無いかもしれない食事。その上、自分の生活ばかりではなくて…。
(お茶会に、食事の会まで開くの?)
そんなものまで開催するらしい。近くで暮らしている貴族や名士なんかを招いて。
主催するのは初めてなのに。使用人たちとも顔を合わせたばかりで、屋敷だってまるで把握してしないだろうに。どういう部屋があるのかも。用意出来るだろう食材なども。
(なのに、こなして初めて一人前…?)
酷いとしか思えないけれど。苛められているような感じだけれど。
当時の貴族には当たり前のことで、誰からも文句は出なかったらしい。そういうものだと思っていたから、新婚旅行が初仕事の場所。夫はともかく、花嫁の方は。
(…今の時代は違うよね?)
貴族なんかはとっくにいないし、その貴族だって「これは酷い」と思い始めたから、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったのだろう。
花嫁が初日から仕事をしなくても済むように。新婚旅行を楽しめるように。
きっと素敵なホテルに泊まって、色々な場所を旅して回って。
ビックリした、と目をパチクリとさせてしまった遠い昔の新婚旅行。
あんな時代じゃなくて良かった、と新聞を閉じて部屋に帰った。今で良かった、と。
勉強机の前に座って眺めた、ハーレイと写した記念写真。夏休みの一番最後の日に。ハーレイの腕にギュッと抱き付いた自分、二人揃って最高の笑顔。
(ハーレイと新婚旅行に行ったら…)
さっき読んだ貴族の旅行などとは違って、素敵で楽しいことだろう。使用人に指図しなくても、旅先で全部して貰えるから。食事の支度も、掃除なんかも、その道のプロに任せておけば。
結婚式を挙げて、それから旅行。
二人で選んだ場所へ向かって、荷物だけを持って。二人きりで出掛ける初めての旅。
(色々、初めて…)
ふふっ、と緩んでしまった頬。ちょっぴり赤いかもしれない。
ホテルに泊まってゆっくりしたなら、二人きりの夜。キスを交わして、それから、それから…。
きっと初めてのハーレイとの夜になるのだろう。やっと本物の恋人同士になれる夜。
チビの自分に「キスは駄目だ」と叱るハーレイ。
前の自分と同じ背丈になるまでは、とキスもしてくれないのがハーレイ。
あれほどうるさいハーレイなのだし、結婚するまでは許してくれそうな気がしないから。いくら強請っても、誘ったとしても、前の自分たちのような恋人同士になることは。
本当に甘くて、幸せな夜。心も身体も、きっと幸せ一杯で。
旅の間中、甘い甘い日々が続くのだろう。朝から夜まで、何度も何度もキスを交わして。
何処へ行くのかは分からないけれど、宇宙から地球を見に出掛けるという話もあった。宇宙船で地球の周りを回る旅。今の自分は宇宙から青い地球を一度も見ていないから。
(だけど、何処でもかまわないよね)
ハーレイと二人で初めての旅に行けるなら。二人きりの日々を過ごせるのなら。
地球を眺める旅でなくても、地球の上での旅で充分。他の地域へ出掛けさえせずに、今の自分が暮らす地域の中の旅でも。
二人きりで過ごす、甘い旅行を終えてこの町に帰って来たら…。
(ハーレイの家に帰るんだよ)
今の自分が生まれ育った、この家ではなくてハーレイの家。其処に二人で帰ってゆく。
きっと初めて泊まる家。
それまでにも何度も遊びに行ったり、結婚の準備で何度も出入りはするだろうけれど…。相手はキスさえ許してくれないハーレイなのだし、結婚するまでは泊めてくれそうもない。いくら大きく育っていたって、「もう夜だしな?」と車に乗せられて、家へと送り返されて。
だから、新婚旅行から帰って来た日が、ハーレイの家での初めての夜。そういう予感。
とても新鮮で特別な夜。
(ホントに色々…)
本物の恋人同士になっていたって、ハーレイのベッドは初めてだから。
ハーレイの寝室で夜を過ごすのも、その夜が初めてなのだから。
新婚旅行の時とは違って、もっと幸せで満ち足りた夜。これからはずっと二人一緒、と。
次の日の朝は、初めての朝食。ハーレイの家で迎える初めての朝で、二人きりの食事。
(…ホントは一回、食べちゃってるけど…)
ハーレイの家で朝も迎えているのだけれども、あれは別。メギドの悪夢を見てしまった夜、何も知らずに瞬間移動をしていた自分。ハーレイのベッドに飛び込んだけれど、たったそれだけ。目を覚ましたらハーレイのベッドにいたというだけ、朝食の後は…。
(送り返されちゃったんだよ…!)
元の家へと、ハーレイの車で。朝食を食べたら、それっきりで。
そんな風にはならない朝が、新婚旅行から帰った次の日。ゆっくりと起きて、もしかしたら目が覚めた後にも、恋人同士の甘い時間が持てるかも…。
(…前のぼくたちだと、無理だったから…)
朝になったら、ソルジャーとキャプテン。名残のキスが精一杯。
シャワーを浴びて制服を着けて、時間通りに朝食だった。係の者がやって来るから。二人きりの食事には違いなくても、決まった時間。キャプテンからの朝の報告、それを聞く食事だったから。
(ちゃんと報告も聞いていたしね…)
恋人同士の会話はあっても、定刻に始まって終わった食事。ベッドで戯れてはいられなかった。
けれど、今度はソルジャーでもキャプテンでもない二人。何時に起きてもかまわない。
(お昼まで寝ててもいいんだものね?)
ベッドで甘えて過ごしていようが、朝から愛を交わしていようが。
また頬っぺたが熱くなる。それを想像してみただけで。
幸せに過ごして起きた後には、遅い時間でも朝御飯。ハーレイが作ってくれるのだろう。たった一度だけ、飛んで来てしまったあの日と同じで。
「お前、オムレツの卵は幾つだ?」などと尋ねてくれて。
ハーレイはきっとコーヒーを淹れて、其処から始まるだろう一日。トーストの匂いや卵料理や、美味しそうな匂いが漂う中で。
新婚旅行から帰って来たって、ハーレイの休暇が続く間は、本当に蜂蜜のような日々。甘い甘い時を二人で過ごして、ハネムーンの続きの幸せな日々。
でも…。
(終わったら、仕事…)
今頃になって気付いた現実。ハーレイの休暇はいつか終わって、仕事にゆく。学校へと。
自分はポツンと残されるのだった、家に一人で。ハーレイを仕事に送り出して。
結婚式や新婚旅行や、楽しかった日々が終わったら。ハーレイの休暇が済んでしまったら。
(…ゴールじゃなかった…)
ずっと幸せな甘いことばかりが続くんじゃなかった、と零れた溜息。
ハーレイとの結婚が目標だけれど、結婚式はゴールではなくて、始まりだった。二人で暮らしてゆくことの。ハーレイと一緒に生きてゆく日々の。
ずっとその日を夢に見ている、色々なことも始まるけれど。旅行も食事も、日帰りではない長いドライブだって出来るのだけれど。
(独りぼっち…)
ハーレイと一緒に暮らしていたって、仕事にはついて行けないから。
朝、ハーレイを送り出したら、一人で家にいるしかない。時間を潰せることを見付けて。掃除や洗濯をするにしたって、きっと一日もかかりはしないし、他に時間を潰せる何か。
そういう何かが見付からないなら…。
(ぼくも仕事に出掛けるとか…?)
仕事はあまり、向いていそうにないけれど。
ハーレイにも、そう言われたけれど。家にいる方が似合いそうだと。
やりたい仕事は思い付かないし、前の自分はソルジャーだった。まるで役には立たない経験。
今のハーレイもキャプテンだった頃とは全く違う仕事だけれども、ハーレイの場合は…。
(元々、違う仕事の経験者だったんだよ!)
厨房からブリッジに転職したのが前のハーレイ。料理とキャプテンは違いすぎる仕事。それでも苦もなくこなしていたから、古典の教師という今の仕事も天職の一つなのだろう。
それに比べて自分ときたら、出来そうな仕事も思い付かない。家にいるしか無さそうな自分。
(どうなるの、ぼく…?)
ハーレイが仕事で留守の間は、何をしていればいいのだろう?
母のように料理を頑張ってみるとか、お菓子作りや、庭仕事や。お菓子作りなら…。
(ハーレイの好きなパウンドケーキ…)
大好物だと聞いているから、マスターしようと思っているケーキ。ハーレイの母が作るケーキと同じ味のを、それが焼ける母に教わって。
見事に焼けたら、ハーレイの笑顔が見られそうだけれど。
そう毎日は作れないだろう。同じお菓子しか出ない日々だと、ハーレイが飽きてしまうから。
他にも色々なお菓子や料理を作るためには…。
(お嫁さんの学校…)
料理やお菓子の作り方を教えてくれる学校に行くのが、多分、一番。
行こうと思ったこともあるけれど、男の子向けのコースは無い。残念なことに、対象はあくまで女性ばかりで、男性が行くならプロの料理人を目指す学校。
お嫁さんの学校と違って毎日授業で、通う期間も長すぎる。とても行ってはいられない。
そうなってくると…。
(現場で勉強…?)
さっき新聞で読んだばかりの、イギリス貴族の花嫁のように。
新婚旅行に行った途端にぶっつけ本番、食事のメニューも家の中のことも、何から何まで一人でやるしかなかった花嫁。自分が指示を出さないことには、食事も出ては来ないのだから。
(きっと色々、失敗だって…)
起こっていたに違いない。慣れない間は、きっと沢山。そうやって経験を積んだのだろう。
(使用人を使うか、自分でやるかの違いだけ…)
イギリス貴族の花嫁も自分も、初心者という点は全く同じ。現場で勉強するしかない。料理も、他の色々なことも。
(前のぼくだって、やっていないし…)
青の間の掃除をしていた程度。係にばかり任せていては悪いから、と出来る範囲で。
けれど、料理や洗濯などはしていなかった。
アルタミラからの脱出直後は、ゴチャゴチャだった船の中を整理したりもしたけれど。気付けば物資を奪うのが仕事、他の雑事は誰かがやってくれていた。
ソルジャーと呼ばれるようになれば尚更、青の間を貰った後には部屋付きの係が何人も。
そういう風に暮らしていたから、前の自分も家事については初心者同然。
今の自分はチビの子供で、やっぱり掃除だけしか出来ない。ハーレイと十八歳で結婚するなら、家事を勉強する暇も無い。今の学校を卒業したら、直ぐに十八歳だから。
どうやら本当に現場で勉強するしかない家事。料理も洗濯も、その他のことも。
(…ぼく、上手く出来る…?)
母のように上手く出来るだろうか、家事というものを。ハーレイが留守にしている間に。仕事に出掛けている間に。掃除はともかく、料理や洗濯。
上手く出来なくても、ハーレイは怒りはしないだろうけど。派手に失敗していたとしても、怒る代わりに「大丈夫か?」と逆に慰めてくれそうだけれど。
(怒る…?)
ふと引っ掛かった、その言葉。きっと怒らない、と思ったハーレイ。
そのハーレイには叱られたことが滅多にない。今の自分も、前の自分も。
(キスは駄目だ、って…)
怖い顔をして睨まれはしても、その程度。コツンと額を小突かれるだとか、軽い拳が降ってくる程度。子供だからというだけではないだろう。前の自分も、怒ったハーレイは殆ど知らない。
怒る時には理由があったし、前の自分も納得していた。だから…。
(喧嘩だって…)
記憶にある限り、酷い喧嘩はしていない。
ハーレイはいつでも折れてくれたし、自分も我儘ではなかったから。
互いの立場を思い遣っては、仲直りするのが常だった。ハーレイが「少し言葉が過ぎました」と謝って来たり、前の自分が「ぼくが悪かったよ」と謝ったり。
ハーレイが本気で怒り出す前に、終わってしまっていた喧嘩。白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイは怒りはしなかった。怒ったとしても、酷い喧嘩は起こらなかった。
怒った所を滅多に見てはいないハーレイ。前の自分と過ごしたハーレイ。
(でも、今のぼく…)
今のハーレイも穏やかだけれど、問題は今の自分の方。平和な時代に育った自分。優しい両親と一緒に暮らして、愛されて育って来たものだから。
(…独りぼっちに慣れていないし…)
ハーレイと二人で暮らし始めたら、「帰りが遅い」と怒ってしまうかもしれない。仕事なのだと分かってはいても、寂しくて。独りぼっちで過ごす時間が長すぎて。
ハーレイは少しも悪くないのに、まるでハーレイが悪いかのように。
遅くなる日が続いたら。…遅いのだったら、ハーレイはその分、長く仕事をしたのだろうに。
ただの我儘、前の自分なら決して言いはしなかったこと。怒るどころか、気遣っていた。そんな時間まで仕事をしていたハーレイを。「遅かったけれど、大丈夫かい?」と。
けれど、今の自分に言えるだろうか?
自分の寂しさばかりをぶつけて、ハーレイのことは考えそうもない。前の自分の頃と違って。
(ハーレイと旅行に行く時だって…)
思い通りに運ばなかったら、不満を零してしまいそうな自分。少し予定が狂っただけで。
ハーレイは何も悪くないのに、「こんなの、酷い!」と。早い話が八つ当たり。
そうなったとしても、ハーレイは笑っていそうだけれど。
「俺のせいではないんだがな?」と余裕たっぷり、気分転換になりそうな話題なんかも。きっと怒りで返しはしなくて、軽く受け流して微笑んでくれて。
ハーレイだったら絶対にそう、と考えたけれど。
前のハーレイと三百年以上も同じ船で生きていたのだから、と思ったけれど。
(もしかしたら…)
今度は事情が違うのだった、とハタと気付いた二人きりの暮らし。いつか結婚してからの日々。
同じ家に住むのだし、毎日一緒。喧嘩したって、お互い、同じ家の中。
もしも自分の我儘が元でハーレイが腹に据えかねていても、距離を置きたいと思っていても…。
(…何処かでバッタリ…)
会ってしまうとか、会った途端に、またしても自分が何か我儘を言うだとか。
(それでホントに怒っちゃっても…)
顔を合わせずには暮らせない。同じ家なら必ず出会う。食事まで別には出来ないから。そこまでやったら、もう本当に大喧嘩。そうなるよりも前に…。
(ハーレイ、怒っちゃうんだよ…)
堪忍袋の緒が切れて。きっと自分が見たこともない怖い顔をして。
「お前と一緒に飯が食えるか!」とか、「お前の顔なんか見たくもない」とか。
そんなハーレイは知らないけれど。前の自分は、一度も出会っていないのだけれど。
酷く怒ったら、ハーレイはどうなってしまうのだろう?
(まさか、叩くとか…?)
前の自分は叩かれたことは無いのだけれども、今の自分は何度もコツンとやられているから。
ああいう優しい「コツン」の代わりに、平手打ち。
大きな手で頬っぺたを引っぱたかれて、「反省しろ!」と怒鳴られるとか。
思ってもみなかった、ハーレイに叱られて叩かれること。
今の自分なら起こりかねない、そういう悲劇。ハーレイと暮らし始めたならば。
(…そんな…)
もし本当にそうなったならば、きっと自分は泣き出すだろう。ハーレイに頬を打たれた途端に。
自分が悪いと分かっていても。ハーレイが怒るのは当然なのだと思っていても。
悲しくて、そして辛くて、痛くて。
どうしてこうなってしまったのだろうと、ハーレイに叩かれるなんて、と。
前の自分だった頃から、ずっと一緒に生きて来たのに。酷い喧嘩は一度もしなくて、ハーレイが自分を叩くことなど無かったのに、と。
ポロポロと涙を零しそうな自分。堪え切れずに泣き声だって。
(でも、ハーレイの方がずっと…)
辛そうな顔になるだろう。悲しそうな顔をしているだろう。
自分が泣いてしまったら。
「こいつが悪い」と思っていたって、きっと後悔するのだろう。思わず叩いてしまったことを。どうして叩いてしまったのかと、ハーレイは悔やむに決まっているから。
(我慢しなくちゃ…)
酷い喧嘩にならないように。我儘ばかりでハーレイを怒らせないように。
頭を冷やしに庭に出るとか、冷たい水で顔を洗うとか。気分を切り替えて戻れるように。
ハーレイを悲しませたくはないから。
幸せ一杯に育った今の自分は、前の自分よりもずっと我儘。
ハーレイがどんなに譲ってくれても、もっと我儘を言いそうだから。ハーレイが怒り出すまで、遠慮なく。頬を叩かれて泣き出す羽目になってしまうまで、好き放題に。
何度も何度も夢に見て来た結婚生活。ハーレイと二人きりの家。
甘くて幸せな日々が始まるのだと思っていたのに、現実はそうはいかないらしい。さっき読んだ遠い昔の貴族の花嫁も大変だけれど、自分も充分、大変だった。
料理や家事はなんとかなっても、抑えられそうにない自分の我儘。ハーレイの帰りが遅いからと怒って、大喧嘩になることもありそうで。
平手打ちなどされてしまったら、ハーレイも自分も悲しいのだから、我慢するしかないだろう。独りぼっちが寂しい時でも、そうは言わずに。ハーレイに我儘をぶつけないで。
(なんだか大変…)
結婚したらホントに大変そうだ、と考えていたら、そのハーレイが仕事の帰りにやって来た。
母がお茶とお菓子を運んでくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。二人きりで過ごせる時間。いつもだったら大喜びで、夕食まで楽しくお喋りだけれど。
(…今だから我儘、言えるんだよね?)
自分はチビで、まだ子供だから。
ハーレイと一緒に住んではいなくて、我儘を言っても額をコツンと小突かれるだけ。大きな手が伸びて来て「こら」とコツンと。「我儘を言うな」と。
コツンとやられても、夕食が済んだらハーレイは「またな」と帰って行くから、怒ったとしてもそれっきり。家に帰れば忘れるだろうし、明日になったら元のハーレイ。
けれど、同じ家で暮らしていたなら、怒った気持ちは溜まるまま。家の中でバッタリ会ったら、我儘を重ねそうなのが自分。
ハーレイの怒りが爆発するまで、堪忍袋の緒が切れるまで。頬を叩かれてしまうまで。
お互い、悲しい気持ちをしなくて済むよう、結婚したら我儘は我慢、とハーレイの顔をついつい見詰めてしまったから。
「おい、俺の顔がどうかしたのか?」
さっきからじっと見ているようだが、何処かに何かくっついてるか?
「んーとね…。我慢しなくっちゃ、って」
いつもハーレイが、そういう顔でいられるように。ちゃんと我慢、って。
「はあ?」
我慢って、何を我慢するんだ、お前?
いつもってことは、今だけのことじゃなさそうなんだが…。どういう我慢だ、お前の我慢。
「今はいいんだよ、一緒に暮らしていないから」
いつかハーレイと結婚するでしょ、その後の話。我慢しなくちゃ、って。
「なんだそれは? どうしたらそういうことになるんだ、結婚したらって…」
お前の夢だろ、俺の嫁さんになるというのは。…夢が叶うのに、我慢というのが謎なんだが?
「えっと…。ハーレイと一緒に暮らすことになるから、我慢なんだよ」
ハーレイを怒らせないように。
今みたいに我儘ばかり言ってたら、いつか喧嘩になっちゃいそう。
ハーレイが帰って来るのが遅いから、って文句を言うとか、他にも色々言いそうなんだよ。
前のぼくなら、ちゃんと我慢が出来たんだけど…。今のぼくは駄目。
アルタミラとかで苦労をしないで育って来たから、ホントに我儘一杯だもの…。
きっと言っちゃう、我慢出来なくて我儘ばかり。
そうならないように、きちんと我慢しなくっちゃ、って思うから…。
一緒に暮らしていくんだものね、と決意表明したのだけれど。
ハーレイは「なんだ、そんなことか」と笑みを浮かべた。「気にしないが?」と。
「結婚したって、お前はお前だ。我慢しなくていいんだぞ?」
今と全く同じでいいんだ、チビの子供でさえなけりゃ。…ちゃんと大きく育っていれば。
好きなだけ我儘を言えばいいのさ、俺の嫁さんなんだから。
今よりももっと我儘になっていいと思うぞ、お母さんたちの目も無いからな。
「でも…。ハーレイ、怒ると思うんだけど…」
うんと仕事が忙しいのに、「早く帰って」って我儘ばっかり言ってたりしたら。
前のぼくみたいに「疲れていない?」って言うよりも前に、「遅いよ」って文句ばかりなら…。
「ふうむ…。その程度で俺は怒りはしないが?」
それだけ寂しかったんだな、とギュッと抱き締めてやるってトコだな。遅くなってすまん、と。
「…ホント? 怒って平手打ちとかはしない?」
ぼくがハーレイを怒らせちゃったら、そういうこともありそうだな、って…。
だから我慢、って思うんだけど…。
「おいおい、失礼なヤツだな、お前」
俺がお前を引っぱたいたことが一度でもあったと言うのか、お前は?
もしも本当に怒ったとしても、前のお前との喧嘩程度だ。
睨んで終わりだ、ギロリとな。
それで充分、お前には効くし…。足りなきゃ怒鳴っておけばいい。
前のお前に怒鳴っちゃいないが、船のヤツらには何度か怒鳴ったこともあるしな。
ついでに、だ…。
前の俺だった頃に、俺が誰かを殴った所。…お前、そうそう知りはしないと思うんだがな…?
三百年以上も生きてたんだが、数えるほどしか手を上げたことは無いのが俺の自慢だ。
ゼルは別だぞ、あれは喧嘩友達でじゃれ合いだからな。
余程でなければ仲間たちに手を上げたことは無い、と言ったハーレイ。
パンチ力には自信があったが、それは最後の切り札だから、と。
「…ただの喧嘩で殴ったことは一度も無い。平手打ちでもな」
ガツンと一発食らわない限り、目が覚めないような大馬鹿者。そういうヤツしか殴らなかった。
それも散々、手を尽くした後で「これしかない」と思った時だ。
ゼルにお見舞いしていたパンチも、あいつが老けてしまった後にはやっていないから…。
お前、本当に殆ど知らない筈だぞ、俺が誰かを殴ったのは。
…忘れちまったか?
「ううん…。思い出した」
ハーレイは睨むだけだったんだよね、怒ってた時も。誰かが凄いヘマをやっても。
呆れたみたいに溜息をついて、腕組みをして睨んでいるだけ。「分からないか?」って。
「俺がどうして怒っているのか分からないほど、お前は馬鹿か?」って…。
怒鳴ることだって、ホントに必要な時だけだったよ。…普段は睨んで溜息だけ。
あれで充分、仲間は震え上がっていたし…。怒らせたんだ、ってペコペコ謝ってたし。
殴られた人って、ハーレイの指示を守らずに危ないことをした人だよね?
一つ間違えたら大事故だ、っていうようなことをやった人だけ。
「そういうことだ。…お前も覚えていたか」
殴られなければ分からないヤツしか殴ってはいない。…殴られたヤツが目を覚ますように。
もっとも、それが通じなかったヤツもいたんだがなあ、前のお前が寝ちまった後に。
ナスカでのことだ、あの星で生きると言い張ったハロルドに一発お見舞いしてやった。
シャングリラにはもう戻らない、と寝言を言っていたからな。
…だが、ハロルドには通じなかった。見ていた他の若いヤツらにも。
あの一発で目が覚めていたなら、ナスカの悲劇は起こらなかった。馬鹿は死ぬまで治らない、と昔から言うが、その通りになっちまったんだ。…ハロルドは。
「そうだっけね…」
ハロルド、ナスカで死んじゃったから…。せっかくハーレイが殴ったのにね。
前のハーレイが手を上げたことは、確かに殆ど無かったのだった。
だからこそ睨みと溜息だけで震え上がった仲間たち。「相当に機嫌が悪いようだ」と。
そんなハーレイが平手打ちなどする筈がない。命を危険に晒したわけではないのだから。
「分かったか? 大丈夫だ、修行を積んである」
そう簡単には殴らないよう、かれこれ三百年以上もな。…平手打ちでも同じことだ。
お前が喧嘩を吹っ掛けて来ても、受けて立たない自信もあるし…。
心配は要らん、結婚したって我儘放題のお前でいいんだ。俺はお前を叩きはしない。
「そっか…。睨むだけなんだね」
ちょっぴり我儘が酷くても。…睨んで溜息、それだけなんだ…。
「そうそう睨みもしないと思うぞ。お前の我儘にも慣れているからな」
前のお前も、ソルジャーとしての我儘ってヤツは相当だった。
俺が止めても、絶対に聞かん。それが必要だと思った時には、止めるだけ無駄というヤツで。
ジョミーを追い掛けて飛んでっちまうわ、挙句の果てにメギドまで飛んでしまいやがって…。
あの時でさえ俺は叩いていないぞ、前のお前を。
メギドはともかく、ジョミーの時なら叩けたんだが…。
お前はベッドで動けなかったし、とピンと指先で弾かれた額。
それでも俺は叩かなかった、と。
「…ハーレイ、ぼくを叩きたかった?」
ジョミーの時には我慢していたらしいけど…。メギドの時は。
命を危険に晒したんだし、前のぼくの頬っぺた、叩きたかった…?
「当然だろうが。…お前が生きて戻っていたらな」
殴るわけには流石にいかんし、派手に平手打ちを食らわせただろう。パアンと一発。
なんて危ない真似をしたんだと、そこまでしろとは言っていないと。
…そうだな、ジョミーの時に叩けば良かったか…。
あそこで一発叩いていたなら、前のお前も、もう少し命を大切にしたかもしれないな。メギドに飛ぶ前に少し考えて、他に最善の道は無いかと。
俺がお前を甘やかしちまって、叩かずに放っておいたから…。
本当に叩いてやりたかった時に、お前は戻って来なかった。…メギドからな。
「…前のぼく、叩かれ損なったんだ…」
ジョミーの時と、メギドの時と。…合わせて二回。
知らなかったよ、二回も叩かれ損なったなんて。…今のぼくの心配ばっかりしてて。
ハーレイはぼくを引っぱたくかも、って。
「なるほど、叩かれ損なった、と…。そういう言い方も出来るのか、あれは」
だったら、今度は叩いてやろうか?
前のお前が叩かれたかったように聞こえないこともなかったしな。
平和な時代じゃ、命の危機も無さそうなんだが…。お望みとあれば、一発くらいは。
我儘が過ぎた時に一発お見舞いするかな、その頬っぺたに。…もちろん、結婚した後だが。
「遠慮しておく…!」
叩かれちゃ困るから、我慢しようと思ったんだから…!
結婚したら我慢が大変だけれど、ハーレイを怒らせて叩かれないよう、頑張らなくちゃ、って!
叩いて欲しいなんて言っていないよ、痛そうだから…!
ぼく、叩かれたら、きっと泣いちゃうんだから…!
叩かないでよ、と悲鳴を上げたのだけれど。
痛い平手打ちも御免だけれども、前のハーレイが前の自分を叩き損ねたと言うのなら。
本当に叩きたかった時には、前の自分がもういなかったと言うのなら。
一度くらいは叩かれてみようか、我儘を言って。
ハーレイが睨んでも、溜息をついても、ちっとも聞かずに我儘放題。
前の自分は、どうやらハーレイに叩かれ損なったらしいから。
メギドから生きて戻っていたなら、ハーレイに頬を派手に叩かれたらしいから。
我儘を言って、溜息をつかせて、睨ませた後で、頬っぺたを出して。
「ぼくの頬っぺたを叩いてもいいよ」と、「あの時の分を返していいよ」と。
ハーレイはきっと、叩きはしないだろうけど。
きっと笑って許してくれるのだろうけれど、一度くらいは叩かれてもいい。
幸せな日々を二人で生きてゆくなら、前の自分がハーレイを酷く悲しませた分の一発を。
きっとペチンと叩かれるだけで、痛くないだろう平手打ち。
ハーレイは今も、ずっと昔も、変わらずに優しいままだから。
そのハーレイといつか結婚式を挙げて、二人きりの日々を幸せに生きてゆくのだから…。
結婚したなら・了
※結婚した後は、色々と我慢しないと、ハーレイを怒らせるかも、と心配になったブルー。
ハーレイの平手打ちは、前のブルーが二回、食らい損ねたらしいです。一度目で叩けば…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
やっぱり浮けない、とブルーが見上げたクローゼット。
学校から帰って、おやつを食べた後で。二階の自分の部屋に戻って。
クローゼットの上の方、鉛筆で微かに引いてある線。前の自分の背丈の高さに。ハーレイと再会してから間もない頃に、自分で書いた。これが目標、と。
床から丁度、百七十センチ。チビの自分が其処まで育てば、前の自分とそっくり同じ姿になる。
ソルジャー・ブルーだった頃の姿に。ハーレイとキスが出来る背丈に。
けれど、クローゼットに書いた印は遠いまま。いつもこうして見上げるだけ。届かないよ、と。
少しも近付いてくれない印。百五十センチから、一ミリさえも伸びない背丈。
それに…。
(…あの高さにだって、届かないよ…)
届かないのは背丈ではなくて、自分の頭がある高さ。こうして見上げるだけしか出来ない。
あそこに印を書き入れた日には、あの高さまで浮けたのに。サイオンを使って、ふうわりと。
前の自分の視点で見たなら、この部屋はどう見えるのか。床の位置やら、棚の高さやら、色々と眺めて遊んでいた。前とそっくり同じに育てばこう見える筈、と。
浮き上がったり、床に下りたり、何度も繰り返し遊んでいたのに…。
今はちっとも浮かない身体。どんなに印を見上げていても。
駄目だ、と今日もついた溜息。ぼくは少しも浮けないみたい、と。
タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いが不器用な自分。両親も呆れてしまうほど。瞬間移動は夢のまた夢、空も飛べない。床から浮くことだって出来ない。
(あの日は前のぼくだった?)
クローゼットに書いた印の高さに浮いていた日は。浮いたり下りたり、楽しんだ日は。
きっと気分が高揚していて、無意識の内にやっていたこと。
そういうつもりは無かったけれども、前の自分の記憶か経験、そういったものを引き出して。
遠く遥かな時の彼方でやっていたことを、そのまま写して。
(…今のぼくのサイオン、不器用だけど…)
あの日は確かに浮いて遊んだ。前の自分の視点はこう、と。努力しなくても出来たこと。
それから、メギドの悪夢を見た日に、ハーレイの家まで飛んで行った自分。無意識の内に、瞬間移動で。ハーレイが眠っていたベッドまで。
だから自分にも、潜在的には…。
(力、あるよね?)
サイオンは生まれつき不器用だけれど。自分の意志では、まるで使えはしないけど。
それでも力は持っているから、使えることもあるのだろう。
前の自分が身体の中に戻った時には、きっと上手に。
たったの二回しか、経験してはいないけれども。…クローゼットに印を書いていた日と、悪夢の後に瞬間移動で飛んで行った日と。
二つだけしか無い経験。前の自分が自由自在に使ったサイオン、それを自分も使えた日。
(前のぼくさえ戻って来たら…)
浮くどころか空へ飛び立てるのに、と床を蹴っても浮かない身体。クローゼットに書いた印は、ほんの一瞬、近付いただけ。身体ごと床に戻ってしまった。
ジャンプの限界、今の自分はこれしか出来ない。エイッと飛び上がることだけしか。
(こうやって勢いをつけておいたら…)
力の限りに飛び上がったなら、前の自分なら天井を突き抜けてゆけるだろう。凄い速さで。
今の自分がそれをやったら、酷く叱られそうだけど。「天井と屋根を壊すなんて」と。
けれど要らない、壊す心配。天井も屋根も破れはしない。自分は飛んでゆけないのだから。
(…ホントに絶対、出来ないんだから…)
飛んでみたくても絶対に無理、と思った所で気が付いた。前のぼくだって、やっていない、と。飛び上がることは簡単だったけれど、真上には飛んでいなかった。
シャングリラからは瞬間移動で出ていたから。雲海に潜む白い鯨を浮上させたら危険だから。
でも…。
(真上に飛んだよ?)
上に向かって真っ直ぐ飛んだ、と訴える記憶。そうやって高く飛んで行った、と。
出来る筈がないことなのに。シャングリラから真上に向かって飛び立つことは不可能なのに。
(えーっと…?)
シャングリラではなかったろうか、と首を傾げた。シャングリラ以外に船と言ったら、小型艇。前の自分が小型艇などで出るだろうか、と考える内に浮かんだギブリ。
(ナスカで、ジョミーと…)
二人でギブリに乗り込んだ。ナスカに残った仲間たちの説得に行く、と嘘をついて。ハーレイにだけは、本当のことを思念で伝えて。
シャングリラを離れて直ぐに襲ったメギドの炎。防ごうとギブリから飛んだけれども、あの時も瞬間移動だった。そのまま上に向かって飛んだら、ギブリを壊してしまうから。
あれも違う、と首を振った記憶。けれども、真上に飛んで行った記憶。
真っ直ぐに飛んで、もっと高く。ぐんぐんと上へ、遥か上へと。
(何処で…?)
有り得ない筈の、真上に向かって飛んでゆくこと。白いシャングリラでは出来ないのに。真上に飛べはしないのに。
(…前のぼくが夢の中でやってた…?)
本当に起こった出来事ではなくて、夢だろうかと思った記憶。そうかもしれない、と遠い記憶を手繰ってみる。とても気持ちのいい夢だったから、それを覚えていたのだろうかと。
シャングリラから上に飛べたなら、と。何処までも高く飛んで行けたら、と心に刻み付けた夢。
そうだったかも、と考えた途端、不意に浮かんで来た記憶。
(ジョミー…!)
思い出した、と得られた答え。真上に向かって飛び立った自分。シャングリラから。
前の自分が連れて来させたソルジャー候補。成人検査から救ったジョミー。けれど、ジョミーは手に余った。どうしても船に馴染まなかった。
現実を知れば変わるだろうと、帰したアタラクシアの家。其処に養父母はいなかったから。
あの時代に一般人として生きていた者は、子供を一人育てるのが義務。それを終えれば、休暇が貰えた。その間にユニバーサルの職員たちが来て、家から子供の痕跡を消す。何もかもを。
ジョミーが家に帰った時には、全て終わって空っぽだった。両親は長い休暇に出掛けて、彼らの荷物は誤って処分されないようにと他所に預けてあったから。
何も無い家を見せ付けられたら、ジョミーは戻ると考えたのに。
そうはならずに、アタラクシアを歩き回ったジョミー。学校へ出掛けて幼馴染にも会った。成人検査を受けた後には、二度と戻らない筈なのに。
それだけ動けば、ユニバーサルに居場所が知れる。ジョミーは捕まり、深層心理検査を無理やり受けさせられて…。
(…サイオン、爆発しちゃったんだよ…)
ユニバーサルの建物を破壊し、空に逃げ場を求めたジョミー。闇雲に逃げて、飛び続けて。
何機もの戦闘機の攻撃を避けて、高く、遠くと飛んで行ったジョミー。
あの時だった。前の自分がシャングリラから飛び立ったのは。
逃げるジョミーを連れ戻せるのは、もう自分しかいなかったから。小型艇では追えないから。
雲海の中から僅かに浮上したシャングリラ。高く聳えるアーチの先端、それが雲から覗く程度の高度まで。
その上に立って、浮上するのを待っていた自分。
雲の海から外に出た時、アーチを蹴って真上へと飛んだ。ハーレイが止める声も聞かずに。
「お待ち下さい、そのお身体では…!」と叫んだハーレイの思念。
それを振り切り、真っ直ぐに上へ。ジョミーを追って一直線に。
あれだったのか、と思い出した記憶。シャングリラから上へと飛び立った自分。
クローゼットの印を見上げて、それから勉強机の前に座った。溜息をついて、頬杖もついて。
(…前のぼく、いつも…)
ハーレイとは別れを惜しめなかったらしい。これが最後だと分かっていても。
メギドに向かって飛んだ時にも、ジョミーを追い掛けて飛んだ時にも。
すっかり忘れていたけれど。メギドで迎えた死が悲しすぎて、アルテメシアでも同じだったと、気付かないままでいたけれど。
(…シャングリラを浮上させろ、って…)
前の自分がそう命じた。ジョミーを追って飛んでゆくには、残しておかねばならないサイオン。少しでも負担を軽くしようと、瞬間移動で出るのをやめた。それだけでかなり違うから。
「ぼくが出るから」と命じられた時、ハーレイは止めたかった筈。前の自分を。
行けば命を失くすから。
残り少なかった前の自分の命の灯、それが消えるのは確実だから。
けれど、他には無かった道。自分以外の誰にも出来ない、ジョミーを船に連れ戻すこと。
ハーレイに「出る」と思念で伝えただけで、前の自分は飛ぶしか無かった。
それが自分の務めだったから。もしもジョミーを失ったならば、シャングリラの未来もミュウの未来も、何もかもが潰えてしまうのだから。
(…前のぼく、飛んで行っちゃった…)
ハーレイに「さよなら」も言えないままで。「ありがとう」とも伝えないままで。
白いシャングリラを離れて飛び立ち、ただひたすらにジョミーを追って。上へと、もっと高くと飛んだ。ジョミーが飛んでゆく方へ。
後継者として選んだジョミー。そのエネルギーの強さに魅せられ、残り僅かな命も忘れて飛んで行ったけれど。笑みさえ浮かべたほどだけれども。
ジョミーを捕まえ、成人検査の時の記憶を送り込むのが限界だった。それが最後に使えた力。
(あれでおしまい…)
そうなるだろうと覚悟していた通り。其処で自分の力は尽きた。
命の焔が消えてゆくのを感じる間もなく、力を失い、落ちて行った身体。アルテメシアの引力のままに、真っ直ぐに下へ。
薄れ、霞んでゆく意識。ジョミーに詫びて、そしてハーレイに…。
(ごめん、って…)
闇の中へと落ちてゆく前に、懸命に紡いだ最後の想い。届きはしないと分かっていても。
ごめん、とハーレイに謝った自分。
シャングリラにはもう帰れない、と。このまま尽きてしまうだろう命。
帰れたとしても、ハーレイと話す時間は取れない。船の仲間たちへの遺言、それを伝えるだけで精一杯で。
さよならも言えないままだった。「ありがとう」とも伝えられずに消えてゆく命。
誰よりも愛し続けたハーレイ、恋人に別れも告げられずに…。
悲しみの中で失くした意識。「ごめん」とハーレイに詫びて、そのまま。
なのに、気付けば身体に戻っていた力。ジョミーに救われ、拾った命。
自分は青の間に運び込まれて、傷の手当てをされていた。駆け付けたノルディや看護師たちに。
(…ジョミーが「生きて」って…)
意識は無くても覚えていた。注ぎ込まれた強い思いとエネルギーとを。
生かしてくれたジョミーのためにと、仲間たちに思念で語り掛けた言葉。生きて戻れたら、こう話そうと考えていた遺言の中身。「ジョミーを指標にして、地球へ向かえ」と。
もう遺言ではなかったけれど。暫くは生きていられそうだから。
それでも消耗していた身体は眠りを欲して、語り終えた後には開かなかった瞼。誰がいるのか、確かめたくても。…ハーレイがいないのは分かるけれども、他には誰が、と考えても。
引き摺り込もうとしている睡魔。抗う力がある筈も無くて。
このまま眠れば、二度と目覚めは来ないかもしれない。身体は命を繋いだとしても、心は二度と目覚めないまま。
そう思うけれど、開かない瞳。身体から抜けてゆく力…。
逆らえないままに眠ってしまって、ぽっかりと目を覚ました夜中。
(ハーレイが…)
側で見守ってくれていた。ベッドの脇に椅子を運んで来て、一人きりで。…キャプテンの制服をカッチリと着て。
そのハーレイの額に残った傷の痕。何処で怪我を…、と驚いたけれど。
「お目覚めですか? ブルー」
ソルジャーとは呼ばなかったハーレイ。それならば、誰もいないのだろう。青の間には。
他に誰かがいるのだったら、「ブルー」と呼ばれはしないのだから。
「…ノルディは?」
ぼくの手当てをしに来ていたと思うんだけど…。看護師たちも。
「もう大丈夫だと帰ってゆきましたよ」
あなたの容体が落ち着いたので…。点滴も刺さっていないでしょう?
今夜は私がお側におります、と温かな手で包み込まれた手。
皆にもそう言っておきましたから、と。
「…君が…?」
「はい。正々堂々といられますよ。…これが私の仕事ですから」
あなたの様子を一晩見るのが、今夜の私の役目なんです。医療スタッフは多忙ですからね。
…この傷、お気付きになりましたか?
船が揺れたはずみに、強くぶつけてしまったんです。けれど、これでも掠り傷ですよ。
「…まさか、ハーレイ…」
シャングリラは見付かってしまったのかい?
人類に位置を知られてしまって、それで攻撃されたのかい…?
「ご心配には及びません。…キャプテンの私が決めたことです」
あなたとジョミーを守るためには、それも必要だったかと…。シャングリラを浮上させました。敵の目をこちらに向けさせるために。
怪我人が何人も出てはいますが、皆、無事です。ミュウにはシールドがありますからね。
私はウッカリ張り損ねまして…、とハーレイが指した額の傷痕。
「どうやら油断していたようです、咄嗟にシールド出来なかったほどに」
防御に優れたタイプ・グリーンだから、という慢心があったかもしれません。直撃弾を食らった者でも、軽い火傷や打撲だけだというのがいます。
船が揺れて転んだ程度で怪我をするなど…。情けないとしか言えませんよ。
ノルディも「塗っておけ」と薬を投げて寄越しただけです、傷を診てさえくれませんでした。
「…そうだったんだ…。それで船の中が…」
あちこち落ち着いていなかったんだね、何故そうなのかを確かめるだけの力は無くて…。
後でみんなに謝らなければ、ぼくたちのせいで危険に晒してしまったのなら。
「それはジョミーの役目でしょう。…船の仲間に詫びて回るなら」
もっとも、今は次のソルジャーに指名されてしまったわけですからね。ジョミーに「詫びろ」と詰め寄る仲間はいないでしょう。…あなたにそうする仲間がいないのと同じ理屈で。
大丈夫ですよ、誰も怒っていません。シャングリラは無事に逃げ延びましたし、自信がついたと言っている者もいるくらいです。人類軍が来ても大丈夫だ、と。
「本当に…?」
君を信じてもいいのかい…?
酷い怪我をした者は本当にいなくて、シャングリラもちゃんと飛べるのかい…?
「ええ。…現に今でも飛んでいますよ」
キャプテンの私がブリッジにいなくても、いつも通りに雲の中を。
アルテメシアから逃げ出さなくても良かったからこそ、シャングリラは雲の中なんですよ。
ご心配無く、と説明された仲間たちと船の被害状況は、確かにそれほど酷くなかった。船の方は修理が始まっているし、怪我をした仲間はメディカルルームで治療中。重傷者は皆無。
良かった、と安堵の息をついたら、「スープをお召し上がりになりますか?」と優しい微笑み。
「野菜スープを用意してあります。夜中ですから、軽いものの方が…」
他にも何かお召し上がりになるのでしたら、厨房の者たちに連絡致しますが。
「…作っておいてくれたのかい?」
ぼくがぐっすり寝ている間に、あのスープを…?
「そうですが…。作り立ての方が良かったですか?」
お目覚めになってから作った方が良かったでしょうか、先に作っておくよりも…?
「ううん、今から作りに行ったら、暫く君は留守なわけだし…」
スープ作りで時間を取られてしまうよりかは、君が側にいてくれる方がいい。
今夜はぼくの側にいるのがキャプテンの仕事なんだろう?
…この部屋で君が正々堂々と夜を過ごせるチャンスは、ぼくも大事にしたいしね…。
作っておいてくれたスープがいいよ。…温め直すだけのスープの方がね。
「分かりました。…温めて来ます」
お待ち下さい、直ぐにこちらへお持ちしますから。
いつもと同じで、野菜を刻んで煮込んだだけのスープなのですけどね。
特別なことは何もしていませんよ、とスープを温めに奥のキッチンへ向かったハーレイ。
また食べられるとは思っていなかった、ハーレイが作る野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。
それをハーレイが運んで来てくれた。小さめのスープの器に入れて。
「どうぞ、ブルー。…熱いですから、お気を付けて」
慌てると舌を火傷しますよ、それでは私と変わりません。…額に怪我をした私と同じで、ただの間抜けになりますからね。
「そうだね、気を付けて飲むことにするよ」
ノルディたちは忙しくしているそうだし、舌の火傷は診てくれそうもないからね。
君の怪我よりも放っておかれそうだよ、戦闘中の怪我とは違うんだから。
…気を付けなくちゃ、とスプーンで掬って、息を吹きかけて軽く冷まして。
口に含んだ湯気の立つスープ。眠っている間に、ハーレイが作っておいてくれた野菜のスープ。
素朴すぎる味が美味しくて、そして温かくて。
また食べられた、と零れた涙。
このシャングリラから飛び立つ時には、もう戻れないと思っていたのに。
生きて帰って来られはしなくて、ハーレイにも二度と会えないままで。
きっとそうなる、と決めていた覚悟。自分の命はこれで尽きると。
けれど、帰って来られた自分。…遺言を遺すためにではなくて、まだ暫くは残された時間。
まだ生きられると、生きているのだと野菜スープが教えてくれた。
魂だけでは、きっと味など分からないから。…温かさもきっと、感じないから。
頬を伝って落ちた涙に、ハーレイが驚いて顔を覗き込んだ。
「どうなさいました?」
熱すぎましたか、そんなにグラグラ煮立てたわけではなかったのですが…。
「…そうじゃない。舌に火傷はしていないよ。…それは間抜けだと君にも注意されたから」
ただ、この味が嬉しくて…。また君のスープを飲めるのが信じられなくて…。
帰って来られたんだ、と思ったら涙が零れてしまっただけ。
ぼくは死なずに生きているんだ、と実感したらね…。
「…ずいぶんと無茶をなさいましたからね、あなたは」
私が止めても、少しも聞こうとなさらなくて…。シャングリラを浮上させろと仰っただけで。
どんな気持ちで私が船を浮上させたか、あなたはお分かりになりますか?
…浮上させたら、私はあなたを失うのですよ?
そうなることが分かっているのに、その指示を出すのは私なんです。…キャプテンですから。
「…分かっているよ。…ちゃんと分かっていたけれど…」
他には道が無かったんだよ、ぼくが出て行くしか道は無かった。誰もジョミーを追えないから。
…ジョミーのお蔭で、ぼくの命は延びたけれどね。
でも、それは夢にも思わなかったことだから…。ぼくは死ぬんだと思っていたから…。
力が尽きて落ちてゆく時、考えていたよ。君に「さよなら」を言いそびれたな、と。
ごめん、ハーレイ。…さよならも言わずに行ってしまって。
「まったくです」
私の身にもなって下さい、「さよなら」も言えなかったあなたを送り出した時の。
送り出すしかなかったのですよ、そうなるのだと分かっていても…。
生きて戻って来て下さって良かった、と強く抱き締められた胸。
野菜スープを飲み終えた途端に、逞しい腕に捉えられて。広い胸へと抱き込まれて。
「あんなことは二度となさらないで下さい」と。
「…よろしいですね? ソルジャーはもう、ジョミーですから」
ソルジャー候補と呼ばれてはいても、これからはジョミーが戦力なのです。…あなたには新しい役目があります、ジョミーを導いてゆくということ。
そのためにも決して無理はなさらず、お身体を大切になさらなければいけません。お命を危険に晒すことなど、言語道断というものです。
ジョミーも失望することでしょう。…あなたが命を無駄になさったら。
「分かっているよ。…ジョミーが生かしてくれたんだからね」
あの時、ジョミーが「生きて」と願ってくれなかったら、ぼくは戻れはしなかった。ジョミーの強い思いと、願い。…それが命を延ばしてくれた。
強い思いは力を生むから、ジョミーの願いがエネルギーの塊のように変わってね。
…本当だったら、ぼくは今頃、死んでしまっていたんだろうに…。
ジョミーがぼくにくれた命を無駄にしようとは思わない。…無駄にはしないよ、絶対にね。
それに…、とハーレイの腕の中で続けた言葉。
君に「さよなら」を言わないままで死んだりしない、と約束した。言えなかったことを悔やんでいたから、これだけは必ず言わなければ、と。
「…約束するよ。ぼくの命が尽きる時には、きっと言うから」
だから、キャプテンとしてでいいから、ぼくの手を握っていて欲しい。…ぼくの側で。
手をしっかりと握っていてくれれば、必ず「さよなら」は伝えるから。
…どんなに弱っていたとしたって、最後に君に。ぼくは最期まで君だけを想い続けるから…。
「ええ、ブルー。…約束します。あなたの手を握ってお見送りしましょう、その時が来たら」
ですが、ほんの少しの間だけですよ。…お別れするのは。
直ぐに追い掛けてゆきますから。私も、あなたがいらっしゃる場所へ。
「…君の気持ちは嬉しいけれど…。君と一緒なら、ぼくも幸せだろうけど…」
そうしたら、ジョミーはどうなるんだい?
この船でジョミーは独りぼっちだ、ぼくも君も死んでしまったら。
「ジョミーのことなら、なんとでもなります」
あなたが飛び出して行かれた時にもそう思いました。あなたがお戻りにならなかった時は、私も一緒に行かなければ、と。
…あなたの寿命が尽きると分かった時から、私は約束しております。ご一緒すると。
ですから、引き継ぎが済み次第、あなたを追ってゆきます。…長くはお待たせ致しません。
この船にはシドもいますから、と真顔だったハーレイ。必ず一緒に参りますから、と。
シドはハーレイの後継者だった。…キャプテン・ハーレイの跡を継げるよう、ハーレイが選んだ次のキャプテン。主任操舵士という役職を作り、ハーレイ自身が任命して。
そう、シドは前の自分が命尽きた後、ハーレイが後を追えるようにと選び出した者。死んだ後も何処までも共にいようと、必ず追ってゆくからと。
(…そっか…)
そういう約束だったんだっけ、と思い出した時の彼方でのこと。
ジョミーを追い掛けて飛んだ自分が生きて戻って、あの日、ハーレイと交わした約束。死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、それを言わずに死にはしないと。
言いそびれたままで死にゆく自分が悲しかったから、それを忘れていなかったから。ジョミーの力に救われて生きて戻った後も。
だから必ず言おうと思った。いつかその日が来た時には。
いつも自分の側にいてくれた愛おしい人に、「さよなら」と。そして「ありがとう」と、想いの全てをハーレイに向けて。
けれど、自分は約束を破ってしまったのだった。
あんなに悔やんでいたというのに、それをすっかり忘れてしまって。
赤いナスカに滅びの危機が迫っていた時、十五年もの長い眠りから目覚めた自分。自分の役目は皆の未来を守ることだと、躊躇いもせずにメギドへと飛んだ。
約束していた「さよなら」も言わずに、「ジョミーを頼む」とハーレイを船に縛り付けて。
前の自分が破った約束。ハーレイに「さよなら」と言いもしないで、前の自分は飛び去った。
ジョミーを追い掛けて飛び立った時に、それを後悔したというのに。二度としないと、死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、ハーレイに約束していたのに。
約束をきちんと守るどころか、忘れてしまっていたのが自分。それも今日まで。
ハーレイはどんなに悲しかっただろうか、聞けずに終わった前の自分の別れの言葉。必ず言うと約束したのに、「さよなら」と言いもしなかった自分。
(ぼく、本当に酷いことしちゃった…)
謝らないと、と机の前で項垂れていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋で向かい合うなり謝った。母が「ごゆっくりどうぞ」と去るのを待って。
「ハーレイ、ごめん…」
ホントにごめん。ぼく、ハーレイに悪いことしちゃった…。
「はあ?」
ごめんって…。お前、俺の授業中に何かやっていたのか、机の下で…?
「授業の話じゃないんだけれど…。ぼくは約束、破っちゃったんだよ」
「何の話だ?」
俺は宿題を出していないと思うんだが…。何の約束を破ったんだ?
「前のぼく…。ハーレイに約束してたのに…」
ぼくが死ぬ時には、ハーレイに「さよなら」を言うって約束したんだよ。…アルテメシアで。
ジョミーを追い掛けて飛んで行った時に、ハーレイに「さよなら」を言いそびれちゃって…。
言えなかったな、って悲しい気持ちで死んじゃう所を、ジョミーに助けられたから…。
これじゃ駄目だ、ってハーレイに約束したのが「さよなら」。
死ぬ時は必ず言うことにする、って前のハーレイに約束してた。…もう懲りたから、って。
だけど、忘れてしまったんだよ。…そういう約束をしていたことを。
言わないままでメギドに行っちゃったんだよ、ぼくは約束、破っちゃった…。
おまけに約束のことも忘れちゃってた、と謝った。前の自分がした約束を。
「…今日まで忘れてしまってたんだよ、ハーレイに約束してたのに…」
さよならを言わずに行ってしまって、今日まで思い出しもしないで…。
ホントにごめん。…ハーレイ、とっても悲しかったと思うから…。
「いいんだ、お前、帰って来ただろ?」
帰って来たなら、さよならも何も無いからな。…さよならってヤツは別れる時に言うもんだ。
ちゃんと帰って来るんだったら、最初から「さよなら」は要らないだろうが。
「え…?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
前のぼくは帰って来なかったんだよ、メギドに行っちゃってそれっきりだよ…?
きちんと「さよなら」を言って行かなきゃ、駄目だったんだと思うんだけど…。
「前のお前はそうなんだろうが…。今のお前さ」
少々チビだが、お前は帰って来たってな。俺の所へ。…あのまま別れてしまわないで。
だから「さよなら」を言い損なったと謝らなくてもいいだろうが。
言う必要は無かったってことだ、こうして帰って来たんだから。ほんの少しだけ、お前が留守をしていたわけだな、俺の前から。
気にしなくていいんだ、「さよなら」くらい。…お前は帰って来たんだろうが。
それに謝ってくれたからな、とハーレイは笑顔。もう充分だ、と。
「…そうでなくても、とうに時効だ。前の俺だった頃からな」
お前も忘れていたってことだが、俺もすっかり忘れていたんだ。…その約束。
そういう約束をしていたことさえ、綺麗サッパリ忘れちまってた。お前がメギドに飛んで行った時は、もう覚えてはいなかったんだ。
覚えていたなら、悲しかったかもしれないが…。あの約束はどうなったんだ、と思っていたかもしれないが…。
何も覚えていなかったんだし、前の俺は何とも思っちゃいない。お前が「さよなら」を言うのを忘れたままで行っちまおうが、それは全く気にしなかった。
お前がいなくなっちまった、と落ち込んだだけで、「さよなら」はどうでも良かったんだ。
「ホント…?」
ハーレイ、ホントに忘れちゃっていたの、嘘をついていない?
…ぼくが悪いと思わないように、覚えていたのに「忘れた」なんて言ってはいない…?
ぼくのサイオンは不器用だから、ハーレイが嘘をついていたって分からないんだもの。
「安心しろ。…本当のことだ、忘れていたのは」
あれから色々ありすぎたからな、俺も覚えちゃいられなかった。
お前が眠ってしまわなければ、きっと忘れはしなかったろうが…。それはお前も同じだな。
俺はお前が寝ている間も働き続けて、あの約束を忘れちまった。キャプテン稼業は忙しいんだ。
そしてお前は、ぐっすりと深く眠りすぎてて、俺と同じに忘れちまった、と。
お互いの顔を見ながら何度も話していたなら、事情は違っていたんだろうがな。
…お前も俺も忘れちまった約束なんぞは、破ってもいい。どんなに大事な約束だろうと、覚えていなけりゃ意味が無いんだ。
片方だけが覚えていたって、そいつは空しいだけだろうが。ちゃんと守っても、ちっとも相手に通じていないし、喜んでも貰えないんだから。
二人揃って忘れたってことは、本当に必要無かったってことだ。お前の「さよなら」。
だからかまわん、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
今度は何処までも一緒だろうが、と。
「いつまでも二人一緒なんだし、「さよなら」は要らん」
あんな約束、今度も必要無いってな。…「さよなら」の出番が無いんだから。
「そうだっけね…」
今はハーレイが帰って行く時は「さよなら」だけど…。約束していた「さよなら」とは別。
ただの挨拶の言葉なんだし、会えなくなるわけじゃないんだものね。…死んでしまって。
「そういうこった。…今度は別の約束をしておくべきだな」
さよならじゃなくて、一生、俺の側から離れない、ってヤツでよろしく頼む。
今度は守れよ、忘れちまわないで。…俺も今度は忘れないから。
「うん、ハーレイ…。今度は一生、「さよなら」は無し」
死ぬ時だって一緒なんだもの、「さよなら」はもう要らないよ。
結婚したら、ずっとハーレイの側にいるから。…前のぼくみたいなことは、絶対しないよ。
守るからね、とハーレイと小指を絡めて約束をした。
前の自分が破った約束、それは時効だと言ってくれた優しいハーレイと。
別れの言葉を伝えるという悲しい約束、そんな約束は今は要らない。
今度は何処までも、いつまでも一緒。
「さよなら」の言葉は、ただ挨拶のためにだけ。
二人一緒に生まれ変わった、青い地球の上でずっと二人で生きてゆくから。
しっかりと手と手を繋ぎ合わせて、幸せに歩いてゆくのだから…。
忘れた約束・了
※前のブルーがハーレイと交わした約束。死ぬ前には必ず「さよなら」を言うから、と。
けれど約束は守られなくて、約束したことも忘れたままだったのです。時効ですけれど。
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