シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(おっと…)
今日は無いのか、とハーレイが覗き込んだパン屋の棚。
ブルーの家には寄れなかった日、買い出しとばかりに来たのだけれど。田舎パンも、食パンも、バゲットなどもすっかり売り切れてしまった後。いわゆる食事パンが無い。
(…調理パンならあるんだが…)
サンドイッチや、ピザソースを塗って焼いたパンやら。甘い菓子パンも色々あるのに、何故だか食事パンだけが売り切れ。考えてみれば毎日食べるパンとも言えるし、もっと早い内に買ってゆく人が多いのかもしれない。昼の間に買い物に出掛けて、ついでにパンも、と。
(出遅れちまったか…)
レストラン部門も併設しているパン屋は、店で焼いているのが売りだから。逆に言ったら商品の売れ行き、それを見ながら追加で焼いたり、焼かなかったりもするだろう。ほんの少しだけズレたタイミング。半時間ほど早く来たなら…。
(どれかはあったと思うんだ)
それに閉店にはまだ早い時間、あと一時間、もしかしたら半時間経った頃に来たなら、目当てのパンの中の一つが棚に並ぶ可能性はある。今日の間に完売しなくても、明日の午前中に充分売れる食パンやバゲット、そういったものが。
とにかく、少々、悪かった運。どう見回しても棚に見当たらない食事パン。
こんなことなら買って来ればよかった、いつもの食料品店で。さっき買い出しに寄って来たから買おうと思えばついでに買えた。あの店でもパンは焼いているのだし、目的のものを。
(あの店のパンも美味いんだが…)
けして悪くはない味わい。食料品を並べた棚の列とは別の一角、独立した店かと勘違いしそうなパンのコーナー。焼き上がる頃になったらオーブンからの匂いがふわりと漂う。
其処で買うこともあるのだけれども、今、「パンが無い…」と立ち尽くしている店。この店だと窯が違うのだろうか、それとも熟練の職人の腕か。同じパンでも…。
(グンと美味いと思うんだ…)
食パンも田舎パンも、バゲットも。だから、時間のある日はこちらで買いたい。わざわざ回ってくるだけの価値はある味、そのためにやって来たというのに。
欲しいパンは無くて、棚は空っぽ。調理パンや菓子パンは揃っているのに。
(…戻るか?)
さっきの食料品店に、と思ったけれども、その店までの距離。歩いて戻るなら五分も要らない、苦にもならない僅かな距離。そう、歩くのなら散歩がてらと言える距離。
ところが仕事の帰りだったから、車なるものを連れていた。前の自分のマントの緑をした愛車。それがパン屋の駐車場にいるし、食料品店に戻るのだったら車も一緒に。
エンジンをかける手間はともかく、駐車場から出て、また別の店の駐車場まで。パンを買ったら車に戻って、またエンジンをかけて家に帰るわけで…。
たかがパンのために面倒だろう、と考えた。歩くならともかく、車付きでは、と。
(まあいいさ)
確か家にも残っていたしな、と食料品店には戻らずに帰宅してみたら。買い込んで来た食料品を冷蔵庫や棚などに仕舞っていったら、ようやく分かったパン事情。
あると思った筈のパンが無かった、食パンが一切れあっただけ。朝には分厚いトーストを二枚、でなければバゲットや田舎パンで同じくらいの量を食べるのがお決まりなのに。
どうしたことか、と足りなすぎる量の食パンの袋を眺めていて…。
(そういえば…)
今朝は多めに食べたのだった。分厚く切ったトーストを三枚、マーマレードとバターをたっぷり塗って。オムレツやソーセージやサラダと一緒に。
早く目が覚めたから出掛けたジョギング、出勤したら柔道部の朝練があるものだから。しっかり食べねば、とジョギングした分、トーストを一枚追加していた。あれさえ無ければ食パンの残りは記憶どおりで、明日の朝の分まであっただろうに。
(やっちまったな…)
面倒がらずに買いに戻っておくべきだった、と思うけれども。今から歩いて出掛けていくという手もあるけれど。
(着替えたいしな?)
スーツ姿で住宅街を散歩したって楽しくない。同じ歩くなら、断然、普段着。
それに着替えをしている間に、パン屋の方では新しいパンが焼き上がって棚に並ぶことだろう。食パンかバゲット、田舎パンといった類の食事パン。焼き立てを買いにいけばいい。
頭の中で手順を決めて、スーツを脱いで着替えたけれど。重い上着やズボンの代わりに家で着るラフな服を身に纏ったら、今度はゆっくりしたい気分で。
のびのびと好きに過ごせる我が家。やっと戻って来たというのに、パンのためにだけ出掛けるというのも些か面倒になって来た。「お座り下さい」と置かれた椅子やらソファを眺めたら。
(パンを買いに行く時間があったらだな…)
コーヒーを淹れて新聞も少し読めるだろう。夕食の支度を始める前に。
同じだけの時間をどう使うかなら、そちらの方が有意義だろうと思うから。熱いコーヒー片手に広げる新聞、その方が遥かに贅沢な時間に決まっているから。
(…明日の朝は飯だな)
パンが足りない分は白米で補うべし、と決断を下した。米なら研いでセットしておけば、明日の朝には炊き立てのものが食べられる。御飯茶碗に好きなだけよそって、パンの代わりに存分に。
オムレツにもサラダにもソーセージにも、パンと決まってはいないのだから。
前の自分が生きた時代はともかく、今の地球。今の自分が暮らす地域では、食事のお供に御飯が出るのは当たり前。前の自分ならパンがつくものと思い込んでいた料理などでも、御飯とセットで食べる家の方が多いのだから。魚のムニエルにも、ステーキなどにも御飯というのがこの地域。
(日本の文化というヤツだな)
気取ったフランス風のコース料理でも、頼めばパンからライスに変わる。白い御飯に。
そんな具合だから、明日の朝食にトーストと御飯を一緒に並べても、誰も笑いはしないだろう。「朝からしっかり食べるんですね」と、「御飯は腹持ちがいいですからね」と。
夕食用の御飯を多めに炊くより、明日の朝に炊き立てを食べるのがいい。そう思ったから、要る分だけ炊いて食べた夕食。買って来た魚などを料理する間に御飯は炊けたし、のんびりと。
片付けを終えたら、書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップに淹れて、運んで行って。
パンの件は失敗だったけれども、お蔭で二度目のコーヒータイム。普段だったら、帰宅してから二回も取れはしないのに。
(怪我の功名か…)
こんな日だっていいもんだ、と机の上のフォトフレームの中、小さなブルーに笑い掛ける。俺としたことが、ちょっと失敗しちまったぞ、と。
(明日の分のパンを切らしちまった。…お前だったら、あれで充分足りるだろうがな)
俺のトーストの一枚分はお前の分だと二枚だよな、と可笑しくなった。食が細いブルーの小さな胃袋、分厚いトーストはとても入らない。朝一番から食べられはしない。
小さなブルーに自分の失敗談を話してやったら、次は引き出しの中の前のブルーの写真集。前のブルーが寂しくないよう、自分の日記を上掛け代わりに被せてやっている写真集、『追憶』。
それを取り出し、表紙に刷られた前のブルーと向き合った。こっちにも報告すべきだな、と。
(おい、失敗をしちまったぞ?)
厨房にいた頃だったら大惨事だな、と心でブルーに語り掛けた。明日の朝食用のパンを切らしてしまったんだと、シャングリラだったら大騒ぎだ、と。
「でもまあ、なんとかなるもんだ。前の俺とは一味違うといった所か」
今は米の飯がある時代だからな、と声に出してみる。心で語るのもいいのだけれども、声にした方がブルーと話している気がするから。
「何度も教えてやっただろう? 米の飯ってヤツ」
明日の朝はそいつを炊いて食うんだ、パンが足りない分だけな。
米ってヤツは実に便利なもんだぞ、俺が弁当を作る時にも米の出番だ。そのままでも美味いし、炊き込み御飯にしたっていいし…。
味がついた飯の作り方も色々あるんだぞ、と知らないだろう前のブルーに教えてやった。炊けた御飯でも味はつけられると、具だって後から入れられるのだと。
「そうさ、パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、というわけだ」
元々のヤツでは御飯じゃなくてだ、菓子なんだがな、この台詞。
高貴なお姫様が仰ったそうだ、「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」とな。
その応用だな、俺は明日の朝はパンの代わりに御飯なんだ。
悪くないだろ、と言ってやったら、ブルーがクスッと笑った気がした、「君らしいよ」と。
「ハーレイはやっぱり料理好きだね」と、「パンが無ければ御飯なんだね」と。
なんとも自然に心に届いたブルーの声。前のブルーの懐かしい声。
(おいおいおい…)
打てば響くように返ったブルーの声だけれども、いくらなんでも前のブルーは言わないだろう。お菓子の部分を御飯に入れ替え、ポンと投げ返してはくれないだろう。
(…俺の勝手な夢なんだな)
シャングリラでは一度も言っていない筈の、あの台詞。「パンが無ければ…」と始まる、有名な言葉。御飯どころか、菓子の方でさえ口に出したことは無いだろう。
第一、知らなかったと思う。前の自分はあの言葉を。
今ならではの知識で薀蓄、それを語っても前のブルーが瞬時に反応する筈がない、と自分勝手な想像に苦笑したけれど。あまりに都合が良すぎるだろうと、酷いものだと思ったけれど。
(…待てよ?)
何故だか心に引っ掛かる。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という遠い遥かな昔の姫君の言葉、広く知られた有名な言葉とシャングリラ。
それが重なるように思えた、何故か。
あの船に高貴な姫君などはおらず、世間知らずの極みの言葉も無かったろうに。
シャングリラの食料は無駄にするなど許されないもの、不足することもまた許されない。あんな言葉が出て来る余地など、あの船には無かった筈なのに。
けれども、何処かで耳にしたように思えてくるから、なんとも不思議でならないから。
(誰か言ったか…?)
まさか俺ではない筈なんだが、と遠い記憶を探ってみて。自分ではないと確信したものの、まだスッキリとしないから。
何度も何度も繰り返してみた、頭の中で。あの言葉を。パンが無ければお菓子なのだがと、あの船では有り得ない状況の筈なんだが…、と。
そうこうする内、「菓子だ」と掴んだ記憶の手掛かり。パンではなくて菓子の方だと、あの船で菓子を巡る何かが…、と。遥かな時の彼方の記憶。シャングリラと菓子。
たった一つの小さな手掛かり、それを懸命に手繰り寄せていたら…。
(そうか…!)
あれだ、と蘇って来た、厨房にいた頃に起こった事件。
事の起こりは前のブルーが人類の輸送船から奪った食料、あの有名な言葉はその時に生まれた。
いや、言葉自体は遠い昔からあったわけだし、再発見されたと言うべきか…。
ある日、ブルーが奪って来た食料をコンテナから運び出してみたら。
アルタミラを脱出した直後に起こったジャガイモ地獄を彷彿とさせる代物が中に詰まっていた。かつて何度も起こってしまった食料の偏り、それがジャガイモ地獄やキャベツ地獄。ジャガイモは山のようにあるのに他の食材が殆ど無いとか、そういう事態。
前のブルーが手当たり次第に奪った頃には、よく起こっていた。今ではブルーも選んで奪うし、ジャガイモ地獄は過去のものになってしまっていたのに。
(…焼き菓子地獄だったんだ…)
他の食料は足りていたのに、どういうわけだか無かったパン。代わりにドッサリ、マドレーヌやフィナンシェといった焼き菓子の山。
小麦粉は混ざっていたのだけれども、パンを焼けるだけの量は無かった。料理に使えば無くなるだろう量、そのくらいしか無かった小麦粉。
「ごめん…。ぼくが間違えちゃったんだ」
コンテナの中身を読み誤った、と謝ったブルー。
お菓子ではなくて、パンの類だと思って奪って来たんだけれど、と。
一日分すらも無かったパン。船で焼こうにも、足りない小麦粉。パンの備蓄はまだあるけれど、あと数日で切れるから。焼くにしたって材料不足だから、ブルーが奪いに出たわけで…。
もう一度奪いに行ってくる、とブルーが出ようとするものだから。
前の自分が慌てて引き留めた、「俺が何とかしてみるから」と。パンが足りないくらいのことでブルーを危険に晒せはしない。ブルーにとっては容易いことでも、そう甘えてはいられない。
とはいえ、菓子の山ではどうにもならないのが現状。フィナンシェもマドレーヌも、甘い菓子でしかなくてパンには化けない。
菓子は菓子だし…、と倉庫に運んだ菓子の山を前に悩んでいたら。
「別にいいんじゃないのかね?」
ヒルマンがフラリとやって来た。ブラウもゼルも、それにエラも。何事なのか、とその顔ぶれに驚いたけれど、ブルーの姿で納得した。ブルーが呼びに行ったのだろう。パンならぬ菓子を奪ってしまった責任を感じて、「ハーレイを助けてあげてよ」と。
「こりゃまた見事なお菓子の山だねえ…」
お菓子だらけだよ、とブラウが呆れつつもヒルマンに「ほら、出番だよ」と声を掛けたら。
「この菓子だがね…。悩まなくても、このままで出せばいいんじゃないかと思うがね」
有名な言葉もあることだし、とヒルマンは「こうだ」と披露した。
曰く、「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」。
「ちょっと、ヒルマン…! あんたのアイデアって、それだったのかい?」
そりゃね、お菓子も食べ物だけどさ…。パンが無ければお菓子だってことになるのかい?
あんたが名案があるって言うから、あたしも期待していたのにさ…!
ブラウはもちろん、皆が唖然としたのだけれども、エラも「有名な言葉なのですよ」と頷いた。
ヒルマンが言うには、SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔のこと。
高貴な生まれで世間知らずのお姫様が言った、飢えに苦しむ民衆に「パンが無いなら、お菓子を食べればいいでしょう」と。
彼女の周りに飢えなどは無くて、パンもお菓子もあったから。どうしてパンが無いと駄目なのか不思議でならないと、お腹が減るならお菓子を食べておけばいいのに、と。
「酷いもんだねえ…。まるで人類みたいじゃないか」
あいつらだったら言ってくれそうだよ、あたしたちに向かってその台詞をね。
「いや、餌でないだけマシじゃないか?」
菓子なんだから、と笑ったゼル。人類が言うなら、そこは「餌」だと。
間違いない、と笑いが弾けて、ヒルマンが始めた補足の説明。その言葉を言ったと伝わる姫君はフランス革命で民衆に処刑されたけれど、別の人の言葉だという説もあると。
「彼女の叔母の一人だとも言うね、前のフランス王の娘の」
「ありゃまあ…。それじゃ、濡れ衣だっていうのかい?」
それも酷いね、とブラウが頭を振ったら、「もっと面白い話もありますよ」と微笑んだエラ。
その言葉の主は処刑された王妃だけれども、お菓子は普通のお菓子ではなかったのだという話。
「クグロフというお菓子だそうです、お姫様の生まれ故郷のお菓子で…」
パンに似たお菓子だったのですよ。形はパンとは違うのですが…。決まった形があるのですが。
でも、食べた感じは甘いパンのようで、そのせいでああいう言葉になった、と。
パンが無ければクグロフを食べておけばいいのに、どうしてそうしないのだろうと。
もっとも、パンも食べられないような飢えの中では、クグロフも作れなかったでしょうが。
本当の意味で「お菓子」と言ったわけではなかったかもしれない、遠い昔のお姫様。彼女なりにパンが無い現実を考えた末に、「クグロフがある」と提案した甘いパン風の菓子。
別の説では、本当に世間知らずな王様の娘、お姫様の叔母の言葉だとも。
今となっては誰が言ったか、どういう意味かも分からないけれど、パンが無くてお菓子ばかりの船にはピッタリの言葉だったから。
飢えているなら笑い事では済まないけれども、パンが無いというだけだから。
「これは使える」ということになった、その日の内にヒルマンが食堂で皆に伝えてくれた。船の食料は充分だけれど、パンだけが無い。パンだけのためにブルーに再調達を頼めはしないし、暫く我慢をして欲しいと。
「…そんなわけでね、一つ言葉をプレゼントしよう。こういう時に似合いの言葉を」
パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…そう言ったお姫様がいたそうだよ。
だから、高貴なお姫様になったつもりで、パンの代わりにお菓子だね。
さっきも言ったような事情で、パンは当分、無いそうだから。
誰からも文句は出なかった。
ヒルマンは「パンが無ければ…」の背景もきちんと説明したから、パンの代わりにお菓子がある分、ずっとマシだと仲間たちはストンと納得した。
本当だったら、そういう言葉が飛び出す時には代わりのお菓子も無いのだから。食べ物さえ無い飢えに見舞われ、お菓子どころではないのだから。
ヒルマンのお蔭で、実際にパンが無くなった後。焼き菓子が食事に添えられる日々がやって来た時、皆は不満を漏らす代わりに面白がった。
「お姫様気分も悪くないよな、パンが無ければ菓子なんだからな」
「男でお姫様はないだろうけどな…。畜生、俺も女だったら良かったのか?」
女性はもれなくお姫様だ、と羨ましがったりした仲間たち。
飢えこそ経験していないけれど、アルタミラで餌と水しか無かった時代を知っているから、皆が笑っておしまいになった。パンが無くても。お菓子が代わりに置かれていても。
それどころか逆に大人気だった、菓子で食べる食事。
(何の工夫も要らなかったんだっけな)
焼き菓子の山に前の自分は「どうしたらいいのか」と頭を抱えていたのに、思いもよらない方へ転がった焼き菓子地獄。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という言葉によって。
菓子はそのまま出せばよかった、パンを出すようにパン皿に載せて。
今日の料理に合いそうな焼き菓子はどれかと、組み合わせを少し考えただけ。見た目や風味や、そういったもので。フィナンシェもマドレーヌも、ダックワーズも。
どんな料理にも菓子をつけて出した、チキンだろうが、魚だろうが。ムニエルだろうが、ソテーだろうが、ローストだろうが。
食堂で出される菓子つきの食事、今日はどういう組み合わせだろうかと楽しんでいた仲間たち。
パンの代わりに今日もお菓子だと、お姫様だと笑い合って。
(前のあいつも…)
添えられた菓子を頬張りながら、嬉しそうに笑っていたのだった。
「ヒルマンのお蔭で助かったよ」と、「ハーレイも、ぼくも助かったよね」と。
焼き菓子地獄は天国になった、遠い昔のお姫様の言葉の力を借りて。パンが無ければお菓子だと思った、飢えを知らなかったお姫様。
(懐かしいなあ…)
あの思い出を話してやろうか、小さなブルーに。
明日は幸い、土曜日だから。パンの代わりにお菓子を食べていた船の話を。
次の日、食パンは一切れしか無かったのだから、朝食のテーブルにそれと御飯。炊き立てのを。他はいつものオムレツにソーセージ、サラダも添えて。
(パンが無ければ御飯を食べればいいってな!)
上等じゃないか、と笑いながら食べた、御飯は菓子より遥かに美味いと。白い御飯は甘い菓子と違って自己主張しないから、オムレツにもソーセージにも、サラダにも合う。なにより炊き立て、ホカホカと湯気が立つのが菓子との違い。まるで焼き立てパンのよう。
今は便利なものがあるな、と感心しながら頬張った。前の自分が生きた頃には、パンが無ければ菓子だったのに、と。
あの時、菓子の代わりにパスタが山ほど詰まっていたなら、パスタだったかもしれないけれど。
けれどパスタも、御飯ほどには万能と言えない食べ物だから。どんな料理にもパスタがあればと言い切れる人は多分、少ないだろうから。
やはり食事には菓子より御飯、と美味しく食べていて、ふと思い付いた。
(そうだ、あいつに…)
菓子を買って行こう、昼食用に。
同じ思い出話をするなら、あの頃の食事に近いのがいい。ブルーの母が昼食に何を出そうとも、パンでも御飯でもなくて、焼き菓子を添えて。
そしてブルーに尋ねてみよう。「お前、こいつを覚えているか?」と。
朝食を済ませて、ブルーの家へと向かう途中で寄った焼き菓子の店。どれにしようかとケースを覗いて、見付けたフィナンシェ。それにマドレーヌ。
(有難いことに、そっくりだってな)
焼き菓子地獄の記憶の菓子と瓜二つのフィナンシェとマドレーヌだから。ブルーの分と、自分の分とを考えながら買った。これをお供に食事をするならこのくらい、と。
菓子を詰めて貰った紙袋を提げて、ブルーの家まで歩いて行って。門扉を開けてくれたブルーの母に、その紙袋を手渡した。
「すみません。今日の昼食、料理は何でもかまいませんから…」
御飯やパンをつける代わりに、これをつけて出して頂けますか?
この通り、フィナンシェとマドレーヌしか入っていないのですが…。
「え? 御飯の代わりにお菓子ですか?」
お昼御飯はチキンのソテーのつもりでしたし、御飯でもパンでも合いますけれど…。
パンを御希望でしたらともかく、お菓子というのは何ですの…?
「シャングリラの思い出なんですよ」
ブルー君の失敗談と言っていいのか、悪いのか…。私がキャプテンになるよりも前の話ですね。
奪って来てくれた食料の中にパンが全く無かったんです。船で焼こうにも、小麦粉も無くて…。
代わりに焼き菓子が山ほど入っていました、その時の解決策だったんです。
ヒルマンがこう言ってくれたんですよ。「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」。
御存知でしょうか、SD体制が始まるよりも遠い昔の姫君の言葉だそうですが。
「えーっと…。マリー・アントワネットでしたかしら、フランスの王妃様ですわね?」
聞いたことがありますわ、その言葉。
でも…。お菓子も無かったと思いますわよ、その言葉が生まれた時代には。
シャングリラにはお菓子があったんですのね、それなら思い出にもなりますわよね。お菓子さえ無い状況だったら、思い出どころじゃありませんもの。
例の言葉をブルーの母は知っていたから、面白そうに引き受けてくれた。
「お昼御飯はチキンのソテーに、フィナンシェとマドレーヌをお出ししますわ」と。
案内されたブルーの部屋では、ブルーが「お土産は?」と待ち侘びていたのだけれど。お土産は食べ物と決まっているから、お菓子だと思ったらしいのだけど。
「…あれ? ママのお菓子…」
ハーレイが持って来たお土産、お菓子じゃないの?
ママに袋を渡しているのがちゃんと見えたよ、お土産、持って来てくれた筈なのに…。
「まあ、待て。アレの出番は昼飯なんだ」
それまで楽しみに待つんだな。わざわざ買いに行って来たんだから。
「ホント!?」
お店で見付けたわけじゃなくって、ハーレイ、買いに行ってくれたんだ?
それってとっても期待出来そう、美味しいんだよね?
「うむ。俺も気に入りの店のではある」
柔道部のガキどもに御馳走するには上等すぎるし、あいつらには買ってやらないが…。
他ならぬお前のためだからなあ、うんと奮発してやったぞ。
「ありがとう、ハーレイ!」
何が出るのかな、お昼御飯が楽しみだよ。ハーレイのお気に入りのお店のだなんて…!
(…嘘は言っちゃいないぞ)
まるで嘘ってわけじゃないんだ、と心の中でだけクックッと笑う。
あの店の焼き菓子は材料がいいから、なかなかに美味しいと評判だしな、と。
そして迎えた昼食の時間。ブルーの母が「お待たせしました」と運んで来たチキンのソテーと、スープとサラダはいいのだけれど。
お茶椀に盛られた御飯は無くて、パン皿にパンは載っていなくて。バゲットやトーストの姿など無くて、代わりに焼き菓子。フィナンシェとマドレーヌ、それがブルーのパン皿の上に一個ずつ。ハーレイのパン皿には二個つずつ置かれて、おかわり用にと盛られた籠も。
「ごゆっくりどうぞ」とブルーの母が去って行った後、ブルーは目を丸くして焼き菓子を眺め、それからチキンのソテーなどを見て。
「…なにこれ?」
ハーレイのお土産、もしかして、これ?
お昼御飯だけど、フィナンシェとマドレーヌを買って来たわけ…?
「そうなるな。俺はチキンを買って来ちゃいないし、スープもサラダの野菜もだ」
この焼き菓子を買って来たってわけだが、忘れちまったか?
食事には何も、御飯と決まったわけではないし…。パンと決まったわけでもないし。
思い込みというヤツはいかんぞ、もっと頭を柔らかくしろ。
パンが無ければ、どうするんだっけな?
今は御飯もあるわけなんだが、その御飯ってヤツが無かった時代。
前の俺たちはどうしてたっけな、パンを食べようにも、そいつが何処にも無かった時は…?
アレだ、と片目を瞑ってみせた。有名な言葉なんだが、と。
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…覚えていないか?」
ずうっと昔のお姫様の言葉だ、前の俺たちにヒルマンが教えてくれた。それにエラもな。
前の俺がだ、パンが何処にも無いと悩んでた時に、出して貰った助け舟だ。
ヒルマンとエラを連れて来てくれたのは、お前だったが。
「…思い出した…!」
前のぼくだよ、パンはきちんと入っているつもりで食料を奪って帰ったのに…。
パンだと思った中身はお菓子で、こういう焼き菓子ばっかりで。
小麦粉もパンを沢山焼けるほどには入っていなくて、ハーレイが困ってたんだっけ…。
「俺が何とかする」って言ってくれたけど、ハーレイにもいい方法は何も見付からなくて。
それでヒルマンたちに相談したっけ、「パンが無いけど、どうしたらいい?」って。
あの時にヒルマンが考えてくれた言い訳がそれだよ、パンが無ければお菓子ってヤツ。
こういうお菓子が食堂で出てたよ、普通のお料理とセットになって。
前のぼくの失敗、とブルーが肩を竦めているから。
やってしまったくせに忘れちゃってた、と申し訳なさそうにしているから。
「なあに、お前が気に病む必要は無いってな」
前のお前が奪わなければ、菓子だって手に入らないままで飢えるしかない船だったろうが。
白い鯨に改造するまでは、シャングリラはそういう船だった。
あの時だって、菓子があったら上等だ。ジャガイモ地獄とかに比べりゃ、食材の方は揃ってた。一緒に食うためのパンが無いだけで、料理は色々出来たんだからな。
「でも、失敗…。みんなは面白がってくれていたけど…」
ヒルマンが知恵を出してくれなきゃ、あんな風に上手くいったかどうか…。
パンが無いぞ、って文句を言う人、まるで無かったとは言えないかも…。
「そいつだけは無いな、パンの出来に文句を言うヤツはいたって、パンそのものは」
あるだけ有難いと思って食ってただろうさ、パンの代わりに焼き菓子でもな。
お姫様気分とはいかなかったろうが、それでも文句を言うヤツはいない。前のお前がいなけりゃ飯も食えずに死ぬしかないんだし、パンを寄越せとは誰も言わんな。
…それにだ、俺も昨日に失敗したんだ。
「何を?」
失敗って、ハーレイ、何をやったの?
「…情けないんだが、パンをすっかり切らしちまった」
パンを買いに行ったら売り切れでな…。戻って別の店に行くかと思ったんだが、車だったから、それも面倒だと思っちまって…。
確か家にはまだあった筈だ、と帰ってみたら一切れしか残っていなかった。
俺は毎朝、分厚いトーストを二枚は食いたいタイプだからなあ、一枚じゃ足りん。食パンとか、田舎パンだとか。何にしたって、朝からしっかり食べたいんだ。
…それなのに、たった一切れだぞ?
失敗と言わずに何と言うんだ、パンを買わずに帰ったことを。
しかし、だ…。
今は米の飯がある有難い時代だからな、と語った今朝の自分の食卓。パンが足りない分は御飯を炊いて、オムレツにソーセージにサラダ、と。
「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、ってトコだろ、今は」
そいつを声に出して言ったら、何処かで聞いたような気がしてなあ…。
今の俺じゃなくて前の俺がだ、元の言葉を知っていたんじゃないか、と記憶を探って、だ。
シャングリラのことを思い出したんだ、パンの代わりに菓子を出してた、と。
…前の俺たちは菓子を食うしかなかったわけだが、今の俺には御飯ってヤツがあったってな。
実にいい時代になったと思わないか?
パンが無い時は米の飯を炊けば、立派にパンの代わりを果たしてくれるんだしな。
これがパスタじゃそうはいかんぞ、何にでも合うとは言い難いじゃないか。
「本当だね…!」
御飯だったら、ホントに何でも合うものね…。
前のぼくたちの頃の食事でも、御飯で充分、食べられるよ。
御飯があるって素敵なことだね、前のぼくたちは御飯なんか食べていなかったのに。
それに今はお菓子も沢山ある時代、とフィナンシェとマドレーヌを見ているブルー。
奪って来なくても店に行けば買えるし、思い付きで食事にも添えられる、と。
「そうでしょ、ハーレイ?」
あの時の食事と同じにしよう、って思ったら買って来られる時代。
ぼくの家まで歩く途中で、美味しいお店にヒョイと入って。
「そうだな、この店の他にも幾つもあるなあ、こういった菓子が買える店」
お互い、あの頃の俺たちに比べりゃ、お姫様だな。
パンも御飯もあるっていうのに、わざわざ菓子と来たもんだ。
無いのなら菓子でも仕方ないがだ、あるに決まっているのをこうして菓子にしちまって。
「うんっ! ハーレイもぼくも、お姫様だね」
パンが無くても、御飯があるし…。パンも御飯も揃っていたって、お菓子もあるし。
今ならハーレイみたいに言えるね、「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない」って。
御飯も無いなら、お菓子を食べればいいのにね、って。
ブルーと二人、焼き菓子をお供にチキンのソテーを頬張った。スープもサラダも。
シャングリラの頃には、本当にパンが無かったから焼き菓子を食べたのに。パンを焼こうにも、小麦粉も足りなかったから。
それに比べて、贅沢になった食料事情。
パンも御飯もあるというのに、思い出のためだけにお菓子を選んでいい時代。
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言った高貴な姫君さながらに。
この幸せな今の時代を、ブルーと一緒に生きて行こう。
青い地球の上で手を繋ぎ合って、パンも御飯も、お菓子も選べる幸せな今を…。
パンが無ければ・了
※シャングリラで起こった、お菓子だらけの日々。ヒルマンの機転で一気に楽しい毎日に。
今ではパンの代わりに御飯で、充実している食糧事情。幸せな青い地球での暮らし。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
海に、山にとお出掛け三昧、遊び三昧の夏休みが近くなって来ました。期末テストも終わってカウントダウンな日々ですけれども、ある日の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でジョミー君がボソリと零した一言。
「…ソルジャー除けって無いのかなあ…」
「「「は?」」」
なんだそれは、とジョミー君に視線が集中。ソルジャー除けって、どういう代物?
「うーん…。イノシシ除けみたいな感じで、こう」
「イノシシ除けだと? 俺に喧嘩を売っているのか!?」
キース君の瞳が一気に険しく。
「俺の家では大概、苦労をしているんだが! イノシシで!」
「そうだったっけ?」
「ヤツらのお蔭で墓地の管理が大変なんだ! 知らんのか、貴様!」
「えーっと…?」
そんな話があったっけ、というジョミー君の疑問は私たちにも共通でした。元老寺にイノシシという話自体が初耳だという気がします。それに墓地の管理が大変って…何?
「どいつもこいつも平和な顔をしやがって…。墓地はヤツらとの戦場なんだ!」
最前線だ、とキース君。
「俺の家は裏山が墓地だからな。ヤツらのテリトリーと隣接していると言ってもいい。そしてヤツらは越境して来る。裏山との境の生垣を鼻と身体で押し通るんだ!」
通って来て墓地のお供え物を食いまくるのだ、という話。でもでも、それはお供え物。お下げして食べようと思う人なら、自分で持って帰るでしょう。それをしないで置いてあるなら、今の季節は炎天下に放置、キース君たちがお下げしたって食中毒の危機だと思うんですが…?
「誰が自分で食いたいと言った! 檀家さんがお供えなさった物には手は出さん!」
法事のお供え物ならともかく…、という説明。本堂で法事を希望の場合は、御本尊様などにもお供え物が。それはキース君たちが後でお下げして食べるのだそうで、限定品のお菓子とかだと万々歳。けれど墓地に置かれたお菓子の場合は撤去して捨てる決まりだとか。
「「「捨てる!?」」」
「ああ。いくら珍しい菓子が供えてあっても、仏様の物には手を出すな、とな」
ガキの頃から親父に厳しく躾けられた、というキース君。だったらイノシシと戦わなくても、笑顔で譲ればいいのでは? どのみち捨てるお菓子だったら、イノシシに喜んで貰いましょうよ~。
撤去して捨てるというお約束の、元老寺の墓地のお供え物。イノシシがそれを食べまくっていても、無駄にならないからいいだろう、と私たちは考えたのですが…。
「甘い、お前たちは甘すぎるぞ!」
イノシシの怖さを知らんのか、とキース君は眉を吊り上げて。
「ただ黙々と食って帰るなら何も言わんが、ヤツらは暴力的なんだ! わざとかどうかは俺も知らんが、食ったついでに墓石を倒して行きやがる!」
「「「ええっ!?」」」
「たまたま身体が当たった結果か、デカいイノシシが墓石の間を押し通ったのかは謎だがな…。倒壊するんだ、墓石が! そうなった時の修理費用はウチの負担だ!」
檀家さんには何の責任も無いからな、と言われてみればそうなのかも。檀家さんが倒したわけじゃないなら、維持管理は元老寺の仕事ですから、当然、費用も…。
「その費用が馬鹿にならんのだ! だから墓地には「お供え物を置かないで下さい」と看板や張り紙をしてあるんだが…。こればっかりは檀家さんに強制出来んしなあ…」
昔は置くのが当たり前だったし、と深い溜息。
「特に御高齢の方がお参りなさって、心をこめて作った菓子や弁当をお供えなさっていた場合はなあ…。気付けば「持って帰って下さい」と注意も出来るが、そうでない時は…」
善意で置かれたお供え物だけに文句を言えん、という話。墓地の管理は係の人がしていますから、パトロールなどもあるそうですけど、なにしろ広いのが元老寺の墓地。見落とし多数で、食べにやって来るイノシシたちとの攻防戦が激しく続いているらしくって。
「イノシシが来ないよう、イノシシ除けが出来ないものか、とあちこち相談してみたんだが…」
「駄目だったわけ?」
ジョミー君が訊くと、「そういうことだ」と肩を落としているキース君。
「農業をやってる檀家さんが一番詳しいからなあ、親父が何人もに話を聞いた。しかし「これだ」という手が無い。電柵もイマイチ効かないらしいし…」
「「「電柵?」」」
「電流攻撃というヤツだ。田んぼや畑の周りに電線を張って、軽い電流を流すわけだが…。ヤツらは面の皮どころか全身の皮が厚い上にだ、毛皮も纏っていやがるからな」
触れてビリビリと感電どころか、「ピリッとしたかな?」という程度だとか。それで気にせず畑に侵入、作物をボリボリ食い漁るそうで。
「肝心のイノシシに全く効かないどころか、子供が触って感電したと苦情が来るそうだ」
「「「あー…」」」
それはマズイ、と理解しました。電柵に「触るな」と注意書きはしてあるらしいですけど、字が読めないような小さな子供だとビリビリですよね…。
農業のプロでも防げないイノシシ、使えないと評判の電柵とやら。元老寺で導入したってコストが無駄にかかるというだけ、墓石の倒壊は防げそうになく。
「親父が聞いて来て、生垣の裏に丈夫な金網を張ってはみたが…。ヤツらは前にしか進まんと言うから、これで来ないかとやってみたんだが…」
「どうなりました?」
シロエ君の問いに「駄目だったな」という返事。
「最初の間は無駄に金網に突撃しててな、派手にへこみがついていたから、勝ったと思った。だが甘かったな、ヤツらは金網を破って来たんだ」
「「「破った!?」」」
そんなパワーがありますか! 金網に穴を開けるだなんて…。
「正確に言えば、支柱の部分を突破された。支柱と金網との接合部分が弱かったらしくて、其処を壊して侵入した、と」
一度やったら学習された、と頭を抱えるキース君。突破されて以来、修理する度に同じ箇所を攻撃されるのだとか。そして侵入、お供え物をボリボリ、墓石を倒しまくっているのだそうで。
「そういうわけでな、イノシシ除けは効かんのだ! 俺のイノシシとの戦いを承知でイノシシ除けだと言ったのか、貴様!?」
よくも、とジョミー君の所に戻った話題。キース君にギロリと睨まれ、ジョミー君は「わざとじゃないよ!」と慌てて首をブンブンと。
「イノシシで苦労しているなんて話は初耳だったし…。ぼくが考えたのはソルジャー除けでさ、イノシシ除けっていうのは例え話で!」
「ソルジャー除けというのは何だ!?」
それを聞かせて貰おうか、とキース君は事情聴取をする警察官よろしく怖い顔。ジョミー君の方は肩を竦めて「ホントにイノシシは例えだってば…」とぼやきながら。
「ソルジャー除けだよ、いつもやって来るあのソルジャーだよ!」
「それは分かるが、どう除けるんだ!」
あんなものを、とキース君。
「除けられるんなら誰も苦労はしないぞ、イノシシ以上に迷惑をかけてくるヤツなんだからな!」
「丸ごと除けるのは無理だろうけど、ちょっとくらいなら出来るかなあ、と…」
出来たらいいなと思ったんだけど、とジョミー君は言っていますけど。イノシシですらも除けられないのに、あのソルジャーなんか除けられますか?
何かと言えば空間を超えて乱入して来るお客様。それがソルジャー、蒙った迷惑は星の数ほど、イノシシどころではないトラブルメーカー。ソルジャー除けがあるんだったら使いたいですが、まず無理だろうと思いますけどね?
「だから丸ごとは無理そうだし…。こう、限定で」
「「「限定?」」」
「うん。迷惑の中身は色々あるけど、一番多いの、レッドカードが出るヤツだよね」
ブルーがベシッと出しているアレ、とジョミー君は会長さんに同意を求めて。
「そうだね、それが一番多いか…。ぼくも迷惑してはいるけど、あれが何か?」
「レッドカードを出さなきゃいけないような話だけ、させない方向で除けられないかな?」
「「「へ?」」」
「その手の話だけを除けるってこと!」
喋ったら派手にペナルティーとか…、とジョミー君。
「夏休みになったら確実に増えるよ、そういう話を引っ提げて乱入して来る日がさ…。乱入自体は避けられなくても、アヤシイ話を聞かずに済んだらかなり楽だと思うんだけど」
「それはそうかもしれませんねえ…」
アレが諸悪の根源ですしね、とシロエ君が大きく頷きました。
「あの手の話さえ封じられたら、迷惑度数がグンと減ります。会長、なんとか出来ませんか?」
「なんとかって…。それが出来たら苦労はしないよ」
それこそ元老寺のイノシシと同じ、と会長さんは言ったのですけど。
「本当に無理? 御祈祷とかで何とかならない?」
ジョミー君が食い下がって。
「ソルジャー、そっち方面の能力、皆無なんだよね? 御祈祷だとか、法力だとか」
「それは無かった筈だけど…。そもそもそういう御祈祷の方が…」
無いね、と会長さんは即答。アヤシイ話を封じられる呪文やお経の類は存在しないという話ですが、横で聞いていたキース君が。
「待てよ、その辺は実は何とかなるんじゃないか?」
「無い袖は振れないって言うんだけどねえ?」
「しかしだ、璃慕恩院でも今では護摩焚きで御祈祷なんだぞ? 俺たちの宗派は本来、護摩焚きはしなかったよな?」
それが護摩焚きで合格祈願に必勝祈願、とキース君。えーっと、それってアヤシイ話への対策とやらにも有効ですか?
「なるほど、璃慕恩院の護摩焚きと来たか…」
そういうイベントがあったっけ、と会長さんが顎に手を当てています。璃慕恩院の護摩焚きというのは何でしょう? 護摩焚きと言ったら火を燃やして祈祷する方法のことでしょうけど…。
「ああ、それはね…。ぼくやキースが属する宗派は護摩焚きとは縁が薄いんだ。元々そっちをやってた宗派のお寺だったのが宗派を変えた、って所くらいにしか無かったんだけど…」
今ではそうでもなくなってきて…、と会長さん。
「ぼくたちの宗派は何をするにも南無阿弥陀仏。合格祈願も縁結びでも、何でもかんでも南無阿弥陀仏でやるというのが鉄則だけれど…。檀家さんにはイマイチ通用しなくてねえ…」
もっと有難味のある御祈祷をして貰えないか、という要望が高まったとかで。
「ぼくたちも一応、護摩焚きで唱えるお経は読める。それで璃慕恩院が始めたんだな、護摩焚きをね。御本尊様の前でやるのはあんまりだから、と境内の神社で」
「「「神社!?」」」
「お寺の境内に神社があるのは珍しくないよ? 璃慕恩院の中にも昔から伝わる御縁の深い神社があってさ…。其処でやるならいいだろう、と護摩焚きの御祈祷、受付開始」
そしたらこれが大評判で、と会長さんは教えてくれました。大々的に宣伝をしたというわけでもないのに、口コミで次々に依頼が舞い込み、今では定番。南無阿弥陀仏よりも効きそうだ、と色々なお願い事が日々、持ち込まれているらしくって。
「キースの言う通り、これは使えるかもしれない。お願い事なら何でもオッケー、それが璃慕恩院の護摩焚きの人気の理由だしね?」
「それでソルジャー除けになるわけ?」
護摩焚きに其処までのパワーがあるの、とジョミー君が尋ねると。
「どうだろう? これだ、という呪文やお経は無い。だけどそういうことを言ったら、合格祈願のお経なんかも無いわけで…。それを叶えるのが護摩焚きとなれば、ブルー除けだって!」
やってやれないことはない! と会長さんはグッと拳を握りました。
「ぼくの法力というヤツが勝つか、煩悩まみれのブルーが勝つか。この際、勝負をしてみるのもいい。ぼくが勝ったら、思い切り平和な夏休みだから!」
上手く行ったら夏休みどころか永遠に平和な日々をゲットだ、と会長さんの背中に護摩の炎が見えそうな感じ。やるんですか、本気でソルジャー除けを?
「思い付いたら実行あるのみ! ジョミーにしては最高のアイデアだったよ、ブルー除け!」
やってみせる、と言い出しましたが、護摩焚きの祈祷でソルジャー除け。それで平和な夏休みとかがゲット出来たらいいですけどねえ…?
護摩焚きの祈祷は夏休みの初日と決まりました。会長さんは着々と準備を進めて、ついにその日が。私たちが朝から会長さんのマンションにお邪魔してみると…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
護摩焚きの会場はリビングなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「「「リビング!?」」」
それって家の中ではないですか! 火災報知器が鳴っちゃいませんか、いえ、それよりも前にホントに天井、焦げちゃいませんか?
「平気、平気! ちゃんとシールドするんだも~ん!」
こっち、こっち! とピョンピョン跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。リビングに着くと絨毯や家具が撤去され、フローリングの床のド真ん中にドドーン! と護摩焚き用の壇が出来ていて。
「やあ、来たね。これからブルー除けの御祈祷をね…」
全身全霊でやらせて貰う、と会長さんが緋色の法衣で立っていました。立派な袈裟まで着けています。護摩壇の側には仏具もきちんと揃っていて。
「あんた、本格的にやる気だな?」
キース君が仏具などを視線でチェック。
「これはアレだろう、俺たちの宗派の方ではなくてだ、恵須出井寺の方の…」
「ぼくはそっちの方の修行も一応きちんとやってるからね? 護摩焚きの腕もプロ級ってね」
部屋の中で護摩焚きも向こうじゃ普通、と会長さん。
「部屋じゃなくってお堂だけどさ…。中でガンガン護摩を焚くのが恵須出井寺流!」
だからリビングでやればいいのだ、と会長さんは自信たっぷりです。
「この暑い中で、屋上はねえ…。夏はクーラーが欠かせないんだよ、護摩焚きにはね」
「本当か?」
「嘘に決まっているだろう! 汗ダラダラで護摩を焚くから御利益もね」
とはいえ汗をかかないスキルがあるなら無問題、と涼しい顔の会長さん。護摩焚き専用のお堂じゃなくても天井を焦がさず、クーラーを効かせて祈祷が出来るのも能力の内、という話。
「君たちだって暑い屋上より、断然、リビングがいいだろう?」
「それはまあ…」
否定はせんが、とキース君。私たちもコクコク首を縦に。ウッカリ御機嫌を損ねてしまって屋上行きにされてしまったら暑いですしね、真夏の護摩焚き…。
間もなく「そるじゃぁ・ぶるぅ」が奥から運んで来た香炉。会長さんがそれを手にしてリビング中を清めて回って、私たちも真面目にお焼香を。いよいよ護摩焚きの始まりです。護摩壇の前に座った会長さんが朗々とお経や呪文を唱えて点火で。
「「「うわー…」」」
スゴイ、としか言いようのない屋内護摩焚き。炎はぐんぐん大きく燃え上がり、護摩木が投げ込まれる度に飛び散る火の粉。もちろん煙も。けれども天井を舐める炎は焦げ跡を作らず、火災報知器も鳴りません。
「これって御利益、ありそうかも…」
ジョミー君が呟くと、キース君が。
「当たり前だろう、銀青様の護摩焚きだぞ? これで効かない筈が無い」
「でもよ、ブルー除けとか唱えていねえぜ?」
それで効くのかよ、とサム君が訊けば。
「いや、ハッキリそうとは言っていないが、災難を除ける御祈祷を応用しているようだ。降りかかる災難を除けて下さい、という感じだな。それと願い事は護摩木に書くのが王道だ」
あれに細かく書いたのだろう、と言われて見てみれば投げ入れられる護摩木には墨で何やら書かれています。なるほど、あれがソルジャー除けの…。
「効くといいわね、ソルジャー除け」
スウェナちゃんが護摩の炎に手を合わせ、私たちも合掌して深く頭を下げました。炎の熱さすら感じませんけど、護摩焚きの御祈祷、実行中。これでソルジャーのアヤシイ話を封じられたら、この夏休みは極楽ですよ~!
会長さん渾身の護摩焚き祈祷は無事に終わって、後は祭壇などのお片付け。どうするのかな、と眺めていたら、会長さんが灰を袋に詰め込んでいます。大袋に詰め、次は小袋。お守り袋くらいのサイズに縫われた小さな布の袋ですけど…。
「ああ、これかい? 護摩の灰は効き目があるからねえ…」
これが文字通りのブルー除け、と小さな袋がドッサリと。大袋に詰めた灰を使えばまだまだ沢山作れそうです。お守りみたいなものだろうか、と見ている間に祭壇はすっかり片付いてしまい、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が絨毯や家具を瞬間移動で運び込んで…。
「お疲れ様ぁ~! お昼御飯にする?」
「そうだね、急いで着替えて来るよ」
会長さんが奥の寝室へ引っ込み、戻って来た時には普通の半袖、ズボンといった見慣れた私服。私たちは揃ってダイニングに移動し、会長さんの慰労会も兼ねてスパイスたっぷりエスニック料理の昼食です。鯛のココナッツ煮込みにカニの香草炒め、ピリッと甘辛いチキンの串焼きエトセトラ。
「かみお~ん♪ 夏はやっぱりスパイシー!」
スパイスで暑さをふっ飛ばさなくちゃ! とトムヤムクンも作ってあります。どれも美味しい、と喜んでいたら…。
「こんにちは」
「「「!!?」」」
振り返った先でフワリと翻る紫のマント。さっき御祈祷をしていた相手が立っているではありませんか! ソルジャーは空いていた椅子にちゃっかり座って。
「ぶるぅ、昼御飯、ぼくのもあるよね?」
「うんっ! どれも沢山作ってあるから!」
「嬉しいな。夏はこういうのも美味しいよね」
夏バテ防止にしっかり食べる! などと言ってるソルジャーですけど、ソルジャーが暮らすシャングリラの中、空調の方は完璧なのでは? 夏バテなんか聞いてませんよ?
「それはもちろん! 一応、四季は作ってあるけど、公園限定!」
他の区域は関係ないのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「二十四時間、いつでも快適! だけど公園でそれをやるとね、ぼくの大好きな桜が咲かなくなっちゃうからねえ…。公園だけは夏があるんだ。でもブリッジには影響なし!」
公園と隣り合わせだけれども影響は皆無、という話。私たちの世界のシャングリラ号は四季にこだわってはいない筈ですが、多分、似たような構造でしょうねえ…。
ソルジャーの世界のシャングリラの構造をパクッたらしい、私たちの世界のシャングリラ号。今の時代に作れる筈がないワープドライブ付きの宇宙船、会長さんがソルジャーから設計図を貰ったのだという話です。無意識の内に。そういう意味では大恩人のソルジャーですけど…。
「美味しかったー! 御馳走様!」
これで今夜もパワフルに…、と笑顔のソルジャー。
「夏は気分が開放的になるって言うしさ、これからが素敵なシーズンだよね!」
「その先、禁止!」
会長さんが止めに入りましたが、ソルジャーは。
「何を言うのさ、夏こそセックス! 裸で寝たって風邪を引かない素晴らしい季節!」
ぼくたちの結婚記念日も夏! と嬉しそうに。
「今年の海の別荘行きだって楽しみなんだよ、只今、休暇の根回し中! ハーレイとぼくと、ぶるぅと纏めて留守にするから、きちんと準備をしておかないと!」
「はいはい、分かった」
根回しのためにもサッサと帰る! と会長さんがダイニングの扉を指差しましたけれど。
「あっ、食後の飲み物はリビングだっけね! 今日は何かな、ラッシーかな?」
「スムージーだよ、トロピカルフルーツたっぷりなの!」
「いいねえ、来た甲斐があったよ、今日も!」
ぼくの分のスムージーもよろしく、と先頭に立ってリビングに移ってしまったソルジャー。ソファに陣取り、スムージーが届くと話の続きをベラベラと。
「今日はしっかりお昼を食べたし、ハーレイにも文句を言わせない、ってね! ぼくが真っ当な食事をしないから、って顔を顰めてセックス控えめ、これは良くない!」
壊れるほどにヤってなんぼだ、とアヤシイ方向へ突っ走る中身。会長さんの御祈祷、効いていないじゃないですか!
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを突き付け、ソルジャーは。
「ダメダメ、夏は猥談の季節!」
「それを言うなら怪談だってば!」
「どっちも似たようなものなんだってば、盛り上がれば良し!」
猥談で大いに盛り上がろう! とソルジャーが拳を突き上げた瞬間、会長さんの右手がサッと閃き、何かが宙を。ソルジャー目掛けて飛んで行ったそれがバッと弾けて…。
「クシャン!」
ソルジャーの口から飛び出したクシャミ。それは立て続けに続き、ソルジャーの周りに煙のような灰がもうもうと。もしや、今のは…。
「何するのさ!」
ゲホゲホと派手に咳き込みながらソルジャーが叫ぶと、会長さんは。
「帰れと言ったのに帰らない上、レッドカードにも従わない。…だからこの際、最終兵器」
「最終兵器?」
どの辺が、とまだゴホゴホと噎せているソルジャー。
「人体実験の経験者のぼくを舐めないで欲しいね、この程度でぼくが逃げるとでも? …ゴホッ、これが胡椒爆弾だったとしてもさ、ぼくは全然平気だけどねえ? …って、ハークションッ!」
ぼくのマントが灰だらけに…、とバサバサバサ。戦闘に特化して作られたというソルジャーの衣装、灰まみれになっても叩けば綺麗になるようです。しかし…。
「その灰、ただの灰だと思ってる?」
会長さんがスムージーを飲みながら言って、ソルジャーが。
「えっ? 灰だろ、最終兵器とかって名前だけはやたら立派だけれどさ」
「それが最終兵器なんだな、今の、まともに被っただろう?」
「被ったけど? だからクシャミに咳なんだよ! …ックション!」
油断した、とゲホゲホやっているソルジャー。会長さんは悠然と笑みを浮かべると。
「その様子だと君は知らないわけだね、ぼくがやってた御祈祷も意味も」
「御祈祷?」
「そう、御祈祷。朝からこの部屋で華々しくやっていたんだけどねえ、火を燃やしてさ」
「知らないよ!」
今日は朝から会議だったのだ、とソルジャーは唇を尖らせました。朝一番から会議室に行って、こっちへやって来る少し前まで会議三昧、覗き見どころではなかったとか。
「ついでに、ここ暫くは何かと忙しくってさ…。ろくに覗き見する暇が無くて、おやつも食事もどれほど逃してしまったことか…!」
「なるほど、ホントに何も知らない、と。…君除けの祈祷をしていたことも」
「えっ?」
「君のいわゆる猥談攻撃。それを除けるための祈祷をやっていたのさ、朝からね」
それの成果が最終兵器、と会長さん。やっぱりさっきの灰の正体、護摩木を燃やした灰でしたか!
「…ぼくの猥談除けだって? 今の灰が?」
どういう意味で、とソルジャーは赤い瞳を丸くしてから。
「猥談、普通に出来そうだけどね? 続きをやるなら、盛り上がろうって所から! この夏もハーレイと大いにヤリまくるつもりでいるんだ、もちろん薬もしっかりと買って!」
スッポンにオットセイ、その他もろもろ…、とソルジャーは指を折りました。
「夜のお菓子のウナギパイだって欠かせないしね、それで今夜もパワフルに!」
「「「………」」」
全然効いていないじゃないか、と会長さんを睨む私たち。ソルジャーの猥談を除けるどころか、逆に呼び込んでいませんか?
けれど…。
「うん、充分に喋りまくったってね」
これでオッケー! と会長さんの唇に勝ち誇った笑みが。
「…え?」
何が、と怪訝そうなソルジャーに向かって、会長さんはニッコリと。
「君の猥談! ぼくが投げ付けた最終兵器が発動するための条件は揃った!」
「条件だって?」
「そう! 何かと猥談をやりたがる君を黙らせるには、方法は一つ! 君が猥談をやらかした場合、君のお相手はもれなく出来なくなるっていうわけ!」
お疲れ気味だかEDだか…、と会長さんの指がビシィッ! とソルジャーに。
「ぼくはそういう祈祷をしたんだ、君がヤリたくてもどうにもならない方向で! 君のハーレイ、少なくとも今夜は使い物にはならないからね!」
「ちょ、ちょっと…! 君に其処までの力は無いだろう!」
空間を超えて能力を振るうことなど不可能な筈だ、とソルジャーは反論したのですが。
「だからこそ君に御祈祷で出来た灰をぶつけた。君自身がぼくの力の媒介になるのさ、君のハーレイを封じるための祈祷のパワーを君が運んで帰るわけ!」
その身体でね、と会長さん。
「もっとも、ぼくのサイオンの力が君に負けるのは本当だし? 祈祷の力も君には及ばないかもしれない。ただ、サイオンと法力とはねえ、性質が全く違うしね?」
効く可能性も大いにある、と会長さんはクスクスと。
「今夜、帰ったらヤッてみたまえ。君のハーレイが役に立たなかったら、ぼくの勝ちだよ」
「…そういう意味か…」
それで最終兵器なのか、とソルジャーは灰が残っていないかパタパタと服や頭を払ってから。
「どうせ無理だろ、勝てやしないよ」
たかが法力、知れたものだ、と余裕で構えていたのですけど…。
ソルジャーは夜までドッカリ居座り、夕食も食べて帰りました。明日からは柔道部三人組は合宿、ジョミー君とサム君は恒例の璃慕恩院での修行体験ツアーです。栄養をつけて挑んで貰わなければ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が分厚いステーキを焼き、シーフードたっぷりのピラフなども。
誰もが満腹、大満足での散会となって、翌日からは男子もいなければ、ソルジャーも抜きで。
「平和よねえ…」
ソルジャーの方はどうなったかしら、とスウェナちゃんがのんびりと。私たちは会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんの三人と一緒にホテルのプールサイドで休憩中。ひと泳ぎしてから飲み物や軽食、パラソルの下で優雅な時間。
「ブルーかい? どうしてるのかは謎だね、うん」
ぼくには覗く力があんまり無くて…、と会長さんがサンドイッチをつまみながら。
「でもねえ、朝っぱらから殴り込みにも来なかったしね? 勝ったと威張りにもやって来ないし、もしかすると祈祷が効いたのかもねえ…」
「かみお~ん♪ ブルーの御祈祷、よく効くもんね!」
「それは私も保証しますわ。それにしても考えましたわねえ…」
その方法なら向こうの世界に法力を届けられますわね、とフィシスさん。うわー、やっぱり、あの御祈祷って思いっ切り効果アリですか!
「分からないけど、効いていたなら当分は平和が続くと思うよ」
護摩の灰はまだまだ沢山あるから、と会長さん。小袋入りのが五十発近く、大袋の灰を小分けにしていけば何百発という数になるらしく。
「小袋はぶるぅが作ったんだよ、ぼくが御祈祷した布を使ってね。縫い上がった袋にまた御祈祷して、パワーアップの梵字もキッチリ書いてあるから効果はバッチリ!」
効くと分かったらどんどん作る、と会長さんが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「ぼく、頑張って縫うよ、あの袋! みんなのためになるんだったら、何百個でも!」
「あらあら、頼もしい助っ人ですわね」
頑張ってね、とフィシスさんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頬っぺたにキスを。褒めて貰った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「わぁーい!」と躍り上がっています。
「袋、沢山作らなくっちゃ! 最終兵器ーっ!」
「そうだね、平和を目指さなくっちゃね」
頑張ろう! と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がガッチリ握手。最終兵器で平和を目指すとは間違っているような気もしますけれど、これも一種の抑止力かも…?
男の子たちが合宿と璃慕恩院から戻って来たのは一週間後のことでした。それまでの間、ソルジャーは姿を見せませんでしたが、毎度のパターンなだけにどうなったのかは分かりません。とにかく男子が戻ったからには慰労会だ、と真っ昼間から焼き肉パーティーを始めた所へ。
「楽しそうだねえ…」
恨みがましい声が聞こえて、紫のマントのソルジャーが。例によって空いていた席へと陣取ったものの、その顔色は冴えないもので。
「焼き肉ねえ…。マザー農場の肉なのかな?」
「そうだよ! 幻のお肉も貰って来たから、食べてってねー!」
どんどん食べて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お肉も野菜もたっぷりあるから! 締めはガーリックライスでスタミナたっぷり!」
「スタミナかあ…。これからの季節、それも大切…。おっと、いけない」
ソルジャーの手が自分の口を押さえました。もしや猥談、飲み込んだとか?
「…この状況だと飲み込む以外に無いだろう!」
此処には例の最終兵器が…、とソルジャーは肩をブルッと震わせ。
「あれをウッカリ投げ付けられたら、とんでもないことになるからねえ…。ぼくのハーレイ、あの夜から…。おっと、危ない」
とにかく困った状況なのだ、と嘆きつつも焼き肉はパクパクと。
「君たちは慰労会かもしれないけれども、ぼくは焼き肉でパワーをつけて、と…。それから頑張って挑まないとね」
「喋ってるけど?」
猥談を、と会長さんの手に灰が詰まった小袋が。
「次の一言でお見舞いするから、気を付けるように!」
「ううん、今のは猥談じゃなくて! ぼくが頑張るのは修行なんだよ!」
「「「修行!?」」」
「そう、修行」
ちょっと璃慕恩院と恵須出井寺に、とソルジャーの口から斜め上な台詞が飛び出しました。それって修行の本場なのでは、何故にソルジャーがそんな所に…?
「…実はノルディに勧められてね…」
ブルーに勝つにはこれしか無いのだ、とソルジャーは焼き肉を頬張って。
「ぼくのハーレイに妙なパワーをお見舞いしないで済む方法はさ、ぼくが影響されないことしか無いらしい。そのためには法力とやらを身に付けるしかないとノルディがね…」
「ぼくに勝とうだなんて百年どころか二百年以上、早いけど?」
「其処を全力で修行すればさ、期間短縮も可能なのかもしれないし…」
これでも場数だけは踏んでいるから、と真顔のソルジャー。
「死ぬか生きるかの地獄を何度も見て来ているんだ、同じ修行でもブルーよりかは多くの力を得られるでしょう、とノルディも言ってくれたから…。それを信じて頑張るしかない!」
まずは璃慕恩院からなのだ、とソルジャーは焼き上がったばかりのお肉をパクリ。
「ノルディの紹介で、明日から二泊三日の修行体験ツアーなんだよ。そっちじゃ精進料理と聞くから、今の間に肉をたっぷり食べないと!」
「君が璃慕恩院だって!?」
会長さんの声が引っくり返りましたが、ソルジャーの方は。
「ぼくの正体ならバレないよ。ノルディの知り合いの息子ってことで押し込んで貰うし、情報操作はきちんとやるし…。ただ、全力での修行はちょっと…」
日程的に無理っぽくて、と溜息が。
「海の別荘行きで休暇を取るから、それ以上の休暇は取りにくい。ちょっと抜け出しては修行をして…、って形になるかな、それで法力を身に付けられればいいんだけどねえ…」
恵須出井寺の方にしてもそう、とソルジャーは肩を落としています。
「厳しいと評判の一般向けの修行道場、ノルディに申し込んでは貰ったけれど…。そっちも何処まで出来るかは謎で、ブルーに勝つまでの道は長そう…」
いつになったら勝てるのやら、と言いつつも修行はするつもりらしく。
「ノルディが言うには、あの手の御祈祷? それのパワーを跳ね返せるようになったら、相手の方に大ダメージが行くんだってね? 倍返しだとか」
「え? あ、ああ…。まあ…」
そう言うね、と会長さん。まさかホントに倍になるとか…?
「うん。跳ね返された力は倍になって返って来るから、それを受け流すだけの力が無ければ下手な祈祷はするな、ってコト」
「そうか、やっぱり倍返しなんだ…」
その日を目指して頑張らねば、と決意のソルジャー。会長さんの最終兵器に対抗するため、修行をしますか、そうですか…。
猥談をしたら護摩の灰をぶつけられ、キャプテンが使い物にならなくなるらしい立場に追い込まれたソルジャー。会長さんの御祈祷は効いたとみえて、あれ以来、ソルジャーは大人しいもの。例年だったら猥談の夏となりそうな所が全く静かで…。
「実に平和な夏休みだな。俺の家はイノシシとの戦いだがな」
イノシシ除けにもいい方法は無いものか…、とキース君。お盆を控えて卒塔婆書きのバトルも続いているようです。
「ソルジャー除けって言い出した時は怒ったくせに」
そのイノシシで、とジョミー君がブツブツ言ってますけど、今やジョミー君はソルジャー除けの功労者。御祈祷したのは会長さんでも、ジョミー君が思い付かなければソルジャー除けなんかは今も何処にも無かったわけで…。
「かみお~ん♪ 灰を詰めた袋、うんと沢山あるものね!」
「とりあえず、ブルーは効くと信じているようだしね」
「「「は?」」」
あれって効くんじゃないんですか? だからこそソルジャー、倍返しを目指して修行に励んでいるのでは…。修行と言っても一般人向け、会長さんと同レベルにまで到達するには二百年くらいはかかりそうですが…。
「あれねえ…。本当に効いているんだったら、それなりの手応えが来る筈なんだ。いくら別の世界で発動している力でもね。それが全く、何にも無いから」
「お、おい…。それじゃ、あれはハッタリだったのか?」
キース君の問いに、会長さんは。
「効いたらいいな、とは思っていたからハッタリじゃない。だけど効いたというわけでもない。多分、偶然というヤツなんだよ、たまたまあの日は向こうのハーレイが疲れていたとか」
「「「ええっ!?」」」
だったらキャプテン、会長さんの御祈祷で使い物にならなくなったんじゃなくて…。
「そう、偶然。だけどブルーは信じているから、せっせと修行に」
「そ、それってバレたらヤバいんじゃねえか?」
「ヤバくないだろ、勝手に一人で勘違いをしているわけだしさ」
そして最終兵器はこれからも有効に使わせて貰う、と会長さんは言ったのですけど…。
キース君とジョミー君、サム君が棚経に走り回ったお盆も終わって、マツカ君の海の別荘行きが目の前だ、という日の夕方のこと。会長さんの家に集まってエスニックカレーの食べ放題を始めようとしていた私たちの前に、私服のソルジャーが降ってわいて。
「ぼくにもカレー! 修行が限界…」
もう死にそう、とヘロヘロのソルジャー、今日も恵須出井寺で写経に励んで来たのだとか。
「正座を崩したら叱られてしまうし、筆ってヤツも使い慣れないし…。こんな日々がいつまで続くのさ!」
「嫌なら途中で投げればいいだろ、坊主を目指しているわけじゃなし」
素人さんが途中で逃げるなんてことは珍しくない、と会長さん。
「坊主を目指して修行中の人でも場合によっては逃げるんだ。キツすぎる、とね」
「ぼくは修行もキツイけれども、発散出来ないのが何より辛いよ…」
「発散?」
「そう! こう、思いっ切り! エロい話を山ほどしたくて、例えば昨日のプレイだとか! ハーレイが凄くてもうノリノリで…!」
堰を切ったように話し始めたソルジャー。猥談地獄に陥る前に、と会長さんが最終兵器を取り出してぶつけ、ソルジャーは顔面蒼白で。
「や、やっちゃった…」
これで今夜もお預けなのか、とカレーも食べずに意気消沈で姿を消して。
「か、会長…。あの灰、今度も効くんでしょうね?」
「さ、さあ…? 効かなかったら…?」
どうなるんだろう、と会長さんが青ざめた次の日、ソルジャーは見違えるように自信に溢れて登場しました。会長さんの家で午前のティータイム中だった私たちの所へウキウキと。
「いやあ、修行って、してみるものだねえ…!」
まさかこんなに短期間で君に勝てるとは、とソルジャーは歓喜の面持ちで。
「昨夜のハーレイ、凄くってさ! ぼくがブルーに勝てたからだ、って言ったら「では、お祝いに頑張りませんと」って、もう、あれこれと…!」
「退場!」
「嫌だね、勝ったからには倍返しなんだよ、どんどん喋っていいんだってば。今日まで自粛してきた分までガンガンと!」
さあ聞いてくれ、と乗り出すソルジャー。ば、倍返しって会長さんだけじゃなくって私たちまで巻き添えですか? 待って下さい、心の準備が…。倍返しで聞く猥談なんかは勘弁です~!
封じたい喋り・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
珍しく生徒会長が勝利を収めたように見えた、今回のお話。法力が凄そうでしたけど…。
単なる偶然の産物だったわけで、最終的には倍返しに。ソルジャーに勝つのは無理そうです。
次回は 「第3月曜」 8月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、7月は、楽しい夏休みな季節。けれど、夏休みと言えば…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ふうむ…)
いいな、とハーレイが目を留めたエスカルゴ。いわゆる食用カタツムリ。生とは違って調理したもの、自宅で焼けば出来上がる品が並べてあった。ブルーの家には寄れなかった日、帰りに覗いたいつもの食料品店で。
特設売り場ではなくて、普通の売り場。こういった洒落た食品も置いたりするから、いつ来ても飽きない店で、手ぶらで帰ったことが無い。
(たまにはエスカルゴも美味いんだ、うん)
せっかくだからと買うことに決めた。エスカルゴの生など買ったことがないし、料理した経験は無いのだけれども、美味しさはよく知っている。味の決め手はエスカルゴバター。
(エスカルゴのブルゴーニュ風だっけな)
そういう名前がついている料理、遠い遥かな昔の地球でつけられた名前。エスカルゴで知られたフランスのブルゴーニュ地方、其処での調理方法だったらしい。
(でもって、今でもブルゴーニュ風なんだ)
ブルゴーニュ地方があった地球は一度滅びて、青く蘇った地球に再びブルゴーニュ地方。自分が住んでいる地域が日本の文化を復興させているのと同じで、ブルゴーニュだって存在している。
(…エスカルゴはどうだか知らんがなあ…)
養殖方法はちゃんとあるのだし、ブルゴーニュ地方に限ったものでもないだろう。エスカルゴは多分、自分が住んでいる地域でも育てている筈だから。
(だが、本家本元を名乗っていそうではあるな)
エスカルゴ料理は此処から生まれました、と高らかに謳っているかもしれない。此処で作るのが本物なんです、と。
地球はすっかり変わってしまって、地形もまるで違うのに。
それ以前に一度滅びてしまって、エスカルゴどころではなかったのに。
今の青い地球に住む人々には、地球と言ったら青い星。遠い昔には死の星だったことも、地球を蘇らせるためにSD体制が敷かれていたことも歴史の彼方の出来事で…。
(多少地形が変わりましたが、って話で済んじまってるなあ…)
前の俺たちの苦労は知るまい、とクックッと喉を鳴らしてしまった。家に帰って、エスカルゴを店の袋から取り出したら。パッケージに書かれた「ブルゴーニュ風」の文字を目にしたら。
(ブルゴーニュも今じゃ普通だしな?)
かつてのフランスの文化で暮らしている地域、その一部分がブルゴーニュ。今は誰もがそういう認識、遠い遥かな昔のブルゴーニュ地方もこうだったろう、といった感覚で。
(俺たちも言えた義理ではないんだが…。日本はこうだと思ってるわけで…)
事実、自分も今の青い地球を当たり前のように享受していた。ブルーと出会って、記憶が戻ってくるまでは。前の自分が目にしていた地球、赤い死の星を思い出すまでは。
(しかしだ、俺にとっては地球はこうなわけで…)
青くて、ブルゴーニュ地方もきちんとあって…、とエスカルゴが詰まった袋の封を切る。蘇った地球に生まれたからには、そのように生きていいだろう。前の自分が苦労した分、今度は楽しく。
(ブルーも一緒にいるんだからな)
まだ十四歳にしかならないブルーだけれども、いずれ育ったら結婚出来る。二人で一緒に暮らす家でも、エスカルゴを食べたりするだろう。
「ブルゴーニュ風と来たもんだぞ」と、「こいつが今では当たり前ってな」などと平和な時代を笑い合いながら。
買ったエスカルゴは全部で六個。焼きやすいように専用の皿までついている。素朴な素焼きで、くぼみが六つ。その一つずつにエスカルゴが一個、エスカルゴバターが詰まった口を上に向けて。
オーブンで焼いてもいいのだけれども、他の料理を作るついでに見ながら焼くのも面白い。
(…そっちにするかな)
香ばしいエスカルゴバターの香りは食欲をそそるし、焼き加減も目で確かめられるから。それでいこうと始めた夕食の支度、エスカルゴに合わせてムニエルやスープとフランス風を意識して。
エスカルゴは熱々が美味しいから、と最後に焼いた。まだ熱い皿ごとテーブルに運んで…。
(トングとフォークは無いんだがな?)
あんなのは店で使うもんだ、と持って来た、ごくごく普通のフォーク。洒落た店だとエスカルゴ専用のトングとフォークが出ることもある。トングで殻をしっかり掴んで、細くて長いフォークを使って引っ張り出す中身。
けれども、そんなものまで要らない、家で食べるなら。普通のフォークで充分間に合う。熱々の殻で火傷しないよう、気を付けて扱いさえすれば。
頬張ったエスカルゴは期待通りの美味しさ、買って帰って正解だった。わざわざ店まで出掛けて食べる必要は無し、と言いたくなるほど。
エスカルゴの身を食べた後には、お楽しみが一つ。たっぷり詰まっていたエスカルゴバター。
熱で溶け出し、皿のくぼみと殻の中とにソースのように溜まっているけれど…。
(こいつは、こうして食ってこそなんだ)
カリッと焼いておいたトーストに溶けたバターを吸わせて口へと運んだ。ニンニクの微塵切りやパセリやハーブを練り込んだバター、それが美味しい。このバターだけを使った料理もあるほど。エスカルゴは抜きで、エスカルゴバターで仕上げる料理。
ガーリックトーストもエスカルゴバターで作れるものだし、炒め物にもよく合うバター。それにエスカルゴそのものの味が入れば、美味しさはもう格別で…。
(エスカルゴの出汁が入っています、ってトコか)
前の自分だったら何と言ったろうか、出汁という言葉が無かった時代。肉汁か、ブイヨンとでも呼んだだろうか、エスカルゴを焼いたら出て来る独特の味の液体を。
ともあれ、エスカルゴバターだけでは出せない風味。エスカルゴのブルゴーニュ風を食べた時にしか味わえない味、バゲットを買って来ておいても良かったかもしれない。
元から固いバゲットはフランス料理向きだし、トーストせずともエスカルゴバターを吸い込んで美味しくなるものだから。
(この次にエスカルゴを買おうって時には、バゲットもだな)
バターだけでも一品作れる味なのだから、と殻の中に残ったバターもトーストにつけて頬張り、次のエスカルゴをフォークで引っ張り出した。中身を食べたら、バターを味わう。ニンニクなどの旨味とエスカルゴの出汁、それが複雑に絡んだ味を。
なんとも美味い、と舌鼓を打つエスカルゴ。御大層にもブルゴーニュ風。地球ならではの味だと言いたいけれども、他の星でも料理の名前は同じだろう。エスカルゴバターを使って作れば、星の名前が何であってもブルゴーニュ風で、味わいもきっとそうは変わらない。
(だが、本家本元は地球でだな…)
ブルゴーニュが少し変わっちまったが、と思い出す地球。前の自分が宇宙から見た赤い死の星。あの頃であれば、ブルゴーニュ地方は地図の通りにあっただろう。生き物の姿が無かっただけで。
まさか蘇るとは夢にも思わなかった地球。前の自分が涙するしかなかった星。
その地球は青い星に戻って、自分も其処に生まれ変わった。地形は変わってしまったけれども、ブルゴーニュ地方がある地球に。ブルゴーニュ風と言ったらあそこ、と誰もが思い浮かべる星に。
エスカルゴのブルゴーニュ風は実に美味しくて、エスカルゴバターも最高で。
買って帰った甲斐があった、と熱々のそれを頬張る内に。
(…待てよ?)
何処かで食べたエスカルゴの記憶。そっくり同じにブルゴーニュ風。
それを大勢で食べた気がする、とても賑やかに。
(誰の披露宴だ?)
結婚式くらいしか思い付かない、大人数でこの手の料理といえば。エスカルゴが出て来るようなテーブルとくれば、多分、パーティーくらいなもの。食料品店の棚にも並ぶエスカルゴとはいえ、学校の給食に出はしないから。少し気取ったレストランとか、そういう所の料理だから。
ブルゴーニュ地方の人にとっては、普段着の味かもしれないけれど。馴染みの家庭料理といった所で、エスカルゴバターを作り置きして「時間が無い日はコレだ」と焼くかもしれないけれど。
(しかしだな…)
今の自分が住んでいる地域はブルゴーニュではなくて、遠く離れた日本なわけで。エスカルゴは洒落た料理な扱い、結婚式の披露宴などのパーティーの席が似合いの料理。
大勢でエスカルゴを食べていたなら、ただの教師な自分の場合は結婚式の披露宴くらい。他には思い当たる節などはなくて、それしか無いと思うのだけれど。
(それにしては、だ…)
妙に賑やかだったような記憶。エスカルゴを食べていたパーティー。
披露宴どころか宴会と呼ぶのが相応しいような、かしこまった所がまるで無いもの。
(そんな豪華な宴会なんぞが…)
あったろうか、と首を捻った。エスカルゴのブルゴーニュ風が出されるような宴会の席。
教師仲間の宴会はそこまで豪華ではないし、学生時代の宴会も同じ。柔道や水泳で遠征した先で歓待されても、エスカルゴほどの豪華料理は出なかった筈。
(…ブルゴーニュ地方に行ってりゃ、それもアリかもしれないが…)
生憎とそういう記憶は無かった、ブルゴーニュ地方を名乗る地域で大会などには出ていない。
(…宴会料理でエスカルゴだぞ?)
考えられん、と頭を振った。きっと何かの記憶違いで、そんな宴会は無かったのだろう。何かのパーティーの記憶と混ざって、食べたと思っているのだろう。
それが自然で、ましてシャングリラにエスカルゴがあった筈もないし、と思った所で…。
(違う…!)
シャングリラだった、と気が付いた。あの船で食べた、エスカルゴを。ブルゴーニュ風を。
青い地球など何処にも無かった遥かな昔に、白い鯨になるよりも前のシャングリラで。
前のブルーが人類の輸送船から奪って来たのを、前の自分たちが初めて目にしたエスカルゴを。
奪った物資は分類されて、調理されたり、分配されたりしていたけれど。食料は主に前の自分が仕分けをしたのだけれども、ある日、その中にエスカルゴがあった。それも大量に。
「なんなんだい、これは?」
野次馬よろしく、やって来たブラウ。「妙なものがある」と連絡をしたら、真っ先に。
「俺にも分からん。…だが、食料には間違いなさそうだ」
食料しか入っていないコンテナの中から出て来たから、と説明している最中に現れたゼル。謎の食材を見るなり一言。
「カタツムリだな、これは」
そうとしか見えん、と梱包されたエスカルゴを指先でピンと弾いたゼル。まだ若かった頃で髪も豊かで、後の姿を思えばまるで別人。前の自分も若かったけれど。
食材は保管庫に仕舞わなくてはいけないけれども、正体不明のカタツムリ。生きてはいない冷凍食品らしき代物、それが山ほど。とにかく冷凍、と倉庫に突っ込んだものの、謎だから。その内の一つを保冷が出来るケースに詰め込み、ゼルたちを呼んだという次第。
とにかく来てくれ、と招集をかけた部屋にはブルーも来たけれど。「カタツムリだよね」と指でつつくだけ、答えを持ってはいなかった。
ヒルマンとエラも同じ意見を述べたけれども、どちらからともなく出た「エスカルゴ」の名前。そういう食べ物があった筈だと、食べられるカタツムリだったと思う、と。
「…これがそうなのか?」
何も書かれていないんだが、と示したカタツムリ入りのパッケージ。製造された日と廃棄処分に回すべき日と、それしか記されていなかった。つまり本当に謎のカタツムリ。
「多分、エスカルゴだと思うのだがね」
調べてこよう、とデータベースに向かったヒルマン。エラと二人で。
謎のカタツムリが詰まった保冷ケースを手にして、調べ物に出掛けた博識な二人。ブルーたちと部屋で待っている間に、答えは直ぐに届けられた。「エスカルゴだったよ」と明快に。
「この殻のままで焼くんだそうだ。中身は出さずに」
どうやらそういう料理らしい、とヒルマンがまだ凍っているエスカルゴをつつくと、エラが。
「エスカルゴのブルゴーニュ風と言うのだそうです、バターを詰めてあるのです」
ニンニクやパセリなどを刻んで練り込んだエスカルゴバター、それが決め手の料理だそうです。中のバターが美味しいらしいですから、零さないように焼くべきかと。
ですから殻のままで調理を、と二人に言われたものだから。
「…ならば試しに焼いてみるかな、試食といくか」
今なら厨房も空いているし、と皆を引き連れて出掛けた厨房。パッケージは上手い具合に十二個入りだったから、一人に二個という勘定。傾かないよう注意して並べて、オーブンへ。
初めてだけに火加減に気を付け、これで焼けたと確信した所で二個ずつ皿に移して渡した。
「本当は専用の道具があるのだそうだよ」
中身を引っ張り出すための、と解説しながらフォークでエスカルゴの身を出したヒルマン。前の自分もそれに倣った、ブルーたちも。熱々のエスカルゴを口に運んだ感想は…。
「美味しいじゃないか、カタツムリだとも思えないねえ…!」
極上だよ、とブラウが絶賛、ゼルも「美味い!」と文句なしで。ヒルマンもエラも、前の自分もエスカルゴの味が気に入った。前のブルーも「美味しいね」と笑顔で頬張った。
中に詰まっていたバターが溶け出したのが美味だったから。捨ててしまうには惜しい味だから、誰からともなく「行儀が悪いが…」と、カタツムリの殻から、バターが零れた皿から食べてみて。
本当に美味しいと頷き合って、ブラウが真っ先に言い出した。
「食べる方法、何かあるんじゃないのかい?」
お皿まで舐めたくなる味なんだよ、このまま捨てるとも思えないけどねえ?
「確かに、あるかもしれないね」
調べてみる価値はあるだろう、と試食の後で、ヒルマンとエラは再びデータベースへ。間もなく二人は調べて来た。エスカルゴを食べた後に残ったバターは食事用のパンにつけて食べると。
「料理のソースと同じ扱いです、マナー違反にはならないそうです」
それにエスカルゴバターというものは…、と続けたエラ。バターだけでも料理に使える頼もしいもので、ガーリックトーストをそれで作ったり、他にも色々な使い道が、と。
試食してみて上々だったから、冷凍倉庫に突っ込んでおいたエスカルゴは他の料理と合いそうな日に焼いて食堂で出した。頭数を数えて、一人に三個。
エスカルゴバターを食べるためのトーストもつけて、ヒルマンが料理名と食べ方を解説して。
美味い、と評判だった味。エスカルゴのブルゴーニュ風という名前の食べ物。地球にあるというブルゴーニュ地方はどんな所かと、思いを馳せた者も多かった。
また食べたいと声は高まったけれど、エスカルゴは物資に混ざっていなくて。
「…ぼくが奪いに行って来ようか?」
前のブルーは探しに出掛けると言ったけれども。
「探すって…。エスカルゴを積んだ輸送船をかい?」
そこまでしなくてもいいんじゃあ…。だって、相手はカタツムリだよ?
無ければ困るっていうものでもなし、現に最初はエスカルゴなんて名前も知らなかったんだし。
わざわざ奪わなくてもいいだろ、エスカルゴくらい。
ブラウの言葉は正しかったから、前のブルーがエスカルゴを探しに出ることは無かった。
偶然積んでいたならともかく、探してまでは要らないだろうと。
そうは言っても、美味しかったことも間違いないから、エラがエスカルゴバターを持ち出した。あのバターだけでも料理に使えるのだから、それを使えば、と。
データベースから引き出して来たというエスカルゴバターの材料と作り方。これをベースにして船にある材料で工夫すれば、と。エスカルゴバターが出来たら、それで料理を、と。
(俺が色々と試作してみて…)
バターにニンニク、パセリといった主な材料が豊富な時に何度も試した。どういう割合で混ぜてゆくべきか、トーストにつけても美味しいエスカルゴバターはどれかと。
エスカルゴバターを作っていた時、前のブルーが覗きに来ては出来上がるのを横で待っていた。出来立てのエスカルゴバターを塗ったトースト、それを楽しみにしていたブルー。
カリッと焼けたガーリックトースト、「エスカルゴ無しでも美味しいよね」と。そんなブルーの意見も取り入れ、「これだ」と自信を持てるのが出来た。
完成品の披露はトーストに塗ってのガーリックトースト、「エスカルゴの味だ」と喜んで食べた仲間たち。「これをもう一度食べたかった」と。
皆の舌にも合う味と分かれば、後は工夫を凝らすだけ。材料のある時に作り置きして、似合いの食材が手に入った時にエスカルゴバターで料理する。意外なことにキノコにも合った。チキンならまだしも、キノコは肉ですらないというのに。
ニンニクやパセリなどを微塵切りにして練り込むバターの味は好評で、シャングリラに定着したエスカルゴバター。
本物のエスカルゴは二度と無かったけれども、ブルゴーニュ風のエスカルゴを積んだ輸送船とは出会わないままになってしまったけれど。
前の自分が厨房を離れた後も受け継がれ、作られていたエスカルゴバター。シャングリラが自給自足の白い鯨に改造されても、エスカルゴバターは残っていた。
(確かムール貝で…)
白いシャングリラで養殖していたムール貝。繁殖力が強くて環境の変化にも強かった上に、身も大きいからシャングリラにはピッタリの貝だった。
あれにも使われていたのだったか、エスカルゴバターは。「同じ貝だから、余計に美味しい」と本物のエスカルゴを食べたことのある者たちが喜んでいた記憶。
「ムール貝でもブルゴーニュ風だ」と、「エスカルゴに一番近い味はこれだ」と。
ムール貝の時にも、やはり添えられていたバターを食べるためのパン。溶けて殻から溢れた分はこれを使えば一滴残らず食べられるから、と。
(…あのバターは俺のレシピだよな?)
多分、その筈だと思う。
確認はしていないけれども、前の自分の舌が「違う」と言わなかったから。エスカルゴバターに使っていた材料、それと同じものは白いシャングリラでもきちんと作っていたのだから。合成品に頼ることなく、ニンニクもパセリも栽培していた。
材料が揃うならレシピを変える必要は無いし、きっとそのままだっただろう。前の自分が厨房で試作を繰り返しては、ブルーに試食をさせていたエスカルゴバター。
(こいつは、ブルーに…)
話さなければ、思い出したからにはエスカルゴのことを。エスカルゴバターを作ったことを。
明日は土曜日だから、あの店に寄って買って行かねば、思い出の味のエスカルゴを。遥かな遠い昔に一度だけ食べた、本物のエスカルゴのブルゴーニュ風を。
次の日、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中に、食料品店で買ったエスカルゴ。少し思案して、一人に六個はブルーにはやはり多すぎだろうと、二人で六個。
(…シャングリラの食堂で出した時にも、一人に三個だったしな?)
これで充分、と保冷用の袋に入れて貰って、生垣に囲まれたブルーの家までのんびり歩いて。
門扉を開けに来たブルーの母に袋を手渡した。「昼食に焼いて貰えますか?」と。
シャングリラの思い出の味なので、と中身を指差して頼んだら。
「…エスカルゴ……ですわね?」
こんな洒落たお料理があったんですか、シャングリラには?
生のエスカルゴは、今でも大きな食料品店にしか無いと思うんですけれど…。
うちの近所では買えませんわ、と目を丸くしているブルーの母。「凄い船ですね」と。
「いえ、それが…。一回だけしか無かったんですがね、本物は」
ブルー君…。ソルジャーになるよりも前のブルー君が奪って来たんです、輸送船から。
ですが、エスカルゴバターは定番でしたよ、エスカルゴの評判が良かったもので。
色々な料理に使われていまして…、とトーストもつけて欲しいと注文した。エスカルゴバターを味わうために、と。
「あら、バゲットではありませんの?」
バゲットをおつけしようと思っておりましたけれど、トーストですの?
「最初はトーストでしたから。…本物のエスカルゴがあった時には」
後の時代には、バゲットの出番もあったのですが…。エスカルゴではなくてムール貝でしたが、エスカルゴバターを使っていた貝は。
そういった話をしてから、ブルーの部屋へと案内されたわけだから。二階の窓から下を見ていたブルーは保冷用の袋にも当然、気付く。それが母の手に渡されたことも。
母がお茶とお菓子を用意するために部屋を出てゆくなり、桜色の唇から飛び出した質問。
「お土産、なあに?」
持って来たでしょ、ママに渡しているのが見えたよ。何をくれたの?
「まあ、待ってろ」
その内に分かるさ、俺からの土産。
慌てるな、とブルーに返したけれども、母が運んで来たお菓子は手作りだったから。どう見ても土産などではないから、ブルーは首を傾げながら。
「えっと…。ハーレイのお土産は?」
このお菓子、ママのお菓子だよ。ハーレイのお土産、何処へ行ったの?
「もう少し待て。いずれ出てくる」
お母さんが忘れちまったとか、自分のお菓子を優先したとか、そういうわけではないからな。
「もしかして、御飯?」
お昼御飯になるような何かを買ってくれたの、そういうお土産?
「まあな。それだけで腹が一杯になるってヤツでもないが」
ちょっとしたおかずと言った所か。チビのお前でも、あれだけで腹は膨れそうにないし。
「なんだろう? ぼくでもお腹が一杯にならないようなもの…」
だけど立派なおかずなんだね、ハーレイが買って来てくれるんだから。
何処かの名物とか、そういった感じ?
「…名物と言えば名物かもなあ、名前からして」
誰が聞いてもピンとくるのか、そうじゃないのかは分からんが…。
それっぽい名前のものではある。
「ふうん…?」
地名なのかな、それともお店の名前かな?
聞いただけでも分かる人には分かるんです、っていうのもあるしね、お店の名前。
名物と聞いて、昼御飯の時間を楽しみにしていたブルーだけれど。
母が何の皿を運んで来るかと、何度も時計や扉の方を眺めて待っていたのだけれど。昼御飯にと届けられたものは、例のエスカルゴだったから。他はピラフやサラダだったから。
「…エスカルゴ…?」
ハーレイのお土産、エスカルゴだったの、これを持って来たの…?
「うむ。こいつは思い出の味なんだが?」
エスカルゴのブルゴーニュ風だ、ブルゴーニュ地方の名物と言えば名物かもしれんな。
今の時代はどうだか知らんが、地球が滅びてしまう前にはエスカルゴの名産地だったらしいし。
「え…?」
そんな所のエスカルゴがどうして思い出の味なの、前のぼくは地球を知らないよ?
ブルゴーニュって、確かフランスだよね?
前のぼくが生きてた頃には地球は死の星で、フランスも無かったと思うんだけど…。
そこのエスカルゴを食べたくっても、いろんな意味で食べられなかった筈なんだけど…?
どうしたら思い出の味になるの、とキョトンとしている小さなブルー。
まるで忘れてしまっているようだから、「奪って来たろ?」と教えてやった。
「前のお前だ、まだリーダーですらなかった頃だな」
お前が奪った物資の中にだ、山ほどの冷凍のエスカルゴが混ざっていたんだが…。これと同じでブルゴーニュ風のだ、この貝は何かと前の俺にも謎だった。
なにしろ見た目がカタツムリだしな、食えるにしたってどうやって料理をするんだか…。
分からないから招集をかけて、ヒルマンたちと試食したんだが?
ヒルマンとエラが「エスカルゴだ」と正体を解き明かしてくれて、俺が焼いてみて。
「ああ…! あったね、そういうエスカルゴ…!」
とっても美味しかったんだっけ、ハーレイが焼いて、一人に二個ずつ。
エスカルゴも凄く美味しかったけど、バターが美味しかったんだよ。
お行儀の悪い食べ方をしたよ、エスカルゴの殻とか、お皿からまで食べちゃったんだよ。溶けたバターが零れてたから、お皿の分まで。
「思い出したか? エスカルゴのことを」
あの時の食べ方をやってもいいぞ。今日はパンもあるが、せっかく思い出したんだしな。
お母さんに頼んで、食堂で出した時と同じにトーストにして貰ったんだが…。
食堂じゃ流石に皿からはマズイし、ヒルマンとエラが調べたお蔭でパンで食うのも知ってたし。
「そうだっけね。食堂の時にはトーストがついてたんだけど…」
ハーレイと最初に食べた時には、ぼくもお皿を舐めちゃってたし…。
じゃあ、ちょっと…。
お皿の分はトーストにするけど、殻に残ったバターはそのまま食べてみるね。
エスカルゴの身を一個、フォークで引っ張り出して食べた後。
ブルーは殻をヒョイと持ち上げ、中のエスカルゴバターを「美味しい!」と吸っているから。
「気に入ったか? 一人三個って勘定なんだが…」
俺は昨日に六個食ったし、全部お前にやってもいいぞ。食えるんならな。
「んーと…。六個も食べたら、ピラフを残してしまいそうだよ…」
でも美味しい、と二個目の殻からエスカルゴバターを吸っていたブルーが「あれ?」と赤い瞳を見開いて。
「…ハーレイ、このバター、作っていたよね?」
エスカルゴがとっても美味しかったからまた食べたい、っていう仲間が多くて…。
ぼくが奪って来ようかって言ったら、ブラウが、そこまでしなくてもいいじゃないか、って…。
それでエスカルゴバターを作るってことになっていなかった?
美味しいのはエスカルゴバターなんだし、それがあれば、って。
「おっ、思い出してくれたのか?」
前の俺がせっせと作っていたこと、お前、思い出してくれたんだな?
「うんっ!」
ハーレイ、厨房で色々と作り方を考えてたっけ…。どれが一番美味しいだろう、って。
ニンニクやパセリを細かく刻んで、柔らかくしたバターに練り込んじゃって。
出来上がったら「これはどうだ?」ってパンに塗って焼いてくれていたよね、試食用に。
前のと比べてどんな風だ、って訊かれたこともあるし、もっとパセリが多い方がいいか、とか。
エスカルゴバターが完成するまで、何度も食べに出掛けていたよ。
あのバターを塗ったガーリックトースト、ハーレイと何度も食べたっけね…!
完成品が出来上がるまでにトーストを何枚食べただろう、と懐かしそうなブルー。
とても香ばしいトーストが出来ても、ハーレイは納得しないんだから、と。
「あのバター、あれからどうなったっけ…?」
ハーレイが作ったエスカルゴバター、あの後はどうなっちゃったのかな…?
「定番だったぞ、白い鯨になった後もな」
ムール貝で好評を博していたと思うんだが…。
これで作れば同じ貝だから、エスカルゴの味に一番近い、と言うヤツもいて。
ムール貝のブルゴーニュ風って呼ぶヤツもいたぞ、ムール貝のは。
「そうだっけ…! ムール貝にも使っていたよね、エスカルゴバター」
あれ、ハーレイのレシピだった?
ハーレイが作ったエスカルゴバターの味だったのかな、ムール貝で作っていた頃も…?
「多分、そうだと思うんだがな」
俺の舌は違和感を覚えちゃいなかったわけだし、材料は船に揃っていたし…。
何か足りないものがあったなら、レシピを変えるってこともありそうなんだが…。
そうじゃなかったから、俺のレシピのままだろう。
バターをこれだけ使うんだったらニンニクがこれだけ、パセリはこれだけ、と。
だが、確認はしていないからな、誰かが変えていたかもしれん。
もっと美味いのが作れるだろうと工夫したヤツ、絶対に無いとは言えないからな。
今となっては謎なんだが…、と笑ったら。
シャングリラの厨房のレシピは残っていないから、自分の目では確かめられないと、「前の俺のレシピのその後はお手上げなんだ」と、軽く両手を広げて見せたら。
「あのレシピ、今でも覚えてる?」
エスカルゴバターのレシピは、ハーレイの頭に残っているの?
「まあな。単純なもんだし、よく作ってたし…」
厨房の誰かが書き残していたら、俺のレシピか、そうでないかは一目で分かるな。
「じゃあ、作ってよ」
今日のお土産は買ったヤツだけど、ハーレイのレシピでエスカルゴバター。
「手料理は駄目だと言ってるだろうが」
何度言ったら分かるんだ。持って来られるなら、俺だってちゃんと作って来てる。
エスカルゴを買って持ってくる代わりに、あのバターを持って来てトーストってトコか。
「いつか、食べられるようになった時だよ!」
ぼくが前のぼくと同じに育ったら、ハーレイの家にも行けるし、食べたいよ。
ハーレイが作ったエスカルゴバター、こういう味のヤツだったよね、って。
「分かった、腕を奮うとするかな、お前のために」
ガーリックトーストもいいが、ムール貝のブルゴーニュ風も作ってみないといけないな。
俺のレシピで作っていたのか、厨房のヤツらが変えちまったのか。
二人がかりなら謎も解けるだろ、同じ味だったか、違う味だったか。
…いくら昔のことだとはいえ、こうして思い出せたんだからな。
いつかブルーにエスカルゴバターを御馳走する。前の自分が作ったレシピで。
その時には本物の生のエスカルゴも買って来ようか、せっかく地球に来たのだから。青い地球の上にブルゴーニュ地方を名乗っている場所もあるのだから。
「なあ、ブルー。…お前と二人で食おうって時には、本物のエスカルゴのも試してみないか?」
前の俺たちは冷凍で一回きりだったしなあ、そうじゃないのを。
生のエスカルゴを買いに行ってだ、そいつでブルゴーニュ風といこうじゃないか。
ちゃんと今ではブルゴーニュ地方も地球にあるってな、地形はすっかり変わっちまったが。
エスカルゴのブルゴーニュ風が生まれた時代とは、まるで別物のブルゴーニュだが…。
だが、地球だしなあ、エスカルゴバターを作るんだったら本物がいいと思わんか?
でもって、バゲットも用意して、溶けたバターをそいつで食べて。
「本物のエスカルゴでハーレイが作るの? ブルゴーニュ風を?」
凄く楽しみ、ムール貝のブルゴーニュ風とか、ガーリックトーストも楽しみだけど…。
前のハーレイのレシピで本物のエスカルゴのブルゴーニュ風が食べられるなんて、夢みたい。
…そんなの、想像もしていなかったよ、前のぼくは。
「だろう? 今度は二人で工夫するかな、エスカルゴバターを使った料理」
前の俺の時は俺が一人で考えていたが、今度はお前と一緒に暮らすんだしな。
どんどんアイデアを出してみるといいぞ、こんな料理はどうだろう、とな。
「もちろんだよ!」
ハーレイ、料理が得意なんだし、無茶を言っても作ってくれそう。
これのエスカルゴバターがいいよ、って凄くとんでもないのを頼んでも。
「おいおい、とんでもないヤツってか…」
好き嫌いが無いのは知っているがだ、変なのは勘弁してくれよ?
流石に刺身には合いそうにないんだからなあ、エスカルゴバターっていうのはな。
刺身は駄目だ、と言ったけれども、やってやれないこともない。
生の魚では合わないけれども、ソテーしたならエスカルゴバターも合いそうだから。
ブルーが無茶を言うのも楽しいし、自分で無茶をしてみるのもいい。
「前の俺なら、これは有り得ん」と思う食材が山ほど溢れているのが今だから。
前の自分がブルーと二人で作ったエスカルゴバターのレシピ。
それを使って、きっと色々な料理が出来る。
青い地球の上で、美味しいエスカルゴバターを使って、幾つも、幾つも。
ブルーと一緒に味見してみては、「これは美味いな」と得意料理に加えていって…。
エスカルゴの味・了
※前のブルーたちが一度だけ食べたエスカルゴ。そこから生まれた、エスカルゴバター。
シャングリラで受け継がれた前のハーレイのレシピ、今度は青い地球で味わえそうです。
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(えーっと…?)
白い、とブルーが眺めた写真。学校から帰って、ダイニングでおやつの時間の真っ最中に。
テーブルの上にあった新聞、それを何気なく広げてみたら白い鳥の写真が載っていた。白文鳥のような小鳥だけれども、鳥籠の中でも人間の手の上にいるわけでもなくて。
何処かの屋根らしき所に止まった小鳥の写真に「アルビノ」の見出し、白い雀だと書いてある。そう言われてみれば、白い小鳥の隣にごくごく普通の雀が何羽か。
生まれつき色素を持たないアルビノ、雀の場合は白文鳥みたいな姿になってしまうらしい。瞳の色はよく分からないけれど、桜色とも黄色とも見えるクチバシと足。本当にまるで白文鳥。
(ぼくとおんなじ…)
アルビノだったら自分と同じなのだし、それに姿も愛らしいから。興味津々で記事を読み始めて驚いた。アルビノが珍しいことは分かるけれども、雀の場合。羽は弱くて、飛ぶ力も弱いと書いてある。普通の雀たちよりも弱く生まれてしまった雀。
(ぼくはサイオンがカバーしてくれるけど…)
遥かな昔のアルビノだったら、太陽の光に弱かったらしい。目には光が眩しすぎるから保護するためにサングラス。肌も日焼けする前に火傷してしまう、太陽の光を直接浴びたら。
日光浴どころか、太陽が空に輝く間は自由に出歩けなかったと言う。遠い昔のアルビノならば。
けれども、今は誰もが持つサイオン。それが弱点を補ってくれる、意識せずとも。赤い血の色を透かす瞳は平気で太陽を見上げられるし、肌だって見る間に真っ赤に腫れたりはしない。
前の自分だった頃と同じで、何の不自由もない身体。
不器用なサイオンも、これに関しては全く問題なかったらしい。
生きるのに必要なことだから。呼吸するように自然に備わった力、身体の中を巡るサイオン。
今の時代もアルビノの人間は珍しいけれど、サイオンのお蔭で誰でも普通の生活が出来る。外を駆け回ることも出来れば、太陽の光が強い真夏に海へ出掛けて泳ぐことだって。
(…ぼくだって身体が弱くなければ…)
前と同じに虚弱な身体に生まれなければ、元気一杯の子供だっただろう。弱い身体はアルビノに生まれたからとは違って、身体の中身の問題だから。アルビノゆえの弱点ではないのだから。
(ぼくの身体が弱いだけだよ、アルビノじゃなくても)
つまりは健康に全く支障が無いのが今のアルビノ、人間がアルビノに生まれた場合。
ところが雀だとそうはいかないらしい、羽が弱いというのなら。飛ぶ力までが弱いのなら。
それに…。
(酷い…!)
なんて酷い、と記事の内容に憤ってしまった。真っ白な雀に添えられた記事の次の文章。
羽が弱いだけでも可哀相なのに、白い雀はもっと酷い目に遭うのだという。卵から孵った時には他の雀と同じに見えるし、ほんの僅かだけ皮膚の色が違う程度だけれど。少し育って羽根が生えてきたら、白い羽根が身体を覆うから。兄弟の雀とは違う色の羽根を纏うから。
見掛けが異なるアルビノの雀は、巣から追い出されてしまうのが普通。自分の子供とは違う、と親鳥が外へと捨ててしまったり、兄弟たちに放り出されたり。
だから滅多にいないらしいアルビノ、自分の力で巣から出られるまで育てないから。それよりも前に巣から出されて、死んでしまうのが白い雀の運命だから。
育つことさえ難しいらしいアルビノの雀。ただでも羽が弱いというのに、その羽を使って巣立つ所まで育てて貰えない真っ白な雀。親鳥や兄弟に巣から追い出されて。
(運が良かったの…?)
珍しいという白い雀は運良く難を免れて、此処まで大きく育ったろうか。それとも親鳥や兄弟に恵まれた雀だったのだろうか。色が違うからと嫌いはしないで、優しく受け入れてくれるような。
とにかく雀は飛べる所まで育ったのだし、生きられて良かったね、と微笑んだけれど。
後は元気に暮らしてくれれば、と記事を読み進めたけれど。
(……嘘……)
普通の雀とは見掛けが違った真っ白な雀。人間が見ても同じ雀とは思えない雀。
まるで違うから、交配したがる相手もいないと書かれてあった。一緒に子孫を残そうとする雀は何処にもいなくて、つがいになれはしないのだと。
(そんな…)
同じ写真に写っている雀は、白い雀と同じ巣で育った兄弟なのだろうか?
仲良く屋根に止まっているのに、白い雀のすぐ側に二羽もいるというのに。一緒に餌を見付けに来たのか、羽を休めてお喋り中か。
白い雀も育ったからには大丈夫だとホッと安心したのに、これから先。
親兄弟ではない他の雀は、相手にしてくれないというのだろうか?
見掛けが違う雀だから。雀の色の羽根の代わりに、真っ白な羽根を纏っているから。
恋人が欲しいと思っても。
恋をしたいと囀っても。
(可哀相すぎるよ…)
雄か雌かは知らないけれども、独りぼっちの真っ白な雀。
記事には書かれていない性別、外見だけではきっと判断出来ないのだろう。羽根の模様で見分けようにも、真っ白な雀なのだから。雄か雌かの違いが分からないのだから。
鳥は大抵、雄と雌とで羽根の模様が違うもの。尾羽の形まで違っていることも珍しくない。雀も何処かが違うのだろうか、どれも同じに見えるけれども。
(…でも、この雀がどっちなのかは…)
写真を撮った人にも分からず、それを調べた学者にだって分からなかった。雀に詳しい人間でもその有様なのだし、雀同士なら本能的に避けるのだろう。あれは違うと、雀ではないと。
無事に育った白い雀なのに、恋も出来ずに生きるしかない。恋の相手が現れないから。
そればかりか…。
(殺されちゃうの?)
白い雀に生まれた宿命、真っ白な羽根を持っているせいで。
普通の雀は地味な色だから、何処へでも姿を隠せるのに。空を飛んでいても目を引かないのに、白い雀はそうはいかない。木の葉や土などは隠れ蓑になってくれる代わりに、白い羽根の色を逆に目立たせるだけ。空を飛んでも似たようなことで、白い身体が日射しを弾いて輝くだけ。
雀を餌にする天敵の目に付きやすいから、白い雀は狙われる。
前の自分のように狩られて、殺されてしまって、それでおしまい。
恋も出来ずに、それっきりで。鷹や大きな鳥に追われて、弱い羽では逃げ切れなくて。
新聞の写真の白い雀は卵から孵って六ヶ月か七ヶ月くらい。そこまで生きられたことが奇跡で、動物学者も驚くほどの珍しさ。白い雀は育たないから、育っても狩られておしまいだから。
無事に育った白い雀は、こうして新聞記事にもなった。白い雀がいると聞き付け、粘り強く雀が来る場所で待って写真を撮影した人のお蔭で。
なのに…。
(これっきり…)
白い雀と人との出会いは、これっきり。
学者を驚かせ、新聞の紙面を飾った奇跡の雀は、保護しては貰えないのだという。天敵のいない動物園とか、怪我をした鳥などの面倒を見てくれる場所。そういう施設は白い雀を受け入れない。
せっかく大きくなれたのに。
巣から追われず、鷹にも狩られず、此処まで育って来られたのに。
珍しいアルビノの雀がいると、奇跡の雀だと人間が見付けてくれたというのに、その人間は保護しない。白い雀がのびのびと暮らせる施設に収容してはくれない。
自然の生き物は自然のままに。人は手出しをせずに見守る、それが蘇った地球の鉄則だから。
どんなに珍しい白い雀でも、例外になりはしないという。
いつか狩られてしまう現場に写真を撮る人が居合わせたとしても、写真を撮るだけ。天敵の鷹を追い払おうとしてはくれずに、白い雀の最期を撮影して帰るだけ。
自然はそういうものだから。食物連鎖というものだから。
溜息をついて閉じた新聞、アルビノの雀には無いらしい未来。恋も、普通の雀の寿命も。
あまりに雀が可哀相すぎて、部屋に戻っても頭から離れない真っ白な姿。白文鳥かと思った雀。
(ちょっとくらい…)
例外があってもいいのにと思う、こんな時くらい。
自然の掟は分かるけれども、白い雀を保護して助けてやるくらい。
雀が一羽消えたところで、鷹は困りはしないから。他の獲物を探せばいいだけのことで、獲物は沢山いるのだから。白い雀を食べれば特別な栄養になるならともかく、雀は雀なのだから。
それに、白い雀。
自然の中へと置いておいても、恋の相手は見付からない。他の雀とつがいになって子孫を残せる雀だったら、保護してしまえば自然のバランスが少し崩れはするけれど。白い雀に恋をする相手はいないわけだし、自然のバランスは崩れない。
だから助けてやりたいと思う、自分と同じにアルビノの雀。放っておいたら他の雀よりも哀れな最期を迎えるのだから。
(可哀相だよ…)
恋も出来ずに独りぼっちで、狩られて死ぬまで生きてゆくだけ。
飛ぶ力さえも弱い身体で、いつか終わりが来る日まで。
勉強机の前に座って、頬杖をついて。白い雀を待ち受けているだろう運命を思うと、胸の奥から遠い記憶が湧き上がってくる。いつか狩られる真っ白な雀。
(前のぼくみたい…)
メギドでキースに狩られた自分。そう、あれは文字通りに「狩り」だった。
前の自分を殺したいなら、メギドを止められたくなかったのなら、心臓を狙えば良かったのに。たった一発、それだけで終わり。シールドも張れなかった前の自分は倒れておしまいだったろう。
それが出来る腕を持っていたのがキースだったのに、そうする代わりに急所を外した。
(…絶対、わざと…)
三発も続けて狙いを外すわけなど無いから。ただの兵士だったらともかく、メンバーズなら。
キースが何を思っていたかは分からないけれど、楽しんでいたことだけは分かった。前の自分を追い詰めたならば何が起こるか、どうやって仕留めるのがいいかと。
(…狩りを楽しみすぎて失敗…)
最後の一発で仕留めるつもりだったのだろう。「これで終わりだ」と撃ち込んだ弾。シールドを突き抜けて右の瞳を砕いたあの弾、それで獲物を倒すつもりでいたのだろう。
成功するとキースが思い込んだ狩り。獲物を仕留めて、メギドも守れると思っていた狩り。
けれど、生憎と前の自分は反撃の機会を狙っていたから。狩られながらも、どうすればキースの裏をかけるか、懸命に考え続けていたから。
(…巻き込んでやろうと思ってたのに…)
残ったサイオンの最後の爆発、暴走させるサイオン・バースト。それでキースもメギドも纏めて終わりだと思っていたのに、逃げられたキース。駆け込んで来たマツカが連れ去ったキース。
(…あの時、キースが死んじゃってたら…)
SD体制の崩壊までには長い時間がかかっただろう。ミュウと人類との和解までにも。
だからキースを恨みはしないし、憎んでもいない。共に語り合える機会があったら、違う道へと歩んだろうから。キースの地球への固い忠誠、その信念を覆すことが出来たなら。
それが分かるから、前の自分を狩ったキースを、けして恨んではいないけれども…。
(そうだ、ハーレイ…!)
ハーレイはキースが嫌いなのだった、前の自分を狩った男だと知ったから。
嬲り殺しにしようとしたことを知ってしまったから、キースを嫌っているハーレイ。まるで違う生を生きている今も、前の生からの続きを生きているかのように。「あいつを殴るべきだった」と何度も口にしているハーレイ、「知っていたなら殴っていたのに」と。
前の生が終わった日の一日前、死に絶えた地球へと降りたハーレイ。其処でハーレイはキースと再び出会ったけれども、人類側の代表たる国家主席と挨拶を交わしてしまったという。人類側との会談に向けて、ミュウを代表する一人として。
(前のぼくのことを、ハーレイは知らなかったから…)
キースがメギドで何をしたのかを知っていたなら、殴ったのにと悔やむハーレイ。殴れる機会を逃した上に、二度とチャンスは来ないのだと。キースは何処にもいないのだから。
(ハーレイだったら…)
どうするだろうか、白い雀の話をしたら。
前の自分とそっくり同じに、狩られてしまうだろう雀。白い身体が天敵の目を引き、弱い羽では逃げられなくて。普通の雀に生まれていたなら、そんなことにはならないのに。
(…見付かりにくいし、逃げる速さだって、もっと…)
真っ白な姿に生まれたばかりに、狩られるだけの運命の雀。恋も出来ずに狩られて終わり。
あの可哀相な白い雀を、ハーレイだったら助けに行ってくれるだろうか?
キースさながらの鷹に狩られて、死んでしまうしかない白い雀を。
ハーレイだったら、と見えて来た希望。
前の自分と何処か重なる白い雀を、ハーレイは助けてくれるかもしれない。
(えーっと…)
白い雀が見付かった地域は此処から遠いけれども、遥かな昔はオーストラリアという名の大陸があった辺りだけれど。ニュースが届くくらいなのだし、同じ地球には違いない。
その地域で暮らす人たちに向けて、白い雀を助け出すために、何か運動をしてくれるとか。署名活動だとか、そういったことを。例外を認めてくれそうなことを。
前の自分の最期を知っているハーレイならば、と恋人の顔を思い浮かべた。
(…白い雀、前のぼくと少し似ているものね…)
放っておいたら、鷹に狩られてしまうのだから。
前の自分がキースにそうされたように、獲物を求める鷹に殺されてしまうのだから。
頼もしい援軍に思えるハーレイ。白い雀を助けようと言ってくれそうなハーレイ。
(来てくれないかな…)
そしたら早く頼めるのに、と何度も視線を投げた窓。白い雀を助けてやるなら、一日でも早く。此処でこうしている間にも、目立つ身体で何処かを飛んでいるのだろうから。
(…鷹に見付かったらおしまいだものね)
他の雀よりも狙われやすい真っ白な身体、逃げて飛ぶには弱すぎる羽。助けに行くまで頑張って逃げて、と祈るような気持ちで窓の方を何度見ただろう。不意に聞こえたチャイムの音。待ち人が訪ねて来てくれた合図。
窓に駆け寄り、門扉の向こうのハーレイに大きく手を振った。「待っていたよ」と。
やがて部屋まで母に案内されて来たハーレイ。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、もう早速に切り出した。
「あのね…。ハーレイ、白い雀を知っている?」
今日の新聞に載っていたけど、ハーレイ、その記事、気が付いてた?
「いや? …白い雀というのはなんだ?」
白いってことはアルビノなのか、そいつが何処かで見付かったのか?
「そう。…えっとね、昔はオーストラリアだった場所だよ、今は地形が変わっているけど…」
其処で見付かったんだって。真っ白で、白文鳥みたいに見えちゃう雀。
可愛かったけど、その雀、可哀相なんだよ。…ちょっぴり、前のぼくみたい。
「前のお前だと?」
何処が雀と似てると言うんだ、前のお前が?
「…鷹の獲物になっちゃう所…。白い雀は目立つんだって」
普通の雀だったら、そう簡単には見付からないけど、白い身体はよく目立つから…。
それに白い雀は羽も飛ぶ力も弱いんだって。見付かっちゃったら、もう逃げられないよ。
前のぼくがメギドでキースに撃たれた時と同じで、そのまま殺されちゃうんだよ…。
「なるほどなあ…。獲物になるために生まれて来たような雀というわけか」
おまけに弱くて、見付かったら最後、もう逃げ道は無いんだな。
…確かに前のお前に似てるな、メギドでキースに嬲り殺しにされそうだったお前に。
前のお前はキースにとっては格好の獲物で、どう考えても狩りを楽しんでいたようだからな。
あれに似ているな、とハーレイの眉間に寄せられた皺。キースの名前は聞きたくもない、という風に見える表情、ハーレイは今もキースを許していないことが分かる顔だから。
「…じゃあ、助けてあげてくれないかな、雀」
白い雀は保護して貰えないんだよ、今のままだと。…珍しい白い雀なんだ、っていうだけで。
放っておいたら、じきに鷹とかに見付かってしまって獲物になっちゃう。
そうならないように助けてあげてよ、あの白い雀。
「助けるって…。俺がか?」
俺がそいつを助けてやるのか、誰も助けてやらないから、と?
「うん、ハーレイは大人だから…」
ぼくみたいにチビの子供じゃないから、色々と方法を知っているでしょ?
白い雀を保護して下さい、って署名を集めてお願いするとか、その地域の人たちに手紙を書いて保護を頼むだとか。
雀を保護してくれそうな施設、きっと幾つもあるんだろうし…。それを探して片っ端から手紙を出したら、何処かが動いてくれるかも…。
…今は駄目でも、「お願いします」って頼めば保護してくれるかも…。白い雀は珍しいもの。
展示したってきっと綺麗だよ、大勢の人が見に行くだろうし、お願い、ハーレイ。
白い雀を助けてあげてよ、このままだったら前のぼくみたいに鷹に殺されちゃうんだもの…。
お願い、と頭を下げたけれども、ハーレイは難しい顔付きで腕組みをして。
「うーむ…。お前の気持ちは分からないでもないんだが…」
前のお前に似てると言われりゃ、俺も助けてやりたい気持ちもするんだが…。
助ける相手が雀じゃなあ…。いくら珍しくても、雀は雀だ。
「…駄目なの?」
ハーレイでも助けられないの?
白い雀を助ける方法、ハーレイにも思い付かないの…?
「お前もその記事、読んだんだろうが。…それで雀が保護されていないと知ってるわけだ」
記事に書いてある通りだってな。野生の生き物はそのままに、っていうのが地球の基本だろ?
そいつを捻じ曲げちゃいかんってことで、白い雀もそのままなんだ。
雀じゃなくって特別に珍しい生き物だったら、保護するってこともあるんだろうが。
「でも、青い鳥…」
前に青い鳥を飼おうとしてたよ、今のぼく。
ハーレイが「欲張るんじゃない」って言うから逃がしたけれども、ウチに来たオオルリ。
ダイニングの窓にぶつかってしまった青い鳥だよ、ハーレイも一緒に見てたでしょ?
あれは飼っても良かったんだし、白い雀だって誰かが飼っても良さそうなのに…。
オオルリも雀も似たようなものだよ、おんなじ野生の生き物だよ…?
あの青い鳥は飼おうと思えば飼えた筈だ、と主張したら。オオルリを飼ってもかまわないなら、白い雀も飼えそうだけど、と食い下がったら。
「そりゃまあ、まるで駄目ではないが…」
実際、野生の鳥を引き取って面倒を見ている施設もあるしな、絶対に駄目なわけじゃない。
あのオオルリは窓のガラスに勝手にぶつかったわけで、お前が捕まえた鳥ではないし…。
そいつを獣医に連れて行ってだ、後遺症が出たら大変だからと飼ってやるのはお前の自由だ。
しかし、そういう例外を除けば、野生の鳥を飼うというのは難しいな。
さっきも言ったろ、野生の生き物は自然の中にそのまま置いておくのが地球の基本だ。
よほどの理由があれば別だが、保護するなんぞはとんでもない。
何処の施設でもまず断られるぞ、大怪我をした雀を持ち込んだんなら、いけるだろうが。
「それじゃ、白い雀…」
鷹にやられて落っこちてました、っていうんでなければ何処も保護してくれないの…?
「そういうことだ。誰かが拾って連れて行ったら、治療して飼って貰えるだろうが…」
怪我もしないで飛んでいるなら、可哀相だが、諦めるんだな。
狙われて殺されちまいそうだ、っていうのは保護する理由にはならん。
「ハーレイ、酷い…!」
可哀相だよ、あの白い雀…!
自分のせいで白く生まれたわけじゃないのに、白いだけで目立って狙われて殺されちゃって…!
「…それを言うなら、前の俺たちだって、そうだったろ?」
俺たちはミュウになろうと思ったわけじゃない。…なりたくてなったわけじゃないんだ。
だが、人類は俺たちに何をした…?
ミュウだというだけで、ヤツらは俺たちをどう扱ってくれたんだっけな…?
狩られるどころか、もっと酷い目に遭っただろうが、と言われてみればそうだから。
同じ人間で姿形も変わらないのに、実験動物扱いだった前の自分たち。ミュウだというだけで、ただサイオンを持っていただけで。
過酷な人体実験の末に死んでいった仲間も多かったのだし、アルタミラから脱出した後も隠れているしかなくて。挙句の果てに追われもしたから、ナスカは滅ぼされたのだから。
人間だったミュウでもその有様なら、ただ白いだけの雀ともなれば…。
「…仕方ないわけ…?」
羽根の色が他の雀と違うだけだし、誰も助けてくれないの…?
そうなってしまうの、あの雀、あのまま殺されちゃうのを待つしかないの…?
白い雀は、生まれた時から大変なのに…。色が違うから、巣から追い出されることもあるのに。
大きくなっても、恋の相手も出来ないんだよ…?
羽根の色が普通の雀と全く違っているから、つがいになる鳥、いないんだって…。
だからホントに独りぼっちで、その内に殺されちゃうんだよ…?
白い雀に生まれたってだけで、アルビノだったっていうだけで。
何も悪いことをしていないのに、独りぼっちで殺される日を待つだけだなんて可哀相だよ…。
「…そうだったのか…。白い雀は、狙われるだけじゃないんだな…」
独りぼっちになっちまうわけか、そいつは確かに可哀相だと俺も思うが…。
そうは言っても、決まりは決まりだ。
「可哀相だから助けて下さい」と言い始めたらキリが無い。
例外はあくまで例外ってヤツで、そうそう幾つも無いもんだ。白い雀は諦めるしかないだろう。
すまんが、俺にもどうにもならん。…助けてやりたい気持ちはあっても、無理なものは無理だ。
だが…、とハーレイが浮かべた笑み。難しそうな顔から、いつもの穏やかな笑みへ。
「白い雀は可哀相だが、そいつにだって、だ」
もしかしたら…な。まるで救いが無いってわけでもないかもしれんぞ、本当のトコは。
「救いって…。なに?」
あの羽根の色は変えられないのに、飛ぶ力だって弱いのに…。
救いなんか何処にもありそうもないよ、人間が保護してあげない限りは。
「いや、保護されるよりも今のままがいい、と白い雀は思っているかもしれん」
つまりだ、俺みたいなのがいるかもしれん、ということさ。
「えっ?」
ハーレイは何もしないって言ったよ、雀は助けてあげられないって言ったじゃない…!
「本物の俺のことじゃなくてだ、白い雀にとっての俺っていう意味だが…?」
恋人だ、恋人。俺がお前の側にいるように、その雀にだって恋人がいないとは限らないぞ?
白い雀でも気にしやしない、っていう恋人だな、そいつはもちろん普通の姿の雀なわけだ。
つまり運命の恋人ってヤツだ、本当だったら相手にされない筈の雀に恋をしている雀。
俺たちが地球に生まれ変わって出会えたようにだ、白い雀にもいるかもしれないだろうが。
どんな時でも離れやしない、と側にいてくれる恋人の雀。
それがいたなら、独りぼっちじゃないからなあ…。
人間にウッカリ保護されちまったら、その恋人とは離れ離れになっちまうんだぞ、白い雀は。
そうなるよりかは、今のままがいいと思わないか?
少しばかり目立つ羽根の色でも、恋人と一緒に暮らせる方がな。
絶対にいないとは言い切れないんだぞ、そういう恋人。白い羽根でも気にしないヤツが。
現に白い雀を育てた親がいるんだろうが、とハーレイはパチンと片目を瞑る。
白い雀は巣から追い出されるのが普通だというのに、お前の両親のように大切に子供を守って、立派に育ててくれた親が、と。
「巣から追い出さない親がいるなら、恋をするヤツだって無いとは言い切れないからな」
ちょっと違うが、これも個性だと思う雀はいるってことだ。
白い雀の親もそうだし、一緒に育った兄弟だって白い雀を雀だと認めているわけなんだぞ。
他にもいないとは誰も言えんな、白い雀がちゃんと雀に見える雀が。
「…そういえばそうだね…」
親鳥と兄弟が白い羽根でも雀なんだって思っていたから、白い雀はちゃんと大きく育てたし…。
おんなじように雀なんだ、って考える雀がいたって不思議じゃないかもね…。
「な? まるで無いとは言えないだろうが」
そいつは強運な雀だってことは間違いないなあ、無事に育って大人になっているってだけで。
他の巣で生まれたら追い出されちまって死んでいただろうに、いい巣に生まれて来たわけだ。
それだけ運の強い雀だ、恋人だって何処かにいるだろうさ。
「…本当に?」
あの白い雀の恋人の雀が何処かにいるの?
独りぼっちで生きていかなくてもいいの、恋人の雀がいるのなら…?
「そう思っておけば気が楽だろう?」
前のお前は、白い雀に似てはいたんだが、前の俺が側にいたってな。
それと同じで、白い雀も前のお前みたいに、幸せに生きていけるかもしれん。
運命の恋人と出会って、一緒に巣作りをして。
仲良く暮らしていくかもしれんぞ、学者たちだってビックリしちまう結末ってことで。
白い雀にも未来が無いとは限らないぞ、と微笑むハーレイ。
普通の雀に生まれなくても、幸せな未来が待っているかもしれないのだから、と。
「…ただし、キースに狩られてしまわなければ、だが…」
お前が言ってた狩りの獲物だ、雀の場合は鷹なんだがな。
運悪く鷹に出会っちまったら、白い雀はそれで終わりだ。前のお前がそうなったように。
…鷹は獲物を嬲り殺しにするような真似はしないだろうがな。
「キース…。撃たれた時はとても痛かったけれど…」
そのせいでハーレイの温もりまで失くしてしまったけれども、キースは役目を果たしただけ。
マザー・システムが命じた通りにミュウを殲滅しようとしただけ、前のぼくまで含めて、全部。
どうして嬲り殺しにしようとしたのか、それは今でも分からないけれど…。狩りをしていたってことは分かるよ、一撃で倒せば良かったのに。
…でもね、ぼくは別に、キースのことは…。恨んでいないよ、あれはキースの役目だったから。
もっと違う形で出会っていたなら、キースとも分かり合えていたんだと思うから…。
「…お前はいつでもキースを庇うな、あんな酷い目に遭ったというのに」
あれはキースの役目だったと、仕方がないと、お前は許してしまうんだ。
だからだ、それと同じことだな、白い雀が鷹に狩られて死んじまったとしても。鷹の方は獲物を捕まえただけで、自分の仕事をしたってだけだ。
鷹のキースは自分の役目を果たしただけだと思っておけ。自分のために獲物を捕ったか、子供のために捕まえたのか…。いずれにしたって遊びではなくて、必要だから狩りをしたわけだ。
…もっとも、俺なら怒り狂うんだがな。
何が役目だと、お前を殺してしまったくせに、と。
「そっか、ぼくがハーレイに言ってることと同じなんだね、恨んじゃ駄目、って」
キースは何も悪くないから、ぼくも恨んでいないんだから、って。
白い雀が鷹に捕まっても、それと同じで、怒ったりしちゃ駄目なんだね…。
「そういうことだな」
鷹は獲物を捕まえなくては生きていけんし、それがたまたま白い雀になったってだけだ。
白い雀が目立っていたのが運の尽きだな、普通の雀なら見付からなかった可能性もあるんだし。
しかし…、とハーレイの鳶色の瞳が優しい色を湛える。
白い雀が幸せになれるといいんだがな、と。
「俺たちには何もしてやれないがだ、せっかく生まれて来たんだからなあ…」
そして大きく育ったわけだし、俺たちみたいに幸せに生きて欲しいよな。
お前が助けてやりたかったほど、前のお前に似ているんだし。
「うん、本当に似ているんだよ…」
だから幸せになって欲しいよ、鷹に捕まったりせずに。
独りぼっちで生きるんじゃなくて、ちゃんと一緒に暮らせる恋人も見付けて欲しいよ…。
「うむ。二人で祈ってやるとするかな、そいつのために」
俺たちに出来ることと言ったら、それくらいしか無いんだからな。
「そうだね…!」
お祈りだったら神様に届いて、聞いて貰えるかもしれないし…。
自然の中で暮らす生き物のことも、神様はきちんと見てるんだろうし…。
それがいいよね、お祈りするのが。
白い雀が幸せに生きていけますように…、って。
保護してやることは出来ない雀。真っ白な身体のアルビノの雀。
遠い地域に生まれた小さな雀だけれども、ハーレイと二人、天に祈った。
前の自分に少し似ている、白い雀の幸せを。
白い雀に恋人は出来ないと言われていたって、運命の恋人が見付かるように。
恋人と出会って、白い姿でもキースのような鷹に狩られないで。
幸せに生きて、ちゃんと未来を築けるように…、と。
いつかハーレイと結婚して二人で歩いてゆく道、白い雀にもそれと同じ道を歩んで欲しい。
青い地球の上で、恋人と生きてゆける道。
何処までも、いつまでも手を繋ぎ合って、幸せに歩いてゆける道を…。
アルビノの雀・了
※ブルーが見付けた、アルビノの雀の記事。前の自分と重なるのに、助けてやれないのです。
けれど、その雀にも恋人がいるかも。幸せになれるよう、祈るのがブルーに出来ること。
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(あいつ、あの日は此処にいたんだ…)
ハーレイの目にふと留まったソファ。ブルーの家には寄れなかった日、帰って来た家で。自分の家だから何の遠慮も要らないとばかりに、鞄をドサリと投げ出した。ソファの上へと。
それから着替えを済ませて戻って、放り出してあった鞄を端にきちんと置き直そうとして。
(…此処だったんだ…)
此処にブルーが座ってたんだ、と小さな恋人の姿を思い出した。このソファにチョコンと座った恋人、パジャマ姿だった小さなブルー。
どうして気付かなかったのだろう。今日まで何度もソファに座ったし、鞄も何度も置いたのに。着替え用の服を置いて出掛けて、此処で着替えることもあるのに。
たった一度だけブルーを座らせたソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
ブルーと出会って間もない頃に。メギドの悪夢に襲われたブルーが恐怖に怯えながら眠った夜。瞬間移動など出来ない筈のブルーが此処まで飛んで来た。何ブロックも離れた此処まで、寝ていた自分のベッドの中へと。
(あの夜は俺もパニックだったしなあ…)
寝ぼけ眼で「何かがベッドにいる」と感じて、母の猫かと思った自分。隣町の家にいた真っ白な猫のミーシャが来たなと、潰してしまってはマズイだろうと。
けれども、自分の子供時代にミーシャはいなくなっていたから。何かが変だと手で探ろうとした時、耳に届いたブルーの寝言。「ハーレイ」と漏らして、「会いたいよ」と。
何が起こったのか、それで分かった。前のブルーと同じ背丈に育つまでは家に来るな、と言っておいたブルーが瞬間移動でやって来たのだと。自分でも知らずに、無意識の内に。
(…実際、アレは驚いたんだ…)
小さなブルーが自分のベッドに飛び込んで来た上、懐にもぐり込んで来たのだから。
今とは違って、再会してから間もない頃。
前のブルーと長く過ごした恋人同士だった頃の記憶が勝っていたから、ブルーを求める気持ちもあった。幼い身体でもブルーは同じにブルーなのだし、身体ごと手に入れてしまいたいと。
そうは思っても、無垢で小さなブルーにはまだ早すぎる行為。いくらブルーがそれを望んでも、心も身体も耐えられはしないと分かっていたから、懸命に自分を抑えていた。
「家には来るな」と釘を刺したのも、その一つ。ブルーが家に遊びに来た時、見せた表情が前のブルーと重なったから。思わず抱き締めてしまいたくなる前のブルーに見えたから。
(…重なっちまったら、もう止まらないんだ…)
たとえブルーが幼くても。悲鳴を上げても、もう止まらない。力の限りに抱き締めるどころか、強引にキスして、服も剥ぎ取って…。
そうならないよう、「来るな」と言っておいたブルーが同じベッドに入って来た。眠ったままで胸に縋り付いて来た、これでパニックにならない方が不思議だろう。
(ウッカリ俺まで眠っちまったら、何をやらかすか…)
なにしろブルーがいるのだから。腕の中で眠っているわけなのだし、そのまま自分が夢の世界の住人になれば、前のブルーと同じつもりで眠りこけながら何をするやら…。
指が、手が、眠るブルーの身体にけしからぬことをしてしまいそうで。悪ふざけの範囲で済めばまだしも、それで済まなくなったなら。ブルーのパジャマを脱がせるだとか、その下の肌を探ってズボンの中まで手を入れるだとか…。
(そいつは大いにマズイんだ…!)
ブルーはきっと眠りながらでも、そういった行為に応えるから。幼い心も、小さな身体も眠りの前には何の歯止めにもなりはしなくて、前のブルーの動きをなぞってしまうだろうから。
一度ブルーが応えてしまえば、きっととんでもないことになる。気付けば小さなブルーの身体を組み敷いてしまって、もう本当に止まれない所まで行っていそうな予感がしたから。そうなってもブルーは微塵も困りはしないだろうけれど、自分の方は…。
(取り返しのつかないことをやっちまったと、きっと一生…)
悔やみ続けることだろう。ブルーが大きく育った後にも、二人で暮らせるようになっても。
それだけは御免蒙りたいと、いくらブルーは平気だとしても自分の良心が咎めるから、と朝まで必死に抑え続けた自分の劣情。ブルーが欲しいとざわめく心。
眠っても駄目だし、欲望に負けてブルーに触れてしまえば、もうおしまいで。ブルーは腕の中にいるのだけれども、「愛おしい」と思う以上の気持ちを持ってしまえば破滅するだけで。
朝まで眠らずに耐えて耐え続けて、ようやくブルーが目覚めてくれて。
「ハーレイの家に来られたんだね」と無邪気に喜ぶブルーと一緒に寝室を出て、階段を下りて、リビングに来て。
「此処に座れ」と座らせたソファ。一人用ではなくて、ゆったりと座れる大きなソファ。
ブルーが座ったのは、その一度きり。あの朝にチョコンと腰掛けたきり。
(遊びに来た日は座っていないし…)
教え子を招くようなつもりで、ブルーを家に呼んでやった日。前のブルーとそっくりな貌をするブルーに驚き、心をかき乱された挙句に「大きくなるまで来るな」と告げねばならなかった日。
けしからぬ気持ちになっては駄目だ、と心の何処かで考えていたのかどうなのか。
この部屋でブルーと話す時には、一人用のソファに腰掛けて向かい合っていた、これとは別の。二人で並んでも充分すぎる余裕のあるソファ、これではなくて。
リビングの端の、大きなガラス窓越しに庭が見える場所。其処にブルーと座っていた。
けれども、ブルーがベッドに飛び込んで来た後に迎えた朝。あの朝はブルーを此処に座らせた、何も思わずに。広いソファの方がいいだろう、とパジャマ姿の小さなブルーを。
(あいつが一人で座るだけだっていうのも、あったんだろうな)
自分はブルーの家に通信を入れたり、顔を洗って着替えたりと用があったから。ブルーと一緒に腰掛けて話すどころではなくて、するべきことがあったから。
ブルーが一人で座るだけなら、邪心の入る余地などは無い。ソファはただの椅子で、一人用でも大きなものでも、座り心地が良ければそれでいいのだから。
(それっきりか…)
あの朝だけか、と眺めるソファ。小さなブルーが座っていたソファ。
此処に腰掛けたブルーを見たくなっても、ブルーは来ないし、招きも出来ない。
今はまだ。
十四歳にしかならないブルーが大きく育って、前のブルーと同じ姿になるまでは。
柔道部員たちが押し掛けて来た日は、このソファも寿司詰めになるのだけれど。冬の寒い日に、木の枝にギュウギュウと連なって止まるメジロさながらの光景だけれど。
メジロ押しだか、寿司詰めだかの賑やかな教え子たちの集団、そんな見慣れた光景よりも。
(…此処にあいつなあ…)
此処にブルーがいてくれればな、と思いが募る。けして叶いはしないけれども、小さなブルーが前と同じに育つ日までは無理だけれども。
(…柔道部員どもとは、まるで値打ちが違うんだ)
端から端までギュウ詰めに座って、その連中の膝の上にも乗ろうという輩がいるくらい。もっと座れるとメジロ押し並みにギュウギュウとやって、零れ落ちたりしているくらい。
そういう彼らも面白いけれど、見ていて飽きはしないのだけれど。彼らがギュウギュウ押し合うソファより、満載になって溢れるソファより、ブルーが座っているソファがいい。
(小さなあいつは、もう呼べないし…)
いつか大きく育つ時まで、待っているしか無いのだけれど。
ソファに気付いたら、其処にブルーが座っていたのだと思い出したら、いて欲しいブルー。
柔道部員たちのメジロ押しも愉快で笑えるけれども、ブルーに座って欲しいものだと。
そう思ったから、夕食の後はコーヒーを淹れて、そのソファに座ることにした。熱いコーヒーを満たした愛用の大きなマグカップ。それを片手に「今日は此処だ」と。
自分がドッカリ腰を下ろしても、大人が二人は楽に座れる余裕があるソファ。柔道部員たちなら四人は基本で、大抵、五人は詰まっている。「もっと詰めろ」と、「まだいけるだろ」と。
そのソファの丁度真ん中あたりに座って、隣にブルーがいるつもり。マグカップを持っていない方の手、その手でブルーの肩を抱けたなら、と。
ブルーは苦手なコーヒーだけれど、隣に座るのを嫌とは言うまい。「ぼくは紅茶の方がいい」と紅茶を手にしていそうだけれども、きっと隣に座ってくれる。
早くその日が来ないものかと、此処にブルーがいてくれれば、と誰もいない隣に溜息をついて。いつになったら此処にブルーが来てくれるのかと、空っぽの隣を眺めていて。
(…そうだ)
ブルーなら家にいるじゃないか、とマグカップをコトリとテーブルに置いて向かった書斎。あの書斎にはブルーがいるのだった、と。
よくコーヒーを飲んでいる書斎、本たちに囲まれた憩いの空間。其処に据えてある机の上には、小さなブルーの写真を収めたフォトフレーム。夏休みの終わりにブルーと写した記念写真。
フォトフレームの中、自分の左腕にギュッと抱き付いた笑顔のブルーに「すまん」と詫びて頭を下げて。そうっと開けた机の引き出し、日記の下から引っ張り出した写真集。
正面を向いた前のブルーの写真が表紙に刷られた、『追憶』のタイトルを持つ写真集。最終章はメギドへと飛ぶ前のブルーの最後の飛翔で始まり、爆発するメギドで終わっている。
悲しくて辛い本だけれども、前のブルーが愛おしいから。こうして自分の日記を上掛け代わりに被せてやって、いつも引き出しの中に。泊まりの研修にも持ってゆくほど愛おしいブルー。
これだ、と大切にリビングへ運んだ写真集。それをソファの上、自分の隣に置いたら、ブルーが其処にいるかのようで。前のブルーが幻となって、隣に座っているかのようで。
これでいいのだと、今夜はブルーと二人なのだと、少し温くなったコーヒーを口にしながら。
「なあ、ブルー…」
いつかは座ってくれるんだよな?
今はこういう写真しか無いが、ちゃんと本物のお前になって。俺の隣に、この姿で。
…おっと、ソルジャーの衣装はもう要らないんだぞ、お前の好きな格好でいい。普段着だろうがパジャマだろうが、俺は全く気にしないからな。
此処に座ってくれればいいんだ、俺の隣に。…お前の苦手なコーヒーを飲めとは言わないから。
そうは言っても、お前は飲みたがるんだよな、と語り掛けても返らない返事。
写真のブルーは何も言わずに見上げてくるだけ、瞳の奥深く悲しみと憂いを揺らめかせて。前のブルーが強くあろうと隠し続けた真の表情、それを湛えた眼差しで。
どの写真よりも有名なそれを見詰めて、前のブルーに思いを馳せて。
「今はゆっくりしていい時代だぞ」と、「俺の家だから、のんびりしてくれ」と、和らぐ筈などないブルーの表情を和らげたいと話し掛けていて…。
そこで気付いた、これが初めてではないと。
こうしてブルーと語り合った時間、それが確かにあった筈だと。
ブルーと話していた記憶。今と同じに、前のブルーと。
けれどブルーは幻ではなくて、もちろん写真であったわけもなくて。
(待てよ…?)
青の間には一つも無かったソファ。一人用さえ無かったのだから、二人用などある筈もない。
なのに、並んで座った記憶。前の自分の隣に座っていたブルー。
ソファに腰掛け、隣を向いたらブルーがいた。前のブルーが微笑んでいた。そうして二人並んで話した、何度も何度も語り合っていた。
まるで今夜の自分のように。前のブルーの写真集と隣り合わせに座って、答えが無くても自分の想いを語り掛けては、話しているつもりで頬を緩める自分のように。
青の間にソファは無かったというのに、あれは一体、何処だったろう?
何処でブルーと並んで座っていたのだろうかと、遠い記憶を懸命に手繰り寄せていて…。
(そうか、俺の部屋か…!)
あそこだった、と蘇った記憶。
白いシャングリラの中、広かった前の自分の部屋。キャプテン・ハーレイが暮らしていた部屋。仕事柄、様々な者たちが出入りするから、応接用のスペースも設けられていた。寝室や航宙日誌を書いていた部屋とは違った空間。其処に置かれていた応接セット。ソファとテーブル。
前のブルーが訪ねて来た時は、ソファで語らうのが常だった。
恋人同士の仲になるまでは低いテーブルを挟んで向かい合わせで、前の自分が淹れた紅茶などをお供に笑い合ったり、地球への夢を語り合ったり。
そうして恋が実った後には…。
(あいつが俺の隣にいたんだ…)
もう向かい合わせに座ることは無くて、いつも並んで座ったソファ。
ブルーの居場所は前の自分の隣で、すぐ側にあった前のブルーの温もり。たまに向かい合わせで座った時にも、いつの間にか隣に来ていたブルー。前の自分の隣に座っていたブルー。
横を向いたら、其処にブルーの笑顔があった。幸せそうに微笑む顔が。
わざわざ肩を抱き寄せなくても、ブルーの方から自然ともたれて来ていた記憶。前の自分の肩に身体を預けてしまって、眠くもないのに目を閉じていたり。…そう、幸せを噛み締めるように。
(あいつが俺の部屋に来たがったのは…)
ソファのせいでもあったのだろうか?
青の間には無かった、二人並んで座れる場所。並んで腰掛け、語り合える場所。
今の時代も、恋人たちは並んで座るのが常だから。白いシャングリラでも、そうだったから。
ブルーはそれを真似てみたくて、恋人同士で座る気分を味わいたくて、ソファが備えられていた前の自分の部屋を訪ねて来たのだろうか…?
それだけではないと思うけれども、ソファも理由の一つだったろうか、と。
(どうなんだかな…)
真相を小さなブルーに訊いたら、喜ばせるだけの質問だけれど。
ソファが関係していようが、まるで全く無関係だろうが、問われたブルーは間違いなく赤い瞳を輝かせて喜ぶだろうけれども。
尋ねてみようか、明日は土曜日だから。ブルーの家へ行く日だから。
(…お前は知っているんだろうがな…?)
どうだったのかを俺に教えてくれはしないんだろうな、と問い掛けた写真集の表紙のブルー。
答えは返って来なかったけれど、憂いを秘めた顔のブルーが一瞬、微笑んだようにも見えた。
「思い出してくれたんだね」と。
ぼくたちのことを、君の部屋のソファに並んで座っていたことを、と。
その夜は前のブルーとソファで過ごして、それから書斎で日記を書いて。その日記を『追憶』の上にそっと被せて、「おやすみ、ブルー」と引き出しを閉めた。
一晩眠ってもソファの思い出を覚えていたから、頭にきちんと残っていたから。小さなブルーに尋ねてみようと、ブルーの家へと歩いてのんびり出掛けて行って。
生垣に囲まれた馴染みの家に着いて、二階のブルーの部屋で向かい合わせに腰掛けてから質問をヒョイと投げ掛けてみた。
「お前、ソファのことを覚えているか?」
ソファと言ったら家具のソファだが…。こういう椅子とは違って、ソファだ。
「ハーレイの家の?」
うん、覚えてるよ、リビングに置いてあったよね。大きなソファにも、一人用のにも座ったよ。どっちも座り心地が良くって、フカフカのソファ。
「いや、それじゃなくて…」
今の俺の家にあるソファじゃなくてだ、前の俺の部屋の…。
「え?」
ブルーがキョトンと首を傾げるから、「キャプテンの部屋にあったヤツだ」と説明をした。
「忘れちまったか、前の俺の部屋にあったソファ」
キャプテンの部屋には客も来るしな、応接セットがあったわけだが…。ソファとテーブルが。
お前、座っていたろうが。いつでもソファで俺の隣に。
「ああ、キャプテンの部屋のソファ…!」
あったっけね、と嬉しそうに頷いたブルー。
大きなソファが置いてあったと、あれは青の間には無かったものだと。
来客が多いキャプテンの部屋ならではの家具で、ソルジャーの部屋には無かったっけ、と。
ブルーはキャプテンの部屋のソファも、青の間にソファが無かったことも思い出したから。前の自分たちの部屋にあった家具の違いに気付いてくれたから。
これはチャンスだと、昨夜からの疑問をぶつけることにした。ブルーはソファが好きだったのか否か、それを訊くのが自分の目的なのだから、と。
「よし、ソファがあったことは思い出したな? それでだな…。お前に訊いてみたいんだが…」
前のお前が俺の部屋に来たがっていたのは、あのソファのせいか?
「…ソファ?」
ソファのせいって、どういう意味なの?
前のハーレイの部屋は好きだったけれど、何度も泊まりに行っていたけど…。
「いや、もしかしたら、あのソファに座りたくて来ていたのかもな、と思ってな…」
友達同士だった頃には向かい合わせで座ったもんだが、恋人同士になってからは、だ。いつでも俺の隣に座っていたしな、前のお前は。
たまに向かい合わせで座った時にも、気が付いたら俺の隣に来てた。当たり前のように。
…だからだ、お前、あのソファに座ろうとして来ていたのかと思ったんだが…。
青の間にソファは無かったからなあ、並んで座れはしなかったからな。
どうだったんだ、と尋ねたら、ブルーの顔が花が開くようにふわりと綻んで。
「うん、そうだよ」
あのソファに座りたいから行ってたんだよ、ハーレイの部屋に。
ソファが目当てじゃない時だって、もちろん何度もあったけど…。ソファが無くても、行きたい部屋ではあったんだけれど。
…だって、ハーレイの部屋だから。ハーレイのためにあった部屋だから、何処もハーレイの色で一杯。緑とかそういう色じゃなくって、ハーレイの好きな色なら何でも。机も床も、壁の色もね。
あの部屋の全部が好きだったけれど、ソファに座るのも大好きだったよ。
すっかり忘れてしまっていたけど、あのソファ、お気に入りだったんだよ…。
ソファそのものもハーレイらしくて好きだったけれど、ハーレイの隣が好きだった、とブルーは笑みを浮かべて答えた。前のハーレイの隣に並んで座るのが、と。
「あそこでしか並んで座れなかったしね…」
どんなにハーレイの隣に座りたくっても、あのソファだけしか無かったから。
「…そうか?」
お前、しょっちゅう俺の隣にくっついていたと思うんだが…。
もたれていたり、俺の腕にギュウッと抱き付いていたり。
「それはそうだけど…。間違いないけど、そういう時にはベッドだったよ」
ベッドの上とか、ベッドの端に並んで座っていた時だとか。そんな時だよ、くっついてたのは。
だけど、椅子はね、ハーレイの部屋のソファだけだった。
ハーレイと同じ椅子に並んで座れる所は、あのソファだけしか無かったんだよ…。
公園のベンチや、シャングリラの中を移動するための小さな車両の座席やら。
そうした場所なら並んで座ったことも珍しくなかったけれども、ソルジャーとキャプテンの貌で座っていただけ、とブルーに言われてみれば。
確かにそういう記憶しか無くて、休憩中のソルジャーの隣に座って話をするとか、視察の途中に隣り合わせで座ってゆくとか、それだけのこと。同じ椅子に並んで腰を下ろしていても。ベンチや座席で隣り合っていても、あくまでソルジャーとキャプテンだった。
「…ハーレイと恋人同士で並んで座っていられる椅子は、本当にあのソファだけだったんだよ」
シャングリラはうんと広かったけれど、あそこだけが誰にも見付かる心配が無かった場所。
どんなに二人でくっついてたって、恋人同士なんだって分かる話をしてたって。
あの船の中に、恋人たちのための場所は幾つもあったのに…。
公園のベンチも、休憩室とかに置いてあったソファも、恋人たちが並んで座ってたのに。
「そういや、そうだな…」
仲良く並んで座っているな、ってヤツらを見掛けることが多かったっけな。
並んで座るってだけじゃなくって、手を繋いでたり、肩を抱いてたりしたっけな…。
「でしょ?」
だから、あのソファが好きだったんだよ。あそこなら並んで座れるから。
恋人同士の気分になれたよ、他の恋人たちみたいに公園とかではなかったけれど。
何処でも恋人同士の顔をして堂々と並べはしなかったけれど、あのソファは別。ハーレイの肩にもたれていたって、くっついてたって、何の心配も無かったんだもの。
…キャプテンの部屋に断りも無しに入ろうって人は無いものね。誰か来たなら、パッと離れて、ハーレイの向かいに座り直せばいいんだから。
でなきゃ瞬間移動で逃げてしまうとか、誤魔化す方法は山ほどあったし…。
だけど、そんなことは一度も無かったんじゃないかな、行ってたのはいつも夜だったから。
本当に素敵なソファだったよ、と小さなブルーは懐かしそうで。
どうして今まで忘れていたのかと、あのソファがとても好きだったのにと遠く遥かな時の彼方に消え去った船を、キャプテンの部屋を、其処にあったソファを思い浮かべているようだから。
「…お前、やっぱり、アレが目的だったんだな?」
あのソファに座ろうと思って来ていたんだな、俺の部屋まで。
「それだけってわけじゃないけどね」
ハーレイの部屋も好きだったと言ったよ、何処を見たってハーレイの色で。
航宙日誌を書いてるハーレイを眺めているのも大好きだったし、お酒を飲んでるハーレイも…。
青の間だと見られないものばかりが揃っていたから、いつ出掛けたって楽しかったよ。
それにね、ハーレイと過ごせる時間。
恋人同士でいられる時間も大切だったよ、ソファだけに限った話じゃなくて。
キスとか、その先のことだとか…、と小さなブルーがチラリと意味ありげな視線を寄越すから。
(…そうだ、あのソファでも…!)
二人並んで座っていたから、隣同士でくっつき合っていたのだから。
ソファに座ったまま、キスを交わしたりしたのだった。ただ触れるだけのキスとは違って、恋人同士の深いキス。そのまま溶け合ってしまえそうなほどに熱くて激しいキスを。
ふざけ合ったこともあったのだった、ベッドに行く前の恋人同士の戯れの時間。互いの肌を探り合ったり、ブルーの補聴器を外してしまって柔らかな耳を味わってみたり。
流石にソファでは愛は交わしていないけれども。
そういう気分になって来たなら、ブルーを抱き上げてベッドに運んでいたけれど…。
実はとんでもない場所だったのか、と今頃になって思い出したソファ。
小さなブルーに質問したのはマズかったろうかと、藪蛇だったかと慌てた所で手遅れなのだし、此処は平静を装っておくのが一番だろう。ブルーが何処まで覚えているかは謎だから。忘れている可能性も高いのだから、自分さえ口を噤んでおけば、と。
そんな祈りが天に届いたか、ブルーはキスだの本物の恋人同士だのと言いはしないで。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくもハーレイに質問があるんだけれど…」
訊いていいかな、ソファのことで。
「ん?」
ソファがどうかしたか、前のお前が好きだったソファか、前の俺の部屋の?
「ううん、そうじゃなくて…。今度もソファに並んで座っていいんだよね?」
今のハーレイの家にあるソファ。
あの大きなソファ、ハーレイと並んで座っちゃってもかまわないよね…?
「もちろんだ」
どうして駄目ってことになるんだ、お前、俺の嫁さんになるんだろうが。
俺と一緒に暮らすわけだし、あのソファはお前のためのものでもあるわけだ。
俺が仕事に行ってる間に寝転んで本を読んでいようが、昼寝しようが、お前の自由だ、誰からも文句は出ないってな。
キャプテンの部屋にあったヤツはだ、俺の私物か、そうでないのか微妙だったが…。
仕事用って側面もあったわけだし、半分ほどは公共の物かもしれなかったが…。
今度は違うぞ、明らかに俺の私物だからな。好きに使ってかまわないんだ、昼寝でもなんでも。
そうでなくても、柔道部のヤツらに既に蹂躙されている。
ヤツらが来たなら、あのソファは遠慮なく奪い合いなんだ、挙句の果てにはメジロ押しってな。ギュウギュウ詰まって、端っこのヤツが零れ落ちてる有様だぞ。それでも足りずに上に乗るヤツも現れるわけだ、他のヤツらの膝の上にな。
だからお前も好きに使え、と許可を出してやった。
今はまだまだ早すぎるけども、いつか大きく育った時には、まずは二人で並んで座る所から。
結婚したなら、ソファはブルーのものでもあるから、もう本当に好き放題に。昼寝をしようが、寝そべって本を読んでいようが、どんな風にも使っていいと。
「お茶を飲んだり、菓子を食ったりするのなんかは基本だな。ソファ本来の使い方だし」
何に使おうが、俺は小言を言いはしないぞ。
お前なら大事に使うだろうしな、柔道部のヤツらみたいな無茶はしないで、それは大切に。
「ありがとう、ハーレイ! ぼくのソファにもなるんだね、あれは」
それなら、今度はキスだけじゃなくて、もっと他にも…。
「はあ?」
キスとはなんだ、と背中に冷汗が流れたけれども、冷静なふりで訊き返したら。
「えーっと…。前は一応、遠慮してたし…」
前のハーレイの部屋にあったソファはね、ハーレイがさっき言ってた通りだったし…。
ハーレイの部屋のソファではあったけれども、ハーレイの私物かどうかは難しくって…。
だから、遠慮はしていたんだよ。
これよりも先はちょっとマズイかもしれないよね、って。
あのソファはヒルマンやゼルや他の仲間たちも座るソファだったから、と染まっている頬。
そういうソファでは流石にどうかと、前の自分も考えて遠慮していたと。
「…キスと、ちょっぴりふざけ合うくらいは大丈夫かな、って思ったけれど…」
ベッドの代わりにするっていうのはあんまりかな、って。
このままソファで出来たらいいのに、って思っていたって、ハーレイにベッドに運ばれちゃっておしまいだったし、やっぱりそういうことだよね、って…。
ぼくから強請っちゃ駄目だと思って、ソファでは我慢をしていたんだよ。
とても大好きな場所だったんだし、本当はあそこをベッド代わりにしたかったけど…。
だからね、今度はソファでもお願い。キスだけじゃなくて、ホントはベッドですることまで。
「こら、お前…!」
キスも駄目だと言っているのに、何の話をしてるんだ…!
第一、お前は何歳なんだ、十四歳にしかなっていないだろうが…!
背伸びしてベラベラ喋ってる中身、今のお前には意味が分かっているかも謎だぞ、馬鹿者が…!
子供のくせに、とブルーを叱り付けたけれど。
小さな子供が何を言うかと、前と同じに育ってから言えと顔を顰めてやったけれども。
「…でも、ソファの話…。言い出したのはハーレイだよ?」
ハーレイが先にぼくに訊いたんだよ、あのソファのことを覚えてるか、って。
あれに座りたくてハーレイの部屋に行ってたのか、って質問したのはハーレイじゃない…!
「だから訊きたくなかったんだ…!」
お前を喜ばせるだけかもしれん、と思ってはいたが、真相ってヤツを知りたかったし…。
それだけを訊ければ充分なんだと腹を括ってやって来たのに、お前ときたら…。
余計なことまで思い出しちまって、ソファの使い方の注文だと?
今のお前に似合いのソファの使い方はだ、昼寝と寝そべって本を読むことだ…!
チビが、とブルーの額を拳で軽くコツンと小突いたけれど。
ブルーは「ハーレイが先に言ったくせに」と膨れっ面をしているけれど。
(…まあ、いずれはな?)
小さなブルーが前と同じに育ちさえすれば、今度は二人でソファに座れる。今はまだ二人並んで座れないソファに、隣り合わせで。
最初はそこから、隣同士で仲良く座って、お茶やお菓子や、他愛ない話。
ブルーの肩を抱いたりしながら、微笑み交わして、くっつき合って。
そうして始まる、今の生でのブルーとのソファの使い方。恋人同士での座り方。
二人並んでソファに座って、それからキスも、その先のことも、前の生では無理だったことも。
ブルーも自分も遠慮していて、出来なかったソファの使い方。
あのソファをベッド代わりに使ってみようか、いつかブルーと結婚したら。
同じ家で暮らして、同じソファを使える時が来たなら。
ブルーもあのソファの持ち主になって、昼寝に使うような時が来たなら。
それもいいな、と零れそうな笑みを今は懸命に堪えるけれど。
小さなブルーを喜ばせてしまう結果を招かないよう、威厳を保っておくけれど。
いつかはブルーと使いたいソファ。恋人同士の熱い時間を、甘い営みをあのソファの上で…。
二人のソファ・了
※前のハーレイのキャプテン時代に、部屋にあったソファ。前のブルーのお気に入りの場所。
恋人同士で並んで座れる所は、その一つだけ。今の生でも、素敵な場所になりそうです。
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