シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「あっ…!」
ブルーが上げた小さな悲鳴。床に落とした紅茶のカップ。手からスルリと滑って行って。
ハーレイと部屋で過ごしていた時、起こってしまった不幸な事故。紅茶を飲み終え、ソーサ―にカップを戻そうとしたら滑った手。
慌てて屈み込んだ床。コロンと転がっているカップ。
「おい、大丈夫か?」
ハーレイが訊くから、「うん」と答えた。
「もう飲んじゃった後だから…。零れていないよ、カップの中身」
良かった、紅茶を零さずに済んで。服とか床が濡れてしまったら大変だもの。
「いや、大丈夫かって訊いているのはカップだ」
割れちまっていないか、落ちたはずみに。
「カップって…。ハーレイの心配、そっちなの?」
ぼくの服とか、どうでもいいんだ…。カップを心配するだなんて。
酷い、と唇を尖らせながらも、俄かに心配になって来たカップ。母のお気に入りの一つ、白地に緑で繊細な模様が描かれたもの。
割れていないか、目で確かめてみて、それから手でも。滑らかな磁器に傷は無かった。
ホッとしてカップをソーサーに置くと、自分も元の椅子に戻った。ハーレイの向かい側の椅子。
もう一度しげしげとカップを眺めて、改めて紅茶を注いでみて。
何処からも漏れて来ないようだ、と確認してからホウッとついた安堵の吐息。
「大丈夫だった…。割れていないよ」
見えないヒビが入っているってこともあるから、ちょっぴり心配だったけど…。
紅茶を入れても漏れて来ないし、もう大丈夫。
「そりゃ良かった。カップが無事でなによりだ」
俺も濡れ衣を着なくて済むしな、めでたし、めでたしって所だ、うん。
「濡れ衣って…。なに、それ?」
なんでハーレイが濡れ衣を着るの、なんの濡れ衣?
「決まってるだろう、お前の身代わりというヤツだ」
もしもカップが割れていたなら、俺が代わりに犯人になる、とハーレイがくれた頼もしい言葉。
俺はウッカリ者になってしまうが、お前と違ってそれほど叱られないだろう、と。
「そっか…。ハーレイ、お客さんだしね」
お客さんには怒らないよね、ママのお気に入りが真っ二つに割れてしまっても。
ママは悲しくなるんだろうけど、片付けながらハーレイの心配をするんだろうし…。「お洋服は濡れていませんか?」だとか。
「そういうこった」
何かと言えば押し掛けて来るような俺でも、客には違いないからな。
お母さんだって叱れやしないさ、お前だったら派手に叱られそうな真似をしちまっても。
いつか本当に割っちまうことがあったら代わってやるぞ、と胸を叩いたハーレイだけれど。
「待てよ…?」
身代わりなあ…。俺がお前の代わりにか…。
「どうかしたの?」
ハーレイが顎に手を当てているから、何か考え事なのだろうか?
「…身代わりだ。前にもこういうのがあったような…」
俺がお前の身代わりに叱られてやるって話。…前にもしていたような気がする。
「ぼく、落っことした?」
前にもカップを落としていたかな、割れなかっただけで?
ハーレイが身代わり、やってくれなくても済んだってだけで…?
やっちゃったかな、と尋ねるまでもなく、何度かやっているかもしれない。ハーレイと会えば、いつもはしゃいでしまうから。注意力散漫というヤツだから。
(…うーん…)
あったっけ、と頭に浮かんだ落っことしたお皿。昼食の時に。サラダの器も落とした記憶。
他にも色々、次々と思い出す自分の失敗。カップもお皿も、何度も落とした。
幸い、割れてはいなかっただけで。
ハーレイに身代わりを頼まなくても、母に叱られずに終わっただけで。
考えただけでも情けなくなる、ウッカリ者が落としてしまったカップやお皿。
ハーレイが言うのも、その中の一つだろうと思ったけれど。
「違うな、そういうのじゃなくて…」
もっと別の…、と記憶を探っているらしいハーレイ。
「じゃあ、いつ?」
此処じゃなくって、庭のテーブル?
あそこでも何か落っことしたかも、芝生だから割れていないってだけで。
「それも違うようだ。…此処でも庭でもなくてだな…」
しかしお前と一緒だったわけで、俺がお前の身代わりだとすると…。
そうだ、今よりずっと昔だ。…シャングリラだ。
「えっ…?」
シャングリラって…。それって、前のハーレイとぼく…。
あんな所でハーレイが身代わりだったわけ?
前のぼくが何かを割ってしまって、ハーレイが身代わりになったとか…?
シャングリラで前の自分の身代わりになったか、なろうとしたらしい前のハーレイ。
とても考えられないけれども、初めの頃ならあっただろうか。まだ青の間が無かった頃ならば。皆と食事をしていた頃なら、食器を落として割ることだって…。
「…ぼく、食堂で割っちゃった?」
さっきみたいに落としてしまって、カップを割ったとか、お皿だとか…。
「そいつも大いにありそうなんだが、それは身代わりが必要か?」
食堂なんだぞ、大勢が集まって食ってるんだし…。ウッカリ事故は日常じゃないか。
「他のみんなも割ってたね…」
毎日ってほどのことでもないけど、一つも割れずに一ヶ月なんかは無かったかな?
そういう記録は取らなかったから、割れなかった月も混じっていたかもしれないけれど。
「他のヤツらが割っていたのは間違いないが…」
そんなことより、あそこの食器はお前が揃えた食器だろうが。
お前が食器を奪って来たんだ、他のヤツらじゃなくってな。物資は全部、前のお前が揃えてた。
割っちまっても、元はお前が手に入れたヤツだ。身代わりを立てて謝らなくてもいいってな。
白い鯨になるよりも前のシャングリラ。元は人類の物だった船。
最初から船にあった食器は、日が経つにつれて割れたり欠けたりしていったから。
食堂のテーブルには、不揃いな食器が並ぶようになった。新しく手に入れた物資の中から、取り替えて補充していた食器。一つ割れれば、代わりの物を。欠けて使えなくなっても同じ。
物資の中に人数分の揃いの食器があるわけがなくて、模様も大きさもまちまちだった。
「それにだ、俺が管理をしていたからなあ、あの船の食器」
お前が割っても問題無いだろ、俺の所に取りに来るのはお前なんだから。
他のヤツなら、おっかなびっくり来ていたとしても、お前は俺の友達なんだし。
「そうだね…。ハーレイの一番古い友達」
友達だったら、そんなに酷くは叱られないし…。バツが悪いってだけだよね、ちょっと。
ウッカリしてた、ってバレちゃうんだから。落っことして割ってしまったことが。
恥ずかしいってだけのことかな、と遠い記憶を辿ってみた。初めの頃のシャングリラ。
食器を割ったら備品倉庫へ謝りに行って、管理人のハーレイに新しい食器を出して貰う。それを食堂の係に渡して、割れた食器は代替わり。
そういう決まりがいつしか出来た。
だから、前の自分が割ってしまって、代わりの食器を貰いに倉庫へ出掛けても…。
「俺が適当に選ぶだけだし、お前が謝らなくてもな?」
お前が手に入れた食器なんだから、堂々と持って行けばいいんだ。
他のヤツだったら、俺も注意をすることもあったが、お前は別だ。お前が揃えた食器なんだぞ。
幾つ割ろうが、代わりの食器を奪いに行くのはお前なんだし。
「それはそうかも…」
割って足りなくなった時には、食器を奪えばいいだけだから…。
前のぼくなら、簡単に奪って来られたんだから、謝る必要、無かったかもね…。
食器を割った前の自分の身代わりなどを務めなくても、ハーレイ自身が食器の係。割った仲間が詫びる相手はハーレイだったし、身代わりを立てるまでもない。
それに食器は前の自分が奪った物資。謝らなくても、新しいのを一つ持ってゆくだけ。こういう食器も奪ったっけ、と眺めながら。
そうなってくると、ハーレイが身代わりになったというのは…。
「いつのことなの、ぼくは覚えていないんだけど…?」
ハーレイに身代わり、頼んだことなんかあったっけ…?
「さてなあ、シャングリラだったことは確かなんだが…」
今じゃないってことは間違いないがだ、どうにもハッキリしなくてなあ…。
お前が割って、俺が身代わりに立つんだろ?
管理人をやってた時代だと有り得ないんだし、いったい、いつの話なんだか…。
「…キャプテンになった後のことかな?」
倉庫の係も変わったんだから、ぼくも謝りにくかったかも…。ハーレイだった頃と違って。
「俺がソルジャーの身代わりだってか?」
まだリーダーだった時代にしたって、そいつはちょっと…。
キャプテンがわざわざ倉庫まで行って、お前の身代わりにペコペコ頭を下げるのは…。
…待てよ、そいつか?
リーダーだったか、ソルジャーだかの身代わりで俺は謝ったのか…?
「それだった?」
ぼくの身代わり、それで合ってた…?
「ちょっと待ってくれ」
そうじゃないか、って頭に引っ掛かるんだが、上手い具合に出て来なくて、だ…。
前のお前はソルジャーだったか、リーダーだったか、どっちなんだか…。
俺がキャプテンで、お前がリーダーかソルジャーで…、とハーレイは遠い記憶を探って。
なかなか思い出せないもんだ、と紅茶のカップに触れた途端に。
「…分かった、ソルジャーの身代わりなんだ…!」
思い出したぞ、俺はソルジャーだったお前の代わりに謝ったんだ。
「ソルジャーって…。それに身代わりって、どうしてハーレイがそうなるわけ?」
キャプテンなのに、と仰天した。
船では最高責任者だったキャプテン・ハーレイ。割れた食器の補充くらいは簡単な筈。係の者に指示を出すだけで、新しい食器が直ぐに出て来たことだろう。
おまけに前の自分はソルジャー。船で一番偉い立場に祭り上げられ、正直な所、途惑っていた。
そのソルジャーが食器を割っても、誰も咎めはしなかったろうに。
キャプテンが身代わりで謝らなくても、何事も無かったかのように新しい食器が食堂に届く。
次はこれを、と不揃いな食器が送り込まれたか、白い鯨なら揃いの食器か。
白い鯨になった後には、食器も船で作っていたから。
船で食器を作れる時代になったら、ますます必要無さそうな身代わり。
前の自分は青の間の主で、こけおどしだった大きすぎる部屋に住んでいたから。
その前の時代は、不揃いな食器を次々と奪っていた自分。身代わりは多分、まるで要らない。
けれどハーレイは、「間違いない」と自信に溢れた答えを返した。
「俺はソルジャーの身代わりだったぞ、お前がオロオロしていたからな」
そうなって来たら、今と同じで身代わりになるしかないだろうが。
今の時点じゃ、お前は食器を割っていないし、俺は身代わりにはなっていないが。
「オロオロしてたって…。ぼくが?」
前のぼく…。ソルジャーだった頃のぼくだったの?
「そうなんだが? …お前、覚えていないようだな」
割っちまった、と真っ青だったぞ。今日と同じだ、紅茶のカップだ。
「え…?」
紅茶のカップって…。こういうカップ?
それを落として、割って、真っ青…?
ハーレイは自信たっぷりだけれど、前の自分は今と違って、サイオンの扱いが上手かった。
落とした時にもサイオンで落下を止められたのだし、そうそう割ってはいないと思う。
不幸にも割れてしまったとしても、ソルジャーという偉い立場だったから…、と思った所で。
「ソルジャーの食器…!」
前のぼくの食器で、その中のカップ…。紅茶用の…。
「思い出したか?」
俺を身代わりに立てた時のこと。…紅茶のカップで。
「うん、思い出した…」
前のぼくだけが使えた食器…。あれのカップを割っちゃったんだよ、朝御飯の時に。
食堂の食器だったら気にしないけれど、ソルジャー用のを…。
思い出した、と脳裏に鮮明に蘇った事件。
確かにハーレイを身代わりに立てた。
紅茶のカップを割ってしまったのは、間違いなく自分だったのに。ハーレイはカップを割ってはいなくて、何の落ち度も無かったのに。
前の自分が青の間で使った、御大層なソルジャー専用の食器。
ミュウの紋章が描かれた食器は、前の自分と一緒に食事をする者以外は使えなかった。そういう決まりになっていた食器。ソルジャーの威厳を高めるための小道具の一つ。
ソルジャー主催の食事会などでは、招待された仲間たちに向かってエラが有難さを説いていた。他の場所では使われないもので、ソルジャー専用の食器なのだ、と。
けれども、前の自分はソルジャー。普段使いの食器がそれで、いつでもミュウの紋章入り。食堂から何か特別に届けさせない限りは、ソルジャー専用の食器で食べたり、飲んだり。
その食器で前のハーレイと食べていた朝食。
不幸な事故はそこで起こった、前の自分が落としてしまった紅茶のカップ。
「…お前、ぼんやりしちまっていて…」
そのせいだったな、カップが見事に割れちまったのは。…ソルジャー専用の紅茶のカップ。
「だって、ハーレイと過ごした後だよ…?」
ぼんやりしない方が変だよ、あの頃はまだ慣れていなくて…。
ハーレイと二人で朝御飯っていうの、とても恥ずかしかったんだよ…!
朝の食事は、青の間で前のハーレイと二人で食べるもの。
キャプテンの報告を聞きながら。その日の予定を確認しながら、ソルジャー専用の食器で二人。
白い鯨が出来上がった後に生まれた習慣。
シャングリラはとても広くなったし、自給自足の生活になって何もかもを船で賄う世界。食料は充分に足りているのか、船の設備は順調に機能しているか。
そういった報告は一日の終わりだけでは足りない、と朝食の席が選ばれた。毎朝、キャプテンが報告をすれば良かろうと。そうすればソルジャーの指示も仰げる、と。
二人分の食事は、厨房のスタッフが運んで来た。青の間の奥のキッチンで仕上げ、ミュウの紋章入りの食器に盛り付けて出す。
何を食べるかは前の日の内に注文するもの、前の自分とハーレイの食事が重ならないこともよくあった。量はもちろん、内容だって。
ホットケーキを食べる自分の向かいで、ハーレイがトーストを頬張るだとか。自分の皿には卵の料理で、ハーレイは朝から肉料理を食べていただとか。
食事しながら、報告も聞いていたけれど。楽しい語らいの時間でもあった、朝の報告。
ソルジャーとキャプテンの朝食は二人で食べるのが基本、恋人同士になる前から。
仲の良い友達だった頃から。
ところが、ハーレイに恋をした後。ハーレイからも恋を打ち明けられた後。
朝食の席は、恋人同士で過ごせる貴重な時間になった。何処からも邪魔は入らないから。食事を作った厨房のスタッフは、出来上がった後は退室するから。
報告はきちんと聞いたけれども、甘く幸せな時を過ごした。ハーレイが「では」とキャプテンの貌に切り替え、ブリッジへ出掛けてゆくまでは。
初めの間はそんな具合で、朝にハーレイが訪ねて来ていた。それまで通りに。
けれど、恋とは、キスだけで終わりはしないもの。もっと深く、と求め合うもの。
ハーレイが初めて青の間に泊まり、二人きりの夜を過ごした後には、恥ずかしかった朝食の席。
初めての夜の翌朝もそうだし、その次の時も。そのまた次に迎えた朝も。
向かいに座ったハーレイの顔を、まともに見られなかったくらいに。
顔を見たなら、ベッドでのことを思い出すから。
ハーレイはキャプテンの制服をカッチリ着込んでいるのに、その下の肌を思い出すから。
そういう日々が続いていた頃、落として割ってしまったのだった。
朝食の後に飲んでいた紅茶のカップを。
ハーレイが何気なく「どうなさいました?」と掛けた声にビックリしてしまって。
褐色の肌をした逞しい恋人、ハーレイの顔に見惚れていたから。両腕で自分を閉じ込め続けた、甘くて熱い優しい恋人。一晩中、あの腕の中にいたのだ、と。
正面からは恥ずかしくてとても見られないから、チラリ、チラリと視線を投げて。
どうしても自然に伏せてしまう目、それを上げては眺めた恋人。誰よりも好きだと、二人きりの時間がもっと続いてくれれば、と。
その最中に掛けられた声で、驚かない方がどうかしている。
ビクンと跳ね上がってしまった心臓、身体のコントロールを失くした。離してしまったカップの取っ手。驚いたはずみに、指も一緒に跳ね上がったから。
カップが床で割れてしまうまで、落としたことにも気付かなかった。
青の間に音が響くまで。ミュウの紋章入りのカップが、床に当たって砕けるまで。
落ちたカップを受け止めるには、向いていなかった硬い青の間の床。
幾つかに割れて砕けたカップと、紅茶とが床に散らばった。そうなる音が響いた後に。
「あれなあ…。いつものお前だったら、拾うからなあ、サイオンで…」
カップも、中身の紅茶の方も。…お前、飛び散る水でも拾えたんだから。
「うん…。普段通りのぼくだったらね」
ボーッとしてなきゃ拾えたと思う、あの時のカップ。
今のぼくには無理だけれども、前のぼくなら簡単だもの。…カップ、割れてはいなかったよ。
紅茶だって床に飛び散る代わりに、カップに戻っていたと思うよ…。
「お前、そういうのが得意だったしなあ…」
いつもだったら、あそこで割れちゃいないんだ。カップを落としてしまったとしても。
俺もビックリしちまってたから、代わりに拾ってやれなかったし…。
カップだけなら俺でも余裕で拾えたんだが、お前があんまりビックリしたんで、俺も、つい…。
お前と一緒にビックリってヤツで、拾うどころじゃなかったんだよなあ…。
そうして砕けてしまったカップ。ミュウの紋章入りだったカップ。
如何にサイオンが強かろうとも、元に戻せはしなかった。くっつけることは出来ない欠片。
(…凄く恥ずかしくて…)
どうしようもなくて、割れたカップを見ていることしか出来なかった。
カップを落としてしまった理由も、拾い損ねて割った理由も、考えるほどに恥ずかしいばかり。
ハーレイに声を掛けられて真っ赤になった筈の頬は、もう真っ青になっていただろう。
どうすれば、とオロオロしただけの自分。
割れたカップはくっつかない。元の姿に戻せはしない。
ただの食堂のカップだったら、少しは救いがあったのに。食堂のカップは仲間たちも気軽に使うカップで、一ヶ月もあれば幾つかは割れるものだから。食堂の係がトレイごと落として、何個ものカップが一度に割れることもあるから。
なのに、青の間のカップは違う。ソルジャー専用、ミュウの紋章が描かれたカップ。
ソルジャー主催の食事会だの、お茶会だので使われるカップ。
仲間たちがそれに招かれる度に、エラが有難さを説いているもの。
よりにもよって、その有難いカップを割った。
自分にとっては普段使いでも、仲間たちにとっては違うカップを。
これほど見事に砕けなくても、ほんの少し欠けてしまっただけでも、仲間たちなら大慌てだろうソルジャー専用。
それを落として拾い損ねて、元に戻せない欠片になった。
誰にも言えないような理由で、恥ずかしすぎる理由のせいで。
甘くて熱い時を過ごした昨夜の秘めごと、それに思いを馳せていたせいで。
赤くなったり、青くなったり、半ばパニックになっていた自分。
「どうしよう…」としか言葉が出なくて、片付けることさえ出来ない有様。
部屋付きの掃除係がいたって、バスルームなどは自分で掃除しようとしていた綺麗好きなのに。
割れたカップを拾い集めて、零れた紅茶を拭き取るくらいは簡単なのに。
「お前、動けもしなかったしなあ…。俺が代わりに掃除したんだ」
係が来るまで放っておいたら、お前、ますますパニックだろうし…。そうなる前に、と。
掃除を済ませて、その後、俺が割っちまったってことで身代わりに…。
「…叱られに行ってくれたんだっけね、ぼくの代わりに」
本当はぼくが割っちゃったのに…。
ハーレイが割ってしまったんだ、っていうことにしてくれて、叱られてくれて…。
「いや、叱られてはいないがな」
そう簡単に叱られてたまるか、ああいう時には言い訳ってヤツが大切なんだ。
嘘も方便っていう言葉があるだろ、俺はそいつを使ったってな。
データを見ていてぶつけちまった、と謝りに出掛けて行ったんだ。あの食器を保管していた係の所へ、「カップを一つ割ってしまった」と。
ソルジャーもデータに気を取られていて拾えなかった、と言っておいたぞ。
係のヤツは嘘をそのまま信じてくれたさ、「キャプテン、それは大変でしたね」と。
却って心配されたくらいだ、「カップの後始末で支障が出ませんでしたか、お仕事に」とな。
掃除くらいは係がするから、次からは係を呼んでくれれば、とも言ってたぞ。
割れた食器も係任せでかまわないからと、どれが割れたか係に伝えてくれさえすれば、と。
だから、それっきり俺は身代わりに立っちゃいないが…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
その後もカップや皿が割れたりしたのだけれども、二度と謝りに行ってはいない、と。
「お前にもきちんと伝えた筈だぞ、気にするな、って」
他のヤツらには御大層な食器かもしれんが、お前にとっては普通の食器だったんだから。
使っていれば割れることもあるし、それで文句が出るんだったら、別のにすればいいだろう。
エラが余計なことを言わなきゃ、お前は何処で何を食おうが自由でいられたんだしな。
「ソルジャーは偉い方なのですよ」と旗を振っていたのは、いつでもエラだ。
お前がカップを割ったくらいで文句を言うなら、普段は普通の食器を使わせてくれ、と言いさえすればエラだって黙る。割れば割るほど、普通の食器に戻せる可能性だって…。
もっとも、お前は最後まであの食器だったが…。
幾つ割ろうが、エラは普通の食器に戻しはしなかったがな。
「…そうだっけね…。あのカップが最初で最後だっけね…」
ハーレイがぼくの身代わりになってくれたのは。
ぼくの代わりに叱られてくる、って謝りに行ってくれたのは…。
ビックリしちゃって、割っちゃったぼくが悪いんだけど…。
ボーッとしていた、ぼくがホントに悪いんだけど…。
思い出したら、みるみる染まってしまった頬。前の自分の失敗談。
カップを落として割ったことより、そうなった理由が恥ずかしいから。前のハーレイと過ごした夜に気を取られていて、カップは割れてしまったのだから。
(…だって、ハーレイと本物の恋人同士になったばかりで…)
朝食の席では、まともに見られなかった恋人の顔。恥ずかしくて顔を上げられなくて。
そんな日々の中、幾つカップを割ったのだろう。何枚の皿を割ったのだろう。
(…覚えてないけど…)
数えてさえもいなかったけれど、微かに残っている記憶。
前のハーレイと夜を過ごして、翌朝、二人で食事をする時。慣れない間は、よく落としていた。紅茶のカップも、トーストの皿やサラダの器も。
ハーレイに優しく見詰められただけで、落としてしまったカップもあった。ふと顔を上げた時、ハーレイの熱い視線に射抜かれ、手から滑ってしまったカップも。
多分、カップが一番沢山、割れてしまっていたのだろう。
次がトーストの皿だったろうか、驚いたはずみに利き手ではない左手が触れて、そのまま床へ。
考えただけでも恥ずかしくて頬が染まるけれども、あれも幸せな日々だった。
何度もカップや皿を割っていた、ハーレイと二人で過ごした翌朝。
いつの間にやら、割らなくなっていたけれど。
ハーレイがテーブルの下で絡めて来る足、それが嬉しくて微笑む自分に変わったけれど。
恋は冷めずに、深い絆になったから。
恥ずかしかった気持ちを通り越したら、よりハーレイと二人きりでいたくなったから。
カップを落として割ってしまうより、紅茶やコーヒーの味がするキス。
それを交わして、「また夜に」とハーレイを送り出す幸せな日々がやって来たから…。
前の自分が落としたカップ。最初はハーレイが身代わりになって詫びに行ってくれた、落として割れてしまったカップ。
今の自分も落とすのだろうか、ハーレイと暮らし始めたら。
いつか育って、ハーレイと結婚したならば。
同じベッドで夜を過ごして、次の日の朝は二人で食事。前の自分がそうだったように。
係が食事を作りに来るか、自分たちで作って食べるかという違いだけ。
それと食器に描かれた模様。ミュウの紋章入りの御大層なものか、今の自分たちが選んだ食器を使うかの違い。
きっとハーレイと二人で相談しながら、選んだ食器なのだろうけれど…。
(…落とすかも…)
前の自分の時と同じに。
恥ずかしくて顔を上げられないまま、ハーレイの声に驚いたりして。
二人で選んだ大切な食器が、落っこちて割れるかもしれない。紅茶のカップも、キツネ色をしたトーストを載せていた皿も。新鮮な野菜のサラダが入った器も、色々なものが。
前の自分が割った時のように、割れた音で初めて気付く惨劇。
床に紅茶が飛び散るだとか、トーストやサラダが散らばるだとか。
サイオンを自由自在に操れた前の自分でさえも割ってしまったカップ。今の不器用な自分は幾つ割るのか、もう心配でたまらない。
せっかく二人で選んだ食器は、たちまち不揃いになるかもしれない。
初めの頃のシャングリラの食器がそうだったように、割れた物から取り替えられて。前の自分の頃と違って、奪うのではなくて、新しく買って。
(…ホントに揃わなくなっちゃうかも…)
幾つも割れたら、同じ品物が買えなくなって。店に出掛けても「在庫切れです」となって、別の模様の食器を買うしか道が無くなるだとか…。
如何にもありそうな、今の不器用な自分の末路。
ハーレイと暮らし始めた途端に、二人で選んだ食器をすっかり駄目にしそうな自分。全部端から落として割って。紅茶のカップも、トーストの皿も。
(…ぼくって、駄目かも…)
きっとハーレイだってガッカリするよ、と項垂れていたら、「おい」と掛けられた恋人の声。
「お前、何を考えているんだ、今度は?」
真っ赤な顔をしたかと思えば、今はションボリに見えるんだが…?
前のお前じゃあるまいし。…紅茶のカップを割っちまったと、真っ青でオロオロしていた時の。
「んーと…。ハーレイ、割れない食器を買おうか?」
「はあ?」
割れない食器って、何の話だ?
何をするのに割れない食器を買うと言うんだ、俺にはサッパリ分からないんだが…?
「…食器だよ。いつかハーレイと暮らす時には、食器も買うでしょ?」
ぼく、ハーレイと結婚したら、暫くは割ってしまいそう…。
前のぼくだった時と同じで、紅茶のカップやお皿を落として。…きっと、幾つも。
ハーレイと二人で選んだ食器が駄目になっちゃう、揃わなくなって。
お店に行っても「在庫切れです」って言われてしまって、同じ模様のを買えなくなるとか…。
それじゃハーレイも困っちゃうでしょ、せっかくの食器が全部台無し。
だけど、気を付けていたって、ぼく、きっと割ってしまうから…。
前のぼくでも割っちゃったんだよ、今のぼくだともっと沢山、落っことして割って粉々で…。
きっとそうなるに決まっているから、割れない食器。
それを買うのがいいと思うよ、ぼくが落とさなくなるまでは。お皿、不揃いにならないように。
シャングリラの食堂みたいになってしまったら、ハーレイだってガッカリしない?
船で食器を作れなかった頃は、お皿もカップも、全部、不揃い…。
そうなっちゃったら大変だから、と大真面目に提案した割れない食器。
結婚する時はそれを買おうと、今のぼくは前よりもずっとサイオンが不器用なんだから、と。
そうしたら…。
「俺は、割ったらいいんじゃないかと思うんだが?」
前のお前も割っていたんだ、お前が割ってもいいだろう。
うるさく言うようなエラもいないし、端から全部割れちまっても良さそうだがな…?
「なんで?」
…割れてしまったら揃わなくなるよ、せっかく二人で選んだのに…。
これがいいな、ってハーレイと決めて、二人で使おうと思って買うのに…。
「揃わなくなったら、また買い直せばいいじゃないか。気に入ったのを」
食器なんかは、次から次へと新作が出るか、そうでなければロングセラーの定番品だ。
定番品を買っておいたら、いくら割れても在庫切れだとは言われんだろうし…。
新作がどんどん出るヤツだったら、また気に入りのが出来るってもんだ。
だから普通に割れる食器を買っておけ。割れない食器はお子様用だぞ、つまらないじゃないか。
結婚する時は、お前もチビは卒業だしなあ、お子様用を買ってどうする。
割れちまってもかまわないから、大人用の食器を揃えないとな。
「そうかも…。割れない食器は、子供用かも…」
子供用のしか見たことないしね、割れません、って書いてある食器。
ぼくは少ししか食べられないから、子供用でも平気だけれど…。
ハーレイだったら、入れた分だと足りないに決まっているものね。いつも沢山食べるんだもの。
「そいつも大いに問題だな、うん」
もう空っぽになっちまった、と何度もおかわりするのもなあ…。
落ち着かないから、普通のを買おう。お前が端から割っちまっても、俺は絶対、怒らないから。
今度も俺が係なんだから、遠慮なく割れ、と言われた食器。
不揃いな食器だった頃のシャングリラとは違って、今では好きに選べる食器。店に出掛けて。
ロングセラーなら、いくら割っても在庫切れにはならないらしい。新作が次々出る食器ならば、新しいお気に入りにも出会える。今度はこっち、と。
(…食器、割りたくないんだけれど…)
せっかく揃えた食器が割れて減っていったら、ガッカリだから。残念な気持ちだろうから。
けれども、きっと、それも幸せなのだろう。
ハーレイと二人で選んだ食器が、すっかり割れてしまっても。
また新しく買わなければ、と店に出掛ける羽目になっても。
ミュウの紋章入りの食器を使わされていた、前の自分とは違うから。
食器を落として割ってしまって、頬が真っ赤に染まっていたなら、ハーレイが笑うだけだから。
「そうか、お前もやっちまったか」と。
またやったのかと、それを落として割ったってことは、俺のことを考えていたんだろう、と…。
落とした食器・了
※前のブルーが割ってしまった、ソルジャー専用の食器のカップ。謝罪したのは前のハーレイ。
サイオンが不器用な今のブルーは、沢山割ってしまいそうですけど、それも幸せな日々。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
どっちにしよう、と悩んだブルー。学校から帰って、おやつの時間に。
今日は来客があったらしくて、おやつのケーキが選べる二種類。チョコレート入りの生地が描く縞が大理石のようなマーブルケーキと、ドライフルーツがたっぷり入ったフルーツケーキ。
まるで違った味わいだから、どちらにしようか悩んでしまう。出来れば両方食べたいくらい。
(薄く切って貰えば、両方…)
食べられるけれど、二つとも食べてしまったら…。
(ハーレイが来た時、困っちゃう…)
仕事が早く終わった日には、帰りに寄ってくれるハーレイ。夕食も一緒に食べて行ってくれる。
こういう風にケーキが二種類あった時だと、自分が食べなかった方を母が出すのがハーレイとのお茶。夕食の支度が整うまではゆっくりどうぞ、と。
もしも両方食べていたなら、ハーレイと二人で食べる時には減る感激。「さっきも食べた」と。
それは寂しいから、どちらか片方、と思ったけれど。
(…どっちも美味しそうなんだよね…)
ふんわりとしたマーブルケーキも、どっしりとしたフルーツケーキも。
眺めるほどに美味しそうで選べないから、迷った末に…。
(表ならこっちで、裏ならこっち…)
取って来たコインをポイと放った。ダイニングに置いてある小銭入れのコイン。
サイオンが不器用な自分だからこそ、自信たっぷりに決められる。願望が入る余地が無いから、コインは自由に回って落ちてゆくもの。
表を出せとも、裏を出せとも、一切、命令されないのだから。
床に落っこちて転がったコインは、表を向けてピタリと止まった。
(よし!)
表だったらこっちだものね、と母を呼んで切って貰ったフルーツケーキ。こっちに決めた、と。
キッチンでコインの音を聞いていたらしい母が笑っている。
「コインで決めていたんでしょう? どっちも美味しそうだったのね」
ブルーならではの決め方よね、コイン。…表か裏か。
「ぼくだけじゃないよ。やっている子は少なくないよ?」
学校でもそうだし、遊ぶ時だって。悩んだ時にはコインなんだよ。
「それはそうかもしれないけれど…。ブルーの場合はホントにコインで決められるでしょ?」
自分の願望が入らないものね、こっちがいいな、って。
サイオンが強いと入っちゃうわよ、ブルーはタイプ・ブルーなんだもの。不器用じゃなくて器用だったら、コインの占い、無理なんじゃない?
…それとも、逆に入らないのかしらね?
タイプ・ブルーくらいに強くなったら、キッチリと遮断出来ちゃって?
「えーっと…?」
サイオンを遮断出来るのか、って…?
さっきみたいにコインを投げても、自分の考えが混じらないように…?
どうなのだろう、と考え込んでしまった。
一番最初に発見されたタイプ・ブルーが前の自分で、ソルジャー・ブルー。最強と謳われた強いサイオン、扱いの方も慣れたもの。今の不器用な自分と違って。
前の自分はコインを投げていたろうか?
表か裏かと、投げ上げて何かを決めただろうか…?
(シャングリラでコイン…)
そんな記憶は無かったけれども、多分、遮断は出来るのだろう。前の自分の経験からして。
自分の願望を一切入れずに、サイオンを操ることは可能だったから。
「んーとね…。コインを投げたら完璧だと思うよ、前のぼくなら」
こうなるといいな、っていう気持ちは綺麗に切り離せたから。
コインじゃないけど、他のことだと色々と…。ちゃんと上手に出来ていたもの。
「あらまあ…。そんなに器用だったソルジャー・ブルーが、今はこうなのね?」
おやつのケーキをコインで決めて選べるのね、と母は可笑しそうな顔だから。
「前のぼくと変わらないじゃない!」
変わっていないよ、前のぼくもコインで決められたんだから!
「そうすることが出来るというのと、それしか出来ないのとは違うでしょ?」
ソルジャー・ブルーは器用に使い分けられたけれど、ブルーはそれしか出来ないんだし…。
不器用なんだと思うわよ、ママは。…同じようにコインで決められてもね。
「ママ、酷い…」
ホントのことでも、それって酷いよ!
笑わないでよ、可笑しくなるのは分かるんだけど…!
散々に笑われてしまったおやつ。コインを投げて決めたばかりに。
美味しいケーキだったけど。フルーツケーキを選んで良かった、と思ったけれど。
ママに一杯笑われちゃった、と部屋に戻って勉強机の前に座った。頬杖をついて、膨れっ面で。
(…コインなんて…)
前の自分は投げてはいない。尋ねられたから、多分こうだ、と答えただけ。
ソルジャー・ブルーだった頃でも、今と同じに決められた筈、と。コインを投げて。それなのに笑い転げた母。「今は不器用になっちゃったわね」と。
不器用なことは本当だけれど、コインのことまで前の自分と比べて笑わなくても、と仏頂面。
前のぼくは投げていないんだから、と思ったコイン。
でも…。
(あれ?)
不意に浮かんだ、コインを投げていたような記憶。表か裏か、と。
投げて決めようにも、シャングリラにはコインが無かったのに。
あの船の中に店などは無くて、コインの出番は一度も無かった。シャングリラの外の世界でも。
人類のためにあった世界で流通している通貨は危険。機械が管理していたから。
アルテメシアに送り込んでいた、潜入班の仲間たち。彼らも通貨を使ってはいない。必要な時はサイオンを使ってデータを誤魔化し、色々な物資を手に入れていた。
シャングリラはそういう船だったから、初めての買い物は前の自分がいなくなった後。
今のハーレイからそう聞いているし、それよりも前にコインを使ったわけがない。
けれど、記憶はコインだと告げる。
シャングリラでそれを投げた筈だと、さっきケーキを選んだように、と。
投げた記憶があるコイン。前の自分が、ソルジャー・ブルーが。
船には無かった筈のコインを、表か裏かと投げ上げた自分。
(何処で…?)
それ以上は思い出せない記憶。勘違いか、と悩んでいたらチャイムが鳴った。仕事帰りに訪ねて来てくれたハーレイ。
母が運んで来た、紅茶とマーブルケーキのお皿。コインが選ばなかった方のケーキ。
チョコレートの生地の縞模様が綺麗なそれを指差し、向かいに座ったハーレイに訊いた。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラでコインって、投げていたっけ?」
「コイン?」
なんなんだ、それは。なんでコインを投げるんだ…?
「何か決めたりするでしょ、コインで。表か裏か、って」
このケーキはそれで選んだんだよ、選んだ方じゃないんだけれど…。
おやつのケーキが二種類あってね、どっちにしようか決められなくて…。コインの出番。
選んだ方をおやつに食べて、こっちは選ばなかった方…。
「ほほう、コインのお告げってことか」
こっちが残っていたってことは、コインは俺の好物のケーキを選んでくれたのか、うん?
「どうだろう…?」
そこまで考えていなかったけれど、ぼくが食べた方はフルーツケーキ…。
ママのフルーツケーキの味は知っているでしょ、ハーレイ、どっちが好きだったの…?
「どっちも好きだが、今日はこっちの気分だな。選んでいいなら、マーブルケーキだ」
コインは正しい選択をした、というわけだ。
まさにお告げといった感じだな、俺にはこいつを残しておけ、という御託宣。
…待てよ、託宣…?
ハーレイが指先でトントンと叩いている眉間。
そうすれば遠い記憶が戻って来ると思っているのか、ただの癖なのか。暫く考え込んで、眉間を何度か軽く叩いて…。
「それだ、託宣だったんだ!」
思い出したぞ、シャングリラにあった託宣なんだ。
「えっ? 託宣って…」
どういう意味なの、何が託宣…?
「お前も覚えているだろう。託宣と言えばフィシスだろうが」
フィシスがタロットカードで占う未来が託宣だった。…いつの間にやら、そう呼ばれていて。
「そうだけど…?」
託宣はフィシスだったけれども、その託宣がどうかしたわけ…?
「よく考えてみろよ? …フィシスが来る前はどうだった?」
未来が見えるヤツはいたのか、予知の力を持っていたヤツは?
フィシスのような仲間は誰かいたのか、と訊かれれば誰もいなかった。シャングリラには。
前の自分でさえも、予知の力は怪しいもの。漠然と嫌な予感がするとか、その程度の力。
「…誰もいないね、ぼくがフィシスを船に攫って来るまでは…」
フィシスはホントに女神だったよ、ちゃんと未来が見えたんだから。
「そのフィシスをお前が連れて来る前。…フィシスの託宣が無かった頃だな、お前の記憶」
どっちを選ぶのが正しいのかが、誰にも分からなかった時。
そういう時にコインで決めていたんだ、表か裏かと。
選べなくても選ぶしかない、だが、俺たちではいくら考えても答えが出ない。
そんな時はコインだったんだ。…どちらかに決めなきゃいけないんだしな、ピッタリだろうが。
投げれば答えが出て来るからなあ、コインってヤツは。表と裏しか無いんだから。
そういえば…、と蘇って来た、遠い遠い記憶。前の自分とコインの記憶。
一番最初は、航路の決定に悩んでしまった時だった。
シャングリラが白い鯨になるよりも前で、ハーレイがキャプテンになって間もない頃。
「どっちに行っても、大して変わりはなさそうだけどね?」
素敵な所へ辿り着けるというわけじゃなし…、というのがブラウの意見。
シャングリラの今後をどうしてゆくかを決める顔ぶれは、もう揃っていた。後に長老と呼ばれた四人と、キャプテンのハーレイ、それに前の自分。
「しかし、人類がいない方へと向かうなら…」
こちらの方が良さそうだが、とハーレイが推した航路に異議を唱えたヒルマン。
「まるでいなくても困るだろう。…人類の船が」
物資の補給が難しくなる。人類の船が無いとなったら、輸送船だって無いのだからね。
あれは人類のために物資を運んでいるわけで…。我々のためではないのだから。
「ぼくは何処へでも行けるけど?」
輸送船が無いなら、いそうな所へ探しに行けばいいんだから、と前の自分は言ったのだけれど。
「いや、お前にばかり負担はかけられん」
こっちがいいかと思ったんだが、やめておいた方がいいかもしれん。
もう一つの方を選ぶべきだな、とハーレイが顎に手を当てた。俺が間違っていたらしい、と。
「けれど、決め手に欠けているわ」
どっちの航路も、と零したエラ。
人類の船が多いか、少ないかという点だけの違い。それも、現時点でのデータに基づいたもの。
状況は変わってゆくかもしれない。人類の方の都合次第で。
もっと詳しいデータがあったら分かるけれども、今のシャングリラではこれが限界。
人類軍の暗号通信などは読み解けないから、これ以上のデータは手に入らない。
船をどちらへ進めるべきか。
選べなくなってしまった航路。どちらも正しいように見えるし、また間違いのようにも見える。
けれど、どちらかへ行くしかない。他の航路は、どれも不都合があったから。
正しい航路はどちらなのか、と皆が考え込んだけれども、出せない答え。キャプテンにも、前の自分にも。エラやブラウやヒルマンたちにも。
どうするべきか、と時間が流れてゆく中、ゼルが声を上げた。
「そうだ、コインがあった筈だぞ」
ブルーが奪った物資に紛れていたヤツが…。あれを使えばいいんじゃないか?
「コインだって?」
何に使うというのだね、とヒルマンが訊いて、前の自分たちも首を傾げたけれど。
「もちろん、航路を決めるのに使う。…今は航路の相談中だぞ」
コインで決めてた時代というのがあるんだろうが。
一枚投げて、表か裏か。出て来た方で答えを決めるというヤツだ。
この船にあった本で読んだぞ、と出された案。
決められないならコインにしようと、きっとそいつが一番だろうと。
「ああ、あれねえ…!」
いいんじゃないかい、と賛成したブラウ。
いくら考えても出ない答えなら、コインに訊くのも悪くないよ、と。
選べないなら、コインで決める。表か裏かで、船の航路を。
遠い昔の地球の占い、人類は今もコインを投げているらしい。決めかねた時は。
それを真似るのもいいのでは、と纏まりかけた所で、ヒルマンが「しかし…」と心配そうに。
「人類ならば、それで問題は無いのだろうが…。我々はミュウだ」
サイオンが干渉するんじゃないかね、投げたコインに。
表がいいとか、裏がいいとか…。誰もが無意識に選んでいそうだ、こっちがいい、と。
そうなればコインに働きかけてしまう、自分の選んだ方が出るように。
上手く行かないような気がしてならないのだがね、ミュウの場合は。
「だったら、ブルーが投げればいいじゃないか」
あたしたちよりずっと強いよ、サイオンがね。束になっても敵いやしない。
ブルーだったら、誰のサイオンにも干渉されずに出来るだろ?
自分の願望ってヤツも全く入れずに、と返したブラウ。
ブルーなら出来るに違いないよ、と。
「なるほど…。ブルーならば、というわけか」
出来そうかね、とヒルマンに尋ねられたから。
「多分…。出来ると思うよ、コインを投げればいいんだね?」
表か裏か、どちらがいいかは考えないで。
他のみんながどちらにしたいか選びたい気持ちも、影響を与えないように。
「よし、決まりだな。コインに訊いてみようじゃないか」
ハーレイ、あれを持って来てくれ、とゼルがニヤリと親指を立てた。
コインはお前が管理してるし、適当なヤツを一枚選んでやってみよう、と。
そういうわけで、前のハーレイが保管場所から持って来たコイン。
どれか一枚を選ぶ代わりに、それが入った箱ごと、全部。
百枚は優にあっただろうか、あるいはもっと。大きさも色も、様々なものがジャラジャラと。
「どれにするんだい?」
あたしはコインとしか知らないんだけどね、何か定番があるのかい?
どうなんだい、とブラウに訊かれたゼルが「俺もだ」と浮かべた苦笑。コインで決めるという所までしか俺は知らないと、ヒルマンはどうか、と。
「私かい? …生憎とそれは知らないねえ…。エラはどうだね?」
「私も、コインで占うとしか…。ずっと昔なら、何かあったかもしれないけれど…」
今の時代は特に無いんじゃないのかしら。由緒も由来も無いんだから。
どれもコインだと言うだけでしょ、とエラが言う通り。
SD体制の時代のコインは、模様にすらも意味が無かった。区別出来ればいいというだけ。
占いに向いたコインが無いなら、どれでやっても同じことだから…。
「それもブルーが選べばいいんじゃないか?」
ブルーがいいと思った一枚、それでいいだろ。
表か裏かでこの先のことを決めるコインだ、選ぶ時にも勘ってヤツだ、と笑ったゼル。
反対する者はいなかった。コインもブルーが決めるべきだ、と。
この中から一つ選ぶといい、と前の自分に示された箱。沢山のコイン。
けれど、コインがピンと来なくて、ただまじまじと見詰めていた。価値が分からなかったから。
人類の世界でしか意味を持たないコインの価値など、当時は詳しくなかった自分。どのコインで何が買えそうなのかも、それがあれば何が出来るのかも。
それと気付いたヒルマンが、コインを一種類ずつテーブルに並べて教えてくれた。
このコインならば、一枚で子供向けの菓子が一個買えるとか。これならば飲み物が一本だとか。
高額なコインもあったけれども、そういうものより子供でも持てるコインに惹かれた。
成人検査で失くしてしまった、子供時代の自分の記憶。
きっとその中で、幼い自分がコインを握っていただろう。お気に入りの菓子を買いに行こうと、小さな手の中にコインが一枚。
そうでなければ、養父母に「ほら」と握らせて貰って、店員に「はい」と差し出すだとか。
子供が持てるコインだったら、思い出もきっとあった筈。
すっかり忘れてしまったけれども、幸せだった頃の思い出。養父母と過ごした温かな日々。
だから小さなコインを選んだ。子供用の菓子しか買えないコイン。
銀色に光る小さなコインを一枚、箱の中から。
同じコインが幾つもある中、目を引いたそれを取り出して。
「じゃあ、これ…」
これにするよ、と選び出したコイン。テーブルの上にコトリと置いた。
コインが決まれば、次は表か裏かの問題。それもヒルマンが皆に解説してくれた。模様が目立つ方が表で、数字が目立っている方が裏、と。
コインで決めたい二つの航路。それをどちらに割り当てるかは、六人で相談して決めた。表ならこっちで、裏ならこっち、と。
人類の船が少ない方へと向かう航路が、表側。ハーレイが「駄目だ」と言っていた方。
裏側が出たら、人類の船が今までと変わりなく飛んでいる筈の航路。
どちらが出ようと、もうこれ以上は迷わない。コインは答えを告げたのだから。
そう決めた後に、前の自分が投げ上げたコイン。
ゼルたちに「こうだ」と教えられた通り、指先で弾くようにして。
会議をしていた部屋の天井に向かって投げたコインは、直ぐに落ちて来て転がった。テーブルの上で暫く回って、パタリと倒れたコインが示した表側。
「表なのか!?」
あちらへ行くのか、とハーレイが酷く慌てたけれども、「決めたことだよ」と肩を叩いて諫めたヒルマン。そういう決まりになっていたろうと、コインの表が出たのだから、と。
「大丈夫だよ。…輸送船が飛んでいなくても、ぼくがいるから」
何処かで物資を調達するよ、と前の自分がテーブルの上から拾い上げたコイン。これを貰ってもいいだろうか、と。
「貰うって…。何にするんだい?」
何の役にも立ちやしないよ、とブラウが目を丸くしていたけれど。
「ちゃんと航路を決めてくれたよ、役に立ったよ」
もしも航路が正しかったら、これは本当に役に立つから…。
また迷うようなことがあったら、これに訊いたらいいと思うよ。ただのコインだけど、二つある道をどちらにするかは、決めて貰えるみたいだからね。
一枚の小さなコインで決まった、シャングリラの航路。
表が示した方の航路へ前のハーレイは船を進めて、続いていった宇宙の旅。
人類の船にはまるで出会わず、代わりに輸送船だけが何故か一隻。何処へ向かうのか、山ほどの物資を積み込んで。食料も、他の色々な物も。
その輸送船から奪った物資で、飢えずに快適な旅が続いた。人類の船には出会わないまま、暗い宇宙を。いつもこういう旅ならいいな、と誰もが感激していたほどに。
「あの時、お前が投げたコインで決めてだな…」
俺が反対していた航路が、正しかったという結末になっただろう?
他のヤツらも、あっちに行こうと決められないままでいたのにな。コインの表が出るまでは。
…なのに、コインは正しい答えを出したんだ。
子供の菓子しか買えないような、ちっぽけなコインだったくせにな。
「うん…。あのコイン、ぼくが貰って持っていたから…」
何かって言えば、投げてたね、コイン。
シャングリラが白い鯨になった後にも、決められないな、っていう時になったら。
ゼルとかブラウが言い出すんだよ、「これはコインに訊くしかない」って。
ヒルマンもエラも、「後は神様次第だ」って思っていたから、コインにお任せ。
前のハーレイも、ぼくもおんなじ。
ぼくたちの力で決められないなら、神様に決めて貰わなくちゃ、って。
前の自分が一枚だけ選んだ、銀色をしていた小さなコイン。
幼かった頃に大切に握り締めていたのと、多分、そっくりだったろうコイン。
それが選んでくれた航路が正しかったから、その後も色々と質問していた。コインを投げては、どうすべきかと。自分たちはどちらに進むべきかと。
航路はもちろん、船の中のことも。どちらを選べばいいのだろうかと。
フィシスがやって来るまでは。
タロットカードで未来を読み取る、神秘の女神。機械が無から創ったものでも、フィシスの力は本物だった。前の自分が与えたサイオン、それが作用した予知能力。
ハーレイ以外は誰も知らなかった、フィシスの生まれ。
だから信用された占い、託宣とまで呼ばれたほどに。
コインだったら表か裏か、二つしか道は無かったけれど。二つに絞り込まない限りは、コインも答えはしなかったけれど。
フィシスの方はそうではなかった、曖昧なことを質問されても答えを出せた。
三つも四つもある道の中から最善の一つを選び出すのも、フィシスにとっては容易いこと。
コインなどより遥かに優れた、ミュウの未来を読み取れる女神。
白いシャングリラに幼いフィシスを迎え入れた後は、コインに尋ねることは無かった。
幼くてもフィシスは未来を読めたし、タロットカードはコインよりも頼りになったから。
単に答えを示すだけでなく、注意すべきことやアドバイスなども、カードは教えてくれたから。
けれども、フィシスが船に来るまでの長い年月。
コインは何度も投げ上げられては、進むべき道を告げていた。表か、裏かで。
会議の席で「コインに訊こう」という声が出たなら、前の自分が投げ上げていた。データ不足で決めかねた時や、どちらがいいのか判断に困ってしまった時に。
銀色の小さなコインを一枚、手の中にスッと取り出して。
「お前の部屋にあった筈だぞ、託宣用のコイン」
一番最初にお前が選んで、持ってったヤツが。…いつでもあれを使っていたしな。
誰かがコインの出番だと言えば、お前、瞬間移動でヒョイと運んで…。
今のお前には全く出来ない芸当だよなあ、すっかり不器用になっちまったから。
「うん…。コイン一枚でも、ぼくには無理だよ」
瞬間移動で運べやしないよ、ほんのちょっぴりの距離でもね。
あそこの勉強机の上から、このテーブルまででも絶対に無理…。あんなに小さなコインでも。
青の間に引越した後も、コイン、大切に持っていたっけ…。
いつでも占いに使えるように、って奥の部屋に。
小さな引き出しに入れてあったよ、掃除の時に間違って捨ててしまわれないように。
引き出しの中は、前のぼくしか触らないから…。
ハーレイはたまに開けていたけど。
「…まあな、お前に頼まれた時には開けてたなあ…」
あの引き出しに入れてあるから、って色々な物を頼まれたが…。お前が寝込んじまった時とか。
そういや、コインに気付いたこともあったっけか…。
此処に入っていたんだな、って見てたんだっけな、ほんの少しの間だけだが。
お前に頼まれた物を探しに行ったわけだし、それが見付かったら急いで戻って行かないと…。
だからコインに触っちゃいないな、触ろうとも思いはしなかったが。
なにしろ神聖なコインだったし…。
俺たちはいったいどうするべきか、って時に答えをくれてたんだし。
前のハーレイも触れなかったという、託宣用になっていたコイン。
元は物資に紛れていただけの、普通のコインだったのに。
子供が菓子を買える程度の価値しか持たない、銀色をした小さなコイン。銀色なだけで、銀ではなかった。きっと銀など、欠片も入っていなかったろう。
それでも、コインは皆を確かに導いてくれた。表か裏かで、道を示して。
(…フィシスが来たから、コイン、要らなくなっちゃって…)
ゼルもブラウも、「コインに訊こう」とは言わなくなった。未来を読める女神がいたから。
航路や他の様々な問題、それの答えが出なければフィシスに尋ねればいい。フィシスはタロットカードを繰って並べて、読んだ未来を告げるから。答えの他にもアドバイスなどをくれるから。
フィシスが来たから、用済みになってしまったコイン。
前の自分が大切に引き出しの中に仕舞って、何度も未来を尋ねたコイン。
出番が来る度、瞬間移動で運んでキュッと握って。
ゼルやヒルマンやハーレイたちの前で、天井へと高く投げ上げて。
あれほど何度も投げていたのに、今日まで忘れ果てていた。
フィシスを船に迎えた後には、二度と使わなかったから。
表か裏か、二つに一つの答えだけしかくれないコイン。それよりもずっと役立つ女神が、未来を読み取るフィシスがいたなら、コインに尋ねはしないのだから。
忘れ去ったままになってしまった、託宣用だった小さなコイン。
長い年月、あれのお世話になっていたのに。何度も何度も、道を教えてくれていたのに。
(…前のぼく、ご苦労様、って言った…?)
ちゃんと御礼を言ったのだろうか、忘れ果てる前に。
青の間の奥にあった小さな引き出し、其処に仕舞ったままにしてしまう前に。
(……自信、ゼロ……)
手に入れたフィシスにすっかり夢中になっていたから、御礼も忘れていたかもしれない。
その身に地球を宿した少女。タロットカードで未来を読み取る、神秘の女神。
暇さえあったらフィシスの許へと行っていたから、コインも忘れてしまったろうか。それまでに何度も助けられたのに、託宣をしてくれていたというのに。
(…ごめんね、忘れちゃっていて…)
今からでも間に合うだろうか、と心の中で謝った。
前の自分が忘れたコインに。御礼も言わずに仕舞ったままにしたかもしれない、銀色をしていた小さなコインに。
「ごめんね」と、そして「ありがとう」と。
前のぼくは忘れてしまったけれども、こうして思い出したから、と。
小さくて価値も無かったコイン。子供が菓子を買える程度の、ちっぽけなコイン。
前の自分が箱の中から一枚選んで、ゼルやヒルマンたちも頼りにしていた。前のハーレイも。
託宣と言えば、ずっとコインのものだった。フィシスがやって来るまでは。
「あのコイン、どうなっちゃったんだろう…?」
ぼくも忘れてしまってたんだし、ゼルたちもきっと忘れてたよね…?
ハーレイだって今まで忘れていたから、引き出しのコイン、誰も回収していないよね…?
「さてなあ…。最後には誰かが見付けただろうが…」
シャングリラを解体しようって時には、青の間にあった色々な物も運び出してた筈だから…。
あのままで壊したわけじゃないから、引き出しの中も空にしたろう。
そういう作業をしに来た誰かが、コインも見付けていたと思うぞ。
こんな所に一枚あった、と拾い上げた後はどうなったんだか…。
デカイ船だし、アルテメシアを落とした後には買い物をしていたヤツらもいたし…。
あちこちにコインが紛れてそうだし、それと一緒になっちまったかもな。
見付けたコインはこれに入れろ、と袋でもあって、その中にポイと。
お前の名前が書いてあったら別だったろうが、ただのコインが一枚ではなあ…。
せいぜい骨董品ってトコだな、前のお前が奪った物資に紛れていたコインは高く売れたし…。
前の俺はそいつを売り払った金で、船の仲間に小遣いを渡してやれたんだしな。
白いシャングリラが役目を終えて、トォニィの指示で解体されることになった時。
色々な物が運び出されていった青の間の奥に、引き出しにコインが一枚だけ。
多分、ひっそりと何かに紛れて、小さな銀色。本物の銀でさえなかったコイン。
それを見付けて持って行った者も、トォニィもシドも、誰も気付きはしなかったろう。一枚しか入っていなかったコイン、銀色のコインの正体に。
ソルジャー・ブルーが何度も何度も未来を尋ねた、託宣用のものだったとは。
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃から、船の未来を決めていたコインだったとは。
「消えちゃったね、コイン…」
なくなっちゃったね、前のぼくが忘れてしまっていたから…。
ぼくの名前は書いてなくても、袋に入れるとか、箱に入れるとか…。そして説明を書いて一緒に入れれば良かった、何に使ったコインだったか。
そうしておいたら、コイン、きちんと残っただろうに…。
行方不明になってしまわずに、何処かに、きっと。
「そうだな…。あのコインの意味が分かっていたヤツがいたなら、ちゃんと残っていたろうな」
俺の木彫りのウサギみたいに、立派な宇宙遺産になって。
あんなウサギよりもコインの方が、遥かに凄い宇宙遺産というヤツなんだが…。
シャングリラの未来を決めていたんだし、それは素晴らしい超一級のコインなんだがなあ…。
遠く遥かな時の彼方に消えてしまった、小さなコイン。銀色をしていた小さなコイン。
前の自分が何度も投げては、ミュウの未来を占っていた。表ならこうで、裏ならばこう、と。
コインが告げた託宣のままに、シャングリラは宇宙を、アルテメシアの雲海を飛んだ。
白い鯨になるよりも前から、白い鯨になった後にも。
未来を読み取るミュウの女神が船に来るまでは、フィシスに取って代わられるまでは。
シャングリラを長く導き続けた、コインは忘れ去られて消えた。
立派な仕事をしていたのに。
それがどういう仕事をしたのか、もしも誰かが気付いていたなら、今頃は宇宙遺産だったのに。
「…ぼく、悪いことしちゃったかな…」
あのコイン、頑張ってくれていたのに。…前のぼくたちを、何度も助けてくれていたのに…。
前のぼくが忘れてしまっていたから、コイン、何処かに消えちゃった…。
「気にするな。…世の中、そうしたものだってな」
なんでもかんでも残るってわけじゃないんだし…。
お前はこうして思い出したし、それでコインも満足だろうさ。
宇宙遺産になっちまうより、その方が気楽でいいかもしれんぞ。今は自由になったんだから。
博物館のケースの中より、のびのびと何処かで第二の人生。
いや、百回目とか、千回目だとか、そういう人生を送っているかもしれないじゃないか。
もうコインではなくなっちまって、他の何かに生まれ変わって。
「そうかもね…。ぼくたちも、生まれ変わったものね」
キャプテン・ハーレイでもなくて、ソルジャー・ブルーでもなくて、ただの人間。
今のぼくたちも、このままだったら忘れ去られておしまいだものね。
生まれ変わる前は誰だったのか、って話をしないで終わっちゃったら、それっきり…。
コインと同じで、いつかは忘れられそうだけど…。
その方が好きに生きていけるし、うんと幸せになれそうだものね…。
話さなければ誰も知らない、気付かれないままで終わるのだろう自分たち。
今の時代は伝説になった英雄、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが存在すること。
前とそっくり同じ姿で、青く蘇った地球に二人で生まれ変わって。
自分たちの正体を知っている人間は、三人だけ。
両親と、聖痕現象を起こした時に診てくれた医師しか今も知らない、前の自分たち。
時の彼方に消えてしまった、あのコインのように誰も気付いてはいない。
(…このまま、ずうっと黙っておいたら、コインみたいに…)
きっと忘れられ、ただのブルーとハーレイのままで終わるのだろう。
そんな平凡な人生もいい。
誰にも知られず、今度は自由に、ハーレイと二人。
(だって、英雄じゃないんだもんね?)
前の自分は英雄扱いされているけれど、ただ懸命に生きただけ。
ハーレイと恋をして、幸せに生きたかっただけ。
それが叶わなかったというだけ、英雄になろうと思ったわけではなかったから。
前の自分が「じゃあ、これ…」と一枚選んだばかりに、託宣用になったコインと同じ。
銀色の小さなコインと同じで、歴史の悪戯で偉くなったというだけだから…。
コインの託宣・了
※フィシスがシャングリラにやって来るまで、託宣を告げていたコイン。表か裏かで。
船の未来を決めたコインは、ひっそりと忘れ去られて、時の彼方に消えて行ったのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
その日は朝からシトシトと雨。今の季節に相応しい秋雨、それほど強くはない雨脚。
けれども傘は必要だから、とブルーが差して出掛けた雨傘。弱い身体に雨は大敵、濡れた所から冷えてしまって風邪を引くから。
夏の最中でも危ないというのに、今は秋。濡れないようにと雨傘を差して学校へ。
バスに乗るまでにすれ違った人は、誰でも傘を差していた。バスの中でも、畳んだ傘を手にした人ばかり。ところが、学校から近いバス停で降りたら、そうではなくて。
自分は傘を広げたというのに、学校へ向かう生徒たちの中には…。
(差してない人…)
何人か混ざった、傘を差していない生徒たち。シールドで雨を防いでいるから、淡い黄色や緑の光に包まれて。
もれなく男子で、シールドと自分の度胸に自信のある生徒。颯爽と歩いてゆく彼ら。
学校からは「雨の日は傘を差すように」と何度も指導されているのに。サイオンは使わず、人間らしく、と。人間が全てミュウになっている、今の時代の約束事。
(でも、チェックしているわけじゃないし…)
校則違反とまでは言われない。傘の代わりにシールドでも。
教師とすれ違ったら、「傘は?」と軽く睨まれる程度。だから彼らは傘を差さずに堂々と登校、睨まれた時には「忘れました」と悪びれもせずに言い訳をして。
(…前のぼくなら…)
傘を差さない方でいられた。メギドの炎も受け止めたシールド、土砂降りだって軽く防げる。
今の自分も、器用だったら出来た筈。度胸はともかく、前と同じにタイプ・ブルーだから。
傘を差さない生徒たちの中には見えない、青い光を帯びたシールド。本当だったら、彼らよりもずっと見事なシールドを張れる筈なのに…。
(…不器用だしね…)
まるで使えない、今の自分が持つサイオン。名前ばかりのタイプ・ブルー。
溜息をついて傘を畳んで、校舎に入った。こんな日は不器用さを思い知らされるよね、と。
朝の溜息はもう忘れていた、三時間目のハーレイの授業。
雨はまだシトシトと窓の向こうで降っているけれど、突然、ハーレイが教科書を置いて。
「このクラスにもイギリス紳士がいるようだな」
お前とお前、と指差された男子。他にも何人かいるかもな、と。
(イギリス紳士…?)
ブルーもキョトンとしたのだけれども、クラスの生徒もポカンとした顔。ハーレイが「お前」と指した生徒は、この地域の生まれの筈だから。つまりは日本で、イギリスなどとは無関係。
けれど、ハーレイはかまわず続けた。
「俺が見掛けたのは、お前たちだ。…イギリス生まれか?」
立派なイギリス紳士だったが、イギリスから引越して来たのか、うん…?
「違います!」
何故、と慌てる男子が二人。多分、生粋の日本生まれで、日本育ちだろう二人。
日本という国は今は無いけれど、この辺りには昔、日本があったから。その名を貰って、あえて呼ぶなら日本になるのがこの地域。
其処で育った筈の彼らが、どうしてイギリス生まれになるのか。意味が全く分からない。周りのクラスメイトも同様、ザワザワと囁く声が広がる。
ハーレイが言った、イギリス紳士とは何だろう?
指された男子は、どちらかと言えばヤンチャな方。紳士というより、悪ガキなのに。
「お前たち、傘を差さずに来ただろうが」
俺は見てたぞ、お前たちが傘を差さずに歩いていたのを。
それでイギリス紳士だと言ったんだ、と始まった雑談。ハーレイの授業のお楽しみ。ためになる話や、笑い話や、クラス中が熱心に聞き入る時間。
(傘のお話…)
遠い昔のヨーロッパ。まだ人間が地球しか知らなかった頃。
其処では傘と言ったら日傘で、女性が差して歩くもの。強い日射しを遮るために。
少し経ったら、雨を避けるのにも使うようになった。傘があったら防げる雨。
それでも傘は女性の持ち物、男性は雨傘などは差さない。彼らには馬車があったから。馬車には屋根がついているから、乗り込めば決して濡れたりはしない。何処へ行くにも快適な馬車。
もし雨傘を差していたなら、馬車が持てないと皆に知らせるようなもの。
いくら立派な身なりをしたって、服を整えるのが精一杯。馬車が買えるお金はありません、と。馬車を持つには、かなりの費用が必要だから。馬はもちろん、御者を雇って他にも色々。
馬車は紳士のステイタスシンボル、持てないことは恥ずかしい。雨傘を差して馬車が無いのだと知られるよりかは、濡れて歩いた方がマシ。馬車の迎えがまだ来なくて、と。
そういう時代に登場したのが、ジョナス・ハンウェイなる人物。十八世紀の半ばの人。
立派なイギリス紳士だったというのに、彼は雨傘に惚れ込んだ。旅をした先で、雨傘の便利さに気付いたから。是非ともこれを広めるべきだ、と考えた彼。
それには自分が差さなければ、と笑われながらも雨の日には傘。特別に誂えた立派な雨傘。
紳士が集うクラブにも雨傘を差して出掛けて、ひたすら重ね続けた努力。
お蔭で傘はイギリス紳士のシンボルになって、誰もが競って持つようになった。自分の傘を。
ただし…。
「やっぱりその後も差さなかったそうだ、イギリス紳士は」
傘は持ってるだけなんだ、というオマケがついた。持つだけで差さないイギリス紳士。
雨が降ったら、帽子で粋に避けるもの。彼らはお洒落な帽子を被って出歩いたから。
傘はステッキと同じで紳士の持ち物、高価な雨傘はステイタスシンボル。こんなに立派な雨傘を作らせました、と周りに知らせるためのもの。充分な財産を持っています、と。
そうやって生まれた雨傘だから、傘の柄はステッキのように曲がっているらしい。昔も今も。
立派な傘を持っているのに、差そうとしなかったイギリス紳士。傘は持ち物だったから。
「傘を差さないヤツらはそれだ」と笑ったハーレイ。
シールドを張って雨を防いで、傘を差してはいなかった生徒。
「差さないにしても、傘を持ったら立派なイギリス紳士になれるぞ」と。
ドッと笑いに包まれた教室。それでハーレイはイギリス紳士と言ったのか、と。
(ふうん…?)
雨の日に傘を差していなければ、イギリス紳士。
面白かった、と大満足だった雑談の時間。今日も素敵な話が聞けた。雨傘について。
雨は帰る時にもシトシト、校舎から出るのに傘を広げた。
帰ってゆく生徒の中に混じったイギリス紳士。シールドで雨を防いで歩く男子たち、ハーレイに教わったばかりのイギリス紳士が何人か。傘を差さずに悠然と。
イギリス紳士だ、と眺めながらも自分は傘の中だけれど。濡れないように広げているけれど。
紳士のための雨傘が生まれる前の時代は、傘は女性のための持ち物。
馬車が無いのだと思われないよう、紳士は傘を持たずに歩いた。雨の中でも。それを思うと…。
(ぼくって、駄目かも…)
傘を差さないと歩けないタイプ・ブルーだから。不器用なせいで張れないシールド。
お洒落に傘を抱えて歩けはしなくて、イギリス紳士は気取れない。傘を畳めば、濡れるだけ。
(…ハーレイだとシールド、張れるのにね?)
前のハーレイも、今のハーレイも、防御に優れたタイプ・グリーン。自分のように不器用というわけでもないから、今のハーレイもシールドは上手く張れる筈。
きっとハーレイなら、イギリス紳士のクチだったろう。隣町の家で育ったハーレイ。
子供時代はヤンチャだったと聞いているから、雨の日も傘を差さずに登校。
その光景が目に浮かぶようで、クスッと零してしまった笑い。
ぼくはイギリス紳士になれないけれども、ハーレイはきっとイギリス紳士、と。
家に帰ってもシトシトと雨。イギリス紳士な子供時代のハーレイが駆けてゆきそうな。
今日はハーレイは来てくれるだろうか。仕事帰りの、大人のハーレイ。
来て欲しいな、と部屋で何度も窓を見ていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄り、見下ろした庭と門扉の向こう。大きな雨傘を広げたハーレイ、当たり前のように差しているけれど…。
(要らないんだよね?)
傘なんか、きっと、本当は。
もう大人だから、「人間らしく」と差しているだけで、シールドすれば要らない雨傘。
きっとそうだという気がするから、ハーレイと部屋で向かい合うなり訊いてみた。
「ねえ、ハーレイもイギリス紳士?」
「はあ?」
いきなりなんだ、何の話だ?
俺はイギリス生まれじゃなくてだ、隣町で生まれて育ったんだが…?
「今日のハーレイの話だってば。…ぼくのクラスでやってた授業」
傘のお話、していたじゃない。傘を差さずに登校した子はイギリス紳士、って。
ハーレイの子供の頃はどうなの、イギリス紳士な子供だったの?
「あれか…。うん、確かにイギリス紳士だったな」
シールドすれば濡れないわけだし、傘を差すなんて面倒じゃないか。
それに学校に行く時は降っていたって、帰る頃には止んでいることもよくあるだろう?
晴れちまっていたら傘を忘れて帰るのがオチだ、忘れないためにも持って行かないのが一番だ。
だが、あの頃の俺はイギリス紳士を知らんしなあ…。
気の利いた言い訳は出来なかった、とハーレイが浮かべた苦笑い。
今なら先生に「傘は?」と睨まれた時は、「イギリス紳士ですから」と胸を張れるんだが、と。
「ハーレイ、やっぱりそうだったんだ…」
イギリス紳士だったのかな、って想像したけど、当たっていたよ。
タイプ・グリーンはシールドを張るのが上手いから…。子供の頃にはやってたよね、って。
さっきは傘を差していたけど、子供だった頃はイギリス紳士、って。
「まあな。…ヤンチャ盛りだ、ついついやりたくなるってもんだ」
もっとも、今から考えてみれば、前の俺のせいってヤツも少しはあるかもしれんがな。
俺がイギリス紳士になっちまった理由。
「えっ?」
前のハーレイって…。なんで、前のハーレイがイギリス紳士?
何処でそんなのやっていたわけ、シャングリラに雨は降らなかったよ…?
公園とかに水撒きする時は、雨に似ていたかもしれないけれど…。水撒きの時間は入らないのが基本だったよ、植物の休憩時間だから。
「シャングリラじゃなくて、ナスカだ、ナスカ」
雨上がりに虹を探していたって話をしたろう、ナスカには雨が降ったんだ。本物の雨が。
しかし、シャングリラに雨傘は一つも無かったからな。
ナスカに着くまで雨の中には出なかったんだし、準備していたわけがない。アルテメシアの雲の中にいるか、でなきゃ宇宙を飛んでいるか。
傘の出番は全く無いから、誰も傘など作らんだろうが。
前の自分は深い眠りに就いていたから見ていないけれど、雨が降ったというナスカ。
淡いラベンダー色の空から、植物たちを育てる恵みの雨が。
それにちなんで、ジョミーがナキネズミに「レイン」と名前をつけた。恵みの雨のレイン、と。
赤いナスカに降り注いだ雨。白いシャングリラに雨傘は乗っていなかったのに。
雨は何度も降ったけれども、何故か作られなかった雨傘。
誰一人として傘を思い付かなくて、雨が降ったらシールドで防ぐものだった。
「前の俺だって、そうだったわけだ。雨が降ってるな、と思った時にはシールドだった」
そいつを覚えていたかもしれんな、自分じゃ気付いていなかったが。
…だから余計にイギリス紳士だ、傘を差さないのが当たり前の暮らしをしてたんだから。
本物のイギリス紳士とは事情が全く違うが、ナスカじゃ傘は差さないってな。男も女も、大人も子供も。…それを四年もやっていればだ、傘は差さないものだと思ってしまうだろうが。
「…四年もやったら、そうなるかもね…」
雨の日は傘を差しましょう、って注意する先生だって一人もいないんだし…。
ヒルマンやエラがそう言わないなら、雨はシールドで防ぐものだと思っちゃうよね。サイオンを普段の生活に使っちゃ駄目だ、って注意してたの、あの二人だから。
「そのヒルマンとエラも、雨の時はシールドを張っていたからなあ…」
雨傘のことを知らなかったとは思えないがだ、作ろうと言いもしなかった。何故なんだか…。
ひょっとしたら、わざと黙っていたかもしれないな。雨傘のことを。
ナスカには少し寄っただけだ、というのがエラたちの考え方だったんだし…。ナスカに合わせて雨傘を作って渡してしまえば、若いヤツらが勘違いをしかねないからな。
この星にずっと住んでいいんだ、というお許しが出たと。こうして傘まで出来たんだし、と。
実際の所はどうだったのかは分からないがな、と窓の外の雨をチラリと眺めたハーレイ。
前の俺は何も聞いてはいないし、ナスカに雨傘が無かった理由は謎なんだが、と。
「…何故無かったかは俺にも分からん。だが、傘無しで四年間だ」
シールドで雨を防ぐというのは、便利だったんだか、不便だったのか…。
濡れない点では、傘よりもシールドの方が上ではあるが…。せっかくの雨を弾いちまって、雨の恵みが分からないのが不便だと言えば不便だったな。
ゼルはわざわざシールドを解いてみたんだぞ。雨というのはどんなものか、と。
「そっか…。シールドしてたら、雨はシールドの周りを流れるだけだし…」
ちょっと触ってみようとしたって、その手もシールドされちゃうね。
シールドは身体を丸ごと包み込むもので、手とか足だけヒョイと出すのは無理なんだっけ…。
うんと頑張ったら、そういう使い方も出来るものかもしれないけれど。
「前のお前がやってないなら、多分、簡単ではないんだろうな」
自分の身体を守るために張るのがシールドなんだし、はみ出しちまったら話にならん。
爆風だろうが、小雨だろうが、身体をすっぽり守ってこそのシールドだろう。
ナスカに傘があったとしたらだ、ゼルは傘の下から手だけを出せば良かったんだが…。傘の柄を持っていない方の手を、突き出すだけで良かったんだが。
…生憎と傘は無かったからなあ、シールドを解いて身体ごと濡れるしかなかったってな。挙句の果てにツルリと滑って、濡れた地面に尻餅だった。
転んじまった、とブツブツ文句を言ってはいたが…。嬉しそうではあったな、ゼルは。
あの時に傘さえ差していたなら、もっと嬉しそうな顔だったろう。
滑って転びはしないわけだし、ずぶ濡れにもならずに済んだんだから。
傘があったら、ゼルは雨の良さだけを味わえたんだろうな、とハーレイが見ている遠い星。
時の彼方で砕けてしまった、今はもう無い、赤い星、ナスカ。
其処に降った雨を前の自分は見ていない。雨を降らせたラベンダー色の空も。
ハーレイと共有出来ない思い出、それが寂しい気もするけれど。二人で青い地球まで来たから、今を楽しむべきだろう。地球に降る雨を、傘を差すのが当たり前になった今の世界を。
「えーっと、ハーレイ…。ゼルの話だけど…」
きちんと傘を差していたって、滑る時にはツルンと滑るよ?
それに転ぶよ、と話した今の自分の経験。赤いナスカではなくて、青い地球での。
幼かった頃に雨傘を差して、小さな足には可愛い長靴。生垣の葉っぱにカタツムリがいないか、キョロキョロしながら歩いていた道。水たまりを踏んで見事に転んだ。ツルッと滑って。
傘は転んだはずみに吹っ飛び、水たまりの中についた尻餅。
泣きじゃくりながら帰る羽目になった、傘は拾ってもずぶ濡れだから。もうカタツムリを探せはしなくて、家までがとても遠かった記憶。それまでは楽しく歩いていたのに。
家に帰ったら、驚いた母に熱いお風呂に入れられた。「大変!」と服を全部剥がされ、もの凄く熱いシャワーをかけられ、そのままお風呂。
母の勢いにビックリしたから、涙はピタリと止まってしまった。熱いお風呂に浸けられて。
お蔭できっと、風邪は引かずに済んだのだろう。こうして覚えているのだから。
その後で熱を出していたなら、寝込んだショックで全部忘れてしまったろうから…。
小さかった頃の失敗談。傘があってもずぶ濡れになった、ゼルよりも間抜けな幼かった自分。
こうなるんだよ、と披露した話に、ハーレイは穏やかに微笑んでくれた。
「なるほどなあ…。傘があっても、ゼルみたいに滑って転びもする、と」
そうやって派手に転んだお前は、律儀に傘を差してたわけで…。
今のお前はイギリス紳士にはなれないんだよな、シールドを張れやしないんだから。
前に俺の傘を借りて帰っていたし…。折り畳み傘を家に忘れて来ちまって。
「…前のぼくなら、イギリス紳士になれたんだけど…」
ちゃんとシールド出来たんだけど。…雨が降ったら、傘の代わりに。
「だろうな、ナスカで前のお前が起きていればな」
シャングリラで眠ったままでいないで、起きてあの星に降りてたら…。
雨の日だったら、そりゃあ見事なシールドを張っていたんだろうなあ…。青い色のヤツを。
「アルテメシアでやってたよ!」
シャングリラの外に出て行った時に、雨が降ったらシールドだってば。
ハーレイたちが知らないだけだよ、そんなトコまでモニターしていたわけじゃないから…。
ぼくとは思念で連絡がついたし、それで充分だったから。
いちいち報告なんかしないよ、「雨が降って来たからシールド中」なんて、つまらないことは。
前のぼくには当たり前のことで、ちっとも難しくはなくて…。
降って来たな、って思った時にはシールドだったよ、考えただけで張れたんだよ…!
とても上手に張れたんだから、と頬を膨らませた。
今の学校にいるイギリス紳士たちよりずっと上手に、と。
「ホントだってば、前のハーレイたちが一度も見ていないだけ…」
何度も何度も張ってたんだよ、アルテメシアで雨がポツポツ降って来た時は。
「…そいつが出来なくなったってか?」
前のお前はイギリス紳士を気取っていたってわけではないが…。シールドは得意で、雨の時にはシールドだった、と。
それが今では下手くそどころか、シールドの欠片も張れやしない、と言うんだな。
イギリス紳士の真似は出来なくて、雨が降る日は傘が無いと家から出られない、と。
「うん…。今のぼく、ホントに不器用だから…」
ハーレイの子供の頃と違って、イギリス紳士は無理みたい。
今のぼくだってタイプ・ブルーなのに、前のぼくとは月とスッポン。
傘は差さずにカッコ良く、って出来やしないよ、どう頑張っても。
せっかくイギリス紳士の話を聞いても、真似は出来っこないんだよ。雨の日は傘が無いと駄目。
馬車も車も持っていなくて、シールドも無理で、傘を差すしか無いんだから…。
傘は元々、女の人の持ち物だよね、と項垂れた。ハーレイの授業で覚えた知識。
遠い昔のヨーロッパでは傘は日傘で、女の人だけが差したんだから、と。
「…ぼくって、その頃の駄目な男の人みたい…」
ハーレイが言ってた男の人が雨傘を差してせっせと歩いて、紳士のシンボルになるよりも前の。
男の人が傘を差したら、馬車が無いんだって思われた頃の。
…学校のみんなは、ちゃんとシールド張れるのに…。傘を差してる人だって。
だけど、ぼくにはシールドが無くて、なんだか馬車が無いみたい。
みんなは馬車を持っているのに、ぼくだけ馬車が無いんだよ。シールドを張れる力が無いから。
傘を差すしか方法が無いのと、「人間らしく」って傘を差すのは違うんだもの…。
「別にいいじゃないか、今の時代は傘を差すのが普通なんだから」
傘が無かったナスカの頃とは違うんだ。…大抵の人は傘を差してる時代だろうが。
タイプ・ブルーの人でも差してる、それが今では当たり前になっているんだぞ?
出掛けた先で急に降り出したら、傘を借りるか、雨宿りするか…。大勢の人が集まる場所なら、急な雨だと安い傘が売られて、急いでいる人は買って行く。
そうじゃないのか、シールドしながら大雨の中を突っ走る大人は滅多にいないぞ。シールドして必死に走っていたなら、親切な人が車を停めてくれるってな。「乗りませんか」と。
だから堂々と傘を差してりゃいいんだ、チビでもタイプ・ブルーなんです、という顔をして。
一人前の大人は傘を差さずに歩かないから、今から練習してるんです、とな。
シールドの代わりに傘というのは大人っぽいぞ、とハーレイは教えてくれたのだけれど。
それもそうかも、と思った途端に、そのハーレイが言い出したこと。
「…殆どの地域じゃ、大人は傘を差すものなんだが…。雨が降ったら傘なんだが…」
ずっと昔にイギリスだった辺りの地域は違うらしいな、こだわりってヤツがあるらしい。
文化を復活させたからには、こうでないと、とイギリス紳士を気取る大人が多いんだそうだ。
傘は差さずに持って歩くもので、シールドもしない。
…土砂降りとなったら違うんだろうが、少しくらいの雨なら傘は無しだってな。
「傘を差さない場所は今でもあるんじゃない!」
イギリスだけかもしれなくっても、ナスカの頃と同じで傘は差さない所。
傘を差さないのがお洒落なんでしょ、イギリス紳士の頃みたいに…!
…シールドで避けもしないんだったら、ホントにカッコいいじゃない…!
ぼくはそっちも絶対無理だよ、濡れたら風邪を引くんだから…!
幼かった頃に、雨の日に転んでしまった自分。母に「大変!」と熱いお風呂に入れられた。
弱い身体はあの頃と少しも変わらないから、雨に濡れたら風邪を引く。身体が凍えて、すっかり冷たくなってしまって。
そんな身体では、今もいるらしいイギリス紳士の真似は出来ない。雨が降るのに傘を差さずに、悠々と歩いていられはしない。たとえ霧雨だったとしても。
「…ぼく、カッコ悪い…。傘を差さないと歩けないなんて…」
イギリスだった所に生まれなくって良かったよ。…イギリス紳士になれないから。
此処で良かった、大人になったら傘を差すのがカッコいいんだ、っていう場所に生まれて。
…シールドが張れないと馬車を持っていないような気持ちになるのは、今だけだもの。
一人前の大人になったら、傘はきちんと差すものだしね。
「そうだぞ、今だけ我慢しておけば、傘を差すのがカッコいい年になれるってもんだ」
俺だって今じゃ傘を差すだろ、お前が窓から見ていた通りに。…お前くらいの年の頃には、傘を差さずにイギリス紳士をやってたのにな。
…まあ、日本でもあったらしいんだが…。傘を差さないのがカッコ良かったという話。
今の季節じゃなくて春だが…。冷たい雨ではなかったんだが。
「なに、それ…。春だと傘を差さない文化だったの?」
日本だと春にそれをやるわけ、イギリス紳士と違って日本の紳士は春だけ傘を差さないの…?
なんで春なの、季節は春だと決まっているの…?
「暖かいからじゃないのか、春は」
少しくらいなら濡れてしまっても、風邪を引かない季節だし…。
夏の雨だと、日本だった頃には酷い土砂降りが普通だったから、ずぶ濡れになるし。
それで春ってことなんだろうな、文化ってほどじゃないんだが…。
昔の侍をモデルにして作った、劇の中の台詞だったんだがな。
ハーレイの古典の範疇になるのか、それとも薀蓄の方になるのか。
月形半平太という主人公の侍、その名台詞が「春雨じゃ、濡れて参ろう」というものだった。
連れの舞妓に傘を差し掛けてやる場面で、自分は濡れてもかまわないから、と。
印象深い台詞だったらしくて、言葉だけが一人歩きを始めた。劇を観たことがない人まで使ったほどに。小雨の中を傘無しで歩くような時には、気取って真似て。
「やっぱり、カッコいい人は傘を差さないものじゃない…!」
イギリス紳士だけじゃなくって、日本でも…!
紳士じゃなくって侍だけれど、お芝居の登場人物だけど…!
真似をする人が沢山いたなら、カッコいいってことなんだよ。傘を差さずに歩くことが…!
傘を差さなきゃ歩けないぼくは、イギリスでも日本でも駄目なんだってば…!
「今の時代は違うと言ったろ、差す方が普通なんだから」
いい年の大人が傘を差さずにシールドしてたら、そっちの方が変なのが今の時代だぞ?
財布を家に忘れて来たから傘が買えないとか、借りられる場所が無かっただとか…。
何か事情があるんだろう、と誰かが声を掛けるってな。「車に乗って行きませんか」とか、この傘を貸してあげますから、とか。
お前くらいの年の子供がシールドしながら突っ走っていても、そういうことにはならないが…。
面倒だから傘を持たずに出たな、とニヤニヤされるだけなんだが。
だから、お前も堂々とすればいいと言ったぞ、「傘を差して歩く練習中です」と。
「何も知らない大人から見たら、そうなるのかもしれないけれど…」
お行儀のいい子供に見えるかもしれないけれども、ぼくには分かっているんだもの…!
ぼくは傘無しでは歩けないから、傘を差して歩いているだけなんだ、って。
傘を差さないのと、差すしかないのは違うんだよ…!
天と地ほどに違うんだから、と今の境遇を訴えた。
前の自分だった頃は簡単に張れた、降ってくる雨を避けるシールド。それが張れない今の自分。
今日は朝から雨だから、と傘を差して出掛けた学校で出会った、シールドを張った男子たち。
それだけでも充分、今の自分は駄目だと思っていたのに、ハーレイが話したイギリス紳士。傘を差さずに歩くのがお洒落、傘を差したら馬車を持っていないと思われた時代。
「今日のハーレイ、ぼくのクラスにイギリス紳士がいるって話をしたんだもの…」
不器用さを思い知らされちゃったよ、今のぼくの。
イギリス紳士は絶対に無理で、なんだったっけ…。春雨だったら傘を差さない侍の話。そっちも無理だよ、濡れたら風邪を引いちゃうんだから…!
春でも夏でも、ぼくの身体は雨に濡れたら風邪なんだから!
水たまりで転んじゃった時には、たまたま運が良かっただけ。ママが急いで熱いお風呂に入れてくれなきゃ、間違いなく風邪を引いたんだから…!
「ふうむ…。お前としては、傘を差さずに歩ける自分が憧れってことか」
でなきゃ目標にしたいわけだな、そういう自分を。前のお前みたいにシールドが張れて、雨でも傘が要らないのを。
器用になりたいという気持ちは分かる。お前、とことん不器用だしなあ、サイオンが。
しかしだ、傘は大切なんだぞ、イギリス紳士のステイタスシンボルだった傘とは違った所で。
いいか、落ち着いて考えてみろ。
傘が無いと出来ないことがあるんだ、傘が無かったナスカじゃ絶対に出来ないことがな。
…もっとも、あの時代に傘があったとしたって、前のお前と俺とじゃ無理だが…。
ソルジャーとキャプテンだった以上は、やろうって方が無理なんだが。
キャプテンの俺は、ソルジャーに傘を差し掛けるだけで、隣に並べはしないだろうしな。
傘があっても、相合傘とはいかなかったな、前のお前と俺ではな…。
その相合傘が出来る時代が今だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
傘が無いと相合傘は出来ないわけだし、俺としては大いに傘を差したいんだが…、と。
「お前が傘を差さないクチなら、そいつが出来なくなっちまうんだ」
イギリス紳士や、「春雨じゃ、濡れて参ろう」ってヤツを気取るんだったら、相合傘はな…。
お前の場合はどうなんだ?
俺と一緒に相合傘で歩いてゆくより、傘を差さずにイギリス紳士の方がいいのか?
「そっか、ハーレイと相合傘…!」
傘を差さなきゃ、相合傘は出来ないね…。持ってるだけのイギリス紳士じゃ、相合傘は無理。
春雨だから、って濡れて歩いても、相合傘にはならないよね…。
「その相合傘、やりたいんだろうが」
お前の顔を見ただけで分かる。…イギリス紳士も、月形半平太も、頭の中から吹っ飛んだろう?
俺と二人で相合傘だ、と思った途端に、綺麗に全部。
「うんっ!」
そっちの方がいいに決まっているじゃない…!
ハーレイと二人で傘を差さずに歩けたとしても、ちゃんとシールド出来たとしても…。相合傘の方がずっと素敵で、それをやりたいからシールドしないよ。
二人で一つの傘がいいもの、前のぼくだと無理だったけど…。
ナスカで起きてて、傘があっても、ハーレイと恋人同士だったってことは秘密だったし…。
雨のナスカに降りる時には、ハーレイがぼくに傘を差し掛けてくれるだけ。…そうでなければ、別々の傘を差して歩いていくしかないよね、ソルジャーとキャプテンなんだもの。
二人で一つの傘を差して歩こうとしたら、誰かがサッと傘を渡してくれるんだよ。自分の傘を。
「こちらの傘をお持ち下さい」って、「私はシールドしますから」って。
「ははっ、ナスカでイギリス紳士か、月形半平太の登場なんだな」
誰がそいつをやるんだろうなあ、キムかハロルドか、それともリオか…?
ナスカの頃には、キムもハロルドも、立派な大人になってたからなあ、イギリス紳士を気取っていたって似合ったろうさ。
しかし、俺たちはイギリス紳士や月形半平太が出て来ない方が良かったわけで…。二人で一つの傘を差すのが良かっただろうな、あの頃は出来ない相談だったが。
今の時代は傘だってあるし、相合傘も出来る恋人同士になれるんだから、と微笑むハーレイ。
いつか二人で雨の中を歩ける時が来たなら、二人用のデカイ傘を買うかな、と。
「上等な傘を買おうじゃないか。お前と二人で入れる傘を」
二人で入っても濡れないくらいに大きいのをな。
専門の店に行けば色々な傘が並んでいるから、うんと奮発しようじゃないか。
前の俺たちには無かったものだし、あったとしたって相合傘は出来ない二人だったんだから。
「…ホント?」
これがいいな、って選んだ傘が高い傘でもかまわない…?
急な雨の時に売られる傘なら、うんと沢山買えそうなのでも…?
「当たり前だろうが、俺たちのための相合傘だぞ。ただの傘とは違うんだ」
お前と二人で差す傘なんだし、とびきりの傘を買わないと…。
イギリス紳士の傘にも負けない、お洒落なヤツを。
俺の隣の美人のお前が一層綺麗に見える傘がいいな、お前の姿が引き立つヤツが。
そういう傘を買って二人で差そうじゃないか、と誘われたから。
傘を差さずに歩くようなら、相合傘など出来ないから。
雨が降ったら傘を差さないと歩けないような、不器用な自分もいいだろう。
シールドを張って傘を差さずに歩くことは出来ない、不器用な自分。
イギリス紳士は気取れないけれど、代わりにハーレイと相合傘。
二人で一つの傘に入って、雨の中を二人で歩いてゆこう。
恋を隠していた白いシャングリラには無かった雨傘、それを二人で堂々と差して…。
紳士の雨傘・了
※今のブルーは傘を差すしかありませんけど、シャングリラには存在しなかった雨傘。
ナスカでも使っていなかった傘を、今度は二人で差すのです。雨が降る日に、相合傘で…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も夏がやって来ました。夏休みに向かってカウントダウンで暑さも加速してるんですけど、それに加えて日々増えてゆくセミの声。鳴き始めたな、と思った日には一匹だったのが次の日には数匹、今では既にうるさいほどで。
「くっそお…。こいつらはなんとかならんのか!」
やかましい! と中庭で顔を顰めるキース君。周りの木ではセミが合唱しています。
「こうすりゃ静かになるんでねえの?」
サム君が木の幹をドカッと蹴飛ばし、ピタリと一瞬、止んだものの。それに釣られてか、他の木のセミも黙り込んだものの、静かだった時間はほんの僅かで。
再び始まるセミの合唱、どうにもこうにも止まる勢いではありません。
「無駄だよ、サム。蹴って回る方が疲れるよ、それ」
放っておこうよ、とジョミー君が軽くお手上げのポーズ。私たちも「そうだ、そうだ」と頷き合いながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へと向かったのですが…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業、お疲れ様! と迎えられた部屋は実に快適な空間でした。クーラーが効いててセミの声も聞こえず、別天地といった感じです。サッと出て来たチョコレートパフェも美味しいですから、もう文句なし。セミのことなど忘れ果てていたら。
「…やはり防音が必要なのか…」
「「「は?」」」
キース君の口から出て来た謎の台詞。防音がどうかしたんですか?
「ああ、すまん。…この部屋はとても静かでいいな、と思ってな。…いや、賑やかではあるんだが…。みんな好き放題に騒いでいるしな」
「どう静かなわけ?」
どの辺が、とジョミー君がキョロキョロ、みんなもキョロキョロ。さっきから来たるべき夏休みに向けてワイワイガヤガヤ、静かどころか逆だったんじゃあ、と思うんですけど…。
「雑音が無いという意味だ。集中できると言うべきか…。気を散らすものが無いからな」
「それ、楽しい時には定番じゃないの?」
盛り上がっていればそういうものじゃあ、とジョミー君が返してみれば。
「そうかもしれんが…。ここに大量のセミがいたとしてもだ、同じ台詞を吐けるか、ジョミー?」
「セミ?」
「そうだ、中庭で鳴いていたようなアレだ。アレを虫籠に詰めて四方八方に吊るしてあっても、ここで大いに盛り上がれるか?」
どうなんだ、と訊かれて悩んだ私たち。この部屋に大量のセミですか…。
「んとんと…。こんな感じかなあ?」
どう? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言ったかと思うと、たちまちセミの大合唱。天井に壁に、おまけに床までミーンミーンと凄まじい音が。
「「「うわー…」」」
これは嫌だ、と耳を塞ぐと、「やっぱりコレ?」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースが言うのってコレのことかな、セミがいっぱい」
「もういい、分かった!」
セミは要らん、とキース君が叫んで、シーンと静まり返った空間。あれ、セミは?
「えとえと…。セミは最初からいないんだけど…」
ねえ? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が視線を向けた先には会長さん。
「そうだね、セミなんかはいなかったねえ…」
一匹も、という話ですけど。それじゃさっきの大合唱は…?
セミがいないのにセミ時雨ならぬセミ暴風雨とは、これ如何に。何だったのか、と目をパチクリとさせていると。
「ぶるぅもタイプ・ブルーだよ? サイオニック・ドリームはお手の物ってね」
さっきのセミもそういうヤツ、と会長さんがニッコリと。
「リクエストにお応えしてってトコじゃないかな、そうだよね、ぶるぅ?」
「うんっ! キースが注文してたから…。ちょっとサービス!」
「俺は注文していないんだが!」
セミだけはもう沢山なんだ、とキース君は頭を振りました。
「俺の家が何処かは知ってるんだろう、セミは充分間に合っている! 朝から晩まで!」
夜明けと共にミンミンなのだ、と言われて浮かぶ元老寺。広い境内には大きな木が沢山、裏山だって木が一杯です。多分、学校の中庭どころのレベルではなくて…。
「そうだ、あいつらは騒音だ! もう測りたくなるくらいに!」
交差点のド真ん中よりうるさい筈だ、とキース君。
「それが朝からミンミン鳴いてだ、夜も明かりの届く辺りでいきなり鳴くんだ、景気よく!」
もうキレそうだ、と頭を抱えてますけど、たかがセミでは…?
「キース先輩、セミは夏の風物詩だと思うんですけど」
あれが消えたら異常気象じゃないですか、とシロエ君が冷静に指摘しましたが。
「そう言えるのはな、お前がセミで困ってないからだ!」
「どう困るんです?」
「卒塔婆書きに影響するんだ、アレが! とにかくうるさい!」
毎年のことだが耐え難い、と苦悶の表情。
「お盆に向けて卒塔婆を書かねば、と早起きをすればミーンミーンで、夜に書いてもいきなりミーンだ、もう耐えられん!」
書き損なってしまいそうだ、という話。卒塔婆を書くのに失敗した時は後が大変だと聞いています。消しゴムってわけにはいきませんから、削って書き直すんでしたっけ?
「そういう仕組みになってるな…。今年もそういうシーズンなんだが、あのセミが…!」
誰かセミどもを止めてくれ、という訴えで分かりました。中庭でセミがうるさいと文句をつけていたわけが。でもでも、セミって止められませんよ?
「うーん…。木を蹴飛ばしても一瞬しか黙らねえからなあ…」
「だよねえ、バイトで木を蹴るんだったら行ってもいいけど、疲れそうだし…」
バイト料をはずんで貰わないと、とジョミー君。時給じゃなくって木を一本蹴る度に加算って、そのアルバイトはボロすぎでは…?
「そんな金があったら防音の部屋を作りたいが!」
しかし親父が許してくれん、とブツブツブツ。
「坊主たるもの、心頭滅却して火もまた涼しだとぬかすんだ! セミくらいで集中力を切らすなど話にならんと!」
「…その辺はぼくもアドス和尚に同感だねえ…」
銀青としてはそう思うよ、と会長さん。
「プロの坊主なら頑張りたまえ。セミがどうのと言っていないで、ひたすら集中!」
「分かってはいる! そうやって毎年乗り越えて来たが、たまには贅沢を言いたくなるんだ!」
こういう静かな部屋が欲しい、と愚痴をこぼされても、私たちにはどうすることも出来ません。それとも此処で卒塔婆を書くとか…?
「いいじゃねえか、それ!」
此処で書けよ、とサム君が乗っかってくれました。
「静かだし、おやつ付きだしよ…。はかどると思うぜ、卒塔婆書きも」
「お前たちが楽しくやってる横でか? それはそれで空しくなるだろうが!」
「「「うーん…」」」
名案だろうと思ったんですが、此処で書くのも駄目ですか…。じゃあ、せめて…。
「癒しを提供すればいいのかな、セミでイラつく君のために?」
何か心が癒えるものを、と会長さん。
「そうすれば落ち着いて集中できるし、何か考えてあげようか?」
「癒しグッズか…。お香の類は駄目だぞ、あれは」
俺の家には通用しない、とアロマグッズは却下されました。抹香臭いお寺に住んでいるだけに、どんな香りも染み付いた香りに敗北するとか。
「おふくろが薔薇の花束を貰って来た時にもだ、薔薇の香りは線香に負けた」
「「「………」」」
そこまでなのか、と驚くと同時にアロマグッズの使えなささを実感です。他に何か…。
「モノがセミだし、騒音となると…。やっぱり癒しの音なのかなあ?」
お寺の場合は水琴窟とか、と会長さんが言ってますけど、水琴窟って…?
「ああ、それはね…。地面の中に甕とか壺を埋めておいてね、上から水をかけるんだな」
そうすれば地面の中で水が滴る綺麗な音が、というのが水琴窟。ピチョーンと響く音が癒しになるそうです。庭に設置してあるお寺も多いらしいんですけど。
「俺はそこまで暇じゃない!」
水琴窟まで行く暇があったら卒塔婆を書かねば、とキース君。水琴窟も駄目ですか…。
「余裕が無いねえ、副住職」
もっと心を広く持ちたまえ、と会長さんは諭したものの。
「ん? 音と言ったら、アレがあったか…」
「「「アレ?」」」
「百聞は一見に如かず、ってね。…こういうモノがあるんだよ。ちょっと借りてみた」
ほら、と会長さんの手のひらの上に直径二センチくらいの銀色の玉が。吊るすための紐がくっついています。会長さんは紐をつまんで玉を空中で揺らしてみて。
「…どう?」
「会長、それって鈴ですか?」
それにしては頼りない音ですが、とシロエ君が訊くと。
「一種の鈴だね、ハーモニーボールとかオルゴールボールって言うんだけれど…。元々は瞑想用だったって話もあるんだ、癒しの音だね」
こんな感じで、と玉が揺れるとシャラシャラ、シャラーン…、と涼しげな音が。大きな音ではないんですけど、癒されるといえばそんな感じかも…。
「これを鳴らせば心が落ち着くってコトで、一時期は人気だったかな。これはフィシスに贈ったんだよ、流行ってた頃に」
純銀製の高級品で…、と始まりました、フィシスさんへの愛情自慢。フィシスさんは今でもハーモニーボールを大切に引き出しに仕舞っているそうですが…。
「こういうので良ければプレゼントするよ、副住職。高級品じゃなくて量産品でも良ければね」
ぶるぅに買いに行かせよう、という会長さんの提案にキース君は飛び付きました。
「是非、頼む! 銀青様からのプレゼントならば俺も集中できそうだ!」
「それじゃ、一個…。ぶるぅ、頼むよ」
「かみお~ん♪ ハーモニーボールを一個、プレゼント用に包装だね!」
行ってくるねー! と瞬間移動でパッと消え失せた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。十分ほど経って戻って来ました、リボンがかかった小さな箱をお店の紙袋に入れて貰って。
「ただいまーっ! はい、キースのハーモニーボールだよ!」
「銀青から君へのプレゼント。今日から有効活用したまえ」
「有難い。恩に着る!」
これでセミ地獄も乗り切れそうだ、と嬉しそうですが、ハーモニーボールの音はとっても微かなものです。会長さんがフィシスさんのを鳴らしてますけど、少し離れたら聞こえません。こんな小さな音で集中できるんでしょうか、キース君…。
会長さんからキース君への贈り物。ハーモニーボールで心を癒して卒塔婆に集中、と私たちもエールを送ったのですが、やがて訪れた夏休み。キース君の卒塔婆書きはといえば…。
「進んでるかい、副住職? もう終わりそうな勢いかな?」
合宿の後は遊べそうかな、と会長さんが尋ねると。
「進んでいるわけがないだろう! 今年も地獄だ、これからが本気で追い込みの時期で!」
「あれっ、効かなかったのかい、ハーモニーボールは?」
癒しの音でセミを撃退じゃなかったのかい、と会長さん。
「てっきり卒塔婆書きもはかどってるものと…。あれじゃ駄目かい?」
「…貰っておいてアレなんだが…。なんとも小さな音だからなあ、セミ攻撃の前にはなあ…」
ロクに聞こえてくれんのだ、とキース君は深い溜息をつきました。
「仕方ないから、音繋がりで風鈴を吊るしてみたんだが…。あれも風が無いと鳴らないし…」
「「「あー…」」」
やっぱりハーモニーボールは効かなかったか、と同情すれども、卒塔婆書きは代わってあげられません。明日から始まる柔道部の合宿が終わった後はまた地獄ですね、今年の夏も…。
かくしてキース君たち柔道部三人組は合宿、ジョミー君とサム君は璃慕恩院の修行体験ツアーへと。その間、スウェナちゃんと私は、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんも一緒に遊び回って過ごして、合宿が終わり…。会長さんの家で打ち上げパーティー開催です。
「また明日からは卒塔婆書きか…」
今日の打ち上げが終わればな、とキース君が情けなさそうな顔。セミの合唱はますますパワーアップで、ハーモニーボールの音は聞こえもしないそうです。
「せめてあの音が風鈴くらいに響いてくれれば…」
「そこまで大きなハーモニーボールは知らないねえ…」
聞いたこともない、と会長さん。
「せっかく癒しグッズをあげたというのに、何の役にも立たなかったなんて…」
没収かな、と会長さんの手の中に銀色の玉が。元老寺から瞬間移動で回収しちゃったみたいです。
「キースの役には立たないとなれば、此処で癒しのアイテムとしてね」
こんな風に、とシャラーンと音が。クーラーの効いたリビングで耳にする涼しげな音は、ホントに癒しの音色です。個人的に貰ってしまうのもいいな、と思っていたら。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と紫のマントのソルジャーが。アッと言う間に私服に着替えて打ち上げパーティーの席に乱入、早速、焼き肉を頬張りながら。
「うん、美味しい! 今日もいい肉を使っているねえ!」
「かみお~ん♪ マザー農場から沢山貰って来たんだよ!」
どんどん食べてね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。言われなくてもソルジャーは食べると思うんですけど…。タレだって勝手に何種類もお皿に入れて並べてますし。
「来ちゃったか…。こういう時には癒しってね」
君の出現でイラッと来たのをコレで解消、と会長さんがハーモニーボールを鳴らしました。シャラーンと微かな音が広がり、ちょっぴりソルジャーを許せた気分。これが癒し効果というものか、と銀色の玉を見ていたら…。
「あっ、それ、それ! それが前から気になっててさ!」
キースが貰った癒しグッズとかいうヤツだよね、とソルジャーが。
「それって、どういう効果があるんだい? 癒しっていう話だったけど…」
「君には関係なさそうだけど? 何か癒しが必要なのかい、そのタフすぎる神経に!」
およそ出番が無さそうだ、と会長さんがバッサリと。
「こういうのはねえ、もっとデリケートな人向けなんだよ、ハーモニーボール!」
君が持っても猫に小判、と酷い言いように聞こえますけど、その通りかも…。
繊細だとかデリケートだとか、そういった言葉とは真逆のソルジャー。そのソルジャーに癒しグッズなど必要無かろう、と私たちだって思いました。ところが、当のソルジャーは。
「そういうものでもないんだよ。ぼくにも癒しは必要でさ…」
「どういう癒し?」
会長さんが訊くと、即座に答えが。
「もちろん、大人の時間だよ! ぼくのハーレイとの熱い時間で心の底から癒されるねえ!」
「退場!!」
サッサと出てゆけ、と会長さんがレッドカードを叩き付けたのに。
「待ってよ、そのハーレイとの時間のためには癒しが必要! これは本当!」
「誰に癒しが必要だって?」
要らないだろう、と会長さんがツンケンと。
「君はノルディとデートもしてるし、癒しには不自由してない筈だよ。何かと言ったらこっちで息抜き、何処に癒しが要ると言うのさ!」
「ぼくじゃなくって、ハーレイだってば! あっちは年中無休なんだよ、基本的に!」
ソルジャーのぼくより多忙な職業、と名前が挙がったキャプテンの職場。ブリッジは年中無休なのだとは聞いています。ついでにキャプテン、船長なだけに雑務も多いと。
「そうなんだよ! 最悪、食堂のメニューに不足が出たって場合もハーレイに話が来ちゃうくらいで、本当にハードな毎日なんだよ!」
おまけにぶるぅもいるものだから、と悪戯小僧の名前までが。
「ぶるぅが悪戯をやった時には尻拭い! それだけじゃなくて、ぶるぅは覗くし!」
ぼくたちのベッドを覗きに来るから…、と大きな溜息。
「ハーレイは心が休まる暇が無いんだ、思い切り運の悪い時はね。…そうなってくると、ぼくとの時間に影響が出て来るんだよ。こう、元気が無いと言うか、イマイチと言うか…」
そういう時のために癒しが欲しい、とソルジャーの視線がハーモニーボールに。
「あれをシャランと揺すってやればさ、ハーレイは癒されるんだろう?」
「さあ、どうだか…。確かに君よりはデリケートなのかもしれないけれど…」
どうなんだか、と会長さんが首を捻れば。
「そりゃあ、もちろんデリケートだよ! なにしろハーレイは見られていると意気消沈だし!」
ぶるぅが覗きをしていると気付けば一気に駄目で、と言うソルジャー。
「ぼくはぶるぅが覗いていたって平気だし…。これって、ハーレイの方がデリケートだという証明だよねえ、違うのかい?」
「うーん…」
そう言われれば、と唸る会長さん。はてさて、これからどうなるんでしょう…?
ソルジャーはせっせと癒しの必要性を語り始めました。自分が癒されるためにはキャプテンとの大人の時間が必要、そのためにはキャプテンに癒しが必要。
「これからの時期こそ必要なんだよ、ハーレイに癒し!」
夏休みは海の別荘だから、とソルジャーの主張。
「結婚記念日に合わせて貰っての滞在だからね、あそこは絶対、特別休暇を取らなくちゃ! だけど休暇を取りたかったら、その前に仕事が山積みなんだよ!」
例年、とても忙しいのだ、とソルジャーはキース君を指差して。
「あそこのキースじゃないけどさ…。卒塔婆書きと同じでリーチなんだよ、今の時期!」
そんなハードな生活を送るハーレイに癒しを与えて欲しい、とハーモニーボールの方をチラリと。
「キースの役には立たなかったし、没収なんだろ? 要らないんだったら欲しいな、それ」
「欲しいって…。これで君のハーレイを癒すのかい?」
効くんだろうか、と会長さんは疑いの眼差しですけれど。
「何を言うかな、ハーレイだって立派に人間だから! きっと効くって!」
そして効いたらぼくにも癒しのお裾分けが、とウットリと。
「もうすぐ海の別荘ですから、と宥められて我慢ってケースも多いんだけどね、ハーレイを癒すことさえ出来れば、その我慢だって、もう要らないし!」
ガンガンとヤッてヤリまくるのみだ、とソルジャーは拳を握り締めて。
「そうすればぼくの癒しもバッチリ、非常事態が連続したって平気だってね! だから譲って欲しいな、それ!」
「…そういう良からぬ目的のための癒し用に…?」
会長さんの嫌そうな顔に、ソルジャーの方は。
「良からぬ目的って…。そりゃあ、最終的には大人の時間かもしれないけどねえ、ぼくとハーレイとが癒されることに何か文句があるのかい? 言っておくけど、ぼくの世界は!」
SD体制で毎日が苦労の日々なのだ、と出ました、ソルジャーの必殺技が。これを持ち出されると断れないのが定番と言うか、お約束。マザー・システムとやらに支配されている世界の怖さは何度も聞かされているだけに…。
「…分かったよ、ソルジャーとしての君に癒しが必要である、と」
そう言うんだね、と会長さんが確認すれば。
「その通り! ぼくがソルジャーとして守らなければ、シャングリラだって危ういし!」
「…分かったってば、そこまで言うならプレゼントするけど…」
効くかどうかは知らないよ、と会長さんが渡したハーモニーボールをソルジャーは嬉々として受け取りました。でも、本当に効くんですかねえ…?
翌日からはキース君は再び卒塔婆書きの日々。セミの大合唱と戦いつつも書いて書きまくって、マツカ君の山の別荘へと出掛ける頃には大体のめどはついたようです。
「…後はなんとか…。親父も今年は真面目にやってるようだしな」
俺に押し付けて来るとしたって三十本くらいか、と山の別荘へ向かう電車の中で一息、別荘に着いたら卒塔婆は忘れて充実の休日。山や湖で遊びまくって、アルテメシアに戻って来て。
それから卒塔婆をまた書きまくって、お盆の準備もぬかりなく。ジョミー君とサム君も駆り出される棚経が今年も近付いてくる中、たまには休みもあるわけで。
「明後日はいよいよ棚経か…。今日は戦士の休日だな」
明日には戦闘準備だからな、とキース君がジョミー君とサム君に喝を入れる光景もお馴染み。今日は会長さんの家で壮行会よろしくカレーパーティー、いろんなカレーをナンや御飯をお供に食べまくるパーティーです。なんでカレーかって、それは…。
「いいか、しっかり食っとけよ? お前たちも明日はカレーは禁止だからな!」
「分かってるってば…!」
「そうだぜ、毎年、言われているんだからよ」
母さんだって間違えねえよ、とサム君は至って不満そう。お坊さんコースを避けまくっているジョミー君とは違って真面目に取り組んでいるだけに、注意をされるとムッと来るようです。
お坊さんとしての役目がある時はカレーは禁止が元老寺の鉄則、アドス和尚の掟の一つ。カレーは匂いが強く残るだけに、イライザさんは「確実にお寺の出番が無い」と分かっている時しかカレーを作らないのです。ゆえにお盆もカレーは厳禁。
それの巻き添えを食らっているのがサム君とジョミー君、自分の家はお寺じゃないんですからカレーを食べても問題無いのに、お盆の前には付き合わされるというわけで…。
「かみお~ん♪ 暫くカレーは要らない、っていうほど食べておいてね!」
グリーンカレーもココナッツカレーも、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。バラエティー豊かなカレーが沢山、ナンにつけて良し、御飯も良し。ワイワイ賑やかにやっていると。
「こんにちはーっ! ぼくにもカレー!」
夏はやっぱりカレーだよね、と出ました、ソルジャー。海の別荘行きも近いんですけど、ソルジャーは暇なようですねえ?
特別休暇の取得に備えて、キャプテンは超のつく多忙な日々を送っている筈。でもソルジャーには遊ぶ余裕があるんだな、と皆でジロジロ眺めていれば。
「当たり前だろ、ぼくの出番はハーレイより遥かに少ないからね!」
シャングリラのことにはノータッチが基本、と私服に着替えてカレーをパクついているソルジャー。会長さんの家に服が預けてあるのです。自分の世界の青の間にもエロドクターとのデートに備えて何着も置いてあるみたいですが…。
「ぼくの服がどうかしたのかい? カレーパーティーなら私服だと思うんだけど!」
より寛いで食べられるしね、とパクパクと。
「しっかりと食べておかないと…。夜に備えてエネルギー充填!」
「「「は?」」」
海の別荘も近いとはいえ、間にお盆が挟まります。今頃から夜に備えてどうするんだ、とソルジャーの顔を見詰めたら。
「えっ? 夜って言ったら今夜だけど? 体力をつけて大人の時間!」
「ちょ、ちょっと…。君のハーレイ、それどころじゃないって言わなかったかい?」
この時期はとても忙しいんじゃあ…、と会長さん。
「癒しが必要なほどの生活だと聞いたよ、いくら癒されても限度ってものが…」
「一発くらいが限界だろう、って言いたいのかい?」
「…そ、そうハッキリとは言わないけれど…」
「言ったのも同じ!」
そしてあながち間違いではない、とソルジャーは至極真面目な顔で。
「もちろんハーレイも疲れてるから、限界ってヤツは当然、あるよ? でもねえ…。同じ一発でも濃いめの一発と、渋々一発とは違うもので!」
「「「へ?」」」
「要は中身の問題なんだな、うんと充実した時間だったら一発だけでもぼくは満足!」
いわゆる濃いめの大人の時間、と真剣な顔で言われましても。それってどういう意味なんでしょうか、濃いめの時間がどうしたと…?
「君たちには理解出来ないだろうと思うから…。分かりやすく言うなら、ハーレイが凄くスケベなわけだよ! 普段以上に!」
「「「スケベ?」」」
「そう、スケベ! もうムラムラとしちゃっていてねえ、ぼくにも無茶を強いるんだな!」
それがとっても素敵な時間で…、とソルジャーは極上の笑みを浮かべてますけど、忙しい筈のキャプテンが何故にスケベで無茶を強いると…?
謎としか言いようのないソルジャーの話。キャプテンが使い物にならなくなった、と言い出したのならまだ分かりますが、その逆だなんて何が起こったのでしょう?
「あっ、知りたい? もう君たちの世界に感謝!」
とてもいいアイテムが手に入ったから、とソルジャーがヒョイと宙に取り出したものは銀色のハーモニーボールでした。それは癒しのグッズじゃなかったですか?
「まあね! そして実際、効いたんだけどさ…。ぶるぅの覗きでショックを受けてたハーレイに聴かせたら、普段よりも早く落ち着いちゃって…!」
お蔭であの日も一発ヤれた、と笑顔のソルジャー。
「いつもだったら、この時期にぶるぅが覗いちゃったら、もう駄目なのがお決まりのコースなんだけど…。これのお蔭で素敵に一発!」
そしてぼくにもたっぷり癒しが…、とソルジャーはそれは御機嫌で。
「ぼくが聴いてもただの綺麗な音なんだけどね、ぼくのハーレイには効果大! そうなってくると次の段階へと進んでみたいと思わないかい?」
「「「次の段階?」」」
「もっと癒しが欲しくなるじゃないか!」
今の時期は不足しがちな癒し、という言葉が指している癒し、元々の意味ではなさそうです。ソルジャー好みの癒しとやらで、大人の時間のことなんじゃあ…?
「ピンポーン♪」
大当たり! とソルジャーがニコリ。
「まさに大人のための癒しで、大人の時間を呼び込む癒し! ズバリ、コレでね!」
ジャジャーン! と効果音つきで出て来たハーモニーボール。あれっ、どうして二つあるの? 会長さんがプレゼントしていたハーモニーボールは一個だったと思うんですけど…。
「こっちのは、ぼくのオリジナル! ぼくが作ったわけじゃないけど!」
アイデアは出した、とソルジャーの両手にハーモニーボールが一個ずつ。見た目はどっちもそっくりですが…。
「まあ、見てよ! ブルーに貰った方がコレでさ…」
シャララーン、と鳴った音には覚えがありました。癒しの音色というヤツです。それじゃ、もう一つのハーモニーボールは?
「こっちかい? こっちはこういう音なんだな!」
シャリーン、シャラーン、と聞こえた音はオリジナルとさほど変わりません。言われなければ別物だなんて気付きそうにないと思いますけれど、このハーモニーボールに何か特別な効果でも?
みんなの目が釘付け、二つ目のハーモニーボールらしきもの。けれども音色も似たようなもので、見た目はそっくりと来たものです。どう違うんだ、と突っ込みたいのを抑えていれば。
「これだけじゃ分からないんだよ。…ちょっとお客さんを呼んでもいいかな?」
「ぶるぅだったらお断りだよ!?」
会長さんが慌てて制止。お盆の棚経を控えての壮行会だけに、大食漢の悪戯小僧は困ります。「ぶるぅ」が来たなら、カレーなんかは食い散らかされておしまいで…。
「違うよ、ぶるぅは呼ばないよ! こっちの世界のハーレイだけど!」
「「「教頭先生?」」」
何故に、と私たちの声がハモッて、会長さんは。
「ハーレイって…。ハーレイで何をするつもり?」
「見れば分かるよ、呼んでいいかな?」
「駄目だと言っても呼ぶんだろう!」
「話が早くて助かるよ。…うん、ちょうど暇そうにしてるってね!」
ちょっと失礼、とソルジャーのサイオンがキラッと光って、教頭先生が瞬間移動でご登場。こちらも私服でリラックスしていらっしゃったようですが…。
「な、なんだ!? …あ、こ、これは…! ご無沙汰しております…!」
ソルジャーに気付いた教頭先生、慌ててお辞儀。もちろん会長さんにも「邪魔してすまん」と挨拶ですけど、その教頭先生にソルジャーが。
「悪いね、急に呼び出しちゃって。…でもねえ、君に頼みがあるものだから…」
「私にですか?」
「そう! 君なら分かると思うんだ。これの値打ちが!」
癒しの音色が聞こえる筈で…、とソルジャーは会長さんから貰った方のハーモニーボールを揺らしました。シャラーンと涼しい音が聞こえて、教頭先生が。
「ハーモニーボールというヤツですか…。一時期、こちらで流行りましたね」
「うん、ブルーから貰ったんだけど…。こっちがぼくのオリジナルでさ」
まあ聞いてみて、とシャリーン、シャラーン、とソルジャーが作らせた方が鳴らされると。
「これは…。なかなかに深くていい音ですねえ…」
「君の耳にもそう聞こえるかい? じっくりと聞いてくれればいいよ」
こんな感じで…、とソルジャーが揺すって鳴らす音色に、教頭先生は目を閉じて聞き入っておられましたが、その顔がなんだか次第に赤く…なってきたように見えませんか…? それに身体もモジモジしてます、教頭先生、どうかなさいましたか?
「…す、すみません…」
教頭先生がパチリと目を開け、恥ずかしそうに。
「トイレに行ってもよろしいでしょうか、急にもよおして来ましたので…」
「どうぞ、ごゆっくり」
トイレはあちら、とソルジャーが指差し、教頭先生はトイレへと。バタンと扉が閉まったであろう頃に、会長さんが不快そうに。
「…トイレって…。何がトイレさ、ぼくの家のトイレが穢れるんだけど!」
「そう思うんなら送り返せば?」
「当然だよ!」
消えて貰う、と会長さんの声が響いて、教頭先生は強制送還されてしまったみたいです。トイレから自分のお家へと。…でも、どうして…?
「ふふ、それはねえ…。トイレに籠った理由がトイレじゃないからなんだよ!」
「「「は?」」」
ソルジャーの言葉は意味不明でした。トイレに入ってトイレじゃないって……なに?
「簡単なことだよ、ズボンを下ろして始めること! 下ろさなくっちゃ出来ないこと!」
「「「…???」」」
「こっちのハーレイ、ズボンの下には紅白縞だよね? その下には何があるのかな?」
ぼくの大好物があるんだけれど…、とソルジャーは自分の唇をペロリ。大好物って、まさか教頭先生の大事な部分のことですか…?
「それで正解! このハーモニーボールはねえ…。アソコに響く音色なんだな!」
しかも何故だかハーレイ限定、とシャリーンと鳴らされたハーモニーボール。その音がアソコに響くですって…?
「そうなんだよ! 癒しの音色をもっと他にも、ってサイオンで音を弄っていた時、偶然、発見しちゃってねえ! ぼくのハーレイがムラムラする音を!」
それがこの音、とシリーン、シャラーン、と。
「ぼくも記憶力はいい方だからさ、どういう細工をした時だったかは覚えてた! それで、その音を出せるハーモニーボールってヤツを、ぼくのシャングリラで作らせたわけで!」
元のハーモニーボールを参考にして手先の器用なクルーに任せて、とニコニコニッコリ。
「出来上がったヤツをハーレイの耳元で鳴らしてやったら、もうバッチリ! 癒しを飛び越えてムラムラしちゃって、強引に押し倒されちゃって!」
それ以来、これを鳴らして楽しみまくっている日々なのだ、とソルジャーが鳴らすハーモニーボール。もはやハーモニーボールと呼べない代物になっていませんか、その音は…?
ソルジャーが作ったハーモニーボール、キャプテンがムラムラするらしい音色。教頭先生にも効いたらしくてトイレに駆け込み、送り返されてしまわれましたが…。
「き、君は…! そんなモノを作ってどうすると…!」
会長さんの声が裏返って、ソルジャーは。
「使い道は決まっているだろう! ハーレイとの時間の充実だってば、この音色で!」
シャリーンと鳴らせば素敵なハーレイ、と赤い瞳がキラキラと。
「実はね、量産中なんだ! 海の別荘行きを控えて!」
「「「量産中?」」」
「そのまんまの意味だよ、大量生産! 幾つ作れるか、時間との勝負!」
なにしろ繊細な手作業だから…、とソルジャーは胸を張りました。
「少しの狂いであの音が出なくなっちゃうんだよね、だから手作業! ぼくのシャングリラで細かい作業を得意とするクルーを総動員!」
ただし全員時間外作業、とソルジャーお得意の技が炸裂しているようです。正規の仕事とは違う仕事をやらせた上に記憶を操作し、何をやったか忘れさせるという技を。
「また時間外でやらせてるって? 後で視察に出掛けるだけで御礼は無しっていうヤツを?」
会長さんが溜息まじりに言えば、ソルジャーは。
「それでいいんだよ、ぼくのシャングリラは! ソルジャーが視察に出掛けて労う、これが最高の名誉なんだからクルーも喜んでくれるしね!」
問題無し! とブチ上げてますが、その大量のハーモニーボールを何に使うと?
「決まってるじゃないか、ハーレイがムラムラする音を奏でてくれるんだよ? もう別荘のあちこちに吊るして、ちょっとした風とか振動とかでさ、鳴らしまくりで!」
そしていつでも何処でもムラムラ! とソルジャーの発想は斜め上でした。つまりアレですか、海の別荘では至る所でキャプテンがムラムラ、ソルジャーを強引に押し倒すと…?
「そういうこと! あっ、その場ではヤらないようにさせるから! ちゃんとベッドに瞬間移動で連れて行くから!」
でも押し倒すくらいはご愛嬌で許して貰えるよねえ? と期待の表情。
「だってさ、結婚記念日に合わせての滞在なんだしね? ぼくを食堂で押し倒していようが、別荘の玄関で押し倒そうが、感極まっての行動ってことで、そこはよろしく!」
ぼくのハーレイもとても楽しみにしているから、とソルジャーの顔に満面の笑みが。
「ぼくはね、これをムラムラボールと呼んでるんだよ、幾つも吊るして鳴らしてムラムラ!」
もう最高の別荘ライフ! とソルジャーがシャリーン、シャラーン、と鳴らす怪しいハーモニーボール、いえ、ムラムラボール。今年の海の別荘ライフは最悪ですか…?
ソルジャーは上機嫌で帰って行ったのですけど、私たちの方はそれどころではありませんでした。海の別荘、教頭先生もいらっしゃることになっています。そんな所へ大量のムラムラボールとやらを仕掛けられたら…。
「…ヤバくないですか?」
シロエ君が青ざめ、ジョミー君も。
「ヤバイなんていうレベルじゃなくって…! あれって、教頭先生にだって…」
「影響、モロに出てたよなあ…?」
ブルーが危ねえ、とサム君、真っ青。会長さんに惚れているだけに、教頭先生がムラムラしてしまうアイテムに対する危機感の方も人一倍で。
「なんとか出来ねえのかよ、あの計画!」
「出来たら誰も苦労しないよ」
ついでにハーレイを呼ばないのも無理、と会長さん。
「呼ばないと言ってもブルーが呼ぶに決まっているしさ…。ぼくは安全のために部屋から一歩も出ないというのがいいんだろうか…」
食事とかはルームサービスで…、と会長さんが立てこもりを決意しかけた時。
「いや、いける! セミさえあればな!」
セミだ、とキース君が叫びました。
「そもそも俺がだ、セミの大合唱に負けてだ、ハーモニーボールを手放したのが始まりだった筈なんだ! あの手の音はセミで消せるぞ、間違いない!」
「そうか、セミ…!」
その手があったか、と会長さんは手を打ったものの。
「…駄目だ、サイオンでセミの鳴き声を再現したって、ブルーなら軽く消してしまえるし…」
「そこで本物の出番だろうが!」
本物のセミが鳴きまくっていれば無問題だ、とキース君。絶対にそれでいける筈だ、と自信を持ってのお勧めでしたが…。
「…うるさくない?」
「うるさいが…。もう、どうしようもなくうるさいんだが…!」
だが、あの声が止まったら…、と海の別荘で私たちは耳を押さえていました。ミーンミーンの大合唱があちこちに置かれた虫籠からワンワンと響き渡っています。夜も煌々とライトを点けてのセミ対策だけはバッチリでしたが、もう神経が参りそうで。
「…でも、教頭先生もセミがうるさいと部屋に引きこもってらっしゃいますし…」
そういう意味では安心ですよ、とシロエ君。ソルジャーが仕掛けたムラムラボールは別荘内だけ、ビーチに行くには何の問題も無いですし…。
「でもよ、なんであいつらには効かねえんだ?」
セミ攻撃、とサム君が嘆く通りに、ソルジャー夫妻はムラムラボールの効果を満喫していました。食堂でムラムラ、廊下でムラムラ、まるでセミなどいないかのように。
「…ブルーだからだよ、あの音だけをサイオンでシャットアウトが可能」
ぼくには真似が出来ないけどね、という会長さんの言葉に肩を落とした私たち。別荘ライフはセミ狩りに始まり、セミ狩りに終わってしまいそうです。その上、セミでノイローゼ気味で…。
「…俺の気分が分かってくれたか、卒塔婆書きの?」
「分かったけどさあ…」
もうこれ以上は分かりたくない! というジョミー君の悲鳴は誰もの心に共通でした。教頭先生のムラムラ防止にセミの声。あのミンミンがここまで神経に障るものとは、なんとも悲劇。早く別荘から解放されたい気分ですけど、残りの日程、何日でしたっけ、マツカ君~!
セミには癒し・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君の癒し用に導入されたハーモニーボールが、とんでもない方向へ行ったお話。
ムラムラボールも迷惑ですけど、セミのうるささも半端ないわけで…。気の毒すぎ。
次回は 「第3月曜」 4月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、3月といえば春のお彼岸。なんとか避けたい法要ですけど…。
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「日本には昔、貝合わせという遊びがあって、だ…」
古典の授業とまるで重ならないこともないな、とハーレイが始めた得意の雑談。生徒が集中力を切らさないよう、授業の途中に挟み込まれる。居眠りしそうだった生徒もハッと目覚める、楽しい話や珍しい話。
今日は何かな、とブルーの心も浮き立った。貝合わせとは、どんな遊びだろう?
(貝を使って遊ぶんだよね?)
何をするのかと続きを待ったら、女性が遊ぶものだった。遠い昔に、ハマグリの殻で。
貝は左右で一組になって、中には同じ絵が描いてあるもの。その片方を伏せてズラリと並べて、もう片方は一枚ずつ出す。その一枚とピタリと合う貝、それを探すのが貝合わせ。
伏せてあるから中の絵が見えるわけなどはないし、貝殻の模様だけを頼りに。ハマグリを使った神経衰弱、そういった遊びらしいのだけれど。
「これがなかなか難しかったらしい。分かりやすい模様の貝ならいいんだが…」
紛らわしい模様の貝も多くて、これだと思ってもハズレだとかな。
そしてだ、中に絵なんか描いてなくても貝合わせは出来ないこともない。お前たちが家で遊んでみたいんだったら、まずはハマグリ集めだな。数さえ揃えば真似事は出来る。
絵を描かなくても遊べる理由は、ハマグリだ。別の貝とは、絶対にピタリと合わないからな。
「そうなんですか?」
同じサイズならいけそうですが、と飛んだ質問。ハーレイは「無理だ」と直ぐに答えた。
「疑うんなら、試してみろ。ハマグリを食った時にでも」
俺だって、こいつを知った時には試してみたんだ、幾つもな。
今度こそは、と合わせてみたって、カチリと嵌まりはしなかった。元から対の貝以外はな。
だからだな…。
他の貝とは、決して合わないらしいハマグリ。
まるで夫婦のようだから、と遊び道具から嫁入り道具に昇格したのが貝合わせの貝。綺麗な絵を描かせて、貝桶と呼ばれた専用の豪華な箱までつけて。
「貝も立派なら、貝桶も実に立派だったそうだ。嫁入り道具の花形ってトコだ」
大名は知っているだろう。大名の家の嫁入り道具は山のようにあったわけなんだが…。その中で一番大切なヤツが、貝合わせを詰めた貝桶なんだ。
嫁入り行列の先頭を飾って、着いたら真っ先に引き渡された。他にも道具はあるのにな。
「へえ…!」
遊び道具が一番ですか、と驚くクラスメイトたち。もちろん、ブルーも驚いたけれど。
嫁入り道具なら、もっと高価な物も沢山あっただろうに。生活に欠かせない物も山ほど。なのに貝桶、遊びの道具が一番というのが不思議な所。
「遊び道具には違いないんだが…。他の貝とは決して合わない、そこが重要だったってことだ」
他所の家には嫁ぎません、という意味がこもっていたんだな。他の貝とは合わないんだから。
一生、相手は一人だけです、と誓いを立てるには持ってこいだろ?
もっとも、誓いを立てたくっても、庶民には無理なものだったんだが…。どうしてかって?
貝合わせの貝も、貝桶の方も高すぎてな、という締め括り。
特権階級の遊び道具だった貝合わせ。
そういう遊びが生まれた時代も、嫁入り道具になった時代も。
ハマグリの中に絵を描かせるなど、庶民にはとても出来ない贅沢。立派な貝桶を誂えることも。
初めて知った、貝合わせという遊びや嫁入り道具になった貝桶。
面白かった、と聞いて帰ったら、夕食のテーブルでバッタリ出会った。その貝殻に。
ハーレイは帰りに寄ってくれなかったけれど、食卓に出て来たハマグリの酒蒸し。深めの大きな皿に盛られて、ホカホカと湯気を立てるハマグリ。
(…ハマグリ、出ちゃった…)
貝殻だけがあったら遊べる、とハーレイが話した貝合わせ。中に絵などは無いハマグリでも。
他の貝殻とは合わないのだから、家で試してみればいい、と。
タイミング良く出会ったハマグリ。自分の皿に取り分けて食べる間も、なんとも気になる。他の貝とは合わないのかと、どれも似たような大きさなのに、と。
幾つか食べて殻が増えたら、我慢出来なくなってしまって。
「んーと…。このハマグリ…」
「どうしたの、ブルー?」
お腹一杯になっちゃったの、と母が訊くから、首を横に振った。
「ううん、そうじゃなくて…。ハマグリの殻」
食事中だし、お行儀が悪いとは思うんだけど…。この殻、くっつけてみてもいい?
「えっ? 殻は元からくっついてるでしょ、二枚ずつ」
「それを外すんだよ。…外した貝殻、他のとくっつけてみたいんだけど…」
他の貝でもくっつくかどうか、と中身を食べてしまったハマグリの殻をつついたら。
「なんだ、ハーレイ先生か?」
また面白いことでも聞いて来たのか、と父の瞳が笑っている。
「分かっちゃった?」
今日の授業で教わったんだよ。…授業じゃなくって、雑談の時間だったけど…。
でもね、古典と無関係でもないかもな、って。だって、日本のずっと昔の遊びだから。
ハマグリを使った遊びなんだよ、と貝合わせの説明をしながら幾つかの殻を外してみた。二枚で一組、それをパキンと切り離して。似たような大きさの貝を選んで。
さて…、と合わせにかかったハマグリ。模様は無視して、大きさだけが同じようなのを。
けれど合わない、重なるようでもピタリとくっついてはくれないハマグリ。同じ模様のハマグリ同士なら、カチリと微かな音がするのに。隙間なくピタッとくっつくのに。
あれもこれもと他の貝殻を幾つも外して挑んでみても、貝が違うと確かに合わない。ハーレイが教室で言った通りに、殻だけあったら貝合わせを始められそうなほどに。
「面白いもんだな、それだけあっても駄目なのか」
パパはその遊びは知らなかったし、試してみたことも無かったなあ…。
何度もハマグリ、食べたんだが。
「ママもちっとも知らなかったわ、お料理の後に捨てちゃったハマグリは沢山あるのに」
あのハマグリの殻を全部残してあっても、やっぱり一つも合わないのよね?
ずうっと昔に大勢の人が試してみたから、そんな遊びが出来たわけだし…。
「ぼくもホントにビックリしちゃった…」
これとこれなんかは、大きさ、ホントにおんなじだよ?
模様も似たような感じなんだし、くっつきそうに見えるんだけど…。やっぱり駄目。
面白いよね、そっくりさんでも合わないだなんて。元のこれしかカチッて音はしないんだから。
これもそれも駄目、と幾つも試して遊んだハマグリ。
いったい誰がこういう遊びを思い付いたろうと、中に綺麗な絵を描いてまで、と。
夕食の後で、全部のハマグリの殻を揃えて挑んだけれども、合う貝は一枚に一つずつ。他の貝とピタリとくっつく貝は無かった、ただの一つも。
せっせとハマグリを合わせて遊んだ次の日は土曜日。
貝合わせの話を教室でやった、ハーレイが訪ねて来てくれたから。報告しなきゃ、とテーブルを挟んで向かい合わせで早速話した。
「あのね、貝合わせ、やってみたよ」
本物じゃないけど、ハーレイが言ってた貝殻だけのヤツなんだけど…。
「ほう? もう試したのか、俺が話したのは昨日だぞ?」
お前、お母さんに我儘を言ったわけではないだろうな?
遊びたいから、ハマグリの料理を作ってくれ、と。
「違うよ、偶然だったんだってば! …ホントだよ?」
ママに確かめてくれたっていいよ、ぼくはなんにも頼んでいないよ。晩御飯だ、って呼ばれて、下りて行ったら、ハマグリの酒蒸し…。お皿にドッサリ。
このくらい、と示したお皿の大きさ。これに一杯、と。
「なるほど、ハマグリの酒蒸しと来たか。それは沢山試せそうだな」
で、貝合わせをやった結果はどうだったんだ。…他の貝と合う貝ってヤツは見付かったか?
「一つも無かった…。そっくりの貝でも合わなかったよ」
模様が似ていて、大きさもおんなじようなハマグリ。
これなら合うかも、って合わせてみたって、カチッと音はしなくって…。
どうやってもピタリとくっつかなかった、元から一緒だった貝同士はピタッとくっつくのに。
あんなにあっても全然ダメ、とお手上げのポーズで広げてみせた手。
沢山あったら、いつかは合うのが見付かるだろうか、と。
「ママは、ハマグリのお料理を何度も作ってくれたんだけど…」
あの貝殻が全部残っていたって、やっぱり一つも合わないのかな…?
「合わんと思うぞ、そういう貝は一つも無かったんだろう。…ずっと昔から」
地球が滅びてしまうよりも前から、いろんな人が試した筈だぞ。
貝合わせの遊びが出来た頃には、今よりもずっと真剣に。
なにしろ、ハマグリが珍しかった時代なんだ。…貝合わせで遊んだ貴族たちの都は、海が近くに無かったからな。今みたいに気軽に買えやしないし、食べられもしない。
次にハマグリを食えるのはいつか、まるで分からないわけなんだから…。そりゃあ真剣に探しただろうさ、合いそうな貝があるかどうかを。
何人もの貴族が頑張って探して、とうとう見付からなかったんじゃないか?
他のハマグリともピタリと合うヤツ、ついに一つも。
「それで貝合わせが出来ちゃったの?」
一個だけしか合わないんだから、それで遊ぼうって思い付いたの?
ハマグリの殻で神経衰弱、やってみたらきっと楽しそう、って。
「多分な、始まりはそんなのじゃないか?」
最初は絵なんか、描いていなかったかもしれないな。
とにかく合う貝を探し出すだけで、ハマグリの数も決まっていなくて。
貝合わせの遊びが生まれた時代。遠く遥かな昔の地球の、日本という国の平安時代。
海から遠かった平安の都、元々は珍しい貝殻を持ち寄って競う遊びが貝合わせだった。模様や、貝の形やら。より珍しい貝を出した者が勝ち、そういう遊び。
その時代には、貝合わせは貝覆いと呼ばれていたらしい。誰が始めたかは伝わっていない。中の絵が最初からあったかどうかも、ハマグリの数がどうだったかも。
「そうなんだ…。だけど、他の貝とは合わないってことに気付いて始めた遊びだったら…」
貝合わせ、ぼくとハーレイみたいだね。…ううん、始まりは貝覆いだっけ。
「はあ? なんで俺たちが貝合わせなんだ?」
貝覆いの方でも何でもいいがだ、どうやったら俺たちがそれになるんだ…?
「貝合わせの遊びじゃなくって、ハマグリ…。貝合わせに使うハマグリだよ」
他の貝とはくっつかないから、貝合わせの貝になっちゃったんでしょ?
中に綺麗な絵を描いて貰って、二枚で一組。他の貝とはくっつかないのが二枚で一組。
ぼくとハーレイ、それに似てるよ。…他の人とは恋人同士にならないから。
前のぼくたちだった時もそうで、今だってそう。
生まれ変わっても、他の人とは絶対、くっつかないんだもの。
…きっと、無理やりくっつけようとしたって駄目。だから今でも一緒なんだよ。
「それはそうかもしれないなあ…」
お前以外の誰かを恋人に欲しいと思ったことなんか無いし…。
前のお前と一緒だった頃にも、そうだったんだし。
確かにハマグリなのかもしれんな、他の誰とも決してくっつかないんだからな。
茶色と白の組み合わせなんぞは聞いたこともないが、と可笑しそうなハーレイ。
そんな色違いになったハマグリなんか、と。
「茶色と白のハマグリ…。無いの?」
ぼくとハーレイみたいなハマグリ、もしかして探しても見付からないの?
他の貝と合うハマグリが見付からないのと一緒で、茶色と白のハマグリも無い…?
「どうなんだかなあ…。ハマグリとは違う種類の貝なら、その手のヤツもあるんだが…」
元々左右で色が違う貝は幾つかあるんだ。
茶色と白の貝ならホタテ貝だな、あれはパキッと外しちまったらそれっきりだが…。貝合わせの貝に使うのは無理で、お洒落に料理を盛り付けるだとか、そんな風にしか使えないんだが。
月日貝ってヤツも有名なんだぞ、色が違うから月日貝という名前になった。片方が夕陽のような朱色で、もう片方が淡い黄色で月みたいだ、とな。
しかし、月日貝もホタテ貝と形が似ている貝だし、貝合わせには使えんなあ…。
「色違いが普通になってる貝だと、貝合わせは無理な形なのかな…?」
貝合わせをするのにピッタリだから、ってハマグリが選ばれたんだろうけど…。
茶色と白の貝、ハマグリには無いの…?
ぼくとハーレイの色をした貝殻、ハマグリだと見付けられないの…?
「さてなあ…?」
少なくとも俺は見たことが無いな、見たという話も聞いてはいない。
親父やおふくろが出会ったのなら、何かのついでに俺に話しているんだろうし…。
友達が見付けても、「こんなのを見た」と実物を持って来そうだぞ。
しょっちゅう見付かるようなものなら、そういうことにはならないってな。
ハーレイによると、ハマグリの殻の左右は同じ模様になるのが基本だという。色も同じで模様も同じ。そういう種類の二枚貝。
たまに左右で違う模様のハマグリが見付かるらしいけれども。
「…それって、ハマグリのミュウなのかな?」
おんなじ模様のハマグリが普通で、たまに混じっているんなら。
…今じゃなくって、前のぼくたちだった頃のミュウ。周りは殆ど人類ばかりで。
「いや、どちらかと言えばアルビノだろう」
お前みたいに色素が抜ける程度のことだな、前の俺たちの時代だとしても。
前のお前はサイオンがあったから大変だったが、アルビノだけなら問題にはならなかったろう。
外見が違うというだけなんだし、マザー・システムに睨まれる理由にはならん。
それと同じだ、模様が違うハマグリも。
進化したわけじゃないんだからなあ、突然変異というヤツだ。
珍しいな、と思われはしても、ハマグリってトコは何も変わらん。ミュウと違って。
「そうなの? …それ、ハマグリのミュウじゃないなら…」
茶色と白のも、あっても良さそうなんだけど…。
ぼくとハーレイの色のハマグリ、ハーレイ、ホントに聞いたことが無いの…?
「無いなあ、茶色っぽく見えるハマグリだったら知ってるが…」
白っぽいハマグリも珍しくないが、一つの貝でセットというのは…。
見たことも無ければ聞いたことだって一度も無いんだ、さっき話した通りにな。
無いと聞かされたら、俄かに欲しくなってきた。茶色と白のハマグリが。
他の貝とは決して合わない二枚の貝殻、その片方が茶色のハマグリ。もう片方は真っ白の。
もしもあったら、自分とハーレイみたいだから。
生まれ変わっても恋人同士で、他の人とはくっつきもしない、茶色と白の二人だから。
白い肌の自分と、褐色の肌のハーレイと。それを映したようなハマグリ、茶色と白のが欲しいと思う。他のハマグリとは合わないハマグリ、茶色と白でしか合わない貝が。
「…そういうハマグリ、何処かに無いかな…」
茶色と白のハマグリがあるなら、大事にするから欲しいんだけど…。
でも、珍しいのなら、見付けた人が持ってっちゃうかな、くれる代わりに。
「おいおい、そんなの何にするんだ?」
大事にするって、コレクションとか、そういったものか?
俺とお前の色だって言うし、お前専用の宝箱にでも入れておくのか?
「違うよ、宝物じゃなくってお守り」
その二枚だけしか、くっつく貝は無いんだもの。他の貝じゃ駄目。
だから、ぼくとハーレイが離れないように、お守りにしたいと思わない?
きっとハマグリが繋いでくれるよ、もう片方の貝とくっつきたいから。
離れていたって、こっちだよ、って呼ぶと思うよ、もう片方を。
片方の殻は茶色で、もう片方は白のハマグリ。
そんなハマグリが手に入ったなら、片方ずつ持っておけばいいよ、と提案してみた。
ハーレイが白の貝殻を持って、ぼくは茶色、と。
「ぼくの所にはハーレイの色で、ハーレイの所には、ぼくの色の白」
逆でもいいけど、ぼくは自分の色のを持つより、ハーレイの色のを持っていたいし…。
ハーレイもぼくの色がいいでしょ、自分の色をした方の貝殻よりかは。
「ふうむ…。俺の色のを持っていたって、少しも嬉しくないからなあ…」
お前なんだ、と思える色の方が欲しいな、俺だって。白い方のを。
茶色と白でセットのハマグリの殻を、俺とお前で片方ずつか…。そいつはいいかもしれないな。
もう片方の貝が呼ぶから、離れないお守りになってくれる、と。
「うん、絶対に離れないお守り」
何処にいたって、ハマグリが相手を呼んでいるから、ぼくたちも離れないんだよ。
だって、ぼくたちが離れちゃったら、ハマグリは相手とくっつけないし…。
それにね、もう片方の貝としか合わないハマグリを持っているんだもの。
ぼくの恋人はハーレイだけだし、ハーレイとしかくっつかないよ。
そんな気持ちもこもったお守り、きっと素敵だと思うんだけど…。
あるなら欲しいな、ハマグリのお守り。
茶色の方を持っていたいよ、ハーレイには白い方を渡して。
何処かにあるなら欲しいんだけど、とハマグリのお守りに思いを馳せたのに。
茶色い貝殻と白い貝殻、それがピタリと合わさるハマグリが欲しいのに…。
「そのお守りは要らないんじゃないか?」
持っていなくてもいいような気がしないでもないぞ、ハマグリの殻は。
「なんで?」
ハーレイと離れないお守りなんだよ、大切に持っておきたいじゃない!
離れちゃっても大丈夫、ってハマグリの殻を片方ずつ。
ぼくはハーレイの色の茶色で、ハーレイはぼくの色の真っ白。
「…だから要らないと言っているんだ。俺たちは離れはしないだろうが」
俺が仕事に出掛ける程度だ、離れるとしても。…それは離れる内にも入らん、仕事が終わったら急いで家に帰るんだから。出掛けるのと離れるのはまるで違うぞ、そう思わないか?
俺とお前は、離れることなど無いだろうが。
どんな時でも、今度こそは。
死ぬ時まで二人一緒だろうが、お前がそうしたいと言ったんだから。
…前の俺たちみたいに離れてしまうことは無いだろ、絶対に。
俺はお前の手を離しやしないし、何処までも一緒だと誓った筈だぞ、今度こそはな。
前の俺みたいに、お前を一人で行かせはしない。俺がお前を守ってやるんだ、今の俺には充分な力があるんだから。
…お前が一人で頑張らなくても、俺が代わりに頑張ってやる。どんな時でも、離れないで。
「だけど、お守り…」
やっぱり欲しいよ、ハーレイとぼくの色のハマグリ。
他の貝とは合わないって聞いたら、ハマグリのお守り、欲しいんだけど…。
ハーレイに教わった貝合わせ。沢山のハマグリの殻で試してみたから、ピタリと合う貝は元から一緒にいた貝だけだ、と分かっている。
遠い昔には嫁入り道具になったくらいに、他の貝とは合わないハマグリ。
茶色と白が片方ずつのハマグリは聞いたことも無い、と言われてしまえば余計に欲しい。自分とハーレイのようなハマグリ、茶色と白がセットの貝が。
「…俺はお守りは要らんと言ったが、ハマグリも要らんとは言っていないぞ」
そういうハマグリが見付かったなら、の話だが…。
お前と俺とで持つんじゃなくって、一緒に置いておこうじゃないか。茶色と白のを。
いつも仲良く並べておくとか、くっつけておいてやるのもいい。海にいた時みたいにな。
その方がハマグリも喜ぶだろうさ、いつでも一緒なんだから。
離れ離れで持っておくより、二つ一緒に俺たちの家に飾っておこう。俺とお前の色のハマグリ。
せっかくだからな、中に絵を描くのも悪くはないぞ。
本物の貝合わせの貝みたいにだ、綺麗に磨いて、好きな絵を描く、と。
「それもいいかも…。ハマグリだって、一緒がいいよね」
お守りにされて離れ離れになっているより、いつでも一緒。
隣に並べて置いてあるとか、くっつけて貰う方がいいよね、ずうっと一緒にいたんだから。
中身の貝をしっかり守って、茶色と白とで、いつも一緒で。
いつかハーレイと結婚したなら、何処へ行くにもハーレイと二人。
ハーレイは仕事に出掛けるだけだし、離れるのと出掛けるのは別らしいから。
それなら茶色と白とがセットになったハマグリの貝殻は、家に飾っておくのもいい。ハーレイが仕事で留守の間は、一人で眺めてみたりして。
(ハーレイと一緒、って、カチッと二つくっつけてみて…)
ピッタリ合う貝はこの二枚だけ、と撫でてみるのも素敵だろう。ぼくたちみたい、と。
くっつけて、外して、またくっつけて。
何度遊んでも飽きないオモチャで、きっと顔だって綻んでくる。とても幸せ、と。
そう考えたのはいいのだけれども、そのハマグリが置いてある家。
ハーレイと二人で暮らせる幸せな家は、今はまだまだ手が届かない。
前の自分と同じ背丈になるまでは。
結婚出来る年の十八歳になって、ハーレイと結婚するまでは。
(今のぼくには、まだ先の話…)
十四歳にしかならない子供で、おまけにチビのままだから。
ハーレイと再会してから少しも、背丈が伸びてくれないのだから。
これは駄目だ、と零れた溜息。当分、結婚出来はしなくて、ハマグリだって飾れない。
ハーレイと一緒に暮らす家には置いておけない、茶色と白がセットのハマグリ。
「…ハマグリ、飾るのはいいんだけれど…。素敵なんだけど…」
まだハーレイと結婚式を挙げられないから、やっぱり離れ離れだよ。
今日だって、ハーレイ、晩御飯を食べたら「またな」って帰って行っちゃうし…。
ホントに離れずにいられる日なんか、まだまだずうっと先なんだから…。
ぼくはこの家にいるしかないから、ハマグリのお守り、持っていたいな、ハーレイの色の。
結婚した後は二つ一緒に飾っておくから、それまでの間は、お守りに欲しい…。
ぼくには茶色い方の貝殻、ハーレイは白い方の貝殻。
探して欲しいよ、そういうハマグリ。…二人でお守りに出来るハマグリ。
「俺が探すのか、そのハマグリを…?」
見たことも無いと言った筈だぞ、そんな代物をどうやって探せと?
運良く見付けた人がいたって、珍しいから俺には譲ってくれそうもないが…?
「えーっと、こういうのは…。なんて言うんだっけ、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…?」
ハーレイが下手って言うんじゃなくって、数が大切だと思う!
きっとハマグリが沢山あるほど、見付かる可能性も高くなるんだよ。確率って言うの…?
だから、ハーレイがハマグリを沢山食べてくれたら見付かるかも!
酒蒸しの他にも一杯あるでしょ、ハマグリを沢山食べる方法!
「俺に山ほど食えってか!?」
ハマグリを少しだけ入れるんじゃなくて、ハマグリが主役の料理を山ほど…。
そうやって探し出せって言うのか、珍品の茶色と白のハマグリ…?
とんでもないな、と天井を仰いだハーレイだけれど。
一生分のハマグリを食べる勢いで挑む羽目になるのか、と溜息交じりの苦笑いだけれど。
「それも悪くはないかもな…。ハマグリを食って食いまくるのも」
今度はお前の手を離さないと決めているから、お前が欲しいと言うのなら…。
前の俺が離してしまった分まで、俺は頑張るべきかもしれん。たとえハマグリ相手だろうが。
分かった、お守り、探してやろう。
片方が茶色で、もう片方が白のハマグリ。…俺たちみたいな色のヤツを。
見付けられたら、お前に茶色い方を渡してやるから。白い方は俺が大切に持って。
「ホント?」
探してくれるの、ハマグリのお料理を沢山作って?
ハーレイだったら、きっと食べ飽きないように上手にお料理出来ると思う…!
頑張ってね、ハマグリが主役のお料理。ハマグリを幾つも使えるように。
「そうそう毎日、ハマグリばかりは食えんがな…。いくら俺でも、そいつは飽きる」
好き嫌いが無いのと、料理の素材はまた別物で…。
ハマグリ地獄は勘弁してくれ、もうシャングリラの時代とはまるで違うんだから。
とはいえ、努力はしていかないとな、お前の注文のハマグリ探し。
多分、見付からないとは思うが、心してハマグリを食うことにしよう。
貝が食べたい気分になったら、ハマグリで満足出来るかどうかを胃袋に訊いて。
「ありがとう! ハマグリ探し、ぼくも手伝うよ」
ハーレイが頑張ってくれているのに、ぼくだけのんびりしてられないし…。
ママに色々リクエストするよ、ハマグリを食べてみたいから、って。
「こらこら、気持ちは嬉しいんだが…。お前はやめとけ、疑われるぞ」
お母さんだって、なんでいきなりハマグリなんだ、と思うだろう。
ハマグリと俺が繋がってるのは、貝合わせの話でとっくにバレてるんだし…。
今度は何を始めたのかと質問されたら、お前、ウッカリ言いかねないぞ。
お守り探しで、茶色と白のハマグリなんだ、と。
得意になって喋っちまったら、俺とお前がどういう仲かを勘繰られてだな…。
実は恋人同士じゃないかと疑われちまう、というハーレイの意見は一理あるから。
自分が茶色と白のハマグリを見付け出したら、大喜びで喋りそうだから。
(…お守りなんだよ、って絶対、言うよね…)
何のお守りかは喋らなくても、「ハーレイとぼくとで、片方ずつ」とか。
まだまだチビで子供の自分は、きっとはしゃいで喋るだろうから。
(…ハーレイが言う通り、危なすぎるよ…)
両親が変だと疑いそうな、ハーレイと自分のためのお守り。茶色と白でセットのハマグリ。
それを自分で探そうとするのは、今の間はやめておいた方がいいだろう。
この家で暮らす子供の間は、ハマグリ探しはハーレイ任せ。
ハーレイが食べたい気分になったら、ハマグリをドッサリ買って貰って。
ハマグリ地獄にならない程度に、ハマグリの料理を食べて貰って。
(…前のぼく、色々やっちゃったから…)
前のハーレイがキャプテンになる前、まだ厨房にいた頃に。
人類の輸送船から奪った食材、それの中身が偏り過ぎて。
ジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツだらけのキャベツ地獄。前の自分がコンテナの中身を調べもしないで奪った頃は。
けれど、ハーレイはいつも上手に乗り切ってくれた。調理法などに工夫を凝らして、誰も文句を言えないように。出来るだけ、皆が飽きないように。
(奪い直しに行って来ようか、って言ったのに…)
必要無い、と言ったハーレイ。「俺がなんとかしてみるから」と。
あの船で頑張ってくれたハーレイでさえも、ハマグリ地獄は御免らしいのが平和な今。
ハマグリ地獄に陥らないよう、食べ飽きないよう、ゆっくりハマグリを探して欲しい。
茶色と白のハマグリを。
片方の殻はハーレイの色で、もう片方は自分の色をしている素敵なハマグリを。
そうして、いつか結婚したなら、二人でそれを探してみよう。
何度も何度もハマグリを買って、美味しいハマグリ料理を食べて。
「ねえ、ハーレイ。…お守りのハマグリ、見付からなくても…」
見付からないままで、ハーレイと結婚しちゃっても。
諦めないで探してみたいな、茶色と白のを。ぼくとハーレイみたいな色のハマグリ…。
家に飾ろうって言っていたでしょ、見付かったら飾っておくんだよ。
ハマグリのお料理、二人で何度も食べてみようよ、それを探しに。
「もちろんだ。俺も諦めるつもりはないしな、一旦、探し始めたら」
忘れちまったら話は別だが、覚えていたなら二人で探していかないと…。
お前が欲しいと思ったハマグリ、俺も見付けてやりたいからな。
そのためのハマグリ、買うのもいいが…。潮干狩りもいいぞ、海に出掛けて。
二人でのんびり探そうじゃないか、海の中にいるかもしれないからな。
「あったね、今はそういうの…!」
小さかった頃に、パパとママと一緒に海でやったよ、潮干狩り。
とっても大きなハマグリを採ったよ、ぼく、頑張って掘ったんだから…!
ハーレイと二人で出掛けて行ったら、きっと、とっても楽しいよね。
前のぼくたちが行きたかった地球の海なんだもの。
海を見ながらハマグリ探しで、ハーレイと二人で潮干狩りだもの…!
白いシャングリラで行こうと夢見た水の星。青く輝く母なる地球。
あの頃の地球は死の星のままで、海にハマグリはいなかったけれど。
今では青く蘇った地球で、其処にハーレイと二人で来られた。まるで奇跡が起こったように。
前とそっくり同じ姿で、青い地球の上に生まれ変わって。
自分たちなら見付けられる日が来るかもしれない、茶色と白のハマグリを。
ハーレイが「聞いたことも無いが」と首を捻った、左右で色が違ったものを。
生まれ変わっても、こうして出会えて、一緒だから。
お互いの他には要らないから。
他の貝とは決して合わない、ハマグリのように。
どんなに見た目がそっくりな貝でも、カチリと合わないハマグリのように、お互いだけ。
だから、見付かるかもしれない。
ハーレイの色の茶色と、自分の白と。
そういう殻を持ったハマグリ、左右で色が違った貝が。
「…ハーレイ、茶色と白のハマグリ、見付かるといいね」
ぼくとハーレイの色のハマグリ。
いつか見付けて、家に飾っておきたいね…。中に綺麗な絵を描いたりして。
「見付からなくても、俺たちはずっと一緒だろうが」
わざわざハマグリに頼まなくても、俺にはお前だけなんだ。
茶色の俺には、白のお前だけしか合わないってな。
他のを持って来たとしたって、どれも合うわけがないんだから。…ハマグリみたいに。
「ぼくもハーレイだけだよ、ずっと」
ホントのホントに、ハーレイだけ。
前のぼくだった頃から、ずっとおんなじ。
茶色をしているハーレイだけしか、ぼくにはピタリと合わないんだよ。
きっと、出会った時から、ずっと。
アルタミラで初めて会った時から、ハーレイとは息が合ったんだもの。
ハーレイと二人でシェルターを開けて回った時から、ぼくたち、ピッタリ合ってたんだよ。
あの頃はハマグリ、知らなかったけど…。
貝合わせなんていう遊びの話も、ちっとも知らなかったんだけど…。
だけど、あの時から、ずっと茶色と白のハマグリ。
ハーレイとぼくは、ずっとそういう色の違ったハマグリみたいに、一緒の二人だったんだよ…。
きっとそうだ、と思えるから。
茶色と白のハマグリのように、二人一緒に生きていたのだと思うから。
今度もいつかは一緒に暮らして、幸せに生きて、そして二人で還ってゆこう。
此処へ来る前にいた場所へ。
青い地球の上に生まれてくる前、二人で一緒にいただろう場所へ。
其処で二人で時を過ごして、またいつか二人、地球に戻って来るのだろう。
いつまでも、何処までも、離れないで。
何処へ行くにも、還ってゆくにも、ハーレイと二人。
他の貝とは決して合わないハマグリのように、お互いだけしか要らないから。
ハーレイには白で、自分は茶色。
その色だけしか、お互い、欲しいと思いはしない。
ハマグリのように、相手はたった一人だけ。
他の相手は要らないから。お互いがいれば、もうそれだけで誰よりも幸せなのだから…。
ハマグリの遊び・了
※ブルーが欲しくなってしまった、茶色と白の貝殻を持ったハマグリ。お守り用に、と。
今の二人なら、そんなハマグリにも、出会える日が来るかもしれません。青い地球の上で。
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