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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(よし、と…)
 やるとするか、とハーレイが覗き込んだメモ。夕食後のひと時、ダイニングで。ブルーの家には寄れなかった日、試してみるなら今日が吉日、と。
 氷ギッシリがコツ、ウイスキーを一にソーダが四。そっと一回し、たったそれだけ。
 新聞に載っていたハイボールの作り方、それをメモしてあったもの。「美味そうだな」とピンと来たから、目にした時に書き抜いた。失くさないよう、酒類を入れてある棚に仕舞って。
 作りたい気分になった時が飲み時、ウイスキーと一緒に出して来たメモ。まずは氷、とグラスにギッシリ、もう文字通りに縁まで幾つも。
(こう、ギッシリと…)
 かき氷やフラッペを作ろうというわけではないから、ウイスキー用のスペースは空けておかねばならないけれど。すっかり氷で埋めてしまっては駄目なのだけれど。
 冷凍庫で作った大小の氷、それを工夫して詰めてゆく。氷でギッシリ埋まるようにと、グラスの縁まで届く高さに、と。
 ギュウギュウ詰めにはしなかったけれど、丁度いい感じに詰まった氷。グラスが冷えてゆくのが分かる。氷の冷たさで白く曇って、その内に露もつくことだろう。
(その前に、だ…)
 ウイスキーを一、と計っておいた秘蔵のウイスキー。それを注いで、お次はソーダ。
(こいつもコツの内なんだろうな)
 今までの自分のやり方だったら、ウイスキーを入れた所で混ぜていた。氷と一緒にしっかりと。当然、氷は溶けて減るから、減った分だけ足していた氷。またギッシリと。
 その後に入れていたソーダ。そこで一回混ぜて出来上がり、そういうものだと思っていた。酒を好むようになった頃から、家でも飲むようになってから。



 ところが出会った、このレシピ。ウイスキーを入れても混ぜてはならない、ソーダを入れてから一度混ぜるだけ。自分が知っている方法とは違った、まるで別物のハイボールのレシピ。
 提案していたのがバーテンダーだの、通を気取った輩だのなら、気にしないけれど。「こいつはこういうやり方なんだな」と考えるだけで、メモに残そうとも思わないけれど。
(…なにしろウイスキー作りのだな…)
 プロが紹介していたのだった、それも有名なウイスキー会社の。自分も愛飲している銘柄を作る会社が載っていた記事、其処に書かれていたレシピ。
 試すだけの価値は充分にある、と酒好きの血が反応した。きっと美味いに違いないと。
(ソーダを入れて、と…)
 これも分量通りに計っておいたソーダ、入れたらマドラーでそっと一回し。今までに作って来たハイボールとは違うやり方、たった一回混ぜるだけ。
(出来上がり、ってな!)
 表面に露が浮かんだグラスに、弾ける気泡。水割りではなくてソーダだから。ウイスキーの色も美味しそうだし、なかなかに期待出来そうではある。
 飲むなら書斎だ、と足取りも軽く運んで行った。本に囲まれた部屋は落ち着くし、ハイボールの味も引き立ちそうだから。一人暮らしで言うのもおかしいけれども、隠れ家といった趣きだから。



 ゆったりと寛げる気に入りの空間、それが書斎で、机も椅子も好きだけれども。腰を落ち着けてハイボールを飲もうとしたのだけれども、その机の上。
(…すまん)
 お前は飲めなかったんだっけな、と小さなブルーに謝った。優しい飴色のフォトフレームの中、小さなブルーと写した写真。夏休みの一番最後の日に。
 ブルーの家の庭で一番大きな木の下、小さなブルーがギュッと自分の左腕に抱き付いて、笑顔。それは嬉しそうに輝いている顔、幸せ一杯のブルーの笑顔。
 そういう笑みを向けてくれているブルーには飲めないハイボール。わざわざレシピをメモして、作って、さて味わおうと持って来たのに、ブルーは飲めない。
 写真のブルーが飲めるわけがない、という意味ではなくて。
(本物のあいつが此処にいたって、飲めないんだ…)
 まだ十四歳にしかならないブルーは未成年。今の時代は酒を飲むなら二十歳から、そういう風に決められている。前の自分が生きた頃には、十四歳なら…。
(よくは知らんが、飲んでは駄目だとは言われなかっただろうな)
 なんと言っても、十四歳の誕生日が成人検査の日だった時代。成人検査と銘打つからには、その日を境に大人の仲間入りだったろう。前の自分は検査をパスしなかったけれども。
(…落っこちちまって、後はミュウへとまっしぐらでだ…)
 実験動物として檻に放り込まれた、餌と水しか無い生活へと。実験動物に酒は振舞われないし、酒の美味さを知ったのはアルタミラを脱出した後だから。
(とうに二十歳にはなってた筈だな)
 だから知らない、前の自分が生きた時代の酒事情。シャングリラは人類の世界のルールなどとは無縁だった船だし、ヒルマンの方針で子供たちの飲酒は禁止でもあった。身体に悪い、と。
(今から思えば、先見の明…)
 あれから遥かな時が流れた今、未成年には酒は駄目だと二十歳までは禁止なのだから。ブルーのような十四歳の子供が酒と知らずに飲もうとしたなら、周りが慌てて止めるのだから。



 そういった理由で、ハイボールは飲めない小さなブルー。
 自分が美味しそうに飲み始めたなら、「いいな…」と零すことだろう。美味しそうだよ、と。
 だから写真といえども詫びたのだけれど、そのブルー。前と同じに大きく育って、二十歳になる日を迎えたとしても…。
(やっぱり飲めない気がするなあ…)
 ハイボールも、他の色々な酒も。
 育った所で、ブルーはブルーなのだから。前のブルーは酒に弱くて、全く飲めなかったから。
 生まれ変わった身体だとはいえ、劇的に変わりはしないだろう。二日酔いに苦しんでいたようなブルーが酒豪になるなど、まず有り得ない。きっと同じに弱い筈の酒。
(あいつ、今度は頑張るんだと言ってはいるが…)
 どうなんだか、と浮かべた苦笑い。
 ブルーの家に行くと、たまに「一杯どうです?」とブルーの父が出してくれる酒。いける口だと知られているから、美味しい酒が手に入ったら勧めてくれるブルーの父。
 そんな時には酌み交わす酒、ブルーの父は今や飲み友達の一人で、楽しい時間になるけれど。
 チーズやナッツや、ブルーの母が作ってくれるつまみをお供に過ごすけれども、小さなブルーは必然的に仲間外れで、酒を飲ませては貰えない。会話に混ざることは出来ても、違う飲み物。
 話題が酒へと行ってしまえば、置き去りにされる小さなブルー。大抵そうなる、ブルーの父との酒宴の流れ。
 たとえシャングリラの酒について自分が語ったとしても、ブルーはついては来られないから。
 合成の酒と本物の酒との味の違いも分かっていないし、酒は一括りに「不味かった」だけ。前のブルーにとってはそれだけ、それでは話が弾まない。「不味かったよ」だけで終わるのでは。
 「ハーレイをパパに盗られちゃった」とブルーは何度も膨れて、今度は酒を飲めるように努力をするつもり。父に自分を盗られないよう、二人で酒を楽しめるよう。



(はてさて、どうなることやらなあ…)
 いずれブルーが挑戦する酒、自分を鍛えるつもりの酒。前のブルーだった頃の苦手を克服したい気持ちは、分からないでもないけれど…。
「どう思う、お前?」
 今度のお前が挑むそうだが、と引き出しから出したソルジャー・ブルーの写真集。前のブルーの一番有名な写真が表紙に刷られた『追憶』、真正面を向いたブルーに訊いてみる。
「酒だぞ、酒。俺の飲み友達の座を父親に持って行かれたくない、というのは分かるがなあ…」
 だからと言ってだ、酒が飲めるようになるかと言ったら、そいつは話が別ってもので…。
 お前とそっくり同じだったら、どう頑張っても酒は無理だぞ、現にお前がそうだったんだし…。
 何度も飲んでは文句を言ったろ、胸やけしただの、頭痛だのと。
 …やっぱりお前も、今度も駄目だと思うよなあ?
 あいつがどんなに努力したって、酒を美味しく飲めるようにはならないってな。
 だが、このハイボールはけっこういけるぞ、メモしておいた甲斐があったというもんだ。
 俺のやり方で作ったヤツより遥かに美味い。プロが勧めるだけのことはある。
 ん?
 ハイボールっていうのは何だ、ってか?
 そいつはだな…。



 ウイスキーの飲み方の一つでソーダ割りだ、と掲げたグラス。ソーダの泡が見えるだろう、と。
「ハイボールって名前がまた面白い。…ボールなんぞは何処にも無いだろ?」
 ボウルの中でかき混ぜて作っていたわけじゃないし、そもそも料理用のボウルじゃない。
 諸説あるがだ、ボールは玉の方のボールだ、ゴルフボールとかな。
 ゴルフってヤツは、前の俺たちはやっていないが、だ…。
 ずっと昔は紳士のスポーツの一つでだな…、と前のブルーの写真に向かって話していて。
(待てよ…?)
 前に誰かから聞かされた薀蓄。ハイボールの名前の由来を色々。
 同じゴルフでも、様々な説。自分の順番が回って来たから慌てて飲もうと、酒をソーダで割って飲んだら美味だったのが始まりだとか。ソーダ割りの酒を作って貰って「美味い」と喜んだ所へ、高く上がったゴルフボールが飛び込んで来たからハイボールだとか。
 他にも色々と語った誰か。ゴルフボールとはまるで関係ない、鉄道のボール信号機。それを見る駅員がボールが上がった時に飲んだからとか、滔々と。
(…誰だ?)
 あれは自分に披露していたのか、それとも他の飲み友達にか。
 自分が『追憶』の表紙のブルーに語り聞かせているのと同じに、ハイボールを語っていた誰か。
 話していたのは誰だったろう、と酒好きの友人たちを端から思い浮かべてみるけれど。学生時代からの友人や教師仲間や、柔道や水泳をやる仲間。次々に顔は浮かんでくるのに、「こいつだ」と思う顔が無い。こいつだった、と自分の記憶が反応しない。



(はて…?)
 楽しく薀蓄を聞いていたなら、きっと覚えているのだろうに。酒が入っても、一緒に飲んでいた友人の顔を忘れはしない。話の中身が今も記憶にあるというなら、なおのこと。
 なのに浮かんでこない顔。誰だったのかが思い出せない飲み友達。記憶が飛ぶほど酷い飲み方は決してしないし、酒に弱くもない筈なのに。
(まさか、前の俺の方だったってことは…)
 有り得ないんだが、と思った所で気が付いた。その考えは間違いだったと。
(そっちだ、そっち…!)
 前の俺だ、とコツンと叩いた頭。すっかり忘れてしまっていた、と。
「…すまん、せっかく教えてくれてたのにな…」
 生まれ変わってくる時に落としちまったってことで許してくれ、と詫びた昔の飲み友達。遥かな昔に白いシャングリラで一緒に飲んでいた仲間。今と同じにハイボールを。
 それの由来についての薀蓄はヒルマンが語ったのだった。ゴルフの話も、ボール信号についての話も。どれもシャングリラとは無縁のものだったけれど、ハイボールの名前の由来はこうだ、と。



 白い鯨に改造された後のシャングリラ。自給自足で暮らしてゆく船、人類の輸送船からブルーが物資を奪う時代はもう終わっていた。
(あの船では酒は合成だったし…)
 単なる嗜好品に過ぎない酒は、船では作っていなかった。葡萄から出来る赤ワインだけが例外、その赤ワインも本物はほんの少しだけ。新年を迎えるイベントで乾杯に使われた特別なワイン。
 本物の酒はたったそれだけ、他は全てが合成だった。ワインもウイスキーもブランデーも。
 そんな船でも美味しく飲もうと、あれこれ工夫を重ねていたのがゼルとヒルマン。酒好きだった前の自分の飲み友達。
 ゼルもヒルマンも酒好きだったし、ブルーが奪った本物の酒があった時代の味を再び、と手間を惜しみはしなかった。合成の酒でも工夫さえすれば、きっと美味しく飲めるだろうと。
(色々とやってたみたいだが…)
 詳しいことは知らないけれども、研究会だの、勉強会だのと称して飲んでいたゼルとヒルマン。互いの部屋を行き来しては「研究室だ」と笑い合っていた。研究会だか勉強会だか、それが始まる頃合いに通路でバッタリ会ったら「参加しないか」と誘われたものだ。
(…あれに捕まったら終わりだからなあ…)
 まず間違いなく、夜更けまで逃がして貰えない。前のブルーと過ごす筈の時間が見事に潰れて、自分はともかく、ブルーの方が…。
(…寂しかったと言われちまうか、御機嫌斜めか、そんなトコなんだ)
 次の日に会ったら、そういうブルー。皆の前ではソルジャーらしく振舞うけれども、前の自分と二人きりの時には寂しそうなブルーか、御機嫌斜めか。
 そうならないよう、勉強会への参加は出来るだけ遠慮しておいた。「仕事が残っているから」と嘘をついたり、「キャプテンはそうそう飲んでいられない」と生真面目な顔で返したり。



 前の自分も酒好きだったけれど、酒よりもブルーの方が大切だったから。
 ゼルとヒルマン主催の勉強会は極力避けて、研究にも協力しなかった。足を踏み入れたら二度と逃がして貰えはしなくて、研究者の仲間入りだから。
 そうした事情で、進み具合も知らないままだった酒の研究。ある日、「出来た」とゼルが呼びに来るまで。「これでいける」とヒルマンの部屋に招かれるまで。
 自信作だ、と二人が出して来たのがハイボールだった。
(…ヒルマンが用意をしていてだな…)
 合成のウイスキーが入ったボトルと、氷とソーダ。それからグラス。
 ゼルとヒルマンは得意げに披露してくれた。グラスに氷をギッシリと入れて、ウイスキーを注ぐ飲み方を。「これにソーダを入れるのが決め手だ」と、小さな気泡が立つハイボールを。
(美味かったんだ、あれが…)
 ソーダが合成品の味を誤魔化すのか、本物の酒のように思えた喉ごし。合成の酒だとは思えない味、ゼルもヒルマンも「これに限る」と飲んでいた。ハイボールという名前なのだ、と。
 「ハイボール?」とオウム返しに尋ねた自分にヒルマンが語ってくれた薀蓄。ゴルフだのボール信号だのと。由緒正しい飲み方らしいと、もっと早くに気付くべきだったと。
 要はソーダを入れるだけ。合成の酒が持つ独特の味を消すのがソーダ。
 グラスにギッシリ詰めた氷とソーダとがあれば、美味しく飲めるウイスキー。合成品でも本物のウイスキーに負けない喉ごし、満足の味になるハイボール。



 ゼルとヒルマンの勉強会だか研究会だかは、見事な成果を生み出した。
 そして二人に言われたのだった、「この味を守るためにも氷と炭酸水を決して切らすな」と。
 キャプテンならば心しておけと、シャングリラの美味しい酒のためには必須のものだ、と。
(…妙な注文ではあったがな)
 氷と炭酸水、いわゆるソーダ。どちらも大した材料も手間もかかりはしない。氷は厨房で大量に作られていたし、炭酸水の方も同じこと。ジュースなどには欠かせないから。
 そうそう切れるものでもなかろう、と考えつつも気は配ったのだった、と蘇って来た前の自分の記憶。キャプテン・ハーレイの任務の一つ。氷と炭酸水との確保。
 あまりに愉快な任務だったし、ハイボールも美味しかったから。
(前のあいつの前でウッカリ…)
 喋ったのだった、氷と炭酸水さえあったら酒は美味い、と。合成品のウイスキーが本物のように変身すると、合成の酒に特有の味が消えるのだと。
 ブルーの方は興味津々、研究会の存在も知っていたものだから。それに捕まったら、前の自分が青の間を訪ねることが出来なくなって、寂しい思いをしたり機嫌を損ねたりしていたから…。
(ハイボールを飲みたがったんだ…)
 研究が成功したのだったら、自分にもそれを飲ませて欲しいと。美味しい酒なら、此処で作って貰えないかと。



 断ることなど出来はしないし、ウイスキーと氷とソーダを用意した自分。次の日の夜、青の間を訪ねてゆく時に。
 ゼルとヒルマンに教わった通り、自分のグラスとブルーのグラスに氷をギッシリ。ウイスキーを注いで、よくかき混ぜてから氷を足して、それからソーダ。一回だけ混ぜて「どうぞ」と渡した。赤い瞳を輝かせていた、前のブルーに。
(ソーダがある分、あいつも多少は…)
 飲めたのだった、ウイスキーをそのまま飲もうとした時はいつも、顔を顰めていたくせに。水で割っても氷を入れても、「美味しくない」と言っていたくせに。
 けれども、酒は酒だったから。ソーダで味わいが変わっただけで、正体はウイスキーだから。
 結局、悪酔いしたブルー。頭痛に胸やけといった、お決まりのコース。
 翌日の朝には、大して美味しいとも思えない上に、酷い目に遭ったと怒っていた。ハイボールの美味しさとやらも謎だと、研究会は所詮、酒好きが集まる場所なのだと。
(…今度のあいつは…)
 どうなんだろうな、と『追憶』の表紙を飾るブルーに語り掛ける。
 「お前と同じでハイボールも駄目なヤツだと思うか?」と、「しかし挑戦するんだろうな」と。
 生まれ変わってもブルーはブルーで、頑固さは変わっていないから。まだ十四歳にしかならないブルーも、前と同じに頑固だから。
(…きっと飲むんだ、今のあいつも)
 ハイボールが美味しいと言ってやったら、きっと飲もうとするのだろう。今は無理でも、大きく育って酒が飲める年になったなら。二十歳の誕生日を迎えたならば。
(そうなってくると…)
 このハイボールのレシピを話してやるとしようか、明日は土曜日なのだから。
 ブルーの家を訪ねてゆく日なのだし、「氷ギッシリがコツなんだぞ」と。



 そうして土曜日、ブルーの家へと歩いて出掛けて。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、小さなブルーに訊いてみた。
「こんな飲み物をどう思う?」
 新聞に載ってて、俺がメモしておいたんだが。
「え? 飲み物って…」
 今日はお土産は持って来てないよね、何処かで売ってるジュースか何か?
「氷ギッシリがコツなんだそうだ」
 グラスに氷をギッシリ詰め込む。そいつがコツってことらしいぞ。
「ふうん…?」
 作り方なんだね、どういう飲み物?
「氷を入れたら、ウイスキーを一。それからソーダが四って所だ」
 そっと一回し、それで全部というわけなんだが…。お前にとっては、こいつはどうだ?
「えーっと…。ウイスキーはちょっと心配だけど…。お酒だから…」
 でも、そっと一回しって、面白そうだね。たった一回、混ぜておしまい?
 そんな作り方でも美味しいの、それは?
「美味かったぞ。どうやら、そこもポイントらしい」
 俺が知ってた作り方だと、ウイスキーを入れたらよく混ぜるんだが…。そこで氷も足すんだが。
 そうする代わりに一回だけしか混ぜないって所が美味さの秘訣の一つだろうな。
「じゃあ、作ってよ、それ!」
 今はまだお酒は飲めないけれども、ぼくが大きくなったら作って。美味しいのなら。
「いいのか、これはハイボールだが?」
「……ボール?」
 ボールって何なの、お料理に使うヤツのこと…?
「覚えていないか? 前のお前が酔っ払ったのも、こいつなんだが」
 ハイボールだったぞ、美味かったと話したら作ってくれと強請った挙句に二日酔いでな。



 シャングリラでは氷と炭酸水は切らしちゃ駄目なんだ、と真面目な顔を作ってやった。前の俺の重要な任務の一つだったと、ゼルとヒルマンから任されたのだと。
「あいつらの研究会の成果だ、勉強会とも言ってたが…」
 合成のウイスキーを美味しく飲むにはハイボールに限ると、氷とソーダだと言われたんだが?
「…アレなわけ?」
 思い出したよ、その話。…合成のウイスキーでも美味しく飲める、って前のハーレイが…。
 研究会のことは知っていたから、美味しいのなら、って作って貰って、酷い目に…。
「そいつなんだが…。あれもハイボールだったわけだが」
 俺が話した氷ギッシリも同じハイボールだ、作り方が違うというだけでな。
 そのハイボールを、お前、飲むのか?
「…飲んでみたいよ、今だと地球のお酒だし…。合成のウイスキーとは違うんだし…」
 それだけでもグンと美味しそうだし、それに、ぼくだって。
 今度はお酒に強くなってるかも、前のぼくとは違うんだから…!
「ふうむ…。今度のお前もハイボールに挑戦してみる、と」
 そう言うだろうとは思っていたがだ、宣言されると嬉しくなるな。
 今度はお前と楽しく酒を飲めるといいなあ、前の俺には叶わない夢で終わったからな。



 飲めるように是非頑張ってくれ、とブルーの肩をポンと叩いた。
 お前と二人で飲める日が来るのは、まだまだ先のことなんだが、と。
「結婚したって、十八歳では酒は飲めないしな?」
 酒を飲むなら二十歳からで、それまでは俺は一人で飲むか、お前のお父さんと一緒に飲むか…。
 当分は待っているしかないなあ、お前が二十歳になるまでは。
「そうだけど…!」
 ホントに飲むなら二十歳だけど、その前から練習しておくよ。
 お酒が飲めるようにちょっとずつ練習、毒と同じで少しずつだよ。
「毒…?」
 何の話だ、毒っていうのは毒薬とかの毒か?
「うん、耐性がつくんでしょ?」
 少しずつ毒を飲んでおいたら、ちょっとくらいの毒なら平気。そう言うじゃない。
 …前のぼくでは、やってなかったみたいだけれどね、そういう実験。
 毒にまで強くなってしまったら、手に負えないと思っていたのかなあ…。アルタミラの研究所にいた人間たちは。
「おいおいおい…。俺の愛する酒を毒扱いか?」
 毒と同じだと言いたいのか、お前。少しずつ飲んで耐性をつけておこうだなんて。
「前のぼくには、お酒は充分、毒だったよ…!」
 人体実験をされてた時でも、あんな薬は飲まされていないよ…!
 薬は治療をするためのもので、飲んで吐き気や頭痛がしたって、それは副作用の中の一つで…。
 最後は具合が良くなっていたよ、人類がぼくに飲ませた薬は…!
 飲んだら具合が悪くなるものなんかは飲んでいないよ、ハーレイの好きなお酒くらいしか…!



 人体実験と比べられてしまったほどだけれども、それでもブルーは努力をしたいらしいから。
 前の自分が苦手だった酒を克服すると言ってくれるから。
「そう来たか…。なら、ウイスキーボンボンくらいから始めてみるか」
 毒に耐性をつけると言うなら、まずはそういう所からだな。
「ウイスキーボンボンって…」
 なにそれ、ぼくが食べるわけ?
「そうなるな。ウイスキーボンボンはシャングリラには無かったが…。今はあるだろ?」
 チョコレートの中身がウイスキーなんだし、初心者向けではあるだろう。
 酒だけを飲むより遥かにマシだぞ、あれならばな。
「ウイスキーボンボンは知っているけど、食べたことがないよ」
 チョコレートなんだから、ちゃんと甘いの?
 ウイスキーの味しかしないんじゃなくて?
「うむ。チョコレートをつまみに飲むようなモンかな、ウイスキーをな」
 ただし、ちょっぴりだけの量だが…。あの中に入っているわけだしなあ、ほんの少しだ。
 だが、酒に弱いヤツだと一個食べただけでも酔っ払うそうだし、間違いなく中身は酒だってな。
 お前のお父さんたちは買わんだろうなあ、お前のおやつにするためには。
 酔っ払っちまったらエライことだし、お前はただでも身体が丈夫じゃないんだから。



 今はまだ早いが、結婚したならウイスキーボンボンを買ってみるか、と片目を瞑った。
 お前の言う毒が入っている菓子を少しずつ食べればいいだろう、と。
「そうやって耐性をつけていくんだな、最初は一個で酔っ払うかもしれないが」
 慣れて来たなら、二つ、三つと数を増やしていけばいい。
 酒が飲める年になった頃には、ハイボールだって飲めるお前が出来ているかもしれないぞ。
 二日酔いにならずに、ちゃんと美味さも分かるお前が。
 酒に強いお前を作るためには、ウイスキーボンボンもいいし、酒が入った菓子とかもいいな。
 たっぷりと酒が入っている菓子、探せばけっこうあるもんだ。
「…アルコールが飛んでしまっているでしょ、お菓子なら?」
 ウイスキーボンボンはウイスキーが入っているんだろうけど、他のお菓子は…。
 ママが焼いてるフルーツケーキもウイスキーを沢山使うけれども、ぼく、酔っ払わないよ?
「いや、酒をそのまま入れちまうパフェもあったりするしな」
 チョコレートパフェだと思って食ったら、チョコレートリキュール入りだったりする。
 もちろん、少ししか入っていないが…。あれでもお前は酔っ払えそうだ。
 それからサバラン、あれもラム酒がたっぷりだからな、お前は酔っ払うだろう。
 そんな具合で幾つもあるのさ、お前にとっては毒入りの菓子。
「じゃあ、そういうので練習する…!」
 ウイスキーボンボンも頑張るけれども、パフェもサバランも頑張って食べるよ。
 幾つも食べたら耐性がついて、きっと平気になるんだろうし…。
 ハーレイ、そういうお菓子を食べられる所に連れて行ってよ、ぼくとデートに行く時は。
 そしたら早く慣れると思うよ、デートのお菓子がいつもお酒のばかりだったら。



 健気なブルーは、デートの時まで自分にとっては毒入りの菓子を食べて頑張るらしいから。
 酒に耐性をつけられるように、努力を重ねるらしいから。
「そうか、せっせと食うのか、お前。そういうことなら…」
 俺も頑張って作らないとな、酒が入った菓子ってヤツを。
 ウイスキーボンボンは店で買って来るとしても、パフェだのラム酒たっぷりのサバランだのは。
 他にも色々調べないとな、酒が入った美味い菓子をな。
「…ハーレイが作るの、お店に食べに行くんじゃないの?」
 ぼくはデートで酔っ払っても、かまわないんだけど…。
 次の日に頭が痛くなっても、お酒を飲むための練習なんだし、ハーレイに文句は言わないよ?
 ちゃんと大人しくベッドで寝てるよ、気分が良くなって起きられるまで。
「…お前はそれでいいかもしれんが、俺の方の気分が問題なんだ」
 酔っ払ったお前を他のヤツには見せたくないと、前にも言ったと思うがな?
 お前は酔ったら美人になるんだ、ただでも綺麗な顔をしてるのに、もっと綺麗に色っぽくな。
 頬がほんのり染まっちまって、目元も赤くて瞳なんかは潤んじまって…。
 美人を芙蓉の花に例えるが、酔っ払ったお前は酔芙蓉なんだ。白から赤へと変わる芙蓉だ、花の色がな。そいつと同じで、白い顔がそりゃあ色気のある顔になる。
 …あの顔は絶対、誰にも見せん。
 誰かが見たって減るわけじゃないが、酔芙蓉なお前を他のヤツらにも見せてやるほど、俺は心が広くないんだ。独占したいし、俺一人だけのものにしておきたいからな。



 酒に強くなろうと努力する過程で酔っ払ってしまって、酔芙蓉になったブルーの顔。
 それは一人で眺めたいから、ウイスキーボンボンも、酒入りの菓子も、家でだけ。
「いいな、酒の量も俺がきちんと加減するから、俺が作る菓子だけにしておいてくれ」
 ウイスキーボンボンはともかく、その他の菓子。
 店で美味そうなヤツを見掛けても、外で練習するのは駄目だ。帰ったら俺が作ってやるから。
「そっか…。ハーレイが作ってくれる分だけなんだね、食べていいのは」
 でも、ハーレイなら色々なお菓子を作ってくれるんだろうし、ぼく、頑張るよ。
 お酒入りでも酔っ払ってしまわないように、少しずつ量を増やしていって。
「頑張れよ。そしていつかはハイボールだな?」
 俺と一緒に飲むってわけだな、前のお前には無理だったヤツを。
 ハイボールの美味さが分かるお前が出来るってことか、前のお前とは一味違った。
「うんっ!」
 今度は美味しく飲めるようになるよ、酔っ払わないで。
 ウイスキーボンボンを一個から始めて、お酒の量を少しずつ増やしていくんだから。
 毒と同じできっと強くなるよ、頑張って色々と食べていったら。
 だからハーレイと二人でお酒を飲めるよ、今度のぼくは。二十歳になった頃には、きっと。
 それまでの間は、ハーレイと一緒にお酒を飲むのはパパだけど…。
 ぼくが二十歳になったら、ぼくの番。ぼくがハーレイと一緒に飲むんだから…!



 ハーレイをパパには盗られないよ、とブルーは自信満々だけれど。
 前の自分が苦手だった酒を克服しようと、その日に向かって顔を輝かせているけれど。
 きっと今度も酔芙蓉だろう、ハイボールを飲めはしないだろう。
 ウイスキーボンボンを一個で酔っ払うとか、サバランで酔ってぐっすり眠ってしまうとか。
 ブルーと二人で飲むハイボールは夢に終わって、きっと叶いはしないだろう。
 それでも嬉しい、ハイボールが駄目なブルーでも。
 前のブルーと全く同じに、二人で酒を酌み交わすことが出来なくても。
(…なんたって、結婚出来るんだしな?)
 酒が飲めるように努力をする、と言ってくれるブルーと二人で生きてゆけるのだから。
 何度ブルーが酔っ払っても、ソルジャーの務めを心配しなくていいのだから。
 二日酔いになってしまった時には、好きなだけ寝かせてやることが出来る。
 休日だったら添い寝してやれる、ブルーの気分が良くなるまで。
 だからブルーは酔芙蓉でいい、ハイボールを飲めないままでいい。
 酔っ払っても、何の心配も要らない世界。ソルジャーの務めが無い世界。
 其処へ二人で来たのだから。
 青い地球の上で、いつまでも、何処までも、手を繋ぎ合って歩いてゆけるのだから…。




          ハイボール・了

※白いシャングリラでも楽しまれていた、ハイボール。前のブルーの耳にも入った代物。
 前のブルーは酔っ払ったのに、今のブルーは苦手を克服するそうです。酔っ払わないように。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












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(すっかり遅くなっちまった…)
 ハーレイは愛車を走らせていた。街灯や対向車のヘッドライトはあるのだけれども、夜だから。もうすっかりと更けているから、外側から見ても車体の色は漠然としか分からないだろう。緑色を帯びた車だとしか。
 前の自分のマントの色。その色と同じ色をした車。初めての車を買った時から、この色だった。今よりもずっと若かった自分。青年には些か渋すぎる色。けれど、この色しか…。
(無いと思ったんだ、俺の車には)
 お似合いですよ、と勧められた鮮やかな黄色の車は論外。褐色の肌には黄色の服がよく似合うと知っていたのだけれども、車の黄色は違和感があった。それよりは白、と。
 白の車をまじまじと眺めて、少しいいなと思ったけれど。どういうわけだか、「白は駄目だ」と考えた自分。「俺の車には似合いの色だが、欲しい気にならん」と。
 様々な色を見比べた末に「これにします」と選んだ深い緑色。何処から見ても年配向きで、店の人にも「もっと明るい色の方が」と鮮やかな緑を勧められたけども、「違う」と感じた明るい緑。
 「これが気に入ったから」と譲らずに決めた、今の緑に。前の自分のマントの色に。
 まさかそうだとは、夢にも思わなかった色。縁があったとは知らなかった色。
 初めての車を披露した時は、友人たちに散々呆れられたものだ。「渋すぎるぞ」と。遠慮のない者はこうも言ってくれた、「その車に乗るだけで三十歳は老けられそうだな」と。
 実際、そういう色だから。
 今の時代は人間は誰もがミュウになっていて、若い姿で年齢を止めてしまえる世界。年を重ねた人は少なくて、深い緑色の車が似合う姿なら、もう充分に「老けた」年齢。
 そういう人たちが乗っているような車を買うとは、と何人もに笑われ、それから後も…。
(今の車に買い替えた時だって、まだ言われたんだ!)
 三十代でそれは渋すぎないかと、今度は違う色の車を選んで買ったら良かったのに、と。



 車は長く乗るのが信条、今で二台目になる愛車。これに乗って今の学校に赴任した時も、やはり同僚たちが「渋い趣味だ」と漏らした感想。「濃い色が好きなら青もあるのに」と言った者やら、いっそ黒の方が若い者でも似合う色なのにと評した者やら。
 前の自分のマントの色の車は、この年になってもまだ渋いらしい。三十八歳くらいでは。もっと年を重ねて五十代の声でも聞かない限りは、「渋すぎる趣味だ」と言われるのだろう。
 けれど…。
(この色には意味があったってな)
 小さなブルーと出会って分かった、自分が何者だったのか。この色の車に惹かれた理由も、白い車を選べなかった原因も。
(…白は好きだが、好きじゃなかったんだ…)
 自分ではなくて、前の自分が。キャプテン・ハーレイだった自分が。
 前のブルーと共に暮らしたシャングリラ。長い長い時を共に生きた船、ブルーが守った白い船。そのシャングリラから、ブルーがいなくなったから。ブルーを失くしてしまったから。
 それでも自分はシャングリラの舵を握って行くしかなかった、遠い地球まで。前のブルーがそう願ったから、「頼んだよ、ハーレイ」とジョミーの補佐を自分に託して逝ったから。
 ブルーを失くして、仲間たちはいても常に孤独で。目指す地球はブルーと何度も夢見た星から、旅の終わりを告げる星へと変わってしまって。
 地球に着いたら全てが終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと、それだけを思って生きていた自分。魂はとうに死んでしまって、屍のようになった身体で。
 ブルーが命を捨てて守った白いシャングリラは悲しい船になってしまった、ブルーの姿は何処を探しても無かったから。ブルーの声は二度と聞こえなかったから。
 前のブルーの思い出が幾つも詰まった、白く優美なシャングリラ。船を預かるキャプテンゆえの思い入れも深い船だったけれど、ブルーを失くした悲しみの方が遥かに大きかったから。
(…白い車は…)
 無意識の内に避けたのだろう、今の自分も。
 白を選んでもブルーがいないと、好きな色でも悲しい思いをするだけなのだ、と。



 けれどブルーは帰って来た。十四歳の少年の姿で、蘇った青い地球の上に。
 前の自分の記憶も戻って、ブルーと再び巡り会えた。お蔭で車の色の謎も解けたし、次は白でもいいなと思う。ブルーがいるなら白い車も悪くないから、白はシャングリラの色だから。
 とはいえ、今はまだ濃い緑色。向こう五年は乗りたい車で、大切に乗ってやりたい車。ブルーと最初のドライブに行く時は、この車に乗って出掛ける予定。
 それが夢ではあるのだけれども、ブルーはまだまだ幼いから。十四歳にしかならないから。
(…こいつが現実…)
 ブルーを助手席に乗せる代わりに、定員一杯に乗せた同僚たち。とうに下ろして来たけれど。
 金曜日の夜、同僚たちと仕事帰りに食事に出掛けた帰り道。バスで通っている同僚たちには車が無いから、自分も運転手の一人。どうせ気ままな一人暮らしだし、遅くなってもかまわない帰宅。家が遠い者たちを送ることにした、車に乗れる人数だけ。
 順に一人ずつ下ろしていって、最後の一人の家まで行ったら、自分の家からは離れた郊外。窓を開けて軽く手を振った後は、いつもより長い帰り道。時ならぬドライブ、久しぶりの。
(…ブルーは抜きだが、ドライブはだな…)
 嫌いではないし、今でも時々走ってはいる。ブルーの家に寄り損なった日の帰りなどに。
 車の数も減った夜更けに、やっと戻って来た自分の家がある住宅街。幹線道路から入った後には出会う車も無い時間。
 其処を走って、間もなく見えて来た門灯と庭園灯の明かりと。暗くなったら自動で灯る仕掛けにしてある明かりで、自分の家。



 もう寝静まっているらしい近所の家々、その前を静かに走って行って…。
(よし、帰って来たぞ!)
 ブルーの家には寄れなかったけれど、いい日ではあった。同僚たちとの楽しい食事に、有意義な話題や愉快な話題。ブルーの代わりに同僚たちを満杯に乗せてのドライブの時間も悪くなかった。
(…欲を言えば、あそこはブルーとだな…)
 二人きりで、と行きたかったけれど、それはまだまだ先の話で、夢だから。
 小さなブルーが前と同じに育つ日までは叶わない夢だと分かっているから、欲張りはしない。
 今の自分には同僚たちとのドライブが似合いで、でなければ一人きりでのドライブ。今のように一人で車を走らせ、こうして家まで。
 慣れた手つきでハンドルを切って、車をガレージに入れにかかった。
「シャングリラ、無事にご到着ってな」
 ついつい零れるシャングリラの名前、遠く遥かな時の彼方で前の自分が動かした船。舵を握って立っていた船、ブルーと暮らした白い船。
 今の愛車はシャングリラのような宇宙船ではないけれど。大きさも形も違うけれども、いずれはブルーと乗る予定になっている愛車。ブルーと乗るなら、この車だってシャングリラ。二人だけのために動くシャングリラで、白くなくてもきっと立派なシャングリラになる。
(俺が動かすわけなんだしな?)
 さて…、とガレージの所定の場所に車をピタリと停めたけれども。前も後ろも、脇のスペースも狙い通りにいったけれども。



(む…?)
 見事に車を停めたというのに、肝心の台詞が出て来なかった。
 シャングリラを停めるための言葉が、ガレージに車を停める所で言うべき言葉が。
 今は車の形だとはいえ、シャングリラのつもりだったのに。あの白い船と同じ気分で、いつかはブルーを乗せる予定のシャングリラで家に着いたのに。
 思い付かない決め台詞。シャングリラを停めるなら、言うべき言葉。
(うーむ…)
 最後の最後が決まらなかった、と溜息をついて切ったエンジン。せっかくシャングリラの気分で帰って来たというのに、どうにも間抜けなオチになった、と。
 キャプテン・ハーレイだけが言える台詞がある筈だけれど。こういう場面で使う言葉が。
(だが、出て来ない、と…)
 ウッカリ者め、と車のキーを抜いて、降りてドアを閉めて。鍵をかけた後、玄関まで庭の芝生を横切る途中でハタと気付いた。「無かったのだ」と。
(…停めてないんだ、シャングリラは…)
 だから言葉がある筈もない。車をガレージに停めるのに使えるような言葉は、何処を探しても。
 愛車のエンジンは止めたけれども、キーだって抜いて来たのだけれど。
 シャングリラの場合は、止めたことなど無かったエンジン。いつも動いていたシャングリラ。
 雲海の星、アルテメシアの雲の中でも、ナスカの衛星軌道上にあった時でも。
 衛星軌道上ならば止めても良さそうなエンジンだけれど、シャングリラはそうはいかなかった。あの船を隠すためのステルス・デバイス、それを止めることは出来ないから。エンジンを止めれば止まってしまうステルス・デバイス、そうなれば人類に姿を発見されかねないから。
(機関停止、としか…)
 言えなかったのだった、シャングリラでは。
 止めていい機関はどれとどれで、と確認しながら出していた指示。エンジンを切れなかった船。
 シャングリラはそういう船だった。ある筈もなかった、停めるための言葉。



 そうだったっけな、と頭を振り振り、横切った庭。庭園灯や門灯の明かりがほのかに照らし出す芝生。空を仰げば星空があった、白いシャングリラで旅をした空が。この地球が青く蘇るより前、遥かな昔に前の自分が地球を目指して旅した空が。
 前のブルーがいなくなった後、シャングリラは地球までやって来たけれど。前の自分もミュウの代表としてシャングリラから地球へと降りたけれども、やはり止めずにおいたエンジン。
 シャングリラは死の星だった地球の衛星軌道上にあった、いつでも脱出できるようにと。いざとなったら自分たちを捨てて地球を離れろと、そういう指示を下しておいた。
 あれだけ巨大な船のエンジンは直ぐにかかりはしない。だから「止めるな」と主任操舵士だったシドに命じた、「会談が始まるまでには時間がかかるが、止めて待つな」と。
 前の自分が最後まで停めなかった船。停めるための言葉を持たなかった船。
(なにしろ港が無かったからなあ…)
 地球に着いた時もそうだったけれど、地球に宙港は無かったけれど。
 それよりも前も、シャングリラには無かった港なるもの。船を停めておくためにある港。
 アルテメシアを落とした直後は、宙港へと船を降下させたものの…。
(あれは人類への示威行動で…)
 港に入ることが目的というわけではなかった、シャングリラの存在を誇示するためのジョミーの戦略。アルテメシアから地球へと向かう途中に落とした星々、其処の宙港でも。
 「ミュウの船が下りる」ことに意味があったから、言わば作戦行動中。普通の宇宙船の入港とは違って、管制官などいようがいまいが…。
(強引に下りるだけだったんだ…)
 だから自分は言ってはいない。シャングリラを停めるための言葉を、入港する時に使う言葉を。



 つまり、シャングリラには無かった港。決まりに従って入港する場所。
(おまけに母港なんぞは何処にも…)
 まるで存在しなかった。シャングリラが帰るべき港は無かった、宇宙の何処にも。地球への道を進んでゆくだけの船に、帰る場所など要らないから。あの船に母港が出来るとしたなら…。
(地球に辿り着いて、人類がミュウの存在を認めた時だけなんだ)
 俺は港に帰って来たが、と鍵を開けた家。今の自分の家の玄関。
 今の自分の愛車にとってはガレージが母港、自分にとっては家が母港といった所か。
(こうして明かりも点いてるってな)
 門灯や庭園灯もそうだし、玄関の脇の明かりも同じ。夜に戻ったら点いている明かり、滑走路に灯った誘導灯のように。海にある港の灯台などのように。
 玄関を入ってパチンと明かりを点けたけれども、その気になったら、帰って来た自分を出迎えるように灯る仕組みに調整できる。歩いてゆく先で順番に点くよう、センサーを使って。
(だが、俺はレトロなヤツが好きだし…)
 便利な仕掛けにしておくよりかは、手動が好み。暗がりでパチンと入れるスイッチ、そうやって灯る明かりが好み。
 自分の港の家だからこそ、自分の好みで。
 少し暗すぎて「何処だ?」と手探りで探すスイッチ、それも楽しみの内だから。サイオンの目で見て探すよりかは断然手探り、どんなに効率が悪かろうとも。
 此処は自分の家だから。母港なのだから、のびのびと羽を伸ばせばいい。船が戻って休むための場所、それが母港というものだから。



 食事は同僚たちと済ませて来たし、着替えた後にはコーヒーがあればそれで充分。愛用の大きなマグカップにたっぷりと淹れて、今夜は書斎へと運んで行って。
 小さなブルーが持っているのと同じシャングリラの写真集を棚から出して、机に置いた。椅子に腰掛け、コーヒーを飲みながら表紙を飾った白い船を眺める。
(…こいつに港は無かったか…)
 まるで気付いていなかったが、と漏れた苦笑い。俺としたことが、と。
 この写真集に収められた写真が撮られた時代。トォニィの代は、キャプテン・シドが舵を握った時代は、シャングリラにも出来ていた港。何処の星にも降りて良かったし、母港もあった。
 彼らの時代はノアとアルテメシアがシャングリラの本拠地、どちらも母港。二つもあった理由は簡単、白い鯨をノアが迎えたがったから。当時の首都惑星だったノアにもシャングリラを、と。
 トォニィが燃え上がる地球を後にして、向かった星はアルテメシアだったのだけれど。あの星がミュウの歴史の始まりの星だと、真っ直ぐに向かって行ったのだけれど。
 そうして母港はアルテメシアになって、後からノアが加わった。
 けれど、前の自分が生きた時代には…。
(アルテメシアは旅立ったきりで、戻っていないぞ)
 逃げるように後にした時とは違って、陥落させた後。ジョミーがその気になりさえすれば、あの星を拠点に定めることも出来ただろう。そうしていたなら、アルテメシアは母港になった。
 けれどジョミーはアルテメシアをあっさりと離れ、地球へと向かう道を選んだ。ミュウの拠点は地球にすべきだと、それでこそ向かう意味があるのだと。
 何処の星を落としても、変わらなかったジョミー。母港を持たずに白い鯨は地球へ向かった。
 整備する時も、ゼルとブラウとエラが指揮する船を加えて船団を組んで旅立った時も、白い鯨が下りた港は仮の港で、最後まで母港は無かったのだった。いつでも戻れる母なる港は。



 前の自分が生きた時代はそういう時代。シャングリラに母港が無かった時代。
 赤いナスカには長く留まったし、定住したいと若い世代が言い出したほどの星だったけれど。
 彼らがナスカに執着したせいで惨劇が起こってしまったけれども、あのナスカでも衛星軌道上に浮かんでいただけのシャングリラ。港ではなくて、暗い宇宙に。
 ナスカの宙港が狭かったこともあったとはいえ、やはり止められなかったエンジン。万一の時を考えるならば、シャングリラのエンジンを止めてはならない。
 だからナスカには下りられなかった、シャングリラの母港はナスカでも無いままだった。
(流浪の民か…)
 ナスカに基地を築いたとはいえ、地球に向かうまでの仮住まいに過ぎなかった星。長く続いた放浪の旅で疲れ果てた仲間たちを降ろして休ませた星。
 いずれは地球へと旅立つのだから、ナスカがあってもミュウは流浪の民だった。乗っている者が流浪の民なら、その箱舟も同じだろう。母港を持たない流浪の船。
 母港が無ければ、全機関の停止は有り得ない。けしてエンジンは止められない。
 白い鯨へと改造するために無人の惑星に下りていた時も、大部分の機関は動いていた。メインのエンジンの改造中には補助のエンジンがフル稼働していたし、他の機関も、ワープドライブも。



 ついに一度も見ないままだった、エンジンを止めたシャングリラ。
 そんな指示など出せはしなかったし、出せる状況にもいなかった。エンジンを止めていい母港は無かったのだから。シャングリラは母港を持たないままで地球へと向かったのだから。
(…前の俺が言葉を知らないわけだ…)
 船を停めるための。シャングリラを入港させる時に使う言葉を、前の自分は使わなかった。その必要が無かったから。使う場面が無かったから。
 港が無いなら、船は停まらない。
 陥落させた星の宙港に下りる時には、何らかの形で指示を下した筈だけれども…。
(俺は、なんて言っていたんだっけな…?)
 シャングリラ発進、という言葉は何度も使った。様々な場面で、色々な場所で。
 人類に追われてアルテメシアを後にした時も、「シャングリラ、発進!」と命じていた。重力圏からのワープなどという前代未聞の荒技での旅立ち、仲間たちの士気を鼓舞するように。
 前のブルーを失くしてから戻ったアルテメシアでも、地球に向かって旅立つ時にはそう言った。
 けれども、その後の旅路で幾つもの宙港に下りた時には…。
(…着陸でもなし…)
 思い出せん、と頭を振った。これだった、という言葉が欠片も出て来ないから。
 多分、その時々で違ったのだろう。
 降下してゆく星の状態などに合わせて、高度をどのくらいで保持とか、そういった風に。宙港に船を停めておくにしても、エンジンは稼動したままなのだから「このまま停船しておけ」だとか。
 そう、地球へ降りる時にもシドに命じた記憶があった。
 「衛星軌道上で停船、ただしエンジンは万一に備えて動かしておけ」と。



 その場に応じて変わっていたらしい、シャングリラを停めておくための言葉。
 停めると言っても、エンジンは止まらないのだけれど。本当の意味では止まっていなくて、船は動いていたのだけれど。
(つまり決め台詞が無かったわけだな)
 「シャングリラ発進」という言葉はあっても、無かったらしい、その逆の言葉。シャングリラを格好よく停めるための言葉。
 ならば作るか、という気がしてくる。
 白いシャングリラは時の彼方に消えたけれども、今の自分のシャングリラ。前の自分のマントの色をしている愛車。あれのためにも作ってやるか、と。
 自分が「ただいま」と家に、母港に帰って来るなら、今のシャングリラにも相応しい言葉を。
 ガレージという名の母港に入る時のための言葉を、ピタリと停めてやる時の言葉を。
(ただいま、と声に出して家に入ってはいないがなあ…)
 そう言ってみても、待っている人がいないから。一人暮らしの家だから。
 けれども帰る家があるから、心では言っている気がする。「ただいま」と一人で扉を開けて。
 俺の家だと、今日も家まで帰って来たぞ、と。



 それに、今は一人の家だけれども、些か大きすぎる家なのだけれど。
(いずれはブルーが…)
 待っていてくれる日が訪れる。
 まだ十四歳にしかならないブルーが、前と同じ姿に育ったら。結婚出来る年を迎えたら。
 二人で暮らせるようになったら、「ただいま」と声に出すことだろう。今のシャングリラだとも言える愛車をガレージに停めて、庭を横切って、玄関を開けて。
 ブルーは奥で待っているのか、それとも気付いて玄関先まで出て来るか。「おかえりなさい」と迎えるブルーに、「ただいま」と笑顔を向けるのだろう。
(そうなってくると…)
 小さなブルーと決めるべきだろうか、シャングリラを停めるための言葉は。
 ブルーとはドライブにも出掛けるのだから、いずれブルーも目にする場面。今のシャングリラをガレージに入れて、ピタリと停める時に使える決め台詞は…、と考えているのが自分だから。
(そうだな、あいつはソルジャーだしな?)
 今のブルーに「何か無いか?」と尋ねてやったら、大喜びで案を出しそうだけれど。
 それよりも前に、ソルジャーだった頃のブルーが案を持っていた可能性がある。いつか地球へと夢見たブルーは、シャングリラが役目を終えた後のことも何度も語っていたのだから。
 地球に着いてソルジャーとキャプテンの立場から解放されたら、色々なことをやりたいと。
 ソルジャーもキャプテンも要らないのならば、もうシャングリラも停まっている筈。エンジンを止めて、仲間たちも船から降りてしまって。
 その日を夢見たブルーだったら、具体的な案を考えていたかもしれない。
 前のブルーは言えずに終わったけれども、言おうとしていたシャングリラの旅の終わりの言葉。
 キャプテンだった自分ではなくて、ソルジャーが命じる停船の言葉。
 旅は終わりだと、シャングリラはついに地球まで辿り着いたのだから、と。



(その可能性は大いにあるな…)
 ブルーだからな、と頬が緩んだ。
 青い地球に焦がれ続けたブルー。いつか行きたいと何度も語っていたブルー。
 地球に焦がれて、焦がれ続けて、とうとうフィシスを攫ったくらいに。フィシスがその身に抱く映像、青い地球へと向かう旅の景色。それが欲しいと、望んだ時にいつでも見られるようにと。
 それほどに焦がれた青い地球なら、その青い地球に白いシャングリラを停める時の言葉も…。
(…持っていそうなんだ、あいつだったら)
 其処までの旅路を終えた仲間を労う言葉と併せて、それも。旅をした船を停める言葉も。
 キャプテンだった自分に代わって、ブリッジに立って命じる言葉を。
 シャングリラの舵を握ったキャプテンに向かって言うべき言葉を、白い鯨を停める言葉を。
 それがあるなら、使ってみたい。今の自分のシャングリラに。いつかはブルーと乗る愛車に。
(明日、訊いてみるか…)
 あったのかどうか、と少し温くなったコーヒーのカップを傾けた。
 明日は土曜日、ブルーの家に行く日だから。ブルーと一緒に過ごせる日だから。



 次の日、ブルーの家に出掛けて。小さなブルーの部屋で二人で向かい合うなり、忘れないでいた質問を早速投げ掛けた。
「おい、シャングリラを停める言葉を知ってたか?」
「え?」
 シャングリラって…、とブルーが首を傾げる。停める言葉って、どういう意味、と。
「白い鯨だ、前の俺たちが乗ってた船だ」
 あのシャングリラを停めるための言葉ってヤツをだ、どうやら俺は知らないようだ。
 …忘れちまったっていうんじゃなくてだ、最初から存在しなかったらしい。
 前のお前が生きてた間は、港に入るって場面が無くてだ、一度も言ってはいなかったんだが…。
 言う必要すら無かったわけだが、その後も使う場面が無かった。
 シャングリラには母港が無かったからなあ、エンジンを止めることは無かったわけだ。いつでもエンジンは動きっ放しで、止めてはいない。…最後までな。
 前の俺が地球に降りる時にも、「エンジンは止めるな」とシドに言って降りた。
 そんな具合だから、シャングリラのエンジンを止めて本当に停める時の言葉を知らないんだ。
 もちろん、アルテメシアやノアの宙港に降りてはいたんだが…。
 そういう時には、状況に応じて言っていたらしい。こんな手順で停船しろ、と。エンジンは常に動かしたままで、高度なんかを保ってな。
 …しかし、前のお前は地球に行こうと夢を見て、幾つもの夢を抱えて。
 地球に着いたらやりたいことを山ほど持っていたのがお前だ、それだけに地球に辿り着いた後のことも考えていたのかもな、と思ってな…。
 仲間たちに贈るための言葉と、シャングリラの旅の終わりを告げるための言葉と。
 前の俺に向かって「エンジン停止」と命令するとか、着陸だとか。
「…えーっと…。訊いてくれたのは嬉しいけれど…」
 その発想はぼくにも無かったよ。
 シャングリラのエンジンは動いてるもので、止めるなんて想像もつかなかったから…。
 だって、止めたらステルス・デバイスまで止まってしまうんだものね。



 前のぼくは地球へ行く夢を見ていただけだから…、と困ったように微笑むブルー。
 そうでなくてもシャングリラの操船はキャプテン任せで、地球に降りる時にもそのつもり、と。
 仲間たちを労う言葉はともかく、シャングリラに関しては任せておくだけ、と。
「シャングリラはハーレイが動かしてたんだし、前のぼくは乗っていただけだよ?」
 ハーレイから報告は聞いていたけど、ぼくはシャングリラを動かしてないし…。
 地球に降りるからって、ぼくが其処だけ指揮を執ったら変になっちゃう。
 間違ったことは言ってなくても、シャングリラの指揮はソルジャーの役目じゃないしね。
「なるほどな…。前のお前がそうだったのなら…」
 やはり決め台詞は無しってことだな、困ったことに。
「…決め台詞?」
 なんなの、それって何に使うための決め台詞なの…?
「大したことではないんだが…。今の俺が乗ってるシャングリラが、だな…」
 俺の車だ、俺が運転している以上はアレもシャングリラには違いない。今の俺用の。
 そいつを昨日、ガレージに入れようとしたら相応しい言葉が無かったんだ。
 前の俺は散々「シャングリラ発進」と言ってたわけだが、その逆が無かった。使う場面がまるで無いんじゃ仕方ないがな、今は事情が違うだろうが。
 あの頃のシャングリラには母港が無くてだ、エンジン停止は有り得なかったが…。
 俺の車にはガレージという名の母港があるのに、とショックだと言うか、ガッカリと言うか…。
 いっそお前と考えようかと思ったわけだな、車を停めるための決め台詞を。
 それで、もしかしたら前のお前にアイデアがあったかと思ったんだが…。
 前のお前も持っていなかったか、決め台詞。
 さて、シャングリラをどうやって停めたもんかな、今のシャングリラは車だがな。



 宇宙船とは違うんだが…、とブルーの瞳を覗き込みながら。
「お前だったら、なんと言ってみたい?」
 俺の車をガレージに入れて停める時には、なんと言いたい?
「…どうして、ぼくと一緒に考えるの?」
 ハーレイの車の話なんだよ、ぼくに訊くよりハーレイが自分で考えた方がいいと思わない?
 その方がきっとハーレイらしくて、かっこいい言葉になりそうだけど…。
「忘れちまったか? 俺の車の役目ってヤツを」
 俺の車は、俺たちのためだけのシャングリラになる予定だろうが。
 今は緑の車なわけだが、いずれはシャングリラと同じ白い車にするのもいいなと言った筈だぞ。
 お前は俺の隣に座って、俺に注文するわけだ。何処に行きたいとか、此処で止めてだとか。
「そうだっけね…!」
 我儘を言っていいんだっけね、もっと遠くまで行ってみようとか、もう帰ろうとか。
 ちょっと止めてだとか、ぼくの好きなように。



 でも…、と考え込んでしまったブルー。
 どんな言葉があったっけ、と。
「シャングリラを停めるための言葉は無かったし…。前のぼくだって考えてないし…」
 ギブリとかなら着艦だとか言っていたけど、あれはシャングリラに降りるための時で…。
 地面に下りるなら着陸だろうけど、シャングリラもそれでいいのかな?
 宙港だったら、どう言って宇宙船を下ろしているわけ…?
「さてなあ…」
 どう言うんだかなあ、宙港に船を下ろす時には。
「ハーレイ、ホントに知らないの?」
 エンジンは止めていなかったにしても、シャングリラは宙港に下りてたんでしょ?
 アルテメシアでも、ノアとかでも。
「それはそうだが…。さっきも言ったろ、エンジンを止めてなかったからな」
 本当の意味で停めたわけじゃなかった、だからそいつの言い方は知らん。
 キャプテン時代に使ってないしな、今の俺が知るわけないだろう。
 ただの古典の教師なんだぞ、宇宙航学なんぞは知らん。
「…それじゃ、シドのを調べたら?」
 データベースにあるんじゃないかな、キャプテン・シドの時代のデータも。
 シャングリラは色々な星に行ったんだし、シャングリラを停める言葉だってあるよ。
 エンジンを止めてもいい時代だから、ハーレイの目的にピッタリなのが。
「それも一つの方法なんだが…。他人の言葉を使うよりかは、オリジナルだろ?」
 宇宙航学じゃ、なんて言うのか調べるにしても、シドに頼るよりは俺の力でだな…。
 でもって、そいつをアレンジするのがいいと思わないか、本物の船じゃないんだから。
「うん、そういうのも良さそうだよね」
 宇宙船だったらピッタリな言葉でも、車だったらピンと来ないかもしれないし…。
 車は着陸しないんだものね、ガレージに入れるのに着陸だと可笑しくて笑っちゃいそう。
 素敵な言葉が見付かるといいね、ハーレイの車にピッタリのシャングリラを停める言葉が。



 今はまだ、お互い、アイデアは無いけれど。
 車になったシャングリラを停める言葉は、一つも思い付かないけれど。
 いつかブルーを助手席に乗せて、ドライブに出掛けられるようになったら…。
「これだ、っていうのを考えなくちゃな、シャングリラ用の」
 シャングリラは車になっちまったんだが、そいつに似合いの停めるための言葉。
「ハーレイと二人で考えようね、似合いそうなのを」
 ぼくも頑張ってアイデアを出すから、ハーレイも色々考えてよ。
 うんとかっこいい言葉がいいよね、「シャングリラ、発進!」って言ってたハーレイはとっても素敵だったから。
 あれに負けないほどかっこいい言葉で車を停めてよ、キャプテンらしく。
 車だけれども、ハーレイがキャプテン。
 だって、ぼくたちのシャングリラなんだから。
「分かっているさ」
 制服を着るってわけにはいかんが、そこは格好よく決めないとな。
 そうでなければ決め台詞にする意味が無いしな、シャングリラを停めるにはこれだ、ってな。



 いつかブルーが前と同じに大きくなったら、ドライブに行けるようになったら。
 ブルーと二人で言葉を決めよう、二人で乗ってゆくシャングリラを停めるための言葉を。
 車になったシャングリラを母港に、ガレージに停めるための言葉を。
 そして二人で車から降りて、家という名前の港に着く。
 暗くなっても暖かな明かりが点く家に。
 次々に明かりを点けて回って、それから始まる幸せな時間。
 二人だけのためにある幸せ一杯の港に入って、笑い合ったり、食事をしたり。
 今のシャングリラを停めておける家で、いつまでも二人で暮らしてゆける家で…。




             船を停める言葉・了

※「シャングリラ、発進」という言葉はあっても、無かったものが停船する時の言葉。
 前のハーレイは使わないままで、今でも思い付かないのです。いつかブルーと考えたいもの。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(あれ?)
 こんな所に、とブルーの目に付いたもの。
 学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中の道端で。舗装された道にコロンと落っこちていた真っ白な石。丸くて、小さくて、可愛らしい石。親指と人差し指とで作る輪っかより少し大きい、手のひらに載せたら真ん中にストンと収まりそうな。
(ちょっとウサギみたい?)
 そう思って屈んで拾い上げた。真ん丸ではなくて、卵にも似た楕円形。それが丸っこいウサギの身体みたいに思えたから。長い耳も尻尾も無いけれど。
(…やっぱりウサギ…)
 手のひらに載せてまじまじと見たら、一層ウサギに見えてくる。ただの真っ白な石だけれども、ペンか何かで耳や目などを描いてやったら立派なウサギになるだろう。そういう石の細工物を見たことがあった、丸い石に絵を描いて出来る動物。自分が見たのは猫だったけれど。
 両親と出掛けた時に覗いたギャラリー、ズラリと並んでいた石の猫たち。それと同じにこの石はウサギ、中にウサギが入っている石。白いウサギが中に一匹。
(絵を描かなくても、ウサギに見えるよ)
 ウサギみたい、と拾ったからにはウサギの石。耳も尻尾もついていなくても。
 きっと直ぐ横の石垣のある家、其処から落ちて来たのだろう。それほど高くはない石垣で、上に生垣。何かのはずみに生垣の外へと転がってしまって、そのまま道まで落っこちた。
 石は自分で戻れないから、道端でポツンと人が通るのを待っていたわけで…。



 拾った小石をチョンとつついて、滑らかな表面を撫でてみて。
(戻してあげなきゃ…)
 白いウサギが落ちて来たらしい、石垣の上の庭の中へ。生垣越しに覗いてみたら、丸っこい石が幾つも敷かれているようだから。庭の端っこを彩る飾りで、色も大きさも色々あるし…。
 石のウサギは間違いなく此処から落っこちた。通り掛かった猫のオモチャにされたか、カラスがつついて落っことしたか。生垣の向こうに押し出されてしまって、石垣をコロンと転がり落ちて。
 あんなに幾つも石があるなら、石のウサギには恋人がいるかもしれないから。
 落っことされて帰れなくなったと泣いているかもしれない小石。恋人と離れ離れになった、と。生垣の向こうでも石のウサギの恋人がオロオロとしていそうだから。いなくなってしまった恋人を探しに行こうとしたって、石垣からは降りられないから。
(恋人、茶色のウサギなのかも…)
 ハーレイと二人で何度も話した、ウサギの話。もしも自分がウサギだったら、ハーレイも茶色いウサギになるという話。そういう話を何度もした後、お互いウサギ年だと分かったから。ウサギの話はグンと身近になってしまって、白いウサギと茶色のウサギ。そういうカップル。
 この石のウサギの恋人も茶色い石かもしれない、見れば「ウサギだ」と思う石。この石よりかは大きい小石で、並べて見たならハーレイと自分に見えそうな石。
(ホントにそうかも…)
 そうだったとしたら面白い。石のウサギには茶色い石のウサギの恋人、いつも庭で一緒。
 仲良くしてね、と白い石のウサギを生垣の奥へと戻しておいた。茶色いウサギは生垣が邪魔して見えないけれども、きっと何処かにいるんだよね、と。
 ちゃんとくっついて、落っこちないように気を付けないといけないよ、と。



 石のウサギに「さよなら」と手を振って、家に帰って。
 着替えを済ませてダイニングでおやつの時間だけれども、庭を眺めたら思い出す石。石垣がある家の庭に戻した、真っ白でコロンと丸かった石。
(どうしてるかな、石のウサギ…)
 もう恋人と出会えただろうか、置いてやった場所から恋人の姿は見えただろうか?
 今はまだ少し距離があるかもしれないけれども、その内にまた寄り添い合えることだろう。元の通りに恋人同士で仲良く二人で。石のウサギでも二匹より二人、恋人同士に似合いの言葉。
 いいことをした、と嬉しくなった。
 道端で見付けて拾い上げて戻してあげた庭。落っこちていた石のウサギは庭に帰れた。
(ぼくとハーレイみたいに幸せ…)
 いつでも一緒で、これからも一緒。
 ずっと仲良くいられますように、と石のウサギの幸せを願う。茶色いウサギと仲良くしてねと、いつまでも二人で幸せでね、と。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、忘れられない白い石のウサギ。
 あれは河原の石だったから。人間が削って丸く仕上げた石とは違って、川の流れが気の遠くなるような長い時間をかけて磨いた石だったから。
 そうやって生まれた石のウサギなら、ああいうウサギになったなら。
(ずっと仲良し…)
 石のウサギに恋人のウサギがいるのなら。茶色いウサギがいつも隣にいるのなら。
 同じ川の流れで一緒に生まれて、河原の石を集める人に拾われて、あの家の庭までやって来た。離れないまま、同じ袋に詰め込まれて。同じトラックか何かに乗って。
(運命の恋人…)
 ぼくたちみたい、と頬が緩んだ。ぼくとハーレイ、と。
 前の自分たちがそうだったから。生まれた時には別だったけれど、その頃の記憶は全く無くて。成人検査と人体実験で失くしてしまって、お互い覚えていなかった。養父母の顔も、育った家も。
 前の自分もハーレイも二人して、記憶の始まりはアルタミラにあった研究所。
 そのアルタミラがメギドの炎に滅ぼされた日に初めて出会って、同じ船で逃げて。長い長い時を共に暮らして、恋をして、いつも一緒にいた。
 互いの居場所が違う時にも、心はいつも寄り添っていた。白いシャングリラで、どんな時にも。
 本当に運命の恋人同士で、出会った時から特別だった。
 恋だと気付いていなかっただけで、あの瞬間から一目惚れ。誰よりも息が合った二人で、だからキャプテンを決める時にもハーレイを推した。その名が候補に挙がっていたから。前の自分の命を誰かに預けるとしたら、ハーレイがいいと思ったから。
 それでも恋だとまだ気付いてはいなかったけれど。ハーレイの方でもそうだったけれど。
 シャングリラが白い鯨になった後にもまだ気付かなくて、お互い、本当にのんびりで。
 けれども恋が実った後には、いつも一緒で、離れている時も心は寄り添い合っていたのに…。



(ぼく、落っこちちゃった…)
 帰り道に出会った石のウサギみたいに、石垣からコロンと。
 石垣ではなくてシャングリラからコロンと落ちてしまった、たった一人でメギドへと飛んで。
 いつまでも一緒だと誓ってくれたハーレイとも別れて、さよならのキスも出来ないままで。
 おまけに最後まで持っていたいと願ったハーレイの温もりも失くしてしまって、右の手が凍えて独りぼっちで迎えた最期。もうハーレイには会えないのだと泣きじゃくりながら死んでいった。
 石垣から落っこちてしまった自分。茶色い石のウサギと離れて、一人きりで。
 それを神様が拾い上げてくれた。落っこちたのだと気付いてくれて。
 白いシャングリラに戻す代わりに、ハーレイと一緒に元の河原へ戻してくれた。母なる地球へ。
 全ての生き物を生み出した星へ、青い水の星へ。
 前の自分も前のハーレイも、地球から生まれて来たのだから。SD体制が始まるよりも遠い昔に地球で生まれた誰かの子孫で、命の源は地球なのだから。
 前の自分が焦がれた星。石のウサギが生まれた星。



 白くて丸かった石のウサギ。石垣から落ちてしまったウサギ。
(あの石ころには、ぼくが神様?)
 茶色い石のウサギの恋人がいるのなら。落っこちてしまった石のウサギを心配していた、恋人のウサギが庭の石の中にいたのなら。
 きっといる筈だと思う。
 前の自分たちがそうだったように、あの石のウサギにも運命の恋人の石のウサギが。
(だって、ぼくよりも前に…)
 誰かが通って石のウサギに出会っていたなら、拾う代わりに蹴っていたかもしれない。靴の先でコンと蹴ってみるには丁度いい大きさだったから。たまには石蹴り、と考える人もいるだろう。
 蹴られていたなら、もうあの庭には帰れない。あそこから落ちたと分からなくなるし、また他の人にポンと蹴られてしまって、どんどん遠くへ行ってしまうこともあるだろうから。
 自分よりも幼い子供だったら、持って帰ってしまいかねない。宝物にしようと、石のウサギを。白くて綺麗な丸い石だし、宝物にはピッタリだから。
 石のウサギがそんな目に遭う前に、誰よりも早く通り掛かったのが自分。何もしないで通過した人もあっただろうけれど、それではウサギは元の庭には帰れない。
 上手い具合に自分が通って、拾って、石垣の上へと戻してやった。恋人のウサギが待っていると思って、あの庭へ。そういう気持ちになったからには、茶色いウサギはきっといる。あの庭に。
(…前のぼくと重なっちゃったから…)
 拾い上げたのかもしれない、石のウサギを。
 ウサギみたい、と何の気なしに拾ったけれども、心の底ではとうに重ねていたかもしれない。
 白いウサギは自分なのだと、茶色いウサギのハーレイもいると。
 落っこちてしまった石のウサギは、前の自分を見ているようだと。



 ただの石ころだったのだけど。本物のウサギではないのだけれど。
(でも、河原の石…)
 川で生まれた自然のウサギ。元は丸くはなかったろう石、それがウサギの形になった。長い耳も尻尾も無かったけれども、ウサギを思わせる形の石に。
 人が磨いたわけではなくて、川の流れが作り上げたウサギ。長い長い時をかけて何度も転がし、丸い形に磨き上げて。
(きっと魂が入ってるんだよ)
 川の流れが、神様が作ったウサギの形の石だから。真っ白なウサギだったから。
 恋人の茶色いウサギだっている、もちろん川から生まれたウサギ。白いウサギと一緒に流れて、川の中をあちこち転がりながら生まれた茶色いウサギ。
 同じウサギ年のハーレイと自分、恋人同士の自分たちのように。
 運命の恋人同士に生まれた石のウサギのカップルがきっと、あの庭に住んでいるのだろう。
 生まれた川から運ばれて来て、一緒に庭の飾りになって。
 石垣からコロンと落っこちてしまった白いウサギも無事に戻って、これからもずっと二人一緒に仲良く暮らしてゆくのだろう。
 石に二人は変だけれども、ウサギで二人も変なのだけれど。



 恋人同士の石のウサギたち。川の流れが生み出したウサギ。
(河原の石…)
 本当にとても不思議だと思う、硬い筈の石が丸くなる。ゴツゴツしていただろう石が川の流れに磨かれ、長い時をかけて滑らかになる。石のウサギも生まれてくる。
 人が磨くなら機械を使えば簡単だけれど、それをしないで自然が生み出す丸い石。
(地球だからだよね?)
 この地球は水の星だから。
 テラフォーミングされた星とは違って、本物の川が幾つも流れている星だから。
 前の自分が白いシャングリラで長く潜んだ雲海の星にも、川は流れていたのだけれど。青い海も存在していたけれども、地球のそれとは違ったもの。人間が暮らす都市の周りに築かれただけで、川の流域は長くはなかった。石のウサギを作れるほどには。
 今の時代はかなり技術が進んだけれども、やはり蘇った青い地球には敵わないという。どんなに整備しようとしたって、何処か作り物めいた川や海になると。その星で人間が生きてゆける範囲で海を作って、川を作ってゆくしかないと。
(…そんな川だと、石のウサギだって…)
 地球のようには簡単に生まれないだろう。川の長さが足りない分だけ、流れ下る水の量が少ない分だけ、石を磨くには時間がかかる。河原に自然と丸い石ころが積み上がるまでには、途方もない時が必要な筈。
 蘇った今の地球の上なら、石のウサギは川に行ったら見付かるだろうに。
 源流で探すのは無理だけれども、いくらか流れ下った川なら、河原に下りてゆける川なら、石のウサギは何処でも探して拾えるだろうに。
(白いウサギも、茶色いウサギも、拾い放題…)
 これがそうだと思う石を拾って持って帰れるし、耳や尻尾を描いたっていい。拾っては駄目だと言われはしないし、だからこそ帰り道で出会った石のウサギもあの家の庭にいたのだから。



 河原の丸い石を持って帰るのも、庭の飾りにしてしまうのも、地球ならば自由。
 流石にトラックで乗り付けたりして、物凄い量を積み込んでいたら「許可は貰いましたか?」と訊きに来る人があるだろうけれど。「景観を損ねてはいけませんよ」と。
 けれども、自分で持てるくらいなら幾つ拾ってもかまわない。許可を得ている石材店なら、川の見た目を損なわない範囲で沢山持っても帰れるのだし…。
(トラックに何台分も貰える時だってあるんだよね?)
 地球を流れる川は長いから、自然と石が溜まってしまう。放っておいたら川の流れが変わったりするから、そうならないよう、石を取り除く工事をする。そういう時には、河原の石は工事業者が大量にどけて、石材店などが貰ってゆく。それこそトラックに何台分も。
 地球の川ならではの贅沢な光景、自然が磨いた石を山ほど取っていい時。
(石のウサギが何百匹も…)
 もっと凄くて何千匹だろうか、あの家の庭の石のウサギはその中のカップルだっただろうか?
 一緒にトラックに積んでゆかれて、選り分けられた後もずっと離れずに。
 そう思ったら、ふと…。



(石…?)
 頭に浮かんだ河原の石を積んだトラック、そちらは何とも思わないけれど。
 荷台に積まれた石が問題、大量の丸い石ころの山。川で生まれた石のウサギたち、白いウサギや茶色のウサギ。それが混ざった河原の石ころ、地球の石たち。
 何故だか記憶に引っ掛かる。地球の石だ、と。
(なんで…?)
 それが欲しかったという記憶。河原の石なら拾い放題、いつでも拾いに行けるのに。幼い頃には両親と河原で遊んだ時などに拾ったのだし、幼稚園や学校の遠足でも。
 今だって拾いに行こうと思えば路線バスに乗って川の近くまで行きさえすれば好きに拾える。
 わざわざ欲しいと思わなくても、「欲しかった」と残念がらなくても。
 そうなってくると、この記憶は…。
(前のぼく…?)
 河原の石など欲しがったろうか、アルテメシアに川はあったけれども。テラフォーミングされた星の川だけに、地球の川とは違った筈。人工的だった堤や河原に特に惹かれはしなかった筈で。
 それなのに何故、と遠い記憶を手繰ってみて。
 欲しかったと思った河原の石ころ、それは何かと考えていて…。
(そうだ…!)
 あれだ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
 前の自分がそれを見ていた。
 アルテメシアの博物館で。仰々しく展示ケースに収められたそれを、河原の石を。



 ソルジャー・ブルーだった頃の自分。ガラスケースの向こうの石。
(地球の石…)
 博物館で特別展示をされていた石。
 前の自分がどうやって知ったかは今では思い出せないけれども、「地球の石が博物館に来る」というから、閉館した後にコッソリ入った。警備システムなど、前の自分には存在しないも同然で。巡回してくる警備員にしても同じことだから、たった一人で展示ケースを覗き込んだ。
 昼の間は大勢の人類が行列していた「地球の石」。それを一人で独占しようと、心ゆくまで見て帰ろうと。今はまだ座標も掴めない地球、その地球から来た石を見ようと。
(…あれも石のウサギ…)
 ガラスケースの中にいたのはコロンと丸い石ころだった。川で磨かれた白い石のウサギ。
 あの頃の自分はウサギだとは思っていなかったけれど。
 説明文を読み、川の流れが磨き上げた石だと知って覚えた深い感動。これこそが青い地球からの恵みなのだと、水の星でしか生まれない石なのだと。
 草や木ならば、テラフォーミングした星でも同じに育つけれども。地球のそれと変わらない花を咲かせるけれども、川で生まれる石は出来ない。石をここまで丸く出来るだけの川の流れは、人の手ではまだ作り出せない。豊かに流れる川を生み出す技術は無いから。
 そう、あの時代はそうだった。どんなに時間をかけたところで、石を磨ける川は無かった。技術不足で足りない流量、川の長さも流れも充分ではなかったから。
 だから見入った、地球で生まれた真っ白な石に。水が磨いた丸い石に。
 なんと素晴らしい石だろうかと、地球にはこれほどに豊かな水があるのかと。
 地表の七割を海が覆う地球。
 その地球でなければ生まれない石、地球を初めて身近に見たと。



 一目で魅せられた地球の石。青い水の星が生み出した奇跡。
 それに焦がれた、白く丸い石に。青い地球ではないというのに、地球の欠片に過ぎないのに。
(欲しかったんだっけ…)
 ただ丸いだけの白い石なら要らないけれども、地球で生まれた石だから。地球を潤す川が磨いて丸く仕上げた石だったから。地球の記憶も、水の記憶も、その身に刻み付けた石。
 美しいと思った、まるで地球のように。青い母なる星のように。
 いくら眺めても飽きなかったから、何度も通った、博物館が閉館した後に。昼の間はごった返す特別展示を一人占めして、ケースの向こうを覗き込んで。
 いっそ盗もうかと思ったくらいに欲しかった石。地球の記憶を宿した石。
 あれはフィシスが来る前だった。地球へと向かう旅の映像はまだ持っていなくて、青い水の星はデータだけ。シャングリラのデータベースにあった分だけ、それが全てで。
 だから余計に石が欲しくなった、「あの石があれば地球に手が届くのに」と。
 もちろん本当に届きはしないし、人類はミュウを認めもしないけれども、行きたい地球。いつか行こうと夢見ている星。その地球の記憶を宿している石、それがあったら幸せだろうと。水の星の奇跡が生み出した石は、地球の大地に触れた気持ちをきっと運んでくれるのだろうと。



 欲しくて、欲しくて、手に入れたくて。
 けれど、人類の宝だから。人類もまた、地球に焦がれているのだから。選ばれた者しか行けない地球。それゆえに特別展示が人気で、地球の石を見たいと大勢の人類が博物館に行くのだから。
(諦めてた…)
 自分が奪ってしまっては駄目だと、あれは人類の宝だからと。
 それでも惹かれる、地球の石に。コロンと丸くて白い小石に、地球の川が磨いた白い石に。
 足を運んでは深く魅せられ、手に入れることは許されないと密かに何度も零した溜息。
 それをハーレイに見抜かれたのだった、もうすぐ展示が終わるという頃に。
「ブルー…。何かお気にかかることでも?」
 おありでしょうか、と尋ねられた青の間。ハーレイの勤務が終わった後に。
「なんでもないよ」
 気のせいだろう、と返したのだけれど。
「いえ、そうだとは思えません。この所、ずっと遠くを見ていらっしゃるような…」
 アルテメシアではなくて、もっと遠い所。宇宙でも御覧になっておられるかのようで…。
 心配事がおありでしたら、どんなことでも伺いますが。
 …あなたの恋人としてはもちろん、キャプテンの方の私にしても。



 ハーレイの鳶色の瞳は、前の自分への気遣いに溢れたものだったから。
 心配の色まで見えていたから、嘘はつくまいと打ち明けた。「地球の石だよ」と。毎日のようにそれを見ていると、シャングリラからも心の瞳で見てしまうのだと。
「サイオンを使えば、人類だらけの昼の間でも見えるからね。この船から」
 展示ケースだけに狙いを定めて、見ようと思いさえすれば。
 …でも地球の石は、もうすぐ他の星に運ばれて行ってしまうんだよ。
 見たいと思っても見られなくなる。シャングリラからも、博物館の中に行っても。
 そう考える度に、あの石が欲しいと思ってしまうんだ。
 だから余計に見てしまって…。心配かけてごめん。
「あなたの力なら奪えるでしょうに、地球の石など簡単に」
 持ってお帰りになればいいのです、こんな所で溜息をついていらしゃる間に。
 今は夜ですし、警備の者たちも朝まで気付きはしないでしょう。ケースから石が消えた所で。
「そうなんだけれど…。人類の夢が詰まった石だよ、それに希望も」
 元老だとか、メンバーズだとか。そういった一部のエリートだけしか地球には行けない。
 その夢の星の石を見たいと、人類だって行列してるんだ。子供を連れた養父母たちも、養父母としての義務が終わって引退している者たちも。
 …次に行く星でもそうなんだろうね、みんながあの石で夢を見るんだよ。地球にはこういう凄い石があると、川の水だけで石が磨かれて丸くなるんだと。
 その夢の石を、子供たちにとってはいつか行きたい希望の星の石を奪えるかい?
 ぼくの勝手な欲望だけで。
「それはそうかもしれませんが…」
 人類にとっても、地球は夢の星なのが普通のことで、養父母のコースを選んだ者には見ることが叶わない星なのでしょうが…。
 子供たちにしても、余程のエリートにならない限りは、地球に降りられはしないのですが…。
 ですから、人類の夢と希望が詰まった石だと仰るお気持ちは分からないでもないですが…。



 その人類に夢も希望も奪われたのが私たちでは、とハーレイは真実を口にした。
 今でこそシャングリラを手に入れたけども、アルタミラでは夢も希望も無かった筈だと。
「私たちから全てを奪って、人としてすら扱わなかったのが人類ですよ?」
 彼らの仕打ちに比べれば、地球の石くらい…。
 夢と希望の石だと仰るのでしたら、私たちが奪われた分を取り返したっていいでしょう。
 奪ってしまってもいいと考えます、キャプテンとしても、あなたの恋人としても。
 …ソルジャーが盗みを働くというのはどうかと思う、ということでしたら、秘密になされば…。
 船の者たちは地球の石すら知らないのですし、見ても「石か」と思うだけです。
 あなただけの宝物になさっておけば、地球の石だとはバレないでしょう。青の間の係が目にした所で、石は石でしかありませんから。
 そうなさるのなら、私は黙っておきますよ。白い石の正体が何なのかは。
「ううん…。いつか自分で手に入れるよ」
 奪うんじゃなくて、正々堂々と正面から。君と一緒に地球に行ってね。
 このシャングリラでいつか行くんだから、その時でいい。
 それまではぼくだけの夢にしておくよ、地球に行ったらああいう石があるんだから、と。
 川で生まれる石なんだからね、河原に出掛けて君と二人で拾えばいい。
 あの白い石にそっくりな石を、川の流れが磨き上げた石を。
「シャングリラの色の石ですね」
 この船と同じ色をしている石を拾いに、あなたと地球まで行くのですね。
「そうだよ、二人で幾つも拾おう」
 きっと地球には山のようにあるに違いないから。
 白い石だけを選んで拾っていっても、持ち切れないほど河原に落ちているんだろう。
 今は御大層にケースに入って、一つだけ展示してあるけれど。
 地球に行ったら、きっと珍しくもなんともないもので、拾っても拾ってもきりが無いんだよ。
「…それは確かにありそうですね」
 頑張って拾い集めることにしますが、何日経っても一向に終わらないような…。
 あなたも私もすっかり疲れてしまいそうですが、地球ならではの愉快な体験が出来そうですね。



 地球に着いたら、ハーレイと二人、河原で白い石を集める。丸く磨かれた自然の石を。
 まさか本気で全部拾おうとはしないだろうけれど、飽きるまで二人で幾つも幾つも拾おうと。
 そんな夢と希望が溢れる約束をした後、地球の石は旅立って行ったのだった。
 展示期間が終わって梱包されて、次の星へと。
 丸く白い石はもう見られなくなったけれども、ハーレイのお蔭で寂しい気持ちはなくなった。
 いつか拾えばいいのだからと、ハーレイと二人で河原へ行こうと未来への夢が出来たから。
 地球の石が欲しいと思う気持ちを、ハーレイに打ち明けられたから。
 「石が欲しいのなら奪えばいい」と言ってくれたハーレイ、その言葉が自分の力になった。
 奪うよりかは正面から堂々と手に入れてみせると、いつかは地球へ行くのだからと。
 ハーレイがそれを言わなかったら、きっと一人で最後まで悩んでいただろう。
 地球の石は欲しいけれども、手に入れることは許されないと。それでも欲しいと、一人きりで。
 あの地球の石を乗せた船が旅立つのを、悲しい気持ちで見送っただろう。
 もう永遠に見られなくなったと、あの白い石は自分の前から消えてしまったと。



 ハーレイと一緒に拾おうと決めた地球の石。地球の河原にあるだろう石。
 疲れ果てるまで二人で拾う筈だったのに。白い石ばかりを集めて回る筈だったのに。
(…白い石、一つも拾えなかった…)
 前の自分は、地球には辿り着けなかったから。
 寿命が尽きてしまったこともあるけれど、それよりもメギド。仲間たちの未来を、あの白い船を守るために自分はメギドで散った。地球への夢を抱えたままで。青い水の星を一目見たかったと、ハーレイと一緒に行きたかったと。
 地球への夢も、ハーレイとの恋も捨てるしかなかった前の自分の最期。
 白い石を拾いに行く約束などは、もう忘れていた。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右の手が冷たいと泣いた自分は。独りぼっちになってしまったと泣きながら死んでいった自分は。
(…でも、前のぼくが地球に着いていたって…)
 メギドで死なずに、寿命が尽きずに母なる地球へと辿り着いても、其処に綺麗な川は無かった。
 前の自分があると信じた青い水の星は無かったから。フィシスが抱いていた青い地球ですらも、機械が作った幻の星に過ぎなかったから。
 あの頃の地球は赤い死の星で、澄んだ流れは何処にも無かった。
 どう転んだとしても、拾えなかった河原の石。
 前の自分が夢に見ていた、白くて丸い河原の石。川の流れが磨き上げた石。



 今日の帰り道、自分はそれに出会ったけれど。
 前の自分が欲しがった地球の石だとも知らず、石のウサギを石垣の上の生垣の向こうにヒョイと戻してやったけれども、ハーレイの方はどうだろう?
(…ハーレイ、覚えているのかな…)
 石を拾おうっていう約束、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から見れば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 訊かなくては、と部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、地球の石、覚えてる?」
「はあ?」
 地球の石って…。その辺に幾つも落ちてるだろうが、俺たちは地球にいるんだから。
「そうじゃなくって…。前のぼくが欲しがってた地球の石のことだよ」
 ハーレイは本物を見ていないけれど、ぼくはきちんと話をしたよ?
 アルテメシアに特別展示で来ていた石だよ、川で生まれた丸い白い石。
 欲しかったけれど、人類の宝物だから…。
 奪えないよね、って言ったら、前のハーレイが「奪っていい」って…。人類はぼくたちから夢も希望も奪ったんだし、石くらい奪っていいじゃないか、って。
「ああ、あれなあ…!」
 あったな、そういう話がな。
 俺が奪えと唆したら、前のお前は「正々堂々と手に入れてみせる」と言ったんだっけな。
 いつかシャングリラで地球に着いたら、石は山ほど拾えるんだから、と。



 思い出した、とハーレイが浮かべた苦い笑み。
「…白い石…。拾い損なっちまったな、前の俺たちは」
 お前はいなくなっちまったし、それじゃ二人で石を拾えやしないんだからな。
「うん。…それに、とうに寿命も尽きていたしね」
 地球には行けない、って気が付いた時に、沢山の夢を諦めたけど…。
 あの石もその中の一つだったんだね、ぼくは綺麗に忘れていたよ。
 メギドに行く前に「地球を見たかった」って思ったけれども、白い石のことは忘れてた。
 ハーレイと拾おうって思ってたことも。
「俺もすっかり忘れていたなあ、地球に着いた時は」
 あの地球に川はあったわけだが、ちゃんと宇宙から海も川も見てはいたんだが…。
 それでも全く思い出さなかったな、地球の川に行ったら何があるのかは。
「…やっぱり死の星だったから?」
 赤い星にしか見えなかったから、ハーレイ、河原の石の約束、思い出せなかった…?
「いや。…お前がいなかったからだろう。俺の隣に」
 あの約束を交わしたお前がいないというのに、約束だけを思い出してもなあ…。
 意味が無いだろ、そんな約束。
 今だったらお前が此処にいるんだし、約束にも値打ちがあるってもんだ。
 その上、俺たちは二人で地球に来たんだ、石は幾つでも拾えるぞ?
 それこそお前が疲れ果てるまで、「もうやめようよ」と俺に言うまで、幾つでもな。



 いつか約束を果たしに行くか、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
 シャングリラはもう無くなっちまったが、俺の車で、と。
「河原でもいいし、海辺でもいいぞ」
 好きなだけ拾って集めればいい、前のお前の憧れの石を。
 俺も一緒に拾うんだしなあ、デカい袋でも持って行くかな、うんと丈夫でデカいヤツを。
「えーっと…。河原はいいけど、海まで行ったら砂になっていない?」
 川の流れでどんどん砕けて、海に着く頃には砂なんでしょ?
 それじゃ白い石なんかは落ちていないよ、真っ白な砂は沢山あるかもしれないけれど…。
「そうでもないぞ。石ころだらけの海岸ってヤツもあるからな」
 多分、海辺の岩が砕けて波に磨かれるんだろう。
 もうゴロゴロと転がっているぞ、大きな石から小さな石まで、丸いのがな。



 海でも川でも俺の車で連れて行ってやろう、と指切りをして貰ったから。
 頼もしい約束をハーレイがしてくれたから。
 二人でドライブに行けるようになったら、前の自分たちの夢を叶えに出掛けて行こう。
 川の流れや海の波が磨いた丸い石ころ、それを二人で拾い集めに。
 前の自分が欲しかった石は白い石だったけれど、茶色い石も一緒に拾って。
 白い石を一個拾ったのなら、それに合わせて茶色いのを一個。
 そしてハーレイに「石のウサギだよ」と並べて見せよう、白い丸い石と、茶色い石を。
 「こうするとウサギのカップルみたいだよね」と。
 今の自分も、今のハーレイも、ウサギ年でウサギのカップルだから。
 ウサギになるなら白いウサギと茶色いウサギで、いつまでも一緒なのだから。
 だから丸い石も、白と茶色で。
 ハーレイと二人で幾つも集めて、今の幸せを石のウサギのカップルの数で確かめ合って…。




           白い石のウサギ・了

※前のブルーが出会った、地球の石。欲しくて、けれど「いつかは拾える」と考えた石。
 拾えないままで終わったのですけど、今は好きなだけ拾えるのです。青い水の星の上で。
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(おっと…)
 今日は無いのか、とハーレイが覗き込んだパン屋の棚。
 ブルーの家には寄れなかった日、買い出しとばかりに来たのだけれど。田舎パンも、食パンも、バゲットなどもすっかり売り切れてしまった後。いわゆる食事パンが無い。
(…調理パンならあるんだが…)
 サンドイッチや、ピザソースを塗って焼いたパンやら。甘い菓子パンも色々あるのに、何故だか食事パンだけが売り切れ。考えてみれば毎日食べるパンとも言えるし、もっと早い内に買ってゆく人が多いのかもしれない。昼の間に買い物に出掛けて、ついでにパンも、と。
(出遅れちまったか…)
 レストラン部門も併設しているパン屋は、店で焼いているのが売りだから。逆に言ったら商品の売れ行き、それを見ながら追加で焼いたり、焼かなかったりもするだろう。ほんの少しだけズレたタイミング。半時間ほど早く来たなら…。
(どれかはあったと思うんだ)
 それに閉店にはまだ早い時間、あと一時間、もしかしたら半時間経った頃に来たなら、目当てのパンの中の一つが棚に並ぶ可能性はある。今日の間に完売しなくても、明日の午前中に充分売れる食パンやバゲット、そういったものが。



 とにかく、少々、悪かった運。どう見回しても棚に見当たらない食事パン。
 こんなことなら買って来ればよかった、いつもの食料品店で。さっき買い出しに寄って来たから買おうと思えばついでに買えた。あの店でもパンは焼いているのだし、目的のものを。
(あの店のパンも美味いんだが…)
 けして悪くはない味わい。食料品を並べた棚の列とは別の一角、独立した店かと勘違いしそうなパンのコーナー。焼き上がる頃になったらオーブンからの匂いがふわりと漂う。
 其処で買うこともあるのだけれども、今、「パンが無い…」と立ち尽くしている店。この店だと窯が違うのだろうか、それとも熟練の職人の腕か。同じパンでも…。
(グンと美味いと思うんだ…)
 食パンも田舎パンも、バゲットも。だから、時間のある日はこちらで買いたい。わざわざ回ってくるだけの価値はある味、そのためにやって来たというのに。
 欲しいパンは無くて、棚は空っぽ。調理パンや菓子パンは揃っているのに。
(…戻るか?)
 さっきの食料品店に、と思ったけれども、その店までの距離。歩いて戻るなら五分も要らない、苦にもならない僅かな距離。そう、歩くのなら散歩がてらと言える距離。
 ところが仕事の帰りだったから、車なるものを連れていた。前の自分のマントの緑をした愛車。それがパン屋の駐車場にいるし、食料品店に戻るのだったら車も一緒に。
 エンジンをかける手間はともかく、駐車場から出て、また別の店の駐車場まで。パンを買ったら車に戻って、またエンジンをかけて家に帰るわけで…。



 たかがパンのために面倒だろう、と考えた。歩くならともかく、車付きでは、と。
(まあいいさ)
 確か家にも残っていたしな、と食料品店には戻らずに帰宅してみたら。買い込んで来た食料品を冷蔵庫や棚などに仕舞っていったら、ようやく分かったパン事情。
 あると思った筈のパンが無かった、食パンが一切れあっただけ。朝には分厚いトーストを二枚、でなければバゲットや田舎パンで同じくらいの量を食べるのがお決まりなのに。
 どうしたことか、と足りなすぎる量の食パンの袋を眺めていて…。
(そういえば…)
 今朝は多めに食べたのだった。分厚く切ったトーストを三枚、マーマレードとバターをたっぷり塗って。オムレツやソーセージやサラダと一緒に。
 早く目が覚めたから出掛けたジョギング、出勤したら柔道部の朝練があるものだから。しっかり食べねば、とジョギングした分、トーストを一枚追加していた。あれさえ無ければ食パンの残りは記憶どおりで、明日の朝の分まであっただろうに。
(やっちまったな…)
 面倒がらずに買いに戻っておくべきだった、と思うけれども。今から歩いて出掛けていくという手もあるけれど。
(着替えたいしな?)
 スーツ姿で住宅街を散歩したって楽しくない。同じ歩くなら、断然、普段着。
 それに着替えをしている間に、パン屋の方では新しいパンが焼き上がって棚に並ぶことだろう。食パンかバゲット、田舎パンといった類の食事パン。焼き立てを買いにいけばいい。



 頭の中で手順を決めて、スーツを脱いで着替えたけれど。重い上着やズボンの代わりに家で着るラフな服を身に纏ったら、今度はゆっくりしたい気分で。
 のびのびと好きに過ごせる我が家。やっと戻って来たというのに、パンのためにだけ出掛けるというのも些か面倒になって来た。「お座り下さい」と置かれた椅子やらソファを眺めたら。
(パンを買いに行く時間があったらだな…)
 コーヒーを淹れて新聞も少し読めるだろう。夕食の支度を始める前に。
 同じだけの時間をどう使うかなら、そちらの方が有意義だろうと思うから。熱いコーヒー片手に広げる新聞、その方が遥かに贅沢な時間に決まっているから。
(…明日の朝は飯だな)
 パンが足りない分は白米で補うべし、と決断を下した。米なら研いでセットしておけば、明日の朝には炊き立てのものが食べられる。御飯茶碗に好きなだけよそって、パンの代わりに存分に。
 オムレツにもサラダにもソーセージにも、パンと決まってはいないのだから。
 前の自分が生きた時代はともかく、今の地球。今の自分が暮らす地域では、食事のお供に御飯が出るのは当たり前。前の自分ならパンがつくものと思い込んでいた料理などでも、御飯とセットで食べる家の方が多いのだから。魚のムニエルにも、ステーキなどにも御飯というのがこの地域。
(日本の文化というヤツだな)
 気取ったフランス風のコース料理でも、頼めばパンからライスに変わる。白い御飯に。
 そんな具合だから、明日の朝食にトーストと御飯を一緒に並べても、誰も笑いはしないだろう。「朝からしっかり食べるんですね」と、「御飯は腹持ちがいいですからね」と。



 夕食用の御飯を多めに炊くより、明日の朝に炊き立てを食べるのがいい。そう思ったから、要る分だけ炊いて食べた夕食。買って来た魚などを料理する間に御飯は炊けたし、のんびりと。
 片付けを終えたら、書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップに淹れて、運んで行って。
 パンの件は失敗だったけれども、お蔭で二度目のコーヒータイム。普段だったら、帰宅してから二回も取れはしないのに。
(怪我の功名か…)
 こんな日だっていいもんだ、と机の上のフォトフレームの中、小さなブルーに笑い掛ける。俺としたことが、ちょっと失敗しちまったぞ、と。
(明日の分のパンを切らしちまった。…お前だったら、あれで充分足りるだろうがな)
 俺のトーストの一枚分はお前の分だと二枚だよな、と可笑しくなった。食が細いブルーの小さな胃袋、分厚いトーストはとても入らない。朝一番から食べられはしない。
 小さなブルーに自分の失敗談を話してやったら、次は引き出しの中の前のブルーの写真集。前のブルーが寂しくないよう、自分の日記を上掛け代わりに被せてやっている写真集、『追憶』。
 それを取り出し、表紙に刷られた前のブルーと向き合った。こっちにも報告すべきだな、と。



(おい、失敗をしちまったぞ?)
 厨房にいた頃だったら大惨事だな、と心でブルーに語り掛けた。明日の朝食用のパンを切らしてしまったんだと、シャングリラだったら大騒ぎだ、と。
「でもまあ、なんとかなるもんだ。前の俺とは一味違うといった所か」
 今は米の飯がある時代だからな、と声に出してみる。心で語るのもいいのだけれども、声にした方がブルーと話している気がするから。
「何度も教えてやっただろう? 米の飯ってヤツ」
 明日の朝はそいつを炊いて食うんだ、パンが足りない分だけな。
 米ってヤツは実に便利なもんだぞ、俺が弁当を作る時にも米の出番だ。そのままでも美味いし、炊き込み御飯にしたっていいし…。
 味がついた飯の作り方も色々あるんだぞ、と知らないだろう前のブルーに教えてやった。炊けた御飯でも味はつけられると、具だって後から入れられるのだと。
「そうさ、パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、というわけだ」
 元々のヤツでは御飯じゃなくてだ、菓子なんだがな、この台詞。
 高貴なお姫様が仰ったそうだ、「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」とな。
 その応用だな、俺は明日の朝はパンの代わりに御飯なんだ。
 悪くないだろ、と言ってやったら、ブルーがクスッと笑った気がした、「君らしいよ」と。
 「ハーレイはやっぱり料理好きだね」と、「パンが無ければ御飯なんだね」と。



 なんとも自然に心に届いたブルーの声。前のブルーの懐かしい声。
(おいおいおい…)
 打てば響くように返ったブルーの声だけれども、いくらなんでも前のブルーは言わないだろう。お菓子の部分を御飯に入れ替え、ポンと投げ返してはくれないだろう。
(…俺の勝手な夢なんだな)
 シャングリラでは一度も言っていない筈の、あの台詞。「パンが無ければ…」と始まる、有名な言葉。御飯どころか、菓子の方でさえ口に出したことは無いだろう。
 第一、知らなかったと思う。前の自分はあの言葉を。
 今ならではの知識で薀蓄、それを語っても前のブルーが瞬時に反応する筈がない、と自分勝手な想像に苦笑したけれど。あまりに都合が良すぎるだろうと、酷いものだと思ったけれど。
(…待てよ?)
 何故だか心に引っ掛かる。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という遠い遥かな昔の姫君の言葉、広く知られた有名な言葉とシャングリラ。
 それが重なるように思えた、何故か。
 あの船に高貴な姫君などはおらず、世間知らずの極みの言葉も無かったろうに。
 シャングリラの食料は無駄にするなど許されないもの、不足することもまた許されない。あんな言葉が出て来る余地など、あの船には無かった筈なのに。



 けれども、何処かで耳にしたように思えてくるから、なんとも不思議でならないから。
(誰か言ったか…?)
 まさか俺ではない筈なんだが、と遠い記憶を探ってみて。自分ではないと確信したものの、まだスッキリとしないから。
 何度も何度も繰り返してみた、頭の中で。あの言葉を。パンが無ければお菓子なのだがと、あの船では有り得ない状況の筈なんだが…、と。
 そうこうする内、「菓子だ」と掴んだ記憶の手掛かり。パンではなくて菓子の方だと、あの船で菓子を巡る何かが…、と。遥かな時の彼方の記憶。シャングリラと菓子。
 たった一つの小さな手掛かり、それを懸命に手繰り寄せていたら…。
(そうか…!)
 あれだ、と蘇って来た、厨房にいた頃に起こった事件。
 事の起こりは前のブルーが人類の輸送船から奪った食料、あの有名な言葉はその時に生まれた。
 いや、言葉自体は遠い昔からあったわけだし、再発見されたと言うべきか…。



 ある日、ブルーが奪って来た食料をコンテナから運び出してみたら。
 アルタミラを脱出した直後に起こったジャガイモ地獄を彷彿とさせる代物が中に詰まっていた。かつて何度も起こってしまった食料の偏り、それがジャガイモ地獄やキャベツ地獄。ジャガイモは山のようにあるのに他の食材が殆ど無いとか、そういう事態。
 前のブルーが手当たり次第に奪った頃には、よく起こっていた。今ではブルーも選んで奪うし、ジャガイモ地獄は過去のものになってしまっていたのに。
(…焼き菓子地獄だったんだ…)
 他の食料は足りていたのに、どういうわけだか無かったパン。代わりにドッサリ、マドレーヌやフィナンシェといった焼き菓子の山。
 小麦粉は混ざっていたのだけれども、パンを焼けるだけの量は無かった。料理に使えば無くなるだろう量、そのくらいしか無かった小麦粉。
「ごめん…。ぼくが間違えちゃったんだ」
 コンテナの中身を読み誤った、と謝ったブルー。
 お菓子ではなくて、パンの類だと思って奪って来たんだけれど、と。
 一日分すらも無かったパン。船で焼こうにも、足りない小麦粉。パンの備蓄はまだあるけれど、あと数日で切れるから。焼くにしたって材料不足だから、ブルーが奪いに出たわけで…。



 もう一度奪いに行ってくる、とブルーが出ようとするものだから。
 前の自分が慌てて引き留めた、「俺が何とかしてみるから」と。パンが足りないくらいのことでブルーを危険に晒せはしない。ブルーにとっては容易いことでも、そう甘えてはいられない。
 とはいえ、菓子の山ではどうにもならないのが現状。フィナンシェもマドレーヌも、甘い菓子でしかなくてパンには化けない。
 菓子は菓子だし…、と倉庫に運んだ菓子の山を前に悩んでいたら。
「別にいいんじゃないのかね?」
 ヒルマンがフラリとやって来た。ブラウもゼルも、それにエラも。何事なのか、とその顔ぶれに驚いたけれど、ブルーの姿で納得した。ブルーが呼びに行ったのだろう。パンならぬ菓子を奪ってしまった責任を感じて、「ハーレイを助けてあげてよ」と。
「こりゃまた見事なお菓子の山だねえ…」
 お菓子だらけだよ、とブラウが呆れつつもヒルマンに「ほら、出番だよ」と声を掛けたら。
「この菓子だがね…。悩まなくても、このままで出せばいいんじゃないかと思うがね」
 有名な言葉もあることだし、とヒルマンは「こうだ」と披露した。
 曰く、「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」。
「ちょっと、ヒルマン…! あんたのアイデアって、それだったのかい?」
 そりゃね、お菓子も食べ物だけどさ…。パンが無ければお菓子だってことになるのかい?
 あんたが名案があるって言うから、あたしも期待していたのにさ…!



 ブラウはもちろん、皆が唖然としたのだけれども、エラも「有名な言葉なのですよ」と頷いた。
 ヒルマンが言うには、SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔のこと。
 高貴な生まれで世間知らずのお姫様が言った、飢えに苦しむ民衆に「パンが無いなら、お菓子を食べればいいでしょう」と。
 彼女の周りに飢えなどは無くて、パンもお菓子もあったから。どうしてパンが無いと駄目なのか不思議でならないと、お腹が減るならお菓子を食べておけばいいのに、と。
「酷いもんだねえ…。まるで人類みたいじゃないか」
 あいつらだったら言ってくれそうだよ、あたしたちに向かってその台詞をね。
「いや、餌でないだけマシじゃないか?」
 菓子なんだから、と笑ったゼル。人類が言うなら、そこは「餌」だと。
 間違いない、と笑いが弾けて、ヒルマンが始めた補足の説明。その言葉を言ったと伝わる姫君はフランス革命で民衆に処刑されたけれど、別の人の言葉だという説もあると。
「彼女の叔母の一人だとも言うね、前のフランス王の娘の」
「ありゃまあ…。それじゃ、濡れ衣だっていうのかい?」
 それも酷いね、とブラウが頭を振ったら、「もっと面白い話もありますよ」と微笑んだエラ。
 その言葉の主は処刑された王妃だけれども、お菓子は普通のお菓子ではなかったのだという話。
「クグロフというお菓子だそうです、お姫様の生まれ故郷のお菓子で…」
 パンに似たお菓子だったのですよ。形はパンとは違うのですが…。決まった形があるのですが。
 でも、食べた感じは甘いパンのようで、そのせいでああいう言葉になった、と。
 パンが無ければクグロフを食べておけばいいのに、どうしてそうしないのだろうと。
 もっとも、パンも食べられないような飢えの中では、クグロフも作れなかったでしょうが。



 本当の意味で「お菓子」と言ったわけではなかったかもしれない、遠い昔のお姫様。彼女なりにパンが無い現実を考えた末に、「クグロフがある」と提案した甘いパン風の菓子。
 別の説では、本当に世間知らずな王様の娘、お姫様の叔母の言葉だとも。
 今となっては誰が言ったか、どういう意味かも分からないけれど、パンが無くてお菓子ばかりの船にはピッタリの言葉だったから。
 飢えているなら笑い事では済まないけれども、パンが無いというだけだから。
 「これは使える」ということになった、その日の内にヒルマンが食堂で皆に伝えてくれた。船の食料は充分だけれど、パンだけが無い。パンだけのためにブルーに再調達を頼めはしないし、暫く我慢をして欲しいと。
「…そんなわけでね、一つ言葉をプレゼントしよう。こういう時に似合いの言葉を」
 パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…そう言ったお姫様がいたそうだよ。
 だから、高貴なお姫様になったつもりで、パンの代わりにお菓子だね。
 さっきも言ったような事情で、パンは当分、無いそうだから。



 誰からも文句は出なかった。
 ヒルマンは「パンが無ければ…」の背景もきちんと説明したから、パンの代わりにお菓子がある分、ずっとマシだと仲間たちはストンと納得した。
 本当だったら、そういう言葉が飛び出す時には代わりのお菓子も無いのだから。食べ物さえ無い飢えに見舞われ、お菓子どころではないのだから。
 ヒルマンのお蔭で、実際にパンが無くなった後。焼き菓子が食事に添えられる日々がやって来た時、皆は不満を漏らす代わりに面白がった。
「お姫様気分も悪くないよな、パンが無ければ菓子なんだからな」
「男でお姫様はないだろうけどな…。畜生、俺も女だったら良かったのか?」
 女性はもれなくお姫様だ、と羨ましがったりした仲間たち。
 飢えこそ経験していないけれど、アルタミラで餌と水しか無かった時代を知っているから、皆が笑っておしまいになった。パンが無くても。お菓子が代わりに置かれていても。
 それどころか逆に大人気だった、菓子で食べる食事。



(何の工夫も要らなかったんだっけな)
 焼き菓子の山に前の自分は「どうしたらいいのか」と頭を抱えていたのに、思いもよらない方へ転がった焼き菓子地獄。「パンが無ければお菓子を食べればいいのに」という言葉によって。
 菓子はそのまま出せばよかった、パンを出すようにパン皿に載せて。
 今日の料理に合いそうな焼き菓子はどれかと、組み合わせを少し考えただけ。見た目や風味や、そういったもので。フィナンシェもマドレーヌも、ダックワーズも。
 どんな料理にも菓子をつけて出した、チキンだろうが、魚だろうが。ムニエルだろうが、ソテーだろうが、ローストだろうが。
 食堂で出される菓子つきの食事、今日はどういう組み合わせだろうかと楽しんでいた仲間たち。
 パンの代わりに今日もお菓子だと、お姫様だと笑い合って。
(前のあいつも…)
 添えられた菓子を頬張りながら、嬉しそうに笑っていたのだった。
 「ヒルマンのお蔭で助かったよ」と、「ハーレイも、ぼくも助かったよね」と。
 焼き菓子地獄は天国になった、遠い昔のお姫様の言葉の力を借りて。パンが無ければお菓子だと思った、飢えを知らなかったお姫様。
(懐かしいなあ…)
 あの思い出を話してやろうか、小さなブルーに。
 明日は幸い、土曜日だから。パンの代わりにお菓子を食べていた船の話を。



 次の日、食パンは一切れしか無かったのだから、朝食のテーブルにそれと御飯。炊き立てのを。他はいつものオムレツにソーセージ、サラダも添えて。
(パンが無ければ御飯を食べればいいってな!)
 上等じゃないか、と笑いながら食べた、御飯は菓子より遥かに美味いと。白い御飯は甘い菓子と違って自己主張しないから、オムレツにもソーセージにも、サラダにも合う。なにより炊き立て、ホカホカと湯気が立つのが菓子との違い。まるで焼き立てパンのよう。
 今は便利なものがあるな、と感心しながら頬張った。前の自分が生きた頃には、パンが無ければ菓子だったのに、と。
 あの時、菓子の代わりにパスタが山ほど詰まっていたなら、パスタだったかもしれないけれど。
 けれどパスタも、御飯ほどには万能と言えない食べ物だから。どんな料理にもパスタがあればと言い切れる人は多分、少ないだろうから。
 やはり食事には菓子より御飯、と美味しく食べていて、ふと思い付いた。
(そうだ、あいつに…)
 菓子を買って行こう、昼食用に。
 同じ思い出話をするなら、あの頃の食事に近いのがいい。ブルーの母が昼食に何を出そうとも、パンでも御飯でもなくて、焼き菓子を添えて。
 そしてブルーに尋ねてみよう。「お前、こいつを覚えているか?」と。



 朝食を済ませて、ブルーの家へと向かう途中で寄った焼き菓子の店。どれにしようかとケースを覗いて、見付けたフィナンシェ。それにマドレーヌ。
(有難いことに、そっくりだってな)
 焼き菓子地獄の記憶の菓子と瓜二つのフィナンシェとマドレーヌだから。ブルーの分と、自分の分とを考えながら買った。これをお供に食事をするならこのくらい、と。
 菓子を詰めて貰った紙袋を提げて、ブルーの家まで歩いて行って。門扉を開けてくれたブルーの母に、その紙袋を手渡した。
「すみません。今日の昼食、料理は何でもかまいませんから…」
 御飯やパンをつける代わりに、これをつけて出して頂けますか?
 この通り、フィナンシェとマドレーヌしか入っていないのですが…。
「え? 御飯の代わりにお菓子ですか?」
 お昼御飯はチキンのソテーのつもりでしたし、御飯でもパンでも合いますけれど…。
 パンを御希望でしたらともかく、お菓子というのは何ですの…?
「シャングリラの思い出なんですよ」
 ブルー君の失敗談と言っていいのか、悪いのか…。私がキャプテンになるよりも前の話ですね。
 奪って来てくれた食料の中にパンが全く無かったんです。船で焼こうにも、小麦粉も無くて…。
 代わりに焼き菓子が山ほど入っていました、その時の解決策だったんです。
 ヒルマンがこう言ってくれたんですよ。「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」。
 御存知でしょうか、SD体制が始まるよりも遠い昔の姫君の言葉だそうですが。
「えーっと…。マリー・アントワネットでしたかしら、フランスの王妃様ですわね?」
 聞いたことがありますわ、その言葉。
 でも…。お菓子も無かったと思いますわよ、その言葉が生まれた時代には。
 シャングリラにはお菓子があったんですのね、それなら思い出にもなりますわよね。お菓子さえ無い状況だったら、思い出どころじゃありませんもの。



 例の言葉をブルーの母は知っていたから、面白そうに引き受けてくれた。
「お昼御飯はチキンのソテーに、フィナンシェとマドレーヌをお出ししますわ」と。
 案内されたブルーの部屋では、ブルーが「お土産は?」と待ち侘びていたのだけれど。お土産は食べ物と決まっているから、お菓子だと思ったらしいのだけど。
「…あれ? ママのお菓子…」
 ハーレイが持って来たお土産、お菓子じゃないの?
 ママに袋を渡しているのがちゃんと見えたよ、お土産、持って来てくれた筈なのに…。
「まあ、待て。アレの出番は昼飯なんだ」
 それまで楽しみに待つんだな。わざわざ買いに行って来たんだから。
「ホント!?」
 お店で見付けたわけじゃなくって、ハーレイ、買いに行ってくれたんだ?
 それってとっても期待出来そう、美味しいんだよね?
「うむ。俺も気に入りの店のではある」
 柔道部のガキどもに御馳走するには上等すぎるし、あいつらには買ってやらないが…。
 他ならぬお前のためだからなあ、うんと奮発してやったぞ。
「ありがとう、ハーレイ!」
 何が出るのかな、お昼御飯が楽しみだよ。ハーレイのお気に入りのお店のだなんて…!
(…嘘は言っちゃいないぞ)
 まるで嘘ってわけじゃないんだ、と心の中でだけクックッと笑う。
 あの店の焼き菓子は材料がいいから、なかなかに美味しいと評判だしな、と。



 そして迎えた昼食の時間。ブルーの母が「お待たせしました」と運んで来たチキンのソテーと、スープとサラダはいいのだけれど。
 お茶椀に盛られた御飯は無くて、パン皿にパンは載っていなくて。バゲットやトーストの姿など無くて、代わりに焼き菓子。フィナンシェとマドレーヌ、それがブルーのパン皿の上に一個ずつ。ハーレイのパン皿には二個つずつ置かれて、おかわり用にと盛られた籠も。
 「ごゆっくりどうぞ」とブルーの母が去って行った後、ブルーは目を丸くして焼き菓子を眺め、それからチキンのソテーなどを見て。
「…なにこれ?」
 ハーレイのお土産、もしかして、これ?
 お昼御飯だけど、フィナンシェとマドレーヌを買って来たわけ…?
「そうなるな。俺はチキンを買って来ちゃいないし、スープもサラダの野菜もだ」
 この焼き菓子を買って来たってわけだが、忘れちまったか?
 食事には何も、御飯と決まったわけではないし…。パンと決まったわけでもないし。
 思い込みというヤツはいかんぞ、もっと頭を柔らかくしろ。
 パンが無ければ、どうするんだっけな?
 今は御飯もあるわけなんだが、その御飯ってヤツが無かった時代。
 前の俺たちはどうしてたっけな、パンを食べようにも、そいつが何処にも無かった時は…?



 アレだ、と片目を瞑ってみせた。有名な言葉なんだが、と。
「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない。…覚えていないか?」
 ずうっと昔のお姫様の言葉だ、前の俺たちにヒルマンが教えてくれた。それにエラもな。
 前の俺がだ、パンが何処にも無いと悩んでた時に、出して貰った助け舟だ。
 ヒルマンとエラを連れて来てくれたのは、お前だったが。
「…思い出した…!」
 前のぼくだよ、パンはきちんと入っているつもりで食料を奪って帰ったのに…。
 パンだと思った中身はお菓子で、こういう焼き菓子ばっかりで。
 小麦粉もパンを沢山焼けるほどには入っていなくて、ハーレイが困ってたんだっけ…。
 「俺が何とかする」って言ってくれたけど、ハーレイにもいい方法は何も見付からなくて。
 それでヒルマンたちに相談したっけ、「パンが無いけど、どうしたらいい?」って。
 あの時にヒルマンが考えてくれた言い訳がそれだよ、パンが無ければお菓子ってヤツ。
 こういうお菓子が食堂で出てたよ、普通のお料理とセットになって。



 前のぼくの失敗、とブルーが肩を竦めているから。
 やってしまったくせに忘れちゃってた、と申し訳なさそうにしているから。
「なあに、お前が気に病む必要は無いってな」
 前のお前が奪わなければ、菓子だって手に入らないままで飢えるしかない船だったろうが。
 白い鯨に改造するまでは、シャングリラはそういう船だった。
 あの時だって、菓子があったら上等だ。ジャガイモ地獄とかに比べりゃ、食材の方は揃ってた。一緒に食うためのパンが無いだけで、料理は色々出来たんだからな。
「でも、失敗…。みんなは面白がってくれていたけど…」
 ヒルマンが知恵を出してくれなきゃ、あんな風に上手くいったかどうか…。
 パンが無いぞ、って文句を言う人、まるで無かったとは言えないかも…。
「そいつだけは無いな、パンの出来に文句を言うヤツはいたって、パンそのものは」
 あるだけ有難いと思って食ってただろうさ、パンの代わりに焼き菓子でもな。
 お姫様気分とはいかなかったろうが、それでも文句を言うヤツはいない。前のお前がいなけりゃ飯も食えずに死ぬしかないんだし、パンを寄越せとは誰も言わんな。
 …それにだ、俺も昨日に失敗したんだ。
「何を?」
 失敗って、ハーレイ、何をやったの?
「…情けないんだが、パンをすっかり切らしちまった」
 パンを買いに行ったら売り切れでな…。戻って別の店に行くかと思ったんだが、車だったから、それも面倒だと思っちまって…。
 確か家にはまだあった筈だ、と帰ってみたら一切れしか残っていなかった。
 俺は毎朝、分厚いトーストを二枚は食いたいタイプだからなあ、一枚じゃ足りん。食パンとか、田舎パンだとか。何にしたって、朝からしっかり食べたいんだ。
 …それなのに、たった一切れだぞ?
 失敗と言わずに何と言うんだ、パンを買わずに帰ったことを。
 しかし、だ…。



 今は米の飯がある有難い時代だからな、と語った今朝の自分の食卓。パンが足りない分は御飯を炊いて、オムレツにソーセージにサラダ、と。
「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない、ってトコだろ、今は」
 そいつを声に出して言ったら、何処かで聞いたような気がしてなあ…。
 今の俺じゃなくて前の俺がだ、元の言葉を知っていたんじゃないか、と記憶を探って、だ。
 シャングリラのことを思い出したんだ、パンの代わりに菓子を出してた、と。
 …前の俺たちは菓子を食うしかなかったわけだが、今の俺には御飯ってヤツがあったってな。
 実にいい時代になったと思わないか?
 パンが無い時は米の飯を炊けば、立派にパンの代わりを果たしてくれるんだしな。
 これがパスタじゃそうはいかんぞ、何にでも合うとは言い難いじゃないか。
「本当だね…!」
 御飯だったら、ホントに何でも合うものね…。
 前のぼくたちの頃の食事でも、御飯で充分、食べられるよ。
 御飯があるって素敵なことだね、前のぼくたちは御飯なんか食べていなかったのに。



 それに今はお菓子も沢山ある時代、とフィナンシェとマドレーヌを見ているブルー。
 奪って来なくても店に行けば買えるし、思い付きで食事にも添えられる、と。
「そうでしょ、ハーレイ?」
 あの時の食事と同じにしよう、って思ったら買って来られる時代。
 ぼくの家まで歩く途中で、美味しいお店にヒョイと入って。
「そうだな、この店の他にも幾つもあるなあ、こういった菓子が買える店」
 お互い、あの頃の俺たちに比べりゃ、お姫様だな。
 パンも御飯もあるっていうのに、わざわざ菓子と来たもんだ。
 無いのなら菓子でも仕方ないがだ、あるに決まっているのをこうして菓子にしちまって。
「うんっ! ハーレイもぼくも、お姫様だね」
 パンが無くても、御飯があるし…。パンも御飯も揃っていたって、お菓子もあるし。
 今ならハーレイみたいに言えるね、「パンが無ければ御飯を食べればいいじゃない」って。
 御飯も無いなら、お菓子を食べればいいのにね、って。



 ブルーと二人、焼き菓子をお供にチキンのソテーを頬張った。スープもサラダも。
 シャングリラの頃には、本当にパンが無かったから焼き菓子を食べたのに。パンを焼こうにも、小麦粉も足りなかったから。
 それに比べて、贅沢になった食料事情。
 パンも御飯もあるというのに、思い出のためだけにお菓子を選んでいい時代。
 「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言った高貴な姫君さながらに。
 この幸せな今の時代を、ブルーと一緒に生きて行こう。
 青い地球の上で手を繋ぎ合って、パンも御飯も、お菓子も選べる幸せな今を…。




         パンが無ければ・了

※シャングリラで起こった、お菓子だらけの日々。ヒルマンの機転で一気に楽しい毎日に。
 今ではパンの代わりに御飯で、充実している食糧事情。幸せな青い地球での暮らし。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




海に、山にとお出掛け三昧、遊び三昧の夏休みが近くなって来ました。期末テストも終わってカウントダウンな日々ですけれども、ある日の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でジョミー君がボソリと零した一言。
「…ソルジャー除けって無いのかなあ…」
「「「は?」」」
なんだそれは、とジョミー君に視線が集中。ソルジャー除けって、どういう代物?
「うーん…。イノシシ除けみたいな感じで、こう」
「イノシシ除けだと? 俺に喧嘩を売っているのか!?」
キース君の瞳が一気に険しく。
「俺の家では大概、苦労をしているんだが! イノシシで!」
「そうだったっけ?」
「ヤツらのお蔭で墓地の管理が大変なんだ! 知らんのか、貴様!」
「えーっと…?」
そんな話があったっけ、というジョミー君の疑問は私たちにも共通でした。元老寺にイノシシという話自体が初耳だという気がします。それに墓地の管理が大変って…何?
「どいつもこいつも平和な顔をしやがって…。墓地はヤツらとの戦場なんだ!」
最前線だ、とキース君。
「俺の家は裏山が墓地だからな。ヤツらのテリトリーと隣接していると言ってもいい。そしてヤツらは越境して来る。裏山との境の生垣を鼻と身体で押し通るんだ!」
通って来て墓地のお供え物を食いまくるのだ、という話。でもでも、それはお供え物。お下げして食べようと思う人なら、自分で持って帰るでしょう。それをしないで置いてあるなら、今の季節は炎天下に放置、キース君たちがお下げしたって食中毒の危機だと思うんですが…?
「誰が自分で食いたいと言った! 檀家さんがお供えなさった物には手は出さん!」
法事のお供え物ならともかく…、という説明。本堂で法事を希望の場合は、御本尊様などにもお供え物が。それはキース君たちが後でお下げして食べるのだそうで、限定品のお菓子とかだと万々歳。けれど墓地に置かれたお菓子の場合は撤去して捨てる決まりだとか。
「「「捨てる!?」」」
「ああ。いくら珍しい菓子が供えてあっても、仏様の物には手を出すな、とな」
ガキの頃から親父に厳しく躾けられた、というキース君。だったらイノシシと戦わなくても、笑顔で譲ればいいのでは? どのみち捨てるお菓子だったら、イノシシに喜んで貰いましょうよ~。



撤去して捨てるというお約束の、元老寺の墓地のお供え物。イノシシがそれを食べまくっていても、無駄にならないからいいだろう、と私たちは考えたのですが…。
「甘い、お前たちは甘すぎるぞ!」
イノシシの怖さを知らんのか、とキース君は眉を吊り上げて。
「ただ黙々と食って帰るなら何も言わんが、ヤツらは暴力的なんだ! わざとかどうかは俺も知らんが、食ったついでに墓石を倒して行きやがる!」
「「「ええっ!?」」」
「たまたま身体が当たった結果か、デカいイノシシが墓石の間を押し通ったのかは謎だがな…。倒壊するんだ、墓石が! そうなった時の修理費用はウチの負担だ!」
檀家さんには何の責任も無いからな、と言われてみればそうなのかも。檀家さんが倒したわけじゃないなら、維持管理は元老寺の仕事ですから、当然、費用も…。
「その費用が馬鹿にならんのだ! だから墓地には「お供え物を置かないで下さい」と看板や張り紙をしてあるんだが…。こればっかりは檀家さんに強制出来んしなあ…」
昔は置くのが当たり前だったし、と深い溜息。
「特に御高齢の方がお参りなさって、心をこめて作った菓子や弁当をお供えなさっていた場合はなあ…。気付けば「持って帰って下さい」と注意も出来るが、そうでない時は…」
善意で置かれたお供え物だけに文句を言えん、という話。墓地の管理は係の人がしていますから、パトロールなどもあるそうですけど、なにしろ広いのが元老寺の墓地。見落とし多数で、食べにやって来るイノシシたちとの攻防戦が激しく続いているらしくって。
「イノシシが来ないよう、イノシシ除けが出来ないものか、とあちこち相談してみたんだが…」
「駄目だったわけ?」
ジョミー君が訊くと、「そういうことだ」と肩を落としているキース君。
「農業をやってる檀家さんが一番詳しいからなあ、親父が何人もに話を聞いた。しかし「これだ」という手が無い。電柵もイマイチ効かないらしいし…」
「「「電柵?」」」
「電流攻撃というヤツだ。田んぼや畑の周りに電線を張って、軽い電流を流すわけだが…。ヤツらは面の皮どころか全身の皮が厚い上にだ、毛皮も纏っていやがるからな」
触れてビリビリと感電どころか、「ピリッとしたかな?」という程度だとか。それで気にせず畑に侵入、作物をボリボリ食い漁るそうで。
「肝心のイノシシに全く効かないどころか、子供が触って感電したと苦情が来るそうだ」
「「「あー…」」」
それはマズイ、と理解しました。電柵に「触るな」と注意書きはしてあるらしいですけど、字が読めないような小さな子供だとビリビリですよね…。



農業のプロでも防げないイノシシ、使えないと評判の電柵とやら。元老寺で導入したってコストが無駄にかかるというだけ、墓石の倒壊は防げそうになく。
「親父が聞いて来て、生垣の裏に丈夫な金網を張ってはみたが…。ヤツらは前にしか進まんと言うから、これで来ないかとやってみたんだが…」
「どうなりました?」
シロエ君の問いに「駄目だったな」という返事。
「最初の間は無駄に金網に突撃しててな、派手にへこみがついていたから、勝ったと思った。だが甘かったな、ヤツらは金網を破って来たんだ」
「「「破った!?」」」
そんなパワーがありますか! 金網に穴を開けるだなんて…。
「正確に言えば、支柱の部分を突破された。支柱と金網との接合部分が弱かったらしくて、其処を壊して侵入した、と」
一度やったら学習された、と頭を抱えるキース君。突破されて以来、修理する度に同じ箇所を攻撃されるのだとか。そして侵入、お供え物をボリボリ、墓石を倒しまくっているのだそうで。
「そういうわけでな、イノシシ除けは効かんのだ! 俺のイノシシとの戦いを承知でイノシシ除けだと言ったのか、貴様!?」
よくも、とジョミー君の所に戻った話題。キース君にギロリと睨まれ、ジョミー君は「わざとじゃないよ!」と慌てて首をブンブンと。
「イノシシで苦労しているなんて話は初耳だったし…。ぼくが考えたのはソルジャー除けでさ、イノシシ除けっていうのは例え話で!」
「ソルジャー除けというのは何だ!?」
それを聞かせて貰おうか、とキース君は事情聴取をする警察官よろしく怖い顔。ジョミー君の方は肩を竦めて「ホントにイノシシは例えだってば…」とぼやきながら。
「ソルジャー除けだよ、いつもやって来るあのソルジャーだよ!」
「それは分かるが、どう除けるんだ!」
あんなものを、とキース君。
「除けられるんなら誰も苦労はしないぞ、イノシシ以上に迷惑をかけてくるヤツなんだからな!」
「丸ごと除けるのは無理だろうけど、ちょっとくらいなら出来るかなあ、と…」
出来たらいいなと思ったんだけど、とジョミー君は言っていますけど。イノシシですらも除けられないのに、あのソルジャーなんか除けられますか?



何かと言えば空間を超えて乱入して来るお客様。それがソルジャー、蒙った迷惑は星の数ほど、イノシシどころではないトラブルメーカー。ソルジャー除けがあるんだったら使いたいですが、まず無理だろうと思いますけどね?
「だから丸ごとは無理そうだし…。こう、限定で」
「「「限定?」」」
「うん。迷惑の中身は色々あるけど、一番多いの、レッドカードが出るヤツだよね」
ブルーがベシッと出しているアレ、とジョミー君は会長さんに同意を求めて。
「そうだね、それが一番多いか…。ぼくも迷惑してはいるけど、あれが何か?」
「レッドカードを出さなきゃいけないような話だけ、させない方向で除けられないかな?」
「「「へ?」」」
「その手の話だけを除けるってこと!」
喋ったら派手にペナルティーとか…、とジョミー君。
「夏休みになったら確実に増えるよ、そういう話を引っ提げて乱入して来る日がさ…。乱入自体は避けられなくても、アヤシイ話を聞かずに済んだらかなり楽だと思うんだけど」
「それはそうかもしれませんねえ…」
アレが諸悪の根源ですしね、とシロエ君が大きく頷きました。
「あの手の話さえ封じられたら、迷惑度数がグンと減ります。会長、なんとか出来ませんか?」
「なんとかって…。それが出来たら苦労はしないよ」
それこそ元老寺のイノシシと同じ、と会長さんは言ったのですけど。
「本当に無理? 御祈祷とかで何とかならない?」
ジョミー君が食い下がって。
「ソルジャー、そっち方面の能力、皆無なんだよね? 御祈祷だとか、法力だとか」
「それは無かった筈だけど…。そもそもそういう御祈祷の方が…」
無いね、と会長さんは即答。アヤシイ話を封じられる呪文やお経の類は存在しないという話ですが、横で聞いていたキース君が。
「待てよ、その辺は実は何とかなるんじゃないか?」
「無い袖は振れないって言うんだけどねえ?」
「しかしだ、璃慕恩院でも今では護摩焚きで御祈祷なんだぞ? 俺たちの宗派は本来、護摩焚きはしなかったよな?」
それが護摩焚きで合格祈願に必勝祈願、とキース君。えーっと、それってアヤシイ話への対策とやらにも有効ですか?



「なるほど、璃慕恩院の護摩焚きと来たか…」
そういうイベントがあったっけ、と会長さんが顎に手を当てています。璃慕恩院の護摩焚きというのは何でしょう? 護摩焚きと言ったら火を燃やして祈祷する方法のことでしょうけど…。
「ああ、それはね…。ぼくやキースが属する宗派は護摩焚きとは縁が薄いんだ。元々そっちをやってた宗派のお寺だったのが宗派を変えた、って所くらいにしか無かったんだけど…」
今ではそうでもなくなってきて…、と会長さん。
「ぼくたちの宗派は何をするにも南無阿弥陀仏。合格祈願も縁結びでも、何でもかんでも南無阿弥陀仏でやるというのが鉄則だけれど…。檀家さんにはイマイチ通用しなくてねえ…」
もっと有難味のある御祈祷をして貰えないか、という要望が高まったとかで。
「ぼくたちも一応、護摩焚きで唱えるお経は読める。それで璃慕恩院が始めたんだな、護摩焚きをね。御本尊様の前でやるのはあんまりだから、と境内の神社で」
「「「神社!?」」」
「お寺の境内に神社があるのは珍しくないよ? 璃慕恩院の中にも昔から伝わる御縁の深い神社があってさ…。其処でやるならいいだろう、と護摩焚きの御祈祷、受付開始」
そしたらこれが大評判で、と会長さんは教えてくれました。大々的に宣伝をしたというわけでもないのに、口コミで次々に依頼が舞い込み、今では定番。南無阿弥陀仏よりも効きそうだ、と色々なお願い事が日々、持ち込まれているらしくって。
「キースの言う通り、これは使えるかもしれない。お願い事なら何でもオッケー、それが璃慕恩院の護摩焚きの人気の理由だしね?」
「それでソルジャー除けになるわけ?」
護摩焚きに其処までのパワーがあるの、とジョミー君が尋ねると。
「どうだろう? これだ、という呪文やお経は無い。だけどそういうことを言ったら、合格祈願のお経なんかも無いわけで…。それを叶えるのが護摩焚きとなれば、ブルー除けだって!」
やってやれないことはない! と会長さんはグッと拳を握りました。
「ぼくの法力というヤツが勝つか、煩悩まみれのブルーが勝つか。この際、勝負をしてみるのもいい。ぼくが勝ったら、思い切り平和な夏休みだから!」
上手く行ったら夏休みどころか永遠に平和な日々をゲットだ、と会長さんの背中に護摩の炎が見えそうな感じ。やるんですか、本気でソルジャー除けを?
「思い付いたら実行あるのみ! ジョミーにしては最高のアイデアだったよ、ブルー除け!」
やってみせる、と言い出しましたが、護摩焚きの祈祷でソルジャー除け。それで平和な夏休みとかがゲット出来たらいいですけどねえ…?



護摩焚きの祈祷は夏休みの初日と決まりました。会長さんは着々と準備を進めて、ついにその日が。私たちが朝から会長さんのマンションにお邪魔してみると…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
護摩焚きの会場はリビングなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「「「リビング!?」」」
それって家の中ではないですか! 火災報知器が鳴っちゃいませんか、いえ、それよりも前にホントに天井、焦げちゃいませんか?
「平気、平気! ちゃんとシールドするんだも~ん!」
こっち、こっち! とピョンピョン跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。リビングに着くと絨毯や家具が撤去され、フローリングの床のド真ん中にドドーン! と護摩焚き用の壇が出来ていて。
「やあ、来たね。これからブルー除けの御祈祷をね…」
全身全霊でやらせて貰う、と会長さんが緋色の法衣で立っていました。立派な袈裟まで着けています。護摩壇の側には仏具もきちんと揃っていて。
「あんた、本格的にやる気だな?」
キース君が仏具などを視線でチェック。
「これはアレだろう、俺たちの宗派の方ではなくてだ、恵須出井寺の方の…」
「ぼくはそっちの方の修行も一応きちんとやってるからね? 護摩焚きの腕もプロ級ってね」
部屋の中で護摩焚きも向こうじゃ普通、と会長さん。
「部屋じゃなくってお堂だけどさ…。中でガンガン護摩を焚くのが恵須出井寺流!」
だからリビングでやればいいのだ、と会長さんは自信たっぷりです。
「この暑い中で、屋上はねえ…。夏はクーラーが欠かせないんだよ、護摩焚きにはね」
「本当か?」
「嘘に決まっているだろう! 汗ダラダラで護摩を焚くから御利益もね」
とはいえ汗をかかないスキルがあるなら無問題、と涼しい顔の会長さん。護摩焚き専用のお堂じゃなくても天井を焦がさず、クーラーを効かせて祈祷が出来るのも能力の内、という話。
「君たちだって暑い屋上より、断然、リビングがいいだろう?」
「それはまあ…」
否定はせんが、とキース君。私たちもコクコク首を縦に。ウッカリ御機嫌を損ねてしまって屋上行きにされてしまったら暑いですしね、真夏の護摩焚き…。



間もなく「そるじゃぁ・ぶるぅ」が奥から運んで来た香炉。会長さんがそれを手にしてリビング中を清めて回って、私たちも真面目にお焼香を。いよいよ護摩焚きの始まりです。護摩壇の前に座った会長さんが朗々とお経や呪文を唱えて点火で。
「「「うわー…」」」
スゴイ、としか言いようのない屋内護摩焚き。炎はぐんぐん大きく燃え上がり、護摩木が投げ込まれる度に飛び散る火の粉。もちろん煙も。けれども天井を舐める炎は焦げ跡を作らず、火災報知器も鳴りません。
「これって御利益、ありそうかも…」
ジョミー君が呟くと、キース君が。
「当たり前だろう、銀青様の護摩焚きだぞ? これで効かない筈が無い」
「でもよ、ブルー除けとか唱えていねえぜ?」
それで効くのかよ、とサム君が訊けば。
「いや、ハッキリそうとは言っていないが、災難を除ける御祈祷を応用しているようだ。降りかかる災難を除けて下さい、という感じだな。それと願い事は護摩木に書くのが王道だ」
あれに細かく書いたのだろう、と言われて見てみれば投げ入れられる護摩木には墨で何やら書かれています。なるほど、あれがソルジャー除けの…。
「効くといいわね、ソルジャー除け」
スウェナちゃんが護摩の炎に手を合わせ、私たちも合掌して深く頭を下げました。炎の熱さすら感じませんけど、護摩焚きの御祈祷、実行中。これでソルジャーのアヤシイ話を封じられたら、この夏休みは極楽ですよ~!



会長さん渾身の護摩焚き祈祷は無事に終わって、後は祭壇などのお片付け。どうするのかな、と眺めていたら、会長さんが灰を袋に詰め込んでいます。大袋に詰め、次は小袋。お守り袋くらいのサイズに縫われた小さな布の袋ですけど…。
「ああ、これかい? 護摩の灰は効き目があるからねえ…」
これが文字通りのブルー除け、と小さな袋がドッサリと。大袋に詰めた灰を使えばまだまだ沢山作れそうです。お守りみたいなものだろうか、と見ている間に祭壇はすっかり片付いてしまい、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が絨毯や家具を瞬間移動で運び込んで…。
「お疲れ様ぁ~! お昼御飯にする?」
「そうだね、急いで着替えて来るよ」
会長さんが奥の寝室へ引っ込み、戻って来た時には普通の半袖、ズボンといった見慣れた私服。私たちは揃ってダイニングに移動し、会長さんの慰労会も兼ねてスパイスたっぷりエスニック料理の昼食です。鯛のココナッツ煮込みにカニの香草炒め、ピリッと甘辛いチキンの串焼きエトセトラ。
「かみお~ん♪ 夏はやっぱりスパイシー!」
スパイスで暑さをふっ飛ばさなくちゃ! とトムヤムクンも作ってあります。どれも美味しい、と喜んでいたら…。
「こんにちは」
「「「!!?」」」
振り返った先でフワリと翻る紫のマント。さっき御祈祷をしていた相手が立っているではありませんか! ソルジャーは空いていた椅子にちゃっかり座って。
「ぶるぅ、昼御飯、ぼくのもあるよね?」
「うんっ! どれも沢山作ってあるから!」
「嬉しいな。夏はこういうのも美味しいよね」
夏バテ防止にしっかり食べる! などと言ってるソルジャーですけど、ソルジャーが暮らすシャングリラの中、空調の方は完璧なのでは? 夏バテなんか聞いてませんよ?
「それはもちろん! 一応、四季は作ってあるけど、公園限定!」
他の区域は関係ないのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「二十四時間、いつでも快適! だけど公園でそれをやるとね、ぼくの大好きな桜が咲かなくなっちゃうからねえ…。公園だけは夏があるんだ。でもブリッジには影響なし!」
公園と隣り合わせだけれども影響は皆無、という話。私たちの世界のシャングリラ号は四季にこだわってはいない筈ですが、多分、似たような構造でしょうねえ…。



ソルジャーの世界のシャングリラの構造をパクッたらしい、私たちの世界のシャングリラ号。今の時代に作れる筈がないワープドライブ付きの宇宙船、会長さんがソルジャーから設計図を貰ったのだという話です。無意識の内に。そういう意味では大恩人のソルジャーですけど…。
「美味しかったー! 御馳走様!」
これで今夜もパワフルに…、と笑顔のソルジャー。
「夏は気分が開放的になるって言うしさ、これからが素敵なシーズンだよね!」
「その先、禁止!」
会長さんが止めに入りましたが、ソルジャーは。
「何を言うのさ、夏こそセックス! 裸で寝たって風邪を引かない素晴らしい季節!」
ぼくたちの結婚記念日も夏! と嬉しそうに。
「今年の海の別荘行きだって楽しみなんだよ、只今、休暇の根回し中! ハーレイとぼくと、ぶるぅと纏めて留守にするから、きちんと準備をしておかないと!」
「はいはい、分かった」
根回しのためにもサッサと帰る! と会長さんがダイニングの扉を指差しましたけれど。
「あっ、食後の飲み物はリビングだっけね! 今日は何かな、ラッシーかな?」
「スムージーだよ、トロピカルフルーツたっぷりなの!」
「いいねえ、来た甲斐があったよ、今日も!」
ぼくの分のスムージーもよろしく、と先頭に立ってリビングに移ってしまったソルジャー。ソファに陣取り、スムージーが届くと話の続きをベラベラと。
「今日はしっかりお昼を食べたし、ハーレイにも文句を言わせない、ってね! ぼくが真っ当な食事をしないから、って顔を顰めてセックス控えめ、これは良くない!」
壊れるほどにヤってなんぼだ、とアヤシイ方向へ突っ走る中身。会長さんの御祈祷、効いていないじゃないですか!
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを突き付け、ソルジャーは。
「ダメダメ、夏は猥談の季節!」
「それを言うなら怪談だってば!」
「どっちも似たようなものなんだってば、盛り上がれば良し!」
猥談で大いに盛り上がろう! とソルジャーが拳を突き上げた瞬間、会長さんの右手がサッと閃き、何かが宙を。ソルジャー目掛けて飛んで行ったそれがバッと弾けて…。



「クシャン!」
ソルジャーの口から飛び出したクシャミ。それは立て続けに続き、ソルジャーの周りに煙のような灰がもうもうと。もしや、今のは…。
「何するのさ!」
ゲホゲホと派手に咳き込みながらソルジャーが叫ぶと、会長さんは。
「帰れと言ったのに帰らない上、レッドカードにも従わない。…だからこの際、最終兵器」
「最終兵器?」
どの辺が、とまだゴホゴホと噎せているソルジャー。
「人体実験の経験者のぼくを舐めないで欲しいね、この程度でぼくが逃げるとでも? …ゴホッ、これが胡椒爆弾だったとしてもさ、ぼくは全然平気だけどねえ? …って、ハークションッ!」
ぼくのマントが灰だらけに…、とバサバサバサ。戦闘に特化して作られたというソルジャーの衣装、灰まみれになっても叩けば綺麗になるようです。しかし…。
「その灰、ただの灰だと思ってる?」
会長さんがスムージーを飲みながら言って、ソルジャーが。
「えっ? 灰だろ、最終兵器とかって名前だけはやたら立派だけれどさ」
「それが最終兵器なんだな、今の、まともに被っただろう?」
「被ったけど? だからクシャミに咳なんだよ! …ックション!」
油断した、とゲホゲホやっているソルジャー。会長さんは悠然と笑みを浮かべると。
「その様子だと君は知らないわけだね、ぼくがやってた御祈祷も意味も」
「御祈祷?」
「そう、御祈祷。朝からこの部屋で華々しくやっていたんだけどねえ、火を燃やしてさ」
「知らないよ!」
今日は朝から会議だったのだ、とソルジャーは唇を尖らせました。朝一番から会議室に行って、こっちへやって来る少し前まで会議三昧、覗き見どころではなかったとか。
「ついでに、ここ暫くは何かと忙しくってさ…。ろくに覗き見する暇が無くて、おやつも食事もどれほど逃してしまったことか…!」
「なるほど、ホントに何も知らない、と。…君除けの祈祷をしていたことも」
「えっ?」
「君のいわゆる猥談攻撃。それを除けるための祈祷をやっていたのさ、朝からね」
それの成果が最終兵器、と会長さん。やっぱりさっきの灰の正体、護摩木を燃やした灰でしたか!



「…ぼくの猥談除けだって? 今の灰が?」
どういう意味で、とソルジャーは赤い瞳を丸くしてから。
「猥談、普通に出来そうだけどね? 続きをやるなら、盛り上がろうって所から! この夏もハーレイと大いにヤリまくるつもりでいるんだ、もちろん薬もしっかりと買って!」
スッポンにオットセイ、その他もろもろ…、とソルジャーは指を折りました。
「夜のお菓子のウナギパイだって欠かせないしね、それで今夜もパワフルに!」
「「「………」」」
全然効いていないじゃないか、と会長さんを睨む私たち。ソルジャーの猥談を除けるどころか、逆に呼び込んでいませんか?
けれど…。
「うん、充分に喋りまくったってね」
これでオッケー! と会長さんの唇に勝ち誇った笑みが。
「…え?」
何が、と怪訝そうなソルジャーに向かって、会長さんはニッコリと。
「君の猥談! ぼくが投げ付けた最終兵器が発動するための条件は揃った!」
「条件だって?」
「そう! 何かと猥談をやりたがる君を黙らせるには、方法は一つ! 君が猥談をやらかした場合、君のお相手はもれなく出来なくなるっていうわけ!」
お疲れ気味だかEDだか…、と会長さんの指がビシィッ! とソルジャーに。
「ぼくはそういう祈祷をしたんだ、君がヤリたくてもどうにもならない方向で! 君のハーレイ、少なくとも今夜は使い物にはならないからね!」
「ちょ、ちょっと…! 君に其処までの力は無いだろう!」
空間を超えて能力を振るうことなど不可能な筈だ、とソルジャーは反論したのですが。
「だからこそ君に御祈祷で出来た灰をぶつけた。君自身がぼくの力の媒介になるのさ、君のハーレイを封じるための祈祷のパワーを君が運んで帰るわけ!」
その身体でね、と会長さん。
「もっとも、ぼくのサイオンの力が君に負けるのは本当だし? 祈祷の力も君には及ばないかもしれない。ただ、サイオンと法力とはねえ、性質が全く違うしね?」
効く可能性も大いにある、と会長さんはクスクスと。
「今夜、帰ったらヤッてみたまえ。君のハーレイが役に立たなかったら、ぼくの勝ちだよ」
「…そういう意味か…」
それで最終兵器なのか、とソルジャーは灰が残っていないかパタパタと服や頭を払ってから。
「どうせ無理だろ、勝てやしないよ」
たかが法力、知れたものだ、と余裕で構えていたのですけど…。



ソルジャーは夜までドッカリ居座り、夕食も食べて帰りました。明日からは柔道部三人組は合宿、ジョミー君とサム君は恒例の璃慕恩院での修行体験ツアーです。栄養をつけて挑んで貰わなければ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が分厚いステーキを焼き、シーフードたっぷりのピラフなども。
誰もが満腹、大満足での散会となって、翌日からは男子もいなければ、ソルジャーも抜きで。
「平和よねえ…」
ソルジャーの方はどうなったかしら、とスウェナちゃんがのんびりと。私たちは会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんの三人と一緒にホテルのプールサイドで休憩中。ひと泳ぎしてから飲み物や軽食、パラソルの下で優雅な時間。
「ブルーかい? どうしてるのかは謎だね、うん」
ぼくには覗く力があんまり無くて…、と会長さんがサンドイッチをつまみながら。
「でもねえ、朝っぱらから殴り込みにも来なかったしね? 勝ったと威張りにもやって来ないし、もしかすると祈祷が効いたのかもねえ…」
「かみお~ん♪ ブルーの御祈祷、よく効くもんね!」
「それは私も保証しますわ。それにしても考えましたわねえ…」
その方法なら向こうの世界に法力を届けられますわね、とフィシスさん。うわー、やっぱり、あの御祈祷って思いっ切り効果アリですか!
「分からないけど、効いていたなら当分は平和が続くと思うよ」
護摩の灰はまだまだ沢山あるから、と会長さん。小袋入りのが五十発近く、大袋の灰を小分けにしていけば何百発という数になるらしく。
「小袋はぶるぅが作ったんだよ、ぼくが御祈祷した布を使ってね。縫い上がった袋にまた御祈祷して、パワーアップの梵字もキッチリ書いてあるから効果はバッチリ!」
効くと分かったらどんどん作る、と会長さんが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「ぼく、頑張って縫うよ、あの袋! みんなのためになるんだったら、何百個でも!」
「あらあら、頼もしい助っ人ですわね」
頑張ってね、とフィシスさんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頬っぺたにキスを。褒めて貰った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「わぁーい!」と躍り上がっています。
「袋、沢山作らなくっちゃ! 最終兵器ーっ!」
「そうだね、平和を目指さなくっちゃね」
頑張ろう! と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がガッチリ握手。最終兵器で平和を目指すとは間違っているような気もしますけれど、これも一種の抑止力かも…?



男の子たちが合宿と璃慕恩院から戻って来たのは一週間後のことでした。それまでの間、ソルジャーは姿を見せませんでしたが、毎度のパターンなだけにどうなったのかは分かりません。とにかく男子が戻ったからには慰労会だ、と真っ昼間から焼き肉パーティーを始めた所へ。
「楽しそうだねえ…」
恨みがましい声が聞こえて、紫のマントのソルジャーが。例によって空いていた席へと陣取ったものの、その顔色は冴えないもので。
「焼き肉ねえ…。マザー農場の肉なのかな?」
「そうだよ! 幻のお肉も貰って来たから、食べてってねー!」
どんどん食べて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お肉も野菜もたっぷりあるから! 締めはガーリックライスでスタミナたっぷり!」
「スタミナかあ…。これからの季節、それも大切…。おっと、いけない」
ソルジャーの手が自分の口を押さえました。もしや猥談、飲み込んだとか?
「…この状況だと飲み込む以外に無いだろう!」
此処には例の最終兵器が…、とソルジャーは肩をブルッと震わせ。
「あれをウッカリ投げ付けられたら、とんでもないことになるからねえ…。ぼくのハーレイ、あの夜から…。おっと、危ない」
とにかく困った状況なのだ、と嘆きつつも焼き肉はパクパクと。
「君たちは慰労会かもしれないけれども、ぼくは焼き肉でパワーをつけて、と…。それから頑張って挑まないとね」
「喋ってるけど?」
猥談を、と会長さんの手に灰が詰まった小袋が。
「次の一言でお見舞いするから、気を付けるように!」
「ううん、今のは猥談じゃなくて! ぼくが頑張るのは修行なんだよ!」
「「「修行!?」」」
「そう、修行」
ちょっと璃慕恩院と恵須出井寺に、とソルジャーの口から斜め上な台詞が飛び出しました。それって修行の本場なのでは、何故にソルジャーがそんな所に…?



「…実はノルディに勧められてね…」
ブルーに勝つにはこれしか無いのだ、とソルジャーは焼き肉を頬張って。
「ぼくのハーレイに妙なパワーをお見舞いしないで済む方法はさ、ぼくが影響されないことしか無いらしい。そのためには法力とやらを身に付けるしかないとノルディがね…」
「ぼくに勝とうだなんて百年どころか二百年以上、早いけど?」
「其処を全力で修行すればさ、期間短縮も可能なのかもしれないし…」
これでも場数だけは踏んでいるから、と真顔のソルジャー。
「死ぬか生きるかの地獄を何度も見て来ているんだ、同じ修行でもブルーよりかは多くの力を得られるでしょう、とノルディも言ってくれたから…。それを信じて頑張るしかない!」
まずは璃慕恩院からなのだ、とソルジャーは焼き上がったばかりのお肉をパクリ。
「ノルディの紹介で、明日から二泊三日の修行体験ツアーなんだよ。そっちじゃ精進料理と聞くから、今の間に肉をたっぷり食べないと!」
「君が璃慕恩院だって!?」
会長さんの声が引っくり返りましたが、ソルジャーの方は。
「ぼくの正体ならバレないよ。ノルディの知り合いの息子ってことで押し込んで貰うし、情報操作はきちんとやるし…。ただ、全力での修行はちょっと…」
日程的に無理っぽくて、と溜息が。
「海の別荘行きで休暇を取るから、それ以上の休暇は取りにくい。ちょっと抜け出しては修行をして…、って形になるかな、それで法力を身に付けられればいいんだけどねえ…」
恵須出井寺の方にしてもそう、とソルジャーは肩を落としています。
「厳しいと評判の一般向けの修行道場、ノルディに申し込んでは貰ったけれど…。そっちも何処まで出来るかは謎で、ブルーに勝つまでの道は長そう…」
いつになったら勝てるのやら、と言いつつも修行はするつもりらしく。
「ノルディが言うには、あの手の御祈祷? それのパワーを跳ね返せるようになったら、相手の方に大ダメージが行くんだってね? 倍返しだとか」
「え? あ、ああ…。まあ…」
そう言うね、と会長さん。まさかホントに倍になるとか…?
「うん。跳ね返された力は倍になって返って来るから、それを受け流すだけの力が無ければ下手な祈祷はするな、ってコト」
「そうか、やっぱり倍返しなんだ…」
その日を目指して頑張らねば、と決意のソルジャー。会長さんの最終兵器に対抗するため、修行をしますか、そうですか…。



猥談をしたら護摩の灰をぶつけられ、キャプテンが使い物にならなくなるらしい立場に追い込まれたソルジャー。会長さんの御祈祷は効いたとみえて、あれ以来、ソルジャーは大人しいもの。例年だったら猥談の夏となりそうな所が全く静かで…。
「実に平和な夏休みだな。俺の家はイノシシとの戦いだがな」
イノシシ除けにもいい方法は無いものか…、とキース君。お盆を控えて卒塔婆書きのバトルも続いているようです。
「ソルジャー除けって言い出した時は怒ったくせに」
そのイノシシで、とジョミー君がブツブツ言ってますけど、今やジョミー君はソルジャー除けの功労者。御祈祷したのは会長さんでも、ジョミー君が思い付かなければソルジャー除けなんかは今も何処にも無かったわけで…。
「かみお~ん♪ 灰を詰めた袋、うんと沢山あるものね!」
「とりあえず、ブルーは効くと信じているようだしね」
「「「は?」」」
あれって効くんじゃないんですか? だからこそソルジャー、倍返しを目指して修行に励んでいるのでは…。修行と言っても一般人向け、会長さんと同レベルにまで到達するには二百年くらいはかかりそうですが…。
「あれねえ…。本当に効いているんだったら、それなりの手応えが来る筈なんだ。いくら別の世界で発動している力でもね。それが全く、何にも無いから」
「お、おい…。それじゃ、あれはハッタリだったのか?」
キース君の問いに、会長さんは。
「効いたらいいな、とは思っていたからハッタリじゃない。だけど効いたというわけでもない。多分、偶然というヤツなんだよ、たまたまあの日は向こうのハーレイが疲れていたとか」
「「「ええっ!?」」」
だったらキャプテン、会長さんの御祈祷で使い物にならなくなったんじゃなくて…。
「そう、偶然。だけどブルーは信じているから、せっせと修行に」
「そ、それってバレたらヤバいんじゃねえか?」
「ヤバくないだろ、勝手に一人で勘違いをしているわけだしさ」
そして最終兵器はこれからも有効に使わせて貰う、と会長さんは言ったのですけど…。



キース君とジョミー君、サム君が棚経に走り回ったお盆も終わって、マツカ君の海の別荘行きが目の前だ、という日の夕方のこと。会長さんの家に集まってエスニックカレーの食べ放題を始めようとしていた私たちの前に、私服のソルジャーが降ってわいて。
「ぼくにもカレー! 修行が限界…」
もう死にそう、とヘロヘロのソルジャー、今日も恵須出井寺で写経に励んで来たのだとか。
「正座を崩したら叱られてしまうし、筆ってヤツも使い慣れないし…。こんな日々がいつまで続くのさ!」
「嫌なら途中で投げればいいだろ、坊主を目指しているわけじゃなし」
素人さんが途中で逃げるなんてことは珍しくない、と会長さん。
「坊主を目指して修行中の人でも場合によっては逃げるんだ。キツすぎる、とね」
「ぼくは修行もキツイけれども、発散出来ないのが何より辛いよ…」
「発散?」
「そう! こう、思いっ切り! エロい話を山ほどしたくて、例えば昨日のプレイだとか! ハーレイが凄くてもうノリノリで…!」
堰を切ったように話し始めたソルジャー。猥談地獄に陥る前に、と会長さんが最終兵器を取り出してぶつけ、ソルジャーは顔面蒼白で。
「や、やっちゃった…」
これで今夜もお預けなのか、とカレーも食べずに意気消沈で姿を消して。
「か、会長…。あの灰、今度も効くんでしょうね?」
「さ、さあ…? 効かなかったら…?」
どうなるんだろう、と会長さんが青ざめた次の日、ソルジャーは見違えるように自信に溢れて登場しました。会長さんの家で午前のティータイム中だった私たちの所へウキウキと。
「いやあ、修行って、してみるものだねえ…!」
まさかこんなに短期間で君に勝てるとは、とソルジャーは歓喜の面持ちで。
「昨夜のハーレイ、凄くってさ! ぼくがブルーに勝てたからだ、って言ったら「では、お祝いに頑張りませんと」って、もう、あれこれと…!」
「退場!」
「嫌だね、勝ったからには倍返しなんだよ、どんどん喋っていいんだってば。今日まで自粛してきた分までガンガンと!」
さあ聞いてくれ、と乗り出すソルジャー。ば、倍返しって会長さんだけじゃなくって私たちまで巻き添えですか? 待って下さい、心の準備が…。倍返しで聞く猥談なんかは勘弁です~!




            封じたい喋り・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 珍しく生徒会長が勝利を収めたように見えた、今回のお話。法力が凄そうでしたけど…。
 単なる偶然の産物だったわけで、最終的には倍返しに。ソルジャーに勝つのは無理そうです。
 次回は 「第3月曜」 8月19日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、7月は、楽しい夏休みな季節。けれど、夏休みと言えば…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










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