シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(今日はお客様…)
そうだったっけ、とブルーは三段重ねのケーキスタンドをじっと見詰めた。
学校から帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。そこに置かれているケーキスタンド。お皿はすっかり空だけれど。綺麗に洗われ、元の通りにセットしてあるだけだけれども。
(でも、ケーキは…)
これに載ってたケーキと同じのだよね、と自分のおやつのお皿を見てみる。それから視線を空のお皿へ、ケーキスタンドのお皿の方へ。
母の来客、ケーキスタンドはどの部屋で出されたのだろう?
人数によって変わるけれども、リビングか、あるいは応接室か。ダイニングが舞台になることもあるらしい。母のお茶会、友人たちを家に招いて。
三段重ねのケーキスタンド、紅茶もたっぷり、とっておきの午後のおもてなし。
(ぼくもそんなの…)
食べてみたいな、とふと思った。
友達を招くというのではなくて、ハーレイと。
ハーレイが訪ねて来てくれた日には、自分の部屋のテーブルでお茶。でなければ庭で一番大きな木の下の白いテーブル、それが定番。
何度もお茶とお菓子を楽しんだけれど、ケーキスタンドの出番は一度も無かった。ただの一度も出て来てはくれず、ケーキはお皿に載っているだけ。一人分ずつ、一枚のお皿に。
(…これに色々、乗っけるんだよね?)
母のお茶会は、ブルーが学校に行っている間に開かれるもの。母はブルーを放ってお茶会をするタイプではないし、帰って来る頃には終わっている。
けれども、今より幼かった頃。下の学校の低学年だった頃は、学校が早く終わったから。帰った後にお茶会ということもあって、そういう時には覗いてみた。
(いらっしゃい、って言われたんだけど…)
母も、お茶会をしている母の友人たちも。
「一緒にお菓子を頂きましょう」と誘われたけれど、それもなんだか恥ずかしくて。ピョコンとお辞儀して逃げて帰った、自分の部屋へ。
だから知らない、お茶会なるもの。知っているけれども、ブルーは参加したことがない。
三段重ねのケーキスタンド、それを前にしてお茶の時間を過ごした思い出は一つも無くて。
(…ハーレイとこれでお茶にしたいな…)
特別なおもてなしだから。ハーレイはブルーの特別だから。
これでティータイムに出来ないものか、とケーキスタンドをしきりに見ていた所へ、折よく母が通り掛かったから。
「ママ、あのお皿…」
指差すと、母は笑顔で頷いた。
「ええ、今日はお客様だったから。お客様用のお皿よ、あれは」
「知ってるけど…。あのお皿、ぼくは使っちゃ駄目?」
「えっ?」
どうしたの、と怪訝そうな母。駄目とはどういう意味なのか、と。
「えっと…。ぼくのお客様には出せないの、あれは?」
お客様用だよね、ママの大事なお客様。そういう時に出すんだってことは知ってるけれど…。
ハーレイはお客様とは違うだろうか、と尋ねてみた。
いつも訪ねて来てくれるけれど、特別なお客様の中には入らないのか、と。
「もちろん、ハーレイ先生は特別よ?」
ブルーの守り役を引き受けて下さったんだし、何よりもキャプテン・ハーレイでしょう?
パパとママしか知らないことでも、ブルーがずうっと遠い昔からお世話になってた人なのよ?
特別じゃないわけがないでしょう。とても大切なお客様だわ、この家のね。
「じゃあ、あれ…」
あのお皿でハーレイにお菓子を出して、と頼んでみた。三段重ねのケーキスタンド。
ハーレイは特別で、ぼくのお客様なんだから、と。
「あらまあ…。ママはかまわないけれど、でも、先生が…」
何と仰るかしら、と首を傾げた母。
ケーキスタンドを出すのも、お菓子を作るのもかまわないけれど、ハーレイ先生が…、と。
「ママ、ハーレイがどうかしたの?」
ハーレイ、ママのお菓子が好きだし、喜ぶだけだと思うけど…。お菓子が沢山、いろんな種類。
それをゆっくり食べられるんだし、きっとハーレイも大喜びだよ。
「お菓子はそうかもしれないけれど…。問題はケーキスタンドなのよ」
こういうのをお出しするお客様は女の人なの、女の人向けのものなのよ。
「…女の人向け?」
ママのお友達だから女の人ってわけじゃなくって、これが女の人向けなの?
三段重ねのケーキスタンド…。だからハーレイには出していないの?
「そうよ、ブルーは知らないの?」
お茶会は女の人たちが開く集まりで、男の人のものではないんだけれど…。
男の人が主役のお茶会だったら、ケーキと紅茶のお茶会じゃないわ。日本のお茶を使った方よ。
「…そうだったかも…」
ぼくはお茶会、知らないけれど…。
前のぼくの頃なら、女の人たちがやっていたかも…。
白いシャングリラにもお茶会はあった。白い鯨が出来上がる前から、紅茶とお菓子で。
それを開いていた顔ぶれを思い浮かべれば、エラを筆頭にした女性たち。
男性がしてはいなかった。彼らはお茶会を開く代わりに、好きに集まって紅茶やコーヒー。昼の間は。夜ともなれば酒を酌み交わして楽しんでいたし、そちらの方が主だった筈。
(…男の人だと、お茶よりお酒…)
前の自分は苦手だった酒。ゆえに酒宴に出ても飲めなかったから、印象に残っていなかった。
言われてみれば気の合う男性が集まって飲むのなら酒で、ケーキよりも酒の肴の出番。チーズやハムやら、そういったもの。
(…ぼくはお茶会にも出てたけど…)
女性たちが集まる席にも招かれたけれど、喜んで出掛けていたけれど。
もしも自分が酒好きだったら、お茶会よりも酒宴だっただろう。ハーレイもきっと酒宴の方。
(…ハーレイ、喜ばないのかな…)
女性向けだというケーキスタンドを出されても。
特別なお客様なのだから、と母に頼んで、ケーキやお菓子でもてなしても。
(ハーレイ向けじゃなかったわけ…?)
母のとっておきのおもてなし。三段重ねのケーキスタンド。
それをハーレイに出したかったし、自分も食べてみたかったのに…。
しょんぼりと肩を落としたブルーだけれども、考えていたらしい母が口を開いた。
「…まるで駄目ってこともないわね、男性向けのもあるそうだから」
ママのお友達が話していたのよ、ご主人と食べに行って来た、って。
男性向けのアフタヌーンティーのセットを出している場所へ。
「ホント!?」
それならハーレイにも出せるよね、ママ!
男の人用に作ってあるなら、ハーレイも何も言わないよ。だって、お菓子は好きなんだもの。
「そうなんだけど…。男性向けだと、ブルーには無理よ」
男の人が食べに行くように出来ているのよ、何もかも男の人向けなのよ。
ケーキスタンドに載っているものは同じものでも、サイズが違うの。
こんな風に、と母が手で示したサンドイッチは大きすぎた。
ブルーにとっては立派に昼食と呼べるサイズのサンドイッチ。それが幾つも出るという。他にも色々、スコーンもケーキも大きめ、多め。身体の大きい男性用のものだから。
「…ブルーのお腹には、普通の量でも多そうねえ…」
ママたちが食べてるような量でも、お腹一杯になってしまうんじゃないかしら。
ケーキにスコーンにサンドイッチよ、三段重ねのケーキスタンドに載せて出すものは。
午前中のお茶に出したら、お昼御飯が入らないでしょ?
アフタヌーンティーらしく午後に出したら、夕食が食べられなくなるわ。
きっとそうよ、と言う母だけれど。
自分でもそうに違いないと思うけれども、三段重ねのケーキスタンド。
とっておきの母のおもてなし。
だから…。
一度はハーレイと食べてみたい。
特別なお客様用に出されるものを。母のお茶会で使われるケーキスタンドで。
どうしても食べたい、と強請ったら。
ハーレイと二人でこれを使いたい、とケーキスタンドを前にして踏ん張っていたら。
母は「仕方ないわねえ…」と呆れ顔で。
「ハーレイ先生に訊いてみなさい、お茶会をしてもいいですか、って」
先生がいいと仰ったのなら、お茶会の用意をしてあげるわ。午前中でも、午後からでも。
午前中からアフタヌーンティーというのも変だけれども、ブルーのお腹が一番だもの。お茶会は楽しく開ければいいの、ブルーが素敵な気分になれれば。
「うんっ!」
ハーレイが来たら、訊いてみる!
今日はどうだか分からないけれど、次に家まで来てくれた時に!
(ハーレイとお茶会…)
出来るといいな、と部屋に戻って勉強机の前で頬杖をついた。
この部屋のテーブルにもケーキスタンドは充分置ける。紅茶のカップやティーポットも。
(…あそこでお茶会…)
やってみたいな、とテーブルをチラチラ眺めていたら、来客を知らせるチャイムの音。大急ぎで駆け寄った窓から覗くと、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
早速チャンスがやって来たから、これは訊くしかないだろう。ハーレイと二人でお茶会をしてもかまわないかどうか、女性向けでも気にしないかと。
いつものように部屋で向かい合わせで座ったハーレイ。テーブルの上にはお茶とお菓子。普段と全く変わらない光景、三段重ねのケーキスタンドは欠片も無いから。
「あのね…。ハーレイ、こんなお皿を知っている?」
こうして一枚ずつじゃなくって、三枚でセットなんだけど…。
枠があってね、そこに一枚ずつお皿がくっついてるんだ、ケーキとかを載せるためのお皿が。
「ほほう、アフタヌーンティー用のケーキスタンドか」
「知ってるの?」
「今の俺はな」
前の俺だと、知識くらいしか無かったわけだが…。
今度の俺は一味違うぞ、アフタヌーンティーにも縁があるってな。
おふくろがたまにやっているから、と語るハーレイ。
日本の古い文化が大好きな母だけれども、アフタヌーンティーも友人たちと楽しんでいると。
「ケーキやスコーンを用意してうんと張り切っているぞ、俺のおふくろ」
今日もやっていたかもしれないなあ…。もしかするとな。
「ハーレイ、そういうお茶会に出てた?」
「ガキの頃はな」
サンドイッチも菓子も食べられるんだし、出くわしたら参加するべきだってな。
道場やプールに出掛ける前にたらふく詰め込んでったさ、紅茶はともかく、食い物の方を。
「それなら、もう一度、出てくれない?」
ぼく、ハーレイと食べてみたくって…。あのケーキスタンドでケーキやスコーンを。
ママに訊いたら、ハーレイがかまわないなら用意してくれるって。
ホントは女の人向けのだから、ハーレイ先生に訊いてみなさい、って…。
ハーレイは何と答えるだろうか、とブルーは鳶色の瞳を見上げた。
出来れば「いいぞ」と応じて欲しいけれど、と祈るような気持ちで待っていたら。
「かまわないが…。お前がやりたいのなら、俺は付き合ってやるが」
しかしだ、アフタヌーンティーをやろうと言うなら、お前の飯はどうするんだ?
あれは凄い量の菓子とサンドイッチがつきものなんだぞ、その後で飯が入るのか?
「ママにも言われたんだけど…。量を減らして貰おうかな…」
御飯じゃなくって、お菓子の方。ケーキとかサンドイッチの量を。
「そいつは駄目だぞ、マナー違反だ」
「マナー違反?」
何が駄目なの、マナーって、何が?
「菓子とかの量を減らすってヤツだ。アフタヌーンティーのマナーに反する」
お客様をもてなすために出すんだからなあ、サンドイッチもケーキとかも。
量が少ないと、お客様に対して失礼ってもんだ。この程度でいい、というわけだろうが。
沢山の菓子を用意しなくても、この客にはこれだけで充分だ、とな。
アフタヌーンティーの菓子などは食べ切れないほど出すのが正式。
少なめは駄目だ、と教えられた。おふくろからの受け売りだが、と。
「…じゃあ、ママに頼んで午前中のお茶に出して貰って…」
昼御飯を食べない方にしようかな、ハーレイの分だけ作って貰って。
「俺の分だけ昼飯って…。抜くのか、お前は?」
食わないつもりか、アフタヌーンティーの方が優先で?
午前中にやってもアフタヌーンティーと呼ぶのかどうかはともかく、午前中にお茶で。
「うん。午後に食べて晩御飯を抜くよりはマシだよ、きっと」
しっかり食べなきゃいけない御飯は晩御飯だし…。お昼御飯を抜くことにするよ。
「よし。そう決めたのなら付き合ってやる」
お前がそこまでしたいと言うんだ、俺も付き合ってやろうじゃないか。
久しぶりだな、そういうものな。おふくろのお茶会、長いこと御無沙汰しているからなあ…。
目出度くハーレイの許可を取り付けたから。
夕食を終えたハーレイが「またな」と手を振って帰った後で母に報告、お茶会の用意をして貰う日は土曜日と決まった。ハーレイと午前中から過ごせる週末。
心躍らせる内に土曜日、いつもより早く目が覚めたほど。
朝食が済んだら部屋の掃除で、お茶会の場所になるテーブルを念入りに拭いた。いい天気だから歩いて来るだろうハーレイの姿が見えはしないか、と胸を高鳴らせて。
母は昨日からケーキを焼いたり、あれこれ準備をしてくれている。スコーンを焼くための支度を覗きに行ったら、ダイニングのテーブルにケーキスタンド。三段重ねの。
(今日はこれ…)
ぼくのお客様、と空のお皿をワクワク眺めた。このお皿に母が色々と載せてくれるのだ。
特別なおもてなしに相応しいものを。スコーンやケーキやサンドイッチを。
弾む足取りで階段を上り、部屋で待っていたらチャイムが鳴って…。
訪ねて来てくれたハーレイに、挨拶もそこそこに声を掛けずにはいられない。
「ハーレイ、今日は特別だよ」
うんと特別、ママが用意をしてくれてるから。
「アフタヌーンティー、今日なのか?」
「うん!」
午前中だけど、アフタヌーンティー。ママもアフタヌーンティーって言ってたし…。
その呼び方でいいんじゃないかな、お茶会って呼ぶより特別な感じがするんだもの。どうせなら名前も特別がいいよ、せっかくの特別なお茶なんだから。
間もなく母が運んで来てくれた三段重ねのケーキスタンド。それにポットやティーカップ。
ケーキスタンドには食べ物がギッシリ、サンドイッチにケーキにスコーン。
幼かった頃に見てはいたけれど、ここまでだとは思わなかった。「いらっしゃい」と誘われても部屋に逃げていたから、ちょっぴり覗いただけだったから。
「…凄い…」
サンドイッチもスコーンも一杯、それにケーキも…。
ママが言ってた通りだったよ、ぼく、お昼御飯までは食べられないよ。
「凄いって…。お前、アフタヌーンティーは初めてなのか?」
食べたことが無いのか、それでやたらとこだわってたのか?
「えーっと…。食べたことが無いのは本当だけど…」
食べてみたいからハーレイを誘ったわけじゃないんだよ、それは本当。
ママが特別なお客様に出しているから、ハーレイにも出してみたかっただけ。
だって、ハーレイは特別だもの。誰よりも特別なんだもの…。
「そりゃまあ、なあ…?」
特別でなくちゃ、俺だって困る。お前の特別が俺じゃないなら、俺の立場が無いってな。
俺にとってもお前は特別なんだし、俺の大切な恋人だ。
お前の頼みならアフタヌーンティーに付き合うくらいはお安い御用だ、午前中だが。
午後でもないのにアフタヌーンティー。午前中からアフタヌーンティー。
母のとっておきの三段重ねのケーキスタンド、一番下のお皿に手を伸ばした。ローストビーフや海老やサーモン、小さなサイズのサンドイッチが綺麗に盛られているけれど。
目に付いたローストビーフのを取って、食べ始めたら。
「ふうむ…。やはり此処でもキュウリだな、うん」
まずはこいつだ、とハーレイがキュウリのサンドイッチを手に取った。「覚えてるか?」と。
「…キュウリ?」
「俺たちにはこいつが思い出のサンドイッチだろうが。キュウリのサンドイッチ」
シャングリラで食ったろ、一番最初の収穫祭で?
お前の方が先に思い出したんだぞ、キュウリのサンドイッチだった、ってな。
「ホントだ、あの時のキュウリのサンドイッチだ!」
凄いね、ハーレイ。こんなに色々揃っているのに、キュウリに最初に気が付くだなんて。
ぼくは他のに釣られてしまって、ローストビーフを食べちゃったのに…。
次はキュウリ、とブルーもキュウリのサンドイッチを頬張った。
お弁当などに入るものより、ずっと小さなサンドイッチ。いわゆるフィンガーサンドイッチ。
ハーレイの褐色の大きな手には似合わない大きさなのだけれども。
キュウリしか入っていないサンドイッチは特別、シャングリラで食べた思い出の味。
「前の俺たちが食ってた頃から、途方もない時間が流れたわけだが…」
今の時代も正式なアフタヌーンティーってヤツには、こいつが欠かせないってな。
キュウリだけのサンドイッチが入っていないと始まらないそうだ、俺のおふくろも言っていた。
俺がそいつを聞いた時には、何とも思わなかったんだが…。
記憶が戻った今となっては、キュウリのサンドイッチは格別だな。
「うん。あのサンドイッチを食べてた時には、シャングリラはまだ白い鯨じゃなくて…」
改造前の段階だったね、自給自足が出来るかどうか、って作ってた畑。
それでも収穫祭をしよう、ってヒルマンとエラが色々と調べてくれたんだっけね…。
今でも正式なアフタヌーンティーには必ず入るらしいキュウリのサンドイッチ。
そのサンドイッチがシャングリラで最初の収穫祭を彩った。SD体制が始まるよりも遥かな昔に王侯貴族が食べたものだと、キュウリだけのサンドイッチが贅沢な時代があったのだと。
王侯貴族になった気分で皆が味わっていたサンドイッチ。遠い昔にシャングリラで。
「…ハーレイ、この味、懐かしいね」
キュウリだけしか入ってないけど、あの日とおんなじ味がするよね。
「そうだな、シャングリラの思い出だよなあ…」
あの頃は、まさかお前と二人で地球で食える日が来るとは思っていなかったが…。
それも本物のアフタヌーンティーを、チビのお前の部屋で楽しむ日が来るなんてな。
三段重ねのケーキスタンドまで用意して貰って、ケーキもスコーンもたっぷりとはなあ…。
実に感慨深いもんだ、とハーレイがティーカップを傾けているから。
キュウリのサンドイッチの他にも何か無いか、と覗き込んだブルーは「そうだ!」と叫んだ。
「このスコーン…。今のハーレイとの思い出の味だよ、夏休みの一番最後の日!」
前の日にハーレイが持って来てくれたよ、ハーレイのお母さんのマーマレードを。
それをスコーンにつけて食べたのが夏休みの一番最後の日。庭のテーブルでハーレイと一緒に。
「うむ。お前が泣きそうになっていた日だっけなあ…」
おふくろのマーマレードを一番に食べようと思っていたのに、先に食われてしまったとかで。
お前へのプレゼントだとは言えなかったし、そうなるのも仕方ないんだが…。
あの時のお前、この世の終わりみたいな顔だったっけな、食われちまった、って。
今じゃマーマレードは定番になって、お前、毎朝、食ってるわけだが。
「そうだよ、ハーレイが届けてくれるんだもの」
マーマレードはまだあるか、って、いつも早めに。
夏ミカンの金色のマーマレードをキツネ色に焼けたトーストにたっぷり、それが大好き。
ハーレイが「美味いんだぞ」って教えてくれた、バターと一緒に塗るのも好きだよ。
今日のスコーンにはマーマレードではなかったけれど。
イチゴのジャムを入れた器がついて来たけれど、あの日のスコーンは思い出の味。
今のハーレイと青い地球の上で食べた、焼き立てのスコーンと夏ミカンのマーマレードの味。
ブルーは三段重ねのケーキスタンドを見ながら呟いた。
「んーと…。キュウリのサンドイッチがあるから、サンドイッチのお皿に乗っかってるのが…」
シャングリラの頃の思い出なんだね、他のサンドイッチも色々あるけれど。
でもって、スコーンが乗ってるお皿が…。
「今の俺たちの思い出を一緒に載せてるってわけだな、スコーンとセットで」
お前の言いたいことはそれだろ、サンドイッチの皿とスコーンの皿と。
上手い具合に乗っかってるよな、誂えたように。
「…そこまでは思い付くんだけれど…」
思い付いたんだけど、ケーキのお皿は何だと思う?
サンドイッチとスコーンと、ケーキ。一枚ずつお皿がくっついてるけど、ケーキは何だろ?
これっていう思い出、あったかなあ…?
ケーキで何か…、と記憶の中を懸命に探るブルーに、ハーレイが言った。
「俺が思うに、未来じゃないか?」
まだ出来てないんだ、ケーキの記憶は。これからの未来に出来る予定で。
「未来って…。どういう意味なの、ぼくが焼くの?」
ハーレイのために練習しなきゃ、って思ってるけど、まだ習えていないパウンドケーキ。
ママと同じ味のを焼くための練習、ぼくは始めてもいないから…。
それの思い出がケーキになるわけ、未来にならなきゃ出来ないものね。
「なるほど、俺の好物のパウンドケーキか。そいつもあったな」
お前のお母さんが焼いてくれる味、おふくろの味にそっくりだしなあ…。
いつかお前が同じ味のを焼いてくれたら、ケーキの思い出も味わい深いのが出来るんだが…。
それより前に、だ。
大事なケーキを忘れていないか、俺たちの未来に出て来るケーキ。
こいつは絶対必要なんだ、っていう特別なケーキが登場して来る筈だがな?
ウェディングケーキがあるだろうが、と微笑まれた。
結婚式には欠かせないケーキ。
花嫁衣装をウェディングドレスにしようが、白無垢にしようが、ウェディングケーキ。
二人の門出を祝うケーキで、結婚式に来てくれた人たちに配る幸福の印。
ケーキのお皿はそれではないか、と。
幸せな思い出を載せるお皿で、その未来はまだ来ていないのだ、と。
「そっか…。ハーレイと結婚するまで、ケーキの思い出、まだ出来ないんだ…」
ウェディングケーキの思い出だったら、うんと楽しみに待たなくちゃ。
どんなケーキを注文するのか、どんな結婚式になるのか。
でも、ハーレイ…。
ケーキスタンド、そういう意味なの?
三枚のお皿にちゃんと意味があるの、サンドイッチもスコーンも、ケーキも。
「いや。俺たちがたまたまそうだっただけだ」
誰でも思い出が乗っかってるとは限らないさ。これから乗っける予定の方もな。
ついでに、こいつの食べ方ってヤツも。
まさに順番通りだよなあ、俺たちの場合はそのものズバリだ。
「…食べ方?」
なあに、それ?
何を食べるのに順番があるの、ケーキ、それともスコーンの方?
知らないよ、と目を丸くしたブルーだけれど。
アフタヌーンティーには順番があるのさ、と褐色の肌の恋人に教えられた。
三枚のお皿の食べ方の順番。ケーキにスコーンに、サンドイッチ。
「いいか、一番最初がサンドイッチだ。次がスコーンで…」
ケーキを食うのは一番最後だ、この順番で食って後戻りは禁止。
サンドイッチからスコーンに移っちまったら、もうサンドイッチには戻れないってな。
「えーっ!?」
早く言ってよ、ぼく、好きなように食べてたよ!
サンドイッチから食べ始めたけど、その後はもうメチャクチャだよ…!
スコーンも食べたし、ケーキだって…。あれこれ食べてからサンドイッチだって…!
「いいんじゃないか? 好きに食っても」
俺のおふくろもそう言っていたぞ、決まりなんかは守らなくていいと。
ずうっと昔の、それこそ貴族だけしか食っていなかったような頃ならともかく…。
今じゃ単なる薀蓄ってヤツだ、昔はこういう気まりでしたよ、と。話の種っていうヤツだな。
その種のマナーにうるさい人がいる時代でもないし、とパチンと片目を瞑ったハーレイ。
とはいえ、順番どおりがいいな、と。
「俺たちの場合だけなんだがな…。とても偶然とは思えないほど、順番に進んで来たからな」
サンドイッチの皿には前の俺たちの思い出があって、スコーンの皿に今の俺たち。
この皿が前の俺たちの皿で、こっちが今の俺たちだな。
そしてケーキの皿が未来の俺たちってわけだ、順番通りに行きたいじゃないか。
ウェディングケーキの皿に着くまで。
「…なんだか幸せ…」
ケーキスタンドが予言してるんだね、ぼくたちの未来。
此処まで来たから、後はウェディングケーキですよ、って。
「うむ。早くケーキの皿まで辿り着きたいな、ウェディングケーキが待ってるからな」
スコーンの皿までは来られたわけだし、後はケーキを食うだけなんだ。
「そうだよね。ぼくも頑張ってケーキまで食べなくちゃ…。って、もう食べちゃってた!」
どうしよう、先に食べちゃっていたよ、順番、知らなかったから…。
ぼくの未来は狂っちゃったかも、せっかく予言をしてくれてたのに…!
「安心しろ。俺は順番に食っている」
これからケーキだ、まだ食っていない。
パートナーの俺が順番を守っていたなら、お前が多少間違えていたって大丈夫だろう。
二人で一緒に人生ってヤツを歩いて行くんだ、同じ道を二人で歩くんだからな。
ちゃんとリードをしてやるさ、とハーレイの顔に優しい笑み。
年上な分だけリードしてやると。道を間違えていても心配無いと。
サンドイッチにスコーンに、ケーキ。
食べる順番をブルーが間違えた分まで、自分がしっかりカバーしてやると。
「ケーキの皿に辿り着いて結婚するまで、きちんと俺がな」
そっちじゃないぞ、と引っ張ってやって、一緒に歩いて行けるように。
「ホント!?」
ハーレイがぼくをリードしてくれるの、ケーキのお皿に着くまでの道。
結婚式を挙げるまでの道…。
「もちろんだ。チビのお前に負担はかけんさ」
いや、かけちまうかもしれないが…。
お前はお父さんたちの大切な一人息子なんだし、俺が結婚を申し込んでも駄目かもしれん。
そうなった時は、お前に頑張って貰うしか道が無いからなあ…。
お父さんもお母さんも、お前には甘いだろうからな。
結婚の許可を得る辺りでリードしてやれないかもしれないが、とは言われたけれど。
きっとハーレイなら何があっても、ケーキが載った未来のお皿まで。
ウェディングケーキまで連れて行ってくれるに違いないから、ブルーは頼んだ。
「ねえ、ハーレイ。…順番、ちゃんと教えてね?」
どの順番で進んだらいいか、ぼくはどっちへ行けばいいのか。
ウェディングケーキのお皿に着くまで、着いて結婚式を挙げてからの道も。
「ああ、うんと幸せにしてやるさ」
お前が幸せになれる道だけを選んで歩いてゆこう。
前と違って今度は何処へでも行けるんだ。俺たち二人で、二人だけで。
お前と二人で手を繋ぎ合って、幸せに歩いて行かなくちゃな。
サンドイッチとスコーンの皿まで来たんだ、ケーキの皿には幸せをたっぷり載せないとな…?
(ふふっ、幸せ…)
順番通りに最後に食べたケーキ、母が昨日から用意してくれた美味しいケーキ。
サンドイッチもスコーンも満喫した後、ハーレイと二人で味わったケーキ。
母が心配していた通りに食べ過ぎてしまって、お昼御飯は入る余地が全く無かったけれど。
ハーレイだけが「悪いな、俺はこの身体だしな?」と謝りながら一人で昼食を食べたけれども、幸せだった三枚のお皿。三段重ねのケーキスタンド。
サンドイッチとスコーンとケーキと、ケーキスタンドに描かれた現在と過去と未来の思い出。
未来の思い出というのは少し変だけれど、これから出来る予定の未来。
キュウリのサンドイッチと、マーマレードで食べたスコーンと、二枚のお皿は過ぎたから。
サンドイッチとスコーンはもう食べたのだし、いつかケーキに辿り着く。
最後に食べると教えられたケーキに、幸せのウェディングケーキが載ったお皿に。
ハーレイと二人、手を繋ぎながら、そのお皿までの道を歩いて…。
お茶会のお皿・了
※アフタヌーンティー用の、三段重ねのお皿。それでハーレイとお茶を、と思ったブルー。
三段重ねのお皿に載っているのは、過去と現在、それから未来らしいです。楽しみですよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(今日はマヨネーズな気分なんだ)
ドレッシングじゃなくて、とハーレイはマヨネーズを手に取った。
朝の食卓、サラダにたっぷりとマヨネーズ。凝ったサラダではないけれど。キュウリやトマトやセロリにレタス、食べたい分だけ好きに盛り付けてあるのだけども。
その日の気分で味付けを変えて楽しむサラダ。今日はマヨネーズ、と頬張りながら。
(マヨネーズもそろそろ買わんとなあ…)
一人暮らしなだけに、大きなサイズで買っていないから減るのも早い。使い道はサラダだけでもないから、あったら重宝するものだから。
(マヨネーズに醤油も美味いしな?)
混ぜれば和風の味になる。茹でた野菜に似合う味。他にも色々、出番の多いマヨネーズ。焼いた鮭などにそのままかけるのもいいし、タルタルソースのベースにもなるし…。
(切らしちまうと困るんだ、これが)
まだ大丈夫、と思っていた時に限って多めに使う料理が食べたくなった苦い経験が多数、慌てて買いに走った記憶。家から歩いて行ける距離にある、いつもの食料品店へ。
そうならないよう、早めに買っておくのがいい。マヨネーズは充分に日持ちするから。
(帰りに買うか…)
今日は放課後に会議の予定。しかも長引きそうな内容。
ブルーの家には寄れそうもないし、会議が終わったら買い物だ、と心のメモに書き留めた。
案の定、閉会が遅くなった会議。ブルーの家には行けない時間。
(…買い物だったな)
愛車に乗り込み、家の方へと走らせた。真っ直ぐに家のガレージを目指す代わりに、少し手前で食料品店の駐車場へ。車を停めると店に入って、備え付けの籠を手に取って。
肉も野菜も籠に入れたけれど、忘れてはならない心のメモ。買い物に来ようと思った理由。
(マヨネーズ、と…)
此処だっけな、と何の気なしに覗き込んだ棚。ズラリと並んだマヨネーズ。
メーカーが違ったり、サイズが色々異なっていたりと、マヨネーズが顔を揃えているけれど。
ただマヨネーズというだけではなくて、カロリーカットや卵無しなどと書かれたものも。
(有り得んぞ!)
マヨネーズは高カロリーが身上なのだし、何より卵を使ってあるもの。卵が命。
カロリーカットや卵無しなど、それはマヨネーズの在り様から外れた代物、まがい物。健康的な食生活を、と買い求める客が多いからこそ、こういった品があるのだけれど。
(邪道だ、邪道)
こんなマヨネーズに用は無い、と普通のマヨネーズを籠に入れながら気が付いた。
以前から普通のマヨネーズしか買っていないけれど、邪道とまでは思わなかった筈。好みは人の数だけあるな、と苦笑しながら見ていた程度。俺はこういうのは買わないが、と。
(なんだか妙だな…)
有り得ない上に邪道だとまで、どうして自分は思ったのか。
マヨネーズは重宝しているけれども、こだわる理由は何も無かった。こうでなければ、と覚える愛着、それを抱くほどのマヨネーズ好きでもないのだし…。
(…なんだ…?)
相手はただのマヨネーズだが、と考えながら棚を眺めて。
邪道だと思ったカロリーカットや卵無しやら、そうではない普通のマヨネーズやら。端から順に目で追っていたら、不意に浮かんだ頭の中のマヨネーズ。
(シャングリラか…!)
思い出した、と記憶の欠片を大切に抱えて家に帰った。落とさないよう、買い込んだマヨネーズなどの品物と一緒に袋に詰めて。マヨネーズなんだ、と袋にしっかり詰め込んで。
家のガレージに車を入れて、着替えなどを済ませたら夕食の支度。
(今夜はマヨネーズで…)
朝と同じにサラダといこう。朝よりも野菜を綺麗に盛り付け、マヨネーズで。
遠い記憶を思い出したから。
懐かしい船でのマヨネーズの記憶、それが帰って来たのだから。
(うん、この味だ…)
今も昔も同じ味だ、とマヨネーズで野菜を味わいながら噛み締めた。これがマヨネーズの持ち味なのだと、カロリーカットや卵無しでは駄目なのだと。
白い鯨で食べた味と重なる、マヨネーズの味が。
(マヨネーズはこうでなくっちゃなあ…)
本物でなくては、と頷いた。
シャングリラにもあったマヨネーズ。
アルタミラから辛くも脱出した時の船にも、マヨネーズは備えられていた。最初から載っていた食料の一部。前の自分も使っていた。サラダに、料理に。
(あの食料が尽きちまった後も…)
食料を奪いに出掛けたブルー。前のブルーだけがこなせた役割。
人類の船から食料を奪い、皆の胃袋を満たしていた。食材が偏ってジャガイモだらけやキャベツだらけの日々もあったけれど、やがて充実していった。
菓子を作れるほどになるまで、嗜好品が船に揃うほどまで。
もちろんマヨネーズもあった。食堂に置かれて、皆が自由に使うことが出来た。
ところが奪う時代に別れを告げて、自給自足の生活に切り替えていったシャングリラ。
白い鯨を作り上げようと、船の中だけで足りる暮らしを目指し始めたシャングリラ。
野菜には不自由しなかったけれど、マヨネーズの方が無くなった。材料に欠かせない新鮮な卵、それが何処にも無かったから。卵を産む鶏はまだいなかったのだし、卵などあるわけがない。
そうなることは分かっていたから、作られていた合成品のマヨネーズ。それが食堂のテーブルにあったけれども、マヨネーズはちゃんとあるのだけれど。
卵無しではコクが足りない、合成品では物足りない味。舌が違うと訴える。マヨネーズの味とは違う味だと、本物はこういう味ではないと。
「ちゃんとしたマヨネーズが食べたいねえ…」
卵をたっぷり使ったヤツだよ、とブラウも零した。自給自足の船にするのだと決めた会議の重要人物、船の未来を左右する立場に立っていたけれど、それとマヨネーズの味とは別で。
「まったくじゃて。わしも同じじゃ」
どうも一味足りんわい。見た目は同じなんじゃがのう…。
サラダがどうにも引き立たんわ、とゼルさえも言った、本物のマヨネーズが懐かしいと。
次に食べられるのはいつになるやらと、早く鶏を飼いたいもんじゃ、と。
合成品になってしまったマヨネーズ。卵が入らないマヨネーズ。何か足りない、足りない風味。
前はたっぷりかけていたのに、本物の味を知っていたのに。
たかがマヨネーズ、と鼻で笑う者は一人も無かった。
あの味が恋しいと、本物がいいと皆が思ったマヨネーズ。合成品では駄目なのだと。
我慢の日々が長く続いて、やっと飼育を始めた鶏。
シャングリラでも卵が食べられるようになり、本物のマヨネーズが食堂に戻って来て。
「うん、この味だよ!」
間違いなく本物のマヨネーズの味だ、忘れやしないよ。
これからは毎日これを食べられるんだね、有難いねえ…。卵に御礼を言わないとね。
卵を産んでくれた鶏にも、と顔を綻ばせたブラウ。ゼルもサラダをせっせと口に運びながら。
「やはりマヨネーズはこうでないとのう…」
この味じゃからこそ、サラダも生きるというもんじゃ。キュウリしか無いサラダが出ても食えるわい。美味いマヨネーズをつけて野菜スティック、キュウリだけでも充分じゃて。
美味しい、と皆が喜んでいたら。
本物のマヨネーズが戻って来たと食堂でサラダを味わっていたら。
「美味しさの方もさることながら…。マヨネーズは優れものらしいからね」
ヒルマンがそう口にした。マヨネーズは素晴らしい食べ物なのだ、と。
けれども誰も意味が分からず、その点は前のブルーも同じで。
「なんでだい?」
マヨネーズが無いと困るだろうから、合成品を作りもしたけれど…。
どの辺がどう素晴らしいんだい、サラダにかけたりするだけじゃないか。
「それがだね…。マヨネーズさえあれば生きられるそうだよ」
ヒルマンの言葉に、食堂に居た皆が「はあ?」とキツネにつままれたような顔をした。
マヨネーズがあれば生きられるなどと聞いても、意味がサッパリ掴めないから。
合成品のマヨネーズと本物のマヨネーズの味の違いは分かるけれども、人の生死を左右するとは思えないのがマヨネーズ。
野菜サラダに欠かせない程度で、無くても死にはしないのでは…。
誰もが顔を見合わせる中、ヒルマンはマヨネーズの器を指差して。
「もちろん、マヨネーズだけで一生を過ごせるわけではないのだがね…」
マヨネーズはカロリーが驚くほどに高いのだよ。これ一つあれば、一週間はいけるだろう。
脱水症状を起こさないよう、水分は必要になるのだが…。水さえあったらマヨネーズだけで。
水とマヨネーズ、それだけで命を繋げるそうだよ、と解説を始めた博識なヒルマン。
その昔、地球が滅びてしまう前。人類が地球の上だけで暮らしていた頃。
持っていた一本のマヨネーズだけで、十日以上も生き延びた人がいたという。深い山の中、道を見失って帰れなくなってしまった時に。
歩き回る内に怪我をしてしまい、側にあった小川の水を飲むのが精一杯。食料はとっくに尽きてしまって、残ったものはマヨネーズだけ。
そのマヨネーズが命を救った、カロリーが豊富だったから。救助が来るまで命を繋いだ。それが無ければ飢えて死ぬ所を、十日以上も。
「へええ…!」
食堂に居合わせた皆が驚き、マヨネーズの凄さを知らしめる話はシャングリラ中を駆け巡った。
非常食として作られる食べ物は多いけれども、それは最初から非常食。栄養の補給を目的とする錠剤などにしても同じで、日々の食卓に置かれてはいない。それらは日常の食べ物ではない。
ところが食堂のテーブルに置かれたマヨネーズ。野菜サラダや料理にかけるマヨネーズ。
それがそのまま、非常食の役目を果たすというから凄すぎる。
何の工夫も凝らさなくても、マヨネーズを一本、それと水だけ。それさえあれば十日以上も命を繋げるなどと聞いたら、もう特別にしか見えなくて。
暫くの間、マヨネーズは語り草だった。あれは凄いと、実は素晴らしい食べ物なのだと。
卵の入った本物のマヨネーズが戻って来たタイミングで披露された話、マヨネーズが秘めた真の力を伝える話。
そんな出来事もあったものだから、シャングリラのマヨネーズは常に本物だけだった。鶏の卵を使って作ったマヨネーズ。カロリーカットなど、誰一人として言い出さなかった。
(うん、シャングリラじゃ卵無しのも、カロリーカットも…)
有り得ないんだ、とハーレイは夕食のサラダを食べつつ考える。それは邪道なマヨネーズだと。
白い鯨ではマヨネーズと言えば卵入り。カロリーもカットしなくて当然、それだけで命を繋げる食料なのだから。非常食として生まれたものではないのに、そういう風に使えるマヨネーズ。
幸いにして、マヨネーズを頼りに生き延びなければならない場面は無かったけれど。
出くわさないままで白い鯨は地球までの旅を続けたけれど…。
(せっかくだから、もう少し…)
思い出の味をかけてみるか、とマヨネーズを取り、サラダの器に加えた途端。
野菜サラダの残りにかかったマヨネーズの量を増やした瞬間。
(ブルー…!)
そうだった、と鮮やかに蘇って来た記憶。
前のブルーとマヨネーズの思い出。
青の間で共に朝食を摂る時、サラダにマヨネーズをかけてくれたブルー。それもたっぷりと。
恋人同士になった後の朝の食事の風景、前のブルーがかけてくれていたマヨネーズ。
(あいつ、覚えているんだろうか…)
マヨネーズをかけていたことを。朝食の時に自分がやっていたことを。
(忘れちまったかもしれないなあ…)
この自分でさえ、今まで忘れていたくらいだから。
卵無しやカロリーカットのマヨネーズなどは邪道だった、と気付かなかったくらいだから。
けれども今では思い出したし、明日はブルーの家に行く土曜日。
小さなブルーに尋ねてみよう。
マヨネーズのことを覚えているかと、前のお前のことなんだが、と。
一晩眠っても、忘れなかったマヨネーズ。白い鯨に居た頃の思い出。
天気がいいから歩いて出掛けたブルーの家で、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「おい。マヨネーズに卵無しっていうのは邪道だよな?」
「えっ?」
キョトンとしている小さなブルー。
「マヨネーズだ、前の俺たちが暮らしたシャングリラだ」
あの船じゃマヨネーズは一種類しか無かっただろうが、合成品の時代が終わった後は。
それがだ、今では卵無しだの、カロリーカットだのという邪道なヤツが揃っていてだな…。
昨日、買い物に出掛けた店で…、と品揃えのことを話したら。
「…ホントだね。そのマヨネーズは信じられないよ」
前のぼくたちなら作りはしないよ、そんな変わったマヨネーズ。
卵無しのマヨネーズは合成品しか無かった時代で懲りたし、カロリーカットじゃマヨネーズとは言えないし…。カロリーの高さが素晴らしいんだ、ってヒルマンが言っていたものね。
どっちもハーレイが言う通り、邪道。シャングリラの時代だったら、だけど。
「お前の家は普通のマヨネーズなのか?」
卵無しでもカロリーカットでもなくて、いわゆる普通のマヨネーズか?
「そうだよ。シャングリラの頃のと同じ味だよ」
「ふうむ…。それなら、そのマヨネーズ…」
朝のサラダには多めか、と訊けば。
「なんで?」
多めって何なの、マヨネーズをかける量のことなの?
「そうだが…。お前がかけるマヨネーズの量は普通なのか?」
「普通だと思うよ、多くはないと思うんだけど…」
野菜サラダを食べてる日はね。
朝からそんなに食べられないよ、ってトーストだけの日も多いけど…。
それにマヨネーズをかけなくっても、最初からマヨネーズ味のサラダもあるでしょ?
ポテトサラダなら入っているし、と答えたブルー。
マヨネーズの量はけして多めではないと思う、と話すブルーは、どうやら全く覚えていないようだから。何故マヨネーズが多めなのかを思い出しさえしないから。
「忘れちまったか、前のお前のマヨネーズを?」
朝のサラダにはたっぷりだ。とにかく多めにマヨネーズなんだ。
「ぼく!?」
そういうサラダを食べていたっけ、とブルーの瞳が真ん丸になった。
覚えていないと、マヨネーズが好きだった記憶は無いと。
それはそうだろう、これはブルーの思い出だけども、ブルーのサラダのことではないから。
同じサラダでも違うのだから、と頬を緩めてこう言ってやった。
「勘違いするなよ、お前がマヨネーズをかけていたサラダはお前のじゃなくて、俺のサラダだ」
俺のサラダにたっぷりとかけてくれてたんだが…。
「ハーレイのに?」
どうしてハーレイのサラダにぼくがかけるの、マヨネーズを?
「覚えていないか、ヒルマンの話」
マヨネーズはカロリーが高くてだな…。
それさえあったら生き延びることが出来たと聞いたろ、水分を補給出来ればな。
「ああ…!」
山で遭難しちゃった人だね、マヨネーズだけで十日以上も生きられたって…。
マヨネーズは凄い食べ物だっけね、非常食でもなかったのに。
思い出した、と手を打ったブルー。小さなブルー。
ハーレイのサラダに沢山かけたと、マヨネーズをたっぷりかけていたと。
「前のぼく…。頑張ってたっけ、朝御飯の時に」
「そうさ、自分のサラダには決して沢山かけたりしないくせにな」
このくらいでいい、と言うんだ、お前は。
それなのに俺の分にはたっぷり、山ほどかけてくれたんだよなあ…。
遠い遠い昔、白いシャングリラの中だけが世界の全てだった頃。
その船でブルーと恋をしていた、夜は青の間で共に過ごした。
夜が明けたらソルジャーとキャプテン、そういう立場の二人だったけれど。青の間で朝食を摂る時は二人、キャプテンからの朝の報告という名目の下に二人きりの食事。
そんなある朝、突然、それを思い立ったブルー。
シャングリラに本物のマヨネーズが戻って来た時のヒルマンの話を、思い出したと言うべきか。
ハーレイのサラダにたっぷりとかけた、マヨネーズを。
何の断りもなく、ハーレイの分のサラダにだけ。
「ソルジャー!?」
いきなりのことに、驚いたハーレイだったけれども。
「ブルーだよ、今は」
二人きりだものね、と微笑んだブルー。
ソルジャーの衣装は着けているけれど、今の自分はブルーだと。ただのブルーで恋人なのだと。
「しかし、これは…」
このマヨネーズは何事なのです、どう見ても多すぎる量なのですが…。
「君のために、と思ったんだけどね?」
「はあ?」
ますますもって訳が分からない、と瞬きをすれば。
「ヒルマンの話を忘れたのかい? マヨネーズは栄養たっぷりなんだよ」
これと水だけで生き延びられるほどの優れものだよ、しっかりと食べて貰わないと。
キャプテンは激務なんだから。…シャングリラの全てが君の両肩にかかっているしね?
栄養をつけて、とブルーが指差すマヨネーズがたっぷりかかったサラダ。主役の野菜が埋もれてしまったと錯覚するほど、マヨネーズだらけになっているサラダ。
「はあ…」
ヒルマンの話ですね、覚えております。
お気遣い下さってありがとうございます、何事なのかと思いましたが。
感謝します、と礼を述べたのが悪かったのか。
それ以来、仕事が忙しくなりそうな日の朝はマヨネーズ。サラダにたっぷりとマヨネーズ。
ブルーはこれが自分の役目とばかりに、ハーレイのサラダにだけマヨネーズを増量してかけた。自分のサラダには適量をかけて、ハーレイの分にはずっと多めに。
「ソルジャー、お気持ちは嬉しいのですが…」
マヨネーズばかりを増やしたのでは、栄養バランスが偏りそうだと思うのですが。
なにしろ高カロリーな食べ物ですし…。
「他の食事がバランスよく出来ているだろう?」
ぼくよりも遥かに量が多いし、中身も充実しているじゃないか。
トーストと卵料理は基本で、他にもハムとかソーセージとか…。それにサラダだ、完璧だよ。
バランスが取れた食事に加えてマヨネーズを多めに、とても素晴らしいと思うけどね?
君の朝食、と取り合おうともしなかったブルー。
バランスがいいと主張したブルー。
お蔭で、それからかなり長い間やられていた。野菜サラダにブルーがかけるマヨネーズ。有無を言わさず、主役の野菜も霞むほどの量を。
忙しい日のキャプテンの朝の食卓にはマヨネーズを、と。
「あのマヨネーズ…」
小さなブルーが目をパチクリとさせながら。
すっかり忘れてしまっていた、と遠い記憶を手繰り寄せながら、不思議そうに。
「なんでやらなくなったんだっけ…?」
ハーレイのために、ってマヨネーズをかけていたことは思い出したけど、やめちゃってたよ?
朝御飯は一緒に食べていたのに、マヨネーズをかけなくなっちゃっていたよ。
もしかしてノルディに叱られたのかな、ハーレイがあれで具合を悪くしちゃって…?
「安心しろ、俺は至って健康だった。マヨネーズをたっぷりかけられてもな」
単にお前が飽きたってだけだ、俺にマヨネーズを振舞うことに。
「…そうなの?」
飽きちゃったなんて、それもずいぶん酷い話に聞こえるけれど…。
ハーレイのためにやっていたのに、飽きたからってマヨネーズをかけるのをやめちゃったの…?
「いいや、お前は酷いヤツではなかったな」
マヨネーズをかけても大して効果は無さそうだから、と夜食の方に切り替えたんだ。
朝にマヨネーズを増量するより、消耗した分だけ夜食で栄養補給だ、ってな。
「そういえば…」
そうだった、とブルーが時の彼方の記憶を辿る。
ブリッジのハーレイに思念を飛ばしたと、青の間に来る時に持って来て欲しいと、厨房に寄って料理を調達してくれるように頼んでいたと。
さながら出前で、注文を受けたハーレイは勤務が終わると厨房に立ち寄る。内容によっては予め思念で連絡をしたり、厨房に着いてから調理を頼んだり。
サンドイッチだったり、フルーツだったり、ブルーの注文は多岐に亘った。
明らかにブルーが食べたいのだろう、と分かるものから、ハーレイ用だと思われるものまで。
それらを調理する厨房の者たちは、ハーレイが何処へ出掛けてゆくのか知っていたから。
ソルジャーの注文で料理を運ぶと知っていたから、ブルーらしくない注文を受けても「遅くまでお仕事お疲れ様です」と料理を作って渡してくれた。
「これからソルジャーとお仕事ですか」と、「キャプテンも本当に大変ですね」と。
そう、キャプテン用の夜食なのだと知っていた彼ら。
仕事にゆくのだと勘違いをしてはいたのだけれども、料理を食べる人間が誰かは知っていた。
今夜のキャプテンは青の間で夜食だと、遅くまで仕事があるらしい、と。
「夜食、運ぶのは俺だったんだがな…」
厨房のヤツらに注文するのも、運んで行くのも俺ってわけだ。
マヨネーズはお前がかけてくれていたが、夜食になってからは俺が自分で運んでいたし…。
そういう意味では人使いの荒い恋人ってヤツだな、自分の分まで運ばせやがって。
俺用に考えてくれたんだな、と分かる時には嬉しかったが、お前用のフルーツとかだとなあ…。
「だけど、ぼく用に運んでくれた時でも二人で食べていたじゃない」
楽しかったよ、ハーレイと二人でフルーツを食べたり、サンドイッチをつまんだり。
ハーレイ用の夜食の時には、ぼくは見ていただけだけど…。
たまに「ぼくにも少し」って分けて貰って、味見したりはしていたけどね。
「俺としてはだ、夜食なんかを食っているより…」
早くお前を食べたい気分だったんだがな?
目の前にお前がいるというのに、のんびりと飯を食っているより。
「…手袋を外しちゃってたから?」
前のぼく、ハーレイの報告が済んだら手袋を外しちゃってたし…。
手袋をはめていない手でサンドイッチを食べたりするから、ハーレイには目の毒だった?
「まあな」
美味そうな御馳走を前にしながらお預けの気分だ、食い終わるまでは手が出せん。
夜食をすっかり食っちまわないと、作ってくれたヤツらに悪いし…。
何より食べ物が無駄になるしな、美味い間に食わないと。
次の日の朝まで放ってはおけん、と肩を竦めたら。
サンドイッチは乾いてしまうし、フルーツも傷んでしまうから、と言ってやったら。
「…だったら、やっぱり朝御飯のサラダにマヨネーズの方が良かったかな?」
ハーレイが忙しくなりそうな日には、朝のサラダにマヨネーズ。
しっかり栄養をつけて貰って、それからブリッジに行って貰う方が…。夜食を食べるよりも。
「なんでそうなる?」
どうして其処でマヨネーズの方になるんだ、お前は?
「夜食なんかを食べていないで、すぐにベッドに行けるからだよ」
ハーレイの報告が終わりさえすれば、後はベッドに一直線で。
朝にマヨネーズで栄養をつけておきさえしたなら、夜食の心配は要らないものね。
「そいつもなんだかつまらんなあ…」
お預けってヤツは嬉しくないがだ、お前と二人でお茶を飲むのも好きだったし…。
ベッドに直行したい気分の時はともかく、それ以外の時は夜食というのも悪くなかった。
腹を満たして、それからお前。夜食を食うのとお前を食うのは別物だからな。
…って、お前、チビのくせに!
いつの間にこんな話になった、とブルーの額を小突いてやれば。
小さなブルーは「さっき」と少しだけ舌を覗かせて。
「ハーレイ、今度はマヨネーズがいい?」
朝はサラダにマヨネーズをたっぷりかけるのがいいの、仕事が忙しそうな日は?
クラブの練習が多い時とか、そういう時にもマヨネーズがいい?
それとも家に帰ってから夜食を食べるのがいいの、どっちが好み?
ぼくはどっちでもいいんだけれど…。
ハーレイが夜にぼくを食べるのに嬉しい方に合わせるよ。ねえ、マヨネーズをたっぷりがいい?
「馬鹿野郎!」
チビのくせして、マヨネーズも何もないもんだ!
俺がどういう飯を食おうが、チビのお前は全く関係無いんだからな。
夜食を食いたきゃ自分で作るし、マヨネーズだって好きな量を自分でかけて食うんだ!
「でも、ハーレイ…。今じゃなくって、結婚した後」
マヨネーズか夜食か、ちゃんと決めてよ。
その日の気分で決めるんだったら、ぼくはマヨネーズを用意して訊いてあげるから。
「多めがいい?」って。
「チビが気にすることじゃない!」
なんでお前とそういう話をしなきゃならんのだ、チビのお前と!
そういう話は育ってから言え、マヨネーズの量は多めがいいかと訊くのが似合うくらいにな!
これ以上はもう続けてやらん、と銀色の頭をコツンと軽く叩いたけれど。
ブルーは「痛いよ!」と大袈裟に叫んで膨れっ面になったけれども。
小さなブルーが今日の話を、もしも覚えていたならば。
忘れずに大きく育ってくれたら、あるいは思い出してくれたなら。
結婚した後の朝食のサラダは、マヨネーズがたっぷりかけられていてもかまわない。
それがブルーの気遣いだったら、主役の野菜が霞むくらいのマヨネーズ。
「今日は仕事が忙しいんでしょ?」と、ブルーがかけてくれるマヨネーズ。
けれども夜食も捨て難い。
今度は厨房のスタッフはおらず、自分で作るしかないのだけれど。
ブルーと二人でそれを食べながら、ゆっくりと疲れを癒すのもいい。
栄養をつけたら、後はベッドへ。
後片付けは適当に済ませてしまうのもいいし、そんな余裕も無いほどにブルーを食べたい気分になるかもしれないけれど。
それを思えば、マヨネーズたっぷりの朝食の方がずっといいのかもしれないけれど。
(どんな食事をするにしたって…)
きっと幸せだと思う。
マヨネーズがたっぷりかかったサラダも、後片付けも疎かになりそうな夜食でも。
どちらにしたって、目の前にブルー。
今はまだ小さな姿のブルー。
そのブルーが前とそっくり同じに育って、二人で食卓を囲める時が訪れたなら。
結婚して二人、朝の食事も夜食も共に、幸せの中で。
マヨネーズたっぷりのサラダであろうと、片付けも放ってブルーに溺れたい夜食だろうと…。
マヨネーズ・了
※カロリーカットなど有り得なかった、シャングリラのマヨネーズ。栄養たっぷり。
前のブルーが、気を使っていたハーレイのための朝食。サラダにはマヨネーズだったのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園の秋は学園祭の季節です。とはいえ、まだまだ準備に入らないのが私たち特別生七人グループと会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」。何をやるかが決まっているため、直前の三週間があれば充分というのが例年ですが。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
柔道部は今日も焼きそば指導? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋はキース君たち柔道部三人組が後から来ることが多いのです。今日もそのパターン。焼きそば指導は学園祭での模擬店に向けての年中行事で…。
「まあな。週に一度はやっておかんと、あいつらは一向に覚えてくれんし」
溜息をつくキース君。
「そるじゃぁ・ぶるぅ秘伝と銘打つからには失敗出来んし、口伝だからレシピも渡せんし…」
「誰だい、最初に口伝にしたのは」
会長さんが突っ込みました。
「その愚痴、毎年定番だけどさ…。有難味は凄く出るだろうけど、君たちは毎年、焼きそば指導で嘆いてるじゃないか」
「仕方ないだろう、あの頃の俺は先輩に逆らえなかったんだからな!」
本当に本物の先輩がいたのだ、とキース君は完全にお手上げのポーズ。
「俺たちの最初の同級生が三年生で主将だった年だしなあ…。俺たちとぶるぅの仲を見込んで焼きそば屋台を任せられた。それがそもそもの始まりで…」
「そうなんです。卒業して直ぐの間は先輩たちも学園祭に遊びに来ますしね」
其処であの味を褒められたんです、とシロエ君が。
「この味はいいと、柔道部の秘伝にしておけばいい、と。レシピを書いて残すんじゃない、と」
「ええ…。あれが全ての始まりでしたね」
マツカ君も相槌を打ちました。
「あの年に決まってしまったんです、レシピは口伝と」
「ついでに毎年、俺たちが指導するのもな」
そうして今に至るわけだ、という締めくくり。本当に本物の先輩さんの命令とあらば、カラスも白いのが体育会系の部活というもの。あんな頃からの伝統でしたか、毎年毎年、ご苦労様です、キース君たち…。
こんな感じでクラブやクラスごとの準備はとっくに始まっています。けれども私たちはサイオニック・ドリームを使ったバーチャル旅行が売りの喫茶店、『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』が定番の催し物。直前に値段などを決めればいいだけ、この時期は特に用事もなくて。
「ぼくたちの方は暇だよねえ…」
ジョミー君がのんびりとカボチャのシフォンケーキを頬張り、サム君も。
「うんうん、旬の観光地とかはブルーが楽勝で押さえてるしよ」
「ですよね、会長、大抵の場所はぶるぅと遊びに行ってますもんねえ…」
瞬間移動って便利ですよね、とシロエ君。
「思い立ったが吉日って感じで、時差だけ考えればいいんでしょう? 何処へ行くにしても」
「そうなるねえ…。今の時間だとカフェとかに行くにはちょっと早いね」
お洒落な国のは、と会長さんが幾つか挙げて。
「近い所でエスニック料理ならお昼時かな、パッと出掛けて食べられるってね」
「かみお~ん♪ いつでもパパッと行けちゃうの!」
そして食べるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「レストランも屋台も食べ放題だよ、美味しい匂いが一杯なの!」
「そう、あの匂いが魅力の一つでねえ…」
今年はやろうかと思っているのだ、と会長さんの妙な発言。
「「「匂い?」」」
「そうだよ、ぶるぅの空飛ぶ絨毯! オプションで色々つけるだろ? それの一つで匂いつきっていうのもいいな、と」
其処に漂う匂いを再現、と会長さんは人差し指を立てました。
「何処にだって独特の匂いというのはあるものさ。砂漠だろうが、街だろうが…。似たような匂いを嗅いだ途端に蘇る記憶ってあるだろう?」
「ありますね…」
確かにあります、とシロエ君が頷き、キース君も。
「俺の場合は特に顕著だな、特に抹香臭いのが…。仏具屋に入ると大抵、それだ」
「ね? だから今年はやってみようかと」
特に難しい技術ではない、と会長さん。サイオニック・ドリームで匂いつきって、ホントに観光地まで出掛けて行った気分になれるかも~!
美味しそうな匂いや、スパイシーな匂い。いろんな匂いがついていたなら、ぼったくり価格でもバカ売れすること間違いなし。今年は早くから方針が決まった、と皆で喜んでいると。
「奇遇だねえ…」
「「「は?」」」
誰だ、と振り返った先に紫のマントがふうわりと。別の世界からのお客様です。
「こんにちは。ぶるぅ、ぼくの分のケーキも残ってる?」
「あるよ、座って待っててねー!」
ケーキと紅茶~! と飛び跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。注文の品はすぐに揃って、ソルジャーは空いていたソファに腰を下ろして御機嫌で。
「ぶるぅのケーキは美味しいねえ…。ぼくのシャングリラにも料理上手がいればいいのに。カボチャでお菓子を作るにしてもさ、なんだか定番ばっかりでねえ…」
なんだ、カボチャのお菓子の話でしたか。奇遇と言うから匂いの方かと思ったんですが…。
「えっ? ぼくが言うのは匂いだよ?」
そっち、とケーキを口へと運ぶソルジャー。
「最近、匂いに凝っているんだ。…匂いと言うか、香水と言うか」
「「「香水?」」」
「うん。今日はほんのり薔薇の香りで、とっても魅惑的な筈なんだけどね」
「「「…薔薇…?」」」
何処が、と誰もが考えたに違いありません。カボチャのシフォンケーキはカボチャの色をしてますけれども、そんなに強い匂いは無い筈。紅茶やコーヒーも薔薇の香水には負けるであろう、という気がするのに、全く匂いがしない薔薇。
「使い方を間違えていないかい?」
香水ってヤツにはつけ方があって、と会長さんがシャングリラ・ジゴロ・ブルーならではの薀蓄を披露し始めました。
「香水は体温で香るものだし、基本の場所なら今、言った通り。服につけるなら君の場合はマントにするか、上着の裾の裏につけておくか…。とにかく動きのある所だね」
その辺を間違えてつけてるだろう、という指摘。
「薔薇の香りが全然しないよ、それじゃ宝の持ち腐れってね」
「いいんだってば、匂わない方がいいんだからさ」
「「「え?」」」
香水をつけて、匂わない方がいいとはこれ如何に。それって意味が全然ないんじゃあ…?
つける所を間違えるどころか、香水の使い方を勘違いしていそうな目の前のソルジャー。ほんのり薔薇の香りとやらも分からない筈で、それで「凝ってる」と言われても…。
「凝ってるんだよ、実際の所」
日替わりメニューでつけているのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「もうね、毎日、ブリッジの視察が楽しみで…。普段のぼくは面倒だから滅多に行かないんだけれど、この二週間ほどは皆勤賞! エラやブラウも喜んでいるよ」
ソルジャーがとても真面目になった、と非常に評判がいいのだとか。
「ただねえ…。ハーレイの評価が微妙なトコだね、ぼくの代わりに下がり気味でさ」
「そりゃまあ…。普段は行かない君が皆勤賞なら、キャプテンはもっと頑張れってことになるだろうしね」
気の毒に…、と会長さん。
「元々真面目にやってるだろうし、それ以上何を頑張れと、って気がするけどねえ?」
「…元々はね」
でも今は違う、とソルジャーから返った奇妙な答え。キャプテンに何かあったんでしょうか?
「ん? ぼくが現れると注意散漫、ミスが多発といった感じで」
「ソルジャーの視察中にかい!?」
「そうだけど? それで評価が下がらない方がどうかしてるよ、あの有様じゃあ」
「もしかして…」
会長さんがソルジャーの方をまじまじと。
「その原因、君じゃないだろうね?」
「決まってるだろう、ぼくが行くから注意散漫!」
魅惑的な恋人がブリッジをウロウロするんだから、とソルジャーは至極得意げに。
「今日だとほんのり薔薇の香りで、昨日はムスクの香りなんだよ。その前の日はジャスミンだったかなあ…。こう、色々とホントに日替わり」
「だから、全然香りがしないんだけど? 君のハーレイの注意散漫とかミスの原因、香水じゃなくって君の悪戯か何かだろう!」
「違うよ、ホントに香水だってば!」
分かる人には分かるのだ、と威張るソルジャー。キャプテンは鼻がいいのでしょうかね、香水を作る調香師って人は凄い嗅覚を持つと聞きますが…。
「ぼくのハーレイ? 普通だけど?」
見ての通りの鼻なんだけど、ということは…。香水はやはり意味無しなのでは…?
ソルジャーの世界に住むキャプテンと、私たちの世界の教頭先生は瓜二つ。鼻は確かに立派ですけど、鼻の大きさと嗅覚ってヤツは比例しないと思います。それにソルジャーもキャプテンの嗅覚は普通だと答えましたから…。
「分かるも何も…。君の香水、ぼくにはサッパリ分からないから!」
「俺にも全く分からんな」
職業柄、敏感な方なんだが…、とキース君。お寺ではお線香の他にも色々とお香を使いますから、嗅ぎ分けられると便利だそうです。上等のお香を使っているのかそうでないのか、そういったことも重要だとか。
「こう、知り合いの偉いお坊さんとかがウチの寺を訪ねたりして下さるだろう? そんな時にな、「御本尊様にご挨拶を」とお参りなさって、袂から自前の香を出したりなさるんでな」
アッと驚く高価なお香を焚いて下さる方もあるらしくって…。そうした時にはおもてなしも当然ランクアップで、お客様の方もそれで当然だという感じ。
その辺りの加減を見誤ったら大失敗かつ失礼というもの、同じ人でも「今日は普通の御飯でいいよ」な場合はお香の種類が違ったりする、と聞いてブルブル、実に恐ろしいディープな世界。
「お香の嗅ぎ分けも必須なのかよ、坊主には!」
サム君の引き攣った声に、キース君は。
「必須ではないぞ? ただ、分からないと恥をかくだけだ」
「それって必須ってことじゃねえかよ!」
また勉強が増えてしまった、と頭を抱えているサム君。一方、騒ぎの原因をもたらしたソルジャーはと言えば…。
「嗅ぎ分けねえ…。ぼくのハーレイにはその手の心得は無さそうだねえ…」
薔薇くらいは分かるだろうけれど、とノホホンと。
「薔薇と百合との区別がつくかな、それくらいは判別可能なのかな? …だけどライラックとか、チュベローズだとか…。漠然と花だと思う程度じゃないのかなあ…」
ムスクも花じゃないと分かってるんだかどうなんだか…、という話。そんなレベルのキャプテン相手に香水を毎日取っかえ引っかえ、注意散漫に陥らせるほどだと威張られても…。
「それはいわゆる自己満足だね」
まるで匂いがしないから、と会長さんは言い切りました。
「ぼくもキースと同業だからね、匂いについては敏感な方。そのぼくが全く分からない上、キースにも分からないと来た。君の香水はつけるだけ無駄、君のハーレイも全く反応しないね」
注意散漫は君の存在のせいだ、という意見。私たちも賛成、賛成です~!
「…分かってないねえ…」
分かってないのは君の方だ、とソルジャーが只今話題の鼻先でフフンと。
「この香水はね、特別製! 君たちにも嗅がせてあげたいんだけど、そうすると少しマズイかもねえ、ただの薔薇ではないからね?」
「「「は?」」」
「香り自体は薔薇なんだけどさ、他に色々と入っているから…」
万年十八歳未満お断りでも害が無いとは断言出来ない、とは何事でしょう。その香水って、何かヤバイ成分でも入ってますか…?
「フェロモン剤って言えば分かるかなあ? こっちの世界にもあるよね、そういうの」
「「「フェロモン剤!?」」」
そんな効能を謳った香水の広告だったら何度か見かけたことがあります。男性がつければ女性にモテモテ、女性がつければ男性が寄ってくるというヤツ。あんなのはどうせ紛い物だと、効くわけないのに騙されて買う人がいるというのが面白い、と話題にしたことも過去に何度か。
けれど相手はソルジャーです。SD体制が敷かれた別の世界に住んでいる人で、宇宙船もワープも当たり前。私たちの世界では「効かなくて当然」のフェロモン剤でも、「効いて当然」だったりしますか…?
「もちろん、効いて当然だねえ…」
でなきゃ売れない、と微笑むソルジャー。
「男性向けのも女性向けのも色々あるよ? ちなみに、ぼくのは女性向けでね」
男性を惹き付ける魅惑の香り、とソルジャーはうなじの辺りの髪をかき上げ…。
「この辺りにつけるのがオススメです、と書いてあったし、ソルジャーの衣装で肌が見える部分は限られてるしね? 此処にしっかり」
そして香りは朝につければ夜までバッチリ、という説明。
「トップノートがどうとかこうとか、ラストがどうとか…。つけてからの時間で同じ薔薇でも香りが変わっていくらしいけどね、そういったことはどうでもいいんだ」
要は男性をグイグイ惹き付け、その気にさせるのが目的だから…、とソルジャーは自分のうなじを指差して。
「そんな香りを振り撒きながら、ぼくがブリッジに登場するわけ! 注意散漫にならない方がどうかしてるし、ぼくが消えた後もハーレイは悶々と夜を待つんだな」
勤務終了と共に青の間にダッシュで、凄い勢いでベッドに押し倒しに来るのだ、と得意げなソルジャーですけれど。その香水の匂い、ホントのホントに分かりませんよ…?
男性を惹き付けるというソルジャーの香水。キャプテンがミスを多発するほどのアヤシイ効能があるそうですけど、匂いません。まさかシールドしてるとか?
「ピンポーン!」
大正解! とソルジャーは笑顔。
「ぼくはハーレイさえ釣れれば満足なんだし、他の男にモテても仕方ないだろう?」
シャングリラの中で浮気だなんて…、と例に挙がったゼル機関長だとかヒルマン教授。
「ブリッジにも男性クルーはいるから、ブロックしないと危険だよね? つまりはハーレイ限定で香りを提供してるわけ! 君たちが目指す学園祭のオプションみたいなものだよ」
お一人様限定プランなのだ、と言われて納得、匂わないのも理解出来ましたが…。そんな香水、つけてて毎日が楽しいんですか?
「楽しいねえ…。他のクルーの目があるから、と必死に冷静なふりをするハーレイを見るのも楽しいものだよ、ミスをする度に「どうしたんだい?」と覗き込んでやれば効果倍増!」
香りの源がグッと近くに…、とソルジャーの悪戯心は今がMAXみたいです。その内に飽きてやめるでしょうけど…。
「そうだねえ、わざわざ香水を奪いに出掛けようとも思わないしね?」
「「「えっ?」」」
「偶然の産物なんだよ、この香水は。ぼくも昔は人類の船から色々と物資を奪っていたな、と懐かしくなって、シャングリラの近くを通った船から荷物を失敬してみたら…」
それが香水だったのだ、とソルジャーはクスクス笑っています。瞬間移動で青の間に直送してしまったため、誰も知らないソルジャーの秘密の略奪品。
「ぼくとしてはね、お菓子とかが良かったんだけど…。来てしまったものは有効活用! ぼくのハーレイだってミスはともかく、夜の時間は張り切ってるしね」
だから当分やめる気はない、と語るソルジャーの部屋にはまだ香水がたっぷり揃っているそうです。日替わりメニューでガンガン使って半年くらいはいけるであろう、というほどの量。
「そうだ、君も使ってみないかい?」
よかったら、とソルジャーの視線が会長さんに。
「ぼくだけが使うんじゃもったいない。君も是非!」
「その香水、女性用だろう!」
男なんかはお呼びじゃない、と会長さんは即答ですが。
「だからさ、君もこっちのハーレイ限定!」
魅力をアピールしに行きたまえ、とソルジャーはウキウキしています。それって会長さんにとっては一番やりたくないことなんじゃあ…?
男性を惹き付ける香水をつけて、教頭先生に魅力をアピール。会長さんが絶対にやらないことは容易に想像出来ました。けれどソルジャーの方はキャプテンと結婚しているだけに、会長さんには教頭先生がお似合いなのだと信じて疑わないタイプ。
「ぼくの香水、分けてあげるよ。きっとこっちのハーレイも喜ぶってば!」
「喜ばせる趣味はぼくには無いから!」
お断りだ、と即座に却下。
「そんな香水、欲しくもないし!」
「ハーレイ限定ってトコが売りだよ、ゼルとかは寄って来ないんだよ?」
お目当ての人にだけ魅惑の香りをお届け、とソルジャーは諦め切れないようで。
「絶対、いいって! オススメだってば、ハーレイ限定で誘惑の日々!」
オモチャにするのでも別にいいから…、と少し譲歩を。
「こっちのハーレイ、見事な鼻血体質だしねえ…。学校の中でも君に会ったら鼻血を噴くとか、そんな風にも使えるよ?」
「…うーん…。ぼくに会ったらその場で鼻血かあ…」
「ちょっと素敵だと思わないかい? それにハーレイの目には君が一層、魅力的に映るわけだしねえ…」
熱烈なプロポーズというのもアリかも、とソルジャーの魂胆はそっちでした。会長さんの悪戯に加担しつつも、あわよくば教頭先生とのウェディングベルを、というのが見え見え。
「ぼくはプロポーズは要らないんだよ!」
「そう言わずにさ…。まずは鼻血で悪戯からだよ、何の香りがいい?」
薔薇にも色々、とソルジャーは種類をズラズラと。いったいどれだけ略奪したのか、考えるだけで頭が痛いです。しかも会長さん用にお裾分けだなんて、よっぽど会長さんを教頭先生と結婚させたいのでしょうが…。
「あっ、分かる? ぼくはね、こっちのハーレイを応援してるんだよね」
いつも報われないのを見ているだけに、機会があったら応援を…、とグッと拳を握るソルジャー。
「ハーレイ限定で魅惑の香り! ぼくのコレクションを幾らでも分けてあげるから!」
「要らないってば!」
鼻血コースは面白そうでもその後が…、と会長さん。
「プロポーズまで突っ走られたら迷惑なんだよ、それくらいなら最初から寄って来ない方がよっぽどマシだね!」
犬猫忌避剤ならぬハーレイ忌避剤が欲しいくらいだ、と凄い一言。そこまで言うほど要らないんですか、教頭先生のプロポーズ…。
家の周りに振り撒いておけば、犬や猫が寄らない犬猫忌避剤。会長さんなら教頭先生にでも使いかねない気がします。そういう代物が無くて良かった…、と思ったのですが。
「そうか、ハーレイ忌避剤か!」
これは使える、とポンと手を打つ会長さん。
「ぼくとしては非常に不本意だけれど、使いようによっては面白そうだ」
「「「は?」」」
「ハーレイ限定で魅惑の香りの逆バージョンだよ、サイオニック・ドリームを使ってね」
それなら身につける必要も無いし、と会長さんはクスクスと。
「いいアイデアをありがとう、ブルー。早速使うよ、ハーレイ忌避剤」
「何をやらかすつもりなわけ!?」
「君の逆だよ、ハーレイが逃げたくなる香り!」
ぼくが近付いたらそういう香りが立ち昇るのだ、と悪魔の微笑み。
「もう嗅いだだけで逃げたいと言うか、ぼくに触れたいとも思わないレベルと言うか…。そんな悪臭をさせるぼくでも、逃げたら全てがおしまいだしね?」
結婚どころか何もかもがパア、と会長さんは両手を広げました。
「少しでも嫌な顔をしようものなら、そこを突っ込む! ぼくへの愛はその程度かと!」
「ちょ、ちょっと…! ぼくのオススメは魅惑の香りで…!」
「閃いたんだよ、その話から! ちょうどサイオニック・ドリームの話もしてたし、まさに天啓! これを実行しない手はない!」
何にしようか、と鼻歌混じりの会長さんの笑みは実に楽しげ。
「悪臭だしねえ…。この世の中には色々あるよね、それを日替わりメニューで提供!」
「なんでそっちの方に行くわけ!?」
「君とぼくとは違うから!」
全く逆の人間だから、と会長さんは自信満々。
「君がハーレイを惹き付けるんなら、ぼくは寄せ付けないタイプ! ハーレイ忌避剤!」
凄い香りを纏ってやる、と決意のオーラが見える気がします。ソルジャーはウッと息を飲み込み、珍しく腰が引け気味で…。
「いいのかい? …それをやると君が臭いんだよ?」
「あくまでハーレイ限定でね」
身に纏う必要も全く無いから気分爽快、と言ってますけど。いくら自分は臭くなくても、悪臭を放つ姿を演出しようとは天晴としか…。
ソルジャーがキャプテン限定で纏う魅惑の香水。薔薇だの百合だのジャスミンだのと日替わりで纏っているというのに、会長さんが纏いたいものは教頭先生も逃げ出す悪臭。本気だろうか、と疑う気持ちと、やりかねないと思う気持ちが半々。
香水の話の言い出しっぺのソルジャーは「悪臭だなんて…」と頭を振り振り帰ってしまって、私たちも「そろそろ家に帰らないと」と解散で。次の日の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を訪ねてみれば。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
「やあ。どうかな? 今のこの部屋の匂い」
「「「匂い…?」」」
鼻をクンクンさせてみましたが、甘い香りしかしませんでした。ケーキか、パイか、そういった匂い。皆で答えると、会長さんは満足そうに。
「よし。やっぱりハーレイ限定でしか使えないってね!」
仕掛けは完璧、と会長さんが指を鳴らして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がイチジクのタルトを運んで来ました。飲み物も揃って、美味しく食べる間も会長さんはニコニコと。
「タルトの匂いしかしないよね?」
「俺の場合はコーヒーの匂いもするんだが…」
しかし、と言葉を切ったキース君。
「あんた、本気で何かやったな?」
「やったと言うか、やってると言うか…。ぼくの特定のサイオンの波長を拾うと、ハーレイ忌避剤の香りがね」
サイオニック・ドリームの応用だよね、と会長さんは唇の端を吊り上げました。
「ぼくがその匂いを知らないことには再現不可能、だから不本意だと言った。だけどやるだけの価値はあるんだ、匂いはキッチリ仕入れて来たから!」
「「「仕入れた!?」」」
「そう。ちょっと野菜の…。いや、この先はやめておこう」
今はおやつの真っ最中だし、と匂いの仕入れ先は伏せられたものの。
「食べ終わったら、お出掛けだよ? とりあえず今日は教頭室まで」
用事は特に無いんだけどね、と言われなくても分かります。用事ではなく、教頭先生に会いにお出掛け。魅惑の香りとは真逆なタイプの、ハーレイ忌避剤とやらを纏って…。
タルトのおかわりもキッチリ食べた後、会長さんは「もういいかな」とうなじの辺りの銀色の髪をかき上げながら。
「ブルーのお勧めってわけじゃないけど、この辺りから香るのがいいかと思ってねえ…」
それと鎖骨の辺りに少し、と指差し。
「ぼくが前を向こうが後ろを向こうが、香りが自然と立ち昇るわけ! ハーレイ限定で!」
「…訊きたくもないが、何の匂いだ?」
キース君の問いに、私たちも揃ってコクコクと。おやつの最中には話せないほどで、仕入れ先は野菜に関係した何処か。会長さんが纏う香りは何なのでしょう?
「ああ、これかい? ぶるぅとも相談したんだけどねえ、タマネギが一番いいんじゃないかと」
「「「タマネギ?!」」」
「タマネギは腐ると臭いんだよ、うん」
ぶるぅは腐らせないけれど、という解説。なるほど、それで野菜の…卸売市場へでも?
「まさか。卸売市場じゃ腐っちゃいないよ、新鮮さが売り!」
「かみお~ん♪ 野菜の直売所の近所に行ったの、悪くなった野菜を捨ててるから!」
タマネギ専門、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えとえと、ちょっと近付いただけでも凄かったよ? ぼくはシールドを張っちゃったけれど、ブルーはそのまま行っちゃったあ!」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言うからねえ…。タマネギの腐った匂いが怖くてハーレイ忌避剤が作れるか、ってね」
とはいえ死んだ、と鼻をつまんでみせる会長さん。
「覚えなければ、と頑張ったけれど、多分、一分も嗅いではいない。そんなに嗅いだら確実に死ぬね、臭くてね」
それを纏った自分が行くのだ、と実行する気満々の会長さんは既にタマネギの腐った匂いを装着中と言うか、再現中。教頭先生に向けて振り撒くために教頭室まで出掛けるつもりで、そうなればきっと教頭室は…。
「臭いだろうねえ、部屋中に満ちる悪臭ってね。早く出て行けと言いたいだろうけど、それを言ったらおしまいだしね?」
今日はゆっくり滞在しよう、とソファから立ち上がる会長さん。
「君たちも御馳走になるといい。ハーレイ、ぼくに御馳走しようと思って紅茶を買っているんだからさ。たまには味わってあげないとねえ…」
「「「………」」」
鬼だ、と言いたい気持ちを私たちはグッと飲み込みました。下手に言ったら墓穴です。タマネギの腐った匂いとやらを食らいたいとは思いませんよ~!
「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を後にして、中庭を抜けて本館へ。教頭室の重厚な扉を会長さんがノックして…。
「教頭先生、お邪魔します」
ガチャリと扉を開けて入れば、教頭先生の喜びの笑顔。しかし…。
「あれっ、ハーレイ、どうかした?」
一瞬で歪んだ教頭先生の顔に、会長さんが首を傾げて。
「たまには君とお茶でもしようと思ったんだけど…。今日は忙しかった?」
「い、いや…。お、お茶というのは…?」
「みんなで御馳走になろうかと思って。ぼくのために紅茶、買ってるよねえ?」
「あ、ああ…。あれな」
あれだな、と教頭先生は椅子から立ち上がって戸棚の方へ。会長さんはススス…と教頭先生に近付き、隣に並んで戸棚を覗き込みました。
「ふうん…。一種類だけじゃなかったんだ?」
「ま、まあ…。そうだが」
教頭先生が微妙に距離を開けたがっていることが分かる立ち方。上半身が少し傾いています。もちろん会長さんが立っているのとは逆の側に。会長さんはそれを承知で同じ方へと身体を傾け、棚の紅茶を品定めして。
「ぶるぅの部屋でも飲んできたから、軽めのがいいな。これでお願い」
「わ、分かった! すぐに淹れるから!」
あっちに座って待っていてくれ、と応接セットが示されました。全員が座るには足りませんけど、ジョミー君曰く、肘掛けなどにも座ればオッケー。
「なるほどね! じゃあ、君たちは先に座っててよ」
ぼくとハーレイの分を空けておいて、と会長さん。
「せっかく来たから、二人並んで座るのもオツなものだしね? ぼくは紅茶の淹れ方をちょっと指導してくる、ハーレイは基本がコーヒー党だし」
美味しい淹れ方を教えてあげる、と教頭先生の腕を引っ張り、備え付けのキッチンの方へと向かう会長さん。紅茶の缶を抱えた教頭先生の顔には途惑いの色がありあり、香水ならぬハーレイ忌避剤が効果を発揮しているものと思われます。
「ほら、ハーレイってば!」
「う、うむ…。よ、喜んで教えて貰うことにしよう」
漂っているだろう腐ったタマネギの壮絶な匂い。それを纏った会長さんに笑みを返せる教頭先生、只者ではないと言うか、御立派と言うか…。
会長さんが身体を張って仕入れて来たという凄い悪臭。恐らく紅茶の香りも吹っ飛ぶのでしょうが、教頭先生が会長さんの指導で淹れた紅茶は流石の香り高さでした。会長さんは教頭先生と並んでソファに座って、極上の笑みで。
「美味しいねえ…。うん、この香りがたまらないよ。ハーレイ、いいのを買ってるんだね」
「お前のためならケチらないぞ」
「そう? それで、どうかな? 普段よりも香りがいいんじゃないかと思うんだけどねえ?」
どう? と会長さんがティーカップを手に肩を摺り寄せ、ウッと仰け反る教頭先生。
「ハーレイ? 何かあったのかい?」
「い、いや…。いい香りだな、と思ってな…」
「それは紅茶が? それとも、ぼく?」
うわー…。いつもの会長さんが口にしたなら、教頭先生が舞い上がることは必至の台詞。けれども今の会長さんは紅茶どころか腐ったタマネギ、自分でも一分も耐えられないと言っていた悪臭を放っているわけで…。なのに。
「も、もちろんお前に決まってるだろう!」
教頭先生は男でした。男の中の男と言うべきか、惚れた弱みと言うべきか。会長さんは「そう?」と微笑み、更に密着。
「そう言われちゃうと、くっついてあげるくらいはねえ…。これは出血大サービスだよ?」
「う、うむ…。悪い気はせんな」
「もっとサービスしちゃおうか? 良かったら…だけど」
「…もっと…?」
ゴクリと唾を飲み込む教頭先生。腐ったタマネギでも密着されると嬉しいだなんて凄すぎな上に、もっとサービスと聞いて鼻の下が長めになってるなんて…。なんと凄いのだ、と呆れる私たちを他所に、会長さんは。
「君の膝に座ってあげようかなあ…、って。君の膝で紅茶を飲むのもいいよね」
「本当か!?」
是非、と膝をポンと叩いた教頭先生の膝に、会長さんは「よいしょ」と腰掛け、ゆったりと紅茶を楽しんでいます。ええ、本当に香り高い紅茶なんですが…。
「…ハーレイ? 遠慮しないでくっついてくれていいんだよ?」
密着サービスの時間だからね、と会長さん。それに応えて会長さんの腰に腕を回している教頭先生、どれほどの悪臭に耐えているのか、想像したくもないですってば…。
その日から会長さんはソルジャーお勧めの日替わりメニューで頑張りました。魅惑の香りのソルジャーの方は、訪ねて来ては「信じられない…」と絶句しています。私たちよりもサイオン能力が高い分だけ、会長さんが纏う香りも「その気になれば」分かるらしくって。
「…どれだけやったら気が済むんだい? ハーレイの愛はもう充分に確かめただろ?」
「愛だって!?」
あんなドスケベ、と会長さんは吐き捨てるように。
「密着サービスのために耐えてるだけだよ、内心は臭くてたまらないくせに!」
「だけど顔には出さないじゃないか」
初日だけで、と返すソルジャーは毎日覗き見している様子。
「最初の日だけは仰け反ってたけど、あれから後にはやっていないよ。君に「ちゃんと風呂には入っているか?」と訊きもしないし、君の匂いとして受け入れてるよ!」
「らしいね、有り得ない匂いのオンパレードをね!」
このぼくの身体が臭いだなんて、と自分でやっているくせに文句たらたら。ドブの匂いやら、今はレアものの汲み取りトイレの匂いやら…、と日替わりメニューの中身は聞かされてますが、嗅いだ勇者は一人もいません。ソルジャーがたまに嗅いでいる程度。
「…こういう匂いをさせてる君でも好きだと言えるのは愛じゃないかと思うんだけどね…」
「どうなんだか! ホントに恋人が臭いんだったら、匂いを消す方法をさりげなく提案するっていうのが本当の愛だと思うけどね、ぼくは」
この香水をつけてみないか、と消臭剤を兼ねたのをプレゼントとか…、と会長さん。
「ぼくの身体は臭いんだよ? それを指摘しないで放っておくのは、恋人に生き恥をかかせているのと全く同じじゃないのかな?」
「うーん…。本当のことを言ったら傷つく人だっているし…」
「だから、あくまでさりげなく! 傷つけないように悪臭を元から断ってやるのが本物の愛!」
愛が足りない、と主張している会長さん。
「我慢されても困るんだよ! ぼくが本当に恋人ならね! 君だって文句を言うと思うよ、ぼくとおんなじ立場だったら!」
「えーっと…。ぼくが臭くて、だけどハーレイが教えてくれなくて…。臭いだなんて気付かないままでシャングリラ中を歩いていたなら…」
どうだろう、と考え込んだソルジャーの結論は「腹が立つ」でした。恋人同士で夫婦だからこそ、言いにくいことも言って欲しいと思うそうです。妙な所で意見の一致を見たようですけど、それじゃ会長さんは自分自身が納得するまで悪臭を放ち続けると…?
いったい何処まで続くのだろう、と誰もが恐れた恐怖の悪臭日替わりメニュー。平日は放課後の教頭室で、休日は教頭先生のお宅のリビングで。会長さんは悪臭を纏って密着サービスを展開、教頭先生は悪臭に耐えつつ鼻の下を伸ばし…。
そんな日々への終止符を打つことになった代物は思いがけないものでした。ある土曜日のこと、会長さんは私たちと「そるじゃぁ・ぶるぅ」にソルジャーまで連れて、教頭先生のお宅を訪問。チャイムの音で出て来た教頭先生、初日以上に大きく仰け反り。
「な、なんだ、お前か。…まあ、入ってくれ」
「何かビックリしてたけど…。ああ、今日はブルーも来ているからだね」
一人分余計にお願いするよ、と会長さんは紅茶のリクエスト。例によって指導と称してキッチンへ一緒に行きましたけれど…。
「…今日の匂いは強烈らしいね」
ソルジャーがサイオンで覗き見していて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと、今日はハーレイの匂いの筈なんだけど…」
「「「ええっ!?」」」
私たちは驚き、ソルジャーも。
「本当かい? 今日のは異様に臭かったよ?」
「でもでも、ハーレイの匂いなんだよ!」
本当だよう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が叫ぶのと同時に、キッチンの方で派手に何かが壊れる物音が。ついでに「臭いんだよ!」と怒鳴る会長さんの声も。間もなく教頭先生がドタドタとリビングに駆け込んで来て。
「ち、違う! ブルー、私はだな…!」
「たまらん、って言うのを確かに聞いたよ、臭かったんだろ、このぼくが!」
ずうっと毎日臭かった筈だ、と追いかけて来た会長さんが教頭先生を激しく詰っています。
「仕掛けていたのはぼくだからねえ、ぼくが一番よく知っている! でもね、今日のが臭いってことは、つまりは君が臭いんだよ!」
自分でも耐えられない匂いを放つ身体で近付くんじゃない、とゲシッと蹴飛ばす会長さん。
「いいかい、今日のぼくの匂いは! 君の靴下の匂いだから!!」
「「「ひええっ!!!」」」
ソレか、と臭い理由も会長さんの怒りの理由も一発で把握出来ました。教頭先生は泣きの涙で謝罪しましたが、会長さんが聞く筈もなくて…。
「密着サービスは終わりだよ、うん」
君の好みは多分こっち、とソルジャーが前へと押し出されて。
「こっちのブルーは凄くいい匂いがするらしいよ? 今日のは何かな?」
「えっ、ぼくかい? フラワーブーケって書いてあったかな、花の香りが何種類か」
「そうだってさ! ついでに男なら誰でももれなく!」
惹かれるらしい、と会長さんにドンと背中を押されたソルジャー。悪戯心が芽生えて来たのか、教頭先生を哀れに思ったのか。
「仕方ないねえ…。臭かったらしいし、じゃあ、口直しに」
どうぞ、と特別サービスで提供されたキャプテン限定の魅惑の香り。教頭先生の身体はフラリとそちらに傾いてしまい、会長さんの「やっぱりね…」という冷たい声が。
「君は結局、より魅力的なものであったら誰でもいい、と。…ついでに自分でも耐えられないような臭さを放って生きてるわけだし、ぼくと釣り合うわけがないよね」
自分の匂いで反省しろ! と怒りの一声、バサバサバサ…と教頭先生の頭上に降り注ぐ靴下の山。どんな悪臭かを知った私たちは、後をも見ずに逃げ出して…。
「…こっちのハーレイ、あんなに靴下を溜めてたのかい?」
逃げ帰った先の会長さんの家で、ソルジャーが呆れ顔で尋ねました。自分も散らかす方だけれども、洗濯物は流石に溜めないと。あれでは愛想を尽かされても仕方ないのでは…、という意見だったのですが、会長さんは。
「まさか。靴下の山は洗濯済みだよ、ぼくが匂いを追加しただけで」
サイオニック・ドリームの応用だよね、と高笑いをする会長さん。
「だけどホントに臭かっただろ? ハーレイは未だにあの匂いの中!」
洗う気力も無いらしい、と嘲笑われている教頭先生のお気持ちは分からないでもありません。悪臭に耐えて、耐えまくったのに自分の靴下の匂いで全てがパアに…。
「報われないねえ、こっちのハーレイ…」
「元々は君が言い出したんだろ!」
「ぼくが勧めたのは香水だってば! こっちのハーレイもフラリと来てしまう魅惑の香り!」
それで出直せ、と言うソルジャーと、「お断りだよ!」な会長さんと。不毛な争いが続いてますけど、会長さんの匂いを操るサイオニック・ドリームが完璧なことは分かりました。学園祭の催し物は安泰、今年は匂いが売り物ですよ~!
香り高き恋人・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
生徒会長が日替わりで纏う悪臭、それに耐えまくった教頭先生。男の中の男かも。
なのに自分の靴下の匂いで、全てがパアに。気の毒すぎる結末ですよね、努力したのに…。
シャングリラ学園は、去る4月2日で連載開始から10周年になりました。ついに10周年。
アニテラは4月7日で放映開始から11周年、此処まで書き続けることになろうとは…。
自分でもビックリ仰天ですけど、windows10 さえ無事に動けば、まだ書けそうです。
次回は 「第3月曜」 5月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、4月は、キース君から特別手当を毟り取ろうという計画が…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「いいか、忘れずに覚えておけよ?」
此処が大事な所だから、というハーレイの声。
古典の授業中の教室、居眠りかけている生徒もいたりするのだけれど。
一気に前へと集中する視線、ハーレイの方へと集まる視線。眠りかけていた生徒までもがハッと顔を上げ、パッチリと目を覚ましている。
このハーレイの決まり文句で前を見ないと損だから。雑談の始まりの合図だから。
授業はひとまず置いておいて、とハーレイが語る様々な話、聞き逃してしまうと損をする。後で後悔する羽目になる。愉快だったり、驚きだったり、それは新鮮な中身の雑談。
生徒の心を引き付けるためのハーレイの技で、もう居眠っている生徒はいない。退屈そうな顔をしている生徒も。ハーレイが何を話してくれるかと、誰もが胸を躍らせる時間。
「さて、今日は…」
これだ、と前のボードに書かれた言葉。「黒歴史」という不思議な言葉。
遥かな昔の日本の俗語。SD体制が始まるよりも前に、この地域にあった小さな島国で生まれて消えていった俗語なのだ、とハーレイはボードをコツンと叩いた。
「歴史とは言うが、歴史の知識は必要ないぞ? 歴史の先生に訊いても無駄だな」
こいつが指すのは歴史的な出来事というわけじゃない。
無かったことにしたいようなもの、あるいは無かったことにされている過去の出来事だ。
個人的なものから、もう少し広い範囲までといった所か…。
例えば連続もののドラマで、この話だけは無かった方が良かったんじゃあ、と思うようなもの。誰もがそういう評価をするなら、その話は一種の黒歴史だな。
個人的なものなら、消してしまいたいようなテストの点などが黒歴史扱いってトコだろう。
どうだ、面白い言葉だと思わんか?
ずうっと昔の俗語でもな。
黒歴史、とハーレイが繰り返した遠い昔の日本の言葉。
元々は当時のアニメ作品の中で語られた言葉だったという。たった一つの作品の中の。
それが何故だか一気に広まり、元のアニメを知らない人までが使っていたらしい有名な俗語。
「お前たちの年では黒歴史なんぞはまだ無いだろうが、作るなよ?」
俺の授業で作るんじゃないぞ、と念を押すハーレイ。
古典の成績の黒歴史。テストで赤点を取ってしまうとか、最悪な評価を貰うだとか。
「質問でーす!」
サッと手を挙げた男子生徒。ハーレイが「なんだ?」と言い終わらない内に質問を投げた。
「先生の黒歴史は何ですか!」
「多すぎて言えん」
授業時間が終わっちまう、と返したハーレイ。
たちまち爆笑の渦に包まれた教室、「授業に戻るぞ」とハーレイは教科書をトンと叩いた。
このページからだ、と。
そうして切り替えられた雰囲気、皆が目を覚まして授業の続き。
(流石、ハーレイ…)
凄い、とブルーは目を瞠った。
いつものことながら、惚れ惚れとするハーレイの手腕。生徒たちの集中力を取り戻す必殺技。
感心もしたし、黒歴史という初めて耳にした言葉も面白かったから。
学校が終わって帰宅するなり母に話した、おやつの時間に。
ダイニングのテーブル、母と二人でお茶とケーキをお供にあれこれ語り合う時に。
古典か歴史の授業で習いそうな言葉だけれども違うんだよ、と。
黒歴史というものの正体はこうで、由来はこう、と得意で話して。
今日のハーレイの雑談の受け売り、それを披露して、母に訊いてみた。紅茶を飲んでいる母に。
「ママの黒歴史は?」
どんなのがあるの、ママの黒歴史って?
「無かったことにしたいものでしょ、言わないわよ」
「えーっ!」
知りたいのに、と唇を尖らせたけれど、母は「授業でもそう教わったでしょ?」と涼しい顔で。
「だからママのは話さないけれど、ブルーには色々ありそうね?」
ハーレイ先生が言ってた黒歴史。幾つも持っているんじゃないの?
「…ぼく?」
「そうよ、ブルーは小さい頃にはウサギになりたかったんでしょう?」
ウサギさんになるんだから、って言っていたわよ。大真面目で。
だけどブルーはウサギさんにはなっていないし、なれるわけもないし。
…そういうのを黒歴史と言うんじゃないの?
お友達に話したら大笑いされるし、言おうとは思わないでしょう?
ネズミの国にも行こうと思って頑張ってたわね、おにぎりを持って庭に座って。
「おにぎりでなくっちゃいけないんだよ」って、ネズミさん用に頼んでいたでしょ?
何度作ってあげたかしらねえ、おにぎりが入ったお弁当を。
(…藪蛇…)
忘れたい過去を掘り起こされた、と小さなブルーは頭を抱えたい気持ちになった。
ウサギの話もネズミの話も、とうの昔にハーレイに話してしまったけれど。もう隠してはいないけれども、どちらも多分、黒歴史。ハーレイが言った黒歴史。
積極的に話題にしたいものではないし、と考えていたら。
「そうそう、王子様にもなろうとしたわね」
「王子様?」
なにそれ、とキョトンと見開いた瞳。
王子様には覚えが無い。王子様になろうとした記憶は全く無いのだけれど…。
「あらあら、本物の黒歴史だわ」
無かったことになっているのね、と可笑しそうな母。これが本物の黒歴史よね、と。
楽しげにクスクス笑っている母。ブルーには覚えの無い話。
「王子様って…?」
どうしてぼくが王子様なの、王子様になろうとしていたの?
「頑張ってたわよ、お花の国の王子様を目指して」
お花の国よ、と言われたけれども、ますますもって謎だから。
王子様になるための国まで決めていた理由もサッパリ分からないから。
「…なんで花の国?」
他にも国は色々あるのに、花の国だって言っていたわけ?
お菓子の国とか、魔法の国とか、そういう国も沢山あるのに。
「本当に忘れちゃったのねえ…。お花の国なら親指姫よ」
親指姫が最後に行くでしょ、お花の国の王子様の所へ。その王子様よ、ブルーの夢は。
(…親指姫…!)
言われた途端に思い出した記憶、本当に幼かった頃。童話の世界を信じていた頃。
母の花壇のチューリップ。色とりどりに植えられたチューリップの花壇。
チューリップの花を端から覗いて中を探した。
小さなお姫様が眠っていないか、親指姫が入っていないか。
「どう、思い出した?」
「うん…。ママの花壇のチューリップ…」
探してたんだっけ、親指姫を。この花に入っているのかな、って…。
「ほらね、王子様になろうと頑張ってたでしょ?」
花が傷むわ、って言っても聞かないの。チューリップの中にきっといるよ、って。
「…ごめんなさい、ママ…」
チューリップの花、傷んじゃった?
ぼくが端から開けちゃっていたし、花びらが駄目になっちゃった…?
「いいのよ、それでこそ黒歴史でしょ?」
無かったことになってるんだし、チューリップのことももういいの。
小さな子供がやったことまで叱りはしないわ、ママも充分、楽しい気分だったから。
ブルーにとっては黒歴史でもね、ママには素敵な思い出なのよ。小さかった頃のブルーの可愛い思い出、アルバムに貼っておきたいくらいよ。
ママにとっては宝物なの、とキッチンに去って行った母。
食べ終えて空になったケーキのお皿や、飲み終えた紅茶のカップやポットをトレイに載せて。
(…黒歴史だけど、ママの宝物…)
どうやら母の中からは消せないらしい黒歴史。母にとっては宝物の記憶。
複雑だけれど、嬉しくもあった。
チューリップの花を端から開けていた自分。親指姫を探していた自分…。
部屋に戻って、振り返ってみた黒歴史。綺麗に忘れていた記憶。
勉強机の前に座って、頬杖をついて。
(ぼくが王子様…)
花の国の王子様になろうと夢見た自分。幼かった自分。
きっと真剣だったのだとは思う。お姫様を見付けて王子様に、と。
親指姫を見付け出せたら、花の国の王子様になれるのだと。
でも…。
(ぼく、お姫様になるんだった…)
王子様ではなくて、お姫様になる予定の自分。お姫様になろうと決めている未来。
一日限りのお姫様。
いつか結婚式を挙げる日、その日だけはお姫様になる。
ウェディングドレスを選んだとしても、白無垢の方を選んだとしても、花嫁と言えばお姫様。
結婚式という晴れの舞台で、お姫様になれる筈なのに…。
(こんなの、ハーレイに言えないよ…)
お姫様の道を選ぶ代わりに、王子様になろうとしていただなんて。
ハーレイを裏切ろうとしていただなんて。
親指姫を探していた頃、ハーレイはとっくに生まれていたのに。
隣町からわざわざ引越ししてまで、この町で暮らしてくれていたのに。
(…これがホントの黒歴史だよ…)
ハーレイには一生、黙っておこうと決心した。
お姫様になる未来ではなくて、王子様になろうとしていた過去。幼かった頃の自分の夢。
とても言えないから、もう間違いなく黒歴史。
ハーレイには内緒にしておかなければ、と決めたのだけれど。
それから本を読んだりする間に、過ぎて行った時間。門扉の脇のチャイムが鳴らされ、窓の側に行けば手を振るハーレイ。恋人の姿に心が弾んだ。来てくれたのだ、と頬が緩んだ。
ついでに心も緩んだらしくて、ハーレイと部屋で向かい合わせに座るなり口にした言葉。
「今日の雑談、面白かったよ」
あんな言葉は初めて聞いたよ、ママにも教えてあげたんだ。ママはやっぱり知らなかったよ。
「ほほう…。お前にもあったか、黒歴史ってヤツが?」
それだけ楽しそうな所を見るとだ、あったってわけか、黒歴史?
「うっ…」
しまった、と言葉に詰まったブルーだけれど。ハーレイに瞳を覗き込まれた。
「あったのか、うん?」
「…え、えーっと…」
何と答えを返せばいいのか、目を白黒とさせていたら。
「まあ、あるだろうな、山ほどな」
なにしろ、三百年だしな?
あれだけ生きてりゃ、一つや二つじゃないだろうさ。
俺としては知ってるつもりなんだが、知らないヤツだってあるかもなあ…。
四六時中お前と一緒にいたわけじゃないし、そういうのも充分ありそうだよな。前のお前が今も隠している黒歴史。知りたい気持ちもあるんだがなあ、黒歴史だしな?
聞き出そうとして嫌われちまったら、俺は恋人失格だよなあ…。
(前のぼくだと思ってるんだ…)
そっちの方か、とホッとしたけれど。
それならば自分は無関係だ、と安心したのが悪かった。
口から零れた安堵の吐息。肩の力が抜けた瞬間、ハーレイに感づかれてしまったらしく。
「…おい。まさか黒歴史、今のお前の方なのか?」
前のお前の話じゃなくって、チビのお前の黒歴史か?
まだチビのくせに持っていたのか、黒歴史なんていう一人前の代物を…?
「違うよ!」
ぼくじゃないってば、前のぼくだよ!
黒歴史なんかは持っていないよ、ぼくは!
「ふうむ…。むきになって否定されるとなあ…」
こいつはどうやら、本当に持っていそうだってな、黒歴史。
チビのくせして、何処で作って来たのやら…。
今のお前の黒歴史だったら、俺が聞き出しても特に問題無しってトコか。
恋人ではあるが、お前に言わせりゃ、本物の恋人同士じゃないらしいしな?
俺が少々意地悪したって、恋人失格にはならんだろうが。
まあ喋ってみろ、とハーレイに促されたから。
鳶色の瞳に捕まってしまって、誤魔化せそうではなかったから。
渋々、口を開いて答えた、今の自分の黒歴史を。ハーレイも承知している分を。
「ウサギとネズミ…」
「はあ?」
なんだ、そいつは?
ウサギとネズミが何をしたんだ、今のお前に?
「えっと…。ウサギはぼくがなりたかったもので、ネズミは行きたかった国…」
ネズミの国に行こうと思ってたんだよ、小さかった頃に。ウサギになろうとしたのも、その頃。
「ああ、あれか。…チビだった頃のお前の夢だな、どっちもな」
黒歴史と言えば黒歴史の内か、ウサギとネズミ。チビにはありがちな夢だと思うが…。
他にも何か隠してるだろう、黒歴史。チビのお前の、とんでもない過去。
「なんで分かるの!?」
ハーレイ、ぼくの心を読んだの、それってルール違反じゃない!
ぼくの心が零れてたんなら仕方ないけど、勝手に読むのは今の時代はルール違反で、マナー違反だと思うんだけど!
「…まさに語るに落ちる、ってな」
お前、他にも持ってたんだな、黒歴史。
ウサギとネズミも立派なんだが、もっと凄いのを持ってました、と自分で白状するとはなあ…。
鎌をかけただけだ、と片目を瞑ったハーレイ。
引っ掛かるとは思わなかったと、心など少しも読んではいない、と。
「ハーレイの意地悪!」
ぼくがチビだからって、からかわなくてもいいじゃない!
隠したいから黒歴史なのに、それをせっせと掘り起こすなんて!
「間違えるんじゃないぞ、お前が自分で喋ったんだ。ウサギとネズミの他にもあります、と」
それで、お前は何をしたんだ?
必死になって隠したいほどの黒歴史ってヤツを知りたいもんだが、それはどういうものなんだ?
「…王子様…」
「王子様だと?」
なんでそいつが黒歴史なんだ、王子様と言えば輝かしい歴史になると思うが…。
それとも、お前。
幼稚園か下の学校の劇で、王子様の役でも貰ったのか?
でもって肝心の発表会の日に、舞台で見事にすっ転んだとか、違う台詞を言っちまったとか。
その手の失敗が黒歴史なのか、王子様の役までは素晴らしいんだが。
「…ううん、そっちの方がまだマシ…」
ホントに本物の王子様を目指して頑張ったんだよ、小さかった頃に。
お花の国の王子様になろうと思って、ママの花壇のチューリップを全部…。
チューリップの花を端から覗いて、探し回った親指姫。
小さなお姫様が入っていないか探していた、と説明をしたら散々に笑われてしまったけれど。
肩を揺すって笑ったハーレイだけれど、黒歴史の感想はこうだった。
「まあ、お前、フィシスの王子様だしな? …前のお前だが」
お姫様を見付けて攫って来た上、王子様になっていたのが前のお前だ。
そいつを思えば、親指姫を探すというのは、あながち間違ってもいない。
水槽を探しに潜り込んでたか、チューリップの花壇で家探ししたかの違いだけだな。
…前のお前の記憶が影響したってわけではないんだろうが…。
いいんじゃないのか、王子様を目指していたというのも。
その頃のお前は俺を知らんし、仕方ないよな、嫁さんを貰うつもりでいたって。
「…許してくれるの?」
ぼくはハーレイを裏切ってたのに、仕方ないって言ってくれるの…?
「当たり前だろうが、黒歴史だろ?」
お前にとっては黒歴史という扱いなんだろ、その話。親指姫を探していたっていうことが。
「うん…。だから一生、黙っておこうと思ってたのに…」
ハーレイが全部喋らせたんだよ、ぼくは内緒にしたかったのに…。
「そういう消したい過去だからこそ、黒歴史ってことになるわけだ」
無かったことにしたいくらいの、消してしまいたい過去の汚点だな。
黒歴史だという自覚がある上、今よりもずっとチビのお前が挑んでいたお伽話の世界だ。
小さな子供の夢を捕まえて、怒鳴って頭から叱り付けるほど、俺は心が狭くはないぞ。
可愛らしいと思いはしてもだ、怒ろうって気にはなれないなあ…。
それに…、と穏やかに微笑むハーレイ。
いくら探しても親指姫は見付からなかったのだし、それでいいと。
花壇に植えられたチューリップの中、見付からなかった小さなお姫様。親指くらいのお姫様。
見付かっていたなら大変だから、と。
幼かったブルーは花の国の王子様になってしまって、親指姫と結婚するのだから、と。
「そうなっていたら、俺は王子様を盗み出さねばならん」
花の国まで出掛けて行ってだ、その国の王子様ってヤツを。
盗んで連れて帰って来ないと、俺の嫁さんがいなくなるんだからな。
「…王子様を盗むの、お姫様を盗み出すんじゃなくて?」
「うむ。王子様の方だ、俺が盗みに行くのはな」
お姫様の方には用が無いんだ、俺が結婚したい相手は親指姫じゃないんだし…。
嫁さんにしたいのが王子様なら、そっちを盗むしか無いだろうが。
そんな童話は聞いたこともないが、とハーレイが浮かべた苦笑い。
お姫様を盗む話や攫う話は多いけれども、王子様を盗んで結婚式を挙げる童話は知らないと。
「それでも王子様を盗まないとな、花の国から」
親指姫と二人仲良く暮らしていようが、とにかく盗み出さないと…。
お前が其処の王子様なら、俺は盗むしかないってな。
「王子様を盗んで行こうだなんて…。ハーレイ、凄い悪者だね」
親指姫の話がメチャメチャになるよ、王子様がいなくなっちゃったら。
お金持ちのモグラよりも酷いよ、モグラは親指姫と結婚出来ずに終わったんだし…。
王子様は盗まれてしまいました、なんてお話、めでたし、めでたし、って終わりっこないよ。
「いいや、めでたし、めでたしになるさ」
親指姫の童話の世界はどうなっちまうか分からないがな、王子様の方はそれでいいんだ。
花の国に来た悪者だろうが、金持ちのモグラになっていようが、王子様を盗んで結婚式だ。
そいつでハッピーエンドになるんだ、花の国の王子様の物語はな。
俺にはお前が必要なんだし、お前だって俺に出会えば気付く。
こっちが本物の恋人なんだと、自分は王子様になったけれども、本当はお姫様だった、とな。
気付いたお前を盗んでゆくさ、とハーレイは自信たっぷりで。
花の国の王子様を花嫁にすると、ハッピーエンドの童話なのだと主張していて。
「そうなるだろうが、王子様がそれで幸せならば」
結婚して幸せに暮らしました、という終わり方ならハッピーエンドだ、間違いない。
王子様の結婚相手が悪者だろうが、モグラだろうが、王子様さえ幸せならな。
「…親指姫はどうなっちゃうの?」
ぼくが見付けた親指姫。…結婚していた親指姫は?
「さあなあ、ツバメがなんとかするんじゃないか?」
親指姫を花の国まで連れて行くのは童話の中ではツバメなんだし、お前が見付けた親指姫だってツバメが何処かへ連れて行くとか…。
花の国と言っても一つだけとは限らないしな、花の王子様は他にもいるかもしれん。
お前が王子様をやっていたなら、それに相応しい親指姫の童話が出来るさ。
王子様が盗まれちまった後にも、親指姫が幸せになれる話が。
そもそも、お前が王子様になっていたのが間違いなんだ。
王子様になろうとしていた話は、お前にとっては黒歴史だろ?
消しちまいたい過去で、無かったことにしたいくらいの過去なんだからな、親指姫が見付かっていたら、それも含めて黒歴史ってな。
親指姫と暮らしていたことは忘れちまって、俺の嫁さんになればいい。
お前はそうして幸せになるし、親指姫だって、お前とのことを黒歴史にして別の人生。
要は幸せに暮らしていればいいんだ、黒歴史ってヤツがあってもな。
…有難いことに、チビのお前の黒歴史。
親指姫を見付けられずに終わっているから、俺は盗っ人にならなくて済む。
花の国の王子様を盗みに冒険の旅に出掛けなくても、嫁さんはちゃんと手に入るんだ。
親指姫に感謝せんとな、お前の家の花壇に咲いてたチューリップに入っていなかったことを。
良かった、良かった、とハーレイが嬉しそうな顔をしているから。
王子様を盗み出した悪者にもモグラにもならずに済んだ、と紅茶で喉を潤しているから。
黒歴史を喋らされる羽目に陥ったブルーの方では些か不満で、面白くなくて。
「…じゃあ、ハーレイの黒歴史は?」
ぼくのだけ聞いて、それでおしまいって酷くない?
鎌をかけてまで喋らせたんでしょ、ハーレイの分も教えてよ。ハーレイが持ってる黒歴史を。
「授業中にも言っただろう。ありすぎて話し切れないとな」
お前よりも長く生きているんだ、どれほどあると思っている?
チビのお前でさえ、ウサギにネズミに王子様だ。俺だと、いったい幾つあるやら…。
きちんと数えたことは無いがだ、指を折ったくらいで足りる数ではないってな。
お茶を飲みながら話せるような数じゃないんだ、今日の所は諦めておけ。
「ずるいってば!」
時間が足りないって言うんだったら、何回かに分けて話すとか…。
今日は始まりのトコだけ話して、次に会ったらその続き。そんな感じで教えてよ。
ぼくだけ三つも喋らせておいて、ハーレイは一つも無しなんてずるい!
ほんの少しだけ、小さな黒歴史の始まりだけでも一つ教えて、何でもいいから!
お願い、と強請ったブルーだけれど。
教えて欲しいとせがんだけれども、「いずれな」と軽く躱された。
本当に山ほどあるのだからと、いつか結婚したなら、と。
「結婚して一緒に暮らし始めたら、時間もたっぷりあるからなあ…」
それからゆっくり聞けばいいだろ、俺の黒歴史を知りたいのなら。
細切れの話を聞いているより、纏めて聞くのが一番じゃないか。続き物にするより、纏める方がお得だぞ?
話の続きが気になってしまって、夜も眠れないってことも無いしな。
「…なんでそこまで内緒にするの?」
結婚するまで秘密にしなくちゃいけないの?
少しくらい聞いても、ぼくは寝不足にはならないけれど…。続きを聞くまで待てるんだけど。
それでも駄目なの、どうしてなの?
ちょっとくらいは教えてくれても良さそうなのに…。
ぼくに言えないくらいに酷いの、ハーレイが持ってる黒歴史は?
「そういうわけでもないんだが…」
酷いわけではないのだが、とハーレイは肩を竦めてみせた。「とても言えん」と、「黒歴史とはそういうものだ」と。
無かったことにしておきたいから、黒歴史。消してしまいたいから黒歴史だ、と。
「ぼくの王子様の話だってそうだよ、黒歴史だよ!」
だけどハーレイ、喋らせたじゃない!
ぼくは無かったことにしておきたくって、一生言わずにおこうとしたのに…!
「それだ、それ。…恋人だからこそ、今は黙っておきたいってな」
お前が考えていたのと同じだ、俺はお前のためを思って結婚までは黙っておこうと…。
迂闊に話すと、お前、眠れないどころじゃないぞ?
黒歴史だからと説明したって、お前はまだまだチビなんだ。
俺みたいに笑って流せるかどうか、その辺がなんとも分からんからなあ…。
嫉妬するとか、怒り出すとか。
そうなったとしても、とっくの昔に終わってしまった話なんだ。今更取り返しがつかん。
お前の器が大きくなるまで、黙っておくのが吉ってことだな。
ついでに、お前が怒っちまっても、「すまん」と謝ってキスを贈ってやれる頃まで。
結婚していたら簡単なことだろ、キスして仲直りをするくらいはな…?
仲直りの方法はキスの他にも色々あるし…、と深い色になる鳶色の瞳。
ブルーを見詰めている瞳。
その瞳の奥に熱い光が見え隠れするから、仲直りの方法とやらは分かった。キスを交わした先にあること、チビの今では出来もしないこと。
ブルーの頬が染まったけれども、そこで気付いた黒歴史。ハーレイが隠しておきたい過去。結婚するまで話す気は無くて、聞けば自分が嫉妬するとか、怒り出すとか言うのなら…。
「…ハーレイ、もしかして、恋人を募集してたとか?」
黒歴史ってそういうヤツなの、だからぼくには話せないの…?
「さあな?」
恋人募集か、デートでもしたか。
まさかお前が嫁に来るとは、俺は夢にも思わなかったし…。
お前に会うまで気付かなかったし、俺はこういう年なんだしな?
お前よりも長く生きている分、人生、色々あるってもんだ。もちろん出会いの数ってヤツも。
だがな、俺にはお前だけだ。
花の国から王子様を盗み出す羽目になっても、お前以外を嫁に欲しくはないってな。
(……黒歴史……)
学生時代はモテていたと聞くハーレイだから。
柔道も水泳もプロの選手にならないかという誘いが来るほど、女性ファンだって大勢いたのだと聞いているから、もしかしたら。
わざわざ募集をするまでもなくて、恋人の一人もいたかもしれない。一人どころか二人、三人、それこそ何人もハーレイの周りを取り巻くほどに。
食事に行くならこの人と、ドライブするならこの人と、とシーンに応じて選べるほどに。
(…ハーレイとデートをしたい人たちが順番待ちとか…)
絶対に無いとは言い切れない。プロのスポーツ選手は引く手数多の花形職業、ハーレイはその卵だったのだから。
プロでなくても学生時代は大会で優勝するような選手、きっと素敵に見えただろう。一際輝いていたに違いないし、デートしてみたいと願う女性も少なくはなくて…。
(…ハーレイ、ホントにデートしてたの…?)
車の助手席に女性を座らせて、ドライブなんかもしたのだろうか。
何処かの店で二人きりの食事や、お茶を楽しんだりもしていただろうか…?
けれどその頃、自分は生まれてもいなかったから。
生まれて来た後も、ハーレイの存在などは知らずに、親指姫を探していたから。
花の国の王子様になって結婚しようと、チューリップの花を端から覗いていたのだから。
(…お互い様…)
未来の結婚相手を巡る話は黒歴史ということにしておこう、とブルーは思う。
親指姫を探した自分も、ハーレイが話してくれない過去の話も。
どちらも今は黒歴史。無かったことにしておく話。
いつか笑いながらハーレイの黒歴史を聞ける時が来るまで、二人で暮らせる日が来るまでは。
そう、その日までは黒歴史。
結婚してお互い、お互いのものになる時まで。
ハーレイの黒歴史を聞いて嫉妬したって、怒ってみたって、ただキスだけが降ってくる。
そうしてキスで溶けてゆく過去、溶けてなくなる黒歴史。
甘く溶け合うための相手は、お互い、一人しかいないのだから…。
可愛い黒歴史・了
※ブルーが教わった「黒歴史」という言葉。ついでに、ブルーにもあった黒歴史。
もしも親指姫が見付かっていたら、とんでもないことになっていたかもしれませんね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(うーむ…)
実に羨ましい男だな、とハーレイは手元の本を見詰めた。
夕食の後で入った書斎。愛用のマグカップに熱いコーヒーをたっぷりと淹れて。
今日はブルーの家に寄り損ねたから、時間が余っているほどの夜。仕事帰りにジムに寄ろうかと思ったのだが、たまには家でのんびり無為な時間を過ごすのもいい。
そうしたわけで、明日の授業で使う予定の資料を見てみた。何の気なしに、鞄から出して。
小さなブルーのクラスも含めて、幾つかのクラスで話す予定の源氏物語。
開いた本のページに載っていたのが、光源氏が幼い紫の上を見初める場面を描いたもので。
(こんな時点から目を付けやがって…)
子供じゃないか、と眺めた絵。紫の上はどう見ても子供、覗き見している光源氏は立派な大人。
どうかと思うが、これはそういう物語。
SD体制が始まるよりも前の遥かな昔に、自分たちが住んでいる地域にあった小さな日本という名の島国、そこで書かれた長編小説。古典の授業では必ず教わる、教える源氏物語。
とても全部を語れはしないし、抜粋する形になるのだけれど。避けて通れないのが光源氏と紫の上の出会いの場面で、生徒が持っている資料の本にも図版が入る。
見るからに幼い紫の上。それを垣間見る光源氏。
(いくらなんでも早すぎだろうが…!)
おまけに攫って自分好みに育てるんだ、と毒づいた。
物語の中ではもう少し先になるけれど。出会った途端に攫ったわけではないけれど。
それをやってのけた光源氏が羨ましくてたまらない。羨ましすぎる男に思える。
以前だったら羨ましくもなかったけれど。半ば呆れたものだけれども、それが今では…。
(俺の事情が変わったってな)
小さなブルー。まだ十四歳にしかならないブルー。
前の生から愛した恋人、この地球の上に生まれ変わったブルーとバッタリ出会ってしまった。
さながら奇跡のような再会、ブルーと頻繁に会うことが出来る大義名分まで手に入れた。
ところがどっこい、ブルーは子供。結婚出来る年の十八歳にもまだ遠い子供。
せっかく巡り会えたというのに、一緒には暮らせないブルー。
何ブロックも離れた家で両親と暮らしているブルー。
(こんな風に攫って来られたならなあ…)
資料の本に光源氏が紫の上を攫う場面は無いけれど。一足飛びに光源氏の家で暮らしている紫の上の図版になるのだけれど。
その間に何が起こっていたのか、授業では無論、簡潔に話す。ついでに自分は授業で教える内容よりも深く物語を知っているから、二つの図版を見比べてみては光源氏を羨んでしまう。
(攫って来た上に、自分好みに育て上げると来たもんだ)
金も権力もある男ならでは、遠い昔の貴族の我儘。光源氏は虚構の人物だけども、これに憧れて似たようなことをしでかした男もいたかもしれない。暇を持て余した貴族の中には。
(…なんて羨ましい男なんだ…)
未来の妻を、恋人を、幼い頃から攫ってしまって手元に置く。自分の家で一緒に暮らす。
小さなブルーを攫えたならば、と光源氏が羨ましくなる。未来の恋人を攫った男が。
もっとも、ブルーを攫ったとしても、自分好みに育てることは出来ないけれど。
元々が自分の好みなのだし、前の生から非の打ち所が無かった恋人。小さなブルーの中身は前と同じにブルーそのもの、ただ幼いというだけのこと。
自分好みに育てなくとも、ブルーは勝手に育ってゆく。前の生で愛した人そのままに。
(…俺の好みでどうこう出来はしないんだよなあ、ブルーだしな?)
ブルーが育つであろう姿を変えてみようとも思わない。そんな必要は何処にも無い。自分好みに育て上げるために攫いたいとは思わないけれど、もしもブルーを攫えたならば。
きっと気分が違うだろう。毎日が変わってくるだろう。
この家に小さなブルーがいたなら。
ブルーを攫って、この家に住まわせておいたなら。
(帰って来たら、チビのあいつがいて…)
前のブルーが青の間で迎えてくれた時の顔とは違うだろうし、「ただいま」と唇を重ねることも出来ないけれど。唇へのキスは小さなブルーとは交わせないけれど。
それでも小さなブルーが居たなら、チビはチビなりに、きっと笑顔で迎えてくれる。
おかえりなさい、と。
(でもって、添い寝…)
眠る時には同じベッドで、寄り添い合って。何もしないで、ただ眠るだけ。
光源氏は踏み外した道だが、自分は踏み外しはしないと思う。添い寝するだけ、横で眠るだけ。
小さなブルーに誘われても。「本物の恋人同士になりたい」と強請られても。
(チビの間は絶対に駄目だ)
光源氏が紫の上に手を出した時の、紫の上よりは年上だけれど。年上になる筈、ブルーは十四歳だから。源氏物語の時代の年の数え方でいけば十五歳になるし、年齢不詳の紫の上も十五歳までも育っていたなら、光源氏が道を踏み外した夜もさほど劇的とは言えなくなる。
そう、あの時代ならば十四歳でも問題はない。人間の寿命は短かったし、結婚もまた早かった。
けれども、今の時代は違う。事情がまるで全く違う。
十四歳にしかならないブルーは、あまりに小さな子供だから。
まだ幼いから、添い寝するだけ。眠りを守って抱き締めるだけ。
そう出来るだけの自制心もきっとあるだろう。
以前、メギドの悪夢を見てしまったブルーが瞬間移動でベッドに飛び込んで来てしまった夜は、心が騒いで一睡も出来ずに終わったけれど。
小さなブルーに慣れた今なら、そっと抱き締めて心地良く眠りに就ける筈。
その温もりを確かめながら。帰って来てくれたブルーの命の温かさに酔いながら。
(チビのあいつが育ち始めたら…)
出会った時から少しも育たず、チビのままのブルー。小さなブルー。
それが成長し始めたならば、危ういかもしれない、自分の理性も。
光源氏の轍を踏まぬよう、懸命に踏み止まる夜が続いてゆくかもしれない、ブルーが結婚出来る十八歳を迎えるまでは。
とはいえ、理性との戦いも楽しいことだろう。
ブルーと同じベッドで眠って、何処まで自分が耐え抜けるのか。
結婚式を挙げる時まで耐えられるか否か、ある意味、ゲーム。
理性が崩れて腕の中のブルーに手を出したならばゲームオーバー、弱すぎた自制心の負け。
結婚式まで耐え抜けたならば、それは感動的な初めての夜を迎えられる筈で。
我慢したからこそ得られる御褒美、我慢しないと貰えない御褒美。
そういうゲームも悪くない。自分自身と戦うゲーム。
(あいつを攫って来られたら…)
ブルーを攫って、この家に閉じ込めておけたなら。
学校へも行かせず、ただ可愛がって。
家にいる時はいつもブルーと一緒で、それこそ離れる暇さえも無い暮らしぶり。ブルーの家まで会いに出掛けずとも、家に帰ればブルーがいる日々。
(理想だな…)
自分好みに育てる代わりに、勉強を教えて、面倒を見て。
ブルーのためにと食事を作って、買い物も何もかもブルーのために。ブルーだけのために過ぎてゆく日々、ブルーとの暮らしに酔いしれる日々。
誰にもバレずにそれが出来たら、どんなにか…。
(まさに夢物語というヤツなんだが…)
そんな風にブルーと過ごせたら。
結婚までの日々を、ブルーの毎日を自分と共にいる時間だけで染め上げることが出来たなら…。
きっと幸せに違いない、と夢の暮らしを思い描いていて。
(…いかん、いかん)
駄目だ、と自分を叱咤した。
前の自分よりも、ずっと幸せになれるというのに。
ブルーを花嫁に出来るというのに、それ以上のことを望むなど。
結婚までの日々が長すぎるから、とブルーを攫ってしまおうだなどと、欲張りにもほどがあるというものだ。自分本位に過ぎる欲望、光源氏と大差無い。
しかし…。
(こんな時代だから、とんでもない夢を見ちまうんだな)
白いシャングリラの中だけが世界の全てだった、前の生の自分。ミュウが虐げられた時代に生を享け、その時代の終わりに死んでいった。ミュウが主役となる時代の扉だけを開けて。
前のブルーと暮らした船には、思い出も沢山あるけれど。幸せな恋をしていたけれど。
世界は狭くて、いつ突然に終わりがくるかも分からなかったシャングリラ。
明くる日の夜明けを迎えられることが、当たり前ではなかった船。
そういう時代に恋をした人と、平和な時代に青い地球の上でまた出会えたから。
これから育つブルーの姿を、毎日のように見ていられるから。
そのせいで夢を見たくなる。育ってゆくブルーを自分の手元に置いてみたいと、攫いたいと。
してはならないし、出来ないこと。叶わない夢。
小さなブルーを攫って来ること。
(…本当に幸せな男だ、こいつは)
光源氏め、と睨み付けておいた。
物語の中の人物だけれど、夢を叶えた幸せな男を。恋人を手元で育てた男を。
書斎で光源氏を睨んだ次の日、ブルーのクラスでの授業。
昨夜、資料の本で見ていた図版を開かせて教える源氏物語。光源氏の恋の物語。
紫の上を見初めて、攫って、ついには妻に。それだけではなくて、他にも色々と話したけれど。
(気付くなよ…?)
熱心に授業を聞いているブルー。赤い瞳で自分を見詰めているブルー。
ノートに書く時は下を向くけれど、それ以外は常に自分を追い続けているブルーの瞳。赤い瞳。
小さなブルーに気付かれないようにと、ただ願うだけ。
自分が何を思っていたか。
光源氏の物語の向こう、同じことをしたいと夢見た自分に、どうかブルーが気付かぬようにと。
授業をした日はブルーの家には寄れなかったけれど。
翌日の土曜日、そんな授業をしたことも忘れてブルーの家に出掛けて行ったら。
ブルーの部屋で二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで座ったら。
「ハーレイ、昨日の授業だけど…」
「ん?」
小さなブルーが「授業」と言うから、「質問か?」と尋ねてやった。そうしたら…。
「ねえ、ハーレイは憧れない?」
「何にだ?」
俺が何に憧れるというんだ、昨日の授業と全く繋がらないんだが…?
「そう? 憧れていないの、光源氏に?」
「はあ…?」
見抜かれたのか、とドキリとした。
すっかり忘れてしまっていたけれど、一昨日の夜に囚われた考え。昨日の授業中はブルーの瞳を恐れていた。気付いてくれるなと、自分が抱いた考えに気付かないように、と。
それをブルーは知っていたのか、と焦ったハーレイだったけれども。
「…ハーレイ、光源氏には憧れないんだ…?」
ぼくは紫の上に憧れるよ、と瞳を輝かせたブルー。無邪気なブルー。
気付いたわけではなかったらしい、授業をする前に自分が夢見た、甘いけれども物騒な夢に。
ブルーを攫って育ててみたいという考えに。
ところがブルーが言い出したことは、ハーレイの目を丸くさせるには充分なもので。
攫って欲しいと、ハーレイの家で暮らしてみたいと小さなブルーは笑顔で言った。
光源氏が紫の上にそうしたように、自分を攫って欲しいのだけど、と。
「攫うって…。お前なあ…!」
後ろめたい所があったものだから、ついつい声が少し大きくなったけれども。
「駄目…?」
攫って欲しいよ、と小首を傾げる小さなブルー。怖がりもせずに。
「俺を犯罪者にしたいのか、お前?」
今はその手の犯罪は無いが、前のお前は知っているよな?
キースもフィシスを人質に取って攫って逃げたし、あの時代にはあった犯罪だが…。
今の平和な世の中ってヤツじゃ、そういった罪で捕まるヤツは何処にもいないんだがな?
「やっぱり駄目…?」
「当たり前だ!」
俺が犯罪者になってしまうのもそうだが、攫われるお前。
お前も無事では済まないんだぞ、攫われちまうっていうことはな。
いったい何を考えているのだ、とブルーを叱った。
攫われたら最後、
お前に自由は無いんだぞ、と。
なのに…。
「でも、ぼくはそれでもかまわないよ?」
「ブルー…?」
何故、と問う前にブルーの桜色の唇が紡いだ、歌うように。
「自由が無くても、ぼくは幸せ。前のぼくより、ずっと幸せ」
攫われてもいい、とブルーは笑みを浮かべた。
ハーレイしかいない世界で充分だからと、自分はそれで幸せだからと。
「そうでしょ、ハーレイ? 毎日、ずっとハーレイと一緒」
前のぼくだと、そんなことは出来なかったから…。
朝になったらハーレイはキャプテンの制服を着込んで行ってしまって、夜になるまで恋人同士に戻れる時間なんかは無くて。
たまに通路でハーレイの背中を追い掛けたけれど、飛び付いてキスを強請っていたけど…。
たったそれだけ、夜になるまでは恋人同士の時間はそれだけ。
それでもぼくは幸せだったよ、ハーレイと夜に会えるってだけで。
もしも一日中、朝から晩までハーレイの側にいられるのなら。
…自由なんかは無くても幸せ、前のぼくより、ずっと幸せ。攫われて閉じ込められていても。
ハーレイの家から一歩も出られなくても、ぼくの周りにはハーレイだけ。
まるで夢みたいな世界なんだよ、ハーレイしかいない幸せな世界。
そういう世界に住めるんだったら、自由なんかは無くなっちゃってもいいんだけれど…。
自由になりたいと思いもしないし、毎日、幸せ一杯だよ、きっと。
だから攫って欲しいんだけどな、光源氏が紫の上を攫ったみたいに。
「ふうむ…。実は、俺もそいつを夢見はしたが、だ…」
憧れないでもなかったんだが、と素直にブルーに白状した。授業をしに行く前の日の夜、資料の中の光源氏が羨ましかったと、ブルーを攫いたいと思っていた、と。
「ホント!?」
それじゃ攫ってよ、ハーレイの家に連れてってよ。
「いや。お前の話を聞いている間に気が付いた。慌てなくてもいいってな」
俺が攫ってしまわなくても、いずれお前はそうなるんだ。
お前の周りには俺しかいなくて、俺しか見えない世界ってヤツに。
「え…?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
どうしてぼくにはハーレイしか見えなくなっちゃうの…?
「分からないか? 俺と結婚しちまった後だ」
俺の家に嫁に来ちまった後。
寝ても覚めても俺しかいなくて、お前の他には俺しか住んではいない家だぞ…?
お望みとあらば閉じ込めてやろう、と笑ってみせた。
仕事にゆく時には外から鍵をかけてしまって、ブルーは庭へも出られない生活。家の合鍵さえも持たせて貰えず、一日中、家の中だけで暮らす。
ハーレイが帰宅して鍵を開けるまで、独りきりでの留守番の日々。
誰とも顔を合わせることなく、買い物にも行けない囚われ人。ハーレイだけしかいない人生。
「…それもいいかも…」
ホントにハーレイだけの世界で、ハーレイにしか会わずに暮らすんだ…?
前のぼくだと無理だけれども、今のぼくなら出来るよね、それ。
「お前、困るぞ?」
家から一歩も出られないんだぞ、庭にも出られないんだが?
急に何かを食いたくなっても、近所まで買いにも行けないわけだが…?
「困らないよ」
ぼくはちっとも困りはしないし、外へ出たいとも思わないよ。
だって、ハーレイと住んでる家なんだもの。ハーレイとぼくと、二人きりの世界なんだもの。
そんな幸せな世界があるのに、壊したいなんて思わない。
ハーレイがぼくを閉じ込めるんなら、その世界だけでぼくは幸せ…。
充分に幸せ、と小さなブルーが微笑むから。
ハーレイさえいれば、と笑顔になるから。
思わず攫ってしまいたくなる、光源氏が紫の上を攫ったように。一昨夜に思い描いたように。
駄目だと分かっているのだけれども、小さなブルーを。
まだ十四歳にしかならないブルーを攫って、閉じ込めて、自分だけのものに。
結婚出来る年になるまで閉じ込め続けて、隠し続けて、ブルーの世界には自分一人だけ。
何処へも行かせず大切に隠して、宝物のようにブルーを育てて。
いつか美しく成長したなら、前のブルーと同じに気高く育ったなら。
花嫁衣装を誂えてやって、結婚式を挙げて、本当に自分のものにする。ブルーの心も身体も全て手に入れ、今度こそ自分一人のものに。
前のブルーはソルジャーだったから、叶わなかった一人占め。
それが今度は堂々と出来る、攫っても世界が壊れはしない。シャングリラが沈むわけではない。
小さなブルーを攫ったとしても、ただ犯罪者というだけのこと。
流石にマズイから攫えはしないが、いつかはブルーを一人占めだ、と考えていたら。
「ハーレイ、ぼくを攫って帰らない?」
攫っていいよ、と小さなブルーが自分の顔を指差した。攫ってもいいと。
「おいおい、そいつは犯罪だと言っているだろう…!」
今どきお目にかかれないような極悪人だぞ、お前を攫って逃げようだなんて。
その手の犯罪が消えちまってから、どのくらい経ったと思ってる?
俺はたちまち、名前を知らないヤツが無いほどの有名人になってしまいそうだが…?
悪い意味での有名人だな、前の俺とはまるで逆の意味で宇宙に名前が広がっちまうぞ。
「平気だってば、合意の上なら」
ぼくが頼んで攫われました、って証言するから大丈夫。
攫われたくって攫われたんなら、ハーレイは犯罪者じゃないよ。
被害者と言ってもいいんじゃないかな、ぼくの頼みを断れなくって攫うんだから。
みんな気の毒がってくれるよ、駄々をこねられて攫ったんだな、って。
だから攫って帰ってみない?
上手く行ったらハーレイのものだよ、ぼくはこのまま。
ハーレイの家に閉じ込めちゃったら、ハーレイだけのものになるんだよ…?
攫ってくれるんなら窓からだって抜け出しちゃうよ、とブルーは乗り気で。
「ね、ハーレイが帰る時、少し行った何処かで待っててよ」
ハーレイを見送って部屋に戻ったら、ママたちの隙を見て一階に下りて。
何処かの窓から外に出るから、暫く待ってて。
ぼくが追い付いたら、二人でハーレイの家に行こうよ、人通りの少ない道を通って。
本当はバスに乗りたいけれども、それだと目撃されちゃうものね…。タクシーにも乗れないし、ぼく、頑張って歩くから。
何時間かかっても歩いて行くから、ぼくを攫って帰ってくれない…?
「そこまでして俺に攫えってか?」
お前、学校まででも歩けないからバス通学にしているくせに。
俺の家までどのくらいあると思っているんだ、そいつを歩いて攫われる気か?
「うん。…だって、ハーレイの家に行けるんだよ?」
大きくなるまで来ちゃ駄目だ、って言っていたけど、ハーレイはぼくを攫いたいんでしょ?
それならハーレイの家に行けるし、ハーレイの家で暮らせるし…。
誰にも発見されなかったら、ぼくの世界にはハーレイだけだよ。
そういう世界が手に入るんなら、何時間だって歩いて行くよ。
疲れたなんて言わないから。もう歩けないなんて言いやしないから、ぼくを攫って帰ってよ。
お願い、と小さな恋人は大真面目で。
上手く行くのだと決めてかかっていて、攫われるつもりのようだから。
自分の家の窓から抜け出し、夜道を歩いてハーレイの家に行き、閉じ込められて暮らすつもりのようだから。
(いじらしいとは思うんだがな…)
それに愛らしい、こういうブルーも。攫われたいと願うブルーも。
本当に攫いたくなってしまうし、閉じ込めたいとも思うけれども、甘くはないのが現実の世界。
ブルーが家から消えてしまったら、捜索するための手段はいくらでもある。ブルーの両親が早く気付けば、まだハーレイの家に着かない内に見付かり、連れ戻されてしまうのがオチ。
首尾よく家まで辿り着いても、夜が明けて日暮れを迎えるまでには探し当てられることだろう。
だから出来ない、攫えはしない。
どんなにブルーが協力的でも、攫われたいと願っていても。
けれど、せっかくの恋人からの申し出、恋人が思い描いている夢。
現実などというつまらないもので打ち消したくはないから、壊してしまいたくはないから。
別の方向から攻めることにした、諦めるように。
小さなブルーが自分の方から、攫われたくないと考えるように。
「…いいか、お前が攫われたいというのは分かるが…」
俺と一緒に暮らしたいという気持ちも分からんではない。俺も夢見たくらいだからな。
しかしだ、お前、大切なことを忘れていないか?
俺に攫われてしまったが最後、お父さんやお母さんとも会えなくなってしまうんだが…?
「えっ…?」
キョトンとしている小さなブルー。案の定、分かっていなかったブルー。
苦笑しながら続けてやった。お父さんたちに会えなくなるぞ、と。
「攫って帰ったら閉じ込めるんだからな、俺の家の中に」
お前が俺の家にいるとバレたら元も子も無いし、お前は庭にも出られない。窓から外を覗くのも駄目だな、誰かに見られたらおしまいだしな?
攫われるというのはそういうことだ。お前が何処に消えちまったか、誰も知らない。気付いちゃくれない。
もちろん、この家に帰れはしないし、お父さんやお母さんにも会えなくなるんだ。
通信を入れて声さえ聞けんな、何処にいるのかバレちまうからな。
そういう暮らしが待っているのさ、俺に攫われて閉じ込められたら。
お前の世界には俺しかいなくて、お父さんとお母さんは何処にもいない。会いたくなっても家の外には出られやしないし、独りで泣くしかないってこった。
俺が仕事に行ってる間に、「会いたいよ」って、独りぼっちでな。
それでもいいのか、と赤い瞳を覗き込んだら。
俺と一緒に歩いて帰って攫われるか、と念を押したら。
「…パパとママ…」
ぼくがいなくなったら心配するよね、パパもママも。
…それにハーレイに攫われちゃったら、パパにもママにも会えないんだね…。
「ほら見ろ、お前、困るんだろうが?」
俺だけしかいない世界でいい、と言っていたくせに、お父さんとお母さんがいないと困る、と。
そうなんだな、チビ?
「……うん……」
ハーレイさえいれば幸せなんだ、って思っていたけど、違ったみたい…。
前のぼくと違ってパパとママがいるし、会えなくなったら寂しいみたい…。
やっぱり攫って貰うのはやめる、ハーレイが仕事に行ってる間にシクシク泣いていそうだから。
パパやママに会いたくなってしまって、寂しくて帰りたくて泣きそうだから…。
「それが分かっているならいい」
お前の世界には俺一人だけじゃ駄目なんだ。
うんと素晴らしい世界なんだと思っただろうが、もう分かったな?
俺だけじゃ駄目だと、もっと他にも大切な人たちがいるんだってことが。
馬鹿め、と額を軽く小突いてやった。
チビには早いと、攫われるにはまだ早すぎると。
「もっと大きくなってからだな、お父さんやお母さんと離れてしまっても困らないくらい」
そのくらいに大きく育った時には、お前の世界には俺一人だけだ。
嫁に来て、俺の家に一緒に住んで。
俺しか見えない生活ってヤツを、嫌というほど堪能出来るさ、来る日も来る日も。
なにしろ俺の家なんだしなあ、お前の他には俺しか住んではいないってな。
「ハーレイ、それ…。結婚して、ぼくがハーレイの家に行っちゃった後も…」
パパとママには会わせてくれる?
…しょっちゅうは駄目でも、ぼくが会いたくてたまらなくなったら、パパとママに。
ほんの少しの間でいいから、パパとママに会って話してもいい…?
「お前、俺を誰だと思ってるんだ?」
会ったらいけないなんて言わんぞ、お前のお父さんとお母さんだろうが。
お前が会いたいと言っているのに、どうして止めなきゃいかんのだ。
駄目とは言わんし、叱ったりもしない。会いたければ会いに行けばいいのさ。
俺は悪い怪物などではないのだから、と苦笑いした。
ブルーを家の中に閉じ込めもしないし、外へ出るなと叱りもしないと。
両親に会いたいと思うのだったら、毎日でも会いに出掛けていいと。
「…そうだな、毎日、お父さんたちに会いたくなると言うんだったら…」
もしも、お前がそうしたいのなら、俺がこの家に住んでもいいが。
お前を嫁に貰う代わりに、俺が婿に行くってヤツでもいいぞ?
俺の家は空家になっちまうんだが、たまに別荘代わりに使うってことにすればいいしな。週末は俺の家で過ごすことにするとか、長い休みにはそっちに行くとか。
「それは無し…!」
ハーレイがこの家に来るのは無しだよ、パパとママが住んでいるんだよ?
そんな所で結婚して一緒に住めやしないよ、ぼくたちのベッドを置くなんて…!
パパとママがいる家で暮らすなんてこと、ぼくには絶対、出来ないってば…!
恥ずかしいから、と頬を染めているブルー。染まった頬で反対するブルー。
両親のいる家で結婚生活を送れはしないと、それは恥ずかしすぎるから、と。
(ベッドを置けない、とは言っているがなあ…)
結婚してベッドで過ごす時間の意味を分かっているのか、いないのか。
何かと言えば「早く本物の恋人同士になりたい」が口癖のブルーだけれども、まだ幼い。
まだまだ子供で、きっと半分も分かってはいない。自分の口癖の中身のことを。
前の生の記憶を持っているから言っているだけ、不満なだけ。
本当は小さな子供なのに。
攫って欲しいと言い出すくらいに、閉じ込めて欲しいと願うくらいに。
けれど両親と会えなくなるのだと聞いた途端に前言撤回、攫われるのはやめたらしいから。
(…やっぱりチビには違いないってな)
紫の上に憧れはしても、チビはチビ。十四歳にしかならないブルー。
小さな恋人は、まだ攫えない。
幼すぎるから、連れてはゆけない。
自分と二人きりの世界で幸せに暮らせるほどには、心が育っていないから。
二人きりがいいと、それが幸せだと思えるほどには、大きく育っていないから。
(…うん、当分は駄目だってな)
小さなブルーには家が必要、両親に守られる温かな家が欠かせない。
けれど、いつかは連れて帰ろう。
結婚したなら、攫って帰ろう。
この家に二人で遊びに来た後、名残惜しげな顔のブルーを「帰るぞ」と車の助手席に乗せて…。
攫って来たい・了
※ハーレイが憧れた、光源氏。ブルーを攫って、大切に育てられたらいい、と。
けれど出来ない相談なのです、たとえブルーが乗り気でも。チビのブルーには、家が必要。
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