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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あれ…?)
 学校から帰ったブルーが目にしたもの。「ただいま」と覗き込んだダイニングのテーブルで母が見ている葉書だけれど。母が葉書を手にしていること自体は、特に珍しくもないのだけれど。
 何故だか懐かしいような気がした、その葉書。届いた時には家にいなかった筈なのに。
 郵便配達のバイクは学校に行っている間にやって来るもの。だから留守の間に届いた筈で、目にしたわけがないというのに。
(…なんの葉書だっけ?)
 前にも見たことがあるのだろうか。母宛の葉書で、似たようなものを。
 部屋へ行こうと階段を上りながら考えてみる。チラリと見えた絵、その色彩に覚えた懐かしさ。絵が描いてある葉書ならば…。
(色々あるよね?)
 母の友人には絵を描く人も少なくないから。絵が添えてある葉書もよく届くから。
 それだろうか、と思ったけれども、懐かしい理由が分からない。そういう葉書を届けてくる人に会ったことは何度もあるけれど。顔だって知っているけれど…。
(…でも、懐かしい…?)
 葉書を見ただけで懐かしくなるほど親しいだろうか、その人たちと。小さかった頃には何処かへ一緒に出掛けたりしたこともあったけれども…。
(ぼく宛に葉書は来なかったし…)
 絵が描かれた葉書はいつも母宛、それを横から眺めていただけ。この間の人だ、と。色々な顔を思い出せるけれど、葉書を見ただけでピンと来る人の記憶は無くて。
(誰だっけ…?)
 謎の差し出し人、と葉書の主が分からないまま、着替えて下りて行ったダイニング。あの葉書を見せて貰って、おやつも食べて…、と。
 そうしたら…。



 おやつを用意して待っていた母が、「覚えてる?」と笑顔で持っていた葉書。さっきの葉書。
(あ…!)
 懐かしい筈だ、と葉書を見詰めた。母宛の葉書には違いないけれど、描かれている絵。幼稚園の頃に自分が描いた絵、クレヨンを使って時間もかけて。
 鮮やかに蘇って来た記憶。「お家の人に手紙を書きましょう」という幼稚園の企画、先生たちが用意してくれた葉書。字の書けない子もいたりしたから、手紙と言っても絵を描いただけ。
 出来上がった葉書は先生が纏めて出してくれた。宛先を書いて。でも…。
(ぼく、頑張って…)
 宛先も自分で書いたのだった。母に住所を書いて貰った紙を見本に、精一杯の字で。
 その葉書がヒョイと時間を飛び越えて届いた、自分の前に。幼稚園の時に家に届いて、父と母が褒めてくれた記憶はあるのだけれども、それきり葉書は見なかったのに。
「懐かしいでしょ?」
 この絵はブルーが描いたのよ。どう、思い出した?
「うん…。宛先もぼくが書いたんだっけ…」
 凄く下手だよね、ぼくが書いた字。郵便屋さんに笑われそうだよ、読めやしない、って。
 頑張ったつもりだったけど…。今になって見たら恥ずかしいかも…。
「そんなことないわ、上手な字よ。だって、ブルーが幼稚園の頃よ?」
 子供は誰でもこんなものなの、恥ずかしくなんかないのよ、ブルー。
 それにね、この葉書はママたちの宝物だから。
 家のポストに届いた時から、大切な宝物なのよ。ブルーから貰った初めての手紙。郵便屋さんが届けてくれた最初の手紙よ、ブルーが「はい」って渡してくれてた手紙と違って。



 言われてみれば、「手紙ごっこ」は何度もやった。画用紙や折り紙に描いた絵や文字、そういう手紙を父にも母にも手渡していた。「お手紙あげる!」と得意満面、郵便ではない子供の手紙。
(初めての手紙…)
 郵便ポストに届くという意味では、確かに最初の手紙だろう。この葉書が。下手くそな字が少し恥ずかしいけれど、懐かしくも思える幼稚園から出した葉書が。
「ママ、なんでこんなの出して見てたの?」
 何か気になることでもあったの、ぼくの葉書に。今頃になって見てるだなんて…。
「ブルーはブルーね、って思っていたのよ」
 この葉書が家に届いた頃には、ソルジャー・ブルーだとは思いもしなかったわね、って。
「ごめんなさい…。ぼく、変なのになっちゃって…」
 生まれ変わりなんかになっちゃって。それまではずっと、パパとママの子供だったのに。ママが産んでくれたから、ぼくがいるのに…。
「それはいいのよ、前にも話してあげたでしょ?」
 ブルーは少しも変わっていないわ、ちょっぴり記憶が増えちゃっただけ。
 ソルジャー・ブルーの分が余分について来ただけで、ブルーはブルーよ、前と同じよ。この家で暮らして、パパとママの子で。学校にもきちんと通っていて。



 でも…、と優しく微笑んだ母。たまに確認したくなるの、と。
「ブルーはママのブルーよね、って。この家で大きくなったんだわ、って」
 ソルジャー・ブルーでも、ブルーはブルー。
 赤ちゃんの時からこの家で育って、間違いなくママのブルーなのよ、って確かめたくなるの。
 ソルジャー・ブルーは英雄だったけど、今はママたちの子供なんだから、って。
「それで葉書なの?」
 ぼくが初めて出した手紙を見てたの、ぼくが幼稚園に行ってた証拠の?
「そうよ、宝物が役に立っているのよ」
 ママたちが貰った大切な手紙。ブルーは手紙を出してくれたし、こんな頃からずっとママたちの側にいてくれて、今もいるでしょ?
 赤ちゃんの頃の写真もあるけど、ブルーから貰った手紙は特別。幼稚園に行ってた頃のブルーがいたって証拠よ、ブルーが描いた絵と、書いてくれた字。



 母の宝物だという葉書。幼稚園から出して貰った葉書。
 子供が描いた絵と下手くそな宛先、それでも宝物にしている母。遠い地域に住む祖父母たちも、手紙を大事に持っているらしい。ブルーが今までに出したものを、全部。
「全部?」
 お祖父ちゃんたちが全部持っているの、ぼくが書いた手紙を?
 葉書も手紙も、捨てないで全部持ってるの…?
「そうよ、きちんと箱に入れてね。これはブルーから届いた手紙、って」
 誰でも、そういうものなのよ。大切に持ってて、ママみたいに時々、取り出して読むの。
 そしたらブルーが側にいるみたいに思えるでしょう?
 今のブルーも、もっと小さな頃のブルーも。
「えーっ!」
 宝物だって言うの、お祖父ちゃんたちまで箱に仕舞って残しているの?
 ぼくが出した手紙、全部、宝物にされちゃってるんだ…?



 上手に書けた手紙はともかく、下手な手紙も沢山ある筈。小さな頃にはせっせと手紙を書いたりしたから、きっと山ほど。
 まさか宝物になっていたとは思わなかったから、手紙が残っているのはショックで。
(…ホントに下手くそなのが沢山…)
 あんまりだよ、と母に訴えたけれど、「この葉書と同じで宝物なのよ」と笑みが返っただけ。
 祖父母たちにとっては大切なもので、今も見ているかもしれないと。こんな頃もあったと、まだ小さかったと、最初に貰った手紙を眺めているのかも、と。
 そう言われたら、もう敵わないから。勝てはしないから、曖昧に笑っておくしかなくて。
 おやつを食べ終えて部屋に戻ってから、頭を抱えた宝物の手紙。祖父母の大切なコレクション。下手くそな手紙も多いのに。きっと沢山ある筈なのに。
(…捨てちゃって下さい、って手紙を出す?)
 上手に書けている手紙以外は捨てて下さい、と手紙を書いたら、祖父母に届くだろうけれど。
 郵便配達の人がポストに届けてくれるだろうけれど、その手紙だって手紙だから。ブルーからの手紙に違いないから、下手な手紙を捨てる代わりに、その手紙まで残してしまわれそうで。
 「ブルーがこんな手紙を寄越した」と面白がられて、大切に箱に入れられそうで。



(それじゃ駄目だよ…)
 祖父母たちのコレクションがまた増えるだけ。「捨てて下さい」という情けない文面が綴られた手紙はきっと特別扱い、宝箱の一番上に仕舞われてしまうに違いない。捨てるものか、と。
(お祖父ちゃんたちの宝物…)
 手紙を残されていたなんて知らなかったと、恥ずかしすぎると、溜息しか出て来ないけれども。本当に顔から火が出そうだけれど、ハタと気付いた。
 自分だったらどうだろう?
 宝物にしたいような手紙を受け取ったのが自分だったなら。それがポストに入っていたなら。
(ハーレイの手紙…)
 それを自分が貰ったことは無いけれど。ポストに入っていたことも無いし、手渡されたことさえ無いけれど。ただの一度も手紙は貰っていないけれども、貰えばきっと残しておくから。どんなにつまらない用件だろうと、大切に机の引き出しに仕舞っておくのに違いないから。
(お祖父ちゃんたちも一緒…)
 仕方ないか、と手紙の処分はもう諦めることにした。恋人からの手紙も、孫からの手紙も、貰う方にとっては宝物だから。捨ててしまうなど、とんでもないから。
(これからは上手な手紙を書こう…)
 祖父母に宝物にされても、恥ずかしくない立派な手紙。文面はもちろん、字だって綺麗に。そう決めたけれど、これ以上の恥はかくまいと心に決めたのだけれど。
 でも…。



 祖父母の気持ちが理解出来た切っ掛け、恋人からの手紙。ハーレイの手紙。
(…貰っていないよ…)
 今の自分も貰っていないし、前の自分も貰っていない。ただの一度も、葉書でさえも。
 ハーレイの手紙なんかは知らない。どういう手紙を書いて寄越すのか、自分は知らない。一度も貰ったことが無いから。ハーレイの手紙を読んだことが一度も無いのだから。
(今のぼくは駄目でも、前のぼくなら…)
 子供扱いの自分はともかく、本物の恋人同士だった前の自分の方なら、ラブレターの一通くらい貰っていてもいい筈なのに、と思ったけれど。それが当然、と考えたけれど。
 恋人同士には違いなくても、前の自分たちは誰にも秘密の恋人同士。ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと明かせはしないし、最後まで隠し続けたのだから、ラブレターなどは…。
(貰えないよね?)
 手紙という形で愛を綴ったら、何処から漏れるか分からない。形にしてはならない恋。
 だからラブレターは一度も貰っていないし、自分も書きはしなかった。前の自分も、ハーレイも持っていなかった。手紙という名の宝物は。ただの一通も、ただ一枚の葉書でさえも。
 そうだったっけ、と納得したのだけれど。



(ちょっと待って…!)
 手紙という名の宝物。今の自分の母も祖父母も、大切にしている自分の手紙。今の自分が書いた手紙が宝物だと聞いたのだけれど。
(…前のハーレイ…)
 前のハーレイの手元には何も残らなかった。宝物どころか、前の自分がいた名残すらも。
 前の自分がいなくなった後、メギドで死んでしまった後。ハーレイは前の自分の銀色の髪の一筋でも、と青の間へ探しに行ったのに。部屋は綺麗に掃除されてしまって、何も残っていなかった。前の自分が綺麗好きだったから、係が掃除をしてしまって。
 係は知らなかったから。前の自分が二度と戻らないとは夢にも思っていなかったから。
 戻ったら直ぐに休めるようにと、整えられていたベッドに、水まで入れ替えられた水差し。前の自分が最後に水を飲んだのかどうか、それさえもハーレイには分からなかった。
 そんな青の間に銀の髪など落ちてはいなくて、前のハーレイは何も持つことが出来なくて。
 前の自分を偲ぶためのものは何一つ無くて、長い年月を独りぼっちで生きて死んでいった。青くなかった地球の地の底で、白いシャングリラを無事に地球まで運んだ後で。



 もしもあの時、手紙を書いておいたなら。
 メギドに向かって飛び立つ前に、ハーレイに宛てて手紙を一通、書いていたなら…。
 ハーレイはそれを宝物にすることが出来ただろう。母が持っていた葉書のように。祖父母の家で箱に仕舞われているらしい、今までに書いた手紙のように。
 前のハーレイはそれを宝物にして、何度も取り出して読めただろう。何度も何度も繰り返して。中身をすっかり暗記するほどに、開かずともすらすらと思い出せるくらいに。
(ラブレターじゃなくても…)
 前のハーレイへの別れの挨拶。長い年月、共に生きてくれたことへの感謝をこめて。
 それを書いてからメギドに行けばよかった、ハーレイに宛てた手紙を残して。
 あんな風に言葉を残すよりも。
 腕に触れて思念を送り込んだだけの、何の形も残らない別れの言葉よりも。



(言葉も残さなきゃいけなかったけれど…)
 ジョミーを支えてやってくれ、という言葉は必要だったけれども。それだけだった別れの言葉。
 「頼んだよ、ハーレイ」と、告げて終わりで、それも必要だったのだけれど。ソルジャーとして言うべきことだったけれど、恋人同士の別れは告げられなかったけれど。
(…あれはブリッジだったから…)
 ブリッジで、皆が周りにいたから。恋人同士だと知られるわけにはいかなかったから。
 だから最後まで、別れの時までソルジャーとキャプテン、そう振舞った。自分もそうだったし、ハーレイの方でも自分を止めはしなかった。これが最後だと分かっていても。二度と会えないと、もう戻らないと気付いていても。
 けれど、手紙を残していたら。それを書いて置いて行ったなら。
 手紙が何処に置いてあろうとも、キャプテン宛の手紙だったら、誰も開けたりしなかったろう。開いて中を読むよりも前に、ハーレイの許へ届けただろう。
 ソルジャーの手紙なのだから。それも最後の、キャプテン宛の手紙。
 内容は機密事項か何かで、シャングリラの今後を左右するかもしれない手紙。キャプテンだけが知るべきことだと、それで充分だと、誰も中身を知ろうとも思わなかっただろう。
 手紙を見付けたのがエラやヒルマンといった長老たちでも、ジョミーであっても。



(ハーレイが死んじゃった後に誰かが見ても…)
 大丈夫な手紙を書けば良かった。恋人同士には見えない手紙を、親しい友からの別れの手紙を。
 「ありがとう」と。「君のお蔭で楽しかった」と、「またいつか会おう」と。
 そういう手紙を残せば良かった、そうすればハーレイは宝物を一つ持っていられた。前の自分の髪の一筋が無かったとしても、代わりに手紙。前の自分が綴った手紙を。
 それがあったら何度でも読めた、前の自分が綴った言葉を、想いを何度も読み返せた。何処にも愛の言葉が無くても、手紙の向こうにそれを読み取れた。「ありがとう」と、「愛していた」と。
 たった一通の手紙さえあれば。「ありがとう」と書かれた手紙があれば。
(ぼくって、馬鹿だ…)
 どうして思い付かなかったのだろう、ハーレイに手紙を残すことを。それを綴ってゆくことを。
 時間は充分にあったのに。下書きをしたり、文を練ったり、そんなことさえ出来ただろうに。
(…手紙なんか書いていなかったから…)
 前の自分が生きていた頃、手紙を書く習慣は無かったから。
 白いシャングリラに郵便配達のシステムなどは無くて、ポストも存在しなかったから。
 ハーレイに宛てて書くのはもちろん、他の仲間たちに宛てても手紙を書きはしなかった。私的な手紙も、公的な手紙も、ただの一度も。
 ソルジャー主催の食事会などには招待状もあったけれども、あれは手紙とは言わないだろう。



 シャングリラには無かった手紙なるもの。
 前の自分も書かなかったし、ハーレイからも届かなかった。レトロな白い羽根ペンで航宙日誌を綴ったハーレイでさえも、手紙は思い付かなかったといった所か。
(でも、ラブレター…)
 愛の手紙を交わす恋人たちならいた。レターセットも存在していた。配達するためのシステムは無くて、自分で届けるか誰かに頼むか、そんな手段しか無かったけれども、手紙はあった。
 ラブレターだの、招待状だの、そういった時のものだったけれど。私的どころか趣味の世界で、そうでなければ演出手段。ソルジャー主催の食事会です、と招待状が出されたように。
 とはいえ、手紙はあったのだから。レターセットも手に入れられたのだから。
(一度くらい…)
 書けば良かった、ラブレターを。前のハーレイに宛てて、想いを綴って。
 恋人同士の仲は秘密だから、「読んだら捨てて」と言ってでも。本当に捨てられてしまっても。
 ハーレイがどんなに恥ずかしがっても、「愛しているよ」と想いをこめて。



 そんな手紙は書かないにしても、別れの手紙。それだけは書いておくべきだった。
 ソルジャーからキャプテン宛のものでも、中身もそういうものであっても。長い年月を白い鯨で共に過ごした、友への別れの手紙であっても。
(…お別れなんだし、もっと欲張りに…)
 最初で最後のラブレターを書いても良かったかもしれない。ソルジャーからキャプテンに宛てた最後の手紙は、誰も開けたりしないから。中を見ようとはしないだろうから。
 ハーレイへの想いを、心のままに。いつまでも好きだと、愛していると。たとえこの身が消えてしまおうとも、魂は君の側にいるから、と。
 そう綴ってから逝くのも良かった、ハーレイへの愛を、想いの全てを。
 手紙を開けようとする者はいないし、内容を知ろうとする者だっていないのだから。
(燃やせ、って書いておいたなら…)
 読み終わったら燃やしてくれ、と書き添えておけば、秘密は漏れなかったと思う。最初で最後の愛の手紙は灰になって消えて、ハーレイの心の中にだけ。前の自分の想いと共に。
(でも、ハーレイは…)
 きっと燃やさずに残しただろう。誰にも気付かれない場所に。
 そうして取り出して、何度も何度も読んでいたろう、「燃やせ」と書き添えられた手紙を。
 流石に地球に降りる前には処分したかもしれないけれど。
 暗殺の恐れもあった地球だから、これは駄目だと燃やしたのかもしれないけれど。



 もしも手紙を残していたら、と考えるほどに、書いておけば良かったと心が締め付けられる。
 どうして思い付かなかったかと、手紙を残すべきだったと。
(ホントに馬鹿だ…)
 時間は沢山あったのに、と自分を責めていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 これは訊くしかないだろう、とハーレイが部屋に来るのを待った。いつものように向かい合って座って、母の足音が消えてから…。
「ハーレイ、ラブレター、欲しかった?」
「はあ?」
 なんの話だ、と鳶色の瞳が丸くなったから。
「前のぼくからのラブレターだよ、それがあったら良かったかな、って…」
 ママがね、ぼくが幼稚園の時に出した葉書を大切に持っているんだよ。ママの宝物なんだって。
 お祖父ちゃんたちも、ぼくが出した手紙を全部大事に残しているって聞いたから…。
 それで考えたんだよ、前のハーレイのことを。
 前のハーレイ、前のぼくの手紙が残っていたなら、独りぼっちでも少しは辛くなかった?
「お前からの手紙か…。なるほどなあ…」
 そりゃあ、少しは紛れただろうな、前の俺が感じていた孤独。
 手紙を開けば、そこにお前の書いた字と言葉が残ってるんだし…。
 きっとお前の声まで聞こえるような気持ちになっただろうなあ、読んでいる時は。



「やっぱり、そういうことなんだ…。前のぼくの手紙が残っていたら」
 ごめんね、ぼくは思い付かなかった。手紙を書こうと思いもしないでいたんだけれど…。
 ハーレイに手紙を書けば良かった、普段は一度も書いてなくても、お別れの時に。
「お別れって…。メギドの時のことか?」
「うん。…行く前に時間は充分あったよ、長い手紙でも書けたんだよ」
 あんな言葉を残して行くより、手紙を書いておけば良かった。
 キャプテン宛の手紙だったら、青の間にあっても誰も開けたりしないから…。ソルジャーからの最後の手紙で、きっと大事な中身なんだと思うだろうから…。
 誰が見付けても、ハーレイの所へちゃんと届くよ、開けられないで。手紙に何が書いてあったか訊かれもしないよ、機密事項かもしれないから。エラたちにだって言えないような。
 そうやって青の間に残してもいいし、ハーレイの部屋に瞬間移動で届けておいても良かったね。ハーレイの机の上に置くとか、引き出しの中に入れておくとか。
 そういう手紙だよ、ハーレイのための。
 …ぼくが何処にもいなくなっても、ハーレイが寂しくないように。ぼくの手紙を読めるように。
 ぼくからの最後のラブレターなんだよ、最初で最後の。



「…ラブレターなのか?」
 お前が俺宛に書いていく手紙、中身はラブレターだったのか?
 普通の別れの手紙じゃなくてだ、ラブレターを書きたかったのか、お前…?
「それも良かったかな、って思って…」
 前のぼくは手紙を書こうとも思っていなかったけれど、今のぼくだから思うことだけど…。
 同じ手紙を書くんだったら、ラブレターの方がハーレイだって嬉しくない?
 ちゃんと「読み終わったら燃やしてくれ」って書いておくから、ラブレターだよ。
 …残しておいても大丈夫なように、普通の手紙でもいいんだけれど…。
「おいおい、ラブレターってヤツはマズイぞ、マズすぎるってな」
 俺たちの仲がバレちまうじゃないか、そんな手紙を置いて行かれたら。
 お前が「燃やしてくれ」と書いていようが、「捨ててくれ」と大きく書いてあろうが。
 …俺はそいつを捨てられやしない、お前からの最後の手紙なんだぞ?
 しかも最初で最後のラブレターなんぞを貰っちまったら、捨てられるわけがないだろうが。
 燃やせもしないし、そいつはマズイ。
 ラブレターじゃなくて普通の手紙で頼みたかったな、書いてくれると言うならな。
 親友向けの別れの手紙で充分じゃないか、まるで手紙が無いよりは。
 前の俺はお前の手紙なんか一つも持ってはいなかったんだし、そういう手紙で満足だったさ。



 普通の手紙にしておかないと後で色々とマズイことに…、と苦笑するハーレイ。
 前の自分は
手紙を処分出来はしないし、歴史も変わってしまっただろうと。
「いいか、シャングリラに残っちまうんだぞ、前のお前のラブレターが」
 前の俺が死んじまったら、航宙日誌と同じでキャプテンの部屋から発掘されて、だ…。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは本当は恋人同士でしたと、すっかりバレてしまうことになるんだが…。
 シャングリラどころか、宇宙全部に話が広がっちまうんだが…?
「そうなっちゃうかもしれないけれど…。ハーレイが処分しないままなら、そうなるけれど…」
 地球に降りる前なら、どうだった?
 ハーレイ、何度も言っているよね、暗殺されるかもしれないと思っていたってこと。
 暗殺の心配があるんだったら、前のぼくの手紙、処分してから出掛けない…?
「ああ、地球なあ…!」
 地球があったな、あの時は確かに死ぬかもしれんと思って出掛けて行ったわけだし…。
 後に残ってマズイようなものを持っていたなら、処分してから出掛けただろうな。
 しかしだ、前のお前の手紙となったら、処分する代わりに大切に持って降りたかもしれん。
 前のお前が行きたかった地球だ、あんなとんでもない星でもな。
 お前を連れて行くような気持ちで、誰にも見られないよう、服の下に大事に仕舞い込んで。
 「地球に来たぞ」と、「ちゃんと見えるか?」と服の上から何度も押さえて。
 そうやって持って行っただろうなあ、処分するより、俺と一緒に地球へ降りようと。



 前の自分がラブレターを書いて残していたなら。
 「燃やしてくれ」と書いてあっても、ハーレイは大切にそれを持ち続けて、繰り返し読んで。
 最後は地球まで持って行ったと、懐に入れて一緒に地球へ降りたのだろうと話すから。
「それなら処分出来たじゃない。前のぼくの手紙」
 誰もあったと気付きはしないよ、ハーレイの服の下だったなら。
 ハーレイはタイプ・グリーンだったんだし、遮蔽はタイプ・ブルー並みだよ?
 そんなハーレイが何を持っていたか、トォニィにだって分かりはしないし、気が付かないし…。
 前のぼくの手紙、地球の地面の下で燃えてしまったと思うんだけど…?
 どんなに長いラブレターでも、ハーレイのことが好きだってハッキリ書いてあっても。
「…そうか、その手紙、地球で燃えちまうんだな、俺の身体と一緒にな」
 前の俺の身体は何処へ消えたか、誰にも分からないんだし…。
 ユグドラシルがあった辺りで死んだらしい、としか記録も残っていないんだし…。
 なら、バレないのか、前のお前が書いておいてくれたラブレター。
 後生大事に残していたって、そんな手紙があったことすら、誰にも分からないんだな…?
「うん、燃えちゃったらおしまいだからね」
 前のぼくが書いておいた通りに、燃えてしまって消えるんだよ。
 前のハーレイが自分で燃やさなくても、最後まで大事に持っててくれても。
 ぼくの手紙は残りはしなくて、前のハーレイと恋人同士だったこともバレずにおしまい。
 前のぼくが最後に書いた手紙が、ハーレイへのラブレターだったってことも。



 前のハーレイに宛てて書いた手紙は、どんな中身でもハーレイの慰めになっただろうから。
 最初で最後のラブレターを書いて残したとしても、その手紙は誰にも知られることなく、地球の地の底で消えただろうから。
「…ハーレイに残しておけば良かったね、手紙…」
 メギドへ行く前に、レターセットをコッソリ貰って来て。
 親友っぽく書いた手紙でもいいし、最初で最後のラブレターでも良かったし…。
 書いて青の間に置いておくとか、ハーレイの部屋に届けておくとか。
 そしたら、その手紙、ハーレイの宝物になったんだろうし、ハーレイは何度も読み返せたし…。
 本当に書いておけば良かった、どんな手紙でも。ラブレターでも、そうじゃなくても。
「そうだな…。前のお前の手紙というのも良かったな…」
 親友向けの別れの手紙だったら、俺は号泣していただろう。最後まで隠しやがって、と。本当はこんな手紙じゃなくって、別のことを書きたかったんだろうに、と。
 …ラブレターだったら、もっと泣いたな。「燃やしてくれ」と書いてあったら、余計にな。誰が燃やすかと、俺に出来ると思うのか、と。
 お前だけ勝手に逝きやがってと、この手紙の返事を書こうにもお前がいないのに、と。
 親友向けだろうが、ラブレターだろうが、きっと読む度に俺は泣いたんだ。
 書いていた時のお前を思って、お前に返事を書いてやりたいと、何度も何度も。
 だがな…。



 読む度に泣くしかない手紙でも、欲しかったかもな、とハーレイが言うから。
 そういう手紙を貰っていたなら、きっと宝物にしていただろうと、遠く遥かな時の彼方を鳶色の瞳で見ているから。もしもあの時、手紙があれば、と思っているのが分かるから…。
「あのね…。前のぼくは手紙を書かないままになっちゃったけど…」
 ハーレイに手紙を渡せないままで終わったけれど。
 今度はきちんと手紙を書くよ。前のハーレイが欲しかった手紙の代わりに、手紙。
「手紙って…。お前、何処へ行くつもりなんだ?」
 旅行にでも行くのか、お父さんたちと?
 家族旅行に出掛けた先から俺に手紙か、絵葉書とかか?
「ううん、違うよ。ちょっと近くまで」
 ハーレイと結婚した後のことだよ、ハーレイの留守に、ぼくが近所に出掛ける時。
 まだ仕事から帰ってない時とか、柔道の道場に行ってる時とか。
 もうすぐハーレイが帰りそうだけど、と思う時間に、買い物を思い出したりした時のこと。



 行って来ます、と書いたメモの手紙を置いておくよ、と笑ったら。
 直ぐに戻るから、って行き先も書いておくから、早く帰ったら迎えに来てね、って甘えたら。
「近所までか…。それなら許す」
 メモを見付けたら、俺は急いで迎えに行くが…。
 その手の手紙は大歓迎だが、別れの手紙は厳禁だぞ?
 どんなに熱烈なラブレターだろうが、そいつは要らん。前の俺が貰い損ねたヤツはな。
「お互い様だよ、ぼくもそんな手紙は貰いたくないよ」
 ハーレイからお別れの手紙だなんて、もう絶対に要らないからね!
 お断りだし、ぼくも書かない。お別れなんかは無いんだから。
 ずうっとハーレイと一緒なんだし、そんな手紙は書かなくってもいいんだから…!



 そう、今度は二人、何処までも一緒。
 青い地球の上で二人で暮らして、手を繋ぎ合って歩いてゆく。
 死ぬ時も二人一緒なのだから、そうするつもりなのだから。
 別れの手紙は書かなくていいし、そんな機会も巡っては来ない。
 だから普段に、ハーレイに宛ててメモくらい。
 ほんの近所まで出掛けるけれども、ハーレイが帰るまでに戻れそうにない時は、小さなメモ。
 行って来ますと、直ぐに戻るよ、と短い手紙。
 早く帰ったら迎えに来てね、と行き先も書いて、ハートマークも添えたりして…。




               宝物の手紙・了

※前のハーレイに手紙を残して行けば良かった、と思ったブルー。メギドに飛ぶ前に。
 それがあったら、ハーレイも救われた筈なのですが…。書けなかった分まで、今度は幸せに。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(届かない…)
 まだまだ無理、とブルーが見上げたクローゼット。
 学校から帰って、おやつを食べて。自分の部屋に戻った後で、クローゼットが目に入ったから。見た目は普通のクローゼットで、ずっと前からあるのだけれど。部屋に馴染んだ家具だけれども。
 この春から一つ、秘密が出来た。特別になったクローゼット。
 正確に言うなら春ではなくて初夏かもしれない。鉛筆で微かな印をつけた時から、秘密が一つ。前の自分の背丈の高さに引いた線。クローゼットに書いた目標、こうして見上げて溜息をつく。
 五月の三日に出会ったハーレイ、再会を遂げた前の生からの自分の恋人。
 直ぐにでもキスをしたかったのに。抱き合ってキスして、それから、それから…。
 恋人同士の絆を確かめ、前とすっかり同じように。離れていた時を取り戻すように、ハーレイと愛を交わしたかったのに。
 キスさえも駄目と言われてしまった、今の自分は子供だから。十四歳にしかならない幼い子供。
 そんな子供にキスは早いと、前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だと叱った恋人。それまではキスは頬と額だけ、唇へのキスはしてやらないと。



 そう言われたから、クローゼットに印をつけた。前の自分の背丈の高さを床から測って。
 母に見付かって叱られないよう、鉛筆で微かに引いておいた線。床から百七十センチの所に。
(あと二十センチ…)
 今の自分の背丈はたったの百五十センチ、百七十センチまではまだ遠い。二十センチもの大きな違いで、それに加えて問題が一つ。前の自分の背丈との差の二十センチ。
 これが少しも縮んでくれない、一ミリさえも縮みはしない。春はとっくに過ぎてしまって、夏も終わって秋なのに。草木も子供もよく育つ夏が、育ち盛りの年の夏休みがあったのに。
(ちっとも縮まらないんだけれど…)
 伸びてくれない自分の背丈。百五十センチから伸びない背丈。
 ハーレイと再会した日から全く変わらないままで、ハーレイにかかれば「チビ」の一言。チビはチビだと、お前はほんの子供なんだ、と。
 クローゼットに秘密の印をつけた時には、直ぐに育つと思ったのに。二十センチの差はみるみる縮んで、前の自分の背丈になる日が順調に近付くと思っていたのに。
 そうだと思って浮かれていたのに、まるで伸びてはくれない背丈。未だに卒業出来ないチビ。
 一ミリずつでも育ってくれたら、チビと笑われはしないのに。
 「キスは駄目だ」と叱るハーレイも、子供扱いをやめてくれるだろうに。
 それなのに一ミリも伸びない背丈。チビで子供の姿の自分。
 縮まらない差も問題だけれど、それに加えて。



(あの高さの視点…)
 前の自分の背丈になったら、この部屋がどう見えるのか。二十センチ伸びたら、部屋の見え方はどう変わるのか。チビの自分の視点ではなくて、前の自分の視点で見た部屋。
 あの線を引いた日、ちゃんと確かめた。こんな感じ、と見回した部屋。
 床から二十センチ離れて、今の背丈に二十センチをプラスして。
 背伸びしたわけでも、爪先立ちしたわけでもなくて、フワリと床からサイオンで浮いた。自分の身体を浮き上がらせて、印の高さに頭を合わせた。前のぼくの背はここまでだった、と。
 まるで違って見えた部屋。二十センチも背が高くなると、普段は見えないものまで見えた。棚の上に置いた物の角度も違って見えたし、他にも色々。
 いつかはこんな風に見えるようになるのだから、と何度も浮いたり、床に下りたり。
 今の自分との違いを楽しみ、そこまで育つ日を夢見て浮いた。この高さまで育つのだから、と。
 心を弾ませて何度も浮いてみた高さ、前の自分と同じ視点で眺めた部屋。こう見えるんだ、と。前のぼくの目でこの部屋を見たら、こんな感じに見えるんだよ、と。
 楽々と浮いて、身体を浮かせて、また下りてみて。
 高揚した気分で味わった世界、前の自分と同じ背丈に育ったら見えるだろう世界。
 けれど…。



 全然無理、とクローゼットの印を見上げて溜息をついた。
 二十センチの差が縮まらないことも問題だけれど、あの日、自分が見ていた世界。いつか育てば見える筈の世界。
 それが見えない、どう頑張っても。いくら睨んでも、少しも近付かない印。
(やっぱり浮けない…)
 あれ以来、浮けた試しがない。前の自分の背丈の高さに並べられない、自分の頭。床から浮いて並べはしなくて、両足は床についたまま。ほんの一ミリも浮いてはくれない。
 前と同じにタイプ・ブルーに生まれたけれども、今の自分はとことん不器用。サイオンの扱いが上手くいかない、思念波さえもろくに紡げないレベル。
 空は飛べないし、身体も浮かない。どう頑張っても、自分の意志では浮き上がれない。
 クローゼットに印をつけていた日は、前の自分が現れたのか、と思うくらいに浮かない身体。
 今日も印を睨み付けるけれど、床から離れてくれない足。印の高さまで浮けない身体。
(いつもそうだけど…)
 クローゼットの印を見る度、努力するけれど何も起こらない。今の自分の身体は浮かない。
 元々、不器用だったサイオン。
 ハーレイの家まで無意識の内に飛んでしまった瞬間移動も、たった一度きり。



(あれって、前のぼくだった…?)
 瞬間移動の件はともかく、クローゼットに印をつけた日。
 前の自分の背丈はこれだけ、と身体を浮かせて、この部屋を眺めていた自分。小さな自分の目で見る部屋との違いに感動していた自分。
 浮いたり下りたり、何度も何度も試して遊んだ。いつかここまで育つんだから、と。
 あの日の自分は、自分には違いなかったけれど…。
(前のぼくかと思っちゃうよ…)
 遠く遥かな時の彼方から、前の自分が来たのかと。今の自分の身体を使って遊んだのかと。
 そういうこともあるかもしれない、今の幸せを味わいたくて前の自分が現れることも。自分でも意識しない間に、ヒョイと現れて小さな身体を好きに使ってゆくことも。
(どうせだったら、ぼくに尋ねてくれればいいのに…)
 使っていいかと訊いてくれれば、もちろん「うん」と元気に答える。そして、自分も前の自分に頼んでみる。少し力を貸して欲しいと、サイオンを使ってみたいんだけど、と。
(そしたら身体も浮かせられるし、空も飛べるし、瞬間移動も…)
 出来るんだけど、と思うけれども、自分は二人もいないから。自分同士で会話が成り立つわけがないから、無理なものは無理。前の自分の力を借りることなどは夢物語。



 今日も浮けない、と諦めた末にトンと床を蹴った。
 この高さまで、と飛び上がってみた、百七十センチの所につけた印の高さまで。
 ほんの一瞬だけ目に入った世界、前の自分の視点から見た自分の部屋。これだ、と大きく弾んだ心。育ったら部屋はこう見えるんだ、と。
 けれどもストンと落っこちた身体、床へと戻ってしまった両足。もう見えはしない、前の自分と同じ背丈で眺める世界。今よりも二十センチ育って大きくなったら、見える筈の世界。
 ずっと眺めていたいけれども、ジャンプしないと届かない高さ。それも一瞬だけ、すぐに身体は床へと落ちてしまうから。
 また見たいのなら、床を蹴るしかないけれど。ジャンプするしかないのだけれど…。
(何度も飛べない…)
 床に落ちたら音がするのだし、階下の母にもきっと聞こえる。一度くらいなら気にもしないし、何か落としたのか転びでもしたかと、首を傾げるくらいだろうけれど。
 何度も繰り返し飛んでいたなら、何をしているのかと部屋まで様子を見に来そうだから。「何の音なの?」と尋ねられるだろうから、何度もジャンプは繰り返せない。
 クローゼットの印の高さに自分の頭を合わせたくても。前の自分の背丈で眺める、まるで違った部屋の景色を心ゆくまで見てみたくても。



(あと二十センチ…)
 今の自分には届かない世界、そこまで伸びてくれない背丈。いつ育つのかも分からない背丈。
 さっき一瞬、ジャンプしてそれを体験したから。こう見えるのだ、と部屋を見てしまったから。
 今日はどうしても味わってみたい、前の自分と同じ背丈で眺める世界。
 クローゼットに印をつけた日、何度も試していたように。この高さだと何度も眺めたように。
 けれども自分は浮けはしないし、ジャンプも何度も出来はしないから。
(えーっと…)
 椅子に乗ったのでは高すぎる。二十センチどころか、もっと高さがあるのが椅子。
 本を積んだら上手い具合にいきそうだけれど、本を踏むのは行儀が悪い。積み上げた上に立ってみるなど、とんでもない。一番良さそうなものではあるのだけれど。
(いい高さのもの…)
 二十センチくらいの高さで、乗ってもペシャンと潰れないもの。何か無いかと見回したけれど、生憎と何も見付からないから。丈夫な箱なども何も無いから。
(大は小を兼ねる、って…)
 そう言うものね、と勉強用の椅子をクローゼットの側まで運んで行った。二十センチよりも高いけれども、無いよりはマシ、と。



 クローゼットの隣に置いた椅子。その上に上がってみたけれど。
 座面の上に両足で立ってみたけれど、椅子の高さは二十センチより高いから。前の自分の背丈の印は目の高さよりも下になってしまって、それに合わせるなら屈むしかなくて。
(やっぱり違うよ…)
 これじゃハーレイみたいだし、と高くなりすぎた自分の視点を嘆いた所で気が付いた。
(そうだ、ハーレイ!)
 前の自分よりも背が高かったハーレイ、今ほどではなくても充分にあった背丈の差。前の自分が背伸びしてみても、ハーレイの背には敵わなかった。
 それほどに背丈の高いハーレイだけれど、この椅子があれば、そのハーレイの視点で見られる。この部屋がハーレイにはどう見えているか、どんな景色を見ているのかを体験できる。
 前の自分の背丈の視点も気になるけれども、それよりも高く出来るのだから。椅子が高い分だけ上へと視点を移せるのだから、ハーレイの世界を見てみたい。
 あの鳶色の瞳が見ている部屋を。ハーレイの視点から眺めた自分の部屋を。



 そう考えたら、もう止まらない。それが見たくてたまらない。
(んーと…)
 椅子の高さが足りるかどうかが気になったけれど、どうやら足りてくれそうだから。ハーレイと今の自分の背丈の違いを、ちゃんと補ってくれそうだから。
(よし!)
 やろう、と勉強机から取って来た物差し。それと透明な接着用のテープ。
 前の自分の背丈の高さを書いた印の上、ハーレイとの身長の差を物差しで測った。今でも忘れていないから。二十三センチ違った背丈。ハーレイの背丈は百九十三センチ、前も、今でも。
 流石に印はつけられないし、と持って来ていた透明なテープ。五センチほどの長さに切って来たそれを、クローゼットにペタリと貼り付けた。ハーレイの背丈はこの高さ、と。
(出来た!)
 ハーレイの頭の高さは此処、と大きく頷いて、椅子からピョンと飛び下りて。物差しを勉強机に返して、それから椅子の上へと戻った。ハーレイの世界を味わうために。



 透明なテープを貼った高さに、自分の頭を合わせてみて。椅子の上で慎重に姿勢を整えて。
 こうだ、と固定したハーレイの視点と同じ筈の高さ。その高さから部屋を見回して大満足で。
(そっか、ハーレイにはこう見えてるんだ…)
 勉強机や、いつも二人で使うテーブルと椅子や、本棚などが。
 いつも自分が見ているのとはまるで違った、その見え方。前の自分の背丈以上に高い場所から、ハーレイはこういう風に見ている。今の自分が住んでいる部屋を。今の自分の小さなお城を。
 新鮮な景色に驚いていた間は良かったけれど。
 キョロキョロしていた間は幸せだったのだけれど、ふと目に入ったクローゼットに書かれた印。鉛筆で微かに引いた線。前の自分の背丈の高さに。
 それはずいぶん下の方にあって、二十三センチの差はとても大きい。そして今の自分の方だと、その印よりも更に二十センチも下に頭があるわけで…。



(すっごくチビ…)
 今の自分の背丈の印は無いけれど。クローゼットに書いてはいないけれども、二十センチの差と二十三センチの差は、それほど大きく違わないから。
 ハーレイの背丈の高さで見ている自分が見下ろした印、そこまでの差が二十三センチ、そこから下へと同じくらいに見下ろした所が今の自分の頭の高さ。頭の天辺。
 ハーレイはいつもそれを見ている、この高さから。今の自分の小さな頭の天辺を。
(…四十三センチ…)
 見上げるように背の高いハーレイ、その差は分かっていたけれど。四十三センチも違うと何度も思ったけれども、こうして見たことは無かったから。
 小さな自分が見上げるばかりで、ハーレイの視点から眺めた自分がどんな風かは、まるで考えもしなかったから。
(…ぼくって、こんなにチビだったんだ…)
 ハーレイがキスもしてくれないわけだ、と肩を落として椅子から下りて。
 改めてテープの高さを見上げた、ハーレイの背丈はあんなに高い、と。あそこから見れば自分は本当にチビで子供で、どうしようもなくて。
 キスしようにも腰をどれほど屈めればいいのか、ハーレイにすれば笑い事かもしれないわけで。とんでもないチビが一人前にキスを強請ると、笑っているかもしれないわけで…。



 子供扱いされるわけだ、と納得せざるを得ない状況。
 ハーレイの視点が分かったら。椅子の上に上がってそれを見てみたら、ハーレイの瞳が見ている世界を自分で確認してみたら。
(ホントのホントに、チビで子供で…)
 キスが駄目でも仕方ないかも、と項垂れていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄れば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
 仕事帰りに来てくれたことは嬉しいけれども、とんだ不意打ち。大慌てで椅子を抱えて運んで、勉強机の所に戻したから。剥がし忘れた透明なテープ。クローゼットに貼り付けたテープ。
 ハーレイの背丈はこの高さ、と自分がペタリと貼り付けたテープ、それを剥がすのを忘れていたことに気付いた時には既に手遅れ。もうハーレイの声がしていて、母の声もして。
(…剥がしに行けない…)
 今から椅子を運んで行っても間に合わない。なんとかテープを剥がせたとしても、椅子を抱えて戻る途中で二人が入って来るだろう。扉を軽くノックして。「入るわよ?」と母が扉を開けて。
 その時に椅子を運んでいたなら、大ピンチだから。運ぶ途中ならまだいいけれども、椅子の上に上がってテープを剥がしている時だったら、ピンチどころかアウトだから。
(…バレませんように…)
 どうかハーレイが気付かないでいてくれますように、と心で祈った。
 もしもバレたら、子供っぽさが倍になるから。笑われてしまうに決まっているから。



 そのハーレイが部屋に来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶とお菓子をお供に話す間も、気になってしまうクローゼット。
 貼ったままのテープも心配だけれど、それを使って体験していたハーレイの世界。高い視点から眺めた部屋。とても小さいのだろう自分。
 こうして腰掛けていたら、それほど酷くは違わないけれど。四十三センチの差は無いけれど。
(…だけど、チビ…)
 やっぱりチビ、とクローゼットを見てしまうから。ついつい視線を遣ってしまうから。
「なんだ、あそこに何かあるのか?」
 クローゼットに、とハーレイの視線もクローゼットに向けられた。透明なテープがある方に。
「ううん」
 なんでもないよ、ちょっと見ただけ。
「そういうわけではなさそうだがな? お前、何度もチラッと見てるぞ」
 何か隠してあるのか、中に?
 隠し事は直ぐにバレるもんだぞ、隠そうとすればするほどにな。
「中じゃないよ!」
「ほう…?」
 中じゃないと来たか、ならば外だな、クローゼットの?



 語るに落ちるとはこのことだな、と笑ったハーレイ。
 自分で白状したようだが、と。クローゼットの外に何があるんだ、と鳶色の瞳が覗き込むから。
「何も…」
 何も無いってば、外側にも!
 中にも外にも何も無くって、ホントに見ていただけなんだってば…!
「むきになる辺りが、ますますもって怪しいってな。そう思わないか、自分でも?」
 本当に何も無いんだったら、キョトンとしてると思うがな。「何かあるの?」と逆に訊くとか。
 それをしないで慌ててるトコが、何かあるんだという動かぬ証拠というヤツだ。
 クローゼットの外側なあ…。お前が見ていた感じからして…。
 おっ、あのテープか。普通、クローゼットにテープは貼らないよな?
 ポスターでも貼ろうというならともかく、透明なテープだけっていうのは。



 ふむ、とハーレイが椅子から立ち上がって出掛けて行って。
 クローゼットに貼られたテープを「俺の背の高さだ」と眺めているから。この高さに貼ることに何の意味が、と指でテープに触れたりするから。
 隠すだけ無駄だと観念した。きっとハーレイにはバレるんだから、と。
「…ハーレイの背の高さを体験したくて…」
 ぼくの部屋がどんな風に見えてるのかな、って気になっちゃって…。
 それで貼ったんだよ、そのテープ。椅子に上がってその横に立って、ぼくの頭を合わせてみて。
 ハーレイになったつもりで見ていたんだよ、この部屋の中を…。
「そういうことか…。俺の背の高さを真似たってことは、だ」
 椅子に上がってまでやってたんなら、椅子に上がらないと届かないことも分かっているな?
 そうまでしないと俺の背まではとても届かない、今のお前の背丈ってヤツも分かっただろう。
 自分が如何にチビなのかってことも、よく分かったか?
「うん…」
 情けないほど小さかったよ、今のぼく。
 ハーレイから見たら本当にチビで、うんと子供で。頭の天辺、ずうっと下にあるんだもの…。
「分かったようだな、今のお前のチビさ加減が」
 こいつを貼っただけの甲斐はあったというわけだ。
 俺の背丈を体験しようと、頑張って椅子の上に上がって、高さも測って。



 用が済んだならもう要らないな、と軽々と剥がされてしまったテープ。
 ハーレイはそれを指先で丸めて屑籠に捨ててしまっただけ。ポイと放り込んだら自分の椅子へと戻って来たから、背丈の印は気付かれなかった。
 透明なテープを貼った場所から二十三センチ下に、鉛筆で引いてあった線。一日も早くその高さまで、と何度も見上げている目標。
 そっちの方はバレずに済んだ、とホッとしていたら、問い掛けられた。
「お前、俺の背なんかが憧れなのか?」
 前の俺と少しも変わりはしないが、お前、この高さに憧れてるのか?
「…ほんのちょっぴり…」
 凄いよね、って思っちゃったよ、ハーレイの背の高さ。
 ぼくなんかホントにチビでしかなくて、ぼくの頭はハーレイから見たら、ずっと下にあって…。
「憧れるのはお前の勝手だが…。体験してみるのも勝手なんだが…」
 そんなにデカくなってみてどうするんだ、馬鹿。
 憧れと体験するのはともかく、お前が本当に俺と変わらない背丈に育っちまったら。



 俺と釣り合いが取れなくなるぞ、と弾かれた額。
 普段はそれほど困らないにしても、結婚式はどうするつもりなんだか、と。
「白無垢ならいいが、ウェディングドレスを着るとなるとなあ…」
 それに似合う靴を履くことになるし、そうなれば踵の高い靴だし、俺より背が高くなっちまう。
 俺にも踵の高い靴を履いてくれってか?
 その手の靴も無いことはないが、まさか俺の背でそいつを履くことになるとはなあ…。
 しかし、本当になるかもしれん。今度のお前はデカくなるかもしれないからな。
「えっ?」
 デカくなるって、もしかして、前のぼくよりも?
 ハーレイと同じくらいに育つって言うの、今度のぼくは?
「そうならないとも限らないな、と可能性ってヤツを言ってるまでだ」
 あまりにもチビの間が長いし、今は一ミリも伸びないままだし…。
 少しも育たずに止まっている分、伸び始めたら派手に伸びるかもしれん。見る間にぐんぐん背が伸びていって、気付いたら俺と変わらんくらいになっているとか。
「そんな…!」
 ハーレイと同じくらいに育つなんて嫌だよ、ぼくはそこまで育たなくてもいいんだよ!
 結婚式の時に、ハーレイが背を高く見せる靴を履くようなことになるなんて…!



 前のぼくと同じ背丈がいい、と叫んでしまった。
 そうでないと困る、と。
「でないと、ハーレイと並んで歩く時だって困るよ…!」
 ハーレイに手を繋いで貰って、「こっちだぞ」って連れてって貰おうと思っているのに…。
 まるで背丈が変わらないんじゃ、引っ張って貰っても頼もしさが全然無いじゃない…!
 それに手だって、ハーレイの手と大きさが変わらなくなっちゃうんだよ?
 大きな手だな、って思えなくなって、ぼくは寂しくなっちゃうんだけど…!
「俺も大いに困るんだが…」
 前とそっくり同じお前がいいんだがなあ、俺だって。
 お前が言ってる通りのことだな、俺の方にしても。
 今度はお前を守ってやる、って言っているのに、お前が俺と変わらないほどデカいんじゃあ…。
 守るも何も、お前は充分、一人でやっていけそうじゃないか。デカいんだから。
 そいつは俺も御免蒙りたいもんだ、俺と同じくらいにデカいお前は。
 チビのお前が育たないのは、可愛いから全く気にならないが…。
 育ち始めるのも楽しみではあるが、俺と変わらない背まで育つのは勘弁してくれ。
 やっと育って前のお前と同じになったと思った途端に、それよりデカくなられたんじゃなあ…。
 俺の立場はどうなるんだ?



 一瞬でお前を失くしちまう、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 前のお前が戻って来たと思った途端に、お前はいなくなっちまうんだ、と。
「お前はちゃんと生きてるんだが…。俺の前にお前はいるんだが…」
 俺の知ってるお前はアッと言う間に育っちまって、いなくなる。
 代わりに前の俺の知らないデカいお前がいるってわけだな、俺と変わらないほどデカいお前が。
「そこまで大きくならないよ!」
 前のハーレイが知らないぼくになったりしないよ、ぼくはぼくだよ!
「そればっかりは分からんぞ?」
 育ち始めてみないことには、何処で止まるかは誰にも分からん。
 お前のサイオンが器用だったら、これはマズイと思った所で成長を止めれば済むんだが…。
 前のお前の背丈を越えてしまいそうだ、と気付いたら止めりゃいいんだが。
 そしたら見た目にそれほど変わりはしないんだろうが、お前のサイオン、不器用だしなあ…。
 止めるなんてことは出来そうもないし、どんどん育つ一方だってな。
「きっと止まるよ、前と同じで!」
 前のぼくとおんなじ背丈で止まる筈だよ、育ち始めても…!
「どうだかなあ…」
 現に今だって、前のお前とは全く違った育ち方をしているわけだしな?
 前のお前は長いこと成長を止めてしまっていたが、あれは未来に何の希望も無かったからで…。
 今の状況とはまるで逆様で、今のお前は育ちたいわけで。
 少しでも早く育ちたいんだと焦っているのに、一ミリも育っていないだろ、お前?



 背を伸ばそうと毎朝飲んでいるミルクが一気に効き始めるとか、と言われたから。
 今まで全く無かった効果が何処かに蓄えられていて、効きすぎるかも、と脅されたから。
「そんなの、ぼくも困るんだよ…!」
 効かなくても頑張って飲んでいるのに、飲んだ分だけ、貯金みたいになってるだなんて!
 育ち始めたらぐんぐん育って、前のぼくの背を追い越しちゃって。
 もう止めたい、って思っているのに止まらなくって、どんどん、どんどん、伸びるだなんて。
 ハーレイと同じくらいの背丈になるまで、止められないままで育つだなんて…!
 あんまりだよ、と泣きそうになった。
 それくらいならチビの方がいい、と。育たないままの方がいい、と。
「チビでいいのか?」
 お前、大きくなりたいんだろうが。
 チビのままだとキスも出来んが、俺と変わらないくらいにデカくなるよりはチビでいいのか?
「…ハーレイと同じになっちゃうよりはね…」
 おんなじ背丈になってしまって、手の大きさだって変わらなくなって。
 手を繋いで歩いても、グイグイ引っ張って貰えなくなってしまうよりかはチビのままでいいよ。
 うんと大きくなっちゃうよりかは、チビの方がずっといいんだよ…。



 ハーレイとキスを交わせなくても、唇へのキスが貰えなくても、チビの方がマシ。
 キスは駄目でも強い両腕で抱き締めて貰えて、甘やかして貰えて。
 チビならハーレイに甘え放題、優しく扱って貰えるけれど。子供扱いでも、ハーレイの腕に包み込んで貰えるのだけれど。
 ハーレイと同じ背丈になってしまっては、そうはいかないから。
 手の大きさまで変わらなくなって、「こっちだぞ」と引っ張って貰えもしないから…。
「まあ、大丈夫だとは思うがな」
 チビのままでいい、と悲観しなくても、無駄にデカくはならんと思うぞ。
 面白いから脅してはみたが、前のお前と同じ背丈で止まるだろうなあ、お前の背丈。
「ホント…?」
 ぼく、自分では止められないんだよ、育つのを。
 これでいいや、って思った所で止められる自信、ぼくには少しも無いんだけれど…。
「神様が下さった身体だからなあ、お前も俺も」
 俺は全く意識なんかはしていなかったのに、前の俺と全く同じ背丈に育ったんだ。一ミリさえも違いはしないぞ、前の俺とな。
 だから、お前もそっくり同じに育つだろうさ。お前が頑張らなくても、勝手に。
 年を取るのも自然に止まってしまう筈だぞ、前のお前と全く同じに育ったならな。



 心配は要らん、とハーレイの手が伸びて来て髪をクシャリと撫でたけれども。
 お前は俺のブルーなんだから、と太鼓判を押して貰えたけれど。
「しかしだ…。デカくなったお前って、どんなのだろうな?」
 俺と全く変わらんくらいにデカく育ったら、お前はどういう風になるんだ?
「そんなの、想像しなくていいから!」
 大きすぎるぼくなんて、ぼくは絶対、嫌なんだから!
「チビのお前は、前のお前も今のお前も知っているがだ、デカい方はなあ…」
 前の俺は一度もお目にかかっちゃいないし、可能性があるのは今の俺だな。
 まず無いだろうと思いはしてもだ、どんな感じか気にはなるなあ、デカいお前も。
「チビのぼくでいいよ!」
 育たないままのチビのぼくでいいよ、大きくなりすぎるのは嫌だから!
 育っても前のぼくと同じで、それよりも大きく育つつもりは無いんだから…!



 大きすぎるぼくは想像しないで、と悲鳴を上げた。
 ハーレイと同じ背丈に育ったぼくなんかは、と。
「そうか? 俺はそれでも美人だろうとは思うんだが…」
 背が高すぎても、美人は美人だ。きっとスラリと背が高いんだぞ、俺と違って。無駄にゴツゴツしてはいなくて、透き通るような肌をしていて。
 前のお前がそうだったように、誰もが思わず振り返るような凄い美人の筈なんだが…。
 俺と釣り合いが取れるって意味では、断然、前のお前だな。あのくらいの背丈が丁度いい。
 でなければ、チビか。
 今のお前と変わらないままの、チビで小さな子供のお前か。
「チビでも釣り合い、取れてるの?」
 ハーレイの背の高さになって眺めてみたら、ぼくはホントにチビなんだけど…。
 椅子に上がって見下ろしてみたら、ぼくの頭はハーレイの目より、ずうっと下に見えていそうな感じにしか思えなかったんだけど…。
「同じ背よりかはチビの方がいいだろ、守り甲斐もあるし」
 うんとチビなら、前のお前よりも大切に守ってやれるってもんだ。
 それこそ俺が保護者ってヤツだな、チビのお前の手を引っ張って迷子にならないように。
 「俺の手を離しちゃ駄目なんだぞ」って言い聞かせながら、チビのお前とデートってことだ。
 もしもお前が疲れちまったらヒョイと抱き上げて歩くのもいいな、チビなんだしな?



 お前もチビの方がいいんだろうが、と笑われたけれど。
 デカくなるよりはチビなんだろうが、と念を押されてしまったけれど。
 ハーレイと変わらない背丈に育ってしまって、甘えられなくなるよりは…。
(チビの方がいいに決まっているよね?)
 クローゼットにつけた前の自分の背丈の印はまだ遠いけれど、チビでいい。
 育ちすぎてしまうよりかは、チビの方が。
 ハーレイに甘やかして貰える低い背丈の、チビの自分の方がいい。
 チビでも釣り合いは取れるらしいし、ハーレイと釣り合いが取れるチビ。
 前の自分と同じ背丈に育てないなら、チビでいい。
 ハーレイの隣にいるのが似合う姿の自分がいい。
 何処までも二人でゆくのだから。いつまでも二人、手を繋いで歩いてゆくのだから…。




           ハーレイの背丈・了

※ハーレイの視点で眺める世界が気になったブルー。そして試してみたのですけど…。
 今の自分がハーレイの背丈に育ってしまったら、大変なことに。前と同じがいいのです。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、今日も平和で事も無し。お花見シーズンも無事に終わって別世界からのお客様の訪問も一段落であろう、とホッと一息な私たちです。お花見の無い週末はかくも穏やかなものだったろうか、と会長さんの家でのんびりと…。
「かみお~ん♪ 春はやっぱり、イチゴのケーキ!」
イチゴのクリームとマスカルポーネチーズを重ねてみたよ、とピンク色のケーキが登場しました。如何にも春といった風情で、これは美味しそう!
「ぼくにもケーキ!」
「「「!!?」」」
誰だ、と振り向けばフワリと翻る紫のマント。なんでいきなりソルジャーが!?
「こんにちは! 春はイチゴも美味しいよね!」
「もうお花見は終わったけど!」
やりたいんだったら一人で行け、と会長さんが窓の向こうを指差して。
「北の方ならまだシーズンだよ! よく知ってると思うけど!」
「それはもちろん! 君たちとのお花見も北上しながらが定番だしね!」
穴場を探して北へ北へ…、という台詞どおりに、それが私たちのお花見スタイル。屋台が並ぶ賑やかな場所もいいんですけど、貸し切りの桜を見に出掛けるとか。
「お花見はもういいんだよ。今年は充分、堪能したから」
ぼくのシャングリラのお花見の方も、とソルジャーは空いていたソファに腰を下ろして。
「今日はね、ちょっと相談があって」
「「「相談?」」」
「うん。現段階では思い付きでしかないけどね」
上手く化ければ美味しい話になるかもしれない、と唇をペロリと。相談とやらは果たして真っ当な中身でしょうか?



イチゴとチーズが絶妙なハーモニーを奏でるケーキを食べ終わった後、ソルジャーはおかわりの紅茶を飲みながら。
「それも一種のアレなのかなあ…?」
「「「は?」」」
「ぶるぅが持ってるヤツのことだよ!」
「「「えっ?」」」
何だ、と見てみれば「そるじゃぁ・ぶるぅ」の手に紅茶のポット。紅茶を飲んでいる人へのおかわり用で、たっぷりと入る大きなものです。
「ティーポットがどうかしたのかい?」
会長さんが尋ねると、ソルジャーは。
「相談事と重なるかもね、と思ったんだよ。少し似てるし」
「何に?」
「中からドロンと出て来るヤツに!」
「「「ドロン?」」」
どういう意味だか、サッパリ謎です。紅茶のポットから何がドロンと?
「えーっとね、いわゆる神様かな? ポットとは違うけど、魔法のランプ」
「ああ、あれね…」
会長さんが頷き、私たちも理解出来ました。中からランプの精が出て来るヤツでしょう。ティーポットとまるで似ていないこともありません。注ぎ口っぽいのもくっついてますし…。
「そういうランプっていうのもあればさ、壺もあるよね」
「「「壺?」」」
「そう、精霊が住んでいる壺!」
壺の中からドロンと出て来て魔法を使ってくれるのだ、と言われればそういう昔話や伝説の類は多いかも。ソルジャーまでが知っているとは驚きですが…。
「そりゃまあ、調べるとなればライブラリーには資料が豊富にあるってね! あれこれ調べて、壺がいいかなと思ったわけ。それが相談!」
「壺なんか何に使うんだい?」
会長さんの問いはもっとも、私たちだって知りたいです。
「魔法に決まっているだろう!」
ああいうモノにはきっとパワーが! と、ソルジャーは妙なことを言い出しましたが、魔法の壺でも欲しいんですか…?



「君の気持ちは分からないでもないけどねえ…」
魔法で願いを叶えたい気持ち、と会長さん。
「でもねえ、そうそう魔法の壺なんていうのは転がってないと思うけど?」
ぼくも出会ったことは無いし、とソルジャーよりも百年以上も長生きしている会長さんならではの重みがズッシリ。
「それにさ、君が住んでる世界。地球が一度は滅びたんだろう? そんな世界に魔法の壺なんか、どう考えても残っていないと思うんだけどね?」
「ぼくだってそれは分かっているよ。それに、欲しいのはそういう魔法の壺ではないし…」
「えっ? だけど魔法に使うって…」
「だから使うんだよ!」
魔法の壺を作りたいのだ、と飛び出した言葉は斜め上。ソルジャーのサイオンなら、魔法っぽく見える色々なことが出来るでしょうけど、マジックショーでもやりたいんですか?
「違うってば!」
見世物に使うわけじゃないんだから、とソルジャーは至極真面目な顔で。
「壺にしっかり漬け込むって調理法もあるよね、こっちの世界」
「それはまあ…。お漬物に壺はセットものだけど…」
でなければ樽、と会長さんが返しましたが、魔法の次はお漬物ですか?
「ぼくが思うに、壺にはパワーがあるんだよ。詰め込んでおけば能力アップで、精霊になったり、美味しいお漬物になったり!」
「「「能力アップ!?」」」
斬新すぎる解釈ですけど、魔法のランプや壺といったもの。中に入った精霊のパワーが壺でアップして願い事を叶える力がつくとか、可能性はゼロではありません。お漬物だって壺に入れなければ腐ってしまっておしまいですし…。
「ちょっといいかな、と思ったんだよ。壺に入れればパワーがアップ!」
「………何の?」
会長さんが訊き返すまでの「間」というもの。私たちも同じく取りたい気持ちで、何のパワーがアップするのか、知りたいような知りたくないような…。
「決まってるだろう、パワーがアップと言うからには! ぼくのハーレイ!」
パワーアップで目指せ絶倫! とソルジャーは高らかに言い放ちました。
「壺に詰めれば、きっとパワーが増すんだよ! そして夜にはガンガンと!」
疲れ知らずでヤリまくるのだ、と言ってますけど。壺に詰めるって、いったい何を…?



ソルジャーが持ち込んだ相談事。壺にはパワーがありそうだから、とキャプテンのパワーアップを希望で、詰めるだとかいう話なのですが。
「悪目立ちすると思うけど?」
ついでに退場! とレッドカードを会長さんが。
「あんな部分を壺に詰めたら、ズボンなんかは履けないってね。はい、退場!」
猥談はお断りなのだ、と突き付けられたレッドカードに、ソルジャーは。
「アレを詰めるとは言っていないよ、詰めたいものはハーレイそのもの!」
「「「ええっ!?」」」
まさかキャプテンを丸ごと詰めると? 壺の中に?
「それでこそだろう、魔法の壺! 中でじっくりとパワーアップで、毎日毎晩!」
要は首だけ出ていればいい、と凄い台詞が。
「食事さえ出来れば、その他のことはどうとでも…。脱出用ポッドの仕組みを応用しとけば、トイレとかだって解決するしね」
「そのサイズ、もう壺じゃないから!」
人間が入るようなサイズは壺とは言わない、と会長さんの論点も何処かズレていましたが、あまりの展開に正気を失ったのであろう、と容易に想像がつく事態です。けれどソルジャーはそうは考えなかったらしく。
「…壺にはサイズがあるのかい?」
「どの大きさまでを壺と呼ぶか、って定義みたいなのがあるんだよ!」
「ふうん…? じゃあ、ハーレイが首まで入りそうなサイズの壺だと何と呼ぶわけ?」
「それは甕だね」
まあ聞きたまえ、と会長さんは私たちをも見回して。
「より正確に定義するなら、甕と壺とは形状の違いなんだけど…。一般的にはデカすぎる壺も甕と呼ぶわけで、君が言うような巨大な壺だと甕になるねえ…」
「亀なのかい?」
「そう、甕だけど?」
「凄いじゃないか!」
亀だなんて、とソルジャーは何故か感激で。
「作るしかないね、ハーレイを入れるための壺! これは絶対、パワーがアップ!」
亀なんだから、と大喜びで壺を作ろうとしているソルジャー。甕と言われて何故そうなるのか、私たち、全然分かりませんが…?



「え、だって。亀なんだろう?」
巨大な壺は、とソルジャーは嬉しそうな顔。
「其処からハーレイの頭が出てたら、もうそれだけで最高だってば!」
「甕は元々、棺桶だよ?」
会長さんが苦々しげに言って、ソルジャーが。
「棺桶だって?」
「そうだけど? 甕棺という名前もあってね、デカイものだから棺桶に使う。ずうっと昔の遺跡を掘ったらゴロンゴロンとそういう類の甕が出るけど?」
「棺桶だったら、それは天国への片道切符というヤツだよね!」
それに入れば天国に向かって旅立つわけだ、という説はまるで間違いではないでしょう。甕棺を作っていたような時代の人たちが天国という言葉を知っていたかはともかく、それに等しい世界に送り込むべく甕棺に詰めていたわけで…。
「まあ、天国へ行くための乗り物と言えば乗り物なのかも…」
「素敵じゃないか! 入ればもれなく天国へ! 天国、すなわち絶頂ってね!」
夫婦の時間は絶頂を極めてなんぼなのだ、とソルジャーの口調はますます熱く。
「亀の口からハーレイの頭が出ている上に、その亀は天国への旅立ちが確約されてる切符なんだよ! もう絶対に作るしかないよ、その亀を!」
「片道切符の件は分かった。でも、なんだって甕にそんなに憧れるわけ?」
「亀だけだったら特に憧れはしないけど…。頭だけが出てるって所かな、うん」
其処が素晴らしいポイントなのだ、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「だってさ、亀から頭だよ? 亀の頭で分からないかな?」
「甕の頭は穴がポカンと開いてるだけだと思うけどねえ? 物を入れるための」
それこそ水から死体まで、と会長さんが言い、私たちも同じことしか思い付きません。水甕だとか、甕棺だとか。どれも頭と呼ぶべき部分は開口部。其処から水だの死体だのを中に突っ込むだけのものだと思うんですけど…。
「そりゃ、穴だって開いてるけどさ…。モノを入れるための」
君もずいぶんハッキリ言うねえ、とソルジャーは会長さんの顔をまじまじと。
「さっきから持ってる、そのレッドカード。自分に出さなくていいのかい?」
「なんでレッドカード?」
「君の発言も猥褻だから!」
自分に出すべき、という指摘ですが。会長さんの発言の何処が猥褻だと…?



甕と甕棺について話をしていた会長さん。何処にもヤバそうな台詞などは無く、猥褻な単語も出ていません。なのにソルジャーはレッドカードが必要だと言い、会長さんの手から引っ手繰りそうな勢いで。
「君の決め台詞を借りていいかな、退場ってヤツ。それと、レッドカード!」
「どうしてぼくにレッドカードが!」
「ぼくよりもずっと酷いレベルの発言だから!」
猥褻なんてレベルじゃなくてズバリそのもの、と会長さんに指を突き付けるソルジャー。
「ぼくは亀の頭だとしか言ってないのに、穴だの、モノを入れるだなどと…!」
「甕の頭はそういうものだよ! 物を入れなきゃいけないんだから!」
「また言ってるし!」
もっと控えめに発言すべし、とソルジャーは眉をひそめながら。
「日頃、退場と連発している君の台詞とも思えないよ。穴だなんてハッキリ言っちゃう代わりに、せめて、こう…。発射口とか、銃口だとか、比喩ってヤツは無いのかい?」
「…発射口?」
なんで甕から、と会長さんの目が真ん丸になって、私たちも頭に『?』マークが。銃口の方も理解不能です。甕を使ったバズーカ砲でもありましたっけ? でなきゃロケットランチャーだとか…。
「発射口だよ、控えめに表現するならね」
それが相応しい言い方なのだ、とソルジャーはフウと溜息を。
「なんだって、ぼくが君にこういう指導をしなくちゃいけないんだか…。モノを入れるって方にしたって、もうちょっと…。弾けるだとか、もっとソフトな言い方が…」
「弾ける?」
「昇り詰めるでもいいんだけどね」
要は絶頂、その瞬間に迸るモノ、とソルジャーの口からアヤシイ言葉が。
「絶頂だって!?」
何処からそういうことになるのだ、と会長さんが眉を吊り上げれば。
「何度も自分で言っていたくせに…。亀の頭には穴が開いてて、其処からモノを入れるって! モノって言ったら、普通はそのものを指すんだろうけど、君が言うのはアソコから発射される白い液体の方だろう?」
「ちょ、ちょっと…!」
それは…、と会長さんの声が引っくり返りましたが。私たちも目が点になってしまいましたが、甕の話がどうしてそういう方向へ…?



シャングリラ学園特別生の私たちは、永遠の高校一年生。精神も身体も成長しないため、万年十八歳未満お断りと呼ばれる状態です。とはいえ、キャプテンとの熱い関係に燃えるソルジャーのせいで余計な知識も叩き込まれて、白い液体くらいは理解が可能で。
「どうすれば甕がそんなコトに!」
会長さんがソルジャーを怒鳴り付け、私たちも揃って頭をコクコクと。甕と言ったら水甕に甕棺、どう考えても保健体育の授業の世界とは別物の筈。けれど…。
「亀だから!」
君もハッキリ自分で言った、とソルジャーは譲りませんでした。
「亀の頭には穴があるとも、其処からモノを入れるんだ、とも!」
レッドカード並みの発言だった、とソルジャーの勢いは立て板に水で。
「普段の君ならまず言わないのに、今日はずいぶん大胆だな、と…。これも壺ってヤツのパワーの内かと、ぼくは感激してるんだけど! 何と言っても亀だしね!」
亀の頭は素晴らしいから、とソルジャー、ベタ褒め。
「アレが無ければ夫婦の時間は成り立たないし! ぼくのハーレイのは特に立派で!」
身体に見合ったサイズなのだ、と何かを自慢しているようですが、亀の頭って…?
「ブルーも自分でレッドカード並みの喋りを披露しちゃったことだし、ぼくもズバリと言っちゃおうかな? アレの先っぽ、亀の頭にそっくりなんだよ! その名も亀頭と!」
「「「…祈祷?」」」
今度は御利益ならぬ祈祷か、と思った途端に、会長さんが。
「退場!!」
ソルジャーに向かって投げ付けられたレッドカードと「退場!」の言葉。するとソルジャーが言った御祈祷とやらはヤバイ言葉の一種でしょうか?
「キトウ違いだよ、説明する気は無いけれど!」
知らなくっても全然問題無いんだけれど、と会長さんは肩で息をしながら、ソルジャーに。
「君がどういう勘違いをしたかは、よく分かった! 亀じゃないから!」
「えっ?」
「君が期待した亀っていうのは動物の方の亀だろう? カメが違うから!」
ぼくが言う甕はこういうもので、と会長さんは紙を持って来て、ペンでデカデカと「甕」の一文字を書き殴りました。
「大きな壺を意味する甕は、こう! 亀じゃなくって!」
そして頭は甕の口であって壺の口だ、と壺の絵までが。何故に動物の亀の方だとソルジャーが喜び、亀の頭が何だったのかは私たちには意味不明ですが…。



「うーん…」
カメ違いか、とソルジャーは「甕」の一文字と絵とを眺めて残念そうに。
「いい感じだと思ったんだけどねえ、カメから突き出すハーレイの頭…」
「これを動物の亀と繋げる発想の方が変だから!」
勝手に一人でガッカリしてろ、と会長さんは言ったのですけど。
「ううん、これも御縁の内ってね! カメ違いでも!」
甕から突き出す頭も素敵なものだと思っておこう、と開き直ってしまったソルジャー。
「ぼくが亀だと思っていたなら、それはいわゆる語呂合わせ! 甕でも亀って!」
そして突き出す頭は亀頭そのもの、と再び飛び出す御祈祷とやら。
「ぼくのハーレイにはそう言っておくよ、大きな壺から頭だけ出せば亀頭だと! もうそれだけで漲るだろうし、壺に入ればパワーは絶倫!」
相談に来た甲斐があった、とソルジャーは笑顔全開で。
「こうなったら、是非、作らなきゃ! ハーレイを入れるための壺!」
亀頭な上に、天国への片道切符の甕棺パワーも付いて来るし、とやる気満々、作る気満々。
「…本気なのかい?」
会長さんが恐る恐る訊けば、「もちろんさ!」と即答で。
「ぼくのシャングリラには、ぶるぅのための土鍋制作のノウハウってヤツがあるからねえ…。脱出用ポッドの応用でこういう壺を作れ、と言えば作れる!」
「で、でも…。それに君のハーレイを詰めちゃったら…」
キャプテン不在になるのでは…、と会長さん。
「まさかその壺に入ったままでブリッジに出たりは出来ないだろう?」
「あっ、そうか…」
それもそうか、とソルジャーは考え込みました。
「ぼくとハーレイとの仲はバレバレだし、その格好でブリッジに出ても誰も何とも思わないけど…。ハーレイは未だにバレていないと頭から思い込んでる状態だっけ…」
ついでに見られていると意気消沈でもあるのだった、と微妙にヘタレなキャプテンへの嘆きも飛び出して来て。
「…絶倫パワーを溜め込むために壺に入っているんです、って姿でブリッジには出られないかな、あのハーレイだと…」
だけど壺のパワーも捨て難いのだ、とブツブツブツ。キャプテンが壺に入れないなら、その案、サックリ廃棄すべきだと思いますけどねえ?



キャプテンのパワーをアップさせるために壺だと思ったらしいソルジャー。大型の壺を指す甕と亀とを勘違いして、実に素敵なアイテムなのだと喜んだまではいいのですけど、キャプテンを壺に入れること自体が難しいようで。
「困ったなあ…。壺は絶対、使える筈だと思うんだけど…」
「無理、無茶、無駄の三拍子だよ、それ」
作ったって使えやしないから、と会長さんがキツイ台詞を。
「そもそも、効くかどうかも分からないのに、君のハーレイが黙って壺に入るとでも? たとえ休暇を取っていたって、妙な実験には付き合わないだろうね」
確実に効くと言うんだったら入るってこともあるだろうけど…、と鋭い突っ込み。
「入れば絶倫間違いなし、って証拠も無いのに、壺なんかに入る馬鹿はいないよ」
「…それもそうかもしれないねえ…」
でも捨て難い、と壺を諦め切れないソルジャー。
「壺とだけ思っていた段階なら、諦めることも出来たんだけど…。君が甕だなんて言い出しちゃったし、亀の頭と天国行きの片道切符がどうにも諦められないんだよ!」
「諦めたまえ!」
不可能なことにしがみ付くな、と会長さんは突っぱねましたが、ソルジャーは尚もブツブツと。
「でもさあ…。亀の頭で、天国に向かってまっしぐら…」
「君のハーレイの協力ってヤツが望めない段階で絶望的だろ!」
「そうなんだけど…」
でも、とソルジャーは未練たらたら。
「…せめて効くというデータが取れれば…。これは効くんです、ってデータさえあれば…」
「ぼくは協力しないからね!」
其処の連中も頼むだけ無駄、と会長さんが私たちの方をチラリと。
「万年十八歳未満お断りのを甕に詰めても、君が望むデータは得られないから! どっちかと言えば拷問の方になっちゃうから!」
「拷問だって?」
「そのものっていうわけじゃないけど、甕に詰めて飼っておくっていう恐ろしい拷問があったんだよ! ずっと昔に、中華料理の生まれた国で!」
手足を切り落とした人間を甕に突っ込み、首だけを出して飼っていたのだ、と聞いて震え上がった私たち。ソルジャーの実験に付き合わされたら、まさにソレです。手足はちゃんとくっついていても、自由ってヤツが無いんですから~!



詰められたくない、特大の甕。首だけを出して詰められる甕。それに似た拷問があったと聞いたら、もう絶対にお断りです。どんなに御馳走三昧であっても、甕に詰まって暮らすだなんて…。
「俺は断らせて貰うからな」
キース君が一番に逃げを打ちました。
「これでも元老寺の副住職をやってるんだし、朝晩のお勤めをしなくてはならん。壺から頭しか出ていないのでは、御本尊様に失礼すぎる。それに親父にも怒鳴られるしな」
あの親父なら壺を割るぞ、と駄目押しが。
「俺の親父が大切な壺を叩き割ってもかまわないなら、其処は相談に応じるが…」
「それは困るよ、壺は大事にして貰わないと!」
君は外す、とソルジャーがキース君を除外したから大変です。男の子たちは我も我もと外されるべく理由を捻り出し、スウェナちゃんと私は元から対象外だけに…。
「…実験台が誰も残っていないんだけど!」
ソルジャーが呻き、会長さんが「ほらね」と冷たい一言。
「壺は諦めるように何度も言ったろ、最初から役に立たないアイデアなんだよ」
「だけど! 壺のパワーも甕のパワーも捨て難いんだよ!」
試すくらいはやってみたい、とゴネまくっていたソルジャーですが。
「…そうだ。一人いるじゃないか、使えそうなのが」
「ぶるぅは駄目だよ!?」
会長さんが止めに入ると、ソルジャーも「当たり前だろ」と。
「こんな子供を詰めてみたって、キースたち以上にロクなデータが取れやしないよ。第一、ぶるぅじゃ甕じゃなくって壺になるんじゃないのかい?」
「その辺は…。甕の定義で言う形の方かな、サイズじゃなくて。赤ん坊を入れたヤツでも、甕棺は一応、甕棺なんだよ」
壺棺ではなくて甕棺なのだ、と会長さんの説明が。
「だからね、ぶるぅサイズで壺を作っても甕だという主張は充分に通る。君のぶるぅを詰めてみるのもいいんじゃないかな、子供ではあるけど、おませだから!」
詰めるんだったらそっちがお勧め、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」を庇っています。確かに「ぶるぅ」は悪くない実験対象でしょう。大人の時間の覗き見が好きだと聞いていますし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」よりかはマシなデータが取れそうです。けれど…。
「誰がぶるぅを詰めると言った?」
壺は最初から大人サイズで! とソルジャーの声が。じゃあ、使えそうな一人って…?



「壺はハーレイのサイズに合わせて作るんだよ」
でないと二度手間になるからね、とソルジャーは壺作りの過程を語りました。まずはキャプテンの身体のデータに合わせて原型作り。それから脱出用ポッドの技術を応用、入ったままでもトイレに困らないように。
「生理現象だけは如何ともしようがないからねえ…。これは必須で」
「ふうん…。その点は拷問とは全く違うようだね」
あっちの方は垂れ流しで…、と会長さんが話す例の拷問。手足を切り落として甕に突っ込むヤツですけれども、恐ろしいことに。
「アレはね、死なないようにちゃんと手当てをしてあったってね」
「「「えぇっ!?」」」
「死んでしまったら意味が無いだろ、死刑にするのと大差無いから。甕の中では垂れ流しなんだよ、手足を切ってそのまま入れたら其処から腐って直ぐ死ぬじゃないか」
「「「じゃ、じゃあ…」」」
いったい何をしてあったのだ、と顔を見合わせてガクガクブルブル。会長さんは平然として。
「さあねえ、傷口を焼いたか何かじゃないのかな? 焼いたら止血と消毒になるし…。でもって、甕の中にはお酒がたっぷり、アルコールで常に消毒なわけ!」
垂れ流したってこれで万全、と聞かされたら震え上がるしか…。でもまあ、ソルジャーがキャプテン用に作ろうとしている壺だか甕だかは、そういう心配は無いわけで。
「それはもう! ハーレイには快適に過ごして貰わないとね!」
ぶるぅの土鍋の技術をフルに活用しよう、とソルジャーは胸を張りました。
「あの土鍋は冷暖房完備になっているから、壺も同じで冷暖房完備! そしてトイレも快適に! 後は美味しい食事を運んで、絶倫のパワーを溜め込ませる、と!」
亀の頭に食事をさせるだけでも嬉しくなってくるよ、と艶やかな笑みが。
「ぼくが手ずから食事を運んで、食べさせて…。そうする間にも身体の方は壺のパワーを吸収中! 天国行きの片道切符でググンと漲る下半身!」
そうして壺から出て来た時には…、とウットリと。
「これでもかっていう勢いで押し倒されてさ、ぼくと一緒に天国へ! もう何回でも昇り詰めちゃって、ひたすら絶頂、ヌカロクどころか機関銃並み!」
夜を徹してヤリまくるのだ、と言ってますけど、その前に実験するんですよね? 使えそうなのが一人いるとか聞きましたけれど、それはいったい…?



「壺がハーレイのサイズな以上は、実験台だって限られるだろ?」
あれだけの巨体はそうそういない、とソルジャー、ニッコリ。
「巨体に見合った大きさのアレで亀頭なんだよ、それに張り合える人物といえば!」
一人しかいない筈なんだけど、とソルジャーの視線が向けられた方向。その方角には…。
「「「教頭先生!?」」」
お住まいはあちらの方向です。まさか、と口から飛び出した名前に、ソルジャーは。
「ピンポーン!」
よく出来ました、と拍手までが。ほ、本当に教頭先生を壺に入れるんですか?
「仕方ないじゃないか、他に適役がいないんだから…。それに身体的な構造、ぼくのハーレイとは瓜二つってね!」
少々ヘタレが過ぎるけれども…、と詰りながらも、教頭先生を使うつもりでいるソルジャー。
「ヘタレ過ぎてて童貞一直線ではあるけど、アソコは充分、大人だしね? 壺でパワーが漲るかどうか、実験するには最適だってば!」
「で、でも…。ハーレイにだって仕事はあるし!」
会長さんが叫びました。
「壺に入って授業なんかは出来やしないし、そんな実験、無理だから!」
「休んで貰えばいいじゃないか!」
休暇はぼくのハーレイよりも取りやすい筈、と負けてはいないソルジャー。
「ぼくのハーレイだと、シャングリラの安全だの何だのと制約が多いけれども、こっちのハーレイ、自分の都合で休みを取っても誰かに危険が及ぶってわけじゃないからね!」
現にギックリ腰で休んでたことも…、と掘り返された教頭先生の過去。ソルジャーが泊まり込みで世話をしていたケースもありましたっけね、ギックリ腰…。
「ほらね、仮病で休めるんだよ。それに限るってば!」
壺が出来たら休んで貰おう、とソルジャーは一方的に話を進めて。
「今から作ればゴールデンウィークに間に合うかも…。あそこだったら特に休暇を取らなくっても、連休なんかもあるんだよねえ?」
「ま、まあ…。そうなんだけど…」
会長さんが返すと、ソルジャーも壁のカレンダーを睨みながら。
「よし! 目標はゴールデンウィークってことで!」
壺のパワーで天国行きの片道切符だ、と燃え上がっているソルジャーの闘志。壺を作るのはソルジャーの世界のシャングリラで暮らす人たちですけど、ゴールデンウィークに向けてキャプテンを詰め込めるサイズの壺を開発ですか…?



特別製の壺だか甕だか、甕棺だか。それを作らせる、と豪語したソルジャーが意気揚々と帰って行ってから、何日くらい経ったのでしょうか。ゴールデンウィークは何処へ行こうか、と相談していた私たちの前にソルジャーが降って湧きました。
「こんにちはーっ!」
明日から楽しい連休だねえ、という台詞どおりに、ゴールデンウィーク、実は明日から。遊びに行くならもっと早くから計画しろ、と言われそうですが、私たちには会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の瞬間移動という移動手段の裏技が。宿泊先だってマツカ君の別荘を使えば幾らでも。
「今年は何処へ出掛けるのかな? まだ決まってない?」
どうなのかな、と畳み掛けて来るソルジャーは紫のマントの正装です。私たちの方も制服ですけど、場所だけは会長さんの家。ゆっくり相談しなくては、と放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から瞬間移動でやって来たわけで。
「何処へ行くとも決めてないけど、君は人数に入ってないから!」
会長さんが釘を刺しましたが、ソルジャーは「お気になさらず」と微笑んで。
「ぼくは忙しいから、遊びに行くどころじゃないんだよ、うん」
「「「はあ?」」」
遊びに行かないなら、何故に今頃、と誰もが怪訝そうな顔。おやつタイムは終わりましたし、夕食だって今夜は「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製カレーが食べ放題だというだけです。グリーンカレーなんていう変わり種だってありますけれども、たかがカレーが三種類ですよ?
「ぼくはカレーを食べに来たわけじゃないからね!」
今日は報告に来ただけで…、という話ですけど、何の報告?
「もう忘れたわけ? あれほど相談に乗って貰ったのに!」
「「「そ、相談…」」」
それで一気に蘇った記憶。壺だか甕だか、甕棺だか。教頭先生を詰める予定の巨大な壺がソルジャーの世界のシャングリラで作られていたのだった、と思い出して青ざめる私たち。
「も、もしかして、完成したわけ…?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは「ついさっきね!」と威張り返って。
「モノがモノだし、作らせた記憶とか、制作中のデータとか…。そういうのを消すのに少し時間がかかったけれども、壺は立派に出来たんだよ!」
こんな感じで、とドドーン! と空間移動をして来た壺。「そるじゃぁ・ぶるぅ」お気に入りの土鍋みたいに艶やかですけど、これに教頭先生を…?



「優れものなんだよ、この壺は!」
中に入ればぴったりフィット、とソルジャーは自慢し始めました。脱出用ポッドの応用なだけに、トイレにもちゃんと対応済み。しかも…。
「トイレついでに、健康チェックもしてくれるんだ! アソコが漲っているかどうか!」
「「「………」」」
そんなモノを測ってどうするのだ、と言いたい気分でしたが、元々が絶倫パワーを溜め込む目的で作られた壺。充分にパワーを溜め込んでから出て、ヤリまくるための壺だか甕だか。
「ね、凄いだろう? 早速、これにハーレイをね!」
一緒に来てよ、と言われたかと思うとパアアッと迸る青いサイオン。逃げる暇も無く皆が巻き込まれ、身体がフワリと浮き上がって。
「「「ひいぃーーーっ!!!」」」
助けて、と悲鳴を上げた時にはドサリと床に落ちていました。お馴染みの教頭先生の家のリビング、夕食前の寛ぎのひと時だったらしい教頭先生もソファで大きく仰け反っておられ…。
「な、なんだ!?」
「こんにちは!」
ソルジャーが爽やかな声で挨拶を。
「ちょっと訊きたいんだけど、君はゴールデンウィーク、暇かな?」
「は、はあ…。お恥ずかしい話なのですが…」
寂しい独身男でして、と予定が全く無いことを白状なさった教頭先生に、ソルジャーは「ちょうど良かった」とニコニコと。
「それじゃ、ぼくに付き合ってくれないかな? ゴールデンウィークの間だけでいいから」
「…お付き合い……ですか…?」
「そう! ぼくが毎日、食事を届けに来るからさ。それを美味しく食べてくれれば…」
「食事…?」
それはデートのお誘いでしょうか、と教頭先生の頬が染まって、ソルジャーが「うん」と。
「ぼくが食べさせてあげるから! どうかな、ぼくの手から「あ~ん♪」と三食!」
「で、ですが、ブルーが…。わ、私の相手はブルーだけだと…」
「食事だけだよ、食べてくれるだけでいいんだよ!」
それだけでぼくは満足だから、とソルジャーに笑みを向けられた教頭先生、ポーッとなってしまわれたらしく…。



「じゃあ、此処と、此処と…。此処にもサインを」
ソルジャーが差し出す同意書なるものは、壺に詰められてもかまわないという実験に纏わる代物でしたが、教頭先生はロクに読みもせずにサインをサラサラと。もちろん、結果は…。
「こ、これに入れと仰るのですか!?」
リビングに瞬間移動で現れた壺。黒光りする巨大な壺だか、甕だか。
「大丈夫! 別に手足を切り落とさなくても、瞬間移動で入れてあげるから!」
はい、一瞬! とキラリと青いサイオンが光り、教頭先生は壺の中へと移動完了。首だけが出ている状態となって、アタフタと慌てておられるようですけども。
「心配ないって、トイレとかは壺が自動で対応するしね! ついでに君の息子の健康状態もチェックするんだよ。漲ってるかどうか!」
「…み、漲る…?」
訊き返した教頭先生に向かって、ソルジャーは。
「その壺、絶倫パワーを溜め込む効果を狙っていてねえ…。実験のために君に協力をお願いします、って書いてあったのがさっきの書類! ちゃんとサインをしてくれたよね?」
「…で、では、食事にお付き合いするというのは…」
「この状態の君は自分じゃ食べられないだろ? だから三食、ぼくがお世話を!」
パワーのつく食事を持ってくるよ、と極上の笑顔。
「今日の夕食から用意してあるんだ、まずはスッポン鍋を美味しく!」
パルテノンでも指折りの店で用意させた鍋、とソルジャーが宙に取り出した土鍋はまだグツグツと煮えていました。其処からソルジャーがスプーンで掬って、フウフウと息を吹きかけて。
「はい、あ~ん♪」
「…お、恐れ入ります…」
恐縮しつつも、教頭先生、スッポン鍋を掬ったスプーンをパクリと。一口食べれば、後は度胸がついたらしくて、それは嬉しそうにソルジャーの手から。
「あ~ん♪」
「…ありがとうございます…」
美味しいです、と壺に詰められて身動きが取れない状態のくせに首から上はまさに天国、ソルジャーの方も手にした計器を見ながら満足そうで。
「うんうん、順調に漲ってるねえ…」
やっぱり壺のパワーは凄い、と言ってますけど。あの壺、本当に効きますか…?



ゴールデンウィーク、結局、マツカ君の別荘の一つで過ごした私たちですが。毎日毎晩、ソルジャーが来ては、例の壺だか甕だかのパワーを熱烈に報告しまくって。
「最高なんだよ、あの壺は! まさに魔法の壺!」
もうハーレイは漲りまくり、と計測データを披露する日々。最終日には壺から出された教頭先生の大事な部分はビンビンのガンガンとやらで、ついつい手が出てしまったそうで。
「ちょっと御奉仕したくなってね、ファスナーを下ろしたんだけど…」
「退場!!」
会長さんがレッドカードを突き付け、ソルジャーは。
「それは必要無いってば! ハーレイ、鼻血でぶっ倒れたから!」
ぼくが食べる前に、と深い溜息。
「本当に美味しそうだったのに…。でも、実験はこれで完璧! 後はぼくのハーレイを詰めて、絶倫パワーを高めれば!」
「その件だけどさ…。こっちのハーレイ、童貞一直線だしね? 君のハーレイにも壺が効くとは限らないんだよ、言わせて貰えば」
こっちのハーレイは色々な意味で規格外で…、という会長さんの話をソルジャーは聞きもしないで壺を抱えて帰ってしまって、一週間後。
「…萎えちゃったって?」
当然だろうね、と冷たく微笑む会長さん。ソルジャーは泣きの涙で座り込んでいて。
「ちゃんと計測してたんだけど…。途中まではグングン漲ってたから、まだいけると!」
「欲張るからだよ、非日常ってシチュエーションで上がってた間に出すべきだったね」
「…反省してるよ…。うんと反省してるんだけど…!」
ぼくの世界のノルディが言うには復活までには暫くかかりそうなのだ、と嘆くソルジャーによれば、キャプテンに下された診断は我慢しすぎとストレスによる一時的なED、いわゆる不能。天国までの片道切符どころか、当分は天国に行けもしないようで…。
「壺のパワーは絶対凄いと思ったのにーっ!!!」
亀の頭で甕棺で凄い筈だったのに、と響くソルジャーの嘆き節。例の壺は「ぶるぅ」が悪戯に使おうと持って行ったらしく、キャプテンは再び詰められるかもしれません。もしも詰められたら、結果は吉か、はたまた凶か。魔法の壺なんて出来やしないと思うんですけど、出来たら最高?





             壺でパワーを・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 壺にはパワーがあるんだ、というソルジャーの思い込み。挙句に暴走。
 閉じ込められた教頭先生の方はともかく、キャプテンには、とんだ災難でした…。
 次回は 「第3月曜」 3月18日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、2月は、毎年恒例の節分イベント。七福神巡りですけれど…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv








(今日は、ハーレイ…)
 多分、来られない、とブルーがついた小さな溜息。学校から帰って、おやつの時間に。
 母が焼いてくれたケーキはとても美味しいけれど。シロエ風のホットミルクもホッとする甘さが優しいけれども、いつものように弾んだ気持ちにならない。自然と綻んではくれない顔。
(ハーレイは会議…)
 そう聞かされていた、数日前から。長引きそうな会議だから、と。
 会議にも色々な種類があって、時間通りに終わるものやら、早めに終わることが多いものやら。逆に長引くのが常のものまで、今日の会議はそのタイプ。時間通りにはまず終わらない。
(…早めに終わって来てくれたこともあるけれど…)
 駄目だった時の方が圧倒的に多いから。ハーレイの予告通りに会議は長引くものだから。仕事の帰りに寄ってはくれない、今日はハーレイが来てくれない日。
 もちろん、毎日来てくれるわけがないけれど。来てくれない日も多いけれども、最初から駄目と分かっているのと、そうでないのとは違うから。
 普段だったら、おやつを食べる間もときめく心。今日はハーレイに会えるだろうか、と。
 けれども、今日は弾まない心。ハーレイは来てはくれないのだから。



 望みがゼロではないけれど。もしかしたら、会議が早く終わるかもしれないけれど。
(期待しちゃ駄目…)
 来てくれるかも、などと考えてはいけない、何度もそれで悲しい思いをしているから。やっぱり来てはくれなかったと、肩を落としたことが何度も何度もあったから。
 ともすれば沈んでしまいそうな気持ち。暗くなってしまいそうな瞳と顔付き。
 こんな日に限って、母が「今日は学校、楽しかった?」と自分用の紅茶のカップを手にして来たテーブル。母はハーレイの予定を聞いてはいないし、聞いていたって「夕食を何にしようかしら」などと考える程度。会議が早く終わったとしたら、どんなメニューが喜ばれるだろうと。
(ママはなんにも知らないしね…)
 ハーレイの予定も、ハーレイが息子の恋人なことも。
 だから本当の気持ちを隠して、懸命に明るく振舞った。「それでね…」と友達の話などもして。今日も学校は楽しかったと、授業も分かりやすかったよ、と。



 母と話をしていた間は良かったけれど。
 笑って気分も紛れたのだけれど、その反動で余計に沈んでしまった気持ち。「御馳走様」と母と別れて、自分の部屋に戻った途端に。
 今日はハーレイは来ないのだった、とテーブルと椅子を眺めて溜息。ハーレイが来たら、二人で使うテーブルと椅子。二つある椅子の片方はハーレイの指定席。
 その指定席に座る恋人に会えないのだ、と思うと零れる溜息、テーブルと椅子に背中を向けた。見たら溜息が漏れるから。あのテーブルと椅子の出番が無い日、と心が沈んでしまうから。
(これじゃ駄目…)
 きっとハーレイも喜ばない、と勉強机の前に座って、視線を遣った机の上。温かみのある飴色の木のフォトフレームの中、ハーレイの笑顔。夏休みの最後の日に二人で写した記念写真。
 庭で一番大きな木の下、好きでたまらないハーレイの笑顔。左腕に抱き付いた自分も笑顔。
(うん、この顔…!)
 この顔が好き、と頬を緩めた。ハーレイの笑顔が一番好き、と。
 誰よりも好きな恋人の笑顔、いつも自分に向けてくれる笑顔。それが写真の中にあるから。
 励まされた気分で本を広げた、昨夜から読んでいる本を。
 続きを読もうと、ハーレイも写真の中から笑顔で見守ってくれているし、と。



 けれど、やっぱり…。
 沈みそうになる心を奮い立たせて向き合った本の中身は、さっぱり頭に入って来ない。ページをめくって先に進んでも、文字を目で追っているだけのこと。何ページか読んだら、さっきの所まで戻る羽目になった。読み落としてしまっていた部分。これでは話が繋がらない。
(ぼくって駄目だ…)
 ハーレイも見てくれているのに、とフォトフレームの写真を眺めた。
 とびきりの笑顔で写ったハーレイ。見るだけで幸せになれそうな笑顔。そのハーレイの左腕には自分がギュッと抱き付いている。両腕でギュッと、それは嬉しそうに。
 写した時の気持ちが心に蘇る写真、思いがけなくハーレイと写せた記念写真。それまでは写真は一枚きりしか持っていなかった、今のハーレイが写った写真は。ほんの小さなモノクロのしか。
 再会して直ぐに記念写真を撮りそびれたから、ハーレイの写真はまるで無かった。学校で貰った転任教師の着任を知らせるものだけしか。学校便りの五月号しか。
 それを何度も何度も眺めて、宝物にして。今もきちんと大切に持っているけれど。
 ハーレイの方でも写真が欲しいと思ったらしくて、夏休みの記念に撮ろうと言われた。それなら自然でいいじゃないか、と。
 カメラを持って来てくれた上に、お揃いのフォトフレームまで買って来てくれて。
 庭で一番大きな木の下、母がシャッターを切ってくれた写真。ハーレイと二人で写した写真。



(写真の中のぼくは、幸せなのに…)
 最高に幸せだった夏の日、ハーレイの左腕に抱き付いてカメラに笑顔を向けた日。
 あの日は幸せだったのに。とても幸せで、ハーレイも側にいてくれたのに。
 ぼくは違う、と零れ落ちそうになった涙。
 独りぼっちだと、今日はハーレイは来ないんだから、と。
 ポロリと涙が本に落ちた途端。いけない、と慌てて拭き取った途端。
(違う…!)
 もっと悲しい独りぼっちを知っている。今の自分よりも、ずっと悲しい独りぼっちを。
 前の自分が迎えた最期。
 たった一人でメギドまで飛んで、周りに仲間は誰もいなくて。ハーレイからも遠く離れて、もう本当に一人きりで。
 それでも自分は一人ではないと、これさえあればと右の手に持っていた温もり。ハーレイの腕に触れた手が感じて覚えた温もり、それを抱き締めて逝くつもりだった。ハーレイの腕の温もりを。
 なのに失くした、撃たれた痛みで。
 銃弾が身体に撃ち込まれる度に温もりは薄れて、最後に右の瞳を撃たれて。視界が真っ赤に塗り潰された後に、もう温もりは残らなかった。ほんの僅かな欠片さえも。
 冷たく凍えてしまった右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
 独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ、もうハーレイには会えないのだと。温もりはもう消えてしまったと、右の手が冷たいと泣きじゃくりながら。



 あの時の孤独に比べたら。絶望的な独りぼっちでの死に比べたら、今は…。
(ずっと幸せ…)
 独りぼっちとはとても言えない、ハーレイとは会えないだけなのだから。今日は会えなくても、別の日がある。また会えるのだし、何度でも会える。
 二度と会えないわけではなくて。
 前の自分がそうなったように、たった一人で、独りぼっちで死んでゆくのではなくて、これから先もハーレイに会える。今日は駄目でも、また別の日に。何度も、何度も、何度だって。
(ぼくはハーレイに会えるんだから…)
 こんな所で泣いたら駄目だ、と自分自身を叱り付けた。
 前のぼくより、ずっと幸せなんだから、と。独りぼっちじゃないんだから、と。
 今は部屋で独りぼっちだけれども、写真の中からハーレイが見ていてくれるのだし…。
 大好きな笑顔のハーレイの写真。見るだけで幸せになれそうな笑顔。
 それがあるから、一人きりの部屋でもハーレイの笑顔を見ることが出来て…。



(写真…?)
 ハッと気付いて覗き込んだ写真。飴色をしたフォトフレーム。
 勉強机の上に飾って、毎日見ている写真だけれど。「おやすみなさい」と写真の中のハーレイに挨拶したりもするけれど。
 前の自分は持っていなかった、写真を飾ってはいなかった。誰よりも愛した恋人の写真を。飾るどころか持っていなかった、こんな風に一人の時に眺めるための写真の一枚すらも。
(前のぼくは、いつでも本物のハーレイを見られたから…)
 今と違って自由自在に操れたサイオン、ハーレイが広いシャングリラの何処にいようと、望めば姿を垣間見られた。笑顔ではなくて厳しい顔の時も、忙しそうな時もあったけれども。
 それでも姿は見られたのだし、もう充分に満足だった。ハーレイは今はあそこにいる、と。
(…それに、写真は…)
 飾りたいと思ったとしても、飾れなかった。恋人同士だったことは秘密だったし、青の間に飾るわけにはいかない。誰が目にするか分からないから。
(サイオンで隠しておくにしたって…)
 二人で写した写真が無かった、今の自分が持っているような意味での二人きりの写真は。
 同じ写真に収まってはいても、ソルジャーの貌とキャプテンの貌。
 二人一緒の、自分たちのための記念写真は写せなかった。撮ろうとも思っていなかったけれど。それが欲しいとさえ思わなかったほど、隠すのが当たり前の恋だったから。



 ハーレイの写真を持っていなかった上に、二人一緒の記念写真も無くて。
 それを撮りたいとも、飾りたいとも思わないままに、前の自分は生きて死んでいった。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら、本当に独りぼっちのままで。
 なのに…。
(ぼく、ホントに幸せになっちゃたんだ…) 
 独りぼっちで暗い宇宙で死んでいった筈が、ハーレイと二人で青い地球の上に生まれ変わって。
 また巡り会えて、今では独りぼっちではなくて、一人の時でも写真が一緒。
 今日のように寂しくてたまらない日も、ハーレイの写真が目の前にある。机の上からハーレイが笑顔で見ていてくれる。「元気出せよ?」と言わんばかりに。
 そのハーレイの左腕には、自分がくっついているけれど。両腕でギュッと抱き付いている自分が羨ましくてたまらないけれど、その瞬間を自分も確かに過ごした。夏休みの一番最後の日に。
 庭で一番大きな木の下、幸せな時間を切り取った写真。
 ハーレイと二人、母が構えたカメラに向かって最高の笑顔。シャッターが切られる度に笑って、もっと素敵な笑顔にしようと、最高の記念写真にしようとカメラに向かって。



 写真を撮った日、幸せだった自分。今も一人ではない自分。
 ハーレイは写真の中で笑顔で、それを見ている自分がいて。本物のハーレイは会議中でも、今は会えないというだけのことで。
 けして自分は一人ではない、独りぼっちになってはいない。前の自分とはまるで違って。たった一人で死ぬしかなかった、前の自分の悲しみに満ちた最期と違って。
 それを思えば、今の自分は…。
(ぼくって、幸せ…)
 前よりもずっと幸せなんだ、と思ったらポロリと零れた涙。瞳から溢れて、机に落ちた。
 えっ、とビックリしたけれど。
 泣くつもりなどは無かったのに、と慌てたけれども、溢れ出した涙は止まらない。さっき零した涙とは違って、幸せの涙。幸せすぎて溢れ始めた涙。
 次から次へと蘇る思い出、泣いているのは自分ではなくて前の自分の方かもしれない。
 白いシャングリラで前のハーレイと二人で過ごした幸せな日々。愛して、愛されて、満ち足りた時を重ね続けて、長い時を生きた。二人一緒に。
 幾つも、幾つもの幸せの記憶、それを思うと涙が溢れる。あの幸せな日々が帰って来たと。またハーレイと生きてゆけると、もっと幸せに生きてゆけると。
 前の自分が今も大切にしている幸せの記憶は、あの頃は誰にも言えなかったけれど。白い鯨では誰にも言わずに、秘めておくしか無かったけれど。
 今度は誰に話してもいい。今の自分の幸せのことは、誰に話してもかまわない。
 こんなに幸せなことがあったと、幸せなのだと、他の誰かに話したい気持ちになったなら。
 今はまだ誰にも話せないけれど、いつかハーレイと結婚したなら。
 教師と教え子という仲でなくなったら、堂々と手を繋いで歩ける恋人同士になったなら。



 そうだ、と其処で気が付いた。
 前の自分には出来なかったこと。今の自分には当然のことで、もう決まっている未来のこと。
(ハーレイと結婚出来るんだ…)
 いつか自分が大きくなったら、結婚出来る十八歳を迎えたら。
 前の自分たちの恋は最後まで誰にも言えなかったけれど、今度は皆に祝福されて結婚式。二人で結婚指輪を交わして、互いの左手の薬指に。
 結婚指輪が左手にあれば、薬指に光っていたならば。誰でも一目で分かってくれる。恋人同士の二人なのだと、結婚して幸せに二人で暮らしているのだと。
(…前のぼくたちは、誰にも言えなかったのに…)
 ソルジャーとキャプテンという立場にいたから、明かすわけにはいかなかった。いつか地球まで辿り着いたら、お互いの立場から自由になれたら、と夢を描いていただけで。そんな日が来たら、この恋を明かしてもいいのだろうと。
(だけど、そんな日は来なくって…)
 前の自分の寿命が尽きると分かった時に潰えた夢。叶いはしないと諦めた夢。
 けれど、今度は夢とは違う。夢のように儚く消えはしなくて、いつか必ず訪れる未来。今はまだいつとも分からないだけで、その日は何処かで待っている。この先の未来の時間の何処かで。
 おまけに、ハーレイと結婚することを知っていてくれる人たちが、隣町に二人。
 庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいる、ハーレイの両親が自分たちの結婚を待っていてくれる。新しい子供が一人増えたと、自分のことを新しい家族だと思ってくれて。
(まだ結婚もしていないのに…)
 もう子供だと言って貰えて、マーマレードの瓶まで貰った。庭の夏ミカンの実でハーレイの母が作ったマーマレードの大きな瓶を。
 金柑の甘煮を詰めた瓶も貰った、庭で採れた金柑の実をハーレイの母が甘く煮たものを。風邪の予防に食べるといいと、喉の痛みにもよく効くからと。



 なんと幸せなのだろう。もう結婚が決まっている上に、それを知っている人までが二人。
 まだ十四歳にしかならない自分を、新しい家族だと言ってくれる人が、もう二人も。
 今度はハーレイと結婚出来るし、その日は必ずやって来るから。
(幸せすぎるよ…)
 頬をポロポロと伝い落ちる涙。幸せの温かい涙。
 今日はハーレイが来てくれなくても、会議で来られない日でも。今日が駄目でも、また次の日。明日が駄目でも、またその次に。
 順送りに駄目な日が続いていっても、週末に会える。いつまでも会えずに終わりはしない。
(今日が駄目でも、次があるんだ…)
 シャングリラで暮らした頃と違って、確実に来ると分かっている明日。沈んだ太陽は青い地球の反対側を照らしに行っただけで、次の日の朝には昇って来るから。明けない夜は無いのだから。
 今の平和な時代の地球では、明日が無くなることはない。
 白いシャングリラが世界の全てだった頃には、明日が来るとは誰にも言い切れなかったけれど。
 夜の間に人類軍の船に見付かって沈められれば終わりなのだし、そうでなくても空を飛んでいる宇宙船では万一ということもあるのだから。事故が起こっても緊急着陸出来はしないし、脱出先もありはしないのだから。
 前の自分たちには来ると言い切れなかった明日。無くなるかもしれなかった明日。
 それを今ではいつまでも待てる、明日が駄目ならその次の日に、と。
 ハーレイに会える日を待ち続けられる、今日が駄目ならその次の日にと、また次の日にと。



(ホントに幸せ…)
 明日が無くなったりはしないし、いつかハーレイと結婚出来る。消えない明日が幾つも続いて、その先の何処かで結婚式の日が待っている。自分とハーレイが其処へ着くのを。
 それにハーレイと二人で来られた、青い地球の上に。
 前の自分が辿り着けずに終わってしまった青い星の上に、あの時代には無かった青い地球に。
(…ハーレイと地球で結婚なんだよ…)
 結婚して、地球で二人で暮らす。同じ家に住んで、いつもハーレイと二人。
 ハーレイと暮らせる幸せな未来も、前の自分が焦がれ続けた青い水の星も、何もかも自分は手に入れられる。何もしなくても、幸せが手の中に降ってくる。
 前の自分が夢見た以上に。
 こうなればいいと思い描いた夢よりもずっと、大きな幸せが今の小さな自分の身体を包み込む。
 まだ育ってはいないのに。
 まだ小さいのに、約束されている幸せな未来。いつかは必ず来ると決まっている、明日の続きの何処かの明日。ハーレイと結婚式を挙げる日。



 もう止まらない、幾つもの涙。頬にポロポロと零れ続ける幸せの涙。
 涙の粒が幾つも幾つも、勝手に零れ落ちてくる。前の自分がメギドで泣きじゃくった以上の数の涙が、後から後から溢れる涙が。
(メギドだったら、もうとっくに…)
 前の自分は死んでしまっていただろう。これほどの涙を流すよりも前に。
 ハーレイの温もりを失くしてしまったと、もう会えないのだと泣きじゃくりながら、前の自分は死んでいったけれど。涙の中で死んだけれども、これだけの時間を泣いてはいない。こんなに長く泣き続けてはいない、長く感じていただけで。
 時間にすればほんの一瞬、長かったとしても一分か二分。
 前の自分は覚えていないし、第一、時計など見てもいないのだけれど。メギドが爆発して沈んだ時間も、今の自分はまるで知らないのだけれど。
(でも、こんなには…)
 泣いてはいないし、時間も無かった。
 それなのに、今は幸せな自分が泣き続けている。悲しみではなくて、幸せのせいで。今の自分がどれほどの幸せに包まれているか、それに気付いてしまったせいで。



 溢れて止まらない幸せの涙。頬を濡らし続ける温かな涙。
 それを流れるままにしていたら、耳に届いたチャイムの音。門扉の脇にあるチャイム。
(ハーレイ!?)
 まさか、と窓に駆け寄ってみれば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。会議は終わったと、俺は間に合ったと知らせるように。今日の会議は長引くのが常で、終わる筈が無いと思っていたのに。
 ハーレイの方でも、そう思ったから今日は会議だと聞かされたのに。
 今日は会えないと思っていたから涙が零れて、その涙から今の温かな涙が生まれて、泣き続けて今まで泣いていたのに。
(…ハーレイが来てくれるだなんて…)
 いったい自分は、どれほど幸せなのだろう。
 今日の続きを待っていなくても、もうハーレイが来てくれた。今の自分には明日の続きも、そのまた続きも、いくらでも明日があるというのに。
 それを待てるのも幸せなのだと幸せの涙を流していたのに、明日を待たなくてもいいなんて。
 ハーレイが来てくれて、もう待たなくてもいいなんて。
(…いけない、涙…!)
 泣いてちゃ駄目、と溢れそうになる涙をグイと拭って、涙の跡も分からないよう綺麗に拭いた。壁の鏡を覗き込んで。目元が赤くなっていないか、それもきちんと確認して。



 ようやく止まった幸せの涙。泣いていたことに気付かれないよう、しっかりと止めて、ニイッと笑顔も鏡で作った、悪戯っ子の笑みの形に。普通の笑顔だと、また幸せで泣きそうだから。幸せの涙が溢れそうだから、悪ガキ風に。酷い悪戯でも仕掛けたように。
(これでよし、っと…!)
 ぼくの笑顔じゃないみたい、と自分でも吹き出しそうな顔。お蔭で涙も引っ込んだ。こんな顔は一度もしたことがないと、どんな悪さをしでかしたのかと考えただけで。物凄い悪戯小僧になった自分を少し想像してみただけで。
(…ママの花壇が丸坊主とか?)
 それをやったらこんな顔、とププッと笑って、可笑しくなって。もう大丈夫、といつもの自分の顔に戻ってハーレイを待った。いつものぼくだ、と。



 そうやって準備万端整えたけれど。
 ハーレイも母も泣いていたことには全く気付かず、テーブルの上にお茶とお菓子が揃ったまではいいのだけれども、向かい合わせで座ったら。ハーレイが指定席の椅子に腰を下ろしたら。
 ついつい見てしまう、ハーレイの顔。写真のハーレイの笑顔もとても素敵だけれども、本物にはやはり敵わない。ハーレイがとびきりの笑顔でなくても、ごくごく普通の顔付きでも。
(幸せだよね…)
 今日もハーレイが来てくれたし、と恋人の顔を見てばかりだから。いつも以上にじっと見詰めてしまうものだから、とうとうハーレイが自分の顔を指差した。
「俺の顔に何かついてるか?」
 ケーキの欠片でもくっついてるのか、どの辺りだ?
「ううん、そうじゃなくて…。幸せだな、って」
「はあ?」
 何が幸せなんだ、お前は。俺の顔ばかり見て、いったい何があると言うんだ?
「えーっと…。ハーレイ、今日は来られないかも、って聞いていたから…」
 今日は会えなくて一人だよね、って思ってて…。独りぼっちだ、って悲しくなって。
 でもね、よくよく考えてみたら、独りぼっちじゃなかったんだよ。ハーレイは会議に行っているだけで、今日は駄目でもいつか来てくれるし…。ハーレイの写真も飾ってあるし。
 独りぼっちっていうのは、前のぼくが死んじゃった時みたいなので、あの時に比べたら、ぼくは独りぼっちでもなんでもなくて…。一人で家にいるっていうだけ、じきに一人じゃなくなるしね。いつかハーレイは来てくれるんだし、そしたら一人じゃなくなるでしょ?
 ぼくはとっても幸せなんだよ、今のぼくは。



 前のぼくと違って今は幸せ、と話したら。
 うんと幸せになったんだから、と付け加えたら、ポロリと零れてしまった涙。温かな涙。
 しっかりと止めた筈だったのに。悪戯小僧の顔まで作って止めたのに。
「おい…?」
 どうしたんだ、お前。目が痛むってわけじゃなさそうだが…?
「えっとね…。ぼく、ハーレイが来る前に…」
 泣いてたんだよ、幸せすぎて。今のぼくはとっても幸せなんだ、って気が付いて。
 そしたら涙が止まらなくなって、ハーレイが来たから頑張って止めて…。
 鏡の前でこんな顔までやって止めたのに、また止まらなくなっちゃった…。
 ね、この顔をしても無理なんだよ。ママの花壇を丸坊主にしたらこんなのかな、って思っても。凄い悪戯小僧になったつもりでニイッてやっても、もう駄目みたい…。



 また止まらなくなってしまった涙。次から次へと溢れて零れる幸せの涙。
 ハーレイが目の前にいるだけで。今の自分は幸せなのだと考えるだけで、もう止まらない。
 さっきはピタリと止めてくれた筈の、悪戯小僧の顔を作っても。ニイッと笑っても、ハーレイはそれを笑うどころか、優しく笑んでくれるから。「そういう顔は初めて見たな」と、子供らしくていい表情だと褒めてくれるから。
「チビらしくていいぞ、そんな顔をしているお前もな」
 普通じゃやらない顔なんだろうが、俺はそういう顔も好きだぞ。元気一杯に見えるしな。
「…笑わないの? ハーレイ、笑ってくれればいいのに…」
 ぼく、自分でも吹き出したのに…。
 ハーレイが笑ってくれなかったら、涙、ちっとも止まりやしないよ。
 ますます幸せになっちゃうから。ぼくが幸せだと、どんどん涙が出て来ちゃうから…。
「なるほどなあ…。幸せの涙が止まらないってか」
 お前のあの顔、俺がウッカリ褒めちまったから、必殺技も効かなくなったと。
「うん。あの顔をしたら止まってたのに…」
 酷い顔だよね、って鏡を見てたら、止められたのに。
 ハーレイ、あの顔、褒めるんだもの。ぼくを幸せにしちゃうんだもの。
 そうでなくても、ハーレイが来るまで、ぼくはポロポロ泣いちゃってたのに…。
 今のぼくには明日も、その次も、その次もあって。
 今日はハーレイに会えなくっても、またいつか会えて。
 そうやってずっと先へ行ったら、何処かに結婚式の日もあるんだよね、って思ったら…。
 前のぼくだと結婚式は夢だったのに、今度は夢じゃないんだよね、って思ったら…。



「ふうむ…。あれこれ考えるほど涙が止まらない、と」
 どんどん幸せになってしまって、涙が出るって言うんだな?
 やっとのことで止めたというのに、また止まらなくなっちまった、と。
「そう。…ホントのホントに止まらないんだよ」
 見れば分かるでしょ、さっきからちっとも止まってくれないんだから。こんな顔をしても。
 褒めちゃ駄目だよ、ぼくの涙、もっと酷くなるから…!
「…そう言うのなら、褒めないが…」
 笑えと言うなら笑いもするがな、今からそんな調子だと…。
 お前、これから先に何回泣くやら。この俺のせいで。
「え?」
 これから先って…。今日じゃなくって、もっと別の日?
「そういう意味だが?」
 俺はお前を幸せにすると言っているだろ、いつでもな。今度こそお前を幸せにしてやるんだと。
 いいか、そのためには、結婚して一緒に暮らすわけだが…。その前に、だ。
 まずはプロポーズをしなきゃいかんな、俺と結婚してくれと。
 それから婚約、こいつはプロポーズとは別の日になるぞ。お前のお父さんたちのお許しが無いと婚約するのは無理だしな?
 お前、どっちも泣きそうじゃないか。
 幸せすぎて泣くんだったら、プロポーズの時も、婚約の時も。
 結婚式までに二回は泣いて、結婚式でも泣くだろ、お前?
 その後も、俺と二人で暮らす家に着くなり泣いちまうのは確実で…。
 俺は何回お前を泣かせりゃいいんだ、うん…?
 結婚した後も、何かといったらお前がポロポロ泣き出しそうだが…?
「何度でもいいよ」
 ぼくは何回泣かされてもいいよ、何度涙が止まらないようになっちゃっても。
 ハーレイがぼくを泣かせるんなら、ぼくは何回泣いたっていいよ。



 幸せすぎて泣くのなら…、と止まらない涙。後から後から溢れ続ける温かな涙。
 こんなに幸せな涙だったら、泣き続けてもいいと思ったのに。このままでいいと思ったのに。
「しかしだ、今は止めなきゃな?」
 そいつを止めんとマズイじゃないか。俺がお前を泣かせたんだし、苛めたのかと思われちまう。
 晩飯までに止めておかんと…、と手招きされて膝に乗せられて、抱き締められて。
 「止まりそうか?」と抱き込まれたままで尋ねられたら、またまた涙が溢れ出すから。
 「駄目みたい…」とグイと顔を上げた、「止まらないよ」と。
 そうしたら…。
「分かった、今日はオマケしてやる。俺が泣かせたのは間違いないしな」
 額でも頬でも無いんだが、と唇で優しく吸い取られた涙。メギドで撃たれた右の瞳から。
 「どうだ?」と、「止まったか?」と訊かれたけれども、余計に溢れてしまうから。幸せの涙が止まらないから、キッと睨み付けた。
「これで止まるわけないじゃない!」
 幸せになるほど止まらないんだよ、止まらないのはハーレイのせいだよ!
「だったら、左目はオマケは無しでだ、ハンカチだな」
 俺のハンカチでゴシゴシしてやる、逃げるなよ?
「酷い…!」
 なんで左目はハンカチになるわけ、右目との差がありすぎだよ!
 ハンカチで痛くする気なんでしょ、そしたら不幸になりそうだから…!



 せめてハーレイの指で拭き取ってよ、と強請ったら。
 指で優しく拭われた涙。「これでいいか?」と。
 もちろん、それで涙が止まるわけがない。ますます溢れて、零れるばかりで。
 ハーレイが「ほらな」と指で頬を弾く、「ハンカチの方がゴシゴシ痛くて止まりそうだが」と。
「今からこんなに泣いていたんじゃ、本当にこの先、何度お前は泣くやらなあ…」
 俺は何回、お前を泣かせちまうんだか。…苛めているってわけじゃないのに。
「何度でもだよ」
 何十回でも、何百回でも。ハーレイは何度でもぼくを泣かすよ、今日みたいに。
 きっと涙が止まらなくなるよ、ぼくが大きくなった後でも。
 だって、ハーレイと暮らすんだから。
 結婚して、うんと幸せに二人で暮らしていくんだから…。



 きっと何回も何回も泣くよ、と涙は溢れて止まらない。
 頬を転がり落ちる涙が。温かな幸せの涙の粒が。
 まるで全く止まらないけれど、止まりそうな気配も見えないけれど。
 今は幸せに泣かせて貰おう、未来の幸せを思いながら。
 プロポーズに婚約に結婚式に、と幸せの数を数えながら。
 きっとハーレイなら、ちゃんと泣き止ませてくれるから。涙を止めてくれるから。
 夕食の支度が出来たと母が来る前に、優しい言葉で、優しく抱き締めてくれる腕で。
 零れる涙ごと幸せで包んで止めてくれるから、それまでは涙が溢れるままで…。




              幸せの涙・了

※ブルーの瞳から溢れた幸せの涙。前の生でメギドで流した涙よりも、ずっと長く、多く。
 止まらなくなった幸せの涙は、これからも何度も流れる筈。今の人生が幸せすぎて。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









「それじゃ、明日な!」
 約束し合ってる、ぼくの友達。明日は土曜日だから、みんなで買い物。いつものお休みの日とは違う待ち合わせ、公園とかじゃなくってバス停。
 みんなは町の一番賑やかな場所へ出掛けてゆくんだ、路線バスに乗って。百貨店だとか本屋さんだとか、色々なお店がある所へ。
 「ブルーも一緒に行かねえか?」って誘われたけど、いつもと同じで断った。「ハーレイ先生が来てくれるから」って。
 そう断ったら、「いいなあ…」って羨ましがられてしまった、「ハーレイ先生かあ…」って。
 ハーレイはみんなに人気があるから、いつだって、こう。みんなと遊びに行けない理由を話すと誰もが「いいな」って。ハーレイを独占出来るなんて、って。



 そんな調子だから、みんなに笑顔で手を振った。「また月曜日に!」って。
 みんなも「おう!」って手を振り返してくれて、クラブに、家にと分かれた行き先。寄り道する子もいたりするから、方向はホントにバラバラなんだ。校門だって一ヶ所じゃないし…。
 ぼくはバス通学だから、正門から外へ出るんだけれど。歩きながら心が弾んでた。明日は土曜日なんだから。みんなは買い物に出掛けるけれど…。
(ハーレイが来てくれるんだものね?)
 朝御飯を食べて、部屋の掃除を済ませて待ってたら鳴るチャイムの音。ハーレイが来たっていう合図。晴れた日だったら歩いて来るし、雨が降ってたら車のハーレイ。
 土曜日と日曜日は、用事が無ければハーレイが家に来てくれる。二人で一緒に夜まで過ごせる、晩御飯だって一緒に食べられる。晩御飯はパパとママもいるダイニングだけど…。
 ハーレイが来られない時は早めに連絡を入れてくれるし、明日はなんにも聞いてないから、もう間違いなく会える筈。ぼくがウッカリ寝込んじゃっても、お見舞いに来てくれたりして。
 絶対に会える筈の土曜日、とても楽しみ、って思ってたのに。
 明日は一日ハーレイと一緒、って胸をときめかせて帰りのバスに乗り込んだのに…。



 家に帰って、制服を脱いで、おやつを食べに下りて行ったダイニング。
 ママが焼いてくれたケーキと熱い紅茶で、大満足の時間なんだけど。ふと思い出した、帰り際にみんながしていた約束。明日はバス停、って決めてた約束。
(買い物かあ…)
 普段とは違う、みんなの休日の過ごし方。いつもだったら、公園とかで集まって近所で遊ぶのが定番だけれど。誰かの家に押し掛けてったり、サッカーなんかをしてみたり。
 お昼御飯やジュースやおやつは買ったりするけど、近くのお店で買えるもの。下の学校の頃から知ってるお店や、今の学校で出来た友達の馴染みのお店で。
 でも、明日の買い物は違うんだ。バスに乗って出掛けて、町の真ん中まで。
 何を買うとも決めてなかった、目的の物があるわけじゃない。これを買うんだ、って誰も決めてなくて、お小遣いを持って出掛けてゆくだけ。いろんなお店を覗いて回って、みんなが思い思いの物を買うんだと思う、お小遣いの範囲で買えそうな何か。
(お昼御飯だって…)
 目に付いたお店に入るんだろう。あっちだ、こっちだ、って相談しながら。
 何を食べるかも気分次第で、おやつだって。町の真ん中だと、お店も沢山あるんだから。
(…友達と買い物…)
 考えてみれば、ぼくは友達と買い物に出掛けたことが無かった。町の真ん中なんかへは。一人で出掛けたことはあるけど、それは用事があるからで…。
(本屋さんとか、ハーレイの羽根ペンを買おうとしてた時とか…)
 きちんと目的の決まった買い物、たったそれだけ。用事が済んだら真っ直ぐ帰るし、一人だから食事もしていない。そうじゃない時は、パパやママが一緒。
 ちょっぴり惜しい気持ちがしてきた、明日の買い物。みんなが出掛けてゆく買い物。



(でも、ハーレイ…)
 明日はハーレイが来てくれるんだし、そっちの方が断然いいよね、と気分を切り替えた。買い物なんかに行くよりずっと、って。
 キッチンのママに空いたお皿やカップを返して、部屋に戻って。勉強机の前に座ったんだけど、またまた浮かんで来た友達の顔。明日は買い物に出掛ける、みんな。
(みんなで買い物…)
 きっと楽しいに違いない。何の目的も決めずに買い物、お小遣いだけを持って出掛けて。色々なお店を覗いて回って、買う物だってバラバラなんだろう。これに決めた、って言った誰かの趣味が悪いと笑い合ったり、そう言いながらも釣られちゃったり。
(趣味が悪い筈のを、みんなで揃って買っちゃったりね)
 だって、遊びに行くんだから。買い物も遊びなんだから。「信じられねえよ」なんて笑う間に、何故だか素敵に思えてくるってことも充分ありそう。「いいかもなあ」って。
 無駄遣いなんかもするかもしれない、お小遣いはたっぷり持って来たから、って。気が付いたら残りがほんの少しで、バス代も危ないくらいだとか。
 そういう話はよく聞くから。
 ぼくの友達がやったわけじゃないけど、他の友達が買い物に出掛けてやらかした愉快な体験談。今の学校の先輩たちの噂だって聞いた、バス代まで使い果たして歩いて帰った話なんかも。



 考えるほどに楽しそうな買い物、友達と出掛ける町の真ん中。
(ハーレイの来ない日に誘われたんなら…)
 行ってみたかった、と思ったけれど。ハーレイに何か予定が入っている日だったら行けたのに、って残念な気持ちになったんだけれど。
(ちょっと待って…!)
 それじゃ、ハーレイに「来て欲しくない」って言ってるみたい。ハーレイに予定が入ってたら、って考えるなんて。ハーレイはわざわざ来てくれるのに。ぼくを訪ねて来てくれるのに。
(ハーレイを裏切ってるみたい…)
 明日はハーレイと会うっていうのに、友達と買い物に行きたいだなんて。ハーレイが来られない日だったら良かったのに、と考えるなんて。
 ハーレイはぼくの一番なのに。誰よりも好きで、好きでたまらないのに、ハーレイと会うよりも友達と買い物をしたかったかも、って思うだなんて。
 これじゃ、あんまり酷いから。どう考えても、酷すぎるから。
(ぼくって、最低…)
 ブルッと首を振って、追っ払った。買い物に行きたがってるぼくを。
 これじゃ駄目だと頭の中から、首をブンブンと横に振って。



 でも、夜になっても、また思い出して。
 行きたくなってしまった買い物、友達と出掛ける楽しそうな買い物。町の真ん中の大きなお店を覗いて回って、端から入って。自分の趣味とは違うものまで、ウッカリ買ってしまったりして。
(ぼくでも、きっと釣られちゃうんだよ)
 みんなと違って元気に走り回ったり出来ないくせして、スポーツ用の帽子を買っちゃうだとか。お揃いだよ、って大喜びで。被って出掛ける場所も無いのに。
 帽子で済んだらまだマシな方で、いつ使うんだか悩みそうな物まで買っちゃいそう。真面目とは言えない柄のノートとか、ふざけたデザインの文房具だとか。
(いっぱい買っちゃって、お小遣いの残りがバス代だけとか…)
 みんながそういう勢いだったら、ぼくだって巻き込まれていそうな感じ。「まだいけるぜ」って肩を叩かれて、「そうだよね!」って財布を開けちゃって。バス代があれば充分だよね、って。
 一度も行ったことのない買い物、友達と一緒に大散財。
 ぼく一人だと絶対やらない無茶な買い物、友達とだから出来る買い物。
 やっぱり行ってみたかった気がする、友達と都合が合ってたら。ハーレイが来ない予定の土曜日だったら、みんなと買い物。
 ハーレイを裏切るみたいだけれども、酷い考えなんだけど。
 それでも、ちょっぴり思ってしまう。みんなと買い物に行きたかったな、って。



 一晩眠って、土曜日の朝になったのに。ハーレイが来てくれる日の朝なのに。
 よく晴れてるから、ハーレイは颯爽と歩いて来る筈で、二人で夜まで過ごせる日なのに…。
(今日は買い物…)
 晴れて、絶好の買い物日和。みんなはバスで出掛けてゆく。傘が要らないから、うんと身軽に。雨に濡れないから、お店からお店へ移動するのも楽々で。
 だけど、ぼくは家でお留守番。みんなと一緒にお店を回りに行けはしなくて、この家で過ごす。ハーレイは訪ねて来てくれるけれど、ぼくの部屋と、庭のテーブルと椅子がせいぜいで…。
(買い物、楽しそうなのに…)
 みんなの待ち合わせ時間は何時だっけ、って溜息をついてしまいそうになる。ぼくはこの家から出られないのに、買い物になんか行けないのに。
「どうしたの、ブルー?」
 具合が悪いの、ってママに訊かれた。朝から元気が無いみたいだけど、って。
「ううん、なんでもないよ」
 ちょっと夜更かししちゃったから…。まだ眠いのかな、そんなつもりはないんだけど。
 大丈夫、部屋の掃除を始めたらシャキッと目が覚めるから!



 ママは「それならいいけど…」って言ってくれたし、パパも「夜更かしは駄目だぞ」って注意をしただけ。ぼくが心で何度もついてた溜息のことはバレなかったけれど。
(買い物に行きたかった、ってこと…)
 ママにまで気付かれちゃった、ぼく。
 ぼんやりしていた頭の中身はともかく、何処か変だ、って。
 こんな調子じゃ、今日は危ない。買い物のことは考えないようにしないと、ハーレイにも変だと思われる。具合が悪いのかと心配されたら、ぼくの良心が痛んじゃう。
 だって、病気になったんじゃなくて、ハーレイを裏切っているんだから。ハーレイと過ごすより買い物がいい、って酷いことを考えているんだから。
 ホントに酷いし、最低なぼく。恋人が訪ねて来てくれるのに。
 だけど頭から消えてくれない、みんなの楽しそうな顔。買い物しながら笑い合う顔。
 朝御飯が終わって、「御馳走様」って部屋に帰っても、掃除をしても。
 門扉の脇のチャイムが鳴って、ハーレイが手を振る姿が見えても。



 とっても危険なぼくの考え、ハーレイと会うよりも友達と買い物、って。
 もちろんハーレイと過ごせる方が嬉しいんだけど、買い物だって面白そうだと思うから。
(ハーレイに気付かれないように…)
 もう絶対に考えちゃ駄目だ、って買い物のことは頭の中から追い払ったのに。
 部屋に来てくれたハーレイとテーブルを挟んで向かい合わせに座って、お茶とお菓子で午前中をゆっくり過ごしていたのに、何かのはずみに目に入った時計。その針が指してる、今の時刻。
 みんなが待ち合わせをしていた時間はとっくに過ぎてて、もうバスは町の真ん中に着いて…。
(今頃、みんなは…)
 きっとお店に入ってる。買い物をしてるか、買い食い中か。何を買おうかと端から覗いて回っているのか、何処かのお店で品定め中か。
(素敵な物とは限らないんだよ)
 変な物とか、可笑しすぎる物とか、そういった物に捕まってしまって、ウッカリ財布をパカッと開けて。みんなで買おうと、揃ってお金を払っているとか…。
(そんな買い物も楽しいよね?)
 家に帰ってから「なんで買っちゃったんだろう」って、自分でも笑っちゃいそうな物。買ってた友達の顔を思い浮かべて、「みんな馬鹿だ」って大笑いしそうな傑作な物。



 考え始めたら、もう止まらない。
 ぼくの頭はお留守になってた、うわの空ですっかり心がお留守。ハーレイと話をしてることさえ忘れちゃってて、生返事。多分、「うん」とか、曖昧に返事してたと思う。
 暫くはそれで済んだんだけれど、とうとう「おい?」って訊かれちゃった。テーブルを軽く指で叩いたハーレイ、ぼくの注意を引くように。
「お前、具合でも悪いのか?」
 なんだか変だぞ、さっきからずっと。
「ううん、なんでもない…!」
 なんでもないよ、って慌てたけれども、もう手遅れで。
 ハーレイは鳶色の瞳でじっと見詰めて、ぼくの心まで覗き込むように。
「そうは全く思えないんだが…。いつものお前らしくもないし」
 俺の話に生返事なんて、どう考えてもおかしいぞ。
 身体は何ともないと言うなら、問題は心の方ってヤツか…?



 悩みがあるなら打ち明けてみろ、ってハーレイは真面目な顔だから。
 本当に心配してくれているって分かる顔だから、これ以上、嘘はつけなくて。知らないふりでは押し通せなくて、仕方ないからボソリと言った。
「…ぼく、ハーレイを裏切ったみたい…」
「はあ?」
 裏切ったって…。なんなんだ、それは?
「ハーレイより買い物を取っちゃったんだよ」
「どういう意味だ?」
 買い物だなんて、いつ買い物に行ったんだ、って怪訝そうなハーレイ。「俺が来た時に買い物で留守をしていたことは無い筈だが」って。
「ううん、本当に買い物に行ったってわけじゃないけれど…」
 頭の中で行ってたんだよ、心だけ出掛けていたんだよ。
 思念体で抜け出すっていうんじゃなくって、ただの想像。今のぼくは思念体にはなれないし…。
 こんな風かな、って想像していただけ。
 お店を回って、変な買い物なんかもしちゃって。



 どうしてそうなっちゃったのか、って心が買い物に出掛けた理由を話したら。
 ハーレイを裏切ってしまった理由も、「ごめん」ってきちんと謝ったら。
「なるほど、友達と買い物に行ってみたかった、と…」
 俺が来る予定が無かったら。来られない日だったら、そっちに行きたかったんだな?
 友達と買い物に出掛けたことが無いから、みんなと一緒にバスに乗って。
「うん…。ハーレイと会う方がいいに決まっているんだけれど…」
 だけど、買い物もしてみたかったな、って心がお留守になっちゃった…。
 ハーレイを二重に裏切っちゃったよ、買い物がいいな、って思ったことと、うわの空とで。
「そいつは別にかまわんが…。お前だって、遊びたい年頃だしな」
 俺の都合で来られない日もあったりするんだ、この次からは連絡してこい。
「何を?」
「お前の都合が悪いんだ、とな」
 俺が時々やっているのと同じ具合に、お前の方から断ってくればいいだろう。
 子供の予定は急に決まったりするもんだしなあ、前の日の夜でも俺は気にせん。明日は駄目だと連絡が来たって、次の日の過ごし方は色々あるさ。道場にも行けるし、ジムだってあるし。



 遠慮しないで断っていいぞ、とハーレイの許可は出たけれど。
 「そうすれば次は買い物に行けるだろ?」とお許しを貰えたんだけれども、ハーレイと会うのを断って買い物に行くなんて…。友達と出掛けてゆくなんて…。
(絶対、行けない…)
 もしも行ったら、今日の逆。買い物の最中に心がお留守で、友達に「どうした?」って訊かれてしまう。「なんか変だぜ」って、「気分が悪いんだったら言えよ?」って。
 だから、買い物は絶対に無理。友達と一緒に行くのは無理。
 変な物とか、可笑しな物とか、そういう物を買いには行けない。大散財でバス代だけしか残ってないとか、悲惨な末路を迎えるのも。
(でも、買い物…)
 ぼくの心を捕まえた買い物、どうしてそれをしてみたいのか、ってことになったら。
 突き詰めてみたら、パパやママ抜きの買い物ってことで、だけど一人の買い物じゃなくて。
 パパやママじゃない誰かが一緒で、それが楽しそうってことだから。
 変な物は別に買わなくてもいいし、大散財でなくてもいいし…。
 要は誰かと一緒に買い物、パパやママとは違う誰かと買い物をしたいだけなんだから…。



(そうだ、ハーレイ…!)
 ハーレイと買い物に行けばいいんだ、って気が付いた。友達じゃなくて、ハーレイと。
 二人でお店を覗いて回って、目的の買い物の他にも色々眺めて。こんなのがあるとか、こういう物も売られているんだと見ているだけでも充分楽しい。
 ハーレイと二人で出掛けるんなら、変な物なんかは買わないけれど。可笑しな物だって買ったりしないし、大散財だってしないけど。
 だって、ハーレイが必要な物を買うだけだから。それのオマケで、ぼく用の物があったら買うというだけだから。
 でも、買い物には出掛けられるし、お腹が空いたら食事だって出来る。歩き疲れたら、ちょっと休憩、って一休みしてジュースとかだって。
 友達との買い物にこだわらなくても、ハーレイと出掛けられればいい。それならハーレイと同じ予定で動けるんだし、ハーレイを断らなくてもいいし…。
 それに決めた、って浮かんだ名案。ハーレイと買い物をしに行こう、って。
 だから…。



「ねえ、ハーレイが連れて行ってよ」
 ハーレイと会う予定を断る代わりに、ハーレイがぼくを連れてってよ。
「何処へだ?」
 お前を何処へ連れて行くんだ、この俺が?
「買い物だよ!」
 何でもいいから、ハーレイと買い物。ハーレイが買い物に行くついでに。
 文房具だとか、柔道で使う物だとか…。そういう物は町の真ん中まで買いに行くでしょ、ぼくも一緒に連れて行ってよ。
 ぼくの買い物はしなくていいから。出掛けたついでに何か見付けたら、買うだけでいいから。
「駄目だな、お前と買い物なんかは」
 文房具だろうが、柔道のだろうが、御免蒙る。どうしてお前を連れて行かねばならんのだ。買い物に行くなら一人で出掛ける、俺はガキではないんだからな。
「なんで?」
 二人一緒だと楽しいと思うよ、ハーレイだって。文房具だったら、どれがいいか意見を訊いたり出来るし、柔道で使う物なら、ぼくに色々と知識を披露できるでしょ?
「それはそうだが…。それこそデートというヤツだろうが」
「え?」
 ただの買い物だよ、デートじゃないよ。お腹が減ったら食事もするかもしれないけれど…。喉が乾いたら、ジュースも飲むかもしれないけれど。
「おいおい、お前の頭の中では、デートと言ったら食事だけなのか?」
 違うだろうが、買い物に行くのもデートの内だぞ?
 俺の持ち物を買うにしたって、お前が一緒にくっついていれば、そいつは立派なデートだが?
 二人で店を見て回ったり、ついでだからと食事してれば、もう充分にデートだがなあ…?



 嘘、って思った、ぼくだけれども。
 よく考えたら、ホントにハーレイの言う通り。ハーレイと二人で買い物に出掛けて、目的の物を買った後には食事をしたり、ジュースを飲んだり。
 友達と行くなら遊びだけれども、それを恋人とやっていたら…。
「…デートだね…。ハーレイと買い物して、食事…」
 前に何処かで食事をしたい、って強請ったら「それはデートだ」って言われたけれど…。
 買い物のついでに食事するのも、それと同じでデートになるよね…。
「間違いないだろ?」
 それにだ、さっきも言った通りに、二人で買い物に行くってヤツ。
 そいつは立派にデートなんだぞ、食事に行くのと同じくらいに。
 自分の物を買いに行くから付き合ってくれ、って連れて行くにしても、恋人同士で店に行くのはデートの内に入るんだよなあ、恋人同士だからこそだしな?
 赤の他人と買い物に行きはしないだろうが。自分用の物を買おうって時に。



 買い物に行くのも、立派なデート。そう聞いちゃったら、余計に行きたい。
 友達と一緒に変な物とかを買いに行くより、ハーレイと買い物に行きたくなって。
「いつか、買い物…」
 連れて行ってよ、買い物もデートだって言うなら、いつか。
「いつかはな」
 お前が大きくなってからだな、チビの間は話にならん。まずは大きく育たないとな。
「んーと…。先生と生徒でも、買い物は駄目?」
 ぼくは柔道部の部員じゃないから、柔道の物は駄目かもだけど…。
 文房具とかなら、ハーレイも学校で使う物だし、ぼくが一緒に行くのは駄目…?
「お前、そういうのが楽しいのか?」
 俺が文房具の店に出掛けて、教師用のノートとかを選んで。
 教材用にとこれをこれだけお願いします、と注文する横に制服を着て突っ立ってるのか?
 学校でそれの係なんです、って顔して、真面目に。
 俺の仕事に付き合ったからには、ジュースくらいは御馳走するがな。だが、それだけだぞ?
 用が済んだら、俺はお前とサッサと別れて家に帰ってしまうんだがな?
「…楽しくないね…」
 ハーレイが家まで送ってくれるんだったらいいけれど…。お店でお別れなんだよね?
「当たり前だろうが、なんで家まで送らんといかん」
 教師と生徒で買い物に行くなら、学校の用事の延長だぞ?
 余計な売り場を覗く暇なんぞも無いな、目的の物を買ったら終わりだ。



 俺と一緒に買い物に行くのはお楽しみに取っておけ、って言われちゃった。
 いつか買い物でデートでいいだろ、って。
「買い物でデートって…。何を買いに行くの?」
 変な物じゃないよね、ハーレイはとっくに大人なんだし…。デートに行く頃には、ぼくも大きくなってるわけだし。
 でも、まだ変な物を買いたい年かもしれないけれど…。
「まあなあ…。十八歳だと、まだまだ変な物も買うんだろうなあ…」
 これがハーレイに似合いそうだ、って変なシャツを押し付けられそうな気もしないではない。
 お揃いで着ようっていうわけじゃなくて、単にお前が笑いたいだけで。
 そして如何にもやりそうな気がする、今のお前は前のお前じゃないからな。うんと幸せに育った分だけ、とんでもないことも言い出しそうだ。
 是非着てくれ、と押し付けられたら、俺はもちろん着てやるが…。
 そいつを着込んで町も歩くし、ドライブにだって行ってやるがだ、学校は勘弁してくれよ?
 俺にも教師の威厳ってヤツが必要だしなあ、流石に学校で変なシャツはな…。
「ハーレイ、変なシャツでも着てくれるんだ?」
 ぼくが選んだら、誰が見たって笑うシャツでも。可笑しくて笑い転げるシャツでも。
「それでこそ恋人ってモンだろうが」
 そこで怒って着ないようでは、心が狭くて話にならん。
 しかしだ、もっと真っ当な物も、お前と買いに出掛けないとな。



 あれこれ約束してるだろうが、って。
 結婚したら二人お揃いで持ちたい物とか、家に置きたい物だとか。
 結婚してから買ってもいいけど、結婚前には一杯、買い物。二人一緒に暮らし始めたら、直ぐに色々使えるように。お揃いのお茶椀とか、お箸とか、他にも、もっと。
「それって、とっても忙しそうだね…」
 お茶椀だけでも迷いそうだよ、どれにしようか、あちこちお店を覗いて回って。
 やっと決めたら次はお箸で、もっと他にも一杯買わなきゃいけなくて…。
 買い物でデートをしてると言うより、買い物だけでヘトヘトになってしまいそうだけど…。
「そうならんように、計画を立てておかんとなあ…」
 今日の買い物はこれとこれで、といった具合に、回りやすいように。
 途中で休憩するための店も、食事する店もきちんと予約を入れておくとか…。
 だが、安心しろ。
 必要な物を選びに出掛ける買い物にもいつかは行かなきゃならんが、その前にもちゃんと連れて行ってやるさ。お前が可笑しなシャツを見立ててくれそうなデートに、ゆっくりとな。
 他にも買い物は色々できるぞ、いろんな所で。



 買い物をするためのデートじゃなくって、普通のデート。
 それの途中で見付けたお店で、ちょっとしたものを買ってみるとか。
 ハーレイの車でドライブに出掛けて、通り掛かった場所や行き先でお土産物とか。
「お前の買い物、そういうトコから始めるんだな」
 そうやって買い物をするのに慣れたら、買い物デートだ。二人で街に繰り出そうじゃないか。
 変なシャツを選んでくれるんだったら喜んで着るし、恨みもしないぞ。
 学校に着ては出掛けられんが、お前と一緒に出掛ける時には着てやるからな。お前が笑い転げていようが、周りのヤツらが俺のセンスを疑おうが。
「うん、お小遣い、貯めておくよ!」
 ハーレイと沢山買い物をしなきゃいけないから、財布が空っぽにならないように。
 結婚する前の買い物をする時にお金が足りなくて困らないように、今からきちんと。



 頑張って沢山貯めておくね、って宣言したのに、プッと吹き出しているハーレイ。
 ぼくのお財布、空っぽになると思ってるんだろうか、大散財で。
「笑わなくてもいいじゃない!」
 ハーレイに変なシャツを買っても、ぼくはお金を全部使ったりしないから!
 バス代だけしか残らないような、そんな使い方はしないように気を付けるから!
 だって、買う物、一杯あるし…。
 結婚する時までに買わなきゃいけない物のお金は、残しておかなきゃいけないんだから…!
「お前、その金、全部自分で払うってか?」
 それだと俺の立場が無いぞ?
 俺と一緒にデートに出掛けて、お前が財布を出してるんじゃなあ…。
 変なシャツくらいは買ってくれてもかまわないがだ、その他のヤツは俺が支払う。変なシャツの金だって俺が払ってかまわないなら、俺が自分で買うんだがな?
「でも…。お金、買い物に行ってる友達とかは…」
 全部、自分で払ってるんだよ、今日だって。
 バス代だけしか残らなくなっても、買い物に行くなら自分でお金を払うものでしょ?
「そいつらは遊びに行ったんだろうが。デートじゃなくて」
 遊びとデートじゃ違うってもんだ、デートとなったら俺が払うのが筋だってな。
 変なシャツだけは是非買いたい、と言うんだったら止めはしないが、お前が自分の財布から金を出すのはそういう時くらいで充分なんだ。
 お前は俺よりうんと若いし、自分で稼いだわけでもないだろう?
 俺は自分で稼いでいる上、お前より遥かに年上なんだ。デートの時には俺が払わんとな、食事もそうだし、買い物にしても。



 ドライブに出掛けてパパやママにお土産を買おうって時にも、ハーレイが買ってくれるって。
 ぼくのお財布の出番はいつになるんだろう?
 ハーレイに変なシャツを買ったら、それでおしまいになるんだろうか?
「そうだな、変なシャツの他にとなると…。迷子になった時かもな」
 ドライブにしても、何処かへデートに行った時にしても。
「迷子?」
 えーっと…。それって、ぼくが一人で家まで帰るための交通費?
 ぼくは勝手に帰ったりしないよ、ハーレイを置いて。
「そりゃそうだろうが。俺もお前を見付けてやりはするが、それまでの間だ」
 一人きりでも腹は減るだろ、喉も乾くし。
 そういった時に、自分で何かを食べたり飲んだりする分の金は、お前の財布から出すんだな。
 俺が側にはいないわけだし、自分で払うしかないだろうが。
「それはそうかも…」
 ハーレイがいないなら、ぼくが払うしかないもんね。
 見付けて貰えるまでの間に、お腹が空いたら、パンを買ったり、ジュースを飲んだり。



 もしもデートで迷子になったら、自分の財布から食べる物と飲み物を買うお金。
 ぼくが使うお金はたったそれだけ、後はハーレイに変なシャツを買ってあげる分だけ。それだと少しもお金は減らない、本当にほんの少しだけ。
 食べ物と飲み物の分のお金も、ハーレイに買ってあげた変なシャツのお金も、またパパたちからお小遣いを貰って元に戻っていそうだから。
「…ぼくのお小遣い、減らないよ?」
 減った分だけ、またお小遣いが貯まりそうだし…。ぼくのお小遣い、減らないんだけど…。
「なあに、その内、お父さんたちから貰う生活も終わりだってな」
 嫁に来ちまったら、もうお小遣いは貰えんだろうが。
 お前の面倒は俺が見るんだし、お父さんたちはお役御免だ。
 たまに貰えることはあっても、今と同じようにはいかないってな。



 だからきちんと貯めておけよ、って笑うハーレイ。
 迷子になった時に備えて、って。
「…結婚しても迷子?」
 いつもハーレイと一緒にいるのに、それでも迷子になっちゃうと思う?
 デートならまだ分かるけれども、結婚した後に迷子だなんて…。
「分からんぞ?」
 十八歳で結婚するなんて言ってるんだし、俺に変なシャツを買いそうな年で結婚だろうが。
 まだまだ子供だ、迷子になることも充分有り得る。
 もっとも、結婚した後の、お前の財布。
 何度も迷子になった挙句に空になったら、俺が元通りにきちんと補充をしてやるんだがな。



 財布が空っぽになりはしないから、安心して迷子になってくれ、って片目を瞑られたけど。
 迷子になってお腹が空いたら、美味しいものを沢山食べてもいいらしいけど。
 ハーレイがぼくを見付けてくれるまで、のんびり出来るお店で、いろんなものを。
 ぼくのお財布の中身で色々、食べたり、飲んだり。
 いつかはハーレイと二人で買い物、ぼくのお財布の出番は迷子になった時だけ。
 結婚した後も、迷子の時だけ。
 でも、きっと迷子にはならないと思う、ハーレイと結婚した後は。
 デートの時だと分からないけど、結婚したら。
 だって、ハーレイと手を繋いで歩いてゆくんだから。
 結婚したらずっと一緒で、ハーレイと二人、何処までも歩いてゆくんだから…。




           買い物・了

※友達に買い物に誘われたブルー。けれど休日はハーレイと過ごす予定で、行くのは無理。
 いつかはハーレイと買い物ですけど、それは楽しいデートになりそう。買う物も一杯。
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