シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
土曜日の朝と言うには少し遅い時刻、ブルーの家へと歩いて向かう途中。
ハーレイの鼻腔をくすぐった美味しそうな匂い。何処からなのか、と探さなくても目に入った。いつも出掛ける食料品店の表に露店が一つ。フライドポテトを揚げている露店。
もう子供たちが買おうとしている。頬張っている子供もいる。
朝食は済ませて来たのだろうに。土曜日なのだし、普段よりも遅めの朝食だろうに。
(おやつってヤツは別腹なんだな)
大きなサイズを注文している子供の姿が可愛らしい。食べ切れるのだろうか、あんなに沢山。
(食い切れなくても、昼飯前までかかって食っても満足なんだろうとは思うがなあ…)
イモは揚げ立てに限るんだが、と苦笑した。フライドポテトは揚げ立てが美味い、と。
ホクホクの揚げ立てにパラリと塩を振ったばかりのをつまむのがいい。まだ熱い内に、冷めない間にすっかり食べてしまうのがいい。
フライドポテトは揚げ立てが一番、冷めてしまっては風味が落ちる。熱い間に食べ切れる分だけ揚げてこそだと、食べてこそだと思うけれども。
(小さいサイズで買ってる子供がいないってのがなあ…)
目先の美味さに囚われるんだな、と足を止めて微笑ましく見守った。幼かった頃の自分も大きなサイズを買っただろうか。冷めても食べていたのだろうか…。
(俺のことだし、デカイのを買っても食い切れたような気もするんだが…)
温かい内に、ペロリと全部。記憶に無いほど幼い頃なら、冷めてしまったとか、食べ切れないで家に持って帰ったとか、そうした事態も起こっていたかもしれないけれど。
(フライドポテトなあ…)
そういえば、前はよく食べていた。もう子供ではなくなった後に。今の家で暮らし始めた後に。
ビールのつまみに、フライドポテトに合いそうな酒を飲む時のつまみに、カラリと揚げて。
枝豆を茹でるのと似た感覚で、フライドポテト。適当な大きさのジャガイモを選んで、薄い皮を剥いたらスティック状に切って。
油を熱して揚げる間も、酒を、ビールをお供に何本かつまみ食い。口の中を火傷しそうな熱さの揚げ立てを一本ヒョイとつまんで、モグモグと。揚げている内から至福の時間。
全部揚げたら皿に移して、ダイニングに、あるいは書斎に運んで食べていた。ビールを飲んでは何本かつまみ、酒を飲んでは何本かつまんで、冷めない間に、美味しい間に。
(あいつと会うようになって…)
小さなブルーの家に出掛けて過ごすようになって、そういったことも忘れていた。一人暮らしの楽しみ方を、醍醐味を忘れたと言うべきか。
酒もビールも飲むのだけれども、ジャガイモの皮を剥く所から始めるフライドポテトは御無沙汰していた。もっと手早く作れるものやら、チーズやナッツに座を奪われてしまって久しい。
久しぶりに嗅いだ揚げ立ての匂いに、食べたい気持ちが掠めるけれど。
酒は無くとも、フライドポテトだけで充分に満足出来そうだけれど。
(…食いながら行くか?)
揚げ立てを買って、道々、齧りながら。ホクホクの味を楽しみながら。
それもいいな、という気がした。いい年をした大人がフライドポテトを食べながらの散歩、手にした袋から一本出しては頬張りながらの愉快な道中。
ブルーはなんと言うだろう?
「フライドポテトを食いながら歩いて来たんだぞ」と話してやったら、「本当に?」と赤い瞳が丸くなるのか、「いいな…」と羨ましそうな顔をするのか。
子供ならば大抵、大好物のフライドポテト。きっとブルーも好きだろうから。
(いっそ、あいつにも…)
買って行ってやるか、と露店を眺めた。揚げ立ての匂いを漂わせる露店。
ブルーの家まで持ってゆくなら少し冷めるが、温め直して貰ったならば、と思った所で。
(そうだ、イモ…!)
ジャガイモだった、と遠い記憶が蘇って来た。イモだと、フライドポテトだったと。
前のブルーがまだソルジャーでは無かった頃。ただ単純にリーダーと呼ばれるようになるよりも前の、今と変わらない姿の少年だったブルー。人類の船から食料や物資を奪っていたブルー。
その頃のブルーは前の自分に懐いていたから。よく厨房に来ていたから。
手が空いている時にブルーが顔を出したら、ジャガイモを揚げてやっていた。皮を剥いて切って油でカラリと。塩をパラリと振りかけて。
前のブルーが来ると尋ねていた。「食べるか?」と。
フライドポテトを食べたくないかと、食べたいのならば揚げてやるぞ、と。
(これは買わんと…)
買わなければ、とフライドポテトの露店に向かった。
単なる酒のつまみではなかったフライドポテト。前の自分の思い出の味。前のブルーの思い出が詰まったフライドポテト。今の今まで、思い出しさえしなかったけれど。
こうなれば買ってゆくしかあるまい、歩く途中で冷めてもいいから。
露店の前に立って「二つ」と頼んだ。小さなサイズで二つ頼むと、持ち帰り用に包んでくれと。
本当だったら、ブルーの目の前で自分で揚げてやりたいけれど。
そうしたい人が買ってゆくために、後は揚げるだけのイモも売られているのだけれど。
(…揚げるのは簡単なんだがなあ…)
ブルーの家のキッチンで二人きりとはいかないから。
それでは思い出話が出来ない、とイモを揚げるのは諦めた。
シャングリラの頃の思い出です、と話せばキッチンを借りられるだろうし、イモを揚げるくらい手料理の内にも入らないから、その点は問題無いのだけれど。
ブルーの母への遠慮は必要無いのだけれど…。
冷めにくいよう、包んで貰ったフライドポテト。提げられる小さな紙の袋もついて来た。
袋を提げてブルーの家へと向かう途中も心が弾んだ。
思い出したと、フライドポテトの記憶を見事に拾い上げた、と。
生垣に囲まれたブルーの家に着いて、門扉の脇のチャイムを鳴らして。開けに来たブルーの母に事情を話して、冷めて来ているだろうフライドポテトを温め直して欲しいと頼んだ。
シャングリラで食べていたんです、と言えばそれだけで通じたから。
「キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの思い出のフライドポテトですのね」と納得して貰えたから、「よろしくお願いします」とフライドポテトが入った袋を手渡した。
量はそんなに多くないけれど、フライドポテトも一種のおやつには違いないから。
「お菓子の量も調節して下さい」と付け加えるのを忘れなかった。
小さなブルーが食べ過ぎてしまわないように。昼食が入らなくならないように。
二階の窓から手を振っていた、ブルーの部屋に案内されて。
テーブルを挟んで向かい合うなり、ブルーはハーレイの周りをキョロキョロと見回した。
「ハーレイ、荷物は?」
もう一つあった小さな袋はどうしたの、と問われたから。
「見てたのか? 目ざといヤツだな」
「うん、お土産かと思ったんだけど…。何かお土産。でも…」
お菓子はママのお菓子だよね、とテーブルの上を見詰めるブルー。ケーキ皿には口当たりの軽いシフォンケーキが載っているけれど、小さなブルーは気付いていない。小さめなことに。
フライドポテトの量の分だけ、ケーキのサイズが小さいことに。
お茶もお菓子も揃っているから、余計に気付かないのだろう。もう一品あるということに。
だから…。
「まあ、待ってろ。荷物のことなら直ぐに分かるさ」
「えっ?」
あれって、やっぱりお土産だった? 何かくれるの、ねえ、ハーレイ?
「いいから、暫く俺と喋りながら待つんだな」
またお母さんが来る筈だから、と言ってやればブルーは待ち遠しげに扉の方ばかり見ている。
目の前に恋人がいるというのに、扉が恋人であるかのように。
(俺は扉に嫉妬はせんが…)
この辺りはやはり子供だな、と面白く観察してしまう。
注意せずとも恋人同士の会話などせずに、「ママ、まだかな?」と扉の向こうに夢中だから。
やがて階段を上がる足音が聞こえて、扉が軽くノックされて。
「ハーレイ先生、お待たせしました」
温まりましたわ、揚げ立てには敵いませんけれど…。
「すみません…! お手数をおかけしまして」
「どういたしまして」
お役に立てて良かったですわ、とブルーの母が置いて行った二つの皿。その上に盛られて湯気を立てている、ホカホカの細く切られたジャガイモ。油でカラリと揚げられたイモ。
「…フライドポテト…?」
どうして、とブルーが訊いてくるから。
ずいぶん変わったお土産だけど、と温め直されたフライドポテトを眺めているから。
「好きだったろ、お前?」
フライドポテト。温め直してもけっこういけるぞ、熱い間は。
「好きだけど…。小さい頃から、揚げ立てを何度も買って貰ったけど…」
ママだってたまに揚げてくれるし、美味しいんだけど。…ハーレイにそういう話、したっけ?
「いや、お前はお前でも前のお前だ。好きだったろうが」
「前のぼく?」
案の定、キョトンとしているブルー。自分と同じで忘れてしまっているのだろう。あの船の中で食べていたことを、前の自分が揚げていたことを。
そうなるのも無理も無いとは思う。
フライドポテトを揚げていた頃は、お互いにキャプテンでもソルジャーでもなかったから。前の自分がキャプテンになってしまった後には、もう揚げたりはしなかったから。
ブルーが厨房に遊びに来ることも、前の自分が厨房に立つことも無かったのだから…。
けれども、思い出して欲しいフライドポテト。前のブルーとの思い出の味。
一本つまんで、「覚えていないか?」とブルーに尋ねた。
「こいつを、だ。よく揚げてやったぞ、前の俺がな」
前のお前が厨房に来たら、「食うか?」と訊いては、ジャガイモを剥いて。
「ああ…! ハーレイのフライドポテト…!」
思い出したよ、揚げてくれてた。ぼくのおやつに、ってフライドポテトを何度も、何度も。
「そうだ、そいつだ。…生憎と俺が揚げたんじゃなくて、買って来ただけだが…」
おまけに揚げ立てじゃなくて、温め直したヤツなんだが…。
まあ、食ってみろ。フライドポテトは温かい間が美味いんだからな。
「前のハーレイもそう言っていたね、揚げ立てを食べるのが美味いんだぞ、って」
火傷するくらい熱いのもうんと美味しいから、って揚げてる間にも分けてくれたよ。まだ全部を揚げたわけじゃないのに、「ほら」って、つまんで。
「冷めると美味くないからな、イモは」
特にフライドポテトってヤツは。
揚げたばかりのホクホクしたのを食ってこそだな、こいつはな。
…おっと、こいつもなかなかいけるぞ、お前のお母さん、上手く温め直してくれたんだなあ…。
シャングリラで食ってたあの味だ、とハーレイはフライドポテトを頬張った。小さなブルーも。
白い鯨ではなかったシャングリラで食べた、フライドポテト。熱々の揚げ立て。
その誕生はジャガイモ地獄だった頃。
前のブルーが奪った食料の大部分をジャガイモが占めた、ジャガイモ地獄。
地球が滅びてしまうよりも前の遥かな昔は、ジャガイモを主食にしていた地域もあったという。ジャガイモだらけでも大丈夫な筈だと、何とかなると努力したハーレイと厨房の者たち。
ありとあらゆるジャガイモ料理を作ったけれど。
ブルーが調達して来た食料を無駄にしないようにと、頑張ったけれど。
「今日もジャガイモか…。もう飽きたな」
「まったくだよ。たまにはジャガイモ抜きの食事を食べたいねえ…」
そんな台詞ばかりが流れる中。食事の時間が訪れる度に聞こえて来る中。
意外なことに、好評だったフライドポテト。
単純に切って揚げただけのもので、味付けも振った塩だけなのに。
ジャガイモそのものの料理だというのに、何故だか、皆に好まれた。誰も文句を言わなかった。
そうと分かってからは、フライドポテトを添えることにした。
ジャガイモだらけの料理に一品、フライドポテト。それを食べる時だけは誰もが笑顔で、不平も不満も無かったから。熱い間にと、皆が一番に食べていたから。
あまりに不思議なフライドポテト。添えるだけで笑顔を引き出す食べ物。
ジャガイモ地獄の日々の中でも、「美味い!」と喜ばれて好かれたフライドポテト。
何か理由があるのだろうか、とヒルマンがデータベースで調べた結果。
「例のフライドポテトなんだが…。子供の頃に食べたようだね」
どうやら、そういう食べ物らしい。家でも作りはするのだが…。どちらかと言えば家の外。
それを専門に揚げている店で買うのが多いようだ。遊園地などの露店でね。
「なるほどねえ…! あれは遊園地の味だったのかい」
まるで覚えちゃいないんだけどさ、遊園地にも行った筈だしねえ…。楽しかったに違いないね。
その時に食べたものだったんだ、と舌が覚えていたってことだね、フライドポテト。
分かった、とブラウがポンと手を打ち、たちまち広がったフライドポテトの由来なるもの。
思い出の味か、とシャングリラ中の皆が納得した。
失くしてしまった楽しい記憶と結び付いているらしいフライドポテト。
それで飽きないのかと、これだけは美味しく食べられるのか、と。
ジャガイモ地獄の中、どんな料理でも黙々と食べていたブルー。
文句の一つも言わずに何でも食べたけれども、フライドポテトが特別な所は皆と同じで。
食堂でハーレイと並んで食事しながら、添えられた揚げ立てのフライドポテトを頬張りながら。
「ねえ、ハーレイ」
「ん?」
「ぼくのフライドポテトの思い出、どんな思い出だったんだろう?」
なんにも思い出せないけれども、これを食べると幸せな気持ちになるんだよね…。
美味しいなあ、って思うんだ。美味しかったな、って、また食べたいな、って。
何処で食べたのかな、遊園地かな? それともパパかママに強請って何処かの露店?
「さあなあ…」
何処だったんだろうな、ヒルマンの話じゃフライドポテトの露店は多かったらしいしな?
公園にもあれば、街角にだって。何処でも子供が主役でな。
「ハーレイの思い出も気になるよね。フライドポテトとセットの思い出」
「まあな。だが、思い出の場所が何処であれ、だ…」
俺はお前よりもデカイのを買って食っていたのに違いないさ、と笑って言った。
フライドポテトを買う時に選ぶ、自分の胃袋に見合ったサイズ。
この身体だから、と。子供の頃にも大きかったに違いないと。
「そうかも…!」
きっとハーレイ、一番大きなサイズだね。大人の人が買って行くような。
「お前は一番小さいのかもな」
今だって食が細いんだしなあ、デカイのを買っちゃいないだろう。
でなきゃ、食えると強請ってデカイのを買って、最後までは食べ切れなかったとかな。
それだって、いい思い出だ。残りはお前の養父母が食べてくれたんだろうし、うんと愛されてた時代の素敵な思い出なんだ。残念ながら、俺たちは全部失くしちまったわけなんだがな…。
誰もが喜んだフライドポテト。
記憶は失くしても、舌に残っていた露店の味。幸せな思い出を閉じ込めた味。
ジャガイモを切って揚げただけなのに、塩を振りかけただけなのに。
厨房の責任者だったハーレイにとっては、忘れられない食べ物となったフライドポテト。まるで魔法のように思えて、ジャガイモを見る度に思い出したものだ。その調理法を。
だからジャガイモ地獄が終わった後にも、たまにブルーに揚げてやった。
手が空いている時にブルーが来たなら、「食べるか?」と訊いて「うん」と答えが返ったら。
ジャガイモの皮を剥いてトントンと切って、熱した油でジュウジュウと揚げて。揚げる間にも、早く揚がった分をブルーに「熱いぞ」と渡してやっていた。
軽く塩を振って、「これがホントの揚げ立てってヤツだ」と、「火傷するなよ」と。
揚げ終わったら、塩をパラリと振りかけて皿に盛り、熱々のをブルーと二人で食べた。カラリと揚がったホクホクのフライドポテトを二人で。
齧りながら、何かを思い出さないかと期待もしていた。この味が引き金になって何かを、と。
失くした子供時代の記憶。フライドポテトが大好きな理由。
お互い、記憶は一つも戻りはしなかったけれど。欠片さえ戻って来なかったけれど。
何度も何度も、揚げ立てのフライドポテトを二人一緒に頬張った。
「熱い間が美味いんだから」と、あの船にあった厨房で。
幸せだった、前のブルーとの思い出。
フライドポテトに纏わる記憶はブルーとの思い出になってしまった。あの頃に追っていた記憶の欠片を探すのではなくて、前のブルーと結び付いてしまったフライドポテト。
二人で食べていたフライドポテト…。
「俺が思うに、あの頃、既にお前はだな…」
お前に俺がフライドポテトを揚げてやっていた頃。
俺としては友達に振舞うつもりでせっせと揚げてたんだが、そいつは俺の勘違いってヤツで。
実はお前は、とっくの昔に…。
「ハーレイの特別だった、って言うの?」
まだ恋人ではなかったけれども、ハーレイにとっては特別な何か。友達じゃなくて。
「そういう気持ちがしないでもない」
お前のために揚げてやろう、ってジャガイモの皮を剥き始めたら気分が弾んでいたしな。うんと美味いのを食わせてやろうと、今日も揚げ立てを御馳走しようと張り切っていた。
お前の記憶が戻るといいなと、こいつで戻るといいんだが…、とな。
「ぼくはいつでも言ってるよ。会った時から特別だよ、って」
アルタミラでハーレイと初めて出会った時から、特別。
ハーレイはぼくの特別なんだよ、って何度も言ったよ、最初からだよ、って。
「そうだっけな…。俺にとってもお前は特別だったんだろうな」
お前以外の誰かが来たって、フライドポテトを食わせてやろうとは思わなかったし。
ゼルが長居をしていた時にも、ヒルマンが覗きに来てくれた時も。
一度も揚げてはやらなかったなあ、フライドポテト。
食ってみるか、って試作品を食わせた思い出ってヤツは星の数ほどあるんだがな。
前のブルーにしか揚げてやらなかったフライドポテト。
もう充分にブルーは特別だったのだろう。前の自分がそうだと気付いていなかっただけで。
「フライドポテトなあ…。お前にしか揚げてやらなかった、ってトコで気付けば良かったな」
俺はお前を特別扱いしてるんだ、ってことに気付けば、その他にだって。
あれこれと色々あったかもしれんな、お前が特別だった証拠が。
そいつを知ってりゃ、もっと早くにお前に打ち明けていたかもしれん。お前が好きだと、恋人になってくれないか、と。
ところがどっこい、俺ときたら恋だと気付くまでに何年かかったんだか…。
シャングリラが白い鯨になっても、まだ友達だと思ってた。つくづく馬鹿だな、鈍いヤツだ。
フライドポテトのことだけに限らず…、と苦笑いしながら小さなブルーと二人でつまんだ。
まだホクホクとしているフライドポテトを。揚げ立ての味に近いものを。
ハーレイが揚げたわけではないけれど。
揚げ立てでもなくて、持って来る間に冷めてしまって、温め直されたものだけれども。
それでもフライドポテトだから。
前の自分たちが食べたフライドポテトと、まるで違うというわけではないから…。
「またハーレイに揚げて欲しいな、フライドポテト」
お土産でも嬉しいんだけど…。ハーレイの揚げ立て、食べたかったな。
「そいつは俺も、一応、考えてはみたんだがなあ…」
フライドポテトの露店を見ていて記憶が戻った時に、とハーレイは食料品店の側で巡らせていた考えを思い返して頭を振った。
揚げればフライドポテトになるイモを買おうと思えば買うことは出来た。そういう商品も扱っていたから、「揚げていない物を」と頼めば済んだ。
皮を剥かれて切られていたイモ。露店に山と積んであったジャガイモ。計って貰って生のイモを買えば、そういうイモを買いさえすれば。
小さなブルーが見ている前で揚げてやることが出来ただろう。キッチンを借りて。
ブルーが寝込んでしまった時には野菜スープを作っているキッチン。何度も借りて使っていた。
フライドポテトを揚げるくらいは手料理というわけでもないから、ブルーの母を恐縮させる心配だって無かっただろう。
シャングリラでの思い出の料理だと、それを再現してみたいのだ、と言えば分かって貰えた筈。
快く貸して貰えただろうキッチン、揚げるための鍋も、それに油も。
けれど…。
「俺がキッチンで揚げていたなら、その場で思い出話が出来んぞ」
そこが問題だし、イモを揚げるのは諦めたんだ。揚げてないイモもあったんだがなあ、ちゃんとフライドポテト用に切ってあるイモ。家で揚げようって人は量り売りをして貰えたんだが。
「思い出話って…。大丈夫だったんじゃないの、ママがいたって、パパも覗きに来てたって」
本当に前のハーレイが揚げていたんだから。ジャガイモの皮を剥くってトコから始めて。
そういう話を二人でしてても、パパもママも変には思わないよ?
シャングリラの昔話の一つなんだ、って聞いてるだけだと思うんだけど…。
「それは確かにそうなんだが…。揚げてたってことだけで話が済めばいいんだが」
もっと色々話したくなっちまった時に困るじゃないか。そう思ったから揚げるのはやめにした。
現にお前が俺の特別だった、って話が出て来てしまったろうが。
お父さんやお母さんの前でその手の話は出来ないぞ。後で、ってことにするしかないんだ。
「…そっか、後からになっちゃうんだ…」
フライドポテトを揚げ終わって部屋に行くまで話が出来ないんだね。
思い出した、っていうものがあっても、キッチンだったら黙っているしかないものね…。
「そういうことだ。思い出して直ぐに話せるっていうのと、後まで黙っておくのは違うぞ」
忘れちまいはしないだろうがだ、新鮮な驚きが消えちまう。
あれはこういうことだったのかと、後で忘れずに話さなければ、と何度も頭で繰り返す内にな。
そうなったのでは感慨が薄れちまう、とフライドポテトを揚げることを断念した理由をブルーに説明したら。こんなわけでやめておいたのだ、と説いてやったら。
「じゃあ、今度揚げてよ、フライドポテト」
思い出話はたっぷりしたから、前のぼくがハーレイの特別だったフライドポテトを揚げてよ。
ぼくにだけ揚げてくれてたんだな、って噛み締めながら眺めることにするから。
前のぼくの頃に戻ったつもりで、ハーレイが揚げるの、見ているから。
ジャガイモの皮から剥いてくれなくても、フライドポテト用のを揚げてくれればいいから。
お願い、とブルーに頼まれたけれど。強請られたけれど。
「もうお母さんに話しちまったからなあ、フライドポテトの思い出ってヤツ」
全部を喋ったわけじゃないがだ、フライドポテトを持って来た理由は話しちまった。
そいつを今度は揚げるとなったら、そこまで大事な食べ物なのか、と興味を持たれてしまうぞ、きっと。どんな思い出か知りたいだろうし、話してくれとも言われるだろう。
無理やり聞こうってほどに強引じゃなくても、一緒に夕食を食ってる時とか。
前のお前に揚げてやってた、お前が俺の特別だった、っていう思い出。
そうそう披露したくはないなあ、特別だったと気付いちまった今ではな。
またいつかな、と言い逃れたら。
興味を持たれないくらいに時間が経つか、揚げても妙だと思われないようなタイミング。そんな機会が訪れたなら…、と逃げを打ったら、ブルーは残念そうにしていたけれど。
フライドポテトを揚げる姿は見られないのか、と肩を落としていたのだけれど。
「…結婚したら揚げてくれる?」
ハーレイと結婚した後だったら、フライドポテトを揚げてくれる…?
「もちろんだ。露店で売ってるイモを買ってくるようなケチな真似はしないぞ、一から作る」
前の俺が何度もやってたみたいに、ジャガイモの皮を剥くトコからだな。
うんと美味いのを揚げてやるから、それを楽しみに待っていろ。揚げてる途中で味見ってヤツも前と同じにつけてやるから。「火傷するなよ」って渡してたヤツな。
「ホント!?」
「うむ。誰にも遠慮しないで二人きりで暮らせる家なんだしな?」
キッチンも有効に使いたいじゃないか、フライドポテトも楽しくいこう。
前の俺たちは何の記憶も思い出すことは出来なかったが、だ…。
今度の俺たちはきっと色々思い出せるぞ、今、思い出した分よりも沢山、フライドポテトの思い出ってヤツを。
前のお前と俺とで食べてたフライドポテトだ、山ほど思い出が詰まっているさ。
俺が揚げて、お前が横からつまんで。
そうする間にも次から次へと懐かしい記憶が戻るんじゃないか、お前も、俺もな。
そして今のお前のフライドポテトの思い出はどんな具合なんだ、と訊いてみる。
何か楽しい思い出はあるかと、今度はちゃんと思い出せるかと。
「うんっ! えっとね、遊園地でママに買って貰って、いっぱい食べて…」
食べ切れなくって、持って帰って食べたいな、って思ってたのに。
パパが「冷めると美味しくないぞ」って、「パパが食べておこう」って食べちゃった…。
何度もそういう目に遭ったけれど、フライドポテトを買う時には欲張っちゃうんだよ。
食べ切れないに決まっているから小さいのにしなさい、って言われても駄目。一番小さいヤツにしておきなさい、ってママが言っても、パパが言っても、もっと大きいの。
流石に、一番大きいのが欲しいとまでは欲張らなかったけどね。
「うーむ…。お前らしいと言えば、お前らしいな」
妙な所で頑固だからなあ、前のお前とそっくりで。
うんうん、デカいフライドポテトか。お前の腹には入り切らんな、まして今よりチビではな。
聞かせて貰ったブルーの幸せな思い出。今のブルーの思い出の中のフライドポテト。
遊園地で「欲しい」と駄々をこねる姿が見えるような気がした。今よりもずっと小さなブルーが足を踏ん張り、大きいのがいいとフライドポテトの露店の前で。
きっと他でもやったのだろう。遊園地でなくても、フライドポテトの美味しそうな匂いが漂って来たら。揚げている露店に出会ったら。
「お前、今度はフライドポテトの思い出を山ほど持っていそうだが…」
そういう幸せな思い出を増やして行こうな、フライドポテトの他にもな。
前の俺たちがフライドポテトで幸せな気持ちになっていたように、幸せを運んでくれる思い出。
「うんっ! ハーレイと二人で沢山思い出を作らなくっちゃね」
幸せな思い出を沢山、沢山。
思い出すだけで幸せになれるものを沢山、ハーレイと二人で見付けようね。
「ああ、食い物に限ったことじゃなくてな」
その辺を散歩して、買い物に行って。ドライブや旅行や、前の俺たちがやってないことを端から経験していくとしよう。幸せな思い出を増やすためにな。
偶然出会った、フライドポテトの露店が運んで来てくれた記憶。
前の自分が持っていた記憶。
ブルーのためにだけフライドポテトを揚げていたのだと、ブルーは特別だったのだ、と。
いつか、結婚したならば。
またブルーのためにフライドポテトを揚げよう、ジャガイモの皮を剥く所から始めて。
揚げながらブルーに「熱いぞ」と揚げ立てを渡してやって、キッチンで二人。
前の思い出を拾い集めながら、今の思い出を語りながら。
フライドポテトの思い出だけでも、きっと一度で語り尽くせはしないだろう。
だから何度も、何度も揚げる。
ブルーのためにフライドポテトを、揚げ立てが美味しいカラリと揚がった思い出の味を…。
フライドポテト・了
※シャングリラでハーレイが揚げていたフライドポテト。前のブルーが来た時にだけ。
その頃から、きっとブルーは特別だったのでしょう。わざわざ作ってあげたいくらいに。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
除夜の鐘も初詣も三が日も済み、冬休みも残り数日ですが。私たちは今日ものんびりまったり、会長さんの家で過ごしていました。お正月っぽい料理も飽きる頃だと今日のお昼は牡蠣とホウレンソウのグラタンなどなど。美味しく食べつつ、ワイワイガヤガヤ。
「教頭先生、今年もおせちを沢山用意してたとか?」
ジョミー君の問いに、会長さんが。
「決まってるだろう、用意してない筈がない。和洋中とドッサリ揃えていたよ」
「そうか、今年も無駄になったか…」
申し訳ないことをしたな、とキース君。教頭先生は私たちが年始回りに出掛けることを見越して例年、おせちを用意していらっしゃいます。役に立つ年もあればハズレ年あり、ハズレの年が圧倒的に多め。
「別に無駄にはなってないからいいじゃないか」
今年もしっかり有効活用、と会長さんに罪の意識は全く無し。私たちが行かなかった年のおせちはシャングリラ号のクルーに振る舞われると聞いています。シャングリラ号自体は宇宙でお正月を迎えてますから、交代要員で地球にいる現役クルーの皆さん用で…。
「いいかい、おせちの大盤振る舞いでハーレイの人気は高いんだよ? 問題ない、ない」
「そうだろうか…」
「そうだってば! おせちが残らなかった年には不名誉な噂も立っているしね」
金欠だということになるのだ、と会長さんは冷たい笑み。
「豪華おせちのパーティー無しだろ、そういう噂が立って当然! 新年早々麻雀で大負けしたとか、年末から負けが込んでいるとか、ロクなことにはならないんだってば」
ゆえに今年は名誉な年になったであろう、という話。そういうことなら別にいいかな…、と笑い合っていたら。
「新年早々、楽しそうだねえ…」
「「「!!?」」」
いきなり背後で聞こえた声。もしや、この声は…!
揃ってバッと振り返った先で優雅に翻る紫のマント。来たか、と思うよりも先に挨拶が。
「えーっと、あけましておめでとうかな?」
今年もよろしく、と出ました、ソルジャー。平和な冬休みは終わったかな…?
新年の挨拶をされたからには返すのが礼儀。仕方なく「あけましておめでとうございます」と返せば、「ハーレイからも今年もよろしく、って」とソルジャーからの伝言が。
「ハーレイは今日はちょっと抜けられなくってねえ…」
「今日はパーティーでも何でもないから!」
来なくていい、と会長さん。けれどソルジャーは澄ました顔で。
「用が用だし、ハーレイも居た方が良かったと言うか、居るべきというか…」
「「「は?」」」
「その前に、ぼくも昼御飯!」
其処のグラタンとか…、という注文に「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンへと。おかわり用だったらしいグラタンが間もなく焼き上がり、スープなども出て来てソルジャーは早速パクパクと。
「うん、美味しい! ニューイヤーのパーティーでも色々食べたけれども、やっぱり地球には敵わないねえ…」
「それで用事って何なのさ?」
会長さんが訊くと「食べてから!」という返事。まずは食事が優先なのか、と私たちも食事を続行しました。食卓の話題はソルジャーの世界のニューイヤーパーティーやら、私たちの年末年始やら。和やかに食べて話している内に用事などすっかり忘れ果ててしまい…。
「「「御馳走様でしたー!」」」
美味しかったあ! と合掌すれば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がパパッと手早くお片付け。リビングに移動し、食後のお茶を兼ねた飲み物とお菓子なんかがテーブルに。
「かみお~ん♪ ブルーもゆっくりしていってね!」
「うん、もちろん。最初からそのつもりだしね、ぼくは」
それにササッと済むような用でもないし…、と言われて思い出した用件とやら。
「ちょ、ちょっと待って。ホントに用があったのかい?」
言葉の綾ってヤツじゃなくて、と会長さんが尋ねると「そうだけど?」という返事。
「ちゃんと言ったよ、ハーレイからもよろしくと!」
「何なのさ、それ!」
「これ!」
ドンッ! とテーブルの上に置かれたバスケット。そういえば来た時に提げてたような…?
リビングのテーブルに籐製のバスケット。ソルジャーの持ち物にしては変ですけれども、現れた時に持っていたのをチラッと見かけた気がします。食事中は床に置いていたのか、はたまた先にリビング辺りに瞬間移動で飛ばしたか。
どちらにしても一瞬しか目にしなかった筈のバスケットがしっかり、ドッカリ。小さな子供が提げると丁度くらいのサイズの品で、お菓子なんかも詰めて売られるサイズです。キャプテンからも「よろしく」だったらお遣い物の一種でしょうか?
「えーっと…。これが何か?」
くれるのかい? と会長さんが口にした途端。
「貰ってくれる?」
「えっ?」
「いや、君が貰ってくれるんだったら万事解決、ぼくのハーレイも喜ぶってね」
「なんだって?」
解決って何さ、と会長さん。
「いわゆる貢物だとか? これを貰ったら君たちのために何かしなくちゃいけないとか?」
「うーん…。貢物とは違うんだけど…。まあ、お願いには違いないかな」
「「「お願い?」」」
「そう、お願い」
とにかく見てくれ、とソルジャーはバスケットの留金をパチンと外しました。
「「「………」」」
鬼が出るか蛇が出るか、はたまたオバケか。つづらの中から大量のオバケは『舌切り雀』の欲張り婆さんの末路だったか、と記憶しています。あれは大きなつづらですから、こんな小さなバスケットとなれば宝物を希望なんですが…。
誰もが息を詰めて見守る中で、バスケットの蓋がパカリと開いて。
「要は問題はコレなんだよ」
「「「へ?」」」
なんで、とバスケットの中身に視線が釘付けの私たち。其処にはクッションみたいなものが詰められ、その上にコロンと卵が一個。鶏の卵サイズの青い卵がコロンと一個…。
「ま、まさか、これって…」
「「「ぶるぅの卵?!」」」
会長さんの言葉に続いて叫んだ私たちですが。なんで「ぶるぅ」の卵なんかが?
鶏の卵サイズの青い卵は見慣れたと言うか、お馴染みと言うか。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が得意としている変身技で、新入生歓迎のエッグハントでは必ず化けます。そういった変身技とは別に、六年に一度の孵化イベント。卵に戻ってゼロ歳からやり直すという大切な節目の行事も…。
「えとえと…」
その「そるじゃぁ・ぶるぅ」がバスケットの中身を覗き込んで。
「ぶるぅ、卵になれたっけ?」
「「「さあ…?」」」
そうとしか答えられませんでした。ソルジャーの世界に住む「そるじゃぁ・ぶるぅ」のそっくりさんが「ぶるぅ」です。悪戯小僧の大食漢ですが、卵に化けられるかどうかは知りません。
「ぶるぅ、卵になっちゃったの? こないだ誕生日パーティーしたばかりなのに…」
ねえ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の顔には不安が一杯。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「ぶるぅ」も誕生日はクリスマスですし、その日あたりにパーティーが恒例。去年の暮れにはクリスマス当日に盛大に祝い、クリスマスイブにもパーティーで盛り上がっていたのですが…。
「そるじゃぁ・ぶるぅ」は六年に一度卵に戻って、子供にリセット。ちゃんと記憶は引き継ぐくせに、永遠のお子様コースです。卵になってから孵化までの日数は早い時にはたったの一日だったりしますが、「ぶるぅ」の方はどうなのでしょう?
「ねえねえ、ぶるぅは卵になったらどうなるの? いつ出てくるの?」
「さあねえ…? 生憎、ぼくにも分からないねえ…」
実は用とはその件で、とソルジャーは卵を指差しました。
「ニューイヤーのイベントが終わった後でね、青の間で発見したんだよ、これを」
「「「発見?」」」
「いつものコースさ、ぼくの青の間は散らかり放題! 今日あたりお掃除部隊が突入するから、ってハーレイが頑張って片付けをしてて…。ほら、恥ずかしいモノとかが落ちてたら困るし」
大人の時間のアイテムとかね、と悪びれもせずに言われましても。
「そんなモノくらい片付けたまえ!」
みっともない、と怒鳴る会長さん。
「そういうモノをね、散らかしておこうっていう神経が全然分からないけど!」
「え、だって。盛り上がってる最中に片付けるなんて不可能じゃないか」
だから適当にその辺に…、と解説されても困ります。つまりはキャプテン、変なモノがゴミに紛れていないか、頑張って掃除をしてたんですね…?
「早い話がそういうことだよ。でもってコレを見付け出した…、と」
ゴミに紛れて落ちていたのだ、とソルジャーは指で卵をつつきました。
「君はぶるぅが消えていたって気が付かないわけ!?」
「そこまで酷くはないつもりだけど?」
「ゴミに紛れていたんだろう!」
そんな状態になるまで気付かないなんて、と会長さんは怒りを通り越して呆れた様子で。
「保護者失格にも程があるんだよ、これがぶるぅの親だなんて…」
「ぼくとハーレイ、どっちがママかは未だに決着がついてないしね」
親の責任と言われても困る、とソルジャーはいけしゃあしゃあと。
「その辺もあって、こっちの世界に相談に…ね」
「いつ孵化するのか訊きたいとか?」
「えっと…」
「孵化のタイミングは外からじゃ絶対分からないから!」
会長さんの言葉に私たちも揃って頷きました。ずうっと昔に初めて卵に戻った時。クリスマスに孵化させてあげないと、とソルジャーたちまで動員して泊まり込みで見守っていましたけれども、会長さんのお手製の検卵器で覗いても何も分からなかったのです。
「それはぼくだって覚えているよ。中身はぼんやりしていただけで…。何も無いな、と思っていたのに次の日に孵ったんだっけね」
「知ってるんなら、君も黙って待っていたまえ!」
「でもねえ…。ぼくの世界のぶるぅの卵は全く事情が違うものだから」
どうなるんだか、とソルジャー、溜息。
「なにしろ基本が石なんだってば。指先くらいの白い石が変化を遂げて卵になる。だから殻だって石で出来てるし、こっちのぶるぅの卵みたいに光で透かして見られないんだ」
「だけど見かけの問題だけだろ?」
「その後も違う。こっちのぶるぅは孵化する直前も同じサイズのままだよね? ぼくの方のぶるぅは卵がぐんぐん大きくなるから」
最終的にはこのくらい、と示されたサイズは両手で抱えるくらいの大きさ。それはデカイ、と思うと同時に、そこまで育つのに何日かかるか首を捻る羽目に陥りました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」みたいに一日で育つこともあるのか、はたまた何日もかかるのか、どっち…?
「ぶるぅは一年かかったからねえ…」
クリスマスから次のクリスマスまでだ、とソルジャーは卵を指先でチョンチョンと。
「こっちのぶるぅは早けりゃ一日コースだよね?」
「そうだけど…。ぶるぅも最初に生まれて来た時は一年ほどかかったよ、孵化するまでに」
それで「ぶるぅ」は? と会長さん。
「卵に戻ってるって話は聞いたことが無いから、けっこう早いと思うんだけど?」
「早いも何も、一度も卵に戻っていない!」
だから全く分からないのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「この卵がどのくらいで孵化するかなんて、ぼくにもハーレイにも全くの謎!」
「だったら、ぼくにも分からないってば!」
訊かれても困る、と会長さん。
「その辺は黙って待つしか無いねえ、孵化するまで。育ってくると言うんだったら、それで大体分からないかい? 孵化しそうな時期」
「面倒なんだよ、温めるのが! こっちのぶるぅは温めなくても孵化するらしいけど、ぼくの方のは…」
「………。温めたんだっけね、君とハーレイが」
それで未だに揉めていたっけか、と会長さんは頭を振って。
「御愁傷様としか言いようがないけど、そういうことなら孵化するまでは温めるんだね」
「ぼくとハーレイの大人の時間はどうなるんだい!?」
「元から気にしていないじゃないか!」
そのせいで凄いのが生まれただろう、と会長さん。「ぶるぅ」はソルジャーとキャプテンが大人の時間を繰り広げるベッドで一年間も温められた挙句に、胎教のせいか物凄い「おませ」。今も平気で大人の時間を覗き見している子供です。
「あんなのが生まれた勢いなんだし、どうせ普段から見られてるんだし? 孵化するまでの間も今までと同じでかまわないだろうと思うけど?」
「ぶるぅだったらそうするよ!」
「「「は?」」」
ソルジャー、なんて言いました? これは「ぶるぅ」の卵なのでは…?
「ぶるぅ」だったら大人の時間もお構いなしがソルジャーの流儀。しかし話が何処か変です。「ぶるぅ」だったらそうするのだ、って、この卵…。
「もしかして…。ぶるぅの卵じゃないのかい、これは?」
会長さんが目を丸くすれば、、ソルジャーは。
「残念ながら…。いくらぼくでも、ぶるぅがいなけりゃ気が付くよ、うん。ニューイヤーのイベント期間中はぶるぅもテンションが上がっているから、悪戯多めで」
シャングリラの何処かで騒ぎが起こる、という話。すると「ぶるぅ」が卵に戻ったとしても、ゴミに埋もれるほどの長い間は放置されないと言うか、流石に探し回るとか…?
「そういうことだね、姿を隠して超ド級の悪戯なんかを計画してたら大変だしね?」
「じゃあ、これは…」
「ズバリ言うなら、第二のぶるぅ!」
「「「ええっ!?」」」
まさかの二個目の「ぶるぅ」の卵? 悪戯小僧が更に増えると…?
「ぶるぅそっくりのが生まれて来るのか、大人しいのが生まれて来るかは謎なんだ。とにかく、ぶるぅの弟か妹が入ってるんだよ、この卵には」
「「「うーん…」」」
想定外としか言えない、この展開。「ぶるぅ」だけでも大概なのに、卵が二個目。「ぶるぅ」のママすら決まってないのに、卵が二個目…。
「どうするんだい、これ…」
一年間温めて孵すんだよね? と会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「それで相談に来たんだってば、今後のことで!」
「胎教だったら、君たちのやり方はお勧めしないよ」
ぶるぅが増えるよ、と会長さん。
「弟か妹かは知らないけれども、孵化した後には覗きが二人になると思うね」
「……やっぱり?」
「ぶるぅで身をもって知ってるだろう! 絶対、ああなる!」
「そうなんだ…?」
それは非常に困るのだ、とソルジャーはバスケットの中の卵をチョンとつついて溜息再び。
「君たちにも何度も言っているとおり、ぼくのハーレイは見られていると意気消沈で…」
ぶるぅだけでも大変なのに…、と嘆くんだったら、今度はきちんと対処してみれば?
おませな「ぶるぅ」に悩まされているというソルジャー夫妻。「ぶるぅ」の件で懲りたのであれば、二個目の卵は慎重に温めて孵化させるのがベストでしょう。とんでもない胎教などは論外、身を慎んで温めてやれば「そるじゃぁ・ぶるぅ」みたいな良い子が生まれるかも…。
「禁欲生活あるのみだね」
会長さんがビシッと言い放ちました。
「孵化するまでに一年間なら、一年間! しっかり禁欲、そして良い子を孵化させるんだ」
「…いい子に育ってくれないと困る。困るんだけれど、禁欲も困る」
一年間も我慢できない、とソルジャーの本音。
「ぼくのハーレイだって同じなんだよ、だからよろしくと!」
「何をよろしく?」
温め方ならもう言った、と会長さん。
「君たちだって分かってるんだろ、それしかないっていうことは! 悪戯小僧を増やさないためにはキッチリ禁欲、増えていいなら好きにしたまえ」
「増えるのも禁欲も困るんだよ!」
だけど卵は来てしまったし、とソルジャー、ブツブツ。
「ぼくもハーレイも必死にあれこれ考えたんだよ、最悪、捨てるというのもアリかと」
「捨てるだって!?」
会長さんが叫び、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も真っ青な顔で。
「ダメダメダメ~ッ! 捨てちゃダメだよ、死んじゃうよう!」
「…だろうね、放り出したらね」
だから捨てるのは断念した、とソルジャーはいとも残念そうに。
「捨てるのが一番早いんだけどね、解決策としては」
「殺生の罪はどうかと思うが…」
キース君が呟き、会長さんも。
「感心しないね、捨てるコースは」
「そうだろう? 仕方ないから考えた末に、ちょっといい方法が見付かったわけで」
「それについてぼくに相談したいと?」
「そのとおり!」
話が早い、とソルジャーは嬉しそうですけれど。いい方法とは何なのでしょう?
ゴミの中から発見されたという二個目の「ぶるぅ」の卵とやら。捨ててしまおうとまで考えたらしいソルジャー夫妻が見付けた「いい方法」とは…、と誰もが拳を握っています。相談に来たと言うのですから、場合によってはトバッチリとか、と警戒していれば。
「こっちの世界には居るよね、カッコウ」
「「「格好?」」」
格好をつけて禁欲を装い、その実、裏では…、という流れでしょうか?
「バレバレだろうと思うけどねえ、格好だけつけても君たちの本音は」
胎教を甘く見るんじゃない、と会長さんの厳しい視線。けれど…。
「違う、違う、そっちの格好じゃなくて…。鳥のカッコウ」
「ああ、あれか…」
いるね、と会長さんが頷き、キース君も。
「今の季節は鳴いていないが、俺の家の裏の山でもよく聞く声だな」
「それ、それ! そのカッコウがいいんじゃないかと…」
「どんな風に?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「カッコウで卵の話なんだよ、分からないかな? ズバリ、托卵!」
「「「托卵?」」」
「カッコウって鳥は自分で卵を孵す代わりに他の鳥の巣に産んで行くんだろう? でもって卵を孵して貰って、世話もさせてさ」
「そうだけど…。って、君はまさか!」
その托卵を、と会長さんがブルブルと震える指で示したバスケット。
「相談と言えば聞こえはいいけど、ぼくたちに卵を預けようとか!?」
「ピンポーン♪」
大正解! と明るい声のソルジャー。
「ハーレイも賛成してくれていてね。それが最高の方法ですね、と」
「だ、誰に托卵…?」
「えっ? ぼくとしては誰でも気にしないけど?」
当番を決めて回してくれても…、とソルジャーはサラリと言ってくれましたが、ぶるぅの卵は回覧板とは違いますから~!
「「「……卵……」」」
どうするんだ、と顔を見合わせる私たち。こんな卵を押し付けられても困ります。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の卵みたいに孵化が早くて鶏の卵サイズだったら、一万歩譲って回り持ちで世話も出来るでしょうが…。
「これは育つと言ったよね?」
会長さんが確認をすれば、「うん」という返事。
「最終的にはこのくらいだねえ…」
両手で示された大きなサイズに、そんな卵はとても回せないと思いました。バスケットに収まるサイズどころか、登山用のリュックか長期旅行用のバックパックが必要なサイズ。でなければ巨大風呂敷に包んで背中に背負うしかありません。
「順番に回すのは無理だよ、それ…」
ジョミー君が言って、サム君も。
「絶対無理だぜ、そんなデカイの学校に持っては来られねえよ」
「ですよね、会長かぶるぅが瞬間移動で運んでくれるんなら別ですけれど…」
シロエ君の意見に、スウェナちゃんが「シーッ!」と。
「解決策を喋ってどうするのよ!」
「そ、そうでした…」
「なるほど、ブルーが運んでくれるなら回すのもアリ、と」
それでもいいよ、とソルジャーは笑顔。
「ぼくたちでは面倒を見られないから、君たちにお願いしたいわけだし…。回してくれても親が増えるだけで、特にグレたりはしないと思うな」
要は覗きをしない子が育てば無問題だ、という話。おませでなければ他は問わない、と極論を述べるソルジャーはバスケットの中身を預ける気満々、押し付けて逃げて帰る気満々。
「とにかく、ぼくのハーレイからも是非よろしくと!」
「よろしくされても困るから!」
「困らないだろ、上手く行ったら刷り込みも出来るよ」
孵化した時に当番だった人が親になれるかも、と無責任発言をされましても。「ぶるぅ」の弟だか妹だかの親になりたい奇特な誰かが、この中にいるとは思えませんが…?
「…生みの親より育ての親か…」
そうは言うが、とキース君。
「あんた、そうなっても構わないのか? たとえば俺が親認定とか?」
「いいねえ、君がママなんだね」
とてもいい子が育ちそうだ、とソルジャーはキース君を見詰めて「うん、うん」と。
「ぼくとハーレイの極楽往生を日々、祈ってくれている君がママねえ…。親思いのいい子になると思うよ、間違っても覗きなんかはしないだろうね」
それどころかアイテムをプレゼントしてくれるかも…、とウットリした顔。
「ぶるぅは悪戯と大食いばかりでロクに役には立たないんだけど、親思いの弟か妹の方は大人の時間に役立ちそうなアイテムを探して来てくれるかもね?」
「俺はその手の胎教はせんぞ! 他のヤツらも絶対にしない!」
「ああ、そっち方面には期待してないよ。ぶるぅが色々教えると思うよ、お兄ちゃんとして」
だけど覗きは覚えない良い子、と都合よく解釈しているソルジャー。
「誰が親でも良い子だろうけど、キースが一番いいかもねえ…」
「お断りだ!」
「じゃあ、君たちはぶるぅが増えても構わないわけ?」
「「「うっ…」」」
悪戯小僧が二人になるのか、と誰もが絶句。「ぶるぅ」のせいで散々な目に遭わされたことは一度や二度ではありません。二人に増えたらパワーアップもさることながら、出没回数も増えるでしょう。平和な時間はガンガン削られ、戻ってくる可能性は限りなくゼロ。
「……それは困りますね……」
マツカ君が呟き、ジョミー君が。
「困るなんていうレベルじゃなくって、最悪だし!」
遠慮したいし、という気持ちは全員の心に共通でした。「ぶるぅ」を増殖させたくなければ、ソルジャー夫妻の最悪すぎる胎教を止めるしかないのですけれど。そうしたいなら、もれなく托卵。ソルジャー夫妻の思惑通りに、預かって温めるしか選べる道は無さそうですけど~!
ソルジャーが持ち込んで来た二つ目らしき「ぶるぅ」の卵。そもそも何が孵るのだろう、と見詰めていると、「多分、ぶるぅにそっくりの弟」とソルジャーの声。
「こっちのぶるぅも、ぼくのぶるぅもこういう卵から孵ったしね? ぶるぅの妹って線は無いんじゃないかと思ってる。ぶるぅそっくりの弟だな、って」
「「「はあ…」」」
「きっと可愛い子供だよ? 上手く育てばこっちのぶるぅと同じになるよ」
親次第だよ、とソルジャーは言っていますけど…。
「どうなんだか」
この親にしてこの子ありだ、と会長さん。
「血は争えないって言葉もあってね。自然出産が無い君の世界じゃ死語だろうけど、けっこう当たる。ついでに君は托卵しようとしてるしね?」
「いけないかい? 実際、ぼくもハーレイも卵の面倒を見ている暇は…」
「ぶるぅの時と条件は変わってなさそうだけど? それはともかく、君が言う托卵。カッコウが預けて回った卵から孵った子供はカッコウなんだよ」
親と全く同じなのだ、と会長さんは指摘しました。
「孵化して最初にやらかすことはね、他の卵を捨てること! でないと面倒見て貰えないしね、親鳥にね」
「…それはデータベースで見たけれど…」
「卵を預けようって親も親なら子供も子供! 自分だけがドドーンと巣に居座ってさ、お人好しの親鳥が世話をするんだ。だけど育った子供は親鳥の人の好さを受け継ぎもしないね」
メスだった場合はいずれは托卵に出掛けてゆくのだ、と説かれる自然の摂理。確かにカッコウの子供はカッコウであって、そうでなければ種族が続いてゆきません。
「早い話が、こうやって君が卵を手にした時点で中身は決まっているかもしれない。誰が孵しても、大食漢の悪戯小僧にしかならないかもねえ?」
「「「うわー…」」」
卵を順番に回して、せっせと温めて。悪戯小僧の誕生を食い止めるべく身体を張った挙句に、孵化した子供は悪戯小僧なオチですか!
割に合わねえ、とサム君がぼやいて、キース君が頭を抱えて。ジョミー君は天井を仰いでいますし、シロエ君とマツカ君は半ば呆然。スウェナちゃんと私は言わずもがなです。
「……最悪だな……」
キース君がようやっと絞り出した声に頷くだけで精一杯。こんな卵は御免蒙る、と放り出したいくらいですけど、そうなれば卵は死んでしまうわけで…。
「もう一度訊くけど…」
会長さんがソルジャーの瞳をまじっと見詰めて。
「本当に君たちは温めるつもりは無いのかい? まるで全然?」
「うん、全然!」
忙しいから、とソルジャーはしれっとした表情。
「ぶるぅの時と条件は変わってなさそうだ、って君は言うけど、全然違ってしまっているから! あの頃のぼくたちは夫婦じゃないしね、結婚なんかはしていなかった」
「「「………」」」
やべえ、と誰が言ったやら。ソルジャーが言う通り、「ぶるぅ」の卵を孵化させた時は結婚前の段階です。だって私たちの世界に一番最初にやって来たのは「ぶるぅ」でしたし、ソルジャーの結婚には私たちだって立ち合いましたし…。
「というわけでね、大人の時間は夫婦の時間に進化したわけ! 夫婦円満の秘訣はセックス!」
これが無ければ夫婦じゃない、とソルジャーは威張り返りました。
「ぶるぅの卵を温めた頃は大喧嘩をして口を利かないとか、ごくごく普通にあったしね? 今ではそういう事態になったら、即、セックスして仲直りってね!」
あの頃よりもずっと大人の時間に重きを置いた生活なのだ、と開き直りと言おうか居直りと言うか。要は卵を温めているような暇があったら大人の時間で、とても多忙だと言いたいらしく。
「ぼくたちは毎日忙しいから、卵なんかとても温められない。禁欲どころの騒ぎじゃなくって、もう最初っから無理な注文!」
今頃になって卵を貰っても困るのだ、と卵をくれたらしいサンタクロースにまで文句を言い出す始末。こんな無責任な親に卵を渡したサンタクロースも見る目があるのか、まるで無いのか。
「子はかすがい、って言うんだけどねえ…」
夫婦の絆を深めるためのプレゼントだと思うんだけどね、という会長さんの意見もスルーされてしまい、ただ「迷惑」の一点張り。まったく、どうして二個目の卵を授かることになったんだか…。
卵を温める気なんか毛頭無いらしいソルジャー夫妻。胎教が云々言い出す以前に、二個目の卵が邪魔だったのに決まっています。ゆえにキャプテンからの「よろしく」、ソルジャーが持参したバスケット。預かってくれ、と決めてかかって押し付けにやって来たわけで…。
「そうそう、ぶるぅは凄く楽しみにしてるから! 弟か妹が生まれるから、って!」
だから頼むよ、とズイと押し出されたバスケット。
「ぶるぅの悲しそうな顔は見たくないしね、卵は孵りませんでした、なんていう結末はね」
「だったら君たちが頑張るべきだろ!」
会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは。
「ダメダメ、ぼくたちが夫婦仲良くしていることもね、ぶるぅは嬉しく思っているしね?」
卵を温めるのに忙しくなって夫婦の仲が悪くなったら本末転倒、とカッ飛んだ自説。
「夫婦円満と、ぶるぅの弟か妹と! 両立させるには托卵あるのみ!」
誰でもいいから温めてくれ、と押しの一手で、引き下がる気などさらさら無くて…。
「ホントに誰でもいいんだってば、誰の家で孵化して親認定で刷り込みされても文句は言わない」
ぼくたちは育ての親で充分、と酷い言いよう。
「実の親は誰か、ってコトになったら、其処はハーレイとぼくなんだけれど…。生まれた子供が間違えていても、ぼくたちはまるで気にしないから!」
本当のママの所へ行ってきます、と出て行かれたって構わないのだ、という身勝手さ。
「…本当のママって…」
「ぼくたちの中の誰かでしょうねえ…」
運が悪かった誰かですよ、とシロエ君。自分が当番に当たった時に卵が孵った不幸な誰か。その人が「ぶるぅ」の恐らくは弟であろう子供のパパだかママだか、刷り込みされて本当の親。
「「「…嫌すぎる…」」」
カッコウの子供はカッコウという説が当たれば、悪戯小僧。外れた場合は良い子かもですが、そうなった場合は本当の親と認定された人は慕われそうです。単独で遊びに来てくれるんなら歓迎ですけど、もれなく「ぶるぅ」も付いて来そうで…。
「どう転んでも、こっちで悪戯…」
「そうなるぞ…」
殺生な、と泣けど叫べど、卵は温めてやらないと死んでしまって殺生の罪。なんでこうなる、と恨みたくなるソルジャーの世界のサンタクロース。いくら「子はかすがい」でも、無責任な親に二個目の卵はプレゼントしなくて良かったんですよ!
将来的に悪戯されるのを覚悟で卵を温めるか、見捨てて殺すか。選ぶまでもなく答えは見えていて、もはや退路は断たれたかのように思えましたが。
「かみお~ん♪ 卵、一人いれば温められるんだよね?」
預けるってことは一人だよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「ぶるぅも前に言ってたし! 基本はブルーが温めてたけど、たまにハーレイが温めたって!」
「…そうだけど?」
だから順番、と答えるソルジャー。
「これだけの人数が揃ってるんだし、順番に回してくれればそれでオッケー!」
「えとえと…。それならハーレイの家が良くない?」
「「「は?」」」
なんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に視線が集中。そのお子様はニコニコとして。
「えっとね、卵から出て来た時にね…。本当のパパたちと全然別の顔の人がいるより、おんなじ顔をした人の方がいいって思うんだけど…」
「そういえば、こっちにもハーレイがいたねえ…」
「でしょ? ハーレイに頼めばいいと思うよ、卵もそっちの方が良さそう!」
孵ったらちゃんとパパかママの顔だよ、と無邪気な意見。私たちは「よっしゃあ!」と心の中でガッツポーズでしたが、顔には出さずに。
「うんうん、ぶるぅの言う通りだよな。知らねえ顔より、知った顔がいいよな」
「こっちが本当のパパなんですよ、って聞かされた時の衝撃が和らぎそうですよね!」
口々に利点を論っていれば、ソルジャーは。
「…其処はパパじゃなくってママだね。卵を温めるのはママの役目でいいんだよ、うん」
よし! とソルジャーはバスケットの青い卵に向かって。
「とりあえずママの所に行こうか、きっと温めてくれると思うよ、こっちのハーレイ」
なんと言ってもブルーそっくりのぼくからの頼み、と自信満々。
「おまけにハーレイがママだってことになったら、ぶるぅのママだって自動的にハーレイに決定しそうだしねえ? ぶるぅ、素晴らしい意見をありがとう!」
「んと、んと…。ぼくは卵の気持ちを考えただけで…」
「危うく間違える所だったよ、預け先! 托卵は正しく預けないとね」
変な親鳥に預けたら逆に卵を捨てられるそうだし…、とソルジャーはバスケットの蓋をパタンと閉めると、それを持って姿を消しました。行先は教頭先生のお宅でしょうけど、卵、どうなるかな…。
托卵の危機が去ってホッと一息、教頭先生の家の監視は会長さんのお仕事で。サイオンで覗き見していた結果、教頭先生は大喜びでバスケットを預かり、引き受けてしまわれたらしくって。
「うーん…。ハーレイは長期休暇に入るらしいね」
「「「は?」」」
「こんなに上手に子育てしました、ってアピールするわけ、このぼくに! 卵が孵化するまでは休職、理由はこれから考えるらしい」
一年間ほどハーレイで遊ぶのはちょっと無理かも…、と会長さん。
「でもまあ、遊び方は色々あるしね? 産休だか育児休暇だか…。お見舞いってことで遊びに行ったらいいんだよ、うん。例の卵が割れたりしない程度にね」
「「「………」」」
どう遊ぶのかは考えたくもありませんでしたが、例の卵の親と認定されるよりかは会長さんに付き合う方がマシ。それでいいや、と私たちは思考を放棄しました。
そうして数日後に迎えた新学期。学校に教頭先生の姿は無くって、恒例の闇鍋大会が平穏無事に終わるという珍事。もちろん1年A組が勝利を収めたわけですけれども、指名しようにも教頭先生がいなくては…。えっ、誰が代わりの犠牲者かって? それは言わぬが花ってもので。
新学期のお約束、紅白縞のトランクスを五枚は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が教頭先生のお宅まで一人で届けに出掛けました。教頭先生は「すまんな」と笑っておられたそうです、ベッドの中で。
「…ホントに真面目に温めてるんだ…」
一年かあ…、とジョミー君。教頭先生は食事も簡単なもので済ませて卵に全てを賭けているとか。
「挙句に悪戯小僧なオチなんですよね、孵った卵は」
「さあな…。良い子の可能性もゼロではない」
その辺の事情を御存知ないというのがな…、とキース君が溜息を。教頭先生は美味しい話だけを聞かされ、御自分の都合のいいように解釈なさって卵の世話に懸命で。それもいいか、と放り投げておいて、一週間ほど経った頃のこと。
「「「孵化しない!?」」」
素っ頓狂な悲鳴が放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に木霊しました。
「…うん。ぼくもハーレイも今日まで綺麗に騙されててさ…」
こっちのハーレイになんて言おう、と苦悩のソルジャーに、会長さんが「さあね」と冷たく。
「潔く謝って、お詫びにデートでもしてくれば?」
「…それしかないかな…」
「君が自分で温めてればね、もっと早くに分かったんだよ!」
「……そうらしいね……」
どうしようか、と嘆くソルジャーが教頭先生に預けた卵は無精卵どころか真っ赤な偽物。悪戯小僧の「ぶるぅ」が何処かで見付けた石の卵で、ソルジャー夫妻に温めさせて笑うつもりで置いて行ったもので…。
「……教頭先生の長期休暇は?」
三学期はまるっと休むって届けが出てるんだよね、とジョミー君。
「その先の分も出した筈だよ、キャプテンの仕事も全部ひっくるめて一年分ほど」
自業自得と言うんだけども、と会長さん。一年分もの長期休暇を取った直後に撤回だなんて、信用の失墜、間違いなしです。しかも卵は孵らない上、何もかもが「ぶるぅ」の悪戯で…。
「…ぼくたちが預かるべきだった?」
「後悔先に立たずと言います、ジョミー先輩」
なるようにしかならないでしょう、とシロエ君。ソルジャーは教頭先生の所へお詫びに行くための手土産について「そるじゃぁ・ぶるぅ」に相談中で。
「…やっぱり、ぼくのハーレイも一緒にお詫びに行くべきなのかな?」
「えとえと…。ブルー、どうなの?」
「誠意を示すなら夫婦揃って行くべきだろうけど、君がどういうお詫びをしたいか、それにもよるよね」
お詫びにデートなら一人で行くべし、と会長さん。
「早めのお詫びがいいと思うよ、ぶるぅの悪戯でした、って」
「…このぼくも焼きが回ったのかなあ、騙されたなんて…」
あまりの展開に「ぶるぅ」を叱るタイミングも逃してしまったらしいソルジャー。こっちの世界まで巻き添えにしてくれた悪戯小僧が増殖しないことは嬉しいですけど、偽物の卵。私たちが順番に回す道さえ選んでいたなら、教頭先生の長期休暇は無かった筈で…。
「…俺たちも謝りに行くべきだろうか?」
「ややこしくなるからブルーだけでいいよ」
放っておこう、と会長さんは知らん顔。教頭先生の信用失墜、ソルジャーが預けた偽物の卵。諸悪の根源は「ぶるぅ」だったか、托卵を目論んだソルジャー夫妻か。教頭先生、真実を知っても強く生き抜いて下さいね~!
迷惑すぎる卵・了
※新年あけましておめでとうございます。
シャングリラ学園、本年もよろしくお願いいたします。
ソルジャーが持ち込んだ青い石の卵、「ぶるぅ」の悪戯で良かったですよね。
教頭先生には気の毒でしたけど、本物だったら「ぶるぅ」の弟か妹の誕生ですから。
シャングリラ学園番外編は、今年もこんな調子で続いてゆきます。
次回は 「第3月曜」 2月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、1月は、雪の元老寺でのお寺ライフから。お寺という場所は…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(えーっと…)
学校の帰り、ブルーが乗り込んだバス。学校の側のバス停から。
お気に入りの席が空いていたから座ったけれど。窓の外を眺めていたのだけれど、次のバス停で乗り込んで来た親子連れ。父親と、小さな男の子。
幼稚園くらいに見える男の子と、若い父親。ブルーの父より若々しい見た目。
今の時代は人間はみんな、ミュウだから。好みの姿で自分の年を止めてしまえるから、若くても外見どおりの年とは限らない。あの子の父親だって、そうかもしれない。
でも…。
(見た目通りの年だったら…)
並んで席に座った親子。子供がせがんで、始めた手遊び。ブルーの席からよく見える。笑い合う声も聞こえて来る。それは微笑ましい光景。仲の良い親子。
(年の差、ぼくとハーレイよりも…)
小さいのだろうか、もしかしたら?
あの男の子くらいの年頃だった自分が、何処かでハーレイと出会っていて。
知り合いになって、並んでバスに乗っていたなら、周りの人にはどう見えたろうか?
男の子が五歳だったとしたなら…、と指を折ってみて。
(ハーレイ、二十八歳か二十九歳なんだ…)
今のハーレイのその頃の姿は知らないけれども、前のハーレイならアルタミラで出会って一緒に居たから想像がつく。どんな外見だったのかが。
そのハーレイが五歳の自分とバスの座席に二人並んで座っていたら…。
(もしかしなくても、お父さんと子供?)
きっと、そうとしか見えないだろう。親子にしか見て貰えないだろう。
肌の色がまるで違うと言っても、ブルーはアルビノなのだから。褐色の肌の父親の子でも、何の不思議もありはしないし、「アルビノなんだな」と思われるだけ。
顔立ちが少しも似ていなくても、ハーレイと二人で乗っているのだし、「母親の方に似た子」と誰もが受け止め、それでおしまい。ハーレイと誰かの間の子供。ハーレイの息子。
(…ハーレイの子供になっちゃうだなんて…)
そう勘違いされちゃうなんて、と親子連れの乗客をポカンと見詰めた。そうなるのか、と。
ハーレイにチビと言われる理由がよく分かった。
背丈の問題だけではなかった。
足りない年齢、大きすぎる年の差。父親と子供で通る年の差。
ハーレイから見れば、自分は明らかにチビなのだろう。背丈だけではなくて、年齢までが。
(前のぼくなら、年では負けていなかったのに…!)
負けていないどころか遥かに年上、それを知ったハーレイが目を剥いたくらい。「お前、俺より年上だったのか…」と。
ただ、アルタミラの研究所の檻で生きていた間、身体も心も成長を止めてしまっていたから。
檻の中でも成長していたハーレイからすればチビではあった。外見そのまま、成人検査を受けた時のまま、十四歳の子供。
だからハーレイも最初は気付かなかった。ブルーの方が年上だとは。
生まれた年がSD暦の何年なのかを口にするまで、年上のつもりだったハーレイ。知った後でも態度は変わりはしなかったけれど。中身は子供なのだから、と優しく接してくれたけれども。
(だけど、ぼくの方がずっと年上…)
その点に関しては今よりも有利。ハーレイにチビと言わせはしない。
年上だったせいで、前のハーレイよりも遥かに先に寿命を迎えてしまったけれど。
死んでしまうのだと、ハーレイと離れて死の世界へ連れて行かれてしまうと泣いたけれども。
それさえ除けば、特に問題があったわけでもない。前の自分がハーレイよりも年上だったことは何の障害にもならなかった。友達になるにも、恋をするにも。
けれど…。
(今のぼくだと、ああなっちゃうんだ…)
幼い頃に出会っていたなら、二人一緒にバスに乗ったら、何処から見たって立派な親子。父親と子供、そんな風にしか見て貰えない。
ブルーの方がずっと年下だから。ハーレイがずっと年上だから。
下手をすれば、今の年であっても。今の自分がハーレイと二人でバスに乗っても。並んで座席に腰掛けていたら、父親と子供に見えるかもしれない。親子で何処かへ出掛けるのだな、と。
(うーん…)
育ったならば少しはマシだろうか?
親子なのだ、と思われない程度に年の差は縮まってくれるだろうか?
ハーレイはもう外見の年を止めているのだし、後は自分が育つだけ。外見の差も縮まるだけ。
前の自分が年を止めたのと同じ姿で成長を止めようと思っているから、多分、十八歳くらいか。結婚出来る年になる頃、その辺りで止める予定の成長。
(ハーレイとぼくは、二十四歳違うんだから…)
出会った五月には二十三歳違ったけれども、ハーレイの誕生日が来て二十四歳違いになった。
十八歳で年を止めるなら、ハーレイとの年の差は二十歳。単純に計算するならば。
(お父さんと子供でも…)
通らないこともなさそうだった。
結婚出来るようになる年は十八歳。結婚して直ぐに子供が出来たら、そのくらいの年の差。
若い父親と、その息子。ハーレイと自分の年齢の差は親子と言ってもおかしくはない。
(じゃあ、ハーレイと二人で出掛けたら…)
親子に見られてしまうのだろうか、何処へ行っても?
バスで並んで座っていたって、二人で食事をしていたって。
ちゃんと結婚しているのに。恋人同士でデートの途中で、バスに乗ったりしているのに。
(…お父さんと子供…)
あんまりだ、とグルグル考えていたら、いつものバス停を通り過ぎそうになって。
慌てて「降ります!」と叫んで前へと走った。鞄を抱えて、降りる方のドアへ。
失敗しちゃった、とバスを降りたら、窓から手を振っている子供。さっきの子供。
振り返してやったら、父親の方も手を振ってくれた。手を振る親子を乗せて走って行ったバス。見えなくなるまで手を振り返して、バス停から家へと歩き始めて。
(仲良し親子…)
あの二人は何処へ行くのだろう?
家へ帰るのか、それとも遊びに出掛けてゆくのか。
明らかに親子だと分かる二人だったけれど、あれが自分とハーレイだったら…。
(結婚した後でも仲良し親子?)
もしかしたら分かって貰えないかもしれない。恋人同士で並んでいたって。
恋の経験を持つ大人はともかく、子供には。
さっきの子のように幼い子供には、親子なのだと思われるかもしれない。親子でバスに揺られているのだと、親子で出掛ける途中なのだと。
(ハーレイと結婚してるのに…!)
親子だなんて、とショックだったけれど、それが現実。
今の年ならどう見ても親子、育った後でも危うい年の差。十八歳と三十八歳。
それ以上はもう縮められない。
自分の姿が前とは変わってしまうから。前の自分よりも育ってしまって、前のハーレイが愛した姿を見せられなくなってしまうから…。
(なんだか酷い…)
トボトボと歩いて家に帰って、着替えを済ませて。
おやつを食べながら母に訊いてみた。何気ない風を装いながら。
「ねえ、ママ…。ハーレイ先生とぼく、並んでいたら親子に見える?」
それとも友達同士になるかな、どっちだと思う?
「親子じゃないの? 知らない人が見た時でしょう?」
「やっぱり、親子に見えちゃうの?」
「当たり前でしょ、パパとハーレイ先生、いくつ違うと思っているの?」
年はそんなに変わらないこと、ブルーだって知っているでしょう?
ハーレイ先生とブルーは似ていないけど、親子に見えるか、友達同士か、っていうんだったら、答えは親子ね。そういう年の差。
パパのお友達が家に遊びに来たことは何度もあるけど、ブルーのお友達にはなってないでしょ?
ブルーは遊んで貰っていたけど、お友達とは違うものね?
ハーレイ先生でも、何も知らない人から見ればおんなじなのよ。
パパのお友達と遊んでいます、っていう風になるか、似てない親子か、親戚くらいね。
友達同士だと思うような人は、誰もいないんじゃないのかしら…。
本当はお友達だけれども、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイだったからでしょ?
母にまで言われてしまった親子。友達同士よりかは親子。
そういうことになってしまうのか、と部屋に戻って考え込んだ。勉強机に頬杖をついて。
これはマズイと、ハーレイとバスには乗れないと。
二人並んで乗っていたなら、さながら今日の親子連れ。父親と子供にされてしまう。恋人同士で乗っているのに、デートに出掛ける途中なのに。
(…出掛けるんなら車だよね?)
車だったら、きっと安心。
ハーレイが運転して、自分は助手席。これならデートだ、と思ったけれど。
(…お母さん抜きのドライブに見える?)
助手席に乗るべき母親は留守番をしていて、息子が助手席に座っているように見えるだろうか。父親と息子だけでの外出はさして珍しくもないのだし…。例えば釣りとか、山登りとか。
(…車でもやっぱり間違えられちゃう?)
それでも車には二人きり。他の乗客はいないわけだし、そうそう人目につかないだろう。信号で止まっても覗き込むような人はいないし、親子連れだと思われはしない。
車の方が安心だよね、と考えたけれど。
(じゃあ、バスには…)
乗れないのだろうか、仲良し親子と勘違いされたくないのなら。
ハーレイと二人、バスの座席に並んでゆくことは無理なのだろうか?
何処かへ行こうと、今日はバスだと乗り込むことは。
(でも、ハーレイの車があるしね?)
バスは駄目でも車があるから、と思ったけれども、問題が一つ。
運転するのはハーレイなのだし、自分の方を向いて話しては貰えない。バスに乗っていた親子のように遊びも出来ない。
ハーレイと手遊びをしたいわけではないけれど。手を繋げればそれで充分だけれど。
それが出来ないのが、ハーレイの運転する車。
ハーレイの目は前を見詰めていなければ駄目だし、両手はハンドルに持ってゆかれる。車を操る方が優先、鳶色の目も大きな両手も、ブルーの相手をしてはくれない。
(バスだったら…)
座席に二人、並んで座れる。並んで好きなだけ話が出来るし、手だって繋げる。ハーレイの肩にもたれて乗っても行ける。
眠くなったらもたれて、眠って、「そろそろ着くぞ」と起こして貰える。
(だけど、ハーレイと仲良し親子…)
誤解されそうなバスの中。
恋人同士だとは思って貰えず、親子なのだと間違えられそうなバスの中。
ハーレイと乗るなら車か、バスか。
いったいどちらがいいのだろう、と悩んでいたらチャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから、早速、訊いてみることにした。母が運んで来たお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「えーっと…。ハーレイ、車かバスかどっちがいい?」
「はあ?」
何の前置きもなく投げ掛けた質問、ハーレイに通じるわけがない。意図に気付いて貰えない。
返って来た答えは「バスは運転出来んからなあ…」という的外れなもの、バスを運転するための免許は持っていないというハーレイ。
「バスはな、免許が別なんだ。普通の車よりも大きいからな」
シャングリラよりはずっと小さいが…、とハーレイは白い鯨を持ち出した。あの船も動かすには資格が必要だったが自分は持っていなかったと。しかし今ではそういうわけにもいかないと。
無免許では運転出来ない世界。ブルーが乗りたくてもバスを運転してはやれない、と大真面目な顔で言われたから。
「ううん、ハーレイが運転するんじゃなくって…」
運転手さんが運転するバス。ぼくが学校へ行くのに乗ってるようなバスのことなんだけど…。
こうなんだよ、と最初から順を追って話した。
バスの中で出会った親子連れのこと、それに母との会話のこと。自分があれこれ考えたことも。
ハーレイと二人でバスに乗ったら親子連れだと思われそうだと、車の方がいいだろうか、と。
車にハーレイを取られてしまうけれども、恋人同士ならば車だろうか、と。
「うーむ…。確かに車を運転するなら、お前がお留守になっちまうが…」
運転しながら横は向けんし、ハンドルから手を離すわけにもいかんしなあ…。
しかしバスだと親子連れだと思われちまう、と言われりゃそういう気もするし…。
「ハーレイも車の方がいい? バスよりも車」
覗き込まないと、誰が乗ってるのか分かりにくいし、間違われにくいと思うんだけど…。
だけど車はハーレイの手と目を持ってっちゃうし…。手を繋いだりも出来ないし…。
「なるほどなあ…。バスだと俺の目も手も、お前の相手だけをしていられるか…」
いつかはお前と二人でドライブに行こう、と楽しみにしてたが、バスと来たか。
俺はバスなんぞは、まるで考えてはいなかったんだが…。
そいつもいいな、とハーレイが微笑む。
バスでゆく旅も、なかなかに面白いものなのだ、と。
「…バスの旅?」
それって路線バスじゃなくって、観光バスで行く旅行のこと?
学校の遠足とかで乗るようなバスで旅行をするの?
「行ったこと、ないか? バスで旅行は」
色々なヤツがあるんだがなあ、お前は遠足でしか乗ってないのか、観光バスは?
「うん…。バスでなくても、普通の旅行は疲れちゃうから行ったことがないよ」
いつも両親が計画を立てた旅行だった、と説明した。
生まれつき身体が弱いブルーは、祖父母に会いに遠い地域へ出掛けただけでも熱を出したから。決まったスケジュールで旅をするなど難しそうだ、と何処へ行くにもツアーは無し。
初めてのツアーになる筈だったのが父が約束してくれた宇宙から地球を眺められる旅で、本当は夏休みに行く予定だった。けれども出会ってしまったハーレイ。再会した前の生からの恋人。
そのハーレイと一緒にいたくて、過ごしたくて。
夏休みのツアーは父に頼みもしなかった。行きたいと言うのも忘れていた。
だから知らない、バスの旅どころかツアーなるもの。
観光バスには学校の行事で乗って行っただけで、それすらも休みがちだった、と。
「そうだったのか…。しかしだ、宇宙旅行をしようって程度には少し丈夫になったんだな?」
夏休みに予定があったのなら、と訊かれたから。
「うん。…パパが短い旅行だったら行けそうだな、って言ってくれたし…」
地球を見る旅は宇宙船に乗って行くだけで、あちこち見て回るわけじゃないしね。疲れた時には部屋で休めるから、ちょうど良さそうだ、ってパパとママが…。
大丈夫だったら、もっと他にも旅行をしよう、って話になっていたんだよ。
「ふうむ…。それなら、まずは俺の車でドライブってトコから始めてバスの旅だな」
車の方が小回りが利くし、いつでも休憩出来るんだが…、とハーレイは車の利点を挙げた。二人きりだから好きな時間に行って帰って来られるけれども、便利なものではあるけれど。
バスでなければ行けない場所も存在していて、其処に行くならバスの旅だと。
「…それって、何処なの?」
車だと駄目でバスならいいって、どういう場所なの、ねえ、ハーレイ?
「自然を大切にしている場所だな、高い山にある高原とかな」
他の地域だとライオンなんかが住んでいる場所を走ったりもする。地球の上だけでも幾つくらい存在してるんだかなあ、そういう所。
この地域で野生のライオンを見るのは無理だが、高原に行けば雷鳥がいるぞ。
「雷鳥? あれに会えるの?」
「普通は山を登って行かなきゃ会えないが…、だ。バスの旅なら高原まで運んでくれるしな」
後はハイキングの気分で歩けば、雷鳥に会える。運が良ければヒナを何羽も連れたヤツにな。
「ヒナを何羽も? 行列してるの、雷鳥のヒナが?」
「そうさ、親鳥の後ろについて行くんだ、小さいのが何羽もヨチヨチとな」
見てみたいだろ、そういうの。高山植物だって沢山あるぞ。自然ってヤツがたっぷりなんだ。
だから人間が大勢で押し寄せないよう、車は禁止でバスだけってな。
どうだ、バスの旅、行ってみたい気がしてきたか?
「うんっ!」
雷鳥のヒナの行列に会ってみたいよ。それで大丈夫だったら、もっと他にも。ライオンとかにも会ってみたいし、いろんな所へ行ってみたいな、ハーレイと。
「よし。バスの旅なら二人並んで座って行けるし…」
それから、お前の夢の宇宙旅行。約束したろう、いつか宇宙から地球を見ようと。
あれも並んで座るシートだぞ、観光バスとは違うがな。
「そういえば…」
宇宙船のシート、そうなってるね。ぼくは乗ったことがないけれど…。
「なあに、いつかは乗ることになるんだ、俺と一緒に」
宇宙船でも観光バスでも、きっとカップルに見て貰えるさ、とハーレイは極めて楽観的で。
「どうしてそうだと言い切れるの?」
「ん? それはだな…。なにしろ俺がお前に惚れてるからなあ、そのせいだな」
二人並んで座ったからには、お前の肩とか抱いてるだろうし。
そんな具合でくっついていれば、恋人同士だと一目で分かるだろうが。
「でも…。仲のいい親子とか友達だったら…」
「肩は組むってか?」
「うん」
そういうのと間違えられるんじゃないの? ぼくとハーレイ、男同士のカップルだもの。
恋人同士だって思うよりも先に、親子か友達。
そんな組み合わせと勘違いされて、最悪、ハーレイとぼくは親子なんだよ、仲良しの親子。
どうにも心配でたまらない、世間の勘違い。
せっかく恋人同士で並んで座っているのに、友達どころかハーレイと親子。
それは嫌だ、と思うからこそ、バスに乗るのは諦めようかと悩んでいたのにバスの旅。ついでに宇宙船の旅。どちらも親子と間違えられる危険と隣り合わせだ、とブルーが訴え掛けたら。
「だったら、キスだな。こいつで間違いなく恋人同士だ」
頬っぺたや額にキスするんじゃないぞ、今はまだ禁止しているキスだ。これなら誰でも分かってくれるさ、恋人同士なんだとな。
「…やっていいの、人前でキスなんか?」
頬っぺたとかなら普通だけど…。親子とかでもやっているけど、そんなキスをしても大丈夫?
「周りに大人しかいなかったらな」
子供が見てたら流石にマズイが、大人だったら見ないふりをしててくれると思うぞ。
「見ないふりって…。それって、とっても恥ずかしいんだけど…!」
キスをしてるの見えてるんでしょ、だけど見てないふりだなんて…!
逆に注目してるんじゃないの、あそこの二人はキスをしてるな、って…!
「それはそうだが、親子でいいのか?」
俺と親子のままでいいのか、勘違いされて、お前が俺の息子ってことで。
「親子は困るよ!」
「ならば、ベッタリといこうじゃないか」
恥ずかしがってなんかいないで、堂々とキスだ。周りが注目していようとな。
前のお前の憧れだろう、とハーレイは片目を瞑ってみせた。
憧れていたと、何度も口にしていたと。
「…前のぼくって…。何に?」
「忘れちまったか? お前が教えてくれたんだが…。こういう言葉を見付けた、とな」
バカップル、と紡がれた言葉。
馬鹿とカップルとを組み合わせた造語、前のブルーが見付け出した遠い昔の呼び方。周りに人が大勢いようが、ベッタリくっついた恋人たちをそう呼んだという。バカップル、と。
「ハーレイっ…!」
たちまち思い出した遠い記憶に、ブルーは真っ赤になってしまった。耳の先まで。
バカップルという言葉を見付けて、それがなんとも幸せそうに思えたから。前の自分たちの仲は誰にも内緒で、決して明かせなかったから。
羨ましかったバカップル。真似てみたい、と憧れた。バカップルと呼ばれた恋人たちに。
気分だけでも、とハーレイを巻き込んで青の間でやっていたバカップルごっこ。
ブリッジでの勤務を終えたハーレイに大きな綿菓子を一個持って来させて、二人で食べた。同じ綿菓子を間に挟んで、それぞれの側から食べて進んで、最後にはキス。
そんな遊びを何度もしていた。バカップルだと、バカップルならではの食べ方なのだ、と。
「お前、俺にもやらせてたろうが、バカップルの真似」
綿菓子の食い方、前にも土産に持って来てやって話したよな…?
今度は誰にも遠慮しないでバカップルになれるし、キスしてもいいと思うんだが…。
そういうのは嫌か、人前でキス。
親子連れと間違われている方がいいか、バカップルだと思われるよりも…?
「ううん…。親子連れよりバカップルだよ」
ちょっぴり恥ずかしいけれど…。ううん、とっても恥ずかしいけれど、バカップルがいい。
ハーレイと恋人同士なんだ、って分かって貰える方がずっといいよ、間違えられてるよりも。
ちゃんと結婚してるのに親子だと思われていたんじゃ、あんまりだもの。
「まあな。…しかしだ、俺に言わせれば…、だ」
別にキスまでしなくたってだ、ベッタリくっついていれば充分、分かって貰えそうだがな…?
お前、まるっきり忘れちまっているみたいなんだが、結婚指輪。
前の俺たちには無かった指輪が今度はあるんだ、それで大抵、気付くんじゃないか?
小さな子供は分からんだろうが、お前くらいの年になったら知ってるだろうが。
左手の薬指に嵌まった指輪は何の意味だか、揃いの指輪を嵌めていたならカップルだな、と。
「…そっか、指輪…」
すっかり忘れてしまっていた。まるで気付きもしなかった。
前の自分たちには縁が無かったものだから。嵌めてみたくても、嵌められなかった二人だから。
それに白いシャングリラに結婚指輪は無くて、誰も嵌めてはいなかったから…。
「ほらな、忘れていたんだろうが。…いや、知らないと言うべきか…」
今度は指輪が必須なんだぞ、結婚式を挙げる時には。
お互いに指輪を交換しなくちゃ、結婚式を挙げる意味が無いってな。俺がお前の左手に嵌めて、お前が俺の左手に嵌めて。
…そうして揃いの指輪が出来るってわけだ、左手の薬指に俺たちの結婚指輪。
お前は完全に忘れただろうし、こいつも思い出しておけ。…シャングリラ・リング。
「…シャングリラ・リング?」
なんだったっけ…。えーっと…。ああ、思い出した!
シャングリラで出来た指輪だった、とブルーは叫んだ。白いシャングリラの指輪だっけ、と。
遠い昔にトォニィが決めて、役目を終えたシャングリラ。
その船体の一部だった金属が今も残っているという。結婚を決めたカップルのために、そこから作られるシャングリラ・リング。年に一回、決まった数だけ、抽選で。
それをハーレイと申し込もうと決めたのだった。白いシャングリラの指輪を、と。
「お前、やっぱり忘れていたな? そして、俺はだ…」
約束した通り、ちゃんと覚えていたぞ?
貰えるといいな、シャングリラ・リング。同じ結婚指輪なら断然、そいつだよなあ…。
当たるかどうかは運次第だけども、出来るならば嵌めたいシャングリラ・リング。
それが駄目でも、左手の薬指には結婚指輪。揃いの指輪。
親子連れなら嵌めてはいないし、友達同士でも嵌めてはいない。
ハーレイの言う通り、わざわざキスなど交わすまでも無く、恋人同士だと指輪が周りに知らせてくれる。結婚式を挙げた二人なのだと、カップルなのだと。
けれども二人でバスに乗るなら、宇宙船に乗ってゆくのなら。
二人並んで座席に座ってゆくのだったら、バカップルの旅もいいかもしれない。
前の自分が憧れていたバカップル。綿菓子を食べて遊んだバカップルごっこ。
今度は結婚出来るのだから。結婚して旅をしているのだから。
親子ではないと、恋人同士の二人なのだと、結婚指輪を嵌めていたってバカップル。
恥ずかしい気持ちはあるのだけれども、周りに人がいても、キスを交わして。
「バカップルもいいね」と小さな声で頬を染めながら呟いたら。
そんなのもいいね、と鳶色の瞳を見上げたら…。
「うむ。俺もたまには運転しないで触りたいしな、お前にな」
ちゃんと顔を見て話が出来てだ、両手も空いているのがいいな。
バカップルとまではいかなくっても、並んで座って出掛けたいもんだ。運転席と助手席に別れて乗るんじゃなくって、本当に並べる席に座って。
「それじゃ、最初は…」
二人並んで座って行くだけでいいの、結婚指輪を左手に嵌めて。
そういうのを何度かやって慣れたら、いつかバカップルになってみるとか…?
「俺のお勧めはそいつだな。まずは普通のバスでデートと洒落込んでみるか?」
結婚指輪を嵌めていたなら、親子連れだと間違えられることも無さそうだしなあ…。
それでも誰かが間違えてたなら、二人で手でも繋いでみるか。
バスの旅への練習も兼ねて、普通のバスでの外出から。
いきなり旅行に出掛けるのではなくて買い物くらい、と誘われたから。
行ってみようか、そういうデートに。
ハーレイと二人、お揃いの結婚指輪を左手の薬指に嵌めて街まで買い物に。
行き先は特に何処とも決めずに、あちこち回って、買い物とデート。
親子連れだと間違えられないかどうか、路線バスの座席に二人で並んで座って。
(うん、結婚指輪を嵌めていたなら、大丈夫!)
きっと恋人同士だと分かって貰える、と思うけれども、こればっかりは分からない。
ハーレイとの年の差は大きいのだから、親子でも通りそうなのだから。
周りを時々窺いながらの、路線バスでの二人掛けのシート。
其処にハーレイと並んで座って、デート。
もしも親子連れだと間違えられそうな気配がしたなら、ハーレイにベッタリ甘えてみよう。
バカップルはちょっぴり恥ずかしいから、もたれかかって、手を繋いで。
「肩を抱いて」と強請ってみるとか、それくらいがきっと限界だろうけれども…。
バスで並んで・了
※ハーレイと乗るなら、バスか車か。考え込んだブルーですけど、提案されたバスでの旅。
きっと素敵な旅になる筈。前のブルーが憧れていた、バカップルの夢も実現できそうですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あ…!)
学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で吹き抜けた風。ブルーの側を吹いていった風。
さして強くはなく、髪がふわりと揺れた程度のものだったけれど。
花の匂いが混じっていた。何かの花だ、と分かる匂いが。
(何処…?)
キョロキョロと辺りを見回したけれど、咲いていない花。庭一杯には無さそうな花。花を一面に咲かせた木だって見当たらない。風が何処からか連れて来ただけの、見えない花。
何の花だったかも、ピンとくるものがまるで無かった。ほんの一瞬のことだったから。花だ、と気付きはしたのだけれども、風は直ぐに通り過ぎたから。
(うんと沢山、咲いていそうな感じだったけど…)
そうでなければ強い香りを放つ花。百合とか薔薇とか、香り高い花は多いから。
(だけど薔薇でも百合でもなくて…)
もしかしたら香りは強いけれども、控えめに咲く花なのだろうか?
せっかくだから見てみたいのに、風はもう吹いては来なかった。花の匂いも漂って来ない。
(ちょっと残念…)
花は嫌いではなかったから。
むしろ好きな方で、「何の花なの?」と訊いてしまうタイプ。今の花だって、見たいけれども。
(何処から来たのか分からないしね…)
風が来た方向へ歩いてゆけば、と思っても、住宅街の中だから。
他所の家の生垣や塀を乗り越え、庭を突き抜けないと真っ直ぐ進めはしないから…。
仕方ない、と花を探すのを諦めて再び歩き始めたら、今度は美味しそうな匂いがして来た。
明らかに料理だと分かる匂いで、きっと早めの夕食の支度。
(家に帰ったらケーキの匂いがするのかな?)
オーブンから漂う、ケーキの焼ける匂い。それともタルトか、あるいはパイか。
帰る時間に合わせて焼いてくれている日も多いから、そういう匂いがするかもしれない。凝ったケーキなどは早めに作ってお裾分けに行くこともあるけれど…。
(今日はケーキだ、って気がするんだよ)
何故だかケーキな気分がした。パイでもタルトでもなくて。
自然と早まる、ブルーの足。早く家へと、ケーキの匂いがする家へと。
見慣れた生垣が見えて、近付いて来て。
門扉を開けて庭に入ったら、鼻腔をくすぐったお菓子の匂い。甘いケーキが焼き上がる匂い。
(当たり…!)
この匂いならばケーキだろう、と玄関を入って、「ただいま!」と奥に向かって叫んで。
匂いに引かれるままに、手を洗う前にキッチンを覗きに行けば。
「おかえりなさい」
ちょうど焼けた所よ、と母が冷ましているパウンドケーキ。
ハーレイの好きなパウンドケーキ。
母が焼くそれは、ハーレイの母のパウンドケーキと同じ味がすると聞くから、ブルーにとっては特別なケーキ。いつかは自分も同じ味がするのを焼いてみたい、と夢見るケーキ。
(ふふっ、特別…!)
今日のおやつは大当たりだよ、と眺めていたら母に注意された。
「ブルー、おやつは手を洗ってウガイをしてからよ?」
それに着替えもちゃんと済ませて。それまでは駄目。
「うんっ!」
分かってるってば、と急いで洗面所に行った。手を洗って、風邪を引かないようウガイもして。
部屋で着替えて、階段を下りてダイニングへ。
「はい、どうぞ」
笑顔の母とパウンドケーキが待っていた。お皿に一切れ、ハーレイの好きなパウンドケーキが。
(ハーレイのお母さんの味…)
きっとハーレイも隣町の家で、ワクワクしながら食べたのだろう。何度も、何度も。
その特別なパウンドケーキが出て来たからには、飲み物はホットミルクにしてみたい。合わせてみたい。マヌカたっぷり、シナモンを振ったセキ・レイ・シロエ風。
パウンドケーキが大好きな人に教えて貰った飲み物に。
「ママ、ぼく、今日はホットミルクがいいな」
「シロエ風のね?」
「そう!」
お願い、と頼んで作って貰ったホットミルクと、パウンドケーキと。
おやつは大満足だった。母が作るお菓子はいつでも美味しいけれども、今日は格別、特別な日。
ハーレイの母が焼くというのと同じケーキを食べられたから。
今はまだ行けない隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家、其処で焼かれているケーキ。
いつかは自分も「ママの味だよ!」と驚きながら食べるのだろう、パウンドケーキ。
早くその日が来ますように、とホットミルクを飲み干した。
ミルクを飲めば背丈が伸びるというから、毎朝欠かさないミルク。今日は二杯目だと、これだけ飲んだら効果もきっと、と。
食べ終えて「御馳走様」とキッチンの母にカップとお皿を返して、部屋に戻って。
窓越しに庭を眺めたら、ふと思い出した。帰り道で出会った匂いのことを。
(ぼくの家、やっぱりケーキの匂いだったよ)
それも特別なパウンドケーキが焼ける匂いで、オーブンから庭へと流れていた。流石にケーキの種類まで分かりはしなかったけども、ケーキの匂い。それが美味しく焼き上がる匂い。
(あの匂いも、きっと風があったら…)
もっと先まで運ばれて鼻に届いただろう。家の庭に入るよりも前から、ケーキを焼く匂い。どの辺りまで届くものかは分からないけれど、帰り道で出会った見えない花の匂いのように。
(風って不思議だ…)
そう思ってしまう。
何処にも見当たらなかった花の香りを運んでいた。パウンドケーキの匂いだって、きっと。
(美味しそうなケーキの匂いがするな、って思ってる人が何処かにいるよ)
何処で焼いているケーキだろう、と。
もう少し時間が後になったら、この家の匂いは変わる筈。母が支度する夕食の匂いに。
その匂いも風に乗って運ばれてゆくのだろう。道を歩いている誰かの許へと。
様々な匂いを運ぶ風。運んで来る風。
花の匂いも、ケーキの匂いも。
夕食を作る匂いも、何種類もあるに違いない。家の数だけ、メニューの数だけ。
(そういえば…)
前の自分は風の匂いがしていたのだ、とハーレイに聞いた。
ソルジャー・ブルーは風の匂いがした、と。ナキネズミのレインがそう言っていた、と。
けれども、風には匂いが無いから。匂いを運ぶのが風だから。
(今日だって、花の匂いとお料理の匂いと、それからケーキ…)
吹く場所によって、風が出会った相手によって匂いは変わるし、違うものになる。同じ風でも。
前の自分が風の匂いだと聞かされた時には、大いに焦った。
もしや硝煙の匂いではないかと、レインが知っている風の匂いはそれくらいでは、と。
ハーレイとあれこれ考えた末に、確か雨上がりの風だという結論になったのだったか。ナスカの大地に雨が降った後、吹き抜けた風。
それがブルーの匂いだったと、ソルジャー・ブルーが纏っていた風の匂いだったと。
(今のぼくだと…)
纏う匂いは日によって変わる。
食べたものやら、使ったボディーソープやら。一日の間にも何度も変わるに違いない。
前の自分にしても、それは同じだと思うけれども、何故か風の匂い。
赤いナスカの雨上がりの風。前の自分が知らない匂い。ナスカには降りずに終わったから。赤い星に降る雨の雫も見ないままで終わってしまったから。
それなのに雨上がりの風の匂いだと言って貰っても、少し困ってしまうのだけれど。
(青の間の匂いだったんだよね、きっと)
レインはそれしか知らなかったから。青の間でしか会わなかったから。
前の自分が起きていた間も、長い眠りに就いた後にも。他は格納庫で一度きり。
青の間に風は無かったけれども、あそこに湛えられていた大量の水。その匂いが多分、レインが知っていたブルーの匂い。水の匂いと、雨上がりの風の匂いの二つが繋がった末に…。
(前のぼくの匂いが風なんだよ)
なんとも不思議な捉え方。風だなんて、と。
悪い気持ちはしないけれども。何処までも自由に吹いてゆける風は、前の自分も好きだった。
風に乗って遠く地球へまでも飛んでゆけたなら、と自由な風に憧れてもいた。
その風の匂いが前の自分の匂いと知ったら、嬉しいけれど。
物騒な硝煙の匂いでないなら、雨上がりの風の匂いなら。
でも…。
(ハーレイの匂いは何だったんだろ?)
前のハーレイ。白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ。
レインは何と例えたのだろう、ハーレイを?
前の自分の匂いが風だったならば、ハーレイの匂いは何だったろう…?
(もう厨房にはいなかったし…)
レインが生まれた頃には、ハーレイはとっくにキャプテンになってしまっていたから。
ブリッジでキャプテンの席に座って指揮をしていたか、舵を取っていたか。
そんなハーレイから料理の匂いはしなかった筈。厨房に居たなら、料理の匂いになるけれど…。
(ハーレイの匂いって、何になるわけ?)
ブリッジには大勢の仲間が居たのだし、ブリッジの匂いがハーレイの匂いにはならないだろう。ゼルやブラウも同じ匂いがするのだから。
(…ハーレイだけが持ってる匂いって言うと…)
もしかしたら野菜スープの匂いかも、と考えた。野菜スープのシャングリラ風。
あの頃にそんな洒落た名前は無かったけれども、ハーレイが作ってくれていたスープ。青の間のキッチンで何度も作って食べさせてくれた。前の自分が寝込んだ時に。
(とっても優しい匂いなんだよ、あのスープ…)
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。温かなスープ。
ハーレイの匂いはあれだったろうか、野菜スープの優しい匂いがしたろうか?
前の自分は長く眠ってしまっていたから、レインがあれを知っていたかは分からないけれど。
ハーレイは「お前にしか作ってやらなかった」と言っていたから、どうなのか。
(…レインをジョミーに渡す前には…)
ジョミーを覚えて貰わなくては、と青の間に何度も連れて来させた。
そうした時にレインは出会っていたかもしれない、野菜スープをキッチンで作るハーレイに。
(でも、そのくらいしか…)
野菜スープとの接点を持っていなかっただろう、ナキネズミのレイン。
ハーレイの匂いを何に例えたのか、どんな匂いだと言ったのか。
(…ハーレイに訊いてみたいんだけどな…)
来てくれないかな、と思っていたらチャイムの音。この時間ならばハーレイだろうか、と窓辺に行ったら門扉の向こうで手を振るハーレイ。
これは是非とも訊いてみなければ、ハーレイが部屋に来てくれたなら。
前のハーレイは何の匂いがしたのか、レインは何と言ったのかを。
ブルーの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。
母が運んで来たパウンドケーキに、ハーレイは顔を綻ばせた。大好物だと、おふくろの味だと。
美味しそうに食べるハーレイに、「ねえ」と声を掛けて例の疑問をぶつけた。
「ハーレイは何の匂いなの?」
「はあ?」
臭いか、とクンと腕を嗅いだハーレイ。
柔道部の指導をしては来たのだが、シャワーは浴びた、と言われたから。
「ごめん、同じハーレイでも前のハーレイ…」
前のハーレイは何の匂いか、って訊いたんだけど…。
「なんだ、前の俺か。…って、なんで匂いの話になるんだ?」
唐突すぎるぞ、お前の質問。何処から風が出て来たんだ?
「えーっと…。帰りに花の匂いがする風が吹いて来たけど、周りに花が無かったんだよ」
何の花かも分からずじまいで、それから家まで歩く途中に他所の家の晩御飯の匂いとか…。
家に帰ったらケーキの匂いで、風って色々運ぶんだよね、って考えていたら思い出したんだ。
前のぼくは風の匂いだったっけ、って。
「…レインか。そういや、お前に話してやったんだっけな」
「うん。ハーレイは何の匂いがしたの?」
前のハーレイの匂いは何なの、それを知りたいと思ったんだけど…。
きっと教えて貰えるだろう、とブルーは期待したのだけれど。
どんな答えが返って来るかと、それは心を躍らせたのだけれど…。
「知らん」
「えっ?」
ハーレイの返事は呆気なさすぎるものだった。「知らん」と一言、答えにすらならない答え方。その結末にブルーはポカンと口を開けたのだけども、ハーレイは「知らん」と繰り返した。
「俺は本当に知らないんだ。前の俺がどういう匂いがしたかを話したヤツはいなかったしな」
厨房に居た頃は「おっ、美味そうだな!」と言うヤツもいたが、キャプテンになった後にはな。
「でも…。前のぼくは風の匂いだ、って…」
「そいつはレインが言ったわけでだ、俺に関しちゃレインは何にも言わなかったぞ」
何の匂いだとも聞いちゃいないな、俺も、ついでにゼルたちのもな。
フィシスは花の匂いがする、とは確かに聞いたが、他のヤツらの匂いは知らん。俺も含めて。
「ハーレイ、レインと色々喋っていたんじゃあ…」
そういう話を聞いたことがあるよ、青の間でレインと話してた、って。
前のぼくがいなくなった後。…青の間に出掛けてレインが来てたら、レインとお喋り。
「したさ、お前の思い出話ばかりをな」
あいつしか聞いちゃくれなかったさ、人類との戦いの最中ではな。
フィシスはお前に貰ったサイオンが薄れちまって引きこもっていたし、行っても会えない。
レインだけが聞いてくれていたんだ、俺がお前の話をしたい時にはな…。
思い出話に終始したから自分の匂いなどは知らない、と言われてしまった。
前のブルーが女神と呼んでいたフィシスの匂いしか聞いてはいない、と。
「そんな…」
前のハーレイの匂い、分からないって言うの?
レインが喋ってくれていなかったなんて、どうすれば分かるの、何の匂いか。
「お前が自分で思い出したらいいだろう?」
レインとは比べ物にならないくらいに長い年月、俺と暮らしたと思うがな?
三百年以上も一緒にいたんだ、レインの鼻より前のお前の鼻の方が遥かに正確そうだが…?
「それはそうかもしれないけれど…。覚えていそうで覚えていないよ」
野菜スープの匂いしか…。今のハーレイも作ってくれてる、野菜スープのシャングリラ風。
「なら、それだ。そいつが前の俺の匂いだ」
レインは何も言ってはいないが、お前の鼻がそうだと言うなら、そいつだな。
「ううん、違うよ。ハーレイの匂い、もっと他にもあった筈で…」
そっちを知りたいと思うんだけど…。レインだったら知っていたかもしれないのに…。
「他にもって…。何故だ?」
どういう根拠でそう言うんだ、お前?
「スープを作っていない時のハーレイの匂いだよ」
絶対あったよ、ハーレイの匂い。野菜スープの匂いの他にも。
ベッドでいつも吸い込んでいた、とブルーは遠い昔の記憶を語った。
野菜スープとは違った匂い。胸一杯に吸った匂いの記憶。
それがハーレイの匂いだったと、幸せだった、と。
「…知りたいんだよ、前のハーレイの匂い。これだ、っていう何か」
お願い、心当たりはない? これかもしれない、って思い当たるもの。
「うーむ…。俺の匂いなあ…。しかも前の俺か…」
どうなんだか、とハーレイが腕組みをして自分の記憶を懸命に探っているようだから。
ブルーは紅茶を飲みながら待って、暫くしてから尋ねてみた。
「何か分かった? 前のハーレイの匂いの手掛かり」
どんな小さなことでもいいから、つまらないようなことでもいいから、ハーレイの匂い。
「…ボディーソープの匂いじゃないのか?」
あれはけっこう残りやすいぞ、シャワーを浴びたら必ず使っていたからな。
「ボディーソープって…。青の間のヤツなら、ぼくもハーレイも同じのを使っていたんだし…」
あれとは違う気がするんだけれど…。もっと別の匂い。
なんて言えばいいのか、とにかくハーレイの身体からしていた匂いなんだよ。いつも、いつも。
「要するに思い出せないんだな?」
嫌というほど嗅ぎ慣れちゃいたが、具体的には何も出てこない、と。
「うん」
そうだよ、嗅いだら直ぐに気付くと思うんだけど…。
あの匂いがしたら、前のハーレイの匂いはこれだったんだ、って当てる自信はあるんだけれど。
だけど、ちっとも思い出せなくて…。ハーレイ、手掛かり、持っていないの?
何でもいいから端から挙げて、と頼んだのに。
教えて欲しいと頼み込んだのに、ハーレイは鼻でフフンと笑った。
「思い出せないなら、まだお前には要らないってこった。前の俺の匂い」
「どうして?」
幸せになれる匂いだったし、今だって知りたくてたまらないのに…!
「チビのお前には野菜スープの匂いだけあれば充分だってな」
あれなら思い出せるんだろう?
何度も作ってやってるんだし、あの匂いなんだと思っておけ。前の俺の匂いはスープだとな。
「酷い…! あれじゃないんだ、って言ってるのに!」
野菜スープの匂いの他にもホントにあったよ、ハーレイの匂い。それは間違いないんだから!
手掛かりの欠片くらいはちょうだい、とブルーは強請った。
せめてヒントをと、何の匂いか分かっているならヒントを教えて貰えないか、と。
「これに似てるとか、そういうヒント。そしたら当ててみせるから…!」
「ヒントも何も…。ズバリ言うなら、そいつは俺の体臭だからな」
前のお前がベッドで幸せに嗅いでいたなら、俺そのものの匂いなんだ。前の俺のな。
犬なんかは嗅ぎ分けが得意だろうが、と嗅覚の鋭い動物を例に持ち出された。
自覚が無くても匂いはする、と。前のブルーもそういう匂いを嗅いでいたのだ、と。
「…前のハーレイの匂いそのもの?」
あれがハーレイの匂いだって言うの、ぼくは全く思い出せないのに…!
「仕方ないだろうが、お前、チビだし」
当分、俺そのものの匂いなんかを嗅げるチャンスは無いわけだしな?
いくらベッタリくっついてみても、服の匂いが間に入る。
今のお前にはそれが似合いだ、でなけりゃ野菜スープの匂いだ。前の俺の匂いを思い出すには、まだまだチビで早すぎるってな。
そうは言われても、ブルーは諦め切れないから。
前のハーレイそのものの匂いを思い出したい気持ちを捨ててしまうことは出来ないから。
食い下がってやろう、と問い掛けた。
「ハーレイの好きな食べ物の匂いも混じっていたとか?」
好き嫌いは全く無かったけれども、それでも何かそういったもの。
「それを言うなら酒かもしれないなあ…」
酒は間違いなく好きだったぞ。前のお前が苦手だった分だけ、敏感になっていたかもしれんな。酒とコーヒー、どっちも前の俺が好きで飲んでたヤツなんだが…。お前はどちらも駄目だっけな。
「お酒…。どうだったんだろ、コーヒーは違うと思うんだけど…」
パパとママもたまに飲んでいるけど、ハーレイの匂いだ、って思わないしね。
ハーレイもコーヒーが好きだったっけ、って眺めてるだけで。
「何を食ったのかは、ある程度、影響するらしいがな」
特に匂いの強い食べ物。ガーリックを食ったら次の日まで残るって話もあるが…。
「それじゃ、やっぱり食べ物の匂い?」
前のハーレイの匂い、何かの食べ物と重なってたの…?
「さてなあ…」
生憎と自分の匂いだからなあ、まるで自覚が無いってな。
毎日、ガーリックを丸齧りしてれば「ガーリックだ」と言ってやれたかもしれないが…。
そこまで強烈な匂いの食い物、毎日、食ってはいなかったしなあ…。
いつかは思い出せるだろうさ、と微笑むハーレイ。
俺と結婚して一緒に暮らし始めたら…、と。
「この匂いだった、って気付く日もきっとあると思うぞ、毎日一緒に過ごしていればな」
でなきゃ、今でも前の俺と全く同じ匂いがしているか…。
酒もコーヒーも合成じゃなくて本物ばかりを飲んでいるしな、俺にも謎ではあるんだが。
恵まれた食生活を送っている上、運動だって毎日しているからな?
まるで同じとはいかないかもなあ、それでもたまには「これだ」って匂いに出会える筈だぞ。
「その匂いが今、欲しいんだけど…」
少しくらいは違っていてもいいから、ハーレイの匂い。今のハーレイの匂いでかまわないから。
「早すぎだ!」
チビのお前が知ってどうする、それが何の役に立つと言うんだ?
結婚してから「同じ匂いだね」と懐かしむ分には微笑ましいがな、チビには要らん。
俺そのものの匂いなんぞは、お前みたいなチビが知るには早すぎるんだ。
どうしても知りたいと言うのなら…、と鳶色の瞳に見詰められた。
教えてやらないこともないから、聞き漏らさないよう、今から言うことをしっかり聞けと。
「いいか? 朝は分厚いトーストを二枚、卵を二個か三個のオムレツ」
トーストの厚さはこんなものか、と指で厚さを示された。
「うん、それで?」
ずいぶん分厚いトーストだけれど…。ぼくのトーストの倍くらいありそうなんだけど…?
「それとソーセージだ、ハーブ入りでも何でもいいな。そいつを焼いて、だ…」
サイズにもよるが、このくらいのヤツなら三本ってトコか。後はサラダか野菜スティックだな、ミルクはホットでも冷たくてもいい。
「…うん、それから?」
「これで全部だ、とりあえずこれで朝の匂いがスタートだ」
今、言った通り、自分の身体で試してみろ。確認してやるから、最初から言え。
分厚いトーストを二枚、ってトコから間違えないよう、最後まで全部。
「えーっ!」
まさかハーレイ、食べろって言うの、今のを全部?
ぼくが食べるの、朝からそんなに沢山だなんて、どう考えても無理なんだけど…!
「お前が知りたいと言うから教えてやったんだが?」
俺の匂いの作り方。お前、そいつが知りたいんだろう…?
この通りにすれば再現できる、とハーレイが真顔で言うものだから。
朝は分厚いトーストを二枚でスタートなのだ、とオムレツやソーセージを並べ立てるから。
「…ホント?」
本当にそれで再現できるの、ハーレイの匂い?
「うむ。ついでに昼飯はたっぷりと、だな」
こいつは特に決まっちゃいないが、前にお前が挫折していた大盛りランチ。
あれくらいの量は必要になるな、それだけ食わんと俺の身体は維持出来んしな…?
「無理だってば!」
朝御飯がお腹に残ってそうだよ、お昼になっても!
大盛りランチを食べるどころか、普通のランチも殆ど残してしまいそうだよ…!
「なら、仕方ないな。俺の匂いを再現するのは諦めろ」
どうせお前はコーヒーも酒も飲めないんだから、完璧に真似をするのは無理だ。
それにだ、どう頑張ってもお前の匂いと混ざるしな?
俺みたいな大人と、お前みたいなチビだとそれだけで匂いが違う筈だぞ。
もっと言うなら、自分の匂いは自分じゃ分からんものだしな?
お前が俺の言った通りに実践したって、出来た匂いは分からない、ってな。
「ハーレイの意地悪!」
それにケチだよ、匂いくらいは教えてくれてもいいじゃない!
ぼくに教えたって減りやしないし、無くならないでしょ、ハーレイの匂い!
ケチだと、酷いと、ブルーは膨れた。唇を尖らせてむくれてしまった。
それこそがハーレイから見ればチビの証拠になるのだけれども、ブルーが気付くわけがない。
プンプン怒って、意地悪な恋人を睨み付けていたら。
「ふうむ…。なら、こいつだ」
「えっ?」
ほら、と鼻先に差し出された大きな褐色の手の匂い。
ほんの一瞬、掠めた匂い。
(ハーレイの匂い…!)
この匂いだった、と遠い記憶の彼方で自分が跳ねた。前の自分が、「ハーレイだ」と。
何度となく嗅いだハーレイの匂い。胸いっぱいに吸い込んで、幸せに酔っていた匂い。
その匂いだ、と自分の記憶が叫ぶから。喜びに跳ねて踊っているから。
「もう一度…!」
お願い、ハーレイ、もう一度だけ!
何の匂いに近かったのかが、今のじゃ掴めなかったから…。
今度はしっかり嗅いで覚えるから、もう一度やってよ、お願い、ハーレイ…!
「そうはいかんな。お前がどういう魂胆でもって探している匂いか、俺は知っているしな?」
不純な目的のために提供するのは一瞬だけで充分だ。
さっきのアレが一瞬ってヤツだ、もう一瞬は過ぎちまったんだ。過ぎた時間は戻らんぞ?
もう期限切れだ、俺が提供した一瞬はな。
ケチでも意地悪でもなかったろうが、と余裕たっぷりのハーレイの笑み。
恋人のために最大限に譲歩してやったと、探し物を一瞬、確かに提供したのだと。
「…期限切れなの? たったあれだけで?」
「チビには贅沢すぎる時間を充分、くれてやったと思うんだがな?」
もっとしっかり嗅ぎたいのならば、育って大きくなることだ。
前のお前みたいに俺にくっついていられるようになるまで、諦めておけ。
そうしてプンスカ膨れるチビには、まだ早すぎる匂いだからな。
それきりハーレイは二度と匂いを与えてはくれず、「またな」と手を振って帰って行った。
停めてあった自分の愛車に乗って。前のハーレイのマントの色をした車に乗って。
そして次の日、目覚めて朝の食卓に着いたブルーは。
(分厚いトーストを二枚に、卵が二個か三個のオムレツ…)
焼いたソーセージとサラダか野菜スティック、それからミルク。ホットでも冷たいミルクでも。
ハーレイに聞いた通りにしたなら、それを食べれば少しハーレイに近付くけれど。
昨日、一瞬だけ鼻を掠めたハーレイの匂い。
あの懐かしい匂いを作って、心ゆくまで吸い込んで幸せに浸りたいけれど。
(自分の匂いは分からない、って…)
きっと挑戦するだけ無駄だ、と溜息をつきかけて、あっ、と気付いた。
テーブルの上のマーマレード。大きなガラスの瓶に詰まった、夏ミカンで作ったマーマレード。
ハーレイがいつも持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの金色。
このマーマレードの匂いだけはきっと、ハーレイの朝の食卓にあるのと同じだから。
ハーレイも食べている筈だから。
(トーストにバターをたっぷり塗って…)
それがハーレイのお勧めの食べ方、バターの金色とマーマレードの金色が複雑に絡み合った味。
「こうやって食べるのが美味いんだぞ」と教えて貰った。
マーマレードだけで食べるよりもと、同じ食べるならより美味しく、と。
キツネ色に焼けたトーストにバターを塗り付け、溶けてゆく上からマーマレードの金色を載せて匂いを一杯に吸い込んだ。香ばしいトーストの匂いとバターと、マーマレードが溶け合った香り。
(うん、この匂い…!)
ハーレイに教わった食べ方の匂い、とトーストの端をカリッと齧った。とろけるバターとキツネ色のトースト、それに夏ミカンのマーマレード。口の中に広がる幸せの味。
今はこれだけで我慢しておこう。
ハーレイも嗅いでいるだろう匂いで、幸せの香りのトーストだけで。
いつかはきっと、ハーレイと二人、朝の食卓でこれを食べられる筈だから。
その頃にはきっと、ハーレイの匂いもしっかりと掴めている筈だから。
似た匂いは何かと探さなくても、いつでも隣にハーレイの匂い。
前のハーレイの匂いと同じ匂いのハーレイと二人、いつまでも幸せに暮らすのだから…。
知りたい匂い・了
※ブルーが思い出した、ハーレイの匂い。「これだったんだ」と分かったのに…。
同じ匂いを作るためには、とんでもない量の食事が必要。トーストの匂いだけで、今は幸せ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「あっ…!」
おやつの時間の後、手を滑らせてしまったコップ。
学校から帰ってケーキと一緒に冷たいミルクを飲んでいたコップ。今日は暖かかったから。外を歩けばポカポカ陽気で、制服の上着を着込んでいたら暑いくらいの日だったから。
熱い紅茶よりもミルクがいいと思った。シロエ風のホットミルクではなくて、冷たいミルク。
だから自分で冷蔵庫から出してコップに注いだ。大きな瓶からコップに一杯。
幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶から、自分にちょうどいい量を。
これで背丈も伸びるといいな、とケーキを食べながら飲んでいたミルク。毎朝必ず飲むミルク。おやつにも飲めば一日に二杯、きっと背丈を伸ばしてくれるに違いない、と考えた。
なのに…。
床でガシャンとコップが割れた。
キッチンの母の所へ返しに行こうと持っていた手からツルリと滑って。
飛び散ったガラス、ミルクの残りも散らばったろう。残りと言っても雫だけれど。一滴か二滴、コップの底に貼りついて残った分だけれども。
(割っちゃった…)
呆然と立ち尽くしていたら、音が聞こえたのか駆けて来た母。「どうしたの?」と。
「ママ、ごめんなさい…」
割っちゃった、と謝った。割ってしまってごめんなさい、と。
「いいのよ、それより怪我はなかった?」
「平気…」
「だったら心配しなくていいわ。コップくらいは大したことないの」
お客様用のコップじゃないし、と手際よく掃除を始めた母。「動かないで」と指図をして。
砕けたガラスを踏んでしまったら怪我をするから、そこから動かないように、と。
そう言われたから、手伝うことも出来ないから。
ケーキ用だった空のお皿を手にして、見ていただけ。床を掃除する母を眺めていただけ。自分がやったことだというのに、迷惑を掛けてしまった母。自分では片付けられない状況。
母は割れたコップの欠片を拾い集めて、専用の厚いシートで包んだ。床も拭いて、仕上げに軽く手でサッと撫でてみて。
「はい、もう歩いても大丈夫よ」
すっかり綺麗になったから。ガラスの欠片が落ちてはいないわ。
「ごめんね、ママ…」
コップ、割っちゃって。お片付けだって、手伝えなくて…。
「いいのよ、ブルーには無理だものね」
落っことしたコップを割れてしまう前に止められないでしょ、ブルーの力じゃ。
お掃除だって、まだ無理よ。手を切っちゃったら、もっと大変。サイオンで手を守れないから。
「うん…」
ごめんなさい、とブルーはもう一度謝った。
サイオンで拾えないコップ。落下を止められないコップ。
落とせばおしまい、今日のように床で砕けてしまう。相手はガラスなのだから。
片付けてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
勉強机の前に座って大きな溜息をついた。
(失敗しちゃった…)
コップを割ってしまうだなんて。
せっかく美味しくおやつを食べて、今日は二杯目になるミルクもきちんと飲み干したのに。
背丈が伸びてくれるといいな、と冷たいミルクで喉を潤していたというのに。
四つ葉のクローバーの幸せまでが粉々な気分。
幸せの四つ葉のマークが描かれた牛乳の瓶を割ったわけではないけれど。ミルクも無駄にしてはいないけれども、沈んだ気持ち。幸せが砕けてしまったような気がする、コップと一緒に。
前の自分なら、コップは割れなかったのに。
ガッカリした気分にだってならない、今の自分みたいな気持ちには、けして。
(だって、割ったりしないんだもの…)
コップを落としはしないから。
落とすことは何度もあったけれども、落としても拾ってしまうから。
床でガシャンと砕け散る前に、床と接触する前に。
(前のぼくは、こんな惨めな気持ち…)
きっと知らないに違いない、と思ったけれど。
それは一瞬、直ぐに気付いた。
前の自分が持っていた記憶。膨大な記憶の中に幾つも、無数に散らばる悲惨な記憶。惨めとしか形容出来ない記憶。
アルタミラで檻に入れられていた頃、毎日が惨めなものだった。餌と水しか与えられずに、檻の中だけで暮らしていた。檻の外へと出された時には、実験という名の生き地獄。
人間としては扱われなくて、ただの動物、実験動物。あの日々の記憶に比べれば…。
(コップくらい…)
きっと大したことではないのだ、と自分自身を慰めた途端。
フイと頭を掠めた記憶。通り過ぎて行った、遠い遠い記憶の中の一コマ。
(割った…?)
透き通ったガラスのコップか、グラスか。
それが粉々に砕けた記憶。割れて飛び散ったという記憶。
前の自分が、どうやら割った。コップか、グラスか、そういったものを。
そして…。
(楽しかったわけ?)
やたらとはしゃいでいた記憶。弾んだ心が、楽しげな気分が蘇ってくる。
割れたと、割れてしまったと。
粉々に割れて木端微塵だと、見事に割れてしまったと。
(なんで…?)
何故、楽しいのか分からない。楽しかったのかが思い出せない。
今の自分はコップを割ったと気分がすっかり沈んでいたのに、同じことをしても逆の気分らしい前の自分が理解出来ない。謎でしかない。
(何か変だよ?)
何処か変だと、奇妙すぎると不思議でたまらなくなる記憶。前の自分が持っていた記憶。
どういう仕掛けがあるのだろうか、と懸命に遠い記憶を手繰れば、片付けをしているハーレイの姿。割れてしまったコップかグラスか、砕けた欠片を拾い集めているハーレイ。
それを見てケラケラ笑っていた。前の自分が笑い転げていた。
割れたと、跡形もなく割れて砕けてしまったと。
(…どうしてあれが楽しいわけ?)
不名誉な記憶の筈なのに。
今の自分と全く違って、コップなど割りはしなかった自分。最強のサイオンを持っていた自分。
落としてしまった皿やコップは端からサイオンで拾っていた。割れてしまう前に。床に当たって砕ける前に。
そんな自分が失敗したなら、コップかグラスを割ったのならば。
今の自分が味わった以上に惨めな気分になるのだろうに。
「ぼくとしたことが…」と頭を抱えて悩んだとしても、少しもおかしくないというのに。
上手く拾えずに割ってしまったなら、それはサイオンを意のままに操れなかったから。
今なら不器用でも許されるけれど、何の不自由もありはしないけれど、前の自分は違っていた。病に倒れた時であっても、サイオンは研ぎ澄ませておかねばならなかった。
白いシャングリラを守るソルジャーだったから。ソルジャー・ブルーだったから。
僅かなミスさえ許されない筈で、何より自分が許さない筈。失敗するなど。
コップを割ったら楽しいどころか、きっと慌てて猛特訓を始めたことだろう。鈍ったサイオンを元に戻すべく、懸命に。
それなのに自分は笑っているから。記憶の中の前の自分は楽しげだから。
(記憶違い…?)
それとも、あれは夢だったろうか?
前の自分が夢の中で出会ったものだったろうか、あの光景は?
あまりに愉快な夢だったから、と忘れずに覚えていたのだろうか…?
どういう記憶なのだろう、と何度も首を捻っている内に、チャイムの音がして。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで座ったから。
「ハーレイ、今日ね…」
コップを割った、と報告をした。手を滑らせて割ってしまったのだ、と。
案の定、笑い出したハーレイ。お前らしいと、前のお前なら有り得ないな、と。
「前のお前なら一瞬で拾うぞ、そういうのはな。床に落ちる前に」
俺が厨房に立ってた頃にもそうだったろうが、皿洗いを手伝ってくれた時とか。お前ときたら、手伝いはするが落とすんだ。サイオンでヒョイと拾っちまって、一枚も割りはしなかったがな。
「そうだよね…」
前のぼくなら割らなかったよね、コップもお皿も。もちろん、今日のコップだって。
「うむ、割らん。そいつは俺が保証する」
間違いない、とハーレイが太鼓判を押したから。
「それじゃ、やっぱり、記憶違い…」
「はあ?」
なんだ、と怪訝そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、今の話では通じはしない。
前の自分の記憶の話も、それが何だか分からないことも。
だから説明することにした。謎の記憶を、夢かどうかも掴めないままのコップの記憶を。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの記憶なんだけど…」
コップを割っちゃった後で落ち込んでいたら、ひょっこり思い出したんだけど。
割って直ぐには出なかったけれど、コップが割れた、って楽しい記憶があるんだよ。
コップじゃなくって、グラスかな?
とにかく割ってしまった記憶で、それなのにちっとも困ってなくて…。
「ほう…?」
そいつは実に興味深いな、前のお前が割ったってか?
有り得ないっていう気がするなあ、前のお前は割らないだろうが。コップもグラスも。
「だよねえ? だからぼくにも不思議なんだよ、その記憶」
おまけに、それが割れちゃった後。ハーレイが床で片付けをしてて、ぼくは笑って見てるんだ。
「ごめんなさい」って謝りもせずに、何もかもがとても楽しくて…。
あれはやっぱり夢なのかな?
前のぼくが見た夢の一つなのかな、特別だから覚えていたのかな…?
実際には起こりもしない夢を見たから、前のハーレイにも話して聞かせていたのかも…。
こんな夢を見たよ、って、ハーレイが割れたコップを片付けてたよ、って。
そういう話を覚えていない?
前のぼくが話した、変な夢の話。
「いや、そいつは…。俺も覚えちゃいるんだが…。たった今、思い出したんだが…」
お前には夢で俺には違うな、と妙な答えが返って来た。笑みを浮かべたハーレイから。
「えっ?」
それってどういう意味なの、ハーレイ? ぼくの寝言で聞いたとか…?
「いや、そうじゃなくて…。一応、そいつは現実なんだ」
「一応って…。ぼくにとっては夢なんでしょ?」
それがどうして現実になるの、ハーレイ、ぼくが見ている夢を覗いた?
おかしな寝言を言ってるから、って覗き込んだの、ぼくの夢の中を?
「…やって出来ないこともないがだ、俺はそこまで悪趣味じゃないぞ。お前の夢を覗くなんてな」
「でも、夢だって…」
「お前、その場所、思い出せるか?」
コップだかグラスを割ったって場所だ、いわゆる現場だ。それもお前は思い出せたか?
「ううん、全然」
何処で割ったか分からないんだよ、割れたってだけで。楽しくて仕方ないだけで。
だから夢だと思うんだけど…。
「違うな、その夢の場所は俺の部屋なんだ。キャプテン・ハーレイの部屋の中だな」
「ハーレイの部屋…?」
だけど夢でしょ、夢の場所って言ってるものね?
ハーレイの部屋で夢を見ちゃって、寝言ですっかり喋っちゃってた…?
キョトンと目を見開いたブルーだけれど。
寝言で長々と喋る人もいると知っているから、前の自分もそうだったのかと思ったけれど。
ハーレイは「夢じゃないな」と否定した。前の自分の部屋で起こったことだと、現実なのだと。
「お前、記憶が飛んじまってるんだ、前後のな」
割っちまう前と、割った後と。どっちもお前は忘れちまって、記憶に残っちゃいないのさ。
忘れるも何も、最初から覚えるつもりなんかは無かったろうが。
「…何があったの?」
前のハーレイの部屋で何が起こって、そういうことになっちゃってるの?
まるで覚えていないだなんて…。ぼくの記憶が飛んじゃうなんて。
「一言で言うなら、俺の酒を飲んで酔っ払った」
「ぼくが?」
「ああ。山ほどあるだろ、二日酔いの記憶」
飲めもしないくせに、俺が美味そうに飲んでるから、って手を出して。
挙句の果てに頭が痛いだの、胸やけがするだのと、派手に二日酔い。
「うん…」
だってハーレイ、美味しそうに飲んでいたんだもの。
飲んでみたい気持ちになるじゃない。ぼくにも少し分けて欲しい、って。
「そう言っては、お前、二日酔いになって後悔するんだ」
なのに全く学習しないで、何度も同じことを繰り返してた、と。
俺の酒を横から奪って飲んでは、二日酔い。何度やったか、俺も数えちゃいなかったが…。
その一つだな、とハーレイは笑った。
合成のラム酒を一息に飲んで酔っ払ったと、それは楽しそうな酔い方だったと。
酔っ払ったから記憶が無いのも当然、一部を覚えていたというだけでも奇跡のようだと。
「もう、あの時のお前ときたら…。普段とはまるで違っていたぞ」
俺の肩をバンバン叩いてくれてな、ゼルと飲んでるみたいだったぞ。愉快だったが。
「ゼルって……。ぼくが?」
じゃあ、喋り方もああだったわけ? 「ぼく」じゃなくって「わし」って言って。
「いや、そこまでは酷くなかった。お前はゼルの真似をしていたわけじゃないしな」
単に御機嫌で酔っ払ってだ、その酔い方がゼルに似ていた。
「もっと飲まなきゃ」と俺にどんどん酒を注いで、自分のグラスにも勝手に入れて。
それを飲んでは、一緒に歌を歌わないかと持ち掛けて来たり、一人で先に歌い出したり。
踊ってもいたな、何処で覚えた踊りなんだか、即興なんだか。
「…踊ってたの?」
「踊ってるつもりというヤツだな。歌に合わせてステップだしな?」
もっとも、すっかり酔っているから、ステップにもなっちゃいないわけだが。
あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、千鳥足というヤツで踊り回ってた。
ゼルもそういうタイプだったし、今日のお前はゼルのようだな、と見てたってな。
「…ぼくがゼル…」
一人で歌って、踊ってたわけ?
ハーレイの部屋で酔っ払って踊って、ハーレイにそれを見られていたわけ…?
ブルーは愕然とするしかなかった。
ハーレイの方にはある記憶。自分の中では失われた記憶。酔って覚えていなかった記憶。
その中の自分があまりにとんでもなかったから。歌って踊っていたというから。
(…ハーレイ、そんなの覚えてなくても良かったのに…!)
覚えているなんて不公平だ、と膨れっ面になった所へ。
「…それでな、挙句の果てにグラスを落としてガシャンと割ってくれたんだ」
「酔っ払って…?」
ぼくが割ったの、本当に? 夢じゃなくって?
「夢だった方が良かったなあ…。俺の気に入りのグラスだったからな」
お前が落としてしまったグラス。大事にしていたヤツだったんだが…。
「そうだったわけ?」
ぼくはグラスかコップなのかも覚えてないほど曖昧なのに…。
割ってしまったヤツ、ハーレイのお気に入りだったんだ…。
なんということをしたのだろう、と小さなブルーは申し訳ない気持ちで一杯になった。
前のハーレイのお気に入りのグラス。
木で出来た机を愛用していたハーレイのグラス。
誰も見向きもしなかった机を暇を見付けては磨いていたようなハーレイだから。磨けば磨くほど味が出るから、と手入れしていたハーレイだから。
どんな物でも大切にしたし、きちんと手入れを欠かさなかった。
キャプテンになる前、倉庫の備品を管理していた頃も、毎日のように点検していた。食品ならば期限はどうかと、それ以外の物も手入れが必要な時期かどうかと見回っていた。
まして自分の私物ともなれば、木の机はもちろん、羽根ペンだって。
使った後にはインクを綺麗に洗い落として、翌日に備えた。ペン先にインクが残ったままだと、こびりついてしまって取れなくなるから。ペン先の寿命が縮むから。
替えのペン先は山ほどあったし、律儀にインクを落とさなくても全く問題無かったのに。駄目になったペン先を再生できるだけの技術も、白いシャングリラにはあったのに。
そんなハーレイのお気に入りだったグラスともなれば、さぞ大切に扱われていたことだろう。
使う度に丁寧に洗って、拭いて。
曇りの一つも出来ないようにと、埃もついたりしないようにと、棚の奥。
仕舞い込んでおいて、一人で、あるいはグラスを使うのに相応しい客人が訪れた時に、其処から取り出して酒を注いで…。
宴が済んだら、また棚の奥へ。自分が納得するまで洗って、拭いて、仕舞って。
そういうグラスを自分が割った。前の自分が酔っ払った末に。
(やっちゃった…)
今の自分が割ったわけではないけれど。前の自分が割ったのだけれど、いたたまれない気持ちに変わりはない。
よりにもよって、前のハーレイのお気に入りのグラス。
今日、割ったコップとは比較にならない、特別なグラス。それを自分が割っただなんて。
しかも普段なら決して割りはしないのに、酔っていたばかりに割ったというのが申し訳なくて、穴があったら入りたいような気分だけれども、時すでに遅し。
割った自分は前の自分で、とうの昔に済んでしまった出来事だから。
グラスを割った前の自分も遠い昔に死んでしまって、白いシャングリラももう無いのだから。
(前のハーレイのお気に入り…)
どんなグラスだったかも覚えてはいない。コップだったかグラスだったか、それすらも定かではない記憶。どうしようもなく情けない記憶。
ハーレイは覚えているのだろうに。
グラスの形も、其処に刻まれていた模様なども。
前の自分が割ったのと同時に消えてしまった、グラスの模様やカットなど。
ただのガラスになってしまった。割れて砕けて、ガラスの破片に。
シャングリラの中で他のガラスの製品になって、生まれ変わりはしただろうけれど。廃棄処分で宇宙のゴミにはならなかったと思うけれども、元のグラスに戻ってもいまい。
作り直せるようなものなら、前のハーレイのお気に入りではなかったろうから。
シャングリラでは作れないグラス。きっと人類の船から前の自分が奪ったグラス。
他の物資を奪ったついでに紛れ込んでいたグラスのセットで、希望者が無くてハーレイが貰った品物の一つ。ハーレイ好みのレトロなグラス。
きっとそうだ、という気がした。
施された細工が繊細すぎて「実用的ではない」と皆が嫌ったか、手入れが面倒だと思われたか。
いずれにせよ、ハーレイだけが価値を見出し、大切にしていたのだろうグラス。
覚えてもいない自分が割った。前の自分が割ってしまった…。
シュンと項垂れてしまったブルー。小さなブルー。
謝ろうにも、前後の記憶を失くすくらいに酔っ払った前の自分のことでは、どう謝ればいいのか分からない。「ごめん」でいいのか、謝っても白々しく聞こえるだけなのか。
どうすれば…、とグルグル考えるけれど、出て来てくれない解決策。
(なんて言ったらいいんだろう…)
困り果てていたら、ハーレイに顔を覗き込まれた。「しょげるヤツがあるか」と鳶色の瞳で。
「あのグラスだが…。前のお前だが、いつもなら絶対、割らないからな」
割れる前に拾っちまうだろう? サイオンでヒョイと。
「うん…」
そうとしか答えられなくて。
それが出来なかったことを詫びる言葉が見付からないまま、頷いたのだけれど。
「お前、普段がそうだったからな。割るなんてことが無かったヤツだったから…」
割っちまったのがやたら楽しかったらしくて、それはそれは機嫌が良かったぞ。
ただでも酔ってて上機嫌だしな、お前にとっては楽しい見世物だったんだ、あれは。木端微塵に割れるグラスなんて、前のお前が目にするチャンスはそうそう無かっただろうしな?
他のヤツらが落としたコップや皿の類も、お前、気付けば割れる前に拾ってやってたし…。
「…前のぼくは楽しかったかもしれないけれど…。ハーレイは…?」
…ハーレイはどうなの、どうだったの?
お気に入りのグラスをぼくに割られちゃって、ショックだったんじゃないの、ハーレイ…?
「そりゃまあ、なあ…? 気に入りのヤツが割れちまったし、正直、参った気分だったが…」
割ったお前が、あんまり楽しそうだったから…。
俺が床にしゃがんで片付けていても、それが面白いと声を上げて笑っていたもんだから…。
ガックリ来ている俺が馬鹿みたいに思えるじゃないか。
どうせグラスは割れちまったんだし、元に戻りはしないんだしな?
溜息をついても仕方ないだろ、結果が変わってくれない以上は俺の気分を変えなくちゃな。
と、いうわけで、だ…。
許すことにした、と言うハーレイ。
グラスが割れたと笑い転げていたブルーを。前のブルーを。
お気に入りのグラスを割られたというのに、それを許したらしいから。小さなブルーは大慌てでペコリと頭を下げた。謝るなら今だと、謝らねばと。
「ご、ごめんなさい…」
ぼくが謝るのも変だけれども、前のぼくだって、ぼくだから…。
ごめんね、ハーレイの大事なグラスを割っちゃって。きっと大切にしてたグラスだったのに…。
割っちゃった上に、謝りもしないで笑って見ていてごめんね、ハーレイ…。
「いや、詫びならたっぷり貰ったからな」
お前が謝らなくてもいいさ。グラスの件なら、とうの昔に解決済みだ。前のお前が、もう充分に返してくれた。思い出したからって謝る必要は何処にも無いってな。
「ぼく、同じグラスを奪って来てハーレイに返してた?」
どんなグラスか覚えてないけど、ちゃんと奪って返したのかな?
人類の船なら大抵積んでるグラスの一つで、探さなくても直ぐに見付かったから忘れたかな?
うんと苦労して探したんなら、今でも覚えているんだろうけど…。
「そうじゃない。もう人類の船からは奪わなくなった後だったしな」
シャングリラはすっかり出来上がっていたし、人類の船の物資は奪っちゃいない。
前のお前が割ったグラスは、人類から奪ったヤツだったがな。
洗うのに手間がかかりそうだ、と誰も貰って行かなかったから俺が貰っておいたってだけで。
「じゃあ、どうやって…」
前のぼくはどうやって割ったグラスのお詫びをしたわけ?
シャングリラの中で作り直せるようなグラスだったの、割れちゃったのは?
「…まるで作れないってこともなかったろうが…」
手先の器用なヤツもいたしな、割れていないグラスを見本に渡せば出来たかもしれん。こういうグラスを作ってくれ、とな。
しかしだ、キャプテンの俺の私物が一つ足りなくなったからって、そいつはなあ…。
キャプテンたるもの、グッと堪えて我慢してこそだろ、皆の手本になる立場だしな?
「奪ってもいなくて、作らせてもいないって…」
それじゃグラスのお詫びってヤツは?
ハーレイのお気に入りのグラスに似たのを、ぼくが倉庫で探したのかな…?
「それも違うな、教えてやろうか?」
お前は覚えちゃいないんだろうが…。
グラスを割った前後の記憶は無いと言うから、床を掃除していた俺しか知らないだろうが…。
割れたグラスの代償ってヤツは、お前に払って貰ったのさ。
そいつが一番、早い方法だったしな?
お前自身に、と片目を瞑られた。
御機嫌のお前と楽しくやったと、新鮮だったと。
「…やったって…。何を?」
何をやったの、ハーレイも一緒に歌って踊ったりしたの?
「ははっ、そう来たか! 今のお前だとそうなっちまうか、うん、そうだろうな」
歌と踊りな、そいつも確かに悪くはないかもしれないが…。
俺の気に入りのグラスの分をだ、弁償して貰おうって時に歌って踊るよりかはなあ…?
もっと素敵にいきたいじゃないか、美味いものを食って。
チビのお前だとそうはいかんが、前のお前なら話は全く別ってモンだ。
俺が美味しく食っちまっても問題は無いし、お前が俺の部屋に来ている時点で食ってもいいって意味なんだしな?
有難く食わせて貰っておいたさ、グラスの分だけ。俺のベッドに運び込んでな。
「……それって……」
「そうさ、お前が憧れてるヤツ。本物の恋人同士というヤツだ」
面白かったぞ、お前、ベッドでも笑いっぱなしで。
割れた、割れた、と笑っていたのが別の言葉に変わっただけだ。
俺に脱がされたと言って笑って、俺が脱ぐのを見て笑って。
それから後もな、ありとあらゆる場面でケラケラと笑い転げていたぞ。どう可笑しいのか、普通だったら悩んじまうような所でな。
あんなお前はそうそう食えんし、実に珍しい御馳走だった。まさに珍味といったトコだな。
次の日のお前は二日酔いですっかり潰れちまって、食える状態ではなかったがな。
だが、あの美味さは忘れられん、とハーレイはニヤリと笑みを作ってみせた。
酔っ払ったブルーは美味しかったと、割れたグラスの分は返して貰ったと。
小さなブルーは顔を真っ赤に染めたけれども、生憎と戻らない記憶。グラスを割った前後の分が綺麗に飛んでしまって、グラスの代償を支払った記憶も残ってはいない。
その手の話題を避けるハーレイが自分から口にするだけはあって、ほんの小さな欠片でさえも。
「…ぼくは覚えていないのに…」
そう言われたって、ぼくはグラスを割ったことしか思い出せないのに…!
「かまわんだろうが、前のお前のことなんだからな。今のお前とは関係無いんだ」
グラスを割ったのも前のお前で、弁償したのも前のお前だしな?
おまけに、お前は割ったことしか覚えていない。チビのお前には似合いの記憶だ。
ついでに今度のお前ってヤツは、普通のコップを割っちまっただけで惨めな気分になるんだろ?
前のお前みたいに笑い転げる方じゃなくてな。
「当たり前だよ!」
今のぼくだと落としたら最後、割れちゃうんだから!
普通のコップも大事なグラスも、落っことしたら終わりなんだよ…!
「ふうむ…。だったら慰めてやらんといかんな」
今日のお前が割ったコップは俺の知らない間に割れたし、俺のコップでもないだんが…。
俺がお前と結婚した後、お前がコップを割ったなら。
落ち込んでたなら、キスをプレゼントして、その先も…だ。お前の気分が直るようにな。
気分を直すには何処へ行くのか、何をするのか、もう分かるだろう?
どっちにしたって役得だ、と微笑まれた。
慰める方も、割れてしまったグラスを弁償して貰う方も。
今度も戸棚に入っているらしい、ハーレイお気に入りのグラスなるもの。
それをブルーが割った時には、また支払って貰うから、と。代償は無論、ブルー自身で。
(ハーレイのグラス…)
今のハーレイのお気に入りのグラス。まだ出会っていない、見ていないグラス。
割ってもいいのか、割らない方がいいものなのか。
前の自分は割っても許して貰えたというから、今度も許して貰えるものか。
小さなブルーにはまだ分からない。
大人の心になっていないから、身体もチビのままだから。
ハーレイが口にした役得とやらも、どういうものだか今一つ分かっていないから。
(…気を付けなくちゃ…)
今日みたいに割ってしまわないように、と自分に言い聞かせるブルー。
前の自分と同じ失敗はやらかすまい。
ハーレイお気に入りのグラスを自分が使う時には、丁寧に。
間違っても割ってしまわないように、割った挙句に笑うなんかは論外だよ、と…。
落としたコップ・了
※ブルーが割ってしまったコップ。前のブルーなら、割らない筈だと考えたのに…。
酔っ払った末に、前のハーレイのグラスを割っていたようです。今では笑い話ですけど。
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