シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
俺は料理が得意なわけだが…、と教室で始まったハーレイの雑談。ブルーのクラスでも馴染みの時間で、生徒たちの集中力を取り戻すために織り込まれるもの。
ハーレイが料理上手なことは知られているから、てっきり美味しい料理の話だと思っていたら、続いた言葉はこうだった。
「しかしだ、そんな俺にも作れない料理が存在するんだ」
実に伝統ある料理なんだが、こいつは無理でな。いわゆる日本の料理の一つだ。
「なんですか?」
幾つもの声が上がったけれども、ハーレイは「まあ、待て」と教室の前のボードに向き直った。そこに料理の名前をサラサラと書いて、手でコンと叩く。書かれた文字は「おしゃます鍋」。
「見ての通りに鍋なんだが…。どうして作れないのか分かるか?」
「高いんですね、材料が?」
サッと手を挙げた男子の一人。家で作るには高すぎる材料を使うんでしょう、と。
「惜しいな。…材料ってトコはいい線を行っているんだが」
「…珍しいんですか?」
高くなくても珍しいもので、この辺りでは買えないとか…?
「ふうむ…。お前だったら作れるかもな」
「ぼくですか?」
自分の顔を指差す生徒。彼の家は農家だっただろうか、と考えたけれど。
「お前、飼ってただろうが、猫」
「はい…?」
「そいつの鍋だ、おしゃます鍋は猫の鍋なんだ」
「えーっ!」
そ、その鍋はぼくも作れません!
ミーちゃんは大事な家族なんです、食べようだなんて酷すぎますよ…!
猫の飼い主の男子はもとより、大騒ぎになった教室の中。猫を食べるなんて、と。
「ほら見ろ、だから作れないと言っただろうが」
俺の料理の腕とか、予算以前の問題なんだ。おしゃます鍋はとても作れん。
材料の猫なら、ガキだった頃は俺の家にもいたんだがな。
「分かりました…」
でも本当にあったんですか、と男子生徒がしげしげと眺める「おしゃます鍋」の文字。
驚かせようとして冗談を言っているのでは、と。
「俺を誰だと思っているんだ、今までに嘘を教えたことがあったか?」
冗談だったら、とうに種明かしをしている頃だ。おしゃます鍋は正真正銘、日本の料理だ。
SD体制よりもずっと昔の食文化だな、とハーレイが語る「おしゃます鍋」。
遠い昔に日本が国交を断って、鎖国とやらをしていた江戸時代。おしゃます鍋は江戸時代に考案された料理で、材料が猫だと分かるようにと名前がついた。当時、流行っていた歌から。
「猫じゃ、猫じゃとおしゃますが」と歌う歌詞から、おしゃます鍋。かつての日本の食文化。
色々な文化が復活している今だけれども、流石にそこまでは復活しなかったという所だろうか。
(おしゃます鍋…)
ミーシャの鍋、と心で呟いてブルッと震えた。とんでもない、と。
子供時代のハーレイの家にいた猫といえば、真っ白なミーシャ。写真も見せて貰った猫。とても可愛くて甘えん坊だったミーシャ、それを食べるなど酷すぎるから。
学校が終わって家に帰ったら、着替えを済ませてダイニングでおやつ。
ケーキと紅茶を用意してくれた母に、あの話をしようと思い出した。仕入れたばかりの薀蓄を。
「ママ、おしゃます鍋っていうのを知ってる?」
「作って欲しいの?」
「…知ってるの?」
そう言うってことは、もしかして、ママは知っているわけ?
「知らないわ。でも、どうせハーレイ先生でしょ?」
ブルーが学校で聞いて来るお話、珍しいものは大抵、ハーレイ先生だもの。
だからお鍋も教わったのね、とママにも簡単に分かるわよ。食べてみたいの、そのお鍋?
「…ママの推理で当たってるけど…。ハーレイの授業で聞いたんだけど…」
でもね、食べたいとは思わないよ、ぼく。ママだってきっと作れないと思う。
おしゃます鍋って、猫のお鍋なんだよ。
「猫ですって!?」
ペットの猫よね、他の種類の特別な猫じゃないわよね…?
猫科の動物ってわけじゃないのね、本物の猫のお鍋なのね、それは…?
あんまりだわ、と母も愕然とした、おしゃます鍋。
本当に存在していたらしい、と説明したら、ポカンと口を開けていた母。日本という国はなんと凄かったのかと、江戸時代と言えば平和でお洒落な文化の時代じゃなかったかしら、と。
母を大いに驚かせた後、おやつを美味しく食べて部屋に戻って。
勉強机の前に座って、また思い出した例の雑談。ハーレイにも作れない料理。
(いくらなんでも、おしゃます鍋は…)
酷すぎると思う、かつての日本の文化でも。名前までついた料理でも。
今の時代には無くて良かった。ミーシャを食べる文化だなんて。
猫には何度も出会ったけれども、今は一番身近に感じるハーレイの家にいたミーシャ。真っ白な猫は写真だけしか知らないとはいえ、生きていた頃の色々な話を聞いているから。
(ハーレイ、凄いの知ってるんだから…)
よりにもよって、おしゃます鍋。可愛らしい猫を食べてしまう鍋。
けれど、自分が知らないだけで、他にも沢山あるかもしれない。
信じられない食べ物が。それを食べるなど酷すぎる、と声を失いそうな料理が。
もっとも、今の時代には多分、無いだろうけれど。
おしゃます鍋が無いのと同じで、復活させないで放っておかれているだろうけれど。
そういったことを考えていたら、おしゃます鍋を教えたハーレイが訪ねて来てくれたから。
知識の豊富なハーレイに訊こうと、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「えっと…。今日の雑談、おしゃます鍋って言ってたけれど…」
おしゃます鍋の他にもあるの?
「何がだ?」
「変な食べ物。今のぼくたちが聞いたら、嘘だと思うような食べ物だよ」
猫を食べるなんて、ってビックリしたけど、他にもそんなのあったのかな、って…。
「おいおい、変と言ったら失礼だぞ。当時は立派な食文化だ」
其処の文化の一つなんだし、頭から否定しちゃいかん。
しかし、そうだな…。犬を食べるというのもあったな、中国とかでは。
「犬って…。それって、猫を食べるより酷くない?」
猫はホントにペットだけれども、犬は人間のことをとても大事に考えてるって言うじゃない!
お使いに出掛ける犬だっているよ、首から籠を下げて貰って!
「そいつは価値観の違いってヤツだ、どう考えるかは」
最初から犬を食べていた国じゃ、犬は人間のパートナーとかペットである以前に食べ物だ。他の国の人が「ペットにどうぞ」とプレゼントしたら、「美味しかったです」と書かれた御礼状が来て仰天したって話もあるんだ、犬の方はな。
犬の料理にも名前がついていたらしい。栄養がつくから暑い夏には喜ばれたとか、立派な食べ物だった犬。見た目はペットの犬と同じで、特別な犬ではなかったのに。
「…なんで食べなくなっちゃったの?」
おしゃます鍋も、犬の料理も、どうして消えてしまったの?
今の時代に無いっていうのは分かるけれども、SD体制に入るよりも前に無くなったんでしょ?
その頃だったら、文化を消そうって時代じゃなかったと思うんだけど…。
「動物愛護の精神ってヤツだ」
生き物を大切にしなければ、という精神が広がったんだな、世界中に。
犬や猫はもちろん、鯨やイルカも可哀相だと大勢の人が声を上げ始めたら、賛同する人も増えていくだろうが。そういうものを食べる文化があった国でも、間違いかもしれんと思うヤツらが。
食べないようにするべきだ、と考えるヤツらばかりになったら、食べる文化も消えちまう。犬も猫も、他の動物もな。
生き物を殺して食べることは残酷すぎる、という考え方の人間はベジタリアンになった時代。
肉も魚も一切食べずに暮らしてゆくのがベジタリアンだった。
「凄いね、全く食べないだなんて…」
つまらなそうだよ、食事するのが。お肉も魚も使わなかったら、お料理、減っちゃう…。
「そういったものを食べない文化は、それよりも前からあったんだがな」
宗教と結び付いたりして。熱心な信者は肉を食べないとか、そんな感じで。
「ふうん…?」
神様が駄目って教えてたのかな、お肉や魚を食べることは。
「そんなトコだな、だから神様にお仕えする人たちは食べなかったという話だなあ…」
SD体制に入るよりも前は、そうだった。
前の俺たちの時代も残っていたろう、神様がたった一人だけ。
俺たちが生きた頃には、その習慣はもう無かったが…。それよりも前の時代は、教会の人たちは肉どころか卵も食べなかったらしい。卵は普段は食べられたんだが、特別な時期は。
「卵も駄目って…。今は食べてもいいんだよね?」
教会の人たちも食べているよね、お肉も卵も。…だって、そんな話は聞かないもの。
「SD体制に入る時に消されて、そのままだからな」
あの時代は教会を支える人間も機械が選んでいたから、昔のようにはいかなかったんだ。
それまでの時代は、神様に仕えたいと思う人たちが自分で出掛けて行ってたからなあ、食べ物を制限されてしまっても平気だったというわけだ。自分で選んだ道なんだから。
ところが、機械が選ぶとなったら、そうはいかない。
お前は教会に入るんだ、と教育ステーションで決められちまって、教会に入るわけだろう?
自分の意志とは関係なしに肉や卵が食えなくなったら、人間、不満が出るってな。
マザー・システムとしては有難くない。食べ物ごときで体制批判をされちまったら。
そうならないよう、規則を緩めた。それが今でも続いてるんだな、肉も卵も食べて良し、と。
しかし、SD体制ってヤツは実に酷かったな、と続いた言葉。その観点から行けば、と。
教会の人たちも肉も卵も食べていい時代を作ったというのに、どう酷いのかが分からない。その観点から行けばいい時代だった、と言うのだったら分かるけれども。
「…どういう意味?」
教会の人たちがお肉も卵も食べられるようになったの、SD体制のお蔭でしょ?
ちっとも酷くないんだけれど…。いいことをしたように思うんだけど?
「その話の前だ、動物愛護の精神だ」
SD体制の時代も続いてたんだぞ、生き物を大切にしなければという考え方は。
機械が徹底して叩き込んでいたんだ、生き物を無闇に殺さないように。
地球が滅びてしまったからなあ、その分、余計に厳しくしていた。どんな生き物も大切に、と。
なのに、前の俺たちはどうなったんだ?
ミュウも生き物の内なわけだが。
「食べられてないよ?」
誰も食べてはいかなった筈だよ、ミュウのお肉は。
「当たり前だろうが、見た目は人類と同じなんだからな。食おうとは思わないだろう」
いくら研究者どもが冷血漢でも、食べる発想は無かったろうさ。
だが、食わなかったというだけのことだ。…ミュウは殺されちまったろうが。
「そうだね、死んじゃっても誰も気にしてなかったね…」
この実験をやったら死ぬかも、って思っていたって、やめずに実験していたんだし…。
殺すための実験もあったわけだし、大切にしては貰っていないね、生き物なのに。
アルテメシアでもミュウだと分かった子供は、端から殺していたんだから。
「ほら見ろ、それがSD体制の時代の考え方だ」
生き物を大切にしろと教えてはいたが、ミュウの命はどうだったんだ、ということだ。
ミュウも生き物には違いないどころか、姿は人間そのものなのにな。
だから酷いと言ったんだ、とハーレイの眉間に寄せられた皺。あの頃を思い出したかのように。
アルタミラの地獄や、アルテメシアで殺されていった仲間たち。赤いナスカでも。
「動物愛護の精神だけを叩き込んでおいてだ、ミュウは殺した」
そして不思議に思うヤツらもいなかったわけだ、何処にもな。
アルタミラにいた研究者たちも、家に帰ればペットがいたかもしれないのにな?
抱き上げてやったり、頭を撫でたり、おやつだって食わせていたかもしれん。
自分の家では飼っていなくても、知り合いの家にはいただろう。其処でペットに出会った時は、頭を撫でてやったんだろうさ。ミュウを扱う時とは違って、それは優しく「可愛いですね」と。
「…前のぼくたち、猫以下なんだ…」
猫だったら頭を撫でて貰えて、抱き上げて貰って、おやつも貰えて…。
もちろん檻には閉じ込めてなくて、家の中や庭を好きに歩けて。
「そういうことだ。…前の俺たちにやっていたことを、犬や猫にやっていたならどうなる?」
頭に妙な機械を被せて、苦しんでいようが、死んでしまおうが、かまわずに色々と実験だ。
手足も縛ってあるわけだしなあ、暴れないように。
そいつを犬や猫でやってりゃ、どんな目で見られていたんだと思う?
「凄い騒ぎになっちゃいそう…」
噂だけでも人が集まってくるよ、本当にそういう実験をしている場所なのか、って。
それで証拠を掴んじゃったら、みんな酷いと騒ぐんだろうし…。
研究所は閉鎖になっちゃいそうだよ、実験を続けられなくなって。
「そうだろうが。…犬や猫なら、そうなっていたに違いない」
だがな、俺たちは、残念なことにミュウだった。
犬や猫なら動物愛護の精神ってヤツで保護して貰えたんだろうが、ミュウはそうじゃない。
人類と同じ姿をしてても、守る必要など何処にも無かった。
ミュウも生き物だから大切に、と考える人類は一人もいなかったわけだ、機械のお蔭で。
あの忌々しいマザー・システムが、ミュウを生き物から除外しちまった。
ミュウは殺してもいい動物だと、殺すべきだと教えてたんだな…。
絶滅危惧種なんていうのもあった時代がその前にあるのに…、と深い溜息をつくハーレイ。
地球が滅びるよりも前の時代に、絶滅しないよう保護されていた生き物たち。その過程で人間が培った技術、それのお蔭で地球が滅びても動物も植物も生き延びられた。他の惑星で。
そうやって滅びを免れた生き物たちを蘇った地球の上に戻して、今の自然が作られた。遠い昔の自然そのままに、生命に溢れた海や森などが。
けれども、それだけの生き物を保護し続けていたSD体制の時代にも殺されていたのがミュウ。
人類よりも数は遥かに少なかったのに、保護する代わりに殺し続けた。
端から殺してしまっていたなら、いつか滅びてしまうのに。
地球が滅びた時に人類はそれを学んでいたのに、ミュウを保護する者は無かった。アルタミラで星ごと消そうとしたのは、滅ぼすつもりだったから。
赤いナスカの時も同じで、ミュウという種を絶やすのが彼らの目的だった。
他の生き物の命は大切にしたのに、滅びないよう保護していたのに、ミュウだけは別。
マザー・システムがそう教えていたから。
ミュウは滅ぼしてもいい生き物だと、保護する必要は何処にも無いと。
「ヤツらはミュウを絶滅させようとしていたわけだ」
滅びるのを防ぐ手段を考え出す代わりに、どうすればミュウを殲滅出来るか、そればかりでな。
アルタミラもそうだし、ナスカだってそうだ。
星ごと壊せば滅びるだろうと、ヤツらはメギドを持ち出したんだ。一人も残りはしないように。
「…でも、マザー・システムにミュウ因子を排除出来るプログラムは無かったって…」
キースが言ったから確かなんでしょ、その話は。
だったら絶滅しない筈だよ、どんなに殺してもミュウは生まれて来るんだから。
「さてなあ? …前の俺たちは運良く生き残れたが…」
アルタミラから無事に逃げ出した後は、シャングリラで暮らしていたわけなんだが…。
そのシャングリラも、ナスカの時には相当に危なかったんだ。
前のお前がメギドを沈めていなかったならば、ミュウは滅びていたかもしれない。
お前が制御室を壊してくれたお蔭で、二発目のエネルギーは相当に弱くなっていたそうだ。
あれを食らう前にワープ出来たが、照射率が百パーセントだったら間に合わなかった。メギドの炎が届いちまって、シャングリラは沈んでいただろう。
…あの時、シャングリラが巻き込まれていたら、マザー・システムの狙い通りにミュウは滅びて終わりだってな。
「そんなことは…!」
前のぼくが失敗していたとしても、シャングリラを助けられなくっても…。
マザー・システムがミュウの因子を排除出来ない以上は、きっとなんとかなった筈だよ。
ミュウは絶滅しなかったと思う、どんなに消しても次のミュウが生まれて来るんだから。
ナスカでシャングリラが沈んだとしても、また新しいミュウが生まれて生き延びただろう。白いシャングリラを造る代わりに、別の船で地球を目指しただろう。
前の自分がメギドを沈め損なったとしても、ミュウは滅びはしなかった筈だと思ったけれど。
「それがだな…。色々と研究したヤツらがいるのさ、どうなったかと」
SD体制が崩壊した後は、ずっと平和な時代だし…。今じゃ誰でもミュウなんだし。
そういう時代になったからこそ、研究しようというヤツもいる。シャングリラがナスカで沈んでいたなら、その後の歴史はどうなったのかと。
「いつかはミュウの時代になるっていうんでしょ?」
研究の結果は今と同じの筈だけど…。人類だけの時代は終わって、ミュウだけの時代。
マザー・システムもSD体制も壊してしまって、今みたいに人間が人間らしく暮らせる時代に。
「…ミュウの時代が来るのは間違いないらしいんだが…」
本当の歴史がそうなったように、前の俺たちが生きた時代の続きにそれが来ていたかどうか…。
もっともっと長い時間が経たなきゃ、ミュウの時代は来なかったかもしれんという話だな。
その上、地球が蘇っていたかどうかも分からんそうだ。
グランド・マザーを倒す方法、それによって地球のその後も変わる。
ジョミーとキースがやったみたいに、直接乗り込んで行って壊したからこそ、地球までが派手に壊れたわけで…。その結果として、青い地球が戻って来たってことだが、そうじゃない場合。
どう壊すのかを計算し尽くして立ち向かっていたら、グランド・マザーの機能だけを遠隔操作で止められたそうだ。手順は少々厄介らしいが、犠牲者は出ないし、安全で確実な方法だな。
しかし、それだとグランド・マザーが止まるってだけで、SD体制が終わるだけだぞ。止まったグランド・マザーを地下から撤去したって、地球は燃え上がりはしない。
そうなっていたら、地球を蘇らせる方法を考え付かない限りは、死の星のままで何も変わらん。
今の地球があるのは、シャングリラが地球まで行ったからだそうだ。他の船じゃなくて。
「そうなんだ…」
ジョミーたちの壊し方と違っていたなら、地球まで変わってしまうんだ…?
「うむ。何もかも前のお前のお蔭ということだな」
お前がメギドを沈めたお蔭で、ミュウはナスカで滅びずに済んだ。そしてシャングリラが地球に着いてだ、今の平和な時代がやって来たってな。青い地球まで戻って来て。
おしゃます鍋なんかを俺がこうして語れるのも…、と続いたから。
ハーレイの話が平和な時代に似合いの中身に戻ったから。
「おしゃます鍋…。今は作る人、いないよね?」
昔の地球でも、動物を大切にしてあげなくちゃ、って無くなっちゃったみたいだし…。
ハーレイみたいに知っていたって、おしゃます鍋に挑戦したりはしないよね?
「そんなグルメは流石に一人もいないと思うぞ」
猫は可愛い生き物なんだと思われてるのが今の世界で、今日のお前のクラスの生徒みたいに家族扱いしている人も多いんだしな?
猫より犬の方が好きだと思うヤツとか、猫は苦手だと思うヤツでも殺して食べはしないだろう。
誰でも分かっているってことだな、猫は大切にしてやらないと、と。
前の俺たちの時代でさえも、猫を食べようってヤツは何処にもいなかったんだから。
マザー・システムにきちんと叩き込まれて、動物愛護の精神だ。
ミュウは殺しても、猫は殺さん。まして鍋など、誰もやるわけがないってな。
もっとも、前の俺たちが生きた頃には、鍋を食おうっていう文化自体が無かったが…。
おしゃます鍋を食べる以前に、鍋料理が無かった時代じゃ誰も食えんな、おしゃます鍋は。
前の自分たちが生きた時代は、何処にも無かった鍋料理。今は馴染みのものなのに。
とはいえ、やっぱり猫の鍋など食べてみたいとも思わない。前の自分も、そうだったろう。猫を食べると聞いていたなら、酷い料理だと思っただろう。
他の仲間たちもきっと、顔を顰めたに違いない。おしゃます鍋などというものは。
「ねえ、ハーレイ。…エラたちが聞いたら、どんな顔をするかな?」
おしゃます鍋っていう料理があって、猫のお肉だと聞かされたら。
猫はお鍋にするんだよ、って。
「さてなあ…。信じられないって顔はするんだろうが…」
エラなんかは「なんて野蛮な料理でしょう」と言いそうなんだが、それはあくまで平和な時だ。
シャングリラは何処からも補給の来ない船だったんだし、飢えたら食うしかないだろう。
おしゃます鍋でも無いよりはマシだ、飢えて死ぬことを思えばな。
「…おしゃます鍋って…。シャングリラに猫はいなかったよ?」
いない動物は食べようがないし、おしゃます鍋、無理だと思うんだけど…。
「おしゃます鍋は無理だったろうが、食えるものなら他にいたろうが」
どういう名前の鍋になるかは知らないが…。鍋を食べる文化が無かったからには、他の調理法で食うわけなんだが、ローストするのか、煮込むのか…。
美味いか不味いかも全く謎だが、シャングリラで食うならナキネズミだな。
「ナキネズミ!?」
あれを食べるわけ、猫の代わりに?
おしゃます鍋にするんじゃなくって、焼いたり、シチューに入れたりするわけ…?
酷い、と悲鳴を上げてしまった。猫を食べるのも酷いけれども、ナキネズミ。
今の時代は、ナキネズミはとうに滅びてしまっていない動物。繁殖力が衰えていって、遠い昔に消えてしまったナキネズミ。保護して数を増やす代わりに、絶滅させる道が選ばれた。それこそが自然な道だったから。ナキネズミは人間の手で作られたもので、普通の動物ではなかったから。
思念波を上手く操れなかったミュウの子供をサポートするために作り出されたナキネズミ。
つまり思念波を使えた動物、人間と会話が出来た動物。
ナキネズミのように喋れはしない猫でも、食べることなど出来ないのに。おしゃます鍋と聞いて震え上がったのに、ナキネズミのローストや煮込み料理は想像したくもないもので。
シャングリラの仲間たちを信頼し切っていたナキネズミを、いったい誰が食べられるだろう?
他に食べ物が無いとなっても、誰がナキネズミを料理しようと思うだろう?
そうするより他に道が無くても、ナイフを持てる者などいない。「何をするの?」と首を傾げるナキネズミを殺せる者などは、誰も。
白いシャングリラの仲間たちは皆、心優しいミュウだったから。
ミュウを端から殺した人類、彼らとは違って他の生き物を思い遣ることが出来たから。
きっと誰もが選んだだろう。
ナキネズミを殺して食べる代わりに、飢えて死ぬ道を。何も食べ物が無いのならば。
けれど…。
「ナキネズミを食べなきゃいけないほどなら、ぼくが奪いに出掛けて行ったよ」
みんなの命を守るためなら、どんな場所でも行ったと思う。
ぼくも飢えててフラフラの身体でも、絶対に何か奪って戻るよ。
後はナキネズミを食べるしかない、なんていう悲惨なことになっちゃったら。
だって、ナキネズミは友達だよ?
ナキネズミを殺せる仲間なんかは一人もいないよ、食べたら命が助かる時でも。
「確かにな…。誰もナキネズミを殺せやしないな、俺でも無理だ」
キャプテンの俺がやるしかない、って覚悟を決めても無理だったろう。
そして結局、前のお前に縋るしかなくて、お前が何処かへ食べる物を探しに出掛ける、と…。
ナキネズミの命も仲間の命も救おうとしてだ、飛び出して行くのがお前というヤツだから…。
そんなお前だから、メギドを沈められたんだ。
命がどれだけ大切なものか、前のお前は誰よりも知っていたってな。
それを守るにはどうすればいいか、何が最善の道なのか。考えた末に飛んで行っちまった、命を一つ捨てる代わりにシャングリラが生き残れる道を、と。
自分の命を犠牲にしたなら、他の仲間たちが助かるから、と。
「…そうだけど…。そう思ったから、ぼくはメギドへ行ったけど…」
でも、ナキネズミは殺せないくせに、牛や鶏は食べちゃってたね。
シャングリラで飼ってた牛や鶏、前のぼくは平気で食べてたよ。可哀相だとは思いもせずに。
「今のお前だって食ってるだろうが」
牛も鶏も、魚とかも。…猫やナキネズミを食おうとしなけりゃ、それだけでもう充分だ。
ちゃんと命の大切さってヤツは分かってるわけだ、安心しろ。
それにだ、牛や鶏も遊びで殺していたんじゃないしな、前の俺たちは。必要な命を貰ってた。
今のお前も、前のお前も、生きるために命を食べていたんだ、何も問題ないと思うがな?
殺しちまって捨てたんだったら話は別だが、きちんと食べて自分の命にするんだから。
人類がミュウを殺していたのとは全く違う、とハーレイは穏やかに微笑んでくれた。
自分の命を養うためなら、牛や鶏の命を貰っても命は無駄にはならないから、と。
「ほどほどでいいのさ、命を食べないというのはな」
ナキネズミや猫を食べるとなったら、そいつが本当に正しいかどうか悩むトコだが…。
しかし、飢えちまった時なら、それが正しい道になるってこともあるだろう。
そんな状況は俺だって御免蒙りたいがな、猫やナキネズミを食べるしかないっていうヤツは。
普通に肉を食えるのがいいんだ、牛にしたって、鶏にしたって。
牛も鶏も美味しく食べれば、命は決して無駄にはならん。食べる度に可哀相だと思わなくても。
「…それでいいの?」
ナキネズミも猫も、牛も鶏も、命の重さは変わらないような気もするけれど…。
でも、前のぼくも食べちゃっていたし、やっぱり食べてもいいのかな…?
「当然だろうが、そのために肉が売られているんだからな」
誰も食べなきゃ無駄になっちまうぞ、肉になった牛や鶏の命。
まあ、命をまるで食わないのがいいと言うんだったら、精進料理って手もあるが。
「精進料理って…。お肉抜きの料理だって聞いているけど、あれは命を食べないためなの?」
命を食べなくてもいいように、ってお肉を使わない料理なわけ?
「元々はそのために生まれたらしいぞ、精進料理は」
教会の神様とは違って、日本や中国の神様と言うか…。古典でやるだろ、仏教ってヤツ。
仏教を広めたお寺の方でも、肉や魚は食べられなかった。お寺の人たちが食べていたのが、肉を使わない精進料理だ。もちろん魚も使っちゃいないし、卵も無しだな。
動物の命は一つも奪っていないってわけだ、精進料理を作っても。野菜の命も命の内だ、ということになったら、少々立場がマズイんだがな。
「野菜にも命…。あるんだろうね、木だって、花だって生きてるものね」
だけど、動物の命は一つも食べないのが精進料理なんだ…。
ハーレイ、精進料理も作れるの?
「作れるに決まっているだろう。俺に作れない料理は、今日の授業で話した筈だぞ」
おしゃます鍋は作れないわけだが、他の料理なら作れるってな。精進料理も得意なんだぞ。
野菜だけで作る料理というのも奥が深くて面白い。それにけっこう美味いんだ、あれは。
しかし、美味しく肉を食ってこそだ、とハーレイが片目を瞑るから。
「でないと食う楽しみが減るじゃないか」と、「肉を食わなきゃ人生、損だぞ」と、肉を使った料理を幾つも挙げてゆくから、ほどほどなのがいいのだろう。
命をまるで食べない料理で生きてゆくより、前の自分もそうだったように、牛も鶏も食べる道。命を無駄に奪わないなら、貰った命で自分の命をきちんと作ってゆくのなら。
前の自分がメギドを沈めるためにと捨ててしまった命。
それをもう一度、神様が自分にくれたのだから。ハーレイと一緒に生きてゆけるよう、二つ目の命をくれたのだから。
神様に貰った新しい命を養ってゆくのに必要なだけの命は貰っていいのだろう。牛の命も、鶏の命も、魚たちの命も、今度も、きっと。前の自分も貰って生きていた命だから。
ナキネズミは食べずにいたけれど。
今の自分も、おしゃます鍋を食べたいなどとは、微塵も思いはしないけれども。
ほどほどに食べればいいんだよね、と考えていたら、ハーレイに「おい」と呼び掛けられた。
「お前が興味があるんだったら、精進料理もいつか作って食わせてやるが…」
命を食わない料理もいいがだ、せっかく地球まで来たんだからな?
今度は色々食べようじゃないか、シャングリラでは食えなかった命も沢山あるんだ。
おしゃます鍋は論外とはいえ、肉だけでも種類はドッサリだってな。
鹿もイノシシもシャングリラじゃ絶対に食えなかったぞ、あの船にはいなかったんだから。
魚となったら何種類いるんだ、前の俺たちが一度も食ってはいなかった魚。
「ホントだね…!」
お肉もそうだけど、魚も前のぼくが食べたことがないのが今は一杯…。
ハーレイが言う通りに食べなきゃ損だね、今のぼくたちだから食べられる色々な命。
おしゃます鍋とかナキネズミのシチューは困るけれども、食べていいものは食べなくっちゃね。
貰った命を無駄にしないで、幸せに生きればいいんだものね…。
白いシャングリラでは一度も食べられなかった、色々な魚や様々な肉。
蘇った青い地球に来たから、そういったものも食べられる。
平和な時代に、ミュウの命もきちんと守られる時代に生まれて来られたから。
前の自分が失くした命を、神様が新しく与えてくれたから。
また生きていいと、ハーレイと二人で幸せに生きてゆくようにと。
ハーレイと一緒に手を繋ぎ合って、いつまでも、何処までも歩いてゆこう。
食べる命に感謝しながら、この地球の上で。
生きるために自分の命をくれた牛や鶏たちの分まで、幸せを二人で噛み締めながら…。
作れない料理・了
※動物愛護の精神はあっても、ミュウの扱いは酷かったSD体制の時代。猫以下だった命。
そのミュウの船でも、ナキネズミを食べようとはしなかった筈。命を食べるのも大切ですが。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ママ、何してるの?」
学校から帰って、おやつの時間。何の気なしにテーブルを立ったブルーが覗いたキッチン、何か作業をしている母。キッチンの小さなテーブルの上で。
「ハーブソルトを作っているのよ」
匂いがするでしょ、という言葉で気付いたハーブの香り。テーブルに置かれた幾つかのハーブ。
「そっか…」
お塩なんだ、と改めて眺めた母の手元。ハーブソルトなら、自分も馴染みの調味料。キッチンに母が常備している。手作りのものを。
庭の一角のハーブガーデン、其処で育ったローズマリーやセージなど。摘んだばかりのハーブと塩とを混ぜて出来上がるハーブソルト。
今もフレッシュな香りが漂うハーブを母が細かく刻んでいる所。何種類か混ぜてゆくのだろう。母のレシピで、お気に入りの割合でハーブを合わせて。
刻み終わったら、用意してある炒った塩と混ぜて出来上がりらしい。ハーブと塩とが一対一で。
それだけで出来て簡単なのよ、と微笑む母。美味しいけれども、とても簡単、と。
「…乾いたハーブでも作るよね?」
たまに吊るして乾かしてるよね、いろんなハーブを。あれが入ったヤツもあるでしょ?
乾いたハーブなら、刻まなくても叩くだけで粉々になりそうだけど…。
「そうね、確かに簡単かもね。保存も利くから便利だけれど…」
元々は冬の間の保存用だったらしいわよ。冬になったら枯れてしまうハーブもあるでしょう?
だけど、新鮮なハーブが採れる間は、ママはこっちで作りたいわね。
味も香りも、断然、こっちが上だもの。ちょっぴり手間がかかるけれども、美味しさが大事。
お料理に使うお塩は美味しい方がいいでしょ、お料理もグンと美味しくなるし。
刻み終えたハーブと用意してあった塩を小さな鉢に入れて、丁寧に混ぜ合わせ始めた母。偏ってしまわないよう、気を付けながら。
フレッシュなハーブは水気があるから、きっとドライハーブよりも混ぜにくいだろう。ハーブが塩を集めてしまう分だけ、余計にかかりそうな手間。
それでも美味しく作るためには必要な作業なのだろう、と見学していたら母に訊かれた。
「シャングリラには無かったの?」
「えっ?」
何が、と首を傾げてしまった。何が無かったかと訊かれたのだろう?
「ハーブソルトよ、ママが作っているお塩」
シャングリラでは作っていなかったかしら、ハーブソルトは?
「んーと…。最初の間は無かったけれど…」
ぼくが物資を奪ってた頃は、そんなの作っていなかったけれど…。
改造した後はちゃんとあったよ、ハーブが入っていたお塩。
「ほらね、便利なものなのよ。シャングリラにもあったくらいに」
ハーブがあったら作らなくちゃね、少しくらい手間がかかっても。
「うん、美味しいしね、ママのお料理」
ハーブを使ったお料理だって美味しいけれども、ハーブソルトを使ったのも好き。
作ってる時からハーブの匂いがたっぷりだものね、ハーブソルトは。
母とそういう話をしてから、ダイニングに戻っておやつを食べて。
空になったお皿やカップを母に返して、自分の部屋へと帰ったけれど。
本でも読もうと勉強机の前に座ったら、思い出したハーブソルトを作っていた母。細かく刻んだハーブと塩とを丁寧に混ぜて。
母に問われたシャングリラ。あの船にハーブソルトはあったのかしら、と。
あったと答えた自分だけれども、そういえば考えたことがなかった。それが存在した背景を。
(ハーブソルト…)
白いシャングリラにあった、ハーブが混ざったハーブソルト。普通の塩とは違った塩。
ごく当たり前に存在していたけれども、誰が作っていたのだろう?
フレッシュなハーブもドライハーブも使っていたろう、あのハーブソルト。肉にも魚にも便利に使えたハーブソルトを作り出した仲間は誰だっただろう?
(…ハーレイじゃない…)
それだけは確か。料理が得意で工夫を凝らすのが好きだったけれど、ハーレイが厨房にいた頃はハーブは栽培していなかった。白い鯨ではなかったから。ハーブの畑は無かったから。
だから、それよりも後のこと。ハーレイが厨房を離れてしまって、白い鯨が完成した後。
自給自足で生きてゆく船に、誰がハーブを導入したのか。誰が使おうと考えたのか。
間違いなくあったハーブソルト。色々なハーブが混ざっていた塩。
(誰だったわけ…?)
思い出せない、ハーブソルトを作った仲間。ハーブを育てて作ろうと主張した仲間。
前のハーレイならやりそうだけれど、もう厨房にはいなかった。キャプテンになったハーレイは厨房で料理をしなかったのだし、ハーブソルトも作りはしない。
もしも厨房にいたのだったら、嬉々として案を出しそうだけれど。ハーブソルトを作りたいから船でハーブを栽培したいと、そのための場所を設けて欲しいと。
(でも、ハーレイだけは有り得ないんだよ…)
とっくにキャプテンだったんだもの、と考えていたら、そのハーレイがやって来たから。仕事の帰りに寄ってくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで、問い掛けた。
今のハーレイのハーブ事情を。料理が得意な今のハーレイなら、やはり作っているだろうかと。
「えっと…。ハーレイ、ハーブソルトは作ってる?」
ハーブとお塩を混ぜるヤツだよ、ママが作っていたんだけれど…。
「いや、そこまではやっていないな。…庭にハーブは植えてるんだが」
ちょっと採って来て使うだけだな、料理の時に。流石にハーブソルトはなあ…。
手間もかかるし、と答えたハーレイが使うハーブソルトは隣町で暮らす母が作ったもの。他にもハーブオイルやハーブビネガー、手作りのものをふんだんに使っているらしい。
自分の家では作らないけれど、隣町の家で貰って来て。キッチンの棚の常備品。
あれば便利なものだしな、とハーブソルトの良さを語るハーレイ。普通の塩では出せない旨味を引き出せるのがハーブソルトで、一度使えば手放せないと。
「ママも言ってたよ、お料理に使うお塩は美味しい方がいいでしょう、って」
だからね、手間がかかっても新鮮なハーブで作るのがいい、って。
保存するのに向いているのは乾燥させたハーブだけれども、今の季節は新鮮なハーブ。
「お前の家にもハーブガーデン、あるからなあ…」
思い立った時に摘んで作れるよな、思い通りのハーブソルトを。好きなように混ぜて。
俺も一人暮らしというんでなければ、ハーブソルトを作るんだが…。
どんな割合で混ぜるのがいいか、研究だってしてみたいんだが、生憎と一人暮らしじゃなあ…。
作りすぎになってしまうんだよなあ、ウッカリ凝ってしまったら。
「そうかもね…」
少しだけ作るつもりでやっても、改良したくてまた作りそう。
次はこういう風にしよう、って何度も挑戦している間に、ハーブソルトだらけになりそうだよ。
今のハーレイも作らないらしい、ハーブを混ぜ込んだハーブソルト。
そうなってくると、ますます有り得ない、前のハーレイがハーブソルトを作ること。今でさえも作っていないのだったら、キャプテンが作るわけがない。
けれど、事情は知っているかもしれないから。シャングリラを纏め上げていたのがキャプテン、ハーブソルトが生まれた経緯も聞いていたかもしれないからと、ぶつけた質問。
「じゃあ、シャングリラのハーブソルトは誰が作ってたの?」
白い鯨になった後には、ちゃんとあったよ、ハーブソルトも。
あれを作っていたのは誰なの、シャングリラにあったハーブソルトを?
「誰って…。そりゃあ、厨房のヤツらだろ」
担当していたヤツがいたのか、手が空いた時に作ってたのか。そこまでは俺は知らないがな。
「レシピはデータベースのだよね?」
データベースで調べて作ったんだよね、ハーブの混ぜ方も、ハーブソルトの作り方も。
「いやまあ…。データベースの情報には違いないんだが…」
ハーブソルトの作り方はだ、基本のレシピは俺が見付けたヤツだったんだが?
「えっ、ハーレイ?」
なんでハーレイがレシピを探すの、あの頃はとっくにキャプテンでしょ?
「それも間違いないんだが…。忘れちまったか?」
俺だ、俺、とハーレイは自分の顔を指差した。
あの船にハーブを乗せたのは俺だと、ハーブソルトもその延長だと。
まさか、と驚いてしまったけれども、ハーレイは得々として語り始めた。
白いシャングリラにあったハーブと、前の自分との関わりを。
「覚えていないか、前の俺がハーブを植えようと言い出したのを」
自給自足の船にする時に、せっせと推していたんだが…。
そんなにスペースは取らないんだし、ハーブガーデンは作るべきだとな。
「どうしてハーブガーデンなわけ?」
「美味いからに決まっているだろう! ハーブを少し入れるだけでな」
厨房にいた頃は何度もハーブを使ったからなあ、物資の中に混ざっていたら。
ハーブソルトも、ハーブオイルも、ハーブビネガーも時々混ざっていたもんだ。生のハーブも。
どうやって使うものかを調べて、ちょっと入れたら美味いんだ、これが。
船で植物を育てるんなら、ハーブが無ければ片手落ちだぞ。
ローズマリーにセージに、タイム。ほんの少しで変わるんだよなあ、料理の味が。
「えーっと…。ローズマリーにセージって…」
前のハーレイが歌ってくれたスカボローフェア…?
だからそういうハーブを植えようって言ったの、シャングリラに…?
「歌のせいではないんだがな」
たまたまハーブが出て来るってだけだ、スカボローフェアは。
そんな理由で決めやしないぞ、シャングリラで育てていこうっていう大切な作物の種類はな。
ローズマリーにセージに、タイム。他にも色々、料理の味に豊かさを持たせるために。
前のハーレイは長老たちが集まる会議でハーブを植えようと提案した。
ハーブがあったらハーブソルトもハーブオイルも、ハーブビネガーも出来る筈だ、と。ハーブやハーブソルトなどを使った具体的なレシピも、幾つも挙げて。
出された資料を四人の長老たちは子細に読み込み、チェックしてから。
「ハーブと来たよ。これだけでは料理にならないみたいだけどさ…」
かつての厨房の責任者がここまで推すんだったら、植えるだけの価値はあるってことかね。
要は匂いのする葉っぱの類みたいだけどね、と身も蓋も無いことを言ったのがブラウ。
「それだけでは料理にならんものでも、料理に使えば美味くなるのなら反対はせんが」
大して場所も取らんようじゃし、とゼルは「美味しい」という点に興味を抱いたらしい。
「ハーブは薬にもなる植物だそうだよ、この船では試していないがね」
煎じてお茶にするのだそうだ、とヒルマンは知識を持っていた。
人間が地球だけで暮らしていた頃、薬草だったというハーブ。ローズマリーは消化不良や炎症の抑制に良く効くハーブで、セージは抗菌作用を生かして感染予防のウガイなどに。タイムは風邪の症状を和らげ、疲労回復にもなるといった具合に。
「ハーブで治せる病気は色々あるそうですよ。料理用の他にも植えるといいかもしれませんね」
お茶にして飲めば効くそうですし、と微笑んだエラ。
腹痛や胃痙攣に効果があると伝わるカモミール。料理には使えないハーブだけれども、そういうハーブも植えましょうか、と。
白く愛らしい花が咲くというカモミール。薬が高くて買えなかった時代に重宝されていた植物。船でハーブを育てるのならば、植えておくのも良さそうだからと。
植えると決まれば、後は早かったハーブの選定。
キャプテン自ら案を出していたハーブの他にも色々なハーブが選び出されて、シャングリラには立派なハーブガーデンが出来た。農業用の広いスペースの一角、豊かなハーブガーデンが。
収穫出来そうな頃合いになって、再び集まった長老たち。キャプテンも、それにソルジャーも。
「さて、ハーレイ。…あんたの希望のハーブってヤツが育ったみたいだけどねえ?」
どう使うんだい、レシピの資料は前に見せては貰ったけどさ。
まずは料理に添えるのかい、と興味津々でブラウが尋ねた。香草焼きがあったようだけど、と。
「香草焼きか…。厨房のヤツらに任せてもいいが…」
そうすれば香草焼きになるのだろうな、ハーブの最初の使い道は。
せっかく立派に育ったのだし、第一号は色々な料理に役立つものにしてやりたいが…。
「もしかして、君がやるのかい?」
役立つものを作りに行くというのかい、と問い掛けたのが前の自分で。
「それもいいのう、言い出したのはハーレイじゃしな」
たまには厨房に立つのもいいじゃろ、腕がなまっておらんのならな。
何が出来ると言うんじゃ、ハーレイ?
わしらも是非とも見たいもんじゃのう、キャプテンが厨房に立った所を。
厨房のヤツらが酷く緊張するんじゃろうが、と笑っていたゼル。面白い見世物になりそうだと。
「思い出した、ハーレイ、作ったんだっけ…!」
厨房に出掛けて、ハーブソルトを。
シャングリラの一番最初のハーブソルトは、ハーレイが作ったヤツだったよ…!
「ごくごく基本のヤツだがな」
前の俺だって、ハーブソルトは出来上がったヤツを料理に使ってただけで、作ったことは一度も無かったからなあ…。いわゆる初心者向けってヤツだな、誰の舌にも合いそうなハーブで。
「だけど、本格的だったじゃない」
フライパンでお塩を炒って、冷まして。…お塩をそのまま使うんじゃなくて。
ハーブだって細かく刻んでたものね、お塩と綺麗に混ざるように。
「俺は厨房出身なんだぞ? 久しぶりに古巣に戻ったからには、本格的にいきたいじゃないか」
キャプテンになっても料理の腕は落ちちゃいないと、披露してやるチャンスだからな。
昔馴染みのヤツらが揃っていた場所なんだし、余計に腕が鳴るってもんだ。
ハーブはこうやって使うもんだと、ちゃんと手順を覚えておけよ、と。
キャプテンの制服の袖をまくって、ハーレイはハーブ入りの調味料をきちんと作り上げた。
厨房のスタッフたちやゼルやヒルマンたち、前の自分までが見守る中で。
ハーブソルトと、ハーブを漬け込んだオイルとビネガー。
出来上がったら直ぐに使えるハーブソルトと、ハーブの香りが移るまで待つオイルとビネガー。どれも料理にハーブの風味を加えるための調味料。
それらが見事に出来た後には…。
「ハーレイ、料理はしていないよね?」
ハーブソルトとかは作ったけれども、あれを使った料理なんかは。
「そう思うか?」
調味料だけを作って満足しそうか、古巣に戻ったキャプテンが?
白い鯨になっちまったから、俺の知ってた厨房とはすっかり変わってしまっていたが…。
それでも料理を作る場所には違いないしな、見た目がどんなに変わっちまっても。
「…それじゃ、料理をしていたの?」
ハーブソルトとかを作っただけでは終わらなかったの、あの時は?
前のぼくたちは、出来上がった所を見た後は帰ってしまったけれど…。
ハーレイも一緒に厨房を出たんじゃなかったっけ?
早くブリッジに戻らないと、って急いでいた気がするんだけれど…?
ハーブソルトやハーブオイルを作るためにと、あの日、持ち場を離れたハーレイ。
もちろん、キャプテン不在の間も航行に支障が出ないようにと、指示をしてきた筈だけれども。
責任感の強いキャプテンは急いで戻ったと記憶している、前の自分は。
けれども、記憶違いだったろうか?
ハーレイは一人で厨房に残って、出来たばかりのハーブソルトで料理を作っていたろうか?
あの日のシャングリラの夕食。その中の何かをハーレイも一緒に作っていたと言うのだろうか、ずっと昔は料理をしていた厨房で。場所は変わっても同じ顔ぶれのスタッフたち。かつての仲間と笑い合いながら、ハーブソルトを使って料理を作ったろうか…?
思い出せない、遠い遠い記憶。
厨房に立っていたキャプテンのその後、ハーレイが作っただろう料理も、食べた記憶も。
いくら記憶を手繰り寄せても、戻っては来ないハーレイの料理。ハーブソルトを使った料理。
首を捻って考え込んでいたら、「俺も忘れていたからな」とハーレイが浮かべた苦笑い。
「…お前に訊かれて思い出したんだ。料理はしていなかったよね、とな」
それを聞くまで、すっかり忘れていたんだが…。
ハーブソルトを作った後には、確かにブリッジに戻ったわけだ。そして仕事をしていた、と。
ところが、せっかく作ったハーブソルトを俺は料理に使えないわけで…。
考えた末に、ハーブソルトの出来を確かめるという口実でだ、お前用に野菜のソテーをな。
何日か経ってからだったが。
「…野菜のソテー?」
なんなの、野菜のソテーって。…野菜スープじゃないよね、それ…。
「うむ。野菜スープを作る代わりに、野菜をソテーしたってわけだ」
ただしお前は健康だったが。
寝込んでも弱ってもいなかった上に、普段通りの食事をしていたが…。
俺が青の間まで野菜ソテーを届けに出掛けた時には。
「そういえば…」
いつもと同じに、一人でお昼御飯を食べていた所にハーレイが来たんだったっけ。
何の用かと思ったけれども、「キッチンを少しお借りします」って…。
青の間の奥にあった小さなキッチン。其処はソルジャーの食事の仕上げをしたり、温め直したりするための場所。
ハーレイはキッチンに入って暫くしてから、温め直したらしい料理の皿を持って戻って来た。
こんな料理が出来ましたよ、と間引きしたニンジンがメインの野菜ソテーを。
「…君が作って来たのかい?」
ハーブソルトを試してみたくて、わざわざ作りに行って来たとか…?
「はい。…作ったからには使ってみたくて、ソルジャーに試食して頂くから、と…」
ご心配なく、ちゃんと味見はしましたから。
ご覧の通りにソテーしただけで、仕上げにハーブソルトを振ったというだけですが…。
なかなかに味わい深いものです、ハーブの風味が生きていますよ。
「ふうん…? 君が届けに来てくれるからには、自信作だと思うんだけど…」
どんな味かな、と口に運んだら、ふわりと広がったハーブの香り。野菜に一味加わった風味。
野菜をソテーして塩を振っただけとは思えない味、ただの塩ではないからだろう。
だから自然と浮かんだ笑み。「美味しいものだね」と、「ハーブが入ると違うんだね」と。
「そうでしょう? 同じ塩でも、ハーブを入れると変わるのですよ」
野菜スープも、次からはこれにしましょうか?
あれの味付けは塩だけですしね、ハーブソルトに変えればきっと美味しくなりますよ。
「君の野菜スープは、今のあの味がいいんだよ」
元の味のままがいいと何度も言ったと思うんだけどね?
野菜の味と塩だけのスープが気に入っているし、ハーブソルトの出番は無いよ。
「しかし…。いくらお好きでも、あの味付けは…」
塩だけというのは、召し上がっておられても味気ないように思うのですが…。
お好きな味だと知ってはいますが、ハーブソルトを入れたものも試して下さっても…。
ハーブが加わるだけなのですし、と野菜ソテーを作った料理人は困ったような顔。
野菜スープは野菜と塩だけで作るけれども、ハーブも野菜の内なのでは、と。
ハーブガーデンで育つハーブは、野菜と同じに食べるもの。口に入れても害のないもの、薬にもなるというほどのもの。だから野菜の親戚だろう、と。
「野菜と言うより、スパイスだろう?」
ハーブだけではお茶くらいにしかならないわけだし、風味付けに使うのが主なんだし…。
野菜ではなくて、スパイスなんだと思うけれどね?
ぼくは野菜スープにスパイスが欲しいと言ってはいないよ、塩があれば充分なんだから。
「…厳密に言えば、スパイスなのかもしれませんが…」
スパイスの内だと言われてしまえば、上手く反論出来ないのですが…。
それでもハーブは野菜の内だという気がしますよ、使い方が変わっているだけで。
ハーブソルト入りの野菜スープも、お召し上がりになる価値はあるのでは…?
一度作ってみますから、とハーレイがハーブソルトを使って作ったスープ。
寝込んではいなくて健康だったけれど、青の間のキッチンで何種類もの野菜をコトコト煮込んで作って貰った野菜のスープ。いつもは塩味だけの所を、同じ塩でもハーブソルト。
出来上がったそれを食べた途端に、いつもとは違う豊かな味わい。ハーブの風味。
「やっぱり駄目だよ、美味しすぎだ」
ハーブソルト入りのスープは駄目だね、普通の塩だけで味付けしないと。
「美味しいのならいいと思いますが?」
塩だけという所は変えておりませんし、ハーブが入っただけですよ?
ハーブソルトも塩なのですから。
作る所を御覧になっておられた通りに、ハーブと塩とが半分ずつです。
「それは分かっているんだけれど…。そのハーブってヤツが問題なんだよ」
これじゃお洒落な御馳走の味で、本来の君のスープじゃない。
ぼくが大好きな味がしないよ、こういうスープをぼくは求めてはいないんだけどね?
「同じスープなら、美味しい方が良くありませんか?」
贅沢な食材を使ったわけではありませんから、こういう味の野菜スープもよろしいかと…。
「今までに色々と工夫してくれたスープを、全部断ったと思うけど?」
美味しいスープが欲しいんじゃなくて、あの味のスープが欲しいんだよ。
分からないかな、ぼくが言うこと。
「…ハーブソルトも駄目ですか…」
本当に塩なのですけどね…。ハーブが入っているというだけで、本当にただの塩なのですが。
他の調味料は何も入っていないわけですし、塩は塩だと思うのですが…。
ハーレイは残念そうだったけれど、美味しすぎたのがハーブソルトを使ったスープ。
そうしてお蔵入りになったのだった、ハーブソルト入りの野菜スープは。
ハーブソルトが辿った末路を、ハーレイも思い出したらしくて。
「…お前、野菜のソテーは喜んで食っていたのに、スープは駄目だと言いやがって」
ハーブソルトは二度と入れるなとゴネられちまって、あれっきりだ。
前の俺が作ったハーブソルトの晴れ舞台ってヤツは二度と無かった、野菜スープが駄目ではな。
あれの味が生きる最高の料理は、野菜スープだったと思うんだが…。
塩しか使っていなかっただけに、あれが一番、ハーブソルトで美味くなったと思うんだがな。
「そうだったのかもしれないけれど…」
ハーレイは料理が得意なんだし、それが正解かもしれないけれど…。
でも、前のぼくはハーブソルトが入ったヤツより、普通の塩のが良かったんだよ。
あの味が好きで、他のは駄目。美味しくっても、駄目だったんだよ…。
「俺も充分に分かってはいたが、料理人としては寂しかったぞ」
腕の奮い甲斐が無いわけだしなあ、何度スープを作っても。
次はこういう味にしようとか、こうしたらもっと美味くなるとか、何も工夫は出来なくて…。
挙句の果てにハーブソルトまで駄目だと言われちゃ、ガッカリするしかないってな。
白いシャングリラにハーブを導入していたくらいに、料理が得意だった前のハーレイ。
自ら厨房で腕まくりをして、一番最初のハーブソルトを作り上げていたキャプテン・ハーレイ。
なのにハーブソルトが似合いの料理に、それを使えはしなかった。
塩だけを入れてコトコトと煮込む野菜スープに、前の自分が好んで作って貰ったスープに。
その野菜スープは長い時を越えて、今の自分もハーレイに作って貰うから。
病気で寝込んでしまった時には、ハーレイが作りに来てくれることが何度もあるから。
「えっとね…。ママ、ハーレイにハーブソルトも提案してた?」
野菜スープを作ってた時に、ハーブソルトを入れたらどうかって言われちゃった?
「一番最初に作りに来た時に、仕上げにどうぞと出されたな」
振りかけるだけで違いますから、とハーブソルトが入った瓶を。
「やっぱりね…」
そうなっちゃうよね、ママは色々アドバイスしてたみたいだし…。
何も入れずにお塩だけだと言うんだったら、ハーブソルトだと思うよね。
仕上げにパラッと振っておいたら、グンと美味しくなるんだし。
ママだって絶対、思い付くよね、何を言っても駄目なんだったら仕上げにコレ、って。
ハーブソルトを出されたけれども、入れなかったのが今のハーレイ。
塩と野菜の旨味だけのスープに、ハーブの風味は要らないから。前のブルーは、ハーブソルトの入ったスープを二度と頼みはしなかったから。
素朴で優しい野菜スープは、今もそのままのレシピだけれど。何種類もの野菜を細かく刻んで、塩味だけでコトコトと煮込むものなのだけれど。
「お前、今度もハーブソルトは無しなのか?」
ハーブソルトの話が出て来たついでに訊くがな、今度のお前はどうするんだ?
野菜スープにハーブソルトは入れないままの方がいいのか、今も?
「どうだろう…。ハーブソルトも美味しいものね」
ママが自分で作ってるから、前のぼくよりも知ってると思うよ、ハーブソルトの美味しさを。
今のハーレイの家の庭にも、ハーブが植わっているんだよね?
一人暮らしだと多すぎるから、ってハーブソルトは作ってないって聞いたけど…。
野菜スープの味はそのままでいいから、ハーブソルトは作って欲しいな。
ハーレイが一人暮らしじゃなくなった時は、庭のハーブでハーブソルトを。
「おっ、そう来たか!」
一緒に暮らせるようになったら、ハーブソルトを作って欲しい、と。
なら、ビネガーもオイルも作らないとな。
前の俺だって作ってたしなあ、ハーブオイルにハーブビネガー。
やっぱりそいつも作らんといかん、美味い料理には欠かせないからな。
うんと美味いぞ、シャングリラの中とは違って地球で育ったハーブなんだから。
ハーブソルトもハーブオイルも、ハーブビネガーも全部、とびきりの味がするってな。
今度こそお前にハーブソルト入りの野菜スープの味を分かって貰わないと、と輝く鳶色の瞳。
あれは絶対に美味いんだから、と。
「また作ってくれるの、ハーブソルト入りを?」
ハーレイ、懲りていないわけ?
前のぼくが駄目だと言った味だよ、今のぼくもきっと、同じことを言うと思うんだけど…。
「だからこそだな、今度こそお前に分からせてやるさ」
ハーブソルトを入れると美味いと、次からはこっちの味にしたいと思うように。
お前が気に入る味になるまで、何度でも挑戦するってわけだ。
前の俺たちと違って、野菜スープの味を試せるチャンスも時間も今度は充分あるんだから。
「でも、ぼくはあの味がいいんだけれど…」
本当にお塩しか入っていなくて、余計な味付けをしてないスープ。
風邪を引いた時の卵入りのは別だけれども、それ以外の時は前のままがいいよ。
ハーレイが作ってくれるスープはあの味なんだし、そのままがいいな。
「そういう頑固な考え方がだ、覆るほどに美味い味があるかもしれないじゃないか」
頑固なお前も、次からはこれだと思っちまうような、ハーブソルトを使ったスープ。
絶対に無いとは言えんと思うぞ、ハーブソルトを馬鹿にしちゃいかん。
入れるハーブで風味がガラリと変わるもんだし、混ぜる割合でも変わってくるんだ。
お前と一緒に暮らし始めたら、あれこれ研究することにするか。
どんな割合でハーブを入れたか、きちんとレシピを書いておいてな。
いつか美味いのを作ってみせる、とハーレイは自信満々で。
そのハーレイの家の庭には、前のハーレイがシャングリラに導入していたハーブが幾つも。
シャングリラにもハーブはあったけれども、好き放題には使えなかったことだろう。必要な分を採ってゆくのが限界だったことだろう。
けれど今では、ハーブを好きなだけ採っていいから。
新鮮なハーブも、保存用にと乾かしたハーブも、使い放題の世界だから。
ハーレイが何度も工夫を凝らして、美味しいスープが出来るかもしれない。ハーブ入りの。
塩とハーブとを半分ずつ混ぜて作ったハーブソルトで味付けをした野菜スープが。
青い地球の上で育ったハーブと、地球で採れた塩とで、美味しくなりすぎた野菜のスープ。
それに出会える時が来たなら、その時は卒業してもいい。
前の自分が頑固に変えさせなかった、野菜スープのためのレシピを。
卒業して、素敵な野菜のスープに変える。
ハーレイが作ったハーブソルト入りに、美味しくなりすぎたお洒落な味の野菜スープに…。
ハーブソルト・了
※シャングリラでハーブを育てるよう提案した、前のハーレイ。最初の調味料も作ったほど。
けれどブルーが好まなかった、ハーブソルトが入った野菜スープ。美味しすぎたのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ママ、お土産だ」
ただいま、と帰って来た父の手に薔薇の花束。真紅の薔薇が何本くらいあるのだろうか。それは大きな、リボンまでついた立派な花束を抱えている父。子供のように楽しそうな笑顔で。
ブルーもたまたま部屋から下りて来た所だったから、何事なのかとビックリしたけれど。
母の方はもっと驚いたようで、目をパチパチと瞬かせて。
「…今日は記念日だったかしら?」
ごめんなさい、私、忘れているかも…。ごくごく普通の夕食なのよ、今日も。
「記念日っていう感じだろう?」
ほら、と父が手渡した薔薇の花束。両手で受け取った母は途惑いながら。
「何の日だったの、本当に思い出せないんだけれど…」
こんなに素敵な花束を貰う資格が無いわね、私ったら。だって、忘れているんだもの。
「いや、記念日っぽいというだけでだな…」
そういった風に束ねて貰って、リボン付きでと頼んだんだ。記念日じゃないさ。
帰りに花屋が目に付いたからな、たまにはプレゼントもいいだろうと…。
いつもママには世話になっているし、料理だって、うんと美味しいからな。
「あらまあ…。それで花束のお土産なの?」
凄く大きいわよ、この花束。三十本どころではないでしょ、薔薇。
「安かったからな」
仕入れすぎたのか、たまたま安い時期だったのか…。
店の表に書いてあったのさ、特売だって。それで入って買ったってわけだ。
買わなきゃ損ってモンだろう。どの薔薇も安かったんだから。
本当に薔薇が特売だったかどうか、それは父にしか分からないけれど。
プレゼントして驚かせようと定価で買って帰ったのかもしれないけれども、笑っている父。特売だったから豪華に五十本だと、同じ薔薇なら華やかな真紅がいいだろうと。
大喜びで花束を抱え、香りをたっぷり吸い込んだ後はリボンを解いて生けてゆく母。
薔薇たちが映える大きな花瓶に手際よく入れて、飾ったリビング。ダイニングの大きなテーブルにも一輪、特に美しく見えそうなものを選び出して。
「記念日でもないのに花束だなんて、嬉しいものね。ありがとう」
これだけ沢山貰ってしまうと、今日は特別って気分になるわ。まるでお姫様になったみたいよ。
「そうだろう?」
だから買ったのさ、日頃の感謝の気持ちをこめて。
安売りっていうのに気付いたからには、ドカンと買って帰らないとな。うんと豪華に。
薔薇が一輪あるというだけで、いつもより華やかだった夕食のテーブル。
ハーレイの姿は無かったけれども、笑顔が溢れていた食卓。
少女のようにはしゃいでいた母、父もサプライズが上手く行ったと満足そうに薔薇を見ていた。テーブルに飾られた真紅の薔薇を。
ダイニングのテーブルには、母が育てた薔薇が飾られる日もあるけれど。庭の花たちもハサミで切られて生けられるけれど、あれだけの花束の中から選ばれた薔薇は特別に見える。
今、地上にある真紅の薔薇たちの女王。それがテーブルに誇らかに咲いているかのように。
(…パパ、凄いのを買って来たよね…)
五十本の薔薇の花束なんて、とパチクリと何度もした瞬き。記念日でもないのに特大の花束。
薔薇の香りはリビングに満ちて、ダイニングに飾られた一輪からも漂っていて。
家の空気までが薔薇の香りに染まったかのようで、それは素敵な父の贈り物。五十本の薔薇。
母が庭で育てている薔薇たちでは、あそこまで惜しげもなくは切れない。そんなに沢山の薔薇を切ったら、庭に一輪も残らないから。残ったとしても、哀れな姿になるだろう薔薇の木。
庭に薔薇の花が咲いていたって、特別すぎるプレゼント。
艶やかに部屋を彩る薔薇たち、漂う香りと、喜ぶ母と。
夕食の後は部屋でのんびりしてから、入ったお風呂。パジャマに着替えてベッドの端っこに腰を下ろしたら、また思い出した薔薇の花束。「お土産だ」と母に渡していた父。香り高かった真紅の薔薇たち、見事な薔薇が五十本も。
(流石に二階までは…)
あの薔薇たちの匂いも届かないかな、と思ったけれど。薔薇の香りを含んだ空気は一階だけかと考えたけれど、気付いた間違い。
両親の部屋にも一輪飾ってあるのだった。母が嬉しそうに運んで行っていた、「これはお部屋に飾っておくわね」と。両親の部屋の扉を開けたら、薔薇の香りがするのだろう。部屋の何処かに、真紅の薔薇。五十本の中から選ばれた薔薇。
(あれだけあったら…)
上手に分ければ、家のあちこちに飾れるだろう。
リビングの花瓶にドッサリ生けても、他にも幾つもの使い道。ダイニングのテーブルと、両親の部屋に一輪ずつ飾ってあるように。一輪ずつでも華やかな薔薇。
(…ぼくの部屋には無いけどね?)
その気になったら貰えただろうに、欲しいかどうかも訊かれなかった。薔薇は沢山あったのに。
欲しかったとも、残念だとも思いはしないけれども、仲間外れになってしまった。この部屋には薔薇が一輪も無くて、薔薇の香りも漂いはしない。
(…子供だし、それに男の子だし…)
多分、普通は訊かないと思う。「薔薇の花、部屋に持って行く?」とは。
それに欲しがりもしないだろう。男の子の場合は、薔薇の花など。
(ピアノとかの発表会に出て、貰ったとしても…)
興味など無いのが男の子だろう、貰った花束の中身には。薔薇であろうと、他の花だろうと。
花束を貰って得意満面でも、たったそれだけ。花の香りや美しさよりも、鼻高々な気分が大切。花束を抱えて記念写真を撮った後には、母親に生けて貰っておしまい。
花束の形を失った花は、男の子の目を楽しませたりはしないだろう。美しく香り高く咲こうが、部屋を豊かに彩ろうが。
花瓶に花があるというだけ、男の子にとっては、それだけのこと。
チラリと眺めることはあっても、花よりも遊びや食べることに夢中。花束を貰った時の嬉しさは覚えていたって、中身の花にはもはや見向きもしないのだろう。
すっかり忘れ去られていそうな、花束だった花たちの末路。元は花束だった花たち。
(ぼくが貰っても、そうなっちゃいそう…)
習い事は何もしていないけれど、もしも発表会などに出掛けて、貰ったとしたら。バイオリンやピアノや、フルートなどの発表会。上手く出来たと、見に来てくれた人に花束を貰ったら。
きっとそうだ、と思ったけれど。
花束を貰う値打ちが無いのが今の自分で、そのせいで薔薇も部屋に一輪も無いのだけれど。
(パパのお土産…)
自分の部屋にも充分飾れる量の花束、五十本もの真紅の薔薇。それを抱えて帰って来た父。
花束を貰って、「記念日だったかしら」と尋ねていた母。記念日には花束がつきものだから。
早い話が、誕生日や何かの記念日だったら…。
(花束、貰えるものなんだよね?)
今はまだ貰う値打ちも無さそうな子供だけれども、いつか大きくなったなら。
ハーレイと結婚して二人で暮らし始めたならば、きっと貰えることだろう。
母が父から貰っているように、誕生日や記念日の度に花束。
その頃には値打ちも分かる筈だし、大喜びで部屋に飾るのだろう。幾つもに分けて、リビングや他の部屋などに。薔薇でなくても、どんな花でも。
待ち遠しいと思えてしまう、自分が花束を貰える日。ハーレイが花束を贈ってくれる日。仕事の帰りに買って帰って、「ほら」と渡してくれるのだろう日。
誕生日や何かの記念日の度に。薔薇はもちろん、ハーレイが贈りたいと思ってくれた花を幾つも束ねた花束。
(前のぼくは花束、貰ってないけど…)
ハーレイとは長く一緒に暮らしていたのに、恋人同士だったのに、ただの一度も。
それにハーレイ以外の誰かも、花束をくれはしなかった。ただの一つも。
前の自分が贈られた花は、子供たちに貰った白いクローバーを編んだ花冠だけ。シャングリラの公園に咲いたクローバー、それを集めて編まれた冠。
花冠は幾つも貰ったけれども、他には貰わなかった花。誰からも贈られなかった花束。
白いシャングリラでは誰もが敬意を表したソルジャー。
なのに花束を貰ってはいない、恋人だったハーレイからも、仲間たちからも。
(エーデルワイスは…)
白い鯨に咲いていた、純白のエーデルワイス。子供たちに高山植物を教えるためにとヒルマンが作ったロックガーデン、其処で開いた「高貴な白」の名前を持つ花。
皆が摘むことを禁じられたそれを、ソルジャーだけは「摘んでもいい」と言われたけれど。
青の間に飾るために摘んで帰ってもいいと許可されたけれど、プレゼントしては貰っていない。ただの一輪も、あの船にいた誰からも。
(前のぼく、断っちゃったしね?)
ソルジャーだからと、特別扱いされたいとは思っていなかったから。
仲間たちが摘むことの出来ないエーデルワイスを、青の間にだけ飾るつもりも無かったから。
自ら摘むことを断った以上、贈ってくれる者もいないだろう。ソルジャーの部屋に飾るためにと手折ってまでは。
それに、シャングリラと呼ばれていた船。ミュウの箱舟だった船。
白い鯨になった後には、花の絶えない船だったけれど。
ブリッジの見える大きな公園も、居住区に鏤められていた憩いの場所にも、様々な草花や木々の花たちが幾つも咲いていたのだけれど。
(あの花、切って来て、船のあちこちに…)
飾られていたのだった、皆の心を和ませるために。休憩室やら、多くの仲間が訪れる部屋に。
墓碑公園の白い墓碑にも、花はいつでも手向けられていた。きちんと花輪に編まれたものやら、訪れた仲間が摘んで来た花が。
そんな具合に、白いシャングリラから花が消えることは一度も無かったけれど。
(…でも、花屋さんは無かったんだよ…)
通貨や店が存在しなかったことを抜きにしたって、花屋は作れなかっただろう。あの船で暮らす誰もが毎日、好きなだけの花を買って帰れはしなかったろう。
花の絶えない船といえども、それほどの量の花は無かった。思い付いた時に、欲しいだけの花を個人が抱えて部屋に帰れはしなかった船。
今の自分の父が「土産だ」と買って来たような五十本の薔薇など、皆が欲しがっても揃わない。一人分なら揃ったとしても、皆の分にはとても足りない。シャングリラ中の薔薇を切ったって。
花はあっても、数に限りがあった船。皆が好きなだけ花を貰えはしなかった船。
それを誰もが分かっていたから、白いシャングリラに花束を贈る習慣などは無かった。
記念日を祝うための花束も、個人的なプレゼントとしての花束も、何も。
父が薔薇の花を買って来た店。「安かったから」と、母への土産に真紅の薔薇を五十本も。
仕事の帰りにフラリと立ち寄り、父は抱えて帰ったけれど。
(…シャングリラからは縁の遠いお店?)
父が寄った、花屋という店は。好きなだけの花をドンと買い込み、花束を作って貰える店は。
花はあっても、花屋は無理だったシャングリラ。それだけの花が揃わなかった白い船。
美しい花たちの姿や香りは皆の心を和ませたけれど、生きてゆくのに欠かせないというものとは違う。花が無くても死にはしないし、飢えに苦しむことだって無い。
あれば心を潤すけれども、無いからといって乾いて死んでしまいもしない。白い鯨になるよりも前は、花が何処にでもあるような船ではなかったのだから。
生活に欠かせないものではないから、けして大量には無かった花。皆の癒しになる分だけ。
(花の係だって…)
公園を手入れしていた者たちだけで、花を飾ることを専門にしていた係は一人もいなかった。
シャングリラに飾られていた花の係は、公園担当の者たちが兼ねて、その時々に盛りの花たちを幾つか切っては飾っていただけ。自分が担当していた場所に。
皆が愛でる花さえ、そうだったから。専門の係が必要なかった船だから。
個人用の花など用立てられる船ではなかった、贈り物用の花束などは。
五十本もの真紅の薔薇の花束を個人用にと作れはしなくて、他の花でも事情は同じ。一人分なら工面出来ても、全員の分は無理だった船。花屋など開けるわけがなかったシャングリラ。
(…それでハーレイも…)
花を贈ってくれなかったのだろうか、前の自分に?
抱えるほどの大きな花束はもちろん、ほんの一輪の花さえも。
前の自分は何も貰っていないから。ただの一度も、前のハーレイから花を貰ってはいないから。
(ハーレイ、薔薇が似合わないって言われていたけれど…)
薔薇の花が似合わないと評判だったハーレイだけれど、贈る方なら何も問題は無かっただろう。真紅の薔薇を手にして歩いていたって、プレゼントならば誰も笑いはしなかっただろう。
(…恋人にプレゼントするんだってバレたら、大変だけど…)
ソルジャーの部屋に飾るためだと言ったら、誰もが納得していたと思う。
前の自分は「青の間に飾る花が欲しい」と一度も頼みはしなかったのだし、無欲なソルジャー。皆が摘めなかったエーデルワイスを飾ってもいいと許可が下りても、摘まなかったほど。
そんなソルジャーの部屋に花をと、キャプテン自ら用意していても、誰も疑いはしないだろう。却ってハーレイを褒めたかもしれない、「キャプテンだけあって気が回る」と。皆の気持ちを良く知っていると、ソルジャーの部屋には是非とも花を、と。
ソルジャー用だと言いさえすれば、係の者たちが張り切って揃えそうな花。
「そこの薔薇を一つ」と頼んだとしても、きっと一輪では終わらない。「また咲きますから」と幾つも切って渡しただろう。五十本は無理でも、五本くらいなら。
五本渡して、係はハーレイに「他の公園へもどうぞ」と言ったかもしれない。薔薇が咲いている公園を挙げて、もっと多くの薔薇が揃うと。
白いシャングリラを端から回れば、五十本の薔薇も夢ではなかった。時期さえ良ければ、真紅の薔薇を五十本揃えることだって。
個人用には無理なものでも、ソルジャーの部屋に飾るためなら。
けれども、ハーレイは一度もくれなかった花。五十本の薔薇を贈るどころか、ただの一輪も。
花屋が無かったシャングリラ。そのせいだろうか、仲間たちが花を贈り合ってはいなかった船で暮らしていたから、花を貰えなかったのだろうか?
(…それで貰えなかったわけ?)
白いシャングリラには花屋など無くて、花束を贈り合う恋人たちがいなかったから。
彼らが花を贈れないのに、ソルジャーとキャプテンという立場にいるのをいいことにして、花を贈ってはマズイと思っていたのだろうか、ハーレイは?
その気になったら、真紅の薔薇を五十本でも、ハーレイは用意出来ただろうに。
(…やっぱり、ハーレイ、気を遣ってた…?)
白いシャングリラの仲間たちに。恋人に花を贈りたくても、花屋が無かった船の仲間に。
明日、ハーレイに訊いてみようか、そのせいでくれなかったのか。
薔薇の花束も、エーデルワイスも、ほんの一輪の小さな花も。
明日はハーレイが来る土曜日だから。午前中から、ずっと二人で過ごせるのだから。
一晩眠っても、忘れなかった花のこと。前の自分が貰い損ねた、ハーレイからの花の贈り物。
朝食のテーブルで薔薇の花を見たら、ますます気になり始めたから。もう訊かずにはいられない気分、貰えなかった花の贈り物の謎を解きたくてたまらない。
だからハーレイが訪ねて来るなり、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「…あのね、ハーレイが花をくれなかったの、花屋さんが無かったから?」
そのせいだったの、ぼくにプレゼントしてくれなかったのは?
「はあ? 花って…」
なんでお前に花を贈らなきゃいかんのだ。菓子ならともかく、花はないだろう。
「今のハーレイじゃなくて、前のハーレイだよ」
ぼくに一度も花を贈ってくれなかったよ、花束も、花を一本とかも。
ちゃんと恋人同士だったのに、ハーレイは一度も花を贈ってくれなかったから…。
シャングリラには花屋さんが無かったせいなのかな、って。
他の仲間たちは花のプレゼントを贈れないのに、ソルジャーだから、って特別扱いは出来ないと思っていたのかな、って…。
記念日とかには花を贈るでしょ、恋人に。…そういう花のプレゼントを一度も貰ってないよ。
「おいおい、記念日って…。分かってるのか、前の俺たちには無かったぞ」
記憶をすっかり失くしちまって、誕生日は覚えちゃいなかった。つまり誕生日は存在しない。
ついでに結婚記念日も無いな、前の俺たちは結婚出来ずに終わったんだから。
「…そうだけど…。記念日、確かに無かったけれど…」
そのせいで花をくれなかったの、前のハーレイは?
花を贈れない仲間たちに遠慮したんじゃなくって、ぼくたちに記念日が無かったから…?
「いや、思い付きさえしなかった」
前のお前に、花をプレゼントするってことをな。
思い付いていたなら、仲間たちに遠慮はしてないぞ。
…誰にも言えない秘密の恋人同士だったんだ。だったら、そいつを利用したっていいだろう。
ソルジャーの部屋に飾るためにと、キャプテンの権限で花を集めるくらいはな。
前の俺なら実行したぞ、とハーレイは大真面目な顔だから。その顔からして、本当に前の自分に贈るための花をかき集めたのに違いないから。
「…ハーレイが思い付かなかったの、やっぱり花屋さんが無かったせい?」
花束を買えるお店が無かったせいなの、それで花束を用意しようと思わなかったの?
…花束もそうだし、花だって。
売ってるお店が何処にも無いから、花束も花も思い付かないままだった…?
「花屋が無かったからと言うより、問題は習慣ってヤツの方だな」
シャングリラには全く無かっただろうが、花を贈るという習慣が。
白い鯨になるよりも前は、花は殆ど無かった船だぞ。まるで無かったとは言わないが…。
あの船にだって、少しくらいは花が咲く植物もあったわけだが、それだけのことだ。
その上、記憶をすっかり失くしていたのが俺たちだったし、花を贈ろうという発想が無い。
記念日だろうが、なんであろうが、プレゼントに花だと思わないんだな。
そんな俺たちが白い鯨を手に入れたって、花を贈ろうと思い付くか?
元々無かった習慣なんだし、花が手に入る時代になっても、花は花でしかないってな。
「…そういえば、ぼくもフィシスには…」
お菓子なんかを贈りはしたけど、花は一度も…。
「贈ってないだろ?」
お前がフィシスに贈るんだったら、それこそシャングリラ中の花を集めて贈れたのにな?
フィシスの部屋が埋もれちまうほどの花をかき集めたって、誰も文句は言わなかった筈だぞ。
「そう思う…。フィシス用なら、ホントにドッサリ集められそう…」
だけど、思い付きさえしなかったよ、ぼく。
花の香りの香水は色々と作らせたけれど、花を贈るなんてことは、ちっとも…。
フィシスも欲しいって言わなかったし、余計だったかもね。
…きっとフィシスも知らなかったんだね、花の贈り物があるってことを。
ずっと水槽で育てられてて、機械が教えた知識しか無くて、花は貰っていなかったんだよ…。
ミュウの女神と呼んだフィシスにも、花を贈りはしなかった自分。
フィシスは女性だったのに。
父が「土産だ」と、記念日でなくても薔薇の花束を買って帰った母と同じに女性だったのに。
そのフィシスさえも花を一度も貰わなかったなら、男だった自分に花などは…。
花束はもちろん、ほんの一輪の花にしたって、そんな贈り物は…。
「…前のぼく、花のプレゼントを貰えなくって当然だよね…」
フィシスだって貰っていなかったんだし、男だったぼくが貰えるわけがなかったね…。
花屋さんがあるとか無いとか、そういう問題以前の問題…。
「そうでもないぞ。…お前が俺から花を貰い損ねちまった件に関しては」
思い付かなかった俺が悪かったんだ。お前に花を贈るってことを。
…確かに花をプレゼントするって習慣を持ってはいなかったんだが、チャンスならあった。
エーデルワイスでも贈れば良かった、前のお前に。
「え?」
どうしていきなりエーデルワイスが出て来るの?
薔薇とかじゃなくて、エーデルワイス?
あれは花束に出来るほどには咲いてなかったよ、株が増えてからも。
全部摘んでも大きな花束を作れはしないし、他の花の方がいいんじゃないの?
見栄えだって薔薇の方がずっと上だし、エーデルワイスを贈るよりかは。
清楚な花ではあったけれども、花束に向くとは思えないのがエーデルワイス。
他の仲間たちが摘めない花でも、貴重な花でも、花束にするには地味すぎる花。青の間の光には映える白でも、白い花なら他にも色々。香り高い百合の花だって。
それなのに何故、エーデルワイスの名前が出るのか、本当に不思議だったのだけれど。
「…あの花、お前は何度も眺めに行ってただろうが。また咲いたね、と」
お前が好きな花だと分かってたんだし、ヒルマンたちだって摘んでもいいと許可を出してた。
しかし、お前は一度も摘まずに、静かに見ていただけだった。花が咲く度に。
そんなお前に、「摘んでもいいと思いますが」と何度も声を掛けていたのが俺だ。お前の隣で。
そう言う代わりに、俺がプレゼントすれば良かったってわけだ、エーデルワイスを。
ソルジャー用にと摘むんだったら、何の問題も無かったんだから。
お前があの花を好きだったことは誰でも知ってたんだし、俺が代わりに摘んでいたって、文句は出ない。遠慮しがちなソルジャーだからと、みんな納得しただろう。
そうやって摘んだエーデルワイスを大急ぎで青の間に運んで行っても、不思議に思うヤツなんかいない。萎れちまう前に届けなければ駄目なんだしなあ、走っていたってかまわんだろうが。
…俺は届けるべきだったんだ、前のお前にエーデルワイスを。
花束じゃなくて一本だけでも、前のお前が好きだった花を。
「そっか…。それで、エーデルワイス…」
そのプレゼント、欲しかったかも…。
前のハーレイが摘んで来てくれた、エーデルワイスのプレゼント…。
もしもハーレイから、エーデルワイスを貰っていたら。プレゼントされていたのなら。
きっと大切な、忘れられない思い出の花になっただろう。
前の自分がハーレイから貰った、唯一の花の贈り物。
真紅の薔薇とは比べようもない小さな花でも、一輪だけしか無かったとしても。
花束にはなっていない花でも、ほんの一輪だけのエーデルワイスでも。
それが欲しかったと心から思う、今となっては、もう戻れない昔だけれど。白いシャングリラは時の彼方に消えてしまって、エーデルワイスを見ていた前の自分も、もういないけれど。
「…すまん、全く気が付かなくて」
気が利かないヤツだな、前の俺もな。…お前と何度も見ていたのになあ、エーデルワイス。
それに、お前はスズランの花束の話も、何度も俺としていたのにな…。
「スズラン?」
なんなの、スズランの花束って?
前のぼく、スズランが好きだったっけ…?
「忘れちまったか、シャングリラにあった恋人同士の習慣だ」
言い出しっぺはヒルマンだったな、シャングリラで最初のスズランが咲いた時だったか。
SD体制が始まるよりもずうっと昔の地球のフランス、其処では五月一日の花だと。
恋人同士でスズランの花束を贈り合うんだという話が出て、スズランが増えたら定着したぞ。
若い連中が摘んでいたんだ、シャングリラに咲いてたスズランをな。
「あったね、そういう花束が…!」
だけど、ぼくたちが摘めるスズランの花は何処にも無くて…。
若い恋人たちの分しか無くって、ぼくもハーレイも、スズラン、贈れなかったんだっけ…。
五月一日に恋人同士で贈り合う花束、スズランを束ねた小さな花束。
贈りたくても、自分たちの分のスズランを手に入れられなかったから。自分たちの部屋で育てて贈るわけにもいかなかったから、いつか地球で、と約束し合った。
地球に着いたら、スズランの花束を贈り合おうと。
前の自分はハーレイのために探すつもりだった、森に咲く希少なスズランを。ヒルマンに聞いた森のスズラン、栽培されたものより香りが高いという花を。
そんな夢まで見せてくれたのが、若い恋人たちが贈り合っていたスズランの小さな花束。可憐なスズランを摘んで纏めた、小さな小さな白い花束。
あれがシャングリラにあった、たった一つだけの花の贈り物だったのだろうか?
花を贈る習慣が無かった白いシャングリラで、スズランだけが贈り物にされていたろうか?
恋人たちが想いを託した小さな花束、五月一日のスズランだけが。
公園で摘まれて贈り合われた、小さな小さな花束だけが…。
スズランの他にもあっただろうか、とハーレイに尋ねてみたけれど。
花の贈り物は白いシャングリラにもっと幾つもあっただろうか、と訊いたのだけれど。
「どうだかなあ…。アルタミラからの脱出組には、スズランも関係なかったからな」
誰も摘んではいなかった筈だぞ、若いヤツらがやってただけだ。
花を贈ろうって発想自体が無かった世代が俺たちなだけに、その後から来た習慣となると…。
馴染みが薄くて忘れちまった可能性もあるな、あったとしても。
だから他にもあるかもしれん。…特別な時にはコレだった、っていう花の贈り物がな。
「うん…。あったのかもしれないね」
ぼくはスズラン、忘れちゃっていたし…。
今のぼくになってからも思い出したのに、すっかり忘れてしまっていたし…。
ハーレイもぼくも忘れてしまった花の贈り物、スズランの他にもあったのかもね。
「こればっかりは、今はなんとも分からないんだが…。無いとも言い切れないってことだな」
それでだ、お前、スズランの花束か、薔薇とかの花束か、どっちがいい?
「えっ、どっちって…?」
どういう意味なの、どっちがいい、って?
「選ばせてやると言っているんだ、今は花屋があるからな」
スズランも買えるし、薔薇だってドカンと買える時代だということだ。
どっちがいいんだ、いずれお前の好きな方を買ってプレゼントしてやるが…?
「んーと…。くれるんだったら、両方がいいな」
スズランの花束は特別なんだし、五月一日には買って欲しいよ。
だけど、薔薇とかの花束も欲しいんだもの。…両方がいいな、スズランも薔薇も。
ママがパパから貰ってたんだよ、記念日でもないのに薔薇の花束。
綺麗な赤い薔薇の花をね、五十本も買って貰っていたから…。
その花束のせいで気が付いたんだよ、前のぼくは花を貰ってないって。
だからいつかは買って欲しいよ、スズランも、薔薇とかの花束も…。
記念日にはプレゼントして欲しいな、と強請ったら。
スズランの花束の他にも花束のプレゼントが欲しい、と欲張りなお願いをしたら。
「そりゃまあ、なあ?」
選ばせてやると言いはしたがだ、お前は俺の嫁さんになるって勘定で…。
嫁さんとなれば記念日に花束をプレゼントするのは当然だな、うん。
…プロポーズの時にも贈ってやろうか、デカい花束。
五十本どころか、百本の薔薇の花束ってヤツを。
「百本も…?」
ぼく、男なのに、薔薇を百本も贈ってくれるの、プロポーズの時に?
そんなに沢山貰っちゃったら、どんな顔をして持って帰るの、この家まで…?
ハーレイが車で送ってくれるのは分かっているけど、それまでの間。
大きな薔薇の花束を抱えてレストランの中とか、町の中とかを歩いて行くわけ…?
なんだか、とっても恥ずかしいんだけど…。
「ふうむ…。だが、欲しそうな顔をしてるぞ、お前」
茹でダコみたいに真っ赤になろうが、それでも持って歩きたいって顔。
百本の薔薇を抱えて幸せ一杯で、俺と並んで歩きたい、ってな。
「分かっちゃった…?」
恥ずかしいのは本当だけれど、ハーレイからなら欲しいんだよ。
前のぼくが貰い損なった分まで、うんと大きな薔薇の花束。スズランの花束も欲しいけど…。
「よし、任せておけ」
五月一日になったらスズラン、記念日には薔薇とかの花束だな?
でもって、プロポーズの時には、お前が幸せ自慢をしながら歩ける花束。
貰いました、って真っ赤な顔して、それでも得意満面になれる百本の薔薇の花束がいい、と。
気が変わったら言うんだぞ?
もっと薔薇の数を増やして欲しいとか、薔薇よりも他の花が欲しい気分になっただとかな。
望み通りの花束を贈ってプロポーズしよう、とハーレイが片目を瞑るから。
いつかは貰えるらしい花束、スズランの花束も、大きな薔薇の花束も。
前の自分は花の贈り物をハーレイから貰い損なったけれど、今の自分は貰えるから。
スズランの花束も、薔薇の花束も貰えるのだから、その日を楽しみにしていよう。
同じ家で暮らせるようになったら、記念日でなくても、きっとハーレイなら花束をくれる。
昨日の夜に、父が「土産だ」と大きな薔薇の花束を抱えて帰って来たように。
ハーレイもきっと、素敵なプレゼントをくれる。
それを貰ったら、二人でゆっくり過ごす部屋の花瓶にたっぷりと生けて、他の部屋にも。
寝室にも、ダイニングのテーブルの上にも、ハーレイに貰った花を飾ろう。
前の自分は貰い損ねた花だけれども、今はいくらでも花を贈って貰えるから。
沢山の花が花屋に溢れる、青い地球の上に来たのだから。
最初に二人で暮らす家に飾る、幸せな花はなんだろう?
ハーレイが抱えて帰って来てくれる花の束。
立派な薔薇の花束を貰っても、スズランの小さな花の束でも、きっと嬉しい。
ハーレイがくれる花ならば。
前の自分が貰い損ねた、花のプレゼントを貰えるのなら…。
花の贈り物・了
※シャングリラには無かった「花を贈る」という習慣。あったのはスズランの花束だけ。
そのスズランも贈り合えなかった二人ですけど、今度はハーレイから花束が、いつの日か…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(余っちまったな…)
こいつだけが、とハーレイが袋から出したハンバーガー。
ブルーの家には寄れなかった日、家に帰って。着替えを済ませて、ダイニングのテーブルの上にポンと置いてあった袋の中から。きちんと包装されたハンバーガーが一つ。特に変わった中身ではなくて、ごくごく普通のハンバーガー。
学校に行けば、授業の前に柔道部の朝練の指導がある。走り込みなどに自分も付き合って身体を動かす、そういう方針。指導する者がのんびり見ているだけでは、部員たちも力が入らないから。
(それに、俺だって身体を動かしたいしな?)
早く起きた日は出掛ける前に軽くジョギングするほどの運動好き。逃したくない、自分も身体を動かせるチャンス。放課後は柔道部を本格的に指導するから、運動の量は毎日、充分。
会議で柔道部に行けそうにない日は、朝から存分に動いておく。
だから帰りにブルーの家へ出掛けて行っても、運動不足になったりしないし、なまらない身体。ジムに出掛けて泳いだりして、常に鍛えてある身体。
朝からキビキビ運動する上、放課後も身体を動かす毎日。昼食だけでは腹が減るから、と出勤の途中で買ってゆくパン。近所の馴染みのパン屋で買ったり、食料品店で買ってみたりと。
その日の気分でサンドイッチや、調理パンなど色々なパン。新作があったら買い込むけれども、特に定番があるわけでもない。好き嫌いが無いから、どんなパンでも食べられる。
今日は柔道部の教え子たちにも御馳走しようと多めに買った。放課後の方のクラブ活動、それを途中で抜けなければならないと分かっていたから。一時間ほど経った所で、会議のために。
最後まで指導してやれない詫びだ、と差し入れに買って行ったのに。部員たちの頭数を勘定して買ってやったのに…。
(今日に限って、休みやがって…)
家の都合ということだけれど、きっとサボリだと踏んでいる。
三人も足りなかったから。部活以外で見掛けた時にも、いつも一緒にいる仲良し組が。
(怒りはしないが…)
遊びたい盛りの年頃なのだし、出掛けたくなる日もあるだろう。それに練習をサボって損をしたことにも気付かないのが彼らの年齢。重ねた稽古の分だけ力がつくと知るには、まだ早い。
サボリで損をしているのは彼ら、だから自分は怒りはしない。いずれ自分で気付くがいいと。
咎める気持ちは起こらないけれど、「余っちまったじゃないか」と眺めるハンバーガー。袋から出されて、テーブルの上にポツンと一個。
差し入れに持って行った幾つものパン、この一個だけが残ってしまった。ハンバーガーは他にもあったものだから、選ばれなかった不運な一個。たまたま手に取って貰えなかっただけ。
(仕方ないがな…)
食べ盛りの教え子たちが揃ってはいても、元が多めに買ってあったパン。一人で幾つも欲しがる生徒もいるわけなのだし、おかわり用にと。
そこへ三人も休んだのでは、こうなることもあるだろう。選ばれ損ねたハンバーガー。
残った理由はハンバーガーのせいなどではない。ほんの偶然、教え子たちの気分でそうなった。もう一個、と思った生徒がハンバーガーを選んでいたなら、他のが残った筈だから。
あるいは最初にハンバーガーを選ぶ生徒が多かったならば、やはり残っていないから。
少し不運なハンバーガー。冷めても美味しい、人気の高いものなのに。
(晩飯に食うか…)
夕食の支度を始める前に、このまま齧ってもいいのだけれど。
それでは残ったハンバーガーが可哀相だし、きちんと味わってやろうと思った。買ってしまった責任を取って、美味しく食べてやらなければ。
ちょっとお洒落に皿に載せれば、これも一品になるのだから。
手際よく夕食を作ってテーブルに並べ、ハンバーガーを温め直した。出来立ての風味を出すにはこのくらい、と様子を見ながら。
温まったそれを皿に盛り付け、椅子に腰掛けて…。
(ナイフとフォークの出番だってな!)
そうして食べれば、ハンバーガーでも立派な一品。手で持つ代わりにナイフとフォーク。
たまにこういう洒落た店がある。ハンバーガーを注文したなら、ナイフとフォークを添えて出す店。それを使って切り分けながら食べるのもいいし、食べやすく切って手に持ってもいい。
マナーにうるさくない店だったら、二つに切ってから齧り付くのもオツなもの。
(いつかはブルーと…)
そういう店に行くのもいいな、とナイフで切ったハンバーガー。
今日はフォークを使って食べよう、と手は使わないで頬張っていたら。
こうして食べれば随分違うと、同じハンバーガーとも思えないな、と笑みを浮かべてフォークで口へと運んでいたら…。
(…ん?)
あいつと食ったか、と不意に頭を掠めた記憶。
小さなブルーとハンバーガーを、と。
いつか行きたいデートではなくて、二人で食べたような気がする。こんな風に、と。
皿に載せられたハンバーガー。添えられていたナイフとフォークで。
(ハンバーガーを買って行ってはいない筈だが…)
ブルーへの土産に買ってはいない。わざわざ買って持って行くほど珍しくもないものだから。
前の自分たちが生きた時代の思い出も無いし、ハンバーガーを土産にする理由が無い。
(土産に持って行かなきゃ出ないぞ、ハンバーガーは)
料理が得意なブルーの母。ブルーの好物ならばともかく、そんな話を聞いてはいない。大好物で食べたがるなら別だけれども、そうでなければハンバーガーなど出て来ないだろう。
凝った中身のハンバーガーも多いとはいえ、来客向けではない料理だから。
それが売り物の専門店にでも行かない限りは、洒落た料理とは呼べない代物。
だから一度も食べてはいないと思うのだけれど、何故か食べたと記憶がざわめく。
ブルーと一緒に、ハンバーガーを。
今と同じにナイフとフォークで、少し気取った食べ方で。
(いったい何処で食べたんだ…?)
小さなブルーの家で食べてはいないのだったら、可能性があるのはシャングリラ。前のブルーと暮らしていた船、前の自分が舵を握ったシャングリラしか有り得ない。
(しかしだな…)
シャングリラにはハンバーガーなどは無かった筈で、ナイフとフォーク付きともなれば尚更。
無い筈の食べ物を皿に盛り付け、ナイフとフォークで食べたことなど…。
(どう考えても、あったわけが…)
ないじゃないか、と正した勘違い。何かと混同したのだろうと。
今の自分も三十八年も生きているのだし、積み重ねて来た記憶のどれか。ブルーくらいの年頃の教え子たちと食べに出掛けたとか、そういったものと。
対外試合の帰りに食事に行くことも少なくないから、ハンバーガーをリクエストされたことでもあるのだろう。豪華版のが食べたいと。
きっとそうだ、とハンバーガーをナイフで切ろうとした途端。
(違う…!)
シャングリラだった、と鮮やかに蘇って来た遠い遠い記憶。
あの船でハンバーガーを食べたと、こうやってナイフとフォークで切って、と。
忘れ果てていた前の自分の思い出。キャプテン・ハーレイが食べたハンバーガー。
事の起こりはファーストフードを巡る雑談、白いシャングリラが出来上がってから。自給自足で生きてゆく船、白い鯨の生活が軌道に乗ってから。
長老と呼ばれたヒルマンたち四人と、前の自分とブルーが集まった会議。終わった後も会議室で雑談していた所からして、定例の会議だったのだろう。
どうしたわけだか、ファーストフードの話になった。通貨さえも無いシャングリラでは出来ない買い食い、街角で買って食べたりするのがファーストフード。ヒルマンが仕入れて来た知識。
「フィッシュ・アンド・チップス?」
なんだいそれは、と尋ねたブラウ。名前からして魚のように思えるけれど、と。
「白身魚のフライと、ジャガイモを揚げたものとがセットになっていたようだよ」
魚は主にタラだったらしい、と答えたヒルマン。
SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球のイギリス、その国の路上で売られていたもの。買うと新聞紙や専用の紙に包んで渡され、熱々のフライを歩きながら、もしくは座って食べた。きちんとした場所に座るのではなく、公園のベンチなどの手軽な場所で。
早い話が、気の向いた時に、気の向くままに食べていいのがファーストフード。
小腹が空いたと思ったら買って、その場で食べてもかまわないもの。
フィッシュ・アンド・チップスが好まれた頃より後の時代は、ハンバーガーが取って代わった。地球の上にあった大抵の国に広がったというハンバーガー。お国柄に合わせて味付けを変えて。
「ハンバーガーねえ…」
どんな感じの食べ物なんだい、とブラウは興味津々で。
「平たく言えば、専用のパンにハンバーグを挟んだものなんだがね…」
今の時代もあるようだよ。遠い昔と似たような見た目の、ハンバーガーという食べ物がね。
人類の世界に行ったならば、と笑ったヒルマン。
雲海の下のアルテメシアに降りれば売られているだろうと。
ただし、ハンバーガーを食べる時にはナイフとフォーク。行儀よく皿の上で切って、と。
「ナイフとフォークじゃと?」
歩きながら食べる話はどうなったんじゃ、と髭を引っ張ったゼル。
それではテーブルが無いと食べられそうにないし、ファーストフードらしくないんじゃが、と。
「今の時代に合うと思うかね? その食べ方が」
マザー・システムが許しそうかね、何処でも此処でも、気の向くままに食べることなど。
社会の秩序とやらが乱れてしまって、良くないと言われそうだがね?
好きな時に好きな所で食べてもいい社会ならば、成人検査も必要ないんじゃないのかね。社会のルールを叩き込むのがマザー・システムで、我々は弾き出されたのだよ?
「言われてみれば、その通りだねえ…」
なんでもかんでも、型にはめなきゃ気に入らないのがマザー・システムってヤツだったっけ。
たかが食べ物のことにしたって、人間が自由にしていい世界はお気に召さない仕組みなんだね。
あたしは嫌だね、そんな世界は。
息が詰まるったらありやしないよ、食べる自由も無いだなんてね。
とんでもないよ、と肩を竦めていたブラウ。
実際の所は、ハンバーガーを食べる自由が無かったわけではないけれど。食べたくなったら店に行けばいいし、人類たちはハンバーガーの味を充分に満喫出来たのだけれど。
そうは言っても、ファーストフードだった時代のように何処でも食べていいわけではない。道を歩きながら齧る代わりに、皿に載せられたものをナイフとフォークで行儀よく。
たまには手に持ってガブリと齧る子供もいるだろうけれど、あくまで店の中でだけ。店の外では出来ない食べ方、マナー違反になってしまうから。
時代の流れが変えてしまった、ハンバーガーの食べ方なるもの。
昔と同じに存在するのに、ファーストフードと呼ばれていた頃の面影を失くしたハンバーガー。
ヒルマンが言うには、SD体制の時代でなくても、食べる作法は時代に合わせて変化した。
ハンバーガーの話とは違うけれども、皿という食器が普及する前は、人間はパンを皿の代わりに使ったらしい。料理はパンに盛り付けて出され、最後はパンまで食べておしまい。
ナイフやフォークが無かった時代は、王侯貴族も料理は手づかみ。その食べ方が普通なのだし、マナー違反では決してなかった。後の時代の人間が見たら、信じられないと驚くだけで。あれでも王様なのだろうかと呆れるだけで。
そんな具合だから、ハンバーガーの食べ方にしても、SD体制に入る前からナイフとフォークで食べる方法はあったという。ファーストフードとは少し違ったハンバーガー。特別な具材を使ったものとか、手で食べるには些か大きすぎたハンバーガーだとか。
マザー・システムが編み出した食べ方ではない、ナイフとフォーク。
それに限定されたというだけ、歩きながら自由に食べる代わりに。
雑談の種だったファーストフードから、ハンバーガーへと変わった話題。
遠い昔に地球の上で広がり、今も食べられているハンバーガー。食べ方が少々変わった程度で、ハンバーガー自体はさほど変わっていないと言うから。今でも人気らしいから。
「あたしたちも食べていたのかねえ?」
記憶をすっかり失くしちまって、ハンバーガーって聞いてもピンと来なかったけれど…。
今も人類が食べてるんなら、あたしたちだって、成人検査の前には食べていたんだろうか…?
「そう思うがね?」
我々が子供だった頃にもハンバーガーはあった筈だし、きっと食べてもいただろう。残念ながら記憶を失くして、何も覚えていないだけでね。
「ふうむ…。そうなると、一度、ハンバーガーを食べてみたいもんじゃのう…」
食べた所で、記憶は戻って来ないんじゃろうが…。食べた筈だと聞かされるとのう…。
どんな味だか気になるわい、とゼルが言い出し、ブラウも食べたそうだったから。
二人の表情を見ていたブルーが「作れるのかい?」と口を開いた。
「専用のパンと、ハンバーグだと言っていたけれど…。それはシャングリラで作れそうかい?」
作れるのなら、作ってみるのも悪くはないと思うんだけどね?
手間がかかるなら、一度きりでもいいだろう。
ゼルとブラウは食べたいわけだし、この船に来た子供たちには思い出の味になるのだし…。
作ってみる価値はありそうだけどね、ハンバーガー。
出来るものなら作ってみよう、と他ならぬソルジャーの提案だから。
食べたかったゼルとブラウは賛成、ヒルマンもエラも反対を唱えはしなかった。前の自分も。
何より、子供たちが喜びそうな企画。
ヒルマンが調べたデータを参考にして厨房のスタッフたちが頑張り、ハンバーガーは完成した。船の仲間たちの数に合わせて、山のような数のハンバーガーが。
せっかくだからと、普段は青の間で食べるソルジャーまでが一緒の食事。視察よろしく、食堂を見渡せる場所のテーブルに着いて、同席したのは前の自分だけ。
そうして出されたハンバーガー。今の時代に合わせて皿に載せられ、ナイフとフォークを添えた形で。記憶を失くしていない子供たちには、それがハンバーガーの食べ方だから。
ハンバーガーを覚えていた子供たちは皆、歓声を上げて喜んだ。シャングリラでハンバーガーを食べられるなんて夢にも思っていなかった、と。
食べた記憶を全く持たない仲間たちも…。
「へえ…。俺たちは昔、こういうのを食っていたっていうのか…!」
何処にでもあるって言うんだったら、間違いなく食べた筈だよなあ…。
「そうだよな、思い出せないけどな」
何度も食べていたんだろうなあ、十四年間は普通に生きていたんだし…。
なのに全く覚えてないって、機械ってヤツは酷いもんだな。記憶を奪ってしまうなんてな。
思い出せないのが残念だ、と誰もが見ていたハンバーガー。食べる前にと、じっくりと。
そこへヒルマンが、「遠い昔には手で食べていたものだった」と始めた説明。
SD体制の時代に入ってナイフとフォークに決まったけれども、元々は手に持って食べたもの。その時代にもナイフとフォークで食べたとはいえ、主流は手だ、と。
それを耳にした仲間たちは皆、ハンバーガーを手に取った。断然こうだ、と。
食べ方は忘れてしまったのだし、マザー・システムが決めたマナーなど知ったことではないと。手に持った方が食べやすそうだと、サンドイッチのようなものなのだし、と。
ナイフとフォークで食べる子供たちを他所に、ハンバーガーに齧り付いていた仲間たち。
大きく口を開けて「美味しい」と顔を綻ばせるのを、前のブルーも見ていたけれど…。
おもむろにナイフとフォークを手にしたブルー。ハンバーガーを手に取る代わりに。
何故、と驚いたものだから。
「…それでお召し上がりになるのですか?」
皆、手に持って食べているというのに、どうしてナイフとフォークなどを…。
あなたはマザー・システムを他の者たち以上に、酷く憎んでおいででしょうに。
「それは確かにそうなんだけれど…」
マザー・システムに従うつもりは無いんだけれども、この手袋じゃね…。
食べても問題無いんだろうけど、普通のサンドイッチと違って、中のソースが…。
これがくっついたら、どうするんだい?
拭くものを取りに行ったら済むことだけれど、ぼくが自分で行けるとでも?
「そうですね…」
あなた自身がお出掛けになったら、厨房の者たちが恐縮してしまうのは確かですね。
かと言って、私が代わりに取りに行っても、結果は同じことですし…。ソルジャーへの気配りが足りなかったと慌てる姿が見えるようです。
持って来てくれと頼んだとしても、やはり謝られてしまうのでしょうね…。
ブルーが言うことは正しかった。ソルジャーの正装の一部の手袋、それは人前では外さない。
素手でハンバーガーを持つことは出来ず、ソースがついても舐め取れもしない。他の仲間たちは指の汚れも気にしないけれど、ブルーの場合はそうはいかない。
汚れたからと拭きに行ったら、ナイフとフォークしか用意しなかった者たちが謝るから。
食事が済んでも早々に席を立てはしないし、洗いに行くことも出来ないから。
それでナイフとフォークなのか、と納得せざるを得なかった。マザー・システムが人間に強いた食べ方なのだと分かってはいても、手袋のせいで手で食べる道を選べないのかと。
「…ハーレイも手で食べないのかい?」
君は手袋をしていないのに、とブルーは目を丸くしたのだけれど。
ソースがついたら舐めてくれてもかまわないのに、と言ってくれたのだけれど。
「あなたにお付き合いさせて頂きますよ」
子供たちはともかく、大人たちは皆、手で食べている者ばかりですし…。
一人くらいはソルジャーと同じに、ナイフとフォークで食べる者がいないと寂しいでしょう。
手で食べたならばどんな具合か、あなただけがお分かりになれないのでは…。
私も分からないままにしておくことにしますよ、キャプテンですから。
我慢するのは慣れていますからね、あなたと同じで、このシャングリラでの立場のせいで。
長老として皆を束ねる立場のゼルもブラウも、ハンバーガーを手で食べていたのに。
ヒルマンも手に持って齧り付いていたし、日頃は礼儀作法にうるさいエラでさえも迷いなく手を使っていたのに、ナイフとフォークで食べていたブルー。
「この手袋では仕方ないから」と、けれども、それを顔には出さずに。
自分の流儀はこうだとばかりに、涼やかな顔でハンバーガーを口へと運んだ。自分には似合いの食べ方だからと言うように。この食べ方が気に入っていると、これが好きだと。
あまりにも自然に食べていたから、誰一人として気付かなかった。ブルーがナイフとフォークを使っていたことに、手を使ってはいなかったことに。
それに付き合った前の自分。ブルーと同じに、ナイフとフォークで食べたハンバーガー。
二人揃ってナイフとフォークを使っていたから、余計に目立たなかったのだろう。食事の後にも誰からも訊かれはしなかった。
ナイフとフォークで食べたのは何故かと、手を使わなかったことに理由はあるのかと。
誰もが思い込んでいた。ハンバーガーは皆、手で食べていたと。
その習慣が無い、ナイフとフォークで育った子供たち以外は、皆、手だったと。
(そうだったっけなあ…)
白い鯨にハンバーガーはあったのだった、と思い出した。
多分、あの時だけだろう。あれよりも後に作ったとしても、定番のメニューになってはいない。前の自分の記憶には無いし、あっても今は思い出せない程度の代物。
けれども、白いシャングリラの思い出が詰まった食べ物。一度きりしか出なかったとしても。
前のブルーが本当の意味では味わい損ねた、皆が手で食べたハンバーガー。
常にはめていた手袋のせいで、ナイフとフォークで食べるしかなかったハンバーガー。
前の自分はブルーに付き合えるだけで幸せだったし、ナイフとフォークで良かったけれど。損をしたとは微塵も思っていなかったけれど、ブルーの方はどうだったのか。
(…あいつだって、きっと…)
ソルジャーとしての自分を厳しく律していたから、恐らく苦ではなかっただろう。
厨房で働く仲間たちの心を思い遣っての、自然と選んだ道だったろう。
そうは言っても、前のブルーは食べ損なった。皆が喜んで手で食べていたハンバーガーを。
(…今のあいつは、何度も手に持って食べてるんだろうが…)
思い出したからには、ハンバーガーを手で食べられる時代だと教えてやりたい。
ナイフとフォークで食べた時代はとうに終わって、ブルーの手にも今は手袋は無いのだと。
今の時代はハンバーガーは手で食べるもので、洒落た店でだけナイフとフォーク。
週末にブルーの家に出掛ける時には、持って行ってやろう、ハンバーガーを。
柔道部員の教え子たちに差し入れてやっても残るくらいに、当たり前になった食べ物を。
そう決めたことを、土曜日になっても覚えていたから。
忘れずに心のメモにあったから、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中にハンバーガーが美味しい店に立ち寄った。色々な種類があるのだけれども、一番ありふれたハンバーガーを。
白いシャングリラで食べたハンバーガー、それと同じにシンプルなものを。
二つ買って袋に入れて貰って、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。
門扉を開けに来てくれたブルーの母に、ハンバーガー入りの袋を渡して頼んだ。
「これを昼御飯に出して頂けますか?」
お手数をおかけしますが、お皿に移して、ナイフとフォークを付けて頂いて。
「ええ、もちろん。でも…」
ブルーはこのままでも食べられますわよ、普段はそうしていますもの。
家で作りはしませんけれども、お友達と一緒に買って食べたりしている時は。
「いえ、それが…。シャングリラの思い出なんですよ」
ナイフとフォークで食べるというのが大切なんです、ハンバーガーを。
「え…?」
シャングリラではナイフとフォークでしたの、ハンバーガーを食べる時には…?
「そういう時代ではあったんですが…。シャングリラでは違いましたね」
皆、手を使って食べていました。私の記憶にあるのは一度だけですが…。
けれど、その時、ブルー君はナイフとフォークでしか食べられなかったんです。
ソルジャー・ブルーの衣装はもちろん御存知でしょうが、あの衣装とセットの手袋のせいで。
「あらまあ…!」
確かに手袋をはめたままでは、ハンバーガーは手では食べられませんわね…。
あの手袋がどういう素材だったかは知りませんけれど、感覚は手と同じだったと聞きますし…。
そんな手袋なら、ハンバーガーのソースもくっつきますわね、弾く代わりに。
ブルーの母は笑顔で快く引き受けてくれた。ナイフとフォークをつけることを。
それからブルーの部屋に行ったら、案の定、お土産を待っていたブルー。二階の窓から見ていて袋に気付いたのだろう。お菓子か何かに違いないと。
「そう慌てるな」と、「昼飯まで待て」と言ってやったら、ブルーは何度も時計を眺めて。
やっと訪れた昼食の時間、温め直されて運ばれて来たハンバーガーが載った皿。頼んだ通りに、ナイフとフォークも添えてあるから。
「えーっと…?」
ハーレイのお土産、ハンバーガーだったってことは分かったけれど…。
なんでナイフとフォークなの?
この大きさなら、ナイフとフォークを使うよりかは、齧った方がいいんじゃないの?
それともハーレイ、お行儀よく食べるのが好きだとか…?
「いいから、そいつで食ってみろ」
ナイフとフォークで食べる方法も知ってるんなら、丁度いい。
あの手の店のヤツとは違うが、こいつも充分、ナイフとフォークで食べられるからな。
「うん…」
ハーレイがそういう風に言うなら、ナイフとフォークに意味があるんだね?
お行儀のことかな、齧った方が食べやすそうな気がするんだけどな…。
絶対に齧った方が早い、とナイフとフォークで切っているブルー。
今の時代は手で食べるのが当たり前になったハンバーガーを。よほど大きいとか、中身が凝ったものを出す店でなければ、ナイフとフォークは使わないものを。
それを一口サイズの大きさに切って、不思議そうに口に運んでいるから。この食べ方にどういう意味があるのかと、しきりに首を傾げているから。
「そうやって食ったら、何かを思い出さないか?」
ナイフとフォークで切って食ってたら、思い出しそうなことは何か無いのか?
「思い出すって…。何を?」
ハンバーガーだよ、シャングリラには無かったと思うんだけど…。
前のハーレイとは食べていないと思うんだけどな、ハンバーガーなんか。
「本当にそうか? …俺もそうだと思い込んでたし、無理もないがな」
お前、今だとナイフとフォークを使わなくてもいいわけで…。
わざわざ面倒なことをしなくても、手に持ってガブリと齧れるんだが?
「…んーと…。手でって…。ナイフとフォークって…」
そっか、前のぼくが食べていたんだ、ナイフとフォークで…!
他のみんなは手で食べてたのに、ぼくは手袋をはめていたから…。
手袋をはめたままで手で食べちゃったら、厨房のみんなに迷惑をかけてしまいそうだ、って…!
思い出した、とブルーは顔を輝かせた。シャングリラにもハンバーガーがあったっけ、と。
「あの時だけかもしれないけれど…。他には思い出せないんだけど…」
ハーレイが付き合ってくれたんだっけね、ナイフとフォークで食べるのに。
ぼく一人だと寂しいだろう、って、ハーレイも手では食べなかったよ。
…ごめんね、ぼくに付き合わせちゃって。
あの時も後で謝ったけれど、思い出したから、今も謝らなくちゃ。
ハーレイだって手で食べたかっただろうに、前のぼくのせいで食べ損なってしまったんだから。
「なあに、そいつは気にしなくてもいいってな」
前の俺もお前に言った筈だぞ、俺はお前と一緒なのが嬉しかったんだ。
食べ損なったとも、損をしたとも思っちゃいないさ、今でもな。
…それでだ、前の俺たちが手では食べ損なったハンバーガーだが…。
今度は遠慮なく手で食えるんだぞ、ナイフとフォークの時代はとっくに過去だってな。
過去の過去へと戻った時代と言うべきなのかもしれんが、今じゃ手に持って食うのが普通だ。
洒落た店にでも行かない限りは、ナイフとフォークはつかないだろうが。
「ホントだね…!」
何処でも手に持って食べるものだよね、ハンバーガー。
それに、お店で買って出て来て、歩きながら食べても叱られないし…。
公園のベンチとかで食べていたって何も言われないし、ハンバーガー、昔に戻ったんだね。
前のぼくたちが生きてた頃より、ずうっと昔に。
ヒルマンが話をしてた通りに、今のハンバーガーはファーストフードになってるものね…!
だから手で食べてもかまわないよね、とブルーが訊くから、「もちろんだ」と応えてやって。
面倒なナイフとフォークは放り出しておいて、二人で頬張ったハンバーガー。
ブルーは手袋をはめていない手で、自分は前の自分だった頃と同じに手袋の無い手で。
ナイフとフォークを使わずに食べるハンバーガーの味は格別だけれど。
前の自分たちの記憶がある分、本当に美味しく思えるけれど。
ハンバーガーにナイフとフォークを添えて出す店は、今の時代もちゃんとあるから。こだわった素材で料理とも呼べるハンバーガーを作る洒落た店だって、幾つもあるから。
「前のお前は、仕方なくナイフとフォークで食ってたわけだが…」
今度のお前は、ナイフとフォークで食うのが普通なハンバーガーの店も知ってるようだしな?
いつか食事に連れて行ってやろう、そういう店へも。
俺と二人なら、シャングリラの思い出もちゃんとある分、ハンバーガーの美味さが引き立つぞ。
あの船で食ったヤツより美味いと、これはハンバーガーと呼ぶより料理だよな、と。
「…お店でも手で食べていい?」
ナイフとフォークがついていたって、手で食べちゃってもいいのかな?
パパやママとお店に行った時には、そういうものだと思ってたからナイフとフォークで食べてたけれど…。
前のぼくのことを思い出したら、手で食べたいな、っていう気がするんだけれど…。
「どうだかなあ…」
ナイフで切ってから、手に持つっていう食べ方はあるし、まるで駄目でもないだろう。
手で食べてみてもいいですか、と訊いてからなら、いいんじゃないか?
マナー違反にならない店なら好きにすればいい、と微笑んでやった。
前のお前が食べ損ねた分まで、存分に手で食べればいいさ、と。
「じゃあ、そうする!」
お店だったら、手を拭くものを出してくれるしね、頼まなくても。
前のぼくみたいに遠慮しなくても、お店のサービスにちゃんと入っていそうだもの。
「違いないな。店に入ればサッとテーブルに置かれるからなあ、おしぼりとかが」
手を拭けるものは最初からテーブルの上に出てくるもんだ、と。
ならば、お前が手に持って食べても許される店を探すとするかな、ハンバーガーの店。
うんと美味くて、雰囲気もいい店をゆっくり探しておこう。
お前が両手で持って齧れるくらいに、ボリュームのある店もいいよな、食べ切れなくても。
残しちまったら、俺が綺麗に食ってやるから。
「うんっ!」
いつか行こうね、ハンバーガーのお店。
こういうハンバーガーもいいけど、シャングリラのよりも、ずっと素敵なハンバーガー。
それを二人で手で食べられるお店、いつか二人で行かなくっちゃね…!
前のハーレイだって手では食べ損なったんだから、とブルーは気にしているけれど。
損をした気は、前の自分も今の自分もしていない。
ブルーに合わせてやれたということ、それだけで充分だったから。
前の自分は、幸せな気持ちに包まれて食べていたのだから。
ナイフとフォークを使って食べていた、白いシャングリラのハンバーガー。
今は手で食べるのが普通の時代になったから。
洒落た店でも、手で食べることを、多分、断られはしないから。
いつかブルーが大きくなったら、好きなだけ食べさせてやろう、ハンバーガーを。
もう手袋など要らない手で。手袋をはめていない手で。
前のブルーが焦がれ続けた青い地球の上で、こだわって作られた美味しいハンバーガーを。
きっと幸せの味がする。
ブルーと二人で、手に持ってそれを食べたなら。
前の自分たちが使ったナイフとフォークは、今は要らない時代だから…。
ハンバーガー・了
※シャングリラの食堂で、一度だけ出たハンバーガー。ナイフとフォークを添えた形で。
けれど手で食べた船の仲間たち。前のブルーは出来ませんでしたが、今の時代なら大丈夫。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
春爛漫。ソルジャー夫妻と「ぶるぅ」も交えて桜見物、今年も豪華にお弁当を持って。今日はあっちだ、次はこっちだと渡り歩いて桜の舞台は北の方へ移り、お花見の旅も終了です。ソルジャーとキャプテン、それに「ぶるぅ」は旅を続けているかもしれませんが…。
「今年の桜も綺麗だったよね!」
今日だと何処の桜だろうか、とジョミー君。シャングリラ学園は年度始めの一連のお祭り騒ぎも終わって通常授業が始まっています。よって本日は真面目に授業で、放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来ているわけですけれど。
「うーん…。何処だろうねえ、ぼくがザッと見た所では…」
賑わってる場所はこの辺り、と会長さんが挙げた有名どころ。かなり北の方、けれど名前は知らない人がないほどの名所。桜前線、ずいぶん北上したようです。会長さんはサイオンで遠くの桜名所をチェックしているようですが…。
「あれ?」
「どうかしたのか?」
何かあったか、とキース君。会長さんは「まあ…」と答えて。
「いつものお花見ツアーだよ。ブルーたちが行ってるみたいだね」
「なるほどな。俺たちは通常運転の日々だが、あいつらは未だに花見気分か」
桜好きだしな、という言葉に頷く私たち。ソルジャーは桜の花が一番好きなのだそうで、自分のシャングリラの公園にも植えてあるようです。それを貸し切っての宴会なんかもやらかすくせに、私たちの世界の桜も大好き。機会さえあればせっせとお出掛け。
「桜があったら湧くヤツだからな、特に不思議でもないと思うが」
わざわざ声に出さずとも…、とキース君が言うと会長さんは。
「桜見物だけならね」
「何か余計なことをしてやがるのか、あいつらは?」
猥談の類はお断りだぞ、と先手を打ったキース君。桜名所でのイチャつきっぷりを披露されても困りますから、妥当な判断と言えるでしょう。けれど、会長さんは「そうじゃなくって」と。
「ただの買い物なんだけど…。いわゆる露店で」
「それがどうかしたか?」
「お気に召さないみたいなんだよ、商品が」
その割に前にじっと立ってる、とサイオンの目を凝らしている様子。暫しそのまま沈黙が続いていますけれども、ソルジャーは何の露店の前に?
露店と言えばお祭りの花。色々なものが売られますけど、いわゆる老舗や名店の類とは違います。アルテメシアのお花見の場合は、そうしたお店の出店なんかも見かけることはありますが…。基本的に何処か抜けてるというか、期待しすぎると負けなのが露店。
「お気に召すも何も…。露店だろうが」
そうそう洒落た商品があるか、とキース君が突っ込み、スウェナちゃんも。
「食べ物にしても、お土産にしても、普通のお店とは違うわよねえ?」
「店によっては衛生的にも問題大ってケースもありますからね」
公園の水道で水を調達しているだとか、とシロエ君。
「そういった店に出会ったんでしょうか、見るからに水道水っぽいとか?」
「どうだかなあ…。あいつ、サイオンが基本だしよ…」
店主の心が零れてたかもな、とサム君も。
「水道水でボロ儲けだとか、そんな思念を拾っちまったら、店の前で睨むかもしれねえなあ…」
「チョコバナナだけど?」
水道水も何も、と会長さんが沈黙を破りました。
「「「チョコバナナ?」」」
「そう、チョコバナナ。…まだ寒いだけに、食べようかどうか迷ってるのかと思ったけれど…」
「それはあるかもしれないな」
あれは温かい食い物ではない、とキース君。
「しかし甘いし、あいつが好きそうな食い物ではある」
「ぼくもそう思って見てたんだけど…。どうも何かが違うらしくて」
「「「は?」」」
「じーっと露店を見ていた挙句に、買わずに立ち去ったトコまではいい。ただ…」
その後の台詞がなんとも不思議で、と会長さんは首を傾げています。
「あいつは何とぬかしたんだ?」
「それがさ…。あっちのハーレイに笑い掛けてさ、「まだまだだよね」と」
「「「へ?」」」
チョコバナナの何が「まだまだ」なのか。それだけでも充分に意味不明なのに、会長さんが言うにはキャプテン、「そうですね」と笑顔で頷き返したらしく。
「…チョコバナナでか?」
分からんぞ、とキース君が呟き、私たちも揃って困り顔。ソルジャー夫妻がチョコバナナの露店にうるさいだなんて、そんな現象、有り得ますか…?
「念のために訊くが、チョコバナナだな?」
キース君が確認を取って、会長さんが。
「うん、間違いなくチョコバナナだよ。振り返って露店の方を見てたし、間違いないね」
「チョコバナナって…。キャプテン、そんなの食べるかなあ?」
うんと甘いよ、とジョミー君。キャプテンは教頭先生のそっくりさんで、甘い食べ物が苦手な所も同じです。チョコバナナなんかは一度食べれば二度と食べそうにないんですけど…。
「食わねえと評価出来ねえんじゃねえの?」
まだまだとか判断出来ねえぜ、とサム君の非常に冷静な意見。
「どういう理由か分からねえけど、チョコバナナに燃えているんじゃねえかな…」
「ブルーたちがかい?」
そうなんだろうか、と会長さんが首を捻ると「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと…。お花見であちこち出掛けてた時、チョコバナナの露店、見ていたよ?」
買って食べてはいないけど、という証言が。
「欲しいのかな、って思ったんだけど…。なんか、小さめ?」
「「「小さめ?」」」
バナナが小さすぎたでしょうか。ああいう露店のバナナの大きさ、ほぼ同じだと思いますけど。
「んーとね、あっちのハーレイに言ってたよ? 小さいよね、って」
「「「はあ?」」」
ますます分からん、と私たち。やはりキャプテンはチョコバナナの味に目覚めたとか?
「ぼくにも分かんないんだけど…。なんて言ったかなあ、君の方がずっと立派、だったかな?」
「ちょっと待った!」
ぼくはそんなの聞いてないけど、と会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「その話、ヒソヒソ話だったのかい?」
「えっとね…。ブルーがハーレイの袖を引っ張って、小さな声で言ってたよ?」
「もういい、大体のことは分かった」
それはバナナが違うんだ、と会長さんは顔を顰めました。
「ブルーが言うのはチョコバナナのバナナのことじゃなくって、全く別物…」
「「「別物?」」」
「言いたくないけど、あっちのハーレイの大事な部分の話なんだよ!」
「「「あー…」」」
分かった、とゲンナリした顔の私たち。キャプテンのアソコのサイズとバナナを比べてましたか、それで「まだまだ」だというわけですね…?
猥談の類はお断りだと思っていたのに、無邪気なお子様、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が食らわせてくれたバナナ攻撃。チョコバナナの話は忘れるに限る、と記憶を手放し、迎えた週末。会長さんの家に出掛けてワイワイ楽しくやるんですけど。
「かみお~ん♪ 今日はしっとりオレンジケーキ!」
今が旬なの、と春のオレンジを使ったケーキが出て来ました。オレンジのスライスも乗っかっていて綺麗です。紅茶やコーヒーなども揃って、さあ食べるぞ、とフォークを握った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と背後で声が。私服のソルジャー登場です。エロドクターとデートなのかな?
「え、この服かい? お花見の帰りに寄ったからだよ、ハーレイとぶるぅは先に帰ったよ」
混んでくる前に桜見物、と相変わらずお花見ツアー中。いいお天気の中で桜を眺めて、キャプテンはブリッジへお仕事に。「ぶるぅ」はソルジャー不在のシャングリラの留守番をしつつ、買って帰ったお弁当グルメだそうですけれど。
「ぼくは大好きな地球でゆっくり! ケーキ、ぼくのもあるんだよね?」
「あるよ、おかわり用もあるから食べてってね!」
ちょっと待ってねー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンに跳ねてゆき、すぐにケーキとソルジャー好みの熱い紅茶が。ソルジャーは空いていたソファに腰を下ろして。
「いいねえ、地球で過ごす時間は! ぼくのハーレイは仕事だけどさ」
「君の仕事は?」
会長さんが訊けば、ソルジャーはケロリとした顔で。
「あるわけないだろ、ぼくの仕事は少なめの方がいいんだよ。仕事すなわち戦闘だしね!」
平和に越したことはないのだ、という正論。
「この所はずいぶん平和だからねえ、ちょっと趣味なんかも始めてみたり…」
「ふうん? それはいいことだね、暇だからとノルディとランチやディナーでは芸がないしね」
趣味が出来れば毎日も充実してくるだろう、と会長さん。
「君にしてはマシな思い付きだよ、趣味を持とうという発想は」
「あっ、分かる? ぼくにピッタリな趣味を見付けたものだから…」
最近はそれに凝っているのだ、とソルジャーは得意満面で。
「ハーレイの趣味とも重なっているし、これがなかなか素敵なんだよ」
「へえ? 夫婦で共通の趣味を持つのはいいことだよね」
お互いに評価し合えるし、と会長さんもソルジャーの趣味を褒めてますけど。ソルジャーの趣味って何なのでしょうね、キャプテンは確か木彫りでしたが…?
キャプテンの趣味と重なるらしい、ソルジャーが始めた趣味なるもの。やはり木彫りの類だろうか、と考えていると。
「木彫りはねえ…。木が硬いからね、けっこう根気が要るらしいんだよ」
ぼくにはイマイチ向いてなくて、とソルジャーが。
「彫り上がる前に投げ出しちゃうのがオチってヤツだよ、木彫りの場合は」
「それじゃ別のを彫ってるのかい?」
柔らかい素材も色々あるしね、と会長さん。
「君の世界じゃそういう素材も多そうだ。簡単に彫れるけど、焼くとか薬品に浸けるとかしたら充分に丈夫になりそうなヤツが」
「ああ、あるねえ! 子供用の粘土なんかにもあるよ、作って乾かせば頑丈です、って」
保育セクションの子供がよく彫っている、とソルジャーは笑顔。なんでも粘土の塊を捏ねて、それをヘラで削っていったら立派な彫刻、乾かして置物を作れるそうで。
「同じ粘土で花瓶とかも出来ると聞いているねえ、丈夫で水漏れしないヤツをね」
「君も粘土を彫ってるわけ?」
「違うね、ぼくが彫っているのは実用品!」
彫る過程からして楽しめるのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「削りクズも無駄にはならない上に、完成したヤツも食べて美味しく!」
「「「は?」」」
食べるって…。それじゃ野菜のカービングとか? 野菜を彫って花とかを作る細工は非常に有名です。ソルジャーはあれをやってるのでしょうか、ベジタブルカービングというヤツを?
「うーん…。あれも野菜と言うのかな? 青いヤツは料理に使うと聞いているけど…」
「パパイヤなの?」
青いパパイヤは野菜だよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「炒め物とかにしても美味しいし! 完熟した後は果物だよね!」
「うん、そんな感じ」
ぶるぅもカレーに使ってたよね、とソルジャーは大きく頷きました。
「なんか高級食材だって? 青い間は」
「「「へ?」」」
青い間は高級食材、なおかつカレーに使える何か。ついでに野菜と呼ぶかは微妙で、彫って食べられる何かって…。なに?
木彫りでは木が硬すぎるから、と別の素材に走ったソルジャー。食べられる何かを彫っていることは確かですけど、まるで見当がつきません。パパイヤの線だけは消え去ったものの、青い間は高級食材。それでカレーって…。私たちが顔を見合わせていると。
「あっ、分かったあ!」
ピョーンと飛び跳ねた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「そっかあ、それでチョコバナナなんだね、まだまだだ、って!」
「「「えっ?」」」
何故にチョコバナナ、と思ったのですが、ソルジャーは。
「そうなんだよ! ぶるぅは分かってくれたんだ? チョコバナナは芸術性がないよね」
丸ごとのバナナにチョコを被せただけだから、と鼻でフフンと。
「ひと手間加えればバナナも芸術! バナナ彫刻!」
「「「バナナ彫刻!?」」」
なんじゃそりゃ、と声が引っくり返ってしまったものの、青いバナナは言われてみれば高級食材。普通のバナナならお安いところを、どう間違えたかグンと高くて専門店にしか無いと聞きます。その青バナナを使ったカレーを何度も御馳走になりましたっけ…。
それにしたって、バナナ彫刻。柔らかくって彫りやすいでしょうが、どうやって彫るの?
「知らないかなあ、バナナ彫刻! なんか職人さんもいるみたいだよ?」
一時期評判だったらしい、とソルジャーに教わった私たちの世界のバナナ彫刻なる芸術。ソルジャーはエロドクターから教えられたという話で。
「桜にはまだ少し早い時期にね、中華料理を御馳走になって…。デザートの一つが揚げたバナナの飴絡めだったものだから…」
そこから出て来たエロドクターの薀蓄、バナナ彫刻。文字通りバナナに彫刻を施し、それは見事に仕上げる人がいるのだそうです。けれども相手がバナナなだけに、どんなに見事なものを彫っても作品の寿命は当日限り。パックリもぐもぐ、食べておしまい。
「ほら、ぼくはハーレイの素敵なバナナが好物だしね?」
「その先、禁止!」
喋ったらその場で帰って貰う、と会長さんがイエローカードを出したのですけど、それで止まるようなソルジャーではなく。
「ハーレイのバナナと言えばもちろん分かるよねえ? 男なら誰でも、もれなく一本!」
「退場!!」
さっさと帰れ、とレッドカードが出たものの。ソルジャー、帰りはしないでしょうねえ…。
エロドクターからソルジャーが聞いた、バナナ彫刻なる芸術。そのソルジャーの好物のバナナ、やはりキャプテンのアソコのことで。そういえば「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお花見の時にアヤシイ話を聞いたんだっけ、と揃って遠い目をしていれば…。
「とにかく、ぼくはハーレイのバナナが大好物! だけど、いつでも何処でも食べられるものではないからねえ!」
ぼくはともかくハーレイはキャプテン、と深い溜息。
「仕事でブリッジに出掛けてる時に食べたくなっても、ぼくは手も足も出ないから…」
「当然だろう!」
そんな所へ食べに行くな、と会長さんが怒鳴りました。
「君はよくても、君のハーレイにとっては最悪すぎる展開だから!」
「そうなんだよねえ、見られていると意気消沈なのがハーレイだしねえ…。おまけに、ぼくたちの仲はとっくにバレバレになっているのに、まだバレていないつもりだから…」
ブリッジでの熱いひと時は無理、と実に残念そうなソルジャー。
「ハーレイさえその気になってくれれば、ぼくはブリッジでも気にしないのに…」
「他のクルーにも迷惑だよ、それ! こっちの世界では犯罪だから!」
公衆の面前でやらかした場合はしょっ引かれるから、と会長さんが刑法とやらを並べ立てています。猥褻物がどうとかこうとか、刑法何条がどうのとか。
「いいかい、そういったことは人前でしない!」
「うーん…。ぼくは見られて燃えるってタチではないんだけれども、夢ではあるかな…」
ぼくとハーレイとの熱い時間を是非見て欲しい、と言われて固まってしまいましたが、見て欲しい相手はソルジャーのシャングリラのクルーだそうで。
「君たちはもう、見てると言ってもいいくらいだしね! 問題はぼくの世界なんだよ、どうにもハードル高くてねえ…」
いろんな意味で、と溜息再び。
「そんなわけでさ、ハーレイのバナナはブリッジとかでは食べられない。それをノルディに愚痴っていたらさ、バナナ彫刻を教わったわけ!」
ハーレイのアソコを食べてるつもりでバナナをパクリ、とソルジャー、ニコニコ。
「それだけでも充分にドキドキするけど、彫刻するならじっくり見るしね? このバナナから何が彫れるか、どんな作品が隠れているかとドキドキワクワク見られるんだよ!」
同じバナナでも見る目が変わる、と語るソルジャー。バナナ彫刻、本気でやってるみたいですけど、何が出来るの?
「えっ、バナナ彫刻? 色々彫れるよ?」
バナナの中から生まれる芸術、とソルジャーは今までに彫った作品を挙げました。最初はキャプテンのアソコを忠実に再現、美味しく齧ったらしいですが。
その後、木彫りが趣味のキャプテンからのアドバイスも受け、今では有名な彫刻をバナナで再現だとか、そういうレベル。
「ちなみに昨日はこんなのを彫った! どうかな、出来は?」
ぼくのシャングリラ! と思念で宙に浮かんだ映像はバナナに彫られたシャングリラでした。バナナの中に実に見事なシャングリラ。不器用なソルジャーの作品だとも思えませんが…。
「あっ、君たちもそう思う? ぼくって、意外な才能があったらしくて!」
バナナを彫らせたら一流なんだよ、と自慢したくなるのも無理のない出来。エロドクターが教えたというバナナ彫刻職人とやらにも負けない腕前らしくって。
「それでね、バナナ彫刻を更に極めるべく、新しい境地に挑もうかと!」
「もっと芸術性を高めるとか?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「趣味と実益とを兼ねるんだよ! バナナ彫刻で!」
今は単なる趣味だから、と言われましても、既に実益を兼ねているような気がします。キャプテンのアソコを頬張る代わりに彫っているバナナ、空腹ならぬ欲望を満たしているのでは…。
「うん、欲望に関してはね。…彫る前にバナナをまじまじと眺めて、ハーレイのアソコを思い浮かべて熱い溜息! それからハーレイのアソコを扱うつもりで大切に!」
ドキドキしながらバナナを彫るのだ、とソルジャーはバナナ彫刻の心構えを披露しました。
「ハーレイのアソコで芸術なんだよ、バナナといえども粗末にしてはいけないってね! 彫った削りクズは必ず食べる! 口に入れてはアレのつもりで!」
ゴクンと美味しく飲み下すのだ、と唇をペロリ。
「ハーレイのアレは一滴残らず飲んでこそだし、バナナの削りクズだってね!」
「退場!!!」
もう本当に出て行ってくれ、と会長さんが眉を吊り上げてますが、ソルジャーは我関せずで。
「バナナを敬う気持ちが大切! そんなバナナを、より丁重に!」
もっと心をこめて彫るべし、とソルジャーはそれはウットリと。
「これを極めれば、きっと! ぼくとハーレイとの夜の時間も、今よりももっと!」
充実するのだ、と自信たっぷりですけれど。バナナ彫刻で夜が充実って、大人の時間のことなのでしょうか? バナナ彫刻なんかで充実しますか、そんな時間が…?
バナナ彫刻を極めて充実、ソルジャーとキャプテンの夜の時間とやら。どうやったら充実するのやら、と知りたくもない謎に捕まる思考。ソルジャーがそれに気付かない筈もないわけで…。
「君たちだって知りたいよねえ? ぼくの趣味の世界!」
バナナ彫刻を実演しなくちゃ、と満面の笑みを浮かべるソルジャー。
「だけど、お腹が減っていてはね…。ぼくのハーレイがいれば、食欲は二の次、三の次でさ…。まずは身体の欲望の方から満たすんだけれど、ここではねえ…」
「かみお~ん♪ お昼御飯も食べて行ってね!」
「いいのかい? 喜んで御馳走になることにするよ!」
自分から催促しておいて「いいのかい?」も何もないのですけど、それがソルジャー。バナナ彫刻の実演タイムは昼食の後ということになって…。
「お昼、海鮮ちらし寿司だよーっ!」
朝一番に仕入れて来たの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が用意してくれ、豪華海鮮ちらし寿司。食べる間くらいはバナナ彫刻は忘れたい、とソルジャーの喋りを無視しまくってひたすら食べて。
「「「美味しかったー!」」」
御馳走様、と合掌したらソルジャーが。
「それじゃ、バナナ彫刻を始めようか! 丁度いいしね」
「「「は?」」」
「道具が揃っているんだよ、ここは」
「「「道具?」」」
ダイニングのテーブルを見回しましたが、テーブルの上には空になった海鮮ちらし寿司の器やお吸い物の器、食後に出て来た緑茶の湯呑み。後はお箸にお箸置きに、と食事関連のアイテムばかりのオンパレードで。
「何処に道具があるというんだ?」
刃物は無いが、とキース君。
「あんた、道具が揃ったと言うが、何か勘違いをしてないか?」
「してないねえ…。バナナ彫刻は食べるものだよ、ダイニングで彫るのが正しいよね」
まずはバナナ、とソルジャーの視線が「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、バナナはあったよね?」
「うんっ! 朝御飯に便利なフルーツだしね!」
待っててねー! とキッチンに駆けて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」はバナナの房を抱えて戻って来ました。そっか、お菓子にもよく使いますし、房で買うのがお得ですよね…。
ダイニングのテーブルにドカンとバナナの大きな房が。そして食器は湯呑みを残して片付けられてしまいましたが、ソルジャーは止めもしなくって。
「…湯呑みしかないぞ?」
これで彫れるのか、とキース君の疑問が一層深まり、私たちだって。
「湯呑みでバナナが彫れますか?」
シロエ君が悩み、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと…。コンニャクを切るのに湯呑みを使うよ、その方が美味しく煮えるから!」
「そういえばコンニャクには湯呑みだったか…」
確かに使うな、とキース君も。柔道部の合宿で料理当番をやっていた頃、コンニャクを湯呑みで千切ったそうです。シロエ君とマツカ君も思い出したようで。
「湯呑みでしたね、コンニャクは…」
「でも、千切るのと彫るのとは…」
違いますよ、とマツカ君。
「コンニャクは切り口が均一でない方がいいから、と湯呑みだったんじゃないですか?」
「そうでしたね…。彫刻するなら断面は均一になる方が…」
湯呑みはちょっと、とシロエ君がバナナと湯呑みを見比べています。けれど道具とやらはテーブルの上に揃っていた筈、食器が消え失せた今となっては…。
「やっぱ、湯呑みかよ?」
それしかねえよな、とサム君が言って、ジョミー君が。
「他に無いよね、湯呑みなんだよね?」
だけど、どうやって彫るんだろう…、と答えは全く浮かばない模様。私だって立場は同じです。どう考えても湯呑み以外に道具らしきものは無いんですけど、湯呑みなんかでどう彫ると?
「頭が固いね、君たちは…」
もっと発想を柔軟に、とソルジャーがバナナを房からポキリと一本折り取りました。
「道具ならちゃんとあるんだよ。テーブルの上に、正統なのが」
始めようかな、とソルジャーの指がバナナの皮をスイスイと剥いて、半分くらいを覗かせて。
「ぶるぅ、レモン汁をくれるかな? バナナ彫刻には欠かせないんだ」
「かみお~ん♪ 色が変わるのを防ぐんだね!」
「ご名答! ぶるぅは料理の達人だしねえ、頼もしいよね」
レモン汁をよろしく、というソルジャーの注文に応えて手早く用意されたレモン汁入りのガラスの器。いよいよバナナ彫刻ですけど、彫るための道具はやっぱり湯呑み…?
どうなるのだろう、と固唾を飲んで見守る私たち。ソルジャーはバナナの白い実をじっと睨んでいるようでしたが…。
「このバナナにはぶるぅが入っているねえ、悪戯小僧の方のぶるぅが」
そんな感じだ、と一人前の彫刻家のような台詞を口にし、「さて」と伸ばされた手が掴んだものは爪楊枝。海鮮ちらし寿司、奥歯に何か挟まりましたか?
「失礼な! 年寄りみたいに言わないでくれる?」
これは道具、とソルジャーの指先が爪楊枝をしっかり固定すると。
「「「…えっ?」」」
爪楊枝の先がバナナにグッサリ。ぐりぐりと抉って、ヒョイと一部を取り出して、口へ。いわゆるバナナの削りクズらしく、ソルジャーは口をモグモグさせながら。
「こうやって彫っていくんだよ、バナナ! 爪楊枝で!」
「湯呑みじゃないのか?」
違ったのか、と訊くキース君に、「当たり前だろ」という返事。
「湯呑みなんかでグイとやったらバナナが折れてしまうだろ? バナナは繊細なんだから!」
ハーレイのアソコと同じでとってもデリケートなのだ、と爪楊枝の先がヒョイヒョイと。
「…なんか彫刻できてるみたい?」
爪楊枝で、とジョミー君が見詰めて、サム君が。
「ぶるぅの顔っぽくなってきたよな、丸っこくてよ」
「爪楊枝なんかで彫れるんですね…」
知りませんでした、とシロエ君。
「湯呑みだったら道具になるかと思いましたが、爪楊枝ですか…」
「知らないのかい? こっちの世界のバナナ彫刻職人だって爪楊枝らしいよ、ノルディに聞いた」
そして彫ったらレモン汁を…、と完成したらしい部分に指と爪楊枝でレモン汁を塗ってゆくソルジャー。バナナ彫刻を趣味にしただけあって、なかなか手際が良さそうです。
「こうやって彫って、もう彫らなくても大丈夫だな、という所はしっかりレモン汁をね…」
そうしないと黒くなっちゃうからね、と彫っては削りクズをモグモグ、レモン汁をペタペタ。そうこうする内、バナナは見事に彫り上がって…。
「はい、バナナからぶるぅが出来ましたー!」
ジャジャーン! とソルジャーが掲げるバナナに悪戯小僧な「ぶるぅ」の彫刻。ホントにバナナに彫れるんですねえ、ちゃんと「ぶるぅ」に見えますってば…。
バナナ彫刻の「ぶるぅ」は食べてもいいらしいですが、彫られた姿は悪戯小僧。齧ったら最後、祟りに見舞われるような気がしないでもありません。怖くて誰もが腰が引ける中、ソルジャーは。
「なんだ、誰も食べようとは思わないんだ? じゃあ、ぼくが」
あんぐりと口を開け、それは美味しそうにバナナ彫刻の「ぶるぅ」をモグモグモグ。食べてしまうと「今日のハーレイも美味しかった」と妙な台詞が。
「「「ハーレイ?」」」
「もちろん、ぼくの世界のハーレイだよ! バナナ彫刻の心得の一つ!」
バナナを彫る時と食べる時にはハーレイのアソコと心得るべし! とイヤンな掟が。
「でもって、この趣味を実益の方へと向けるためには! これから此処で初挑戦!」
もう一本バナナを貰っていいかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」にお尋ねが。「うんっ!」と元気な返事が返って、バナナがもう一本、ポキリと折られて房から外れて。
「さてと…。ホントのホントに初挑戦だし、上手く行くかどうか…」
バナナの中には何がいるかな、と黄色い皮を剥いて白い中身と向き合ったソルジャー、彫るべきものを見出したらしく。
「第一号はハーレイらしいね、是非彫ってくれ、という声がするよ」
バナナの中からハーレイの声が! と嬉しそうに。
「あっ、間違えたりしないでよ? ぼくのハーレイの声なんだからね!」
こっちのヘタレなハーレイじゃなくて、と失礼極まりない発言。とはいえ、教頭先生がヘタレなことは誰もが認める事実ですから、文句を言い出す人などいなくて…。
「それじゃ彫るから、ちょっと静かにしててよね」
ぼくは忙しくなるんだから、とソルジャーは再び爪楊枝を。けれど…。
「「「ええっ!?」」」
静かにしろ、と言われたことも忘れて叫んでしまった私たち。ソルジャーにギロリと睨み付けられて、慌てて肩を竦めましたが。
(((あ、有り得ない…)))
これは無いだろ、と唖然呆然。ソルジャーは爪楊枝を指で構える代わりに、口でしっかりと咥えていました。そしてバナナへと顔を近付け、爪楊枝の先でクイッと彫って…。
(((やっぱりそうかーっ!!)))
口で彫るのか、とビックリ仰天、まさかの口でのバナナ彫刻。爪楊枝はお口で使うものですが、口に咥えて使うようには出来ていません。ソルジャーお得意のバナナ彫刻、こんなやり方で彫れるんでしょうか…?
ソルジャーが咥えた爪楊枝。バナナ相手に頭をせっせと上下させては彫って、削って。削りクズは何回かに纏めてモグモグ、その間は爪楊枝が口から離れています。レモン汁を塗っている時も。
「うーん…。なかなか上手く行かないね、これは」
「まず無理だろうと思うけど?」
そんな方法、と会長さんが切って捨てると、ソルジャーは。
「ダメダメ、これを極めなくっちゃ! 趣味と実益!」
「どの辺が?」
「口で彫ろうというトコが!」
これで口の使い方が上達するに違いない! とグッと拳を握るソルジャー。
「爪楊枝を上手に操るためには、舌での操作も欠かせないんだ。舌の動きが細やかになるし、爪楊枝を咥えて彫ってる間に口の方だってより滑らかに!」
こうして鍛えて御奉仕あるのみ! とソルジャーが高らかに言って、会長さんの手がテーブルをダンッ! と。
「そんな練習、自分の世界でやりたまえ!」
「見学者がいないと張り合いが無いし!」
普通のバナナ彫刻と違って大変な作業になるんだから、とソルジャーは私たちをグルリと見回しました。
「これだけの数の見学者がいれば、ぼくも飽きずに作業が出来る。一日一本、バナナ彫刻! 今日から欠かさず、毎日一本!」
そして御奉仕の腕を上げるのだ! と燃えるソルジャーですけれど。その御奉仕とかいうヤツは大人の時間の何かですよね、今までに何度も聞いていますし…。
「もちろんだよ! ぼくがハーレイのアソコを口で刺激しようという時のことで!」
「退場!!!」
今度こそ出て行け、と会長さんが絶叫しているのに、ソルジャーは。
「御奉仕にはねえ、口と舌とが大切なんだよ! 同じバナナ彫刻をするんだったら趣味と実益!」
ハーレイのアソコに見立てたバナナを彫って、ついでに口と舌とを鍛えて、とソルジャーの背中に燃え上がるオーラ。退場どころか、爪楊枝をしっかり咥え直して…。
「んー…」
もうちょっと、とバナナ彫刻に挑むソルジャー。会長さんが顔を顰めてますから、よほど最悪な姿なんだと思いますけど、よく分かりません。万年十八歳未満お断りの団体様の前で熟練の技を披露したって、意味が全く無いんじゃあ…?
口に爪楊枝を咥えて、彫って。ソルジャーの渾身の作のバナナ彫刻、キャプテンの肖像は辛うじて完成したものの。
「…まだまだだよねえ…」
こんな出来では、とソルジャーが眺め、会長さんが。
「口で彫ったにしてはマシだし、初挑戦とも思えないけど?」
これ以上鍛えることもあるまい、と褒めちぎる姿は明らかにソルジャーの再訪を防ぐためのもの。私たちも懸命に「凄い」と讃える方向で。
「俺は見事だと思うがな? これだけ彫れればベテランの域だ」
キース君がバナナ彫刻の出来栄えを褒めて、シロエ君も。
「ええ、初心者とは思えませんよ! もう充分に熟練ですって!」
「ぼくも凄いと思うけどなあ、こんなの絶対、真似出来ないよ」
凄すぎるよね、とジョミー君も称賛を惜しみませんでした。サム君もマツカ君も、スウェナちゃんも私も、ありとあらゆる褒め言葉の限りを尽くしたのに…。
「駄目だね、趣味の世界は奥が深いんだよ。自分が納得しない限りは精進あるのみ!」
およそソルジャーの台詞とも思えぬ、精進なるもの。目指す所はバナナ彫刻の上達などではないのでしょうが…。
「決まってるじゃないか、バナナ彫刻の先にある御奉仕だよ!」
ぼくのハーレイがビンビンのガンガンになる御奉仕なのだ、とソルジャーはそれはキッパリと。
「そういう熟練の技を目指してバナナ彫刻! 毎日、一本!」
頑張って彫って彫りまくる、と決意を固めてしまったソルジャー、明日から毎日来そうです。休日の今日と明日はいいとして、もしかしなくても平日だって…?
「そうだよ、こういった道は日々の鍛錬が大切だしね!」
一日サボれば腕がなまって駄目になるのだ、とソルジャーが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が大真面目な顔で。
「うん、お稽古って大切らしいものね! ハーレイだって、よく言ってるし!」
「「「はあ?」」」
教頭先生が何の稽古を、と派手に飛び交う『?』マーク。けれども「そるじゃぁ・ぶるぅ」は純真無垢な瞳を輝かせて。
「えっ、柔道部の朝稽古とかで言ってない? 一日休めば自分に分かる、二日休めば先生に分かる、三日休めばみんなに分かる、って!」
だからお稽古、大切だよね! とエッヘンと。お稽古は大切なんでしょうけど、今、その言葉を言わないで~!
教頭先生の口癖らしい、稽古をサボるなという戒め。このタイミングで言われてしまうと私たちには逃げ場が無くなり、ソルジャーには大義名分が。
「ふうん…。こっちのハーレイ、いいこと言うねえ…!」
バナナ彫刻、頑張らないとね! とソルジャーが彫り上がったキャプテンのバナナ彫刻にチュッとキスをして。
「明日はバナナから何が生まれるかな、ぼくの技術も磨かなくっちゃ!」
そしてハーレイが大いに喜ぶ、と赤い瞳がキラキラと。
「ぼくのハーレイ、御奉仕は嫌いじゃないからね! やるぞって気持ちが高まるらしくて、ぼくにも大いに見返りってヤツがあるものだから!」
たとえ肩凝りが酷くなろうが、一日一本、バナナ彫刻! と迷惑な闘志は高まる一方。
「ぶるぅ、バナナは常備しといてよ? ぼくが毎日、彫りに来るから!」
「かみお~ん♪ 任せといてよ、バナナもレモンも新鮮なのを用意しとくね!」
「「「うわー…」」」
死んだ、と突っ伏す私たち。ソルジャーの御奉仕とやらの腕が存分に上達するまで、来る日も来る日もバナナ彫刻、それもアヤシイ語りがセット。黙って彫っててくれるだけならいいんですけど、口が塞がってても、爪楊枝を咥えていない時間は確実に何度も訪れるわけで…。
「えっ、黙ってたらつまらないかな、君たちは?」
もっと喋った方がいいかな、とソルジャーはバナナ彫刻片手にニンマリと。
「ぼくは思念波の方も得意だからねえ、口で彫ってる間も思念で喋れるってね!」
明日からはそっちのコースにしてみようか、と恐ろしすぎる提案が。
「君たちも退屈しなくていいだろ、思念で色々喋った方が!」
「要りませんから!」
誰も希望を出してませんから、とシロエ君が必死の反撃を。
「そういうのはですね、キャプテンの前でやって下さい、きっと喜ぶと思いますから!」
「何を言うかな、こういう努力は秘めてこそだよ!」
ハーレイが全く知らない所で地道な努力を積んでこそ! とソルジャーは譲りませんでした。
「いいね、明日から一日一本、バナナ彫刻! ぼくの素敵なトークつきで!」
御奉仕とは何か、口でヤることの素晴らしさと真髄とは何処にあるのか。それを思念でみっちりお届け、と宣言されて泣きの涙の私たち。バナナ彫刻、見た目は見事なんですけれど…。
「君たちの知識もきっと増えるよ、そしてぼくにはハーレイと過ごす素敵な時間!」
バナナ彫刻を始めて良かった、と感慨に耽っているソルジャー。迷惑すぎる趣味の世界は当分続いていきそうです。ソルジャーが道を極めるのが先か、私たちが討ち死にするのが先か。爪楊枝を咥えてバナナ彫刻、一日一本、彫るなと言っても彫るんでしょうねえ…。
バナナの達人・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーが始めたバナナ彫刻ですけれど…。実は本当にあったりします。
爪楊枝で彫るというのも本当。ソルジャーは極められるんでしょうか、迷惑ですけどね…。
次回は 「第3月曜」 11月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、10月はマツカ君に脚光が。キース君が一日弟子入りで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv