シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…?)
こんなのあるんだ、とブルーが驚いた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
綺麗に刷られたカラーの写真。載っているのは、とても馴染みが深い代物。
(復刻版…)
フィシスが使ったタロットカード。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラの天体の間で。
請われなくともカードを繰っていたフィシス。ミュウの女神と呼ばれたフィシス。
広告の写真は、フィシスのために作らせたタロットカードを復刻したもの。そっくりそのまま、模様も、多分、大きさも。
「あなたも女神の気分でどうぞ」という謳い文句。フィシスはもちろん、ソルジャー・ブルーの写真まで添えて。フィシスだけでも、充分に人目を引くだろうに。
(ぼくが飛び付くと思っているわけ?)
本物のソルジャー・ブルーなら此処にいるけど、と可笑しくなった。釣れないんだけど、と。
フィシスの写真が載っていようと、飛び付きはしないソルジャー・ブルー。
けれど巷では、ソルジャー・ブルーとフィシスは、ミュウの王子様とお姫様。前の自分の隣にはフィシス、対の存在。世間の人はそういう認識。
何処までの関係があったかはともかく、ソルジャー・ブルーとフィシスは恋人同士。絵に描いたような美男と美女で、互いが互いを引き立たせるもの。
前の自分が死んでしまって、再び生まれてくるまでに流れた長い歳月。
まるで与り知らない所で、対の二人にされていた。とても似合いのカップルだった、と。
対の二人だから、フィシスのカードの復刻版の広告までがソルジャー・ブルーの写真付き。前の自分とフィシスを並べて載せてある。他の仲間は、ジョミーでさえも載っていないのに。
フィシスの写真と一緒に誰か、と選ぶ時にはソルジャー・ブルーになるらしい。対だったから。
(その通りだったら、懐かしくて買うけど…)
本当に恋人同士だったんならね、と眺める広告。フィシスが使ったタロットカード。
占いの趣味は無いのだけれども、恋人の思い出の品だったら。時の彼方で愛おしい人が繰り返し使っていたものならば。
ウキウキと新聞広告を切り抜いてゆくか、メモに書き写して持ってゆくか。とにかく欲しくて、売っていそうな店へと急ぐことだろう。これを買わなきゃ、と。
お小遣いを入れた財布を握って、弾んだ心で。…子供が買うには、少し高いけれど。
(でも、要らないしね?)
ぼくはこんなの要らないんだから、と苦笑したソルジャー・ブルーの写真。フィシスと対だ、と誰もが勘違いをしている人物。
残念なことに、ソルジャー・ブルーはカードを買いには出掛けない。お小遣いで買おうと急いで店を目指しはしない。
恋人はハーレイだったから。フィシスではなくて、キャプテン・ハーレイ。
とはいえ、フィシスも大切な人には違いなかった。「ぼくの女神」と呼んだ心に嘘などは無い。その身に地球を宿した女神。青く輝く美しい地球の映像を。
それが見たくて攫ったほどに。
機械が無から創った存在、人間ですらもなかったフィシス。
それでもフィシスの地球が欲しくて、いつまでも眺めていたかったから。水槽の中のフィシスにサイオンを与え、ミュウの力を持たせて攫った。
研究者たちがサイオンに気付き、フィシスを処分する直前に。
そうやって船に連れて帰ったフィシス。研究所時代の記憶を消して。
ハーレイ以外は誰も知らなかった、フィシスの生まれ。船の仲間たちも、フィシス自身も。
地球の映像を抱いていた上、占いにも長けていたフィシス。女神と呼ぶのが相応しかった女性。
(フィシスのカード…)
前の自分が作らせたカード。研究所でフィシスが使っていたカードは、シャングリラに持っては行かなかったから。
カードは馴染みがあるものだから、と広告に刷られた写真を眺めて、お次は説明文の方。どんなカードだと書いてあるのか、読み始めたら。
(…優しいタロットカード…?)
そういう説明、初心者向けかと考えた。初めて占う人でも分かりやすいという意味なのか、と。
ところが違った「優しい」の意味。
フィシスのカードで占う時には、死神のカードは使わないらしい。他のタロットカードと同じに入っているのに。…死神のカードも、ちゃんと一緒に。
けれども、それを抜いて占う。それが正しい占い方。フィシスのカードを使うのならば。
だから「優しい」タロットカード。死神が描かれた不吉なカードは、何を占っても絶対に出ては来ないのだから。
(…どうなってるわけ?)
謎だ、と首を捻った広告。フィシスの優しいタロットカード。
どうして死神のカードを抜くのか、それを入れずに占うのか、と。
聞いたこともない、不思議な話。前の自分はフィシスと対だと今の時代も間違われるほど、近い所にいたというのに。
フィシスのことなら、きっと誰よりも詳しかったと思うのに…。
おやつを食べ終えて、部屋に戻って。
勉強机に頬杖をついて、さっきの疑問を解こうとした。優しいタロットカードの謎を。恐ろしい死神が描かれたカードを抜いて占う、フィシスのカードの復刻版。
(死神のカード…)
人の命を断ち切る大鎌、それを手にした黒衣の死神。意味する所は文字通りに「死」。
フィシスが持っていた死神のカードは、前の自分が確かに燃やした。十五年もの眠りから覚め、自分の死を予感した時に。
フィシスの前で、サイオンを使って燃やしたカード。消してしまった死神のカード。
そのせいだろうか、復刻版のタロットカードを使う時には、死神のカードを抜いて占うのは。
欠けたままでフィシスが占ったから、と入れずに占うものなのだろうか?
(でも、欠けたカードを補充するのは…)
出来ないことではなかった筈。フィシスが望みさえすれば。
カードのデータは船にあったし、現に取り替えたカードもあった。何度も何度も繰られ続けて、擦り切れることも多かったから。
復刻版のカードにしたって、参考にしたのはそのデータだろう。
なのに、死神のカードを抜いて占うという約束事。燃やしてしまった死神のカードは、あのまま欠けていたのだろうか。作られないままで。
(フィシス、断っちゃったとか…?)
死神のカードを新しく作り直すこと。もう一度作って、加えること。
それとも言わなかったのだろうか、足りないことを?
死神のカードが欠けていたことを、誰にも言わずにいたのだろうか…?
今の自分には分からないこと。前の自分も、死んでしまった後のこと。
(ハーレイに…)
知っていそうなハーレイに訊いてみなければ、と思っていたら、折よく寄ってくれたハーレイ。仕事の帰りに。
早速、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり尋ねてみた。
「あのね、フィシスのタロットカードは知っている?」
「当然だろうが。…俺が知らなくてどうするんだ」
今はともかく、前の俺には見慣れたものだぞ。あれを使って占うフィシスも。
「それじゃなくって、復刻版だよ」
フィシスが使ったタロットカードの復刻版。…本物そっくり。
「はあ? フィシスのカードの復刻版って…」
そんなのがあるのか、知らなかったな。…まあ、あっても不思議じゃないんだが…。
前のお前が使った食器の復刻版だって、ちゃんと売られているんだから。
「そうなんだよね…。ソルジャー専用の食器」
あれと同じで、フィシスのカードもあったんだよ。
ぼくも今日まで知らなかったけど。
新聞に広告が載っていたよ、と話をした。「前のぼくまで載せられちゃってた」と。
「…ホントなんだよ、フィシスの写真とセットになってて、ソルジャー・ブルー…」
まるで恋人同士みたいに、ちゃんと二人がセットなんだよ。
「そりゃ傑作だな、未だに誰にもバレていないって証拠じゃないか」
前のお前の本当の恋人は誰だったのか。
誰も気付いていないからこそ、お前とフィシスがセットなんだしな。
「それはいいんだけど…。勘違いはかまわないんだけれど…」
フィシスのカードが問題なんだよ、ぼく、説明を読んだんだけど…。どんなのかな、って。
そしたら、優しいタロットカードなんだって。…フィシスのカードの復刻版は。
「優しいって…。占いやすいという意味か?」
俺は占いはサッパリなんだが、そういうヤツでも占えそうな初心者向けか?
「ううん、ぼくも最初はそう思ったけど…。違ったんだよ」
フィシスのカードの復刻版には、死神のカードが無いんだって。
…カードの中にはあるんだけれども、占う時には死神のカードを抜いて占うらしいんだよ。
「ほほう…。そいつは優しいな。何を占っても傷つかずに済むというわけか」
死神のカードを抜いてあるなら、嫌なカードは出ないんだから。
「まるっきり嫌でもないけどね…?」
死神のカード。…ハーレイも少しは知っているでしょ、タロットカードが持っている意味。
上と下とが逆さになったら、カードの意味まで変わるってことは…?
人の命を刈り取る大鎌。それが描かれた死神のカード。
そのままの向きで出て来た時には、意味する所は死なのだけれど。上と下とが逆になった時は、再生の意味になるカード。復活、それに死地からの生還。
前の自分も、幼いフィシスのカードの上下を入れ替えてやった。処分されると決まった日の朝、幼かったフィシスが恐れた死神。占いの最後に出て来たカード。
逆さに向けて、フィシスに示した。「君を助ける」と、死神はもういなくなった、と。
「…ハーレイにも話しておいた筈だよ、こうしてきた、って」
フィシスの記憶は消したけれども、連れて来る前にも未来を正しく読んでいたよ、って。
「そういや、そうか…。上下で意味が変わるんだったな、タロットカードは」
もっとも、上下が入れ替わったって、どうにもならないヤツもあったが…。
死神よりも、もっと救いのないカードが。
「…そうだったっけ?」
そういう酷い意味のカードって、タロットカードに混じってた…?
「あったぞ、塔だ。…塔のカードだ、忘れちまったか?」
そのままだろうが、逆さになろうが、どう転んでも破滅のカードだ。死神のカードと違ってな。
「あったっけね…。まるで救いが無かったんだっけ、塔のカードは」
だけど、ハーレイ、よく覚えてるね。…今はタロットカードなんかは縁が無いのに。
「何度、フィシスの託宣を聞いたと思ってるんだ」
シャングリラの航路をどうするべきかと、何度もフィシスに尋ねたもんだ。覚えもするさ。
…そうやって占って貰ってはいても、その通りにするとは限らなかったが。
占いは所詮、占いだしな。…漠然としていて、ハッキリはしない。
恐るるに足らず、と無視してゼルに怒鳴られもしたな。…思考機雷の群れに突っ込んじまって。逃げた先には三連恒星、ゼルが怒るのも無理はないがな…。
なるほど、と聞いていた話。三連恒星の重力の干渉点からワープしたことはハーレイの自慢で、人類軍の船が追跡を諦めたほどの危うい亜空間ジャンプ。
それならばゼルも怒るだろう。「フィシス殿のお告げ通りに航路設定しておけば…」と。
多分、ハーレイは塔のカードか死神のカードを無視して進んだ。「ただの占いだ」と軽く考え、窮地に追い込まれたのだろう。シャングリラごと。
…それもハーレイらしいけど。占いに頼りっ放しではないハーレイだからこそ、シャングリラを地球まで運んでゆけたのだけれど。
「えーっと…。ハーレイがフィシスの占いを見ていたのなら…」
死神のカードが無くなっちゃってた理由も知ってる?
フィシスは失くしてしまったんだよ、死神のカードだけが消えて無くなっちゃった…。
前のぼくが燃やしちゃったから。
「そうらしいな。…死神のカードは消えちまってた」
前の俺たちが全く知らない間に、跡形も無く。
「ハーレイ、やっぱり知ってたの?」
消えちゃってたのも、前のぼくが燃やしたことにも気付いていたの…?
「気付いたんじゃなくて、フィシスから聞いた」
カードが一枚足りないのです、とフィシスは俺たちに言ったんだ。
タロットカードは全部揃っていてこそ占えるもので、欠けたカードでは占えないとな。
死神のカードが欠けているから占えません、と言われちまった。
「えっ…」
それじゃフィシスは、もう占いをしなかったわけ?
サイオンを分けていたぼくが死んでしまったら、占えないことは分かっていたけど…。
カードが欠けているから無理だ、って言って、フィシスは占わなかったんだね…?
「そういうことだ」
占おうとさえしなかった。…「カードが足りない」の一点張りで。
俺たちは何も知らなかったが…、とハーレイが一つ零した溜息。
カードが足りない、と占いをしようとしなかったフィシス。
それがカードを失くしたせいではないことを全く知らなかった、と。フィシスが本当に失くしたものは、カードではなくて占いの力。
前の自分が与えたサイオンが失せて、占う力を失ったフィシス。読めなくなった未来のこと。
「…前のお前が死んじまったせいだ、と気付くまでに暫くかかったな」
死神のカードが足りないから、と言われて素直に信じちまった。…俺としたことが。
お前がいなくなっちまった以上は、フィシスの力も消えるだろうにな。…お前が与えていた力。それが消えたら、フィシスは元の人間に戻ってしまうんだから。
…人間と言っていいのかどうかは、俺としても迷う所だが…。機械が無から創ったんだし。
「ハーレイ、そのこと…。誰かに話した?」
フィシスは占う力を失くしたんだ、って気が付いた後。…ヒルマンやエラに。
「俺が話すわけないだろう。…お前との大切な約束だ」
フィシスがどういう生まれだったか、船に来る前には何処にいたのか。
誰にも言わん、と俺は誓った。お前がフィシスを連れて来たいと言い出した時に。
俺の記憶も消してしまえと言った筈だぞ、秘密を漏らしてしまわないように。
…お前がそれをしなかった以上は、俺は秘密を守らねばならん。何があろうと。
だから誰にも言うわけがない。…フィシスは二度と占えない、と本当のことを知っていたって。
前のハーレイはフィシスの秘密を漏らさなかった。生まれのことも、フィシスの力の源も。
ソルジャー・ブルーが死んでしまえば、フィシスの力が消え失せることも。
そのハーレイが真実に気付くよりも前に、フィシスが考え出した言い訳。占う力を失ったことを悟られまいと、欠けたカードを理由にした。
アルテメシアを目指す船の中、託宣を求めたキャプテン・ハーレイや長老たちに。
占いに使うテーブルの上に、一つ、二つとカードを並べて、「死神のカードが無いのです」と。この状態ではカードの意味まで欠けてしまうから、と顔を曇らせたフィシス。
「…これでは、とても占えません」
一枚が欠けたカードでは…。これで何かを占ったとしても、それは外れてしまうでしょうから。
「そりゃ大変だ。もっと早くに言ってくれればいいのにさ」
あちこちゴタゴタしてはいてもね、遠慮なんかはするもんじゃないよ。…あたしたちにまで。
死神ってのは、あまり嬉しくないもんだけどさ…。今は特にね。
大勢の仲間が死んじまったし、ブルーまで連れて行かれちまった。…でもね、話は別だろう?
見たくないから、って避けて通れるもんじゃない。死神のカードが必要ならね。
急いで代わりを作らなきゃね、とブラウが見回し、「まったくじゃて」とゼルも頷いた。
「…フィシス殿。あなたが占って下さらんと皆が困るんじゃ」
現に今でも困っておる。…何処を通ってアルテメシアに戻るべきかが分からんからのう…。
カードを作って出直して来るしかないようじゃが…。
足りないカードがちゃんと揃ったら、占いをよろしく頼みますぞ。
では…、と天体の間を後にしたゼルたちは、急いで新しい死神のカードを作らせたけれど。
それを手にして出掛けて行ったら、フィシスは首を横に振った。
「…このカードは加えられません。…これが無いと何も占えなくても」
ソルジャー・ブルーの思し召しです、死神のカードが無くなったことは。
あの方が燃やしてしまわれました。これは必要無いのだから、と。
ですから、新しいカードが出来ても、加えることは出来ないのです。あの方が消してしまわれたものは。…多分、要らないものでしょうから。
これから先のミュウの未来に、死神のカードはもう要らないのでしょう。
きっと…、とフィシスは手元のカードの山に死神のカードを加えなかった。それが無ければ何も占えはしないのに。
占えません、と断ったフィシス。それがソルジャー・ブルーの御意志ですから、と。
断られてしまった、占いと託宣。ゼルたちも、前のハーレイも、出てゆくより他に無かった道。
死神のカードが無いと占えないのに、フィシスは新しいカードを加えようとはしなかったから。
「…それっきりなの?」
ハーレイたちが占いを諦めて出てって、それっきり…?
フィシスの占い、死神のカードが足りないからって言われておしまい…?
「そうなるだろうが。前のお前がやったんだと言われちまうとなあ…」
ソルジャー・ブルーが燃やしたんだ、と聞かされたんだぞ?
それでもカードを元に戻せと詰め寄れるわけがないだろうが。前のお前がそうしたんなら。
でもって、一枚欠けたカードじゃ何も占えないんじゃなあ…。
諦めるより他は無いだろ、もう託宣は貰えないらしい、と。
…俺は後から気が付いたがな。カードがあっても、フィシスは占えないんだってことに。
前のお前が死んでしまって、フィシスの力も消えちまった、と。
そいつが分かれば、無理を言おうとは思わなかった。…元々、アテにはしていなかったし。
真相に気付いた前のハーレイは、もう占いには頼らなかった。失われた力は戻らないから。
けれども、何も知らないままのゼルたちが、強引に頼みに行った占い。
死神のカードは入れずに占ってくれていいから、とフィシスに何度も頭を下げて。
「当たる筈などないのですが…」と途惑いながらも占ったフィシス。
カードが一枚欠けた占いは当たりはしなくて、フィシスの所を訪れる者は減っていった。以前の活況が嘘だったように。
何かと言えば「託宣を頂きに」と、船の仲間が相談に出掛けていたものなのに。
「…俺もそれほど行ってはいないな、フィシスの所に」
占いを頼もうってわけじゃないんだし、本当だったら、もっと訪ねるべきだったろうが…。
散々世話になっておいた後で、キャプテンまでがミュウの女神を放っておいては駄目なんだが。
…前のお前の女神でもあるし、足繁く通って話をするべきだったとは思う。
だが、出来なかった。…理屈じゃ分かっていると言っても、俺自身が辛くなるからな。
「…なんで?」
どうしてハーレイが辛くなるわけ、フィシスと話をしに行ったら…?
「分からないか? …フィシスは何も知らなかったんだ」
俺とお前の間のことは。…お前が俺の何だったのかも、お前にとっての俺が何かも。
フィシスはお前を慕っていたから、お前の思い出話になるんだ、いつでもな。
違う話をしていた時でも、何かのはずみにお前が出て来る。…お前の話や、お前の名前が。
聞いたら辛くなるだろうが。
…俺はお前に置いて行かれて、追い掛けることさえ出来ないんだから。
「そうだね、ホントはハーレイが恋人だったんだものね…」
前のぼくが本当に好きだった人で、フィシスが来るよりもずっと前から恋人同士。
だけどフィシスは何も知らなくて、仲のいい友達同士なんだと信じてて…。
おまけにフィシスは前のぼくのことを、恋人みたいに思っていたしね…。
前の自分も気付いてはいた、フィシスの淡い恋心。それに応えはしなかったけれど。
幸いなことに、フィシスは無から生まれたものだったせいか、恋はしていても求めなかった。
恋をしたなら、その先に待っているものを。…唇へのキスも、その先のことも。
フィシスは最後まで気付かなかった。
…前の自分がフィシスに注ぎ続けた愛情、それが恋ではなかったことに。恋とは違って、慈しむだけの愛情だったということに。
そんなフィシスが、前の自分がいなくなった後に、懸命に考え出した言い訳。占いの力が消えた理由に、フィシス自身も気付いたろうに。
…きっと、自分の生まれのことも。
ジョミーが捕えていたキース。シャングリラから逃れようとしたキースを、フィシスは庇った。
前の自分がキースに放った、彼を倒す筈のサイオンの矢を弾き飛ばして。
フィシス自身も気付かない内に、反射的に。
彼女と同じ生まれのキースを、地球の映像を抱いた男を。機械が無から創った者を。
そう、フィシスはきっと知っていたろう。
シャングリラが地球まで辿り着く前に、自分の生まれを。
占いの力を失くした理由も、誰が自分にサイオンを与えてミュウにしたのかも。
…全ては前の自分の我儘。
たった一度だけ、白いシャングリラの皆を裏切り、欺いてまで手に入れたフィシス。
自分の命が尽きた後には、フィシスがどうなってしまうのか。
まるで知らなかったわけでもないのに、何も手を打たずにミュウたちの箱舟に残した女神。青く美しい地球をその身に抱いていた女神。
前のハーレイと同じに一人残され、占いの力も失ったフィシス。
それでも彼女は生きてゆく術を自分で見付けた。誰も疑わないだろう理由を、占いの力が無いと知られずに済む方法を。
カードが無いから占えない、と。
欠けたカードはソルジャー・ブルーの意志によるもの、加えることなど出来はしないと。
遠く遥かな時の彼方で、フィシスが紡ぎ出した嘘。
それは時を越え、タロットカードの復刻版が売られる平和な時代まで長く語り継がれた。死神のカードは使わないもの。そのカードを使って占う時は。
今日まで時を渡る間に、意味は変わってしまったけれど。
最初に死神のカードを抜き出し、他のカードに答えを尋ねる優しい占いが生まれたけれど。
「…死神のカード、それで入れずに占うんだ…」
フィシスが入れていなかったから。…入れずに未来を占ってたから…。
占いは外れてばかりいたけど、死神のカードは入れないんだ、ってことになっちゃって…。
フィシスの占いが当たってた頃の話と一緒に伝わる間に、何処かで混ざってしまったんだね。
死神のカードは抜いて占うものなんだ、って。
「そのようだな。…実際、フィシスはそうしたんだから」
占いがまるで当たらなかったというだけで。…ゼルたちに拝み倒された時は、何回も。
それをフィシスが話したんだろうな、前の俺たちが死んでしまった後に。
トォニィはフィシスを嫌ってたんだが、ソルジャーになった後には水に流したという話だし…。
死神のカードが無いというのも、トォニィが広めていたかもしれんな。
シャングリラには凄い占い師がいたが、死神のカードを失くしちまった、と。
だからシャングリラのタロットカードには、今も死神のカードが欠けているそうだ、とな…。
死神のカードが欠けてしまった、フィシスのカード。代わりのカードが用意されても、使おうとせずに加えないまま。ソルジャー・ブルーの意志だったから、と。
フィシスが使ったタロットカードは、今は優しいカードになった。死神のカードが決して出ないカードに。
死神のカードは、占う前に抜き出すから。そうやって占うカードだから。
その占いの元になったフィシスはどうなったろう。…いつまでカードを繰っていたろう?
「…フィシス、占い、していたのかな…」
シャングリラが地球を離れた後も。…トォニィがソルジャーになった後にも。
「さてなあ…。力は戻っていたようだが…」
カナリヤの子たちをシャングリラに向かって送り出す時、サイオンを使うのを確かに見たし…。
姿も最後まで若いままだったそうだし、ミュウの力はあったんだろう。
だが、占いは…。俺が思うに、していないんじゃないか?
「どうして?」
フィシスの力が戻ったんなら、占いだって出来る筈なのに…。出来たら色々役に立つのに。
「…前のお前がやったんだろうが。死神のカードを消すってことを」
死神のカードは要らないんだろう?
そういう意味だろ、ミュウの未来にはもう要らないと。
ミュウの未来に要らないカードは、カナリヤの子たちの未来にだって要らないさ。
カードなんかに未来のことを尋ねているより、前に進むことだ。次の時代を生きる子たちの手をしっかりと握ってやってな。
「そうしたんだね、フィシスはね…」
カナリヤの子たちを立派に育てて、それからシャングリラを降りて。
いろんな星を旅して回って、幼稚園を幾つも、幾つも作って…。
幼かった頃に通った幼稚園。母に見送られて、幼稚園バスに乗り込んで。
その幼稚園の庭にあった、優しそうなフィシス先生の像。手を差し伸べるようにしてフィシスは座っていた。小さな子たちが膝に上って来られるように。
今の自分も、フィシス先生の像がお気に入りだった。膝の上にチョコンと腰掛けるのが。
幼稚園を幾つも作ったフィシス。
白いシャングリラでフィシスが育てた、カナリヤの子たちと力を合わせて。あちこちの星に。
幾つもの幼稚園の庭に据えられた、優しく微笑む真っ白なフィシス先生の像。
あの像がとても好きだったけれど…。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくが行ってた幼稚園にも、フィシス先生の像があったんだけど…」
フィシス先生だ、って見ていたけれども、フィシス、今でも先生よりも女神なんだよね…。
ミュウの女神ってイメージの人の方が多いよ、どうしてなのかな?
タロットカードの広告にだって、ミュウの女神って書いてあったし…。
「前のお前とセットだからだろ、ミュウの女神の方のフィシスは」
ソルジャー・ブルーと並んでいたなら、そりゃあ綺麗なカップルだ。何処の王子様とお姫様かと思うくらいに。
…だが、フィシス先生の方だとなあ…。
カナリヤの子たちか、幼稚園児しかセットにならない。見ていてつまらないってことだな。
女神の方なら、夢もロマンもたっぷりなんだが。
「そっか…。じゃあ、ハーレイとぼくがセットだったら、ハーレイの人気も出てたかな?」
キャプテン・ハーレイの写真集は一冊も出ていないけれど、それが山ほど出てるとか…。
うんと人気で、写真集だって飛ぶように売れていくだとか。
「お前なあ…」
いったい何を考えてるんだ、前のお前と俺をセットにしてみた所で、俺の姿は変わらんぞ?
人気が出るとはとても思えないし、写真集も無理だと思うんだが…?
相手は俺だぞ、「薔薇のジャムが少しも似合っていない」とシャングリラ中で評判だったが?
あのジャムを希望者に配る抽選、俺の前だけ、クジの箱が素通りして行ったんだぞ…?
それこそ占ってみたらどうだ、とハーレイが笑う。
前の俺がお前とセットだったら、今の人気はどうだろうか、と。
「カードが教えてくれると思うぞ、いいカードはきっと出やしないんだ」
死神どころか、どう転がっても救いのない塔が出て来そうだが…?
人気が出るなど夢のまた夢で、逆立ちしたって駄目ですよ、とな。
やるならフィシスのカードにしておけ、死神のカードが入ってない分、いくらかはマシだ。
それでも塔のカードが出て来て、俺に救いは無さそうだがな。
「…フィシスのカードを買って占うなら、そんなことよりも未来がいいな」
これからの未来を覗いてみたいよ、ハーレイとぼくの未来のことを。
「おいおい、そいつは占う必要も無いだろうが」
フィシスが何度も言ってた言葉を、真似ているわけじゃないけどな。
そうさ、フィシスはよく言ってたんだ。…占う力を失くしてからは。
ゼルたちが「占ってくれ」とゴネた時には、やんわりと断ったんだよなあ…。「占うほどのことでもないでしょう」と。その必要はありません、とな。
死神のカードはもう無いんだから、ミュウの未来は明るいものに決まってるんだ、と。
…お前、そこまで計算してたか、死神のカードを燃やした時に…?
「…ううん、なんにも考えてないよ」
あれを燃やしたのは、フィシスが不安に怯えていたから。
「ナスカに不吉な風が吹く」って、それは自分のせいなんだ、って…。
だから燃やしてしまったんだよ、「不吉な未来はぼくが消すから」って。
ぼくが守るから大丈夫、ってカードを燃やしてしまっただけ…。死神は消してあげる、って。
…本当は死神、ぼくが連れて行くつもりだったんだけど…。
狙っているのはぼくだろうから、ぼくと一緒に燃え尽きて終わりにしてしまうから、って。
「なるほどなあ…。死神のカード、お前が引くって意味だったんだな」
そして本当に引いちまったが…。俺の前から、お前は消えてしまったんだが…。
ちゃんと帰って来てくれたんだし、未来なんぞは占わなくてもいいってな。
優しいタロットカードだろうが、死神のカードは抜きだろうが。
今度のお前は幸せになれるに決まっているし、とハーレイがパチンと瞑った片目。
俺が幸せにするんだから、と。
前の自分が燃やしてしまった死神のカード。…自分がそれを引くつもりで。
あれから長い時が流れて、フィシスのタロットカードをそっくり写した復刻版では、抜いて占うらしい死神。けして死神のカードが出ないからこそ、それは優しいタロットカード。
けれど、優しいタロットカードも要らないらしい。
わざわざカードで占わなくても、今度は幸せになれるから。
幸せにすると、ハーレイが約束してくれたから。
ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球の上で、何処までも二人で歩いてゆく。
手をしっかりと繋ぎ合わせて、いつまでも、何処までも、幸せの中を…。
優しいカード・了
※前のブルーが燃やしてしまった死神のカード。それを理由に、占いを断っていたフィシス。
ミュウの未来に死神のカードは、必要ありませんでした。前のブルーは意図していなくても。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうん…?)
こんな鳥がいるんだ、とブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
イソシギという小さなシギ。名前だけだと、海の鳥のように思えるけれど。
(イソって、海の磯だよね…?)
多分、そう。他には思い付かないから。けれども、磯の名を持つイソシギ。ヒョロリと足の長い鳥は、海の側にいるだけではなくて…。
(この町にも…)
隣町にもいるらしい。ハーレイの両親が住んでいる町。どちらにも海は無いというのに。
川があったら、其処で子育てを始めるイソシギ。河原に小さな巣を作って。
今の季節は南へ移ったようだけれども。雛も立派に成長したから、暖かい場所へ渡って行った。其処で冬を越して、また来年に戻る夏鳥。卵を産んで雛を育てるために。
イソシギなのに海に住んでる鳥じゃないんだ、と読み進めた記事。面白いね、と。河原で子育てするのにイソシギ。河原と磯は違うのに。
そうしたら…。
(偽傷するんだ…)
子育て中のイソシギの親。
卵を抱いている真っ最中やら、雛が小さい間のこと。敵が現れたら、巣を離れる。自分が逃げるためにではなくて、卵や雛を守ろうとして。
偽傷というのは言葉そのまま、偽の傷。怪我はしていないのに、怪我をしたふり。
そういう鳥がいるのは知っていた。イソシギと同じで、河原で子育てする千鳥。
何かで読んだことがあるから。雛や卵を守る親鳥、傷を負ったようなふりをして。翼をバタバタさせて飛べないふりをするとか、片方の翼を引き摺りながら歩くとか。
卵や雛を狙っていた敵は、同じ食べるなら大きな親鳥がいいと思うから、追ってゆく。捕まえて食べてしまおうと。
追ってくる敵に捕まらないよう距離を保って懸命に歩いて、巣から充分離れた後に逃げる親鳥。空へ向かって。敵はポカンとする他はなくて、親鳥は雛や卵の所に戻るという。
偽傷するのは千鳥だけかと思っていた。今の今まで。
(チドリ目、シギ科…)
イソシギは千鳥の仲間だろうか、チドリ目なら。それで偽傷をするのだろうか?
残念なことに、記事にはそこまで書かれていない。チドリ目の鳥は全部そうなのか、鳥によって違いがあるのかは。
(ぼくは千鳥も見たことないけど…)
会ったことがない、河原で子育てしている千鳥やイソシギ。河原に出掛けたことはあるのに。
気付かなかっただけかもしれない、卵や雛に近付かなければ、親鳥は偽傷しないから。雛に運ぶ餌を探していたって、怪我をしたふりをしない限りは普通の鳥にしか見えないから。
(…そうだったのかも…)
両親たちと河原で広げたお弁当。石を拾って遊んだりもした。
あの時も千鳥やイソシギは何処かにいたかもしれない。のんびりと餌を探しながら。
自分は出会い損ねたけれども、ハーレイの父なら出会っただろうか。こういう鳥たち。雛や卵を守り抜こうと、怪我をしたふりを始める親鳥。
釣りが大好きなハーレイの父は、川でも釣りをするのだから。魚が釣れる場所を探して、河原を歩き回るのだから。
巣がある場所など分からないから、近付くこともあるだろう。知らない間に。
親鳥の方も、人間の狙いが魚だと分かる筈もないから、慌てて偽傷を始めるのだろう。卵や雛を守らなければと、人間を巣から遠い所へ連れて行かないと大変だ、と。
(きっと急いで離れるんだよね、人間だって)
傷を負ったふりをする親鳥を見たら。それが偽傷だと知っていたなら。
(知らない人なら、怪我をした鳥だと思って助けに行くかもしれないけれど…)
鳥の性質を知っている人は、元来た方へと戻るだろう。そちらには巣が無いのだから。驚かせてごめん、と謝りながら。「帰っていいよ」と、「巣にお帰り」と。
ハーレイの父でなくても、誰でも。
親鳥が早く卵や雛の所に帰れるようにと、追ってゆかずに自分が離れる。少しでも早く、親鳥が巣に戻れるように。大切にしている卵や雛と離れていないで済むように。
今はそういう時代だから。
人間の親も、自分の子供を守るもの。イソシギの親にも負けない愛情。
卵で生まれるわけではなくても、血の繋がった本物の家族があるのだから。
(…前のぼくたちが生きてた頃だと…)
事情はまるで違っていた。本物の家族は何処にも無かった。トォニィたちが生まれるまでは。
機械が人工子宮で育てて、養父母に渡していた子供。生まれたばかりの赤ん坊を。
養父母と子供の組み合わせさえも、全て機械が決めていた。この子は此処、といった具合に。
SD体制が始まった頃には、それでも不都合は無かっただろう。養父母たちは十四歳になるまで子供を育てて、送り出すだけで良かったから。偽物であっても、家族は家族。愛情だって。
ところが、ミュウが生まれ始めたら、家族の形も変わってしまった。
(…ミュウが見付かったら、処分だものね…)
養父母に通報されてしまった子供もいた。ミュウを処分するユニバーサルに。
自分の評価が悪くならないよう、通報してしまう酷い親たち。自分が育てた子供なのに。
(…通報したら、殺されちゃうのに…)
それを承知で通報した親。
機械がそのように教えていたから、自分の子供を。
幼い子供を守ってやろうと努力する代わりに、自分自身を守ろうとして。
イソシギの親とはまるで違った、あの時代の酷い養父母たち。イソシギの親たちは、自分の命を危険に晒して雛や卵を守るのに。傷を負ったふりをして巣を守るのに。
いくら勝算があるにしたって、敵わない敵もいるだろう。その親鳥まで捕まえるような。無事に空へと飛び立つ前に、食べられることもあったのだろう。
それでもイソシギは卵や雛を守り続けて、今の時代もそういう習性。
敵が来たなら、飛べないふり。自分が怪我をしているふり。卵や雛を守り抜くために。
SD体制の時代の親とは比較にならない、深い愛情。前の自分が生きた時代は、イソシギの方が上だった。命懸けで子供を守るイソシギ。
(…ジョミーのママは違ったけれど…)
ジョミーを育てていた養母。彼女はジョミーを通報しようとしなかった。
目覚めの日を控えたジョミーが口にした言葉、それは危険なものだったのに。もしも子供が口にしたなら、ユニバーサルに直ちに知らせるべきだったのに。
(…ジョミーのママは、何もしなくて…)
代わりにジョミーを抱き締めていた。自分まで瞳に涙を浮かべて。
ジョミーの言動を監視していたユニバーサルから職員が来ても、彼女は何も話さなかった。ただ驚いて、ジョミーを心配し続けて…。
(…これを着せてあげて、って、パジャマまで…)
職員たちに渡していた。ジョミーはバスルームから検査室へと運ばれたから。
きっと、ああいうケースが例外。
あの時代ならば、有り得ないような。
少なくとも前の自分は知らない。ジョミーの母の他には、一人も。
自分の立場が危うくなっても、子供を守ろうとしていた親。イソシギの親を思わせる親は。
おやつを食べ終えて、部屋に帰って。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を考えた。怪我をしたふりをして卵や雛を守る親鳥。
(イソシギ…)
会ってみたい気がする、河原の鳥。懸命に子供を守る親鳥。
今の時代の親子ならば普通の愛情だけれど、前の自分が生きた時代は違ったから。人間の家族は全て偽物、イソシギの方が子供を大切にしていたのだから。
人間が愛情を失くした時代も、それを失わなかったイソシギ。会ってみたい、と思うイソシギ。
(ハーレイのお父さん、連れてってくれるかな?)
釣りのついででかまわないから、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが来てくれたから。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。イソシギって知ってる?」
河原に住んでる鳥らしいんだけど…。夏鳥だけど。
「知ってるが…。いきなり、どうした?」
怪訝そうな顔をしているハーレイ。イソシギがどうかしたのか、と。
「イソシギに会ったことはある?」
「まあな。…そういう季節に川に行ったらいるもんだし」
親父の釣りについてった時に、何度も会ったな。
釣りには丁度いいシーズンだしなあ、イソシギが来ている季節ってヤツは。
ガキだった頃からよく見たもんだ、とハーレイが話すものだから。
それなら、と早速、偽傷のことを訊くことにした。イソシギの親がする、怪我をしたふり。
「ハーレイ、イソシギ…。怪我してた?」
「怪我?」
別に、元気なもんだったが?
病院に連れて行かないと、と親父と慌てたことだって無いし。
「そうじゃなくって、怪我をしたふり。…羽をバタバタさせるだとか…」
飛べなくなったふりをするんでしょ、卵とか雛を守ろうとして。
巣があるのとは違う方へ歩いて行くものなんでしょ、イソシギの親は…?
「あれか…。そういうヤツなら見たことがあるな」
なんだかバタバタしているぞ、と思って見てたら、親父に「こら!」と叱られた。
さっさとこっちに来てやれ、と。
飛べないふりをしているだけだと、この近くに巣があるんだろうと。
「やっぱりそうなんだ…。ぼくが考えてた通り…」
「あれがどうかしたか?」
親父と一緒に戻り始めたら、バタバタするのはやめちまったが…。飛んでは行かなかったがな。
暫くこっちをじっと見てたな、俺たちが戻って来るんじゃないかと心配そうに。
「そうだろうね。本当に卵や雛を狙っているんだったら、戻って来るかもしれないし…」
でも、ハーレイのお父さんならそうするよね、って思ってたんだよ。
怪我をしたふりをするイソシギを見たら、きっと急いで離れるよね、って。
予想通りの行動を取ったハーレイの父。イソシギの巣から離れなければ、と。
まだ子供だったハーレイを「こら!」と叱って、急いで二人で戻って行った。巣の無い方へ。
「親父でなくても、誰でも離れると思うんだが?」
必死なんだぞ、イソシギの親は。敵が来たから、とにかく子供を守らないと、と思ってな。
俺たちは敵ってわけじゃないんだし、怖がらせたら悪いじゃないか。
命懸けで頑張らなくてもいいぞ、と離れてやるのが礼儀ってモンだ。知っているなら。
「そうなんだけど…。それを自然に考えられるの、今の時代だからなんだよ」
親は子供を守るものだ、って分かっているから、誰でも急いで巣から離れていくけれど…。
前のぼくたちの時代だったら、多分、教えるものだったと思う。イソシギは敵が現れた時には、そうやって怪我をしたふりをする、って。可哀相だから、人間は急いで離れましょう、って。
子供がどんなに大切なのかは、きっと誰にも分かってなかった。
ミュウはともかく、人類の方は。…子供の社会と大人の社会は別だったから。
命懸けで子供を守るどころか、通報しちゃう人だっていたよ。この子は変だ、って気付いたら。
自分の評価が下がらないように、ユニバーサルに。
「確かになあ…。とんでもない時代だったんだっけな、前の俺たちが生きてた頃は」
あの時代の養父母たちがイソシギの親を見たとしたって、知識があるというだけだな。
怪我をしたふりをしているようだし、急いで離れてやらないと、と。
子供と一緒の時に出会っても、子供にもそう教えるだけか…。「鳥さんが可哀相だから」と。
「でしょ? イソシギがどうして必死なのかは分からないんだよ」
子供を守ることが大切、って誰も考えないんだから。
シャングリラはそうじゃなかったけれど…。子供はみんなで大切に育てていたけれど。
でも、シャングリラだって、トォニィたちが生まれるまでは本物の親子はいなかったしね…。
SD体制が敷かれた時代は、自分の命を危険に晒して子供を守る親はいなかった時代。
血の繋がった親子はいないし、機械も「子供を守れ」と教えなかったから。養父母として育ててやれば充分、子供の育て方さえ機械が教えていた時代。養父母向けの教育ステーションで。
「だけど、ジョミーのお母さんは違っていたよね…」
ジョミーに目覚めの日のことを「寂しくない?」って訊かれても、一瞬、ビックリしてただけ。
「ぼくがこの家からいなくなっても、ママは寂しくない?」って…。
そんなこと、言っちゃ駄目だったのに…。子供が言ったら、通報しなくちゃ駄目だったのに。
ジョミーのお母さんはそうしなかったよ、代わりにギュッと抱き締めただけ。「大丈夫」って。
ちゃんと立派な大人になれる、って…。
あんなお母さん、ぼくは一人しか知らなかった。…ジョミーのお母さんの他には知らない。
「そうだな、立派なお母さんだった。ジョミーを育てたお母さんは」
…待てよ、お前は知らないのか…。その様子じゃ、お前、知らないんだな。
「何を?」
知らないっていうのは、前のぼくなの、今のぼくなの?
「今のお前だ。…前のお前は知るわけがない。死んじまった後の話なんだから」
学校の授業じゃ習わないかもな。…俺も習いはしなかったし」
「授業って…。何の話?」
「歴史の授業だ。…コルディッツだ」
シャングリラが人類と本格的な戦闘状態に入った後。
人類の方は、ミュウの摘発に躍起になった。ミュウの因子を持ったヤツらを端から捕えて。
そうやってミュウと判断された人間は全部、収容所送りになったんだ。
子供だろうが、国家騎士団に所属していた軍人だろうが、一人残らず、容赦なく…な。
ミュウ因子を持った人間たちが移送されたのがコルディッツ。
どういう歴史の悪戯なのか、ジュピターの上空にあった収容所。ジュピターは因縁の星だった。かつてメギドの炎に焼かれたアルタミラ。それはジュピターの衛星の上にあったのだから。
ガリレオ衛星の一つ、ガニメデ。遠い昔にアルタミラごと砕けてしまったジュピターの衛星。
人類はわざと其処を選んだか、単なる偶然だったのか。それは今でも分からない。
ミュウの収容所はジュピター上空に作られ、コルディッツと名付けられていた。ソル太陽系へと侵攻して来たミュウに対する切り札として。
ミュウが戦いを止めないのならば、コルディッツをジュピターに落下させると脅した人類。
もしもコルディッツが落下したなら、大勢のミュウが犠牲になる。それでも来るか、と。
けれども、ジョミーは脅しに屈することはなかった。
シャングリラはそのまま進み続けて、キースの部下のスタージョン中尉が下した決断。
マードック大佐の制止に耳を貸さないで押した、コルディッツを落下させるためのボタン。死が待つ星へと一直線に落ちてゆく収容所を、ゼルの船とナスカの子たちが救った。
誰一人として犠牲にはならず、救出された仲間たち。落下が止まったコルディッツから。
歴史の授業で習っていたから、今の自分も知っている。コルディッツも、それがあった所も。
前の自分は死んでしまった後だったけれど、人類はなんと酷かったのか、と。
「コルディッツのことは知ってるよ?」
人類は酷いことをしたよね、本当に最後の最後まで。それまで普通に暮らしてた人も、捕まえてしまったんだから。…ミュウの因子があるってだけで。
誰もサイオンは使ってないのに、ミュウらしいことは何もしていないのに…。
「…知ってるだろうな、コルディッツのことは教わるからな」
こういう歴史がありました、と。…だが、授業ではそこまでだ。一般人が大勢送られた、とな。
コルディッツに収容されてた人間までは習わない。軍人も子供もいた、って程度で。
その大勢の中にいた人間が問題なんだ。…前のお前も知っている人が混じってたってな。
「前のぼくって…。そんな人があのコルディッツに?」
…誰がいたの、誰がコルディッツにいたっていうの?
前のぼくの知り合い、普通に生きてた人間の中には一人もいないと思うんだけど…?
「それがいたのさ。…ジョミーの親だ」
「えっ…」
ジョミーの親って、まさかジョミーのお母さんが!?
お母さんはミュウじゃなかった筈だよ、因子があったら気付いてたよ!
それって何かの間違いじゃないの、何か手違いでもあったんじゃないの…?
「…間違いじゃない。しかし、手違いでもなかったんだ」
あそこにはジョミーの両親がいた。…ジョミーのお母さんだけじゃないんだ、お父さんもだ。
もちろん二人とも、ミュウじゃなかった。
だから、本当なら行かなくてもいい。誰も連行しようともしない。
それでも二人は選んだんだ。…コルディッツに行くという道を。ミュウ因子があると判断された子供と一緒に、自分たちも、と。
ジョミーを育て上げた二人が、その後に新しく迎えた子供。レティシアという名の女の子。
元々はスウェナ・ダールトンが養母だったけれども、離婚して失った養母の資格。
新たに選ばれた養父母がジョミーの両親、彼らは全てを承知で娘になる子供を迎え入れた。まだ幼いから、新しい環境にも充分に馴染んでくれるだろうと。
そして穏やかに暮らしていたのに、アルテメシアはミュウの手に落ちた。安全な場所へ、と移住しようと向かったノアで、ミュウだと断定されたレティシア。
連れ去られようとしたレティシアと一緒に、ジョミーの両親は収容所に行ってしまったという。今もその名が伝えられているコルディッツへ。
「なんで…。なんで、ジョミーのお母さんたちが?」
お母さんたちはミュウじゃなかったのに、どうしてなの…!
ミュウだと分かった子供と一緒に行ってしまったら、殺されたって仕方ないのに…!
「…分からないか? ジョミーを守れなかったからだ」
ジョミーのお母さんは覚えていたんだ、ジョミーがどんな目に遭ったかを。目覚めの日の前に、深層心理検査だと言って、ユニバーサルが何をしたのかを。
…もうあんなことは二度とさせない、と飛び出して行ったのがお母さんだった。警備兵が大勢、銃を突き付けていたのにな。この子は自分が守るんだ、って。
そしてジョミーのお父さんだって、やはり忘れちゃいなかった。ジョミーのことを。
自分の娘は守ってみせると、今度こそ守ってやらなければ、と警備兵の前に出て行ったんだ。
後は分かるな、レティシアを離そうとしなかった以上は、二人ともコルディッツ送りだろうが。
「…ハーレイ、そのこと、知っていたの?」
前のハーレイは知っていたわけ、ジョミーのお母さんたちがコルディッツの中にいたことを?
「いや…。今から思えば、あの通信がそうだったんだな、と思うだけで…」
コルディッツの件で、人類軍から脅されてた時。
…スウェナ・ダールトンからの通信があった。シャングリラにな。
ジョミーが切らせてしまったんだが、多分、伝えようとしていたんだろう。コルディッツに誰がいるのかを。…ジョミーの親がいるとなったら、見捨てるわけがないんだから。
けれど、伝わらなかった通信。シャングリラにも、それにジョミーにも。
コルディッツはゼルたちが救ったけれども、救い出された者たちは皆、シャングリラには来ずに終わってしまった。地球を目指す船に彼らを乗せたら、お荷物になるだけだから。
ゼルの船もまた地球に向かうから、応援を呼んで安全な星へと送り出した。もう二度と戦場にはならない星。ミュウの支配下にある星へ向かって。
「…その時に名簿を作ったわけでもないからなあ…」
みんな纏めて仲間なんだし、調べる必要も無いだろうが。コルディッツには色々な仕事が出来る人材が充分揃っていた。維持してゆくのに欠かせない仕事は、何もかもミュウがやっていたんだ。
だからこそ簡単に捨てられたわけだな、人類は一人もいないんだから。
前の俺たちからすれば、人類のスパイがいるわけがない、ということになるんだし…。
もう心配は要らないから、と送り出したらそれで良かった。…安全な星へ。
名簿も何も作りもしないで、地球を目指しただけなんだよなあ…。
救い出した仲間が誰だったのかも、調べないままでシャングリラは地球に向かったから。
前のハーレイも、もちろんジョミーも、最後まで知らないままだったという。
コルディッツに誰がいたのかを。
目覚めの日の後、シャングリラに連れて来られたジョミーが「ぼくを帰せ」と叫んだ家。帰って会いたかった両親、その両親が直ぐ側に揃って来ていたことを。
ジョミーとの再会を果たすことなく、ジョミーの両親はソル太陽系を離れて行った。迎えの船に移って、安全な星へ。守り抜いた娘のレティシアを連れて。
「…ハーレイ、なんで知ってるの…?」
ジョミーのお母さんたちのこと…。前のハーレイは知らなかったのに、何処で分かったの?
「前の俺の記憶が戻って来た後、たまたま見付けた資料ってヤツだ」
何を調べていたんだったか、ついでにポロッと出て来たってな。ジョミーの名前が。
なんだってこんな所に出て来るんだ、と読んでいったら、ジョミーの親の方だったってわけだ。
ジョミーが気付いていたんだったら、重要な資料になるんだろうが…。そうじゃないから、他の資料と一纏めにされていたってな。偶然の出会いすらも無かったんだし。
だが、あの時代に、そういう立派な親がいたんだ。…命懸けで子供を守ろうとしていた親が。
血も繋がってはいないというのに、子供を離そうとしなかった親がな。
ジョミーはいい両親を持ったってことだ、お母さんも、それにお父さんも。
「…でも、ジョミーは知らないままで終わったんだよね…」
お母さんたちが側まで来ていたってことも、子供を守ろうとして頑張ったことも。
ミュウだと分かってしまった子供を必死で守って、コルディッツまで一緒に行ったってことも。
…なんだかジョミーが可哀相だよ、最後まで気付かなかっただなんて…。
「俺も思った、知った時には。…ジョミーに知らせてやりたかった、と」
何もかも手遅れなんだがな…。
今の俺が今頃気付いたってだ、ジョミーは何処にもいないんだから…。
もっとも、それだけ子供を大事に思ったお母さんたちだ。何処かでジョミーに会えたと思うぞ、お母さんたちの方が遥かに長生きしたんだろうがな。
きっと会えたさ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。俺とお前が会えたみたいに、と。
「ジョミーがあんなに会いたかった親だ。神様が会わせて下さっただろう」
お母さんたちが生きてた間は無理だったろうが、きっと何処かで。
…もしかしたら、本物の親子にだってなれたかもなあ、記憶があったかどうかはともかく。
ジョミーはとんでもない悪戯っ子で、お母さんたちは手を焼きっ放しで。
そういや、イソシギの話だったか。あの鳥の鳴き声、知ってるか?
「知らないよ?」
新聞には書いてなかったし…。ぼくはイソシギ、そうだと思って見たことがないし。
「ツィーリーリー、と鳴くんだが…」
聞き方によっては、面白いことになるらしい。…聞きなしっていうのは知ってるか?
鳥のさえずりを人の言葉に当て嵌めるヤツだ、覚えやすく。それをイソシギでやるんだが…。
「どんな風になるの?」
イソシギの鳴き声、人間の言葉にしたなら、どうなるわけ?
「俺にはそうは聞こえなかったが…」
イソシギはこう鳴くんだそうだ。「私を可哀相だと思って」とな。
「ええっ?」
全然違うよ、それって変だよ。…だって、イソシギ、ツィーリーリーって鳴くんでしょ?
ちっとも重ならないんだけれど…。可哀相も何もないんだけれど…!
ツィーリーリーと、「私を可哀相だと思って」。
何処も重なりそうにないから、騙されたのかと思ったけれど。両親に会えずに死んでしまった、可哀相なジョミーの話なのかとも考えたけれど。
「今の俺たちの言葉じゃ無理だな、ツィーリーリーとしか聞こえんだろう」
古い昔の言葉で聞いたら、そうなるんだそうだ。…人間が地球しか知らなかった頃の。
前に歌ってやっただろうが、前のお前にも教えてやったスカボローフェアを。
あの時代のイギリスの言葉を聞き慣れていたら、そういう風に聞こえるってな。
「そうなんだ…?」
言葉は変わっていくものね…。だから古典もあるんだものね。
今とは全く違った意味の言葉だったり、別の響きになっちゃっていたり。
「そんなトコだな、だから俺にもサッパリ分からん」
俺は日本の古典の教師で、イギリスの古典は範疇外ってヤツだから…。
そう聞こえるんだ、と本で読んだ程度で、どういう風に当て嵌めるのかは分からんな。
ただ、印象的だったもんだから…。それでそのまま覚えちまった。「私を可哀相だと思って」と鳴いてるんだと、ツィーリーリーはそういう意味だ、と。
親とのさよならを悲しむように鳴く鳥なんだ、と書かれていたっけなあ…。
「…さよなら?」
親と別れてしまうの、イソシギの子供は?
怪我をしたふりで守ってくれてた、お母さんたちとお別れなの?
…そりゃあ、いつかは雛も巣立ちをするんだろうけど…。
「巣立ちが早い鳥なのさ。イソシギってヤツは」
卵から孵って、半日もしたら巣から離れるくらいにな。
そのくらいだと、まだ目も見えていない鳥の雛も沢山いるっていうのに。
巣立ちが早いらしいイソシギ。たったの一ヶ月で訪れる巣立ち。
敵が来たなら、傷を負ったふりをして卵や雛を守っていた親。命懸けで守ってくれた親鳥。
その親鳥から離れて巣立つしかない、イソシギの子供。一ヶ月しか一緒にいないで。
「可哀相だね…。イソシギの子供」
鳴き声の意味が分かる気がするよ、ぼくにはそうは聞こえなくても。
「可哀相だと思って」って鳴くよね、まだ小さいのに、お母さんたちとお別れなんだから…。
命懸けで守ってくれていたほど、優しいお母さんたちなのに…。
「そう聞こえるってだけなんだがな」
人間様の耳が勝手に聞いているだけだ、そういう風に。こう鳴いてるな、と。
巣立ちをしようっていう雛は至って元気なものさ。一人前に空も飛べるし、餌も獲れるし。
次の年には自分が子供を育てるんだぞ、仲間と一緒に旅に出てって、河原に戻って来る頃には。
ジョミーの時と一緒にするなよ、「家に帰せ」と鳴くようなヤツはいないだろう。
巣にちんまりと座っているより、空を飛ぶ方が楽しいだろうが。人生を謳歌するってヤツだな、鳥の場合は人生と言わんかもしれないが…。
今の時期だと、この辺りのはもう旅立ってるな。暖かい所で冬を越そうと。
「らしいね、新聞にもそう書いてあったよ」
夏鳥だから、今の季節は旅立つ頃です、って。また来年に河原に戻って、雛を育てるって。
敵が近付いたら、怪我をしたふりをして卵や雛を守りながら。
この町の川でも、隣町の川でも、河原に行ったら、イソシギに会えるらしいから…。
それでね…。
イソシギに会いに行きたいな、と話してみた。
大きくなったら、ハーレイのお父さんに案内して貰って、と。
「…お父さん、川に詳しいでしょ?」
イソシギが住んでる河原にも詳しそうだから…。ぼくを連れてって欲しいんだよ。
最初からそう思っていたけど、ジョミーのお母さんたちの話を聞いたら、会いたい気持ちが倍になったよ。…だって、ホントにイソシギみたい…。
あんな時代に、命懸けで子供を守ったなんて。…コルディッツまでついて行っただなんて。
「そうだな、まさにイソシギだよなあ…。怪我をしたふりはしていないんだが…」
人類だったのに、ミュウと一緒に収容所に行こうって勇敢さだ。
そうやって必死に子供を守って、立派に守り抜いたんだし…。コルディッツから子供と一緒に、無事に戻って来たんだからな。
よし、いつか親父に頼んでやろう。イソシギに会える所へ連れてってくれ、って。
お前は釣りもするんだろう?
せっかく川まで出掛けて行くんだ、親父に釣竿を貸して貰って。
「うん、ハーレイも一緒にね。でも…」
先にイソシギに会ってからだよ、そっちが大切なんだから。
あれが勇敢な親鳥なんだ、って観察してから。…ジョミーのお母さんたちみたいな鳥を。
「おいおい、観察するのはいいがだ…。巣に近付くなよ?」
可哀相だろうが、敵だと思って怪我をしたふりをさせちまったら。
「分かってるってば…!」
そんなことしないよ、見るだけだよ!
もしもウッカリ近付いちゃったら、謝って直ぐに戻るから…!
羽をバタバタさせたりしてたら、「ごめんね」って、ちゃんと謝るから…!
今の季節は暖かい場所へ旅立つけれども、また来年の春に戻るイソシギ。
河原に小さな巣を作るという、命懸けで卵や雛を守る親鳥。
その姿を誰もが温かく見守る時代。
怪我をしたふりを始めたならば、急いで元来た方へ戻って。巣から離れて。
親は子供を守るものだと、今は誰でも知っているから。
それが当たり前で、親が子供を通報したような悲しい時代は、とうの昔に終わったから。
(…そんな時代でも、ジョミーのお母さんたちは…)
ジョミーの次に迎えた子供を、イソシギの親のように守った。
今度は守ると、コルディッツまで一緒に行って。…ジョミーを守れなかったから、と。
いつかハーレイと、イソシギに会いに出掛けよう。
ハーレイの父に案内して貰って、河原まで。イソシギが子育てしている季節に。
怪我をしたふりをさせてしまわないよう、気を付けて。
ジョミーの両親のようなイソシギ。
命懸けで子供を守ろうと頑張る、優しくて勇敢な親鳥に会いに…。
イソシギ・了
※怪我をしたふりをして、雛を守るイソシギ。SD体制の時代の養父母なら、しなかったこと。
けれど、ジョミーの両親だけは違ったのです。ジョミーは、きっと再会出来ましたよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
行楽の秋がやって来ました。とはいえ、私たちは学校に通う高校生。出席義務のない特別生でも、長期欠席をしての旅行は論外とばかり、お出掛けは近場。でなければ会長さんの家でのんびり、それが休日の定番です。今日も土曜日、会長さんの家で次のお出掛けの相談中。
「紅葉の季節はドッと混むしな、その前だな」
いわゆる名所に行くんだったら…、とキース君。
「でもって、朝の早い内から出掛けて行ってだ、混み始める前に飯を食う、と」
「そうだよねえ…。予約してても落ち着かないしね、行列されると」
何処のお店も行列だしね、とジョミー君も。
「いくら個室で食べていてもさ、外じゃ行列だと思うとさ…」
「うんうん、俺たち、そんなに偉くはねえもんなあ…」
ただの高校生だもんな、とサム君も同意。
「食ってる間はいいんだけどよ…。出て来た時の視線ってヤツが痛いよなあ…」
「何様なんだ、って目で見られますしね」
あれは嫌です、とシロエ君。
「ホントは混じってるんですけどねえ、凄い人だって」
「ブルーとマツカは本物だけどよ…」
伝説の高僧と御曹司、とサム君がフウと溜息を。
「でもよ、それが全く分からねえのがブルーとマツカのいいトコだしよ…」
「二人ともオーラを消せますからねえ、何処から見ても一般人です」
その辺が実に問題です、とシロエ君が頭を振りながら。
「特に会長は超絶美形と来てますからねえ、たまに勘違いをする人も…」
「あー、いるよな! なんかの有名人だと思って騒ぐヤツもよ」
どう転んだって何様なんだか、としか言いようがないのが私たち。混み合う季節の飲食店は避けるべし、というのが鉄則、行きたい時には早めの予約でサッサと出るのがお約束。
「とにかく予約だ、希望の行き先や店があったら挙げてくれ」
その上で検討することにしよう、と仕切り始めたキース君。副住職として頑張る間にスキルが上がって、こういうのも得意分野です。お坊さん同士の集まりなんかで慣れたんでしょうね。
「美味しいトコなら何処でもいいな」
「それより、景色が大切ですよ!」
せっかくお出掛けするんですから、とシロエ君は景色が優先らしく。美味しさ一番がジョミー君の方で、私たちは二手に分かれてワイワイと。食事だ、景色だ、とやっていたら…。
「こんにちはーっ!」
お出掛けだって? とフワリと翻った紫のマント。何かと言えば顔を出したがる人がツカツカ、空いていたソファにストンと座って。
「ぶるぅ、ぼくにもおやつと飲み物!」
「オッケー! ちょっと待っててねーっ!」
サッとキッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が栗のミルフィーユと紅茶をソルジャーの前に。ソルジャーは早速、ミルフィーユにフォークを入れながら。
「お出掛けの相談をしてるんだったら、丁度いいやと思ってね! ちょっとお誘い」
「「「お誘い?」」」
「そう、お願いと言うべきか…。特別休暇が取れそうなんだよ!」
なんと豪華に一週間も、とソルジャーはそれは嬉しそうで。
「ぼくの世界のユニバーサル…。成人検査をやってる施設で集中メンテナンスだったかな? とにかく成人検査はお休み、ぼくの出番も無いってね!」
シャングリラの方も暇になるから、とニコニコと。
「つまりハーレイも休みが取れるし、旅行に行こうと思ってさ!」
「…行って来たら?」
どうぞご自由に、と会長さんが返しましたが。
「それじゃつまらないよ、旅は道連れって言うんだろ?」
一緒に旅行、と誘われましても、一週間もの長期欠席は私たちの望むものではなくて。
「一泊くらいなら何とかするが…」
一週間はとても無理だな、とキース君。
「ついでにこの時期、ホテルも旅館も混んでるぞ? 別荘という手もあるが…」
俺たちは行かん、とバッサリと。
「あんたたちだけで行って来い。そうだな、湯治なんかはどうだ?」
「とうじ?」
なんだい、それは、と首を傾げているソルジャー。
「アレかな、一年で一番昼が短い日が冬至だっけか、地球の場合は…。でもねえ…」
特別休暇は来週なんだよ、というぼやきが。
「お勧めの季節が冬至と言われても、そこで休みが取れるかどうか…」
「俺が言うのは、そっちの冬至じゃなくてだな…」
温泉なのだ、とキース君。えーっと、ソルジャーに温泉旅行をお勧めですか?
「温泉ねえ…。ぼくも嫌いじゃないけどさ」
一週間も行くほどの素敵な場所があるのか、と当然のように切り返しが。
「さあなあ、俺が言ってる湯治ってヤツは温泉治療のことだからな」
「治療?」
何を、とソルジャーの目がパチクリと。
「ぼくのハーレイ、特に病気はしてないけどねえ? 毎晩、元気に励んでくれるし!」
「そういうあんたにお勧めなんだ、湯治はな」
たまに非日常を楽しんで来い、とキース君がニヤリ。
「湯治と言っても色々あるがだ、俺の一押しは自炊の宿だな」
「…自炊?」
「宿に食事はついていなくて、自分で料理をしながら暮らす。目的はひたすら温泉治療で、腰に効くとか、それは色々あるんだが…」
「腰に効くだって!?」
それは素晴らしい! とソルジャーの瞳がキラキラと。
「腰は男の命なんだよ、ハーレイの腰がパワーアップするなら、是非、温泉に!」
「そう来たか…。ならば立派に湯治に行く意味があるようだな」
温泉に浸かって腰にパワーだな、とキース君。
「自分のペースで湯に浸かるのが湯治の要だ、ついでに自炊で部屋の掃除も布団を敷くのも自分でやらんといけない宿がいいと思うが…」
「それって面倒そうじゃないか!」
「一週間だぞ? あんたの憧れの新婚生活に似合いの宿ってヤツじゃないのか?」
二人きりだぞ、とキース君が推すと、ソルジャーも。
「言われてみれば…。自分の面倒は自分で見るのが湯治なんだね?」
「もちろん旅館に泊まるのもアリだが、二人暮らしの気分になるならシケた宿だな」
提供されるものは部屋と布団だけだ、と聞かされたソルジャー、「なるほどねえ…」と。
「そういう休暇もいいかもね! 二人きりで邪魔は入らない、と!」
「温泉の方には先客と言うか、相客もいると思うがな」
「そっちは何とでもなるんだよ! ぼくにはサイオンがあるからね!」
何人いようが二人っきりの気分で入浴、と俄然、その気に。
「分かった、特別休暇は湯治に出掛けてみることにするよ! お勧めはどこ?」
「それこそあんたの好み次第だが…」
湯の効能で決めたらどうだ、とキース君が差し出す温泉マップ。さて…?
会長さんの家には色々なものが揃っていますが、温泉マップもその一つ。思い付いたらお出掛けとばかりに買ったようですけど、ソルジャーはそれを子細に眺めて。
「やっぱり腰に効くのがいいよね、ハーレイにはそれが一番だしね!」
ここがいいかな、と選ばれた場所はいわゆる秘湯。一般客向けの旅館もあるだけに温泉マップに載っているものの、メインは湯治用の宿。キース君が言う自炊の宿で。
「えーっと、食材も持ち込み、と…」
買い物便が出ているのか、と宿の説明を見ているソルジャー。
「三日に一回、近くの町まで買い出し用のマイクロバスが出るってさ! こういうのに乗って行くのもいいねえ!」
瞬間移動でパッと行くより新婚気分、と大喜びで。
「ハーレイと二人で食事のために買い物だなんて…。考えたこともなかったよ!」
「それは良かったな。俺も勧めた甲斐があった」
「ありがとう! 一週間、じっくり楽しめそうだよ!」
もう最高の特別休暇、とソルジャーは会長さんの家の電話で宿に予約を入れました。二人一室、一週間の御滞在。…御滞在と言っていいほどのレベルの宿かどうかは知りませんが…。
「えっ、その辺はいいんだよ! ハーレイと二人で暮らせるんなら、何処でも天国!」
ド田舎だろうが秘境だろうが、とソルジャーはやる気満々で。
「おまけに温泉に浸かり放題、ハーレイの腰がググンとパワーアップで素敵な休暇に!」
「はいはい、分かった」
もういいから、と止めに入った会長さん。
「それ以上は語らなくていいから、特別休暇を楽しんできてよ」
「もちろんさ! 温泉パワーでガンガンと!」
そして二人で買い物に料理、と笑顔のソルジャーですけれど。ソルジャー、料理が得意だなんて話は全く聞いてませんが…?
「うん、料理なんかは全然だねえ!」
まるで駄目だね、と恐ろしい台詞。それでどうやって自炊をすると?
「え、ハーレイがいるじゃないか! 任せて安心、きっと毎日、美味しい料理が!」
「…キャプテン、料理をなさるんですか?」
シロエ君が訊くと、ソルジャーは。
「ううん、全然! でもねえ、ハーレイはキャプテンだから!」
妙な所で真面目だから、とソルジャーは強気。レシピさえあれば作れるだろうと決めてかかってますけれど。そんな調子で大丈夫ですか…?
キース君の機転でソルジャー夫妻との長期旅行を無事に回避した私たち。湯治に行ったであろう頃にも平常運転、学校に行ったり、会長さんの家で過ごしたり。すっかり綺麗に忘れ果てたというのが正しく、この週末も会長さんの家に居たのですけど。
「遊びに来たよーっ!」
この間はどうも、とソルジャーが降って湧きました。お肌ツヤツヤのソルジャーが。
「見てよ、この肌! 温泉がとても効いたらしくて!」
「…そりゃ良かったな」
忘れていたが、とキース君が返すと、ソルジャーは。
「そうだったわけ? でもねえ、君のお勧めの湯治はホントに最高だったよ!」
ぼくのハーレイもパワーアップで充実の一週間だった、と御機嫌で。
「ハーレイが料理を作ってくれてさ、買い出しは二人で買い物便で! もう毎日が新婚気分で、素敵な発見だってあったし…」
「言わなくていいから!」
どうせロクでもない発見だ、と会長さんが一刀両断。なのに…。
「ううん、記念すべき大発見だよ、布団があんなに凄いだなんて!」
「「「布団?」」」
なんのこっちゃ、とオウム返しな私たちですが。
「布団だよ! あれは最高のベッドなんだよ、ただの布団だと思っていたけど!」
「「「はあ?」」」
布団がベッドって…。下にマットレスを何枚も重ねてベッドですか?
「そうじゃなくって! 布団自体が!」
いつでも何処でもベッドなのだ、とソルジャーは拳を握りました。
「こっちの世界で旅館に泊まると、布団は敷いてくれてたからねえ…。今まで全く気付かなかったよ、布団の凄さに!」
「…どの辺がどう凄いんだい?」
サッパリ意味が不明だけれど、と会長さんが尋ねると。
「何処でもベッド!」
「「「えっ?」」」
ますます分からん、と首を捻るしかない状態。何処でもベッドって、何なんでしょう?
「そのままの意味だよ、何処でもベッドになるんだよ!」
布団さえあれば、と謎の台詞が。ソルジャーは何を言いたいんですか…?
「…分からないかなあ、何処でもベッド…」
もう簡単なことなんだけど、とソルジャーが床を指差して。
「其処に布団を敷くとするだろ? そしたら、其処はどうなるわけ?」
「…邪魔な布団が置かれるんだけど?」
掃除の邪魔だ、と会長さん。
「こんな所に敷かれちゃったら掃除をするのに困るんだよ! どけなきゃ掃除が出来ないから!」
「そう、そこなんだよ、ぼくが言いたいのは!」
「…掃除って?」
「掃除じゃなくって、布団さえ敷けば何処でもベッドになるってことだよ!」
リビングだろうがダイニングだろうが、何処でも布団を敷きさえすれば…、と言うソルジャー。
「それこそ廊下でもいいんだよ! 布団を敷いたら寝られるだろう?」
「そりゃまあ…。ねえ…?」
廊下なんかで寝る羽目になってもいいのなら、と会長さんは呆れ顔で。
「その話の何処が発見だって?」
「わざわざベッドを用意しなくても、布団さえあれば何処でも一発!」
大人の時間が可能なのだ、と斜め上な言葉が飛び出しました。何処でもベッドって、そういう意味で言ってたんですか…?
「そうだよ、湯治で気付いたんだよ、布団は自分で敷くものだったし!」
ヤリたくなったら布団を敷かねばならないのだ、とソルジャー、力説。
「普通のホテルや旅館だったら、寝るための場所は自分で用意はしないしね? ぼくのシャングリラでもベッドは常に其処に在るものだし…」
係がリネンとかを取り替えるだけで、と言われてみればそういうものかも。
「それでね、ぼくたちは今回、初めて、自分の力で用意したわけ! ヤるための場所を!」
畳の上でも出来るんだけど、とソルジャーは。
「だけど、やっぱり背中が少し…ね。快適にヤるなら布団だってば!」
あれさえあったら、きっと何処でも! と布団に目覚めたらしいソルジャー。
「今までだったらベッドがなくちゃ、と思ってたような所でも楽々、布団を敷いたら即、一発!」
地面だろうが野原だろうが、と、とんでもない方へと暴走中で。
「ぼくのシャングリラでもそうだよ、きっと! 布団さえ敷けばブリッジでだって!」
「何をするかな、君という人は!」
ブリッジはそういうコトをするような場所じゃないだろう! と会長さんが眉を吊り上げてますが、ソルジャーだったらやりかねないかも…?
布団さえ敷けば何処でも一発、大人の時間で何処でもベッド。一週間の湯治で自分で布団を敷いていたソルジャー、エライ所に目を付けたようで。
「あれこそ万能ベッドなんだよ、ヤるために生まれたモノなんだよ!」
ヤリたくなったら敷けばオッケー! と拳を突き上げ、布団を絶賛。
「ぼくもハーレイもそれに気付いて、ホントに嬉しくなっちゃって! もう湯治場の布団じゃ物足りなくって、買っちゃったんだな!」
「「「へ?」」」
何を、とウッカリ訊いてしまった馬鹿は誰だったのか。ソルジャーはここぞとばかりに熱い口調で語り始めました、布団ショッピングへのお出掛けについて。
「買い物便で連れてってくれるのはスーパーとかだし、それじゃ布団は手に入らなくて…」
「それは売ってはいないだろうねえ…」
よほど大きなスーパーでないと、と会長さんが半ばヤケクソで合いの手を。
「ちょっとした服も買えるくらいのスーパーだったら、寝具売り場もあるだろうけど…」
「そうなんだよねえ、田舎のスーパーでは布団は無理でさ…」
それでノルディに相談したのだ、とエロドクターの名前が登場。どうやら瞬間移動で出掛けて尋ねたらしくて、専門店を教えて貰ったとか。
「それでハーレイと二人で行ってさ…。もちろん瞬間移動だよ? ハーレイは身体が大きいからねえ、連れて行かないとサイズがね!」
あれこれ試して素敵な布団を選んだのだ、と満面の笑み。
「見てよ、高級品なんだよ!」
羽毛たっぷり、とリビングの床に布団一式、枕付き。ソルジャーの世界から運んで来たに決まっています。枕だけは二つ乗っかっていて…。
「枕は二つ必要だからね、ぼくのと、それにハーレイのと!」
「こんなのを敷かないでくれるかな!」
部屋が穢れる、と会長さんが叫べば、ソルジャーは。
「平気だってば、ノルディに頼んでアフターケアも万全だから! 使った後にはこっちの世界でカバーとかを一式、替えて貰って!」
ノルディの家には使用人が大勢いるからね、と得意げな顔。
「任せておいたら綺麗に洗って貰えるんだよ、シーツも枕カバーもね! それに布団も!」
フカフカに乾燥して貰えるのだ、と自慢の布団を手でポンポンと。
「昨夜もハーレイとヤリたかったけど、たまにはベッドもいいものだしねえ…」
ベッドでヤッたから布団はお休み、と悪びれもせずに言ってますけど、何処でもベッド…。
ソルジャーはひとしきり布団を自慢し、慣れた手つきでヒョイと畳むと自分の世界へ送り返しました。今夜に備えて仕舞っておくとか、なんとか言って。
「いいだろ、ぼくの何処でもベッド! あれさえ敷けばね、ハーレイだって燃えるんだな!」
普通だったら無理な場所でも一発なのだ、と鼻高々。
「展望室でもヤッてみたしさ、公園だって!」
「「「こ、公園…」」」
それはブリッジから丸見えなんじゃあ、と誰もが思ったのですが。
「ちゃんとシールドしてるってね! 見えないように!」
そしてハーレイは布団さえあればスイッチが入る、と自信満々。
「これからヤるのだ、という気持ちになれるらしいね、布団を敷けばね!」
湯治場でそういう日々だったから、と得々と。
「ヤリたくなったら布団を敷かなきゃいけなかったし、ハーレイにとってはスイッチなんだよ! 敷けばヤるぞという印! 何処でもベッド!」
きっとブリッジでもヤれるであろう、と怖すぎる台詞。ブリッジだけはやめておいた方がいいのでは、と思うんですけど…。
「一応、シャングリラの中心だしねえ…。ホントにヤろうとは思ってないけど!」
だけどチャレンジしてみたい気も…、とソルジャーとも思えぬ酷い発言。いえ、ソルジャーというのはソルジャーじゃなくて、称号の方のソルジャーで…。人間としてのソルジャーだったらブリッジだって気にせず何でもやらかすだろうと分かってますが。
「それでさ、ぼくも色々、考えたんだけど…。何処でもベッドの使い道について!」
「もういいから!」
帰ってくれ、と会長さんがイエローカードを突き付けました。
「レッドカードでもいいほどなんだよ、今までの君の言動からして! サッサと帰る!」
そして布団を敷いてくれ、と吐き捨てるように。
「布団さえあれば天国なんだろ、何処でも好きに敷いて回れば?」
ブリッジだろうが公園だろうが、とシッシッと手で追い払おうとしたのですけど。
「その布団だよ! 有効活用できないかと!」
「「「は?」」」
「さっき言ったろ、布団でスイッチが入るって!」
ぼくのハーレイ、とソルジャー、ニッコリ。
「あのハーレイでも入るスイッチ、きっと使えると思うんだけどね?」
「「「…え?」」」
そんなスイッチ、いったい何に使うんでしょう? 明かりが点くわけないですよね?
何処でもベッドこと、布団を敷いたら入ると聞かされたキャプテンのスイッチ。同じスイッチでも電灯を点けたりエアコンを入れたりといったスイッチとは別物ですが…。
「スイッチとしての使い方はまるで同じなんだよ」
ズバリそのもの、とソルジャーが言えば、シロエ君が。
「でもですね…。スイッチは普通、明かりを点けたりするものですけど?」
そういう類のスイッチと同じとは思えません、と真っ当な意見。けれどソルジャーは「同じだってば」と譲りもせずに。
「同じものなら同じスイッチが使えるだろう? その手の電気器具にしたって」
「…それはまあ…。電球を別のに取り替えたから、とスイッチまで替えはしませんが…」
同じスイッチでパチンとやったら点きますが、とシロエ君が答えて、ソルジャーが。
「ほらね、モノさえ同じだったらスイッチも同じ! だから、こっちのハーレイだって!」
「「「…教頭先生!?」」」
どうしてその名が出て来るのだ、と思う間もなく続けられた言葉。
「何処でもベッドでスイッチが入ると思うんだよ! こっちのハーレイ!」
布団を敷いてあげさえすれば、とニヤニヤと。
「もちろん最初はただの布団だと思うだろうから、そこは丁寧に説明を! そして目出度く!」
何処でもベッドで童貞卒業、と恐ろしすぎる台詞が。童貞卒業って…。
「決まってるじゃないか、布団で一発ヤるんだよ! こっちのハーレイもスイッチを入れて!」
使わずに放置になってるアソコを使わせるべし、とソルジャーは言い放ちました。童貞のままではお先真っ暗、ここは一発、目覚めるべきだと。
「ぼくのハーレイだって、基本はヘタレ! 見られていると意気消沈で!」
ぶるぅの覗きでも萎えるヘタレだ、とお馴染みの言葉が。
「ところが、そういうハーレイだってね、布団を敷いたら公園で一発ヤれるんだな!」
きっと布団には秘めたパワーがあるに違いない、と言われましても。
「…布団はただの布団だけれど?」
会長さんがスッパリと。
「寝る時に敷くというだけのもので、パワーなんかは無い筈だけどね?」
「ぼくだって、そう思っていたよ! あの湯治場で気が付くまでは!」
畳で寝るには布団程度の認識だった、とソルジャーも負けていなくって。
「それが今ではしっかりスイッチ、敷きさえすればハーレイはパワー全開なんだよ!」
試してみる価値は大いにある、と言い出しましたが、試すって…?
布団を敷いたらスイッチオンで、何処でも一発らしいキャプテン。そのスイッチが教頭先生にも使える筈だ、というのがソルジャーの見解ですけれど。
「…試すも何も…。ハーレイは布団に慣れてるよ?」
柔道部の合宿は常に布団だ、と会長さん。キース君たちも頷いています。
「そうだな、合宿所では布団だな」
「ベッドなんかはありませんよね、教頭先生は一人部屋においでですけれど…」
あの部屋もベッドは無かったですね、とシロエ君。
「ご自分で敷いてらっしゃいますしね、布団くらいで気分が変わりはしないかと…」
「だよねえ、布団は珍しくないし…」
ぼくたちの世界じゃ普通にあるし、とジョミー君も。
「家じゃベッドで寝てるって人でも、旅館に行ったら布団だし…。寝られないからって、ベッドを用意させるのは無しだと思うよ」
最初からベッドの部屋にしないと…、という意見は至極もっともなもの。自分で和室をチョイスしておいて、ベッドを出せとは論外です。けれど…。
「やってみなくちゃ分からないじゃないか、こっちの世界のハーレイだって!」
ぼくのハーレイも湯治に行く前は布団でスイッチは入らなかった、と言い募るソルジャー。
「スイッチが入れば儲けものだよ、試すだけの価値があるってば!」
「誰が儲けて何の価値があると?」
会長さんの冷たい声音に、ソルジャーは。
「君が儲かるに決まってる、って言いたいけれども、今の時点じゃ言うだけ無駄だし…。ハーレイのスイッチが入れば分かるよ、儲かった、って!」
君とハーレイとの素敵な時間が…、とニヤニヤニヤ。
「こればっかりは体験しないと分からないからね、御礼は後から言ってくれれば!」
「儲かりもしないし、御礼を言う気も全然無いから!」
ぼくにそっちの趣味などは無い、と会長さん。
「迷惑どころか災難なんだよ、そんなスイッチが入ったら! 黙ってヤられはしないけど!」
その前にハーレイをブチ殺す、と不穏どころかコワイ台詞が。
「ぼくと一発ヤろうだなんてね、思い上がりも甚だしいから、殺されたって文句は言えないね!」
「うーん…。君に悩殺されるんだったら、ハーレイだって本望だろうけど…」
「そういう意味の殺すじゃなくって、息の根を止める方だから!」
次の日の朝日は拝めない方で殺してやるから、と会長さんはギャーギャーと。ソルジャーがいくら試したくっても、何処でもベッドは無理ですってば…。
布団を敷いたら入るスイッチ、教頭先生にあるか無いかの話はさておき、入った所で悲惨な末路にしかならないことは明々白々。会長さんをモノにするどころか、下手をすれば命がありません。まさか本気で殺しはしないと思いますけど…。
「まあねえ…。まだ捕まりたくないからね?」
それに殺生の罪は重くって…、と会長さん。
「銀青ともあろう者が戒を破って殺したとなれば、言い訳に凄く困りそうでねえ…」
「言い訳って…。あんた、言い訳できるのか? 殺生の罪を!?」
アレは坊主には致命傷では…、とキース君が訊けば。
「いざとなったら、なんとでも…ねえ? それが出来なきゃ緋色の衣は着られない、ってね」
ダテに高僧をやってはいない、と平然と。
「ただねえ、言い訳の方は出来ても警察がね? そりゃあ、そっちも誤魔化せるけどさ」
ハーレイの一人や二人くらいは殺したって、と、まるでゴキブリ並みの扱い。ソルジャーが深い溜息をついて、嘆かわしそうに。
「…ホントのホントに報われないねえ、こっちのハーレイ…。殺してもいいとか、殺したくらいじゃバレないだとかさ」
「日頃の行いが悪いからだよ、ぼくに対する態度とかがね!」
「愛情表現をそう取られたんじゃ、もう気の毒としか言いようがないよ」
ぼくなら喜んで一発どころか二発、三発…、と嘆くソルジャー。会長さんは教頭先生の値打ちがサッパリ分かっていないと、あんな素敵な伴侶はそうそういないのに…、と。
「ぼくなんか毎日が熱々なのにさ、君ときたらさ…」
「君の認識が狂ってるんだよ、ぼくは至って正常だからね!」
ちゃんとフィシスという女神もいるし、と会長さんだって負けていません。ソルジャーの方が絶対変だと、あんなのと結婚するなんて…、と。
「どう間違えたら男と結婚したくなるのか、ぼくには理解不能だから!」
「分かってないねえ、気持ちいいからに決まってるだろう!」
結婚したならやることは一つ! とソルジャーは拳を握り締めました。
「晴れて夫婦で何処でも一発、布団を敷いたら公園でだって! これが結婚の醍醐味で!」
まずは気持ち良さを体験しなくちゃ、とソルジャーの目指す所は更に高みへと。
「こっちのハーレイにスイッチを入れて、君は気持ちの良さを体験! そうすれば、きっと!」
結婚しようという気にもなるのだ、と自説を展開するソルジャー。まずは布団を敷いてスイッチ、それから会長さんが教頭先生にヤられてしまって、ソルジャーと同じく男同士の良さにハマるのだ、とか言ってますけど、無理すぎませんか…?
思い込んだら一直線なのがソルジャーなる人、誰が止めても止まるわけがなく。
「要は布団でスイッチなんだよ、入るかどうか試してみようよ!」
ちょうどハーレイも暇そうだし…、とサイオンで教頭先生の家を覗き見た様子。
「ぼくたちの布団を貸してあげるから、とりあえず、此処で!」
「「「此処で!?」」」
このリビングで実験なのか、と誰もがスザッと後ろに下がりましたが、ソルジャーの方は。
「布団は何処でもベッドなんだよ、何処でもスイッチが入るってね!」
論より証拠、とソルジャーの指がパチンと鳴ったら、リビングに教頭先生が。瞬間移動をさせたようです。教頭先生はキョロキョロとして。
「こ、これは…。邪魔したか?」
「大いに邪魔だよ、ぼくは呼んではいないからね!」
会長さんがツンケンと言うと、ソルジャーが。
「ぼくが呼んだんだよ、ちょっと素敵なアイテムを見付けたものだから…。君は布団を知っているかな、いわゆる布団」
敷いて寝るヤツ、と訊かれた教頭先生は。
「それはもちろん…。私の家にも何組か置いてありますし」
私自身はベッドですが、という答えにソルジャーは満足そうに。
「なるほど、それじゃ布団の敷き方、心得てるよね?」
「はい。ですが、布団がどうかしましたか?」
「高級なヤツを買ったんだよねえ、ちょっと敷いてみてくれるかな?」
モノはこれで…、と再び空間を超えて来たソルジャー夫妻の布団は、きちんと畳んでありました。ソルジャーは湯治場で過ごす間に布団の畳み方を覚えたようです。教頭先生は畳んで積み上げられた布団に触ってみて。
「ずいぶん奮発なさいましたね、これをお使いになっておられるのですか?」
「まあね。…何処でもいいから敷いてみてよ」
「はあ…」
やってみましょう、と教頭先生は掛布団をよいしょと脇へどけると、敷布団を引っ張り出しました。ソルジャーとキャプテンが使う布団ですし、とびきり大きな敷布団です。それを広げて、シーツを掛けて。お次は掛布団をバサッと広げて…。
「…こんな感じで如何でしょうか?」
「うん、いいね。それじゃ枕を…」
どっこいしょ、とソルジャーが取り出した枕が二つ並べて置かれましたが。さて、この後は…?
大きな布団に枕が二つ。どう見ても夫婦用ですけれども、教頭先生のスイッチは入りませんでした。いえ、キツネにつままれたような顔とでも言うべきか…。
「どう、ハーレイ? グッと来たかな?」
ソルジャーがワクワクと問い掛けてみても、返った返事は。
「…羨ましいな、と思うだけですが…」
ご夫婦用の布団ですよね、と見ているだけの教頭先生。それはそうでしょう、ソルジャーが買ったと言っているのですし、枕が二つのビッグサイズじゃ、キャプテンと二人で使う布団に決まってますし…。
「…君の感想はそれだけなわけ?」
「…他に何かが?」
とても高級な布団なのでしょうか、とズレまくっている教頭先生。ズレたと言うより、そちらの方が普通の反応、スイッチなんかは入るわけがなくて。
「……おかしいなあ……」
ちゃんと布団を敷いたんだけどな、とソルジャーは首を捻りました。
「この布団があれば、君にもパワーが漲ってくると思ったんだけどね?」
「パワーですか?」
「そう、パワー! これは何処でもベッドと言って!」
布団さえ敷けば何処でも一発! とソルジャーが布団を指差しているのに、教頭先生は「一発?」と怪訝そうな表情で。
「一発と言えば、一発だろう!」
「はあ…?」
教頭先生とソルジャーの会話は平行線でした。まるで噛み合わず、ソルジャーの意図は通じていません。ソルジャーはすっかり自信を失くして、ガックリと肩を落としてしまって。
「…ぼくのハーレイ限定なわけ?」
「そうじゃないかと思うけど?」
こっちのハーレイの方が正しい、と会長さんは勝ち誇った笑み。布団はただの布団なのだと、それ以上でも以下でもないと。
「でも…。ぼくのハーレイだと何処でもベッド…」
「…何処でもベッドとは何のことです?」
今一つ分かりかねるのですが、と教頭先生が口を挟みました。
「確かに布団は敷きさえすればベッド代わりになりますし…。スペースさえあれば寝られますが」
「そこが大事なポイントなんだよ!」
うんとポイントが高いんだけど…、とソルジャーは布団を畳み始めました。諦めて持って帰るんですかね、その方がいいと思いますけど…。
敷いてあった布団を畳み終わると、グルリと周りを見渡したソルジャー。それから視線を宙に向けると、「よし!」と一声、青いサイオンが煌めいて。
「「「!!?」」」
ゆらりと一瞬揺れた空間、キャプテンがパッと現れました。ソルジャーの方は私服ですけど、こちらは制服を着ています。キャプテンは私たちに気付くと姿勢を正して。
「どうも、ご無沙汰しております。いつもブルーがお世話になっておりまして…」
「ハーレイ、挨拶はどうでもいいから」
それよりこっち、とソルジャーが布団の山を示した途端に、バッと勝手に広がった布団。リビングに見事に敷かれてしまって、ソルジャーは。
「ねえ、ハーレイ? 布団なんだけど…」
「布団ですね!」
そうでしたね、とキャプテンはソルジャーをグッと抱き寄せ、熱いキスを。えーっと、私たちのこと、見えてますかね、バカップルモード全開ですかね…?
「…でね、ハーレイ…」
キスから解放されたソルジャーのサイオンが光って、バカップルは見えなくなりました。布団も消えたと思ったのですが、何処からか「あんっ…!」という声が。
「「「え?」」」
今の声はソルジャーの、と見回す間に、また「あっ…!」と。会長さんが床をドンと蹴り付け、怒り狂った形相で。
「出てってくれる!? ここはぼくの家で…!」
「それどころじゃあ…。あんっ! ダメだってば、ハーレイ…!」
話し中で、というソルジャーの声が喘ぎに変わって、何事なのかと驚いていれば、急に静かになりましたけれど。
「…何だったんだ、今のは?」
キース君が一歩踏み出そうとしたら、会長さんが鋭く制止。
「ちょっと待って! …うん、帰ったかな、あっちにね。ぶるぅ、塩!」
「お塩?」
「そう! 思い切り床が穢れたから!」
よくもこんな所で前哨戦を…、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が持って来た塩壺の中身をリビングにブチ撒き、教頭先生が立っていらした場所にもパッパッと。あれっ、教頭先生は?
「かみお~ん♪ トイレに走って行ったよ、さっき!」
無邪気な答えが返りましたが、会長さんの方は怒り心頭。まさかトイレって、もしかして…?
教頭先生が駆け込んだトイレは、念入りに清められたようです。塩を撒いた上に、お経まで。出て来た教頭先生は悄然としておられますが…。
「す、すまん…。つい…」
「あの声を聞いて欲情したって!? そりゃね、シールドの向こうだったけどねえ!」
とんでもないことをしてくれちゃって、と会長さんの怒りは収まらない模様。リビングの絨毯は処分するとか、もう明日にでも買い替えだとか。
「…何もそこまでしなくても…」
あの絨毯はいいヤツだろう、と教頭先生が言ったのですけど。
「そういう問題じゃないんだよ! 布団だけならまだマシだけれど、ああなってはね!」
スイッチだなんて…、と怒りまくって、どのくらいの時間が経ったのか。いきなり空間が揺れたかと思うと、さっきまでとは別の服を着たソルジャーが。
「ごめん、ごめん…! ついウッカリとヤリ込んじゃって…!」
ちゃんとシャワーは浴びて来たから、とボディーソープの匂いがふわりと。
「ハーレイもブリッジに走って行ったよ、勤務時間中には違いないしね!」
あんな感じでスイッチが入るというわけで…、とソルジャーは笑顔。
「ね、布団のパワーは凄いだろう? ぼくは間違ってはいなかったってね!」
何処でもベッド! という極上の笑みに、教頭先生の喉がゴクリと鳴って。
「あ、あのう…。あれは特別な布団ですか?」
「特別と言えば特別なのかな? 値段はとっても高かったよ、うん」
「私もあれを買いたいのですが…!」
そして練習したいのですが、という台詞を教頭先生が言い終えることは出来ませんでした。キラリと光った会長さんのサイオン、ご自分の家へ送り返されてしまわれたようで…。
「何をするかな、せっかくハーレイがその気になったというのにさ!」
「布団にパワーは無いんだってば、それに練習されても困る!」
二度と布団を持ち込むな、と会長さんが怒鳴って喚いて、ソルジャーは「やれやれ」とお手上げのポーズ。布団は効くのにと、あれこそ何処でもベッドなのに…、と。
「おい、本当に効くのか、布団は?」
俺にはどうも分からんのだが、とキース君が声を潜めて、シロエ君が。
「知りませんってば、湯治場のパワーと相乗効果じゃないんですか? キース先輩が勧めたんですよ、休暇には湯治に行けばいい、って」
「単に追い払いたかっただけなんだが…」
どうしてこういうことになるんだ、と頭を抱えるキース君にも、ソルジャーと大喧嘩を繰り広げていた会長さんにも、布団の効果はついに分からないままでした。
一方、何処でもベッドを手に入れてしまったソルジャーの方は、相変わらず布団で楽しみまくっているようで…。
「どうかな、これ? 今度、こっちのハーレイに勧めてみようかと!」
「…好きにすれば?」
もうあの家は布団部屋だから、と会長さんは開き直りの境地です。教頭先生、ソルジャーにせっせと勧められるままに布団を買ってはコレクション中、家のあちこちに布団の山があるのだとか。
「…ああいう商法、昔、無かった?」
やたらと布団を買わせるヤツ、とジョミー君がコソコソと囁き、サム君が。
「あったっけなあ…。でもよ、布団は効くんだぜ?」
「バカップル限定ですけどね…」
あっちもまた買ったようですよ、とシロエ君。何処でもベッドも只今、順調に増殖中。布団の効果が切れる時まで増えるんでしょうか、あっちの世界とこっちの世界で高級布団が何組も。ソルジャーがハマッた、何処でもベッド。効果はいつまであるんでしょうねえ…?
何処でも布団・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーが湯治に出掛けて発見したのが、布団の素晴らしさらしいですけど。
布団商法に引っ掛かった形の教頭先生、布団を何枚、買わされるやら。お気の毒に…。
ところで、シャングリラ学園番外編、去る4月2日で連載開始から12年となりました。
干支が一周して来ましたです、何処まで行けるか、お付き合い頂ければ嬉しいです。
次回は 「第3月曜」 5月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、4月といえば桜で、お花見の季節。マツカ君の別荘の桜も見頃。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「ほら、ブルー。綺麗でしょう?」
おやつの時間に母が見せにやって来たお皿。学校から帰って、着替えも済ませて、ダイニングでのんびりしていたら。
母が差し出した皿には、可愛い鳥が描かれていた。ヒイラギの枝に止まったコマドリが一羽。
どう見ても飾っておくための皿で、実用品ではなさそうなお皿。おやつのケーキが載ったお皿とサイズは変わらないけれど。
「…クリスマス用の?」
白地に金の縁のお皿の、殆どを占めるコマドリの絵。
ヒイラギの枝には赤い実が幾つもついているから、クリスマスに備えて買ったのだろうか。赤い実を沢山つけたヒイラギは、クリスマスのリースの定番だから。
かなり気が早いと思うけれども、見付けた時に買っておかないと売れてしまうのかもしれない。次に出掛けても、もう無いだとか。
きっとそうだ、と考えたから母に訊いてみたのに…。
「そうかもしれないわねえ…」
「え?」
ブルーの目の前、まじまじと皿を見ている母。コマドリとヒイラギが描かれた皿を。
「クリスマス用だと言われれば、そうかも…」
ヒイラギだものね、クリスマスかしら?
…コマドリはクリスマスの鳥だったかしらね、ママには分からないんだけれど…。
ブルー、知ってる?
「ううん、知らない…」
ヒイラギの絵だから、クリスマス用のお皿なのかと思っただけ…。
ちょっと早いけど、見付けたら直ぐに買っておかないと、じきに売り切れちゃうのかな、って。
そう答えたものの、買って来たにしては妙だと傾げた首。
クリスマス用だと考えさえもしなかった母が、こういう絵皿を買うのだろうか?
それともコマドリが可愛らしいから、と買い込んだだけで、ヒイラギには気付かなかったとか。
(…ママらしいけどね?)
お気に入りの食器が幾つもある母。何か探しに店に出掛けて、実用品の代わりに飾り物の絵皿を買うかもしれない。飾りたい場所が閃いたなら。
決め手はコマドリに違いない、と丸っこい小鳥の絵を見ていたら…。
「このお皿、お祖母ちゃんが送って来たのよ」
お皿に絵を描く教室に通い始めたらしくて…。この絵、お祖母ちゃんが描いたんですって。
「お祖母ちゃんが?」
このお皿の絵…。お祖母ちゃんなの、本当に?
よく見せて、とテーブルに置かれた絵皿を覗き込んだ。コマドリとヒイラギの絵をまじまじと。
絵を描くのは自分も得意だけれども、お皿と画用紙はまるで別物。失敗したから、と塗り直しは多分出来ないだろうし、一回限りの真剣勝負。
それを上手に描き上げたのが祖母、買った絵皿だと思い込んだほどに。
(…上手すぎるよ…)
何処もはみ出したりしてないものね、とコマドリの絵を指でなぞってみる。ヒイラギの枝も。
「凄いでしょ、お祖母ちゃんの腕前」
自信作らしいわ。先生にも褒めて頂いたのよ、って通信で得意そうに話していたから。
「うん…。ぼくじゃ、こんなの描けないと思う…」
「ママも無理だわ、描き直しは出来ないらしいから…。間違えました、って消せないのよ」
お祖母ちゃんがそう言ってたわ。描き直したら、後で見た時に分かっちゃうのよ、って。
でもね、お祖母ちゃんに聞いた話だと…。もっと凄い人たちがいるんですって、絵を描く人。
母が祖母から教わった話。手描きで色々な食器を仕上げる職人たち。
簡単な下絵が入っただけの皿やカップを相手に、正確無比な絵を描いてゆく。花の絵だろうが、もっと複雑な模様だろうが。
「そういった絵をね、まるで印刷したみたいに描けるらしいのよ」
幾つも並べて比べてみたって、何処が違うのか分からないくらいに同じような絵をね。
「なんだか凄いね、うんと練習しないと無理そう…」
同じ絵ばかりを何度も描いたり、線を描いたりする練習とかも…。色を塗るのも。
教室にちょっと通ったくらいじゃ、絶対、描けそうにないものね、それ…。
「お仕事なんだもの、朝から晩まで練習よ。上手に描けるようになるまで」
売るための物を任せて貰えるのは、何年も練習してからですって。
だから昔は、とても高かったらしいわよ。そういう食器は。
今は寿命が遥かに延びたし、職人さんも大勢いるの。練習の時間もたっぷり取れるし…。
でも、ソルジャー・ブルーの時代だったら、高かった筈ね。今よりもずっと。
「ぼくはそんなの、縁が無いから…!」
食器なんかは買えなかったし、高い食器って言われても…。シャングリラとは関係無いよ。
でも…。前のぼくが奪った食器の中には、そういうの、混ざっていたのかも…。
誰もそうだと気が付かないから、猫に小判だけど。
「あらまあ…。それじゃ、とっても高いお皿を使っていたかもしれないのね?」
何も知らずに、食堂とかで。…普通にお料理を盛り付けちゃって。
「だって、食器は食器だよ?」
使うためのもので、こういう飾りのお皿じゃなくて…。
飾り物のお皿が混じっていたって、シャングリラだったら、上にお料理、盛り付けるから!
食器は食べるための道具だもの、とクスクス笑って部屋に帰った。
「本当に猫に小判だわ…」と目を丸くする母に、「お料理が盛れればそれで充分」と、懐かしい船の食器事情を話しておいて。
(ホントにそうだったんだから…)
お皿もカップも使うためのもの、と座った勉強机の前。今とはまるで違うんだから、と。
祖母が絵を描いたコマドリの絵皿も、あの船だったら料理が盛り付けられただろう。コマドリもヒイラギも見えないくらいに、その日の料理がたっぷりと。
食べ終わってやっと「こういう模様がついていたのか」と眺める程度で、それも一瞬。さて、と手にして係に返しに行っておしまい。「御馳走様」と。
(あのシャングリラで、手描きの食器…)
もしも混じっていたとしたって、本当に気付いていなかっただろう。その値打ちに。
ハーレイが備品倉庫の管理人をしていた時代も、管理人の仕事を別の仲間が引き継いだ後も。
白い鯨になる前の船では、食器はどれも一纏めに食器。お皿か、カップか、使い道によって分類されていただけ。それとサイズと。
割れたり欠けたりしてしまったら、新しい食器が出て来た船。ただし、前とは違うものが。
奪った物資の中の食器は、船の仲間に行き渡るだけの数が揃っていなかったから。割れた食器と全く同じ物が常にあるほど、恵まれた船ではなかったから。
不揃いな食器が当たり前だったシャングリラ。模様も気にしていなかった。男性用に花の模様はちょっとマズイか、と盛り付ける係が加減した程度。これは女性に渡す方が、と。
どんなに素晴らしい食器があっても、猫に小判だったシャングリラ。
あの時代には高かったという熟練技の手描きの食器も、安価な食器も、纏めて食器。上に料理を盛れれば充分、カップなら飲み物が入れば充分。
シャングリラはそういう船だったけれど、もしかしたら、前のハーレイは気付いていたろうか?
備品倉庫の管理をしていた時代に、其処へドカンと運び込まれた値打ち物の食器に。
「これは高いぞ」と考えていたか、「手間暇かかった食器があるな」と眺めていたか。
ハーレイなら見抜いていたかもしれない。猫に小判だった皿やカップの真価を、その値打ちを。
誰も欲しいと言い出さなかった、木で出来た机や羽根ペンを欲しがったハーレイだから。
「こいつは、磨けば磨くほど味が出るんだぞ」と、木の机をせっせと磨いていたハーレイ。
あのハーレイなら、食器の値打ちも知っていたかも、という気がする。
(…どうなのかな?)
前の自分は何も聞いてはいないけれども、気になるシャングリラの食器事情。
一人くらいは食器の値打ちに気付いていたのか、猫に小判な船だったのか。高価だったと聞いた手描きの食器は混じっていたのか、それも分からないままだったのか…。
ハーレイに訊いてみたいんだけど、と頬杖をついて考えていたら、チャイムの音。仕事の帰りに寄ってくれたハーレイ、チャンスは直ぐにやって来た。
母がお茶とお菓子を置いて去った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ、目利きは出来た?」
「…はあ?」
何の目利きだ、それにどうして過去形なんだ?
目利きは出来るかと訊くなら分かるが、出来たかって、ガキのオモチャの目利きか?
「そうじゃなくって…。前のハーレイだよ、目利きは得意?」
まだ厨房にいた頃の話で、備品倉庫の管理も一緒にやってた頃の…。
「食材か? それなら出来んと話にならんが」
でないと料理が不味くなっちまう、持ち味ってヤツを生かしてやらんと。
肉も魚も、それに野菜も、どういう料理に向いているかをきちんと見分けて使わないとな。
「ううん、食材は出来ただろうけど…。食器の目利き」
倉庫に色々入っていたでしょ、前のぼくが輸送船から奪った食器。
「確かに食器はドッサリあったが、食器の目利きって…」
何なんだ、それは?
何処からそういう話になるんだ、前の俺は目利きが出来たか、だなんて。
「えーっと…」
お祖母ちゃんがお皿を送って来たんだよ。使うヤツじゃなくて、飾っておくヤツ。
シャングリラでは飾っていなかったけれど、今はお皿も飾るでしょ…?
お祖母ちゃんが絵を描いたお皿だったんだよ、とコマドリの絵皿の話をした。
絵皿を見せてくれた時の母の話も。世の中には祖母よりずっと凄い人がいるようだ、と。様々な食器に正確無比な絵を描いてゆける職人たちが何人も、と。
「そうらしいなあ、職人技の極みってヤツで」
昔はべらぼうに高かったと聞くぞ、手描きの食器。一枚一枚、手で描いたヤツは。
「今よりもずっと?」
前のぼくたちが生きてた時代は、そうだったんだよね。そういう食器、とても高かった?
「当然だ。今とは時代が違うんだから」
人間の寿命がまるで違うし、一人前になった職人が働けた年数が比較にならん。
その上、年を取るからなあ…。身体が言うことを聞かなくなったらそれで終わりだ。今の時代は若い姿を保つもんだし、三百年は軽く現役なんだが。
一人の職人が三十年しか働けないのと、三百年も働けるのとは、全く違うぞ。
「ママもそう言ってたから、本当に昔は凄く高かったんだろうけど…」
前のハーレイ、そういう食器があることに気付いていたのかな、って。
備品倉庫に入ってた食器、高い食器が混じっていたなら、分かったのかな、って…。
「なるほど、それで目利きと言ったのか…」
俺も食器に詳しかったわけじゃないんだが…。その道のプロじゃなかったんだが。
少しくらいなら分かっていたなあ、どれが高いか、安いかくらいは。
食器が入っていた箱などで見当が付いたという。これは高い、と。
頑丈な箱に詰められ、緩衝材も沢山入っているような食器。形に合わせて箱に窪みがあったり、中が布張りになっているとか。
その上、一つ一つが薄布できちんと包まれた食器。輸送中に傷が出来たりしないように、と。
「…そんな食器も混じってたんだ…。前のぼくが奪って来た食器…」
どうしたの、それ?
ハーレイが見付けた、高い食器は?
「どうしたって…。普通に出したが?」
食堂の食器が駄目になったら、そいつの代わりに。割れたり欠けたりしちまったらな。
皿を一枚と頼まれたら皿を、カップを一つと言われりゃカップを。他の食器と何も変わらん。
手に入った順に仕舞ってあったし、その箱の番になったら出すんだ。
「…なんで?」
高そうだってことを知ってたんでしょ、高級品だよ?
他の食器とは違うヤツだよ、どうして普通に出しちゃったの?
分かってなければ仕方ないけど、ハーレイ、ちゃんと分かっていたのに…。高い食器だ、って。
「お前なあ…。あの頃の船の状況ってヤツを知ってるだろうが」
白い鯨になった後なら、余裕は充分あったんだが…。船の中で全部を賄えたからな。
だが、その前の時代は違った。前のお前が奪って来なけりゃ、何も手に入らない船だったんだ。食料はもちろん、食器も、他の色々な物も。
お前がせっせと奪っていたから、飢えることだけは無かったが…。そうでなければ飢えて死ぬ。毎日が命懸けって船だぞ、戦いは無くても生きてゆくだけで。
命懸けで生きているような船で、高級品も何もあったもんじゃない。食器は食器というだけだ。生きてゆくのに必要な食べ物、そいつを入れる器だろうが。
食事するのに使ってこそだ、とハーレイが返した明快な答え。
俺の後継者もそうだったろう、と。
「キャプテンになる時に引き継ぎをしたが、「食器は其処だ」と教えた程度で…」
手に入った順に使っているから、次はこれだと指差しておいた。空になったら次がこれだ、と。
やりやすいように整理し直してくれてもいい、とも言っておいたな。
だから、あいつも順番に出して渡しただろうさ。これは高そうだ、と気付いたとしても。
「…ハーレイが何も言わなかったんなら、そうなるね…」
高そうだったら残しておけとか、そういったことを。…元々、区別が無かったんだから。
その高そうだった食器の中に、凄い値打ち物も混じってたかな?
前のぼく、自分でも気付かない内に、人類が見たら驚くような高い食器を奪ってたのかな…?
「そこまでは知らん。高そうだな、と見ていただけだし」
机みたいに、個人の持ち物にはならないからなあ、食器ってヤツは。
今の俺だったら、あれこれ比べて気に入ったヤツを買うんだが…。自分の家があるからこそだ。
あの頃の俺が自分用の食器を持っていたって、何の役にも立たないだろうが。食事の度に食堂へ運んで行かない限りは、飯を入れては貰えないんだから。
だから全く興味は無くてだ、俺は調べてさえいない。高い食器の正体はな。
手描きだろうが、手間暇かかった細工だろうが、知ったことではないってこった。
要は使えりゃいいってわけで…。
ん…?
待てよ、と首を捻ったハーレイ。
こだわってたヤツがいたような気が…、と。
「…俺は全く気にしてないのに、やたらと食器にこだわるヤツが…」
確かいたんだ、新しい食器が手に入る度に…。
「誰なの、それ?」
ハーレイと同じで、備品倉庫の係かな?
管理はハーレイだったけれども、運び込んだり、整理する人は他にもいたから…。
「違うな、普段は倉庫じゃ見掛けない顔のヤツだった」
新しい食器が入った時だけやって来るんだ、いそいそと。倉庫に入って箱を開けては、中の皿やカップを取り出して、それの裏側を…。
そうだ、エラだ!
いつもあいつが開けに来たんだ、新しく入った食器の箱を。でもって、高そうな箱だったら…。中身を出すんだ、そして裏返して眺めていた。安そうな箱なら蓋をパタンと閉めるだけだが。
高そうだったら裏を見るんだ、必ずな。…また来やがった、と見ていたもんだ。
その内に俺も覚えちまった、エラが裏返しそうな食器ってヤツを。
前の自分が奪った物資に、食器の箱が紛れていた時。
それが倉庫に運び込まれたら、箱を開けては中身を検分していたエラ。高そうな食器が詰まった箱なら、中身を出して裏返してみる。食器の裏には色々なマークが描かれていたから。
エラは小さなメモやノートを持参していて、マークを控えて行ったという。食器の裏に描かれた文字や模様を、丁寧に紙に書き写して。
「そうやってマークを書いて行っては、調べてたようだ」
データベースで、何処のマークか。…どういう所で作った食器か、どんな値打ちがあるのかを。
たまに俺にも教えてくれたな、これは模様が手描きだとか。これは作るのに手間がかかるから、地味なようでも高いんだとか。
「そうだったんだ…」
食器の目利きをやっていた人、ハーレイだけじゃなかったんだね。
エラが詳しく調べてたんだね、どういう食器があったのかを。
「まあな。…もっとも、エラも調べてただけで、使うことに文句は言わなかったが」
あいつも船の事情は承知だ、使ってこそだと分かっていたんだ。…食器は食事に使うものだと。
どんなに有難い食器だろうが、使わずに倉庫に仕舞っておけとは言われなかった。
…パルテノン御用達のヤツでもな。
「パルテノン!?」
それって、人類の最高機関だったんじゃあ…。元老とかが所属していたトコだよ、パルテノン。
前のぼくたちでなくても雲の上だよ、普通の人類から見ても…!
そんな凄い食器が紛れていたわけ、前のぼくが奪った物資の中に…?
「俺もすっかり忘れてたんだが、今、思い出した。混じってたんだ」
エラが教えてくれなかったら、高そうな食器の一つだと思っておしまいなんだが…。
あの時はエラも、調べに行った足でそのまま戻って来たな。「これは凄いわ」と。
エラが倉庫の中で見付けた、パルテノン御用達だという食器。
ハーレイが言うには、なんということはない、ただの皿。白い無地の皿で、恐らくコース料理を出すためのもの。何種類かの大きさの皿が、それぞれの箱に詰められていた。
地球の紋章すらも描かれていなかったけれど、裏のマークがそれだったという。パルテノン用の食器だけを手がける工房のマーク。
「何組くらいあったんだったか…。けっこうな数があった筈だぞ」
シャングリラの人数の方がずっと多いから、総取り替えとはいかなかったが…。
皿の大きさも色々あったし、これは便利だと嬉しかったな。どれが割れても代わりになる、と。
「パルテノン御用達って…。それって、高いの?」
何の模様もついてなくても、その食器はとても高かったの…?
「とてつもなく高い値段だったと思うがな…?」
参考までに聞かせてくれ、とエラに訊いたら、それは素敵に高かった。
生憎と値段は忘れちまったが、とんでもなく高い皿だったことは間違いない。割れちまった皿の代わりに一枚渡す度にだ、「これ一枚で他の皿が何枚買えるんだ?」と思っていたからな。
もしかしたら、お前が奪った分の皿の値段だけで、船中の食器が買えたかもなあ…。
最初から船に載っていた食器、あれをそっくり新品で全部。
前のお前は、そういう食器を知らずに奪って来たってわけだ。船のヤツらも知らずに使った。
見た目はただの白い皿だし、どんな料理にもピッタリだからな。
俺がキャプテンになった後にも、長いこと現役だった皿だぞ、と今のハーレイは笑ったけれど。
シャングリラが白い鯨になった頃には、割れてしまって無かったらしい。ただの一枚も。
「これは丁寧に使ってくれよ、って注意してたわけじゃないからなあ…」
普通の皿と全く同じ扱いで、おまけに便利に使える白だ。出番が多けりゃ、割れることも多い。
滅多に出番の無いヤツだったら、そうそう割れはしなかったんだが。
…どう考えても男に出すのはマズイだろう、っていう派手な花模様の皿とかだったら。
「そうなんだ…。割れちゃってたんだ、シャングリラが生まれ変わった頃には」
もし残ってたら、船の何処かに飾れたのにね。
パルテノンは誰でも知ってたんだし、このお皿は凄いお皿なんだ、って眺めて楽しめたのに。
これで食事をしたことがある、って思い出した人は、うんと素敵な気分になれたよ。
人類の中でも最高のエリートだけしか使えないお皿で食べたんだ、って。
「まったくだ。…割れちまってさえいなければな」
こんな時代が来るんだったら、あの皿を使わずに残しておけば、とエラが悔しがって…。
今の船なら上等な食器の出番もあった筈だ、と俺に何度も零してたっけな。…あの食器の正体を知っていたのは俺だけだったし、他には誰も知らないし…。
ヒルマンは食器に興味が無かったらしくて、ゼルやブラウも御同様だ。前のお前も。
そんな具合だから、エラが食器の愚痴を零せる相手は俺しかいなかった。あれがあれば、と。
…そうだ、それでソルジャー専用の食器が出来たんだった。前のお前の専用の食器。
「えっ…?」
それって、ミュウの紋章入りのアレだよね…?
前のぼくと一緒の食事の時しか出て来ません、ってエラがみんなに何度も説明してたヤツ…。
「うむ。エラは覚えていたってことだな」
特別な食器は権威を表す、とパルテノン御用達の皿どものせいで。
専用の工房まで設けて作らせてたほど、御大層な食器が宇宙には存在するってことを。
白い鯨が完成した頃には、パルテノンの食器に詳しかったエラ。
倉庫に通っては食器の箱を端から開けていたほどなのだし、元から好きだったのだろう。多分、成人検査を受ける前から。
高級な食器が幾つも出て来る家で育ったか、そういう家に招かれる機会が多かったのか。食器の裏にはその正体を示すマークが描かれている、と早い段階でエラは気付いて、興味もあった。
幾つもの箱を開けている内に、エラが出会った最高級品がパルテノン御用達のもの。
出会ってしまえば、深まる興味。どういう食器が其処で作られるか、どういった時に使うのか。
暇を見付けては色々調べて、エラの頭に刻み込まれたパルテノンの食器のラインナップ。
最高峰は国家主席クラスの者たちが使う食器で、その頂点が晩餐会用。
エラはそこまで調べ尽くしていて、それに倣ってソルジャー専用の食器を作り出そうと考えた。人類の頂点に立つのが国家主席なら、ミュウの頂点はソルジャーだから。
専用の食器を是非作りたいと、そうすればソルジャーは更に特別な存在になる、と。
思い付いたエラが招集した会議。ソルジャーとキャプテン、それに四人の長老が集った。
その席でエラが披露した案。
国家主席クラスの者が晩餐会で使う食器には、地球の紋章が描かれるもの。その時しか出ない、特別な食器。それを真似てソルジャー専用の食器はどうか、と。
「…もちろん、地球の紋章などは入れません。あれは人類の紋章ですから」
私たちには、ちゃんとミュウのための紋章があります。地球の紋章と入れ替えるだけで、立派な食器になることでしょう。
人類は晩餐会でしか使わないようですが、この船ではもっと幅広く。
ソルジャーには普段から使って頂いて、ソルジャーも御一緒の食事などでは、他の者たちにも。
この食器のセットは、お茶の席でも使えるのです。デザート用までが揃いますから。
カップとデザート用のお皿だけを抜き出せばお茶の会も…、とエラが揮った熱弁。
「いいねえ、そいつは愉快じゃないか」
あたしは大いに賛成だよ。…国家主席は今は空席だしねえ、晩餐会も無いんじゃないのかい?
人類の世界じゃ、その食器セットは埃を被っているってわけだし…。
代わりに使ってあげようじゃないか、あたしたちがさ。…ミュウの紋章入りなんだけどね。
賛成、とブラウが挙げた右の手。
「悪くないのう。…人類は虫が好かんものじゃが…。わしは全く好きになれんが…」
人類の真似も、そういうことなら面白いじゃろう。ミュウも負けてはおらん、とな。
国家主席並みに偉いのがミュウのソルジャーなんじゃ、とゼルも賛同した。
ヒルマンも賛成、この段階で賛成票が過半数。
肝心のソルジャーの意見はもとより、キャプテンの意見も訊きもしないで、エラの提案は見事に通った。
会議はそういうものだったから。シャングリラの命運を左右するような議案以外は、多数決。
ソルジャーもキャプテンも出番が無いまま、閉会となってしまった会議。他の四人が拍手喝采、次の会議では食器を作る計画を具体的に、と約束までして。
ソルジャーとキャプテンの意向は全く訊かずに、エラの計画は進んでいった。
白い鯨になった船だからこそ作れる、ソルジャー専用の食器。手本にするのはこれだ、とエラがデータベースから引き出して来た、パルテノン御用達の食器の資料。
国家主席クラスの晩餐会で使われる様々な食器。それをそっくり真似て作れる腕を持った仲間が何人も選ばれ、地球の紋章は手描きされるというものだから…。
「エラときたら、紋章を描かせるために、熟練の仲間まで育てやがったんだ…!」
絵の上手いヤツらに練習させてだ、ミュウの紋章を食器にスラスラ描けるようにな。
カップだろうが、スープ皿だろうが、あの紋章を手描きで狂いなく、だ。
「思い出した…!」
毎日、特訓していたんだよ。専用の部屋で、絵の上手い仲間が何人も…。
最初は普通のお皿にちょっと加工して、描いたり消したり出来るようにして…。
上手に描けるようになったら、次はカップとかスープ皿とか…。
どんな食器でも綺麗に描けます、っていう腕前になったら本物の専用食器の出番。此処だ、ってエラが決めていた場所に、ピタッと紋章を描いてたんだよ、あの仲間たち…。
何年も練習したわけじゃなくて、ほんの三ヶ月ほどだった…?
それだけであんなに上手に描けたの、命懸けの船で生きてたからかな…?
「…そうかもなあ…。ついでに、絵を描く仕事だというのも大きかったかもな?」
生きるか死ぬかの毎日だったら、そんな仕事があるわけがないし…。
船の外では生きられなくても、船の中なら安全だからこそ絵を描くことを仕事に出来る。
こいつは大きな生き甲斐になるぞ、絵さえ描いてりゃいいんだから。元から絵が好きだった仲間ばかりだ、仕事に出来れば嬉しいだろうさ。
ミュウの紋章を描く時は真剣勝負だったが、他の時は好きに描けば良かった。食堂で使う色々な食器に、自分がこれだと思った絵をな。
僅かな期間でエラが育成した、ミュウの紋章を見事に描ける熟練の仲間たち。
ソルジャー専用の食器の全てにあまりに正確に描かれた紋章、手描きとはとても思えなかった。幾つも並べて見比べてみても、まるで違いが分からない出来。
それが食器を作ろうと思い付いたエラの自慢でもあった。パルテノン御用達の工房以上に、いい腕を持った職人が船に揃っていると。シャングリラの工房の方が遥かに上だ、と。
「…ハーレイ、あの食器…。今は復刻版のが出てるけど…」
ミュウの紋章、ちゃんと今でも手描きなのかな?
熟練の人たちが描いているのかな、何年も何年も練習してから…?
「俺は知らんが、あのシリーズの食器…。それほど高くはないからなあ…」
手描きだったら、もう少し高くなるんじゃないか?
いくら手描きの食器が安い時代でも、あの値段で熟練の職人技は無理だと思うぞ。
「やっぱり、ハーレイもそう思う…?」
ぼくもパンフレットを見たことあるから、そんなに高くないのは分かるよ。
お小遣いでは買えないけれども、貯めておいたら、少しずつ揃えていけそうだもの。
お皿を一枚とか、カップを一個とか、そんな感じで。
今の自分のお小遣いを貯めれば、少しずつ集めていけそうなソルジャー専用の食器の復刻版。
熟練の職人の手描きだったら、それは流石に無理だろう。ほんの子供のお小遣いでは。
誰も気付かなかったのだろうか、熟練のミュウの職人技に。
あまりにも正確に描かれていたから、印刷なのだと信じたろうか…?
「どう思う、ハーレイ? あの食器、勘違いされちゃったかな…?」
船の中だけで作ってたんだし、印刷だろう、って。
ソルジャー専用の食器だけれども、あんな時代に手描きで上手に描けやしない、って。
「そうなんじゃないか? …多分」
高い値段はついていないし、売られているのはあれしか無いし…。
手描きだったと分かっているなら、他に手描きが売りのシリーズを作るだろう。本物志向の人に合わせて、より本物に近い物ならこちらをどうぞ、と。
それが存在しないってことは、印刷なんだと誰もが信じているってことだ。手描きシリーズも、作れば充分、売れるんだから。
「…そうだよね…。手描きがいいな、って人もいるよね」
ちょっぴり高くても、本物に近いのはこっちだから、って。…でも、無いんだし…。
印刷なんだと思われてるよね、前のぼくの食器のミュウの紋章。
エラの努力は、ちっとも報われていないんだけど?
ぼくの意見を訊きもしないで、パルテノン御用達の食器に対抗したのに。
「別にいいじゃないか、エラの努力の評価はともかく」
リーズナブルな値段なんだぞ、ソルジャー専用の食器の復刻版。
印刷なんだと勘違いされてしまったお蔭で、手描きの食器よりも安い値段で買えるってな。
あれさえ買ったら、誰でもソルジャー主催の食事会の気分になれる皿で…、とハーレイが瞑った片方の目。パチンと、それは悪戯っぽく。
「お前も買うか、安いんだから」
今はチビだし、前に要らんと言っていたような気もするが…。
こうして由来を思い出したら、お前の考えも変わりそうだぞ。ただの食器じゃなかったんだ。
エラが努力に努力を重ねて、あのとんでもなく有難い食器を作ったってな。
「うん。最初は倉庫で、食器を端から裏返してマークを調べるトコから…」
シャングリラの食器が猫に小判だった頃から、エラはせっせと調べてたんだし…。
それを聞いちゃったら、あの食器、買わずに放っておくのはエラに悪いかな?
どうしよう、ハーレイ、買った方がいい?
…今は要らないけど、いつかハーレイと一緒に暮らす時には。
「さてなあ…?」
どうするべきかな、手描きの食器よりかは安く買えるんだしなあ…。
話の種に買うのもいいなあ、お前が嫌がらないならな。
ゆっくりと考えておけばいいさ、とハーレイに言われたソルジャー専用の食器の復刻版。
エラが熟練の仲間を育成したのに、腕が良すぎて、印刷なのだと勘違いされたミュウの紋章。
お蔭ですっかりリーズナブルになってしまった、遠い昔の職人技。
あの時代には、手描きの食器はとても高価なものだったのに。
(…エラはホントに頑張ったのにね、倉庫に通って食器のマークを調べたりして…)
エラの努力は報われなくて、今は印刷のミュウの紋章。ソルジャー専用の食器の復刻版は。
それも愉快だから、いつかハーレイと暮らす時には買ってみようか。
もう一度あれを使ってみようか、仰々しかったミュウの紋章入りの食器を。
遠く遥かな時の彼方で、「あれは手描きの紋章ですよ!」とエラが怒っていそうだから。
こんな筈では、と悔しがるエラの姿が見えるようだから。
使ってみようか、前の自分のための食器の復刻版を。
「今のぼくのお皿は、印刷になってしまったけれど?」と、エラにクスクス笑い掛けながら…。
手描きの紋章・了
※前のブルーが使っていた、ソルジャー専用の食器。ミュウの紋章は手描きだったのです。
エラの肝いりで出来たのですけど、印刷だと思われてしまった後世。それも愉快な結末かも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(雨か…)
ハーレイが眺めた窓の外。シトシトと庭を濡らしている雨。
ブルーの家へと出掛ける休日、予報通りに雨の朝。車で行くしかないだろう。雨が降る日に散歩するのもいいものだけれど、あくまで散歩の範囲内。何ブロックも離れたブルーの家だと、散歩と言うよりジョギングコースになりそうな距離。
歩くのは苦にはならないけれども、濡れてしまいそうな靴や、ズボンの裾や。
雨脚が強くなった時には、服まで濡れてしまうだろう。シールドを張って防ぐ手段はあっても、今の時代は日常生活ではサイオンを使わないのが立派な大人。人間らしく、と。
(ヒルマンたちは先見の明があったってな)
遠く遥かな時の彼方で、最初のミュウたちを乗せていた船。箱舟だったシャングリラ。
其処で「人間らしく」と説いていたのがヒルマンだった。それからエラも。
何かと便利に使ってしまいがちなサイオン、思念波や、物を動かす力や。それが駄目だと何度も注意していた二人。人間らしく言葉で話せと、手や足は使うためにある、と。
特に規則は無かったけれども、サイオンを出来るだけ使わないようにしていたシャングリラ。
今の自分が生きる世界は、あの船の思想とそっくりな世界。
サイオンは出来るだけ使わないもの、他の手段があるのだったら、そちらを使え、と。
雨が降ったら、傘を差すもの。シールドで防ぐのはヤンチャな子供か、急ぐけれども傘が手元に無かった大人か。
(…俺もいい年の大人ってわけで…)
雨が降る日に外を歩くなら、雨傘を差して。シールドは無しで。
いきなり強く降り出したならば、雨宿りするか、濡れてしまっても歩き続けるか。
ブルーの家には急ぎたいから、濡れながら歩くことになる。服や靴などがビッショリ濡れたら、迷惑をかけるブルーの母。拭くためのタオルを持って来るとか、着替えの服を出すだとか。
申し訳ないことになるから、雨の日は車。そういう風に自分で決めた。
今日は車だ、と視線を投げた庭の向こうにあるガレージ。前の自分のマントの色をした、愛車が其処に入っている。小さなブルーが「ハーレイらしい色だね」と言っている車。
それの出番が来るのだけれども、問題は家を出る時間。
(早く着きすぎても悪いからなあ…)
歩いてゆく日と同じに出たなら、いつもよりずっと早く着く。小さなブルーは大喜びでも、母は慌てるかもしれない。朝食の後片付けを済ませて、一休みという時間帯かもしれないから。
(普段通りがいいんだ、うん)
気配りってヤツだ、と大きく頷く。車で行くなら、出るのは遅めに。
こういう日もあるから、家を出る時間はちゃんと掴めている。早く来すぎた、と途中の何処かで車を停めなくてもいい時間。此処で五分、といった調整が要らない時間はこれだ、と。
(何度も車で行ってりゃなあ…?)
自然と覚えてしまうもんだ、と普段の週末よりもゆっくり食べた朝食。
コーヒーものんびりとおかわりまでして、丁度いい時間に車で家を出たというのに…。
(おいおいおい…)
なんてこった、と思わず口から零れた言葉。
一本道の住宅街で前を走っていた車。家が近いのか、元からスピードは出ていなかった。それが目的地に着いたらしくて、悪戦苦闘している車庫入れ。
道幅はそれほど広くないから、車が道路を塞いでしまった。初心者マークをくっつけた車。
まさか此処まで下手だったとは、と気付いた時にはもう遅い。逃してしまった別の方へと曲がる道。バックで其処まで戻ってゆくには…。
(…雨の中だし、厄介か…)
雨水が伝うガラスの向こうは見えにくい。長い距離をバックで戻ってゆくには向かない天気。
仕方ないな、と待っているのに、なんとも下手なドライバー。
(まだ動かんか…)
正確に言えば、車は動いているのだけれど。ノロノロと前へ後ろへ、道を塞いで車庫入れ中。
これは遅刻だな、と溜息をついた。
とんだ所で食らった足止め、早めに出て何処かで待てば良かった。こうなるのなら。
「俺が入れてやるから、代われ」と車を降りて言いたいくらいに下手な腕前。
いつになったら動けることやら、この場所から。
もう間違いない、ブルーの家に定刻通りに着けないこと。次はどれほど遅刻するかが大問題。
ほんの五分で済んでくれるか、もっとかかってしまうのか。全ては前の車次第で、ドライバーの腕前次第。全く期待出来ないけれど。
(初心者マークなあ…)
気付いた時点で曲がるべきだった、後ろをついて走る代わりに。
こうなることもありますよ、と知らせるために初心者マークがあるのだから。今の自分も免許を取って間もない頃にはつけていたから、目の前の車に文句は言えない。
もっとも、俺はあれほど下手ではなかったんだが、と呆れるしかない下手なドライバー。
俺は運転免許を取って直ぐから、迷惑をかけずに運転出来たが、と思った所で…。
(…アレよりも、もっと下手くそなヤツが…)
俺だったんだ、と愕然とした。
自動車学校のコースを走った頃から、今の自分は抜群の腕を誇ったけれど。他の車も走る道路へ練習のために出て行った時も、見事なハンドル捌きを披露したのだけれど。
それはあくまで今の自分で、自動車相手の運転のこと。
前の自分は下手くそどころか、最悪なドライバーだった。遠い昔に、シャングリラで。
初心者マークよりも酷かったんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。改造前のシャングリラ。
どういうわけだか、キャプテンに抜擢されてしまった自分。船を動かした経験は無くて、厨房で料理を作っていたのに。
「船は動かせなくてもいいから」と、ヒルマンやゼルたちに頼まれた。適任だからと、この船を纏めてくれさえしたなら、操舵は他の者がするから、と。
迷った末に受けたキャプテンの任。前のブルーの力になろうと。
本当にブルーを補佐したいなら、船を動かせなくてはならない。ブルーがそれを望む場所へと、船を運んでゆけてこそ。
だから操舵をすると申し出、まずはシミュレーターでの練習から。
そこそこ経験を積んだ後には、実地で練習することになった。本物の船を自分が動かす。
(…あれが大変だったんだ…)
当時のシャングリラにはまるで無かった、操舵する者に対する試験。実技も筆記も。
そんなわけだから、免許取り立てどころか無免許。そういう自分が挑んだ操舵。初心者マークもついていない船で、いきなり宇宙に飛び出した自分。最初から宇宙だったけれども。
それまで操舵していた者から、「頼む」と任せられた舵。
ブルーの先導とシールドのお蔭でなんとかなった。生身で宇宙を飛んでゆくブルー、サイオンの青い光を纏って。その後を追い掛けて船を操る、そういう練習が始まったけれど。
鬼コーチだった前のブルー。
手加減は全くしてはくれなくて、障害物だらけの空間に突っ込まされた。凄いスピードで。
懸命に避けた障害物。何度も激しく揺れていた船。
ぶつかりそうになった時には、ブルーのシールドが守ってくれた。船が傷つかないように。
何度「駄目だ」と思ったことか。ぶつかる、と心臓が凍ったことか。
実際は激突するよりも前に、障害物が弾き飛ばされたけれど。ブルーが張ったシールドに触れて木っ端微塵か、あらぬ方へと飛ばされるか。
とはいえ、障害物が迫って来るのは見えるから。船も激しく揺れるものだから。
(…ブラウやゼルたちも参っちまって…)
死ぬかと思った、と愚痴を零したブラウやゼル。彼らもブリッジで見ていたから。
それは酷くて下手くそだった、前の自分の初操舵。
初めての時は最低最悪、その後も実に酷かった。容赦が無かった前のブルーは、練習の度に酷なコースを選んだから。障害物だの、重力場が歪んだ空間だのと。
「シールドするから大丈夫だよ」と、「万一の時は船ごと移動させられるから」と。
本当に何度、シールドに船を救われたことか。障害物を避け損なっては、激突しかけて。
(そうだ、シールド…!)
白い鯨に改造された後、シャングリラが備えたサイオン・シールド。
人類軍の攻撃をも弾き返せたシールド、あれは自分が原因だった…!
思い出した、と手を打つ間も、悪戦苦闘している車。初心者マークをくっつけた車。
けれども自然と笑みが浮かんだ、「頑張れよ」と。
お前のお蔭で今日の話の種が出来たぞ、と。
苛立つ気持ちはもう無かったから、車が車庫に入ってゆくまで見守っていた。
「長い間すみませんでした」と鳴らされたクラクションに、こちらも応えて走り出すまで。
すっかり遅刻したブルーの家。
二階のブルーの部屋に案内されたら、小さなブルーは膨れっ面で。
「…お土産は?」
ママのケーキが出てるけれども、ハーレイ、お土産、持って来なかったの?
「今日は土産は何も無いが」
菓子も昼飯になるようなものも…、と返すと唇を尖らせたブルー。
「遅れたんなら、何か買って来てくれればいいのに」
そういうものでしょ、遅刻のお詫びに。
「もっと遅れた方が良かったのか?」
評判の高い店まで行ってくるべきだったか、と尋ねてやった。
少し遠いが、隣町に美味いクッキーの店があるんだが、と。
「隣町って…! ハーレイのお父さんたちが住んでる町でしょ?」
「その通りだが? だからその店を知っているんだ、何度も食っているからな」
あそこまで買いに出掛けて行ったら、下手をすれば昼頃になるかもなあ…。俺が着くのは。
美味いクッキー、食べたかったか?
「それは嫌だよ! …美味しいクッキーが嫌なんじゃなくて…」
ハーレイが来るのがお昼頃になってしまう方…。
そんなの嫌だよ、遅刻しちゃっても、クッキーは買って来なくていいから…!
要らない、とブルーが慌てたお土産。美味しいクッキーも、他の物でも。
着くのがもっと遅れるよりかは、お土産無しの方でいいから、と。
「ホントのホントに、何も持たずに来ていいから…!」
お土産は、って二度と言わないから、買いに行くより、急いで来てくれる方にして…!
「そう慌てるな。土産は買って来られなかったが…」
土産話なら持って来たから、そいつでいいだろ。今日のお土産。
「お土産って…。なに?」
キョトンとしている小さなブルー。赤い瞳を瞬かせて。
「今日の俺だな、遅れちまった理由ってトコだ」
車のせいで遅刻しちまったんだ。俺の車が動かなかったわけじゃないんだが…。
いつも通りに家を出たらだ、初心者マークをつけた車が走ってた。初心者マークは分かるだろ?
そいつが車庫入れに手間取っちまって、俺の行く手を塞いじまった。
バックで戻ろうにも場所と天気が悪くて、どうにもこうにも…。仕方ないから、車庫に入るまで止まったままで待っていたのさ。
あそこまで下手なドライバーってヤツも珍しいがだ、頑張ってちゃんと入って行ったぞ。
「…その話の何処がお土産なわけ?」
何か珍しい車だったとか、そういうの?
ぼくは車に興味は無いけど、好きな子だったら見掛けただけでも大感激とか…?
「ごく平凡な車だったが? だがな…。あれを見ていたら思い出したんだ」
下手なヤツだな、と俺も最初は呆れて見てた。同じ初心者マークの頃でも、俺ならもっと上手に運転出来たのに、とな。
ところが、俺にも下手くそな頃があったんだ。
今の俺じゃなくて、前の俺だな。…シャングリラを初めて動かした頃の。
お前がしごいてくれたっけな、と浮かべた笑み。
初心者の俺に、ハードな操舵をさせやがって、と。
「いきなり障害物だらけの所に連れて行っただろうが、俺が初めて舵を握った日に」
満足に舵も切れないっていうのに、どうやって避ければいいんだか…。
船は揺れるし、俺の心臓は縮み上がるし、そりゃあとんでもないモンだった。
なのに、お前は気にするどころか、練習の度にそういうコースへ連れ出してくれて…。障害物は山ほどあったし、重力場まで歪んでいたわけなんだが…?
「それはそうだけど…。ちゃんとシールドで守っていたよ?」
船が傷ついたら大変だものね、きちんとシールドしておかなくちゃ。絶対に衝突しないように。
だから一度もぶつかってないよ、ハーレイが上手く避けられなくても。
「そのシールドだ。前のお前が張ってたシールド」
土産話はシールドってヤツだ、あの下手くそな車のお蔭でそいつを思い出したんだ。
「えっ? …シールドって…」
前のぼくが張ってたシールドだよね?
…今のぼくだと、あんなシールド、張れないけれど…。雨を避けるシールドも無理なんだけど。
「お前が張ってたヤツもそうだが、シャングリラにはサイオン・シールドがあっただろうが」
元の船には無かったヤツだが、白い鯨になった後には。
少しくらいの障害物なら弾き飛ばせて、人類軍の攻撃だって、ある程度までは防げるヤツが。
「そうだけど…。それが?」
「あのシールドが船にあったのは、お前と俺のせいなんだ」
俺たちというコンビがいなけりゃ、あのシールドは生まれていないぞ。
「…なんで?」
どうしてハーレイとぼくが原因になるの、それに、ぼくたちのせいって…。
その言い方だと、ハーレイとぼくが悪いことでもやったみたいに聞こえるけれど…?
「間違っちゃいないな、その認識で」
船を操るのが下手くそな俺と、とんでもない所で練習をさせた前のお前と。
そいつがシールドの元になったってわけだ、あの下手くそな車を見ている間に気付いたってな。
ゼルたちがすっかり参っちまったんだ、と両手を広げてお手上げのポーズ。
前の自分の操舵が上手くなるまでに、何度も衝突を防いだブルーのシールド。ブリッジに悲鳴が響き渡ったのは一度や二度のことではなかった。
ゼルもブラウも、「スリルどころの騒ぎではない」と頭を抱えた猛特訓。
「あたしの心臓が持ちやしないよ、早いトコ覚えてくれないかね?」とブラウは言ったし、隣でゼルも睨んでいた。「お前は俺を心臓発作で殺したいのか?」と。
それほどの目に遭ったゼルとブラウに、たまに見学していたヒルマン。それからエラも。
彼らは本当に死にそうな思いをしたのだけれども、流石は後に長老と呼ばれたほどの者たち。
「もう駄目だ」と目を瞑りたくなる度、障害物を弾き飛ばしたシールドのことを覚えていた。
前の自分が立派に船を操るようになった後にも、忘れないで。
シールドに何度も救われた命、それから船。
ブルーのシールドは凄いものだと、自分たちの寿命は縮んだけれども、命は残った、と。
シールドさえあれば防げるらしい船への衝撃。小惑星に真正面からぶつかっても。
それを身を以て知ったゼルたち、シールドは役に立つものだと。
船を守るなら、シールドで包み込むのが一番。障害物を避け損なった時にも傷つかない船。
けれども、ブルーに常に張らせるわけにはいかない。いくらサイオンが強かろうとも、ブルーが疲れてしまうから。
何か代わりの方法は無いか、とヒルマンとゼルが始めた研究。
サイオンを使って船を包み込むサイオン・シールド、それを作り出す方法は…、と。
ブルーほどの力は誰も持ってはいないとはいえ、船の仲間は全員がミュウ。弱くてもサイオンを持った者たちばかり。
そのサイオンを一つに纏めることが出来たら、シールドも作り出せるだろう。ブルーの代わりに皆の力で、眠っている間も消えることのないシールドを。
皆で張るなら、一人一人の負担は少ないものになるから。呼吸をするのと変わらない程度、そのくらいの力で張れるシールド。
それを作れたら、船は今よりずっと安全なものになる。
障害物を避けられるのなら、いつか攻撃を受けた時にも防げる筈。人類軍の船に発見されても、被害は少なくなるだろう。
ヒルマンたちはそう考えた。船の仲間たちが持っているサイオン、それを防御に使おうと。
同じ理屈で、船の姿も消せないかと。
船を守ろうと思う力は同じだから。船を丸ごとシールドするのも、丸ごと隠してしまうのも。
ヒルマンが案を練り、ゼルが何度も試作した装置。
効率良く皆のサイオンを集め、シールドや船体を隠す力を作り出すもの。
そうやって出来たサイオン・シールドとステルス・デバイス、どちらもサイオンが動力源。船の仲間の思考を纏めて、船体を丸ごと包み込んで守る。シールドを張って、姿を消して。
「そいつを載せたのが白い鯨だ、覚えていないか?」
あれが出来上がった時に初めて使った。サイオン・シールドも、ステルス・デバイスも。
「そういえば…!」
改造する時に決めたんだっけね、ヒルマンたちの研究成果を使おう、って。
とても大きな船になるけど、きっとシールド出来る筈だ、って…。
白い鯨に搭載することが決まった、サイオン・シールドとステルス・デバイス。
最初は誰もが半信半疑で、あまり期待はしていなかった。
ヒルマンやゼルたちと共に研究を重ね、開発に携わった者たち以外は。
人類の船にそういう機能が無いことは皆が知っていたから。今はシャングリラと呼んでいる船、元は人類が使っていた船。その船には無い、サイオン・シールドとステルス・デバイス。
船を作った人類が持っていなかった技術、そんなものをミュウが持てるのかと。
ミュウの力で人類の技術を越えられるのか、と。
「大丈夫じゃ。わしの力を見くびるでない」
人類如きに負けてたまるか、と胸を張ったゼル。わしの腕に文句は言わせんぞ、と。
「私たちも研究を重ねたからね。…研究室でしか使えなかったが」
なにしろ試す所が無くて…、とヒルマンは髭を引っ張った。こればっかりは、と。
改造前の船で試したかったらしいけれども、船の構造上、無理だったという。技術的には充分に可能、けれども船が邪魔をする。ミュウに合わせて作られた船ではなかったから。
サイオン・シールドもステルス・デバイスも、実装するにはサイオンを集めやすい構造の船体が要る。船の仲間たちの力を使うからには、そういう船でなければ不可能。
改造が済んだ白い鯨に搭載しないと、どちらも動かすことが出来ない。
それまでは無理だ、とゼルもヒルマンも口を揃えた。けれど、完璧なものが出来ると。
こうして始まった船の改造。自給自足で生きてゆく船、ミュウの特質を生かした船。
サイオン・シールドにステルス・デバイス、迎撃用のサイオン・キャノンも備えた巨大な鯨。
少しずつ姿を現し始めた船をモニターしながら、ある日、ブラウが尋ねたこと。
「…どの段階から動かせるんだい?」
例のシールドとステルス・デバイス。…出来るだけ早く見たいもんだね、そいつの力を。
ブルーが張ってたシールドに匹敵するんだろ?
ついでに姿も消せるとなったら、一日も早くお目にかかりたいものなんだけどね…?
「気持ちは分かるが、完成しないことにはのう…」
頭隠して尻隠さずじゃ、と答えたゼル。
船体が全て完成しないと、稼働させても意味はあんまり無いじゃろうが、と。
システムが行き渡っていない部分が残っていれば、其処がシールドからはみ出してしまう。姿を隠す方でも同じで、その部分だけが見えてしまう、と。
それでは間抜けで、せっかくのシステムが生きてこない、というのがゼルの言い分。
船を丸ごと包めてこそのサイオン・シールド、それにステルス・デバイスなのだ、と。
「白い鯨がやっと出来てだ、テスト航行をするって時にも…」
お前ときたら、無茶しやがって。
サイオン・シールドとステルス・デバイスは完璧なんだ、と証明しようとしたんだろうが…。
「…駄目だったかな?」
あれが最高だと思ったんだけど…。
前のぼくには、ちゃんと分かっていたからね。シャングリラがシールドに守られていることも、人類が使うレーダーには引っ掛からないことも。
それに、ステルス・デバイスがあれば、近付かない限りは船は見えさえしないんだから。
あの時にぼくが選んだコースは、駄目だった…?
「いや、いいが…」
お前はそういうヤツだったしなあ、最初から。
俺が操舵を始めようって時に鬼コーチになって、ゼルたちが参っちまったほどの。
…そのせいでサイオン・シールドが生まれちまって、ついでにステルス・デバイスで…。
実にとんでもないコンビだったな、前のお前と俺ってヤツは。
白い鯨のテスト航行、よりにもよって、人類軍の船の航路を横切って行くと来たもんだ。
いざとなったら、お前が守ると言ってはいたが…。
あの時もきっと、ゼルやブラウは「死ぬかと思った」って気分じゃないか?
俺に向かって言わなかっただけで、何処かで愚痴を零してたかもな…。
テスト航行が無事に終わって、完成したサイオン・シールドとステルス・デバイス。
白い鯨はそれに守られ、地球までの旅を続けていった。
赤いナスカがメギドに砕かれ、人類軍との戦いの火蓋が切られた後には、ステルス・デバイスがゼルの船にも載せられたという。トォニィが使った小型艇にも。
サイオン・シールドは白い鯨を守り続けて、シャングリラは地球に着いたのだけれど。
「知ってるか、お前?」
シールドってヤツは、人類軍の船には最後まで無かったままだったんだぞ。
ヤツらの船は丸裸みたいなものだったんだ。…障害物も避けられやしない船ばかりでな。
「…そうなの?」
ハーレイ、何処かで見ていたわけ?
人類軍の船が何かにぶつかっちゃうのを、前のハーレイ、何処かで見たの…?
「ああ。…ジュピターの上空であった、最後の戦い。歴史の授業で教わるだろう?」
俺が見たのは、あの時だった。…同士討ちのようにぶつかっていたな、人類軍の船同士で。
ぶつかった船はもちろん終わりだ、そのまま爆発しちまって。…両方がな。
旗艦のゼウスにも、危うくぶつかるトコだったんだ。
「ゼウスって…。あの時だったら、キースやマードック大佐が乗ってたわけで…」
どうなったの、上手く舵を切ったの?
ぶつからないように、大慌てで。
「…デカイ船だったし、小回りが利かん。急に舵など切れるわけがない」
他の船が撃ち落としちまったんだ。…ぶつかりそうになった船をな。
「そんな…!」
どうして仲間の船を撃つわけ、他に方法は無かったわけ…?
その船にだって、人類が乗っていた筈なのに…。きっと大勢、乗っていたのに…!
酷い、とブルーは叫んだけれども、前の自分は確かに見た。
その悲劇を。
人類軍の旗艦を守るためにだけ、撃ち落とされてしまった人類の船を。
あの船にシールドが搭載されていたら、どちらも無傷で済んだのだろうに。ゼウスも、ゼウスに衝突しかけた船も。
「…ハーレイ、どうして人類の船には、最後までシールドが無かったわけ?」
シャングリラと何度も戦ったんでしょ、シールドにも気付いていた筈だよ。
なのに、どうして作らなかったの、人類は…?
仲間の船まで撃ち落とすなんて、シールドがあったら、絶対、しなくて済んだのに…!
「技術的に無理があったんだろう。…作ろうとしても、作れなかった」
シールドの利点に気付かなかったとは思えないんだ、人類が。
きっとヤツらも欲しかっただろう、ああいうシステムを船に載せられたら、と。
だが、あれはミュウにしか作れない。サイオンを持った、ミュウだけにしか。
そういうシステムだったんだ。サイオン・シールドというヤツはな。
前のお前のシールドを見ていたゼルとヒルマン、あの二人が作ったミュウのためのもの。
そうだったろうが、サイオン・シールドも、それにステルス・デバイスも。
船を丸ごと守りたいと思う仲間たちの思考を纏めて、シャングリラを守っていたんだからな。
どちらも前のお前のお蔭で生まれた技術だ、とブルーに話してやった。
鬼コーチだったお前と、操舵が下手だった俺のコンビが切っ掛けになって出来たんだぞ、と。
「俺の下手くそな操舵で、ゼルやブラウが「死ぬかと思った」と愚痴を零しはしたが…」
転んでもただでは起きなかったってな、死にそうになったゼルとヒルマンは。
前のお前が張ってたシールド、そいつに目を付けて開発したのがあの二つだ。
シャングリラも何度も救われたんだが、後の時代の船も救った。…ヒルマンたちの研究はな。
「後の時代…?」
それっていつなの、SD体制が倒された後のことだよね…?
「前の俺も死んじまった後のことだが、調べなくても分かるぞ、これは」
ステルス・デバイスは、平和になった時代にはもう要らなかったが…。
サイオン・シールドの方は、今も搭載されているんだ。何処を飛ぶ宇宙船にもな。
近距離だろうが、長距離だろうが、客船にも、それに輸送船にも。
サイオン・シールドが無いような船じゃ、完成しても検査を通りやしない。
…それ以前に建造許可が出ないだろうなあ、ちゃんと設計し直して来い、と。
今の時代の宇宙船には、当たり前のように搭載されているサイオン・シールド。
障害物から船を守るために。宙航などでの衝突を回避するために。
その技術の基礎は、遠い昔にヒルマンとゼルが作ったもの。平和になった時代に改良を重ねて、より簡単に使える形で完成された。
小さな船なら、パイロットだけのサイオンでもシールド出来るくらいに。
「そうだったんだ…。ゼルたちの研究、今の時代も生きているんだ…」
ずいぶん改良されただろうけど、基本は変わらないんだろうし…。
ヒルマンもゼルも、一緒に研究していた仲間も、凄い発明をしちゃったんだね…。
「そのシールド。俺の下手くそな操舵と、鬼コーチだったお前がいなけりゃ生まれていないさ」
あいつらが死ぬかと思ったくらいの、下手くそな俺と鬼コーチだったお前のコンビ。
何度も何度も障害物に突っ込んでたから、シールドの有難さってヤツに気付いたわけで…。
だから始めた研究なんだぞ、そいつを船に載せられないかと。
「…そうなのかな?」
前のぼくたちが酷いコンビを組んでなくても、いつか出来たと思うんだけど…。
ゼルたちじゃなくて、後の時代の誰かが研究したかもだけど…。
「まあな。…いつかは生まれた技術だろうが、あんなに早くは無理だったろう」
人間がみんなミュウになったら、誰かがいつかは気付いただろうが…。
これは使えると思っただろうが、いつになったかは分からんぞ。
切っ掛けってヤツが必要だしなあ、研究を始めるためにはな。…どんなものでも。
白いシャングリラを丸ごと包んで守り続けた、サイオン・シールド。
命懸けで生きた時代だったからこそ、船を、仲間たちを守ろうとして生まれた技術。
障害物やら、いつか遭遇するだろう人類軍の攻撃から船を、ミュウの箱舟を守り抜こうと。皆の思考を一つに纏めて、シールドで船を包み込もうと。
これが平和な時代だったら、事故でも起こらない限りは出来ない。片方の船は砕けてしまって、もう片方は無事だったという不思議な事故でも起きない限りは。
「そうなったならば、無事だった方の船を調べるだろうしな」
調べていったら、無事だった船の乗客にタイプ・ブルーがいたとか、そういったこと。
乗客たちの話を集めて、ようやっとシールドに気付くってわけだ。…それから研究開始だぞ?
いったい何年かかるというんだ、全部の船にサイオン・シールドを載せようとしたら。
「そっか…」
基礎があったら早いけれども、何も無かったら、ゼロから出発するんだもんね…。
おまけに平和な時代だったら、ゼルたちみたいに必死で研究しないだろうし…。
のんびりゆっくり研究してたら、ホントに何年かかったんだか…。もしかしたら、今でも研究の途中だったかもしれないね。もっと改良できる筈だ、って。
「そういうことだな。…前のお前と俺のコンビが、ゼルたちを死ぬ目に遭わせてなけりゃ」
立派な土産話になっただろうが、今日の俺の遅刻。
俺を遅刻させちまった、あの車にも礼を言わなきゃいけないぞ。土産話をありがとう、とな。
「そうだね。よく考えたら、その車にも…」
サイオン・シールドが載っているんだもんね…。うんとコンパクトになってるヤツが。
ぼくは運転免許も取れない年だし、すっかり忘れてしまっていたけど…。
「そういやそうだな、載ってたっけな」
俺もそいつは気付いてなかった。…当たり前のように載ってるモンだし、説明も無いし…。
車を点検に出す時だって、そんなトコまで考えて出しやしないしなあ…。プロに任せておくのが普通で、自分で点検するわけじゃないし。
そうか、俺の車にもゼルとヒルマンの研究の成果、しっかりと載っているってわけか…。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分と前のブルーが酷い目に遭わせたゼルとヒルマン。
前の自分の飲み友達だった、彼らが開発した技術。
(…おい、聞こえてるか? 俺は今でも、そいつの世話になってるってな)
これからも世話にならせて貰うぞ、と心の中で呼び掛けた。時の彼方の飲み友達に。
今では普通の車にも搭載されたシステム。
当たり前になったサイオン・シールド。
ドライバーがいれば、そのサイオンだけで張れるシールド、それが車に載せられている。
他の車とぶつからないよう、人とぶつかってしまわないよう。
平和な時代に、平和な技術が進歩したから、車にもついたサイオン・シールド。
今はもう無い、自動車事故の犠牲になる人。
どの車にもサイオン・シールドが載っているから、人も車も守るシステムがついているから。
いつかブルーと出掛けるドライブ、その時もサイオン・シールドと一緒。
張っているという自覚も無ければ、負担すらも無いサイオン・シールド。
そんな車でドライブに行こう、ブルーと二人で。
サイオン・シールドのことを覚えていたなら、その切っ掛けになったコンビだと笑い合って。
今は車にも載っているぞ、とゼルたちを酷い目に遭わせてしまった昔を思い出しながら…。
船とシールド・了
※今の時代は、自家用車にまで搭載されているサイオン・シールド。当たり前のシステム。
それが生まれる切っ掛けになったのが、前のブルーとハーレイなのです。操舵の練習中に…。
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