シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(おっ…?)
ハーレイの目に留まったシュークリーム。
ブルーの家には寄れなかった金曜日の帰り道、いつもの食料品店で。パンと一緒にちょっとしたケーキやシュークリームを置いている場所もあるのだけれども、それとは別の特設売り場。
店の入口から近い所にショーケースが据えられ、それは色々なシュークリームたちが出番待ち。声を掛ければ専用の箱に詰めて貰える、人気の店のシュークリーム。
中のクリームの味も様々なら、形の方もバリエーション豊か。小さなものから大きなものまで、白鳥の形に仕上げたものも。焼き色はとても美味しそうだし、中から覗いたクリームだって。
店の名前もよく耳にする。素材にこだわる評判の店。特設売り場は今週末まであるそうだから。
(ブルーに…)
小さなブルーへの土産にいいな、と覗き込んだ。
ブルーの母もシュークリームを焼いたりするから、重なってしまうかもしれないけれど。それに手作りの菓子と比べてしまうようで悪い気もするけれど、これは特別。
(人気の店です、って言えばいいしな?)
話題作りに持ってゆくなら、きちんと断れば問題無いから。小さなブルーに買ってやろうと決心した。明日の朝に寄って、買ってゆこうと。
そうと決めたら、試食もしておくべきだから。一番人気だというカスタードと生クリーム入りのシュークリームを買って、パンフレットも貰って帰った。何を買って行くか検討しようと。
夕食の後で片付けを済ませて、愛用のマグカップに淹れた熱いコーヒー。シュークリームの皿と一緒に書斎に運んで、コーヒー片手に、早速、試食。
(これはなかなか…)
絶妙な焼き加減のシュー皮、中のカスタードも生クリームも評判どおりに美味なもの。甘いのに少しもくどくない。幾つでも食べられそうな味。コーヒーのお供に、三つも四つも。
(もっと買っても良かったなあ…)
他の味のものを。チョコレートだとか、イチゴが入ったものだとか。
こうなってくると、ブルーへの土産に何を買うかも悩ましい。大きさや形で決めればいいか、と単純に考えていたのだけれども、味も考慮に入れなくては。ブルーが喜びそうな味。
もっとも、ブルーは好き嫌いなど無いのだけれど。弱い身体や年齢からして、如何にも多そうな好き嫌い。それが全く無いのがブルーで、その点に関しては自分も同じ。
幼い頃から、まるで無かった好き嫌い。前の生で食料事情に悩まされたからか、アルタミラでの餌があまりに酷すぎたのか。多分、そういったことが今も影響しているのだろう。
好き嫌いの無いブルーだからこそ、何を買おうか迷ってしまう。一番人気のものを選ぶか、他の味のにしてみるか。それとも形や大きさで選ぶか、なんとも決め難いシュークリーム。
(どれにするかな…)
普通の形のシュークリームもいいし、白鳥の形もブルーが喜びそうではある。可愛らしいと。
専門店ならではの大きなシュークリームもいい。普通のものなら三個くらいになりそうなのも。中のクリームの味になったら本当に色々、どうしようかとパンフレットを眺めていたら。
ふと目についた、クロカンブッシュ。小さなシュークリームを円錐形に積み上げたもの。それは本店のみでの販売、注文して作って貰う品。店に行っても並んではいないクロカンブッシュ。
好みの味と、積み上げるシュークリームの数とを決めてご注文下さい、と書かれてあった。
(ほほう…)
SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。
クロカンブッシュは、フランスという国の伝統的なウェディングケーキだったという。結婚式の他にも誕生日や祝い事のためにと作られていた、小さなシュークリームを積み上げたタワー。
積んだだけでは崩れてしまうから、飴などで固めて高くしてゆく。シュークリームの塔の高さが高いほど幸せがやって来るから、高く積み上げるものだとも。
円錐形の塔の天辺には、新郎新婦の像を据えたり、飴細工の薔薇やドラジェを飾ったり。
結婚式では、新郎新婦がクロカンブッシュを小さな木槌で割ってゆく。結婚式に出てくれた人にシュークリームを一つずつ配り、皆に祝福して貰えるように。
今の時代も、かつてフランスがあった辺りの地域では結婚式用に人気が高いクロカンブッシュ。誕生日などの祝い事にもよく使われる、と書かれたパンフレット。
伝統のお菓子は如何ですかと、ご注文に応じてお作りします、と。
小さなシュークリームを積み上げて出来た、円錐形の食べられるタワー。遥かな昔のフランスで生まれたウェディングケーキ。
(クロカンブッシュなあ…)
食べたことは無いけれど、写真は何度も見たことがあった。そういう菓子だと思っていたから、由来を考えもしなかった。シュークリームで作った塔だと、幾つも積み上げてあるのだと。
白鳥の形のシュークリームと同じで、シュークリームの形のバリエーション。そうだと今日まで思い込んでいたのに、伝統あるウェディングケーキだったとは。
(菓子の歴史までは、俺の守備範囲じゃないからなあ…)
気が向いたら調べてみる程度。クロカンブッシュは自分のアンテナに引っ掛からずに来たから、知らずに過ごしていたらしい。由緒あるケーキだったのに。
(俺が出席した結婚式のケーキは、どれも普通のケーキだったしな…)
何段にも重ねた真っ白なウェディングケーキや、新婦の手作りの大きなケーキや。結婚式の度にウェディングケーキを見て来たけれども、クロカンブッシュは見なかった。
地味だからだろうか、純白の生クリームで飾ったものやら、細かい細工が美しいシュガーケーキなどとは違って。シュークリームを積んだ塔では、飾り立てるにしても限度があるし…。
けれどもパンフレットのクロカンブッシュに妙に惹かれる。写真よりも、その由来の方に。
新郎新婦が木槌で割るとか、参列者に配るものだとか。
このパンフレットで初めて知った筈なのに。ウェディングケーキだとも思っていなかったのに。
(…何処かで見たのか?)
結婚式で一度も見ていないからには、映画かドラマ。自分でもすっかり忘れているだけで、その手のもので見たかもしれない。結婚式とパーティーの区別もついていないような子供の頃に。
そんなものかと思ったけれど。他に心当たりは全く無いから、記憶に残らないほど遠い昔。幼い自分が見たのだろうと、両親と一緒に映画かドラマだと考えたけれど。
(それにしては…)
心に引っ掛かり過ぎる。ただ掠めてゆくだけの欠片とは違う、ただの記憶の断片とは。
クロカンブッシュを木槌で割るのも、集まった人々にシュークリームを配るのも。式の参列者に一つずつ。クロカンブッシュを割って外した、小さなシュークリームを一人に一つ。
(味まで思い出せそうな気が…)
配られたシュークリームの味を。中のクリームや、皮にくっついた塔を固めていた飴の味やら、クロカンブッシュを形作っていた小さなシュークリームの味を。
自分は出会ったことも無いのに、映画かドラマでチラと目にしただけなのに。
(食い意地が張っているにしたって、程があるぞ)
子供だった頃の自分の瞳には、クロカンブッシュが魅力的に映ったというのだろうか。あの塔を壊して食べてみたいと、きっとこういう味がするのに違いないと。
(三つ子の魂百まで、と言うにしたってなあ…)
意味合いは少し違うけれども、子供時代の鮮烈な体験だったら、記憶に残りもするだろう。苦笑するしかないけれど。なんと食い意地の張った子供かと、味まで想像していたのかと。
(おふくろに強請ればよかったのにな?)
頼めば作って貰えたと思う、子供でも食べ切れそうなサイズのクロカンブッシュを。菓子作りが得意な母のことだから、強請りさえすれば数日の内に。早ければ次の日にでも出来ていそうな母の手作りのクロカンブッシュ。
(…なんで頼まなかったんだ?)
頼めない理由でもあったのだろうか、父に叱られた直後だったとか。それとも母につまみ食いがバレて、おやつ抜きの刑でも食らっていたというのだろうか?
それにしたって、ほとぼりが冷めれば頼めそうな気がするクロカンブッシュ。この年になっても思い出せるのだし、どうして頼まなかったのだろう。作って欲しいと、母に一言。
味まで思い出せそうなのに。中のクリームも、皮にくっついた飴の味も…、と思った途端。
(シャングリラか…!)
知っている筈だ、と鮮やかに蘇って来た記憶。小さなシュークリームの味。
前の自分が暮らしていた船、あの船にあった、クロカンブッシュが。シュークリームを高く積み上げた塔が、飴で固めて作られた塔が。
自分はそれを食べたのだった。木槌で割られて、配られた小さなシュークリームを。シュー皮についた飴の味の記憶も、クリームの味も本物の記憶。前の自分が食べたのだから。
(これはブルーに…)
買わねばなるまい、クロカンブッシュを真似られるような小さなシュークリームを。本物よりは小さいけれども、積み上げて見せられるシュークリームを。
土産に何を買ってゆくかは、もう決まった。大きなカップに幾つも詰められたシュークリーム。味は色々あるようだけれど、一番人気のもののミニサイズでいいだろう。試食用にと買って帰った生クリームとカスタード入りの、これと同じ中身のシュークリームで。
翌日、クロカンブッシュの記憶を大切に抱いて、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中に、昨日の食料品店へ。シュークリームの特設売り場の前に立ち、ショーケースの中を指差した。
「一つ下さい」と、小さなシュークリームが詰まったカップを。ブルーと二人で食べるには量も丁度いいサイズ、目的のものも充分に作れるサイズ。シュークリームを積み上げた塔を。
店のロゴ入りの紙袋に入れて貰ったそれを提げて、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。門扉の脇のチャイムを鳴らして、出て来たブルーの母に紙袋を渡した。「買って来ました」と。
人気の店が来ていたので、と詫びを言うのも忘れなかった。菓子作りが得意なブルーの母には、菓子の手土産は失礼だから。
「それから、出して頂く時なんですが…。取り皿の他に、大きな皿をつけて頂けますか?」
このシュークリームを積み上げたいので、そのための皿が欲しいんですが。
「あら、クロカンブッシュになさるんですか?」
よろしかったら作りましょうか、と訊かれたから。
実はシャングリラの思い出なのだ、と正直に答えた。前の自分とブルーが生きていた船にあった菓子だと、だから自分の手で積みたいと。
ブルーは忘れているだろうから、目の前で積んで見せたいのだと。
「それもあって、買って来たんです。ご面倒をおかけしますが…」
「いいえ、きっとブルーも喜びますわ」
お気遣い下さってありがとうございます。大きなお皿、持って行きますわね。
それから間もなく、二階のブルーの部屋に運ばれて来た紅茶とシュークリーム。テーブルの上にティーポットとカップ、シュークリーム用の取り皿と、それとは別に大きな皿が一つ。
ブルーの母が「ハーレイ先生のお土産よ」とシュークリーム入りのカップを置いて行ったから。
「買って来てやったぞ、いつもの店で売ってたからな」
日曜日までの出店なんだ。昨日、試食用にと買ってみたんだが、美味かったぞ。
「ホント? ここのシュークリーム、人気なんだってね!」
お店の名前を聞いたことがあるよ、ぼくは食べたことが無いんだけれど…。
ハーレイが食べて美味しかったんなら、もう絶対に美味しいよね!
でも、なんでお皿が余計にあるの?
取り皿があれば充分なように思うけど…。先にそっちのお皿に入れるの、カップの中身を?
「そのデカイ皿か? そいつにはちゃんと意味があるのさ、だから頼んだ」
お前のお母さんには直ぐに通じたが、お前の方はどうだかなあ…。
まあ、見てろ。この皿はこう使うんだ。
シュークリーム入りのカップの蓋を開け、中から一つ取り出して皿へ。その隣へと、また一つ。
幾つか使って小さな円が出来たら、その上へ次のを積んでゆく。二段目が出来たら、三段目を。
カップの中身は沢山あるから、四段目も五段目も作れそうで。
バランスが崩れないよう、三段目を均等に積み上げていたら、ブルーが首を傾げて尋ねた。
「それ、なあに?」
シュークリームを積み上げて行ったら何か出来るの、そうなの、ハーレイ?
「出来るとも。本当はこんな風に積むだけじゃなくて、崩れないように工夫するんだが…」
飴なんかで固めてやるんだがなあ、知らないか?
クロカンブッシュって名前の菓子でな、シュークリームで出来た塔なんだが。
「んーと…」
そういう名前は知らないけれども、言われてみたら見たことあるかも…。
お菓子屋さんに飾ってあったよ、本物かどうかは分からないけど。シュークリームは砂糖菓子と違って長持ちしないし、作り物だったかもしれないけれど…。
ちょっと美味しそうって思ったんだっけ、シュークリームの塔だったから。
見掛けただけで食べたことはない、と答えるから。
クロカンブッシュという名前の方も初耳だった、と積まれたシュークリームを見ているから。
「本当にそうか? お前、知らないのか、クロカンブッシュを?」
これから四段目を積むんだが…。食ったことも無ければ、名前も知らん、と。
「うん。だって、お店で見ただけだもの」
飾ってあったけど、お菓子の名前は無かったし…。買って貰ったわけでもないし。
ずいぶん高く積んであるよね、ってシュークリームを見ていただけだよ。
「なるほどなあ…。だったら、前のお前はどうだった?」
「えっ?」
前のって…。前のぼくのこと?
「他に誰がいるんだ、前のお前というヤツが。ソルジャー・ブルーだったお前の他に」
前のお前は知ってた筈だぞ、クロカンブッシュの名前も、味も。
シャングリラで作っていただろうが。これよりはデカいシュークリームだったが、普通のよりは小さめのヤツを塔みたいに高く積み上げて。壊れないよう、飴で固めて。
結婚式と祝い事の時に作った菓子だが、お前、やっぱり忘れていたのか…。
「ああ…!」
そういえばあったね、クロカンブッシュ。
だからハーレイ、シュークリームを買って来てくれたんだ?
「そういうことだ。…もっとも、俺も忘れてしまっていたがな」
土産にシュークリームを買って行くか、と試食用のを買って帰って…。パンフレットを見ながら何を買おうかと考えていたら、クロカンブッシュが載っていてな。
注文して作って貰うらしいが、そいつが気になって仕方なかった。食った覚えも無いのにな。
どういうことだ、と不思議だったが、前の俺が食っていたってわけさ。
白いシャングリラで一番最初に結婚式を挙げた恋人たち。アルタミラからの脱出組で、長い時をかけて育んだ恋。
シャングリラの改造も無事に終わって、ミュウの楽園が出来たから。自給自足の白い鯨で暮らす限りは、何の心配も無くなったから。
結婚したい、と言い出した二人。華やかな式は要らないけれども、二人で生きてゆきたいと。
反対する理由は何も無かったし、白い鯨には二人用の部屋も出来ていたから、其処へ移れば結婚生活が始まるけれど。直ぐにでも結婚出来るのだけれど、祝福したいと誰もが思った。せっかくの結婚なのだから。本当だったら、ウェディングドレスも要るのが結婚式だから。
けれど、シャングリラではウェディングドレスは作れない。たった一度しか袖を通さない贅沢な衣装は流石に無理で、次のカップルのために残しておいても、サイズが違えば役に立たない。白いドレスは諦めざるを得ず、結婚式は普通の制服で。
そんな調子だから、出来る範囲で二人の結婚を祝う何かを、と皆が声を上げた。何かしたいと、二人のために特別な何かをして祝福を、と。
自給自足の船の中では、工夫出来そうなものは食べる物。
結婚式にはウェディングケーキが登場するから、とケーキを作ろうという話もあったけれども。それが一番良さそうだ、と決まった所で、ヒルマンとエラがクロカンブッシュを持ち出した。遠い昔のフランスのウェディングケーキだったらしい、とデータベースで調べて来て。
「高く積み上げるほど幸せが来ると言うのだよ。クロカンブッシュは」
船の人数分を積み上げれば高くなるじゃないかね、とヒルマンが言って、エラからも。
「ケーキを作れば、均等に分けるのに困りそうですが…。クロカンブッシュなら簡単です」
同じ大きさのシュークリームを積むのですから、一人一個ずつ。とても公平だと思います。
それに、祝福の気持ちも溢れるでしょう。結婚する二人が一つずつ割って配るのですから。
「いいねえ、そいつは楽しそうじゃないか」
うんと賑やかな結婚式になるよ、とブラウが賛成、ゼルも「そうじゃな」と頷いた。
「皆に一つずつじゃ、割るのも時間がかかりそうじゃぞ。その間は式が続くんじゃからな」
結婚式にはピッタリじゃわい、と長老たちの意見が揃って、作ると決まったクロカンブッシュ。人数分の小さなシュークリームを積み上げ、飴で固めて作ったタワー。
結婚式の日に新郎新婦が二人一緒に木槌を手にして、割って配って、皆が二人を祝福した。一つずつ配られたシュークリームを頬張り、二人の未来が幸福なものであるように、と。
クロカンブッシュの評判は良くて、それからは結婚式の度に作った。結婚式は滅多に無いから、他の祝い事の時にも作られていたクロカンブッシュ。皆で賑やかに祝いたい時に。
「そうだったっけ…」
これはみんなでお祝いしなくちゃ、ってことになったら作っていたね。
普通のケーキの時もあったけど、クロカンブッシュは特別だっていう感じがしたものね…。
「俺が作るって話は覚えているか?」
「ハーレイが?」
クロカンブッシュを作るって言うの、そんな話があったっけ…?
「あったぞ、そいつも是非とも思い出して欲しい所なんだが…」
前のお前と話していたんだ、クロカンブッシュを作ろうとな。
いつかシャングリラで地球に辿り着いて、人類がミュウの存在を認めてくれたら。もうあの船の中だけで生きなくてもよくて、ミュウが地上で暮らせる時がやって来たなら。
その日が来たなら、ソルジャーもキャプテンも要らなくなるから、もう俺たちは必要無い。
実は恋人同士だったと明かしてもいいし、それを明かせる日が来たら…。
「作るんだっけね、クロカンブッシュ…」
ぼくとハーレイの結婚式のための、うんと大きなクロカンブッシュを。
「そうだ、俺がまた厨房に戻ってな」
俺たちのためのクロカンブッシュを作れる頃には、仲間だってぐんと増えてるんだろうが…。
たとえ何人に増えていようが、俺が一人で作るんだ。シュー皮も、中のクリームも。
固めるための飴もたっぷり鍋で作って、ついでに飾りの飴細工もな。
ソルジャーもキャプテンも要らなくなったら、前の自分たちの仲を明かして。
そうして二人で積もうとしていた、仲間の数と同じだけの小さなシュークリームを。ハーレイが作ったシュークリームを二人で積み上げ、ハーレイが作った飴で固めながら。
クロカンブッシュは高く積むほど幸せが来るというから、公園の天井にまで届いたとしても。
空を飛べた前のブルーはともかく、ハーレイは梯子をかけて登って積まねばならない高さでも。
そんなクロカンブッシュを夢見た、いつか二人で作りたいと。
地球に着いたら、ずっと恋人同士だったと明かしてもいい日が訪れたなら、と。
白いシャングリラでクロカンブッシュが配られる度に。
祝いの小さなシュークリームが一個、青の間やブリッジに届く度に。
何を祝うためのものであっても、ソルジャーとキャプテンには必ず届けられた祝福のための菓子だったから。
ほんの内輪の祝い事で作られたクロカンブッシュでも、必ず一個、届いていたから。
「ハーレイとぼくのクロカンブッシュ…。作れなかったね」
いつか作ろうって言っていたのに、作れないままで終わっちゃったね…。
「お前がいなくなっちまったしな」
俺が思ってたのとは違う形で逝っちまった。
お前を見送るつもりだったのに、その後で俺も追い掛けていくつもりだったのに…。
クロカンブッシュは作れなくても、俺たちは何処までも一緒だってな。
ブルーの寿命が尽きてしまうと分かった後には、とても辛かったクロカンブッシュ。
作りましたから、と木槌で割られて、それぞれに一個ずつ届けられる度に。
小さなシュークリームが配られる度に、悲しみが心に溢れてきた。
自分たちはこれを配れはしない、と。二人で夢見たクロカンブッシュを作れる日は来ず、割って配れる日も来ないのだと。
「お前の寿命が尽きちまう、って分かっちまったら、もう夢なんかは見られないしな…」
クロカンブッシュは作れないんだ、って分かっているのに、祝い事があったらシュークリームが届くんだ。あれが辛かったな、見る度に悲しくなっちまったが…。
それでも祝福の菓子だったからな、悲しんでいないで祝ってやるのがキャプテンだしな?
「うん、ぼくたちには届くんだよ。どうか祝福して下さい、って」
ぼくはソルジャーだし、ハーレイはキャプテンだったんだし…。
誰だって祝福して欲しいものね、他の誰よりも前のぼくたちに。
そうなんだ、って分かっていたから、「おめでとう」ってお祝いしていたけれど…。
ちゃんと幸せを祈っていたけど、あれはホントに辛かったよね…。
白いシャングリラの仲間たちは誰も、本当のことを知らなかったから。
ハーレイもブルーも、クロカンブッシュの小さなシュークリームを貰いたいのではなくて、配る方になりたかったのだ、ということに気付きもしなかったから。
クロカンブッシュが作られる度に、ハーレイにもブルーにもシュークリームが一つずつ。祝福を願う小さなシュークリームが。
「お前、いつでも残していたよな、俺が行くまで」
いつも食べずに取っておくんだ、クロカンブッシュのシュークリームが届けられる度に。
「うん…。ハーレイと一緒に食べたかったから」
でも、ハーレイの分のシュークリームは青の間には届かなかったしね…。当たり前だけど。
ハーレイの分はブリッジに届くか、お祝いの席で貰って食べるか、どっちかだもの。
「お前の分を二人で食ってたっけな」
小さいのをナイフで二つに切って。俺が半分、お前が半分。
「ハーレイと一緒にお祝いに出席できない時にはね…」
出席したくても、身体が言うことを聞かなくなっちゃった後は、いつも半分ずつだったよね。
だけど、その方が嬉しかったよ、ハーレイと二人きりだから。
ハーレイと二人でクロカンブッシュのシュークリームを食べられるんだから。
ぼくたちは配れないんだけれど…。
配れないままで、クロカンブッシュを作れないままで、ぼくの寿命は尽きちゃうんだけど…。
「作れなかったことは仕方ないんだが…。それは俺にも分かってたんだが…」
お前の寿命は尽きちまうんだ、って覚悟はしてたというのにな。
その後のことも決めていたのに、お前だけ先に行きやがって。
俺をシャングリラに一人残して、追い掛けていくことも出来ないようにしやがって…。
「ごめん…」
本当にごめん。でも、あの時は仕方なかったんだよ。
ハーレイまでいなくなってしまったら、シャングリラは地球まで行けやしないから…。
「いいさ、そいつが前のお前の生き方だしな」
寿命が尽きると泣いていたくせに、俺と離れて死んでしまうと泣きじゃくってたくせに、いざとなったら一人きりで飛んで行っちまったんだ。
右の手が凍えて冷たかった、と言っていたって、あの時、お前は俺と別れる方を選んだ。
シャングリラに残れば、俺と一緒に死ねていたかもしれないのにな。
自分のことより、ミュウの未来を大事にしたのが前のお前だ。
俺はそいつを恨んじゃいないし、お前を責めようとも思いはしないさ。
それで、だ…。今度は作るか?
「何を?」
「決まってるだろうが、クロカンブッシュだ」
前の俺たちが作れなかったクロカンブッシュ。今度は作ってもかまわんだろうが、俺もお前も、ソルジャーでもキャプテンでもないんだからな。
ウェディングケーキはそれにするか、と片目を瞑った。
土産に買って来たシュークリームを積み上げた塔の、一番上に乗った小さなシュークリーム。
それをつまみ上げて、そっと戻して、出来上がった塔を指差しながら。
こんな具合に俺が作ろうかと、シュークリームも前からの約束通りに俺が作って、と。
「何人分のシュークリームになるのか知らんが、シャングリラの頃に比べればなあ?」
とんでもない数になりはしないし、俺の家のオーブンを使ってコツコツ焼いても間に合うさ。
クリームだって出来ると思うぞ、俺の家のキッチンで充分にな。
シャングリラのヤツらの人数分だと、あの船のデカい厨房が無ければとても無理だが。
「クロカンブッシュを作るんだったら、シュークリーム作り、ぼくも手伝う!」
ママに教わって、ぼくも作るよ。シュー皮を焼いて、クリームを作って…。
ハーレイと一緒に頑張って作るよ、今のぼくなら作り方をママに習えるんだもの。
前のぼくだったら、厨房で見てるだけしか出来なかったけど、今のぼくなら手伝えるよ!
「作りたいと言うなら、止めはしないが…」
お前、シュークリームなんかは作ったことも無いんだろうが。
そうでなくても料理は調理実習だけだろ、シュークリームはあれでなかなか難しいんだぞ?
失敗しちまったら目も当てられんし、作るよりも積む方でいいんじゃないのか?
元々、二人で積み上げる予定だったんだ。
前の俺たちの頃に決めてたとおりに、俺が作って、二人で積んで。
無理しなくっても、それでいいと俺は思うがな?
「そうかも…」
ハーレイの足を引っ張っちゃうより、出来上がったのを二人で積む方がいいのかも…。
今日のはハーレイが積んでくれたけれど、本物のクロカンブッシュを作る時には、二人で一緒にシュークリームを積んで、飴で固めて。
小さなブルーへの土産にと買った、シュークリームを積み上げた塔。
それを二人で崩しながら食べた、上から一個ずつ外していって。
飴で固めたわけではないから、木槌で割る代わりに指でつまんで。
「美味しいね」と顔を綻ばせるブルーに、「美味いだろ?」と微笑み掛けながら。
「結婚式の時には、これに負けないのを作れるように頑張らんとな」と。
前の自分たちは作れないままで終わったけれども、今度は作れる、クロカンブッシュを。
結婚式に来てくれる人たちの数が白いシャングリラの仲間たちの数には及ばないから、凄い高さにはならないけれど。ほどほどの高さになるだろうけれど。
クロカンブッシュを結婚式まで覚えていたなら、ブルーと二人で手作りしよう。
シュークリームを自分が作って、ブルーと二人でそれを積み上げて。
やっと配れると、約束してから長い長い時が経ってしまったけれど…、と。
幸せになろう、ブルーと一緒に。
青い地球の上で二人、結婚式を挙げて。
祝福してくれる人たちに一人一つずつ、クロカンブッシュの小さなシュークリームを配って…。
シュークリーム・了
※シャングリラにあった、クロカンブッシュ。結婚式やお祝い事で配られたシュークリーム。
前のブルーたちも配る時を夢見て、配れないまま。今では配れるお菓子なのです、結婚式に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(かぐや姫…)
とっても早く育つんだよね、とブルーはコクリと紅茶を飲んだ。学校から帰っておやつの時間。母が焼いておいてくれたケーキと、熱い紅茶とで。
今日のハーレイの授業で出て来た、かぐや姫の話。竹取物語という正式名称だけだったけれど。遠い遥かな昔にこの地域にあった小さな島国、日本の古典。竹取物語は日本最古の物語だぞ、と。
それよりも先に書かれた物語は無かったらしい、竹取物語。
日本の古典を学ぶ上では常識なのだから、忘れてしまっていないだろうな、という確認。
授業ではそれだけだったのだけれど、ふと思い出した。かぐや姫は早く育つのだった、と。
(どのくらいだっけ…?)
竹の中から見付かるほどだから、生まれたばかりの赤ん坊よりも小さな子供。きっと手のひらに乗るほどの子供。大きさは忘れてしまったけれど。
とにかく小さいかぐや姫。なのに見る間にすくすく育って、アッと言う間に大人になる。大勢の求婚者がやって来るほどの大人に、それは美しい姫君に育つ。
一年もかかっていなかったと思う、かぐや姫が大人になるまでに。ほんの数ヶ月、三ヶ月くらいだったような気もする。
三ヶ月にしても、一年にしても、竹の中に入っていたような子供が一人前に成長するには短い、信じられないほどに短い時間。
今の自分は十四年もかかって育って来たのに、まだ子供だから。
前の自分と同じ背丈を目指しているというのに、手が届かないその背丈。あと二十センチ、今の自分との差はあまりに大きい。
いったい何年かかることやら、目標の背丈になるまでに。百七十センチに育つまでに。
(かぐや姫みたいに育てたらいいのに…)
竹から生まれて、みるみる成長したように。一年もかからずに大人の姿に育ったように。
かぐや姫は日毎に大きくなったというのに、自分ときたら、全く逆で。少しも伸びてはくれない背丈。ハーレイと再会した五月の三日から、一ミリさえも伸びてはいない。
育ち盛りの筈なのに。子供も草木も育つ季節の夏も過ぎて今は秋なのに。
きっと育つと思っていたのに、百五十センチから伸びない背丈。伸びずに止まっている背丈。
このまま育ってくれなかったら、自分の未来はどうなるのだろう?
百五十センチのままだったら。いつまで経ってもチビだったら。
まさか一生、子供の姿ということは無いだろうけれど。いずれは育つだろうけれど。
育ち始める時が問題、いつになったら前の自分と同じ背丈になれるのか。前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイはキスも許してくれない。そういう決まり。
だから育ってくれなかったら…。
(ハーレイと結婚出来ないとか?)
それが一番の心配事。背が伸びないことを考える時の。
結婚出来る年になっても今と同じにチビだったら、と。十八歳になっても、前の自分と同じ姿に育たないままでいたならば、と。
ハーレイに「駄目だ」と断られそうな、十八歳で結婚すること。キスも出来ないチビの姿では、そう言われても仕方ない。十八歳だと主張したって、見た目は子供なのだから。
でも…。
(かぐや姫だって育つんだしね?)
竹から生まれて、アッと言う間に大人になったかぐや姫。
それに比べれば、自分は此処までちゃんと育って来たのだから。ほんの二十センチだけ育ちさえすれば、前と同じになれるのだから。
ぼくにもきっと望みはあるよ、とケーキの残りを頬張った。残りはたったの二十センチ、と。
今は全く伸びないけれども、伸び始めたなら早い可能性もある。かぐや姫さながら、それまでの遅さが嘘だったように僅かな期間で成長するとか。
数ヶ月は無理でも、一年だとか。十八歳を迎える前の一年で大きく伸びるとか。
夏休みだけで数センチも伸びる子供もいるから、ゼロとは言えない可能性。二十センチを一年で割れば、無理なく伸びられそうだから。
おやつを食べ終えて、キッチンの母に空いたお皿やカップを返して。
部屋に戻って、勉強机の前に座って頬杖をついた。さっき考えていた、かぐや姫のこと。
(かぐや姫の絵本…)
持っていたかな、と記憶を探ったけれども、多分、無い。
幼稚園にはあったけれども、家には無かった筈だと思う。竹から生まれた小さなお姫様の物語。可愛らしい絵で綴られていた絵本は、どちらかと言えば女の子向けの本だったから。
(…本当は違うみたいだけどね?)
作者は恐らく男だろう、とハーレイの授業で教わった。今日の授業とは、また別の時に。日本で最初の物語はこれ、と竹取物語の名が挙がった時に。
元々は漢文で書かれていたという。漢文は男性向けの学問、女性は滅多に習わなかった。漢文を書くには教養が要るし、男性が書いたと考える方が自然なのだと。
漢文で書かれた物語だから、読者の方も男性だった可能性が高い竹取物語。物語の主役はお姫様でも、男性向けに書かれた物語。
今は女の子向けの本だけれども、可愛い絵本になっているけれど。
日本で一番古い物語、それが竹取物語。竹から生まれた小さな姫君がアッという間に育つ物語。
(うんと歴史がある話だから、ぼくだって…)
凄い速さで育てるかもしれない、かぐや姫のように。一年どころか、数ヶ月で。前の自分と同じ背丈に、ハーレイとキスが出来る背丈に。
百五十センチまでは育ったのだし、あと少しだから。二十センチ伸びればいいだけだから。
今はちっとも育たないけれど、残りは二十センチだけなのだから。
(いざとなったら、ギリギリでだって…!)
十八歳まで通う今の学校、卒業すれば義務教育は終わりで、結婚だって出来る年になる。三月の末に生まれた自分は、十七歳の内に卒業式を迎えるけれど。
その学校に通う間はずっとチビでも、もう卒業だという間際になって伸び始める可能性もある。急にぐんぐん育ち始めて、卒業する時には前と全く同じ背丈になっているかもしれないし…。
(うん、諦めたら駄目なんだよ!)
もしも今のまま育たなくても、チビのままで卒業の日が迫って来ても。
ハーレイに「チビでは駄目だ」と断られたって、婚約しておく価値は充分にある。もし育ったら結婚して、と頼んでおいて、卒業間近のギリギリの所で急成長して滑り込み。
前の自分と全く同じ背丈に育って、十八歳を迎えたら見事に結婚、ハーレイと暮らす。
(チビのままだったら、それもいいかも…)
卒業する日が、十八歳の誕生日が近付いて来たら、とにかく婚約、そして成長する方に賭ける。卒業までの残り期間で、誕生日までの数ヶ月で。
かぐや姫は一年もかからずに育って、一人前の大人になったのだから。
そこまで無茶は言わないのだから、僅かな期間で二十センチくらい伸びたっていい。ハーレイとキスが出来る背丈に、結婚してもいい背丈に。
「育つかもしれないから婚約してよ」とハーレイに頼み込んでもいい。上手くいったらチビから大人に急成長して、結婚というゴールに辿り着けるのだから。
チビのままでも諦めないこと、と考えていて。
ハーレイが「駄目だ」と苦い顔をしようが、婚約だけでも、と未来を思い描いていて…。
(そうだ、トォニィ…!)
かぐや姫どころか実例があった、とポンと手を打った。遠い昔の物語ではなくて、本当に育った子供たち。赤い星、ナスカの子供たちの例が。
前の自分が目撃していた、急成長した子供たち。ナスカで生まれた七人の自然出産児。
白いシャングリラの格納庫で初めて会った時には、トォニィは三歳にしかならない幼児だった。仮死状態に陥ったトォニィをキースが放り投げたから、慌てて両手で受け止めた記憶。
救助が来るまで抱いていたトォニィの身体はとても幼く、軽かったのに。
メギドの炎が赤いナスカを焼き払おうとした時、前の自分が張ったシールド。地獄の劫火を受け止めるべく張り巡らせたそれを、トォニィたちが強化してくれた。突然現れた子供たちが。
トォニィも、他の六人の子たちも、そのためだけに急成長して。
サイオンを使えるレベルの身体になるまで成長を遂げて、白いシャングリラから飛んで来た。
数ヶ月どころか、ほんの一瞬で大きく育って。かぐや姫でも敵わない速さで成長して。
だから…。
(頑張ったら充分、間に合うんだよ!)
前の自分と同じ背丈に育つこと。あと二十センチ、背を伸ばすこと。
数ヶ月もかけて育たなくても、その気になったら一日もかからずに成長できる。前の自分と同じ背丈に、同じ姿に育つことが出来る。
かぐや姫のような架空の物語ではなくて、実例を自分が見たのだから。前の自分の瞳が捉えて、今も覚えているのだから。
(ほんの一瞬で大きくなれるんだから…)
数ヶ月もあれば充分、間に合う。背丈を二十センチ伸ばすくらいは、きっと充分に。
(トォニィたちは二十センチどころじゃなかったものね…)
一瞬で背丈をグンと伸ばして、飛び出して来たナスカの子供たち。彼らはその後も成長し続け、アルテメシアに着いた時にはトォニィは青年の姿になっていた。月日はさほど経っていないのに。子供が大人に成長するほど、時は流れなかったのに。
前の自分が見ていた実例、一瞬の内に大きく育ったトォニィやナスカの子供たち。赤いナスカが滅ぼされた後も、育ち続けたトォニィたち。
ならば、自分もきっと成長出来るだろう。あと二十センチの分の背丈を、一瞬でだって。
(一瞬は無理でも、一ヶ月もあれば…)
数ヶ月もあれば、間に合うと思う。前と同じに育てると思う。実例がちゃんとあるのだから。
(ぼくだって、きっと…!)
今の背丈から育たなくても、チビのままでも、卒業間際にグンと背丈を伸ばせばいい。チビから大きく育てば間に合う、十八歳になったら結婚すること。ギリギリだろうと、間に合ったなら。
(ちゃんと育ったら、ハーレイも結婚してくれるものね)
望みが出て来た、と嬉しくなった。
今は少しも育たないままで、チビだと言われているけれど。本当にチビで子供だけれども、もう心配はしなくてもいい。
ハーレイがいくらチビだと言っても、結婚までには育つから。前とそっくり同じに育って、チビ呼ばわりはもうさせないのだから。
チビのままでも、とにかく婚約。卒業式を迎える前に。
それから急いで大きく育って、十八歳になったら結婚なんだ、と夢を見ていたら来客を知らせるチャイムが鳴って。仕事帰りのハーレイが来たから、胸を高鳴らせて切り出した。
母がお茶とお菓子を置いて行ってくれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、かぐや姫の話なんだけど…」
今日の授業で言っていたでしょ、日本で最初の物語だから忘れるなよ、って。
「質問か?」
授業時間中に訊き忘れたのか、と鳶色の瞳が瞬きするから。
「ううん、そうじゃなくて…。ぼくもあんな風に育つからね」
「はあ?」
育つってなんだ、なんの話だ?
俺にはサッパリ分からないんだが、お前は何を言いたいんだ…?
「かぐや姫だよ、凄い速さで育ったでしょ?」
竹から生まれて、大人になるまで一年もかかっていない筈だよ。
かぐや姫みたいにぼくも育つよ、今はチビでも、チビのまんまで十八歳になっちゃいそうでも。
急いで育って前のぼくとおんなじ背丈になってみせるよ、ハーレイとキスが出来る背丈に。
絶対に間に合わせるよ、と自信をもって宣言した。十八歳までには必ず前と同じに育つと。
かぐや姫と同じくらいの時間をかけて育ってゆくなら充分間に合うし、トォニィたちがナスカでやったようにするなら一瞬でだって、と。
「だからね、チビでも婚約してよ?」
十八歳になったら結婚出来るし、ぼくが十七歳になったら婚約。卒業までには婚約だよ。
「チビでも婚約って…。お前が育っていない時のことか?」
今と同じにチビのまんまで、見た目は今と変わらないガキで。
そういう姿で十七歳になっていたって、婚約しろっていう意味なのか?
「うん。チビでもいいでしょ、婚約くらいは」
「そりゃあ、いざとなったらチビのままでも貰ってやるって話はしたが…」
チビのお前でも嫁にしてやると言いはしたがだ、それはお前が十八歳になってからだぞ。
結婚出来る年になってもチビだったならば、仕方ないから貰ってやると…。
そういう場合は、婚約するのは十八歳になってからだな、それよりも前というのは無しだ。
何処から見たってチビのお前に、十八歳になったら結婚しようと婚約を申し込むのはなあ…。
それは流石に気が早すぎる、と腕組みをして渋られたから。
十八歳になるまで待てと、婚約するのはその後でいいと言われたから。
「それより前でも平気だってば!」
ぼくはきちんと育つんだから!
十八歳の誕生日までには、チビのぼくではなくなるんだから!
「間に合わせるってか、急いで育って?」
前のお前と同じに育って、それで結婚しようと言うのか?
「そうだよ、かぐや姫みたいに育つんだよ!」
かぐや姫の話は作り話かもしれないけれども、トォニィたちはホントに育ったじゃない!
あれと同じで育つ筈だよ、残りはたったの二十センチだし!
「ふうむ…。その意気込みは素晴らしいが、だ…」
お前、サイオン、使えるのか?
タイプ・ブルーなことは本当らしいが、そのサイオンを生かせてないのがお前だろうが。
「え?」
育つのにサイオンも何もないでしょ、ぼくは背を伸ばそうとしてるだけだよ?
本当に必要な時になったら、凄い速さで背が伸びるから。
「おいおい…。かぐや姫はともかく、トォニィたちの方はだな…」
多分、サイオンが関係していた筈だぞ、決定的な証拠やデータは無かったが…。
ノルディにも全く分からなかったが、サイオン抜きでは考えられん。
皆を守ろうという強い気持ちがサイオンと結び付いてだ、大きく育った筈なんだ。
あいつらが自分で言っていたからな、「大きくならないと守れなかった」と。ただ、サイオンをどういう具合に使ったのかは、最後まで謎のままだったがな…。
トォニィがソルジャーになった後にも、その辺の記録は残されていない。大きくなりたいと強く願ったと、そのせいで大きく育ったのだと回想していた程度でな。
自分でも分かっていなかったんだろう、どうやって成長していったのか。人類軍との戦いの中で必死に育って、それだけで精一杯だったんだろうな、きっと。
ついでに急成長をした子供の例はあれしか無いが、という話。
ナスカの子供たちの他には、急激な成長を遂げた例など皆無なのだ、と。
「…嘘…」
ハーレイが言う通り、サイオンのせいで育ったんだとしても。
人間はみんなミュウになったよ、トォニィたちの他にも育った人はいたんだと思うけど…。
誰でもサイオンを持ってるんだし、大きくなりたい、って思えばサイオンに結び付くでしょ?
「いや、本当だ。トォニィたちの他には誰一人いない」
今ではタイプ・ブルーも珍しくないが、そういう時代になっても一人も出ない。
前の俺たちが生きてた頃から、今までの間に長い長い時が流れたわけだが…。ただの一人も出て来ないままだ、トォニィたちのように育ったヤツは。
俺が思うに、種の存続がかかっていたから、奇跡みたいなものだったんだろうな。
ミュウという種族が生き残るために、神様が起こして下さった奇跡。
「でも、奇跡って…。ぼくがトォニィたちに会った時には…」
ハーレイが聞いていたのと同じで、自分の力で頑張ったみたいに言ってたよ?
育たないと守れなかったから、って。大きくならなくちゃいけなかった、って…。
だから奇跡じゃないと思うけど、トォニィたちが頑張っただけで。
「その後の世界でも、頑張ろうとしたヤツらは後を絶たなかったと思うがな?」
早く育とうと、大きく育ってやりたいことが幾つもあるんだと、努力したヤツら。
現に俺だって、そう願ったもんだ。
柔道にしたって、水泳にしたって、身体が育てば出来ることがググンと増えるんだしな?
トォニィたちの話は歴史の授業で習うからなあ、あんな具合に育ってみたいと大真面目に思っていたもんだが…。
同じような夢を見ているヤツらも何人もいたが、誰も成功しちゃいないってな。
かぐや姫を上回る速さで大きく育った、七人のナスカの子供たち。
彼らの話は今も伝わるから、彼らのように早く育ちたいと願う者たちも後を絶たない。もちろん中にはタイプ・ブルーも多くいた筈で、条件は同じなのだけど。
今に至るまで、成功例は一つも無いのだという。ただの一人も成し遂げていない。
歴史に残ったナスカの子たちの急成長は、あの時だけの奇跡。ミュウが滅びてしまわないよう、神が起こした奇跡の出来事。
「じゃあ、トォニィたちは…」
ただのタイプ・ブルーっていうだけじゃないの、奇跡の子供たちだったの?
あれっきり二度と同じような人間が出て来てないなら、トォニィたちは特別だったの…?
「多分な。かぐや姫みたいなものだったのかもな、月の都の人間じゃないが」
人間の中に生まれては来たが、月から来たような特別な子供。
月に帰って行きはしなかったが、同じミュウでも、何処かが違っていたんだろうなあ…。
ナスカが月の都だったかもな、と語るハーレイ。
トォニィたちが来た月の都はナスカだったかもしれないと。あの時だけしか無かった星だ、と。
「でも、ナスカって…。人類が入植していた星でしょ?」
ナスカじゃなくって、ジルベスター・セブンっていう名前で。
人類が捨てて行っちゃった後で、ジョミーたちが見付けて入植して…。
だからその前からナスカはあったよ、トォニィたちが生まれた頃だけじゃなくて。
「そのナスカだが…。人類が入植していた頃には、子供が育たなかったらしいぞ」
大人には全く影響は無いが、どうしたわけだか子供が育たん。そんな星ではどうにもならんし、マザー・システムはナスカを捨てたらしいな。
「そうだったの?」
「うむ。俺も最初は知らなかったが…」
その手の情報はシャングリラのデータベースには無くて、捨てられた植民惑星というだけで。
ならばいいかと入植を決めて、後から分かったことなんだよなあ…。
ナスカに降りたジョミーが見付けた、古い小さな天文台。
側にあった白いプラネット合金の墓碑、其処に彫られていた銘文。
「誰が私に言えるだろう。私の命が何処まで届くかを」。SD体制が始まるよりも遥かな昔の、リルケの詩から取られたそれ。
リルケの詩集を好んだ子供のためにと建てられた墓碑、ハーレイも墓碑を見たという。天文台のある家に飾られた、その子と家族の肖像画も。
養父母に連れられて入植した子は育たなかった。リルケの詩集が好きだった子は。
他の養父母と共に来た子も、誰一人として。
子供が育たない原因は掴めず、人類はナスカを去って行った。この星は駄目だと。
そういった情報を得た頃にはもう、トォニィがカリナの胎内に宿って育ちつつあって。どうやらミュウには影響が無いと、無事に子供が育つようだと、そのまま留まり続けたという。
本当にこの星が子供の育たない星であるなら、カリナが子供を宿す筈が無いと。
「子供が育たない星だったって…。あのナスカが?」
なのにトォニィたちが生まれたの、そんな星で?
人類の子供は育たないのに、ミュウの子供はちゃんと育ったの…?
「奇跡のようにな。…人類とミュウでは違っていたのか、それとも神様が起こした奇跡か…」
俺は奇跡だと思っている。あの頃は人類とミュウの違いだと考えていたが…。
今から思えば奇跡なんだろうな、誰もが揃ってタイプ・ブルーで、凄い速さで成長して…。
神様が下さった奇跡の子供ということなんだろう、ナスカの子たちは。
本来、子供が育たない筈の星で生まれて来たんだからな。
「…知らなかった…」
ナスカがそういう星だったなんて、今の今まで知らなかったよ。人類が捨てた星ってことしか。
「あまり知られていないからなあ、トォニィたちが生まれた背景ってヤツは」
成長した後の活躍ばかりが注目されてて、その前の平凡な子供時代は霞んじまって。
俺だって、前の俺だった頃の記憶が無ければ知らんままだぞ、ナスカがどういう星だったかは。
本当だったら、子供が育たなかった筈の赤い星。
白いシャングリラのデータベースに情報があれば、けして入植していなかった。自然出産で次の世代を育ててゆこうと、ナスカを選んだのだから。
たとえ人類の子供であろうと、子供が育たないからと廃棄された星に降りたりはしない。子供を産んで育ててゆくには、まるで適さない星なのだから。
けれど船には情報が無くて、何も知らずに入植したナスカ。星の正体が分かった時には、新しい命が育まれていた。子供が育たない筈の星で。生まれてくる筈も無さそうな星で。
「ナスカはミュウのための星だったんだろうなあ、人類には捨てられた星だったが」
あの星でトォニィたちが生まれて、そこで歴史が変わって行った。
自然出産に戻る切っ掛け、トォニィたちが無事に生まれたからこそだしな。
「でも、ナスカ…。砕かれちゃったよ?」
ミュウの星だったせいで、メギドに焼かれて砕かれちゃった…。
歴史が変わった星だけれども、ナスカは何処にも残っていないよ。
「あれ以上、あったら駄目だったんだろう。かぐや姫が月に帰ったように」
奇跡の子供は七人いれば充分だろう、と神様も思っておられたんだろうな、それで足りると。
もっと長くナスカに留まっていても、子供は生まれなかったかもしれん。
でなけりゃ、生まれてもトォニィたちみたいな奇跡の子供にならなかったとか、そういった風になっていたんじゃないか?
あの星は期限付きの奇跡の星だったんだ。…ミュウが未来を築くための。
トォニィたちが生まれた月の都で、トォニィたちが月に帰らないよう、月が姿を消したってな。
月の都がなくなっちまえば、かぐや姫は帰れないからなあ…。
トォニィたちを育てた月の都。七人の奇跡の子たちが生まれた月の都が赤い星、ナスカ。
赤いナスカはミュウの未来を築くための月で、役目を終えたら月は姿を消したというから。月の都に帰れないよう、月の方が消えていったというから。
「…トォニィたちが月に帰れないように、って消えたにしては…」
ナスカが消えちゃった時の犠牲者、多すぎない?
前のぼくはともかく、ナスカで死んじゃった仲間たちの数が多いんだけど…。
いくら奇跡の星にしたって、月の都ってことにしたって、あんまりじゃない…?
「それを言うなら、かぐや姫の話も酷いもんだが?」
かぐや姫の絵本や子供向けの本では、それほど酷くは書かれていないが…。
求婚したヤツらの末路を知っているのか、かぐや姫に無理難題を出されたヤツら。
一番悲惨な貴公子なんかは、命を落としてしまうんだがな?
ツバメの子安貝を取りに行かされた中納言はだ、その時に落っこちて腰を傷めて、その傷が元で最後には死んでしまうんだぞ。
他の貴公子も散々な目に遭う、と聞かされてみれば酷いから。
絵本などで漠然と知っていた以上に酷い末路で、その上、かぐや姫は何もかもを忘れて月の都に帰って行ってしまうから。
「ナスカって…。月の都って言うより、かぐや姫だったの?」
ミュウが見付けた、竹の中に入っていたお姫様。
竹から出て来る宝物の代わりにトォニィたちをくれたけれども、その後はもう知らない、って。
勝手にしなさい、って月に帰ってしまって、それっきりだとか…。
ナスカで死んでしまった仲間は、かぐや姫に振り回されちゃった求婚者みたいな立場だとか。
「さあなあ…?」
あの星がかぐや姫だったのか、月の都か、そいつは分からん。
だが、トォニィたちをくれた奇跡の星なのは確かだ、ナスカが無ければトォニィたちは生まれて来なかったんだからな。
トォニィたちがいなけりゃ、前の俺たちやジョミーがどう頑張っても、シャングリラは地球には行けなかっただろう。
ナスカが月の都だろうが、かぐや姫だろうが、あの星は奇跡の星だったんだ。
それはともかく…。
お前の夢見る未来は無いな、と額をピンと弾かれた。
凄い速さで成長するのは多分無理だぞ、と。
「トォニィたちにしか出来なかったことだ、あれ以来、誰も出来てはいない」
ミュウの時代がここまで続いても、誰も成功していないんだ。
トォニィたちだったからこそ起こせた奇跡だ、いくらお前でも真似は出来んな。
タイプ・ブルーに生まれていようが、元はソルジャー・ブルーだろうが。
生まれ変わりがせいぜいってトコで、それ以上の奇跡は神様も起こして下さらんだろう。
「うー…」
ぼくは大きくなりたいのに…!
ちっとも育たないチビのままだと、ホントのホントに困っちゃうのに…!
十八歳になっても今と同じでチビのままだったら、ハーレイと結婚出来ないのに…!
「まあ、いいじゃないか」
そんなに急いで育たなくても、時間はたっぷりあるんだからな?
トォニィたちは早く育ちはしたがだ、その代わり、子供時代が短かっただろうが、違うのか?
今のお前よりも遥かに小さいガキの頃から戦い続けて、死んじまった子もいたんだぞ。
それを思えば、お前はずうっと恵まれてるんだ、育たなくても誰も困らん。
お前は困ると言うかもしれんが、社会ってヤツには全く影響しないだろうが。
前のお前と全く違って、守らなければいけない船も仲間も無いんだし…。
今度はのんびり育てばいいだろ、トォニィたちの真似なんかせずに、子供時代をうんと楽しめ。
育っちまったら、もう子供には戻れないんだから、チビの間はチビの時間を楽しむことだ。チビだからこそ言える我儘とか、許されるようなことだとか。
そういったことが山ほどあるんだ、チビの時間もいいもんだぞ。
チビでもいつかは嫁に貰ってやる、とハーレイは微笑んでくれたから。
かぐや姫やトォニィたちのように凄い速さで成長するのも、どうやら望みは無さそうだから。
(…チビだった時はチビのままでも…)
ナスカの思わぬ話も聞けたし、今日の所はこれでいいのだろう。
子供が育たない筈の星で生まれた、奇跡の子たち。奇跡のように育ったナスカの子たち。
前の自分がメギドを沈めてミュウの未来を守ったあの日に、あの子たちにも奇跡が起こった。
今に至るまで例が無いという、信じ難い速さで育った子たち。
赤いナスカが月の都か、かぐや姫かは分からないけれど、あの星で奇跡が起こったように。
今の自分が青い地球の上に生まれ変わったこともまた、神が起こした奇跡だから…。
焦らずに待とう、前の自分と同じ姿に育つ日を。
自分と同じに生まれ変わって来た、ハーレイと結婚出来る日を。
いつかは必ず、育つ日が来る。
ハーレイと二人、手を繋いで何処までも歩いてゆける。
赤い星ではなくて、青い地球の上で。
いつまでも二人、手を繋ぎ合って、何処までも続く幸せな道を、互いに微笑み交わしながら…。
かぐや姫・了
※かぐや姫のように急成長した、ナスカの子たち。そんな例は他には無いままなのです。
そして子供は育たない筈の、ナスカという星。赤いナスカは、月の都だったかもしれません。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園の新年恒例行事も終わって、今日からのんびり。しかも金曜、明日から土日とお休みになるという嬉しい日です。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ直行、みんなでのんびりティータイムで。
「暫くはゆっくり出来そうだよね!」
三学期は何かと忙しいけど、とジョミー君。三学期には入試もありますし、卒業式も。どちらも私たちが忙しくなるイベントです。入試の時には会長さんが合格グッズを販売しますから、そっち絡みで色々と。卒業式には校長先生の像を変身させるお仕事が。
「そうだな、とりあえず入試の前までは暇だろうな」
そこから先は怒涛の日々だが、とキース君が合掌を。
「入試が済んだらバレンタインデーで、その辺りも荒れる時には荒れるからなあ…」
「「「シーッ!!!」」」
言っては駄目だ、と唇に人差し指を当てた私たち。バレンタインデーが荒れる原因、会長さんのことも多いですけど、圧倒的に…。
「そうだった。言霊というのがあるんだったな」
すまん、とキース君は謝りましたが。
「こんにちはーっ!」
「「「!!?」」」
時すでに遅しとは、このことでしょうか。振り返った先に紫のマント、会長さんのそっくりさんが出て来ちゃったではありませんか…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
おやつ食べるよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今日のおやつはホワイトチョコとオレンジのチーズケーキです。オレンジの甘煮にホワイトチョコたっぷり、ソルジャーが断るわけもなく。
「食べる! それと紅茶も!」
「オッケー!」
ソルジャーは空いていたソファに腰掛け、ササッと出されたケーキと紅茶。はてさて、言霊とやらで出て来たものか、それともおやつがお目当てなのか、と見守っていれば。
「えーっと…。工作はシロエが得意だったっけ?」
「「「工作?」」」
「うん。破壊工作とかそんなのじゃなくて、こう、なんて言うか…。造形とか?」
毎年、卒業式には頑張ってるよね、と言い出すソルジャー。校長先生の大きな銅像を変身させている件らしいです。あれは工作と言うよりは…。
「ぼくのは注文制作ですよ?」
会長の案に従って設計図を書いて作ってますが、とシロエ君。
「それに工作じゃなくて、もはや一種の機械の制作ですね。目からビームと花火の打ち上げは基本装備ですし、場合によっては何段階かに変形することもありますから」
「言われてみれば…。だったら、土を捻るのとは違うのかな?」
「「「はあ?」」」
土を捻るって言いましたか? それって、お茶椀とか壺とかを作るって意味?
「そう、それ! こっちの世界じゃ土を捻るって言うんだってね、粘土細工を」
「「「粘土細工…」」」
身も蓋も無い言われよう。もう少しマシな表現方法は無いのでしょうか。土を捻るなどと言ったからには、せめて焼き物とか…。
「だけど、粘土細工で合ってるだろう? 粘土なんだしさ」
「それだと幼稚園児がやってることと変わらないんだよ!」
粘土遊びは基本の内だ、と会長さんが。
「卒園記念に粘土をこねて像を作って置いて行くとか、普通にやるしね」
「なるほど…。幼稚園児でも出来るレベル、と」
「粘土をこねるだけだったらね」
その先は果てしなく深い世界だ、と会長さんは言ってますけど。ソルジャーは何故に工作だの土を捻るだなどと…?
「ああ、それね!」
そういうものだと教わったから、とソルジャーは座り直しました。
「今日はノルディとランチだったんだ。その後に会議が入っていたから、いつもの服に戻っちゃったけどさ」
「君は会議が控えてる時もノルディとランチに行くのかい!?」
「誘われればね!」
実は思念のホットラインが、と初めて聞かされた恐ろしい話。思念のホットラインって…?
「え、それは…。君たちがぼくの世界へ思念を送るのはまず無理だろう?」
「最初からやろうと思いませんが!」
用も無いですし、とシロエ君が一刀両断。ソルジャーは「そうだろうねえ…」と頷いて。
「だけどノルディはそうじゃない。ぼくを誘いたいタイミングもあるし」
美味しい店を見付けた時とか、暇な時とか…、と言われれば、そうかも。
「そんな時にね、ぼくが覗き見をしてればいいけど、していなければ通じないだろう?」
「通じないだろうね」
ノルディの思念もその程度、と会長さん。
「それで、ホットラインがどうしたって?」
「せっかくのお誘いを無駄にしたくはないからねえ…。こう、シャングリラ全体に思念を張り巡らせるのと同じ要領で! ノルディとぼくとの間に一本、思念の糸が!」
「「「ええっ!?」」」
流石の食い意地、ランチやディナーのためにそこまで…。
「いけないかい? その糸を伝って思念が来るわけ、出掛けませんか、と!」
「「「うわー…」」」
恐るべし、思念のホットライン。別の世界との糸電話か、と恐れ入っていれば。
「そんなトコかな。とにかく、今日もお誘いがあって、素敵なお店に行ったんだけれど…」
「其処で素晴らしい食器でも出て来たのかい?」
でなければ床の間に国宝級の焼き物が飾ってあったとか…、と会長さんが尋ねると。
「床の間じゃなくて、玄関だったね。それと入口」
「「「入口?」」」
玄関はともかく、料亭の入口。そんな所に国宝級の焼き物なんかを置くでしょうか? いくら高級料亭が並ぶパルテノンでも酔客はいます。入口じゃ酔っ払いに割られてしまっておしまいってことになりませんか…?
「それはまた…。えらく剛毅なお店だねえ…」
会長さんも同じことを考えたようなのですが、ソルジャーの方は。
「そうかなあ? 何処もけっこう置いているけど?」
「そうなのかい? これでも店には詳しいつもりだったんだけどなあ…」
「見落としてるんじゃないのかい? サイズの方も色々だしね」
「サイズ?」
なんのサイズ、と会長さん。
「その焼き物には何か統一規格でも? 最近始めた企画か何か?」
雛祭りにはちょっと早すぎだけど、と会長さんは首を捻りながら。
「店の自慢の工芸品とかを店先に飾ることはあるしね…。揃いの灯篭を置いてみるとか、そんなイベントも無いことはない。そっち系かな、焼き物の灯篭もあるからね」
「うーん…。中身は多分、空洞だろうけど…」
「灯篭かい?」
「灯篭って明かりが灯るヤツだよね? そういう風にはなっていないよ」
置いてあるだけ、という答え。店の入口にドンと置かれていて、店によっては隣に盛り塩。
「あの盛り塩ってヤツも、何だか分かっちゃいなかったけど…。商売繁盛なんだってね?」
「正確に言うなら、お客さんを呼ぶためのものだよ」
プラス魔除けも兼ねているかな、と会長さんの解説が。遥か昔に中華料理の国で始まったらしい盛り塩なるもの。後宮、いわゆるハーレムに向かう皇帝のために置かれたそうで。
「なにしろ皇帝のハーレムだしねえ、女性の数も半端じゃなくて…。何処へ行こうか、皇帝の方でも悩んじゃうから、羊にお任せっていうことになった」
「「「羊?」」」
「牛って説もあるけどね。とにかく自分が乗ってる車を引く動物にお任せなわけ。それが止まった所に行こう、というわけさ。それで迎える女性の方が編み出したアイデアが盛り塩なんだよ」
動物は塩を舐めたがるもの。野生の鹿などが山の中で塩を含んだ場所に集まるというほどらしくて、盛り塩に惹かれた羊だか牛だかは其処でストップ、女性は見事に皇帝をゲット。
「そういう故事に因んで、盛り塩。それと清めの塩を兼ねてて、魔除けだね」
「ふうん…。そうなると盛り塩も侮れないねえ、由来はハーレムだったのかあ…」
魅力的だ、とソルジャーの瞳が輝いてますが。盛り塩の由来がハーレムと聞いて喜ぶようなソルジャーが目を留めた焼き物とやらは、いったいどういう代物でしょう?
「んーと…。盛り塩がそういう由来だとすると、あの入口の焼き物の方もやっぱり…」
「「「は?」」」
料亭の入口にはけっこう置かれていると聞いた焼き物。中が空洞らしい焼き物、何か由緒がありそうだとか…?
「ノルディが言うには、あれも商売繁盛なんだよ! しかもデカイし!」
「えっ? さっきサイズは色々だ、って…」
君が言った、と会長さんが問い返せば。
「そうだよ、焼き物のサイズは色々。だけど形はほぼ共通でさ、それは素晴らしい特徴が!」
「どんな特徴?」
「デカイんだよ!」
とにかくデカイ、とソルジャーは両手を広げてみせて。
「ノルディの話じゃ八畳敷って言ったかなあ…。それくらいはあると言うらしくって!」
「何が?」
「その焼き物の袋のサイズ!」
それが八畳、と言われても何のことやらサッパリ。顔を見合わせた私たちですが、ソルジャーは。
「分からないかな、見たこと無いとか? こう、店の入口にタヌキの焼き物!」
「「「タヌキ!?」」」
アレか、と誰もが思い出しました。高級料亭に限らなくても、いえ、どちらかと言えばむしろ普通のお店の方が高確率で置いているタヌキ。ユーモラスな顔のタヌキの焼き物、笠を被って徳利を提げて、お通い帳を持ったタヌキの置物…。
「分かってくれた? アレのアソコが凄くデカイね、とノルディに言ったら八畳敷だと!」
その上で宴会が出来るほどだと教えてくれた、と凄い話が。タヌキの置物でデカイ所で、ソルジャーが目を付けそうな部分はアソコ以外にありません。ちょっと言いたくない、下半身。
「そう、それ、それ! 金袋って言うんだってね!」
お金が入る商売繁盛の縁起物で…、とソルジャーの口調が俄然、熱を帯びて。
「タヌキが人を化かす時には巨大な袋を頭に被ると教わったよ? そして宴会を繰り広げる時は、袋をお座敷に仕立ててドンチャン、それが八畳敷ってね!」
そんな特大の袋に見合ったイチモツも持っているであろう、とソルジャーは例のタヌキに惹かれた模様。
「盛り塩の由来がハーレムだったら、あのタヌキだってハーレムだとか?」
きっと素敵な由来だよね、と言ってますけど、あのタヌキっていうのはそうなんですか?
「タヌキは無関係だから!」
ハーレムとはまるで関係ないから、と会長さんが切って捨てました。
「あれはあくまで縁起物! 八畳敷は大きな袋でお金が入るって意味だけだから!」
「…たったそれだけ?」
「そう、それだけ!」
だから商売繁盛のお守りで入口に置かれているのだ、と会長さん。ソルジャーは「うーん…」と残念そうな顔ですけれども、「じゃあ、もう一つの方!」と立ち直って。
「玄関には別のがあったんだよ! あれはどうかな?」
「別の焼き物?」
「うん。そっちはタヌキじゃなくって、猫で。ノルディがそれも商売繁盛なんだ、って」
「「「あー…」」」
招き猫か、と今度は一発で分かりました。ところがソルジャーはそれだけで止まらず。
「どっちの前足を上げているかで招くものが違うと教わったけど? 人を招くか、お金を招くか」
「そう言うけど?」
会長さんが返すと、「やっぱりね!」と嬉しそうに。
「人を招くならアレと同じだろ、盛り塩の理屈! 猫がハーレムで役に立つのかな、こっちに来いって呼び寄せるとか!」
「ハーレムじゃないから!」
「違うのかい?」
「招き猫はあくまでお客さんだよ、でなければ招いて危険を回避させたとか!」
猫に招かれて木の下から出た途端、その木に落雷といった由来もあるのだそうで。その一方で、お世話になった猫の恩返し。自分の置物を作って売って下さい、と夢の中で言われてその通りにすれば飛ぶように売れて儲かったとか。
「そんなわけでね、招き猫の方は良くてせいぜい縁結びだから!」
「縁結びだったら充分じゃないか!」
出会いの後には一発あるのみ、と飛躍してしまったソルジャーの思考。
「縁を結んだら身体もガッチリ結ばないとね! 一発と言わず、五発、六発!」
「「「………」」」
なんでそういうことになるのだ、と言うだけ無駄だと分かってますから、誰も反論しませんでしたが。ソルジャーの方は大いに御機嫌、上機嫌で。
「今日は来てみた甲斐があったよ、大いに収穫!」
もう最高だ、と御満悦。タヌキと招き猫とでどういう収穫…?
「工作はシロエが得意なのかい、と訊いた筈だよ」
最初に訊いた、とソルジャーは私たちをグルリと見回しました。
「ノルディとのランチで閃いたんだ。すっかり見慣れたタヌキと猫の焼き物だけれど、この二つは役に立つんじゃないかと!」
「…どんな風に?」
あまり聞きたくないんだけれど、と会長さんが訊き返すと。
「どっちも人を招くという上、タヌキは八畳敷だからねえ! 猫とタヌキを合体させれば、絶倫パワーを招き寄せるんじゃないかと!」
「「「ええっ!?」」」
斜め上すぎる発想でしたが、ソルジャーはそうは思わないらしく。
「八畳敷だと絶倫だろ? それだけのパワーが詰まっているからデカイんだしね! おまけにそれに見合ったイチモツ、焼き物だと控えめになっているけど、臨戦態勢になったらきっと!」
とてもデカイに違いない、と頭から決め付け。
「でも、タヌキだけでは弱いんだ。商売繁盛に走ってしまうし、其処に招き猫のパワーをプラス! 人を招くならエロい人だって招ける筈だよ!」
ヤリたい気持ちの人を招いてガンガンやるべし、と強烈な理論。
「つまりは合体させたパワーがあればね、ぼくのハーレイのヤリたい気持ちがMAXに! 今でも充分満足だけれど、更にググンとパワーアップで!」
其処へタヌキの八畳敷の御利益がプラスで疲れ知らず、と凄い解釈。
「しかも盛り塩が横に置かれているってケースも多いしねえ…。タヌキの中には長年の内に盛り塩パワーも蓄積されているに違いないと見た!」
ハーレムへようこその盛り塩なのだ、と仕入れたての知識も早速炸裂。
「要はタヌキと招き猫を合わせた焼き物があれば! それを青の間に置いておいたら、夜の生活がグッと豊かに!」
「…君のぶるぅに割られるだけだと思うけど?」
悪戯小僧に、と会長さんの冷静な意見。
「…ぶるぅ?」
「そう、ぶるぅ。そんな焼き物を作って飾れば、割られてしまうか悪戯描きか…。如何にもぶるぅがやりそうだしねえ、作る以前の問題だね」
馬鹿な努力をするだけ無駄だ、と鋭い指摘が。確かに「ぶるぅ」が悪戯しそうな気がします。タヌキだけでもユーモラスなのに、招き猫との合体とくれば悪戯心を刺激されますよ…。
「ぶるぅか…」
それは盲点だった、とソルジャーが呻き、終わったかと思った珍妙な計画。けれど相手は不屈のソルジャー、SD体制とやらで苦労しつつもしぶとく生きている人で。
「うん、その点なら多分、大丈夫! 夫婦円満の神様なんだ、と言っておくから!」
「「「えっ!?」」」
「そう言っておけば、ぶるぅ対策はバッチリってね! ぼくたちの仲が円満でないと困るしね?」
どちらかが「ぶるぅ」のパパでママだし、とソルジャーは負けていませんでした。
「ぼくたちが夫婦喧嘩となったら、ぶるぅにだってトバッチリが行くし…。そうならないための神様だったら、まず悪戯はしないってね!」
「…そ、それじゃあ…」
会長さんの声が震えて、ソルジャーが。
「作って欲しいんだよ、その神様を!」
「「「!!!」」」
ひいぃっ、と叫んだのが誰だったのか。招き猫とタヌキが合体した焼き物、私たちに作れと言うわけですか?
「だってさ、ぼくは手先が不器用だしね? 粘土細工なんかはとてもとても」
それに焼き物にも詳しくないし、とソルジャーは溜息をつきました。
「ぼくのシャングリラじゃ食器とかも作っているけれど…。こっちの世界と焼き方が違うと思うんだ。だからね、パワーのこもった神様を作るならこっちの世界で!」
よろしく、と頭を下げられましても。…そんな焼き物、誰が作るの?
「工作はシロエが得意なんだろ? だけど君たち、粘土細工に馴染んでいそうな感じだしねえ…」
幼稚園の頃からやるんだったら、と言われて背筋にタラリ冷汗。この流れだと、もしかして、もしかしなくても…。
「よし、決めた! 神様を作ってくれる人数は多いほど御利益がありそうだしねえ、此処は君たち全員で! もちろん、ブルーも、ぶるぅもだよ!」
みんなで粘土をこねてくれ、と嫌すぎる方へと突っ走る話。
「「「…み、みんなで…?」」」
「そう! 粘土はぼくが調達するから、明日にでも!」
ブルーの家で神様を作ろう、とソルジャーは決めてしまいました。明日の土曜日は会長さんの家に集まり、粘土をこねる所から。しっかりこねたらタヌキと招き猫とを合体させた神様とやらを作るそうですが、私たち、いったいどうしたら…。
一方的に決められてしまった、土曜日の予定。全然嬉しくない予定。しかし逆らったら何が起こるか考えたくもなく、翌日の朝から私たちは会長さんの家を訪ねる羽目に陥りました。バス停で集合した後、重い足を引き摺って出掛けて行って、チャイムを鳴らすと。
「かみお~ん♪ ブルー、もう来ているよ!」
みんなで工作するんだよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。家事万能でも基本がお子様、幼稚園児なレベルですから粘土細工というだけでワクワクらしく。
「入って、入って!」
「…邪魔するぞ…」
俺はお邪魔したくはないんだが、とキース君が零した言葉は誰の心にもある言葉。それでも靴を脱いで上がるしかなく、案内されてリビングに行けば私服のソルジャーが。
「やあ、おはよう。今日はよろしく頼むよ」
これが粘土で…、とリビングに敷かれたビニールシートの上に塊がドンと。会長さんが頭を振り振り教えてくれた所によると、最上級の粘土だそうで。
「ブルーときたら、タヌキで有名な陶芸の町に朝一番から出掛けて行ってさ、ちゃんと買って来たらしいんだよね…。後は造形するだけ、ってヤツを」
「そうなんだよ! こねて貰おうと思ってたけど、其処で訊いたらこねるのは大変らしくてねえ…。プロでも機械を使うと言うから、後は形を仕上げるだけ、っていうのを買って来たんだよ」
こねる苦労をしなくていい分、頑張ってくれ、という台詞。
「これを焼く方もね、焼いてくれると言っていたから…。情報操作はちゃんとしてあるし、何を焼いても大丈夫! さあ、作ろうか!」
「…な、中を空洞に仕上げるというのが無理じゃないかと思うんですが!」
ぼくたちは素人集団なんです、とシロエ君が叫ぶと、ソルジャーは。
「ああ、そのくらいはサイオンでなんとかなるってね! ぼくは手先は不器用だけれど、サイオンの方ならドンとお任せ!」
出来上がったら中身をクルッとくり抜くだけ、と余裕の微笑み。だったら最初からサイオンで作ればいじゃない、と誰もがすかさず突っ込みましたが。
「ダメダメ、ぼくにはその手の才能も無くってねえ…。こんな風にしたい、と思いはするけど、それを形に出来ないんだな」
ゆえに監督に徹するのだ、とソルジャーは床にドッカリ座って。
「とりあえず、基礎から作って行こうか。招きタヌキ猫」
「「「…招きタヌキ猫…」」」
それはどういう代物なのだ、と訊くだけ無駄というもので。私たちは粘土の塊を相手に戦うこととなりました。タヌキと招き猫とを合わせて、招きタヌキ猫…。
現場監督なソルジャーの注文はなかなかにうるさく、細かいもの。出来上がりサイズは高さ八十センチといった所で、下手に小さく作るよりかは楽なのですけど。
「基本はタヌキで行きたいんだよ。なんと言っても八畳敷だしね!」
「「「はいはいはい…」」」
タヌキですね、と頭の中にある例のタヌキをイメージしつつも大体の基礎を作り上げてみれば。
「うーん…。それだと猫とバランスが取れないか…」
「「「は?」」」
「ちょっと変更、座った形にしてくれる? こう、猫っぽく」
今からかい! と怒鳴りたい気持ちをグッと堪えて、招き猫っぽく座った形に。それはソルジャーのお気に召したのですけど、さて、其処からが大変で。
「形を猫っぽくしちゃったからねえ、顔はタヌキでいいと思うんだ。頭に笠を被せるのを忘れないでよ? でもって、タヌキは下半身がとても大切だから…」
尻尾は猫でも八畳敷はしっかりと、という御注文。上げる方の前足は人を招く右、エロい人をしっかり招けるように。下ろしてある左手に小判を持たせて、右の腰にはお通い帳。
「お通い帳はさ、しっかり通って貰うためだと聞いたんだよ」
粘土を買いに行って来た時に、とソルジャーは知識を披露しました。他にも色々教わったそうですが、自分にとって大事な部分を除いて全て忘れてしまった様子。
「うんうん、いい感じに出来てきたかな。それじゃ大事な八畳敷に取り掛かろうか!」
特大の袋とイチモツをよろしく、と頼まれたものの、そんな部分を作りたい人が居る筈もなくて。
「…キース先輩、どうですか?」
「工作はお前の得意技だろうが!」
「でもですね…。そうだ、ジョミー先輩なんかどうでしょう?」
「どういう根拠でぼくになるのさ!」
醜い押し付け合いが始まりましたが、思わぬ所から救いの神が。
「えとえと…。なんで作るの、やめちゃったの?」
招きタヌキ猫さん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「あとちょっとで出来上がりそうなのに…」
「その部分を作りたくないんですよ!」
シロエ君がズバッと言い切ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「えーっ!?」と叫んで。
「かわいそうだよ、出来上がらないなんて!」
ぼく、頑張る! と小さな両手でせっせ、せっせと作っちゃいました、ソルジャー御注文の八畳敷。座布団よろしく自分の袋の上に座った招きタヌキ猫と、そのイチモツを…。
「うん、いいね!」
イメージどおりに仕上がったよね、とソルジャーは招きタヌキ猫を眺め回して。
「後は、盛り塩…」
「「「盛り塩?」」」
「そう! タヌキのパワーに入ってるかもしれないけれども、念には念を!」
盛り塩をするためのスペースも要る、と指差した場所はイチモツの真下あたりの座布団、いえいえ、八畳敷の金袋。
「この辺りにねえ、盛り塩を置けるよう、専用の窪みが欲しいんだな!」
「「「………」」」
誰が触るか、と再び始まる押し付け合い。結局、今度も「そるじゃぁ・ぶるぅ」が粘土を押して窪みを作って、ようやくソルジャー御希望の招きタヌキ猫が完成したかと思ったのですが。
「まだまだ、仕上げが残ってるんだよ!」
「もう出来てるだろ!」
これ以上の何を、と会長さんが怒鳴ると、ソルジャーは。
「お通い帳はそのままでいいけど、小判に書く文字!」
此処に達筆で「絶倫」の二文字が欲しいのだ、と言い出してしまい、今度は会長さんとキース君とが言い争いに。
「君が書いたらいいだろう! 副住職なら書道も必須!」
「それを言うなら、あんたの方だと思うがな! 伝説の高僧は書も得意だろう!」
「ぼくの右手はそういう風には出来ていないよ!」
「俺だってそうだ!」
君だ、あんただ、と坊主同士の舌戦が。お互いの辞書に「譲る」という文字はまるで無いらしく、どちらも一歩も引かぬ構えで睨み合い。どうなるのだろう、と見守っていれば。
「はいはい、そこまで~!」
ソルジャーが割って入りました。
「二人とも腕には覚えがある、と。それじゃ一文字ずつ書いてくれるかな、こう、絶倫と!」
「「い、一文字…」」
会長さんとキース君は顔面蒼白、しかしソルジャー、一歩も譲らず。二人のお坊さんは泣きの涙で粘土用のヘラを握ると。
「…ぼ、ぼくの絶筆って覚悟で一文字…」
「…俺は倫理を重んじてだな…」
書くか、と会長さんが「絶」の字、キース君が「倫」。まるで別々の人が書いたのに、見事にバランスの取れた「絶倫」の二文字、流石はプロのお坊さんかも…。
こうして出来上がった招きタヌキ猫はソルジャーの魂に響いたらしくて、何度もウットリと撫で回してからサイオンで中身を「よいしょ」とくり抜き。
「こんなものかな、厚みの方は、と…」
狂いが出ていないかサイオンで透視しているみたいです。あまりに厚みが違いすぎると焼く時にヒビが入る恐れが、と聞いて来たそうで。
「上手くくり抜けたみたいだね。後は工場で釉薬とかをかけて貰って、と…」
「色は其処でつけてくれるのかい?」
会長さんが尋ね、ソルジャーは「うん」と。
「ノルディに訊いたら、縁結び用の招き猫はピンク色らしいから…。タヌキの町の工場にピンク色はあるかと訊いたら、ちゃんと揃っているらしいから!」
焼き物の町は流石だよね、とソルジャーは実に嬉しそう。
「招き猫だって作ってるらしいし、プロの職人さんがぼくのイメージどおりに塗ってくれるって! この素晴らしい招きタヌキ猫を!」
そして釉薬をかけて窯で焼き上げてくれるのだ、と言いながら両手でペタペタと触りまくってますから、何をしているのかと思ったら。
「乾燥だよ! 乾かさないとね、着色も焼くことも出来ないから! 只今サイオンで乾燥中!」
「そういう細かいことが出来るのに、なんで形を作れないわけ!?」
会長さんが顔を顰めましたが、ソルジャーは「不器用だから」とケロリと一言。
「くり抜くだけとか、乾かすだとか。そういった作業は単純なんだよ、一から何かを作るってわけじゃないからね!」
ぼくには芸術とかの類は無理で…、と語るソルジャー。まあ、いいですけど…。
「というわけでね、招きタヌキ猫、来週までには出来上がるから!」
「「「来週?」」」
「そう! 大切な神様の像だからねえ、じっくりと焼いて貰わないとね!」
これから預けて彩色とかも…、と私たちの力作を抱えたソルジャーは瞬間移動でヒョイと姿を消し、ほんの一瞬で戻って来て。
「はい、サイオンでパパッと伝達、注文通りに着色仕上げ! 後は来週のお楽しみ!」
「「「…お楽しみ?」」」
「決まってるだろ、招きタヌキ猫のお披露目だよ!」
もちろん立ち会ってくれるよね? と有無を言わさぬド迫力。来週の土曜日はピンク色に染まった招きタヌキ猫がお目見えですか、そうですか…。
嫌だと泣こうが、お断りだと喚き散らそうが、逃れられない招きタヌキ猫のお披露目とやら。口にしたくもなく、もう忘れたいと暗黙の了解、お口にチャック。誰も何も言わず、触れないままに一週間が過ぎ、ついに当日。
「…いよいよか…」
「いよいよですね…」
とうとうこの日が来ちゃいました、とシロエ君。先にぼやいていたのがキース君で。
「…俺は朝から嫌な予感がするんだが…」
「えっ、なんで?」
何かあったとか、とジョミー君が。キース君は「まあな」と会長さんが住むマンションへ向かう道中でボソリ。
「朝一番には本堂でお勤めが俺の日課なんだが…。今朝に限って蝋燭の火が」
「「「…火が?」」」
「風も無いのに、フッと消えてな」
「「「そ、それは…」」」
コワイ、と誰もがブルブルと。さながら怪談、とはいえ冬。隙間風だって入るでしょうから、偶然というヤツでしょう。現に今だってピューピュー北風、元老寺の本堂の中だって…。
「俺だってそうだと思いたい。だが、胸騒ぎがするんだ、何故か!」
「い、言わないでよ…」
怖くなるから、とジョミー君が肩を震わせ、マツカ君も「やめておきませんか?」と。
「それこそ言霊の世界ですよ」
「…そうかもしれん。何事も無ければいいんだが…」
南無阿弥陀仏、というお念仏の声に、ウッカリみんなで唱和しちゃいました。寒風吹きすさぶ歩道を歩く高校生の団体様が「南無阿弥陀仏」の大合唱。犬の散歩中のお爺さんが振り返って、足早に私たちの方へと近寄って来て。
「寒行ですか、ご苦労様です」
温かいものでも食べて下さい、とキース君の手にお札を一枚。
「あ、ありがとうございます!」
「いえ、修行、頑張って下さいよ!」
感心、感心…、と立ち去ってゆくお爺さん。何か勘違いされたようですけど、ピンポイントで本職を狙って御布施とは流石。まさに年の功、キース君が深々と頭を垂れて拝んでますから、お爺さんにはいいことがありそうです。でも、私たちは…?
通りすがりのお爺さんの幸福を祈ったまではいいのですけど、問題は私たちの方。元老寺の御本尊様にお供えした蝋燭が消えたと聞くと、嫌な予感しか無いわけで…。
「…いいか、押すぞ?」
キース君が会長さんの家のチャイムを押し、ドアがガチャリと中から開いて。
「かみお~ん♪ 招きタヌキ猫さん、もう来ているよ!」
とっても可愛く出来上がったの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねています。
「そ、そうか…」
「早く見て、見て!」
ピョンピョン跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」に案内されたリビングには燦然とピンクの像が置かれていました。招きタヌキ猫。頭に茶色の笠を被って、左手に「絶倫」の二文字が輝く金色の小判。お通い帳をぶら下げ、座布団代わりに赤く塗られた八畳敷の金袋が。
「「「………」」」
出来てしまったのか、と絶句していれば、私服のソルジャーがニコニコと。
「凄いだろう? 後はお性根を入れるだけなんだよ」
「「「…オショウネ?」」」
「うん。こういう神様を作ったんだよ、ってノルディに言ったら、ちゃんとお性根は入れましたか、って訊かれちゃってさ」
お祭りするには「お性根」なるものを入れて貰わないと駄目なんだってね、という話。なんですか、そのお性根とやらは…、ってキース君、顔色が真っ青ですよ?
「キース先輩、どうかしましたか?」
「…ろ、蝋燭……」
「蝋燭?」
何のことだい、とソルジャーが首を傾げて、会長さんも「どうかしたかい?」と。
「い、いや…。何でもない」
「そういう顔には見えないけどねえ? …って、ああ、なるほど…」
分かった、と頷いた方は会長さんで。
「朝のお勤めでそんな事件がねえ…。だったら、君に任せたってね」
「なんだって!?」
「嫌な予感がしてたんだろう? つまりはそういうことなんだよ。君が主役だ、開眼法要」
「「「開眼法要?!」」」
何ですか、それは? お性根とやらと何か関係ありますか…?
「お性根を入れる。それが開眼法要なんだよ」
これをやらないと神様も仏様も効力を発揮しないのだ、と会長さんが言い、ソルジャーが「そうらしいんだよ」と招きタヌキ猫を撫で擦っています。
「それが必要だと言われちゃったし、ブルーに頼んでいたんだけれど…。渋られちゃって」
「そいつを俺にやれと言うのか!」
「予感があったなら、それも御縁というものなんだよ!」
この際、腕前は問わないのだ、とソルジャーは出来たての招きタヌキ猫の頭をポンポンと。
「断りまくってるブルーなんかより、御縁の深そうなキースってね! それでこそ御利益!」
だからよろしく、と差し出された御布施。熨斗袋に入ったソレは作法通りに出されたらしくて、此処へ来る前に犬の散歩中のお爺さんに握らされた御布施も見事にキャッチしていたキース君は条件反射というヤツです。押し頂いて深々と一礼してしまい…。
「…ちょ、ちょっと待て!」
手が勝手に、という言い訳が通るわけがありませんでした。会長さんに「任せた」と肩を叩かれ、ソルジャーからは「どうそよろしく」とお辞儀され…。
「…お、俺がやるのか?」
「出来なくはないだろ、副住職」
作法は一通り習ってるよね、と会長さんが駄目押しを。ついでに元老寺から瞬間移動で法衣が取り寄せられ、必要な仏具も揃ってしまい…。
「…く、くっそお…」
やるしかないのか、とキース君がゲストルームへ着替えに出掛けて、その間にリビングに会長さんが祭壇の用意を。中央に招きタヌキ猫が据えられ、その前に蝋燭にお線香など。キース君の嫌な予感は当たりまくりで、とんでもないモノの開眼法要をさせられる羽目に。
「…仕方ない、やるぞ」
法衣に輪袈裟の略装ではなく、キッチリと袈裟。しかも法衣も墨染ではなく、キース君のお坊さんの位に見合った色付きの立派なもので。
「嬉しいねえ…。これで招きタヌキ猫も立派な神様になるってね!」
感激の面持ちのソルジャーを、キース君がキッと振り向いて。
「間違えるな! 坊主の俺がお性根を入れるからには仏様だ!」
「うんうん、どっちでもいいんだよ、ぼくは」
効きさえすれば、とソルジャーが促し、招きタヌキ猫の開眼法要が厳かに執り行われました。法要が終わるとソルジャーはピンクの招きタヌキ猫をしっかり抱えて自分の世界に帰ってしまい…。
キース君のヤケクソの祈祷が効いたか、招きタヌキ猫の形そのものに凄いパワーがあったのか。八畳敷の金袋な座布団の上に盛り塩をされた像の効き目は抜群らしくて。
「ブルーは熱心に拝んでいるらしいねえ…。アレを」
「そのようだな」
あいつの報告の中身は理解不能なんだが、とキース君。あれ以来、ソルジャーは何かと言えば押し掛けて来てキャプテンの凄さを自慢しています。ヌカロクがどうの、絶倫がどうのと。
「ぶるぅの悪戯も無いようですねえ、夫婦円満の神様だけに」
割られずに済んで本当に良かったじゃないですか、とシロエ君がホットココアを口に運んだ土曜日の午後。会長さんの家のリビングは暖房が効いて、雪模様の外とは別世界です。まさに天国、と思った所へ。
「割れちゃったんだよーっ!」
何の前触れもなく飛び込んで来た人影、紫のマント。ソルジャーが泣きそうな顔で、手には袋が。
「割れたって…。何が?」
会長さんの問いに、ソルジャーは袋を指差して。
「…ま、招きタヌキ猫…。…粉々に割れて、たったこれだけ…」
他の破片は青の間の水槽に落ちて溶けてしまって回収不能、と言われましても。
「…ぶるぅかい?」
会長さんが訊くと、ソルジャー、首をコクコクと縦に。ほらね、どうせ割られるってあれほど言ったのに…。
「違うんだってば、悪戯じゃないんだ! ぶるぅは招きタヌキ猫をパワーアップさせようと思って頑張ったんだよ、八畳敷をもっと広げようと! サイオンで!」
だけど相手は焼き物だから…、と嘆くソルジャーは「ぶるぅ」に像の説明をちゃんとしたのか、しなかったのか。焼き物の像を大きくするなど、いくら「ぶるぅ」がタイプ・ブルーでも絶対に不可能、粉々に割れてしまって当然で…。
「ど、どうしたらいいと思う? もう一度、君たちに頼んで一から…」
「いや、その前にお性根を抜かんと駄目だと思うぞ」
抜いてやろう、とキース君が袋に手を伸ばし、ソルジャーが「駄目!」と。
「抜いたら二度と入れてくれないんだろう!?」
「当たり前だろうが、誰が入れるか!」
「それは困るんだよーっ!」
ぼくの大事な招きタヌキ猫、と絶叫するソルジャーを助けようという人はいませんでした。一度は手に入れた絶倫の神様、招きタヌキ猫。私たち、二度と作る気は無いんですけど、どうします? 一から自分で作りますかね、思い切り不器用らしいですけどね…?
焼き物の効果・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーの希望で誕生した焼き物、招きタヌキ猫。八畳敷の話は昔話で有名です。
結局、割れちゃったわけですけれども、効果は抜群だった模様。イワシの頭も信心から…?
次回は 「第3月曜」 2月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、1月は、いつになく楽なお正月に始まり、ツイていたのに…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「じゃあ、明日、いつものトコでな!」
うん、と声を揃える友人たち。学校の帰り際、明日の待ち合わせについての確認。今日は金曜、明日は学校が休みだから。
行き先は特に決まっていないけれども、集まって何処かで遊びと食事。ジュースなども買ったりするのだろう。それに立ったままで食べられるフライドポテトやポップコーンだって。
約束した後、ワッと散って行った友人たち。部活に、家に、あるいは寄り道コースへと。
明日に備えての待ち合わせ。場所と時間をみんなで決めて。
ブルーは明日は行かないけれど。ハーレイが訪ねて来てくれると決まっているから、友人たちと出掛けることなどしない。自分の家でハーレイを待って、二人で話して、お茶に食事に…。
(そっちの方が幸せ…)
ぼくは断然そっちがいい、と学校を後にして、帰りのバスに乗り込んだ。バス通学の友人は誰もいないから、自分だけ。お気に入りの席が空いているのを見付けて、其処へストンと腰掛ける。
走り出したバス、流れてゆくバスの窓越しの景色。友人たちの明日の待ち合わせ場所は…。
(あっちの方…)
バスの窓からは見えないけれど。大通りから少し入った、学校から近い公園の前。
明日、その時間に出掛けて行ったら、友人たちが集まっているのだろう。制服ではなくて、皆がバラバラの服。好みの服に、通学鞄とは違った鞄を持って。
何処へ行こうかと相談しながら歩き始めて、過ごす休日もいいけれど。楽しいけれども、明日は予定があるから。ハーレイと会える土曜日だから。
友人たちと出掛けるよりも、と高鳴る胸。「明日はハーレイが来てくれるんだよ」と。
もう長いこと、待ち合わせというものをしていない。
何時に此処で、と決めて集まる待ち合わせ。友人たちはいつもしているけれども、一緒に遊びに行かないから。休日はハーレイと自分の家でお喋りに食事、それがブルーの定番だから。
(みんなと遊びに行ってないけど…)
付き合いが悪いとは誰も言わない。一度くらいは出掛けて来いとも言われない。
皆、聖痕があることを知っているから、ハーレイと会うのが大切だと分かってくれている。一度だけ起こした大量出血。学校から救急搬送された聖痕現象。あれを再発させないためには守り役のハーレイと頻繁に会うことが必要なのだ、と。
一緒に遊びに出掛けられなくても、気にしていない友人たち。学校で会えば何処へ行ったのかを話してくれるし、愉快な出来事が起こっていたなら、その報告も。
おまけに羨ましがられたりもする、「いいよな、ハーレイ先生が来てくれるなんて」と。学校で人気の高いハーレイ、柔道部員でなくても憧れの男性教師。大人気のハーレイを独占出来る休日はとても楽しそうだと。
(前の待ち合わせ…)
友人たちと遊びに出掛けた休日。ハーレイが来られないと分かっていた日に、待ち合わせて。
約束の場所に時間通りに行ったら、「おう!」と手を振ってくれた友人たち。「何処に行く?」などと賑やかに騒いで、待ち合わせ場所だった公園で暫く遊んで…。
それが最後の待ち合わせ。友人たちとは遊ばない休日が続いている自分。
(みんなと行くのも楽しいんだけど…)
気の合う友人たちとの休日。遊んで、食事して、おやつやジュース。
待ち合わせもまた、遊びに向けてのカウントダウンで心が弾む。一人、また一人と増える友人、時には時間に酷く遅れた友人が「悪かった!」と何かおごってくれたり。
下の学校の頃から何度もした待ち合わせ。今はすっかり御無沙汰だけれど。
家の近くのバス停に着いて、バスから降りて歩き始めて。
(みんなは、明日はいつもの公園…)
何時だっけ、と友人たちが言っていた時間を思い出し、「うん」と頷く。十時に、公園。
(ハーレイが急に来られなくなっても…)
公園へ行けば友人たちに会える、遅れないよう十時に出掛けてゆけば。明日の朝になって、急に予定が駄目になっても、ハーレイから「今日は行けない」という連絡が来ても。
独りぼっちの日にはならない、友人たちの待ち合わせ場所と時間を知っているから。ハーレイが駄目でも代わりに友達、何処かで遊んで、食事もして。
(…ハーレイと会うのが駄目になるなんて、嫌だけどね)
友人たちと遊びに行くのも、けして悪くはないけれど。ハーレイと会える方がいいから、予定は潰れて欲しくない。「今日は行けない」という連絡なんかは来て欲しくない。
けれど、頼もしい待ち合わせ。友人たちが集まる場所と時間が分かっているということ。
みんなが「明日は此処で」と交わした約束、いきなり自分が混ざってもいい。その時間に公園へ出掛けてゆけば。「ぼくも!」と十時に遅れずに行けば。
そうするよりは、ハーレイと過ごしたいけれど。断然、ハーレイなのだけれども。
ハーレイと二人の土曜日がいい、と考えながら家に帰って、おやつを食べて。
「明日はハーレイと二人でおやつを食べられるんだよ」と弾む足取りで部屋に戻って、勉強机の前に座って。「待ち合わせよりも、ハーレイと家にいるのがいいよ」と思ったけれど。
(そういえば…)
今の今まで全く気付いていなかったこと。待ち合わせはどういうものかということ。
場所と時間を決めて待ち合わせ、友人たちとするものだと頭から思い込んでいて、ハーレイとは結び付けてもいなかったけれど。
よく考えたら、ハーレイとだって出来るのだった、待ち合わせは。今は出来ないというだけで。
ハーレイとは家でしか会えないから。デートに行けない自分だから。
けれど、家の外でもハーレイと会えるようになったなら。二人で出掛けられるようになったら、待ち合わせだって出来るようになる。
この時間に此処、と二人で決めて。其処で待ち合わせて、それからデート。
ハーレイとも出来る待ち合わせ。この時間にと、此処で会おうと。
(…いつ出来るの?)
此処で、と決めて待ち合わせ。友達ではなくて、ハーレイと。
デートに行けるようにならないと、待ち合わせなどは出来ないのだから、ずっと先のこと。
どう考えても何年も先で、今の学校の生徒の間は無理で。
当分の間は出来そうもない待ち合わせ。ハーレイと時間と場所を決めて会うこと、待ち合わせて何処かへ出掛けること。
まだまだ無理、と溜息をついて、ハーレイの顔を思い浮かべて。
(前のぼくは…?)
ハーレイとは本物の恋人同士だったのだから、待ち合わせだって、と遠い記憶を探ったけれど。
白いシャングリラで暮らした頃の記憶を辿ったけれども、まるで無かった待ち合わせの記憶。
考えてみたら、していなかった。ただの一度も、前のハーレイとの待ち合わせは。
強いて言うなら、会議や視察に出掛けるための待ち合わせくらい。ブリッジの入口や、会議室に近い休憩室など、そういった場所で合流してから出掛けていた。
時間と場所とは決めたけれども、ソルジャーとキャプテンとしての待ち合わせ。デートどころか仕事のための待ち合わせだった、行き先はデートなどではなかった。
本物の恋人同士ではあったけれども、誰にも明かせない仲だったから。
恋人同士だと知られてはならず、デートにも行けなかったから。二人、こっそりと展望室などに行くのがせいぜい、待ち合わせなどは出来もしなくて、デートでさえも。
そうなってくると…。
(じゃあ、初デート…!)
前の自分たちがそれらしいデートをしていないのなら、今の自分たちが出掛けるデートが最初のデートで初デート。
(庭のテーブルと椅子もデートだけど…)
ハーレイとの初めてのデートは其処だったけれど、あれは普段と違う所で食事ならぬお茶の時間というだけ、本物のデートとは違うから。家から一歩も出ていないものをデートと呼ぶのは間違いだから。あれは本当のデートではなくて、初デートだとも呼びはしなくて。
初めてのデートは、まだずっと先。自分が大きく育ってから。
ハーレイと二人で何処かへ出掛ける、それが本当の初デート。そして初めての待ち合わせ。
デートに出掛けてゆくための。ハーレイとデートを始める前の。
(初めてのデートで、待ち合わせで…)
行き先が何処かも気になるけれども、待ち合わせ。場所と時間を決めてハーレイと会う。
此処で、と決めておいた場所に、決めておいた時間、その時間に行ったらハーレイに会える。
デートのための服を着込んだハーレイに。きっと笑顔でやって来るに違いないハーレイに。
考えただけでドキドキしてきた、ハーレイとの初めての待ち合わせ。
どんな気持ちになるのだろう?
二人で決めておいた場所。其処へ決めておいた時間に出掛けて、ハーレイを待っている自分。
友人たちとの待ち合わせですら、あれだけ心が弾むのだから。遊びの前のカウントダウンだと、弾んだ気持ちになるのだから。
デートともなれば、きっと心がはち切れそうになるのだろう。早くハーレイが来てくれないかと何度も時計を眺めてみたり、まだ来ないかとキョロキョロ辺りを見回したりして。
そう、きっと首を長くして待って、ハーレイが来たら大きく手を振って。
ひょっとしたら駆け出してゆくかもしれない、ハーレイが歩いて来る方へ向かって。
(うんと早く行って、ハーレイを待って…)
そうして駆け出す、ハーレイの姿が見えたなら。「此処だよ!」と大きく手を振ってから。
けれどハーレイなら、自分よりも早く来ていそうな気がしないでもない。
休日でも早起きしているらしいハーレイ、暗い内からジョギングに行く日もあるようだから。
待ち合わせとなれば、きっと早めに来るだろう。待たせてしまわないように。時間にたっぷりと余裕を持たせて、早い時間に家を出て。
(…ぼく、ハーレイを待たせる方?)
初めてのデートで待ち合わせだから、と張り切って行ったら、待ち合わせ場所にハーレイの姿。自分がやって来るのを見付けて、軽く手を上げて近付いて来る。きっと大股で颯爽と。
(待たせちゃう方…)
そんな気がして来た、初めての待ち合わせはハーレイに先を越されそうだと。
早く着いて待とうと思っていたのに、ハーレイが待っていそうだと。
(待っててくれるのもいいんだけれど…)
嬉しいけれども、自分も待ちたい。ハーレイが待ち合わせ場所にやって来るのを、見慣れた姿が現れるのを。
そうしたいなら、ハーレイよりも早く着いていないと駄目だから。時間通りに着いていたのでは間に合わないから、早めに行く。待ち合わせ場所へ、大急ぎで。
(でも、ハーレイだって…)
自分が早めに現れたならば、次からはもっと早い時間に来て待つだろう。待たせないように。
五分早めに到着したなら、次はハーレイも五分ほど早く。十分だったら、十分早く。
そうやってデートを重ねてゆく度、だんだん早くなってゆくかもしれない待ち合わせ時間。
この時間に、と決めた時間より五分も、十分も、十五分も早く。
お互い、先に着こうとして。恋人が来るのを自分が待とうと、競うように早く行こうとして。
それも楽しい、待ち合わせの時間が決まっていたって早く行くのも。どんどん早くなっていった末に、三十分も前から待つのが普通になってしまったとしても。
(…それでも待ち合わせ時間は決まってるんだよ)
待ち合わせ場所で出会った時間よりも、三十分も後であっても。とっくにデートに出掛けた後に時計が指すのが、その時間でも。
面白いよね、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
明日は朝から来てくれる予定のハーレイが今日も、仕事の帰りに寄ってくれたから。これは是非とも話さなければ、とテーブルを挟んで向かい合うなり、ワクワクとして切り出した。
「ねえ、ハーレイ。今度は初デートで待ち合わせだよ」
「はあ?」
何の話だ、初デートはとっくに済ませただろうが。お前の家の庭で。
俺がキャンプ用のテーブルと椅子を持って来たのが初デートだったぞ、あそこの木の下。今でも別のが置いてあるだろ、お前の気に入りの白いテーブルと椅子が。
「あれは違うよ、初デートだけどデートじゃないよ!」
ぼくの家から出ていないんだもの、本物のデートとは違うと思う…。ハーレイと二人で何処かへ行くのがデートなんだよ、本物のデート。
前のぼくたちは展望室くらいしか行ってないから、本物のデートは今度が初めてになるんだよ。それに待ち合わせも初めてでしょ?
デートの前の待ち合わせ。場所と時間を二人で決めて。
前のぼくたちはやっていない、と瞳を輝かせて話したら。
待ち合わせはとても楽しそうだと、先に行って待とうと競争が始まってしまいそうだと、いつか二人で約束するだろう待ち合わせの予想をしてみせたら。
「ふうむ…。確かに俺は、お前を待たせるタイプではないな」
お前よりも先に着いていようと急ぐ方だな、それは間違ってはいないんだが…。
しかし、デートに行くんだろうが。
待ち合わせじゃなくて、俺が迎えに来るんじゃないのか、お前の家まで?
俺の車で、と返った答え。
デートに行くなら車だろうと。何処へ行くにも便利なのだし、遠出も出来ると。
「そうだけど…。迎えに来てくれるのも、車もいいけど、待ち合わせ…」
友達としかやってないけど、ハーレイとしたっていいんでしょ?
前のハーレイともやってないから、今度は待ち合わせをしたいんだよ…!
「待ち合わせって…。そうなってくると、不便だぞ?」
お前が言うような待ち合わせをするなら、俺は車を置いて出て来るか、でなけりゃ駐車場にでも置いておくしかないし…。
お前をサッと車に乗せてだ、直ぐにデートに出発ってわけにはいかないんだが?
「でも、やってみたいよ、待ち合わせ…!」
それにデートは会った時から始まるものでしょ、車が置いてある駐車場まで歩くのもデート。
車が無ければデート出来ないってことも無いから、車無しでのデートもいいし…。
ぼくは文句を言わないよ?
車があったら楽だったのに、って言いやしないし、待ち合わせてデートもしてみたいよ…!
「待ち合わせ、そんなにしてみたいのか…」
まあ、いいがな。
俺としてはお前を車で迎えに来たいわけだが、たまにはそういうデートもいいか…。
場所と時間をきちんと決めておいて、其処でお前に会うというのも。
今の時代ならではの待ち合わせだよな、と微笑むハーレイ。
そういうデートもいいだろう、と。
「えっ?」
今の時代って…。どういうこと?
待ち合わせっていうのはそういうものでしょ、時間と場所とを決めておくもの。
前のぼくたちだって待ち合わせをしたよ、デートのためではなかったけれど…。会議の前とか、視察の時とか、ハーレイと何度も待ち合わせたよ?
「したな、その手の待ち合わせってヤツは。…目的は仕事だったがな」
前の俺たちの時代も待ち合わせはあったが、それよりも前…。
SD体制が始まるよりも前の時代に、ちょっと変わった待ち合わせの形があったんだよなあ…。
遠い遥かな昔の地球。誰もが手軽に持ち歩ける通信機が作られ、普及していた。
その通信機さえあれば、いつでも、何処でも、声や文章を簡単に相手に届けられた時代。
いざとなったら通信機で連絡を取り合えばいいから、いい加減な待ち合わせをしていたという。時間も場所も曖昧に決めて、「このくらいの時間に、この辺りで」と。
「えーっと…。それで会えるの、そんな決め方の待ち合わせで?」
その時代は思念波なんかも無いのに、相手が何処で待っているのか、ちゃんと分かるの?
前のぼくたちなら、「今から行く」って思念を飛ばせば、居場所もきちんと分かったけれど…。
「会えたようだな、その時代のヤツらは。それで会えないなら、方法を変えるだろうからな」
そうは言っても、傍から見たら馬鹿みたいなすれ違いもあったようだが…。
道路を挟んで向かい側に相手がいるというのに、気付かないままで「何処だ?」と通信機で連絡し合っているとか。酷いのになったら、同じ歩道で「何処にいるんだ」と通信機で話をしながら、相手とバッタリ出会う代わりにすれ違って行ってしまうとかな。
「…そうなるだろうね…」
思念波が無くて、ただの通信機っていうだけだったら、ありそうだよね…。
思念波で話をしてるんだったら、すれ違う時や近付いた時に、共鳴するから気付くだろうけど。
今の時代は、そういう通信機は存在しない。人が人らしく過ごすために、と。
思念波も連絡手段としては使わないのが社会の常識、一種のマナー。
だから待ち合わせをするとなったら、場所と時間をきちんと決めることが大切、それが大前提。学校の帰りに友人たちが決めていたように。明日は十時に公園で、と。
友人たちとの待ち合わせも心が弾むけれども、同じ待ち合わせをするのなら…。
「ハーレイを待ってみたいよ、何処かで」
待ち合わせをしてデートしようよ、ハーレイの車は抜きでも、駐車場でもかまわないから。
ぼくはハーレイを待ってみたいんだよ、もうすぐ来るかな、ってドキドキしながら。
「俺はお前を待たせはしないが?」
さっきも言ったが、待たせるよりかは待つタイプでな。早めに出掛けて待ってる方だな、お前が来そうな方を見ながら。
「やっぱり…!」
ぼくと競争になっちゃいそうだ、って言ったでしょ?
ぼくもハーレイを待ちたいんだもの、まだ来ないかな、ってキョロキョロしながら。
ハーレイが来たら、「此処にいるよ」って手を振って走って行きたいんだもの…!
自分もハーレイも、先に着いて相手を待っていたいタイプ。デートの前の待ち合わせの時は。
お互い、相手よりも早く行こうと競争し合って、本当にどんどん時間が早くなりそうだから。
この時間だと決めた時間より、遥かに早く待ち合わせ場所に着きそうだから。
「何度もハーレイと待ち合わせをしたら、一時間前に着いてるようになっちゃうかもね」
待ち合わせは十時、って言ったら九時には着いているとか、九時なら八時に着いてるとか…。
そうなっちゃっても、もっと早くに着いてやろう、って頑張りそうだよ、ぼく。
ハーレイが来るのを待っていたいし、今度こそ、って。
「一時間前が当たり前と来たか。…おまけに更に早く来ようとするんだな、お前」
そういうことなら、待ち合わせの場所。
早く来すぎても安心なように、屋根があって飯も食える所にしておかないとなあ…。
お前はともかく、俺の方は急な通信でも来たら、出るのが遅れちまうってことだってあるし。
もちろん急いで駆け付けはするが、十五分くらいは遅れちまうかもしれないからな。
「んーと…。そういうハーレイ、見られたらとっても嬉しいけれど…」
やっとハーレイより先に着けた、って嬉しいけれども、待ち合わせの場所…。
ハーレイが安心してぼくを待たせておける場所って、早い時間から開いてるお店なの?
屋根があって御飯も食べられるのなら。
「うむ。お前が雨の中にポツンと立っているとか、腹を空かせているのは困る」
飯は食わないにしても、温かい飲み物や冷たいジュースや、そんなのを置いてる店がいいな。
入りやすくて、ゆっくりしてても気を遣わなくていい気楽な店。
俺の家の近所のパン屋なんかは理想的なんだが、とハーレイが挙げた店には覚えがあった。
食事も出来るレストラン部門を併設していて、ランチタイムまでは店で買ったパンを持ち込んでレストランで食べられる。レストランにはモーニングセットなども揃っているのに。
その店のレストラン部門でやっていた企画、ソルジャー・ブルーとジョミーとトォニィ、三代のソルジャーが食べた食事を出すというもの。ハーレイがチラシを見せてくれたから、それを食べに行ってみて欲しいと頼んだ。ソルジャー・ブルーのモーニングセットを。
(ハーレイ、不味かったって唸っていたっけ…)
ソルジャー・ブルーが食べたと謳われたモーニングセットには、アルタミラの餌があったから。餌として与えられていたオーツ麦のシリアル、ハーレイはそれの不味さに泣かされたという。
どう転んでも餌は餌だと、美味しいとは少しも思えなかったと。ソルジャー・ブルーにゆかりの食事がアレとは酷いと、いくらヘルシーで一番人気でも俺は御免だと。
モーニングセットには目玉焼きや紅茶もちゃんとセットで、オーツ麦だけではなかったのに。
ハーレイの記憶で見せて貰った中身は、けして悪くはなかったのに。
それを思い出したら、その店もいいなと思ったけれど。
待ち合わせ場所に選んでみたいと惹き付けられたけれども、ハーレイの家の近くだから。自分の家からはかなり遠いし、ハーレイよりも先に着くのは難しそうで。
「…パン屋さん、良さそうなんだけど…。ぼく、ハーレイに負けてばかりになりそうだよ」
いくら急いで入って行っても、ハーレイが先に中にいるんだ。
ハーレイの家からすぐのお店だもの、下手をしたら、コーヒー、おかわりしてそう…。
「お前が来るまでに時間がかかるってトコがフェアではないなあ、確かにな」
俺は家から少し歩けば着いちまうんだが、お前はバスに乗って来て、そこからまた歩いて。
先に着きたいというお前の夢を叶えるためには、不向きだな。
いつか待ち合わせをしようって時に備えて、いい場所を探しておかんといかんなあ…。
俺が車で迎えに来るんじゃ駄目だとお前が言うのなら。
待ち合わせってヤツをしたいのならな。
お前の家まで歩いて来る途中に下見しておくか、とハーレイが腕組みをして頷いたから。
「ぼくも探すよ、待ち合わせ場所!」
家の近くなら、散歩とかにも行ったりするし…。
待ち合わせに良さそうで、朝早くから開いてそうなお店、ぼくも今から探しておくよ。
「その心意気はいいんだが…。お前、まだ店に入る度胸は無いだろうが」
一人で入って、紅茶やジュースを頼む度胸があるのか、お前?
買って出て来るって意味じゃなくって、カウンターだのテーブル席だのにちゃんと座って。
そこまでしないと下見にならんぞ、店の雰囲気が掴めないからな。
俺だったら来る時にヒョイと覗いて、帰り道に入ってコーヒーの一つも頼めば充分なんだが。
「そっか…。ぼくだと、それは無理かも…」
座って注文するのもそうだし、中を覗いてから注文もせずに出るのも無理そう…。
ハーレイみたいには上手くやれないよ、朝は見るだけで、注文しに入るのは夜だなんて。
「ほらな。無理しないで俺に任せておけ」
お前でも気軽に入れそうな店で、お前の家から遠くない店。
俺には少々不利になるがな、その分、頑張って早めに出たなら、お前よりも先に着けるってな。
「待ち合わせ場所を探す所から、ハーレイ任せになっちゃうの?」
二人で相談して決めるんじゃなくて、ハーレイが一人で待ち合わせ場所を決めちゃうの?
「別にいいじゃないか、待ち合わせるのには違いないんだし」
時間はお前と相談するんだ、何時に其処で待ち合わせるか、って所はな。
ちゃんと立派に待ち合わせだろうが、お前と二人で時間を決めれば。
お前の家に車で迎えに来るよりいいだろう、と笑うハーレイ。
何処かで待ち合わせをしようと言うなら、待ち合わせ場所を俺が決めたって、と。
「そうだなあ…。うんと入りにくそうな店にしようか?」
お前が急いでやって来たって、一人じゃ入りにくそうな店。そういう店に決めておいたら、お前より先に入って待てる。お前は俺が入って行くのを見届けてからしか入れないだろうし。
「それは酷いよ…!」
ハーレイ、ぼくが早く着いても待ってられる場所、って言ったじゃない!
そんなお店だと、ぼくはハーレイが来るまで、入れないで外にいるしかないんだよ?
雨が降ってても、お腹が空いても、お店の外で。ハーレイ、それでもかまわないわけ?
「冗談だ。…ちゃんといい店を見付けておくさ」
お前が最初の客になっても、居心地よく座っていられそうな店。
俺が遅刻をしちまったとしても、のんびり、ゆっくり待っていられるような店を、きちんとな。
ハーレイに待ち合わせ場所から探して貰わなくてはいけないけれども、いつかはしてみたい待ち合わせ。此処で何時に、と場所と時間とを決めて、ハーレイと会う。
そうして会ったら、デートの始まり。二人で何処かへ出掛けてゆく。
前の自分たちには出来なかったデートのための待ち合わせ。ソルジャーとキャプテン、そういう立場で待ち合わせは出来ても、恋のためには、デートのためには、ただの一度もしなかった。
けれども、今度は何度でも出来る。恋人同士だということを隠す必要など無いのだから。何処へ行くにも、手を繋いで二人でゆけるのだから。
「ねえ、ハーレイ…。待ち合わせ、沢山、沢山、したいな」
結婚するまでのデートはいつでも待ち合わせがいいな、結婚したらもう出来ないから。
ハーレイと一緒に暮らすようになったら、もう待ち合わせは無くなっちゃうから…。
「おいおい、そんなに焦らなくても…。いいか、お前の夢の待ち合わせってヤツは、だ」
結婚した後にも出来るんだが?
俺と一緒に住むようになっても、待ち合わせのチャンスはいくらでもあるぞ。
「なんで?」
おんなじ家に住んでいるのに、何処で待ち合わせをするっていうの?
家の玄関とか、庭の何処かとか、そういう所で待ち合わせるの?
「そうじゃなくてだ、俺が仕事に行ってる時だな」
仕事帰りの俺と待ち合わせだ、俺の学校から家まで帰る途中の何処かで。
俺は車で出掛けてもいいし、その日は車を置いて行くのもいいかもしれんな。
「ああ…!」
ハーレイの仕事が終わった後に、ぼくと何処かで会うんだね?
家まで帰って来るんじゃなくって、途中のお店とかで、ぼくが待ってて。
それだと、ぼくがハーレイより先に着けそう。大急ぎで飛び出して行かなくっても…!
初めてのデートや、初めての待ち合わせも素敵だけれど。
結婚した後に、仕事帰りのハーレイと待ち合わせて、一緒に食事に出掛けて行ったり、ゆっくり二人で買い物をしたり。夜の街を二人で歩くのもいいし、ハーレイの車でドライブもいい。
きっとそういうデートも楽しい、結婚した後も、平日だから出来る待ち合わせ。
「待ち合わせ、早くしてみたいな…」
初めてのデートも、待ち合わせも。…結婚した後の、ハーレイの仕事帰りの日のも…。
「まずはお前が育たないとな」
でないとデートも出来やしないし、結婚も無理と来たもんだ。
急がなくていいから、前のお前と同じ姿に育つことだな、そしたらデートを申し込むから。
待ち合わせ用の店でも探しながら待つさ、お前が育ってくれるのをな。
いつか自分が育ったら。前の自分と同じ背丈に成長したなら、初めてのデートで待ち合わせ。
ハーレイが探しておいてくれた店で、二人で決めた時間に会って。
そこから始まる、初めてのデート。ハーレイと二人、手を繋ぎ合って。
待ち合わせの時間が競い合うように早くなっても、それも素敵な思い出になって。
結婚した後も、仕事帰りのハーレイと何処かで待ち合わせが出来る、デートに行ける。
そう、今度は待ち合わせをしてもかまわないから。仕事ではなくて、恋のために。
何度したって、かまわない。
場所と時間を決めて待ち合わせて、二人でデート。
ハーレイと二人、幸せな時間を過ごすための始まりが待ち合わせなのだから…。
待ち合わせ・了
※前のハーレイとブルーはしていなかった、待ち合わせ。恋人同士という間柄では。
それが今度は出来るのですけど、まだ先の話。いつかブルーが大きくなったら、何度でも…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(うーむ…)
また親父か、とハーレイがついた大きな溜息。金曜日の夜に。
ブルーの家には寄れなかったから、食料品店で買い物などをして帰宅したけれど。ダイニングに足を踏み入れてみれば、先客の痕跡がありありと。
合鍵を持っている父がやって来て、暫し寛いで帰ったらしい。どう見てもそういう具合の部屋。椅子はきちんと元に戻って、空のカップも皿も無くても、物言わぬ証拠が残されていた。父の字で書かれた置き手紙。「ブルー君に持って行ってやれ」と。
テーブルの上に置かれたヤドリギ、ちょっとした花束になりそうなほどの大きさの枝。何処かで見付けて採って来たとみえて、「珍しいだろう」と誇らしげに書き添えてあった。
今の季節は実もつけているから、地味ではあっても面白くはある。それに珍しいことも間違いはない。花壇や庭では育てられない、普通の植物のようにはいかない。ヤドリギは寄生植物だから。
木の枝に鳥が残した種から芽生えて、その木を糧に育つものだから。
父は恐らく釣りの途中でヤドリギに出会ったのだろう。これだけの大きさの枝ともなれば、低い木ではなくて多分、大木に宿ったヤドリギ。
木登りをしたのか、はたまた釣竿に細工でもして採って来たか。いずれにしても自慢の収穫物。小さなブルーに見せてやってくれ、と。
(親父にしてみりゃ、珍しいだけで…)
他意は無いと思う、これに関しては。ヤドリギの枝をわざわざ届けに来た件は。
立派なものを見付けたから、と得意げな顔が目に浮かぶようだ。「滅多にお目にかかれないぞ」だとか、「花屋に頼んでも取り寄せだな」だとか。
そう、ヤドリギにはそうそう会えない、普通の家の庭はもとより、公園でさえも。種を運ぶ鳥がいなくては駄目で、その種がまず必要で。鳥が実を食べ、中身を落としてくれなくては。
そんな木だから、ヤドリギを見たいと探しに行っても、運任せ。この木にだったら確実にある、といった類のものではないから。端から見上げて探すしかない、丸く茂った独特の姿を。
一つ見付かれば、同じ木の上に二つ、三つとくっついていることもあるけれど。よくもこんなに育ったものだと呆れるほどに、幾つもつけた木もあるのだけれど。
とにかく珍しいのは事実で、花屋でも常に置いてはいない。だからこその父の置き手紙。小さなブルーに届けてやれ、と。
(趣味で果実酒も作るしなあ…)
父がヤドリギに出会えば果実酒、熟した実を使って作り始める。此処に置いてある枝の他にも、ヤドリギを採って帰っただろう。これから作るか、とうに瓶の中に漬かっているのか。滋養強壮にいいらしい果実酒、色はこのヤドリギの実と同じで黄色。味の方もけして悪くはない。
それに種からはトリモチが作れる、黄色く熟した実の中身で。粘り気を帯びた種を細かく砕けば出来るけれども、これが根気の要る作業。砕いただけでは出来ないトリモチ。何度も何度も叩いて潰して、その繰り返し。
父には「噛んで作るのが王道だぞ」と教わったけれど、噛んでも時間は短縮出来ない。口の中が塞がるというだけのことで、けして早くは出来上がらない。
とはいえ、面白かった経験、ヤドリギの種から作るトリモチ。棒の先に粘るトリモチをつけて、鳥が来るのを待ったりした。本当にこれで捕れるだろうか、と。
何の鳥かは忘れたけれども、何度か捕った。家の庭でも、父と出掛けた釣りの途中にも。捕った小鳥は直ぐに逃がした、トリモチで遊んでいただけだから。
珍しい上に果実酒やトリモチも作れるヤドリギ、父がブルーに届けてやりたい気持ちも分かる。ましてこんなに立派な枝なら、なおのこと。
(だがなあ…)
得意の薀蓄、あるいは雑学。ヤドリギについても持っているネタは幾つかあって。
遠い遥かな昔の日本でヤドリギと言えば、長寿と幸福を祈るもの。地面に根を張る木とは違って空で育つ木、冬でも枯れない艶やかな緑。年中緑が絶えない常盤木、ゆえに珍重されたヤドリギ。枝を髪に挿して長寿と幸福を祈り、祝い事の時に飾りもした。
それが自分たちの住む地域の昔の文化で、そちらは別に悪くはない。けれど…。
(この地域じゃあまり見かけないが、だ…)
他の地域でヤドリギとくればとんでもなかった、クリスマスに飾られるヤドリギのリース。その下に立っている女性にはキスをしてもいいのだ、という迷惑な習慣。
キッシング・ボウと呼ばれるヤドリギのリース。キスをしたらヤドリギの実を一つ毟って、実が無くなったらキスもおしまい。
ヤドリギ自体は、その地域でも神聖な木ではあるけれど。遠い昔には黄金の鎌で採ったくらいに大切にされていたのだけれども、いつの間にやらキッシング・ボウ。
そんな調子だから花言葉も酷い、イギリスだったら「私にキスをして下さい」。フランスならば「危険な関係」。
なんとも厄介な植物がヤドリギ、父が「ブルー君に」と寄越したヤドリギ。
しかも、それだけでは済まなかった。今の自分の薀蓄だけでは。
(シャングリラがなあ…)
前の自分が生きていた船、ブルーと暮らした白い船。
シャングリラではクリスマスの飾りにとヤドリギの造花を作っていた。本物のヤドリギは流石に育てられなかったから。アルテメシアへ採りに行くのもあんまりだから。
それでも欲しかったヤドリギのリース、言い出したのは誰だったろう?
ヒルマンやエラが率先してやるとも思えないから、誰かが昔の本などで読んで、そこから船中に広がってしまったという所か。そうなれば調子に乗るのがブラウとゼル。お祭り騒ぎが好きだった二人。始まりは多分、そういった所。シャングリラにもあったヤドリギのリース。
造花を使ってまで作るのだから、目的は無論、キッシング・ボウ。その下に立っている女性にはキスをしてもいいのだと、大人なら誰でも知っていた。
ヤドリギのリースを吊るしていた場所、居住区の入口や公園の入口。
(誰も立ってはいなかったがな?)
前の自分は見掛けなかった、リースの下に立っている女性。
けれども造花のリースについていた実は、いつしか消えてしまっていたから。綺麗に無くなってしまっていたから、前の自分が見ていないだけで、立っていた女性はいたのだろう。女性にキスを贈った者も。
(…俺は避けられていたってか?)
今にして思えばそうかもしれない、ウッカリ立っていてキスをされてはたまらないと。
(薔薇のジャムが全く似合わなかった俺だしな…)
シャングリラの女性たちが作った薔薇のジャム。希望者にクジで配られたけれど、クジを入れた箱は前の自分を素通りしていった。ゼルでさえも「運試しじゃ」と引いていたのに。
(俺だと逃げられていたってことはだ…)
ブルーだったら、女性が何人もリースの下に立っていたかもしれない。あわよくば、と。
白いシャングリラのヤドリギの思い出はクリスマスのリース、ブルーも覚えている筈で。小さなブルーが忘れていたとしても、話してやれば思い出す筈で。
(そういえば、あいつ…)
シャングリラで暮らしていたブルー。前の自分が愛したブルー。
ブリッジでの勤務を終えて青の間に行こうと歩いていた時、リースの下で待ち受けていた。皆が寝静まった居住区の入口、其処に吊るされたリースの真下に立って。
キスしてもいいと、此処でキスを、と。
誰も見ていないから今の内だと、この時間ならば大丈夫だと。
あの日は仕事が遅くなったから、静まり返っていた居住区。普段だったら帰る時でも通ってゆく者が何人もいた。リースの下に立っている女性がいなかっただけで。
(………)
前のブルーは待っていたのだろう、ヤドリギのリースが吊るされた場所が無人になるのを。前の自分が通るタイミングで、其処に人影が無くなる時を。
させられてしまった、ヤドリギのリースの下でのキス。「ほら、取って」と促されてリースから毟り取った実。
あの実は何処へやったのだったか、そこまでは思い出せないけれど。
鮮明に蘇って来た記憶。ヤドリギの下で前のブルーに贈ったキス。強請られるままに。
ヤドリギのキスを思い出したからには、出来れば持って行きたくないのがヤドリギだけれど。
小さなブルーの家には届けず、知らないふりをしたいけれども。
(親父が訊いてくるに決まっているんだ!)
あのヤドリギは喜ばれたかと、未来の息子の反応を。今の所は一人息子の自分が伴侶に迎えると報告してある、小さなブルーの反応を。
もしもヤドリギを持ってゆかずに、適当な嘘をついておいたら…。
(いつか、ブルーと親父が会った時に…)
バレないとも限らない、何かのはずみに。あのヤドリギは届かなかったと、ブルーはヤドリギを貰わなかったと。
そうなるとマズイ、ヤドリギだけに。ヤドリギのリースの下で前のブルーに、キスを贈った思い出があるだけに。
(親父め…)
よくもヤドリギなんぞを、とテーブルの上の枝を睨んでも消えてくれないヤドリギの緑。文字が消えてはくれない父の置き手紙。「ブルー君に持っていってやれ」と。
ヤドリギの枝を持ち込んだ父は、ヤドリギと言えば果実酒かトリモチだとしか思っていないから仕方ないのだけれど。キッシング・ボウの習慣は自分たちの住む地域には無いのだから。
この地域では、せいぜい、クリスマスの飾りくらいに思われているのがヤドリギの枝。リースの下でのキスまで知っている者は恐らくとても少ないだろう。
父が何処かで耳にしたとしても、他の地域の文化なだけに、きっと忘れるに違いない。自分とは全く関係が無いと、覚えておく必要も無さそうだと。
(仕方ないか…)
持って行こうと腹を括った、このヤドリギを。黄色い実が幾つもついた見事な枝を。
明日は小さなブルーの家を訪ねてゆく日だから。それに合わせて、父がヤドリギの枝をブルーに贈ろうと隣町から来たのだから。
翌日の土曜日、晴れた空の下、ヤドリギを持ってブルーの家へと出掛ける途中。
散歩中の人に何度も声を掛けられた、「珍しいですね」と。「朝から採って来られたんですか」とも何度も訊かれた、ヤドリギの枝は下手な花束よりも人目を引くから。
声を掛けて来た人に譲ってしまいたいほどの気持ちだったけれど、そうもいかなくて。
父の好意を無には出来ないから、これはブルーに、とグッと堪えて歩き続けて、生垣に囲まれた
ブルーの家に着いてチャイムを鳴らしたら。
「あら、ヤドリギ…!」
門扉を開けに来たブルーの母がヤドリギの枝に目を留めた。「どうなさいましたの?」と。
「昨日、父が届けに来まして…。ブルー君に、と」
「そうでしたの! ブルーもきっと喜びますわ。ヤドリギだなんて」
クリスマスの飾りには早いですけど、そうそう見掛けませんものね。
笑顔で言われた「クリスマス」という言葉にドキリとしたけれど、キッシング・ボウのことではなかった。クリスマスのリースに使われる植物の一つがヤドリギだと思っているらしい。
(心臓に悪い…)
あの親父め、と心で毒づいておいた、ヤドリギのせいで俺は迷惑してるんだが、と。
二階のブルーの部屋に案内されて。お茶とお菓子が運ばれて来た後、小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合わせ。
母の足音が消えると早速、ブルーはヤドリギの枝を指差した。花瓶に生けられ、テーブルの上に置かれた枝を。
「ハーレイ、花束持って来てくれたの?」
「そう見えるか?」
お前の目にはこいつが花束に見えると言うのか、花束にしては地味すぎるんだが?
それにだ、この枝は俺からじゃなくて、俺の親父からのプレゼントで…。
昨日、帰ったら置いてあったんだ。「ブルー君に持って行ってやれ」という手紙つきでな。
「えっ、ハーレイのお父さんから?」
ぼくにプレゼントなんだ、この枝。それじゃ珍しい木か何かなんだね、釣りのお土産かな?
えーっと…。花は咲いてないけど…。でも、実がついてる枝が一杯…。
これは何なの、とブルーが眺めているから。
「覚えていないか? 前のお前は知ってた筈だが」
「え?」
「シャングリラにあったぞ、本物じゃなくて造花だったがな」
あの船じゃ本物は育てられなかった、木に寄生する植物なんだが…。
「ああ、ヤドリギ…!」
そうだったっけね、クリスマスになったら造花を作っていたんだっけ。クリスマスのリースにはヤドリギじゃないと、って。
これが本物のヤドリギなんだ、と瞳を輝かせているブルー。それにハーレイのお父さんに貰った素敵なお土産、と。
「黄色い実が沢山ついているけれど、この実は食べてもいいの、ハーレイ?」
シャングリラのヤドリギは造花だったから、実なんか食べられなかったけれど。
「駄目だ、生の実は毒だからな」
少しくらいなら問題は無いが、食わないに越したことはない。この実を食うなら果実酒なんだ。
「お酒…?」
こんな小さな実でもお酒になるんだ、ヤドリギの実。
「親父が趣味で作っているぞ。小さな実だから、そんなに沢山は出来んがな」
この枝を採って来たついでに、自分用にも採って帰って作っていると思うぞ、ヤドリギの酒。
黄色い色の酒だ、この実を溶かしたような色になるってわけだ。ほんのり甘いぞ、チビのお前はまだ飲めないが…。いや、育っても酒は駄目だったっけな、お前の場合は。
「甘いってことは…。この実、甘いの?」
さっき毒だって言っていたけど、ハーレイ、この実を食べたことはある?
「ガキの頃にな。実の中の種を取り出すついでに食ってみた」
甘い実だったぞ、親父に「駄目だ」と言われなかったら、きっと山ほど食ってただろうさ。毒にあたって酷い目に遭ったと思うがな。
「ふうん…? 甘い実なのに毒なんだ?」
「ありがちだろうが、その手のものは。毒が必ずしも苦いとは限らん」
それから、俺が食っていたのは実の中の種のためだからな?
同じ出すなら食ってみようと思ったわけだな、その種だって口に入れんと使えないんだし。
種でトリモチを作るんだ、と実を一つ取って。指先で黄色い果肉を破って、中にある種を見せてやった。粘り気がある種なんだ、と。
「こんな感じで指にくっつく、ヤドリギはこうやって増えていくのさ」
鳥が実を食った後に落としていく種。そいつが木の枝にくっつく仕組みだ、この粘り気で。根が出るまで無事にくっついていられたら、其処にヤドリギが生えるってことだ。
人間様はこいつを使ってトリモチ作りで、種を砕いてやるんだが…。
親父が言うには、王道は「口の中で噛む」ってヤツでな、俺も頑張って噛んでいたもんだ。辛抱強く噛めば粘りが強くなってだ、見事トリモチが完成ってな。
「へえ…!」
トリモチって、それで鳥が捕れるの?
ハーレイ、鳥を捕まえられた?
「まあな。捕まえた鳥はもちろん逃がしてやったぞ」
俺は遊びで捕ってるんだし、直ぐに逃がしてやらんとな?
トリモチは噛んで作ったりもしたが、石とかで種を叩き潰して細かくしたりもしていたな。石を使おうが、口で噛もうが、かかる時間は変わらないわけで、面倒と言えば面倒だなあ…。
トリモチってヤツはモチノキからも作れるぞ。そっちは木の皮を使うんだがな。
モチノキのトリモチの作り方は…、と父の直伝の方法などを披露して、ヤドリギから逸らそうとした話題。小さなブルーがキッシング・ボウを思い出さない方へゆこうと。
そうして子供時代のトリモチ作りや、トリモチで鳥を捕まえた話をしていたら…。
「ハーレイ、これって…。このヤドリギって…」
ブルーがヤドリギの枝をまじまじと見詰めているから、「うん?」と先を促した。余計なことを思い出すんじゃないぞ、と祈りつつも「ヤドリギがどうかしたか?」と。
「こいつが何か気になるというのか、そういえばヤドリギは薬だっけな」
種はトリモチだが、葉っぱや茎は薬草なんだ。確か腰痛に効くんだったか…。
何処の地域かは忘れちまったが、金に困ったらヤドリギを採って薬屋に売りに行ったそうだぞ、けっこうな金になったってことだ。
「そうなんだ…? 造花だと薬はちょっと無理だね、ヤドリギの造花」
シャングリラのヤドリギは造花だったし…。クリスマスにリースを作るための。
「そうだが? 今でもヤドリギはクリスマスのリースに使われてるぞ」
お前のお母さんも「クリスマスには少し早い」と言っていたなあ、こいつを眺めて。
少しどころか、まだまだ先だな、クリスマスはな。
もっと寒くなって雪が降る頃になってくれんと…、とクリスマスからも話を逸らそうとした。
シャングリラにあったクリスマスのリースはキッシング・ボウで、小さなブルーが思い出したら何かとうるさそうだから。
ヤドリギだけでも充分に危険なものだと言うのに、リースとなったら危険は一層高まるから。
なのに…。
「思い出したよ、シャングリラのヤドリギ!」
なんでわざわざ造花を作って、それをリースにしてたんだろう、と思ったけれど…。
他の木とかじゃ駄目だったのかな、って考えてたけど、ヤドリギって所が大切だったんだっけ。
ヤドリギのリースの下でキスだよ、これのリースの下にいる人にはキスをしたっていいんだよ。
キスをしたら実を一つ毟って、実が無くなったらキスはおしまい。
前のぼくもハーレイにキスして貰ったっけね、居住区の入口に立って待ってて。
「おいおいおい…」
なんて話を思い出すんだ、親父はそういうつもりでヤドリギを採って来たんじゃないぞ?
親父にとっては果実酒かトリモチの元になる木で、ただ珍しいっていうだけで…。
お前に届けてやれというのも、デカイのを見付けて嬉しかったからだと思うがな?
親父はキッシング・ボウを知らんし、クリスマスのリースに使うというのも知ってるかどうかは怪しいもんだ。おふくろが家に飾っていたって、クリスマスと結び付いてるかどうか…。
単なるリースだと思ってそうだぞ、クリスマスだからリースを飾ってあるんだな、とな。
このヤドリギはそういう親父からのプレゼントで…、と懸命に逃げた。キッシング・ボウの話は御免蒙ると、もうこれ以上は勘弁だと。
「いいか、親父は何も知らないんだ、お前が言ってるようなことはな」
だからこそ「持って行け」と家まで届けに来たんだ、キスだと知ってりゃ持っては来ない。
俺の顔を見る度に「あんな小さい子に手を出すんじゃないぞ」と言ってる親父だ、こいつに妙な意味があるんだと知っていたらだ、持って来ないで果実酒だな。自分用に全部持って帰って。
「そっか、意味…。あったね、ヤドリギの花言葉で「キスして下さい」っていうヤツが」
何処のだったか忘れたけれども、シャングリラにいた頃に確かに聞いたよ。
「キスして下さい」だからキスしてあげるよ、ハーレイに。
ヤドリギを持って来てくれたんだもの、「キスして下さい」って意味になるよね。
「こら、チビのくせに…!」
キスは駄目だと言ってるだろうが、お前からキスをするのも禁止だ!
ついでに、ヤドリギを持って来たから俺にキスだと言うなら、俺よりも親父の方だろうが。このヤドリギは親父のプレゼントなんだ、お前がキスをするなら親父だ。
「…そうなっちゃうの? ハーレイのお父さんにキス…?」
ハーレイにキスっていうのは駄目なの、ぼく、ヤドリギを貰ったのに…。
ヤドリギの花言葉は「キスして下さい」なのに、ハーレイ、キスして欲しくないわけ…?
「当たり前だ!」
俺からもキスをしないというのに、なんでお前がキス出来るんだ!
チビのお前にキスは禁止だ、前のお前と同じ背丈に育ってから言え、そういう台詞は!
それに親父からのプレゼントだし、とヤドリギの枝から小さな枝を一本、ポキリと折り取った。
「親父は多分、知らんと思うが…。ヤドリギは果実酒でトリモチだろうと思うんだが…」
それでも日本の文化が好きな親父だからなあ、ここは日本風にいこうじゃないか。
キスがどうのと言うんじゃなくてだ、前の俺たちが生きた頃には消されちまってた日本の文化もいいもんだぞ。日本じゃヤドリギは長寿と幸福を祈って、こうして髪に挿すもんだってな。
こうだ、とブルーの銀色の髪に挿してやったヤドリギの小枝。上手く絡めて、落ちないように。
「髪飾りって…。日本風って、たったこれだけ?」
キスとかは無いの、日本には?
日本の文化にそんなのは無いの、髪の毛に飾っておしまいなの…?
「残念ながら、日本の文化には元々、クリスマスなんぞは無かったからな」
クリスマスが無ければヤドリギのリースは必要無いしだ、その下でキスをすることも無い。
ヤドリギとキスは結び付かんということだ。お前の目論見通りにはいかん。
第一、何度も言ってるだろうが、このプレゼントは親父からだ。俺ではなくて親父だ、親父。
せっかく見事なヤドリギなんだし、残りは飾っておくんだな。
髪に一本挿してやったし、もうそれだけで充分だろうが。
「そんな…!」
お父さんからのプレゼントにしたって、届けてくれたの、ハーレイなのに…!
それに本物のヤドリギなんだよ、前のぼくたちにはヤドリギの造花しか無かったのに…。
前のハーレイとキスをしたのも、造花のヤドリギの下だったのに…!
酷い、とブルーは膨れたけれど。
ヤドリギの花言葉は「キスして下さい」で、ヤドリギのリースはキスしてもいいリースの筈だと頑張るけれど。
「前のぼくは造花の下でしかキスを貰っていないよ、このヤドリギは本物だよ?」
やっと本物に会えたんだから、キスのやり直しをしてもいいと思うよ?
リースにしなくても、ヤドリギの側でハーレイとキスして、実を一個取って。
やり直しのキス、此処できちんとして欲しいんだけど…!
「分かってるのか、キスはクリスマス限定だぞ」
花言葉の方はともかくとしてだ、ヤドリギの下でキスをするのはクリスマスだけだ。やり直しも何も、今はクリスマスじゃないんだがな?
「だったら、このヤドリギの枝、クリスマスまで残しておいて…」
リースにしようよ、それからキスのやり直しで…!
「クリスマスまで持つと思うか、この枝が?」
木に生えたままなら枯れないだろうが、もう切り取られているんだぞ。どんなに注意して世話をしたって、クリスマスまでには枯れるだろうな。
「それなら、また採って来て貰うとか…」
ハーレイのお父さんに探して貰って、またヤドリギの枝をプレゼントして貰うんだよ。
「そりゃまあ、ヤドリギを探すんだったら、冬の方が遥かに見付けやすいが…」
木の葉が全部落ちちまうから、ヤドリギがついてりゃ一目で分かる。
ヤドリギは冬でも青々と茂っているんだからな。
「じゃあ、リクエスト!」
探しやすいんなら頼んでいいでしょ、ヤドリギ探し。ぼくはヤドリギが欲しいんだから。
ぼくが気に入って欲しがってる、って伝えておいてよ、お父さんに。
クリスマス前にもう一度ヤドリギを採って来て貰えるように頼んでよ、と強請られたから。
本物のヤドリギでリースを作って、やり直しのキスだとせがまれたから。
「断固、断る」
百歩譲って、親父にヤドリギ探しを頼んでやったとしても、だ。
お前のお母さんに渡して「リースにどうぞ」ということになるな、クリスマスの飾りにピッタリですと。きっと素敵なリースが出来るぞ、そりゃあ綺麗なヤドリギのリースが。
俺が来たら玄関のドアに飾ってあるかもしれないな。玄関の天井に吊るすんじゃなくて、ドアの外側によく見えるように。
そういうリースになって良ければ、親父に頼んでやってもいいが?
ドアにくっついちまったリースじゃ、その下でキスは出来ないからな。
「ハーレイのケチ!」
やり直しのキスをしてくれる気なんか無いんだね?
前のぼくたち、造花のリースしか無かったのに…。
本物のヤドリギがある地球に来たのに、その下でキスはしてくれないんだ…?
プウッと膨れてしまったブルー。頬を膨らませて不満そうなブルー。
ヤドリギの下でキスをやり直したいという気持ちは分かるけれども、今のブルーは子供だから。
十四歳にしかならない子供で、キスどころではないのだから。
「ケチと言われても、膨れられても、譲るわけにはいかんな、これは」
駄目だと言ったら駄目なんだ。今のお前とキスは出来んし、やり直しのキスでもそれは同じだ。
しかし、お前の気持ちも分かる。造花の下より本物のヤドリギの下で、というのはな。
だからだ、いつかお前と結婚したなら、クリスマスにリースを飾ろうじゃないか。親父に頼んで探して貰って、本物のヤドリギで作ったリースを。
お前はそいつの下に立つんだ、そうしてキスのやり直しだ。
「ホント? 本当にやり直してくれるの、キスを?」
今は駄目でも、結婚したら。ハーレイと暮らせるようになったら、やり直しのキス。
「うむ。本物のヤドリギの下に立ってろ、ヤドリギの実がある間はな」
キスをしたら実を一つ毟って、全部無くなったらおしまいだろうが。
リースについてる実の数だけのキスをしてやる、前の俺たちのやり直しのキスを。
前の俺がリースから外した造花の実は何処へやったか、まるで覚えていないんだが…。
多分、お前とのキスがバレたら困ると捨てたんだろうが、今度は捨てなくてもいいからな。
リースから毟った実は酒に漬けておくとするか、ヤドリギの果実酒の作り方を親父に習って。
そうすりゃキスの思い出になるし、実だって美味しく食べられるし…。
お前は酒は駄目かもしれんが、少しだけ舐めるくらいはな…?
「うんっ!」
キスの数だけ、実が漬かっているお酒なんだね。キスしたら実が増えていくんだね、瓶の中の。
やり直しのキスを貰った分だけ、ヤドリギのお酒の実が増えるんだね…。
それまで待つよ、とブルーの機嫌が直ったから。膨れっ面ではなくなったから。
「待つだけの価値は充分にあるぞ、なにしろ本物のヤドリギだからな」
そいつのリースだ、シャングリラの造花のリースとは違う。
お前はキスにこだわっているが、ヤドリギってヤツは本来、幸福を運ぶものだったんだ。
だからクリスマスの飾りにもなった、幸運を呼び込めるようにとな。
ずうっと昔は神聖な木で、黄金の鎌で刈り取ったというくらいの木なんだ、ヤドリギの木は。
それを吊るして幸せを祈っていたのがキスの始まりってわけだ、幸せになれますように、とキスしていたんだ、最初の頃は。
いつの間にやら、意味が変わってしまったが…。本当は幸福を祈るキスだったのさ。
つまりだ、俺たちのやり直しのキス。造花じゃない分、うんと幸せが来るってな。
「そうなんだ…。ただのやり直しのキスじゃないんだ…」
本物のヤドリギが幸せを運んでくれるんだ?
やり直したキスの数の分だけ、リースについてた実の数だけ。
「それ以上に幸せになれる筈だぞ」
元々は実なんか数えちゃいないだろうが、キッシング・ボウが出来る前には。
ヤドリギのリースがあればいいんだ、そいつを飾っているだけで幸せが来るさ、きっと山ほど。
今は長寿と幸福の髪飾りで我慢しておいてくれ、と髪に挿し直してやったヤドリギ。
銀色の髪に絡めて一枝、ヤドリギの緑。
シャングリラで贈ったキスの証の、ヤドリギの実は失くしたけれど。
前の自分がブルーとの恋を隠し通すために、何処かに捨てたらしいけれども。
今度は隠さなくてもいいから、キスの数だけ毟り取った実を漬けて果実酒も作れるから。
きっといつかは本物のヤドリギのリースを飾ろう、ブルーと二人で暮らす家に。
そうして最初はやり直しのキス、前の自分たちが造花のリースの下で交わしたキスのやり直し。
幾つも幾つもキスを交わして、やり直しのキスが済んだなら。
ヤドリギの実が全部毟り取られて無くなったならば、今度は二人で幸せのキス。
青い地球の上で幸せになろうと、何処までも幸せに生きてゆこうと…。
ヤドリギ・了
※シャングリラでは造花だった、クリスマスのヤドリギ。キッシング・ボウに使われた物。
前のブルーとハーレイにも、その下でのキスの思い出が。今の生でも、いつか本物の下で…。
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