シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
可愛いかも、とブルーが眺めたポニーの写真。
学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞、その中の記事。動物園の子供の国にいるポニー。子供たちが動物と遊べるように、と設けられている子供の国に。
(小さかった頃に…)
ポニーの背中に乗せて貰った、両親と一緒に出掛けて行って。係の人に抱き上げられて。
きちんと鞍もついていたから、子供の目には立派な馬に見えたのだけれど。得意になって背中に乗っていたのだけれども、新聞の記事に載っているポニーは…。
(今、見たら小さい…)
飼育係の隣に立っているポニー。記憶では大きな馬だったけれど、子馬のようにも見えるほど。本物の馬はもっと大きいと知っているから、ずいぶん小さかったと分かった。幼かった頃に乗ったポニーは。頼もしい背中をしていた馬は。
けれどポニーは力持ちだとも書いてある。人を乗せていても、時速四十キロくらいは充分出せる馬だと。子供ではなくて、大人が乗っても。
それを読んだらホッと安心、今よりもずっと小さかった自分は全く重くはなかっただろう。何か背中に乗っているな、と思われた程度だっただろう。力持ちなポニーだったのだから。
(他にも色々…)
子供の国にいる動物たちの写真。幼稚園の頃の自分が仲間になりたいと願ったウサギもいれば、リスも手乗りの鳥たちも。
「大人の方も是非どうぞ」とも書かれてあった。子供の国でも遠慮しないで、と。
動物園は子供たちだけのための場所ではないから、動物たちと遊びに来て下さいと。
子供の国は楽しそうだし、他の動物たちを見て回るのも面白いだろう。鼻のシャワーで水浴びをしている象を眺めたり、カバの欠伸で口の大きさを実感したり。
他にも色々、見るものは沢山ありそうだけれど。ライオンもキリンも好きだけれども…。
(やっぱり、子供が行く場所だよね?)
大人の方もどうぞ、と書かれる辺りからして、動物園の主なお客は子供。行きたがるのも子供が殆どなのだろう。ポニーに乗ったり、ウサギやリスと遊びたがるような年頃の。
(ぼくだって、ハーレイとデートするなら…)
動物園に連れて行って、と頼みはしないという気がする。なんだか少し子供っぽいから。
水族館とか植物園ならデートにも向いていそうだけれども、動物園はちょっと、と。
なにしろ子供が主役の所で、子供の国とは違う場所でも、きっと子供がいることだろう。両親に連れられてやって来た子や、幼稚園などの先生に引率された子供たちやら。
(大人が行くなら、子供連れで…)
動物園はそういう所。小さな子供を連れてゆく場所、動物たちに会いたがる子を。
けれど、自分は産めない子供。
いつかハーレイと結婚したって、子供は決して生まれて来ない。新しい小さな家族は増えない、動物園に行きたがる子は。
だからハーレイと一緒に動物園には行かないよ、と新聞を閉じて戻った部屋。おやつのケーキは食べてしまったし、紅茶も綺麗に飲み干したから。
勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。動物園とは縁が無さそう、と。
(ぼくたちに子供はいないんだから…)
ハーレイと二人で出掛けて行っても、少数派。動物園でデートというのは聞かないから。
連れてゆく子供がいない以上は、動物園にはきっと行かないだろう。男同士では子供は生まれて来ないし、「動物園に連れて行って」と強請られることも無いのだから。
(子供、欲しいとは思わないけれど…)
欲しいかどうかも考えたことすら無かったけれども、ハタと気付いた今の世の中。
自分たちのように子供が出来ないカップルの場合、養子を迎えることも多いのだった。男同士や女同士のカップルだけれど子供はいます、という人たち。
ただし、肝心の養子になる子は、気長に待つしかないのだけれど。
前の自分が生きた時代と違って、自然出産に戻った時代。おまけに平和で、豊かな世界。両親を失くした可哀相な子供は滅多にいないし、引き取ろうという親戚の数も多いのだから。
養子を迎えたいカップルは確か登録するのだったか、役所に行って。そうしておいたら、いつか子供が見付かった時に連絡が来る。この子を育ててみませんか、と。
そういう時代に生まれて来たのに、子供が欲しいとも全く思っていなかった自分。子供は決して生まれないから、いないものだと頭から決めてかかっていた自分。
養子を迎える気にならないのは、前の自分の記憶を持っているからだろうか?
機械が子供を作った時代に生きていたから、子供は誰でも必ず養子だったから。機械が養父母を勝手に選んで、其処へ子供を届けていたから。
マイナスのイメージしか無いのだろうか、と思った養子。前の自分が出会った幼い子供たち。
養父母の家で育っていたのに、ミュウだと分かってシャングリラに来るしか無かった子供。
(アルテメシアにも動物園があったけど…)
エネルゲイアにもアタラクシアにも、それは立派な動物園。人類の親子連れに人気だった施設、いつ見てもいた子供たち。養父母と一緒に、はしゃぎながら。
白いシャングリラに動物園は無かったけれども、作ろうとも思っていなかった。自給自足で船の中だけが全ての世界。無駄な生き物は乗せられないから、動物園などは夢のまた夢。
(でも、サイオニック・ドリームでなら…)
見せてあげられたのかもしれない、あの子供たちも好きだったのだろう動物園を。
あるいは立体映像を使って、専用の部屋で様々な動物を見られるようにしておくだとか。
(……動物園……)
作ってあげれば良かったと考えるのは、今の自分が動物園を知っているからだろう。楽しかった思い出を失くさないままで、大きく育ったからだろう。
前の自分は全く思いもしないで、ヒルマンたちにしても事情は同じ。動物園の案は出なかった。
子供たちのために動物園をと、誰も考えなかった船。
今とは何かと事情が違った、動物園にしても、それが好きだったろう子供たちにしても。
動物園に出掛ける親子たちは皆、血が繋がってはいなかった。子供は養子で当たり前。動物園で作った思い出でさえも、いつかは子供の記憶から消える。
成人検査で不要と判断されたなら。大人になるには要らないものだと、機械が判断したならば。
子供たちのための情操教育、そのためだけにあった動物園。
将来に役立つような思い出を持っていなかったならば、動物園の記憶は消されておしまい。ただ漠然と残る程度で、動物の知識があれば充分。
そういう時代に、前の自分は生きていた。白いシャングリラの子供たちにも動物園を、と考えもしなかったような時代に。今とは全く違った世界に。
今の自分なら、動物園を作るだろうに。子供たちがきっと喜ぶから、と長老たちを集めた会議で案を幾つも出すのだろうに。
(それじゃ、子供も…)
今の時代に生まれたからには、欲しいと思うべきなのだろうか。
ハーレイとの間に子供が欲しいと、二人で育ててゆきたいと。前の自分は夢にも思わず、子供は考えもしなかったけれど。
(ハーレイとの子供…)
結婚するなら、やはり子供は欲しいと思うのが普通だろうか。今の時代は。
(でも、生まれないし…)
男の自分は子供を産めない。どう頑張っても作れはしない。
養子はちょっと、と思うけれども、前の自分の考え方を引き摺ったままで生きているのが自分。
今では養子の事情も変わった、そう簡単には貰えない養子。
機械が作って、勝手に選んで渡されるのとは違った子供。登録しておいて長い間待って、やっと貰える自分たちの子供。十四歳になっても、成人検査で取り上げられることはない子供。
そういう養子を育てているカップルが存在する世界ならば、考え方もやはり変わるだろう。
自分は何とも思っていなかったけれど、今の自分よりも長い時間を生きているハーレイ。
今の世界で三十八年も生きたハーレイの方は、子供が欲しいのかもしれない。
そういう話題にならなかっただけで、ハーレイは欲しいかもしれない子供。
いつか結婚したら子供が欲しいと、二人で子供を育ててゆこうと。
(だったら、子供…)
養子を貰うべきなのだろうか、ハーレイが子供が欲しいなら。育てたいと思っているのなら。
それに、今の自分とハーレイの両親たちのためにも、子供は必要なのかもしれない。
ハーレイも自分も一人息子で、他に兄弟はいないのだから。
両親たちに孫の顔を見せてあげたいのならば、養子を貰うべきだろう。血の繋がっていない子供でも、今の時代は養子も実子も同じ扱い。本物の子供。
ハーレイには子供、両親たちにとっては孫になる養子。そういう子供が必要だろうか?
(どうなの…?)
子供は要るの、と急に心配になってきた。
思ってもみなかった、自分たちの子供。ハーレイと二人で育てる子供。
いつも結婚ばかりを夢見て、幸せな将来ばかりを思い描いて生きて来たけれど、その中に子供の姿は無かった。ただの一度も。
頭に浮かぶ夢と言ったら、ハーレイと二人で暮らすことだけ、二人でやりたいことばかり。
(ぼく、勝手すぎた…?)
あまりにも自分勝手な夢ばかりを見て、自分が世界の中心になっていたろうか。ハーレイは自分一人のものだと、二人きりで暮らしてゆくのだからと、周りが見えてはいなかったろうか。
(…子供…)
ハーレイが欲しいと言うのだったら、考え方を改めなければいけないだろう。
最初はハーレイと二人きりでの暮らしであっても、いつかは子供。登録して待った子供を迎えて家族が増える。新しい家族を二人で育てる。
(赤ちゃんが来るか、少し育った子供が来るか…)
それは全く分からないけれど、どちらでもきっと大丈夫だろう。
幸い、子供は前の自分だった頃から好きだし、大切に育てられる筈。
ハーレイと二人きりの生活は消えて無くなるけれども、子供のいる家もいいものだろう。自分は欲しいと思わないけれど、ハーレイがそれを望むなら。
子供が欲しいと思っているなら、二人で子供を育ててゆこう。縁あって家に来てくれた子を。
いずれは子供を育ててゆくのか、ハーレイと二人きりで生きてゆく方なのか。
(ハーレイに訊かなきゃ…)
子供が欲しいのか、そうではないのか。忘れないで訊ければいいんだけれど、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
これは訊かねば、とテーブルを挟んで向かい合うなり、こう切り出した。
「ねえ、ハーレイは子供は好き?」
赤ちゃんも、少し育った子供も、大きな子供も。
「好きだぞ、もちろん」
でなきゃ教師をやっているわけがないだろうが。子供相手の仕事が殆どなんだから。
道場で指導もしてないだろうな、子供が好きでなければな。…自分の技を磨くだけなら、指導でなくても対戦相手はいくらでもいる。腕が立つ大人しか来ない時間もあるんだから。
「そっか…」
ハーレイ、子供が好きなんだ…。前のハーレイも子供好きだったけど…。
「おい、どうかしたのか?」
俺が子供を好きなのかどうか、そんなのを訊いてどうするつもりだ?
そもそも、お前が子供だろうが。まだまだ立派にチビなんだから。
「んーとね…。子供、好きなんだったら…」
ハーレイ、やっぱり子供が欲しい?
「はあ?」
子供ってなんだ、なんの話だ?
欲しいかどうかって、子供はその辺で拾えやしないぞ、いくら好きでも。
拾って帰ったら人攫いじゃないか、とハーレイが両手を軽く広げてみせるから。
懐かれても連れて帰れやしない、と肩も竦めてみせるから。
「違うよ、他所の子供じゃなくって、ぼくたちの子供」
結婚した後に欲しいかどうかって訊いてるんだよ、ぼくとハーレイとで育てる子供。
「おいおいおい…」
気が早すぎるにもほどがあるだろう、お前。今、何歳だ?
最短コースで結婚したって十八歳だぞ、何年あると思っているんだ。
それに子供は生まれないが…。
いくらお前がチビにしたって、そのくらいは分かる筈だがな?
男同士じゃ、子供は生まれはしないってことは。
…もっとも、前の俺たちが生きた時代は、ごくごく普通のカップルでも子供は出来なかったが。
あの時代の子供は人工子宮で作られるもので、結婚したって決して生まれやしなかった。
トォニィが生まれてくるよりも前は、何処のカップルでも子供は養子で…。
「でしょ?」
だからね、前のぼくは本物の子供というのを知らないんだよ。
トォニィたちには会ったけれども、本当に会ったというだけだから…。
お母さんのお腹から生まれて育っていく姿を見てはいないし、ホントに知らないのと同じ。
自然出産で生まれた子です、って聞いたら凄いと思ったけれど…。
本当に本物の子供なんだ、って感動したけど、そのことを深く考えるよりも前に死んじゃった。
前のハーレイとぼくが男同士じゃなかったんなら、子供が生まれるんだってこと。
それに気付くよりも先に死んじゃったんだよ、前のぼくには時間が残っていなかったから…。
そのせいで頭が回らなかった、と打ち明けた。
結婚したなら普通は可愛い子供が生まれて、二人で育ててゆくものなのに、と。
「…ぼくはまだ十四年しか生きてないから、前のぼくの考え方に近いみたいで…」
普段はそうでもないんだけれども、子供についてはそうみたい。
前のぼくが欲しいと思っていなかったせいで、要らないと思っているんだよ、きっと。
ハーレイと二人で暮らすことしか考えてなくて、いつも子供のことなんか抜きで…。
結婚したらやりたいことが山ほどあるのに、子供は入っていないんだよ。…ぼくの夢には。
ぼくは欲しいと思ってないけど、ハーレイは欲しい?
せっかく結婚出来るんだものね、二人で子供を育ててみたい…?
「うーむ…。俺とお前の子供ってことか…」
本当にお前が産むんだったら、欲しくないこともないんだろうが…。
お前と二人きりの時間が減るとしてもだ、欲しいと思っちまうんだろうが…。
「やっぱり?」
ハーレイは子供、欲しいんだね?
ぼくとハーレイとで育てていく子。…二人きりの時間が減っちゃっても。
「そりゃまあ、なあ…。子供は好きだし、俺の家には子供部屋まであるからな」
いつか子供が生まれた時には使うつもりでいたのは確かだ。…そのための子供部屋なんだから。
しかしだ、お前を嫁さんに貰う以上は、そいつは出来ない相談だし…。
お前は子供を産めやしないし、諦めるしかないってこった。
とうの昔に覚悟は出来てる、それで後悔したりもしない。子供は無しの人生でもな。
お前さえいれば俺は充分、幸せに生きていけるんだから。
生まれるわけがない子供まで欲しいと欲張っていたら、ロクなことにはならんと思うぞ。
神様の罰が当たっちまって、今度もお前を失くしちまうとか…。
それは勘弁願いたいから、とハーレイは子供は要らないらしい。
子供は好きだと聞いたのに。…今の自分が産めるのだったら、本当に欲しいらしいのに。
「ねえ、子供…。ぼくは産んではあげられないけど…」
養子だったら貰えるよ?
どのくらい待つのか分からないけど、登録しておけば養子を貰える仕組みがあるでしょ?
それで子供を貰ったカップルみたいに、ぼくたちも養子。
ハーレイと二人で育てられるよ、ぼくたちの子供。
…そういう子供を貰ってもいいよ、ぼく、頑張って育てるから。ハーレイとぼくの子供だもの。
「養子という手は、確かにあるが…」
前の俺たちが生きた時代のことを思えば、今の養子は本物の子供並みではあるが…。
しかし、養子は貰わなくてもいいんじゃないか?
いや、貰わない方がいいだろう。…俺たちの場合は、その子供は。
「なんで?」
どうして貰わない方がいいわけ、ぼくたちが男同士だから?
今の時代は男同士のカップルの子供も、そう珍しくはない筈だけど…。
うんと幸せに育ててあげたら、きっと子供も喜びそうだよ。
ハーレイみたいなお父さんがいたら、絶対、自慢出来るもの。世界一のお父さんなんだ、って。
柔道も水泳もプロ級なんだし、料理も得意で、カッコ良くて…。
「それを言うなら、お前の方だって自慢の親になれそうなんだが…」
不器用すぎるサイオンはともかく、見た目はソルジャー・ブルーだからな。
もうそれだけで自慢の種に出来るってモンだ、スポーツも料理もまるで駄目でも。
だが、俺たちには子供はいない方がいい。
自然に生まれて来たならともかく、貰ってまではな。
それだけはやめた方がいい、とハーレイの顔から消えた笑み。養子は駄目だ、と。
「…お前、今度は俺と一緒に死ぬとか言っていないか?」
独りぼっちで残りの人生を生きるよりかは、俺と一緒に死ぬ方がいいと。
お前の寿命が縮んじまっても、まだ生きられる命を捨てちまっても。
「言ってるけど…。だって、独りぼっちは嫌だもの」
前のハーレイを独りぼっちにしてしまったけれど、悪かったと思っているけれど…。
それとこれとは話が別だよ、ぼくは一人じゃ寂しくて生きていけないから…。
ハーレイと一緒に連れて行ってよ、その方がいいに決まっているから。
「それだ、そいつが問題なんだ」
お前が俺と一緒に死ぬってことはだ、もしも養子を貰っていたら…。
両親をいっぺんに失くしちまうんだぞ、その子供は。
事故でもないのに、二人ともを。…そんな可哀相なことが出来るか、自分の子供に。
「でも…。子供だって大きくなってるんだよ、その頃には」
とっくに子供じゃなくなっているし、結婚して子供も孫も、曾孫もいるんだろうし…。
もう寂しいって年でもないから、大丈夫だろうと思うけど…。
「それは違うな、お前は大きな考え違いをしているぞ」
たとえ何歳になっていたって、自分の親は親なんだ。
生みの親だろうが、育ての親だろうが、自分の親には違いない。
物心ついた時からずっと一緒で、その前からも育ててくれてた大切な人で、代わりはいない。
失くしちまったら、心にぽっかり穴が開いちまって、その穴は二度と埋まらないんだ。
時が経ったら穴は少しずつ塞がりはするが、完全に消えてしまいはしない。
そんな穴がだ、一度に二つも開いちまったら、可哀相すぎるぞ、俺たちの子供。
幸せに育っていればいるほど、穴はデカいのが開くんだから。
…前の俺がお前を失くしている分、今の俺にも分かる気がするな。どんなに悲しくて辛い思いをすることになるか、まだ未経験な今でもな…。
ハーレイの両親は健在だけれど、今の年まで生きて来た間に出会ったという幾つものケース。
肉親を亡くした人の悲しみ、それをハーレイは見聞きしていた。
今は人間は皆ミュウになって、姿だけでは本当の年が分からないほどに誰もが若い。年を取った人でも自分の好みで老けたというだけ、中身は元気で達者なもの。かつてのゼルやヒルマンがそうだったように。
寿命を迎えて身体が衰え始めていっても、姿は変わらず若いまま。ソルジャー・ブルーの晩年のように、若い姿を保ったまま。
そうして命の灯だけが弱くか細くなっていった末に、フッとかき消えてしまうから。元気だった頃の姿そのままで、魂だけが飛び去るから。
人類の時代だった頃より、悲しみが余計に深いという。誰かを亡くしてしまった時の。
生きているとしか思えない姿で眠っているのに、その目は二度と開かないから。
永遠の眠りに就いてしまって、もう目覚めてはくれないから。
肩を揺すれば、起きそうなのに。声を掛ければ、パチリと瞼が開きそうなのに。
なのに、戻っては来ない魂。
眠っているようにしか思えない人を、大切な人を墓地へと運んでゆくしかない。逝ってしまった人たちの身体が眠るための場所へ、家のベッドとは違う所へ。
「お前の年では、まだ知らないかもしれないが…」
そういう悲しい別れってヤツを、聞いたことはないかもしれないが…。
まだまだチビだし、出会うヤツらもチビばかりって所だろうしな。
「うん、知らない…」
お葬式はまだ見たことがないし、行った友達もいないから…。
パパやママも行ってないんじゃないかな、行ってたとしても親戚じゃないよ。聞いてないもの。
お祖父ちゃんたち、みんな元気だし…。ぼくが知ってる親戚の人は。
「やっぱりな…。だから子供が育った後なら大丈夫だなんて言えたわけだな」
何歳になっていたとしてもだ、親が死んでも平気なヤツなんていやしない。
有難いことに、俺も身内じゃまだ知らないが…。
友達の中に、何人か混じってるんだよな。親じゃないがだ、親戚を亡くしちまったヤツが。
もちろん平均寿命なんかはとうに超えてて、大往生っていうヤツなんだが…。
葬式に行ったら、その人の子供が涙をポロポロ零してるわけだ。まるで本物の子供時代に帰ったみたいに、親の名前を呼びながらな。
周りのヤツらも貰い泣きだし、顔を知ってる親戚だったら自分も悲しいわけなんだし…。
俺の友達も、俺に話をしながら泣いてたもんだ。「優しいお爺ちゃんだったのに」とかな。
「そうなんだ…」
平均寿命を超えてた人なら、子供だって三百歳くらいになっているよね…。
それでもポロポロ泣いちゃうんなら、ぼくたちの子供がいたならホントに泣きじゃくるよね…。
ぼくとハーレイが一緒にいなくなっちゃったら。
二人いっぺんに死んでしまったら、涙だけじゃ済まないに決まっているよね…。
ハーレイの話を聞いたら分かった。もしも養子を迎えたならば、悲しませることになるのだと。
どんなに幸せに育てたとしても、最後の最後に辛い思いをさせるのだと。
前の自分は独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだけれども、子供は生きてゆかねばならない。きっと子供も孫もいるから、その人たちのために「もう大丈夫」と涙をこらえて。
泣き叫びたくても、微笑むしかない。子供たちを心配させないように…。
「分かったか。…だから、俺たちには子供は要らない」
いつか必ず悲しい思いをさせると、最初から分かっているんだからな。
お前が子供が欲しいと言うなら話は別だが、そういうわけではないんだろうが。
子供はいた方がいいだろうか、と俺に訊くほどなんだし、本当に想像もしていなかったな?
「さっきも言ったよ、一度も考えたことが無かったから、って」
前のぼくだった頃から、ホントに一度も。
結婚したら子供がいるのが当たり前だってこと、全く気付いていなかったから…。
子供はいなくてかまわないんだよ、ハーレイがいてくれればいいよ。
ハーレイと二人で暮らしていけたら、ぼくはそれだけで幸せ一杯なんだから。
「俺もお前がいればいいのさ、子供を産んでくれるんだろう嫁さんよりも」
お前しか嫁に欲しくはないから、お前が子供を産めない以上は子供も要らない。
子供部屋の出番は無くなっちまうが、俺たちで好きに使おうじゃないか。
お前と二人で色々なことに。
模様替えすれば、どんな部屋にでも出来るぞ、子供部屋とは違う部屋にな。
お前専用の昼寝部屋にでも、お前好みの本を集めた書斎でも。…書斎が二つもいいよな、うん。
俺の書斎は元からあるから、もう一つ作るのも悪くないな、とハーレイが微笑む。書斎が二つもある家は滅多に無いだろうから、そういう家にするのもいいと。
「お前も本を読むのが好きなクチだし、書斎はいいぞ。…喧嘩の時にも役立つだろうし」
「喧嘩?」
どうして其処で喧嘩になるわけ、本を投げたら武器にはなるけど…。傷んじゃうよ?
「分かっていないな、お前が書斎に立て籠るんだ」
飲み物や菓子を山ほど抱えて入って、中から鍵をかけちまう、と。
俺が「すまん」と外で土下座してても、知らん顔して本を読みながら菓子を食うのさ。
いい砦だと思うがな?
好きなことをしながら俺を苛めるには、書斎に籠るというのはな。
「…そういう使い方が出来るんだ…」
本があったら退屈しないし、飲み物とお菓子があったらいいかな…。
だけど、ハーレイが土下座しているのに、知らんぷりしてお菓子はちょっと…。
ぼくなら直ぐに開けると思うよ、書斎の鍵。
それに喧嘩もしないと思うな、ハーレイを放って立て籠るような凄い喧嘩は。
「そうか、それなら俺も助かる。お前、前と同じで頑固だからなあ、妙な所で」
立て籠ったら最後、出て来ないかと思ったが…。土下座さえすれば扉が開く、と。
ところで、お前、どうしてそういう発想になったんだ?
書斎じゃなくてだ、子供の話。
いきなり「子供は欲しいか」だなんて、いったい何をしたんだ、お前?
「えーっと…」
えっとね、最初はポニーなんだよ。
動物園にある子供の国でね、小さかった頃に乗ったんだけど…。
ポニーとかウサギが載ってたんだよ、新聞の記事に。大人の人も遊びに来て下さい、って。
でもね…。
動物園でデートは無理だと思った、と話したら。
子供連れの大人が多い所で、子供のいない自分たちには似合わない気がしたと話してみたら。
「そこから子供の話にまで飛ぶのか、お前の頭は」
シャングリラに動物園を作ってやれば良かったというのは、辛うじて理解の範疇なんだが…。
どう間違ったら、俺とお前の間に子供という方向へ行くんだ、まったく。
しかも子供は生まれないから養子だと来た、挙句の果てに俺に質問とはな。
子供は好きかと、好きなら子供も欲しいだろうかと。
「変だったかな?」
ぼくは真面目に考えたのに…。
子供はいなくて当たり前だよね、っていうのは自分勝手で間違ってたかと思ってたのに…。
「変だと言うより、考えすぎだ」
前のお前だった頃からそうだな、余計なことまで心配するんだ。
ドンと構えていろと言っても、なんだかんだと気を回してはソルジャー自ら動いてたってな。
ソルジャーはそんなことまでしなくていい、とエラが何回言ってたことか…。
視察の時にもそうだった。一つ聞いたら十くらい先まで考えちまって、後から俺に提案なんだ。こうした方が良くはないかと、まだ始まってもいないようなことを。
始めないことには分かりませんから、と俺が答えたら「でも…」と自分の考えを挙げて、結果の方も何種類もズラズラ羅列して…。
どう考えたらそっちに行くんだ、と思うくらいに悪いケースばかりを想定してな。
あの頃のお前を思い出したぞ、動物園から子供の話に飛んじまったヤツ。
子供が産めなくて何が悪い、と堂々としてりゃいいのに、お前…。
男なんだから産めなくて当たり前だし、子供がいないカップルだって珍しくない世の中なのに。
二人きりの暮らしが好きなんです、って言ってる普通のカップルだって多いんだがな…?
考えすぎはお前の悪い癖だ、と額を指で弾かれたけれど。
面白かったからいつかデートに行くか、と誘われた。行き先はもちろん、動物園。
子供連れが多いと気付いたらまた、「子供が欲しい?」と訊きそうだから、と。一人であれこれ考えてしまって、「やっぱり養子…」と真剣な顔になりそうだから、と。
「そうなった時は、こう言ってやる。お前が産むなら子供もいいな、と」
お前が産んだ子供じゃないなら、わざわざ育てなくてもいい。
子供のためにも、それが一番なんだから。
「…だけど、ハーレイのお父さんや、ぼくのパパたち、子供、欲しがらないのかな?」
養子でもいいから孫に会いたい、って思わないかな、結婚したら。
いつまで待っても、ぼくに子供は出来ないんだし…。
「分かってくれるさ、俺たちの結婚を許してくれた段階でな」
男同士のカップルなんだぞ、子供は無理だと誰が考えても分かるだろうが。
生まれないからには養子しか無いが、貰うかどうかは俺たち次第だ。
俺たちが欲しいと言わない以上は、貰えとは決して言わないだろうな。
自分たちだって子供を育てていたわけなんだし、その分、余計に。
考えがあって二人きりの暮らしを選んだんだな、と俺たちの親なら分かってくれる。
だから余計な心配は要らん、子供だなんて。
俺だって、お前が産むんでなければ、子供無しでもかまわないってな。
親父たちには、孫がいない分まで親孝行をすればいさ、と言われたから。
結婚しても子供が生まれない分は、そうして埋め合わせをしてゆこう。
ハーレイは子供好きだけれども、子供部屋まである家で暮らしてゆくのだけれど。
そのハーレイが、親を亡くして悲しむ子供を貰うよりは、と要らないと言ってくれたから。
「子供が産める嫁さんよりも、お前がいい」と言ってくれたから。
養子を貰って育てる代わりに、ハーレイと二人で親孝行をしよう、精一杯。
何度も家を訪ねて行っては、手伝いをしたり、料理をしたり。
もちろん一緒に旅行にも行って、釣りやハイキングや、色々なことを。
いつかはみんなで動物園に行くのもいい。
ポニーやウサギやリスが暮らしている、子供の国も覗いてみよう。
子供たちのための場所だけれども、大人ばかりで出掛けて遊ぶ。
餌をやったり撫でてやったり、抱っこしてみたり、きっと大人も楽しめる場所。
他所の子供たちの笑顔も沢山あるから、子供好きな気持ちを満たしながら。
たまにはハーレイを子供たちのために譲って、ウサギに餌でもやってみようか。
「ぼくもホントはウサギなんだよ」と、「ぼくたち、ウサギのカップルだよ」と。
ハーレイも自分も、今ではウサギ年だから。
同じウサギの干支に生まれた、茶色いウサギと白いウサギの仲良しカップルなのだから…。
動物園と子供・了
※前のブルーは想像もしなかった、ハーレイとの子供。自然出産が無かったSD体制のせいで。
けれども、今の時代は子供は自然に生まれてくるもの。それで、悩んでしまったブルー。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(エアプランツ…?)
なあに、とブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
園芸のコーナーらしいけれども、何処から見たって土が無かった。金魚鉢のようなガラスの器に入っているものはともかく、根を張れそうもない壁にくっついた何本もの草。それどころか、宙に浮いている草までがあった、細いワイヤーで吊られて空中に幾つも草の塊。
(ドライフラワー?)
乾燥しても色を失わない草だろうか、と記事を読んでみたら、全く違った。ドライフラワーではなくて生きている植物、土の無い場所で。壁はまだいいとして、何も無い宙で。
(…それで、エアプランツ…)
空気だけで生きてゆけるから。土が要らない不思議な植物、本当の名前はチランジア。
根っこはあっても、養分を吸うために使う代わりに身体を固定しておくもの。育つための栄養は葉から取り入れる水分だけ。雨でなくても霧で充分育つのだという。
(たまに霧吹きするだけでいいの?)
植物を育てるためには必須の水やり、それすらも殆ど要らないらしい。水をやりすぎると枯れるくらいに、手がかからないのがエアプランツ。多年生だから、一年限りで終わりでもない。
原産地では寄生植物の一種、木の枝などにくっついて育つ。岩でも何処でもいいらしいけれど、木の枝が好みの種類が幾つも。木から栄養は貰わないのに。
(くっついてると水が切れないのかもね?)
葉っぱが茂った木からだったら、いい具合に水が滴って落ちてくるかもしれない。日陰も作ってくれるだろうから、乾燥しすぎることだって無い。
(南アメリカの方なんだ…)
エアプランツの原産地。もっとも、地球は一度滅びてしまった星なのだから、原産地というのが正しいかどうかは謎だけれども。
かつて南アメリカがあった辺りに新しく生まれた別の大陸、其処で育つのがエアプランツ。昔の通りに戻った植生、森の中や山や砂漠で、木や岩などにくっついて。
水さえあったら育つ植物、便利に使えるエアプランツ。写真のように壁に飾ったり、ワイヤーで吊るして文字通り空中で育てたり。
(オブジェみたいな植物だよね…)
机の上に転がしておいても、ちゃんと育ってゆくらしいから。生きた置き物、エアプランツ。
普通の観葉植物などでは飽き足りない人向けなのかもしれない。自分のセンスで好きに育てて、訪ねて来た人をアッと驚かせたり。
(ぼくだって、知らなかったらビックリ…)
遊びに出掛けて行った先などで、空中に草が生えていたなら。植木鉢は無しで、宙に草だけ。
きっと、つついてみるのだろう。「これ、生きてるの?」と質問しながら。
(生きてるって聞いたら、もっとビックリ…)
しかも、まだまだ育つのだから。花瓶に生けられた花とは違って、何年も生きて育ち続ける植物だから。宙にぽっかり浮かんだままで。
土が無くても、困らないらしいチランジア。水だけで大きく育ってゆけるエアプランツ。
面白い植物もあったものだ、と感心しながら写真を眺めた。空中で育つ草なんて、と。
おやつを食べ終えて部屋に戻ったら、頭に浮かんだエアプランツ。この部屋でもきっと、空中で育てられるだろう。ワイヤーを張って吊るしさえすれば。
なんとも楽しい植物だけれど、頭を掠めた遠い遠い記憶。前の自分が見ていた光景。
(あんな植物、シャングリラには…)
一つも無かった、エアプランツは。寄生植物だって、ただの一つも。
クリスマスになったら飾りに使った、ヤドリギも造花だった船。クリスマスにしか使わない上、綺麗な花も咲かないから。美味しい実だってつけないのだから。
船で必要とされないものなど、育てなかったシャングリラ。植物も、それに動物も。
(観葉植物なんて…)
葉っぱを楽しむことしか出来ない観葉植物は、白い鯨になってからのもの。
自給自足で生きてゆく船、それが軌道に乗ってから。皆の心に余裕が生まれて、幾つもの公園が居住区などに鏤められていたシャングリラ。
そういう船になったからこそ、観葉植物を育てることも出来たのだろう。休憩室などに飾って、緑の葉っぱを眺めることも。
花は無くても、緑の葉っぱが茂っていたなら心は和むものだから。
観葉植物はそのためのもので、それを育てる余力が無ければ船には乗せておけないから。
白い鯨に改造するまで、シャングリラには無かった筈だ、と思ったけれど。
エアプランツも無ければ、普通の観葉植物だって、と改造前の船へと記憶を遡ったけれど。
(違った…)
あったんだっけ、と蘇って来た観葉植物の姿。元はコンスティテューションという名前だった、人類が捨てて行った船。燃えるアルタミラの宙航にポツンと一隻だけ。
人類が付けた名前は嫌だ、とシャングリラという名を付けたけれども、船はそのまま。白い鯨に生まれ変わるまでは、人類が使っていた時のまま。
けれど、その船にも観葉植物はあったのだった。船のあちこちに。
(ポトスとか…)
ハート形の葉っぱでお馴染みのポトス、他にも何種類かあった観葉植物。専用の鉢に植えられ、それを置くのが似合いの場所に。
改造するよりも前のシャングリラは、人類の船から奪った物資で命を繋ぐ船だったのに。
食料はもちろん、生きてゆくために必要な物資は全て人類の輸送船から奪っていたのに。
前の自分が奪いに行っては、それをやりくりして暮らしていた船。
(あんなポトスとか、奪って来たっけ…?)
まるで記憶に残っていないし、船に必要とも思えない。眺めるだけの植物などは。
なのにどうして観葉植物を育てていたのか、全くの謎。
白い鯨の方ならともかく、公園さえも無かった船で。奪った物資で命を繋いでいた船で。
何故あんなものがあったのだろう、と首を傾げた観葉植物。食料さえも奪って来ないと生きてはいけなかったのに。
食べられる実をつける植物なら分かるけれども、ポトスの実などは食べられない。どう考えても役に立たない、手がかかるだけの植物なのに、と思った所で気が付いた。
(ポトス、元からあったんだよ…)
他の観葉植物たちも。
前の自分が輸送船から奪ったわけではなかった植物。アルタミラで自分たちが乗り込む前から、植物たちは船に乗っていた。言わば先客、観葉植物の方が船での暮らしの先輩。
(…ぼくたちの方が後からだっけ…)
あのポトスたちにしてみれば。
船の持ち主が人類からミュウに変わってしまって、新顔になったのがシャングリラ。植物たちが知らない人間が勝手に大勢乗り込んだわけで、さぞかし驚いたことだろう。
植物たちに目や耳があったなら。人間を見分けられたなら。
メギドの炎に焼かれ、砕かれたアルタミラ。崩れゆく星から命からがら脱出した後、どのくらい経った頃だったろうか。
ようやく心が落ち着いて来たら、船のあちこちにあった植物。それまでからずっと植物は其処にあったのだけれど、見てはいなかったと言うべきか。心に余裕が無かったから。
とにかく、植物があると気付いた前の自分たち。そうなれば、最初に考えることは…。
「食べられるのかい、これは?」
ブラウも訊いたし、他の仲間たちの関心も当然、食べられるか否か。
葉っぱを毟って料理するとか、でなければいずれ美味しい実をつけるとか。
「どうなのだろうね、種類は幾つかあるようだが…」
調べてみよう、とデータベースに向かったヒルマンが持ち帰った答えは観葉植物。どれも眺めるためだけのもので、食べられもしないし、実もつけはしない。
「食えないものなら捨ててしまえ」
「乗せておいても、水と空気の無駄ってもんだ」
そういう意見も出たのだけれども、別の意見も多かった。見ているだけで癒されるから、と言い出した者が何人も。捨てなくても、このままでいいのでは、と。
「観葉植物は本来、そういう目的で栽培されているそうだよ」
緑の植物があるというだけで、人は自然を連想するから、とヒルマンが述べた存在意義。まるで役立たないように見えても、この船の中で役目を担っているのでは、と。
宇宙船の中でも緑の庭を見ている気分になれるようにと、それらは置かれているのだろうと。
捨てろと最初に言った者たちも、ヒルマンの意見を聞いた後には思う所があったらしくて。
暫く処分は保留にしよう、と観葉植物たちを宇宙に放り出すのは先延ばしになった。捨てるのに時間はさほどかからないし、いつでも放り出せるから、と。
保留していた間に分かった、植物用の水は別系統になっているということ。
飲料水や生活用の水とは別に循環していた、観葉植物たちのための水。
そういうことなら、人間用の水を無駄に使ってはいないから。誰も困りはしないのだから、今のままで船に置いておこう、という結論になった。癒される者も多いようだし、このままで、と。
(あの時点では、まだ食料も…)
充分に積んであった船。人類が大量に補給したらしい食料がドッサリ積まれていた船。
飢えることなど誰も考えてはいなかったから、観葉植物たちは生き延びられた。皆の心に余裕がたっぷりあったお蔭で。
それから幾らか時が流れて、積まれていた食料は残り少なくなったけれども。
前のハーレイから「食料が尽きる」と聞かされて直ぐに、前の自分が奪いに出掛けた。なんでもいいから食べる物をと、皆を救いたい一心で。
初めての略奪に成功した後は、奪えばいいと分かったから。
手当たり次第に奪った挙句にジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツ地獄もあったとはいえ、飢えずに済んだ船だった。
白い鯨になる前も。名前だけの楽園だった頃にも。
人類の輸送船から奪った食料や物資、それに頼っていたシャングリラ。
何処からも補給の船は来ないし、自分たちでも作れなかった。食料も、生活に欠かせない物も。
そんなシャングリラで、観葉植物のための肥料を研究していたヒルマン。厨房で食材の屑などを貰って、いわゆる堆肥のようなものを。
「何をしてるの?」
ゴミなんかで、と覗き込んでいた前の自分。ゴミは宇宙に捨てるものだから。
「植物の肥料を作るんだよ。人間で言えば食べ物といった所だね」
水だけでは生きていけないのだから、と穏やかな笑みを浮かべたヒルマン。観葉植物にも栄養を与えなければ弱ってしまうと、そのための栄養が肥料なのだと。
けれど、肥料を奪えるほどの余裕は無いから、こうして肥料を研究中だ、と。
(肥料…)
なるほど、と前の自分は理解したけれど、流石に肥料は滅多に混ざっていなかった。輸送船から奪う物資は食料や生活用品なのだし、肥料とは性質が根本的に異なるから。
そういうわけで、観葉植物たちの肥料はヒルマンが作って入れていた。植物専用に循環していた水のシステム、其処には肥料を加えるための場所もあったから。
最初の間は本当に堆肥、後には液体になっていたと思う。より植物が吸収しやすいように液体、もちろんヒルマンが抽出して。
(あのポトスとか…)
木ほど寿命が長くはないのが観葉植物。ヒルマンはそれも知っていたから、早い時期から挿し木などで数を増やしていた。駄目になった株は、直ぐに植え替えられるようにと。
お蔭で観葉植物の緑は絶えることなく、人類の船だった時に植えられた場所に代替わりしながら茂っていた。ポトスも、他の観葉植物たちも。
植物が置かれた部屋というのはいいものだ、と誰もが思い始めた船。此処でも観葉植物を育てることは出来るか、という声までもが出始めた。循環システムの水に余裕があるようなら、と。
そういった声が上がる度にゼルがシステムを調べ、可能な場所なら引いていた水。新しい環境で生き生きと育った観葉植物。
シャングリラを白い鯨に改造する頃には、船の仲間たちは皆、緑の大切さに気付いていた。緑が見える生活がいいと、もっと緑が多ければいいと。
観葉植物があるというだけで、これほどに心が潤うのなら。豊かな気持ちになれるなら。
もっと沢山の緑があったら、沢山の緑が茂っていたなら、どんなに素敵なことだろう。どちらを向いても緑の葉が見え、それに囲まれて過ごせたら。
(それで公園…)
思い出した、と掴んだ記憶。白いシャングリラに幾つもの公園が生まれた理由の切っ掛け。
皆が緑を欲しがっていたから、公園を作ろうと決めたのだった。観葉植物が置かれたスペースもいいのだけれども、もっと広くて沢山の緑。
それがあったら皆が気持ち良く過ごせるだろうと、船には公園を作らなければ、と。
作ると決まれば、皆が欲張りになった公園。船のあちこちに幾つも作るという案では足りずに、より広いものをとスペース探し。何処かに大きく取れないだろうか、と。
そうしてブリッジの見える場所にあった、あの公園が作られた。ブリッジの周りは何も設けず、見通しのいい空間として整備する案もあったのに。
(これだけ広いなら公園がいい、って…)
無機質な空間にしてしまうよりは公園だ、と皆が目を付けたブリッジの周り。操船に支障が無いようであれば、此処を公園にするのがいい、と。
(…ホントはちょっぴり危ないんだけどね?)
人類側との戦いになれば、狙われる場所はブリッジだから。機関部を叩くのも効果的だけども、操船しているブリッジを潰せば船は確実に沈むから。
それがあるから、ブリッジの周りは無人にしようと考えたのに。関係者しか立ち入らないよう、何も作らずに放っておこうと決めていたのに…。
(いざとなったら逃げるから、って…)
万一の時にはブリッジから近い公園を離れて、船の中央部に避難する。そういう規則さえ作っておいたら問題ないから、と公園作りが決まってしまった。ブリッジの周りは公園だ、と。
(…普通だったら逆なんだけど…)
大きな公園は避難場所というのが今でも常識。災害などが起こった時には広い公園へ、と学校で教えられもする。けれどシャングリラは逆だった。白いシャングリラで一番大きな公園は…。
(何かあったら、一番に逃げなきゃ駄目だったんだよ、あそこから…!)
公園の意味が間違っていたのでは、と可笑しくなるのは今の自分だからだろう。前の自分だった頃にはそれで正解、実際、そういう事態も起こった。ジョミーを救いに浮上した時に。
(子供たちはヒルマンと避難した、って…)
後でハーレイから聞かされた。「あの規則が初めて使われましたよ」と。
それまでの間はずっと平和で、皆の憩いの場だった公園。此処を公園にしておいて良かったと、広い芝生の緑の絨毯、それを見るだけで清々しい気分になれるから、と。
アルタミラを脱出して間もない頃には、観葉植物を捨てようとしていた仲間たち。反対した者も多かったけれど、捨てようとした者も少なくなかった。
その仲間たちがいつの間にやら、「いざという時には逃げるから」と危険だとされたスペースを公園に仕立てる始末で、事の起こりは観葉植物。緑の葉っぱが見える生活、それが素敵だと誰もが考えるようになったから。観葉植物が乗っていた船、其処で暮らしていた間に。
(なんだか、傑作…)
最初は捨てると言ってたくせに、とクスッと零れてしまった笑い。命拾いをした観葉植物たちが皆の考えを変えたのか、と。
観葉植物どころか公園、それも大きなものが欲しいと。危険であろうが広いのがいいと、万一の時には避難するから、ブリッジの周りの広大なスペースを公園にしたいと言い出すほどに。
(ハーレイ、覚えているのかな…)
捨てられかかった観葉植物から、白いシャングリラの公園の歴史が始まったこと。白い鯨の中に幾つも幾つも作られた公園、その始まりは観葉植物だったということを。
時の彼方から戻って来た記憶。前の自分が見ていた歴史。たかが公園のことなのだけれど、思い出したら話したい。同じ時間を生きていた人に、あの船で長く共に暮らしたハーレイに。
帰りに寄ってくれればいいのに、と何度も窓を見ていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルで向かい合うなり訊いてみた。
「ハーレイ、シャングリラの公園の始まり、覚えてる?」
どうして公園を作ることになったか、公園が一杯の船になったか。
ブリッジの周りまで大きな公園にしちゃったくらいに、みんな公園が好きだったのか。
「はあ? 公園って…」
デカイのがいいと言い出したんだろ、うんとデカイのが。
ブリッジの周りが空いてるからって、公園にするんだと決めちまって…。確かにスペースは充分あったが、危険の方も充分あったわけだが?
俺は何度もそう言ってたのに、本気で公園にしちまいやがって…。戦場に公園を作るようなモンだったんだぞ、あのデカイのは。真っ先に狙われそうなブリッジと隣り合わせの公園ではな。
「それでも広い公園が欲しくなるほど、みんなが緑が大好きになった理由だってば!」
最初は観葉植物なんだよ、ぼくもすっかり忘れてたけど…。
水と空気の無駄だから、って捨てようとしていた観葉植物、あったでしょ?
アルタミラから逃げ出した船に、最初から乗ってた観葉植物。
「ああ、あれなあ…!」
そういや、あれが始まりだったか…。
役に立たないなら捨てちまえ、っていうのを保留にしていた間に、水は別だと分かったっけな。
それならいいか、と乗せておいたら、ファンが増えたというヤツだ。
こっちの部屋にも植えられないか、って話が出る度にゼルがせっせと水を引いては、ヒルマンが苗を選んで植えに出掛けて。
その内、すっかり緑が好きなヤツらばかりになったんだった。
ブリッジの周りは危険だから、と口を酸っぱくして説明したって、「避難するから大丈夫だ」とデカイ公園を作っちまったくらいにな。
始まりはアレか、とハーレイは肩を竦めて苦笑した。俺も偉そうなことは言えんが、と。
「…俺にも最初は、あの植物が何のためにあるのか分からなくってな…」
食えるものかと思っていたんだ、実の所は。
アレそのものは食えないとしても、その内に美味い実をつけるとか…。てっきりそうかと…。
「ハーレイもなの?」
実用的なものだと思っていたわけ、あの植物が?
捨ててしまえ、って言ってた仲間の中には、混ざっていなかったように思うんだけど…。
「…捨てろとまではなあ…。何かの役に立つからこそ乗せてあったんだろうし」
様子を見てから決めればいいさ、と思ったクチだな、前の俺はな。
現にそれまで、アレのせいで何か被害が出たってわけでもないんだし…。捨てちまったら、後でしまったと思っても二度と拾えんからなあ、急がなくてもいいだろう、と。
…そう言うお前はどうだったんだ?
食い物の類だと思っていたのか、食えなくても好きな方だったのか。
「ぼくはなんとなく好きだったかな。…あれを見てたら落ち着くから」
どうしてなのかは分からないけど、好きだったんだよ。あれの側がね。
「そうなのか…」
好きだった方か、「癒される」と言ってたヤツらのお仲間なんだな。
アレに関しては、前のお前と俺の意見は違ってたわけか。食えるものだと考えていたか、癒しの緑だと思っていたか。
「ふふっ、そうだね、正反対だね」
討論会をやっていたなら、凄い喧嘩になっちゃったかも…。お互い、自分が正しいんだ、って。
食べられるものだと思うのが普通だってハーレイが言って、ぼくが違うって反対して。
成人検査と、繰り返された人体実験。それよりも前の記憶をすっかり奪われていても、あの緑を見るのが好きだった自分。観葉植物が与える癒しを、前の自分は覚えていた。
養父母の家にあったのだろうか、ああいう観葉植物が?
あの船にあったポトスなどとは違う種類でも、観葉植物の鉢が置かれていたのだろうか…?
「ねえ、ハーレイ。…前のぼく、あれを見ていたのかな…?」
ぼくを育ててくれた人たちの家に、観葉植物があったのかなあ…?
「前のお前が育った家か…。そこまでのデータは無かったな」
テラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータは、お前にも見せた分で全部だ。
お前の家が何処にあったか、どんな家かのデータはあったが…。生憎と外側だけしか無かった、家の中はサッパリ謎だってな。
「そうだよね…。前のぼくの部屋も謎なんだものね」
一階だったか、二階だったか、それも分からないままなんだもの…。
リビングとかがどうなってたのか、データがあるわけないんだけれど…。
もしかしたら、何処かにあったのかもね。観葉植物があって、前のぼくが何度も見ていた部屋。
「あったのかもしれんな、そういう部屋が。…前のお前の気に入りの部屋」
そしてだ、前の俺が育った家の方には、観葉植物が置いてある部屋は無かった、と。
「なんで分かるの?」
前のハーレイの家のデータも、ぼくのと変わらない筈なんだけど…。外側だけで。
「食えるのかと思っていたからだ。あの船でアレを見た時にな」
お前みたいに癒される代わりに、食えるものかと思っていたのが動かぬ証拠だ。
前の俺は観葉植物なんぞに馴染みが無かった、だからそうなる。
「うーん…」
そういうことかな、ハーレイとぼくの意見の違い。
馴染みがあったら癒される方で、無かった方だと食べられるかどうかを考えるわけ…?
素っ頓狂にも思えるけれども、一理ありそうなハーレイの意見。
観葉植物を眺めて癒された者と、食べられるかと考えた者の違いは其処にあったのだろうか。
捨ててしまえと言った者たちにしても、乱暴だったわけではなくて。
彼らは観葉植物に馴染みが無いまま、育ったというだけかもしれない。成人検査を受けるまでの日々を、観葉植物の無い家で。それが無かった養父母の家で。
十四歳になるまで育てられた家に、観葉植物があったかどうか。それで分かれてしまった考え、食べられるかどうかと思って見たのか、癒されると思って眺めていたか。
「…ハーレイの説は、説得力があるかもね」
裏付けは何処にも無いんだけれども、あの後のことを考えちゃうと…。
捨ててしまえ、って言ってた仲間もいた筈の船で、公園を作ろうってことになったんだし…。
ブリッジの周りは危ないから、って言っても聞かずに、大きな公園、作っちゃったし。
みんな緑が大好きだったし、考え方って、環境で変わるってことだよね?
成人検査よりも前は緑に馴染みが無かった人だけ、食べられるかどうかを気にしてたんだよ。
観葉植物が無かった家で育ったら、癒されるって思う代わりに、食べられるかどうか。
「…子供を育てるシステムってヤツは、統一してはあったんだろうが…」
学校だったら全く同じに出来るわけだが、家に帰ればそういうわけにもいかんしな。
どういう家具やインテリアを揃えていくかは、養父母の好みが出るからなあ…。
観葉植物を置くかどうかも、個人の自由で決まりだな、うん。
前のお前が育った家には観葉植物が置いてあってだ、俺の家には無かった、と。
どうやらそういうことらしいな、とハーレイは自信満々で決めてしまって。
「それで、お前はどうして観葉植物なんかをいきなり思い出したんだ?」
この部屋には何も見当たらないがだ、置きたいかどうかと訊かれでもしたか?
「ううん、観葉植物そのものじゃなくて…。あれも観葉植物っぽいけど…」
えっとね、新聞に載ってたんだよ、エアプランツっていう植物が。
土が無くても水だけあったら、ワイヤーで空中に吊るしておいても育つんだって。
「エアプランツか…。たまに見掛けるな、売ってるトコを」
あれはシャングリラには無かったが…。
導入しようと言い出すヤツさえ無かった、ヒルマンもエラも言わなかったな。
寄生植物だから駄目だと思っていたのか、それとも知らなかったのか…。
あいつらがエアプランツの使い方ってヤツを知っていたなら、あった可能性は高いんだが。
「…なんで?」
エアプランツの使い方って、どんな風に?
シャングリラの何処かで飾りに使うの、ワイヤーとかで吊るしておいて?
「ワイヤーで吊るすかどうかはともかく、エアプランツの特徴ってヤツだ」
土が要らない植物だろうが、シャングリラの中で育てる分にはピッタリなんだぞ。
あの船で土があった所がどれだけあるんだ、殆どの場所には無かったろうが。
そういう船でもエアプランツなら、あちこちで育てられるってな。観葉植物と違って循環させる水も要らないし…。たまに霧吹きでシュッとひと吹き、それで充分なんだから。
極端な話、アレならブリッジでも置けたんだ。観葉植物の鉢は置けんが、エアプランツなら…。その辺に適当に吊るしておいても、転がしておいてもいいんだから。
「それって、ブリッジにあってもいいの?」
公園を周りに作るのも危険だから、って言ってたくらいの船の心臓部なんだけど…。
そんな所にエアプランツなんか、飾っておいてもかまわないわけ…?
「さてなあ…。こればっかりは会議にかけてみないとな?」
俺の一存では決められないんだ、会議でエラたちに訊くべきだろう。…もっとも、今から訊きに行こうにも、シャングリラは無いし、エラたちだって何処にもいないんだがな。
だが、今の俺なら欲しいトコだな、とハーレイはエアプランツを置きたいらしい。キャプテンの仕事場とも言えるブリッジ、其処に癒しの緑を一つ。
「今の俺だと、あそこはどうにも…。公園の緑は確かに見えるが、それだけじゃなあ…」
機能優先ってヤツで、まるでゆとりが無い場所じゃないか、遊び心に欠けると言うか。
ワイヤーを張って、エアプランツの五つや六つは吊るしてもいいと思うんだよな。
「五つや六つって…。一つじゃないわけ?」
ハーレイの席に一個あったら満足するっていうんじゃないの?
もっと欲しいわけ、五つも六つも?
「ブリッジの広さと人数ってヤツを考えろよ?」
エアプランツの大きさはお前も分かっただろうが、新聞で記事を読んだなら。
あんな小さいのが一つで足りるか、ブリッジに置くなら五つは欲しい。
広い公園を寄越せとゴネたヤツらじゃないがだ、こいつは俺も譲らんぞ。エアプランツを置ける許可が出たなら、お次は数の交渉だ。十個は欲しいと言っておいたら、五個はいけそうだし。
「…ハーレイ、そこまで頑張るの?」
今のハーレイだから、そんな無茶でも言うんだろうけど…。
前のハーレイなら、絶対、言いっこないんだけれど。
「まったくだ。俺も我儘になったってことだ」
もうキャプテンではないんだからなあ、欲張ったってかまわないってな。
…ブリッジにエアプランツを置こうと言うからには、キャプテン・ハーレイなんだろうが…。
中身は今の俺ってわけだし、エアプランツを五つくらいは置かせて貰う。
真面目に仕事をするならいいだろ、五つ吊るそうが、六つだろうが。
人生、やっぱり潤いが無いと…、と笑っていたハーレイがポンと打った手。「そうだった」と。
「吊るすって言えば…。お前、吊りしのぶを知ってるか?」
エアプランツで思い出したが、吊りしのぶだ。
「…吊りしのぶ?」
それってどんなの、ぼくは聞いたことが無いんだけれど…?
「昔の日本の文化ってヤツだ、エアプランツとは少し違うが…」
土の代わりに樹皮、木の皮とかを丸めて塊を作る。そいつにシダを植えるんだ。でもって、家の軒とかに吊るす。俳句だと夏の季語になるんだぞ、吊りしのぶはな。
「へえ…!」
シダが植えてある塊を吊るして飾るわけ?
とっても涼しそうだね、それ。空中にシダがあるなんて。
「だろう…?」
吊るしておいて、水をやっておけば夏でも枯れずにシダの緑を拝めるわけだ。
エアプランツよりずっと風流なんだぞ、吊りしのぶは。
なにしろ日本の文化だからなあ、エアプランツよりも歴史が長い。
エアプランツも悪くないがだ、今の俺だと吊りしのぶの方に惹かれるかもなあ…。
夏になったら親父が毎年吊るしてるんだ、とハーレイが話してくれるから。
エアプランツよりも素敵らしいから、いつか大きく育った時には、隣町まで見に行こう。
庭の大きな夏ミカンの木が目印の家まで、ハーレイが運転する車に乗って。
シャングリラには無かった、今の時代ならではの癒しの緑。
夏の季語だという吊りしのぶを。
涼しげだろうシダの緑が、軒先に吊られて揺れているのを。
今の時代は、ハーレイでさえも「ブリッジにエアプランツを五つ」と言ってもいい時代。
我儘を言っても、欲張りになってもいい時代。
前の自分たちには出来なかったことが、今は沢山、沢山、出来る。
青い地球まで来られたから。
ハーレイと二人、生まれ変わって、何処までも一緒に幸せに生きてゆけるのだから…。
観葉植物・了
※シャングリラのブリッジがあった、広い公園。本当は一番危険な場所だった筈なのに。
そこが公園になった理由は、皆が緑を欲しがったから。今ならブリッジにエアプランツかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「んー…」
アサリがいっぱい、とブルーが頬張るシーフードピラフ。
ハーレイが訪ねて来てくれた土曜日の昼食、いつものテーブルで向かい合って。母が運んで来たお皿のピラフはシーフードたっぷり、殻つきのアサリがアクセントを添える。殻が無ければ洒落た感じはしないだろう。剥いてしまったアサリでは。
でも…。
「美味しいけど、ちょっと面倒だよね」
シーフードピラフ、とフォークでチョンとつついたアサリ。パカッと口を開けている貝。
「面倒って…。何がだ?」
作るのが面倒そうだって意味か、シーフードピラフを?
「そうじゃなくって、このアサリだよ。…アサリ、美味しいのは分かっているけど…」
ちょっぴり面倒だと思わない?
こうやって殻がくっついていたら、外すのが。フォークだけだと外れないよ?
スプーンで押さえていないと駄目だし、綺麗に外れないのもあるし…。
「そこが本物の証明じゃないか、新鮮なアサリを使いました、って証拠だろ」
殻つきなんだぞ、生きたアサリを買って来ないと作れないんだ。
アサリってヤツは、死んじまったら熱を加えても絶対に口を開けやしないぞ。
新鮮なアサリを入れて炊いたら、出来上がった時にこうなるわけだ。アサリが口を開いてな。
アサリがこうだし、他のもきっと買ったばかりの材料だ。この海老や、ここのイカとかも。
お母さんがいい材料を揃えてくれたからこそなんだ、とハーレイが指差す殻つきのアサリ。
これも、これも口を開けてるだろうが、と。
「そっか…。ママ、朝から買い物に行ってくれたのかな?」
アサリとかを買いに、お店まで。
「さてな? 昨日の内から買っておいても、きちんと扱えばアサリは充分生きてるが…」
しかし、せいぜい二日ってトコだ。何日も生かしておくのは無理だな、普通の家じゃ。
お母さんはきちんと準備をしてたってことだ、海老とかも。
今日はシーフードピラフにしようと決めて、色々と買って。
そこで殻つきのアサリを買ってくれたことを喜ばないとな。店に行ったら、殻を剥いてあるのも売られているんだから。
アサリだけじゃなくて、海老やイカも入ったシーフードミックスを買えば簡単なんだぞ?
炊く時にパッと放り込んだら手間要らずだ。何の下ごしらえも要らないんだから。
「うん、知ってる。…シーフードミックス、あったら便利だっていうのは」
友達に聞いたよ、いろんな料理に使えるから、って。
だけど、ママが買って来たのは見たこと無いから、お料理する所は知らないよ。
「お前のお母さんなら、買わないだろうなあ…」
あれはだ、手抜きの極みってヤツだ。…もっとも、俺の場合はお世話になるが…。
一人暮らしでアサリも海老も、と欲張って買ったら使い切れないことがあるからな。そういった時には便利なモンだぞ、必要なだけ出して使えるトコが。
しかしだ、お前のお母さんはきちんと買って作ってくれたからこそ、殻つきのアサリがピラフに入っているわけだ。剥いたアサリじゃなくってな。
面倒だなんて言うヤツがあるか、と軽く睨まれた。外れにくいことは確かだけれども、殻つきは新鮮な証拠だから。生きたアサリを炊き込まないと作れないから。
「前のお前なら、サイオンで一瞬で外せたのかもしれないが…」
フォークとスプーンで頑張らなくても、ポンと綺麗に外れちまったかもしれないんだが…。
上手くいかないのも御愛嬌だろ、自分の手を使って食べるのもマナーの内なんだから。
でないとすっかり退化しちまう、人間はあくまで人間らしく、だ。
「分かってるってば、サイオンは必要な時にだけ、っていうのが今のルールでしょ?」
でもね、前のぼくでも食事の時にサイオンは使っていなかったよ。
手が塞がってるからサイオンで口まで運んじゃおう、なんてことはやっていないよ、一回も。
食事の時にはちゃんと手で、って。青の間で一人で食べてた時でも。
「そうだな、真面目に食ってたな、お前」
今から思えば凄いことだな、前のお前なら両手が塞がっている時にだって楽に食えただろうに。
何でもヒョイとサイオンで運んで、そいつを食べながらデカイ本だって読めた。
…なのにやってはいなかったよなあ、読みかけの本はスッパリ諦めて食事をしてたんだ。
サンドイッチを考え出したっていう貴族よりも真面目で偉かったぞ、お前。
ゲームをしながら食べたいから、ってサンドイッチを作らせたっていう話だしなあ、その貴族。
前のお前の場合でいけばだ、サイオンで口に運びたいから、運びやすい料理を作れってトコだ。
一口サイズに纏めて来いとか、そういうサイズに切っておけとか。
そういう無精な真似をしなかったことは偉かった、とハーレイは褒めてくれたのだけれど。
サイオンで食べるソルジャーだったら、このピラフだって皿に盛る代わりに、おにぎりよろしく一口サイズの団子にされていたのだろう、と笑ったけれど。
「待てよ…? こいつで団子か…」
それに、おにぎりか…。如何にお前が無精なソルジャーだったとしても…。
「どうかしたの?」
「いや、シーフードピラフだな、と…」
サイオンを使って食うんだったら、おにぎりや団子が便利ではあるが…。
「なあに?」
おにぎりとかお団子は便利そうだけど、前のぼく、そんなの注文しないよ?
ちゃんとスプーンを使って食べるし、殻つきのアサリが入っているなら、フォークだって。
「いや、有り得ないな、と思ってな…」
サイオンで食うだの、おにぎりや団子にしようって前に。
「何が?」
前のぼくがやらなかったから、っていう話?
無精しちゃって、手を使わないで食事をしようってことは一度も。
「前のお前には違いないんだが…。俺もセットの問題だな」
俺もそうだし、シャングリラ全体の問題とも言う。
シーフードピラフが有り得ないんだ、サイオンを使って食おうと考える以前にな。
「そうだっけ?」
有り得ないってことは無かった筈だよ、シーフードピラフ。
前のぼくが物資を奪いに出ていた頃なら、いろんな食べ物があったんだから。
シーフードだって奪っていたよ、と前の自分の記憶を振り返った。
自給自足の生活を始めるよりも前の時代は、食料も物資も奪うもの。前の自分が人類の輸送船を狙って、様々な物を奪って戻った。
コンテナごと失敬していた物資。食料の中には肉も魚も沢山あったし、貝や海老だって。
「シーフード、何度も奪って来てたと思うんだけど…。シーフードミックスもあった筈だよ」
白い鯨になった後には、シーフードピラフを作るには種類が足りなかったけど…。
作ったとしても入っているのはムール貝だけとか、そんなのだったかもしれないけれど。
「材料の方はそうなんだろうが…。お前が言ってる通りなんだが…」
シャングリラにシーフードってヤツは確かにあったが、肝心の飯が…。
こいつを美味しく炊き上げるための飯がだな…。
「え…?」
何か足りなかったっけ、シーフードピラフを作るのに?
必要なものは奪ってたんだし、白い鯨に改造した時も、必要な食料は作れるように、って…。
「その必要な食料ってヤツが問題なんだ。シーフードピラフは米を炊くんだぞ?」
米だ、米。そいつが何処にも無かっただろうが、前の俺たちが生きた頃には。
シーフードピラフは有り得ないんだ、肝心の米が無いんだから。
「そういえば…。お米、無かったっけね…」
シャングリラで麦は育てていたけど、田んぼは作っていなかったっけ…。
稲を育てる田んぼが無くちゃ、って誰も言い出さなかったから。
すっかり忘れていたのだけれども、SD体制が敷かれていた時代。
機械が統治しやすいようにと文化は統一されてしまって、米を主食にしていた地域の文化は全て消されていたのだった。習慣も、もちろん食文化も。
消えてしまった米を食べるという文化。稲を育てれば米が採れると誰も考えなかった時代。
今とは事情がまるで違った、米が当たり前に食卓に上る時代とは。
「そっか、前のぼくたち、シーフードピラフは作れなかったんだ…」
お米が無いんじゃ、どうしようもないね。
シーフードはあっても、前のぼく、シーフードピラフを食べたことが一度も無かったんだね。
それじゃ、おにぎりにするとか、お団子だとかも絶対に無理。
手を使わないで食べられるように工夫してよ、って頼めるわけがないよね、無かったのなら。
…サイオンで食べようとはしなかっただろうと思うけど…。
食べる間くらいは読みかけの本も、見ていた書類も置いておくとは思うんだけど…。
「前のお前なら、そうしただろうな。無精しないで、きちんと自分の手を使う、と」
だから、お前もアサリの殻は面倒だなんて言っていないで、ちゃんと食べろよ?
シーフードピラフの有難さってヤツも分かっただろうが、今ならではの食べ物なんだ。
前の俺たちが生きてた頃には、どう頑張っても食えるチャンスは無かったんだから。
なんと言っても、作ろうっていう発想自体が無かったからな。
米は何処にも無かったんだし、前のお前も奪っては来ない。
シーフードだけじゃ無理ってことだな、シーフードピラフを作るのは。
前の俺だって米の炊き方なんぞは知らん、とハーレイは肩を竦めてみせた。
米を渡されてもどうしようもないと、きっと考え込むのだろうと。
「…こいつはどうやって食べるんだ、ってトコから検討したんだろうなあ、米を前にしたら」
まずは一粒口に入れてみて、舐めたり噛んだり、味を確かめたり。
でもって、米は乾燥してるし、そこの所をどう考えたか…。
水で戻してみようとしたのか、ナッツみたいに炒ろうとしたか。俺が思うに、多分、炒ったな。
米ってヤツはだ、水に浸しておいただけでは食えるようにはならないんだし…。
蒸すとか炊くとか、そういった手間をかけてやらんと駄目な食べ物だ。
そんな方法を思い付くよりも前に、フライパンを使って炒ってただろう。…炒ったら食える物になったか、そこは謎だが。
フライパンで米を炒ってみたって、ポップコーンみたいに上手く弾けはしないだろうしな。
「そうだよね…。炊く前のお米じゃ、どう使うのかも分からないよね」
前のハーレイ、料理が得意だったけど…。使い方が謎だと、やっぱりどうにもならないものね。
…今は炊けるの、お米だけをポンと渡されても?
「当たり前だろうが、米を炊くのは基本の中の基本ってヤツだ」
炊飯器なんかを使わなくても、鍋があったら炊けるんだ。
普通の鍋でも、土鍋でも炊ける。
そういや、土鍋も前の俺たちが知らなかった調理器具なんだよなあ…。
鍋を食べるって文化自体が無かった以上は、土鍋も無いし。
前の俺たちが土鍋を見たなら、調理器具だとは思わないかもな。何かを入れて仕舞っておくのに使うんだろう、と蓋を開けたり閉めたりしてな。
何を入れる物だと思っただろうか、とハーレイが笑っている土鍋。前の自分が土鍋を見たって、入れ物なのだと考えただろう。料理に関係すると聞いたら、スープを入れる鉢だとか。
「おっ、スープ鉢か! そいつは間違ってはいないかもなあ、スープ鉢」
鍋もスープの一種ではあるし、保温しながらスープを仕上げる器ってトコか。
それに昔の貴族の食事の席には、デカいスープの鉢があったと言うからな。何人分ものスープが入った専用の鉢で、蓋つきなんだ。土鍋と違って、うんと豪華に出来てたんだが。
「ふうん…? そんな入れ物があったんだ…」
前のぼく用に、って作られてしまった食器のセットには、スープ皿しか無かったけれど…。
エラとヒルマン、忘れてたのかな、そういうスープの鉢を作るのを?
「いいや、忘れたわけじゃない。…スープ鉢は必要なかったんだ」
食事の仕方が変わったわけだな、デカい鉢から取り分ける代わりに一人分ずつ配る形に。
その方が温かいスープを食べられるだろうが、熱々のヤツを目の前で注いでくれるんだから。
そういう食べ方になるよりも前は、料理は大皿に盛られてドカンと出されたそうだぞ。スープはもちろん、他の料理も。
一人分ずつ皿に盛り付けて配る時代に変わっちまったら、デカいスープの鉢は要らない。
だから前のお前の食器セットにスープ鉢は入っていなかったってな。
「そうなんだ…。エラが好きそうだと思ったんだけどな、うんと豪華な鉢だったら」
これはソルジャー専用の食器なんです、って食事会の度に説明してたもの。
ミュウの紋章が入った大きなスープ鉢だと、凄く目立って偉そうな感じがしそうじゃない。
「貴族の食器は財力を見せびらかすためのものだったからなあ、その使い方は正しいな」
ソルジャーはこんなに偉いんですから、とデカいスープ鉢を据えておいたら効果絶大だろう。
しかし、デカいスープ鉢の時代はとっくに終わっちまって、作っても出番が無かったし…。
良かったな、お前。デカいスープ鉢まで作られる羽目に陥らなくて。
ソルジャーの威厳を高めるために、と青の間まで作り上げたのが白いシャングリラの長老たち。
専用の食器を作るくらいは当然のことで、嫌だと言うだけ無駄だった。エラたちが作ると決めてしまったら、スープ鉢だって出来たのだろう。土鍋並みに大きな、豪華なものが。
「…スープ鉢、無くて良かったよ…。紋章を描くだけじゃ済みそうにないし」
他にも飾りがついていそうだよ、凄く凝った形になっているとか。
…土鍋だったらシンプルだけれど、そんな形じゃ、エラが素直に納得するとは思えないもの。
「だろうな。土鍋の形を模したにしたって、元が土鍋だとは思えない出来になったぞ、きっと」
持ち手だの、蓋の取っ手だのが派手になっていそうだ、貴族好みの形に仕上げて。
そして得々と皆に説明するんだな、エラが。
ソルジャー専用のスープ鉢です、と中身のスープが何かよりも先に、スープ鉢の方を。
「…エラだと、ホントにそうなっちゃいそう…」
中のスープはどうでもよくって、スープ鉢があるって方が大切。
もしもスープ鉢を作られていたら、前のぼくの溜息、もっと増えたよ。偉くないのに、って。
無くて良かったと心から思う、ソルジャー専用のスープ鉢。無駄に豪華な、大きすぎる器。
それが無かったことは嬉しいけれども、土鍋も無かったシャングリラ。外の世界にも土鍋は存在しなかった。土鍋で炊けるという米も。
「…ねえ、ハーレイ。土鍋でお米を炊くっていうのは難しいの?」
ママは土鍋で炊いてないけど、それは炊くのが難しいから?
「おいおい、お母さんに失礼すぎるぞ、その言い方は」
炊いたことが無いっていうだけだろうさ、普通は土鍋で炊かないからな。炊飯器があったら米は炊けるし、付きっ切りで見張っていなくてもいいし…。
土鍋で炊くには、スイッチ一つじゃないというのは分かるだろう?
隣で他の料理は出来ても、ちょっと買い物に行ってくるとか、庭仕事というわけにはいかん。
だから炊飯器が便利なんだが、美味いぞ、土鍋で炊いた飯はな。
それにピラフは見栄えがするんだ、デカい土鍋でドンと炊いたら立派な料理だ。
柔道部のヤツらには上等すぎるから作ってやらんが、俺の友達が大勢来た時なんかは定番だぞ。
シーフードピラフが一番だな、うん、殻つきのアサリなんかも入れて。
「…いいな、ハーレイのシーフードピラフ…」
それに土鍋で炊いた御飯も。
美味しそうだし、食べたいよ、それ。…土鍋で作ったシーフードピラフ。
「食べたいって顔をされてもなあ…」
俺の手料理は持って来られないと、何度も言ってる筈だがな?
お前の家で作る時にも、野菜スープのシャングリラ風か、病人用の食事だけだぞ。
「分かってるけど…」
無理だっていうのは分かっているけど、でも、土鍋…。
ぼくの家だと、お鍋の時しか使わないから、土鍋で作ったシーフードピラフは絶対、無理…。
土鍋で炊いた御飯も無理だよ、ママは作ってくれないんだもの。
前のハーレイは米も炊き方も知らなかったというのに、今のハーレイは土鍋で炊くほど。
しかも今日の昼食と同じシーフードピラフも作るというから、もう食べたくてたまらない。
どういう味がするのだろうかと、一度でいいから食べてみたいと。
けれど、ハーレイは作って来てはくれないし、家で作って貰うのも無理。前の自分と同じ背丈に育つまではきっと、土鍋で作ったシーフードピラフも食べられないのに違いない。
そう思ってションボリ項垂れていたら、ハーレイが「ふむ…」と腕組みをして。
「お前のお母さんは、土鍋でピラフを作ったことは無いんだな?」
飯を炊いていたことも無いと言ったが、それで間違いないんだろうな?
「そうだよ、ママが土鍋を使う時にはお鍋の料理」
お米を炊いてたことなんか無いよ、ぼくは一度も見たこと無いもの。
「なら、リクエストしてみるといい。土鍋でピラフを作ってくれ、とな」
土鍋を使えば、俺が作るのと似たような出来になる筈だ。
俺のレシピで作りさえすれば。
「レシピって…。ハーレイ、ママに教えてくれるの?」
土鍋で作るシーフードピラフ。…どうやって炊くのか、ぼくのママに?
「お前に食わせてやれる方法、どうやら他には無さそうだからな」
俺の家で食えるようになるまで待て、って言うのも可哀相だろう。シーフードピラフ、こうして昼飯に出ちまってるし…。
お前がお母さんに頼んで炊いて貰うんだったら、レシピくらいはお安い御用だ。
「ホント!?」
それなら、ママに頼んでみる!
きっとママなら作ってくれるよ、土鍋で炊くのは初めてでも…!
諦めるしかないと思った、土鍋で炊くというシーフードピラフ。今のハーレイが得意な料理。
早く母がお皿を下げに来てくれないかと、ワクワクしながら昼食を綺麗に食べ終えて。
今か、今かと待っていた所へ、ノックの音が聞こえたから。
「ママ! あのね…!」
母が部屋の中に入って来るなり、息を弾ませて空になったシーフードピラフの皿を示した。上にアサリの殻だけがコロンと残った皿を。
「今日のお昼、シーフードピラフだったでしょ? そしたら、ハーレイが話してくれて…」
ハーレイ、土鍋でシーフードピラフを炊くのが得意なんだって!
家に来た友達に御馳走したりするって聞いてね、ぼくも、そういうのが食べたくて…。
でも、ぼくはハーレイの友達じゃないし、生徒には御馳走してないらしいし…。
ママが代わりに作ってくれない?
土鍋で御飯は炊いてないけど、レシピがあったら作れるでしょ…?
「あらまあ…。土鍋で御飯が炊けるって話は知ってたけれど…」
シーフードピラフまで作れるだなんて、初耳だわ。
それはブルーに頼まれなくても、ママも挑戦してみたいわね、是非。
「土鍋でお作りになりますか? 私のレシピでよろしければ…」
おふくろの直伝なんですよ。土鍋さえあれば、これがけっこう簡単でしてね。
「そうなんですの? ブルー、メモと書くものを貸して頂戴」
えーっと…。お米と同じか、一割増しくらいのお水を加えて、三十分以上置いておく、と…。
それから好みのシーフードを入れて、お塩と、それに味付け用の…。
母は熱心にメモして行った。土鍋で作るシーフードピラフのためのレシピを。
ハーレイの母の直伝だというレシピは母に伝わったけれど…。
「ママ、直ぐに作ってくれるかな?」
失敗しないで作れそうだけど、晩御飯に炊いてくれると思う…?
「さてなあ…? 俺なら今日は作らないがな」
昼飯と同じになっちまうだろうが、夜もシーフードピラフだったら。
俺がいなけりゃ、それでもいいかもしれないが…。一応、俺も客ではある。
お客さんに続けて同じ料理を出すというのは、普通はやってはいかんことだぞ。頼まれたならば話は別だが、そうでなければ違う料理を出すべきだ。材料は同じでも、味も見た目も違うのを。
まず有り得ないな、晩飯がシーフードピラフというのは。
ついでに、明日にも出ないだろうなあ、明日も俺がやって来るんだからな。
ハーレイが予言した通り。夕食がもう一度シーフードピラフということはなくて、日曜日も別の料理が出て来た。昼食も、それに夕食も。
月曜日が来ても、シーフードピラフは影も形も無くて。
「ママ、ハーレイのシーフードピラフは…?」
どうなっちゃったの、ぼく、楽しみにしてるのに…。今日も別の御飯…。
「まだよ、ハーレイ先生と一緒に食べたいんでしょう?」
「え?」
「ブルーの顔にそう書いてあるの。…ハーレイ先生と食べたいな、って」
いつでも作ってあげられるけれど、平日にハーレイ先生がいらっしゃる日は分からないでしょ?
作ってあげても、ハーレイ先生がおいでにならなかったら、パパとママしかいないわよ?
それじゃブルーがガッカリするって分かっているもの、だから土曜日。
お昼御飯に炊いてあげるから、楽しみに待っていらっしゃい。
今度の土曜日のお昼までね、と微笑んだ母。
ハーレイ先生と一緒にお部屋で食べるといいわ、と。
そう聞かされたら、待ち遠しいのが土曜日だから。カレンダーを毎日眺めて待って、仕事帰りに来てくれたハーレイにも「土曜日だって!」と報告して。
待ちに待った土曜日、朝から覗いたキッチンに置かれていた土鍋。もうそれだけで心が躍った。これで炊くのかと、昼御飯にはハーレイのレシピで作ったシーフードピラフが食べられる、と。
やがてハーレイがやって来たから、顔を輝かせて「土鍋があったよ」と自慢した。
「ママが用意をしてくれてたんだよ、キッチンに土鍋」
お米とかは入っていなかったけれど、約束通り炊いて貰えるよ!
ハーレイが言ってた、シーフードピラフ。あの土鍋で。
「今度もアサリが入ってそうだな、殻つきの」
殻つきの貝を入れると見栄えがいいんですよ、と話しておいたし、アサリじゃないか?
馴染み深いのはアサリだからなあ、ムール貝とかでも美味いんだがな。
「アサリだと思うよ、ハーレイもアサリって言っていたから」
あの日のはアサリが入っていたから、アサリみたいな殻つきの貝、って言ってた筈だよ。
だから、アサリで作ると思う。…次に作る時はムール貝かもしれないけれど。
「アサリか…。また面倒だと言い出すなよ?」
殻つきのアサリは外すのがちょっと面倒だなんて、罰当たりなことを言いやがって。
あれは新鮮さの証明なんだし、ちゃんと味わって食べることだな。
「分かってるよ!」
ちょっぴり面倒って思っただけだよ、だって、ホントに食べにくいから…。
だけど、前のぼくでもサイオンを使って食べるようなことはしなかったんだし、今のぼくだって分かってるってば。
ハーレイにジロリと睨まれちゃったら、面倒だなんて、もう言わないよ。
それに、今日のシーフードピラフは特別だもの。殻つきのアサリが山ほど入っていたって、全部喜んで食べるよ、ぼくは。
そして昼食に運ばれて来たシーフードピラフ。「お待たせしました」と笑顔だった母。
土鍋での調理は上手くいったようで、ホカホカと湯気が立つシーフードピラフが盛られたお皿。予想通りに殻つきのアサリが入っていたけれど、面倒だとは思わない。
アサリの身を外すのも、楽しみの内。殻つきの貝を入れると見栄えがいい、とハーレイが教えたレシピだから。それで殻つきなのだから。
「ふふっ、ハーレイが作るのとおんなじ味…」
土鍋で炊いたから、御飯がふっくらしているのかな?
ママが普段に作ってくれるのも美味しいけれども、土鍋で作ったらもっと美味しい…!
ハーレイが得意なシーフードピラフ、これとおんなじ味なんだね…!
「どうだかな?」
本当にお前が食べたかったのは、こいつで間違いないのかどうか…。
「この味じゃないの?」
ママの味付け、ハーレイのと何処か違ってる?
それとも炊き方がちょっと違うの、ハーレイが炊いたら、こうならないの…?
「いや、お母さんは上手く再現してると思うぞ」
初めて炊いたとは思えない出来だし、流石は料理上手ってトコだ。
俺が作るのと、まるで変わりはないんだが…。
とても美味いんだが、お前が食べたいシーフードピラフは、こいつじゃないって気がしてな…。
お前の憧れは俺が作ったヤツなんだろうが、と指摘されたから。
土鍋で炊いたシーフードピラフを食べたがったのは、俺の得意料理だと聞いたからだろうが、と鳶色の瞳で真っ直ぐに見詰められたから。
「…そうだけど?」
本当に食べたいシーフードピラフは、それなんだけど…。
でも、ハーレイが作ったヤツは食べられないから、ママにお願いしたんだよ。
ハーレイが作るのと同じ味なら、ぼくは充分、嬉しいんだけど…?
「そうなんだろうと思いはするが…。今はそいつが限界なんだが…」
お前、シーフードピラフでなくても喜びそうだな、と思ってな。
こんなに豪華に作らなくても、お前ならきっと喜ぶぞ、と。
「え…?」
それって、どういう意味なの、ハーレイ?
シーフードピラフじゃなくって、もっと普通のピラフのこと…?
「ピラフじゃなくてだ、普通に米を土鍋で炊いただけでも」
俺が土鍋で炊きさえしたなら、大満足で食うんじゃないかと…。
炊いてやれるのはずっと先だが、いつかお前に御馳走できる日が来たならな。
「それはもちろんだよ!」
ハーレイが作ってくれるんだったら、シーフードピラフでなくてもいいよ。シーフードなんかは入ってなくても、普通に御飯を炊いただけでも。
そうに決まっているじゃない。
ハーレイが作る所を側で見られて、ハーレイと二人で食べられるんなら…!
殻つきのアサリや海老などが入った、ふっくらと美味しいシーフードピラフもいいけれど。
土鍋で炊き上げた素敵なピラフもいいのだけれども、御飯だけでもきっと美味しい。ハーレイが炊いてくれるなら。炊飯器の代わりに土鍋を使って、ホカホカの御飯が炊き上がるなら。
「やっぱりな…。そういうことなら、飯盒炊爨なんかもいいな、と思ってな」
土鍋で炊くような風にはいかんが、あれもなかなかに美味いもんだぞ。
「飯盒炊爨?」
どんなものなの、それも御飯を炊くんだよね…?
「飯を炊くのには違いないが…。土鍋どころか、鍋も使わん」
キャンプとかの時に使う道具だ、こういう形をしてるんだが…。
見たことは無いか、こいつを直接、焚火とかにかけて飯を炊こうというわけだ。
「ああ…!」
パパが炊いてくれたことがあったよ、下の学校の時にキャンプ場で。
そういう道具を貸してくれる所があってね、焚火用の場所もあったんだよ。
ハーレイもあれで御飯を炊けるの?
「得意な方だな、炊き方のコツは知ってるぞ」
下手に炊いたら、芯が残った飯が出来たりするんだが…。
そうなったことは一度も無いなあ、こいつも俺の才能かもな?
幼かった頃に、両親と出掛けたキャンプ場。父が炊いてくれた御飯は美味しかった。緑の木々や川の流れが綺麗だった森で食べたからだろうか、ただの白い御飯だったのに。
それをハーレイが炊くと言うから、御馳走してくれるらしいから。
「それ、食べたい…!」
飯盒炊爨をするんだったら、キャンプ場とかに行くんでしょ?
ハーレイの車でドライブ付きだよね、飯盒炊爨が出来る場所まで…!
「ほらな、ますます夢が膨らんだろうが」
お前と二人でドライブしてから、一緒に焚火を始めて炊く、と。
飯盒炊爨でもシーフードピラフは作れるんだぞ、普通の飯を炊くっていうだけじゃなくて。
「嘘…!」
土鍋だったら分かるけれども、あれって普通のお鍋じゃないよ?
御飯を炊いても、下手な人だと芯が残ってしまうんでしょ?
そんな道具でシーフードピラフは、作れそうもないと思うんだけど…。
「まあ、殻つきのアサリは無理だな、確かにな」
火の通り方の関係だろうな、殻つきの貝では上手くいかんと俺も聞いてる。親父からな。
そうさ、親父に仕込まれたんだ。釣りに行ったら飯盒炊爨って時もあるしな、場所によっては。
飯盒でシーフードピラフを炊くんだったら、使うのは店で売ってるヤツだ。手抜きで使おうってわけじゃなくって、シーフードミックスがピッタリなんだ。
そいつを使って火にかけてやって…。焦げるくらいが美味いんだぞ。シーフードピラフ。
「美味しそう…」
手抜きじゃないのに、シーフードミックスを使うんだ?
新鮮な材料を揃えるんじゃなくて。
「そうだ、そこが面白い所だな。普通にシーフードピラフを作るんだったら、手抜きなのにな」
シーフードミックスを使っちまったら、手抜きと言われても仕方がないが…。
飯盒炊爨だと逆にそいつが秘訣ってわけだ、美味いシーフードピラフを炊くための。
いつかお前に作ってやるさ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
殻つきのアサリは何処にも入っていないけれども、飯盒で炊いたシーフードピラフ。
キャンプ場なら、殻つきのアサリの身を外すのは本当に面倒だろうし、丁度良さそうな気がするシーフードミックスを使ったピラフ。
まずは土鍋で炊いたシーフードピラフからだ、と言われたけれど。
キャンプ場までドライブするのは、土鍋の方のを披露してからだ、ということらしいけれども。
土鍋で作ったシーフードピラフも魅力的だから、それでいい。
最初は土鍋で炊く所を見て、次はドライブで飯盒炊爨。
(…きっと、どっちも美味しいんだよ)
ハーレイが作るシーフードピラフは、殻つきの貝が入ったものでも、シーフードミックスで炊く飯盒炊爨の方でも、きっと。
シャングリラには無かったシーフードピラフ、今は炊き方までも色々。
使う道具も、入れるシーフードも、料理上手なハーレイ次第。
早くハーレイと二人で食べたい、今ならではの味を、前の自分が焦がれ続けた青い地球の上で。
白いシャングリラで行こうと夢見た、ハーレイと目指した地球の上で。
きっと、幸せの味がするのに違いない。殻つきのアサリが少し面倒でも、殻がないアサリの身が入っているシーフードミックスを使ったものでも。
いつか大きく育った時には、ハーレイと二人でシーフードピラフ。
飯盒炊爨に出掛けて行ったら、地球の自然を楽しみながら。
ハーレイと暮らす家で土鍋で炊いたら、二人きりのテーブルで互いに微笑み交わしながら…。
シーフードピラフ・了
※シャングリラの時代は無かった、お米を炊く料理。もちろんシーフードピラフだって。
けれど今度は、ハーレイと一緒に食べられたのです。そしていつかは、二人で飯盒炊爨も。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(アップルパイかな?)
学校から帰ったら、そういう匂い。ブルーに届いた甘い甘い香り、母が得意なアップルパイ。
きっとそうだ、と心が弾んだ。ハーレイの大好物のパウンドケーキも好きだけれども、お菓子はどれも大好きだから。食べると心に幸せが満ちる、母の手作り。
パイもケーキも種類は色々、なのに何故だか心が躍る。アップルパイだ、と。
(美味しいんだよね、アップルパイ…)
今日はアップルパイを食べたい気分だったのだろう。自分では気付いていなかったけれど、匂いだけで嬉しくなるのなら。上手い具合に重なったらしい、食べたいお菓子と母が作ったお菓子。
アイスクリームも添えてくれるといいな、と考えながら部屋で制服を脱いで、着替えを済ませてダイニングに下りて行ったら、おやつを用意してくれた母。予想通りにアップルパイ。
「今日のアップルパイはね、ママも初めて作ったのよ」
どうぞ召し上がれ、と渡されたお皿。アップルパイが一切れ、ごくごく普通の。
「…いつものアップルパイに見えるけど…?」
「見た目はね」
食べてみて、と母に促されてフォークを入れて。頬張ってみたら、香ばしいパイ皮と優しい味のリンゴのハーモニー。サックリした皮と、しっとりと甘い中のリンゴと。
「美味しい!」
ホントに違うね、ママが作るのも美味しいけれど…。これは特別に美味しいみたい。
「そうでしょう?」
ママもね、お友達の家で御馳走になるまで知らなかったわ、この味は。
だから早速聞いて来たのよ、これはどうやって作るのかしら、って。
母が教わって来たアップルパイの作り方。教会のバザーで売られるアップルパイのためのレシピだという。人気の高いアップルパイで、並べれば直ぐに売り切れるくらい。
味の秘訣は中身のリンゴ。普通のアップルパイと違って、リンゴのジャムから作り始める。その時に出て来た煮汁を取り分けておいて、パイを焼く時に三度も塗るのが美味しさの秘密。
ジャムとして食べても充分に美味しいリンゴのジャムと、何度も塗られたリンゴの煮汁。
卵黄と牛乳で作る上塗り液とは別に、煮汁を三回。
「SD体制が始まるよりも、ずうっと昔のレシピなんですって」
修道院のシスターが作っていたらしいわよ。今とは違って、教会がずっと厳しかった時代に。
外で売るためのお菓子は作れても、シスターは修道院の外には出られなかったんですって。
「ふうん…?」
なんだか凄いね、今は教会、普通だけれど…。前のぼくの頃から、そうだったけど。
外に出られないから、お菓子の研究をしていたのかな?
「どうなのかしら…。ママもそこまでは聞かなかったけれど…」
でもね、特別だっていうのは分かるわ、この作り方が。
アップルパイを作る時にね、リンゴジャムを使うことはあるのよ。リンゴを煮ている時間が無い時に中に詰めちゃおう、って。瓶から出したら使えるものね。
だけど、リンゴのジャムから作るレシピは滅多に無いわ。リンゴを煮た方がずっと早いもの。
それにジャムから作る時でも、リンゴの煮汁を上に塗ったりするほどの手間はかけないし…。
三回も塗るのよ、オーブンを五分ごとに開けてね。
上塗り液さえ塗っておいたら、充分、綺麗に焼き上がるのに。
お菓子作りが好きな母でも、特別だと思う作り方。
美味しさの秘密を聞いたからには、興味津々で食べたアップルパイ。とても美味しい、と。
お皿がすっかり空になっても、まだ名残惜しい気がするから。
「ママ、おかわり!」
もっと食べたいよ、このアップルパイ。ホントに美味しいパイなんだもの。
「お腹、一杯になっちゃわない?」
晩御飯が入らなくなってしまうわよ、食べ過ぎちゃったら。これはおやつよ、食事じゃなくて。
「少しだけだよ、今度はゆっくり食べてみたいから」
美味しすぎて夢中で食べちゃったから、今度は慌てて食べずに、ゆっくり。
「はいはい、ブルーも味の研究がしたくなったのね」
あんまり食べると後で困るから、少しだけよ?
ハーレイ先生がいらっしゃっても大丈夫な程度ね、ブルーだけお菓子が無いと嫌でしょう?
だからこれだけ、と母が小さめに切ってお皿に載せてくれたアップルパイ。
本当に小さなサイズだけれども、おかわりのパイは無事に貰えた。
母がダイニングから出て行った後に、じっくりと眺めたアップルパイ。
見た目は普通のアップルパイと変わらないのに、美味しくて手間のかかったパイ。それに教会のバザー用のパイ、遠い昔に修道院のシスターたちが作ったレシピ。
(神様のアップルパイなんだ…)
聖痕をくれた神様のパイ、と嬉しくなったパイとの出会い。神様のアップルパイに会えた、と。
特別なパイをもっと知りたくて、思い立ったのがパイの分解。
リンゴの煮汁が塗られた皮と、中のリンゴジャムを別々に味わってみるのも良さそうだから。
少しお行儀が悪いけれども、皮を剥がして齧ってみたら、確かにほんのりリンゴの味。ジャムの煮汁を塗ってあるから、皮もリンゴの味なのだろう。
中のリンゴジャムは透き通った金色、ジャムとして食べても美味しいだろうに、アップルパイに詰めてある。わざわざ作ったジャムだというのに、それをお菓子に惜しみなく。
沢山の手間がかかっていることと、その美味しさが分かった分解。別々に食べた、皮と中身と。
(分解してみて良かったよね!)
ママにおかわりを貰えたからだよ、とジャムをフォークで口へと運んだ。イチョウ切りになった薄いリンゴは、これだけでも手間がかかると分かる。リンゴを小さく切るのだから。
アップルパイに入れるリンゴなら、もっと大きく切ってもいいのに、と頬張ったジャム。金色になるまで煮てあるリンゴ。
そうしたら…。
(あれ…?)
何処かで食べたような気がした。こういうアップルパイの中身を。
アップルパイ用に煮たリンゴではなくて、リンゴで作ったジャムが詰まったアップルパイ。
けれども、何処で食べたのだろう。こういう味がする中身、と考え込んだ所へ、折よく母が通り掛かったから、呼び止めて訊いた。
「ママ、リンゴジャムのアップルパイを作ったことはある?」
時間が無い時はジャムを使うって言っていたけど、ママも作った?
「作らないわよ、アップルパイにはいつもリンゴを煮ているもの。…でも、どうして?」
「…これ、食べたような気がするから…」
パイの中身だけ食べたんだけれど、こういう味のリンゴが詰まったアップルパイ。
普通に煮てあるリンゴじゃなくって、リンゴのジャム。
「シャングリラじゃないの?」
ブルーにはソルジャー・ブルーの記憶があるでしょ、その頃に食べていなかった?
シャングリラにもリンゴはあったんでしょうし、アップルパイもあったでしょ?
「んーと…。リンゴは育てていたけれど…」
あの船のパイじゃないと思うよ、教会のアップルパイのレシピなんかは無かっただろうし。
時間が無い時に作るリンゴジャムのレシピも、シャングリラだと意味が無いんだもの。
厨房には決まった係がいたから、時間不足は有り得ないんだよ。出来上がりまでの時間を考えて作るんだもの、アップルパイだって同じだと思う。
今日は時間が足りないから、ってジャムを詰めることなんか無い筈なんだよ。
アップルパイが運んで来た謎。何処かで食べたと思った味。
おかわりのパイを食べ終わっても、ついに答えは出なかった。空になったお皿や紅茶のカップを母に返して、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。あの味に何処で出会っただろう?
(確かに食べてた筈なんだけど…)
舌があの味を覚えていたから。アップルパイの中身はリンゴのジャム、と。
友達の家で出たのだろうか、と思ったけれども、ごくごく普通のアップルパイの記憶しか無い。ジャムとは違って、甘く煮たリンゴを詰めてあるパイ。
そうなってくると、母が言ったようにシャングリラしか残らないのだけれど。
(でも、シャングリラだと…)
アップルパイは必ず中身のリンゴを甘く煮て作っていただろう。
どんなに急いでいたとしたって、係はきちんといたのだから。リンゴを煮るより早く出来ると、ジャムを詰めたりはしなかったろう。
たかがアップルパイといえども、係にとっては仕上げることが仕事なのだから。
急いで作らねばならないとしても、手抜きはきっと考えない。ジャムを詰めたら早く作れる、と気付いたとしても、けして実行したりはしない。
その方が美味しく出来るというなら別だけれども、そういうレシピは船に無かっただろうから。
アップルパイのリンゴは専用に煮るもの、そう考えていそうだから。
けれど、もしかしたら、誰かが考え付いたのだろうか、リンゴのジャムで作るレシピを?
何かのはずみにふと思い付いて、作ってみたら美味しかったとか…?
そういったこともあるかもしれない。
白いシャングリラで仲間たちと暮らした時間は長くて、アップルパイの研究だって出来た筈。
神様のアップルパイのレシピを作ったシスターたちと同じに、外へは出られなかった船。研究のための時間は充分にあった、遠い昔の修道院のように閉ざされた世界だったのだから。
(…ハーレイだったら、知ってるのかな?)
キャプテンになる前は、厨房にいた前のハーレイ。
料理は得意だったのだから、アップルパイの味が変われば興味を持って訊きに行きそうだ。何か新しい工夫をしたかと、どういうレシピで作ったのかと。
ハーレイが来れば謎が解けるかも、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが尋ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「ハーレイ、アップルパイは作れる?」
「もちろんだ」
「だったら、前のハーレイは?」
「前の俺だと?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。どうして前の俺でアップルパイだ、と。
「あのね…。シャングリラのアップルパイのレシピを知りたいんだよ」
ハーレイなら知っているかと思って…。厨房にいたから、レシピなんかも詳しそうだし。
「レシピはともかく、アップルパイというのは、なんのためにだ?」
お前が作ってみようと言うのか、シャングリラにあったアップルパイを?
「えーっとね…。そうじゃなくって…」
ぼくが作ろうっていうんじゃなくって、アップルパイの味が気になるんだよ。
シャングリラのアップルパイはどういう味だったかな、って。
切っ掛けは今日のおやつのアップルパイ、と質問の理由を説明した。
特別なパイを作って貰ったら、何処かで食べたような気がする味だったのだ、と。
「ほほう…。教会のアップルパイとは珍しいな」
しかもSD体制が始まるよりも前の時代のレシピか、本物の修道院で生まれた味なんだな。
どんなレシピだ、俺も大いに興味があるが。
これでも古典の教師だからなあ、遠い昔の文化ってヤツが好きなのは知っているだろう?
前の俺だってレトロな羽根ペンを使っていたんだ、こいつは血かもしれないな。
「秘密はリンゴのジャムなんだよ」
アップルパイの中身がリンゴのジャムでね、ジャムだけでも凄く美味しかったよ。
ママが、時間が足りない人はリンゴのジャムを使って作ることもあるって言ったけど…。
普通はリンゴを甘く煮るでしょ、アップルパイ用に。
だから、リンゴのジャムが詰まったアップルパイなんかを食べた覚えは無い筈なのに…。
何処かで食べたって思ったんだよ、中のジャムだけ食べてた時に。
「なるほどな…。お前、覚えていたのか」
リンゴのジャムのアップルパイを。…前のお前が食ってたことを。
「えっ?」
ぼく、シャングリラで食べてたの、あれを?
ハーレイが言うなら間違いないけど、ホントのホントにシャングリラで…?
甘く煮てあるリンゴの代わりに、リンゴジャムを詰めたアップルパイ。美味しいアップルパイにしようと、わざわざジャムから煮てゆくレシピ。
白いシャングリラにもあったのだろうか、あの特別なパイのレシピが?
あるいは時間が足りないからと、誰かが慌てて作ったろうか。リンゴのジャムを詰め込んで。
「ハーレイ、それって、どういうレシピ?」
厨房の誰かが研究してたの、アップルパイの美味しい作り方を?
それとも、時間が足りなかった時に、リンゴのジャムを詰めちゃったわけ…?
手抜きだけれども、特に文句は来なかったから、ってリンゴジャムのレシピもあったとか…?
「どちらかと言えば、手抜きの方だな」
それから、そいつを食っていた時期を間違えちゃいかん。厨房のヤツらは無関係だ。
前のお前が食ってたリンゴジャムが詰まったアップルパイはだ、俺が作っていたんだからな。
もちろん白い鯨になる前のことだ、俺がキャプテンになるよりも前だ。
「前のハーレイが作ってた、って…。ハーレイ、手抜きをしてたわけ?」
アップルパイ用にリンゴを甘く煮るのは面倒だ、ってリンゴのジャムを詰めちゃってたの?
「いや、違う。そこも間違えてはいかん所だ」
いいか、あの頃の船じゃ、菓子はそうそう作れるものではなくてだな…。
基本は奪ってくるものだったぞ、菓子の類も。前のお前が。
…もっとも、前の俺は許しはしなかったんだがな、菓子だけ奪いに行くというのは。
菓子が食えなくても死にはしないし、贅沢なんかはしなくていいと。
だからだ、菓子はお前が奪った物資に混ざっていれば食べるという勘定だ。
焼き菓子があったらそれを食ったし、チョコレートだったら、チョコレート。
シャングリラはそういう船だったろうが、俺が厨房にいた頃にはな。
美味しい菓子を船で作るのは、贅沢だった頃のシャングリラ。限られた物資で暮らしていた船。
倉庫の食料が不足する前に、前の自分が奪いに出掛けた。人類の輸送船を狙って。
船の中で菓子を作りたくても、白い鯨とは違った事情。手に入った食材だけが全てで、待っても船では何も育たない。リンゴも、甘く煮るための砂糖が生まれるサトウキビも。
「あの頃のシャングリラで、アップルパイなんかを作ってられるか?」
お前がリンゴを沢山奪って帰って来たとしても、そこでアップルパイにはならんぞ。
リンゴはパイにするよりも前に、貴重な果物というヤツだ。
新鮮な間に皮を剥いて食べる、そいつが一番大切だってな。船でリンゴは採れないんだから。
「それもそうだね、果物は人気があったしね」
食事と一緒に果物が出たら、みんな、とっても喜んでたし…。
アップルパイを作れる余裕が無いなら、リンゴはそのまま切って出すよね。
「分かったか? 前の俺が作ったのは保存食なんだ」
アップルパなんていう洒落たモノじゃなくて、ただのリンゴの保存食だ。
「保存食?」
それってなんなの、非常食とは違うよね?
保存食って言ったら、缶詰だとか、瓶詰だとか…。リンゴの缶詰、あったっけ?
リンゴジュースなら知ってるけれども、リンゴの缶詰…?
あれかな、甘く煮てあるヤツ…。リンゴのコンポートみたいなのが詰まった缶詰。
たまに見掛けるリンゴの缶詰。母は買っては来ないけれども、友達の家で御馳走になった。缶を開けたら出て来る甘いリンゴを使ったおやつ。フルーツポンチや、かき氷のトッピングなども。
そういったものしか思い浮かばない、リンゴを使った保存食。リンゴの缶詰、と。
前のハーレイはリンゴを甘く煮て缶詰を作っていたのだろうか?
そんな記憶は無いのだけれど、と首を傾げていたら、「忘れちまったか?」と笑みを含んだ声。
「缶詰じゃなくて、瓶詰だな。…前の俺がリンゴで作っていたのは」
リンゴが山ほどあった時には、保存しておこうとジャムにしたもんだ。
ジャムはパンには欠かせないしな、あっても困りはしないだろうが。
だからリンゴがドカンと手に入ったなら、せっせと作って瓶に詰めていたが…?
「そういえば…。ハーレイがジャムを煮詰めていたのを思い出したよ」
大きなお鍋でリンゴのジャム。金色になるまで、焦がさないように何度も混ぜて。
…あのジャムでアップルパイだったの?
せっかくジャムが出来たんだから、ってアップルパイを作っていたわけ…?
「お前用にだけな」
前のお前にしか作っていない。…リンゴのジャムのアップルパイは。
「ぼくにだけ?」
他のみんなの分は無しなの、リンゴのジャムは沢山あったと思うんだけど…。
「全員の分を作れる余裕は無い船だった、と言っただろうが」
それでも、お前の分だけは作ってやりたかったんだ。
お前、いつも奪って来てくれてたしな、色々なものを。食料も他の物資もだ。お前がいなけりゃ何も手に入りはしなかった。奪いに出掛けるだけの力は、お前にしか無かったんだから。
…だったら、少しは礼をしないとな、頑張ってくれるお前のために。
何か出来ないかと考えていた時に、アップルパイに出会ったんだよなあ…。
ハーレイとアップルパイとの出会いは、前の自分が奪った物資。コンテナの中にアップルパイが幾つも混ざっていたから、皆で分けて食べた。いつものように。
アップルパイが混ざっていたことは前にも何度もあったのだけれど、その時はリンゴもドッサリ入っていたのがヒントになった、と語るハーレイ。
「またリンゴジャムを作らないとな、と考えながら食っていたのが良かったんだろうな」
こいつの中身はリンゴジャムでもいいんじゃないか、と閃いたわけだ。アップルパイで。
それでデータベースで調べてみたらだ、リンゴジャムを使うレシピがあった。アップルパイにはリンゴのジャムを詰めてもいい、と。
それが分かったら、もう作るしかないだろう。アップルパイは美味いんだから。
しかしだ、一人分だけのパイ生地を作るというのもなあ…。
だから待ったさ、パイ生地を使った料理を作る時が来るまで。そのために作ったパイ生地の端を少し貰っておいても、問題は何も無いからな。どうせ端っこは余るんだし。
余ったパイ生地をくっつけて使うのは俺の自由だ、オーブンの隅っこに入れて焼くのも。上手く形を作って合わせて、中にリンゴのジャムを詰めればアップルパイの出来上がりってな。
前のお前が食べる分だけ、本当に少しだけだったが。
「思い出した…!」
ハーレイが作ってくれてたんだよ、前のぼく用のアップルパイを。
あの味だったよ、ママが作ったアップルパイの中身のジャムは。
何処かで食べたって思うわけだよ、ハーレイのアップルパイだったんだから。
あのアップルパイ、前のぼくはいつも、幸せ一杯で食べていたから…。
他のみんなに悪いよね、って気持ちもしたけど、ハーレイが作ってくれたのが凄く嬉しくて…。
「他のヤツらは気にするな」って言ってくれたから、いいのかな、って。
ハーレイがわざわざ作ってくれたお菓子なんだし、食べちゃってもかまわないんだよね、って。
前のハーレイに「お前だけだぞ」と厨房に呼ばれて、何度も食べたアップルパイ。
今日のおやつに食べていたような、アップルパイの形ではなかったけれど。
四角かったり、細長かったり、その時々で色々な形。余ったパイ生地の形や大きさで決まった、前のハーレイが作ったアップルパイの形。
「あのアップルパイ、いつでもリンゴのジャムだったものね…」
中身はリンゴのジャムなんだぞ、ってハーレイが教えてくれたっけ。
本物のアップルパイでも、リンゴのジャムで作ることがあるから、って。
…ママのアップルパイとおんなじ味になっちゃうわけだよ、中身がリンゴのジャムなんだもの。
「お前が言ってた、アップルパイのレシピなんだが…」
リンゴジャムの煮汁を仕上げに塗るって話だったよな。三回だったか?
前の俺がお前用に作ったアップルパイにも、煮汁が塗ってあったんだが…。
「煮汁って…。そんなのも取っておいたわけ?」
ジャムを作った後に残していたわけ、煮汁まで?
何かのお料理に使おうと思って取っておいたの、ハーレイは?
「いや、基本はシロップ扱いでだな…。水で薄めて厨房のヤツらが飲んでたんだが」
そうそう残りはしなかったわけだ、三日も経ったらすっかり飲まれちまってた。
だから、ジャム作りとパイ生地の料理が重なった時だけ塗ってたな。
薄めて飲んだら美味いわけだし、こいつを塗ったらアップルパイも美味くなりそうだ、と。
「そっか…。ハーレイ、煮汁も塗っていたんだ…」
あのアップルパイ、ママのとそっくり同じになってた日もあったんだ?
「流石に三回も塗る所まではやっていないがな」
その発想はまるで無かったな、一回塗れば充分だろうと思っちまってた。
あと二回塗れば、そのものズバリの上等なパイが出来ていたかもしれないのにな…?
惜しいことをした、とハーレイは苦笑しているけれども、リンゴジャムが入ったアップルパイ。
リンゴジャムを作った時の煮汁も塗られていたという、ハーレイが作ったアップルパイ。
前の自分は、今の自分がおやつに食べた特別なパイと同じものを食べていたらしい。
ほんの少しだけ違うけれども、煮汁が塗られた回数が二回足りないだけ。
それ以外の部分はまるで同じで、遠く遥かな時の彼方で前の自分が食べていた。神様のパイだと今の自分が思った、特別なレシピのアップルパイを。
前のハーレイに作って貰って、何度も何度も、リンゴのジャムの小さなパイを。
なんとも不思議で、懐かしい味のアップルパイ。
いつも形はバラバラなもので、パイ生地の端っこで作られたパイ。ハーレイが上手く工夫して。
端を綺麗に捻ってあったり、飾りがついていたこともあった。
パイ生地に入った切れ目の他にも、生地の端っこを貼り付けて小さな飾り。三角だったり、四角だったり、オマケのパイ生地。
「たまに、こういうのもいいだろうが」とハーレイは得意そうだった。ちょっとお洒落な出来になったと、今日のパイ皮にはオマケ付きだ、と。
前の自分が何も知らずに時の彼方で食べたパイ。遠い昔に修道院で生まれたアップルパイと同じレシピで作られたパイ。
それを作っていたハーレイ自身も、そうとは知らなかったのだけれど。リンゴジャムを使ってもアップルパイは作れるものだと、閃いたというだけなのだけれど。
リンゴジャムの煮汁を塗っていたのも、ほんの偶然。美味しそうだからと塗っただけ。
そのアップルパイを作っていたハーレイが厨房を離れた後には、リンゴジャムのアップルパイはもう無かったという。前のハーレイはレシピを残さず、誰も作らなかったから。
「…それじゃ、前のぼくも…」
ハーレイがキャプテンになった後には食べてないわけ、あのアップルパイ?
レシピが残っていなかったんなら、誰も作ってくれないものね…。
「そうなるな。…白い鯨になった後には、アップルパイのレシピは普通だったからな」
リンゴジャムなぞ誰も使わん、それをやったら手抜きだと言われても仕方ない。
ちゃんとリンゴを煮てから作れと、上のヤツから厳しく叱られただろうさ。
リンゴジャムを使って素晴らしく美味いのを作れば別だが、そんな話は聞いちゃいないぞ。
厨房とは縁が切れちまっても、画期的なことをやったヤツがいたなら耳に入ってくるからな。
なにしろ、元が厨房出身だ。昔馴染みのヤツだっているし、情報は色々あったってことだ。
白いシャングリラでは作られなかったらしい、リンゴジャムを使ったアップルパイ。
前のハーレイが編み出したレシピは消えてしまって、誰も作りはしなかった。前の自分も二度と食べられないまま、その味を忘れてしまったのだろう。同じ味のパイを食べるまで。
「…なんだか不思議…。前のハーレイが神様のアップルパイと同じのを作っていたなんて…」
前のぼくがそれを食べていたのも、とっても不思議。
今頃になって、ママがおんなじ味がするパイをおやつに作ってくれたのも…。
「まったくだ。神様の悪戯ってヤツかもしれんな、ちょっと驚かせてやろうとな」
奇跡ばかりじゃないんだぞ、と愉快なサプライズを下さったってこともあるかもしれん。神様は何処にでもいらっしゃるんだと言うからな。
前の俺は神様のアップルパイのレシピだと知らずに盗んじまったのか、拝借したのか…。よくもやったな、と今頃になって頭をコツンと叩いていらっしゃるかもしれないな、うん。
しかし、そういう由緒正しいレシピが存在したとは驚きだ。
あれは手抜きじゃなかったんだな、リンゴジャムで作るアップルパイは。
「今のハーレイは知らなかったわけ?」
リンゴジャムを使うレシピは手抜きなんだと思っていたわけ、前と同じで?
「うむ。…リンゴジャムから作ろうっていう凝ったのがあるとは、夢にも思っていなかった」
しかも煮汁を三回も塗って仕上げるだなんて、もう全くの初耳だ。
おふくろは知っているかもしれんが、俺にまでは伝わって来ていないってな。
「それなら、ママのレシピを教えて貰う?」
ぼくは材料とかを詳しく聞いてないから、ママに作り方、教えて欲しい?
「そうだな、レシピを貰えるんなら、有難く貰って帰るとするかな」
伝統あるレシピというだけでも充分に魅力的なのに、前の俺のレシピと重なるようだし…。
これは教えて貰わないとな、本当はどういうレシピなのかを。
「うんっ!」
ちょっと待っててね、ママに頼んでくる!
晩御飯までに書いておいて、って言ってくるから…!
大急ぎで階段をトントンと下りて、母の所へ走って行った。キッチンにいた母に駆け寄り、息を弾ませて。
「ママ、ハーレイにあのレシピ…!」
アップルパイのレシピを教えてあげてよ、今日のおやつに作ってくれた教会のバザー用のパイ。
ハーレイ、レシピが欲しいんだって。
ぼくも分かったよ、なんでハーレイがレシピを教えて欲しいのか…!
「あらまあ…。それじゃ、謎が解けたの?」
何処かで食べたって言っていたのは、やっぱりシャングリラのアップルパイなの?
「そうだったんだよ、前のぼくが食べてたアップルパイとそっくりだった!」
ホントのホントにそっくりなんだよ、ハーレイもぼくも、とてもビックリしちゃったくらいに。
晩御飯の時に詳しく話すよ、今は時間が惜しいから!
それにパパだって聞きたがるだろうし、ママはもう少し待ってて、お願い!
「ハーレイ先生とお話の続きがしたいんでしょう、急いで走って来たものね」
晩御飯を楽しみにしているわ。…どんなお話が聞けるのかしらね、アップルパイの。
「まだ内緒! でも、ハーレイがレシピを持って帰れるように書いておいてね」
前のハーレイの思い出のレシピだったんだよ、あのアップルパイの作り方…!
「分かったわ。ちゃんとハーレイ先生の席に置いておくわね」
忘れないわよ、レシピはきちんと書いておくから。
慌てて走って階段で足を滑らせないでね、ブルーは自分じゃ止まれないから落っこちるわよ?
落っこちちゃったら、晩御飯どころか病院に行かなきゃいけないんだから。
「はーい!」
じゃあ、また晩御飯の時に呼んでね!
アップルパイの話を聞いたら、ママたちもきっと凄くビックリする筈だから…!
母に手を振って、パタパタと走って上がった階段。もちろん落っこちないように気を付けて。
足を滑らせたら大変だから。サイオンの扱いが下手な自分は、落ちたら怪我をしてしまうから。
それでもやっぱり走ってしまう。早く部屋へと戻りたいから。
部屋の扉をバタンと開けたら、ハーレイにまで「大急ぎだな」と笑われた。子供だけあって落ち着きが無いと、「それでは階段から落ちちまうぞ」と。
「平気だってば、落っこちないよ!」
ぼくの家だもの、慣れているから大丈夫!
ママに頼んで来たよ、アップルパイのレシピを書いておいて、って。
晩御飯の時に、ハーレイの席にレシピが置いてある筈だよ。ママが約束してくれたから。
「すまんな、後で俺が頼んでも良かったのに」
急がないから、次に来た時に貰うコースでも、俺は全く気にしないんだが…。
「ううん、ぼくはちっともかまわないってば、お使いくらい」
だってハーレイ、いつか作ってくれるんでしょ、ぼくに。
ママに貰ったレシピを使って、あの神様のアップルパイを。
「もちろんだ。そのつもりで貰うんだからな、レシピを」
前の俺のと何処が違うのか、そこをじっくり確認しないと…。
お前は同じ味だと言ったが、たまたまリンゴのジャムだってだけで、分量が違うこともある。
それに特別なレシピらしいし、他にも秘密が隠れているかもしれんしな?
しっかりと読んで、レシピの通りにきちんと作る。
菓子も料理もコツはそれだな、自分のものにしてしまうまでは基本に忠実に作ってこそだ。
レシピ通りに作って覚えて、今度はデカいアップルパイを作ってやるから、と言われたけれど。
好きなだけおかわり出来る大きさで焼き上げてやる、とハーレイは微笑んでくれたけれども。
「大きいのも食べてみたいけど…。最初は前のと同じのがいいよ」
前のハーレイが作ってくれてた、パイ生地の端っこのアップルパイ。
あれくらいのヤツを食べてみたいよ、一番最初は。
「端っこって…。小さいぞ?」
このくらいしか無かったわけだが、前のお前のアップルパイは。
小さすぎだ、とハーレイが片手で示した大きさ。
今の自分の小さな手でさえ、それを乗せたら小さすぎるとしか見えないサイズなのだけど。
「それでいいんだよ、最初のは」
前のハーレイとぼくの思い出のアップルパイは、大きくなんかなかったもの。
いつもパイ生地の端っこばかりで、形も色々だったんだもの…。
「ふうむ…。パイ生地の端っこで作って欲しい、と」
分かった、デカイのを作るついでに小さいのも一つ作ってやろう。
いかにも端っこで作りました、って感じの小さなアップルパイを一つ。余ったパイ生地で飾りも付けてだ、前のお前が食っていたようなヤツにするかな、小さいんだがな。
「ありがとう! それを食べたら、大きい方のパイをおかわりにするよ」
ハーレイに大きく切って貰って、あの味のパイを沢山、沢山。
「おいおい、アップルパイは菓子なんだからな」
そればかり食わずに飯も食べろよ、美味い料理も作ってやるから。
いくら思い出の味か知らんが、まずは食事が大切なんだぞ。
アップルパイばかり食うんじゃないぞ、と釘を刺されてしまったけれど。
いつかハーレイが作ってくれる時が来る。
前のハーレイがそれと知らずに何度も作った、リンゴジャムを使ったアップルパイを。遠い昔に修道院で考え出された、神様のアップルパイとそっくり同じな作り方のパイを。
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった時代の、懐かしい思い出のアップルパイ。
神様のアップルパイのレシピでハーレイが作ってくれるパイも、きっとあのパイと同じ味。
そんな予感がするのだけれども、食べられる日はまだ先だから。
ハーレイとキスを交わせるようになるまで、アップルパイもお預けだから。
それまでは母が焼いてくれる度に、リンゴジャムのパイを味わおう。
あの味がすると、前のハーレイが作ってくれたアップルパイと同じパイだと。
そしていつかはハーレイと食べる。
最初は小さなアップルパイ。おかわりの時は大きなアップルパイを切って貰って。
聖痕をくれた神様のアップルパイとそっくりだった、前のハーレイが作っていたパイ。
「不思議だよね」と、「きっと神様の悪戯だよね」と笑い合いながら。
ハーレイと二人で暮らす家できっと何度も何度も、アップルパイを食べるのだろう。
リンゴジャムで作るアップルパイ。前の自分がシャングリラで食べていた、思い出のパイを…。
アップルパイ・了
※前のハーレイがブルーだけに作った、アップルパイ。リンゴのジャムと余ったパイ生地で。
遠い昔の修道院のレシピと、偶然、同じだったのです。今の生で、ゆっくり味わえそう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
毎夏恒例、マツカ君の海の別荘行き。今年もみんなでやって来ました、お天気も良くて最高です。お盆を乗り切ったキース君はのびのびと羽を伸ばしていますし、棚経のお供をこなしたサム君とジョミー君もホッと一息、海を満喫しているのですが。
「…あのバカップルはどうにかならない?」
もう嫌だ、とジョミー君が指差す先にバカップル。ビーチへ出て来てもイチャイチャベタベタ、そうでなければ部屋にお籠りというソルジャー夫妻が。
「どうにか出来たら困りませんよ」
あんなモノ、とシロエ君が毒づき、キース君も。
「もういい加減、諦めろ。あいつが日程を仕切り始めた時から全ては終わっているんだ」
「だよなあ、結婚記念日にぶつけて来やがるんだよなあ…」
毎年、毎年…、とサム君の口から嘆き節。
「此処で結婚したんだから、って譲らねえしよ、結婚記念日が絡んでいちゃなあ…」
「どう転んだってバカップルですよ…」
諦めましょう、とシロエ君。
「それより泳いできませんか? あんなのはビーチに放っておいて」
「いいな、教頭先生のご指導で遠泳といくか」
キース君が「お願い出来ますか?」と教頭先生に訊けば、「もちろんだ」という返事が返ったものの、その目はバカップルの方に向いていて。
「…実に羨ましい雰囲気なんだが…。ブルー、お前も一緒に来ないか?」
泳ぎに行こう、と会長さんにお誘いが。けれど…。
「なんで行かなきゃいけないのさ!」
ぼくはビーチでお留守番、と会長さんは一蹴しました。
「ビーチでのんびりがぼくの基本で、体力馬鹿な遠泳なんかはしない主義だよ。ねえ、ぶるぅ?」
「かみお~ん♪ ちょっと泳いでバーベキューとかが楽しいもんね!」
アワビにサザエ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。海の別荘はプライベートビーチでバーベキューをするのもお楽しみの内で、男の子たちが獲った獲物やトウモロコシなんかを「そるじゃぁ・ぶるぅ」が焼いてくれます。悪戯小僧で大食漢な「ぶるぅ」もこれさえあれば御機嫌麗しく。
「ぼくも断然、バーベキュー!」
泳がないも~ん、と「ぶるぅ」までが。かくして教頭先生は男の子たちだけを引き連れ、遠泳に出掛けてゆかれました。目の毒なバカップルは無視するのが吉、バーベキューに混ざって「あ~ん♪」とやられても無視するのが吉…。
そういう海の別荘ライフ。今日はソルジャー夫妻の結婚記念日、夕食は別荘のシェフが腕を奮った豪華フルコースに舌鼓。お相伴すること自体はゴージャスなメニューだけに文句など無く、デザートが済んだら部屋に引っ込むソルジャー夫妻をお見送りするのが常なのですが。
「えーっと…。君たちは今夜も大広間かな?」
ソルジャーに訊かれ、キース君が。
「まあ、そうだが…。それがどうかしたか?」
「うん、せっかくの結婚記念日だしねえ…。毎年こもってばかりもアレかな、と賑やかにパーティーでもしようかと」
「「「パーティー?」」」
「そう! ぼくはパーティーが大好きなんだよ」
なのにシャングリラでは滅多にチャンスが無くて…、とぼやくソルジャー。
「お祝い事が少ない上に、食料だってそうそう揃えられないし…。たまには結婚記念日パーティーなんかもいいんじゃないかと思ったわけで」
「パーティーだったら、今、済んだけど?」
会長さんがテーブルに置かれたメニューを指でチョンチョンと。「結婚記念日祝賀会」という文字が刷られています。お料理の名前も「結婚記念日の海の幸」とか、それっぽい名前が並んでいますし、どう考えてもパーティーっぽく…。
「違うね、これは晩餐会!」
パーティーではない、とソルジャーは否定。テーブルに着いて食事するだけのものはパーティーなどではなくって、晩餐会だという解釈で。
「それじゃイマイチ、賑やかさってヤツに欠けるんだよねえ…」
「今、賑やかに食べたじゃないか」
「だから晩餐会だってば!」
ぼくの理想のパーティーじゃない、と言うソルジャー。曰く、パーティーとは決まった席から動かないという代物ではなく、自由に歩き回ってこそなのだそうで。
「ああ、なるほど…。立食形式が良かったんだ?」
「そうでもないけど…。こういう豪華な地球の食事も好きなんだけど!」
たまにはパーティー! とソルジャーは拳を突き上げて。
「実はね、昼の間にちょっとお願いしておいたんだよ、夜にパーティーしたいから、って!」
「「「ええっ!?」」」
いつの間に決まっていたんでしょうか。別荘の主のマツカ君まで驚いてますよ…。
パーティー大好きらしいソルジャー、準備の方は抜かりなく。私たちが毎晩集まっては騒ぐ大広間の方に軽食などが用意されることになっているとか。是非来てくれ、と何故か招待されてしまって、お風呂にも入ってゆっくりした後、いつもの広間へと出掛けてゆけば。
「かみお~ん♪ いらっしゃーい!」
パーティーの用意が出来てるの! と悪戯小僧の「ぶるぅ」がニコニコお出迎え。
「えっとね、お料理もお菓子も一杯! ご自由にやって下さい、って!」
上手く言えたかなあ? と訊かれてコクコク、けっこうサマになってます。まるで「そるじゃぁ・ぶるぅ」みたいで、悪戯小僧とは思えない感じ。
「やったあー! ゆっくりしていってねー!」
今夜はパーティー! と飛び跳ねている「ぶるぅ」の向こうには浴衣姿のソルジャー夫妻が。別荘に備え付けの浴衣で、サイズはきちんと合っています。
「やあ、いらっしゃい。パーティー、楽しんで行ってよね」
「私たちの結婚記念日ですから、どうぞごゆっくり」
ソルジャーとキャプテンに言われましたが、マツカ君の別荘が舞台なだけに、費用の方はマツカ君の負担になるのだろうな、と思っていたら。
「違うよ、今夜のパーティーは別! ぼくが払うわけ!」
ノルディに貰ったお小遣いもかなり貯まったから、と実に気前がいいソルジャー。
「だからどんどん食べて騒いで、遠慮なくパーティーしてくれれば…」
「そうなのかい? じゃあ、お言葉に甘えて御馳走になるよ」
会長さんが先頭に立って、みんな揃って大広間へと。パーティーとあって、浴衣姿の教頭先生も御一緒です。大広間は畳敷きなのですけど、料理や飲み物が揃ったテーブルが壁際にズラリ。
「どれでも自由に取って食べてよ、料理もお菓子も沢山あるから」
減って来たら補充もして貰えるし、とソルジャーが早速、乾杯の音頭を取ろうとしています。私たちは好みのジュースをグラスに注いで、会長さんと教頭先生、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はシャンパンのグラス。ソルジャー夫妻もシャンパンで…。
「「「かんぱーい!」」」
結婚記念日を祝して! と始まった本日二度目のパーティー、いえ、ソルジャーに言わせればパーティーはこれが一回目。夕食はただの晩餐会だということですし…。
「そうだよ、パーティーはこうでなくっちゃ!」
賑やかにいこう! と主催者のソルジャーが言うんですから、大いに飲み食いすべきでしょう。料理もお菓子もホントに沢山、これは徹夜で騒げるかもー!
こうして始まったパーティーという名のドンチャン騒ぎ。未成年の私たちがいるだけに飲めや歌えの大宴会とはいきませんけど、ソルジャー夫妻や会長さん、教頭先生なんかはお酒の方も。マツカ君が言うには、別荘の自慢のいいワインとかもバンバン出ているみたいです。
「まさに大盤振る舞いだな…」
俺たちには恩恵が無いようだが、とキース君が残念そうに。大学まで行ったキース君ですけど、お酒の付き合いは最低限に留めたとかで量は殆ど飲めません。ゆえに凄いワインのボトルが開いたと聞いても味見でおしまい、美味しくてもクイッといけないわけで。
「だけど、キースはまだいいよ! 味見で利き酒やってるから!」
他の面子は全然だよ! とジョミー君。
「ぶるぅは普段からチューハイとかも飲んでいるしさ、そこそこ飲んでるみたいだけれど…」
「ぼくたちは飲んだら終わりですしね…」
酔っ払うか寝るかの二択ですよ、とシロエ君も。
「そうなったら料理もお菓子も楽しめませんし、お酒の方は諦めましょう」
「分かっちゃいるけど、なんか見てると羨ましいよなあ…」
美味そうだぜ、とサム君が。お酒を飲める面子は次々に杯を重ね、それは賑やかにやっているだけに羨ましい気もしてきます。食べたり飲んだり楽しそうだな、と思っていると…。
「そ、それはちょっと!」
会長さんの声が上がりました。それに続いてソルジャーが。
「ぼくのお酒が飲めないとでも?」
「そ、そうは言わないけど、もっと別ので! そのお酒はちょっと…」
遠慮したい、と逃げ腰になっている会長さん。どんなボトルが開いたんだか、と一斉に注目したんですけど、ブランデーだかウイスキーだか、そういう感じのお酒ですねえ…。
「これは高級品なんだよ」
ぼくでも滅多に飲めないお酒、とソルジャーがボトルを示せば、キャプテンも。
「ええ、そうです。シャングリラでは酒は合成なのですが…。これは合成の酒の中でも一番手間暇がかかるものでしてね、大量生産は出来ないのですよ」
ですからパーティーの時くらいしか…、と説明が。
「ブルーが是非ともパーティー用に、と言うものですから、データを誤魔化して参りました」
「そうなんだよ! ハーレイがキャプテン権限でやってくれてね!」
だからこんなに持ち出せちゃって、とボトルが沢山ドッカンと。ソルジャーの世界のお酒だというのは分かりましたが、会長さんは何故に逃げ腰…?
お酒には強い会長さん。酔っ払った姿はまだ見たことがありません。ソルジャーの世界のお酒くらいは平気だろうと思うんですけど…。
「甘いよ、君たちの考え方は! キースならきっと分かると思う!」
分かってくれ、という会長さんの悲鳴にも似た声に、キース君が。
「…チャンポンか?」
「そう、それだってば!」
「「「チャンポン?」」」
それはラーメンに似た麺の一種では…、と顔を見合わせる私たち。麺の類は伸びちゃいますから、パーティー料理には向きません。出すんだったら屋台が必要、取りに来た人に調理して渡す形式でないと不味くなるだけに、今夜のパーティーには麺などは無くて。
「…チャンポンって何処にありましたっけ?」
シロエ君が見回し、サム君も。
「気が付かねえけど…。注文したら厨房から来るとか、そういうのかよ?」
「そうじゃなくって! 頼むよ、キース!」
説明よろしく、と会長さんが叫んで、キース君が。
「俺が言うのは麺のチャンポンではなくてだな…。いわゆる酒の用語なんだが、何種類もの酒を一度に飲むことをチャンポンと言う。こいつが実に厄介で…」
組み合わせがマズイと悪酔いするのだ、とキース君は教えてくれました。会長さんたちはワインもウイスキーも飲んでいますが、其処に出て来たソルジャーの世界の合成酒。どんな代物だか分からないだけに、飲まないのが賢明な選択らしく。
「迂闊に飲んだら真面目に終わりだ、そういう理由で逃げてるわけだな」
「「「あー…」」」
悪酔いコースは避けたいだろう、と全く飲めない私たちでも理解出来ます。二日酔いはキツイと聞いてますから、妙なお酒は飲まないのが吉。
「妙なお酒と言うのかい、これを!?」
ホントに高級品なのに、とソルジャーはボトルを一つ掴んで。
「ここのラベルをちゃんと見てよね、最高級の印がきちんと!」
「そうなのです。このお酒にしか付かないマークで、ラベル自体が限られた数しか作られないという逸品ですよ」
もう本当に高級品です、とキャプテンも保証していますけれど。なんと言っても相手は異世界のお酒、なおかつ合成品ですよ…?
「そのお酒…! そもそも原料は何なのさ!」
書いてないし! と会長さんが限定ラベルを指差して怒鳴ると、キャプテンが。
「書かないようにしているのですよ、合成ですから。書いてしまうと合成だと分かって興ざめですしね、そういう仕様になっております」
「そうなんだよねえ、雰囲気重視! あえて聞きたいと言うんだったら、メインはクリサリス星系由来の…」
ソルジャーがズラズラと挙げた原料は意味不明でした。クリサリス星系とやらはソルジャーの世界のシャングリラがある惑星アルテメシアを含む星系らしいのですが…。
「そんな説明だと分からないから! こっちの世界の成分とかに置き換えてよ!」
会長さんの注文ですけど、ソルジャーは。
「うーん…。一部は置き換え可能だけれども、メインの方がねえ…」
似たようなものを思い付かなくて、とトンデモな話。つまりは原材料が不明のお酒が出て来たわけで、飲んだら最後、チャンポンなのかもしれないわけで…。
「ああ、その点なら大丈夫! ぼくもハーレイも平気だからね!」
「かみお~ん♪ ぼくだって酔っ払わないもーん!」
美味しく飲むもん! と「ぶるぅ」も証言。けれども、ソルジャーもキャプテンも「ぶるぅ」も、元から合成のお酒に慣れた人種で、会長さんは今回が初の出会いで。
「…で、でも、ぼくはちょっと…」
「ぼくたちの結婚記念日を祝うお酒が飲めないと!?」
こんなに沢山持って来たのに、と凄むソルジャー。
「これだけの量をちょろまかすのはね、ホントに大変なんだから! もしもバレたら、ぶるぅが飲んだと言っておくけど、ホントのホントに高級品で!」
「シャングリラでは自慢の酒なのですが…」
駄目でしょうか、とキャプテンもかなりガッカリしています。でもでも、飲んだらチャンポンの危機で、大丈夫という保証は何処にも無くて…。
「と、とにかく、ぼくには無理だから…!」
「そう言わずに!」
「いくら美味しくても、ヤバすぎるから…!」
泥酔するのも二日酔いコースもお断りだ、と必死に逃げを打つ会長さんと、是非にと勧めるソルジャーと。結婚記念日のパーティーなだけに、あんまり断り続けているのもマズイと思うんですけれど…。失礼だろうと思うんですけど、どうすれば…?
ソルジャー持参の怪しげなお酒。シャングリラで作った自慢の高級品だと力説されてもヤバイものはヤバく、さりとて断り続けていたなら座が白けます。どうなるんだろう、と私たちだって戦々恐々、おっかなびっくり見守っていれば。
「…その杯。よろしかったら、私が頂きます」
ブルーの代わりに、と教頭先生が名乗りを上げました。
「これでも一応、シャングリラ学園の教頭ですから…。生徒の保護者的な立場になるかと」
「ふうん…? 君がブルーの代わりに飲む、と」
いいけどね、とソルジャーは納得した風で。
「君もいずれはブルーと結婚するんだろうから、夫婦となったら一心同体! ちょっと早いけど未来の夫婦ってことでブルーの代理にしておこうかな、うん」
「こ、光栄です…!」
ブルーと夫婦と認定だとは…、と教頭先生は感無量。いつもだったらこんな時には会長さんが怒り狂うのが定番ですけど、今日はチャンポン回避のためだとグッと我慢をしているらしく。
「…じゃあ、ハーレイ。ぼくの代わりに飲んでおいてよ」
「うむ、任せておけ!」
頂戴します、と教頭先生がグラスを差し出し、ソルジャーがやおらボトルを開けて。
「はい、どうぞ。高級品だよ、それなりにいける味なんだ」
トクトクトク…、と注がれたお酒を教頭先生はグイと一気に飲み干して。
「これは…! 言われなければ合成品とは分かりませんねえ…!」
「そうだろう? だから今回、持って来たんだよ。他の合成酒はサッパリだけど…」
これだけは自信を持ってお勧め出来るのだ、とソルジャーはそれは誇らしげに。
「ぼくのシャングリラの自慢の味だよ、どんどんやってよ」
「ええ、喜んで…!」
こういう酒もいいものですね、と応じる教頭先生の舌にはソルジャーの世界の合成酒とやらが合ったようです。お世辞ではなくて本当に美味しいと感じるらしくて、勧められるままにクイクイ、グイグイ。
「うんうん、なかなかいける口だねえ! ぼくのシャングリラでも生きて行けるよ」
「これほどのお酒を作れる技術は凄いですねえ…」
実に美味いです、と教頭先生。キャプテンもシャングリラの技術を褒められて嬉しそうに。
「そう言って頂けると、キャプテン冥利に尽きますよ。今夜は大いに飲んで下さい」
どうぞ、とキャプテンからも注がれるお酒。うーん、あれって美味しいんだ…。
別の世界から持ち込まれて来た、ソルジャーのシャングリラ自慢の高級酒。何で出来ているのかサッパリ不明な合成酒ですが、教頭先生はお気に召した模様。ソルジャー夫妻と差しつ差されつ、宴たけなわ。会長さんはチッと舌打ちをして。
「…てっきりチャンポンかと思ったけれども、あれだけ飲めるなら大丈夫なのかな?」
「かみお~ん♪ ブルーも飲んでみる?」
持ってくるよ、と「ぶるぅ」が取って来ようとしましたが。
「いいよ、次のチャンスがあったら、ってことで…。一度断っておいて飲むのもねえ…」
申し訳ないし、と会長さんが言った所へ、地獄耳だったらしいソルジャーが。
「ううん、ぼくは全然気にしないから! 良かったら君も一緒に飲もうよ!」
「でも…」
「気にしない、気にしない!」
ぼくたちの結婚記念日を是非祝ってくれ、とソルジャーは至極御機嫌です。会長さんも「それなら、ぼくも少しだけ…」と腰を上げかけたのですけれど。
「暑いですねえ…」
教頭先生がグラスを置いて、浴衣の襟元をグイとはだけて手でパタパタと。
「冷房の効きが悪くなったんですかね、どうも暑くて…」
「そうですか? 私の方はそれほどでも…」
特に暑いとも思いませんが、とキャプテンが教頭先生にボトルを。
「まあ飲んで下さい、酒はまだまだありますから」
「遠慮なく頂戴いたします」
いや美味い、とゴクゴク、グイグイ。そして「暑い」と浴衣の前をはだけてしまった教頭先生。会長さんはそれをチラリと眺めて。
「…飲もうと思ったけど遠慮しとくよ、あんなハーレイと一緒ではねえ…」
「おや、駄目かい?」
ソルジャーが訊くと、会長さんの冷たい瞳が教頭先生をジロジロと。
「なんと言うかね…。こういう席で脱ぐっていうのはデリカシーに欠けているっていうか…。でなければマナー違反と言うか」
みっともない、と軽蔑の眼差し。
「浴衣はキチンと着てこそなんだよ、ああいう男と飲みたくはないね」
「そうかなあ? ぼくには素敵に見えるけどねえ?」
あの胸板が素晴らしいよ、とソルジャーの方はウットリと。えーっと、教頭先生なんですが?
冷房の効きがイマイチだから、と教頭先生、はだけた浴衣から胸板が丸出し。帯で締めてるすぐ上くらいまで露出していて、会長さんには見るに堪えない光景らしく。
「日頃、うるさく言ってるくせにね、柔道部員に」
柔道着はキッチリ着込んでおけと、と会長さんが罵りましたが、ソルジャーはと言えば。
「男らしいと思うけど? こう、さりげなく筋肉をアピール!」
ちょっと触ってみたくなるよね、と言うなり教頭先生たちの方へと戻って行って。
「えーっと…。ハーレイ?」
「はい?」
キャプテンが即座に応えましたが、「違う!」と一言。
「こっちのハーレイに用事なんだよ。…君の筋肉、なかなか凄いね」
「あ、ありがとうございます…」
日頃から鍛えておりますので、と返した教頭先生の前にストンと座ったソルジャー、右手を伸ばして教頭先生の胸板を指でツツツツツーッと。
「うん、固くっていい感じ! これぞ筋肉!」
「そう言われると嬉しいですねえ…」
鍛えた甲斐がありますよ、と教頭先生は浴衣の袖をまくって右腕をググッと。たちまち盛り上がる腕の筋肉、ソルジャーはもう惚れ惚れとして。
「いいねえ、腕も筋肉モリモリ! これじゃさぞかし…」
「それはもう! よろしかったら御覧になりますか?」
肩の方はこんな感じですよ、と右袖を抜いた教頭先生、上半身の右側がモロ出しに。逞しい筋肉はいいんですけど、こんな調子で披露しちゃうようなタイプでしたっけ?
「…なんか変じゃねえ?」
サム君が首を捻って、シロエ君も。
「教頭先生らしくないですね? いつもだったら赤くなるとか…」
「だよねえ、なんだかおかしい気がする」
変だ、とジョミー君が頷き、キース君だって。
「筋肉自慢をなさるタイプではない筈だが…。どうも妙だな」
そういう言葉を交わす間にも、教頭先生はソルジャーのリクエストに応じてポージングを。筋肉ムキムキ、挙句の果てに。
「もっと御覧になりたいですか?」
脱ぎましょうか、と帯に手を。やっぱりホントに変ですってば~!
筋骨隆々の上半身を披露しただけでは飽き足りなくなった教頭先生、浴衣を脱いで全身の筋肉を見せたくなったようですが。此処はソルジャー夫妻の結婚記念日を祝うパーティーの席で、ソルジャーもようやく思い出したらしく。
「んーと…。普段だったら見たいんだけどね、今日はちょっとね…」
「どうかなさいましたか?」
何か不都合でも、と教頭先生。
「不都合と言うか…。ぼくには一応パートナーがいるし、今日は結婚記念日だし…。そっちの裸も拝まない内に、君の裸というのはねえ…」
「そうでした! 今日はおめでたい日でしたねえ!」
ウッカリ忘れておりました、と教頭先生はペコリと頭を。
「誠に申し訳ございません。結婚記念日ともなれば、もうやることは一つですよね!」
「もちろんだよ! パーティーが済んだら、記念に一発! ううん、六発は欲しいよね!」
今夜のベッドが楽しみで…、とソルジャーが言うと、「そう仰らずに」と教頭先生。
「後ほどだなどと仰らずに…。こうしてパーティーもしているのですし、こちらでなさればよろしいのでは?」
「えっ、こちらって…。此処のことかい?」
「そうですが?」
スペースは充分にございますし、と教頭先生は満面の笑顔。
「お幸せな結婚生活をご披露なさるのもいいと思いますよ。私もあやかりたいですし…」
「あやかりたいって…。それに披露って、此処でヤれと?」
「ええ。ギャラリーも大勢おりますからねえ、結婚記念日に相応しいかと」
披露なさってなんぼですよ、と教頭先生が拳でトントンと叩く大広間の床。畳敷きながらも絨毯だって敷かれていますし、その絨毯がまた上等で。
「如何でしょうか? この絨毯は肌触りもいいと思うのですが」
「…ふうん?」
ソルジャーの手が毛足の長い絨毯を撫でて、「いいね」と頬を擦り付けてみて。
「なるほどねえ…。結婚記念日のセックスは披露してなんぼ、と」
此処でヤるのもいい感じかも、と絨毯の上に仰向けにパタリ。浴衣姿で足をパタパタ、そんなソルジャーに教頭先生が。
「絨毯の上もお似合いですよ? 是非とも拝見したいものですねえ…」
結婚記念日の熱い一発! と仰ってますけど、これってホントに教頭先生…?
教頭先生と言えばヘタレが売り。何かと言えばツツーッと鼻血で、倒れてらっしゃることもしばしばです。その教頭先生が覗きどころか見る気満々、大広間での大人の時間をソルジャーに勧めていらっしゃるなど、どう考えても変ですが…?
「…教頭先生、変なスイッチ入っちゃってる?」
有り得ないことになってるけれど、とジョミー君が怖々といった顔つきで尋ね、サム君が。
「酒じゃねえのか、もしかしたら?」
あのナントカいう合成酒、という指摘。成分不明の合成酒だけに会長さんが逃げてしまって、教頭先生が代わりに飲んでらっしゃいましたけど…。あれがスイッチ入れたんですか?
「うーん、チャンポンでスイッチなのか…」
そう来たか、と呻く会長さん。
「てっきり悪酔いコースなのかと思ったんだけど、信じられない方向に向かって酔っちゃうとはねえ…。ヘタレ返上だか、クソ度胸だか」
そしてブルーが悪乗りしそうだ、という会長さんの読みは当たりました。絨毯の寝心地を確かめたソルジャー、ガバリと起き上がるなりキャプテンにパチンとウインクを。
「ハーレイ、こっちのハーレイの素晴らしいお勧めを聞いたかい? 此処でヤれって!」
結婚記念日の一発を熱く披露しようよ、とソルジャーは最早すっかり乗り気。
「シャングリラ学園の教頭先生の御提案だし、生徒も見学してくれるんだよ! 此処でヤらなきゃ男が廃るというものだろう!」
君も男でぼくも男、とキャプテンの側ににじり寄るなり、両腕を首にグイと回して熱いキス。
(((………)))
バカップルのキスは見慣れているものの、そこから先はあずかり知らない世界です。披露されても困るんですけど、ソルジャーはその気、教頭先生も見学する気。ソルジャーの方は浴衣の裾が乱れるのも構わず、キャプテンの背中に片足を絡めて体重をかけて引き倒し…。
「ほら、ハーレイ! 此処で一発!」
「で、ですが、ブルー…!」
「結婚記念日だよ、パーティーの席で披露するのもいいものだよ!」
大勢の人が見てくれてるし、と言われたキャプテン、顔面蒼白。
「わ、私は見られていると駄目な方でして…!」
「気にしない、気にしない! ぶるぅが増えただけだと思えば!」
遠慮しないで大いにヤろう、とソルジャーが足でグイグイとキャプテンの腰を引き寄せ、キャプテンは引っ張られまいと踏ん張ってますが。私たち、これからどうすれば…?
ソルジャーの世界の合成酒で酔っ払ってしまった教頭先生、ヘタレ返上、覗き根性大爆発。このまま行ったらソルジャーとキャプテンが結婚記念日の記念に一発披露しそうで、私たちはコッソリ逃げるべきかと後ずさりを始めたのですけれど。
「そこのギャラリー! 逃げちゃ駄目だから!」
せっかくの記念の一発だから! とソルジャーの一喝。
「教頭先生も許可してるんだよ、大いに覗きをするべきだってね! そうだよね、ハーレイ?」
「ええ、こんなチャンスは年に一度しかありませんしね、記念日だけに」
結婚記念日の熱い時間をお楽しみ下さい、と教頭先生はキョロキョロと部屋を見回して。
「…残念です。カメラの用意が無いようですねえ、あれば撮ろうと思うのですが…」
「君がカメラマンをしてくれるのかい? 録画とかも?」
それは素晴らしい! とソルジャーが大きく頷いて。
「ぶるぅ、カメラを調達して来て! 別荘の人に頼めばあるだろ?」
「かみお~ん♪ 大人の時間を録画するんだね!」
行ってくるーっ! と姿を消した悪戯小僧はアッと言う間に戻って来ました。別荘へ来たお客様が使えるように、と用意されていたらしいプロ仕様のカメラ。教頭先生は「ぶるぅ」の手からカメラを受け取り、「いいカメラだ」と微笑んで。
「これで録画もバッチリですよ。お任せ下さい、記念日に相応しいのを撮りますから」
「ありがとう! 聞いたかい、ハーレイ、録画もお任せ出来るってさ!」
それじゃヤろうか、とソルジャーがキャプテンの浴衣の前をはだけて、指でツツーッと。
「こっちのハーレイはこれでスイッチが入ったけれど…。君はどうかな?」
「む、無理です! …ぶ、ぶるぅだけでも無理なのですが…!」
ぶるぅどころかこんなに大勢、とキャプテンは懸命に足腰を踏ん張り、ソルジャーの上へ倒れ込まないように頑張っています。倒れたら最後、録画開始で、ソルジャーのペースに巻き込まれてしまってヤる羽目に陥りそうですし…。
「ブルー、お願いですから離して下さい…!」
「ダメダメ、結婚記念日だからね! 熱い一発、録画つき!」
こんなチャンスを逃す手は無い、とソルジャーの方も足でキャプテンの腰をグイグイ、早くヤろうと焦れている様子。教頭先生はカメラを構えて今か今かと待っておられます。
「ハーレイ、早く! 後は君だけ!」
君だけ用意が出来てないんだ、とソルジャーが足でグイグイグイ。用意も何も、この状況でヤる気になれたら、それはキャプテンではないような…?
ヤる、ヤらないでソルジャーとキャプテンがもめている中、教頭先生は「まだですか?」と欠伸をしながら自分のグラスに例のお酒をトクトクと。手酌で呷ってはまたトクトクトク、私たちはもう気が気ではなくて。
「あ、あれってスイッチ入らないわけ?」
ジョミー君が肘でキース君をつつけば、つつかれた方も。
「俺が知るか! そういうのは常識で考えてくれ!」
「さ、さっき酔っ払ってスイッチ入ったんだし、もっと酔ったらどうなるんだか…」
考えたくない、とジョミー君が肩を震わせ、シロエ君が。
「スイッチだけに、ブレーカーが落ちるってコトもありますけどね?」
「「「そうか、ブレーカー!」」」
落ちてしまえば何も起こらない、と一筋の光明が見えた気がしました。ソルジャー夫妻がヤるのヤらないのと騒いでいる間に、教頭先生が更に酔ってしまってブレーカーが落ちれば閉幕です。私たちはギャラリーなんかはさせられないで無事に逃走出来ますし…。
「教頭先生、早くブレーカーが落ちないかしらね?」
もっと早いペースで飲ませたいけど、とスウェナちゃんが呟き、それを聞いていた悪戯小僧の「ぶるぅ」が「やる!」と飛び跳ねて。
「ブレーカーって何か分かんないけど、面白そうーっ!」
今より楽しいことになるんだ! と「ぶるぅ」は見事に勘違い。ブレーカーが落ちたら教頭先生はもう動かないと思うんですけど、勘違い小僧はボトルを抱えて教頭先生の前にチョコンと。
「はい、飲んで、飲んでーっ!」
「おや。注いで下さるのですか、お忙しいのに」
「えっとね、覗きは大人の時間が始まるまでは暇なの、だから始まるのを待ってるの!」
ハーレイも始まるのを待ってるんだよね、と悪戯小僧。
「んとんと…。出待ち、入り待ちだったっけ? そんな感じで待ち時間だよね!」
「そうですね。入れるのを待っているのですから、入れ待ちでしょうか」
「じゃあ、入れ待ちで、仲良くしようよ!」
飲んで、飲んで! と「ぶるぅ」がトクトク、教頭先生がグイグイと。
「いい酒ですねえ、何杯飲んでも」
「そうでしょ、そうでしょーっ! それでね、ブルーとハーレイの大人の時間も凄いの!」
入れ待ちをする価値はバッチリだから、と勧め上手な「ぶるぅ」のお蔭で教頭先生、ハイペース。ソルジャー夫妻がもめてる間に、ブレーカー落ちて下さいです~!
ソルジャー夫妻の「入れ待ち」とやらで「ぶるぅ」と盛り上がっている教頭先生。どんどん杯を重ね続けて、ソルジャー夫妻に「まだですか?」と催促をして。
「まだなんだよねえ、君からも何とか言ってやってよ!」
このヘタレに、とソルジャーがキャプテンの腰を絡み付かせた足でグイと引けば。
「そうですねえ…。如何でしょうか、この際、私も混ざるというのは」
「「「は?」」」
教頭先生は何を言ったのか、とキョトンとしていれば、ソルジャーが。
「素晴らしいねえ、三人でって?」
「はい! 入れ待ちをしている間に、そういう気分になってきまして…。結婚記念日の一発だとは重々承知しておりますが、私も混ざっていいですか?」
「大歓迎だよ!」
それでこそ記念の一発と言える、とソルジャーは歓喜の表情で。
「ハーレイ、混ざってくれるって! 君も二人なら怖くないだろ、ギャラリーくらい!」
「な、なんですって!?」
「だ・か・ら! こっちのハーレイも一緒なんだよ、いわゆる3P!」
これぞ記念日の熱い一発! とソルジャーはキャプテンの腰を引っ張っていた足を離して、代わりに腕をガッシリ掴んで。
「逃げちゃ駄目だよ、こっちのハーレイが来てくれるまで…ね。ぶるぅ、こっちのハーレイの代わりにカメラをお願い!」
「オッケー! もう撮ってもいい?」
「うん! 記念すべき時間はたっぷり撮らなきゃ!」
夢の3P! とソルジャーが教頭先生を手招き、逃げそうなキャプテンを捕獲中。教頭先生は入れ待ちの間に更に緩んだ浴衣を帯だけで腰に引っ掛け、いそいそと。
「では、始めてもいいでしょうか?」
「そうだね、ぼくのハーレイと息が合ったらいいんだけれど…」
「無理です、私にはとても無理ですーっ!」
ただヤるだけでも無理なんですが、とキャプテンは泣きの涙でした。なのに教頭先生乱入、ソルジャー言う所の3Pとやら。会長さんは頭を抱えてうずくまっていますし、「ぶるぅ」はカメラを回していますし…。
「ブレーカーどころか、スイッチに段階があったわけ?」
ジョミー君の問いに答えられる人はいませんでした。こんなの想定外ですよう~!
教頭先生にもっと飲ませろ、と飲ませたばかりにスイッチオン。ヘタレな筈の教頭先生は浴衣を脱ぎ捨て、キャプテンに激を飛ばしていました。
「いいですか、これはチャンスですよ? 結婚記念日ならではですから…!」
「いや、しかし…! 結婚記念日だからこそ、夫婦で静かに…!」
「ハーレイ、まだあ…?」
どっちでもいいから早く来てよね、とソルジャーがキャプテンを脱がせにかかって、教頭先生はソルジャーの浴衣を脱がせるべく手を掛けています。カメラマンの「ぶるぅ」はウキウキと。
「わぁーい、3P! 見るの初めて!」
もっとハーレイにエネルギー! とカメラをサイオンで宙に固定し、例のお酒のボトルを抱えてピョンピョンと。教頭先生にグラスを渡して「飲んで!」とグイッと空けさせましたが…。
「「「…あれ?」」」
教頭先生が暫しフリーズ、それからバタンと仰向けに倒れ、たちまちグオーッと大イビキ。もしやブレーカー、落ちましたか? 今の一杯でバッチンと?
「うーん…」
夢の3Pがパアになった、とソルジャーが浴衣を直しながら文句をブツブツ、キャプテンは「助かりました」と安堵の溜息。
「ブルー、続きは私たちの部屋で致しましょう。結婚記念日ですからね」
「でも…。此処までの映像は貴重だからねえ…」
お宝に取っておきたいのだ、とソルジャーがカメラに手を伸ばせば、横から会長さんが。
「ちょっと待った! お宝だなんてとんでもない!」
この映像をネタにハーレイから毟らずにどうするのだ、という強烈な意見。
「いくら酔っ払ってやったことかは知らないけどねえ、ただエロいだけのオッサンだから! こんなハーレイ、ぼくとしては顔を見たくもないから!」
だけどオモチャは有効に…、と怖い台詞が。
「今後もぼくと付き合いたいなら、この映像を消してやるから金を出せ、ってトコなんだよ」
「消すだなんて…! ダビングして持っておけばいいだろ、脅迫用に!」
ぼくはお宝が欲しいんだ、とソルジャーが喚き、会長さんは「寄越せ」と騒いでいるのですけど。
「んーと…」
どのタイミングで言えばいい? と「ぶるぅ」が真剣に悩んでいました。
「どうかしたわけ?」
ジョミー君が尋ねてみれば、「ぶるぅ」は「殺されそうだよ」と肩を落として。
「…録画に失敗しちゃったみたい…」
「「「ええっ!?」」」
「サイオンでカメラを固定した時、なんか失敗しちゃったみたいで…」
「撮れてない!!?」
しかもその前のも消えたのか! とソルジャーの激しい雷が落ちて、「ぶるぅ」はお尻を百回叩かれるみたいです。教頭先生は大イビキですし、今の間に…。
「逃げた方がいい?」
「うん、多分」
トンズラあるのみ! と私たちは広間から逃走しました。教頭先生に妙なスイッチを入れたと噂の合成酒。キース君が言うには、他のお酒との飲み合わせなんかもあるようですが…。あんなのは二度と御免です。高級品でも次に見かけたら即、廃棄。異世界のお酒はお断り~!
異世界の美酒・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーが持ち込んだ異世界のお酒で、ヘタレが吹っ飛んだ教頭先生。凄いレベルで。
もしもブレーカーが落ちなかったら、どうなったのやら…。録画は失敗ですけれど。
さてシャングリラ学園、11月8日に番外編の連載開始から11周年の記念日を迎えました。
11年も続けただなんて、自分でもビックリ仰天です。12年までいけるでしょうか…?
次回は 「第3月曜」 12月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、11月は、キース君が温厚なキャラを目指すらしくて…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv