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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(…え?)
 それは地球を見ている時に起こった。フィシスの地球。
 天体の間を訪ねる至福のひと時、銀河の海に浮かぶ母なる地球。青い真珠。
 フィシスと手を絡め、思念の波長を合わせるだけで遠い地球まで飛んでゆける。旅が出来る。
 このシャングリラを遠く離れて、ソル太陽系の第三惑星へと。
 ただの映像に過ぎないけれども、フィシスを生み出した機械が植え付けた記憶だけども。それを知りつつ、なお焦がれずにはいられない。誰かが撮った地球の姿だから。地球は本物なのだから。



 水槽の中に居た幼い少女。青い地球の映像を抱いていた少女。
 無から生み出された生命体でも、どうしても彼女が欲しかった。彼女の地球が。
 サイオンを分け与え、生まれながらのミュウだと偽り、白いシャングリラに連れて来た。地球を抱く女神なのだ、と船の仲間たちに紹介した。彼女は特別な存在だ、と。
 船に来た時には幼かったフィシスも、すっかり育ってそれは美しい女性となった。床にまで届く金色の髪に、誰をも魅了する美貌。その上、タロットカードを使って未来を読み取る占い師。
 今では文字通りミュウの女神で、思惑以上の存在となった。
 誰もフィシスを疑わない。ミュウとは違うと気付きもしない。彼女の抱く地球を見たいと、折があれば是非、と誰もが願う。
 それほどに鮮やかな地球の映像、青い地球へと渡ってゆく旅。
 飽きること無く何時間でも見ていられるほど、焦がれてやまないフィシスの地球。



 その地球の映像が不意に揺らいだ、絡み合う思念の波が揺れて打ち消し合ったかのように。
 映像の海に誰かが石でも投げたかのように、乱れてしまった青い地球の姿。
「ソルジャー!?」
 同時に上がったフィシスの悲鳴。
 気付けば床に倒れ伏していた、さっきまで自分が立っていた床に。
 フィシスは酷く驚き慌てて、アルフレートを呼ぼうと奥へと行きかけたけれど。
「…大丈夫。なんでもないよ」
 もう平気だから、と身体を起こした。現に何ともなかった身体。眩暈もしないし、起きられる。
 けれどもフィシスが心配するから、「これでいいかい?」と椅子に腰掛けた。「こうしていれば倒れないから」と、「倒れるとも思えないけれど」と。
「でも、ソルジャー…。さっきは一瞬、気を失っておられたのでは…」
「そうらしいけれど…。でも心配は要らないよ、フィシス」
 貧血だろう、と微笑んでみせた。
 昨日は船の外へ出ていたから、と。アルテメシアに降りていたから、きっと疲れが出たのだと。



 フィシスはホッと安堵の息を漏らして、アルフレートにお茶の支度を頼んだ。
 「今日はソルジャーがお疲れですから、お菓子は甘いものをご用意して」と。
 甘いものは疲れが取れると言うから、フィシスと二人でお茶を飲みながら食べた菓子。その間もフィシスは気遣ってくれた、「本当にもう大丈夫ですか?」と。
 「大丈夫だよ」と「何ともないから」と、何度応えてやったろう。事実、何ともないのだから。
 けれど…。
(そんなに力は使っていない筈なのに…)
 何があったというわけでもない、昨日の外出。アルテメシアの様子を探りに降りただけ。
 思った以上に疲れただろうか、あのくらいのことで?
 知らぬ間に疲れが溜まっただろうか、寝不足にでもなっているのだろうか…?
 自覚は全く無いのだけれど。きちんと眠れている筈だけれど…。



 夜になって、青の間へハーレイが一日の報告をしにやって来て。
 挨拶もそこそこに、報告の前に言われた言葉。
「ソルジャー、倒れられたとか」
「参ったな。君の耳にも入ったのかい?」
「ええ、フィシスから聞きました」
 酷く心配していましたが…。お身体の具合が悪いのでは、と。
「大したことはないよ。今までにも無かったわけではないしね、フィシスの前で倒れたことは」
 そんな時のと比べてみるなら、今日のなんかは数の内にも入らない。ただの貧血。
 それより、早く報告を。…それが終わらないと、ぼくはブルーに戻れないんだ。
 早くソルジャーからブルーになりたい、と促した。今日の報告を済ませてくれ、と。



 ハーレイの報告が終わるのを待って、普段ははめたままの手袋を外した。
 ソルジャーの衣装を構成するもの。マントと同じで、つけているのが当たり前のもの。
 その手袋はハーレイの前でしか外さない。恋人同士の時間の始まりの合図。
 心得たようにハーレイの顔が近付いて来たから、キスを交わして。
 それから二人でお茶を楽しみ、シャワーを浴びてベッドに入ろうとしたら。ハーレイの腕に抱き締められて甘い時間を過ごそうとしたら。
「…いけません。今日はお休みにならないと」
 昼間の貧血をお忘れですか?
 今夜はごゆっくりお休み下さい、お身体をしっかり休めて頂かないといけませんから。
 お側についておりますから、と添い寝だけで済まされてしまった夜。愛し合えずに終わった夜。
 物足りない気もするのだけれども、それもたまには心地よい。
 ハーレイの優しい温もりに包まれ、腕の中で眠るだけの夜。
 そう思ったのに。



(また…?)
 クラリ、と揺れた気がする視界。
 あれから数日、公園で子供たちと一緒に遊んでいた時。
 ほんの一瞬、感じた足元の頼りなさ。とはいえ、今度は倒れなかった。少し身体が傾いだ程度。
 顔を上げれば、ブリッジの端からハーレイがこちらを見ていたから。
 なんでもないよ、と手を振っておいた。
 ハーレイは息抜きをしていたのだろう、ブリッジから公園を見下ろしながら。
 休憩室へと出掛ける代わりに。好きなコーヒーを飲みにゆく代わりに。
 恋人の自分が公園に居るから、きっと見ていてくれたのだ。休憩室に行くより、コーヒーを飲むより、恋人の姿を追っていたい、と。
 そう思うと悪い気持ちはしない。愛されている、と頬が緩みそうになる。
 子供たちのいる場では手を振ることしか出来ないけれども、あそこに自分の恋人がいる、と。



 夜を迎えて、青の間に報告に来たハーレイ。
 先日と同じで、挨拶が済むと報告を始める代わりに口にした言葉。
「ソルジャー、お加減が悪くていらっしゃるのでは?」
「何故だい?」
「昼間、公園で…」
 ふらついておられたように思うのですが。子供たちと遊んでらっしゃった時に。
「ああ、あれかい? なんでもないよ」
 少し眩暈がしただけだから。この前みたいに倒れてはいないし、ほんの一瞬だけだったからね。
 大丈夫だよ、と手袋を外したのに。
 報告を終わらせて恋人同士の二人に戻ろう、と合図したのに、ハーレイは厳しい顔をした。また添い寝だけで終わってしまった、二人一緒に眠っているのに愛を交わせずに。
 二度も続くと嬉しくないから。
 期待外れな気持ちの方が大きくて、添い寝を素直に喜べないから。



(気を付けよう…)
 少し疲れているかもしれない、自分でも気付かない内に。
 疲れるようなことをしていた自覚は全く無いけれど。
(…自覚があったら疲れないか…)
 きっと何処かに原因が、と暫くは自重しようと思った。
 船の外に出るなら、早めに戻る。のんびり景色を楽しんだりせずに、用が済めば直ぐに。
 そうして気を付けていたというのに…。



 頻繁に起こし始めた眩暈。
 時も所も選ばなかった。青の間だったり、公園だったり、通路だったり。
 フィシスの前でも何度も起こした、その度に口止めしておいたけれど。
 「ぼくがハーレイに叱られるからね」と、知らせないよう言い含めたけれど。
 何処でも起こしてしまうものだから、ハーレイにもついに気付かれた。今のブルーは体調不良の最たるもので、「大丈夫」は信用できないと。
 自分が見ただけでも何度目なのか、と怖い顔をして叱られた。大丈夫ではないだろう、と。
「ノルディの診察を受けて下さい」
 それで結果が問題無ければ、大丈夫だと私も安心出来ます。
 問題があるなら、お嫌でも治療を受けて頂かないと。大切なお身体なのですから。
「うん…」
 分かったよ、君がそこまで言うのなら。
 …それに眩暈を起こした日の夜は、添い寝しかしてくれないんだし…。
 明日、メディカル・ルームに行ってくるよ。それで安心なんだろ、君は?



 渋々受けた医療チェック。
 成人検査の機械を連想させる医療機器の数々は好きではないけれど。
 検査のためにと血を採られるのも、アルタミラの研究所を思い出させるから嫌なのだけれど。
 それでも一度だけなのだから、と我慢してチェックを済ませたのに。
「…え?」
 ノルディの言葉の意味が掴めず、訊き返したら。
「定期的に、と申し上げました。一度だけでは分かりかねます」
 ソルジャーは日頃、こういった検査を酷く嫌ってらっしゃいますから…。
 お嫌いなことは充分承知しておりますが、継続的なデータが必要です。暫く通って頂きます。
 次は一週間後においで下さい、と検査の告知。
 そうして何度も検査を続けた、一週間ごとに。けれども検査と診察ばかりで貰えない薬。
 眩暈の原因は貧血だろうと思ったけれども、そちらもあまり良くならないし…。



(検査と診察で余計に疲れるんだ…)
 心身に負担がかかっているのだ、と溜息をついた。精神的な疲労が溜まっているに違いないと。
 だから治らない、突発的に起こす貧血。ミュウは精神の不調が身体に現れやすいから。
(…ストレスは悪いに決まっているのに…)
 なのに検査と診察の日々が続くのだろうか、と不満で一杯になって来たある日。
 いつもの検査と診察の後でノルディに呼ばれた。
 こちらへ、と。
 メディカル・ルームの一角に設けられている小さな一室。
 中の様子を窺えないようにした、カウンセリング用の小部屋。



 部屋の存在は知っていたけれど、患者として入ったことは無かった。
 ノルディが扉に施錠する間に周りを見回し、向かい合って椅子に腰掛けるなり尋ねてみた。
「ぼくは心の問題なのかい?」
 この部屋に案内するなんて。…此処はカウンセリング用の部屋だろう?
「…そうとも言えます。心のケアが必要ですので」
「どういう意味だい?」
 心因性のものだと言うなら、この定期的な検査を止めてくれるだけでも変わってくるよ。
 正直な所、ぼくは相当参っているんだ。…そろそろ解放してくれないかな?
「いえ。…大変申し上げにくいのですが、実はソルジャーのお身体は…」
 衰えつつあります、と宣告された。
 確実に死へと向かいつつあると、あと二十年も持たないだろう、と。



「二十年…。あと二十年でぼくは死ぬと?」
「はい。あるいは十年かもしれません。こればかりは今の時点では…」
 分かりかねます、データが充分ではありませんから。けれども、延びることはありません。
 ソルジャーに残されたお時間は、長く持っても二十年です。
「…そんなに悪いデータなのかい?」
「ええ。…必要ならば詳しく御説明させて頂きますが」
 ご覧下さい、とノルディが取り出したデータ。今日までの検査で得られたデータ。
 細胞レベルで進行しつつある老化。滅びに向かって。
 外見の年齢を止めているから、外からは全く分からないだけ。
 死にゆこうとしているブルーの肉体。持って二十年、十年かもしれない寿命の残り。
 ノルディは他言しないと言ったけれども。
 見た目で気付かれるほどには死は近くないし、知れれば船はパニックだから、と。



 それからノルディと何を話したか、心のケアとやらをして貰ったかの記憶は無い。
 眩暈を起こしているわけでもないのに、ふらついた足。真っ直ぐに歩けなかった足。
 他の仲間に出会わないよう、人通りが少ない通路を通って戻った青の間。
 まだふらつく足でスロープを上り、ベッドにドサリと倒れ込んだ。
(ぼくが死ぬ…)
 あと二十年で尽きると言われた命。
 たったの二十年、それだけしか残っていないらしい命。下手をすれば十年で消えてしまう命。
 それよりも短いことも有り得る、なにしろデータが無いのだから。
 人類よりも遥かに寿命の長いミュウの老化を詳しく調べたデータなどは無い。この船で暮らして先に逝った者たちのデータだけが頼り、けれども老衰で死んだ仲間はただの一人もいない。
 つまりは参考データが無いということ、死の国へ旅立った仲間が遺したデータだけしか。
 滅びへと向かう肉体のデータが残ってはいても、ブルーの命の残りを正確に読み取れはしない。
 二十年なのか、十年なのか。もしかしたら、僅か数年しか残っていないのか。



(ぼくが死んだら…)
 船はなんとかなるだろうけれど。
 新しい仲間の救出は専門の潜入班がこなしているから、今後も続けられる筈。
 人類側との戦闘にしても、本格的なものは一度も無かった。アルテメシアに来る前も、後も。
 外へ出した小型艇が身元不明の船として追われて逃げた程度で、威嚇射撃をされただけ。人類はミュウの船だと気付いてはおらず、社会の秩序から外れて生きる海賊の類と思っただろう。
 それゆえに深追いされることもなく、シャングリラは未だに存在自体を知られてはいない。
 今まで通りの生活を続けてゆこうというなら、自分が死んでも船は守れる。
 威嚇射撃をされた船の救助に、生身で飛び出せる者がいなくなるというだけのこと。安全確実に救い出すことは難しくなってしまうけれども、応援の船を出せば解決出来る筈。
 そういった訓練も積んで来たのだし、速やかに移行できるだろう。
 このシャングリラの未来は守れる、自分が死んでしまった後も。
 ただ…。



(地球へは…)
 シャングリラは行けなくなるかもしれない。
 未だ座標も掴めない地球。其処へ旅立つ準備は始まっておらず、何の用意も出来てはいない。
 白い鯨はアルテメシアの雲海から外へと出られないままで、地球へは向かえないかもしれない。
 シャングリラでさえも、そうなのだから。
 この船でさえも、今のままでは地球へ行けそうもないのだから。
(…ぼくは行けない…)
 青い地球には辿り着けない、あれほどに焦がれ続けた星に。
 地球が見たくてフィシスを船まで連れて来たほどに、本物の地球に着く日を夢見て来たのに。
 その地球に行けない、とても着けない。
 辿り着くどころか、旅立つよりも前に尽きてしまう命。消えてしまう自分の命の灯火。
 それに…。



(ハーレイ…)
 アルタミラを脱出したその日から一緒だったハーレイ、今は恋人同士のハーレイ。
 いつまでも一緒だと思っていた。二人で地球まで行けるものだと信じていた。
 けれども、それは叶わなくなった。
 自分の命が尽きると言うなら、その時がハーレイとの永遠の別れ。
 死の国に向かう自分はハーレイと引き裂かれてしまい、離れてしまう。会えなくなってしまう。
 どんなにハーレイを求めようとも、会いたいと泣いて泣き叫ぼうとも、もう会えない。
 自分が死んでしまったなら。死者の世界へ引き込まれたなら。
(…ハーレイと会えなくなるなんて…)
 想像したことさえも無かった、ハーレイとの仲が終わる日など。
 何処までも二人で共にゆくのだと、いつも二人だと思っていたのに。
 まさか自分が先に逝くなど、死神の大鎌が振り下ろされてハーレイとの絆を切ってしまうなど、本当にただの一度も考えさえもしなくて、ハーレイとの恋に、幸せに、酔っていたのに…。
(……ハーレイ……)
 会えなくなる。いつか会えなくなってしまう。
 二十年先か、十年先か。もっと早くに訪れるかもしれない別れ。
 涙で世界がぼやけ始めた、まるでその日が来たかのように。
 こうして薄れて消えてゆくのだと、この世界からいなくなるのだと、全てを溶かしてしまうかのように…。



 一人きりで泣いて、涙で枕を濡らし続けて。
 それでも部屋付きの係が来た時は、平静な風を装った。食事も普段と変わりなく食べた。
 ソルジャーとしての精神は鍛え抜かれていたから。弱さを見せてはならないから。
 そうして長すぎる一日が終わり、ハーレイが報告をしに青の間に来て。
 挨拶の後に、こう付け加えた。この所、一週間おきにハーレイが挨拶の続きに口にする言葉。
「今日は診察の日でらっしゃいましたね、如何でしたか?」
 お身体にお変わりはありませんか、と問われた途端に崩れそうになってしまった心。保ち続けたソルジャーの貌が歪んでしまった、その瞬間。
 ハッと気付いて気分を引き締め、顔だけは元に戻したけれど。
 心の中はとうに涙に染まって、ハーレイも何かを感じ取ったらしく。
「ソルジャー…?」
 どうなさいましたか、ご気分でも…?
「…ブルーでいい…」
 ブルーと呼んでくれればいい。ソルジャーじゃなくて。…今日はそういう気分だから。



 ぼくはブルーだ、と手袋を外した。恋人同士の時間が始まる合図。
 ハーレイの、いや、キャプテンの報告をまだ聞き終えてはいないのに。ソルジャーとして聞いておくべき報告、それをハーレイは始めてすらもいないのに。
「…ソルジャー…?」
 不審そうに顰められる眉。何事なのかと訝るハーレイ。
 本当は叫び出したい気分だったけれど、それを押し止めてソルジャーとしての言葉を紡いだ。
「このままで聞くよ、君の報告。…今日のシャングリラはどうだったんだい…?」
「…はい。ブリッジには異常ありません。機関部も特に問題は無く…」
 お決まりの異常なしの報告、それに仲間たちの間で起こったことなど。会議の予定や審議すべき議題、いつもと変わりない中身だったけれど。
 その報告を聞き終えるまでが長かった。上の空ではなかったけれど。ソルジャーとして全て頭に入れはしたけれど、それはソルジャーだったから。長くソルジャーとして立っていたから。
 「以上です」とハーレイが一礼した途端に零れた涙。
 ただのブルーに戻った瞬間。



「ソルジャー…!」
 驚き慌てるハーレイに「ブルーだよ…」と返すのが精一杯で。
 とめどなく零れ始めた涙。もう止められなくなってしまった、心に溢れていた涙。心から瞳へと堰を切って流れ、何を言えばいいのかも分からなくて。
「どうなさったのです?」
 何か悲しい出来事でも…、と訊かれたから。ハーレイが糸口を作ったから。
「ごめん、ハーレイ…。泣いちゃって、ごめん。でも…。ぼくの命は…」
 もう持たないんだよ、地球に着くまで。持って二十年、それだけしか残っていないんだよ。
 十年ほどかもしれない、って…。
「そんな…!」
 ハーレイは絶句し、ブルーを胸へと抱き込んだ。強い両腕で、広い胸へと。
 その胸に縋り付き、泣くしかなくて。
 泣きじゃくるだけのブルーの姿に、ハーレイがその背を撫でながら訊いた。
「…何か聞き間違えてはおられませんか? ノルディから報告は来ておりませんが…」
 キャプテンの私が知らないからには、ノルディなりの警告だったとか…。
 無茶をなさるとそうなりますよ、と脅されたのではありませんか?
 頻繁に眩暈を起こしていらっしゃるのに、あなたは普段通りに動こうとなさいますから。



 きっとそうです、とハーレイはブルーを宥めたけれど。
 ノルディの脅しだったのだろうと言ったけれども、ブルーは真実を知っているから。
 カウンセリング用の小部屋で告げられたことも、見せられたデータも全て嘘ではなかったから。
「…本当だよ。ノルディは誰にも話さないと…」
 そう言っていたよ、ぼくに。皆がパニックに陥るから。
 …ソルジャーのぼくがいなくなるなど、皆には受け入れ難いだろうから…。
「ですが、ブルー…。そうした事情でも、キャプテンの私には報告があると思いますが」
 なのに私は知らないのですし、やはり脅しだと考えた方が…。
「…君にはいずれ知れると思う。折を見てノルディが話すだろう」
 ゼルやブラウやヒルマンたちにも。…エラもだね。
 君たちは知っておくべきだから。
 シャングリラの今後のことがあるから、近い内にか、数ヶ月先か、報告はきっと届くだろう。
 もしもノルディが言わないようなら、ぼくから話せと促さなければ。
 この船を守り続けるためには、ぼくがいなくなった後のことまで早い間に決めておかないと。
 でも…。



 ソルジャーとしての責任感だけで語れた言葉はそこまでだった。
 ハーレイの腕の中、言うべきことを言ってしまえば、もう本当にただのブルーに戻るだけ。
 ソルジャーではないただのブルーに、ハーレイに恋をしているブルーに。
「…ハーレイ、ぼくは死んでしまう…。あと二十年か、十年くらいで」
 もっと早くに死ぬかもしれない、ノルディにも正確な時期は予測できない。
 だけど死ぬんだ、それだけは確か。ぼくの寿命は尽きてしまって、もうすぐ死んでいくんだよ。二度と元気になれはしなくて、その内に、いつか…。
 ぼくがいなくなる、とブルーは泣いた。
 このシャングリラから消えていなくなると、君と離れてしまうのだと。
 辛くて悲しくてたまらない別れ。
 今は抱き締めていてくれるこの強い腕も、広い胸も自分は失くしてしまう。
 死の国へと連れ去られ、たった一人で消えてゆかねばならないから。
 ハーレイが舵を握っている白い船から、何処とも知れない遠い世界へ一人で旅に出るのだから。
 もう戻っては来られない道を独り歩いて、この世ではない場所へゆくのだから…。



「もう会えない…。ハーレイには二度と会えないんだよ…」
 ぼくの命が尽きてしまったら、死んでしまったら……二度と。
 ずっとハーレイと一緒なんだと思っていたのに、もうすぐ終わりが来るんだよ…。
「…いえ、ご一緒に」
「えっ?」
 何を言われたのか、とブルーは赤い瞳を見開いた。ハーレイは何を言ったのかと。
 泣き濡れた瞳で見上げてみれば、ハーレイの唇には笑みさえもあって。
「ご一緒に、と申し上げました。あなたを離しはいたしません」
 終わりだなどと仰らないで下さい、私が決して終わらせません。
 あなたの命が尽きるのだとしても、それが本当のことであったとしても。



 何処までも共に、とハーレイはブルーに微笑み掛けた。
 もう決めました、と。私の覚悟は決まりました、と。
「…ハーレイ、それは…」
 ぼくと一緒に来てくれるのかい?
 ぼくの命が尽きる時には、君も一緒に来てくれると…?
「ええ。あなたと一緒に参ります」
 お一人で逝かせることはしません、必ず私も参りますとも。あなたと一緒に、何処へまでも。
 あなたを決して離しはしないと誓います。何があっても離れないと。
「…でも、船は…?」
 このシャングリラはどうなるんだい?
 ぼくがいなくなった上に、君までも消えてしまったら…?
「この船くらいは、どうとでもなります」
 今日までこうしてやって来たのです、皆で力を合わせれば乗り越えられるでしょう。
 それも出来ないような船では、元から未来などありはしません。
 …その基礎はあなたが作ったものです、あなたの力が無ければ何処にも無かった船です。
 あなたが私を連れて行っても、誰も文句は言いますまい。
 シャングリラはこのままで残るのですから、それを守るのが皆の務めというものでしょう。
 違いますか、ブルー…?
 ですから二人で旅に出ましょう、独りきりだなどと仰らないで。



 どうか泣き止んで下さいませんか、と抱き込まれた胸。広くて逞しいハーレイの胸。
 其処が何処よりも温かくて。
 背を撫でてくれる手が優しくて、とても心地良くて。
(…君と二人で行けるのなら…)
 命尽きた後も、ハーレイと二人、何処までも共にゆけるというなら。
 頑張ってみよう、と涙が止まらないままに決意した。
 自分の命は尽きるけれども、独りぼっちで旅立つわけではないのだから。ハーレイも一緒に旅に出るのだから、その旅のために準備をしよう。
 ソルジャーの自分がいなくなった後も、キャプテンのハーレイを失った後も、白い鯨が迷わないように。白いシャングリラが、仲間たちが道を見失わぬように。
 出来る所まで、この船のために。ミュウの仲間たちの未来のために。
 それがソルジャーの務めなのだと、最後まですべき大切な役目なのだから、と。



 この日から後も、何度も何度も、泣いて、ハーレイに慰められて。
 フィシスが身に抱く青い地球を見ては、また涙して。
 尽きてしまう命、焦がれ続けた地球をその目に映すことなく消えてしまう自分の命の灯火。
 どう足掻いても死へと歩む身体を止められはせずに、日毎に衰えてゆく肉体の力。
 床に臥せる日が少しずつ増え、ハーレイたちにもノルディが話した。
 ソルジャーの命はもうすぐ尽きると、その日はそれほど遠くはないと。
 ゼルやブラウたちは酷く驚き、信じたくない現実に涙したけれど。それでも自分たちがこの船を守らねばならぬと決意も新たに、ブルーの負担を減らす会議を早速始めた。
 ブルーの命を少しでも長くと、ソルジャーの代わりに出来る仕事は何があるかと。
 実際の所、ブルーが担わねばならぬ役目は無いも同然だったから。
 白い鯨となったシャングリラでは、全てが上手く運んでいたから。結論としては、アルテメシアから離れなければ安全だろう、ということになった。
 地球を目指すことは諦めざるを得ないが、皆の安全が第一だから、と。



 そうしてシャングリラは守りの姿勢に入ったけれど。
 ソルジャー不在の時代に備えて、地球へ向かう夢を封印する道が選ばれたけれど。
 そんな中で床に臥せりながらも、ブルーは未来を見付け出した。
 ミュウの未来を照らす光を、自分の代わりに仲間たちを導く希望の星を。
 アルテメシアで養父母としての登録を済ませた夫妻に託された子供。
 太陽のように輝く金髪の赤子、緑の瞳の健康なジョミー・マーキス・シン。



(…彼に託そう、ミュウの未来を)
 今はまだ、人工子宮から取り出されたばかりの赤ん坊だけれど。
 彼ならばきっと、自分の跡を継いでくれるだろう。ソルジャーの務めを果たせるだろう。
(…彼を迎えるまで、ぼくの命が消えずに済んだらいいのだけれど…)
 そうすれば地球への道も開ける、自分の意志を、思いを伝えられたなら。
 シャングリラを青い地球へと導いてくれと、ジョミーに直接、語れたならば。
(…それが出来れば、本当に…)
 心残りは無いのだけれど、と思うけれども、そればかりは意のままになりはしないから。
 運に任せておくよりはなくて、神に祈るしか出来ないけれど…。



(…ぼくは行けるんだよ、ハーレイと二人で)
 命の灯が消えてしまっても。このシャングリラからいなくなっても。
 ハーレイはシドに船を託した。次のキャプテンを密かに決めた。
 だから、何処へまでも二人、共にゆける。
 命尽きる時にも、ハーレイと共に。
 焦がれ続けた青い地球には辿り着けなくても、ハーレイと二人で旅立とう。
 白いシャングリラを離れて、遠くへ。
 未だ見ぬ世界へ、目では見られぬ遠い世界へ。
 もしも、その世界で飛べるのならば。
 ハーレイと二人、魂となって翼を広げて飛んでゆきたい。
 シャングリラよりも先に青い地球まで、夢に見続けた青い母なる星まで…。




            悲しみの予兆・了

※前のブルーが「命の終わり」を悟った時。青い地球を肉眼で見られる時は来ない、と。
 それよりも辛かったのが、ハーレイとの別れ。そして「共に」と言ってくれたハーレイ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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 ブルーの家に寄れなかった日の夜、ふと取り出してみた写真集。
 夕食の後片付けをしてからコーヒーを淹れて、湯気を立てるマグカップを持って移った書斎で。
 小さなブルー曰く、「ハーレイとお揃いの写真集」。
 書店で見付けて一目で気に入り、小さなブルーに教えてやった。「少し高いが、懐かしい写真が沢山あるぞ」と。豪華版だから、ブルーが自分で買うには高い。父に強請って手に入れたらしい。
 以来、お揃いなのだと主張している。ハーレイとお揃いの写真集だ、と。
(お揃いなあ…)
 一緒に買ったわけでもないのに、とブルーの愛らしい発想に頬を緩めた。お揃いが好きな小さなブルー。食べれば無くなるものであっても、同じものを貰えば「お揃いだ」と喜ぶ。
(おふくろのマーマレードだって…)
 ブルーにかかれば、お揃いの味。朝の食卓がお揃いということになるらしい。
 そんなブルーが大切にしている写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。船体そのものの写真も多いが、青の間やブリッジ、公園などの内部の写真も何枚もあった。
 開く度に蘇る、遠い遠い記憶。この船で過ごした前の生の自分。



 熱いコーヒーを口にしながら、気まぐれにページをめくっていて。
 シャングリラの内部を見て回ったり、宇宙空間を飛んでゆく姿を眺めたりしていて。
(そういえば…)
 何枚も載っているシャングリラの写真。あらゆる角度から写されているし、同じ角度でも背景がまるで違っていたりと、一枚ごとに変わる表情。白い鯨の様々な姿。
 どれも懐かしく、こうであったと心が温かくなるけれど。自分はこの船に乗って旅をしたのだと思うけれども、この写真集に収録された写真の中には、その頃の時代のものは無い。白い鯨の姿は同じでも、其処に自分が乗ってはいない。
 何処を飛んでいるシャングリラにも。漆黒の宇宙空間であっても、惑星の側を飛んでいても。



(俺じゃないんだ…)
 写真集の主役の白いシャングリラのキャプテンは。
 前の自分がキャプテンだった時代のシャングリラの写真も残ってはいるが、この写真集の写真は違う。平和な時代にトォニィが撮らせた写真たち。白い鯨を後の世までも伝えるために。
 そのシャングリラのキャプテンと言えば、今の時代もハーレイだけれど。
 誰に訊いても「キャプテン・ハーレイ」と答えが返るだろうけれど、写真集の中を飛ぶ白い鯨のキャプテンは前の自分ではなくて。
(シドだな…)
 シャングリラの舵を握っているのは。白い鯨を飛ばしているのは。
 トォニィの時代を担ったキャプテン、それがシドだった。キャプテン・シド。



 シドの指揮で飛んだシャングリラ。
 燃え上がる地球を後に旅立ち、宇宙をあちこち回ったと聞く。ノアへも、アルテメシアへも。
 キャプテン・シドが舵を握った白い船。主任操舵士は誰だか知らない。
 前の自分がそうだったのと同じで、四六時中、シドが操舵したわけではない筈で。主任操舵士も誰かいた筈なのだが、全く心当たりが無かった。主任操舵士に任命されそうな者。
(多分、調べりゃ分かるんだろうが…)
 データベースには入っていると思うが、調べてみても自分が知らない名前だということもある。後に乗り込んだ者であったら、まるで知りようがないのだから。



(そしてだ、次のキャプテンは…)
 シドの次のキャプテンは、もういなかった。シドが最後のキャプテンとなった。白い鯨の。
 トォニィがシャングリラの解体を決めた時点で、シドはまだ充分に若かったろう。その若さでは自分の後継者も多分…。
(決めてはいないな)
 候補者さえも頭に無かったことだろう。脂の乗り切った時期のキャプテンには不要だから。跡を継ぐ者を選ぶ暇があったら、一人でも多く操舵を教えて、船のあれこれを教えてやって…。
 前の自分でさえ、後継者などは考えてさえもいなかった。
 シャングリラの操舵を教えた者は多かったけれど。万一に備えて、何人もに伝授したけれど。
 そうしてはいても、決めていなかった後継者。自分の次の代のキャプテン。
(俺が地球まで運ぼうってつもりでいたからな)
 白いシャングリラを青い地球まで。
 ブルーを乗せて、いつかシャングリラで地球へ行こうと思っていた。
 時が来たなら。青い地球がある座標を掴んで、其処へ行く準備が整ったなら。
 けれど…。



(あいつの命が…)
 寿命が尽きる、と泣き出したブルー。
 自分の命はもうすぐ終わると、ハーレイと別れて死の世界へと旅立つのだ、と。
 離れたくない、とブルーは泣いた。地球を見られないことよりも別れが辛いと、この腕の中から去らねばならないことが何よりも悲しくてたまらないと。
 涙を流して胸に縋ったブルー。別れが来るのだと訴えたブルー。
 とても放っておけなかった。ブルーの悲しみもそうだけれども、自分だって辛い。大切な恋人がいなくなるなど、黙って見てはいられない。
 だから誓った、一緒にゆくと。ブルーの命が尽きる時には、自分も共に旅立つからと。
 何度も誓って、慰めてやって。
 本当にブルーを追おうと決めた。死の世界までも追ってゆこうと、ブルーと二人で逝くのだと。



(そう決めたから…)
 ブルーを追おうと決意したからには必要なこと。
 死ぬための薬も用意したけれど、自分がいなくなった後。
 シャングリラを地球まで運べるようにと、後継者を探すことにした。自分の次のキャプテンを。
(キャプテンがいなけりゃ、船はどうにもならんしな…)
 動かせるだけでは話にならないシャングリラ。船を纏めてゆける者が要る。
 自分もそういう理由でキャプテンに推された、操舵など出来なかったのに。厨房で料理しながら倉庫の備品を管理していただけだというのに、適任だからと。



 次のキャプテンを選ぶのであれば、年若い者にするのがいい。
 若すぎるくらいで丁度いい。
 ブルーを継ぐ者も、きっと若いだろうから。ソルジャーの称号を受け継ぐ者。
 そういう者がいるとしたならば、だが。
 今の時点では有望な者など見付かってはおらず、タイプ・ブルーはただ一人だけ。見付かるとは限らない次のソルジャー。
 けれど見付かるとしたら、これから先。未来に生まれてくるだろう者。
 まだ生まれてもいないソルジャーを支えるキャプテンの年は若いほどいい、息が合うように。



(誰にする…?)
 操舵が出来る者は何人もいたが、一番若いのがシドだった。
 責任感に溢れ、真面目な若者。彼ならばきっと、いいキャプテンになるだろう。
 そうは思っても、急に後継者を育て始めたら怪しまれる。どういうつもりかと、ゼルやブラウが訝り、問い詰め始めるだろう。何を考えているのかと。
(不審がられないように継がせるならば…)
 一足飛びにキャプテン候補ではなくて、その前段階。準備段階だと言い訳すること。
 キャプテンの職が務まる人間を探し出すことが如何に難しいか、ゼルたちは充分承知している。今のシャングリラでは皆の役目が細分化された分、更に困難になっていることも。
(船全体を把握出来てるヤツなんぞ、何人いるんだか…)
 アルテメシアに来てから加わった若い者たちの中には恐らくいない。ただの一人も。
 だから育成を始めるのだ、と説明すればゼルたちも納得する筈。
 今から育てておかなければと、長い時間がかかるのだからと。



(ただの操舵士とは違うんだ、と自覚して貰わなきゃいかんしなあ…)
 どうするべきか、と思案を巡らせ、考え出したのが主任操舵士。
 それまでは無かった役職を一つ。
 操舵が出来る者は多いが、彼らの中でもトップに立つのだ、と思えば自覚も芽生えるだろう。
 年若くても、一番の若手であっても、頑張らねばと。
(キャプテンの候補なんだしな?)
 それらしく制服も変えねばなるまい。他の者たちと同じ制服では責任感に欠けるから。
 こういう服を纏うからには相応しく振舞わなければならない、と思わせなくてはいけないから。
(服ってヤツも大切なんだ…)
 自分が着ているからこそ分かる。制服が持つ力というもの。
 キャプテンの制服に袖を通せば気が引き締まるし、表情までもが変わるほどで。
(かといって、皆の制服と違いすぎてもなあ…)
 他のブリッジ要員たちとの兼ね合いというものがある。プレッシャーを与えすぎてもいけない。
 かつて皆の制服をデザインした服飾部門のデザイン係に相談をしたら、提案された上着。制服の上から羽織る形にしてはどうか、とデザイン画も描いてくれたから。重々しすぎず、主任操舵士の肩書きに似合いそうな服に思えたから。
 早速、採用することにした。このデザインでよろしく頼む、と。



 主任操舵士の制服が決まれば、その採寸もせねばならないから。
 自分の部屋に夜、シドを呼んだ。青の間のブルーに一日の報告に行って、「今夜は一度戻らせて頂きます」と断ってから。先に眠っていてくれていいと、来るのが遅くなりそうだから、と。
 そうした夜も少なくないから、ブルーは「ご苦労様」と見送ってくれて。
 キャプテンの部屋に戻って間もなく、呼ばれたシドがやって来た。
「御用ですか?」
「うむ」
 入れ、と招き入れ、よくヒルマンやゼルと飲むテーブルに案内して。
 飲むか、と酒を差し出した。部屋に置いている合成の酒。それとグラスを二人分。
 頂きます、とは返事したものの、注がれた酒を飲まないシド。口をつけようとしないシド。
 この辺りも自分の見込み通りだ、と嬉しくなった。
 勧められても酒を飲まない生真面目さ。キャプテンに欠かせない資質。
 しかし、それだけではまだ足りない。生真面目なだけではキャプテンになれない。皆の心を掴むためには、大らかさもまた必要だから。臨機応変、砕けた口調も場合によっては要るのだから。
 それを教えてやらないと…、とシドの分のグラスを指で弾いた。飲むといい、と。



「遠慮していないで、まあ飲んでみろ」
 俺の秘蔵の酒なんだ。その辺の酒とはちょっと違うぞ、合成だがな。
「お気持ちは有難く頂きますが…」
「明日の操船に差し支えるか?」
「はい」
 あくまで生真面目な顔だから。酒席に似合わない顔だから。
 そんなことでは話にならんぞ、と笑ってやった。いつでも素面とは限らない、と。
「今の所は平穏無事だが、人類軍の船と出くわした時に酒が入っていたらどうする」
 寝酒を一杯やった後でだ、ヤツらが来ないとは限らんのだがな?
「そういうことなら、最初から飲まないことにします」
 非番の時でも飲まないように心掛けます、万一ということがあるのでしたら。
「それでは人生、面白くないぞ。皆とも上手く付き合えないしな」
 飲む時は大いに飲んでいいんだ、今夜の酒は俺のおごりだ。まあ飲め、美味い酒だからな。
「は、はい…。頂きます」
 おっかなびっくり、飲んだシド。琥珀色の酒に「美味しいですね」と顔を綻ばせたから。
 それを見届けて、「よし」と改めて切り出した。
 今のは前祝いの酒なのだと。祝いのための一杯なのだ、と。



「前祝い…ですか?」
 何の、と怪訝そうなシド。祝う理由など無さそうなのに、という顔をしているシド。
 そうだろうな、と心で呟きつつも、穏やかに微笑んでみせて。
「主任操舵士に任命しようと思っている」
「えっ…?」
「主任操舵士だ、操舵士のトップだ」
 そういう者も必要なんだ、と何気ないふりを装った。先は長いし、次の世代も育てねば、と。
「いずれはキャプテンにもなって貰わないとなあ、このシャングリラの」
「キャプテンって…。そんなに先の話ですか?」
「当たり前だろう。俺がいつからキャプテンだったと思っている」
 遥かに前だぞ、この船が全く違う形をしていた頃から俺はキャプテンをやっていたんだ。
 ブリッジだって今とは別物だったが、そんな時代からのキャプテン稼業だ。
 お前がキャプテンになるだろう年と、俺がキャプテンを始めた年と。
 比べてみりゃあ、きっと俺の方が十年単位で若いだろうな。



 ゆくゆくは引退もしてみたいしな、とおどけてみせた。
 第一線に立ち続けるのは年寄りにはキツイ、と。
「そう仰いますが、キャプテンはまだ…」
「ああ、当分は現役だろうさ。元気ってヤツは充分にある。だがな…」
 潮時というものはあるもんだ、と誤魔化しておいた。決めた心は隠しておいた。ブルーを追って逝くのだと決めた、その決意は心に秘めたままで。
 何も知らないシドに語り掛けた、「腕が鈍ることもあるだろう」と。
 そんな時が来たなら現役引退、キャプテンの座を譲ることにする、と。
 シャングリラを最良の状態に保つためには、鈍った腕では駄目なのだと。



「引退しても補佐はしてやる。必要だったら相談にも乗るが…」
 キャプテンたる者、他人に頼って決めていたんじゃ話にならん。
 必要なことは会議にかけても、いざという場面で決断するのはキャプテンだろうが。
 それが出来る人材を育てておきたい、俺が元気でいる間にな。
 何年かかるか分からないんだ、俺のやり方を今から勉強しておけ。俺を継ぐつもりで。
「…私にキャプテンが務まるでしょうか?」
 もっと適任の者がいるのでは…。私では年も若すぎますから。
「分かっていないな、俺はその若さを買ったんだ」
 先は長いと言った筈だぞ、年寄りを据えるより若者がいい。それだけ長く仕事が出来る。現役で働ける期間が長けりゃ、後継者だってゆっくり育ててゆけるしな?
 俺みたいに引退なんて道も選べる、後進に道を譲って隠居生活というわけだ。
 若い内から始めればこそだ、お前も未来の隠居生活を夢見て努力してくれ。



 隠居生活をするというのは嘘だったけれど、他のことは本当だったから。
 良心が痛むということも無くて、スラスラと嘘をつき通した。いずれ引退するのだから、と。
「いいか、少しずつ覚えていけばいいんだ、いろんなことをな」
 お前は俺より恵まれているぞ、最初からブリッジ勤務だろうが。しかも操舵の担当だ。
 俺なんかは厨房出身だったしなあ、最初は操舵も出来ないキャプテンだったってな。
「あの話は本当だったんですか!?」
 キャプテンが厨房にいらっしゃったという話。聞いてはいますが、ただの噂かと…。
 てっきり噂だとばかり思って、調べてみたことも無いのですが…。
「知らないヤツらが増えたからなあ、あの頃の俺を。そいつは噂じゃないんだ、シド」
 フライパンも船も似たようなものさ、と言ってたな、俺は。
 どっちも焦がしちゃ駄目だってな…、とかつての自分の気に入りの台詞を教えてやった。
 そう言って船を操っていたと、シャングリラの操舵を覚えたのだと。



「フライパンですか…!」
 驚きで目を丸くしているシド。
「うむ、フライパンだ。舵の前には俺はフライパンを握っていたんだ」
 厨房にあるだろ、フライパンが幾つも。俺が使っていた頃のフライパンは代替わりしちまって、愛用のヤツはもう無いんだが…。フライパンも鍋も手に馴染んでたな、料理人だしな?
「本当にキャプテンがフライパンを…?」
「そうさ、キャプテンになろうと決心した時もフライパンで料理をしていたな」
 新しい炒め物を試作しながら考えていたんだ、キャプテンになるかどうかをな。
 考え事に気を取られていて、ウッカリ焦がすトコだった。まずい、とフライパンを振った拍子に船がガクンと揺れたんだ。…障害物でも避けたか何かだ、まるでタイミングを合わせたように。
 それで閃いたわけだ、フライパンも船も似ているな、と。
 どっちも扱いを間違えば焦げるし、上手に使えば命を守れる。生きて行くには船も料理も不可欠だろうが、俺たちの場合は。
 船が無ければ生活出来んし、料理が無ければ飢え死にしちまう。
 フライパンも船も同じなんだな、と気付かされたから、俺はキャプテンになったってわけだ。
「…キャプテンの仰る通りですね…」
 フライパンも船も、どちらも欠かせないものですね。それにどちらも、焦げてしまったら駄目になりますし…。
「名文句だろ? 今じゃ言わなくなったがな。フライパンも船も理屈は同じだ」
 そんな台詞を言ってた俺がだ、今じゃ厨房にいたというのが噂だと思われるレベルだぞ?
 お前なら立派なキャプテンになれるさ、俺よりも遥かに凄腕のな。



 フライパンの話はシドの心を見事に掴んだ。
 厨房からでも転身出来たというのが大いに心強かったのだろう、頑張らねばと決意したようだ。主任操舵士としてキャプテンの仕事を学んでゆこうと、一人前のキャプテンになろうと。
 この調子ならば大丈夫だろう、シドが本当のことを知らなくても。
 キャプテン・ハーレイは引退する代わりに消えてしまうのだと、ブルーを追って死に赴くのだと気付かないままで過ごしていても。
 ある日、自分がいなくなっても、シドならば務めを果たしてくれる。若くしてキャプテンの任に就いても、このシャングリラを地球まで運んでくれることだろう。
(これでいい…)
 シャングリラの未来はシドに任せた、と肩の荷が下りたような気がした。
 これでブルーを追ってゆけると、約束通りにブルーと離れることなく旅立てると。



 その夜は、シドと酒を飲みながら語り合って。
 頃合いを見てシドを帰して、自分は青の間に再び戻った。ブルーが待っている部屋へ。
 愛おしい人はもう眠っていたから、ベッドに入って華奢な身体をそっと抱き寄せ、口付けた。
 ひと仕事終えて来ましたよ、と。遅くなってしまってすみません、と。



 翌日、シドと二人で服飾部門まで採寸に行った。主任操舵士の上着を作るための採寸。
 白いシャングリラに一人しかいない、主任操舵士。一人だけしか着ない上着を作るために。
 そして替えの分も含めて上着が出来上がって。
 主任操舵士という役職を作ると、将来のキャプテン候補なのだと、ゼルたちにも既に話は通してあったから。
 ブリッジの仲間たちを非番の者まで呼び集めてから、シドを自分の隣に立たせて宣言した。
 主任操舵士の就任を。いつかはシドがキャプテンになる日が来るだろう、と。
 それからシドに上着を着せ掛けてやった、完成したばかりの主任操舵士の制服を。
 キャプテン手ずから着せて貰って、緊張しながらも頬を紅潮させたシド。
 祝いの雰囲気が溢れたブリッジ。
 シドは主任操舵士となって初めての操舵を難なくこなした。上着は邪魔にはならなかった。服飾部門の者たちの仕事は確かなもので、デザインも良いものであったから。
 主任操舵士の誕生に華やぐブリッジ、他の部署からも仲間たちが祝いに顔を出した。
 ブルーも後から祝いの言葉をシドに贈りにやって来た。
 「おめでとう」と、それは嬉しそうに。
 今まで以上にハーレイの助けになって欲しいと、キャプテンは激務なのだから、と。
 ブルーでさえも信じたキャプテン候補。シドを育成する理由。
 もうバレはしない、と確信した。誰も自分の真の目的に気付きはしないと。



 シャングリラに主任操舵士が生まれた日の夜、青の間で一日の報告をした後、ブルーに告げた。
 これで準備は整いました、と。
「準備…?」
 不思議そうに首を傾げたブルー。今の報告では何も気付かなかったけれど、と。
「あなたと行くための準備ですよ」
「…何の話だい?」
 行くって、何処へ…?
 明日は視察の予定があるとは聞いていないけれど…。もっと先かな、何日か先の予定なのかな?
「そうですね。…いつになるかは分かりませんが…」
 あなた次第と申し上げればいいのでしょうか?
 シドは私の後継者です。このシャングリラから私が消えたら、シドがキャプテンになるのです。
 …お分かりですか?
 私はあなたと共に参ります、キャプテンの仕事をシドに任せて。
 いつかあなたの命が尽きたら、私も一緒に行くのですよ。あなたの側を離れることなく。



 ハッと息を飲んで顔色を変えたブルーだけれど。
 赤い瞳がみるみる潤んだけれども、唇から零れた「ありがとう」という小さな声。
 これでハーレイと一緒に行ける、と。
「ええ、何処まででもご一緒させて頂きますとも」
 そのためにシドを選びました、とブルーの身体を強く抱き締めた。
 誰一人気付いていないけれども、シャングリラを託す準備をしました、と。シドならばきっと、遠い地球までシャングリラを運んでくれるでしょう、と。
「うん…。そうだね、ハーレイ。…シドならば、きっと…」
 ぼくとハーレイがいなくなっても、シャングリラをきちんと守り続けてくれるだろうね。
 人類軍の船に見付からないよう、見付かっても上手く躱せるように。
 この船はきっと地球まで行けるね、キャプテン・シドが運んで行ってくれるんだね…。
 ぼくは地球へは行けないけれど。
 ハーレイと二人で、別の世界へ行くんだけれど…。



 二人で行こう、と交わした口付け。何処までも共に、と。
(なのに、あいつは…)
 逝っちまったんだ、と唇を噛んだ。
 自分がシドを選んだように、ブルーが選んだ後継者。太陽のようだった少年、ジョミー。
 彼にソルジャーの座を譲るだけでなく、彼の未来を守って逝った。
 ミュウの未来を、ミュウを導けとジョミーに全てを託して、メギドで。たった一人きりで。
 ブルーを追ってはゆけなかった自分。
 追ってゆく代わりに取り残された。独りぼっちでシャングリラに。
 ブルーが遺した言葉に縛られ、ジョミーを支えるためにだけ生きた。
 心はとうに死んでいたのに、ブルーを失くして屍のようになっていたのに、キャプテンとして。
 キャプテン・シドは生まれてはくれず、キャプテン・ハーレイの代が続いた。
 死の星だった地球に辿り着くまで、地球の地の底で全てが終わってしまうまで。



 赤いナスカが砕けたあの日に、追えずに失くしてしまったブルー。
 周到に準備をしたというのに、自分を置いて逝ってしまったブルー。
 どれほどに辛く苦しい日々だったろうか、地球までの道は。
 自分の代わりはいるというのに、そのためにシドを育てていたのに、任命出来ずにキャプテンのままで地球まで行った。シドをキャプテンには出来なかった。
 ブルーがそれを望んだから。キャプテンでいてくれと願ったから。
(…俺はジョミーの時代に役立つキャプテン候補を選んだのに…)
 ブルーの跡を継ぐ者がいるなら、それに相応しく若い者を、とシドを選んで育てたのに。
 そのことをブルーは知っていたのに、自分に任せて逝ってしまった。
 「ジョミーを頼む」と、「君たちが支えてやってくれ」と。
 自分を選んだブルーは多分、間違ってはいなかったと思う。
 地球までの道は、戦いに次ぐ戦いの道は、シドには荷が重すぎたことだろう。あそこで自分までいなくなったら、シャングリラは地球まで行けたかどうか…。
(…ジョミーやトォニィだけなら行けたんだろうが…)
 他の仲間たちを乗せたあの船が無事に着けたかは分からない。
 熟練のキャプテンだった自分でさえも、これでいいのかと手探りの航路だったのだから。



(…せっかくシドを育てていたのに、出番が来ないままだったよなあ…)
 最後までキャプテンのままだった自分。キャプテン・ハーレイとして終わった自分。
 ブルーを失くして、追ってもゆけずに独りぼっちで生きるしか無かった地球までの道。意味さえ無かったキャプテン候補。主任操舵士に任命したシド。
 けれども、今はブルーがいるから。
 青い地球の上に二人一緒に生まれ変わって、小さなブルーが帰って来たから。



(もういいんだ…)
 ブルーとは地球で出会えたから。今度こそ二人で生きてゆけるから。
 文句は言うまい、前の生でシドの出番が来なかったことについては何も。
 前のブルーが遺した言葉を守って、キャプテンのままで歩んだ地球までの道の苦しさも。
(ブルーと会えればそれでいいんだ、あいつと巡り会えたんだから…)
 それに、シド。前の自分が選んだシド。
 シドは立派にキャプテンになったし、トォニィの補佐も見事に務めた。白いシャングリラの舵を握って宇宙をあちこち旅して回った、ミュウの時代を築くために。
 キャプテン・シドは確かに居たのだ、自分が任命しなかっただけで。
 白いシャングリラのブリッジには確かにキャプテン・シドが立っていた。前の自分とデザインが少し違ったキャプテンの制服をカッチリと着て。
 シャングリラが役目を終えたその日まで、キャプテン・シドはブリッジに居た。
 前の自分が座った席に。キャプテンだけが座れる席に。



 あの日、ブルーを追おうと決めなかったら。
 ブルーを追ってゆこうと決意し、シドを選ばなかったなら。
(シャングリラは暫く、キャプテン不在だったかもしれないなあ…)
 キャプテンもソルジャーも、長老たちも、皆が地球で死んでしまったから。
 新しいソルジャーのトォニィはいても、トォニィは身体だけが大人で精神は子供だったから。
 トォニィだけではシャングリラの秩序を保てたかどうか分からない。
 現に、最後のキャプテンとなったキャプテン・シド。
 燃え上がる地球を後にした船で、最後のキャプテンが航海長や機関長を決めたと伝わるから。
(…シドだったからこそ、出来たんだ…)
 次のキャプテンはシドなのだ、とシャングリラの誰もが知っていたから就けたキャプテンの任。反対する者は一人も無かったことだろう。
 キャプテン・ハーレイがいなくなった今はシドをと、シドがキャプテンになるべきだと。
 船の秩序はキャプテンがいてこそ守れるもの。キャプテンさえいれば何とかなる。慣れぬ仕事に途惑う者が多い船でも、キャプテンが毅然と立ってさえいれば。
(…キャプテン候補を決めておいて良かった…)
 前の自分の選択は誤ってはいなかった。
 シャングリラはキャプテン不在の船にならずに、無事にトォニィの代に継がれた。
 そういうつもりで選んだわけではなかったけれど。
 シドをキャプテン候補に決めた理由は、トォニィのためではなかったけれど。



(キャプテン・シドか…)
 いいキャプテンになってくれた、と冷めたコーヒーの残りを飲み干した。
 ブルーとお揃いの白いシャングリラの写真集。
 それをパタリと閉じ、表紙に刷られたシャングリラに見入る。
 キャプテン・シドが乗っている船に、キャプテン・シドが舵を握っている船に。
(…うん、シドが動かしているシャングリラなんだ…)
 明日は仕事を早めに終わらせ、ブルーの家に寄って話してやろう。
 お揃いだという写真集を持って来させて、二人で開いて。
 「このシャングリラはシドが舵を握っているんだよな」と。
 前のブルーを追うために決めたキャプテン候補が、主任操舵士に選ばれたシドが。
 キャプテン・シドには会えなかったけれど、遥かな時の彼方の彼に向かって伝えてやりたい。
 シャングリラをよくぞ守ってくれたと、お前は立派なキャプテンだった、と…。




           船を継ぐ者・了

※ハーレイが選んだ後継者、シド。本当の理由は誰にも明かさず、キャプテン候補として。
 引継ぎは出来ずに終わりましたが、選んでおいた価値はあったのです。次の世代のために。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




夏はやっぱり暑いもの。今年の夏も厳しい暑さで、夏休みがどれほど待ち遠しかったことか。えっ、暑いなら休んでしまえばいいだろうって?
それは確かに正論ですけど、実行している特別生だっていますけど…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を溜まり場にしている私たち七人グループにとっては、欠席イコール放課後の手作りおやつ無し。料理上手の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお菓子が食べたきゃ行かなくっちゃあ!
「やあ、今日も朝から暑そうだねえ…」
待望の夏休み。会長さんの家が今日から居場所、と言いたい所ですけれど。
「暑いんだよ!」
思いっ切り不機嫌そうな顔のジョミー君。
「なのに明日から璃慕恩院だよ、クーラー無しの生活だってば!」
「俺たちの合宿も基本はクーラー無しなんだが?」
キース君の鋭い突っ込み。
「熱中症予防に使いはするがな、適度な使用がお約束だ。ついでにお盆の棚経にクーラーがセットじゃないのは分かっているよな?」
「うえー…。クーラー無しの家、まだあるわけ?」
「檀家さんの主義主張にお前が口を挟むな!」
言えた義理か、と叱るキース君によると、クーラー嫌いの家が何軒かあるそうです。棚経は朝早くから回りますから、そんな早朝には自然の風が一番とばかりにクーラーの代わりに打ち水のみ。軽装の檀家さんはともかく、法衣のキース君たちにしてみれば暑すぎなわけで。
「いいか、璃慕恩院の修行体験ツアーはそうした未来のケースも想定した上でのクーラー無しだ! 覚悟しておけ!」
「でもさあ…。麦飯と精進料理じゃバテるよ、ホントに」
「初日の夕食は豚カツだろうが!」
最初だけでも肉が食えるだけマシだ、とバッサリ切り捨て。今年もこういうシーズンかあ…、と皆で笑っていると。



「いいねえ、精進料理というのも」
慰労会の料理はそれにしようか、と会長さん。
「この間、ぶるぅと食べて来たんだ、お漬物寿司」
「かみお~ん♪ とっても美味しかったの!」
老舗のお漬物屋さんがやってるんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「今度はお漬物懐石も食べに行こうって言ってるんだもん!」
「そうなんだよねえ、煮物や揚げ物までお漬物尽くし! ちょっとお洒落で評判なんだよ」
このお店で…、と聞かされた名前は確かに老舗の有名店。そんなことまでやっていたのか、とビックリですが。
「お漬物も今や世界に羽ばたいてるしね、ヘルシーなピクルスっていうことで」
「それは食べたい気もしますね…」
シロエ君が話に食い付きました。
「柔道部の合宿はスタミナ一番、言わば肉だらけの世界ですから…。普段の生活に帰って来たな、って嬉しい気分になれそうです」
「そうだな、毎日肉料理だしな…。俺は戻ったらお盆に向かって卒塔婆書きだし、坊主らしい日々に切り替える料理にピッタリだ」
それでいこう、とキース君も。
「えっ、えええっ?」
ちょっと待ってよ、というジョミー君の悲鳴は無視されました。
「それじゃ、君たちが帰って来た後の慰労会にはお漬物寿司でいいんだね?」
「ええ、是非それでお願いします!」
「俺もそいつでよろしく頼む」
「かみお~ん♪ 美味しいお漬物、仕入れておくね!」
だから合宿頑張ってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大張り切り。男の子たちの合宿中には会長さんやフィシスさんとお出かけが常の私とスウェナちゃんの運命も決まりました。
「女子はぼくたちとお漬物寿司とお漬物懐石、それぞれ一回ずつでいいよね?」
「「はーい!」」
そういう食事も楽しそうです。ジョミー君の「帰って来ても精進料理…」という嘆きの声に耳を貸す人などいませんでした。お寺に行くなら精進料理は当たり前。存分に食べて来て下さいです~!



こうして翌日から男の子たちは柔道部の合宿に、修行体験ツアーにと出掛けてゆきました。スウェナちゃんと私は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんと一緒にプールに行ったり他にも色々。もちろんお漬物料理の店にも連れて貰って…。
アッと言う間に帰って来てしまった男の子たち。慰労会の日も朝から快晴、じりじりと照り付ける日射しとセミの大合唱の中、会長さんの家に集合です。
「今年も死んだ…」
痩せてもうダメ、とジョミー君は文句たらたらですけど、体重は減っていなさそう。修行ツアーに同行していたサム君によると「あいつ、一グラムも減ってはいないぜ」という話。
「飯の時間はガッツリ食うしよ、あれで痩せたら不思議だって!」
「痩せたってば! あんな麦飯と精進料理!」
どれも不味い、と恒例の不満。しかし…。
「かみお~ん♪ 今日のお昼は美味しい筈だよ!」
お漬物寿司、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「評判のお漬物、沢山買ったもん! お店の味にも負けないんだもん!」
「そうだよ、ぶるぅの腕に期待したまえ」
なにしろ評判のヘルシー料理、と会長さんが自慢し、とりあえず午前のティータイム。夏ミカンを丸ごとくり抜いて、果汁を搾って作った寒天を詰めたお菓子が一人に一個。それと冷たい緑茶です。ただ冷やすんじゃなくて、なんと氷で淹れるというもの。
「氷出しの茶は美味いんだがなあ…」
俺の家では飲む余裕がな、と零すキース君。
「俺が用意をしておくと、だ。頃合いに入った茶を誰とは言わんが持って行くヤツが…」
「「「あー…」」」
アドス和尚だな、と誰もが納得。でっぷり太ったアドス和尚は暑がりですから、氷で淹れた冷たい緑茶が出来ていたならゴクゴク飲んでしまうでしょう。誰の分かはお構いなしで。
「俺が文句を言うとだな、師僧に向かって何を言うかと抜かすんだ! 弟子は師僧にお茶を淹れるもので、自分が飲むのが当然なんだと!」
「仕方ねえぜ、それ…。実際、親父さんがお師僧だしよ」
「そうなんだがな…」
俺は親父の息子なんだが、とぼやくキース君をサム君が慰めています。氷出しの緑茶の手間を知っているだけに気の毒としか…。あれってお茶の葉を入れた急須に氷を入れては、溶けて減った分だけ足していくっていうヤツですもんねえ…。時間もうんとかかりますってば!



のんびりまったり、お茶を飲みつつ夏ミカン寒天に舌鼓。窓から見える暑そうな夏空もクーラーの効いた部屋には無縁で、ジョミー君の愚痴祭りも収束に向かいつつあった所へ。
「こんにちは」
暑中お見舞い申し上げます、と背後で声が。
「「「はあ?!」」」
振り返った先に私服のソルジャー。いえ、私服どころか…。
「今日も朝から暑そうだねえ…。だから暑中見舞い」
ぼくにもおやつ、と空いていたソファに腰を下ろしたソルジャーは浴衣を着ていました。涼しげですけど、何処から見たって女物。帯と結び方は男物にしか見えませんけど…。
「いいだろ、これ? ノルディに買って貰ったんだよ」
今度花火を見に出掛けるから、って、エロドクターと!?
「そうだけど? ハーレイと行こうと思っていたのに、シャングリラのメンテが入っちゃってさ。ワープドライブなんて使う予定も無いから先送りにしろって言ったんだけどね…」
「それは無責任発言だろう!」
会長さんの怒鳴り声。
「備えあれば患いなしっていうのが世間の常識、まして君みたいな境遇にいたら百パーセントを超える安全確保ってヤツが必要だろうと思うけど!?」
「君までハーレイとおんなじことを言うのかい? そりゃね、ワープドライブも大切だけどね…」
そうそう使うものではないのだ、とソルジャーは先刻までのジョミー君よろしくグチグチと。なんでもソルジャーの世界のシャングリラ号は雲海の中を飛行していて、其処から直接ワープは考えられない話だとか。
「惑星の重力圏内にいるんだよ? そんな所からワープをしたって前例は無い。つまりはワープ出来る場所まで移動しなくちゃならないってこと」
重力圏外まで逃げる間も追尾されるに決まっているし、とソルジャーは不満そうな顔。
「要するに、ぼくが瞬間移動でシャングリラを丸ごと飛ばした方が早いんだってば、ワープドライブに頼っているより!」
だから使えもしないモノのメンテを急ぐ必要は無い、と我儘全開ですけれど。その理屈がキャプテンに却下されたから花火見物がダメで、エロドクターとお出掛けなんですね?
「そういうこと! 浴衣まで買って貰っちゃったし、ハーレイと過ごす時間が楽しみ!」
浴衣でエッチは燃えるものだし…、と良からぬ発想の方も絶好調。見せびらかすために着て来たんですね、その浴衣…。



本来、昼間に纏うものではない浴衣。けれどソルジャーは会長さんに指摘されても全く気にせず、御自慢の浴衣を披露しながら居座り続けて。
「お昼御飯も出るんだよねえ?」
「…断ったら後が怖いからね」
もう諦めた、という会長さんの声を合図に皆でダイニングへと大移動。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が腕によりをかけたお漬物寿司が一人前ずつ、綺麗に盛られて出て来ました。
「へえ…。これが噂のお漬物寿司っていうヤツなんだね」
どんな味かな? と早速口へと運ぶソルジャー。
「うん、美味しい! サッパリしていて夏にピッタリ!」
「ホントだ、美味しい…。璃慕恩院の料理と全然違うよ」
これならいける、とジョミー君だって御満悦。スウェナちゃんと私が食べて来たお漬物懐石も他のみんなは興味津々、お漬物でも意外な美味しさがあるものだ、と盛り上がって。
「お漬物もね、時代に合わせて色々と変身していかなくちゃね?」
伝統を守りつつ改革も、と会長さん。
「好まれる味っていうのが変わってゆくのさ、その時々で。全く同じレシピで作ったのでは「何か違う」と思われちゃうこともあったりするんだ」
「えっ? でも、会長…。こういった老舗の味は同じじゃないですか?」
シロエ君の問いに、会長さんは「まあね」と答えたものの。
「この味だけは変えていません、と言いつつ、微妙な調整を…ね。発酵時間を変えてみるとか、塩分を少しずつ減らしていくとか。誰もが「美味しい」と思う味でないと売れないよ」
そのためにプロを雇っているのだ、という話ですが、老舗のお漬物を任されるような人って元からプロ集団では?
「そりゃそうだけど…。プロの中のプロって言うのかな? 味を覚えた熟練の人さ」
このお漬物の味はこう、と舌だけで判断出来るプロ。その道一筋ン十年とかで、味を変える時には必ず試食。プロの中のプロが「これで良し」と言うまで試行錯誤の日々らしく…。
「一子相伝とは少し違うけど、後継者は常に一人だけ! そのプロが見込んだ弟子がついてて、伝統の味を叩き込んでるらしいんだな」
そのプロが居てこそ大胆な革新も可能なのだ、と会長さん。新しいお漬物を開発する時も、やっぱり試食。「ウチの店の味ですね」と言って貰えるまで頑張る部下のプロ集団たち。そうやって出来た沢山のお漬物で美味しいお漬物寿司が出来ると聞いたら、もうビックリ~…。



「伝統は守りつつ革新かあ…」
なんか凄いね、とソルジャーは感動している様子。お漬物寿司が気に入ったらしいことは分かっていますが、この台詞。ワープドライブのメンテがどうこうと文句を言ってましたし、変な方向へと向かってなければいいのですけど…。会長さんも同じことを思ったみたいで。
「お漬物の味とワープドライブとは違うから! 其処は革新しなくていいから!」
「分かってるってば、新しい技術も出来てないのに革新しないよ、ワープドライブは」
その辺はゼルの管轄なのだ、という答え。
「なんと言っても機関長だし、アルタミラからの脱出以来の叩き上げ! プロの中のプロだね、ワープドライブに関しては」
任せて安心、と聞いて私たちの方もホッと安心。お漬物のせいでワープドライブが妙なことになったら、反省文だの土下座で済むようなレベルじゃないことは確実ですし…。
「当然じゃないか、ぼくの世界は常に危険と紙一重! 君たちが反省文を書いてくれても、土下座してくれても別の世界じゃ意味が無いしねえ…」
でも伝統と革新かあ…、と再びリピート。
「これは非常に魅力的だよ、ハーレイに是非、聞かせないと!」
「「「は?」」」
「ぼくのハーレイ! 今じゃマンネリでも気にしないけどね…。夫婦なんだし、特に刺激も求めてないけど、やっぱり努力はして欲しい!」
同じマンネリでも努力を重ねて同じ味を、って、その味とは…。
「大人の時間に決まってるだろう!」
他に何があると、とソルジャーは胸を張りました。
「ぼくたちの定番のコースがいわゆる伝統! 其処に改革を加えてみるのも新鮮かと!」
そしてこのぼくが味見するのだ、とソルジャー、ニッコリ。
「でもって、コレはぼくたちのセックスじゃないと文句をつけて却下するとか! コレはいいから取り入れようとか、もう色々と!」
時代の変化イコールぼくの好みの変化だよね、とカッ飛んだ理論が炸裂しました。
「ぼく自身でも気付かない内に、好みが変わっているかもだしねえ…。長持ちが一番だと思ってるけどテクが優先かもしれないし!」
「退場!!」
サッサと出て行け、と会長さんがテーブルにレッドカードを叩き付けたものの。それで出て行くソルジャーではなく、止まる喋りでもありませんってば…。



お漬物寿司から明後日の方へと突っ走ってしまった浴衣のソルジャー。素晴らしい思い付きだと自画自賛な上、伝統と革新を追い求める気持ちも半端ではなく。
「ぼくの世界だと色々と制限がありすぎでねえ…」
大抵の薬はもう効かないのだ、と自分の顔を指差して。
「君たちだって知っているだろう? こっちの世界で薬を調達してるってコトは」
「……スッポンとかね……」
会長さんの嫌そうな声。
「それで薬も革新したいと? 配合を変えて貰うとか?」
「もちろんだよ!」
そこは基本、とソルジャーはズラズラと漢方薬の素材の名前を挙げ始めました。外せないらしいスッポンとかオットセイだとか。他にも山ほど、いつの間にこれだけ増殖したのか、と溜息しか出ない私たち。
「それだけあったら充分に革新出来そうだよ…」
早く帰れ、と会長さんが手をヒラヒラと。
「ついでに帰りに店に寄ってね、配合の相談をしてくるといい」
「それはもう! ノルディの家にも寄ってこなくちゃ、漢方薬をガンガン買うなら予算もドカンと必要だから!」
とりあえず各種揃えて一週間分ほど…、とソルジャーはソファから立ち上がって。
「それとね、こっちのハーレイの協力も必要不可欠だよね」
「「「はあ?」」」
なんで教頭先生なのだ、とサッパリ分かりませんでした。伝統と革新はソルジャー夫妻の大人の時間に限定の筈。まるで無関係な教頭先生が何処に関係するのでしょう?
「分からないかな、モルモットだよ!」
「「「モルモット!?」」」
モルモットと言えば実験動物。それと教頭先生がどう繋がるのか意味不明ですが…?
「ぼくのハーレイは薬ってヤツが好きじゃないしさ、あれこれ試して副作用でも出ようものなら、次から新しいのを拒否しまくると思うんだよねえ…」
人体実験時代のトラウマだよね、とソルジャーはキャプテンの薬嫌いの理由をズバリと。
「だけど効くって分かった薬は喜んで飲むし、それでビンビンのガンガンなわけ!」
お蔭で夫婦円満の日々、と満ち足りた顔はいいのですけど。…副作用の有無を調べたいからと、教頭先生をモルモットに!?



「だって、おんなじ身体だしねえ…?」
ヘタレなだけで、と呟くソルジャー。
「鼻血体質で万年童貞、その辺はぼくのハーレイと全く違うけれどさ、身体の造りは同じじゃないかと…」
「薬の耐性が違うだろ!」
会長さんがビシイッと指を突き付けて。
「こっちのハーレイは薬嫌いになるようなトラウマを抱えてないしね、人体実験もされてないから薬に耐性は出来ていないと思うわけ! 同じじゃない!」
「分かってないねえ、君って人は…」
本当に何も分かっていない、とソルジャーは指をチッチッと。
「ぼくのハーレイは漢方薬なんかは投与されていないよ、アルタミラじゃね。こっちの世界じゃ漢方薬はメジャーだけれども、それでも高い。漢方薬の素材が希少なぼくの世界じゃどれほど高いか、何度も言ったと思うけどねえ?」
そんな貴重品を人体実験に使うわけがない、と吐き捨てるように言うソルジャー。
「ミュウは未だに人間扱いされてないしね、アルタミラじゃ酷いものだった。人体実験に割いた予算は膨大だろうと思うけれども、人類にとって貴重な薬を使った実験なんかはしない」
そういった薬は偉い人だけの御用達だ、と聞かされてみれば、スッポンなんかもそうだったような気が…。
「そうさ、スッポンはとっても高価! スッポン料理はごくごく一部のお偉いさんしか食べられないって話だよ」
ぼくだってこっちの世界でしか本物のスッポンは見たことがない、と続いてゆく話。
「けっこう簡単に養殖出来るスッポンでも貴重品なんだ。他の漢方薬のレア度は高いし、ぼくのハーレイへの実験に使ったわけがない。当然、耐性がある筈が無い!」
漢方薬に関してはどっちのハーレイも条件は同じ、とソルジャーの自信は絶大でした。
「だからね、まずはこっちのハーレイで試して、副作用が無いのを確認してからぼくのハーレイに渡すわけ! それでバッチリ!」
こっちのハーレイに頼まなくっちゃ、とウキウキする気持ちは分かりますけど。大人の時間に役立つ薬を教頭先生で試そうだなんて、それは酷いと言いませんか? 鼻血体質で万年童貞な教頭先生、しっかり健康体ですよ…?



キャプテンに漢方薬を色々投与したいのに、副作用は困ると言うソルジャー。まずは教頭先生で試し、大丈夫ならばキャプテンに…、という作戦を立ててますけど、問題は薬。大人の時間に役立つ薬の効果は当然…。
「君の考えは分かるけどねえ!」
ぼくの迷惑も考えてくれ、と会長さんがブチ切れました。
「怪しげな効果を持った薬をハーレイが次々試すんだろう? その度に何が起こるのさ!」
「えっ、ハーレイが元気になるっていうだけじゃないか」
大事な部分が元気モリモリ、と笑顔のソルジャー。
「ただそれだけのことだしねえ? 君が迷惑を蒙る理由は何も無いかと」
「大ありだよ!!!」
あのハーレイを舐めるんじゃない、と会長さん。
「普段はヘタレでどうしようもないのが基本だけれども、発情期があると言っただろう! いわゆるモテ期! 自分はモテると思い込む発作!」
「…言われてみればあったね、そういうのも」
「副作用でソレが出ないって根拠が何処にあるわけ!?」
相手は怪しげな漢方薬だ、と会長さんは眉を吊り上げています。
「もしも副作用でモテ期に入ったら、熱烈なアタックを仕掛けて来るから! 迷惑だから!」
「モテ期対策、一応あるんじゃなかったっけ?」
冷たくあしらった挙句に渡された花束を踏みにじるヤツ、とソルジャーは流石の記憶力。
「備えあれば患いなしって君が言ったよ、対策があるなら無問題!」
「そこまでの間が問題なんだよ!」
会長さんの方も負けじと。
「ヘタレなハーレイでさえ、モテ期になったら凄いんだ。漢方薬で元気モリモリな状態でモテ期に入っちゃったら、花束どころかホテルに引っ張り込まれそうだよ!」
「瞬間移動で逃げればいいだろ?」
「ぼくがトラウマになるんだよ!」
ハーレイに会ったら逃げたくなるとか…、と会長さんは既に逃げ腰。とはいえ、教頭先生は会長さんの大事なオモチャで、トラウマになって遊べなくなるのもつまらないらしく。
「そういうわけでね、副作用の危険を伴う元気モリモリはやめてくれたまえ!」
モルモットにするな、と禁止令。でも、ソルジャーが大人しく従いますかねえ…?



「…なるほど、君がトラウマになると…」
そしてハーレイから逃げたくなるのか、とソルジャーは顎に手を当てました。
「そういうのはぼくとしても困るね、君にはハーレイと幸せになって欲しいしねえ…」
「ならなくていいっ!」
でもトラウマになるのも嫌だ、と会長さん。
「とにかく、君も困るんだったら利害は一致してるから! モルモット禁止!」
「うーん…。ぼくは欲しいんだよ、こっちのハーレイの協力が…。だけど君がトラウマを抱えてしまって、ハーレイに近付けなくなるのも嬉しくないし…」
どうしたものか、と真剣に考え込んでいるソルジャー。夫婦円満で上手く行ってるなら、伝統だけで充分なのでは? 革新しなくても現状維持でいいのでは、と思いましたが。
「ダメダメ、せっかく素敵な話を聞いて閃いたんだしね? やっぱり革新も必要だよ、うん」
それでこそ夫婦の時間も充実、とソルジャーは全く聞く耳を持たず。
「…どうしようかな、こっちのハーレイ対策ねえ…」
元気モリモリをどうするかだね、と口にした直後。
「そうか、対策は元気モリモリ!」
「「「はあ?」」」
いきなり叫ばれても何のことだか。けれどソルジャーには解決策が見えているようで。
「薬で元気モリモリってトコをフォローしてあげれば、モテ期が来たって平気じゃないかな」
「どういうフォロー?」
会長さんの胡乱な瞳に、ソルジャーは。
「元気モリモリ解消グッズ!」
「「「解消グッズ?」」」
「そう! これで抜けます、って素敵なオカズをバッチリ差し入れ!」
「「「…おかず?」」」
どんな料理を差し入れるのだ、と私たちは首を傾げましたが、会長さんは憤然と。
「君の写真じゃないだろうね!?」
「それしかないだろ、抜けるグッズは!」
えーっと、何が抜けるんでしょう? そもそもソルジャーの写真の何処が料理だと?



理解不能な展開になりつつある話。会長さんとソルジャーはギャーギャーと派手に言い争いで、もう何が何だか…、といった状態。
「…おかずって何?」
ジョミー君が尋ね、キース君が。
「俺に分かるか! 漬物でないことは確かなようだが」
「お漬物なんかじゃないってば!」
ぼくの写真、と地獄耳なソルジャーが割って入りました。
「こっちのハーレイがそれを見ながら盛り上がれるように、うんとエッチな写真をね…。裸でもいいし、見えそうで見えないのもいい感じだよね」
恥ずかしい写真をドカンとプレゼント! とグッと拳を握るソルジャー。
「そういう写真で盛り上がっていれば、モテ期が来たって大丈夫! アタックする先がブルーからぼくに逸れると思うよ、恥ずかしい写真の先へ進みたい気分になるってね!」
「き、君は…!」
何という危険なことをするのだ、と会長さんが震え上がって。
「先に進みたい気分になったら、ハーレイはぼくを狙うじゃないか!」
「平気、平気! 恥ずかしい写真はぼくのだから!」
おまけにぼくならもれなくオッケー、とソルジャーは親指を立てました。
「モテ期のハーレイ、常軌を逸しているんだろう? 普段だったら君一筋だけど、タガが外れてしまった時なら何はともあれヤリたい気分! ぼくでもオッケー!」
そしてぼくなら相手が出来る、とソルジャー、ニコニコ。
「こっちのハーレイが是非にと言うなら、しっかりお相手、しっかり手ほどき! それから帰って、ぼくのハーレイと楽しく夫婦の時間を過ごすわけ!」
「浮気はしないって言ってなかった!?」
「伝統と革新のためなら多少のリスクも負うべきだってね!」
それにぼくには美味しい時間、と唇をペロリと舐めるソルジャー。
「ぼくのハーレイの伝統の味も気に入ってるけど、こっちのハーレイの初物っていうのも素敵じゃないか。それでこっちのハーレイに度胸がついたら、いつかは君とゴールインだよ!」
行け行け、ゴーゴー! と拳を突き上げるソルジャーに何を言っても無駄らしいことは明明白白。こうなった以上、副作用が出ないことを祈るしかありません。元気モリモリとやらだけならソルジャーの写真で解決可能という話ですし、それで何とか乗り切れれば…。



ソルジャーにお漬物寿司を御馳走したばかりに、この始末。女物の浴衣を纏ったソルジャーは大人の時間の伝統と革新のためにと、いそいそと帰ってしまいました。自分の世界へまっしぐらだったら構いませんけど、さにあらずで…。
「…やっぱり一番にノルディの家だよ…」
頭を抱える会長さん。思念でソルジャーの行方を追跡中で、今はソルジャー、エロドクターの家に滞在中とか。
「夫婦の時間の伝統と革新に協力お願い、と強請ってるんだよ、お小遣いを!」
「…それはアレだな、漢方薬を買う費用だな?」
キース君が訊けば、「うん」と答えが。
「色々と処方を変えてみたいから、と頼んでいるねえ…。こっちのハーレイをモルモットに仕立てる話まで披露しているよ。…ええっ!?」
「どうした!?」
何があった、とキース君。私たちだって知りたいです。いったい何が、と会長さんに視線が集中。会長さんは赤い瞳を零れ落ちそうなほどに大きく見開いていましたが…。
「……嘘だろ、ぶるぅだと思っていたのに……」
「かみお~ん♪ ぼくがどうかした?」
「えっと、ぶるぅが違うんだけど…」
「ああ、ぶるぅ! ぶるぅ、元気にしてるかなあ?」
海の別荘、とっても楽しみ! と顔を輝かせる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーの世界に住む瓜二つの「ぶるぅ」は大親友で、会うと仲良く遊んでいます。夏休みの定番、マツカ君の海の別荘へのお出掛けの時は「ぶるぅ」も当然、やって来るわけで。
「今度はぶるぅがどうしたと?」
悪戯か、とキース君。「ぶるぅ」と言えば悪戯小僧の大食漢。エロドクターの家に降って湧いたかと思ったのに。
「…そうじゃなくって…。ぶるぅの出番だと思っていたら…」
ノルディだった、とソファに突っ伏す会長さん。えーっと、話が全然見えませんけど…?
「……恥ずかしい写真……」
消え入りそうな声が聞こえて来ました。恥ずかしい写真が何ですって?
「…ぶるぅに撮らせるんだと信じていたのに、ノルディだったんだよ…」
これから撮影会だって、と会長さんは激しく落ち込み中。自分そっくりのソルジャーがエロドクターに恥ずかしい写真を撮らせるんなら、死にたい気分になるかもですねえ…。



エロドクターのプレゼントだという女物の浴衣が乱れた写真やら、ヌードやら。更にはエロドクターが趣味で集めたエッチな衣装とやらも登場、ソルジャーは大量の恥ずかしい写真を撮って貰って御機嫌だとか。
「…救いはノルディが同じ写真を持ってないトコかな…」
そういう契約だったらしい、と語る会長さんの額に冷却シート。貼っていないと気が遠くなりそうなのだ、と愚痴りたい気持ちはよく分かります。ソルジャーはエロドクターの手元には一枚の写真もデータも残さずサヨナラ、花火見物の約束を改めて交わしただけで。
「今度はいつもの漢方薬の店に突撃中だよ…」
ソルジャー御用達の品を用意しようとした店員さんを止め、ああだこうだと相談中。スッポン多めだの、オットセイ多めだのと幾つもの処方を検討していて、決まったものから他の店員さんが配合を。今日の所は七種類ほど用意してくれと言っているそうで…。
「次は一週間後にまた、とか言ってる。お店の方でも上得意だからレアな薬を仕入れておくって約束してるよ、どうなるんだか…」
あんな薬でハーレイにモテ期が来てしまったら、と会長さんが泣けど嘆けど、止まらないのがソルジャーで。漢方薬店で七通りの配合をして貰った薬の袋を抱えて、大本命の教頭先生の家へとお出掛け。会長さんは額の冷却シートを押さえながら。
「…ぶるぅ、頼むよ。ぼくはもうダメ…」
「かみお~ん♪ 中継したらいいんだね!」
パアッと壁がサイオン中継の画面に変わって、浴衣姿のソルジャーが教頭先生の家の玄関チャイムを押している所。浴衣は綺麗に着付けられてて、変な写真を撮らせていたとは思えませんが…?
「…ああ、あれね…。ノルディの家には使用人も大勢いるってね…」
他の衣装で撮ってる間に綺麗にお手入れ、と会長さんの解説が。そうした部分までサイオンで覗き見してたんだったら、疲れ果てるのも無理はありません。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は無邪気なお子様ですから、中継内容が何であろうと全く問題ないですし…。
タッチ交代と映し出された画面のお蔭で、会長さんの言葉で聞くより臨場感はグッと増しました。教頭先生が玄関を開けて、「どうぞ」とソルジャーを招き入れています。
「悪いね、突然お邪魔しちゃって」
「いえ、御遠慮なく。…暑いですから、冷たいお茶でも如何ですか?」
「それよりアイスクリームとか…。冷たくて甘いお菓子がいいねえ」
我儘放題なソルジャーの腕にはしっかりと漢方薬店の袋。教頭先生、どうなるんでしょう…?



「…ほほう、伝統と革新ですか…」
漬物の世界も深いのですねえ、とソルジャーの話に相槌を打つ教頭先生。甘いものが苦手な筈の教頭先生の家の冷凍庫にはお値段高めのアイスクリームが各種揃っていたようです。あまつさえパフェ専用の器に三種類を盛り、シロップ漬けのフルーツでトッピングまで。
「漬物も奥が深いだろう? あ、美味しいね、このアイスクリーム」
「ありがとうございます。本当に食べて欲しい人には素通りされているのですが…」
夏場はきちんと揃えています、と教頭先生が挙げたラインナップには甘いゼリーや寒天なども。ソルジャーは「いいね」と大きく頷き。
「この夏は無駄にならないよ、それ。ぼくが毎日来てあげるから!」
「は?」
「実はね、君の手を借りたくて…。正確に言えば身体かな? 毎日一種類ずつサンプルを試して欲しいんだよ」
「…サプリですか?」
教頭先生の質問はもっともなもの。ソルジャーは「ううん」と首を横に振ると、「これ!」と漢方薬店の袋を差し出しました。
「いつもお世話になってる店でね、ぼくのハーレイも愛飲していてビンビンのガンガン! その店で相談に乗って貰って、夫婦の時間の革新を目指して行こうかと」
「…はあ…」
「伝統は守りつつ、革新をね! ただ、ぼくのハーレイは基本が薬嫌いなものだから…。副作用でも出たら二度と別の薬を試そうって気にならないだろうし、君に協力して欲しくって」
アソコが元気モリモリなんだよ、とソルジャーは薬の袋をズズイと前へ。
「君が飲んでくれて平気だったら、その薬をぼくのハーレイが飲む。そうやって何種類もの薬を試して、これだと思う薬を見付けて革新を!」
「…し、しかし…。わ、私がそういった薬を飲んでもですね…」
「大丈夫! おかずは山ほど持って来たから!」
好きな写真を選んで抜いて、とソルジャーは懐から分厚い封筒を。
「あ、この場で抜くって言うんじゃないよ? 元気モリモリを抜くのに使える写真だからね」
ぼくの写真の詰め合わせセット、と嫣然と微笑まれた教頭先生は耳まで真っ赤に染まりましたが、鼻血の代わりに「素晴らしいです…」と感動の面持ち。
「分かりました、お手伝い致しましょう!」
「本当かい? それじゃ、今日からよろしく!」
今夜はコレで、と指示を残してソルジャーは消えてしまいました。そして…。



「ハーレイのスケベ!!」
会長さんの怒声が響き渡るのが日常となった夏休み。マツカ君の山の別荘へのお出掛けも済んで、もうすぐお盆の棚経です。それが終われば海の別荘、ソルジャー夫妻と「ぶるぅ」も一緒に海へ。
「このまま行ったら、海の別荘までスケベなハーレイのままなんだけど!」
「落ち着け、別荘での滞在中は薬はやめるとあいつが言ったぞ」
キース君が言う通り、ソルジャーは別荘ライフの間は新しい薬探しは一時休止で、のんびり休暇を楽しむとか。でも…。
「未だに見付かってないって所が問題なんだよ、革新的な薬ってヤツが!」
「…ああ、それねえ…」
会長さんが怒鳴った所へ、ヒョイと空間を超えて来たソルジャー。
「ぼくのハーレイとも話したんだけれど、やっぱり伝統が一番かなあ、って」
「「「は?」」」
「持ちが良くなる薬もあったし、朝まで疲れ知らずのも優れものだってあったけど…。ああいうのはたまに使うから良くて、こう、毎日の夫婦生活にはマンネリこそがいいのかな、とね」
革新もいいけど伝統なのだ、とソルジャーは語り始めました。お漬物と同じで美味しいものには飽きが来ないと、マンネリな日々も飽きていないなら美味しいのだ、と。
「そういうわけでさ、ぼくとしては実験の日々を打ち切ってもいい。ただ…」
「「「ただ?」」」
「ぼくが来るからと、こっちのハーレイが色々とデザートを買ってくれてて、それをまだ全部食べていないんだ」
それにまだまだ買ってくれる予定、と微笑むソルジャー。
「この夏限定ってお菓子もあってさ、予約してくれてる分も沢山あるから…。食べ終わるまでは実験継続! 運が良ければ革新的な薬!」
「ちょ、ちょっと…! そういう基準で実験継続!?」
会長さんが慌てましたが、ソルジャーは。
「そう! それにさ、漢方薬店で聞いたんだけどさ…。副作用が殆ど出ないっていうのが売りらしいしねえ、漢方薬は」
ハーレイのモテ期はきっと来ないさ、と自信たっぷりなソルジャーは目的を既にはき違えてしまっている様子。教頭先生はソルジャーの来訪と夜の薬がお楽しみになりつつあるようです。夏はまだまだ続くんですから、夏限定のデザートだって…。



「なんでこういうことになるのさーーーっ!!!」
会長さんの大絶叫を耳を塞いでかわしたソルジャーは来た時と同じでパッと消え失せ、取り残された形の私たちだけがワタワタと…。
「…まだ続くのかよ、人体実験…」
「そうらしいですね…」
夏っていつまででしたっけ? というシロエ君の言葉で眺めた壁のカレンダー。お盆の棚経がまだということは、八月の後半が丸ごと残っています。
「九月は制服も夏服だよね…」
夏なんだよね、とジョミー君が肩を落として、キース君が。
「暑さ寒さも彼岸まで、とか言うからなあ…」
「秋のお彼岸までは夏ってわけね…」
当分は夏ね、とスウェナちゃん。終わりそうにない夏と、夏限定のデザートと。ソルジャーがすっかり食べ尽くすまでは、教頭先生は怪しい薬のモルモットで…。
「…始まりは漬物だった筈だが…」
「何処で間違えたんでしょう?」
分からないね、と溜息をつく私たち。実験終了の日も分からなければ、ソルジャーの趣味も分かりません。伝統を守ると言ったかと思えば、運が良ければ革新だとか。夏の終わりまで続くかもしれない、迷惑な日々。教頭先生が楽しんでらっしゃるんなら良しとしておくべきですかねえ…?




           お漬物と伝統・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 お漬物の話から、とんでもない展開になってしまったわけですけれど…。
 作中の「お漬物寿司」は実在してます、けっこう美味しいお寿司でオススメ。
 シャングリラ学園シリーズ、4月2日で連載開始から10周年を迎えます。
 11周年に向けて頑張りますので、これからも、どうぞ御贔屓に。
 次回は 「第3月曜」 4月16日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、3月は、恒例の春のお彼岸。例によってスッポンタケの法要。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









(いいな…)
 羨ましいな、とブルーは小さな溜息をついた。
 学校から帰って、おやつの時間の最中だけれど。羨ましいものはお菓子などとは全く違った。
 帰り道に出会った微笑ましい光景。バス停から家まで歩く途中で見たキャッチボール。
 下の学校に通う男の子、確か二年生か三年生。その子と、ブルーも顔馴染みの父親。その二人がキャッチボールをしていた、家の前の道路で楽しそうに。
 今日は父親の仕事が休みで、遊ぶ時間が取れたのだろう。親子で仲良くボール遊び。
 それが羨ましいと思ってしまう。ボールのやり取り、点数などとは関係無しに。



(ぼくもハーレイと…)
 あんな風に遊んでみたい、という気になった。遊ぶ親子を見ていたら。飛んでゆくボールや弾むボールを眺めていたら。
 ボールを使ったコミュニケーション、投げて、受け止めて、受け止め損ねて笑い合って。
 父とではなくて、ハーレイとボール遊びをしてみたい。さっきの親子がしていたように。
 キャッチボールもいいし、サッカーだって。
 大勢でボールを奪い合うサッカーは疲れるけれども、一対一なら、きっと楽しい。そう思える。ハーレイは手加減してくれそうだし、ボールの扱いも上手そうだから。



(明日はサッカーする子だって…)
 いるんだけどな、と壁のカレンダーに目を遣った。
 今日は金曜、明日は土曜日。学校も仕事も休みの週末、父親と遊ぶ予定の友人も少なくはない。現に一人はサッカーだと言った、近くに住んでいる従兄弟たちも一緒にサッカーだと。
(近所の公園でやるんだぜ、って…)
 チームの人数は少ないけれども、父や従兄弟や叔父たちとサッカー、頑張るんだと声を弾ませていた友人。試合の後には家に帰ってバーベキューだとも。
 バスケットボールを父に教わるという友人もいた。家の庭に作って貰ったゴールを目指して父と練習、教える父は学生時代にバスケットボールのクラブに所属していたから、と。



(ボール遊び…)
 明日は友人の他にも多くの同級生たちがやるのだろう。父親と遊ぶ予定の子も何人も。
(ぼくだって…)
 幼い頃には父とボールで遊んだ。生まれつき身体の弱い子ではあっても、少しくらいは。
 けれども学校の友人たちがやるような激しい遊びはとても出来なくて、ほんの真似事。サッカーボールは蹴ると言うより転がす程度で、それを追い掛けて遊んでいた。庭の芝生で。
 キャッチボールもして貰ったけれど、ボールが行き交う距離は短く、すぐに休憩時間になった。何度か投げたら、キャッチ出来たら「休もうか」と。
(あんまり頑張ると疲れちゃうから、って…)
 サッカーも、それにキャッチボールも、満喫する前に「このくらいにしよう」と父が宣言した。ボール遊びは終わってしまって、家の中へと促された。
 半時間も遊んでいなかったろうか、それでもはしゃいで熱を出すことが多かった。父は加減していたのだけれども、ブルーは全力だったから。身体中でボールを追っていたから。



 幼かった頃には熱を出そうが、懲りずに父にボール遊びを強請ったけれど。
 分別というものが身に付いて来たら、ボール遊びと発熱の関係も分かってくるから、無理を言うことも少なくなって。
 自然とやらなくなってしまった、庭での父とのボール遊び。
(それをハーレイとやろうだなんて…)
 絶対に無理、と首を振った。
 ハーレイが手加減してくれていても、きっと自分には強すぎる。投げられるボールが、ボールの飛んで来る強さが。
 第一、ボールを持ってはいない。遊ばないから、家には一つも。



(でも、ボール遊び…)
 やってみたい、と心で思い描く。
 幼い頃に父とやっていたように、ハーレイと二人でボール遊びを。
(キャッチボールでもいいし、サッカーだって…)
 うんと遅めに投げて貰えば、キャッチボールも出来そうで。転がすだけならサッカーだって。
 出来たらいいな、と思うけれども、自分の家には無いボール。
 ハーレイの家には大勢の生徒が遊びに行くから、持っているかもしれないけれど。庭でボールを使って遊ぼう、と置いているかもしれないけれど。
(頼んだら持って来てくれそうなんだけど…)
 出来るだろうか、ハーレイと何かボール遊びが。
 今までに一度もしていないけれど、ハーレイは付き合ってくれるだろうか?
 柔道だの水泳だのをやる子たちとはまるで違って、弱々しい自分とのボール遊び。家にボールを持っていたとしても、持って来た上で手加減してまで、我儘に付き合ってくれるのだろうか…?



 自分の部屋に戻った後にも考え込んでいたら、チャイムが鳴った。
 ボール遊びをしてみたくなった、そのハーレイがやって来たから。仕事帰りに訪ねて来たから、ついつい口から零れた言葉。テーブルを挟んで向かい合わせで座った途端に。
「…ボール遊び…」
「はあ?」
 怪訝そうな顔になったハーレイ。
 「ボール遊びがどうかしたのか?」と尋ねられたから、学校の帰りに見かけた親子の話をした。キャッチボールをしていた親子。とても羨ましかったのだ、と。
 それに友人たちの明日のボール遊びの予定も話した、幼い頃には父と遊んでいたことも。
 だからハーレイと何か出来たらと、ボール遊びをしてみたい、と。
「ボール遊びか…。お前、身体が弱いしなあ…」
「やっぱり駄目? ぼくの家、ボールも無いんだよ」
 遊ばないから無くなってしまった、とボールが無いことも打ち明けた。ボール遊びに欠かせないボールを持っていないと、ハーレイの家にはあるだろうか、と。
「ボールなあ…。そりゃあ、無いこともないんだが…」
 クソガキどもを遊ばせるんなら、庭でボールは定番だしな?
 しかし、お前とボール遊びか…。そいつは思いもよらなかったな。



 考えてはおく、と言ったハーレイ。
 頭から駄目だと断られたわけではなかったから。
(ボール遊び…。してくれるのかな?)
 キャッチボールでも、サッカーでもいい。手加減だらけで、転がるボールを拾うだけでもきっと楽しい、ハーレイとなら。ハーレイとボールで遊べるのなら。
 明日の土曜日には出来るのだろうか、ボール遊びが?
(出来たらいいな…)
 幼稚園児並みの扱いをされてもかまわないから。
 ハーレイが転がしてくれるボールを拾うだけでも充分だから。



 そして迎えた土曜日は晴れ、庭で遊ぶには最高の天気。
(ボール遊びが出来るといいのに…)
 やってみたいよ、と首を長くして待つ内、訪れた待ち人。二階のブルーの部屋でハーレイが荷物から出して来たボール。サッカーボールよりも小さなボール。
「持って来てやったぞ、ご注文のボール」
「ボール遊びをしてくれるの?」
「うむ。外へは出ずにな」
「えっ?」
 ボール遊びなのに、と目を丸くしたら、「お母さんたちには言っておいた」とウインクされた。心配無用だと、今日は二人でボールで遊ぼうと。
 外へは出ないというボール遊び。ハーレイが手にしたボールが何かも分からない。
(バレーボールとも違うよ、あれ…)
 真っ白なボール、艶のあるボール。見た目にはよく弾みそうなボール。
(何をするわけ…?)
 しげしげとボールを見詰めていたら、ハーレイはボールを床へと置いた。転がらないよう、手を添えてそっと。その場に落ち着いてしまったボール。
「まあ、食っちまえ、菓子」
 ついでにお茶も飲むんだな。腹が減っては戦が出来ん、と言うだろうが。
「うん…」
 そう答えてはみたけれど。やはり気になる、謎のボールと外へは出ないボール遊びなるもの。
(どんなのか想像つかないんだけど…!)
 けれど、お菓子を食べてしまわないと教えて貰えそうもない遊び。ボールの正体。仕方ないからフォークでケーキを口へと運んだ、ボールを横目で眺めながら。



 ボールの話はして貰えないまま、それでも二人で色々話して。ケーキのお皿が綺麗に空になり、一杯目の紅茶も無くなった所でハーレイが「さて」と椅子から立ち上がった。
「そろそろ始めてみるとするかな、ボール遊びを」
 お茶をおかわりする前に、とポットから二杯目の紅茶は注がず、「此処はシールド」と包まれたテーブル。ハーレイのグリーンのサイオン・カラーを纏って淡く輝くテーブル。
「シールドって…。何をするの?」
「こうするのさ」
 ハーレイが手に取った、さっきのボール。床に投げられ、ポンと跳ね上がったそれをハーレイの手が叩き落として、また跳ねたのを叩くから。
「えっと…。ドリブル?」
「そう見えるか? いいか、見てろよ」
「わあ…!」
 凄い、とブルーは歓声を上げた。ただのドリブルとは違っていたそれ。
 床から跳ねたボールに当たらないよう、ヒョイと片足を上げて下をくぐらせたり、跳ねるまでの間に身体をクルリと一回転させて何事も無かったかのようにポンと再び叩いたり。
 ボールをつきながら動くハーレイ、つく手を交差させたりもする。床で弾むボールを手で受けるけれど、叩いて床へと戻すけれども、それに合わせて様々なことをしてみせるハーレイ。
 それはさながらボールと戯れているかのようで。



「なあに、それ?」
 何と言う名前のスポーツなの、とブルーは尋ねた。見たこともない遊び方だから。ドリブルとはまるで違うから。
「毬つきさ」
「まりつき…?」
 聞いたことさえ無い言葉。毬という単語は知っているけれど、毬つきは初めて聞く言葉。
「毬は分かるだろ、ボールだな。そいつをつくんだ、こうして叩く、と」
 この辺りに日本って国があった時代の古い遊びだ、俺はおふくろに教わったんだ。
 本当はこうだ、と歌がついた。下手なんだがな、と苦笑いしながら。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ…」
 ボールを叩いてはクルリと回って、足の下をくぐらせたりしつつ歌うハーレイ。けして下手とは言えない歌。上手な歌。ブルーにも歌は聞き覚えがあって。
「その歌、それの歌だったの?」
 古い歌だっていうのは知っていたけど、えーっと、毬つき? それに使う歌?
「そうだ、本当はな。毬つきに使うから手毬唄と言うんだ」
 他にも色々あるんだが…。おふくろは幾つも歌えるんだが…。
 俺はこいつしか覚えてないなあ、歌よりも技の練習の方に夢中になっていたからな。



 やってみるか、と渡されたボール。ハーレイが意のままに操っていたボール。
 白いボールをポンとついてみて、床で弾んで戻って来たのを、またポンと床へ戻してやって。
「よし、その調子だ。基礎はきちんと出来るようだな」
 そこで片足、と合図されたから、右足を上げてみたけれど。ボールはその足をくぐる代わりに、足にぶつかって別の方へと飛んでしまった。もちろん追い掛けて叩けはしないし、好きにポンポン跳ねて転がってしまったボール。壁に当たってコロコロと。
「…失敗しちゃった…」
 ボールを拾って元の位置に戻ると、「コツが要るんだ」と教えられた。ボールが跳ね返るまでの時間を見定め、それに合わせて足を上げろ、と。
 理屈は理解できるけれども、上手くいかないのが毬つきで。
「違うな、手本を見せてやるからよく見ておけよ?」
 こうだ、とハーレイにかかれば何でもないこと、ボールを足にくぐらせること。あんな風に、と返して貰ったボールに挑戦してみるけれど。
(今かな?)
 これで出来る筈、と足を上げてもぶつかるボール。くぐってくれずに足に当たるボール。
 上手く出来ない毬つきの基本らしい技。足の下をくぐってくれないボール。



 ブルーがせっせと頑張っていたら、「一休みしろ」と解かれたテーブルのシールド。あらぬ方へ飛んだボールがカップやお皿を割らないように、とハーレイが張っていたシールド。
 そのテーブルを挟んで座って、お茶のおかわりをカップに注いでハーレイの昔話を聞いた。今はまだブルーは遊びに行けない、隣町のハーレイが育った家。庭に大きな夏ミカンの木があると聞く家。その家でハーレイが母に習った毬つきの話。
「おふくろは昔の遊びも好きなんだ。毬つきもその中の一つだな」
 ガキだった頃の俺には曲芸みたいに見えたんだ。覚えてやろう、と頑張ってたなあ、おふくろは笑っていたけどな。元は女の子の遊びなのに、と、そりゃあ可笑しそうに。
「女の子の遊びだったんだ…」
「うむ。男の方は同じ毬なら蹴鞠だ、蹴鞠」
「蹴鞠?」
「毬を蹴るんだ、しかし地面に落としちゃいかん。落とさないように蹴り続けるのさ」
 こう輪になって、と聞かされた蹴鞠は毬つきよりも遥かに難しそうだった。蹴り上げられた毬が自分の所へ落ちて来たなら、地面につく前に上へと蹴る。次の人へとパスを送る蹴鞠。
(…毬つきの方がよっぽど簡単…)
 一人で練習すればいいのだし、遊ぶ時にも一人だけ。自分のペースで遊べる毬つき、他の人からパスされはしない。それに何より、ハーレイに習った。ハーレイに教えて貰った毬つき。
 古い遊びでも、女の子向けの遊びであってもかまわない。ハーレイと同じ技を持てるのならば。



「毬つき、ぼくも上手になりたいな…」
 ハーレイがやってるみたいに、上手に。足の下をくぐらせるだけじゃなくって、他にも色々。
「ふうむ…。お前にピッタリのボール遊びかもしれんな、毬つきってヤツは」
「なんで?」
 どうしてぼくにピッタリだって言うの、ちっとも上手に出来ないのに。
「そこだ、上手に出来ないって所だ。毬つきはサイオン抜きでやるのが決まりだからな」
 サイオンを使っちまえば、俺がやってたような技だって誰でも出来る。毬の動きを操れるしな。しかし、そいつは反則ってヤツで、毬つきはサイオンを使っちゃいかん。
 つまりだ、お前みたいにサイオンが不器用なヤツでも、頑張り次第で上手に出来る、と。
「そっか…」
 ぼくだとズルをしたくなっても、サイオン、上手く使えないしね…。
 練習さえすれば、サイオンが使える人よりも上手に毬つき出来るかもしれないんだね。



 頑張れば自分だってハーレイのように毬つき出来る筈、と休憩を挟んで、また毬つき。
 白いボールと格闘する間、ハーレイはテーブルにシールドを張っていてくれた。それに毬つきの手本も何度も見せてくれたし、「今だ」とタイミングも声で知らせてくれた。
 「休めよ」と言うのも忘れずに。少し休めと、椅子に座れと。
 そうして二人で練習する内、母が運んで来た昼食。「上手になった?」と微笑んだ母。
 昼食を食べる間は毬つきは休憩、食後のお茶が運ばれて来るまで休んだけれど。
「ハーレイ、毬つき、またやろうよ」
 もうたっぷりと休んだから。一時間くらいは休んでいたから、さっきの続き。
「疲れちまうぞ。お前、俺が来てからずっと毬つきばかりだろうが」
 休む時間を取らせてはいるが、やりすぎはいかん。おやつを食べてからにしておけ。
「でも、覚えたいよ…!」
 休みすぎたら勘が狂うよ、ぼくは覚えていないんだから!
 足の下をヒョイとくぐらせるヤツ、まだ一回も出来ていないんだから…!



 あれを覚えるまで練習させて、とハーレイにせがんで、頑張って。
 続け過ぎると疲れるぞ、と渋るハーレイに「じゃあ、歌に合わせてつく練習」と言い訳をして、足は上げずにボールだけをついた。ボールが床から戻って来る時間を掴めるように。
「あんたがたどこさ、肥後さ…」
 そう歌いながらボールをついたり、足の下をくぐらせる練習をしたり。
 午後のおやつを母が運んで来るまで、休み休みで頑張った毬つき。歌に合わせてつく方は上手になったけれども、くぐらせられない足の下。
 おやつを食べ終えて、またやろうとしたら、「そのくらいにしておけ」と止められたけれど。
「もうちょっと…!」
 あと少しだけ頑張れば出来そうなんだよ、もうちょっとだけ…!



 結局、何度も休憩をさせられながらも、夕食前まで続けた練習。
 なんとかボールは足の下をくぐってくれるようにはなったけれども。
「…持って帰っちゃうの?」
 ボール、とブルーは帰り支度を始めたハーレイの手元を見詰めた。白いボールは荷物の中。出て来た時とは逆のコースで入れられてしまった、荷物の中へと。
「置いて帰ったら、お前、絶対、無理するからな」
 一人で練習なんかしてみろ、夢中になって時計なんか見ないに決まってる。
 俺がついてても「もうちょっと」ばかり言っていたんだ、見てなきゃ無茶な練習をする。
 そうならないように持って帰るさ、ボールが無ければどうにもならんし。



 「また明日な」と手を振ったハーレイと一緒に帰って行ってしまったボール。練習したくても、ブルーの家には無いボール。
 仕方がないから、あの歌を歌うことにした。毬つきの歌を。
「あんたがたどこさ…」
 歌に合わせてボールをついているつもりで上げてみた足。このタイミングならば、ボールは足に当たることなく上手にくぐってくれただろう。
(うん、こうやって練習すれば…!)
 ボールが無くても、弾む姿は覚えているから。本物のボールが跳ねていないから、どんな技でも練習出来そうな気さえしてくる。床で弾んで戻って来る前にこういう技を、と。
(クルリと回るの、やっていたよね…)
 弾むボールに背を向けるようにクルリと回転、そんな技さえ今なら出来る。ポンと叩いて、幻のボールが弾む間に身体をクルリと、ハーレイがやっていたように。
(こうして練習しておけば…)
 明日は上手につけるだろう。足をくぐらせる技を復習したなら、その次はこれ。
(きっとハーレイ、ビックリするよ)
 頑張らなくちゃ、と幻のボールを何度も何度もつき続けた。母に「お風呂よ」と呼ばれるまで。お風呂に入ってパジャマを着た後も、ベッドに入る時間になるまで、何度も何度も。



 満足するまで練習してからベッドに入ったブルーだけれど。
 心地良い疲れに引き込まれるように、ぐっすり朝まで眠ったのだけれど。
 日曜日の朝、目覚ましの音で目を覚まして起きようとした途端。
(えっ…?)
 クラリと軽い眩暈が襲った。枕に逆戻りしてしまった頭。
 一瞬だったから、天井が回りはしないけど。身体も重くはなかったけれど。
(いけない…!)
 昨夜、頑張り過ぎた毬つき。幻のボールで続けた練習。
 そうならないよう、ハーレイはボールを持って帰って行ったというのに。「無茶をしそうだ」と言われていたのに、本当に無茶をした自分。ありもしないボールをついているつもりで。
(…失敗しちゃった…)
 けれど眩暈はほんの一瞬、それきり起こらなかったから。
 何食わぬ顔をして顔を洗って、ダイニングで朝食を食べる時にも両親には言わずに隠し通した。今日も毬つきの練習をしたいし、新しい技も試したいから。
 眩暈を起こしたと告げてしまえば、母はハーレイに報告するに決まっている。そうなれば練習はさせて貰えず、ボールに触れられもしないのだから。



 幸い、二度目の眩暈は起こらず、顔色だって悪くはなくて。
 もう大丈夫だと、平気なのだと思っていたのに、訪ねて来てくれたハーレイは椅子に座るなり、ブルーの顔を覗き込むと。
「毬つきの練習、今日は駄目だな」
「えっ?」
 何故、とブルーは瞬きをした。新しい技にも挑みたいのに、何故駄目なのか。
「お前、具合が悪いんだろう?」
「そんなこと…!」
 ない、と反論したけれど。「顔に書いてある」と指摘された。それは隠し事をしている顔だと、具合が悪いに違いないと。
「寝てなきゃいけないほどでもない。…軽い眩暈を起こしたってトコか」
「なんで分かるの!?」
「後ろめたそうな目つきだからだ。バレませんように、と俺を見ているってことは、バレたら困る何かがあるってことで…。考えてみれば直ぐに分かるさ、お前は毬つきがしたいんだしな」
 具合が悪けりゃ、毬つきなんかはさせられん。そう言われるのが嫌で黙っていたんだろうが…。
 この俺に嘘をつこうだなんて、チビには百年早いんだ。
 前のお前の時にしたって、俺にだけはバレていたろうが。具合が悪いのに「大丈夫だよ」と嘘をついてたな、前のお前も。俺には呆気なくバレていたがな。



 今日は毬つきはさせられないな、と言い渡された。
 身体を動かす遊びは駄目だと、今日は大人しく過ごすようにと。
「…ボール…。ハーレイ、持って来ているんでしょ?」
 ほんのちょっとだけ、触っちゃ駄目? 一回か二回、ポンとつくだけ。椅子に座って。
「ボールは持っては来ているんだが…。こういうオチだと思っていたしな」
 俺が帰った後に何をしたかは知らないが…。お前のことだし、ボール無しでも何かやったな。
 無茶をするなと注意したって、この有様だ。今日はボールは禁止だ、禁止。
 これにしておけ、と荷物の中から出て来た小さなボール。そう見えたそれは、本物の手毬。
 色とりどりの糸でかがられ、美しい模様がついた手毬で。



「手毬…?」
 テーブルに置かれた手毬をブルーがまじまじと見詰めていると。
「毬つきってヤツは、元々はこういう手毬を使っていたんだ」
 今じゃ手毬は毬つきと言うより、飾り物になってしまっているがな。…もっとも、そいつはSD体制が始まるよりも前の時代から既にそうだった。実用品じゃなくて飾り物だ。
 同じ飾るなら凝った模様を、と色々な手毬が作られていたんだ、手間暇かけてな。
 この手毬は俺のおふくろの手作りの手毬だ、こういうのを作るのも大好きだからな。
「ホント…?」
「うむ。飾りだけあって、そんなに弾みはしないんだが…」
 やってみてもいいぞ、と促されたから、ブルーは手毬を床に向かって投げてみた。昨日ボールでやっていたように、跳ね返って来たらついてみようと。
 それなのに弾まない手毬。床に落ちても僅かしか跳ねず、コロンと転がってしまった手毬。
「…手毬なのに跳ねてくれないの?」
 床に屈んで拾い上げると、ハーレイが「うむ」と頷いた。
「さっきも言ったろ、飾り物だと。今じゃ毬つきはボールだってな」
 よく弾むボールがちゃんとあるんだ、こういう跳ねない手毬よりかは断然そっちだ。
 こんな手毬じゃ、出来る技も限られてくるからなあ…。
「そうだね、ハーレイがやっていた技、こういう手毬じゃ出来ないね…」
 どんなに上手についていたって、毬が高くは跳ねないんだもの。
 跳ねてる間にクルッと回ったりしている暇が無いよね、毬が落っこちちゃうものね…。



 飾りなんだ、とブルーは手毬を観察してみた。模様も地色も糸で出来ていて、幾重にも巻かれて毬の形になっている。芯になるものはあるのだろうけれど、それを一面に取り巻いた糸。中の芯が全く見えなくなるまで重ねて巻かれた細い細い糸。
(なんだか凄い…)
 どれほどの手間がかかるものなのか、どれほど根気が要るものなのか。細い糸だけで模様を描き出すなど、地色まで糸で埋め尽くすなど。
「気に入ったのか、それ? プレゼントしてやるわけにはいかんが…」
 大人しくするなら、そいつを貸しておいてやる。暫くベッドに横になっておけ。
「…寝るの?」
 寝なくちゃ駄目なの、ハーレイが来てくれたのに…?
「ぐっすり寝ろとは言ってないだろ、横になれと言っているだけだ。身体を休めた方がいい」
 疲れすぎたんだ、昨日の毬つきを頑張り過ぎて。それと、その後の自主トレーニングだな。
 明日、学校を休みたくなきゃ、しっかり疲れを取っておくんだ。
 横になるだけでも違うからなあ、座っているよりその方が早く治るってな。



 パジャマには着替えなくてもいいから、とベッドの方を指差された。
 言われるままに横になったら、ふわりと掛けられた薄い上掛け。
「ウッカリ寝ちまうってこともあるしな、これは掛けておけ」
「…うん…」
 寝たくないけど、と返したら「ほら」と置かれた手毬。枕の側に。ブルーからよく見える所に。
「眠気覚ましだ、さっき貸してやると言っただろう」
 触っていてもいいし、見るだけでもいい。退屈しのぎに持っておくんだな。
 もっとも、退屈している暇があるかは分からんが…。
 今から昔話をしてやる、この俺の昔話だぞ?
 それとも本物の昔話の方がいいのか、いわゆるお伽話ってヤツが。
「…ううん、ハーレイの昔話がいいよ」
 うんと昔の話がいい。ハーレイがぼくより小さかったくらいの、うんと小さな子供の頃の。
 そういう話を聞かせて欲しいな、せっかくだから。
「よしきた、俺のガキの頃だな」
 柔道と水泳はやってたんだが、そういうのは抜きで話してやろう。
 ネタだけは山ほど持っているんだ、武勇伝から失敗談まで、それこそ星の数ほどな。



 昔々、隣町の大きな夏ミカンの木がある家に…、と始まったハーレイの語る昔話。
 王子様の代わりにクソガキが主人公の物語。
(…ふふっ、クソガキ…)
 ブルーの知らない今のハーレイ、出会うよりも遥かに前のハーレイ。
 そのハーレイが、少年のハーレイが駆け回る姿が見える気がした、隣町の家で。夏ミカンの木がある家の庭を走って、あちこちに顔を突っ込んで回って。
 毬つきの練習は家の中で母と一緒にしたという。二人並んでボールをついて。
 弾むボールに猫のミーシャがじゃれついたことや、ミーシャにボールが当たったことや。
(痛かったよね、ミーシャ…。クソガキのボール)
 ミーシャの尻尾に当たったボールは、ハーレイがついたらしいから。ポンと叩いて弾んだ先に、ミーシャの真っ白な尻尾があったらしいから。
 暫くは御機嫌斜めだったミーシャ。ハーレイがミルクを御馳走するまで拗ねていたミーシャ。



(ハーレイがクソガキ…)
 その頃のハーレイを見てみたかった、とクスクスと笑う。
 毬つきの練習は出来なかったけれども、それは幸せな日曜日。
 ハーレイの母が作った手毬を見ながら、触りながらクソガキの昔話を聞いている自分。
(…毬つきだけでもネタが山盛り…)
 クスッと笑ってしまう話や、ミーシャが気の毒になる話。ハーレイの思い出が詰まった毬つき。
 いつかまた、ハーレイと毬つきをしたい。
 疲れさせてしまった、とハーレイが心配しなくても済むようになったなら。
 焦らずにゆっくり練習出来るよう、同じ家で暮らすようになったなら。
 そして毬つきの思い出を増やそう、今はまだ一つしか持っていないから。
 昨日の分しか持っていないから、毬つきの思い出をハーレイと二人で、二人分で…。




             毬つき・了

※ブルーがハーレイとやってみたくなった、ボール遊び。教えて貰った遊びは毬つき。
 夢中になって練習しすぎた結果、寝込んでしまいましたけど…。それでも幸せ一杯の日。
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 大好きなお風呂。ブルーはお風呂が好きでたまらない。
 体調を崩してしまった時でも、熱が無ければ入ろうとするほどのお風呂好き。バスタブに入ってゆったり浸かって、寛ぎの時間。
 今夜もゆっくりと身体を温め、心地良いバスタイムを楽しんだ後で、バスタオルをふわりと。
(ふふっ、幸せ…)
 お日様の匂いのバスタオルが。
 今日は朝から良く晴れた一日だったから。母がバスタオルも外に干して乾かしたのだろう、陽の光をたっぷり吸い込むように。ふわふわのタオルになるように。
 機械でも充分乾かせるけれど、仕上がり具合は同じだけれど。
 陽に当てたタオルはやっぱり違う。機械では出せない太陽の匂い、陽の光を吸うから漂う匂い。
 ふわふわのフカフカに乾いたタオルは肌に気持ち良く、鼻でも感じる幸せの香り。
 こういうタオルに出会えた時には、特に幸せになるけれど。いつも以上に幸せなお風呂上がりになるのだけれども、今日の幸せはもっと大きくて。
 心の底から湧き上がる喜び、なんて幸せなのだろうかと。
 ふわふわのタオルだと、ふかふかのタオルだと跳ねている心。弾んだ心。
 バスタオルを羽織っただけだというのに。お日様の匂いの大きなタオルを一枚羽織って、水気を拭おうとしただけなのに。



(…なんで?)
 何故そんな風に思ったのか。特別な気持ちになったのか。たった一枚のバスタオルで。
 不思議でたまらない、お風呂上がり。
 お日様の匂いのバスタオルならば、天気のいい日には必ず出会えるものなのに。母が出掛けたりしない限りは、ほぼ間違いなく出会えるのに。
(どうして今日は特別なの?)
 身体を丁寧に拭いてみたけれど、分からない。ふかふかのタオルが水気を吸うだけ、濡れた肌が乾いてサッパリするだけ。お湯の温もりを残したままで。バスタブで身体を隅々まで包んだ、熱いお湯の名残を留めたままで。
 拭き終わったバスタオルを専用の籠へと放り込む前に、顔だけを埋めてみたけれど。
 何か分かるかとパジャマ姿でバスタオルに顔を埋めたけれども、掴めない理由。幸せの理由。
 バスタオルは水気を吸ってしまって、もうフカフカではなかったから。
 ふわふわの幸せも、お日様の匂いも、何処かへ消えてしまったから。
 仕方ないから、湿ったバスタオルに別れを告げた。専用の籠へと放り込んで。



 温まった身体で部屋に戻って、腰を下ろしたベッドの端。
 パジャマだけでも寒くはないから、そのまま其処で考え事。お風呂上がりからの考え事の続き。
(バスタオル…)
 どうしようもなく幸せだった。バスタオルを肩に羽織っただけで。
 ふかふかのタオルが濡れた身体を包み込んだだけで。
(それはいつもと変わらないのに…)
 お日様の匂いのバスタオルが気持ちいいのは、普段と同じ。幸せだけれど、当たり前のこと。
 幸せなのだと感じるけれども、ふわふわでお日様の匂いだから。太陽の光を浴びたバスタオルで昼間の幸せが蘇るから。今日は天気のいい日だったと、こんな幸せな出来事があった、と。
 けれども今日は違っていた。いつもの幸せとは違っていた。
 もっと大きな幸福感。満ち足りた気持ちとは少し違って、身体中に幸せが広がった。
 ふかふかのタオルだと、ふわふわのバスタオルに包まれたと。
 自分にとっては当たり前の小さな幸せなのに。湯気を立てているホットミルクやココアを喉へと落とし込む時、ホッとするのと変わらない程度の小さな小さな幸せなのに。
 なのに特別に思えた幸せ、心が弾んだほどの幸せ。
 では、あの気持ちは…。



(…ぼくじゃない?)
 今の自分とは違う自分が連れて来たろうか、あの幸せを?
 たった一枚のバスタオルだけで、太陽の匂いのバスタオルだけで。
(今のぼくとは違うとしたら…)
 それならば分かる。前の自分の記憶が心を掠めたのなら、違う幸せにも出会うだろう。
 前の自分は、今の自分とは全く違った人生を生きていたのだから。
 違う人生ならば幸せの記憶もまるで違うし、同じバスタオルでも見る目が異なる。
(シャングリラにはお日様、無かったしね…)
 白い鯨の公園などを照らした光は人工のもので、洗濯物など干してはいない。乾かしていない。
 そのせいで幸せだと思っただろうか、地球の太陽の光の匂いがするタオルだと。
(…そうなのかな?)
 前の自分も太陽の光は知っていたから。白い鯨の外に出た時は、アルテメシアの太陽の日射しを浴びていたから、それが幸せの記憶なのかと考えた。
 前の自分は眺めるだけしか出来なかった太陽、洗濯物を乾かすことなど出来なかった光。
 きっとそうだと、そういう記憶が幸せを運んで来たのだろうと、遡ってみた前の自分の記憶。
 太陽の記憶は何だったろうかと、バスタオルの幸せと繋がらないかと手繰り寄せていて…。



(アルタミラ…!)
 それだ、と気付いた幸せの意味。バスタオルで感じた幸福の理由。
 アルテメシアの太陽の記憶では無かった、あの幸せを連れて来たものは。バスタオルに包まれて幸福感を覚えたことの引き金、それは前の自分の辛く惨めな時代の記憶。
(…あの頃は何も無かったんだよ…)
 狭い檻と幾つもの実験室。檻から引き出されて歩いた通路といったものしか無かった時代。
 自分の意志では何も出来なくて、持ち物さえも何も無かった。自由に使えるものなどは無くて、心も身体も成長を止めた。
 自分では意識しなかったけれど、育っても未来がありはしないから。何処までゆこうが檻の中が全て、其処から自由に外に出られはしないから。
(バスタオルなんて…)
 何処にも無かった、ただの一枚も。
 お日様の匂いのタオルどころか、くたびれて湿ったバスタオルさえも貰えなかった。そういった物は不要だったから。実験動物にお風呂など要りはしなくて、バスタオルも同じ。
 実験や日々の暮らしで汚れてしまった身体は洗浄用の部屋で洗われた。四方八方から吹き付ける水で洗われ、それが終われば乾燥用の風が壁から吹き出した。
 実験で傷ついた身体が、肌がひび割れようとも、実験動物は乾かされるだけ。
 柔らかいタオルを貰えはしなくて、自分の身体を拭くことも出来ずに乾かされていた。どんなに痛くて転げ回ろうが、悲鳴を上げて蹲ろうが、乾燥用の風は止まらなかった。
 実験動物に優しくしてやる必要は無いと、バスタオルも風呂も、何もかも要りはしないのだと。



 あまりにも惨い時間を、日々を長く過ごしたから、研究所の檻で生きていたから。
 アルタミラから脱出した直後に浴びたシャワーが嬉しかった。燃え上がり崩れゆく星を走る内に汚れてしまった身体を清めてくれたシャワーが、冷水ではなくて熱かった湯が。
 それにシャワーを浴びに行く時、「ほら」と渡されたバスタオルも。
 ハーレイが貰って来てくれたバスタオル。ふわりと乾いていたタオル。
 「要るだろ」と褐色の手が差し出した。
 シャワーを浴びるならタオルが無いと、と大きなバスタオルを渡された。これを使えと。
(あの時のタオル…)
 成人検査を受けるよりも前の記憶は全て失くしてしまったけれど。
 シャワーを浴びたり、バスタブに浸かったり、そうした記憶も微塵も残っていなかったけれど。
 辛うじて覚えていた使い方。シャワーも、ふかふかのバスタオルも。
 熱いお湯で身体中の埃を洗い流して、サッパリした後にくるまったタオル。ふかふかのタオル。乾燥用の風とは違って、身体を優しく包み込んだタオル。何の痛みも感じさせずに、ただ心地良さだけを与えてくれた。肌に残った水気を吸い取り、乾かしてくれた。
 その時に感じた幸福感。ふかふかの手触りが幸せだったバスタオル。
 実験動物から人になれたと、バスタオルを使える人間の世界に戻れたのだ、と。



 後にシャングリラと名を変えた船に乗り込んでからは、当たり前に使えたバスタオル。
 シャワーを浴びに行きたい時には一枚、いつでも自由に使って良かった。様々なものを洗濯する役目を選んだ者たちが、毎日洗ってくれていたから。洗って乾かし、所定の場所に置いたから。
 そこから一枚、好きに取ってはシャワーを浴びに出掛けていた。
 人間だからこそ出来た贅沢、シャワーも、それに乾かすための大きなバスタオルも。
 最初の間は船に備え付けられていたバスタオルを使っていたのだけれども、人類の船から物資を奪うようになると、バスタオルの質はぐんと上がった。専用に運ぶ輸送船から失敬したから。同じ奪うなら上質なものをと、高級品を狙ったから。
 そうして良いものを使っていたから、白い鯨が出来上がった後も。
(タオルはふかふか…)
 青の間のタオルも、仲間たちが使ったバスタオルも。
 肌触りの良いタオルに慣れたら手放せないから、作る者たちも妥協しないで本物を目指した。自給自足の船の中でも良いものは出来ると、作り出せると。



(うん、本当にふかふかだったよ…)
 アルタミラから脱出した直後に使ったバスタオルも、白いシャングリラのバスタオルも。
 乾いた空気をたっぷりと含んでふかふかしていた、お日様の匂いはしなかったけれど。船の中に本物の太陽は無いから、日射しは存在しなかったから。
(だけど、ふかふか…)
 幸せだった、と思い出したから。あのバスタオルが幸せな日々だったのだ、と気付いたから。
 明日、ハーレイに話してみようと思った。自分が見付けた幸せのことを、記憶の彼方から届いたバスタオルの幸せのことを。
 明日は土曜日だから、ハーレイが訪ねて来てくれる日だから、バスタオルのことを。
 忘れないよう、メモを取り出して「バスタオル」と書き、勉強机の真ん中に置いた。こうすれば朝には気が付くだろうし、忘れていても思い出せるから。



 翌朝、目覚めてメモを目にして。
(バスタオルだっけね)
 もう忘れない、と顔を洗いに行ったら、其処でもタオル。ふかふかの感触、お日様の匂いがするタオル。一度戻った記憶は鮮やかで、そのタオルも昨夜の幸福感を届けてくれた。
 ふかふかのタオルは幸せなのだと、こうしたタオルを使える幸せな日々を自分は手に入れたと。
 顔を拭いて、それから朝食を食べて。部屋の掃除を終えて待つ内に、鳴らされたチャイム。待ち人が部屋にやって来たから、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったから。
 母が置いて行ってくれたお茶を飲みながら、早速、タオルの話を始めた。
「ねえ、タオルって幸せだよね。…バスタオルとか」
「はあ?」
 意味が掴めていないハーレイ。怪訝そうな顔をしているハーレイ。
 それはそうだろう、いきなりタオルの話では。しかも「幸せ」などと言われたのでは。
 だから慌てて続きを話した。「アルタミラの後」と。
 初めてシャワーを浴びに行く時、ハーレイにタオルを貰ったよ、と。
 バスタオルを「ほら」と渡してくれたと、「要るだろ」と持って来てくれたと。



「ああ、あれな。…お前、ボーッとしていたからな」
 シャワーの順番、もうすぐだぞ、と言ってやってもボーッとしてて…。
 どうすりゃいいのか分からない、って顔をしてたから、バスタオルを貰いに行って来たんだ。
「そうだった…?」
 覚えていないよ、シャワーがとっても嬉しかったことは覚えているけど…。
 ハーレイがバスタオルをくれたってことも、ちゃんと覚えているんだけれど。
「そのシャワー。…バスタオルもだが、使い方から教えなくちゃいかんのかと思ったぞ、俺は」
 何もかもすっかり忘れちまって、シャワーの浴び方も分からないかと…。
 バスタオルの意味も分かってないかと、一瞬、本気で心配したな。
「いくらなんでも、そこまでは…。ううん、ちょっぴり危なかったかも」
 シャワーの使い方、絵で書いてあったから分かったけれど…。あれが無かったら、お湯と水との切り替えなんかは気が付かなくって、頭から水を浴びていたかも…。うんと冷たいのを。
 それで身体が凍えちゃっても、お湯にすればいいって知らずに最後まで浴びて。
 バスタオルだって、身体を拭く代わりにくるまって震えていたかも、そういう使い方だ、って。
 シャワーを浴びたら寒くなるから、暖かくなるように羽織るんだ、って。
「お前なあ…。やはり危険はあったわけだな、あの時のシャワー」
 ボーッとしていただけじゃないんだな、半分、分かっていなかったんだな。
 シャワーって言葉を覚えてはいても、記憶は曖昧になっていた、と。
 その日の気分で熱い湯にしたり、冷たい水でスッキリしたりといった部分は忘れてたのか…。



 記憶が危うくなっていたなら付き添ってやれば良かったな、とハーレイはフウと溜息をついて。
「…それで、バスタオルだかタオルだかの何処が幸せだと言うんだ、お前は?」
 使い方を間違えそうだったらしいが、どの辺が幸せに繋がるんだ…?
「そっちは今のぼくとも繋がっているんだよ。ふかふかのをいつでも使えるもの」
 お日様の匂いがしているタオルとか、バスタオル。ふかふかのフワフワのタオルのこと。
 前のぼくもタオルを使う時には幸せな気分がしたけれど…。
 今のぼくだと当たり前になってしまっているよね、ほんのちょっぴりだけの幸せ。バスタオルの使い方も危なかったような前のぼくだと、もっと幸せだったのに…。
 お日様の匂いのバスタオルだったら、幸せどころか感激だろうと思うんだけど…。
「なるほどなあ…。それがタオルの幸せってヤツか、やっと分かった」
 お前、青の間でも言っていたしな。ふかふかだ、って。
「やっぱり話していたんだね、ぼく。…前のぼくのタオルの幸せのこと」
「毎日ってわけではなかったがな」
 たまに思い出したように話していたなあ、こういうタオルが使える毎日は幸せだ、とな。
 そういや、前のお前のタオルの幸せ。
 バスタオルだとかタオルだけじゃなくて、もっと他にもあったっけなあ…。



 ふかふかになったタオルの幸せ。それを使える日々の幸せ。
 前のブルーはバスタオルやタオルの他にも幸せを感じていた、と言われたけれど。
 それが何なのか、どういったものでタオルの幸せを噛み締めていたのか、考えてみても欠片さえ思い出せなくて。何処にタオルの幸せがあったか、手掛かりさえも見付からなくて。
「…ハーレイ、それって何処にあったの? 前のぼくが言ってたタオルの幸せ」
 バスタオルとかタオルじゃないなら、何処からタオルの幸せになるの…?
「ん…? タオルそのものではなくてだな…。タオル地ってヤツだ、バスローブだ」
 あれはタオル地で出来ていただろ、風呂上がりにしか着ないわけだが。
「あったね、そういうバスローブ…。お風呂上がりにしか使わないから、贅沢だって?」
 そう言ったのかな、前のぼく。こんなに贅沢な使い方をしているタオルだよ、って。
 お風呂上がりにしか着られない服を作れる生活が出来るんだよ、って。
「いや、そうじゃなくて…。お前が幸せを感じていたのは俺のバスローブだ」
「ハーレイの…?」
 普通のより多めに生地が要るからかな、ハーレイのためのバスローブだと。
 うんと贅沢に作れる時代になったんだ、って眺めていたかな、前のぼくって…?



「うーむ…。その様子だと、お前、忘れたんだな。せっせと運んでくれていたのに」
「え…?」
 何のことかとブルーは首を傾げたけれど。思い出せないタオルの幸せ、ハーレイのバスローブを運んだ自分。何処から何処へと運んでいたのか、何故バスローブを運んだのか。
 まるで全く記憶には無くて、「どういう意味?」と尋ねてみたら。
「そのままの意味だ、前のお前がやっていたんだ。…流石にアレは隠しておけないからな」
 瞬間移動で運んでくれたぞ、俺の部屋から。戻す時にも瞬間移動で。
 忘れちまったか、俺のバスローブをお前が運んでいたことを?
「ああ…!」
 分かった、とブルーの脳裏に蘇った記憶。
 確かに自分が運んでいた。前の自分が瞬間移動で、タオル地のハーレイのバスローブを。



 白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイと秘密の恋人同士だった頃。
 毎夜のように青の間に泊まっていたハーレイ。ブルーのベッドで眠ったハーレイ。
 朝まで青の間で過ごすからには、シャワーも浴びるし、バスタブにも浸かる。そうなってくると必要だったバスローブ。風呂上がりにだけ纏う、タオル地で出来たバスローブ。
 バスタオルやタオルはハーレイが使っても誤魔化せたけれど。ブルーが多めに使ったらしい、と部屋付きの係は納得して洗濯しに行ったけれど。
 バスローブの方はそうはいかない。数は誤魔化せてもサイズという壁が立ちはだかった。
「ハーレイのバスローブ、大きかったものね…」
「そういうこった。お前のを借りて着るってわけにはいかなかったんだ」
 俺の身体には小さすぎるし、どうにもならん。
 丈は短めで済ませるにしても、肩幅からして違うヤツをだ、無理に着られはしないだろうが。
 大は小を兼ねるって言葉はあっても、逆の言葉は無いんだからな。



 ハーレイが青の間に泊まるからには、バスローブが欠かせないのだけれど。ブルーのサイズでは役に立たないし、ハーレイ用のものを纏うしかない。シャングリラで一番サイズの大きなハーレイ用のバスローブを。
 けれども、替えの下着などと同じで、ハーレイが青の間に持っては来られないバスローブ。船の中を持って歩けはしない。替えの下着やバスローブといった、明らかに泊まりのための荷物を。
 だからブルーが運んでいた。瞬間移動で、バレないように。誰にも見付からないように。
 ハーレイが泊まるための荷物を、大きなサイズのバスローブなどを。
「…忘れちゃってたよ、ハーレイのバスローブを運んでいたこと…」
 あれも一種のタオルだよね、とハーレイを見れば「うむ」と返って来た返事。
「それでだ、お前のタオルの幸せってヤツは、運んでいたって話じゃないぞ」
 お前が俺の部屋に泊まる時には、お前、俺のを使っていたろう。
 大きすぎると、袖は余るし丈も長すぎると言ってはいたがだ、自分のは持って来ないんだ。
 俺のヤツがいいと、これを着るんだと、いつもブカブカのを着て御機嫌だったぞ。
「そうだっけね…」
 そっちもすっかり忘れちゃっていたよ、ぼくがハーレイのを着てたってこと。
 とても大きなバスローブだよね、って思いながら借りていたのにね…。



 大きかったハーレイのバスローブ。袖丈は余ったし、着丈もブルーには長すぎたけれど。身幅も余っていたのだけれども、幸せだった、という記憶。
 ハーレイの身体の大きさを感じて、幸せに浸っていた記憶。
 あのバスローブをまた着てみたい。タオル地で出来た、ハーレイのためのバスローブを。
 だから…。
「ハーレイ、今もバスローブを使ってる?」
 お風呂上がりには着ていたりするの、バスローブを?
「まあな。直ぐにパジャマ、って気分じゃない日はバスローブだなあ…。しかし、お前は…」
 使っていそうにないなあ、チビだしな?
 バスローブなんぞは着る暇も無くて、風呂上がりは直ぐにパジャマだろうが。
「うん…。バスローブなんかは持っていないよ」
 でも、ハーレイが持っているなら、またハーレイのを着たいんだけど…。
 ぼくには大きすぎるバスローブ、今度も着させて欲しいんだけど…。



 着せてくれる? と小首を傾げたけれど。
 ハーレイは首を縦には振らずに、「駄目だ」とすげなく断った。
「駄目だな、結婚するまでは駄目だ」
 お前がどんなに頼み込もうが、強請っていようが、結婚するまで着せてはやれん。
「やっぱり…?」
 駄目なの、ハーレイのバスローブ?
 ぼくが育ってキス出来るようになっても、ハーレイの家へ行けるようになっても、バスローブは着せてくれないの…?
「当然だろうが。けじめだ、けじめ」
 何度も言っているだろうが、と額を指で弾かれた。
 バスローブを着るような状況を先走って作りはしないと、そういったことは結婚式を挙げるまで我慢しておけと。
 まずはプロポーズでそれから婚約、ブルーが待ち望む関係になれるのは結婚してから。
 何処へ行っても後ろめたい思いをせずに済むよう、正しい付き合いをしなくては、と。
「…前のぼくたちには、誰もなんにも言わなかったのに…」
 けじめなんて言葉はハーレイだって一度も言わなかったよ、ぼくは一度も言われていないよ。
「そもそも誰も知らなかっただろうが、前の俺たちの関係のことは」
 知られていなかったし、知らせるつもりも全く無かった。けじめも何もあるもんか。
 前のお前と結婚出来ると言うんだったら、俺もあれこれ考えて動いていただろうがな。



 しかし今度はそういうわけにはいかないのだから、と諭された。
 いつか結婚して共に暮らそうと思うからには、そこに至る道筋を外れないように。けして前後を間違えないよう、後ろめたい気持ちにならぬように、と。
 おまけに、今の互いの立場は教師と生徒。ブルーの守り役でもあるハーレイ。
 そういう関係の二人だからこそ、けじめが大切。正しく、と。
「親父にも厳しく言われてるんだ。俺の顔を見たら注意するんだ、親父はな」
 あんな小さい子に手を出しちゃいかんと、結婚するまで我慢しろと。
 いくら将来を誓ってはいても、それとこれとは別物だってな。
「…キスしてもいいよ?」
 ぼくはちっともかまわないから、キスしてくれてもいいんだけれど。
 ハーレイのお父さんに言い付けやしないし、ちゃんと一生、内緒にするから。
「キスも駄目だと何度も言ってる筈だがな?」
 前のお前と同じ背丈になるまでは駄目だと言った筈だが?
 タオルの幸せとやらを綺麗サッパリ忘れていたついでに、そっちも忘れてしまったか、お前…?



 絶対に駄目だ、と鳶色の瞳に睨まれた。キスも大きくなるまで駄目だと。
 キスさえも駄目では、いつになるやら見当もつかないハーレイのバスローブを借りられる日。
 ブルーの身体には大きすぎるそれを、借りて幸せに浸れる日。
 ガックリと項垂れたブルーだけれども、髪をクシャリと撫でられた。伸びて来た手に。
「そうしょげるな。前のお前もお気に入りだった、俺用のでっかいバスローブだが…」
 いつかお前と揃いで買えるさ、いつかはな。
「お揃い?」
「そうだ。お前、お揃いが大好きだろうが。バスローブも揃いにしようじゃないか」
 前の俺たちでは、そういうわけにはいかなかったが…。
 ある意味、揃いのバスローブではあったがな。シャングリラではバスローブのデザインは一種類だけで、誰でも同じのデザインだったし…。
 男用のと女用の違いは胸の刺繍の色だけだったろ?
 男用が水色で女用がピンクだったかなあ…。ミュウの紋章の形の刺繍。



 しかし今度は色々なデザインのを選べるぞ、と微笑まれた。
 サイズさえあれば気に入ったものをと、色も形も選び放題だと。
「…じゃあ、ぼくのとハーレイのと、両方のサイズがあるヤツを?」
 これがいいな、と思うのがあったら、サイズは色々あるんですか、って訊いてみるわけ?
「そうさ、楽しい買い物だろう?」
 お前がこれにするんだ、と思うのを選べばいい。まずは選んで、それから店員さんの出番だ。
 俺のとお前の、両方のサイズがあるかどうかを調べて貰って、あったら二人で買って帰ろう。
 お前の好みで選んじまって、俺にはまるで似合わなくても、俺はそいつにしておくから。
「うんっ! ハーレイと二人で買いに行くんだね」
 大丈夫だよ、ぼくの好みを押し付けたりはしないから。
 それよりハーレイが選ぶのがいいよ、自分に似合いそうなのを。ぼくがそっちに合わせる方。
 だって、ハーレイのを借りたいんだから。
 また借りて着ようと思ってるんだし、ハーレイに似合うのを選んで買おうよ、お店に出掛けて。
「ふうむ…。お前が借りて着たいと言うなら、そうなるか…」
 俺の好みで選んじまってもかまわないんだな、どうせお前は俺のを借りて着たがるんだから。
 …そうすると俺のは二着要るなあ、そのバスローブ。
 俺が着ようと思っているのに、お前が横から持って行くんだしな…?
 もっとも、脱がせりゃ済むわけなんだが、お前が俺のを着ていたとしても。
 ただなあ、それだと二人揃ってバスローブを着ている時間が無いしな…。
 やっぱり二着か、買う時には。…俺はすっかり忘れてそうだが、二着要るんだということを。



 いつかは揃いのバスローブ。それを二人で買いに出掛ける。
 だからそれまではけじめだな、と念を押されてしまったけれど。バスローブは貸してやらないと言われたけれど。
 アルタミラの檻で生きていた頃には、思いもよらなかった幸福すぎる未来だから。
 白いシャングリラでさえ、夢にも見なかった結婚生活だから。
 文句を言っては駄目だと思うし、膨れもしない。いつか必ず、そういう未来が来るのだから。
「ねえ、ハーレイ。今度はハーレイが泊まるための荷物、運ばなくてもいいんだね」
 今のぼくは瞬間移動も出来ないけれども、運べなくても大丈夫だよね?
「ああ、堂々と同じ家で暮らしているんだからな」
 荷物なんかを運ぶ必要は微塵も無いなあ、家の中で移動するだけだしな?
 二人一緒に暮らしてる家で、誰も文句を言いやしないさ、俺たちだけしかいないんだからな。



 そんな生活だから夜も長いぞ、とパチンと片目を瞑られた。
 土曜日は特に、と。いくら夜更かしをしてもいいのだから、と。
「…うん…」
 意味を考えて、頬が真っ赤に染まったけれど。耳まで赤いかもしれないけれど。
 今度は揃いのバスローブ。二人で選んだバスローブ。
 バスタオルをふわりと身体に巻き付ける時の幸せにしても、前の生より、もっと、きっと…。
 そう考えた心が零れていたのだろう。ハーレイがニヤリと笑みを浮かべた。
「うんうん、バスタオルの幸せだっけな。お前の幸せの記憶の始まり」
 なんなら風呂上がりには俺が拭いてやろうか、バスタオルで?
 そしてバスローブを着せてやる、と…。
 お前のその日の気分に合わせて、お前のサイズのや、俺用のヤツを。
「えーっと…。それってちょっぴり恥ずかしいかも…」
「恥ずかしい? チビのお前はそうかもしれんが…」
 結婚する頃には言わないんじゃないか、その台詞。
 なにしろ俺の嫁さんなんだし、大切に拭いてやるくらいはなあ…?



 前の俺たちならやってたろうが、と指摘されてみれば、そうだった。
 そんな日もあった、ハーレイがブルーの身体をバスタオルでくるんで拭いていた日も。
「いいな、そういう日が来るまでは、だ…。それまでは正しく、けじめだな」
 結婚した後にはけじめは要らんし、楽しみにしとけ。
 俺のバスローブを借りるってヤツも、俺にバスタオルで拭かれる方も。
「うん…」
 今は我慢するしかないんだね?
 ハーレイのバスローブを借りたくっても、結婚まで我慢。
 けじめだなんて言われちゃったら、貸してって頼んでも無駄みたいだしね…。



 「うむ」と大きく頷いたハーレイ。「けじめってヤツが大切なんだ」と。
 言い聞かされるとちょっぴり不満で、けれど、とびきり待ち遠しい。
 その日が来るのが、けじめとやらが要らなくなる日が。
 結婚したなら、ハーレイとお揃いのバスローブ。
 それを着せて貰う、その日の気分で自分のを着たり、ハーレイのを貸して貰ったり。
 お風呂上がりにバスタオルで優しく拭いて貰って、「また後でな」とハーレイはバスルームへ。
 そしてハーレイがバスローブ姿で戻って来たら。
 温まった身体をバスローブに包んで、ブルーの所へやって来たなら。
 二人きりの甘くて長い夜が始まる、この地球の上で。
 生まれ変わって再び出会えた、青い地球の上にあるハーレイの家で…。




             タオルの幸せ・了

※ブルーがバスタオルから感じた幸せ。前の生でのアルタミラの記憶と、その後に得た自由。
 けれど、それだけではなかったのです。前のハーレイのバスローブ。さて、今度は…?
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