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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ママ、それなあに?」
 ブルーがキョトンと見詰めたもの。
 学校から帰って、丁度おやつを食べ終わる頃。ダイニングに母がやって来た。小さな布製の袋を持って。淡いピンクの布袋。母の手のひらに収まるくらいの、薄く透き通って見える布地の。
「お友達に頂いたのよ。乳香ですって」
 中身はこんなの、と母が開けた袋。中にもう一つ透明な袋、密閉出来ると一目で分かる。透けて見える袋に幾つも入った、不規則な形の小さな塊。乳白色の。オレンジ色を帯びたものやら、薄い緑をおびたものやら。
「乳香って…?」
 それはいったい何だろう、と眺めた塊。食べるものではなさそうだけれど。
「お香よ、木から採れる樹脂なの。ずうっと昔は教会で焚いていたらしいわよ」
 とても大きな香炉に入れてね、天井から吊るして振っていた教会もあったんですって。
 手に持てるサイズの香炉を振りながら、神父さんが歩いていた教会とか。
「ふうん…? 教会で使ったくらいだったら、いい匂いなの?」
 ゴツゴツに見える塊だけれど…。見た目もあんまり綺麗じゃないけど。
「そうねえ、キャンディーを叩き潰したみたいな感じね」
 ママはお香だと聞いてから見たし、お家に行ったら素敵な匂いがしていたから…。
 不思議な形のお香なのね、と思ったけれども、知らなかったら変な塊かもしれないわね。
 でもね、ちょっと触ってみれば分かるわ。
 手を出して、とコロンと手のひらに塊が一つ。
(えーっと…?)
 特に匂いはしないんだけど、と指先でつまむと粉っぽい感じがする表面。樹脂のくせに。
(ツルッとしてない…)
 そういえば、松脂は滑り止めだと聞いたことがある。野球をやっている友達から。
(これも滑り止め…)
 指先に粉がついちゃった、と白い粉がくっついた指を何の気なしに擦り合わせたら。
(えっ…?)
 ふわりと漂った木の香り。粉がついていた指先から。



 いきなり鼻腔をくすぐった香り。まるでログハウスに入ったように。そうでなければ、深い森の奥に足を踏み入れたように。
(…乳香の匂い?)
 これがそうなの、と塊を鼻先に持って行っても、匂いはしない。さっき一瞬、掠めただけ。
 勘違いかとキョロキョロ見回していたら、母がクスッと小さく笑った。
「森の匂いがしたんでしょ、ブルー?」
 でも、今は匂いは消えちゃったんでしょ、ママにも分かるわ、そうだったから。
 それが乳香の匂いなの。…だけど、匂いをゆっくり楽しみたいなら、焚かなくちゃ駄目。
 置いておくだけでは、匂いは消えてしまうのよ。
 乳香はこうして使うものなの、と母が持って来た小さな香炉。たまに微かな煙が昇っている所に出会うもの。玄関を入った所に置いてあったり、リビングだったり。煙の香りは日によって違う。
 母は香炉の蓋を開けて炭に火を点けた。暫く経ったら、その上に幾つか置かれた乳香。
 どうなるのかな、とワクワクしながら見ている内に。
「わあ…!」
 凄い、と声を上げてしまった。樹脂の塊から白い煙が昇った途端に、さっきの香り。
 ダイニングごとログハウスの中に引越したようで、おまけに深い森の中。外へ出たなら、大きな木々がぐるりと周りを囲んでいそうな。見渡す限りの針葉樹の森。
(…ヒノキみたい…?)
 一番身近な香りで言うなら、きっとヒノキの匂いだろう。ログハウスも森も、ヒノキの香り。
 ほんの小さな塊の何処に、部屋一杯に広がるヒノキの香りがギュッと詰まっていたのだろうか。
「ね、素敵でしょう? 森の中をお散歩しているみたいで」
 ママもビックリしちゃったのよ。お家を作り替えたのかしら、と思ったくらい。
 ちょっといいでしょ、森林浴の気分になれて。
「ホントだね!」
 ぼくは森まで、滅多に出掛けて行けないけれど…。ログハウスだって、ほんのちょっぴり。
 だけど、家ごと引越したみたい。森の中に住んでて、ログハウスみたい…!



 驚いてしまった、乳香の煙に連れて行かれた森の奥。一歩も動きはしなかったのに。
 魔法の煙に包まれたように、深い針葉樹の森を旅した。香炉から煙が立ち昇る間は、塊が溶けて無くなるまでは。
 魔法のランプに思えた香炉。普段から母が使っているのに、それを見ている筈なのに。
 素敵な旅をさせてくれた母に「ありがとう」と言って、二階にある自分の部屋に戻ったら…。
(まだ森の匂い…?)
 乳香の煙はもう消えたのに、と見回したけれど、確かにさっきの香りがする。煙が此処まで来ていただろうか、部屋の扉は閉まっていたのに。
(何処かの隙間から入って来たとか…?)
 煙だしね、と勉強机の前に座ると、匂いも一緒について来た。自分の動きに合わせたように。
 何故、と後ろを振り向いたはずみに分かった香りの理由。
(ぼくの服…)
 服に香りが残っていた。もしかしたら、髪にも残っているかもしれない。
 森の中にいるような気がした乳香の匂い。針葉樹の森の奥へと入って行ったら、漂う匂い。
(あんなに小さな塊なのに…)
 しっかりと香りが残るものらしい。煙みたいに儚くは消えてしまわずに。
 それに、樹脂から森の奥の香り。森の匂いをギュッと閉じ込めたままで固まった樹脂。
(きっと、深い森の奥で採れるんだよね)
 乳香という樹脂の塊は。乳白色の、不規則でゴツゴツした塊は。
 そうに違いない、と服に残った香りから森を思い浮かべる。乳香の故郷の森の姿を。
 きっと深くて広い森だと、何処まで行っても出られないくらいに大きな森、と。



 幼い頃から、両親と何度か出掛けた森。ログハウスに泊まったことだってあった。乳香の香りがしていた木の家。天井も壁も全部木の家、木目の模様が面白かった。
(動物が隠れていたりして…)
 板に描かれた自然の模様。其処に隠れた絵を探していた、天井や壁を眺め回して。ログハウスの外の壁にも動物は隠れていたのだけれども、森の中には本物の動物。
(遊びに来ないか、待っていたっけ…)
 夜になったら、お伽話みたいにランタンを提げた森の生き物たちが訪ねて来るかと。太陽が輝く昼の間は、森を駆けてゆく鹿やキツネが見えはしないかと。
 楽しかった思い出が沢山の森。生まれつき身体が弱かったから、長い滞在は無理だったけれど。
(シャングリラだと、森は無かったんだよ)
 前の自分が暮らした船。楽園という名の白い鯨がいくら大きくても、流石に森は乗せられない。
 乳香が運んだ森の匂いは、今のぼくしか知らない匂い、と思ったけれど。
 服に残った微かな香りを、スウッと深く吸い込んだけれど。
(…ぼく、知ってた…?)
 前の自分の記憶にもあった、と思った香り。知っている、と反応を返した遠い遠い記憶。
 何故、と首を傾げたけれども、長く潜んだ雲海の星。アルテメシアには人工の森があったから。前の自分は其処へ何度も降りていたから、その時に覚えた香りだろう。
 ミュウと判断された子供を救い出す準備をしていた時やら、色々な用事で潜んだ森。
(シャングリラだったわけがないもの…)
 船に森など無かったから。
 木材にするための木は何本か植えていたけれど、伐採する時はお祭り騒ぎになったほど。普段は見られない珍しい光景、それを見ようと大勢の仲間が集まって来て。



 たった一本の木を切るだけのことで、皆が賑やかに騒いでいた船。本物の森では有り得ない話。森に行ったら、木は何本でもあるのだから。
 一本切っても、どれが減ったか分からないほどに。切り株でようやく気付くくらいに。
 シャングリラと森は全然違う、と考えたけれど。
(…でも、あった…?)
 ああいう森の香りが船に。針葉樹の森の爽やかな香り、乳香の煙にそっくりな香り。
 それをシャングリラで吸い込んだような、そんな気がしてたまらない。森は無かった筈なのに。木の香りだって、あれほどに強く船に漂ってはいなかったろうに。
(…伐採した時は、匂いがしたけど…)
 直ぐに何処かへ消えてしまった。材木にするために運び出されて、それきりだから。
 森の匂いだと、深く吸い込むチャンス自体も滅多に無かった。木を伐採した時だけの香り。
(ひょっとして、香水みたいなもの…?)
 香水だったら、合成することも出来ただろう。
 そういう香りが好きな仲間が多かったなら。森の香りが欲しいと希望が出されたならば。
(…匂い、知らないと駄目なんだけど…)
 でないと希望も出せないけれど、と首を捻った前の自分の微かな記憶。
 アルテメシアで森に降りていた自分はともかく、他の仲間とは縁遠い香り。木を切った時に漂う匂いは普段は船には無いものだけれど、それが気に入られていたのだろうか。
 森の匂いは、心が落ち着くものだから。
 木を切った時の香りがいつでもあったならば、と希望が出されて、森の匂いを作ったろうか…?



 シャングリラに森の匂いはあったのかな、と遠い記憶を探っていたら聞こえたチャイム。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、疑問をぶつけることにした。キャプテンを務めたハーレイだったら、そうしたことにも詳しい筈。
 あの香りが船にあったとしたなら、どんな経緯で生まれたのか。何処で使われた香りなのかも、間違いなく知っているだろうから。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラに森の匂いって、あった?」
 森の匂いがしてたのかな、って…。あの船の中で。
「はあ? 森の匂いって、お前…。考える必要も無いだろうが」
 あるわけがないぞ、そんな匂いは。
 森の匂いとか言い出す以前に、シャングリラに森は無かったんだし。
「そうだよね…。やっぱり、あるわけないよね…」
 ぼく、勘違いをしていたみたい。…今のぼくと、ごっちゃになっちゃったかも…。
「森の匂いがどうかしたのか?」
 お前、森にでも行って来たのか、俺は話を聞いちゃいないが。…いつ出掛けたんだ?
「えっと…。森に行ってたわけじゃなくって…」
 そうじゃないけど森の匂いで、なんて言ったらいいんだろう…?
 シャングリラにこういう匂いがあったかも、っていう気がして来ちゃって…。



 なんと説明すべきだろうか、と服を嗅いでみたら、袖に残っていた匂い。
 言葉にするより早そうだから、とハーレイの前に差し出した腕。
「この匂いだよ、ぼくの袖の匂い」
 ちょっぴり袖に残っているから、分かると思う。…どう?
「ほう…。ヒノキみたいな匂いがするな」
 なんの匂いだ、木屑に袖でも突っ込んだのか?
 確かに森の匂いではあるな、お前の袖にくっついてるのは。
「乳香だって。…ママが貰って来たんだよ」
 それを香炉で焚いて貰ったら、ぼくの服までこういう匂いになっちゃった…。
「なるほど、乳香だったのか」
「知ってるの?」
「もちろんだ。有名な香料なんだしな」
 だが、嗅いだのは初めてだ。…もっと甘いんだと思っていたなあ、菓子みたいに。
 森の匂いだとは知らなかったぞ、百聞は一見に如かずってか。
「本物、見てみる?」
 ちゃんと焚いたら、もっと凄いんだよ。部屋ごと森になっちゃったみたい。
 服にも匂いがくっつくほどだし、ホントのホントに凄いんだから…!
「本物って…。かまわないのか?」
「ママに頼めば大丈夫だよ」
 ハーレイも本物を知りたいみたい、ってお願いしたら香炉を貸してくれるよ。
 乳香だって分けてくれると思うよ、ちょっと行ってくる!
 ママー!



 トントンと階段を駆け下りて行って、借りて来た香炉と、貰った乳香が何粒か。
 母に教えて貰った通りに、炭にそうっと火を点けて…。
「この上に乳香、乗っけるんだよ」
 乳白色の粒を置いて間もなく、昇り始めた乳香の煙。ふうわりと部屋に広がる匂い。何もかもが木に変わったように。部屋ごと森に引越したように。
「こいつは凄いな…。森そのものだな」
 でなきゃアレだな、森の中に建ってるログハウスに入った時の匂いだ。
「でしょ? ぼくもログハウスだと思っちゃったよ、ママが香炉で焚いてくれた時に」
 それでね、この匂いなんだけど…。
 ぼく、シャングリラで嗅いだような気がして仕方なくって…。こういう感じの森の匂いを。
「この匂いをか?」
 おいおい、森そのものの匂いじゃないか。…どう考えても、森の匂いだ。
 シャングリラに森なんかは無かったわけでだ、ログハウスだって…。
 そんな建物は作っちゃいないぞ、木材用の木を育ててはいたが、あれは需要があったからで…。
 余った分で俺が木彫りを作ってはいても、ログハウスを建てるほどには余っていない。
 伐採した木は端から加工で、匂いなんかはアッと言う間に消えちまっていたぞ、船からな。



 こんな匂いがシャングリラにあったわけがない、と香炉を見ていたハーレイだけれど。
 鳶色の瞳が、煙になってゆく乳香の粒をじっと見詰めていたのだけれど…。
「待てよ、アレか?」
 ハーレイがそう呟いたから。
「あった? …こういう匂いの香水とかが」
 香水しか思い付かないけれども、シャングリラで合成していたわけ…?
「いや、香水じゃなくて…。そのものってヤツだ」
「えっ?」
 それってなんなの、どういう意味なの?
「これがあったと言っているんだ。…乳香がな」
 前のお前だ、乳香を奪って来ちまったんだ。
 奪おうとして出掛けたわけじゃなくって、他の物資に紛れ込んでた。
 覚えていないか、此処で燃えているような粒を沢山、お前は奪って来たわけなんだが。
 このくらいの袋一杯に、とハーレイが両手で示した大きさ。褐色の手のひら二つ分くらい。
 目を丸くして眺めた瞬間、遠い記憶が蘇って来た。
「そうだっけ…!」
 箱を開けたら、布の袋が入ってて…。
 袋の中身が全部、乳香。…最初は何だか分からなくって、ハーレイたちと見てたんだっけ…。



 シャングリラがまだ、白い鯨になるよりも前。
 生きてゆくために必要な物資は、人類の輸送船から奪っていた。前の自分が出掛けて行って。
 ある日、コンテナごと奪った沢山の物資に紛れていた箱。それの中身が乳香入りの布袋。
 生憎と箱には、何も書かれていなかった。布袋にも、何処かの星らしき名前だけ。
 ハーレイは既にキャプテンになっていたから、物資の管理をしていた者から連絡が来た。中身が謎の荷物があったと、廃棄処分にすべきだろうか、と。
 そういう連絡が入った時には、前の自分とキャプテンのハーレイ、それにゼルたち四人の出番。荷物の処分をどうするべきかを決定するための最高機関。
 限られた物資で生きてゆかねばならない船だし、使える物資は有効活用したいから。
 どういう使い道があるのか、それを検討すべきだから。
 よほど役立たない物でない限りは、大抵は此処で救済された。使うべき場所を見付け出しては、使い方を指示して、其処へ回して。



 そんな具合で、乳香がドッサリ詰まった袋も、会議の席へとやって来たけれど。
「なんだい、これは?」
 小石ってわけでもなさそうだけどさ、変な物だねえ…。
 初めて見たよ、とブラウが一粒つまみ上げてみて、「変な匂いだ」と指を拭った。指先についた白っぽい粉が妙な匂いで、妙だけれども悪くはないと。
「ふむ…。確かに悪くはない匂いじゃのう」
 馴染みのない匂いではあるんじゃが…、とゼルも真似てみて、食べられるのかと質問を投げた。こういった時に強いヒルマン、博識で調べ物の得意な友に。
「さて…。どうなのだろうね?」
 匂いと見た目で判断するのは危険だというのが常識なのだし…。
 エラと私で調べてみよう。
 袋に書かれた文字は手掛かりにならないだろうし、どうしたものか…。
 匂いと見た目を頼りにするしか道は無さそうだね、それで候補を絞り込んでから分析する、と。
 食べられる物なら厨房に回して、駄目でも何かに使えそうな気はするのだがね。



 単なる私の勘なのだが、と乳白色の粒を幾つか手にして調べ物に向かったヒルマンとエラ。
 彼らがデータベースで調べた結果は、乳香だった。
 もう一度招集された会議の席で、報告された「乳香」という乳白色の粒たちの名前。
「乳香? …香料なのかい、この粒は?」
 どおりで匂いがするわけだ、と前の自分もつまんでみた粒。ブラウやゼルがしていたように。
「貴重な香料だったらしいよ、昔はね」
 人類が地球しか知らなかった時代は、とても貴重なものだったそうだ。
 今は栽培に適した場所も多いらしいが…、とヒルマンが用意していた香炉。物資の中に混ざっていたのを、捨てずに倉庫に入れてあった品。
 初めての出番だったのだけれど、香炉の中の炭に火が点き、その上に乳香の粒が置かれたら…。
「いい香りじゃないか、妙な匂いだと思ったけどさ」
 なんだか気分がスッキリするよ、とブラウが一番に述べた感想。船の中では嗅いだことのない、不思議な匂い。けれど、爽やかだと思える匂い。
「データベースの情報によると、森の匂いがするそうだよ。…我々とは無縁のものだがね」
 この船の中に森などは無いし、森の匂いを覚えてもいない。
 しかし、森林浴という言葉があったくらいに、人間は森に惹かれるようだ。いい匂いだと感じる気持ちに、記憶は関係無いのだろうね。
 我々は本物の森を知らないのに…、感慨深げに言ったヒルマン。森はこういう匂いらしい、と。
「乳香は森で採れるのかい?」
 前の自分がそう訊いた。今の自分と全く同じに、豊かな森を思い浮かべて。
 まだその頃には、データでしか知らなかった森。何処までも木々が深く茂った光景を。
「いや、元々は砂漠だそうだ」
 今も似たようなものだと思うよ、テラフォーミングしても上手くいかない場所も多いし…。
 そういった土地で栽培しているのだろうね、荒地のままで放っておくより、農地がいいから。



 遠く遥かな昔の地球。乳香は砂漠に生えている木から採集するものだった。樹皮に傷をつけて、滲み出した樹液が固まったものが乳香になる。乳香の木が育つ砂漠は、ごく限られた地域だけ。
「何処ででも採れたものではないから、黄金と同じ値段で取引されたようだね」
 なにしろ砂漠で採れるものだし、輸送するにも砂漠を運んでゆくしかない。
 砂漠の旅には危険が伴う。珍しい上に、運ぶのも命懸けとなったら、高くなるのも当然だろう。
「そんなに貴重だったのかい?」
 黄金と同じ値段だなんて…、と乳香の粒をまじまじと眺めた前の自分。
 それほとに高い香料を贅沢に使っていた人間とは、やはり王者の類だろうかと。
 ところが、外れてしまった推測。
 乳香は人が使うのではなく、神に捧げる香だった。遠い昔に栄えた砂漠の王国、エジプトでも。後の時代の教会でも。
「教会で神に祈る時には、必ず焚いていた時代もあったそうだよ」
 その習慣は薄れてしまって、特別な時しか焚かないように変わっていって…。
 今では普通の香料の一つになったようだね、香りがいいからと色々なものにブレンドされて。
「こんな塊が神様用だった時代がねえ…」
 おまけに金とおんなじ値段だったなんて、冗談だとしか思えないけどね…?
 ついでに、この船に教会は無いし…。
 乳香とやらは使うしかないね、適当な場所で。
 匂いは確かにいいんだから、とブラウが最初に下した判断。前の自分も、ハーレイたちも異議は全く無かったから。
 乳香は休憩室などで焚かれた、偶然奪った塊が船にあった間は。
 倉庫に幾つか突っ込まれていた、香炉や炭を引っ張り出して。



 乳香が物資に紛れていたのは、その一度だけ。
 布袋に詰まっていた分が焚かれて無くなってしまった後には、忘れ去られていたのだけれど。
 シャングリラが白い鯨に改造されたら、乳香にも転機がやって来た。
「お前も覚えているだろう? 公園とかが出来て、船のあちこちに緑が増えて…」
 みんなが花や緑の香りを楽しむ時代になってだな…。
 乳香を思い出したヤツらが…、とハーレイが指差す香炉の中身。乳香は燃えて消えてしまって、今は炭しか残っていない。けれども、部屋には森の香りが漂ったまま。
 シャングリラの皆もそうだった。
 遠い昔に焚いて無くなってしまった乳香。船の何処にも無いというのに、心に残っていた香り。森の匂いがする香だったと、皆は忘れていなかった。まるで残り香があったかのように。
 白い鯨に余裕が出来たら、誰からともなく出て来た声。
 この船で乳香の木を育ててゆくのは無理だろうかと、あの香りが今、あったなら、と。
 森の匂いだと言われた乳香。
 今ならば森の緑も想像出来ると、神に捧げる香だった理由も納得出来る、と。
 神に祈りを捧げる余裕も充分あるから、乳香の木を育てられたら、と。
 乳香を焚いて神に祈れば届きそうだ、と上がった声。
 人類にとってはただの香料に過ぎないのならば、この船では乳香を神に捧げてみたいと。
「そうだったっけ…」
 人類が神様用に使ってないなら、使おうって…。
 蜜蝋の蝋燭と同じ理屈で、ミュウ専用。…お祈り用には乳香だっけね、シャングリラでは。



 遠く遥かな昔の地球では、一部の砂漠にしか無かったという乳香の木。
 前の自分たちが生きた時代には、荒地でも育つ作物とされて、あちこちの星に植えられていた。
 もう珍しくはなかった乳香。テラフォーミングの成果が現れなければ、植えられたほどに。
 樹脂を採取する乳香の木は、子供たちの教材にもいいとヒルマンも大いに推したから。
 居住区に幾つも鏤めてあった公園の一つを、乳香の木に適した環境に整備した。
 雌雄は別なのが乳香の木。
 それもきちんと考慮しながら、前の自分が奪った苗。人類のための農業施設から。
 乳香の木は順調に育って、係の者たちが世話をしていた。樹皮に傷をつけ、樹脂を固めて乳香の粒を採取しながら。乳白色の塊を幾つも幾つも、幹から剥がして集めながら。



 本物の乳香の香りがあったシャングリラ。
 白いシャングリラになるよりも遥かな昔に焚かれて、後の時代にも焚かれた乳香。白い鯨では、乳香は船で作るもの。乳香の木から樹脂を集めて、シャングリラ生まれの乳香を。
 前の自分が覚えていた香りは、それだった。シャングリラにあった、と思った森の匂いは。
「…あの乳香、何処にあったっけ?」
 乳香の木が植えてあった場所は、なんとなく思い出せるんだけど…。
 あの木から採った乳香は何処に置いてたのかな、倉庫かな…?
「蝋燭と同じだ、係がいたな」
 倉庫の物資の管理係の一人がそれだ。専用の係を決めておかんと、直ぐに対応出来ないし…。
 乳香を焚きたい気持ちになったら、出掛けて行って頼むんだ。下さい、とな。
 そしたら香炉や炭と一緒に渡して貰えた。そいつを部屋に持って帰って、祈ればいい。使い方も教えて貰えたからなあ、こうするんです、と丁寧に。
 蝋燭を貰って灯してもいいし、乳香を焚いても良かったわけだ。自分の部屋で祈る時にはな。
「うん…。思い出したよ、前のぼくも焚いていたんだっけ…」
 倉庫に出掛けて、係に頼んで。…香炉と乳香を出して貰って。
「俺も一緒にいたっけなあ…」
 お前が乳香を焚いていた時は、前の俺も一緒だったんだ。
 どういうわけだか、お前、いつでも俺と焚くんだ、わざわざ呼んだり、待っていたりして。
 「せっかく貰って来たんだから」って、俺が行くまで焚かずにいたなあ…。
 貴重な乳香なんだから、って頑固に言い張り続けてな。
「だってそうでしょ、本当だもの」
 昔は金と同じ値段で取引されてた、神様専用のお香なんだよ?
 一人占めするより、ハーレイと二人でお祈りした方が神様にも届きやすいかな、って…。



 白いシャングリラで採れた乳香。船で育てているとは言っても、山のようには採れない乳香。
 ソルジャーが他の仲間たちの分まで、使ってしまっては悪いから。
 本当にたまに、貰って焚いた。
 青の間で、そっと。
 ハーレイと恋人同士になるよりも前から、いつも二人で。
「無事に地球まで行けますように、って祈ったっけね…」
 乳香を焚いて、森の匂いが広がったら。…シャングリラで地球まで行けますように、って。
「お前と俺と、二人でな…」
 二人一緒に辿り着くんだ、って祈ってたっけな、お前と一緒に。
 …恋人同士になるよりも前から、ずっと二人で祈ってたのに…。お前、祈らなくなったんだ。
 寿命が尽きると分かった後には、自分のためには。
 乳香を貰って来て焚くことはあっても、いつも仲間のためだけだった。
 俺と一緒に地球へ行こう、って祈りはしなくて、俺にも「祈らなくてもいい」って…。
「…叶わないことまで、祈っちゃ駄目だと思っていたから…」
 神様に二人でお願いするなら、叶えて貰えることでなくっちゃ。
 …我儘を言ったら、他のお祈りまで聞いて貰えなくなりそうだもの。
 だから、お祈り、やめたんだよ。…前のぼくのためのお祈りは…。



 自分のためには祈らなくなった後にも、ハーレイと二人で捧げた祈り。
 乳香を貰って、香炉を借りて。…青の間で、二人。森の匂いが漂う中で。
「…最後に焚いたの、いつだったっけ…?」
 覚えていないよ、ハーレイは今も覚えてる…?
 前のぼくと二人で乳香を焚いて、最後にお祈りしていた日はいつだったのか…。
「うーむ…。それはジョミーじゃないのか?」
 お前、ジョミーが生まれた後にだ、何度か焚いていただろう?
 次のソルジャーが無事に育つようにと、誕生日とかに…。
 …それだ、ジョミーをシャングリラに迎え入れる前に焚いたんだ。
 目覚めの日の直前ってわけじゃなかったが、準備を始めて、ナキネズミも船から送り出して…。
 そういう頃に、お前が乳香と香炉を用意してだな…。
「…焚いたんだっけね、ハーレイと…」
 いつもみたいに、二人一緒に。…炭に火を点けて、乳香を乗せて。
「作戦が上手くいくように、ってな…。ジョミーを無事にシャングリラに迎えられるように」
 あれが最後になっちまったなあ、お前と二人で乳香を焚くことは二度と無かった。
 …もう一度くらいは焚けるだろうと思ってたのにな、ジョミーの次の誕生日とかに…。



 前のハーレイと二人で乳香を焚いて、作戦の成功を祈った自分。
 新しいソルジャーになってくれるジョミー、彼を首尾よくユニバーサルから救えるように、と。
 けれども、予想以上のジョミーの反発。
 シャングリラから家に戻ったジョミーは、暴れ馬のようになってしまった。計算ずくで、家へと帰した筈だったのに。両親がいないと知ったジョミーは、船に戻ると踏んでいたのに。
(…思った以上に、ジョミーは強情…)
 シャングリラに戻らず、捕まったジョミー。心理検査に抵抗して目覚め、爆発したサイオン。
 遥か上空へと逃げるジョミーを追い掛けて飛んで、前の自分は力を使い果たしてしまった。
 乳香を焚いて祈る体力は残ってはおらず、ただ横たわっているしかなかった。
 アルテメシアの雲海の中に潜む間に、ジョミーの誕生日が巡って来ても。
 ハーレイと二人で焚くための乳香、それを貰いにはもう行けなかった。
 力が尽きてしまった身体に、保管してある倉庫までの道は遠すぎたから。
 ハーレイに頼んで行って貰うのも、悪いような気がして頼まないままになったから…。



 そうだったのか、と見詰めた香炉。とうに乳香は燃え尽きたけれど、森の匂いが残った服。
 強い香りを纏った煙が、また新しく染み込んだから。
 前のハーレイと二人で焚いていた香り、あの香りが部屋に広がっていった後だから。
「…ハーレイと一緒に乳香を焚いたの、あれ以来だね…」
 ちっとも気付いていなかったけれど、あの時以来。
 あれが最後で、今日まで焚いていなかったんだよ。…すっかり忘れてしまっていたけど。
「俺も忘れてしまっていたなあ…。お前が香炉を持って来たって」
 何年ぶりになるんだろうなあ、こうして二人で焚いたのは。
 そうだ、今のお前の人生ってヤツはこれからなんだし、今の、祈ってもいいんじゃないか?
 俺たちのために、久しぶりに。
 …もう乳香は焚いちまったが、今から祈っても間に合うかもしれん。
「ホントだ…!」
 急がなくっちゃ、まだ服とかには匂いが残っているんだから…!
 二人でお祈り、今の分で…!



 早く、早く、とハーレイを急かして、二人一緒に目を閉じた。
 遠く遥かな時の彼方で、二人で行こうと祈った地球。
 青い地球には来てしまったけれど、今は新しい人生だから。
 自分もハーレイも青い地球の上に生まれ変わったから、幸せを祈ってもいいだろう。
 二人で一緒に焚いた乳香、森の香りが微かに残っている内に。
 幸せに生きてゆけますようにと、久しぶりに神に祈っても。
 いつまでも、何処までも、ハーレイと二人。
 この地球で生きてゆけますようにと、いつまでも何処までも、二人、手を繋いで幸せにと…。




            乳香の香り・了

※神に捧げる香だった、乳香。白いシャングリラでも乳香の木を植えて、祈る時にはその香を。
 前のブルーもハーレイと一緒に何度も祈ったもの。今は青い地球で、幸福を祈れる時代。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(ハーレイの席…)
 此処だったよね、とブルーが開いた写真集。白いシャングリラが表紙を飾った、ハーレイの本とお揃いのもの。
 学校から帰った後に、勉強机の前に座って広げてみた。その席が見たくなったから。
 前のハーレイが座っていた席。キャプテン・ハーレイが座った場所を。
(…ハーレイ、いつも此処にいたよね…)
 茶色い革張りのようにも見える、キャプテンの席。本物の革ではなかったけれど。もっと丈夫な人工の素材、座り心地は革と変わらない。そういう風に作ってあった。何時間でも座れるように。
(座り心地が一番だものね)
 普段はともかく、非常事態には座りっ放しになるだろうから。「座り心地が大切なんじゃ!」と譲らなかったゼルのお蔭で、キャプテンの席も周りの席も座り心地は最高だった筈。
(下手な客船にも負けんわい、って…)
 自慢の椅子じゃ、と威張ったゼル。誰が座ってもピタリと馴染むし、座り心地もいいのだと。
 特別な手入れをしてやらなくても五百年くらいは持つであろう、と自信もたっぷり。
(…ゼルの席だって、おんなじだもんね?)
 こだわるよね、とクスッと笑った。「ハーレイの分だけなら、適当に作っていたかもね」と。



 シャングリラで一番広い公園、その公園の上に浮いていたブリッジ。
 本当は公園を作る予定は無かった、ブリッジの周りは危険だから。人類軍に攻撃された時には、真っ先にブリッジが狙われるから。
 なのに「広いスペースを公園にしたい」という声が多くて、出来てしまった広い公園。
 船に危険が迫った時には避難場所として使う代わりに、其処から逃げねばならない公園。何処か間違った公園だったけれど、人気の憩いの場所ではあった。
 公園からはブリッジが見えて、ブリッジからは公園が見える。ブリッジ勤務の者にも憩いの緑。公園の方を眺めさえすれば、緑の芝生や木々の緑や。
(…公園の方が良かったよね、きっと…)
 がらんどうで放っておくより、殺風景なスペースに仕上げるよりも。
 公園とセットになったブリッジ、シャングリラの姿に少し似ていた。宇宙船のようで、おまけに浮いているものだから、箱舟と呼んだ者たちもいた。ブリッジのことを。
 中でもコアブリッジと呼ばれた部分。シャングリラの指揮が執られた中枢。
 円形のスペースに配置された席、ゼルの御自慢の椅子が幾つも。ゼルもブラウもエラも、其処に座っていたけれど。誰の席も同じに見えるのだけど。
 舵輪の正面に位置していたのがキャプテンの席。舵輪から一番近い席。
 白いシャングリラの舵を取る舵輪、いつでも其処へ走れるように。キャプテン自ら舵輪を握って船を操る時に備えて、キャプテンの席は舵輪の正面。



 ハーレイの席、と広げた写真集では、その席に誰も座ってはいない。
 他の席にも誰もいなくて、コアブリッジだけを捉えた写真。停まっている時に撮ったのだろう。ノアか、それともアルテメシアか、シャングリラには馴染みの宙港で。
 キャプテンの席に、其処の主は座っていないけれども…。
(…ハーレイじゃなくて、シドの席…) 
 見慣れたハーレイの席ではあっても、この写真集ではシドの席。キャプテン・シドが座る席。 写真集の元になった写真が撮られた時代は、トォニィの代になっていたから。
 それを思うと少し寂しい。
 ずっとハーレイが座っていたのに、もうハーレイの席ではないのだ、と。
 地球の地の底で死んでしまった前のハーレイ。代わりにシドがキャプテンになって、ハーレイの席を受け継いだ。ハーレイの席はシドの席になって、この写真集の席はシドの席。
(でも、ぼくだって、もういなかったしね…)
 前の自分はとうの昔に死んでいたから、その後のことは分からない。誰が座っていようとも。
 どうせ分かっていなかったのだし、ハーレイの席でなくてもいいか、と考えた所で…。



 あれっ、と気付いた写真集の中のシャングリラ。キャプテン・シドが舵を握っていた船。
(…トォニィだよね?)
 この写真集の船のソルジャー。白いシャングリラの長はトォニィ。
 そうだったっけ、と覗き込んだけれど、コアブリッジの写真にトォニィの席は…。
(やっぱり無いの?)
 一つ、二つと順に数えたコアブリッジに配置された椅子。ゼル御自慢の座席の数は昔と同じ。
 つまりトォニィの席は無いまま。
 前の自分やジョミーが生きた時代と変わらず、ソルジャーの席が無いブリッジ。
(トォニィの席、作らなかったんだ…)
 人類との戦いやSD体制が全て終わって、平和な時代が訪れた後も。
 白いシャングリラが招かれるままに、宇宙のあちこちを旅する時代になってからも。
 ブリッジにトォニィのための席は作られていなかった。作ってもかまわなかったのに。
(トォニィ、船を変えたくなかった…?)
 前の自分やジョミーの時代のままにしておきたかっただろうか、シャングリラを。
 単に改造が面倒だっただけかもしれないけれど。
 コアブリッジに椅子を一つ増やすには、キャプテンの椅子を除いた全部を…。
(外してしまって、場所も移して…)
 増えた分を含めて、均等に設置し直さなければいけないから。
 面倒だから、と放っておいたかもね、とトォニィの席が無い写真を眺めた。



 コアブリッジには無い、ソルジャーの席。其処だけではなくて、ブリッジの何処にも。
 箱舟とも呼ばれた公園の上に浮かんだブリッジ、あそこにソルジャーのための席は無かった。
 ソルジャーは視察に出掛けてゆくだけ、でなければコアブリッジの中央に立つだけ。専用の席は何処にも無いから、用が無ければブリッジにいる必要も無い。
(…前のぼくの時は…)
 ソルジャー・ブルーの席が無いのは、ソルジャーは航行に携わらなくてもいい、という意味。
 船のことはキャプテンやブリッジの仲間に任せて、のんびり過ごしていて下さい、と。
 表向きはそういうことだったけれど。船の仲間たちも、そうだと信じていたけれど。
(…ホントは違った…)
 唯一のタイプ・ブルーのソルジャー。ただ一人だけの戦える者。
 前の自分は名前通りに戦士で戦力、シャングリラを守って攻撃にだって出てゆける。
 けれど、ブリッジで腰掛けていては、戦うことも守ることも出来はしないから。
 立ってゆかないと、どちらの役にも立たないから。
(だから無かった…)
 ソルジャーのための席などは。コアブリッジにも、ブリッジの中の他の場所にも。
 白い鯨に改造する時、設けられなかったソルジャーの席。
 人類軍からの攻撃を受けたら、ソルジャーは船の外で戦うか、船をシールドで覆って守るか。
 ブリッジの席では何も出来ない、戦うことも、守ることさえも。
 シャングリラ全体を守るとなったら、集中力が必要だから。
 船を守ろうと怒声が飛び交うブリッジにいては、シールドに集中出来ないから。



 改造前の船だった頃は、誰も気にしていなかった。ソルジャーの席の有無などは。
 こういう特殊なブリッジではなくて、ごくごく普通の宇宙船。何処にでもある平凡なブリッジ、席の配置も平凡なもの。操縦用の席やら、副操縦士のための席やら、他にも色々。
 ソルジャーの席は無かったけれども、無いと決まってもいなかったから。
(ぼくだって、たまに…)
 ブリッジに出掛けて行った時には、空いていた席に座ったりもした。席の主が休憩に行ったり、非番で空いているような時は。
 常に全員が詰めていたわけではなかったブリッジ。のんびり宇宙を旅した時代。
 人類の船に見付からないよう、宇宙を飛べればそれで良かった。白い鯨になるよりも前は。
 とにかく生きて旅をすること、未来に向かって生き延びることが何よりも大切だった船。
 ソルジャーの自分が何処にいたって、何も言われはしなかった。ブリッジの席に座っていても。
 持ち主が留守なら座れたのだし、キャプテンの席の隣でも。
(副操縦士…)
 本来は、そんなポジションだった。前の自分がストンと座った、キャプテンの隣にあった席。
 座ったところで、船は動かせなかったけれど。操縦は手伝えなかったけれど。
 本物の船と、シミュレーターとは違うから。遊びで船は操れないから。
 いつも座っていたというだけ、副操縦士の席から眺めていただけ。
 ハーレイが船を操るのを。
 かつては厨房でフライパンを握っていた手で、それは見事に船を前へと進めてゆくのを。



 そういう風に過ごしていたのに、ブリッジに座っていられたのに。
 白い鯨への改造計画、ブリッジの案が提出された会議の席で驚いた。自分の席が無かったから。研究を主な仕事にしていたヒルマンはともかく、ブラウもエラもゼルも居場所があったのに。
「…ぼくの席は?」
 ソルジャーの席が無いようだけれど、この案はどうなっているんだい…?
 間違いでは、と図面を指したら、「要らんじゃろうが」とゼルが即座に返した。
「ソルジャーが座って何をするんじゃ、ブリッジで」
 此処での仕事は無いじゃろうが、と言ったゼルの横からブラウやエラも口を揃えた。
 普段はいいかもしれないけれども、非常事態の時にはマズイ、と。
 ソルジャーは船の外へと出て戦うか、シールドで船を守り抜くか。どちらもブリッジでは無理なことだし、ソルジャーの席は設けられないというのが彼らの意見。
「一応、あってもいいと思うけど…」
 ぼくの力が必要な時は、直ぐに飛び出して行けるから…。そうでない時はブリッジにいれば…。
 ブリッジは船の心臓なんだし、ソルジャーの席も作るべきだよ。
「駄目じゃ。ソルジャーがその席におらんと、皆が不安になってしまうわい」
 ソルジャーが席を離れるくらいの非常事態じゃと、船中に知れてしまうじゃろうが。
 一人が慌てれば皆が慌てる、思念波で直ぐに広がるからのう…。
 騒ぎを大きくするだけじゃわい、とゼルが髭を引っ張り、ブラウも大きく頷いた。
「そうだよ、ドッシリ構えているなら別なんだけどね」
 ブリッジでちょいと目を瞑るだけで、守りも攻撃も出来るんだったら、誰も何にも言わないよ。
 だけど、そいつは無理だろうしね、周りがバタバタし始めた時に集中出来るわけがない。
 攻撃だって外に出た方が楽だろうし、と言われてみれば、その通りで。
 反論出来はしなかった。ゼルやブラウの意見は正しく、何処も間違ってはいないのだから。



 船が新しく生まれ変わるのに、そのブリッジには無くなるらしい自分の居場所。
 作って貰えないソルジャーの席。
 今のブリッジとはまるで違った、ミュウの船らしいブリッジがゼロから作られるのに。人類には想像も出来ないだろうブリッジ、それが誕生するというのに。
 自分の居場所は其処に無いのか、と図面に視線を彷徨わせていたら、ゼル指先で叩いた図面。
「此処がハーレイの席になるんじゃ、キャプテンの席じゃ」
 ブリッジでドッシリ構えておくのは、キャプテンの役目というヤツじゃろうが。
 慌てず、騒がず、指揮を執り続ける。そういう役目はキャプテンに任せておけばいいんじゃ。
 ソルジャーには別の役目があるじゃろ、万一の時は。
「うん…。ぼくがブリッジに座っていたんじゃ、確かにどうにもならないね…」
 外へ出てゆくか、シールドに集中できる場所に移るか、どちらかだろうし…。
 ぼくがブリッジからいなくなったら、相当にマズイと皆に知らせるようなものだね、確かにね。
 アッと言う間に広まるだろうね、ぼくがブリッジから出たということ…。



 ミュウの特徴の一つは思念波。瞬時に情報を共有出来る力は強みだけれども、諸刃の剣。
 抑え切れない強い感情を、さざ波のように船に広げてしまうから。それを拾った仲間の心から、別の仲間の心へと。次から次へと連鎖してゆく、喜びだろうが、悲しみだろうが。
(…今みたいに、みんながミュウって時代じゃないから…)
 誰も備えてはいなかった。他の誰かの感情や心に共鳴しないで、自分の心を守る力を。
 今の時代なら、サイオンが不器用な自分でさえも、生まれつき備えている力なのに。
 それを持たなかった初期のミュウばかりが乗っていた船がシャングリラ。
 ブリッジの仲間が動揺したなら、船の仲間に直ぐに伝わる。
 人類軍の攻撃だけでもパニックだろうに、その中でソルジャーがブリッジから姿を消したなら。攻撃に出たか、守りに入ったか、どちらにしても戦況が悪化したということ。
 ブリッジにいては防ぎ切れないと判断したから、席を離れただろうソルジャー。
(これは危ない、って誰かが思えば…)
 その感情はブリッジから近い所の誰かに伝わり、そこから次へ。そのまた次へと広がってゆく。
 一度広がり始めた思念の連鎖は、そう簡単には止められない。
 誰かが気付いて「大丈夫だ」と叫んだとしても、「本当なのか」と疑う心もまた連鎖する。
 そうなった時は、船の航行に支障を来たすどころか、最悪の場合は沈むだろう。
 いくらハーレイたちが頑張っていても、何処かで生じてしまう綻び。
 もう駄目なのだと誰かが思えば、たちまちそれが広がるから。
 船を守ろうという強い感情は砕けてしまって、装備する予定のサイオン・シールドは霧消する。船の姿を消し去るためのステルス・デバイス、それも崩れて無くなってしまう。
 剥き出しになった上に守りを失くせば、後は猛攻を浴びるだけ。
 どんなに自分が守ろうとしても、ハーレイたちが死力を尽くしたとしても、もう救えない。
 船の仲間たちが、駄目だと船を諦めたなら。助からないと思い込んだら…。



 ソルジャーだからこそ分かっていたこと。ミュウという種族の特徴と弱さ。
 負の感情の連鎖が引き起こす悲劇、それは確かに起こり得るから。
 指摘された以上は、もう押せなかった。諦めざるを得なかった。
 すっかり新しく生まれ変わる船、白い鯨のブリッジに席を設けることを。ソルジャーの席を。
(ホントは欲しかったんだけど…)
 そうすることで生まれるリスクを考えてみたら、とても通せはしない我儘。白いシャングリラのブリッジに自分は座れはしない。そのための席は無いのだから。
 ソルジャーの席を作ってしまえば、リスクが高まるだけなのだから…。
(…作れないね、って言うしかなくて…)
 ブリッジにソルジャーの席は設けないことに決まって、正式に書かれた設計図。コアブリッジに設置する椅子も、ゼルがあれこれ考えていた。
 「五百年は使えるようにしておくんじゃ」だとか、「座り心地の良さが大切なんじゃ」とか。
 ソルジャーの分は無い椅子を。座り心地がどうであろうが、自分は関係無いだろう椅子。
 たまたまブリッジに立ち寄った時に、空いていたなら別だけれども。



 白い鯨の全体像が決定されて、資材集めも順調に進み、改造が始まる少し前のこと。
 ふらりとブリッジに出掛けて行ったら、ハーレイの隣が空いていたから。
 副操縦士の席が「どうぞ」とばかりに待っていたから、其処にストンと腰を下ろして…。
「あと少しだけだね」
 ハーレイにそう掛けた声。船の前方を真っ直ぐ見ているキャプテンに。
「何がです?」
 あと少しとは、とハーレイが顔をこちらへ向けたから。
「ぼくの席だよ。…君の隣に座っていられるのは、あと少しだけ」
 改造されたブリッジになったら、ぼくの席はもう無いんだから。
 …君の隣には座れなくなるよ、あと少ししたら。
「そうですね…」
 エラやブラウの席が空いていたとしても、今のようには…。
 ブリッジクルーも増えるのですから、二人しかいないという状態にはならないでしょうね。
 今はあなたと私だけしか、ブリッジにはいないわけですが…。当分は誰も戻りませんが。
 こういう機会が無くなるのだな、と考えてみたら、少し寂しい気もします。
 あと少しだな、と気付かされたら。
「ぼくもだよ…」
 新しい船のブリッジには、ぼくの席が無いというのも寂しいけれど…。
 君の隣に座れなくなるのが寂しいな。
 何度も此処に座っていたしね、君がキャプテンになってから。
 この船を動かせるようになった後には、よくこの席に座っていたから…。
 新しい船では、それが出来なくなるというのが寂しいかな…。



 もうあと少しで見納めなのか、と黙って見詰めた漆黒の宇宙。副操縦士の席からの眺め。
 ハーレイも黙々と船を操り、暫く無言で二人で座って。
 瞬かない星が幾つも散らばる宇宙を、船は進んで行ったのだけれど。ハーレイがスイと指差した先。褐色の指が示した惑星。
「ソルジャー、あの星を周りませんか?」
 あと数分で通過しますから、あれを回って飛ぶのもいいかと…。
「そういう航路設定なのかい?」
 時間調整か何かのためかな、それとも進路を少し変えるとか?
 星の引力に助けて貰って…?
「いえ、これが最後かもしれませんから…」
 ソルジャーを隣に乗せて飛べる機会は、これが最後かもしれません。
 次においでになった時にも、その席が空いているかどうかは分かりませんし…。
 空いていたとしても、二人きりとは限りません。
 今日までは何度もあったことですが、新しい船ではもう無理ですし…。
 この船で次があるかどうかも、まるで分かりませんからね。



 あの星を一周してゆきましょう、とハーレイが提案してくれた星。
 なんの変哲もない、恒星からも遠く離れた惑星だった。目立った特徴すらも無い星。表面を覆う大気も地表も、宇宙では至って見慣れたもの。旅をしていれば幾つも見掛ける、そんな惑星。
 何処の星系だったかは忘れた。何番惑星だったのかも。
 けれども、ハーレイと二人で周った。名前だけだった頃のシャングリラで。白い鯨になるよりも前の、人類がコンスティテューションと呼んでいた船で。
 ハーレイが一人で決めた航路の変更。通り過ぎるだけの予定の星を周ってゆく航路。
 誰からも文句は来なかった。
 惑星から離れた所を通過する代わりに、衛星軌道に入っても。星の周りを回り始めても。
 どういう航路で飛んでいようが、危険が無ければ誰も気にしていなかったから。
 警報の類も鳴りはしないから、ハーレイは慣れた手つきで船を進めた。
 「一周すると言っても、直ぐなのですが」と、「そんなに長くはないのですが…」と。



 衛星軌道から見下ろした星。船の真下を流れてゆく星。
 特に珍しくもない筈の星が、その時はとても綺麗に思えた。雲も、その下に見える地表も。
「綺麗だね…」
 人は住めない星だろうけれど、ちゃんと空には雲が浮いてて…。雲の下には地面があって。
 とても綺麗だよ、この星の周りを飛べて良かった。通過してたら、見られなかった景色だから。
「これが地球ならいいのですけどね…」
 残念なことに、名前さえもついていないような星で…。
 けれど、いつかは地球までお連れしますよ。いつか必ず、青い地球まで。
 新しい船が出来上がったなら、地球へ行ける日も近付くでしょう。
 今の船では戦えませんが、新しい船にはサイオン・キャノンも出来るのですから。
「それは嬉しいけど…。約束してくれるのは頼もしいけど…」
 ハーレイの腕と新しい船があったら、きっと地球まで行けると思う。いつかは、きっと。
 だけど、ぼくはもう、君の隣に席が無くなってしまうんだけれど…。
 こんな風に隣に座れはしなくて、他の席にだって、座れるかどうか…。
「大丈夫ですよ。地球に着いたら、戦いは必ず終わるでしょうから」
 平和になったら、空いている席も出来ますよ。ブリッジに詰めている必要は無いのですから。
 今日のようにガランと誰もいない日が来るでしょう。
 キャプテンだけしかいないような日が、何処の席でも好きにお座りになれる日が。
「そうだね、きっとそうなるだろうね…。地球に着いたら」
 またこうやって座ってみたいな、君の隣に。
 新しい船のブリッジだったら、眺めも変わるんだろうけど…。
 その船にこうして乗ってみたいと思うよ、君の隣に空いている席が出来たらね。



 地球を一周して飛ぶ船に、と夢見たけれど。新しい船で地球を周ろう、と思ったけれど。
 それがハーレイの隣に座った、最後になってしまったのだった。
 改造に入る前にもう一度、とブリッジを覗きに行っても、空いていなかったハーレイの隣。前の自分が何度も座った、副操縦士のための席。
 ハーレイの隣には座れないまま、始まってしまった船の改造。
 前の自分は改造中の船を守るのに忙しくなって、もうブリッジには立ち寄れなかった。覗いても直ぐに持ち場に戻ってシールドを張ったり、船の周りを警戒したり。
 そうこうする間にブリッジは新しい場所に移って、まるで違う姿になってしまった。公園の上に浮かぶ形のブリッジ、円形のコアブリッジがキャプテンの居場所。
 ハーレイやゼルたちの席はあっても、ソルジャーの席は其処に無かった。
 ゼルがこだわって作らせた椅子は、前の自分の分が無かった。五百年は持つと言われた椅子は。茶色い革張りを思わせる椅子は。
 それでも、いつかと夢を見ていた。またハーレイの隣に座れる日が来るだろうと。
 お気に入りだった副操縦士の席は無くなったけれど、また別の席に。
 一番の狙い目はエラの席。ハーレイの左隣の席。
 副操縦士の席も左隣にあったのだから、と其処が空く日を待ち焦がれていた。
 あそこから見たらどんなだろうかと、地球の周りを飛んでゆく時はどういう風に見えるのかと。
 きっといつかは座れるだろうと、ハーレイの隣で地球を見ようと。



 それほどに地球に焦がれていたのに。ハーレイの隣で青い水の星を見たかったのに。
(新しい船が出来ても、ぼくは地球まで…)
 ついに行けないままだった。辿り着けずに終わってしまった。
 メギドを沈めて、前の自分の命は終わってしまったから。ハーレイとも離れてしまったから。
 前の自分は、二度とハーレイの隣に座れはしなかった。あんなにも夢を描いていたのに。
(…いつかは地球の周りをハーレイに飛んで貰おう、って…)
 ハーレイの隣に座って飛ぼうと、新しい船でもハーレイの隣に座るのがいい、と。
 今から思えば、ハーレイの隣の席に座って、あの船で惑星を周っていた時。
 自分では気付いていなかったけれど、とうにハーレイに恋をしていたのだろう。
 そしてハーレイの方でも、きっと。
 「あの星を周ってゆきませんか」と航路を変えてくれたハーレイ。
 最後になるかもしれないから、と。
 「新しい船が出来たら、いつか地球までお連れしますよ」と。
 その時はまた隣の席が空くだろうから、其処に座ってくれればいい、と…。



 改造が済んで、白い鯨になった船。ミュウの力でゼロから作り上げたブリッジ。
 人類のものとはまるで違って、五百年は持つとゼルが自慢した、茶色い革張りを思わせる椅子が幾つも並んでいたのに…。
(ぼくの席、無かった…)
 あのブリッジに、ソルジャーのための席は無かった。それを作ってはならないから。
 本当は、ハーレイの隣に座っていたかったのに。改造前の船でそうしたように。
 副操縦士の席とは違っていたって、コアブリッジに席が欲しかったのに。
 ゼル御自慢の椅子でなくてもいいから、座り心地が悪い椅子でもかまわないから、キャプテンの席の隣に欲しかった。自分の席が、ソルジャーの席が。
 無理だと分かっていたけれど。
 白いシャングリラが置かれた状況、それに当時のミュウの弱さと。
 それを思うと絶対に無理で、新しいブリッジにソルジャーの席を作れはしなかったのだけど。
(トォニィは何処かに座れたのかな…)
 何度数えても、増えてはいないコアブリッジの席。ソルジャーの席は設けられないまま。
 けれど、トォニィはきっと座っていただろう。
 前の自分が夢に見たような、平和な時代だったのだから。
 キャプテン・シドの隣の席でも、何処でも空いていたのだろう。
 全員がコアブリッジに詰める必要などは無かったから。
 今日は此処だ、と空いている場所にストンと座ってゆけたのだろう。
 ソルジャーの席を作らなくても、空きは幾つもあったから。前の自分の頃と違って…。



 座り損ねたハーレイの隣。
 トォニィはシドの隣に座れただろうに、前の自分はハーレイの隣に座れなかった。
 改造前の船で隣に座ったあの日が、最後の思い出になってしまった。また座れると思ったのに。
 いつか地球まで辿り着いたら、また座ろうと夢を描いていたのに。
(座れないままになっちゃった…)
 溜息をついて、パタンと閉じた白いシャングリラの写真集。ぼくの席が無かった船だっけ、と。
 本棚に写真集を返して、また溜息を零していたら、ハーレイが訪ねて来てくれたから。
 そうだ、と訊いてみることにした。前の自分とハーレイとのことを。
「あのね、ハーレイ…。ぼくの席、無かったんだけど…」
「はあ?」
 お前の席ならあっただろうが、今日も座っているのを見たが?
 それとも席替えで消えちまったのか、俺の授業の後で席替えがあったのか?
 たまたまお前が移った先で、机か椅子かが壊れちまったか…?
「そうじゃなくって、前のぼくだよ」
 シャングリラのコアブリッジにあった椅子…。
 ゼルの自慢の椅子だったけれど、ぼくの席だけ無かったんだよ。ソルジャーの席は。
「ああ、あれなあ…」
 仕方ないだろ、あの頃は事情が事情なんだから。
 ソルジャーの席を作っちまったら、後が大変だったんだ。…お前も分かっていただろうが。
「そうだけど…。だけど、座りたかったんだよ…」
 ハーレイの隣に座りたかったな、エラが座っていた席に。いつでも左に座っていたから。
 前のぼくが好きだった副操縦士の席、ハーレイの左側だったから…。
 あそこに座ろう、って思っていたのに、座れないままになっちゃったんだよ。
 あの席、きっとトォニィは座っていたんだろうけど…。
 ソルジャーの席が増えてないから、トォニィは座れたんだろうけど…。



 前のぼくは座り損なっちゃった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
 白い鯨では一度も座れないままだったけど、と。
「…ぼくがハーレイの隣に座れていたのは、改造する前の船だった頃で…」
 また座れると思っていたのに、とうとう座れないままで…。
 ハーレイ、ぼくが最後に隣に座っていた日に、惑星の周りを飛んでくれたの、覚えてる…?
 「これが最後かもしれませんから」って、ちょっと航路を変えてくれて。
 ぼくとハーレイしかブリッジにいなかった時なんだけれど…。
「あったっけなあ…!」
 懐かしいなあ、まさか本当に最後になるとは俺も思っていなかったんだが…。
 あの船での最後ってつもり程度で、次があるさと軽い気持ちでいたわけなんだが…。
 本当に最後だと分かっていたなら、二周くらいはするべきだった。
 三周でもいいな、いや、誰かがブリッジにやって来るまで、ずっと周ってても良かったなあ…。
「…ホント? ぼく、ハーレイに訊きたいんだけど…」
 あの時、ぼくを好きだった?
 ぼくのこと、好きだと思ってくれてた…?
 ちっとも気付いていなかったけれど、ぼくはハーレイのことが好きだったんだと思うんだよ。
 だから隣に座りたくって、空いてる時には座っていて…。
 白い鯨になった後には、もうブリッジに席は無いけど、いつか座ろうと思ってたんだ、って。
 …ハーレイはぼくのこと、好きだった…?
「俺もとっくに好きだったんだろうな、お前と同じで」
 それで航路を変えようと思ったんだろう。
 お前と並んで座れるチャンスは当分やって来そうにないし…。二人きりというのも難しいし。
 今の内だと考えたんだな、お前とゆっくり飛んでおこうと。
 次はいつだか分からないから、お前と二人で外を眺めておかないと、とな…。



 シャングリラでドライブしちまったらしい、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
 前のお前とドライブをしたと、地球までは連れて行ってはやれなかったが、と。
「…約束したのに、守れなかったな…。だが、あんな赤い地球ではなあ…」
 お前もガッカリしたんだろうなあ、もしも地球まで行っていたなら。
 あの星の方がよっぽどマシだ、とドライブしていた星の話を持ち出したかもな。
 …それでも、お前は俺の隣に座って眺めたかったんだろうが…。
 地球が少しも青くなくても、俺の隣で見ていられるなら、それで満足だったんだろうが…。
「うん…。ハーレイの隣に座って眺められるんならね」
 きっと充分だったと思うよ、前のぼくには。…地球まで行けずに終わったけれど…。
 でも、今は来たよ、青い地球まで。
 ハーレイの隣に座っていけるよ、前のぼくが座っていたみたいに。
「おいおい…。今の俺はだ、宇宙船なんかは全く動かせないんだが?」
 前のお前に約束はしたが、生憎と俺はパイロットじゃなくて…。
 ただの古典の教師ってヤツで、お前を隣に乗っけて地球を一周するのは無理なんだが…?
「ううん、ハーレイの車で充分!」
 それでいいんだよ、いつか乗っけて走ってくれれば。
 星を一周しなくていいから、ぼくを隣に乗せてドライブしてくれれば。
 行き先はホントに何処でもいいよ。
 あの時みたいにハーレイが決めて、「行こう」って言ってくれる所でいいから。
「よしきた、車でドライブだったら任せておけ」
 お前の行きたい所へ好きなだけ俺が連れてってやろう、前の俺が約束していた分まで。
 地球には二人で来ちまったんだし、車で行ける所だったら何処でもいいぞ。
 車でいいなら、シャングリラでなくてもいいのならな…。



 いつかお前が大きく育って俺とドライブ出来る日が来たら、とハーレイが約束してくれたから。
 またハーレイの隣に座ろう、宇宙船ではなくて車だけれど。
 副操縦士の席でもコアブリッジでもなくて、助手席に乗って行くのだけれど。
 遠く遥かな時の彼方で、二人で座っていたように。
 お互い、恋をしていることにも気付かないままで、シャングリラでドライブした日のように。
 今度は恋人同士で、いつか。
 ハーレイの車の助手席に乗って、青い地球の上を走ってゆこう。
 惑星の周りは飛べないけれども、幸せなドライブに違いないから。
 またハーレイの隣に座って、二人だけで何処までも、いつまでも走ってゆけるのだから…。




          ブリッジの席・了

※白いシャングリラの何処にも無かった、ソルジャーの席。作るわけにはいかなかったのです。
 改造する前、ハーレイの隣が好きだったブルー。いつかハーレイの愛車で、隣の席に…。
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(あれ…?)
 学校の帰りにブルーの耳に届いた音。バス停から家まで歩く途中で。
 カーンと澄んだ鐘の音が一つ。何処からともなく、風に乗って。
(下の学校…)
 あそこの鐘、と顔が綻ぶ。今の学校に入学するまでは、家から歩いて通っていた。幼稚園の次は下の学校、自分が初めて通った学校。勉強をしに行く所。
 幼稚園は遊びの場所だったからか、学校嫌いの子も多かった。勉強も、じっと自分の席に座っていなければならない規則も、遊び盛りの子供には向いていないから。
(…大きくなっても、おんなじだけどね?)
 友達と遊べる時間はともかく、授業は大抵、歓迎されない。今、通っている学校でも。なんとも嫌われ者の学校、勉強を教える場所だということで損をしている。
 学校でなければ得られないものも多いのに。新しい友達も、学校で大勢出来てゆくのに。
(ぼくも、そうだったんだから…)
 下の学校で幾つも貰った、知識も、それに友達だって。
 家から歩いて行ける距離だから、その学校の鐘がたまに聞こえる。上手い具合に風に乗ったら。
 さっき聞こえていたように。一つだけ、カーンと。
 授業の合図のチャイムと違って、いつでも音は一回きり。
 今日はなんだか懐かしい。あの鐘の音が、澄んだ響きが。久しぶりに聞こえたからだろうか?
(…それに、学校の鐘だしね?)
 今の学校に入る前には、八年もお世話になったのだから。何度も耳にしたのだから。
 懐かしいこともあるだろう。学校の鐘、と。
 もう聞こえない鐘の音。いつも一度しか鳴らさない鐘、二度目の音は届かない。
 気付いた時には通り過ぎてしまっていた音だから、余計に懐かしいかもしれない。学校の鐘、と意識した時は、響きが残っていただけだから。



 きっとそのせい、と考えて家に帰ったけれど。残りの道をのんびり歩いて行ったのだけれど。
 家に着いて、制服を脱いで着替えて、ダイニングでおやつを頬張っていたら、また思い出した。鐘の音がとても懐かしかった、と。
 鼓膜を震わせただけではなかった、あの鐘の音。心の襞まで震わせていった。澄んだ響きで。
 たった一回、カーンと鳴らされ、耳に届いただけなのに。
(…あの鐘、そんなに好きだったっけ?) 
 授業の合図には使われない鐘、休み時間を知らせる鐘だった。他にも色々、生徒を校庭に集める時とか、完全下校の時間が迫った時だとか。
 生徒の注意を引き付けるために鳴らされる鐘。何度も鳴らすより効果的だと思われていたのか、いつでも一度きりだった鐘。カーンと一回。
(本物の鐘で…)
 小さな鐘楼のような所に吊るされていた。紐を引っ張って鳴らしていた鐘。
 いい音がする鐘だったことは確かだけれど。今の学校には無いものだけれど。
(でも、懐かしいほどじゃ…)
 ないように思うのに、懐かしい。帰り道に聞こえた、あの鐘の音が。
 まるで覚えていないけれども、鳴らしたことでもあっただろうか?
 たまに希望者が鳴らせた鐘。係の先生が出て来た時に、サッと元気に手を挙げたなら。
(んーと…)
 どうだったっけ、と考えたけれど、鳴らしてはいない。紐を手にした記憶が無いから。
 多分、名乗りを上げる勇気も無かっただろう。ついでに、力一杯、鳴らさなくてはいけない鐘。一度だけしか鳴らさないのだし、学校中に届くようにと。
 失敗したら大変だから、と眺めていたのに違いない。ぼくには無理、と。



 下の学校の鐘は、そういう鐘。自分はいつも見ていただけ。鐘の響きを聞いていただけ。
 けれど、懐かしくてたまらない。おやつを食べ終えて部屋に戻っても、まだ耳の奥に残った音。帰り道に聞こえた、あの鐘の音。
(やっぱり、ぼくも鳴らしたのかな?)
 勇気を奮って、名乗りを上げて。精一杯の力を鐘にぶつけて、カーンと一回。
 それとも鳴らしたかったのだろうか、今頃になって思い出すほど。鳴らしたかったな、と響きを追い掛けるほど。とうに通り過ぎてしまった鐘の音、それを懐かしく思うほど。
(ぼくの馬鹿…)
 きっと鳴らしていないのだろう。鳴らしていたなら、誇らしく覚えていそうだから。
 しみじみと懐かしむくらいだったら、鳴らしておけば良かったのに。
 そうすれば思い出が一つ増えたし、今日の鐘の音も感慨深く聞けただろう。「誰だろう?」と。係の先生が鳴らしていたのか、生徒の中の誰かだろうか、と。
(今のぼくなら…)
 名乗れると思う、「ぼくもやりたい」と前に出られる。他に希望者がひしめいていても、グイと前に出て、ジャンケンもして。
 運良く勝てたら鐘を鳴らせるし、負けても次のチャンスはある。一回限りで挫けるような真似はしなくて、鳴らせるまで挑戦出来ると思う。何度でも勇気を出して名乗って。



 見ていただけの鐘を鳴らせそうなのが、上の学校に上がった自分。鐘があった下の学校の頃は、本当に見ていただけだったのに。
(今の学校に上がったから?)
 制服がある上の学校。「お兄ちゃん」になった気分で袖を通した入学式の日。義務教育の最後の学校、卒業した後は結婚も出来る十八歳。
 大人に一歩近付く学校、其処に進んだから勇気がグンと増えただろうか。
 でなければ、前の自分の勇気。記憶と一緒に、ソルジャー・ブルーの分が戻って来たろうか?
(…前のぼくかも…)
 英雄だったソルジャー・ブルー。知らない人など、誰もいないほどの。
 学校の授業で教わる前から、子供は自然と何処かで覚える。前の自分の名前と姿を。一番最初のミュウの長。ミュウの時代が始まる切っ掛け、それを作った偉大な英雄。
 今の自分でさえ、あの生き方は真似られない。
 いつでも仲間たちが優先、命まで捨ててメギドを沈めた。白いシャングリラを守るために。迷いさえせずに、そう決めた自分。此処で自分が行かなければ、と。
 とても敵わない、前の自分の勇気と生き方。逆立ちしたって敵いはしない。
 同じ魂が生まれ変わって、今の自分がいるというのに。記憶もちゃんと持っているのに。
 弱虫になってしまった自分。ソルジャー・ブルーだったとは思えないほど、ちっぽけな自分。



(でも、前のぼくの記憶を思い出したお蔭で、ちょっぴり勇気…)
 下の学校の生徒だった頃は、見ていただけで終わった鐘。あれを鳴らせる勇気が増えた。今なら自分も手を挙げられるし、あの鐘だって鳴らせるだろう。
 ソルジャー・ブルーの勇気の欠片を貰ったから。前の自分の強さの記憶を持っているから。
 前のぼくのお蔭で、前よりも強いぼくになれた、と思った途端に。
(あの鐘…!)
 帰り道にカーンと聞こえた鐘。懐かしさを覚えた、澄んだ鐘の音。
 懐かしい音はシャングリラだった、白い鯨であの音を聞いた。前の自分が生きていた船で。
 けれど、シャングリラに、ああいう鐘はあっただろうか?
 白い鯨に、ミュウの箱舟に、澄んだ音のする鐘は据えられていたのだろうか?
(…船に教会、無かったよ?)
 今の時代に鐘と言ったら、教会の鐘が真っ先に浮かぶ。前の自分が生きた時代も、そうだった。ただ一人だけ消されずに残った神のためにあった教会と、其処の鐘楼に吊るされた鐘と。
 シャングリラには設けなかった教会、鐘も鐘楼もあるわけがない。
 ヒルマンが子供たちに勉強を教えていた教室では、合図はチャイムか船内放送。鐘など鳴らしていなかった。紐を引っ張って鳴らすような鐘は。
(…他に鐘って…)
 公園などで見掛けるカリヨン、幾つもの鐘を鳴らして奏でる音楽。それも白いシャングリラには無かったもの。カリヨンとは違った、一つだけの鐘も。
 墓碑公園にも無かった気がする、あそこは祈りの場だったけれど。鐘の音が似合いそうだけど。



 遠い記憶をいくら探っても、まるで見覚えが無いらしい鐘。
 なのに確かに聞いた気がする、白いシャングリラで前の自分が。鐘は何処にも無かったのに。
(…ハーレイだったら、知ってるかな?)
 誰よりも船に詳しいキャプテン、シャングリラの全てを把握していたキャプテン・ハーレイ。
 今のハーレイが覚えているなら訊いてみたい、と思っていたらチャイムが鳴った。仕事の帰りに来てくれた恋人、教師になったキャプテン・ハーレイ。
 いつものテーブルを挟んで座って、母がお茶とお菓子を置いて去った後、早速尋ねた。
「あのね、シャングリラに鐘ってあった?」
 ハーレイだったら、きっと覚えていそうだけれど…。あの船に鐘があったのなら。
「鐘? …鐘って、どういう鐘なんだ?」
 ガランガランと鳴らすヤツなら、その辺で使っていたんじゃないか?
 こう、手に握って鳴らす鐘だな、あれはけっこう音が響くし。
「それじゃなくって、教会の鐘みたいなの…」
 ちゃんと紐を引っ張って鳴らすヤツだよ、下の学校の時にあったんだよ。
 今のぼくが前に行ってた学校、小さな鐘楼みたいなのがあって…。いい音がする鐘がついてた。
 何かの合図の時に鳴らすんだよ、一回だけね。休み時間だとか、他にも色々。
 たまに風に乗って聞こえて来るから、今日の帰りに聞いたんだけど…。
 バス停から歩いて帰る途中で、カーンって一回、鳴ったんだけど…。



 その音が妙に懐かしかった、と恋人に向かって説明をした。
 最初は今の自分の思い出なのかと考えたけれども、違うらしいと。前の自分だと、同じ鐘の音を白いシャングリラで聞いたのだ、と。
「ホントなんだよ、でも、鐘があった場所が分からなくって…」
 何処にも無かった、っていう気がするんだけれども、前のぼくは鐘の音を聞いたし…。
 あの鐘、本物じゃなかったのかな?
 そういう音を流してたのかな、食事の合図とか、そんな具合で船内放送…。
「いや、鐘の音は使っていない。そいつは俺が保証する」
 音楽だとか、色々なのを使ってはいたが…。船の空気が和むようにと工夫していたが、鐘の音は採用してないな。…少なくとも、俺がキャプテンになった後には。
 つまり、お前の言う白い鯨じゃ使っていないということだ。最初の頃の船はともかく。
 船内放送には使ってないのに、前のお前が聞いたとなると…。
 何処かに鐘があったってことか、あのシャングリラに教会みたいな感じの鐘なあ…。
「…やっぱり無かった?」
 ぼくの記憶が間違ってるかな、今のぼくのと混ざっちゃった?
 その可能性だってゼロじゃないよね、混ざってしまって、ごっちゃになって。
「さてなあ…?」
 そう簡単には混ざらないだろうと思うんだが…。少なくとも、俺はごっちゃにならないし。
 シャングリラだな、と思った時には、間違いなく前の俺の記憶だ。
 なにしろ船が世界の全てだ、そうそう今と混じりはしないぞ。地球とはまるで違うんだから。
 お前も多分、同じだろうし…。鐘の音を聞いたと言うんだったら、その音は確かにあったんだ。
 だが、鐘なあ…。あのシャングリラで鐘だってか…?



 シャングリラで鐘のありそうな場所…、とハーレイも暫く考え込んで。
「お前、シャングリラの写真集は見たか?」
 あれを広げて確かめてみたか、何処かに鐘が写っていないか。
「…ううん、見てない…」
「なら、持って来い。俺とお揃いなのが自慢だろうが」
 一緒に見よう、と促されて棚から取って来た写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
 ハーレイと二人でページをめくって、船の中を端から探していった。公園や食堂、展望室。皆が休憩に使っていた部屋、順に調べてゆくのだけれども、やはり写っていない鐘。
 最後のページに辿り着いても、鐘はとうとう見付からなかった。
「…無かったね、鐘…」
 ぼくの気のせいだったのかな?
 今のぼくのと混じっちゃったかな、下の学校にあった鐘の音と…?
「いや、俺も聞いたような気がしてきたぞ」
 お前に鐘だと言われ続けたせいってわけでもないだろう。俺は影響されるタイプじゃないし…。
 今の俺もそうだし、前の俺もそうだ。周りの意見に流されてたんじゃ、キャプテンも無理なら、柔道も水泳も、大して上達しやしないってな。
 俺まで聞いたと思うからには、シャングリラに鐘はあったんだろう。本物の鐘が。
 しかし…。



 何処で、とハーレイは首を捻った。
写真集を広げて探し回っても、無かった鐘。
 もしもシャングリラに鐘があったら、何処かに写っていそうなのに。
「分からんな…。これだけ探して、ヒントすらも無いというのが不思議だ」
 鐘ってヤツは目立つモンだぞ、使い方からしてそうなんだし…。
 あれを鳴らすのは合図と相場が決まっているんだ、それだけに目立っていなくちゃならん。
 人目につかない場所で鳴らしても、合図の役目を果たせないしな。
「…そうなの?」
 鐘ってそういうものだったの?
 下の学校では、確かに合図に使っていたけど…。鐘は元々、そういうものなの?
「そうらしいぞ。お前の学校にあった鐘もそうだし、教会の鐘も似たようなモンだ」
 教会の鐘だと、お祈りの時間が始まる合図に鳴らすんだそうだ。
 結婚式とかの時にも鳴らすが、本来はお祈り用らしい。毎日、決まった時間に鳴らして。
 …待てよ?
 教会の鐘はお祈りの合図で…。
「ハーレイ、何か思い出した?」
「それだ、お祈りの合図ってヤツだ」
 シャングリラの鐘もそれだったんだ。…お祈りの合図に鳴らしてた鐘だ。
「お祈りって…。シャングリラには教会、無かったよ?」
 前のぼくたちは教会を作っていないし、お祈りの合図もあるわけがないよ。
 ハーレイ、何かと間違えていない…?
「おいおい、キャプテンだった俺が、船の設備を間違えるってか?」
 失礼なヤツだな、キャプテン・ハーレイに向かって「間違いだ」なんて。
 まあ、今の俺はただの古典の教師なんだし、そう言われても仕方がないが…。しかしだ、記憶はしっかりしてるぞ、前の俺の分の。
 シャングリラに鐘は確かにあった。お祈りの合図に鳴らすためのヤツが。
 …これだ、これ。



 写真集には載っていないが…、とハーレイが指差す休憩室。
仲間たちの憩いの場所だった部屋。丸ごと写せるわけではないから、捉え切れていない壁や天井の全て。
「…此処にあったの?」
 ぼくは全く覚えてないけど、どの辺り?
 此処でみんなでお祈りしたかな、それの合図の鐘だったかな…?
「此処じゃなくてだ、もっと別の場所に…」
 休憩室という名前だったが、小さいのが一つあったんだ。休憩室は他に幾つもあったが、それは特別なヤツだった。…身体じゃなくって、心が休憩するための部屋だ。
 教会代わりに作っただろうが、そういう部屋を。
「えっ…?」
 休憩室でしょ、なんで教会の代わりになるの…?
 教会は神様のための場所だよ、休憩しに行く所じゃないよ…?
「心のためだと俺は言ったぞ。心を休憩させたい時には此処だ、という部屋だった」
 自分の部屋では、癒せないような時もあるだろう。…色々なことを思い出しちまって。
 そういった時には神様に癒して貰える場所が必要だ、とヒルマンとエラが言い出したんだ。
 本物の教会は専門の神父とかがいないと無理だし、祈るための部屋だけ作っておこうと。
 祈りたい時に、祈りたいヤツが好きに使えるような場所をな。
「ああ…!」
 そういえばあったね、とても小さな休憩室が。
 他の休憩室とは違って、賑やかじゃなかった静かな部屋が…。



 すっかり忘れてしまっていた。ハーレイにそれを聞かされるまで。
 前の自分たちが休憩室と呼んだ、小さな部屋。教会の代わりに作った部屋。存在したことさえ、まるで覚えていなかった。教会があったら其処でするのだろう、結婚式や仲間の葬儀。そういった儀式は他の所でやっていたから。仲間たちが大勢入れるようにと、もっと広い部屋で。
 白いシャングリラの一角にあった、祈りのための休憩室。心を休憩させるための小部屋。
 本当に小さくて、けれど大切な部屋の一つで…。
「鐘はあそこにあったんだ。…お前が言っていたような鐘が」
 部屋の端っこに吊るしてあった。紐を引っ張って鳴らす鐘がな。
「思い出したよ、自分で鐘を鳴らすんだっけ…」
 お祈りしたい気持ちの時には、自分で紐を引っ張って。
 …そういう気分になれない時には、黙って座っているための部屋。自分の心が落ち着くまで。
 ちゃんと落ち着いたら、そのまま静かに出て行ってもいいし、鐘を鳴らして帰ってもいいし…。
 あそこはそういう部屋だったっけね、お祈りのための鐘がある場所。
 これからお祈りしますから、って鐘を鳴らしたり、神様への御礼に鳴らしたり…。
 鐘を鳴らすための決まりは何も無くって、誰でも自由に鳴らせたんだっけ…。



 休憩室と呼ばれていた小部屋。仲間たちとお喋りをするような休憩室とは違った部屋。
 飲み物も食べ物も置かれてはおらず、休憩用の椅子とテーブルがあっただけ。それから鐘と。
 教会の代わりにと設けられた部屋、使い方は決まっていなかった。
 祈りたい人が、祈りたい時に出掛けてゆけばそれで良かった。
 何を祈るのも個人の自由で、鐘を鳴らすのも、鳴らさないのも個人の自由。
 記憶から抜け落ちてしまっていた小部屋、白いシャングリラの教会代わりだった部屋。
 誰も来ないままで一ヶ月だとか、そういう失礼があっては神様に申し訳ないから、と神様の像は無かったけれど。
 神様に仕える専門の仲間は誰もいなくて、教会を彩るステンドグラスも無かったけれど。
 それでも確かに、教会の代わりを立派に果たしていた小部屋。心のための休憩室。
 休憩室で祈る人には、けして事情を訊いてはいけない。その人が涙を流していても。
 黙って自分も祈るのが礼儀、そうでなければ立ち去るもの。
 涙を流している人が話したくないならば。事情を打ち明けたくないのなら。
 鐘はその部屋の壁際にあった。神様の像を据える代わりに。
 小さな小さな部屋だったけれど、吊るされた鐘はゼルが工夫を凝らした鐘。本物の教会の鐘にも負けないものをと、形や金属の配合を何度も検討しながら作り上げた鐘。
 あの部屋に丁度いいように。小さな部屋でも、よく響くように。
 誰が鳴らしても、余韻のある美しい音が響いていた鐘。澄んだ、天まで届きそうな音が。



 白いシャングリラで、前の自分が聞いた鐘の音。あれは祈りの鐘だった。休憩室の壁に吊るしてあった鐘。誰が鳴らしてもよかった鐘。
 祈りたい時に紐を引っ張ってやれば、透き通った音が響き渡った。小さな部屋の中でなければ、きっと遠くまで届いた音が。
 今日の帰り道に聞いた鐘のように、白いシャングリラに鐘の音は響いていたのだろう。鐘の音が外に漏れないようにと作られた部屋でなかったら。
 祈りのための部屋の中でだけ、響くように作られていなかったなら。
(…壁に細工をしてたんだっけ…)
 鐘の音は一つ間違ったならば、騒音にもなるという話だったから。
 遠い遥かな昔の地球でも、問題になった時代があったとヒルマンとエラが調べて来たから。
 本物の教会の鐘楼の鐘は、夜中でも鳴っているものだった。人の心に余裕があった時代には。
 ところが人が余裕を失くして、自分のことしか考えないような時代になったら、教会の鐘の音は騒音になった。夜も昼も鳴ってうるさいから、と。止めて欲しいと殺到した苦情。
 それぞれの暮らしがあるだろうから、と最初は夜だけ止めていた鐘。
 夜は鳴らなくなったというのに、今度は朝早い鐘が嫌われた。あれもうるさい、と。
 そんな具合で、最後には鐘を鳴らさなくなった教会もあったほどだという。
(人類はなんて身勝手なんだ、って思ったけれど…)
 実際にそういう例があったなら、考慮しておくべきだろう。ミュウは心が優しいけれども、船の中だけが全ての世界。聞きたくない時に鐘が聞こえたら、苛立つこともあるだろうから。
 祈りの心を託した鐘が騒音になってしまわないよう、小部屋の壁には細工がされた。サイオンは使わず、吸音材で包んでおいたのだったか。
 鐘の音は部屋には響くけれども、部屋の外には零れなかった。
 だから自分も何処で聞いたか、思い出せずにいた有様。祈りのために鳴らした時しか、鐘の音は聞こえなかったから。
 白いシャングリラの何処に行っても、聞こえた音ではなかったから。



 前の自分も鳴らした鐘。小部屋に入ったら先にいた誰か、他の仲間が鳴らすのも聞いた。
 清らかに澄んだ響きの音を。天まで響いてゆきそうな音を。
 けれども、鐘は写っていない。シャングリラの主だった部屋を収めてあるのに、休憩室の写真も載っているのに。
「…あの部屋、どうして載っていないんだろ?」
 小さいけれども、とても大切な部屋だったのに。…休憩室より、ずっと大事な部屋なのに。
 写真集にも入ってないから、ぼくもハーレイも忘れてたじゃない…!
 きちんと載せておかなきゃ駄目だよ、抜けちゃってるなんて片手落ちだよ…!
「…ある意味、神聖な部屋とも言えるからなあ…」
 教会とは違うが、それの代わりに作った部屋だ。他の部屋とは少し違うぞ、あの部屋は。
 遊びに来ました、と記念に一枚、写真を撮れるような場所ではないだろう?
 前のお前や俺の部屋とは違うんだ。…そのせいじゃないか?
 皆が祈っていた部屋だからな、こういう写真集に載せるつもりは無かったかもしれん。
 娯楽のための出版物には決して載せるな、とトォニィが指示を出したとしたなら、研究者向けのデータくらいしか無いだろう。
 …もしかしたら、そいつも無いかもしれん。
 あの部屋の写真は一枚も撮らずに、シャングリラを解体させたかもしれんな、トォニィは。
 見世物じゃない、と記録は一切残さずに。
 残したとしても、興味本位では見られないよう、厳重に管理がしてあるとかな。



 トォニィたちも祈っていたかもしれないから、というのがハーレイの読み。
 自分も祈りを捧げた場所なら、きっとあの部屋の重さも意味も分かるだろうから、と。
「…俺が思うに、トォニィは祈った可能性ってヤツが高いだろう」
 間違いなく祈っていたんじゃないか、と思わないでもないわけだ。…あの部屋でな。
「そうなの?」
 前のハーレイたちが死んじゃった後かな、ジョミーも地球で死んじゃったから…。
 トォニィはジョミーが大好きだったし、あの部屋、使っていたかもね…。
「その時もそうだが、前の俺が生きていた間。…その間に一度は祈っていそうだ」
 確証は無いが、そういう気がする。トォニィはあそこに行っただろう、と。
「…いつ?」
 アルテラたちなの、トォニィはアルテラに貰ったボトルを忘れなかったし…。
 あのボトルに書かれたメッセージだって、ちゃんと今まで伝わってるし。
「そいつも恐らく入るんだろうが、俺が言うのはマツカを殺しちまった時だ」
 キースを殺しに行ったというのに、仲間の命を奪っちまった。…事故だったがな。
 俺が真相をジョミーから聞いた時には、トォニィは酷く悔やんでいた。
 そういうことか、と傍目に見たって分かるくらいに泣きそうな顔をしていたな…。
 まさか俺にまで知られているとは、恐らく気付いていなかったろうが。
 それが普段のトォニィだったら、「余計なことまでかまうんじゃない!」と怒鳴っただろうに、何も言わずにいたからな。
 …多分、気付いちゃいなかったんだ。自分がどんな顔をしているのかさえ。
 人類の命は山ほど奪っていたトォニィだが、仲間を殺してしまったショックは大きいし…。
 なのに、マツカの葬儀は無かった。シャングリラの仲間じゃないからな。
 アルテラたちが死んだ時には皆が祈って、墓碑にも名前が彫られたんだが、マツカは違った。
 だから祈りに行ったんじゃないかと思うわけだ。…あの部屋で一人、鐘を鳴らして。
 殺しちまったマツカの葬儀を、誰一人してはくれないんだから。



 トォニィがマツカを殺したことは、一部の者しか知らなかったらしい。
 地球が目の前に迫っていたから、ジョミーが敷いた緘口令。皆が動揺しないようにと、マツカの死は固く伏せられた。
 人類の側に、国家主席の側近としてミュウがいたのだと知れたら酷い騒ぎになるから。このまま進んで行っていいのか、迷う者たちも出るだろうから。
 確かに仲間が、一人のミュウが死んだというのに、誰もその死を悼んでくれない。それも仲間に殺されたのに。トォニィが誤って殺したのに。
 マツカを殺したトォニィだけしか、祈れる者はいなかった。前のハーレイも心で祈っておくのが精一杯。船の仲間にマツカのことを知らせるわけにはいかないから。
 きっとジョミーもハーレイと同じ、祈りには行かなかったろう。地球へ行くのが最優先で。
 トォニィは一人で祈るしかなかった、マツカのために。
 自分一人で背負ってゆくには、あまりにも重いその十字架。自分の部屋での祈りだけでは。
 それまで一度もあの部屋に入っていなかったとしても、トォニィは小部屋に入っただろう。鐘を鳴らして祈りを捧げに、自分が殺したマツカのために。
 ミュウの最後のソルジャーになった、トォニィが一人で鳴らした鐘。
 誰も祈りを捧げてくれないマツカの魂、彼が真っ直ぐ天国へ飛んでゆけるようにと。



 悲しい祈りを捧げたトォニィ。自分が殺してしまった仲間を、マツカを悼んで鐘を鳴らして。
 ハーレイはそうだと考えていた。トォニィはあの部屋に行った筈だ、と。
 今の自分も、ハーレイと同じ考えだから。トォニィは小部屋で祈っただろうと思うから。
「そっか…。トォニィが一人で祈るしかなかったことがあるなら…」
 他の仲間は誰も知らなくて、一人きりで苦しい思いをしながら鐘を鳴らしていたんなら…。
 あの部屋の写真は撮らせないかもね、さっきハーレイが言った通りに。
 撮らせたとしても、ホントに一部の研究者向けで、普通の人には見られない仕組み。
 データベースにアクセスしたって、きっと引き出せないんだね。ハーレイもぼくも、今は普通の人間だから…。
「そうなんだろうと俺は思うぞ、写真集に載っていないってことは」
 この写真集は、一番内容が充実していると評判なんだ。そいつにも載っていないんだから。
 …お蔭で俺も忘れていたがな、あの部屋のことも、鐘があったことも。
 お前が鐘だと言い出した時も、直ぐには思い出せない始末で。



 前のお前のために何度も行っていたのに、とハーレイが言うから。
 すっかり忘れてしまっていたとは情けないな、と苦い笑いを浮かべているから。
「…そうだったの?」
 ハーレイ、あそこで祈ってくれたの、前のぼくのために?
 ぼくはハーレイを酷い目に遭わせちゃったのに…。独りぼっちにしちゃったのに。
「だからこそだな。…行かないわけがないだろう」
 お前の所に届くといい、と鐘を鳴らして祈っていた。地球に着いたら俺も行くから、と。
 俺が行くまで待っていてくれと、寂しがらずにいてくれと。…俺の祈りが届くのなら、と。
 鐘の音がお前に届いていたかは知らないが…。お前も覚えていないようだが。
 それはともかく、前のお前も行ってたんだな、あの部屋に。
 シャングリラにああいう鐘があったと、ちゃんと覚えていたんだから。
「うん…」
 いろんな時に祈りに行ったよ、あそこまで。
 先に誰かがいたこともあるけど、ぼくも祈りたかったから…。
 ソルジャーだってお祈りしたってかまわないでしょ、ミュウの未来を祈るんだから。
 …そうやって鐘を鳴らしてたんだよ、ゼルが作って吊るしてくれた鐘を。
 前のぼくもあそこでお祈りしてたよ、ハーレイとは一度も会わなかったけど。



 白いシャングリラの休憩室。祈りのための小さな部屋。
 あの部屋で何度、祈りの鐘を鳴らしただろう。澄んだ音を部屋に響かせる鐘を。
 神に届いてくれればいいと、祈りが神に届くようにと。
「…ハーレイ、あの部屋、シャングリラの教会だったのかな?」
 本物の教会は作っていなくて、あそこは休憩室だったけれど。
 神様の像も、十字架も無かった部屋だったけれど、あれが教会だったのかな…?
「ふうむ…。教会じゃなくて代用品だが、立派に役目は果たしていたなあ…」
 結婚式とかには使えなかったが、祈りの場所にはなったわけだし…。
 前の俺たちも祈ったわけだし、あれも教会だったんだろうな。神様の像が無かっただけで。
「今は教会、ちゃんとあるよね」
 本物の教会が町に建ってて、鐘楼だってくっついていて…。
 この家からは離れているから、鐘の音は聞こえてこないんだけど。
「お前、教会、行ってるのか?」
 真面目に祈りに行っているのか、クリスマスとかに?
「ううん、ハーレイは?」
 ぼくは教会には通ってないけど、ハーレイは行ったりしているの?
「お前と同じだ、俺も全く行ってないってな」
 美味いものが食えるバザーでもあると聞き付けたんなら、話は別だが…。
 そうでなければ、御縁は全く無いってヤツだ。
 あれが教会の鐘の音だな、と意識したことさえ一度も無いなあ、ただの鐘だな。
 カーンと鳴ってりゃ鐘ってだけでだ、学校の鐘か教会の鐘かも俺は気にしていないってな。
 前の俺は何度も真面目に鳴らしていたんだが…。あの部屋の鐘を。



 鐘を鳴らして祈る必要も無いほど幸せになってしまったんだな、とハーレイは楽しそうだから。
 あの鐘のことも二人揃って忘れるくらい、と肩を竦めて笑っているから。
 きっとそういうことなのだろう。
 前の自分たちの頃と違って、鐘を鳴らして縋るような祈りを捧げなくてもいいのだろう。
 神様にはたまにお願いするだけ。
 教会どころか自分の家から、うんと自分に都合よく。これを叶えて下さい、と。
 鐘を自分で鳴らしもしないで、欲張りに。
 早く大きくなれますようにと祈ってみたり、早く結婚出来ますようにと祈ったり。
 ハーレイと二人、平和な時代に、青い地球に生まれて来られたから。
 祈りの鐘を鳴らさなくても、幸せが幾つも降ってくるから。
 そしていつかは、結婚式の鐘が鳴るのだろう。
 ハーレイと一緒に歩き出す日に、幾つも、幾つも、幸せの鐘。
 澄んだ鐘の音が響き渡る中、幸せに包まれて歩いてゆく。
 いつまでも、何処までも、ハーレイと二人。キスを交わして、しっかりと手を握り合って…。




            祈りの鐘・了

※白いシャングリラにあった、祈りを捧げるための鐘。それを鳴らして祈った小さな休憩室。
 けれど、写真集には載せられていないのです。きっと、とても大切な部屋だったから。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




やって来ました、ゴールデンウィーク。シャングリラ号へお出掛けしようという話も出てはいたんですけど、如何せん、今年は飛び石連休。こういう年にはシャングリラ号に行ってもキャプテンの教頭先生をはじめ、機関長のゼル先生も航海長のブラウ先生も不在なわけで。
「今年はやっぱり、こうだよねえ…」
平日は登校、休みはのんびり、とジョミー君。今日はお休みで会長さんの家へ来ています。ゴールデンウィークは始まったものの、間に挟まる学校生活。この三連休が終わればキッチリ元の生活に戻るとあって、ここぞとばかりにダラダラと。
「前半に飛ばし過ぎたからなあ、ここは休んでおくべきだろう」
キース君の言葉はある意味、正解。休みに入るなり、誰が言い出したものかバーベキュー。最初は会長さんのマンションの屋上でゆっくりやろうと思っていたのに、気付けば立派なアウトドア。瞬間移動で出掛けはしましたが、行った先ではしゃぎすぎたと言うか…。
「まあ、後悔はしてませんけどね」
あの馬鹿騒ぎ、とシロエ君。バーベキューをしていた河原はともかく、そこの近くの飛び込みスポット。男の子たちは我も我もと度胸試しで飛び込み続けて、楽しかったものの消耗したとか。
「あれだけ体力を使っちまうと、やっぱ後半は寝正月だぜ」
「サム、それ、何処か間違ってるから!」
お正月はとうに終わったから、とジョミー君が突っ込みはしても、気分はまさしく寝正月。食っちゃ寝とまではいかなくっても食べてダラダラ、喋ってダラダラ、そんな感じで終わりそうなゴールデンウィークですけれど。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と元気な声が。誰だ、と一斉に振り返って見れば…。
「なんだい、君たちは何処にもお出掛けしないのかい?」
ぼくはこれからお出掛けだけど、と私服のソルジャー。何処も混みまくりのゴールデンウィークに何処へ行こうと言うのでしょうか?
「えっ? ノルディに誘われてお祭りにね!」
「祭りとは…。それはまた派手に混みそうだな」
物好きめが、とキース君が呆れているのに、ソルジャーは。
「こっちのお祭り、ぼくはあんまり知らないからねえ…。ノルディのコネでさ、クライマックスを関係者席で見られるらしいし、これは行かなくちゃ!」
じゃあねー、と大きく手を振るソルジャー。お祭りが終わったら帰りに寄るから、おやつと食事の用意をよろしくだなんて、厚かましいとしか言いようが…。



ソルジャーがパッと消え失せた後で、私たちは揃ってブツブツと。
「ゴールデンウィークの真っ只中に祭りに行くとは、あいつ、何処まで元気なんだ…」
俺なら避けるが、とキース君が言うなり、ジョミー君が。
「それが若さってヤツじゃないかな、祭りというだけで血が騒ぐんだよ」
「若さって…。お前、若くねえな」
この年で言ってどうするよ、というサム君の台詞ももっともですけど、ただでも混んでるゴールデンウィークにお祭りなんかに出掛けるパワーは若さそのもの。野外バーベキューをやらかしただけでお疲れ休みになってしまった私たちとは大違いで。
「あの若さが俺も欲しいものだな、祭りと聞いたら突っ込んで行けるパワーがあれば…」
何かと違いが、とキース君が零した溜息が一つ。
「違いって…。何かあるんですか、キース先輩?」
「いわゆる出世街道ってヤツだ。璃慕恩院に祭りと名のつくイベントは無いが、それに準ずるものはある。宗祖様の月命日とか、他にも色々と細かいのがな」
その度に顔を出すお祭り野郎な坊主もいるのだ、とキース君は語り始めました。璃慕恩院でのお役目は何もついていないのに馳せ参じるという、お祭り野郎。何度も何度も参加していれば璃慕恩院ならではのお経の詠み方、行事進行などもパーフェクトになってしまうわけで。
「そうなってくると、まずは自分の属する教区で有難がられる。あの和尚さんは本場仕込みだと、璃慕恩院と同じ作法を身につけている、と」
更には璃慕恩院でも顔が売れてきて、気付けば立派なお役目を頂戴するという出世コース。小難しい論文なんかを書かなくっても現場での叩き上げで高僧への道が開けるケースもあるそうで。
「坊主のシンデレラストーリーだな、ある日いきなり出世への道が…」
「キース先輩もやればいいじゃないですか」
特別生は休み放題ですよ、とシロエ君が勧めたのですけれど。
「駄目だ、それだけの若さが無い。全ての祭りに駆け付けるにはだ、パワーが要るんだ」
朝早くから璃慕恩院に到着しないと出世コースには乗れないのだとか。もちろん璃慕恩院にお出掛けする前に元老寺での朝のお勤めもぬかりなくこなしてこその祭りで。
「俺が本物の住職だったら、そこは適当にするんだが…。ウチには親父がいるからなあ…」
「「「あー…」」」
アドス和尚が朝のお勤めパスとか、適当なんていうのを許すとはとても思えません。元老寺での仕事もキッチリしっかり、その上で璃慕恩院でも全力でお祭りに参加なんかは、半端なパワーじゃ出来ませんってば…。



お坊さんの修行に耐えたキース君でも二の足を踏むのが祭りなるもの。私たちだって、混むと分かっているお祭りは遠慮したいと、ソルジャーの行方は全く調べもしませんでした。どうせ、あちこちで春祭り。アルテメシアだけでも確か幾つも…。
「うん、今日は幾つもやっているねえ…」
どれなんだか、と会長さん。
「ブルーとノルディのデートなんかは見たくもないしね、ぼくは探す気も起こらないね」
「かみお~ん♪ お祭りは放ってお昼にしようよ、春野菜のトマトチーズフォンデュだよ!」
ガーリックトーストにつければピザ風、締めはペンネを入れようと思うの! という「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声に大歓声。もうソルジャーも祭りも忘れてダイニングに移動し、三人ずつで一つのフォンデュ鍋を。
「のんびりコースで良かったよねえ、出先でこういうお昼は無理だよ」
何処も混んでて追い出されるよ、とジョミー君。
「だよなあ、たっぷり金を払えば別だけれどよ」
「それでもやっぱり、こういう時期には気を遣いますよ」
他のお客さんのこともありますから…、と話すマツカ君は御曹司ながらも控えめなのが素敵です。お金は沢山持っているから、と威張り返ることはしない気質で、お父さんたちもそうらしくて。
「父には厳しく言われましたね、予約した時間が終わりそうだと延長なんかをしては駄目だと」
お店が空いているなら別ですが、と立派ですけど…。
「そういや、あいつらは飯はどうなったんだか…」
キース君がフォンデュ鍋のトマトソースをガーリックトーストに塗りながら。
「あの馬鹿、祭りに行ったのはいいが、その近辺の店はもれなく混んでる筈だぞ」
「ほら、そこはさ…。ノルディだからさ」
マツカと違って、と会長さん。
「きっと朝からバッチリ個室を貸し切りなんだよ、あの気まぐれなブルーがいつ食べたいと言い出しても直ぐに入れるようにね」
「それって、とっても迷惑そうよ?」
他のお客さんに、とスウェナちゃんが言っていますけれども、多分、間違いなくそのコース。高級料亭だかレストランだか、ゴージャスな店を押さえているのに違いなくて。
「祭り見物に豪華ランチか、いい御身分だな」
こっちには二度と来なくていいのに、とキース君がチッと舌打ちを。ホントに来なくていいんですけど、予告した以上は来るんですよね…?



トマトチーズフォンデュの締めにとペンネを投入して食べればお腹一杯、午後のおやつまでは飲み物だけで充分でした。ようやっとお腹も空いて来たかと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がブラッドオレンジのシフォンケーキを切り分けてくれていた所へ。
「ただいまーっ! ぼくにもおやつ!」
それに紅茶も、とソルジャーが瞬間移動で飛び込んで来ると、空いていたソファにストンと腰を。
「…来なくていいのに…」
間に合ってるのに、と会長さんが口にした嫌味もどこ吹く風で、もう御機嫌で。
「凄かったよ、ノルディに誘われたお祭り! とても勉強になったしね!」
「「「は?」」」
何故に勉強、と思いましたが、お祭りには由緒や由来がつきもの、こちらの世界の文化を学んで来たのであろう、と好意的に解釈していれば。
「ノルディの解説も良かったけれどさ、あのお神輿が実にいいねえ…!」
「「「お神輿?」」」
お神輿と言えばお祭りの花で、キンキラキンのヤツですけれど。あれがソルジャーの心を掴むとは、もう意外としか言いようがない現象です。あんなのが好みでしたっけ…?
「あれは神様の乗り物だってね、あれに乗ってお出掛けするんだって?」
「平たく言えばそうだけど…。それが何か?」
何処の神様も大抵はアレに乗るんだけれど、と会長さん。
「小さな神社だとお神輿なんかは無いけれど…。お祭りと言えば神様をお神輿に乗せて練り歩くものだよ、本式の場合は行きもお祭り、帰りもお祭り」
御旅所まで出掛けて神様は其処に数日滞在、お帰りの時にまたお祭りで…、と会長さんが解説をすると、「そうらしいね!」とソルジャーが。
「ノルディが言うには、一週間後にまたお祭りがあるらしいけど…。派手にやるのは今日の方でさ、帰りの方ではお神輿が戻って行くだけだって」
お神輿が船で川を渡ったりするイベントは無いようだ、という話。川を渡るでピンと来ました、そのお祭りはアルテメシアの西の方の神社のお祭りなのでは…。
「ピンポーン! それでさ、ノルディに聞いたんだけどさ…。あそこの神様、縁結びに御利益があるんだってね?」
「夫婦の神様ってことだしねえ…。縁結びのお守りは両方で売ってはいないけどさ」
奥さんの方の神社だけだよ、と会長さん。神社は二つで、少し離れているのです。その両方からお神輿が出るというお祭りですけど、景色がいいだけに人気絶大でしたっけねえ…。



「そう、縁結び! ついでに夫婦円満にも御利益絶大ってことで、ノルディが誘ってくれたんだけど…。お守りを買うといいですよ、って言われたけれど!」
それよりもお神輿の方が素敵だ、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「普段は離れて住んでる神様同士だろう? きっと夫婦の時間もコッソリ、どっちかの神社に出掛けて行っては励んでるんだと思うんだけど!」
「…その先、怪しくならないだろうね?」
妙な話に持って行くならコレだからね、と会長さんの手にイエローカードが。けれどソルジャーは「関係ない、ない!」と笑い飛ばして。
「ぼくはお神輿について話してるんだよ、夫婦の時間とは全く別物!」
あのお神輿は実に素晴らしい、と話は振り出しに戻りました。
「神様はお神輿ってヤツに乗ってさ、御旅所ってトコに行くんだろう? そして今日から一週間も其処に御滞在! 夫婦仲良く!」
「…それで?」
「ノルディの話じゃ、御旅所に滞在してる間にお参りすればさ、普段以上の御利益なんかもあったりするってことだったけど!」
プラスアルファで御利益パワーが、という話は大いにありそうなことでした。あそこの神社は知りませんけど、アルテメシアの他の神社の御旅所に確か、不思議なお参りの方法が…。
「あるね、無言参りっていうヤツだろ?」
会長さんが証言を。神様が御旅所にいらっしゃる間、毎日、往復の道で誰とも喋らずお参りしたなら願いが叶うというのが無言参りです。そこの神様、それ以外の時にいくら無言でお参りしたって特別な効果は無いそうですし…。
「そうらしいねえ、無言参りは御旅所限定! 他の神社にもあるかどうかは謎だけどさ」
会長さんが言えば、ソルジャーは。
「無言参りは聞かなかったし、これというお参りの方法も聞かなかったけど…。御旅所に滞在している間は御利益がうんと多いと聞いたよ、お祭りの間は御利益絶大! それでね…」
そう聞くとお神輿が素晴らしく見えて来たのだ、とソルジャーは赤い瞳を煌めかせて。
「あのお神輿に神様が乗ってるんだろ、これからホテルにお出掛けします、って!」
「「「ホテル?」」」
なんのこっちゃ、と訊き返せば。
「ホテルだよ! ホテルでないなら旅館なのかな、あの御旅所は!」
えーっと、神様が滞在なさるんですから、ホテルなのかもしれませんけど。旅館なのかもしれませんけど、その発想は斬新ですってば…。



御旅所をホテルや旅館に例えたソルジャー。お神輿は何になるのだろうか、と悩むしかない所なのですが、間髪を入れず。
「お神輿かい? うーんと、なんだろ…。こっちの世界の言葉ってヤツには詳しくなくてさ…。あえて言うならリムジンとか?」
「「「リムジン?」」」
デカイ車か、と思った私たちですけれど。
「違う、そっちのリムジンじゃなくて! 結婚式とかハネムーンとかで乗るリムジン!」
夫婦専用の立派な乗り物、とソルジャーの解釈は斜め上なもので。
「そういうものだろ、あのお神輿は! 派手に飾って、夫婦で仲良くホテルに行くために繰り出す乗り物なんだから!」
「違うってば! お神輿というのは何処のお祭りでも出て来るもので!」
会長さんが慌てて反論を。
「君が見たのがたまたま夫婦の神様だっただけで、他の神社も全部そうとは限らないから!」
お神輿だって三つも四つも繰り出すお祭りが普通にあるから、という説明に私たちも揃ってコクコクと。無言参りの神社の場合もお神輿は三つあったと思います。なのに…。
「他の神社はよく知らないけど、ぼくが見たのは夫婦の神様だったから! ああいう乗り物に乗ってお出掛けしたなら、御利益パワーの方もアップで!」
「…それは間違ってはいないけどね…」
お神輿自体に御利益があるし、と会長さん。
「今では禁止になっているけど、少し前まではお賽銭を投げる人もいたしね、お神輿に」
「ほら、素晴らしい乗り物じゃないか!」
あれに乗って出掛ければ神様の気分が高揚するのだ、とソルジャーは独自の説を滔々と展開し始めました。
「キンキラキンに飾られてる上に、鈴とかも沢山ついているしね! 神様の豪華リムジンなんだよ、乗ってるだけでパワーが高まる乗り物だってば、お神輿ってヤツは!」
そうやってパワーを高めてゆくから御旅所での御利益がスペシャルになるに違いない、と言われましても、お神輿ってそういうものでしたっけ?
「さっきブルーも言ってたじゃないか、お神輿自体に御利益があると! そして!」
夫婦の神様はホテルに着いたら早速一発! とグッと拳を。
「御旅所はホテルなんだろう? 滞在中にはせっせと励んで、パワーもぐんぐん高まるってね!」
縁結びも夫婦円満の方も御利益MAX、と言ってますけど、そうなんですか…?



「全面的に間違ってるから、その考えは!」
会長さんが即座に否定したものの、思い込んだら一直線なのがソルジャーという人。お神輿は夫婦の神様のためのリムジンであって、御旅所はホテルか旅館であって。
「間違ってないよ、ノルディに確認してはいないけど、この解釈で合っている筈!」
御利益を貰って下さいよ、とお賽銭をドンとはずんでくれたし、と笑顔のソルジャー。関係者席とやらは御旅所の近所にあったらしくて、沿道に並べられた椅子に座ってエロドクターとお神輿見物、それから御旅所に行ってお参り。
「ぼくはきちんとお参りしたんだ、夫婦円満でどうぞよろしくと!」
「それなら無駄口を叩いていないで帰りたまえ!」
さっさと帰って夫婦円満で過ごしてくれ、と会長さんが追い出しにかかったのですけれど。
「こっちの世界は休みだけれどね、ぼくの世界にはゴールデンウィークは無いんだよ!」
ハーレイは今日もブリッジに出勤なのだ、とソルジャーの方も負けてはいなくて。
「もしもハーレイが休みだったら、ノルディとお祭りどころじゃないから! 休みは朝から夜までみっちり、夜ももちろん夫婦の時間で決まりだから!」
こっちの世界で夫婦揃って楽しめるような素敵イベントでも無い限りは…、と言われてみればその通り。常に非常時と言ってもいいのがソルジャーの世界のシャングリラ。そのシャングリラを預かるキャプテン、週末も基本はブリッジに出勤でしたっけ…。
「そうなんだよ! ぼくのハーレイ、土日も休みじゃないんだよ!」
年中無休の職業なのだ、とソルジャーはそれは悔しそうで。
「こっちのハーレイは土日が休みで、祝日もあって、おまけに夏休みだの春休みだのと…!」
そんなに沢山休みがあるのに無駄にするとは情けない、と奥歯をギリリと。
「ぼくのハーレイにそれだけの数の休みがあればね、どれほどに夫婦の時間が充実するか…!」
「はいはい、分かった」
もういいから、と会長さんが止めに入れば、「分かっていない!」と切り返し。
「ぼくがお神輿の何処に魅せられたか、何故素晴らしいと言っているのか、君は全く分かってないから! まるでちっとも!」
「君の考え方が間違ってることは理解したから!」
「間違ってないと言ってるだろう! お神輿は本当にパワー溢れる乗り物なんだよ!」
あれに乗って行けばパワーが漲り、一週間もの長い間も休み無し! と言われて嫌な予感が。ソルジャーが見に行ったお祭りのお神輿、御旅所に一週間の御滞在ですが。その神様は夫婦の神様、御利益は縁結びと夫婦円満ですよね…?



「いいかい、一週間も休むことなくヤリ続けることが出来るんだよ、お神輿パワーで!」
あのお神輿に乗って行ったらそれだけのパワーが神様に…、とソルジャーはパンパンと柏手を。
「ぼくもしっかり拝んで来たけど、今日から毎日、一週間もお参りの人が途切れない! その人たちのために普段以上の御利益パワーがあるってことはさ…」
きっと夫婦の神様が励みまくっているのに違いない、と凄い決め付け。
「元々が夫婦円満の神様、その神様がノンストップでヤリまくっていれば御利益もアップ!」
「なんでそういうことになるわけ!?」
「お神輿を御旅所に運んでいたから! わざわざホテルに連れてったから!」
ここでしっかり励んで下さい、と神様のために用意するホテルが御旅所だろう、とソルジャーの解釈は斜め上どころか異次元にまでも突き抜けていました。お祭りの趣旨から外れまくりのズレまくり。御旅所ってそういうためにあるんじゃないような気が…。
「それじゃ何だい、御旅所は休憩する所かい?」
「…えーっと…」
会長さんが言い返せない内に、ソルジャーは。
「休憩でもいいんだ、ラブホテルだったら御休憩っていうのもあるからね! 休憩と言いつつ実は入って一発二発とヤリまくるためのプランというヤツで!」
御旅所が休憩する場所だったらラブホテルだ、と更なる飛躍。御旅所に入るお神輿の神様が全て夫婦と決まったわけではないと会長さんが言っていましたが…?
「他はどうでもいいんだよ! ぼくが見て来たお祭りが大切!」
あのお祭りとお神輿にぼくは天啓を受けたんだ、とソルジャーの瞳が爛々と。
「一週間もね、ノンストップでヤれるパワーの源はあのお神輿にあるんだよ! あれに乗っかってるだけでパワー充填、もうガンガンとヤリまくれるのに違いないから!」
「そうじゃないから! 他の神社のお祭りにだって、お神輿も御旅所もちゃんとあるから!」
お神輿はそんなアヤシイ乗り物ではない、と会長さんがストップをかければ、ソルジャーは。
「でもさ…! 他の神社のお祭りだってさ、御旅所に行けば普段以上の御利益だろう?」
「それは否定はしないけど…。でもね、お祭りの間は神様の力も高まるもので…!」
だから御旅所にお参りすればプラスアルファの御利益が、と会長さんは説明したのですけど。
「ほらね、お祭りの間は神様の力がアップするんだよ、あのお神輿に乗ったお蔭で!」
どんな神様でもアレに乗ったらパワーアップだ、と言われてしまうと返す言葉がありません。お神輿にお賽銭を投げた時代もあるんだったら、あれってやっぱりスペシャルでしょうか。お神輿自体がスペシャルなのかな、神様よりも…?



お神輿の御利益は神様が中に乗っかってこそ。理性ではそうだと分かっていますが、ソルジャーの見解を聞いている内に自信がだんだん揺らいで来ました。実はお神輿にもパワーがあったりするのでしょうか、神様を乗せる乗り物ですし…。
「ぼくはそうだと思うんだけどね、あのお神輿にも力があると!」
なんと言っても独特の形、とソルジャーは宙にお神輿の幻影を浮かべてみせて。
「お神輿ってヤツはぼくも何度か目にしてるんだよ、今までにもね。どれもこういう形をしてたし、飾りが多少違うくらいで基本は同じで、キンキラキンでさ…」
この形にきっと意味があるのだ、とお神輿の幻影の隣にパッと浮かんだピラミッド。
「ぼくの世界にはピラミッドはどうやら無いみたいだけど、こっちの世界じゃピラミッド・パワーなんていう不思議な力があるんだってね?」
「あれは眉唾だと思うけど! …いや、あながちそうとも言い切れないか…」
ファラオの呪いはあるんだった、と会長さんがブルブルと。そういう事件もありましたっけね、あの時もソルジャーのお蔭でエライ目に遭わされたたような記憶が…。
「ね、ピラミッド・パワーがあるなら、お神輿パワーもあるんだよ、きっと!」
お神輿とピラミッドの幻影がパチンと消えて、ソルジャーが。
「お神輿が中に乗った神様のパワーを高めるんなら、神様じゃないものが乗ってもパワーがググンとアップしそうだと思わないかい?」
「…中に薬でも乗せるわけ?」
君の御用達の漢方薬とか…、と会長さんは呆れ顔で。
「お神輿のミニチュアを買いに行くのなら店は教えるけど、パワーの保証は無いからね? 効かなかったからと店に怒鳴り込んでも、それは筋違いってヤツだから!」
「なるほど、薬ねえ…。それも悪くはないかな、うん」
お神輿型の薬箱か、とソルジャーは大きく頷きました。
「そっちの方も検討する価値は大いにありそう! お神輿の中に薬を入れればパワーアップ!」
ぼくのハーレイに飲ませた効果もググンとアップ、と嬉しそうですが、薬を入れるつもりじゃなかったんなら、お神輿に乗せるものって、なに…?
「決まってるだろう、神様が乗って効くものだったら、人間にだって!」
「「「は?」」」
「ぼくのハーレイとぼくが乗るんだよ、あのお神輿に!」
そしてパワーを貰うのだ! とブチ上げてますが、まさかソルジャーのシャングリラの中を二基のお神輿が練り歩くとか…?



お神輿にはパワーがあると信じるソルジャー、キャプテンと二人で乗るつもり。ソルジャーを乗せたお神輿とキャプテンを乗せたお神輿の二基がシャングリラの中をワッショイ、ワッショイ、進んで行く様を思い浮かべた私たちは目が点でしたが。
「それはやらないよ、ぼくのハーレイはヘタレだから! これからヤリます、って宣言するような行進なんかをやらせちゃったら、お神輿パワーも消し飛ぶから!」
当分使い物にならないであろう、と冷静な判断を下すソルジャー。
「そうでなくても、ぼくとの仲はバレていないと思い込んでるのがハーレイだしねえ…。特別休暇の前に二人でお神輿に乗ろうものなら、もう真っ青だよ、これでバレたと!」
とうの昔にバレバレなのに、と深い溜息。
「ぼくとしてはハーレイと二人でお神輿ワッショイも捨て難いけれど、そうはいかないのがハーレイだから…。とりあえずはパワーが手に入りさえすればそれでいいかな、と」
一週間もヤリまくれるなら充分オッケー、と親指をグッと。
「ついでに、ぼくは夫婦円満の神様ってわけじゃないからね? ぼくが頑張る必要は無いし、ハーレイに励んで貰えればもう天国でねえ…!」
御奉仕するのも悪くないけど、ひたすら受け身もいいもので…、とウットリと。
「ハーレイに凄いパワーが宿れば、ぼくが疲れてマグロになってもガンガンと! もう休み無しで一週間ほど、ひたすらに攻めて攻めまくるってね!」
「「「………」」」
マグロが何かは謎でしたけれど、大人の時間の何かを指すとは分かります。ソルジャーはキャプテンにお神輿パワーを与えるつもりで、自分の方はどうでもいいということは…。
「そう、お神輿は二つも要らない! ぼくのハーレイの分だけがあれば!」
ハーレイさえお神輿に乗せてしまえば後はパワーが自動的に…、と極上の笑み。
「それにさ、お神輿、御旅所の中では置いてあるっていうだけだったしねえ? 担いでワッショイやってなくてもパワーは漲り続けてるんだろ?」
「…うーん…」
どうなんだろう、と会長さんが首を捻りましたが、ソルジャーはお神輿のパワーは形に宿ると本気で信じているだけに。
「多分、ワッショイはオマケなんだよ、神様をハイな気分にするための!」
ワッショイしたなら、漲りまくったパワーに加えてハイテンション。御旅所に誰がお参りに来ようが、覗いていようがガンガンガンとヤリまくれるのだということですけど、お神輿ワッショイって神様をハイにするものですか…?



何かが激しく間違っている、と誰もが思ったお神輿パワーにお神輿ワッショイ。とはいえ、ソルジャーに勝てる人材がいるわけがなくて、この展開を止められる人もいなくって。
「早い話が、ぼくはお神輿が欲しいんだよ! ハーレイのために!」
こっちのハーレイじゃなくてぼくのハーレイ、とソルジャーは核心を口にしました。
「ハーレイが中に乗れるサイズのお神輿がいいねえ、ワッショイの方はどうでもいいから!」
「売ってないから!!」
人間用のお神輿なんかは売られていない、と会長さんが一刀両断。あれは神様を乗せて運ぶもので、既製品のお神輿が仮に売られているとしたなら子供神輿がせいぜいなのだと。
「…子供神輿って、子供用かい?」
「そのままの意味だよ、子供が担ぐお神輿だよ! 子供が乗れるって意味じゃないから!」
要はお神輿の縮小版だ、と会長さん。
「お神輿を作る会社というのはあるけどねえ…。ああいうのは受注生産なんだよ、元からあるのが古くなったから作りたい、と古いのを持ち込んで同じのを作って貰うとか!」
「…それはレプリカというヤツかい?」
「そうなるねえ…。元のと飾りもサイズもそっくり、そういうのを一から作るってね!」
それに神様の乗り物だから…、と会長さんは続けました。
「作る過程で細かい決まりが色々と…。あれはオモチャじゃないんだよ!」
「…本当に? 商店街のお祭りなんかで担いでないかい、ああいうお神輿」
あれはオモチャじゃないのかい、とソルジャーからの思わぬ反撃。そういえばアルテメシアの商店街でもお神輿を担いで賑やかにやるのがありました。中学校のパレードでお神輿を出してる所もあった気がします。あれって神様、乗ってるのかな…?
「ふうん、学校のお神輿ねえ…? それは神様っぽくないねえ…?」
いけない、ソルジャーに読まれましたか…! サーッと青ざめた私ですけど、キース君たちも揃って口を押さえてますから、同じお神輿を連想していたみたいです。ソルジャーは会長さんにズイと詰め寄って。
「商店街なら百歩譲って、中に神社があるってケースもありそうだけど…。学校のパレードで担ぐお神輿、神様は乗っているのかい? どうもそうとは思えないけど…?」
「の、乗ってるケースもあるんじゃないかな、学校の敷地にお稲荷さんとか…!」
きっとそういうケースだって、と逃げを打った会長さんの台詞は語るに落ちるというヤツでした。そういうケースもあると言うなら、そうじゃないケースもあるんですってば…。



「なるほどねえ…。学校のパレード用のお神輿があるなら、ハーレイ用のお神輿だって!」
作って作れないわけはない! と一気に燃え上がるソルジャーの闘志。キャプテンを乗せるお神輿を是非に作りたいのだ、と言い出したらもう止まらなくて。でも…。
「なんだい、此処の制作期間は五ヶ月から一年っていうのはさ?」
リビングに置かれていた端末でお神輿製作を手掛ける会社を調べたソルジャーが指差す画面。其処にはこう書いてありました。「大人用神輿、制作期間は五ヶ月から一年頂戴します」と。
「書いてある通りだよ、そのくらい軽くかかるんだよ!」
費用をはずんでも期間短縮は出来ないからね、と会長さんがツンケンと。
「オモチャじゃないって言っただろ! 本体を作って飾りも作って、出来上がるまでに最低でも五ヶ月必要なんだよ、こういうお神輿を作るには!」
小さなサイズの子供神輿でも三ヶ月、と画面を示され、ソルジャーは。
「じゃあ、学校のパレード用のお神輿ってヤツは…?」
「本格的なのを担いでるトコのは、もちろんこれだけの期間をかけて作ってるってね!」
寄付を募って業者に注文、立派なお神輿が出来上がるのだ、と会長さん。
「それだけに相当重いらしいよ、子供の手作り神輿と違って」
「手作り神輿…?」
ソルジャーが訊き返し、私たちは会長さんの失言に気付きましたが、時すでに遅し。ソルジャーの耳は手作り神輿という言葉をガッチリ捉えた後で。
「いいねえ、手作りのお神輿ねえ…! あの形にパワーが宿ってるんだし、何も本物にこだわりまくって五ヶ月も待たなくってもね…!」
作ってくれそうな面子がこんなに…、と赤い瞳が私たちをグルリと見回して。
「ゴールデンウィークの記念にどうかな、手作り神輿!」
「「「お断りします!」」」
後半はダラダラ過ごすと決めたんです、と見事にハモッた声でしたけれど。
「ありがとう、作ってくれるんだって?」
「誰も作るとは言っていないが!」
その逆だが、というキース君の声はソルジャーに右から左へ流されてしまい。
「それじゃ早速、材料を集めに出掛けて来るよ! えーっと、どういうものが要るかな…」
キンキラキンの飾りに鈴に…、と制作会社の画面をあちこち調べまくって頭に叩き込んでいるソルジャー。私たちの連休、お神輿作りで終わってしまうというわけですか…?



瞬間移動と情報操作はソルジャーの得意とする所。夕食までにドッカン揃ったお神輿作りの材料の山と、ソルジャーが何処からか調達して来た手作り神輿の設計図を前に溜息を幾つ吐き出したって、どうにもこうにもならないわけで。
「…今夜は完徹で決まりですね…」
シロエ君が設計図を広げて零せば、キース君が。
「今夜だけで済めば御の字ってヤツだ。最悪、ゴールデンウィーク明けは欠席になるぞ」
「「「うわー…」」」
欠席届なんかは出してませんから、無断欠席で決定です。特別生には出席義務が無いと言っても、今まではキチンと欠席届を出していたのに…。
「なんだ、欠席届かい? それくらいなら出してあげるよ、書いてくれれば」
ぼくがサイオンで情報を操作してチョイと、と微笑むソルジャー。つまり、お神輿が完成するまでは解放されずに此処に缶詰、欠席届には「お神輿を作るので休みます」と書くしかないと?
「その通りだけど? 頑張ってよね、ハーレイ専用のお神輿作り!」
ぼくは本格派で行きたいんだから、とソルジャーが自慢するとおり、何処から探して持って来たやら、お神輿の材料は飾りに至るまで本物そっくり。鈴を手に取ればいい音がしますし、他の飾りもチリンチリンと鳴りますし…。
「ああ、その辺の材料かい? 制作会社の在庫をチョイとね…。五ヶ月からとか書いているくせに、こういったものは多めにストックあるみたいだよ?」
「そりゃね…。ああいう会社は修理もするから、それ用の部品があるってね…」
ちゃんとお金は払ったろうね、という会長さんの言葉にソルジャーは「うん」と。
「在庫のデータを減らすついでに、売れたってことにして処理しておいたよ。代金は会社の金庫に入れたし問題無いだろ、そこに入れたと帳簿にきちんと書いて来たから!」
もうバッチリ! と威張るソルジャー、設計図を眺めて涙々の私たち。本職でも五ヶ月から一年だというお神輿なんかを連休の残りで作れるでしょうか?
「その辺はぼくも協力するよ。ブルーとぶるぅのサイオンもあるし、突貫工事で頑張ってくれればギリギリなんとか間に合わないかな、連休明けの朝くらいには」
「「「…連休明け…」」」
あまりと言えばあまりな言葉に絶句したものの、始めないことには終わりません。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が打ち上げならぬ打ち入りと称して大きなステーキを焼いてくれましたが、このエネルギーは日付が変わるよりも前に切れるでしょう。夜食もよろしくお願いします~!



かくして徹夜でトンテンカンテン、次の日も寝ないでトンテンカンテン。お神輿の形が出来上がって飾りを取り付ける頃には連休明けの朝日が昇って…。
「ありがとう、お蔭で完成したよ! ハーレイが中に入れるお神輿!」
「それは良かったな…」
俺たちはもう死にそうだがな、というキース君以下、私たちはヨレヨレになっていました。それでも会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に頼んで制服と鞄を瞬間移動で家から取り寄せて貰い、揃って瞬間移動で登校。後の記憶は全く無くて…。
「かみお~ん♪ 授業、お疲れ様!」
今日はこのまま帰りたいよね、という「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声でハッと戻って来た意識。それじゃ今まで、この部屋に来るまで私たち、何処に居たんでしょう…?
「その点だったら心配ないよ。ブルーが責任を取るとか言ってさ、フォローしてたから」
「んとんと、みんな寝てたけど寝てはいなかったよ!」
見た目はきちんと起きてたよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。あのソルジャーがそこまでフォローをしてくれたんなら、お神輿、効果があったんでしょうか?
「さあねえ…。それは今夜以降にならないと分からないんじゃないのかなあ…」
まだお神輿を持って帰っただけだしね、と会長さん。キャプテンが中に入ってみないと効果のほどは分かりません。あのお神輿は特別製ですし、キャプテンがゆったり座れるスペースと分厚い座布団が中に隠れていますけど…。お神輿のパワー、どうなんだか…。



お神輿作りでゴールデンウィークの後半を潰された上に、連休明けは意識不明で登校という強烈なことになってしまった私たち。これでお神輿の効果が無ければ悲しいですけど、あったらあったで迷惑なことだ、と嘆き合う内に日は過ぎて…。
「こんにちはーっ! この間はどうもありがとうーっ!!」
もう本当に感謝なんだよ、とソルジャーが降って湧きました。会長さんの家で「この週末こそダラダラしよう」と何もしないでいた私たちの前に。
「あのお神輿は凄く効いたよ、流石は神様の乗り物だよね!」
ハーレイの漲り方が凄くって、とソルジャーは喜色満面で。
「最初は腰が引けてたんだけど、乗り込んだらムクムクとヤる気がね…! 扉を開けて出て来たな、と思った途端に押し倒されてさ、後は朝までガンガンと!」
そういう素敵な毎日なのだ、と充実している様子のソルジャー。お神輿を作った甲斐があったか、とホッと一息ついた途端に。
「それでね、次はワッショイのパワーを試したくなって…。あれで神様がハイになるんだよね?」
ぼくのハーレイもハイテンションにしたいから、とソルジャーは期待に満ちた瞳で。
「今夜さ、適当な場所を用意するから、みんなで担いでくれるかな? あのお神輿! ぼくのハーレイも乗り気になってて、是非ともワッショイして欲しいって!」
「「「えーーーっ!?」」」
今度はお神輿ワッショイですか、と泣きたい気持ちになったのですけど、キャプテンまでがその気な以上はワッショイするしかありません。
「…お神輿ってホントにパワーがありましたっけ…?」
「俺が知るか!」
イワシの頭も信心からだ、とキース君。きっとそういうことなんでしょうが、信じる者は救われるという言葉もあるのが世の中です。ソルジャーとキャプテンがお神輿パワーを信じる間はワッショイするしかないでしょう。いっそ法被も作りますかね、お神輿担いでお祭りワッショイ!




           祭りとお神輿・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーがお祭りに行ったお蔭で、お神輿を作る羽目になってしまった、いつもの面々。
 しかも御利益はあったみたいで、お次は担いでワッショイだとか。お揃いの法被で…?
 次回は 「第3月曜」 3月16日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、2月は節分。毎年、受難なイベントだけに、何処に行くかが問題。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










(んーと…)
 ブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 ふと目に留まった運転免許を取るための学校、それの広告。新聞に広告を出すほどだから、車の免許。ごくごく普通の、一般人向け。
(宇宙船だと、ホントに学校…)
 多分、飛行機でもそうだろうけれど、パイロット専門の養成学校。そういう所へ入学しないと、運転免許は貰えない。何年間もの勉強と訓練、難関だと聞く試験も受けて。
 新聞に広告を載せるまでもなく、その手の学校は志願者が多い。入学試験があるほどなのだし、車の免許とは全く違う。車の方なら、生徒の方がお客様のようなものだから。
(お金を払えば、誰でも入れて…)
 教えて貰える車の運転。入学試験などは要らない、申し込んでお金を払うだけ。
 後は…、と読んでみた広告。運転免許を手に入れるための方法はどうなっているのだろう、と。
(学校で教えてくれるのは…)
 車の運転に必要な知識、交通ルールなどの教室で学ぶ授業が幾つか。他の時間はひたすら運転、学校の中の練習コースで腕を磨いて、それから外へ。教官を乗せた車で走って、本物の道路で積む経験。これで大丈夫、という御墨付きを貰えば無事に卒業。
 そこまで行ったら、運転免許を発行してくれる所で試験を受ける。合格したら免許皆伝、やっと手に入る運転免許。



 そういう仕組みになっているのか、と広告を眺めて考え込んだ。
 新聞に広告が載っているくらいの自動車学校、お金さえ払えば行ける学校。生徒の方がお客様の学校、きっと親切に教えてくれるに違いない。自分が申し込んだって。
 まだ年齢が足りないけれど。十四歳では門前払いを食らうけれども、免許を取れる年ならば。
 取ろうとも思っていなかった免許、広告のせいで気になったから。
(…免許を取るなら、実技と筆記…)
 そういう試験があるらしい、と最後まで読んでフウと溜息。
 筆記試験なら楽に合格出来そうだけれど、実技が問題。車を上手に動かせないと不合格だろう。自動車学校はそのためにあるようだから。主な授業は車を運転することだから。
(パパは免許を持ってるし…)
 当たり前のように運転している、毎日のように。会社に行くにも、休日に出掛けてゆくのにも。
 運転免許は母も持ってはいるらしい。普段は運転していないだけで。
(いざとなったら乗れるんだよね、ママ?)
 一度も見たことは無いのだけれども、運転免許を持っているなら母も運転出来るのだろう。日常生活では出番が無くても、ドライブの途中で父と交代するだとか。
 長距離ドライブに行くような時は、きっと両親が交代で運転することになる。泊まりで出掛けてゆくような場所へ、車で走ってゆくのなら。
 旅行に行く時は車なんだ、と話をしていた友人たちの家では、両親が交代で乗るらしいから。



(長距離ドライブ…)
 自分が生まれつき弱かったせいで、車で遠出をすることは無い。その日の間に戻れる距離しか、父は車を出そうとしない。しかも往復の時間は短め、長い距離を走ってゆかない車。
 運転する人が交代するようなドライブは、ぼくの家とは無関係、と思った所で気が付いた。父に代わって、母が車のハンドルを握る機会は無さそうだけれど。
(…ハーレイとドライブ…)
 運転免許も、車も持っているハーレイ。今の愛車は前のハーレイのマントと同じに濃い緑色。
 そのハーレイと、いつかドライブに出掛けるのだった、自分が大きくなったなら。
 前の自分と同じ背丈に育った時には、助手席に乗せて貰ってドライブ。最初の目標は隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家で、この町を出てゆく一番の遠出。庭に夏ミカンの大きな木がある家まで出掛けてゆくことが。
 それが目標なのだけれども、ドライブが普通になって来たなら、もっと遠くへも。
(牧場だとか、海だとか…)
 美味しい卵が食べられる牧場や、アイスクリームや牛乳で名高い牧場。そういった所へ出掛けてゆこうと約束に指切り、青い海だって見に行く予定。前の自分が焦がれ続けた地球の海を見に。
 他にも色々交わした約束、それを果たしに出掛けてゆくなら、長距離ドライブもあるだろう。
 海はともかく、アイスクリームや牛乳で知られた牧場までは遠いのだから。
(…運転免許、取っておかないと駄目?)
 ハーレイに代わって、自分が運転するのなら。
 運転する人が交代しながら走ってゆくのが、長距離ドライブというものならば。
 少なくとも友達の家の場合は、両親が運転を代わるもの。車で遠出をする時には。



 おやつを食べ終えて、部屋に帰って。
 勉強机の前に頬杖をついて、考え始めた運転免許。さっきの新聞に載っていた広告。運転免許を取るのだったら、まずは自動車学校だけれど。誰でも入学出来るのだけれど…。
(運転免許…)
 自分なんかに取れるのだろうか、筆記試験はクリア出来ても問題は実技。運転技術を見る試験。自動車学校で教えて貰える技術だけれども、ハンドルを握って車を動かす、そこが問題。
 運動神経は無いに等しいし、反射神経も怪しい自分。
 自動車学校の練習コースで車に乗っても、きちんと走ってくれるのかどうか。教官が「こう」と指示した通りに、動かせる自信がまるで無い。車も、ハンドルを握っている手も。
 取れるという気が微塵もしない運転免許。自動車学校に通ってみても。
(前のぼくなら…)
 マシだったろうか、と思い浮かべたソルジャー・ブルー。
 生身で宇宙空間を駆けて、人類の輸送船から物資を奪い続けていた自分。最後はメギドも沈めたくらいで、それは素晴らしい伝説の戦士。大英雄になったソルジャー・ブルー。
 あの頃ならば、と思ったけれども、今と同じに弱かった身体は、運動神経と言うよりも…。
(サイオンが頼り…)
 障害物だらけの宇宙空間を、凄い速さで飛べたのも。
 テラズ・ナンバー・ファイブと互角に渡り合えたのも、全てサイオンがあったから。サイオンの助けを使って動いて、攻撃だって避けられた。
 メギドへ向かって飛んだ時には、レーザーさえも軽く躱せた。光の速さで飛んで来るのに。
(…あんなのだって、ヒョイと…)
 避けることが出来た、サイオンで捉えたレーザーの光は、速くもなんともなかったから。まるで止まっているようにも見えて、楽々と躱して飛べたから。



 レーザーさえも避けて飛べたのがソルジャー・ブルー。今の自分には出来ない芸当。
(…サイオン無しだと、どうなるわけ?)
 それが無ければ今の自分と大して変わらなかったのだろうか。伝説の戦士も、運転免許を取りに行ったら挫折するのか、それとも見事に合格なのか。
 前の自分に運転技術はありそうだろうか、と遠い記憶を手繰ってみたら…。
(そうだ、シミュレーター!)
 あれがあった、と思い出した。白い鯨に改造する前のシャングリラで使ったシミュレーター。
 ハーレイがキャプテンに就任した後、それで練習していたから。「操舵は出来なくてもいい」という条件でキャプテンに就任したというのに、操舵を覚えようとしていたハーレイ。
 練習中の所へ見学に出掛けて、前の自分も挑んでみた。シミュレーターのスイッチを入れて。
(…ぼくの方が、ずっと…)
 ハーレイよりも上手かった。シミュレーターを使って、シャングリラを操縦するということ。
 初めて挑戦したというのに、ハーレイよりもずっと。スピードもぐんぐん上げられたほどに。
(あれくらい、簡単…)
 最初の間はハーレイよりも上手かったから、と自信を覚えた運転技術。前の自分だったら、車の免許も楽に取れたに違いないと。宇宙船の操縦技術があったのだから、と。
 けれど、よくよく考えてみたら、あの時だって…。
(サイオン頼み…)
 シミュレーターに次々と表示されてゆく障害物を避けて飛べたのも、スピードをぐんぐん上げてゆけたのも、サイオンで見ていた感覚のお蔭。
 前の自分が器用に使いこなしたサイオン、呼吸するように使えていたから無かった自覚。それを使っているのだと。
 肉眼の代わりにサイオンの目で見て、それに合わせて動かした身体。シミュレーターの向こうの障害物を避けるならこう、とサイオンが伝える感覚のままに。右へ、左へとそれは素早く。
 メギドに向かって飛んでゆく時、レーザーの光を避けた速さで。



 前のハーレイが仰天していた、前の自分のシミュレーターでの操舵の腕前。
 もしも、あそこでサイオンを使わなかったなら。
 純粋に肉体の能力だけで挑んでいたなら、ハーレイに勝利を収める代わりに…。
(シャングリラ、沈没…)
 そういうメッセージが画面に表示されていただろう。
 障害物接近の警告音が何度か鳴り響いた後で、あっさりと。シミュレーターのスイッチを入れて間もなく、一番最初の小惑星か何かにドカンと派手に衝突して。
 なにしろ前の自分の場合も、運動神経も反射神経も、今と同じにゼロだったから。
 サイオン抜きのソルジャー・ブルーは、ただの虚弱なミュウだったから。
(改造前のシャングリラの時でも、前のぼくには動かせなくて…)
 白い鯨になった後だと、更に難しくなっていたろう操船方法。
 あの時代のどんな宇宙船よりも、シャングリラは巨大な船だった。ミュウの箱舟、世界の全てを乗せておくには必要だった大きな船。世界最大の生物とも言われる、本物の鯨さながらに。
 それほどの船を動かすとなれば、改造前よりも遥かに上の操船技術を要求されたことだろう。
 ハーレイは楽々と新しい船を操ったけれど。
 サイオンの助けを借りもしないで、逞しい腕と自分自身の勘だけで。
(無免許運転だったんだけどね…?)
 あれはいつだったか、そう言って笑っていたハーレイ。
 「俺は試験をパスしてないぞ」と。
 後の時代に導入された操舵のための試験は受けていないと、キャプテン・ハーレイは無免許運転だったんだがな、と。
 前のハーレイが航宙日誌に書かなかったから、今も知られていない真実。
 免許を持たずに、白いシャングリラを地球まで運んだキャプテン・ハーレイ。



 本当は無免許運転だったけれども、前のハーレイには出来た操船。
 白いシャングリラも、その前の船も、ハーレイは誰よりも見事に操っていた。元はフライパンを持っていたのに、厨房出身だったのに。
 それに引き替え、前の自分は、伝説のソルジャー・ブルーときたら…。
(ギブリでも無理…)
 サイオンは抜きで操縦しろと命じられたら、どうにもならなかっただろう。シャングリラよりも遥かに小さな、小型艇だったギブリでさえも。
 ジョミーが捕えておいたキースは、初めて目にしたギブリを使って逃げたのに。人質まで取って乗り込んだけれど、フィシスはギブリを操れないから、キースが操縦したギブリ。
 ミュウが開発した船だっただけに、人類が使う宇宙船とは微妙に違っていたろうに。
(…キースにも負けた…)
 初見でギブリの操縦方法を見抜き、シャングリラから逃れたキース。一つ間違えたら、格納庫の壁に激突して終わりだっただろうに。
 メンバーズはプロだと、そういう能力の持ち主なのだと分かっているけれど、それでも悔しい。
 ソルジャーにも操縦出来ないギブリをキースが持ち逃げしただなんて、と。
(…サイオン抜きだと、ホントにキースに負けちゃうんだよ…!)
 メギドを沈めたことはともかく、ギブリの操縦に関しては。
 今の自分よりも遥かに高い能力があった、前の自分でさえもその始末。
 船には乗せて貰うもの。白いシャングリラも、それにギブリも。
 自分ではとても動かせなかった、サイオン抜きでは無理だった。分かっていたから、挑戦さえもしないで乗せて貰っていただけ。ハーレイやシドや、操舵のプロたちが操るシャングリラに。



 これは駄目だ、と頭を抱えた前の自分の運転技術。
 サイオン抜きだと、乗せて貰うしかなかったらしいソルジャー・ブルー。白いシャングリラも、小さなギブリも、誰かに操縦して貰うだけ。自分はそれに乗ってゆくだけ。
 前の自分がそういうことなら、サイオンが不器用な今の自分は…。
(…絶望的だよ…)
 運転免許を取りに行っても、手も足も出ないのに違いない。サイオン抜きの前の自分と、状況はまるで同じだから。運動神経も反射神経も、人並み以下しか無いのだから。
(…運転免許は、最初からサイオン抜きだろうけど…)
 誰もが同じ条件だと思う、タイプ・ブルーだろうが、イエローだろうが。
 人間が全てミュウになっている今の時代は、サイオンは出来るだけ使わないのがマナーで約束。運転免許の試験場でも、きっとサイオンは禁止の筈。使った場合は多分、失格。
(…普通の人なら、サイオン抜きでも取れるのに…)
 母も免許を持っているのだし、普通だったら難しくないのが運転免許を取るということ。広告が出ていた自動車学校、其処に暫く通いさえすれば。
 車を上手に走らせることさえ出来るようになれば、後は試験を受けるだけ。
(ぼくの友達なら、筆記試験を嫌がりそう…)
 「なんで勉強しなきゃいけないんだよ!」と文句を言う姿が目に見えるよう。車の運転を習いに来たのに、教室で授業があるだなんて、と。
 自分の場合は、教室の方が楽なのに。筆記試験だけで運転免許を貰えるものなら、そちらの方が楽なのに。
 自動車学校のメインだという、実地で運転することよりも。学校のコースや本物の道路で、隣に教官が乗った車のハンドルを握ることよりも。
 けれど、実技が要る試験。明らかに運転技術の方が大切、そういう試験なのだと分かる。自動車学校の授業のメインは「運転すること」なのだから。



 今のぼくには取れそうもない、と溜息しか出ない運転免許。前の自分でも無理なのだから。
 そうは言っても、いつかハーレイとドライブに行くなら要るのだろう。
 遠い所へ出掛けてゆくなら、運転免許が必要になる。ハーレイと交代するために。友達の両親がやっているように、交代で運転してゆく車。
 海へ行くにも、牧場へ行くにも、きっと長距離ドライブだから。
(…ぼくでも取れる?)
 運転免許、と不安しか湧いてくれない心。あまり取れそうにないんだけれど、と。
 母でも持っているとは言っても、本当に人それぞれだから。
(…ママの体育の成績、ぼくよりはきっとマシだよね…?)
 運動の方はサッパリだった、と聞いたことなど一度も無い母。人並みの成績は取ったのだろう。運動神経も反射神経もゼロに等しい自分と違って、そこそこの点は。
(普通はそっちで、だから車も運転出来て…)
 自動車学校に通いさえすれば、運転技術をちゃんと身につけ、試験に合格できるのだろう。運転免許を貰える試験に、きっと一回挑んだだけで。
 大多数の人はそうだというのに、自分には無理としか思えないのが運転免許。自動車学校に入学したって、車を運転出来そうにない。
(エンジンはスタートさせられたって…)
 その後が無理、と容易に想像出来てしまった自分の末路。
 遠い昔に前の自分がハーレイに勝ったシミュレーター。あれをサイオン抜きでやったのと、同じ結果になるのだろう。
 シャングリラ沈没というメッセージが表示されるか、車がコースを外れるかの違い。隣に乗った教官が運転を代わってくれなかったら、何処かに衝突して終わり。



 そういう結果が見えているのに、運転免許が必要なのが今の世の中。
 キャプテン・ハーレイが無免許でいられた時代は終わって、普通の車を運転するにも運転免許。それを自分が取れなかったら…。
(ハーレイと一緒にドライブは無理…) 
 運転免許を持っていなければ、交代出来ない車の運転。長距離ドライブには出掛けられない。
 牧場へも海へも出掛けてゆこう、とハーレイと幾つも約束したのに。
 卵が美味しい牧場へ行ってオムレツやホットケーキを端から頼んで食べる予定も、牛乳で名高い牧場の特製アイスクリームを食べにゆくのも、これでは無理。
 日帰り出来る海には行けても、もっと遠い所の海には行けない。海沿いに何処までもドライブを続けてゆけはしなくて、途中でおしまい。「此処までだな」とハーレイが車の向きを変えて。
 自分が運転を交代出来ない以上は、長いドライブは無理だから。
 いつかハーレイとドライブに出掛けるようになっても、行き先は近い所だけ。この町から日帰り出来そうな所、それくらいしか目指せしてゆけない。
 ハーレイと運転を交代しなくていい所しか。ハーレイが行ける所までしか。
 運転免許が取れなかったら、けして行けない長距離ドライブ。
 牧場も、海も、どうにもならない。幾つも幾つも、ハーレイと約束していたのに。



 ハーレイと遠くへ出掛けるためには、運転免許が必要だという現実の壁。途中で運転を代われる資格を持っていないと、長距離ドライブには出掛けられない。
 牧場も海も、沢山交わした約束はどれも叶わない。
(ぼくの夢…)
 前の自分が夢見た地球には来られたけれども、その地球の上で幾つも描いた新しい夢。
 それがすっかり駄目になりそう、とガックリと肩を落とした所へ聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたけれど、無くなってしまったハーレイとの未来。
 いつか大きく育ったとしても、二人で行けない長距離ドライブ。あんなに夢を見ていたのに。
「どうしたんだ、お前?」
 なんだか元気が無さそうだが、と鳶色の瞳で覗き込まれた。何処か具合でも悪いのか、と。
「……運転免許……」
「はあ?」
 お前の年ではまだ無理だろうが、自動車学校にだって入れないぞ?
 申込書を貰うどころか、「お家の人は?」と訊かれるだろうな、そいつを貰いに行ったらな。
 何を考えているのか知らんが、どうして元気が無くなるんだか…。
 取れる年になってから続きを考えるんだな、その方がよほど建設的だ。



 そこまでにしろ、とクシャリと撫でられた頭。伸びて来た大きな褐色の手で。
 けれど、その手の持ち主との未来がかかっているのが運転免許。取れなかったらドライブの夢が殆ど砕けて消えてしまうのに、どうやら自分は取れそうになくて。
「…取れる年になっても無理そうなんだよ…」
 ぼくは試験に受からなくって、運転免許は貰えないと思う…。
「そうなのか? そいつは考えすぎだと思うぞ」
 大抵は一度で受かるモンだし、一度目で落ちても二度目くらいで通ると聞くが…。
 落ちる理由は筆記試験で、お前だったら簡単だろうと思うがな?
 お前の成績、トップだろうが。…覚える中身が違ったくらいで、試験に落ちはしないだろう。
 今から心配していなくてもだ、自動車学校の教科書を見たら直ぐに覚えるさ、お前ならな。
「筆記試験はいいんだけれど…。そっちは心配してないんだけど…」
 実技試験が無理なんだよ。
 だって、車を運転出来なきゃ、実技試験はパス出来ないでしょ?
 …試験会場にだって行けないと思う、自動車学校で失敗ばかりで、ちっとも卒業出来なくて。
「おいおい、実技って…。前のお前は俺よりも腕が上だったが?」
 凄い才能を持っていたくせに何を言うんだ、俺は今でも覚えているぞ。
 俺が悪戦苦闘していた、シャングリラにあったシミュレーター。あれを鮮やかに操ったろうが、障害物を避けてスピードを上げて。…しかも初めてだったくせに。
 まあ、車ではなかったが…。
 宇宙船な上に、シミュレーターで、実地だったわけではないんだが…。
 車よりも宇宙船の方が遥かに操縦が難しいんだし、お前なら車の運転くらいは簡単なモンだ。
 大船に乗った気持ちで行ってくるといい、きっと初日からスイスイ走れるだろうからな。
「…あれはサイオンだったんだよ…!」
 前のぼくがシミュレーターを使ってた時は、サイオンの目で見ていたみたい…。
 ぼくの身体もサイオンに合わせて動いていたから、凄い速さで動かせんだよ、シミュレーター。
 サイオン抜きでやっていたらね、アッと言う間に警告音が鳴って、それでおしまい。
 ハーレイにはとても敵わなくって、シャングリラ沈没って画面が出てたよ、絶対に…。



 だから今だと絶対に無理、と打ち明けた。
 サイオンの助けが無かった時には前のぼくでも無理なんだから、と。
「…前のぼくでもサイオン抜きだと、シャングリラどころかギブリも無理だよ…」
 動かせやしないよ、どう頑張っても。
 …運転免許の試験でサイオンはきっと禁止だろうから、前のぼくでも運転免許は取れなくて…。
 今のぼくだともっと無理だよ、前のぼくより駄目で弱虫…。
 前のぼくなら、取らなきゃ駄目だってことになったら、頑張ると思う。どんなに下手でも、車が運転出来るようになるまで、諦めないで挑戦して。
 …でも、今のぼくは前のぼくほど強くないから…。きっと免許は取れないんだよ。
「ふむ…。おおよその事情は分かったが…」
 お前には運転の才能が無くて、運転免許は取れそうにない、と。
 それは分かったが、どうして元気が無くなるんだ?
 運転免許が無くても問題無いだろうが。俺は免許を持ってるんだから。
 キャプテン・ハーレイは無免許だったが、今の俺はきちんと持ってるってな。ただし、車の免許なんだが…。宇宙船にも、普通の船にも乗れない平凡なヤツなんだが。
 それでも免許はちゃんとあるから、お前を車に乗せてやれるし、何の問題も無い筈だぞ。
 お前は隣に乗ってりゃいいんだ、運転免許を持ってなくても。
「だけど、ドライブ…」
 普段はそれでかまわなくても、ドライブに行く時に困るんだよ。
 ぼくが免許を持っていないと、絶対に、いつか。
 最初の間は、近い所へ行くんだろうから大丈夫だけど…。何度もドライブに行き始めたら。



 遠い所まで行けないんだもの、と訴えた。
 長距離ドライブは交代しながら走るものでしょ、と。
「ぼくの家では行かないけれども、ぼくの友達、家族で遠くまで車で行くから…」
 そういう友達が何人もいるよ、誰の家でも交代で運転して行くんだよ。遠い所へ出掛ける時は。
 お父さんとお母さんが交代しながら運転なんだよ、何処の家でも。
 …だから、ハーレイと遠い所までドライブしようと思ったら…。
 ぼくが交代出来ないと駄目で、運転免許を持っていないとハーレイと交代出来なくて…。
 いろんな所へ行けなくなっちゃう、いつか行こうね、って約束した場所。
 卵が美味しい牧場だとか、海に行こうとか、沢山、沢山、ハーレイと約束してたのに…。
 どれも無理だよ、ぼくが免許を持っていないと。
 それなのに免許は取れそうもなくて、ハーレイとドライブ出来ないんだよ…。
「なんだ、そんなことか」
 それでションボリしてたってわけか、約束がパアになっちまう、と。
 心配は要らん、俺を誰だと思ってるんだ?
 最初からお前をアテにはしてない、運転を代わって欲しいと思ったこともない。
 本当にただの一度もな。
 俺が行こうと約束している場所へ出掛ける時には、俺が運転して行くんだ。
 牧場も海も、俺が運転してってやるから、お前は隣に座っていろ。
 遠すぎて疲れちまった時には、眠っていたってかまわない。着いたら俺が起こしてやるから。
 安心して俺に任せておけ、とハーレイは微笑んでくれるけれども。
 友達が何度も、「長距離ドライブの時は交代しながら走るんだぜ」と話していたから。
「それじゃハーレイ、疲れてしまうよ」
 ずうっと一人で運転してたら、ハーレイがヘトヘトになっちゃうよ…?
 そうならないように早めに交代しなくちゃ駄目だ、って友達はみんな言ってるよ…?
 次は此処まで、って先に決めておいて、其処に着いたら交代なんだ、って。
「普通はそうかもしれないが…」
 俺は違うな、普段からしっかり鍛えてあるし…。交代なんぞは要らないんだ、うん。



 前の俺でもシャングリラの舵を握り続けて何時間でも立ちっ放しだ、と言ったハーレイ。
 誰にも代わって貰わないで、と。
「任せられるヤツが無かった時には、そうだった。俺が一人でやっていたんだ」
 此処は俺しか抜けられないな、と思った小惑星だらけの場所だとか…。
 アルテメシアに着いた後にも、雲海の様子が怪しい時には俺だったろうが。
 雲の流れがどうなりそうかが分からないのに、他のヤツらに任せられると思うのか?
 ウッカリ雲から出ようものなら、シャングリラがいるとバレちまう。…運悪く監視衛星なんぞに捉えられたら、それで終わりだ。
 ステルス・デバイスが常に完璧だとは限らないしな、そういう時に限って不具合が出るのが世の常だろうが。こんな筈ではなかったのに、では済まされない。
 だから誰にも任せなかったな、俺が一人でやり続けた。…何時間でも、俺一人だけで。
「そういえば…。ハーレイ、何度もやってたっけね」
 シャングリラを動かせる仲間は他にもいるのに、休みもしないで。
 「代わりますから」って誰かが言っても、「私がやる」って舵を握ったままで…。
 ホントのホントに立ちっ放しで、何時間でも一人で動かしていたんだっけね、シャングリラを。
「ほらな、経験だけはたっぷりあるんだ。前の俺の頃からの積み重ねがな」
 今の俺だって、何時間でも運転出来るぞ。…もっとも、今の俺の場合は遊びだが。
 何処まで休まずに運転出来るか、仲間と競っていたこともあるし、一人で挑んだこともある。
 キャプテン・ハーレイ並みの記録も幾つもあるがだ、そこまでの無茶をしなくても…。
 ドライブに行こうと言うんだったら、やっぱり休憩しないとな。
 乗ってるお前も疲れちまうし、適当な所で一休みだ。
 休憩場所なら、今の時代は何処でも山ほどあるだろうが。雲海や宇宙じゃないんだからな。
 道端にもあるし、ちょっと外れた所にも。
 車を停めて休むための場所には不自由しないぞ、シャングリラの頃とはまるで違って。



 休憩しながら運転してゆくなら、シャングリラよりも遥かに楽だ、とハーレイは笑う。
 車を停めたら飯も食えるし、コーヒーだって、と。
「シャングリラで舵を握ってた時は、不眠不休どころか食えなかったぞ、飯なんか」
 舵を握りながら飯を食ったら、大変なことになっちまう。
 ただでも少しの狂いってヤツが命取りなのに、片手で舵を握れるか?
 しっかり両手で握らなくちゃいかん、飯も駄目だし、コーヒーも駄目だ。
 誰かが口に入れてくれるというのも無理だぞ、そのタイミングで何かあったら終わりだからな。
「そうだっけね…」
 ハーレイ、ホントに一人で舵を握ってて…。
 食事もしないで、何時間でも立っていたっけ。…他の仲間じゃ駄目だ、って。
 ハーレイが頑張ってくれていたから、シャングリラは無事でいられたんだよね、いつだって。
 小惑星にぶつかりもしないで、雲海から出ちゃうことも無くって。
 …思い出したよ、そういう時の前のハーレイを。
 ちっとも疲れた顔はしないで、いつでも真っ直ぐ前を見ていて…。
「思い出したか?」
 そいつが前の俺の場合で、文字通り船の仲間の命が懸かっていたわけで…。
 あれに比べりゃ、今の時代は天国みたいなものだってな。何時間も一人で運転するのも、遊びで出来るという時代。誰の命も懸かっていないし、そりゃあ気楽なドライブだ。
 そういうドライブで鍛えた俺がだ、お前を乗っけて長いドライブに出掛ける、と。
 もちろん途中で休憩しながら、お前が行きたい所までな。



 牧場でも海でも、何処へだって…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 そのために俺の車がある、と。
「安心しろ、俺が乗せてってやる。お前の居場所は俺の隣だ」
 お前が免許を持っていなくても、俺と交代出来なくても。
 交代して欲しいと思いもしないし、休憩するのもお前のためだな。俺だけだったら、何時間でも休まずに走ってゆけるんだから。
 お前が疲れてしまわないよう、適当な所で休憩しよう。飯を食ったり、何か飲んだり。
 間違えるなよ、俺が疲れたから休むんじゃない。お前とゆっくり過ごすために車を停めるんだ。走りっ放しじゃ、お前は絶対、疲れちまうに決まっているんだから。
 俺が「寝てろ」と言っておいても、お前は起きていそうだからな。眠くなっても、目を擦って。
 お前を休ませるために、お前の顔をじっくり見ながら話すために車を停めて休憩。
 それが済んだら、また走るわけだ、長いドライブの続きをお前と一緒に。
 いいか、俺はお前を乗せて走りたいんだ、今度こそ。
 前のお前を地球まで連れて行ってやれなかった分、お前と二人の今だからこそ。
 俺たちだけのためのシャングリラで、長距離ドライブといこうじゃないか。
 お前は隣に乗っているだけで、俺と交代なんかはしないで。



 だから運転免許は取らないでいてくれた方が俺は嬉しい、とハーレイが言ってくれたから。
 「お前が欲しいと言うんでなければ、それは要らん」と笑顔を向けてくれたから。
 心配は綺麗に消えてしまって、代わりに夢がまた一つ増えた。
(…長距離ドライブに行くなら、休憩…)
 そのための場所には色々な食べ物があるらしいから、それを目当てのドライブもいい。
 行き先は決まっているのだけれども、其処までのルートを色々選んで。
 これを食べたいからこっちで行こうとか、これも食べたいから、帰りはこっちの道だとか。
 きっと楽しいドライブになる。何処へ行くにも、其処から帰ってくる時の道も。
 いつか大きく育った時には、ハーレイと二人で長いドライブに出掛けよう。
 運転免許は持っていなくても、ハーレイの代わりにハンドルを握って走れなくても。
 それは要らないと、頼もしい言葉を貰ったから。
 遠い昔にシャングリラの舵を何時間も一人で握り続けた、ハーレイが運転してくれるから。
 いつか二人でドライブに行こう、牧場へ、海へ、素敵な楽しい行き先に向けて。
 ハーレイが運転してゆく車で、二人のためだけに走ってくれる車に変わったシャングリラで…。




            車の免許・了

※前のブルーが素晴らしい腕前を発揮した、操船用のシミュレーター。実はサイオンのお蔭。
 サイオンが不器用な今は車の免許も無理そうですけど、心配無用。運転手は、ハーレイ。
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