シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…)
そうだったっけ、と新聞を覗き込んでしまったブルー。
学校から帰って、おやつの時間に。ダイニングのテーブルにあった新聞、それを広げて見付けた記事。幸せそうな花嫁の写真が目を引いたから。ブーケを手にして、最高の笑顔で。
自分もいつかはこんな写真を撮れる日が来る、とワクワクと記事を読んだのだけれど。てっきり結婚式の儀式の中身か、そんな内容だと思ったけれど。
(んーと…)
誓いのキスとか、結婚指輪の交換だとか。二人で署名する結婚証明書と言うのだったか、それの書き方とか、そういうものだと後学のために読んだのに。
(勉強にはなったと思うんだけど…)
記事の主役は花嫁が手にしたブーケだった。真っ白な薔薇と飾りのグリーンと、名前を知らない白く清楚な花を纏めた綺麗なブーケ。純白のリボンも結び付けてある、ブーケの花たちの美しさを更に引き立てるように。多分、レースで出来ているリボン。
ブーケについての記事と言っても、注文の仕方や選び方というわけではなかった。花嫁のためのブーケはあって当然、それを前提として書かれた記事。ブーケの参考には全くならない。
けれども、記事には重要なことが書かれてあった。結婚式で花嫁がすべきこと。
(ブーケトス…)
正確に言うなら、結婚式を終えた花嫁から参列者に向けての贈り物。それがブーケトス、花嫁のブーケを空へと投げる。結婚式に集まってくれた人たちの方へと高く投げ上げ、ブーケが落ちたら其処にいた人が次の花嫁。次に結婚出来る花嫁になれるというのがブーケトス。
実際に見たことは一度も無かったけれども、考えてみればドラマのシーンで見たかもしれない。花嫁が空へブーケを投げる姿を、ふわりと飛んでゆくリボンが結ばれた花束を。
(欲しいな、これ…)
勉強になったと思った点は其処だった。花嫁が投げたブーケを貰えば次の花嫁になれると書いてあったから。そのためのブーケトスだったっけ、と思い出した。
自分自身が結婚式でブーケを空へと投げるかどうかは、この際、あまり関係がない。関連行事の一つなのだと覚えておけばそれで充分、忘れていたって多分、問題は無いだろう。
(…誰かが教えてくれそうだしね?)
ブーケを手にしたままでいたなら、「早く投げて」と声が上がるとか、結婚式を挙げた所の係に促されるとか。こうして記事になるほどだから。
(ぼくのブーケはどうでもいいけど…)
結婚式を挙げた後なら、ブーケは本当にどうでもいい。花嫁姿を引き立てるための飾りの花束、貰って喜ぶ人がいるなら惜しげもなくポンと投げるだけ。空に向かって。
それはどうでもいいのだけれども、問題はブーケ。この新聞の記事にあるような。自分より先に結婚式を迎える花嫁、その人が空へと投げ上げるブーケ。
(ぼくもブーケが欲しいんだけど…)
自分の結婚式用ではなくて、先輩の花嫁が手にしたブーケ。それが欲しいと記事を眺める。白い薔薇と名前も知らない花々、それにグリーンを纏めたブーケを。
ブーケトスのブーケを貰いさえすれば、ハーレイと早く結婚式を挙げられそうだから。結婚式を早く挙げられるように、背丈だってグンと伸びそうだから。
(ブーケを貰えば、次の花嫁になれるんだしね?)
学校を卒業して十八歳の誕生日が来たら、直ぐに結婚出来るようにと前の自分と同じ背丈に。
誕生日がまだ来ない内から、ハーレイとキスを交わせる背丈まで育っていたなら、結婚式だってグンと早まるに違いないから。
結婚式に向けての力強い味方になってくれそうな花嫁のブーケ。幸せな花嫁が空に向かって投げ上げるブーケ、それが欲しいと思うけれども。
(でも…)
ブーケトスのブーケを貰いたかったら、行くべき場所は結婚式場。花嫁のブーケを作るだけなら花屋さんで間に合うだろうけど。「こんなのが欲しい」と注文したなら、予算に合わせて幾らでも作れるのだけれど。
(…ブーケだけあっても、意味なんか無いし…)
投げてくれる花嫁がいなくては。幸せを分けてくれる先輩の花嫁、その人が投げたブーケを手に出来なければ、次の花嫁にはなれないのだから。
結婚式に行かない限りは、手に入らない花嫁のブーケ。本物のブーケ。
(譲って貰う、っていうのも書いてあるけど…)
記事に載っている花嫁のブーケの入手方法、運に頼らずに確実に手に入れるための方法。
空へと投げるブーケトスだと、誰が貰えるか分からないから。「あの人にあげたい」と力一杯に空へ投げても、狙いが外れて違う誰かが貰ってしまうかもしれないから。
そうならないよう、あらかじめ花嫁に頼んでおく。「結婚式が終わったらブーケを下さい」と。
一言お願いしておきさえすれば、ブーケトスの代わりにプレゼント。「どうぞ」と渡して貰えるブーケ。花嫁の手から直接、幸せのブーケ。
次は自分が花嫁になりたいと強く願うなら、この手段。
花嫁の方でも「是非に」と欲しがる人がいるなら、喜んで譲ってくれるから。ブーケトスという結婚式を彩る行事は出来ないけれども、他の誰かが幸福になってくれるなら。
花嫁のブーケを貰いたいなら、ブーケトスで飛んで来たのを掴むか、花嫁に頼んで手に入れる。方法は二つもあるのだけれども、どちらのブーケも自分は貰えそうにない。
結婚式に呼ばれる機会は無さそうな上に、結婚しそうな知り合いが何処かにいたとしたって…。
(…男の子のぼくには…)
ブーケなんかは譲って貰えないに決まっている。
男の子は花嫁にならないのが普通で、花嫁を貰う方だから。「譲って下さい」と大真面目な顔で頼みに行っても、きっと冗談だと思われる。結婚式を盛り上げるためのジョークで、花嫁の緊張をほぐしてくれる素晴らしい笑いをプレゼントしたと全員に誤解されるのがオチ。
ブーケトスの方で貰おうと待っていたって、掴んだ途端に「こっちに頂戴」と言われるだろう。自分の周りにいるだろう女性、その中の誰かに「どうぞ」と笑顔で渡すしかない。たまたま自分が受け取ったけれど、これは女性のものだから、と。間違いでしたと、あなたのですよ、と。
(…カッコよく譲らなきゃ駄目なんだよ…)
本当は自分が欲しいのに。
次の花嫁になろうと思って、頑張って手にしたブーケなのに。
そうは思っても、普通だったら花嫁にならない男の子。それが自分で、どんなにブーケを持っていたくても、女性陣から「頂戴」と言われたら譲るべき。
彼女たちは何も知らないのだから。ブーケを貰った男の子だって花嫁を夢見て生きているとは、微塵も思っていないのだから。
どう考えても、手に入りそうもない花嫁のブーケ。投げて貰う方も、譲って貰う方も。
それさえあったら、次の花嫁は自分なのだと大いに自信がつくのだろうに。全く伸びてくれない背丈も、ぐんぐんと伸びてゆきそうなのに。
結婚式に出掛けて行っても貰えないブーケ。頑張って掴んでも、譲らなくてはいけないブーケ。
(…ハーレイと結婚するって決まった後なら…)
婚約したなら、花嫁になるのに違いないから、ブーケを貰おうとしても不思議ではないけれど。変だと言われもしないけれども、今度はブーケを貰う意味の方が無くなってしまう。
もう結婚が決まっているなら、ブーケが欲しいと努力しなくても次の花嫁になれるから。周りの女性たちと順番が多少前後したとしても、花嫁になるのは確実だから。
(ちょっと早いか遅いかの違いだけだしね…)
次の花嫁には違いない自分。ハーレイと結婚する自分。
婚約していては、貰う意味が全く無いブーケ。他の人が貰うべきブーケ。
まだ結婚が決まっていない誰か、そういう女性に「どうぞ」と譲ってあげるべきだし、もちろんそれでかまわない。もう欲しいとも思わない。次の花嫁は自分だから。結婚式の日が来たら花嫁になって、ハーレイと結婚出来るのだから。
そうは言っても、今はまだ見えもしない婚約。遠すぎて見えない結婚式の日。
少しでも早く結婚したいし、花嫁になりたいと思うから。
(…ブーケ、欲しいのに…)
こういうブーケを投げて貰うか、頼んで譲って貰いたいのに、と眺める写真。新聞記事の花嫁のブーケ、真っ白な薔薇や名前も知らない花を纏めて純白のリボンを結んだブーケ。
欲しくて欲しくてたまらないのに、貰えない。
誰も自分には投げてくれないし、譲って貰えそうもない。結婚式に呼んで貰えるアテも無い上、呼んで貰えても男の子はブーケを貰えない。
(どう考えても駄目だよね…)
貰えないよ、と溜息をついて閉じた新聞。諦めるしか無さそうなブーケ。
せっかく耳寄りな情報を掴んでも、どうにもならない花嫁のブーケ。貰えたら心強いのに。次の花嫁は自分なのだと、幸せな気持ちになれるだろうに…。
素晴らしい力を持っているらしい花嫁のブーケ。それがあればと、何処かで貰うことが出来たらいいのに、と部屋に帰ってからもブーケが頭から離れない。新聞で見掛けた真っ白なブーケ。
(…誰か、くれないかな…)
本当にあれが欲しいのに、と勉強机の前に座って諦め切れずに考えていたら、耳に届いた来客を知らせるチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、もう早速にブーケの話題を持ち出した。母の足音が階段を下りて消えるなり、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、花嫁のブーケって知っている?」
花嫁さんが持ってる花束。白い薔薇のとか、ドレスに合わせて色々あるヤツ。
「いつかお前が持つんだろ?」
俺と結婚する時に。ウェディングドレスのデザインに似合いの綺麗なヤツを?
これを使いたいという好みの花でも出来たのか、
と訊かれたから。
「そうじゃなくって、ブーケトスだよ」
結婚式の後で花嫁さんがブーケを投げるでしょ。今日の新聞にも書いてあったよ。
「ああ、あれな。…ブーケトスなら何度も見たなあ、結婚式で」
お前は本物を見たことが無いというわけか。チビだからなあ、無理もないが…。シャングリラの頃にはやってなかったし、知らなくても仕方ないんだが…。
ブーケトス、誰に投げてやるんだ?
お前の従姉妹か友達あたりに、欲しがりそうなヤツがいるのか?
「ぼくが欲しいんだよ!」
あれを貰ったら、次の花嫁になれるって言うし…。新聞にもそう書いてあったし。
次の花嫁になれるんだったら、ハーレイと結婚出来る日だって早く来てくれそうだから…。
でも…。
結婚式に出掛けて行っても、花嫁に譲って欲しいと頼んでも、男の子の自分にはブーケを
貰える道が無い、と説明していて気が付いた。
「そうだ、ハーレイ、結婚式は?」
「はあ?」
結婚式って誰の話だ、俺とお前の結婚式なら、まだまだ先の話なんだが…?
「友達の結婚式とかは無いの?」
そういうのに呼ばれて行くことは無いの、ハーレイ、友達、多いでしょ?
学校の頃の友達もそうだし、柔道とか水泳で出来た友達とか、学校の先生仲間とか…。
「そうだな、まるで無いとは言えんが…」
結婚がまだの友達もいるし、後輩だったら人数はもっと増えるな、うん。
「だったら、それに呼ばれた時には、ぼくを一緒に連れて行ってよ」
結婚式の後のパーティーは出られなくてもいいから、結婚式に。
式だけだったら、祝福してくれる人は多いほどいいって聞いたことがあるから、結婚式だけ。
「…どうするんだ?」
式だけだなんて、お前、何しに行くつもりなんだ。
結婚式が無事に終わったら、俺はパーティーに行っちまうんだが?
「花嫁さんのブーケを貰うんだよ!」
結婚式場の前で待ってるんだよ、ブーケを投げてくれるのを。
欲しいっていう人が予約を入れてて貰っちゃったら仕方ないけど、そうでなければブーケトスで投げてくれるでしょ?
運が良ければ受け止められるし、と話したら。
ハーレイが隣にいてくれるのなら、「こいつは俺の花嫁になる予定で…」と周りの人に説明して貰えるから、男の子でもブーケを持って帰れそうだとアイデアを披露してみたら。
「お前なあ…。そりゃあ、説明くらいはしてやるが、だ」
俺と一緒に結婚式なんかに行けるってことは、とっくに俺と結婚してるか、結婚が決まった後のことだと思うがな?
今のお前は俺とデートに行けやしないし、デートに行くなら大きく育てと言ってあるよな?
前のお前と同じに育って、俺とキスしてもかまわない背丈になるまでな。
「そっか…。そうだよね、ハーレイと一緒に行けるってことはそういうことだね…」
ぼくも結婚式に出てみたいから連れて行って、って頼めるんならデートだし…。
ハーレイとデートに行けるんだったら、結婚するってことは決まっているよね…。
それならブーケを貰う意味が無いね、ぼくは結婚するんだから。
次の花嫁になれるんだから、ブーケは他の人のものだね…。
名案を思い付いたと思ったけれども、ハーレイと一緒に出掛けた結婚式でも貰えないブーケ。
他の誰かが貰える筈の幸せを横から奪ってしまっては駄目だろう。花嫁のブーケを貰わなくても次の花嫁になれるのだから。ハーレイとの結婚はもう決まっていて、結婚式を待つだけだから。
(…ブーケ、やっぱり貰えないんだ…)
結婚が早くなるおまじない。貰えば次の花嫁になれる花嫁のブーケ。
譲って貰う方はもちろん、ブーケトスで手に入れる道もどうやら夢で終わるらしい。幸せ一杯の花嫁が投げてくれるブーケは貰えない。
いつか自分が投げるだけで。
結婚式の時に忘れていたって、「投げるんですよ」と注意されるか、「投げて下さい」と沢山の手が空に向かって差し伸べられるか、どちらかで。
「ぼく、あげるだけでおしまいなんだ…」
花嫁さんのブーケは貰えなくって、ぼくのブーケを誰かにあげるだけなんだ…?
「いいじゃないか、その後は俺との結婚生活なんだぞ?」
お前がブーケを投げるってことは、結婚式が終わりましたという意味だろうが。
俺との結婚式を済ませて、お前は俺の嫁さんなんだ。
いいか、嫁さんになるんだぞ?
前のお前が三百年以上も俺と一緒に暮らしていたって、ついになれなかった嫁さんにな。
メギドで死んじまって終わりじゃないんだ、と大きな褐色の手で握られた右手。
この手はずっと温かいんだ、と。
二度と温もりを失くしはしなくて、冷たく凍えはしないんだ、と。
「…そうだね、ハーレイと一緒なんだね。今度はずっと」
ぼくの右手は欲しいだけ温もりを貰えるんだね、いつでも、欲しいと思いさえすれば。
「そうだ、死ぬ時までしっかり握っててやるさ」
お前の右手は最後まで温かいままなんだ。俺が握っていてやるから。
死ぬ時も俺と一緒なんだろ、今度のお前は。
「うん、ハーレイと最後まで一緒」
ハーレイと一緒に死ぬんでなければ嫌だよ、ぼくは。
独りぼっちで生きていくなんて、ぼくは絶対、耐えられないから…。
前のハーレイにそれをやらせてしまったけれども、ぼくには無理に決まっているから…。
ちゃんと心を結んでおいてよ、結婚したら。
ハーレイの心臓が止まる時には、ぼくの心臓も一緒に止まるように。
「…それがお前の望みだったな、寿命が短くなってしまってもかまわないから、と」
「何度も言ったよ、そうしておいて、って」
ぼくのサイオンは不器用だから、心を結ぶなんてことは出来ないし…。
ハーレイに頼んでおくしかないから、結婚したら直ぐに結んで。
そして最後まで一緒なんだよ、ハーレイに手を握って貰ったままで一緒に死ぬんだよ。
ぼくの手は温かいままで。
ハーレイの温もりを持ったまんまで、ハーレイと一緒に何処かへ還って行くんだよ…。
いつか命が尽きた時には、ハーレイと二人で還ってゆく場所。
この青い地球に生まれ変わる前に二人で過ごしていたのだろう場所、其処へハーレイと手を繋ぎ合ったまま還ってゆく。
今度は温もりを失くすことなく、前の生の終わりに凍えた右手をハーレイにしっかり握り締めて貰って、包んで貰って。
それが今度の自分の最期で、その日が来るまでハーレイと離れることなく一緒に暮らして…。
幸せになれるに決まっているのが今の生。前と違って今度はきっと、とハーレイの手をキュッと強く握り返したら。
「よし、俺と一緒に暮らせるってことが幸せなんだとは分かっている、と」
だったら、贅沢を言っていないで、だ…。
お前の幸せ、分けてやるんだな。これから幸せになりたいヤツに。
「え?」
分けるってなあに、ぼくの幸せを誰に、どうやって…?
「お前のブーケだ。…俺の花嫁になった、お前のブーケ」
さっきから自分で言ってただろうが、次の花嫁になれるブーケが欲しいと。
そいつをお前が投げてやるんだ、結婚式に来てくれたヤツに。
誰が受け止めるのかは分からないがだ、お前のブーケは間違いなく最高のブーケなんだ。
どんな花嫁のよりも凄いブーケだ、この宇宙の誰よりも幸せな花嫁がお前だからな。
いいか、ソルジャー・ブルーの恋が実った瞬間なんだぞ、今の俺との結婚式。
前の俺たちはいつから恋して、いつから一緒にいたんだっけな…?
生まれ変わりだと誰にも明かしていなくても。
前の自分たちがソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったことなど、誰にも話さないで結婚式の日を迎えたとしても、周りの誰もが知らなくても。
遥かな遠い時の彼方で、あのシャングリラで三百年以上も共に暮らして、恋をして。
ハーレイと一緒に長く長く生きた、キスを交わして、愛を交わして。
恋は誰にも明かせないままで、最後までずっと秘密のままで。
結婚することは叶わなかったけれど、メギドへと飛んでしまって別れたけれど。
それまではずっと続いた恋。前の自分が深い眠りに就いてしまった後にも、その枕元で子守唄を歌ってくれたハーレイ。ナスカで生まれた子供たちのための子守唄を。「ゆりかごの歌」を。
その歌を自分は覚えていた。ハーレイが歌った子守唄を。深い眠りの底にいたのに、その歌声を感じ取っていた。
ハーレイとの絆はずっと続いて、メギドでも断ち切られはしなかった。
悲しみの中で泣きじゃくりながら死んだというのに、ハーレイの温もりを失くしてしまって右の手が冷たく凍えたのに。
独りぼっちになってしまったと、もうハーレイには会えないのだと泣いていた自分。
けれども絆は切れはしなくて、青い地球へと続いていた。前の自分が夢に見た地球へ。その上でハーレイと暮らす未来へ、結婚して生きてゆける未来へ。
考えてみれば、ハーレイが語るとおりに壮大な恋。遥かな時の彼方から今まで繋がった恋。
白いシャングリラはとうに無いのに、前の自分たちは伝説の英雄になったというのに。
「ほらな、お前と俺との恋。…この宇宙の誰よりも長くて凄い恋だってな」
ちょっと誰にも真似は出来んぞ、ここまでの恋は。
「そうかもね…」
ぼくたちの他には誰もいないかもね、こんなに長い恋をした人。
「いないに決まっているだろう。普通は此処まで待たなくっても、何処かで結婚出来そうだぞ」
これだけしつこく恋をしていれば、もっと早くにゴールに辿り着けそうなんだ。
ところが俺たちはそうはいかなくて、とうとう此処まで来ちまった。恋をしてるのに、結婚式を挙げられないまま今に至る、と。
此処に来る前は何処にいたのか知らんが、ちゃんと結婚出来ていたなら忘れはしない。そうだと思うぞ、誓いのキスを交わして結婚していたのなら。
つまりだ、俺たちは恋をしたまま、ゴールに向かって歩き続けて来たわけだ。青い地球まで。
お前との結婚式が恋のゴールになるってことだな、それから結婚生活になる、と。
もう最高の結婚式だぞ、そこまでの長い恋が実って結婚しようというんだから。
式に来てくれた誰も全く気付いていなくても、俺たちの絆はずっと続いて来たんだからな。
自分たちが生まれ変わりだと知る両親はともかく、他の人々はまだ何も知らないだろうから。
長く長く続いた恋が実って結婚するとは、夢にも思いはしないのだけど。
ただの教師と教え子の結婚、そのくらいにしか考えていないわけだけれども。
「分かるな、この地球どころか宇宙の何処にも、これほどの凄い結婚式は無いってな」
その結婚式のためのブーケは最高の愛のお裾分けだ。
お前が幸せを分けてやれ。次の花嫁になる誰かにブーケを投げてやって。
この手で力一杯にな、とハーレイの大きな両手で改めて包み込まれた右手。
前の生の最後に凍えた右の手、メギドでハーレイの温もりを失くしてしまった右手。
「…ぼくが投げるの?」
ぼくのブーケを投げてあげるの、結婚式に来てくれた人たちに?
「そうさ、この手が最高に幸せになる日だろうが。結婚式の日」
いや、最高の幸せに向かって歩き出す日か、結婚して一緒に暮らせるようになるんだからな。
「そうだね、ずっとハーレイと一緒だものね」
おんなじ家で二人で暮らして、何処へ行くのもハーレイと一緒。
前のぼくたちには出来なかったことだよ、ずうっと一緒にいるなんてこと。
「なら、そいつを他のヤツらにも分けてやってこそだろ」
俺たちのように幸せな結婚が出来ますように、と俺たちの幸せのお裾分け。
神様だってそうお思いになるさ、幸せを分けてやれってな。
「そっか、神様…」
結婚式には神様もセットだったんだっけね、教会で式を挙げるんだから。
前のぼくたちが生きていた頃にも消えなかった神様、その神様がいるのが教会だから…。
自分たちを生まれ変わらせてくれた神様。
前とそっくり同じ姿に育つ身体に、前の自分が行きたいと願った青い地球の上に。
聖痕をくれた、ハーレイともう一度巡り会わせてくれた神様。
その神様の前で結婚するのだから。
白いシャングリラには無かった教会、きっと其処での結婚式になるのだろうから。
「…ブーケ、投げなくちゃいけないね」
結婚式の記念に取っておきたい気もするけれども、ぼくのブーケは投げなくっちゃね…。
「そうだろ、自分だけ幸せになってはいけないってな」
前のお前ほどにやれとは言わないが…。
自分の命も幸せも捨てて他のヤツらを幸せにしろとは、俺は絶対に言いはしないが。
「…うん、ハーレイに言われなくても、前のぼくみたいに出来はしないよ」
今のぼくにはメギドを沈めに行くのも無理だし、ハーレイと別れて行くのも無理だよ。
あんな強さは持っていないし、サイオンだって駄目で、うんと弱虫なんだもの…。
「それなら、ブーケくらいはな」
幸せのお裾分けにどうぞ、と力一杯に投げてやるんだな。
うんと遠くで「此処までは届きそうにない」と残念そうに見ているヤツにも届くくらいに。
宇宙で最高のブーケなんだし、思いがけない幸せを貰ったと喜んで貰えるのがいいだろうが。
貰えて当たり前のような所で待ってるヤツより、前へ行き損ねちまってしょげてるヤツに。
「そうだね、そういう人の所まで届けられるように頑張ってみるよ」
ボールを投げるのは下手だけれども、遠くまで飛んでくれないけれど…。
ブーケは遠くまで投げられるといいな、貰おうと思って待ち構えている人よりも遠い所まで。
頑張って遠くに投げてみるね、と返事してから気が付いた。
花嫁の幸せのお裾分けのブーケ、貰った人は次の花嫁になれると言われているブーケ。
自分も欲しいと思ったくらいで、手に入らないと溜息をついていたけれど。
それを自分が結婚式の時に投げるのだけれど、その結婚式。
ウェディングドレスを着るのではなくて、白無垢もいいという話もあった。ハーレイの母の花嫁衣装だった白無垢、それを着るのも悪くないと。
もしも白無垢を花嫁衣装に選んだとしたら、ブーケはいったいどうなるのだろう?
白無垢でもブーケは持つものだろうか、持ったとしたって遠くへ投げることが出来るだろうか?
「えーっと…。ハーレイ、ブーケなんだけど…」
ウェディングドレスじゃなかったとしても、ブーケは持っててかまわないの?
ぼくが白無垢を着ていたとしても、花嫁さんならブーケを持つの?
「白無垢か…。そういや、そういう話もあったな、結婚式には白無垢ってヤツが」
俺のおふくろは持ってなかったな、結婚式の写真を見ただけだが。
アレだとブーケは無いものだしなあ、なにしろブーケはウェディングドレスとセットなんだし。
「…ブーケ、変でしょ?」
白無垢だったら変になるでしょ、ブーケなんかを持ってたら。
ブーケは投げてあげたいけれども、白無垢だったらちょっと無理かも…。
白無垢だとブーケは持たないらしい、っていうのもあるけど、投げるのも難しそうだから。
ドレスと違って袖が長いよ、あんな袖だと袖が邪魔して投げられないよ。
「それでも投げたらいいんじゃないか?」
白無垢に似合いそうなブーケを頼んで、作って貰って。
なあに、ブーケを作る人だってプロなんだ。注文があればきちんと作るさ、白無垢用のでもな。
「白無垢ではブーケは持たないものです」と断られることはないと思うぞ、プロなんだから。
プロってヤツはだ、注文どおりに仕事をこなしてこそだからなあ、どんな世界でも。
せっかくだから白無垢でもブーケでいいじゃないか、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
男同士の結婚式だし、色々と型破りな式になってもかまわんだろうが、と。
「袖が邪魔をして投げられない、って所も心配無用だ、手伝ってやる」
だからお前は思い切り投げろ、白無垢を着てても力一杯。
「手伝ってやるって…。ハーレイ、サイオンで投げてくれるの?」
ぼくの力じゃ袖が邪魔して近くにポトンと落っこちそうだし、うんと遠くへ飛ぶように。
ハーレイのサイオンを乗せてくれるの、ぼくのブーケに?
「おいおい、それは反則だろうが」
ブーケトスの記事、ちゃんと読んだか?
あれはサイオン抜きのものなんだ、どんなに器用に使える人でも使わないのが決まりだってな。
サイオンを使えば狙った所に届いちまって、ブーケトスをする意味が無くなる。それじゃ花嫁に頼むのと何も変わらんだろうが、「ブーケを下さい」と譲って貰いに出掛けるのとな。
だからだ、サイオンは使わずに自分の力だけで投げることになっている。
もちろんお前もそうするべきだな、俺が手伝うのは袖を持つことだ。
「…袖?」
「白無垢の袖だ、それを押さえておいてやる」
お前の綺麗な腕が剥き出しになっちまうんだが、仕方あるまい。
幸せのお裾分けをしようと言うんだ、「俺だけのものだから見せてやらん」とは言えないしな。
其処は我慢だ、お前がブーケを投げる間はグッと我慢をしておくさ、俺も。
本当の所は、そんな大盤振る舞いはしたくないんだが…、とハーレイは笑う。
お前の綺麗な腕を眺めていいのは俺だけなんだと、前の俺だった頃からそうだった、と。
「ふふっ、そうだね、前のぼくだと手まで隠れていたものね」
手袋ですっかり隠れてしまって、ハーレイとドクターの前でしか手袋は外してなくて…。
腕も同じで、誰も見てなんかいなかったものね。
「うむ。…そいつを大盤振る舞いなんだが、白無垢でもブーケは投げるべきだぞ」
最高の愛のお裾分けが出来ると気付いたからには、ケチケチしていちゃ駄目だってな。
神様も「投げろ」と仰るだろうさ、お前のブーケ。
白無垢だろうが、腕が剥き出しになって誰かがヒューッと口笛を吹こうが、投げてこそだ。
誰の所に届くか知らんが、次の花嫁は間違いなく凄い幸せを掴めるんだろう。
この広い宇宙で多分、一番長い恋をした花嫁のブーケなんだから。
頑張って投げろよ、力一杯。
お前の腕が丸見えになってしまったとしても、俺は我慢して袖を押さえてやるんだからな。
投げるんだぞ、とハーレイが強く念を押すから。
自分でも投げなければいけないだろうという気がするから、結婚式ではブーケを持とう。
ウェディングドレスでも、白無垢でも、ブーケ。
花嫁衣装に似合うブーケを作って貰って、それを手にして結婚式を挙げて。
式が終わったらブーケトス。
きっと何処にも無い、長い長い恋が実った花嫁のブーケ、前の自分だった頃からの長い恋。
前世は知られていないままでも、最高の愛のお裾分け。
前の生の最後にメギドで冷たく凍えてしまった右の手に持って、力一杯に遠くへ投げて。
それが終わったら、ハーレイと二人で歩いてゆく。
結婚指輪を左手の薬指に嵌めて、手を繋ぎ合って、青い地球の上を。
最高の愛のお裾分けをして、いつまでも何処までも、何度も何度もキスを交わして…。
花嫁のブーケ・了
※ブルーが欲しくなった花嫁のブーケ。早く結婚できるように、と思ったのですが…。
花嫁になった時に自分が投げてあげる方が、良さそうです。どんな花嫁衣裳を選んでも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうむ…)
これはブルーが喜びそうだ、とハーレイが目を留めたラスク。ブルーの家には寄れなかった日の帰り、いつもの食料品店で。
ラスクは普段から菓子類の棚に並んでいるのだけれども、見付けた場所は店に入って直ぐの特設売り場。様々な店が出店してくる楽しいコーナー、其処がラスクで有名な店になっていた。
名前を何度か耳にした店、材料にこだわり、贅沢に焼き上げられていると評判のそれ。二枚ずつ透明な袋で包装されたラスクは如何にも美味しそうだから。
(よし、土産に買って行ってやるかな)
小さなブルーに土産を買うなら、食べたら消えて無くなるもの。ブルーの方では、手元に置いて眺められるものや、大切に使える品物が欲しいようだけど。文具や小さな置き物の類。
(欲しい気持ちは分かるんだが…)
フォトフレームとシャングリラの写真集がお揃いだから、と無邪気に喜ぶ小さなブルー。もっと他にも、と願う気持ちは良く分かる。とはいえ、ブルーは十四歳にしかならない子供なわけで。
(残せる土産は、もっと大きく育ってからだな)
恋人らしくなってからだ、と決めている。小さな間は土産はこういうものでいい。二人で一緒に食べてしまえば無くなってしまう菓子や果物、子供の間はそれが似合いの土産物。
明日は土曜日、ブルーの家にゆく日だから。丁度いいな、とラスクを買ってゆこうと決めた。
「一つ下さい」と二枚入りのラスクが幾つも詰められた箱を注文してから、自分用にも小さめの箱を試食用に一つ。美味しいに決まっているだろうけれど、自信を持って勧めるためには一足先に食べておかねば話にならない。「美味いんだぞ」と言ってやりたかったら。
家に帰って、買って来た食材で手際よく作った満足の夕食。ゆっくりと味わい、片付けをしたらコーヒーを淹れて、さっきのラスク。二枚入りの袋を一つ箱から取り出し、熱いコーヒーが入ったマグカップも持って書斎へと。
ダイニングで食べてもいいのだけれども、今夜は書斎の気分だから。好きな本たちが囲む空間、其処でのんびり寛ぎながら。
小さなブルーと二人で写した写真を収めたフォトフレーム。それを飾った机の前の大きな椅子にゆったり腰掛け、コーヒーを一口、ラスクも齧って。
(これは美味いな)
評判の店と言うだけはある、と一枚目を食べ終えてからパンフレットを開いてみた。買った時に袋に入っていたから、書斎に持って来ておいたもの。読んでおこう、と。
(ほほう…)
書かれているラスクの作り方。材料のパンから既に特別、ラスクにするために焼くというパン。材料の小麦粉のブレンドにこだわり、焼き加減にも注意を払って。
砂糖はもちろん高品質だし、驚いたのはバターの使い方。厳選されたバターを溶かした上澄み、それだけを使用するらしい。ゆえにバターのしつこさが無くて、何枚でも食べられそうなラスクが出来る勘定、人気の所以。
(贅沢なもんだな)
菓子なんだが、と苦笑いした。料理だったら分かるけれども、相手はラスク。美味しいラスクを作り出すためにパンから作って、バターも上澄みだけしか使わないとは、と。
ラスクは本来、残り物のパンで作る菓子。それをパンから作る贅沢、美味な理由も頷ける。
(専用のパンから作ったラスクなのか…)
これは心して味わわねば、と二枚目のラスクを暫し観察することにした。ただボリボリと食べてしまっては失礼だろうと、贅沢すぎるラスクに敬意を表して。
(ラスク専用のパンと来やがったぞ)
そのパンだけを食べてもきっと美味しいのだろう。自分が日頃食べているパン、それよりも味は上かもしれない。小麦粉のブレンドから焼き加減まで、こだわりのパンだと言うのだから。
(…ラスクにするのに最適なだけで、食事用ではないかもしれんが…)
齧ってみたい気もするな、とパンフレットに載っているパンの写真を眺めていたら思い出した。行きつけの近所にあるパン屋。レストラン部門を併設するほどだし、店で焼き上げたパンが自慢で品揃えも豊富。
其処で毎年、クリスマスが終わったら売られる限定商品があった。年に一度だけ、クリスマスの後の僅かな期間だけ。
クリスマスに向けてドッサリと並ぶシュトーレン。箱に入った贈答用から、お茶の時間に気軽に切って食べられる小さなサイズまで。白い砂糖の粉を纏ったシュトーレンの山が出来るけれども、全部売れるとは限らない。クリスマスの日まで切らせはしないし、残ってしまうシュトーレン。
けれど、クリスマスを過ぎたら売れない。シュトーレンの季節は済んだとばかりに、他の品物が売れてゆく。
(そいつを逆手に取るんだよなあ…)
もう売れないと判断されたら、売り場から消えるシュトーレン。暫く経ったらお洒落なラスクが現れる。胡桃やレーズンがふんだんに鏤められた贅沢なラスク、その正体はシュトーレン。
売れ残ったものを切って、バターと砂糖をまぶして焼き上げるだけ。これが人気で、飛ぶように売れる。シュトーレンだった頃より高い値段になっているのに、気にする人など無いラスク。
あれも贅沢なラスクだった、とクリスマスの後の店の光景を思い浮かべた。新しい年が来てから間もなく並ぶのだったか、あのラスクは。限定商品と書かれた札を添えられ、誇らしげに。
(材料は売れ残りというヤツなんだが…)
クリスマスが終わって数日の間は割引になるシュトーレン。それでも売れずに残ってしまえば、あの贅沢なラスクに化ける。期間限定の人気商品に。
(ラスクにしなくても、シュトーレンは日が経ったヤツほど美味いんだがな?)
なのにラスクにしないと売れないのか、とクリスマス用に作られた菓子の不思議さを思う。味はクリスマスの前と後とでガラリと変わりはしないのに。
クリスマスケーキだったら日持ちの関係で駄目になっても分かるのだけれど、シュトーレンなら日数が経つほど味が馴染んで美味しくなる。シュトーレンを生み出した地域の辺りでは、食べずに一年置いておく人があるほどに。その方が断然美味しいから、と。
(おふくろも置いていたっけなあ…)
手作りしたものや、店で買って来たシュトーレンを外気に触れないように包んで、初夏の頃まで食料品用の棚に置いていた。この地域では夏が暑いから、流石に夏は越せないだろうと。
今でも隣町の家に行ったら、棚にあったりするシュトーレン。自分もたまに買って置いておく、味が馴染んだ頃に食べようとパンなどを仕舞っておく棚に。
(…贅沢な時代になったもんだな)
売れ残りのシュトーレンをラスクにしてしまう件はともかく、ラスクにするパンを焼くなんて。食べるために焼かれるパンと違って、菓子にするためにだけ焼かれるパン。
それも小麦粉からこだわったパンで、焼き加減までラスクに最適になるように。
(シャングリラの頃だと考えられんぞ)
焼き立てのパンを食事用にしないで、最初から菓子にしてしまうなんて。
自給自足で生きていた頃も、前のブルーが物資を奪っていた時代にも、大切な食料だったパン。今の自分が暮らす地域では主食と言ったら米だけれども、あの時代の主食はパンだった。
食事をするならパンが欠かせなかった船。朝食はもちろん、昼食も夕食もパンはつきもの。そのパンを菓子に変えてしまうことなど有り得ない。
古くなってしまったパンならともかく…、と二枚目のラスクを袋から出した。これがラスク用のパンから作られた贅沢なヤツか、とガブリと齧る。上等な生まれだけあって流石に美味い、と。
なんとも贅沢すぎるラスクはサクサクとしていて、しつこくなくて。砂糖の甘さが後を引く味、もっと持って来ておけば良かった。小さい箱でも数は入っていたのだし…、と思った所で。
(…ん?)
ふと引っ掛かったラスクの記憶。遠く遥かな時の彼方で食べていたラスク。
前の自分が生きていた船、白いシャングリラにもラスクはあった、と気が付いた。あの白い船でラスクを食べたと、立派なラスクがあったのだったと。
なにしろ自給自足の船だし、前の自分が食べたラスクの材料は…。
(古いパンだよな?)
焼かれてから日が経ってしまって、固くなったパンで作られたラスク。専用のパンを焼くのではなくて、残り物のパンから作ったラスク。
それは間違いないけれど。シャングリラでは馴染みの菓子の一つで、保存にも適した優れもの。パンが残れば厨房のスタッフがラスクにするのが常だったけれど…。
(だが、もっと…)
身近だったような気がするラスク。単なる残り物から生まれた菓子というだけではなくて、前の自分の思い出の菓子だという記憶。
前のブルーと食べたのだろうか、それで覚えているのだろうか?
贅沢ではない、固くなったパンで作られたラスク。シャングリラでは定番の菓子だったから。
前のあいつと食べたラスク…、と遠い記憶を手繰ってみて。
(うん、食ったな)
確かに食べた、と頷いた。
ブリッジでの勤務を終えて出掛けた青の間、ソルジャーとしてのブルーに一日の出来事の報告をしたら、後は二人で過ごせる時間。恋人同士の二人に戻って、肩書きなどは外してしまって。
その時間が来るのを待ちかねたように、ブルーが紅茶を淹れてくれた。紅茶のお供に菓子などもブルーが用意していた、二人分を。「キャプテンとお茶にするのだから」と。
その菓子の中にラスクもあった、と残り物のパンから出来ていた菓子を思い浮かべたけれど。
(待てよ…?)
懐かしいね、と微笑みながらラスクを味わっていたブルー。
今の子供の指と違って、しなやかで長かった白い指。手袋を外した指がラスクをつまんで、桜の色をした唇に運んで、その唇から零れた言葉。「君のラスク」と。
(そうか…!)
俺のラスクか、と一気に蘇った記憶。
あの船で自分がラスクを作った。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。まだキャプテンに就任してはいなくて、厨房が居場所だった頃。
最初のラスクを作ったのだった、あのシャングリラにあった厨房で。
あれはいつだったか、皆と食事をしていた食堂。配膳や給仕は他の仲間たちがやっていたから、
調理を終えたら皆と一緒にテーブルに着いた。前のブルーが隣に座って、ゼルやヒルマンたちとも近い席。いつの間にやら、自然と決まってしまった配置。
そのテーブルで「パンがすっかり固くなっちまってるよ」と、ぼやいたブラウ。「あんたたち、パンを作りすぎたんじゃないのかい」と。
「ちゃんと計算して焼いてくれないとね。これじゃ風味が台無しじゃないか」
食料が無かった頃ならともかく、なんで今頃、ガチガチのパンを食べなきゃいけないんだい?
「いや、それは…」
俺たちがヘマをしたわけじゃないんだ、と言い訳ならぬ説明をした。
パンが残ってしまった理由は、単なる皆の嗜好のせい。普段通りの量を焼いたけれども、パンの他にパスタなども作って出していたから、バランスが崩れて偏った。
いつもならパンを食べる者たちがパスタをおかわり、それで満足して去って行った結果、減ってしまったパンの消費量。食べる者がいなければパンは残るし、次のパンを焼くのももったいない。まだまだパンはあるのだから。固いパンでも、お役御免だと捨てていいような船ではない。
「本当に普段と同じ分だけ焼いたんだ。作りすぎちゃいない」
要る分だけ焼くのは無理があるだろうが、毎日、毎日、焼き立てっていうのも難しいんだ。
焼き立ての日もありゃ、そうでない日もあるってわけで…。今はパンの在庫が山ほどあって…。
明日くらいまでは固いパンだな、悪いが、我慢して食ってくれ。
今の固いパンが無くなっちまえば、直ぐに焼き立てのパンを出せるってモンで…。
「それは分かっちゃいるんだけどね」
食べないことには次のパンは無いし、これは捨てちまって新しいパンを作れとも言えないし…。
でもねえ…、と愚痴を零したブラウ。
同じパンなら、もっと美味しく食べたいもんだね、と。
ブラウの言うことも一理あったし、何より皆に喜んで貰える食事にしたい。パンが固いと愚痴を零すより、こんな食べ方も美味しいものだと思って欲しい。
だから工夫した、固くなったパンをグラタンに入れて焼き上げたりして。具だくさんのスープも作ったりした、パンを一緒に混ぜ込んで。
ソースやスープに浸されたパンは柔らかくなるから、固いパンと違って文句は出ない。またかと飽きてしまわれないよう、味付けなどに変化をつけた。
あくまで食卓に並べられる料理、それしか思い付かなかったけれど。パンを使った菓子類などは考え付きさえしなかったけれど。
そうやって工夫を重ねていた日々、ある時、炒め物の試作をしていたら。
またパンが余ってしまいそうだ、と厨房の仲間から入った相談。「グラタンにするか」と返事を返して、炒め物の後はグラタンの試作を始めたのだけれど。今度はどういう味にしようかと、鍋でベースのソースを作っていたのだけれど。
其処へブルーがやって来たのだった、まだ少年の姿をしていたブルーが。
「何が出来るの?」
そのソースと、こっちのパンとで何が出来るの、ねえ、ハーレイ?
「固いパンには馴染みのパングラタンだが」
今日はどういう味にするかな、グラタンに入れる具だって工夫をしないとな?
いつも同じだと飽きられちまうし、これから研究しようってトコだ。
「パン、余ったんだ…。ハーレイ、いつも大変そうだけど…」
それって、お菓子にならないの?
「はあ?」
菓子とは、と驚いて訊き返した前の自分だけれど。ブルーはと言えば、調理台の脇に置いてあるパンを指差して。
「固くなったパン、ちょっとビスケットに似ていない?」
「ビスケットって…。そんなのがパンに似ているか?」
似ても似つかん代物なんだが、と頭に描いたビスケット。ブルーが奪う物資に混ざっていたり、厨房で焼いたり、平たい菓子なら良く知っている。パンとは違って固い菓子。
「固いトコだよ。そこが似てるよ、ビスケットと固くなったパン」
ビスケットだったら、立派なお菓子。…固いパンもお菓子にならないかな、って。
「ふうむ…。菓子か…」
確かに菓子なら、固いヤツでも誰も文句は言わないな。
ビスケットが固いと苦情が来たことは無いし、嫌な菓子なら食わなきゃいいだけのことだしな。
ブルーが言い出した、菓子という案。固くなったパンで作る菓子。
それは考えてもみなかったから、データベースを調べに出掛けた。パンから菓子を作れないかと参考になりそうなレシピを探しに。
古くなったパンで出来そうな菓子、と調べてみたら、同じグラタンでも菓子のがあった。残ったパンを利用した菓子、マーマレードとバターを塗ったパンと甘いソースで作るもの。
その名もブレッド・アンド・バタープディング、「ビートン夫人の家政書」という地球が滅びる前のイギリスで編まれた本にも載っていた由緒正しいレシピ。
(…こんな時代から、人間は固くなったパンの使い方で悩んでいたってか?)
十九世紀の本なんだが、と興味を引かれて関連のレシピを探れば出て来たサマープディング。
そちらも固くなったパンを使うのが決め手で、後の時代にはパンをわざわざ固くなるまで放っておいてまで作ったらしい菓子だけれども。ベリーを散らした赤紫の姿が美味しそうだけれど。
これは贅沢すぎて作れない、新鮮なベリーが山ほどあるような船ではないから。仮にあっても、固くなったパンを菓子にするために使うよりかは、もっとベリーが生きる使い方をしたいから。
(固くなったパンと砂糖くらいで何か…)
出来るものは、と調べ続けて、見付けたのだった、ラスクのレシピを。
パンをスライスしてバターを塗り付け、その上に砂糖。どちらもたっぷり、それからオーブンで砂糖が溶けるまで焼いてゆくラスク。バターと砂糖が馴染んで縁がカリッとなったら完成品。
こいつはいい、と書き抜いて戻ったラスクのレシピ。
オーブンに入れたら十五分もあれば焼けるというから、試作する時はブルーに声を掛けた。例によってパンが余ってしまって固くなったから、「お前が言ってた菓子を作るぞ」と。
ブルーが見ている前で始めたラスクの試作。パンをスライスして、バターを塗って…。
どんな具合かと、甘い匂いが漂うオーブンの前で二人で待った。そうして出来上がったラスクを取り出し、冷ましてから「ほら」とブルーに渡してやったら。
「美味しいね!」
ビスケットよりもずっと美味しいよ。サクサクしていて、それに甘くて。
「うむ。思った以上の出来栄えだな、これは」
こういう菓子が作れるとはなあ、固くなったパンで。
お前が菓子だと言ってくれなきゃ、思い付きさえしなかっただろう。今日だって、きっと試作をしてたぞ、グラタンとかの。菓子じゃなくって、いわゆる料理というヤツのな。
前のブルーが「お菓子にならないの?」と尋ねたお蔭で生まれたラスク。
これは使えると残りのパンで作ったラスクは好評を博し、パンが固いと苦情を言われる代わりに喜ばれた。とても美味しい菓子が出来たと、これならいくらでも食べられそうだと。
パンが余れば、固くなったものを使ってラスクに。厨房のスタッフたちも覚えた鉄則、ラスクは船の定番になった。前の自分が厨房を離れてキャプテンになってしまった後も。
自給自足の船にするための移行期を除けば、シャングリラでよく作られた菓子。パンが余ったらラスクの出番で、誰もが好んで口にしていた。バターと砂糖とパンで出来た菓子を。
前のブルーは特に…。
(君のラスク、って言ったんだっけな…)
それは嬉しそうな顔で、ラスクをつまんで。お茶のお供がラスクの時には。
前の自分はとうに厨房を離れていたのに、「君が初めて作ってくれた」と懐かしそうに。
二人で食べたと、作る所から側で見ていて、オーブンの前で出来るのを待ったと。
(思い出の菓子か…)
すっかり忘れちまっていたな、と自分の額を指で弾いた。ウッカリ者め、と。
ブルーへの土産に持ってゆこうと買って来たくせに、ラスクが何かを忘れ果てていた。ブルーと二人で食べていたことも、ブルーのアイデアで自分が作った菓子だったことも。
こうなって来たら、自分で作って持って行ってやりたいくらいだけれど。
白い鯨ではなかった頃のシャングリラの厨房、あそこで作った素朴なレシピでラスクを作りたい所だけれども、それは叶わない。
(手料理を持って行くのはマズイし…)
古くなったパンを使ったラスクでも、手作りの菓子には違いない。それを持って行けばブルーの母に気を遣わせてしまうし、下手をすれば「先日のラスクの御礼に」と土産を貰いかねない。
それを避けるには、買ったラスクを手土産にするしかないだろう。「シャングリラの頃の思い出ですから」と言えば問題無いのだから。
(忘れていたくせに、いいものを買ったというわけか…)
あの船には贅沢すぎるんだがな、と浮かべた笑み。
ラスク用のパンから焼いてはいないし、バターだって上澄みだけではなかったのだし、と。
次の日、朝食を済ませて少し経ってから、歩いて出掛けたブルーの家。
生垣に囲まれた家に着いたら、ブルーの母が門扉を開けに出て来たから。「買って来ました」と渡した、ラスクが入った紙袋。「シャングリラで食べていたんです」と断りながら。
(まるっきり嘘ってわけじゃないしな?)
前のブルーのアイデアから生まれて来たラスク。「君のラスク」と懐かしんでくれていた頃には恋人だったブルーとの思い出のラスク、その話はブルーの母には出来ない。大切な一人息子の恋の相手が自分だなどとは、口が裂けても言えないから。
(この手の嘘は幾つ目なんだか…)
申し訳ない気もするけれども、ブルーにはキスも許していないし、ここは大目に見て欲しい。
いつか「ブルー君と結婚させて下さい」と申し込んで腰を抜かされる日までは、生まれ変わって再び出会った親友同士ということで。
ラスクも前の生でお茶を飲みながら食べていた菓子で、ソルジャーだったブルーとキャプテンが過ごしたティータイムの思い出を語り合うための土産なのだということで…。
そういうことにしておいて欲しい、と心で詫びながら渡したラスク。
ブルーの母は「いつもありがとうございます」と礼を言って受け取り、紅茶と一緒に運んで来てくれた。綺麗な器に二枚ずつ入った袋ごと盛って、取り分けるための菓子皿もつけて。
小さなブルーは「ハーレイ先生のお土産よ」と聞かされて喜び、母の足音が階段を下りて消えた途端に身を乗り出した。
「ハーレイ、ラスクを買いに行ってくれたの、このお店まで?」
有名なお店だよね、よく広告を見掛けるもの。
食べたこともあると思うんだけど…。ママのお友達か誰かに貰って。
「いや、買いに出掛けたわけじゃない。いつもの店に来ていたんでな」
知っているだろ、俺の家の近所の食料品店の特設売り場。
今週はラスクの店だったらしい、昨日寄ったら売っていたから買って来た。美味いと評判の高い店だし、土産にするのに丁度いいかと…。
俺用にも買って帰って食ったが、美味かったぞ。まあ、遠慮しないで食ってみろ。
「うんっ!」
ありがとう、と包装を嬉しそうに破っているブルー。
二枚入りの中の一枚を愛らしい指でつまんで、パクリと齧って「美味しいね」と弾ける無邪気な笑顔。前のブルーが「君のラスク」と見せた笑みとはまるで違った子供の表情。
「まあな、こだわりの材料だからな」
パンから作っているんだそうだ。このラスクを作るためだけのパン。
小麦粉のブレンドにもこだわりました、っていう御大層なパンだ、並みのラスクとは違うんだ。ラスクと言ったら、古くなっちまった固いパンから作るもんだが…。
こいつは専用に焼かれたパンを使った贅沢なヤツだ、バターも上澄みだけらしい。前の俺たちが暮らした船だとバターは大事な食料だったし、上澄みだけなんていうのはなあ…。
「そうだね、そんな使い方はとても出来ないよ」
バターの在庫が切れそうだ、って大騒ぎになったこともあったよ、シャングリラでは。
…アルテメシアから宇宙に逃げ出した時に、牛たちがミルクを出さなくなって。
シャングリラの話を混ぜてやったのに、ブルーの頭は固くなったパンよりバターの方へと行ってしまった。「お菓子にならないの?」と口にした本人のくせに、パンよりもバター。
どうやらブルーは思い出さないようだから。放っておいたら、シャングリラの酪農事情に纏わる話を次から次へと始めかねないから、ストップをかけることにした。
「…もっとケチなラスクにしておけば良かったか?」
こういう有名店のヤツじゃなくって、食料品店の棚に並んでいるような普通のラスク。
「えっ?」
キョトンとしている小さなブルー。「普通のラスクがどうかしたの?」と。
「そいつの方が良かったのかと思ってな」
上澄みバターを使ったラスクじゃ、贅沢すぎて思い出せないようだしな、お前。
「何を?」
思い出せないって、ぼくが何を?
バターのことなら覚えてるじゃない、シャングリラじゃバターは大事な食料だった、って。
お料理するのに欠かせなかったし、合成品だと味がガクンと落ちちゃうんだもの。
「…ほら見ろ、お前はまたバターの方に向かって行っちまうんだ」
バターよりも大事なものがあるだろ、ラスクを作るにはパンが無くっちゃ始まらない。
こいつはとびきり上等だからな、パンから焼いてるわけなんだが…。ラスクは本来、固くなったパンで作るもんだぞ、シャングリラでさえ嫌われ者だった固いパン。
そいつを美味しく食べられないかと工夫したのがラスクってヤツだ、シャングリラでもな。
…覚えていないか、俺のラスクだ。お前といつも二人で食ってた。
お前、食べる度に言ってただろうが、「君のラスク」と。
「ああ…!」
思い出した、と叫んだブルー。
ハーレイのラスク、と。
シャングリラの厨房で作ってくれたと、初めてのラスクを二人で食べたと。
端っこを一度掴んでしまえば、戻るのは早かった一連の記憶。
ブルーはたちまち全て思い出した、シャングリラでラスクが生まれた切っ掛けが前の自分だったことも、試作の時の光景も。甘い匂いが漂うオーブン、その前で出来るのを待っていたことも。
「ハーレイのラスク…。美味しかったよ、このラスクよりも」
前のぼくが今でも覚えてる味は、このラスクよりもずっと上だったよ。
…ハーレイが作ってくれたからかな、「お前が言ってた菓子を作るぞ」って。
どんなお菓子が出来るんだろう、ってドキドキ見ていて、出来上がったのを二人で食べて。
最初に作ったのがハーレイだったから、ラスクはいつでもハーレイのお菓子だったんだよ。
ハーレイがキャプテンになっちゃった後も、ぼくにとってはハーレイのお菓子。
誰が作ったラスクでも全部、ハーレイのラスク。
だからラスクを食べる時はいつも、「君のラスク」って言ってたんだよ、とても懐かしいお菓子だったから。ハーレイが作ってくれたんだっけ、って思ってたから…。
それでラスクを持って来てくれたの、前のぼくのことを思い出したから?
ハーレイのラスクだって言っていたこと、ハーレイ、覚えていてくれたんだね…。
「…まあな。本当の所は、俺も忘れてしまってたんだが」
評判のラスクを売っているな、と思ったから土産に持って来ようと買ったんだ。
その段階では何も覚えちゃいなくて、家に帰って食ってた時にもまだ完全に忘れていたな。袋に二枚ずつ入ってるだろうが、一枚目の時は何も思っちゃいなかった。美味いラスクだと思いながら食って、二枚目に齧り付いた所で気が付いたんだ。
だが、シャングリラにもラスクはあった、という程度でなあ…。
前のお前と二人で食ってた、ってトコまで行ったら、お前が言ってた「君のラスク」って言葉を思い出したってわけだ。
そいつが頭に浮かんで来たらだ、後は芋づる式だったな。最初はお前のアイデアだったことも、試作する時にお前を呼んだってことも。
俺のラスクだと気付いちまえば、どうしてすっかり忘れていたのか不思議なくらいに昔の記憶が戻って来たな。お前と同じだ、お前も一気に思い出したろうが、ラスクのことを。
前の自分がブルーのアイデアを元に作ったラスク。シャングリラにあったラスクの始まり。
固くなったパンはお菓子にならないのか、と遠い昔に尋ねたブルーは、青い地球で小さな子供の姿になってしまって、首を傾げて。
「…ハーレイ、今はラスクは作っていないの?」
料理は今でも得意なんでしょ、ラスクくらいは簡単に作れそうだけど…。
「一人暮らしで作ってもなあ…」
パンが固くなるほど食材の管理が出来ていないっていうわけじゃないし、たまにウッカリ忘れてしまって固くなっても食べ方はそれこそ色々あるしな。
わざわざラスクを作らなくても、その日の間にパングラタンとか…。シャングリラの頃だと苦労してたが、一人分くらいはラスク以外の食べ方で充分いけるんだ。
ついでに、俺の教え子どもはだ、ラスクを作って御馳走しようが、何の有難さも感じてくれん。いつも食わせてる徳用袋のクッキーの味が変わった程度に思うだけだな、間違いない。
だから今ではラスクは作らん、たまに食いたきゃ店で買えるし。贅沢でない並みのラスクがな。
「そうなんだ…。でも、ハーレイのラスク、また食べたいよ」
思い出したら食べたくなったよ、ハーレイが作っていたラスク。
「作ってやるさ。今は駄目だが、いつかはな」
今は手料理は持って来られないから、ラスクも駄目だ。
しかし、いずれは手料理も持って来られるようになる勘定だし、お前も俺の家に来られる。
そしたら幾らでもラスクを作って御馳走するから、楽しみにしてろ。
一緒に暮らせるようになったら、もう好きなだけ食べ放題だぞ、俺が作るラスク。
クリスマスの季節が過ぎた後にはシュトーレンで作る豪華版もやるか、と誘ったけれど。
近所のパン屋で割引セールのシュトーレンを買って、胡桃やレーズンがたっぷりと入った豪華なラスクを作ってやろうか、と言ったのだけれど。
「ううん、普通の、あの味がいい」
シャングリラで一番最初に食べたあの味、あの味と同じラスクをまた食べたいな。
前のぼくが今でも覚えている味、今日のお土産よりずっと美味しいと思ってるラスク。
あれを作ってよ、固くなったパンで。…シュトーレンとかの豪華版より。
「かまわんが…。もちろんあれを作ってはやるが、最初はその味で満足でもだ」
いずれ贅沢を言い出すようになると思うがな?
このラスクみたいに美味いラスクは作れないかと、パンから作ってバターも上澄みだけを使えば美味しいラスクが出来そうだけど、と俺に色々注文するんだ、美味いラスクの作り方。
「そうかもね…」
最初は良くても、ずっとハーレイと一緒なんだし…。
いつも二人でお茶が飲めるし、ラスクも好きなだけ食べられるんだし。
シュトーレンで作るラスクも欲しいって言い出しそうだね、幸せだらけで贅沢になって。
前のぼくなら大満足だったハーレイのラスク、もっと美味しくして欲しいよ、って。
「そういうコースだと思うがな?」
俺はそういう予感がするなあ、今のお前が食べたがるラスク。
前の俺が作ったラスクのまんまじゃ、いずれ駄目だと言われそうだと思うんだが。
固くなったパンの食べ方で悩んだシャングリラ。そこから生まれて来たラスク。
けれども今では、ブルーも自分も、青い地球に生まれ変わったから。
青い地球で幸せに生きてゆける未来が待っているから、ラスクもきっと贅沢になる。
最初は嬉しい懐かしい味も、気が付けばすっかり今風になって。
地球ならではの食材を贅沢にたっぷり使って、地球風のラスクになってしまって。
それでも二人で幸せな時間、地球風になったラスクを頬張る。
「ハーレイのラスクだ」と喜ぶブルーと、二人きりの家で過ごすティータイム。
今はまだ子供の指のブルーが、前と同じにしなやかで長い白い指を持つブルーに育ったら。
結婚して二人で暮らし始めたら、贅沢な地球風になったラスクを幾つも幾つも作ってやって…。
ラスクの始まり・了
※固くなったパンから生まれた、シャングリラのラスク。前のブルーのアイデアが発端でした。
けれど作ったのは前のハーレイで、前のブルーが好んだお菓子。「君のラスク」と。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(わあ…!)
ふわり、と浮かんだブルーの身体。舞い上がった空。
飛べたらいいな、と空を見ていた家の庭から、ふうわりと。芝生から離れて浮いた両足。
まるで重さを感じないから、体重がある気がしないから。泳ぐように腕で空気をかいたら、上に昇れた。かいた分だけ、透明な空気が満ちている庭をスイと上へと。
もしかしたら、と腕を動かしたら、まだ昇れる。面白いように、上へ、上へと。
浮き上がったと思う前には、庭の芝生に立っていたのに。一階の屋根よりも低い所から見上げていたのに、その屋根と同じ高さまで浮いた。自分の部屋を窓から覗ける、外側から。
(…ぼくの部屋…)
嘘みたい、とガラス越しに眺めた部屋の中。いつもハーレイと使うテーブルも椅子も、勉強机もベッドも窓の向こう側。それを空中に浮かんで見ている、窓の外から。
(もっと上に行ける…?)
手だけではなくて足も使って泳いでみたら。泳ぐならこう、と両足をパタパタさせたら、さっきまでより速く泳げた。空気の中を。
部屋の窓より高く上がれた、家の屋根よりも。庭で一番大きな木と同じ高さもアッと言う間で。
もう一回、と手と足で大きく空気をかいたら、木の上まで昇ってしまった身体。
普段は下から見上げる梢も、木の下に据えらえた白いテーブルと椅子も、今は自分の下にある。空を泳いで此処まで上がった、屋根よりも、木よりも高い所まで。
宙に浮かんでいる身体。家も庭も上から見ている自分。
(飛べた…!)
前の自分だった頃と違って、今の自分は飛べないのに。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、空を飛ぶ力は無い筈なのに。
けれどもフワフワ浮いている身体、重力の影響を受けない身体。懸命に手足を動かさなくても、ストンと落ちていったりはしない。家の真上にプカプカと浮いて下を観察している自分。
(…こんなに簡単だったんだ…)
すっかり忘れてしまっていたけれど、空を飛ぶこと。前の自分が自由自在にやっていたこと。
思い出したら、少しも大したことではなかった。空をかくだけ、空気の中を泳ぐだけ。そうするだけで高く上がれる、泳いだ分だけ昇ってゆける。両腕と足とで泳いだ分だけ、上へ、上へと。
(もっと上まで行けるよね?)
ぐんぐんと空の中を泳いで、家の屋根も庭で一番高い木の梢も遠くなってゆく。青空と白い雲に向かって泳いだ分だけ、遥か下へと。
町がオモチャのように見えるほど、高い所まで舞い上がれた空。道を走る車は分かるけれども、人はどれだか分からない。それほどに高い場所まで昇れた、疲れもしないで空を泳いで。
スイスイと此処まで泳げたのだし、楽々と飛んで来られたのだし…。
これならハーレイの家へも行けちゃうよね、と考えた。
「来ては駄目だ」と叱られてしまう家だけれども、ちょっと空から行ってみるだけ。どんな風に見えるか覗いてみるだけ、家の上から。
もしもハーレイがいないようなら、窓の向こうも見てみたい。自分が来たと知られないように、庭の芝生には下りないで。足を地面につけはしないで、ふわりと宙に浮かんだままで。
(覗くくらいはかまわないよね?)
一度だけ中を案内して貰った家、それをしっかり見てみたい。あの時は二度と来られないなんて思わなかったし、次の機会にゆっくり見ようと、次の部屋へと急いだから。家の中を少しでも早く見て回りたくて、「隣の部屋はなあに?」とハーレイの袖を引っ張ったりしたくらいだから。
(二階にあったの、寝室と、それから子供部屋と…)
他にも部屋を見せて貰った、「適当に使っているんだがな」とハーレイが言っていた二階。一人暮らしには広すぎる家だし、特に使い方を決めてはいないと。
(一階へ行けば…)
リビングにダイニング、キッチンにもあった広い窓。書斎に窓は無かったけれども、何処かから覗けば見えないこともないだろう。書斎の扉が開いていたなら、中の机や本棚なども。
こんなチャンスを逃す手はない、せっかく空を飛べたのだから。
家の庭から空を泳いで、此処まで昇って来たのだから。
ハーレイの家まで飛んでゆこう、と思ったけれど。
自分の背丈が前の自分と同じになるまで行けはしない家、それを外からコッソリ見ようと小さな胸を弾ませたけれど。
(でも、どっち…?)
行きたい家は何処だっただろう。どっちへ飛んだらハーレイの家があるのだろう?
まるでオモチャのような町。遥か下にある自分が住む町、これでは何処に何があるのか、いくら見たって分からない。大きな緑は公園だろうと思うけれども、他のは何がどれなのか。
あまりに高く舞い上がりすぎて、ハーレイの家が何処にあるのか掴めない。後にして来た自分が住む家、それもどれだか分からない。あの辺りかな、と漠然と思う程度でハッキリしない。
この状態ではハーレイの家がある場所も分からない、せめて自分の家のある位置と、路線バスが走る大きな通りが何処にあるかを把握しないと。
家から少し歩いた所のバス停、其処を目印に「こっちの方だ」と考えないと。
(…家が見える高さまで下りないと…)
あれが間違いなく自分の家だ、と分かる高さに下りなければ。家が見えたらバス停がある通りを探すのも簡単、ハーレイの家がある方向も直ぐに「こっち」と見当がつく。
それが分かったら、もう一度空を泳いで、ハーレイの家へと飛んでゆく。両手と両足でスイスイ泳いで、何ブロックも離れた場所に向かって楽々と。
此処まで昇って来られたのだから。息も切らさず、疲れもしないで飛べたのだから。
でも、下りるには…。
(…どうするの?)
どうしたらいいの、と空の上で頭を抱えてしまった。
泳ぐのは簡単だったけれども、下に向かって空気をかいても上手くいかない。両手と両足をバタつかせてみても、覗き込むように上半身を下へ傾けても、沈まない身体。
空気の中を下へと泳ぐことが出来ない、逆に上へと昇ってしまう。上へ上へと、さっきまでより高い所へ舞い上がる身体。
(どうして上へ行っちゃうの…!)
泳げば泳ぐほど上へ行く身体、空に昇ってゆく身体。
プールで泳いだことはあっても、潜ったことは殆ど無いから、やり方が全く分からない。空気をかいても下りてゆけない、下りる代わりに上へゆくだけ。青い空へと昇るだけ。
闇雲に空気をかけばかくほど、どんどん遠くなってゆく地面。小さく小さくなってゆく町。この有様では、ハーレイの家を目指すどころか…。
(家にも帰れないんだけど…!)
身体が浮いた、と大喜びで空から見ていた自分の家。窓から覗いた自分の部屋。大好きな両親と暮らしている家、その家にも帰ることが出来ない。
(パパとママ、ぼくを探してくれる?)
いないと気付けば慌てて探してくれそうだけれど、まさか空とは二人とも思いもしないだろう。サイオンの扱いが不器用すぎる一人息子が空へ昇って行っただなんて。
(…空は探して貰えないよ…)
疲れてしまって落っこちるまで、浮いているしかないのだろうか?
こんなに高い空から怪我もしないで、無事に地面に落ちられるだろうか?
(まさか、死んじゃう…?)
真っ逆様に落ちて、シールドも張れずに固い地面に叩き付けられて。両親にも、家を見たかったハーレイにも会えずに、それっきりで。
(そんな…!)
楽しかった空は恐怖の場所に変わった、このまま死んでゆくのだろうかと。
ハーレイと二人で生まれて来た地球、幸せ一杯に暮らせる筈だった未来は此処で消えるのかと。
泣き出しそうになってしまった空の上。さっきまで楽しく泳いでいた空。
其処で目覚めた、パチリと開いた自分の瞼。身体の下にはもう空は無くて、しっかり受け止めてくれるベッドの感触。柔らかくて暖かな自分のベッド。
カーテンの隙間から射し込む光で朝だと分かった。ハーレイが来てくれる土曜日の朝。
(…夢…)
夢だったんだ、とホッと息をついたら、俄かに惜しい気持ちになった。
下りられないと、死んでしまうと焦り出す前に感じた心地良さ。何処までも高く昇れた空。
(…もっと飛べたら良かったのに…)
下りる方法さえ分かっていたなら、夢の中でもハーレイの家へ飛べたのに。青い空を何処までも飛んでゆけたし、もしかしたら隣町までも。
ハーレイの両親が住む家を探しに、隣町の空へ。庭にある夏ミカンの大きな木が目印、あの木がそうかと空から見付けて、どんな家かと上を何度も回ってみて。
同じ夢なら、それが良かった。死んでしまうと泣きそうな気持ちで目覚める夢より、空を自由に飛んでゆく夢。ハーレイの家へも、隣町へも、何処までも空を駆けてゆく夢。
(…ぼくの馬鹿…)
下りる方法を忘れるなんて、と不器用な自分を叱ったけれど。
空を飛べないことはともかく、夢で飛んだなら下り方だって、と叱り付けたけれど。
(えーっと…?)
馬鹿な自分を詰っている内に、ハタと気付いた。
下り方も何も、前の自分はあんな風に飛んではいなかった。空を泳ぎはしなかった。真っ直ぐに飛ぶ時も、白いシャングリラの周りを飛ぶ時も、空をかいてはいなかった手足。
空を飛ぶために手や足は使っていなかったのだし、下り方を忘れる以前の問題。空の泳ぎ方など知らないのだから、潜り方だって知るわけがない。
(…前のぼく、どうやって飛んだんだっけ…?)
どうだったっけ、と考えていたら思い出したプール。夏に学校であったプールの授業。水の上にプカリと浮くことが出来た、「確かこういう感じだった」と前の自分を思い浮かべたら。重力から身体を切り離す感覚、その端っこを捕まえたら。
けれど、参考にしかならないプールの記憶。浮いていただけで、泳ぎは下手だったから。
前の自分が空を自由に飛んだ方法、それを泳ぎに応用するには記憶が足りなさすぎたから。
それでもプールで浮くことは出来た、前の自分が浮いていたように。空に浮かんでいたように。
(…ハーレイ、プールでコツを教えてくれるって…)
水泳が得意な今のハーレイ、そのハーレイが飛び方を思い出す手伝いをしてくれると言う。水の中だと身体が浮くから、何度もプールに通っていたなら空を飛ぶコツが掴めるだろうと。
そのせいで空を泳いだだろうか?
今の自分は少しくらいは泳げるのだから、空を泳いで飛んでゆく夢を見たのだろうか?
下手くそな空の旅だったけれど。
高く舞い上がった所までは良くても、下りられなくなってしまったけれど。
落っこちて死ぬ、と泣きそうになった所で終わった空を飛ぶ夢。泳いで高く舞い上がる夢。
とんでもない結末になってしまった夢だったけれど、恐怖に変わった夢だけれども。
(でも、飛ぶって…)
空を飛ぶことは気持ち良かった。本当の飛び方とは違って泳いだ空でも、地面から離れて空へと昇ってゆくことは。庭の芝生が、家が、木が、町が、遥か下へと遠ざかることは。
今の自分が初めて見た夢、青い空をぐんぐん飛んでゆく夢。
(前のぼくの記憶が戻ってからだと、ホントに初めて…)
幼かった頃には空を飛ぶ夢も見ていたけれども、飛べないようだと気付いてからは見ていない。タイプ・ブルーのくせに飛べない現実、それを認識してからは。
物分かりが良くなって見なくなったのか、ガッカリして見なくなったのか。
けれども、こうして夢を見たから。家の庭から空に昇って、遥かな上から町を見たから。
(…ぼくだって飛べる?)
前の自分がやっていたように、あの青い空を飛べるだろうか。町の上空の飛行は禁止されている今だけれども、飛んでもいいと許可が下りている場所、其処から高く昇れるだろうか。
前にハーレイが「お前なら綺麗に飛ぶんだろうな」と呟いていたように、天使の梯子と呼ばれる光の中を昇ってゆけるだろうか。今のハーレイに見せたい姿を披露することが出来るだろうか?
(…夢の中では飛べたんだしね?)
現実の世界でも、いつか飛べそうな気がしてきた。
とてもリアリティーがあった夢だし、本当になるかもしれないと。空を泳いだことは非現実的な話だけれども、地面を離れて眺めた庭やら、自分の部屋や屋根、それは本物のようだったから。
本当に身体が宙に浮いたら、きっとこんな風に見えるのだろう、と思うくらいに。
今は全く飛べないけれども、膨らんだ希望。今の自分だって、と。
タイプ・ブルーに生まれたのだし、いつか飛べるかもと、もうワクワクと高鳴る胸。
だから、ハーレイが訪ねて来てくれて、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで座った途端に勢い込んで切り出した。
「あのね、飛べたよ!」
「はあ?」
飛べたってなんだ、とハーレイの鳶色の瞳が丸くなったから。
「えっと、空…。夢だったけれど…」
目が覚めたら夢になっちゃったけれど、ぼく、飛べたんだよ。
「夢か…。だろうな、お前が飛べるわけがないからな」
前のお前の頃ならともかく、今のお前じゃ飛ぶなんてことは出来そうもないし。
「うん…。でも、本当に飛んだんだよ、ぼく」
家の庭から空に飛んだよ、と説明をした。
芝生を離れて、窓から覗いた自分の部屋。二階にある窓を外から覗き込んだことなど無いのに、机も椅子も勉強机も、ちゃんとそれらしく見えたのだと。梯子でも架けて覗いたように。
そういう本物そっくりの眺めで始まり、どんどん上へと昇ってゆく夢。
この町の遥か上まで昇ったけれども、町だってきっと、空から見たならあんな風だと。夢の中で見た自分の部屋と同じに、きっと本物もああなのだと。
「ほほう…。それで飛べたと言うんだな、お前?」
夢でも本物そっくりだったし、得意満面で俺に報告している、と…。
現実のお前も飛べるかもしれんと思っているといった所か、今のお前は?
「…そうだけど…。だって、あの景色、本物そっくり…」
だからね、きっと予知みたいなもの。
今はちっとも飛べないけれども、いつかは飛べるようになるんだよ、っていう夢だよ、きっと。
ぼくも飛べるよ、と笑顔で恋人に自慢したのに、そのハーレイは腕組みをして。
「お前の気持ちも分からないではないんだが…。そう信じたい気持ちも分かるが…」
そいつは夢の王道だってな、空を飛ぶ夢の。
「え?」
王道ってなんなの、どういう意味なの?
「ありがちと言うか、有名と言うか…。昔からある夢のパターンだ、その手の夢は」
何処から見たって本物そっくり、自分が本当に空を飛んだと考えるのが一番自然そうな夢。
ところが、そういうわけじゃないんだ。ミュウなんか存在しない頃から、人間が何度も見て来た夢だと言われている。SD体制が始まるよりも遥かに昔の時代からな。
そんな時代に人間は空を飛べやしないし、空を飛ぶための船すらも無い。なのに何故だか、空を飛ぶんだ、夢の中でな。本当は飛べもしないのに。
…つまりだ、お前の夢もそいつだ、いつか飛べるという予知じゃない。
現に、そういう空を飛ぶ夢。俺も見たしな、どう間違えても俺が飛べるわけないのにな…?
「ハーレイも見たの、空を飛ぶ夢を?」
本当に本物そっくりの景色、ハーレイも夢で見たって言うの?
「ガキの頃にな」
今の年では流石に見ないが、ガキの頃にはよく見てたもんだ。お前が見た夢と同じで空を泳いだことだってあるし、前のお前がやってたみたいにスイスイと飛んでたこともあったなあ…。
あれで飛べると思い込んじまって飛んだもんだ、とハーレイが苦笑しているから。
「飛んだって…。ハーレイ、やったの、ソルジャー・ブルーごっこを?」
まさか、と息を飲んでしまったブルー。
今の時代の男の子たちがよくやるけれども、大人や教師は「やらないように」と注意する遊びが前の自分の真似をすること。空を飛ぼうと高い木などから飛ぶソルジャー・ブルーごっこ。
もちろん飛べずに落っこちるから、怪我をすることも多いから。
大人たちは厳しく注意するけれど、それを聞かないのも子供の特権。一種の度胸試しとも言えるソルジャー・ブルーごっこ、怪我をしたって名誉の負傷で英雄扱い。
それをハーレイがやっていたなんて、とブルーは驚いたのだけれども。
「…実はな、やってみたってな」
よく考えてみろよ、俺だぞ、俺。
柔道だの水泳だのと運動ばかりの悪ガキってヤツだ、やっていない方が不思議だろうが。
「だけど、今まで言わなかったじゃない!」
ソルジャー・ブルーごっこの話は出てたし、ハーレイの武勇伝だって…。
子供の頃の話は幾つも聞いているのに、ソルジャー・ブルーごっこは聞いていないよ!
「お前が笑うに決まってるだろう」
なんたって、前のお前は本物のソルジャー・ブルーで、本当に空を飛べたんだからな。
ついでに今の利口なお前は、ソルジャー・ブルーごっこなんかはしないだろうが。
「…それはそうだけど…」
無茶をするよね、って見てただけだし、怪我しちゃったら「やらなきゃ良かったのに」と思っていたけれど…。
でもね、やった子たちを笑いはしないよ、勇気があるのは本当だもの。
やりもしないで見ていただけの臆病なぼくより、よっぽど英雄。
だからハーレイのことも笑うよりかは、「流石ハーレイ」って思う方だよ、本当だよ?
笑わないから教えて欲しいな、ハーレイがソルジャー・ブルーごっこをやった時の話を。
どんな感じで飛んで行ったの、と尋ねてみたら。
「ん? それはな…」と教えて貰えたハーレイの過去。空を飛ぶ夢を見てから直ぐの出来事。
高い木に登って、空を滑るように飛んだと言う。空気をかいて泳ぐのではなくて、真っ直ぐに。
ソルジャー・ブルーごっこをする子は、大抵、そういうパターンだけれど。
「…ハーレイ、大怪我?」
高い木だったら、落っこちたら骨が折れちゃう子もいるし…。
ハーレイも酷い怪我をしちゃったの、骨は折れなくても手とか膝とかが血だらけだとか。
「いや、隣の木に飛び移れた」
何本か枝を折っちまったが、幹にベタンと抱き付くような感じでな。
地面まで落ちて行っちゃいないさ、飛び移る時に折れちまった枝で掠り傷が幾つか出来たがな。
「隣の木って…。運が良かったの?」
飛べなかったけど、落っこちないで済んだのなら。
「そうらしい。ついでに俺の腕前もな」
もしも駄目ならこいつで行こう、と隣の木に向かって飛んだんだ。
飛び出す前から決めていたわけだ、飛び移れそうな木が生えている所で飛ばないと、とな。
万一の時のことは考えていた、と笑うハーレイ。
空を飛ぶ夢は見られたけれども、ソルジャー・ブルーのように上手く飛べるとは限らないから。
「失敗するってこともあるしな、それに備えて隣の木なんだ」
俺がやったのはムササビの真似だ、空を飛ぶならアレだろうと。
「…ムササビ?」
「うむ。同じように空を飛ぶヤツだったら、モモンガもいるがな」
似たような姿をしてるヤツらだが、モモンガはムササビよりも遥かに小さいからなあ…。
飛んでる姿を見付けやすいのはムササビだろうな、このくらいはあるし。
空を飛ぶのに膜を広げたら、こんな感じか。ちょっとした空飛ぶ座布団ってトコだ。
もっとも、ヤツらは飛ぶと言うより空を滑って行くんだが…。
いくら飛膜を広げたってだ、それと手足をバタバタさせたら飛べる仕組みじゃないからな。
上手い具合に空気を掴んで飛んで行くのがムササビだな、うん。
木から木へと飛んで移って行くんだ、膜を一杯に広げて空飛ぶ座布団みたいに。
翼も無いのに空を飛んでゆく哺乳類。ネズミの仲間に含まれるムササビ。
長い前足と後足との間にある飛膜、それを広げて滑空してゆく森の生き物。
その飛び方を頭に置いていた、とハーレイは子供時代にやったソルジャー・ブルーごっこで無事だった理由を教えてくれた。飛べなかったら滑空すること。とにかく隣の木まで飛ぶこと、と。
「そんなわけでだ、俺のソルジャー・ブルーごっこってヤツはだ…」
失敗はしたが、怪我はしていない。
うんと高い木の上から飛んだからなあ、無事だったことも含めて英雄だったぞ。まるで飛べずに終わった割には、一種の成功例ってことで。
「凄いね、普通はそこまでしないよ?」
失敗した時のことまで考えてないよ、ぼくの周りでやってた子たちは。
高い木から飛ぶんだ、って頑張って登ってた子も、高い塀とかから飛んでいた子も。
「だろうな、普通はそういうモンだ」
所詮は子供の発想だからな、どうすりゃいいのか思い付く方が珍しいってな。
俺の場合は親父のお蔭だ、ソルジャー・ブルーごっこをやると話したわけではないが…。
相談したってわけでもないがだ、本当に親父のお蔭ってヤツだ。
もっとも、親父の方にしてみりゃ、そんなアイデア、教えたつもりも無いんだろうがな。
「面白い生き物の巣を見付けたから、今度の休みに連れて行ってやろう」と言っただけだし。
ハーレイの父が釣りに出掛けて発見したというムササビの棲み家。
老木の幹に口を開けていた洞、ムササビは其処に住んでいた。夜になったら飛び始めるから、と日がとっぷりと暮れてから観察しに行ったらしい。警戒されないように小さな明かりを持って。
「此処から先は声を出すなよ、と言われたな」
人間がいると分かっちまったら、ムササビはなかなか出て来ないしな?
腹が減ったら出てくるだろうが、早めにお目にかかりたいなら静かに待つのが一番なんだ。
そうやって待って、出て来たムササビ。実に見事に飛んで行ったな、隣の木まで。そこから後はフワリと飛んでは進んで行くんだ、餌を探しに。
飛んで行っちまったムササビが元の木にまた戻って来るまで、親父と一緒に待ってたなあ…。
「いいな、ムササビ…」
ぼくは本物、見たことがないよ。
…動物園にいるのは見たんだろうけど、飛んでなかったし…。
飛んでないんじゃムササビなんだって分かってないよね、だから本物、知らないんだよ。
ハーレイにソルジャー・ブルーごっこのやり方を教えた先生だったら、会ってみたいな、本物のムササビ。本当に空を飛んでるムササビ。
「…見たいのか?」
お前もムササビの観察ってヤツに出掛けたいのか、夜になってから?
「うん。ぼくより上手に飛べるらしいしね、ムササビは」
ハーレイの先生になれるくらいに上手なんでしょ、ソルジャー・ブルーごっこのための?
「おい、先生って…。お前がソルジャー・ブルーごっこを始めちまったら、俺が困るんだが?」
今のお前は飛べやしないし、木から隣の木まで飛ぶのも失敗しそうな気がするんだが…。
「見たいだけだよ、ムササビを!」
ぼくの先生になって欲しいとは思っていないよ、どんな風に飛ぶのか見てみたいだけで…!
「ふうむ…。なら、いつかな」
俺の先生に会いに行くとするか、大恩人かもしれないが。
ムササビは人間じゃないわけなんだが、ヤツのお蔭で怪我をしないで済んだんだしな。
いつか連れてってやるとするか、と微笑むハーレイ。
俺と二人で遅い時間でも出歩けるようになったなら、と。
「それでだ、お前が見たって言う空を飛んでる夢だがな…」
ガキの頃の俺もアレで飛べると思ったわけだが、あの夢もけっこう面白いもんだ。
「面白いって…。何かあるの?」
ハーレイ、あの夢がどういう夢かを知ってるって言うの、夢占いとか…?
「いや、夢占いの方もあるんだが…。夢占いよりも今の時代に相応しい話と言うべきか…」
空を飛ぶ夢は大昔からあったわけだが、あの夢の正体は思念体だという説がある。
人間がみんなミュウになってしまった時代ならではの説なんだがな。
「思念体って…。ホント?」
「お前は体験したばかりだが…。ちゃんと景色が見えただろう?」
本当だったら、見える筈のない景色ってヤツが。
自分が空を飛ばない限りは、こんな風には見えっこないぞ、という色々な景色。
「そうだよ、だから飛べると思ったんだよ」
何処から見たって、本物みたいな見え方をしていた夢だったもの。
そこの窓から覗いたんだよ、この部屋の中を。
ぼくは外から見たことないのに、ちゃんとそういう風に見えてた。
不思議だったよ、ぼくがどんどん上に行ったら、部屋の中の見え方も変わっていったもの。この椅子やテーブルの角度が変わって、奥にある家具から先に隠れてしまって見えなくなって。
「其処だな、本当に飛んでいたとしか思えないわけで…」
しかし本物の自分の身体は、ちゃんとベッドで寝ているわけで。
そういう時でも身体の外へ出て行けるのが思念体だろうが、身体はベッドに置いたままでな。
前のお前も得意だったが、生憎と俺は出来ないな。…今でも出来ないヤツが殆どといった所か、思念体になって自由にあちこち出歩くのは。
だがな、うんと昔は幽体離脱って言葉があったんだ。SD体制が始まるよりも昔の時代。
魂だけが抜け出すってヤツが幽体離脱だ、概念としては思念体に近いものがある。
その辺もあって、ああいう夢を見ている時には思念体になっているんだという説なのさ。大昔の人も、俺みたいに思念体にはなれないヤツでも、潜在的には能力がある、と。
無意識の間に思念体になって出て行った時の夢がアレだ、というわけだな。
「じゃあ、あの夢のぼくも思念体なの?」
ぼく、思念体になって空を飛んでいたの、だから景色が本物だったの…?
「そこでだ、お前に改めて訊いてみたいが、夢のお前はどうやって飛んだ?」
どんな風にして空を飛んでいたんだ、飛べたと嬉しそうだったが。
「泳いでたよ?」
水の中を泳いで進むみたいに、空気をかいて泳いだんだよ。
泳ぐのと違って楽だったけど…。どんなに上まで泳いで行っても、少しも疲れなかったけど。
「なるほどな。…それで、前のお前の思念体ってヤツは泳いでいたか?」
身体から出たら泳いでいたのか、思念体は?
「…ううん…。泳いでない…」
泳いでなんかいないよ、身体ごと空を飛ぶ時と同じ。
こっちの方、って真っ直ぐ飛んで行くだけで、手も足も少しも使わなかったよ。
言われてみれば、まるで違うのが思念体の時と、本物そっくりの空を飛ぶ夢。
思念体だと思えば解決しそうだったけれど、前の自分は思念体の時に泳いでいないし…。
「ほらな、そう証言するヤツらもいるから、思念体説は弱いんだ」
思念体になって抜け出せるヤツでも、あの手の夢を見るらしくってな。
どうも違うと、あの夢は思念体になっているわけではなさそうだ、と証言されると反論出来ん。思念体だということになれば、本物そっくりの景色ってヤツも素直に納得出来るんだがな。
「…実際はどうなの、あの夢の正体」
思念体じゃないなら、どうしてああいう夢を見ちゃうの?
「ただの願望だと言われているなあ…」
空を自由に飛べたらいいのに、と思う心が見せる夢なんだそうだ。今の所は。
…その割にハッキリ見えるんだがなあ、色々なものや、空から眺めた景色やら。
俺がソルジャー・ブルーごっこに自信を持って挑んだほどにだ、空を飛んだとしか思えない夢。
あの景色だけは今も謎だな、願望にしては出来すぎなんだが。
「そうだよね…。ぼくにもただの夢だとは思えないけれど…」
だけど思念体とは違うし、あの夢、ホントに何なんだろうね?
「さてなあ…?」
ミュウしかいない世界になっても、まだ分からんというのがなあ…。
あの手の夢なら、思念体だのサイオンだので簡単に謎が解けそうな時代になったんだが。
もっとも、生まれ変わりの仕組みも謎だからな、と指摘されればその通りで。
今の自分たちが此処にいる理由も解けないのならば、あの夢は…。
「空を飛ぶ夢、神様の悪戯?」
悪戯なのかな、空を飛べたらこんな景色が見えますよ、って。
「プレゼントかもしれないぞ」
飛びたい人間は昔からいるしな、そういうヤツらの夢が叶うように神様からのプレゼント。
今の時代だと、そのプレゼントの意味を間違えちまって、ソルジャー・ブルーごっこになるが。
「んーと…。ひょっとしたら、天使の悪戯かもね?」
天使は翼が生えているから、寝ている間に魂だけヒョイと持ち上げちゃって。
天使の力で飛んでいるのに、人間の方は気付いていなくて、自分の力で飛んでるつもり。
「それはありそうだな、悪戯好きの天使もいそうだ」
お前、そいつに捕まったんだな、でもって空を泳いじまった、と。
ついでに前のお前が飛べていただけに、今度も飛べるとデッカイ夢を持っちまったんだな。
今の時代も解けない謎。
空を飛ぶ夢、まるで本当に自分が飛んでいるかのように。
最後に怖い思いをする羽目になった夢だけれども、空を泳ぐのは本当に気持ち良かったから。
「…空を飛ぶ夢、また見られるかな?」
今のぼくでも飛べた気になるし、また見られたらいいんだけれど…。
「夢だけにしとけよ、ホントに飛ぶなよ?」
俺みたいに無事に済むとは限らないんだぞ、飛んじまったら。
「それはムササビを見てからにするよ。ぼくでも空を飛べるかな、って考えるのは」
ムササビだって飛べるんだったら、タイプ・ブルーのぼくは充分、飛べそうだもの。
「…ヤツらはソルジャー・ブルーごっこの参考にしかならんのだがな?」
飛べなかったら隣の木まで、と飛び立つ場所を選ぶ時とだ、飛び立った後に飛べなかった時。
とにかく隣の木に飛び付こう、と狙いを定めて空に飛び出すだけなんだがなあ…。
だが、まあ、いいか、とハーレイが片目を瞑るから。
「お前は本来、飛べる筈だし、ムササビに飛び方、習ってくるか?」と笑うから。
ソルジャー・ブルーごっこに挑んだハーレイに飛び方を教えた教師を、無事に隣の木へ飛ばせてくれた教師だというムササビをいつか見に行こう。
森の中に住んでいるムササビ。
大きな古い木の洞から夜に出て来て、フワリと滑空するムササビ。
ハーレイの父に棲み家を探して貰って、その近くでハーレイと張り込みをして。
夜でも二人で出掛けられるようになったなら。
ハーレイの車で夜のドライブ、ムササビの住む木を見に行けるようになったなら。
今の自分は飛べないけれども、森を飛んでゆくムササビを見る。
「ぼくより上手いね」と、「当たり前だろう、俺の先生なんだぞ」と小声で囁き合いながら…。
空を飛ぶ夢・了
※飛べないブルーが見た、空を飛ぶ夢。どうしてそういう夢を見るかは、今でも謎。
夢のお蔭で聞けた、ハーレイの子供時代の武勇伝。空を飛ぶための先生は、なんとムササビ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あ…!)
積木、とブルーの目を引いた広告。新聞の記事の下に載せられた積木の写真。
学校から帰って、おやつを食べながらチラリと眺めた新聞、写真に引かれて手に取った。子供の頃に遊んだ積木に似ていたから。色も形も、積木を入れる箱も。
(お子様の遊びに、教育用に…)
サイオンの練習用にもどうぞ、と書かれた広告。積木で遊ぶ子供の写真と一緒に。
今の時代は、積木と言ったらそういう玩具。積んだり崩したり、子供ならではの遊びもあれば、積み方を工夫して伸ばしてゆく知能。ここまでは前の自分が生きた時代と変わらないけれど、使い方が一つ加わった。サイオンを扱うための練習用。
木で出来た積木はさほど重くないし、サイオンで軽く持ち上げられる。まずは浮かせることから始めて、次は動かす、その次は積む。思いのままに、手を使わずに。次は此処だと思った場所に。
サイオンだけで積木のお城や家が作れたら一人前。
大人だったら簡単なことで、積木も積めるし、箱にだって元の通りに入れられる。スイと積木が宙を飛んで行って、自分からストンと戻るかのように。最後の一個まで、次々に飛んで。
(ぼくもパパやママと…)
小さかった頃に積木で遊んだ。箱から幾つも出した積木でお城や家を作っていた。
せっせと手で積む自分の横から、サイオンで積んでくれた両親。「次は何処だ?」と父が積木を宙に浮かせて訊いてくれたり、母が「此処はどう?」とお城に屋根をつけてくれたり。
フワリと浮き上がって積まれてゆく積木、両親の腕前に憧れた。手も触れないで積木を動かし、お城や家を作ってゆく。「もっと高く」と頼めば、高く聳える積木の塔も。
それを見る度、自分だって、と夢見たサイオン。
今は手でしか積めないけれども、その内にきっとあんな風に、と。積みたいと思った所に積木。手を使わないで箱から出しては、両親がやるようにサイオンで上へ持ち上げて。
もっとも、積木遊びをやっていた頃、両親は既に期待していなかったらしいけれども。
タイプ・ブルーに生まれた息子だけれども、サイオンで積木は積めないだろうと。
前の自分が生きた時代と違って、タイプ・ブルーもそう珍しくはない時代。
とはいえ、今でもタイプ・ブルーは最強のサイオンを扱えるもので、空を飛んだり、瞬間移動も自由自在にこなすのが普通。人間が全てミュウの今では、幼い頃から才能の欠片が光るもの。
ところが、前とそっくり同じにタイプ・ブルーの自分ときたら…。
(思いっ切り不器用…)
生まれて間もない赤ん坊でも、明確な意思にはなっていなくても思念波を紡ぎ出せるのに。
お腹が空いたとか、もう眠いだとか、漠然とした感情を親に伝えることが出来るのに。
最強の筈の今の自分は、それさえも出来なかったという。泣きじゃくるだけで、どうしたいのか伝えられない赤ん坊。
お蔭で母は遥かな昔の時代の母親よろしく、手探りで面倒を見る羽目になった。とんちんかんなこともしていた、お腹が空いたと泣いているのに、あやすとか。眠りたいのにミルクだとか。
そんな不器用な赤ん坊時代、これでは両親も期待はしない。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、この子のサイオンは普通のレベルにも届きはしない、と。
そうは言っても、可愛い一人息子だから。タイプ・ブルーには違いないから。
あるいは劇的に進歩するかも、と思ってもいた、積木で遊びたい一心で。上手く積木を積み上げたくて、箱からヒョイと手も使わないで取り出したくて。
積木遊びに付き合ってくれた両親、サイオンを使う見本もあれこれ見せてくれたのに。
崩れ落ちそうになった積木のお城を守って、元のようにしっかり積み直したりしてくれたのに。
(…ぼくの積木は普通の積木…)
両親が助けてくれなかったら、積木は浮いたりしなかった。スイと飛んで行って収まることも、積み上がることも一度も無かった。
積木で遊ぶなら両手を使って箱から出して、積むのも自分の小さな両手。それが積木の遊び方。
幼稚園でも積木で遊んだけれども、積木はやっぱり手で扱うもの。
サイオンで自在に積める子供は、まだいなかった。浮かせることが出来る子供や、少しだけなら積める子供もいたのだけれども、本当にほんの少しだけ。真似事でしかなかったサイオン。
年によっては早熟な子供が混じっていたりして、尊敬を集めるらしいけれども。
たった一人で大人さながら、立派なお城をサイオンだけで積んでみせたりするらしいけれど。
(…ぼくも駄目だったし…)
普通だったらタイプ・ブルーの子供は積木で才能を発揮するようだけども、駄目だった自分。
そうでなくても、幼稚園児では思いのままには扱えないのが積木というオモチャ。
人間が全てミュウになっている、今の時代でも。
サイオンが当たり前の世界になっても、積木はまだまだ子供がサイオンを練習するための道具。木で出来た積木は軽いから。落っことして誰かに当たったとしても、怪我をしないから。
懐かしく積木の写真を眺めて、不器用だったと聞く赤ん坊時代の自分に思いを馳せて。
その頃に苦労をかけたらしい母、手のかかる自分を育ててくれた母に、空になったケーキのお皿などを渡して、「御馳走様」と部屋に帰って。
勉強机の前に座って、また思い出したさっきの積木。サイオンの練習用にもどうぞ、と書かれていた積木の広告の写真。
(そういえば…)
前の自分が生きていた頃。
白いシャングリラで雲海の星に潜んでいた頃、積木のせいでミュウだと発覚してしまった子供も多かった。養父母や教師がそれと気付いて、ユニバーサルに通報されてしまった子供たち。
前の自分や救助班が急行したのだけれども、救えなかった子供たちもいた。
(積木だったから…)
他のサイオンの発動に比べて、分かりやすかった子供たちの能力。
思念波ならば「気のせい」で済むし、心を読んでも「勘のいい子」で済むのだけれども、積木の場合はそうはいかない。ほんの僅かに動いただけなら分からなくても、浮き上がっていたら。宙を飛んで勝手に積み上がったり、箱に戻って行ったりしたら。
誰が見たって有り得ない現象、サイオンを持たない人類という種族の社会の中では。サイオンが無い人間たちの中では、不気味でしかない宙を飛ぶ積木。
最初の間は気味悪がって、まさか子供がやっているとは思わないのが人類だったけれど。
何度もそれが度重なったら、その内に気付く。積木が宙を飛んでゆく時には誰がいるのか、宙を飛ぶ積木で無邪気に遊んで、それが普通だと思っている子は誰なのか。
そうなれば分かる、この子は変だ、と。
ミュウという言葉は伏せられていたし、その存在も隠されていた時代だけれども、怪しい子供が見付かったならばユニバーサルに通報していた時代。
奇妙なことをする子供がいると、こんな子供を放っておいてもいいのだろうか、と。
あまりにも呆気なく知られてしまった子供たちのサイオン、楽しく遊んだ積木のせいで。此処に積もうと、こっちに置こうと動かしていた木のオモチャのせいで。
(前のぼくが悲鳴に気付いた時には…)
撃たれてしまった後だったりした、積木を動かすような子供はミュウかどうかを調べることさえ要らなかったから。サイオンがあるに決まっているから、通報されたら処分されるだけ。
流石に他の子供たちがいる幼稚園などでは撃たれないけれど、其処から家へと帰る途中で現れた大人に連れてゆかれて、それでおしまい。
何も知らない無垢な子供はユニバーサルから来た刺客とも気付かず、時には歩いて、時には車で一緒に移動し、人目につかない場所で撃たれた。彼らが取り出した処分用の銃で。
悲鳴を上げた子供はまだマシな方で、悲鳴も上げずに撃たれた子供もいただろう。何が起こっているのかも知らず、ニコニコと銃を見ている間に。
(そんな子供も、きっと沢山…)
ユニバーサルの通信を傍受していたシャングリラ。「処分終了」という通信だけが入ったことも多かった。通報から処分までの間が短かったら、彼らは遣り取りしないから。
サイオンの有無を確認する必要が無かった積木の場合は、現場へ急行して終わりだから。
実験用にと連行された子供は救えたけれども、救えなかった子供も多かった積木。
撃たれる直前に救い出せた子供はほんの僅かで、ごくごく運のいい子供だけだった。
(…だから、積木は…)
白いシャングリラにもあったけれども、悲しい玩具。
楽しく遊ぶ子供の方がもちろん多かったけれど、怖がる子供もたまにいた。積木のせいで自分が迎えた結末、それを知っていた子供たち。撃たれそうになった子供や、連行されてしまった子供。
積木のせいだと分かっていた子は、他の子供が遊んでいるのを遠くで見ていた。
自分も積木で遊んだけれども、積木は怖いと。恐ろしい人間がやって来るのが積木なのだと。
(そのままじゃホントに可哀相だし…)
怖がっている子も可哀相だし、撃たれてしまった子供たちも可哀相だから。白いシャングリラに迎えられなかった子供たちの分まで、積木遊びを存分に楽しんで欲しかったから。
そういう子供を目にした時には、「怖くないから」と積木遊びを教えてやった。前の自分の強いサイオン、それを惜しみなく披露して。
瞬間移動で箱からパッと移動させたり、一瞬で箱に仕舞ってみたり。
そこまでするのは無理だろうけれど、サイオンを使えばこんなことも出来る、と普通に積んだら崩れそうなバランスの悪い塔を作ったり、それは色々と。
何度もそうして遊んでやる内に、少しずつ笑顔になっていった子。
積木は怖くないらしい、と。
この船の中で遊ぶのだったら積木は安全、自分の力を好きに使っていい場所なのだ、と。
子供たちが遊んでいた積木。悲しい思い出を持っていた子も、積木でサイオンがあると発覚したくらいだから、サイオンでの積木遊びとなったら他の子たちより上手で得意。アッと言う間に積木遊びのリーダーになっていたりした。再び積木で遊び始めたら。
(前のハーレイも積木、やっていたっけ…)
大きな身体のキャプテンは子供たちに人気だったから。
養育部門に顔を出した時は、積木遊びの仲間入りもしていた。「こう積むんだぞ」とサイオンを使ったり、子供たちが作った立派な積木のお城を拳で一撃、見事に壊して喝采を浴びたり。
(ハーレイは積木は作ってないけど…)
木彫りを趣味にしていたハーレイ。お世辞にも上手いとは言えない腕前、ナキネズミを彫ったらウサギになってしまったくらい。今では宇宙遺産に指定されている木彫りのウサギに。
けれど、実用品なら、なんとか作れた。前の自分が貰ったスプーンがハーレイの最初の木彫りの作品。そういった品は仲間たちにも喜ばれたから、スプーンもフォークも彫っていた。
積木も実用品だと呼べそうなもので、高度な技術は多分、不要だろうけれど。
作りたい大きさや形に切った木、それを磨けば出来そうだけれど、ハーレイは作っていなかった積木。子供たちがさぞかし喜んだだろうに、キャプテンのお手製の積木ともなれば。
(作ってあげれば良かったのにね…?)
ケチなんだから、とクスッと笑った。
スプーンやフォークは大人が貰ってゆくものだから、御礼も言って貰えたけれども、子供たちのための積木では本当に御礼だけ。ハーレイの好きな酒が貰えることも無いだろうから、その辺りがいけなかっただろうか。
子供たちに積木をプレゼントしても良かったのに、とケチなキャプテンを思い浮かべる。下手の横好きとしか言えない腕前、実用品しか喜ばれなかったハーレイの木彫り。
同じ実用品を作るのだったら、積木だって…、とケチっぷりに苦笑したのだけれど。子供たちは御礼の品をくれないから、積木を作ってやらなかったなんて、と。
そう思って呆れていたのだけれども…。
(…あれ?)
そのハーレイが挑んでいたような気がする、積木作りに。
四角く切った木や三角の木や、そういった素材を大切そうに磨いて、引っ掛からないかと何度も手で撫でてみて。他の積木と並べて比べて、狂いが無いことを確かめながら。
子供たちは御礼をくれないのに。
積木を貰っても言葉の御礼しかくれはしなくて、ハーレイの好きな酒も、酒のつまみも、何一つくれはしないのに。
(…ハーレイ、ケチじゃなかったんだ…)
積木を作っていたのなら。子供たちのために作ったなら。
けれども、それはいつだったろう…?
前のハーレイが木彫りではなくて、積木作りに励んでいたのは、いつだっただろう…?
木彫りよりかは簡単そうでも、作る前に手間がかかりそうな積木。どういう形の積木を作るか、箱に収めるようにするなら、どんな形を組み合わせるか。
養育部門にあった積木の真似をするにしても、寸法を測る所から。この形で長さと幅がこう、と数値を書き出す所から。それに合わせて木を切っていって、削って、磨いて出来上がる積木。
スプーンやフォークとは違った代物、少し狂えば駄目になる積木。箱にピタリと収まらない上、積木の役目も果たせない。寸法通りに出来ていない積木を積めはしないし、遊べないから。
(…けっこう大変そうなんだけど…)
それほどの手間と時間とをかけて、前のハーレイが作った積木。子供たちのために作った積木。
自分も作るのを眺めていたのに、いつだったのかが思い出せない。ハーレイが積木を作っていた時期、それが一体いつだったのかが。
スプーンやフォークとは比較にならない時間がかかっていたろうに。
ブリッジで片手間に彫れはしないし、キャプテンの部屋で真剣に取り組んでいたのだろうに。
前のハーレイが頑張った積木。子供たちにプレゼントした積木。
いつ作ったのか思い出せない、と考え込んでいたら、仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。丁度良かったと、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「…あのね、積木を覚えてる?」
「はあ?」
積木ってなんだ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。鳶色の瞳に困惑の色。
「えっと…。シャングリラの積木なんだけど…」
怖がる子供たちもいたでしょ、積木遊びを。
…積木遊びでミュウだと分かって、処分されそうになっちゃった子供。撃たれそうな所を助けた子供や、実験用にって連れて行かれる所を助けた子供。
「いたな、お前が積木で遊んでやって…」
やっと遊べるようになったんだっけな、他の子たちと一緒に、積木。
「うん。積木は怖くなんかないよ、って遊んでみせて」
それでね、積木なんだけど…。
ハーレイ、木彫りもやっていたけど、積木を作っていなかった…?
「あ、ああ…。まあな」
やってやれないことはないだろう、と作ったな、積木。
…けっこう苦労をしたんだが…。思った以上に大変だったが、積木は確かに作ったぞ。
「やっぱり…!」
ぼくの記憶違いじゃなかったんだね、ハーレイの積木。
作ってた時期が思い出せなくて、ちょっぴり自信が無くなってたけど…。
ハーレイ、ホントに作ったんだね、シャングリラの子供たちのために積木を。
いつ作ったの、と尋ねたら。
あの積木を作っていたのはいつだったのか、と勢い込んで問いを投げ掛けたら。
「…一人、死んじまった時のことさ」
「え…?」
思いもよらなかったハーレイの答え。死んだとは、誰のことだろう…?
ハーレイが作っていた積木。三角や四角のオモチャとは結び付かない「死」という言葉。
「…忘れちまったか? 悲しい記憶だし、その方がいいとは思うがな…」
今のお前には要らない記憶だ、前のお前の悲しすぎた記憶の中の一つだ。
…そうは言っても、お前、聞かなきゃ納得しないだろうからな。
そんな所は前と同じだ、頑固で決して譲りやしない。…だから話すしかないんだろう。お前には悲しい記憶なんだが、こうして訊かれてしまったからには。
…死んじまったのはミュウの子供だ、アルテメシアで暮らしてた子供。
積木遊びでサイオンがバレて、ユニバーサルに通報されて…。
前のお前が救い損ねた、撃ち殺されちまう直前まで悲鳴を上げなかったとかで。自分が置かれた状況ってヤツが分かっていなくて、銃を向けられるまで何も知らなかった子供。
あと少し早く気付いていたら、と泣いてたろうが。
銃を向けられただろう瞬間、そこで気付いて飛び出していれば、と。
これで何人目になるんだろうかと、また一人助け損なった、と…。
お前と恋人同士になった後の最初の犠牲者だった、と悲しげに歪むハーレイの顔。
だから放っておけなかった、と。
「…俺の腕の中で毎晩泣くんだ、お前がな」
自分はこうして此処にいるのに、あの子は何処にもいないんだ、と。
助け損ねたから死んでしまったと、これから育って楽しいことが沢山あった筈なのに、とな…。
「そうだったっけね…」
思い出したよ、あの子の顔も名前も。
シャングリラの仲間じゃなかったけれども、墓碑公園に名前があった子だっけ…。
ハーレイ、作ってくれたんだっけね、あの子が生きた記念に積木を。
あの子が何も知らずに遊んでた積木、大好きだった積木遊びの積木を作ってやろう、って。
「うむ。…正直な所、かなり苦労をしたんだがなあ、あの積木」
木彫りと違って僅かな狂いが命取りだし、とんだことになったと思いもしたが…。
それでも作ってやりたかったし、始めたからには投げ出せないしな。
お前と二人で考えたじゃないか、どんな積木にするのかっていう所から。
あの子が家で遊んだ積木のデータってヤツを、前のお前が手に入れて来て…。
そいつを元にして作ったんだぞ、そっくり同じになるように。
まるで全くそっくりな積木、寸法も形も、木の色がそのままで色つきじゃなかった所までな。
殺されてしまった子供のお気に入りだった、木の色と温もりが優しかった積木。
本物の積木はユニバーサルが運び出して処分してしまったけれども、データは消されずに残っていたから。子供の養父母が暮らしている家、その家の記録に入っていたから。
前の自分が盗み出したのだった、積木のデータを。寸法も、形も、その色合いも。
ハーレイはそれを元にして新しい積木を作った、シャングリラで育てた木材を使って。白い鯨で栽培していた、木材にするための木から採れた素材で。
三角や四角、何種類もの形と大きさ。それに合うよう、寸法を測って、きちんと切って。
積木にするために切り取った木たち、三角や四角の形をした木。
それが好きだった子が入れていたのと同じ大きさの箱も作って、その箱に綺麗に収まるように。少しの狂いも出ずにピタリと箱に片付けられるよう。
木がささくれ立って子供たちが手を怪我しないようにと、角なども丁寧に丸くして。
ハーレイが幾つもの積木用の木を切って、磨いて。
何度も何度も手で撫でさすって、「これで大丈夫ですね」と微笑むまでには、相当に長い時間がかかった。木彫りが幾つ作れるだろう、と前の自分が思ったくらいに。
キャプテンの部屋でハーレイが作っていた積木。仕上げの磨きを何度も重ねていた積木。
そうやって出来上がった積木の箱に、元になった積木の持ち主だった子の名前は書かずにおいたけれども。殺されたミュウの子供は何人もいたし、特別扱いは出来なかったけれど。
今までに救い損ねた子供たちの分も、と「子供用」とハーレイが箱に大きく書いた。積木遊びでミュウだと気付かれ、殺されてしまった子供たちの思い出にしておこう、と。
積木は子供用で当たり前なのに。
わざわざ「子供用」と箱に書かなくても、大人たちが来て横から奪いはしないのに。
キャプテンお手製の積木は人気で、子供たちは誰もが遊びたがって。
他に積木は幾つもあるのに、奪い合いだったハーレイの積木。「子供用」と書かれていた積木。
順番待ちだと年かさの子が言い聞かせていることもあったし、喧嘩になっていたこともあった。どうしても自分が遊びたいのだ、と譲らない子供同士で大喧嘩。
子供たちは加減を知らずに喧嘩をするから、積木は空を飛んだりもした。サイオンや小さな手で掴み出されて、喧嘩相手の身体を目がけて。
もちろん叱られた子供たち。
養育部門のスタッフたちやら、怖い顔をしたヒルマンやらに。
「そんなことをするなら積木は駄目だ」と、「倉庫に仕舞っておくことにする」と。
そうなる度に泣いて謝った子供たちだけれど、また懲りないで喧嘩をしていた。
「キャプテンの積木で遊ぶのは自分だ」と、「今日は自分が遊ぶ番だ」と、それは賑やかに。
大人気だった前のハーレイが作った積木。
積木遊びでサイオンがあると知られてしまって、殺された子供たちがいたという証の積木。
「…あの積木、どうなったんだっけ?」
前のぼくが子供たちと遊んでいた頃には、養育部門に置いてあったけど…。
キャプテンが作った積木なんだ、って子供たちも知っていたけれど…。
「あれはトォニィの時代まであったぞ、少なくともトォニィがガキの頃には」
ナスカが平和だった頃だな、ヤツらがナキネズミの尻尾を掴んで持ち上げてたようなガキの頃。
レインもとんだ災難だったさ、尻尾を掴まれて逆さ吊りだぞ。
そういうヤツらが遊んでたってな、あの積木で。
「…本当に?」
ハーレイの積木、トォニィたちも使ってたんだ?
「ああ、久しぶりの子供たちだしな」
アルテメシアを離れちまって、子供の救出はもう無かったし…。
積木で遊んでいたユウイやカリナも、すっかり大きくなっちまって。
ようやく出番が来たってトコだな、長いこと養育部門と一緒に放っておかれた積木ってヤツの。
「そうなんだ…」
考えてみれば十五年だものね、前のぼくが眠っていた間。
アルテメシアを出てからナスカに着くまでに十年以上も経ってるんだし、子供たちだって大きく育ってしまうよね。積木なんかでは遊ばなくなって。
…ハーレイの積木、それでもきちんと何処かに残してあったんだね…。
アルテメシアを離れた白いシャングリラの片隅で眠っていただろう積木。
前のハーレイが作り上げた積木、「子供用」と箱に大きく書かれていた積木。
赤いナスカで生まれた子たちは知っていただろうか、その箱の積木が作られた理由を。
誰が作って子供たちのために与えたのかを、どんな思いがこめられた積木だったのかを。
「…トォニィたち、知っていたのかな…?」
あの積木は誰の思い出だったか、誰が作った積木だったのか。
「まるで知らなかったってことは無かっただろうな」
由来の方まではどうだか知らんが、俺が作った積木だってことは知ってた筈だぞ。
「そうなの?」
「俺は直接教えちゃいないが、養育部門のヤツらは積木を知ってたわけだし」
大人気だったキャプテンの積木がこれだ、ってことはシャングリラのヤツなら誰でも知ってる。
トォニィたちにも話しただろうな、この積木は俺の手作りなんだ、と。
凄い人気の積木だったと、自分たちが育った頃には奪い合いの喧嘩もあったヤツだと。
「じゃあ、トォニィたちは、ぼくとハーレイが作った積木で遊んでくれたの?」
…ぼくはデータを盗み出しただけで、積木を作ったのはハーレイだけど…。
ちゃんと積木にしてくれたのは、前のハーレイなんだけど…。
「そうなるな。前のお前と俺が作った積木がヤツらのオモチャだったんだ」
レインの尻尾を掴んで逆さ吊りにするようなヤツらだからなあ、積木も空を飛んでたろうさ。
奪い合いでなくても、喧嘩をするなら投げてしまえとサイオンでブンと。
でなけりゃ握ってブンと投げるか、そしてヒルマンたちが説教だな、うん。
あの頃はトォニィたちも可愛いもんだったが…、と笑うハーレイ。
見た目も中身もほんの子供で、ヒルマンたちの雷が落ちたらベソもかいた、と。
「実に可愛い時代だったな、デカくなったら物騒なことも考えてたが」
みんな殺してシャングリラを乗っ取ってしまおうかだとか、ガキならではの発想だ。
聞こえちゃいないつもりだったんだろうが、ヤツらの溜まり場、ちゃんと把握はしてたしな?
ジョミーじゃなくても筒抜けだってな、あの物騒な台詞ってヤツは。
「…そうだったよね…」
前のぼくはとっくに死んじゃってたけど、ハーレイが聞いて覚えていたし…。
今のぼくにもバレちゃっているよ、その台詞は。
…でも、やらなかったよね、ナスカの子たち。皆殺しにまではしないとしたって、目障りな人は殺しちゃえ、って思いそうだけど…。それだけの力もあっただろうけど。
それをしないでシャングリラに乗っていてくれたんだし、ハーレイが作った積木にこもっていた気持ちも少しは役立ったのかな、仲間を大切にしたかった気持ち。
シャングリラに乗ってる子供たちのために、って遊び道具を作った気持ちも。
「…多分な。あいつらなりに理解はしてたんだろうさ」
俺が作った積木で遊んだ子供時代は、誰のお蔭で存在したのか、そのくらいのことは。
前のお前がシャングリラを守って、子供たちを大勢救い出して。
…ユウイもカリナも、ハロルドもだ、シャングリラに来ることが出来なかったら殺されていた。
自分の親たちが何処から来たのか、それを考えたら無茶は出来んぞ、トォニィたちも。
「だったら、積木を作っておいて良かったね」
トォニィたちのお父さんたちも、小さい頃にはあの積木で遊んでいたんだし…。
沢山の思い出が詰まった積木を乗せていた船がどれだけ大事か、それも分かっただろうしね。
「そうだったんだろうな、あの積木も役には立ったんだろう」
前の俺があれを作った理由は、悲しい理由だったがな…。
楽しい筈の積木遊びでサイオンがあるとバレてしまって、殺されちまった子供たちを忘れないでいてやるためにと作った積木だったんだがな…。
前の自分が救い損ねた子供たち。
ミュウだと断定されてしまった積木遊びで通報された子たち、救い出す暇さえ無かった子たち。
けれど、悲しい最期を迎えた子供たちの分まで、未来は生まれた。
あの子供たちを思ってハーレイが作った積木で遊んで育った、ナスカの子たちが未来を作った。前の自分がメギドを沈めて守り抜いた白いシャングリラを地球まで導いてくれた。
ジョミーだけでは勝てなかったかもしれない地球を目指しての戦いの旅路、トォニィたちが命を懸けて勝ち取ってくれた地球までの道。
白い鯨は地球に辿り着き、SD体制の時代は終わった。死の星だった地球は燃え上がり、炎から再び青い命の星が生まれた。まるで炎の中から蘇るという不死鳥のように、青い水の星が。
人類と機械が支配していた時代も終わった、ミュウの時代の幕が開いた。
積木遊びを楽しむ子供が殺されることの無い時代。
サイオンでヒョイと積木を積んでも、箱から出しても、器用だと却って褒められる時代。
今の自分は積木遊びも出来ないくらいに不器用だけれど、手でしか積木を積めないけれど。
「ねえ、ハーレイ。あの子たちはどうしているんだろう…」
前のぼくがシャングリラに連れて来られなかった、積木遊びでバレてしまって殺された子たち。
サイオンって言葉も知らずに遊んで、そのせいで殺されちゃった積木の子供たち…。
「なあに、心配要らないってな。今はすっかりミュウの時代だ」
何処かにいるさ、俺たちみたいに。
前の記憶は失くしちまっているんだろうが、この宇宙の何処かにいる筈だぞ。
もしも子供の姿でいるなら、今度は楽しく積木遊びをしているだろうな。手で積む友達を馬鹿にしながら、こう積むもんだ、とサイオンで積んで。
積木遊びじゃ自分が一番才能があると、それは得意そうな顔をしてな。
今は積木で好きなだけ遊べる時代だからな、とハーレイは自信たっぷりだから。
あの子供たちも、きっと幸せでいるのだろう。
自分たちのように生まれ変わって、今度は好きに積木を積んで。サイオンを器用に使う子供だと皆に褒められて、もっと上手に積めるようになろうと頑張って。
だから…。
「…ハーレイ、積木、また作ってくれる?」
前のハーレイが作ったみたいに、温かで優しい手触りの積木。
「積木って…。なんのためにだ?」
何をするんだ、積木なんかで。…欲しいと言うなら、作れるかどうか考えはするが…。
「ぼくのサイオンの練習用だよ」
今の積木はそういうものでしょ、サイオンの練習用にもどうぞ、って書いてあったよ、広告に。
ハーレイが作ってくれた積木なら、買った積木よりも愛がこもっている分、頑張れるかも…。
ぼくは積木を浮かせることさえ出来ないけれども、また積めるようになれるかも…。
「おいおい、頑張らなくてもいいと言ったろ」
サイオンの練習用の積木なんかは、今のお前には要らないんだ。
今の不器用なお前でいいんだ、頑張ることはないってな。
つまりだ、俺の積木も要らない。サイオンを伸ばすための積木は無くていいんだ、今のお前は。
今度は俺が守るんだから、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
サイオンを伸ばす必要は無いと、だから積木は作らないぞ、と。
(ハーレイの積木…)
今の時代なら、あの子供たちも幸せ一杯で積んでいそうな幾つもの積木。サイオンで幾つも高く積んでは、褒められていそうな積木遊び。
そういう子供たちのためにと前のハーレイが心をこめて作った積木も、今なら幸せの積木。
子供たちへの愛が詰まった、手作りで温もりのある積木。
そんな幸せの積木が欲しい気持ちもするけれど。
欲しいと思ってしまうのだけれど、幸せだったらハーレイから沢山、沢山貰えるのだから。
いつかハーレイと結婚したなら、両手を一杯に広げたとしても持ち切れないほど、零れるほどの幸せを貰えるに決まっているのだから。
前のハーレイが作ったような積木は作って貰えなくても…。
(…ぼく、幸せで一杯だよね?)
ハーレイと二人、積木売り場であれこれ眺めて、指差したりして。
「買ってくれる?」と強請ったりもして、「要らないだろうが」とコツンと額を小突かれて。
そう、今は積木はもう要らない。
サイオンでは積めもしないけれども、それでいいのだとハーレイが言ってくれるから。
今度は守って貰えるのだから、サイオンは伸ばさなくていい。
ハーレイと二人、手を繋ぎ合って何処までも歩いてゆくのだから。
積木遊びで殺されてしまった悲しい子たちも、幸せに生きているだろう時代。
幸せが満ちた今の時代で、青い地球の上で、ハーレイと二人、幸せに生きてゆくのだから…。
子供用の積木・了
※サイオンの訓練には、ピッタリの積木。けれどミュウが処分された時代は、沢山の悲劇が。
そんな時代に、前のハーレイが作った積木。シャングリラの子たちに愛された玩具。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
新しい年が明け、シャングリラ学園も三学期スタート。お雑煮大食い大会に水中かるた大会と続いたイベントも一段落して、今日は土曜日なんですけれど。雪がちらつく中、いつものように出掛けた会長さんの家でキース君が両手をせっせとマッサージ中で。
「何やってんだよ、さっきから?」
サム君が声を掛けました。
「コーヒーとケーキじゃ身体が温まらねえってか?」
「いや、そういうわけではないんだが…。おふくろが言うには小まめなマッサージが大切で」
でないと肌荒れが酷くなるとか、とマッサージしたりツボを押したり。
「肌荒れって…。キースは何を目指しているわけ?」
ジョミー君の疑問は私たち全員に共通でした。霜焼け予防というならともかく、肌荒れだなんて言われても…。
「何か勘違いをしているな? 俺は美肌を求めちゃいないぞ。要は荒れなきゃいいだけだ!」
「荒れそうなことをしてるのかよ?」
水仕事とか、というサム君の問いに「まあな」と返事が。
「古い仏具の手入れをやってる。磨く作業も手が荒れるんだが、仏具の箱も埃を被っているからなあ…。細かい埃は手が荒れるんだぞ」
埃が皮脂を吸い取るらしい、という話。それにしたって、お正月早々、大掃除ですか?
「大掃除ってわけじゃないんだが…。そいつは暮れに済ませてるんだが、蔵の中まではやらないからな。そこへ親父がロクでもないことを思い付きやがって」
「仏具磨きかよ?」
立派じゃねえか、とサム君が。
「お前の家、色々ありそうだしなあ…。やっぱり手入れは大切だよな」
「それは分かるんだが、こんな季節に思い付かないで欲しかったんだ! いくらシーズンだからと言っても!」
「「「シーズン?」」」
仏具の手入れにシーズンなんかがあるのでしょうか。あるとしたって、新年早々って何やらおかしくないですか?
「どちらかと言えば、古い道具のシーズンなんだ!」
「「「古い…?」」」
ますます意味が分かりません。古道具って今頃がシーズンでしたか?
シーズンだからと仏具の手入れを思い付いたらしいアドス和尚。キース君の手が荒れそうなほどに手入れさせてるらしいですけど、いったいどういうシーズンなのか。虫干しだったら夏のものですが、冬にも何かあるのでしょうか?
「大事にしている道具と言うより、忘れ去られた道具の方だな。今がシーズンの道具といえば」
それで親父が思い付いた、と言われても謎。古道具の買い取りは冬がいいとか、そういうの?
「買い取りに回す方ならまだいい。忘れて仕舞い込んだままって方のが問題なんだ」
「「「えっ?」」」
「そういう道具が反乱を起こす。そう言われている季節だな、今は」
「なるほどねえ…」
やっと分かった、と会長さんが。
「いわゆるアレだね、付喪神だろ? アドス和尚が言ってるヤツは」
「流石だな。あんた、やっぱりダテではないな」
「そりゃねえ…。銀青の名前を背負うからには、そういったことも知っておかないとね」
知識は豊富な方がいい、と会長さんは私たちをグルリと見渡して。
「付喪神っていうのは分かるかい? 古い道具に魂が宿った神様と言うか、妖怪と言うか…」
「ええ、聞いたことはありますね」
見たことはまだ無いんですが…、とシロエ君。
「その付喪神がどうかしましたか?」
「放っておかれた古い道具が付喪神になると、夜中に出てって行列をすると言われてる。他の妖怪とかと一緒に」
「「「行列?」」」
「百鬼夜行というヤツだけれど、知らないかな?」
こう妖怪がゾロゾロと…、と言われてみれば、噂くらいは知っていました。目撃談までは知りませんけど、そういったものがあるらしいことは。
「その百鬼夜行。お正月に出るって話もあるんだ、他にも出る日はあるらしいけどさ」
「「「お正月?」」」
「そう、一月」
だからシーズン、と会長さん。
「今の時期に手入れを怠っていたら、百鬼夜行をやりかねないっていうことさ」
「「「あー…」」」
それで仏具の手入れなのか、と納得しました。お正月早々、ご苦労様です、キース君…。
古い仏具が付喪神になって百鬼夜行に出掛けないよう、せっせと手入れ。肌荒れ防止にマッサージまでが必要だなんて、キース君もなかなか大変そうです。だけど百鬼夜行に古道具なんかが混じってるんだ…。
「知らないかい? 履物なんかも混じるらしいよ、百鬼夜行は」
「「「履物…」」」
それのどの辺が妖怪なのだ、という気もしますが、自力走行している履物だったら充分に妖怪かもしれません。あまり怖そうには思えませんけど…。
「いや、甘いぞ。百鬼夜行に出会うと祟ると言うからな」
キース君が言って、会長さんも。
「そうだよ、百鬼夜行に出くわした時に唱える呪文もあるくらいだしね。ウッカリ出会うと病気になるとか言われているねえ、昔からね」
「そういうことだ。だからウチの仏具が世間様に御迷惑をかけないように手入れしておけ、と親父が屁理屈をこね始める。いきなり思い付きやがったくせに、偉そうに!」
何年放ってある仏具なんだ、とキース君は文句たらたら。
「おまけに使わずに放っておいたら付喪神で百鬼夜行なコースが待っているだけに、磨いた後には形だけでも使わねばならん。まったくもって迷惑な…」
「へえ…。使わないと妖怪になるのかい?」
「そういうわけだが…。って、何処から湧いた!」
いつの間に、とキース君が叫んだのも全く不思議ではなく、ソルジャーが部屋に立っていました。紫のマントを翻して部屋を横切り、空いていたソファに腰を下ろして。
「ぶるぅ、ぼくにもケーキと飲み物!」
「かみお~ん♪ いつもの紅茶でいいんだよね!」
待っててねー! とキッチンに跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。御注文の品が揃うと、ソルジャーは早速、フランボワーズのロールケーキにフォークを入れながら。
「さっきの付喪神だけど…。古い道具を使わずにいると、妖怪になってしまうのかい?」
「まあ、そうだが。…もっとも、俺は現場を見たわけじゃないが」
「ぼくも履物とかは見ないねえ…」
それっぽいモノの噂だったら何回か、と会長さんとキース君の二人が答えると。
「そうなんだ…。だとするとハーレイ、危険じゃないかな?」
「「「はあ?」」」
古い道具を使わずにいると付喪神。それで「ハーレイが危険」だなんて、キャプテン、何かの道具を使わずに放置してるんですか…?
古い道具を使わずにいると付喪神になり、妖怪に混じって百鬼夜行をするという話。ソルジャーの世界に百鬼夜行があるかどうかはともかくとして、キャプテンは付喪神になりそうな古い道具を放っているっていうわけですよね?
「ううん、ぼくのハーレイのことじゃなくって…。こっちのハーレイ」
「「「教頭先生!?」」」
教頭先生がどう危険なのか、サッパリ分かりませんでした。会長さんと同じで三百年以上も生きてらっしゃるらしいですけど、古い道具を放置かどうかが何故ソルジャーに分かるのでしょう?
「え、だって。放置したままで三百年は軽いと思うよ、使っていないし」
「何をさ?」
ハーレイの家ならそんなに古くはないけれど、と会長さんが切り返しました。
「それにハーレイ、ああ見えてけっこうマメな方でね…。いつかはぼくと結婚しよう、と馬鹿げた夢を抱いているから、それに備えて整理整頓!」
古道具の放置は有り得ない、という見解、古い道具も大事にお手入れ。
「ロマンティックな雰囲気を…、と買い込んだような家財道具もあるからね。そういったものは二度と手に入らない可能性も高いし、きちんと手入れを欠かさないってね」
「そういう道具のことじゃなくって…。ホントにまるで使ってないのがあるだろう?」
未だにデビュー戦の予定すら無い、とソルジャーはフウと溜息を。
「せっかく立派なのを持っているのに、童貞だなんて…。初めては君だと決めているから使わないなんて、あれが道具の放置でなければ何なんだと!」
「「「………」」」
ソルジャーの言う「道具」とやらが何のことなのか、私たちにも辛うじて理解出来ました。教頭先生の大事な部分で、会長さんへの愛が認められない限りは絶対に出番が無い部分。
「ぼくが思うに、あれだって古い道具だよ? こっちのハーレイ、ぼくのハーレイよりも百歳ほどは年上なんだし!」
なのに一度も使っていない、とソルジャーは指摘。
「このまま放置じゃ、付喪神になるんじゃないのかい? アレも」
「ハーレイのアレが付喪神になると?」
会長さんがポカンと口を開けましたが、ソルジャーの方は大真面目に。
「ぼくは危ないと思うんだけど? だって使っていないんだよ?」
三百年以上も放置の古道具だ、などと言ってますけど、それは確かにそうかもですねえ…。
付喪神の危機らしい、教頭先生の大事な部分。そんな危険は誰も一度も考えておらず、会長さんだって呆れ顔ですが、ソルジャーは危ないと思ったようで。
「もしもアレがさ、付喪神になったらどうなるんだい? うんと大きくなるだとか?」
妖怪だしね、という解釈。
「大きいっていうのは素敵だけれどさ、入り切らないほどの大きさになると厄介だよねえ…」
入れてなんぼだ、と頭を振っているソルジャー。
「もしも入れられないサイズになったら、それはもう使うどころでは…」
「そういう以前に、家出するから!」
会長さんが割って入りました。
「付喪神になった道具は百鬼夜行に出掛けるんだよ、夜の巷を練り歩くんだよ!」
「百鬼夜行?」
何だいそれは、とソルジャーの赤い瞳が真ん丸に。
「練り歩くって…。ハーレイのアレがかい?」
「いや、アレだけってわけじゃなくって…。他の色々な付喪神とか、妖怪だとかがゾロゾロとね」
言わば妖怪の大行進だ、と会長さん。
「そういう集いに出掛けちゃうから、一度行ったら二度と戻って来ないかもねえ…」
「アレが家出を!?」
そして戻って来ないんだ、とソルジャーは驚愕の表情で。
「だったら、ハーレイ、どうなっちゃうわけ? 君との結婚とかの未来は?」
「アレが無いなら、もう手の打ちようが無いってね!」
肝心要のアレが無いんじゃあ…、と会長さんは手をヒラヒラと。
「だから全然かまわないんだよ、ハーレイのアレが家出しようが、付喪神になってしまおうが! ぼくとは縁がスッパリ切れるし、もう言い寄っても来ないしねえ…」
付喪神万歳! と会長さんは指をパチンと鳴らして。
「うん、これも何かの縁かもしれない。ハーレイのアレには付喪神になって貰おうかな?」
「「「は?」」」
「付喪神だよ、使われてもいない古道具だろう?」
この際、付喪神になって家出を! と会長さんの唇が笑みの形に。
「家出した上に百鬼夜行とお洒落に決めて貰おうか。そうすれば当分、大人しいかも…」
うん、いいかも、とか頷いてますが。古い道具を放置した末に出来てしまうのが付喪神。それって簡単に出来るものですか、しかも他人が手出しして…?
教頭先生の大事な部分を付喪神に、と恐ろしいことを言い出した会長さん。家出させた上に百鬼夜行だと言ってますけど、そんなことが本当に可能でしょうか?
「家出に百鬼夜行だなんて…」
出来るのかい? とソルジャーも不思議に思った様子。
「付喪神を作る技術があるとか言わないだろうね?」
「いくらぼくでも、そっちの方はね…。逆の方なら出来るけどさ」
「逆?」
「付喪神になってしまった物をね、御祈祷で鎮めることなら可能。それだけの力は持っているけど、逆に言ったら付喪神なんかを作っちゃ駄目だということになるね」
それは坊主の道に反する、と会長さん。
「坊主は供養をしてなんぼ! 付喪神を鎮めてなんぼなんだし、その逆はマズイ」
「だったら、ハーレイのアレを付喪神にしたらヤバくないかい?」
「本当に本物の付喪神ならヤバイけどねえ…」
偽物であれば大丈夫! と会長さんは指を一本立てました。
「要はハーレイが思い込んだらいいわけだしね? 家出されたと、百鬼夜行に行ってしまったと」
「それって、まさか…」
「そのまさかだよ。サイオニック・ドリームに決まっているだろう!」
腕によりをかけてプレゼントする、と会長さんの瞳がキラリと。
「うんと反省すればいいんだ、肝心の部分が無くなって…ね。真っ青になって慌てればいいさ、家出と百鬼夜行に参加で!」
「反省ねえ…。これからはちゃんと使います、って?」
「さあ…? ぼくに土下座をするのもいいねえ、とにかくアレを連れ戻してくれ、と!」
面白いことになりそうだ、と会長さんはワクワクしているようで、ソルジャーの方も。
「うーん…。たまにはそういうスパイスもいいか、甘いだけじゃなくて」
「「「スパイス?」」」
「愛のスパイス! 甘いだけでは芸が無いってね!」
危機感を煽るのもまた良きかな、とソルジャーの赤い瞳も輝いていて。
「結婚どころか二度と出来なくなっちゃうかも、というほどの経験をしたら、ハーレイの今後も変わって来るかも…。もっと真面目にブルーと向き合うとか、そういうの!」
「ぼくは嬉しくないけどね?」
「でも、前段階の方は最高なんだろ?」
アソコが家出で百鬼夜行で、とソルジャーまでがすっかり乗り気。教頭先生の大事な部分は付喪神になってしまうのでしょうか…?
会長さんとソルジャー、意気投合。教頭先生のアソコを付喪神にするべく打ち合わせが始まり、昼食のお好み焼きパーティーの間も良からぬ計画を進めた挙句に。
「よし! それじゃ最初は君に任せた!」
会長さんがソルジャーと手を打ち合わせて、ソルジャーが。
「任せといてよ、鼻血の海に沈めてやればいいんだろう? さも協力するようなふりをして!」
「うん。鼻血で昏倒している間にサイオニック・ドリームをかけてやるから!」
「そして今夜は百鬼夜行にお出掛けなんだね、アソコがね!」
是非とも見学しなければ、とソルジャーは実に楽しそうです。
「ぼくのハーレイ、今日は夜勤のクルーの視察が入っているからさ…。夫婦の時間が取れそうになくて、つまらないなと思っていたんだ。その分、たっぷり遊べそうだよ」
「なるほどねえ…。それで余計に乗り気だった、と」
ならば一緒に楽しもう、と会長さんはソルジャーとガッチリ握手。
「ブルーも協力してくれるそうだし、君たちももちろん見学するよね? 百鬼夜行を!」
「「「は?」」」
「ハーレイに何が見えているのか、ちゃんと中継してあげるから! 今夜はお泊まり!」
ぼくの家に、とズイと迫られ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ お泊まり用の荷物を取りに帰るなら、送り迎えもするからね!」
「ほらね、ぶるぅもこう言ってるし!」
食事が済んだら一度帰って支度をしたまえ、と会長さんが。
「俺の仏具磨きと手入れはどうなるんだ?」
「サボリでいいだろ、銀青のお手伝いなら堂々とサボリで済むんだからさ」
「そう来たか…。ならば一筆、書いてくれるか?」
「もちろん、お安い御用だよ!」
会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が持って来た便箋にサラサラとペンで何かを書き付け、それを受け取ったキース君が。
「有難い。これで親父も納得だ」
「そうだろう? それを見せれば仏具磨きも一日くらいは吹っ飛ぶってね!」
玄関から遊びに出掛けられる、と保証付き。付喪神計画の発端となったキース君の仏具の手入れは一時中断みたいですけど、代わりに教頭先生の大事な所が付喪神になってしまいそう。会長さんの家でお泊まりはとっても楽しみとはいえ、教頭先生、大丈夫かな…。
昼食の後で、家まで瞬間移動で送って貰って、お泊まり用の荷物を用意。完了した人から順に戻って、キース君が最後に戻って来ました。会長さんへの御布施を持って。
「親父からだ。泊まりで所作の指導をして頂けるとは…、と大感激でな」
「それはどうも。…嘘も方便ってね」
ついでに坊主丸儲け、と会長さんは御布施の袋を仕舞い込むと。
「これで全員揃ったわけだし、出掛けようか。行き先はハーレイの家だけど…」
「君たちはシールドの中にいるのがいいねえ、付喪神には全く関係ないからね!」
それがお勧め、とソルジャーが。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はシールドの外にいるらしいですが、何も分からないお子様なだけに、まるで問題無いらしく…。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
元気一杯の叫びと同時にパアアッと溢れる青いサイオン。私たちの身体がフワリと浮き上がり、教頭先生の家のリビングに着地したものの。
「こんにちは」
お邪魔するよ、と会長さんが進み出、ソルジャーも隣で「こんにちは」と。「そるじゃぁ・ぶるぅ」もピョンと飛び跳ねて「かみお~ん♪」です。けれども私たち七人グループはシールドの中で、教頭先生からは見えていないため、挨拶は無し。
「なんだ、今日は?」
人数が少なめだったからでしょうか、教頭先生は仰け反ったりはしませんでした。余裕でお迎え、いそいそと紅茶を淹れて、クッキーも出しておもてなし。
「悪いね、急にお邪魔しちゃって」
「かまわんが…。それでどういう用なんだ?」
「ちょっとね…。ブルーが気がかりなことを言い出したから…」
付喪神を知っているかい、と会長さんが尋ねると。
「これでも古典の教師だぞ? 付喪神が何処かに出たというのか?」
「ううん、これから出そうなんだよ、困ったことに」
「お前でもどうにも出来ないのか、それは?」
「なっちゃった時はそれなりに対処出来るんだけどねえ…」
なにしろ予防が出来なくて、と会長さん。
「どういう代物が付喪神になるか、君は知ってる?」
「使われていない古道具だろう?」
使ってやれば予防になると思うが、と教頭先生。それが普通の解答でしょうねえ…。
付喪神が出そうだから、と教頭先生の家に押し掛けた会長さんとソルジャー、それにオマケの「そるじゃぁ・ぶるぅ」。教頭先生は真っ当な付喪神予防の対策法を口にしましたが、会長さんは。
「使ってやったら付喪神にはならないんだけど…。なにしろ使えないものだから…」
「危険物か?」
取り扱いが難しいのか、と教頭先生が訊いて、会長さんが「うん」と。
「少なくとも、ぼくには使えない。扱えもしないし、こればっかりは…。でもねえ、ブルーに危ないと言われればその通りなんだ。付喪神になるリスクの高さが」
「リスク?」
「そう。もう今夜にでもなってもおかしくないくらい!」
それほどに危険が迫っているのだ、と話す会長さんの言葉に続いてソルジャーが。
「ぼくが来た時、キースが付喪神の話をしていてねえ…。古い仏具が付喪神にならないように、と仏具磨きをさせられているとぼやいていたんだ」
「ああ、それは…。そういった仏具も王道ですねえ、付喪神の」
「そうなのかい? ぼくは付喪神っていうのを知らなかったし、どういうものかを教わったんだけど…。何か分かったら急に心配になっちゃって…」
付喪神になりそうなモノに気が付いたから、とソルジャーは顔を曇らせました。
「三百年以上も放置の道具って、どう思う?」
「それは非常に危険なのでは…。あなたの世界にあるのですか?」
「こっちの世界なんだけど…。ぼくにも馴染みが深いものと言うか、みすみす付喪神にしてしまうのもどうかと言うか…」
「お使いになればいいと思いますよ?」
それが一番の解決策です、と教頭先生はにこやかな笑み。
「愛情をこめて使ってやれば、付喪神にはならないそうです。三百年以上と仰るからには、恐らくブルーが放置している何かでしょうが…。ご心配なら、借りてお使いになってみるとか」
「やっぱり君もそう思う?」
「ええ。使ってやるのが何よりです。道具もそれで喜びますから、付喪神にはなりませんとも」
持ち主でなくとも借りた誰かが使ってやれば…、と教頭先生。ソルジャーは「うーん…」と腕組みをすると。
「だったら、使うのがお勧めなんだね、その古道具?」
「付喪神にしたくないなら、お使いになることをお勧めしますよ」
道具のためにも是非とも使ってやって下さい、と教頭先生は仰っていますが、いいのでしょうか? その古道具は会長さんの持ち物なんかじゃないんですけどね…?
「そうか、使うのが一番なんだ…。君のお勧め…」
それじゃあ、とソルジャーは教頭先生の顔をじっと見詰めて。
「後でいいから、ぼくに付き合ってくれるかな? 借りて使ってもいいみたいだし」
「は?」
「ぼくが心配だって言ってる付喪神。君にくっついているんだよねえ…」
「私にですか!?」
教頭先生はビックリ仰天、キョロキョロとあちこちに視線をやって。
「わ、私の家には付喪神になりそうな古道具は無いと思うのですが…! 古い道具は定期的に磨いたり使ったりしておりますから、決して付喪神などには…!」
「家にある道具は大丈夫だろうと思うんだよ。でも、肝心の君自身がねえ…」
使ってもいない道具をくっつけているじゃないか、とソルジャーの右手がテーブルの下へ。
「何処とはハッキリ言わないけれどさ、男だったら使ってなんぼ! ところが君は後生大事に使わないまま、三百年以上も経ってるし…。そろそろ危ない頃じゃないかと…」
「なんですって!?」
まさか、と自分の股間を見下ろす教頭先生。ソルジャーは「そう」と首を縦に振って。
「それだよ、君が使っていないモノ! これからも使う予定が無いもの!」
「こ、これは…! し、しかし、私は初めての相手はブルーだと決めておりまして…!」
「そう言ってる間に付喪神にならないって保証があるのかい?」
「…そ、それは…」
どうでしょうか、と教頭先生は些か心配になって来たようで。不安そうな瞳が会長さんに向けられ、会長さんがキッパリと。
「絶対に無いとは言い切れないねえ、それも道具には違いないしね? だけどぼくにはどうしようもないし、どうしてあげるつもりもないから…。心配だったらブルーの方に」
「任せてくれたら面倒見るよ? 手取り足取り、君の道具にしっかり付喪神対策を!」
使うのが君のお勧めだろう、とソルジャーは喉をゴクリと鳴らしました。
「君は初心者でも、ぼくは熟練! 自分の身体は自分で面倒見られるから!」
是非、一発! とソルジャーが身体をグイと乗り出し、教頭先生の右手を握って。
「自信が無いなら、君は寝ていてくれればいいんだ。ぼくがキッチリ御奉仕した上、ちゃんと跨ってモノにするから! 奥の奥まで無事に突っ込ませてあげるから!」
「…つ、突っ込む…」
奥の奥まで…、と教頭先生の鼻からツツーッと垂れた赤い筋。出たな、と思う間もなくブワッと鼻血で、ドッターン! と大きな身体が椅子ごと仰向けに。あーあ、やっぱりこうなりましたよ…。
「えとえと…。ハーレイ、倒れちゃったよ?」
気絶しちゃったあ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が教頭先生の頬を小さな指でチョンチョンと。教頭先生はピクリとも動かず、会長さんが「スケベ」と一言。
「まさか早々にブッ倒れるとは思わなかったよ、寝室までは持ち堪えるかと思ったけどな」
「君も甘いね、こんな調子だから肝心のアソコが付喪神の危機に陥るんだよ」
さて…、とソルジャーは教頭先生の身体を椅子から引き摺り下ろすと、会長さんに。
「サイオニック・ドリームは君がやるんだよね? ぼくには百鬼夜行の知識が無いしね…」
「本物っぽく見せて騙すためには、ちゃんとした裏付けが必要だからね」
やってみるか、と会長さんの右手が教頭先生の額の上に。その手が青く発光するのを見学しながら、ソルジャーが。
「君もなかなかやるじゃないか。ぼくの力にも負けないよ、それ」
「本当かい?」
「うん。一対一なら強いようだね、ぼくみたいに多数を一度に相手に出来ないだけで」
充分に自信を持って良し! とソルジャーも褒めたサイオニック・ドリーム、どうやら完全にかかった模様。会長さんとソルジャーは目配せし合って、教頭先生のベルトを外すとズボンのファスナーを下ろしてしまって、更に下着の紅白縞も…。
「か、会長、そこまでやるんですか!?」
シロエ君の叫びが届いたらしくて、会長さんは。
「リアリティーっていうのも必要だしね? 付喪神が逃亡に至った経路は確保しないと」
「「「………」」」
本気でアソコが逃げ出したことになってしまうのか、と呆然と見守る私たち。スウェナちゃんと私の視界には既にモザイクがかかっています。
「後はハーレイが目を覚ました時のお楽しみだけど…。百鬼夜行は夜のものだし、それまで絶対に目を覚まさないようにしておかなくちゃね」
早い話が目覚ましシステム、と会長さんが壁の時計を眺めて、教頭先生の額を指先で軽く弾くと。
「これでよし。夜の十時を過ぎるまでは倒れたままでいて貰うってことで」
「かみお~ん♪ それまでは帰って御飯だね!」
おやつに御飯、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が跳ねて、ソルジャーが。
「大いに賛成! 帰ってゆっくり!」
御飯におやつだ、と言い終わらない内にパアアッと溢れた青いサイオン。倒れた教頭先生を放置で私たちは揃って逃亡しました。教頭先生、風邪を引かないといいんですけどね…?
午後のおやつはフォンダンショコラ。冬に嬉しいチョコレートがトロリと溶け出すケーキ。夕食は「そるじゃぁ・ぶるぅ」こだわりの食材が光る寄せ鍋、うんと豪華に楽しんだ後で締めはラーメン投入です。しかも雑炊用のお出汁も取り分けてあって、締めの美味しさ二通り。
「やっぱり寄せ鍋は地球ならではだねえ…」
ぼくの世界でやってもイマイチ、とソルジャーも至極御機嫌で。
「ところでハーレイの方はどうかな、倒れたままだけど飢えてないかな?」
「大丈夫だろうと思うけど? 気絶してるし、エネルギーの消費量ってヤツが少ないからね」
それにアソコはシールドしたし、と会長さん。シールドって、まさか剥き出しの部分に?
「うん。あんなトコから風邪を引かれたら間抜けだからねえ、一応、シールド」
大事な部分を冷やしすぎるのも良くないし、と会長さんはニッコリと。
「暖め過ぎるのも良くないけれどね、冷え過ぎで風邪は馬鹿でしかないよ」
「だろうね、股間風邪なんて聞いたことも無いしね」
少なくともぼくのシャングリラには存在しない病名だ、とソルジャーが。
「だけど、股間風邪どころじゃない状態に陥るんだねえ、こっちのハーレイ…」
「まあねえ、アソコが無いわけだしね?」
性転換をしたってわけでもないのに、と会長さんがクスクスと。そっか、アソコが無いんだったら性転換みたいなものなのか、と私たちは顔を見合わせて。
「性転換かよ…」
嬉しくねえな、とサム君が言えば、キース君が。
「逃げられたっていうのも悲惨だぞ? 性転換なら自分の意志でやることだろうが」
「「「あー…」」」
自分の身体の大事な一部に逃げられるなんて、それは最悪かもしれません。髪の毛が逃亡してしまっても困りますけど、それはカツラでフォローが可能。けれども、アソコが逃げたのでは…。
「教頭先生、どうなさるでしょう?」
目が覚めたら、とシロエ君の声が震えて、ジョミー君が。
「パニックじゃないの?」
「そりゃあ、もちろんパニックだよ!」
決まってるじゃないか、と笑顔のソルジャー。
「そのための付喪神プロジェクトだしね? サイオニック・ドリーム、楽しみだねえ…」
「「「つ、付喪神プロジェクト…」」」
いつの間にそんな立派な名前が付いてたんだか。付喪神プロジェクト、今夜十時の発動です。アソコに逃げられた教頭先生、どうなるのでしょう…?
食事を終えてのんびりまったり、寛いでいる内に運命の夜の十時が近付いて来て。
「悲劇は現場で見ないとねえ?」
行こうか、と会長さんが言い出し、ソルジャーが「喜劇の間違いだろ?」と。
「今度もぼくたちだけがシールドの外でいいんだよね?」
「そうなるねえ…。今更面子が増えました、ってわけにもいかないと思うから」
行くよ、と会長さんが合図し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声が「かみお~ん♪」と。青いサイオンの光が溢れて、私たちは教頭先生の家のリビングに移動しました。倒れておられた教頭先生、間もなくガバッと起き上がって。
「わ、私は…?」
どうしたんだ、と見回してらっしゃいますけど、ソルジャーが。
「倒れちゃったんだよ、アッサリと…ね。それはいいんだけど…」
「ブルーが心配していた通りになっちゃったわけ」
情けないね、と会長さん。
「こんなヘタレに用は無い、と言わんばかりに逃げてっちゃったよ、付喪神が」
「…付喪神?」
何のことだ、と訊き返してから、教頭先生も思い至ったらしくって。視線を落とせば、其処には無残に外れたベルトと下ろされたファスナー、それに紅白縞のトランクスが。かてて加えて、私たちの目にはモザイクですけど、教頭先生の目に映るものは。
「…な、な、な…。無い!?」
「うん。ぼくとブルーが見ている前でさ、ゴソゴソと出て来て逃げて行ったよ?」
もう止める暇も無かったのだ、と会長さんの嘘八百。
「そんなわけでさ、君の股間は空家ってことになっちゃって…。性転換しました、ってことにするのも一興だろうと思うけど…」
「性転換!?」
「アレが無いなら男とはとても言えないだろう?」
ねえ? と同意を求められたソルジャーが大きく頷いたから大変です。教頭先生は顔面蒼白、会長さんに向かってアタフタと。
「つ、付喪神を鎮める方法、知っているとか言っていたな!?」
「御祈祷と言うか、呪文と言うか…。知らないわけでもないけれど?」
「それを頼む!」
どうかアイツを連れ戻してくれ、と自分のアソコをアイツ呼ばわり。今もくっついているんですけど、逃げてなんかはいないんですけど、サイオニック・ドリーム、恐るべし…。
「仕方ないねえ…」
それじゃ探しに行かなくっちゃ、と会長さんが教頭先生の肩に手を置き、ソルジャーが。
「付喪神になったら百鬼夜行に行くらしいしねえ? まずはそっちを見付けないと」
「ひゃ、百鬼夜行…?」
あれに出会うと寝込むのでは、と教頭先生の声が震えましたが。
「嫌なら別にいいんだよ? 君のアソコが戻って来ないというだけだからね」
ぼくも力を使わなくて済むし、と会長さんは素っ気なく。
「ぶるぅ、そろそろ帰ろうか? 夜も遅いし、百鬼夜行なんかを探さなくてもいいようだしね」
「かみお~ん♪ 帰ってお風呂だね!」
「ま、待ってくれ! わ、私のアイツはどうなるのだ…!」
「じゃあ、御布施」
会長さんの手がスッと差し出され、教頭先生は財布を取りに行こうとファスナーを上げようとなさいましたが。
「駄目だよ、それを閉めてしまったら付喪神が戻れなくなるからね。ファスナー全開、トランクスもずり落ちそうなままで捜索の旅!」
その前に御布施、と容赦ない催促。教頭先生、泣きの涙で財布の中身を残らず差し出し、会長さんは満足そうに。
「オッケー、前金はこれで充分! 後は成功報酬ってことで」
「ま、前金…?」
「当たり前だろ、君のアソコを取り戻すんだよ? これっぽっちで足りるとでも?」
最低これだけは欲しいんだよね、と指が三本、一本は百ということで。
「さ、三百…!」
「大負けに負けて三百なんだよ、他ならぬ君だから、この値段! 普通だったら十は頂く!」
七割引きで出血大サービスだ、と言われた教頭先生、泣く泣く誓約書を書く羽目に。逃げ出したアソコが戻って来たなら、三百ほどお支払い致します、と。
「了解、誓約書も書いて貰ったし…。後は百鬼夜行を探す旅だね」
外へ行くけどファスナーもトランクスも上げないように、と指示された教頭先生はズボンが落ちないようベルトを掴んで歩き出すことに。あんな格好で外へ出たなら、たちまち逮捕されそうですが…。露出狂で捕まってしまうんじゃないか、と思うんですが…。
えっ、本当に出るんですか? その格好で玄関の外へ…?
「はい、ハーレイだけが夢の中ってね」
サイオニック・ドリームの始まり、始まり~! と会長さんが拍手を求めて、教頭先生の家のリビングの壁に中継画面が。会長さんとソルジャー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は玄関の手前で回れ右をして戻ったのです。もちろん教頭先生も。けれど…。
「ひゃ、百鬼夜行には何処で出会えるのだ?」
サイオニック・ドリームに捕まったままの教頭先生が見ている夢が中継画面に。何処とも知れない住宅街を会長さんたちと歩いていますが、真っ暗な上に人の気配は全く無くて。
「さあ、何処だろう? この寒さだしね、雪が降らなきゃいいんだけどねえ…」
会長さんの声がのんびりと。
「百鬼夜行は雪に弱いのか?」
「そうじゃないけど、君のアソコが霜焼けになったら困ると思って…。あっ、あそこ!」
「かみお~ん♪ なんか一杯、ゾロゾロだよ!」
「へえ…。あれが百鬼夜行ってヤツなんだ?」
地球は広いね、とソルジャーが。
「妖怪だらけ…。って、あそこで跳ねてるのがハーレイのヤツじゃないのかい?」
「そうらしいねえ…」
やたら元気がいいじゃないか、と会長さんたちが指差す先でモザイクのかかった何かがピョンピョン跳ねていました。付喪神になった教頭先生のアソコだということなんでしょうが…。
「そうだ、私のだ! あれで絶対間違いないから、捕まえてくれ!」
「うーん…。捕まえる値打ちがあるのかい、あれに?」
またその内に逃げるんじゃあ、とソルジャーが言って、会長さんが。
「別にいいんだよ、逃げちゃっても! また捕まえて稼ぐから!」
「ああ、なるほど…。捕物の度に御布施が入る、と」
「そういうこと! だから早速!」
中継画面の向こうの会長さんが雪がちらつき始めた夜空の下で朗々と読経。百鬼夜行の群れの中からモザイクのアレだけが跳ねてこちらへやって来ます。
「も、戻って来た! 戻って来たぞ!」
「落ち着いて、ハーレイ! ちゃんと元通りの場所に収まるまで前は全開!」
「うむ、大丈夫だ! 戻って来ーいっ!」
此処だ、此処だ、と大喜びの教頭先生は夢の中。付喪神は無事に戻りそうですが、この先、またまた家出しないとは限りません。アソコが逃げ出すサイオニック・ドリーム、会長さんが味を占めなきゃいいんですけど…。一回につき指三本もの報酬がドカン。嫌な予感がしますよね…?
付喪神の季節・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が三百年以上も使っていない、古道具。付喪神になっても仕方ないのかも…。
ちなみに百鬼夜行ですけど、本当に冬のものなんです。怪談が夏の定番になるのは江戸時代。
ついに元号が令和に変わって、今回が新元号初の更新です。令和も、どうぞ御贔屓に。
次回は 「第3月曜」 6月17日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月は、何故だか、ソルジャーとジョミー君が戦うことに…?
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv