シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ブルー、予約をしておいたわよ?」
「えっ?」
母の言葉にキョトンとしてしまったブルーだけれど。
学校から帰ったばかりなのだけれど、母はブルーにこう告げた。
「髪の毛、伸びているでしょう? そろそろ切りに行かなくちゃね」
美容室に予約を入れてあるという。ブルーの都合もあるだろうから、時間に少し幅を持たせて。
母は笑顔で畳み掛けるように。
「おやつにするの? それとも先にカットに行ってくる?」
どっちでもいいのよ。予約してあるから、行ったら直ぐに切ってくれるわ。
「そんな…」
今日なの、とブルーは驚いたけれど。いきなり宣言されても困るのだけれど。
予約されたものは仕方ないから、ダイニングに暫し突っ立った後で。本当だったら、テーブルでおやつの筈だったのに、と恨めしそうに何の用意も出来ていない其処を眺めた後で。
「先に行く!」
「やっぱりね…」
行ってらっしゃい、と送り出された。カットの代金が入った財布を持たされて。
おやつも食べていないのに。制服から着替えたというだけなのに。
(でも、おやつを先に食べてしまったら…)
カットに行くのが遅くなる。帰って来る時間も当然、おやつを食べていた分だけ遅れる。
(ぼくがカットに行ってる間に、もしもハーレイが来ちゃったら…)
仕事帰りに寄ってくれたら、留守にしていたら大変だから。
ハーレイが母とお茶を飲みながら待っていてくれるとは限らない。留守だと聞いたら、さっさと帰ってジムへ泳ぎに行くかもしれない。
そうなってからでは手遅れなのだし、おやつよりも、カット。
カットも時間がかかるけれども、ハーレイが来るよりも先に終わってくれる筈だから。
(早く行ったら、早く終わるよ…!)
急がなくちゃ、と財布を入れたポケットをポンと押さえて早足で急いだ。住宅街の中を、歩いて数分の美容室へと。
母も行っている美容室。お洒落なガラス張りになった店。美容師も多くて、いつ行っても先客が何人かいる。カットしている間にも客が次々と入って来るのが当たり前の店。
(うー…)
来ちゃった、とブルーは店の手前で立ち止まって中を窺ってみた。順番待ち用の椅子に腰掛けた人が数人、つまりは客が多いということ。
予約してあるから、其処に座れば間もなく呼んで貰えるのだとは分かっていても…。
(今日もいっぱい…)
誰もいなければ良かったのに、と思い切って店に入ってゆけば。
「いらっしゃいませー!」
美容師たちが一斉に振り向いた。おまけに椅子に座った客たちも。
そしてそのままブルーを見ている、美容師ならぬ他の客たち。あからさまにではなく、前の鏡に映ったブルーを見詰めていたり、雑誌に目を落としながらチラチラと見たり。
(…今日もだよ…)
この雰囲気が苦手なのだけれど。
美容師たちの間に流れる弾んだ空気も困るのだけれど。
手が空いているのは誰だろうか、と目と目で牽制し合っている気配。ブルーは係を指名したりはしないものだから、誰でもカットもシャンプーも出来る。手が空いていれば。
バチバチと見えない火花が飛び散った後で、一人の女性が前に出て来た。
ブルーも顔馴染みの若い女性だけれど、物心ついた頃から全く姿が変わっていない。年を止めてしまっているということで、他の美容師たちも似たようなもの。若いけれども、年齢は不明。
「今日はいつもの?」
にこやかに尋ねられたから。
「うん…。ううん、はいっ!」
子供だと思われないように、と「はい」と言い直した途端に「可愛い!」と上がった声。仕事をしている美容師たちや、他の客たちの間から。
(…また言われちゃった…)
これが嫌なのに。
ウッカリ声を上げようものなら、たちまち店中の注目の的。カットの最中の客と美容師との間で始まるブルーの話題。可愛らしいとか、まるでソルジャー・ブルーだとか。
(…酷いんだから…!)
小さな頃から苦手だったけれど、記憶が戻ったら余計に苦手になった。
自分は自分で、人気俳優とは違うのに。どんなに騒いで貰ったとしても、いいことなどは何一つ無いのに。カット代がタダになるというわけでもないし…。
(好きでやってる顔なんじゃないよ…!)
ハーレイのためなら、この顔が必要なのだけれど。
前の生からの恋人と向き合うためには必要な顔で、これでなければいけないけれど。
(…ぼく、見世物じゃないんだってば…)
そうは思っても、口に出すだけの度胸は無かった。小さい頃から、ずっとそう。
だから未だに美容師たちに可愛がられて、ブルーの係は奪い合い。
勝ち抜いたスタッフにシャンプーして貰って、さっきの美容師が待つ鏡の前の椅子に座って。
あれこれと話し掛けられる間にもテキパキと仕上がってゆく、いつものソルジャー・ブルー風。
要するに前と変わっていないのだけれど。
鏡に映る自分を見たって、何処がどう変わったのか、サッパリ分からないのだけれど。
それでも床には、着せられた理髪マントの上には切られた銀糸が落ちているから。
プロの目で見れば、それに「カットに行きなさい」と言った母もきっと見分けがつくのだろう。前と変わったと、これでスッキリしたのだと。
家では使わない艶出し用のヘアスプレーを吹き付けられて、ブラッシングされて、カット終了。
鏡の前の椅子から解放されて代金を支払い、ドアに向かうと美容師たちの声。
「ありがとうございましたー!」
カットしてくれた美容師が表まで見送りに来てくれたけれど。
(やっぱり嫌だ…)
出てゆく時まで注目される。待っている人や、カット中の人の視線が追ってくる。それに声も。
小さなソルジャー・ブルーが出来たと、可愛らしいと、賑やかな声。
本当に恨めしい気分だけれども、時間がけっこう経ったから。カットした分だけ、過ぎたから。
(ハーレイが来ちゃう…!)
美容室にかまっていられるものか、と急いで家へと歩き始めた。
ハーレイが来てくれるとは限らなくても、チャンスを逃したくはないから。
出掛けているなら、と帰られてしまってはたまらないから…。
家に帰り着いて、手を洗ってきちんとウガイもして。
キッチンを覗くと、「ママ、おやつ!」と叫んだけれど、振り返った母は時計を指差して。
「ハーレイ先生は?」
いらっしゃるとしたら、もうすぐよ。おやつ、食べるの?
「…そっか…」
駄目だよね、と素直に納得した。
もしもハーレイが来てくれたならば、必ず出されるお茶とお菓子と。
こんな時間におやつを食べてしまえば、ブルーの分はお茶だけになってしまうだろう。その後の夕食に差し支えないように、紅茶だけ。
それでは寂しい。ハーレイと一緒にお菓子を食べたい。
おやつを食べるのは諦めよう、と部屋に戻ろうとしたら、「このくらいはね」と母はシロエ風のホットミルクを作ってくれた。マヌカの蜂蜜で甘みをつけて、シナモンを振って。
それだけを飲んで、「御馳走様」と母にカップを返して。
二階の自分の部屋に戻ると、おやつが足りないと訴えるお腹を抱えて待った。
(ハーレイ来るかな?)
来てくれるかな、と首を長くしていれば、チャイムの音。この時間ならば、と窓に駆け寄ると、手を振るハーレイ。
(良かった、先にカットに行って…!)
おやつを食べてから出掛けていたなら、まだ戻ってはいなかったろう。ホットミルクだけ飲んで部屋に戻って、さほど時間は経っていないから。
自分の選択は正しかった、とハーレイに大きく手を振り返した。待っていたよと、早く部屋まで上がって来てねと。
仕事帰りに寄ってくれたハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせ。
母がお茶と一緒に置いて行ったケーキは、ブルーの分がいつもより明らかに大きめで。おやつを抜いた分を加えておいてくれたのだろう。
ハーレイが鳶色の目を細めて。
「ほほう…。うんうん、カットに行って来たんだな?」
「分かるの?」
どうして、と驚くブルーに、ハーレイは「分かるとも」と片目を瞑った。
「匂いとケーキのサイズでな」
お前の髪から普段とは違う香りがしてるし、ついでにケーキのサイズが大きい。おやつを食べる代わりにカットに出掛けていたんだな、と簡単に推理出来るってな。
「…見た目じゃないんだ…」
見た目で違うって分かったのかと思ったのに…。ぼくは自分でも分からないのに。
「お前の髪型でそうそう変わるか」
まるで別のにしちまったんなら、少し切っても分かるだろうが…。
いつもと同じじゃ分からんな。ソルジャー・ブルー風がジョミー風になったら別なんだが。
俺だって全く変わらないだろうが、と言われればそうで。
いつ見てもキャプテン・ハーレイ風のヘアスタイルだから訊いてみた。
「ハーレイはこの前、いつ切ったの?」
その髪、切りに行ったのはいつ?
「先週だが?」
お前の家には寄れなかった日だな、仕事の帰りに行って来たが。
「気が付かなかった…!」
短くなったなんて分からなかったよ、ぼくはちっとも…!
「ほらな、そういうモンだってな」
伸びて来たな、と思ったから切って来たんだが…。
お前にしてみりゃ気付かなかったわけで、それと同じだ。俺にもお前の髪が伸びたかどうかは、見た目だけでは分からないなあ…。
うんと伸びれば分かるだろうが、とハーレイが腕組みをしているから。
そのハーレイの髪は、前のハーレイとまるで変わりはしないから。キャプテン・ハーレイだった頃とそっくりだから、興味が出て来た。ハーレイはどんな店でカットをするのだろうか、と。
興味津々、疑問をそのままぶつけてみる。
「ハーレイは何処で切ってるの?」
髪の毛、何処へ切りに出掛けてるの、どうやって髪型、注文するの?
「ん? 行きつけの店があってな、俺の家の近くに」
黙っていたってこうされる、と短い金髪を指差すハーレイ。
いつでもキャプテン・ハーレイ風だ、と。
「なんで?」
どうしてキャプテン・ハーレイ風になるわけ、何も注文しなくっても?
「ああ、それはな…。店主の趣味というヤツだ。ファンなんだそうだ」
「誰の?」
「前の俺のだ、いわゆるキャプテン・ハーレイだ」
「えーっ!」
前のハーレイのファンって、珍しくない?
それじゃ、キャプテン・ハーレイにそっくりのハーレイが来たから、その髪型なの?
キャプテン・ハーレイにしようと思ってカットしてるだなんて、なんだか凄すぎるんだけど…!
そういう趣味の持ち主もいるのか、とブルーが仰天していると。
ハーレイは「それだけじゃないぞ」とニヤリと笑った。
「お前の髪も切りたいそうだぞ、その店主」
俺よりも年上の紳士って感じの店主なんだが、そう言ってるな。
「ぼく? 何処からぼくが出て来るの?」
どうしたらぼくの髪の毛を切りたいってことになるわけ、そのおじさんは?
「お前が俺の恋人だからだ。二人セットでカットしたいと言ってたが…」
「それだけなの?」
「いや。お前の髪型にこだわりがあってな、ソルジャー・ブルー風にしたいそうだ」
ショートカットが嫌いでなければやってみたい、という話だが。
「ソルジャー・ブルー風って…。どうしてソルジャー・ブルーになるの?」
前のぼくの髪型、それも大好きなおじさんなのかな…?
「店主が言うには、似合いだそうだぞ」
「何が?」
「前の俺と、お前」
並んでいると絵になる二人だ、とても似合いだと熱く語ってくれてたなあ…。
「えっ…?」
絵になるって、それ…。似合うだなんて、前のぼくとハーレイが並んでいたら…?
それって恋人同士に見えるっていう意味なの、そういうこと…?
バレちゃってるの、とブルーは目を真ん丸にしたけれど。
前の生では隠し通したハーレイとの恋を見抜かれたのか、と息を飲んだのだけれど。
「いや、まだそこまではバレてはいない」
固い信頼関係で結ばれた二人で、並ぶと絵になると言っていただけだ。けしからぬ仲だったとは思わないとも話していたから、恋人同士だったという所までは気付いていないな。
ただしだ、お前をあの店に連れて行ったら…。
いずれバレるかもしれないが、と鳶色の瞳が柔らかくなった。
恋人同士で顔を出せばと、二人一緒に出掛けてゆけば、と。
「そうなんだ…。ぼくの顔、ソルジャー・ブルーだものね…」
バレてしまうかもね、前のハーレイと前のぼくともホントは恋人同士だった、って。
「まあな。だが、あの店主は喋らんだろうさ」
気付いたとしても誰にも喋りはしないな、そういうタイプの人間だ。
自分だけが気付いた歴史の秘密だ、と大切に仕舞い込んでおくのさ、発表せずにな。
「良かったあ…」
それならバレても大丈夫だよね、歴史の本だって変わらないよね。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは実は恋人同士でした、って書かれないよね…。
ホッと安堵の吐息をついて、ブルーは尋ねた。
「じゃあ、ぼくもいつかはそのお店でカットすることになるの?」
ハーレイの家から近いんだったら、そのお店になる?
「そうなるだろうな、俺の趣味だけにレトロな店だが…」
店主が一人でやっているだけで、手伝いの人もいないんだが…。
腕は確かな店主だからなあ、客はけっこう来るみたいだぞ?
「そっちの方が今より良さそう!」
ぼくが行ってるお店、美容師さんが一杯で…。ぼくの係を取り合いなんだよ、いつ行っても。
他のお客さんだって「ソルジャー・ブルーだ」ってジロジロ見てるし、カットに行くのが苦手になって…。今日だって仕方ないから行って来たんだ、ママが予約を入れちゃったから。
でも、ハーレイが行ってるお店なら、そういうことにはならないよね。
断然、そっちのお店がいいよ。行くなら、そっち!
たとえソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士とバレたって、と嬉しくなった。
その店主ならば誰にも喋らないようだし、前の自分たちの恋を大切に思ってくれそうだから。
誰にも言えずに終わってしまった恋を誰かに知って貰うのも、きっと悪くはないだろうから。
(それに、ソルジャー・ブルー風にしてみたい、っていうほどの人だしね?)
自分を見たなら、この銀色の髪を見たなら、きっと見事に仕上げてくれるのだろう。
今と変わらないソルジャー・ブルー風に、前の自分と同じ髪型に。
鏡の前の椅子に座れば、それは手際よく、かつ丁寧に。
今の店と違って騒ぎ立てる客もいそうにないから、カットが好きになるかもしれない。仕方なく出掛けてゆくのではなくて、自分から「行きたいな」と思うくらいに。
ハーレイに「そろそろカットして貰いに行こうよ」と声を掛けたくなるくらいに。
(キャプテン・ハーレイのファンのおじさんだものね)
ハーレイをこの髪型にしちゃうなんて…、と出会った頃を思い浮かべた。
記憶が戻っていなかったというのに、ハーレイは今の髪型だった。キャプテン・ハーレイと寸分違わぬ、撫で付けられた短い金髪。
まるで別の髪型をしていたとしても、ハーレイだと気付きはしたのだろうけれど…。どうせなら同じ方がいい。この地球の上で巡り会うなら、前のままのハーレイの髪型がいい。
そう考えてから気が付いた。前のハーレイの髪型は最初から今と同じものではなかったことに。
アルタミラで初めて出会った時には違っていた。今よりも長く、波打っていた。
あれは前のハーレイの好みだったろうか?
自分と同じで成人検査を受ける前から、あの髪型をしていたのだろうか?
十四歳の子供には似合わないような気もするのだけれども、その頃のハーレイの顔立ちだったら似合う髪型だったのだろうか…?
気になり始めたら、確かめてみたい。前の自分も知らなかったハーレイの髪型のこと。
三百年以上も一緒に居たのに、気にもしていなかったハーレイの髪型。
前の自分は成人検査の前からずっと同じで、一度も変わりはしなかったから。
アルタミラの研究所で檻に居た頃は、係がそのように切っていた。勝手に切られて、成人検査の前と同じで暮らしていた。
だから誰もがそうだと思い込んでいて、尋ねようとも思わなかった。
ハーレイも、ゼルも、ブラウも、エラも。ヒルマンだって成人検査の前から髪型は同じなのだと信じ込んでいて、そのままになってしまったけれど。
今にして思えば、ゼルたちはともかく、ハーレイは十四歳の子供らしくはなかったような…。
この際だから、とゴクリと唾を飲み込んだ。
訊いてみようと、確かめようと。
髪型の話になったついでに。
「えーっと…。前のハーレイの髪型のことなんだけど…」
「ん?」
なんだ、と鳶色の瞳が穏やかな光を湛えているから。
「ハーレイの髪型、成人検査を受ける前からアレだった?」
「はあ?」
アレって、どれだ? 何の話だ?
「ぼくたちが初めて会った時の…。アルタミラで会った時のだよ」
ハーレイ、ずっとあの髪型をしていたの?
成人検査を受ける前から、アレだった? あの髪型が前のハーレイのお気に入りだった?
「いや?」
「違うの、あれじゃなかったの?」
あの髪型をしてたんじゃないの、成人検査を受けた時には?
「うむ。その頃はもっとガキっぽかったな、あれよりももっと短めでな」
見た目はまるで違った筈だぞ、あんな髪型ではなかったな、うん。
「じゃあ、成長に合わせて髪型が変わっていったわけ?」
「そのようだ」
俺の記憶もそんなにハッキリしてはいないし、あの髪型がいつからか、って訊かれても覚えちゃいないんだが…。成人検査の時には違った。それだけは間違いないってな。
「…そうだったんだ…」
知らなかった、とブルーは溜息をついた。前の自分も知らなかったと、初めて聞いたと。
「ぼくはそのままだったから…。みんな同じだと思ってた…」
だから訊こうとも思わなかったよ、前のハーレイはどんな髪型をしていたの、って。
ゼルたちだってそうだったのかな、会った時とは違う髪型で成人検査を受けてたのかな…?
「そうだろうなあ、俺も確認しちゃいないがな」
お前の場合は、全く成長しないんだから…。髪型だって同じでいい、ってことだったろうさ。
しかし、俺みたいにデカく育ったヤツがだ、ガキの頃だった髪型のままだと似合わんぞ?
いくら実験動物にしても、研究者だって気持ちよく研究したいよな?
まるで似合わない髪型をした、みっともない動物を扱うよりかは、見た目がもっとマシなもの。そういった動物を使いたかっただろうと思うぞ、同じ実験をするのならな。
「見た目にマシって…。髪型、誰が決めてたんだろう?」
伸びて来たから切らなくちゃ、っていうんだったら分かるけど…。
切るだけじゃなくて、似合わなくなってきたから変えよう、って、誰が決めたのかな?
コンピューターが決めてたのかな、それとも人間だったのかな…?
「さてなあ…。どっちが決めてたんだか…」
データを入力されてた機械がこうだと弾き出したか、あるいは現場の人間だったか。
実験動物の髪を切るのを仕事にしていたヤツもいただろうしな、そいつの感覚かもしれん。この動物にはこれが良さそうだと、これにするかと思い付きでな。
もっとも、機械が決めてたにせよ、人間にせよ、だ。
肝心の俺たちに選ぶ自由が無かったってことだけは確かだがな。
「そうなの?」
選べなかったの、自分の髪の毛のことなのに?
「お前、選ばせて貰えたか?」
「ううん、なんにも考えてなかった…」
切りに来たな、って思ってただけ。こうして欲しいとか、これがいいとか思わなかったよ。
ハサミを持った人間が待っているから、今日は髪を切る日なんだな、って思っていただけ。
「…お前、本当に何もかも止めてしまっていたんだなあ…」
成長も、心も、感情も。
自分の髪の毛が切られるっていうのに、ボーッとしていただけだなんてな…。
「ハーレイは髪型、選びたかったの?」
勝手にチョキチョキ切られるんじゃなくて、あれこれ注文したかったの?
「特にそうとも思わなかったが、髪の毛の持ち主の俺を放って切られてしまうというのはなあ…」
どうなってるのか、どうされるのか。
ハサミの音がしているだけではまるで分からん、落ちた髪の毛を見たってな。
極端な話、丸坊主にでもされない限りは、自分のことなのに分からないわけだ。俺の好みとか、そういう以前の問題だな。自分の姿が把握出来ないのは歯痒いんだ。
せめて鏡に向かいたかった、とハーレイが自分の顔を指差すから。
どういう髪型にされつつあるのか、鏡を前にして見ていたかった、と金色の髪を撫でるから。
「鏡の前で切って貰えてたら美容室だよ、研究所じゃなくて」
有り得ないけど、一部屋、そういう部屋があったらアルタミラ美容室って言うのかな?
御大層な名前がついてそうだよ、「今日は美容室だ」って係に引き摺って行かれるんだよ。
「今の俺は美容室じゃなくって、理髪店だがな」
アルタミラ理髪店ってことになるなあ、俺が引き摺って行かれる時にはな。
しかしだ、どんな場所であっても、鏡さえ其処にあったらなあ…。
それだけで気分が違ったろうに、と言われたから。
殺風景な研究所の中であっても鏡があれば、という言葉は確かに当たっていたから。
「そういえばそうだね、鏡があるだけで違うよね…」
ぼくの顔だ、って見ながら髪を切られているのと、そうじゃないのと。
どっちがいいか、って尋ねられたら、鏡がある方。
その方がきっとホッとするもの。もうすぐ切り終わるのかどうかも分かるし…。
どんな風に切ろうとしているのかな、って想像することも出来るしね。
「そういう自由は俺たちには全く無かったがな」
鏡を前にして美容室だの理髪店だの、そんな気分にさせちゃくれなかった。
そもそも鏡が無かったってな、髪を切る時でなくてもな。
自分を客観的に見られるチャンスなんぞは作らんだろう、と指摘されれば、そうだった。
実験動物だったミュウが自我をしっかり持ったなら。
サイオンを持った生き物なだけに、余計な力を得るかもしれない。サイオンは精神の力だから。心と結び付いていると分かっていたのだから。
自分が何者であるかを教えてはならない。自我など確立させてはいけない。
彼らの方針が功を奏して、ブルーですらもアルタミラが滅ぼされたあの日までサイオンを揮いはしなかった。自分の中に眠る力を知らずに成長すらも止めてしまったまま、檻の中に居た。
前のブルーの力があったなら、研究所くらい粉微塵にしてしまえただろうに。
指先一つで研究者たちの息の根を止め、仲間を救って脱出することも出来ただろうに。
そうさせないために、鏡さえも無かったアルタミラ。
自分の姿を見ることさえも叶わなかった、実験動物として生きていた日々。
「それじゃ、前のハーレイは育っていく自分…」
髪型もそうだけど、身体だって。
どんな風に大きくなっていったか、変わって行ったか、自分じゃ分からなかったんだ…?
「ああ。…断片的にしか知らないな」
手とか足とか、目に入る部分は分かるんだが…。
顔や身体は分からなかったな、見ようにも鏡が無いんだからな。
検査機器とかに映った時にだ、今の俺はこういう姿なのか、と気付く程度だ。
こんな風になったかと、デカくなったな、とチラッと思うが、直ぐにそいつも忘れてしまう。
実験が始まれば、感慨なんぞは完全に吹っ飛んじまうからなあ…。
飛び飛びにしか覚えていないんだ、と語るハーレイは少し寂しそうで。
ブルーは「ごめん…」と謝ったけれど、「いいさ」と答えが返って来た。優しい声で、いつものハーレイの顔で。
「前の俺の成長記録ってヤツは、無いに等しいようなモンだが…」
その分、今の俺の記録が山ほどあるってな。記憶も写真も、それこそ山ほど。
「だけど、その頃のハーレイ、記憶は戻っていなかったじゃない」
当たり前みたいに育っただけでしょ、前のハーレイの記憶は無いんだから。
「育つ最中にはそうだったが、だ。今はすっかり思い出したしな」
記憶が戻ればグンとお得だ、前の俺もきっとこうだったんだ、と思えるだろうが。
全く同じ姿形に育ったからには、育つ途中も似たようなものに違いない。
成人検査で失くしちまった子供時代からズラリと続いた成長記録だ、途切れちゃいないぞ。前の俺が失くした記憶の分まで、今度はしっかり持ってます、ってな。
髪型だってだ、生まれたての赤ん坊の時から今に至るまで分かるってわけで…。
お得でなければ何だと言うんだ、今の俺の記憶と成長の記録。
「そうかもね…」
ぼくは前と同じで髪型、一回も変えていないけど…。
ちっちゃな頃からソルジャー・ブルー風でそのままだけれど、ハーレイは色々選べたんだね。
「うむ。今の店でもコレになる前は違ったからなあ」
アルタミラでお前に出会った頃のアレさ、あの髪型の俺だった。
それよりも前は…。まあ、色々とやってみたよな、自分に似合う髪型ってヤツを探してな。
もっとも、これから先はもう変えないが…。
お前と釣り合う髪型にするなら、キャプテン・ハーレイ風しか無いんだからな。
アルタミラでは選べなかった髪型。鏡で見ることも出来なかった髪型。
それを今度は好きに選んで、ハーレイは今の髪型になって。
ブルーはずうっと同じだけれども、これから先も。
ハーレイの行きつけの店に行くようになって、鏡の向こうの自分を見ながら髪を切って貰う。
今はこの辺りを切っているのだ、と鏡に映った自分の姿を眺めながら。
「ねえ、ハーレイ。…鏡を見ながら切って貰えるって、幸せだよね?」
それに鏡にハーレイも映るね、ハーレイと一緒にカットに行くなら。
…今はカットは嫌いだけれども、そのお店、きっと好きになるよ。
「そりゃ良かったな。お前を連れて行く甲斐があるってな」
あそこの店主も待ってるらしいし、ソルジャー・ブルー風で仕上げて貰えよ?
俺とお前と、どっちが先に切って貰うかも考えなきゃなあ…。
「うんっ!」
それは交代でもいいんじゃないかな、ハーレイとぼくと、交代で先に。
だけど最初にお店に行く時はどうしよう…?
ハーレイが切って貰うのを見てからがいいかな、ぼく、そのお店は初めてだしね?
「よしきた、まずは紹介からだな」
俺の恋人はこいつです、って紹介するから、俺が切って貰ってる間に話して仲良くなるんだな。
そうすりゃ切って貰う時にもリラックスしていられるだろう?
ソルジャー・ブルーにそっくりですね、って言いながら切ってくれるぞ、丁寧にな。
「その前にビックリ仰天じゃない?」
だって、行く頃にはチビじゃなくって、前のぼくと同じに育っているもの。
キャプテン・ハーレイがソルジャー・ブルーを連れて来た、って、ビックリだよ、きっと。
連れてってくれるのを楽しみにしてる、とブルーは笑顔になった。
前の自分たちが恋人同士だったと気付くかもしれない、ハーレイお気に入りの理髪店の店主。
その人に早く会ってみたいと、美容室は早く卒業したいと。
ハーレイと結婚か、婚約するまでは連れて行って貰えない理髪店。
其処へ行けばきっと、カットが好きになるだろう。
「そろそろ髪を切りに行こうよ」とハーレイを誘いたくなるほどに。
今は苦手なカットだけれども、ハーレイお気に入りの店に行けば、きっと…。
苦手な美容室・了
※ブルーの苦手な美容室。注目の的になってしまうからですけれど、ふと気付いたこと。
前の生では、ハーレイたちの髪型はどうなっていたのか、と。今ならではの疑問なのかも。
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「ブルー、爪が少し伸びてるわよ」
切っておきなさいね、と母に言われた。
学校から帰って、ダイニングでおやつを食べようとした時、それを運んで来た母に。
「はあーい!」
返事を返して、シフォンケーキにフォークを入れたら。
「忘れないでよ? 後でちゃんと切るのよ」
食べてる間に切りなさい、とは言わないけれど…。そっちの方がお行儀が悪いものね。
でも、ママに切って貰うような小さな子供じゃないんだから。
忘れないで、と念を押されたから。
「うんっ!」
食べ終わったら、忘れずに切るよ。ぼくの手だもの、忘れないって!
おやつを食べ終えて、空になったお皿やカップをキッチンに居た母に返しに行った。
それから爪切りを取り出し、桜貝のような爪を切ろうとして。
(ちょっぴり伸びてる…)
爪の先、白くなっている部分。気を付けていたつもりだけれども、そういえば最近、爪を切った覚えが全く無かった。
自分の部屋には置いていない爪切り。階段を下りないと切りに行けない爪。
後でいいや、と思ってしまえば、それきり忘れてしまうのだろう。こうして伸びてしまうまで。母に注意をされてしまうまで。
(ママに切って貰うような子供、って…)
そこまで幼くはないけれど。
自分で切るのを忘れるようでは、そう言われても仕方ない、とクスッと笑いかかった所で。
(…あれ?)
前のぼく、と遠い記憶が蘇って来た。
切って貰っていたじゃない、と。
幼い子供ではなかったのに。今の自分よりも、ずっと大きくなっていたのに。
(ハーレイ…)
そう、ハーレイに切って貰っていた。伸びていた爪を。
病気で寝込んでしまった時とか、身体が弱ってしまっていた時。
ジョミーを後継者として迎える頃には、すっかりハーレイに任せていた。起き上がることすらも億劫な日が多かったから。
ベッドの中から手を差し出すだけで、「爪を切って」と頼むだけで切ってくれたハーレイ。
大きな褐色の手をブルーの手に添えて、そうっと、そうっと切ってくれていた。
切り終えた後も引っ掛からないかと指で触って、滑らかに削って整えていた。爪切りのヤスリの部分を使って、それは丁寧に、爪を傷つけないように。
(爪、あんな風に切って欲しいな…)
あの大きな手で切って欲しいな、と自分の小さな両手を眺めた。
またハーレイが切ってくれたらと、この爪を切ってくれたなら、と。
(前のぼくより小さい手だけど…)
切れないこともないだろう。赤ん坊の手と比べたなら、立派な大人と言ってもいい手。前よりも小さな手ではあっても、そこそこ大きさはあるのだから。
(もしハーレイが来てくれたなら…)
頼んでみよう、と決心した。断られたって、それはその時。
頼むだけの価値は充分あるから、爪切りを持って部屋に戻った。
ハーレイが仕事帰りに来なかったならば、あるいは「駄目だ」と断られたなら。
その時は後で自分で切ろうと、明日までに切ればいいのだから、と。
爪切りはそうそう使うものではないから、部屋に持って行っても叱られたりはしないだろうし。
(…今日はハーレイ、来てくれるかな?)
爪切りを机の引き出しに仕舞って、ドキドキしながら待つことにした。
ハーレイが来たなら、「爪を切って」と手を見せようと。
上手くいくといいな、と心を躍らせ、どうかチャイムが鳴りますように、と。
門扉の脇にあるチャイム。いつもハーレイが鳴らしているチャイム。
そろそろ鳴るかと、それとも駄目かと、気もそぞろだから、読んでいる本が全く頭に入らない。文字の上を目が辿るだけ。ページの上を滑ってゆくだけ。
(…ハーレイ、来るかな?)
窓の方へと目を向けてみたら、チャイムが鳴った。慌てて窓辺に駆け寄ってみれば、門扉の前で手を振る人影。間違えようもない長身の影。
(やった!)
来てくれたよ、と大きく手を振り返した。
少しだけ爪が伸びている手を、母に言われた爪を切らずにコッソリ残しておいた手を。
ハーレイを部屋に案内して来て、お茶とお菓子を運んで来た母。
その母に見付かってしまわないよう、さりげなく隠した爪の伸びた手。
母が出て行った後で、テーブルを挟んで向かい合ったハーレイに手を出してみせた。両方の手をテーブルに乗せて、爪が伸びていると分かるようにして。
「ハーレイ、切って」
「何をだ?」
何を切るんだ、お前の菓子か? そいつをフォークで切ればいいのか?
「ううん、ケーキのことじゃなくって…。ぼくの爪だよ」
「爪!?」
なんだ、とハーレイは驚いたけれど。鳶色の瞳が丸くなったけれど。
伸びてるんだよ、と左手の爪を指差した。
両手とも爪が伸びているのだと、母に「切りなさい」と注意された、と。
「…ハーレイ、前のぼくの爪、切ってくれてたでしょ?」
あんな風に切って欲しいんだよ。ハーレイが切ってくれていたっけ、って思い出したから。
前のぼくより小さな手だけど、赤ちゃんの手よりはずっと大きくて爪も大きいし…。
きっと切れると思うんだけれど、切ってくれない?
…駄目なの、ハーレイ?
「お前、自分じゃ切るつもり、ないな?」
お母さんに切れと言われたというのに放っておいた、と。
俺が来るとは限らないのに、切りもしないで俺が来るのを待っていたな…?
「…駄目なんだったら、ハーレイが帰った後で切るけれど…」
ちゃんと自分で切ることにするよ、伸びたままにはしておけないから。
…本当は切って欲しいんだけどな…。
「要するに今は切らないんだな?」
俺がいる間には切らないってわけだ、爪を切る時間も惜しいと思っているんだな?
仕方ない、とハーレイは溜息をついた。
切ってやるから爪切りを此処に持ってこい、と。
「ホント!?」
爪切りはとっくに用意したんだよ、そのために持って来ておいたから。
ちょっと待ってね、今、引き出しから取ってくるから…!
母に内緒で持ち出した爪切り。勉強机の引き出しに仕舞っておいた爪切り。
それを取りに行き、ハーレイに「はい」と手渡した。
ハーレイは爪切りの手触りを確かめ、何度か動かしてみた後で。
「よし、手を出せ」
こらこら、お茶やお菓子に飛んじまったらどうするんだ、爪。
もっとお前がこっちに来てだな…。うん、それでいい。そんな具合でじっとしてろよ?
まずは右手だ、と大きな手で右手を掴まれた。
親指を押さえられたかと思うと、パチンと爪を切り取る音。懐かしい音。
爪を切る音は今の自分も知っているけれど、それとは違ったように聞こえた。遠い昔にこの音を聞いたと、ハーレイが爪を切ってくれる時には聞こえていたと。
パチン、パチンと切り取られてゆく爪の音。
親指の次は人差し指で、それが済んだら中指で。薬指に小指、と順に移ったハーレイの指と爪を切る音と。右手が終われば左手の番で、そちらも順番にパチン、パチンと。
(そう、この音…。それに、この感じ…)
もう懐かしくてたまらなかった。ワクワクしながら切って貰った。
こんな風だったと、こんな音だったと、もう本当に嬉しくて。前の自分に戻ったようで…。
(うん、これも!)
切り終わったハーレイが爪の先を指で確かめてゆく。ギザギザしてはいないか、と。
確認してから、軽くヤスリをかけられた。滑らかな爪に仕上げるために。
(こんなの、ぼくはやっていないよ…)
爪を切ったら切りっ放しで、ヤスリで整える所まではしない。前の自分も、今の自分も。
ハーレイならではの心遣いで、それは丁寧に、両方の手の爪を一枚、一枚。
全部の爪を整え終わったハーレイが「済んだぞ」と爪切りを返して来たから。
「ありがとう!」
ブルーはピョコンと頭を下げると、爪切りを引き出しに仕舞いに行った。元の椅子に戻って腰を下ろすと、改めて御礼を言ったのだけれど。
「いや…。まあ、前のお前よりも小さな手だしな、少し怖かったが」
お前の指まで切っちまわないかとハラハラしてたぞ、お前は気付かなかったようだが。
「うん。ハーレイ、余裕たっぷりに見えたもの。でも…」
思ったよりもアッサリ切ってくれたし、嬉しかったよ。
絶対ダメだ、って断られるかと思ってたんだよ、だってハーレイなんだもの…。
「普通だったら断るんだがな、夜に切られちゃたまらんからな」
俺が帰った後に切るなら、とっくに夜になってるだろうが。
そんな時間に切られたんでは困るんだ。爪だけにな。
「えっ?」
時間って…。爪を切るのに時間が何か関係するわけ、ねえ、ハーレイ?
「ああ、まあ…な」
夜は駄目だな、そいつが俺の信条だってな。
爪は夜には切るものではない、と聞かされた。
夜は駄目だと、夜に切ってはいけないのだ、と。
「…なんで?」
爪を切るくらい、いつでもいいと思うんだけど…。
「そりゃ、かまわんさ。俺が言うのは古典の世界の話だからな」
SD体制が始まるよりも昔の話だ、この辺りに日本って国があった頃だな。そこで伝わっていた話じゃ、夜に爪を切ると寿命が縮んでしまうと言うんだ。
親の死に目に会えないとも言われた、寿命が縮めば親よりも先に死んじまうだろうが。
夜に爪を切るから、「よづめ」。世が詰まるんだな、自分が生きてる世界ってヤツが。
だから駄目だ、とハーレイは小さなブルーに教えた。
単なる昔の語呂合わせ。根拠など無い、古い迷信。
しかし縁起は担ぐ方だと、知ったからには避けたいのだ、と。
「前の俺なら夜専門だったわけなんだが…」
自分のはともかく、お前の爪。夜にしか切っていなかったしな。
もっとも、あの頃は古典の教師でもないし、夜に爪を切ったら駄目だと思いもしなかったが。
「…覚えてた?」
夜だったってこと、ちゃんと覚えてた?
「当たり前だ」
お前の爪を切っていたことを思い出したら、芋づる式に出て来るさ。
いつも夜なんだ、仕事が終わって青の間に行ったら「爪を切って」と頼まれるんだ。
お前、自分じゃ切らなかったからな、と笑われた。
病気の時には切らされていたと、身体がすっかり弱った後にも切らされたと。
これはハーレイの係だからと、ぼくの爪を切るのはハーレイだから、と。
「俺の特権だとまで言いやがって…」
何が特権だ、俺をこき使うための口実だろうが。
爪を切ってくれと、自分じゃ切れないと甘えやがって、いつも、いつも…。
「だって、前のぼくはいつも手袋をはめていたから…」
手袋の下の手はハーレイにしか見せなかったよ、ハーレイだけが見ていたんだよ。
後はノルディと医療スタッフくらいだったよ、手袋をはめてちゃ治療とかだって出来ないし…。
「その医療スタッフでいいんじゃないかと思うがな?」
あいつらの方が上手かった筈だ、そういったことの専門家だぞ?
ベッドから全く動けないヤツらの世話をするのも医療スタッフの仕事だからな。
「ううん、断然、ハーレイだよ」
恋人の方が上手いに決まっているよ。
誰よりもぼくのことを詳しく知ってるんだし、爪を切るのも上手だってば。
前のブルーがそう考えたのはいつだったか。
ハーレイと恋をして、同じベッドで眠るようになって。
あれこれ我儘を言って困らせてみたり、甘えたりして、二人、幸せに暮らしていた頃。
弱かった身体が悲鳴を上げたか、はたまた病に捕まったか。
ベッドで臥せる羽目になってしまって、医療スタッフが身の回りの世話をしてくれていた。髪を整えたり、身体を拭いたり、それは丁寧に心をこめて。
(だけど退屈なんだよね…)
身体はとても重いけれども、熱にうかされてはいなかったから。
元気でさえあれば、視察と称してブリッジに顔も出せるのに。ハーレイに会いに行けるのに。
それが全く叶わない日々、夜になるまで恋人の顔を見られない日々。
病の床にあるソルジャーに定時以外の報告は来ないし、キャプテンは青の間を訪ねては来ない。一日の勤務が終わる時まで、定時報告を兼ねてやって来るまで。
あまりに退屈で、それに寂しくもあったから。
ふと思い付いて、医療スタッフに「自分で切るから」と言って爪切りを置いて行かせた。具合のいい時に自分で切るから、気分転換にもなるから、と。
そしてその夜、ハーレイに手と爪切りとを差し出した。
「君が切って」と。
医療スタッフは断ったのだと、代わりに切って欲しいのだけれど、と。
ハーレイの方は面食らった。
自分の爪しか切ったことが無いのに、ブルーの爪。華奢な手をしたブルーの爪。
それは無理だと断ったけれど、ブルーは頑として譲らなかった。
恋人だったら切ってくれないかと、この手は君にしか見せない手なのだから、と。
押し問答をしていた所で、ブルーは諦めそうもないから。ただでも寝込んでしまっているのを、余計に疲れさせるから。
仕方なく爪切りを手にしたハーレイ。嬉々として右手を差し出したブルー。
「お前の手だしな、怪我をさせたらどうしようかと…」
爪切りだって、失敗しちまえば切り過ぎるだとか、肉まで切るとか。
おまけに自分の手じゃないからなあ、サッパリ加減が分からなくってな。
「おっかなびっくりだったものね」
ハーレイ、怖々、切っていたっけ。
パチンって音が一回する度にぼくに訊くんだ、「大丈夫ですか?」って。
「痛みませんか」って、「余計に切れてはいませんか」って。
切り終わった時には座り込んでたよね、もう動けない、って感じで椅子に。
細心の注意を払って爪を切り続けて、すっかり消耗したハーレイ。
精神的な緊張と疲れが身体にまで及び、文字通り椅子にへたり込むことになったのだけれど。
ブルーの方では味を占めてしまって、これに限ると内心小躍りしていた。
医療スタッフに任せておくよりもいいと、ハーレイに切って貰う方がずっと気持ちがいいと。
自分を気遣う心が伝わってくるのがいい。医療スタッフもそれは同じだけれども、恋人の心とは質が異なる。
それに、添えられた手の温もり。
寝込んでいる間は添い寝だけしかして貰えなくて、身体を重ねられないけれど。
まるでそうしているかのように、ハーレイと溶け合ってしまったかのように感じられた手。今は自分の手はハーレイのものだと、ハーレイの意のままにされて扱われているのだと。
そんな錯覚さえをも引き起こしたほどに心地良かった。
ハーレイに己の手を任せるのは、任せて爪を切って貰うのは。
もうハーレイにしようと決めた。寝込んだ時に爪を切るなら、それはハーレイに任せようと。
こうしてハーレイはブルー専属の爪切り係になった。強引に任命されてしまった。
ソルジャーではなくて、恋人の方のブルーによって。ハーレイにだけは甘えるブルーによって。
いくら断っても、「君が切って」と差し出された手。それと爪切り。
「切らないと、ぼくが医療スタッフに叱られるよ」と。「自分で切ると言ったんだから」と。
最初の間は緊張し切って、パチンと一回音がする度にドキリとしていたハーレイだけれど。
キャプテンになる前は厨房で料理をしていたほどだし、けして不器用なわけではなかった。
木彫りの才能は無かったけれども、どちらかと言えば器用な手先。
慣れてしまえば医療スタッフよりも上手かった。
丁寧に切って、ヤスリで仕上げて、「如何ですか?」と微笑んだものだ。
「暇を持て余したあなたがせっせと手入れをしたようでしょう」と、「これで医療スタッフにも小言を言われませんよ」と。
「お前の爪…。俺が切ってるとは誰も気付いていなかったんだよな…」
お前、爪切りを置いて行って、としか医療スタッフには言わないんだしな?
退屈したソルジャーが爪の手入れをして遊んでいると、暇つぶしだと思われていたわけで…。
「ふふっ、そうだね」
よく言われてたよ、「今日も綺麗に切ってありますね」って。
これじゃ医療スタッフの出番なんかは何処にも無いって、爪の手入れでは敵いません、って。
「そうだろうなあ…。だがな、お前が寝ちまった後…」
アルテメシアから逃げ出した後は、お役御免になっちまった。
お前は深く眠ってしまって、医療スタッフから爪切りを奪うどころじゃなくて。
俺が呼んでも目を覚まさなくて、思念さえも掴めなかったんだ。
それっきり二度と、お前の爪を切らせては貰えなかったんだよなあ…。
俺だけの仕事だったのに。俺が専属だったのに…。
寂しそうな瞳の色のハーレイ。鳶色の瞳に揺れる悲しみ。
もうブルーには触れられなかったと、手は握れても爪の手入れは出来なかったと。
「そっか、医療スタッフ…」
ぼくは眠ったままで目覚めないんだし、爪を切るのは医療スタッフの仕事だよね。
着替えとか身体を拭くのと同じで、医療スタッフがやってたんだね。
ぼくが仕事を取り上げる前にはやってたことだし、ぼくが起きないなら爪も切るよね…。
「うむ。本来の所に戻ったわけだな、爪切り係が」
本当を言えば、やってやれないこともなかった。俺の部屋には爪切りだってあったしな。
そいつを持って行きさえしたなら、もちろんお前の爪だって切れた。
青の間にあった爪切りだってだ、持ち出して使えばいいだけのことだ。
ただ…。
医療スタッフが切っていないのに、お前の爪がいつも綺麗に切られていたなら。
誰がやったのかということになるし、当然、白状しなけりゃならん。
そうなった時に、キャプテンの俺が切ってるとなれば、何のことかと思われるからな。どうして俺が爪を切るのか、そんな仕事をしているのか、と。
俺が厨房出身じゃなくて、ノルディの部下なら何の問題も無かったろうが…。
昔取った杵柄ってヤツでやっているんだと、このくらいはと言い抜けることも出来ただろうが。
きちんと手入れされたブルーの手を見るのが悲しかった、とハーレイは言った。
ソルジャーの正装で眠っていた日も多かったけれど、訪問者の予定が無ければパジャマ。そんな時には白い手が見えたと、切り揃えられた爪が目に入ったと。
「俺がせっせと手入れをしていたばかりに、お前、爪にはこだわりがあると思われたんだな」
いつも綺麗に切ってあったし、切り口もヤスリで仕上げてあった。
指先でいくら触ってみたって、引っ掛かりさえしないんだ。そりゃあ綺麗なモンだったさ。
あれは俺だけの役目だったのに…。お前の爪は俺しか切れなかったのに。
俺はそいつを取られちまって、手を握ることしか出来なかった。
トォニイが生まれた後にはそうして子守唄を歌っていたなあ、眠るお前の手を握ってな。
お前が夢の中でも聞こえていた、って言ってくれた歌。ゆりかごの歌だ。
お前の手を握って、何度も、何度も。
爪を切る代わりに歌っていたんだ、あの歌をな…。
前のハーレイが歌った『ゆりかごの歌』。
それはブルーの記憶にもある。微かに、微かに残った歌声。育ての母の歌かと思った子守唄。
けれども、それを歌っていたハーレイの心の中を思うと、謝ることしか出来ないから。
「…ごめん…」
眠ってしまって、本当にごめん。
「爪を切ってよ」なんて我儘、言わなかったらよかったね…。
そしたら少しはマシだったのにね、同じようにぼくが眠ったとしても。
「いいさ、また切らせて貰ったからな」
お前の爪をもう一度切れるとは思わなかった。
目覚めたお前は、俺に爪を切ってくれと言い出すよりも前にメギドに行っちまったし…。
爪なんか二度と切れないどころか、俺はお前を失くしちまった。手が届かなくなっちまった。
なのに、こうしてまた会えたんだ。
その上、爪まで切らせて貰った。
俺はすっかり忘れちまっていたのになあ…。前のお前の爪切り係をしていたことをな。
思い出させて貰った上に切らせて貰った、とハーレイの顔が綻んだ。
それも前より小さな爪をと、前のお前より小さくなった手の爪を切らせて貰った、と。
さっき悲しみの色を湛えた瞳が、今は優しい色だから。
ブルーは綺麗に爪を切って貰った両手を揃えて差し出した。
「じゃあ、また切ってくれる?」
この次、爪が伸びちゃった時は、ハーレイにお願いしてもいい?
ちゃんと爪切り、用意するから。ぼくの部屋に持って来ておくから。
「…そいつはなあ…」
次と言われても、爪なんて直ぐに伸びるしな?
前のお前だって、俺にばっかり切らせてたわけじゃないだろう?
普段は自分で切ってた筈だぞ、俺の真似をしてヤスリまでかけてキッチリとな。時間だけは充分あったからなあ、前のお前は。
こんな感じだと、ハーレイの真似をしてみたんだと自慢したじゃないか、最初の頃は。
いつの間にやら当たり前になって、それこそ暇つぶしに手入れしていたみたいだが。
だからだ、お前も前のお前を見習っておけ。
爪が伸びたら自分で切る。俺のやり方を真似したいんなら、仕上げはヤスリだ。
切ってやる方はまたいつかな、とはぐらかされた。
普段は自分で手入れをしろと、そうそう切らされてはたまらないと。
「いいか、いくら恋人同士でもだ。爪まで切るのは…」
そこまでするのはどうかと思うぞ、お前みたいなチビを相手に。
「…今だと切るのが難しい?」
ぼくの手、小さくなっちゃったから…。
前のぼくの手とはやっぱり違って、小さい分だけ切りにくいの?
赤ちゃんの手なんか、どうやって爪を切ったらいいのか、ぼくだって悩んじゃうものね…。
「チビの手だから難しいだとか、そういう問題じゃなくてだな…」
今の俺だって手先は器用だ、現に今日だって上手く切ったろ?
そういう点では全く問題無いんだが…。前の俺の記憶もある分、爪は切ることが出来るんだが。
爪は上手に切れたとしてもだ、俺の方が我慢の限界だ。
分かるか、俺が耐えられないんだ。
爪を切るだけでは済まなくなってしまいそうだ、と苦笑された。
だから断ると、もっと大きく育ってからだと。
キスを交わせるだけの背丈に、前のお前と同じ背丈にならんと駄目だ、と。
つまりはハーレイも前のブルーと思いが重なっていたということ。
爪を切る間、ブルーの手を握っている間。
ハーレイもまた、溶け合うような感覚を抱いていたということ。
手と手を通して繋がっていると、この手は自分のものでもあると。
その思いまでが同じだったと気付いたというのに、断られてしまった爪を切ること。次に伸びた時も切って欲しいと頼んでいるのに、駄目だと苦い顔のハーレイ。
せっかく思い出したのに、とブルーは諦め切れないから。
また切って欲しいと思うものだから、唇を尖らせて膨れてみせた。
ハーレイがチビだと断るからには、チビらしく。チビはチビらしく、うんと我儘に。
「今日はちゃんと切ってくれたのに…」
断らなかったじゃない、ぼくがチビでも!
次だって別に変わりやしないよ、また切ってくれればいいじゃない!
「縁起は担ぐと言っただろうが」
俺が切ってやらなきゃ、お前は夜に爪を切ることになったんだしな?
夜は駄目だと知っているのに、黙っているわけにはいかないだろうが。たとえ迷信でも、縁起は担いでおきたいんだ。俺は古典の教師だからな。
「じゃあ、次も夕方!」
頼む時には夕方にするよ、爪を切って、って。
そうすればハーレイが切ってくれるんでしょ、断ったらぼくは夜に切ることになるんだから。
そうなると知ってて放っておくほど、ハーレイ、冷たくない筈だものね。
「いや、この次からはお前に切らせる」
俺が監視して、「さっさと切れよ」と促すまでだな、夕方に頼まれた時にはな。
お茶を飲みながら待っててやるから、その爪、早く切ってしまえと。
今日のが例外だったんだ。次は自分で切って貰うぞ。
切ってやるのは一回限りだ、と突き放されたけれど。
今日だけの特別サービスなのだ、と鼻で笑われてしまったけれど。
思い出してしまった、ハーレイに爪を切って貰うこと。それがとても心地良かったこと。
そうして今日も切って貰えて、爪切りの音が嬉しかったから。
パチン、パチンと爪を切る音と、ハーレイの手の温もりが今も心を離れないから。
チビだと言われた小さなブルーは、意地悪な恋人に問い掛けた。
「…結婚したら、また切ってくれる?」
今日みたいにぼくの爪が伸びたら、ハーレイが爪切り、してくれる?
ぼくが病気で寝てない時でも、元気に起きている時でも…?
「もちろんだ」
断る理由は何も無いなあ、お前と結婚した後ならな。
お前の爪をまた切れるんだったら、お前専属の爪切り係をもう一度拝命するまでさ。
ベッドに寝てないお前の爪なら、さぞ切り甲斐があるんだろうなあ…。
ソファとかにお前と一緒に座って、甘えてくるのを「邪魔だぞ」と叱ってみたりしてな。
これじゃ切れないと、大人しくしろと。
指まで一緒に切られたいのかと、怪我をするぞと言いながらな…。
そういうお前の爪を切りたいと、切らせてくれ、と頼まれたから。
今は駄目だと断ったハーレイの口から、いつか切りたいという熱い言葉を引き出せたから。
(ふふっ、爪切り…)
切って貰おう、とブルーの心が温かくなる。
次にハーレイに爪を切って貰う時はきっと、ハーレイの家に居るのだろう。
結婚して二人、幸せに暮らしているのだろう。
そんな日々の中で爪が伸びたら、切って貰って、キスを交わして。
ソファに居たなら、そのまま其処に居るかもしれない。
あるいはハーレイの腕に抱かれて、寝室に移動するのだろうか。
そうして二人、恋人同士。
ブルーが夢見る、本物の恋人同士の時間。
前の自分たちがそうだったように、重なり合って、溶け合って、もう離れない。
爪切りから始まる、至福の時。
ハーレイに「爪を切ってよ」と強請って、甘えて。
その後はもう、二人だけの世界。
重なり合わせた手と手から溶けて、互いに互いのものになって溶けて…。
爪切り・了
※前のブルーが、ハーレイに切って貰っていた爪。医療スタッフは断ってまで。
けれど、長い眠りに入った後には、爪切りは医療スタッフが。久しぶりの爪切りです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
今年も夏休みスタートです。柔道部の合宿と、毎年恒例のジョミー君とサム君の璃慕恩院修行体験ツアーも終わって、今日は慰労会。クーラーが効いた会長さんの家で真昼間からゴージャスな焼き肉パーティーに興じ、締めとばかりに男子は冷麺、スウェナちゃんと私もミニサイズで。
「あー、生き返ったー!」
たっぷり食べた、とジョミー君は御満悦。璃慕恩院では麦飯と精進料理ばかりですから、焼き肉沢山でかなり元気が出た模様。この調子で夏休みの楽しい計画へレッツゴーだ、と皆で予定をチェック。三日後にはマツカ君の山の別荘、それが済んだらお寺関係者はお盆の準備で。
「此処が憂鬱…」
今年もお盆だ、とジョミー君がガックリと。
「棚経、行かなきゃ駄目なんだよね?」
「当たり前だろうが!」
キース君が即座に返しました。
「今年はどっちのコースを希望だ? 俺と回るか、親父と回るか」
「……選べるんだったらキースがいい……」
「親父に希望だけは伝えておこう。どうなるかは親父次第だがな」
親父にしごかれるコースもいいもんだぞ、とキース君の表情、鬼コーチ。なにしろお盆を控えて卒塔婆書きに忙しく、自分の時間がリーチ状態。卒塔婆のノルマが残り何本、と数える日々で。
「くっそお…。お盆当日まで残り…」
「おやおや、今日も懐かしのアニメの名文句かい?」
会長さんがニコニコと。
「地球の滅亡まで残り何日、あのカウントダウンは良かったねえ…。ぼくはリメイクよりオリジナルがいいな、たとえ放映当時は打ち切りアニメであっても!」
「俺はどっちでもいいんだが…。それよりもだ、卒塔婆が一気に書ける何かが貰えるんなら何処へでも行くぞ」
「そしてお盆までに戻って来るんだね?」
「そういうことだな、地球再生ならぬ卒塔婆一気に書き上げツールだ!」
それは卒塔婆プリンターと言うのでは、という突っ込みを入れたい気分。わざわざ宇宙の旅をしなくてもプリンターでガチャンガチャンと刷れるのでは…。
「ふうん? お盆までに何処へ行くって?」
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返った先に会長さんのそっくりさん。私服ってことは、これからお出掛け?
「こんにちは。今日はノルディとデートした帰りなんだよ」
フルコースを御馳走になって来たから今はお茶だけ、とソルジャーは「冷麺、食べる?」という「そるじゃぁ・ぶるぅ」の申し出を断りました。
「でもって夏だねえ、今年も卒塔婆の季節なんだね?」
「やかましい! あんたと旅に出掛ける頃には全部終わっている!」
横から出て来て引っかき回すな、とキース君。
「卒塔婆も棚経も海の別荘より前に終了だからな、あんたとは何の関係も無い!」
「無いねえ、それに抹香臭いのも嫌だし」
「なら、なんで来た!」
「夏だから!」
思いっ切り夏、とソルジャーは窓の向こうの抜けるような青空へと大きく両手を広げて。
「夏は解放感溢れる季節! この素晴らしい季節に、是非、素敵企画!」
「「「素敵企画?」」」
「そう! ノルディも大いに乗り気だったし、やるだけの価値はあると思うよ」
「ノルディ!?」
会長さんがピクリと反応。
「君はいったい何の企画を?」
「儲かる企画!」
「それって、何さ?」
「チャリティーだよ! ただし相手はノルディ限定、チャリティーで得られたお金は君のもの!」
ぼくのお勧め、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「君が頑張ればガンガン儲かる! そりゃもう、笑いが止まらないほどに!」
「どういう企画?」
儲け話と聞いた会長さんが食らい付けば、ソルジャーは「素敵企画!」と満面の笑顔。
「脱げばお金が貰えるんだよ!」
「「「脱ぐ!?」」」
「そう! 脱いでチャリティー、これぞチャリティーヌードってね!」
うんと色々あるんだってば、と得々と説明を始めるソルジャー。なんでも大学のサークルの活動資金を集めるためのヌード写真なカレンダーとか、もっと真面目に病気撲滅のチャリティーで有名女優が脱ぐだとか。要は脱いだらお金が入るようですけれども、それを誰にやれと?
ソルジャーお勧め、チャリティーヌード。何処で聞き込んで来たかはともかく、持ち掛けた先はエロドクター。でもって得られたお金が会長さんの儲けってことは、もしかしなくても…。
「もちろん、ブルーが脱ぐんだよ!」
脱げば脱ぐほど儲かる仕組み、とソルジャーは笑顔全開で。
「全部脱げとは言ってないしさ、それに元ネタのチャリティーヌードも色々あるし! リボンで隠すとか、方法はもう幾らでも!」
景気よくスッポンポンもあるんだけどね、とソルジャー、ご機嫌。
「ノルディはとっても乗り気な上に、ドカンと出すって言ってたよ? この夏は是非、脱ぐべきだね!」
脱いで儲けてウハウハ行こうよ、と会長さんの肩をポンッ! と。
「儲け話は好きだろう? せっかく考えてあげた素敵企画を活用してよ」
「お断りだから!」
誰が脱ぐか、と会長さんは怒りMAX。
「勝手に話を決めてこないで欲しいんだけど! 迷惑だから!」
「そうかなあ? ただ脱ぐだけでいいんだよ?」
「なんでノルディの前なんかで!」
「前で脱げとは言っていないよ、写真を撮ったらそれで充分!」
カレンダーとかにすればいいのだ、と譲らないソルジャーですけれど。
「そっちの方こそお断りだよ、なんでノルディにオカズを提供するような真似を!」
「「「おかず?」」」
オカズって、なに? 私たちが顔を見合わせていると、会長さんは「ごめん、失言」とお詫びの言葉を。
「君たちには通じないんだったっけ…。とにかく大人の世界な隠語で、ノルディが喜んじゃうって意味だよ。写真なんかを渡したら最後」
「「「あー…」」」
要は教頭先生と同じことか、とストンと納得。会長さんの写真を見ながらロクでもない夜を送ってらっしゃると噂に聞いていますから…。
「そうそう、それと同じだよ。そんな素材をノルディに渡す必要は無い!」
儲け話でも却下するのみ、と会長さんは憤然と。
「脱ぐんなら君が脱ぎたまえ! 同じ顔だから!」
それで充分、と指をビシィッ! とソルジャーに。確かに顔は同じですから、ソルジャーが脱げばいいんですよねえ?
「…ぼくが脱ぐわけ?」
それはなんだか違う気がする、とソルジャーは自説を唱え始めました。
「君が脱ぐから価値があるんだよ、ノルディにとっては。だからこそチャリティーでお金も出すけど、ぼくだとねえ…。お金は貰えそうにないんだけれど」
「貰えばいいだろ!」
日頃から毟っているくせに、と会長さんが反論すれば。
「だから話にならないんだよ! わざわざ脱いだりしなくってもねえ、ぼくはお金を貰えるし! 脱いでお金を貰えたとしても、日頃のお小遣いの延長なんだよ」
それではチャリティーの趣旨から外れる、と些かこじつけムードなお話。けれどソルジャーは思い込んだら一直線だけに、違うと思えば譲るわけがなく。
「とにかく、君でなければノルディにとっては意味がない。ぼくじゃ価値なし!」
「そうとも思えないけどねえ…」
「そう言わずに! この夏の記念にパアーッと脱ごうよ、景気よく!」
「君が脱いだらいいだろう!」
チャリティーの相手がノルディでなければいいんだろう、と会長さん。
「チャリティーヌードはぼくだって知っているんだよ。趣旨は色々、お金を出してくれる人も色々。だったら相手を変えればいい」
君のヌードの価値が分かる人、と会長さんはトンデモ話を持ち込んできたソルジャーの顔をまじっと見詰めて。
「ノルディにももちろん分かるだろうけど、世の中にはもっと切実に君のヌードを希望な誰かがいそうだけどねえ? 君よりはぼくだと思うけれどさ」
「…それって、まさか…」
「こっちの世界のハーレイだけど?」
アレから毟れ、と会長さん。
「そしてアイデアの提供料として、ぼくにも一割よこしたまえ」
「一割!?」
「二割でも三割でもかまわないけど…。ホントは五割と言いたいけれども、大負けに負けて一割でいい。チャリティーだしね?」
脱いでこい! と会長さんは言い放ちましたが、エロドクターならぬ教頭先生を相手にチャリティーヌード。しかも脱ぐのはソルジャーだなんて、そんな企画が通るんでしょうか…?
「…こっちのハーレイ相手に脱げって? このぼくに?」
これでも結婚してるんだけど、とソルジャーは唇を尖らせながら。
「ノルディだったら赤の他人だから脱いでもいいけど、ハーレイはねえ…。なんだか浮気をしてるみたいで気が咎めるよ、うん」
「実は浮気もやりたいくせに!」
会長さんの鋭い突っ込み。
「ノルディとヤろうと考えてみたり、こっちのハーレイも巻き込んで三人でだとか、ロクなことを言わない筈だけどねえ?」
「ぼくはいいんだよ、ぼくだけに限った問題だったら! 問題はぼくのハーレイで!」
ああ見えて非常に繊細なのだ、とソルジャー、至って真面目な顔で。
「ぼくが自分以外の誰かと…、と考えただけでドツボにはまるし、ましてや脱いで写真となるとねえ…。それをオカズに励む誰かがいると思えば萎えちゃいそうだよ」
それは非常に困るのだ、とブツブツブツ。
「ベッドで思い出されたら最後、ヌカロクどころかお預けコース! ぼくの裸を目にしただけで勝手にどんどん意気消沈で!」
「…だったら、セットで脱いでしまえば?」
「「「セット?」」」
会長さんの発言は文字通り、意味不明というヤツでした。何をセットにするのでしょう? ソルジャーのヌードとセットだなんて、全く見当つきませんけど?
「…セットって、何さ?」
ソルジャーにも通じなかったようです。ということは大人の時間の話ではなく、至って普通の次元の何か。セットものとは何なのだろう、とソルジャーも込みで全員で首を捻っていると。
「分からないかな、セットはセット! 意気消沈にならないように!」
会長さんが指を一本立てました。
「君のハーレイ、要は君が自分一人のものでさえあればいいんだろ?」
「それはまあ…。そういうことかな?」
「だからさ、そこをセットでクリア! 君だけじゃなくて君のハーレイも一緒に脱いだら問題解決、二人セットでチャリティーヌード!」
そういうチャリティーヌードもアリだ、と会長さん。何人もが一緒に写っている写真は多いという話ですけれど。…ソルジャーとキャプテンがセットで脱いだら、それって猥褻スレスレでは?
一人で脱ぐのが問題だったらセットで脱げ、という凄い提案。会長さん曰く、チャリティーヌードには大学のサークルのメンバーが全員揃って一枚の写真に、などというのもよくあるケース。ゆえにソルジャーとキャプテンがセットでも何の問題も無いそうですが…。
「おい。それはマズイと俺は思うが」
キース君が口を挟みました。
「サークルのメンバーだったらまだしも、こいつらの場合は夫婦だぞ? 猥褻物になったりしないか、その写真とやら」
「そこが売りだよ、分かってないねえ…」
まだまだだねえ、と会長さん。
「ヤッてる所を撮ったらマズイよ? だけど、それっぽく見える写真はオッケー!」
そこが大切、とニッコリと。
「ハーレイの夢はぼくとの結婚、結婚、すなわちぼくと一発!」
その夢の世界をチラリと見せるチャリティーなのだ、と会長さんは得意げな顔。
「ブルーとの絡みはハーレイの夢じゃないけどねえ…。あくまでぼくにこだわってるけど、自分そっくりの向こうのハーレイとブルーの絡みは別次元だよ」
結婚すれば叶う筈の夢、と言われてみればそうなのかも…。ソルジャーも「ふうん?」と首を傾げつつ。
「じゃあ、アレかい? ぼくとハーレイが二人で脱いで、きわどい写真を撮りまくるって?」
「早い話がそんなトコかな、別にきわどくなくてもいいけど」
二人揃って裸なだけで充分だから、と会長さん。
「後はハーレイが勝手に脳内で補完するしさ、裸で並んで座るだけでも」
「そこはハーレイの膝に座りたいねえ…」
どうせだったら、とソルジャーは俄然、乗り気のようで。
「そういう写真を撮るんだったら、ぼくのハーレイも恥ずかしがる程度で済むと思うよ。ぼくとセットならオカズにされても自分のものだと断言出来るし!」
絡んでるのが自分だから、とソルジャーの心は決まった様子。
「儲け話はぼくも嫌いじゃないからねえ…。ぼくのハーレイとこっちの世界でデートするには資金だって要るし、たまには自分で稼ぐのもいいね」
ハーレイと二人で荒稼ぎ! と言い出しましたが、毟る相手は教頭先生。猥褻スレスレのきわどいヌードを売り付けることは可能でしょうか…?
教頭先生に自分とキャプテンのヌード写真を売り付けたくなって来たらしいソルジャー。しかも猥褻スレスレなのを、と話は恐ろしい方向へと。
「どうせだったら選べるチャリティーヌードもいいねえ…」
「「「選べる?」」」
なんのこっちゃ、と目を丸くした私たちですが、ソルジャーは。
「そのまんまだよ、選べるヌード写真だよ! でなきゃ注文出来るとか! お好みで!」
こっちのハーレイの好みに合わせて選べるヌード、とニコニコニコ。
「チャリティーヌードを撮影するにはカメラマンってヤツが必須だろ? そのカメラマンを使う代わりに、こっちのハーレイが自分で撮影! これだ、と思うベストショットを!」
ついでにポーズの注文なんかも、とソルジャーの瞳が煌めいています。
「あんな絡みを撮ってみたいとか、こういう絡みが好みだとか! 言って貰えればポーズをつけるし、これぞチャリティー!」
そしてこっちのハーレイにも美味しい話、と自信満々。
「これを断る馬鹿はいないよ、絶対に! 持ち掛けたら確実に釣れるかと!」
「…鼻血じゃないかと思うけどねえ?」
釣れる前に、と会長さん。
「想像しただけで鼻血の噴水、チャリティーで募金どころの騒ぎじゃなさそうだけど?」
「だから予め、予告をね!」
チャリティーのお知らせを渡しておけば無問題、とソルジャーはフフンと鼻で笑って。
「妄想の段階の鼻血の方はね、家で一人で噴いて貰うよ。お知らせのチラシで噴きまくっておけば、チャリティーにもきっと乗り気になるさ」
妄想だけでは終わらないよ、と絶大な自信。
「この妄想が実現するのだ、とカメラまで誂えそうだけど? でもってポーズの注文なんかもしてくれそうでさ、ぼくの懐が大いに潤うわけ! 君にも一割!」
「…お知らせねえ…」
「絶対、効果はあると思うよ? ぼくと、ぼくのハーレイとのチャリティーヌード!」
早速チラシを作らなくては、と突っ走ってますけど、そのヌードとやら。キャプテンの承諾が必要な上に、撮影場所だって要るんですけど…。その辺をどう考えてるのか、なんだかとっても怖いんですけど~!
「…撮影場所?」
ピッタリの所があるじゃないか、とソルジャーは言ってのけました。
「来月だよねえ、マツカの海の別荘行き! あそこがピッタリ!」
「「「えぇっ!?」」」
「それに結婚記念日に合わせての旅行だろ? 結婚記念日にチャリティーヌードをやろうって言ったらハーレイも反対しないと思うし」
「「「………」」」
エライことになった、と青ざめても既に手遅れと言うか、何と言うか。ソルジャーの頭の中ではしっかり企画が立ち上がっていて、チラシまで作るつもりです。つまりはチラシを貰った教頭先生がソルジャーの話に乗りさえすれば…。
「そう! チャリティーヌードで大儲け!」
この夏の海は実に素敵な思い出が出来る、とソルジャーは思い切り暴走モード。
「チラシにはぼくのハーレイの写真も要るねえ、二人並んで撮ろうかな? それとも二人でベッドに入って、上掛けから覗いた肩から上とか…」
「そんな写真を何処で撮るわけ!?」
ぼくの家は絶対貸さないからね、と会長さんが怒鳴れば、ソルジャー、ケロリと。
「なんで君の家なんか借りなきゃいけないのさ? 青の間があるのに」
「カメラマンは?」
「ぶるぅに決まっているだろう! 日頃から覗きで鍛えたぶるぅだよ!」
きっと素晴らしい写真を撮る筈、とソルジャーが挙げた名前は大食漢の悪戯小僧のものでした。何かといえば大人の時間を覗き見していると聞いていますし、写真くらいは撮るでしょうけど…。
「ね? いいカメラマンだと思うだろ?」
チラシの段階で既にチャリティー! とソルジャーは自画自賛しています。
「ぶるぅが調子に乗った場合は隠し撮りだってしそうだからね? ぼくのハーレイがOKさえすりゃ、そういう写真もチラシに使える」
そしてチラシは無料サービス、と言われなくともチラシは無料。教頭先生が盛大に鼻血を噴き上げるレベルのものであっても、あくまで無料。ソルジャー曰く、チラシで妄想して楽しんだ分もチャリティーに気前よく出してほしいということで…。
「チャリティーって本来そういうものだって聞いてるしね? 無料サービスで奉仕の精神!」
ご奉仕とはちょっと違うけどね、と妙な発言が聞こえましたが、聞こえなかったことにしておきますか…。
カッ飛んだアイデア、チャリティーヌード。あまりの展開に止めることさえ出来ないままに、ソルジャーは勝手に計画を立ててウキウキ帰って行ってしまいました。海の別荘で撮影だとか、チラシを作って教頭先生に渡すのだとか。私たちの頭痛の種だけ増やしてくれて…。
「…で、どうなったんだ、あの計画は?」
キース君が超特大の溜息つきで尋ねる、会長さんの家での昼食タイム。あの日から時は順調に流れ、山の別荘ライフも終わって今はお盆が目の前です。ソルジャーは山の別荘にチラシの見本を持って現れましたが、それ以降、特に動きは無くて。
「さあねえ? …チラシは無事にハーレイの手に渡ったようだけどねえ?」
考えたくない、と会長さん。
「あのチラシ、結局、隠し撮りだろ? ブルーはチラシにそれもきちんと書いたらしくて」
「「「ええっ!?」」」
見本の段階では「隠し撮り」の文字は何処にも無かったと記憶しています。ソルジャーとキャプテンがベッドで抱き合っていた写真は肩から上だけ、もちろんカラー。それをメインに「チャリティーヌード撮影会!」の文字や、撮影会の趣旨の説明や…。
「こんな感じで好みのポーズを指定できます、と書いたついでに隠し撮りだって書き添えたんだよ。本当に本物の現場をぶるぅが撮りました、って!」
「「「うわー…」」」
教頭先生の鼻血の噴水が目に浮かぶような気がします。会長さんによると、教頭先生、チラシが汚れてしまわないよう透明なケースに入れたのだとか。
「でもって毎晩、眺めてるわけ。…それから貯金通帳も」
「「「貯金通帳…」」」
そんな代物をチェックしているなら、チャリティーヌードにドカンとつぎ込むつもりでしょう。ソルジャーが作ったチラシには料金は一切書かれていなくて、「チャリティーですから、お気持ちでどうぞ」という一文だけ。
「あの「お気持ち」が問題でねえ…」
会長さんの言葉に、キース君が「ああ」と。
「あれが一番くせ者だよなあ、ケチったら自分が恥をかくしな…。しかし、坊主の世界もアレだし、俺もよく檀家さんに「はっきり値段を言って下さい」と頼まれて困ることがある」
お気持ちはあくまでお気持ちなのだ、ということですけど、支払う人の懐具合で変わるらしいそれは得てして見栄の世界だそうで。教頭先生も破格の値段を支払うおつもりでらっしゃるだろう、とキース君。うーん、ソルジャー、ぼったくりですか…。
チラシを受け取った教頭先生のその後も分からず、ソルジャーが何を企んでいるかも全く読めず。そのソルジャーは至極ご機嫌で顔を出しては食事やおやつを食べて行くだけ、訊くだけ無駄な雰囲気です。そうこうする内にお盆も終わって…。
「かみお~ん♪ ぶるぅもブルーも来てるよ!」
海の別荘への出発日。アルテメシア駅の中央改札前に出掛けてゆけば、ソルジャー夫妻と「ぶるぅ」が揃って待っていました。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「おはよう、今年もよろしくね!」
「今年もよろしくお願いします」
ソルジャー夫妻の挨拶が終わらない内に「すまん、すまん」と教頭先生ご登場。ソルジャー夫妻の顔を見るなり頬を赤らめ、「よろしく」と挨拶しておられます。
「…あの挨拶だと…」
ジョミー君が呟き、サム君が。
「やる気なんだぜ、例の撮影会」
「ぼくたちは無関係だと思いたい…んですけどね?」
何も言われていませんからね、とシロエ君。そういえば何も聞いていないか、と浮かんだ光明。もしかしたら撮影会とやら、関係者だけで行われるのかもしれません。
「そうだといいが…」
そう思いたいが、とキース君がソルジャー夫妻をチラリと眺めて、マツカ君が。
「どうなんでしょう? 今までのパターンから考えると…」
「待て、言うな」
言霊と言うぞ、とキース君。
「俺たちはあくまで部外者だ。海の別荘へ行くだけなんだ、泳ぎにな」
「そうよね、それと海辺でバーベキューよね」
スウェナちゃんの言葉に私も「そうそう!」と乗っかり、この際、チラシもチャリティーヌードも綺麗に忘れておくことに。海の別荘はプライベートビーチでの時間たっぷり、庭のプールも使い放題。美味しい食事もついていますし、いざ出発~!
電車での時間は貸し切り車両なだけに快適に過ぎて、駅に着いたらマイクロバスでのお出迎え。一年ぶりの海の別荘は海水浴で幕開けです。真っ白な砂が嬉しいプライベートビーチで泳いで、遊んで。バカップルなソルジャー夫妻も「ぶるぅ」も一緒。
「やっぱり地球の海はいいよねえ…」
ソルジャーが大きく伸びをしていますが、その姿に教頭先生が熱い視線を。なにしろソルジャーは水着一丁、見たくなる気持ちは分かりますけど…。
「…例年だったら会長の方を見てらっしゃいますよね?」
シロエ君が声を潜めてヒソヒソと。
「だよね、あっちを見てるってことは…」
やっぱり例の撮影会? とジョミー君。私たちは「シーッ!」と唇に指を当て、コソコソと砂浜で輪になって。
「…チラシに日付は書いてあったか?」
キース君の問いに答えられる人はいませんでした。熟読せずにチラリと見ただけ、感想を求めるソルジャーに「いいんじゃないか」と返しただけ。
「いつだったでしょう?」
「さあ…?」
撮影会の開催は疑う余地もなさそうですけど、日取りが不明では先手を打って逃亡することは不可能です。巻き込まれないためには三十六計逃げるに如かずで、ソルジャー夫妻と一緒にいる時間を短くするしかないというのに…。
「結婚記念日でチャリティーだとか言ってたか?」
確かそうだな、とキース君。
「あいつらの結婚記念日といえば…」
「キース、それさあ…」
今日じゃなかった? とジョミー君の口から怖い台詞が。
「「「今日?!」」」
「シーッ!」
ジョミー君からの鋭い警告。
「うろ覚えだけど、今日だった気が…」
「…今日でしたよ…」
思い出しました、というシロエ君の言葉の追い討ち。まさかXデーは今日とか?
出来ることなら失礼したい撮影会。部外者であると信じたいものの、そうでない可能性もまた高く…。巻き込まれる前に逃げ出そうにも、今日がXデーだというなら難しそうで。違ってくれ、と祈るような気持ちで夕食の席に出掛けてゆくと。
「かみお~ん♪ 今日はお祝いだよ!」
「ぼくのパパとママの結婚記念日~!」
キャイキャイとはしゃぐお子様が二人。「ぶるぅ」の方は未だに決着がついてはいないママの座に顔を顰めるソルジャーを他所に飛び跳ねています。
「えとえと、今年で何回目だっけ?」
「ぶるぅ。そういうのはあまり訊くものではないぞ」
老けた気分になるからな、とキャプテンが返し、ソルジャーは。
「そう? 金婚式なんかゴージャスそうだよ、金だけに君が励んでくれそう」
「…私に今から貯金しておけと? 金製品をプレゼントするために…ですか?」
「違う、違う! 金が違うよ、君の金だけあれば充分!」
「…そちらの方の金でしたか…」
鍛えておきます、と頬を赤らめているキャプテン。このバカップルを何とかしてくれ、と叫びたい気分を堪えつつ、記念日とあればお祝いの言葉も必要で…。
「「「おめでとうございまーす!」」」
「ありがとう。ぼくとハーレイとの結婚記念日を祝して、乾杯!」
「「「かんぱーい!」」」
カチン、カチンとグラスが触れ合い、豪華な夕食が始まりました。各自の席に置かれたメニューによると、デザートは結婚記念日のケーキ。これは逃亡出来ません。普通のデザートなら「これは好きじゃない」とばかりに「御馳走様」と席を立つのもアリですが…。
「いいかい? 今年もやるからね、ハーレイと愛の共同作業!」
「「「はーい…」」」
項垂れるしかない私たち。ソルジャー夫妻の結婚式は人前式で、夕食の席からなだれ込んだもの。それだけにウェディングケーキも入刀式も無くて、その分を取り戻すべく、結婚記念日にはケーキへの入刀式があるのです。切り分けられたケーキは食べるのが礼儀。
「結婚記念日はやっぱりいいねえ…」
「そうですねえ…」
食事の合間にキスを交わして、「あ~ん♪」と食べさせ合っているバカップル。もしもXデーが今日なら、この熱々の雰囲気のままで撮影会とか…?
どうか今日ではありませんように、という祈りも空しく、私たちは捕獲されました。結婚記念日ケーキが配られる中で、ソルジャーが「今日の良き日の記念にイベント!」と高らかに叫び、その場で巻き込まれてしまったのです。
「…なんでこうなる…」
「キース先輩、今更ですよ…」
あの計画が決まった時から運命は決まっていたんですよ、とシロエ君。夕食を終えた私たちは一時間の休憩時間を挟んでソルジャー夫妻の部屋へ。その一時間の間にソルジャーとキャプテンは撮影に備えてお風呂に入っておくのだそうで…。
「このドア、開けたくないんだけれど…」
ジョミー君の嘆きは皆に共通、開けたいわけがありません。しかし背後で「かみお~ん♪」の声。
「ねえねえ、なんで開けないの?」
もう時間だもん! と手を繋いで現れた「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」のコンビ。付き添いとばかりに会長さんも一緒に来ていて。
「…逃げても無駄だよ、相手はブルーだ。ぼくも開けたくはないんだけどね」
「そう言わずに!」
その声と共にドアがガチャリと中から開いて、バスローブ姿のソルジャーが。
「まあ入ってよ、後はこっちのハーレイだけだし!」
「どうぞ、入ってごゆっくり」
見学者用の席はあちらに、とキャプテンが示した先に人数分の椅子が並んでいました。広い部屋には大きなベッドがありますけれども、それと椅子との間にはけっこうスペースが…。カメラマンな教頭先生が楽々と動けるように、でしょうか?
「ああ、あのスペース? 場合によっては有効活用!」
ソルジャーが微笑み、キャプテンが。
「チャリティーヌードですからねえ…。ご注文によっては、あそこでブルーを」
「「「………」」」
大人の時間はベッドだけではなかったのか、と思ったのですが、さにあらず。キャプテンの言葉には続きがあって。
「ソフトSMとか言いましたかねえ、縛ることになっているのですよ」
「「「縛る?」」」
「ええ。海ですから昆布はどうか、とブルーが雰囲気溢れる小道具を用意したようで…」
ご期待下さい、と笑顔のキャプテン。誰もそんなの期待してません~!
ソルジャーを縛る昆布まで用意されているらしい、チャリティーヌード撮影会。どうなることやら、と震えている間にノックの音がコンコンと。
「…こんばんは」
ドア越しの声に、ソルジャーが「待ってたよ!」とドアを開けて客人を招き入れ…。
「ちょっとお客が増えちゃったしねえ、もしかしたら来ないかと心配したけど…」
「すみません、遅くなりました。…覚悟を決めるのに少々時間が…」
お恥ずかしいです、と教頭先生。お買いになったのか借り物なのか、プロ顔負けのカメラを引っ提げ、撮影する気は満々といった所でしょうか。
「こんな機会は二度と無いかもしれませんしね、恥は其処の海に捨ててきました」
「うん、素晴らしい度胸だよ! ご期待に応えて頑張らないと…。それで、例のものは?」
「こちらに用意して参りましたが、如何でしょう?」
気持ちばかりのチャリティーですが、と教頭先生は提げていた紙袋をソルジャーに。チラリと見えた中身にビックリ、帯封つきの最高額の紙幣がドッサリ無造作に…。
「「「…スゴイ…」」」
教頭先生が物凄い額の貯金を持っておられるとは聞いていましたが、本当だったみたいです。会長さんがチッと舌打ちをして。
「…ぼくとの未来のための資金を無駄遣いって?」
「す、すまん…! しかし、お前はこういった美味しいチャンスを一切くれないし…」
「それに関しては何も言わない。ただ、無駄だなあ、って思ってねえ…」
写真なんか撮れやしないくせに、と会長さん。
「究極の鼻血体質の君に何が出来ると? どうせ一枚も撮れないだろうし、無駄だよね、お金」
「そんなことはない!」
大志を抱けば撮れるものだ、と大きく出ました、教頭先生。
「しかもチャリティーヌードだぞ? いわゆる猥褻なヌードとは違う!」
「どうなんだか…」
ソフトSMまであるみたいだよ、と会長さんは鼻でフフンと。
「君が希望すればブルーを昆布で縛るんだってさ、それもチャリティーの内らしい」
「そ、ソフトSM……」
「おや、まだ鼻血は出ないんだ? カメラマン魂で頑張りたまえ」
大金をドブに捨てないように、と会長さんから再度の注意。ソルジャー夫妻はベッドの脇でスタンバイしてますけれども、教頭先生、大丈夫ですかねえ?
「御準備の方はよろしいでしょうか?」
よろしかったら脱ぎますが、とキャプテンが声を掛ける中、教頭先生はカメラを覗いて。
「は、はあ…。注文もつけられると聞いておりますが…」
「その件でしたら、私よりもブルーの方が…。どうなのです、ブルー?」
「いいよ、たっぷり貰ったからね。まずはどういうポーズなのかな、君の希望は?」
「そ、そのう……」
普通にキスでお願いします、と教頭先生。
「バスローブはお召しになったままでいいですから」
「ふうん? いいけど、それはヌードじゃないしね…」
写真は駄目、とソルジャーが逆に注文を。教頭先生は「えっ?」と瞳を見開いて。
「そこは写真は駄目なのですか?」
「うん。ぼくがやるのはチャリティーヌード撮影会! 脱ぐのが前提! 脱いでからならベッドインでもソフトSMでも何でも御希望に応じるけどね」
間違えないように、と釘を刺してから、ソルジャーはキャプテンの首に腕を回して。
「ハーレイ、とりあえずキスらしいよ?」
「そうらしいですね。では、キスをしながら…」
「脱いでベッドに行くのがいいかな?」
「いえ、ベッドで脱がせるべきでしょう。その方が絵になりますよ」
きっと、と始まる熱いキス。写真撮影が出来ない教頭先生はともかく、私たちには目の毒です。この先は大人の時間あるのみ、そんなものを見学させられましても…。
『大丈夫』
「「「えっ?」」」
今の、誰? キョロキョロと見回すと、会長さんがニヤニヤと。
『ブルーは最初から毟ることしか考えてないし、ハーレイの鼻血なんか気にしちゃいない。ぼくはハーレイが大金をドブに捨てるのを見に来ただけでね、君たちの方も御同様ってね』
ハーレイが倒れたら撤収するよ、と続く会長さんの思念。でもでも、教頭先生、カメラを構えてらっしゃいますが? バカップルが脱いだら写真を撮るべく、準備万端整ってますが…?
結婚記念日にチャリティーヌード撮影会。そうやって関連付けられたせいか、ヘタレと評判のキャプテンはギャラリーを気にせず堂々とソルジャーをベッドに押し倒し、バスローブに手をかけました。
ヌードになったら撮影OK、教頭先生がカメラをグッと。
「あっ、ちょっと待って!」
ソルジャーの「待って」が誰に向けられたものか分からないため、キャプテンも教頭先生も動きがピタリと止まりましたが。
「えっと、ハーレイ? ううん、君じゃなくてこっちのハーレイ。…チャリティーに沢山出してくれたし、特別に一枚、凄いのを撮らせてあげるから!」
「は?」
「これがいい、っていうシーンがあったら一声かけてよ。そこで交代させるから」
「「「交代?」」」
何を交代するのだろうか、と悩むよりも前にソルジャーの声が。
「ぼくのハーレイと君とが交代! チャリティーヌードだし、脱いで交代!」
そして遠慮なくぼくと絡んで一枚、とソルジャーは極上の笑みを浮かべて。
「カメラはぶるぅに頼めばいいよ。ね、ぶるぅ?」
「かみお~ん♪ うんと上手に撮ってあげるね、エッチの写真!」
「…え、エッチ…」
教頭先生の声が裏返り、ソルジャーが。
「ぶるぅ、そこはエッチじゃなくって! チャリティーヌードはあくまで芸術!」
「でもでも、見た目はエッチだよう!」
これから大人の時間だよね? という無邪気でおませな言葉が炸裂。
「それでハーレイ、何処で代わるの? あのねえ、ぼくのオススメはねえ…、って、あれっ?」
どうしたの、と「ぶるぅ」が目を丸くする前で噴水の如き教頭先生の鼻血。
「…こ、交代…。と、特別に一枚……」
ヌードで一枚、と呟いた教頭先生、それを最後にドッターン! と床へ。もちろん意識があるわけもなくて、カメラはシャッターを切られることなく転がっていて…。
「はい、大金をドブに捨てたってね」
会長さんが冷たく言い捨て、ソルジャーが。
「ううん、無駄にはなっていないよ。ぼくとハーレイとで有意義に使う!」
「だろうね、チャリティーヌードだしねえ?」
脱ぎもしないで荒稼ぎか、と会長さん。
「で、この馬鹿は此処に置いてってもいい? 連れて帰りたい気分じゃなくてね」
「よかったら後で縛っておこうか、其処の昆布で」
ソフトじゃなくてうんとハードに、というソルジャーの提案に、会長さんは「うん」と即答。
「好きに縛っておいてよ、昆布が乾いた後が楽しみ」
「引きちぎれるとは思うけれども、其処までの過程、録画するのもいいかもねえ…」
そのカメラは録画も出来るようだし、とソルジャー、パチンとウインク。
「この際、脱がせて縛っておくよ。気に入ったらチャリティーヌードってことで」
「了解、ぼくの取り分だった一割の中から支払わせて貰う」
そしてその写真で脅すのだ! と会長さんはブチ上げました。ゼル先生とかにバラ撒かれたくなければ出すものを出せ、と教頭先生に迫るとか。それもチャリティーヌードなのだと言ってますけど、どうなんでしょう? とりあえず大人の時間は見ないで済んだし、良かったです~!
儲かるヌード・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーのアイデア、チャリティーヌードは未遂に終わってしまったようですが…。
教頭先生から毟れてご機嫌、こうなるのは見えていましたけどね。
シャングリラ学園、11月8日に番外編の連載開始から9周年の記念日を迎えました。
感謝の気持ちで月2更新が恒例でしたが、絶望的に使えないのがwindows10 。
シャングリラ学園、月イチ更新のままでした。申し訳ありません。
次回は 「第3月曜」 12月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、11月は、ソルジャーがニートっぽいという話が切っ掛けで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(…ん?)
この曲は、とハーレイは首を傾げて聴き入った。
閉店間際の食料品店、流れ始めたいつもの曲。買い物客が慌てないよう、閉店の三十分前からは必ずこの曲、それが繰り返し流れる決まり。
今日は土曜日、ブルーの家で夕食後もゆっくり過ごしたから。それから歩いて帰って来たから、店に入って暫くしてから流れ始めた閉店の曲。
まだ半時間は閉まらないけれど、買い物をするには充分だけども。その曲が何故だか懐かしい。耳に馴染んだハープが奏でるメロディ。遅い時間に寄ったら聞く曲。
(よく聞いてるしな?)
この町に越して来てから何度となく聞いた。耳にして来た。家から近くて便利な店だし、豊富な品揃えも気に入っている。食料品を買うなら此処だ、と決めているから、閉店間際にも何回も。
(こいつが鳴ったら閉店前だ、って分かってるしな)
そのせいだろう、と考えたけれど、それだけではないような気がしないでもない。
(何処か別の所で聞いたか、これを?)
今までの勤務先だった学校で流れていただろうか?
昼休みの終わりや、下校時刻を告げるメロディの一つだったろうか?
自分にとっては食料品店の曲だけれども、この学校では違う意味だと思って聴いていたろうか?
(どうも分からんな…)
そもそも音楽全般に疎い。名曲だろうが流行りの曲だろうが、買って聴こうと思わない。楽器の演奏だってからっきしだし、歌も滅多に歌わない。鼻歌はたまに歌うけれども。
(…はてさて、何処で聞いたんだったか…)
この店以外の何処だったろう、と考えながら野菜や肉などを選んで籠に入れていった。店に備え付けの籠に色々、それをレジへと運んで、会計。
袋に詰めて貰った食料品を提げて、さて、と出口に向かった時。
(アルフレート…!)
あの曲だった、と思い出した。遠い記憶が蘇って来た。
フィシスの世話をしていた楽士。自分よりも濃い肌の色をしていたアルフレート。
彼が竪琴で奏でた曲だと、彼が作った曲だったと。
(…そうだったのか…)
袋を提げたまま、出口に立って。曲が終わるまで、何度も繰り返し流れ続けて閉店のチャイムがそれに重なるまで聴いていた。ハープのメロディを聴き続けた。
この曲だったと、白い鯨で、シャングリラで聞いていたのだった、と。
買い込んだ食料品を提げて家に帰って、冷蔵庫や棚にそれらを仕舞って。
一息つこうとコーヒーを淹れて、愛用のマグカップを傾けながら先刻の曲を思い浮かべた。
前の自分の記憶が戻ってかなり経つのに、あの店にも何度も行ったのに。
白い鯨で聞いた曲とは気付かなかった。閉店を知らせるメロディだとばかり思っていた。曲名も知らず、あの店で流れる曲なのだ、とだけ。ハープのメロディが流れ始めたら、あと三十分、と。
(俺が今日まで忘れてたってことは…)
全く気付かず、買い物をしていたということは。
小さなブルーも同じだろうか?
アルフレートが奏でていた曲を、白いシャングリラで耳にした曲を忘れたろうか?
自分よりは多く耳にしていた筈だけれども。
フィシスの所に出入りする度、あの曲を聞いていただろうけれど。
(それにしたって…なあ?)
ブルーが所望しない限りは、アルフレートは曲を続けはしなかったろう。ソルジャー・ブルーのご訪問だ、と奥の部屋へと下がっただろう。
ブルーの目的はフィシスに会うこと、フィシスが抱く地球を見ること。二人で話したり、お茶を飲んだり、そうした時間がブルーの望み。他の人間など要りはしないし、音楽も同じ。
(…そうそう聞いてはいなかったろうな、アルフレートの曲…)
気に入っていたなら、青の間にも呼んでいただろう。個人的に奏でさせただろう。
つまりは前のブルーにとっても、さほど興味は無かった曲。忘れてしまった可能性も高い。
(明日、訊いてみるか…)
せっかくだから、と心に決めた。
このメロディをお前は覚えているかと、何の曲だか知っているか、と。
もしも明日まで覚えていたなら、アルフレートの曲を思い出したと、忘れずに目が覚めたなら。
(…しかし…)
どうやって訊いたものだろう?
小さなブルーに聞かせようにも、歌は名人の部類ではないし、楽器の方もまるで駄目だし…。
(ハープなんかは論外なんだ!)
触ったことすら無いハープ。楽器とくればせいぜい縦笛、後はオカリナにハーモニカ程度。早い話が学校で習った楽器が限界、アルフレートのようにはいかない。
歌も下手ではないのだけれど。音痴とも言われていないけれども、好き好んでは歌わない。耳で聞いただけの曲を歌声に乗せて披露出来るほど、いい声だとも思っていない。
(…そうなってくると、鼻歌か?)
試しにフフン、と歌ってみた。閉店のメロディの出だしを、さわりを。
(ふむ…)
これなら出来ないこともない。歌詞も無い曲を野太い声で歌うよりかはマシだろう。
(続きがこうで…)
こんな曲で、と練習する内、それらしいものになってきた。白い鯨で聞いた竪琴とも、ハープの音色とも違うけれども、アルフレートが奏でた曲に。
これならブルーに聞かせられるし、明日も忘れていないだろう。練習を重ねてものにした曲は、きっと何処かに残るだろうから。
日記を書いて、ベッドに入って。次の日の朝、顔を洗おうとして思い出した。
鏡に映った自分の顔を見て、その鼻を見て。
昨夜、何度も歌った鼻歌。こう歌うのだ、と淀みなく歌えるようになるまで繰り返した歌。白い鯨で、白いシャングリラでアルフレートが奏でていた曲。
それをブルーに聞かせるのだったと、覚えているかと訊くのだった、と。
(どんな具合だ?)
上手く歌えるか、と顔を洗った後、パジャマのままで歌ってみて。
(俺としては上出来の部類なんだが…)
充分に聞ける出来だと思う。あの曲だと分かって貰えると思う。アルフレートの竪琴とは違って鼻歌だけれど、ハープの音とも違うけれども、あのメロディだと。
とはいえ、楽器で奏でるのではなくて鼻歌だから。
(あいつに笑われなきゃあいいがな…)
それだけが少し心配だった。
小さなブルーが吹き出さないかと、アルフレートの曲だと思い出すより前に、と。
着替えを済ませて朝食を食べて、天気がいいから今日も歩いてブルーの家へ。
あの食料品店の前を通って、鼻歌を軽く歌いながら。アルフレートが奏でた曲を。
生垣に囲まれた家に着いたら、二階の窓から手を振るブルー。
部屋に通され、ブルーの母がテーブルの上にお茶とお菓子を置いて去って行った後で。
「おい。お前、この曲、覚えているか?」
下手なんだが、と例の鼻歌を聞かせてやれば。
小さなブルーは首を傾げて聴き入った。笑う代わりに、赤い瞳をパチクリとさせて。
「…なんだったっけ? 聞いたような気もするけれど…」
覚えてるか、って言われても…。それ、学校で教わる曲なの、有名な曲?
「本物の曲は鼻歌じゃなくて、ハープなんだが」
「ハープ?」
「竪琴だ、竪琴。こう、弦を張った」
あるだろ、そういう類の楽器。形は色々あるらしいけどな。
「えーっと…」
ハープで聴かせる曲なの、それ?
そんなの、何処かで聞いたかなあ…。えーっと、ハープ…。ハープの曲…。
ハープの演奏会に出掛けた覚えは無いし、とブルーは考え込んでいたけれど。学校で習った曲の中にも入っていない、と呟いたけれど。
もう一度、聞かせてやったらば。「こういう曲だ」と鼻歌を披露してやったら。歌い終える前にブルーは叫んだ。思い出した、と。
「アルフレート…!」
天体の間で聞いたよ、その曲。アルフレートがいつも弾いていたよ。
「そうだ、あいつの曲なんだ」
俺もすっかり忘れていたがな、しょっちゅう聞いていたのにな?
昨日、此処から帰る途中で聞いたら思い出したんだ。アルフレートの曲だった、とな。
「帰る途中って…。何処で聞いたの?」
「食料品店だ、俺がしょっちゅう行ってる店だ」
閉店の三十分前になったら流すのさ。そっちはきちんとハープの音でな。
「食料品店って…。なんで、そんなトコ?」
どうして食料品店で流れてるわけ、あの曲が?
「さてなあ?」
店主の趣味だか、どうなんだか…。長年あそこに通ってるんだが、昔からだな。
「一応、有名な曲ではあるの?」
「俺も詳しくないんだが…」
そいつは調べてくるのを忘れた、鼻歌を練習していたもんでな。
あの曲をお前に聞かせるには…、と頑張ったんだが、今、気が付いた。思念で伝えりゃハープの曲を伝えられたと、俺の記憶をそのまま流せば良かったと。
迂闊だったな、サイオンってものを忘れちまってた。普段に使っていないと駄目だな、全く。
しかしだ、有名な曲だと言うなら、もっと他でもあの曲を聞いているだろう。
お前よりかは長く生きてるし、食料品店の曲だという形で覚えちゃいないと思うぞ、あれを。
さほど有名な曲ではないのだろう、と推測を述べた。
あの店以外で耳にしたなら、よく聞く曲なら、曲名を知らずとも耳に残るに違いないから。何の曲だろうと、本来は何処で披露されるべき曲なのだろうと思うだろうから。
たとえばハープ奏者の演奏会とか、交響曲の一節だとか。
好きな人ならピンとくる曲で、知らない人でも「何の曲だった?」と尋ねたくなる曲。そういう曲とは違うようだと、あの店でしか聞かないから、と。
「第一、アルフレートがな…」
あまり知られていないじゃないか。俺たちは前の記憶があるから、直ぐに分かるが…。
音楽の教科書にも名前が載ってはいないんじゃないか、アルフレートは?
「そういえば、そうだね」
音楽の歴史は習うけれども、アルフレートは出てない筈だよ。
上の学校に行って詳しく習えば、出て来るのかもしれないけれど…。
「そんな感じの扱いだろうな、俺は習っちゃいないがな」
音楽なんぞとは縁の無い学生生活だったし、その手の授業は受けてないんだ。アルフレートには一度も会わずに来たなあ、あの店で曲を聞いてただけでな。
もっとも、アルフレートの影が薄いというのは、シャングリラに居た頃も同じだったが。
「うん。目立つ方ではなかったよ」
みんなの制服とはまるで違うのを着てたけれども、それだけだもの。
竪琴にしたって、演奏会をやりたいタイプじゃなかったものね。
前のブルーがアルテメシアで保護した少年。引っ込み思案のアルフレート。
成人検査を受ける年にはまだ遠かった。養父母の通報でミュウと判断されたけれども、幼かった彼はそれさえも知らず、ユニバーサルの職員に捕えられる直前に救出されてシャングリラに来た。
右も左も分からない場所に、養父母も友達もいない所に。
普通はそれでも慣れるものだけれど、アルフレートはそうはいかなくて。
機嫌を取ろうと「欲しいものは?」「食べたいものは?」と養育部門の者が尋ねても黙るだけ。
けれども、ブルーがアルフレートに会った時。
ソルジャーに不可能なことは無いに等しいと教わったからか、俯き加減でこう口にした。
「竪琴が欲しい」と、この船に竪琴は無さそうだけど、と。
「あいつ、竪琴を習ってたんだよなあ…。通報される前は」
「そう。だから竪琴を欲しがったんだよ、懐かしい思い出に繋がってるから」
竪琴を教える教室に通ったこととか、そこに居た音楽をやる友達とか。
家で練習していた時にも、お父さんやお母さんに聞いて貰っていたんだものね…。
白いシャングリラに竪琴という楽器は無かったけれど。
話を聞いたゼルが「わしがなんとかしてやるわい」と名乗りを上げた。楽器といえども仕組みは機械と似たようなものだと、設計図どおりに作れば出来ると。
ヒルマンが竪琴の構造を調べて、ゼルが「金属よりかは柔らかいんじゃ」と木を加工して作った骨組み。ニスを塗って仕上げて、特製の弦を張って音を確かめ、渡してやった。
「これでどうじゃ」と、「お前の竪琴が出来たんじゃが」と。
アルフレートは大喜びして、何度も「ありがとう」と頭を下げた。竪琴をくれたゼルに、周りで見守る長老たちとキャプテン、それにブルーに。
これが欲しかったと、やっと竪琴が弾けるようになったと、アルフレートの顔が語っていた。
引っ込み思案の子供だったから、「ありがとう」の言葉だけしか言えなかったけれど。
喧嘩を吹っかけられれば負けるし、それを恐れて子供たちの群れには近付かないし。
ヒルマンの授業が終わった途端に逃げるように去ってゆく子供だったけれど。
何かといえば泣いてばかりで、唯一の友は貰った竪琴。
それを上手に奏でる他には特技も何も持ってはいなくて、おまけに極度の引っ込み思案。
船での役目もろくに務まりそうにないから、成長した後は天体の間に配属された。
母なる地球の四季の星座を映し出す部屋。皆の憩いの場でもあるから、音楽係がいるというのもいいだろう、と。それならば竪琴を弾いていられるし、立派な仕事と見做されるから。
制服も一人だけ、皆とは違ったデザインで。
間違って仕事を言いつけられたりしないように、とアルフレート専用の衣装が出来た。それさえ着ていれば何処に行っても「音楽係だ」と一目で分かるし、他の用事は頼まれない。
シャングリラでの仕事は多岐に亘って、手が足りなければ通りかかった者を使いもする。これを取って来て貰えないかと、あるいは伝言を頼めるか、などと。
アルフレートにはそれも難しそうだ、と音楽係。
わざわざ制服のデザインまでも変えて、無用のトラブルに巻き込まれることがないように、と。
「そのアルフレートが、だ…」
フィシスが来てから変わったんだよな、劇的にな。
竪琴を弾くことだけしか出来ないヤツだと思っていたのに、フィシス専属になるとはなあ…。
「世話を頼んでもかまわないかい、って言っただけなんだけどね、前のぼくは」
フィシスの居場所は天体の間がいい、と決めていたから、アルフレートに言わなくちゃ、って。
小さな女の子が一人増えるから、出来れば世話をしてくれるかな、って。
断られちゃうと思っていたのに、フィシスを見るなり引き受けちゃったよ、アルフレートは。
「そうなんだよなあ、俺もあれには驚いたもんだ」
アルフレートだけに、自分の居場所を変えちまうかと思ったが…。
展望室にでも引越すだろうと思ってたんだが、いともあっさり「はい」と答えたと来たもんだ。
その後はもう一所懸命にフィシスを世話して、音楽係の方がオマケってな。
引っ込み思案で人見知りだったアルフレートに託されたフィシス。幼いフィシス。
アルフレートにとって、フィシスの世話はどうやら天職だったらしくて。
身の回りの世話は女性の係がついたけれども、その他は全部アルフレートがやっていた。部屋を訪問して来た者を取り次ぐことから、船内を移動する時の付き添いまで。
「お茶を淹れるのもあいつだったよなあ、何をするにも、何処に行ってもフィシス様、と」
フィシスがこんなに小さな子供の頃から、もうフィシス様、フィシス様でな。
「あれにはぼくも敵わなかったよ、フィシスしか見えていないんだもの」
前のぼくとアルフレートと、どっちがフィシスを大事に扱っていたんだろう、って訊かれたら。
圧倒的にアルフレートの勝ちだよ、ぼくよりもね。
「…そうなのか?」
「うん。アルフレートにかかったらフィシスはお姫様だよ」
ぼくが敵うわけないじゃない。一日中、フィシスの側には居られないしね。
「敵わないって…。あいつのライバル、お前だったが?」
「なんで?」
どうしてぼくがライバルになるわけ、アルフレートの?
「お前、フィシスの王子様だろうが」
「そうだっけ?」
「自覚、無かったのか…」
お前には自覚が無かったんだな、王子様のくせに。何処から見たってそう見えたのに…。
今の時代でも、フィシスと言ったらお前とセットにされてるのにな?
それにフィシスの方ではそのつもりだったぞ、とハーレイは頭を抱えたけれど。
自分を助け出してくれて、守ってくれている王子様だと思っていたぞ、と言ったけれども。
キョトンとしている小さなブルー。
フィシスは女神だから、そのように扱っていただけだと。
青い地球を抱く女神らしくと、ミュウの女神に相応しく衣装もそのように、と。
「後は攫って来た負い目かなあ…」
ぼくがサイオンを与えなかったら、ぼくと出会っていなかったなら。
失敗作でも、データを次に生かすためにと、寿命を迎えるまで生きられた可能性もあったしね。
研究者たちしか知らないままでも、ミュウになるのとは別の人生。
それを潰したのが前のぼくだったんだよ、フィシスの人生を強引に変えてしまってね。
「おいおい、お前がそれを言うのか?」
どうしても欲しいと攫って来たお前が、フィシスが欲しいと攫ったお前が。
「だって、王子様って言われても…。ぼくには恋人、とっくにいたしね?」
フィシスを攫って来てもいいか、って相談した相手もその恋人だよ、前のハーレイだよ?
「確かにそうではあるんだが…」
お前は俺に相談に来たし、俺が許したわけなんだが…。
フィシスはそうやって船に来たんだが、それにしたって、フィシスの王子様はだな…。
シャングリラでの評価はお前の言うのとは違っただろう、とハーレイは嘆く。
ブルーとフィシスで対だったろう、と。アルフレートとフィシスではなくて、と。
「まあ、いい隠れ蓑にはなったがな。…フィシス」
お前と俺との仲を隠すにはピッタリだったな、フィシスの存在。
「…そうだったの?」
「うむ。俺が必死に顔に出さないよう頑張らなくても、みんなフィシスを見ていたからな」
「フィシスは美人だったしね?」
誰だってじっと見ていたくなるよ、フィシスが通り掛かったら。
「そうじゃなくてだ、お前の恋人…。俺だとバレたら大変だったが、フィシスが来たら、だ」
明らかにフィシスの方がお前に似合いだ、誰が見たって似合いの二人だ。美男と美女でな。
俺なんかは誰も疑いやしない、フィシスって美人が来ちまったらな。
なにしろ薔薇のジャムが誰よりも似合わん男だ、クジ引きの箱にだって素通りされたんだ。
そんな俺がお前の恋人だなどと、間違ったって誰も思わんな。フィシスがお前の側にいればな。
誰の目にもフィシスに似合いだと映っていたブルー。ソルジャー・ブルー。
アルフレートも例外ではなくて、ブルーにだけは敵わないと思っていたのだろうに。
生まれ変わった当のブルーは、小さなブルーは自覚も無ければ、それと気付いてもいなかった。
ハーレイの話にポカンとするだけで、信じられないと驚くだけで。
「…前のぼくがアルフレートのライバルだったなんて…」
知らなかったよ、今の今まで。
アルフレートったら、一人で勝手に思い込んでて、勝てないと決めてしまっていたんだ?
じゃあ、前のぼくが死んじゃった後は、もうアルフレートのものだよね、フィシス。
ライバルはいなくなったんだから。
寂しがってるフィシスの世話をして、慰めてあげて…。
アルフレートが一人占めに出来るよ、前のぼくはもういないんだから。
きっとそうだ、とブルーが言うから。
小さなブルーの頭の中では、ハッピーエンドな結末が描かれているようだから。
「お前なあ…。そうなっていたら、アルフレートも伝説だぞ?」
今みたいに影が薄いどころか、有名人だ。あの曲を作った作曲家な上に、音楽家としてな。
「どうして?」
「有名な幼稚園の先生の旦那様だぞ、フィシスと結婚出来ていればな」
フィシス先生の像とセットで、アルフレートも竪琴を抱えた像があったろうさ。あちこちの星で子供たちに竪琴を弾いてやっただろうしな、いろんな曲をな。
フィシスは今でも像があるほど、伝説の幼稚園の先生だろうが。音楽家の旦那様が一緒に旅して回っていたなら、そっちも間違いなく有名人だ。
「…それじゃ、アルフレートは何処に行っちゃったの?」
何処に消えちゃったの、フィシスと一緒に幼稚園に行かなかったのなら?
「さあなあ、フィシスが作った幼稚園にはカナリヤの子供たちがセットだしなあ…」
あの子供たちと一緒に幼稚園を作ったんだ、って話は今でも残っちゃいるが…。
幼稚園で竪琴を弾いてた男がいたとは伝わってないし、アルフレートは何処へ消えたんだか…。
もしかしたら、竪琴、弾いていたかもしれないけどな。
フィシスの旦那様なら覚えて貰って有名人になれたんだろうが、ただの竪琴弾きではなあ…。
「…忘れられちゃった?」
幼稚園の先生になったフィシスの世話をしてても、フィシスと結婚しなかったから。
「そうかもなあ…」
ちゃんと世話係で、竪琴も弾いて、幼稚園までついて行ったのかもなあ…。
それなのに忘れられてしまったかもなあ、引っ込み思案のアルフレートだしな?
目立ちたいタイプとは全く違うし、最後の最後まで裏方のままで消息が途絶えてしまった、と。
だが、曲だけは今も残っているさ、とハーレイは鼻歌を歌ってやった。
昨夜、何度も練習した曲。アルフレートが弾いていた曲。
下手だけどな、と。思念波で伝え直そうか、と。
「ううん、その歌の方がいい。アルフレートの曲も懐かしかったよ」
でもね…。
それをハーレイが聴かせてくれた方が嬉しいよ、と小さなブルーが微笑むから。
ハーレイの鼻歌で聴けて良かったと、思念波で伝えて貰うよりもいい、と顔を綻ばせるから。
「…アルフレートも気の毒なヤツだな、お前がライバルだっただなんてな」
ライバルどころか、戦う必要さえも全く何処にも無かったんだが…。
いくらフィシスがお前を見てても、お前の方ではフィシスに恋しちゃいなかったのにな。
「仕方ないよ。ぼくとハーレイとが恋人同士ってことは、誰にも秘密だったんだから」
フィシスだって気付いていない筈だよ、気付いていたなら、もっと何か…。
なんだったっけ、占い師は自分のことは占ってはいけないんだったっけ?
だからフィシスは恋占いは一度もしなかったろうし、前のぼくが誰に恋をしてたかも気付いてはいない筈なんだよね。
ぼくの恋の行方を占ってみたって、相手が誰かは読めないんだから。
「なるほどなあ…。フィシスとしては、お前の恋の相手は自分のつもりでいられるわけか」
占ってみても、俺の名前はカードには書いてないからなあ…。
「そういうことだよ。悲しい恋、って出ていたとしても、それだけなんだよ」
ぼくがメギドで死んでしまって、それでおしまい。占いで出来ることはそこまでだけ。
「すると、あいつは被害者なのか?」
前のお前をライバル視したのに、そのライバルには俺がいたというオチ。
俺は恨まれても仕方ないのか、コソコソしてずに表に出て来いと。
そうすりゃフィシスも目が覚めちまって、自分の方を向いてくれるかもしれないのに、と。
「…そうだったかも…」
被害者だったかもね、アルフレートは。
前のハーレイが隠れてたせいで、恋の相手を逃してしまった気の毒な被害者。
「おいおいおい…」
恨まれたんではたまらないな、とハーレイは苦笑したけれど。
アルフレートの方は、最後まで気付きもしなかったろう。それにフィシスも。
自分とブルーが秘密の恋人同士だったことに。
前のブルーが恋をしていたのはフィシスではなくて、ハーレイだったということに。
誰が見ても美人のフィシスがブルーには似合いの恋人だけども、ブルーの恋人は薔薇のジャムが似合わないと言われたハーレイ。シャングリラで薔薇のジャムが作られる度に希望者が引いたクジ引きの箱が、前を素通りしていたハーレイ。
最後まで誰も気付かなかった。
ブルーの恋人が本当は誰か、誰がブルーの恋した相手だったのか。
それは今でも知られないままで、ソルジャー・ブルーと対になるのはフィシスのままで。
だからきっと、アルフレートも知らずに終わって、時の彼方に消えたのだろう。
前のブルーを恋のライバルだと思い込んだまま、あの曲だけを今に残して。
「前のぼくとハーレイが恋人同士だったってこと…」
今度も秘密のままなのかな?
ぼくはハーレイと結婚するけど、前のぼくの記憶を話さなければ、ぼくはぼくだし…。
ソルジャー・ブルーにそっくりっていうだけの、ただのブルーだし。
ハーレイだってそうだよね?
二人揃って黙っていたなら、前のぼくたちのことは知られないままで終わるんだけど…。
「どうするかなあ…。平凡に暮らしたければ、秘密だな」
記憶のことなんか喋りもしないで、普通に暮らしていれば普通の恋人同士だ。
前の俺たちとはまるで無関係で、今の平和な時代だけを楽しんでいけばいいってな。
学者たちにも取り囲まれないし、インタビューされることだって無いし…。
「…そうしようか?」
黙っていようか、ぼくたちの記憶。
なんにも知らないふりをしちゃって、知らん顔で生きて行くのがいいかな…?
「お前の好きなようにすればいいさ」
喋りたければ、喋っちまっていいんだぞ?
俺はお前に合わせてやるから。黙ってるにしても、喋るにしても。
「うん、そうする」
今は黙っていたいって気分。
前のぼくの記憶は懐かしいけれど、ハーレイと二人で懐かしめれば充分だよ、って。
そして二人で買い物に行こう、とブルーは笑顔になった。
いつかハーレイと結婚したなら、手を繋いで二人で買い物に行こうと。
懐かしいアルフレートの竪琴を聴きに、閉店間際の食料品店へ。
曲を奏でる人はアルフレートではないけれど。きっと別人が奏でたハープの音色だろうけれど。
あれこれと買い物をしてから家へ帰って、二人でゆっくり夕食を…、と。
買い込んで来た食材でハーレイが美味しい料理を作って、ブルーと皿に盛り付けて。
誰にも邪魔をされずに夕食、時にはキスを交わしたりもして。
そう、今はそんな風に暮らせる平和な世界。結婚して二人で暮らせる世界。
あの曲を奏でたアルフレートはもう、何処を探してもいないけれども…。
遠い竪琴・了
※ハーレイが思い出した、アルフレートが奏でていた曲。ゼルに作って貰ったハープで。
今の時代は曲が残っているだけですけど、食料品店が閉まる前には、いつも流れるのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
金曜日の夜、眠る前にサポーターを着けようとしていたブルー。
今夜は少し冷えそうだからと、メギドの悪夢を見てしまってはたまらないから、と。ハーレイがくれたサポーター。医療用の薄いサポーター。
秋の初めに夜中の冷え込みで毎晩のようにメギドの夢を見た。右の手が冷えて冷たくなるから。前の生の最後にハーレイの温もりを失くしてしまって、凍えた記憶が蘇るから。
それを防ぐための助けになれば…、とハーレイがサポーターを贈ってくれた。右手用に、と。
自分がブルーの右手を握る時の力加減を再現したと、そのように作って貰ったと。
着ければハーレイに右手を握られているような感覚になれるサポーター。初めて着けて眠った夜には、メギドの夢にハーレイが現れたほどに。
幻のハーレイだったけれども、凍えた右手にそっと移してくれた温もり。ハーレイの幻が消えた後にも温もりは残って、悲しくなかった。独りぼっちではないと、もう一人ではないのだと。
そういう夢を見せてくれたり、悪夢そのものを防いでくれたり。
なんとも頼もしいサポーターではあったけれども、不意に浮かんで来た疑問。
(ハーレイ、何処で買ったんだろう?)
激しいスポーツも遊びもしないから、サポーターなどのお世話になったことは無かった。
生まれつき身体が弱いものだから、馴染みの医師はいるけれど。何度となく近所の病院へ通ったけれども、そこでは多分、こういったものは作らない。
風邪を引いたの、腹痛だのと、そういった患者を対象に診ている町の医師。ブルーが知っている医師はそういう医師。
(あの病院には怪我をした人は行かないし…)
当然、医療用のサポーターを貰って帰る患者もいない。だから分からない、サポーターの出処。ハーレイが何処で作って来たのか、何処で注文したのかが。
(…やっぱり怪我のお医者さんだよね?)
骨折だとか、捻挫だとか。ブルーには縁の無い世界。せいぜい擦り傷、切り傷くらい。わざわざ病院に出向かなくても、家で手当てが出来る怪我しかしたことが無い。
しかし、ハーレイはスポーツをする。水泳はそうでもないだろうけれど、柔道は身体をぶつけるスポーツだから。投げたり、投げられたりする武道だから、怪我も付き物なのかもしれない。
もしかしたら、ハーレイも怪我をしたことがあるのだろうか?
そのせいで馴染みの医師がいるのだろうか、怪我を専門に扱う医師が?
(…骨折しちゃったこともあるとか…?)
そうした話は一度も聞いてはいないけれども、あったかもしれない。
今のハーレイの人生では骨折や捻挫の一つや二つや、あるいは日常茶飯事くらいに。
(身体が丈夫でも怪我はするよね?)
運が悪ければ、自分の技が拙いものであったりすれば。
プロの選手にならないか、と声がかかったほどの腕であっても、始めた頃には初心者だから。
(…やっぱり、怪我して知り合っちゃった?)
このサポーターを作ってくれた医師と、捻挫や骨折を切っ掛けにして。
(前のハーレイは骨折も捻挫もしなかったけれど…)
キャプテンはブリッジで指揮を執るだけだし、キャプテンになる前は厨房にいたし、そういった怪我とは無縁の立場。今のハーレイは違うのだろうか、何度も怪我をしたのだろうか?
(切り傷くらいは前のハーレイもやってたけれど…)
骨折は無かった。捻挫だって、多分。
今のハーレイならではの経験かも、と気になってきたから、メモに書き付けた。
「サポーターとお医者さん」と。
明日は土曜日だから、訊いてみようと。
ハーレイが来たら、何処でサポーターを作ったのかと。
勉強机の上にメモを置いて、一晩ぐっすり深く眠って。朝、目を覚ますと例のメモ。
(訊かなくっちゃ…!)
ハーレイの武勇伝のオマケもついて来そうな素敵な質問だから。
朝食を済ませて部屋の掃除もして、待ち受けていたらチャイムの音。門扉の所に立つハーレイに大きく手を振り、部屋まで上がって来てくれるのを待った。
母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去るなり、早速、質問。あのサポーターも持って来て。
「ハーレイ、このサポーターなんだけど…」
切り出す前にハーレイが「効かなかったか?」と心配そうな瞳になった。昨夜はメギドの悪夢が来たかと、サポーターは役に立たなかったか、と。
「ううん、昨日は夢は見てないんだけど…。夢とは全く関係ないんだけれど…」
このサポーターは何処で作って貰ったの、と尋ねてみた。医療用だから病院なのかと、何処かの病院で頼んだのか、と。
「そりゃあ、まあ…。いわゆる病院って所だが?」
薬局とかでも売ってはいるがな、力加減の調整をするなら病院に出掛けて作らないとな?
俺の握力とかを測ってもらって、それに合わせて。
「病院って…。ハーレイ、怪我をしたの?」
予想通りの答えだったから、そう問い返せば。
「何故だ? なんだって俺が怪我になるんだ」
「病院だから…」
その病院、怪我のお医者さんでしょ?
お腹が痛いとか、風邪を引いたとか、そういう時に行く病院じゃなくて。
「ははっ、そうか! そういう理屈で怪我になったか、なるほどな」
こいつを作った病院の世話にはなっていないな、と笑ったハーレイ。
大きくなってからは怪我をしていないと、ガキの頃なら隣町の病院に行っていた、と。
「その怪我って…。骨折もした?」
「そこまではやらんさ、せいぜい捻挫といったトコだな」
慣れてない間は捻っちまうもんだ、ちょっとしたはずみに手首とか、足。
放っておいたら癖になるから、早めにきちんと治さないとな。大したことはないと甘く見ないで医者に駆け込む、それが頑丈な身体作りに繋がるんだ。
故障しやすい身体になってしまわないよう、早めの処置。それが大切だ、と話すハーレイ。
このサポーターを作った病院もお蔭で馴染みだと、何回となく駆け込んだのだ、と。
「俺の教え子どもの御用達なのさ、この病院はな」
大したことはありません、と言ってやがっても、俺もプロだし見りゃ分かる。医者に診せる方がいいか、保健室の湿布で済ませておくか。
「そういうものなの?」
見ただけで分かるの、自分の身体のことじゃないのに?
「慣れていればな。こう動かしたら痛むか平気か、どんな具合に痛むのか、って訊いてやるんだ」
こいつは駄目だ、と判断したなら、俺の車で病院行きだ。
俺も学校を幾つも変わっているしな、学校から遠けりゃ別の病院に行くが、近けりゃ其処だな。
名医なんだぞ、と教えられた。
この手の怪我にはとても強いと、頼れる医師だと。
まだハーレイが隣町に住んでいた頃に世話になった医師の友人なのだ、と。
「ふうん…。お医者さん同士で友達なんだね、それも腕のいいお医者さん同士」
そういえば、ハーレイの従兄弟にもいたんだっけね、お医者さん。
「ああ。怪我を診る医者ではないんだけどな」
「うん、知ってる。ぼくの聖痕を診てくれたお医者さんだし…」
怪我が専門ってわけじゃないよね、目や身体から血が出ていたって、怪我じゃないから。痛みは確かにあったけれども、怪我したり事故に遭ったわけではなかったものね。
「…お前だから教えてやるけどな。あいつの夢はな、ノルディなんだ」
ドクター・ノルディだ、シャングリラのな。
「…ノルディ? なんでノルディが出て来るわけ?」
「ノルディだぞ? あいつ、病人も怪我人も診ていただろうが、一人でな」
もちろん医療スタッフはいたが、ノルディが最高責任者で何でもこなしていただろう?
あんな風に何でも診られる医者さ。そういった医者になるのが夢なんだそうだ。
いずれは町の病院へ、と思っているらしいハーレイの従兄弟。
大病院で専門の診療科に居るより、何でも診られる町の病院の医師になりたい、と。
「病気から怪我まで扱いたいらしい、手広くな」
それで儲けようってわけじゃなくって、頼りにされる医者になりたいらしいぞ。怪我も病気も、あの先生なら治してくれると、安心して全部任せられる、と言われる医者にな。
「それでノルディが目標なんだね、ノルディは何でも出来たから」
怪我の手術も、病気の手術も。どんな薬を飲ませたらいいか、塗ったらいいかも分かってたし。
「そういうこった。実に頼れる医者だったよな、あいつ」
たまに訊かれてしまうんだよなあ、従兄弟にな。どうすればノルディみたいになれるのかと。
「そっか、ハーレイの記憶…」
前のハーレイの記憶が戻ったってことも、あのお医者さんは知ってるものね。
「うむ。あれ以来、何度も訊かれるんだが…。コツは無いのかと、何か無いかと」
そうは言われても困っちまうんだ、俺としてもな。ノルディのことは覚えちゃいるが、だ…。
「習うより慣れよ、って感じだったしね、ノルディの場合は」
ぶっつけ本番、どんな怪我でも病気の人でも、これが最初のケースです、っていうのが必ず…。
最初は必死でなんとかこなして、だんだん慣れたっていうだけだものね。
「俺もそう言うよりなくってなあ…。要は慣れだと、沢山こなせと」
なにしろノルディには学ぶ師匠もいなかったしな?
「あえて言うならデータベースだよね、ノルディの先生」
船のデータベースから情報を貰って、やり方を覚えていっただけだもんね…。
アルタミラから脱出して間もない頃のシャングリラ。
薬も色々と載ってはいた。怪我の薬も、病気の時に使う薬も。
最初の間は、各自が勝手に症状に応じて持ち出しては使っていたけれど。服用したり、塗ったり貼ったり。けれど…。
「シャングリラって名前がついた頃にはあいつがいたな」
薬と言ったらノルディなんだ、っていう具合にな。
「うん。ノルディに頼めば必要な薬が届く、って。ちょっとした怪我の手当てなんかも」
包帯を巻くとか、他にも色々…、とブルーはコクリと頷いた。
あの頃、食料や備品の管理はハーレイがやっていたのだけれど。前のブルーが奪って来た物資を仕分けして倉庫に入れたのだけれど。
「見当たらないものがあるならハーレイに訊け」と言われたほどの管理人だったハーレイの所へ薬を取りに来る者がいた。何かと言えば、薬を倉庫から出して貰いに。
「病気なんだと思ったんだよな、最初はな」
見かけの割に身体が酷く弱いらしいと、また何か病気をやらかしたな、と。
「そりゃあ、思うよ。いろんな薬を持って行くんじゃあ…」
同じ薬なら分かるけれども、効能が違う薬を色々。
頭痛が治ったら腹痛なのかと、それが治ったら今度は熱が出ちゃったのか、と。
「あいつ、医者向きだったんだよなあ…。面倒見はいいし、几帳面だし」
具合が悪いと聞かされたら黙っちゃいられなかったようだな、どんな感じかを律儀に訊いて。
それから薬を貰いに来るんだ、そいつにピッタリ合いそうなヤツを。
でもって飲ませて、様子を見て。追加で貰うか、もうやめていいか、そんなトコまであれこれと面倒を見たりしてな。
俺に言わせりゃ、自分の面倒は自分で見ろってモンだったが。
まだ治らないか、もう治りそうか、それくらいは自分で判断しろと。薬だって他人に頼まないで自分で取りに来いとな。
倉庫の管理人でもあったハーレイにしてみれば、なんとも不思議だったノルディの行動。
自分用に薬を貰っているのではない、と気付いた後には余計に謎だと思ったものだが、それでもノルディはせっせと薬を取りに来た。飲み薬や塗り薬、様々な病気や怪我の薬を。
成人検査で誰もが記憶をすっかり失くしていたけれど。成人検査の前の記憶は無かったけれど。
そうした中で、病人が出たと聞けば駆け付けるのがノルディだった。怪我人でも同じ。それから薬を貰いに出掛ける。ハーレイが管理していた倉庫へ。
自分でも何故そうするのか分からないが、とノルディ自身にも掴めはしなかった理由。
病人や怪我人を放っておけずに、世話をせずにはいられなかったノルディ。
元々、志していたのだろうか。医師になる道を。
成人検査でミュウと判断され、記憶を失ってしまう前には、医師を目指していたのだろうか。
ノルディは何度も薬を取りに来た末に、薬の注文もつけるようになった。
データベースで情報を調べていたのだろう。
こういう薬は手に入らないかと、これがあればもっと便利なのだが、と。
「薬を注文されちゃったから…」
あれとこれと、って幾つも希望を出されちゃったから…。
「お前、山ほど盗って来たよな、薬も、ついでに医療器具も。
「うん。そういう荷物を載せた輸送船を狙って飛んで行ってね」
食料とかを積んでる船とはまた違うから…。載せている船を探して貰って行って来たよ。これで足りればいいんだけれど、ってコンテナを幾つも持って帰って。
「お前、派手にやらかしてくれたからなあ、シャングリラで病院が開けるほどにな」
医療用のベッドまで奪って来やがって…、と苦笑するハーレイ。
その大量の薬や医療器具の類を嬉々として整理したのがノルディだった。
どうせやるなら、と専用の部屋を一つ貰って、医療用のベッドを設置したのが後のメディカル・ルームの始まり。ノルディはその部屋の責任者となった。
「あいつ、水を得た魚とでも言うか…。めきめきと腕を上げやがって」
気が付きゃ注射も手慣れたモンで、血液検査だってこなすようになっていやがったし…。
「ハーレイがキャプテンになるよりも先に、ノルディはドクターだったよね?」
誰が呼び始めたのかは覚えてないけど、お医者さんだからドクターだ、って。病気になったら、ノルディの所。怪我をしたって、ノルディの所。
「うむ。俺よりも先に確固とした地位を築いていたなあ、俺は所詮は厨房だしな?」
倉庫の管理を任されちゃいても、ただの厨房の責任者ってヤツだ。ドクターはノルディだけしかいないが、厨房だったら、そこそこ料理が上手けりゃなあ…?
「だけどハーレイ、ちゃんとキャプテンになったじゃない」
元は厨房に居たけれど…。「フライパンも船も似たようなものさ」ってキャプテンになったよ、どっちも焦がしちゃ駄目なんだ、って。
「まあな。そして長老って呼ばれる面子にも入ってしまったわけだが…」
ノルディは長老にはならなかったんだ、人数制限があったわけでもないのにな。
「資格は充分、あったのにね」
船の中で誰も代わりになれる人がいない立場で、自分の意見もちゃんと言えたし…。
「そうなんだがなあ…」
本人が嫌だと言っているのを、どうすることも出来んしな?
あいつが長老になっていたなら、長老会議のテーブルに席が一つ余計にあったんだが。
長老になってくれないか、と声を掛けられたノルディは即座に断った。
のんびり会議に出ている間に急患が出たらどうするのか、と。
ブラウは「医療スタッフに任せりゃいいじゃないか」と言ったものだし、ヒルマンも「そういう時には会議を抜けてくれれば…」と提案したのに、ノルディは首を縦には振らなかった。
自分の居場所はメディカル・ルームで、決して会議室ではないと。会議に行くためだけに白衣を脱げはしないと、医者にはそんな暇などは無いと。
「あいつ、見た目もけっこう若かったからな、偉いと知らない仲間もいたよな」
アルテメシアに来てから救出したヤツら、大人になってもきっと気付いちゃいなかったぞ。
実は発言権は大きいと、ノルディがこうだと決めたら誰も文句は言えない、ってこと。
「ドクター・ストップだけだったものね、ノルディが決めたら長老でも反対出来ないのは」
お医者さんが言うのなら守らなくっちゃいけないし…。
そんなものだと思ってたろうね、後から船に来た仲間たちはね。お医者さんだから、って。
「まったくだ。…本当の所は長老のなり損ないだっただけなのにな?」
一つ間違えたら、あいつも長老だったんだがなあ、ゼルたちと揃いの制服を貰って。
「しかも断った方だったんだよ、なり損なったって言ってもね」
誰かが反対してなれなかったってわけじゃなくって、自分で嫌だと断っちゃって。
「なりたいってヤツはいただろうになあ…」
シャングリラの最高機関だったしな、長老会議。
もしも自分が長老だったらあれもやりたい、これもやりたいってヤツはいた筈だぞ、きっと。
欲が無いと言うか、とことん職務に忠実だったと言うべきか…。
長老になってりゃ、自分の意見も希望も言えただろうにな、メディカル・ルームの設備をもっと充実させたいとかな。
「でも、そのお蔭で長生きしたよね、ノルディはね」
長老にならなかったお蔭で。
「そうだな、あいつは地球には降りなかったしな」
人類との会談の席に医者は要らんし、キャプテンの俺も連れて行こうとは思わなかったし…。
長旅だったら医者も要るだろうが、ほんの一日か二日、留守にするっていうだけだしな。それに医者なら人類の方にだって居るだろうが。
「それはそうだね、えーっと、ユグドラシルだっけ?」
リボーンの人たちが常駐している施設だったらお医者さんもいるし、きっと設備だって…。
ハーレイの判断は正しかった筈だよ、ノルディは船に残しておこう、って。
長老だったら、みんな会談に参加しないと全く話にならないけどね。
自ら長老になるのを断ったがゆえに、地球に降りずに残ったノルディ。
グランド・マザーが破壊されて地球が燃え上がった後、シャングリラからは何基ものシャトルが地球へと向かった。逃げ遅れた人類を救うために。
シャトルに拾われ、命からがら逃げ延びて白いシャングリラに来た人類たち。彼らの多くは傷を負っていて、重症の者も少なくなかった。
ノルディは彼らを全て手当てし、必要な者には手術もした。人類の船に戻れるレベルに回復するまで治療を続けて、無事に仲間たちの許へと返した。
ミュウの船でこれだけのことが出来るのか、と人類の医師たちに驚かれたノルディ。
閉ざされた船の中でしか生きられなかったミュウだというのに、高度な技術を持っていたと。
そしてノルディは伝説となった。
病人から怪我人まで何でも診られた凄い医者がいたと、それも独学の医者だったと。
「ノルディだったら、このサポーターも…」
作れてたのかな、作ってくれって頼みさえすれば。
「そりゃ、作るさ。必要とあらば何でも工夫して技術を編み出していたんだからな」
ついでに、お前がメギドから戻れさえしていたら…。
瀕死の重傷を負ってはいてもだ、シャングリラに戻ることさえ出来れば…。
「助かったのかな、あの傷でも?」
何発も撃たれてしまってた上に、ぼくの体力も殆ど残っていなかったのに…。
「ノルディならきっと治していたさ。何としてもな」
船中のヤツらから血をかき集めて、輸血をして。その一方で緊急手術だ、飲まず食わずで立ったままでな。あいつならやった筈だと思う。そして必ず成功させたと。
もちろん右目も元通りだ、と自信たっぷりに語るハーレイ。
眼球の移植再生手術はシャングリラでは例の無いものだったけれど、ノルディならば、と。
データベースから引き出した情報を頼りにやったであろうと、赤い瞳も視力も元の通りに。
残念ながらそうはならなかったがと、そうしようにも肝心の患者が戻って来ないのでは、と。
「ねえ、ハーレイ。もしも、前のぼくを助けていたら、ノルディの伝説…」
増えてたのかな、今よりももっと?
「間違いなく増えたな、死神の手から一人取り戻したってことになるんだからな」
それもソルジャー・ブルーをだ。
ミュウの最初の長の命を救っていたなら、それでお前が地球まで辿り着いたなら。
キースはそれこそ腰を抜かすし、ミュウの医療技術の凄さを心底思い知らされただろうさ、船の中だけで何もかも出来るヤツらだと。
…ただなあ、そのシナリオだと、その後の地球がどうなったやら…。
燃え上がらないで死の星のままで、ノルディの出番は全く無くて。伝説どころかミュウの医者というだけで終わったかもなあ、腕前も独学で仕入れた知識も披露できずに一生を終えて。
「…そっか、そうなっちゃうってこともあるよね」
前のぼくが生きて地球まで行ったら、いろんなことが変わっただろうし…。
今でも地球は青い星にはなっていないかもね、あんな荒療治は出来ないままで。
少しずつテラフォーミングをするにしたって、これほど劇的には回復しなかったかもね…。
「そういうことだな、ノルディの伝説も出来ないままでな」
お前、知っているか?
ノルディの写真な、医者たちが大勢集まるようなデカイ建物には必ず飾ってあるらしいぞ。
写真の代わりにレリーフだとか、そういったこともあるらしい。
「ホント?」
ノルディの写真って、お医者さんにとっては大事なものなの?
「ああ。ミュウの最初の医者だからな」
伝説の医者っていうのもそうだが、ミュウと人類では違う部分もあるからなあ…。外見はまるで変わりはしないが、サイオンを持っている分だけな。
「そうだったんだ…。ノルディ、神様みたいなもの?」
「それに近いな。ああなりたいと、あんな医者になろうと志すヤツも多いってわけだ」
例えば、俺の従兄弟みたいに。
目標はドクター・ノルディなんだ、という医者は少なくないらしい。何でもやろうと、どういう患者が運び込まれても適切な治療が出来るだけの腕を身に付けようと頑張る医者だな。
それから、ノルディは凄い大発明をしている。ミュウの最初の医者ならではの…な。
「…どんな発明?」
前のぼくはなんにも聞いていないよ、ノルディの凄い発明だなんて。
「だろうな、シャングリラではごく当たり前のことだったしな」
アレだ、サイオンで病室を遮蔽するヤツだ。病人の苦痛が外に漏れたら仲間に伝染するからな。思念波があるから、簡単に同調しちまうし…。
もっとも、その素晴らしい発明なんだが。
ナスカでトォニィが生まれた時にはシールドの強度を読み誤ってな、凄い騒ぎになったってな。この俺どころか、ゼルまでが出産の痛みってヤツを体験しちまったんだぞ、男なのにな?
「それ、歴史の本で前に読んだことがあるよ」
どんなのだったの、ねえ、ハーレイ?
子供を産んだって実感できた?
「馬鹿! 俺はひたすら痛かっただけだ、子供なんか産んでないのにな!」
生んだんだな、って充足感は確かにあったが、所詮は男だ。未知の感覚で、かつ痛いだけだ!
今では常識の病室のシールド。
病院によっては待合室で簡易シールドの器機を貸し出したりもする。診察待ちをしている患者の苦痛が伝わらないよう、熱が高くて泣きじゃくっている子供などに。
もちろん急患は最優先で診察だけれど、そういう病人が重なってしまうこともあるから。
そのシステムを最初に考え出して使ったドクター・ノルディ。
サイオンを持った患者はただ病室に入れるだけではなくて、苦痛の思念を漏らさないように工夫すべきだと気付いたノルディ。
ミュウだったからこそ出来た発見、研究熱心だったからこそ開発させて設けたシールド。
シャングリラでは普通のことだったけれど、その外側に居た人類にとっては驚きであって、次の世代を担ったミュウたちからすれば偉大な発明。
病人が出たならこうするのだと、病室を作ったらシールドを必ず設置しなくてはならないと。
伝説と功績を残したノルディ。
本来だったら長老と呼ばれる立場の所を、生涯、一人の医師として生きたドクター・ノルディ。
その写真は今もあるというから、医師が集う建物には写真やレリーフがあるというから。
小さなブルーは首を傾げてこう呟いた。
「…ノルディも何処かにいるのかな?」
ぼくたちみたいに生まれ変わって、地球か何処かの星にいるかな…?
「いるかもなあ…」
あの顔は会ったら一目で分かるが、ガキの頃だとどうなんだか…。
お前みたいなチビのノルディだったら、分からないかもしれないな。
しかしだ、きっとあいつは医者だぞ。でなければ医者を目指すガキだな、そんな気がする。
生まれ変わっても、あのノルディならば。
成人検査で記憶を奪われてもなお、シャングリラで薬の手配をしていたノルディならば。
相も変わらず医者なのだろう、とハーレイとブルーは頷き合った。
もしもノルディが何処かにいるなら、きっと医者だと。でなければ医者の卵か、医者を目指して勉強に励んでいる子供。
そういうノルディがいるに違いないと、生まれ変わっているならば、と。
「会ってみたいね、そういうノルディ」
何処かにいるなら、会ってみたいと思わない?
「…患者としてか?」
お前、注射をして欲しいのか、ノルディに会って?
注射は嫌いだと聞いた筈だと思うんだが…。ノルディの注射は別物なのか?
「それは嫌だよ!」
ぼくが注射は大嫌いだってこと、ハーレイだって知ってるくせに!
アルタミラで懲りて嫌いなんだよ、前のぼくの記憶が戻る前から大嫌いだよ!
いくらノルディと何処かで出会えて、お医者さんと患者だったとしても。
ぼくは注射は断固拒否するし、ハーレイと結婚した後だったら、ハーレイ、約束したじゃない!
「こいつは注射が嫌いなんです」って、「注射は無しでお願いします」って頼んでやるって!
「…俺の近所の医者ってヤツはだ、問答無用で打つタイプだとも言った筈だが?」
「ノルディは違うかもしれないじゃない!」
「いいや、違うな。あいつも問答無用でブスリとやってたタイプだからな」
前のお前の腕にブスリと、「これで治ります」と注射を一発。
だからだ、何処かで出会って患者だったら諦めろ。これは注射だと、注射をされると。
「酷い…!」
今度のノルディも注射をするわけ、このぼくに?
注射は嫌いだって言っているのに、ハーレイも横で「苦手なんです」って言ってくれるのに…!
ノルディと出会ったらまた注射なのか、と顔を顰めたブルーだけれど。
注射は勘弁願いたいけども、懐かしいドクター・ノルディの名前。
白いシャングリラに居た、一番最初のミュウの医者。
シャングリラがまだ白い鯨にならない頃から、ドクターと呼ばれていたノルディ。
注射も含めて何度もお世話になったけれども、御礼を言えなかったから。
メギドに飛ぶ前、十五年ぶりに目覚めた時の治療と、眠り続けていた間にしてくれただろう医療チェックや色々なことの御礼を言いそびれたままで終わったから。
言えないままで前の自分の命は終わってしまったから…。
(ねえ、ノルディ…。ぼくは地球の上で幸せだよ?)
ちゃんと元気にしているから、とブルーは窓の向こうの空を仰いだ。
晴れ渡った秋の高い空。青い地球の色を反射させたような、何処までも澄んだ青い空。
この空の彼方、今も何処かにドクター・ノルディがいるのなら。
今も医者として生きているなら、今も患者を診ているのなら。
(大丈夫だよ、ノルディ。…今度こそ本当に大丈夫)
無茶をするソルジャーはもういないからと、「大丈夫」と嘘をつきはしないからと。
今度はハーレイの言うことを聞いて、きちんと病院へも行くと。
問答無用で注射を打たれるのは嫌だけれども、それで病気が治るのならば。
効くのだったら、我慢する。
ハーレイに心配をかけるよりかは、早めに病気を治したいから。
だから今度こそ大丈夫。ハーレイと二人、何処までも幸せに青い地球で生きてゆくのだから…。
最初の医師・了
※今の時代は、お医者さんたちの目標になっているドクター・ノルディ。偉大な医師として。
シャングリラでも、実は長老格だったらしいです。意外な一面があるものですね。
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