シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も夏休みがやって来ました。例によって柔道部三人組は合宿、ジョミー君とサム君は璃慕恩院への修行体験ツアーに旅立ち、スウェナちゃんと私がお留守番です。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにフィシスさんとのんびり、まったり。
「かみお~ん♪ 今日のプールも楽しかったね!」
「やっぱり穴場は違うわねえ…」
空いてて良かった! とスウェナちゃん。この時期、何処のプールもイモ洗いですが、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は穴場探しが得意技。遠い所でも瞬間移動でヒョイとお出掛け。今日はアルテメシアから少し離れた町の町営プールへと。
「町営プールでもけっこういいだろ、設備とかがさ」
会長さんが言うだけあって、広くて綺麗なプールでした。もっと流行っていてもいいのに、と思ったら。
「あそこはねえ…。今はシーズンオフなんだな」
「「シーズンオフ?」」
なんで、と驚くスウェナちゃんと私。プールからは瞬間移動で帰りましたし、今は会長さんの家のリビングです。フィシスさんはエステに行くとかで先に帰ってしまいました。
それはともかく、シーズンオフとはこれ如何に。プールは今が書き入れ時では?
「あそこのプール。何処よりも早いプール開きと、遅くまでの営業が売りだからねえ…」
「少しでも長く水と遊ぼう、ってコンセプトだって!」
そして水泳の上手い子になるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。町の外れを流れている川の水が綺麗で、夏本番には地元の子供はそっちへお出掛け。其処でウッカリ溺れないよう、町営プールでしっかり鍛えろと営業期間が長めだそうで。
「つまりね、川の水が冷たくて駄目な時期にはプールなんだな」
ゆえに只今シーズンオフ、と会長さん。お客さんは健康のために泳ぎに来る人が中心、「夏休みだからプールに行こう」と思う輩は少ないとかで。
「その代わり、他所のプールが営業終了してからは混むよ? ドカンとイモ洗いで!」
「「うーん…」」
なんとも不思議なプール事情もあったものです。まあ、お蔭で楽しく泳げましたが…。ちょっぴりお腹も空いて来ました、そういえばおやつの時間かな?
町営プールにはお弁当持参で出掛けて行って、プールサイドの出店でタコ焼きなんかも食べはしたものの。帰ってからおやつを食べていないな、とグーッとお腹が。
「あっ、いけない! おやつ、おやつ~!」
ちょっと待ってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が駆けて行って。
「はい、今日は木苺のミルフィーユなの!」
「「美味しそう!」」
合宿中の男の子たちには悪いですけど、これもまたお留守番組の特権。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はフィシスさんへのお届け用に、とミルフィーユを二切れ、箱に詰めて。
「よいしょ、っと…!」
パッと姿を消した箱。瞬間移動でフィシスさんのお宅へ配達です。さてこの後はティータイム。アイスティーが出て来て、会長さんたちと食べ始めたのですが。
「えっとね、昨日、ブルーに会ったんだっけ…」
「「ブルー?」」
ブルーといえば会長さん。でも「そるじゃぁ・ぶるぅ」がわざわざ報告するわけがなくて、何より元から同居人。では、ブルーとは…?
「ブルーだよ!」
いつものブルー、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「そうだよね、ブルー?」
「うん。あれはどう見てもブルーだったねえ…」
声を掛けてはいないんだけどね、と会長さん。
「なんだか真剣に買い物中でさ、ああいう時に声を掛けたら祟られそうでさ」
「「祟る?」」
いつものブルー、それはすなわち会長さんのそっくりさん。いわゆるソルジャーのことですけれども、何処で買い物をしていたのやら。祟られそうだなんて、漢方薬店…?
「違うよ、ぼくもぶるぅも漢方薬店には用が無いしね」
「うん、サフランを買う時だけだよ」
「「サフラン?」」
「サフラン・ライスとかに使うサフラン! 漢方薬店だとお得なの!」
あれってとっても高いから、と言われてみればお高いサフラン。ところが漢方薬店へ行けばお薬扱い、同じ値段で多めに買えるとはビックリかも~!
話のついでに、と見せて貰ったサフラン入りの漢方薬店の瓶。お値段は教えて貰えませんでしたが、二百五十ミリリットル入りのペットボトルがガラス瓶になったらこんなものか、と思うほどの大きさ。それにサフランがドッサリで…。
「凄いでしょ? お薬だからお得に買えるの!」
だからコレだけは漢方薬店、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。けれど昨日はサフランを買いに出掛けたわけではないそうで…。じゃあ、怪しげな下着売り場とか?
「昨日は百貨店には行っていないよ、ぼくもぶるぅも」
「スーパーで買い出しだけだもんね!」
「「スーパー!?」」
どうしてソルジャーがスーパーなんぞに、と驚きましたが、其処は会長さんたちにしても同じらしくて。
「スーパーでブルーを見かけたのなんかは初めてかな…」
「ぶるぅのおやつを買いに行くとは聞いてるけどね…」
だけど今まで会ってないよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。一緒に行ったとか、そういう機会はあるそうですけど、偶然バッタリは皆無だとか。
「おまけに表情が真剣過ぎてさ…」
「とっても真面目に選んでたものね…」
「「何を?」」
スウェナちゃんと私の声がハモッて、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「「納豆!」」
「「納豆!?」」
何故にソルジャーが納豆を、と引っくり返ってしまった声。ソルジャー、納豆、好きでしたっけ?
「いや、そんな話は聞いてないけど…」
「ぼくも知らないよ?」
好きなんだったら出しているもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーは厚かましさが売りと言っても過言ではなく、食べたいものには貪欲です。もしも納豆が好物だったら、とっくの昔に納豆尽くしの昼食か夕食になっていた筈で。
「…なんで納豆なのかしら?」
スウェナちゃんが首を捻って、会長さんも。
「さあ…?」
健康にいいとでも聞いたんだろうか、という推測ですけれど。健康にいいと聞いたからって、あのソルジャーがスーパーに出掛けて納豆を…?
納豆の謎を解きたかったらソルジャーに訊くしかありません。とはいえ、それは自殺行為で、ほぼ百パーセント死を招きそうなコマンドだけに、会長さんも放置の方向で。納豆のお買い物は何だったのか、と悩む間に男の子たちが合宿などから御帰還で。
「「「納豆!?」」」
キース君たちの反応も私たちと全く同じでした。慰労会の焼き肉パーティーの席で出て来たソルジャーの話題に、みんなビックリ仰天です。
「あいつ、納豆好きだったのか…?」
知らなかったぞ、とキース君が言えば、シロエ君が。
「どっちかと言えば嫌いそうなタイプだと思うんですけど…」
「だよねえ、甘いものが大好きだしね?」
ついでに好き嫌いも多かった筈、とジョミー君。
「こっちの世界のは何でも美味しい、って食べまくってるけど、自分の世界じゃお菓子と栄養剤さえあったら生きて行けるって言ってたような…」
「そいつで間違いねえ筈だぜ」
だから何かとこっちに来るんだ、とサム君も。
「ぶるぅの菓子と料理があるだろ、それに外食はエロドクターがせっせと面倒見てるしよ…。待てよ、そういう所で納豆の味に目覚めたとか?」
「その可能性はぼくも考えたんだけど…」
それだとスーパーと噛み合わない、と会長さん。
「ノルディが贔屓にするような店で納豆の味に目覚めたんなら、スーパーなんかじゃ買わないよ。それ専門の店に行くとか、ノルディの紹介で気に入った店のを分けて貰うとか」
「「「あー…」」」
それはあるな、と納得です。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がソルジャーを目撃したという店、高級スーパーではあるのですけど、所詮はスーパー。ちょっとお高い納豆があっても、特別な納豆なんかではなくて。
「ある程度まとめて仕入れられるヤツしか置いていないよ、スーパーではね」
なにしろモノが納豆だから…、と言う会長さんはあれから納豆の棚を確認しに出掛けたそうです。どんな品揃えか、凄い何かがあるのかと。
「ごくごく普通に納豆だったよ、チーズとかならレアものも入荷するんだけどねえ…」
どうして納豆だったんだろう、と尋ねられても分かりません。ソルジャーがスーパーで納豆だなんて、何処で納豆の魅力に目覚めたんだか…。
サッパリ解けない納豆の謎。まるで謎だ、と焼き肉パーティーが終了した後も話題は納豆。リビングに移動し、冷たいミントティーをお供に納豆談義で。
「やはりだ、健康志向が有力説だと俺は思うが」
それしか無かろう、とキース君。でも…。
「その情報を何処で仕入れたのさ?」
ジョミー君が即座に切り返しました。情報をゲットしないことにはソルジャーは納豆に走りません。私たちの世界は何かと言えば健康にいいと色々なものが流行りますけど、情報源に触れない限りは何が流行りかも分からないわけで。
「…納豆、今はブームでしたか?」
ぼくは知らないんですけれど、とシロエ君が訊くと、会長さんが。
「それは無いと思う。ブームだったら棚にあれだけ揃っていないよ」
仕入れた端から売り切れる筈、と言われてみれば、それがお約束。これがいい、と噂になった食品、スーパーの棚が空になるのが普通です。納豆が豊富に揃っていたなら、ブームではないという証明で…。
「じゃあ、何処から納豆が出たのかしら?」
「「「うーん…?」」」
スウェナちゃんの疑問はもっともなもの。納豆のブームが来ていないのなら、ソルジャーと納豆の出会い自体が無いわけで…。謎だ、と考え込んでいた所へ。
「こんにちはーっ!」
「「「!!?」」」
飛び込んで来た噂の張本人。トレードマークの紫のマントの代わりに私服で、手にはしっかりスーパーの袋。これはもしかして、もしかすると…。
「あっ、これは差し入れじゃないからね?」
ぼくのだからね、とソルジャーは袋をしっかり抱え込んで。
「今日も色々仕入れて来たんだ、夫婦円満の秘訣なんだよ!」
「「「はあ?」」」
納豆の何処が、とウッカリ揃って反応してしまった私たち。ソルジャーは「あっ、知りたい?」と嬉しそうに袋を開いて中身を披露し始めました。あれも納豆、これも納豆。次から次へと納豆ばかりが出て来ますけれど、それのどの辺が夫婦円満の秘訣だと…?
リビングのテーブルにズラリ並んだ納豆いろいろ。夫婦円満の秘訣と言われても謎は一層深まるばかりで、どうしろと、と思った時。
「…キャプテン、納豆、お好きでしたか?」
シロエ君の口から出て来た言葉に目から鱗がポロリンと。そっか、キャプテンの好物だったら夫婦円満に役立つでしょう。ソルジャーと違って空間移動が出来ないキャプテン、納豆を買いに来られません。ソルジャーの世界に納豆なんかは無いでしょうから、好物を贈って夫婦円満。
「うん、嫌いじゃないみたいだねえ?」
最初は腰が引けていたけど、とソルジャーは笑顔。
「腐っているんじゃないですか、とか、臭いだとか…。だけど今ではバクバクと!」
もう喜んで食べているよ、という話。なんだ、やっぱりキャプテンの好物が納豆でしたか。そりゃあソルジャーもせっせと仕入れに来るであろう、と思ったのですが。
「ハーレイの好物って言うよりは…。夜の生活にお役立ちかな」
「「「えっ?」」」
夜の生活って…大人の時間のことですか? なんでそんなモノに納豆が…?
「ノルディの家で調べてたんだよ、ハーレイが絶倫になりそうなモノ! そうしたら!」
「「「…そうしたら…?」」」
「納豆です、って書いてあったわけ! ドロドロのネバネバが絶倫に効くと!」
山芋も効果的らしいんだけど…、と語るソルジャー。
「でもねえ、山芋はすりおろしたり手間がかかるしね? その点、納豆だったら合格! 買って帰ってパックを開ければ、即、食べられるし!」
かき混ぜる手間はハーレイ任せで、と流石の面倒くさがりっぷり。
「納豆に入れると美味しいらしいネギだって精がつくと言うから、刻んだヤツを買って冷凍してある。それと生卵を入れれば完璧!」
納豆を食べて絶倫なのだ、とソルジャーは威張り返りました。納豆ライフを始めたキャプテン、普段にも増してパワフルだそうで。
「もうね、疲れ知らずと言うのかな? 漲ってるねえ、毎日毎晩!」
だから納豆は欠かせないのだ、とソルジャーは自分が並べた納豆のパックをウットリと。
「これさえ食べればハーレイは絶倫、ビンビンのガンガンの日々なんだよ!」
もちろん基本の漢方薬も欠かせないけれど…、と列挙しまくるスッポン、オットセイ、その他もろもろ。それに加えて納豆パワーも導入するとは、ソルジャー、何処まで貪欲なんだか…。
「えっ、欲張ってもかまわないだろ?」
夫婦生活の基本は夜の生活、夫婦円満の秘訣もソレだ、とソルジャーの主張。
「そのためだったら納豆の買い出しくらいはね! それでさ、ちょっと訊きたいんだけど…」
「何を?」
会長さんの冷たい口調と視線は「早く帰れ」と言わんばかりで、それを向けられたのが私たちだったら真っ青ですけど、相手は図太いソルジャーだけに。
「納豆と言えばコレだ、っていうのを聞いたんだけれど…。藁苞納豆」
「…それが何か?」
「どんなのかなあ、って…。藁苞納豆」
「買えば分かるだろ!」
買いに行くなら本場は此処で…、と会長さんは地名を挙げました。納豆と言えば其処であろう、と誰もがピンと来る場所を。
「其処に行ったら色々あるから! それこそ駅の売店でも売っているかって勢いで!」
「それは分かっているんだけど…。そうじゃなくって…」
「お取り寄せなんかしなくていいだろ、瞬間移動で直ぐだから!」
お出掛けはあちら、と指差す会長さん。
「あの方向へね、ヒョイと移動すれば店もあるから! 君の力ならピンポイントで店の前でも飛べるだろ? 初めての場所でも!」
「もちろん簡単に飛べるけれどさ、ぼくが訊いてるのは其処じゃなくって…」
「じゃあ、何さ?」
「藁苞納豆の仕組みなんだよ!」
其処が気になる、とソルジャーの質問は斜め上でした。もしやキャプテンのために納豆の手作りを目指していますか、それも本格派の藁苞で…?
キャプテンに絶倫のパワーを与える食べ物を探して納豆を見付けたらしいソルジャー。本当に効くのかどうかはともかく、今の所は夫婦円満の日々のようです。スーパーで納豆を買い漁る内に藁苞納豆も知ったらしくて、仕組みを知りたいみたいですけど…。
「…作るのかい?」
君が藁苞納豆を、と会長さんが問い返すと。
「どうだろう? 仕組みによるけど、あれはどういうものなんだい?」
「簡単に言うなら、藁苞の藁に納豆菌が住んでいるから…。それを利用してってことになるかな、藁苞の中で熟成だね」
「やっぱり熟成?」
「そうだけど? 納豆はそういう食べ物だから」
藁苞の中で熟成させれば立派な納豆の出来上がり、と会長さん。ソルジャーは「ふうん…」と頷きながら。
「あの藁苞を手作りするのって難しいのかな?」
「藁苞かい? 流石のぼくも其処までは…。待てよ、ぶるぅは知ってたかな?」
どうだっけ、と訊かれた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「前に行ったよ、納豆教室! 子供向けのイベントでやってたから!」
其処で作った、とエッヘンと。
「ちゃんと藁苞から作ったんだよ、だから作り方は知っているけど…。作りたいの?」
「それって、ぼくでも作れそうかい?」
どうなんだろう、と心配そうなソルジャーはといえば、不器用を絵に描いたような人物で。私たちは端から「無理であろう」と即断したのに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の答えはさにあらず。
「出来ると思うよ、ぼくが行ったの、子供向けの教室だったしね!」
小さな子供も作っていたよ、と「大丈夫」との太鼓判。
「作るんだったら教えてあげるよ、藁苞納豆」
「いいのかい? それじゃ是非ともお願いしたいな」
「任せといてよ! えっとね…」
何か書くもの…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は説明を書こうとしたのですが。
「それは勘弁! ぼくはとにかく不器用だからさ、サイオンで技術を教えて欲しいと…」
「そっか、そっちが安心かもね!」
じゃあ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の手がソルジャーの手をキュッと握って情報伝達。これでソルジャーも藁苞納豆の達人になれる筈ですけれども、キャプテンのために其処までするとは、ああ見えて愛情が深かったりして…。
藁苞納豆の作り方を教わったソルジャーはいそいそと帰ってゆきました。おやつも食べずに、納豆を詰めたスーパーの袋を抱えて。それに…。
「本気らしいね、藁苞納豆…」
まさか作るとは、と会長さんが感心しています。夫婦円満の秘訣とかいうアヤシイ目的に向かってとはいえ、キャプテンのために納豆手作り、それも本格派の藁苞納豆。藁は何処で手に入るのか、と訊かれた会長さんはマザー農場から取り寄せて渡していましたし…。
「あいつが納豆を手作りするのか…」
しかも藁苞から作るだなんて、とキース君も意外そうな顔。
「まさかと思うが、あいつのシャングリラの厨房に丸投げじゃないだろうな?」
「「「………」」」
それがあったか、と今頃になって気が付きました。ソルジャー自ら作らなくても、料理のプロなら厨房に大勢いるのです。作り方さえ教えてしまえば大量生産だって可能で。
「ひょっとして、それが目的だったとか…?」
大量生産、とジョミー君。
「買い出しに来るのが面倒になって、自分の世界で作ってしまえ、って…」
「それなら藁苞納豆になってくるからな…」
多少面倒でも納豆菌はもれなくいるし、とキース君がフウと溜息を。
「俺はそっちの方に賭けるぞ、愛情の手作り納豆よりもな」
「…そうなんだろうか?」
感心したぼくが馬鹿だったかな、と会長さんも。
「確かにキースの意見の方が当たっているって気がするよ。こっちの世界へ買いに来るより大量生産、それも本格派の藁苞で、って…」
「そうだろう? 藁の調達までしやがったんだし、俺はそっちの方と見た」
「「「うーん…」」」
愛の手作り納豆転じて、面倒だからと丸投げ納豆。如何にもソルジャーがやりそうなことで、そうなってくると買い出しに来ていた日々の方がまだ愛情が深そうで。
「でもねえ、スーパーで納豆を物色しているブルーを見かけた時には、まさかそういう目的だなんて思わなかったよ」
「ねえねえ、ブルー、ゼツリンってなあに?」
「あっちのブルーが喜ぶことだよ!」
「良かったあ! ぼくって役に立てたんだあ!」
藁苞納豆でゼツリンだよね、と無邪気に飛び跳ねる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。お子様はいいな、と思いますけど、とりあえず納豆は一件落着かな…?
翌日からは夏休みのお約束。私たちは遊び回って、キース君はお盆に備えて卒塔婆書き。三日間ほどアルテメシアでワイワイ過ごして、それからマツカ君の山の別荘へ旅立つことに。
「卒塔婆の方は目途が立ったな…」
後は帰ってからこんなもので、とキース君が残りの卒塔婆を数える山の別荘への出発前夜。会長さんの家でのスパイシーなエスニック料理の夕食目当てにキース君は夕方からの合流です。卒塔婆書きばかりだと消耗するとか言ってますけど…。
「此処に来ないで書いていればさ、もう何本かはいけただろう?」
なんでサボるかな、と会長さん。
「副住職たるもの、遊ぶ前には全力投球すべきじゃないかと…。どうせ明日から山の別荘だし、卒塔婆は追い掛けて来ないんだしさ」
「いい加減、気が滅入って来たんだ! 朝から晩まで卒塔婆だからな!」
此処で無理をすれば当然ミスも…、というのも一理あります。卒塔婆は墨での一発書き。失敗したなら削るしかなく、消しゴムや修正液でパパッと済ませるわけにはいきませんし…。
「俺は余計な手間をかけるより、ノーミスで走りたい主義だ!」
だから今夜はもう書かない、とキース君。
「出がけに親父が「もう逃げるのか?」と言ってやがったが、その親父も昨日はゴルフだしな!」
学生の俺が遊んで何処が悪い、と開き直り。まあ、卒塔婆を書くのはどうせキース君で、遊んだ分の尻拭いは自分でするしかないわけですから、どうぞご自由に、という気分。
「くっそお、早くサムとジョミーがモノになればな…」
そうすれば手伝って貰えるんだが、とキース君は捕らぬ狸の皮算用。
「嫌だよ、ぼくは棚経だけで沢山だってば!」
「俺は文句は言わねえけどよ…。まだ住職の資格もねえのに、本格的な卒塔婆はなあ…」
プロにはプロの技ってモンが、とサム君が「まだまだ無理だぜ」と言った所へ。
「プロの技ーっ!」
「「「は?」」」
何がプロだ、と振り返ってみれば紫のマントがフワリと揺れて。
「どうかな、プロが作った藁苞!」
こんな感じで! と出ました、ソルジャー。右手に納豆が入っているらしき藁苞を持って、ブンブンと振っていますけど。見せびらかしに来たかな、それともキャプテンに食べさせる前の試食ですかね、納豆っていう存在自体がこっちの世界のものですしね…?
夕食はもう終えていましたから、食後の飲み物にラッシーなんかを楽しんでいた私たち。ソルジャーは抜け目なくマンゴーラッシーを注文した後、藁苞をズイと差し出して。
「本格派だろう? この藁苞!」
「うん。でも…」
納豆は? と会長さん。藁苞は見事に完成していますけれど、どうやら中身が無いようです。肝心の納豆が詰まっていない藁苞なんかをどうしろと?
「ああ、これはね…。ぼくのお目当ては藁苞だったものだから!」
「「「えっ?」」」
藁苞で納豆を作るんじゃなくて、市販の納豆を詰めて気分だけとか、そういう話? 器も料理の一部だなんてよく言いますから、あながち間違いではないでしょうけど…。
「ううん、詰めるのは納豆じゃなくて!」
「豆だろ、さっさと帰って大豆を茹でる!」
サボッてないで、と会長さんが追い立てました。
「其処のキースも褒められたものじゃないけどねえ…。君も大概だよ、藁苞が出来たと自慢しに来るなら中身もちゃんと詰めて来ないと!」
「だから、これから詰めるんだってば! こっちの世界で!」
「…君は豆さえ買ってなかったと言うのかい?」
その上、ウチの台所で茹でる気なのかい、と会長さんが顔を顰めると。
「違うよ、君の家じゃなくって、こっちの世界のハーレイの家!」
「「「ええっ!?」」」
納豆用の大豆を茹でるのに、何故に教頭先生の家になるのか。確かに料理はしてらっしゃいますが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」みたいに大きな鍋とか各種取り揃えておられるわけではなかったように思います。そんな台所に何のメリットがあると…?
「台所の仕様云々以前に、ハーレイに用があるんだよ!」
そして藁苞の出番が来る、と力説されても何のことやら。会長さんも意味が掴めないようで。
「…ハーレイは藁苞納豆なんかは作っていないと思うけどねえ?」
「でも、こっちのハーレイの協力が要るんだ、この藁苞には!」
「なんで?」
「だって、ジャストなサイズだから!」
そうなるように作ったんだから、と藁苞を手にして胸を張っているソルジャーですが。ジャストなサイズって、いったい何が…?
「藁苞だよ!」
この藁苞、とソルジャーは手作りの藁苞をズズイと前へ。
「これにピッタリの筈なんだ! こっちのハーレイ!」
「…ハーレイが大豆を茹でてるのかい?」
それを失敬して詰めるつもりかい、と会長さんが尋ねれてみれば。
「失敬するって言うより、お願いだねえ…」
「分けて下さいって? 君にしては殊勝な心掛けだね、珍しく」
でもハーレイはなんで大豆を茹でてるんだろう、と会長さん。すると「そるじゃぁ・ぶるぅ」が横から。
「お酒のおつまみに煮豆とか? お豆腐だったら大豆を潰してから茹でるしね!」
「なるほど…。それなら急いで行ってこないと味付けされちゃって台無しになるよ?」
さっさと行く! とソルジャーに発破をかけた会長さんですが。
「…あんまり急いで出掛けて行っても、ハーレイの気分が乗らないんじゃないかと…」
「やっぱり手伝わせるつもりじゃないか!」
納豆作りを、と呆れ顔の会長さんに、ソルジャーは。
「うん、ハーレイの協力が要るって言っただろう? だから行くんだ、って!」
「其処でサボらずに自分で作る! 愛の手作り納豆だったら!」
「ぼくが目指すのはその先なんだよ!」
「「「は?」」」
愛の手作り納豆の先とは、何なのでしょう? 試食だったら完成品を持って来ないと全く話になりません。藁苞だけを手にして出て来て、愛の手作り納豆の先…?
「だから、絶倫!」
「そのための手作り納豆だろう!」
話が前後しすぎているし、と会長さんはソルジャーに向かって右手を振ってシッシッと。
「早く出掛けて頼まないとね、本当に豆が無くなっちゃうから! 味付けされて!」
「その心配だけは無いんだよ! 味付けも何も、初心者以前の問題だから!」
「とにかく、豆が無くなる前にね、頼んで分けて貰ってくる!」
「詰めて貰わなきゃ駄目なんだってば、本当にジャストサイズだから!」
その筈だから、とソルジャーは藁苞をチョンとつついて。
「ぼくのハーレイので型取りしたしね、もうピッタリなサイズの筈!」
「「「…型取り…?」」」
藁苞作りに型取りなんかが要るのでしょうか? それに「ぼくのハーレイ」って、キャプテンで藁苞の型を取ったと…? 胃袋サイズのことでしょうかね、食べ切れる量の…?
キャプテンで型を取って来たから教頭先生にピッタリの筈、という藁苞。ジャストサイズの藁苞とやらはキャプテンの胃袋に丁度いい量の納豆が入るという意味でしょうか?
「そうじゃなくって! 絶倫パワーを熟成なんだよ!」
「「「…熟成?」」」
ますます分からん、と頭の中には『?』マーク。絶倫パワーは納豆を食べて得られるものだと聞いています。熟成するなら中身は納豆、藁苞の中に詰めて熟成。けれどソルジャーは「違う!」と一声、藁苞をグッと握り締めて。
「此処にハーレイを詰めて熟成! 藁苞にはきっとそういうパワーが!」
「「「へ?」」」
教頭先生を詰めるですって? それにしては小さすぎですよ? もっと巨大な藁苞でなくちゃ、と誰もが思ったのですが。
「肝心の部分を藁苞に詰めればオッケーなんだよ! ハーレイのアソコ!」
アソコで分からなければ息子で大事な部分、と聞いた瞬間、ゲッと仰け反る私たち。そ、それは教頭先生の思い切り大事な部分のことですか? まさか、まさかね…。
「そういう部分のことだってば! 其処に藁苞を!」
そして熟成させるのだ、とソルジャーは極上の笑みを浮かべて。
「ぼくのハーレイで型取りしたから完璧なんだよ、サイズの方は! これにアソコを入れて貰ってじっくり熟成、絶倫パワーを育てようと!」
「そういうのは君の世界でやりたまえ!」
こっちのハーレイなんかじゃなくて、と会長さんが怒鳴りましたが。
「ダメダメ、ぼくのハーレイ、忙しいしね? こんなのを着けてキャプテンの制服は着ていられないし、休暇中でないと熟成できない。海の別荘行きに備えて実験なんだよ!」
どんな感じに熟成するのか、そのタイミングを見定めないと…、とソルジャーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」直伝の藁苞納豆の知識を滔々と披露。腐ってしまったのでは意味が無いとか、腐りかけが一番美味しいのだとか、喋りまくって一息ついて。
「ぼくとしてはね、腐りかけの一番美味しい所を狙いたいんだよ!」
絶倫パワーも其処がMAXに違いない、というのがソルジャーの読みで。
「どのくらいの期間で熟成するのか、いつが一番食べ頃なのか! それをこっちのハーレイで!」
「迷惑だから!」
「でもねえ、ホントのホントに知りたいわけだよ、藁苞納豆の秘めたパワーを!」
この藁苞に詰まったパワーを、とソルジャーは本気。教頭先生のアソコに藁苞だなんて、しかも熟成させようだなんて、それは無茶とか言いませんか…?
どう考えてもカッ飛び過ぎている藁苞納豆の使い道、いえ、藁苞の使い方とやら。けれどソルジャーは全く譲らず、挙句の果てに。
「熟成パワーはぼくが面倒見るからさ! とにかく一緒に!」
「「「えっ?」」」
「君たちも一緒に来て欲しいんだよ、ぼくの納豆へのこだわりっぷりをアピールするには人数も不可欠!」
大勢で行けば説得力が…、という台詞と共にパアアッと溢れた青いサイオン。ソルジャー得意の大人数での瞬間移動に有無を言わさず巻き込まれてしまい、フワリと身体が浮いたかと思うと教頭先生の家のリビングに落っこちていて。
「な、なんだ!?」
ソファから半分ずり落ちかけた教頭先生に向かって、ソルジャーが。
「こんばんは。実は君に折り入ってお願いが…」
「何でしょう?」
「藁苞納豆は知っているかな、こういうのに詰める納豆だけど」
ソルジャーの手には例の藁苞、教頭先生はそれを見るなり「知っております」と頷きました。
「納豆も美味いものですが…。それが何か?」
「君のサイズで作ったんだよ、是非協力して欲しくってね!」
「…私のサイズと仰いますと…?」
「君の男のシンボルだよ!」
其処にピッタリの筈なのだ、とソルジャーは藁苞を教頭先生に突き付けると。
「はめてくれれば、きっと絶倫パワーが満ちてくるだろうと思うんだ! 藁苞で熟成!」
「…じゅ、熟成…?」
「そう! 腐りかけが一番美味しいと言うから、そのタイミングを見極めたくって…。ぼくのハーレイは忙しいから、海の別荘でしか熟成している暇が無いんだよ」
その時に一番美味しい状態で味わいたいから実験台として是非協力を、とソルジャーの舌が自分の唇をペロリと。
「もちろんタダとは言わないからさ! 一番美味しい時が分かったら、君にはぼくから素敵な御礼をドカンとね!」
恥ずかしい写真の詰め合わせセットでどうだろうか、と訊かれた教頭先生、唾をゴクリと。ソルジャーは更に。
「君さえ良ければ、御奉仕くらいはさせて貰うよ、絶倫パワーを持て余すならね」
「…ご、御奉仕…」
教頭先生の鼻から赤い筋がツツーッと。いつもの鼻血なコースでしたが、ぶっ倒れる代わりにグッと持ち堪えて「やりましょう!」と力強い声が。教頭先生、藁苞に詰まって熟成コース…?
「まさかあそこで承知するとは…」
頭痛がする、と会長さんが額を押さえるマツカ君の山の別荘。教頭先生は藁苞をアソコに装着なさって熟成コースを爆走中です。私たちは山の別荘に来ちゃいましたが、ソルジャーの方は来ていませんから、熟成具合の確認のために教頭先生の家に足を運んでいるようで…。
「納豆はともかく、藁苞なんかにパワーがあるとは思えないのに…」
馬鹿じゃなかろうか、と会長さんが呻けば、キース君が。
「それで、あいつはどうなったんだ? あれから通っていやがるんだろう?」
「うん、ウキウキとね…」
朝、昼、晩の三回コースでご訪問、と会長さん。
「いい感じに熟成しつつあるようなんだよ、困ったことに…」
「どういう意味です?」
シロエ君の問いに、会長さんは。
「ブルーが来た時の反応ってヤツ! ブルーの感想をそのまま述べれば、もうグッと来るという感じかな? しゃぶりつきたい気分になるとか…。おっと、失言」
今の台詞は忘れてくれ、と言われなくても今一つ意味が分かっていません。ともあれ、ソルジャーお望みの熟成とやらは順調に進んでいるわけですね?
「そうなんだよねえ、このまま行ったら最高に美味な腐りかけとやら…。ん…?」
ちょっと待てよ、と会長さんの手が顎へと。
「ブルーはハーレイの熟成どころか、藁苞納豆自体が初心者…。でもってタイミングを実験中で調査中だということは…。もしかしなくても、熟成しすぎになるってことも…」
「それは無いとは言えないな」
むしろ有り得る、とキース君が相槌を。
「熟成しすぎたらどうなるんだ? 俺にはサッパリ分からないんだが」
「ぼくにもサッパリ分からないけど、やり過ぎちゃったら面白いことになる…かもしれない」
そっちの方向に期待するか、と会長さんの口から恐ろしい台詞が。
「ハーレイが話を受けた時には腹が立ったけど、熟成しすぎになったなら! ぼくも一気に気分爽快、笑って踊って万歳かも!」
「「「…ば、万歳って…」」」
いったい何が起こるというのだ、と震え上がった私たち。熟成も美味しさも意味不明なだけに、その面白い結末とやらも理解不能だろうと思ったのですが…。
「素晴らしいねえ、納豆と藁苞のパワーはね!」
今夜が食べ頃、とソルジャーが舌なめずりをするプライベート・ビーチ。あれから日が過ぎ、お盆も終わってマツカ君の海の別荘です。ソルジャー夫妻と「ぶるぅ」も一緒で、キャプテンはアソコに藁苞を装着なさっているそうで。
「ブルー、私も楽しみですよ。装着している間は禁欲ですが、これを補ってなお余りある…」
「そう! 今夜は藁苞を外してガンガン!」
最高の夜になるに違いない、とキスを交わしているバカップル。その一方で…。
「そろそろか、マツカ?」
「あっ、そうですね! ウッカリしてました、流石です、キース」
時間ですね、とビーチで立ち上がる男の子たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が今年もバーベキューをしていて、獲れたてのサザエやアワビなんかも焼かれていますが、海で獲物を探す面子は今回、一名、欠けてしまっていて。
「教頭先生、こんな感じで如何でしょう?」
シロエ君が尋ねると「うむ」と返事が。
「…ほどほどの熱さといった所か…。世話になるな」
「いえ、ぼくたちにはこれくらいしか…。早く治るといいですよね」
砂蒸しがけっこう効くそうですから、とシロエ君。教頭先生は首から下が砂に埋まった状態で。
「かみお~ん♪ お日様で焼けた砂の入れ替え、またするんだよね?」
「そうなるねえ…。此処で全快すればいいけど?」
恥ずかしい病気、と会長さんが情けなさそうにボソリと。
「腐りかけを過ぎたら、何とは言わないけど皮膚病だなんて…。白癬菌には砂蒸しなんだよ」
それで水虫が全快したって人もいるから、と教頭先生の方をチラチラと。
「あんな所に白癬菌ねえ…。藁苞にそういう菌はいないと思うんだけどね?」
きっと元からキャリアだったに違いないんだ、と酷い決め付け。けれども実際、教頭先生、痒くてたまらないのだそうで…。
「かぶれたんじゃないの?」
ジョミー君が声をひそめて、マツカ君が。
「ええ、多分…。ですが…」
「会長がそうだと言い切る以上は白癬菌になるんですよね…」
お気の毒です、とシロエ君。バカップルの納豆生活のために身体を張った教頭先生、別荘ライフは砂蒸し三昧で終わりそう。これに懲りたらソルジャーの口車には乗らないことだと思うんですけど、藁苞パワー、恐るべし。まさか本当に絶倫だなんて、やっぱり禁欲効果なのかな…?
納豆を買いに・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
納豆を食べれば絶倫なのだ、と思い込んだソルジャーの欲望は藁苞の方へまっしぐら。
毎度のように実験台にされた教頭先生、気の毒な結末に。砂蒸しで治るといいですけど…。
シャングリラ学園シリーズ、4月2日で連載開始から11周年を迎えます。
12周年に向けて頑張りますので、これからも、どうぞ御贔屓に。
次回は 「第3月曜」 4月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、3月は、お馴染みの春のお彼岸。今年も法要をするわけで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(シャングリラ…)
こんなにあるんだ、とブルーが覗き込んだ新聞。
学校から帰っておやつを食べながら、ダイニングで。母が焼いてくれたケーキはすっかり食べてしまったから、残るは紅茶だけだから。新聞を見ていても行儀が悪いわけではないし、と。
其処に載っていたシャングリラ。前の自分が暮らした船。
白いシャングリラが、懐かしい鯨が幾つも幾つも並んでいた。カラー写真が、紙面にズラリと。
けれど本物のシャングリラではなくて、インテリア用のシャングリラ。家を彩るためのもの。
額装された写真や様々な素材で出来たレリーフ、ポスターもジグゾーパズルもあって。
精巧な模型も色々とあるし、凝ったものだと手織りのタペストリーまで。
驚いてしまったシャングリラの数、値段の方にも驚かされた。本物そっくりに作ってある模型も高いけれども、タペストリー。織り上げるまでに手間がかかるから、ポスターや写真とは桁違いに高価。こんなものを誰が買うのだろうか、と思うくらいに。かつて暮らした自分でさえも。
(…シャングリラは飾りじゃないんだけどな…)
あの白い船はミュウの箱舟、人類から逃れて生きてゆくために造った船。
優美な姿の白い鯨は好きだったけれど、誇りに思っていたけれど。人類軍の戦艦などよりずっと綺麗だと、美しい船だと、いつも眺めていたけれど。
飾りではなかったシャングリラ。自給自足で全てを賄い、船の中だけで一つの世界。仲間たちの命を乗せていた船、飾りどころか実用品。無ければ生きてはゆけなかった船。
それが飾りになっているのが今の世界で、平和の証拠。
高い模型やタペストリーまでが作られるほどに。そういったものを欲しがる人がいるほどに。
(高いのは別に…)
シャングリラを織り上げたタペストリーは欲しくないけれど。精巧な模型も要らないけれど。
前にハーレイと約束をした。いつか二人で暮らす家には、シャングリラの写真を飾ろうと。
白いシャングリラの写真集はお揃いで持っているけれど、それとは別に。
(雲海の写真…)
写真集の何処にも載っていない写真、きっと誰一人、撮らなかった写真。
雲海に浮かぶシャングリラ。それを捉えた写真は一枚も無かった、きっと美しかっただろうに。
白い雲の海の上に浮かんだ白い鯨は、太陽の光を受けて輝いていたのだろうに。
雲海の星、アルテメシアに長く潜んでいたけれど。雲の上には出なかった船。いつも雲海の中に隠れていた船、浮上することは死を意味していたから。
シャングリラの存在を人類に知られ、沈むまで追撃されるだろうから。
ジョミーを救いに浮上するまで、シャングリラは雲から出なかった。ただの一度も。
そんな過去を持った船だったから。雲の海といえば隠れ住むもので、それが常識だったから。
アルテメシアを後にしてからも、人類軍との戦いに勝ってアルテメシアに戻った後にも、雲海は突き抜けてゆくだけのもの。宙港に出入りするために。その惑星の空を飛ぶ時に。
そのせいかどうか、トォニィがソルジャーだった時代も、何枚もの写真が撮られた時代も、誰も思い付きはしなかった。雲海の上を飛ぶシャングリラを撮影するということを。雲の海の上をゆく白い鯨を、眩く輝く白いシャングリラを写真に収めておくことを。
宇宙の何処にも残されていない、雲海に浮かぶシャングリラの写真。
白いシャングリラが時の彼方に消えた今では、もう撮ることすら叶わない写真。
その幻の写真を作ろうと決めた、いつかハーレイと二人で雲海の写真を撮りに出掛けて。雲海が出来やすい季節に朝早く起きて、暗い内から待ち構えて。
これだと思う写真が撮れたら、シャングリラの写真と合成して作る。雲海に浮かぶ白い鯨を。
誰一人として思い付かなかった、白いシャングリラの美しい姿を。
夢の雲海のシャングリラ。昇る朝日に輝く船。
そういう写真を飾ろうと決めていたのだけれども、世間にはもっと色々なものがあるらしい。
模型はともかく、タペストリー。それも高価な手織りだなんて。
(写真集があるくらいだものね…)
ハーレイとお揃いで持っている写真集。自分のお小遣いでは買えない値段の豪華版だったから、父に強請って買って貰った。それの他にも写真集は様々、手頃な値段のものも沢山。
ミュウの歴史の始まりの船は、今の時代も一番人気の宇宙船。
遊園地に行けば遊具もある。幼い子供向けのものから、スリリングな大人向けのものまで。
自分が幼かった頃には、青い海を走るバナナボートのシャングリラだって見たのだし…。
(…写真を飾るくらいは普通?)
額装された立派な写真や、貼るだけの安価なポスターやら。
手織りのタペストリーまであるくらいなのだし、シャングリラに憧れる人なら欲しいのだろう。この新聞に載っているような、インテリアに出来るシャングリラが。
本物のシャングリラは飾りなどではなかったけれども、飾りになったシャングリラが。
(こんなにあるなら…)
売り物になっている白いシャングリラが、こんなに沢山あるのなら。
いつかハーレイと暮らす家にも一つくらいは欲しい気がする、雲海に浮かぶ白いシャングリラの写真の他にも。高価なものではなくていいから、人気のものを。新聞に載るような人気商品を。
何種類もある大きなポスターでもいいし、大きなジグゾーパズルでも。
きっと素敵なことだろう。リビングだとか、ダイニングの壁に飾る大きなシャングリラ。
(…でも…)
それもいいな、と想像してみてハタと気が付いた。
ハーレイと二人で住んでいるのなら、同じ家で暮らしているのなら。
その家にはハーレイの教え子たちがやって来る。顧問をしているクラブの部員たちが。
彼らは家中、端から探検すると言うから。家探しのように、どの部屋も覗いてゆくと聞くから。
シャングリラの大きなポスターが飾ってあったら、変だと思われるだろうか?
もしかしたら、この家の住人は生まれ変わりかもしれないと。
ハーレイと自分の姿が姿なだけに、懐かしい船の写真を飾っているのだと。
(…雲海の写真なら趣味で済むけど…)
趣味で合成してみたのだと、綺麗だろうと、ハーレイが鼻高々で披露出来そうだけれど、大きなポスターはマズイだろうか?
自分たちは実は生まれ変わりだと、このシャングリラで生きていたのだと言わんばかりの飾りになってしまうのだろうか、部屋の壁にデカデカと貼ってあったら。
そうは思うけれど、そんな気持ちもするのだけれど。
これだけの数のシャングリラを見たら、幾つも並べて載せてあったら…。
やっぱり、どれか欲しくなる。一つくらい、と思ってしまう。
白いシャングリラのポスターもいいし、ジグゾーパズルも。懐かしい白いシャングリラ。それが欲しいと、大きな写真を飾ってみたいと。
見れば見るほど欲しくなるから、欲が出て来てしまうから。新聞を閉じて、空になったカップやお皿をキッチンの母に返して、部屋に戻って来たけれど。勉強机の前に座ったけれど。
(…ぼくたちの船…)
前の自分が守り続けた白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
ハーレイと出会った場所はアルタミラだったけれども、燃える地獄で出会ったけれど。それから二人、懸命に逃げて、あの船で暮らして恋をした。
きっと出会った時からの恋で、それと知らずに一目惚れで。
恋と気付かず、長い長い時を一番の友達同士で過ごして、白い鯨が出来上がってから結ばれた。キスを交わして、愛を交わして。
だからシャングリラは思い出の船。忘れられない、大切な船。
飾り物の船ではなかったけれども、インテリアではなかったけれど。
仲間たちの命を守っていた船、ミュウという種族を乗せた箱舟。
それは充分に、誰よりも分かっているのだけれども、ハーレイと恋をしていた船。甘い思い出も乗せていた船、誰にも言えない恋だったけれど。
そんな船だから、前の自分たちが恋を育み、共に暮らした船だったから。
雲海に浮かぶ写真の他にも、白いシャングリラを飾ってかまわないのなら…。
(飾りたいよ…)
大きなシャングリラのポスターを。でなければ大きなジグゾーパズル。
それが実現するかどうかは、ハーレイ次第なのだけど。
生まれ変わりかと疑われそうだ、と止められてしまったら駄目だけれども。
でも欲しい、と思う気持ちは消えてくれない。二人で暮らす家に飾ってみたい、と。
それを頭から追い払えないままで考えていたら、チャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋のテーブルで向かい合うなり切り出した。
「あのね…。ハーレイ、シャングリラのタペストリーって知っている?」
手織りなんだって、タペストリー。凄く高いけど、シャングリラが綺麗に織ってあったよ。
新聞にいろんな写真が載ってたんだよ、インテリアになってるシャングリラの特集。模型とか、額に入った写真だとか…。レリーフになってるヤツも色々。
「ああ、あるらしいな、手織りのタペストリー」
とんでもない値段の飾り物だな、酔狂なヤツもいるもんだ。
同じシャングリラなら、写真の方が実物そっくりだと思うんだがなあ、織物にするより。
「そうだよねえ? ぼくもポスターの方がいいんだけれど…」
ぼくたちの家に飾ってもいい?
いつかハーレイと結婚したなら、シャングリラ、飾りたいんだけれど…。
ハーレイと作ろうって約束している雲海の写真も飾るけれども、大きなポスター。
「はあ?」
ポスターって、お前…。
なんだってポスターなんかを飾ろうって言うんだ、雲海の写真じゃ駄目なのか?
前にお前が言っていたとおり、雲海に浮かぶシャングリラの写真は綺麗だぞ、きっと。
最高の雲海を撮りに行く所から始めるんだろうが、俺たちの家に飾る写真は。
それじゃ駄目か、と問われたけれど。雲海の写真もいいのだけれど。
「思い出の船だから何か欲しいよ、ぼくたちで作る写真の他にも」
あんなに色々売られてるんだし、シャングリラの何かが欲しいんだよ。
前のぼくたちが暮らしてたんだ、って思い出せるように大きなポスターとか、ジグゾーパズル。
大きなジグゾーパズルもあったし、そういうのでもいいんだけれど…。
「…シャングリラ・リングじゃ足りんのか?」
当たるかどうかは申し込まないと分からないがだ、もしも当たったら、シャングリラから作った指輪が手に入るんだぞ?
それこそシャングリラそのものなんだが、それじゃお前は足りないのか?
「シャングリラ・リングは欲しいけど…。確かにシャングリラそのものだけど…」
だけど形が残っていないよ、見た目は結婚指輪なんだよ?
ぼくはシャングリラの姿を見たいよ、白い鯨の。
ハーレイと暮らした船を見たいんだよ、この船でハーレイと生きていたんだ、って。
「ふうむ…」
あの船の形が残っていないか、結婚指輪になっちまったら。
シャングリラの名残の金属で出来た結婚指輪ってだけで、形が違うと言うんだな、お前。
俺はシャングリラの外見にはさほどこだわらないが…、と続いた言葉。
お前と違って外側からはあまり見ていない、と。
「いつもモニター越しだったんだ。俺が見ていたシャングリラは」
アルテメシアに着いてから後は、ずっと雲海の中だったし…。
前のお前が元気だった頃には、数えるほどしか見ていない。キャプテンの俺が外に出ることは、本当に滅多に無かったからな。
白い鯨に改造していた最中だったら、視察に出ることも多かったんだが…。
作業の進捗状況はどうか、何処まで出来上がって来ているのか。俺がこの目で確かめないとな、キャプテンだしな?
だが、改造が済んじまったら、俺の仕事場は船の中なんだ。新しい船を上手く纏めて、効率よく動かしてやらんといかん。外に出ている暇があったら中で仕事をしろってな。
ステルス・デバイスのオーバーホールとか、そんな時しか見てはいないな、外からはな。
「あ…!」
ホントだ、ハーレイ、見ていないんだ…。
前のぼくは何度も外へ出ていたけれども、ハーレイは外には出なかったっけ…。
雲海の星に長く潜んでいた間には、ハーレイが肉眼でシャングリラの姿を見ることは無かった。船の外へ出る機会があっても、雲海の中では白い鯨の姿そのものは見られない。
前の自分がやっていたように、雲の中を透視しない限りは。白い雲の粒を消さない限りは。
白い鯨が雲海から出て、赤いナスカの衛星軌道上にあった時。
前のハーレイはシャングリラとナスカを何度も往復していたのだから、乗ったシャトルから白い鯨を目にしていたのだろうけれど。
その頃にはもう、前の自分は深い眠りに就いていた。十五年間もの長い眠りに。
ようやく眠りから覚めた時には、あの惨劇が待っていたから。
ナスカはメギドの炎に焼かれて、前の自分はメギドへと飛んでしまったから…。
それから後のシャングリラにはもう、前の自分の姿は無かった。
地球へと向かって旅立った船に、ハーレイは一人きりだった。多くの仲間を乗せた船でも、前の自分たちの約束の地へと向かう船でも。
幾つもの星を陥落させては、シャングリラは其処に降りたけれども。
ハーレイも船から降りてシャングリラを仰いだけれども、その船に前の自分はいなくて。
白い鯨をいくら眺めても、何の感慨も無かっただろう。ハーレイの魂はとうの昔に、前の自分を喪った時に、死んでしまっていただろうから。
ただの船にしか見えなかったろう、白い鯨の形をした。巨大な白い船だとしか…。
「…じゃあ、ハーレイが知ってるシャングリラは…」
白い鯨の形をしていた時のシャングリラは、殆どの時は…。
「前のお前が眠っちまっていたか、いなかったかだ」
元気だった頃のお前とはあんまり結び付かんな、そのせいでな。
お前が元気だった頃にも見た筈なんだが、寂しかった時代と悲しかった時代。そっちの方が多いわけだな、前のお前が目覚めないままか、いなくなっちまった後ってことでな…。
「…それじゃ、あの船、好きじゃない?」
ハーレイはあんまり好きじゃないのかな、白い鯨だったシャングリラ…。
「いや、好きだが…」
キャプテンなんだぞ、嫌いなわけがないだろう。俺が動かしてた船なんだから。
前のお前が逝っちまった後は、少し複雑だったがな…。
あれを地球まで運ばんことには、俺の役目は終わってくれない。前のお前の所へ行けない。
そう考えたら、俺を縛っている厄介な船で、おまけにお前も乗ってはいない。
好きな船だが好きじゃなかった、誰にもそうは言わなかったが。
…それでも好きではあったんだろうな、前のお前と一緒に暮らした船だったからな…。
お前ほどにはこだわらない、と苦笑いされた白いシャングリラの姿そのもの。白かった鯨。
思い出は船の中なんだ、と。前のお前との思い出も船の中だろうが、と。
「だったら、写真は…。シャングリラの大きなポスターは…」
やっぱり駄目?
ハーレイがそれほどこだわらないなら、ぼくが欲しいからって貼ったら駄目かな?
そんなの貼ったら、生まれ変わりだと思われそうだし…。
キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーだから、飾ってるんだと思われそうだし…。
「誰にだ?」
俺たちが生まれ変わりだと誰が思うんだ、そのデカいポスターとやらのせいで?
「…ハーレイの学校の生徒たちだよ」
顧問をしているクラブの生徒は、家に呼ぶんだって言ってるじゃない。
今の学校でも、柔道部の子たちが何度も遊びに行ってるんだし…。
「あいつらか…」
家中を走り回って騒ぐヤツらだな、部屋の扉を端から開けては中を覗いて。
シャングリラのポスターが貼ってあったら、もちろん発見されるんだろうが…。
しかしだ、相手はあいつらだしな…。
甘く見るなよ、とハーレイは一旦、言葉を切って。
「そんな代物を飾ってなくても、あいつらは勝手に話を作っていそうだが?」
たとえポスターが無かったとしても、格好の餌食というヤツだ。
「え?」
餌食って…。なんなの、なんで餌食になるの?
話を作るって、どういう話を勝手に作られてしまうわけ…?
「よく考えてみろよ、お前と俺だぞ?」
しかも結婚して一緒に暮らしてるんだぞ、結婚指輪まで嵌めて同じ家でな。
あいつらは寝室だろうが容赦しないで覗くわけだし、そりゃもう派手に騒ぐだろうなあ…。
本当に結婚しているらしいと、生まれ変わったから今度は結婚したらしいとな。
「今度は、って…。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイも恋人同士だったって?」
そういう話にされてしまうの、ぼくとハーレイが結婚したら?
見た目がそっくり同じだからって、生まれ変わりだと決め付けられちゃって…?
「うむ。その上、適当に尾びれもくっついちまって」
実は記録に残っていないだけで、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイも本当は結婚していただとか。新婚旅行に行っていたとか、結婚記念日はこの日だとか。
「新婚旅行に結婚記念日って…。そんなの、出来っこなかったのに…!」
結婚記念日の方はともかく、新婚旅行はどう考えても無理そうなのに…。
そうなってしまうの、ハーレイの学校の生徒が話を作っちゃったら…?
「ガキなんていうのは、そんなもんだ」
根も葉もない噂で盛り上がるのが好きで、話を大きく膨らませるのも大好きで。
ヤツらにかかれば、俺たちの過去は楽しく捏造されるんだろうな、それはとんでもない方向へ。
シャングリラのデカいポスターが飾ってあろうが無かろうが、と笑うハーレイ。
この姿だけでとっくに話の種だと、前も結婚していたことにされちまう、と。
「どうするの、それ…」
大変じゃないの、キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが恋人同士だっただなんて。
おまけに結婚していただなんて、そんな話になっちゃったら…!
「どうもしないさ、他にも噂は色々流れていそうだからな」
義務教育中のガキどもなんかは可愛いもんだぞ、今のお前と中身は大して変わらないしな。
結婚の意味もそれほど分かっちゃいないさ、一緒に暮らしているって程度で。
だがな、俺の友達やら、お前が結婚する頃のお前の友達。
そういったヤツらはもっと手強い相手になるなあ、結婚ってことになったらな。
同じ家で仲良く暮らしてるんです、というだけでは済まないと百も承知なんだし…。
手を繋いで二人で出掛ける程度じゃないってことも充分知っているしな?
「…結婚の中身…。そっか、その頃なら、ぼくの友達でも分かるかも…」
ぼくの友達には分からなくっても、ハーレイの友達だったら分かるよね…。
結婚したら何をするのか、一緒に暮らして何をしてるのか。
それで生まれ変わりだって思われちゃったら、バレちゃうの、前のぼくたちのことも?
前のぼくたちが最後まで言わずに隠していたこと、今頃になってバレてしまうの…?
「まさか。本物だと名乗らない限りはな」
俺たちが本当に生まれ変わりだと言わない限りは、似ているってだけの赤の他人だ。
面白おかしく噂が立っても、前の俺たちへの評価は揺るがん。
まるで関係無いカップルが一組いるだけなんだし、むしろ気の毒がられるかもなあ…。
紛らわしいのが結婚したお蔭で、前の俺たちが墓の中で迷惑していると。
変な噂を立てられちまって、ソルジャー・ブルーもキャプテン・ハーレイも、いい迷惑だと。
友人たちが無責任な噂を立てていようが、変わらないという前の自分たちへの視線。
世間の評価は何も変わらず、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイに瓜二つのカップルがいるというだけ。
自分たちが公にしない限りは、本当に本物の生まれ変わりだと言わない限りは。
「で、どうするんだ。…名乗るのか?」
いつか言うのか、本当はソルジャー・ブルーなんだと。
お前がそうだと明かすんだったら、もちろん俺も付き合うが…。キャプテン・ハーレイだったと名乗る覚悟は出来てるんだが。
そのせいでどんな噂が立とうが、どんな目で見られることになろうが、俺はお前を全力で守る。今度は守ると決めたからには、相手が何であろうがな。
「まだ決めてない…」
考えていないよ、まだ少しも。…だって、ぼくはまだ子供だから。
ハーレイにチビって言われるくらいに小さいんだから、きっと考えも子供なんだよ。子供の頭で考えてみても、正しいかどうかは分からないから…。
どうしようかな、って考えはしても、そこまでだけ。…こうするんだ、って決めてはいないよ。
ハーレイが本当のことを話すんだったら、付き合おうとは思うけれども。
「ゆっくりでいいさ、大事なことだ」
チビのお前には重すぎるしなあ、前のお前の人生ってヤツは。
いくら記憶を持っていたって、前のお前と同じようには決断出来んし、する必要も無いってな。
今度は俺がお前を守ってやるんだ、難しい判断を一人でしなくていいんだ、今のお前は。
俺に相談すればいいのさ、どんなことでも。…お前が本当は誰だったのかを話すかどうかも。
学者どもに囲まれて、もみくちゃにされたくないって言うなら、黙っているのも一つの手だ。
俺たちには何の責任も無いんだからなあ、前の俺たちのことに関してはな。
責任があるのは今の自分の人生だけだ、と微笑むハーレイ。
今の時代を生きてゆくだけなら、前の自分たちは何の関係も無いと。
「思い出だけを持ってりゃいいんだ、大切にな。前の俺たちが生きた思い出」
そいつを大事に持ったままでだ、今の幸せをその上に積んでいけばいい。幾つも、幾つも、俺と二人で。
前の幸せの上に今の幸せ、実にお得な話じゃないか。二人分の幸せを積めるんだからな。普通は一つの人生の上に一人分しか乗せられないだろ?
今の自分が生きてる分だけ、それしか無いのが普通なんだ。ところが俺たちは前の分まで持って生まれて来たってな。その有難さだけを貰えばいいんだ、前の俺たちの人生からは。
責任なんかは持たなくていいし、誰も持てとも言わんしな。
放っておいても噂は勝手に立つものなんだし、それでかまわん。
噂は所詮噂だからなあ、学者なんぞは見向きもしないさ、真面目に相手をしやしない。
俺たちが本当に本物なんだと言わない限りは、ただの他人の空似だからな。
どんな噂が流れていようが、ハーレイの学校の教え子たちが勝手に話を作ろうが。
今の自分たちは笑って聞き流しているだけでいいと、前の自分たちのことまで気にする必要など何処にも無いと、ハーレイが太鼓判を押してくれたから。
好きに生きていいと、今を生きろと優しい笑みを浮かべるから。
「じゃあ、シャングリラの写真…」
ハーレイも嫌いじゃないんだったら、前のぼくたちの船の思い出に飾ってもいい?
リビングとかダイニングの壁にポスター、貼ってもいい?
「もちろんだ。お前の気に入ったヤツを飾ればいいさ。うんとデカイのを」
雲海の写真だと、シャングリラはそれほど大きくないしな、主役は雲海なんだから。
シャングリラの姿を見たいんだったら、ポスターの方がいいだろう。
お前が欲しいなら、ポスター並みにデカい写真を買うのもいいなあ、きちんと額に入ったヤツ。俺の給料で買えそうだったら、もっと立派なパネルとかでも。
「ううん、普通のポスターでいいよ」
今のぼくでも買えそうな値段のポスターでいいよ、シャングリラをいつでも見られるんなら。
壁に飾って、こんな船だった、って懐かしく眺められるんなら。
「そうなのか?」
あるだけでいいのか、シャングリラの写真が。
額入りのだとか、立派なパネルに仕立てたヤツとか、そういうのじゃなくてポスターだけで。
「うん」
あの船の写真を飾れるんなら、それだけで幸せ。
ハーレイと二人で暮らしてた船を、今のぼくたちが暮らしてる家で一緒に見られるんなら…。
「ふうむ…。俺と一緒に見ようって言うのか、シャングリラの写真」
だったら、デカいポスターもいいが、ジグゾーパズルにするのはどうだ?
とびきりデカくて、作るのに床を占領しちまいそうなほど、ピースが多いジグゾーパズル。
「…ジグゾーパズル?」
それもいいよね、って思ってたけど、ハーレイ、ジグゾーパズルが好きなの?
前のハーレイが作っていたって覚えはないけど、今のハーレイは好きだったとか…?
「いや。特に好きだということは無いし、ガキの頃に作った程度だが…」
相手がシャングリラの写真となったら、そいつもいいなと思ってな。
お前が俺に教えてくれ。
山ほどの真っ白なピースの中から、これは此処だ、と。シャングリラの此処になるんだ、と。
お前、そういう見分けをするのは得意だろうが。
前の俺と違って、あの船を外から何度も見ていたのが前のお前なんだからな。
ほんの小さな違いだけでも気付く筈だぞ、同じ白でもこれは此処だ、と。
「それを言うなら、ハーレイだってモニター越しに見ていたじゃない!」
センサーを通した画像で見てても、シャングリラはおんなじシャングリラだよ?
肉眼で見るか、モニターで見るかの違いしかなくて、条件は同じだと思うんだけど…!
それにハーレイはキャプテンだった、と言ってやったら。
前の自分よりもシャングリラの構造に詳しかった筈で、どの角度からの画像であっても、何処の部分が映っているのか分かった筈だ、と指摘したら。
「そうだっけなあ…。言われてみれば、俺の方が詳しかったのかもな」
小さな傷でも宇宙船には命取りだし、発見したなら補修させないといけなかったし…。
作業完了と報告が来たら、直ぐに確認していたし…。
シャングリラの何処の部分がこのピースなのか、と訊かれたら、即答出来るのは俺かもしれん。
だがな、俺とお前の共同作業で出来るシャングリラもいいもんだぞ。
床いっぱいにピースを広げて、これは此処だと、これはこっちだと、お前と二人で。
「そうかもね…!」
あっちだ、こっちだ、って喧嘩になるかもしれないね。
ぼくは絶対此処だって言うのに、ハーレイは違う場所だって言って。
二人とも少しも譲らないままで、他のピースを嵌めてって…。
頑張ってパズルを作っていったら、喧嘩してたピースが嵌まる所を二人とも間違えてたとかね。
いつか二人で暮らす家には、シャングリラのポスターもいいけれど。
ジグゾーパズルの白いシャングリラもいい、大きくてピースも沢山のパズル。
山ほどのピースを床に広げて、ハーレイと一緒にせっせと嵌めて。
シャングリラを二人で作ってゆこうか、自分たちの手でシャングリラを。白い鯨を。
「ねえ、ハーレイ。ジグゾーパズルなら、シャングリラ、ぼくたちで作れるね」
ぼくとハーレイのためのシャングリラを、ぼくとハーレイ、二人だけで。
本物のシャングリラは大勢の仲間が造り上げたけど、今度はハーレイとぼくの二人で。
「おっ、いいな!」
出来上がったら号令するかな、「シャングリラ、発進!」と景気よくな。
「発進なんだね、ジグゾーパズルのシャングリラの」
ハーレイが言ってくれるんだったら、本当にぼくたちのシャングリラになるよ。
ぼくとハーレイ、二人だけのためのシャングリラに。
シャングリラ、二人で作ってみようよ、ジグゾーパズルで。
ぼくたちの船を、本物のシャングリラの頃とは違って、飾って眺めるための船をね。
白いシャングリラは、白い鯨は、大勢の仲間と造ったけれど。
飾り物の船ではなかったけれど。
家に飾るための思い出の船は二人で作ろう、ジグゾーパズルのピースを嵌めて。
床いっぱいにピースを広げて、これは此処だと、それは違うと喧嘩し合って、笑い合って。
そんな幸せな時間もいい。ジグゾーパズルのピースで喧嘩。
結局、二人とも間違えていたり、分からないと揃って悩んでみたり。
いつか結婚したならば。二人一緒に暮らせるようになったなら。
二人だけで眺める飾り物の船を、白いシャングリラを作ってみよう。
今の時代は、もう箱舟は要らないから。
ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、何処までも歩いてゆけるのだから…。
飾り物の船・了
※今の時代は、白いシャングリラはインテリア。ハーレイと暮らす家にも何か欲しいのです。
どうせ飾るのなら、ジグゾーパズルがいいのかも。二人で作ったシャングリラの雄姿を。
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(ふうむ…)
こいつは全く知らなかった、とハーレイが覗き込んだ新聞記事。
ブルーの家には寄れなかったから、夕食の後でダイニングで。愛用の大きなマグカップに淹れたコーヒー片手に寛ぎの時間。書斎に行く日も多いけれども、今夜はゆっくり新聞を、と。
その新聞の中、「最後の花」という見出し。添えられたエーデルワイスの写真。真っ白な綿毛に覆われた花が美しい高山植物。最後の花とはどういう意味か、と読み始めたのだけれど。
エーデルワイス。
それが地球で最後に咲いていた花。今の蘇った青い地球ではなくて、滅びゆく地球で。
SD体制に入ると決定した時、人類は全て地球を離れた。誰一人として残ることは出来ず、死の星と化した地球を後にした、宇宙船に乗って。もう二度と見られぬ地球に別れを告げて。
人の世界は変わってゆくから、生き方も何もかもSD体制の開幕と共に変革されるから。地球にいた人々に次の世代は無かった。幼い子供にも、若い夫婦にも、その胎内の赤子にさえも。
彼らはいったい、どんな思いで地球を離れて行ったのか。自分たちが残りの生を送るための星へ旅立って行ったのか。記録は殆ど残されていない、彼らも滅びていったのだから。
母なる地球から遠く離れた植民惑星、其処だけで生きて。SD体制の時代を生きた者たちからは忘れ去られて、マザー・システムからの保護も受けられずに。
地球を去ってゆく彼らの船。二度と戻らない、戻れない船。
悲しみの涙が満ちていたろう、地球の大地に永遠の別れを告げてゆく船。
その旅立ちを地球の上から見送った花がエーデルワイス。滅びゆく地球で開いた最後の花。
もちろん、人が住めない大地にエーデルワイスが咲けるわけがない。植物などが育ちはしない。人工的に創り出された環境、そんな場所でしか。
エーデルワイスはユグドラシルの側に咲いていたという。地球の再生を託されたユグドラシル。その中にまだ人はいないけれども、SD体制が人を育てるまでは無人だけれど。
いつか機械が育てた人類が地球に戻って、ユグドラシルから地球を蘇らせてゆくだろうから。
マザー・システムとグランド・マザーに守られて青い水の星を取り戻してくれるだろうから。
いつか必ず、と地球を離れる人々が咲かせたエーデルワイス。
高く聳え立つユグドラシルの下に、強化ガラスのケースを据えて。中の環境を整えてやって。
この花が自然に育つ環境が地球に再び蘇るように、と祈りをこめて。
エーデルワイスは不死と不滅のシンボル、永遠を意味する花だと語り継がれていたから。地球がまだ青い星だった頃に、採集されすぎて絶滅しかかった過去を持っていた花だったから。
地球が永遠であるように。
エーデルワイスが滅びることなく生き残ったように、この星もまた蘇るように。
どうか、と人類が植えていった花。
自分たちは二度と戻れはしないけれども、地球は永遠であるようにと。
ガラスケースの中のエーデルワイスはきっと滅びてしまうだろうけれど、その花の代わりに次の花たちが、蘇った地球に新しいエーデルワイスの株が根付いて花開くようにと。
そうして人類の船は旅立った、エーデルワイスの花を残して。
エーデルワイスは船を見送った、もう戻らない人類の船を。強化ガラスのケースの中から。白く美しい花を咲かせて、滅びに向かいつつあった地球の大地で。
(SD体制の時代には消されていたデータなのか…)
新聞記事にはそう書いてあった、当時の人々は知らなかったと。
ユグドラシルの側に強化ガラスのケースが据えられていたということも、エーデルワイスの花のケースであったことも。
地球から去って行った人類の思いは知らない方が良かったから。
管理出産と機械による統治、そんな時代に「最後に人らしく生きた人々」の存在はタブー。遠い星で次の世代も作れず、滅び去っていった人々のことは深く考えない方がいい。
彼らの思いは、悲しい最期は、SD体制を良しとする世界ではマイナスにしかならないから。
何を思ってどう生きたのかも、どんな思いで母なる地球を後にしたかも。
だから封印されていたデータ。かつての多様な文化も消されてしまったけれども、それに纏わるデータ以上に、厳重に。
(誰も知らずにいたってわけか…)
ユグドラシルの側のガラスケースも、中に咲いていたエーデルワイスも。
滅びゆく地球に祈りをこめて植えられ、去ってゆく船を見送った最後の花だったのに。人工的に創り出された空間の中で、強化ガラスのケースの中で。
(ケースもその内に割れたんだろうが…)
SD体制の下で生まれた人類が育ち、ユグドラシルに入る頃には割れてしまっていたのだろう。跡形もなく壊れていたのか、それとも何が入っていたかも分からないようになっていたのか。
人類はそれに気付かなかった。エーデルワイスを育てたケースに。地球の最後の花のケースに。
それから長い時が流れて、SD体制が滅びるまで。
マザー・システムが管理していた、情報の封印が解かれる日まで。
地球の上に咲いた最後の花が何であったか、どんな思いで人々がそれを残したのか。知られないままで流れた時間。
前の自分もその時代を生きた、最後の花のことなど知らずに。
いつか地球へとブルーと二人で夢を見ていても、その地球の上に人類が残したエーデルワイスは知らずに終わった。
白いシャングリラのデータベースにも、宇宙の何処にも、情報は何も無かったから。封印された情報などは、引き出す術が無かったから。
(最後の花なあ…)
これがそうか、と新聞記事のエーデルワイスの写真を覗き込む。
ガラスケースの中とは違って、自然の中での写真だけれど。ハイキングコースの脇に咲いていたエーデルワイスの花だと書かれているけれど。
エーデルワイス。今の時代にも愛されている高山植物、それを目当てに山に出掛ける人もいる。
ただ、高い山の花だから。おまけに、今の自分が住んでいる地域にエーデルワイスは…。
(無いんだよなあ…)
かつて日本と呼ばれた小さな島国、それがあった場所にエーデルワイスの花は無かった。たった一ヶ所だけを除いて、ただ一つだけの山を除いて。
ハヤチネウスユキソウ。かつての日本のエーデルワイス。
早池峰山という山の頂でだけ咲いた固有種、他の山には無かったという。だから今でも、其処に行かないと見られない。早池峰山があった辺りに聳える高い山だけに咲くエーデルワイス。
今の自分は見たことが無いし、見に出掛けたいと思ったことも無いのだけれど。
(待てよ…?)
白い花を咲かせるエーデルワイス。本などで何度も目にしてきた花。
星を思わせる花の形に、綿毛に覆われた独特の姿。ふうわりと柔らかそうな花。
それを自分は知っている。自分ではなくて前の自分が、キャプテン・ハーレイだった自分が。
前の自分が確かに見ていた、エーデルワイスを。白い星の形をしていた花を。
本やデータで見たのではなくて、肉眼で。
手を伸ばしたら触れそうなほどに近い所で、その気になったら摘めそうな場所で。
(何処だ…?)
エーデルワイスなどを何処で見ただろうか、前の自分は?
今も昔も高山植物、園芸品種があるという話は耳にするけれど、そうそうお目にはかかれない。現に自分は知らないわけだし、前の自分ともなれば尚のこと。
(シャングリラの中しか有り得ないんだが…)
そのシャングリラは自給自足で飛んでいた船、宇宙船。高い山などあるわけがない。けれども、自分は確かに目にした。エーデルワイスを、あの白い花を。
(あんなのが何処にあったんだ…?)
花と言ったら思い出すのは公園だけれど。ブリッジから見えた広い公園、様々な植物が植わった憩いの場所だったけれど。
思い出せないエーデルワイス。あの公園で見たなら、覚えていそうな筈なのに。
エーデルワイスが咲いていた場所からも、ブリッジは見えていただろうから。白い花から視線を上げたら、自分の居場所が見えたろうから。
けれど全く無い記憶。エーデルワイスとブリッジはまるで繋がらない。
そうなってくると…。
(…公園じゃないのか?)
バラエティー豊かな植物と言えば、あの公園。子供たちがよく遊んだ公園。
ただ、公園は他に幾つもあったから。居住区の中などに幾つも鏤められていたから、そういった公園の一つだったろうか?
(しかし、エーデルワイスだぞ?)
今でも珍しいエーデルワイス。今の自分が一度も目にしていない花。
それほどに特別な植物なのだし、シャングリラの中で植えるとしたなら、貴重品扱いだった筈。小さな公園に植えるよりかは、ブリッジが見える広い公園、そうなりそうな花なのに。
(どう考えても、あの公園しか…)
他の公園は規模も小さくて、緑に親しむための場所。栗の木があったり、サクランボだったり、それぞれ特徴があったけれども、エーデルワイスの記憶は無い。
いったい何処で見掛けたのだと、記憶違いかと遠い記憶を幾つも手繰り寄せて…。
一向に浮かんでくれない記憶。思い出せないエーデルワイスが咲いていた場所。
溜息をついて、新聞記事へと落とした視線。花の写真は参考にならず、もう一度、記事を読んでいったら。遠い昔に滅びかけた頃のエーデルワイスのくだりが目に留まった。
採集されすぎて数が減っても、人はエーデルワイスを求めたから。手に入れようと山に登って、崖から落ちて命を失くした者もいたほど。険しい岩場に生えていたというエーデルワイス。
(あれか…!)
岩場で一気に蘇った記憶、ヒルマンが作ったロックガーデン。
名前そのままに岩を配して、高山植物が植えられた公園。空調もそれに相応しくして。
規模は小さなものだったけれど、中身は本格的だった。他の公園とは違った植生。
船の中が世界の全てだったから、外の世界には出られないから。
其処で育ってゆく子供たちのためにと、高山植物を教えてやりたいと言ったヒルマン。
そういう公園が一つあったら、大人たちの心もきっと豊かになるだろうから、と。
反対する者は一人も無かったロックガーデン。
何かといえば「役に立たんわ」が口癖だったゼルも、これには反対しなかった。子供好きだったせいもあるだろう。いつもポケットに子供たちのための菓子を忍ばせていたほどに。
(何を植えるかで会議になって…)
公園の管理をしていた者たちとヒルマンとで大筋は決まったけれど。
長老と呼ばれるようになっていた前の自分にゼルやブラウたち、それにブルーが加わった会議で承認されれば、後は公園を作るだけだけれど。
配られた植物の資料の中で、「これだけは入れたい」とヒルマンがこだわったエーデルワイス。
「なにしろ、シャングリラの白だからね。この花の色は」
それに…、と説明を続けたヒルマン。
エーデルワイスの名前は「高貴な白」の意味だという。地球があった頃のドイツの言葉で。白いシャングリラに似合いの花だと、高貴な白を是非植えたいと。
それにエーデルワイスは元々は薬草、「アルプスの星」と呼ばれて珍重された。美しい姿も目を惹いたから、人に採られて減った野生種。
一時は絶滅しかかったほどで、採集が禁止されたという。そこまで数が減ってしまっても、高い崖にしか咲かなくなっても、それでも命永らえた花。地球が滅びてしまうまでは。
採り尽くされそうになってしまったのに、生き残ったというエーデルワイス。
人類に追われ、アルタミラで星ごと殲滅されそうになったミュウの船には相応しいと。
この花のように強くあろうと、生き延びようと。
「高貴な白」の名を持つ植物、人に絶滅させられかかった過去を持っているエーデルワイス。
ヒルマンのこだわりに誰もが頷き、エーデルワイスがロックガーデンの主役と決まった。それを植えようと、エーデルワイスの庭にしようと。
(前のあいつが奪いに出掛けて…)
白いシャングリラは、もう略奪とは無縁の船だったけれど。自給自足の船だったけれど、特別なものを導入するには奪ってくるより他にないから。
そういう時にはブルーの出番で、ロックガーデンに植えたい植物を全て調達して来た。人類側の植物園やら、園芸用の苗を扱う場所やらで。
それをヒルマンが主導して植えて、岩なども置いて、完成したエーデルワイスの庭。
「高貴な白」のエーデルワイスが美しく咲いた、他に幾つもの高山植物を従えて。白い花びらを星のように広げ、艶やかな緑の葉をアクセントにして。
「へええ…。こりゃまた、綺麗な花だねえ…!」
本当に星みたいな形じゃないか、と声を弾ませて見ていたブラウ。
地球のアルプスは知らないけれども、「アルプスの星」と呼ばれていたのも納得だよ、と。
「高貴な白と言うのも分かるのう…」
実に不思議な魅力のある花じゃて、しかも高い山にしか咲かんと聞いたら尚のことじゃ。
わしらの船にピッタリじゃわい、とゼルも褒めちぎった。いい花が咲いたと。
想像したよりも大きかった花、もっと小さいかと思っていた花。
(指先くらいとまでは言わないんだが…)
儚く小さな花だと思ったエーデルワイス。それは意外に大きめの花で、遠目にもそうだと分かる白くて美しい星。この花が崖に咲いていたなら目に入るだろう、摘んでみたくもなるだろう。
白い綿毛に覆われた花。高貴な白の名を持つ、アルプスの星を。
けれど、白いシャングリラのエーデルワイスは摘むことを禁止された花。大人はもちろん、子供たちさえも。
「これは珍しい植物だから」と、エーデルワイスの歴史を子供たちに教えたヒルマン。
一度は滅びそうになったほどの植物、それを摘んではいけないと。
そういう教育も必要だからと、エーデルワイスの株が増えても禁止令は解かれはしなかった。
ロックガーデンに幾つもの星が咲いても、高貴な白が鏤められても。
(そして、あいつも…)
前のブルーも見ていたのだった、エーデルワイスを。咲く度にロックガーデンに行って。
「この花は地球にも咲くんだよね」と、「今のアルプスはどんなだろうか」と。
きっとこんな風だ、とロックガーデンを、エーデルワイスを眺めたブルー。地球のアルプスにもエーデルワイスが咲いているだろうと、地球の風に揺れているのだろうと。
いつも通って眺めているから、飽きずに花を見詰めているから。
「摘んでもいいのではありませんか?」
あなたならば、と何度も声を掛けたけれど。
船の仲間たちも、ヒルマンやエラも、「ソルジャーの部屋に飾るのならば」と、摘んでゆくよう勧めたけれども、ブルーはいつでも首を横に振った。
「ぼくはそこまで特別じゃないよ」と、「エーデルワイスには敵わないよ」と。
いくら沢山の花が咲いても、けして摘むことをしなかったブルー。
ただ側でそれを見ていただけで。
白いエーデルワイスの花の向こうに、焦がれ続けた夢の星を。
「青い地球でも雪が積もったら、きっと白いね」と。
白い星だと、この花のように白く輝く美しい星になるのだろうね、と。
エーデルワイスの白い星に地球を見ていたブルー。前のブルーの憧れの星。
いつか行きたいと、そこへゆくのだと言っていたのに、前のブルーは辿り着けなくて。
(白い星どころか…)
赤かった地球。青い水の星は何処にも無かった、死の星があっただけだった。
遠い昔にエーデルワイスが残された時そのままに。
地球を去ってゆく人類の船を、エーデルワイスがガラスケースの中から見送った時とまるで全く変わらないままに。
エーデルワイスのガラスケースはとうに砕けて、風化してしまっていただろうけれど。
そこに咲いていたエーデルワイスも、塵になって風に舞い上げられて。
今も戻らない青い地球の上を、赤い星の上を、ただ風に乗って舞っていたかもしれないけれど。
前の自分はエーデルワイスにこめられた祈りも、存在さえも知らずに地球に降りたけれども。
ユグドラシルの側で風化したろうガラスケースを、思うことさえなかったけれど。
(最後の花がミュウの船にあったか…)
地球を目指したシャングリラに。ついに辿り着いた白い鯨に。
前の自分が地球まで運んで行った船。
大勢のミュウの仲間たちを乗せて、ヒルマンのロックガーデンを乗せて。「高貴な白」の名前を持つ花を乗せて、白いシャングリラの舵を握って。
その船が地球を蘇らせた。
SD体制を、グランド・マザーを破壊し、地球が蘇るための引き金を引いた。
エーデルワイスを乗せていた船が。
遠い昔に地球に残された最後の花と同じ花が咲いていた船が。
(まさか、エーデルワイスに呼ばれたってことは…)
いくらなんでも、花がシャングリラを呼ぶことはないだろうけれど。
あまりにも不思議な偶然だから。
シャングリラでいつもエーデルワイスを摘まずに見ていた、ブルーに話してやりたいから。
(明日は土曜日だし…)
丁度いい時に巡り会った記事、地球の最後の花が載った記事。
教えてやろう、小さなブルーに。
この記事のことを。
遠い昔に人類の船を見送ったという、エーデルワイスの花のことを。
次の日はよく晴れていたから、歩いてブルーの家に出掛けて。
ブルーの部屋でお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いてみた。
「エーデルワイスを知ってるか?」
そういう名前の有名な花だが、そいつをお前は知っているのか?
「うん、知ってる。エーデルワイスの歌があるよね」
SD体制が始まるよりも前から地球にある歌。学校で習って歌っていたよ。
「エーデルワイスの花を見たことは?」
写真はもちろん知ってるだろうが、本物のエーデルワイスはどうだ?
「ないよ、本物の花は一度も」
だって、高い山に咲く花だもの…。植物園にはあるだろうけど。
「前のお前はどうだった?」
やっぱり知らんか、エーデルワイスは?
「前のぼく…?」
エーデルワイスなんか知っていたかな、そんなの何処かで見掛けたかな…?
アルテメシアの山にあったかな、高い山は確かにあったけれども…。
あんな所にエーデルワイスがあっただろうか、とブルーは暫し考えてから。
「…待ってよ、アルテメシアじゃなくて…。そうじゃなくって…」
シャングリラで見たような気がするんだけど、エーデルワイス…。
ハーレイがこうして訊いてるんだし、シャングリラの何処かにあった…よね…?
思い出せないけど、きっと何処かにエーデルワイス…。
「うむ。俺もすっかり忘れてたんだが、ヒルマンのロックガーデンだ」
高貴な白って名前だからとか、他にも色々あったっけな。
ロックガーデンにはエーデルワイスを植えたい、とヒルマンが主張していたわけだが。
「ああ…!」
ホントだ、エーデルワイスの名前…。
それに人間に採られすぎちゃった花で、それでも滅びないで生き延びた花で。
ミュウの船にはピッタリだから、ってヒルマンが欲しがったんだっけ…!
シャングリラにあった、と手を打ったブルー。
あそこに出掛けていつも見ていた、と。白い星だと、雪が積もった地球だと思っていたと。
「きっと地球にも咲いてるんだと思ってたんだよ、あの頃のぼくは」
青い星に戻った地球に行ったら、エーデルワイスも咲いているんだ、って。
「知ってるか? そのエーデルワイスの花なんだが…」
あの花が最後の花だったそうだぞ。白いエーデルワイスの花がな。
「…最後の花?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
何の最後なの、エーデルワイスが最後だなんて…。
「地球だ。今の地球じゃなくて滅びゆく地球のな」
前の俺たちが生きた頃より、もっと前の時代。
SD体制に入ることが決まって、人類が地球を離れてゆく時。
エーデルワイスの花を置いて行ったそうだ、ユグドラシルの側に専用のガラスケースを作って。
いつか、この花が自然に生きられる青い地球が戻って来るように、と。
そういう祈りを託された花が、地球の最後の花だったのさ。
エーデルワイスの花が去ってゆく船を見送っていたんだ、もう誰もいない地球の上で。
例の新聞記事の中身をブルーに話してやったら。
地球に咲いていた最後の花はエーデルワイスだったと教えてやったら。
「…その話、前のぼくは知らなかったよ?」
エーデルワイスの苗を奪いに出掛けた時にも、それから後も。
花が咲いたら見に行っていたし、エーデルワイスのことも何度も調べていたと思うんだけど…。
「俺も知らんさ、ヒルマンだってな」
エラだって知りやしなかった。前の俺たちが生きた頃には、何処にも無かった情報なんだ。
グランド・マザーとマザー・システムが何重にもロックしていたわけだな。
どう調べたって、何処からも決して出て来ないように。
グランド・マザーが破壊されない限りは、マザー・システムが消えない限りは。
そんなわけだから、知ろうとしたって知りようがない。
あのキースでさえ、きっと調べても辿り着けなかったデータだろう。
もっとも、あいつは調べようともしなかったろうな、地球を離れた人類のその後なんかはな…。
厳重に封印されていた記録。
SD体制が滅びない限りは、出ないようにされていた記録。
地球の上で最後に咲いていた花、人類の船を見送ったというエーデルワイス。
「そんなの、あるんだ…」
前のぼくたちが生きてた頃には、どう調べたって誰にも分からなかったって話。
エーデルワイスのことは知ってたつもりでいたのに、まさか最後の花だったなんて…。
「そういうことらしいぞ、今の時代はエーデルワイスを詳しく調べりゃ出て来るそうだが」
とはいえ、あまり知られてはいないようだな、新聞の記事になるほどなんだし。
エーデルワイスは人気の花だが、最後の花ってトコまではな。
「そうだね、みんな知らないんだろうね」
もっと有名な話だったら、エーデルワイスはもっと大事にされていそうだし…。
この花が見送ってくれていたんだ、って記念品とかも作られそうだし…。
「まったくだ。エーデルワイスも大々的に宣伝されているだろうしな」
植物園で咲いていますとか、最後の花を見に行きませんかと山登りのツアーを組むだとか。
それでだ、前の俺たちの船はエーデルワイスを積んでいたってわけなんだが。
最後の花と同じエーデルワイスを乗せていた船で、前の俺は地球まで行ったんだが…。
「そういえば…!」
おんなじ花だね、エーデルワイスだったんだものね。最後の花とおんなじエーデルワイス。
「そのシャングリラが地球まで辿り着いた時に、SD体制は終わったんだ」
最後の花が咲いていた地球に、エーデルワイスを積んでいた船が着いたらな。
「偶然かな…?」
エーデルワイスが最後の花だった地球に、エーデルワイスを乗せたシャングリラが着いたらSD体制が終わったなんて。
地球が青い星に戻った切っ掛けの船が、エーデルワイスを積んでいたなんて。
「さてな…?」
そいつは分からん、神様にでも訊いてみないとな。
でなきゃエーデルワイスに訊くとか、どっちにしたって難しそうだが…。
ロマンチックに言うんだったら呼ばれたんだろう、と片目を瞑った。
エーデルワイスに、と。
いつの日か地球が蘇るようにと祈りをこめて置いてゆかれた、最後の花に。
「…そうなの?」
植物が人を呼ぶなんてことが本当にあるの?
人じゃなくって、エーデルワイスを呼んでいたのかもしれないけれど…。
帰っておいで、って。
その船で地球に帰っておいでって、そしたら地球が蘇るから、って。
「現実の世界じゃどうかは知らんが、古典の世界じゃありがちだよなあ…」
花だって立派に生き物なんだし、人に化けたりもするんだし。
花の精霊だっているしな、エーデルワイスの精霊だっていないとは言い切れないからなあ…。
「じゃあ、本当にエーデルワイスが呼び寄せたのかな?」
地球においで、って、シャングリラを。エーデルワイスを乗せていた船を。
「俺にはなんとも分からんがな…」
前の俺たちは何も知らなかったし、エーデルワイスで地球と繋がってたとも思わなかった。
俺はシャングリラの舵を握ってただけで、エーデルワイスの声なんぞは聞きもしなかったがな。
前の自分たちは何も知らずに、エーデルワイスを植えていたけれど。
白いシャングリラに、ミュウの船に相応しい花だと思って植えたけれども。
エーデルワイスは地球の最後の花だった。
滅びゆく地球で、ガラスケースの中から去りゆく人類の船を見送った花。
その花が残されて朽ちていった星へ、始まりの花がやって来た。同じエーデルワイスの真っ白な花が、白いシャングリラに乗せられて。
歴史を変えたシャングリラの中にもエーデルワイスが咲いていた。
SD体制を終わらせ、地球を蘇らせるための引き金を引いたシャングリラに。
新しい時代の始まりの船に、青い水の星を呼び戻した船に、始まりの花のエーデルワイスが。
「…トォニィ、知っていたのかな…?」
最後の花がエーデルワイスだったってことを。人類を見送った花だったことを。
「そいつも謎だな、情報の封印は解けてた筈だが…」
グランド・マザーは壊れちまって、マザー・システムも破壊されて。
もう封印する必要は無いし、どんなデータでも自由に引き出せる時代になってはいたんだが…。
興味が無ければ調べんだろうな、人類がどういう風に地球から去って行ったか。SD体制なんて時代が始まる直前の人類がどう生きたのかは。
おまけに手掛かりが「最後の花」だぞ、地球に残った最後の花。
俺が思うに、多分、知らんな。トォニィも、他のシャングリラの連中もな…。
「それじゃ、ぼくたちが知ったのが…」
「最初かもなあ、この話はな」
地球に残された最後の花と、シャングリラに乗ってたエーデルワイスと。
同じ花だったとは誰も知らないかもなあ、この宇宙はうんと広いんだがな…。
白いシャングリラが解体された後、宇宙に散って行った仲間たち。
トォニィも、シドも、フィシスも白いシャングリラであちこち旅をした後に、それぞれの道へと旅立って行った。他の大勢の仲間たちも。
彼らが語り伝えていないからには、誰も気付いていなかったろう。
最後の花と、始まりの花。
地球に残ったエーデルワイスと、シャングリラが地球まで乗せて行ったエーデルワイスの絆に、最後と最初がエーデルワイスの花で繋がっていたということに。
「エーデルワイスが呼んだんだ…。シャングリラを」
おいで、って。地球に帰っておいで、って…。
「ロマンチストの極みだがな」
だが、本当にそうかもしれんな、俺があの記事に気付いたってことは。
たまたま広げた新聞の記事に、エーデルワイスが最後の花だと書いてあったということはな。
「…エーデルワイス、また見てみたいよ」
今のぼくは一度も見ていないんだし、そんな話を聞いちゃったら…。
エーデルワイスが呼んでたのかも、って思っちゃったら、エーデルワイスが見たくなったよ。
高い山には登れないから、栽培してあるエーデルワイスしか無理だけれども…。
「いつか植物園まで行くか?」
エーデルワイスが咲いている時期に、俺と二人で。
「うんっ!」
一緒に行こうね、エーデルワイスの花を見に。
うんと沢山咲いてるといいな、ヒルマンのロックガーデンみたいに。
植物園ならきっと上手に育ててるだろうし、沢山、沢山、見られるといいな…。
小さなブルーもエーデルワイスの花を思い出してくれたから。
白いシャングリラで見ていたことも、その向こうに地球を見ていたことも思い出したから。
もしもエーデルワイスの苗が手に入るようならば。
育ててみるのもいいかもしれない、ブルーと二人で暮らす家の庭で。
地球を後にする人類の船を見送ったという最後の花を。
シャングリラが運んだ始まりの花を。
「なあ、ブルー。…エーデルワイス、植物園まで見に行くのもいいが…」
苗があったら育ててみないか、俺たちの家で。
ヒルマンのロックガーデンみたいに本格的なヤツは無理でも、ちょっと工夫して。
そしたら今度は自由に摘めるぞ、エーデルワイス。
俺たちの庭のエーデルワイスを摘んでる分には、誰も文句は言わないからな。
「それ、いいかも…!」
育ててみようよ、エーデルワイス。
最後の花で、始まりの花。いっぱい育てて、白い星を庭に沢山咲かせて…。
「高貴な白」の名を持つエーデルワイス。
白いシャングリラで育てていた花、前のブルーは摘まなかった花。
地球に焦がれて眺めていたのに、けして摘もうとしなかった。
だから今度はブルーに摘ませてやりたい、白い星の花を好きなだけ。
エーデルワイスの苗が手に入ったなら、二人で暮らす家の庭できちんと育ててやって。
地球の最後の花で、始まりの花。
自分たちしか知らないらしい、エーデルワイスの不思議な繋がり。
それを二人で語り合っては、白い星の花をブルーに幾つも、思いのままに摘ませてやって…。
最後の花・了
※滅びゆく地球で最後に咲いていた花は、エーデルワイス。SD体制の時代は秘密でしたが。
そうとも知らずにエーデルワイスを育てた白い箱舟。本当に、花が呼んだのかも…?
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ…?)
学校から帰ったブルーが目にしたもの。「ただいま」と覗き込んだダイニングのテーブルで母が見ている葉書だけれど。母が葉書を手にしていること自体は、特に珍しくもないのだけれど。
何故だか懐かしいような気がした、その葉書。届いた時には家にいなかった筈なのに。
郵便配達のバイクは学校に行っている間にやって来るもの。だから留守の間に届いた筈で、目にしたわけがないというのに。
(…なんの葉書だっけ?)
前にも見たことがあるのだろうか。母宛の葉書で、似たようなものを。
部屋へ行こうと階段を上りながら考えてみる。チラリと見えた絵、その色彩に覚えた懐かしさ。絵が描いてある葉書ならば…。
(色々あるよね?)
母の友人には絵を描く人も少なくないから。絵が添えてある葉書もよく届くから。
それだろうか、と思ったけれども、懐かしい理由が分からない。そういう葉書を届けてくる人に会ったことは何度もあるけれど。顔だって知っているけれど…。
(…でも、懐かしい…?)
葉書を見ただけで懐かしくなるほど親しいだろうか、その人たちと。小さかった頃には何処かへ一緒に出掛けたりしたこともあったけれども…。
(ぼく宛に葉書は来なかったし…)
絵が描かれた葉書はいつも母宛、それを横から眺めていただけ。この間の人だ、と。色々な顔を思い出せるけれど、葉書を見ただけでピンと来る人の記憶は無くて。
(誰だっけ…?)
謎の差し出し人、と葉書の主が分からないまま、着替えて下りて行ったダイニング。あの葉書を見せて貰って、おやつも食べて…、と。
そうしたら…。
おやつを用意して待っていた母が、「覚えてる?」と笑顔で持っていた葉書。さっきの葉書。
(あ…!)
懐かしい筈だ、と葉書を見詰めた。母宛の葉書には違いないけれど、描かれている絵。幼稚園の頃に自分が描いた絵、クレヨンを使って時間もかけて。
鮮やかに蘇って来た記憶。「お家の人に手紙を書きましょう」という幼稚園の企画、先生たちが用意してくれた葉書。字の書けない子もいたりしたから、手紙と言っても絵を描いただけ。
出来上がった葉書は先生が纏めて出してくれた。宛先を書いて。でも…。
(ぼく、頑張って…)
宛先も自分で書いたのだった。母に住所を書いて貰った紙を見本に、精一杯の字で。
その葉書がヒョイと時間を飛び越えて届いた、自分の前に。幼稚園の時に家に届いて、父と母が褒めてくれた記憶はあるのだけれども、それきり葉書は見なかったのに。
「懐かしいでしょ?」
この絵はブルーが描いたのよ。どう、思い出した?
「うん…。宛先もぼくが書いたんだっけ…」
凄く下手だよね、ぼくが書いた字。郵便屋さんに笑われそうだよ、読めやしない、って。
頑張ったつもりだったけど…。今になって見たら恥ずかしいかも…。
「そんなことないわ、上手な字よ。だって、ブルーが幼稚園の頃よ?」
子供は誰でもこんなものなの、恥ずかしくなんかないのよ、ブルー。
それにね、この葉書はママたちの宝物だから。
家のポストに届いた時から、大切な宝物なのよ。ブルーから貰った初めての手紙。郵便屋さんが届けてくれた最初の手紙よ、ブルーが「はい」って渡してくれてた手紙と違って。
言われてみれば、「手紙ごっこ」は何度もやった。画用紙や折り紙に描いた絵や文字、そういう手紙を父にも母にも手渡していた。「お手紙あげる!」と得意満面、郵便ではない子供の手紙。
(初めての手紙…)
郵便ポストに届くという意味では、確かに最初の手紙だろう。この葉書が。下手くそな字が少し恥ずかしいけれど、懐かしくも思える幼稚園から出した葉書が。
「ママ、なんでこんなの出して見てたの?」
何か気になることでもあったの、ぼくの葉書に。今頃になって見てるだなんて…。
「ブルーはブルーね、って思っていたのよ」
この葉書が家に届いた頃には、ソルジャー・ブルーだとは思いもしなかったわね、って。
「ごめんなさい…。ぼく、変なのになっちゃって…」
生まれ変わりなんかになっちゃって。それまではずっと、パパとママの子供だったのに。ママが産んでくれたから、ぼくがいるのに…。
「それはいいのよ、前にも話してあげたでしょ?」
ブルーは少しも変わっていないわ、ちょっぴり記憶が増えちゃっただけ。
ソルジャー・ブルーの分が余分について来ただけで、ブルーはブルーよ、前と同じよ。この家で暮らして、パパとママの子で。学校にもきちんと通っていて。
でも…、と優しく微笑んだ母。たまに確認したくなるの、と。
「ブルーはママのブルーよね、って。この家で大きくなったんだわ、って」
ソルジャー・ブルーでも、ブルーはブルー。
赤ちゃんの時からこの家で育って、間違いなくママのブルーなのよ、って確かめたくなるの。
ソルジャー・ブルーは英雄だったけど、今はママたちの子供なんだから、って。
「それで葉書なの?」
ぼくが初めて出した手紙を見てたの、ぼくが幼稚園に行ってた証拠の?
「そうよ、宝物が役に立っているのよ」
ママたちが貰った大切な手紙。ブルーは手紙を出してくれたし、こんな頃からずっとママたちの側にいてくれて、今もいるでしょ?
赤ちゃんの頃の写真もあるけど、ブルーから貰った手紙は特別。幼稚園に行ってた頃のブルーがいたって証拠よ、ブルーが描いた絵と、書いてくれた字。
母の宝物だという葉書。幼稚園から出して貰った葉書。
子供が描いた絵と下手くそな宛先、それでも宝物にしている母。遠い地域に住む祖父母たちも、手紙を大事に持っているらしい。ブルーが今までに出したものを、全部。
「全部?」
お祖父ちゃんたちが全部持っているの、ぼくが書いた手紙を?
葉書も手紙も、捨てないで全部持ってるの…?
「そうよ、きちんと箱に入れてね。これはブルーから届いた手紙、って」
誰でも、そういうものなのよ。大切に持ってて、ママみたいに時々、取り出して読むの。
そしたらブルーが側にいるみたいに思えるでしょう?
今のブルーも、もっと小さな頃のブルーも。
「えーっ!」
宝物だって言うの、お祖父ちゃんたちまで箱に仕舞って残しているの?
ぼくが出した手紙、全部、宝物にされちゃってるんだ…?
上手に書けた手紙はともかく、下手な手紙も沢山ある筈。小さな頃にはせっせと手紙を書いたりしたから、きっと山ほど。
まさか宝物になっていたとは思わなかったから、手紙が残っているのはショックで。
(…ホントに下手くそなのが沢山…)
あんまりだよ、と母に訴えたけれど、「この葉書と同じで宝物なのよ」と笑みが返っただけ。
祖父母たちにとっては大切なもので、今も見ているかもしれないと。こんな頃もあったと、まだ小さかったと、最初に貰った手紙を眺めているのかも、と。
そう言われたら、もう敵わないから。勝てはしないから、曖昧に笑っておくしかなくて。
おやつを食べ終えて部屋に戻ってから、頭を抱えた宝物の手紙。祖父母の大切なコレクション。下手くそな手紙も多いのに。きっと沢山ある筈なのに。
(…捨てちゃって下さい、って手紙を出す?)
上手に書けている手紙以外は捨てて下さい、と手紙を書いたら、祖父母に届くだろうけれど。
郵便配達の人がポストに届けてくれるだろうけれど、その手紙だって手紙だから。ブルーからの手紙に違いないから、下手な手紙を捨てる代わりに、その手紙まで残してしまわれそうで。
「ブルーがこんな手紙を寄越した」と面白がられて、大切に箱に入れられそうで。
(それじゃ駄目だよ…)
祖父母たちのコレクションがまた増えるだけ。「捨てて下さい」という情けない文面が綴られた手紙はきっと特別扱い、宝箱の一番上に仕舞われてしまうに違いない。捨てるものか、と。
(お祖父ちゃんたちの宝物…)
手紙を残されていたなんて知らなかったと、恥ずかしすぎると、溜息しか出て来ないけれども。本当に顔から火が出そうだけれど、ハタと気付いた。
自分だったらどうだろう?
宝物にしたいような手紙を受け取ったのが自分だったなら。それがポストに入っていたなら。
(ハーレイの手紙…)
それを自分が貰ったことは無いけれど。ポストに入っていたことも無いし、手渡されたことさえ無いけれど。ただの一度も手紙は貰っていないけれども、貰えばきっと残しておくから。どんなにつまらない用件だろうと、大切に机の引き出しに仕舞っておくのに違いないから。
(お祖父ちゃんたちも一緒…)
仕方ないか、と手紙の処分はもう諦めることにした。恋人からの手紙も、孫からの手紙も、貰う方にとっては宝物だから。捨ててしまうなど、とんでもないから。
(これからは上手な手紙を書こう…)
祖父母に宝物にされても、恥ずかしくない立派な手紙。文面はもちろん、字だって綺麗に。そう決めたけれど、これ以上の恥はかくまいと心に決めたのだけれど。
でも…。
祖父母の気持ちが理解出来た切っ掛け、恋人からの手紙。ハーレイの手紙。
(…貰っていないよ…)
今の自分も貰っていないし、前の自分も貰っていない。ただの一度も、葉書でさえも。
ハーレイの手紙なんかは知らない。どういう手紙を書いて寄越すのか、自分は知らない。一度も貰ったことが無いから。ハーレイの手紙を読んだことが一度も無いのだから。
(今のぼくは駄目でも、前のぼくなら…)
子供扱いの自分はともかく、本物の恋人同士だった前の自分の方なら、ラブレターの一通くらい貰っていてもいい筈なのに、と思ったけれど。それが当然、と考えたけれど。
恋人同士には違いなくても、前の自分たちは誰にも秘密の恋人同士。ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと明かせはしないし、最後まで隠し続けたのだから、ラブレターなどは…。
(貰えないよね?)
手紙という形で愛を綴ったら、何処から漏れるか分からない。形にしてはならない恋。
だからラブレターは一度も貰っていないし、自分も書きはしなかった。前の自分も、ハーレイも持っていなかった。手紙という名の宝物は。ただの一通も、ただ一枚の葉書でさえも。
そうだったっけ、と納得したのだけれど。
(ちょっと待って…!)
手紙という名の宝物。今の自分の母も祖父母も、大切にしている自分の手紙。今の自分が書いた手紙が宝物だと聞いたのだけれど。
(…前のハーレイ…)
前のハーレイの手元には何も残らなかった。宝物どころか、前の自分がいた名残すらも。
前の自分がいなくなった後、メギドで死んでしまった後。ハーレイは前の自分の銀色の髪の一筋でも、と青の間へ探しに行ったのに。部屋は綺麗に掃除されてしまって、何も残っていなかった。前の自分が綺麗好きだったから、係が掃除をしてしまって。
係は知らなかったから。前の自分が二度と戻らないとは夢にも思っていなかったから。
戻ったら直ぐに休めるようにと、整えられていたベッドに、水まで入れ替えられた水差し。前の自分が最後に水を飲んだのかどうか、それさえもハーレイには分からなかった。
そんな青の間に銀の髪など落ちてはいなくて、前のハーレイは何も持つことが出来なくて。
前の自分を偲ぶためのものは何一つ無くて、長い年月を独りぼっちで生きて死んでいった。青くなかった地球の地の底で、白いシャングリラを無事に地球まで運んだ後で。
もしもあの時、手紙を書いておいたなら。
メギドに向かって飛び立つ前に、ハーレイに宛てて手紙を一通、書いていたなら…。
ハーレイはそれを宝物にすることが出来ただろう。母が持っていた葉書のように。祖父母の家で箱に仕舞われているらしい、今までに書いた手紙のように。
前のハーレイはそれを宝物にして、何度も取り出して読めただろう。何度も何度も繰り返して。中身をすっかり暗記するほどに、開かずともすらすらと思い出せるくらいに。
(ラブレターじゃなくても…)
前のハーレイへの別れの挨拶。長い年月、共に生きてくれたことへの感謝をこめて。
それを書いてからメギドに行けばよかった、ハーレイに宛てた手紙を残して。
あんな風に言葉を残すよりも。
腕に触れて思念を送り込んだだけの、何の形も残らない別れの言葉よりも。
(言葉も残さなきゃいけなかったけれど…)
ジョミーを支えてやってくれ、という言葉は必要だったけれども。それだけだった別れの言葉。
「頼んだよ、ハーレイ」と、告げて終わりで、それも必要だったのだけれど。ソルジャーとして言うべきことだったけれど、恋人同士の別れは告げられなかったけれど。
(…あれはブリッジだったから…)
ブリッジで、皆が周りにいたから。恋人同士だと知られるわけにはいかなかったから。
だから最後まで、別れの時までソルジャーとキャプテン、そう振舞った。自分もそうだったし、ハーレイの方でも自分を止めはしなかった。これが最後だと分かっていても。二度と会えないと、もう戻らないと気付いていても。
けれど、手紙を残していたら。それを書いて置いて行ったなら。
手紙が何処に置いてあろうとも、キャプテン宛の手紙だったら、誰も開けたりしなかったろう。開いて中を読むよりも前に、ハーレイの許へ届けただろう。
ソルジャーの手紙なのだから。それも最後の、キャプテン宛の手紙。
内容は機密事項か何かで、シャングリラの今後を左右するかもしれない手紙。キャプテンだけが知るべきことだと、それで充分だと、誰も中身を知ろうとも思わなかっただろう。
手紙を見付けたのがエラやヒルマンといった長老たちでも、ジョミーであっても。
(ハーレイが死んじゃった後に誰かが見ても…)
大丈夫な手紙を書けば良かった。恋人同士には見えない手紙を、親しい友からの別れの手紙を。
「ありがとう」と。「君のお蔭で楽しかった」と、「またいつか会おう」と。
そういう手紙を残せば良かった、そうすればハーレイは宝物を一つ持っていられた。前の自分の髪の一筋が無かったとしても、代わりに手紙。前の自分が綴った手紙を。
それがあったら何度でも読めた、前の自分が綴った言葉を、想いを何度も読み返せた。何処にも愛の言葉が無くても、手紙の向こうにそれを読み取れた。「ありがとう」と、「愛していた」と。
たった一通の手紙さえあれば。「ありがとう」と書かれた手紙があれば。
(ぼくって、馬鹿だ…)
どうして思い付かなかったのだろう、ハーレイに手紙を残すことを。それを綴ってゆくことを。
時間は充分にあったのに。下書きをしたり、文を練ったり、そんなことさえ出来ただろうに。
(…手紙なんか書いていなかったから…)
前の自分が生きていた頃、手紙を書く習慣は無かったから。
白いシャングリラに郵便配達のシステムなどは無くて、ポストも存在しなかったから。
ハーレイに宛てて書くのはもちろん、他の仲間たちに宛てても手紙を書きはしなかった。私的な手紙も、公的な手紙も、ただの一度も。
ソルジャー主催の食事会などには招待状もあったけれども、あれは手紙とは言わないだろう。
シャングリラには無かった手紙なるもの。
前の自分も書かなかったし、ハーレイからも届かなかった。レトロな白い羽根ペンで航宙日誌を綴ったハーレイでさえも、手紙は思い付かなかったといった所か。
(でも、ラブレター…)
愛の手紙を交わす恋人たちならいた。レターセットも存在していた。配達するためのシステムは無くて、自分で届けるか誰かに頼むか、そんな手段しか無かったけれども、手紙はあった。
ラブレターだの、招待状だの、そういった時のものだったけれど。私的どころか趣味の世界で、そうでなければ演出手段。ソルジャー主催の食事会です、と招待状が出されたように。
とはいえ、手紙はあったのだから。レターセットも手に入れられたのだから。
(一度くらい…)
書けば良かった、ラブレターを。前のハーレイに宛てて、想いを綴って。
恋人同士の仲は秘密だから、「読んだら捨てて」と言ってでも。本当に捨てられてしまっても。
ハーレイがどんなに恥ずかしがっても、「愛しているよ」と想いをこめて。
そんな手紙は書かないにしても、別れの手紙。それだけは書いておくべきだった。
ソルジャーからキャプテン宛のものでも、中身もそういうものであっても。長い年月を白い鯨で共に過ごした、友への別れの手紙であっても。
(…お別れなんだし、もっと欲張りに…)
最初で最後のラブレターを書いても良かったかもしれない。ソルジャーからキャプテンに宛てた最後の手紙は、誰も開けたりしないから。中を見ようとはしないだろうから。
ハーレイへの想いを、心のままに。いつまでも好きだと、愛していると。たとえこの身が消えてしまおうとも、魂は君の側にいるから、と。
そう綴ってから逝くのも良かった、ハーレイへの愛を、想いの全てを。
手紙を開けようとする者はいないし、内容を知ろうとする者だっていないのだから。
(燃やせ、って書いておいたなら…)
読み終わったら燃やしてくれ、と書き添えておけば、秘密は漏れなかったと思う。最初で最後の愛の手紙は灰になって消えて、ハーレイの心の中にだけ。前の自分の想いと共に。
(でも、ハーレイは…)
きっと燃やさずに残しただろう。誰にも気付かれない場所に。
そうして取り出して、何度も何度も読んでいたろう、「燃やせ」と書き添えられた手紙を。
流石に地球に降りる前には処分したかもしれないけれど。
暗殺の恐れもあった地球だから、これは駄目だと燃やしたのかもしれないけれど。
もしも手紙を残していたら、と考えるほどに、書いておけば良かったと心が締め付けられる。
どうして思い付かなかったかと、手紙を残すべきだったと。
(ホントに馬鹿だ…)
時間は沢山あったのに、と自分を責めていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
これは訊くしかないだろう、とハーレイが部屋に来るのを待った。いつものように向かい合って座って、母の足音が消えてから…。
「ハーレイ、ラブレター、欲しかった?」
「はあ?」
なんの話だ、と鳶色の瞳が丸くなったから。
「前のぼくからのラブレターだよ、それがあったら良かったかな、って…」
ママがね、ぼくが幼稚園の時に出した葉書を大切に持っているんだよ。ママの宝物なんだって。
お祖父ちゃんたちも、ぼくが出した手紙を全部大事に残しているって聞いたから…。
それで考えたんだよ、前のハーレイのことを。
前のハーレイ、前のぼくの手紙が残っていたなら、独りぼっちでも少しは辛くなかった?
「お前からの手紙か…。なるほどなあ…」
そりゃあ、少しは紛れただろうな、前の俺が感じていた孤独。
手紙を開けば、そこにお前の書いた字と言葉が残ってるんだし…。
きっとお前の声まで聞こえるような気持ちになっただろうなあ、読んでいる時は。
「やっぱり、そういうことなんだ…。前のぼくの手紙が残っていたら」
ごめんね、ぼくは思い付かなかった。手紙を書こうと思いもしないでいたんだけれど…。
ハーレイに手紙を書けば良かった、普段は一度も書いてなくても、お別れの時に。
「お別れって…。メギドの時のことか?」
「うん。…行く前に時間は充分あったよ、長い手紙でも書けたんだよ」
あんな言葉を残して行くより、手紙を書いておけば良かった。
キャプテン宛の手紙だったら、青の間にあっても誰も開けたりしないから…。ソルジャーからの最後の手紙で、きっと大事な中身なんだと思うだろうから…。
誰が見付けても、ハーレイの所へちゃんと届くよ、開けられないで。手紙に何が書いてあったか訊かれもしないよ、機密事項かもしれないから。エラたちにだって言えないような。
そうやって青の間に残してもいいし、ハーレイの部屋に瞬間移動で届けておいても良かったね。ハーレイの机の上に置くとか、引き出しの中に入れておくとか。
そういう手紙だよ、ハーレイのための。
…ぼくが何処にもいなくなっても、ハーレイが寂しくないように。ぼくの手紙を読めるように。
ぼくからの最後のラブレターなんだよ、最初で最後の。
「…ラブレターなのか?」
お前が俺宛に書いていく手紙、中身はラブレターだったのか?
普通の別れの手紙じゃなくてだ、ラブレターを書きたかったのか、お前…?
「それも良かったかな、って思って…」
前のぼくは手紙を書こうとも思っていなかったけれど、今のぼくだから思うことだけど…。
同じ手紙を書くんだったら、ラブレターの方がハーレイだって嬉しくない?
ちゃんと「読み終わったら燃やしてくれ」って書いておくから、ラブレターだよ。
…残しておいても大丈夫なように、普通の手紙でもいいんだけれど…。
「おいおい、ラブレターってヤツはマズイぞ、マズすぎるってな」
俺たちの仲がバレちまうじゃないか、そんな手紙を置いて行かれたら。
お前が「燃やしてくれ」と書いていようが、「捨ててくれ」と大きく書いてあろうが。
…俺はそいつを捨てられやしない、お前からの最後の手紙なんだぞ?
しかも最初で最後のラブレターなんぞを貰っちまったら、捨てられるわけがないだろうが。
燃やせもしないし、そいつはマズイ。
ラブレターじゃなくて普通の手紙で頼みたかったな、書いてくれると言うならな。
親友向けの別れの手紙で充分じゃないか、まるで手紙が無いよりは。
前の俺はお前の手紙なんか一つも持ってはいなかったんだし、そういう手紙で満足だったさ。
普通の手紙にしておかないと後で色々とマズイことに…、と苦笑するハーレイ。
前の自分は
手紙を処分出来はしないし、歴史も変わってしまっただろうと。
「いいか、シャングリラに残っちまうんだぞ、前のお前のラブレターが」
前の俺が死んじまったら、航宙日誌と同じでキャプテンの部屋から発掘されて、だ…。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは本当は恋人同士でしたと、すっかりバレてしまうことになるんだが…。
シャングリラどころか、宇宙全部に話が広がっちまうんだが…?
「そうなっちゃうかもしれないけれど…。ハーレイが処分しないままなら、そうなるけれど…」
地球に降りる前なら、どうだった?
ハーレイ、何度も言っているよね、暗殺されるかもしれないと思っていたってこと。
暗殺の心配があるんだったら、前のぼくの手紙、処分してから出掛けない…?
「ああ、地球なあ…!」
地球があったな、あの時は確かに死ぬかもしれんと思って出掛けて行ったわけだし…。
後に残ってマズイようなものを持っていたなら、処分してから出掛けただろうな。
しかしだ、前のお前の手紙となったら、処分する代わりに大切に持って降りたかもしれん。
前のお前が行きたかった地球だ、あんなとんでもない星でもな。
お前を連れて行くような気持ちで、誰にも見られないよう、服の下に大事に仕舞い込んで。
「地球に来たぞ」と、「ちゃんと見えるか?」と服の上から何度も押さえて。
そうやって持って行っただろうなあ、処分するより、俺と一緒に地球へ降りようと。
前の自分がラブレターを書いて残していたなら。
「燃やしてくれ」と書いてあっても、ハーレイは大切にそれを持ち続けて、繰り返し読んで。
最後は地球まで持って行ったと、懐に入れて一緒に地球へ降りたのだろうと話すから。
「それなら処分出来たじゃない。前のぼくの手紙」
誰もあったと気付きはしないよ、ハーレイの服の下だったなら。
ハーレイはタイプ・グリーンだったんだし、遮蔽はタイプ・ブルー並みだよ?
そんなハーレイが何を持っていたか、トォニィにだって分かりはしないし、気が付かないし…。
前のぼくの手紙、地球の地面の下で燃えてしまったと思うんだけど…?
どんなに長いラブレターでも、ハーレイのことが好きだってハッキリ書いてあっても。
「…そうか、その手紙、地球で燃えちまうんだな、俺の身体と一緒にな」
前の俺の身体は何処へ消えたか、誰にも分からないんだし…。
ユグドラシルがあった辺りで死んだらしい、としか記録も残っていないんだし…。
なら、バレないのか、前のお前が書いておいてくれたラブレター。
後生大事に残していたって、そんな手紙があったことすら、誰にも分からないんだな…?
「うん、燃えちゃったらおしまいだからね」
前のぼくが書いておいた通りに、燃えてしまって消えるんだよ。
前のハーレイが自分で燃やさなくても、最後まで大事に持っててくれても。
ぼくの手紙は残りはしなくて、前のハーレイと恋人同士だったこともバレずにおしまい。
前のぼくが最後に書いた手紙が、ハーレイへのラブレターだったってことも。
前のハーレイに宛てて書いた手紙は、どんな中身でもハーレイの慰めになっただろうから。
最初で最後のラブレターを書いて残したとしても、その手紙は誰にも知られることなく、地球の地の底で消えただろうから。
「…ハーレイに残しておけば良かったね、手紙…」
メギドへ行く前に、レターセットをコッソリ貰って来て。
親友っぽく書いた手紙でもいいし、最初で最後のラブレターでも良かったし…。
書いて青の間に置いておくとか、ハーレイの部屋に届けておくとか。
そしたら、その手紙、ハーレイの宝物になったんだろうし、ハーレイは何度も読み返せたし…。
本当に書いておけば良かった、どんな手紙でも。ラブレターでも、そうじゃなくても。
「そうだな…。前のお前の手紙というのも良かったな…」
親友向けの別れの手紙だったら、俺は号泣していただろう。最後まで隠しやがって、と。本当はこんな手紙じゃなくって、別のことを書きたかったんだろうに、と。
…ラブレターだったら、もっと泣いたな。「燃やしてくれ」と書いてあったら、余計にな。誰が燃やすかと、俺に出来ると思うのか、と。
お前だけ勝手に逝きやがってと、この手紙の返事を書こうにもお前がいないのに、と。
親友向けだろうが、ラブレターだろうが、きっと読む度に俺は泣いたんだ。
書いていた時のお前を思って、お前に返事を書いてやりたいと、何度も何度も。
だがな…。
読む度に泣くしかない手紙でも、欲しかったかもな、とハーレイが言うから。
そういう手紙を貰っていたなら、きっと宝物にしていただろうと、遠く遥かな時の彼方を鳶色の瞳で見ているから。もしもあの時、手紙があれば、と思っているのが分かるから…。
「あのね…。前のぼくは手紙を書かないままになっちゃったけど…」
ハーレイに手紙を渡せないままで終わったけれど。
今度はきちんと手紙を書くよ。前のハーレイが欲しかった手紙の代わりに、手紙。
「手紙って…。お前、何処へ行くつもりなんだ?」
旅行にでも行くのか、お父さんたちと?
家族旅行に出掛けた先から俺に手紙か、絵葉書とかか?
「ううん、違うよ。ちょっと近くまで」
ハーレイと結婚した後のことだよ、ハーレイの留守に、ぼくが近所に出掛ける時。
まだ仕事から帰ってない時とか、柔道の道場に行ってる時とか。
もうすぐハーレイが帰りそうだけど、と思う時間に、買い物を思い出したりした時のこと。
行って来ます、と書いたメモの手紙を置いておくよ、と笑ったら。
直ぐに戻るから、って行き先も書いておくから、早く帰ったら迎えに来てね、って甘えたら。
「近所までか…。それなら許す」
メモを見付けたら、俺は急いで迎えに行くが…。
その手の手紙は大歓迎だが、別れの手紙は厳禁だぞ?
どんなに熱烈なラブレターだろうが、そいつは要らん。前の俺が貰い損ねたヤツはな。
「お互い様だよ、ぼくもそんな手紙は貰いたくないよ」
ハーレイからお別れの手紙だなんて、もう絶対に要らないからね!
お断りだし、ぼくも書かない。お別れなんかは無いんだから。
ずうっとハーレイと一緒なんだし、そんな手紙は書かなくってもいいんだから…!
そう、今度は二人、何処までも一緒。
青い地球の上で二人で暮らして、手を繋ぎ合って歩いてゆく。
死ぬ時も二人一緒なのだから、そうするつもりなのだから。
別れの手紙は書かなくていいし、そんな機会も巡っては来ない。
だから普段に、ハーレイに宛ててメモくらい。
ほんの近所まで出掛けるけれども、ハーレイが帰るまでに戻れそうにない時は、小さなメモ。
行って来ますと、直ぐに戻るよ、と短い手紙。
早く帰ったら迎えに来てね、と行き先も書いて、ハートマークも添えたりして…。
宝物の手紙・了
※前のハーレイに手紙を残して行けば良かった、と思ったブルー。メギドに飛ぶ前に。
それがあったら、ハーレイも救われた筈なのですが…。書けなかった分まで、今度は幸せに。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(届かない…)
まだまだ無理、とブルーが見上げたクローゼット。
学校から帰って、おやつを食べて。自分の部屋に戻った後で、クローゼットが目に入ったから。見た目は普通のクローゼットで、ずっと前からあるのだけれど。部屋に馴染んだ家具だけれども。
この春から一つ、秘密が出来た。特別になったクローゼット。
正確に言うなら春ではなくて初夏かもしれない。鉛筆で微かな印をつけた時から、秘密が一つ。前の自分の背丈の高さに引いた線。クローゼットに書いた目標、こうして見上げて溜息をつく。
五月の三日に出会ったハーレイ、再会を遂げた前の生からの自分の恋人。
直ぐにでもキスをしたかったのに。抱き合ってキスして、それから、それから…。
恋人同士の絆を確かめ、前とすっかり同じように。離れていた時を取り戻すように、ハーレイと愛を交わしたかったのに。
キスさえも駄目と言われてしまった、今の自分は子供だから。十四歳にしかならない幼い子供。
そんな子供にキスは早いと、前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だと叱った恋人。それまではキスは頬と額だけ、唇へのキスはしてやらないと。
そう言われたから、クローゼットに印をつけた。前の自分の背丈の高さを床から測って。
母に見付かって叱られないよう、鉛筆で微かに引いておいた線。床から百七十センチの所に。
(あと二十センチ…)
今の自分の背丈はたったの百五十センチ、百七十センチまではまだ遠い。二十センチもの大きな違いで、それに加えて問題が一つ。前の自分の背丈との差の二十センチ。
これが少しも縮んでくれない、一ミリさえも縮みはしない。春はとっくに過ぎてしまって、夏も終わって秋なのに。草木も子供もよく育つ夏が、育ち盛りの年の夏休みがあったのに。
(ちっとも縮まらないんだけれど…)
伸びてくれない自分の背丈。百五十センチから伸びない背丈。
ハーレイと再会した日から全く変わらないままで、ハーレイにかかれば「チビ」の一言。チビはチビだと、お前はほんの子供なんだ、と。
クローゼットに秘密の印をつけた時には、直ぐに育つと思ったのに。二十センチの差はみるみる縮んで、前の自分の背丈になる日が順調に近付くと思っていたのに。
そうだと思って浮かれていたのに、まるで伸びてはくれない背丈。未だに卒業出来ないチビ。
一ミリずつでも育ってくれたら、チビと笑われはしないのに。
「キスは駄目だ」と叱るハーレイも、子供扱いをやめてくれるだろうに。
それなのに一ミリも伸びない背丈。チビで子供の姿の自分。
縮まらない差も問題だけれど、それに加えて。
(あの高さの視点…)
前の自分の背丈になったら、この部屋がどう見えるのか。二十センチ伸びたら、部屋の見え方はどう変わるのか。チビの自分の視点ではなくて、前の自分の視点で見た部屋。
あの線を引いた日、ちゃんと確かめた。こんな感じ、と見回した部屋。
床から二十センチ離れて、今の背丈に二十センチをプラスして。
背伸びしたわけでも、爪先立ちしたわけでもなくて、フワリと床からサイオンで浮いた。自分の身体を浮き上がらせて、印の高さに頭を合わせた。前のぼくの背はここまでだった、と。
まるで違って見えた部屋。二十センチも背が高くなると、普段は見えないものまで見えた。棚の上に置いた物の角度も違って見えたし、他にも色々。
いつかはこんな風に見えるようになるのだから、と何度も浮いたり、床に下りたり。
今の自分との違いを楽しみ、そこまで育つ日を夢見て浮いた。この高さまで育つのだから、と。
心を弾ませて何度も浮いてみた高さ、前の自分と同じ視点で眺めた部屋。こう見えるんだ、と。前のぼくの目でこの部屋を見たら、こんな感じに見えるんだよ、と。
楽々と浮いて、身体を浮かせて、また下りてみて。
高揚した気分で味わった世界、前の自分と同じ背丈に育ったら見えるだろう世界。
けれど…。
全然無理、とクローゼットの印を見上げて溜息をついた。
二十センチの差が縮まらないことも問題だけれど、あの日、自分が見ていた世界。いつか育てば見える筈の世界。
それが見えない、どう頑張っても。いくら睨んでも、少しも近付かない印。
(やっぱり浮けない…)
あれ以来、浮けた試しがない。前の自分の背丈の高さに並べられない、自分の頭。床から浮いて並べはしなくて、両足は床についたまま。ほんの一ミリも浮いてはくれない。
前と同じにタイプ・ブルーに生まれたけれども、今の自分はとことん不器用。サイオンの扱いが上手くいかない、思念波さえもろくに紡げないレベル。
空は飛べないし、身体も浮かない。どう頑張っても、自分の意志では浮き上がれない。
クローゼットに印をつけていた日は、前の自分が現れたのか、と思うくらいに浮かない身体。
今日も印を睨み付けるけれど、床から離れてくれない足。印の高さまで浮けない身体。
(いつもそうだけど…)
クローゼットの印を見る度、努力するけれど何も起こらない。今の自分の身体は浮かない。
元々、不器用だったサイオン。
ハーレイの家まで無意識の内に飛んでしまった瞬間移動も、たった一度きり。
(あれって、前のぼくだった…?)
瞬間移動の件はともかく、クローゼットに印をつけた日。
前の自分の背丈はこれだけ、と身体を浮かせて、この部屋を眺めていた自分。小さな自分の目で見る部屋との違いに感動していた自分。
浮いたり下りたり、何度も何度も試して遊んだ。いつかここまで育つんだから、と。
あの日の自分は、自分には違いなかったけれど…。
(前のぼくかと思っちゃうよ…)
遠く遥かな時の彼方から、前の自分が来たのかと。今の自分の身体を使って遊んだのかと。
そういうこともあるかもしれない、今の幸せを味わいたくて前の自分が現れることも。自分でも意識しない間に、ヒョイと現れて小さな身体を好きに使ってゆくことも。
(どうせだったら、ぼくに尋ねてくれればいいのに…)
使っていいかと訊いてくれれば、もちろん「うん」と元気に答える。そして、自分も前の自分に頼んでみる。少し力を貸して欲しいと、サイオンを使ってみたいんだけど、と。
(そしたら身体も浮かせられるし、空も飛べるし、瞬間移動も…)
出来るんだけど、と思うけれども、自分は二人もいないから。自分同士で会話が成り立つわけがないから、無理なものは無理。前の自分の力を借りることなどは夢物語。
今日も浮けない、と諦めた末にトンと床を蹴った。
この高さまで、と飛び上がってみた、百七十センチの所につけた印の高さまで。
ほんの一瞬だけ目に入った世界、前の自分の視点から見た自分の部屋。これだ、と大きく弾んだ心。育ったら部屋はこう見えるんだ、と。
けれどもストンと落っこちた身体、床へと戻ってしまった両足。もう見えはしない、前の自分と同じ背丈で眺める世界。今よりも二十センチ育って大きくなったら、見える筈の世界。
ずっと眺めていたいけれども、ジャンプしないと届かない高さ。それも一瞬だけ、すぐに身体は床へと落ちてしまうから。
また見たいのなら、床を蹴るしかないけれど。ジャンプするしかないのだけれど…。
(何度も飛べない…)
床に落ちたら音がするのだし、階下の母にもきっと聞こえる。一度くらいなら気にもしないし、何か落としたのか転びでもしたかと、首を傾げるくらいだろうけれど。
何度も繰り返し飛んでいたなら、何をしているのかと部屋まで様子を見に来そうだから。「何の音なの?」と尋ねられるだろうから、何度もジャンプは繰り返せない。
クローゼットの印の高さに自分の頭を合わせたくても。前の自分の背丈で眺める、まるで違った部屋の景色を心ゆくまで見てみたくても。
(あと二十センチ…)
今の自分には届かない世界、そこまで伸びてくれない背丈。いつ育つのかも分からない背丈。
さっき一瞬、ジャンプしてそれを体験したから。こう見えるのだ、と部屋を見てしまったから。
今日はどうしても味わってみたい、前の自分と同じ背丈で眺める世界。
クローゼットに印をつけた日、何度も試していたように。この高さだと何度も眺めたように。
けれども自分は浮けはしないし、ジャンプも何度も出来はしないから。
(えーっと…)
椅子に乗ったのでは高すぎる。二十センチどころか、もっと高さがあるのが椅子。
本を積んだら上手い具合にいきそうだけれど、本を踏むのは行儀が悪い。積み上げた上に立ってみるなど、とんでもない。一番良さそうなものではあるのだけれど。
(いい高さのもの…)
二十センチくらいの高さで、乗ってもペシャンと潰れないもの。何か無いかと見回したけれど、生憎と何も見付からないから。丈夫な箱なども何も無いから。
(大は小を兼ねる、って…)
そう言うものね、と勉強用の椅子をクローゼットの側まで運んで行った。二十センチよりも高いけれども、無いよりはマシ、と。
クローゼットの隣に置いた椅子。その上に上がってみたけれど。
座面の上に両足で立ってみたけれど、椅子の高さは二十センチより高いから。前の自分の背丈の印は目の高さよりも下になってしまって、それに合わせるなら屈むしかなくて。
(やっぱり違うよ…)
これじゃハーレイみたいだし、と高くなりすぎた自分の視点を嘆いた所で気が付いた。
(そうだ、ハーレイ!)
前の自分よりも背が高かったハーレイ、今ほどではなくても充分にあった背丈の差。前の自分が背伸びしてみても、ハーレイの背には敵わなかった。
それほどに背丈の高いハーレイだけれど、この椅子があれば、そのハーレイの視点で見られる。この部屋がハーレイにはどう見えているか、どんな景色を見ているのかを体験できる。
前の自分の背丈の視点も気になるけれども、それよりも高く出来るのだから。椅子が高い分だけ上へと視点を移せるのだから、ハーレイの世界を見てみたい。
あの鳶色の瞳が見ている部屋を。ハーレイの視点から眺めた自分の部屋を。
そう考えたら、もう止まらない。それが見たくてたまらない。
(んーと…)
椅子の高さが足りるかどうかが気になったけれど、どうやら足りてくれそうだから。ハーレイと今の自分の背丈の違いを、ちゃんと補ってくれそうだから。
(よし!)
やろう、と勉強机から取って来た物差し。それと透明な接着用のテープ。
前の自分の背丈の高さを書いた印の上、ハーレイとの身長の差を物差しで測った。今でも忘れていないから。二十三センチ違った背丈。ハーレイの背丈は百九十三センチ、前も、今でも。
流石に印はつけられないし、と持って来ていた透明なテープ。五センチほどの長さに切って来たそれを、クローゼットにペタリと貼り付けた。ハーレイの背丈はこの高さ、と。
(出来た!)
ハーレイの頭の高さは此処、と大きく頷いて、椅子からピョンと飛び下りて。物差しを勉強机に返して、それから椅子の上へと戻った。ハーレイの世界を味わうために。
透明なテープを貼った高さに、自分の頭を合わせてみて。椅子の上で慎重に姿勢を整えて。
こうだ、と固定したハーレイの視点と同じ筈の高さ。その高さから部屋を見回して大満足で。
(そっか、ハーレイにはこう見えてるんだ…)
勉強机や、いつも二人で使うテーブルと椅子や、本棚などが。
いつも自分が見ているのとはまるで違った、その見え方。前の自分の背丈以上に高い場所から、ハーレイはこういう風に見ている。今の自分が住んでいる部屋を。今の自分の小さなお城を。
新鮮な景色に驚いていた間は良かったけれど。
キョロキョロしていた間は幸せだったのだけれど、ふと目に入ったクローゼットに書かれた印。鉛筆で微かに引いた線。前の自分の背丈の高さに。
それはずいぶん下の方にあって、二十三センチの差はとても大きい。そして今の自分の方だと、その印よりも更に二十センチも下に頭があるわけで…。
(すっごくチビ…)
今の自分の背丈の印は無いけれど。クローゼットに書いてはいないけれども、二十センチの差と二十三センチの差は、それほど大きく違わないから。
ハーレイの背丈の高さで見ている自分が見下ろした印、そこまでの差が二十三センチ、そこから下へと同じくらいに見下ろした所が今の自分の頭の高さ。頭の天辺。
ハーレイはいつもそれを見ている、この高さから。今の自分の小さな頭の天辺を。
(…四十三センチ…)
見上げるように背の高いハーレイ、その差は分かっていたけれど。四十三センチも違うと何度も思ったけれども、こうして見たことは無かったから。
小さな自分が見上げるばかりで、ハーレイの視点から眺めた自分がどんな風かは、まるで考えもしなかったから。
(…ぼくって、こんなにチビだったんだ…)
ハーレイがキスもしてくれないわけだ、と肩を落として椅子から下りて。
改めてテープの高さを見上げた、ハーレイの背丈はあんなに高い、と。あそこから見れば自分は本当にチビで子供で、どうしようもなくて。
キスしようにも腰をどれほど屈めればいいのか、ハーレイにすれば笑い事かもしれないわけで。とんでもないチビが一人前にキスを強請ると、笑っているかもしれないわけで…。
子供扱いされるわけだ、と納得せざるを得ない状況。
ハーレイの視点が分かったら。椅子の上に上がってそれを見てみたら、ハーレイの瞳が見ている世界を自分で確認してみたら。
(ホントのホントに、チビで子供で…)
キスが駄目でも仕方ないかも、と項垂れていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄れば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
仕事帰りに来てくれたことは嬉しいけれども、とんだ不意打ち。大慌てで椅子を抱えて運んで、勉強机の所に戻したから。剥がし忘れた透明なテープ。クローゼットに貼り付けたテープ。
ハーレイの背丈はこの高さ、と自分がペタリと貼り付けたテープ、それを剥がすのを忘れていたことに気付いた時には既に手遅れ。もうハーレイの声がしていて、母の声もして。
(…剥がしに行けない…)
今から椅子を運んで行っても間に合わない。なんとかテープを剥がせたとしても、椅子を抱えて戻る途中で二人が入って来るだろう。扉を軽くノックして。「入るわよ?」と母が扉を開けて。
その時に椅子を運んでいたなら、大ピンチだから。運ぶ途中ならまだいいけれども、椅子の上に上がってテープを剥がしている時だったら、ピンチどころかアウトだから。
(…バレませんように…)
どうかハーレイが気付かないでいてくれますように、と心で祈った。
もしもバレたら、子供っぽさが倍になるから。笑われてしまうに決まっているから。
そのハーレイが部屋に来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶とお菓子をお供に話す間も、気になってしまうクローゼット。
貼ったままのテープも心配だけれど、それを使って体験していたハーレイの世界。高い視点から眺めた部屋。とても小さいのだろう自分。
こうして腰掛けていたら、それほど酷くは違わないけれど。四十三センチの差は無いけれど。
(…だけど、チビ…)
やっぱりチビ、とクローゼットを見てしまうから。ついつい視線を遣ってしまうから。
「なんだ、あそこに何かあるのか?」
クローゼットに、とハーレイの視線もクローゼットに向けられた。透明なテープがある方に。
「ううん」
なんでもないよ、ちょっと見ただけ。
「そういうわけではなさそうだがな? お前、何度もチラッと見てるぞ」
何か隠してあるのか、中に?
隠し事は直ぐにバレるもんだぞ、隠そうとすればするほどにな。
「中じゃないよ!」
「ほう…?」
中じゃないと来たか、ならば外だな、クローゼットの?
語るに落ちるとはこのことだな、と笑ったハーレイ。
自分で白状したようだが、と。クローゼットの外に何があるんだ、と鳶色の瞳が覗き込むから。
「何も…」
何も無いってば、外側にも!
中にも外にも何も無くって、ホントに見ていただけなんだってば…!
「むきになる辺りが、ますますもって怪しいってな。そう思わないか、自分でも?」
本当に何も無いんだったら、キョトンとしてると思うがな。「何かあるの?」と逆に訊くとか。
それをしないで慌ててるトコが、何かあるんだという動かぬ証拠というヤツだ。
クローゼットの外側なあ…。お前が見ていた感じからして…。
おっ、あのテープか。普通、クローゼットにテープは貼らないよな?
ポスターでも貼ろうというならともかく、透明なテープだけっていうのは。
ふむ、とハーレイが椅子から立ち上がって出掛けて行って。
クローゼットに貼られたテープを「俺の背の高さだ」と眺めているから。この高さに貼ることに何の意味が、と指でテープに触れたりするから。
隠すだけ無駄だと観念した。きっとハーレイにはバレるんだから、と。
「…ハーレイの背の高さを体験したくて…」
ぼくの部屋がどんな風に見えてるのかな、って気になっちゃって…。
それで貼ったんだよ、そのテープ。椅子に上がってその横に立って、ぼくの頭を合わせてみて。
ハーレイになったつもりで見ていたんだよ、この部屋の中を…。
「そういうことか…。俺の背の高さを真似たってことは、だ」
椅子に上がってまでやってたんなら、椅子に上がらないと届かないことも分かっているな?
そうまでしないと俺の背まではとても届かない、今のお前の背丈ってヤツも分かっただろう。
自分が如何にチビなのかってことも、よく分かったか?
「うん…」
情けないほど小さかったよ、今のぼく。
ハーレイから見たら本当にチビで、うんと子供で。頭の天辺、ずうっと下にあるんだもの…。
「分かったようだな、今のお前のチビさ加減が」
こいつを貼っただけの甲斐はあったというわけだ。
俺の背丈を体験しようと、頑張って椅子の上に上がって、高さも測って。
用が済んだならもう要らないな、と軽々と剥がされてしまったテープ。
ハーレイはそれを指先で丸めて屑籠に捨ててしまっただけ。ポイと放り込んだら自分の椅子へと戻って来たから、背丈の印は気付かれなかった。
透明なテープを貼った場所から二十三センチ下に、鉛筆で引いてあった線。一日も早くその高さまで、と何度も見上げている目標。
そっちの方はバレずに済んだ、とホッとしていたら、問い掛けられた。
「お前、俺の背なんかが憧れなのか?」
前の俺と少しも変わりはしないが、お前、この高さに憧れてるのか?
「…ほんのちょっぴり…」
凄いよね、って思っちゃったよ、ハーレイの背の高さ。
ぼくなんかホントにチビでしかなくて、ぼくの頭はハーレイから見たら、ずっと下にあって…。
「憧れるのはお前の勝手だが…。体験してみるのも勝手なんだが…」
そんなにデカくなってみてどうするんだ、馬鹿。
憧れと体験するのはともかく、お前が本当に俺と変わらない背丈に育っちまったら。
俺と釣り合いが取れなくなるぞ、と弾かれた額。
普段はそれほど困らないにしても、結婚式はどうするつもりなんだか、と。
「白無垢ならいいが、ウェディングドレスを着るとなるとなあ…」
それに似合う靴を履くことになるし、そうなれば踵の高い靴だし、俺より背が高くなっちまう。
俺にも踵の高い靴を履いてくれってか?
その手の靴も無いことはないが、まさか俺の背でそいつを履くことになるとはなあ…。
しかし、本当になるかもしれん。今度のお前はデカくなるかもしれないからな。
「えっ?」
デカくなるって、もしかして、前のぼくよりも?
ハーレイと同じくらいに育つって言うの、今度のぼくは?
「そうならないとも限らないな、と可能性ってヤツを言ってるまでだ」
あまりにもチビの間が長いし、今は一ミリも伸びないままだし…。
少しも育たずに止まっている分、伸び始めたら派手に伸びるかもしれん。見る間にぐんぐん背が伸びていって、気付いたら俺と変わらんくらいになっているとか。
「そんな…!」
ハーレイと同じくらいに育つなんて嫌だよ、ぼくはそこまで育たなくてもいいんだよ!
結婚式の時に、ハーレイが背を高く見せる靴を履くようなことになるなんて…!
前のぼくと同じ背丈がいい、と叫んでしまった。
そうでないと困る、と。
「でないと、ハーレイと並んで歩く時だって困るよ…!」
ハーレイに手を繋いで貰って、「こっちだぞ」って連れてって貰おうと思っているのに…。
まるで背丈が変わらないんじゃ、引っ張って貰っても頼もしさが全然無いじゃない…!
それに手だって、ハーレイの手と大きさが変わらなくなっちゃうんだよ?
大きな手だな、って思えなくなって、ぼくは寂しくなっちゃうんだけど…!
「俺も大いに困るんだが…」
前とそっくり同じお前がいいんだがなあ、俺だって。
お前が言ってる通りのことだな、俺の方にしても。
今度はお前を守ってやる、って言っているのに、お前が俺と変わらないほどデカいんじゃあ…。
守るも何も、お前は充分、一人でやっていけそうじゃないか。デカいんだから。
そいつは俺も御免蒙りたいもんだ、俺と同じくらいにデカいお前は。
チビのお前が育たないのは、可愛いから全く気にならないが…。
育ち始めるのも楽しみではあるが、俺と変わらない背まで育つのは勘弁してくれ。
やっと育って前のお前と同じになったと思った途端に、それよりデカくなられたんじゃなあ…。
俺の立場はどうなるんだ?
一瞬でお前を失くしちまう、とハーレイが浮かべた苦笑い。
前のお前が戻って来たと思った途端に、お前はいなくなっちまうんだ、と。
「お前はちゃんと生きてるんだが…。俺の前にお前はいるんだが…」
俺の知ってるお前はアッと言う間に育っちまって、いなくなる。
代わりに前の俺の知らないデカいお前がいるってわけだな、俺と変わらないほどデカいお前が。
「そこまで大きくならないよ!」
前のハーレイが知らないぼくになったりしないよ、ぼくはぼくだよ!
「そればっかりは分からんぞ?」
育ち始めてみないことには、何処で止まるかは誰にも分からん。
お前のサイオンが器用だったら、これはマズイと思った所で成長を止めれば済むんだが…。
前のお前の背丈を越えてしまいそうだ、と気付いたら止めりゃいいんだが。
そしたら見た目にそれほど変わりはしないんだろうが、お前のサイオン、不器用だしなあ…。
止めるなんてことは出来そうもないし、どんどん育つ一方だってな。
「きっと止まるよ、前と同じで!」
前のぼくとおんなじ背丈で止まる筈だよ、育ち始めても…!
「どうだかなあ…」
現に今だって、前のお前とは全く違った育ち方をしているわけだしな?
前のお前は長いこと成長を止めてしまっていたが、あれは未来に何の希望も無かったからで…。
今の状況とはまるで逆様で、今のお前は育ちたいわけで。
少しでも早く育ちたいんだと焦っているのに、一ミリも育っていないだろ、お前?
背を伸ばそうと毎朝飲んでいるミルクが一気に効き始めるとか、と言われたから。
今まで全く無かった効果が何処かに蓄えられていて、効きすぎるかも、と脅されたから。
「そんなの、ぼくも困るんだよ…!」
効かなくても頑張って飲んでいるのに、飲んだ分だけ、貯金みたいになってるだなんて!
育ち始めたらぐんぐん育って、前のぼくの背を追い越しちゃって。
もう止めたい、って思っているのに止まらなくって、どんどん、どんどん、伸びるだなんて。
ハーレイと同じくらいの背丈になるまで、止められないままで育つだなんて…!
あんまりだよ、と泣きそうになった。
それくらいならチビの方がいい、と。育たないままの方がいい、と。
「チビでいいのか?」
お前、大きくなりたいんだろうが。
チビのままだとキスも出来んが、俺と変わらないくらいにデカくなるよりはチビでいいのか?
「…ハーレイと同じになっちゃうよりはね…」
おんなじ背丈になってしまって、手の大きさだって変わらなくなって。
手を繋いで歩いても、グイグイ引っ張って貰えなくなってしまうよりかはチビのままでいいよ。
うんと大きくなっちゃうよりかは、チビの方がずっといいんだよ…。
ハーレイとキスを交わせなくても、唇へのキスが貰えなくても、チビの方がマシ。
キスは駄目でも強い両腕で抱き締めて貰えて、甘やかして貰えて。
チビならハーレイに甘え放題、優しく扱って貰えるけれど。子供扱いでも、ハーレイの腕に包み込んで貰えるのだけれど。
ハーレイと同じ背丈になってしまっては、そうはいかないから。
手の大きさまで変わらなくなって、「こっちだぞ」と引っ張って貰えもしないから…。
「まあ、大丈夫だとは思うがな」
チビのままでいい、と悲観しなくても、無駄にデカくはならんと思うぞ。
面白いから脅してはみたが、前のお前と同じ背丈で止まるだろうなあ、お前の背丈。
「ホント…?」
ぼく、自分では止められないんだよ、育つのを。
これでいいや、って思った所で止められる自信、ぼくには少しも無いんだけれど…。
「神様が下さった身体だからなあ、お前も俺も」
俺は全く意識なんかはしていなかったのに、前の俺と全く同じ背丈に育ったんだ。一ミリさえも違いはしないぞ、前の俺とな。
だから、お前もそっくり同じに育つだろうさ。お前が頑張らなくても、勝手に。
年を取るのも自然に止まってしまう筈だぞ、前のお前と全く同じに育ったならな。
心配は要らん、とハーレイの手が伸びて来て髪をクシャリと撫でたけれども。
お前は俺のブルーなんだから、と太鼓判を押して貰えたけれど。
「しかしだ…。デカくなったお前って、どんなのだろうな?」
俺と全く変わらんくらいにデカく育ったら、お前はどういう風になるんだ?
「そんなの、想像しなくていいから!」
大きすぎるぼくなんて、ぼくは絶対、嫌なんだから!
「チビのお前は、前のお前も今のお前も知っているがだ、デカい方はなあ…」
前の俺は一度もお目にかかっちゃいないし、可能性があるのは今の俺だな。
まず無いだろうと思いはしてもだ、どんな感じか気にはなるなあ、デカいお前も。
「チビのぼくでいいよ!」
育たないままのチビのぼくでいいよ、大きくなりすぎるのは嫌だから!
育っても前のぼくと同じで、それよりも大きく育つつもりは無いんだから…!
大きすぎるぼくは想像しないで、と悲鳴を上げた。
ハーレイと同じ背丈に育ったぼくなんかは、と。
「そうか? 俺はそれでも美人だろうとは思うんだが…」
背が高すぎても、美人は美人だ。きっとスラリと背が高いんだぞ、俺と違って。無駄にゴツゴツしてはいなくて、透き通るような肌をしていて。
前のお前がそうだったように、誰もが思わず振り返るような凄い美人の筈なんだが…。
俺と釣り合いが取れるって意味では、断然、前のお前だな。あのくらいの背丈が丁度いい。
でなければ、チビか。
今のお前と変わらないままの、チビで小さな子供のお前か。
「チビでも釣り合い、取れてるの?」
ハーレイの背の高さになって眺めてみたら、ぼくはホントにチビなんだけど…。
椅子に上がって見下ろしてみたら、ぼくの頭はハーレイの目より、ずうっと下に見えていそうな感じにしか思えなかったんだけど…。
「同じ背よりかはチビの方がいいだろ、守り甲斐もあるし」
うんとチビなら、前のお前よりも大切に守ってやれるってもんだ。
それこそ俺が保護者ってヤツだな、チビのお前の手を引っ張って迷子にならないように。
「俺の手を離しちゃ駄目なんだぞ」って言い聞かせながら、チビのお前とデートってことだ。
もしもお前が疲れちまったらヒョイと抱き上げて歩くのもいいな、チビなんだしな?
お前もチビの方がいいんだろうが、と笑われたけれど。
デカくなるよりはチビなんだろうが、と念を押されてしまったけれど。
ハーレイと変わらない背丈に育ってしまって、甘えられなくなるよりは…。
(チビの方がいいに決まっているよね?)
クローゼットにつけた前の自分の背丈の印はまだ遠いけれど、チビでいい。
育ちすぎてしまうよりかは、チビの方が。
ハーレイに甘やかして貰える低い背丈の、チビの自分の方がいい。
チビでも釣り合いは取れるらしいし、ハーレイと釣り合いが取れるチビ。
前の自分と同じ背丈に育てないなら、チビでいい。
ハーレイの隣にいるのが似合う姿の自分がいい。
何処までも二人でゆくのだから。いつまでも二人、手を繋いで歩いてゆくのだから…。
ハーレイの背丈・了
※ハーレイの視点で眺める世界が気になったブルー。そして試してみたのですけど…。
今の自分がハーレイの背丈に育ってしまったら、大変なことに。前と同じがいいのです。
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