シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうむ…)
懐かしいな、とハーレイは食料品店の店先を眺めた。
週末、ブルーの家まで歩いて出掛ける途中に通り掛かった馴染みの店。表に群れた子供たち。
(俺もガキの頃には、あんなだったかもしれないなあ…)
綿菓子の実演販売中。砂糖の糸をふわりと纏めて雲のような菓子に。
ワッと歓声が上がったと思えば、白かった糸がピンクに変わった。店主が手にした棒にピンクの糸が見る間に巻き付き、ふんわりとした雲の出来上がり。
「ピンク、ちょうだい!」
「次は白がいいな!」
賑やかに騒ぐ子供たちを見ていたら、ふと蘇って来た遠い記憶。
遥かな昔に、白い鯨でこの菓子を見た。シャングリラを取り巻く雲海の雲を切り取ったような、ふわりと大きく膨らんだ菓子を。
(うん、綿菓子は人気だったな)
出来上がる過程を目を輝かせて見学していた子供たち。雲の菓子を手にしてはしゃいだ子たち。
シドも、リオも、ヤエも船に来た頃には綿菓子を食べた。
アルテメシアから救い出した子たちに人気を博した、シャングリラの菓子。
これは買わねば、と綿菓子の実演に群がる子たちをかき分けるようにして近付いた。食料品店の店先に設けられた小さな仮設の店の前に。
「一つ下さい」
白いのでいいな、と出来上がった綿菓子を詰めた袋を指差した途端に掠めた記憶。
(そうだ、綿菓子は一つではなくて…)
袋を取ろうと手を伸ばした店主に言い直した。
「いえ、二つ入りの方をお願いします」
「二つ入りね!」
どうぞ、と差し出された綿菓子入りの大きな袋。それは驚くほどに軽くて、空気のようで。
代金を支払い、袋を抱えて歩き出す。
ブルーは覚えているだろうかと、あの白い船の綿菓子を…、と。
秋晴れの空の下、懐かしい記憶に目を細めながら綿菓子の袋を抱いての散歩。
生垣に囲まれた家に着いて門扉の脇のチャイムを鳴らすと、二階の窓から手を振るブルー。手を振り返して、門扉を開けに来たブルーの母に綿菓子の袋を示して見せた。
「綿菓子を買って来ましたから」と、「お茶にはあまり合わないでしょうが」と。
「まあ、綿菓子…! ブルーも小さい頃にはよく食べましたわ」
でも、あの子。あまり沢山食べられる方ではありませんでしょ、綿菓子だっておんなじですの。
小さいのになさい、って止めても「食べられるから」って聞かなくて…。
普通の大きな綿菓子が欲しいと買っては必ず食べ切れなくって、私か主人が食べてましたわ。
「分かる気がしますよ、ブルー君は見かけに似合わず強情ですしね」
「そうですの。今から思えば、ソルジャー・ブルーだったせいかもしれませんわね」
今のあの子は甘えん坊の弱虫ですけど、元はソルジャー・ブルーですものね。
意志が強くないと務まりませんわよね、ソルジャーなんて。
ハーレイ先生も色々と苦労をなさったんでしょうね、キャプテン・ハーレイでいらした頃に。
こうだと言ったら譲らないソルジャー・ブルーにあれこれ振り回されて。
「ええ、まあ…。そういったことが無かったと言ったら嘘になりますね」
ソルジャー・ブルーも強情でしたよ、おまけに無茶をしてくれるんです。私がどんなに駄目だと止めても、一旦決めたら飛び出して行ってしまうんですよ。
最たるものがメギドだったな…、と苦笑しながらブルーの部屋に案内されて。
ブルーの母が「紅茶でよろしかったかしら?」とお茶のカップとポットだけをテーブルに置いて去った後、ハーレイは綿菓子の袋を掲げてみせた。
「ほら、土産だ。来る途中で売っていたからな」
「綿菓子?」
「ああ。お母さんに聞いたぞ、お前、綿菓子、好きだったってな」
デカイのがいいと言って聞かなくて、食い切れなくて。お父さんかお母さんが食べてたってな?
「そうだけど…。だって、大きいのが欲しいじゃない!」
小さい綿菓子も頼めば作って貰えるけれども、それじゃワクワクしないんだもの。
ちゃんと大きな綿菓子でないと、雲を食べてるような気分にならないんだよ…!
「なるほど、雲なあ…。小さいと雲って感じじゃないなあ、綿菓子はデカイ雲でなくちゃな」
今のお前だったら食べ切れるだろう、このサイズでも。
俺とお前と、一個ずつだ。
二個入っているが、どっちにする?
このとおり、どっちも大きさは似たようなサイズのものなんだがな。
袋から引っ張り出した二つの綿菓子は、まだふんわりと膨らんでいた。出来立ての砂糖の糸から作り上げたように、たっぷりと空気を中に含んで。
左右の手に一つずつ持ってブルーに選ばせ、残った方を一口齧れば舌の上で甘く溶けてゆく。
ブルーもパクリと齧り付いているから、笑みを浮かべて尋ねてやった。
「懐かしいだろ、綿菓子の味」
「うん! パパとママに買って貰っていたのと同じ味だよ、フワフワしてて」
今のぼくなら食べられそうだよ、これ一個、全部。
お腹一杯になってしまってハーレイに「食べてくれる?」って渡さなくても、大丈夫みたい。
「そいつは良かった。しかしだ、お前…」
懐かしいのはガキの頃に食った思い出だけなのか、この綿菓子。
他にも何か忘れちゃいないか、こういう綿菓子の記憶ってヤツを?
「えっ、綿菓子の記憶?」
なんだろ、ママから何か聞いて来た?
食べ切れなかった話の他にも、綿菓子の話、あるのかな…。幼稚園かな、それとも学校?
下の学校でも小さかった頃は綿菓子を買って貰っていたしね。
ママがハーレイに教えたくなるような綿菓子の話、どんな酷いのがあるんだろ…?
「おいおい、一人で二つ食おうとしたとか、そんなのはあるかもしれないが…」
白もピンクも両方欲しい、と欲張った挙句にお父さんとお母さんに食べて貰う羽目になったかもしれんが、俺は全く聞いていないぞ?
俺が言うのはもっと前の記憶さ、前のお前の思い出は無いかと聞いているんだ。
シャングリラだ、あの白い鯨で子供たちが食ってた綿菓子なんだが。
「ああ、シャングリラ…!」
思い出したよ、あったね、綿菓子。
ハーレイが買って来てくれた綿菓子みたいに袋に入ってお店に並んじゃいなかったけど…。
欲しい子の数だけその場で作って渡していたけど、シャングリラにも綿菓子、あったんだっけ!
白い鯨にあった綿菓子。楽園という名の船の綿菓子。
砂糖を熱して溶かしさえすれば、簡単に作れる菓子だったから。
大きく膨らんだ砂糖の糸の菓子は、特別な材料を揃えなくても出来上がる上に、作る過程も見た目も子供たちの心をくすぐり、充分に惹き付けるものだったから。
シャングリラで子供たちを育てるようになって間もなく、ゼルが作った。
ヒルマンが調べた情報を参考に、アッと言う間に製造用の機械を完成させて。
子供が大好きだったゼル。その子供たちに人気だった綿菓子。
綿菓子を作ろうと最初に言い出した者はエラだった。
アルテメシアの育英都市から救い出して来た子供たち。誰もが心に深い傷を負っていて、人類を恐れていたけれど。殺されそうになった記憶に怯えていたけれど、それでも暮らした町が恋しい。養父母が恋しい子供も居た。誰が自分を通報したのか、何も知らずに船に来たから。
彼らの心を解きほぐすために、あれこれ工夫がなされたけれど。
楽しい思い出を引き出してやろう、とエラが挙げたのが綿菓子だった。
アルタミラで檻に閉じ込められていた自分たちは子供時代の記憶を失くしたけれども、その後に色々と学んで来たから子供時代がどういうものかは知っている。
養父母と暮らして、友達と遊んで、時には遊園地などにも出掛けて行って。
そうして過ごした日々の中には、きっと綿菓子があるに違いないと。目の前でふんわりと膨らむ甘い砂糖菓子がきっと、焼き付いているに違いないと。
「綿菓子ねえ…」
美味しいのかい、とブラウが訊いた。長老たちが集まる会議の席で。
「ただの砂糖じゃないのかい? そいつの糸だろ、甘いってだけじゃないのかねえ…」
「そうは思いますが、でも…。綿菓子について語っている本は多いのですよ」
雲を綿菓子のようだと描写した本も沢山あります、愛されている砂糖菓子だと思います。
大人しかいない星でも作っているようですから、マザー・システムも消さないで残す子供時代の記憶の一つでしょう。きっと心に残るお菓子なのです、私たちは忘れてしまいましたが。
「ほほう…。成人検査でも消さん記憶か、それは一見の価値があるのう」
いや、一食と言うべきか。わしらも食べてみたいものじゃな、綿菓子とやらを。
それはどういう仕組みなんじゃ、とゼルが一気に乗り気になった。砂糖を糸にする機械とやらを自分が作ってみるのもいいと。
「一応、調べてはみたのだがね」
こんな具合だ、とヒルマンが既に調べてあった情報。ゼルは渡された資料にザッと目を通して、「よし」と大きく頷いた。
「これなら直ぐに作れるじゃろう。製造機はわしに任せておけ」
しかし、問題はその先じゃのう…。砂糖の糸が出来たからと言って、大きく膨らんだ菓子の形に仕上がるわけではないようじゃ。この資料にも書いてあるとおり、熟練の技が要るようじゃぞ。
ゼルは早速、綿菓子にするための砂糖の糸が吹き出す機械を作ったけれど。
熱せられて糸になった砂糖を綿菓子の形に仕上げるまでが大変だった。芯になる棒に巻き付ける速度が早すぎれば糸は固くくっつき合ってしまって綿にはならない。遅すぎても形が崩れて失敗。
試行錯誤を繰り返すゼルと、甘い糸を紡ぎ続ける綿菓子製造機と。
「あれの試作の段階でだな…」
俺たちにもお鉢が回って来ていただろうが。今日の綿菓子はこういう出来だと、まだまだ改良の余地があるが、と。
「よく食べたっけね、ゼルの綿菓子」
食べ物を無駄には出来ないから、って届けて来るんだ、ぼくの所に。
「下手くそなのをな」
メンツにかけて他の仲間たちには見せられん、と俺たちの間だけで処分しようとしやがって…。
他のヤツらも動員してれば、俺たちが綿菓子を食わされる回数、もっと減ってた筈なんだが。
綿菓子作りの日々は続いた。
大きく膨らんだ綿菓子に仕上げるコツを、甘い糸を紡ぐ機械を作り出したゼルが掴むまで。
その次はヒルマンが技をマスターするまで。
子供たちの教師という役割を担うヒルマンもまた、子供たちの前で失敗は許されないとばかりに綿菓子作りに熱中したから、失敗作の綿菓子が出来ては長老たちに配られていて…。
「ふふっ、青の間でしょっちゅう綿菓子」
膨らみ方が足りないのだとか、ふわふわすぎて形が崩れたのとか…。
飽きるくらいに綿菓子を食べたよ、ゼルとヒルマンが作った失敗作をね。
「お前が食うと言うからだろうが!」
ぼくも食べるよと、ハーレイの分と二人分を寄越してくれれば二人で食べると。
そうすれば失敗作を食べる人間が増えるし、心置きなく綿菓子作りを練習出来る、と!
ハーレイの仕事だった、青の間へ綿菓子を運ぶ係。
失敗作の綿菓子の存在は極秘事項で、長老たち以外に知られるわけにはいかなかったから。
ゼルが作っていた綿菓子は次第に膨らみ、ついには完成品が届いたけれど。
その翌日からは製造係がヒルマンに移って、再び失敗作の日々。膨らみ過ぎて頼りないものや、芯の棒に固く巻き付いてしまって半分飴になったものやら。
そういった綿菓子がコッソリと袋に詰められてハーレイに託される。二人分だと、ソルジャーと二人で食べてくれと。
袋を手にして青の間へ行けば、ブルーが待っていたけれど。
まだ恋人同士ではなかったブルーが、お茶を淹れて待っていたのだけれど。
「紅茶にもコーヒーにも合わなかったな、あの綿菓子は」
今日も、お前のお母さんが紅茶を淹れては下さったんだが…。
どうも合わんな、先に綿菓子、食っちまうか。
「うん、綿菓子はお茶を飲みながら食べるようなお菓子じゃないよね、ホントに」
綿菓子だけで食べてこそだよ、甘くてふわふわ。
お茶なんか飲んだら口の中で飴になってしまうよ、すっかり溶けてくっついちゃって。
ソルジャー・ブルーも失敗作の処分に協力していた綿菓子作り。
失敗作が幾つも青の間に運ばれ、やがてヒルマンもゼルに負けない腕前になった。試作の段階が過ぎた綿菓子は機械ごと公園で大々的にお披露目されて、子供たちの歓声がブリッジにまで届いたほど。
エラの読みは全く間違っておらず、子供たちは皆、顔を輝かせて綿菓子を食べた。
とても懐かしいと、この綿菓子が好きだったと。遊園地や公園で買って貰ったと、友達と一緒に買いに行ったと、地上に居た頃の思い出に浸って砂糖の糸の雲を頬張った。
人類はとても怖いけれども、綿菓子を食べていた頃は幸せだったと、その綿菓子がまた食べられるとは思わなかったと。
綿菓子は子供時代の思い出を失くした仲間たちにも人気が高くて、作ってみたいと言い出す者も多かった。何人もの仲間が綿菓子作りを習い始めて、見事に作れる人材も増えた。
綿菓子製造機は普段は厨房に置かれ、賑やかにやりたい時は公園や天体の間に運ばれた。
雲のような綿菓子が幾つも幾つも、作られては皆に笑顔を運んだ。
シャングリラを取り巻く雲海の雲が綿菓子だったら美味しいだろうと言い出す者やら、あの雲も実は甘いのだ、と子供たちに嘘を教える者やら。
綿菓子はシャングリラの砂糖菓子の定番になって、子供も大人も綿菓子を食べた。これといった行事が無いような時も、作れる腕前の持ち主がいれば頼んで気軽に。
綿菓子を一つ作って欲しいと、食べたいから大きいのを一つ、と。
白い鯨に綿菓子があるのが当たり前になって久しい頃。
救出されて間もない子供が落ち着かない時は、誰かが綿菓子をクルクルと作ってやるのが普通の流れになった頃。そうすれば子供は目を丸くすると、自分が置かれた境遇を暫し忘れるものだと、皆が覚えて実践するようになっていた頃。
「お前が綿菓子を注文したんだ、デカイのを一個、と」
大きいのがいいと、顔が見えないほどに大きい綿菓子が一個欲しい、と。
「そうだっけ?」
ぼく、綿菓子なんかを頼んでいたかな、ハーレイに?
「間違いない。ブリッジで仕事中だった俺に思念でな」
仕事が終わったら一つ頼むよと、青の間まで一個持って来て、と。
とんだ夜食だと思ったけれども、他ならぬブルーの注文だから。
その日の勤務を終えたハーレイは厨房に寄って、綿菓子を作れるスタッフに特大を一つ頼んだ。それを袋に入れて貰って、運んだハーレイ。青の間まで運んで行ったハーレイ。
ブルーは笑顔で待っていた。
この綿菓子を二人で食べようと。
「二人で…ですか?」
「そう、二人で。君とぼくとの二人分だから、特大を注文したんだけれど…」
大きな袋に入っているから、注文通りの綿菓子が出来たみたいだね。
ハーレイ、今日も一日お疲れ様。甘いものは疲れが取れると言うから、君もこれを食べて。
「そういう御注文だったのですか…。ありがとうございます」
では、喜んで頂戴いたします。
最初から二人分だと仰って下されば、二人分で作らせましたのに…。
ソルジャーが遠慮なさらなくても、綿菓子作りが大好きな者が厨房には何人もおりますからね。二つだと頼んでも直ぐに作ってくれますよ。
それどころか、二つ頼まれた方が大喜びかもしれません。腕を奮うチャンスが二回ですから。
次からはどうぞ御遠慮なく、と告げてキッチンへ皿を取りに行こうとしたハーレイ。
青の間の奥には小さなキッチンがあるから、其処から綿菓子を取り分けるための皿とフォークを取って来ようと。
しかし、そのハーレイをブルーが止めた。それは綿菓子の食べ方ではないと。
「こんなに見事に膨らんでるのを切り分けるだなんて、間違っているよ」
綿菓子はお皿やフォークを使って食べるものじゃないと思うんだけどね?
「では、どうやって…」
そういったものを使わないなら、どうやって分ければいいんです?
まさかサイオンで少しずつ千切って食べるとか、そういう風にするのでしょうか?
「いいから、これ。君が持ってて」
「はあ…」
持つのですか、私が綿菓子を?
それは一向にかまわないのですが、どうやってこれをお召し上がりになるつもりですか…?
ブルーと向かい合わせで座るように促され、間に挟んだ小さなテーブルの真ん中辺りで持つよう言われた綿菓子。テーブルの上に立てるような形で綿菓子を持っているように、と。
どういう意味だか分からないまま、ハーレイは綿菓子の棒を握っていたのだけれど…。
「これはね、こうやって食べるんだよ」
ブルーが上半身を傾け、ハーレイが持っている綿菓子を齧った。
自分の手などは添えることなく、首だけを伸ばして桜色の唇を開けると甘い綿を一口。
口に含んだ綿が消えると、ブルーはペロリと唇を舐めて。
「ハーレイ、君はそっち側から食べて」
「なんですって?」
そっち側とは…。私の側から、この綿菓子を齧れという意味で仰いましたか?
私にも綿菓子を齧るようにと?
「そうだけど? この綿菓子は二人分だと言っただろう」
だから二人で食べるんだよ、これを。
ぼくはこっち側から食べていくから、君は自分に近い側から。
「…それでフォークも皿も要らないと…」
そう仰ったのですか、綿菓子はこうして齧るものだと。
確かに正しい食べ方だろうとは思うのですが…。マナーの点からは些か問題があるような…。
行儀が悪いと苦言を呈したものの、まるで聞く耳を持たないブルー。
仕方なく綿菓子に齧り付いたら、ブルーの顔がやたらと近い。
ブルーも食べようとしていたのか、と慌てて綿菓子から顔を離した。うっかり齧って鉢合わせてしまわないよう、タイミングを計って交互に食べようと思っていたら。
「同時に食べなきゃ駄目だろう!」
でないと公平に食べられないから、二人分を頼んだ意味が無くなる。
ぼくが齧っていようが、いまいが、君はそっち側から綿菓子を食べればいいんだよ!
とにかく食べろ、と向かい側のブルーに叱られた。
綿菓子は同時に食べてこそだと、二人で一緒に食べるものだと。
腹を括って食べ始めたものの、齧る度に減ってゆく甘い綿菓子。
最初は殆ど見えなかったブルーの顔が一口ごとに綿の端から覗き始めて、綿菓子の厚みも減ってゆく。白くふうわりと膨らんでいた雲が次第に薄らいでゆく。
ハーレイが、ブルーが齧り付く度に綿菓子は減って、近付いてくる互いの顔。
どんどん、どんどん、縮まる距離。
ブルーの顔はもう目の前と言った感じで、舌を伸ばせば舐め上げられそうなほどで。
(………)
もう食べられない、とハーレイは動きを止めたのだけれど。
綿菓子から顔を離したのだけれど。
「最後まで食べる!」
しっかり齧る、と叱咤されて綿菓子を食べようと首を伸ばしたら触れ合ってしまった唇。
柔らかなブルーの唇と重なってしまった唇。
甘い糸が間に入っていたからだろうか、ブルーの唇は文字通り甘い味がして。
初めて触れ合わせたというわけでもないのに、頬が真っ赤に染まってしまった。
その食べ方を強いた、ブルーの方も。
透けるように白い肌を襟元まで赤くしたブルーが唇に手をやって。
「…案外、恥ずかしいものだね、これは」
ここまで顔が赤くなってしまうとは思わなかったよ、まだ心臓がドキドキ音を立てているかな。
君の顔だってトマトみたいに赤いよ、きっと耳まで赤いんだろうね。
「…何だったんです、あの食べ方は?」
ああいう食べ方を続けていたなら、ああいった結末は容易に予測可能かと思われますが…。
私は想定しておりませんでしたが、言い出されたあなたは最初から御存知だったのでは?
「ちょっと、昔の資料を見ててね」
データベースで、ずうっと昔の資料をね。SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球のデータを。
「地球ですって?」
そのデータには何とあったのでしょうか、このようなことをなさるとは…。
私には全く分からないのですが、データには何と…?
「…ん? ぼくが見付けた古い資料の話かい?」
バカップルというのがあったんだよ、とブルーは笑った。馬鹿とカップルを掛け合わせた造語。
そのバカップルと呼ばれるカップルたちは、こうやって綿菓子を食べていたらしい、と。
「バカップル…ですか?」
馬鹿と付くほど所構わず戯れ合うカップルという意味でしょうか、その言葉は?
あのような綿菓子の食べ方からして。
「うん。二人でジュースを同じ器からストローで飲む、というのもあったけれども…」
綿菓子が面白そうだったのだ、と微笑むブルー。
大きな綿菓子の向こう側から互いの顔がどんどん見えて近付いてくるのが楽しそうだから、と。
「綿菓子はそういう目的のために存在している食べ物ではないと思いますが!」
「まあね。明らかに違う存在だよねえ、綿菓子は」
子供たちのための食べ物だよね、とは言っていたけれど。
肩を竦めてみせたブルーだったけれど、その後も何度もやられたのだった。
綿菓子を一つと、大きな綿菓子を夜食に一つ持って来て欲しいと。
そうして綿菓子を運んでゆく度、繰り返される例の食べ方。
バカップルとやらの食べ方を真似た、二人で同時に齧って最後はキスな食べ方。
いくら恋人同士であっても、その食べ方はやはり気恥ずかしくて。
ブルーと唇を触れ合わせた後、深いキスへと雪崩れ込んでも、頬が赤らむのは止められなくて。
(…あれは本当に恥ずかしかったんだ…!)
誰も見ていないと分かっていたけれど、誰も周りにいなかったけれど。
大きな綿菓子をブルーがどうやって食べているのか、誰も訊いたりしなかったけれど。
(作って貰っている間、待っている俺がどれほど苦労したことか…!)
出来上がった綿菓子はブルーと二人で食べるのだから。同時に食べ始めてキスなのだから。
何も知らない厨房の者や腕自慢の者が甘い糸の雲を作っている間、何度いたたまれない気持ちになっただろう。赤く染まりそうな頬を「少し暑いか?」と誤魔化しながら押さえただろう。
それを幾度も繰り返した果てに、懲りて綿菓子を二つ持って行くようになった。
大きな綿菓子を一つ、と思念でブルーの注文が来たら、綿菓子を二つ。
ブルーは不満そうに唇を尖らせたけれど、「御注文の綿菓子をお持ちしました」と。
そして小さな今のブルーも。
土産に買って来た綿菓子を半分近くまで食べた小さなブルーも。
「ハーレイ、どうして綿菓子を二つ買って来たの!」
ぼくは綿菓子、大好きだけれど。
ハーレイは綿菓子なんかよりも普通のお菓子が好きなんじゃないの、綿菓子は頼りないものね。
もっとお腹に溜まりそうなお菓子が好きだと思うな、ぼくの綿菓子に付き合わなくても良かったのに。一個にしとけば、ハーレイのお菓子はママのケーキになったのに…。
「それはな…。一つだと、お前、ロクなことを思い出さないだろう?」
でもって俺に向かって妙なことを言うんだ、それが何かは俺は言わんが。
「思い出したよ!」
全部すっかり思い出したから怒ってるんだよ、どうして綿菓子が二つなの、って!
前のぼくも何度も怒った筈だよ、綿菓子は一つしか注文していないけど、って!
ハーレイは綿菓子を必ず二つにするんだ、ぼくが一個とお願いしたって!
綿菓子は一つで良かったのに、と膨れる恋人。
二つ買わずに一つだけ買って来てくれていれば良かったのに、と不満一杯の小さな恋人。
まだ十四歳にしかならないブルーと、あの食べ方が出来るようになるのはいつだろう?
大きな綿菓子を一つ、と二人で注文出来る日はいつになるのだろう?
いつか、その日が訪れたなら…。
「ハーレイ、今日は綿菓子、二つでも許してあげるけど…」
結婚した後に二つ買ったら、ぼく、怒るからね?
今度こそ綿菓子は一個あったらホントのホントに充分だからね…!
「分かっているさ。俺もその時は一個しか買わん」
お前が後ろで膨れていたって、赤くなっていたって、一個だけだ。
そいつを二人で食べるんだろうが、お前と俺とで綿菓子を一個。
「そうだよ、今度は本物のバカップルだよね?」
ぼくたちが恋人同士だってこと、誰に知られてもいいんだものね。堂々とバカップルだよね?
「うむ、バカップルだ」
綿菓子を買って正真正銘のバカップルと洒落込もうじゃないか、二人で一個の綿菓子だ。
お前が止めても一個しか買わん。
俺とお前で一個の綿菓子、うんとデカイのを頼んで作って貰ってな。
遠い昔に青の間で二人、コッソリと気取ったバカップル。
前のブルーがデータベースで見付け出して来た、馬鹿と呼ばれるほどの恋人同士。
バカップルという言葉自体は、遥かな昔に死語だけれども。
前の自分たちが生きた時代ですら、死語となってしまった言葉だったけども。
小さなブルーが大きく育ったら、またバカップルとして暮らしてみたい。
綿菓子を買うなら、二人で一個。
大きな綿菓子を一緒に齧って、最後はキスして終わる食べ方。
他にも甘い時間を沢山、沢山、ブルーと二人で幸せの中で。
今度は誰にも隠すことなく、何処へ行ってもバカップルになっていいのだから…。
綿菓子・了
※一つの綿菓子を、二人で食べていた前のハーレイとブルー。「バカップルらしく」と。
けれど今では、綿菓子は一人に一個ずつ。前と同じに食べられる日は、まだ先です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうむ…)
似合うかもな、とハーレイは鳶色の目を細めて新聞のカラー写真を眺めた。
花屋の広告特集だけれど、結婚式用のブーケやフラワーアレンジメントなどを披露する広告写真だけれど。結婚式にはもちろん花嫁がいるから、花嫁のための生花の髪飾りも多数。
その中で目を引いた胡蝶蘭の飾り。結い上げた髪に胡蝶蘭が幾つも。
(あいつ、こういうのがいいかもなあ…)
夢は花嫁な小さなブルー。
「早くハーレイと結婚したいよ」が口癖の、十四歳にしかならないブルー。
今はまだ本当に小さいけれど。
百五十センチで止まったままの背丈も、年相応に幼い心も、まだまだ子供のものだけれども。
(いつかは前のあいつとそっくり同じに育つんだ)
気高く美しかったソルジャー・ブルー。前の自分が愛したブルー。
前の自分が失くしてしまった、あの美しいブルーがそっくりそのまま戻って来る。
憂いを秘めた瞳の色だけは、今度のブルーには無いだろうけれど。幸せ一杯の瞳を煌めかせて、ただただ嬉しそうに笑うのだろうけれど。
(あんな悲しい瞳は二度としなくていいんだ、俺がさせない)
今度こそ守ると決めているから。
どんな悲しみも憂いも近付けることなく、幸せの中で微笑むブルーを守り続けて生きてゆく。
小さなブルーが育ったならば。結婚出来る歳の十八歳を迎えたならば。
そうしたらブルーは、花嫁衣装を着ることになる。
前の生では着られずに終わった、花嫁だけが着られる衣装を。白いシャングリラには花嫁衣装と呼べるドレスは無かったけれども、挙式だけのための純白のドレスは無かったけれども。
(もしもウェディングドレスがあったとしたって、前のあいつは…)
けして着られはしなかった。前のブルーは花嫁衣装を着られなかった。
誰にも言えない秘密の恋人同士だったから。結婚式を挙げるわけにはいかなかったから。
白いシャングリラにも恋人たちはいたというのに、結婚式だってあったのに。
(子供が生まれたカップルだっていたのになあ…)
前のブルーは深い眠りに就いていたけれど、そんなカップルたちを起きて見ていたならば。
赤い瞳に悲しみの色がまた増えたろうか、自分は結婚出来ないのにと。
(前のあいつなら…)
恐らく、彼らを心の底から祝福していたことだろう。生まれた子供たちにも愛を注いで、キスを贈りもしただろう。新しいミュウの世代が出来たと、この子供たちが未来を築いてゆくのだと。
(自分の幸せってヤツは後回しだな)
結婚出来ないことも、恋人がいると明かせないことも、前のブルーなら悲しむことさえも忘れていたに違いない。自分が守り続けた種族の、ミュウの未来を担う子供たちが出来た喜びの前に。
(…そういうヤツだった、前のあいつは…)
ただひたすらにミュウのために生きて、ミュウの未来を守って散った。
メギドを沈めて、独りぼっちで暗い宇宙で逝ってしまった。別れのキスさえ交わすことなく。
(今度は幸せにしてやらんとな)
自分の心を押し殺すような生き方はさせずに、小さなブルーが望むままに。
どんな我儘でも言っていいのだと、何度も何度も言い聞かせてやって。
(結婚する頃には、もう小さくはない筈なんだが…)
それでも今はまだ、小さなブルー。育った姿を思い描こうにも、あまりに愛くるしいブルー。
だから想像するしかない。前のブルーの姿形から、憂いと悲しみの色とを消して。
(まずは結婚式なんだ)
花嫁衣装を纏ったブルーと永遠の愛を誓う式。
小さなブルーはウェディングドレスは女装なのかと悩んでいたこともあったけれど。
ハーレイが自分の母が着たのだと話してやった、白無垢にも憧れているようだけれど。
(ウェディングドレスを着るのなら…)
髪には花がいいかもしれない、と漠然と何処かで思っていた。
銀色の髪に、幾つもの花を。
具体的なイメージは何も無かったし、こういう花だと思ったわけでも無かったのだが、何故だか花を飾るのがいいなと考えている自分がいた。
煌びやかなティアラを被せるよりも。
ブルーには花だと、ティアラよりも花が良さそうだと。
繊細な銀細工のようなブルーに、ティアラはきっと映えるだろうけれど。
花嫁どころか姫君に見えることだろうけれど、ティアラよりも花。
(あいつには清楚な花が合うんだ)
美しいけれども、華美なイメージではないブルー。
それに、宝石よりも花だと思う。
ティアラに鏤められた宝石よりも、花。
命が無い上に豪奢で高価なだけの宝石などより、命の輝きの瑞々しい花。
銀細工のようでも、血の通ったブルー。温かい血が流れたブルー。
生きているブルーには花が似合うと、命あるものこそが似合うのだと。
(宝石なら顔にくっついてるしな?)
わざわざティアラを被せなくとも、ブルーが持っている何にも代え難い澄んだ光を宿す宝石。
二粒の真紅に光る宝石。
その片方がメギドで失われたと小さなブルーから聞かされた時は、どれほどの怒りがこみ上げたことか。あの美しい瞳を銃で撃つなど、悪魔の所業でしかないと。
(そんな最期を迎えただなんて、前のあいつが可哀相じゃないか)
右の瞳を失くしてしまって、痛みのあまりに右手に残った温もりさえも失くしてしまって。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら死んでいったブルー。メギドに散ったブルー。
それを聞いた時、キースを引き裂いてやりたいほどに激しく憎んだ。同時に自分自身を呪った。
キースとは地球でまみえたというのに、彼を殴らなかったから。
キースがブルーに何をしたのか、前の自分はまるで知らなくて、律儀に挨拶してしまったから。
(知っていたなら、あの場で一発殴っていたんだ)
たとえ会談が後に控えていようと、自分の立場がキャプテンだろうと。
それくらいはしても許されたと思う。ブルーの仇、と殴り飛ばして、謝らせて。
(あくまでブルーの仇だしな…)
まさか恋人の敵討ちとは、誰も気付きはしなかったろう。殴ればよかった、あのキースを。
今となっては手遅れだけれど、キースは何処にもいないのだけれど。
キースが砕いてしまった宝石。美しかった赤い宝石。
その宝石は蘇ったから、小さなブルーの顔で生き生きと煌めき、命の輝きを放っているから。
(宝石はあれだけで充分なんだ)
余計なティアラなど被せなくても、二粒の赤い宝石だけで。
だから、飾るなら花がいい。銀色の髪に瑞々しい花を。
これだと思い描いたイメージは本当に何も無かったけれども、この胡蝶蘭。広告の胡蝶蘭の花。
幾つもパターンが載っているから、多分、定番なのだろう。花嫁のための髪飾り。
(ほほう…)
花言葉は「幸福の飛来」だという。それだけでも選ぶ価値がある。
花嫁になったブルーに幾つも、幾つもの幸福の飛来。それを願わないわけがない。
(おまけに、蝶だな)
蝶を思わせる花の形が気に入った。白いシャングリラにはいなかった蝶。自給自足で生きてゆく船で担う役目を持たなかったから、蝶は飼われていなかった。
(今の俺たちには蝶は見慣れたものなんだが…)
青い地球の上を舞う、様々な蝶。今の時代に生まれ変わったからこそ見られる蝶。
まるで平和の証のようだ、と胡蝶蘭の花の形に惹かれた。この花がいいと、蝶の花がいいと。
小さなブルーが髪飾りは花でもいいと言うのなら…。
(胡蝶蘭だな)
これがいいな、と広告の写真を覗き込んでは幾つものパターンを見比べる。
胡蝶蘭の髪飾りは白もあったけれど、ピンクもあった。淡いピンクや、濃いめのピンク。純白のウェディングドレスに合わせて、ピンクの胡蝶蘭の髪飾り。
(あいつらしい色の取り合わせだな)
アルビノに生まれて来たブルー。前の生では成人検査が引き金となってアルビノになったブルーだけれども、今のブルーは生まれた時からアルビノだという。
その姿ゆえに付けられた、ブルーという名。同じアルビノのミュウの長から取られた名前。
(生まれた時からソルジャー・ブルーだったんだ、あいつ)
記憶は無くとも、その姿だけで。ブルーの両親がブルーと名付けたほどに珍しいアルビノ。
透けるように白い肌に銀色の髪で、瞳はさながら赤い宝石。
そんなブルーに真っ白なドレス、髪にピンクの胡蝶蘭。
きっと似合うという気がする。誰もが思わず振り返るような、それは見事な色の取り合わせ。
(これにするかな)
ブルーにはピンクの胡蝶蘭だ、と思ったけれども。
ウェディングドレスのデザインなどはともかく、髪にはピンクの胡蝶蘭だとイメージが固まってしまったのだけれど。
しかし…。
(一人で決めちまってどうするんだ、おい)
花嫁になるのは、あくまでブルー。ウェディングドレスを纏うのもブルー。
その花嫁の意見も聞かずに決めるわけにはいかないから。自分一人では決められないから。
(あいつなら何でも喜びそうではあるんだが…)
夢が花嫁なだけに、どんなドレスでも、髪飾りでも、ブルーはきっと満足だろう。自分の花嫁姿などは二の次、大切なものは花嫁な自分。花嫁衣装を纏った自分。
(俺の趣味だけで全部決めても、文句を言いそうにはないんだが…)
それでも訊いてやらねばなるまい。どんな衣装を選びたいかと、髪の飾りは何にするかと。
明日は土曜日だから、ブルーの家に行く日だから。
話してみようか、このアイデアを。
髪にはピンクの胡蝶蘭だと、それが似合うと思うのだが、と。
翌朝、ベッドで目覚めた時にも胡蝶蘭を忘れてはいなかった。花嫁衣装のブルーにはこれだと、ピンクの胡蝶蘭が似合いそうだと。
朝食を食べて、ブルーの家まで歩く途中も忘れてしまいはしなかったから。
小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けた後に、訊いてみた。
「お前、花がいいか?」
花ってヤツは好みか、お前?
「えっ?」
花は好きだけど、ハーレイ、いきなりどうしたの?
「髪の毛さ、髪」
お前の頭にくっつけるのに、花はどうかと思うんだがな?
「なんで花なの、ぼくの頭に?」
それじゃ女の子みたいだけれど…。花冠でもくれるの、ハーレイ?
「花冠なあ…。そういうのも混じっていたかな、うん。実は結婚式の話なんだが…」
「結婚してくれるの!?」
ハーレイ、それってプロポーズ?
結婚式の話だなんて、結婚の申し込みだよね…?
プロポーズなの、とブルーの顔が輝くから。
もう結婚が決まったかのように、それは嬉しそうに身を乗り出すから。
「いずれはな」と苦笑しながら、ハーレイは小さなブルーにこう話し掛けた。
「これはプロポーズとは違ってだな…。結婚式の中身の話だ、どんな格好をするかだな」
お前、ドレスを着るんだろう?
前に女装だと悩んじゃいたがだ、俺に抱き上げられた記念写真ってヤツを撮りたいんならドレスだからな。あのポーズ、お前の憧れなんだろ、如何にも幸せな花嫁っていう感じだしな?
「んーと…。ぼくは白無垢でもいいんだけれど…」
白無垢にもちょっぴり憧れるんだよ、ハーレイのお母さんが着たって話を聞いたから。どっちにしようか決めてないけど、早めに決めた方がいい?
「いや、急がないが…。もしもドレスにするんなら、だ。髪はどうする?」
「…伸ばさなきゃ駄目?」
ちゃんと結えるように伸ばすべきかな、そういう話もあったよね?
ハーレイ、うんと長さの要る髪型がいいって気がしてきた?
今から伸ばさないと間に合わないくらい、長く伸ばさなきゃ結えない髪型。そうなんだったら、ぼく、頑張って伸ばすけど…。パパとママには「伸ばしたくなった」って嘘をついて。
怪しまれないようにして長く伸ばすよ、と応じるブルーは健気だけれど。
伸ばせと言ったら腰までも伸ばしそうなほどの勢いだけれど、今は髪型の話ではないから。
ハーレイは「そうじゃなくてだ」と張り切るブルーを遮った。
「髪型じゃなくて、飾りの方だ。ティアラ、被るか?」
「…ティアラ?」
「冠だ、冠。ベールとセットで花嫁には要るぞ、でなきゃ花だな」
もちろん、花もベールとセットものだが…。ベールってヤツは欠かせないからな。
ベールはともかく、花かティアラか。どっちがいい?
お前はどっちを髪に飾りたいんだ、ティアラか、花か。
「えーっと…」
そんなの考えたことが無かったよ、ドレスか白無垢かは時々悩んでいるんだけれど…。
ティアラか花かって、ドレスのデザインで決まるんじゃないの?
ドレスにくっついてくるものじゃないの、髪飾りって?
キョトンとしている小さなブルーはまるで分かっていなかった。
世間の花嫁はドレス選びで大騒ぎすることも、それに合う髪型や髪飾りを選び出すために更なる騒ぎがあることも。まだ十四歳と幼い上に、男なのだから当然と言えば当然なのだが…。
ハーレイはクックッと小さく笑うと、「セットじゃないさ」と教えてやった。ドレスを選んでも髪飾りが決まるわけではないと。そうと決まったわけでもないと。
「これがセットになっております、ってドレスがあっても、必ず使えと決まっちゃいないぞ」
別のがいいと、これは嫌だと言い出す女性も多いんだ。自分の好みっていうものがあるからな。
そんなわけでだ、髪飾りはセットじゃないんだが…。お前、どういう飾りをつけたい?
俺は花かと思うんだがな?
「どうして?」
ぼくって花が似合いそうなの、頭に花なんかくっつけたことがないけれど…。
前のぼくなら、シャングリラの子供たちが作ってくれた花冠を何度も乗っけていたけどね。
「単なる俺のイメージってヤツだ」
ティアラよりも花が良さそうだよな、と思ったわけだな、単純に。
お前の顔には見事な宝石が二つもくっついているだろう?
頭の上にまで載せなくていいと、ティアラは要らんと思うんだが…。それよりも花だ、そっちの方がお前に似合いそうだ。造花じゃなくって本物の花がな。
こんなのはどうだ、とブルーの手に触れて思念でイメージを送ってやった。
胡蝶蘭で出来た髪飾り。広告で目にした幾つものパターン。
小さなブルーは目を丸くして。
「胡蝶蘭なの?」
綺麗だけど、ハーレイ、胡蝶蘭が好き?
「こいつのピンクが良さそうだな、と思ってな。ピンクを使ったヤツじゃなくて、だ…」
ピンクの胡蝶蘭がいいな、という気がするんだ。どう飾るかとは全く別にな。
「なんで?」
ハーレイ、ピンクが好きだった?
白が好きだと思ってたけど…。白はシャングリラの色だったしね。
「俺の好みの色はピンクじゃないんだがな?」
それなら車もピンクだろうさ、今の緑じゃなくってな。俺の好みとは無関係だ、これは。
いいか、ウェディングドレスが白だろう?
そこへピンクの胡蝶蘭の髪飾りをつければ、白にピンクでアルビノっぽくならないか?
アルビノのお前は白に赤だし、白にピンクが合いそうだがな?
「ホントだ…!」
ぼくの目の色、赤だものね。
真っ白な花を持ってくるより、ピンクの方が似合ってるかもしれないね…!
「そうだろう?」
ついでに、こいつの花言葉はな…。
「幸福の飛来」と言うんだそうだ。蝶の形だけに、幸福が飛んで来るんだな。俺はお前をうんと幸せにしてやりたいんだし、幸福が飛んで来る花で飾ってやりたい。
それにシャングリラには蝶なんか飛んでいなかったろう?
役に立たないと飼わなかったが、この地球じゃヒラヒラ飛んでいるってな。俺たちは蝶が住める平和な世界に来たんだ、そういう意味でも胡蝶蘭だな。
「それ、いいかも…!」
幸福が飛んで来る花で、シャングリラにはいなかった蝶の形の花なんだね。
その花がいいよ、胡蝶蘭にしようよ、ハーレイ!
胡蝶蘭に決めた、とブルーがはしゃぐ。
結婚式には胡蝶蘭だと、髪にピンクの胡蝶蘭の花を飾るのだと。
それに純白のウェディングドレス。白とピンクでアルビノらしくと、そういう花嫁姿がいいと。
「お前、白無垢はどうするんだ?」
ドレスか白無垢かで悩んでいたのは、もういいのか?
「それだけど…。白無垢でも髪飾りに花はつけられるでしょ?」
絶対ダメってことはないよね、綿帽子の下は好きに飾っていいんでしょ?
「確かにそういう写真もあったが…」
お前に送ったイメージ以外で、そんな写真を見かけたっけな。白無垢で髪に胡蝶蘭のな。
「じゃあ、決まり!」
ドレスか白無垢かはまだ悩むけれど、髪飾りはもう決まったよ。
ピンクの胡蝶蘭にするんだ、ハーレイのお勧めの胡蝶蘭の花。どう飾るかは決めてないけどね。髪飾りの形よりも衣装が先だし、それが決まってから悩むことにするよ。
「髪飾りって…。もう決めたのか!?」
そっちから先に決めちまったのか、花嫁衣装よりも髪飾りを先に決めるのか?
「少しでも早い方がいいじゃない」
順番なんかにはこだわらないしね、どっちが先でもかまわないよ。
それよりも結婚式の準備の方が大事で、出来ることは先にしておかないと。
準備するものが一つ決まった、とブルーは今にも舞い上がりそうで。
髪にはピンクの胡蝶蘭だと浮かれているから、ハーレイは呆れ顔になる。
「一つ決まったと喜ぶのはお前の勝手だが…。お前、明日には忘れてそうだが?」
結婚式はまだまだ先だし、お前は十四歳のチビだしな?
明日になったら綺麗サッパリ、影も形も無いんじゃないのか、ピンクの胡蝶蘭の髪飾りは?
「それはそうだけど…。覚えているかもしれないよ?」
結婚式の準備なんだよ、うんと大切なことだもの。髪飾りだけでも決まったんだもの、しっかり覚えておきたいな。ホントはメモに書きたいくらいなんだけど、まだ早いしね…。
「当たり前だ! お前、いくつだ!」
チビはチビらしくしてればいいんだ、結婚式の準備なんぞを始める歳じゃないからな!
間違ったってウェディングノートはまだ作るなよ?
「…ウェディングノート?」
なあに、それ?
何をするものなの、それも結婚式の準備をするのに要るものなの?
「な、なんでもない…!」
気にしなくていいんだ、チビのお前は。そういうのを持つにはまだ早いしな。
「持つって…。やっぱり結婚式には要るものなんだね、ウェディングノート」
教えてよ、それってどういうノートか。
普通のノートで間に合うものなら、今から作っておきたいような気もするし…。
ハーレイが教えてくれないんだったら、メモに書いておいてデータベースで探すことにするよ。
だから教えて、と言い出した小さなブルーは本気で調べそうだから。
調べるだけでは済まずにウェディングノートを自分で作りそうだから、ハーレイは焦って止めにかかった。ブルーには早いと、まだ早すぎると。
「いいな、ブルー。ウェディングノートは結婚式の準備をするためのノートなんだ」
どういう結婚式にするとか、誰を呼ぶとか、いつまでに何を決めなきゃいけないかだとか…。
スケジュール帳と覚え書きを兼ねたようなものだな、中身は実に細かいらしいが。
専用のウェディングノートも売られているし、自分で作ろうって人もいる。
だがな、いくら自分で作れるからって、ウェディングノートなんかを用意していて、だ。もしも見付かったらどうするつもりだ、お父さんとかお母さんに?
誰と結婚する気なんだ、って所から色々と訊かれちまうぞ、冗談では済まない代物だけにな。
「そっか…。夢中で書いてて、ママが入って来ちゃったら…」
何を書いてるのか、後ろからコッソリ覗き込みたくなるだろうしね、ママだって。
それで中身がウェディングノートだと分かっちゃったら、大変なことになっちゃうかも…。
取り上げられて、中身を読まれて。
ぼくがお嫁さんを目指しているのも、誰のお嫁さんを目指してるかもバレちゃうかもね…。
早くウェディングノートも作りたいのに、とブルーが残念そうに呟く。
決まったばかりのピンクの胡蝶蘭の髪飾り。
こういうアイデアも書いておきたいと、忘れないように書き留めたいのにと。
「せっかく一つ決まったのに…。結婚式の準備」
結婚式で髪に何をつけるか、とても素敵なアイデアが出来て決めたのに…。
ぼくはチビだから忘れちゃうんだ、書いておくウェディングノートも無いから。明日になったら覚えていなくて、思い出しさえしないんだ…。ピンクの胡蝶蘭の髪飾り…。
「なら、俺が書くか?」
「えっ?」
「ウェディングノートは持ってないがな、今の所は作る予定も無いんだが…」
あれは未来の嫁さんと一緒に作るものだし、お前が作れる歳にならんと無理なわけだが…。
ウェディングノートの代わりに、俺の日記に書いておいてやろうか?
お前の髪飾りはピンクの胡蝶蘭だと、胡蝶蘭の花に決まったとな。
「ホント!?」
ハーレイの今日の日記に書いてくれるの、ぼくの髪飾りが決まったこと。
結婚式にはこれにするんだ、って羽根ペンで書いてくれるんだね…!
「日記を書く時まで俺が覚えていたらな」
これから一緒に昼飯を食って、午後のお茶は庭のテーブルか?
そいつが済んだらお前の部屋でのんびりしてから夕食だよなあ、その後は食後のお茶もある。
おまけに明日は日曜日だしな、帰りも普段よりかはゆっくりな上に車じゃなくって歩くんだぞ?
忘れそうな場面が山ほどあるなあ、はてさて、いつまで覚えているやら…。
「酷い…!」
今すぐに手帳に書いておくっていうのは無いんだね!?
そして帰るまでに忘れちゃうんだ、ハーレイまでぼくと一緒になって…!
「仕方ないだろ、単なる話題っていうヤツだからな」
俺が家まで覚えていたなら、ラッキーだったと思っておけ。
しかしだ、お前と夜まで話す間に、二人して見事に忘れちまうと思うぞ、これは。
胡蝶蘭の花があったら覚えてそうだが、お前の家にも俺の家にも胡蝶蘭の花は無いってな。
ブルーには、そう言ったけれども。
小さなブルーは膨れっ面になったけれども、書かなくても、きっと忘れない。
胡蝶蘭の花の髪飾りの話は忘れ果てても、ブルーの髪には花が似合うと思ったことは。
(そうさ、ティアラよりも花が似合うんだ)
宝石はブルーの顔に二つもついているから、宝石を鏤めたティアラは要らない。
髪に飾るなら、瑞々しい花。命の輝きが眩しい花。
(こいつは絶対、忘れないってな)
記憶の底へと沈んでいっても、埋もれてしまいはしない筈。
この記憶さえ錆びずに残っていたなら、その時が来たら思い出す。
小さなブルーが大きく育って、花嫁になる日が近付いたなら。
二人で花嫁衣装を決めたり、あれこれ準備をし始めたなら。
胡蝶蘭の花がいいと思ったと、ブルーの髪にはピンクの胡蝶蘭の髪飾りだと…。
胡蝶蘭・了
※宝石だったら、ブルーの瞳で充分だから、と結婚式には花の飾りがいいと思うハーレイ。
ティアラよりも花で、「幸福の飛来」な花言葉の胡蝶蘭。どうなるでしょうね。
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(大座布団…)
学校から帰って、おやつを食べて。広げた新聞に載ってた広告、カラー写真の大座布団。
ゆったり座ってお殿様気分、って謳い文句で、特大の座布団のことみたい。
(かなり大きいよね?)
比較用にってことなんだろう、隣に座った大人の男性。正座して普通の座布団の上。大座布団は普通のよりも大きい上に、厚みだって倍はありそうな感じ。
(お殿様気分かあ…)
ぼくは本物のお殿様なんか知らないけれど。
歴史の授業でしか聞かない名前で、ずうっと昔に地球の日本って島国にいた偉い人たちだけど。こういう大きな座布団に座っていたのかな、って想像してみた。
(どうせだったら、お殿様の写真もつければいいのに…)
モデルさんにそういう格好をさせて。大座布団に座った写真をつけたら、もっと売れそう。隣に座った男性の方も、お殿様の家来の格好で。
(その方がいいと思うんだけどな…)
お殿様気分を売りにするなら、断然、それだという気がする。大きな座布団、特大の座布団。
どんな人がこれを買うのかな、って広告を眺めていたんだけれど。
(…あれ?)
こういう座布団、ハーレイの家で見なかったっけ?
リビングにあった大きなクッション。ふかふかの絨毯の上に置かれていたクッション。
(ハーレイの色の…)
肌の色っていう意味じゃなくって、前のハーレイのマントの色。濃い緑色。今のハーレイの車の色もそうだし、ぼくにとってはハーレイの色。
あのクッションを見かけた時にも、そう思った。ハーレイの色のクッションだな、って。
きっとリビングがあれの定位置なんだろう。一度だけ遊びに出掛けた時も、一回だけ瞬間移動で飛んで行っちゃった時も、クッションはリビングの絨毯の上にあったから。
(大きいクッションだと思っていたけど…)
床にあったから、昼寝用かと思ってた。ゴロンと転がるのに丁度良さそうだもの。頭から肩までクッションの上で、気持ち良く昼寝出来そうだもの。
だけど、今から思えば、あれは座布団。クッションじゃなくて、この広告にある大座布団。
真ん中と四隅に糸がついてた。真ん中はちょっぴりへこんでた。
ぼくの家に座布団は無いんだけれども、座布団の知識くらいは持ってる。
あの時は気付かなかったけど。クッションなんだと思い込んでしまっていたけれど。
(大座布団って…)
ハーレイの趣味の座布団だろうか、ハーレイの色をしてるんだから。
濃い緑色をしたハーレイの車は、あの色のを選んだみたいだし…。大座布団だって、きっと。
(あの色が気に入って一目惚れ?)
そうなのかな、と思ったけれども、色だけだったら普通のクッションにすればいい。大座布団を選ぶ必要はない。そうなってくると…。
(ハーレイ、座布団が好きなわけ?)
しかも普通の座布団じゃなくて、大座布団。お殿様気分の大座布団。
(お殿様が憧れだったとか…?)
ぼくの知らないハーレイの中身。今のハーレイの中身は知らない部分がまだまだ沢山、こういう趣味とか好みの物とか、前のハーレイとは違うから。
こうなってくると気になる座布団、ハーレイの家で見かけた筈の大座布団。
(あれの話を聞いてみたいな…)
こんな日にハーレイが寄ってくれたらいいんだけれど。
学校の仕事が早く終わって来てくれたならば、大座布団の話が出来るんだけれど…。
来てくれるといいな、と大座布団の広告をもう一度目に焼き付けてから新聞を閉じた。
キッチンのママにおやつのお皿やカップを返して、階段を上って部屋に戻って。
ぼくの部屋にあるクッションを抱えて、椅子の上にポンと乗っけておいた。ハーレイと話す時に座る窓際の椅子の、ぼくの椅子の方に。
(よし!)
これなら絶対、忘れない。
ハーレイが次に来てくれた時は、大座布団の話をするんだ。今日でなくても、次に会った時に。
その日が来るまで、クッションは椅子の上だと決めた。
普段は床に置いてるクッションだけれど。床に座る時にチョコンと腰を下ろすんだけど…。
ハーレイの仕事が早く終わるか、それとも駄目か。
期待半分、諦め半分、勉強机で本を読んでたらチャイムが鳴った。この時間だと、鳴らした人はもう間違いなくハーレイだから。窓に駆け寄って、手を振った。クッションを乗っけた椅子の横に立って、門扉の所に立つハーレイに。
そうして部屋に来たハーレイだけれど、ママがお茶とお菓子をテーブルに置いて出てった途端にこう訊いた。まだ椅子に座っていないぼくに。クッションが邪魔して座れないぼくに。
「なんだ、その椅子の上のクッションは?」
お前、尻でも痛いのか?
そいつを敷かなきゃ座れないほど尻が痛いなら、運動不足だ。座り過ぎだな。お前の年だと実に情けないが、お前、座ってばかりだからなあ…。
そういう時には座るよりもだ、軽い運動をするのがいいんだ、ストレッチだ。教えてやるから、俺と一緒に少しやってみろ。何回かやれば尻の痛みが吹っ飛ぶからな。
「違うよ、ハーレイ!」
お尻なんか痛くなっていないよ、クッションは置いてあるだけだよ!
ハーレイに訊きたいことがあったから、忘れないように乗せておいたんだってば!
とんでもない勘違いをされちゃった、ぼく。
ハーレイと一緒にストレッチは少し興味があったけれども、やったら肝心のことを忘れちゃう。ぼくが訊きたいのは大座布団の話で、運動の話じゃないんだから。
(…ストレッチはいつか覚えてたら訊こう…)
忘れちゃったら、それはその時。ぼくはクッションを元の床に戻すと、ストレッチを潔く諦めて切り出した。ハーレイの向かいの椅子に座って。
「んーとね…」
ハーレイの家に行った時にね、リビングで大きなクッションを見たよ。前のハーレイのマントの色とおんなじ色をした大きなクッション。
あれって、クッションなんだと思ってたけど、ホントは大座布団だった…?
「その通りだが…。よく分かったな、あれが大座布団だと」
俺の家に何が置いてあったか覚えていたのも驚きなんだが、大座布団と来たか。
あんまり知られていないんだがなあ、大座布団は。
現に、俺の家に遊びに来るようなクラブのガキども。特大の座布団だと言ってやがるぞ、ただの大きな座布団なんだと。
「広告に載っていたんだよ」
今日の広告、って、ぼくは答えた。
「ゆったり座ってお殿様気分って書いてあったけど、大座布団ってハーレイの趣味?」
あれが好きなの、大座布団っていうものが?
「まあな。明らかに俺の趣味だな、うん」
しかしだ、お殿様気分って方ではないぞ。単なるサイズの問題だ。
「ハーレイ、身体が大きいものね」
普通の座布団でも座れそうだけれど、ちょっぴり窮屈で可哀相かな、座布団が。
「おいおい、窮屈っていうのはともかく、座布団が可哀相とは失礼だな」
座布団は座るためにあるんだ、どんなに重たいヤツが座っても受け止めるのが仕事ってモンだ。
とはいえ、同じ座るんだったら、ゆったり座りたくなるじゃないか。
そういうわけでだ、俺の家には大座布団だ。俺の身体にピッタリのサイズの座布団だってな。
普通の座布団でも充分に座れはするんだが、と言うハーレイ。
そっちのサイズにも慣れているから、小さくっても別に困りはしないって。
ハーレイが子供の頃から好きでやってるスポーツ、柔道と水泳。どっちもプロの選手になる道が開けていたのに、ハーレイは蹴った。そうして古典の先生になって、ぼくと出会った。
ぼくの学校では柔道部の指導をしてるけれども、その柔道には畳が必須。もちろん、正座も。
座布団は正座に使うものだから、ハーレイは馴染みが深いんだけれど。
「ただなあ…。偉くないと座らせて貰えないんだがな」
道場に座布団が置いてあっても、指を咥えて見てるだけ、ってな。
「そうなの?」
座布団があっても使っちゃ駄目なの、偉くないと?
「下っ端は無理だ。先生と呼ばれるくらいにならんと、座布団に座れる身分になれない」
たとえ座布団が余っていたって座らせちゃ貰えないものだ。
ガキの頃には道場の隅っこに積まれた座布団、何度も眺めていたっけなあ…。
いつかはあそこから一枚貰って俺も座ろうと、あれに座れるレベルになろうと。
子供時代のハーレイの憧れだったらしい座布団。
柔道を習いに行く道場で、いつかはと夢を見ていた座布団。
「俺の家にはあったからなあ、たまに道場に行っているつもりで座っていたな」
俺も座布団を貰える身分になったと、ついに先生になったんだと。
いわゆる「ごっこ遊び」ってヤツだな、俺一人しかいない遊びだったがな。
「ハーレイのお父さんたちの家…。座布団なんかがあったんだ…」
もしかして大座布団もあったの、その家に?
ハーレイが子供だった頃から、大座布団は家にあるものだったの?
「うむ。大座布団も普通の座布団も。ついでに畳の部屋もあったな、一部屋だけだが」
だから余計に道場ごっこの気分が高まるっていう勘定だ。柔道に畳はつきものだしな?
その部屋に行って、座布団を一枚、引っ張り出して。
ガキだった俺が上に座るのさ、すっかり先生気分になってな。
「畳の部屋って…。珍しくない?」
そんなの、あんまり聞かないよ。ぼくの家にも、友達の家にも畳の部屋は無いんだけれど…。
ああいう部屋って、和風が売りのお店やホテルにあるものじゃないの?
「それはそうだが、結婚式の衣装に白無垢を選んだようなおふくろたちだぞ」
畳の部屋も一つ欲しいと思ったわけだな、あくまで趣味の延長だな。
「そういえば白無垢を着たんだっけね、ハーレイのお母さん」
ぼくも白無垢も悪くないかな、って思ったんだっけ、そう聞いた時に。
ハーレイのお父さんたち、畳の部屋まで作るほどだし、古い文化がホントに大好きなんだね。
畳の部屋があるような家で育ったハーレイ。
座布団に座って「柔道の先生ごっこ」をしていたくらいに、畳の部屋が馴染みのハーレイ。
なのに、ハーレイの家には畳が敷かれた部屋が無い。家の中をぐるっと一周したんだし、もしも見たなら覚えている筈。畳の部屋なんて、普通の家には珍しすぎるものだから。
なんでハーレイの家には畳の部屋が一つも無いの、って訊いてみたら。
「嫁さんが来なくなったら困るだろうが」
あの家は子供部屋まであるんだ、いつか嫁さんを貰った時のためにと親父が買ってくれたんだ。
その嫁さんが家のせいで来なくなっちまったら、本末転倒っていうヤツだからな。
「どうして来ないの?」
お嫁さんが来なくなるって、どうして?
畳の部屋があったら駄目って、お嫁さんと畳と、どういう関係?
「正座だ、正座。畳の部屋があるってことはだ、俺が正座をするってことだ」
常に正座とまではいかなくても、それ専用の部屋があるんじゃなあ…。
嫁さんだって正座に付き合う羽目になる。
だが、正座は嫌いって人が多いぞ、そいつがもれなくついてくる家、避けられるだろうが。
「そうかも…」
足は痛いし、すぐ痺れちゃうし…。
家でゆったり座りたいのに、そのゆったりが正座だったら嫌っていう人、多そうだよね。
大座布団を買って座ろうと思うような人なら、そういう家でもいいんだろうけど。
「そういうことさ。だから俺の家には畳の部屋が全く無いわけだ」
仕方ないから、畳の部屋の代わりにリビングで大座布団に座っているのが俺なんだが…。
その俺だってだ、前の俺の頃に正座をしろと言われていたなら拷問だと思っていたろうな。
アルタミラの研究所で押し込められてた檻の中では正座をしろとか、そんな感じで。
「確かにね。前のぼくたちなら拷問だよね…」
今のぼくでも少しだけしか出来ないよ、正座。
アルタミラの檻で正座をしろって命令されたら、前のぼくだとホントに拷問。
実験するぞ、って檻から外に引っ張り出されても歩けやしないよ、足が痺れて動かなくって。
正座させられたら拷問なんだと思っただろう、前のぼく。
正座の文化が消された時代。座ると言ったら椅子に座るもので、座布団なんかは無かった時代。
あの時代に正座が出来るような人が誰かいたのかな、って首を捻ったら。
「ふうむ…。いたとしたなら、キースだな」
俺もお前も知ってるヤツだと、あいつくらいだ。
「キース?」
なんでキースが正座出来るの、メンバーズだったら日本の文化も教わるわけ?
「いや。過去の歴史として少しくらいは習っていたかもしれないが…。それよりもだ」
メンバーズはあらゆる戦闘訓練を受ける。どんな状況でも対処出来るようにな。
あの座り方で参るようでは話にならん。
たとえ何時間も正座で拘束されていようと、直ぐに立ち上がって動けてこそのメンバーズだ。
「そっかあ…」
拷問みたいな座り方だもんね、何処でそういう目に遭わされるか分からないものね。
足が痺れて動けません、なんて言ってるようではメンバーズの資格は無さそうだよね…。
だったらキースも柔道をやっていたのかな、って思ったんだけど。
メンバーズの戦闘訓練の一環として柔道の技も習ったかもね、って考えちゃったんだけれど。
ハーレイは「そいつはないな」と即答だった。
「あの時代だと柔道っていう武道は全く無いんだ、見事なまでに消されてたってな」
マザー・システムが消しちまったんだ、礼儀作法とセットだというのがマズかったかもな。
ただの武術じゃないからなあ…。
「礼に始まって礼に終わる」ってほどのヤツだし、人間関係だって濃い。子供さえも人工子宮で育てた時代には合いそうもないな。余計な文化は消しておくのが上策だろう。
それでもSD体制が崩壊した後、復活させたのが人間の凄い所だな。データはあっても、柔道をやるのは人間だ。誰かが体得しないことには、柔道は復活出来ないんだからな。
「うーん…。無かったんなら、キースは柔道、無理なんだね」
メンバーズでも出来ない武道があるんだ、そういった道のプロなのに…。
「要は戦って勝てればいいんだからなあ、特定の武術にこだわる必要は無いってな」
そもそも、キースには似合わんだろうが、柔道着。
体格のいいヤツではあったが、柔道をやるには向いていないな、ヤツの身体は。
「そうなんだ…。もったいないね、せっかく正座が出来るのに」
あの時代の人間が拷問なのかと勘違いしそうな正座、キースは出来たっていうのにね。
「お前なあ…。もったいないって、相手はキースだぞ?」
前のお前を撃った奴なのに、お前ときたら…。
そんなに楽しそうに語られちまったら、俺も真面目に付き合ってやるしかないってな。
キースは柔道着よりも袴なんじゃないか、道着ってヤツが似合うとしたら。
「袴って…。剣道?」
「いや、弓道だろ。剣道と違って胴着が無いしな」
弓道で欠かせないのは肩当てくらいだ、後は手袋といった所か。
「そうかあ…。剣道だと顔が見えないんだっけね、体格だってよく分からないし…」
キース、確かに弓道の格好、似合いそう。
袴も、弓を構えるのも。
「本物のキースも弓道とはまるで無縁じゃないぞ?」
メンバーズとして訓練を続けていたかどうかは知らんが、教育ステーションにいた時代。
シロエとエレクトリック・アーチェリーで競った話は有名なんだ。もっとも、学校で習う歴史の範囲じゃないしな、お前は初耳かもしれないが。
「初めて聞いたよ、そんな話は。シロエとエレクトリック・アーチェリーだったんだ…」
それじゃ、ホントに弓道なんだね、キースが武道をやるとしたなら。
「あの時代に弓道の弓があったならな」
ついでに袴や肩当ても要るか…。どれも無かったぞ、前の俺たちの時代にはな。
「あったとしたなら、メギドにも持って来たかな、弓」
キースが得意なのが弓なんだったら、メギドにも弓。あそこならキースの船もあったし…。
ナスカと違って弓も持ち込めたと思うんだけど。
「お前、あんなので撃たれたいのか?」
銃よりも弓がいいのか、お前。矢も相当に痛そうだが?
「…それは嫌かも…」
ぼくに刺さるってトコまで想像していなかったよ、銃も嫌だけど弓も嫌だよ。
どっちが痛いのか分からないけど、弓だって痛いに決まってるもの…!
震え上がってしまった、ぼく。
弓道の矢がどんなものかは知っているから、あんなので撃たれるなんて御免蒙りたい。
「撃たれる」じゃなくて「射られる」のかな?
言い方を変えても矢が刺さることだけは間違いないから、弓を持ったキースに会いたくはない。いくら袴が似合っていたって、弓道の弓が似合ってたって。
無意識に右の手を握り締めていたら、ハーレイがその手をキュッと握ってくれた。大きな両手で包み込むように。ぼくの手に温もりが伝わるように。
「メギドの話は忘れておけ。キースも、弓もな」
それよりもだ。お前が畳が嫌いではないと言うのなら…。
「何かあるの?」
「実はな、いつか畳の部屋が欲しいと思っていてな」
俺の家に畳の部屋は無いんだが、子供部屋なんていうのがあるだろう?
子供部屋は全く要らないわけだし、あれを畳の部屋に変えるのもいいかと考えている。けっこう立派な部屋が出来るぞ、壁とかも畳に合うようにすれば。
お前が嫌でなければ、だがな。
「畳の部屋でいいよ?」
ぼくは正座は得意じゃないけど、ハーレイが欲しいなら畳の部屋があってもいいよ。
畳の部屋があるのは嫌だ、って逃げて帰ったりはしないよ、ぼく。
ハーレイの家に畳の部屋。
ぼくがお嫁さんになったら要らなくなっちゃう子供部屋を畳の部屋にする。絨毯の代わりに畳を敷いて、壁だって畳に似合うようにして。
(ふふっ、ハーレイが好きな畳の部屋…)
そんな未来の話をしたのに。
結婚したら畳の部屋を作るのもいいね、って二人で話して、ハーレイは「またな」と手を振って車で帰って行ったのに。
幸せな気持ちでお風呂に入って、ベッドに潜り込んだのに…。
キースの話が悪かったんだろうか、気付けばぼくはメギドに居た。ちゃんとソルジャーの衣装を着けて、背だって前のぼくみたいに伸びて。
(やっちゃった…!)
珍しく自覚があった、ぼく。
これは夢だと、夢でメギドに来ちゃったんだと。
だけど醒めない、メギドの悪夢。ぼくはメギドを止めなくちゃ駄目で、青い光が溢れる制御室の中を歩いていた。破壊しなくちゃと、中枢部を壊さなくっちゃと。
(制御装置…)
目標はそれ、と歩いてゆく足は止まらない。メギドの夢も終わらない。
(これじゃ、いつもと変わらないから…!)
ぼくの意志で夢から逃げ出せないんじゃ、いつものコースと全く同じ。ううん、いつもより酷い状況。ぼくは自分の運命も末路も知っているのに、夢に捕まっちゃったんだから。
(キースが来たら、撃たれて、痛くて…)
あまりの痛さにハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えてしまうんだ。
そうして泣きながら死んでゆく。独りなんだと、もうハーレイには二度と会えないんだと。
(やだな…)
痛いのは嫌だし、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んでゆくのも嫌だけど。
でも、運命は変えられないから、そうなるんだと諦めていたら。
「やはりお前か、ソルジャー・ブルー!」
(…どうなってるの?)
聞こえて来た声は間違いなくキースだったけど。
前のぼくがそうした通りに、ぼくも後ろを振り返ったけれど。
其処に居たキースは国家騎士団の赤い制服じゃなくて、白い着物に黒い袴の弓道部の服。それに肩当て、銃の代わりに弓を引っ提げていた。
(えーっと…)
化け物だとか何とか言っているけど、喋りながら弓を構えたから。
矢を射ようと弦を引き絞っているのが分かったから。
(よしっ!)
キリキリと引かれた弓がヒュンと矢を放った瞬間、ぼくはシールドを展開した。風を切る矢音がピタリと止まって、間に合ったシールド。目の前で宙に刺さっている矢。
この辺りは流石、前のぼく。
今のぼくだとシールドどころか、思念さえも上手く紡げないのに。
ヒュン、と鳴ったキースの二本目の矢。その矢も宙へと突き刺さった。
(ぼく、撃たれてない…!)
まだ一発も。
矢だから一本、二本と数えるのかもしれないけれども、とにかく撃たれていない、ぼく。
いつものメギドの悪夢だったら、今頃はもう血まみれなのに。
(もしかして、この夢、普段のと違う…?)
キースはせっせと弓を引いては矢を射てくるけど、どの矢も宙に浮いたまま。
ぼくの身体には一本も刺さらず、掠り傷さえ負ってはいない。
キースの背中に背負われた矢が一本、二本と減ってゆく。残りが数えられるほどにまで減って、最後の一本、それをつがえて引き絞るけれど。
(これで終わりだ、って言わないし…!)
何度も何度も聞いて来た台詞。嫌というほど聞かされ続けた冷酷な言葉。
それを聞いたら、ぼくの視界は真っ赤に染まる。右目を失くして、ハーレイの温もりも失くしてしまう。でも、聞こえない、言われない台詞。
(最後の一本…!)
ヒュン、と空気を切り裂いて来た矢を、ぼくはハッシと宙で受け止めた。シールドで止めた。
(…この後は?)
矢が増えるのかと思ったけれども、キースの背中の矢を入れる器はすっかり空っぽ、射るための矢は無くなった。次の矢を、って背中に回したキースの手が空しく空を掴んで。
信じられない、といった表情のキース。
愕然としているキース・アニアン、弓道部員の道着を纏った地球の男。
(ぼくの勝ち!?)
そこでパチリと目が覚めた。
一発も、ううん、一本も撃たれなかった、ぼく。
失くさなかったハーレイの温もり、凍えずに済んだぼくの右の手。
(メギドを止めてはいないけれども…)
キースはぼくにダメージを与えられずに終わったんだから、ぼくが勝ったと言えるんだろう。
夢の続きがもしもあったならば、きっとメギドは止まるんだ。
矢が無くなって呆然としているキースの目の前で、制御装置をぼくが壊して。
(シャングリラにだって帰れるのかも…!)
キースを放って、ぼくが来た道を逆に辿って、メギドの外へ。宇宙を飛んで白い鯨へ。
そういう夢だ、という確信。
ぼくはキースに勝ったんだ。キースが弓を持って来たから。いつもの銃じゃなかったから。
何処か間違った夢だけれども、それでも勝利。前のぼくの勝ち。
どうしてキースに勝てたか、って言うと…。
(ハーレイの座布団の話のお蔭…)
大座布団がハーレイの家にあるっていう話から、柔道の話と正座の話。
前のぼくたちの時代だったら正座は拷問みたいだよね、って方へと転がって行った。あの時代に正座が出来た人って誰だろう、って話してキースの名前が出て来た。
(キースは柔道着が似合わないから弓道で…)
それで話は終わりそうなのに、キースはシロエとエレクトリック・アーチェリーで競っていたというから弓道で決定、そのままメギドへ繋がった。メギドにも弓を持って来たかも、って。
(…本当に持って来ちゃったんだけど…!)
ぼくが勝手に見た夢だけれど。座布団の話が切っ掛けになって、そういう夢を見たんだけれど。
(でも、勝っちゃった…)
弓を持ってるキースはぼくには勝てなかった。矢が尽きてしまっておしまいだった。
なんて素敵な夢なんだろう。ぼくがキースに勝つなんて。
(座布団に、畳…)
いつかハーレイと一緒に暮らす家には畳の部屋を作らなくっちゃ。
ぼくたちに子供は生まれないから、子供部屋を壁ごと大改装して畳の部屋へと変身させる。
そして頼もしい座布団を置くんだ、メギドの悪夢を一度は勝利に変えた座布団。
ハーレイのお気に入りの大座布団を置いて、もしかしたら、ぼくも大座布団。
ゆったり座ってお殿様気分、って謳い文句の大座布団もいいかもしれない。ハーレイの身体にはピッタリだけれど、ぼくには余裕がたっぷりありそうな大きくて分厚い大座布団をドンと。
次の日、仕事帰りに寄ってくれたハーレイに夢の報告をした。
キースに勝ったと、弓を持って来た弓道部員の格好のキースに勝ったんだと。
ハーレイは爆笑していたけれど。「お前、やるな」って笑い転げていたけれど。
ぼくが「座布団を置くための部屋を作ろう」って言ったら、それは嬉しそうに頷いてくれた。
「なるほど、勝利に導いてくれた座布団を置くために畳の部屋か」
記念すべき座布団を置いてやるんだな、その部屋に。
「うん、ぼくたちが忘れていなければ」
結婚する時にも覚えていたなら、座布団の記念に畳の部屋だよ。
子供部屋を改装して畳の部屋にしようよ、二人分の座布団を置こうよ、ハーレイ。
大座布団と普通の座布団でもいいし、大座布団を二つでもいいよね。
ぼくにはちょっぴり大きすぎるけど、あれならフワフワで正座も平気かもしれないよね…!
覚えていたら、って言ったけれども、忘れていても。
弓を持って来たキースに勝った夢とか、勝利の座布団とかを綺麗に忘れてしまっていても。
ハーレイが欲しい畳の部屋なら、ぼくだってハーレイにそれをあげたい。
正座で足が痺れちゃっても、ハーレイの好きな座布団に似合うのは畳の部屋だから。
今はリビングで絨毯の上に置かれちゃってる、大座布団には畳が似合うから。
ゆったり座ってお殿様気分、ハーレイの身体に丁度いいサイズの大座布団。
ぼくもやっぱりお揃いがいいかな、大座布団を部屋に置くのが。
ハーレイが欲しい、畳の部屋。
結婚する時は必ず言ってね、畳の部屋が一つ欲しいんだ、って。
ぼくは反対しやしない。足が痺れても、正座が苦手でも、ハーレイが好きな部屋なんだから…。
座布団・了
※SD体制の時代だったら、拷問だと思われそうな正座。出来そうだったのがキースです。
そのせいで、ブルーが見てしまった夢。弓道部員なキースに勝利したようですね。
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(えっ?)
それは突然、何の前触れもなく鳴り出した。
学校から帰ったブルーがおやつを食べ終わったばかりのダイニングで。
(ママは?)
慌ててキョロキョロと辺りを見回す。母はキッチンに居たと思うのだけれど、其処から何処かへ行っただろうか?
(他の部屋? それとも庭?)
キッチンからだと、どちらへも行ける。このダイニングを通ることなく。
(えーっと…)
ダイニングに流れているメロディ。耳に馴染んだそれは、通信機から流れる着信音。
何処かからの通信が入って来たのだ、この家に向けて。
通信機自体はリビングにも、二階の両親の部屋にもあるのだけれど。そちらでボタンを押しても通信に出られるのだけれど、メロディは一向に鳴り止まない。
通話ボタンを押しさえすれば止まるメロディ。通信を始めれば終わる筈のメロディ。
(ママ、庭かな?)
庭ならば多分、通信機のメロディは母の耳には届かない。聞こえていない。
(どうしよう…?)
着信記録は残るのだから、放っておいても平気だけれど。戻って来た母に知らせれば着信記録を調べた上で、必要だったら直ぐにこちらから通信を入れ直すだろうけれど。
まだ鳴り止んでくれないメロディに、大事な通信なのかもしれないという気がしてくる。
(…学校からとか?)
明日の持ち物の追加連絡とか、そういうものなら自分が出ても大丈夫だろう。まだ通信を取った経験は無いに等しい子供ではあるが、全くの未経験でも無いし…。
よし、と鳴り続けている通信機に近付いて覗き込んだ。
小さな画面に表示される相手の通信番号。よくかかってくる相手は名前が登録されているから、其処に「学校」と出ているようなら、と表示を見れば。
(お祖母ちゃんだ!)
これなら出られる、と勇んで通話ボタンを押した。
メロディは止まって、通信機の向こう、遠い地域に住んでいる母方の祖母の声。
「お祖母ちゃん…!」
「あら、ブルーなの?」
祖母は年齢をとうに止めているから、母の声とそうは変わらないけれど。ブルーにとっては実の祖母の声で、聞き間違えることもない。
久しぶりに話して、あれこれ喋って。学校のことやら、普段の暮らしぶりやら。
どのくらい祖母と話しただろうか、母が来たから通話を代わった。
やはり庭に出ていて気付かなかったらしい。夕食に使うハーブを採りに行っていたのだ、と母が話している。ついでに花たちの手入れを少し、と始めたら意外に時間がかかったとも。
さっきまでの自分がそうだったように、祖母と楽しげに話している母。
母にしてみれば祖母とは違って、母なのだけれど。母を産んで育てた実の母だけれど。
おやつに使った皿やカップをキッチンに運んで、まだ話している母に「じゃあね」と手を振り、二階の自分の部屋に戻って。
勉強机の前に座って、さっきの通信を思い返した。
(お祖母ちゃん…)
元気にしていると話したけれど。
聖痕のことを心配してくれたから、平気だと話しておいたけれども。
(ハーレイのこと…)
守り役の先生が訪ねて来てくれるから大丈夫としか言えなかった。週末以外も家に来てくれて、今では家族のようなものだと、その先生がついていてくれるから聖痕は再発していないと。
(それは間違いないんだけれど…)
あれ以来、起こらない聖痕現象。
学校や周囲の人たちはハーレイが側に居るから起こらないのだと信じ込んでいるし、祖母たちもそうだと信じている。通信でも祖母は何度も言っていた。
「いい先生に出会えて良かったわね」と、「お祖母ちゃんもいつか御礼を言いたいわ」と。
孫がお世話になっているのだし、機会があったらハーレイに御礼を言いたいと。
その時はハーレイにお土産を持って行こうと思うから、祖母が住む地域の名物などでハーレイの好きそうなものがあったら覚えておいて教えて欲しいと。
(お祖母ちゃんがハーレイに御礼だなんて…)
ハーレイは本当はただの守り役ではないというのに。いつか結婚する恋人なのに。
祖母はそれよりも前にハーレイに会う機会があるのだろうか?
孫をよろしくと土産物を渡して、ハーレイに挨拶するのだろうか?
もしもそういうことになったら、守り役としてのハーレイに出会ってしまったならば。
何年か経って、自分とハーレイとが結婚することになったなら…。
(お祖母ちゃんもきっとビックリだよ)
孫の結婚もさることながら、今の時代でも珍しい男性同士のカップル。
おまけに守り役だった先生の所へ嫁に行こうというわけなのだし、さぞかし驚くことだろう。
祖母はもちろん、祖父だって。父方の祖父母も、親戚たちも、きっと。
けれども、その日はまだ先のことで、今はハーレイはただの守り役。
祖母が御礼にと土産物を渡して挨拶しそうな、学校の教師。
その祖母は今頃、母と話しているのだろう。用があったか、それとも声が聞きたくなったか。
(お祖母ちゃんと喋っちゃった…!)
祖母からの通信はよくあるけれども、ブルーは通信を取らないから。
幼い頃には通信が入る度に「お祖母ちゃんよ」と母が代わってくれたけれども、今ではそういう年でもないから、本当に久しく話してはいない。聖痕現象の直後が長く話した最後だったか…。
(御礼とかだと代わるんだけどね)
祖母から届いた荷物にブルー宛の贈り物が入っていた時や、荷物の中身が食べ物だった時や。
そうした時には御礼を言って、少し話して、母と通信を代わる。次から次へと話し続けることはもう無くなって、幼かった頃のようにはいかなくなった。礼儀正しく、母に交代。
だから今日の通信は本当に嬉しかったし、楽しかった。
祖母に遊んで貰ったようで。今の自分を祖母に丸ごと届けられたようで。
(お祖母ちゃんの声…)
祖母の姿は見えなかったけれど、すぐ側で祖母の声が聞こえた。
遠い地域に住んでいる祖母が、まるでダイニングに居るかのように。
離れていても声が聞こえる通信機。通話ボタンを押すだけで相手と声が繋がる通信機。
遥かな昔には、相手の姿も見られる仕組みの機械だったと聞くのだけれど。
(今は無いんだよね…)
相手の姿を映し出す通信機は今の時代には無い。
SD体制が始まるよりも前の時代に存在していた、持ち歩けるタイプの通信機も。
(…持ち歩けたっていう通信機…)
ポケットに入れて出掛けられたという通信機。一人に一台、自分専用の通信機。
それがあったらいつでもハーレイと話せるのに。
メギドの悪夢で目覚めた夜にも、夜が更けていても、ハーレイに通信を入れられるのに。起きて貰って朝まででも二人で話せるのに…、と考えていて。
(そういえば…)
まだハーレイの声を一度も聞いたことがない。
通信機越しに聞こえるハーレイの声。通信機で繋がり、耳へ届けられてくるハーレイの声。
(たまにかかってくるんだけどな…)
ハーレイからブルーの家への通信。
それは嬉しいサプライズ。かかって来たと分かれば胸がドキンと跳ねる。
通信が入る理由は最初から決まっているから。用事があって来られないと聞いていた日の予定が変わって、来られることになった時。そういう時には通信が入る。
もっとも、相手は母だけれども。ハーレイの食事を用意する母への通信だけども。
(でも、ハーレイの通信だって…)
通信番号は登録してある筈。今日は祖母の名前を表示していた画面にハーレイの名前が出る筈。
ならば自分が取ることだって出来るだろう。
ハーレイの名だ、と確認してから通話ボタンを押せば通信が繋がるのだから。ついさっき祖母と話していた時のように、ハーレイの声が通信機から聞こえてくるのだから。
(どんな感じの声なのかな?)
ハーレイの声を通信機越しに聞いたなら。
聞いた瞬間にハーレイの声だと分かる自信はたっぷりとある。母か父かが相手のつもりで口調が改まっていたって分かる。
大好きなハーレイの声を通信機を通して聞けたなら、と思うけれども。
ハーレイの家のリビングか、あるいはダイニングか。通信機のある部屋と自分の家とが声だけで繋がる幸せな時を、味わってみたいと思うのだけれど。
(かかってくる予定…)
ハーレイからの通信が入る機会は、どうやら当分、無さそうだった。
今度の週末にはハーレイは来る予定になっているから。次の週末も、その次だって都合が悪いと聞いてはいない。予定変更の通信は入りそうにない。
通信機はハーレイの名前を表示してはくれず、自分は通話ボタンを押せない。ハーレイがかけて来た通信に出られはしない。
(一度くらい聞いてみたいんだけどな…)
通信機を通したハーレイの声、と溜息をついていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
そのハーレイがやって来たから、仕事帰りに寄ってくれたから。
母に案内されて来たハーレイと自分の部屋で向かい合うなり、ブルーは早速、こう切り出した。
「ハーレイ、うちに通信、入れてよ」
「はあ?」
何の前置きもなく飛び出した言葉に、ハーレイの鳶色の瞳が丸くなる。何のことかと、通信とは何を指しているのかと。ブルーは「通信だってば!」と繰り返した。
「通信機、何処の家でもあるでしょ。さっき、お祖母ちゃんからかかって来たんだよ」
ママがいなかったから、ぼくが出たんだ。お祖母ちゃんといっぱい話して、色々話して…。
お祖母ちゃん、ハーレイに御礼を言いたいって言ってたよ。お土産だって渡したい、って。
「ほほう…。そいつは光栄だな。お前のお祖母ちゃんから、俺に土産か」
「そう。ハーレイの好きなものがあるなら聞いといて、って言われたけれど…。って、ぼくはそうい話をしたいんじゃなくて…!」
ハーレイの声を聞きたいんだよ。聞いてみたくなってきたんだよ…!
「今、聞いてるだろうが、俺の声なら」
これ以上どう聞くというんだ、耳元で怒鳴って欲しいのか?
「通信機越しに聞きたいんだってば!」
あの機械を通してハーレイの声を聞いてみたいな、って思うんだよ。
だから通信、入れてくれない?
ハーレイからの通信だ、って分かれば直ぐに、ぼくが出るしね。きちんと通話ボタンを押して。
通信番号は登録してある筈だから、とブルーは瞳を煌めかせた。
自分が出るから、通信を入れてみて欲しいと。
「ハーレイの声だってことは、絶対、直ぐに分かるだろうけど…。感じが変わると思うんだよ」
通信機を通して聞いたら、きっと。
それにハーレイからの通信だなんて、出るだけでドキドキすると思うし…。
通信機の向こうにハーレイが居るって、リビングからかな、ダイニングかな、って…!
「そいつは些か…。不純な動機というヤツだな」
俺の声を聞きたいってだけで、お前が通信に出ようってか。
お前、普段から家に入った通信ってヤツを、ちゃんと自分で取ってるか…?
「そ、それは…。ぼくじゃ分からないことも多いし、通信なんかは…」
出ないよ、それにぼくみたいな子供が出たって、相手の人も困るじゃない!
お祖母ちゃんのは、お祖母ちゃんからって分かったからボタンを押したんだよ!
「通信にも出られないチビのくせにだ、俺の通信には出ようというのか?」
「だって、ハーレイなら出たって平気だもの!」
お願い、ぼくの家に通信を入れてよ。ぼくが出るから、通信、入れて…!
「駄目だな、通信を入れる予定が無いしな」
お前だって知っているだろう?
俺がどういう時に入れるか、そのくらいは。俺は当分、暇な週末しか待ってないってな。
つまりは予定が変わりました、と通信を入れる必要なんぞは無いわけだ、うん。
「えーっ!」
そういう用事がある時だけしか通信を入れてくれないの?
週末に入ってた予定が無くなって、ぼくの家に来られるようになった時だけ…?
あっさりと頼みを断られてしまって、ブルーは暫し考え込んだ。
何とかしてハーレイから通信を入れて貰えないものか。
そうすれば声が聞けるのに。通信機の向こうで話しているだろう、ハーレイの声が聞けるのに。
(コーヒーを飲みながら、ってことは無いんだろうけれど…)
長話をしようというわけではないから、お供の飲み物などは要らない。椅子やソファに座っての通信でもなくて、きっと立ったまま通信番号を押しての通信。
それをしているハーレイの姿が目に浮かぶようだ。ブルーの父か母が出ることだろうと、背筋を伸ばして通信番号を押すハーレイが。
(パパとかママの声が聞こえたら、ペコリと頭を下げるんだよ、きっと)
そんなハーレイからの通信に出たい。一度でいいから出てみたい。
通信機越しに耳に届くだろうハーレイの声を、聞いてみたくてたまらない。
けれどハーレイには通信を入れる予定などは無くて、入れるつもりも無いという。用も無いのに通信を入れる理由などありはしないから。
(…ハーレイからの通信…)
ハーレイの予定が変わる時しか、入れては貰えないらしい通信なるもの。予定は当分、変わりはしないと言われたのだし、絶望的とも思えるけれど。
(そうだ…!)
不意に名案が閃いた。まさに天啓、神様がくれた素敵なアイデア。
その通りにすれば、きっと通信を入れて貰えるだろう。ハーレイの家から自分の家へ。
ブルーは「よし!」と心の中で大きく頷き、ハーレイにこう宣言した。
「ハーレイ、ぼく、ママに嘘をつくから」
「なんだと?」
嘘って、お前…。お母さんに嘘をつくって、俺に宣言するようなことか?
「そうだよ、ハーレイに言っておかなきゃ意味が無いんだよ、ぼくがつく嘘は」
ハーレイが帰ったらつくことにするよ、ママを捕まえて。
今度の土曜日、ハーレイはぼくの家に来られるかどうか分からない、って。
「俺はその日は空いてるんだが…」
土曜日も日曜日も、来週の土曜日も日曜日も。当分、来られないような用事は無いと言ったが?
「だから嘘だって言ってるじゃない!」
ハーレイの予定は空いているけど、どうなるか分からないってことにするんだよ。
そうしておいたら、ママは今週の土曜日、ハーレイの食事を用意すればいいのかどうかを決める方法が無くなっちゃうしね…。
だからハーレイ、ママのために通信を入れてくれればいいんだよ。
土曜日の予定は無くなりましたと、ぼくの家に行くことになりました、ってね。
母には嘘をついておくから通信を入れて欲しいのだ、とブルーは強請った。
その日は空いたと、来られそうだと、それだけでいいと。
もしも通信を入れてくれたら、表示名を見て自分が通話ボタンを押して出るから、と。
「うーむ…。そいつは、お母さんに申し訳ないような気がするんだが…」
いいか、今度の土曜日なんだぞ、もう今週のことなんだぞ?
それを今頃になって分からないとか言い出した挙句に、やっぱりお邪魔させて頂きます、とは。
「平気だってば、ママはそんなの気にしないから!」
客間とかを使うお客様だったら、ママも大変かもしれないけれど…。
ハーレイだったら用意する食事の量だけなんだし、今日みたいな日とあまり変わらないよ。
張り切ってお菓子を作るかどうかの違いだけだよ、ホントだよ。
お願い、一回だけでいいから、ぼくが出られる通信、入れてよ…!
「………。これっきりだぞ」
お前の悪だくみなんぞに協力するのは、これが最初で最後だからな。
「ありがとう!」
通信、入れてくれるんだよね、ぼく、頑張って通話ボタンを押すからね!
その後できちんとママに代わるから、ハーレイ、ちゃんと通信、入れてね…!
こうしてハーレイからの通信の約束を取り付けたブルー。
その後、ハーレイはブルーの両親も一緒の夕食を終えて「またな」と手を振って帰って行って。
ハーレイの車のライトを見送った後で、ブルーは母に嘘をついた。
先刻、練り上げたばかりの嘘を。
ハーレイは言うのを忘れて帰ったけれども、今度の土曜日は予定が入るかもしれないらしいと。
「あらまあ…。それじゃ、ハーレイ先生は?」
いらっしゃらないの、今週の土曜日は?
この間、お友達から新しいお菓子のレシピを頂いたから、お出ししようと思っていたのに…。
今日のおやつ、新作だったでしょ?
あれを出そうと思っていたのよ、もう少し工夫してみてね。
「えーっとね…。まだ分からないよ、来られる可能性だって残っているしね」
ギリギリでもいいか、って訊いていたから、金曜日の夜には分かる筈だよ、来られる時は。
もしもハーレイが来られるんだったら、あのお菓子、出してあげてよね。美味しかったから…!
母を騙すことになってしまったけれども、ブルーの心は少しも痛んでいなかった。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、ベッドに入る時にも上機嫌で。
(ハーレイから通信が入るんだよ)
あの通信機の小さな画面に表示されるだろうハーレイの名前。
それを見付けたら自分が通話ボタンを押すのだ、「はい」と元気に返事をして。
繋がった通信の向こうにハーレイ、何ブロックも離れた場所に住んでいるハーレイの家と自分の家とが音声だけで暫く繋がる。通信機を通して空間が結び付けられる。
もうそれだけで心が躍った。ハーレイの家のリビングか何処かと、自分の家とが繋がる瞬間。
通信機の画面にハーレイの名前が出たならば…。
(急いで通信、取らなくっちゃね!)
その時が楽しみでたまらない。
通信機の向こうで話すハーレイの第一声は何だろう?
「もしもし」なのか、「こんばんは」なのか、それも分からないからドキドキしてくる。
まずは名乗るのか、あるいは「ブルーか?」と訊いてくれるのか。
それより何より、ハーレイの声。
通信機越しに聞こえるハーレイの声は、どんな風に耳に届くのだろう?
優しくて甘いか、じかに聞くよりも落ち着いているか。
声だけを聞けば、実際よりも年配の男性が話しているように思えるとか…?
そして次の日。
学校から戻って着替えをするなり、もう通信機が気になってたまらない。
ダイニングでおやつを食べる間もチラチラとそちらを見てしまう。
(でも、まだハーレイ、学校だしね?)
こんな時間に通信は来ない。仕事時間の間に通信を入れても、それは学校の通信機だから。
(それじゃハーレイって出てくれないよ、表示)
学校と画面に表示された通信に出る度胸は無い。昨日のように母の姿が見当たらないまま、学校からの通信が何度も何度も入れば通話ボタンを押すだろうけれど。
(そういう通信って、どうせ持ち物連絡だとか…)
自分が出たって全く意味の無い通信。自分の学校のことだけれども、今の自分には意味が無い。
待っているものはハーレイからの通信だけで、学校からは入れてこない筈。
(自分の家の通信機を使ってくれないと、ハーレイって表示にならないものね?)
仕事帰りに寄ってくれた時も、通信は入れて貰えない。ブルーの家に来ているのならば、用件は通信機などを介さず、直接伝えるものだから。
(…ハーレイが来ちゃったら、通信はお預け…)
今日ばかりはハーレイの来訪を知らせるチャイムが鳴らないように、と身勝手な願い事もした。
普段だったらまだ鳴らないかと待ち焦がれるチャイムが鳴らないようにと。
その甲斐あってか、チャイムは鳴らずに夕食の時間が始まって。
ダイニングで両親と食事をしながら、ブルーは何度も通信機の方を眺めていた。
(ふふっ、通信…)
きっとその内にハーレイが入れてくれるだろう。今日は来なかったのだから。
早く鳴らないかな、と首を長くしていたら、あのメロディ。着信を知らせるメロディが流れた。
(やった…!)
出なくっちゃ、と立ち上がろうとするよりも早く、ヒョイと椅子から立った父。
「誰かな?」と通信機の所まで行って覗き込むなり、母の方へと振り返って。
「ハーレイ先生だな」
「じゃあ、私が出た方がいいわよね」
(えっ…!)
そんな、という声は音にはならなかった。通話ボタンを押し、当たり前のようにハーレイからの通信を取ってしまった母。
「こんばんは、ハーレイ先生。いつもブルーがお世話になっております」
ええ、ええ…。はい、分かりました。
それでは土曜日、よろしくお願いいたします。いえ、そんな…。
お気になさらずにお越し下さい、ブルーもきっと喜びますわ。
母は通信機の向こうのハーレイに何度も頭を下げてから通信を切った。自分の椅子へと戻る前にブルーに笑顔を向ける。
「ブルー、ハーレイ先生、土曜日は来て下さるって」
良かったわね、とテーブルに着いた母はブルーの表情が変だと気付いたようで。
「…どうしたの?」
何処か痛いの、具合でも悪い?
それとも晩御飯、ブルーの嫌いなものでもあった?
いえ、違うわね…。好き嫌いは昔からまるで無いんだし、苦手な味がしたかしら?
そういうのがあるなら残していいのよ、その分、他のお料理をしっかり食べるんならね。
「…なんでもない…」
ちょっと口の中、噛んじゃったから…。
それでヘンテコな顔になっただけだよ、具合なんかは悪くないから。
晩御飯だって全部美味しいし、苦手な味はしてないよ。
だけど頬っぺたにウッカリ噛み付いちゃった分、痛いから変な顔のままかも…。
なんでもないよ、と嘘をつくしかなかったブルー。
ハーレイからの通信を取り損なったと言える筈など無いブルー。
ブルーの野望は見事に砕けて、頬の内側を噛んだという嘘までつく羽目になった。
(…嘘の上塗り…)
そういう言葉があるのかどうかは疑わしかったが、恥の上塗りならぬ嘘の上塗り、何も知らない母に嘘をついたばかりに苦しい嘘がもう一つ。
(…頬っぺたなんか噛んでないのに…)
けれども、効果的だった嘘。
ハーレイの通信を母に取られたショックを隠すには「口の中を噛んだ」はピッタリだった。父も母もブルーの落胆に全く気付かなかったし、無言でも二人とも怪しみはしない。
「大丈夫、ブルー? 後で蜂蜜を舐めておきなさいね」
「そうだな、口の中の怪我には蜂蜜がいいな」
腫れてしまう前に、よくウガイをして蜂蜜を舐めるのがいいだろう。
そういった場所から口内炎になると痛いぞ、あれは沁みるからな。
「…うん…」
マヌカでいいかな、殺菌作用があるって言うし…。ハーレイお勧めの蜂蜜だしね。
後でキッチンに行くから、出してね、ママ。
嘘の上塗りの始末にマヌカまで舐める羽目になってしまったブルー。
ハーレイお勧めのセキ・レイ・シロエ風のホットミルクのための蜂蜜、マヌカの花から採れる蜜だけで出来た蜂蜜。
(…ハーレイの通信、取りたかったな…)
どうして取り損なったんだろう、と母がマヌカを掬ってくれたスプーンを口に咥えて泣きそうな気持ちに囚われる。その顔を見ていた母は「もう一杯ね」と新しいスプーンでマヌカを掬った。
「蜂蜜でも沁みるほどなら、口内炎になってしまう前に」と、もう一杯。
マヌカは沁みたりしなかったけれど、そういうことにしておいた。口の中を噛んだ傷が痛むから辛そうな顔になるのだと、それほど強く噛んだのだと。
(嘘の上塗りの、そのまた上塗り…)
とてもハーレイに言えはしないし、この事件のことは黙っておくのがいいだろう。
自分は不幸にして通信を取り損ねただけで、次の機会は逃さない。だからもう一度、と強請ってみよう。また通信を入れて欲しいと。
翌日、仕事帰りに寄ってくれたハーレイに、ブルーは「もう一度」と通信を強請ったけれど。
また日を改めて母に嘘をつくから、通信を入れて欲しいと頼んだのだけれど。
「一度だけだと言っただろうが、お前の悪だくみに付き合うのは」
それに俺は約束を守ってやったしな?
ちゃんと通信、入れてやっただろうが、どうしたわけだか、お前のお母さんが出ちまったがな。
「うー…」
パパが先に見て、ハーレイからだって言ったんだよ!
そしたらママが「じゃあ、私ね」って。ぼくは出る暇、無かったんだよ…!
失敗した、とブルーは肩を落として項垂れた。
父と母とに先を越されたと、通信機越しの恋人の声を聞き損ねた、と。
「ハーレイの通信…。ホントに取りたかったのに…」
取ろうと思って待っていたのに、パパの方が先に立っちゃったんだよ…!
ぼく、普段から通信なんかに出ないから…。仕方ないけど、せっかくのチャンス…。
ハーレイからだって分かっていたのに、目の前で取り損なっちゃうなんて…!
「そうしょげるな。いつかはうるさいほどに入るさ、俺からの通信」
またかとお父さんたちに舌打ちされるほど、面倒くさそうに取り次がれるほど。
お前に代わって下さいと頼む度に俺がペコペコ通信機の前で頭を下げなきゃいけないほどにな。
「それって、いつ?」
いつになったらハーレイからぼくに通信が入るの、パパとかママとかじゃなくって、ぼくに。
代わって下さいってハーレイが頭を下げるほどだし、ぼく宛にかけてくるんだよね?
「まあ、お前とデートが出来る頃になればな」
そうすりゃ通信もうんと増えるさ、デートの誘いにデートの御礼と山のようにな。
「そんなに先なの!?」
嫌だよ、そんなに先だなんて!
ぼくはハーレイの声を聞きたいんだってば、通信機の向こうから聞こえる声が…!
もう一度ぼくに通信を入れて、と泣けど叫べど、ハーレイは折れてくれないから。
「お前の悪だくみの片棒は二度と担がん」と協力する気も無いようだから。
(でも、ハーレイの声…)
いつか必ず聞いてやろう、とブルーは次のチャンスを夢見る。
ハーレイの予定が変わりそうな時、そういう時に通信機のメロディが鳴ったらチャンス到来。
駆け寄って画面の表示を確かめ、ハーレイの名前が出ていたならば。
母よりも先に通話ボタンを押してやろうと、そしてハーレイの声を聞こうと…。
聞きたい声・了
※通信機越しにハーレイの声を聞いてみたい、と思ったブルー。一度でいいから、と。
せっかく根回ししたというのに、駄目になったチャンス。次を待つしかありませんね。
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(ハーレイが来る日…!)
土曜日の朝、ちょっぴり早めに目が覚めたぼく。
ハーレイが来てくれる日なんだ、と思った途端にパチリと冴えた目、起きていそいそ顔を洗って着替えも済ませて、ママが朝御飯の支度をしているキッチンへ。
ダイニングのテーブルにサラダとかの用意は出来ていたけど、誰も座っていなかったから。
今日はまだ起きていなかったパパ。大抵の朝は起きて新聞を読んでいるのに。
キッチンのママは後は卵やソーセージを焼くだけ、って準備万端だから。
「ママ。パパがまだ来ていないけど…。起こしてくる?」
「そうね。その内、起きてくるとは思うけど…」
もう起きてるかもしれないけれども、行きたいんなら行ってらっしゃい。
「はーい!」
起こしてくるね、と駆け出した。
パパは放っておいても起きるんだけれど、たまには起こしてみたいから。
二階に上がって、寝室の中を覗いてみたら。
よく寝てる、パパ。
昨夜は遅くまで起きてたのかな、枕元に開いたままの本。あと少し、って所で挫折したみたい。最後まで読みたくて頑張った気持ちはよく分かる。推理小説なんだもの。
(こういうのって、一気に読んじゃいたいものね)
クライマックスに差し掛かっちゃったら、一休みなんかしたくない。そうなる前に栞を挟めば、続きは次の日、って思えるけれど。パパはタイミングを逃したんだな、って可笑しくなった。
「パパ?」
起きて、って声を掛けたら、パパの身体がゴソッと動いて。
「ぐおーっ!」
いきなり飛び出した、大きなイビキ。さっきまでイビキは無かったのに。
きっと起きると思ってただけに、ビックリしちゃった、パパのイビキ。
(えーっと…)
ぐおーっ、ってイビキは止まらない。こういう時には鼻をつまんで…、とつまんでやった。
プスッって止まった大きなイビキ。面白いほどピタリと止まった。
(静かになった…)
でも、起きて貰わなくっちゃいけないから。
枕元の目覚まし時計がもうすぐ鳴るけど、せっかく起こしに来たんだから。
目覚まし時計は鳴らないようにと止めてしまって、パパの肩を揺さぶることにした。パパ、って何度か揺するとパパは目を覚まして。
「うーん…。なんだ、ブルーか」
おはよう、ブルー。起こした御褒美、欲しいのか?
「ううん、来ただけ」
早く目が覚めたから、ちょっと起こしてみようと思って…。ホントにそれだけ。
御褒美なんかは要らないよ、パパ。
じゃあね、って部屋を出て、ダイニングに行こうと階段を下りた。
パパの御褒美は朝御飯の追加。
(貰ってもあんまり…)
嬉しいどころか却って迷惑、朝からそんなに食べられやしない。ぼくの胃袋、小さいんだもの。
なのに…。
「ほら、ブルー。今朝の御褒美だ」
起こしてくれたろ、パパが寝てたら。
パパの分を分けてやるからな、ってソーセージが一本、ぼくのお皿にやって来た。オムレツしか載っていないお皿に、卵一個分のオムレツが精一杯のぼくのお皿に。
「これは御褒美じゃないってば!」
ぼくはトーストとオムレツがあれば充分なんだよ、それとミルクと!
ソーセージが増えたら、サラダが入らないんだけれど!
「こらこら、御褒美を断っていたら、次から御褒美、貰えなくなるぞ?」
それに食べないと大きくなれないじゃないか。ミルクだけでは背も伸びないしな。
朝から沢山食べるのがいいんだ、お前の食事は少なすぎだ。
「うー…」
ホントのホントに、これだとぼくには多すぎるのに!
酷いよ、パパ!
「御褒美、足りなかったのか?」
もっと欲しいか、それじゃソーセージをもう一本だ。
ママ、ソーセージの追加を頼む。ブルーに二本も譲ったからなあ、あと三本焼いてくれるかな。
こいつは美味いし、多めに食べたい気分なんだ。
(パパ、もっと食べるの…?)
ぼくに譲った分だけ足すなら分かるんだけれど、追加に一本。
それだけ沢山食べられるパパに文句を言ったら、ソーセージはもっと増えそうだから。ううん、ソーセージどころかサラダも大盛りにされちゃいそうだし、諦めるしか…。
御褒美を断り損なった、ぼく。
いつもは食べないソーセージが二本、一本でも多いのに二本もお皿に載せられちゃった。
なんとか頑張って食べたけれども、朝御飯でもうお腹が一杯。
(消化を早くするには、運動…)
だけど走ったり出来やしないし、ぼくに出来るのは部屋の掃除くらい。それでお腹が減るわけがない。模様替えでもしようって勢いでやれば、お腹も空くかもしれないけれど。
(…もうすぐハーレイが来てくれるのに…)
掃除がすっかり終わっちゃっても、少しも減ってくれないお腹。満杯になった胃袋の中身。
こんな日にお土産があったら悲劇。
ハーレイがぼくにくれるお土産、今の所は食べ物限定なんだから。
ママのお菓子はお腹に空きが出来てくるまで待ってくれるけど、お土産の方はそうはいかない。
(…時間が経っても食べられるものならいいんだけれど…)
出来立てが美味しい食べ物だとか、温め直して熱々だとか。そんなのは困る。とっても困る。
ぼくの胃袋、言うことを聞いてくれないから。まだスペースが空いてないから。
(ハーレイがお土産を持って来ませんように…)
神様にそうお祈りをした。普段だったらお土産が欲しいとお願いするのに、まるで逆のことを。
少しでもお腹が減りますように、と椅子から立ったり、座ったり。
これも運動には違いないし、と椅子から椅子へも移動した。ハーレイと座る窓辺の椅子と、勉強机の椅子との間を。
そうしている間にチャイムが鳴って、窓に駆け寄ってみたんだけれど。
生垣の向こう、門扉の所で手を振るハーレイの手にお土産と分かる荷物は無かった。
(良かった、なんにも持ってないみたい…)
だけど油断は出来ないから。荷物の中からヒョイと取り出す可能性だってゼロではないから。
ハーレイが部屋に来てくれて、テーブルの上にママが置いてったお菓子。
ママが焼いたと分かるお菓子が出て来て、ホッと一安心。
ぼくはよっぽどお菓子のお皿を気にしてるように見えたんだろう。向かい側に座ったハーレイがお菓子を指差して、訊いた。
「どうかしたのか、今日の菓子が?」
大好物だ、と喜んでるようでもなさそうなんだが、この菓子は何か特別なのか?
「そうじゃなくって…。ママのお菓子で良かったな、って」
ハーレイのお土産のお菓子だったらどうしよう、って凄く心配だったから…。
「何故だ?」
お前、土産は大好きだろうが。たまに持って来たら、尻尾を振らんばかりだが?
おやつを貰った子犬みたいにパタパタ、パタパタ、振ってる尻尾が見えるようだがな?
「だって、御褒美…」
パパに御褒美を貰っちゃったんだよ、朝御飯の時にソーセージを余分にドッカンと!
ぼくのお皿に載せて来たから、ぼく、要らないって断ったのに…。
そしたら「足りないのか」って追加が来たんだ、ソーセージを二本も食べたんだよ!
お菓子なんてとても入らない、と嘆いた、ぼく。
ソーセージは一本でもお腹が一杯になるのに、それが二本も来たんだから、と。
「ははっ、起こした御褒美か!」
お前がお父さんを起こした時には、そういう御褒美が出るんだな?
「うん…」
運が良かったら断れるけれど、大抵は駄目。パパは御褒美、くれるんだよ。
あんな御褒美、貰っても嬉しくないんだけどな…。
「ふうむ…。だったら、俺もその手でいくかな」
「何の話?」
「お前と結婚した後さ」
俺が起こして貰った朝には、お前に御褒美をやることにしよう。
俺の皿からソーセージだとか、オムレツだとか。お前のお父さんを見習ってな。
ぼくが少ししか食べない日が続いたなら、狸寝入りをして御褒美だって。
ハーレイを起こしたぼくに御褒美、ぼくのパパみたいに朝御飯の追加。
「酷い…!」
なんでそういう御褒美になるわけ、おまけに狸寝入りだなんて…!
「酷いだと? そこは嬉しいの間違いだろ?」
御褒美はもれなく俺の手作りだからな、って言われれば、そう。
ハーレイが作る朝御飯。一度だけ御馳走になったことがある、あの朝御飯。
(…メギドの夢を見ちゃった時だよ…)
怖くて泣きながら眠ってしまって、朝、気が付いたらハーレイの家で。
朝御飯を作って貰って食べた後、車で家まで送って貰った。あの幸せな朝は忘れられない。
ハーレイと食べた朝御飯。ハーレイが作ってくれたオムレツ。
結婚して一緒に暮らしてるんなら、朝御飯の中身もきっと色々、ハーレイが作る朝御飯。ぼくのお皿に「御褒美だ」って載せられるものだって、きっと色々。
ハーレイは料理が好きだと言うから、貰える御褒美も朝御飯にしては凝っているかも…。
「…いいかも…」
思わずポロリと零した言葉に、ハーレイが「な?」と笑顔になった。
うんと美味しい御褒美をやるから、頑張って俺を起こすんだぞ、って。
(…ハーレイの御褒美…)
お腹は一杯になるだろうけれど、素敵かも、って考えた所で気が付いた。
ハーレイがするのは狸寝入り。つまり、ハーレイはとっくに起きているってことで。
(ぼくより寝坊はしないわけ?)
いくら御褒美を食べさせるためでも、そのためだけに早起きってことはないだろう。元から早く起きる習慣があって、目は覚めてるのに狸寝入り。
(柔道とかだと、朝練、あるしね…)
今の生活でついた癖なのかな、と最初は思った。柔道と水泳が大好きな今のハーレイだから。
でも…。
そういえば、前のぼくたちが生きていた頃も…。
(ハーレイ、いつだって先に起きてた!)
本物の恋人同士になって、青の間やハーレイの部屋で同じベッドで眠ったけれど。
ハーレイはいつも、ぼくよりも先に起きていた。目を覚ましていた。
イビキなんか聞いた覚えが無い。
鼻をつまんでイビキを止めたことも、うるさかったことも、ただの一度も。
目覚まし時計はあったけれども、それよりも早く起きたハーレイ。
そんな時計は要らないとばかりに、止められたアラームは部屋に響きはしなかった。
(なんで…?)
やたらと早起きだったハーレイ。
前のハーレイの頃から早起きだなんて、どうしてなのか分からない。今のハーレイなら朝早くに起きて練習ってこともあっただろうけど、前のハーレイには朝練なんて無かったのに。
(…早起きしなくちゃいけない理由が見付からないよ?)
目覚まし時計はあったんだから。それが鳴るよりも前に起きる必要は無いんだから。
(運動部だったら、先輩よりも早く起きなきゃ叱られるってこともありそうだけど…)
シャングリラならば、ハーレイがキャプテンだった頃なら、誰もハーレイを叱りはしない。時間厳守は大切だけれど、そのためにあった目覚まし時計。
(あれが鳴ったら、ハーレイの仕事の準備に取り掛かる時間…)
前のぼくとの恋人同士の時間は終わりで、キャプテンの貌になる時間。
もっとも、本当は終わりじゃなかったけれど。
ソルジャーへの朝の報告っていう建前で、二人一緒に朝御飯を食べていたんだけれど。
とはいえ、ハーレイはキャプテンの制服をカッチリと着込んでマントもつけてた。ソルジャーのぼくも服とマントを着けるわけだし、着替えのための時間が必要。それに合わせて目覚まし時計。
(あの目覚ましが鳴ってから起きても、充分に…)
時間の余裕はあった筈。
それなのに早起きをしていたハーレイ。目覚ましよりも、前のぼくよりも早く。
不思議だったから、ハーレイに訊いた。
前のぼくよりも先に起きていたのはどうしてなの、って。
「目覚まし時計が鳴ってからでも良かったのに…。どうしてあんなに早かったの?」
起きて、目覚まし時計を止めて。
ぼくが起きなきゃ、目覚まし時計の代わりにぼくを起こしていたよね、どうしてなの?
「それはまあ…。キャプテンだったからな?」
船じゃ朝一番に起きるモンだろ、夜勤のヤツらとの引き継ぎってヤツも必要だしな。
いくらブリッジのヤツらが先に済ませていると言っても、キャプテンがベッドの中ではなあ…。
「そういうものなの?」
他の仲間に悪いから、って早起きしてた?
ブリッジの人たちの朝の交代、時間はかなり早かったしね…。みんなとっくに起きているのに、って急いでいたわけ、前のハーレイ?
「それもあるがだ、寝坊してたら前のお前との関係だってバレちまうしな?」
俺の部屋なら誰も来ないが、青の間はマズイ。お前と二人でベッドの中ってわけにはいかん。
朝食係が来てただろうが。あれよりも早く起きないとな?
(…そうだ、朝御飯の係が来てたんだっけ…)
前のぼくとハーレイ、二人分の朝御飯を青の間で仕上げて出すために。
ウッカリ二人で眠ったままだと、朝食係はぼくを起こそうとしてベッド周りのカーテンを開けに来るだろうから、それは大変なことになる。ぼくの隣で寝ているハーレイ。
(それに二人とも…)
寝間着なんか着てはいなかったんだし、どういう仲かも即座にバレる。
そういったことを防ぐためには、ハーレイが起きてベッドを出るのが一番だけれど。
(だけど…)
ホントにそれだけの理由で早起きだったんだろうか、ハーレイは?
よく考えてみれば、夜中にだって…。
(うん、ハーレイは夜中も起きてた…)
夜通し起きていたわけがないのに、ぼくが起きた時はハーレイも必ず起きていた。
前のぼくがたまに見ていた、アルタミラの夢。
まるでメギドの悪夢みたいに、現実だとしか思えなかった恐ろしすぎる人体実験の夢。あるいは檻に独りぼっちで、周りに誰もいない夢。
悲鳴を上げたわけじゃなくても、飛び起きたらハーレイが起きてくれてた。
あの夢の方が現実なのかと、今の日々は夢に過ぎないのかと怯えるぼくを抱き締めてくれた。
力強い腕で、広い胸の中に。温かくて逞しい胸の中に。
そう、いつだって。
いつ目覚めてもハーレイの腕が、胸があったから怖くなかった。
「大丈夫ですよ」と、「私が側にいますよ」と。
夜中でも起きてくれてたハーレイ。ぼくよりも先に起きてたハーレイ。
あれはキャプテンだからって理由じゃ片付かない。きっと他にも何かある筈。
「ハーレイ、夜中もぼくより先に起きてなかった?」
前のぼくが怖い夢を見て飛び起きた時は、ハーレイ、必ず起きてたよ?
起きて、って、ぼくが起こさなくても、いつだって先に。
どうしてああいうことが出来たの?
寝ないで起きてたわけでもないのに、ぼくの悲鳴で起きたってわけでもなさそうなのに…。
「お前の心は分かるのさ」
怖い夢に捕まってしまっているのも、その夢に苦しめられているのも。
ただ、夢っていうヤツは一瞬の内に見るものだしな?
俺が気付いて起きた時には、起こすまでもなくお前は勝手に目覚めちまったが…。
「前のぼくなら、心はいつでも遮蔽してたよ?」
仲間に不安を与えないよう、ぼくの悩みや悲しみを零してしまわないように。
眠っている時にもそうしていたから、ぼくの夢なんかが流れ出す筈が無いんだけれど…。
「それでもだ。それでこその恋人同士ってヤツだ」
僅かな息の乱れや、鼓動の速さや。
そういったもので気付いていたんだろうなあ、悪い夢を見てうなされていると。
一度気付けば、眠りの中でも意識が一気に目覚めるってわけだ、起きなければと。
だからお前よりも先に起きていたのさ、俺の方がな。
実の所は普段もそうだ、とハーレイは言った。
ぼくよりも先に目を覚ましたのは、ぼくの心が目覚める方へと向かっていたから。
ぼくが起きた時に、直ぐに瞳を覗き込めるよう、「おはよう」と笑い掛けられるように先に目を覚まして待っていたと。自分が眠ったままでいたなら、ぼくが寂しい思いをするからと。
「お前を守ると誓っただろうが、前の俺もな」
しかし、実際はそうもいかない。守られていたのは俺の方だった、お前の力に。
だったら、お前が眠っている間くらいは守りたいじゃないか。
お前自身ですらどうにもならない、捕まってしまう恐ろしい夢。
それは夢だと、俺が此処に居ると前のお前に教えてやるのが恋人の役目ってモンだろう?
前の俺はそのために起きていたのさ、お前よりも先に。
そうでない日も先に起きた理由は、お前を寂しがらせないためだ。お前は一人じゃないってな。
お前が眠っている間だけが、俺がお前を守ってやれる時間だったんだ。
早起きの理由は前のお前を守るためだ、って言われちゃったけれど。
じゃあ、今のぼくだとどうなるんだろう?
前のぼくみたいに強くないけど、ハーレイはやっぱり、ぼくよりも先に起きるんだろうか?
どうなるのかな、って尋ねてみたら。
「当然、起きるに決まってるだろう」
お前よりも先だ、夜中も朝もな。先に起きて待つのが俺の役目だ。
「やっぱり恋人同士だから?」
それでハーレイが先に起きるの、ぼくを守るために?
「もちろんだ。今度こそ守ると俺は言ったぞ」
前の俺と違って、今度の俺は本当にお前を守れるんだからな。
お前はサイオンも上手く使えないし、身体だって前と同じに弱い。そんなお前を守らんとな?
ぐっすり寝こけてしまってるようじゃ、全く話にならないってな。
(そっか…。今度もハーレイ、ぼくよりも先に起きるんだ…)
頼もしいな、と思ったけれど。とても嬉しいとも思ったんだけれど、ふと思い出した。
今朝のパパのイビキ。「ぐおーっ」って響いた大きなイビキ。
ハーレイが必ず、ぼくよりも先に起きるってことは…。
「それじゃ、ハーレイのイビキは聞けない?」
「はあ?」
イビキって何だ、俺のイビキがどうかしたのか?
「ぼく、聞いたことがないんだよ。ハーレイのイビキ」
いつだって先に起きていたから、ただの一度も。
長い長い間、ずうっとハーレイと一緒に眠っていたのに。ハーレイの腕の中にいたのに…。
ぼくは本当にハーレイのイビキを一度も聞くことが無かったから。
聞いてみたいんだよ、ってハーレイに言った。
パパのイビキを聞かなかったら、思い付きはしなかったかもしれないけれど。
凄いイビキを、「ぐおーっ」と部屋に響いたイビキを聞いたばかりだから、聞きたくなった。
前のぼくが知らない、ハーレイのイビキ。
寝息さえも一度も聞きはしなかった、ハーレイのイビキ。
「ふうむ…。俺のイビキなあ…」
そんなものを聞きたいだなんて、お前、ずいぶん変わった趣味だな。
「変わった趣味って…。恋人のことなら何でも知りたいと思わない?」
それにハーレイ、ぼくよりも先に起きてばっかりだったから。
イビキなんて夢にも思わなかったよ、どんなイビキをかいてるのかも。
ハーレイ、イビキはかかないの?
期待するだけ無駄なんだったら、別に聞かなくてもいいんだけれど…。イビキをかかないなら、どう頑張っても聞けないしね。
「自分のことだから、俺にはどうとも分からんが…」
俺と一緒の部屋で寝たことのあるヤツらによるとだ、たまにかいてるらしいんだが…。
どういう時にかいているのか、それはハッキリしないんだがな。
「それ、聞きたい!」
ハーレイのイビキ、聞いてみたいよ、かいてるんなら!
「それはお前の自由だが…。俺のイビキを聞きたかったら、だ」
お前が起きないことにはな?
でないと聞けんぞ、俺のイビキは。
「大丈夫だってば、イビキで起きるよ」
ぼくはイビキが聞きたいんだから、イビキの音がしているな、って気付いたら目が覚めるしね。
「そいつは甘いな、そう簡単にはいかないってな」
お前が起きたら、俺だって目が覚めるんだ。そうすりゃイビキは当然、止まる。
どんなに聞き耳を立てていたって、俺が起きてりゃイビキは聞けん。
「そんな…!」
酷いよ、ハーレイ!
ぼくに御褒美を食べさせるための狸寝入りはするくせに!
どうしてイビキを聞かせてくれずに、そこでアッサリ目を覚ますわけ!?
一度くらいはイビキを聞かせてくれたって、って駄々をこねたら。
狸寝入りじゃなくてホントに眠ってイビキを聞かせて欲しいのに、と強請っていたら。
「それなら、俺を酔っ払わせるんだな」
何処から見ても酔っ払いだ、と分かるくらいに酒を飲ませろ。
「えっ?」
どうしてお酒が出てくるの?
ぼくが聞きたいのはハーレイのイビキで…。
「そのイビキ。どういう条件でかいているのか分からない、と言っただろうが」
だが、酔っ払ったなら、確実にかく。こいつは証人が何人もいるな、両手の指じゃ足りないな。
ついでに起きないかもしれん。
酔っ払いだし、眠っちまったら朝までイビキをかき続けるってな。
「分かった、頑張る…!」
ハーレイにお酒を飲ませるんだね、酔っ払うまで?
それでイビキが聞けるんだったら、ぼく、おつまみだって作ってみるよ。
ハーレイ、どういうおつまみが好き?
教えてくれたら、ちゃんと頑張って作るから…!
「ふむ、素晴らしい心掛けだな」
俺の酒のために、つまみまで作ってくれるのか。そいつはいい酒が飲めそうだ。
いい酒と言っても、酒が上等だという意味じゃないぞ?
楽しい酒と言うか、飲んで嬉しい酒だと言うか…。
お前は酒はまるで駄目だが、俺には注いでくれるんだろう?
「決まってるじゃない!」
ハーレイに酔っ払って貰わないとイビキが聞けないんだから、いくらでもお酒を注がなきゃ。
おつまみも作るし、本当にうんと頑張るんだから…!
「そして俺のイビキを存分に聞いて楽しむ、と」
だが、その前に。酔った俺がお前を離すと思うか?
酔えば酔うほど、俺はお前を側に置きたがると思うんだがな?
つまみなんかはもう要らないから此処へ座れと、黙って此処に座っていろと。
ただし、言葉通りに座っているだけで済むかどうかは分からないがな、酔っ払いだしな?
お前という極上のつまみがあるのに、他のつまみを食ってどうする。
いくらお前の手作りでもだ、お前の方がよほど美味いってな。
俺が言っている意味は分かるな、うん…?
お前、チビだが、ただのチビではないんだからな。
「あっ…!」
ニヤリと笑ったハーレイの前で、ぼくは耳まで真っ赤になった。
ハーレイが本当に酔っ払ったら、腕の中に閉じ込められちゃうらしい、ぼく。
おつまみの代わりに此処へ座れと、来いと言われて食べられてしまうらしい、ぼく。
(…そうなっちゃうの!?)
前のハーレイはキャプテンだったから、酔っ払うほどには飲まなかったけれど。
今のハーレイはそうじゃないから、酔っ払ったら何が起こるか分からない。
イビキ目当てにハーレイを酔っ払わせたら、ぼくはとんでもないことになる。
(ハーレイに美味しく食べられちゃうんだ…!)
そうなったらイビキを聞くどころじゃない。ぼくの方が先に疲れて寝ちゃうに決まってる。
だって、相手は酔っ払い。手加減なんかがあるわけがなくて、やめてと言っても止まらない。
ハーレイのイビキを聞くよりも前に、ぼくはすっかり意識なんかは吹っ飛んじゃって…。
(ど、どうしよう…?)
これじゃ聞けない、ハーレイのイビキ。
確実にイビキをかくというのに、ぼくが寝たんじゃ話にならない。
なんとかしてイビキを聞く方法は…、と悩んでるのに、ハーレイときたら。
「酔うと人間、正直だしな?」
そりゃあもう、普段以上にお前に溺れてしまうってな。
たとえ次の日に予定があろうが、そんなことすら見事に忘れちまって夢中でお前を食うだけだ。
こんなに美味いつまみがあったと、最高のつまみが転がっていたと。
「それじゃ、イビキは…?」
ハーレイがイビキをかくっていうから、ぼくは酔っ払わせようと思ったのに…!
酔っ払わせたらそういうことになるんじゃ、ぼくはイビキを聞けないじゃない…!
「なあに、簡単なことだ、そいつは」
酔っちまった俺よりも先に起きればいいだけのことだ、酔っ払いは当分、起きないからな。
その酔っ払いに貪り食われちまって、疲れていなければの話だがな。
「無理だってば…!」
手加減無しのハーレイなんでしょ、ぼくが敵うわけないじゃない…!
疲れて眠ってそれっきりだよ、目が覚めたらハーレイが起きてるんだよ!
「おはよう」だとか、「遅かったな」だとか、ニコニコしながら朝御飯とかを作ってるんだ。
そういう結末、見えているから!
イビキなんかはとっくの昔に止まってしまって、起きたハーレイがいるだけなんだよ…!
酔っ払ったハーレイは確実にイビキをかくらしいけれど。
お酒で酔わせてイビキを聞くのはかなり難しいかも、って思った、ぼく。
ハーレイがイビキをかくよりも前に、ぼくが眠ってしまうから。
酔ったハーレイに食べられてしまって、ぼくの方が先に夢の世界の住人になってしまうから。
(…この作戦は成功するわけないよ)
何度やっても、ぼくが負けるに決まってる。
頑張っておつまみを作ってみたって、お酒をせっせと注いでみたって。
連戦連敗、勝てそうもないぼくだけれども。
酔っ払ったハーレイにも勝てやしなくて、おつまみ代わりにされるんだけれど。
(でも、人生はうんと長いしね…?)
それに、今度のハーレイは古典の先生、キャプテンの仕事なんかは無いから。
「早く起きなきゃいけないからな」って言わなきゃいけない立場じゃないから。
一度くらいは聞かせて欲しいな、ハーレイのイビキ。
安心してぐっすり寝ているんだって分かるイビキを、前のぼくは聞かずに終わったイビキを…。
イビキ・了
※前のハーレイのイビキを聞いたことが無い、と気付いたブルー。ただの一度も。
今度は聞いてみたいのですけど、聞けるでしょうか。こればっかりは運の問題かも…?
←拍手して下さる方は、こちらからv
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