シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
夏はやっぱり暑いもの。今年の夏も厳しい暑さで、夏休みがどれほど待ち遠しかったことか。えっ、暑いなら休んでしまえばいいだろうって?
それは確かに正論ですけど、実行している特別生だっていますけど…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を溜まり場にしている私たち七人グループにとっては、欠席イコール放課後の手作りおやつ無し。料理上手の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお菓子が食べたきゃ行かなくっちゃあ!
「やあ、今日も朝から暑そうだねえ…」
待望の夏休み。会長さんの家が今日から居場所、と言いたい所ですけれど。
「暑いんだよ!」
思いっ切り不機嫌そうな顔のジョミー君。
「なのに明日から璃慕恩院だよ、クーラー無しの生活だってば!」
「俺たちの合宿も基本はクーラー無しなんだが?」
キース君の鋭い突っ込み。
「熱中症予防に使いはするがな、適度な使用がお約束だ。ついでにお盆の棚経にクーラーがセットじゃないのは分かっているよな?」
「うえー…。クーラー無しの家、まだあるわけ?」
「檀家さんの主義主張にお前が口を挟むな!」
言えた義理か、と叱るキース君によると、クーラー嫌いの家が何軒かあるそうです。棚経は朝早くから回りますから、そんな早朝には自然の風が一番とばかりにクーラーの代わりに打ち水のみ。軽装の檀家さんはともかく、法衣のキース君たちにしてみれば暑すぎなわけで。
「いいか、璃慕恩院の修行体験ツアーはそうした未来のケースも想定した上でのクーラー無しだ! 覚悟しておけ!」
「でもさあ…。麦飯と精進料理じゃバテるよ、ホントに」
「初日の夕食は豚カツだろうが!」
最初だけでも肉が食えるだけマシだ、とバッサリ切り捨て。今年もこういうシーズンかあ…、と皆で笑っていると。
「いいねえ、精進料理というのも」
慰労会の料理はそれにしようか、と会長さん。
「この間、ぶるぅと食べて来たんだ、お漬物寿司」
「かみお~ん♪ とっても美味しかったの!」
老舗のお漬物屋さんがやってるんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「今度はお漬物懐石も食べに行こうって言ってるんだもん!」
「そうなんだよねえ、煮物や揚げ物までお漬物尽くし! ちょっとお洒落で評判なんだよ」
このお店で…、と聞かされた名前は確かに老舗の有名店。そんなことまでやっていたのか、とビックリですが。
「お漬物も今や世界に羽ばたいてるしね、ヘルシーなピクルスっていうことで」
「それは食べたい気もしますね…」
シロエ君が話に食い付きました。
「柔道部の合宿はスタミナ一番、言わば肉だらけの世界ですから…。普段の生活に帰って来たな、って嬉しい気分になれそうです」
「そうだな、毎日肉料理だしな…。俺は戻ったらお盆に向かって卒塔婆書きだし、坊主らしい日々に切り替える料理にピッタリだ」
それでいこう、とキース君も。
「えっ、えええっ?」
ちょっと待ってよ、というジョミー君の悲鳴は無視されました。
「それじゃ、君たちが帰って来た後の慰労会にはお漬物寿司でいいんだね?」
「ええ、是非それでお願いします!」
「俺もそいつでよろしく頼む」
「かみお~ん♪ 美味しいお漬物、仕入れておくね!」
だから合宿頑張ってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大張り切り。男の子たちの合宿中には会長さんやフィシスさんとお出かけが常の私とスウェナちゃんの運命も決まりました。
「女子はぼくたちとお漬物寿司とお漬物懐石、それぞれ一回ずつでいいよね?」
「「はーい!」」
そういう食事も楽しそうです。ジョミー君の「帰って来ても精進料理…」という嘆きの声に耳を貸す人などいませんでした。お寺に行くなら精進料理は当たり前。存分に食べて来て下さいです~!
こうして翌日から男の子たちは柔道部の合宿に、修行体験ツアーにと出掛けてゆきました。スウェナちゃんと私は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんと一緒にプールに行ったり他にも色々。もちろんお漬物料理の店にも連れて貰って…。
アッと言う間に帰って来てしまった男の子たち。慰労会の日も朝から快晴、じりじりと照り付ける日射しとセミの大合唱の中、会長さんの家に集合です。
「今年も死んだ…」
痩せてもうダメ、とジョミー君は文句たらたらですけど、体重は減っていなさそう。修行ツアーに同行していたサム君によると「あいつ、一グラムも減ってはいないぜ」という話。
「飯の時間はガッツリ食うしよ、あれで痩せたら不思議だって!」
「痩せたってば! あんな麦飯と精進料理!」
どれも不味い、と恒例の不満。しかし…。
「かみお~ん♪ 今日のお昼は美味しい筈だよ!」
お漬物寿司、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「評判のお漬物、沢山買ったもん! お店の味にも負けないんだもん!」
「そうだよ、ぶるぅの腕に期待したまえ」
なにしろ評判のヘルシー料理、と会長さんが自慢し、とりあえず午前のティータイム。夏ミカンを丸ごとくり抜いて、果汁を搾って作った寒天を詰めたお菓子が一人に一個。それと冷たい緑茶です。ただ冷やすんじゃなくて、なんと氷で淹れるというもの。
「氷出しの茶は美味いんだがなあ…」
俺の家では飲む余裕がな、と零すキース君。
「俺が用意をしておくと、だ。頃合いに入った茶を誰とは言わんが持って行くヤツが…」
「「「あー…」」」
アドス和尚だな、と誰もが納得。でっぷり太ったアドス和尚は暑がりですから、氷で淹れた冷たい緑茶が出来ていたならゴクゴク飲んでしまうでしょう。誰の分かはお構いなしで。
「俺が文句を言うとだな、師僧に向かって何を言うかと抜かすんだ! 弟子は師僧にお茶を淹れるもので、自分が飲むのが当然なんだと!」
「仕方ねえぜ、それ…。実際、親父さんがお師僧だしよ」
「そうなんだがな…」
俺は親父の息子なんだが、とぼやくキース君をサム君が慰めています。氷出しの緑茶の手間を知っているだけに気の毒としか…。あれってお茶の葉を入れた急須に氷を入れては、溶けて減った分だけ足していくっていうヤツですもんねえ…。時間もうんとかかりますってば!
のんびりまったり、お茶を飲みつつ夏ミカン寒天に舌鼓。窓から見える暑そうな夏空もクーラーの効いた部屋には無縁で、ジョミー君の愚痴祭りも収束に向かいつつあった所へ。
「こんにちは」
暑中お見舞い申し上げます、と背後で声が。
「「「はあ?!」」」
振り返った先に私服のソルジャー。いえ、私服どころか…。
「今日も朝から暑そうだねえ…。だから暑中見舞い」
ぼくにもおやつ、と空いていたソファに腰を下ろしたソルジャーは浴衣を着ていました。涼しげですけど、何処から見たって女物。帯と結び方は男物にしか見えませんけど…。
「いいだろ、これ? ノルディに買って貰ったんだよ」
今度花火を見に出掛けるから、って、エロドクターと!?
「そうだけど? ハーレイと行こうと思っていたのに、シャングリラのメンテが入っちゃってさ。ワープドライブなんて使う予定も無いから先送りにしろって言ったんだけどね…」
「それは無責任発言だろう!」
会長さんの怒鳴り声。
「備えあれば患いなしっていうのが世間の常識、まして君みたいな境遇にいたら百パーセントを超える安全確保ってヤツが必要だろうと思うけど!?」
「君までハーレイとおんなじことを言うのかい? そりゃね、ワープドライブも大切だけどね…」
そうそう使うものではないのだ、とソルジャーは先刻までのジョミー君よろしくグチグチと。なんでもソルジャーの世界のシャングリラ号は雲海の中を飛行していて、其処から直接ワープは考えられない話だとか。
「惑星の重力圏内にいるんだよ? そんな所からワープをしたって前例は無い。つまりはワープ出来る場所まで移動しなくちゃならないってこと」
重力圏外まで逃げる間も追尾されるに決まっているし、とソルジャーは不満そうな顔。
「要するに、ぼくが瞬間移動でシャングリラを丸ごと飛ばした方が早いんだってば、ワープドライブに頼っているより!」
だから使えもしないモノのメンテを急ぐ必要は無い、と我儘全開ですけれど。その理屈がキャプテンに却下されたから花火見物がダメで、エロドクターとお出掛けなんですね?
「そういうこと! 浴衣まで買って貰っちゃったし、ハーレイと過ごす時間が楽しみ!」
浴衣でエッチは燃えるものだし…、と良からぬ発想の方も絶好調。見せびらかすために着て来たんですね、その浴衣…。
本来、昼間に纏うものではない浴衣。けれどソルジャーは会長さんに指摘されても全く気にせず、御自慢の浴衣を披露しながら居座り続けて。
「お昼御飯も出るんだよねえ?」
「…断ったら後が怖いからね」
もう諦めた、という会長さんの声を合図に皆でダイニングへと大移動。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が腕によりをかけたお漬物寿司が一人前ずつ、綺麗に盛られて出て来ました。
「へえ…。これが噂のお漬物寿司っていうヤツなんだね」
どんな味かな? と早速口へと運ぶソルジャー。
「うん、美味しい! サッパリしていて夏にピッタリ!」
「ホントだ、美味しい…。璃慕恩院の料理と全然違うよ」
これならいける、とジョミー君だって御満悦。スウェナちゃんと私が食べて来たお漬物懐石も他のみんなは興味津々、お漬物でも意外な美味しさがあるものだ、と盛り上がって。
「お漬物もね、時代に合わせて色々と変身していかなくちゃね?」
伝統を守りつつ改革も、と会長さん。
「好まれる味っていうのが変わってゆくのさ、その時々で。全く同じレシピで作ったのでは「何か違う」と思われちゃうこともあったりするんだ」
「えっ? でも、会長…。こういった老舗の味は同じじゃないですか?」
シロエ君の問いに、会長さんは「まあね」と答えたものの。
「この味だけは変えていません、と言いつつ、微妙な調整を…ね。発酵時間を変えてみるとか、塩分を少しずつ減らしていくとか。誰もが「美味しい」と思う味でないと売れないよ」
そのためにプロを雇っているのだ、という話ですが、老舗のお漬物を任されるような人って元からプロ集団では?
「そりゃそうだけど…。プロの中のプロって言うのかな? 味を覚えた熟練の人さ」
このお漬物の味はこう、と舌だけで判断出来るプロ。その道一筋ン十年とかで、味を変える時には必ず試食。プロの中のプロが「これで良し」と言うまで試行錯誤の日々らしく…。
「一子相伝とは少し違うけど、後継者は常に一人だけ! そのプロが見込んだ弟子がついてて、伝統の味を叩き込んでるらしいんだな」
そのプロが居てこそ大胆な革新も可能なのだ、と会長さん。新しいお漬物を開発する時も、やっぱり試食。「ウチの店の味ですね」と言って貰えるまで頑張る部下のプロ集団たち。そうやって出来た沢山のお漬物で美味しいお漬物寿司が出来ると聞いたら、もうビックリ~…。
「伝統は守りつつ革新かあ…」
なんか凄いね、とソルジャーは感動している様子。お漬物寿司が気に入ったらしいことは分かっていますが、この台詞。ワープドライブのメンテがどうこうと文句を言ってましたし、変な方向へと向かってなければいいのですけど…。会長さんも同じことを思ったみたいで。
「お漬物の味とワープドライブとは違うから! 其処は革新しなくていいから!」
「分かってるってば、新しい技術も出来てないのに革新しないよ、ワープドライブは」
その辺はゼルの管轄なのだ、という答え。
「なんと言っても機関長だし、アルタミラからの脱出以来の叩き上げ! プロの中のプロだね、ワープドライブに関しては」
任せて安心、と聞いて私たちの方もホッと安心。お漬物のせいでワープドライブが妙なことになったら、反省文だの土下座で済むようなレベルじゃないことは確実ですし…。
「当然じゃないか、ぼくの世界は常に危険と紙一重! 君たちが反省文を書いてくれても、土下座してくれても別の世界じゃ意味が無いしねえ…」
でも伝統と革新かあ…、と再びリピート。
「これは非常に魅力的だよ、ハーレイに是非、聞かせないと!」
「「「は?」」」
「ぼくのハーレイ! 今じゃマンネリでも気にしないけどね…。夫婦なんだし、特に刺激も求めてないけど、やっぱり努力はして欲しい!」
同じマンネリでも努力を重ねて同じ味を、って、その味とは…。
「大人の時間に決まってるだろう!」
他に何があると、とソルジャーは胸を張りました。
「ぼくたちの定番のコースがいわゆる伝統! 其処に改革を加えてみるのも新鮮かと!」
そしてこのぼくが味見するのだ、とソルジャー、ニッコリ。
「でもって、コレはぼくたちのセックスじゃないと文句をつけて却下するとか! コレはいいから取り入れようとか、もう色々と!」
時代の変化イコールぼくの好みの変化だよね、とカッ飛んだ理論が炸裂しました。
「ぼく自身でも気付かない内に、好みが変わっているかもだしねえ…。長持ちが一番だと思ってるけどテクが優先かもしれないし!」
「退場!!」
サッサと出て行け、と会長さんがテーブルにレッドカードを叩き付けたものの。それで出て行くソルジャーではなく、止まる喋りでもありませんってば…。
お漬物寿司から明後日の方へと突っ走ってしまった浴衣のソルジャー。素晴らしい思い付きだと自画自賛な上、伝統と革新を追い求める気持ちも半端ではなく。
「ぼくの世界だと色々と制限がありすぎでねえ…」
大抵の薬はもう効かないのだ、と自分の顔を指差して。
「君たちだって知っているだろう? こっちの世界で薬を調達してるってコトは」
「……スッポンとかね……」
会長さんの嫌そうな声。
「それで薬も革新したいと? 配合を変えて貰うとか?」
「もちろんだよ!」
そこは基本、とソルジャーはズラズラと漢方薬の素材の名前を挙げ始めました。外せないらしいスッポンとかオットセイだとか。他にも山ほど、いつの間にこれだけ増殖したのか、と溜息しか出ない私たち。
「それだけあったら充分に革新出来そうだよ…」
早く帰れ、と会長さんが手をヒラヒラと。
「ついでに帰りに店に寄ってね、配合の相談をしてくるといい」
「それはもう! ノルディの家にも寄ってこなくちゃ、漢方薬をガンガン買うなら予算もドカンと必要だから!」
とりあえず各種揃えて一週間分ほど…、とソルジャーはソファから立ち上がって。
「それとね、こっちのハーレイの協力も必要不可欠だよね」
「「「はあ?」」」
なんで教頭先生なのだ、とサッパリ分かりませんでした。伝統と革新はソルジャー夫妻の大人の時間に限定の筈。まるで無関係な教頭先生が何処に関係するのでしょう?
「分からないかな、モルモットだよ!」
「「「モルモット!?」」」
モルモットと言えば実験動物。それと教頭先生がどう繋がるのか意味不明ですが…?
「ぼくのハーレイは薬ってヤツが好きじゃないしさ、あれこれ試して副作用でも出ようものなら、次から新しいのを拒否しまくると思うんだよねえ…」
人体実験時代のトラウマだよね、とソルジャーはキャプテンの薬嫌いの理由をズバリと。
「だけど効くって分かった薬は喜んで飲むし、それでビンビンのガンガンなわけ!」
お蔭で夫婦円満の日々、と満ち足りた顔はいいのですけど。…副作用の有無を調べたいからと、教頭先生をモルモットに!?
「だって、おんなじ身体だしねえ…?」
ヘタレなだけで、と呟くソルジャー。
「鼻血体質で万年童貞、その辺はぼくのハーレイと全く違うけれどさ、身体の造りは同じじゃないかと…」
「薬の耐性が違うだろ!」
会長さんがビシイッと指を突き付けて。
「こっちのハーレイは薬嫌いになるようなトラウマを抱えてないしね、人体実験もされてないから薬に耐性は出来ていないと思うわけ! 同じじゃない!」
「分かってないねえ、君って人は…」
本当に何も分かっていない、とソルジャーは指をチッチッと。
「ぼくのハーレイは漢方薬なんかは投与されていないよ、アルタミラじゃね。こっちの世界じゃ漢方薬はメジャーだけれども、それでも高い。漢方薬の素材が希少なぼくの世界じゃどれほど高いか、何度も言ったと思うけどねえ?」
そんな貴重品を人体実験に使うわけがない、と吐き捨てるように言うソルジャー。
「ミュウは未だに人間扱いされてないしね、アルタミラじゃ酷いものだった。人体実験に割いた予算は膨大だろうと思うけれども、人類にとって貴重な薬を使った実験なんかはしない」
そういった薬は偉い人だけの御用達だ、と聞かされてみれば、スッポンなんかもそうだったような気が…。
「そうさ、スッポンはとっても高価! スッポン料理はごくごく一部のお偉いさんしか食べられないって話だよ」
ぼくだってこっちの世界でしか本物のスッポンは見たことがない、と続いてゆく話。
「けっこう簡単に養殖出来るスッポンでも貴重品なんだ。他の漢方薬のレア度は高いし、ぼくのハーレイへの実験に使ったわけがない。当然、耐性がある筈が無い!」
漢方薬に関してはどっちのハーレイも条件は同じ、とソルジャーの自信は絶大でした。
「だからね、まずはこっちのハーレイで試して、副作用が無いのを確認してからぼくのハーレイに渡すわけ! それでバッチリ!」
こっちのハーレイに頼まなくっちゃ、とウキウキする気持ちは分かりますけど。大人の時間に役立つ薬を教頭先生で試そうだなんて、それは酷いと言いませんか? 鼻血体質で万年童貞な教頭先生、しっかり健康体ですよ…?
キャプテンに漢方薬を色々投与したいのに、副作用は困ると言うソルジャー。まずは教頭先生で試し、大丈夫ならばキャプテンに…、という作戦を立ててますけど、問題は薬。大人の時間に役立つ薬の効果は当然…。
「君の考えは分かるけどねえ!」
ぼくの迷惑も考えてくれ、と会長さんがブチ切れました。
「怪しげな効果を持った薬をハーレイが次々試すんだろう? その度に何が起こるのさ!」
「えっ、ハーレイが元気になるっていうだけじゃないか」
大事な部分が元気モリモリ、と笑顔のソルジャー。
「ただそれだけのことだしねえ? 君が迷惑を蒙る理由は何も無いかと」
「大ありだよ!!!」
あのハーレイを舐めるんじゃない、と会長さん。
「普段はヘタレでどうしようもないのが基本だけれども、発情期があると言っただろう! いわゆるモテ期! 自分はモテると思い込む発作!」
「…言われてみればあったね、そういうのも」
「副作用でソレが出ないって根拠が何処にあるわけ!?」
相手は怪しげな漢方薬だ、と会長さんは眉を吊り上げています。
「もしも副作用でモテ期に入ったら、熱烈なアタックを仕掛けて来るから! 迷惑だから!」
「モテ期対策、一応あるんじゃなかったっけ?」
冷たくあしらった挙句に渡された花束を踏みにじるヤツ、とソルジャーは流石の記憶力。
「備えあれば患いなしって君が言ったよ、対策があるなら無問題!」
「そこまでの間が問題なんだよ!」
会長さんの方も負けじと。
「ヘタレなハーレイでさえ、モテ期になったら凄いんだ。漢方薬で元気モリモリな状態でモテ期に入っちゃったら、花束どころかホテルに引っ張り込まれそうだよ!」
「瞬間移動で逃げればいいだろ?」
「ぼくがトラウマになるんだよ!」
ハーレイに会ったら逃げたくなるとか…、と会長さんは既に逃げ腰。とはいえ、教頭先生は会長さんの大事なオモチャで、トラウマになって遊べなくなるのもつまらないらしく。
「そういうわけでね、副作用の危険を伴う元気モリモリはやめてくれたまえ!」
モルモットにするな、と禁止令。でも、ソルジャーが大人しく従いますかねえ…?
「…なるほど、君がトラウマになると…」
そしてハーレイから逃げたくなるのか、とソルジャーは顎に手を当てました。
「そういうのはぼくとしても困るね、君にはハーレイと幸せになって欲しいしねえ…」
「ならなくていいっ!」
でもトラウマになるのも嫌だ、と会長さん。
「とにかく、君も困るんだったら利害は一致してるから! モルモット禁止!」
「うーん…。ぼくは欲しいんだよ、こっちのハーレイの協力が…。だけど君がトラウマを抱えてしまって、ハーレイに近付けなくなるのも嬉しくないし…」
どうしたものか、と真剣に考え込んでいるソルジャー。夫婦円満で上手く行ってるなら、伝統だけで充分なのでは? 革新しなくても現状維持でいいのでは、と思いましたが。
「ダメダメ、せっかく素敵な話を聞いて閃いたんだしね? やっぱり革新も必要だよ、うん」
それでこそ夫婦の時間も充実、とソルジャーは全く聞く耳を持たず。
「…どうしようかな、こっちのハーレイ対策ねえ…」
元気モリモリをどうするかだね、と口にした直後。
「そうか、対策は元気モリモリ!」
「「「はあ?」」」
いきなり叫ばれても何のことだか。けれどソルジャーには解決策が見えているようで。
「薬で元気モリモリってトコをフォローしてあげれば、モテ期が来たって平気じゃないかな」
「どういうフォロー?」
会長さんの胡乱な瞳に、ソルジャーは。
「元気モリモリ解消グッズ!」
「「「解消グッズ?」」」
「そう! これで抜けます、って素敵なオカズをバッチリ差し入れ!」
「「「…おかず?」」」
どんな料理を差し入れるのだ、と私たちは首を傾げましたが、会長さんは憤然と。
「君の写真じゃないだろうね!?」
「それしかないだろ、抜けるグッズは!」
えーっと、何が抜けるんでしょう? そもそもソルジャーの写真の何処が料理だと?
理解不能な展開になりつつある話。会長さんとソルジャーはギャーギャーと派手に言い争いで、もう何が何だか…、といった状態。
「…おかずって何?」
ジョミー君が尋ね、キース君が。
「俺に分かるか! 漬物でないことは確かなようだが」
「お漬物なんかじゃないってば!」
ぼくの写真、と地獄耳なソルジャーが割って入りました。
「こっちのハーレイがそれを見ながら盛り上がれるように、うんとエッチな写真をね…。裸でもいいし、見えそうで見えないのもいい感じだよね」
恥ずかしい写真をドカンとプレゼント! とグッと拳を握るソルジャー。
「そういう写真で盛り上がっていれば、モテ期が来たって大丈夫! アタックする先がブルーからぼくに逸れると思うよ、恥ずかしい写真の先へ進みたい気分になるってね!」
「き、君は…!」
何という危険なことをするのだ、と会長さんが震え上がって。
「先に進みたい気分になったら、ハーレイはぼくを狙うじゃないか!」
「平気、平気! 恥ずかしい写真はぼくのだから!」
おまけにぼくならもれなくオッケー、とソルジャーは親指を立てました。
「モテ期のハーレイ、常軌を逸しているんだろう? 普段だったら君一筋だけど、タガが外れてしまった時なら何はともあれヤリたい気分! ぼくでもオッケー!」
そしてぼくなら相手が出来る、とソルジャー、ニコニコ。
「こっちのハーレイが是非にと言うなら、しっかりお相手、しっかり手ほどき! それから帰って、ぼくのハーレイと楽しく夫婦の時間を過ごすわけ!」
「浮気はしないって言ってなかった!?」
「伝統と革新のためなら多少のリスクも負うべきだってね!」
それにぼくには美味しい時間、と唇をペロリと舐めるソルジャー。
「ぼくのハーレイの伝統の味も気に入ってるけど、こっちのハーレイの初物っていうのも素敵じゃないか。それでこっちのハーレイに度胸がついたら、いつかは君とゴールインだよ!」
行け行け、ゴーゴー! と拳を突き上げるソルジャーに何を言っても無駄らしいことは明明白白。こうなった以上、副作用が出ないことを祈るしかありません。元気モリモリとやらだけならソルジャーの写真で解決可能という話ですし、それで何とか乗り切れれば…。
ソルジャーにお漬物寿司を御馳走したばかりに、この始末。女物の浴衣を纏ったソルジャーは大人の時間の伝統と革新のためにと、いそいそと帰ってしまいました。自分の世界へまっしぐらだったら構いませんけど、さにあらずで…。
「…やっぱり一番にノルディの家だよ…」
頭を抱える会長さん。思念でソルジャーの行方を追跡中で、今はソルジャー、エロドクターの家に滞在中とか。
「夫婦の時間の伝統と革新に協力お願い、と強請ってるんだよ、お小遣いを!」
「…それはアレだな、漢方薬を買う費用だな?」
キース君が訊けば、「うん」と答えが。
「色々と処方を変えてみたいから、と頼んでいるねえ…。こっちのハーレイをモルモットに仕立てる話まで披露しているよ。…ええっ!?」
「どうした!?」
何があった、とキース君。私たちだって知りたいです。いったい何が、と会長さんに視線が集中。会長さんは赤い瞳を零れ落ちそうなほどに大きく見開いていましたが…。
「……嘘だろ、ぶるぅだと思っていたのに……」
「かみお~ん♪ ぼくがどうかした?」
「えっと、ぶるぅが違うんだけど…」
「ああ、ぶるぅ! ぶるぅ、元気にしてるかなあ?」
海の別荘、とっても楽しみ! と顔を輝かせる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーの世界に住む瓜二つの「ぶるぅ」は大親友で、会うと仲良く遊んでいます。夏休みの定番、マツカ君の海の別荘へのお出掛けの時は「ぶるぅ」も当然、やって来るわけで。
「今度はぶるぅがどうしたと?」
悪戯か、とキース君。「ぶるぅ」と言えば悪戯小僧の大食漢。エロドクターの家に降って湧いたかと思ったのに。
「…そうじゃなくって…。ぶるぅの出番だと思っていたら…」
ノルディだった、とソファに突っ伏す会長さん。えーっと、話が全然見えませんけど…?
「……恥ずかしい写真……」
消え入りそうな声が聞こえて来ました。恥ずかしい写真が何ですって?
「…ぶるぅに撮らせるんだと信じていたのに、ノルディだったんだよ…」
これから撮影会だって、と会長さんは激しく落ち込み中。自分そっくりのソルジャーがエロドクターに恥ずかしい写真を撮らせるんなら、死にたい気分になるかもですねえ…。
エロドクターのプレゼントだという女物の浴衣が乱れた写真やら、ヌードやら。更にはエロドクターが趣味で集めたエッチな衣装とやらも登場、ソルジャーは大量の恥ずかしい写真を撮って貰って御機嫌だとか。
「…救いはノルディが同じ写真を持ってないトコかな…」
そういう契約だったらしい、と語る会長さんの額に冷却シート。貼っていないと気が遠くなりそうなのだ、と愚痴りたい気持ちはよく分かります。ソルジャーはエロドクターの手元には一枚の写真もデータも残さずサヨナラ、花火見物の約束を改めて交わしただけで。
「今度はいつもの漢方薬の店に突撃中だよ…」
ソルジャー御用達の品を用意しようとした店員さんを止め、ああだこうだと相談中。スッポン多めだの、オットセイ多めだのと幾つもの処方を検討していて、決まったものから他の店員さんが配合を。今日の所は七種類ほど用意してくれと言っているそうで…。
「次は一週間後にまた、とか言ってる。お店の方でも上得意だからレアな薬を仕入れておくって約束してるよ、どうなるんだか…」
あんな薬でハーレイにモテ期が来てしまったら、と会長さんが泣けど嘆けど、止まらないのがソルジャーで。漢方薬店で七通りの配合をして貰った薬の袋を抱えて、大本命の教頭先生の家へとお出掛け。会長さんは額の冷却シートを押さえながら。
「…ぶるぅ、頼むよ。ぼくはもうダメ…」
「かみお~ん♪ 中継したらいいんだね!」
パアッと壁がサイオン中継の画面に変わって、浴衣姿のソルジャーが教頭先生の家の玄関チャイムを押している所。浴衣は綺麗に着付けられてて、変な写真を撮らせていたとは思えませんが…?
「…ああ、あれね…。ノルディの家には使用人も大勢いるってね…」
他の衣装で撮ってる間に綺麗にお手入れ、と会長さんの解説が。そうした部分までサイオンで覗き見してたんだったら、疲れ果てるのも無理はありません。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は無邪気なお子様ですから、中継内容が何であろうと全く問題ないですし…。
タッチ交代と映し出された画面のお蔭で、会長さんの言葉で聞くより臨場感はグッと増しました。教頭先生が玄関を開けて、「どうぞ」とソルジャーを招き入れています。
「悪いね、突然お邪魔しちゃって」
「いえ、御遠慮なく。…暑いですから、冷たいお茶でも如何ですか?」
「それよりアイスクリームとか…。冷たくて甘いお菓子がいいねえ」
我儘放題なソルジャーの腕にはしっかりと漢方薬店の袋。教頭先生、どうなるんでしょう…?
「…ほほう、伝統と革新ですか…」
漬物の世界も深いのですねえ、とソルジャーの話に相槌を打つ教頭先生。甘いものが苦手な筈の教頭先生の家の冷凍庫にはお値段高めのアイスクリームが各種揃っていたようです。あまつさえパフェ専用の器に三種類を盛り、シロップ漬けのフルーツでトッピングまで。
「漬物も奥が深いだろう? あ、美味しいね、このアイスクリーム」
「ありがとうございます。本当に食べて欲しい人には素通りされているのですが…」
夏場はきちんと揃えています、と教頭先生が挙げたラインナップには甘いゼリーや寒天なども。ソルジャーは「いいね」と大きく頷き。
「この夏は無駄にならないよ、それ。ぼくが毎日来てあげるから!」
「は?」
「実はね、君の手を借りたくて…。正確に言えば身体かな? 毎日一種類ずつサンプルを試して欲しいんだよ」
「…サプリですか?」
教頭先生の質問はもっともなもの。ソルジャーは「ううん」と首を横に振ると、「これ!」と漢方薬店の袋を差し出しました。
「いつもお世話になってる店でね、ぼくのハーレイも愛飲していてビンビンのガンガン! その店で相談に乗って貰って、夫婦の時間の革新を目指して行こうかと」
「…はあ…」
「伝統は守りつつ、革新をね! ただ、ぼくのハーレイは基本が薬嫌いなものだから…。副作用でも出たら二度と別の薬を試そうって気にならないだろうし、君に協力して欲しくって」
アソコが元気モリモリなんだよ、とソルジャーは薬の袋をズズイと前へ。
「君が飲んでくれて平気だったら、その薬をぼくのハーレイが飲む。そうやって何種類もの薬を試して、これだと思う薬を見付けて革新を!」
「…し、しかし…。わ、私がそういった薬を飲んでもですね…」
「大丈夫! おかずは山ほど持って来たから!」
好きな写真を選んで抜いて、とソルジャーは懐から分厚い封筒を。
「あ、この場で抜くって言うんじゃないよ? 元気モリモリを抜くのに使える写真だからね」
ぼくの写真の詰め合わせセット、と嫣然と微笑まれた教頭先生は耳まで真っ赤に染まりましたが、鼻血の代わりに「素晴らしいです…」と感動の面持ち。
「分かりました、お手伝い致しましょう!」
「本当かい? それじゃ、今日からよろしく!」
今夜はコレで、と指示を残してソルジャーは消えてしまいました。そして…。
「ハーレイのスケベ!!」
会長さんの怒声が響き渡るのが日常となった夏休み。マツカ君の山の別荘へのお出掛けも済んで、もうすぐお盆の棚経です。それが終われば海の別荘、ソルジャー夫妻と「ぶるぅ」も一緒に海へ。
「このまま行ったら、海の別荘までスケベなハーレイのままなんだけど!」
「落ち着け、別荘での滞在中は薬はやめるとあいつが言ったぞ」
キース君が言う通り、ソルジャーは別荘ライフの間は新しい薬探しは一時休止で、のんびり休暇を楽しむとか。でも…。
「未だに見付かってないって所が問題なんだよ、革新的な薬ってヤツが!」
「…ああ、それねえ…」
会長さんが怒鳴った所へ、ヒョイと空間を超えて来たソルジャー。
「ぼくのハーレイとも話したんだけれど、やっぱり伝統が一番かなあ、って」
「「「は?」」」
「持ちが良くなる薬もあったし、朝まで疲れ知らずのも優れものだってあったけど…。ああいうのはたまに使うから良くて、こう、毎日の夫婦生活にはマンネリこそがいいのかな、とね」
革新もいいけど伝統なのだ、とソルジャーは語り始めました。お漬物と同じで美味しいものには飽きが来ないと、マンネリな日々も飽きていないなら美味しいのだ、と。
「そういうわけでさ、ぼくとしては実験の日々を打ち切ってもいい。ただ…」
「「「ただ?」」」
「ぼくが来るからと、こっちのハーレイが色々とデザートを買ってくれてて、それをまだ全部食べていないんだ」
それにまだまだ買ってくれる予定、と微笑むソルジャー。
「この夏限定ってお菓子もあってさ、予約してくれてる分も沢山あるから…。食べ終わるまでは実験継続! 運が良ければ革新的な薬!」
「ちょ、ちょっと…! そういう基準で実験継続!?」
会長さんが慌てましたが、ソルジャーは。
「そう! それにさ、漢方薬店で聞いたんだけどさ…。副作用が殆ど出ないっていうのが売りらしいしねえ、漢方薬は」
ハーレイのモテ期はきっと来ないさ、と自信たっぷりなソルジャーは目的を既にはき違えてしまっている様子。教頭先生はソルジャーの来訪と夜の薬がお楽しみになりつつあるようです。夏はまだまだ続くんですから、夏限定のデザートだって…。
「なんでこういうことになるのさーーーっ!!!」
会長さんの大絶叫を耳を塞いでかわしたソルジャーは来た時と同じでパッと消え失せ、取り残された形の私たちだけがワタワタと…。
「…まだ続くのかよ、人体実験…」
「そうらしいですね…」
夏っていつまででしたっけ? というシロエ君の言葉で眺めた壁のカレンダー。お盆の棚経がまだということは、八月の後半が丸ごと残っています。
「九月は制服も夏服だよね…」
夏なんだよね、とジョミー君が肩を落として、キース君が。
「暑さ寒さも彼岸まで、とか言うからなあ…」
「秋のお彼岸までは夏ってわけね…」
当分は夏ね、とスウェナちゃん。終わりそうにない夏と、夏限定のデザートと。ソルジャーがすっかり食べ尽くすまでは、教頭先生は怪しい薬のモルモットで…。
「…始まりは漬物だった筈だが…」
「何処で間違えたんでしょう?」
分からないね、と溜息をつく私たち。実験終了の日も分からなければ、ソルジャーの趣味も分かりません。伝統を守ると言ったかと思えば、運が良ければ革新だとか。夏の終わりまで続くかもしれない、迷惑な日々。教頭先生が楽しんでらっしゃるんなら良しとしておくべきですかねえ…?
お漬物と伝統・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
お漬物の話から、とんでもない展開になってしまったわけですけれど…。
作中の「お漬物寿司」は実在してます、けっこう美味しいお寿司でオススメ。
シャングリラ学園シリーズ、4月2日で連載開始から10周年を迎えます。
11周年に向けて頑張りますので、これからも、どうぞ御贔屓に。
次回は 「第3月曜」 4月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、3月は、恒例の春のお彼岸。例によってスッポンタケの法要。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(いいな…)
羨ましいな、とブルーは小さな溜息をついた。
学校から帰って、おやつの時間の最中だけれど。羨ましいものはお菓子などとは全く違った。
帰り道に出会った微笑ましい光景。バス停から家まで歩く途中で見たキャッチボール。
下の学校に通う男の子、確か二年生か三年生。その子と、ブルーも顔馴染みの父親。その二人がキャッチボールをしていた、家の前の道路で楽しそうに。
今日は父親の仕事が休みで、遊ぶ時間が取れたのだろう。親子で仲良くボール遊び。
それが羨ましいと思ってしまう。ボールのやり取り、点数などとは関係無しに。
(ぼくもハーレイと…)
あんな風に遊んでみたい、という気になった。遊ぶ親子を見ていたら。飛んでゆくボールや弾むボールを眺めていたら。
ボールを使ったコミュニケーション、投げて、受け止めて、受け止め損ねて笑い合って。
父とではなくて、ハーレイとボール遊びをしてみたい。さっきの親子がしていたように。
キャッチボールもいいし、サッカーだって。
大勢でボールを奪い合うサッカーは疲れるけれども、一対一なら、きっと楽しい。そう思える。ハーレイは手加減してくれそうだし、ボールの扱いも上手そうだから。
(明日はサッカーする子だって…)
いるんだけどな、と壁のカレンダーに目を遣った。
今日は金曜、明日は土曜日。学校も仕事も休みの週末、父親と遊ぶ予定の友人も少なくはない。現に一人はサッカーだと言った、近くに住んでいる従兄弟たちも一緒にサッカーだと。
(近所の公園でやるんだぜ、って…)
チームの人数は少ないけれども、父や従兄弟や叔父たちとサッカー、頑張るんだと声を弾ませていた友人。試合の後には家に帰ってバーベキューだとも。
バスケットボールを父に教わるという友人もいた。家の庭に作って貰ったゴールを目指して父と練習、教える父は学生時代にバスケットボールのクラブに所属していたから、と。
(ボール遊び…)
明日は友人の他にも多くの同級生たちがやるのだろう。父親と遊ぶ予定の子も何人も。
(ぼくだって…)
幼い頃には父とボールで遊んだ。生まれつき身体の弱い子ではあっても、少しくらいは。
けれども学校の友人たちがやるような激しい遊びはとても出来なくて、ほんの真似事。サッカーボールは蹴ると言うより転がす程度で、それを追い掛けて遊んでいた。庭の芝生で。
キャッチボールもして貰ったけれど、ボールが行き交う距離は短く、すぐに休憩時間になった。何度か投げたら、キャッチ出来たら「休もうか」と。
(あんまり頑張ると疲れちゃうから、って…)
サッカーも、それにキャッチボールも、満喫する前に「このくらいにしよう」と父が宣言した。ボール遊びは終わってしまって、家の中へと促された。
半時間も遊んでいなかったろうか、それでもはしゃいで熱を出すことが多かった。父は加減していたのだけれども、ブルーは全力だったから。身体中でボールを追っていたから。
幼かった頃には熱を出そうが、懲りずに父にボール遊びを強請ったけれど。
分別というものが身に付いて来たら、ボール遊びと発熱の関係も分かってくるから、無理を言うことも少なくなって。
自然とやらなくなってしまった、庭での父とのボール遊び。
(それをハーレイとやろうだなんて…)
絶対に無理、と首を振った。
ハーレイが手加減してくれていても、きっと自分には強すぎる。投げられるボールが、ボールの飛んで来る強さが。
第一、ボールを持ってはいない。遊ばないから、家には一つも。
(でも、ボール遊び…)
やってみたい、と心で思い描く。
幼い頃に父とやっていたように、ハーレイと二人でボール遊びを。
(キャッチボールでもいいし、サッカーだって…)
うんと遅めに投げて貰えば、キャッチボールも出来そうで。転がすだけならサッカーだって。
出来たらいいな、と思うけれども、自分の家には無いボール。
ハーレイの家には大勢の生徒が遊びに行くから、持っているかもしれないけれど。庭でボールを使って遊ぼう、と置いているかもしれないけれど。
(頼んだら持って来てくれそうなんだけど…)
出来るだろうか、ハーレイと何かボール遊びが。
今までに一度もしていないけれど、ハーレイは付き合ってくれるだろうか?
柔道だの水泳だのをやる子たちとはまるで違って、弱々しい自分とのボール遊び。家にボールを持っていたとしても、持って来た上で手加減してまで、我儘に付き合ってくれるのだろうか…?
自分の部屋に戻った後にも考え込んでいたら、チャイムが鳴った。
ボール遊びをしてみたくなった、そのハーレイがやって来たから。仕事帰りに訪ねて来たから、ついつい口から零れた言葉。テーブルを挟んで向かい合わせで座った途端に。
「…ボール遊び…」
「はあ?」
怪訝そうな顔になったハーレイ。
「ボール遊びがどうかしたのか?」と尋ねられたから、学校の帰りに見かけた親子の話をした。キャッチボールをしていた親子。とても羨ましかったのだ、と。
それに友人たちの明日のボール遊びの予定も話した、幼い頃には父と遊んでいたことも。
だからハーレイと何か出来たらと、ボール遊びをしてみたい、と。
「ボール遊びか…。お前、身体が弱いしなあ…」
「やっぱり駄目? ぼくの家、ボールも無いんだよ」
遊ばないから無くなってしまった、とボールが無いことも打ち明けた。ボール遊びに欠かせないボールを持っていないと、ハーレイの家にはあるだろうか、と。
「ボールなあ…。そりゃあ、無いこともないんだが…」
クソガキどもを遊ばせるんなら、庭でボールは定番だしな?
しかし、お前とボール遊びか…。そいつは思いもよらなかったな。
考えてはおく、と言ったハーレイ。
頭から駄目だと断られたわけではなかったから。
(ボール遊び…。してくれるのかな?)
キャッチボールでも、サッカーでもいい。手加減だらけで、転がるボールを拾うだけでもきっと楽しい、ハーレイとなら。ハーレイとボールで遊べるのなら。
明日の土曜日には出来るのだろうか、ボール遊びが?
(出来たらいいな…)
幼稚園児並みの扱いをされてもかまわないから。
ハーレイが転がしてくれるボールを拾うだけでも充分だから。
そして迎えた土曜日は晴れ、庭で遊ぶには最高の天気。
(ボール遊びが出来るといいのに…)
やってみたいよ、と首を長くして待つ内、訪れた待ち人。二階のブルーの部屋でハーレイが荷物から出して来たボール。サッカーボールよりも小さなボール。
「持って来てやったぞ、ご注文のボール」
「ボール遊びをしてくれるの?」
「うむ。外へは出ずにな」
「えっ?」
ボール遊びなのに、と目を丸くしたら、「お母さんたちには言っておいた」とウインクされた。心配無用だと、今日は二人でボールで遊ぼうと。
外へは出ないというボール遊び。ハーレイが手にしたボールが何かも分からない。
(バレーボールとも違うよ、あれ…)
真っ白なボール、艶のあるボール。見た目にはよく弾みそうなボール。
(何をするわけ…?)
しげしげとボールを見詰めていたら、ハーレイはボールを床へと置いた。転がらないよう、手を添えてそっと。その場に落ち着いてしまったボール。
「まあ、食っちまえ、菓子」
ついでにお茶も飲むんだな。腹が減っては戦が出来ん、と言うだろうが。
「うん…」
そう答えてはみたけれど。やはり気になる、謎のボールと外へは出ないボール遊びなるもの。
(どんなのか想像つかないんだけど…!)
けれど、お菓子を食べてしまわないと教えて貰えそうもない遊び。ボールの正体。仕方ないからフォークでケーキを口へと運んだ、ボールを横目で眺めながら。
ボールの話はして貰えないまま、それでも二人で色々話して。ケーキのお皿が綺麗に空になり、一杯目の紅茶も無くなった所でハーレイが「さて」と椅子から立ち上がった。
「そろそろ始めてみるとするかな、ボール遊びを」
お茶をおかわりする前に、とポットから二杯目の紅茶は注がず、「此処はシールド」と包まれたテーブル。ハーレイのグリーンのサイオン・カラーを纏って淡く輝くテーブル。
「シールドって…。何をするの?」
「こうするのさ」
ハーレイが手に取った、さっきのボール。床に投げられ、ポンと跳ね上がったそれをハーレイの手が叩き落として、また跳ねたのを叩くから。
「えっと…。ドリブル?」
「そう見えるか? いいか、見てろよ」
「わあ…!」
凄い、とブルーは歓声を上げた。ただのドリブルとは違っていたそれ。
床から跳ねたボールに当たらないよう、ヒョイと片足を上げて下をくぐらせたり、跳ねるまでの間に身体をクルリと一回転させて何事も無かったかのようにポンと再び叩いたり。
ボールをつきながら動くハーレイ、つく手を交差させたりもする。床で弾むボールを手で受けるけれど、叩いて床へと戻すけれども、それに合わせて様々なことをしてみせるハーレイ。
それはさながらボールと戯れているかのようで。
「なあに、それ?」
何と言う名前のスポーツなの、とブルーは尋ねた。見たこともない遊び方だから。ドリブルとはまるで違うから。
「毬つきさ」
「まりつき…?」
聞いたことさえ無い言葉。毬という単語は知っているけれど、毬つきは初めて聞く言葉。
「毬は分かるだろ、ボールだな。そいつをつくんだ、こうして叩く、と」
この辺りに日本って国があった時代の古い遊びだ、俺はおふくろに教わったんだ。
本当はこうだ、と歌がついた。下手なんだがな、と苦笑いしながら。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ…」
ボールを叩いてはクルリと回って、足の下をくぐらせたりしつつ歌うハーレイ。けして下手とは言えない歌。上手な歌。ブルーにも歌は聞き覚えがあって。
「その歌、それの歌だったの?」
古い歌だっていうのは知っていたけど、えーっと、毬つき? それに使う歌?
「そうだ、本当はな。毬つきに使うから手毬唄と言うんだ」
他にも色々あるんだが…。おふくろは幾つも歌えるんだが…。
俺はこいつしか覚えてないなあ、歌よりも技の練習の方に夢中になっていたからな。
やってみるか、と渡されたボール。ハーレイが意のままに操っていたボール。
白いボールをポンとついてみて、床で弾んで戻って来たのを、またポンと床へ戻してやって。
「よし、その調子だ。基礎はきちんと出来るようだな」
そこで片足、と合図されたから、右足を上げてみたけれど。ボールはその足をくぐる代わりに、足にぶつかって別の方へと飛んでしまった。もちろん追い掛けて叩けはしないし、好きにポンポン跳ねて転がってしまったボール。壁に当たってコロコロと。
「…失敗しちゃった…」
ボールを拾って元の位置に戻ると、「コツが要るんだ」と教えられた。ボールが跳ね返るまでの時間を見定め、それに合わせて足を上げろ、と。
理屈は理解できるけれども、上手くいかないのが毬つきで。
「違うな、手本を見せてやるからよく見ておけよ?」
こうだ、とハーレイにかかれば何でもないこと、ボールを足にくぐらせること。あんな風に、と返して貰ったボールに挑戦してみるけれど。
(今かな?)
これで出来る筈、と足を上げてもぶつかるボール。くぐってくれずに足に当たるボール。
上手く出来ない毬つきの基本らしい技。足の下をくぐってくれないボール。
ブルーがせっせと頑張っていたら、「一休みしろ」と解かれたテーブルのシールド。あらぬ方へ飛んだボールがカップやお皿を割らないように、とハーレイが張っていたシールド。
そのテーブルを挟んで座って、お茶のおかわりをカップに注いでハーレイの昔話を聞いた。今はまだブルーは遊びに行けない、隣町のハーレイが育った家。庭に大きな夏ミカンの木があると聞く家。その家でハーレイが母に習った毬つきの話。
「おふくろは昔の遊びも好きなんだ。毬つきもその中の一つだな」
ガキだった頃の俺には曲芸みたいに見えたんだ。覚えてやろう、と頑張ってたなあ、おふくろは笑っていたけどな。元は女の子の遊びなのに、と、そりゃあ可笑しそうに。
「女の子の遊びだったんだ…」
「うむ。男の方は同じ毬なら蹴鞠だ、蹴鞠」
「蹴鞠?」
「毬を蹴るんだ、しかし地面に落としちゃいかん。落とさないように蹴り続けるのさ」
こう輪になって、と聞かされた蹴鞠は毬つきよりも遥かに難しそうだった。蹴り上げられた毬が自分の所へ落ちて来たなら、地面につく前に上へと蹴る。次の人へとパスを送る蹴鞠。
(…毬つきの方がよっぽど簡単…)
一人で練習すればいいのだし、遊ぶ時にも一人だけ。自分のペースで遊べる毬つき、他の人からパスされはしない。それに何より、ハーレイに習った。ハーレイに教えて貰った毬つき。
古い遊びでも、女の子向けの遊びであってもかまわない。ハーレイと同じ技を持てるのならば。
「毬つき、ぼくも上手になりたいな…」
ハーレイがやってるみたいに、上手に。足の下をくぐらせるだけじゃなくって、他にも色々。
「ふうむ…。お前にピッタリのボール遊びかもしれんな、毬つきってヤツは」
「なんで?」
どうしてぼくにピッタリだって言うの、ちっとも上手に出来ないのに。
「そこだ、上手に出来ないって所だ。毬つきはサイオン抜きでやるのが決まりだからな」
サイオンを使っちまえば、俺がやってたような技だって誰でも出来る。毬の動きを操れるしな。しかし、そいつは反則ってヤツで、毬つきはサイオンを使っちゃいかん。
つまりだ、お前みたいにサイオンが不器用なヤツでも、頑張り次第で上手に出来る、と。
「そっか…」
ぼくだとズルをしたくなっても、サイオン、上手く使えないしね…。
練習さえすれば、サイオンが使える人よりも上手に毬つき出来るかもしれないんだね。
頑張れば自分だってハーレイのように毬つき出来る筈、と休憩を挟んで、また毬つき。
白いボールと格闘する間、ハーレイはテーブルにシールドを張っていてくれた。それに毬つきの手本も何度も見せてくれたし、「今だ」とタイミングも声で知らせてくれた。
「休めよ」と言うのも忘れずに。少し休めと、椅子に座れと。
そうして二人で練習する内、母が運んで来た昼食。「上手になった?」と微笑んだ母。
昼食を食べる間は毬つきは休憩、食後のお茶が運ばれて来るまで休んだけれど。
「ハーレイ、毬つき、またやろうよ」
もうたっぷりと休んだから。一時間くらいは休んでいたから、さっきの続き。
「疲れちまうぞ。お前、俺が来てからずっと毬つきばかりだろうが」
休む時間を取らせてはいるが、やりすぎはいかん。おやつを食べてからにしておけ。
「でも、覚えたいよ…!」
休みすぎたら勘が狂うよ、ぼくは覚えていないんだから!
足の下をヒョイとくぐらせるヤツ、まだ一回も出来ていないんだから…!
あれを覚えるまで練習させて、とハーレイにせがんで、頑張って。
続け過ぎると疲れるぞ、と渋るハーレイに「じゃあ、歌に合わせてつく練習」と言い訳をして、足は上げずにボールだけをついた。ボールが床から戻って来る時間を掴めるように。
「あんたがたどこさ、肥後さ…」
そう歌いながらボールをついたり、足の下をくぐらせる練習をしたり。
午後のおやつを母が運んで来るまで、休み休みで頑張った毬つき。歌に合わせてつく方は上手になったけれども、くぐらせられない足の下。
おやつを食べ終えて、またやろうとしたら、「そのくらいにしておけ」と止められたけれど。
「もうちょっと…!」
あと少しだけ頑張れば出来そうなんだよ、もうちょっとだけ…!
結局、何度も休憩をさせられながらも、夕食前まで続けた練習。
なんとかボールは足の下をくぐってくれるようにはなったけれども。
「…持って帰っちゃうの?」
ボール、とブルーは帰り支度を始めたハーレイの手元を見詰めた。白いボールは荷物の中。出て来た時とは逆のコースで入れられてしまった、荷物の中へと。
「置いて帰ったら、お前、絶対、無理するからな」
一人で練習なんかしてみろ、夢中になって時計なんか見ないに決まってる。
俺がついてても「もうちょっと」ばかり言っていたんだ、見てなきゃ無茶な練習をする。
そうならないように持って帰るさ、ボールが無ければどうにもならんし。
「また明日な」と手を振ったハーレイと一緒に帰って行ってしまったボール。練習したくても、ブルーの家には無いボール。
仕方がないから、あの歌を歌うことにした。毬つきの歌を。
「あんたがたどこさ…」
歌に合わせてボールをついているつもりで上げてみた足。このタイミングならば、ボールは足に当たることなく上手にくぐってくれただろう。
(うん、こうやって練習すれば…!)
ボールが無くても、弾む姿は覚えているから。本物のボールが跳ねていないから、どんな技でも練習出来そうな気さえしてくる。床で弾んで戻って来る前にこういう技を、と。
(クルリと回るの、やっていたよね…)
弾むボールに背を向けるようにクルリと回転、そんな技さえ今なら出来る。ポンと叩いて、幻のボールが弾む間に身体をクルリと、ハーレイがやっていたように。
(こうして練習しておけば…)
明日は上手につけるだろう。足をくぐらせる技を復習したなら、その次はこれ。
(きっとハーレイ、ビックリするよ)
頑張らなくちゃ、と幻のボールを何度も何度もつき続けた。母に「お風呂よ」と呼ばれるまで。お風呂に入ってパジャマを着た後も、ベッドに入る時間になるまで、何度も何度も。
満足するまで練習してからベッドに入ったブルーだけれど。
心地良い疲れに引き込まれるように、ぐっすり朝まで眠ったのだけれど。
日曜日の朝、目覚ましの音で目を覚まして起きようとした途端。
(えっ…?)
クラリと軽い眩暈が襲った。枕に逆戻りしてしまった頭。
一瞬だったから、天井が回りはしないけど。身体も重くはなかったけれど。
(いけない…!)
昨夜、頑張り過ぎた毬つき。幻のボールで続けた練習。
そうならないよう、ハーレイはボールを持って帰って行ったというのに。「無茶をしそうだ」と言われていたのに、本当に無茶をした自分。ありもしないボールをついているつもりで。
(…失敗しちゃった…)
けれど眩暈はほんの一瞬、それきり起こらなかったから。
何食わぬ顔をして顔を洗って、ダイニングで朝食を食べる時にも両親には言わずに隠し通した。今日も毬つきの練習をしたいし、新しい技も試したいから。
眩暈を起こしたと告げてしまえば、母はハーレイに報告するに決まっている。そうなれば練習はさせて貰えず、ボールに触れられもしないのだから。
幸い、二度目の眩暈は起こらず、顔色だって悪くはなくて。
もう大丈夫だと、平気なのだと思っていたのに、訪ねて来てくれたハーレイは椅子に座るなり、ブルーの顔を覗き込むと。
「毬つきの練習、今日は駄目だな」
「えっ?」
何故、とブルーは瞬きをした。新しい技にも挑みたいのに、何故駄目なのか。
「お前、具合が悪いんだろう?」
「そんなこと…!」
ない、と反論したけれど。「顔に書いてある」と指摘された。それは隠し事をしている顔だと、具合が悪いに違いないと。
「寝てなきゃいけないほどでもない。…軽い眩暈を起こしたってトコか」
「なんで分かるの!?」
「後ろめたそうな目つきだからだ。バレませんように、と俺を見ているってことは、バレたら困る何かがあるってことで…。考えてみれば直ぐに分かるさ、お前は毬つきがしたいんだしな」
具合が悪けりゃ、毬つきなんかはさせられん。そう言われるのが嫌で黙っていたんだろうが…。
この俺に嘘をつこうだなんて、チビには百年早いんだ。
前のお前の時にしたって、俺にだけはバレていたろうが。具合が悪いのに「大丈夫だよ」と嘘をついてたな、前のお前も。俺には呆気なくバレていたがな。
今日は毬つきはさせられないな、と言い渡された。
身体を動かす遊びは駄目だと、今日は大人しく過ごすようにと。
「…ボール…。ハーレイ、持って来ているんでしょ?」
ほんのちょっとだけ、触っちゃ駄目? 一回か二回、ポンとつくだけ。椅子に座って。
「ボールは持っては来ているんだが…。こういうオチだと思っていたしな」
俺が帰った後に何をしたかは知らないが…。お前のことだし、ボール無しでも何かやったな。
無茶をするなと注意したって、この有様だ。今日はボールは禁止だ、禁止。
これにしておけ、と荷物の中から出て来た小さなボール。そう見えたそれは、本物の手毬。
色とりどりの糸でかがられ、美しい模様がついた手毬で。
「手毬…?」
テーブルに置かれた手毬をブルーがまじまじと見詰めていると。
「毬つきってヤツは、元々はこういう手毬を使っていたんだ」
今じゃ手毬は毬つきと言うより、飾り物になってしまっているがな。…もっとも、そいつはSD体制が始まるよりも前の時代から既にそうだった。実用品じゃなくて飾り物だ。
同じ飾るなら凝った模様を、と色々な手毬が作られていたんだ、手間暇かけてな。
この手毬は俺のおふくろの手作りの手毬だ、こういうのを作るのも大好きだからな。
「ホント…?」
「うむ。飾りだけあって、そんなに弾みはしないんだが…」
やってみてもいいぞ、と促されたから、ブルーは手毬を床に向かって投げてみた。昨日ボールでやっていたように、跳ね返って来たらついてみようと。
それなのに弾まない手毬。床に落ちても僅かしか跳ねず、コロンと転がってしまった手毬。
「…手毬なのに跳ねてくれないの?」
床に屈んで拾い上げると、ハーレイが「うむ」と頷いた。
「さっきも言ったろ、飾り物だと。今じゃ毬つきはボールだってな」
よく弾むボールがちゃんとあるんだ、こういう跳ねない手毬よりかは断然そっちだ。
こんな手毬じゃ、出来る技も限られてくるからなあ…。
「そうだね、ハーレイがやっていた技、こういう手毬じゃ出来ないね…」
どんなに上手についていたって、毬が高くは跳ねないんだもの。
跳ねてる間にクルッと回ったりしている暇が無いよね、毬が落っこちちゃうものね…。
飾りなんだ、とブルーは手毬を観察してみた。模様も地色も糸で出来ていて、幾重にも巻かれて毬の形になっている。芯になるものはあるのだろうけれど、それを一面に取り巻いた糸。中の芯が全く見えなくなるまで重ねて巻かれた細い細い糸。
(なんだか凄い…)
どれほどの手間がかかるものなのか、どれほど根気が要るものなのか。細い糸だけで模様を描き出すなど、地色まで糸で埋め尽くすなど。
「気に入ったのか、それ? プレゼントしてやるわけにはいかんが…」
大人しくするなら、そいつを貸しておいてやる。暫くベッドに横になっておけ。
「…寝るの?」
寝なくちゃ駄目なの、ハーレイが来てくれたのに…?
「ぐっすり寝ろとは言ってないだろ、横になれと言っているだけだ。身体を休めた方がいい」
疲れすぎたんだ、昨日の毬つきを頑張り過ぎて。それと、その後の自主トレーニングだな。
明日、学校を休みたくなきゃ、しっかり疲れを取っておくんだ。
横になるだけでも違うからなあ、座っているよりその方が早く治るってな。
パジャマには着替えなくてもいいから、とベッドの方を指差された。
言われるままに横になったら、ふわりと掛けられた薄い上掛け。
「ウッカリ寝ちまうってこともあるしな、これは掛けておけ」
「…うん…」
寝たくないけど、と返したら「ほら」と置かれた手毬。枕の側に。ブルーからよく見える所に。
「眠気覚ましだ、さっき貸してやると言っただろう」
触っていてもいいし、見るだけでもいい。退屈しのぎに持っておくんだな。
もっとも、退屈している暇があるかは分からんが…。
今から昔話をしてやる、この俺の昔話だぞ?
それとも本物の昔話の方がいいのか、いわゆるお伽話ってヤツが。
「…ううん、ハーレイの昔話がいいよ」
うんと昔の話がいい。ハーレイがぼくより小さかったくらいの、うんと小さな子供の頃の。
そういう話を聞かせて欲しいな、せっかくだから。
「よしきた、俺のガキの頃だな」
柔道と水泳はやってたんだが、そういうのは抜きで話してやろう。
ネタだけは山ほど持っているんだ、武勇伝から失敗談まで、それこそ星の数ほどな。
昔々、隣町の大きな夏ミカンの木がある家に…、と始まったハーレイの語る昔話。
王子様の代わりにクソガキが主人公の物語。
(…ふふっ、クソガキ…)
ブルーの知らない今のハーレイ、出会うよりも遥かに前のハーレイ。
そのハーレイが、少年のハーレイが駆け回る姿が見える気がした、隣町の家で。夏ミカンの木がある家の庭を走って、あちこちに顔を突っ込んで回って。
毬つきの練習は家の中で母と一緒にしたという。二人並んでボールをついて。
弾むボールに猫のミーシャがじゃれついたことや、ミーシャにボールが当たったことや。
(痛かったよね、ミーシャ…。クソガキのボール)
ミーシャの尻尾に当たったボールは、ハーレイがついたらしいから。ポンと叩いて弾んだ先に、ミーシャの真っ白な尻尾があったらしいから。
暫くは御機嫌斜めだったミーシャ。ハーレイがミルクを御馳走するまで拗ねていたミーシャ。
(ハーレイがクソガキ…)
その頃のハーレイを見てみたかった、とクスクスと笑う。
毬つきの練習は出来なかったけれども、それは幸せな日曜日。
ハーレイの母が作った手毬を見ながら、触りながらクソガキの昔話を聞いている自分。
(…毬つきだけでもネタが山盛り…)
クスッと笑ってしまう話や、ミーシャが気の毒になる話。ハーレイの思い出が詰まった毬つき。
いつかまた、ハーレイと毬つきをしたい。
疲れさせてしまった、とハーレイが心配しなくても済むようになったなら。
焦らずにゆっくり練習出来るよう、同じ家で暮らすようになったなら。
そして毬つきの思い出を増やそう、今はまだ一つしか持っていないから。
昨日の分しか持っていないから、毬つきの思い出をハーレイと二人で、二人分で…。
毬つき・了
※ブルーがハーレイとやってみたくなった、ボール遊び。教えて貰った遊びは毬つき。
夢中になって練習しすぎた結果、寝込んでしまいましたけど…。それでも幸せ一杯の日。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
大好きなお風呂。ブルーはお風呂が好きでたまらない。
体調を崩してしまった時でも、熱が無ければ入ろうとするほどのお風呂好き。バスタブに入ってゆったり浸かって、寛ぎの時間。
今夜もゆっくりと身体を温め、心地良いバスタイムを楽しんだ後で、バスタオルをふわりと。
(ふふっ、幸せ…)
お日様の匂いのバスタオルが。
今日は朝から良く晴れた一日だったから。母がバスタオルも外に干して乾かしたのだろう、陽の光をたっぷり吸い込むように。ふわふわのタオルになるように。
機械でも充分乾かせるけれど、仕上がり具合は同じだけれど。
陽に当てたタオルはやっぱり違う。機械では出せない太陽の匂い、陽の光を吸うから漂う匂い。
ふわふわのフカフカに乾いたタオルは肌に気持ち良く、鼻でも感じる幸せの香り。
こういうタオルに出会えた時には、特に幸せになるけれど。いつも以上に幸せなお風呂上がりになるのだけれども、今日の幸せはもっと大きくて。
心の底から湧き上がる喜び、なんて幸せなのだろうかと。
ふわふわのタオルだと、ふかふかのタオルだと跳ねている心。弾んだ心。
バスタオルを羽織っただけだというのに。お日様の匂いの大きなタオルを一枚羽織って、水気を拭おうとしただけなのに。
(…なんで?)
何故そんな風に思ったのか。特別な気持ちになったのか。たった一枚のバスタオルで。
不思議でたまらない、お風呂上がり。
お日様の匂いのバスタオルならば、天気のいい日には必ず出会えるものなのに。母が出掛けたりしない限りは、ほぼ間違いなく出会えるのに。
(どうして今日は特別なの?)
身体を丁寧に拭いてみたけれど、分からない。ふかふかのタオルが水気を吸うだけ、濡れた肌が乾いてサッパリするだけ。お湯の温もりを残したままで。バスタブで身体を隅々まで包んだ、熱いお湯の名残を留めたままで。
拭き終わったバスタオルを専用の籠へと放り込む前に、顔だけを埋めてみたけれど。
何か分かるかとパジャマ姿でバスタオルに顔を埋めたけれども、掴めない理由。幸せの理由。
バスタオルは水気を吸ってしまって、もうフカフカではなかったから。
ふわふわの幸せも、お日様の匂いも、何処かへ消えてしまったから。
仕方ないから、湿ったバスタオルに別れを告げた。専用の籠へと放り込んで。
温まった身体で部屋に戻って、腰を下ろしたベッドの端。
パジャマだけでも寒くはないから、そのまま其処で考え事。お風呂上がりからの考え事の続き。
(バスタオル…)
どうしようもなく幸せだった。バスタオルを肩に羽織っただけで。
ふかふかのタオルが濡れた身体を包み込んだだけで。
(それはいつもと変わらないのに…)
お日様の匂いのバスタオルが気持ちいいのは、普段と同じ。幸せだけれど、当たり前のこと。
幸せなのだと感じるけれども、ふわふわでお日様の匂いだから。太陽の光を浴びたバスタオルで昼間の幸せが蘇るから。今日は天気のいい日だったと、こんな幸せな出来事があった、と。
けれども今日は違っていた。いつもの幸せとは違っていた。
もっと大きな幸福感。満ち足りた気持ちとは少し違って、身体中に幸せが広がった。
ふかふかのタオルだと、ふわふわのバスタオルに包まれたと。
自分にとっては当たり前の小さな幸せなのに。湯気を立てているホットミルクやココアを喉へと落とし込む時、ホッとするのと変わらない程度の小さな小さな幸せなのに。
なのに特別に思えた幸せ、心が弾んだほどの幸せ。
では、あの気持ちは…。
(…ぼくじゃない?)
今の自分とは違う自分が連れて来たろうか、あの幸せを?
たった一枚のバスタオルだけで、太陽の匂いのバスタオルだけで。
(今のぼくとは違うとしたら…)
それならば分かる。前の自分の記憶が心を掠めたのなら、違う幸せにも出会うだろう。
前の自分は、今の自分とは全く違った人生を生きていたのだから。
違う人生ならば幸せの記憶もまるで違うし、同じバスタオルでも見る目が異なる。
(シャングリラにはお日様、無かったしね…)
白い鯨の公園などを照らした光は人工のもので、洗濯物など干してはいない。乾かしていない。
そのせいで幸せだと思っただろうか、地球の太陽の光の匂いがするタオルだと。
(…そうなのかな?)
前の自分も太陽の光は知っていたから。白い鯨の外に出た時は、アルテメシアの太陽の日射しを浴びていたから、それが幸せの記憶なのかと考えた。
前の自分は眺めるだけしか出来なかった太陽、洗濯物を乾かすことなど出来なかった光。
きっとそうだと、そういう記憶が幸せを運んで来たのだろうと、遡ってみた前の自分の記憶。
太陽の記憶は何だったろうかと、バスタオルの幸せと繋がらないかと手繰り寄せていて…。
(アルタミラ…!)
それだ、と気付いた幸せの意味。バスタオルで感じた幸福の理由。
アルテメシアの太陽の記憶では無かった、あの幸せを連れて来たものは。バスタオルに包まれて幸福感を覚えたことの引き金、それは前の自分の辛く惨めな時代の記憶。
(…あの頃は何も無かったんだよ…)
狭い檻と幾つもの実験室。檻から引き出されて歩いた通路といったものしか無かった時代。
自分の意志では何も出来なくて、持ち物さえも何も無かった。自由に使えるものなどは無くて、心も身体も成長を止めた。
自分では意識しなかったけれど、育っても未来がありはしないから。何処までゆこうが檻の中が全て、其処から自由に外に出られはしないから。
(バスタオルなんて…)
何処にも無かった、ただの一枚も。
お日様の匂いのタオルどころか、くたびれて湿ったバスタオルさえも貰えなかった。そういった物は不要だったから。実験動物にお風呂など要りはしなくて、バスタオルも同じ。
実験や日々の暮らしで汚れてしまった身体は洗浄用の部屋で洗われた。四方八方から吹き付ける水で洗われ、それが終われば乾燥用の風が壁から吹き出した。
実験で傷ついた身体が、肌がひび割れようとも、実験動物は乾かされるだけ。
柔らかいタオルを貰えはしなくて、自分の身体を拭くことも出来ずに乾かされていた。どんなに痛くて転げ回ろうが、悲鳴を上げて蹲ろうが、乾燥用の風は止まらなかった。
実験動物に優しくしてやる必要は無いと、バスタオルも風呂も、何もかも要りはしないのだと。
あまりにも惨い時間を、日々を長く過ごしたから、研究所の檻で生きていたから。
アルタミラから脱出した直後に浴びたシャワーが嬉しかった。燃え上がり崩れゆく星を走る内に汚れてしまった身体を清めてくれたシャワーが、冷水ではなくて熱かった湯が。
それにシャワーを浴びに行く時、「ほら」と渡されたバスタオルも。
ハーレイが貰って来てくれたバスタオル。ふわりと乾いていたタオル。
「要るだろ」と褐色の手が差し出した。
シャワーを浴びるならタオルが無いと、と大きなバスタオルを渡された。これを使えと。
(あの時のタオル…)
成人検査を受けるよりも前の記憶は全て失くしてしまったけれど。
シャワーを浴びたり、バスタブに浸かったり、そうした記憶も微塵も残っていなかったけれど。
辛うじて覚えていた使い方。シャワーも、ふかふかのバスタオルも。
熱いお湯で身体中の埃を洗い流して、サッパリした後にくるまったタオル。ふかふかのタオル。乾燥用の風とは違って、身体を優しく包み込んだタオル。何の痛みも感じさせずに、ただ心地良さだけを与えてくれた。肌に残った水気を吸い取り、乾かしてくれた。
その時に感じた幸福感。ふかふかの手触りが幸せだったバスタオル。
実験動物から人になれたと、バスタオルを使える人間の世界に戻れたのだ、と。
後にシャングリラと名を変えた船に乗り込んでからは、当たり前に使えたバスタオル。
シャワーを浴びに行きたい時には一枚、いつでも自由に使って良かった。様々なものを洗濯する役目を選んだ者たちが、毎日洗ってくれていたから。洗って乾かし、所定の場所に置いたから。
そこから一枚、好きに取ってはシャワーを浴びに出掛けていた。
人間だからこそ出来た贅沢、シャワーも、それに乾かすための大きなバスタオルも。
最初の間は船に備え付けられていたバスタオルを使っていたのだけれども、人類の船から物資を奪うようになると、バスタオルの質はぐんと上がった。専用に運ぶ輸送船から失敬したから。同じ奪うなら上質なものをと、高級品を狙ったから。
そうして良いものを使っていたから、白い鯨が出来上がった後も。
(タオルはふかふか…)
青の間のタオルも、仲間たちが使ったバスタオルも。
肌触りの良いタオルに慣れたら手放せないから、作る者たちも妥協しないで本物を目指した。自給自足の船の中でも良いものは出来ると、作り出せると。
(うん、本当にふかふかだったよ…)
アルタミラから脱出した直後に使ったバスタオルも、白いシャングリラのバスタオルも。
乾いた空気をたっぷりと含んでふかふかしていた、お日様の匂いはしなかったけれど。船の中に本物の太陽は無いから、日射しは存在しなかったから。
(だけど、ふかふか…)
幸せだった、と思い出したから。あのバスタオルが幸せな日々だったのだ、と気付いたから。
明日、ハーレイに話してみようと思った。自分が見付けた幸せのことを、記憶の彼方から届いたバスタオルの幸せのことを。
明日は土曜日だから、ハーレイが訪ねて来てくれる日だから、バスタオルのことを。
忘れないよう、メモを取り出して「バスタオル」と書き、勉強机の真ん中に置いた。こうすれば朝には気が付くだろうし、忘れていても思い出せるから。
翌朝、目覚めてメモを目にして。
(バスタオルだっけね)
もう忘れない、と顔を洗いに行ったら、其処でもタオル。ふかふかの感触、お日様の匂いがするタオル。一度戻った記憶は鮮やかで、そのタオルも昨夜の幸福感を届けてくれた。
ふかふかのタオルは幸せなのだと、こうしたタオルを使える幸せな日々を自分は手に入れたと。
顔を拭いて、それから朝食を食べて。部屋の掃除を終えて待つ内に、鳴らされたチャイム。待ち人が部屋にやって来たから、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったから。
母が置いて行ってくれたお茶を飲みながら、早速、タオルの話を始めた。
「ねえ、タオルって幸せだよね。…バスタオルとか」
「はあ?」
意味が掴めていないハーレイ。怪訝そうな顔をしているハーレイ。
それはそうだろう、いきなりタオルの話では。しかも「幸せ」などと言われたのでは。
だから慌てて続きを話した。「アルタミラの後」と。
初めてシャワーを浴びに行く時、ハーレイにタオルを貰ったよ、と。
バスタオルを「ほら」と渡してくれたと、「要るだろ」と持って来てくれたと。
「ああ、あれな。…お前、ボーッとしていたからな」
シャワーの順番、もうすぐだぞ、と言ってやってもボーッとしてて…。
どうすりゃいいのか分からない、って顔をしてたから、バスタオルを貰いに行って来たんだ。
「そうだった…?」
覚えていないよ、シャワーがとっても嬉しかったことは覚えているけど…。
ハーレイがバスタオルをくれたってことも、ちゃんと覚えているんだけれど。
「そのシャワー。…バスタオルもだが、使い方から教えなくちゃいかんのかと思ったぞ、俺は」
何もかもすっかり忘れちまって、シャワーの浴び方も分からないかと…。
バスタオルの意味も分かってないかと、一瞬、本気で心配したな。
「いくらなんでも、そこまでは…。ううん、ちょっぴり危なかったかも」
シャワーの使い方、絵で書いてあったから分かったけれど…。あれが無かったら、お湯と水との切り替えなんかは気が付かなくって、頭から水を浴びていたかも…。うんと冷たいのを。
それで身体が凍えちゃっても、お湯にすればいいって知らずに最後まで浴びて。
バスタオルだって、身体を拭く代わりにくるまって震えていたかも、そういう使い方だ、って。
シャワーを浴びたら寒くなるから、暖かくなるように羽織るんだ、って。
「お前なあ…。やはり危険はあったわけだな、あの時のシャワー」
ボーッとしていただけじゃないんだな、半分、分かっていなかったんだな。
シャワーって言葉を覚えてはいても、記憶は曖昧になっていた、と。
その日の気分で熱い湯にしたり、冷たい水でスッキリしたりといった部分は忘れてたのか…。
記憶が危うくなっていたなら付き添ってやれば良かったな、とハーレイはフウと溜息をついて。
「…それで、バスタオルだかタオルだかの何処が幸せだと言うんだ、お前は?」
使い方を間違えそうだったらしいが、どの辺が幸せに繋がるんだ…?
「そっちは今のぼくとも繋がっているんだよ。ふかふかのをいつでも使えるもの」
お日様の匂いがしているタオルとか、バスタオル。ふかふかのフワフワのタオルのこと。
前のぼくもタオルを使う時には幸せな気分がしたけれど…。
今のぼくだと当たり前になってしまっているよね、ほんのちょっぴりだけの幸せ。バスタオルの使い方も危なかったような前のぼくだと、もっと幸せだったのに…。
お日様の匂いのバスタオルだったら、幸せどころか感激だろうと思うんだけど…。
「なるほどなあ…。それがタオルの幸せってヤツか、やっと分かった」
お前、青の間でも言っていたしな。ふかふかだ、って。
「やっぱり話していたんだね、ぼく。…前のぼくのタオルの幸せのこと」
「毎日ってわけではなかったがな」
たまに思い出したように話していたなあ、こういうタオルが使える毎日は幸せだ、とな。
そういや、前のお前のタオルの幸せ。
バスタオルだとかタオルだけじゃなくて、もっと他にもあったっけなあ…。
ふかふかになったタオルの幸せ。それを使える日々の幸せ。
前のブルーはバスタオルやタオルの他にも幸せを感じていた、と言われたけれど。
それが何なのか、どういったものでタオルの幸せを噛み締めていたのか、考えてみても欠片さえ思い出せなくて。何処にタオルの幸せがあったか、手掛かりさえも見付からなくて。
「…ハーレイ、それって何処にあったの? 前のぼくが言ってたタオルの幸せ」
バスタオルとかタオルじゃないなら、何処からタオルの幸せになるの…?
「ん…? タオルそのものではなくてだな…。タオル地ってヤツだ、バスローブだ」
あれはタオル地で出来ていただろ、風呂上がりにしか着ないわけだが。
「あったね、そういうバスローブ…。お風呂上がりにしか使わないから、贅沢だって?」
そう言ったのかな、前のぼく。こんなに贅沢な使い方をしているタオルだよ、って。
お風呂上がりにしか着られない服を作れる生活が出来るんだよ、って。
「いや、そうじゃなくて…。お前が幸せを感じていたのは俺のバスローブだ」
「ハーレイの…?」
普通のより多めに生地が要るからかな、ハーレイのためのバスローブだと。
うんと贅沢に作れる時代になったんだ、って眺めていたかな、前のぼくって…?
「うーむ…。その様子だと、お前、忘れたんだな。せっせと運んでくれていたのに」
「え…?」
何のことかとブルーは首を傾げたけれど。思い出せないタオルの幸せ、ハーレイのバスローブを運んだ自分。何処から何処へと運んでいたのか、何故バスローブを運んだのか。
まるで全く記憶には無くて、「どういう意味?」と尋ねてみたら。
「そのままの意味だ、前のお前がやっていたんだ。…流石にアレは隠しておけないからな」
瞬間移動で運んでくれたぞ、俺の部屋から。戻す時にも瞬間移動で。
忘れちまったか、俺のバスローブをお前が運んでいたことを?
「ああ…!」
分かった、とブルーの脳裏に蘇った記憶。
確かに自分が運んでいた。前の自分が瞬間移動で、タオル地のハーレイのバスローブを。
白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイと秘密の恋人同士だった頃。
毎夜のように青の間に泊まっていたハーレイ。ブルーのベッドで眠ったハーレイ。
朝まで青の間で過ごすからには、シャワーも浴びるし、バスタブにも浸かる。そうなってくると必要だったバスローブ。風呂上がりにだけ纏う、タオル地で出来たバスローブ。
バスタオルやタオルはハーレイが使っても誤魔化せたけれど。ブルーが多めに使ったらしい、と部屋付きの係は納得して洗濯しに行ったけれど。
バスローブの方はそうはいかない。数は誤魔化せてもサイズという壁が立ちはだかった。
「ハーレイのバスローブ、大きかったものね…」
「そういうこった。お前のを借りて着るってわけにはいかなかったんだ」
俺の身体には小さすぎるし、どうにもならん。
丈は短めで済ませるにしても、肩幅からして違うヤツをだ、無理に着られはしないだろうが。
大は小を兼ねるって言葉はあっても、逆の言葉は無いんだからな。
ハーレイが青の間に泊まるからには、バスローブが欠かせないのだけれど。ブルーのサイズでは役に立たないし、ハーレイ用のものを纏うしかない。シャングリラで一番サイズの大きなハーレイ用のバスローブを。
けれども、替えの下着などと同じで、ハーレイが青の間に持っては来られないバスローブ。船の中を持って歩けはしない。替えの下着やバスローブといった、明らかに泊まりのための荷物を。
だからブルーが運んでいた。瞬間移動で、バレないように。誰にも見付からないように。
ハーレイが泊まるための荷物を、大きなサイズのバスローブなどを。
「…忘れちゃってたよ、ハーレイのバスローブを運んでいたこと…」
あれも一種のタオルだよね、とハーレイを見れば「うむ」と返って来た返事。
「それでだ、お前のタオルの幸せってヤツは、運んでいたって話じゃないぞ」
お前が俺の部屋に泊まる時には、お前、俺のを使っていたろう。
大きすぎると、袖は余るし丈も長すぎると言ってはいたがだ、自分のは持って来ないんだ。
俺のヤツがいいと、これを着るんだと、いつもブカブカのを着て御機嫌だったぞ。
「そうだっけね…」
そっちもすっかり忘れちゃっていたよ、ぼくがハーレイのを着てたってこと。
とても大きなバスローブだよね、って思いながら借りていたのにね…。
大きかったハーレイのバスローブ。袖丈は余ったし、着丈もブルーには長すぎたけれど。身幅も余っていたのだけれども、幸せだった、という記憶。
ハーレイの身体の大きさを感じて、幸せに浸っていた記憶。
あのバスローブをまた着てみたい。タオル地で出来た、ハーレイのためのバスローブを。
だから…。
「ハーレイ、今もバスローブを使ってる?」
お風呂上がりには着ていたりするの、バスローブを?
「まあな。直ぐにパジャマ、って気分じゃない日はバスローブだなあ…。しかし、お前は…」
使っていそうにないなあ、チビだしな?
バスローブなんぞは着る暇も無くて、風呂上がりは直ぐにパジャマだろうが。
「うん…。バスローブなんかは持っていないよ」
でも、ハーレイが持っているなら、またハーレイのを着たいんだけど…。
ぼくには大きすぎるバスローブ、今度も着させて欲しいんだけど…。
着せてくれる? と小首を傾げたけれど。
ハーレイは首を縦には振らずに、「駄目だ」とすげなく断った。
「駄目だな、結婚するまでは駄目だ」
お前がどんなに頼み込もうが、強請っていようが、結婚するまで着せてはやれん。
「やっぱり…?」
駄目なの、ハーレイのバスローブ?
ぼくが育ってキス出来るようになっても、ハーレイの家へ行けるようになっても、バスローブは着せてくれないの…?
「当然だろうが。けじめだ、けじめ」
何度も言っているだろうが、と額を指で弾かれた。
バスローブを着るような状況を先走って作りはしないと、そういったことは結婚式を挙げるまで我慢しておけと。
まずはプロポーズでそれから婚約、ブルーが待ち望む関係になれるのは結婚してから。
何処へ行っても後ろめたい思いをせずに済むよう、正しい付き合いをしなくては、と。
「…前のぼくたちには、誰もなんにも言わなかったのに…」
けじめなんて言葉はハーレイだって一度も言わなかったよ、ぼくは一度も言われていないよ。
「そもそも誰も知らなかっただろうが、前の俺たちの関係のことは」
知られていなかったし、知らせるつもりも全く無かった。けじめも何もあるもんか。
前のお前と結婚出来ると言うんだったら、俺もあれこれ考えて動いていただろうがな。
しかし今度はそういうわけにはいかないのだから、と諭された。
いつか結婚して共に暮らそうと思うからには、そこに至る道筋を外れないように。けして前後を間違えないよう、後ろめたい気持ちにならぬように、と。
おまけに、今の互いの立場は教師と生徒。ブルーの守り役でもあるハーレイ。
そういう関係の二人だからこそ、けじめが大切。正しく、と。
「親父にも厳しく言われてるんだ。俺の顔を見たら注意するんだ、親父はな」
あんな小さい子に手を出しちゃいかんと、結婚するまで我慢しろと。
いくら将来を誓ってはいても、それとこれとは別物だってな。
「…キスしてもいいよ?」
ぼくはちっともかまわないから、キスしてくれてもいいんだけれど。
ハーレイのお父さんに言い付けやしないし、ちゃんと一生、内緒にするから。
「キスも駄目だと何度も言ってる筈だがな?」
前のお前と同じ背丈になるまでは駄目だと言った筈だが?
タオルの幸せとやらを綺麗サッパリ忘れていたついでに、そっちも忘れてしまったか、お前…?
絶対に駄目だ、と鳶色の瞳に睨まれた。キスも大きくなるまで駄目だと。
キスさえも駄目では、いつになるやら見当もつかないハーレイのバスローブを借りられる日。
ブルーの身体には大きすぎるそれを、借りて幸せに浸れる日。
ガックリと項垂れたブルーだけれども、髪をクシャリと撫でられた。伸びて来た手に。
「そうしょげるな。前のお前もお気に入りだった、俺用のでっかいバスローブだが…」
いつかお前と揃いで買えるさ、いつかはな。
「お揃い?」
「そうだ。お前、お揃いが大好きだろうが。バスローブも揃いにしようじゃないか」
前の俺たちでは、そういうわけにはいかなかったが…。
ある意味、揃いのバスローブではあったがな。シャングリラではバスローブのデザインは一種類だけで、誰でも同じのデザインだったし…。
男用のと女用の違いは胸の刺繍の色だけだったろ?
男用が水色で女用がピンクだったかなあ…。ミュウの紋章の形の刺繍。
しかし今度は色々なデザインのを選べるぞ、と微笑まれた。
サイズさえあれば気に入ったものをと、色も形も選び放題だと。
「…じゃあ、ぼくのとハーレイのと、両方のサイズがあるヤツを?」
これがいいな、と思うのがあったら、サイズは色々あるんですか、って訊いてみるわけ?
「そうさ、楽しい買い物だろう?」
お前がこれにするんだ、と思うのを選べばいい。まずは選んで、それから店員さんの出番だ。
俺のとお前の、両方のサイズがあるかどうかを調べて貰って、あったら二人で買って帰ろう。
お前の好みで選んじまって、俺にはまるで似合わなくても、俺はそいつにしておくから。
「うんっ! ハーレイと二人で買いに行くんだね」
大丈夫だよ、ぼくの好みを押し付けたりはしないから。
それよりハーレイが選ぶのがいいよ、自分に似合いそうなのを。ぼくがそっちに合わせる方。
だって、ハーレイのを借りたいんだから。
また借りて着ようと思ってるんだし、ハーレイに似合うのを選んで買おうよ、お店に出掛けて。
「ふうむ…。お前が借りて着たいと言うなら、そうなるか…」
俺の好みで選んじまってもかまわないんだな、どうせお前は俺のを借りて着たがるんだから。
…そうすると俺のは二着要るなあ、そのバスローブ。
俺が着ようと思っているのに、お前が横から持って行くんだしな…?
もっとも、脱がせりゃ済むわけなんだが、お前が俺のを着ていたとしても。
ただなあ、それだと二人揃ってバスローブを着ている時間が無いしな…。
やっぱり二着か、買う時には。…俺はすっかり忘れてそうだが、二着要るんだということを。
いつかは揃いのバスローブ。それを二人で買いに出掛ける。
だからそれまではけじめだな、と念を押されてしまったけれど。バスローブは貸してやらないと言われたけれど。
アルタミラの檻で生きていた頃には、思いもよらなかった幸福すぎる未来だから。
白いシャングリラでさえ、夢にも見なかった結婚生活だから。
文句を言っては駄目だと思うし、膨れもしない。いつか必ず、そういう未来が来るのだから。
「ねえ、ハーレイ。今度はハーレイが泊まるための荷物、運ばなくてもいいんだね」
今のぼくは瞬間移動も出来ないけれども、運べなくても大丈夫だよね?
「ああ、堂々と同じ家で暮らしているんだからな」
荷物なんかを運ぶ必要は微塵も無いなあ、家の中で移動するだけだしな?
二人一緒に暮らしてる家で、誰も文句を言いやしないさ、俺たちだけしかいないんだからな。
そんな生活だから夜も長いぞ、とパチンと片目を瞑られた。
土曜日は特に、と。いくら夜更かしをしてもいいのだから、と。
「…うん…」
意味を考えて、頬が真っ赤に染まったけれど。耳まで赤いかもしれないけれど。
今度は揃いのバスローブ。二人で選んだバスローブ。
バスタオルをふわりと身体に巻き付ける時の幸せにしても、前の生より、もっと、きっと…。
そう考えた心が零れていたのだろう。ハーレイがニヤリと笑みを浮かべた。
「うんうん、バスタオルの幸せだっけな。お前の幸せの記憶の始まり」
なんなら風呂上がりには俺が拭いてやろうか、バスタオルで?
そしてバスローブを着せてやる、と…。
お前のその日の気分に合わせて、お前のサイズのや、俺用のヤツを。
「えーっと…。それってちょっぴり恥ずかしいかも…」
「恥ずかしい? チビのお前はそうかもしれんが…」
結婚する頃には言わないんじゃないか、その台詞。
なにしろ俺の嫁さんなんだし、大切に拭いてやるくらいはなあ…?
前の俺たちならやってたろうが、と指摘されてみれば、そうだった。
そんな日もあった、ハーレイがブルーの身体をバスタオルでくるんで拭いていた日も。
「いいな、そういう日が来るまでは、だ…。それまでは正しく、けじめだな」
結婚した後にはけじめは要らんし、楽しみにしとけ。
俺のバスローブを借りるってヤツも、俺にバスタオルで拭かれる方も。
「うん…」
今は我慢するしかないんだね?
ハーレイのバスローブを借りたくっても、結婚まで我慢。
けじめだなんて言われちゃったら、貸してって頼んでも無駄みたいだしね…。
「うむ」と大きく頷いたハーレイ。「けじめってヤツが大切なんだ」と。
言い聞かされるとちょっぴり不満で、けれど、とびきり待ち遠しい。
その日が来るのが、けじめとやらが要らなくなる日が。
結婚したなら、ハーレイとお揃いのバスローブ。
それを着せて貰う、その日の気分で自分のを着たり、ハーレイのを貸して貰ったり。
お風呂上がりにバスタオルで優しく拭いて貰って、「また後でな」とハーレイはバスルームへ。
そしてハーレイがバスローブ姿で戻って来たら。
温まった身体をバスローブに包んで、ブルーの所へやって来たなら。
二人きりの甘くて長い夜が始まる、この地球の上で。
生まれ変わって再び出会えた、青い地球の上にあるハーレイの家で…。
タオルの幸せ・了
※ブルーがバスタオルから感じた幸せ。前の生でのアルタミラの記憶と、その後に得た自由。
けれど、それだけではなかったのです。前のハーレイのバスローブ。さて、今度は…?
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あ…!)
学校がいつもより早く終わった日の帰り道。バス停から家まで歩く道。
まだ早い午後、昼下がりといった時間帯。秋の日射しは柔らかなもので、暖かな午後の帰り道。
歩く途中でブルーが見付けた女の子。
顔馴染みの夫婦が住む家の庭で昼寝をしていた。背もたれが倒せる籐の椅子で。子供の身体には大きすぎるほどの、それは寝心地が良さそうな椅子で。
小さな身体の下にはクッション、膝の上には薄い上掛け。気持ち良さそうな昼寝の時間。
(お孫さんだっけ…)
遠い地域に住んでいる子供。小さい頃から何度か見かけた。この家に遊びに来ている時に。
会わない間に大きくなったよね、と生垣越しに覗き込んでみる。足を止めて。
出会った頃のフィシスくらいの年なのだろうか、幼い金髪の女の子。
前に会った時はもっと小さくて、自分の中にはフィシスの記憶も全く無かった。前の生の記憶は戻っていなくて、フィシスは歴史の中にいた人。
それが今では事情が違う。昼寝している女の子の髪型がフィシスそっくりだと思ってしまう。
白いシャングリラに連れて来た頃、フィシスの髪はこうだった。まだ床にまでは届いておらず、長い髪だったというだけのこと。
だから見た目には特別ではなく、盲目だったということ以外は、ごくごく普通の女の子だった。占いをしたり、その身に地球を抱いていたりと、中身は特別だったけれども。
(んーと…)
この女の子はフィシスではないという気がするけれど。
フィシスだと感じはしないけれども、同じ髪型、同じ金髪。出会った頃のフィシスと同じ。
(ちょっぴり似てる…?)
年恰好と髪型以外に共通点は何も無いのに、何故だか似ている気がするフィシス。遥かな記憶の彼方のフィシスを思い出させる、目の前の少女。
(なんで…?)
どうしてだろう、と眺めていたら、金色の睫毛が微かに震えて、パチリと開いたその瞳。現れた綺麗な緑色の瞳。
途端にフィシスはいなくなった。跡形もなく消えて、少女が残った。
「…ブルーお兄ちゃん?」
「あ、うん…。こんにちは」
ぼくのこと、覚えていてくれた? と訊いたら、笑顔で頷いた少女。覚えてるわ、と。
椅子から下りて生垣の側までやって来た少女と暫く話をしたけれど。
少女の祖父母も出て来て見守ってくれていたけれど。
(やっぱり違う…)
話せば話すほどに、フィシスとは違う。前の自分の記憶に残ったフィシスとは違う。
似て見えたのは髪型だけ。少女が「それでね…」と無邪気にはしゃぐ度に揺れる、金の色をした長い髪だけ。切り揃えられた前髪と顔を縁取る金色の糸。それだけがフィシス。
他は何もかも違っていた。顔立ちも違えば、中身も違った。
幼かったフィシスとは話し方も違う、もちろん話の内容だって。占いの話は欠片さえも無くて、少女の心は今の満ち足りた日々で一杯で。
友達の話や両親の話、祖父母の話と、くるくると変わる少女の話。相槌を打てば、フィシスとは違う笑顔が返って来る。まるで似ていない笑顔と顔立ち、髪型だけしか似ていない少女。
何故似ていると思ったのか。
フィシスに似ていると眺めていたのか、今となってはもう分からない。
話せば話すほどに、フィシスとは違う。その姿さえもが、フィシスとはまるで違うのに…。
どのくらい立ち話をしていたろうか。
明日には自分の家に帰ると言った少女に「また会おうね」と手を振って別れて、家に帰って。
着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間も、頭に残っていた少女。少しフィシスに似ていると感じてしまった少女。髪型だけしかフィシスと似てはいなかったのに。
(…でも、フィシス…)
最初は確かに似ていると思った、何故か似ていると。それが不思議で眺めていた。
おやつを食べ終えても気になる少女。フィシスとは全く違った少女。
部屋に戻ってから、勉強机の前に座ってまた考えた。
どうしてフィシスを連想したのかと、全くの別人だったのに、と。
年恰好と髪型以外は似てはいなくて、それも分かっていた筈なのに、と。
帰り道で少女を見付けた所から、順に記憶を並べてみて。
どの辺りまでフィシスだと思っていたのか、それを掴もうと整理していて。
(そうだ、瞳…)
緑色をしていた少女の瞳。澄んだ若葉の鮮やかな緑。
あの瞳が開いた瞬間までは、フィシスに似ていると眺めていた。幼い少女の頃のフィシスに。
閉じていた瞳がそう思わせた。眠っていた少女の閉じた瞳が。
フィシスの瞳は開かなかったから。
シャングリラに連れて来るよりも前も、シャングリラに連れて来た後も。
ただの一度もフィシスの瞼は開きはしなくて、その下の瞳は現れなかった。そう、一度も。
だから、あの少女が重なった。
幼かったフィシスと同じ髪型、それに閉じていた瞳。
開いた途端にフィシスの面影は消えてしまった、緑色の瞳を見た瞬間に。
少女の顔を彩る二粒の宝石、フィシスの顔には無かった宝石。その欠片さえも無かった宝石。
けれど…。
(青い瞳…)
キースのそれに似た、青い瞳。薄い色の青、アイスブルー。
一面に凍った湖の青だと、それがフィシスの瞳の色だと知ってはいた。気付いてはいた。
フィシスの瞼は開かなかったけれど、瞼の下に眼球は確かに在ったから。
あの水槽の中でフィシスが眠っていた頃から知っていた。
どんな瞳かと覗いてみたから、サイオンで探って覗いたから。
フィシスの瞳が開かないことに気付いて間もない頃に覗いた、その瞳を。
視力は全く無かったけれど。
何の役にも立たない瞳で、瞼が開いてくれないからには、飾りにすらもならなかったけども。
閉じたままだったフィシスの瞳。
瞼の下には青い色があると、アイスブルーの瞳なのだと見ることも叶わなかった宝石。
フィシスの顔を彩りさえもしないで、瞼の下に眠っていた瞳。
開く所を想像しさえもしなかった。開いたならばどうであろうかと思うことさえも。
(もしも、フィシスの瞳が開いていたら…)
視力が無くても、瞳が開いていたのなら。
さっき出会った少女さながらに、アイスブルーの宝石が二つ覗いていたなら。
(そういう人だっていたんだよね…)
今の時代は医学が進んで治せるけれども、前の自分が生きた頃には盲目の者も少なくなかった。開いてはいても視力の無い目を持っていたケースも珍しくはなくて。
ただの飾りに過ぎない瞳。用を成さない二つの宝石。
フィシスの瞳がそれだったならば、シャングリラに連れて行っただろうか?
サイオンを与え、ミュウにしてまで前の自分は攫ったろうか?
手に入れたろうか、あの少女を。水槽の中に居た、あのフィシスを…?
(…ううん…)
きっと連れては行かなかった。白いシャングリラには迎えなかった。
いくらフィシスの地球に惹かれても、それを常に見たいと願っていても。
攫うことなく、サイオンを与えることもなく、時が来たらフィシスと別れただろう。水槽の中のフィシスに別れを告げただろう。
「君の地球を見るのは今日で終わりだよ」と、「今日まで見せてくれてありがとう」と。
そうしてフィシスは水槽から出され、別の人生を歩んだだろう。
貴重な実験のサンプルとして研究者たちに囲まれて暮らすか、あるいは他の人類と一緒の生活をさせられてデータを取られるか。
いずれにしても、ミュウとは無関係な生。シャングリラなど知らず、サイオンも持たず、ただの人類として生きてゆく道。その人生にミュウの長などは要らないから。
(…最後に記憶を消してお別れ…)
自分と会っていたフィシスの記憶を消してしまって別れただろう。「さようなら」と。
あの瞳が開いていたならば。
視力は無くとも、アイスブルーの瞳が輝いていたならば。
(何もかも見られているような気がするものね…)
視力が無い分、その瞳は何処も見ていないから。焦点を結びはしないから。
その分、瞳に映った全て。それを見通すような気がする、奥の奥まで。
目に見える形に囚われない分、それが持つ本質といったものまで。
(…それにサイオン…)
フィシスに与えたサイオンの力。ミュウだけが持っている特殊な能力。
思念波での会話と基礎的な力、それらを分けて与えるだけではフィシスは自由に動けはしない。盲目だから。視力が無いから。
目を閉じていても見ることが出来る能力、それを与えねばならないけれど。それが無ければ船の中でフィシスは困るだろうから、分け与えなければならないけれど。
人類は本来、持たない能力。ある筈もない高度なサイオン能力。
「見る」という力がフィシスの身体にどう作用するかは謎だった。単に見えるようになるというだけか、健康な身体を持っている分、もっと強い力を持つというのか。
しかも健康なだけではなくて、無から生み出された生命体。マザー・システムが誇る最高傑作。目が見えないという点を除けば、非の打ち所がないフィシスの肉体。
それほどの器がサイオンを持てば、どう変化するか分からない。思った以上の力を得そうな気がした。「見る」という力に関しては。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが予想した通り、危惧した通り。
フィシスは未来を「見る」力を得た。ブルーにさえ無かった、予知の能力。神秘の能力。
もしも瞳が開いていたなら、未来だけでなくて隠されたものまで見たかもしれない。瞳に映ったものの全てを、それらのものの奥底までをも。
心を読むのとは違った形で奥の奥まで、人の器に宿る思いの底の底まで。
そうなっていたら、前の自分とハーレイとの恋も見抜かれただろう。一目見ただけで、見えない瞳に自分たちの姿を映しただけで。
(うん、きっと…)
フィシスがそういう力を持っていたなら、一瞬で知れた。誰にも明かしていなかった恋が。長い年月、隠し通した恋を見抜かれ、知られていた。
そうなってしまうことを恐れて、フィシスを攫いはしなかったろう。
見えない瞳が何を見るのか、それが恐ろしかっただろうから。
サイオンを与えることさえしないで、地球を抱く少女と別れただろう。フィシスが抱く青い地球ごと、フィシスそのものを諦めただろう。
手に入れることは出来ないと。
彼女の瞳が何を見るかが分からないから、シャングリラには連れてゆけないと。
あるいは、力が無かったとしても。
フィシスに「見る」ための力を与えることなく、盲目のままで連れて帰ったとしても。
思念波での会話などの基礎の力だけで、船内の移動や日々の暮らしは他の者の手を借りるという形にしておいたとしても。
(目が開いていたら…)
フィシスの瞳が開いていたなら、見られる度に心が痛む。
何も見ていないアイスブルーの瞳に自分が映るのを見る度、心の奥がツキンと痛む。
フィシスの世話はアルフレートがしただろうけれど、彼がフィシスを連れてシャングリラの中を移動しただろうけれど。その時に自分と出会っていたなら、アルフレートはこう言っただろう。
「ソルジャーがおいでですよ、フィシス様」と。
そうしてフィシスを自分の方へと向かせただろう。見えぬ瞳でも、あらぬ方を眺めてしまわないように。ソルジャーに礼を取れるように、と。
フィシスが自分の方を向いたなら、見えない瞳が向けられたなら。
アイスブルーの瞳に自分の姿が映って、フィシスと向き合うことになる。見えていなくても。
その度に心がツキンと痛む。
自分の心はフィシスの上には無いのに、と。
青い地球が見たくて攫って来ただけで、地球を抱く女神が欲しかっただけ。
フィシスが自分に向けているようなひたむきな愛などは無くて、地球を欲しただけなのに、と。
本当に地球だけを愛したわけではないけれど。
それを見せてくれたフィシスごと愛して慈しんだけども、人形を愛でるのと変わらない愛。
自分の心を捧げる愛とは違った愛。異なった愛。
真に心から愛した人なら、他にいるから。フィシスと取り替えるつもりは無いから。
だから攫えない、攫えはしない。
フィシスの瞳が開いていたなら、アイスブルーの瞳が自分に向けられるのなら。
たとえサイオンで「見る」という力を得なかったとしても、盲目のままであったとしても。
あの目で見られたら辛くなるから。
フィシスが前の自分にくれたのと同じだけの愛を、想いを、自分は決して返せないから。
(閉じてて良かった…)
フィシスの瞳。一度も開きはしなかった瞳。
顔の飾りにすらなりはしなくて、瞼の下に隠されたままで終わったアイスブルー。氷に覆われた湖の青の、誰も知らなかったフィシスの瞳。
フィシスの瞳が開いていたなら、攫わなかったと思うけれども。
それは今だからこそ、そう思うだけで、水槽の中のフィシスに出会った頃だったなら。
フィシスが抱く地球に魅せられ、通い詰めていた頃の自分だったなら。
我慢出来ずに攫ったかもしれない、瞳が開いているフィシスを。アイスブルーの瞳の少女を。
「見る」力だけは与えずにおいて、盲目のままで。
どうしてもフィシスが、地球が欲しいと、アイスブルーの瞳を持った少女を。
(そうなっていたら…)
自分も心が痛んだろうけれど、ハーレイもきっと困ったと思う。
フィシスが側に来る度に、きっと。アイスブルーの瞳がハーレイを映す度に、きっと。
その瞳を持つ少女が慕って愛するブルーを、自分が奪ってしまっているから。
ブルーの心は決してフィシスに向きはしなくて、ハーレイだけを見ているのだから…。
そんなことをつらつらと考えていたら、チャイムの音が聞こえて来た。
仕事帰りのハーレイが鳴らしたチャイムの音。窓から見下ろせば、手を振る人影。門扉の前で。
そのハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座ってから。お茶とお菓子を前にしながら。
「あのね、今日、学校の帰りにね…」
フィシスに会ったよ、と切り出したら。
ハーレイが驚いて息を飲むから、「そう思っただけ」と笑ってみせた。別人だった、と。
「赤ちゃんの頃から知ってる子なんだ、ご近所さんのお孫さん」
ぼくが出会った頃のフィシスくらいになってて、フィシスとおんなじ髪型をしてて…。
庭の椅子で昼寝をしていたんだよ、今日はお天気が良かったから。すやすやと寝てたよ、気持ち良さそうに。大きくなったよね、って覗き込んだんだけど…。
瞳が開くまでフィシスに見えた、とあの話をした。
一連の話。似てもいない少女がフィシスに似ているように思えたのだ、という話。
澄んだ若葉の緑の瞳をしていた少女。
ただ目を閉じていたというだけのことで、フィシスを思わせた少女の顔。
それらを話して、言葉を切って。
ハーレイを見詰めて、こう問い掛けた。
「もしもだよ。…もしもフィシスの瞳が開いていたら…」
視力は無くても開いていたなら、ハーレイはどうだったと思う?
「どういう意味だ?」
「冷静でいられたのか、っていう意味だよ。フィシスの前で」
フィシスの瞳にじっと見られたら、どうだった?
キャプテンじゃなくて、ぼくの恋人の方のハーレイ。
ぼくたちのことは何も知らない筈のフィシスが、ハーレイの顔をじっと見上げていたら…?
視力が無いから何も見えない筈なんだけどね、と説明をしたら。
ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
「それは確かに落ち着かないな。キャプテンとしての俺はともかく、中身の俺がな」
何を思って見詰めてるんだ、と心配になってくるだろうな。
何処かでヘマでもやらかしたのかと、お前とのことがバレちまったかと。
フィシスはお前を慕ってたしなあ、恋する女性の勘ってヤツでだ、恋敵は俺だと見抜いたとか。
「やっぱりね…」
ハーレイだってそうなっちゃうんだ、フィシスが側に来て見詰めていたら。
見えてないだけに、フィシスがいったい何を見てるのか、余計な心配しちゃうよね…。
ぼくも駄目だ、とブルーは小さな溜息をついた。
フィシスの瞳が開いていたなら、きっと攫えなかったと思う、と。
攫うことを諦め、ミュウにもしないで研究所に残しておいただろうと。フィシスが抱いた地球に魅せられ、どんなに焦がれて通い詰めようとも、自分は攫わなかっただろうと。
「もしかしたら、それでも攫っていたかもしれないけれど…。攫っていたら後が大変だよ」
ぼくもハーレイも落ち着かなくって、フィシスが来る度にハラハラしちゃって。
瞳が閉じてるのと開いてるのとで、まるで全く違うだなんて…。
見えないって所は同じなのにね、前のぼくが「見る」力さえ与えてなければ。
目がパッチリと開いてるだけで、何の役にも立たないんだけれど…。
それでも怖いよ、フィシスの瞳が開いていたら。
見えない筈の瞳がじっと見てたら、フィシスには何か見えるんだろうか、って気になるものね。
ホントに怖い、と肩を震わせたブルーだけれど。
ハーレイの方は、フィシスの瞳を知らないから。ブルーと違って、瞼の下の瞳を知らないから。
具体的なイメージが掴めないのか、顎に手を当てて首を捻った。
「フィシスの瞳か…。開いていたなら不安ではあるが、どうも今一つ実感がな…」
どういう感じの顔になるのか、俺には全く想像がつかん。
お前が見たっていう女の子じゃないが、瞳を閉じてる顔しか頭に浮かばないんだ。俺はそういう顔しか知らんし、瞳の色さえ分からないからな。
「キースと同じ色だったよ」
「それは…!」
あのキースと同じだったのか、フィシス。…そんな瞳の色だったのか…。
知らなくて良かった、という気がするぞ。知っていたなら、俺はフィシスをどう見ていたか…。
フィシスがキースを逃がしちまったのは事故だと自分を納得させていたが、同じ色の目じゃな。
どういう生まれか知っていただけに、睨んじまったかもしれないなあ…。
「キースと同じ色っていうのは今だから言えることだよ、ハーレイ。フィシスの方が先」
ぼくがフィシスと出会った頃には、キースは何処にもいなかったんだし…。
キースの方が真似してたんだよ、フィシスの瞳の色の真似をね。
でも、ハーレイの気持ちも分かる。ハーレイはキース、今でもとっても嫌いだものね。
「…お前、それもあってキースを嫌っていないのか?」
フィシスと同じ瞳の色。そのせいもあるのか、お前がキースを嫌わない理由。
「ううん、瞳の色は少しも関係無いよ」
キースを作った遺伝子データの元がフィシスだってことも、瞳の色も無関係だよ。
フィシスとキースは違う人間だし、ぼくがキースを嫌わない理由になりはしないよ、瞳の色は。
まるで別物なんだもの、とブルーは肩を竦めてみせた。
同じ色でも違う瞳、と。
キースの瞳は色そのままに氷の瞳で凍てついていたと、感情すらも凍っていたと。
フィシスの瞳に感情の色は無かったけれども、その代わり、凍ってもいなかったと。
何も映していなかった瞳。映すことなく瞼に覆われていた瞳。
フィシスの意志では瞼は動かず、けして開かなかったから。
瞼が開いてアイスブルーの瞳が光に晒されることは、ついに一度も無かったから。
感情を一度も宿すことなく、凍ることもなく、顔の飾りにさえならなかった瞳。
前のブルーの他には見た者すらも無かった、凍った湖の色を湛えた瞳…。
「だけど、フィシスの瞳が開かなくて良かった…」
開いていたなら、きっと諦めるしか無かったから…。フィシスをシャングリラに迎えること。
どんなにフィシスの地球が見たくても、あの目で見られたら困ることの方が多いから。
地球は欲しくても、困ることが多いと分かっているなら諦めるしか…。
「お前、あの地球、好きだったからな」
フィシスの地球。身体がすっかり弱っちまっても、お前、あの地球、見ていたものなあ…。
「うん…。あれが好きだったよ、フィシスよりもね」
フィシスよりも地球が好きだった。フィシスが持ってた青い地球が。
「それを知ってるのは俺だけだがな」
俺しか知らなかったんだよなあ、お前はフィシスよりもフィシスの地球の方が好きだったこと。
シャングリラ中がすっかり勘違いしてて、誰も気付かなかったんだよなあ…。
遠い遠い昔、白いシャングリラがあった頃。
その船でブルーがフィシスの抱く地球を、飽きずに眺め続けていた頃。
誰もがブルーはフィシスのことが好きなのだと思い込んでいた。
恋人とは少し違うけれども。恋とは違った感情だけれど、フィシスを愛しているのだと。
けれども実の所は違って、ブルーが愛していたのは地球。フィシスの中に在った青い地球。
それを見せていたフィシス自身も、きっと気付いてはいなかったろう。
ブルーの想いは地球の上にあると、それを持つがゆえに自分も愛されているのだとは。
ブルーが自分を女神と呼ぶのは地球を抱くゆえで、それゆえに女神なのだとは…。
「フィシスの瞳が開いていたなら、あの地球だって…」
後ろめたくて見ていられないよ、ぼくの表情、バレているんじゃないか、って。
フィシスを見る目とはまるで違うと、地球の方に恋をしているんだ、ってバレてしまいそうで。
「そうだろうなあ…」
目が見えないんじゃ、じっと目を開けて地球をお前に見せたかもしれんし…。
そうなってくると、お前も心が落ち着かないよな、本心ってヤツを見抜かれそうでな。
「うん…。だけどフィシスの目は閉じたままで、ぼくはフィシスを攫えたわけで…」
もしかしたら、フィシスは神様がぼくにくれたんだろうか?
前のぼくが希望を失わないために。失くさないために…。
「希望って…。俺じゃ足りなかったか?」
俺がいるだけでは足りなかったって言うのか、前のお前の人生には。
もっと何度も愛しているって言うべきだったか、前の俺は…?
「ううん、ハーレイの愛は充分貰っていたよ。こんなに貰っていいんだろうか、って思うほどに」
ハーレイとの愛なら失くさなかったし、希望だって持っていたけれど…。
それとは違って地球への夢だよ。いつかは地球へ行こう、っていう夢。
「なるほどなあ…。そいつは俺ではどうにもならんな」
お前を地球まで連れて行ってやる、と約束はしたが、お前に地球を見せてはやれんし…。
フィシスに頼るしかないってわけだな、地球へ行く夢を持ち続けるなら。
いつかハーレイと地球へ、と願ったブルーだけれど。
白いシャングリラで青い地球まで、共に行きたいと願ったけれど。
命が尽きると気付いた時には、地球をも諦めそうだった。
どうせ駄目だと、青い地球には辿り着けないと。その前に寿命が尽きてしまうと。
けれど、もうフィシスが来ていたから。フィシスがとうに船に居たから。
フィシスが抱いた幻の地球で、挫けそうな心を慰めていた。
あの青い地球までシャングリラの皆を、と。
それが自分の務めなのだと、ソルジャーの最後の務めなのだと。
自分の命は尽きるのだとしても、何処かに道はある筈だから。
皆を地球へと連れてゆける道が、きっと何処かにある筈だから。
命尽きる前にそれを見付けて皆を導こうと、地球への道筋をつけておこうと…。
「もしもフィシスがいなかったなら…。ぼくはあの時、地球を捨てていたよ」
地球へ行こう、っていう夢を。地球への希望を。
持っていたって、着く前に死んでしまうんだから。ぼくは地球には行けないんだから…。
「俺と一緒に行けないからなのか、いつか行こうと約束したのに」
シャングリラでお前を連れて行ってやると俺は誓ったが、お前の命が持たないからか?
「そう。辿り付けもしない夢の国なんかは要らないよ」
夢物語と変わらないんだよ、青い地球なんて。
だけど、ハーレイは来てくれると言ってくれたんだから。ぼくが死んでも、ぼくと一緒に。
その約束の方が、よっぽど大事。
…行けもしない地球に行く夢よりもね。
「約束、破っちまったがな。…俺はお前と一緒に行ってはやれなかった」
「それはぼくの方だよ、ハーレイに約束を破らせちゃった」
ジョミーを頼む、ってシャングリラに縛り付けちゃって。
前のぼくがフィシスの地球のお蔭で諦めずに済んだ、地球への希望。
諦めなかったからジョミーを見付けて、みんなが地球まで行けるように道を付けられたけど…。
フィシスを攫って来ていなかったら、きっとジョミーを見付けていないよ。
探そうともせずに泣いてばかりで、何もしないままで前のぼくの命は終わっていたよ…。
フィシスの瞳。閉じた瞼の下に隠された、アイスブルーの色だった瞳。
それが開いていなかったからこそ、ブルーはフィシスを攫うことが出来た。サイオンを与えて、白いシャングリラに迎え入れて女神と呼び続けた。
フィシスが抱いた地球が欲しくて攫ったお蔭で、地球への希望を失くさずに済んだ。ジョミーを見出し、次の世代を託すことが出来た。
フィシスの瞳が開かなかったのは、神からの贈り物なのだろうか?
地球を抱くフィシスは機械が生み出した命だけれど。
無から生まれた、神の領域を侵す生命だったのだけれど…。
「ねえ、ハーレイ。…フィシスは機械が生み出したけれど…」
きっと本当は神様なんだよ、神様が作ってくれたんだよ。
そして前のぼくにくれたんだと思う、フィシスの地球ごと、前のぼくに。
フィシスの目が閉じたままだったのもきっと、神様がそうしてくれたんだよ…。
「そうかもしれんな。フィシスの瞳が開いていたなら、お前は攫わなかったと言うし…」
何よりも、今のお前の聖痕。
そいつは神様がお前に下さったもので、お蔭でお前に出会えたんだしな。
「うん…。何もかも神様のお蔭だよね、きっと」
前のぼくがフィシスを手に入れられたのも、ハーレイと地球でまた出会えたのも。
フィシスの瞳が閉じていたのも、神様のお蔭なんだよね、きっと…。
地球を抱く女神、フィシスに嘘をついていたけれど。
ハーレイとの恋を隠したけれど。
大切なのはフィシスなのだと、女神と呼んで慈しみ、愛しているふりをしていたけれど。
もしもフィシスの瞳が開いていたなら、つけなかった嘘。
攫えずに終わっていただろうフィシス。
フィシスも神がくれたのだろう。前の自分が地球への希望を捨てぬように、と。
その神が今度は聖痕をくれた。
ハーレイと地球で巡り会えるよう、今度こそ共に生きられるよう。
だから今度は幸せになれる。ハーレイと二人、前の自分が夢に見ていた青い地球の上で…。
フィシスの瞳・了
※開くことは無かった、フィシスの瞳。もしも盲目でも開いていたなら、違っていた未来。
閉じたままの瞳で良かったのです、前のブルーが地球への夢を抱き続けるためには…。
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(んーと…)
学校から帰って、おやつを食べながら広げた新聞。カラーで大きくメイクの特集。
可愛く見せるならこんな感じで、意志の強さを出したいのなら、こうだとか。
モデルさんの写真も載っているけど、イラストが付いた解説も沢山。メイクのやり方、入門編といったものから凝ったものまで、それは詳しく。
(ふうん…?)
ぼくにはなんだかよく分からない。下地がどうとか、メイクの前にひと工夫だとか。
(口紅を塗って終わりじゃないんだ…)
小さい頃からたまに見ていた、ママのお化粧。パタパタはたいたり、鏡と真剣に睨めっこして。
確かに口紅だけじゃなかった、他のことだってやっていた筈。
(今日だって…)
口紅だけじゃないんだ、きっと。見慣れたママの顔だけど。こんな顔だと思っているけど。
お出掛けの時は、もっと綺麗にお化粧するママ。うんと素敵に見えるママ。
だけど、普段もお化粧してる。夜にお風呂に入った後には、もう口紅をつけてないから。
つまり昼間はしっかりお化粧、口紅の他にも何かお化粧。
(お嫁さんって…)
毎日お化粧をしなくちゃ駄目なんだろうか、ママが毎日してるってことは。
ママはぼくのパパの奥さんなんだし、パパのお嫁さん。
(ご近所さんは…)
お嫁さん、って立場の人たちの顔を思い浮かべてみたけれど。誰でも口紅、お化粧した顔。
新聞にメイクの特集なんかが載るくらいなんだし、常識なのかな、お化粧すること。
ぼくもハーレイのお嫁さんになったら、お化粧しなくちゃいけないのかな?
お嫁さんらしくしたければ。お嫁さんなんです、って言いたいのなら。
毎日、鏡に向かってお化粧。この新聞に載ってるみたいに、口紅の他にもいろんなことを。
(お嫁さんでも、ぼくは男だから…)
お化粧なんかは要らないような気もするけれど。
口紅も何も、塗らなくていいって気もするんだけれど。
でも…、とモデルさんの写真を見ながら考えた。モデルさんが着ている服は色々、服の雰囲気に合わせたメイクが何種類も。
(服でメイクが変わるんだったら…)
ウェディングドレスや白無垢だったら、やっぱりお化粧、要るのかな?
だって、普通の服とは違う。花嫁さんのための特別な服や着物なんだし、もしかしたら。
(…それ専用のお化粧があるとか…?)
この特集には載っていないけど。
普段の服とか、お呼ばれの時とか、普段の暮らしに使えるメイクしか載ってないけど。
(お呼ばれ用のメイクがあるなら…)
パーティードレスに合わせたメイクがあるなら、ウェディングドレスにもありそうな感じ。このドレスだったら、華やかにとか。清楚にだとか、可愛らしくとか。
(白無垢だって…)
あるのかもしれない、白無垢専用のメイクってヤツが。何か特別なお化粧の仕方。
この特集では分からないけれど、花嫁さんのメイクについては書いてないけど。
(うーん…)
おやつをすっかり食べ終わった後も気になる特集。いろんなメイク。
下地ってトコから、もう分からない。ベースを塗ったらおしまいじゃなくて、有り得ないような色の下地を上に塗るとか、専用の粉をはたくだとか。お化粧用の粉とは別に。
頭の中がこんがらがりそう、下地だけなら分かるけど。下地なんだって分かるけど…。
(色付きのを塗ってどうするわけ?)
肌の色とはまるで違った、薄いグリーンのクリームまである。この部分に、って図解がついてるからには、何か効果があるんだろうけど。お化粧用の粉をはたいたら、よく映えるとか。
ぼくには全く分からない世界、下地からして謎だらけのメイク。
(難しそう…)
こんなお化粧、しろと言われても出来そうにない。どうすればいいのか分からない。
下地だけでも分かってないのに、その後はもっと難しいんだ。眉を描いたり、睫毛を塗ったり。口紅だけで終わりじゃなかったお化粧の世界、頬っぺたにつける頬紅まである。
おまけに仕上げにつける粉まで、専用のブラシで顔全体に軽くつける粉まで。
読めば読むほど謎だらけの世界、ぼくにはとっても無理そうなメイク。
花嫁さんなら、メイクはプロがしてくれるんだろうか?
それとも自分でやらなくちゃ駄目で、鏡の前に沢山の道具がズラリと並んでいるんだろうか?
ドレスに合わせてお使い下さい、って、どれでも自由に使って下さい、って。
(…そんなの、とっても困るんだけど…!)
お化粧無しでは駄目なんだろうか、ウェディングドレスとか白無垢とか。
自分じゃ出来ませんでした、って、お化粧無しで着てたら笑われちゃうんだろうか?
あれこれと頭を悩ませていたら、ママが空いたお皿やカップを取りに来てくれて。
「あら、お化粧?」
何を熱心に読んでいるのかと思ったら…。お化粧の舞台裏を読んでいたわけね、メイク特集。
「うん。こんなに色々あるって思わなかったから…」
ママ、お化粧って難しいの?
手間がかかりそうで、こんがらがっちゃいそうなんだけれど…。誰でも出来るの、こんなのが?
「ブルーもお化粧、やってみたいの?」
「そうじゃないけど…。お嫁さんって必ずお化粧しなくちゃいけないの?」
お嫁さんになったら、毎日毎日、お化粧しないと駄目なものなの?
「人によるわよ、その辺はね」
ブルーの知ってるご近所さんは、みんなお化粧しているけれど…。
お買い物とかに行けば、していない人も沢山いるわ。しない主義です、って人も多いし、個人の好みね。しなくちゃ駄目、って決まりは無いのよ。
そう聞いたから、良かった、って思ったんだけど。
いつかハーレイと結婚したって、お化粧はしなくてもかまわないんだ、ってホッとしたけど。
ママは「だけど…」ってメイク特集の記事をチラッと見ながら。
「花嫁さんっていう意味だったら、お化粧は必ずすることになるわね」
「ホント!?」
どうして花嫁さんだとお化粧をするの、普段はしてない人だってするの?
「そうよ。でないとドレスに負けてしまうでしょ、普通の服とは違うんだもの」
お姫様みたいな格好をするのよ、お化粧しないとドレスが主役になっちゃうのよ。
「でも…。お化粧するのが下手な人だと、どうなるの?」
お化粧をしない人もいるなら、どうすればいいのか分からなくなっちゃいそうだけど…。
「花嫁さんのお化粧はプロがするのよ。そういうものよ」
ドレスも一人じゃ着られないでしょ、お手伝いの人がついてくれるの。お化粧もね。
「ふうん…」
お化粧のプロまでついてくるんだ、花嫁さんには。
そういう仕事のプロがいるほど、お化粧って難しいものだったんだね。
ホントのホントに難しそう、って新聞の記事を指差したら。
プロがいるのも納得だよ、って、「モデルさんのメイクもプロだよね」ってママに言ったら。
「そうねえ、他の人にお化粧をしてあげるのは難しいかもね」
お仕事だから慣れているとは思うけど…。自分の顔とは違うわけだし。
「自分でするのは簡単なの? こんなに色々しなきゃ駄目なのに?」
「慣れればね。それにね、全部をしなくちゃいけないわけでもないのよ」
ママだって全部をしてはいないわ、これとこれとはしていないわねえ…。それに、これも。
お出掛けの時だけするものもあるし、こういうのも人それぞれね。
「そうなんだ…。ママも全部はやってないんだ」
だけど口紅だけでもないよね、ぼくには分からないけれど。ママのお化粧。
慣れたら簡単? って、好奇心満々でママに幾つも質問してたら。
「…ブルー、お化粧、してみたい?」
「えっ?」
とんでもないことを言い出したママ。
「ちょっと可愛くなりそうだものね、お化粧したら」
「ぼく!?」
お化粧なんか出来やしないよ、難しそうだな、って見てたんだから!
出来るわけがないよ、お化粧なんて…!
ビックリしちゃったぼくだけれども、ママは本気だった。
お化粧してあげるからいらっしゃい、って二階のママの部屋まで連れて行かれた。
やってみたい気持ちで一杯になっているらしいママ。ぼくにお化粧してみたいママ。
ぼくもママには内緒だけれども、興味はあるから。花嫁さんはお化粧するというから。
(利害の一致…)
ママはぼくにお化粧してみたくって、ぼくはお化粧に興味津々。
ちょうどいいから、して貰うことに決めたお化粧。
「…下地から塗るの?」
どれなんだろう、って化粧品の山を眺めていたら。
ママのドレッサーの前に座ってキョロキョロしてたら、「口紅だけよ」って。
「それだけで充分、可愛くなるのよ」
他のお化粧品はブルーにはまだ早いわねえ…。子供だものね。
それに肌だって柔らかくて真っ白、口紅だけでも素敵になるわよ、うんと素敵に。
ママが手に取った一本の口紅。「これがいいわ」って。
唇に直接塗るのかと思ったら、もうそこからして違ってた。筆が出て来た。
紅筆っていう口紅用の筆なんだって。細くて小さな専用の筆。
お化粧の世界はやっぱり深い、って紅筆を持つママの手元を見詰めた。口紅を紅筆にたっぷりとつけて、塗り重ねてから。
「はい、じっとしててね」
唇はそのまま、キュッとしないの。それじゃ上手に塗れないわ。
「うん…」
ママに言われるまま、鏡の中のぼく。唇に塗られていくピンクの口紅。
なんて表現したらいいんだろう、ふんわりピンクの優しい色。濃すぎない色。
だけど一目で塗ってると分かる口紅の色で、ぼくの唇の色とは違う。
(えーっと…)
お化粧なんて、前のぼくでもしたことがない。
初めての体験、初めての口紅。
ママは紅筆で上唇から塗って、塗り終わったら下唇で…。
(こうなるわけ?)
塗り上がったら、鏡の中にお化粧をしたぼくが居た。ピンクの口紅を塗られたぼくが。
いつものぼくとはまるで違って、ちょっと女の子っぽく見える感じで。
「あら、可愛い!」
こっちを向いてみて、ってママはニコニコ。可愛く出来た、って。
「せっかくだからパパにも見て貰いましょうね」って言い出したママ。
別に反対はしないけれども…。
お化粧なんて初めてだから、パパに見せたっていいんだけれど。
鏡の中、ぼくじゃないみたい。ぼくだけど、ホントに女の子みたい…。
夕食の支度に行くママと別れて、部屋に帰って鏡を覗いた。ぼくの部屋の鏡。
お化粧したぼくが映ってる。ピンクの口紅でお化粧した、ぼく。
(お嫁さん…)
いつかハーレイと結婚する時、花嫁のぼくはプロにお化粧して貰うから。
その頃にはもっと大人びた顔だろうけど、仕上がりはきっとこんな感じになるんだろう。
下地から塗って粉をはたいて手間のかかったお化粧をしても、口紅はきっとこうだから。ぼくの唇の形が大きく変わるわけじゃないし、口紅の色が違うくらいのことだから。
(もっと濃い色とか、そういうの…)
だけどイメージは掴めた口紅、口紅をつけたぼくの顔。お化粧した顔。
前のぼくには出来なかったお化粧。花嫁さんになれなかったから。
あの頃には思いもよらなかった口紅、それをつけてる今のぼく。
(パパに見せたら、なんて言うかな?)
可愛いな、って言ってくれるのか、プッと吹き出してしまうのか。
パパの反応がとっても楽しみ、お化粧の感想を早く聞きたい。
プロじゃないけど、ママがとっても上手に塗ってくれたから。色を選んで塗ってくれたから…。
満足するまで鏡を眺めて、それから本を読み始めた。勉強机の前に座って、お気に入りの本を。
夢中でページをめくり続けてたら、チャイムが鳴って。時計を見るなり、すぐに分かった。
(ハーレイだ!)
今日は仕事が早く終わって、ぼくの家まで来てくれたんだ。窓に駆け寄って、ハーレイに大きく手を振った。庭と生垣を隔てた門扉の向こうへ、其処に立つハーレイに「早く来てね」って。
暫くして、ハーレイはママの案内でぼくの部屋に来てくれたんだけど。
扉が開くなり固まっちゃって、ママもその場で「あらあら…」って。
「ハーレイ先生、すみません。いらっしゃるとは思わなくて…」
(え?)
申し訳なさそうにしているママ。挨拶もしないで立ってるハーレイ。鳶色の瞳を真ん丸にして。
(…なんで?)
どうなってるの、と首を捻った途端に思い出した、ぼく。
口紅、塗ったままだった。
ぼくの唇にピンクの口紅、お化粧しちゃった顔のまま。
パパに見せようと思っていたから。ハーレイが来るなんて思ってないから。
(いけない、お化粧したままだった…!)
落とさなくちゃ、と慌てて唇を手の甲で擦ろうとしたら、ママが「駄目!」って。
「擦ったら広がっちゃうわよ、顔に。口紅の色が」
「え…?」
「早く落としに行かないと。いらっしゃい、ブルー」
すみません、ってハーレイに謝って、ママはぼくを部屋から連れ出した。
待ってる間にハーレイがゆっくり出来るようにと、お茶とお菓子を運んでから。
ハーレイの分と、ぼくの分。テーブルの上に二人分のカップやケーキのお皿や、ティーポット。
それが揃うまで、ハーレイはぼくの顔をじっと見詰めていたけれど。
口紅をつけたぼくの姿に、最初は笑っていたんだけれど…。
ぼくが部屋から出て行く頃には、可笑しそうに笑ってはいなかった。
笑ってはいたけど、もっと、なんだか違う顔。お腹を抱えて笑ってるのとは違う顔だった。
鳶色の瞳がぼくを見ていた、ママと部屋から出てゆくまで。
ママの部屋まで連れて行かれて、また座らされた鏡の前の椅子。
鏡に映ったぼくは困り顔、ハーレイに見られちゃったから。散々、笑われちゃったから。
ママがお化粧用のフワッとした白い綿みたいなヤツに数滴、垂らした何か。その綿を「はい」と渡された。湿った綿を。
「これで拭くのよ、しっかり綺麗に」
「うん…」
口紅を塗っていない所まで広がっちゃったら、大変だから。
鏡を見ながら少しずつ拭いた。ピンク色に変わっていく綿で。
「…ママ、お化粧って厄介なんだね…」
塗るのも難しそうだけれども、それを取るのも大変だなんて…。ぼくが思った以上に大変。
「口紅は特にね」
食べたり飲んだりするでしょう?
その度に全部落ちてしまったら、お化粧が駄目になっちゃうから…。落ちにくいように作られているのよ、口紅は。工夫してある分だけ、落とすのも手間がかかるわね。
でもね、お化粧を全部落とすんだったら、顔を洗えば落ちるのよ?
口紅も何もかも、すっかり全部。そういうものがちゃんとあるのよ、楽に落とせる便利なもの。
塗ったのは口紅だけだったから。唇だけのお化粧だったから。
顔まで全部は洗わずに済んで、代わりにリップクリームをママに塗り付けられた。唇が荒れたら痛くなるから、って色のついてないヤツをキュッキュッと。
それは鏡じゃ分からない。覗き込んでたら「大丈夫よ」ってママが保証してくれた。お化粧とは違って薬みたいなもの、見た目には普通の唇だ、って。
これで安心、とママの部屋からぼくの部屋へと戻ったら。
ハーレイのいる部屋へ一人で戻って行ったら…。
扉を開けたら、ハーレイの視線。ティーカップを持っていたけれど。
「なんだ、本当に落としちまったのか」
「え…?」
何を言われたのか分からなかった。キョトンとしてたら、ハーレイはカップをコトリと置いて。
「口紅だ、口紅」
もう跡形もなくなっちまったな、って見詰められた。ハーレイの向かいの椅子に座ったら。
「ママの部屋できちんと落として来たもの。リップクリームは塗ってるけどね」
口紅を落としたら、塗っておいた方がいいんだって。唇が荒れたら痛くなるから。
でもね、色付きのヤツじゃないから、さっきみたいに可笑しくないでしょ?
ハーレイ、大笑いしていたけれども、今は可笑しくない筈だよ。
「大笑いなあ…。最初は確かに笑っちまったが、凄いものを見たと思ったが…」
俺はあのままでも良かったんだがな?
お前が口紅、塗ったままでも。
「なんで?」
面白いからなの、見てたら愉快な気分になるから?
あんなに可笑しそうに笑うハーレイ、ぼくもそんなに知らないし…。
「それは違うな。笑っちまった俺だったんだが…」
よく考えたら、そいつは間違いだった。笑うにしたって、可笑しがる方ではなかったんだ。
少しだけ未来のお前が見られた、あの口紅のお蔭でな。
いつか嫁に来てくれるんだろうが、って鳶色の瞳が穏やかに笑ってる。
口紅を塗って俺の所へ、って。
そういえばお嫁さんはお化粧しているもので、ママは「人によるわよ」って言っていたけど…。個人の好みだと言っていたけど、ハーレイの趣味はどうなんだろう?
前のぼくだとお化粧どころか、ハーレイのお嫁さんではなかったから。
恋人同士なことさえ誰にも言えない、秘密の恋人同士だったから。
お化粧なんかはするわけがなくて、ハーレイだって「して欲しい」と言える状況じゃなくて。
だけど今度は何もかも違う。
ぼくはハーレイのお嫁さんになるし、ハーレイの家で暮らすんだから。
ハーレイが「お化粧をしたお嫁さん」がいいと言うなら、お化粧した方がいいんだろう。ぼくが男でも、ハーレイがお化粧して欲しいなら。
もしもそうなら、練習しなくちゃいけないから。
今日みたいなメイク特集を読んで、勉強しなくちゃいけないから…。
「ねえ、ハーレイ。ぼくって、お化粧しなくちゃ駄目?」
「はあ?」
お前、チビだろうが。これから毎日、ああいう口紅を塗ろうっていうのか?
チビに化粧は早すぎるように思うがなあ…。
「そうじゃなくって、結婚した後。ハーレイのお嫁さんになった後だよ」
普段もお化粧、ちゃんとしていた方がいい?
ハーレイがそっちの方が好きなら、頑張ってお化粧するけれど…。
さっき未来のぼくって言ったし、お化粧している方が好き?
「馬鹿。そもそも、お前、男だろうが」
どんなに美人でも、男は男だ。
お前がしたくてするなら止めんが、俺から化粧をしろとは言わない。
前のお前は化粧なんかしなくても美人だったさ、何もしなくていいってな。化粧しなくても充分美人だ、誰もが振り返って見そうなほどの。
だがな…、ってハーレイは微笑んだ。
花嫁衣装を着るとなったら化粧が要るだろ、って。そういう未来のぼくが見えた、って。
「そっか、お嫁さん…。花嫁さんの方だったんだ、ハーレイが言ってた未来のぼくって」
「うむ。ウェディングドレスを着るにしたって、白無垢を選ぶにしたって、だ…」
結婚式くらいは化粧すべきだな、いくらお前が美人でも。
ドレスに負けると思いはしないが、一生に一度の結婚式だし、とびきりの美人を見てみたい。
こんなに綺麗な嫁さんなんだと、最高の美人を嫁に出来ると、俺だって自惚れたいからな。
「じゃあ、お化粧…。結婚式の時だけでいいんだ、プロ任せので」
よかったあ…、とホッとしちゃった、ぼく。
お化粧は結婚式の日だけでいいから、と言われて安心しちゃった、ぼく。
ママの部屋にあった化粧品とかの数を思うと、あのメイク特集の記事を思うと、お化粧なんかは出来ればしたくなかったから。
ハーレイの注文だったらするけど、それでもやっぱり困っちゃうから。
毎日、毎日、下地から塗って、口紅も塗って、仕上げの粉まで。そんなの面倒、とっても面倒。
落とす時は顔を洗うだけだとママは言ったけど、お化粧自体は簡単なんかじゃないんだから。
「あのね、ぼく…。新聞でメイクの特集を見てて…」
お嫁さんならお化粧しないと駄目なのかな、って思ってたんだよ、今度はハーレイのお嫁さんになるって決めてるから。
ハーレイのお嫁さんになるなら要るのかな、って考えていたら、ママが来たから…。
お嫁さんはお化粧するものなの、ってママに訊いたのが始まりなんだよ。
ママとお化粧の話をしてたら、「してみたい?」って訊かれちゃって…。
「なるほど、それでお母さんに塗られちまったってわけか、あの口紅」
お前が自分で塗ったのかと思って仰天したがな、見た瞬間はな。
お母さんがやたらと慌てていたから、違うらしいと気付いたが…。
「ママが言ったんだよ、せっかくだからパパにも見て貰おう、って」
可愛くなったし、パパが帰ったら見て貰いましょ、って…。
「なら、本当にあのままで良かったんだがな…」
落とさなくても、塗ったままで。
俺は全く気にしないから、お父さんが帰るまで塗ったままでいれば良かったなあ、あの口紅。
チビのお前に口紅だけに笑っちまったが、よく考えたら、俺の未来の嫁さんなんだ。
その嫁さんが化粧して迎えてくれたっていうのに、笑っちまった俺はつくづく馬鹿だな。
惜しいことをしたな、って残念そうにしているハーレイ。
ちゃんと事情を聞けば良かったと、口紅をそのまま残しておければ良かったと。
未来の嫁さんが見られたのに、ってハーレイはホントに悔しそうで。
「あのお前とお茶を飲みたかったな」
口紅を塗ったお前と、二人でお茶を。…このお茶を口紅を塗ったままのお前と。
「ホント?」
ハーレイ、あんなに笑っていたのに、あのぼくとお茶を飲みたいんだ…?
「当然だろうが、化粧しているお前だぞ? 少しばかりチビで小さすぎるが…」
そのせいでウッカリ笑っちまったが、あのお前だって今から思えば悪くなかった。
背伸びして化粧をしたがる女の子なんかだと、ああいう感じになるんだろう。
チビはチビなりに似合っていたんだ、あの口紅が。
そう思って見てたら、未来のお前がヒョッコリ顔を出したってな。チビのお前の向こう側から、いつか口紅を塗って嫁に来てくれるお前がな…。
今はまだホントにチビのぼく。口紅を笑われてしまった、ぼく。
だけどハーレイは似合っていたって言ってくれたし、嬉しくなった。それに未来のぼくの姿も、ぼくの向こうに見えたと言うから。顔を出したと言ってくれたから。
「…チビのぼくでも、口紅のぼくが良かったの?」
落とさなくても、あのままのぼくとハーレイはお茶を飲みたかったの?
「ああ。口紅を塗って化粧したお前と、二人でのんびりお茶を飲んで…」
一緒に菓子も食いたかったなあ、この菓子をな。
今となっては手遅れなんだが…。お前、口紅、すっかり落としてしまったからな。
あんなお前に出会えるチャンスは、二度と無いかもしれないのになあ…。
「ハーレイ、それって…。ぼくがいつかはお嫁さんになるって決まっているから?」
結婚式には口紅なんだ、って思っているから、ぼくの口紅、見たかったわけ…?
「そうだ、俺の未来の嫁さんだからな」
ウェディングドレスか白無垢かは知らんが、どっちにしたって口紅なんだ。花嫁だしな。
そういうお前を夢に見るには、お前の口紅、まさにピッタリだったってわけだ。
まだまだチビでだ、美人と言うより可愛らしいが…。
口紅を塗っても可愛いだけだが、それでもやっぱり、お前はお前に違いないしな…?
いつかはな…、って優しいけれども、熱い光を湛えた瞳。鳶色の瞳。
大きく育った美人のお前が嫁に来るんだ、って、口紅を塗って化粧をして…、って。
ハーレイの目には、チラリと見えた未来のぼくがきっと残っているんだろう。全体じゃなくて、口紅を塗った唇だけが。未来のぼくの唇だけが。
「…どんなだろうなあ、大きくなったお前が化粧をしたら」
前のお前とそっくり同じに大きく育って、口紅を塗って化粧をしたら。
結婚式なら、口紅の他にもプロが色々するんだろうし…。想像もつかん世界だな。まるで銀色の細工物みたいになっちまうかもな、人間どころか天使みたいな。
「…ぼくにも全然分からないよ」
前のぼくはお化粧、一度もしないで終わっちゃったし…。
口紅だって塗ってないから、どんな風になるのか自分じゃ想像出来ないよ。
今日、ママに口紅を塗られただけでも、ちょっと普段と違う顔だと思ったもの。育ったぼくでも同じだと思うよ、元の顔とは違った感じになるんだよ、きっと。
「どうだかなあ? …お前はお前だ、化粧をしようが、そのままだろうが」
俺にとっては誰よりも美人に見えるお前だ、今は美人とは言いにくいんだが…。チビには美人と言っても似合わん、チビはチビらしく可愛いとか、愛らしいだとか。
しかし未来のお前は違うぞ、もう間違いなく美人なんだ。化粧しなくても凄い美人だ。
それが化粧をしたなら、だ…。この世に二人といやしない美人だ、俺は一生、忘れんだろうさ。
花嫁衣装が似合う美人を、絶世の佳人というヤツをな。
佳人と言ったら女性限定だが、花嫁なんだし、それでいいだろ?
毎日化粧をしろとは言わんし、お前の口紅、結婚式の日だけでいいんだからなあ…。
そういうお前に出会える日が今から楽しみだな、ってハーレイが言うから。
ぼくが落としてしまった口紅、見ていたかったみたいだから。
チビのぼくの向こうに未来のぼくをチラリと見ながら、お茶を飲みたかったらしいから。
(あんなに笑っていたくせに…)
笑い転げんばかりだったくせに、途中から表情が違ったハーレイ。笑いながらも、違う瞳の色をしていたハーレイ。
あの時、ハーレイは未来のぼくを見ていたんだろう。
口紅を塗ったぼくの向こうに、チビのぼくの向こうに、未来のぼくを。
そうして眺めて見送ったぼくが戻って来た時、きっとガッカリしたんだと思う。
もう口紅は無くなってたから、綺麗に落としてしまっていたから。
ぼくと違って大人のハーレイは顔に出したりしなかったけれど、ホントに残念だったんだろう。
惜しいことをしたと、あのぼくとお茶を飲みたかったと言ったハーレイ。
一緒にお菓子も食べたかったと、口紅を塗ったチビのぼくと一緒に。
(…ハーレイに未来のぼくが見えるなら…)
未来のぼくを見ている気分でお茶が飲めると言うのなら。
またいつか塗ってみようか、口紅。ママの口紅。
チビのぼくでも口紅を塗れば、唇だけは未来のぼくと重なって見えるらしいから。
お化粧はしたいと思わないけれど、口紅くらいなら塗ってもいい。
今度はパパにも見て貰うために。
パパは笑い出すかもしれないけれども、パパに見せると言えばママだって納得するから。
だってママだって遊びでぼくに塗っちゃったんだし、二度目があっても驚かない。
(うん、口紅…)
いつかチャンスがあったなら。
ハーレイが訪ねて来てくれそうな日にママに頼んで、塗って貰って、ハーレイとお茶。
口紅を塗って、ハーレイと二人でお茶を飲んでお菓子を食べるんだ。
そうすればきっと未来を先取り、口紅の分だけ、二人で未来へ。
ぼくは幸せな花嫁さんになった気分で、ハーレイもきっと笑顔なんだと思うから。
間違いないから、いつか口紅。
今日は笑われちゃったけれども、慌てて落としてしまったけれど。
次があったら、笑われない。チビのぼくでも、口紅を塗った唇でも。
ハーレイと二人、幸せなデート。未来のぼくを口紅の分だけ、ぼくの所へ連れて来ちゃって…。
口紅・了
※ブルーが塗って貰った口紅。初めてのお化粧。ハーレイにはビックリされましたけど…。
そのままでいた方が良かったのかもしれませんね。未来の姿を、少しだけ先取り。
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