シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園の秋は学園祭の季節です。とはいえ、まだまだ準備に入らないのが私たち特別生七人グループと会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」。何をやるかが決まっているため、直前の三週間があれば充分というのが例年ですが。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
柔道部は今日も焼きそば指導? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋はキース君たち柔道部三人組が後から来ることが多いのです。今日もそのパターン。焼きそば指導は学園祭での模擬店に向けての年中行事で…。
「まあな。週に一度はやっておかんと、あいつらは一向に覚えてくれんし」
溜息をつくキース君。
「そるじゃぁ・ぶるぅ秘伝と銘打つからには失敗出来んし、口伝だからレシピも渡せんし…」
「誰だい、最初に口伝にしたのは」
会長さんが突っ込みました。
「その愚痴、毎年定番だけどさ…。有難味は凄く出るだろうけど、君たちは毎年、焼きそば指導で嘆いてるじゃないか」
「仕方ないだろう、あの頃の俺は先輩に逆らえなかったんだからな!」
本当に本物の先輩がいたのだ、とキース君は完全にお手上げのポーズ。
「俺たちの最初の同級生が三年生で主将だった年だしなあ…。俺たちとぶるぅの仲を見込んで焼きそば屋台を任せられた。それがそもそもの始まりで…」
「そうなんです。卒業して直ぐの間は先輩たちも学園祭に遊びに来ますしね」
其処であの味を褒められたんです、とシロエ君が。
「この味はいいと、柔道部の秘伝にしておけばいい、と。レシピを書いて残すんじゃない、と」
「ええ…。あれが全ての始まりでしたね」
マツカ君も相槌を打ちました。
「あの年に決まってしまったんです、レシピは口伝と」
「ついでに毎年、俺たちが指導するのもな」
そうして今に至るわけだ、という締めくくり。本当に本物の先輩さんの命令とあらば、カラスも白いのが体育会系の部活というもの。あんな頃からの伝統でしたか、毎年毎年、ご苦労様です、キース君たち…。
こんな感じでクラブやクラスごとの準備はとっくに始まっています。けれども私たちはサイオニック・ドリームを使ったバーチャル旅行が売りの喫茶店、『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』が定番の催し物。直前に値段などを決めればいいだけ、この時期は特に用事もなくて。
「ぼくたちの方は暇だよねえ…」
ジョミー君がのんびりとカボチャのシフォンケーキを頬張り、サム君も。
「うんうん、旬の観光地とかはブルーが楽勝で押さえてるしよ」
「ですよね、会長、大抵の場所はぶるぅと遊びに行ってますもんねえ…」
瞬間移動って便利ですよね、とシロエ君。
「思い立ったが吉日って感じで、時差だけ考えればいいんでしょう? 何処へ行くにしても」
「そうなるねえ…。今の時間だとカフェとかに行くにはちょっと早いね」
お洒落な国のは、と会長さんが幾つか挙げて。
「近い所でエスニック料理ならお昼時かな、パッと出掛けて食べられるってね」
「かみお~ん♪ いつでもパパッと行けちゃうの!」
そして食べるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「レストランも屋台も食べ放題だよ、美味しい匂いが一杯なの!」
「そう、あの匂いが魅力の一つでねえ…」
今年はやろうかと思っているのだ、と会長さんの妙な発言。
「「「匂い?」」」
「そうだよ、ぶるぅの空飛ぶ絨毯! オプションで色々つけるだろ? それの一つで匂いつきっていうのもいいな、と」
其処に漂う匂いを再現、と会長さんは人差し指を立てました。
「何処にだって独特の匂いというのはあるものさ。砂漠だろうが、街だろうが…。似たような匂いを嗅いだ途端に蘇る記憶ってあるだろう?」
「ありますね…」
確かにあります、とシロエ君が頷き、キース君も。
「俺の場合は特に顕著だな、特に抹香臭いのが…。仏具屋に入ると大抵、それだ」
「ね? だから今年はやってみようかと」
特に難しい技術ではない、と会長さん。サイオニック・ドリームで匂いつきって、ホントに観光地まで出掛けて行った気分になれるかも~!
美味しそうな匂いや、スパイシーな匂い。いろんな匂いがついていたなら、ぼったくり価格でもバカ売れすること間違いなし。今年は早くから方針が決まった、と皆で喜んでいると。
「奇遇だねえ…」
「「「は?」」」
誰だ、と振り返った先に紫のマントがふうわりと。別の世界からのお客様です。
「こんにちは。ぶるぅ、ぼくの分のケーキも残ってる?」
「あるよ、座って待っててねー!」
ケーキと紅茶~! と飛び跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。注文の品はすぐに揃って、ソルジャーは空いていたソファに腰を下ろして御機嫌で。
「ぶるぅのケーキは美味しいねえ…。ぼくのシャングリラにも料理上手がいればいいのに。カボチャでお菓子を作るにしてもさ、なんだか定番ばっかりでねえ…」
なんだ、カボチャのお菓子の話でしたか。奇遇と言うから匂いの方かと思ったんですが…。
「えっ? ぼくが言うのは匂いだよ?」
そっち、とケーキを口へと運ぶソルジャー。
「最近、匂いに凝っているんだ。…匂いと言うか、香水と言うか」
「「「香水?」」」
「うん。今日はほんのり薔薇の香りで、とっても魅惑的な筈なんだけどね」
「「「…薔薇…?」」」
何処が、と誰もが考えたに違いありません。カボチャのシフォンケーキはカボチャの色をしてますけれども、そんなに強い匂いは無い筈。紅茶やコーヒーも薔薇の香水には負けるであろう、という気がするのに、全く匂いがしない薔薇。
「使い方を間違えていないかい?」
香水ってヤツにはつけ方があって、と会長さんがシャングリラ・ジゴロ・ブルーならではの薀蓄を披露し始めました。
「香水は体温で香るものだし、基本の場所なら今、言った通り。服につけるなら君の場合はマントにするか、上着の裾の裏につけておくか…。とにかく動きのある所だね」
その辺を間違えてつけてるだろう、という指摘。
「薔薇の香りが全然しないよ、それじゃ宝の持ち腐れってね」
「いいんだってば、匂わない方がいいんだからさ」
「「「え?」」」
香水をつけて、匂わない方がいいとはこれ如何に。それって意味が全然ないんじゃあ…?
つける所を間違えるどころか、香水の使い方を勘違いしていそうな目の前のソルジャー。ほんのり薔薇の香りとやらも分からない筈で、それで「凝ってる」と言われても…。
「凝ってるんだよ、実際の所」
日替わりメニューでつけているのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「もうね、毎日、ブリッジの視察が楽しみで…。普段のぼくは面倒だから滅多に行かないんだけれど、この二週間ほどは皆勤賞! エラやブラウも喜んでいるよ」
ソルジャーがとても真面目になった、と非常に評判がいいのだとか。
「ただねえ…。ハーレイの評価が微妙なトコだね、ぼくの代わりに下がり気味でさ」
「そりゃまあ…。普段は行かない君が皆勤賞なら、キャプテンはもっと頑張れってことになるだろうしね」
気の毒に…、と会長さん。
「元々真面目にやってるだろうし、それ以上何を頑張れと、って気がするけどねえ?」
「…元々はね」
でも今は違う、とソルジャーから返った奇妙な答え。キャプテンに何かあったんでしょうか?
「ん? ぼくが現れると注意散漫、ミスが多発といった感じで」
「ソルジャーの視察中にかい!?」
「そうだけど? それで評価が下がらない方がどうかしてるよ、あの有様じゃあ」
「もしかして…」
会長さんがソルジャーの方をまじまじと。
「その原因、君じゃないだろうね?」
「決まってるだろう、ぼくが行くから注意散漫!」
魅惑的な恋人がブリッジをウロウロするんだから、とソルジャーは至極得意げに。
「今日だとほんのり薔薇の香りで、昨日はムスクの香りなんだよ。その前の日はジャスミンだったかなあ…。こう、色々とホントに日替わり」
「だから、全然香りがしないんだけど? 君のハーレイの注意散漫とかミスの原因、香水じゃなくって君の悪戯か何かだろう!」
「違うよ、ホントに香水だってば!」
分かる人には分かるのだ、と威張るソルジャー。キャプテンは鼻がいいのでしょうかね、香水を作る調香師って人は凄い嗅覚を持つと聞きますが…。
「ぼくのハーレイ? 普通だけど?」
見ての通りの鼻なんだけど、ということは…。香水はやはり意味無しなのでは…?
ソルジャーの世界に住むキャプテンと、私たちの世界の教頭先生は瓜二つ。鼻は確かに立派ですけど、鼻の大きさと嗅覚ってヤツは比例しないと思います。それにソルジャーもキャプテンの嗅覚は普通だと答えましたから…。
「分かるも何も…。君の香水、ぼくにはサッパリ分からないから!」
「俺にも全く分からんな」
職業柄、敏感な方なんだが…、とキース君。お寺ではお線香の他にも色々とお香を使いますから、嗅ぎ分けられると便利だそうです。上等のお香を使っているのかそうでないのか、そういったことも重要だとか。
「こう、知り合いの偉いお坊さんとかがウチの寺を訪ねたりして下さるだろう? そんな時にな、「御本尊様にご挨拶を」とお参りなさって、袂から自前の香を出したりなさるんでな」
アッと驚く高価なお香を焚いて下さる方もあるらしくって…。そうした時にはおもてなしも当然ランクアップで、お客様の方もそれで当然だという感じ。
その辺りの加減を見誤ったら大失敗かつ失礼というもの、同じ人でも「今日は普通の御飯でいいよ」な場合はお香の種類が違ったりする、と聞いてブルブル、実に恐ろしいディープな世界。
「お香の嗅ぎ分けも必須なのかよ、坊主には!」
サム君の引き攣った声に、キース君は。
「必須ではないぞ? ただ、分からないと恥をかくだけだ」
「それって必須ってことじゃねえかよ!」
また勉強が増えてしまった、と頭を抱えているサム君。一方、騒ぎの原因をもたらしたソルジャーはと言えば…。
「嗅ぎ分けねえ…。ぼくのハーレイにはその手の心得は無さそうだねえ…」
薔薇くらいは分かるだろうけれど、とノホホンと。
「薔薇と百合との区別がつくかな、それくらいは判別可能なのかな? …だけどライラックとか、チュベローズだとか…。漠然と花だと思う程度じゃないのかなあ…」
ムスクも花じゃないと分かってるんだかどうなんだか…、という話。そんなレベルのキャプテン相手に香水を毎日取っかえ引っかえ、注意散漫に陥らせるほどだと威張られても…。
「それはいわゆる自己満足だね」
まるで匂いがしないから、と会長さんは言い切りました。
「ぼくもキースと同業だからね、匂いについては敏感な方。そのぼくが全く分からない上、キースにも分からないと来た。君の香水はつけるだけ無駄、君のハーレイも全く反応しないね」
注意散漫は君の存在のせいだ、という意見。私たちも賛成、賛成です~!
「…分かってないねえ…」
分かってないのは君の方だ、とソルジャーが只今話題の鼻先でフフンと。
「この香水はね、特別製! 君たちにも嗅がせてあげたいんだけど、そうすると少しマズイかもねえ、ただの薔薇ではないからね?」
「「「は?」」」
「香り自体は薔薇なんだけどさ、他に色々と入っているから…」
万年十八歳未満お断りでも害が無いとは断言出来ない、とは何事でしょう。その香水って、何かヤバイ成分でも入ってますか…?
「フェロモン剤って言えば分かるかなあ? こっちの世界にもあるよね、そういうの」
「「「フェロモン剤!?」」」
そんな効能を謳った香水の広告だったら何度か見かけたことがあります。男性がつければ女性にモテモテ、女性がつければ男性が寄ってくるというヤツ。あんなのはどうせ紛い物だと、効くわけないのに騙されて買う人がいるというのが面白い、と話題にしたことも過去に何度か。
けれど相手はソルジャーです。SD体制が敷かれた別の世界に住んでいる人で、宇宙船もワープも当たり前。私たちの世界では「効かなくて当然」のフェロモン剤でも、「効いて当然」だったりしますか…?
「もちろん、効いて当然だねえ…」
でなきゃ売れない、と微笑むソルジャー。
「男性向けのも女性向けのも色々あるよ? ちなみに、ぼくのは女性向けでね」
男性を惹き付ける魅惑の香り、とソルジャーはうなじの辺りの髪をかき上げ…。
「この辺りにつけるのがオススメです、と書いてあったし、ソルジャーの衣装で肌が見える部分は限られてるしね? 此処にしっかり」
そして香りは朝につければ夜までバッチリ、という説明。
「トップノートがどうとかこうとか、ラストがどうとか…。つけてからの時間で同じ薔薇でも香りが変わっていくらしいけどね、そういったことはどうでもいいんだ」
要は男性をグイグイ惹き付け、その気にさせるのが目的だから…、とソルジャーは自分のうなじを指差して。
「そんな香りを振り撒きながら、ぼくがブリッジに登場するわけ! 注意散漫にならない方がどうかしてるし、ぼくが消えた後もハーレイは悶々と夜を待つんだな」
勤務終了と共に青の間にダッシュで、凄い勢いでベッドに押し倒しに来るのだ、と得意げなソルジャーですけれど。その香水の匂い、ホントのホントに分かりませんよ…?
男性を惹き付けるというソルジャーの香水。キャプテンがミスを多発するほどのアヤシイ効能があるそうですけど、匂いません。まさかシールドしてるとか?
「ピンポーン!」
大正解! とソルジャーは笑顔。
「ぼくはハーレイさえ釣れれば満足なんだし、他の男にモテても仕方ないだろう?」
シャングリラの中で浮気だなんて…、と例に挙がったゼル機関長だとかヒルマン教授。
「ブリッジにも男性クルーはいるから、ブロックしないと危険だよね? つまりはハーレイ限定で香りを提供してるわけ! 君たちが目指す学園祭のオプションみたいなものだよ」
お一人様限定プランなのだ、と言われて納得、匂わないのも理解出来ましたが…。そんな香水、つけてて毎日が楽しいんですか?
「楽しいねえ…。他のクルーの目があるから、と必死に冷静なふりをするハーレイを見るのも楽しいものだよ、ミスをする度に「どうしたんだい?」と覗き込んでやれば効果倍増!」
香りの源がグッと近くに…、とソルジャーの悪戯心は今がMAXみたいです。その内に飽きてやめるでしょうけど…。
「そうだねえ、わざわざ香水を奪いに出掛けようとも思わないしね?」
「「「えっ?」」」
「偶然の産物なんだよ、この香水は。ぼくも昔は人類の船から色々と物資を奪っていたな、と懐かしくなって、シャングリラの近くを通った船から荷物を失敬してみたら…」
それが香水だったのだ、とソルジャーはクスクス笑っています。瞬間移動で青の間に直送してしまったため、誰も知らないソルジャーの秘密の略奪品。
「ぼくとしてはね、お菓子とかが良かったんだけど…。来てしまったものは有効活用! ぼくのハーレイだってミスはともかく、夜の時間は張り切ってるしね」
だから当分やめる気はない、と語るソルジャーの部屋にはまだ香水がたっぷり揃っているそうです。日替わりメニューでガンガン使って半年くらいはいけるであろう、というほどの量。
「そうだ、君も使ってみないかい?」
よかったら、とソルジャーの視線が会長さんに。
「ぼくだけが使うんじゃもったいない。君も是非!」
「その香水、女性用だろう!」
男なんかはお呼びじゃない、と会長さんは即答ですが。
「だからさ、君もこっちのハーレイ限定!」
魅力をアピールしに行きたまえ、とソルジャーはウキウキしています。それって会長さんにとっては一番やりたくないことなんじゃあ…?
男性を惹き付ける香水をつけて、教頭先生に魅力をアピール。会長さんが絶対にやらないことは容易に想像出来ました。けれどソルジャーの方はキャプテンと結婚しているだけに、会長さんには教頭先生がお似合いなのだと信じて疑わないタイプ。
「ぼくの香水、分けてあげるよ。きっとこっちのハーレイも喜ぶってば!」
「喜ばせる趣味はぼくには無いから!」
お断りだ、と即座に却下。
「そんな香水、欲しくもないし!」
「ハーレイ限定ってトコが売りだよ、ゼルとかは寄って来ないんだよ?」
お目当ての人にだけ魅惑の香りをお届け、とソルジャーは諦め切れないようで。
「絶対、いいって! オススメだってば、ハーレイ限定で誘惑の日々!」
オモチャにするのでも別にいいから…、と少し譲歩を。
「こっちのハーレイ、見事な鼻血体質だしねえ…。学校の中でも君に会ったら鼻血を噴くとか、そんな風にも使えるよ?」
「…うーん…。ぼくに会ったらその場で鼻血かあ…」
「ちょっと素敵だと思わないかい? それにハーレイの目には君が一層、魅力的に映るわけだしねえ…」
熱烈なプロポーズというのもアリかも、とソルジャーの魂胆はそっちでした。会長さんの悪戯に加担しつつも、あわよくば教頭先生とのウェディングベルを、というのが見え見え。
「ぼくはプロポーズは要らないんだよ!」
「そう言わずにさ…。まずは鼻血で悪戯からだよ、何の香りがいい?」
薔薇にも色々、とソルジャーは種類をズラズラと。いったいどれだけ略奪したのか、考えるだけで頭が痛いです。しかも会長さん用にお裾分けだなんて、よっぽど会長さんを教頭先生と結婚させたいのでしょうが…。
「あっ、分かる? ぼくはね、こっちのハーレイを応援してるんだよね」
いつも報われないのを見ているだけに、機会があったら応援を…、とグッと拳を握るソルジャー。
「ハーレイ限定で魅惑の香り! ぼくのコレクションを幾らでも分けてあげるから!」
「要らないってば!」
鼻血コースは面白そうでもその後が…、と会長さん。
「プロポーズまで突っ走られたら迷惑なんだよ、それくらいなら最初から寄って来ない方がよっぽどマシだね!」
犬猫忌避剤ならぬハーレイ忌避剤が欲しいくらいだ、と凄い一言。そこまで言うほど要らないんですか、教頭先生のプロポーズ…。
家の周りに振り撒いておけば、犬や猫が寄らない犬猫忌避剤。会長さんなら教頭先生にでも使いかねない気がします。そういう代物が無くて良かった…、と思ったのですが。
「そうか、ハーレイ忌避剤か!」
これは使える、とポンと手を打つ会長さん。
「ぼくとしては非常に不本意だけれど、使いようによっては面白そうだ」
「「「は?」」」
「ハーレイ限定で魅惑の香りの逆バージョンだよ、サイオニック・ドリームを使ってね」
それなら身につける必要も無いし、と会長さんはクスクスと。
「いいアイデアをありがとう、ブルー。早速使うよ、ハーレイ忌避剤」
「何をやらかすつもりなわけ!?」
「君の逆だよ、ハーレイが逃げたくなる香り!」
ぼくが近付いたらそういう香りが立ち昇るのだ、と悪魔の微笑み。
「もう嗅いだだけで逃げたいと言うか、ぼくに触れたいとも思わないレベルと言うか…。そんな悪臭をさせるぼくでも、逃げたら全てがおしまいだしね?」
結婚どころか何もかもがパア、と会長さんは両手を広げました。
「少しでも嫌な顔をしようものなら、そこを突っ込む! ぼくへの愛はその程度かと!」
「ちょ、ちょっと…! ぼくのオススメは魅惑の香りで…!」
「閃いたんだよ、その話から! ちょうどサイオニック・ドリームの話もしてたし、まさに天啓! これを実行しない手はない!」
何にしようか、と鼻歌混じりの会長さんの笑みは実に楽しげ。
「悪臭だしねえ…。この世の中には色々あるよね、それを日替わりメニューで提供!」
「なんでそっちの方に行くわけ!?」
「君とぼくとは違うから!」
全く逆の人間だから、と会長さんは自信満々。
「君がハーレイを惹き付けるんなら、ぼくは寄せ付けないタイプ! ハーレイ忌避剤!」
凄い香りを纏ってやる、と決意のオーラが見える気がします。ソルジャーはウッと息を飲み込み、珍しく腰が引け気味で…。
「いいのかい? …それをやると君が臭いんだよ?」
「あくまでハーレイ限定でね」
身に纏う必要も全く無いから気分爽快、と言ってますけど。いくら自分は臭くなくても、悪臭を放つ姿を演出しようとは天晴としか…。
ソルジャーがキャプテン限定で纏う魅惑の香水。薔薇だの百合だのジャスミンだのと日替わりで纏っているというのに、会長さんが纏いたいものは教頭先生も逃げ出す悪臭。本気だろうか、と疑う気持ちと、やりかねないと思う気持ちが半々。
香水の話の言い出しっぺのソルジャーは「悪臭だなんて…」と頭を振り振り帰ってしまって、私たちも「そろそろ家に帰らないと」と解散で。次の日の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を訪ねてみれば。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
「やあ。どうかな? 今のこの部屋の匂い」
「「「匂い…?」」」
鼻をクンクンさせてみましたが、甘い香りしかしませんでした。ケーキか、パイか、そういった匂い。皆で答えると、会長さんは満足そうに。
「よし。やっぱりハーレイ限定でしか使えないってね!」
仕掛けは完璧、と会長さんが指を鳴らして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がイチジクのタルトを運んで来ました。飲み物も揃って、美味しく食べる間も会長さんはニコニコと。
「タルトの匂いしかしないよね?」
「俺の場合はコーヒーの匂いもするんだが…」
しかし、と言葉を切ったキース君。
「あんた、本気で何かやったな?」
「やったと言うか、やってると言うか…。ぼくの特定のサイオンの波長を拾うと、ハーレイ忌避剤の香りがね」
サイオニック・ドリームの応用だよね、と会長さんは唇の端を吊り上げました。
「ぼくがその匂いを知らないことには再現不可能、だから不本意だと言った。だけどやるだけの価値はあるんだ、匂いはキッチリ仕入れて来たから!」
「「「仕入れた!?」」」
「そう。ちょっと野菜の…。いや、この先はやめておこう」
今はおやつの真っ最中だし、と匂いの仕入れ先は伏せられたものの。
「食べ終わったら、お出掛けだよ? とりあえず今日は教頭室まで」
用事は特に無いんだけどね、と言われなくても分かります。用事ではなく、教頭先生に会いにお出掛け。魅惑の香りとは真逆なタイプの、ハーレイ忌避剤とやらを纏って…。
タルトのおかわりもキッチリ食べた後、会長さんは「もういいかな」とうなじの辺りの銀色の髪をかき上げながら。
「ブルーのお勧めってわけじゃないけど、この辺りから香るのがいいかと思ってねえ…」
それと鎖骨の辺りに少し、と指差し。
「ぼくが前を向こうが後ろを向こうが、香りが自然と立ち昇るわけ! ハーレイ限定で!」
「…訊きたくもないが、何の匂いだ?」
キース君の問いに、私たちも揃ってコクコクと。おやつの最中には話せないほどで、仕入れ先は野菜に関係した何処か。会長さんが纏う香りは何なのでしょう?
「ああ、これかい? ぶるぅとも相談したんだけどねえ、タマネギが一番いいんじゃないかと」
「「「タマネギ?!」」」
「タマネギは腐ると臭いんだよ、うん」
ぶるぅは腐らせないけれど、という解説。なるほど、それで野菜の…卸売市場へでも?
「まさか。卸売市場じゃ腐っちゃいないよ、新鮮さが売り!」
「かみお~ん♪ 野菜の直売所の近所に行ったの、悪くなった野菜を捨ててるから!」
タマネギ専門、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えとえと、ちょっと近付いただけでも凄かったよ? ぼくはシールドを張っちゃったけれど、ブルーはそのまま行っちゃったあ!」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、とも言うからねえ…。タマネギの腐った匂いが怖くてハーレイ忌避剤が作れるか、ってね」
とはいえ死んだ、と鼻をつまんでみせる会長さん。
「覚えなければ、と頑張ったけれど、多分、一分も嗅いではいない。そんなに嗅いだら確実に死ぬね、臭くてね」
それを纏った自分が行くのだ、と実行する気満々の会長さんは既にタマネギの腐った匂いを装着中と言うか、再現中。教頭先生に向けて振り撒くために教頭室まで出掛けるつもりで、そうなればきっと教頭室は…。
「臭いだろうねえ、部屋中に満ちる悪臭ってね。早く出て行けと言いたいだろうけど、それを言ったらおしまいだしね?」
今日はゆっくり滞在しよう、とソファから立ち上がる会長さん。
「君たちも御馳走になるといい。ハーレイ、ぼくに御馳走しようと思って紅茶を買っているんだからさ。たまには味わってあげないとねえ…」
「「「………」」」
鬼だ、と言いたい気持ちを私たちはグッと飲み込みました。下手に言ったら墓穴です。タマネギの腐った匂いとやらを食らいたいとは思いませんよ~!
「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を後にして、中庭を抜けて本館へ。教頭室の重厚な扉を会長さんがノックして…。
「教頭先生、お邪魔します」
ガチャリと扉を開けて入れば、教頭先生の喜びの笑顔。しかし…。
「あれっ、ハーレイ、どうかした?」
一瞬で歪んだ教頭先生の顔に、会長さんが首を傾げて。
「たまには君とお茶でもしようと思ったんだけど…。今日は忙しかった?」
「い、いや…。お、お茶というのは…?」
「みんなで御馳走になろうかと思って。ぼくのために紅茶、買ってるよねえ?」
「あ、ああ…。あれな」
あれだな、と教頭先生は椅子から立ち上がって戸棚の方へ。会長さんはススス…と教頭先生に近付き、隣に並んで戸棚を覗き込みました。
「ふうん…。一種類だけじゃなかったんだ?」
「ま、まあ…。そうだが」
教頭先生が微妙に距離を開けたがっていることが分かる立ち方。上半身が少し傾いています。もちろん会長さんが立っているのとは逆の側に。会長さんはそれを承知で同じ方へと身体を傾け、棚の紅茶を品定めして。
「ぶるぅの部屋でも飲んできたから、軽めのがいいな。これでお願い」
「わ、分かった! すぐに淹れるから!」
あっちに座って待っていてくれ、と応接セットが示されました。全員が座るには足りませんけど、ジョミー君曰く、肘掛けなどにも座ればオッケー。
「なるほどね! じゃあ、君たちは先に座っててよ」
ぼくとハーレイの分を空けておいて、と会長さん。
「せっかく来たから、二人並んで座るのもオツなものだしね? ぼくは紅茶の淹れ方をちょっと指導してくる、ハーレイは基本がコーヒー党だし」
美味しい淹れ方を教えてあげる、と教頭先生の腕を引っ張り、備え付けのキッチンの方へと向かう会長さん。紅茶の缶を抱えた教頭先生の顔には途惑いの色がありあり、香水ならぬハーレイ忌避剤が効果を発揮しているものと思われます。
「ほら、ハーレイってば!」
「う、うむ…。よ、喜んで教えて貰うことにしよう」
漂っているだろう腐ったタマネギの壮絶な匂い。それを纏った会長さんに笑みを返せる教頭先生、只者ではないと言うか、御立派と言うか…。
会長さんが身体を張って仕入れて来たという凄い悪臭。恐らく紅茶の香りも吹っ飛ぶのでしょうが、教頭先生が会長さんの指導で淹れた紅茶は流石の香り高さでした。会長さんは教頭先生と並んでソファに座って、極上の笑みで。
「美味しいねえ…。うん、この香りがたまらないよ。ハーレイ、いいのを買ってるんだね」
「お前のためならケチらないぞ」
「そう? それで、どうかな? 普段よりも香りがいいんじゃないかと思うんだけどねえ?」
どう? と会長さんがティーカップを手に肩を摺り寄せ、ウッと仰け反る教頭先生。
「ハーレイ? 何かあったのかい?」
「い、いや…。いい香りだな、と思ってな…」
「それは紅茶が? それとも、ぼく?」
うわー…。いつもの会長さんが口にしたなら、教頭先生が舞い上がることは必至の台詞。けれども今の会長さんは紅茶どころか腐ったタマネギ、自分でも一分も耐えられないと言っていた悪臭を放っているわけで…。なのに。
「も、もちろんお前に決まってるだろう!」
教頭先生は男でした。男の中の男と言うべきか、惚れた弱みと言うべきか。会長さんは「そう?」と微笑み、更に密着。
「そう言われちゃうと、くっついてあげるくらいはねえ…。これは出血大サービスだよ?」
「う、うむ…。悪い気はせんな」
「もっとサービスしちゃおうか? 良かったら…だけど」
「…もっと…?」
ゴクリと唾を飲み込む教頭先生。腐ったタマネギでも密着されると嬉しいだなんて凄すぎな上に、もっとサービスと聞いて鼻の下が長めになってるなんて…。なんと凄いのだ、と呆れる私たちを他所に、会長さんは。
「君の膝に座ってあげようかなあ…、って。君の膝で紅茶を飲むのもいいよね」
「本当か!?」
是非、と膝をポンと叩いた教頭先生の膝に、会長さんは「よいしょ」と腰掛け、ゆったりと紅茶を楽しんでいます。ええ、本当に香り高い紅茶なんですが…。
「…ハーレイ? 遠慮しないでくっついてくれていいんだよ?」
密着サービスの時間だからね、と会長さん。それに応えて会長さんの腰に腕を回している教頭先生、どれほどの悪臭に耐えているのか、想像したくもないですってば…。
その日から会長さんはソルジャーお勧めの日替わりメニューで頑張りました。魅惑の香りのソルジャーの方は、訪ねて来ては「信じられない…」と絶句しています。私たちよりもサイオン能力が高い分だけ、会長さんが纏う香りも「その気になれば」分かるらしくって。
「…どれだけやったら気が済むんだい? ハーレイの愛はもう充分に確かめただろ?」
「愛だって!?」
あんなドスケベ、と会長さんは吐き捨てるように。
「密着サービスのために耐えてるだけだよ、内心は臭くてたまらないくせに!」
「だけど顔には出さないじゃないか」
初日だけで、と返すソルジャーは毎日覗き見している様子。
「最初の日だけは仰け反ってたけど、あれから後にはやっていないよ。君に「ちゃんと風呂には入っているか?」と訊きもしないし、君の匂いとして受け入れてるよ!」
「らしいね、有り得ない匂いのオンパレードをね!」
このぼくの身体が臭いだなんて、と自分でやっているくせに文句たらたら。ドブの匂いやら、今はレアものの汲み取りトイレの匂いやら…、と日替わりメニューの中身は聞かされてますが、嗅いだ勇者は一人もいません。ソルジャーがたまに嗅いでいる程度。
「…こういう匂いをさせてる君でも好きだと言えるのは愛じゃないかと思うんだけどね…」
「どうなんだか! ホントに恋人が臭いんだったら、匂いを消す方法をさりげなく提案するっていうのが本当の愛だと思うけどね、ぼくは」
この香水をつけてみないか、と消臭剤を兼ねたのをプレゼントとか…、と会長さん。
「ぼくの身体は臭いんだよ? それを指摘しないで放っておくのは、恋人に生き恥をかかせているのと全く同じじゃないのかな?」
「うーん…。本当のことを言ったら傷つく人だっているし…」
「だから、あくまでさりげなく! 傷つけないように悪臭を元から断ってやるのが本物の愛!」
愛が足りない、と主張している会長さん。
「我慢されても困るんだよ! ぼくが本当に恋人ならね! 君だって文句を言うと思うよ、ぼくとおんなじ立場だったら!」
「えーっと…。ぼくが臭くて、だけどハーレイが教えてくれなくて…。臭いだなんて気付かないままでシャングリラ中を歩いていたなら…」
どうだろう、と考え込んだソルジャーの結論は「腹が立つ」でした。恋人同士で夫婦だからこそ、言いにくいことも言って欲しいと思うそうです。妙な所で意見の一致を見たようですけど、それじゃ会長さんは自分自身が納得するまで悪臭を放ち続けると…?
いったい何処まで続くのだろう、と誰もが恐れた恐怖の悪臭日替わりメニュー。平日は放課後の教頭室で、休日は教頭先生のお宅のリビングで。会長さんは悪臭を纏って密着サービスを展開、教頭先生は悪臭に耐えつつ鼻の下を伸ばし…。
そんな日々への終止符を打つことになった代物は思いがけないものでした。ある土曜日のこと、会長さんは私たちと「そるじゃぁ・ぶるぅ」にソルジャーまで連れて、教頭先生のお宅を訪問。チャイムの音で出て来た教頭先生、初日以上に大きく仰け反り。
「な、なんだ、お前か。…まあ、入ってくれ」
「何かビックリしてたけど…。ああ、今日はブルーも来ているからだね」
一人分余計にお願いするよ、と会長さんは紅茶のリクエスト。例によって指導と称してキッチンへ一緒に行きましたけれど…。
「…今日の匂いは強烈らしいね」
ソルジャーがサイオンで覗き見していて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと、今日はハーレイの匂いの筈なんだけど…」
「「「ええっ!?」」」
私たちは驚き、ソルジャーも。
「本当かい? 今日のは異様に臭かったよ?」
「でもでも、ハーレイの匂いなんだよ!」
本当だよう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が叫ぶのと同時に、キッチンの方で派手に何かが壊れる物音が。ついでに「臭いんだよ!」と怒鳴る会長さんの声も。間もなく教頭先生がドタドタとリビングに駆け込んで来て。
「ち、違う! ブルー、私はだな…!」
「たまらん、って言うのを確かに聞いたよ、臭かったんだろ、このぼくが!」
ずうっと毎日臭かった筈だ、と追いかけて来た会長さんが教頭先生を激しく詰っています。
「仕掛けていたのはぼくだからねえ、ぼくが一番よく知っている! でもね、今日のが臭いってことは、つまりは君が臭いんだよ!」
自分でも耐えられない匂いを放つ身体で近付くんじゃない、とゲシッと蹴飛ばす会長さん。
「いいかい、今日のぼくの匂いは! 君の靴下の匂いだから!!」
「「「ひええっ!!!」」」
ソレか、と臭い理由も会長さんの怒りの理由も一発で把握出来ました。教頭先生は泣きの涙で謝罪しましたが、会長さんが聞く筈もなくて…。
「密着サービスは終わりだよ、うん」
君の好みは多分こっち、とソルジャーが前へと押し出されて。
「こっちのブルーは凄くいい匂いがするらしいよ? 今日のは何かな?」
「えっ、ぼくかい? フラワーブーケって書いてあったかな、花の香りが何種類か」
「そうだってさ! ついでに男なら誰でももれなく!」
惹かれるらしい、と会長さんにドンと背中を押されたソルジャー。悪戯心が芽生えて来たのか、教頭先生を哀れに思ったのか。
「仕方ないねえ…。臭かったらしいし、じゃあ、口直しに」
どうぞ、と特別サービスで提供されたキャプテン限定の魅惑の香り。教頭先生の身体はフラリとそちらに傾いてしまい、会長さんの「やっぱりね…」という冷たい声が。
「君は結局、より魅力的なものであったら誰でもいい、と。…ついでに自分でも耐えられないような臭さを放って生きてるわけだし、ぼくと釣り合うわけがないよね」
自分の匂いで反省しろ! と怒りの一声、バサバサバサ…と教頭先生の頭上に降り注ぐ靴下の山。どんな悪臭かを知った私たちは、後をも見ずに逃げ出して…。
「…こっちのハーレイ、あんなに靴下を溜めてたのかい?」
逃げ帰った先の会長さんの家で、ソルジャーが呆れ顔で尋ねました。自分も散らかす方だけれども、洗濯物は流石に溜めないと。あれでは愛想を尽かされても仕方ないのでは…、という意見だったのですが、会長さんは。
「まさか。靴下の山は洗濯済みだよ、ぼくが匂いを追加しただけで」
サイオニック・ドリームの応用だよね、と高笑いをする会長さん。
「だけどホントに臭かっただろ? ハーレイは未だにあの匂いの中!」
洗う気力も無いらしい、と嘲笑われている教頭先生のお気持ちは分からないでもありません。悪臭に耐えて、耐えまくったのに自分の靴下の匂いで全てがパアに…。
「報われないねえ、こっちのハーレイ…」
「元々は君が言い出したんだろ!」
「ぼくが勧めたのは香水だってば! こっちのハーレイもフラリと来てしまう魅惑の香り!」
それで出直せ、と言うソルジャーと、「お断りだよ!」な会長さんと。不毛な争いが続いてますけど、会長さんの匂いを操るサイオニック・ドリームが完璧なことは分かりました。学園祭の催し物は安泰、今年は匂いが売り物ですよ~!
香り高き恋人・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
生徒会長が日替わりで纏う悪臭、それに耐えまくった教頭先生。男の中の男かも。
なのに自分の靴下の匂いで、全てがパアに。気の毒すぎる結末ですよね、努力したのに…。
シャングリラ学園は、去る4月2日で連載開始から10周年になりました。ついに10周年。
アニテラは4月7日で放映開始から11周年、此処まで書き続けることになろうとは…。
自分でもビックリ仰天ですけど、windows10 さえ無事に動けば、まだ書けそうです。
次回は 「第3月曜」 5月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、4月は、キース君から特別手当を毟り取ろうという計画が…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「いいか、忘れずに覚えておけよ?」
此処が大事な所だから、というハーレイの声。
古典の授業中の教室、居眠りかけている生徒もいたりするのだけれど。
一気に前へと集中する視線、ハーレイの方へと集まる視線。眠りかけていた生徒までもがハッと顔を上げ、パッチリと目を覚ましている。
このハーレイの決まり文句で前を見ないと損だから。雑談の始まりの合図だから。
授業はひとまず置いておいて、とハーレイが語る様々な話、聞き逃してしまうと損をする。後で後悔する羽目になる。愉快だったり、驚きだったり、それは新鮮な中身の雑談。
生徒の心を引き付けるためのハーレイの技で、もう居眠っている生徒はいない。退屈そうな顔をしている生徒も。ハーレイが何を話してくれるかと、誰もが胸を躍らせる時間。
「さて、今日は…」
これだ、と前のボードに書かれた言葉。「黒歴史」という不思議な言葉。
遥かな昔の日本の俗語。SD体制が始まるよりも前に、この地域にあった小さな島国で生まれて消えていった俗語なのだ、とハーレイはボードをコツンと叩いた。
「歴史とは言うが、歴史の知識は必要ないぞ? 歴史の先生に訊いても無駄だな」
こいつが指すのは歴史的な出来事というわけじゃない。
無かったことにしたいようなもの、あるいは無かったことにされている過去の出来事だ。
個人的なものから、もう少し広い範囲までといった所か…。
例えば連続もののドラマで、この話だけは無かった方が良かったんじゃあ、と思うようなもの。誰もがそういう評価をするなら、その話は一種の黒歴史だな。
個人的なものなら、消してしまいたいようなテストの点などが黒歴史扱いってトコだろう。
どうだ、面白い言葉だと思わんか?
ずうっと昔の俗語でもな。
黒歴史、とハーレイが繰り返した遠い昔の日本の言葉。
元々は当時のアニメ作品の中で語られた言葉だったという。たった一つの作品の中の。
それが何故だか一気に広まり、元のアニメを知らない人までが使っていたらしい有名な俗語。
「お前たちの年では黒歴史なんぞはまだ無いだろうが、作るなよ?」
俺の授業で作るんじゃないぞ、と念を押すハーレイ。
古典の成績の黒歴史。テストで赤点を取ってしまうとか、最悪な評価を貰うだとか。
「質問でーす!」
サッと手を挙げた男子生徒。ハーレイが「なんだ?」と言い終わらない内に質問を投げた。
「先生の黒歴史は何ですか!」
「多すぎて言えん」
授業時間が終わっちまう、と返したハーレイ。
たちまち爆笑の渦に包まれた教室、「授業に戻るぞ」とハーレイは教科書をトンと叩いた。
このページからだ、と。
そうして切り替えられた雰囲気、皆が目を覚まして授業の続き。
(流石、ハーレイ…)
凄い、とブルーは目を瞠った。
いつものことながら、惚れ惚れとするハーレイの手腕。生徒たちの集中力を取り戻す必殺技。
感心もしたし、黒歴史という初めて耳にした言葉も面白かったから。
学校が終わって帰宅するなり母に話した、おやつの時間に。
ダイニングのテーブル、母と二人でお茶とケーキをお供にあれこれ語り合う時に。
古典か歴史の授業で習いそうな言葉だけれども違うんだよ、と。
黒歴史というものの正体はこうで、由来はこう、と得意で話して。
今日のハーレイの雑談の受け売り、それを披露して、母に訊いてみた。紅茶を飲んでいる母に。
「ママの黒歴史は?」
どんなのがあるの、ママの黒歴史って?
「無かったことにしたいものでしょ、言わないわよ」
「えーっ!」
知りたいのに、と唇を尖らせたけれど、母は「授業でもそう教わったでしょ?」と涼しい顔で。
「だからママのは話さないけれど、ブルーには色々ありそうね?」
ハーレイ先生が言ってた黒歴史。幾つも持っているんじゃないの?
「…ぼく?」
「そうよ、ブルーは小さい頃にはウサギになりたかったんでしょう?」
ウサギさんになるんだから、って言っていたわよ。大真面目で。
だけどブルーはウサギさんにはなっていないし、なれるわけもないし。
…そういうのを黒歴史と言うんじゃないの?
お友達に話したら大笑いされるし、言おうとは思わないでしょう?
ネズミの国にも行こうと思って頑張ってたわね、おにぎりを持って庭に座って。
「おにぎりでなくっちゃいけないんだよ」って、ネズミさん用に頼んでいたでしょ?
何度作ってあげたかしらねえ、おにぎりが入ったお弁当を。
(…藪蛇…)
忘れたい過去を掘り起こされた、と小さなブルーは頭を抱えたい気持ちになった。
ウサギの話もネズミの話も、とうの昔にハーレイに話してしまったけれど。もう隠してはいないけれども、どちらも多分、黒歴史。ハーレイが言った黒歴史。
積極的に話題にしたいものではないし、と考えていたら。
「そうそう、王子様にもなろうとしたわね」
「王子様?」
なにそれ、とキョトンと見開いた瞳。
王子様には覚えが無い。王子様になろうとした記憶は全く無いのだけれど…。
「あらあら、本物の黒歴史だわ」
無かったことになっているのね、と可笑しそうな母。これが本物の黒歴史よね、と。
楽しげにクスクス笑っている母。ブルーには覚えの無い話。
「王子様って…?」
どうしてぼくが王子様なの、王子様になろうとしていたの?
「頑張ってたわよ、お花の国の王子様を目指して」
お花の国よ、と言われたけれども、ますますもって謎だから。
王子様になるための国まで決めていた理由もサッパリ分からないから。
「…なんで花の国?」
他にも国は色々あるのに、花の国だって言っていたわけ?
お菓子の国とか、魔法の国とか、そういう国も沢山あるのに。
「本当に忘れちゃったのねえ…。お花の国なら親指姫よ」
親指姫が最後に行くでしょ、お花の国の王子様の所へ。その王子様よ、ブルーの夢は。
(…親指姫…!)
言われた途端に思い出した記憶、本当に幼かった頃。童話の世界を信じていた頃。
母の花壇のチューリップ。色とりどりに植えられたチューリップの花壇。
チューリップの花を端から覗いて中を探した。
小さなお姫様が眠っていないか、親指姫が入っていないか。
「どう、思い出した?」
「うん…。ママの花壇のチューリップ…」
探してたんだっけ、親指姫を。この花に入っているのかな、って…。
「ほらね、王子様になろうと頑張ってたでしょ?」
花が傷むわ、って言っても聞かないの。チューリップの中にきっといるよ、って。
「…ごめんなさい、ママ…」
チューリップの花、傷んじゃった?
ぼくが端から開けちゃっていたし、花びらが駄目になっちゃった…?
「いいのよ、それでこそ黒歴史でしょ?」
無かったことになってるんだし、チューリップのことももういいの。
小さな子供がやったことまで叱りはしないわ、ママも充分、楽しい気分だったから。
ブルーにとっては黒歴史でもね、ママには素敵な思い出なのよ。小さかった頃のブルーの可愛い思い出、アルバムに貼っておきたいくらいよ。
ママにとっては宝物なの、とキッチンに去って行った母。
食べ終えて空になったケーキのお皿や、飲み終えた紅茶のカップやポットをトレイに載せて。
(…黒歴史だけど、ママの宝物…)
どうやら母の中からは消せないらしい黒歴史。母にとっては宝物の記憶。
複雑だけれど、嬉しくもあった。
チューリップの花を端から開けていた自分。親指姫を探していた自分…。
部屋に戻って、振り返ってみた黒歴史。綺麗に忘れていた記憶。
勉強机の前に座って、頬杖をついて。
(ぼくが王子様…)
花の国の王子様になろうと夢見た自分。幼かった自分。
きっと真剣だったのだとは思う。お姫様を見付けて王子様に、と。
親指姫を見付け出せたら、花の国の王子様になれるのだと。
でも…。
(ぼく、お姫様になるんだった…)
王子様ではなくて、お姫様になる予定の自分。お姫様になろうと決めている未来。
一日限りのお姫様。
いつか結婚式を挙げる日、その日だけはお姫様になる。
ウェディングドレスを選んだとしても、白無垢の方を選んだとしても、花嫁と言えばお姫様。
結婚式という晴れの舞台で、お姫様になれる筈なのに…。
(こんなの、ハーレイに言えないよ…)
お姫様の道を選ぶ代わりに、王子様になろうとしていただなんて。
ハーレイを裏切ろうとしていただなんて。
親指姫を探していた頃、ハーレイはとっくに生まれていたのに。
隣町からわざわざ引越ししてまで、この町で暮らしてくれていたのに。
(…これがホントの黒歴史だよ…)
ハーレイには一生、黙っておこうと決心した。
お姫様になる未来ではなくて、王子様になろうとしていた過去。幼かった頃の自分の夢。
とても言えないから、もう間違いなく黒歴史。
ハーレイには内緒にしておかなければ、と決めたのだけれど。
それから本を読んだりする間に、過ぎて行った時間。門扉の脇のチャイムが鳴らされ、窓の側に行けば手を振るハーレイ。恋人の姿に心が弾んだ。来てくれたのだ、と頬が緩んだ。
ついでに心も緩んだらしくて、ハーレイと部屋で向かい合わせに座るなり口にした言葉。
「今日の雑談、面白かったよ」
あんな言葉は初めて聞いたよ、ママにも教えてあげたんだ。ママはやっぱり知らなかったよ。
「ほほう…。お前にもあったか、黒歴史ってヤツが?」
それだけ楽しそうな所を見るとだ、あったってわけか、黒歴史?
「うっ…」
しまった、と言葉に詰まったブルーだけれど。ハーレイに瞳を覗き込まれた。
「あったのか、うん?」
「…え、えーっと…」
何と答えを返せばいいのか、目を白黒とさせていたら。
「まあ、あるだろうな、山ほどな」
なにしろ、三百年だしな?
あれだけ生きてりゃ、一つや二つじゃないだろうさ。
俺としては知ってるつもりなんだが、知らないヤツだってあるかもなあ…。
四六時中お前と一緒にいたわけじゃないし、そういうのも充分ありそうだよな。前のお前が今も隠している黒歴史。知りたい気持ちもあるんだがなあ、黒歴史だしな?
聞き出そうとして嫌われちまったら、俺は恋人失格だよなあ…。
(前のぼくだと思ってるんだ…)
そっちの方か、とホッとしたけれど。
それならば自分は無関係だ、と安心したのが悪かった。
口から零れた安堵の吐息。肩の力が抜けた瞬間、ハーレイに感づかれてしまったらしく。
「…おい。まさか黒歴史、今のお前の方なのか?」
前のお前の話じゃなくって、チビのお前の黒歴史か?
まだチビのくせに持っていたのか、黒歴史なんていう一人前の代物を…?
「違うよ!」
ぼくじゃないってば、前のぼくだよ!
黒歴史なんかは持っていないよ、ぼくは!
「ふうむ…。むきになって否定されるとなあ…」
こいつはどうやら、本当に持っていそうだってな、黒歴史。
チビのくせして、何処で作って来たのやら…。
今のお前の黒歴史だったら、俺が聞き出しても特に問題無しってトコか。
恋人ではあるが、お前に言わせりゃ、本物の恋人同士じゃないらしいしな?
俺が少々意地悪したって、恋人失格にはならんだろうが。
まあ喋ってみろ、とハーレイに促されたから。
鳶色の瞳に捕まってしまって、誤魔化せそうではなかったから。
渋々、口を開いて答えた、今の自分の黒歴史を。ハーレイも承知している分を。
「ウサギとネズミ…」
「はあ?」
なんだ、そいつは?
ウサギとネズミが何をしたんだ、今のお前に?
「えっと…。ウサギはぼくがなりたかったもので、ネズミは行きたかった国…」
ネズミの国に行こうと思ってたんだよ、小さかった頃に。ウサギになろうとしたのも、その頃。
「ああ、あれか。…チビだった頃のお前の夢だな、どっちもな」
黒歴史と言えば黒歴史の内か、ウサギとネズミ。チビにはありがちな夢だと思うが…。
他にも何か隠してるだろう、黒歴史。チビのお前の、とんでもない過去。
「なんで分かるの!?」
ハーレイ、ぼくの心を読んだの、それってルール違反じゃない!
ぼくの心が零れてたんなら仕方ないけど、勝手に読むのは今の時代はルール違反で、マナー違反だと思うんだけど!
「…まさに語るに落ちる、ってな」
お前、他にも持ってたんだな、黒歴史。
ウサギとネズミも立派なんだが、もっと凄いのを持ってました、と自分で白状するとはなあ…。
鎌をかけただけだ、と片目を瞑ったハーレイ。
引っ掛かるとは思わなかったと、心など少しも読んではいない、と。
「ハーレイの意地悪!」
ぼくがチビだからって、からかわなくてもいいじゃない!
隠したいから黒歴史なのに、それをせっせと掘り起こすなんて!
「間違えるんじゃないぞ、お前が自分で喋ったんだ。ウサギとネズミの他にもあります、と」
それで、お前は何をしたんだ?
必死になって隠したいほどの黒歴史ってヤツを知りたいもんだが、それはどういうものなんだ?
「…王子様…」
「王子様だと?」
なんでそいつが黒歴史なんだ、王子様と言えば輝かしい歴史になると思うが…。
それとも、お前。
幼稚園か下の学校の劇で、王子様の役でも貰ったのか?
でもって肝心の発表会の日に、舞台で見事にすっ転んだとか、違う台詞を言っちまったとか。
その手の失敗が黒歴史なのか、王子様の役までは素晴らしいんだが。
「…ううん、そっちの方がまだマシ…」
ホントに本物の王子様を目指して頑張ったんだよ、小さかった頃に。
お花の国の王子様になろうと思って、ママの花壇のチューリップを全部…。
チューリップの花を端から覗いて、探し回った親指姫。
小さなお姫様が入っていないか探していた、と説明をしたら散々に笑われてしまったけれど。
肩を揺すって笑ったハーレイだけれど、黒歴史の感想はこうだった。
「まあ、お前、フィシスの王子様だしな? …前のお前だが」
お姫様を見付けて攫って来た上、王子様になっていたのが前のお前だ。
そいつを思えば、親指姫を探すというのは、あながち間違ってもいない。
水槽を探しに潜り込んでたか、チューリップの花壇で家探ししたかの違いだけだな。
…前のお前の記憶が影響したってわけではないんだろうが…。
いいんじゃないのか、王子様を目指していたというのも。
その頃のお前は俺を知らんし、仕方ないよな、嫁さんを貰うつもりでいたって。
「…許してくれるの?」
ぼくはハーレイを裏切ってたのに、仕方ないって言ってくれるの…?
「当たり前だろうが、黒歴史だろ?」
お前にとっては黒歴史という扱いなんだろ、その話。親指姫を探していたっていうことが。
「うん…。だから一生、黙っておこうと思ってたのに…」
ハーレイが全部喋らせたんだよ、ぼくは内緒にしたかったのに…。
「そういう消したい過去だからこそ、黒歴史ってことになるわけだ」
無かったことにしたいくらいの、消してしまいたい過去の汚点だな。
黒歴史だという自覚がある上、今よりもずっとチビのお前が挑んでいたお伽話の世界だ。
小さな子供の夢を捕まえて、怒鳴って頭から叱り付けるほど、俺は心が狭くはないぞ。
可愛らしいと思いはしてもだ、怒ろうって気にはなれないなあ…。
それに…、と穏やかに微笑むハーレイ。
いくら探しても親指姫は見付からなかったのだし、それでいいと。
花壇に植えられたチューリップの中、見付からなかった小さなお姫様。親指くらいのお姫様。
見付かっていたなら大変だから、と。
幼かったブルーは花の国の王子様になってしまって、親指姫と結婚するのだから、と。
「そうなっていたら、俺は王子様を盗み出さねばならん」
花の国まで出掛けて行ってだ、その国の王子様ってヤツを。
盗んで連れて帰って来ないと、俺の嫁さんがいなくなるんだからな。
「…王子様を盗むの、お姫様を盗み出すんじゃなくて?」
「うむ。王子様の方だ、俺が盗みに行くのはな」
お姫様の方には用が無いんだ、俺が結婚したい相手は親指姫じゃないんだし…。
嫁さんにしたいのが王子様なら、そっちを盗むしか無いだろうが。
そんな童話は聞いたこともないが、とハーレイが浮かべた苦笑い。
お姫様を盗む話や攫う話は多いけれども、王子様を盗んで結婚式を挙げる童話は知らないと。
「それでも王子様を盗まないとな、花の国から」
親指姫と二人仲良く暮らしていようが、とにかく盗み出さないと…。
お前が其処の王子様なら、俺は盗むしかないってな。
「王子様を盗んで行こうだなんて…。ハーレイ、凄い悪者だね」
親指姫の話がメチャメチャになるよ、王子様がいなくなっちゃったら。
お金持ちのモグラよりも酷いよ、モグラは親指姫と結婚出来ずに終わったんだし…。
王子様は盗まれてしまいました、なんてお話、めでたし、めでたし、って終わりっこないよ。
「いいや、めでたし、めでたしになるさ」
親指姫の童話の世界はどうなっちまうか分からないがな、王子様の方はそれでいいんだ。
花の国に来た悪者だろうが、金持ちのモグラになっていようが、王子様を盗んで結婚式だ。
そいつでハッピーエンドになるんだ、花の国の王子様の物語はな。
俺にはお前が必要なんだし、お前だって俺に出会えば気付く。
こっちが本物の恋人なんだと、自分は王子様になったけれども、本当はお姫様だった、とな。
気付いたお前を盗んでゆくさ、とハーレイは自信たっぷりで。
花の国の王子様を花嫁にすると、ハッピーエンドの童話なのだと主張していて。
「そうなるだろうが、王子様がそれで幸せならば」
結婚して幸せに暮らしました、という終わり方ならハッピーエンドだ、間違いない。
王子様の結婚相手が悪者だろうが、モグラだろうが、王子様さえ幸せならな。
「…親指姫はどうなっちゃうの?」
ぼくが見付けた親指姫。…結婚していた親指姫は?
「さあなあ、ツバメがなんとかするんじゃないか?」
親指姫を花の国まで連れて行くのは童話の中ではツバメなんだし、お前が見付けた親指姫だってツバメが何処かへ連れて行くとか…。
花の国と言っても一つだけとは限らないしな、花の王子様は他にもいるかもしれん。
お前が王子様をやっていたなら、それに相応しい親指姫の童話が出来るさ。
王子様が盗まれちまった後にも、親指姫が幸せになれる話が。
そもそも、お前が王子様になっていたのが間違いなんだ。
王子様になろうとしていた話は、お前にとっては黒歴史だろ?
消しちまいたい過去で、無かったことにしたいくらいの過去なんだからな、親指姫が見付かっていたら、それも含めて黒歴史ってな。
親指姫と暮らしていたことは忘れちまって、俺の嫁さんになればいい。
お前はそうして幸せになるし、親指姫だって、お前とのことを黒歴史にして別の人生。
要は幸せに暮らしていればいいんだ、黒歴史ってヤツがあってもな。
…有難いことに、チビのお前の黒歴史。
親指姫を見付けられずに終わっているから、俺は盗っ人にならなくて済む。
花の国の王子様を盗みに冒険の旅に出掛けなくても、嫁さんはちゃんと手に入るんだ。
親指姫に感謝せんとな、お前の家の花壇に咲いてたチューリップに入っていなかったことを。
良かった、良かった、とハーレイが嬉しそうな顔をしているから。
王子様を盗み出した悪者にもモグラにもならずに済んだ、と紅茶で喉を潤しているから。
黒歴史を喋らされる羽目に陥ったブルーの方では些か不満で、面白くなくて。
「…じゃあ、ハーレイの黒歴史は?」
ぼくのだけ聞いて、それでおしまいって酷くない?
鎌をかけてまで喋らせたんでしょ、ハーレイの分も教えてよ。ハーレイが持ってる黒歴史を。
「授業中にも言っただろう。ありすぎて話し切れないとな」
お前よりも長く生きているんだ、どれほどあると思っている?
チビのお前でさえ、ウサギにネズミに王子様だ。俺だと、いったい幾つあるやら…。
きちんと数えたことは無いがだ、指を折ったくらいで足りる数ではないってな。
お茶を飲みながら話せるような数じゃないんだ、今日の所は諦めておけ。
「ずるいってば!」
時間が足りないって言うんだったら、何回かに分けて話すとか…。
今日は始まりのトコだけ話して、次に会ったらその続き。そんな感じで教えてよ。
ぼくだけ三つも喋らせておいて、ハーレイは一つも無しなんてずるい!
ほんの少しだけ、小さな黒歴史の始まりだけでも一つ教えて、何でもいいから!
お願い、と強請ったブルーだけれど。
教えて欲しいとせがんだけれども、「いずれな」と軽く躱された。
本当に山ほどあるのだからと、いつか結婚したなら、と。
「結婚して一緒に暮らし始めたら、時間もたっぷりあるからなあ…」
それからゆっくり聞けばいいだろ、俺の黒歴史を知りたいのなら。
細切れの話を聞いているより、纏めて聞くのが一番じゃないか。続き物にするより、纏める方がお得だぞ?
話の続きが気になってしまって、夜も眠れないってことも無いしな。
「…なんでそこまで内緒にするの?」
結婚するまで秘密にしなくちゃいけないの?
少しくらい聞いても、ぼくは寝不足にはならないけれど…。続きを聞くまで待てるんだけど。
それでも駄目なの、どうしてなの?
ちょっとくらいは教えてくれても良さそうなのに…。
ぼくに言えないくらいに酷いの、ハーレイが持ってる黒歴史は?
「そういうわけでもないんだが…」
酷いわけではないのだが、とハーレイは肩を竦めてみせた。「とても言えん」と、「黒歴史とはそういうものだ」と。
無かったことにしておきたいから、黒歴史。消してしまいたいから黒歴史だ、と。
「ぼくの王子様の話だってそうだよ、黒歴史だよ!」
だけどハーレイ、喋らせたじゃない!
ぼくは無かったことにしておきたくって、一生言わずにおこうとしたのに…!
「それだ、それ。…恋人だからこそ、今は黙っておきたいってな」
お前が考えていたのと同じだ、俺はお前のためを思って結婚までは黙っておこうと…。
迂闊に話すと、お前、眠れないどころじゃないぞ?
黒歴史だからと説明したって、お前はまだまだチビなんだ。
俺みたいに笑って流せるかどうか、その辺がなんとも分からんからなあ…。
嫉妬するとか、怒り出すとか。
そうなったとしても、とっくの昔に終わってしまった話なんだ。今更取り返しがつかん。
お前の器が大きくなるまで、黙っておくのが吉ってことだな。
ついでに、お前が怒っちまっても、「すまん」と謝ってキスを贈ってやれる頃まで。
結婚していたら簡単なことだろ、キスして仲直りをするくらいはな…?
仲直りの方法はキスの他にも色々あるし…、と深い色になる鳶色の瞳。
ブルーを見詰めている瞳。
その瞳の奥に熱い光が見え隠れするから、仲直りの方法とやらは分かった。キスを交わした先にあること、チビの今では出来もしないこと。
ブルーの頬が染まったけれども、そこで気付いた黒歴史。ハーレイが隠しておきたい過去。結婚するまで話す気は無くて、聞けば自分が嫉妬するとか、怒り出すとか言うのなら…。
「…ハーレイ、もしかして、恋人を募集してたとか?」
黒歴史ってそういうヤツなの、だからぼくには話せないの…?
「さあな?」
恋人募集か、デートでもしたか。
まさかお前が嫁に来るとは、俺は夢にも思わなかったし…。
お前に会うまで気付かなかったし、俺はこういう年なんだしな?
お前よりも長く生きている分、人生、色々あるってもんだ。もちろん出会いの数ってヤツも。
だがな、俺にはお前だけだ。
花の国から王子様を盗み出す羽目になっても、お前以外を嫁に欲しくはないってな。
(……黒歴史……)
学生時代はモテていたと聞くハーレイだから。
柔道も水泳もプロの選手にならないかという誘いが来るほど、女性ファンだって大勢いたのだと聞いているから、もしかしたら。
わざわざ募集をするまでもなくて、恋人の一人もいたかもしれない。一人どころか二人、三人、それこそ何人もハーレイの周りを取り巻くほどに。
食事に行くならこの人と、ドライブするならこの人と、とシーンに応じて選べるほどに。
(…ハーレイとデートをしたい人たちが順番待ちとか…)
絶対に無いとは言い切れない。プロのスポーツ選手は引く手数多の花形職業、ハーレイはその卵だったのだから。
プロでなくても学生時代は大会で優勝するような選手、きっと素敵に見えただろう。一際輝いていたに違いないし、デートしてみたいと願う女性も少なくはなくて…。
(…ハーレイ、ホントにデートしてたの…?)
車の助手席に女性を座らせて、ドライブなんかもしたのだろうか。
何処かの店で二人きりの食事や、お茶を楽しんだりもしていただろうか…?
けれどその頃、自分は生まれてもいなかったから。
生まれて来た後も、ハーレイの存在などは知らずに、親指姫を探していたから。
花の国の王子様になって結婚しようと、チューリップの花を端から覗いていたのだから。
(…お互い様…)
未来の結婚相手を巡る話は黒歴史ということにしておこう、とブルーは思う。
親指姫を探した自分も、ハーレイが話してくれない過去の話も。
どちらも今は黒歴史。無かったことにしておく話。
いつか笑いながらハーレイの黒歴史を聞ける時が来るまで、二人で暮らせる日が来るまでは。
そう、その日までは黒歴史。
結婚してお互い、お互いのものになる時まで。
ハーレイの黒歴史を聞いて嫉妬したって、怒ってみたって、ただキスだけが降ってくる。
そうしてキスで溶けてゆく過去、溶けてなくなる黒歴史。
甘く溶け合うための相手は、お互い、一人しかいないのだから…。
可愛い黒歴史・了
※ブルーが教わった「黒歴史」という言葉。ついでに、ブルーにもあった黒歴史。
もしも親指姫が見付かっていたら、とんでもないことになっていたかもしれませんね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(うーむ…)
実に羨ましい男だな、とハーレイは手元の本を見詰めた。
夕食の後で入った書斎。愛用のマグカップに熱いコーヒーをたっぷりと淹れて。
今日はブルーの家に寄り損ねたから、時間が余っているほどの夜。仕事帰りにジムに寄ろうかと思ったのだが、たまには家でのんびり無為な時間を過ごすのもいい。
そうしたわけで、明日の授業で使う予定の資料を見てみた。何の気なしに、鞄から出して。
小さなブルーのクラスも含めて、幾つかのクラスで話す予定の源氏物語。
開いた本のページに載っていたのが、光源氏が幼い紫の上を見初める場面を描いたもので。
(こんな時点から目を付けやがって…)
子供じゃないか、と眺めた絵。紫の上はどう見ても子供、覗き見している光源氏は立派な大人。
どうかと思うが、これはそういう物語。
SD体制が始まるよりも前の遥かな昔に、自分たちが住んでいる地域にあった小さな日本という名の島国、そこで書かれた長編小説。古典の授業では必ず教わる、教える源氏物語。
とても全部を語れはしないし、抜粋する形になるのだけれど。避けて通れないのが光源氏と紫の上の出会いの場面で、生徒が持っている資料の本にも図版が入る。
見るからに幼い紫の上。それを垣間見る光源氏。
(いくらなんでも早すぎだろうが…!)
おまけに攫って自分好みに育てるんだ、と毒づいた。
物語の中ではもう少し先になるけれど。出会った途端に攫ったわけではないけれど。
それをやってのけた光源氏が羨ましくてたまらない。羨ましすぎる男に思える。
以前だったら羨ましくもなかったけれど。半ば呆れたものだけれども、それが今では…。
(俺の事情が変わったってな)
小さなブルー。まだ十四歳にしかならないブルー。
前の生から愛した恋人、この地球の上に生まれ変わったブルーとバッタリ出会ってしまった。
さながら奇跡のような再会、ブルーと頻繁に会うことが出来る大義名分まで手に入れた。
ところがどっこい、ブルーは子供。結婚出来る年の十八歳にもまだ遠い子供。
せっかく巡り会えたというのに、一緒には暮らせないブルー。
何ブロックも離れた家で両親と暮らしているブルー。
(こんな風に攫って来られたならなあ…)
資料の本に光源氏が紫の上を攫う場面は無いけれど。一足飛びに光源氏の家で暮らしている紫の上の図版になるのだけれど。
その間に何が起こっていたのか、授業では無論、簡潔に話す。ついでに自分は授業で教える内容よりも深く物語を知っているから、二つの図版を見比べてみては光源氏を羨んでしまう。
(攫って来た上に、自分好みに育て上げると来たもんだ)
金も権力もある男ならでは、遠い昔の貴族の我儘。光源氏は虚構の人物だけども、これに憧れて似たようなことをしでかした男もいたかもしれない。暇を持て余した貴族の中には。
(…なんて羨ましい男なんだ…)
未来の妻を、恋人を、幼い頃から攫ってしまって手元に置く。自分の家で一緒に暮らす。
小さなブルーを攫えたならば、と光源氏が羨ましくなる。未来の恋人を攫った男が。
もっとも、ブルーを攫ったとしても、自分好みに育てることは出来ないけれど。
元々が自分の好みなのだし、前の生から非の打ち所が無かった恋人。小さなブルーの中身は前と同じにブルーそのもの、ただ幼いというだけのこと。
自分好みに育てなくとも、ブルーは勝手に育ってゆく。前の生で愛した人そのままに。
(…俺の好みでどうこう出来はしないんだよなあ、ブルーだしな?)
ブルーが育つであろう姿を変えてみようとも思わない。そんな必要は何処にも無い。自分好みに育て上げるために攫いたいとは思わないけれど、もしもブルーを攫えたならば。
きっと気分が違うだろう。毎日が変わってくるだろう。
この家に小さなブルーがいたなら。
ブルーを攫って、この家に住まわせておいたなら。
(帰って来たら、チビのあいつがいて…)
前のブルーが青の間で迎えてくれた時の顔とは違うだろうし、「ただいま」と唇を重ねることも出来ないけれど。唇へのキスは小さなブルーとは交わせないけれど。
それでも小さなブルーが居たなら、チビはチビなりに、きっと笑顔で迎えてくれる。
おかえりなさい、と。
(でもって、添い寝…)
眠る時には同じベッドで、寄り添い合って。何もしないで、ただ眠るだけ。
光源氏は踏み外した道だが、自分は踏み外しはしないと思う。添い寝するだけ、横で眠るだけ。
小さなブルーに誘われても。「本物の恋人同士になりたい」と強請られても。
(チビの間は絶対に駄目だ)
光源氏が紫の上に手を出した時の、紫の上よりは年上だけれど。年上になる筈、ブルーは十四歳だから。源氏物語の時代の年の数え方でいけば十五歳になるし、年齢不詳の紫の上も十五歳までも育っていたなら、光源氏が道を踏み外した夜もさほど劇的とは言えなくなる。
そう、あの時代ならば十四歳でも問題はない。人間の寿命は短かったし、結婚もまた早かった。
けれども、今の時代は違う。事情がまるで全く違う。
十四歳にしかならないブルーは、あまりに小さな子供だから。
まだ幼いから、添い寝するだけ。眠りを守って抱き締めるだけ。
そう出来るだけの自制心もきっとあるだろう。
以前、メギドの悪夢を見てしまったブルーが瞬間移動でベッドに飛び込んで来てしまった夜は、心が騒いで一睡も出来ずに終わったけれど。
小さなブルーに慣れた今なら、そっと抱き締めて心地良く眠りに就ける筈。
その温もりを確かめながら。帰って来てくれたブルーの命の温かさに酔いながら。
(チビのあいつが育ち始めたら…)
出会った時から少しも育たず、チビのままのブルー。小さなブルー。
それが成長し始めたならば、危ういかもしれない、自分の理性も。
光源氏の轍を踏まぬよう、懸命に踏み止まる夜が続いてゆくかもしれない、ブルーが結婚出来る十八歳を迎えるまでは。
とはいえ、理性との戦いも楽しいことだろう。
ブルーと同じベッドで眠って、何処まで自分が耐え抜けるのか。
結婚式を挙げる時まで耐えられるか否か、ある意味、ゲーム。
理性が崩れて腕の中のブルーに手を出したならばゲームオーバー、弱すぎた自制心の負け。
結婚式まで耐え抜けたならば、それは感動的な初めての夜を迎えられる筈で。
我慢したからこそ得られる御褒美、我慢しないと貰えない御褒美。
そういうゲームも悪くない。自分自身と戦うゲーム。
(あいつを攫って来られたら…)
ブルーを攫って、この家に閉じ込めておけたなら。
学校へも行かせず、ただ可愛がって。
家にいる時はいつもブルーと一緒で、それこそ離れる暇さえも無い暮らしぶり。ブルーの家まで会いに出掛けずとも、家に帰ればブルーがいる日々。
(理想だな…)
自分好みに育てる代わりに、勉強を教えて、面倒を見て。
ブルーのためにと食事を作って、買い物も何もかもブルーのために。ブルーだけのために過ぎてゆく日々、ブルーとの暮らしに酔いしれる日々。
誰にもバレずにそれが出来たら、どんなにか…。
(まさに夢物語というヤツなんだが…)
そんな風にブルーと過ごせたら。
結婚までの日々を、ブルーの毎日を自分と共にいる時間だけで染め上げることが出来たなら…。
きっと幸せに違いない、と夢の暮らしを思い描いていて。
(…いかん、いかん)
駄目だ、と自分を叱咤した。
前の自分よりも、ずっと幸せになれるというのに。
ブルーを花嫁に出来るというのに、それ以上のことを望むなど。
結婚までの日々が長すぎるから、とブルーを攫ってしまおうだなどと、欲張りにもほどがあるというものだ。自分本位に過ぎる欲望、光源氏と大差無い。
しかし…。
(こんな時代だから、とんでもない夢を見ちまうんだな)
白いシャングリラの中だけが世界の全てだった、前の生の自分。ミュウが虐げられた時代に生を享け、その時代の終わりに死んでいった。ミュウが主役となる時代の扉だけを開けて。
前のブルーと暮らした船には、思い出も沢山あるけれど。幸せな恋をしていたけれど。
世界は狭くて、いつ突然に終わりがくるかも分からなかったシャングリラ。
明くる日の夜明けを迎えられることが、当たり前ではなかった船。
そういう時代に恋をした人と、平和な時代に青い地球の上でまた出会えたから。
これから育つブルーの姿を、毎日のように見ていられるから。
そのせいで夢を見たくなる。育ってゆくブルーを自分の手元に置いてみたいと、攫いたいと。
してはならないし、出来ないこと。叶わない夢。
小さなブルーを攫って来ること。
(…本当に幸せな男だ、こいつは)
光源氏め、と睨み付けておいた。
物語の中の人物だけれど、夢を叶えた幸せな男を。恋人を手元で育てた男を。
書斎で光源氏を睨んだ次の日、ブルーのクラスでの授業。
昨夜、資料の本で見ていた図版を開かせて教える源氏物語。光源氏の恋の物語。
紫の上を見初めて、攫って、ついには妻に。それだけではなくて、他にも色々と話したけれど。
(気付くなよ…?)
熱心に授業を聞いているブルー。赤い瞳で自分を見詰めているブルー。
ノートに書く時は下を向くけれど、それ以外は常に自分を追い続けているブルーの瞳。赤い瞳。
小さなブルーに気付かれないようにと、ただ願うだけ。
自分が何を思っていたか。
光源氏の物語の向こう、同じことをしたいと夢見た自分に、どうかブルーが気付かぬようにと。
授業をした日はブルーの家には寄れなかったけれど。
翌日の土曜日、そんな授業をしたことも忘れてブルーの家に出掛けて行ったら。
ブルーの部屋で二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで座ったら。
「ハーレイ、昨日の授業だけど…」
「ん?」
小さなブルーが「授業」と言うから、「質問か?」と尋ねてやった。そうしたら…。
「ねえ、ハーレイは憧れない?」
「何にだ?」
俺が何に憧れるというんだ、昨日の授業と全く繋がらないんだが…?
「そう? 憧れていないの、光源氏に?」
「はあ…?」
見抜かれたのか、とドキリとした。
すっかり忘れてしまっていたけれど、一昨日の夜に囚われた考え。昨日の授業中はブルーの瞳を恐れていた。気付いてくれるなと、自分が抱いた考えに気付かないように、と。
それをブルーは知っていたのか、と焦ったハーレイだったけれども。
「…ハーレイ、光源氏には憧れないんだ…?」
ぼくは紫の上に憧れるよ、と瞳を輝かせたブルー。無邪気なブルー。
気付いたわけではなかったらしい、授業をする前に自分が夢見た、甘いけれども物騒な夢に。
ブルーを攫って育ててみたいという考えに。
ところがブルーが言い出したことは、ハーレイの目を丸くさせるには充分なもので。
攫って欲しいと、ハーレイの家で暮らしてみたいと小さなブルーは笑顔で言った。
光源氏が紫の上にそうしたように、自分を攫って欲しいのだけど、と。
「攫うって…。お前なあ…!」
後ろめたい所があったものだから、ついつい声が少し大きくなったけれども。
「駄目…?」
攫って欲しいよ、と小首を傾げる小さなブルー。怖がりもせずに。
「俺を犯罪者にしたいのか、お前?」
今はその手の犯罪は無いが、前のお前は知っているよな?
キースもフィシスを人質に取って攫って逃げたし、あの時代にはあった犯罪だが…。
今の平和な世の中ってヤツじゃ、そういった罪で捕まるヤツは何処にもいないんだがな?
「やっぱり駄目…?」
「当たり前だ!」
俺が犯罪者になってしまうのもそうだが、攫われるお前。
お前も無事では済まないんだぞ、攫われちまうっていうことはな。
いったい何を考えているのだ、とブルーを叱った。
攫われたら最後、
お前に自由は無いんだぞ、と。
なのに…。
「でも、ぼくはそれでもかまわないよ?」
「ブルー…?」
何故、と問う前にブルーの桜色の唇が紡いだ、歌うように。
「自由が無くても、ぼくは幸せ。前のぼくより、ずっと幸せ」
攫われてもいい、とブルーは笑みを浮かべた。
ハーレイしかいない世界で充分だからと、自分はそれで幸せだからと。
「そうでしょ、ハーレイ? 毎日、ずっとハーレイと一緒」
前のぼくだと、そんなことは出来なかったから…。
朝になったらハーレイはキャプテンの制服を着込んで行ってしまって、夜になるまで恋人同士に戻れる時間なんかは無くて。
たまに通路でハーレイの背中を追い掛けたけれど、飛び付いてキスを強請っていたけど…。
たったそれだけ、夜になるまでは恋人同士の時間はそれだけ。
それでもぼくは幸せだったよ、ハーレイと夜に会えるってだけで。
もしも一日中、朝から晩までハーレイの側にいられるのなら。
…自由なんかは無くても幸せ、前のぼくより、ずっと幸せ。攫われて閉じ込められていても。
ハーレイの家から一歩も出られなくても、ぼくの周りにはハーレイだけ。
まるで夢みたいな世界なんだよ、ハーレイしかいない幸せな世界。
そういう世界に住めるんだったら、自由なんかは無くなっちゃってもいいんだけれど…。
自由になりたいと思いもしないし、毎日、幸せ一杯だよ、きっと。
だから攫って欲しいんだけどな、光源氏が紫の上を攫ったみたいに。
「ふうむ…。実は、俺もそいつを夢見はしたが、だ…」
憧れないでもなかったんだが、と素直にブルーに白状した。授業をしに行く前の日の夜、資料の中の光源氏が羨ましかったと、ブルーを攫いたいと思っていた、と。
「ホント!?」
それじゃ攫ってよ、ハーレイの家に連れてってよ。
「いや。お前の話を聞いている間に気が付いた。慌てなくてもいいってな」
俺が攫ってしまわなくても、いずれお前はそうなるんだ。
お前の周りには俺しかいなくて、俺しか見えない世界ってヤツに。
「え…?」
それってどういう意味なの、ハーレイ?
どうしてぼくにはハーレイしか見えなくなっちゃうの…?
「分からないか? 俺と結婚しちまった後だ」
俺の家に嫁に来ちまった後。
寝ても覚めても俺しかいなくて、お前の他には俺しか住んではいない家だぞ…?
お望みとあらば閉じ込めてやろう、と笑ってみせた。
仕事にゆく時には外から鍵をかけてしまって、ブルーは庭へも出られない生活。家の合鍵さえも持たせて貰えず、一日中、家の中だけで暮らす。
ハーレイが帰宅して鍵を開けるまで、独りきりでの留守番の日々。
誰とも顔を合わせることなく、買い物にも行けない囚われ人。ハーレイだけしかいない人生。
「…それもいいかも…」
ホントにハーレイだけの世界で、ハーレイにしか会わずに暮らすんだ…?
前のぼくだと無理だけれども、今のぼくなら出来るよね、それ。
「お前、困るぞ?」
家から一歩も出られないんだぞ、庭にも出られないんだが?
急に何かを食いたくなっても、近所まで買いにも行けないわけだが…?
「困らないよ」
ぼくはちっとも困りはしないし、外へ出たいとも思わないよ。
だって、ハーレイと住んでる家なんだもの。ハーレイとぼくと、二人きりの世界なんだもの。
そんな幸せな世界があるのに、壊したいなんて思わない。
ハーレイがぼくを閉じ込めるんなら、その世界だけでぼくは幸せ…。
充分に幸せ、と小さなブルーが微笑むから。
ハーレイさえいれば、と笑顔になるから。
思わず攫ってしまいたくなる、光源氏が紫の上を攫ったように。一昨夜に思い描いたように。
駄目だと分かっているのだけれども、小さなブルーを。
まだ十四歳にしかならないブルーを攫って、閉じ込めて、自分だけのものに。
結婚出来る年になるまで閉じ込め続けて、隠し続けて、ブルーの世界には自分一人だけ。
何処へも行かせず大切に隠して、宝物のようにブルーを育てて。
いつか美しく成長したなら、前のブルーと同じに気高く育ったなら。
花嫁衣装を誂えてやって、結婚式を挙げて、本当に自分のものにする。ブルーの心も身体も全て手に入れ、今度こそ自分一人のものに。
前のブルーはソルジャーだったから、叶わなかった一人占め。
それが今度は堂々と出来る、攫っても世界が壊れはしない。シャングリラが沈むわけではない。
小さなブルーを攫ったとしても、ただ犯罪者というだけのこと。
流石にマズイから攫えはしないが、いつかはブルーを一人占めだ、と考えていたら。
「ハーレイ、ぼくを攫って帰らない?」
攫っていいよ、と小さなブルーが自分の顔を指差した。攫ってもいいと。
「おいおい、そいつは犯罪だと言っているだろう…!」
今どきお目にかかれないような極悪人だぞ、お前を攫って逃げようだなんて。
その手の犯罪が消えちまってから、どのくらい経ったと思ってる?
俺はたちまち、名前を知らないヤツが無いほどの有名人になってしまいそうだが…?
悪い意味での有名人だな、前の俺とはまるで逆の意味で宇宙に名前が広がっちまうぞ。
「平気だってば、合意の上なら」
ぼくが頼んで攫われました、って証言するから大丈夫。
攫われたくって攫われたんなら、ハーレイは犯罪者じゃないよ。
被害者と言ってもいいんじゃないかな、ぼくの頼みを断れなくって攫うんだから。
みんな気の毒がってくれるよ、駄々をこねられて攫ったんだな、って。
だから攫って帰ってみない?
上手く行ったらハーレイのものだよ、ぼくはこのまま。
ハーレイの家に閉じ込めちゃったら、ハーレイだけのものになるんだよ…?
攫ってくれるんなら窓からだって抜け出しちゃうよ、とブルーは乗り気で。
「ね、ハーレイが帰る時、少し行った何処かで待っててよ」
ハーレイを見送って部屋に戻ったら、ママたちの隙を見て一階に下りて。
何処かの窓から外に出るから、暫く待ってて。
ぼくが追い付いたら、二人でハーレイの家に行こうよ、人通りの少ない道を通って。
本当はバスに乗りたいけれども、それだと目撃されちゃうものね…。タクシーにも乗れないし、ぼく、頑張って歩くから。
何時間かかっても歩いて行くから、ぼくを攫って帰ってくれない…?
「そこまでして俺に攫えってか?」
お前、学校まででも歩けないからバス通学にしているくせに。
俺の家までどのくらいあると思っているんだ、そいつを歩いて攫われる気か?
「うん。…だって、ハーレイの家に行けるんだよ?」
大きくなるまで来ちゃ駄目だ、って言っていたけど、ハーレイはぼくを攫いたいんでしょ?
それならハーレイの家に行けるし、ハーレイの家で暮らせるし…。
誰にも発見されなかったら、ぼくの世界にはハーレイだけだよ。
そういう世界が手に入るんなら、何時間だって歩いて行くよ。
疲れたなんて言わないから。もう歩けないなんて言いやしないから、ぼくを攫って帰ってよ。
お願い、と小さな恋人は大真面目で。
上手く行くのだと決めてかかっていて、攫われるつもりのようだから。
自分の家の窓から抜け出し、夜道を歩いてハーレイの家に行き、閉じ込められて暮らすつもりのようだから。
(いじらしいとは思うんだがな…)
それに愛らしい、こういうブルーも。攫われたいと願うブルーも。
本当に攫いたくなってしまうし、閉じ込めたいとも思うけれども、甘くはないのが現実の世界。
ブルーが家から消えてしまったら、捜索するための手段はいくらでもある。ブルーの両親が早く気付けば、まだハーレイの家に着かない内に見付かり、連れ戻されてしまうのがオチ。
首尾よく家まで辿り着いても、夜が明けて日暮れを迎えるまでには探し当てられることだろう。
だから出来ない、攫えはしない。
どんなにブルーが協力的でも、攫われたいと願っていても。
けれど、せっかくの恋人からの申し出、恋人が思い描いている夢。
現実などというつまらないもので打ち消したくはないから、壊してしまいたくはないから。
別の方向から攻めることにした、諦めるように。
小さなブルーが自分の方から、攫われたくないと考えるように。
「…いいか、お前が攫われたいというのは分かるが…」
俺と一緒に暮らしたいという気持ちも分からんではない。俺も夢見たくらいだからな。
しかしだ、お前、大切なことを忘れていないか?
俺に攫われてしまったが最後、お父さんやお母さんとも会えなくなってしまうんだが…?
「えっ…?」
キョトンとしている小さなブルー。案の定、分かっていなかったブルー。
苦笑しながら続けてやった。お父さんたちに会えなくなるぞ、と。
「攫って帰ったら閉じ込めるんだからな、俺の家の中に」
お前が俺の家にいるとバレたら元も子も無いし、お前は庭にも出られない。窓から外を覗くのも駄目だな、誰かに見られたらおしまいだしな?
攫われるというのはそういうことだ。お前が何処に消えちまったか、誰も知らない。気付いちゃくれない。
もちろん、この家に帰れはしないし、お父さんやお母さんにも会えなくなるんだ。
通信を入れて声さえ聞けんな、何処にいるのかバレちまうからな。
そういう暮らしが待っているのさ、俺に攫われて閉じ込められたら。
お前の世界には俺しかいなくて、お父さんとお母さんは何処にもいない。会いたくなっても家の外には出られやしないし、独りで泣くしかないってこった。
俺が仕事に行ってる間に、「会いたいよ」って、独りぼっちでな。
それでもいいのか、と赤い瞳を覗き込んだら。
俺と一緒に歩いて帰って攫われるか、と念を押したら。
「…パパとママ…」
ぼくがいなくなったら心配するよね、パパもママも。
…それにハーレイに攫われちゃったら、パパにもママにも会えないんだね…。
「ほら見ろ、お前、困るんだろうが?」
俺だけしかいない世界でいい、と言っていたくせに、お父さんとお母さんがいないと困る、と。
そうなんだな、チビ?
「……うん……」
ハーレイさえいれば幸せなんだ、って思っていたけど、違ったみたい…。
前のぼくと違ってパパとママがいるし、会えなくなったら寂しいみたい…。
やっぱり攫って貰うのはやめる、ハーレイが仕事に行ってる間にシクシク泣いていそうだから。
パパやママに会いたくなってしまって、寂しくて帰りたくて泣きそうだから…。
「それが分かっているならいい」
お前の世界には俺一人だけじゃ駄目なんだ。
うんと素晴らしい世界なんだと思っただろうが、もう分かったな?
俺だけじゃ駄目だと、もっと他にも大切な人たちがいるんだってことが。
馬鹿め、と額を軽く小突いてやった。
チビには早いと、攫われるにはまだ早すぎると。
「もっと大きくなってからだな、お父さんやお母さんと離れてしまっても困らないくらい」
そのくらいに大きく育った時には、お前の世界には俺一人だけだ。
嫁に来て、俺の家に一緒に住んで。
俺しか見えない生活ってヤツを、嫌というほど堪能出来るさ、来る日も来る日も。
なにしろ俺の家なんだしなあ、お前の他には俺しか住んではいないってな。
「ハーレイ、それ…。結婚して、ぼくがハーレイの家に行っちゃった後も…」
パパとママには会わせてくれる?
…しょっちゅうは駄目でも、ぼくが会いたくてたまらなくなったら、パパとママに。
ほんの少しの間でいいから、パパとママに会って話してもいい…?
「お前、俺を誰だと思ってるんだ?」
会ったらいけないなんて言わんぞ、お前のお父さんとお母さんだろうが。
お前が会いたいと言っているのに、どうして止めなきゃいかんのだ。
駄目とは言わんし、叱ったりもしない。会いたければ会いに行けばいいのさ。
俺は悪い怪物などではないのだから、と苦笑いした。
ブルーを家の中に閉じ込めもしないし、外へ出るなと叱りもしないと。
両親に会いたいと思うのだったら、毎日でも会いに出掛けていいと。
「…そうだな、毎日、お父さんたちに会いたくなると言うんだったら…」
もしも、お前がそうしたいのなら、俺がこの家に住んでもいいが。
お前を嫁に貰う代わりに、俺が婿に行くってヤツでもいいぞ?
俺の家は空家になっちまうんだが、たまに別荘代わりに使うってことにすればいいしな。週末は俺の家で過ごすことにするとか、長い休みにはそっちに行くとか。
「それは無し…!」
ハーレイがこの家に来るのは無しだよ、パパとママが住んでいるんだよ?
そんな所で結婚して一緒に住めやしないよ、ぼくたちのベッドを置くなんて…!
パパとママがいる家で暮らすなんてこと、ぼくには絶対、出来ないってば…!
恥ずかしいから、と頬を染めているブルー。染まった頬で反対するブルー。
両親のいる家で結婚生活を送れはしないと、それは恥ずかしすぎるから、と。
(ベッドを置けない、とは言っているがなあ…)
結婚してベッドで過ごす時間の意味を分かっているのか、いないのか。
何かと言えば「早く本物の恋人同士になりたい」が口癖のブルーだけれども、まだ幼い。
まだまだ子供で、きっと半分も分かってはいない。自分の口癖の中身のことを。
前の生の記憶を持っているから言っているだけ、不満なだけ。
本当は小さな子供なのに。
攫って欲しいと言い出すくらいに、閉じ込めて欲しいと願うくらいに。
けれど両親と会えなくなるのだと聞いた途端に前言撤回、攫われるのはやめたらしいから。
(…やっぱりチビには違いないってな)
紫の上に憧れはしても、チビはチビ。十四歳にしかならないブルー。
小さな恋人は、まだ攫えない。
幼すぎるから、連れてはゆけない。
自分と二人きりの世界で幸せに暮らせるほどには、心が育っていないから。
二人きりがいいと、それが幸せだと思えるほどには、大きく育っていないから。
(…うん、当分は駄目だってな)
小さなブルーには家が必要、両親に守られる温かな家が欠かせない。
けれど、いつかは連れて帰ろう。
結婚したなら、攫って帰ろう。
この家に二人で遊びに来た後、名残惜しげな顔のブルーを「帰るぞ」と車の助手席に乗せて…。
攫って来たい・了
※ハーレイが憧れた、光源氏。ブルーを攫って、大切に育てられたらいい、と。
けれど出来ない相談なのです、たとえブルーが乗り気でも。チビのブルーには、家が必要。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(…え?)
それは地球を見ている時に起こった。フィシスの地球。
天体の間を訪ねる至福のひと時、銀河の海に浮かぶ母なる地球。青い真珠。
フィシスと手を絡め、思念の波長を合わせるだけで遠い地球まで飛んでゆける。旅が出来る。
このシャングリラを遠く離れて、ソル太陽系の第三惑星へと。
ただの映像に過ぎないけれども、フィシスを生み出した機械が植え付けた記憶だけども。それを知りつつ、なお焦がれずにはいられない。誰かが撮った地球の姿だから。地球は本物なのだから。
水槽の中に居た幼い少女。青い地球の映像を抱いていた少女。
無から生み出された生命体でも、どうしても彼女が欲しかった。彼女の地球が。
サイオンを分け与え、生まれながらのミュウだと偽り、白いシャングリラに連れて来た。地球を抱く女神なのだ、と船の仲間たちに紹介した。彼女は特別な存在だ、と。
船に来た時には幼かったフィシスも、すっかり育ってそれは美しい女性となった。床にまで届く金色の髪に、誰をも魅了する美貌。その上、タロットカードを使って未来を読み取る占い師。
今では文字通りミュウの女神で、思惑以上の存在となった。
誰もフィシスを疑わない。ミュウとは違うと気付きもしない。彼女の抱く地球を見たいと、折があれば是非、と誰もが願う。
それほどに鮮やかな地球の映像、青い地球へと渡ってゆく旅。
飽きること無く何時間でも見ていられるほど、焦がれてやまないフィシスの地球。
その地球の映像が不意に揺らいだ、絡み合う思念の波が揺れて打ち消し合ったかのように。
映像の海に誰かが石でも投げたかのように、乱れてしまった青い地球の姿。
「ソルジャー!?」
同時に上がったフィシスの悲鳴。
気付けば床に倒れ伏していた、さっきまで自分が立っていた床に。
フィシスは酷く驚き慌てて、アルフレートを呼ぼうと奥へと行きかけたけれど。
「…大丈夫。なんでもないよ」
もう平気だから、と身体を起こした。現に何ともなかった身体。眩暈もしないし、起きられる。
けれどもフィシスが心配するから、「これでいいかい?」と椅子に腰掛けた。「こうしていれば倒れないから」と、「倒れるとも思えないけれど」と。
「でも、ソルジャー…。さっきは一瞬、気を失っておられたのでは…」
「そうらしいけれど…。でも心配は要らないよ、フィシス」
貧血だろう、と微笑んでみせた。
昨日は船の外へ出ていたから、と。アルテメシアに降りていたから、きっと疲れが出たのだと。
フィシスはホッと安堵の息を漏らして、アルフレートにお茶の支度を頼んだ。
「今日はソルジャーがお疲れですから、お菓子は甘いものをご用意して」と。
甘いものは疲れが取れると言うから、フィシスと二人でお茶を飲みながら食べた菓子。その間もフィシスは気遣ってくれた、「本当にもう大丈夫ですか?」と。
「大丈夫だよ」と「何ともないから」と、何度応えてやったろう。事実、何ともないのだから。
けれど…。
(そんなに力は使っていない筈なのに…)
何があったというわけでもない、昨日の外出。アルテメシアの様子を探りに降りただけ。
思った以上に疲れただろうか、あのくらいのことで?
知らぬ間に疲れが溜まっただろうか、寝不足にでもなっているのだろうか…?
自覚は全く無いのだけれど。きちんと眠れている筈だけれど…。
夜になって、青の間へハーレイが一日の報告をしにやって来て。
挨拶もそこそこに、報告の前に言われた言葉。
「ソルジャー、倒れられたとか」
「参ったな。君の耳にも入ったのかい?」
「ええ、フィシスから聞きました」
酷く心配していましたが…。お身体の具合が悪いのでは、と。
「大したことはないよ。今までにも無かったわけではないしね、フィシスの前で倒れたことは」
そんな時のと比べてみるなら、今日のなんかは数の内にも入らない。ただの貧血。
それより、早く報告を。…それが終わらないと、ぼくはブルーに戻れないんだ。
早くソルジャーからブルーになりたい、と促した。今日の報告を済ませてくれ、と。
ハーレイの報告が終わるのを待って、普段ははめたままの手袋を外した。
ソルジャーの衣装を構成するもの。マントと同じで、つけているのが当たり前のもの。
その手袋はハーレイの前でしか外さない。恋人同士の時間の始まりの合図。
心得たようにハーレイの顔が近付いて来たから、キスを交わして。
それから二人でお茶を楽しみ、シャワーを浴びてベッドに入ろうとしたら。ハーレイの腕に抱き締められて甘い時間を過ごそうとしたら。
「…いけません。今日はお休みにならないと」
昼間の貧血をお忘れですか?
今夜はごゆっくりお休み下さい、お身体をしっかり休めて頂かないといけませんから。
お側についておりますから、と添い寝だけで済まされてしまった夜。愛し合えずに終わった夜。
物足りない気もするのだけれども、それもたまには心地よい。
ハーレイの優しい温もりに包まれ、腕の中で眠るだけの夜。
そう思ったのに。
(また…?)
クラリ、と揺れた気がする視界。
あれから数日、公園で子供たちと一緒に遊んでいた時。
ほんの一瞬、感じた足元の頼りなさ。とはいえ、今度は倒れなかった。少し身体が傾いだ程度。
顔を上げれば、ブリッジの端からハーレイがこちらを見ていたから。
なんでもないよ、と手を振っておいた。
ハーレイは息抜きをしていたのだろう、ブリッジから公園を見下ろしながら。
休憩室へと出掛ける代わりに。好きなコーヒーを飲みにゆく代わりに。
恋人の自分が公園に居るから、きっと見ていてくれたのだ。休憩室に行くより、コーヒーを飲むより、恋人の姿を追っていたい、と。
そう思うと悪い気持ちはしない。愛されている、と頬が緩みそうになる。
子供たちのいる場では手を振ることしか出来ないけれども、あそこに自分の恋人がいる、と。
夜を迎えて、青の間に報告に来たハーレイ。
先日と同じで、挨拶が済むと報告を始める代わりに口にした言葉。
「ソルジャー、お加減が悪くていらっしゃるのでは?」
「何故だい?」
「昼間、公園で…」
ふらついておられたように思うのですが。子供たちと遊んでらっしゃった時に。
「ああ、あれかい? なんでもないよ」
少し眩暈がしただけだから。この前みたいに倒れてはいないし、ほんの一瞬だけだったからね。
大丈夫だよ、と手袋を外したのに。
報告を終わらせて恋人同士の二人に戻ろう、と合図したのに、ハーレイは厳しい顔をした。また添い寝だけで終わってしまった、二人一緒に眠っているのに愛を交わせずに。
二度も続くと嬉しくないから。
期待外れな気持ちの方が大きくて、添い寝を素直に喜べないから。
(気を付けよう…)
少し疲れているかもしれない、自分でも気付かない内に。
疲れるようなことをしていた自覚は全く無いけれど。
(…自覚があったら疲れないか…)
きっと何処かに原因が、と暫くは自重しようと思った。
船の外に出るなら、早めに戻る。のんびり景色を楽しんだりせずに、用が済めば直ぐに。
そうして気を付けていたというのに…。
頻繁に起こし始めた眩暈。
時も所も選ばなかった。青の間だったり、公園だったり、通路だったり。
フィシスの前でも何度も起こした、その度に口止めしておいたけれど。
「ぼくがハーレイに叱られるからね」と、知らせないよう言い含めたけれど。
何処でも起こしてしまうものだから、ハーレイにもついに気付かれた。今のブルーは体調不良の最たるもので、「大丈夫」は信用できないと。
自分が見ただけでも何度目なのか、と怖い顔をして叱られた。大丈夫ではないだろう、と。
「ノルディの診察を受けて下さい」
それで結果が問題無ければ、大丈夫だと私も安心出来ます。
問題があるなら、お嫌でも治療を受けて頂かないと。大切なお身体なのですから。
「うん…」
分かったよ、君がそこまで言うのなら。
…それに眩暈を起こした日の夜は、添い寝しかしてくれないんだし…。
明日、メディカル・ルームに行ってくるよ。それで安心なんだろ、君は?
渋々受けた医療チェック。
成人検査の機械を連想させる医療機器の数々は好きではないけれど。
検査のためにと血を採られるのも、アルタミラの研究所を思い出させるから嫌なのだけれど。
それでも一度だけなのだから、と我慢してチェックを済ませたのに。
「…え?」
ノルディの言葉の意味が掴めず、訊き返したら。
「定期的に、と申し上げました。一度だけでは分かりかねます」
ソルジャーは日頃、こういった検査を酷く嫌ってらっしゃいますから…。
お嫌いなことは充分承知しておりますが、継続的なデータが必要です。暫く通って頂きます。
次は一週間後においで下さい、と検査の告知。
そうして何度も検査を続けた、一週間ごとに。けれども検査と診察ばかりで貰えない薬。
眩暈の原因は貧血だろうと思ったけれども、そちらもあまり良くならないし…。
(検査と診察で余計に疲れるんだ…)
心身に負担がかかっているのだ、と溜息をついた。精神的な疲労が溜まっているに違いないと。
だから治らない、突発的に起こす貧血。ミュウは精神の不調が身体に現れやすいから。
(…ストレスは悪いに決まっているのに…)
なのに検査と診察の日々が続くのだろうか、と不満で一杯になって来たある日。
いつもの検査と診察の後でノルディに呼ばれた。
こちらへ、と。
メディカル・ルームの一角に設けられている小さな一室。
中の様子を窺えないようにした、カウンセリング用の小部屋。
部屋の存在は知っていたけれど、患者として入ったことは無かった。
ノルディが扉に施錠する間に周りを見回し、向かい合って椅子に腰掛けるなり尋ねてみた。
「ぼくは心の問題なのかい?」
この部屋に案内するなんて。…此処はカウンセリング用の部屋だろう?
「…そうとも言えます。心のケアが必要ですので」
「どういう意味だい?」
心因性のものだと言うなら、この定期的な検査を止めてくれるだけでも変わってくるよ。
正直な所、ぼくは相当参っているんだ。…そろそろ解放してくれないかな?
「いえ。…大変申し上げにくいのですが、実はソルジャーのお身体は…」
衰えつつあります、と宣告された。
確実に死へと向かいつつあると、あと二十年も持たないだろう、と。
「二十年…。あと二十年でぼくは死ぬと?」
「はい。あるいは十年かもしれません。こればかりは今の時点では…」
分かりかねます、データが充分ではありませんから。けれども、延びることはありません。
ソルジャーに残されたお時間は、長く持っても二十年です。
「…そんなに悪いデータなのかい?」
「ええ。…必要ならば詳しく御説明させて頂きますが」
ご覧下さい、とノルディが取り出したデータ。今日までの検査で得られたデータ。
細胞レベルで進行しつつある老化。滅びに向かって。
外見の年齢を止めているから、外からは全く分からないだけ。
死にゆこうとしているブルーの肉体。持って二十年、十年かもしれない寿命の残り。
ノルディは他言しないと言ったけれども。
見た目で気付かれるほどには死は近くないし、知れれば船はパニックだから、と。
それからノルディと何を話したか、心のケアとやらをして貰ったかの記憶は無い。
眩暈を起こしているわけでもないのに、ふらついた足。真っ直ぐに歩けなかった足。
他の仲間に出会わないよう、人通りが少ない通路を通って戻った青の間。
まだふらつく足でスロープを上り、ベッドにドサリと倒れ込んだ。
(ぼくが死ぬ…)
あと二十年で尽きると言われた命。
たったの二十年、それだけしか残っていないらしい命。下手をすれば十年で消えてしまう命。
それよりも短いことも有り得る、なにしろデータが無いのだから。
人類よりも遥かに寿命の長いミュウの老化を詳しく調べたデータなどは無い。この船で暮らして先に逝った者たちのデータだけが頼り、けれども老衰で死んだ仲間はただの一人もいない。
つまりは参考データが無いということ、死の国へ旅立った仲間が遺したデータだけしか。
滅びへと向かう肉体のデータが残ってはいても、ブルーの命の残りを正確に読み取れはしない。
二十年なのか、十年なのか。もしかしたら、僅か数年しか残っていないのか。
(ぼくが死んだら…)
船はなんとかなるだろうけれど。
新しい仲間の救出は専門の潜入班がこなしているから、今後も続けられる筈。
人類側との戦闘にしても、本格的なものは一度も無かった。アルテメシアに来る前も、後も。
外へ出した小型艇が身元不明の船として追われて逃げた程度で、威嚇射撃をされただけ。人類はミュウの船だと気付いてはおらず、社会の秩序から外れて生きる海賊の類と思っただろう。
それゆえに深追いされることもなく、シャングリラは未だに存在自体を知られてはいない。
今まで通りの生活を続けてゆこうというなら、自分が死んでも船は守れる。
威嚇射撃をされた船の救助に、生身で飛び出せる者がいなくなるというだけのこと。安全確実に救い出すことは難しくなってしまうけれども、応援の船を出せば解決出来る筈。
そういった訓練も積んで来たのだし、速やかに移行できるだろう。
このシャングリラの未来は守れる、自分が死んでしまった後も。
ただ…。
(地球へは…)
シャングリラは行けなくなるかもしれない。
未だ座標も掴めない地球。其処へ旅立つ準備は始まっておらず、何の用意も出来てはいない。
白い鯨はアルテメシアの雲海から外へと出られないままで、地球へは向かえないかもしれない。
シャングリラでさえも、そうなのだから。
この船でさえも、今のままでは地球へ行けそうもないのだから。
(…ぼくは行けない…)
青い地球には辿り着けない、あれほどに焦がれ続けた星に。
地球が見たくてフィシスを船まで連れて来たほどに、本物の地球に着く日を夢見て来たのに。
その地球に行けない、とても着けない。
辿り着くどころか、旅立つよりも前に尽きてしまう命。消えてしまう自分の命の灯火。
それに…。
(ハーレイ…)
アルタミラを脱出したその日から一緒だったハーレイ、今は恋人同士のハーレイ。
いつまでも一緒だと思っていた。二人で地球まで行けるものだと信じていた。
けれども、それは叶わなくなった。
自分の命が尽きると言うなら、その時がハーレイとの永遠の別れ。
死の国に向かう自分はハーレイと引き裂かれてしまい、離れてしまう。会えなくなってしまう。
どんなにハーレイを求めようとも、会いたいと泣いて泣き叫ぼうとも、もう会えない。
自分が死んでしまったなら。死者の世界へ引き込まれたなら。
(…ハーレイと会えなくなるなんて…)
想像したことさえも無かった、ハーレイとの仲が終わる日など。
何処までも二人で共にゆくのだと、いつも二人だと思っていたのに。
まさか自分が先に逝くなど、死神の大鎌が振り下ろされてハーレイとの絆を切ってしまうなど、本当にただの一度も考えさえもしなくて、ハーレイとの恋に、幸せに、酔っていたのに…。
(……ハーレイ……)
会えなくなる。いつか会えなくなってしまう。
二十年先か、十年先か。もっと早くに訪れるかもしれない別れ。
涙で世界がぼやけ始めた、まるでその日が来たかのように。
こうして薄れて消えてゆくのだと、この世界からいなくなるのだと、全てを溶かしてしまうかのように…。
一人きりで泣いて、涙で枕を濡らし続けて。
それでも部屋付きの係が来た時は、平静な風を装った。食事も普段と変わりなく食べた。
ソルジャーとしての精神は鍛え抜かれていたから。弱さを見せてはならないから。
そうして長すぎる一日が終わり、ハーレイが報告をしに青の間に来て。
挨拶の後に、こう付け加えた。この所、一週間おきにハーレイが挨拶の続きに口にする言葉。
「今日は診察の日でらっしゃいましたね、如何でしたか?」
お身体にお変わりはありませんか、と問われた途端に崩れそうになってしまった心。保ち続けたソルジャーの貌が歪んでしまった、その瞬間。
ハッと気付いて気分を引き締め、顔だけは元に戻したけれど。
心の中はとうに涙に染まって、ハーレイも何かを感じ取ったらしく。
「ソルジャー…?」
どうなさいましたか、ご気分でも…?
「…ブルーでいい…」
ブルーと呼んでくれればいい。ソルジャーじゃなくて。…今日はそういう気分だから。
ぼくはブルーだ、と手袋を外した。恋人同士の時間が始まる合図。
ハーレイの、いや、キャプテンの報告をまだ聞き終えてはいないのに。ソルジャーとして聞いておくべき報告、それをハーレイは始めてすらもいないのに。
「…ソルジャー…?」
不審そうに顰められる眉。何事なのかと訝るハーレイ。
本当は叫び出したい気分だったけれど、それを押し止めてソルジャーとしての言葉を紡いだ。
「このままで聞くよ、君の報告。…今日のシャングリラはどうだったんだい…?」
「…はい。ブリッジには異常ありません。機関部も特に問題は無く…」
お決まりの異常なしの報告、それに仲間たちの間で起こったことなど。会議の予定や審議すべき議題、いつもと変わりない中身だったけれど。
その報告を聞き終えるまでが長かった。上の空ではなかったけれど。ソルジャーとして全て頭に入れはしたけれど、それはソルジャーだったから。長くソルジャーとして立っていたから。
「以上です」とハーレイが一礼した途端に零れた涙。
ただのブルーに戻った瞬間。
「ソルジャー…!」
驚き慌てるハーレイに「ブルーだよ…」と返すのが精一杯で。
とめどなく零れ始めた涙。もう止められなくなってしまった、心に溢れていた涙。心から瞳へと堰を切って流れ、何を言えばいいのかも分からなくて。
「どうなさったのです?」
何か悲しい出来事でも…、と訊かれたから。ハーレイが糸口を作ったから。
「ごめん、ハーレイ…。泣いちゃって、ごめん。でも…。ぼくの命は…」
もう持たないんだよ、地球に着くまで。持って二十年、それだけしか残っていないんだよ。
十年ほどかもしれない、って…。
「そんな…!」
ハーレイは絶句し、ブルーを胸へと抱き込んだ。強い両腕で、広い胸へと。
その胸に縋り付き、泣くしかなくて。
泣きじゃくるだけのブルーの姿に、ハーレイがその背を撫でながら訊いた。
「…何か聞き間違えてはおられませんか? ノルディから報告は来ておりませんが…」
キャプテンの私が知らないからには、ノルディなりの警告だったとか…。
無茶をなさるとそうなりますよ、と脅されたのではありませんか?
頻繁に眩暈を起こしていらっしゃるのに、あなたは普段通りに動こうとなさいますから。
きっとそうです、とハーレイはブルーを宥めたけれど。
ノルディの脅しだったのだろうと言ったけれども、ブルーは真実を知っているから。
カウンセリング用の小部屋で告げられたことも、見せられたデータも全て嘘ではなかったから。
「…本当だよ。ノルディは誰にも話さないと…」
そう言っていたよ、ぼくに。皆がパニックに陥るから。
…ソルジャーのぼくがいなくなるなど、皆には受け入れ難いだろうから…。
「ですが、ブルー…。そうした事情でも、キャプテンの私には報告があると思いますが」
なのに私は知らないのですし、やはり脅しだと考えた方が…。
「…君にはいずれ知れると思う。折を見てノルディが話すだろう」
ゼルやブラウやヒルマンたちにも。…エラもだね。
君たちは知っておくべきだから。
シャングリラの今後のことがあるから、近い内にか、数ヶ月先か、報告はきっと届くだろう。
もしもノルディが言わないようなら、ぼくから話せと促さなければ。
この船を守り続けるためには、ぼくがいなくなった後のことまで早い間に決めておかないと。
でも…。
ソルジャーとしての責任感だけで語れた言葉はそこまでだった。
ハーレイの腕の中、言うべきことを言ってしまえば、もう本当にただのブルーに戻るだけ。
ソルジャーではないただのブルーに、ハーレイに恋をしているブルーに。
「…ハーレイ、ぼくは死んでしまう…。あと二十年か、十年くらいで」
もっと早くに死ぬかもしれない、ノルディにも正確な時期は予測できない。
だけど死ぬんだ、それだけは確か。ぼくの寿命は尽きてしまって、もうすぐ死んでいくんだよ。二度と元気になれはしなくて、その内に、いつか…。
ぼくがいなくなる、とブルーは泣いた。
このシャングリラから消えていなくなると、君と離れてしまうのだと。
辛くて悲しくてたまらない別れ。
今は抱き締めていてくれるこの強い腕も、広い胸も自分は失くしてしまう。
死の国へと連れ去られ、たった一人で消えてゆかねばならないから。
ハーレイが舵を握っている白い船から、何処とも知れない遠い世界へ一人で旅に出るのだから。
もう戻っては来られない道を独り歩いて、この世ではない場所へゆくのだから…。
「もう会えない…。ハーレイには二度と会えないんだよ…」
ぼくの命が尽きてしまったら、死んでしまったら……二度と。
ずっとハーレイと一緒なんだと思っていたのに、もうすぐ終わりが来るんだよ…。
「…いえ、ご一緒に」
「えっ?」
何を言われたのか、とブルーは赤い瞳を見開いた。ハーレイは何を言ったのかと。
泣き濡れた瞳で見上げてみれば、ハーレイの唇には笑みさえもあって。
「ご一緒に、と申し上げました。あなたを離しはいたしません」
終わりだなどと仰らないで下さい、私が決して終わらせません。
あなたの命が尽きるのだとしても、それが本当のことであったとしても。
何処までも共に、とハーレイはブルーに微笑み掛けた。
もう決めました、と。私の覚悟は決まりました、と。
「…ハーレイ、それは…」
ぼくと一緒に来てくれるのかい?
ぼくの命が尽きる時には、君も一緒に来てくれると…?
「ええ。あなたと一緒に参ります」
お一人で逝かせることはしません、必ず私も参りますとも。あなたと一緒に、何処へまでも。
あなたを決して離しはしないと誓います。何があっても離れないと。
「…でも、船は…?」
このシャングリラはどうなるんだい?
ぼくがいなくなった上に、君までも消えてしまったら…?
「この船くらいは、どうとでもなります」
今日までこうしてやって来たのです、皆で力を合わせれば乗り越えられるでしょう。
それも出来ないような船では、元から未来などありはしません。
…その基礎はあなたが作ったものです、あなたの力が無ければ何処にも無かった船です。
あなたが私を連れて行っても、誰も文句は言いますまい。
シャングリラはこのままで残るのですから、それを守るのが皆の務めというものでしょう。
違いますか、ブルー…?
ですから二人で旅に出ましょう、独りきりだなどと仰らないで。
どうか泣き止んで下さいませんか、と抱き込まれた胸。広くて逞しいハーレイの胸。
其処が何処よりも温かくて。
背を撫でてくれる手が優しくて、とても心地良くて。
(…君と二人で行けるのなら…)
命尽きた後も、ハーレイと二人、何処までも共にゆけるというなら。
頑張ってみよう、と涙が止まらないままに決意した。
自分の命は尽きるけれども、独りぼっちで旅立つわけではないのだから。ハーレイも一緒に旅に出るのだから、その旅のために準備をしよう。
ソルジャーの自分がいなくなった後も、キャプテンのハーレイを失った後も、白い鯨が迷わないように。白いシャングリラが、仲間たちが道を見失わぬように。
出来る所まで、この船のために。ミュウの仲間たちの未来のために。
それがソルジャーの務めなのだと、最後まですべき大切な役目なのだから、と。
この日から後も、何度も何度も、泣いて、ハーレイに慰められて。
フィシスが身に抱く青い地球を見ては、また涙して。
尽きてしまう命、焦がれ続けた地球をその目に映すことなく消えてしまう自分の命の灯火。
どう足掻いても死へと歩む身体を止められはせずに、日毎に衰えてゆく肉体の力。
床に臥せる日が少しずつ増え、ハーレイたちにもノルディが話した。
ソルジャーの命はもうすぐ尽きると、その日はそれほど遠くはないと。
ゼルやブラウたちは酷く驚き、信じたくない現実に涙したけれど。それでも自分たちがこの船を守らねばならぬと決意も新たに、ブルーの負担を減らす会議を早速始めた。
ブルーの命を少しでも長くと、ソルジャーの代わりに出来る仕事は何があるかと。
実際の所、ブルーが担わねばならぬ役目は無いも同然だったから。
白い鯨となったシャングリラでは、全てが上手く運んでいたから。結論としては、アルテメシアから離れなければ安全だろう、ということになった。
地球を目指すことは諦めざるを得ないが、皆の安全が第一だから、と。
そうしてシャングリラは守りの姿勢に入ったけれど。
ソルジャー不在の時代に備えて、地球へ向かう夢を封印する道が選ばれたけれど。
そんな中で床に臥せりながらも、ブルーは未来を見付け出した。
ミュウの未来を照らす光を、自分の代わりに仲間たちを導く希望の星を。
アルテメシアで養父母としての登録を済ませた夫妻に託された子供。
太陽のように輝く金髪の赤子、緑の瞳の健康なジョミー・マーキス・シン。
(…彼に託そう、ミュウの未来を)
今はまだ、人工子宮から取り出されたばかりの赤ん坊だけれど。
彼ならばきっと、自分の跡を継いでくれるだろう。ソルジャーの務めを果たせるだろう。
(…彼を迎えるまで、ぼくの命が消えずに済んだらいいのだけれど…)
そうすれば地球への道も開ける、自分の意志を、思いを伝えられたなら。
シャングリラを青い地球へと導いてくれと、ジョミーに直接、語れたならば。
(…それが出来れば、本当に…)
心残りは無いのだけれど、と思うけれども、そればかりは意のままになりはしないから。
運に任せておくよりはなくて、神に祈るしか出来ないけれど…。
(…ぼくは行けるんだよ、ハーレイと二人で)
命の灯が消えてしまっても。このシャングリラからいなくなっても。
ハーレイはシドに船を託した。次のキャプテンを密かに決めた。
だから、何処へまでも二人、共にゆける。
命尽きる時にも、ハーレイと共に。
焦がれ続けた青い地球には辿り着けなくても、ハーレイと二人で旅立とう。
白いシャングリラを離れて、遠くへ。
未だ見ぬ世界へ、目では見られぬ遠い世界へ。
もしも、その世界で飛べるのならば。
ハーレイと二人、魂となって翼を広げて飛んでゆきたい。
シャングリラよりも先に青い地球まで、夢に見続けた青い母なる星まで…。
悲しみの予兆・了
※前のブルーが「命の終わり」を悟った時。青い地球を肉眼で見られる時は来ない、と。
それよりも辛かったのが、ハーレイとの別れ。そして「共に」と言ってくれたハーレイ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ブルーの家に寄れなかった日の夜、ふと取り出してみた写真集。
夕食の後片付けをしてからコーヒーを淹れて、湯気を立てるマグカップを持って移った書斎で。
小さなブルー曰く、「ハーレイとお揃いの写真集」。
書店で見付けて一目で気に入り、小さなブルーに教えてやった。「少し高いが、懐かしい写真が沢山あるぞ」と。豪華版だから、ブルーが自分で買うには高い。父に強請って手に入れたらしい。
以来、お揃いなのだと主張している。ハーレイとお揃いの写真集だ、と。
(お揃いなあ…)
一緒に買ったわけでもないのに、とブルーの愛らしい発想に頬を緩めた。お揃いが好きな小さなブルー。食べれば無くなるものであっても、同じものを貰えば「お揃いだ」と喜ぶ。
(おふくろのマーマレードだって…)
ブルーにかかれば、お揃いの味。朝の食卓がお揃いということになるらしい。
そんなブルーが大切にしている写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。船体そのものの写真も多いが、青の間やブリッジ、公園などの内部の写真も何枚もあった。
開く度に蘇る、遠い遠い記憶。この船で過ごした前の生の自分。
熱いコーヒーを口にしながら、気まぐれにページをめくっていて。
シャングリラの内部を見て回ったり、宇宙空間を飛んでゆく姿を眺めたりしていて。
(そういえば…)
何枚も載っているシャングリラの写真。あらゆる角度から写されているし、同じ角度でも背景がまるで違っていたりと、一枚ごとに変わる表情。白い鯨の様々な姿。
どれも懐かしく、こうであったと心が温かくなるけれど。自分はこの船に乗って旅をしたのだと思うけれども、この写真集に収録された写真の中には、その頃の時代のものは無い。白い鯨の姿は同じでも、其処に自分が乗ってはいない。
何処を飛んでいるシャングリラにも。漆黒の宇宙空間であっても、惑星の側を飛んでいても。
(俺じゃないんだ…)
写真集の主役の白いシャングリラのキャプテンは。
前の自分がキャプテンだった時代のシャングリラの写真も残ってはいるが、この写真集の写真は違う。平和な時代にトォニィが撮らせた写真たち。白い鯨を後の世までも伝えるために。
そのシャングリラのキャプテンと言えば、今の時代もハーレイだけれど。
誰に訊いても「キャプテン・ハーレイ」と答えが返るだろうけれど、写真集の中を飛ぶ白い鯨のキャプテンは前の自分ではなくて。
(シドだな…)
シャングリラの舵を握っているのは。白い鯨を飛ばしているのは。
トォニィの時代を担ったキャプテン、それがシドだった。キャプテン・シド。
シドの指揮で飛んだシャングリラ。
燃え上がる地球を後に旅立ち、宇宙をあちこち回ったと聞く。ノアへも、アルテメシアへも。
キャプテン・シドが舵を握った白い船。主任操舵士は誰だか知らない。
前の自分がそうだったのと同じで、四六時中、シドが操舵したわけではない筈で。主任操舵士も誰かいた筈なのだが、全く心当たりが無かった。主任操舵士に任命されそうな者。
(多分、調べりゃ分かるんだろうが…)
データベースには入っていると思うが、調べてみても自分が知らない名前だということもある。後に乗り込んだ者であったら、まるで知りようがないのだから。
(そしてだ、次のキャプテンは…)
シドの次のキャプテンは、もういなかった。シドが最後のキャプテンとなった。白い鯨の。
トォニィがシャングリラの解体を決めた時点で、シドはまだ充分に若かったろう。その若さでは自分の後継者も多分…。
(決めてはいないな)
候補者さえも頭に無かったことだろう。脂の乗り切った時期のキャプテンには不要だから。跡を継ぐ者を選ぶ暇があったら、一人でも多く操舵を教えて、船のあれこれを教えてやって…。
前の自分でさえ、後継者などは考えてさえもいなかった。
シャングリラの操舵を教えた者は多かったけれど。万一に備えて、何人もに伝授したけれど。
そうしてはいても、決めていなかった後継者。自分の次の代のキャプテン。
(俺が地球まで運ぼうってつもりでいたからな)
白いシャングリラを青い地球まで。
ブルーを乗せて、いつかシャングリラで地球へ行こうと思っていた。
時が来たなら。青い地球がある座標を掴んで、其処へ行く準備が整ったなら。
けれど…。
(あいつの命が…)
寿命が尽きる、と泣き出したブルー。
自分の命はもうすぐ終わると、ハーレイと別れて死の世界へと旅立つのだ、と。
離れたくない、とブルーは泣いた。地球を見られないことよりも別れが辛いと、この腕の中から去らねばならないことが何よりも悲しくてたまらないと。
涙を流して胸に縋ったブルー。別れが来るのだと訴えたブルー。
とても放っておけなかった。ブルーの悲しみもそうだけれども、自分だって辛い。大切な恋人がいなくなるなど、黙って見てはいられない。
だから誓った、一緒にゆくと。ブルーの命が尽きる時には、自分も共に旅立つからと。
何度も誓って、慰めてやって。
本当にブルーを追おうと決めた。死の世界までも追ってゆこうと、ブルーと二人で逝くのだと。
(そう決めたから…)
ブルーを追おうと決意したからには必要なこと。
死ぬための薬も用意したけれど、自分がいなくなった後。
シャングリラを地球まで運べるようにと、後継者を探すことにした。自分の次のキャプテンを。
(キャプテンがいなけりゃ、船はどうにもならんしな…)
動かせるだけでは話にならないシャングリラ。船を纏めてゆける者が要る。
自分もそういう理由でキャプテンに推された、操舵など出来なかったのに。厨房で料理しながら倉庫の備品を管理していただけだというのに、適任だからと。
次のキャプテンを選ぶのであれば、年若い者にするのがいい。
若すぎるくらいで丁度いい。
ブルーを継ぐ者も、きっと若いだろうから。ソルジャーの称号を受け継ぐ者。
そういう者がいるとしたならば、だが。
今の時点では有望な者など見付かってはおらず、タイプ・ブルーはただ一人だけ。見付かるとは限らない次のソルジャー。
けれど見付かるとしたら、これから先。未来に生まれてくるだろう者。
まだ生まれてもいないソルジャーを支えるキャプテンの年は若いほどいい、息が合うように。
(誰にする…?)
操舵が出来る者は何人もいたが、一番若いのがシドだった。
責任感に溢れ、真面目な若者。彼ならばきっと、いいキャプテンになるだろう。
そうは思っても、急に後継者を育て始めたら怪しまれる。どういうつもりかと、ゼルやブラウが訝り、問い詰め始めるだろう。何を考えているのかと。
(不審がられないように継がせるならば…)
一足飛びにキャプテン候補ではなくて、その前段階。準備段階だと言い訳すること。
キャプテンの職が務まる人間を探し出すことが如何に難しいか、ゼルたちは充分承知している。今のシャングリラでは皆の役目が細分化された分、更に困難になっていることも。
(船全体を把握出来てるヤツなんぞ、何人いるんだか…)
アルテメシアに来てから加わった若い者たちの中には恐らくいない。ただの一人も。
だから育成を始めるのだ、と説明すればゼルたちも納得する筈。
今から育てておかなければと、長い時間がかかるのだからと。
(ただの操舵士とは違うんだ、と自覚して貰わなきゃいかんしなあ…)
どうするべきか、と思案を巡らせ、考え出したのが主任操舵士。
それまでは無かった役職を一つ。
操舵が出来る者は多いが、彼らの中でもトップに立つのだ、と思えば自覚も芽生えるだろう。
年若くても、一番の若手であっても、頑張らねばと。
(キャプテンの候補なんだしな?)
それらしく制服も変えねばなるまい。他の者たちと同じ制服では責任感に欠けるから。
こういう服を纏うからには相応しく振舞わなければならない、と思わせなくてはいけないから。
(服ってヤツも大切なんだ…)
自分が着ているからこそ分かる。制服が持つ力というもの。
キャプテンの制服に袖を通せば気が引き締まるし、表情までもが変わるほどで。
(かといって、皆の制服と違いすぎてもなあ…)
他のブリッジ要員たちとの兼ね合いというものがある。プレッシャーを与えすぎてもいけない。
かつて皆の制服をデザインした服飾部門のデザイン係に相談をしたら、提案された上着。制服の上から羽織る形にしてはどうか、とデザイン画も描いてくれたから。重々しすぎず、主任操舵士の肩書きに似合いそうな服に思えたから。
早速、採用することにした。このデザインでよろしく頼む、と。
主任操舵士の制服が決まれば、その採寸もせねばならないから。
自分の部屋に夜、シドを呼んだ。青の間のブルーに一日の報告に行って、「今夜は一度戻らせて頂きます」と断ってから。先に眠っていてくれていいと、来るのが遅くなりそうだから、と。
そうした夜も少なくないから、ブルーは「ご苦労様」と見送ってくれて。
キャプテンの部屋に戻って間もなく、呼ばれたシドがやって来た。
「御用ですか?」
「うむ」
入れ、と招き入れ、よくヒルマンやゼルと飲むテーブルに案内して。
飲むか、と酒を差し出した。部屋に置いている合成の酒。それとグラスを二人分。
頂きます、とは返事したものの、注がれた酒を飲まないシド。口をつけようとしないシド。
この辺りも自分の見込み通りだ、と嬉しくなった。
勧められても酒を飲まない生真面目さ。キャプテンに欠かせない資質。
しかし、それだけではまだ足りない。生真面目なだけではキャプテンになれない。皆の心を掴むためには、大らかさもまた必要だから。臨機応変、砕けた口調も場合によっては要るのだから。
それを教えてやらないと…、とシドの分のグラスを指で弾いた。飲むといい、と。
「遠慮していないで、まあ飲んでみろ」
俺の秘蔵の酒なんだ。その辺の酒とはちょっと違うぞ、合成だがな。
「お気持ちは有難く頂きますが…」
「明日の操船に差し支えるか?」
「はい」
あくまで生真面目な顔だから。酒席に似合わない顔だから。
そんなことでは話にならんぞ、と笑ってやった。いつでも素面とは限らない、と。
「今の所は平穏無事だが、人類軍の船と出くわした時に酒が入っていたらどうする」
寝酒を一杯やった後でだ、ヤツらが来ないとは限らんのだがな?
「そういうことなら、最初から飲まないことにします」
非番の時でも飲まないように心掛けます、万一ということがあるのでしたら。
「それでは人生、面白くないぞ。皆とも上手く付き合えないしな」
飲む時は大いに飲んでいいんだ、今夜の酒は俺のおごりだ。まあ飲め、美味い酒だからな。
「は、はい…。頂きます」
おっかなびっくり、飲んだシド。琥珀色の酒に「美味しいですね」と顔を綻ばせたから。
それを見届けて、「よし」と改めて切り出した。
今のは前祝いの酒なのだと。祝いのための一杯なのだ、と。
「前祝い…ですか?」
何の、と怪訝そうなシド。祝う理由など無さそうなのに、という顔をしているシド。
そうだろうな、と心で呟きつつも、穏やかに微笑んでみせて。
「主任操舵士に任命しようと思っている」
「えっ…?」
「主任操舵士だ、操舵士のトップだ」
そういう者も必要なんだ、と何気ないふりを装った。先は長いし、次の世代も育てねば、と。
「いずれはキャプテンにもなって貰わないとなあ、このシャングリラの」
「キャプテンって…。そんなに先の話ですか?」
「当たり前だろう。俺がいつからキャプテンだったと思っている」
遥かに前だぞ、この船が全く違う形をしていた頃から俺はキャプテンをやっていたんだ。
ブリッジだって今とは別物だったが、そんな時代からのキャプテン稼業だ。
お前がキャプテンになるだろう年と、俺がキャプテンを始めた年と。
比べてみりゃあ、きっと俺の方が十年単位で若いだろうな。
ゆくゆくは引退もしてみたいしな、とおどけてみせた。
第一線に立ち続けるのは年寄りにはキツイ、と。
「そう仰いますが、キャプテンはまだ…」
「ああ、当分は現役だろうさ。元気ってヤツは充分にある。だがな…」
潮時というものはあるもんだ、と誤魔化しておいた。決めた心は隠しておいた。ブルーを追って逝くのだと決めた、その決意は心に秘めたままで。
何も知らないシドに語り掛けた、「腕が鈍ることもあるだろう」と。
そんな時が来たなら現役引退、キャプテンの座を譲ることにする、と。
シャングリラを最良の状態に保つためには、鈍った腕では駄目なのだと。
「引退しても補佐はしてやる。必要だったら相談にも乗るが…」
キャプテンたる者、他人に頼って決めていたんじゃ話にならん。
必要なことは会議にかけても、いざという場面で決断するのはキャプテンだろうが。
それが出来る人材を育てておきたい、俺が元気でいる間にな。
何年かかるか分からないんだ、俺のやり方を今から勉強しておけ。俺を継ぐつもりで。
「…私にキャプテンが務まるでしょうか?」
もっと適任の者がいるのでは…。私では年も若すぎますから。
「分かっていないな、俺はその若さを買ったんだ」
先は長いと言った筈だぞ、年寄りを据えるより若者がいい。それだけ長く仕事が出来る。現役で働ける期間が長けりゃ、後継者だってゆっくり育ててゆけるしな?
俺みたいに引退なんて道も選べる、後進に道を譲って隠居生活というわけだ。
若い内から始めればこそだ、お前も未来の隠居生活を夢見て努力してくれ。
隠居生活をするというのは嘘だったけれど、他のことは本当だったから。
良心が痛むということも無くて、スラスラと嘘をつき通した。いずれ引退するのだから、と。
「いいか、少しずつ覚えていけばいいんだ、いろんなことをな」
お前は俺より恵まれているぞ、最初からブリッジ勤務だろうが。しかも操舵の担当だ。
俺なんかは厨房出身だったしなあ、最初は操舵も出来ないキャプテンだったってな。
「あの話は本当だったんですか!?」
キャプテンが厨房にいらっしゃったという話。聞いてはいますが、ただの噂かと…。
てっきり噂だとばかり思って、調べてみたことも無いのですが…。
「知らないヤツらが増えたからなあ、あの頃の俺を。そいつは噂じゃないんだ、シド」
フライパンも船も似たようなものさ、と言ってたな、俺は。
どっちも焦がしちゃ駄目だってな…、とかつての自分の気に入りの台詞を教えてやった。
そう言って船を操っていたと、シャングリラの操舵を覚えたのだと。
「フライパンですか…!」
驚きで目を丸くしているシド。
「うむ、フライパンだ。舵の前には俺はフライパンを握っていたんだ」
厨房にあるだろ、フライパンが幾つも。俺が使っていた頃のフライパンは代替わりしちまって、愛用のヤツはもう無いんだが…。フライパンも鍋も手に馴染んでたな、料理人だしな?
「本当にキャプテンがフライパンを…?」
「そうさ、キャプテンになろうと決心した時もフライパンで料理をしていたな」
新しい炒め物を試作しながら考えていたんだ、キャプテンになるかどうかをな。
考え事に気を取られていて、ウッカリ焦がすトコだった。まずい、とフライパンを振った拍子に船がガクンと揺れたんだ。…障害物でも避けたか何かだ、まるでタイミングを合わせたように。
それで閃いたわけだ、フライパンも船も似ているな、と。
どっちも扱いを間違えば焦げるし、上手に使えば命を守れる。生きて行くには船も料理も不可欠だろうが、俺たちの場合は。
船が無ければ生活出来んし、料理が無ければ飢え死にしちまう。
フライパンも船も同じなんだな、と気付かされたから、俺はキャプテンになったってわけだ。
「…キャプテンの仰る通りですね…」
フライパンも船も、どちらも欠かせないものですね。それにどちらも、焦げてしまったら駄目になりますし…。
「名文句だろ? 今じゃ言わなくなったがな。フライパンも船も理屈は同じだ」
そんな台詞を言ってた俺がだ、今じゃ厨房にいたというのが噂だと思われるレベルだぞ?
お前なら立派なキャプテンになれるさ、俺よりも遥かに凄腕のな。
フライパンの話はシドの心を見事に掴んだ。
厨房からでも転身出来たというのが大いに心強かったのだろう、頑張らねばと決意したようだ。主任操舵士としてキャプテンの仕事を学んでゆこうと、一人前のキャプテンになろうと。
この調子ならば大丈夫だろう、シドが本当のことを知らなくても。
キャプテン・ハーレイは引退する代わりに消えてしまうのだと、ブルーを追って死に赴くのだと気付かないままで過ごしていても。
ある日、自分がいなくなっても、シドならば務めを果たしてくれる。若くしてキャプテンの任に就いても、このシャングリラを地球まで運んでくれることだろう。
(これでいい…)
シャングリラの未来はシドに任せた、と肩の荷が下りたような気がした。
これでブルーを追ってゆけると、約束通りにブルーと離れることなく旅立てると。
その夜は、シドと酒を飲みながら語り合って。
頃合いを見てシドを帰して、自分は青の間に再び戻った。ブルーが待っている部屋へ。
愛おしい人はもう眠っていたから、ベッドに入って華奢な身体をそっと抱き寄せ、口付けた。
ひと仕事終えて来ましたよ、と。遅くなってしまってすみません、と。
翌日、シドと二人で服飾部門まで採寸に行った。主任操舵士の上着を作るための採寸。
白いシャングリラに一人しかいない、主任操舵士。一人だけしか着ない上着を作るために。
そして替えの分も含めて上着が出来上がって。
主任操舵士という役職を作ると、将来のキャプテン候補なのだと、ゼルたちにも既に話は通してあったから。
ブリッジの仲間たちを非番の者まで呼び集めてから、シドを自分の隣に立たせて宣言した。
主任操舵士の就任を。いつかはシドがキャプテンになる日が来るだろう、と。
それからシドに上着を着せ掛けてやった、完成したばかりの主任操舵士の制服を。
キャプテン手ずから着せて貰って、緊張しながらも頬を紅潮させたシド。
祝いの雰囲気が溢れたブリッジ。
シドは主任操舵士となって初めての操舵を難なくこなした。上着は邪魔にはならなかった。服飾部門の者たちの仕事は確かなもので、デザインも良いものであったから。
主任操舵士の誕生に華やぐブリッジ、他の部署からも仲間たちが祝いに顔を出した。
ブルーも後から祝いの言葉をシドに贈りにやって来た。
「おめでとう」と、それは嬉しそうに。
今まで以上にハーレイの助けになって欲しいと、キャプテンは激務なのだから、と。
ブルーでさえも信じたキャプテン候補。シドを育成する理由。
もうバレはしない、と確信した。誰も自分の真の目的に気付きはしないと。
シャングリラに主任操舵士が生まれた日の夜、青の間で一日の報告をした後、ブルーに告げた。
これで準備は整いました、と。
「準備…?」
不思議そうに首を傾げたブルー。今の報告では何も気付かなかったけれど、と。
「あなたと行くための準備ですよ」
「…何の話だい?」
行くって、何処へ…?
明日は視察の予定があるとは聞いていないけれど…。もっと先かな、何日か先の予定なのかな?
「そうですね。…いつになるかは分かりませんが…」
あなた次第と申し上げればいいのでしょうか?
シドは私の後継者です。このシャングリラから私が消えたら、シドがキャプテンになるのです。
…お分かりですか?
私はあなたと共に参ります、キャプテンの仕事をシドに任せて。
いつかあなたの命が尽きたら、私も一緒に行くのですよ。あなたの側を離れることなく。
ハッと息を飲んで顔色を変えたブルーだけれど。
赤い瞳がみるみる潤んだけれども、唇から零れた「ありがとう」という小さな声。
これでハーレイと一緒に行ける、と。
「ええ、何処まででもご一緒させて頂きますとも」
そのためにシドを選びました、とブルーの身体を強く抱き締めた。
誰一人気付いていないけれども、シャングリラを託す準備をしました、と。シドならばきっと、遠い地球までシャングリラを運んでくれるでしょう、と。
「うん…。そうだね、ハーレイ。…シドならば、きっと…」
ぼくとハーレイがいなくなっても、シャングリラをきちんと守り続けてくれるだろうね。
人類軍の船に見付からないよう、見付かっても上手く躱せるように。
この船はきっと地球まで行けるね、キャプテン・シドが運んで行ってくれるんだね…。
ぼくは地球へは行けないけれど。
ハーレイと二人で、別の世界へ行くんだけれど…。
二人で行こう、と交わした口付け。何処までも共に、と。
(なのに、あいつは…)
逝っちまったんだ、と唇を噛んだ。
自分がシドを選んだように、ブルーが選んだ後継者。太陽のようだった少年、ジョミー。
彼にソルジャーの座を譲るだけでなく、彼の未来を守って逝った。
ミュウの未来を、ミュウを導けとジョミーに全てを託して、メギドで。たった一人きりで。
ブルーを追ってはゆけなかった自分。
追ってゆく代わりに取り残された。独りぼっちでシャングリラに。
ブルーが遺した言葉に縛られ、ジョミーを支えるためにだけ生きた。
心はとうに死んでいたのに、ブルーを失くして屍のようになっていたのに、キャプテンとして。
キャプテン・シドは生まれてはくれず、キャプテン・ハーレイの代が続いた。
死の星だった地球に辿り着くまで、地球の地の底で全てが終わってしまうまで。
赤いナスカが砕けたあの日に、追えずに失くしてしまったブルー。
周到に準備をしたというのに、自分を置いて逝ってしまったブルー。
どれほどに辛く苦しい日々だったろうか、地球までの道は。
自分の代わりはいるというのに、そのためにシドを育てていたのに、任命出来ずにキャプテンのままで地球まで行った。シドをキャプテンには出来なかった。
ブルーがそれを望んだから。キャプテンでいてくれと願ったから。
(…俺はジョミーの時代に役立つキャプテン候補を選んだのに…)
ブルーの跡を継ぐ者がいるなら、それに相応しく若い者を、とシドを選んで育てたのに。
そのことをブルーは知っていたのに、自分に任せて逝ってしまった。
「ジョミーを頼む」と、「君たちが支えてやってくれ」と。
自分を選んだブルーは多分、間違ってはいなかったと思う。
地球までの道は、戦いに次ぐ戦いの道は、シドには荷が重すぎたことだろう。あそこで自分までいなくなったら、シャングリラは地球まで行けたかどうか…。
(…ジョミーやトォニィだけなら行けたんだろうが…)
他の仲間たちを乗せたあの船が無事に着けたかは分からない。
熟練のキャプテンだった自分でさえも、これでいいのかと手探りの航路だったのだから。
(…せっかくシドを育てていたのに、出番が来ないままだったよなあ…)
最後までキャプテンのままだった自分。キャプテン・ハーレイとして終わった自分。
ブルーを失くして、追ってもゆけずに独りぼっちで生きるしか無かった地球までの道。意味さえ無かったキャプテン候補。主任操舵士に任命したシド。
けれども、今はブルーがいるから。
青い地球の上に二人一緒に生まれ変わって、小さなブルーが帰って来たから。
(もういいんだ…)
ブルーとは地球で出会えたから。今度こそ二人で生きてゆけるから。
文句は言うまい、前の生でシドの出番が来なかったことについては何も。
前のブルーが遺した言葉を守って、キャプテンのままで歩んだ地球までの道の苦しさも。
(ブルーと会えればそれでいいんだ、あいつと巡り会えたんだから…)
それに、シド。前の自分が選んだシド。
シドは立派にキャプテンになったし、トォニィの補佐も見事に務めた。白いシャングリラの舵を握って宇宙をあちこち旅して回った、ミュウの時代を築くために。
キャプテン・シドは確かに居たのだ、自分が任命しなかっただけで。
白いシャングリラのブリッジには確かにキャプテン・シドが立っていた。前の自分とデザインが少し違ったキャプテンの制服をカッチリと着て。
シャングリラが役目を終えたその日まで、キャプテン・シドはブリッジに居た。
前の自分が座った席に。キャプテンだけが座れる席に。
あの日、ブルーを追おうと決めなかったら。
ブルーを追ってゆこうと決意し、シドを選ばなかったなら。
(シャングリラは暫く、キャプテン不在だったかもしれないなあ…)
キャプテンもソルジャーも、長老たちも、皆が地球で死んでしまったから。
新しいソルジャーのトォニィはいても、トォニィは身体だけが大人で精神は子供だったから。
トォニィだけではシャングリラの秩序を保てたかどうか分からない。
現に、最後のキャプテンとなったキャプテン・シド。
燃え上がる地球を後にした船で、最後のキャプテンが航海長や機関長を決めたと伝わるから。
(…シドだったからこそ、出来たんだ…)
次のキャプテンはシドなのだ、とシャングリラの誰もが知っていたから就けたキャプテンの任。反対する者は一人も無かったことだろう。
キャプテン・ハーレイがいなくなった今はシドをと、シドがキャプテンになるべきだと。
船の秩序はキャプテンがいてこそ守れるもの。キャプテンさえいれば何とかなる。慣れぬ仕事に途惑う者が多い船でも、キャプテンが毅然と立ってさえいれば。
(…キャプテン候補を決めておいて良かった…)
前の自分の選択は誤ってはいなかった。
シャングリラはキャプテン不在の船にならずに、無事にトォニィの代に継がれた。
そういうつもりで選んだわけではなかったけれど。
シドをキャプテン候補に決めた理由は、トォニィのためではなかったけれど。
(キャプテン・シドか…)
いいキャプテンになってくれた、と冷めたコーヒーの残りを飲み干した。
ブルーとお揃いの白いシャングリラの写真集。
それをパタリと閉じ、表紙に刷られたシャングリラに見入る。
キャプテン・シドが乗っている船に、キャプテン・シドが舵を握っている船に。
(…うん、シドが動かしているシャングリラなんだ…)
明日は仕事を早めに終わらせ、ブルーの家に寄って話してやろう。
お揃いだという写真集を持って来させて、二人で開いて。
「このシャングリラはシドが舵を握っているんだよな」と。
前のブルーを追うために決めたキャプテン候補が、主任操舵士に選ばれたシドが。
キャプテン・シドには会えなかったけれど、遥かな時の彼方の彼に向かって伝えてやりたい。
シャングリラをよくぞ守ってくれたと、お前は立派なキャプテンだった、と…。
船を継ぐ者・了
※ハーレイが選んだ後継者、シド。本当の理由は誰にも明かさず、キャプテン候補として。
引継ぎは出来ずに終わりましたが、選んでおいた価値はあったのです。次の世代のために。
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