シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(…えっ?)
バスの中、チョンチョンと膝をつつかれた。
学校からの帰りに乗った路線バス。空いていたら座るお気に入りの席で。
誰、と見れば小さな男の子。
(幼稚園くらい?)
そんな年頃、幼稚園の制服は着ていないけれど。
可愛らしい笑顔と、ブルーの方へと差し出された手。幼い子供の小さな右手。この手がつついて来たんだな、と眺めた手首にブレスレットが嵌められていた。握手のマークつきの。
(あ…!)
手と手を握った握手のマーク。それはブルーも知っていたから。
男の子の周りに視線を移せば、その子の母親の姿があって。「お願いします」と下げられた頭。ずっと年下のブルーに向かって、それは丁寧に。
この状況では仕方ない。断ることなどとても出来ない。「はい」と応えて男の子の手をキュッと握った。握手するように。
思念波の扱いは苦手だから。こうして手と手を握り合わせるのが一番だから。
手が触れ合ったら、流れ込んで来た男の子の思念。
『お兄ちゃん、学校?』
『うん。学校が終わって帰るところ』
『学校、遠いの?』
『そうじゃないけど…。ぼくには少し遠すぎるんだよ、歩いて行く子も多いけどね』
ふうん…、とニコニコと笑顔の子供だけれど。好奇心旺盛な子供らしいけれども。
口が利けない。
ブレスレットの握手のマークはそういう印。思念波で会話をお願いします、と。
人間が皆、ミュウになった今の世界では、思念波は普段は使わないから。思念波に頼っていると言葉を話す能力を失くしてしまうから、会話は言葉で。それが常識、社会の中での約束事。
けれど、喋ることが出来ない人間もいるから、そういう人との会話は思念波。そうだと気付いて貰えるようにと握手のマークをつけている人。ブレスレットだったり、ペンダントだったり。
この男の子も、その中の一人。
(リオ…)
遠い昔に口が利けない仲間がいた。前の自分がいたシャングリラに。
その仲間の名を、頭の中でふと呟いた途端。
『お兄ちゃん、すごい!』
『え?』
凄い、と弾けた男の子の思念波。輝く瞳が見上げて来た。
『ホントにソルジャー・ブルーみたい!』
ぼくの名前を当てちゃうなんて、と感心している男の子。誰も当てられなかったのに、と。まだ質問もしていないのに、ぼくの名前を当てちゃった、と。
『えーっと…。リオ?』
『うんっ! お兄ちゃんの所に来てよかった…!』
ソルジャー・ブルーのような姿だったから、話がしたくて来たのだと言う。離れた座席に座っていたのに、母に頼んで連れて来て貰って。
本当に本物のソルジャー・ブルーだ、と大喜びではしゃぐ男の子。本物に会えたと。
『違うよ、ぼくは普通の学校の生徒で…』
『でも、当てたもん! ぼくの名前を、ぼくが当ててって言わない内に!』
そんなことが出来た人は一人もいない、と大感激の子供だけれど。リオという名前は読み取ったわけではなくて偶然の一致、自分はそこまで器用ではない。タイプ・ブルーのくせに不器用。
このまま会話を続けて行ったらガッカリさせてしまいそうだし、どうしようかと焦っていたら。
次のバス停で降りるから、と男の子の母親が合図して来た、思念波で。
「お兄ちゃんとのお話、もうおしまいよ」と。
ホッと安堵して、握り合っていた手を離した。「またね」と思念波で伝えておいて。
母親が「ありがとうございました」と深々と頭を下げるから。
「どういたしまして。ぼくでお役に立てたでしょうか?」
「ええ、もちろん。本当にソルジャー・ブルーでしたわ、この子の言う通り」
どうしても話をしてみたい、と強請られて連れて来た甲斐がありましたもの。
「違いますよ、ぼくは…! ぼくはソルジャー・ブルーなんかじゃ…」
見た目だけです、本当にただの子供ですから…!
「でも、この子にとっては本物のソルジャー・ブルーですわ」
ありがとう、とバスから降りて行った親子。男の子は大きく手を振っていた。バスには思念波を遮断する仕掛けが施されているから、もう思念波は届かないけれど。
あの男の子は、そのせいで会話が出来なくなったと信じて帰ってゆくだろうけれど。
ソルジャー・ブルーだと信じた相手のサイオンが不器用なことも知らずに、本当は思念波すらもロクに紡げない人間だったとは気付きもせずに。
(ぼく、勘違いされちゃった…)
ソルジャー・ブルーと間違えられてしまった、さっきの男の子に。
姿形が似ているだけでサイオンの扱いはとことん不器用、思念波での会話にも自信が無いから、手と手を握り合わせて話をしていたのに。
でも本物ではあるんだけどね、と苦笑しながらバスに揺られて、家の近くのバス停で降りて。
(リオ…)
走り去ってゆくバスを見送った。ほんの束の間、バスの中で話した男の子。先にバスから降りて行ったから、今頃はもう家に帰り着いているだろう。バスでソルジャー・ブルーに会ったと、話が出来たと興奮しながらおやつを食べているかもしれない。
まさかあの子もリオだったなんて。リオという名前の子だったなんて。
きっと生まれつき口が利けなかったから、つけられた名前。
あやかりたい、と。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが知っていたリオに。その名を思い浮かべたリオに。
家に帰って、着替えを済ませて、ダイニングのテーブルでおやつの時間。ケーキを食べながら、またさっきの子を頭に描いた。帰りのバスで出会った子供を、小さなリオを。
(リオかあ…)
白いシャングリラにいた、本物のリオ。あの子と同じに口が利けなかったリオ。話す時には常に思念波、リオの肉声はついに知らないままだった。ただの一度も聞かずに終わった。
悲鳴さえも上げられなかったリオ。声を出せる身体ではなかったから。そのための器官を欠いて生まれて、最後まで何も話せなかった。自分の声では、肉体を使った本物の声では。
けれども、バスで出会ったリオ。あの男の子は、もうすぐ口が利けるようになる。本物の自分の声で話せる、思念波ではなくて肉体の声で。
今は医学が進んだから。生まれた時には欠けていた器官を作ってやることが出来るから。
(小さい間は出来ない手術…)
技術的には可能だけれども、子供の心のことを考えて先延ばしにする。手術を受けるには何度も診察が要るし、手術の時には入院だって。小さな子供には重い負担で、酷だから。
今の時代なら思念波での会話に不自由はしないし、ある程度大きくなってから手術。下の学校へ上がる前とか、上がってからの夏休みとかにするのが普通。
手術を受けるまでの間は、あの子もつけていた握手のマーク。それを何処かにつけておく。
「思念波でよろしくお願いします」と、誰もに分かって貰えるように。
本物のリオが生きた時代に、そういうマークは無かったけれど。思念波などを使ったりすれば、処分された時代。ミュウと判断され、消されるしかなかった悲しい時代だったのだけれど…。
時代はすっかり変わったよね、と感慨深くケーキを食べて、紅茶も飲んで。
キッチンの母に空になったお皿やカップを返して、二階の自分の部屋に戻って。勉強机に頬杖をついて、またリオのことを思い出す。バスで出会った小さなリオを。
(ぼくよりも器用だったよ、リオ…)
自分の名前を当てられないよう、隠しておくことが出来るリオ。
多分、名前を訊かれた時には偽の情報を流すのだろう。ぼくの名前はこれなんだよ、と。本当の名前は読まれないように心の底へと仕舞っておく。鍵がかかった心の小箱に。
思念波は心の声なのだから、嘘をつくのは難しい。隠したつもりでもポロリと真実が零れ落ちてしまう、相手の心に届いてしまう。
そうならないよう上手くやるには、かなりの技と才能が要る。才能が無い人間は努力あるのみ、ひたすら訓練するしかない。思念波を巧みに操れるように、遮蔽も完璧になるように。
前の自分ならば容易かったけれども、今の自分には出来ない芸当。
努力云々以前の問題、思念波で自由に会話する所から始めなくてはいけないレベルで…。
(逆になっちゃった…)
自分よりもリオの方が上。今日のリオにしても、本物のリオでも。
もっとも、バスで会ったリオは勝手に勘違いして、尊敬の眼差しで見ていたけれど。自分の名を言い当てられたと思って、大感激ではしゃいでいたけれど。
本物のソルジャー・ブルーに会えたと、話が出来て嬉しかったと。
そのリオの方が本当は凄い、今の不器用な自分よりも。リオは気付いていなかったけれど。
(本物のリオなら…)
今、出会ったなら、リオの方が上。
もう間違いなく上だけれども、白いシャングリラにいた頃は違った。
前の自分はソルジャー・ブルー。ミュウの長であり、サイオンも誰よりも強かった。前の自分の方が上だった、本物のリオを前にしたって。
リオを見付けて、救出するよう指示を出したのも、ソルジャー・ブルーだったのだから。
雲海の星、アルテメシアに潜んでいた頃。白い鯨の中から探した、ミュウの子供を。
初めの間は助けを求める声を聞いては飛び出していたのが、いつしか先回りするようになった。子供たちを管理していたユニバーサルの情報網に潜り込んでは、要注意の子を見付け出して。
これは危ないと思った時には潜入班の出番で、ミュウと判断された子供が処分される前に救い、シャングリラへと連れて来た。リオもそうして助けられた一人。
口が利けない子だったリオ。
喋れないから、懸命に紡いだ思念の声。それでも最初は上手くいっていた、思念波が何かを知る者は誰も周りにいなかったから。
喋れないのにカンのいい子だと思われた程度。リオが紡いでいた思念の声はまだ周囲に届かず、相手の心を読んでいることにも誰も気付いていなかったから。
けれど、少しずつ力を伸ばしていったサイオン。手を触れずに物を動かしてみたり、声なき声が相手の心に直接届き始めたり。
「カンのいい子」は「気味の悪い子」になってしまって、リオは養父母や友達といった人々から孤立し、ついに通報された。ユニバーサルの監視部門に、普通ではない子供がいると。
監視対象になって間もなく、ミュウだと断定されたリオ。
ミュウの処分を専門とする特殊部隊が駆け付ける前に、潜入班に救い出された。雲海に潜む白いシャングリラへ連れて来られた。
楽園という名の白い鯨へ、ミュウだけが暮らす箱舟へと。
特殊部隊には出会わなかったけれど、危険は察知していたリオ。
もしもシャングリラに救われなければ、自分はきっと殺されていたと分かっていたリオ。
それほど敏い子供だったのに、養父母たちを信じていた。通報したのは両親や友達ではないと、悪い誰かがそうしたのだと。
だからその心を尊重しておいた、無垢な心を傷つけたくはなかったから。まだ柔らかで幼い心に負の感情を植え付けることは良くないから。通報したのは悪い誰かだと教えておいた。本当の所は違ったけれども、あえて真実を知らせることもあるまいと。
幼かったリオは両親の家に帰りたがって泣いたけれども、帰れない。家が恋しいと毎日のように泣きじゃくっていても、悪者がいるから、もう帰れない。
家に帰れば、また悪者に通報されてしまうから。今度は無事に逃げる代わりに、殺されてしまうだろうから。
家に帰れないと悟ったリオはシャングリラで暮らして、思念波で交わす会話にも慣れて、友人も出来た。大人たちにも可愛がられた、口が利けない分、誰もが余計に目を掛けてやった。
ソルジャーだった前の自分も、リオが早くシャングリラに馴染めるようにと心を配った。
そうしてシャングリラでの暮らしを受け入れたリオは、人類の世界で孤立していた頃に強い心を育んだらしく、意外にも芯の強い子だった。こうと決めたら譲らない意志の強さも持っていた。
自分の意見が正しい筈だと、シドとも喧嘩したくらいに。周りの子供たちにも止められなかった派手な取っ組み合いの喧嘩を。
やがて少年へと成長していったリオの才能、新しくシャングリラにやって来た子供と直ぐに打ち解け、仲良くなること。
船に来たばかりの子供は酷く怯えているのが普通だったのに、リオの前では笑顔になった。涙を零して蹲っていた子も、頑なに部屋に閉じ籠もっていた子も。
口が利けない子供だったからこそ、新しい仲間と築きやすかった信頼関係。あれこれ声を掛ける代わりに、そっと寄り添って心をほぐした。かつては自分も同じだったと、この船に来た頃は同じ気持ちで過ごしていたと。
思念波だからリオの誠実な人柄と優しさが伝わる、相手の心に染み透ってゆく。思念波だけしか使えないから、肉体の声を使えないから、懸命な気持ちが相手に伝わる。
どんな子供もリオに懐いた、まるで昔からの友達のように。
シャングリラに連れて来られる前から親しくしていた先輩に再会したかのように。
これは素晴らしい才能だ、と皆が一目置いたリオ。
引っ込み思案の子も、気難しい子も、リオにかかればアッと言う間にシャングリラに馴染んだ、此処が家だと。新しい仲間と家が出来たと、シャングリラでの暮らしを受け入れた。
そんなリオだから、ヒルマンが教える教育課程を終えた後には、当然のように養育部門へと配属されて行ったのだけれど。子供たちの世話を任され、子供たちも懐いていたのだけれど。
暫く経ったら、本人は潜入班になりたいと志願し始めた、最初から助けてやりたいと。
生まれ育った世界から追われ、不安な心でシャングリラへと向かう小型艇に乗せられるミュウの子供たち。その子供たちをサポートしたいと、もう怖くないと安心させてやりたいのだと。
言い出したら聞かない、強い子だから。意志が強かったリオだから。
潜入班になるために必要な全てを見る間に覚えた、サイオンでデータを誤魔化す技術も、様々なタイプの小型艇を操縦する方法も。
それらをリオが覚えた以上は、残るは適性検査だけ。合格しない筈がなかった、精神力の強さを問われる検査だったから。窮地に陥っても切り抜けられるだけの強さがあれば合格だから。
一度目の検査で見事に合格、養育部門から潜入班へと移ったリオ。
実際に救出活動を始めさせたら、他の者とは比較にならない好成績を叩き出した。リオが助けて連れて来た子は、シャングリラに馴染むのがとても早いと評判になった。
だから救出が難しそうな子はリオの担当。救出の途中で銃撃戦に巻き込まれたりした子は、心に深い傷を負うから。自分が本当に救い出されたのか、攫われたのかも冷静に判断出来ないくらいにパニックになってしまうから。
時にはシャングリラの方が悪者なのだと思い込みがちな子供たち。シャングリラが自分を見付けなければ、誰も自分を襲おうとはせず、あのまま暮らしていられたのだと。
そう考えている子供たちにもリオは寄り添った、どんなに「悪者」と罵られても。自分を攫った悪い奴だと泣きじゃくられても、根気よく、優しく、けして怒らず。
前の自分はリオの能力を高く評価し、直属の部下として扱った。
潜入班の指揮はキャプテンの仕事で、ソルジャーの管轄ではなかったのに。
(前のぼくの直属…)
そんな立ち位置の潜入班員は、リオの他にはいなかった。他の者では務まらなかった、精神力が足りなさすぎて。長時間の緊張を強いられる救出作業は、それを一人でこなすことは。
一番信頼していたリオ。
この救出は難しそうだ、と思った時には迷わずリオを指名した。他の者たちはサポートに回し、リオを単独で向かわせていた。
リオは期待に見事に応えた、一度も失敗したことは無かった。
だからこそジョミーの時も任せた、前の自分を継いでソルジャーとなる筈のジョミーの時も。
シャングリラに迎えられたジョミーが船に馴染めず、アタラクシアに帰せと怒った時にもリオに送らせた、リオならば上手くやるだろうから。
(…リオでも敵わなかったんだけどね…)
あまりにも強情だったジョミーは、リオの手に余った。ジョミーはリオを散々振り回した末に、ユニバーサルに捕えられるという有様で、リオまで捕まってしまったけれど。
リオは拷問に等しい心理探査を受けたけれども、それでも無事に救出された。精神崩壊を起こすことなく、精神に異常を来たすことなく。
リオだったから戻って来られたのだと思う、あれだけの目に遭わされても。
他の者たちなら、船に戻れても、前と同じに暮らしてゆくことは無理だっただろう。心に負った傷が深すぎて、閉じ籠もるか、あるいは一人でいることが出来なくなるか。
けれどもリオはそうはならなかった、まるで何事も無かったかのように船に戻って、ジョミーを嫌いもしなかった。お前のせいだと責めもしないで、それまでと変わらずジョミーに接した。
ジョミーがシャングリラに馴染む過程で、リオの力は大きかったと言えるだろう。
前の自分はジョミーを連れ戻す時に体力を使い果たして、ジョミーを連れてシャングリラの中を回りたくても、そうすることは出来なかったから。
代わりにリオにジョミーを任せた、「今までの子供と同じつもりで頼むよ」と。
リオは快く引き受けてくれた、ジョミーを最初に救い出した潜入班員として。前の自分の直属としての立場で働いてくれた、ジョミーがシャングリラに溶け込めるように。
きっとリオだから上手くやってくれた、ジョミーが怪我を負わせてしまったキムとの仲直りも、他の仲間たちの厳しい視線を柔らかく変えてゆくことも。
強くて有能だったリオ。前の自分が信頼したリオ。
前の自分が深く眠ってしまった後にも、リオはジョミーを支え続けた。シャングリラでのリオの肩書きは特に何も無くて、アルテメシアを離れたせいで潜入班の仕事も無くなったのに。
リオがその才能を発揮できる場所は、シャングリラの中にはもう無かったのに。
それでもリオはジョミーを守った、かつて自分が救出して来た新しい仲間を、今はソルジャーとなったジョミーを、ただひたすらに。
シャングリラの者たちがジョミーを責めても、赤いナスカで古い世代と新しい世代が睨み合った時にも、リオはジョミーの味方についた。何が起こっても自分だけは、と。自分だけはジョミーの側にいようと、ジョミーを理解し、寄り添わねばと。
前の自分が「頼むよ」とジョミーを任せたから。「今までの子供と同じつもりで」と。
リオは最後までジョミーを守ろうと頑張り続けた、本当に最期の瞬間まで。
シャングリラが辿り着いた死の星だった地球、其処へと降りるメンバーの中にリオは選ばれず、船に残っていたというのに。
そのままでいれば生き延びたろうに、リオは燃え上がる地球へと向かった。たった一人で、船を離れて。もう一人乗せて飛ぶのが精一杯の小型艇を選んで、ジョミーを救いに燃える地球へと。
リオが操る小型艇が何処に着陸したのか、記録は何処にも残っていない。
けれどもリオは確かに地球に辿り着き、ジョミーを救おうと地下を目指した。その途中で地震で崩れ落ちた岩盤、巻き込まれそうになった人類の女性を助けて、リオが代わりに下敷きになった。
リオは彼女に「逃げろ」と思念波で伝えたという。「行って」と、「早く」と。
それが強かったリオの最期の姿で、リオに救われたリボーンの女性が証言した。自分はミュウに助けられたと、口の利けない青年だった、と。
そうしてリオも英雄になった、記念墓地に墓碑がある英雄に。
燃え盛る地球で人を救った勇気あるミュウの青年だったと、彼は人類にも手を差し伸べたと。
(だから、あの子も…)
帰りのバスで会ったあの子も、リオなのだろう。
口が利けなくても強い子であれと、リオのように優しい子になるようにと。
今の時代は、あのリオももうすぐ口が利けるようになるけれど。病院での診察や手術をするのに必要な入院、そういったことが負担にならない年齢になれば、手術を受けて。
自分の声で話せるようになったら、あの子はリオという名の普通の少年、他の子供と変わらない暮らしが待っている。会話をするのに思念波は使わず、自分の声で話して、笑って。
今はまだ、本物のリオと姿が重なるけれど。
「思念波でお願いします」という握手のマークのブレスレットで、リオだけれども。
口が利けなかった本物のリオと、今日のリオとが重なるけれど…。
(ハーレイ、なんて言うだろう?)
リオに会った、と話したならば。
帰りのバスでリオに出会ったと、子供だったと話してみたい。前のハーレイもリオの才能を高く買っていたし、ジョミーを最後まで支え続けたことも知っているのだから。
今日のリオは別人だったけれども、ちょっと愉快な出来事として。
(だって、リオだものね…?)
しかも自分をソルジャー・ブルーと間違えたリオ。
そういうリオにバッタリ会ったと、声を掛けられたと話してみたい。
(今日はハーレイ、来てくれないかな…?)
どうなんだろう、と窓の方を何度も眺めていたら、チャイムの音。窓に駆け寄り、門扉の方へと手を振った。其処にハーレイが立っていたから、大きく手を振ってくれたから。
部屋に来てくれたハーレイと、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせ。紅茶をコクリと一口飲んでから、切り出した。
「あのね…。今日、帰りのバスでリオに会ったよ」
幼稚園くらいの男の子。ぼくが座ってたら、声を掛けて来たよ。
「リオって…。本物のリオか?」
あいつが幼稚園児になっていたのか、あのリオが…?
「まさか。リオっていう名前は本物だけどね」
本当に本物のリオだったけれど、あのリオじゃないよ。前のぼくたちが知ってたリオとは別人。
でもね、その子は喋れないんだ、握手のマークのブレスレットをつけてたよ。
ぼくと話をしたのも思念波、ぼくは思念波を上手く使えないから、ホントに握手になったけど。
握手しないと喋れないのに、その子は気付かなかったんだよ…。
こんな子だった、とバスで会ったリオの話をした。
ソルジャー・ブルーにそっくりだから、と声を掛けに来た男の子。握手のマークで本物のリオを思い出したら、自分の名前を言い当てられたと驚いていた、と。
本物のソルジャー・ブルーに会ったと大感激で、サイオンの扱いが苦手な自分は焦ったのだと。
「…あのまま話を続けていたらね、絶対にボロが出たんだよ」
もっと何かを当ててみて、って言われたって、ぼくには出来っこないし…。
そうなる前にお別れだったから、本当にホッとしたんだけれど…。
「お前は焦ったのかもしれんが、いい話だな」
リオと同じ名前のリオに出会って、うんと感激して貰えたんならな。
「そう? …ぼくはホントに焦っていたんだけれど…」
あんなに感激されてしまったら、ぼくのサイオンが不器用だってことは言えないよ。
だけど話を続けていたなら、何処かでバレるに決まっているし…。
「俺はいい話だと思うがな? その子は本物のソルジャー・ブルーに会えたんだ」
お前の正体を見抜いたんだぞ、実はソルジャー・ブルーなんだ、と。
「勘違いだけどね。あの子の名前を読み取ったわけじゃないんだから」
ホントに偶然、リオって名前が重なっただけ。…ぼくがリオの名前を思い出しただけだよ。
「だが、認めては貰えたんだろう? 本物のソルジャー・ブルーだと」
素晴らしいじゃないか、お前は正体を見抜いて貰えて、その子も本物に会ったんだ。
見た目だけじゃなくて中身まで本物のソルジャー・ブルーに、凄いサイオンの持ち主にな。
「まあね…」
そういうことになるんだろうけど、ちょっぴり複雑。勘違いでソルジャー・ブルーだなんて。
確かに本物なんだけれども、あの子はぼくのサイオンが凄いと勘違いしていたんだものね…。
今のぼくだと、あの子よりもサイオン、不器用なのに。
本物のリオにも敵いやしなくて、ソルジャーどころか、潜入班だって無理なんだけど…。
そうして二人、本物のリオを懐かしみ、語り合った。
口が利けなかったからこそ強かったリオ。意志が強くて、最後までジョミーを救い出そうと一人きりで地球に向かったリオ。ジョミーを乗せるのが精一杯の船で、たった一人で燃える地球へ。
本当に強い人間だったと、だから英雄になれたのだろうと。
記念墓地に墓碑がある英雄の中で、肩書きが無いのはリオ一人だけ。
ソルジャーや国家主席やキャプテン、長老といった錚々たる人物の墓碑に混じって、ひっそりと立つリオの墓碑。人類を救って地球で斃れたと刻まれた墓碑銘、それと名前だけで。
墓地にはマードック大佐とミシェル少尉の墓碑もあるのだけれども、肩書きはある。リオだけが肩書きを持たない英雄、記念墓地が初めて作られた時から今に至るまで。
誰もがリオを知っている。
そういう名前の英雄がいたと、口の利けない英雄だったと。
今でも子供にリオと名付ける人が存在するほどに。あやかりたいとリオの名前を貰うほどに。
「…あの子、ぼくをソルジャー・ブルーと間違えていたんだから…」
ハーレイもいれば良かったかもね、そしたらキャプテン・ハーレイもセット。
きっとあの子も大感激だよ、ぼくだけと話をするよりも。二人一緒だと値打ちも倍だよ。
「いつか、そんな日も来るかもな」
お前が会ったリオじゃなくても、これから先に。
結婚したら二人で出掛けることが増えるんだしなあ、何処かでバッタリ会うんじゃないか?
握手のマークをつけてる子供で、俺たちに注目しそうな子供。
「そっか、またリオ…!」
今日、会ったリオは、もうすぐ手術をするんだろうけど…。話せるようになるんだろうけど。
他にもリオはきっといるよね、握手のマークをつけているリオ。
「うむ。その時も上手くやるんだぞ?」
きちんと尊敬して貰えるよう、先に名前を言い当ててな。
ソルジャー・ブルーは本当に凄い、と大いに感激して貰わんとな…?
「無理だってば…!」
今日はたまたま上手くいったけど、次はどうなるか分からないよ。
ぼくのサイオンは不器用なんだし、本当の名前を読み取ることなんか出来ないんだから…!
いつか何処かで出会うかもしれない、握手のマークの男の子。
ハーレイと二人で出掛けた先で、会うかもしれない口の利けない男の子。
その子の名前がリオだとは限らないけれど。
まるで違った名前の子供かもしれないけれども、もしもまたリオに出会えたら。
リオという名前で、自分を見付けてソルジャー・ブルーだと思い込む子供に出会ったら。
「ハーレイもその子と仲良くしなきゃね、キャプテン・ハーレイなんだから」
せっかくソルジャー・ブルーとセットでいるんだし、ちゃんとキャプテン・ハーレイらしく。
子供の相手は上手だったし、シャングリラにいた頃みたいにね。
「よしきた。お前が嫁さんなことがバレないように気を付けて話をしないとな」
「そっか…!」
ソルジャー・ブルーがお嫁さんだと、リオは感激している場合じゃないものね。
キャプテン・ハーレイにお嫁さんがいて、それがソルジャー・ブルーだなんて…。
きっとビックリ仰天しちゃって、夢が台無しになっちゃうものね。
ソルジャー・ブルーがキャプテン・ハーレイのお嫁さんだとバレてしまったら大変だから。
リオという名の子供に会ったら、ソルジャー・ブルーだと思い込まれたら、その時は遥かな昔に白いシャングリラでやっていたように、恋人同士ではないふりを。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、ただそれだけの二人なふりを。
「そんなふりをするのも、楽しいかもね?」
とっくに結婚しちゃっているのに、全く関係ありません、って顔で。
「楽しいかもなあ、そういう遊びをするのもな」
そうするためには、結婚指輪もコッソリ外しておかんとな?
いや、その年くらいの子供だったら、指輪をしてても何の意味だか気付かんか…。
とにかく、リオの夢は大切に守ってやろうじゃないか。
本物のリオにもう一度バッタリ出会ったつもりで、子供になっちまったリオの夢をな。
口が利けない、握手のマークのリオという名の男の子。
その子に会ったら、結婚指輪を嵌めていたって、結婚していないように振舞う。
子供の親にはカップルなのだとバレるだろうけれど、子供の夢は壊さないように。
小さなリオはソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイに会ったと信じているのだから。
凄い二人に会ってしまったと、本物なのだと、大感激のリオなのだから。
たまにはそういう休日もいい。
結婚している二人だけれども、リオの前でだけは他人のふりで。
リオの夢は守ってやりたいから。
本物のリオを今も覚えているから、そのリオの幸せな姿を重ねて、思い描いて他人のふりで…。
リオの思い出・了
※ブルーが出会った、リオという名の男の子。本物のリオと同じで、口が利けない子供。
今の時代は、その症状は治るのですけど、彼が名前を貰ったリオは、誰もが知っている英雄。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ぼくって、生まれ変わりなんだよね…)
奇跡みたいな話だけれど、とブルーは心で呟いた。
お風呂上がりに、パジャマ姿で。ベッドの端にチョコンと腰掛けて。
そう、まさに奇跡のような出来事。前の自分とそっくり同じ姿形を持って生まれ変わった、この地球の上に。前の自分が行きたいと願った青い水の星に。
前の自分の記憶が戻る切っ掛けになった聖痕、メギドで撃たれた時の傷痕をそのまま写し取った傷。大量の血が溢れたけれども、何の痕跡も残らなかった。掠り傷でさえも。
聖痕だけでも奇跡だというのに、神の御業だと思うのに。
それを上回りそうな奇跡が生まれ変わりで、今の自分は前の自分とそっくり同じ。銀色の髪も、赤い瞳も、顔立ちも前の自分そのもの、まだ幼いというだけのこと。育てば本当に同じ姿になり、見分けもつかなくなるだろう。そういう姿になる筈の自分。
おまけに奇跡の生まれ変わりは自分一人に留まらなかった。同じ地球の上にもう一人。
前の生から愛した恋人、ハーレイも生まれ変わって来た。前とそっくり同じ姿で。
これだけ揃えば、もう偶然であるわけがない。きっと奇跡で、神の力が働いた結果。
明日は、そのハーレイが訪ねて来てくれる週末の土曜日。
ハーレイと一日一緒に過ごせる、二人きりの時間をたっぷりと取れる。キスは駄目だと言われているから、唇へのキスは貰えないけれど。前と同じに恋人同士でも、何もかもが前と同じようにはならないけれど。
それでも二人、恋人同士。
青い地球の上に生まれ変わって再び出会えた、前世の記憶を取り戻して。
今の記憶をそっくり残して、前の自分の記憶が積み重ねられた、三百年以上の時の記憶が。
(前のぼくの記憶…)
ソルジャー・ブルーだった自分の膨大な記憶、何かのはずみに思わぬ記憶が蘇ったりする。白いシャングリラで生きていた頃、見ていたものやら、食べたものやら。
それは沢山の記憶があるから、探るだけでも一仕事だったり、何か発見して驚いたり。
ハーレイと二人で幾つも見付けた、前の自分たちには無かったものやら、今の時代だから出来ることやら、様々なものを。
何度も何度も語り合って来た、前の自分たちの遠い記憶を、生きていた日々を。
今も遥かな遠い昔へ思いを馳せていたけれど。
前の自分の記憶を辿っていたのだけれども、ふと浮かんだのが生まれ変わりという言葉。さっき心で呟いた言葉。きっと奇跡だと、神の力が働いたのだと。
(前のぼくの前は…)
誰だったろう、と前の自分の記憶を探っても、その中には無い前世の記憶。
ソルジャー・ブルーとして生まれ落ちる前は何処にいたのか、その前の自分は誰だったのか。
まるで分からない、手掛かりさえも見付からない。前の自分は自分でしかなくて、前世の記憶は何も無かった。ほんの小さな欠片でさえも。
(…なんにも無い…)
そもそも前の自分自身が意識してさえいなかった。自分になる前は誰だったのかを考えることもしなかった。前世の記憶は持っていなくて、思い出すことも無かったから。
あの忌まわしい成人検査で記憶を失くしてしまったけれども、前世の記憶もそのせいですっかり消えたわけではないだろう。
生まれ変わり自体が珍しいもの、それを指し示す言葉はあっても、生まれ変わりの例は少ない。
前の自分も恐らく最初から、全く持ってはいなかったのだろう。前世の記憶というものを。
生まれて来る前には誰だったのかも、何処で暮らしてどう生きたのかも。
(前のぼくとハーレイ…)
惹かれ合った運命の恋人同士。今も二人で生まれ変わって来た、この地球の上に。
再び出会って、今度こそ共に生きてゆこうと誓い合ったけれど。いつか結婚して共に暮らそうと決めているけれど、前の生で二人、惹かれ合う前はどうだったろう。
アルタミラで出会ったあの生の前は、自分とハーレイは何処でどうしていたのだろう。
全く知らない者同士だったというのだろうか?
一度たりとも出会うことなく、互いに互いの顔も姿も知らずに生きてその生を終えただろうか?
(そうだとしたら、寂しいけれど…)
出会いもせずに生きていたなら、とても悲しくて寂しいけれど。
それとは逆に恋人同士で、寄り添い合って暮らしていたのに、忘れてしまったというのも寂しく思える、二人の思い出を失くしたのなら。前の自分になる前の恋を忘れて生きていたのなら。
けれども、前世のその前の記憶は全く無くて。
いくら探しても欠片すらも無くて、前の自分が考えた記憶もまるで残っていないから。三百年を超える記憶の中には、前の自分の前世を知ろうとしていた痕跡すらも見当たらないから。
(前のぼくの前は、ハーレイとは赤の他人だったの…?)
もしも前のハーレイが前世の記憶を持っていたなら、前の自分も探しただろう。二人で暮らした前世の記憶を思い出そうと努力に努力を重ねただろう。
それを一切しなかったからには、前の生の前には何も無かったに違いない。次の生まで引き継ぐ記憶も、そうして出会いたいほどの固い絆も。
(やっぱり、他人…?)
前のハーレイと出会う前には、と溜息をついて悲しくなった。
こんなにハーレイが好きなのに、と。
前の自分の記憶の中でも、今の自分の心の中でも、ハーレイが誰よりも好きなのに…。
青い地球の上に二人で生まれ変わるまでは、きっとハーレイと一緒にいた。片時も離れず、手を握り合って。抱き合って二人、同じ所に。
日に日に強くなる、その感覚。
前の生での命が尽きた後には一緒だったに違いないと。長い長い時を二人で過ごして、その後に地球に生まれ変わった。また出会えるよう、もう一度二人で生きてゆけるように。
そしていつかは、其処へと還る。二人一緒に、生まれ変わる前にいた場所へと。
きっとそうだという気がするから、二人でいたと思えるから。
(前のぼくたちも其処から来たの…?)
それが何処かは分からないけれど、ハーレイと共にいられた場所。二人一緒にいられる場所。
前の自分たちも其処からこの世に送り出されて、そしてアルタミラで出会ったろうか。
必ず出会うと定められていた、運命の二人だったのだろうか。
(それなら、とっても嬉しいんだけど…)
そうであって欲しいと思うけれども、無い記憶。ほんの小さな欠片ですらも。
前の自分のその前は無い。
ソルジャー・ブルーだった自分の、その前が誰であったのかは。
(…ハーレイの方はどうなんだろう?)
前のハーレイは何も語りはしなかったけれど、もしかしたら覚えていたのだろうか?
自分の前世が誰であったか、前の自分のその前が誰であったのかを。
前の生では尋ねようとさえ思わなかったから、ハーレイは語らずにいたかもしれない。自分しか持たない前世の記憶を話してしまえば、前の自分はきっと悲しんだに違いないから。思い出せない自分を激しく責めて、きっと苦しんだに違いないから。
(ハーレイなら、きっとそうするんだよ…)
前の自分が何も覚えていなかったのなら、それに合わせて振舞ったろう。思い出させようとすることはやめて、それでも愛してくれただろう。前世の自分が恋した相手を、愛した人を。
だとしたら、可能性はある。ハーレイが前よりも前の自分を、二人の絆を、忘れずに覚えている可能性。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、その前はどんな二人だったかを。
(…訊いてみるだけの価値はあるよね?)
明日は訊こう、とメモを取り出して書き付けた。
一晩眠っても忘れないよう、「前のぼくたちの前世のこと」と。
次の日、目覚めて見付けたメモ。そうだった、と脳裏に蘇った昨夜のこと。
是非ハーレイに訊かなければ、と心に刻んで、恋人が訪ねて来るのを待って。部屋でハーレイと向かい合わせに腰掛け、鳶色の瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ハーレイ。…前のぼくたちの前を覚えてる?」
「はあ?」
なんだそれは、と怪訝そうな顔をされたから。
「前のことだよ、前のぼくたちの前世」
「前の俺たちだろ? 俺たちは生まれ変わりなんだし、俺たちの前世は前の俺たちだ」
「違うよ、その前のことだってば! 前のぼくたちになる前のことだよ!」
前の前のことを覚えているの、と尋ねたのに。
前の自分は聞いていないけれど、もしかしたら…、と確認してみたのに。
「…すまん、記憶に無い」
まるで全く覚えてないんだ、前の俺になる前は誰だったのか。何処にいたかも、何をしたかも。
「ハーレイもなの…?」
ぼくも覚えていないから…。
ハーレイだったら覚えてるかも、って訊いてみたけど、やっぱり覚えていないんだね…。
ぼくとハーレイは運命の二人だと思うのに、と言ったけれども。
生まれ変わる前は何処かで二人一緒に時を過ごして、其処から地球へ来たのだろうと。前の前もきっと同じ場所からこの世に生まれて、あの日、アルタミラで出会ったのだと言ったけれども。
「はてさて、そいつはどうなんだかなあ…?」
記憶が欠片も残ってないんだ、前の前もお前と一緒だったかどうかは分からん。
此処へ来る前は一緒だったという気はしてもだ、その前までは前の俺も考えなかったからな。
前のお前が誰かの生まれ変わりかも、と思ったことすら一度も無かった。前のお前がいれば充分満足だったし、前のお前に生まれて来る前は誰だったかなんて気にしたことも無かったな…。
「それなら、前のぼくたちの前はハーレイとは赤の他人だったの?」
ハーレイとは会ったことも無くって、名前なんかも知らないままで。ハーレイも前のぼくの前の誰かを見たことも無くて、名前も知らずに終わっちゃった…?
「それもなんだか寂しいなあ…」
せっかくこうして一緒にいるのに、前の俺たちも一緒にいたのに、その前が赤の他人ではな。
「でしょ?」
他人だったなんて、あんまりだよ。そんなこと、あって欲しくないのに…。
前のぼくの前も、ハーレイと出会っていて欲しいのに…。
そう思うけれど記憶など無い、前世の前世。
ハーレイと一緒だったと思いたいのに、二人とも何も覚えていない。自分も、ハーレイも、二人揃って覚えてはいない、前の自分たちの前世のことを。
ハーレイがフウと溜息をついて。
「…お前に言われて気になって来たが、前の俺たちほど派手な手掛かりだって無いしな…」
どうやって探せばいいのか分からん、手掛かり無しじゃな。
「手掛かりって…? 前のぼくたち、何か派手だった?」
「今の俺たちの姿形というヤツだ。周りのヤツらに「生まれ変わりか?」と訊かれるだろうが」
俺はもちろん、お前も何度も訊かれた筈だぞ。それこそ記憶が戻る前から。
そういう手掛かり、前の俺たちの前にもあったか?
「無いね…」
ヒルマンとエラはデータベースで調べ物をするのが好きだったけれど、前のぼくたちと同じ顔の人を見付けたんなら言ってくるよね。生まれ変わりかどうかはともかく、話の種に。
そういう話は聞いていないし、前のぼくたちにそっくりな顔の有名人はいなかったんだね…。
ハーレイはともかく、ブルーはアルビノ。
成人検査で変化してしまった途中からのアルビノとはいえ、それ自体が珍しい存在なのに。今のブルーも生まれながらのアルビノなのだし、前の前にもアルビノだったかもしれないのに。
残念なことに、シャングリラのデータベースに入っているほどの有名人のアルビノはいなかったらしい。そういう人物がいたとしたなら、ヒルマンたちが見付けただろうから。
「前のぼくの前は誰だったのか。…アルビノの記録、端から探せば分かるかな…?」
SD体制に入るよりも前のデータも残ってるんだし、頑張って端から探していけば。
そうやって前の前のぼくを見付け出せたら、ハーレイの記録も出て来るのかな…?
「おいおい、記録に残るよりも前ってことだってあるぞ」
ついでに、データベースに登録しないってこともあるから、そうなっていたらまず無理だ。
「そっか…。そういう人も大勢いるよね、マザー・システムが出来る前なら」
登録するために出掛けてゆくのも面倒だから、って放っておいた人も多かったんだし…。
きちんと登録していた人でも、写真は入れずに名前だけとか。
それだとアルビノだったかどうかも謎だし、顔だってまるで分からないよね…。
「うむ。それに人とも限らないしな」
「え?」
何のことか、とブルーは赤い瞳を瞬かせたけれど。
「前のお前の、そのまた前さ。前のお前はソルジャー・ブルーで、凄かったが、だ」
顔も名前も誰もが知ってる大英雄だが、今のお前は普通だろうが。
ソルジャー・ブルーにそっくりなだけの、ごくごく平凡な子供ってヤツで。
「うん。…サイオンもまるで使えないしね」
前のぼくと同じでタイプ・ブルーなのに、ぼくはとことん不器用だから。
「ほらな。ソルジャー・ブルーの生まれ変わりでも、今じゃ普通の子供なんだ」
前のお前の、その前となるとどうだったんだか…。
お前みたいに平凡どころか、人じゃなかったかもしれん。
俺もお前も人間に生まれていたわけじゃなくて、記録も残らないような動物だったのかもな。
たとえばウサギ、とハーレイは片目をパチンと瞑った。
「お前、幼稚園に行ってた頃にはウサギになりたかったんだろう?」
その上、お互い、今はウサギ年だ。教えてやったろ、干支が同じでウサギ年だと。
だからだ、ウサギだったかもしれんな、前のお前に生まれる前はな。もちろん、俺も。
「ウサギって…」
ぼくもウサギで、ハーレイもウサギ?
前のぼくたちになって出会う前にはウサギだって言うの…?
「無いとは言えんぞ、ウサギというのも」
ウサギのカップルだったんじゃないか、前の俺たちの、そのまた前は。
白いウサギと茶色のウサギで、何処かの野原で暮らしてたとかな。
「…そんなのがソルジャー・ブルーになれる?」
ウサギがソルジャー・ブルーになれるの、それにシャングリラのキャプテンにも…?
だってウサギだよ、ピョンピョン跳ねてるだけなんだよ…?
「それを言うなら、ソルジャー・ブルーがお前になったが?」
甘えん坊でチビで、サイオンの扱いはうんと不器用で、似ている所は顔だけだってな。
キャプテン・ハーレイの方にしてもだ、ただの古典の教師になってしまって見る影も無いぞ。
宇宙船を動かせる免許も持っちゃいなくて、普通の車で道路を走るのが精一杯だと来たもんだ。
うんとレベルが落ちちゃいないか、俺もお前も、前に比べて。
「落ちてるね…。それじゃ、反対にウサギの出世も…」
何処かの野原で跳ねてたウサギがソルジャー・ブルーになっちゃうってことも…。
「まるで無いとは言い切れないだろうが、前の俺たちがこうなんだから」
落差ってヤツを考えてみたら、ウサギがソルジャー・ブルーになっていたって、俺は驚かん。
前の俺の前はウサギだったと誰かが言っても、ストンと納得しちまうだろうな。
ハーレイが言い出した、前の自分たちの前はウサギかもしれないという話。
もしも本当なら、どういうウサギだったのだろうか、と半ば遊びで語り合った。
きっとSD体制が始まるよりも遥かな昔の、青かった地球。其処に生まれた二匹のウサギ。白い毛皮で赤い瞳を持ったウサギと、茶色の毛皮で鳶色の瞳をしたウサギと。
どちらも雄のウサギ同士で、本来だったら、出会った途端に喧嘩になるのに。縄張り争いをする雄同士なのに、どういうわけだか、喧嘩の代わりに仲良くなって。
いつの間にやら同じ巣穴で暮らし始めて、ウサギのカップル。
白いウサギと茶色のウサギで、昼の間は一緒に遊んで、夜になったら寄り添い合って眠る。同じ巣穴で、それは幸せに。
来る日も来る日も、仲良く暮らしてゆくのだけれど…。
「…最後は肉のパイかもな」
ハーレイの言葉に、ブルーはキョトンと目を丸くした。
「なにそれ?」
肉のパイっていうのは何なの、パイって食べ物のパイのことだよね…?
「うんと有名なウサギの話さ。SD体制が始まるよりも前に書かれた本だな、子供向けの本」
見たことないか、とハーレイに訊かれたピーターラビット。
それならブルーも知っていた。たまに絵を見る可愛いウサギ。子供に人気のピーターラビット。元の絵本も読んでいたと思う、幼稚園の頃に。中身は忘れてしまったけれど。
「えーっと…。ウサギの家族のお話だよね?」
ウサギだけれども服を着ていて、お母さんウサギはエプロンをしてて…。
「そうなんだがな…。お母さんウサギはちゃんといるんだが、お父さんウサギはいないんだ」
ピーターラビットのお父さんだったウサギは、肉のパイだ。
元は確かにウサギだったが、肉のパイにされてしまったわけだな。
「えーっ!」
肉のパイって、それじゃ、死んじゃったの?
お父さんウサギは殺されちゃったの、肉のパイになってしまったんなら…。
知らなかった、とブルーは仰天した。幼かった頃に読んだ、可愛い絵本の残酷な中身。
ピーターラビットの父親のウサギは事故に遭って肉のパイになったのだという。一番最初に出版された絵本の挿絵にはパイの絵が入っていたらしい。父親のウサギで作られたパイ。
「お父さんウサギは、野菜を食べに出掛けて行った畑で事故に遭ったんだ」
そして畑の持ち主の奥さんにパイにされちまった。肉のパイにな。
「事故って…。車にはねられちゃったとかじゃないよね?」
「絵本に事故の話は書かれちゃいないが、罠にかかったか、捕まったか…」
だが、前の俺たちの前のウサギが肉のパイとなったら、キースの出番のような気がするぞ。
「…キースが畑?」
あのキースが畑仕事をしてるの、なんだか似合わないけれど…。畑仕事も、畑にいるのも。
「畑仕事をさせてやってもかまわないんだが、あいつの場合は狩猟だろうな」
狩りだ、狩り。それも仕事で狩りをしている猟師ではなくて、遊びの方で。
あの忌々しい野郎に上等な立場をくれてやりたくはないんだが…。
汗水垂らして畑仕事で充分なんだが、あいつがやるなら遊びの狩りだ。ピーターラビットの話の国では、狩りは貴族の趣味だったんだ。
仕事ではなくて、道楽で狩りをしていた貴族。
馬に乗ってのキツネ狩りやら、如何に沢山の獲物を撃つかを競う狩りやら。食べる物には不自由しないのに、鳥やウサギを狩っていた。自分の腕前を披露するために。
そういう狩りをするのがキースで、ウサギのブルーは遊びで撃たれてしまいそうだとハーレイは頭を悲しげに振った。キースに姿を見られた途端に、今日の獲物は肉のパイだと一瞬の内に。
「白いウサギは目立つからなあ、茶色いウサギと違ってな」
ピョンと跳ねなくても、座ってるだけで見付かっちまう。あんな所にウサギがいるぞ、と。
「ぼく、撃たれちゃうの?」
ウサギだから何もしていないのに…。メギドを沈めるわけじゃないのに。
「キースが出てくりゃ、撃たれるだろうな」
なにしろ暇を持て余した貴族ってヤツだ、銃を持ってりゃ撃つんじゃないか?
館に帰れば御馳走が山ほどあったとしたって、自分が撃った獲物を食うのは格別だろうし…。
その上、珍しい白いウサギとなったら、よほど慈悲深いヤツでなければ撃つだろうさ。
そしてあいつは撃ちそうなんだ、とハーレイは苦い顔をした。
きっと遊びで撃つに違いないと、館に肉が余っていたって白いウサギを撃つだろうと。
ハーレイは今もキースが嫌いだから。前のブルーを撃ったキースを、今も許してはいないから。
「もしも、お前が撃たれちまったら、俺は出て行く」
キースの野郎がお前を撃ったら。ウサギのお前が目の前で倒れちまったら。
「出て行くって…。何処へ?」
「決まってるだろう、キースの前へだ」
お前の仇を討ちに行くんだ、ウサギの蹴りは強いんだからな。キースに一発お見舞いしてやる、俺の後足で思い切り蹴って。
「撃たれちゃうよ? そんなことしたら、ハーレイまで…」
キースに銃で撃たれてしまって、ハーレイだって死んじゃうじゃない…!
「かまわんさ。キースに一矢報いられたら万々歳だし、駄目でも一緒に肉のパイだ」
お前と一緒に肉のパイになれるんだったら、俺は撃たれてもかまわないんだ。
キースに蹴りをお見舞い出来ずにパイになっても後悔はせんな、お前と一緒にパイなんだから。お前を失くして生きてゆくより、一緒に肉のパイになる方が遥かに素敵だろうが。
パイになってもお前と一緒だ、キースに食われる時も一緒だ。
そういうウサギのカップルだったかもな、と微笑むハーレイ。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイになる前の俺たちの前世、と。
同じ巣穴で仲良く暮らして、一緒に眠って、同じ肉のパイになってまで一緒だったから。
最後まで離れずに一緒にいたから、次も二人で生まれて来たと。
ウサギから人になったけれども、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったけれども。
「ハーレイと一緒にウサギのパイ…」
前のぼくたちの前は肉のパイなの、ウサギに生まれて?
キースの遊びで撃たれてしまって、二人で肉のパイだったわけ…?
「嫌か、ウサギのカップルで最後は肉のパイになるのは?」
そんな悲惨な結末よりかは、今みたいに普通の人間がいいか、俺と二人で…?
「ううん、ハーレイと一緒だったらウサギのカップルでいいよ」
おんなじ巣穴で一緒に暮らして、一緒に遊んで。
もしもキースに撃たれちゃっても、それまでのぼくは、うんと幸せだと思うから。
ウサギのハーレイといつも一緒で、眠るのも一緒。
それに…。
ハーレイが追い掛けて来てくれるんなら、と嬉しくなった。
ウサギの自分が撃たれてしまったら、仇を討ちにキースを蹴りにゆくと言ってくれたハーレイ。姿を見せてしまったら最後、たとえキースを蹴れたとしたって、ハーレイも撃たれてしまうのに。
逃げ切る前に一発撃たれて、ハーレイも肉のパイになるのに。
そうなることが分かっているのに、ウサギのハーレイはキースの前に出てゆくという。同じ肉のパイになれるのならいいと、パイになっても二人一緒だと。
前の自分もその約束をして貰ったのに、それは叶わなかったから。
前の自分の寿命が尽きる時には一緒に逝くとハーレイは誓ってくれていたのに、叶わないままで終わったから。
ハーレイをシャングリラに独り残して、メギドへ飛んでしまった自分。
ジョミーを頼むと言葉を遺して、ハーレイに後を追わせなかった。ミュウの未来を守るためにはハーレイが必要だったから。シャングリラを地球まで運ぶためには、キャプテン無しでは駄目だと充分に分かっていたから。
だからハーレイは最後まで一緒に来てはくれなかった、独りで死んでゆくしかなかった。
けれども、ウサギのハーレイは違う。肉のパイになっても最後まで一緒で、自分を最後まで追い掛けてくれる。本当に最後の最後まで。肉のパイになってキースに食べられるまで。
なんという幸せなウサギだろうか、とブルーは前の自分の前のウサギを思い描いた。
地球が滅びてしまうよりも前の遠い昔に、何処かの野原で跳ねていたウサギ。真っ白なウサギ。茶色いウサギのハーレイと出会って、一緒に暮らして、そして最後は…。
「ぼくはかまわないよ、肉のパイでいいよ」
ハーレイと一緒に、肉のパイ。キースの遊びで撃たれちゃっても、肉のパイでも。
「ウサギでいいのか、前のお前のその前ってヤツは?」
白いウサギと茶色のウサギのカップルでいいのか、俺もお前もウサギ同士で。
「うん、なんとなく納得したから」
きっとハーレイと一緒だったら、ぼくは幸せになれるんだよ。
野原で暮らして、巣穴で眠るウサギのカップルでも。
キースが出て来て遊びで撃たれることになっても、肉のパイでも、ハーレイと一緒なんだから。
そんな前世でかまわないよ、と笑顔で応えた。
ソルジャー・ブルーになる前の自分、それよりも前の前世の自分。
偉くなくても、人でなくても、幸せなら…、と。
ハーレイと二人で暮らすことが出来て、最後まで二人、離れることなくいられたのなら…、と。
「おいおい、最後は肉のパイだぞ?」
俺もお前も肉のパイにされて、キースに美味しく食われるんだが…?
俺はお前を追い掛けるんだから、肉のパイでも悔いの無い人生っていうヤツなんだが…。
ウサギで人生というのも妙だが、俺は満足して死ねる。しかし、お前は…。
俺よりも先に撃たれちまった白いウサギは、ちゃんと幸せだったかどうか…。
「幸せだったに決まっているよ。ハーレイと一緒に暮らしたんだから」
それに、撃たれて肉のパイになるのは、キースが出て来た時だけでしょ?
キースなんかが出て来なかったら肉のパイにはならないよ、きっと。
最後までハーレイと幸せに暮らして、死ぬ時もきっと、どっちが先でもないんだよ。二人一緒に寝ている間に天国に行って、気が付いたら天国に着いてるんだよ…。
前の自分の、その前の前世。ウサギだったかもしれない自分とハーレイ。
白いウサギと茶色いウサギで仲良く暮らして、最後は肉のパイかもしれない。キースに撃たれて二人一緒に、肉のパイになって。
そうは言っても、何も起こらず、天寿を全うしたウサギのカップルかもしれないから。
最後の最後まで幸せ一杯に生きたウサギだったかもしれないから。
ウサギだった前世も悪くないと思う、ハーレイと二人で野原で暮らしていたウサギ。
(でも、肉のパイになったとしたって…)
きっとかまわない、肉のパイでもかまわない。
キースに遊びで撃たれる最期は癪だけれども、ハーレイが追い掛けて来てくれるから。キースに蹴りをお見舞いしようと飛び出してくれて、その蹴りがキースに届かなくても、最後は一緒。
ハーレイと二人で肉のパイになって、食卓に上る。同じパイになって、同じテーブルに。
そうしてキースに食べられるけれど、最後まで一緒なのだから。
肉のパイになっても二人一緒で、二人で天国へゆくのだから。
前の自分はハーレイと一緒に行けなかったけれど、ウサギだった自分はそれが出来るのだから。
そう考えたら、ウサギだった前世も幸せだろうと思うから。
たとえ最後が肉のパイでも、ハーレイと一緒で幸せだったと思うから…。
「ねえ、ハーレイ。…ウサギのパイって、どうやって作るの?」
肉のパイの作り方、ハーレイ、知ってる?
ぼくはウサギのお肉を売ってるお店も、一度も見たことないんだけれど…。
「ん? それはな…」
まずはウサギを捌く所からだな、毛皮がついてちゃ食えんしな?
こら、間違えるなよ、俺がウサギを撃ったわけではないんだからな。あくまで知識だ、ウサギの肉の料理の仕方というヤツだ。
それでだ、ウサギのパイはだな…。
頭を切り落とす所から始まる、ウサギのパイの作り方。
ハーレイは作ったことがあるのか、それとも単なる知識なのかは分からなかった。
「美味いんだぞ」と言われただけで。
そういうパイが食べられる店も知っているから、いつか一緒に食べに行くかと誘われただけで。
前世の話からウサギのパイへと少し話は外れたけれども、幸せな土曜日。
ハーレイと二人、前世のその前は肉のパイかも、と笑い合いながら。
前の前の自分たちの味がするパイを食べに行こうかと、物騒な約束を交わしながら。
そう、肉のパイでもかまわない。そんな前世も悪くない。
ハーレイと一緒に暮らせたのなら、最後まで一緒だったなら。
だから今度も二人一緒に、何処までも行こう。
手を繋ぎ合って二人、青い地球の上で…。
前世と肉のパイ・了
※今のブルーたちは生まれ変わりですけど、前のブルーたちの前はどうだったのか。
もしも二人ともウサギだったら、と交わした話。たとえ最後は肉のパイでも、幸せなのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…)
お別れの曲、とブルーは耳を傾けた。
学校からの帰り道。路線バスを降りて家へと歩いていた時、微かに流れて来たメロディ。上手い具合に風に乗ったか、「蛍の光」が聞こえて来た。遠いけれども、この曲は確かに蛍の光。
歩く途中で下の学校の大きな子たちを見かけたから。今日は学校が終わる時間が早いのだろう、普段よりも。
蛍の光は下校を促すメロディ、遊んでいる子もクラブ活動に打ち込む子たちも、学校を出るよう知らせるメロディ。学校から子供の姿が消える合図で、完全下校の時間に流れる曲。
いつもだったら、もう少し後の時間だから。
バスを降りて家まで歩く間に聞こえてはこない蛍の光。下の学校で今も流れている曲。
ふと学校が懐かしくなった、制服ではなかった下の学校。今のようにバスに乗るのではなくて、歩いて通っていた学校。弱い身体でも歩いて行ける場所にあった学校、こうして下校の時間の曲が風に乗ってふわりと届く学校。
遠い微かな蛍の光。学校とはお別れの時間ですよ、と流れるメロディ。
(ぼくは滅多に…)
聞きはしなかった、学校の中で蛍の光は。
身体が弱くてクラブ活動はしていなかったし、遊ぶにしたって一度家まで帰ってから。遅くまで残って遊ぶ代わりに友達を呼んだり、友達の家に出掛けて行ったり。
蛍の光が流れる時間まで学校にいた日はそれほど無かった、ごくごくたまに居残る程度で。年に数回あったかどうかで、学校でしか出来ない美術製作などを仕上げるために残っただけで。
教室でせっせと頑張っていたら、描いた絵を塗ったり、粘土細工を作っていたなら、チャイムの後に蛍の光。「帰りましょう」と先生の声で放送も入った、学校の門が閉まりますよと。
最後の生徒が門を出るまで流れ続ける蛍の光。
それを聴きながら帰った覚えは殆ど無くて、学校の外で聞いていた。今のように遠く聞いた日もあれば、学校から近い友達の家で「鳴っているね」と耳を澄ませていたことも。
学校で聞いた記憶が殆ど無いから、お別れの曲と言うよりは。
完全下校の曲と言うよりは、蛍の光は…。
(卒業式の曲…)
下の学校を卒業する時に歌われる曲。卒業する生徒も、まだ学校に残る学年の生徒も共に歌った蛍の光。卒業式のためにと練習を重ね、その日が来たなら講堂に響いた皆の歌声。
十四歳の誕生日を迎えるよりも前に、あの曲に送られて卒業した。長く通った下の学校を。
バスに乗らなくても通えた学校、制服などは無かった学校。
少し寂しい気もしたけれども、上の学校が待っているから。今までとはまるで違った学校生活が待っているから、ドキドキしないわけでもなかった。
(制服のお兄ちゃんになるんだものね)
下の学校の子供から見れば眩しい制服、上の学校の生徒の証拠。それを着たなら一人前とまではいかないものの、大人への階段を一歩上ったという印。
その制服に加えて、給食ではなくて食堂でのランチや、お弁当や。
授業をする先生も科目ごとに変わるし、何もかもがきっと違って見える。同じ学校でも仕組みが変わって、新しいことが待っている筈。
そう思ったから、蛍の光を懸命に歌った、下の学校への別れの曲を。
泣きじゃくっていた生徒も少なくなかったけれども、自分の瞳に涙は無かった。寂しい気持ちはあったけれども、こうして別れていった先では、新しい出会いがあるだろうから。
長年馴染んだ学校から上の学校へ。蛍の光の大合唱に送られ、自分も歌って。
そしてハーレイとバッタリ出会った、今の学校で。
ハーレイは年度初めよりも少し遅れてやって来たから、入学して直ぐではなかったけれど。上の学校にも馴染み始めた、五月の三日のことだったけれど。
そのハーレイと出会うためには、前の学校を卒業しなくては駄目だったから。卒業式で蛍の光を歌わなければ、前の学校を離れなければ決して出会えはしなかったから。
(お別れじゃなくて、始まりの曲だよ)
きっと始まりの曲だった。自分にとっては、お別れの曲でも始まりの曲。
そんな気がする、蛍の光。
あの歌を皆で歌った時から始まったのだと、素敵な時間が流れ始めたに違いないと。
自分の身体に現れた聖痕も、取り戻した前の自分の記憶も、ハーレイとの劇的な再会も、全部。
何もかもが蛍の光で始まり、今の優しい日々があるのだと。
耳を澄ませば、まだ流れている蛍の光。遠く微かに、かつて通った下の学校から。
蛍の光は聞こえ続けた、生垣に囲まれた家に着くまで。門扉を開けて庭に入った辺りで蛍の光のメロディは消えた。もう聞こえなくなってしまったのか、学校の門が閉められたのか。
けれども耳には音が残った、卒業式で歌った蛍の光と重なったままで。
「ただいま」と玄関の扉を開けても、二階の自分の部屋に行っても、流れ続ける蛍の光。本当はもう聞こえないのに、下の学校から風に乗って届いたメロディはとっくに止んでしまったのに。
着替えを済ませて、ダイニングに行って、おやつを食べて。
その間は母と話したりしたし、おやつのケーキも紅茶も美味しかったから。蛍の光のメロディは途切れて、それきり忘れていたけれど。
「御馳走様」とおやつを食べ終え、部屋へ戻ろうと階段を上ったら、また聞こえて来た蛍の光。
帰り道に聞いた下校の合図と、卒業式での皆の歌声とが。
暫く耳にしなかったメロディ、もしかしたら卒業式で歌ったのが最後かもしれない。
何故だかとても懐かしく思えて、部屋に戻って歌ってみた。勉強机の前に座って。
お別れの曲だけれども始まりの曲、と。
この歌で全てが始まったのだし、きっと始まりの曲なのだと。
そうして歌い始めたら…。
(あれ?)
本当に始まりの曲だった気がする、蛍の光。
お別れの曲の筈なのに。完全下校を知らせる合図で、卒業式の歌なのに。
なのに何処かで確かに聞いた。
始まりの曲の蛍の光を、遠い昔に。
(何処で…?)
蛍の光が始まりの曲になるような場所。
何処だったのか、と懸命に考えてみたけれど、分からない。自分が出掛けてゆくような場所で、始まりの曲を耳にすることは滅多に無い。
店にしたって、施設にしたって、開く前から待っていたりはしないから。始まりの合図に流れるメロディが蛍の光だと覚えるほどには、何度も何度も早い時間に出掛けて待ってはいないから。
それなのに聞いた、蛍の光。始まりの曲の蛍の光。
まるで心当たりが無い、蛍の光で始まる何か。記憶を探っても出ては来なくて。
(前のぼく…?)
もしかしたら、と前の自分の記憶も辿ったけれども、やはり無かった蛍の光。
前の自分が生きた時代にあった筈がない、蛍の光。
あの時代に日本の文化などは無くて、蛍の光を歌う卒業式だって無かっただろう。十四歳までの子供を育てた育英都市でも、その後に行く教育ステーションでも、卒業式にはきっと別の曲。
人類たちが卒業式で歌っていたとしても、日本の文化の蛍の光は選ばれない。あったかどうかも定かではない、蛍の光は日本の文化と共に消されて、誰も歌わなかったかもしれない。
(でも、シャングリラは…)
ゆりかごの歌があったほどだから。
今の自分が赤ん坊だった頃、お気に入りだった子守唄。「ゆりかごの歌」という名の優しい歌。
それは日本の歌だったけれど、白いシャングリラでも歌われていた。
SD体制が始まって以来、初めての自然出産で生まれたトォニィのためにと探し出されて、皆が歌ってトォニィやナスカの子たちをあやした。
前のハーレイも覚えてしまって、眠り続ける前の自分に歌ってくれたほどの歌。
シャングリラはそういう船だったのだし、蛍の光もあったのだろうか?
そうは思っても、蛍の光は完全下校を告げるメロディで、卒業式で歌われる歌。
シャングリラには完全下校などは無くて、卒業式もありはしなかった。蛍の光に相応しい場面が全く無かった、あれは別れの曲なのだから。
(お別れの曲の筈なんだけど…)
そう思うのに、記憶は違うと答えて来る。蛍の光は始まりの曲だと。
前の自分がそう思ったのか、それとも今の自分の記憶か。
判然としない、蛍の光。
何処で聞いたか思い出せない、始まりの曲の蛍の光。
あれはシャングリラか、そうでないのか。
シャングリラで耳にしていたとしても、別れの曲が何故、始まりの曲になってしまうのか。
まるで分からない、手掛かりすらも掴めはしない。
それでも蛍の光は始まりの合図、そうだと唱え続ける記憶。その正体も分からないのに、何処で聞いたか、誰が聞いたか、それすらも自分には掴めないのに。
(なんで始まりの曲になるわけ…?)
理由はサッパリ分からないけれど、今の自分が聞いたというのでなければ、シャングリラ。前の自分が始まりの曲だと考えたらしい蛍の光。
(…あったかどうかも謎なんだけど…)
あのシャングリラに蛍の光、と遠い遠い記憶を手繰っていたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。窓に駆け寄ってみたら、手を振るハーレイ。
これは訊かねば、とハーレイに向かって手を振り返した。ハーレイならば、きっと答えてくれるだろう。シャングリラに蛍の光があったかどうかも、それが始まりの曲かどうかも。
間もなくハーレイが部屋に来たから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで尋ねてみた。さっきからの疑問を解いて貰おうと、あの記憶は何に繋がるのかと。
「ハーレイ、蛍の光を覚えてる?」
えっと、本物の蛍じゃなくって、歌なんだけれど…。蛍の光。
「ついさっき聞いたばかりだが?」
俺が出て来る時に流れていたがな、蛍の光。
あれがどうかしたか、と怪訝そうな顔。蛍の光は今の学校でも流されるらしい、下校の合図に。そういえば、友達がそんな話をしていた。あれが流れたら自主練習も切り上げなんだ、と悔しそうだった運動部員。今日はいつもより調子がいい、と上々の気分でも蛍の光で終わらされると。
「蛍の光…。やっぱり、お別れの曲だよね?」
今日はここまでにしておきましょう、って下校の合図に使ってみるとか、卒業式で歌うとか。
「うむ、学校では定番だな」
俺が今までに行った学校、何処でも蛍の光だったし…。下校の合図も、卒業式もな。
「そうだよねえ…。でもね、ぼくには始まりの曲なんだよ」
お別れの曲でも、始まりの曲。今日の帰りに下の学校のを聞いたらそうだと気が付いたんだよ。
「ほう…?」
別れの曲がどうして始まりの曲になるっていうんだ、新説か?
お前ならではの凄い発想か、子供の頭は柔軟だからな。
「違うってば!」
ぼくの説には違いないけど、凄くもないし変でもないよ。だって、あの曲…。
蛍の光でハーレイに会えた、と披露した。
下の学校と蛍の光を歌って別れて、その後に入った今の学校。其処でハーレイと再会したから、別れの後に始まりが来たと。あの曲は始まりの曲になった、と。
そう説明して、訊いてみた。あれはシャングリラにあったろうか、と。
「…シャングリラだと?」
蛍の光がシャングリラにあったと言うのか、お前は?
「うん…。もしかしたら、って思わないでもないんだよ」
あったとしたなら、始まりの曲。そういう曲だっていう気がするよ。
ハーレイに会えたから始まりの曲だ、って考えていたら、本当に始まりの曲だったような感じがして来て、それが何処だか、いつのことだか分からなくて…。
ひょっとしたら前のぼくなのかも、って思ったけれども、そんな記憶は残ってないし…。
だけどね、今のぼくの記憶なら、もっとハッキリしていそう。何処で聞いたか覚えていそう。
でも、シャングリラに蛍の光があったとしたって、あれはお別れの曲なんだから…。
始まりの曲にはなりそうもないし、ぼくにも分からないんだよ。
お別れの曲が始まりの曲だなんて変だよね、と話したら。
やっぱり記憶違いだろうかと、シャングリラとは何の関係も無くて今の自分の記憶だろうかと、蛍の光に纏わる疑問をぶつけてみたら。
「待てよ…? シャングリラに居た頃に蛍の光なあ…」
考え込んでいるハーレイ。そういう時の癖で、眉間の皺を少し深くして。
「何か思い出した?」
「いや、まだだが…。今の時点じゃ何も言えんが、あの曲は、確か…」
元々は日本の曲ではなくて…、とハーレイは腕組みまでして遠い記憶を探り始めた。その対象が今の記憶か、前の記憶かは分からない。
どちらなのかと、どんな答えが出て来るだろうかとブルーが静かに見守っていると。焦らせては駄目だと待っていると。
「そうだ、オールド・ラング・サインだ」
「え?」
オールド…。ハーレイ、なんて言ったの?
「久しき昔だ、オールド・ラング・サインはそういう意味だ。スコットランドの言葉でな」
スコットランドはお前も分かるな、同じ名前を名乗っている地域があるからな。
蛍の光は日本の曲じゃなくって、スコットランドの民謡だったんだ。
それも単なる民謡とは違う、国歌扱いされていたほどの。
思い出した、とポンと手を打ったハーレイ。
シャングリラに蛍の光はあった、と。
蛍の光ではなくてオールド・ラング・サイン、新年を祝うカウントダウンだ、と。
「ああ…!」
思い出したよ、とブルーも叫んだ。
白いシャングリラに蛍の光はあったのだった。蛍の光ではなかったけれど。
オールド・ラング・サインという名前の歌だったけれど、蛍の光と同じメロディの歌が。
白い鯨になったシャングリラで行われていた、新年を迎えるためのイベント。
その時だけは本物のブドウで作ったワインが乾杯用にと配られた。とっておきだった赤ワイン。それが一人に一杯ずつ。
前のブルーが音頭を取っては、毎年、乾杯していたけれど。
イベントを始めてまだ間もない頃、乾杯の他にも特別なことをしたい、と考え始めたヒルマンとエラ。皆で出来る何か、新年を祝うための何かを、と。
データベースを調べに向かった二人は、古い歌を引っ張り出して来た。SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球で親しまれた古い歌。
新年を迎えるカウントダウンの時に歌われたというオールド・ラング・サイン、それが蛍の光の原曲。当時は蛍の光の存在を誰も知らなかったけれど。
元はスコットランドの民謡だったとヒルマンが話しただけだったけれど。
「これを歌おうと思うのだがね」
新年を迎えたら歌ったそうだよ、新しい年が来たのを祝って。
乾杯した後に皆で歌えば、船中の仲間が一つになれる。持ち場を離れられなくても歌は歌える、シャングリラ中に歌が響くのだよ。ブリッジも公園も、機関部などでも。
「いいんじゃないかい? あたしは大いに賛成だね」
賑やかなのは素敵じゃないか、とブラウが頷いた会議の場。長老と呼ばれるヒルマンとゼルと、エラとブラウと。それにキャプテンだったハーレイ、ソルジャーだったブルーの六人。
新年にはオールド・ラング・サインを歌うのがいい、と全員一致で決定した。カウントダウンに使われた歌なら是非歌いたいし、今の人類たちの世界で歌ってはいないようだから。
オールド・ラング・サイン、スコットランドの言葉で「久しき昔」。
旧友と再会を遂げて思い出話をしつつ酒を酌み交わす、そういった歌詞がついた歌。
皆に広める前にまずは練習しておかなければ、と会議の席で六人で歌った、メロディと歌詞とを覚えるまで。自信を持ってオールド・ラング・サインを歌えるレベルに達するまで。
練習の合間の休み時間に、ヒルマンとエラが歌の背景を話していたのだけれど。
「再会を誓って、誕生日や結婚式などでも歌われたそうだよ」
つまりお祝い事の歌だね、新年を祝う歌でもあるし…。
「船が出港する時にも歌っていたのだそうです、お祝い事とは少し違いますが」
「ふうん…? なんでまた、そこで歌うんだい?」
船を新しく建造したなら分かるけどね、とブラウがエラに問い返したら。
オールド・ラング・サインが誕生した後、スコットランドから新天地へと向かった移民船。その出航の時に歌われたという、また会おうと。
旧友との再会を誓う歌だから、海を渡って旅立つ友に贈るには相応しいと。
それがいつしか広まっていって、移民船でなくとも、船の出航にはオールド・ラング・サイン。
クルーズに出掛ける豪華客船もまた、オールド・ラング・サインに送られて出航して行った。
そんな話から、シャングリラも船だということになって。
「カウントダウンに歌うというのもいいんだけどさ…」
ここ一番、って旅に出る時に歌ってみたいね、そんな機会があるかどうかは分からないけどね。
当分は雲海の中なんだろうし、とブラウがフウと溜息をつけば、ゼルが応じた。
「旅立ちの時か…。地球へ向かって出発する時に良さそうじゃのう」
まだまだ先になりそうなんじゃが、同じ歌うならカウントダウンよりも旅立ちかのう…。
「それはいいね。ぼくもその時に歌いたいような気がするよ」
せっかくだから取っておこうか、とソルジャーだったブルーも賛同した。
カウントダウンで皆で歌うのもいいのだけれども、地球へ向かって船出する時のためにと、その日が来るまで残しておこうと。
「そうですね。私もそれに賛成です」
ハーレイもまた、頷いた。地球へと旅立つ時に歌うのがいいと、その時に皆で歌おうと。
こうしてソルジャーとキャプテンと長老、その六人で決めたのだった。
オールド・ラング・サインは地球に向かうまで取っておこうと、シャングリラが晴れて地球へと出航する日に皆で揃って歌うのがいいと。
けれど、地球までは遠かったから。
あまりに遠くて、そこまでの道も長すぎたから。
座標も掴めないままで歳月がいたずらに流れ、シャングリラは雲海から出ることも無くて。
そうして日々を過ごす間に、忘れたのだった、いつの間にやら。
地球へと旅立つ時に歌おうと決めたオールド・ラング・サインを、蛍の光と同じメロディを。
「…それで始まりの曲だったんだ…」
シャングリラが地球への旅に出るなら、それは始まりの合図だものね。
どういう形で地球へ行くにしても、シャングリラの本当の意味の船出で始まりだものね…。
「お前はそれを覚えていた、と。いや、忘れちまっていたんだが…」
オールド・ラング・サインのメロディは覚えていたんだなあ…。
蛍の光になっちまっていたが、それでも始まりの歌だった、とな。
帰り道で遠く微かに聞こえた蛍の光。
それが遥かな昔の自分たちの夢を運んで来た。地球へ行こうと、その時に歌おうと決めておいた歌を、オールド・ラング・サインに託した夢を。
夢は叶わず、歌はすっかり忘れたけれど。メロディも歌詞も全て忘れてしまったけれど。
「ぼくはいつまで歌っていたかな…」
あの歌をいつまで歌っていたのか、全く覚えていないんだけれど…。
「俺も殆ど記憶に無いな。…思い出せたのは奇跡じゃないかと思うほどにな」
いつか歌うんだと決めていたのに、地球への船出にはオールド・ラング・サインを皆で歌おうと思っていたのに、まったく情けないもんだ。
言い出したヒルマンやエラも忘れたろうなあ、キャプテンだった俺がこの始末じゃな。
酷いもんだ、とハーレイは苦笑したけれど。
今の今まで思い出しさえしなかった、と情けなさそうな口調だけれども、前の自分はハーレイと何度も二人で歌った。
オールド・ラング・サインを、蛍の光と同じメロディを持っていた歌を。
いつか地球へ、と夢見て歌った、この歌を皆で歌いたいと。
地球へと船出するシャングリラで歌おうと、オールド・ラング・サインを歌うのだと。
「…ぼくたち、忘れてしまっていたね」
あんなに何度も歌っていたのに、地球へ旅立つような気持ちでハーレイと一緒に歌ったのに。
「お互い、忘れちまっていたなあ…」
メロディも、歌詞も、歌おうと決めていたことも。
前の俺が本当に地球へと向かった時にも、思い出しさえしなかった。
前のお前を失くしちまって、もう歌どころじゃなかったが…。
ゼルもブラウもエラも歌など忘れちまって、歌おうとも思わなかったんだろう。ヒルマン以外は自分の船を持っていたのに、誰も言い出さなかったからな。
今こそあの歌を歌う時だと、地球に向かってワープするならオールド・ラング・サインを歌って旅立つべきだと、覚えていたなら誰か一人は言ったと思うぞ。
前の自分の寿命が尽きる頃には、もう完全に忘れていたから。
地球へ旅立つ夢はあっても、歌いもしなかったオールド・ラング・サイン。蛍の光のメロディで歌った、地球への旅立ちを祝う歌。
あれは始まりの曲だったのに。地球へ行く日に歌おうと決めた歌だったのに。
「ねえ、ハーレイ…。もしもあの歌、覚えていたなら、歌ったのかな…?」
前のぼくの寿命が尽きてしまって、地球へは行けないって気付いた後に。
本物の地球には辿り着けなくても、気分だけでも地球へ向かって出発しよう、って。
「そうだな、もう一度歌ったかもなあ…」
お前と二人で地球へ行こうと、二人で船出するんだと。
俺はお前が死んじまったら、後を追い掛けてゆくつもりだったし…。
そしたら二人で地球へ行こうと、そういう気持ちでお前と一緒に歌っていたかもしれないな…。
二人で、地球へ、と。
白いシャングリラで旅立つつもりで、地球へと出航するつもりで。
けして行けない青い星でも、辿り着けない青い地球でも。
きっと二人で手を握り合って歌っていたろう、旅立ちの歌を。遠い日に決めた船出の時の歌を、出航する時はこれを歌おうと夢に見ていたオールド・ラング・サインを。
「…お別れの曲になっちゃうけどね…」
ハーレイと二人で歌ってみたって、ぼくは地球には行けないままで寿命が尽きてしまうんだし。
地球に行くどころかハーレイともお別れになってしまうし、お別れの曲で蛍の光。
蛍の光は知らなかったけれど、お別れの曲ならそっちだよね…。
「いや、始まりの曲だったろうさ。次の旅への」
俺はお前を追ってゆくんだと何度も言ったろ、その旅へと出航するための歌だ。
行き先は地球で、俺とお前と、二人きりでシャングリラに乗って。
手を繋ぎ合って旅に出るんだ、誰も知らないシャングリラで。
きっとそういう歌だっただろう、前のお前と出航しようと、二人きりの旅を始めるんだと。
「そうかもね…」
ハーレイと二人で、青い地球まで。
もうすぐ船出の時が来るんだと、何度も何度も歌ったのかもね、二人一緒に地球へ行こうと。
けれど、忘れてしまっていたから。
そういう歌があったことさえ、二人揃って忘れていたから。
歌わずに終わったオールド・ラング・サイン、蛍の光と同じメロディを持った歌。
ハーレイと二人で歌えはしなくて、夢の旅立ちも叶わなかった。
前の自分はハーレイと離れて独りぼっちで死んでしまった、ハーレイの温もりさえも失くして。もう会えないのだと泣きながら死んだ、忌まわしいメギドの制御室で。
それから後の記憶は途切れて、何も覚えていないのだけれど。
長い長い時を飛び越えて地球に生まれ変わった、青い地球の上でハーレイに会えた。
蛍の光で下の学校から送り出されて、ハーレイが赴任して来た今の学校に。
シャングリラで歌ったオールド・ラング・サインではなかったけれども、蛍の光は始まりの曲になって響いた、下の学校の卒業式で。
だから…。
「やっぱり、始まりの曲だったんだよ。蛍の光は」
お別れの曲でも、始まりの曲。ちゃんとハーレイに会えたんだから。
…前のぼくは歌い損なっちゃったけど…。
ハーレイと二人で歌えないまま、歌っていたことを忘れちゃったまま、死んじゃったけど…。
覚えていたなら歌いたかったな、ハーレイと二人で地球へ行こう、って。
あの歌でハーレイと二人きりの旅に出掛けたかったよ、いつまでも二人一緒なんだ、って。
「俺もお前と歌いたかったな、あの時、覚えていたならな」
お前と二人で旅に出ようと、出航するんだと、オールド・ラング・サインを二人で。
そいつは叶わなかったわけだが、今、歌うか?
俺たちはこれから船出するんだ、シャングリラじゃなくて人生の船出。
お前と二人で生きる人生、そいつに向かって出航することになるんだからな。
いつかお前が大きくなったら、結婚出来る年になったら。
歌詞は変わってしまったけどな、とハーレイが笑みを浮かべるから。
オールド・ラング・サインか、蛍の光か、どちらで歌う、と訊かれたから。
「蛍の光!」
そっちの方がいいよ、ハーレイと出会えたんだから。
ぼくにとっては始まりの曲で、シャングリラで歌ったオールド・ラング・サインは思い出しさえしなかったんだから。
「俺もそういう気分だな。同じ歌うのなら、蛍の光だ」
それで出会えたようだからな、とハーレイの大きな手が伸びて来て。
キュッと握られた、メギドで凍えてしまった右手。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、冷たく凍えてしまった右手。
褐色の手でしっかり包み込まれて、穏やかな笑顔を向けられて。
「これでよし、と…。歌うか、二人で蛍の光」
オールド・ラング・サインと歌詞は全く違うわけだが、始まりの曲を歌おうじゃないか。
別れの曲でも、お前にとっては始まりの曲で、前の俺たちには始まりの曲のメロディだしな。
「うん…。歌い損なった分、今、歌うんだね」
一、二の三で歌ってみようよ。オールド・ラング・サインじゃなくって、蛍の光で。
初めて二人で歌を歌った、今の生では。
ハーレイの声と自分の声が重なる、大合唱とはいかないけれども、二人で歌う蛍の光。
今の自分たちが住んでいる場所では、蛍の光はお別れの曲になっているけれど、元になった曲は始まりの曲。新年や誕生日、結婚式などで歌われた曲。
自分にとっても、蛍の光はお別れの曲であると同時に始まりの曲。
この歌に送られてハーレイと出会った、本当に始まりの曲だった歌。
オールド・ラング・サインは結婚式でも歌われると言うから、気分だけでも…。
(ちょっと早めの結婚式だよ…)
思うくらいは平気だよね、と微笑んだ。
今の自分たちが暮らす地域では、蛍の光はお別れの曲。
結婚式では歌わないけれど。結婚式なら、オールド・ラング・サインだけれど。
それでも二人で歌う間に、心に幸せが満ちてくる。
ハーレイと二人、繰り返し歌う蛍の光。
また出会えたと、共に手を繋いで生きてゆける時が、いつかこの歌から始まるのだと…。
蛍の光・了
※いつか地球へと出航する時、歌おうと決められたオールド・ラング・サイン。蛍の光。
その日はついに来ないままでしたけれど、ハーレイと地球で歌えたのです。新しい歌詞で。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和で事も無し。ソルジャー夫妻や「ぶるぅ」を交えてのお花見も終わり、年度始めの賑やかな行事なんかもおしまい、平常授業が始まっています。出席義務の無い特別生の私たちは例によって律儀に出席ですが…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業、お疲れ様! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれる放課後。このためだけに毎日登校、授業を受けているわけで。
「今日のおやつは桜イチゴのムースケーキなの!」
「「「桜イチゴ?」」」
そんなイチゴがあっただろうか、と驚きましたが、桜は桜でイチゴはイチゴ、という答え。
「あのね、桜の花と葉っぱの塩漬けのムースと、イチゴのコンポートを重ねてあるの!」
でもってスポンジもほんのり桜の香り、と運ばれて来たケーキは桜のピンクとイチゴの赤との二段重ねで、スポンジ台。これはとっても期待出来そう!
「えとえと、キースたちが来たら切ろうかな、って…」
待てない人はこっちをどうぞ、と桜のパウンドケーキまでが。どっちも食べたい気分です。パウンドケーキを薄く切って貰うことに決め、ジョミー君たちと味わいながら待っている内に。
「すまん、待たせた」
「遅くなっちゃってすみません」
キース君にシロエ君、マツカ君の柔道部三人組が壁をすり抜けて入って来ました。桜イチゴのムースケーキが切られて、柔道部組には「お腹空いたでしょ?」と焼きそばなんかも。
「ああ、すまん。…まあ、今日はそれほど練習の方はしてないんだがな」
「そうなの?」
だけどいつもの時間だよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「練習しない日はもっと早くない?」
「そうなんだが…。今日は新入生の指導をしていたからな」
「お稽古じゃなくて?」
「稽古もつけたが、それよりも前に相談といった所だろうか」
ちょっと人生相談を…、という話ですが。入部早々に人生相談って、クラブ辞めますとでも言われましたか?
特別生であるキース君の裏の顔と言うか、本当の仕事は副住職。お父さんのアドス和尚が住職を務める元老寺のお坊さんのナンバー・ツーです。お坊さんは二人だけですけれど。
職業柄、ボランティアにお出掛けなどもよくあるのですが、柔道部で人生相談とは…。
「壁にブチ当たった新入生でもいたのかよ?」
えらい早さでぶつかったな、とサム君が。
「普通、もうちょっと後じゃねえのか、ゴールデンウィークが明けた頃とか」
「そういう壁ではないからなあ…」
「でもよ、人生相談なんだろ?」
そう聞いたぜ、と訊かれたキース君は。
「ああ、ルックスのことでちょっとな」
「「「ルックス!?」」」
ルックスと言ったらアレなんでしょうか、いわゆる外見。早くも女の子に振られてしまって落ち込み中とか、これからアタックするに際しての心得を訊きに来ていたとか…?
「いや、まあ…。それに近いと言えば近いか…」
「素早いねえ!」
もう女の子に目を付けたんだ、とジョミー君。
「それってブルーも真っ青じゃない? シャングリラ・ジゴロ・ブルーも顔負け」
「だよなあ、半端ない早さだぜ」
頑張れっていった感じだよな、とサム君も言ったのですけれど。
「そうではなくて、だ。…今後の人生について、ちょっとな」
「でも、ルックスって…」
「そいつにとっては人生がかかっているってことだ」
たかが眼鏡の話なんだが…、とキース君はフウと溜息を。
「「「眼鏡?」」」
眼鏡と言えばグレイブ先生。何かと言えば指でツイと押し上げるトレードマークの眼鏡ですけど、あれに人生がかかるって…なに?
「それだ、いわゆるトレードマークだ。イメージが大事と言うべきか…」
「新入部員に眼鏡の生徒がいたんですよ」
其処がちょっぴり問題で…、とシロエ君。柔道部に眼鏡で何が問題?
キース君たちがやってきたという人生相談。眼鏡をかけた新入生が対象だったようですが…。
「何故、問題なのか分からんか?」
柔道だぞ、とキース君はソファに座ったまま、手だけでスッと構えのポーズ。
「柔道で分からないなら、相撲でもいい。眼鏡の関取を見たことがあるか?」
「「「…眼鏡の関取?」」」
言われてみれば、そんな力士は目にしたことがありません。幕内だろうが幕下だろうが、テレビの向こうは眼鏡なんかは無い世界。
「ほら見ろ、眼鏡の力士はいないだろうが。柔道だってそれと同じだ」
「要するに危険なんですよ」
割れますからね、とシロエ君が。
「それに割れなくても、ある意味、危険物ですから。自分もそうだし、相手もそうです。試合にしたって稽古にしたって、眼鏡は凶器になり得るんです」
「「「あー…」」」
確かに、と頷く私たち。眼鏡自体が割れなくっても、ウッカリ飛んだら怪我をするとか、色々と危なそうなもの。それで眼鏡の新入生に注意をした、と…。
「そういうことだ。だがな、今までの学校とかで言われていないらしくてな…」
「なら、眼鏡無しでも見えてるんじゃないの?」
きっとそうだよ、とジョミー君。
「授業中だけかけているとか、そういう人は少なくないしさ」
「そいつも今まではそうだったらしい。しかし、受験を控えて夏休みを最後に柔道は中断したらしくてな…。その間に学習塾などに通いまくって視力の方が…」
「今は見えにくいらしいんですよ」
健康診断でも引っ掛かったそうで…、とシロエ君が。
「日常生活に必須なトコまで来てるようです、彼の近眼」
「それはキツイかもね、眼鏡無しだと…」
ちょっと想像つかないけれど、と眼鏡の世界なるものを思い浮かべているらしいジョミー君。私も考えてみましたけれども、視界がぼやけてしまうんでしょうか?
「そのようだ。そいつも今では外すと俺たちの顔もぼんやりとしか見えないらしい」
「マズイよ、それじゃ!」
そんなので柔道が出来るわけ? というジョミー君の疑問はもっともなもの。その新入生、大丈夫ですか?
「…大丈夫じゃないから人生相談になるんだろうが」
そして時間を食われたのだ、とキース君の口から再び溜息。
「教頭先生が大先輩かつ顧問の立場で仰ったんだ。柔道部への入部を諦めるか、眼鏡をやめてコンタクトレンズにすべきだ、とな」
「コンタクトレンズもハードの方だと外れやすいとかで…。ソフトレンズで、と仰いました」
そうなんですが…、とシロエ君も溜息を。
「自分のイメージが崩れてしまう、と心理的な抵抗が大きいようで…」
「けどよ、今まで眼鏡で柔道やってたんだろ?」
サム君の問いに、マツカ君が。
「柔道の時だけ眼鏡を外していたらしいんです。で、今回も入部して来て、さて…、と練習に取り掛かったら見えにくかった、と」
「最初は俺たちも気付かなかったが、先輩たちの顔の区別がついていないと判明してな」
それで一気に明るみに出たのが今日だ、とキース君。
「教頭先生は「とにかくコンタクトレンズを作って来い」と仰った。そうでなければ入部は認められない、とな。しかしだ、それで今日の稽古から外されたそいつがドン底で…」
「ぼくたちの出番になったわけです」
苦労しました、とシロエ君からも嘆き節が。
「ソフトレンズはハードと違って、外したヤツを水で洗ってもう一度…、とはいかないそうで」
「消毒が必要なんですよ。ですから、柔道部のためにはめたら、はめっ放しに」
外せないんです、とマツカ君が説明したんですけれど。
「えっ、部活が終わったら外せばいいだけの話じゃないの?」
そう思うけどな、とジョミー君が指摘すれば。
「甘いな、新入生には朝練があるぞ。俺たち以外は基本、朝練がもれなくついてくる」
「そうなんです。つまり、朝練のためにはめたら、授業中もコンタクトレンズになるわけですよ」
マツカ君の解説に「あー…」と納得。眼鏡の新入部員とやらは学校では眼鏡無しになる、と。
「そういうことだ。それでイメージが崩れてしまう、と悩んでいてな…」
「眼鏡を捨てるか、柔道を捨てるか。そういった相談をしてたんですよ」
まさに人生相談でした、と柔道部三人組は酷くお疲れのようですが。眼鏡にこだわりの新入部員とやらは、キース君の「俺だって一度は坊主頭にしたんだ!」という強烈な体験談を食らって覚悟を決めて、コンタクトレンズを作りに行くとか。まさにめでたし、めでたしですね。
「…コンタクトレンズの覚悟はいいけど…。キースの坊主頭は反則…」
あれはサイオニック・ドリームだったし、とジョミー君がブツブツと。
「道場ではサイオニック・ドリームで誤魔化しておいて、学校は「これはカツラだ」って大嘘をついて今の髪型で来てたんだけどな?」
「細かいことはどうでもいいんだ、要は覚悟が決まればいいんだ!」
たかが眼鏡だ、とキース君が叫んだ所へ「こんにちは」の声。
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返った先でフワリと翻った紫のマント。会長さんのそっくりさんがスタスタと近付いて来て、ソファに腰掛けて。
「ぶるぅ、ぼくにも桜イチゴのケーキ!」
「うんっ! それと紅茶で良かったよね!」
ちょっと待ってねー! とキッチンに駆けてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。注文の品は直ぐに出て来て、ソルジャーがケーキにフォークを入れながら。
「…なんだか大変だったようだね、眼鏡の件で」
「そうなんだが…。あんたには分からん世界だろうな」
キース君が返すと、ソルジャーは「なんで?」と怪訝そうな顔。
「どうしてそういうことになるんだい?」
「あんたの世界は医療技術もグンと進んでいるんだろうが! たかが近眼、治せる筈だぞ」
「そりゃまあ、ねえ…。でもさ、君のクラブの新入部員じゃないけど、こだわるタイプはぼくの世界にだって多いんだよ」
ぼくのシャングリラにも眼鏡はある、と聞いてビックリ、SD体制とやらがはびこるシャングリラの外の世界にも眼鏡は大勢と知って二度ビックリ。
「…君の世界にも眼鏡がねえ…」
会長さんが「考えたことも無かったな」と頭を振っています。
「てっきり無いものだとばかり…。近視は治せるのに眼鏡なんだ?」
「そうなんだよねえ、ちょっとお洒落なアイテムとでも言うのかな? 嫌いな人はサッサと治してしまうんだけどさ、治さないままで眼鏡はいるねえ…」
それに対応した宇宙服まであるんだけれど、と聞かされて三度ビックリです。宇宙服を着ようって時にもヘルメットの下には眼鏡だなんて、柔道どころのレベルの話じゃないですってば…。
「ぼくはさ、眼鏡も特に問題は無いんじゃないかと思うけどねえ?」
新入部員のこだわりとやらも分かる気がする、とソルジャーは言うのですけれど。
「それは、あんたの世界ならではのグンと進歩した眼鏡だろうが!」
そう簡単には吹っ飛ばないとか割れないだとか…、とキース君。
「宇宙服の下でもオッケーとなれば、そういう眼鏡だ!」
「…どうなんだろうね、ぼくは眼鏡とは全く縁が無いからねえ…」
ぼくもハーレイも眼鏡は全く必要無いし、と呑気な返事が返ってきました。
「ぼくたちは揃って補聴器の方で、視力は至って普通なんだよ」
ついでに聴力もサイオンで補助は可能なわけで、と説明されずとも分かります。ソルジャーもキャプテンも、私服でこちらの世界に来た時は補聴器無し。それで不自由が無いのですから、もしかしたら視力もサイオンで矯正可能ですか?
「それはもちろん。人類だったら近視を治すには手術をするとか、毎日治療に通うとか…。だけどミュウなら近視のままでもサイオンで普通に見えるだろうね」
それでも眼鏡を選ぶタイプが何人か…、とソルジャーの証言。
「小さい間はサイオンを上手く使えない子もいるからさ…。眼鏡が必要な場合もあるけど、大きくなったらサイオンで自然と補えてくるし、それでも駄目なら手術もあるし」
なのに眼鏡が減らないのだ、と「こんな感じで」と思念で送り込まれたソルジャーの世界のシャングリラ。食堂の風景らしいですけど、確かに眼鏡が何人かいます。
「あの眼鏡はねえ、殆どの人は…度数って言うんだったっけ? 矯正用の仕掛けが入ったレンズじゃなくって、ただのレンズで伊達眼鏡なんだよ」
「「「伊達眼鏡!?」」」
「そう、かけてますって言うだけのお洒落アイテム! 眼鏡を外してもサイオンで見える!」
「「「うーん…」」」
そこまで眼鏡にこだわるのか、と私たちには理解不能な眼鏡を愛する人々の世界。でも…。眼鏡無しでも見えるんだったら、眼鏡の方に細工をしたらググンと拡大可能だとか?
「生憎とそういう眼鏡は無いねえ…」
その発想も無かったからね、とソルジャーは暫し考え込んで。
「…なるほど、眼鏡に細工をすれば拡大とかかあ…。それもいいかも…」
これを何かに生かせないだろうか、と腕組みまでして思案している様子。私、マズイことを考えちゃったわけではないでしょうね?
眼鏡、眼鏡…、と繰り返していたソルジャーですけど、突然、ポンと手を打って。
「そうだ、コレだ!」
「「「は?」」」
「いいと思うんだよ、サイオン・スコープ!」
「「「サイオン・スコープ?」」」
なんじゃそりゃ、と顔を見合わせる私たち。暗視スコープなら知ってますけど…。
「暗視スコープ? ああ、人類軍が使うアレかな」
暗闇でも見えるって装置のことかな、とソルジャーが訊いて、キース君が。
「ソレのことだが? もっとも、俺たちの世界じゃ平和にオモチャもあるんだがな」
「あったっけ?」
そんなオモチャ、とジョミー君。するとシロエ君が「知りませんか?」と。
「大きなチェーンのオモチャ屋さんだと置いてるんですよ。一時期、話題になりましたが」
「そうなんだ?」
「ええ。なんでも見え過ぎで服が透けるとか」
「「「服が!?」」」
どうしてそういうことになるのだ、と仰天しましたが、シロエ君曰く、仕組みの問題。なんでも物体が放出している熱赤外線とやらを可視化した結果、服の下にある人間の身体がスケスケに…。
「それって、とってもマズくない?」
犯罪だよ、とジョミー君が言った途端に、ソルジャーが。
「奇遇だねえ! サイオン・スコープもそういう結果を目指すんだけどね?」
「「「えっ?」」」
「ただしサイオンだからターゲットを限定することが可能! ブルーの服だけが透けて見えます、ってね!」
「「「ブルー!?」」」
ブルーと言えば会長さん。ソルジャーの名前もブルーですけど、この場合は多分、会長さん。その会長さん限定で服が透けるって、いったいどういうスコープですか!
「どういうって…。もちろんハーレイ用だけど?」
こっちの世界の、とソルジャーはサラッと恐ろしいことを。
「こっちのハーレイ、見たくてたまらないようだしねえ…。ブルーの服の下ってヤツを」
だからサイオン・スコープを作ってプレゼント! とカッ飛んだ方向へと飛躍した眼鏡。まさかソルジャー、本気でソレを開発すると…?
「ぼくは至って本気だけど?」
面白いし、とソルジャーは笑顔で会長さんに尋ねました。
「こっちのハーレイ、透視能力はどのくらい?」
「…お愛想程度のモノだと思うよ、うんと集中してギフトの紙箱が透けるかどうかってトコ」
「うんうん、基礎はあるんだね!」
だったら充分いける筈だ、と勝手に決めてかかっているソルジャー。
「ぼくのサイオンで補助してやればね、透視能力がググンとアップ! 眼鏡っていう媒体があればターゲット限定も何処まで見せるかも自由自在に調整可能!」
作ってくるよ、と盛り上がられても困ります。会長さんの服だけが透ける眼鏡を教頭先生に渡そうだなんて、それは明らかに犯罪なのでは…。
「えっ? ぼくはこっちの世界の人間じゃないし、犯罪も何も」
「ぼくが困るんだよ!」
なんでハーレイにサービスをせねばならないのだ、と会長さんが柳眉を吊り上げました。
「ぼくは自分を安売りする気は無いからね!」
「誰がタダだって話をしてた?」
「「「は?」」」
「当然、料金はガッツリ頂く!」
眼鏡の代金と調整料金、と妙な台詞が。
「「「調整料金?」」」
「そうだよ、度数をアップしたけりゃ追加料金が要るんだよ!」
最初は上着が透ける程度で…、とソルジャーは指を一本立てました。
「それもブルーが上着を着ていないから、ってシャツが透けるってわけじゃない。あくまで上着なら上着限定、その下のシャツも透けさせたいってコトになったら度数をアップ!」
下着を透かすなら更に度数をアップせねば、とグッと拳を握るソルジャー。
「そして、その先! どんどん度数をアップしていけば服はすっかり透けるんだけど!」
「「「…透けるんだけど…?」」」
「今度はモザイクがかかるってね!」
そう簡単にブルーの裸は見られない仕組み、と極悪な仕様が明らかにされて。
「モザイクを除去して欲しいと言うなら、当然、此処でも度数アップで!」
追加料金がドカンと発生するのだ、とソルジャー、物凄いことを言い出しましたが。サイオン・スコープ、出来た場合はとんでもないことになりそうな…。
「どうかな、度数アップで追加料金を頂くんだけど?」
でもって君と山分けなんだ、とソルジャーは会長さんの耳に悪魔の囁き。
「おまけにサイオン・スコープだしねえ、こっちのハーレイは本当に透けてるつもりでいたって、事実かどうかは分からないってね!」
ましてモザイクがかかってくれば…、とクスクスと。
「こっちの世界の旅行パンフレットとかによくあるじゃないか、「この写真はイメージです」って。ああいう調子でハーレイの脳内のイメージってヤツを投影しとけば、それっぽく!」
「…つまり、本物のぼくの裸は見えないと?」
「そういうコト! 怪しまれないように服の段階ではちゃんと透かすけど」
で、どうかな? と再度、ソルジャーに問い掛けられた会長さんは。
「その話、乗った!」
「オッケー、これで決まりってね!」
早速ぼくの世界で作ってくるよ、とソルジャーはサイオン・スコープとやらの制作を決めてしまいました。会長さん限定で服が透けると噂のサイオン・スコープを。
「眼鏡のフレームはどんなのがいいかな、こっちのハーレイに似合うヤツとか?」
「…お洒落なアイテムをハーレイに与えるつもりは無いからねえ…」
似合わないのがいいであろう、と会長さんは頭の中であれこれ検索していたようですけれど。
「そうだ、この際、グレイブ風で!」
「あのタイプかい?」
「うん。あれはグレイブには誂えたように似合っているしね、逆に言えばハーレイなんかに似合うわけがないと!」
「…確かに…。君もホントに鬼だよねえ…」
ああいう眼鏡を作るんだね、とソルジャーは部屋の壁を通り越した彼方のグレイブ先生の部屋を覗いている様子。教職員専用棟の中にミシェル先生と二人用の部屋があるのです。
「よし、形とかのデータは頭に入れた! 後はぼくのシャングリラで作らせるだけ!」
そしてぼくのサイオンを乗せるだけ、とソルジャーの頭の中にはイメージがバッチリ出来たようです。会長さん限定で服が透けてしまうサイオン・スコープ、度数アップの度に追加料金までが発生するというサイオン・スコープ。
「さて、最初はいくらで売り付けようか?」
「そうだねえ…。度数アップの料金の方は、倍々ゲームで増えるのがいいね」
二倍が四倍、四倍が八倍…、と会長さんとソルジャーが始めた料金相談。キース君たちが持ち込んできた人生相談の話題、エライ方向へと向かってますが…?
その週末。会長さんのマンションに集まって賑やかにお好み焼きパーティーを開催中だった私たちの所へ、ソルジャーが瞬間移動で現れて。
「出来たよ、例のサイオン・スコープ!」
眼鏡のフレーム作りに手間取っちゃって、とソルジャーの手には眼鏡ケースが。
「このケースもねえ、ホントだったらシャングリラのロゴが入るんだけど…。それはマズイし、ロゴ無しで!」
「それはいいけど、眼鏡を作ったクルーたちは? また時間外労働かい?」
会長さんの問いに、ソルジャーは「うん」と悪びれもせずに。
「だからちょっぴり遅くなってさ。なにしろ、ぼくのハーレイを連れてってフレームを顔に合わせて作らなきゃだし、そうなると当然、勤務時間外」
だけどきちんと視察に行っておいたから、と言うソルジャーのクルーに対する御礼は視察。自分の世界で使わないものを作らせた場合は記憶の消去を伴いますから、御礼を言っても意味が無いそうで、視察に出掛けて激励のみ。
「要するに、今回も「ご苦労様」の一言だけで済ませて来た、と」
「何を言うかな、ソルジャーの視察と労いの一言はポイント高いんだよ?」
シャングリラでは栄誉ある出来事なんだよ、と威張り返られても、私たちには分からない世界。たとえ記憶を消してあっても、お菓子の一個とかでも差し入れすれば…。
「いいんだってば、視察と「ご苦労様」でぼくのシャングリラの士気は上がるしね!」
ブリッジだってそうなんだから、と言われてしまうと返す言葉もありません。こんなソルジャーに牛耳られている皆さん、お疲れ様としか…。
「それでさ、サイオン・スコープだけどさ」
これから売り付けに行かないかい? とソルジャーは煽りにかかりました。むろん、ちゃっかりお好み焼きパーティーの面子に混ざりながら。
「いいねえ、ハーレイは家に居るようだし…」
「みんなで行ったら君の服だけ限定で透ける仕様もハッキリ説明出来るしね?」
「それがいいねえ、ぼくの服しか透けません、ってね」
で、どんな仕組み? と眼鏡ケースを眺める会長さんに、ソルジャーはサイオンの使い方の説明を始め、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「そうなんだ!」などと感心しているのですけれど。
「…分かりませんね?」
ぼくたちには、とシロエ君が言い、キース君が。
「ああ、サッパリだな」
思念波くらいの俺たちにはな…、とサイオニック・ドリームが坊主頭限定で使える人でも言う始末。つまりはサイオン・スコープの仕組みはサッパリ、謎な作りの眼鏡としか…。
お好み焼きパーティーが済んで、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が手際よく後片付けを終えると、教頭先生の家へと出発です。会長さんとソルジャー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と三人分の青いサイオンがパアアッと溢れて…。
「な、なんだ!?」
リビングのソファで寛いでおられた教頭先生が大きく仰け反り、会長さんが。
「ご挨拶だねえ、今日は素敵なアイテムを持って来てあげたのに」
「…アイテム?」
「そう! その名もサイオン・スコープなんだよ!」
これ、と会長さんはソルジャーの手から眼鏡ケースを受け取り、教頭先生に渡しました。
「まあ開けてみてよ、気に入ってくれるといいんだけれど」
「…???」
ケースを開けた教頭先生が取り出した眼鏡は、まさしくグレイブ先生風。似合わないんじゃあ、と私たちが思うのと同時に、教頭先生ご自身も。
「…こういうタイプの眼鏡フレームは似合わないのでは、と思うのだが…」
「そう言わずにさ! ちょっとかけてみて、それからぼくを見てくれれば…ね」
「お前をか?」
「そうだよ、そしたらサイオン・スコープの意味が分かるかと!」
ちなみに今日のぼくはこういう上着を…、と会長さんはその場でクルッと回って見せて。
「今年の流行りのデザインなんだよ、君はこういうのに疎そうだけど」
「う、うむ…」
「フィシスが選んでくれたんだよねえ、この色が一番いいだろう、って! だから…」
その眼鏡をかけて是非見てみて、と言われた教頭先生、何も疑わずに眼鏡を装着。うっわー、やっぱり全然似合ってませんよ…。ですが。
「…ありゃ?」
教頭先生は眼鏡を外して会長さんをまじまじと眺め、またかけてみて。
「…うーむ…?」
外して、かけて、また外して。何度もやっている教頭先生に、会長さんが。
「どう、ハーレイ? ぼくの裸が見えたかな?」
「裸!?」
なんだそれは、と引っくり返った教頭先生の声。それはそうでしょう、いきなり「ぼくの裸」と言われて驚かない方が変ですってば…。
「その眼鏡はねえ、サイオン・スコープってヤツなんだよ。名前はさっきも言ったけれどさ」
いいかい、と会長さんは真面目な顔で。
「実はブルーが開発したんだ、ブルーのサイオンが使ってあるわけ。それでね…」
「ぼくから君へのプレゼント!」
ソルジャーが話を引き継ぎました。
「いつも何かと報われない君に、ブルー限定で服がすっかり透けちゃう眼鏡をぼくが開発しました、ってね! その名もサイオン・スコープってわけ!」
透けてるかい? と訊かれた教頭先生は眼鏡をかけて会長さんをまじっと眺めて。
「え、ええ…」
「なら良かった。ただ、君の透視能力ってヤツが分からなくってさ、ぼくのハーレイに合わせて来たから、もしかしたら透け方が足りてないかも…」
「はあ…」
「もしも足りないようだったらねえ、度数アップに応じるよ」
ただし有料! とソルジャーは其処を強調しました。
「サイオン・スコープは大負けに負けて、九割引きで出血大サービス! 買う?」
料金はこんなものなんだけど、とソルジャーが告げた価格からドカンと九割引き。それでも充分にお高い値段で、アルテメシアでも一番の高級ホテルと名高いホテル・アルテメシアのメイン・ダイニングの最高のコースを三回くらいは食べられそうですが…。
「よ、喜んで買わせて頂きます!」
「本当かい? 作った甲斐があったよ、ぼくも」
教頭先生はいそいそと財布を持って来て、ソルジャーに全額キャッシュで支払いを。今月はまだ麻雀で負けていないのか、はたまた勝ったか。気前のいい支払いっぷりに、ソルジャーも大満足で渡されたお金を数えると…。
「オッケー、これでサイオン・スコープは名実ともに君のもの! それさえかけていればブルーの服がいつでもスケスケ、裸をバッチリ見られます、ってね!」
「…そ、その件なのですが…」
「ん?」
「じ、実は度数が今一つで…」
どうやら上着しか透けて見えないようなのですが、と教頭先生、しっかり申告。日頃のヘタレは何処へ行ったか、スケスケに透けるサイオン・スコープが欲しいんですね?
「そうか、度数が合ってないんだ…?」
度数アップは有料だけど、とソルジャーがスッと料金表を差し出しました。
「ぼくのサイオンを常に乗せておかなきゃいけないっていう辺りもあってね、度数を一気に上げるというのは無理なんだよ。段階的に、ってコトになるかな」
「段階的に…ですか…」
「君の透視能力さえ優れていればねえ…。ぼくのハーレイ並みでさえあれば、今ので充分にスケスケになる筈だったんだけど…。とりあえず一段階上げるためには、この値段だね」
「こ、これですか…」
ソルジャーの指が示した料金はゴージャスなもの。けれどソルジャーの指は更に隣の枠を指差し、その隣をも。
「こんな風にね、一段階上げるごとに料金も上がっていくんだけれど…。何処ですっかりスケスケになるか、実はぼくにも読めなくってさ」
「は、はあ…」
「透け過ぎちゃうとブルーの身体も透けてしまうし、度数アップは段階を追うのをお勧めするよ。上げてしまった度数を元に戻すより、そっちがお得」
下げる場合は技術料として別料金が…、と示された箇所にドえらいお値段。目を剥いている教頭先生に、ソルジャーは「ね?」と営業スマイルで。
「だから一段階上げてみようか、料金を支払ってくれるんならね」
「お、お願いします!」
必ずお支払いしますので、という教頭先生の御要望に応じて、ソルジャーは「じゃあ、貸して」とサイオン・スコープを受け取り、両手の手のひらの上へ乗せると。
「えーっと、まずは一段階、と…」
サイオン・スコープが青いサイオンの光に包まれ、それが収まった後、ソルジャーは自分でかけてみてから「はい」と教頭先生に。
「一段階アップしてみたよ、これで今度こそ透けるといいねえ?」
「は、はいっ!」
期待しています、と眼鏡をかける教頭先生に、会長さんが「スケベ」と一言。けれども教頭先生はメゲるどころか、会長さんを食い入るように眺めた後で。
「…どうやらこれでも駄目なようです…」
「そう? もう一段階、アップしてみる? 高くなるけど…」
「かまいませんっ!」
全く惜しくはありません、と鼻息も荒い教頭先生、もう完全にカモですってば…。
一段階ずつ度数をアップ。ソルジャーは途中から「先払いで」と言い出し始めて、教頭先生は「大丈夫です!」とキャッシュをバンバン。タンス預金と言うのでしょうか、ご自宅に金庫があったようです。
「ブルーのために、と日頃から蓄えておりまして…」
「うんうん、実にブルーのためだね、裸を拝むにはいい心掛けだと思うよ、ぼくも」
ソルジャーは度数アップと称して、せっせとキャッシュを毟りまくって。
「今度こそ大丈夫だと思うけどねえ?」
「あ、ありがとうございます!」
これで今度こそ下着も透ける筈です、と勇んで似合わない眼鏡をかけた教頭先生だったのですが。
「……はて……???」
「どうかした?」
「そ、そのぅ…。何やらモザイクがかかっているような…」
「ああ、やっとそこまで辿り着いたんだ?」
元々そう見える筈だったんだよね、とソルジャーの口から嘘八百が。
「最初から丸見えでは有難味が無いし、モザイクは基本装備なんだよ」
「…そ、そうなのですか…」
残念そうに肩を落とした教頭先生に、ソルジャーは。
「でも、大丈夫! モザイク除去のサービスも別にあるからね!」
ただし有料、と出て来た別の料金表。これまた細かく段階が分けられていて…。
「ぼくのハーレイなら一回で完全にモザイクを除去出来るんだけど…。君の場合は…」
「何段階になるか分からないというわけですね?」
「話が早くて助かるよ。モザイク除去が要るんだったら、今度もキャッシュで」
「もちろんです!」
もう幾らでもお支払いさせて頂きます、と教頭先生の欲望はボウボウに燃え上がっていて、キャッシュをバンッ! と。モザイク第一段階除去が完了したようですけど。
「…どうかな、ハーレイ?」
「…まだのようです…」
「仕方ないねえ、じゃあ、もう一段階やってみる?」
「お願いします!」
ブルーの裸のためならば、と猪突猛進な教頭先生は全く気付いていませんでした。眼鏡をかける度にまじまじ見ている会長さんの顔に、楽しそうな笑みが乗っていることに。
支払い続けること何十回目だか、ようやく教頭先生は望み通りのサイオン・スコープを手に入れました。会長さん限定で服がすっかり透けてしまって丸見えな眼鏡。
「こ、この眼鏡は素晴らしいですねえ…」
「そうかい? ぼくも嬉しくなってくるねえ、そうやってブルーの裸に親しんでいればヘタレもいずれは直るだろうし」
「そうですね!」
頑張って眼鏡生活を始めてみます、と教頭先生はソルジャーとガッチリ握手を。会長さんが大きな溜息をついて、「ぼくとの握手は?」と。
「散々、ぼくの身体を眺め回して握手無しとは厚かましいしね?」
「う、うむ…」
「ふふ、素っ裸のぼくと握手って? あ、視線を下に向けないようにね」
君には刺激的過ぎるから…、という会長さんの言葉に釣られて下を向いてしまった教頭先生、派手に鼻血を噴きましたけれど。
「…す、すまん…」
「だから言ったのに、下を見るなって。学校でもちゃんと気を付けるんだよ、眼鏡ライフ」
「ちゅ、注意する…」
しかし出会い頭に裸だったら…、と頬を染めつつ、眼鏡を外すつもりはまるで無いらしい教頭先生。週明けには校内でグレイブ先生と揃いの眼鏡の教頭先生にお目にかかれることでしょう。
「頑張るんだね、ぼくで鼻血を噴かないように」
「ぶるぅの部屋から滅多に出てこないから、そうそう会えるとも思えないのだが…」
「何を言うのさ、せっかく大金を払った眼鏡だしね? ぼくからは無料で散歩をサービス」
教頭室の窓の下とか中庭とかを散歩するよ、と会長さんは片目をパチンと瞑りました。
「せいぜい眺めて楽しんでくれれば…。ぼくにもその程度のサービス精神はあるんだよ」
結婚とはまた別だけどね、と言われた教頭先生は感無量。サイオン・スコープに大金を支払った甲斐があったと言わんばかりの感動の面持ちですけれど…。
「…あれってイメージなんだよねえ?」
瞬間移動で引き揚げて来た会長さんのマンションでのこと。ジョミー君の問いに、ソルジャーが。
「当たり前だろ、本当に透けて見えてるんならブルーが黙っちゃいないってね!」
「そういうことだよ、ハーレイの妄想の産物なんだよ、見えているのは」
あれだけ支払った挙句にイメージ、と大爆笑する会長さんとソルジャーはキャッシュを山分けしていました。教頭先生のタンス預金はまだまだ家にあるのだとかで。
「次はレーシックを勧めてみようかと思うんだよ」
ソルジャーが大量のお札をバラ撒いてヒラヒラと降らせています。
「「「レーシック?」」」
「そう、レーシック! こっちの世界の近視治療の方法なんだろ?」
前にこっちのノルディに聞いた、とお札をパァーッとバラ撒きながら。
「眼鏡が要らなくなる治療! それをサイオン・スコープに応用、裸眼でもれなくブルーの裸を拝めます、ってね!」
「なるほど、次はレーシックねえ…」
それもいいねえ、と会長さんがニヤニヤと。
「ぼくの裸を見慣れて来た頃、眼鏡無しライフをお勧めする、と!」
「そう! ぼくのシャングリラで入院と手術ってことで、料金の方は!」
ジャジャーン! とソルジャーが披露した額は壮絶でしたが、会長さん曰く、教頭先生だったらキャッシュで充分に払えるのだとか。
「ふふ、ハーレイにレーシックねえ…」
「うんと毟って、これどころじゃない札束の海を!」
「かみお~ん♪ お金のプールで遊ぶんだね!」
わぁーい! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ね、会長さんたちはすっかりやる気。騙されてカモられた教頭先生、まだカモられるようですけども。
「…まずは週明けのシャングリラ学園が楽しみですね?」
教頭先生が眼鏡ですよ、とシロエ君が指を立て、サム君が。
「グレイブ先生のとお揃いだしよ、なんか色々と笑えるよな!」
「とどのつまりはイメージってトコが最高なんだと思うわよ、コレ」
スウェナちゃんの言葉にプッと吹き出す私たち。カモられてしまった教頭先生、眼鏡の次はレーシック希望となるのでしょうか。札束の海も楽しみですけど、これからの鼻血と、いつ真相に気付かれるのかも楽しみです~!
眼鏡で素敵に・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が大金を払って、ゲットした眼鏡。効果は抜群みたいですけど、本当はイメージ。
そうとも知らずに、次はレーシックに挑戦かも。眼鏡姿は、似合うんですかねえ…?
次回は 「第3月曜」 11月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、10月は、キノコが美味しい季節。さて、どうなる…?
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(…こいつがいいんだ)
実に美味いんだ、とハーレイはアーモンドをつまんでいた。
いわゆるローストアーモンド。香ばしくローストされたアーモンドと絶妙な塩味のハーモニー。幾つでも食べられそうな気がする、流石にそれはしないけれども。器に入れて持って来た分だけ、それでおしまいにするつもりだけれど。
ブルーの家には寄れなかった日の夜、書斎の机で傾けるウイスキーのお供にアーモンド。
ウイスキーも深酒する気などはなくて、グラスに一杯と決めていた。深酒をしては酒の美味さが台無し、ゆっくり、じっくり味わいたいなら量は控えておくのがいい。
だからグラスに一杯分だけ、今日の気分はそんな所で。
普段だったらコーヒーだけれど、たまにはウイスキーもいい。夜のひと時、寛ぎの時に。
酒のお供にと選んだアーモンド。
冷蔵庫の中にはチーズもあったし、ナッツにしたってミックスナッツがあったけれども。色々なナッツを詰め合わせた缶、それが置いてはあったのだけれど。
今夜の気分はアーモンドだった、ローストアーモンドだけを選びたかった。
(なにしろ、これしか無かったからなあ…)
家に無かったという意味ではなく、帰り道に寄った食料品店に無かったという意味でもなくて。
前の自分の記憶に引かれた、今夜はアーモンドで飲んでみたいと。
白いシャングリラで暮らしていた頃、キャプテン・ハーレイだった頃。
人類の船から奪うのをやめて自給自足の生活に入った白い鯨では、バラエティー豊かなナッツは無かった。カシューナッツもピスタチオも無くて、マカダミアナッツも、ペカンナッツも。
白い鯨になったシャングリラで食べたナッツはアーモンドくらい、塩味をきかせたアーモンド。それにしようと遠い記憶がざわめいたから、今夜はローストアーモンドで。
白い鯨を懐かしむには丁度いいから、前の自分を思い出しながら飲みたい夜には。
前の自分の記憶と言っても、辛く悲しい記憶ではなくて。
前のブルーを喪った後の心塞がれた時代ではなくて、それよりも前の平和な時代。前のブルーが元気だった頃、シャングリラに希望が満ちていた頃。
地球の座標は掴めなくとも、アルテメシアの雲海から外へは出られなくとも、いつかは地球へと夢を見ていた、いつか地球へと旅立つのだと。
ミュウと人類とが手を取り合うのか、戦いになるか、それは誰にも読めなかったけれど。確かな未来は見えなかったけれど、それでも地球へと。
道は開ける筈だと信じた、前のブルーも、前の自分たちも。
そのためにも今を生きなければと、未来を作ってゆかなければと楽園という名の船を維持した、ミュウの楽園であるようにと。
外の世界には出られなくても、地面の上には降りられなくても、満ち足りた日々を船で過ごしてゆけるようにと。
船での暮らしを豊かにするため、選ばれたナッツがアーモンド。
何にするかと何度も会議を重ねたけれども、使い道の多さと花の美しさでアーモンドにしようということになった。同じ植えるならアーモンドがいいと、美しい花を咲かせるそうだからと。
(本当に綺麗だったんだ…)
あの花が、と白いシャングリラを思い出す。アーモンドが植わっていた船を。
桜のようだったアーモンドの花。桜によく似た花を咲かせた、淡い桃色の花を幾つも、幾つも。花の時期には木が桃色の雲のようになった、桜そっくりの花に覆われて。
桜にとても似ていたけれども、サクランボよりも早く咲いた花。
人工的に作り出された船の四季に合わせて、冬から春へと向かう頃に。芽吹きの春へと移りゆく季節に先駆けて咲いた、アーモンドの花は。
(今だと梅が咲く頃だよな)
白やら紅やら、冬は終わりだと花開く梅。早い梅なら雪の中でも開き始める、咲き始める。
今の自分たちが住んでいる地域、遠い昔には日本という名の小さな島国が在った辺り。日本では梅が好まれたというから、文化の復活と共に梅も戻った、あちこちに植えられ身近な存在。
今の自分は見慣れているから、アーモンドの花の時期には梅だと分かる。
シャングリラには無かった梅の花が開いて、香しい香りが辺りに漂う。春告草の名前どおりに、春の兆しを振り撒くように。
アーモンドの実は食べられるけれど、前の自分たちも食べたけれども。
今も香ばしいローストアーモンドをつまみにしているけれども、梅の花と言えば。
(梅干しも悪くはないんだ、これが)
日本風の酒を飲むなら、梅干しもいける。梅肉を使った和え物なども合う、たまに作ってみたりする。長芋を和えたり、豆腐に添えたり。
(つまみでなくても…)
梅の実の使い道はアーモンドと同じに色々とあった、梅干しにして食べる他にも。梅シロップに梅酒、それを作った梅を使って料理も出来るし菓子も作れる。
梅干しにしても、おにぎりに入れたり、梅肉を使う料理も沢山。
つまりはアーモンドと同じに役立つ梅の実、梅も花だけを愛でる木ではなかった。
シャングリラに梅は無かったけれども、あれば役立ったに違いない。花を咲かせた後の実までが充分に利用できるのだから。
アーモンドか梅か、どちらなのかと訊かれたら。
花が美しく、実まで使えるアーモンドと梅、どちらを取るかと尋ねられたら。
(今なら梅か…)
シャングリラに植えるというわけではなく、自分の好みで決めていいのなら梅を選びたい。
梅干しや梅肉などはともかく、実をつける前に開く花。まだ寒い内に咲き始める花。
その情緒で梅に軍配が上がる、アーモンドよりも梅の花だと。
せっかくの日本、かつて日本が在った地域で暮らすのだから、梅がいい。遠い昔の人々が愛した文化を楽しむ地域に生まれたのだし、同じ花ならやはり梅が欲しい。
春の足音を運ぶ梅の花、春告草とも呼ばれる花。
自分が教える古典の中にも幾つも出て来る、梅の花も、それを詠み込んだ歌も。
けれどアーモンドではそうはいかない、アーモンドでは古典の世界にならない。
今の時代も公園などにはアーモンドが植わっているけれど。早咲きの桜かと勘違いされることもあるのだけれども、ただそれだけで終わる花。
アーモンドの花が咲き誇る場所で古典の世界に浸れはしないし、梅の花とはまるで異なる。
(だが、花と言えば…)
花という言葉が指していた花。花と言えばこれだ、と誰もに通じた花の正体。
梅から桜に変わったのだったか、遥かな昔の日本では。
日本で最初に作られた都、その頃には花は梅だった。歌に詠まれた花という言葉は梅の花だけを指し、他の花ならば別の名で呼ばれた。「花」とだけあれば、その花は梅。
けれども都が別の場所へと移された後に、其処で都が栄える内に。
花は桜に変わってしまった、歌の中でも、書き記された日記や物語でも。花と言えば桜、梅ではなくて。誰も梅とは思わなくなった、花という言葉を耳にした時に。
(しかも、それだけではなくてだな…)
最高の権力を誇った天皇、その住まいの前に植えられた花まで梅から桜に変身を遂げた。以前は梅が植わっていたのが、桜の木に。対で植えられた橘の方は変わらないまま、梅だけが桜の木へと変わった。誰もおかしいと思いはしなくて、ごくごく自然に、いつの間にやら。
そうして花は桜に変わった、梅は「花」から「梅の花」へと変わって桜にその座を譲った。
なんとも不思議な話ではある、桜にサクランボは実らないのに。
サクランボが実る桜はまた別のもので、遠い昔の日本で愛された桜の花とは違うのに。
梅の木だったら実をつけ、それを食べることが出来る、日本で好まれた梅干しなどに加工して。
それに比べて桜はといえば、ただ花が咲くというだけのこと。サクランボは実らず、花が咲いた後には散ってゆくだけ、また次の年に花を咲かせるまでその場所に根を張っているというだけ。
梅と違って役に立ちはせず、手入れが必要というだけの桜。
せっせと手入れをしてみた所で翌年の春に花が咲くだけ、何の役にも立たないのに。
花が人の目を楽しませるだけで、それ以上のことは何も無いのに。
なのに梅から桜へと変わった、遠い昔の日本では。
実をつけ、役立つ梅の木から桜に変わった、「花」という言葉も、天皇の住まいを飾った花も。
(きっと日本は…)
平和だったのだろう、梅を桜に変えられるくらいに。
花の後には実をつける梅を、実などつけない桜に変えてしまえるほどに。
花を愛でられればいいと思える時代だったのだ、きっと。桜へと変わっていった時代は。
役に立つ梅の木を桜に植え替え、花という言葉も梅から桜へ変えた時代は。
(シャングリラでは無理だ…)
あの船にあったアーモンドを桜に植え替えるのは。
いくら平和な時代であっても、本当の意味での平和は無かった。戦闘が無かっただけの時代で、人類は変わらずミュウの存在を認めないままで。
シャングリラが雲海の中に潜んでいたから平和だっただけ、その存在を人類が知らなかったから何も起こらなかっただけ。
物資を補給しに宙港へ降りたり、輸送船を頼むことなど出来はしなくて、全てを船内で賄うしかなくて。自給自足の日々だった船では、アーモンドの木は必需品だった。
そのアーモンドを桜に替えても、誰も喜ばない、役に立たない。
アーモンドの実は採れなくなってしまい、桜の木ではサクランボも実りはしない。春になったら花が咲くだけ、ただそれだけの桜の木。
どんなに見事に咲いたところで、ほんの一時期、咲き誇った後は散ってゆくだけ。
いったい誰が喜ぶだろうか、そんな役立たずの桜の木を。同じような花が咲くアーモンドの木を抜いてしまって、代わりに桜を植えたとしても。
(…それとも、それも喜ばれたか?)
桜の花の美しさはやはり格別だから。
咲き初めから散ってゆくまでの間、刻々と変わる花の表情、それはアーモンドとは違うから。
遥かな昔の日本の人々が愛し、魅せられた花だけはあると今の自分は知っているから。
あのシャングリラにも桜があれば愛されたろうか、と思ったけれど。
駄目だと直ぐに思い直した、そんな心の余裕は無かった。
ただ愛でるために桜を植えようと、育ててみようとアーモンドの木と取り替えるだけの余裕などありはしなかった。桜は役に立たないのだから、サクランボも実らないのだから。
(やはりシャングリラではアーモンドなのか…)
桜と似たような花は咲くけれど、風情が違うアーモンド。花の季節も桜とは違う、桜よりも早い梅の季節に咲いて散ってゆくアーモンド。
そのアーモンドを植えておくのがギリギリ、実がなるからこそのアーモンドの木。ローストしてナッツの味を楽しんだり、粉にして菓子に使ってみたりと。
実をつけ、それが食べられるから許された薄桃色のアーモンドの花。けして愛でるためにある花ではなかった、桜の花とはまるで違って。
サクランボにしてもそうだった。桜に似た花を咲かせてはいても、花よりも実が大切だった木。アーモンドのようには長持ちしない実、贅沢だったサクランボ。赤く瑞々しいサクランボの実は、船での暮らしに欠かせないものではなかったから。
とはいえ季節を知らせる果物、愛されていたサクランボ。今年も採れたと、甘く美味しく実ってくれたと。
これが桜ではそうはいかない、花の後にはサクランボは無くて、花だけだから。
きっと誰にも顧みられず、役に立たない木が植わっていると思われただろう桜の木。
(…余裕の無い船だな、本当に…)
心の余裕がまるで無いな、と溜息をついた。
公園に薔薇はあったのだけれど、薔薇こそ何の役にも立たない観賞用の花だけれども。それでも薔薇は桜ほどに場所を取りはしないし、四季咲きだったから花は一年中。花の持ちも良くて桜とは違う、見る間に散ってしまいはしない。
その薔薇を使って薔薇のジャムまで作られていたのに、シャングリラの中に桜は無かった。
一面の桜並木は無かった、白い鯨の何処を探しても。
(そいつを作るならアーモンドなんだ…)
見渡す限りとまではいかなくても、ズラリと並んだ花の雲を船で見たければ。桜並木を思わせる景色を眺めたければ、似た花をつけるアーモンド。
だから桜並木のような景色は見られたと思う、アーモンドの木は一本だけではなかったから。
花の季節に其処へ行ったなら、桜によく似たアーモンドの花が薄桃色の雲を纏い付かせて立っていたろう、さながら早咲きの桜の如くに。
花見をしてはいないけれども。
誰も花見をしようとは言わず、アーモンドの花は静かに咲いては散ったのだけれど。
(日本だと花見なんだがなあ…)
今の時代も桜が咲いたら花見に出掛ける人たちは多い。心浮き立つ春の光景。
遠い昔に日本だった頃は、もっと優雅に桜を愛でていたという。池に浮かべた船から眺めたり、桜が咲いたと館で宴を開いてみたり。
桜を詠んだ歌も色々とあって、古典の授業の時間だけでは教え切れない、時間が足りない。
(世の中に絶えて桜のなかりせば…)
そんな歌まで詠まれた時代。
この世の中に桜というものが無かったならば、のどかな気持ちで春を過ごせるのに、と。
今日は咲くかと、明日の桜はどんな具合かと、心騒がせていた人々の心を詠んだ歌。桜のお蔭で気もそぞろだと、どうにも落ち着かない季節が春だと。
(平和だな…)
桜ひとつで、たかが桜の花くらいのことで大騒ぎしていた遠い遠い昔。
桜が無ければ春はのどかな気分だろうに、と歌に詠まれたほど、桜にかまけていられた時代。
理想郷だ、と思わないでもない。
桜の他には心騒がせるものが無いなど、まさにシャングリラだと、理想郷だと。
事実、平和な時代だったと文献にはある、戦乱も無くて華やかな文化が花開いたと。
(だが、人間が生きてゆくには…)
大変な時代だっただろう。
一部の貴族たちを除けば、家も食料も果たして足りていたのかどうか。今とは違って疫病などもあった、薬も満足に無かっただろうに。
桜が無ければ、と詠んだ貴族たちも、疫病ともなれば逃れられない。
(桜に変わる前の梅の時代は…)
もっと大変だっただろう。
疫病どころか戦乱があった、日本人同士で争い合った。権力者も次々に移り変わった、とうとう都も変わってしまった。長く都があった地を捨て、別の場所へと。
そうして都を移した先で平和が続いて、梅は桜に取って代わられた、桜の時代がやって来た。
花と言えば桜、梅ではなくて。
天皇が住まう建物の前にも、梅の代わりに桜を植えた。対になる橘はそのまま変わらず植わっていたのに、梅の方だけが桜の木に。
花を愛でることしか出来ない桜に、実などつけない役立たずの木に。
平和だったからこそ桜になったか、と考えずにはいられない。人間の役に立つかどうかよりも、美しい花が咲くものを、と。花を愛でられればそれで充分、そういう時代だったのだろうと。
本当の所はそんな理由ではなかっただろうと思うけれども。
中国から来た梅よりも日本の桜を重んじる風に変わっただけだと知っているけれど、前の自分の頃を思えば、桜を平和だと思ってしまう。役に立つ梅より桜なのか、と。
白いシャングリラでは役に立たない桜を植えても駄目だったから。似たような花のアーモンドを育て、実を採らなくてはならなかったから。
アーモンドから桜に植え替えることなど出来はしなかった、役立たずの桜は植えられない。自給自足の船の中では。どんなに花が美しかろうと、アーモンドは桜に替えられなかった。
けれど…。
(シャングリラだって…)
時を経てゆけば、桜の船になっただろうか。
役に立つアーモンドを植える代わりに、桜を育てられただろうか。
平和な時代がやって来たなら、花を愛でるための木を植えられるような時代になったなら。
遥かな遠い昔の日本で、梅が桜に変わったように。役に立つ木から花だけの木へと、アーモンドから桜の木へと、いつしか変わっていったのだろうか。
前の自分たちが生きた時代が終わって、トォニィたちの時代になったら。
ミュウと人類とが共に生きた時代、本当の平和がやって来た時代。シャングリラは宇宙を自由に旅した、何処の星にも降りることが出来た。物資の補給も何処ででも出来た。
アーモンドの木にこだわらなくても、桜に植え替えられただろう。トォニィたちが桜にしたいと望みさえすれば、アーモンドの木を全て桜と取り替えることも。
ところが、木々の交代劇は起こらなかったシャングリラ。
公園も農場もそのままに保たれ、丁寧に世話が続けられた。アーモンドの木も。
(頑なに植え替えなかったんだよな…)
シャングリラのその後はどうなったのか、と調べたデータベースの資料で知った。
前の自分たちが生きた時代に敬意を表して、トォニィたちはシャングリラをそのままの形で残し続けた。青の間やキャプテンの部屋はもちろん、公園の木々も農作物なども。
自給自足の必要性などなくなった後も、アーモンドの木は残り続けた。花を愛でるだけの桜にはならず、最後までアーモンドが植わったままで。
(あの船に、桜…)
前の自分は見られないままで終わったけれども、次の時代に見たかった。
トォニィとシドが引き継いだ後に、そういう平和なシャングリラを。
アーモンドの代わりに桜が咲き誇る白いシャングリラを、平和な時代の桜の船を。
(はてさて、ブルーがこれを聞いたら…)
ブルーはどんな顔をするのだろうか、「桜の船を見たかった」と自分が言ったら。
かつてシャングリラを指揮したキャプテン、その自分が桜を植えたかったと言ったなら。平和な時代になった後には桜の船にして欲しかったと。
(あいつに話してみるとするかな…)
明日は土曜日なのだから。そのせいもあって、ウイスキーと洒落込んでみたのだから。
アーモンドを土産に持って出掛けて、小さなブルーに話してみたい。アーモンドの木を全部桜に替えて欲しかったと、そんなシャングリラが見たかったと。
(…だが、あいつだしな?)
小さなブルーと酒を飲むのは無理だから。つまみにナッツとはいかないから。
ローストアーモンドを持ってゆく代わりにクッキーにしようか、アーモンドの粉を使って焼いたクッキー。柔道部員たちが遊びに来た時は、徳用袋を買いにゆく店の。
アーモンドをつまみにウイスキーを飲んで、眠った翌朝。
桜の船は覚えていたから、ブルーの家へと出掛ける途中でクッキーの店に立ち寄った。徳用袋がドンと置かれているのだけれども、今日はそちらに用事は無い。
(これに憧れてるのも、あいつなんだが…)
ブルーが欲しがる徳用袋。割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた袋なのだけれど、柔道部員を家に招いたら出すと話したら、綺麗に揃った詰め合わせよりも魅力的だと思えたらしい。多すぎて食べ切れないというのに、ブルーは徳用袋が憧れ。
けれども、今日はアーモンド。徳用袋の方は無視して、アーモンドクッキーの袋を一つ。二人で食べるのに良さそうな量が入ったものを。
クッキーの袋を入れて貰った紙袋を提げて歩いて、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。二階の部屋に案内されて間もなく、ブルーの母がクッキーを盛った器と紅茶を運んで来たものだから。
小さなブルーはクッキーの器をまじまじと眺め、「お土産?」と首を傾げて訊いた。
「まあな。たまにはこういう土産もいいだろ」
「なんでクッキー? これって、いつものお店のでしょ?」
徳用袋が良かったのに、とブルーは唇を尖らせた。ぼくの憧れは徳用袋、と。
しかも一種類だけしか買って来ないとは何事なのか、と不思議がるから。あの店だったら色々なクッキーが揃っているのに、どうして詰め合わせにしなかったのか、と尋ねるから。
「そりゃあ、理由があるってな。これしか買ってこなかったんだし」
「ハーレイのお勧めのクッキーなの?」
これが特別美味しいだとか、今の限定商品だとか。
「そうじゃなくてだ、こいつはアーモンドクッキーで…。そこが大切なポイントなんだ」
アーモンドって所だ、それが大事だ。
「…アーモンド?」
ちっともヒントになっていないよ、アーモンドの何処が大切なの?
「前の俺たちだ。シャングリラでナッツと呼べるようなの、アーモンドくらいだっただろ?」
栗の木なんかもあったりはしたが、栗はナッツと言っていいのか…。
ナッツの内には入るんだろうが、あれはデカすぎて木の実っていう感じだったしな。
本当はアーモンドを丸ごと持って来たかったが…、と苦笑した。
しかしそれでは酒のつまみだと、紅茶には全く似合わないからクッキーなのだと。
「…それは分かるけど、アーモンドを持って来た理由が分からないよ」
まだ分からない、とブルーが赤い瞳を瞬かせるから。
「思い出したからさ、シャングリラにあったアーモンドの木をな」
少し昔を懐かしむか、と昨夜はアーモンドをつまみに飲んでたんだが…。
最初の間は食べていたことを思い出していたが、途中から花の方へと行った。アーモンドの花、桜の花に似ているだろうが。
それで、シャングリラでは桜なんかを植える余裕は無かったな、と思ってな…。
似たような花でも実をつけるアーモンドしか植えていられなくて、実をつけないような桜の木は駄目で。ついでに、花が咲いて実をつける木なら梅があるわけだが、それも無かった。
まあ、あの時代は梅の実を食べる文化は無いしな、梅を植えようとは思わんだろうが…。
そこでだ、今、俺たちが暮らしてる地域。
此処は昔は日本だったろ、日本じゃ梅から桜に変わっていったんだ。花と言ったらこの花だ、と決まっていた花が梅から桜に。
「ふうん? …変わっちゃったんだ?」
「ずっと昔に、梅から桜へコロリとな。そうなった理由はちゃんとあるんだが…」
俺はウッカリ考えちまった、食える梅より、花だけの桜に変わっちまったとは平和だな、と。
人間の役には立ちそうもない木を大事にするとは、よほど平和な時代だったに違いない、とな。
だから…、とブルーの瞳を覗き込んだ。
「俺たちのシャングリラもそうしたかった、と思っちまったんだ」
梅じゃなくってアーモンドだったが、あれを桜に替えたかったと。
それでアーモンドを持って来たわけだ、この実が無くても桜の船にしたかったな、と。
「…それって、いつに?」
アーモンドの木は大切だったよ、みんなで考えて植えたんだから。
それを桜に植え替えるなんて、船中が反対しそうだけれど…。桜には実がならないんだもの。
サクランボの木にするならともかく、ただの桜は難しそうだよ。
「うむ。…だから、俺たちの時代には無理だった。俺が言うのは、もっと後のことだ」
つまり、トォニィとシドの時代のシャングリラだな。
あの時代にはもう、アーモンドの木は必要無かった。欲しけりゃ補給出来たんだからな。
そういう平和な時代だったし、アーモンドの代わりに桜を植えて欲しかった。平和な時代らしく桜の船になっていたらな、と思ったんだが…。
お前は、それをどう思う?
アーモンドの代わりに桜が植わったシャングリラ。平和で良さそうだと思わないか?
「…そのシャングリラ、見てみたかったかも…」
前のぼくは死んでしまっていたけど、もしも見られるなら見たかったよ。
アーモンドの代わりに桜が一杯、春になったら桜の花が咲くシャングリラを。
「そうだろう? 俺も見てみたかったんだ」
死んじまっていても、そんなシャングリラなら是非見たかった。平和になったと、いい船だと。
だが、あいつらは前の俺たちが植えた木とかを、変えようとしなかったんだよなあ…。
大切に思っていてくれたからこそだが、桜の船は見たかったよなあ…。
アーモンドの木は桜に変わらないまま、他の木もそのまま、白いシャングリラは飛び続けた。
最後のソルジャーになったトォニィを乗せて、キャプテン・シドが舵を握って。
広い宇宙をあちこち旅して、トォニィが決めた長い旅の終わり。
もうシャングリラは役目を終えたと、この先の時代にシャングリラはもう必要無いと。
そしてシャングリラは解体されて、時の彼方に消えたから。宇宙から消えてしまったから。
「ねえ、ハーレイ…。シャングリラ、最後に桜の船にしてあげたかったね」
アーモンドの代わりに桜の木を乗せて、平和な時代らしく飛ばせてあげたかったね…。
「俺もそう思う。ほんの数年だけでもな」
解体が決まってからも何年かは飛んでいたんだ、色々な星がシャングリラを招待したからな。
そういう所へ出掛けてゆくなら、桜の船でも良かったんだ。
前の俺たちが植えておいた木にこだわらなくても、平和な時代に相応しい木にしてくれれば。
引退の時には桜を乗せて飛んで欲しかった。
アーモンドの木の代わりに桜を、花を愛でるだけの桜の木を。
そうはならなかった船だけれども、シャングリラは最後までアーモンドと共に飛んだけれども。
小さなブルーも、桜の船を見たかったと言う。桜の船にしてやりたかったと。
「シャングリラに桜…。トォニィは桜、知ってたのかな?」
何処かで桜の木を見ていたかな、アーモンドの木よりも素敵だと思って見てたかな?
「どうだかなあ…」
それはなんとも分からんなあ…。桜を植えてた星も多いとは思うんだが。
しかしだ、トォニィが桜を知っていたとしても、日本の文化の移り変わりまでは知らないぞ。
梅から桜だと知りはしないし、知っていたって、俺のような考え方になったかどうか…。
アーモンドを桜に植え替えようとは思い付かなかったろう、恐らくな。
シャングリラが引退の時に花一杯で飛んでいたとしたって、桜じゃなくて別の花だろうなあ…。
「うん、でも…。お疲れ様、って花だらけだよね」
きっと宇宙のあちこちの星から、沢山のお花。
それを一杯に乗せて貰って、シャングリラは飛んで行ったと思うよ。
ブリッジだってきっと花で一杯で、舵の周りまで花が飾ってあったと思うよ…。
ミュウの歴史の始まりの船だったシャングリラ。
どんな引退式だったのか、詳しくは伝わっていないけれども、花は溢れていただろう。
シャングリラの労をねぎらう花たち、「ありがとう」と感謝の気持ちがこもった花たち。
その花たちを乗せてシャングリラは飛んで、植えられていた木はシャングリラの森に移された。始まりの星のアルテメシアに作られた記念公園に。アーモンドの木も、其処に引越したろう。
桜の木には植え替えられずに、最後までシャングリラと一緒に飛んで。
他の木たちと共に引越して、シャングリラの森で咲き続けたろう。春が来る度に花を咲かせて、桜とは違って実をつけ続けて。
そしてシャングリラは宇宙から消えた、白い鯨はいなくなった。
「…なくなっちまったなあ、シャングリラ…」
今じゃシャングリラ・リングしか残ってないなあ、シャングリラの名残。
モニュメントとかと違って、俺たちでも触れそうなものとなるとな。
「シャングリラの一部だった金属で作ってくれるんだよね、シャングリラ・リング」
結婚指輪を申し込んだら、抽選でちゃんと当たったら。
それにシャングリラの記憶、あるかな?
シャングリラ・リングを作って貰えたら、シャングリラの記憶を見られるのかな…?
「さてなあ…。そういった話は俺も知らんが…」
見えたって話に出会っちゃいないし、そいつは何とも分からないが…。
貰ってみないことには謎だな、シャングリラ・リングにシャングリラの記憶があるかどうかは。
分からないな、とは言ったけれども。
白いシャングリラで共に暮らした自分たちだったら、もしかしたら。
シャングリラ・リングを嵌めて眠れば見られるかもしれない、シャングリラの記憶を夢の中で。
そう口にしたら、小さなブルーは赤い瞳を輝かせて。
「ちょっと見たいね、シャングリラの記憶」
最後まで幸せだっただろうけど、幸せ一杯の引退飛行を。
トォニィとキャプテン・シドを乗っけて、沢山の花を一杯に乗せて。
「俺も見たいな、シャングリラには散々苦労をさせたからなあ…」
地球に行くために苦労をかけたし、引退の時には幸せであって欲しいもんだ。
いつかお前と見られるといいな、そういう幸せなシャングリラをな…。
シャングリラにあったアーモンドの木。
桜の木には植え替えられずに、そのままになってしまった木。
白いシャングリラを桜の船にはしてやれなかったけれど、それは叶わなかったけれども。
花一杯の幸せなシャングリラを見たい、役目を終えて旅立つ時の。
前の自分は見られずに終わった、シャングリラの幸せに満ちた旅路を。
叶うものならブルーと二人で、その夢を見たい。
いつか幸せに抱き合って眠る夢の世界で、一杯の花に囲まれて旅立つシャングリラを…。
アーモンドと桜・了
※シャングリラに植えられていたアーモンドの木。愛でるためではなくて、実を食べるために。
平和になった時代だったら、桜の木でも良かった船。ブルーとハーレイの夢の船です。
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