シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あ…!)
学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で吹き抜けた風。ブルーの側を吹いていった風。
さして強くはなく、髪がふわりと揺れた程度のものだったけれど。
花の匂いが混じっていた。何かの花だ、と分かる匂いが。
(何処…?)
キョロキョロと辺りを見回したけれど、咲いていない花。庭一杯には無さそうな花。花を一面に咲かせた木だって見当たらない。風が何処からか連れて来ただけの、見えない花。
何の花だったかも、ピンとくるものがまるで無かった。ほんの一瞬のことだったから。花だ、と気付きはしたのだけれども、風は直ぐに通り過ぎたから。
(うんと沢山、咲いていそうな感じだったけど…)
そうでなければ強い香りを放つ花。百合とか薔薇とか、香り高い花は多いから。
(だけど薔薇でも百合でもなくて…)
もしかしたら香りは強いけれども、控えめに咲く花なのだろうか?
せっかくだから見てみたいのに、風はもう吹いては来なかった。花の匂いも漂って来ない。
(ちょっと残念…)
花は嫌いではなかったから。
むしろ好きな方で、「何の花なの?」と訊いてしまうタイプ。今の花だって、見たいけれども。
(何処から来たのか分からないしね…)
風が来た方向へ歩いてゆけば、と思っても、住宅街の中だから。
他所の家の生垣や塀を乗り越え、庭を突き抜けないと真っ直ぐ進めはしないから…。
仕方ない、と花を探すのを諦めて再び歩き始めたら、今度は美味しそうな匂いがして来た。
明らかに料理だと分かる匂いで、きっと早めの夕食の支度。
(家に帰ったらケーキの匂いがするのかな?)
オーブンから漂う、ケーキの焼ける匂い。それともタルトか、あるいはパイか。
帰る時間に合わせて焼いてくれている日も多いから、そういう匂いがするかもしれない。凝ったケーキなどは早めに作ってお裾分けに行くこともあるけれど…。
(今日はケーキだ、って気がするんだよ)
何故だかケーキな気分がした。パイでもタルトでもなくて。
自然と早まる、ブルーの足。早く家へと、ケーキの匂いがする家へと。
見慣れた生垣が見えて、近付いて来て。
門扉を開けて庭に入ったら、鼻腔をくすぐったお菓子の匂い。甘いケーキが焼き上がる匂い。
(当たり…!)
この匂いならばケーキだろう、と玄関を入って、「ただいま!」と奥に向かって叫んで。
匂いに引かれるままに、手を洗う前にキッチンを覗きに行けば。
「おかえりなさい」
ちょうど焼けた所よ、と母が冷ましているパウンドケーキ。
ハーレイの好きなパウンドケーキ。
母が焼くそれは、ハーレイの母のパウンドケーキと同じ味がすると聞くから、ブルーにとっては特別なケーキ。いつかは自分も同じ味がするのを焼いてみたい、と夢見るケーキ。
(ふふっ、特別…!)
今日のおやつは大当たりだよ、と眺めていたら母に注意された。
「ブルー、おやつは手を洗ってウガイをしてからよ?」
それに着替えもちゃんと済ませて。それまでは駄目。
「うんっ!」
分かってるってば、と急いで洗面所に行った。手を洗って、風邪を引かないようウガイもして。
部屋で着替えて、階段を下りてダイニングへ。
「はい、どうぞ」
笑顔の母とパウンドケーキが待っていた。お皿に一切れ、ハーレイの好きなパウンドケーキが。
(ハーレイのお母さんの味…)
きっとハーレイも隣町の家で、ワクワクしながら食べたのだろう。何度も、何度も。
その特別なパウンドケーキが出て来たからには、飲み物はホットミルクにしてみたい。合わせてみたい。マヌカたっぷり、シナモンを振ったセキ・レイ・シロエ風。
パウンドケーキが大好きな人に教えて貰った飲み物に。
「ママ、ぼく、今日はホットミルクがいいな」
「シロエ風のね?」
「そう!」
お願い、と頼んで作って貰ったホットミルクと、パウンドケーキと。
おやつは大満足だった。母が作るお菓子はいつでも美味しいけれども、今日は格別、特別な日。
ハーレイの母が焼くというのと同じケーキを食べられたから。
今はまだ行けない隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家、其処で焼かれているケーキ。
いつかは自分も「ママの味だよ!」と驚きながら食べるのだろう、パウンドケーキ。
早くその日が来ますように、とホットミルクを飲み干した。
ミルクを飲めば背丈が伸びるというから、毎朝欠かさないミルク。今日は二杯目だと、これだけ飲んだら効果もきっと、と。
食べ終えて「御馳走様」とキッチンの母にカップとお皿を返して、部屋に戻って。
窓越しに庭を眺めたら、ふと思い出した。帰り道で出会った匂いのことを。
(ぼくの家、やっぱりケーキの匂いだったよ)
それも特別なパウンドケーキが焼ける匂いで、オーブンから庭へと流れていた。流石にケーキの種類まで分かりはしなかったけども、ケーキの匂い。それが美味しく焼き上がる匂い。
(あの匂いも、きっと風があったら…)
もっと先まで運ばれて鼻に届いただろう。家の庭に入るよりも前から、ケーキを焼く匂い。どの辺りまで届くものかは分からないけれど、帰り道で出会った見えない花の匂いのように。
(風って不思議だ…)
そう思ってしまう。
何処にも見当たらなかった花の香りを運んでいた。パウンドケーキの匂いだって、きっと。
(美味しそうなケーキの匂いがするな、って思ってる人が何処かにいるよ)
何処で焼いているケーキだろう、と。
もう少し時間が後になったら、この家の匂いは変わる筈。母が支度する夕食の匂いに。
その匂いも風に乗って運ばれてゆくのだろう。道を歩いている誰かの許へと。
様々な匂いを運ぶ風。運んで来る風。
花の匂いも、ケーキの匂いも。
夕食を作る匂いも、何種類もあるに違いない。家の数だけ、メニューの数だけ。
(そういえば…)
前の自分は風の匂いがしていたのだ、とハーレイに聞いた。
ソルジャー・ブルーは風の匂いがした、と。ナキネズミのレインがそう言っていた、と。
けれども、風には匂いが無いから。匂いを運ぶのが風だから。
(今日だって、花の匂いとお料理の匂いと、それからケーキ…)
吹く場所によって、風が出会った相手によって匂いは変わるし、違うものになる。同じ風でも。
前の自分が風の匂いだと聞かされた時には、大いに焦った。
もしや硝煙の匂いではないかと、レインが知っている風の匂いはそれくらいでは、と。
ハーレイとあれこれ考えた末に、確か雨上がりの風だという結論になったのだったか。ナスカの大地に雨が降った後、吹き抜けた風。
それがブルーの匂いだったと、ソルジャー・ブルーが纏っていた風の匂いだったと。
(今のぼくだと…)
纏う匂いは日によって変わる。
食べたものやら、使ったボディーソープやら。一日の間にも何度も変わるに違いない。
前の自分にしても、それは同じだと思うけれども、何故か風の匂い。
赤いナスカの雨上がりの風。前の自分が知らない匂い。ナスカには降りずに終わったから。赤い星に降る雨の雫も見ないままで終わってしまったから。
それなのに雨上がりの風の匂いだと言って貰っても、少し困ってしまうのだけれど。
(青の間の匂いだったんだよね、きっと)
レインはそれしか知らなかったから。青の間でしか会わなかったから。
前の自分が起きていた間も、長い眠りに就いた後にも。他は格納庫で一度きり。
青の間に風は無かったけれども、あそこに湛えられていた大量の水。その匂いが多分、レインが知っていたブルーの匂い。水の匂いと、雨上がりの風の匂いの二つが繋がった末に…。
(前のぼくの匂いが風なんだよ)
なんとも不思議な捉え方。風だなんて、と。
悪い気持ちはしないけれども。何処までも自由に吹いてゆける風は、前の自分も好きだった。
風に乗って遠く地球へまでも飛んでゆけたなら、と自由な風に憧れてもいた。
その風の匂いが前の自分の匂いと知ったら、嬉しいけれど。
物騒な硝煙の匂いでないなら、雨上がりの風の匂いなら。
でも…。
(ハーレイの匂いは何だったんだろ?)
前のハーレイ。白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ。
レインは何と例えたのだろう、ハーレイを?
前の自分の匂いが風だったならば、ハーレイの匂いは何だったろう…?
(もう厨房にはいなかったし…)
レインが生まれた頃には、ハーレイはとっくにキャプテンになってしまっていたから。
ブリッジでキャプテンの席に座って指揮をしていたか、舵を取っていたか。
そんなハーレイから料理の匂いはしなかった筈。厨房に居たなら、料理の匂いになるけれど…。
(ハーレイの匂いって、何になるわけ?)
ブリッジには大勢の仲間が居たのだし、ブリッジの匂いがハーレイの匂いにはならないだろう。ゼルやブラウも同じ匂いがするのだから。
(…ハーレイだけが持ってる匂いって言うと…)
もしかしたら野菜スープの匂いかも、と考えた。野菜スープのシャングリラ風。
あの頃にそんな洒落た名前は無かったけれども、ハーレイが作ってくれていたスープ。青の間のキッチンで何度も作って食べさせてくれた。前の自分が寝込んだ時に。
(とっても優しい匂いなんだよ、あのスープ…)
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。温かなスープ。
ハーレイの匂いはあれだったろうか、野菜スープの優しい匂いがしたろうか?
前の自分は長く眠ってしまっていたから、レインがあれを知っていたかは分からないけれど。
ハーレイは「お前にしか作ってやらなかった」と言っていたから、どうなのか。
(…レインをジョミーに渡す前には…)
ジョミーを覚えて貰わなくては、と青の間に何度も連れて来させた。
そうした時にレインは出会っていたかもしれない、野菜スープをキッチンで作るハーレイに。
(でも、そのくらいしか…)
野菜スープとの接点を持っていなかっただろう、ナキネズミのレイン。
ハーレイの匂いを何に例えたのか、どんな匂いだと言ったのか。
(…ハーレイに訊いてみたいんだけどな…)
来てくれないかな、と思っていたらチャイムの音。この時間ならばハーレイだろうか、と窓辺に行ったら門扉の向こうで手を振るハーレイ。
これは是非とも訊いてみなければ、ハーレイが部屋に来てくれたなら。
前のハーレイは何の匂いがしたのか、レインは何と言ったのかを。
ブルーの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。
母が運んで来たパウンドケーキに、ハーレイは顔を綻ばせた。大好物だと、おふくろの味だと。
美味しそうに食べるハーレイに、「ねえ」と声を掛けて例の疑問をぶつけた。
「ハーレイは何の匂いなの?」
「はあ?」
臭いか、とクンと腕を嗅いだハーレイ。
柔道部の指導をしては来たのだが、シャワーは浴びた、と言われたから。
「ごめん、同じハーレイでも前のハーレイ…」
前のハーレイは何の匂いか、って訊いたんだけど…。
「なんだ、前の俺か。…って、なんで匂いの話になるんだ?」
唐突すぎるぞ、お前の質問。何処から風が出て来たんだ?
「えーっと…。帰りに花の匂いがする風が吹いて来たけど、周りに花が無かったんだよ」
何の花かも分からずじまいで、それから家まで歩く途中に他所の家の晩御飯の匂いとか…。
家に帰ったらケーキの匂いで、風って色々運ぶんだよね、って考えていたら思い出したんだ。
前のぼくは風の匂いだったっけ、って。
「…レインか。そういや、お前に話してやったんだっけな」
「うん。ハーレイは何の匂いがしたの?」
前のハーレイの匂いは何なの、それを知りたいと思ったんだけど…。
きっと教えて貰えるだろう、とブルーは期待したのだけれど。
どんな答えが返って来るかと、それは心を躍らせたのだけれど…。
「知らん」
「えっ?」
ハーレイの返事は呆気なさすぎるものだった。「知らん」と一言、答えにすらならない答え方。その結末にブルーはポカンと口を開けたのだけども、ハーレイは「知らん」と繰り返した。
「俺は本当に知らないんだ。前の俺がどういう匂いがしたかを話したヤツはいなかったしな」
厨房に居た頃は「おっ、美味そうだな!」と言うヤツもいたが、キャプテンになった後にはな。
「でも…。前のぼくは風の匂いだ、って…」
「そいつはレインが言ったわけでだ、俺に関しちゃレインは何にも言わなかったぞ」
何の匂いだとも聞いちゃいないな、俺も、ついでにゼルたちのもな。
フィシスは花の匂いがする、とは確かに聞いたが、他のヤツらの匂いは知らん。俺も含めて。
「ハーレイ、レインと色々喋っていたんじゃあ…」
そういう話を聞いたことがあるよ、青の間でレインと話してた、って。
前のぼくがいなくなった後。…青の間に出掛けてレインが来てたら、レインとお喋り。
「したさ、お前の思い出話ばかりをな」
あいつしか聞いちゃくれなかったさ、人類との戦いの最中ではな。
フィシスはお前に貰ったサイオンが薄れちまって引きこもっていたし、行っても会えない。
レインだけが聞いてくれていたんだ、俺がお前の話をしたい時にはな…。
思い出話に終始したから自分の匂いなどは知らない、と言われてしまった。
前のブルーが女神と呼んでいたフィシスの匂いしか聞いてはいない、と。
「そんな…」
前のハーレイの匂い、分からないって言うの?
レインが喋ってくれていなかったなんて、どうすれば分かるの、何の匂いか。
「お前が自分で思い出したらいいだろう?」
レインとは比べ物にならないくらいに長い年月、俺と暮らしたと思うがな?
三百年以上も一緒にいたんだ、レインの鼻より前のお前の鼻の方が遥かに正確そうだが…?
「それはそうかもしれないけれど…。覚えていそうで覚えていないよ」
野菜スープの匂いしか…。今のハーレイも作ってくれてる、野菜スープのシャングリラ風。
「なら、それだ。そいつが前の俺の匂いだ」
レインは何も言ってはいないが、お前の鼻がそうだと言うなら、そいつだな。
「ううん、違うよ。ハーレイの匂い、もっと他にもあった筈で…」
そっちを知りたいと思うんだけど…。レインだったら知っていたかもしれないのに…。
「他にもって…。何故だ?」
どういう根拠でそう言うんだ、お前?
「スープを作っていない時のハーレイの匂いだよ」
絶対あったよ、ハーレイの匂い。野菜スープの匂いの他にも。
ベッドでいつも吸い込んでいた、とブルーは遠い昔の記憶を語った。
野菜スープとは違った匂い。胸一杯に吸った匂いの記憶。
それがハーレイの匂いだったと、幸せだった、と。
「…知りたいんだよ、前のハーレイの匂い。これだ、っていう何か」
お願い、心当たりはない? これかもしれない、って思い当たるもの。
「うーむ…。俺の匂いなあ…。しかも前の俺か…」
どうなんだか、とハーレイが腕組みをして自分の記憶を懸命に探っているようだから。
ブルーは紅茶を飲みながら待って、暫くしてから尋ねてみた。
「何か分かった? 前のハーレイの匂いの手掛かり」
どんな小さなことでもいいから、つまらないようなことでもいいから、ハーレイの匂い。
「…ボディーソープの匂いじゃないのか?」
あれはけっこう残りやすいぞ、シャワーを浴びたら必ず使っていたからな。
「ボディーソープって…。青の間のヤツなら、ぼくもハーレイも同じのを使っていたんだし…」
あれとは違う気がするんだけれど…。もっと別の匂い。
なんて言えばいいのか、とにかくハーレイの身体からしていた匂いなんだよ。いつも、いつも。
「要するに思い出せないんだな?」
嫌というほど嗅ぎ慣れちゃいたが、具体的には何も出てこない、と。
「うん」
そうだよ、嗅いだら直ぐに気付くと思うんだけど…。
あの匂いがしたら、前のハーレイの匂いはこれだったんだ、って当てる自信はあるんだけれど。
だけど、ちっとも思い出せなくて…。ハーレイ、手掛かり、持っていないの?
何でもいいから端から挙げて、と頼んだのに。
教えて欲しいと頼み込んだのに、ハーレイは鼻でフフンと笑った。
「思い出せないなら、まだお前には要らないってこった。前の俺の匂い」
「どうして?」
幸せになれる匂いだったし、今だって知りたくてたまらないのに…!
「チビのお前には野菜スープの匂いだけあれば充分だってな」
あれなら思い出せるんだろう?
何度も作ってやってるんだし、あの匂いなんだと思っておけ。前の俺の匂いはスープだとな。
「酷い…! あれじゃないんだ、って言ってるのに!」
野菜スープの匂いの他にもホントにあったよ、ハーレイの匂い。それは間違いないんだから!
手掛かりの欠片くらいはちょうだい、とブルーは強請った。
せめてヒントをと、何の匂いか分かっているならヒントを教えて貰えないか、と。
「これに似てるとか、そういうヒント。そしたら当ててみせるから…!」
「ヒントも何も…。ズバリ言うなら、そいつは俺の体臭だからな」
前のお前がベッドで幸せに嗅いでいたなら、俺そのものの匂いなんだ。前の俺のな。
犬なんかは嗅ぎ分けが得意だろうが、と嗅覚の鋭い動物を例に持ち出された。
自覚が無くても匂いはする、と。前のブルーもそういう匂いを嗅いでいたのだ、と。
「…前のハーレイの匂いそのもの?」
あれがハーレイの匂いだって言うの、ぼくは全く思い出せないのに…!
「仕方ないだろうが、お前、チビだし」
当分、俺そのものの匂いなんかを嗅げるチャンスは無いわけだしな?
いくらベッタリくっついてみても、服の匂いが間に入る。
今のお前にはそれが似合いだ、でなけりゃ野菜スープの匂いだ。前の俺の匂いを思い出すには、まだまだチビで早すぎるってな。
そうは言われても、ブルーは諦め切れないから。
前のハーレイそのものの匂いを思い出したい気持ちを捨ててしまうことは出来ないから。
食い下がってやろう、と問い掛けた。
「ハーレイの好きな食べ物の匂いも混じっていたとか?」
好き嫌いは全く無かったけれども、それでも何かそういったもの。
「それを言うなら酒かもしれないなあ…」
酒は間違いなく好きだったぞ。前のお前が苦手だった分だけ、敏感になっていたかもしれんな。酒とコーヒー、どっちも前の俺が好きで飲んでたヤツなんだが…。お前はどちらも駄目だっけな。
「お酒…。どうだったんだろ、コーヒーは違うと思うんだけど…」
パパとママもたまに飲んでいるけど、ハーレイの匂いだ、って思わないしね。
ハーレイもコーヒーが好きだったっけ、って眺めてるだけで。
「何を食ったのかは、ある程度、影響するらしいがな」
特に匂いの強い食べ物。ガーリックを食ったら次の日まで残るって話もあるが…。
「それじゃ、やっぱり食べ物の匂い?」
前のハーレイの匂い、何かの食べ物と重なってたの…?
「さてなあ…」
生憎と自分の匂いだからなあ、まるで自覚が無いってな。
毎日、ガーリックを丸齧りしてれば「ガーリックだ」と言ってやれたかもしれないが…。
そこまで強烈な匂いの食い物、毎日、食ってはいなかったしなあ…。
いつかは思い出せるだろうさ、と微笑むハーレイ。
俺と結婚して一緒に暮らし始めたら…、と。
「この匂いだった、って気付く日もきっとあると思うぞ、毎日一緒に過ごしていればな」
でなきゃ、今でも前の俺と全く同じ匂いがしているか…。
酒もコーヒーも合成じゃなくて本物ばかりを飲んでいるしな、俺にも謎ではあるんだが。
恵まれた食生活を送っている上、運動だって毎日しているからな?
まるで同じとはいかないかもなあ、それでもたまには「これだ」って匂いに出会える筈だぞ。
「その匂いが今、欲しいんだけど…」
少しくらいは違っていてもいいから、ハーレイの匂い。今のハーレイの匂いでかまわないから。
「早すぎだ!」
チビのお前が知ってどうする、それが何の役に立つと言うんだ?
結婚してから「同じ匂いだね」と懐かしむ分には微笑ましいがな、チビには要らん。
俺そのものの匂いなんぞは、お前みたいなチビが知るには早すぎるんだ。
どうしても知りたいと言うのなら…、と鳶色の瞳に見詰められた。
教えてやらないこともないから、聞き漏らさないよう、今から言うことをしっかり聞けと。
「いいか? 朝は分厚いトーストを二枚、卵を二個か三個のオムレツ」
トーストの厚さはこんなものか、と指で厚さを示された。
「うん、それで?」
ずいぶん分厚いトーストだけれど…。ぼくのトーストの倍くらいありそうなんだけど…?
「それとソーセージだ、ハーブ入りでも何でもいいな。そいつを焼いて、だ…」
サイズにもよるが、このくらいのヤツなら三本ってトコか。後はサラダか野菜スティックだな、ミルクはホットでも冷たくてもいい。
「…うん、それから?」
「これで全部だ、とりあえずこれで朝の匂いがスタートだ」
今、言った通り、自分の身体で試してみろ。確認してやるから、最初から言え。
分厚いトーストを二枚、ってトコから間違えないよう、最後まで全部。
「えーっ!」
まさかハーレイ、食べろって言うの、今のを全部?
ぼくが食べるの、朝からそんなに沢山だなんて、どう考えても無理なんだけど…!
「お前が知りたいと言うから教えてやったんだが?」
俺の匂いの作り方。お前、そいつが知りたいんだろう…?
この通りにすれば再現できる、とハーレイが真顔で言うものだから。
朝は分厚いトーストを二枚でスタートなのだ、とオムレツやソーセージを並べ立てるから。
「…ホント?」
本当にそれで再現できるの、ハーレイの匂い?
「うむ。ついでに昼飯はたっぷりと、だな」
こいつは特に決まっちゃいないが、前にお前が挫折していた大盛りランチ。
あれくらいの量は必要になるな、それだけ食わんと俺の身体は維持出来んしな…?
「無理だってば!」
朝御飯がお腹に残ってそうだよ、お昼になっても!
大盛りランチを食べるどころか、普通のランチも殆ど残してしまいそうだよ…!
「なら、仕方ないな。俺の匂いを再現するのは諦めろ」
どうせお前はコーヒーも酒も飲めないんだから、完璧に真似をするのは無理だ。
それにだ、どう頑張ってもお前の匂いと混ざるしな?
俺みたいな大人と、お前みたいなチビだとそれだけで匂いが違う筈だぞ。
もっと言うなら、自分の匂いは自分じゃ分からんものだしな?
お前が俺の言った通りに実践したって、出来た匂いは分からない、ってな。
「ハーレイの意地悪!」
それにケチだよ、匂いくらいは教えてくれてもいいじゃない!
ぼくに教えたって減りやしないし、無くならないでしょ、ハーレイの匂い!
ケチだと、酷いと、ブルーは膨れた。唇を尖らせてむくれてしまった。
それこそがハーレイから見ればチビの証拠になるのだけれども、ブルーが気付くわけがない。
プンプン怒って、意地悪な恋人を睨み付けていたら。
「ふうむ…。なら、こいつだ」
「えっ?」
ほら、と鼻先に差し出された大きな褐色の手の匂い。
ほんの一瞬、掠めた匂い。
(ハーレイの匂い…!)
この匂いだった、と遠い記憶の彼方で自分が跳ねた。前の自分が、「ハーレイだ」と。
何度となく嗅いだハーレイの匂い。胸いっぱいに吸い込んで、幸せに酔っていた匂い。
その匂いだ、と自分の記憶が叫ぶから。喜びに跳ねて踊っているから。
「もう一度…!」
お願い、ハーレイ、もう一度だけ!
何の匂いに近かったのかが、今のじゃ掴めなかったから…。
今度はしっかり嗅いで覚えるから、もう一度やってよ、お願い、ハーレイ…!
「そうはいかんな。お前がどういう魂胆でもって探している匂いか、俺は知っているしな?」
不純な目的のために提供するのは一瞬だけで充分だ。
さっきのアレが一瞬ってヤツだ、もう一瞬は過ぎちまったんだ。過ぎた時間は戻らんぞ?
もう期限切れだ、俺が提供した一瞬はな。
ケチでも意地悪でもなかったろうが、と余裕たっぷりのハーレイの笑み。
恋人のために最大限に譲歩してやったと、探し物を一瞬、確かに提供したのだと。
「…期限切れなの? たったあれだけで?」
「チビには贅沢すぎる時間を充分、くれてやったと思うんだがな?」
もっとしっかり嗅ぎたいのならば、育って大きくなることだ。
前のお前みたいに俺にくっついていられるようになるまで、諦めておけ。
そうしてプンスカ膨れるチビには、まだ早すぎる匂いだからな。
それきりハーレイは二度と匂いを与えてはくれず、「またな」と手を振って帰って行った。
停めてあった自分の愛車に乗って。前のハーレイのマントの色をした車に乗って。
そして次の日、目覚めて朝の食卓に着いたブルーは。
(分厚いトーストを二枚に、卵が二個か三個のオムレツ…)
焼いたソーセージとサラダか野菜スティック、それからミルク。ホットでも冷たいミルクでも。
ハーレイに聞いた通りにしたなら、それを食べれば少しハーレイに近付くけれど。
昨日、一瞬だけ鼻を掠めたハーレイの匂い。
あの懐かしい匂いを作って、心ゆくまで吸い込んで幸せに浸りたいけれど。
(自分の匂いは分からない、って…)
きっと挑戦するだけ無駄だ、と溜息をつきかけて、あっ、と気付いた。
テーブルの上のマーマレード。大きなガラスの瓶に詰まった、夏ミカンで作ったマーマレード。
ハーレイがいつも持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの金色。
このマーマレードの匂いだけはきっと、ハーレイの朝の食卓にあるのと同じだから。
ハーレイも食べている筈だから。
(トーストにバターをたっぷり塗って…)
それがハーレイのお勧めの食べ方、バターの金色とマーマレードの金色が複雑に絡み合った味。
「こうやって食べるのが美味いんだぞ」と教えて貰った。
マーマレードだけで食べるよりもと、同じ食べるならより美味しく、と。
キツネ色に焼けたトーストにバターを塗り付け、溶けてゆく上からマーマレードの金色を載せて匂いを一杯に吸い込んだ。香ばしいトーストの匂いとバターと、マーマレードが溶け合った香り。
(うん、この匂い…!)
ハーレイに教わった食べ方の匂い、とトーストの端をカリッと齧った。とろけるバターとキツネ色のトースト、それに夏ミカンのマーマレード。口の中に広がる幸せの味。
今はこれだけで我慢しておこう。
ハーレイも嗅いでいるだろう匂いで、幸せの香りのトーストだけで。
いつかはきっと、ハーレイと二人、朝の食卓でこれを食べられる筈だから。
その頃にはきっと、ハーレイの匂いもしっかりと掴めている筈だから。
似た匂いは何かと探さなくても、いつでも隣にハーレイの匂い。
前のハーレイの匂いと同じ匂いのハーレイと二人、いつまでも幸せに暮らすのだから…。
知りたい匂い・了
※ブルーが思い出した、ハーレイの匂い。「これだったんだ」と分かったのに…。
同じ匂いを作るためには、とんでもない量の食事が必要。トーストの匂いだけで、今は幸せ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「あっ…!」
おやつの時間の後、手を滑らせてしまったコップ。
学校から帰ってケーキと一緒に冷たいミルクを飲んでいたコップ。今日は暖かかったから。外を歩けばポカポカ陽気で、制服の上着を着込んでいたら暑いくらいの日だったから。
熱い紅茶よりもミルクがいいと思った。シロエ風のホットミルクではなくて、冷たいミルク。
だから自分で冷蔵庫から出してコップに注いだ。大きな瓶からコップに一杯。
幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶から、自分にちょうどいい量を。
これで背丈も伸びるといいな、とケーキを食べながら飲んでいたミルク。毎朝必ず飲むミルク。おやつにも飲めば一日に二杯、きっと背丈を伸ばしてくれるに違いない、と考えた。
なのに…。
床でガシャンとコップが割れた。
キッチンの母の所へ返しに行こうと持っていた手からツルリと滑って。
飛び散ったガラス、ミルクの残りも散らばったろう。残りと言っても雫だけれど。一滴か二滴、コップの底に貼りついて残った分だけれども。
(割っちゃった…)
呆然と立ち尽くしていたら、音が聞こえたのか駆けて来た母。「どうしたの?」と。
「ママ、ごめんなさい…」
割っちゃった、と謝った。割ってしまってごめんなさい、と。
「いいのよ、それより怪我はなかった?」
「平気…」
「だったら心配しなくていいわ。コップくらいは大したことないの」
お客様用のコップじゃないし、と手際よく掃除を始めた母。「動かないで」と指図をして。
砕けたガラスを踏んでしまったら怪我をするから、そこから動かないように、と。
そう言われたから、手伝うことも出来ないから。
ケーキ用だった空のお皿を手にして、見ていただけ。床を掃除する母を眺めていただけ。自分がやったことだというのに、迷惑を掛けてしまった母。自分では片付けられない状況。
母は割れたコップの欠片を拾い集めて、専用の厚いシートで包んだ。床も拭いて、仕上げに軽く手でサッと撫でてみて。
「はい、もう歩いても大丈夫よ」
すっかり綺麗になったから。ガラスの欠片が落ちてはいないわ。
「ごめんね、ママ…」
コップ、割っちゃって。お片付けだって、手伝えなくて…。
「いいのよ、ブルーには無理だものね」
落っことしたコップを割れてしまう前に止められないでしょ、ブルーの力じゃ。
お掃除だって、まだ無理よ。手を切っちゃったら、もっと大変。サイオンで手を守れないから。
「うん…」
ごめんなさい、とブルーはもう一度謝った。
サイオンで拾えないコップ。落下を止められないコップ。
落とせばおしまい、今日のように床で砕けてしまう。相手はガラスなのだから。
片付けてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
勉強机の前に座って大きな溜息をついた。
(失敗しちゃった…)
コップを割ってしまうだなんて。
せっかく美味しくおやつを食べて、今日は二杯目になるミルクもきちんと飲み干したのに。
背丈が伸びてくれるといいな、と冷たいミルクで喉を潤していたというのに。
四つ葉のクローバーの幸せまでが粉々な気分。
幸せの四つ葉のマークが描かれた牛乳の瓶を割ったわけではないけれど。ミルクも無駄にしてはいないけれども、沈んだ気持ち。幸せが砕けてしまったような気がする、コップと一緒に。
前の自分なら、コップは割れなかったのに。
ガッカリした気分にだってならない、今の自分みたいな気持ちには、けして。
(だって、割ったりしないんだもの…)
コップを落としはしないから。
落とすことは何度もあったけれども、落としても拾ってしまうから。
床でガシャンと砕け散る前に、床と接触する前に。
(前のぼくは、こんな惨めな気持ち…)
きっと知らないに違いない、と思ったけれど。
それは一瞬、直ぐに気付いた。
前の自分が持っていた記憶。膨大な記憶の中に幾つも、無数に散らばる悲惨な記憶。惨めとしか形容出来ない記憶。
アルタミラで檻に入れられていた頃、毎日が惨めなものだった。餌と水しか与えられずに、檻の中だけで暮らしていた。檻の外へと出された時には、実験という名の生き地獄。
人間としては扱われなくて、ただの動物、実験動物。あの日々の記憶に比べれば…。
(コップくらい…)
きっと大したことではないのだ、と自分自身を慰めた途端。
フイと頭を掠めた記憶。通り過ぎて行った、遠い遠い記憶の中の一コマ。
(割った…?)
透き通ったガラスのコップか、グラスか。
それが粉々に砕けた記憶。割れて飛び散ったという記憶。
前の自分が、どうやら割った。コップか、グラスか、そういったものを。
そして…。
(楽しかったわけ?)
やたらとはしゃいでいた記憶。弾んだ心が、楽しげな気分が蘇ってくる。
割れたと、割れてしまったと。
粉々に割れて木端微塵だと、見事に割れてしまったと。
(なんで…?)
何故、楽しいのか分からない。楽しかったのかが思い出せない。
今の自分はコップを割ったと気分がすっかり沈んでいたのに、同じことをしても逆の気分らしい前の自分が理解出来ない。謎でしかない。
(何か変だよ?)
何処か変だと、奇妙すぎると不思議でたまらなくなる記憶。前の自分が持っていた記憶。
どういう仕掛けがあるのだろうか、と懸命に遠い記憶を手繰れば、片付けをしているハーレイの姿。割れてしまったコップかグラスか、砕けた欠片を拾い集めているハーレイ。
それを見てケラケラ笑っていた。前の自分が笑い転げていた。
割れたと、跡形もなく割れて砕けてしまったと。
(…どうしてあれが楽しいわけ?)
不名誉な記憶の筈なのに。
今の自分と全く違って、コップなど割りはしなかった自分。最強のサイオンを持っていた自分。
落としてしまった皿やコップは端からサイオンで拾っていた。割れてしまう前に。床に当たって砕ける前に。
そんな自分が失敗したなら、コップかグラスを割ったのならば。
今の自分が味わった以上に惨めな気分になるのだろうに。
「ぼくとしたことが…」と頭を抱えて悩んだとしても、少しもおかしくないというのに。
上手く拾えずに割ってしまったなら、それはサイオンを意のままに操れなかったから。
今なら不器用でも許されるけれど、何の不自由もありはしないけれど、前の自分は違っていた。病に倒れた時であっても、サイオンは研ぎ澄ませておかねばならなかった。
白いシャングリラを守るソルジャーだったから。ソルジャー・ブルーだったから。
僅かなミスさえ許されない筈で、何より自分が許さない筈。失敗するなど。
コップを割ったら楽しいどころか、きっと慌てて猛特訓を始めたことだろう。鈍ったサイオンを元に戻すべく、懸命に。
それなのに自分は笑っているから。記憶の中の前の自分は楽しげだから。
(記憶違い…?)
それとも、あれは夢だったろうか?
前の自分が夢の中で出会ったものだったろうか、あの光景は?
あまりに愉快な夢だったから、と忘れずに覚えていたのだろうか…?
どういう記憶なのだろう、と何度も首を捻っている内に、チャイムの音がして。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで座ったから。
「ハーレイ、今日ね…」
コップを割った、と報告をした。手を滑らせて割ってしまったのだ、と。
案の定、笑い出したハーレイ。お前らしいと、前のお前なら有り得ないな、と。
「前のお前なら一瞬で拾うぞ、そういうのはな。床に落ちる前に」
俺が厨房に立ってた頃にもそうだったろうが、皿洗いを手伝ってくれた時とか。お前ときたら、手伝いはするが落とすんだ。サイオンでヒョイと拾っちまって、一枚も割りはしなかったがな。
「そうだよね…」
前のぼくなら割らなかったよね、コップもお皿も。もちろん、今日のコップだって。
「うむ、割らん。そいつは俺が保証する」
間違いない、とハーレイが太鼓判を押したから。
「それじゃ、やっぱり、記憶違い…」
「はあ?」
なんだ、と怪訝そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、今の話では通じはしない。
前の自分の記憶の話も、それが何だか分からないことも。
だから説明することにした。謎の記憶を、夢かどうかも掴めないままのコップの記憶を。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの記憶なんだけど…」
コップを割っちゃった後で落ち込んでいたら、ひょっこり思い出したんだけど。
割って直ぐには出なかったけれど、コップが割れた、って楽しい記憶があるんだよ。
コップじゃなくって、グラスかな?
とにかく割ってしまった記憶で、それなのにちっとも困ってなくて…。
「ほう…?」
そいつは実に興味深いな、前のお前が割ったってか?
有り得ないっていう気がするなあ、前のお前は割らないだろうが。コップもグラスも。
「だよねえ? だからぼくにも不思議なんだよ、その記憶」
おまけに、それが割れちゃった後。ハーレイが床で片付けをしてて、ぼくは笑って見てるんだ。
「ごめんなさい」って謝りもせずに、何もかもがとても楽しくて…。
あれはやっぱり夢なのかな?
前のぼくが見た夢の一つなのかな、特別だから覚えていたのかな…?
実際には起こりもしない夢を見たから、前のハーレイにも話して聞かせていたのかも…。
こんな夢を見たよ、って、ハーレイが割れたコップを片付けてたよ、って。
そういう話を覚えていない?
前のぼくが話した、変な夢の話。
「いや、そいつは…。俺も覚えちゃいるんだが…。たった今、思い出したんだが…」
お前には夢で俺には違うな、と妙な答えが返って来た。笑みを浮かべたハーレイから。
「えっ?」
それってどういう意味なの、ハーレイ? ぼくの寝言で聞いたとか…?
「いや、そうじゃなくて…。一応、そいつは現実なんだ」
「一応って…。ぼくにとっては夢なんでしょ?」
それがどうして現実になるの、ハーレイ、ぼくが見ている夢を覗いた?
おかしな寝言を言ってるから、って覗き込んだの、ぼくの夢の中を?
「…やって出来ないこともないがだ、俺はそこまで悪趣味じゃないぞ。お前の夢を覗くなんてな」
「でも、夢だって…」
「お前、その場所、思い出せるか?」
コップだかグラスを割ったって場所だ、いわゆる現場だ。それもお前は思い出せたか?
「ううん、全然」
何処で割ったか分からないんだよ、割れたってだけで。楽しくて仕方ないだけで。
だから夢だと思うんだけど…。
「違うな、その夢の場所は俺の部屋なんだ。キャプテン・ハーレイの部屋の中だな」
「ハーレイの部屋…?」
だけど夢でしょ、夢の場所って言ってるものね?
ハーレイの部屋で夢を見ちゃって、寝言ですっかり喋っちゃってた…?
キョトンと目を見開いたブルーだけれど。
寝言で長々と喋る人もいると知っているから、前の自分もそうだったのかと思ったけれど。
ハーレイは「夢じゃないな」と否定した。前の自分の部屋で起こったことだと、現実なのだと。
「お前、記憶が飛んじまってるんだ、前後のな」
割っちまう前と、割った後と。どっちもお前は忘れちまって、記憶に残っちゃいないのさ。
忘れるも何も、最初から覚えるつもりなんかは無かったろうが。
「…何があったの?」
前のハーレイの部屋で何が起こって、そういうことになっちゃってるの?
まるで覚えていないだなんて…。ぼくの記憶が飛んじゃうなんて。
「一言で言うなら、俺の酒を飲んで酔っ払った」
「ぼくが?」
「ああ。山ほどあるだろ、二日酔いの記憶」
飲めもしないくせに、俺が美味そうに飲んでるから、って手を出して。
挙句の果てに頭が痛いだの、胸やけがするだのと、派手に二日酔い。
「うん…」
だってハーレイ、美味しそうに飲んでいたんだもの。
飲んでみたい気持ちになるじゃない。ぼくにも少し分けて欲しい、って。
「そう言っては、お前、二日酔いになって後悔するんだ」
なのに全く学習しないで、何度も同じことを繰り返してた、と。
俺の酒を横から奪って飲んでは、二日酔い。何度やったか、俺も数えちゃいなかったが…。
その一つだな、とハーレイは笑った。
合成のラム酒を一息に飲んで酔っ払ったと、それは楽しそうな酔い方だったと。
酔っ払ったから記憶が無いのも当然、一部を覚えていたというだけでも奇跡のようだと。
「もう、あの時のお前ときたら…。普段とはまるで違っていたぞ」
俺の肩をバンバン叩いてくれてな、ゼルと飲んでるみたいだったぞ。愉快だったが。
「ゼルって……。ぼくが?」
じゃあ、喋り方もああだったわけ? 「ぼく」じゃなくって「わし」って言って。
「いや、そこまでは酷くなかった。お前はゼルの真似をしていたわけじゃないしな」
単に御機嫌で酔っ払ってだ、その酔い方がゼルに似ていた。
「もっと飲まなきゃ」と俺にどんどん酒を注いで、自分のグラスにも勝手に入れて。
それを飲んでは、一緒に歌を歌わないかと持ち掛けて来たり、一人で先に歌い出したり。
踊ってもいたな、何処で覚えた踊りなんだか、即興なんだか。
「…踊ってたの?」
「踊ってるつもりというヤツだな。歌に合わせてステップだしな?」
もっとも、すっかり酔っているから、ステップにもなっちゃいないわけだが。
あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、千鳥足というヤツで踊り回ってた。
ゼルもそういうタイプだったし、今日のお前はゼルのようだな、と見てたってな。
「…ぼくがゼル…」
一人で歌って、踊ってたわけ?
ハーレイの部屋で酔っ払って踊って、ハーレイにそれを見られていたわけ…?
ブルーは愕然とするしかなかった。
ハーレイの方にはある記憶。自分の中では失われた記憶。酔って覚えていなかった記憶。
その中の自分があまりにとんでもなかったから。歌って踊っていたというから。
(…ハーレイ、そんなの覚えてなくても良かったのに…!)
覚えているなんて不公平だ、と膨れっ面になった所へ。
「…それでな、挙句の果てにグラスを落としてガシャンと割ってくれたんだ」
「酔っ払って…?」
ぼくが割ったの、本当に? 夢じゃなくって?
「夢だった方が良かったなあ…。俺の気に入りのグラスだったからな」
お前が落としてしまったグラス。大事にしていたヤツだったんだが…。
「そうだったわけ?」
ぼくはグラスかコップなのかも覚えてないほど曖昧なのに…。
割ってしまったヤツ、ハーレイのお気に入りだったんだ…。
なんということをしたのだろう、と小さなブルーは申し訳ない気持ちで一杯になった。
前のハーレイのお気に入りのグラス。
木で出来た机を愛用していたハーレイのグラス。
誰も見向きもしなかった机を暇を見付けては磨いていたようなハーレイだから。磨けば磨くほど味が出るから、と手入れしていたハーレイだから。
どんな物でも大切にしたし、きちんと手入れを欠かさなかった。
キャプテンになる前、倉庫の備品を管理していた頃も、毎日のように点検していた。食品ならば期限はどうかと、それ以外の物も手入れが必要な時期かどうかと見回っていた。
まして自分の私物ともなれば、木の机はもちろん、羽根ペンだって。
使った後にはインクを綺麗に洗い落として、翌日に備えた。ペン先にインクが残ったままだと、こびりついてしまって取れなくなるから。ペン先の寿命が縮むから。
替えのペン先は山ほどあったし、律儀にインクを落とさなくても全く問題無かったのに。駄目になったペン先を再生できるだけの技術も、白いシャングリラにはあったのに。
そんなハーレイのお気に入りだったグラスともなれば、さぞ大切に扱われていたことだろう。
使う度に丁寧に洗って、拭いて。
曇りの一つも出来ないようにと、埃もついたりしないようにと、棚の奥。
仕舞い込んでおいて、一人で、あるいはグラスを使うのに相応しい客人が訪れた時に、其処から取り出して酒を注いで…。
宴が済んだら、また棚の奥へ。自分が納得するまで洗って、拭いて、仕舞って。
そういうグラスを自分が割った。前の自分が酔っ払った末に。
(やっちゃった…)
今の自分が割ったわけではないけれど。前の自分が割ったのだけれど、いたたまれない気持ちに変わりはない。
よりにもよって、前のハーレイのお気に入りのグラス。
今日、割ったコップとは比較にならない、特別なグラス。それを自分が割っただなんて。
しかも普段なら決して割りはしないのに、酔っていたばかりに割ったというのが申し訳なくて、穴があったら入りたいような気分だけれども、時すでに遅し。
割った自分は前の自分で、とうの昔に済んでしまった出来事だから。
グラスを割った前の自分も遠い昔に死んでしまって、白いシャングリラももう無いのだから。
(前のハーレイのお気に入り…)
どんなグラスだったかも覚えてはいない。コップだったかグラスだったか、それすらも定かではない記憶。どうしようもなく情けない記憶。
ハーレイは覚えているのだろうに。
グラスの形も、其処に刻まれていた模様なども。
前の自分が割ったのと同時に消えてしまった、グラスの模様やカットなど。
ただのガラスになってしまった。割れて砕けて、ガラスの破片に。
シャングリラの中で他のガラスの製品になって、生まれ変わりはしただろうけれど。廃棄処分で宇宙のゴミにはならなかったと思うけれども、元のグラスに戻ってもいまい。
作り直せるようなものなら、前のハーレイのお気に入りではなかったろうから。
シャングリラでは作れないグラス。きっと人類の船から前の自分が奪ったグラス。
他の物資を奪ったついでに紛れ込んでいたグラスのセットで、希望者が無くてハーレイが貰った品物の一つ。ハーレイ好みのレトロなグラス。
きっとそうだ、という気がした。
施された細工が繊細すぎて「実用的ではない」と皆が嫌ったか、手入れが面倒だと思われたか。
いずれにせよ、ハーレイだけが価値を見出し、大切にしていたのだろうグラス。
覚えてもいない自分が割った。前の自分が割ってしまった…。
シュンと項垂れてしまったブルー。小さなブルー。
謝ろうにも、前後の記憶を失くすくらいに酔っ払った前の自分のことでは、どう謝ればいいのか分からない。「ごめん」でいいのか、謝っても白々しく聞こえるだけなのか。
どうすれば…、とグルグル考えるけれど、出て来てくれない解決策。
(なんて言ったらいいんだろう…)
困り果てていたら、ハーレイに顔を覗き込まれた。「しょげるヤツがあるか」と鳶色の瞳で。
「あのグラスだが…。前のお前だが、いつもなら絶対、割らないからな」
割れる前に拾っちまうだろう? サイオンでヒョイと。
「うん…」
そうとしか答えられなくて。
それが出来なかったことを詫びる言葉が見付からないまま、頷いたのだけれど。
「お前、普段がそうだったからな。割るなんてことが無かったヤツだったから…」
割っちまったのがやたら楽しかったらしくて、それはそれは機嫌が良かったぞ。
ただでも酔ってて上機嫌だしな、お前にとっては楽しい見世物だったんだ、あれは。木端微塵に割れるグラスなんて、前のお前が目にするチャンスはそうそう無かっただろうしな?
他のヤツらが落としたコップや皿の類も、お前、気付けば割れる前に拾ってやってたし…。
「…前のぼくは楽しかったかもしれないけれど…。ハーレイは…?」
…ハーレイはどうなの、どうだったの?
お気に入りのグラスをぼくに割られちゃって、ショックだったんじゃないの、ハーレイ…?
「そりゃまあ、なあ…? 気に入りのヤツが割れちまったし、正直、参った気分だったが…」
割ったお前が、あんまり楽しそうだったから…。
俺が床にしゃがんで片付けていても、それが面白いと声を上げて笑っていたもんだから…。
ガックリ来ている俺が馬鹿みたいに思えるじゃないか。
どうせグラスは割れちまったんだし、元に戻りはしないんだしな?
溜息をついても仕方ないだろ、結果が変わってくれない以上は俺の気分を変えなくちゃな。
と、いうわけで、だ…。
許すことにした、と言うハーレイ。
グラスが割れたと笑い転げていたブルーを。前のブルーを。
お気に入りのグラスを割られたというのに、それを許したらしいから。小さなブルーは大慌てでペコリと頭を下げた。謝るなら今だと、謝らねばと。
「ご、ごめんなさい…」
ぼくが謝るのも変だけれども、前のぼくだって、ぼくだから…。
ごめんね、ハーレイの大事なグラスを割っちゃって。きっと大切にしてたグラスだったのに…。
割っちゃった上に、謝りもしないで笑って見ていてごめんね、ハーレイ…。
「いや、詫びならたっぷり貰ったからな」
お前が謝らなくてもいいさ。グラスの件なら、とうの昔に解決済みだ。前のお前が、もう充分に返してくれた。思い出したからって謝る必要は何処にも無いってな。
「ぼく、同じグラスを奪って来てハーレイに返してた?」
どんなグラスか覚えてないけど、ちゃんと奪って返したのかな?
人類の船なら大抵積んでるグラスの一つで、探さなくても直ぐに見付かったから忘れたかな?
うんと苦労して探したんなら、今でも覚えているんだろうけど…。
「そうじゃない。もう人類の船からは奪わなくなった後だったしな」
シャングリラはすっかり出来上がっていたし、人類の船の物資は奪っちゃいない。
前のお前が割ったグラスは、人類から奪ったヤツだったがな。
洗うのに手間がかかりそうだ、と誰も貰って行かなかったから俺が貰っておいたってだけで。
「じゃあ、どうやって…」
前のぼくはどうやって割ったグラスのお詫びをしたわけ?
シャングリラの中で作り直せるようなグラスだったの、割れちゃったのは?
「…まるで作れないってこともなかったろうが…」
手先の器用なヤツもいたしな、割れていないグラスを見本に渡せば出来たかもしれん。こういうグラスを作ってくれ、とな。
しかしだ、キャプテンの俺の私物が一つ足りなくなったからって、そいつはなあ…。
キャプテンたるもの、グッと堪えて我慢してこそだろ、皆の手本になる立場だしな?
「奪ってもいなくて、作らせてもいないって…」
それじゃグラスのお詫びってヤツは?
ハーレイのお気に入りのグラスに似たのを、ぼくが倉庫で探したのかな…?
「それも違うな、教えてやろうか?」
お前は覚えちゃいないんだろうが…。
グラスを割った前後の記憶は無いと言うから、床を掃除していた俺しか知らないだろうが…。
割れたグラスの代償ってヤツは、お前に払って貰ったのさ。
そいつが一番、早い方法だったしな?
お前自身に、と片目を瞑られた。
御機嫌のお前と楽しくやったと、新鮮だったと。
「…やったって…。何を?」
何をやったの、ハーレイも一緒に歌って踊ったりしたの?
「ははっ、そう来たか! 今のお前だとそうなっちまうか、うん、そうだろうな」
歌と踊りな、そいつも確かに悪くはないかもしれないが…。
俺の気に入りのグラスの分をだ、弁償して貰おうって時に歌って踊るよりかはなあ…?
もっと素敵にいきたいじゃないか、美味いものを食って。
チビのお前だとそうはいかんが、前のお前なら話は全く別ってモンだ。
俺が美味しく食っちまっても問題は無いし、お前が俺の部屋に来ている時点で食ってもいいって意味なんだしな?
有難く食わせて貰っておいたさ、グラスの分だけ。俺のベッドに運び込んでな。
「……それって……」
「そうさ、お前が憧れてるヤツ。本物の恋人同士というヤツだ」
面白かったぞ、お前、ベッドでも笑いっぱなしで。
割れた、割れた、と笑っていたのが別の言葉に変わっただけだ。
俺に脱がされたと言って笑って、俺が脱ぐのを見て笑って。
それから後もな、ありとあらゆる場面でケラケラと笑い転げていたぞ。どう可笑しいのか、普通だったら悩んじまうような所でな。
あんなお前はそうそう食えんし、実に珍しい御馳走だった。まさに珍味といったトコだな。
次の日のお前は二日酔いですっかり潰れちまって、食える状態ではなかったがな。
だが、あの美味さは忘れられん、とハーレイはニヤリと笑みを作ってみせた。
酔っ払ったブルーは美味しかったと、割れたグラスの分は返して貰ったと。
小さなブルーは顔を真っ赤に染めたけれども、生憎と戻らない記憶。グラスを割った前後の分が綺麗に飛んでしまって、グラスの代償を支払った記憶も残ってはいない。
その手の話題を避けるハーレイが自分から口にするだけはあって、ほんの小さな欠片でさえも。
「…ぼくは覚えていないのに…」
そう言われたって、ぼくはグラスを割ったことしか思い出せないのに…!
「かまわんだろうが、前のお前のことなんだからな。今のお前とは関係無いんだ」
グラスを割ったのも前のお前で、弁償したのも前のお前だしな?
おまけに、お前は割ったことしか覚えていない。チビのお前には似合いの記憶だ。
ついでに今度のお前ってヤツは、普通のコップを割っちまっただけで惨めな気分になるんだろ?
前のお前みたいに笑い転げる方じゃなくてな。
「当たり前だよ!」
今のぼくだと落としたら最後、割れちゃうんだから!
普通のコップも大事なグラスも、落っことしたら終わりなんだよ…!
「ふうむ…。だったら慰めてやらんといかんな」
今日のお前が割ったコップは俺の知らない間に割れたし、俺のコップでもないだんが…。
俺がお前と結婚した後、お前がコップを割ったなら。
落ち込んでたなら、キスをプレゼントして、その先も…だ。お前の気分が直るようにな。
気分を直すには何処へ行くのか、何をするのか、もう分かるだろう?
どっちにしたって役得だ、と微笑まれた。
慰める方も、割れてしまったグラスを弁償して貰う方も。
今度も戸棚に入っているらしい、ハーレイお気に入りのグラスなるもの。
それをブルーが割った時には、また支払って貰うから、と。代償は無論、ブルー自身で。
(ハーレイのグラス…)
今のハーレイのお気に入りのグラス。まだ出会っていない、見ていないグラス。
割ってもいいのか、割らない方がいいものなのか。
前の自分は割っても許して貰えたというから、今度も許して貰えるものか。
小さなブルーにはまだ分からない。
大人の心になっていないから、身体もチビのままだから。
ハーレイが口にした役得とやらも、どういうものだか今一つ分かっていないから。
(…気を付けなくちゃ…)
今日みたいに割ってしまわないように、と自分に言い聞かせるブルー。
前の自分と同じ失敗はやらかすまい。
ハーレイお気に入りのグラスを自分が使う時には、丁寧に。
間違っても割ってしまわないように、割った挙句に笑うなんかは論外だよ、と…。
落としたコップ・了
※ブルーが割ってしまったコップ。前のブルーなら、割らない筈だと考えたのに…。
酔っ払った末に、前のハーレイのグラスを割っていたようです。今では笑い話ですけど。
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「ママ、どこ?」
学校から帰ったものの、見当たらない母。
玄関を入って「ただいま!」と叫んで、部屋へ着替えに行ったのだけれど。
思い返せば「おかえりなさい」の声を聞かなかった。洗面所で手を洗ってウガイをする間にも。
(…二階にはいなかったと思うんだけど…)
部屋に居た時、そういう気配はしなかったから。第一、階段を上って行ったら足音がするから、母の方から出て来るだろう。「おかえりなさい」と。
その母がいない。ダイニングにも、リビングにも、キッチンにも。
何処だろうか、とブルーは探し回ったけれど。客間まで覗いてみたのだけれども、いない母。
何処にも姿が見えない母。
(でも、玄関の鍵は開いてたし…)
いつも通りに開いた扉。持たされている鍵の出番は無かった。鍵がかかっていなかったのだし、母は出掛けてはいない筈。この家にいる筈なのだけれど…。
何処、と懸命に探していたら。
念のためにと二階も探して、やっぱりいない、と戻って来たら。
「あら、帰ってたの?」
気付かなかったわ、と声がした。「ママはお庭よ」と。
「ママ!?」
庭は盲点だったから。まるで探していなかったから。
失敗だった、とダイニングの掃き出し窓から外の母へと手を振った。「ただいま」と、「ぼくは帰っているよ」と。
「ごめんなさいね。すぐにおやつの用意をするわ」
今行くわね、と母が手にして横切った箒。庭を掃くための大きな箒。
(お掃除…)
後で続きをするのだろうか、と思ったけれども、母は箒を仕舞ったらしい。芝刈り機や箒、庭の手入れのための道具が入れてある方へ行ったから。続きをするなら、箒は置いておくだろうから。
お待たせ、とダイニングに入って来た母。
飲み物は何にするの、と訊いてケーキも切って来てくれた。ブルーの分と、自分の分と。
母も一緒のティータイム。熱い紅茶を淹れて貰って。
「ママ、箒って…。庭のお掃除?」
掃除してたの、もしかして、ずっと?
「まさか。ほんの少しよ、一時間もやってはいないわよ」
落ち葉の季節にはまだ早いもの。少しだけね。
そういえばブルーは好きだったわね、と言われたから。
「…庭掃除?」
ぼく、庭掃除が好きだったの?
ママのお手伝い、たまにしかやっていなかったように思うけど…。
「違うわ、箒よ。ブルーは箒が好きだったでしょ」
「箒?」
何故、とブルーは目を丸くした。
まるで記憶に無い箒。好きだったと聞いても思い出せない、箒なるもの。
幼かった頃には、自分専用のスコップやバケツを貰って遊んでいたけれど。子供サイズのものを手にして庭を掘ったりしていたけれど。
(箒って…)
それは全く覚えが無かった。
子供用の遊び道具の類に、箒なんかもあったのだろうか?
小さな身体に見合ったサイズの箒を手にして遊んだろうか?
庭掃除をする母の隣で自分も箒で掃いたのだろうか、子供用のでは役に立ちそうもないけれど。いくら落ち葉を集めたくても、沢山掃けそうにないのだけれど…。
どうにも思い出せないから。
箒の記憶が抜け落ちてしまって、好きだったことさえ欠片も残っていないから。
幼い自分は箒で何をしていたのかと気になって母に尋ねてみた。
「…なんで箒?」
ぼくって、どうして箒なんかが好きだったの?
庭掃除、してた? 子供用の小さな箒を持ってたの、ぼくは?
「あらまあ…。ブルーは忘れちゃったの、あんなに箒が好きだったのに?」
引っ張り出しては遊んでいたでしょ、子供用じゃなくて普通の箒。ママがさっき持っていたのと同じ箒よ、ああいう箒。
「大きい箒? 子供用じゃなくて?」
あんなの、ぼくには大きすぎだよ、あれでどうやって遊んでたわけ?
「本当に忘れちゃったのねえ…。ブルーのお気に入りだったのに」
飛ぶんだって言っていたでしょう、とクスクス可笑しそうな母。
タイプ・ブルーだからきっと飛べると、これで飛べると頑張っていたと。
幼稚園から家に戻ったら、早速、箒を引っ張り出して。休日も庭に出たなら、箒。
「飛ぶって…。箒で?」
「そうよ、箒で」
飛んでやるんだって張り切ってたわよ、忘れちゃった?
あの頃のブルーは箒を持っては、空を飛ぶんだと頑張ってたのに。
魔法使いは箒で空を飛ぶものね、と言われた途端に思い出した。
忘れ去っていた箒の記憶。大きな箒と幼かった自分。
毎日のようにやっていたことを。
幼稚園の頃、よく晴れた日には箒を手にして空を目指していたことを。
「…ホントだ、箒…」
忘れちゃってた、箒のこと。いつも箒を持っていたっけ…。
「飛んでいたでしょ?」
大きな箒で飛んでいたでしょ、庭の芝生で一所懸命。
「あれは引き摺っていたんだよ!」
とても飛んだとは言えない自分。幼かった自分。
芝生から離陸できなかったから。空へと飛び立てなかったから。
箒に跨って跳ねていただけ。小さな足でも飛べる高さでピョンピョン飛ぶのが精一杯で。
空を飛ぶどころか箒を引き摺り、芝生をあちこち跳ね回っていた。いつか飛べると、この箒さえあれば空を飛べると、何度も何度も、飽きることなく。
「とうとう飛べないままだったわねえ…」
ほんの少しも浮き上がれないで、最後まで箒を引き摺ってたわね。可愛かったけれど。
「言わないでよ!」
情けなくなるから、と思い出に蓋をしようとしたら。
「そうねえ、箒を使っても空を飛べないソルジャー・ブルーだったわねえ?」
ソルジャー・ブルーなら飛べる筈なのに、箒があっても駄目だったわねえ…。
「ママ…!」
前のぼくのことは言いっこなしだよ、今のぼくはサイオン、上手に使えないんだから!
中身はソルジャー・ブルーだけれども、箒があっても飛べないんだよ…!
笑い続けている母に「御馳走様」と御礼を言って、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、フウと大きな溜息をついた。
(ぼくって、ソルジャー・ブルーごっこは…)
やっていないと思っていた。信じていた。
下の学校の頃に流行った空を飛ぶ遊び。大英雄のソルジャー・ブルーを気取って飛ぶ遊び。
タイプ・ブルーではない子供たちも飛ぼうとして怪我をしたものだ。二階の窓から飛ぼうとした子や、高い木の上から飛んだ子供や。
何処の学校でも「やめておきましょう」と注意するというソルジャー・ブルーごっこ。それでも人気で必ず流行って、どの学年にも怪我をした子の一人や二人はいて当たり前。
ブルーの友人にも何人もいた。ソルジャー・ブルーを真似て飛んだ子も、怪我を負った子も。
(やろうと思わなかったんだけど…)
どうせ怪我をするに決まっているから、誘われたって断っていた。「ぼくには無理!」と。
タイプ・ブルーだから出来る筈だと羨望の眼差しで見られた時にも「やらないよ!」と。
確かにやってはいなかったけれど。
いわゆるソルジャー・ブルーごっこは、一度もしないで終わったけれど。
(もっと前に…)
ソルジャー・ブルーごっこを始める年頃よりも早く、自分は空を目指していた。
まだ幼い頃、ソルジャー・ブルーがどういう人かもまるで知らなかった幼稚園の頃。
それも箒で。
飛べると信じて、庭掃除に使う大きな箒に夢を託して。
(タイプ・ブルーは空を飛べるって…)
父が話してくれたのだったか、それとも母か。自分の秘められた能力を知った。空を飛べると。
けれども、肝心の飛び方については聞かなかったから。
(箒で飛ぶんだ、って思ったんだっけ…)
幼稚園で絵本を読んだか、それとも子供向けの映画でも見せて貰ったのか。
魔法使いは箒に跨って空を飛ぶのだと知っていたから、箒が必要なのだと信じた。空を飛ぶには箒が欠かせず、それが運んでくれるのだと。
だから跨っていた箒。これで飛ぼうと庭の芝生で引き摺って跳ねて回った箒。
(あれでいいんだと思ってたんだよ)
いつか箒で空を飛べると、空に向かって舞い上がれると。
幼い子供の勘違い。小さかった自分の可愛い間違い。
両親は訂正してくれなかった。箒を使っても飛べはしないと誤りを正しはしなかった。
危なくないからいいと思っていたのだろう。
箒で空を飛べはしないし、飛び跳ねた挙句に庭で転んでも、芝生が受け止めてくれるから。
(箒で離陸…)
それは無理だと今なら分かる。
箒は魔法使いの道具で、サイオンを補助する力などは無い。空を飛ぶ手伝いをしてはくれない。
魔法の力を持たない箒は、空を飛ぶなら単なる飾り。演出のための小道具の一種。これを使って飛んでいます、と魔法使いを気取るための道具。
つまりは持った箒の重さの分だけ、余計な力が必要になる。箒を空に浮かべる力が。
そういったことも、今の自分なら分かるのだけれど。
ソルジャー・ブルーだった頃の記憶が戻って来たから、頭では理解出来るのだけども。
(でも、飛べないし…!)
箒を手にして舞い上がろうにも、そもそも飛べない。今の自分は全く飛べない。少しだけ身体を浮かせることなら出来るけれども、その力さえも頼りないもの。意のままに扱えないサイオン。
それとも箒に跨ったならば、感覚が戻るというのだろうか?
魔法使いが飛ぶという箒、それに跨ってみたならば。
かつてはこうして空を飛んだと、自由自在に飛んでいた頃の感覚が戻ってくるだとか…。
箒に頼って飛べるものなら、と一瞬、考えたのだけど。
(有り得ないし!)
魔法で浮き上がる箒ならともかく、ただの箒では何も起こらない。起こりそうにない。幼かった自分がやっていたように、ピョンピョンと足で跳ねるだけ。自分の足を使って飛び上がるだけ。
(空を飛んでた頃の感覚…)
今の学校でのプールの授業。一番最初にそれがあった時、少し思い出した。水の浮力で。飛んでいた頃の感覚を頼りに、水面に身体を浮かべて遊べた。去年までは出来なかったのに。
それにハーレイも、プールで感覚を取り戻すといいと言っていた。
ソルジャー・ブルーはどうやって飛んだか、空を飛ぶにはどうするのかを。
けれど、感覚が戻っても。
こうだったのだ、と空を飛んでいた時の力加減などが戻って来ても。
(きっと飛べない…)
サイオンの扱いが不器用だから。
戻った感覚とサイオンの使い方とが噛み合ってくれず、空へ飛び立てはしないだろう。青い空に向かって舞い上がることなど出来ないだろう。
(だけど…)
もしも飛べるようになったなら。
前の自分がそうだったように、軽々と空を飛んでゆけるようになったなら。
箒でも空を飛んでみようか?
魔法使いよろしく箒に跨り、ふわりと空へ。箒に乗っかって、スイスイと空を。
そんな姿を披露したなら、ハーレイは喜んでくれるだろうか?
魔法使いを見ているようだと、箒に跨って飛ぶのもいいな、と。
(ハーレイ、箒でも喜ぶかな?)
飛ぶ姿を見たいと言ったハーレイ。さぞかし美しいのだろう、と。
今の自分は飛べないのだ、と打ち明けたけれど、約束もした。ハーレイと見上げた天使の梯子。雲間から射す光で出来ている天使の梯子。いつの日か、それを昇ってみせると。
(天使の梯子を昇るのもいいけど、箒だって…)
魔法使いのようで素敵だとハーレイは思ってくれるだろうか?
つらつらと箒で空を飛ぶことを考えていたら、チャイムの音が鳴ったから。チャイムを鳴らして仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから…。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合いながら、訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。箒は好き?」
「はあ?」
俺の好みが何だって?
「箒だよ! ハーレイ、箒は好きなのかなあ、って…」
「俺に今すぐ帰れってか?」
来たばかりなんだが、さっさと帰った方がいいのか? 晩飯の支度が出来ちまう前に。
「なんでそうなるの?」
箒は好きかって訊いただけだよ、どうしたら帰る話になるの?
「知らないのか、お前。…箒ってヤツのおまじない」
お前のクラスではしてないかもなあ、この雑談。SD体制が始まるよりも前の時代の話だが…。
いいか、この辺りに日本って島国が在った頃。其処じゃ箒を使ったおまじないがあったんだ。
来た客がなかなか帰らない時や、早く帰って欲しい時。
そういう時には箒を逆さに立てておくのさ、「早く帰れ」と逆様にな。
俺は客ではないかもしれんが、箒を逆さに立てておきたい気分なのかと訊いたわけで…。
「そうじゃないから!」
箒を逆さに立てようだなんて、ハーレイが来た時に考えたりはしないから!
帰りがゆっくりになるおまじないなら、やってみたいけど…。
箒を普通に立てておいたら、お客さんが長居をしてくれるのなら直ぐに箒を持って来るけど…!
箒を逆さに立てるつもりは全く無い、と帰るふりをするハーレイを懸命に止めて。
実は箒で飛ぼうとしていたのだ、と白状した。
幼かった自分がそれをやったと、箒に跨って飛ぼうとしたと。
「…ぼくは忘れていたんだけれど…」
ママが覚えていたんだよ。箒で飛ぼうとしていたでしょ、って。
幼稚園の頃に頑張ってたんだ、タイプ・ブルーは飛べるって聞いて、箒で飛ぶんだと思っていたから…。魔法使いは箒で飛ぶしね?
だから箒を引っ張り出しては、跨って庭で飛んでたんだよ、ピョンピョンって。
「そりゃ可愛いな」
飛んでるお前を見てみたかったな、箒に跨ったチビのお前を。
「やっぱり?」
空はちっとも飛べてなくても、ハーレイ、ぼくを見てみたかった?
「もちろんだ。そんなに小さな頃のお前が努力して空を目指してるんだろ?」
その頃のお前に会いたかったな、箒で飛んでるお前にな。
ジョギングの途中で通り掛かったなら、「頑張れよ」と手を振って声を掛けたさ、間違いなく。
「飛べるといいな」と、小さな魔法使いにな。
惜しいことをしたな、とハーレイが言うから。
この辺りもジョギングするべきだった、と残念そうにしているから。
「今のぼくが飛ぶなら、どっちがいい?」
ハーレイは箒の方が好きなの?
箒の話がズレちゃったけども、箒は好きか、って訊いたでしょ?
「どういう意味だ?」
俺が箒を好きかどうかが、何処に関係してくるんだ?
箒で庭を掃くのも好きだが、箒が好きかと言われると…。どうなんだかなあ、箒で掃いてる時の気分が好きなのかもな。綺麗になったと、もっと掃くかと、ついつい頑張っちまうんだ。
「えーっと、箒そのものの話じゃなくて…。空を飛ぶなら、って意味なんだよ」
ぼくは全く飛べないけれども、もし、飛べるようになったなら。
何も持たずに飛ぶ方がいいか、箒に跨って飛ぶのがいいか。
ハーレイはどっちのぼくが見たいの、箒つきのぼくか、箒無しのぼくか。
飛べるようになったら出来る筈なんだよ、箒に跨って飛ぶ方だって。
ハーレイ、どっちを見てみたい…?
魔法使いのような姿が見たいか、ただ飛ぶだけで満足なのか。
どちらがハーレイの好みだろうか、とブルーは答えを待ったのだけれど。
「…飛ばなくていい」
ハーレイの言葉は意外すぎるもので、ブルーはキョトンと赤い瞳を見開いた。
「なんで?」
飛ばなくていいって、どうして、ハーレイ?
箒で飛ぶのは好きじゃない、って言うんだったら分かるけど…。普通に飛ぶのも要らないの?
まだ飛べないけど、いつか飛ぼうと思っているのに…。
「お前、一生分、飛んじまったろうが。だからお前は飛ばなくていい」
メギドだ、とハーレイの眉間に刻まれた皺。普段よりも深くなった皺。
あの時に一生分を飛ばれてしまった、と辛そうに歪んだハーレイの顔。まるであの日に魂だけが戻ったように。あの日のブリッジに居るかのように。
前のブルーは命が尽きるまで飛んで行ったと、飛んで行って帰って来なかったと。
だから飛ぶなと、箒だろうが、その身一つであろうが、もう飛ぶなと。
「でも、ハーレイ…」
前に言ったじゃない、ぼくが飛ぶのを見たい、って…。
飛んでいた時の感覚を思い出すまで、飛べるようになるまで、プールで教えてくれるって…。
プールだったら教えてやれるって、水の中で飛んでみればいい、って…!
「そうは言ったが、だ」
お前がカンを取り戻したいなら、プールがいいとは言ってやったが…。
付き合ってやるとも言いはしたがだ、出来れば飛んで欲しくない。
俺はメギドで懲りたんだ。お前が飛べたらどうなっちまうか、あの時に思い知らされたんだ…。
もしもお前が飛べなかったら、メギドまで行きはしなかったろうが?
「…そうだけど…。でも、前のぼくは…」
飛べたからこそソルジャーだったし、メギドを沈めることだって出来た。
前のぼくに飛ぶだけの力が無かったとしたら、シャングリラは出来ていなかったんだよ?
アルタミラから脱出したって、船に載ってた食料が尽きたらそれでおしまい。
みんな揃って飢え死にするしか道は無くって、そうなっていたらメギドどころか…。
ハーレイと恋人同士になる暇も無くて、ただの友達のままでおしまい。
ぼくもハーレイも二人揃って飢え死にしちゃって、今の地球にも来られていないよ。
一生分を飛んでしまった、ってハーレイは言うけど、前のぼくの命。
メギドで使うために延びてたんだと思うよ、あのナスカまで。
神様がそこまで延ばしてたんだよ、この命は本当に必要な所で使いなさい、って。
「それはそうかもしれないが…」
否定はしないし、お前が言うのが多分、正しいことなんだろう。
それでも俺は今でも辛い。前のお前を失くしちまった、あの日のことを思い出すとな…。
だから飛ぶな、とハーレイはまた繰り返した。
今のブルーが元々自由に飛べていたなら、空を飛ぶ姿を見たいけれども。
努力してまで飛んで欲しくないと、出来ないことは出来ないままでいいのだと。
「…お前が箒に乗って飛ぶのも、見たくないとは言わないんだがな…」
前のお前はそんな技を見せちゃくれなかったし、遊びで飛んではいなかった。
子供たちの前で飛んでは見せたが、あれを遊びと呼んでいいかどうか…。
お前は遊んでいるつもりでもな、養育部門の連中からすりゃ、それも仕事の内なんだ。子守りの仕事を代わりにやってくれている、と思って眺めていたんだろうさ。
お前自身が心の底から楽しむためだけに飛んでいたこと、実は一度も無いんじゃないか?
「…そう言われちゃうと、ぼくも自信が無くなっちゃうかも…」
飛びたいな、って思い付いて勝手に飛んでったことは無いかもしれない…。
フィシスを攫ってくるよりも前は、フィシスに会いに空を何度も飛んでったけれど…。行き先も言わずに飛び出したけれど、あれは楽しみとは違うよね…。
「うむ。お前はフィシスに会おうと思って飛んで行ったわけで、遊びではないな」
目的があって飛んでいたなら、そいつは遊びに入らんだろう。
飛んで出掛ける方が楽しいから、と送り迎えを断ったわけじゃないんだからな。
ハーレイに改めて指摘されると、楽しみのために飛んだことは一度も無いかもしれない。
飛ぶこと自体が楽しくてたまらずに飛び出したならば、様々な飛び方をしたことだろう。障害物など何も無くても、高く昇ったり、急降下したり。
急旋回などもしたかもしれない、宙返りしながら飛ぶことだって。さながら曲芸飛行のように。
(そんなぼくだったら、箒だって…)
思い付いたら跨っただろう。
子供たちに見せてやるためではなくて、自分のために。
箒に跨って空を飛べると、まるで魔法使いになったようだと、雲海の上を飛んだのだろう。箒の魔法で何処へ行こうかと、何処まで空を駆けようかと。
(だけど一度も…)
魔法使いが出て来る本は白いシャングリラで読んだけれども、箒で飛ぼうと思わなかった。思い付きさえしなかった。
飛ぶことは遊びではなかったから。
いつでも何らかの目的があって、そのために空を飛んでいたから…。
「そうか、箒…。前のぼくなら出来たんだ…」
飛べたんだよ、魔法の箒で空を。それなのに思い付かなかったよ、そうすることを。
きっと子供たちだって大喜びして、見てくれたんだろうと思うけど…。
「そこで出て来てしまうんだよなあ、子供たちに、っていう台詞がな」
前のお前を引き摺ってるのさ、こうしてやったらどうなったろう、と。
箒で飛ぼうって発想は今のお前のヤツだが、前のお前の力なら出来たと思えばそうなっちまう。
今度のお前は誰のためでもなく、自分のためにだけ生きればいいっていうのにな?
その調子だから、一生分を飛んじまったと言うんだ、俺は。
生まれ変わってもまだ、前のお前を引き摺っちまって生きてるだろう?
右手が冷えれば辛くなるんだし、メギドの悪夢だって見る。全く別の人生なのにな…。
そういったことを全部忘れて、幸せだけを追い続けられるようになったなら。
お前が飛びたいと言い出したとしても、俺はもう止めはしないがな。
その時に飛びたくなったのであれば、それは純粋な楽しみだから、とハーレイは言った。
タイプ・ブルーに生まれたからには飛んでみたいと思うのならば、と。
「身一つだろうが、箒だろうが、その時は好きに飛んでくれ」
俺も楽しんで見物するから、好きなだけ技を披露しろ。
空を飛んでもかまわん場所まで、俺が車で連れてってやるから自由にな。
「じゃあ、プールで飛ぶコツを教わる方は…?」
それもメギドの夢とかを見ている間は駄目なの、ハーレイ、教えてくれないの?
プールの中なら、空を飛ぶ感覚、取り戻せるだろうって言ってくれたのに…。
「ん? そいつは約束してあるんだから、連れてってやるがな」
俺の得意な水の世界だ、プールくらいは連れてってやるし、あれこれ教えてやってもいいが…。
あくまで遊びに行くだけだ、と微笑まれた。
特訓をしに出掛けるわけではなくて、水と戯れに出掛けてゆく。長い時間はプールに浸かれないブルーに「そろそろ上がれよ」と注意しながらの水遊び。
そうやってプールに通う間に、飛ぶコツを思い出したなら。
飛んでみたいと思い始めて、自分のためだけに飛ぼうと言うなら、その時は好きにしていいと。
「…それだけなの?」
特訓は無いの、ぼくがもう一度飛ぶための。ハーレイは飛ばせてくれないの…?
「ああ。言ったろう、自分のためだけに飛べと」
それ以外では、もう飛ぶな。
お前が心の底から飛びたくなったら、飛んで遊びたくなったなら。
感覚だって戻るかもしれんし、箒でだって飛べるだろうさ。
…だがな、お前は飛ばなくていい。飛べないお前で充分なんだ。
飛ぼうとしたなら、前のお前の辛さや悲しみに囚われるから、と諭された。
それらを忘れてしまえないなら、空は飛べない方がいいと。
「なにしろ一生分を飛んじまったお前だ、今度は飛べなくて当たり前だ」
もう一生分、飛んでしまった後だしな?
前のお前が今のお前の一生分を、メギドまで飛んで使っちまった。
だからだ、お前が飛べるようになる日は当分来ないさ、いくらプールで練習してもな。
飛べる日が来るなら、前のお前の悲しみや辛さがすっかり癒えた頃だろう。右手が冷たくなってしまっても、「今日は寒いね」と息を吹きかけて自分で温められるくらいに。
俺の手で温めてやらなくっても、温もりを自分で作れるくらいに。
そういう風に幸せに過ごせる時が来たなら、お前だって飛べるかもしれない。箒だろうが、何も持たずに身一つだろうが、それは楽しそうに飛べるってな。
「…そうなのかな?」
ぼくが飛べる日、ちゃんと来るかな?
来てくれたら箒で飛んでみたいな、小さかった頃の夢だから。箒で飛べると思ってたから…。
「さてなあ、それは俺にも分からんが…」
一生、飛べないままかもしれんし、なんとも分からん。
お前のサイオンが不器用な限り、空は飛べないままかもしれんが…。
飛べないお前が俺は好きだな。俺が守ってやるしかないんだ、不器用で飛べないお前はな。
「…じゃあ、ぼくは一生、飛べないまま?」
「その方が俺はいいんだがなあ…」
守り甲斐があるだろ、前と違って。俺の方が文字通り、力がずっと上なんだしな…?
飛びたいのならば庭で箒に跨っておけ、とハーレイが片目を瞑るから。
結婚した後に「飛んでみたい」と口にしたなら、箒を渡されてしまうのだろうか。
飛ぶための感覚を取り戻すためのプール通いの代わりに、箒。
「お前はこれで飛べると思っていたんだろう?」と幼い頃の話を持ち出されて。
それでもきっと嬉しいと思う。
プールに連れて行って貰う代わりに、「ほら」と箒を渡されても。
(だって、ハーレイの家にいるんだものね?)
幼い日の自分が跳ねていたのとは別の庭。ハーレイの家をぐるりと囲んだ庭。
箒だって、ハーレイの家にある箒。庭を掃くのに使う箒で、ハーレイの家のためにある箒。
それに跨り、「見てよ」と「箒で飛んでみせるよ」と庭で跳ねて見せて。
(きっとハーレイ、とびきりの笑顔になるんだよ)
そうして「うむ、上手いもんだ」と褒めてくれるのだろう。箒に跨ってはしゃぐ姿を。
箒で飛べたと、飛んでいるのだと跳ねて回れば。
たとえ一生飛べないままでも、箒に跨って浮き上がることさえ出来なくても。
ハーレイと二人で暮らす家の庭なら、其処で箒で遊べるのならば…。
(うん、最高に幸せだって!)
飛び立てなくても、箒で離陸は出来なくても。
きっと幸せに違いない。
鳶色の瞳に見守られながら、芝生の上。箒に跨って跳ねるだけでも、心は空高く飛ぶのだろう。
それは軽やかに、何処までも高く。
ハーレイと一緒に地球に居るよと、青い地球の上で箒に跨って飛んでるんだよ、と…。
魔法の箒・了
※幼かった日に、箒で飛ぼうとしていたブルー。飛べる力は持っていないのに。
前の生では、自分のためには一度も飛んではいなかった模様。今度は箒で充分なのかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
九月は秋だなんて暦だけ。八月七日の立秋が大嘘なのと同じ理屈で暑いというのがお約束です。現にシャングリラ学園の衣替えだって十月から。暑い、暑いと連発しつつも登校している私たち。出席義務のない特別生のくせに真面目に通い続ける理由は…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと「今日も暑いもんね!」とフルーツパフェがドッカンと。冷房も効いて快適なお部屋でワイワイガヤガヤ、このためだけに学校へ行くと言っても過言ではなく…。
「ハーックション!」
いきなりのクシャミに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「あれっ?」とクシャミの主を眺めました。
「ごめん、冷房、効きすぎてる?」
「いや、別に…。ハーックション!」
言葉を裏切ってクシャミ連発、クシャミの主はキース君で。
「キース、朝からやってなかった?」
ジョミー君が指摘し、サム君たちも。
「うんうん、風邪を引いたかと思ったぜ、俺は」
「ですよねえ? キース先輩が風邪なんて珍しいんですが…」
「引いたことなんてあったかしらね?」
鬼の霍乱、と意見が一致しかかりましたが。
「やかましい! 俺は風邪では…。ハーックション!」
「おやおや、言ってる端から裏切ってるねえ…」
大事にしたまえ、と会長さん。
「風邪は万病の元だと言うよ? 坊主は身体が資本なんだから」
特に喉だね、との台詞を聞いた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が駆け出して行って、間もなく湯気の立つカップを運んで来ました。
「はい、金柑シロップのジュースだよ! 風邪にも効くし、喉にもいいの!」
「ああ、すまん。本当に風邪ではないんだが…」
だが有難く頂いておこう、と口をつける前にもクシャミ一発。やっぱり風邪では、と私たちは考え、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も心配そうで。キース君は風邪に効くという金柑シロップを小さな瓶で貰って帰ることになりました。
金柑シロップ、会長さんの家から瞬間移動でお取り寄せ。こんな時にサイオンは便利です。万病の元だという風邪、早く治して貰わなくっちゃ!
キース君は柔道で鍛えているだけに病気知らずの頑丈さが売り。大学時代に住職の資格を取りに行った三週間もの伝宗伝戒道場は暮れの十二月、しかも寒波の真っ最中でしたが霜焼けが酷かっただけで風邪を引いたりはしませんでした。しかし…。
「ハーックション!」
金柑シロップは効かなかったのでしょうか、次の日も朝のホームルームでキース君のクシャミが。グレイブ先生が出席を取る声に「はいっ!」と答えた途端に一発、それから暫く立て続けに。
「…ックション、クシャン! クシャン!」
他の人の答える声まで遮りそうなクシャミ連発。グレイブ先生は「ふむ…」と眼鏡を押し上げて。
「キース・アニアン、大丈夫かね?」
「は、はい…。ハーックション!」
「他の生徒にうつると困る。保健室でマスクを貰ってくるように」
「はいっ!」
ハーックション! とクシャミで答えて、キース君は教室から出てゆきました。ホームルームが終わる前にはちゃんと戻って来たのですけど。
「「「………」」」
ガラリと後ろの扉を開けて入って来たキース君に皆の視線が集中したまま、びっちり釘付け。自分の席へ向かう移動に合わせて視線も移動し、もちろん私もその一人で。
「………。キース・アニアン。そのマスクは一体、何なのかね?」
「まりぃ先生に頂きました」
まりぃ先生は保健室の主の美人でグラマラスな女性ですけど、正体は腐女子だか貴腐人だか。会長さんと教頭先生を題材にエロいイラストを描くのが趣味です。それだけに絵がとても上手で、熟練の技がキース君の着けているマスクにもデカデカと。
描かれていたものは実に可愛い小僧さん。いわゆる一休さんのアップで、おまけにカラー。
「まりぃ先生か…。その場で描いて渡されたのかね?」
「そうです。これか、女子用のピンクのハート柄の既製品かを選ぶようにと」
「遊ばれているな、キース・アニアン」
「…そのようです」
無駄に付き合いが長いですから、と言い終えた途端にマスクの向こうでクシャミ連発。グレイブ先生は「仕方ない」と零し、二時間目の自分の授業までに普通のマスクを買ってくるから、と言い残して去って行きました。
普通のマスクが到着するまで、一休さんマスク。ここは笑っちゃダメ、笑っちゃダメ~!
「…というわけでだ、俺は散々な目に…。ハーックション!」
放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で、またまたクシャミのキース君。会長さんが「キースの周りにシールドを張るからマスクは外していいよ」と言ったため、キース君は「恩に着る」とマスクを外したのですけれど。
「まったく、なんでクシャミなんぞが…。ハーックション!」
「うーん…。ぶるぅの金柑シロップは効かなかったか…」
引き始めに良く効くんだけどね、と会長さん。
「持って帰れって渡した分は、ちょっぴり薬臭かっただろう? 昔ながらの生薬配合、下手な風邪薬より効くってね」
「かみお~ん♪ 生姜にシナモン、どっちも風邪に効く漢方薬だよ!」
「確かにそういう味ではあったが…。ックション!」
どうもイマイチ、とキース君。貰って帰った金柑シロップを寝る前に飲んで、それから後はクシャミの記憶は無いそうです。ところが朝から再びクシャミで、朝のお勤めの間中、クシャミ連発。アドス和尚に「やかましい!」と叱られたとか。
「親父にも言われた、坊主は身体が資本だとな。喉をやられる前にサッサと治せと怒鳴られたんだが、そう簡単には…。ハーックション!」
「……もしかして、花粉症だとか?」
ちょっと怪しい、という会長さんの言葉に「ああ!」と手を打つ私たち。クシャミ鼻水が定番だと聞く花粉症ですが、罹ると鼻が刺激に過敏になるといいます。
「花粉症かあ…。それっぽいよね?」
あのクシャミ、とジョミー君が頷き、マツカ君が。
「花粉でなくてもアレルギーかもしれませんね」
「ありますね! ハウスダストとか、花粉の他にも色々と」
それでしょうか、とシロエ君。花粉症だと言われてしまったキース君は「いや…」と視線を彷徨わせてから。
「アレルギーではないと思うが…。そもそも俺とは無関係でだ、ハーックション!」
「誰だって最初はそう思うんだよ」
自分だけは違うと思いたいものだ、と会長さんが腕組みをして。
「とにかく暫く様子見だね。学校にはマスクを持って来た方がいいよ、一休さんが嫌なら」
「そうしておく…」
一休さんマスクは二度と御免だ、と項垂れているキース君。あれはホントに笑えましたから~!
翌日からもキース君のクシャミ連発は収まらないまま、秋のお彼岸に突入しました。副住職だけに土日は墓回向、お中日は法要や関連行事で丸々一日ぶっ潰されて、その後も続く墓回向。一週間もの戦いを終えたキース君は今年もバテバテで。
「くっそお…。今年も死んだ…」
思い切り死ねた、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で討ち死にモード。残暑が厳しかったため、墓回向はもれなく炎天下。法要だって大変な上に、例の花粉症だかアレルギーだかのクシャミをこらえての読経三昧、それで死なないわけがなく…。
「お疲れ様。問題はそのクシャミだねえ…」
早く病院に行った方が、と会長さん。
「甘く見てると酷い目に遭うよ? そして本当にアレルギーとか花粉症なら、シールドの練習をしないとね?」
「「「シールド?」」」
「あれっ、知らなかった? 要はアレルギー源と接触しなけりゃいいわけだから…。マスクの代わりに顔だけシールド、それでクシャミ知らずって仲間もいるんだけれど」
「裏技ですか!」
凄いですね、とシロエ君、絶賛。
「キース先輩、その方向で行きましょう! サイオニック・ドリームも坊主頭限定でマスター出来た先輩なんです、アレルギー対策のシールドくらいは簡単ですよ!」
「そう思いたいが…。本当にアレルギー…。ックション!」
「意地を張らずに病院ですって!」
お勧めします、とシロエ君にも背中を押されたキース君は、その場で檀家さんがやっている耳鼻科に電話をかけて次の日の夜の予約を入れたのですけど。
「…あれっ?」
キース、マスクは? とジョミー君。次の日の朝、キース君はマスクを着けてはいませんでした。
「マスクか? 持って来てはいるんだが…。一休さんは御免だからな」
ほれ、とポケットからマスクを取り出したものの、着けない上にクシャミも無し。
「先輩、治ったんですか?」
「そのようだ」
「花粉症って治るんでしたっけ?」
治療もせずに、とシロエ君が首を捻った所でキンコーン♪ と予鈴。間もなく本鈴が鳴って、現れたグレイブ先生はマスク無しのキース君に顔を顰めましたが、クシャミは一度も出ないままで。
「キース・アニアン、風邪は治ったのかね?」
「治ったようです」
「なら、よろしい。次からも風邪の症状が出たらマスク持参で来るように」
グレイブ先生は花粉症ともアレルギーとも思わなかったらしく、鼻風邪の一種で片付けられました。確かに鼻風邪って線もありますけれど…。
どうなんだか、とジョミー君たちと顔を見合わせ、その後の授業もキース君のクシャミは全く無し。本当に鼻風邪だったか、はたまた花粉症が引っ込んだか。悩む間に放課後になって…。
「かみお~ん♪ キース、マスク無しだね!」
治ったお祝い! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がシロップ漬けの金柑をたっぷりと入れた金柑タルトを切り分けてくれました。みんなで「おめでとう」と祝福してから、いざフォークをば。うん、美味しい!
「結局、鼻風邪だったわけ?」
ジョミー君が訊くと、キース君は。
「それがな…。どうやら線香らしい」
「「「線香!?」」」
「親父が線香を変えたんだ。お彼岸も近いし立派なのを、と香りが高いのを選んだわけだが、立派すぎて俺には耐性が無かった」
そのお線香の煙を嗅いだ途端にクシャミなのだ、とキース君の顔は大真面目。
「白檀だか沈香だか何か知らんが、いい香りはした。これはいいな、と思ったんだが、どうも俺とは致命的に相性が悪かったようで…」
ヤツが去ったらクシャミも治った、と言われてビックリ、唖然呆然。
「お線香のアレルギーですか…」
「一種の過敏症じゃないかしら?」
「だけど治って良かったよねえ、花粉症だと治らないしね?」
大変そうだよ、とジョミー君が肩を竦めてみせると、会長さんが。
「そうでもないよ? 花粉症が治る人もいる」
「「「ええっ!?」」」
「それも治療も何もしないで綺麗に治ってしまうんだな」
其処に至るまでが大変だけどね、と会長さんは金柑タルトを頬張って。
「いわゆるアレかな、毒を少しずつ飲み続けていれば効かなくなるってヤツと同じだよ。花粉を浴びて浴びまくる内に耐性が出来てしまうわけ」
ただし二年や三年では無理、という話。軽く十年くらいはハードなクシャミ鼻水ライフで、その後も軽度の花粉症な日々を続けて、気付けば治っているのだとか。
「だからね、キースのお線香もさ…。アレルギー反応みたいなモノなんだからさ、焚き続けてればクシャミも治るかもしれないけれど?」
「御免蒙る!」
しかも毎日焚くには高すぎるのだ、とキース君。アドス和尚もキース君のクシャミに懲りて二度と購入予定は無いとか。クシャミ克服、見たかった気も…。
とりあえず今後はクシャミ連発の予定は無いらしいキース君。花粉症でなくて良かったです。顔だけシールドを張る練習にどのくらいかかるか分からないし、と語り合っていると。
「こんにちは。なんか克服したんだって?」
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返った先に優雅に翻る紫のマント。ソルジャーがツカツカと部屋を横切り、空いていたソファに腰を下ろして。
「ぶるぅ、ぼくにも金柑タルト! それと紅茶もお願いするね」
「オッケー!」
ちょっと待ってね、とキッチンに駆けて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は直ぐに注文の品を運んで来ました。ソルジャーは金柑タルトを口に入れるなり「いいね」と笑顔。
「こういうタルトはお店じゃ売っていないしねえ…」
「小さな店ならあるだろうけどね」
金柑自体がマイナーだし、と会長さん。
「ぼくとぶるぅは作ってる農家から直接買っているけれど…。スーパーとかでは珍しいよね、だから金柑タルトもマイナー」
「そうなんだ? でもって、珍しいと言えばさ…。さっき君たちが話題にしていた花粉症だっけ、あれが勝手に治っちゃう人がいるのかい?」
「らしいよ、実例も知らないことはない。仲間じゃないけど、子供の頃から酷い花粉症だった人が今ではピンピン、花粉の季節もマスク無しってね」
たまに璃慕恩院で会う女性なのだ、と会長さんは教えてくれました。子供時代に行った璃慕恩院の修行体験ツアーでハマッたとかで、大きなイベントがあれば来るのだとか。中学生くらいの時に緋色の衣の会長さんに「ツーショットお願いします!」と突撃してきた猛者なのだそうで。
「今じゃすっかりオバサンだけどさ、相変わらずぼくの熱烈なファンなんだよね」
「かみお~ん♪ ブルーを見付けたらダッシュで走って来るもんね!」
「そうなんだよねえ、此処までのお付き合いになると分かっていたらさ、仲間にするのもアリだったかなあ…」
今でも考えてはいるんだよね、と会長さん。仕事一筋の独身ライフの女性らしくて、エラ先生の見た目くらいのお年頃。その外見の仲間は貴重だから、と密かに目を付け、接触の機会を探っているとかいう話。ソルジャーとしてのお仕事も真面目にやってはいるみたいですねえ…。
「なるほど、しっかり実例も見た、と」
それは素晴らしい、とソルジャーはいたく感心しています。ソルジャーの世界にも花粉症ってあるのだろうか、と考えていたら。
「その花粉症の克服法! 応用できると思わないかい?」
「「「は?」」」
何に、と訊き返すしかない今の状況。キース君のお線香過敏症には確かに応用できそうですけど、予算の関係で却下っぽいですよ?
「違う、違う、キースのクシャミじゃなくて!」
もっと歴史の長いものだ、とソルジャーに言われても何のことやら。それに歴史が長いんだったら、会長さんの熱烈なファンだというオバサン同様、とっくに克服していそうですが…。
「うーん…。花粉ほど頻繁に浴びるものではないからねえ…」
まだ経験値が足りないのだろう、とソルジャーはニッコリ笑いました。
「花粉症の話は分からないでもないんだよ。このぼくだって人体実験されまくった結果、効かなくなった薬も沢山あるしね。だから色々苦労したんだ、本当に」
もう本当に大変だったのだ、と聞けば思わず沈痛な面持ちになるしかなくて。
「…それはホントに同情するよ」
大変だったね、と応じる会長さんに、ソルジャーは。
「あっ、分かる? もうね、何が一番困ったと言うに、催淫剤と言うか、媚薬と言うか…。あの類のがサッパリ効かなくってさ、ハーレイとの時間がもう」
「退場!!」
会長さんの叫びはサクッと無視され。
「この世界にはつくづく感謝してるよ、色々な薬があるからね! 自然由来の漢方薬とかは実にいいねえ、ぼくの世界じゃ貴重過ぎたから実験に使ってないからね!」
スッポンはもう手放せないよ、と瞳がキラキラ。
「それでさ、さっきの話の続きだけれど…。こっちのハーレイに応用できないかな、あれ」
「スッポンとかならお断りだよ!」
サッサと帰れ、と会長さんが怒鳴り付ければ、ソルジャーは。
「そうじゃなくって、ハーレイの鼻血!」
「「「鼻血?」」」
「そう、鼻血!」
治らないかな、と言われましても。鼻血って鼻からツーッと出るヤツ…?
花粉を大量に浴び続けた場合、花粉症が勝手に治る人もいるという話。其処からどう転べば鼻血になるのか、と思いましたが。
「こっちのハーレイ、気の毒でねえ…。何かといえば鼻血で失神、美味しい思いをするどころじゃないし」
「そんな思いはさせなくていいっ!」
「君の方ではそうだろうけど、ぼくにしてみれば気の毒なんだよ」
ぼくはハーレイと結婚してるし、とソルジャーは真顔。
「こっちのハーレイも君に心底惚れているのに、鼻血のせいで損をしまくり! あれが治れば男が上がって、君も惚れるかと思うんだけどね?」
「ぼくは絶対、惚れないから!」
「強引にグイグイと押して来られたら気持ちも変わってくると思うよ、リードして貰ってなんぼだからねえ、ああいう世界は」
たとえ自分が食われる方でも気にしない! と言い放つソルジャー。
「ぼくは食われる方よりも食べる方が好み! だからハーレイも美味しく食べてるつもりだけれども、獣みたいなハーレイにはハートを持って行かれてしまうねえ…」
食われて嬉しい気分なのだ、とソルジャー、ニコニコ。
「君もそういう立場になったらハーレイへの愛に目覚めるよ! そのためにも是非、ハーレイの鼻血を治したいわけ!」
結果的にはヘタレ直しへの大切な一歩となるであろう、と恐ろしい主張。
「花粉を大量に浴びると花粉症が治ってしまうんだろう? だったら、鼻血は出せばいいんだ! 大量に出して出しまくっていたら、その内に!」
鼻血克服! とグッと拳を握るソルジャー。鼻血を出して鼻血克服って、鼻血はアレルギー源とは仕組みが異なる筈ですが…?
教頭先生に花粉症ならぬ鼻血を克服させたいのだ、とソルジャーはとんでもないことを言い出しました。鼻血を出しまくっていれば克服出来るであろう、という意見。でも…。
「鼻血と花粉症は仕組みが違うから!」
全然違う、と会長さん。
「出しまくったからって耐性が出来るものではないんだよ! アレルギー源でも毒でもないし!」
「その辺はぼくだって理解してるよ」
「それなら馬鹿なことを口にしないで欲しいね!」
「分かってないのは君の方だよ、要は場数が大切なんだよ!」
花粉にしても鼻血にしても…、と言うソルジャー。
「鼻血を出すような場面に嫌と言うほど出会っていればね、精神的にタフになってくる筈!」
「なんだって!?」
「タフと言ったよ、この程度のことでは動じません、というタフな神経!」
それを養ってやれば鼻血も出ない、と指摘されれば一理あるかも。そうなのかも、とキース君たちと見交わしていると、会長さんが憤然と。
「そんな神経、迷惑だから!」
「オモチャに出来なくなるからだろう? それがいいんだよ」
オモチャ転じて大人のオモチャ、とソルジャーはニッコリ笑いました。
「いつもの調子でからかっていたら、鼻血の代わりにパックリ食われる! そうして君も一人前だよ、ハーレイとの愛の世界に開眼!」
「そういう予定もつもりも無いから!」
「君には無くても、ぼくにはあるねえ…」
是非とも鼻血を克服させたい、と先刻の言葉を繰り返すソルジャー。
「こっちのハーレイも君と幸せになるべきなんだよ。そのためだったら頑張るつもり!」
「何を!?」
「もちろん、鼻血を出させることだよ!」
毎日、食後と寝る前と! と薬の飲み方まがいの台詞が。
「ああ、でも朝御飯と昼御飯っていうのは慣れてこないとマズイかな…」
鼻にティッシュじゃ仕事にならない、とソルジャー、教頭先生の職業は理解している模様。
「とりあえずはアレだね、毎晩、鼻血を出す所から!」
早速、今日から! とブチ上げられても、毎晩鼻血って、どんな計画…?
「最初の間は脱ぐだけでいいと思うんだよ、うん」
ソルジャーは自分が思い付いた名案に酔っていました。
「それとハーレイが倒れない程度の鼻血に留めることが肝心! 倒れるトコまで行ってしまったら逆効果だしね!」
警戒されては本末転倒、と話すソルジャー。
「ぼくが毎晩通うからには、警戒よりも期待が大切! 期待の心で鼻血克服!」
もっと脱いで欲しければ鼻血を克服、と極上の笑み。
「鼻血が酷くなったら倒れちゃうしね、その前にぼくは失礼するわけ。場数を踏んで鼻血が出にくくなって来たなら、脱ぐのももちろんバージョンアップ!」
いずれは全部脱いでも鼻血は出なくなるであろう、とソルジャーは全部脱ぐつもり。あまつさえ、全部脱いでも鼻血が出ないレベルまで到達したなら…。
「当然、ベッドに誘うんだよ! 熟練の先達、このぼくがベッドでの時間を手取り足取り!」
「やめたまえ!」
会長さんが裏返った声で叫びましたが、その程度で怯むソルジャーではなく。
「じゃあ、止めれば?」
止められるものなら止めてみれば、と開き直り。
「サイオンでもいいし、其処の連中まで動員してきて人海戦術で止めるのもいい。ただし、ぼくの方も全力で鼻血克服に挑むからねえ、手加減しないよ」
全力でシールド、全力で妨害! とソルジャーは滅多に見せない本気モードで。
「だけど覗き見はさせてあげるよ、ぼくの計画の進行具合を見て欲しいしね? こっちのハーレイが鼻血を克服してゆく過程を是非、見守ってくれたまえ!」
「見守らないから!」
止めてみせる、と会長さんが怒鳴る気持ちは分かりますけど、相手はソルジャー。それこそ場数と経験値の違いが同じ顔でも月とスッポン、止められる可能性の方が少ないわけで…。
「ぼくを止めるって? お好きにどうぞ」
止められるんなら好きにしたまえ、とソルジャーはソファから立つとフワリとマントを翻して。
「それじゃ最初の君との勝負は今夜だね? 何人がかりでも大いに歓迎!」
覗き見はどうぞご自由に、と言うなり姿が消えてしまいました。まさかもう出掛けて行ったとか? まだ夕方だと思うんですけど、早くも脱ぎに行っちゃったとか…?
ソルジャーが立てた恐ろしい計画、教頭先生の鼻血克服大作戦。鼻血を出さないタフな精神を養った上で会長さんを食べさせるべし、というトンデモな計画が動き出しつつあるようです。
「お、おい…」
キース君がキョロキョロと見回して。
「あいつは何処に消えたんだ? 教頭先生の所じゃないだろうな!?」
「…今の所は安全圏だよ」
全然安全じゃないんだけれど、と会長さんが途方に暮れながら。
「今は自分の世界にいるねえ、そして私服を物色中! どれを脱ぐのが効果的なのか、あれこれ考えているみたいだけど…」
「つまりは本気で脱ぐつもりか…」
「らしいね、あっちのハーレイの意見も訊いてる」
仕事中だというのに公私混同、と会長さんは深い溜息。
「相談したいことがあるから少し借りる、とブリッジから瞬間移動で強引にね…。でもって、どの服を脱いだら喜ばれるかと訊いてるんだよ、自分のパートナーを相手に脱ぐ相談!」
「…とてもソルジャーらしいですけど、お気の毒ですね…」
キャプテンが、とシロエ君が零せば、「ううん」と会長さんが即答。
「趣旨を聞いたら感動してるよ、流石は夫婦と言うべきか…。こっちのハーレイに前から同情しているからねえ、鼻血克服作戦には大いに乗り気!」
「でもよ、浮気の危機だぜ、あれって…」
そこの所はどうするんだよ、とサム君が訊くと。
「ブルーは治療だと言い張っているし、鼻血克服が上手くいったら三人でヤろうと…。おっと、今のは失言だった」
とにかく美味しい餌をチラつかせて丸め込んだと思え、という答え。
「そういうわけでね、あっちのハーレイに止める理由は無くなったんだよ。ブルーは毎晩脱ぎに来る気で、ハーレイの鼻血を克服させる気!」
「じゃ、じゃあ…」
克服しちゃうわけ? とジョミー君がうろたえ、私たちも背筋がゾクッと寒く。
もしも教頭先生が鼻血を克服してしまわれたら、会長さんの人生ってヤツもすっかり狂ってしまいませんか…?
「克服される前に全力で止める!」
会長さんの宣言は全力でしたが、サイオンでソルジャーに敵わないことは誰もが承知。それでも止めると言い出すからには…。
「君たちも協力するんだよ! ブルーのシールドを突破するとか!」
「「「えぇっ!?」」」
あのソルジャーのシールドを破ることなど、私たちに出来る筈がありません。けれど会長さんは「やれ!」の一点張りで。
「昔から言うだろ、火事場の馬鹿力とか、バカの一念、岩をも通すとか! これだけいるんだ、やってやれないことはない!」
当たって砕けろ! と余りにも無茶な御注文。絶対無理だと思いはしても、会長さんもソルジャーと同じで思い立ったら実行あるのみ。「やれ」と言われて逃げようものなら、首に縄を付けても引きずり戻され、ズルズルと引き摺って行かれる以外に道は残っていそうもなくて…。
「…あんた、俺たちに死ねと言う気か?」
キース君の精一杯の反論でしたが、会長さんは冷ややかに。
「それじゃ、ぼくに死ねと? あのハーレイの餌食になれと言うのかい、君は?」
「…い、いや…。そ、そういうわけでは…」
「だったら、頑張る! 根性あるのみ!」
あの馬鹿を止めろ、と繰り返される恐怖の呪文。ソルジャーの思い込みも怖いですけど、会長さんだって負けてないほど怖いですってば~!
ソルジャーが私たちの世界に戻って来る前に、と瞬間移動で会長さんの家へ連れて行かれて、バトルの前の壮行会。いつもだったら大歓声の焼き肉パーティーの席はまるでお通夜で、水杯でも交わされそうな雰囲気で。
「…シールドってどうやって破るんです?」
シロエ君の問いに、キース君が。
「俺が知るわけないだろう。お念仏では突破出来ないことは確かだ」
「理屈としてはね、ブチ壊すんだよ」
サイオンで、と会長さん。
「そして物理的にも破壊出来ないことはない。シールドを張ってる人間が持ちこたえられないほどのダメージを与えれば破ることも出来るし、突破も出来る」
これだけいれば…、と会長さんは私たちの頭数を勘定して。
「一人くらいは当たって砕けない可能性もゼロではないさ。もちろん、ぼくとぶるぅも全力で行くし、君たちは物理的な攻撃をね」
「…殴るのか?」
素手か、とキース君が尋ねて、会長さんが。
「柔道部は素手でいいんじゃないかな、腕には自信があるんだろ? それとも全員、金属バットでも持って行くかい?」
一斉に殴り掛かればあるいは…、と言われても、金属バット。それは一歩間違えたら凶器であろう、と容易に想像がつきました。もう少しマシな道具は何か無いのでしょうか?
「かみお~ん♪ 殴るんだったら金槌もあるし、ハンマーとかバールも使ってね!」
「いえ、強盗じゃないですから!」
もっとマシな…、というシロエ君の言葉に「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「うーん…」と暫く考え込んでいましたが。
「そうだ! ちょうどいいのがあるから待っててねー!」
取ってくるね、と何処かへ走って行って、「お待たせー!」と両手で抱えて来たもの。一瞬、カラフルなラケットの山かと思ったそれは布団叩きというヤツでした。干した布団をパンパンと叩く道具です。
「あのね、これも力いっぱい叩いても壊れない道具だから!」
「「「…布団叩き…」」」
ソルジャーのシールドを破るには頼りなさすぎなような、バカバカしすぎて逆に頼もしいような。ともあれ、武器を手にした以上は、素手で行くよりかは幾らかマシかな…。
会長さんはサイオンでソルジャーの世界を覗いては監視していましたが。
「来るようだよ。ぼくに予告を寄越してきた。今からハーレイの家に行くよ、と」
「「「………」」」
「布団叩きは一人一本持ったんだろう? それで殴ってシールド突破の覚悟だよ、うん」
出発! の号令に合わせて「かみお~ん♪」の声が。私たちの身体がフワリと浮いて、移動した先は教頭先生の家のリビングで。
「…あれ?」
教頭先生は私たちに気付いていませんでした。何故、と思う間もなく、ソファで新聞を読んでおられる教頭先生の直ぐ前にソルジャーがパッと。私服を物色していると聞いていた割に、紫のマントの正装ですよ…?
「あれにしておこうと思ったらしいね、今は薄着の季節だからね」
会長さんがチッと舌打ちを。
「マントに上着と重ね着してるし、脱いでいく過程をたっぷり見られる。あっちのハーレイもお勧めなんだよ」
ついでに、と教えて貰った事実。ソルジャーのシールドは私たちの到着前から展開済みで、教頭先生と二人の世界らしいのです。覗き見を許すと言っただけあって中の様子は丸見えですけど、私たちの姿も声も教頭先生には分からないそうで。
「一対一だからこそ、ああなるんだよ」
会長さんが指差す先では、ソルジャーが教頭先生と歓談中。キャプテンと出掛けたデートの話なんかをしていて、教頭先生は「そうなのですか」と相槌を。
「よろしいですねえ、お幸せそうで」
「羨ましいだろ? こっちのブルーは冷たいからねえ…」
「私の努力が至らないのか、昔からあの通りでして…」
「うん、知ってる。だからね、ぼくも一肌脱いであげたくってさ」
文字通り一肌脱ぐつもりでね、とソルジャーは艶やかな笑みを浮かべて。
「名付けて、君の鼻血克服大作戦!」
「…は?」
「鼻血だよ、鼻血! 何度も出してりゃ慣れてしまってタフな男に!」
まずは一日、一鼻血! とソルジャーはマントに手を掛けました。
「今日の鼻血は何処で出るかな、もしかしてアンダーくらいでギブアップとか?」
バサリと床に落ちた紫のマント。教頭先生、目が点ですよ…。
マントの次は白と銀の上着。ソルジャーがそれを脱ぎ、黒いアンダーだけになった所で。
「…うっ…!」
教頭先生の指が鼻の付け根を押さえましたが、努力も空しくツツーッと鼻血。ソルジャーは「もう鼻血かい?」と微笑むと。
「それじゃ今夜はここまでかな。また明日の夜に脱ぎに来るから!」
「…明日の夜?」
「君が鼻血を克服するまで、何度でも! 全部脱いでも平気になるまで!」
じゃあね、と笑顔で手を振ったソルジャーの姿がパッと消え失せた次の瞬間、私たちの身体もクイッと引っ張られて。
「「「???」」」
気付けば会長さんの家のリビングで、ソルジャーがマントと上着を抱えてアンダー姿で立っていました。
「武装勢力が来てるというのは知っていたけど、布団叩きとは勇ましいねえ…」
「烏合の衆でも、いないよりかはマシなんだよ!」
いずれは君のシールドを突破、と会長さんが叫べば、ソルジャーは。
「やるだけやってくれればいいけど、ぼくも本気でシールドするしね? こっちのハーレイの鼻血克服がかかっているんだ、邪魔はさせない」
「ぼくも本気で妨害するから!」
負けてたまるか、と会長さんも必死の形相。どうやら私たちは毎日毎晩、布団叩きで武装した上でソルジャー相手に戦わなければならないようです。ソルジャーが全部脱いでしまうよりも前にシールド突破。それってホントに布団叩きで出来るんですかねえ…?
教頭先生の鼻血克服を目指し、ソルジャーは足繁く通って来ました。夜な夜な教頭先生の目の前でソルジャーの正装を脱ぐわけですけど、鼻血克服への道は遠くて。
「…今日もアンダーでアウトでしょうねえ…」
シロエ君が呟き、キース君が。
「あいつが調子に乗ってるからなあ、ただ脱ぐってだけじゃなくってな」
「なんか鍛えるためらしいよねえ、どんなシチュエーションでも平気なように」
ジョミー君が言う通り、ソルジャーは脱ぐ過程に工夫を凝らしていたりします。妖艶な笑みを浮かべて脱いだり、思わせぶりなポーズを取ったり。挙句の果てに「場所を変えよう」とベッドの上やらバスルームの隣の脱衣室やら、それはもう実に色々と…。
教頭先生は未だにアンダー姿の先を拝めず、鼻血を出したり噴いたりの日々で。多分今夜もその線だろう、と飾りと化した布団叩きを握ってソルジャーの出現を待ち構えていれば。
「こんばんは。…遅くなっちゃって」
ソルジャーが教頭先生の家のリビングに現れたまでは予想の範疇内でしたけど。
「「「…えっ?」」」
教頭先生の顔が赤く染まって、ツツーッと鼻血。ソルジャーは脱いでいないのに鼻血。
「…す、すみません…! つい…」
あれこれと想像してしまいまして、と謝る教頭先生の鼻血修行は始まる前の出血のせいでアッサリ中止になりました。こんな日もあるのか、と呆れつつ撤収したというのに、翌日も修行を待たずに鼻血。そのまた次の日もソルジャーの姿を見るなり鼻血で。
「うーん…。あれって、もしかしなくても…」
条件反射というヤツだろうか、と会長さんがボソリと口にするまでに一週間はあったでしょうか。
「「「条件反射?」」」
「要するにアレだよ、ブルーが来たら鼻血克服の修行の始まり! もうそれだけで妄想タイムのスイッチオンでさ、何もしなくても鼻血がツツーッと」
「…なるほどな…。まるで無いとは言い切れんな、それは」
キース君が大きく頷き、シロエ君も。
「かなり色々とやらかしましたしね、ただ脱ぐだけで」
「そうだろう? だからさ、鼻血克服どころか全く真逆の方へ向かってまっしぐら!」
会長さんはいとも嬉しそうに。
「これは使えると思うんだよ。ぼくからハーレイを遠ざけるために!」
「「「は?」」」
「今の所はブルー限定で鼻血だけれどさ、ぼくもブルーの真似をしてればハーレイはぼくに会うだけでアウト! オモチャにしたい時を除いて会わないためには、鼻血を出させる!」
今夜からぼくも真似してみよう、と言い出した会長さんを止められる人はいませんでした。布団叩きで武装して連れて行かれる所までは普段の通りでしたが、ソルジャーを見た教頭先生が鼻血を出した時点で。
「…こんばんは」
面白そうなことをやってるねえ? と声を掛けに出掛けた会長さん。それだけでは教頭先生からは見えもしないし声も無理では、と思っていたのに。
「おや、君も一緒にやりたくなった?」
何か勘違いをしたらしいソルジャーが自分のシールドに会長さんを招き入れ…。
「ハーレイ、今日からブルーも脱ぐって! 良かったねえ!」
「…ブ、ブルーも脱ぐと…」
「うん。ぼくの場合はマントが無い分、ちょっと早い…って、えっと、ハーレイ?」
教頭先生、ブワッと鼻血。その後は仰向けにドッターン! と倒れて、見事に失神。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がつついてみても意識は戻って来なくって…。
「鼻血克服、先は長そうだねえ…」
「せっかく君まで来てくれたんだし、此処は一発、頑張らないとね!」
明日からは武装勢力も要らないだろう、とソルジャーは会長さんの家のリビングで上機嫌。会長さんの目指す所が何処にあろうと、いつかは鼻血を克服出来ると信じていて。
「花粉症の人は十年かかったんだっけ?」
「酷い症状が消えるまでに十年、その後に軽症の期間が何年って言ってたっけか…」
「じゃあ、十年ほど頑張ってみれば酷い鼻血は無くなるわけだね、倒れたりするようなレベルのヤツは」
まずは鼻にティッシュくらいで済む日に向かって頑張ろうか、と決意のソルジャー。
「いいかい、明日から必ず君も一緒だよ?」
「ちょっと遅れて参加した方がいいと思うよ、二段構えで鼻血の方が」
「そうかもね! 回数多めがきっといいよね」
力を合わせて鼻血克服! と意気投合の二人ですけど、教頭先生の立場はどうなるのでしょう? 毎日毎晩、鼻血三昧。まさか失血死はしないでしょうけど、貧血とかはあるかもです。
鼻血を克服するのが先か、はたまたドクターストップか。どっちに転ぶか賭けたいですけど、賭けは成立しないかも…。ともあれ、明日からダブルで鼻血。教頭先生、鼻血なんかで死んだりしないで下さいね~!
治したい症状・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生の鼻血克服大作戦。成功するとは思えませんけど、どうなんでしょうね?
ちなみに「花粉アレルギーが治る人」はいます、管理人自身が生き証人です。
これが2017年の更新としてはラスト、「ぶるぅ」お誕生日記念創作もUPしました。
来年も懲りずに続けますので、どうぞよろしく。それでは皆様、良いお年を。
次回は 「第3月曜」 1月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、12月は、心配なのが除夜の鐘。なにしろ期待している人が…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「ソルジャー。…ちと、邪魔してもよろしいじゃろうか?」
青の間を訪れたのは、ゼルだった。彼だけではなくて、後ろに続く長老たち。更にキャプテンまでがいるから、ブルーはコクリと頷いた。
何処から見たって、断れるような状況ではない。用件が薄々、分かってはいても。
「…入りたまえ。それで一体、どうしたんだい?」
みんな揃って…、と一応、尋ねてはみた。このシャングリラのキャプテンと、4人の長老たち。彼らが揃っての訪問となれば、暇つぶしなどでは有り得ないから。
「それが、そのぅ…。あの、クソガキのことなんじゃがな…」
もうワシらでは手に負えんのじゃ、とゼルはお手上げのポーズを取った。船中を混乱の渦に陥れている、クソガキについて。
「やっぱり、ぶるぅのことなんだね…?」
「そうなんじゃが…。そもそも、あいつの名前からして…」
なんとか出来ないモンじゃろうか、と苦虫を噛み潰したようなゼルの表情。
シャングリラの善良な住人たちは皆、日々、困っていた。たった一人のクソガキのせいで、もう、ケッタクソに。
クリスマスの朝に青の間に湧いた、「小さなソルジャー・ブルー」のお蔭で。
それが初めて現れた時は、誰も気付いていなかった。偉大なる長、ソルジャー・ブルーを小さく縮めたような幼児で、服装までが、そっくりそのまま。
「なんて可愛い子が来たんだろう」と、女性陣などは沸き立ったほど。
名前はブルーが自ら付けた。とても小さなブルーなのだし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と。
シャングリラで暮らす皆も喜び、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を心から歓迎したのだけれど…。
ところがどっこい、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、悪戯好きのクソガキだった。かてて加えて大食漢で、食べ物と見れば食い散らかす。
それが食堂に配膳されたものであろうが、調理が終わって盛り付けを待つばかりだろうが。
今や、船中の者が怯えている。
「かみお~ん♪」と声が聞こえて来たなら、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の登場だから。
うっかりクソガキを止めようものなら、ガブリ、ガブリと噛まれるから。
そんなこんなで、ついに直訴と相成った。
シャングリラを束ねるキャプテンと、それに長老たち。「流石に我慢の限界ですぞ」と、敬語モードも交えるゼルを筆頭にして。
「ソルジャー、せめて、あの名前をじゃ…。もっと、こう…」
クソガキらしい名前に改名できんじゃろうか、とゼルは呻いた。
恐れ多くもソルジャー・ブルーと似たり寄ったり、それがクソガキの「そるじゃぁ・ぶるぅ」という名前。
もうそれだけで腰が引けるから、心おきなく「どつき倒せる」名前に変えては貰えないか、と。
「ぼくは、あれでいいと思うけれどね? ぶるぅは、ぶるぅなんだから」
ぼくの分身みたいなもので…、とブルーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の味方。いくらクソガキでも、船の仲間が大混乱でも、大切な分身なのだから。
(…きっと、サンタクロースがくれた子供で…)
本当に、ぼくの分身なんだ、と思っているから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。他の名前などは考えられない。長老たちが直訴に来ようと、キャプテンが顔を顰めようとも。
「…改名は無理だと仰るか…。なら、悪戯を止められんかのう…?」
盗み食いと、派手に噛み付くのもじゃ、とゼルは言い募るけれど、そちらも無理な相談だった。まだ幼児とも言えるような子に、我慢など出来る筈もない。悪戯も、大食いも、機嫌が悪いと噛み付くのも。
ブルーにも良く分かっているから、「無理だ」と首を左右に振った。
「ぶるぅは、まだまだ子供だからね…。大目に見てやってくれないだろうか?」
「ですが、限度がございます。船の仲間は疲労困憊、ノイローゼ気味の者もおりまして…」
あの「かみお~ん♪」という声の幻聴を聞く者までが…、とキャプテンが船の報告をした。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」が登場する時、高らかに叫ぶ声が「かみお~ん♪」。
元はカラオケでお気に入りの歌、『かみほー♪』が「なまった」ものらしい。その雄叫びが響く所に、大食漢の悪戯小僧あり。
お蔭で「かみお~ん♪」の幻聴に怯え、いもしないのに動悸がする者だとか、貧血でクラリとする者だとか。
メディカル・ルームは大入り満員、そうでなくても「噛まれた」者が列を成すのに。
「…それで、このぼくに、どうしろと? ぶるぅを閉じ込めておけとでも?」
部屋から出すなと言うのだろうか、とブルーは訊いた。そうでなければ、青の間の中に軟禁するとか、そんな具合にしろとでも、と。
「出来れば、お願い致したく…。その、ぶるぅはソルジャーの仰せだけは…」
おとなしく聞くようですので、とキャプテンが頷き、ゼルたちの意見も一致していた。悪戯小僧を止められないなら、外に出さないでおくのが一番。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」専用の部屋に閉じ込めておくか、ブルーが青の間で監視をするか。
「…可哀想だとは思わないのかい? あんな小さな子を閉じ込めて…」
ブルーの抗議は、ゼルたちに見事に遮られた。
「可哀想なのは、船の連中の方じゃ! 今もハーレイが言ったじゃろうが!」
「噛み傷で包帯だらけのもいるし、幻聴に怯えるヤツもいるしさ…」
「ゼルやブラウの言う通りです。シャングリラ中が、もう限界です!」
「うむ。子供たちにも、あれでは示しがつかないからね…」
「閉じ込める方向で、対処をお考え頂きたく…。キャプテンとして、強く希望します」
クソガキが一人やって来ただけで、このシャングリラの平和も秩序も乱れまくりで…、とキャプテン・ハーレイが作った渋面。
長老たちの顔も似たようなもので、ブルーは渋々、承知せざるを得なかった。
シャングリラに平和を取り戻すために、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を閉じ込める。悪戯三昧させないためには、そうするのもやむを得ないだろう、と。
(……しかし、困った……)
ぶるぅを閉じ込めておくなんて…、とブルーは心で溜息をつく。長老たちが退室した後、青の間のベッドに腰を下ろして。
(…ぶるぅは少しヤンチャなだけで、まだ小さいから食べ盛りで…)
それを軟禁してしまったなら、今度は「そるじゃぁ・ぶるぅ」の方がノイローゼになってしまうだろう。子供なのだし、赤ちゃん返りをするかもしれない。
(毎日、おんおん泣きじゃくるだけで…)
遊ぼうともしなくなった姿は、ブルーには、とても耐えられない。船の平和も大切だけれど、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も守ってやりたい。
(でも、どうしたら……)
ぶるぅを部屋に閉じ込めないで、自由にさせてやれるのだろう。叱ってみたって悪戯はするし、大食いだって止まるわけがない。
(……ぶるぅだって、ストレスを発散したくて……)
悪戯と盗み食いに燃えているのだし…、とシャングリラという船の特殊性を思う。人類に追われるミュウの箱舟、それが巨大なシャングリラだった。
船の中だけが世界の全てで、外に出たなら死が待つだけ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も船から出られず、なまじ元気が余っている分、悪戯と大食いに突っ走っていて…。
(…あれ?)
そういえば…、とブルーは今更ながらに気が付いた。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さいとはいえ、ブルーと同じでタイプ・ブルーのミュウ。外の世界に出て行ったって、困らないのではないのだろうか。
(……空も飛べるし、瞬間移動も出来るんだし……)
だったら外で遊んで来れば…、と閃いた名案。
シャングリラの中が狭すぎるのなら、人類の世界に出てゆけばいい。悪戯したなら捕まるけれども、ただ食べまくるだけならば…。
(…船の中では食べられない物が、山のようにあって…)
端から名店巡りをしたって、簡単には回り尽くせない。行きつけの店も出来るだろうし、そうなれば船は留守がちになる。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」はグルメ三昧で御機嫌な日々で、船には平和が戻って来るのに違いない。食べ終えて船に帰った途端に、また悪戯をやらかそうとも。
(よし…!)
それだ、と決めたブルーは早速、潜入班の指揮をしているクルーを呼び出した。
「IDカードを偽造して欲しい。そるじゃぁ・ぶるぅでお願いするよ」
「ぶるぅですか!?」
アレを潜入班に入れるおつもりですか、と男性クルーはドン引きした。タイプ・ブルーには違いなくても、悪戯小僧が役に立つとは思えない。逆に他の者たちの足を引っ張り、最悪、人類軍に気付かれ、ほうほうの体で逃げ帰る羽目になるのでは…、と。
「そうじゃない。…ぶるぅがやるのは、単独行だ」
人類の世界で食べ歩きをさせてやりたくてね…、とブルーは笑んだ。「小さな子供が一人だったら、身元なんかを訊かれることもあるだろう」と、説いたIDカードの必要性。
「何処の子かな?」と尋ねられたら、子供の言葉で説明するより、「これ!」とカードを見せればいい。誰だって一目で納得するから、ユニバーサルにも通報されない、と。
「…はあ……。すると、ぶるぅはシャングリラの外で……」
「好き放題に過ごすわけだよ。君たちの心労も減ると思うし、是非、IDカードを…」
よろしく頼む、とのブルーの言葉に、「はっ!」と最敬礼した男性クルー。
「承知いたしました! 腕によりをかけて、子供用のIDカードを偽造させて頂きます!」
名前も「そるじゃぁ・ぶるぅ」のままで…、と男性クルーは約束をした。なにしろ小さな子供なのだし、偽名なんかは厄介なだけ。たとえミュウの長と良く似ていようと、誰も疑わないカードの偽造は潜入班の腕の見せ所。
それでシャングリラに平和が戻って来るのなら。
悪戯小僧の大食漢が「船の中で」暴れ回る時間が、少しでも減ってくれるのならば。
かくして「そるじゃぁ・ぶるぅ」専用の、IDカードが出来上がった。
それが青の間に届けられた日、ブルーは「ちょっとおいで」と、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に思念を飛ばして…。
「かみお~ん♪ 呼んだ?」
「ああ。ぶるぅ、これから一緒に外へ出掛けないかい?」
「外って?」
「今日は、ぼくも身体の調子がいいから…。食事はどうかと思ってね」
船の中とは、まるで違うよ、とブルーが誘った船の外。
瞬間移動で降りたアタラクシアの街に、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は目を丸くした。美味しそうな料理が食べられる店が、ズラリと軒を連ねている。
「えとえと…。これって、入ってもいいの?」
「もちろんだよ。ぶるぅは、何が食べたい? 最初はお子様ランチがいいかな?」
ほら、地球の旗が立っているよ、とブルーが指差すショーウインドウ。
シャングリラでは見ないランチプレートに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は歓声を上げた。
「それにする! んとんと、ブルーも、お子様ランチ?」
「そうだね、お揃いにするのがいいかな。あんまり沢山は食べられないし…」
だけど、ぶるぅは山ほど食べていいからね、と二人並んで入った店内。誰もミュウとは思わないから、「いらっしゃいませ!」と案内されたテーブル。グラスに入った水が置かれて、それにメニューも。
「お子様ランチを二つ頼めるかな? 他はゆっくり決めるから」
「かしこまりました!」
店員が残していったメニューを、ブルーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に見せて…。
「好きなのを頼んでいいからね。何処のお店も、基本は似たようなものだから…」
次からは一人で好きに食事に来るといいよ、と教えてやった外食の方法。お子様ランチを二人で食べて、その後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が山のように注文しまくる中で。
「ねえねえ、ブルー…。ホントに、一人で来ちゃっていいの?」
「いいよ、お金は次から自分で払うようにして貰うけど…。お金は、ちゃんと…」
ぼくが沢山渡すからね、とブルーは笑顔で頷いた。「お小遣いで何をするのも、自由」と。
悪戯小僧の大食漢は、こうして「外」にデビューした。
シャングリラへと戻って直ぐに、ブルーが渡したIDカード。「何か訊かれたら、これを見せればいいからね」と。
「これ、なあに?」
「アルテメシアの子供です、という目印かな? ミュウじゃなくてね」
それさえあったら、安心だから…、とブルーが浮かべた極上の笑み。人類軍に追われはしないし、ユニバーサルの職員がやって来ることも無いから、と。
「そうなんだ…。お店で一人で食事してても?」
「うん。ショッピングモールを歩いていたって、誰も文句は言わないからね」
「ありがとう、ブルー! 美味しいもの、いっぱい見付けるよ!」
ブルーにもお土産、買って来るね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は飛び跳ねた。船の中だけで暮らしているより、断然、外がいいものだから。
(…これで良し、と…)
きっと苦情も減ることだろう、とブルーは胸を撫で下ろしたけれど、それは些か甘かった。外に出ようが、グルメ三昧の日々を送ろうが…。
「ソルジャー、あのクソガキのことなんじゃがな…」
なんとか出来ないモンじゃろうか、とゼルたちの苦情はエンドレス。
相手は「そるじゃぁ・ぶるぅ」だから。
「かみお~ん♪」と雄叫びが聞こえた途端に、騒ぎになるのがシャングリラのお約束だから…。
船とクソガキ・了
※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございました。
管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、2017年8月28日にいなくなりました。
葵アルト様のサイトのペットでしたけど、CGIエラーで消え去ったんです。
そうならなければ、今年の11月末で「初めて出会ってから」10年目。
節目の年に、お別れになってしまいました。
いなくなったので、もう祝えない「お誕生日」。
だけど忘れていないんだよ、と記念創作を書きました。「ぶるぅ」のために。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」、11歳のお誕生日、おめでとう!
※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)