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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あれ…?)
 雨かな、とブルーが気付いた音。目覚めたベッドで。
 ポツリ、ポツリと落ちる雨音。屋根や軒を打つ雨粒の音。それに地面に滴る音も。耳に届く音はそのようにしか聞こえない。どう聞いてみても雨の音。
(今日は土曜日…)
 ハーレイが来る日だ、と気が付いた。学校は休みで、午前中からハーレイが家に来てくれる日。昨夜はそれを楽しみにベッドに入って、天気予報は見ていなかった。雨とも、晴れとも。
 けれど雨音が聞こえるのならば、雨なのだろう。窓の向こうや天井の上で、こういう音を立てるものは他に無いのだから。
 ベッドから出てカーテンを開けたら、やっぱり雨。しとしとと空から落ちてくる雨。
(ハーレイ、車だ…)
 それが最初に思ったこと。こんな日は車で来るハーレイ。
 天気のいい週末は、家から歩いて来るのが習慣。何ブロックも離れているのに、まるで散歩でもするかのように。実際、散歩なのだろう。回り道して歩いて来る日も多いから。
 ハーレイにとっては「軽い運動」の散歩だけれども、雨の日は流石に歩いては来ない。本降りになってしまったりしたら、靴やズボンの裾が濡れるから。
 だから雨なら車の出番。来るのを窓から見ようと思う。ハーレイの愛車が走って来るのを。
(平日は車なんだけど…)
 仕事の帰りに来てくれる時は、いつでも車。ハーレイの通勤は車だから。
 車は度々やって来るけれど、走って来る所は滅多に見ない。数えるほどしか目にしてはいない。いつもチャイムで「ハーレイが来た」と気付くわけだし、車はガレージに入った後。
(帰る時には暗くなっちゃってるし…)
 もう見えはしない車の色。夜の闇が車を覆ってしまって、夜だけの色に変えるから。
 おまけに家の表まで出掛けて、其処で見送り。遠ざかってゆくテールライトに懸命に手を振る。また来てね、と精一杯の思いをこめて。
 帰ってゆく車を部屋の窓から見るのは、病気で寝込んでいる時だけ。
 ハーレイに「寝てろ」と言われてしまうし、両親だって許してくれない。具合が悪いのに、外に出るなど。仕方ないから窓から見るだけ。去ってゆく車のテールライトを。



 この窓からは殆ど見ていない、濃い緑色をした車。前のハーレイのマントとそっくり同じ色。
 それが走って来るのを見られるチャンスが、朝から雨が降っている今日。ハーレイは車でやって来る筈で、それよりも前に窓の所で待っていたなら出会える車。姿を見せる所から。
(よーし…)
 ハーレイの車を見なくっちゃ、と張り切って顔を洗いに出掛けた。それから着替えて朝御飯。
 両親と一緒に食べる間も、「ご馳走様」と部屋に戻って掃除する間も、弾んだ気分。ハーレイの車を見るんだから、と。
 掃除の仕上げは、窓辺のテーブルを綺麗に拭くこと。いつもハーレイと使うテーブル。二人分の椅子も位置を確かめ、大満足で済ませた掃除。「これでおしまい」と。
 それから座った椅子の片方。ハーレイが座る椅子とは違って、自分用だと決めている椅子。
 其処に座れば窓の向こうがよく見えるのだし、車を待つにはお誂え向き。まだ少し早いと思いはしても、此処で車を待ちたい気分。
(ハーレイの車、もうじき走って来るんだから…)
 今日はしっかり見なくっちゃ、と雨に濡れた庭の向こうを眺める。生垣を隔てた所に道路。
 ハーレイの車は、学校にある駐車場でも見るけれど。乗せて貰ったこともあるけれど、こうして車を待っている間も高鳴る胸。前のハーレイのマントの色の車なんだよ、と思っただけで。
 空は雨雲に覆われているし、雨だって降っているけれど。太陽の光は射さないけれども、夜とは違って明るい今。車の色はよく見える筈。ハーレイも好きな車の色が。
(不思議だよね…)
 今のハーレイが車を買う時、あの色の車を選んだこと。「この色がいい」と。
 記憶は戻っていなかったのに。前のハーレイの記憶など無くて、今のハーレイだったのに。車を買いに出掛けた時にも、どの色にしようかと考えた時も。
(白もいいけど、乗りたくなかったって…)
 前にハーレイはそう言っていた。白い車も勧められたし、「気に入った」とも思ったらしい。
 けれど「欲しい」という気がしなくて、選んだ車は濃い緑色。「自分らしい」と考えて。
 若いハーレイには渋すぎる色で、友人たちにも驚かれたのだという車。もっと鮮やかな色の方がいいと、「黄色なんかも似合いそうだぞ?」と。
 白ならば、誰も「渋い」とは言わなかっただろうに。「白が好みか」と思うだけで。



 どうしたわけだか、白い車を避けたハーレイ。気が乗らなくて、欲しい気分になれなくて。
 「きっと、シャングリラの色だったからなんだろうな」とハーレイは前に話していた。
 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイと暮らした船。白いシャングリラで長く共に生きて、死という別れに引き裂かれた。前の自分がメギドに向かって飛び去った時に。
(ハーレイ、独りぼっちになっちゃって…)
 それでも地球へと進むしかなくて、白いシャングリラを運んで行った。キャプテンとして、舵を握って。恋人はもういなくなった船、二度と戻って来はしない船を。
 その悲しみをハーレイは覚えていたのだろう。記憶が戻って来なくても。心の何処か深い所で。
 代わりに選んだ、キャプテンのマントと同じ色の車。「これが自分に似合いの色だ」と。
(ホントに不思議なんだけど…)
 生まれ変わって来たほどなのだし、そういったこともあるのだろう。記憶が無くても、心に深く刻まれたもの。「白は悲しい色だから」と白い車を避けたくらいに。
 けれどハーレイは「次の車は白がいいよな」と言っていた。まだ何年も先だけれども、次の車を買う時が来たら、白にしようと。
 その頃には車の助手席に座っているのが自分。前の自分と同じに育って、ハーレイの隣に。
 いつか二人でドライブに出掛けるようになったら、白い車に乗ることになる。最初の間は、今の車に乗るけれど。ハーレイが大切にしている車は、まだ何年も頼もしく走ってくれそうだから。
 大切に乗って走った車にお別れしたなら、ハーレイの車はシャングリラの色になるけれど…。
(今の車も、ぼくたちのシャングリラになってくれるんだよ)
 濃い緑色の車でも。白いシャングリラとは違う色でも。
 ハーレイと二人で出掛けるのならば、それが自分たちのシャングリラ。宇宙船ではなくて、何の変哲もない車だけれど。同じ形の車だったら、きっと山ほどあるだろうけれど。
(それでも、あれはシャングリラになる車なんだから…)
 白くなくても、鯨の形をしていなくても。
 ハーレイと二人で乗ってゆくなら、それが自分たちのシャングリラ。
 仲間たちは抜きで、二人きりで。ソルジャーもキャプテンも要らない車で、ハーレイと走る。
 舵の代わりにハンドルを握ったハーレイと。キャプテンの制服ではないハーレイと。
 その日の気分で、行きたい場所へと走らせる車。地球を目指しての旅ではなくて。



 素敵だよね、と夢見るハーレイと出掛けるドライブ。いつか助手席に乗れる日が来たら。
(早く来ないかな…)
 ドライブに行ける日も来て欲しいけれど、今日の所は、ハーレイが乗った未来のシャングリラ。濃い緑色の車が見たくて、庭の向こうを眺めて待つ。「まだ来ないかな?」と雨を見ながら。
 空から雨が降って来るから、今日は車で来るハーレイ。「軽い運動だ」と歩く代わりに。足元が濡れてしまわないよう、いつも学校に乗ってゆく車で。
(今はハーレイが一人で乗ってて…)
 一人で運転している車。助手席には誰も乗っていないし、後部座席の方も空っぽ。乗せる人などいないから。この家に来るのはハーレイ一人だけだから。
 ハーレイだけが乗った車、と考えてみると、まるで独りぼっちだった頃のハーレイのよう。前の自分を失くしてしまって、独りきりになってしまったハーレイ。白いシャングリラで。
 仲間たちが大勢乗っていたって、ハーレイの心には絶望と孤独。
 恋人はいなくて、追ってゆくことも出来ないまま。それでも行かねばならなかった地球。それが恋人の望みだったから。「ジョミーを支えてやってくれ」と頼まれたから。
 心は独りぼっちのままで、遠い地球まで行ったハーレイ。白いシャングリラに一人きりで。
 今のハーレイも、今日は一人で車を運転して来るけれど…。
(此処に着いたら、ぼくがいるしね?)
 前のハーレイが失くした恋人、ソルジャー・ブルーの生まれ変わりの自分。チビだけれども。
 十四歳にしかならない子供で、ハーレイはキスさえしてくれないチビ。
 けれど恋人には違いないのだし、その恋人の家を目指して走らせる車。ハンドルを握って、前を見詰めて。だからハーレイは独りぼっちで車の中に乗っていたって…。
(寂しくなんかないんだよ)
 今は一人でも、道路を走れば恋人の家に着くのだから。
 まだドライブには一緒に行けないチビの恋人でも、前のハーレイが愛した人の生まれ変わり。
(チビでも、ちゃんと恋人だから…)
 恋人に会いに走ってゆくなら、寂しいと思う筈がない。「一緒だったらいいのにな」と、夢見ることはあったとしても。
 「まだ当分は一人だよな」と、「あいつとドライブはまだ出来ないな」と思いはしても。



 いつか助手席に乗るだろう恋人、その日を心に思い描いて走らせる車。運転席に一人きりでも。
(そういう旅なら楽しいよね?)
 前のハーレイが歩んだ地球までの道と違って。辛くて長い旅路ではなくて、きっと心が弾む旅。ほんの短い距離にしたって、同じ町の中を此処まで走るだけにしたって。
(それにハーレイが乗ってる車は、未来のシャングリラなんだから…)
 二人で乗る日を、ハーレイも待っているだろう。早くその日が来ないものかと、自分と同じに。
 口では何と言っていたって、心の中では。
 何かと言ったら「チビのくせに」と、「今のお前はまだ子供だ」などと叱っていても。
 そのハーレイも、待っているのに違いない。チビの自分が前の自分と同じに育って、隣に座ってくれる日を。助手席に乗せて、一緒にドライブに行ける日を。
 前のハーレイのマントの色をしている車。濃い緑色のシャングリラで。
(シャングリラと車じゃ、運転のやり方、全然違っているけれど…)
 車は空を飛びはしないし、もちろん宇宙も飛んでゆけない。地面の上を走るだけ。それも道路がある所だけを。…ハーレイの車は普通の車で、道路の無い場所を走れはしないから。
 運転するにも、ハンドルと舵輪は全く違う。同じように円を描いてはいても。
 「面舵いっぱーい!」と回す舵輪と、ハンドルを右に切るのとは違う。右の方へと向かう所は、どちらも同じなのだけど。
 白いシャングリラと車はまるで違うけれども、いつかシャングリラになる予定の車。ハーレイと自分と、二人きりで乗るシャングリラ。
 それを走らせて来るのだったら、鼻歌交じりのドライブだろうか。ハーレイの家から此処までの道は。何ブロックも離れたハーレイの家。其処のガレージを出た後には。
(そうなのかも…)
 鼻歌交じりでハンドルを握っているハーレイ。「もうすぐブルーに会えるんだしな?」と。
 恋人の家に向かっているなら、鼻歌だって飛び出しそう。心が浮き立つドライブなのだし、今のハーレイの気に入りのメロディ。
 記憶が戻って来る前だったら、一人でドライブを楽しみながら、きっと鼻歌。それは御機嫌で。
 歌も歌ったかもしれない。
 その頃だったら、気ままにドライブしていたのだから。「今日は行くぞ」と車に乗って。



 ハーレイが車を運転しながら歌う鼻歌。気分がいい日は、ハンドルを右へ左へと切って。
 今日も歌っているかもしれない。此処への道を走る車で、「ブルーに会える」と楽しそうに。
(ぼくと一緒に乗っていく時も…)
 二人きりのシャングリラになった車でドライブの時も、鼻歌が飛び出すかもしれない。助手席に座って、耳を澄ませていたならば。
(お喋りしてたら、鼻歌どころじゃないけれど…)
 綺麗な景色に見惚れてしまって会話が無いとか、助手席の自分がウトウト眠りかけているとか。そういう時なら、ハーレイの鼻歌が聞こえて来そう。楽しげな歌が運転席から。
 それも素敵、と思ったけれど。聴いてみたいと考えたけれど…。
(シャングリラ…)
 本物だった方のシャングリラ。巨大な白い鯨のようにも見えた船。人類軍も、あの白い船に名を付けた。「モビー・ディック」と、遠い昔の小説に出てくる白鯨の名を。
 誰が見たって鯨に見えた白い船。ミュウの母船だと知らない人類は、「宇宙鯨」と呼んでいた。暗い宇宙を彷徨う鯨で、異星人が乗っているのだとも。
 そのシャングリラの舵を握っていたハーレイ。主任操舵士のシドがいたって、ハーレイが自分で舵を握る日も多かった。誰よりも船に詳しかったし、癖も掴んでいたのだから。
 そうやって舵を握っている時、ハーレイはいつも真剣だった。ただ真っ直ぐに前を見据えて。
 シャングリラの舵輪を動かす時には、鼻歌交じりなどではなかった。どんな時でも。
(人類の船なんか、何処にもいなくて…)
 安全なのだと分かっていたって、生真面目な顔をしていたハーレイ。鼻歌などは歌いもせずに。舵輪をしっかり握り締めて立って、背筋をしゃんと伸ばした姿で。
(同じシャングリラでも、船と車じゃ違うよね…)
 形も違えば機能も違うし、動かし方もまるで違っている。シャングリラと名前を付けたって。
 ハーレイと自分の二人が乗るから、車を「シャングリラ」と呼んだって。
 何もかもが違う、船と車のシャングリラ。巨大な白い鯨の姿か、濃い緑色をしている車か。
 二つのシャングリラを比べてみたなら、きっと車の方が楽しい。
 ハーレイが一人で乗っていたって、鼻歌が飛び出す素敵な車。一人きりでのドライブでも。
 白い鯨の方だったならば、鼻歌なんかは一度も出番が無かったのだから。



 車の方が楽しい筈だよね、と考えていたら、窓から見えた緑の車。ハーレイの愛車。
 それを見間違えるわけがないから、「あれだ!」と胸の鼓動が高鳴る。待っていた甲斐があった車で、あれにハーレイが乗っている。此処からはよく見えないけれど。
(運転席には、ハーレイが乗ってて…)
 あそこに見える影がハーレイ、と思う間に車は家の表で止まって、ガレージの方へ。空から雨が降る中を。降りしきる雨に濡れながらも。
 ガレージに車をきちんと停めたら、ハーレイがバタンと開けたドア。運転席の側を。
(降りるハーレイも楽しそう…)
 パッと広げた紳士用の雨傘。それを差したら、大股で歩いて門扉の所へ。足取りも軽く。
 門扉の横にあるチャイムを鳴らすと、部屋でも聞こえたいつもの音。ハーレイはこの部屋の窓を見上げて、こちらに向かって手を振ってくれた。傘を持ってはいない方の手で。
 応えて大きく振り返した手。「ぼくは此処だよ」と、「待っていたよ」と。
(ぼくが待ってたから、一人でも平気…)
 車の中でも、ハーレイの家から此処までの道も。
 記憶が戻る前のハーレイも、車を楽しんでいた筈だよね、と思うから。鼻歌交じりにハンドルを切って、きっと走っていただろうから、訊いてみた。ハーレイと部屋で向かい合うなり。
「ねえ、ハーレイ。車は楽しい?」
 今日は車で此処に来たでしょ、ハーレイは車を楽しいと思う…?
「はあ? 車って…」
 楽しいと思うか、と言われてもだな…。
 それはいったいどういう意味だ、と問い返された。「楽しいと言っても色々あるが」と。
「えっとね…。車、ぼくは運転できないけれども、楽しいの?」
 車を走らせるっていうこと。今日みたいに此処まで走って来るとか、ドライブだとか…。
 楽しそうだよね、っていう気がしたから、ハーレイに訊いてみたんだけれど…。
「そりゃまあ…なあ?」
 楽しくないわけがないだろう。でなきゃ車に乗っていないぞ、路線バスとか俺の足さえあったら何も困りはしないしな。…ちょっとした距離なら歩けばいいし、遠い場所なら他の乗り物。
 自分の車を持ってなくても、何処かへ行くには方法が幾つもあるんだから。



 車を持っていない人も多いだろうが、と言われてみればその通り。乗りたいという気持ちが全く無い人だったら、自分の車を持ってはいない。公共の交通機関だけで充分、と。
「そっか…。ハーレイの仕事は、車が無ければ困る仕事じゃないんだし…」
 乗ってるってことは好きだからだよね、車に乗るのが。好きで乗ってるなら、楽しくて当然。
 その車だけど、シャングリラと、どっちが楽しいと思う?
 シャングリラも車も、ハーレイは動かせるんだけど、と問い掛けた。どちらの方が楽しいかと。
「そいつは今の俺の場合か?」
 俺が考えたらどっちになるのか、それをお前は知りたいのか…?
 そうなのか、と瞳を覗き込まれた。鳶色の瞳で、「今の俺が楽しいと思う方なのか?」と。
「うん。どっちなのかと思ったから…」
 シャングリラはとても大きな宇宙船だし、車はうんと小さいけれど…。
 運転のやり方も違うけれども、ハーレイはどっちの方が好きなの、楽しいのはどっち…?
「今の俺なら、断然、車って所だが…」
 実に気楽に運転できるし、責任だって背負っちゃいないから。…交通ルールを守ることだけで。
 後は誰かを乗せてる時だな、安全運転で行きたいじゃないか。余所見なんかはしてないで。
 もっとも、ちょっと景色を見るのは御愛嬌といったトコだがな。
 あれは余所見とは言わんだろう、と茶目っ気たっぷりの返事が返った。運転中に車の外の景色をチラリと見るのはいいらしい。運転とはまるで関係なくても、首を横へと向けていても。
「やっぱり車の方なんだ…!」
 そうじゃないかと思っていたけど、ホントに車。今日のハーレイも楽しそうだったから…。
 車が来るのを待ってたんだよ、此処の窓から下を見ながら。雨の日はハーレイ、車だものね。
 ガレージに停めて、傘を広げて降りる時にも楽しそうに見えたよ、ホントだよ?
 きっと車が好きなんだよね、と思ったんだけど…。それで当たっていたんだけれど…。
 だけど、前のハーレイだったら違うの?
 前のハーレイのつもりで答えるんなら、別の答えになっちゃうの…?
「そうなっちまうな。なにしろ前の俺の場合は、だ…」
 シャングリラだけしか知らなかったからな、車は運転しちゃいない。
 人類との戦いが始まった後も、運転できる機会は無かった。乗る機会は幾つもあったんだがな。



 あの船だけしか知らなかったが…、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「楽しかった」と。
「俺にとっては、あのシャングリラは最高の船で相棒だったな」
 あれしか知らない船とは言っても、本当に好きな船だった。今の俺にとっての車と同じで。
 責任ってヤツは重かったがな、と言われなくても分かること。今のハーレイの車だったら、交通ルールを守って走るだけでいい。危険が溢れる宇宙を飛んではいないから。
 それに車に乗れる人数、そちらの方も限られてくる。車には詳しくないのだけれども、あの車に乗れるのは六人くらいだろうか。それとも五人といった所か。
 白いシャングリラには、二千人ものミュウの仲間が乗っていたのに。
 前のハーレイはキャプテンなのだし、皆の命に責任があった。二千人いれば、二千人分の。
 それだけの重い責任があっても、ハーレイはシャングリラが好きだったと言う。あの白い船が。ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、皆の世界の全てだった船が。
「でも、ハーレイ…。責任とかはいいにしたって、前のハーレイには普通のことにしたって…」
 最後は独りぼっちになった船だよ、前のぼくがいなくなってしまって。
 ハーレイが一番守りたかった人は消えてしまって、それでも仲間たちの命を守るしかなくて…。
 独りぼっちで地球までの旅をするしかなくって、とっても寂しかった船。
 そのせいで、今も白い車じゃないんでしょ?
 前に聞いたよ、車を買いに出掛けた時の話をね。白い車もいいと思ったけど、それは買わないで今の車になったんだ、って…。
 前のハーレイの記憶が何処かにあったせいでしょ、と口にした。白いシャングリラが悲しい船になっていたから、白い車を選ぶ気になれなかったんだよね、と。
「それは確かにあったんだが…。今の俺まで引きずるくらいに、寂しくて辛い思いはしたが…」
 だが、シャングリラに罪は無い。あの船には何の罪も無いんだ、ミュウの箱舟なんだから。
 それにお前が守った船だ。
 最後は命を捨てちまってまで、前のお前は船を守った。メギドを沈めて、あのシャングリラを。
 そうなる前にも、お前は船を守り続けていただろう?
 人類軍との戦いは無くても、船中に思念の糸を張り巡らせてて、何かあったら動けるように。
 そんなお前に託された船でもあったわけだし、あれはあれで大事だったんだ。
 寂しかったのは間違いないから、楽しかったとは言わんがな。



 前のお前がいなくなった後は、寂しくて悲しい船だった、とハーレイが語るシャングリラ。
 生まれ変わった後に選んだ車も白ではないほど、前のハーレイの心に深い悲しみと痛みを残した船。白い車が気に入っていても、「乗りたくない」と別の色の車を選んだほどに。
 そんな悲しい思いをしたのに、「好きな船だった」とハーレイが言うものだから…。
「…あの船が楽しかった時代もあるの?」
 悲しい思い出ばかりの船でも、ハーレイは大事だと言ったけど…。楽しかった時は無かったの?
 白い車が欲しくなるような、うんと素敵な思い出とかは…?
 今のハーレイの車は白じゃないしね、と悲しい気持ちに包まれる。前の自分がいなくなった後、独りぼっちで生きたハーレイ。好きな船の色さえ選べなくなるほど、辛い日々だったようだから。
「お前なあ…。何を寝言を言っているんだ、まだ半分ほど寝てるのか?」
 昨夜は遅くまで夜更かししたとか、寝付けなくって睡眠時間が足りないだとか。
 分かっていないな、お前ってヤツは。前のお前と沢山の夢を見ていただろうが、あの船で。
 お前の寿命が尽きてしまうと分かる前には、山ほどの夢を持ってたろうが。…俺も、お前も。
 地球に着いたら船を離れて、二人きりで暮らしてゆこうとか…。
 ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、森に咲くスズランの花を探しに行こうとか。前のお前の夢の朝飯、そいつも食べに行くんだっけな。本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを乗っけたホットケーキを。
 ああいった夢を見ていた頃には、俺だってうんと楽しかったぞ。未来への夢が一杯だ。
 お前の夢を叶えるためには、まずは地球まで行かないと…。俺がシャングリラを動かしてな。
 俺たちを夢の星まで連れてってくれる、頼もしい相棒があの船だったわけだから…。
 楽しくなかった筈がないだろう、とハーレイが挙げた「楽しかった時代」。シャングリラでの。
 それは確かに存在していた。前の自分の未来が無限に思えた頃には。
「…そうだけど…。楽しかった時代も、沢山あったみたいだけれど…」
 だけどハーレイ、鼻歌なんかは一度も歌っていなかったよ…?
「鼻歌だって?」
 いったい何処から鼻歌ってヤツの話になるんだ、ますますもって謎なんだが…。
 今日のお前は車の話を持ち出すかと思えば、今度は鼻歌。
 シャングリラと鼻歌、どういう具合に結び付くのか、俺に説明して欲しいんだが…?



 その言い方ではサッパリ分からん、とハーレイは怪訝そうな顔。「何故、鼻歌だ?」と。
「ごめん…。ぼくの頭の中では、話がとっくに出来上がっていて…」
 通じているような気になってたけど、鼻歌の話はしていなかったよ。車の話をしていただけで。
 鼻歌と車はセットなんだよ、今のハーレイが車が好きなら、鼻歌も歌っていそうだから…。
 楽しく運転している時には、ハンドルを握りながら鼻歌。楽しいとそういう気分になるでしょ?
 でも、シャングリラでは、鼻歌、歌っていなかったから…。
 楽しかったって言ってた頃にしたって、ハーレイ、歌っていなかったじゃない。
 前のぼくは一度も聞いていないよ、と思い浮かべたブリッジの光景。シャングリラの舵を握っていたハーレイは、鼻歌を歌いはしなかった。いつも背筋をしゃんと伸ばして立っていただけで。
「おいおいおい…。車を運転するならともかく、シャングリラの方で鼻歌だってか?」
 あのシャングリラの舵を握って、俺が鼻歌を歌うのか?
 お前、よくよく考えてみたか、前の俺の立場というヤツを。シャングリラでの俺は、キャプテンなんだぞ。車の運転手じゃなくて。…主任操舵士よりも上の立場で、俺よりも上はいなかった。
 前のお前は俺よりも上のソルジャーだったが、船の航行には無関係だし…。
 つまりは俺がトップの立場だ、シャングリラって船に関しては。キャプテンであった以上はな。
 そのキャプテンがだ、鼻歌なんかを歌ってられると思うのか?
 どんなに気分がいいにしたって…、と呆れたような口調のハーレイ。「鼻歌だぞ?」と。
「…そうかもね…」
 ブリッジ以外の所だったら、鼻歌でもいいんだろうけれど…。歌ってることもあったけど…。
 そうじゃない時は、鼻歌だったらマズイかも…。シャングリラの舵を握っている時なんかは。
 楽しい気分になっていたって、キャプテンが鼻歌を歌っていたなら、エラが怒っていたかもね。もっと真面目にやって下さい、って凄い勢いで。
 見た目に真面目とは言えないし…、と思った鼻歌。今のハーレイなら自分の車の運転なのだし、交通ルールを守りさえすれば、何をするのもハーレイの自由。鼻歌交じりの運転だって。
 けれども、前のハーレイは違う。白いシャングリラを預かるキャプテン、船の仲間を纏め上げる立場。皆の模範になるべき存在、ブリッジで仕事をしている時は。
 鼻歌交じりのキャプテン・ハーレイなど、それは如何にも不真面目な感じ。
 白いシャングリラはミュウの箱舟で、SD体制の枠からはみ出た海賊船ではないのだから。



 確かに駄目だ、と分かった事情。前のハーレイが鼻歌を歌っていなかった理由。
「…キャプテンが鼻歌を歌いながら操舵してたら、海賊船みたいになっちゃうものね…」
 楽しそうだけど、見た目に不真面目。どんなにきちんと操舵してても、それが台無し。遊んでるように見えちゃうから…。シャングリラっていう船を動かす遊び。
 きっとホントにエラが怒るよ、と肩を竦めた。「キャプテン!」と叱る声が耳に届いたようで。
「海賊船なあ…。前の俺たちが生きてた時代も、海賊ってヤツはいたんだが…」
 マザー・システムなんぞに従えるか、と宇宙で好きに生きてた連中。略奪なんかもやらかして。
 略奪だったら白い鯨になる前の船じゃお馴染みだったし、マザー・システムには従えない、ってトコも同じだな、前の俺たちと海賊とは。
 そういう意味ではシャングリラも似たような立場だったが、こっちは未来がかかってたしな?
 ミュウの未来を手に入れなければ駄目な俺たちと、その場限りで面白おかしく生きれば良かった海賊とは違う。同じようにはみ出し者の船でも、シャングリラは海賊船にはなれん。
 そのシャングリラで旅をしていた以上は、鼻歌交じりの気楽な旅とはいかないさ。今の俺なら、鼻歌交じりにドライブするのも自由だがな。
 キャプテンの俺だとそうはいかない、と苦笑しているハーレイ。キャプテンが不真面目でもいい船だったら、そいつはただの海賊船だ、と。
「そうだよね…。ハーレイが真面目にやっていたって、鼻歌を聞かれちゃ駄目だから…」
 歌えないよね、あのシャングリラのブリッジだと。楽しい気持ちで船で暮らした頃だって。
 …ぼくとハーレイ、二人きりなら鼻歌だって歌ってくれた?
 他に仲間は乗っていなくて、二人きりで地球を目指してたなら。…あのシャングリラで。
「もちろんだ。鼻歌だって飛び出すだろうな、お前と二人きりの船なら」
 それに地球まで行くんだったら、毎日が鼻歌気分だろう。もう楽しくて仕方がなくて。
 船が先へと進んだ分だけ、俺たちは地球に近付くんだから…。今日は昨日よりも地球が近くて、明日になったらもっと近付く。船が進めば進むほどにな。
 きっと気分が良かっただろう、とハーレイも頷く夢の船旅。白いシャングリラに乗っているのは二人だけ。前のハーレイと自分の二人で、目指してゆく先は青く輝く地球。そういう旅路。
 どんなに心が躍っただろうか、鼻歌交じりの一日が過ぎてゆく度に。
 白いシャングリラが飛んだ分だけ、青い地球が近くなるのだから。夢の星まで、一日分ずつ。



 そうは思っても、所詮は夢。白いシャングリラを二人きりで作れるわけがない。あんなに巨大な白い鯨を、人類軍の船より優れた機能を幾つも搭載していた船を。
 その上、青い地球も無かった。二人きりで地球に辿り着いても、夢が無残に砕け散るだけ。青い水の星は何処にも存在しなくて、死の星があっただけなのだから。
「…ハーレイと二人きりの旅なら、本当に素敵だっただろうけど…。幸せだったと思うけど…」
 だけど夢だね、ぼくとハーレイだけの力じゃ、白いシャングリラは作れないから。
 それに地球まで辿り着けても、青い星は何処にも無かったから…。
 前のぼくたちの本当の旅は、他の仲間が大勢一緒で、ハーレイの仕事も沢山あって…。
 キャプテンの責任はうんと重くて、鼻歌だって歌えやしない旅。どんなに気分がいい時だって、シャングリラの舵を握っているなら、鼻歌は無理…。
「そういうことだ。今の俺のようにはいかなかったな、前の俺だと」
 好きな船でも、俺の持ち物ではなかったから…。俺はあの船を預かっていただけのことだから。
 持ち主は船に乗ってた仲間で、みんなの物だった船がシャングリラだ。俺の車とは違うってな。今の俺なら、俺の車を好きなようにしていいんだが…。何処へ行くにも、どう使うのも。
 真面目だろうが、不真面目だろうが…、とハーレイが笑っている通り。今のハーレイが走らせる車は、ハーレイが持っている車。白い車を選ぶ代わりに、濃い緑色の車を買って。
「ハーレイ、今の車だと鼻歌、歌っているの?」
 今の車なら、怒る人は誰もいないしね…。エラが文句を言うことも無いし、ハーレイは自由。
 楽しい時には歌ったりもするの、前のハーレイがブリッジで歌えなかった鼻歌を…?
「歌ってる時もあったりするな。それこそ俺の知らない内に」
 前の俺なら意識して気分を引き締めていたが、今の俺だと、その必要は無いわけだから…。
 誰にも文句を言われやしないし、何よりも俺のための車だ。他の誰かの持ち物じゃなくて。
 そいつを楽しく運転してれば、ついつい歌が飛び出したりもするもんだ。鼻歌はもちろん、声に出してる時だってある。いわゆる本物の歌ってヤツを。
 歌詞がついてる歌のことだな、とハーレイは笑顔。「お前だって歌う日、あるだろう?」と。
 車を運転する時に限らず、気分が良ければ歌いたい気分になるものが歌。鼻歌も、色々な歌詞がついた本物の歌だって。
 言われてみれば、今朝も歌ったかもしれない。部屋の掃除をしていた間に、御機嫌になって。



 歌ったかもね、と思う歌。「ハーレイの車が見られるよ」と心が弾んでいたのだから。雨の日は車で来てくれるのだし、部屋の窓からそれを見ようと。
「歌…。今朝のぼくも何か歌っていたかも…。いい気分で掃除をしていたから」
 ハーレイの方は今日はどうなの、車の中で歌ってた…?
 今の車なら歌うんでしょ、と興味津々。そういうハーレイを思い浮かべて、車が来るのを待っていた自分。きっと鼻歌交じりだろうと、今のハーレイが運転している車の到着を。
「歌いながらは来ていないんだが…。もしかしたら鼻歌、出ていたかもな」
 もうすぐお前に会えるんだから、と上機嫌で運転していたんだし…。自分でも気付かない内に。
 前の俺ならエラに叱られる所だが…、とハーレイが軽く広げた両手。「不真面目だしな?」と。白いシャングリラでは鼻歌は無理だと、今なら歌い放題だが、と。
「それ、聞きたいな…。ハーレイが御機嫌で歌う鼻歌」
 前のハーレイは操舵の時には歌っていないし、どんな感じか知りたいんだけど…。運転しながら歌う鼻歌。いい気分の時に飛び出すヤツを。
 だけど、此処だと無理だよね…。ぼくのリクエストで鼻歌を歌って貰うのは。
「歌う気は無い、と言いはしないが、お前が聞きたいヤツとは別のになるだろう。俺の鼻歌」
 お前の頼みで歌うとなったら、余所行きの歌になっちまうから。
 同じ鼻歌でも、めかしこんだ歌って所だな。お前にいい所を見せないと、と構えちまうだろ?
 そんな鼻歌しか歌ってやれん、と遠回しに断られてしまった鼻歌。「此処じゃ駄目だ」と。
「うーん…。余所行きの鼻歌になっちゃうわけ?」
 車の中で歌っていたなら、普段着の鼻歌なんだろうけど…。此処で歌ったら余所行きの鼻歌。
 ぼくがいたって駄目だって言うの、ハーレイの機嫌はいい筈だよね?
 ぼくに会うために車を運転してたら、いい気分になって鼻歌なんだし…。いい気分になる理由は恋人のぼくでしょ、ぼくがいるだけじゃ鼻歌は無理…?
 この顔で御機嫌になれないの、と指差してみた自分の顔。「前のぼくよりチビだけどね」と。
 さっきハーレイと語った夢の船旅、前の自分と二人きりで地球を目指す旅。そういう旅に二人で出たなら、前のハーレイも鼻歌を歌ったらしいから。白いシャングリラの舵を握って。
 だから自分の顔さえあれば、と少しばかり年が足りない顔を示してみせた。今のハーレイでも、この顔が好きな筈だから。きっと御機嫌になれる顔だと思ったから。



 この顔のぼくに聞かせて欲しいんだけど、と強請った鼻歌。今のハーレイが車で歌う鼻歌。
 御機嫌になれば飛び出す歌なら、恋人がいれば出てくるだろうと考えたのに…。
「さっきも言った筈だがな? 此処で歌えば余所行きの鼻歌になっちまう、と」
 俺にわざわざ頼まなくても、いつか聞ける日、来る筈だぞ。俺とドライブに行くんだろう…?
 本物のシャングリラは無くなっちまったが、今度は俺たちのシャングリラで。…俺の車で。
 俺たちだけのためのシャングリラだぞ、と念を押された。「他のヤツらの物じゃないんだ」と。二人だけのためにある車なのだし、誰にも遠慮は要らないから、と。…運転中の鼻歌だって。
「それまでは無理?」
 頼んでも歌ってくれないって言うの、今のハーレイの御機嫌な鼻歌…。普段着の方の。
 余所行きになってる鼻歌じゃなくて、いつもハーレイが歌っているヤツ…。
 聞きたいんだけどな、と上目遣いに見上げたけれども、「欲張るなよ?」と返された。御機嫌な鼻歌を歌う代わりに、「フン」と鼻まで鳴らされて。
「チビのお前も確かに好きだが、こうして会ってしまうとなあ…。チビの姿が引き立っちまう」
 会う前だったら、「俺のブルーに会いに行くんだ」と胸がワクワクしてるんだがな。今のお前はチビだってことが分かっていたって、ついつい前のお前みたいに思ったりもして。
 だからだ、今のお前の顔だと、そう御機嫌にはなれないかもなあ、チビだから。…諦めておけ。
 その代わり、チビのお前がいつか大きくなったなら…。前のお前と同じ姿に育ったら。
 今日みたいに雨が降っていたって、お前と一緒に出掛けられるぞ。俺の車があるんだから。
 歩くには少し遠い場所でも、車なら濡れずに行けるだろうが。
 ついでに俺の鼻歌もついてくるってな、と髪をクシャリと撫でられた。その日が来るまで、今は我慢をすることだ、と。
「…ハーレイの鼻歌、聞きたいのに…。前のハーレイの鼻歌は聞けなかったから」
 もちろん鼻歌は聞いていたけど、ブリッジでは歌っていなかったから…。運転中に歌っていたらどんな感じか、前のぼくだって知らないんだよ…!
 今のハーレイの鼻歌でお願い、と頼んだけれども、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。その歌は未来に取っておくべきだと、「大きくなった時のお楽しみだ」と。
 いつかドライブに出掛けたならば、鼻歌はきっと飛び出すから。
 ハンドルを握っているハーレイはきっと、御機嫌で鼻歌を歌うだろうから。雨の日だって。



 その雨だがな…、とハーレイは窓の外を見た。「今も相変わらず降ってるな」と。
「此処が本物のシャングリラだったら、船がデカかったもんだから…」
 傘を差さずに外に出たって、うんと遠くまで濡れずに行けたぞ。何処まで行っても天井だから。
 船が丸ごとデッカイ傘だ、という冗談。
 シャングリラの大きさはともかくとして、あの船に雨は降らなかったのに。白い船体を叩く雨の粒は、中に降り注ぎはしなかったのに。
 とはいえ、確かに巨大だった船。あの中で雨が降っていたなら、どうなったろう…?
「シャングリラの端から端までだったら、凄い距離だよ?」
 傘の代わりの天井が無くて、ザアザア雨が降っていたなら、雨の日、とっても大変だね。端まで歩いて行こうとしたら、靴とかが濡れてしまいそう…。
 前のぼくのソルジャーのブーツだったら、雨でも大丈夫だけれど。
 他のみんなの靴だと水が入ったかな…、と想像してみる。シャングリラの端まで歩く間に、雨に降られてビショ濡れになっている仲間たちを。シールドで防がなかったらビショ濡れ、と。
「そうだろう? とびきりデカい船だったんだよなあ、シャングリラは」
 俺の車が何台並べられるやら…。あの船の中に。
 青の間だけでも何台も置けるぞ、スロープに順に停めていったら。…なんてデカさだ。そういう船に作ったとはいえ、デカすぎだよな。あのシャングリラは。
「シャングリラ、小さくなっちゃったよね…」
 今のぼくたちのシャングリラは、ハーレイが乗ってる車だから…。青の間に幾つも置けるヤツ。
 ホントのホントにうんと小さくて、同じシャングリラでもまるで違うよ。
 でも、そのシャングリラに乗りたいけれど…、と将来の夢を口にした。小さいシャングリラでもかまわないから、ハーレイと二人で乗りたいのだ、と。
 そうしたら…。
「小さくなったのはシャングリラだけじゃないってな」
 俺たちも小さくなっただろうが、前よりもずっと。…シャングリラが小さくなったみたいに。
 今の俺たちも小さくなった、と言われてキョトンと見開いた瞳。
「えっ、ハーレイは小さくないでしょ?」
 ぼくは小さいけど、前よりもチビになっちゃったけど…。ハーレイは変わっていないってば。



 前とそっくり同じじゃない、と恋人の顔をまじまじと見た。前のハーレイと同じ顔だし、背丈も前と変わらない筈。シャングリラの誰よりも頑丈だった体格だって。
「外見は変わっちゃいないんだが…。中身だ、いわゆる人間ってヤツ。人物とも言うな」
 今の俺はただの古典の教師で、英雄のキャプテン・ハーレイじゃない。似てるってだけで。前の俺の記憶を持っていたって、俺に出来ることはたかが知れてる。
 だから小さくなったと言うんだ、今のお前も同じだろうが。…それとも前と変わらないのか?
 今のお前も前と同じに振る舞えるのか、と言われたら無理。前の自分のようにはいかない。
「無理だよ、前のぼくみたいなのは…!」
 今の平和な時代でなければ、ぼくなんか直ぐに殺されちゃう…。うんと弱虫で泣き虫だから。
 大きくなっても強くなれなくて、ハーレイのお嫁さんになれるくらいで…。
 前のぼくのようには生きられないよ、と悲鳴を上げた。「あんなのは無理」と。
「そうだろ、だから俺たちには小さなシャングリラで丁度いいんだ」
 本物の白い鯨の中なら、幾つ置けるか想像もつかない、今の俺が乗ってるあの車で。
 青の間だけでも何台も置けてしまう小さな車なんだが、俺たちにピッタリのサイズじゃないか。
 俺たちが小さくなっちまったなら、シャングリラも小さくならないとな。
 おまけに二人きりで乗って行くとなったら…、とハーレイがパチンと瞑った片目。小さい車でも似合いの船だと、「船ではなくて車なんだがな」と。
「本当だ…! ぼくたちにピッタリのシャングリラだね。今のハーレイの車」
 早く乗りたいな、シャングリラに…。今のぼくたちが二人きりで乗れる、うんと小さなサイズになったシャングリラ。
 きっと楽しいだろうから…。ハーレイも今の車がとっても好きらしいから。



 早く乗せてね、と頼んだけれども、こればっかりは神様次第。背が伸びないと乗せて貰えない。
 そうは言っても、その日は必ずやって来るから、今は楽しみに待つことにしよう。
 小さくなったシャングリラが似合いの今の自分たち。
 いつかハーレイと二人で乗ろう。今のハーレイが好きなシャングリラに、ハーレイの愛車に。
 ハーレイの御機嫌な鼻歌を聞いて、時には二人で声を合わせて歌ったりもして。
 気分が良ければ、ハーレイも歌うらしいから。歌詞のあるちゃんとした歌を。
 天気のいい日は窓だって開けて、歌いながら何処までも走ってゆこう。この地球の上を。
 小さくなったシャングリラで。今の自分たちに似合いのサイズの、同じ名前の車に乗って…。



             車と鼻歌・了


※キャプテンだった頃のハーレイには、持ち場で歌えなかった鼻歌。どんなに御機嫌でも。
 けれど今では、車の運転中に鼻歌。それを聞きたいブルーですけど、まだまだ先になりそう。
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「あれ?」
 なあに、と窓を眺めたブルー。二階にある自分の部屋の窓。ハーレイと過ごす休日の午後に。
 窓辺に据えた椅子とテーブル、いつも二人でお茶を飲んだりするけれど…。
 そのテーブルの上に、急に差した影。いい天気なのに。それから気配。窓の方から。ハーレイも同じ窓へと視線を向けて。
「小鳥だな…」
「うん…」
 何やってるの、とキョトンと見上げた。窓は大きくて、小鳥がいるのは頭よりも上の方だから。窓ガラスの向こう、懸命に羽ばたいている小鳥。空を目指して飛ぶのではなくて、窓に向かって。
 こちら側から見えているのは、小鳥のお腹。羽ばたく翼に、それから尾羽。
 パタパタせわしなく羽ばたく小鳥は、窓ガラスに足をくっつけてみたり、嘴の先でつついたり。まるでガラスにくっついたように、少しも離れようとはしない。窓は開いてはいないのに。
「この部屋に入りたいのかな?」
 ぼくたちがお茶を飲んでいるから、と指差したテーブル。母が焼いてくれたケーキが載っているお皿。それを食べたいと思っているとか、気になる何かが部屋にあるとか。
「違うと思うが…。第一、小鳥は見た目でケーキを判断出来んぞ」
 欠片を食ったら美味いケーキか、そうじゃないのか。果物だったら分かるんだろうが…。
 ついでに部屋の中身の方もだ、家具の区別もつかん筈だぞ。クローゼットも机も纏めて家具で。
 小鳥の注意を引かんだろうさ、とハーレイの考えは全く違った。小鳥は興味が無いらしい部屋。
「じゃあ、なんで?」
 ケーキは欲しいと思っていなくて、よく見てみたい何かも無くて…。
 それなら他所に行けばいいのに、どうして窓にこだわってるわけ?
 空はとっても広いのに、と話している間も、一向に飛んでゆかない小鳥。窓ガラスにくっついて飛び続けていて、こちらにお腹を向けたままで。
 休むことなく羽ばたく翼。それをやめたら、落っこちて行ってしまうから。
 ずいぶん変わった小鳥だよね、と観察してみた小さな身体。鳥には詳しくないけれど。どういう羽根の模様なのかと、木の枝にでも止まっていたならどう見えるのかと。
 裏側だけしか見えない小鳥。木の枝や地面にいる時だったら、見えない方の側だけしか。



 翼の裏側とお腹だけでは、姿が想像できない小鳥。お腹だけ白い小鳥は多いし、翼だって開いた時と閉じた時とで見え方が違う。何枚もの羽根で出来ているから。
(なんの鳥だろ?)
 雀じゃないことは分かるんだけど、と眺めていたら「シジュウカラだな」と教えて貰った。同じ小鳥を観察していた恋人に。
 今は一羽で飛んでいるけれど、もう少ししたら群れを作る鳥。そういう季節になったなら。
 何羽ものシジュウカラが集まり、賑やかに飛んで回るのだという。枝から枝へと、木から空へと次々に。鳴き交わしながら移動し続け、それは楽しげに見える光景。
「面白いんだぞ、そっくりなのが何羽もいるから。数えてる間に動いちまうし…」
 何羽いるのか数えようとすると厄介だ、とハーレイは笑う。バードウォッチングが趣味の人なら上手に数えられても、「俺のような素人じゃ、ちょっと無理だな」と。
 柔道で鍛えたハーレイだけれど、対戦相手の動きを見るのと、小鳥を数えるのは別らしい。何羽いるのかと眺めていたって、小鳥たちが賑やかに飛び回るから。
「ハーレイでも数えられないんだったら、ぼくには無理そう…」
 アッと言う間に飛び移られちゃって、見落としちゃって…。同じ小鳥を何度も数えちゃうとか。
 シジュウカラがそういう小鳥だったら、このガラス、鏡になってるのかな?
 こっちに仲間が一羽いるから、仲間がいると思ってるとか…。それで頑張って誘ってる?
 群れを作る季節が近づいてるなら、一緒に群れを作ろうよ、って。
 せっかく出会えた友達だから、と眺めたガラス。其処に仲間を見付けたのなら、欲しい友達。
「惜しいな、ガラスが鏡って所は合ってるんだが…」
 これだけ頑張って飛んでるからには、もう確実に鏡だな。それで間違いない筈だ。
 しかし、友達を誘いに飛んでいるってわけじゃない。そっちの方なら、もういないだろう。
 誘ってみたって来てくれないな、と諦めて飛んで行っちまって。
 鏡の中に見えているのは、窓の向こうにある庭だ。お前の家の庭がそっくり映っている、と。
 いい天気だから庭の木なんかも全部映って、庭の続きに見えるんだ。ガラスの向こうが。
 前に青い鳥、ダイニングの窓にぶつかってたろ?
 お前が留守番していた間に、ゴツンと当たっちまったオオルリ。



 俺が来た時は慌ててたっけな、と言われてみれば、そういう事件もあった。母が出掛けて留守の間に、ダイニングの窓にぶつかった小鳥。瑠璃色の羽根を持っていた。白いお腹で。
 前の自分が欲しかった「幸せの青い鳥」。それが空から降って来たよ、と思ったオオルリ。暫く経ったらハーレイが来たから、「本当に幸せを運んでくれた」と弾んだ胸。
 けれど小鳥はぶつかったショックで動けなかったし、とても心配したりもした。命懸けで幸せを運んだろうかと、其処まで頑張ってくれなくてもいい、と。
 幸い、青い小鳥はショックが癒えたら飛び去ったけれど。獣医さんに連れて行かなくても。
 あのオオルリはゴツンと窓にぶつかった上に、テラスにコロンと転がっていた。起き上がっても動けないままで、真ん丸に膨れていた身体。ショックで羽根が逆立ったらしくて。
 窓の向こうが庭に見えたら、ああなると思う。其処を目指して飛んで行ったらゴツンと衝突。
「でも、ハーレイ…。このシジュウカラは、ぶつかってないよ?」
 庭だと思って飛んで来たなら、オオルリみたいにぶつかるんじゃないの…?
 やっぱり仲間を誘ってるんじゃあ…、と見上げた小鳥。「一緒に行こう」と説得中だよ、と。
「それは違うと言っただろう。仲間を誘って断られたなら、次の所へ行っちまうぞ」
 もっと気の合う仲間がいいしな、「行かない」と返事するヤツよりも。
 だからこいつが見てるのは庭で、慌ててはいないということだな。オオルリの時とはまた別だ。
 木の枝にでも止まってて見付けたんだろう。「あそこにも庭があるらしい」と。
 其処からゆっくり飛んで来たから、ぶつからないだけの余裕があった。どんな具合かと、覗いて中を見られるだけの。
 そして今でも、ガラスの向こうに本物があると信じているってトコだろう。本物の庭が。
「ふうん…?」
 オオルリの時とおんなじなんだ…。間違えてる所は同じだけれども、ぶつからない小鳥。
 窓に映った庭に行きたくて、こうやって飛んでいるって言うの…?
 ガラスの中には入れないのに、とハーレイと話している間も、まだ飛んでいる。こちらにお腹を向けた姿で、翼の裏側を見せて懸命に羽ばたきながら。
 諦めることを知らない努力家のシジュウカラなのか、それとも部屋に入りたいのか。
 ハーレイが言うような「ガラスに映った庭」とは違って、入りたいのは部屋かもしれない。何か気になるものを見付けて、どうしてもそれに近付きたくて。



 小鳥はケーキや家具に興味を示さない、とハーレイは言っていたけれど。この部屋に入りたいと思いはしなくて、ガラスに映った庭を求めているらしいけれど。
(そんなの、どうだか分かんないよね?)
 ハーレイ自身は小鳥ではないし、シジュウカラの気持ちが分かりはしない。人間同士でも、心の中身を知りたかったら言葉や思念波を使うのだから。相手はどういう気持ちなのかと尋ねてみて。
(人間同士でも分からないのに、小鳥の気持ちは分からないってば)
 群れを作るというシジュウカラ。群れがあったら、その群れにいる小鳥の数だけある気持ち。
 中には個性が強い小鳥もいるだろう。好奇心旺盛なシジュウカラだって。
(人間の部屋に興味がある鳥、いたっておかしくないと思うな…)
 部屋に入りたい小鳥だったら、意地悪しないで入れてやりたい。窓を開けてやって、この部屋の中に御招待。「何が見たいの?」と、「何かやりたいことでもあるの?」と。
 家具をつついて遊びたいならそれでもいいし、ケーキを食べてみたいのだったら、幾らでも。食べやすい大きさにフォークで崩して、「はい、どうぞ」と。
 そう思ったから、「やっぱり入れてあげたいよ」とテーブルの向かいの恋人に言った。
「本当は部屋に入りたいのかもしれないよ? ハーレイは庭だって言ってるけれど」
 シジュウカラにだって、個性は色々あるだろうから…。人間の部屋が気になるのかも…。
 家具とか、お皿のケーキだとか、と羽ばたいている小鳥に目をやった。「まだいるものね」と。
 せっかく此処まで来てくれたのなら、入れてやりたい。この部屋に入りたいのなら。
「入れてやりたいって…。相手は小鳥で、俺たちが動けばビックリするぞ」
 俺はもちろん、お前の方でも小鳥にとってはデカすぎる。窓を開けようと立ち上がったら。
 座っている今は大して気にならなくてもな、と言われなくても分かっている。窓を開けるために椅子から立ったら、小鳥は驚いて逃げるだろうと。だから…。
「ハーレイ、サイオンでなんとか出来ない?」
「はあ?」
 サイオンって…。俺に小鳥を捕まえろとでも言うつもりか?
 でもって部屋に入れてやるのか、とハーレイは見事に勘違いした。小鳥を捕まえたいのかと。
「そうじゃなくって…。サイオンで窓を開けてあげてよ、手を動かさずに」
 ぼくと違ってサイオンを上手に使えるんだから。…ほんのちょっぴり、小鳥が驚かないように。



 小鳥が通れる分だけ開けて、と頼んだ部屋のガラス窓。今の自分のサイオンはとても不器用で、思念波もろくに紡げないレベル。窓を細めに開けることなど、どう頑張っても出来ないから。
「窓なあ…。開けてやれって言うんだな? ちょいと細めに」
 そういうことなら…、とハーレイが上手に開けてくれた窓。サイオンで枠の上を滑らせ、僅かな音も立てないで。小鳥の身体が通れる分だけ、羽ばたきながら中へ入れるように。
(やった…!)
 これで入って来られるものね、と小鳥に微笑み掛けたのだけれど。小鳥も驚かせずに済んだし、入って来ると思ったけれど。
 小鳥はといえば開いた窓から入りはしないで、ちょっぴり中を見ていただけ。羽ばたきながら。其処からガラスの方へ移って、飛び続けている窓ガラスの側。さっきまでと同じにお腹を見せて。
 其処で変わらず飛んでいるから、入りたいわけではないらしい。この部屋の中に。
 羽ばたく小鳥が行ってみたいのは、ガラス窓の向こうに映った庭。窓に映った景色の中。
「小鳥、ちっとも入って来ないね…」
 覗いただけで、ガラスの方に行っちゃった。開いた所からしか入れないのに…。
「だから言ったろ、行きたいのは庭の方なんだと」
 部屋の中じゃないと言った筈だがな、とハーレイも見ている飛び続ける小鳥。窓のすぐ外で。
「そうみたい…。ガラスに映った庭が好きなんだね」
 其処に行きたくて飛んでるんだよ、何処か入れる道が無いかな、って。開かないかな、って。
 本物の庭は此処に無いのに…。窓に映った偽物なのに…。
 頑張って飛んでも駄目なのにね、と努力し続ける小鳥の姿に溜息をついた。いくら頑張っても、開かない道。入れはしないガラスに映った庭。
「脅かしてやれば、大慌てで飛んでいくと思うが?」
 本物の庭に向かってな。そいつが小鳥のためだと思うぞ、本物の庭はあっちなんだから。
「それじゃ可哀相…。脅かすだなんて酷すぎるよ」
 分かってくれるまで待ってあげようよ、ガラスに映った庭は偽物なんだってことを。
 きっといつかは分かるだろうし、と見守りたい気持ち。脅かして此処から去らせるよりも。
「はてさて、どっちが可哀相なんだか…」
 飛んでりゃ体力を使っちまうぞ、枝に止まっちゃいないんだから。飲まず食わずで。



 さっさと行かせてやった方が、と言うハーレイを止めて、静かに見ているだけにした。ガラスに映った庭を信じて、其処に行こうと飛び続ける鳥を。
 それから優に五分以上は羽ばたいて飛んでいた小鳥。時々ハーレイが開けた窓から中を覗いて、またガラス窓の方に戻って。
 入れないかと飛んで飛び続けて、ようやっと諦めて庭へと飛んで行ったから…。
「良かった、分かってくれたみたい。これは偽物の庭だったんだ、って」
 それとも駄目だと諦めたのかな、いくら飛んでも入れないから。でも、良かった…。
 脅かされて逃げるよりかはいいものね、と恋人を軽く睨み付けた。「脅かすのは駄目」と。
「俺が小鳥なら、脅かして貰った方が遥かに有難いがな?」
 あいつ、どれだけ飛んでたんだか…。相当に長く此処にいただろ、休みもしないで。
「ハーレイ、脅かして貰う方がいいの?」
 納得するまで飛んでいるより、脅かされて逃げて行く方が好き…?
 ちょっと意外、と目を丸くした。今のハーレイは柔道の達人なのだし、逃げるなど恥だと思っていそうだから。相手がどんな強敵だろうと、後ろを見せてはならないと。
「おいおい、勘違いしないでくれよ? 逃げるのが好きってわけじゃない」
 俺がさっきの小鳥だったら、ということを話しているんだからな。俺のことじゃなくて。
 ああやって無駄に飛び続けていれば、腹が減るだろ。食えるものは何も無かったんだから。
 そんな所で飛んでいるより、別の所へ行くのがいいんだ。餌も水もあって、休める所へ。
 ついでに入ろうと頑張った分だけ、「入れなかった」とガッカリもするし…。
 無駄な努力をさせられるよりは、早めに切り上げて新天地に移った方が遥かにいいと思うがな?
 ありもしない幻の庭を目指して飛ぶよりもずっと、建設的で希望もある、と。
 ん…?
 待てよ、とハーレイが眺めた窓。幻の庭を映したガラス。こちら側からは、窓に映っている庭の景色は見えないけれど。どれほど素敵に見えていたのか、それを掴めはしないのだけど。
 それを見詰めて、「前の俺たちみたいだな」と呟くと腕組みしたハーレイ。
 「今の鳥と何処か似ているな」と。
 幻の庭を探し求めて、懸命に飛んでいた小鳥。あのシジュウカラと、前の自分たちが重なると。
 「前のお前もだ」と、「あの船にいた仲間たちは皆、そうだったよな」と。



 そう聞かされても飲み込めない。いったい何が似ているというのか、あのシジュウカラと。
「似てるって…。前のぼくと、さっきの小鳥とが…?」
 何処が似てるの、と問い掛けた。まるで見当が付きはしないし、言葉の意味が謎だから。
「お前もそうだが、前の俺たちだ。船の仲間は皆そうだったと、俺は言ったぞ」
 シジュウカラが行きたかったのは庭で、窓ガラスに映っていた幻だ。
 あれだけの時間、窓の側でせっせと羽ばたき続けて、なんとか中に入れないかと努力していた。
 誰も脅かしてくれやしないし、「これは駄目らしい」と諦めるまで。
 さぞかしガッカリしたんだろうなあ、飛んでいく時は。「あんなに努力したのに」と。
 でもって、前の俺たちなんだが…。
 ずっと長い間、座標さえも分からない地球に憧れて、行こうと努力し続けて…。いつか必ず、と夢を描いて、シャングリラで宇宙の旅を続けて、最後は皆で戦いもした。
 やっとの思いでシャングリラは地球まで行ったわけだが、辿り着いた地球はどうだったんだ…?
 青く輝く水の星だったか、と問われれば違う。前の自分が焦がれた青い星は無かった。影さえも無くて、死に絶えた星があっただけ。前の自分は、それを見る前に死んだけれども。
「…死の星だったよ、前のハーレイたちが見た地球は…」
 今みたいに青い星じゃなくって、砂漠化していて、生き物は何も棲めない星で…。
 朽ちた高層ビルとかまでが、片付けられないで残ってたって…。
 ユグドラシルがあっただけで、と俯いた。地球再生機構、リボーンが本拠としたユグドラシル。地下にはグランド・マザーもいたのに、その周りさえも浄化されてはいなかった地球。
「そうだろ、それが前の俺たちを待ってた現実だった」
 いよいよ地球だ、と皆が期待に溢れて最後のワープをしたのにな。…長距離ワープを。
 ワープアウトした先にメギドがあろうが、危うく騙し討ちをされる所だろうが、どうでもいい。あのとんでもない地球に比べりゃ、それくらいは些細なことだったんだ。
 もっと早くに真実を教えてくれれば良かった。「青い地球などありはしない」と。
 俺たちがガッカリさせられる前に、ゼルたちが涙を流すよりも前に。
 知っていれば早くに諦めたんだ、とハーレイが持ち出すさっきの小鳥。ガラス窓に映った素敵な庭は幻なのだ、と教えられれば飛び去った筈。入ろうと懸命に飛び続けないで。
 それと同じに前の自分たちも知りたかったと、地球の本当の姿を、と。



 何処にも無かった青い星。前の自分が行きたくて焦がれ続けた星。
 さっきの小鳥が入りたかったガラスに映った庭と、ありはしなかった青い地球。それが重なる。どちらも幻、辿り着ける日は来ないのだから。
 けして報われない努力。どんなに必死に歩み続けても、青い地球には辿り着けなかった。
「…そうなのかも…。前のぼくたち、さっきの小鳥とおんなじかもね…」
 辿り着けないのも、最後はガッカリさせられちゃうのも。…努力したのに駄目だった、って。
 青い地球は何処にも無かったんだし、もっと早くに知りたかったと思うよね…。本当のことを。
 今のハーレイが思うみたいに…、と確かに考えさせられる。その通りかもしれないと。
 前の自分が焦がれていたのは、機械が教えた偽りの地球。青く美しい母なる星だと、広い宇宙の何処かに青い地球が存在するのだと。
 人類の聖地と呼ばれた地球。座標さえも厳重に隠されたほどに、幾重にも守られ続けた星。
 幻だなどと誰が思うだろう。窓ガラスに映った庭と同じで、本当は存在しないだなんて。
(…窓ガラスに映った、幻の地球…)
 機械が作り出した幻影、それをフィシスも抱いていた。青い地球が存在するかのように。
 それは幻だと気付かないまま、目指した前の自分たち。いつか地球へと、青い星へと。
 前の自分は青い水の星に焦がれ続けて、それを見られずに命尽きると悟った時には、どれほどに悲しく思ったことか。自分の命の灯は消えるのだと、地球に着くまでは生きられないと。
 いずれ尽きるだろう命。
 アルテメシアの雲海の中から出られないまま、地球への旅立ちすらも叶わないまま。
 一度でいいから見てみたかった、と何度涙を零しただろう。地球を思って、青い水の星に描いた幾つもの夢を思って。
(でも、本当のことを知ってたら…)
 どうだったろう、と前の自分に思いを馳せる。「ソルジャー・ブルー」だった頃へと。
 白いシャングリラで生きたミュウたちの長。青の間で暮らした初代のソルジャー。
 「いつか地球へ」と皆を導き続けたけれども、その「地球」が青くなかったら。今も死に絶えた姿のままで宇宙にあると知っていたなら、前の自分はどうしたのだろう。
 青い地球など、遠い昔に滅びたまま。機械は地球を蘇らせることも出来ないままで、地球の地の底にいるのだという残酷な事実。…本当の地球はどういう姿か、前の自分が知っていたなら。



 命ある星に戻ることなく、屍を晒し続ける星。それが地球なら、前の自分が生きていた日々は、もっと長くて辛かったろう。遠く遥かな時の彼方で、現実に生きたものよりも、ずっと。
 命が尽きる気配など無い、若かった頃であろうとも。白いシャングリラが出来たばかりで、遥か先まで未来というものがあった頃でも。
 たとえ真実を知っていようと、地球には「行くしかない」のだから。死の星だろうが、生き物は何も棲めない世界だろうが。
 SD体制の要とも言えたグランド・マザーの居場所は地球。人類の聖地と呼ばれる場所。
 其処へ行かねば、ミュウの未来は開けない。グランド・マザーを、SD体制を倒さない限りは、ミュウの未来は手に入らない。ミュウは端から殺されるだけで、生きる権利を得られないまま。
 そういう時代を終わらせたいなら、シャングリラは地球へ行かねばならない。
 どんな星でも、いつか必ず。…ミュウの未来を手に入れるために。
(同じように地球を目指すなら…)
 機械がついた嘘の星でも、青く輝く地球がいい。死に絶えたままで宇宙に転がる星よりは。
 その方が目指す甲斐がある。何処よりも素晴らしい星に行くのだと、遠い昔に人が生まれた青い水の星に行かねばと。
 いつか着くだろう旅の終点、其処は美しい方がいい。「行きたい」と夢を描ける場所。
 それでこそ旅を続けられるし、疲れた時にもまた立ち上がれる。先を急ごうと、また歩こうと。素晴らしい所へ向かう旅だからこそ、出来ること。今よりもいい場所へ行けるのだから。
(旅の終わりが、アルテメシアよりも酷い星なら…)
 自ら進んで歩きたい者はいないだろう。それが使命なら、やむを得ず歩くしかないけれど。
 前の自分もそうなった筈。「これが自分の務めだから」と、死に絶えた地球を目指しただろう。乗り気ではない仲間を叱咤し、「ミュウの未来を手に入れねば」と。
(青くない地球じゃ、みんな嫌がるし…)
 ぼくだって夢を見られやしない、と今の自分でも分かること。前のハーレイと幾つも交わした、「地球に着いたら」という約束。幾つもの夢を描き続けて、青い星に焦がれ続けていた。
 メギドで命を捨てる時にも、未練を拭えなかった地球。ミュウの未来を掴むためには、死なねばならぬと分かっていても。元より無かった筈の命で、ジョミーの願いで得た命でも。
 「地球を見たかった」と呟いたほどに焦がれた地球。死の星だとは知らなかったから。



 きっと自分は、本当に幸せだったのだろう。本物の地球を、最期まで知らずにいたことは。
 旅の終わりには死の星しか無いと知っていたなら、長くて辛いだけの人生。地球まで辿り着ける寿命を持っていたって、その先に夢は無いのだから。SD体制を倒すという目標があるだけで。
 何も知らずに幾つもの夢を描いた星だったから、いつも未来を夢見ていられた。青い水の星に。
 メギドへと飛んだ時さえも。…命の終わりが見えた時にも。
 自分は行けずに終わるけれども、皆は行けるだろう青い地球。其処で未来を得られればいいと、青い星でどうか、自分の分まで幸せに、と。
 だから…。
「違うよ、ハーレイ。…前のぼくたち、さっきの小鳥で良かったんだよ」
 窓の向こうに素敵な庭があるんだから、って頑張り続けていた小鳥。窓の所で羽ばたき続けて。
 前のぼくたちは幻の地球を目指したけれども、本当のことを知らなかったけど…。
 今は結末を知っているから、「知りたかった」と思うだけ。
 前のぼくたちが生きてた時には、それは知らなくて良かったんだよ。小鳥が行こうと頑張ってた庭と同じでね。
 幻の地球のままで良かった、とハーレイに言った。本当の姿は知らなくていいと。
「…何故だ?」
 前のお前も騙されたんだぞ、機械がついてた嘘八百に。…地球は青いと信じ込んで。
 挙句に命まで捨てちまって…、とハーレイは苦しそうな顔。「あんな地球のために」と。
「間違えちゃ駄目。前のぼくがメギドを沈めに出て行ったのは、ミュウの未来を作るためだよ」
 みんなに地球まで行って欲しかったのも、そうしなきゃ未来は掴めないから。
 SD体制が続く間は、ミュウは殺され続けるんだし…。終わらせたければ地球に行かなきゃ。
 そのためにメギドを沈めに行くのが、前のぼくの最後の役目だっただけ。…ソルジャーだから。
 でもね…。
 前のぼくは最後まで地球を見たくて、見られないのが悲しかったよ。青い地球をね。
 せっかくナスカまで生き延びたのに、終わりになってしまうんだから。地球を見られずに。
 だけど本当の地球の姿を知っていたなら、そんな風には悲しまなかった。きっと悔しかった。
 それこそ「あんな地球のために」って、泣き叫びたい気持ちだったと思う。
 だって、ハーレイとお別れなんだよ、死ぬんだから。…みんなを送り出すためだけにね。



 それも青くない地球に向かって…、と前の自分の思いを手繰る。
 船の仲間たちは青い地球に旅立てるのだ、と信じていたから、迷うことなく捨てられた命。皆が約束の地に着けるのなら、自分はそのために犠牲になろうと。
 約束の地は青い地球。死に絶えた地球では、そうは呼べない。
「幻でも、ガラスに映った庭でも、夢は必要だと思う…。それに騙されちゃってても」
 夢は信じないと叶いやしないよ、どんな夢でも。手に入れたいと自分が思わなければ。
 諦めちゃったら、それでおしまい。其処で掴めなくなっちゃうものでしょ、持っていた夢は。
 前のぼくたちが目指してた地球も同じなんだよ。機械に騙されて、青いと思い込んでた地球。
 さっきハーレイが言ったみたいに、本当のことを知ってたら…。地球は死の星で、青い星なんか何処にも無くて…。アルテメシアの方がずっと素敵で、人間が住める星なんだよ?
 みんなが地球の正体を知って、「あんな星なんか欲しくない」って誰もが思ってしまったら…。
 欲しくない星にどうやって行くの、人間が住めるアルテメシアを離れてまで…?
 ナスカのことは良く知らないけど、ナスカも同じ。人間が住める立派な星だよ、地球と違って。
 今いる場所より酷い地球なんか、誰が喜んで行きたいと思う?
 行かなきゃいけないことは分かってても、誰も頑張れないじゃない。…前のぼくもね。
 ハーレイはどう?
 頑張れたの、と投げ掛けた問い。地球の正体を知っていてなお、変わらず前に進めたのかと。
「俺か…?」
「そう。前のぼくがいなくなった後には、独りぼっちで辛かったのは知ってるけれど…」
 辛い中でも、地球は青いと思っていたから、頑張れたっていうことはなかった?
 何もかも投げ出したい気分になりはしないで。…地球に行こう、って前を見詰めて。
「それはまあ…。前のお前に頼まれたからには、行くしかないと腹を括っていたが…」
 いつかお前に土産話をしてやろうとは思っていたな。青い地球、お前は見られなかったから。
 お前に話してやりたかったんだ、とハーレイが口にした前のハーレイの夢。辛い日々の中で青い地球を思っては、其処で見るだろう全てを土産話にすること。逝ってしまった恋人への。
「ほらね、ハーレイも地球には夢を持ってたんでしょ? 青い地球にね」
 青い地球を見られる時が来るんだ、って信じていたから見られた夢だよ。その夢だって。
 本当のことを知っていたなら、辛いだけ。…前のぼくへの土産話も出来ない死の星なんだもの。



 知らないままで良かったんだよ、と今のハーレイに向かって語り掛けた。「本当のことは」と。
「前のぼくたちが目指してた地球は、青い地球でなくちゃ。死の星だった地球じゃなくって」
 本物の地球は死に絶えた星でも、知らなかったら青い地球のまま。騙されていたら、青い星。
 さっきの小鳥は、ガラスに映った素敵な庭に行きたかったんだけど…。
 行けずに何処かへ飛んでったけれど、頑張ってた間は夢を一杯見られたと思う。窓の景色に。
 中に入れたらあれをしようとか、あの木に止まってみようとか…。ホントに沢山。
 そうでなければ、あんなに頑張っていないと思うよ。さっさと飛んで行ってしまって。
 前のぼくたちも、それとおんなじ。地球は青いと思っていたから、みんな前へと進めたんだよ。辛くて苦しい思いをしたって、仲間を戦いで失ったって。
 地球の正体は、知らないままでいるのが一番。…最後にガッカリしちゃってもね。
 ガッカリするのは一瞬だもの、と浮かべた笑み。早い時期から死の星なのだと知っていたなら、何年苦しむことになるのか。青くない地球、死の星だと知っても行かねばならない運命の星。
 其処へ行かねば、戦いは終わらないのだから。ミュウの未来を掴み取るには、SD体制を倒しに地球へ行くしかない。何十年もかかる旅路だろうと、何百年であろうとも。
 それほど長く苦しむよりかは、最後の最後に知ってガッカリするのがいい。「これが地球か」と愕然としても、旅の終わりは其処だから。終点まで辿り着いたのだから。
「うーむ…。最後にガッカリするんだったら、一瞬か…」
 確かにそうだな、もうその先には旅なんか無い。SD体制とグランド・マザーを倒すだけだし、倒しちまえば地球には用は無いんだから。
 それまでに見てきた幾つもの星から、暮らしやすそうな星を選んで地球にオサラバするだけだ。
 「あんな星とは思わなかった」と呆れて文句を言いながらな。…「早く帰ろう」と。
 もっとも、俺やジョミーたちは帰り損なったんだが…。
 お前の所に行こうとしていた俺はともかく、他の連中には気の毒なことになっちまったが…。
 それでも若いヤツらやフィシスは、地球とは縁が切れたってな。もう行って来た後だから。
 失望しながら旅に出たって、住める星は幾つもあったんだから。
「ね、一瞬で済んだでしょ? ガッカリするの」
 みんな未来に向かっていったよ、地球もいつかは良くなるだろうと考えながら。
 一番酷い所を見たなら、後は良くなるだけなんだものね。…少しずつでも、いい方へと。



 そして本当に青くなったよ、と窓の向こうを指差した。「今の地球はちゃんと青いもの」と。
「前のハーレイたちはガッカリしたけど、本当に少しの間だけ。地球に着いたら酷かったから」
 そんな星だと知っていたなら、みんな嫌々進むだけだよ。文句も沢山出てくると思う。
 ナスカを離れるかどうかだけでも、あれだけの騒ぎになったんだから…。
 死の星の地球に行くとなったら、仲間割れだって起こりそう。シャングリラの他に居場所が無い内は、仕方なく乗っていそうだけれど…。
 星を幾つも落とし始めたら、「此処に残る」っていう仲間だって出てくるよ。
 地球には行きたい人だけが行って、SD体制を倒せばいい、って言い出す人たち。ソルジャーやキャプテンたちだけが行って、人類と話をすればいいって。
 きっとそういうことになってた、と今の自分の意見を話した。地球の正体を誰も知らないままでいたから、真っ直ぐに辿り着けたのだと。…失望も悲しみも一番短い期間で済んだ、と。
「なるほどなあ…。仲間割れまで起こっちまったか、地球の正体が早い段階で分かっていたら」
 そうなったろうな、安全な居場所を手に入れた後は離れる仲間も現れただろう。
 地球は青いと信じていたから、誰もが地球を見たがった。シャングリラで地球に行くんだと。
 死の星だったら見る価値は無いし、安全が確保できるんだったら途中に残りたくもなる。仲間と別れて船を降りても、生きてゆける場所が見付かったなら。
 そっちに転がり始めちまったら、キャプテンの俺でも止められやしない。船の仲間の命の安全、それを一番に考えるのがキャプテンだから…。敵地に赴く船に乗せるより、降ろすべきだし。
 地球は青いんだ、と性悪な機械に騙されたお蔭で、仲間割れもせず、ガッカリの時間も一番短いコースで済んだというわけか…。今から思えば、そういうことになるってことか。
 お前、やっぱり中身はソルジャー・ブルーだな。
「え?」
 いきなり何を言い出すの、と真ん丸く見開いてしまった瞳。
 前の自分の名前が出てくる理由が、全く分からなかったから。話がまるで繋がらないから。
「いや、お前だなと思ってな…」
 前と違ってチビで泣き虫でも、今のお前も、前のお前の考え方は引き継いでいる。
 我儘ばかりのチビに見えていても、前のお前が生きた時代を立派に考えられるんだから。
 地球の正体を知っていたなら、船の仲間たちがどうなったのか。…地球を目指した旅だってな。



 今のお前の話を聞いたら分かった、と「偉いぞ」と撫でて貰えた頭。大きな手で。
 「流石は俺のブルーだ」と。「今の俺より、よく分かってる」と。
「…俺は早くに知りたかったと言ったのに…。地球の正体」
 それじゃ駄目だと言うのがお前で、どうやらそちらが正しいらしい。…色々なことを考えたら。
 正しい答えを直ぐに出せるのは、お前がソルジャー・ブルーだからだ。
 弱虫のチビになっちまっても…、とハーレイが褒めてくれるから。
「えっと…。ぼくは、ちょっぴり考えただけだよ?」
 前のぼくならどう思うかな、って…。それで思い付いたことを話しただけで…。
 凄くはないと思うんだけど、と答えたけれども、「それでもだ」とハーレイは穏やかな笑み。
「きちんと物事を考えられる所は、前のお前のままってことだな。…普段はチビで我儘でも」
 小鳥の気持ちも、俺より分かっていたみたいだし…。気が済むまでそっとしておこう、と。
 窓に映った庭に行きたいなら、思う存分、頑張ってくれ、と。
「ううん、そっちは間違ってたかも…。頑張りすぎて、お腹、減っちゃったかもしれないし…」
 もっと早くに諦めていたら、お腹、減ったりしないでしょ。それに疲れもしないから…。
 ハーレイの方が正しかったと思う。ビックリさせられても、次の所へ飛んでって、御飯…。
 休憩だって出来るんだものね、本物の庭に行ったなら。木の枝にちゃんと止まったりして。
 脅かされた時はビックリしたって、一瞬だから…。追い掛けられて悪戯されるわけでもないし。
 一瞬のビックリで後は自由になれるなら、と言ったのだけれど。
 さっきまでの地球の話に重ねて、無駄な努力を長い間続けさせておくより、小鳥に自由を与えた方が良かっただろうと考え直したのだけれども。
「いいや、そっちもお前が正しい。俺の方が正しいように見えても」
 傍から見たなら、小鳥を窓から自由にするのが優しいように思えるだろう。腹が減るだけだし、翼も疲れてしまうから。…小鳥の目には、ガラスの仕組みは分からないしな。
 しかしだ、俺が小鳥だったら、脅かされて何処かへ飛んでゆくより、あそこで頑張る方がいい。
 どう頑張っても素敵な世界に入れなくても、やれるだけのことをやった方がな。
 開けて貰った窓の中には、綺麗な庭は無さそうだ、と確かめてみたり、行きたいと思ってる庭に向かって羽ばたいてみたり。
 疲れちまって、もう駄目だ、と思う所までやりたいよなあ…。俺が鳥なら。



 頑張った結果が出なかったとしても、自分が納得できるから、と語るハーレイ。
 ガラスに映った庭の世界は幻でも。本物は何処にも無かったとしても、自分が納得するまでは。
「自分の力を全て出し切る、そいつが俺の信条だから…。諦めるのは好きじゃないんだ」
 まして諦めさせられたんでは、どうにも納得いかないってな。後でやり直したくなっちまう。
 やり直せるようなチャンスがあれば…、というのが今のハーレイ。全力を尽くすのが信条。
「…なんだかスポーツみたいだね」
 自分の力を出し切るだなんて、柔道の試合を聞いてるみたい。でなきゃ水泳の方だとか…。
 どっちも今のハーレイが続けているスポーツでしょ、プロの選手じゃないけれど。
「もちろんスポーツの話だってな。…今の俺なら」
 頑張りもしないで放り出せるか、どんなに厳しい練習だろうが、強い対戦相手だろうが。
 強い相手とぶつかりそうだと分かっていたなら、とにかく練習あるのみだ。…今じゃ負けんが。
 前の俺だって、似たようなことを考えていた。
 お前がいなくなっちまった後で、何が何でも地球に行こうと。…辛い日々だろうが、戦いに次ぐ戦いの中で、キャプテンの仕事が増えてゆこうが。
 シャングリラを地球まで運びさえすれば、胸を張ってお前に会いに行けるから。
 キャプテンはシドに譲っちまって、「地球を見て来た」と土産話を山ほど抱えて。
 そのためにも地球は青くないとな、機械に騙されて思い込まされた結果でも。青い星でないと。
 どうせ行っても死の星なのに、と重たい足を引きずりながらの旅じゃ、其処まで誇れやしない。
 全力を尽くしたとは言い難いからな、真っ直ぐに前を見られないなら。
「…そういうものなの?」
 重たい足を引きずっていたら、地球までの旅は全力だとは言えないの?
 おんなじように頑張っていても、戦って勝ち取った長い道でも…?
 努力の結果に見えるけれど、と首を傾げたけれども、ハーレイにとっては違うらしい。前だけを見据えて進む旅路と、仕方なく歩んでゆく旅路とは。
「チビのお前には分からないかもしれないが…。それにスポーツもやってないしな」
 だがな、そういうものなんだ。
 自分の力を出し切りたいなら、心に迷いがあっては駄目だ。それじゃ力を出せやしない。
 まずは自分の力を信じる、「必ず結果が出せる筈だ」と。そのためには結果も信じないとな…?



 勝てると思った試合は勝てる、というのがハーレイの心構えで、生徒たちにもそう教える。心に迷いを持っては駄目だと、「まずは自分を信じろ」と。それに試合に勝つ自分をも。
「結果に自信が持てない試合は、勝てたって何処か拙いんだ。もっと鮮やかに出来たろう、と」
 早くに技をかけてやるとか、水泳だったら何処でスピードを上げるべきかという計算。
 結果という名の目標が無けりゃ、上手くはいかないものなんだ。…前の俺たちの旅も同じだな。
 青い地球への旅だったからこそ戦えた、とハーレイが言うものだから。
「それなら、地球はガラスに映った庭と同じで良かったんだね」
 本物は何処にも無かったけれども、みんなが青いと信じてたから…。前のぼくも、ハーレイも、船のみんなも。
 青い地球まで行かなくちゃ、と思っていたから一つになれた。地球の正体、知らなかったから。
 ハーレイはさっき、「知っておきたかった」って言っていたけれど…。
「俺も今ならそう思う。ソルジャー・ブルーの意見を聞いちまったらな」
 チビでも立派にソルジャー・ブルーだ、と向けられる笑顔。「俺のブルーだ」と。
「…ありがとう。チビは余計だけど、前のぼくと同じっていうのは凄く嬉しいから」
 あの小鳥、また挑戦するかな?
 来てくれたお蔭で、ぼくの評価が少し上がったみたいだから…。来てくれたら御礼。
「此処では二度とやらないだろうが…。入れないってことは分かったようだしな」
 とはいえ、お前が追い払わなかったから、また他所で努力するんだろう。入ってみようと。
 窓ガラスに庭が映っていたら、とハーレイが言うから心配になった小鳥の行方。また窓ガラスに挑戦したなら、飲まず食わずで羽ばたき続けることになるから。
「他所でって…。そんなの、ホントにお腹、減っちゃう…」
 窓を見る度に挑戦してたら、御飯も食べずに飛んでいるだけ…。大変じゃない!
「それでも夢はたっぷり見られる。この景色の中を飛んでみたい、と」
 誰かが邪魔しに出て来なければ、好きなだけ夢を見ていられるんだ。窓の所で羽ばたきながら。
 お前はどっちがいいと思うんだ、此処は駄目だ、とガッカリするのか、夢がたっぷりか。
 青い地球があると信じて進み続けるのと、そんな星は無いと知ってガッカリするのと。
「夢に決まっているじゃない!」
 何度も言ったよ、青い地球だから頑張れた、って。夢も沢山見られたんだから…!



 夢はたっぷり無いと駄目だよ、と繰り返した。幻にすぎない青い地球でも。さっきの小鳥が夢を見ていた、ガラス窓に映った庭の景色でも。
「なら、夢があれば充分じゃないか。あの鳥にしても」
 夢だけで腹は膨れやしないが、心は幸せで一杯になる。夢を山ほど抱えていれば。
 そうすりゃひもじくないからなあ…。前のお前にも覚えがあるだろ、そういうのは。
 腹は減ってても、夢がありさえすれば…、と訊かれたら思い出したこと。燃えるアルタミラから脱出した後、初めて食べた船での食事。
「そうだっけ…。まだシャングリラって名前も無かった船だったけれど…」
 あの船で初めて食べた非常食、とっても美味しかったから…。
 ふんわり膨らんでくれるパンとか、温かくなる料理とか。お腹が減ってたせいもあるけど、船のみんながいてくれたから…。自由なんだ、って思えたから。
 幸せが一杯溢れてたんだね、あの時のぼくの心の中には。
 もちろんハーレイも一緒だったし…、と思うあの日の自分の夢。何も無かったようにも思うし、山のようにあったような気もする。まだ見えもしない未来に向かって。
 夢は大切なものなのだろう。あの日の自分がソルジャーになって、地球を目指した。青い地球が何処かにあると信じて、ミュウの未来を掴み取るために。
 前に進むには、無くてはならないものが夢。
 さっきの小鳥が行きたいと願った、窓のガラスに映っている庭の景色でも。
 前の自分たちが機械に騙され、焦がれ続けた幻の地球でも。
「ねえ、ハーレイ…。今は青い地球、幻じゃないね」
 本当に本物の青い地球だし、ぼくもハーレイも地球にいるよね…?
「正真正銘、本物だってな。前のお前の夢が何もかも叶う地球だぞ、俺と約束していたヤツが」
 新しい夢も一杯だろうが、今の俺と幾つも約束したしな…?
 それにきちんと腹が膨れる夢もあるぞ、とハーレイが挙げてくれた夢。今のハーレイとの約束。
 食べ物の夢も沢山あるから、ハーレイと幸せに歩いてゆこう。青い地球の上で生きてゆく道を。
 ガラスに映った庭だった地球は、本物の地球になったから。
 死の星だった地球は青く蘇って、今の自分たちを温かく迎えてくれたから。
 だからハーレイと手を繋ぎ合って歩いてゆく。いつまでも何処までも、この地球の上を…。



              窓と小鳥と・了


※地球は青いと信じて進み続けた、前のブルーたち。青い地球は、存在しなかったのに。
 けれども、それで良かったのです。青い地球への憧れが無ければ、辛くて長い旅路だった筈。
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「今日は天然の冷蔵庫について話してやろう」
 冷凍庫と言ったが正しいかもな、とハーレイが教室の前のボードに書いた「氷室」という文字。
 ブルーのクラスで始まった、古典の時間に人気の雑談。生徒の集中力を取り戻すために、絶妙なタイミングで繰り出されるそれ。
(…氷室って?)
 それに冷蔵庫で冷凍庫、とブルーはボードの文字を眺めた。「何だろう?」と。他の生徒たちも興味津々、氷室なるものに。ハーレイは教室をぐるりと見回すと…。
「氷室なんだし、氷と関係ありそうだろうが。氷って言葉が入るんだから」
 ずっと昔から人間は氷を利用していた。人間が地球しか知らなかった時代で、冷蔵庫も冷凍庫も無かったような時代から。…それこそ夏の真っ盛りでも。
 お前たちも知っている古典だったら、枕草子。あの中にだって出てくるだろうが、かき氷。
 削り氷と書いてあったがな。そいつに「あまづら」をかけて食べるのが夏の楽しみの一つだと。
 そいつを不思議に思っていなかったか、という質問。教室にいる生徒たちに向けて。平安時代に書かれたものが枕草子で、遥かな昔。どうやって夏に削った氷を食べられたのか、と。
「氷室のお蔭だって聞きましたけど…」
 授業の時に、と答えた男子。たまたま覚えていたらしい。優等生ではないけれど。
「確かに俺は、そう教えたが…。誰も質問しなかったよな、その氷室」
 どういう仕組みになっていたのか、とボードの文字を指で叩くハーレイ。「これなんだが」と。
(ホントだ、氷室…)
 ぼくも気付いていなかったよ、と後悔しきり。質問するチャンスだったのに。
 他の生徒が手を挙げないなら、「質問です!」と言えば良かった。氷室はどういうものなのか。そしたらハーレイを暫くの間、一人占めすることが出来たのに。
(いい質問だ、って言って貰えて…)
 きっと笑顔も向けて貰えた。氷室の解説を始める前に。
 迂闊だった、と残念な氷室。授業でそれを聞いた時には「氷室だから氷」と思っただけ。夏でも氷を食べられるように、氷を貯蔵したのだろうと。
 よく考えたら、冷蔵庫も冷凍庫も無かった時代。気温が上がれば氷は溶けてしまうのに。



 失敗しちゃった、とガッカリしても始まらない。クラスの他の生徒と一緒に、ハーレイの解説に耳を傾けるしかない自分。氷室について。
「平安時代は今よりもずっと昔だからなあ、冷凍用の設備なんかがあるわけがない」
 冷蔵庫だって作れやしないし、保存食が多かった時代なんだが…。腐らないよう塩漬けだとか。
 そんな時代でも人間は工夫を凝らしたってわけで、日本で使われていたのが氷室だ。
 夏の盛りに貴族たちに氷を提供するために…、という説明。枕草子を書いた清少納言も、氷室の氷を食べていた。細かく削ってかき氷にして、「あまづら」と呼ばれたシロップをかけて。
 氷室は日本のあちこちに作られたらしいけれども、都の近くにも幾つかの氷室。都から遠いと、運ぶ途中で氷が溶けてしまうから。
 平安時代の日本の都は、寒い場所ではなかったのに。冬になったら雪と氷に閉ざされてしまう、雪国などとは違ったのに。
「都が寒い所にあったら、不思議でも何でもないんだが…。そうじゃないだろ?」
 だから穴を掘って、その中に氷を貯蔵していた。断熱材の代わりに藁なんかを被せて。
 都の近くに洞窟があれば、もっと楽だっただろうがな。同じ氷室を作るにしても。
「洞窟ですか?」
 あちこちで上がった疑問の声。何故、洞窟があれば楽なのだろうと。
「知らないか? 洞窟の中は、一年を通して温度が一定になるもんだから…。夏でも冬でも」
 その分、貯蔵が楽になる。洞窟の中には氷穴なんかもあったんだ。年中、氷が溶けない洞窟。
 つまり天然の氷室なわけだな、氷穴は。
 他の洞窟でも、涼しさを利用した使い道は沢山あったらしいぞ。ずっと昔は。
 人間は自然を上手く使っていたってことだ。穴を掘ってた氷室にしたって、冬の間に出来た氷を保存して使っていたんだから。
 人間は地球と仲良く生きていたんだ、と結ばれた氷室に纏わる雑談。
 遠い昔の地球の上では、あちこちで氷室が作られたらしいから。日本以外の地域でも。
 氷室が無かったような時代でも、高い山から雪を運ばせた人たちがいた。夏の盛りに、雪を頂く山へ使いを送った皇帝や貴族。涼を取るために。
 ローマ時代には雪でワインを冷やして、後の時代にはシャーベットが出来た。山から運んだ雪に色々なシロップをかけて、贅を尽くした冷たいデザート。



 なるほど、と耳を傾けたハーレイの雑談。氷室から始まって、世界で最初のシャーベットまで。
 学校が終わって家に帰って、おやつの後で戻った部屋。勉強机に頬杖をついて思い出す氷室。
(…昔の人たちは、地球と仲良く…)
 無茶をしないで生きた人間。暑い夏にも冷たい氷を食べたとはいえ、使わなかった冷凍庫。冬の間に出来た氷を保存するとか、高い山から雪を運んでくるとか。
 地球がくれる自然の恵みの分だけ、夏の間も楽しんだ氷。山に積もった雪は夏でも凍ったまま。氷室の氷も、凍らせておくのにエネルギーなどは使っていない。藁などを被せただけだから。
 けれど、それから時が流れたら、人間は冷凍庫を作り出した。氷室も山の雪も使わず、家の中で氷が作れる設備。大規模な冷凍施設も作られ、もっと、もっとと進められた技術。
(欲張っちゃったから駄目だったんだね…)
 冷凍用の設備の維持には、必要なのがエネルギー。他の様々な設備も同じ。エネルギー源を色々開発しては、どんどん使っていった人間。引き返そうとは考えないで。
 そうやって進み続けた挙句に、滅びた地球。大気は汚染されてしまって、地下には分解不可能な毒素。海からは魚が消えていったし、ついには人も住めなくなった。
 地球を離れざるを得なかった人間。SD体制を敷いてまで。滅びた地球の再生のために。
 そうなったのは、自然の恵みだけでは足りなくなって、もっと得ようとした結果。遠い昔なら、夏の氷は氷室や高い山の雪だけを使っていたのに。…冷凍庫なんかは作りもせずに。
(…夏のアイスクリームは贅沢?)
 それにシャーベットや、かき氷。今の自分も大好物。
 この夏だって、ハーレイと一緒に何度も食べた。アイスクリームも、シャーベットも。暑い日のおやつの定番で。それに氷を幾つも浮かべた、冷たいレモネードやアイスティーだって。
(あのくらいなら…)
 神様は許してくれるのだろうか、青く蘇った今の地球でのことだから。
 氷室は何処にも無いのだけれども、自然に無理やり手は加えないし、厳しい決まりがある時代。何かの施設を作るにしたって、得なければいけない様々な許可。
 アイスクリームの工場だって、許可を得て作られた施設の筈。家のキッチンにある冷凍庫なども規格が細かい時代なのだし…。
 昔とはまるで違うだろう。「もっと便利に」と願い続けて、地球を滅ぼした時代とは。



 その筈だよ、と思う今の時代。自然の恵みを使った氷室や、高い山の雪を使わなくても…。
(大丈夫だよね?)
 ぼくが食べてるアイスくらいは、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合あわせで問い掛けた。
「あのね…。暑い夏でも、アイスクリームを食べていいんだよね?」
 冬は身体が冷えてしまうから、ママは滅多に許してくれないんだけど…。アップルパイに添えるくらいしか。夏の間は、アイスもシャーベットも食べられるけれど。
「アイスクリームって…。何の話だ?」
 食べていいかと言われなくても、アイスは夏のものだろう。特にお前にとってはな。
 丈夫なヤツなら冬でも食うが、とハーレイには通じていなかった。アイスクリームを食べる条件だと頭から思っているらしい。暑い夏には似合いの食べ物、と。
「それは普通のアイスだけれど…。今日の授業で、ハーレイが言ってた氷室だよ」
 今の時代のアイスクリームは、氷室を使っていないから…。シャーベットも全部、冷凍庫とかで作るものでしょ。家で手作りするにしたって、冷凍庫を使わないと無理。
 氷室で作る人はいないし、高い山から運んだ雪とか氷でもないし…。アイスクリームの作り方。
 そういうのって、欲張りすぎていないかなあ、って…。人間がね。
 ハーレイの話にあったみたいな、地球の自然の恵みのアイスじゃないんだもの。夏の氷も。
 それを食べてて大丈夫かな、と心配な気持ちをぶつけてみた。今の時代は厳しい決まりが幾つもあっても、昔とは違うアイスクリームの作り方。自然の恵みは使われていない。
「なるほどな…。其処まで深く考えてみた、と。流石お前と言うべきか…」
 SD体制の時代に生きてたわけだし、地球の環境にも敏感になっているんだろう。今の時代しか知らないヤツらと違ってな。
 お前らしい疑問で、心配になってしまうのも分かる。アイスクリームを食っていいのか、と。
 だがな…。今の時代のアイスクリームは、確かに氷室で作っちゃいないが…。
 工場で大量生産だったり、手作りが売りの店にしたって、冷凍庫ってヤツの世話にはなる。
 でないと冬しか作れないしな、アイスクリームもシャーベットも。それじゃ全く話にならん。
 暑い真夏に食えるからこそ、美味いってわけで…。
 そこでだ、お前が言ってるアイスクリーム。そいつの材料は何なんだ…?



 シャーベットは横に置いておいて、と尋ねられた。アイスクリームは何から出来ているのかと。
「えーっと…? 氷を使うってトコじゃないよね、材料だよね…?」
 牛乳に、卵に、それからお砂糖…。生クリームも入っていたんだっけ…?
 後はバニラビーンズとか、いろんなもの、と母の手作りを思い出す。多分そうだ、と。作る所を眺めただけだし、あまり詳しくないけれど。まるで手伝ってはいなかったから。
「基本のヤツなら、そんなモンだな。牛乳と卵黄、それに砂糖と生クリームだから」
 材料を混ぜて冷凍庫に入れて、何度も取り出しては混ぜてやる。ガチガチに固まらないように。
 うんと昔だと、氷を詰めた桶とかの中に器を入れてだ、せっせと混ぜていたらしいんだが。
 そうやって出来るアイスクリーム。材料は全部、この地球の上で採れるものなんだがな。
 砂糖もそうだし、卵も、牛乳も、生クリームも。…違うのか?
 どの材料も地球の恵みだろうが、とハーレイが挙げたアイスクリームの材料たち。砂糖も卵も、牛乳も、それに生クリームだって。地球で育った牛に鶏、サトウキビなどから得られる食材。
「そうだけど…。どれも地球の上で採れるけど…」
 お砂糖も卵も、牛乳も。生クリームも牛乳から出来るものだから…。
「全部そうだろ、それなら神様も許して下さる。冷凍庫を使って作っていようが」
 アイスクリームの材料の方は、人間の手できちんと育てた牛のミルクや、卵や砂糖なんだから。
 牛も鶏も地球の草や穀物を食べて生きてるんだし、サトウキビだって地球の土から栄養を貰う。どの材料にも、地球の恵みがたっぷりだ。太陽の光も、土も水もな。
 そういったものが揃っていなけりゃ、牛乳も卵も、砂糖だって地球では得られやしない。自然に育ちやしないから。牛たちも、土に生えてるサトウキビも。
 それが地球では採れなくなっても、自分たちの生活を変えようとしなかったのが人間だ。地球が滅びに向かった時代の。
 一度覚えた贅沢ってヤツは、簡単には忘れられないから。
 他の星から材料を運ぶことになっても、地球での生活を続けようとした。それまでと変わらず、我儘放題にエネルギーを使って、地球という星を汚染し続けながら。
 そのせいで地球は滅びちまった、とハーレイは語る。人間たちが滅びの兆候に気付いた時には、もう手遅れだった地球の再生。元に戻す道は、何処にも残っていなかった。
 人間が地球を離れる他には。…地球を滅ぼした、人間たちが地球を立ち去る以外には。



 地球を青い星に戻すためには、人間の方を変えるしかない、と下された決断がSD体制。機械に全てを委ねること。
 地球を再生することはもとより、人間そのものを改革する。欲望のままに生きようとする人間に枷をはめること。自然出産さえもやめてしまって、人工子宮で子供を育てて。
「お蔭で、前の俺たちは酷い目に遭ってしまったわけで…」
 機械が統治していなかったら、ミュウの排除はあそこまで酷くなかっただろう。
 自然出産で生まれた子供は、本物の家族がいるわけだから…。少し変わった子が生まれたって、親は通報したりはしない。「この子は変だ」と思いはしたって、自分の子だから。
 そうなっていたら、ミュウへの進化は自然に進んでいたんだろうな。処分されずに、他の人間の中に混じって育っていって。…その子が次の世代を育てて。
 ところが、機械が治める時代じゃそうはいかない。異分子は排除されるだけだ。
 前の俺たちは地獄を見たし、前のお前もそうだった。氷室にだって、いい思い出は無いだろう?
 ずっと昔ならアイスクリームやシャーベットだが、と出て来た氷室。アルタミラの地獄で氷室となったら、思い出すものは強化ガラスのケース。
「…その氷室って、低温実験のこと?」
 とても寒くて、ガラスに氷の花が幾つも…。脱出した後も、窓に出来てた氷の花が怖かったよ。
 前のハーレイが「大丈夫だから」って、指で溶かして模様を描いてくれるまでは。
「それもあるしだ、シャングリラにだって氷室はあったぞ」
 なんたって、宇宙空間って所は寒いんだ。恒星の光をモロに浴びてりゃ、高温だがな。
 そうでない時は船の中の温度は、ぐんぐん下がってゆくわけで…。そいつを使った天然の氷室、あの船にだってあっただろうが。空調を切って、冷凍庫代わりに使っていた部屋。
 部屋をそのまま冷凍倉庫に出来たほどだから、空調システムが故障した時は部屋が凍ったぞ。
 最初の頃にはよく壊れていて、そうした時には仲間の部屋に仮住まいさせて貰っていたが…。
 お前、引越ししようとしないで、部屋でガタガタ震えてたこともあったじゃないか。
 いい思い出とは言えないだろう、と持ち出された話。前の自分が部屋で凍えていた時のこと。
「そうだっけね…」
 ハーレイの部屋に行こうと思ったんだけど、留守だったから…。
 ベッドの中なら大丈夫かな、って毛布を頭から被ったけれども、駄目だったっけ…。



 あれは失敗、と今の自分も覚えている。仕事を終えたハーレイが来てくれた時は、身体が凍えて氷のようになっていた。ハーレイにだって、とても心配をかけてしまった前の自分。
「思い出したか? 前のお前の氷室の思い出、ロクなのが無いわけなんだが…」
 低温実験のこともそうだし、シャングリラの中ですっかり凍えてしまったことも。
 それに何より、テラズ・ナンバー・ファイブだな。あれが最悪な思い出じゃないか、氷室。
 前のお前の記憶の中では、と名前が挙がった宿敵の巨大コンピューター。アルテメシアの地下に潜んで、あの星を支配していた機械。
 忘れもしない名前だけれども、寒かったという覚えは無い。何度も対峙した、あの機械。攻撃を躱した記憶も山ほど、けれど冷気を浴びせられてはいない。凍結の危機に見舞われたことも。
「テラズ・ナンバー・ファイブって…。氷室と何か関係あるわけ?」
 凍えるような目に遭ったことは無いんだけれど…。いろんな攻撃を受けたけれどね。
 機械が作った思念波だとか、衝撃波だとか、電撃だとか…。でも、寒いのは無かったよ。
 火傷しそうな攻撃だったら多かったけど、と激しかった火花を思い浮かべていたら…。
「俺の雑談、ちゃんと聞いていたか? 今日の氷室の話の中身」
 かき氷を食べてた都の貴族たちのための氷室は、地面に穴を掘ったヤツだが…。
 洞窟があったら楽だっただろう、と俺は話をしてやった。一年中、中の温度が変わらないから。
 テラズ・ナンバー・ファイブがいたのは洞窟だぞ。
 氷室に使われていなかっただけで、あれが昔の地球なら立派な氷室になるわけでだな…。
 あの機械は氷室に巣食っていたようなもんだ、というのがハーレイの考え。氷室に使える場所にいたのだと解釈するなら、最悪な思い出になるだろうが、と。
「そっか、洞窟…。氷室に使えるんだっけ…」
 地面に深い穴を掘るより、ずっと簡単に出来ちゃう氷室。中に氷を運び込んだら。
 藁とかを被せて溶けないように気を付けていたら、あの洞窟でも氷室に変身しちゃうんだ…。
 氷の代わりにテラズ・ナンバー・ファイブがいたんだけれど、と苦笑するしかない洞窟。確かに悪い思い出しか無い。成人検査でミュウと判断した子供たちを、端から殺していた機械。
 ジョミーを救いに飛び込んだ時も、やはり洞窟の中だった。
 あの時は思念体だったけれど。
 衰弱し切っていた身体では、妨害するのが精一杯。ジョミーを船に連れてゆくのは無理だから。



 テラズ・ナンバー・ファイブが根城にしていた、アルテメシアの地下の洞窟。前の自分は何度も戦いに赴いたけれど、あの洞窟が遠い昔の地球の何処かにあったなら…。
(…テラズ・ナンバー・ファイブを据える代わりに、氷室になるんだ…)
 此処なら温度が一定だから、と冬の間に氷の塊が幾つも運び込まれて。
 冷凍庫で出来る氷ではなくて、自然の池や湖に張った天然の氷。それを丁度いい大きさに切って運んでゆくとか、そんな具合に。
 運び込んだ氷には藁を被せたり、溶けないための色々な工夫。暑い真夏も、冷凍庫無しで冷たい氷を味わえるように。かき氷にするとか、シャーベットだとか、アイスクリーム作りに使うとか。
「あそこの洞窟…。平和な時代の地球にあったら、何かに使えていたんだね」
 冷凍庫の代わりに氷を入れて氷室にするとか、冷蔵庫代わりに使うとか…。
 夏でも暑くならないんだったら、色々なものを保存できるから。…氷でなくても。
 地球でなくても使えそう、と思わないでもない洞窟。自然の恵みの冷蔵庫なのだし、何か方法を考え付いたら、有効活用出来たのかも、と。
 あんな時代のアルテメシアでなかったら。テラズ・ナンバー・ファイブがいなかったなら。
「そういうこった。洞窟は何処でも似たようなものになるからな」
 灼熱の星なら話は別だが、人間様が暮らせる星なら、地球にあるのと変わらない。氷穴になってしまうヤツとか、涼しいだけだとか、多少の違いは地球の上でもあるもんだ。
 前のお前がテラズ・ナンバー・ファイブと戦い続けた、あの洞窟…。
 今の時代じゃ、使っている可能性もゼロではないが。あそこの主は、とっくの昔にいないから。
 ジョミーが倒しちまったからな、というのは今の自分も知っていること。前の自分の記憶が戻る前から、歴史の授業で教わっていた。歴史の上では、とても大事な出来事だから。
 けれど、その後に残った洞窟。それを何かに使うだなんて、と首を傾げた。今の時代は、氷室を使いはしないから。この地球でさえも、何処の家でも冷凍庫を使っていいのだから。
「あの洞窟を何かに使うって…。いったい、何のために?」
 今じゃ氷室は必要ないでしょ、使い道が無いと思うんだけど…。あんな洞窟。
「それがそうでもないってな。洞窟は優れものなんだ」
 ワインやチーズも貯蔵できるし、この地球でだって使っているぞ。その目的で。
「そうなんだ…!」
 洞窟、今でも貯蔵庫なんだ…。氷室の代わりに、ワインやチーズの。



 知らなかった、と瞳を輝かせた。授業中に聞いた話だけだと、洞窟が使われた時代は遥かな昔。氷を貯蔵する氷室として。一年中、温度が変わらないから。
 冷蔵庫代わりにも使えそうだと考えたけれど、まさか本当に使えるなんて。今の時代もワインやチーズの貯蔵庫になっていたなんて。
「ハーレイ、それって冷蔵庫みたいに使っているの?」
 ワインやチーズを洞窟の中に入れておいたら、冷蔵庫を作らなくても済むからなの…?
 洞窟はとても大きいものね、と考えた。沢山のワインを並べられそうだし、チーズだって、と。大量生産のものならともかく、少量だったら洞窟くらいでいいのかも、と。
 そうしたら…。
「冷蔵庫代わりというわけじゃないな。あれは立派な貯蔵庫らしい。ワインやチーズの」
 しかも歴史が長いんだ。人間が地球しか知らなかった時代に、もう使われていたんだから。
 青いカビがつくチーズを知ってるか?
 お前の口に合うかどうかは知らないが…。好き嫌いが無くても、癖のある味には違いない。その青いカビが生えるチーズは、ロックフォールチーズって名前でな…。数千年の歴史があるらしい。
 ところが、その名をつけていいのは、フランスの小さな村だけだった。
 其処に昔からあった洞窟、其処にチーズを貯蔵しておくと青いカビが自然に生えたんだそうだ。
 地球が滅びたら、そのチーズだって作れないようになっちまったが…。
 今の時代は、また復活して作られている。昔と同じに洞窟の中で。洞窟は別のになったがな。
 地球が燃えた時にすっかり崩れちまったから、という話。
 遠い昔のロックフォールチーズは失われたけれど、今もフランスの洞窟で作られ続けるチーズ。自然に青いカビが生えてくるまで、洞窟の中で熟成させて。
「数千年の歴史って…。なんだか凄いね、そのチーズ…」
 青いカビのチーズは、まだ食べたことが無いんだけれど…。洞窟生まれのチーズだったんだ…。
「そうらしい。一番最初は、置き忘れられたチーズにカビが生えたって話もあるな」
 本当かどうかは確かめようもない伝説だが。…つまり洞窟が欠かせないチーズもあるわけだ。
 ワインの方も、数千年とまではいかないものの、熟成させるのに洞窟を使った所もあった。
 温度が一定になっているのがいいらしい。
 そいつを生かして、ワイン工場を丸ごと洞窟に作った人まであったそうだぞ。



 ワイン作りに最適な気温を保った洞窟。それを見付けて、工場をそっくり洞窟の中に。遠い昔に考え出されたそのアイデアは、今の時代も復活させて使っている人がいるという。
 他にもワインを貯蔵している洞窟が幾つも、熟成に適した温度だからと。
「ワイン工場とか、チーズ作りとか…。洞窟って今でも役に立つんだね」
 氷室でなくても、ちゃんと貯蔵庫。温度が一定になっているのを、上手く利用して。
 今の地球でもやってるんなら、他の星でも真似をしている所が沢山ありそう。美味しいチーズを作るためとか、ワインを美味しく作るためにね。
 アルテメシアでもやっているかな、さっきハーレイが言ったみたいに。空いてる洞窟、あそこにちゃんとあったんだから。
 ジョミーがテラズ・ナンバー・ファイブを倒した後は…、と思い浮かべた地下洞窟。前の自分の記憶の中では、テラズ・ナンバー・ファイブが居座っているのだけれど。
(SD体制が倒れた後には、瓦礫も片付けちゃったんだろうし…)
 きっとあのまま放っておきはしなかったろう。忌まわしい機械の残骸などを。
 平和になって落ち着いたならば、綺麗に片付けられた筈。其処にテラズ・ナンバー・ファイブが在ったことなど、誰も気付きはしないくらいに。
 そうすれば生まれる広大なスペース。どう使おうとも、人間の自由。命令する機械は、何処にも存在しないのだから。
(…誰か、チーズを思い付いたかな?)
 さっきハーレイに聞いた、青カビのチーズ。
 ロックフォールチーズの名前はフランスの小さな村しか使えないけれど、違う名前でいいのなら何処でも作れるだろう。青カビがチーズに勝手に生える洞窟ならば。
 あそこで誰かが試しただろうか、そういうチーズが作れるかどうか。あるいは、ワインの熟成に適した温度かどうかを調べて、ワイン工場を作り上げたとか。
(青カビのチーズとか、ワインだとか…)
 それなら少し愉快ではある。前の自分には、いい思い出が何も無い場所でも。
 テラズ・ナンバー・ファイブが巣食っていた洞窟の中で、今はチーズやワインが出来るのなら。
 あの星ならではの自然の恵みを生かして、貯蔵庫だとかワイン工場になっているのなら。



 なんだか素敵、と広がる夢。前の自分の因縁の場所が、平和に生まれ変わっていたならいい。
 成人検査をしていた憎い機械の巣窟、其処で美味しいチーズやワインが出来るのならば。
「ねえ、ハーレイ…。ロックフォールチーズっていう名前、一ヵ所しか使えないらしいけど…」
 そんな風に、テラズ・ナンバー・ファイブの名前がついてるチーズは無いの?
 でなきゃ、そういう名前のワイン。あの洞窟で作ってるんなら、あってもいいと思うけど…。
 テラズ・ナンバー・ファイブっていう名前のチーズやワイン、と尋ねてみた。今の自分は食品に詳しくないのだけれども、ハーレイは自分で食料品店に足を運ぶのだから。
「はて…。テラズ・ナンバー・ファイブという名を聞いたことは無いが…」
 テラズ・ナンバー・ファイブとは名付けていないってだけで、別の名前で作られてるかもな。
 歴史で有名な機械ではあるが、ミュウにとっては仇とも言える機械だから…。
 縁起でもない、と全く違う名をつけて、せっせと作っているかもしれん。青カビのチーズとか、あの洞窟の中で一から作った、とびきり美味いワインとかをな。
 まるで無いとは言えないぞ、とハーレイもあの広い洞窟を思い浮かべているようだから…。
「そういうチーズがあるんだったら食べてみたいな、平和になった時代の証拠なんだもの」
 ワインだと、ぼくは酔っ払うから無理だけど…。チーズだったら食べられるもの。
 癖があっても平気だってば、見た目にカビが生えていたって。…青カビのチーズ、あるって話は知っているから。
 前のぼくが聞いたらビックリだろうね、「いつかは此処でチーズを作るんですよ」だなんて。
 ワインの方でもビックリ仰天、だけど嬉しいだろうと思う。平和な時代が来る証拠だから。
 生きて見られはしなくってもね…、と前の自分に思いを馳せる。テラズ・ナンバー・ファイブと戦い続けたソルジャー・ブルー。懸命に、ミュウの未来を掴み取ろうとして。
 …洞窟が氷室になるとも知らずに、チーズやワインが作れる場所とも考えないで。
「そうだな、俺も大いに興味があるし…。その内に探してみるとするかな」
 あの洞窟を使って作る、チーズやワインがあるのかどうか。アルテメシアの特産品で。
 もし見付かったら、いつかお前と食ってみような、チーズだったら。…ワインだった時は、俺が責任を持って飲んでやるから、お前は味見だ。それでいいだろ?
 なんと言っても、テラズ・ナンバー・ファイブは前の俺たちの敵で、実に手強いヤツだった。
 あの洞窟には、恨みが山ほどあったんだから。



 ジョミーが晴らしてくれたがな、と口にしてから、ハーレイがふと顎にやった手。
「そういえば…。前のお前、場所を知ってたんだよな?」
 今の今まで気付かなかったが、と鳶色の瞳がゆっくり瞬いた。「その筈だよな?」と。
「場所って…。何の?」
 キョトンと見開いてしまった瞳。「前のお前」なら、チーズやワインの話とは無縁だろうから。
「あの洞窟…。テラズ・ナンバー・ファイブの居場所だ」
 何処にあったか、前のお前は知ってた筈だぞ。あいつと何回も戦い続けていたんだから。
 まさか知らないとは言わないだろうな、とハーレイが訊くからコクリと頷いた。
「それはもちろん…。知っていないと、まるで話にならないよ」
 何処にいるのか分かっていなけりゃ、助けに行くことが出来ないじゃない。成人検査の妨害も。
 ジョミーの時は思念体だけで行ったけれども、それまでに助けた子供たち…。
 前のぼくが自分で出掛けて行った時には、あそこの洞窟だって何回も入っていたんだよ。
 敵の居場所を掴んでいないと戦えないよ、と前の自分に戻ったつもりで説明した。敵地に入ってゆこうと言うなら、闇雲に突っ込めば命取り。相手が何処に潜んでいるのか、把握するのが戦士の鉄則。そうでなければ攻撃を躱せはしないから。
「やっぱりな…。それだ、それ」
 ジョミーも案外、ウッカリ者だな。お前が選んだ後継者には違いなかったが…。
 地球まで立派に辿り着いた上に、SD体制を崩壊させた英雄なのも間違いないんだが…。
 少しばかり間抜けな所もあったか、とハーレイが言うものだから。
「間抜けって…。それに、ウッカリ者って?」
 どうしてジョミーがそう言われちゃうの、とても頑張ってくれたじゃない。命まで捨てて。
 ぼくが頼んだことだったけれど、死んじゃうだなんて思っていたら…。
 それが分かってたら、ぼくはジョミーを迷わずに連れてこられたかどうか…。
 シャングリラにね、と項垂れた。
 前の自分はジョミーに希望の光を見たから、嫌がるジョミーを追い掛けてまで船に連れ戻した。自分の跡を継がせるために。ミュウの未来を託すために。
 ジョミーがあれほどの若さで命を落とすと分かっていたなら、きっと迷ったことだろう。彼には彼の人生がある。生き抜いてくれると信じたからこそ、強引にそれを捻じ曲げたのに。



 前の自分の思いを継いで、若くして散ってしまったジョミー。それを思うと胸が苦しい時だってある。ジョミーは後悔していなかったと分かっていても。
 自分が選んだ後継者。SD体制を倒した英雄、そのジョミーがどうしてウッカリ者だと言われてしまうのだろう。少し間抜けな所もあっただなんて。
「ジョミーの何処が間抜けだって言うの? ウッカリ者の方もそうだよ」
 しっかりやってくれてた筈だと思うんだけど…。前のぼくが死んでしまった後にも、ジョミーは立派なソルジャーだったし…。
「そいつは俺も分かっているさ。だが、それとこれとは別問題だ」
 前の俺たちはアルテメシアで苦労したんだ、地球の座標を引き出すために。
 アルテメシアを陥落させたら、手に入るものだと誰もが思っていたんだが…。甘くはなかった。
 これでいける、と思って挑戦してみても、銀河系の映像が表示されるというだけで。
 ヤエでも全く歯が立たなかった、と聞かされれば分かる。歴史の授業でも習っているから。
「そうだったらしいね、データがプロテクトされていて」
 アルテメシアはテラズ・ナンバー・ファイブが統治していたし、そっちの方からのプロテクト。
 ユニバーサルを破壊したって、テラズ・ナンバー・ファイブが無事な間は解けなかった、って。
「その通りだが…。肝心のテラズ・ナンバー・ファイブの所在が分からなかった」
 まるでデータが手に入らないんだ、何もかもブロックされていて。
 そんな中で、ジョミーが「心当たりがある」と出掛けて行ったんだ。そして見事に見付け出して破壊したってわけだが、心当たりを探さなくても…。
 わざわざ探しに出掛けなくても、テラズ・ナンバー・ファイブの居場所。前のお前の記憶の中に入っていたんじゃないのか?
 お前がジョミーに残していった記憶装置だ、と問われたから「うん」と即答した。
「そうだよ、ちゃんとあった筈だよ」
 前のぼくの記憶で大切なものは、全部あの中に入っていたから…。
 ジョミーにも秘密の大事な記憶は、何も入れてはいなかったけれど。
 ハーレイがぼくの恋人だったとか、フィシスはミュウじゃなかったこととか…。
 そういうことは何も入れずに、偽の記憶を入れたんだけど…。その他のことは全部本物。
 テラズ・ナンバー・ファイブの居場所も正確に入れておいたよ、あの洞窟は何処だったのか。



 ちゃんと入れた、と自信を持って言えること。ジョミーのために役立つ記憶は、残らずあの中に入れたのだから。ソルジャーとして生きた三世紀にわたる記憶を全部。
「やはりな…。テラズ・ナンバー・ファイブの居場所も、あれに入っていたのか…」
 ジョミーがそれに気付いていたなら、「心当たりがある」という言い方はしないだろう。
 「知っている」と言うと思わんか?
 そして真っ直ぐに行けばいいんだ、お前の記憶にあった場所へと。心当たりを探す代わりに。
 違うのか、と尋ねるハーレイの言葉は間違っていない。ジョミーは記憶装置を使いはしないで、自分の勘に頼って動いた。テラズ・ナンバー・ファイブの所在を見付けだすために。
「そうだね…。ジョミーは知らなかったんだろうね、本当に」
 テラズ・ナンバー・ファイブが何処にいたのか、あの洞窟が何処にあったのか。だから自分で探しに出掛けて、見付けて破壊したんだよ。木っ端微塵に。
 それでプロテクトが解けたんでしょ、と言ったのだけれど。
「やれやれ、しっかりしていたようでも、ウッカリ者のソルジャーだったか…」
 肝心の時に、肝心の情報を使わないなんて。…前のお前が知らなかった筈がないのにな?
 何のために記憶装置を受け継いだんだか…。有効活用すべきだろうが。
 時間を無駄にしちまった、とハーレイは苦い顔だけれども、自分はそうは思わない。ジョミーはきっと、ウッカリ者ではなかっただろう。記憶装置の意味も充分、分かっていたと思うから。
「ウッカリ者って言うけれど…。いいと思うよ、ジョミーらしくて」
 前のぼくの記憶に頼りっ放しじゃなかった証拠。…なんでもかんでも。
 自分で答えが出せそうな時は、きちんと自分で考えるソルジャー。…それがジョミーだよ。前のぼくの記憶から簡単に答えを引っ張り出すより、自分の足で前に進むんだってば。
 それだけの自信があったんだと思う、と微笑んでみせた。「ジョミーだものね」と。
 前の自分が選んだ若き後継者。若い命を散らしたけれども、強いソルジャーだったのだ、と。
「そういう考え方も出来るか…」
 記憶装置に尋ねたならば、答えは出ると承知の上で頼らなかった、と。
 自分の力で切り開いた道なら、確かに自信もつくだろう。…前のお前に導かれるより。
 そう考えたから、あえてお前が残した記憶と答えを無視した。自分でやろう、と。
 テラズ・ナンバー・ファイブは自分で見付けて、自分一人で倒すんだとな。



 そうだったのかもしれないな…、とハーレイが首を捻っているから、駄目押しをした。ウッカリ者ではなかっただろう、ジョミーの名誉を守るために。
「絶対、そっちの方だってば。…ぼくはそうだと信じているし、それで間違いない筈だよ」
 だって、そうしたのはジョミーだから。…前のぼくの記憶に頼らない、って決めたのは。
 テラズ・ナンバー・ファイブもそうだし、その後の幾つもの戦い。…人類とのね。
 ジョミーじゃなければ、きっと戦えなかったよ。救命艇まで壊させたっていう話だけれど…。
 其処まで心を決めていたから、ジョミーは勝ち進んで行けたんだと思う。
 ぼくなら人類に遠慮しちゃうから、降伏されたら助けてしまうよ。そうして降伏した人類の中にスパイがいるとか、考えもせずに。…助けなくちゃ、って救命艇を回収して。
 そんなやり方だと、あんな速さで地球まで行けない。ジョミーがやったようにはね。
 前のぼくの考えの通りにしたんじゃ、とても辿り着けはしないんだよ。…あの速さでは。
 もちろんSD体制も倒せやしない、と「ウッカリ者」だと言われたジョミーの肩を持った。前の自分の記憶装置に頼ったのでは、地球までの道は開けないと。
「そう…かもしれんな」
 お前の言葉の通りかもしれん。…ジョミーはウッカリ者ではなくて、しっかり者のソルジャー。
 前のお前に頼る代わりに、自分で道を拓いたんだな?
 テラズ・ナンバー・ファイブを自分で探し出して、壊して、自信をつけて。
「そうに決まっているってば。…ジョミーなんだから」
 自分を信じて、自分の道を真っ直ぐ歩いて行ったんだよ。楽な道が他にあったって。
 前のぼくの記憶を引き出して使うより、ずっと偉いよ。ジョミーが自分で頑張る方が。
 …そういえば、前のぼく、ジョミーにずっと昔に言ったんだっけ…。
 「自分を信じることから道は開ける」って。アルテメシアから逃げ出して直ぐに。
 シロエを連れて来られなかった、って、ジョミーが落ち込んでいた時に話した言葉だけれど…。
 あれを覚えていてくれたのかな、あれから後も。
 ぼくの記憶を頼りにしないで、自分の力でテラズ・ナンバー・ファイブを探しに行ったなら。
 戦い方だって、ぼくの記憶があったのに…。
 それを引き出して分析したなら、ジョミーは有利な筈だったのにね。
 きっとそれさえ、していないと思う。真っ正面から、自分の力だけでぶつかって行って。



 ジョミーはとても頑張ってくれた、と思う。地球までの道を、辛くて長い戦いの日々を。
 地球の地の底でジョミーは命を落としたけれども、きっと悔いてはいなかったろう。
 前の自分に引きずり込まれた茨の道でも、ちゃんと歩いてくれたから。前の自分の記憶に縋って歩むことなく、自分の道を行ってくれたから。
 生まれ変わった今になっても、誇りに思う後継者。ジョミーの生き様を今の自分は学校で何度も教えられたし、今のハーレイからも聞いているから。
 ハーレイが「ウッカリ者」だと評した件も、ジョミーの強さの表れの一つ。ジョミーはきっと、幸せになってくれただろう。とうに何処かに生まれ変わって、新しい命と身体を貰って。
 きっとそうだ、と考えていたら…。
「そういや、ジョミーが言ってたな。「ぼくが生まれた場所だ」とな」
「なあに、それ?」
 何処のことなの、と首を傾げた。心当たりが無い場所だから。
「テラズ・ナンバー・ファイブの居場所だった洞窟のことだ。心当たりと言った時にな」
「生まれた場所…。ジョミーがそういう風に言ってたんなら、そうなんだね」
 前のぼくに文句を言って、船から飛び出したりもしたけど…。ちゃんと分かってくれてたんだ。
 ミュウとしてのジョミーは何処で生まれたか、どうしてソルジャーになった自分がいたのか。
 良かった、とホッとついた溜息。ジョミーは本当に自分の道を生きたろうから。
「うむ。…あそこがジョミーの生まれた場所ってことになるらしい」
 今じゃ平和にチーズかワインが置かれているかもしれないが…。
 テラズ・ナンバー・ファイブは欠片も無くなっちまって、お誂え向きの洞窟ってことで。
 誰かがチーズを熟成していそうだな、とハーレイが話す青カビのチーズ。ジョミーという存在が生まれたらしい、あの洞窟で出来る青カビのチーズ。
「だったら、ジョミーって名前がついているかもね。そのチーズには」
 ジョミーが生まれた場所から生まれるチーズだったら、ジョミーって名前になるのかも…。
 えっと、なんだっけ…。ロックフォールチーズだっけ、それの代わりにジョミーチーズ。
「あの言葉は多分、よく知られていると思うんだが…」
 ジョミーが好きな人たちだったら、ピンと来るだろう言葉の筈だ。
 「ぼくが生まれた場所だ」というのは。しかしだな…。



 俺は耳にしたことがないんだが、とハーレイが悩むチーズの名称。そんなのは知らん、と。
「ジョミーやテラズ・ナンバー・ファイブって名前のチーズは、聞いたことがないが…」
 食料品店でも見かけた覚えが無いしな、果たしてあるのか、どうなんだか…。
「もしもあったら、其処のチーズだと思わない?」
 テラズ・ナンバー・ファイブがあった洞窟、あそこで作られてるチーズ。青カビのチーズで。
 ジョミーって名前や、テラズ・ナンバー・ファイブって名前がついちゃってて。
 あの洞窟から生まれるチーズなんだもの、と興味は尽きない。あるといいな、という思いも。
「そうなんだろうな、その名前なら。…ならば是非とも食わないと」
 何処かでお目に掛かった時には、買い込んで。お前と二人で、味わってな。
「ワインの方だったとしても、ぼく、飲みたいよ。悪酔いしてもかまわないから」
 ジョミーって名前のワインだったら、頑張って飲むよ。ジョミーも頑張ってくれたんだしね。
 地球までの道を…、と固めた決意。飲めないワインも飲んでみよう、と。
「お前なあ…。そんな決心をされちまったら、チーズの方であって欲しいな。俺としては」
 二日酔いしたお前は酷く弱っちまうから、ワインは勘弁して欲しい。チーズで頼む。
 もっとも、まだ活用はされていないかもしれないが…。どう使うかを検討中でな。
 あの洞窟の利用方法…、とハーレイの瞳が見ている彼方。時の彼方のアルテメシアの洞窟。
 テラズ・ナンバー・ファイブがいた場所、前の自分も知っていた場所。
 今は普通の洞窟なのだし、平和に使われているならいい。
 チーズやワインの置き場になっても、まだ活用方法を検討中で誰かが調査をしていても。
 今は平和な時代なのだし、あの星で自然の恵みを受けられる天然の貯蔵庫として。
 チーズやワインを作っていたって、これから作り始める場所にしたって。
 其処のチーズやワインに出会ったら、ハーレイと二人で味わおう。
 ワインだったら、悪酔いしたってかまわない。ジョミーが歩んだ道を思って飲み干すから。
 ジョミーが歩いてくれた地球までの道に、ハーレイと二人で乾杯して御礼を言いたいから…。



              氷室と洞窟・了


※前のブルーの記憶装置にあった筈の、テラズ・ナンバー・ファイブの居場所のデータ。
 ジョミーは使わず、自力で見付け出したのです。あの洞窟も、今はチーズが作られていそう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(大人用の滑り台…)
 そんなのあるんだ、とブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に目に付いた。
 滑り台は子供たちのための遊具の定番、公園には置いてあるものだけれど。大勢の子供が順番を待つ日もあるほどだけれど、大人の姿は滅多に見掛けない。
 もしも大人がいたとしたなら、小さな子供を膝の上に乗せて滑るため。幼い子供は、落っこちることもあるものだから。滑る途中で外に落ちたり、滑り降りた所で放り出されたり。
 そうならないよう、大人が一緒に滑ってやる。子供をしっかり抱えてやって。
 けれど新聞に載っているのは、大人用に出来た滑り台。公園にあるような遊具とは違う。
(ホントに本物…)
 大人用だ、と頷かざるを得ないもの。写真付きで幾つも紹介されている滑り台。一番上のは山の斜面を利用したもの。殆ど直線、真っ直ぐに滑り降りる山。自分の足で下りる代わりに。
 他にも色々な滑り台の写真、「子供時代に戻れそうですね」という紹介文。滑り台で遊んだ頃の幼い自分に戻れる遊具。それが大人用の滑り台。
(ぼくはまだ、子供なんだけど…)
 公園の滑り台では遊ばなくても、十四歳なら子供の内。大人よりはずっと小さい身体。その気になったら子供用の滑り台でも充分、遊べる。子連れの大人も滑るのだから。
 それに新聞に載せられた写真。山を一気に滑り降りるのも、他のタイプも、子供用のより遥かに長い滑る距離。角度も急なものが多いし、何度も曲がりくねっている滑り台も。
 こんな滑り台、怖くて滑れそうにない、と思いながらも説明文を興味津々で読み進めたら…。
(二人乗り禁止…)
 そう書かれていた、チューブ型をした滑り台。強化ガラスで出来ているのか、透明なチューブ。滑ってゆくのはチューブの中で、七階建ての高さがあるという。チューブの一番上の所は。
 其処から下の地面に向かって、螺旋状になっているチューブ。くるくると何度も回って滑って、地面に着くまでチューブの中。
(どんどんスピードがついちゃうんだから…)
 透明なガラスの外の景色を楽しむ余裕は無いらしい。くるくる回ってゆくだけで。下へ下へと、ぐんぐん滑ってゆくだけで。
 その滑り台は二人乗り禁止。チューブ型になっているからだろうか。他のと違って。



 わざわざ書かれた「二人乗り禁止」の注意書き。チューブ型をした滑り台の説明文だけに。
(禁止って書いてあるんだから…)
 きっと他のは二人乗りをしてもいいのだろう。山の斜面を真っ直ぐ滑ってゆく滑り台も、何度も急なカーブを曲がって長い距離を滑ってゆくものも。
 公園にある滑り台で見かける二人乗り。幼い子供を膝に乗っけた大人もそうだし、子供が二人で滑るのもある。友達の膝に乗った形で、二人一緒に。
(小さかった頃に…)
 友達がやっているのを見ていた。公園でも、幼稚園にあった滑り台でも。二人同時に滑り始めて歓声を上げていた友達。それは楽しそうに。
 幼かった自分は、怖くてやらなかったのだけれど。一人なら上手に滑れるけれども、二人乗りの方は自信が無かった。下に着いたら放り出されそうで、転んで泣き出してしまいそうで。
 その二人乗りが出来るらしいのが、大人用だという滑り台。チューブ型だと禁止だけれど。
(…ハーレイと二人で滑るんだったら、平気かな?)
 幼かった頃の友達よりも、ずっと頼りになるのがハーレイ。あの強い腕で抱えてくれるし、下に着いても放り出されはしないだろう。ハーレイが両足で踏ん張ってくれて、きちんと着地。
(うんとスピードがついていたって、ハーレイだったら大丈夫だよね?)
 二人揃って放り出されても、ハーレイが守ってくれると思う。地面に転がらないように。落ちて痛い目に遭わないように。
 そういえば、子供時代に両親と出掛けたプールで見ていた。お父さんの膝の上に座って、颯爽とプールに滑ってゆく子供たち。プールに繋がる滑り台の上を、楽しそうな声を上げながら。
 滑り降りたらプールが待っているから、派手に上がった水飛沫。お父さんと子供の二人分。
(パパに「滑るか?」って誘われたけど…)
 やっぱり怖くて遠慮した。公園のよりもずっと大きな滑り台。おまけに下はプールだから。
 でも、大人用の滑り台を知った今だったら…。
(ハーレイと滑ってみたいかも…)
 そんな気持ちになってきた。ハーレイと二人乗りで滑ってゆきたい気分。人生初の二人乗り。
 いつかデートに行けるようになったら、滑ってみるのも悪くない。ハーレイだったら安心できる二人乗り。放り出されてしまいはしなくて、痛い思いもしないだろうから。



 ちょっといいよね、と思う大人用の滑り台。子供用のよりも長い距離を滑る、なんだか怖そうな滑り台ではあるけれど…。
(もしかしたら、デートに人気なのかもね?)
 大人が二人乗りをするなら、デートの時にも使えそう。女性だけなら「怖くて無理!」と悲鳴を上げる所を、エスコートする男性たち。「一緒に滑れば怖くないから」と。
 そうして二人で滑り降りたら、女性の目には頼もしく映る自分の恋人。しっかり支えて、下まで守ってくれたのだから。凄いスピードで滑る間も、ゴールで地面に着いた時にも。
 きっとそうだ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。新聞を閉じて、空のカップやお皿を母の所に返した後で。
(デート用に作ったヤツじゃなくても…)
 恋人同士で二人乗りをすれば素敵だよね、と夢が膨らむ滑り台。子供用ではなくて、大人用。
 勉強机の前に座って、さっきの記事を思い出す。チューブ型は二人乗り禁止だけれども、他のはどれも出来そうだから。ハーレイと一緒に出掛けて行ったら、人生初の二人乗りが。
(ハーレイが来たら、頼んじゃおうっと!)
 いつか大人用の滑り台を二人で滑ること。ハーレイの膝に乗せて貰って二人乗り。どんなに急な角度だろうが、曲がりくねって降りてゆこうが、ハーレイと一緒なら大丈夫。
(怖くなっても、ハーレイと一緒…)
 ハーレイの腕が支えてくれていたなら、直ぐに消えるだろう怖さ。「一人じゃないよ」と、強い腕をキュッと掴んだりして。「ハーレイと一緒」と、腕の温もりを確かめて。
 それにハーレイの膝の上なら、背中にもきっと確かな温もり。包み込んでくれているハーレイの身体。膝の上の恋人を離さないよう、けして落としてしまわないよう。
(子供同士の二人乗りとは違うものね?)
 とても頼りになるハーレイ。そのハーレイと滑らない手はないだろう。大人用に出来ている滑り台。仕事の帰りに寄ってくれたら、早速、注文しなくては。「行ってみたいよ」と。
 今日は訪ねて来てくれなければ、「滑り台」とメモに書いておく。それだけだったら、母が目にしても掴めない意味。「滑り台って、何のことかしら?」と思うだけ。
 まさかデートだと気付きはしないし、ハーレイに頼める日がやって来るまでメモを一枚。とても素敵なデートの計画、それをリクエストしないなんて考えられないから。



 二人で滑り台に行くんだものね、と大きく夢を描いていたら、聞こえたチャイム。大人用の滑り台に行こうと頼みたい恋人、ハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、高鳴った胸。
 早くハーレイに頼まなくちゃ、とテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。滑り台のこと。
「あのね、ハーレイ…。ぼくを滑り台に連れてってくれる?」
 今じゃなくって、もっと大きくなってから。…ハーレイと出掛けられるようになったら。
「はあ? 滑り台だって…?」
 公園のか、と訊き返された。何処の公園にも滑り台はあるし、公園に行ってみたいのかと。
「そうじゃなくって、もっと大きな滑り台だよ。公園にあるのとは比べられないくらいにね」
 大人用の滑り台が幾つもあるんだって。今日の新聞に記事が載ってて、山の斜面を真っ直ぐ滑り降りるヤツとか、くねくね曲がって降りてゆくのとか…。ホントに色々。
 二人乗りは禁止っていうのも載っていたから、それ以外のはきっと二人乗りでも大丈夫。
 だから、二人乗りが出来る滑り台に行ってみたいんだけど…。
 連れて行ってよ、と頼んだデート。大人用に出来ている滑り台を、ハーレイの膝に座って滑ってみたいから。後ろからしっかり抱えて貰って、ぐんぐんスピードがついてゆく中を。
「大人用の滑り台で二人乗りなあ…。要するに、滑り台でデートってか?」
 出掛けるカップルも多いからな、と微笑むハーレイ。「新聞に書いてあったのか?」と。
「デートのことは載っていなかったけれど…。あれってやっぱり、デート用だったの?」
 二人乗りをするためにあるの、と確かめてみた。子供の心に戻って楽しむ人より、デートに行く人が多いのだろうか、と。…二人乗りは禁止の場所はともかく。
「そういうわけでもないんだが…。少ないってこともない筈だぞ」
 お前が記事で読んだ通りに、二人乗り禁止のヤツもあるから、純粋に楽しむ人だって多い。子供時代に帰ったみたいに、上から下まで滑ってな。
 しかし、デートに使うヤツらも多いんだ。それを狙って、途中で合流できるタイプもあるから。
 別々の場所から滑り始めて、タイミングが合えばちゃんと出会える。滑り台の途中で。
 運試しだな、と教えて貰った滑り台。恋人同士が其処で出会えば、続きは二人乗りで降りたり。
「合流できるヤツもあるんだ…」
 その滑り台なら、本当にデートにピッタリだよね。
 上手く出会えて二人一緒に滑って行けたら、とても息の合うカップルってことになるんだもの。



 色々なのがあるらしい、と思った大人用の滑り台。新聞に載っていた滑り台の他にも。その上、デートに使うカップルも多いのだったら、是非ハーレイと出掛けなければ。
「滑り台…。デート用なら、ホントにハーレイと行ってみたいな」
 今は無理だけど、前のぼくと同じ背丈になるまで育ったら。ハーレイと一緒に滑り台でデート。
 連れて行ってよ、と強請ってみた。ハーレイと二人で行ってみたくて、メモまで書こうと思ったくらいなのだから。ウッカリ忘れてしまわないように。
「大人用に出来てる滑り台なあ…。あれもなかなか凄そうではある。俺は経験してないが」
 男ばかりでワイワイ出掛けて、滑ってるヤツも多いんだ。なにしろ大人用だしな?
 度胸試しと呼ぶのが丁度いいような、とんでもない滑り台も幾つもあるもんだから。山の上から下までにしても、急な角度で一気に滑り降りるヤツだと、スリリングだろうが。
 途中で何度も止まりながら降りてゆくなら別だが、と挙げられた例。自分でブレーキをかけない限りは、ぐんぐん上がってゆく速度。終点が近付いて、傾斜が緩やかになるまでは。
「そうみたいだけど…。怖そうなのも多かったんだけど…」
 ハーレイと一緒に行くんだったら、そういうヤツでも平気かな、って。…二人乗りなら。
 膝の上に乗せて貰って滑るんだったら、ハーレイ、支えてくれるでしょ。ぼくがブルブル震えていたって、ギュッと抱き締めてくれたりして。…ぼくを背中から。
 ぼく、一回も二人乗りをしたことがなくって…。滑り台は何度も滑ったのにね。
 ホントに一度もやっていないよ、と白状した。「怖そうだったから、見ていただけ」と。
「そうなのか? 友達同士でやるんだったら、それも分かるが…」
 子供同士の二人乗りだと、相棒はアテにならんしな。滑り降りた途端に団子になって、二人ともコロコロ転がっちまうのはよくあることだ。お前も多分、それを何度も見たんだろう。
 だからだ、子供同士でやっていないというのは分かるんだが…。お父さんともやってないのか?
 本当にただの一度も無いのか、と尋ねられたから頷いた。
「覚えてないほど小さい頃なら、やっていたかもしれないけれど…。ママとだって。でも…」
 小さい頃にね、プールに行ったら滑り台があって…。滑って行ったらプールに落ちるヤツ。
 「滑らないか?」ってパパに誘われたけれど、怖そうだから逃げちゃった…。
 だってプールに落っこちるんだよ、滑った後は。凄い水飛沫が上がるんだから。



 凄い速さで水の中に落ちてゆくなんて…、と怖かった幼かった頃。楽しそうに滑る他の子たちが英雄に見えた。プールにザブンと突っ込んだって、誰もが笑顔だったのだから。
「今のお前なら、そうなるのかもしれないなあ…。お父さんが側についていたって」
 滑るのも怖くて、滑り降りた後に突っ込むプールも怖かった、と。
 ごくごく普通の滑り台でも、二人乗りが駄目な子供だったんだし…。プールのはもっと恐ろしく見えても仕方ないよな、大きくてスピードも出るヤツだから。
 お前、前のお前よりもずっと弱虫になっちまってるし、滑り台でも怖いんだなあ…。
 二人乗りだの、プールについてる滑り台だのが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ソルジャーと呼ばれていた筈なのにと、「ソルジャー・ブルーは、今でも英雄なんだがな?」と。
「うん…。前のぼくなら、滑り台は怖くなかったよ、きっと」
 子供時代の記憶は失くしてしまっていたから、小さかった頃のことまでは分からないけれど…。
 今のぼくとそっくりだった頃でも、滑り台くらいはホントに平気。どんなヤツでも。
 ハーレイに頼んで二人乗りをしなくても、一人で滑って行けたと思うよ。度胸試しをするような凄い角度の滑り台でも。うんと高くから、凄い速さで滑るヤツでも。
 前のぼくなら、スピードも高さも気にしないもの。空を飛んでたくらいだから。
 ジョミーを追い掛けて衛星軌道まで昇っていたって怖くなかった、と今も鮮やかに思い出せる。足の下には何も無くても、恐ろしさを感じはしなかった。落ちたら死ぬような高さでも。其処まで空を駆けてゆく時、凄い速さで飛んでいたって。
「前のお前か…。チビの頃から凄かったんだが、つくづく弱くなったな、お前」
 俺と初めて出会った時には、今と変わらん姿だったが…。チビの子供だと思い込んだくらいに。
 それでも強くて、メギドの炎で燃えてる中でも走ってたくせに…。今のお前とは大違いだ。
 今のお前が怖がってるのは、たかだか滑り台だろうが…、って、また滑り台か。
 滑り台なあ…、とハーレイは顎に手を当てた。「滑り台とも縁が深いようだ」と。
「え? 滑り台って…?」
 縁が深いってどういうことなの、ぼく、滑り台の話をしたっけ…?
 大人用の滑り台じゃなくって、公園とかにある滑り台。ハーレイと何か話をしてた…?
 いつかデートで滑りに行こう、って約束したとか、そういうので…?



 あったかな、と探ってみる記憶。ブランコだったら誘ったけれども、滑り台の方はどうだろう?
 公園にある滑り台では、滅多に見掛けない大人。いたとしたなら子供の付き添い、二人乗りして滑ってゆくだけ。滑り台と言えばそういうものだし、ハーレイと行きたいと思うだろうか…?
 誘うとは思えないけれど…、と自分でもまるで分からない。どうして縁が深いというのか、また滑り台だと言われるのか。
 そうしたら…。
「滑り台の話を俺にしたのは、お前だ、お前。間違いなくお前なんだがな…」
 お前ではなくて、前のお前の方だった。滑り台だ、と言い出したんだ。前の俺にな。
 覚えてないか、と訊かれた滑り台のこと。白いシャングリラでの話だというから、ますます謎が深まった。今ならともかく、前の自分が生きた頃。おまけに白い鯨だなんて、と。
「あのシャングリラで滑り台って…。そんなの、何処にあったっけ?」
 色々な設備があった船だけど、大人用の滑り台なんかは覚えてないよ。無かったんじゃないの?
 それとも、ぼくが忘れてるだけで、船の何処かにあったのかな…?
 誰かが作った滑り台、とハーレイに疑問をぶつけてみた。ハーレイは覚えている滑り台。何処にあったか、誰が作った滑り台のことを言っているのかと。
「勘違いするなよ、俺は滑り台としか言っていないぞ。大人用だとは言わなかったが…?」
 シャングリラにそんな粋な遊具は無かったな。大人用の滑り台なんかは誰も作っちゃいない。
 大人用のがあるわけがないが、子供用ならあっただろうが。ごくごく普通の滑り台がな。今でも幼稚園とかに置いてる、屋内用の小さなヤツ。
 養育部門にあった筈だぞ、とハーレイが挙げた滑り台。それなら自分の記憶にもある。鮮やかな色で塗られた、小さな子たちに人気の遊具。いつも順番待ちだったっけ、と。
「小さいの…。それなら覚えているけれど…」
 あれと前のぼくがどう繋がるわけ、ぼくは滑り台で遊んでいないよ?
 子供たちが並んで順番を待っているのに、ソルジャーが一緒に並んじゃったら可哀想じゃない。
 順番が回るのが遅くなるよ、と前の自分の記憶を辿る。滑り台で遊んではいない、と。
「それはそうだが、お前、子供たちとよく遊んでいたから…」
 ソルジャーの仕事は多くないしな、養育部門で子供たちと遊ぶのを仕事代わりにしてただろう?
 そいつが問題だったんだ。毎日のように通っていたなら、色々な遊びを覚えちまうから…。



 二人乗りもその一つなんだ、とハーレイが口にした言葉。さっき頼んでいた二人乗り。大人用の滑り台でしたいと、今のハーレイに今の自分が。
「前のお前も、二人乗りってヤツを見ちまったわけだ。養育部門にあった滑り台で」
 船に来た子たちは、外の世界で遊んでいたのと同じように遊ぶわけだから…。船で新しく出来た友達と、昔から一緒だった友達みたいに。
 そうやって誰かが持ち込んだんだな、滑り台でやる二人乗りを。一人で滑るより楽しいから、と船に前からいた誰かを誘って。「一緒に滑ろう」と声を掛けて。
 そんな具合に始まったんだ、と聞かされた二人乗りのこと。養育部門にいた子供たちが、ある日始めた滑り台を二人で滑り降りる遊び。
「思い出した…! 最初にやったの、誰だったのかは覚えてないけど…」
 ぼくが遊びに行った時には、すっかり人気になってたんだよ。二人一緒に滑り降りるのが。
 ヒルマンが「怪我をしないように気を付けなさい」って注意してたけど、みんな知らんぷり。
 二人で滑るのはとても楽しいから、注意なんか聞きもしなくって…。下まで滑って、止まれない子もいたけれど…。コロンと転がったりもしていたけれども、それでも誰もやめないんだよ。
 よっぽど楽しかったんだね、と子供たちの笑顔が蘇る。大はしゃぎだった子供たち。二人乗りで滑って床にコロコロ転がっていても、懲りずに滑り台の列に並んで、また二人乗り。
 幼かった自分も何処かで滑っていただろうか、と考えたのが始まりだった。滑り台で二人乗りをするということ。一人で滑ってゆくのではなくて、二人で一組。
 養父母の家で暮らした頃には、自分も友達とあんな風に滑っていたのかも、と。
 滑り台を一緒に滑った友達。二人で列にきちんと並んで、順番が来たら二人乗り。一緒に滑って下に着いたら転がったりして、滑り台を楽しんでいただろうか、と。
(でも、友達の記憶は無くって…)
 何も覚えていなかった自分。子供時代の記憶は消されて、何一つ残っていなかった。
 成人検査と、その後に続いた過酷な人体実験と。それらが奪い去った過去。育ててくれた養父母たちも、育った家も、一緒に遊んだ友達も、全部。
 それでは覚えているわけがない。滑り台で遊んだ時の思い出も、誰が一緒にいたのかも。二人で滑って遊ぶ友達、仲のいい子がいたのかさえも。
 二人乗りをしてはしゃぐ子たちは、楽しそうなのに。自分もしたかもしれないのに。



 どうしても思い出せない友達。子供時代に滑り台で遊んでいた記憶。二人乗りをして滑ったかもしれない滑り台。目の前ではしゃぐ子供たちのように。
 けれど記憶は残っていなくて、一番古い友達と言えばハーレイ。燃えるアルタミラの地獄の中を二人で走って、大勢の仲間を助けた時から。…初めて出会ったミュウの仲間で、一番の友達。
 シャングリラで長く一緒に暮らして、今では恋人同士になった。誰よりも愛おしい人に。いつも一緒にいたいくらいに、大切に想う恋人に。
(ハーレイと滑ってみたいよね、って…)
 二人乗りで滑る子供たちの姿を見ている間に、そういう夢が浮かんで来た。何度も何度も二人で滑る子供たち。列に並んでは、二人一緒に。それは楽しそうに、歓声を上げて。
 子供時代の記憶は失くしてしまったけれども、ハーレイと二人で滑れたらいい。恋人同士の二人だったら、友達同士で滑るよりもずっと素敵だろう。息がピタリと合う筈だから。
(それに一番古い友達…)
 長い年月を共に生きたし、最高の友達でもあったハーレイ。恋人同士になった後にも、恋をしたことは誰にも言えない。ソルジャーとキャプテンだったから。皆の前では、あくまで友達。
 そのハーレイと滑ってみたい滑り台。子供たちがやっているのと同じに、二人乗りで。
 ハーレイの膝に乗せて貰って、滑り降りたらきっと楽しい筈。子供時代に帰ったみたいに、心が弾んで。もう覚えてはいない昔に、心だけが飛んで戻ったようで。
(…ハーレイと滑ってみたかったのに…)
 恋人同士で滑りたいのに、子供用の滑り台しか無かった船。滑り台で遊ぶのは子供たちだけ。
 その滑り台では小さすぎるから、ハーレイと一緒に滑るのは無理。細くて華奢な自分だけなら、滑れないこともないけれど。幅が狭くても、直ぐに下まで着いてしまっても。
 自分一人なら滑れるけれども、肝心のハーレイには小さすぎるのが滑り台。船で一番体格のいいハーレイの身体は、滑り台の幅より大きいだろう。どう考えても。
(それに体重も、うんと重くて…)
 子供たちなら何人分になるのだろうか。ハーレイが一人いるだけで。
 そんなハーレイが乗ろうものなら、滑り台はきっと壊れてしまう。まだ滑ろうともしない内に。上に登ろうと階段に足を乗せた途端に、壊れる音が響きそう。何かが割れる鈍い音とか、砕け散る音がするだとか。



 これは駄目だ、と諦めざるを得なかった滑り台。「ハーレイはとても滑れない」と。二人乗りで滑って遊びたいのに、ハーレイが乗ったら壊れてしまう滑り台。階段に足を掛けただけでも。
 子供たちのための滑り台では、ハーレイの体重に耐えられない。子供たちが遊ぶためには、充分頑丈なのだけど。華奢な自分の体重だったら、きっと支えてくれるのだけれど。
(だけど、ハーレイは無理だから…)
 ガッカリしながら部屋に帰った。子供たちと別れて、青の間へと。
 夜になったらハーレイが訪ねて来るのだけれども、その時間にはまだ早い。キャプテンの仕事は多忙なのだし、夕食もとうに終わった頃しか来てはくれない。この時間なら、ブリッジだろう。
 まだまだ来てはくれやしない、と一人、ハーレイを待っている間に眺めたスロープ。ゆったりと優美な弧を描きながら、入口まで続いている通路。ベッドが置かれたスペースから。
 スロープと言っても緩やかな傾斜で、滑り台のように滑ってゆけはしないけれども…。
(此処に滑り台…)
 ついていたなら良かったのに、と思ったのだった。同じスロープを設けるのならば、そのための傾斜を利用して。入口とベッド周りのスペース、その高さの差を活用して。
(滑り落ちたりしたら駄目だし、わざわざカーブをつけてあるわけで…)
 最短距離で入口とベッドの所を結ぶのならば、滑り台のようなものになるのだろう。上るのには不向きで、不評でも。横に階段を設けなければ、歩いて上れはしなくても。
(下りるだけなら、滑って行くのが早い筈だよ)
 アッと言う間に入口に着くし、スロープを下りるより遥かに早い。もっとも、誰も使いたがりはしないだろうけれど。ソルジャーの私室から滑り台を使って退出するなど、失礼だから。
 けれども、子供たちは別。滑り台を使って遊んでいたって、子供たちなら許される。ソルジャー自ら招待したなら、「遊んでいいよ」と許したならば。
 もしも滑り台が此処にあったら、ハーレイと二人で滑って遊べて、最高の気分。二人乗りで。
(どうせ、こけおどしの部屋なんだから…)
 滑り台をつけておいても良かった筈。入口まで真っ直ぐ滑れるものを。
 やたら口うるさいエラやゼルたちにも、子供たちを遊ばせてやるためのものだ、と言えば意見も通っただろう。いつか来るだろう、子供たち。
 子供は希望の光だから。来てくれる日などはまるで見えなくても、子供は未来なのだから。



 そう考えたら、あれば良かったと思う青の間の滑り台。ハーレイと二人乗りで滑れて、幾らでも遊べる頑丈なもの。ソルジャーの私室に作るのだったら、本格的なものになる筈だから。
 強度も素材も検討を重ねた、それは立派な滑り台。青の間でも見劣りしないようにと、見た目も美しいものを。透き通ったガラスで出来ているとか、ぼんやりと青く発光するとか。
(絶対、凄いのを作ってた筈で…)
 不可能ではなかった技術力。白い鯨を作れるのだから、滑り台くらいは容易いこと。たった一言頼みさえすれば、滑り台はきっと出来ていた。青の間の中に。
 その筈なのだ、と思い始めたら、もう止まらない滑り台への夢。入口まで滑ってゆける、それ。
 だからハーレイが来るのを待って、自分の夢を口にした。キャプテンの報告が終わった後で。
 青の間の入口の方を指差し、「あそこに滑り台が欲しかった」と。
「滑り台…ですか?」
 子供たちが遊んでいる遊具でしょうか、と怪訝そうな顔で返したハーレイ。その滑り台を此処に作ると仰るのですか、と。
「そう思ったんだけどね? 滑り台は君も見ているだろう。養育部門で」
 今の流行りは二人乗りだよ、二人一緒に滑って行くのが人気なんだ。二人一組で滑り台をね。
 此処に滑り台がありさえしたなら、君と二人で滑ってゆける。君の膝の上に、ぼくが座って。
 そうやって君と二人で滑れば、きっと楽しいだろうから…。
 養育部門の滑り台だと、壊れてしまって無理なんだよ。君の体重が乗っかったなら。それに滑り台の幅も狭いし、君の身体じゃ滑れない。…ぼくはなんとか滑れそうだけれど。
 君も無理だと思うだろう、と問い掛けた。「あそこの小さな滑り台では」と。
「ええ、壊れると思います。…こういう身体ですからね」
 あなたの仰る二人乗りなら、私も先日、見掛けました。楽しそうな遊びがあるものだ、と。
 ですが、あなたと二人で滑ろうという考えまでは…。素敵だろうとは思いますが。
 ああいう遊びが出来たなら、とハーレイも心を惹かれたらしい二人乗り。滑り台を二人で滑ってゆくこと。膝の上に恋人を座らせておいて、一緒に滑る滑り台。
「ほらね、滑り台が此処にあったら良かったんだよ」
 青の間に作ることになったら、きっと頑丈だろうから…。幅もゆったりしたもので。
 でないと見劣りしてしまうからね、この部屋では。やたら大きくて、無駄に立派な造りだから。



 此処に作った滑り台なら、大人も充分遊べたんだ、とハーレイに向かって語った夢。二人乗りで何度も滑って遊べて、素敵な気分になれただろうと。
「君と二人で過ごす時には、ぼくたち専用になるんだけれど…。二人きりの滑り台だけど…」
 昼の間は、子供たちのために開放してね。「好きに滑って遊べばいいから」と。
 いくら青の間がソルジャーの部屋でも、子供たちなら遊びに来たっていいだろう?
 堅苦しい礼儀作法は抜きで、と微笑んだ。子供たちとは、普段から遊んでいたのだから。
「お気持ちはよく分かるのですが…。今から整備は出来かねます」
 シャングリラの改造はとうに終わっていますし、この青の間も完成してから長いですから…。
 工事用につけてあった照明も全て撤去してしまった後です。なのに大規模な改修などは…。
 それが必要な時期になったら、皆も考えはするのでしょうが…。今の所は、メンテナンスだけで充分です。この状態で、数百年は軽く持つかと思われますので…。そのように作りましたから。
 それを改修するとなったら、ゼルたちもきっとうるさいでしょう。どう不都合があったのかと。
 まして遊びの道具など…。滑り台を此処に作りたいからと、皆に提案するなどは…。
 子供たちがどんなに喜びそうでも、難しいかと、と答えたハーレイ。恋人ではなくて、この船を預かるキャプテンの貌で。「私は賛成いたしかねます」と。
「分かっているよ。君の答えがそうなることも、ぼくには最初から分かっていたんだ」
 賛成するようなキャプテンだったら、誰もついては行かないだろう。ぼくも信頼しはしない。
 「駄目だ」と止める君だからこそ、ぼくの友達で恋人なんだよ。…誰よりも大切で、ぼくの命も心も丸ごと預けておくことが出来る。…君にだったら。
 だから余計に残念なんだよ、君と滑り台を一緒に滑れないこと。二人乗りでは滑れないこと。
 もっと早くに言えば良かった、此処に滑り台を作りたいと。そしたら、君と滑れたのに。
 設計していた段階で言えば、通っただろうと思うんだけどね。…無茶なようでも。
 絵本を残していたのと同じで、いつか来るだろう子供たちのために、と。
 そうすれば良かった、と後悔しきりな滑り台。青の間には作れるスペースがあって、入口までの滑り台を設けられたのに。作ろうと思いさえすれば。最初から提案していれば。
 「子供たちのために」という理由だって、誰も反対しなかった筈。
 子供たちが来るとは思えない船に、絵本が積まれていたのだから。いつか子供が船に来たなら、読んでくれるだろう絵本。未来のために残しておこうと、絵本は廃棄しないようにと。



 子供たちの影さえ見えない頃から、絵本があったシャングリラ。白い鯨ではなかった時代から。
 シャングリラはそういう船だったのだし、滑り台も可能だったろう。青の間の中に、子供たちのための滑り台を作っておくということ。それは大きな滑り台を。
「入口からは、これだけの高さがあるんだから…。きっと凄いのが作れたんだよ」
 子供たちが何度も滑って行っては、また上って来て滑って行ける滑り台。養育部門の小さな滑り台より、ずっと大きくて楽しいのをね。
 ぼくたちだって滑れるような…、と夢の滑り台を描いてみる。心の中で。其処にあったら、どう見えたかと。透明なガラスの滑り台だったか、ほんのりと青く光っていたかと。
「そうですね…。いい遊び場になったことでしょう。船の子供たちの」
 此処に来れば大きな滑り台で遊べる、と子供たちが毎日来たのでしょうね。小さな滑り台なら、少し大きな子たちは見向きもしませんが…。そんな子たちも来ていたでしょう。
 あなたが滑ってみたいとお思いになられたように…、とハーレイが口にする通り。年かさの子はもう滑り台では遊ばないけれど、大きな滑り台なら別。まだまだ遊びたい盛りなのだし、滑り台が充分大きかったら、きっと遊びにやって来た筈。この青の間まで。
「…どうして思い付かなかったんだろう?」
 滑り台を作ればいいということ。…この部屋だったら、とても大きなのが作れたのに。
 今のぼくでもハーレイと一緒に滑りたくなるほど、滑り台は素敵なものなのに…。
 二人乗りで滑りたいんだけどね、と言い添えた。自分一人で滑っていたって、それほど心躍りはしない。楽しくはあっても、「滑り台が欲しい」と思うほどには。
 けれど子供たちが遊ぶ姿は何度も見ていて、いい遊具だと眺めていた。二人乗りという遊び方が登場する前も。一人ずつ順番に滑って行っては、並び直すのを見ていた頃も。
 あの素晴らしい遊具を作れただろう空間。その青の間を設計する時、放っておいたのだけれど。出来上がった図面に目を剥いたけれど、滑り台くらいの意見は挟めた。その気があれば。
 それなのに思い付かずにいたなんて…、と零した溜息。「どうしてだろう?」と。
「記憶をすっかり失くしてしまわれたからですよ。子供時代の記憶を全部」
 滑り台で遊んだ楽しい記憶をお持ちだったら、事情は変わっていたでしょう。…私もですが。
「そうかもしれない…。ぼくも、君もね」
 こういう部屋だと分かっていたって、記憶が無いなら仕方ない。滑り台で遊んだ頃の記憶が。



 まるで覚えていない遊具は、直ぐに浮かびはしないだろう。知識の形で持っていたって、直ぐに使えはしないから。「この部屋だったら作れそうだ」と。
 人は幾つもの経験を重ねて、それを役立てて生きてゆくもの。滑り台も同じだったろう。遊んだ記憶を持っていたなら、「此処に作れる」とピンと来た筈。自分も、それにハーレイだって。
 でも…、と残念でならない滑り台。此処に滑り台がありさえしたなら、ハーレイと二人で滑って遊べた。二人乗りをして何度も滑って、それは幸せに。
「…滑り台、此処に欲しかったよ…。今から作れはしないんだけどね」
 それさえあったら、君と一緒に滑れたんだ。子供たちが始めた、あの二人乗りで。
 君の膝の上に乗せて貰って、真っ直ぐ下まで滑って行って。…また上って来て、また滑って。
 きっと楽しく遊べただろうに、と夢でしかない滑り台を思う。透明なガラスで出来ていたのか、内側から青く光っていたかと。
「それがあなたの夢なのですね。…私と一緒に、二人乗りで滑ってゆくということ」
 では、いつか。…地球に着いたら、二人乗りで滑ってみましょうか?
 あなたが転がって行ってしまわれないよう、私がしっかり抱えますから。下に着くまで。
 ご安心下さい、と笑みを浮かべたハーレイ。「初心者でも、なんとかなりますよ」と。
「滑り台、地球にはあるのかい?」
 ハーレイが乗っても壊れないくらい、頑丈に出来ている滑り台が…?
「育英都市には無いようですが、大人社会には大人用のがあるそうですよ。娯楽のために」
 私もデータしか知りませんから、それが地球にもあるかどうかは分かりませんが…。
 大人たちが暮らす他の星しか、滑り台は無いかもしれないのですが…。ノアのような星ですね。
 地球は人類の聖地ですから、とハーレイは言ったけれども、皆が焦がれる星が地球。住みたいと夢を見ている星。青い地球なら、何処よりも暮らしやすいのだろうから…。
「娯楽のための滑り台なら、きっと地球にもあると思うよ。人類が住んでいるんだから」
 それで滑ろう、地球に着いたら。君と一緒に、二人乗りをしてね。
 何処にあるのか見付け出したら、直ぐに滑りに行かなくちゃ。…君と二人で、船を降りてね。
 もうソルジャーでもキャプテンでもない二人だから、と交わした約束。
 いつの日か地球に辿り着いたら、ソルジャーもキャプテンも役目を終える。ただのミュウでしかなくなるのだから、その日が来たなら出掛けてゆこうと。…滑り台を滑って遊ぶために。



 シャングリラが青い地球に着いたら、ミュウの時代がやって来る。ソルジャーもキャプテンも、必要とされない平和な時代が。
 その時が来たら、二人一緒に滑り台を滑って遊ぶこと。それがハーレイと交わした約束。
「サイオンは抜きでお願いしますよ、私は無茶は御免です」
 とんでもない速さで滑り降りられたら、いくら私でも腕が緩むかもしれません。あなたを抱えている筈の腕が外れてしまって、二人乗りが崩れてしまうとか…。
 お一人で滑ってゆかれたのでは、二人乗りにはならないでしょう、と困った顔をしたハーレイ。お手柔らかにお願いしますと、「どうか普通の速さで」と。
「大丈夫。凄い速さで滑ったりはしないよ、それじゃ滑り台を楽しめないしね」
 せっかく二人で滑っているのに、アッと言う間に終わったのでは…、と前の自分は夢見ていた。いつか地球まで辿り着いたら、滑り台を滑って遊ぼうと。ハーレイと二人乗りをしようと。
 ハーレイが「前のお前だ」と言ったお蔭で、蘇って来た滑り台への夢。前の自分が描いた夢。
「…これって、前のぼくのせいかな? 滑り台に行きたくなっちゃったのは」
 新聞の記事を読んでいる内に、いつかハーレイと一緒に行こうとぼくが思ってしまったのは…。
 デートの約束、今の内からしておかなくちゃ、って。
「どうだかなあ? 俺も其処までは分からんが…。ただの偶然かもしれないが…」
 それでも、前のお前だった頃からの夢の一つには違いない。俺と一緒に滑り台に行く夢。
 前のお前とも約束したから、そういうことなら行くとするかな。…お前が大きく育ったら。
 俺が車を出してやろう、と乗り気になってくれたハーレイ。滑り台へデートに行くことに。
「いいの?」
 ぼくのお願い、聞いてくれるの、うんと弱虫のぼくなんだけど…。二人乗りをしていないほど。
 パパに誘われても逃げたくらいで、ホントに初心者。…一度もやっていないから。
「なあに、そいつは前の俺でも同じだってな」
 初心者だからお手柔らかに、と前のお前に頼んでいたぞ。サイオンは抜きで、と前の俺がな。
 今の俺なら、初心者なんかじゃないんだが…。
 お前も知っての通りの悪ガキ、子供時代は元気一杯に走り回っていたわけだから…。
 もちろん二人乗りもしてるし、もっととんでもない滑り方だって経験済みだ。
 たまにいるだろ、後ろ向けで滑って降りてゆくヤツ。ああいうのとか、他にも色々とな。



 今度は俺に任せておけ、と頼もしい言葉を貰えた滑り台を二人乗りで滑ること。今のハーレイは二人乗りのプロで、もっと色々な滑り方もしていたようだから。悪戯小僧がやりそうなことを。
「今の俺たちなら、堂々と滑りに行けるからな。お前が大きくなりさえしたら」
 地球に着いたらなんて言っていないで、きちんと結婚できるってわけで…。お前がそういう年になったら、俺がお前にプロポーズして。
 結婚するような二人なんだぞ、滑り台を二人で滑るくらいは普通だ、普通。遠慮しなくても。
 青の間に滑り台があったら良かったのに、なんて考えては溜息をつかなくても。
 何処の滑り台に滑りに行くのも自由だからな、とハーレイがパチンと瞑った片目。何処で二人で滑っていたって、誰からも文句は出はしない。顔を顰める人だって。
「ホントだね…。デートで二人で滑っている人、大人用の滑り台には多いんだものね」
 ぼくたちが二人で滑っていたって、カップルなんだし当たり前…。少しも変じゃないんだもの。
 それに地球だよ、前のぼくたちが約束していた、本物の地球にある滑り台。
 前のぼくたちが生きた頃には、青い地球は何処にも無かったんだけど…。
「まったくだ。今ならではの大きな滑り台だよな、本物の地球の上にあるのは」
 よしきた、いつかお前と一緒に出掛けて行こう。大人用の滑り台、二人乗りして滑るためにな。
 ついでに芝生も滑ってみるか、と不思議なことを訊かれたから。
「芝生って…?」
 なあに、とキョトンと見開いた瞳。芝生を滑るとは、何なのだろう?
「そのまんまの意味になるんだが…。文字通り芝生を滑って行くんだ。滑り台みたいに」
 専用の橇を貸して貰って滑れるのさ。雪じゃなくても、芝生の上を。面白いほど滑るんだぞ?
 俺はガキの頃にレジャーシートで滑ってたがな、とハーレイが教えてくれた芝生の遊び方。雪の上を橇で滑るみたいに、芝生の上を滑ってゆくのだという。もちろん二人乗りだって。
「それ、やりたい…!」
 芝生の上も滑ってみたいよ、ハーレイと橇に二人乗りをして。
 それにね、雪の上で滑る橇にも乗ってみたいんだけど、と強請って約束。
 滑り台を二人乗りで滑って楽しんだ後は、二人で橇に乗るんだから、と。芝生の上を滑ってゆく橇も、真っ白な雪の斜面を滑って走る橇にも。



 約束だからね、と強引に小指を絡めてやった。恋人の無骨な褐色の小指に。
「いいでしょ、地球に来たんだから。うんと欲張って、橇に乗っても」
 二人乗りが出来る滑り台もいいけど、橇だって地球だから乗れるんだし…。芝生のも、雪のも。
 だから乗せてよ、と約束した橇。芝生の上を滑る橇にも、雪の上の橇にも乗るんだから、と。
「それはかまわないが…。風邪を引くなよ、雪の上の方は」
 寒いんだからな、雪が積もるということは。ちゃんと暖かくして、俺にしっかりくっついてろ。
 それから無理をしないことも…、とハーレイは注意を続けるけれど。
「風邪くらい別に引いたっていいよ、ハーレイが看病してくれるもの」
 前のぼくだった頃から大好きだった、野菜スープを作ってくれて。シャングリラ風のを。
 あれをコトコト煮てくれるんでしょ、ぼくが寝込んでしまった時は…?
「こらっ! 何が野菜スープのシャングリラ風だ!」
 まずはきちんと風邪の予防だ、そいつを疎かにするんじゃない。雪の上で橇に乗りたいんなら。
 甘えるなよ、と頭をコツンと小突かれたけれど、きっとハーレイなら大丈夫。
 本当に寝込んでしまった時には、優しく看病してくれる筈。野菜スープも作ってくれて。
 そのハーレイと一緒に地球に来たから、まずは二人で滑り台。
 小さかった頃の今の自分は怖かった滑り台の二人乗り。それに挑戦しなくては。
 ハーレイにしっかり抱えて貰って二人で滑ろう、前の自分の夢だったから。青の間にもあればと思ったくらいに、前の自分はハーレイと一緒に滑り台を滑りたかったのだから。
 大人用の滑り台を二人乗りで滑って、芝生の上も橇で滑って、雪だって橇で滑ってゆく。
 ハーレイと二人なら怖くないから、幸せ一杯に滑ってゆけるから。
 生まれ変わって来た、この地球で。前の自分が焦がれ続けた、青く輝く水の星の上で…。



              滑り台・了


※ブルーがハーレイと二人で滑りたくなった、滑り台。前のブルーも、そうだったのです。
 青の間に滑り台があれば、と悔しい思いをしたようですけど、今は橇遊びも出来るのが地球。
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(落ち込んだ時には、気分転換が一番…)
 そうだよね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 今は平和な時代だけれども、心が沈むことはある。ちょっと失敗してしまったとか、立てていた予定が直前で駄目になったとか。とても楽しみに準備していた、旅行なんかが中止になって。
 そういった時には気分転換が一番です、と書かれた記事。普段とは違うことをして。
 散歩や軽い運動なども記者のお勧めだけれど、他にも色々あるのだけれど。
(女性の場合は、とっておき…)
 お洒落すること、と綴っている記者。家の外へは出ないにしたって、お気に入りの服に着替えてみる。鏡を覗いて、髪型だって整えてみて。
 そうしてみたなら、鏡の中には「ずっと素敵になった自分」の姿。もうそれだけで、沈んでいた気分が晴れる人だっているくらい。鏡に映った顔もすっかり笑顔になって。
 お洒落して外に出掛けて行ったら、もっと明るくなる笑顔。ご近所の人に挨拶したり、気ままに散歩してみたり。公園のベンチに座っていたって、どんどん晴れてゆく気分。
 お洒落しているから、誰に会っても自信たっぷり、見て貰えたならとても嬉しい。公園を通ってゆく人にだって、道ですれ違った人だって。
(そうなのかもね…)
 何処かへ出掛けてゆくとなったら、小さな女の子もお洒落するもの。可愛らしい服や、その子が好きな模様の服。一人前に小さなバッグも提げたりして。
 弾んだ足取りで歩いてゆくから、きっと心が浮き立つのだろう。両親と一緒に出掛けることも、お洒落して外に出ることも。
 お気に入りの服に、御自慢のバッグ。ぬいぐるみなのかと思うバッグもあるくらい。よく見たら違って、「バッグなんだ…」とビックリするような猫やウサギや。
 ほんの幼い女の子でも、大好きなのが「お洒落すること」。
 小さな子供もはしゃいで出掛けてゆくほどなのだし、お洒落はきっと「とっておき」の気分転換なのだろう。気分が沈んでしまったら。溜息が零れそうになったら。
(お気に入りの服に着替えて、鏡…)
 それで晴れるという、女性たちの気分。人によっては、たったそれだけで笑顔になれる。駄目な人でも外に出掛けたら、笑顔が戻って来るお洒落。近所を散歩してみるだけでも。



 そういえば…、と今の学校でもある心当たり。女の子たちが大好きなお洒落。
(制服よりも、私服の方が好きらしいもんね?)
 今の自分が通う学校の女の子たち。みんな制服を着ているけれども、たまに聞くのが制服の話。制服が嫌いとまでは言いはしなくても、「下の学校の方が楽しかった」と。
 下の学校の頃は、制服が無かったものだから。好きな服を着て通えた学校。通学鞄も、教科書やノートがきちんと入れば自由に選べた。色も形も。
 個性に合わせて選べた鞄。その日の気分で着られた服。女の子だったらスカートの日やら、男の子みたいな格好の日やら。朝、起きた時の気分や天気で決めて。「今日はこの服」と袖を通して。
 それが出来ないのが今の学校。最初から決まっている制服。鞄も学校指定の鞄。
 お洒落の機会を奪われてしまった、女の子たち。どんなに素敵な服があっても、学校に行く時は必ず制服。下の学校なら、好きに選んで着てゆけたのに。服に似合いの鞄を提げて。
 だから「下の学校の方が楽しかった」という言葉が飛び出す。学校がある日は、どう頑張っても出来ないお洒落。家に帰った後ならともかく、学校という場所にいる間は。
(逆だっていう子、女の子には少ないみたい…)
 制服の方が好きだという女の子。制服か私服か、そういう話を聞いていたなら、たまにいるのが今の学校の制服が好きな子。「大人っぽくて素敵じゃないの」と。
 下の学校の子は、今の学校の制服などは着られない。其処に通ってはいないのだから。
 入学しないと着せて貰えない、今の自分が通う学校にある制服。申し込んでも、断られるだけ。採寸さえもして貰えなくて、門前払いになってしまう店。「入学してから来て下さい」と。
(男の子だったら、制服が好きな子、多いんだけどな…)
 下の学校に通う内から、憧れだったという子たち。早く制服を着てみたくて。
 制服を着られるようになったら、ちょっぴり「お兄ちゃん」だから。入学したての一年生でも、卒業間際の四年生と同じ制服を着て通う学校。上の学校が近い、上級生たちと同じ制服で。
(上の学校に行ったら、制服、無いから…)
 今だけの特権なのが制服、男の子ならば下の学校の間に夢見る。「ぼくも着たいな」と、制服の生徒を目にする度に。
 チビの自分も憧れていた。あれを着たなら、自分だって立派な「お兄ちゃん」。下の学校に通う子たちに憧れられる、一人前の「制服の先輩」になれるのだから。



 男の子だったら制服が好きで、出掛ける時にも着ると言う子も多いのに。きちんとした服を着て行くように、と両親などに言われた時には「制服が一番楽だもんな」と話す友達も多いのに。
 その制服が嬉しくないのが女の子。下の学校の頃と違って、自由に服を選べないから。
(どっちも制服なんだけどな…)
 男子も女子も、デザインが違うというだけのこと。なのにどうして、制服の見方か変わるのか。憧れの制服をやっと着られたと喜ぶ男子と、「下の学校の方が楽しかった」と言う女子とに。
(ぼくも制服、好きなんだけどな…)
 女の子って面白いよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に返して、「御馳走様」と。
 勉強机に頬杖をついて、思い浮かべた女の子たち。制服よりも私服が好きで、お洒落をしたなら気分転換。お気に入りの服で鏡に向かえば、それだけで笑顔になれる女性も。
(…ぼくが着替えて、鏡を見たって…)
 沈んだ気分が晴れるようには思えない。お気に入りの服で散歩に行っても同じこと。心の中身は重たいままで、それが綺麗に晴れたとしたなら、お洒落ではなくて散歩のお蔭。目についた綺麗な花に見惚れて気が紛れたとか、ご近所さんに挨拶をしたら、楽しい話が聞けたとか。
 お洒落は関係ないものね、と女の子との違いを思った所で心を掠めていったもの。フッと掠めて通り過ぎたもの。
(…制服…)
 今の自分が好きな制服。下の学校に通う頃から、早く着たいと憧れた制服。
 学校がある日は当たり前のように袖を通して、朝からシャキッとした気分。「今日は学校」と。
 友達もみんな着ている制服、上級生たちも、みんなお揃い。体格でサイズが変わるだけ。誰もが同じ制服なのだし、あの制服が大好きな自分。
(憧れだったってこともあるけど、前のぼくの記憶が戻ったら…)
 もっと制服が好きになった。
 ソルジャーだった頃と違って、一人だけ特別な服ではないから。友達も上級生も同じで、何処も少しも変わらない。デザインも色も、ボタンの形も。
 制服を着れば、すっかり溶け込んでしまえる学校。自分だけ目立ってしまいはしないし、とても気に入っている今の制服。「みんなと同じ」と、「ぼくもお揃い」と。



 特別扱いが好きではなかった前の自分。やたら大きすぎた青の間はもちろん、ソルジャーだけが着る制服だって。
 何度思ったことだろう。「みんなと同じ服がいいな」と、「同じ制服を着られたら」と。
 けれど、他の仲間たちが着ていた制服。前の自分が生きた船では…。
(制服だけしか無かったんだよ…)
 何処を見回しても、仲間たちの服は制服だけ。他にあったのは作業服くらい。それが必要な農場だとか、機関部の仲間が着ていた服。いつもの制服では、難しそうな作業の時に。
 白い鯨に改造する前から、シャングリラにあった揃いの制服。ソルジャーとキャプテン、長老の四人を除いた仲間は、誰もが同じ制服を着た。男性用のと女性用のを。
 皆の声で生まれた制服だけれど、無かった私服。誰一人、着てはいなかった。個性的な服やら、可愛らしい服。素敵な模様が入った服も、皆とデザインが違った服も。
(個性的なの、フィシスくらいで…)
 ミュウの女神だと、皆に紹介したフィシス。…本当はミュウではなかったけれど。
 機械が無から作った生命、青い地球を抱いていた少女。フィシスの青い地球が欲しくて、仲間を騙して船に迎えた。「特別なのだ」と大嘘をついて、ミュウの女神に祭り上げて。
 フィシスは特別な存在だからと、皆とは違う服を作らせて着せた。それは優美なデザインのを。姫君のような服だったけれど、フィシス以外の他の女性たちは…。
(気分転換にお洒落したくても…)
 出来なかった、と今頃になって気が付いた。さっきの記事と、今の学校の女の子たちのお蔭で。
 気分が沈んでしまった時の、女性たちのための「とっておき」。
 お洒落して鏡に向かってみること、お気に入りの服を身につけること。それだけで気分が晴れる人がいるのも、きっと本当なのだろう。男の子の自分には分からなくても。
(女の子はみんな、お洒落が大好き…)
 幼い子だって、出掛ける時にはお洒落するほど。素敵な気分になれるのがお洒落。
 今の学校に通う女子たちも、私服の方が好きな子が多い。下の学校の頃は楽しかった、と私服で通えた学校を懐かしむ声が聞こえるほどに。
 気分転換に役立つらしい、お洒落すること。女性の場合は。
 なのに私服が無かった船がシャングリラ。お洒落したいと考えたって、無かった私服。



 シャングリラはそういう船だったっけ、と制服が頭に蘇る。誰も私服は着ていなかった。女性は大勢いたというのに、誰一人として。…船に私服は無かったから。
(だけど、みんなの希望で生まれた制服だったし…)
 前の自分やハーレイたちの提案ではない、あの制服。誰からともなく声が上がって、作りたいと機運が高まったから、デザイン画が描かれて生まれた制服。前の自分のソルジャーの服も。
 それまでの間は、人類の船から奪った服を誰もが着ていた船。サイズが合うのを好きに選んで、靴も好みで選んだりして。…バラバラだった皆の服装。男性も女性も、揃っていなくて。
 だから制服が出来た時には、皆が大喜びだった。やっとシャングリラらしくなったと、ミュウの船にはこの制服が相応しいと。
 そして船から私服は姿を消してしまって、誰もが制服。「この服がいい」と気に入って。だから制服で良かったのだ、と納得しかけた今の自分。仲間たちが望んだのだから、と。
 女性たちも喜んで着ていた制服。「私服の方が良かった」という声は一度も上がらなかったし、前の自分が生きていた船と、今の自分が暮らす世界は価値観が全く違ったのだと思ったけれど。
 シャングリラにいた仲間たちは皆、制服の方が好きだったのだと考えたけれど…。
(…それって、アルタミラからの脱出組だけ…?)
 もしかしたら、と浮かんで来た思い。
 最初から船にいた女性たちだけが、制服を好んで着ていたろうか。私服よりも制服の方を好んだ女性たち。「こっちの方が断然いい」と、自分たちの望みで出来上がった服を。
(これがいい、って決めた制服だったら…)
 今の自分が学校の制服が大好きなように、シャングリラにいた女性たちも制服好きだったろう。皆で揃いの服を着るのが、お揃いの「ミュウの制服」が。
 けれども、船にいた女性たちは二通り。白いシャングリラになった後には。
 アルタミラの惨劇を目にした女性と、見ていない女性。…アルテメシアで船に加わった、新しい世代の若いミュウたち。
 雲海の星で救出されたミュウの子供は、アルタミラの地獄を見て来てはいない。その上、記憶を失くしてもいない。
 成人検査で記憶を消される前に、救い出されて船に来たから。幼い子供も、成人検査でミュウと発覚した子供たちも。



 アルテメシアで救った子たちは、船に来たなら直ぐ制服を身に着けた。子供用のものを。
 最初の間は制服が無くて私服で暮らした子もいたけれども、ほんの短い間だけ。シャングリラで生きる子供に似合いのものをと、服飾部門が頑張った。
 大人たちの制服をベースに描かれた、子供たちのためのデザイン画。それが出来たら、制服用の生地を急いで作って、採寸をして縫い上げた。やって来た子にピッタリの服を。
(トォニィたちの制服だって、直ぐに作ったくらいだしね?)
 赤ん坊や幼児用はともかく、ナスカの子たちが急成長しても、サッと上がった新しいデザイン。間に合わせの服にはしておかないで、みる間に出来上がった服。
(…あんな速さで成長するなんて、誰も思っていなかったのに…)
 ナスカが悲劇に見舞われる中で、もう制服は出来ていた。トォニィの分も、アルテラたちのも。それが必要だと、船の仲間は思ったのだろう。七人ものタイプ・ブルーたちのために。
 直ぐに制服を作るほどだし、「制服を着る」のが普通だった船。誰もが制服を着ているもので、私服は存在しなかった船。
 白いシャングリラはそうだった。古い世代も、新しい世代も、揃いの制服。
(トォニィたちは、ミュウの世界しか知らないけれど…)
 赤いナスカと白いシャングリラと、その二つしか知らずに育った子供だけれど。制服があるのが当たり前の世界で生まれ育った子たちだけれども、そうではない子供たちもいた。その前には。
 アルテメシアで外の世界から来た子供たちは、お洒落を覚えていたかもしれない。女の子なら、小さな子でも、お洒落するのが好きだから。今の時代の子供がそうなら、きっと昔も。
 前の自分は子供時代の記憶をすっかり失くしたけれども、アルテメシアで見ていた育英都市。
 養父母と出掛ける女の子たちは、今と同じにお洒落していた。お気に入りの服で、楽しそうに。
 そういう世界からやって来たのが、新しい世代のミュウの子供たち。処分されそうな所を救って船へと連れて来たけれど、制服も直ぐに与えたけれど…。
(あの女の子たちは、お洒落したくても、服が無かった…?)
 思いもしなかったことだけれども、そうかもしれない。
 船に着いたら、採寸して作られていた子供用の制服。「この船ではこれを着なさい」と。
 ミュウの仲間は皆そうなのだし、誰も疑問に思わなかった。「子供たちに制服を着せる」こと。育英都市で着ていた服の代わりに、子供用の制服を与えることを。



 お洒落が気分転換になるとは全く思わなかった時代に、シャングリラの中で決めた制服。
 アルタミラの地獄を見て来たのだから、生きてゆけるだけで充分、気晴らし。狭い檻で暮らした時代からすれば、部屋と呼べる場所を貰えた上に、仲間たちがいる船での日々は天国のよう。
(お喋り出来たら、一人よりもずっと素敵だし…)
 気分転換するにしたって、船の中の散歩くらいで良かった。白い鯨になった後なら、広い公園もあったのだから。
 古い世代の女性たちには、それだけで足りていただろう。お喋りや散歩、好みの飲み物を飲んでみるとか、お菓子をつまんでみるだとか。…どれも贅沢な時間だから。檻での暮らしに比べたら。
 けれど後からシャングリラに来た、新しい世代の女性たちは…。
(…お洒落な服を着たかったかも…)
 気分転換の件はともかく、それぞれの個性。「こういう服が好き」という好み。
 幼い子供でも、女の子はお洒落が大好きなもの。育英都市で長く暮らせば、制服の世界はまるで縁が無いまま。学校は目覚めの日を迎えるまで私服なのだし、制服に馴染みが無い子供たち。
(今の学校の女の子たちと一緒で…)
 私服を着たいと思う子たちも、本当は多かったのかもしれない。慣れない船にやって来たから、何も言わずにいただけで。…命を救ってくれた船だし、シャングリラに馴染まなければ、と。
(本当はお洒落したくって…)
 もっと色々な服を着たくて、溜息をつく子もいたのだろうか。…制服のせいで。
 個性を発揮できる服装、それを求めていた子供たち。「こんな色より他の色がいいのに」と思う子だとか、「自分らしい服が欲しい」と思った子とか。
 人間の数だけある個性。好みも色々、食べ物に限ったことではなくて。
(お洒落も立派な個性なんだよ…)
 下の学校は楽しかった、と懐かしがっている同級生の女の子たち。私服で学校に行けた時代を。
 子供時代の記憶を失くさず、シャングリラに来た女の子たちも同じだったのかもしれない。制服よりも私服が好きで、それを着たかった子供たち。
 前の自分たちは、彼女たちからお洒落の機会を奪ったろうか。一方的に制服を押し付けて。
 そういうものだと思っていたから、「船ではこれを」と着せた制服。
 良かれと思って、逆に苦痛を与えたろうか。お洒落を知っていた女の子たちに…?



 そうだったかも、と考えるほどに気になる制服。白いシャングリラに来た子供たちに、大急ぎで作って着せた制服。「新しい仲間が一人増えた」と。
 ミュウの子供が増えてゆく度、誰もが嬉しかったのだけれど。前の自分も、真新しい制服を着た子を眺めて、「助けられて良かった」と笑みを浮かべていたけれど…。
(大失敗…)
 子供たちの心を読んではいないし、制服への不満があったとしても気付かない。「制服は嫌」と思う子供がいたって、「他の服を着たい」と思っている子が混じっていたって。
(女の子は全員、そうだったのかも…)
 養父母の家で着ていたような、他の子のとは似ていない服。たまたま同じ服があっても、それは本当に、ただの偶然。次の日はお互い違う服だし、誰もが同じ服ではない。来る日も来る日も。
(子供の数だけありそうな服…)
 色もデザインもとりどりの世界で育った子たちは、制服に馴染めなかっただろうか。
 古い世代はアルタミラの檻で粗末な服を着せられ、脱出直後は男性も女性も服装は同じ。人類は実験動物に着せる服のために、男女のデザインを変えるようなことはしなかったから。
(あんな世界で生きた後だと、色々な服を着ていた時代があったって…)
 制服の方に魅力を感じたことだろう。「これこそがミュウのシンボルなのだ」と、自由な時代の象徴として。…派手すぎる服を用意されてしまった、前の自分は別だけれども。
(だけど、アルテメシアで育った子たちは…)
 個性豊かに育ったのだし、それぞれに好みがあった筈。
 いくら機械が統治していた時代とはいえ、養父母たちにも個性や好み。それを受け継いだ子供もいれば、「こんなのは嫌!」と自分の好みを押し通していた子供だって。
 ミュウと判断された子供も、そうなるまでは養父母の許で育っていたから、個性は豊か。好きな服だってあったのだろう。お洒落が好きな女の子ならば、なおのこと。
(そんなの、ちっとも気が付かなかった…)
 前のぼくたちの大失敗だ、と痛感させられた制服のこと。
 新しい子供が船にやって来たら、制服を作って着せるものだと思い込んでいた前の自分たち。
 シャングリラの仲間は制服なのだし、子供たちだって同じこと。制服を着れば立派に船の一員、子供ながらも白いシャングリラの仲間入りだと。



 古い世代の目から見たなら、制服は正しかっただろう。子供たちにまで着せておくことも。
 けれど、着せられた子供たちの方。好きな服を着て、お洒落も好きだった女の子ならば、制服はどんなに辛かったことか。他の服を着たいと考えたって、制服しか無い世界だなんて。
(下の学校の頃は楽しかった、って言ってる女の子たちと…)
 同じだったかもしれない、新しい世代のミュウの女の子たち。もっと色々な服が着たい、と船でガッカリした子供たち。「此処にはこれしか無いらしい」と、着せられた制服に溜息をついて。
(エラもブラウも、子供時代の記憶なんかは無かったし…)
 古い世代の女性たちは皆、似たようなもの。お洒落を楽しんだ子供時代は覚えていない。だから制服にも違和感は無いし、喜んでそれを着ていたほど。ミュウのシンボルの服として。
 新しい世代が制服をどう考えるのかは、まるで思いもしなかった。狭すぎる世界で懸命に生きた世代のミュウには、欠けていた配慮。押し付けてしまった形の価値観。
 船に来たからには制服なのだ、と深く考えさえもしないで。それがいいのだと思い込んで。
(若い世代との間に亀裂が出来ちゃう筈だよ…)
 赤いナスカで生まれた対立。古い世代と新しい世代、出来てしまった深い溝。
 ナスカという星に魅せられた世代と、ナスカを嫌った世代の間の対立だとばかり思ったけれど。原因は全てナスカなのだと考えたけれど、もっと根深いものがあったのだろう。実の所は。
(制服がいいと思う世代と、私服を着たいと思う世代じゃ…)
 感覚が違いすぎたんだ、と気付いても遅い。前の自分はとうに死んだし、赤いナスカもとっくに燃えてしまった後。何もかもが既に手遅れだから。…過去に戻れはしないのだから。
(でも、失敗…)
 ホントに失敗、と制服のことを悔やんでいた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、お洒落をするのは楽しい?」
 お気に入りの服を着て鏡の前に立ってみるとか、それを着てお出掛けするだとか…。
「楽しいかって…。この俺がか?」
 お前、正気で訊いているのか、と丸くなったハーレイの鳶色の瞳。「お洒落だって?」と。
「ハーレイも違うとは思うけど…。そういうタイプじゃなさそうだけど…」
 似合う服は選んでいるんだろうけど、お洒落とは別。動きやすいのとか、仕立てで選びそう。
 でも、女の子ってお洒落が好きなものだよね、うんと小さな子供でも…?



 今日の新聞にこういう記事があったんだよ、と話した中身。気分転換に関する記事だけれども、女性の場合は「とっておき」の手がお洒落らしい、と。
「お洒落するだけで、気分が晴れちゃう人もいるって…。鏡の中を覗いただけで」
 うんと素敵な自分がいるから、沈んだ気分が消えちゃうんだって。お洒落して鏡を覗けばね。
 その格好で散歩に行ったら、ホントに元気になるらしいんだけど…。
 どう思う、と尋ねた女性のお洒落のこと。「学校の女子も制服より私服の方が好きみたい」と。
「そりゃ好きだろうな、何処の学校の女子も似たようなモンだ」
 休みの日に外で出会っちまうと、どの子も生き生きしているぞ。自分好みの服でお洒落して。
 学校に通っているような年の女の子でも、そんな具合になるんだから…。
 立派な大人の女性となったら、気分転換にも有効だろう。鏡の向こうに素敵な自分を発見だ。
 沈んでいた気分も晴れるだろうさ、とハーレイも頷くお洒落の効果。女性なら出来る気分転換、お気に入りの服でお洒落すること。揃いの服より、自分が好きな素敵な服。
「やっぱりね…。女の人はお洒落が好きで、女の子だって、何処の学校でも同じ…」
 制服よりも私服が好きで、ずっと生き生きしてるんだ…。ハーレイが外で会った時には。
 前のぼくたち、失敗しちゃった…。ホントのホントに大失敗だよ。
 とっくに手遅れなんだけど、と肩を落とした。「今頃、気付いても、もう遅いよね」と。
「失敗って…。それに手遅れって、何の話だ?」
 前の俺たちのことだと言ったな、俺にはサッパリ分からんのだが…。お洒落と関係してるのか?
 お前の口ぶりだとそう聞こえるが、とハーレイが訊くから「そう」と答えた。
「制服の話で気が付かない? 女の子はお洒落が好きって所と」
 シャングリラにも制服、あったでしょ。作った時には、まだ白い鯨は出来ていなかったけれど。制服を作ろうって話が出て来て、それでみんなが制服になって…。
 その時の仲間はそれでいいんだよ、欲しかった制服なんだから。みんながバラバラの服を着てる船より、素敵だと思っていたんだものね。
 だけど制服、新しい世代にも押し付けちゃった…。あるのが当たり前だったから。
 アルテメシアでミュウの子供を助け出したら、直ぐに制服をデザインして。…子供用のを。
 制服を着たら船の仲間だ、って思っていたから、もう本当に大急ぎで。
 それで制服、着せていたけど…。女の子もみんな制服だったよ、シャングリラに来た途端にね。



 自分の家で着ていた服は無くなっちゃった、と説明した。養父母の家で暮らした頃には、制服は無い。どの子も私服で、学校に行く時も好きな服。出掛けるとなれば、当然、お洒落。
 船に来た子が幼い子でも、大きな子ときっと変わらない。色々な服を着たかった筈。
「…でもね、船だと制服だから…。これを着なさい、って渡されちゃうから…」
 お洒落したくても絶対に無理で、ずいぶんガッカリしたのかも…。自分の好きな服が無いから。
 欲しいって誰かに言いたくっても、大人もみんな制服だものね。
 だから言えずにいたのかも…、と項垂れた。「前のぼくも気付かなかったんだよ」と。いったい何度遊んだだろうか、あの船に来た子供たちと。養育部門に出掛けて行っては、幼い子たちと。
 けれど気付きはしなかった。子供たちの心にあったかもしれない、制服への不満。
「そういや、そうか…。そういうことになるんだなあ…」
 好きな服を買って貰いに行けやしないし、作って貰えることも無かった。制服があれば充分だと誰もが考えていたし、制服の方がいいと思っていたくらいだし…。
 しかしそいつは、俺たちだけの考え方だ。…シャングリラの中しか知らない世代の。
 アルテメシアで育った子たちは、そうじゃなかったかもしれないのにな。女の子はもっと色々な服が欲しくて、着たいと思ったかもしれん。…制服とは違う服だって。
 なのに俺たちは、訊いてやりさえしなかった。制服を気に入ってくれたかどうかも、尋ねる係はいなかったからな。着て当然だと思っていたから、ジョミーにさえも訊いていないぞ。
 ソルジャー候補の服が出来上がる前の時期に、とハーレイがついた大きな溜息。ジョミーは他のミュウたちと同じ制服を着た時期があったけれども、着心地は確認していないという。ハーレイも四人の長老たちも。…もちろん、前の自分もだけれど。
「…ホントだ、ジョミーにも訊かなかったよ…。ジョミーの服は燃えちゃったから…」
 元の服を着たくても無かったんだけど、それまではあの服にこだわってたのに…。
 ミュウの仲間になったんだから、あれで当然だと思い込んじゃった。前のぼくもね。あんな服、嫌かもしれなかったのに…。着たくなかったかもしれないのに…。
 ぼくの後継者でも、着心地を訊いて貰えなかっただなんて、と制服に凝り固まっていたミュウの酷さを突き付けられてしまったよう。
 シャングリラの仲間になった以上は制服なのだ、と思い込んでいた前の自分たち。新しい世代は制服の無い世界から船にやって来たのに。船に来るまでは、制服を着ていなかったのに…。



 なんという酷い船だったろうと、やりきれない思いに包まれる。子供たちの個性をすっかり無視して、制服を無理やり着せていた船。悪気は無かったにしても。
「…前のぼくたち、酷すぎたよね…。制服のこと」
 女の子からはお洒落を奪ってしまって、男の子たちにも押し付けだよ。男の子の方だと、制服に憧れる子も多いけど…。今のぼくだって、早く制服を着たいと思っていたんだけれど…。
 下の学校に通っていた頃にはね、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「男の子ってのは、そんな所があるもんだ。早く一人前になりたい気持ちが出るんだろうな」
 俺だってお前と同じだったさ、下の学校にいた頃は。あの制服を早く着たいと憧れてたから…。
 シャングリラに来たミュウの子供も、男だった場合はそうかもしれん。子供用の制服を早く卒業して、大人用のを着たいと思っていたかもな。…ジョミーは例外かもしれないが。
 だが、女の子の方となるとだ…。制服とは違う色々な服が欲しかったことも有り得るなあ…。
 俺も全く気付かなかった、とハーレイが指でコツンと叩いた自分の額。「ウッカリ者め」と。
 船を纏めるキャプテンだったら、船全体を見渡してこそ。古い世代も、新しい世代も。
 制服はあって当然だなどと思わずに。新しい世代にはどう見えているか、それを調べて改革することも検討すべきだったのかも、と。
「ハーレイも、そう思うでしょ? 制服のことに気付いたら…」
 ぼくたちは普通だと思っていたのが、新しく来た子供たちには少しも普通じゃなかったかも…。制服なんかは欲しくなくって、お洒落したい子もいたのかも、って。
 前のぼくたち、失敗しちゃった。若い世代とは、感覚が違いすぎることに気付かなくって。
 そんな状態だと喧嘩にもなるよ、ナスカでだって…。ゼルがトマトを投げちゃったんでしょ?
 ゼルの物差しで測るからだよ、と古い世代の頑固さを嘆いた。一事が万事で、制服を押し付けるような古い世代は、若い世代との違いが大きすぎたのだ、と。
「うーむ…。あのナスカでの対立なあ…」
 若いヤツらが苦労知らずだったというだけじゃなくて、制服までが絡むのか…。押し付ける形になってしまった制服。
 本当には絡んでいないとしたって、制服ってヤツも窮屈ではあったかもしれないな。
 制服を決めた古い世代に、身体ごと縛られているようで。この船は何処までもこうなのか、と。
 自分たちの意見は通らない船で、そのいい例が制服みたいに思ってたヤツもいたかもなあ…。



 もっと気を配るべきだった、とハーレイも悔やむ制服のこと。若い世代にはどう見えたのか。
「そうだよね…。古い世代が押し付けちゃった制服だもんね…」
 とても窮屈に思ってたかもね、毎日、それを着るんだから。他に着る服は無かったんだから…。
 ホントに酷いことをしたかも、と気付いても、もう遅すぎる。シャングリラはとうに時の彼方に消えてしまって、制服を着ていた仲間たちも皆、時の流れが連れ去ったから。
「制服じゃない服も着たかったんだ、というのは分かる。…前の俺が証拠を見ているからな」
 人類軍との本格的な戦いが始まった後で、陥落させた幾つもの星。
 其処で買い物の許可を出したら、服を山ほど買って戻った仲間たちもいたもんだから…。
 服や帽子を山のように、とハーレイが語る思い出話。持ち切れないほど服を抱えて戻った仲間。
「その話、ハーレイから聞いたけど…。その時は他の買い物に気を取られていたけど…」
 みんなお洒落をしたかったんだね、ずっと我慢をしていただけで。…船では制服だけだから。
 他に色々な服が欲しくても、頼める所は無いんだから…。服飾部門で作ってくれるのは、新しい制服だけなんだから。…サイズを測って、決まったデザイン通りのヤツを。
 好みの服は作って貰えないしね、と思い描いた船の仲間たちの姿。沢山の服を買った仲間は皆、女性たち。新しい世代の者だったのに違いないのだから。
「さてなあ…? そいつを我慢と言うべきかどうか…」
 俺が思うに、あの制服は必要だった。古い世代の思い込みだろうが、新しい世代が本当は不満を持っていようが。…無くてはならない服だったんだ。
 シャングリラにあった制服は…、とハーレイが言うから驚いた。その制服こそが、新しい世代をあの船に縛り付けたもの。古い世代の頑迷さを表すようなもの。
 いいことは何も無さそうなのに。…女性たちからは、お洒落の機会を奪ったのに。
「…なんで制服が必要なの…?」
 ハーレイも納得してた筈だよ、あの制服は古すぎたかも、って。
 キャプテンだったら若い世代の話だって聞いて、改革すべきだったかも、って言ったじゃない。
 それと全く逆の話だよ、制服が必要だっただなんて。
 新しい世代が不満を持っていたって、制服は無くてはならないだなんて。
 古い世代はかまわないけど、新しい世代は我慢なんだよ…?
 そんな制服、シャングリラにはもう、要らなかったように思うんだけど…。



 廃止しちゃっても良かったくらいなんじゃあ…、と恋人の瞳を見詰めた。着たい者だけが制服を着る船にするとか、ブリッジクルーだけが制服だとか。
「そういう船でも良かったんだよ。何処に行くにも制服だなんて、窮屈だもの…」
 今のぼくだって、家でも制服を着なきゃいけない決まりだったら、嫌いになるよ。小さい頃には憧れてたって、着る羽目になった途端にね。
 だけど家だと脱いでいられるから、制服は好き。…シャングリラだって、いつでも制服っていう決まりでなければ、もっと自由にのびのび出来たと思うから…。
 制服を残しておくんだったら、学校の制服みたいな形、と自分の意見を述べたのだけれど。
「さっきも言ったろ、買い物をしたヤツらがいたと。…服をドッサリ山のようにな」
 着る場所も無いのにどうするんだ、と呆れちまったが、今から思えば、地球に着いたら着ようと思っていたんだろう。…あの戦いが終わったら。
 着るべき時を知ってたんだな、俺たちが規則で縛らなくても。船では制服を着て過ごすように、何度もうるさく怒鳴らなくても。
 現に買い物をして来たヤツらは、その服を着てはいなかったから。…俺が知る限り、一度もな。
 それに、服や帽子を買いに出掛けるようになる前。
 船の中だけが全ての頃にも、リボンやピアスなんかはあったぞ。船で作れるヤツだけだが。
 あれがささやかなお洒落でだな…。若いヤツらも、ちゃんとお洒落をしてたんだ。
 ルリはリボンにピアスだったし、とハーレイが挙げる若いルリの名。幼い頃からブリッジにいた少女の髪にはリボンがあった。長じてからはリボンがカチューシャに変わったルリ。
 それにピアスもしていたっけ、と覚えている。育った彼女に似合いのピアスを。でも…。
「ピアスだったら、エラやブラウもつけてたよ?」
 最初にピアスをつけたのはブラウで、エラはずいぶん怖がってて…。耳たぶに穴を開けるのを。
 それでもピアスをつけてたんだし、他にもピアスをつけてた仲間…。
 制服を決めた古い世代にもいたんだけれど、と反論したピアス。ずっと前からあったのだから。
「おいおい、エラやブラウも女なんだぞ? きっと分かっていたんだな」
 お洒落をすれば気分がいい、と。お前が言ってた新聞にあった記事みたいに。
 そして選んだのがピアスってわけで、新しい世代も素敵だと思ってつけていた、と。
 出来る範囲のお洒落が似合いの船だったんだ。…シャングリラという前の俺たちの船は。



 ピアスとリボンで充分な船だ、とハーレイは言っているけれど。制服をやめることはしないで、自分なりに少しお洒落をするのがピッタリだったと語るのだけれど…。
「でも、ハーレイ…。制服が無ければ、もっとお洒落が出来たのに…」
 同じリボンでも、服に合わせて選べるよ。今日は青とか、今日はピンクにしてみようだとか。
 下の学校、そういう子たちが大勢いたもの。リボンの色も、髪型も変えて通ってくる子が。
 制服の学校じゃなかったからだよ、と今の自分だから分かる。好きな服を着て通える学校、下の学校でお洒落していた子たちを大勢見て来たから。
「お前が言うのも分からないではないんだが…。お洒落したかった仲間もいたんだろうが…」
 シャングリラには他に優先すべきことがあったろ、ミュウの未来だ。ミュウが殺されない世界。
 それを手に入れてから、存分にお洒落をすべきだってな。制服を脱いで。
 みんな分かってくれていたと思うぞ、誰かが改めて言わなくても。
 俺がナスカで一度だけ手を上げたみたいな真似をしなくても、船のヤツらは、きっと全員。
 若い世代も制服のことはきっと分かっていた筈だ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。誰もが承知で、古い世代が決めた制服を守っていたと信じているようだけれど…。
「そうなのかな…? ハーレイは本当にそう思う…?」
 シェルターに残るような無茶をしてまで、ナスカにしがみつこうとしたのが若い世代だよ?
 その仲間たちも、制服は着ていたんだけれど…。自分たちで勝手に服を作ってはいないけど…。
 でも、制服の大切さを分かった上で着てくれていたと思うわけ…?
 それしか無いから着たんじゃなくて…、と投げ掛けた問い。他に色々な服が無ければ、制服しか着られないのだから。どんなに嫌でも、それを着るしか無いのだから。
「多分な。…証拠を出せと言われても困るが、ナスカならではの服というのも無かったから…」
 あいつらがその気になっていたなら、新しい服もきっと作れた。ナスカ風とでも銘打ってな。
 しかしヤツらは作っていないし、作ろうという話さえも出てはいなかった筈だ。出たなら、俺の耳にも入って来るからな。…材料の調達の関係なんかで。
 それと同じで、キャプテンには色々な苦情も届くが、制服が嫌だと聞いてはいない。俺の方から訊きに行かなくても、本当に嫌だと思っていたなら、自然と聞こえてくるもんだ。
 お洒落をしたいという声の方も、俺は一度も聞いていないな。
 そういう時はまだ来ていないことを、船の誰もが知っていたんだ。…まだ早すぎると。



 あくまで制服を貫き通して、お洒落も出来る範囲でだけ。皆が分かってくれていたから、制服は船にあったという。
 ミュウの未来を手に入れるまでは、お洒落をすべきではないと。いつか平和な時代が来るまで、白いシャングリラには制服が一番似合いなのだと。
「それじゃ、トォニィの時代のシャングリラはどうなっていたのかな…?」
 とっくに平和になってたんだし、制服、なくなっちゃったと思う…?
 好きな服でお洒落が出来たのかな、と尋ねたけれども、「さあな?」と首を捻ったハーレイ。
「俺はとっくに死んでいたから、トォニィの時代の船は分からん。しかしだな…」
 船を降りたヤツらもいたほどなんだし、私服で船に乗ってたヤツらもいたんじゃないか?
 仕事が無くて非番の時なら、何を着たってかまわないから。…どんな仕事もそんなものだろ?
 制服は残っていた筈なんだが、強制力はもう無かっただろうな。着ろと命令するヤツも。
 だからだ、船に残ったヤツらにしたって、休みの日には羽を伸ばして…。
 命の洗濯をしたんじゃないか、というのがハーレイの読み。もう箱舟ではないシャングリラで。
「お洒落してた仲間もいたのかな…?」
 気分転換じゃなくても、お洒落。今はこういう服が流行りだとか、この色がいいとか、みんなで騒いだりもして。…女の人も大勢いた船なんだし。
 そういう仲間もきっといたよね、と尋ねてみたら「いただろうな」という答え。
「俺が思うに、あちこちの星で買い込んで来た服を大いに生かすべきだし…」
 喪が明けた後には着てたんじゃないか、ジョミーや前の俺たちの喪だな。地球が燃えた後に。
 そして船を降りて遊びに行ったり、船でお洒落をしてみたり。…非番の時に。
 きっとあの服たちの出番はあったぞ、とハーレイの瞳が見ている彼方。制服しか着られなかった時代に仲間たちが買った、山ほどの服の行方を眺めているのだろう。仲間たちが纏っている姿を。
「…その記録、何処かに残ってるかな?」
 トォニィの時代になったシャングリラで、制服はどうなっていたのか。
 みんなが着てたか、もう着ていない人が多かったか、そういうの、気になるんだけれど…。
「制服か…。探せばデータが残っているとは思うんだがな」
 ただし今でも残ってる写真は、恐らく制服を着ているヤツらのばかりだろう。
 私服のヤツらは一人もいなくて、全員集合の写真となったら、みんな制服を着込んでいて。



 なにしろ私服だと絵にならないから…、とハーレイが見せたキャプテンの貌。まるでブリッジにいるかのように、「俺ならそうする」と。
「写真を撮るぞ、ということになったら、「制服を着ろ」と言うんだろうな」
 普段は制服を着てないヤツにも、「早く着てこい」と。…でないと格好がつかないじゃないか。
 いくらシャングリラが立派な船でも、私服じゃ駄目だ、とハーレイが言うものだから。
「…そんな理由で制服なわけ?」
 私服の仲間が大勢いたって、残ってる写真は制服の仲間ばかりになっちゃうの…?
「平和な時代ならではじゃないか。いわゆる演出というヤツだな。すまし顔の写真」
 シャングリラらしい写真を撮るなら、制服にするのが一番だ。私服じゃ締まらないだろう…?
 ブリッジにしても、天体の間にしても…、と聞いて想像したら分かった。確かにシャングリラは制服の仲間が似合う船。いくら平和な時代になっても、素敵な写真を撮りたいのなら。
「そうだね、トォニィもあのソルジャーの服でないと駄目だよね…」
 違う服だって着てただろうけど、シャングリラで写真を撮るんだったら、絶対、あれだよ。
 きっと写真は残ってなくても、みんなお洒落が出来たよね…。制服を脱いで。
「うむ。時と場所ってヤツは大切なんだ。…今のお前も、学校ではいつも制服だしな」
 女子も制服、着てるだろうが。私服だった下の学校がいいとは言っても、私服で来ないで。
 それと同じだ、シャングリラだって。時と場所とがきちんと揃えば、お洒落も出来たさ。
 時が来たなら制服を脱いで、誰もがお洒落していただろう、とハーレイが言ってくれたから。
 前はキャプテンだった恋人が保証してくれたから。
 白いシャングリラにいた女性たちも、平和になった後の時代は私服だったと思いたい。
 写真は残っていなくても。すまし顔の制服の写真ばかりが残っていても。
 トォニィたちの時代になったら、制服の代わりに、誰もが好みのお洒落な服。
 非番の日などはうんとお洒落して、シャングリラで幸せな時を過ごしていて欲しい。
 今の自分が幸せなように。…青い地球の上で、幸せな今をハーレイと満喫しているように…。



            お洒落と制服・了

※子供たちまで制服だったシャングリラ。養父母の家にいた頃は、服を自由に選べたのに。
 古参以外の仲間たちには、制服は窮屈だったかも。トォニィの時代は、私服になっていそう。
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