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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(美味しい…!)
 まだ秋だけれど、赤いリンゴも出回るようになったから。
 ぼくが住んでる所よりも北の方では冬が早くて、その辺りで採れたリンゴがお店に並ぶから。
 今日のおやつはママのお手製、リンゴのコンポート、赤ワイン煮。
 真っ赤なリンゴをくるくると剥いて、カットして赤ワインで煮込んであるんだ、もちろんお砂糖たっぷりで。赤ワインを吸って、半透明になってるリンゴ。赤ワインの色に染まったリンゴ。
 アルコールはすっかり飛ばしてあるから、ぼくでも安心。
(ふふっ、ちょっぴり大人の気分!)
 まだまだお酒は飲めないけれど。
 飲める年になっても、前のぼくと同じでお酒に弱いかもしれないけれど。
 だけどワインは大人の飲み物、それを使ったお菓子っていうだけで胸がときめく。
 もうちょっと、って。
 あと何年か我慢したなら、ぼくは十八歳になる。ハーレイと結婚出来る年に。
 お酒は二十歳まで駄目だけれども、結婚したなら大人の仲間入りみたいなものなんだから…。
(もう少ししたら大人なんだよ)
 あと何年かで手が届く筈の大人というもの、大人が楽しむ飲み物がワイン。
 それで煮込まれた赤いリンゴは憧れの世界の欠片を運んで来てくれる。
 赤ワインの赤に染まったリンゴ。アルコール無しでも幸せな気分で酔っ払えそう。
 甘いコンポート、ホイップクリームに庭のミントの葉っぱも添えて。



(赤ワイン煮…)
 フォークで切っては、口へと運んで。
 シナモンの風味も味わいながら、ぼくは御機嫌。
 だって赤ワイン煮、大人の飲み物で作って貰ったおやつだから。アルコール分は飛んでいたって背伸びして大人の気分だから。
 前のぼくみたいに大きくなったら、ぼくも大人の仲間入り。
 ちっとも背丈が伸びてくれないチビのぼくだけど、いつかは大人の仲間入り。
(十八歳までには育つよね、きっと)
 そしたら結婚、お酒は飲めない年でも大人扱いして貰える筈。
 もうちょっとだよ、って今日は前向き、ひょっとしたら赤ワインで酔っ払ってる?
 アルコールは飛んでる筈なんだけれど、赤ワインの味だけで酔っ払えちゃう?
 それもいいかも、こんなに心が浮き立つんなら。



 前のぼくの背丈、それが目標。
 そこまで育てばハーレイがキスを許してくれる。
 シャングリラに居た頃は、当たり前のように交わしていたキス。それが今では頬と額にしかして貰えなくて、膨れてばかりのチビのぼく。
 そのキスだって、あと少しだけの我慢だよね、って思っちゃう。ホントに前向き、今日のぼく。赤ワインで酔っ払っているんだとしても、うんと幸せ、素敵な気分。
 白い鯨でハーレイと一緒に居た頃みたいに、もうすぐ二人で暮らすんだよ、って。



(シャングリラにもワインはあったんだっけ…)
 リンゴのコンポートなんかは作ってないけど、一度も作っていなかったけれど。
 シャングリラでリンゴは育てていたけど、赤ワイン煮になることは無かった。
 ワインは貴重品だったから。
 本物のワインはとっても貴重で、お菓子なんかに使えるものではなかったから。
 もちろん合成品のワインはあったし、それを使えばコンポートだって作れそうだけれど、合成のワインは嗜好品。飲むのが第一、それと料理用。お菓子にはあくまで風味づけ。
(船のみんなに行き渡るだけのリンゴの赤ワイン煮なんて、凄い量のワインが要るんだし…)
 厨房の係は作ろうと思わなかっただろう。もったいない、って。
 でも…。
(赤ワインだけは本物のヤツがあったよね)
 ブドウを搾って、樽で仕込んだホントに本物の赤ワイン。
 合成のお酒ばかりだった中で、あれだけは本物のお酒だったんだ。
 懐かしいな、ってリンゴのコンポートを頬張った。
 あのワインの味にちょっぴり似てると、お砂糖が入って甘いけれども、確かに似てると。
 お酒に弱かったぼくは少しだけしか飲まなかったから、ハッキリ覚えてはいないんだけれど。



 おやつを食べ終えて、キッチンのママにお皿やカップを返しに行って。
 それから二階の部屋に戻って、勉強机で頬杖をついて。
(リンゴのコンポート、美味しかったな…)
 赤ワインたっぷり、お砂糖たっぷり。シナモンも少し。
 ホイップクリームにミントの葉っぱも。
 ちょっぴり背伸びで大人な気分がしてくるお菓子で、酔っ払ったかもしれないけれど。ぼくには嬉しい大人っぽい味、大人の飲み物の赤ワインの味。
 シャングリラでは作らなかったけれども、その気になったら作れたと思う。
 材料は揃っていたんだから。
 リンゴとお砂糖、シナモン、ミントにホイップクリーム。
 もちろん本物の赤ワインだって。
 全員の分は絶対無理でも、一人分ならきっと作れた。前のぼくが一人で食べるだけなら。



(ソルジャーの分だけ、っていうのは反則?)
 そういったことはしないように、って仲間には言ってあったんだけれど。
 ソルジャーだから、って特別扱いをしては駄目だ、と何度も伝えてあったんだけれど。
(でも、赤ワイン煮…)
 食べてみたかったような気がしてきた。材料は揃ってたんだ、と思うと。
 青い地球の上に生まれ変わった今のぼくだから、そんな我儘を思い付いたりするんだろうけど。
(厨房の係に「作って欲しい」って言ったら、反則…)
 喜んで作って貰えたとしても、それだと自分でルールを破ったことになる。
 「ソルジャーを特別扱いするな」と言っていたくせに、自分だけのために特別なものを作らせることになるんだから。それも貴重な赤ワインを使って。
 それはマズイし、許されそうにないんだけれど。



(ハーレイだったら作ってくれたと思うんだよ)
 前のハーレイは厨房出身、料理が得意。青の間には小さなキッチンがあったし、あそこで作れば誰も絶対、気付きやしない。リンゴが一個くらい減っても、生クリームが少し減っても。
 前のぼくが「食べてみたいよ」って言ったら、ハーレイはきっと作ってくれた。
 甘くて美味しい、赤ワインの色に染まったリンゴのコンポート。
 本物の赤ワインを使って、煮込んで。
(ちょっとくらい減ってもバレないんだものね、赤ワイン)
 リンゴや砂糖や生クリームが減っちゃったことを言い訳するより、ずっと簡単。
 だって、天使が飲んじゃうんだから。
 「美味しいね」って飲んでしまうんだから。
 実はシャングリラには天使がいたんだ。
 お酒の大好きな天使ってヤツが。



 年に一回、新年を迎えるイベントの時だけ、シャングリラで飲んだ赤ワイン。
 みんなで乾杯していたワイン。
 そのためにだけ、ワイン用のブドウを取り分けておいて木の樽に入れて熟成させてた。お祝いに使う大切なワイン、クリスマス生まれの神様の血だと伝わる赤ワイン。
 天使はそれを飲んでいた。
 誰にも「下さい」なんて言わずに、こっそりと。



 前のぼくたちが最初にワインを仕込んだ年。
 特別に作った木の樽に入れて、専用の倉庫で熟成させた。温度や湿度の管理も完璧、樽に一杯のワインが出来ると頭から信じていたんだけれど。
「なんで減るんじゃ!」
 樽からボトルに移していた日に、用意しておいたボトルが余った。仕込んだワインを入れようと作ったボトルが余って、減っていたことが初めて分かった。
 そういう報告が上がって来たから、いつものゼルたちを集めて会議。ハーレイが読み上げた事実なるものに、「どうしてなんじゃ」と頭を振ったゼル。
「倉庫の管理は厳重じゃった筈じゃぞ、勝手に入れはしない筈じゃが」
「そうだよ、それに樽だって封印していた筈だよ」
 ブラウも「変だ」と言い出した。
「封印、破れていなかったんだろ? だったら密閉されてたってことさ」
 それなのに、なんで減るんだい?
 考えたくないけど、ワインをサイオンでコッソリと盗む悪い奴が居たってことなのかい?
「違うね、これはそういうものなのだよ」
 減るものだよ、とヒルマンが笑って、エラも穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、本物のワインだからこそ減るのです」
 木の樽から自然に蒸発してゆくのですよ、ああして熟成させている内に。
 そうやって樽から消えてしまったワインを、天使の取り分と呼ぶのだそうです。
 天使が飲んだと、その分だけ減ってしまったのだと。



「ふうむ、天使の取り分じゃったか…」
 仕方ないのう、そういうことなら。しかしじゃ、それは秘密にしておかねばならん。
 この件については調査中じゃ、と言わねばな。
 ゼルが奇妙なことを言うから、ヒルマンが「何故だね?」と訊いたんだけれど。
「分からんか? そういう言い訳で飲むヤツが出るといかんじゃろうが」
 樽のワインは減るものらしい、と広まってみろ。
 少しくらいなら、と味見したがる奴が出るわい、サイオンで盗み出せるんじゃからな。
「なるほどねえ…。あたしもちょいと欲しくなってきたね」
 そろそろいいだろ、って味見に一口。天使が飲むなら一口くらいは欲しいもんだね、樽の間に。
「わしらが飲んでどうするんじゃ!」
 手本にならねばいかん立場じゃぞ、それが盗んで飲みたいなどとは言語道断というヤツじゃ!
「ぼくがシールドしておこうか?」
 ワインの樽ごと。そうすれば蒸発して減ることもないし、問題は解決しそうだけれど。
「それでは美味しくならないのでは、と思うのだがね」
 自然に蒸発してゆく過程も含めて、ワインの熟成が進むのだろうし。
 不自然なシールドを施すよりかは、自然に任せておきたいものだね。
「でも、今後のことを考えると…。天使の取り分、いつかは知られてしまいそうだよ」
 知れてしまったら、ゼルが言ってた不心得者。
 少しだけ、と考える者が出るかもしれない。その対策としてもシールドは有効そうだけど…。
「そこまでのことは要らんじゃろう」
 本当にシールドを張るまでもないわい、ソルジャーが厳重に管理していると広めておけば効果があるじゃろう。それでも減っているようだ、と知れたら天使の取り分の出番じゃな。これは自然に起こることじゃと、防ぎようがない現象なんじゃと。



 ぼくはシールドを張らなかったから、毎年、毎年、減っちゃうワイン。
 天使が飲んでた赤ワイン。
 その内に船でも有名になって、天使の取り分を知らない大人はいなくなった。けれども便乗してコッソリ飲もうという者は無くて、天使だけが飲んでた赤ワイン。
 樽で仕込んだワインは毎年、同じ環境で熟成させてる筈なんだけれど、天使の取り分は少しずつ変わる。多めだったり、少なめだったり、気まぐれな天使が飲んだ分だけ。
 それがどのくらい続いただろう?
 ある日、一日の報告をしに青の間に来たハーレイと二人でお茶を飲んでいたら。
「ソルジャー、天使の取り分ですが…」
 今年はどのくらいの量になるのでしょうねえ、毎年、好きなだけ飲まれていますが…。
 天使の好みで増減するというのが実に不思議です、まるで人間が抜き取っているかのように。
「そうだね。そういう話を持ち出すってことは、君の分を取って欲しいのかい?」
 ぼくは実際には管理してないけど、あの樽の番をしていることになってるし…。
 君が飲む分をほんの少しだけ、天使の取り分で抜き取ってくれと?
「いえ、そうではなく…。天使の取り分という現象ですよ」
 調べてみましたら、どんな酒でも起こるようですし…。合成の悲しさを思い知らされますね。
「えっ?」
「合成の酒は天使も嫌っているようです。大量に仕込んではあるのですが…」
 減らないんですよ、と笑ったハーレイ。
 合成のラムも、ウイスキーも、ブランデーも天使は全く飲まないらしい。
 知らんぷりをして素通りするだけ、ほんの一口も飲みはしないで。



「天使が飲むような酒は美味いだろうと思うのですが…」
 まるで飲まないということになると、合成の酒はそれだけ不味いのでしょう。
 天使が取り分を欲しがる酒の美味さは、どれほどでしょうね。
「昔はあったね、そういうお酒も」
 人類から物資を奪っていた頃は、お酒も沢山。よく紛れてたし、みんなに配っていたけれど…。
 あれが天使の好きな味なんだね、ぼくはお酒は駄目だったけれど。
「いつか飲めたなら、どんな味だったか思い出せるとは思いますが…」
 合成の酒に慣れてしまって、あちらの味を忘れました。美味い酒だった、という記憶だけです。どう美味かったか、どんな味わいだったのか。その辺が曖昧になってしまいました。
 舌が忘れてしまったようです、とハーレイは少し悲しそうで。
 天使も飲まない合成のお酒を飲むしかないのも、気の毒に思えてきたものだから。
「それならラムとかも作ってみようか、本物を?」
 ワインみたいに大きな樽を使うんじゃなくて、小さな樽で。
「無理ですよ。ラムの原料はサトウキビですし、ラム酒に回せる分があるなら砂糖を増産するべきでしょう」
 ウイスキーにしても同じことです。大麦、ライ麦、トウモロコシなどの穀物が原料ですから。
「ブランデーはブドウじゃなかったかな?」
 それで間違いありませんが…。ブドウから作った白ワインを蒸留するのですよ?
 赤ワインでさえもギリギリなんです、ブランデーなんかを作れる余裕はありませんよ。
 年に一度の赤ワインだけで充分です、って言ったハーレイ。
 ぼくの飲み残しを貰っている分、他の仲間より多めに飲めているのですから、って。



 そんなハーレイと恋人同士になった後。
 ハーレイはぼくの特別になって、大切な人になったから。
 シャングリラの仲間の誰よりも大事で、愛おしい人になったから。
 天使の取り分が出来るお酒をハーレイに飲ませてあげたいと思ったけれど。なんとかして本物のラムやブランデー、ウイスキーを作れないかと思ったけれど。
 でもハーレイが前に言っていた通り、それは不可能。
 ラムを作るだけのサトウキビがあるなら、料理やお菓子に欠かせない砂糖を増産すべき。穀物もウイスキーを作れるほどなら、食料の備蓄に回さなければ。
 白ワインが原料だというブランデーなどは論外だったし、本物のお酒は作れない。
 ぼくがソルジャーでも、そんな命令、下せやしない。
 だけどハーレイにお酒をあげたい。
 天使が飲むという本物のお酒を、お酒が大好きなハーレイのために。



 ハーレイにお酒、って考え続けて、だけどお酒は作れなくって。
(ちょっとだけ…)
 赤ワインをほんの少しだけ、ってサイオンで盗み出した、ぼく。
 その頃にはワインは樽に詰めてから一年で飲むより、二年、三年、って置いた方がいいって話も出ていて、乾杯用のワインを取り出した後に残ったワインは樽の中。乾杯の時には長く熟成させたワインの方から順に使って、その年のワインはかなりの量が残るもの。
 だから樽にはワインがたっぷり、ちゃんと熟成されたワインがたっぷり。
 ちょっと考えて、去年のワインを失敬した。樽にけっこう残っていたから大丈夫。
 これは天使の取り分だから、って。



 その夜、ハーレイが青の間にやって来て、目を丸くした。
「なんですか、これは?」
 ぼくが出しておいたグラスが二つ。テーブルの上にグラスが二つ。
 どっちも空っぽ、透明なグラスが置いてあるだけ。
「乾杯用だよ」
「は?」
「君との記念日に乾杯するんだ」
 あれから一年になる日だものね、って微笑んだ、ぼく。
 ハーレイと初めてベッドに入った記念日だから、と。
「覚えてらっしゃったのですか…」
「ぼくが大切な記念日を忘れるとでも?」
 そして、これはね…。
 内緒だよ、と注いだ赤ワイン。失敬して来た本物のワイン。ハーレイは直ぐに気が付いた。
「ソルジャー、これは…!」
「二人きりの時はソルジャーじゃなくてブルーだけれど?」
 それにね、これは天使の取り分。天使がワインを飲んだんだよ。
「しかし…!」
「大丈夫。樽には沢山入っていたから、このくらいならね」
 今年の天使は多めに飲んだな、って係が納得するだけだよ。報告だってそれでおしまい。
 それとも、君は怒るかい?
 ソルジャーが盗みを働いていた、と。
「いえ、共犯にさせて頂きます」
 盗み出しておられたらしい、と気付きましたが、誰にも報告いたしません。
 犯人蔵匿は立派な罪です、これで私も有罪です。



 ワイン泥棒になったソルジャーと、それを匿ったキャプテンと。
 二人揃って犯罪者になってしまったけれども、誰も気付きやしないから。
 ワインが減ったのは天使の取り分、今年の天使がちょっぴり多めに飲んでしまっただけだから。
 ぼくもハーレイも捕まりはしないし、叱られることも絶対に無い。
 貴重なワインをグラスに二杯分も盗んだ大泥棒と、匿った悪人なんだけど。
「ハーレイ、今日から犯罪者だね」
「ええ。あなたも犯罪者になられたわけです、二人組のワイン泥棒ですよ」
 盗んだ犯人と、犯人を突き出さない私。
 おまけにこれから乾杯ですしね、あなたが盗み出した赤ワインで。
「うん。ハーレイが共犯者になってくれたお蔭で、泥棒扱いは免れそうだ」
「大切な恋人を泥棒にしたいような人間はいませんよ」
「そうかもね。お互い、一生、黙っていないと…。相手が犯罪者だったということ」
「もちろんです。航宙日誌にも書きませんとも」
 ハーレイが大真面目な顔で言い切った後で、可笑しくて笑い合ったぼくたち。
 ソルジャーとキャプテンがワインを盗んで飲んでいたことは誰も知らずに終わるだろう、って。



 ぼくが盗んだ天使の取り分、貴重な樽から盗み出して来た赤ワイン。
 二つのグラスに注いだけれども、ぼくはもちろん口を付けただけ。
 お酒を飲んだら酔っ払うから、ほんのちょっぴり舐めただけ。
 残りのワインはハーレイに渡して、ハーレイが二杯飲むことになった。
 本物のラムやブランデー、ウイスキーはとても無理だから、せめて本物の赤ワイン。天使が取り分を持ってゆくという、本物のお酒をハーレイに。
 「ハーレイにあげたかったんだ」って言ったら、ハーレイは大感激でキスをしてくれた。ぼくを抱き締めて何度も何度も、赤ワインの味がするキスを。
 その夜のキスも赤ワインの味が残ってた。
 ハーレイとベッドで愛し合う中、何度も交わしたキスに微かな赤ワインの味。
 もう残ってはいない筈なのに、赤ワインの味がしていたキス。
 それから毎年、記念日はそれ。
 こっそり、本物の赤ワイン。
 天使が飲んだと言い訳しながら、ぼくがこっそり盗んで乾杯。
 恋人同士になれて良かったと、いつまでも離れずに生きてゆこうと…。



(思い出しちゃった…!)
 記念日のことを忘れていた、ぼく。
 天使の取り分は覚えていたのに、天使じゃなくって自分が盗んでいたことを。
 これは天使が飲んだ分だ、って樽からワインを盗んでたことを。
(ハーレイと二人で乾杯して、キス…)
 毎年、赤ワインの味がしていたような気がするキス。記念日のキス。
 あのキスの味をもう一度確かめたいんだけれど…。
(コンポート…)
 ママが作ったコンポート。赤ワインの色に染まったリンゴ。
 あれを食べれば赤ワインの味が分かるけれども、今日のおやつはもう食べちゃった。ハーレイが来たらママはお菓子を出して来るんだし、今、コンポートを食べに行ったら…。
(ハーレイが来た時、ぼくの分のお菓子が無いんだよ!)
 晩御飯を残すに決まっているから、ママはお菓子を抜きにするんだ。それは寂しい。ハーレイと同じお菓子を食べたい。食べながらあれこれ話をしたい。
 そうしたいなら、諦めるしかないコンポート。
 赤ワインの味を確かめたくても、おかわりなんかは食べに行けやしない。
(…ハーレイが来たらデザートに出るかな?)
 ぼくに同じお菓子を続けて出すより、ママは別のを選びそう。晩御飯のデザートも別のお菓子になってしまうかもしれないけれども、出ないと決まったわけでもない。
(だって、ハーレイはコンポートを食べていないんだものね?)
 うん、そうかも。
 赤ワインの味、ハーレイも一緒の晩御飯の時に幸せ一杯でしっかり確かめられるかも…!



 そうだといいな、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
 ママが出したお菓子はリンゴのコンポートじゃなかったから。
 よし、とテーブルを挟んで向かい合いながら訊いてみた。
「ハーレイ、ぼくにリンゴのコンポート、作ってくれる?」
 赤ワインたっぷりで煮込んだリンゴ。アルコールをしっかり飛ばしたヤツ。
「今か?」
 俺の料理は持って来られないと何度も言ってる筈だがな?
 お母さんに恐縮されちまうから、そいつは駄目だと。
「ううん、今じゃなくって前のハーレイ」
 今日のおやつがそうだったから…。
 美味しかったから、これ、シャングリラでも作れたかな、って考えてたんだ。
 前のハーレイなら作れたかもね、って。青の間のキッチンでリンゴを煮込んで。
「お前が欲しいと言っていたらな」
 前のお前に頼まれたのなら、それくらいは作ってやっただろうな。
 大した手間はかからんわけだし、材料もたかが知れてるからな。
「赤ワインだけど…。合成じゃなくて本物だよ?」
 本物の赤ワインで煮たコンポートがいいな、その方が美味しいだろうしね。
「本物だと? お前、盗むつもりか?」
 あれは厳重に管理されてて、前のお前が管理責任者みたいなことになっていなかったか?
 年に一度しか飲めないワインだ、いくらお前でも菓子を作るために盗むというのは感心せんが。
「平気だってば、天使の取り分」
「おい、お前…!」
 天使の取り分だと言ったか、お前?
 だから減っても大丈夫だ、と?



 ロクでもないことを考えてるな、って睨んだハーレイ。
 赤ワインで煮込んだコンポートを食べて知恵がついたな、って眉間に皺を寄せてるハーレイ。
 ぼくは天使の取り分としか言ってないのに、この反応。
 やっぱりハーレイも思い出したんだ、って分かったから。
 記念日に二人で乾杯したことを、本物の赤ワインを飲んでいたことを、ハーレイも思い出したに違いないから、ぼくはニッコリ笑って言った。
「あのね…。今日の晩御飯のデザート、リンゴのコンポートの可能性が高いんだけど」
「なんだって?」
「おやつに食べた、って言ったでしょ? だから出るかも」
 今、テーブルの上に載ってないから、晩御飯の後で出て来るのかも…。
 ママが作ったコンポート。赤ワインの色で綺麗なんだよ、それにとっても美味しかったよ。
 もしも出て来たら味わって食べてね、前のぼくたちの思い出の赤ワインの味がするんだから。
「そいつは勘弁願いたいが…」
 このタイミングでか、って呻いたハーレイ。
 もう絶対に思い出したに決まってる。記念日の乾杯も、記念日のキスも。
 赤ワインの味がしていたあのキスのことを、ハーレイも思い出したんだ…!

 ぼくは嬉しくなってしまって、空に舞い上がりそうだった。
 ハーレイとのキス、記念日のキス。
 それに記念日には乾杯していた。本物の赤ワインを盗んでコッソリ、毎年、二人で。
 天使の取り分って言い訳しながら、大泥棒のぼくと泥棒を匿ったハーレイがキスを交わしてた。
 他のみんなは年に一度しか飲めないワイン。
 前のぼくがキッチリ管理していて、年に一回、新年だけしか飲めなかった貴重な赤ワイン。
 好きに飲んでも叱られないのはシャングリラに住んでた天使だけ。
 お酒が好きだった天使だけ。
 そのお酒好きの天使のせいにして、ぼくとハーレイとが乾杯してた。
 本物の恋人同士になった記念日が巡ってくる度、盗み出したワインで二人きりで。
 ハーレイも思い出してくれたからには今日は最高、きっと素敵な夕食になる。
 デザートにリンゴのコンポートが出たら、二人で視線を交わし合って。
 でも…。



(すっかり忘れて食べちゃったよ…!)
 夕食の後で、ハーレイと二人でお茶まで飲んで。
 「またな」ってハーレイが手を振って帰って行った後で、歯噛みしたぼく。
 食べちゃった、リンゴのコンポート。
 ママがデザートに用意してくれた、赤ワインで煮込んだ美味しいリンゴ。
 赤ワインのことなんか見事に忘れて、無邪気にパクパク食べちゃった、ぼく。
 ホイップクリームをたっぷりとつけて、夢中で頬張っちゃったけど…。
 ハーレイは覚えていたんだろうか?
 前のぼくとの記念日の話、ハーレイはしっかり思い出しながら味わって食べていたんだろうか?
(…ハーレイがぼくを見てたかどうかも覚えてないよ…)
 パパとママも交えた夕食の間、ハーレイはいつも笑顔だから。
 それを見ているだけで幸せ、コンポートの意味も天使の取り分も頭の中には全く無かった。
 赤ワインの味すら噛み締め損ねた、大馬鹿なぼく。
 次のチャンスには思い出せるんだろうか、赤ワインの味が何だったのか。
 ハーレイとの記念日のキスの味だったんだ、って。これで乾杯してたんだよね、って。
 シャングリラに住んでた、お酒好きな天使。
 赤ワインに会ったら思い出したい。天使の取り分と、記念日のキスを…。




          天使の取り分・了

※ワインを醸造する間に、持ってゆく天使。いわゆる「天使の取り分」ですけれど…。
 それにかこつけて、「本物のワイン」で乾杯していたハーレイとブルー。幸せな犯罪者たち。
 
 







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(…あれ?)
 あのストール、ってママの手元に目がいった。
 午後から急に冷えて来たから、ママが急いで出して来た箱。ストールを何枚も仕舞ってある箱。
 リビングで開けて、どれにしようか選んでるみたい。あれこれと出して、広げてみて。
 明日はお出掛けなんだって。
 ぼくが学校から帰るまでには戻ってるから、って言ってたけれど。
 コートを着るには少し早いし、ストールなのかな?
 ふわりと一枚、羽織っておいたらかなり違うと思うんだ。
 コートと違って畳める所も便利そう。その辺が多分、選ばれた理由。
 ママがストールの箱を持ち出して、色々広げている理由。



 ちょっと冷える中、学校から家に帰って来たぼく。
 ママはおやつを用意してくれて、ホットミルクも作ってくれた。シナモンミルクのマヌカ多め。ハーレイに教わったセキ・レイ・シロエの好みだったミルク。
 それからママは「ちょっとお出掛けの用意をするから」ってダイニングから出て行った。服でも選びに行くのかな、って見送ったけれど、ストールだった。リビングに置かれたストールの箱。
 おやつを食べ終わったから、食器をキッチンに返して、御馳走様って言いに行ったんだけど。
 リビングを覗いてみたんだけれど。



(あれって…)
 ママが広げてみているストール。
 花びらみたいに優しい青から淡い水色までを染め上げた、グラデーションになったストール。
 なんて言ったかな、普通のストールよりも上等な素材で織られたストール、ママのお気に入り。
 「軽いのにとっても暖かいのよ」って何度も聞いた。
 小さい頃からママが持ってて、触らせて貰ったら柔らかくって。
(なんだか懐かしい…)
 胸の奥からこみ上げて来た、懐かしさ。
 ママが羽織っていた姿だけじゃなくて、もっと親しみを感じる何か。
(ぼく、借りてた…?)
 覚えてないけど、ぼくもあのストール、使ってた?
 なんだかそういう気持ちがするんだ、ぼくにとってもお馴染みだよ、って。
(なんで…?)
 どうしてなのかが分からないから、よく見よう、ってリビングに入って行った。
 青いストール、小さな頃から見ていただけの筈なのに。
 借りたことなんか無い筈なのに…。



「ママ、それ、なあに?」
「えっ?」
 ストールを持ったままで顔を上げたママ。
 青いグラデーションのストール。軽くて柔らかい、大判のストール。
「そのストール、なあに?」
 ママのお気に入りのストールってことは知っているけど…。上等なのも知っているけど。
 懐かしい気持ちがするんだよ。そのストール、ぼくも使ったりした?
 ぼくは借りたの、って訊いてみた。
 大きなサイズのストールだから、小さかった頃に羽織れば明らかに床に引き摺るだろうに。
 上等なんだし、オモチャにしたなら「ダメよ」って叱られてしまうだろうに。
 それでも懐かしくてたまらないから、このストールにはきっと何かがある。
 ぼくの心を捕まえて離さない、思い出か何か。
 ママに叱られたオマケつきでも、胸が躍るような素敵な記憶。



「ぼく、それでソルジャー・ブルーごっこでもしてた?」
 マントのつもりで着ちゃってた?
 床に引き摺ってしまいそうだけど、ソルジャー・ブルーのマントもそうだし…。
 紫じゃないけど、そのストールを借りてやったの、ソルジャー・ブルーのマントの真似。
「していないわよ?」
 そもそもやっていないじゃない、って言われちゃった。
 「ブルーはソルジャー・ブルーごっこなんかはしていないでしょ」って。
 子供に人気のソルジャー・ブルーごっこ。
 大英雄のソルジャー・ブルーになったつもりで遊ぶんだ。もちろんマントは欠かせない。まずはマントで、家の中ならシーツだったり、毛布だったり。
(男の子なら大抵、やるんだけれど…)
 ぼくはソルジャー・ブルーごっこをしたことがない。ただの一度も。
 見た目だけなら、ソルジャー・ブルーにそっくりだけれど。
 ソルジャー・ブルーごっこで木から飛び降りて、怪我をしちゃった友達だったらいるけれど。



「でも、そのストール…」
 ホントのホントに懐かしいんだよ、貸して貰ったと思うんだけど…。
「覚えてるの?」
「えっ?」
 今度はぼくが驚く番。
 全然覚えていないけれども、「覚えてるの?」って訊かれたってことは借りたんだ。
 だけど記憶が全く無い。
 借りて幸せ一杯だったら、きっと記憶に残っている筈。それなのに無いということは…。
(忘れたい気持ちとセットなんだよ、うんと叱られちゃったとか…)
 記憶ごと消してしまいたい、って思うような悲惨な出来事とセットの思い出、ストールの記憶。
 ぼくは綺麗に忘れてしまって、懐かしさだけしか残ってないけど。
 黙って持ち出して汚したりした…?
 御機嫌で羽織って絵でも描いてて、インクの染みがついちゃったとか…?
「ごめんなさい、ママ…!」
 ぼくは慌てて謝った。
 忘れちゃっててごめんなさい、って。ストールに悪戯したんだよね、って。
「違うわよ。悪戯なんかをしてはいないわ」
 これはブルーの、ってママは優しく微笑んでくれた。
 ぼくの最初のストールなんだ、って。



「最初…?」
「そうよ」
 一番最初、ってママはストールを広げてくれた。
 青いグラデーションの大きなストール、柔らかくて暖かくて軽いストール。
「ママがブルーに着せてあげたの、今よりもずうっと小さな頃に」
 このくらいね、ってママが示した大きさ。
 うんと小さな身体のぼく。チビどころじゃなくて、赤ちゃんのぼく。
 三月の一番最後の日に生まれて、暫くの間は病院に居て。
 暖かくなる季節に向かって、お日様がポカポカ射している中で家へと向かう筈だった。退院してママの腕に抱かれて。
 それなのに、退院するっていう日。
 季節外れの寒波が来ちゃって、桜も咲いているのに白い雪が舞った。
 病院の中は暖かいけれど、パパの車も暖房が効いているけれど。車に乗る時と、家に着いて入るまでの間はそうはいかない。肌を刺す冷たい空気が待ってる。
「サイオン・シールドで包んでも良かったんだけど…」
 それだとブルーに分からないでしょ、外の空気が。
 せっかく初めて外に出るのに、シールドの中だとつまらないでしょ?
 だから、ってママは青いストールを両手に掛けて笑顔で言った。
 ぼくに着せたと、赤ちゃんだったぼくにこのストールを着せたのだと。
 ストールは入院する時に持っては行かなかったから。
 パパは仕舞ってある場所が分からないから、思念で伝えて病院まで持って来て貰って。
 「これにくるまれてブルーは退院したの」って教えて貰った。
 ママに抱っこされて、パパの車で。
 季節外れの雪が舞う日に、生まれて初めてのドライブをして。



(あのストール…)
 部屋に帰って、勉強机の前に座って考えた。
 なんだか大切そうな気がするストール。
 懐かしい、って思う気持ちに加えて、大事なものだって気までして来た。
 ママの話を聞いたからかな、ぼくの最初のストールなんだ、って。
 赤ちゃんだったぼくを包んだ初めてのストールだから、こういう気持ちになるんだろうか?
(でも…)
 それだけにしては強すぎる思い。
 あれは特別、あのストールは特別なんだ、って胸の奥から湧き上がる気持ち。
(赤ちゃんの時の記憶があるって人もいるよね…)
 もしかしたら、ぼくも。
 すっかり忘れてしまってるだけで、退院した日の記憶が何処かにあるかもしれない。
 病院でママがストールを巻いてくれてた時とか、初めて外を見た時だとか。
 それともパパの車から降りて、この家を見ながら入って来た時。
 赤ちゃんだったぼくの瞳に映った、庭の木だとか、家とか、玄関。
(そういう記憶を持ってるのかも…)
 だとしたら、それを見てみたい。
 青い地球の上に生まれ変わって最初の記憶を、一番最初に目で見て経験したものを。
 景色も、それから雪が舞う日の冷たい空気も。



 あのストールを借りたら思い出せるだろうか、ってママに頼んで借りて来た。
 明日のお出掛けは別のストールに決めたと言うから、ちょっとだけ、って。
 箱から出して貰って、借りて。
 部屋まで持って帰ってふわりと広げた大きなストール。両端に織り糸を捩った房。綺麗に揃った房の色までグラデーション。花びらみたいな青の房から、淡い水色をした房まで。
(これにくるんで貰ったんだから…)
 こんな感じ、と羽織ってみたけど、思い出せない。
 身体にくるりと巻き付けてみても、ストールに頬っぺたをくっつけてみても。
 赤ちゃんだったぼくを包んだストール。
 雪の舞う日に、初めて外へ出たぼくを包んでくれたストール。
(暖かかったと思うんだけど…)
 寒くなんかなくて、ストールのお蔭でポカポカで。
 だけど頬っぺたには冷たい空気が触れていた筈だと思うから。
 ストールにくるまっていられる幸せを、赤ちゃんのぼくは分かっていたと思うんだ。
 そのせいで特別に思うんだろうか?
 これのお蔭で暖かかったと、寒い日だけどとても暖かかったんだ、と。



(暖かかったのが特別だったのかな?)
 メギドで凍えた右手の記憶は、赤ちゃんのぼくには無い筈だけれど。
 暖かいってことがどれほど幸せで素敵なのかは、微かに感じていたかもしれない。
 暖かくなったと、もう寒くないと、幸せなんだと。
(あったかいのが特別だった…?)
 だからストールを懐かしく思っているんだろうか。暖かかったと、ぼくを温めてくれたんだと。ママと同じで暖かかったと、この中でとても幸せだったと。
(ストールの刷り込み…)
 鳥の中には卵から孵って最初に見たものを親だと思い込むのがいるらしいから。
 ぼくもストールをママと同じくらいに特別だと思っちゃったとか?
 ママみたいに暖かかったから。
 ママと同じに、ぼくを包んで暖かく守ってくれたから。
(そうなのかな?)
 だったら、やっぱり思い出したい。
 あったかいストールにくるまって見たものや、感じた空気を。
 赤ちゃんだったぼくの頬っぺたに空からひとひら落ちたかもしれない、季節外れの雪の結晶を。



 なんとかして思い出せないものか、と考えていたら、チャイムが鳴って。
 窓から覗いたらハーレイが見上げて手を振ってたから、ストールの思い出は暫くお預け。
 ハーレイの方が大切だもの、と畳んで椅子の背もたれに掛けた。勉強机の所の椅子の。
 これで汚れる心配は無し、とポンと叩いて、ハーレイが来るのを待ったんだけど。
 ママに案内されて来たハーレイは、テーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いた。
「お前、ストール使うのか?」
 珍しい趣味だな、お前くらいの年の男の子だったら上着だろうと思うんだが…。
「あれは借りたんだよ、ママのだよ」
 ちょっと気になることがあるから、借りて来ただけ。
 でも…。ストールを使うのって、珍しいの?
 冬は膝掛けに別のを使うよ、ママに貰った厚手のストール。薄くした毛布みたいなのを。
「なるほど、膝掛け代わりになあ…」
 お前は弱いし、膝掛けも馴染みのものなんだろう。
 しかしだ、元気なガキってヤツはだ、膝掛けなんかは要らないってな。
「そうかも…」
 でもね、ママから借りたストール。
 あっちの方ならお世話になった子も多いと思うな、寒い冬の日に。
 赤ちゃんだった頃なら、ストールを巻いて貰った子供もきっと多いと思うんだよね。
 ぼくもそういう話をママから聞いて来たんだけれど…。
 このストールがそうだったのよ、って聞いて、その頃の記憶が無いか探しているんだけれど…。



 頑張っても思い出せないんだよ、って立ち上がって勉強机の椅子からストールを取った。
「もっと小さかったら思い出せるのかな?」
 これですっぽりくるめるくらいに小さかったら、ぼくの記憶も戻るのかな?
 忘れちゃってる、赤ちゃんの記憶。
 ぼくはチビだけど、もうストールにはくるめないしね…。そこまで小さくないんだもの。
 ほらね、ってストールを羽織って見せた。
 ストールでくるむには大きすぎだよ、って。
 そしたら息を飲んだハーレイ。
 ぼくにも聞こえるほど息の音がしたし、鳶色の目だって大きくなってる。
「どうかしたの?」
 ぼくにストール、似合わなかった?
「いや…。そういうわけではないんだが…」
「なんだか変だよ?」
 ハーレイ、ビックリしたみたいだけど。
 ギョッとするほど似合ってないかな、赤ちゃんじゃないぼくには、このストールは…?



「記憶違いかもしれん」
 俺の記憶だ、記憶違いだ。
「なに?」
「単なるストールの記憶なんだが…」
「ストール? それにハーレイの記憶違いだなんて…」
 ひょっとしてハーレイ、こういうストールを何処かで見たの?
 ぼくを見たの、って訊いてみた。
 ママと一緒に退院した日に着ていたんだよ、って。
 赤ちゃんだったぼくが生まれて初めて、病院の外に出られた日。パパの車でこの家に連れて来て貰った、四月の初め。
 雪が降ってて寒かったんだ、って。
 桜はとっくに咲いていたけど、季節外れの雪で寒い日だったからストールの中、って。



「雪だと…?」
「うん、雪」
 ぼくは全然、ちっとも思い出せないけれど。
 雪が降ってたってママが言ったよ、だからストールにくるんだんだ、って。
 パパに家から持って来て貰って、このストールに。
 その日の記憶が戻らないかな、ってママにストールを借りて来たんだけれど…。
「俺はお前に会ったかもしれない」
「えっ?」
「チビどころじゃない、赤ん坊だった頃の小さなお前だ」
 生まれたばかりで、まだ這うことさえ出来ないお前。
 自分の家さえ知らないお前に、俺は病院の前で会ってたかもなあ…。



 あの日…、ってハーレイは遠い記憶を探る目をして。
「俺はいつもの習慣でジョギングしていた。特にコースは決めていなくて、気の向くままにな」
 家を出発して、あちこちに咲いてる桜を眺めながらのコースってトコか。
 桜に雪だと、季節外れの雪になったな、と走っていたんだ。
 公園を抜けて、側にある病院の前まで来たら、歩道の脇に車が停まってて。
 俺くらいの年の男が病院から出て来て、後ろのドアを開けたから。
 病人さんが通るんだったら邪魔しちゃマズイな、と足を止めたら、病人さんではなかったんだ。
「ママ…?」
「さてなあ、そいつは分からないが…」
 顔までは覚えていないからな。
 俺もジョギングの途中だったし、じろじろ見るのも失礼だしな。
 ただ、赤ん坊を抱いていた。大事そうにストールでくるんだ子供を、まるで宝物みたいにな。
「ぼく…?」
「そのストールの色が記憶に無い」
 全く覚えちゃいないんだが…。見た瞬間にハッとしたんだ、そのストール。
 掛けてあった時は何とも思わなかったが、お前が羽織った途端にな。
 何処かで見たぞ、と確かに思った。
 だが、その時点では何処なのかも謎で、いつだったのかも分からなかった。
 ストールを見たな、というだけの記憶だ。それだけでは何の意味も無い。
 記憶違いだと言ったのはそれだ、意味すら無いんじゃどうにもならん。
 しかし、お前がストールにくるまって退院したとか、季節外れの雪だったとか。
 そういった話を聞いていたら記憶が戻って来たんだ、ストールにくるまった赤ん坊だ、と。
 母親に抱かれて車に乗り込む所を見たなと、あの時は雪が降っていたな、と。



「まさか、本当にぼくだったの?」
 ハーレイが見ていた、その赤ちゃん。
 ストールにくるまれていたって赤ちゃん、ぼくだった?
 このストールにくるまれてたなら、それはぼくだと思うんだけど…。
 いくらなんでも同じような日に同じストールで退院する子は、他にはいないと思うんだけど…。
「分からんなあ…」
 肝心のストールの色の記憶が無いからな。
 さっきから必死に考えちゃいるが、ストールにくるまれた赤ん坊って所が限界だ。
 ストールの色も思い出さなきゃ、母親の顔立ちも思い出せない。父親の方もな。
 これではお前だと言い切れはしないし、他の子だって可能性もある。
 なにしろあの日は寒かったからなあ、退院する子は誰でも何かにくるまったろうさ。
 シールドするって方法はあるが、生まれて初めての外なんだしな?
 外の空気を吸わせてやるなら、シールドするよりくるんでやるのがお勧めだ。
 ストールの子供、お前の他にも誰か居たかもしれないしな。



「そうだね…。ママもそういうことを言ったよ、シールドの中ではつまらないでしょ、って」
 だからストールにくるんだのよ、ってママも言ってた。
 他の子のママも同じようなことを考えそうだね、シールドじゃなくてくるめる何か、って。
 ハーレイが病院の前で見てた赤ちゃん、ぼくだとは限らないんだね…。
「そういうことだな、俺の記憶がハッキリしてれば絞り込めるんだが…」
 ストールの色とか、車の色とか。
 その辺が決め手になりそうなんだが、生憎とどっちも覚えてないなあ…。
「ハーレイ、それからどうしたの?」
 ストールにくるまった赤ちゃんを立ち止まって見てて、その後は?
 止まってたんなら、赤ちゃんが車に乗り込むトコまで見てたんだよね?
「ああ。ちゃんと父親がドアを閉めてやって、運転席に乗り込む所も見てたな」
 赤ん坊を乗っけた車が発進するのを見送ってから、俺もジョギング再開だ。
 あの子が元気に育つといいな、と颯爽と町を走って行ったな。
 俺みたいに丈夫に育ってくれよと、いきなり風邪なんか引くんじゃないぞと。
 どういうわけだか男の子だと決めてかかっていたなあ、顔を見たわけでもないのにな?
 女の子だったらとんだ迷惑だな、俺みたいに育てと祈られたらな。



「あははっ、そうかもしれないね」
 丈夫なのはいいけど、風邪を引かずに育てというのも嬉しいけれど。
 ハーレイみたいに、って所は余計だったかもしれないね。
 女の子がハーレイみたいに育っちゃったら、とっても大変。
 性格とかなら大丈夫だけど、見た目がハーレイみたいだったら恨まれそうだよ、思いっ切り。
「お前なあ…。それが恋人に向かって言うことか?」
「だって、ハーレイなんだもの」
 ハーレイの姿、ぼくにはカッコ良く見えるけれども。
 シャングリラでは色々と言われていたじゃない。薔薇のジャムが似合わないハーレイだったよ? 似合わないからってクジ引きの箱が素通りしてたよ、ハーレイの前を。
「それは事実だが…。俺も事実を否定はしないが」
 もう少しマシな言いようっていうのは無いのか、お前。
 自分の目までを否定している気がしてこないか、節穴なんだと。
 誰もが認める「薔薇のジャムが似合わない男」がカッコ良く見える自分の目。そいつが実は節穴なんだという方向では考えないのか、お前ってヤツは。
「ううん、ちっとも」
 ぼくはぼくだよ、自分の目だってちゃんと自信を持っているもの。
 ハーレイのカッコ良さが分からない方が間違いなんだよ、分からない人の目が節穴なだけ。
 でもね、女の子がハーレイみたいな姿だったら困るってことはぼくにも分かるよ?
 ハーレイにお祈りされた赤ちゃん、女の子でなければいいんだけどね…。



 女の子だったら可哀相すぎ、って言ったら、ハーレイがギロリと睨むから。
 「まだ言うのか」って眉間に皺を刻んでいるから、話題を戻すことにした。苛めすぎたら仕返しされるし、その前に話を戻さなくっちゃ。
「ねえ、ハーレイ。お祈りされた子、男の子だったら何の問題も無いんだけれど…」
 その赤ちゃんって、ぼくだった?
 ハーレイはぼくを見たんだと思う?
 退院して行くぼくに出会って、元気に育てよって見送ったんだと思ってる?
「さあな? そいつはどうだかなあ…」
 何度も言ったろ、決め手に欠けると。
 ストールの色か、車の色か。どっちかを俺が覚えていたなら、裏付けってヤツが出来るがな…。
 今の状態だと、お前のお父さんやお母さんと記憶を突き合わせたって、上手くは行かん。
 俺の方の記憶がボケちまっていて、お母さんたちが見ても首を捻るしかないってな。



 あの日に、ぼくを見たのかどうか。
 分からないな、とハーレイは慎重に答えるけれど。
 パパやママにも確認しようが無いんだけれども、もしもハーレイと出会っていたなら…。
「あのね、ハーレイが見ていた赤ちゃんがぼくだったら…」
 ぼくは元気に育ったよ?
 退院して直ぐに風邪を引いちゃったなんて聞いていないし、お祈り、効いたよ。
「そのようだな。俺のように、と祈った割にはちょいと弱いがな」
「ハーレイが祈ってくれたからだよ、ぼくが元気に育つように、って」
 弱いけれども、大きな病気は一回もしてはいないもの。
 ハーレイがお祈りしてくれなかったら、大きな病気に罹っていたかも…。
「あれがお前だとは限らんのだが?」
 俺はストールにくるまれた赤ん坊に出会っただけでだ、あの子が男だったかどうかも知らん。
 季節外れの雪は降っていたが、お前の他にも退院する子は居ただろうしな。
「でも、ぼくだよ」
 ハーレイが会った子、ぼくなんだよ。
 このストールを見てハッとしたなら、おんなじストールをその日に見たんだ。
 ぼくをくるんだストールなんだよ、赤ちゃんだったぼくをママがくるんでくれたストール。
 間違いないってぼくは思うな、あの日、ハーレイに会ったんだ、って。
「俺もそういう気がして来たな…」
 そのストール、初めて見た筈なんだが。
 どうにもそういう気がしなくってな、あの日に見ていたストールかもなあ…。



 俺たちはあの日に出会ったかもな、ってハーレイの顔が綻んだ。
 ぼくが生まれて、ママと一緒に退院した日に。
 季節外れの雪が降った日、病院の前で。
 ハーレイはジョギングの真っ最中で、ぼくを抱いたママのために足を止めてくれて。
 ぼくはママのストールにくるまってハーレイの前を通って行った。パパの車に乗り込むために。この家にやって来るために。
(ぼく、ハーレイに会っていたんだ…)
 それで特別な気がするんだろうか、このストールは。
 ぼくの記憶が戻ってなくても、ハーレイに初めて出会った日。
 その日に着ていたストールだから。これにくるまれてハーレイに出会ったストールだから。
(赤ちゃんの時の記憶と言うより、神様が教えてくれたのかな?)
 これをハーレイに見せてみなさい、って。
 そしたら素敵なことが分かると、これは特別なストールだから、と。



(本当の所は分からないけど…)
 ぼくとハーレイ、あの日に本当に出会ったかどうかは分からない。
 ハーレイの記憶はぼんやりしていて、パパやママの記憶を確認したって「間違いない」と言える決め手に欠けているから。
 他に見ていた人がいたって、その人たちだって記憶はとっくにぼやけているから。
(だけど、ぼくだと思うんだよね)
 そんな気がするし、そう信じたい。
 あの日、ハーレイと会ったんだ、って。
 ママのストールにくるまれたぼくと、ジョギング中のハーレイが病院の前で出会ってた、って。



 育ってからなら、会ったかもしれないって思っていたけど。
 何処かで颯爽と走ってゆくハーレイに手を振ったかも、って思っていたけど。
 ぼくが初めて、生まれた病院から外へ出られた日。
 外の空気に生まれて初めて触れたその日に、ハーレイと出会っていたのなら…。
「もし、ハーレイに会っていたなら、運命だよね?」
 運命の出会いってよく言うけれども、本当にそれ。
 あの日にハーレイと会ったんだったら、運命だったと思わない?
「うむ。まさに運命というヤツだな」
 そんな時点で出会っていたなら、運命の出会いを通り越して、だ…。
 前の俺たちからの続きで腐れ縁かもな、ってハーレイは笑って言ったけれども。
 腐れ縁なんて言われ方でも、あの日にハーレイと出会っていたい。
 季節外れの雪が降ってて、ママのストールにくるまれてた日。
 生まれ変わってまた巡り会えたぼくたちだからこそ、初めて病院の外へ出られたあの日に…。




          ストール・了

※季節外れの雪が舞う日に、初めて「外に出た」赤ん坊のブルー。母のストールにくるまれて。
 同じ日にハーレイが出会った「ストールに包まれた」赤ちゃんは…。きっとブルーですね。
 










(さて、と…)
 ブルーの家へ出掛ける日の朝。週末といえども、習慣で早い時間に目覚めるのが常。
 まずは新聞、届いたばかりのを取って来てから朝食の支度。
(目玉焼きにするか、スクランブルエッグか…)
 何にするかな、と暫し思案してからオムレツに決めた。ハーブの風味が際立つソーセージを昨日買って来たから、それも何本か焼いて添えよう。
 後はサラダに、オニオンスープ。薄切りのタマネギをバターで炒めて、コンソメを入れて。
(よし、そんなトコだな)
 サラダ用にと野菜を刻んで、それからタマネギ。小鍋で軽く炒めた後は様子を見るだけ。茶色くなるまで時々混ぜながら他の作業を。
 ソーセージはオムレツの後に同じフライパンを使って焼くのが手間いらずだ。
 オムレツにかかるか、と卵をボウルに二個、割り入れて…。



(三個でやっても良かったかもな?)
 もう一個増やすか、ソーセージを多めに焼くことにするか。
 今の段階なら卵を一個増やすくらいは何でもない。味に変化が出るわけでもない。なにしろ卵は割ったばかりで、箸で溶いている真っ最中。塩コショウすらもしてはいないし…。
 足すんだったら今の内だな、などと考えていて。
(ん?)
 何の気なしに混ぜていた箸。
 卵を溶く時はいつも使っている、料理用の箸。食卓で使う箸とは違った、木の箸だけれど。
(おいおい、こいつは…)
 有り得んぞ、と箸を置いてフォークを取って来た。金属製の大きなフォーク。パスタを食べたりする時に使う、ごくごく普通の大きなフォーク。
 箸の代わりにフォークを握って、ボウルの卵に挑戦した。
 それで溶こうと、黄身と白身を万遍なく上手に混ぜてみようと。



 カシャカシャとキッチンに響く音。箸の音とは異なった音。
 ボウルにフォークが何度も当たって、黄身と白身が混ざってゆく。オムレツを作るならしっかりかき混ぜ、偏らないようにしなければ。
 黄身と白身では火の通りが変わるし、上手く混ざっていなかった時は出来栄えが悪い。切ったら一目で素人にも分かる下手なオムレツ、此処が白身だと分かるオムレツ。
(出来んことはないが…)
 うーむ、とハーレイは低く呻いた。
 フォークで卵を溶きほぐすことは可能なのだが、どうにも効率が良さそうにない。箸を一本しか持たずにやったらこうなるか、といった感じで頼りない。
 前の自分は確かにフォークで卵を溶いたが、今となっては信じ難い、それ。
 厨房に居た頃、幾つもの卵を溶きほぐしたのに。
 前のブルーが殻に入った卵を奪って来た時は、こうしてフォークで溶いていたのに。



(箸の方がうんと優れものだぞ?)
 信じられん、と箸に持ち替えたら、アッと言う間に卵は混ざった。実に頼もしい調理器具。
 卵をフライパンに流して、手際よくオムレツに仕上げていって。
 皿に移したら、お次はハーブ風味のソーセージを炒め、その間にオニオンスープも出来た。味を確かめ、カップに移して、やおら朝食。
 「いただきます」と合掌してから食べ始めるのも習慣だった。
 誰も居なくても、必須の挨拶。食べ物への感謝の気持ちをこめて。
 生まれ育った家で、柔道や水泳の先輩たちからも叩き込まれた「いただきます」。今でも決して忘れはしないし、外食する時も合掌はする。
 しかし…。



(忘れちまっていたぞ、卵をフォークで溶いてただなんて…)
 箸で溶くのに慣れた今では、なんとも不便な調理器具。箸でやったら直ぐ出来ることに、無駄な時間を取るフォーク。一本の箸で混ぜているようだ、とまで思ったフォーク。
 けれども、無かった。
 前の自分が生きていた時代に、二本の棒を並べた箸は。
(箸というものからして無かったのか…!)
 SD体制の時代に消された文化。今は復活を遂げて身の回りにある、小さな島国、日本の文化。遥かな昔にこの地域に在ったと言われる様々な文化。
 それと前の自分が生きた時代の文化との間の多くの違いに、何度も驚いて来たけれど。
 食べ物に関しても、幾度も気付いて来たのだけれど。
 その食べ物を口に運ぶ道具。食べるための道具。
(まさか、箸自体が無かったとはなあ…)
 すっかり慣れてしまっていたから、箸が無かったとは全く思いもしなかった。
 青い地球の上に生まれた時から箸は馴染んで来た道具だから。
 物心つくかつかない内から、いつも周りに在ったから。
 幼かった日に、母が「ほら」と小皿の上に乗せてくれた味見用の欠片も、箸でつまんで。
 父が「食うか?」と口に入れてくれた酒のつまみも、箸で運ばれた。
 幼稚園などに持って出掛けた弁当箱にも、箸入れがセット。
 スプーンやフォークも日常に使うものだけれども、無ければたちまち困る箸。
 味噌汁を作ってもスプーンで飲んだら味気ない気分がするだろう。刺身をフォークで食べるのも嫌だ。煮魚をナイフでカットするのも。



(衝撃の事実というヤツだな…)
 オムレツもソーセージもフォークで口へと運ぶけれども。
 オニオンスープはスプーンで掬っているのだけれども、サラダには箸。それが今の普通。
(だが、シャングリラだと、こうはいかんぞ)
 サラダもフォークで食べるものだった。それが普通だと考えていたし、箸などは無いし…。
(今日の話題は箸で決まりだな)
 ブルーと二人でこれを話そう、と割り箸を荷物に忍ばせた。
 箸は幾つも家にあるのだが、あえてオマケに貰った箸。無料で貰った、ただの割り箸。
 仕事の帰りにたまに買って帰る、美味しいと評判の近所の寿司屋。店でも食べられて、持ち帰りサービスも充実している。そこの店名が刷られた紙の袋に入った割り箸を、一つ。
 箸は一膳、二膳と数えるけれども、この際、一つでかまわない。ブルーと話したいことは呼び名ではなくて、箸という存在そのものだから。



 いい天気だから歩いて出掛けて、ブルーの家に着いて。
 二階の部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、早速笑顔で切り出した。
「土産話を持って来たぞ」
「お土産じゃなくて?」
 小さなブルーがそう返したから。
「そうそう土産があると思うか?」
 お前は期待をし過ぎていないか、土産なんぞは滅多に持っては来ないだろうが。
「お土産、毎回、あったっていいと思うんだけど…。ぼく、ハーレイの恋人だよ?」
 いつもプレゼントを貰えたっていいと思うけどなあ、恋人なんだし。
「自分が置かれた状況ってヤツを考えろよ?」
 此処は青の間じゃなくて、お前の家で、だ。
 お前と俺とが恋人同士だなんてことは全く知らないお父さんとお母さんが一緒だろうが。
 何度も土産を提げて来たなら恐縮される。今のペースが限界ってトコだ。
 今日の所は土産話で我慢しておけ、本物の土産はまた今度だな。
 今度と言ってもこの次じゃないぞ、そのくらいのことは分かるな、お前?



「うー…」
 ブルーは唇を尖らせたけれど、ハーレイは譲ってやらないから。
 諦めたらしく、まだ不満さが溢れる瞳で尋ねてきた。
「土産話って、ハーレイ、何処かに行ったっけ?」
 ぼくは気付かなかったけれども、日帰りで研修か何かに行って来たの?
「いや?」
「だよねえ…。それなのに土産話って、何?」
「ん? それはな…」
 これだ、と割り箸を取り出して見せた。例の割り箸をテーブルに置く。
「えーっと…。これって、お寿司屋さんの?」
 聞いたことがあるよ、この名前。ハーレイの家から近かったの?
「そうだが」
 けっこう近いぞ、仕事帰りにたまに買って帰る。店で食ってることもあるなあ、美味いんだぞ。
「連れてってくれるの?」
「誰が!」
 なんでお前を連れて行かなきゃならんのだ。
 第一、お前がチビの間は外で一緒に食事はしないと言っただろうが。
 その代わりに、って持って来てやったのが庭のテーブルと椅子の始まりなんだぞ、忘れたのか?



「…じゃあ、この次のお土産だとか?」
「寿司がか?」
「巻き寿司でも握り寿司でも好きだよ。ちらし寿司だって」
 このお店の一番人気のお寿司は何なの、ハーレイのお勧めのお寿司もいいなあ…。
 どっちがいいかな、一番人気とハーレイのお勧めのお寿司だったら。
「なんでそういう話になるんだ」
「お土産」
 買って来てくれるつもりなんでしょ、ここのお寿司を。
 だから割り箸を持って来て見せてくれたんでしょ?
 どれがいいんだ、って。お土産に買うなら何のお寿司が欲しいんだ、って。
「土産話だ!」
 誰も土産だとは言っていないぞ、一言も。
 土産と土産話とは違う。俺が持って来たのは土産話で、土産とはまるで関係ないぞ。



 欲張りめが…、と苦笑しながら、ハーレイは割り箸を指でつついた。
「お前、何とも思わないか?」
「何が?」
「割り箸だが」
 こいつを眺めて何も思わないのか、土産に寿司だという他には?
 割り箸ってヤツについてはどうなんだ。寿司じゃなくって、割り箸の方だ。
「んーと…。これって普通の割り箸だよね?」
 変わった割り箸には見えないけれども、これがどうかした?
「なら、袋から出してよく見てみろ。手に取ってな」
「袋から…?」
 ブルーは割り箸を持ってみたのだけれど。
 言われた通りに袋から出して見てみたけれども、ごくごく見慣れた普通の割り箸。店名が刻んであるわけでもなく、袋が無ければ寿司屋のものとは誰にも分からないだろう。
 だから…。



「普通だけど…?」
 ぼくには普通の割り箸に見えるよ、この割り箸。
 それとも何処かが特別なの?
 お寿司によく合う木で出来てるとか、そういうこだわりの割り箸なの?
「その手のヤツなら店の名前を入れてるさ。そいつも売りになるからな」
 残念ながら何処にでもあるような割り箸なんだが、その割り箸。
 前のお前になったつもりで持ったらどうなる?
「えっ?」
「使い方、お前、分かるのか?」
 箸はどうやって使うものなのか、そもそも何に使うのか。食事に使うって分かるのか?
「えーっと…」
 変な棒だと思っちゃうかも、食べる道具だとは思わないかも…。
「こいつをパキンと割る所からして謎だろうが」
 二本入っていりゃ、二本の棒を何かに使うと見当がつくが…。
 こんな風にくっついた割り箸が出たら、間にメモでも挟んでおくのかと考えそうだぞ。わざわざ割ろうとは、まず思わん。こういう道具だと思うだけだな。
「そうかも…」
 間に挟んでおくための道具。前のぼくでも、そう思いそう。
 割り箸なんかは知りもしないし、お箸だって全く見たことがないし…。
 土産話って、それなわけ?
 今の今まで気付かなかったよ、前のぼくたちはお箸を知らずに暮らしてたなんて。
 ハーレイ、凄いね。
 お箸なんて今では当たり前なのに、どうやってそれを思い出したの?
 前はお箸は無かった、って。前のぼくたちが生きてた頃にはお箸は存在しなかった、って…。



「今朝、オムレツを作ろうとしていて気が付いたんだ」
 卵を箸で溶きほぐしてたら、前はこいつじゃなかったな、とな。
 それでフォークを持ち出したんだが、フォークはなかなか難儀だったぞ。箸のようには扱えん。今の俺には腹立たしいだけの道具だったな、フォークはな。
「前のハーレイ、フォークだったよ?」
 フォークで卵をかき混ぜていたよ、ボウルを抱えて。
 ちゃんと上手に混ぜていたけど、フォークじゃ駄目なの、卵を混ぜるの。
「それしか無ければ慣れるもんだし、コツを掴めば楽なんだろうが…」
 箸で混ぜるのに慣れちまった俺に「フォークで混ぜろ」と言われてもなあ…。
 それにだ、卵を混ぜるだけじゃなくて。
 揚げ物をするなら、断然、箸だな。
 小さなものから大きなものまで自由自在にヒョイとつまめて、裏返すのにも便利な道具だ。
 料理をするにも便利なものだし、食うにも便利だと思わんか?
 色々なサイズのナイフやフォークを用意しなくても、箸だけあったらいいんだからな。



「ホントだね」
 このお魚は大きいから、って大きなお箸に持ち替えなくても平気だし…。
 御飯を食べるのとおかずを食べるのに別のお箸、ってこともないよね。
「そうだろう? 箸ってヤツはだ、和風の料理ってヤツに関しては万能らしいぞ」
 和風の料理でなくても、だ。
 こいつが無ければラーメンも食えん。ナイフやフォークでラーメンは無理だ。
「無理そうだね…」
 お箸、元々はラーメンの国から来たのかな?
 日本っていう国の文化は中国の方から来たのも多い、って教わるものね。
「うむ。箸が生まれたのはその辺りだな」
 周りの国にも広がっていって、日本もその中の一つだったわけだ。
 今の時代は和食と一緒にあちこちの地域に普及してるが、どうして消えてしまってたんだか…。
「SD体制が消してしまったんでしょ?」
 マザー・システムが統治しやすいように。
 いろんな文化を纏め上げるのは厄介だから、って一つに統一しちゃった時に。
「それは分かるんだが、箸ってヤツはだ…」
 調理器具としても優れものだが。
 箸があるだけで調理が楽になる料理も多いと思うんだがなあ…。
「お料理するのに便利だから、って道具としてだけ残しておくのは難しそうだよ」
 何かのはずみに「ホントは食事に使った道具だ」って気付かれちゃったら困るんじゃない?
 お箸で食べようと思い付かれたら記憶処理だよ、面倒だよ?
「まあ、そうだろうな」
 SD体制の時代に箸で食べてたら、そいつは異端だ。
 それを切っ掛けに何に気付くか分からないしな、そうなっちまう前に記憶消去が必要か…。
 たかが調理器具のせいで手間が増えるより、最初から無いのが一番だな、箸。



 機械が人間を統治していた、SD体制が敷かれていた頃。
 多様な文化は認められなくて、たった一つしか文化は無かった。何処の星へ行っても同じ生活、同じ文化に食文化。
 人類の世界から弾き出されたミュウであっても、元がそういう世界で育った人間だから。
 あえて別の文化を築き上げようとは思わなかったし、技術が別になっただけ。
 シャングリラに独自の改造を加え、サイオンを大いに生かしたけれども、それが限界。
 人類とは違う生き方をしよう、と誰も思いはしなかった。
 目指した生活は「人並みの生活」、すなわち人類と同レベルのもの。
 そうやって完成させた楽園、シャングリラは言わば箱庭だった。人類が暮らす世界の縮小版。
 ゆえに人類と同じ文化で、食文化も同じ。
 箸などは無くて、それを作ろうと考えた者さえいなかったから…。



「前の俺は箸を扱えていたと思うか?」
「調理器具のお箸?」
 卵を溶くとか、揚げ物だとか。そういうのに使う、道具のお箸?
「いや、食べる方だ」
 今の俺だと、目玉焼きなんかも箸で食おうと思えば食えるが…。
 スクランブルエッグなら楽々なんだが、前の俺にも出来たと思うか、そういう食べ方?
「無理じゃない?」
 落っことしちゃうとか、つまめないとか。困りそうだよ、卵料理じゃなくっても。
 一口サイズに切ったお肉でも、お箸で食べろって言われちゃったら突き刺しそうだよ。
「やはりそうか?」
 グサリと刺すしかないと思うか、肉の場合は。
「うん。前のぼくだって無理そうだもの」
 はい、ってお箸を渡されたとしても、持ち方からして変だと思うよ。
 二本纏めてギュッと握って、それでグサッと刺していくだけ。刺せない食べ物はサイオンだよ。刺してます、って見せかけておいて、サイオンで支えて口に運ぶしかなさそうな感じ。
 今のぼくだとそっちの方が無理なんだけど…。
 サイオンで支えるなんて芸当、出来っこないから、絶対に無理。その分、お箸は使えるけどね。前のぼくには想像もつかない持ち方のお箸、いつも使っているんだもの。



 ぼくも時代も変わっちゃった、とブルーはペロリと舌を出した。
 前の自分は箸が使えず、今の自分は箸は使えてもサイオンの方がサッパリ駄目だと。
「でも…。前のぼくには使えなくっても、便利なのにね、お箸」
 ぼくはお料理しないけれども、お料理にもとっても便利なんでしょ?
「うむ。それに、食う方にしても箸は偉大な道具だぞ?」
 箸が無くても、そういうサイズの棒が二本あったら食えるしな。
 それこそ木の枝を適当に切って、箸の代わりに使えるわけだ。箸なんか持ってなくてもな。
「ホントだ…!」
 木の枝だなんて、ハーレイ、やったの?
 お箸の代わりに木の枝を使って食べたの、ハーレイ?
「ガキの頃に親父と釣りに行ってな。弁当は忘れずに持ってたんだが、箸を忘れた」
 おふくろが忘れたって言うんじゃなくって、俺が自分で包み忘れただけなんだがな。
 これじゃ食えない、と青ざめていたら、親父がその辺の木の枝を切って箸を作ってくれた。
「そっか…!」
「木さえ選べば便利なもんだぞ、木の枝の箸」
「選ぶの?」
 使いやすいような枝を選ぶとか、そういう意味?
「そうじゃなくって、毒の有無だな。下手に触ったらかぶれちまう木とかがあるからな」
 毒のある木を箸に使ったら大変じゃないか。
 SD体制の頃なら毒のある動植物を排除してたし、その手の心配は無かったらしいが。
「その代わり、お箸が無かったよ?」
 お箸になる木は選び放題でも、お箸を知らなきゃ使えないよ。
 木の枝のお箸、SD体制の時代には作り方さえ誰も知らないから使わないよ…。



 もしもお箸があったなら…、とブルーが首を傾げて尋ねた。
「ゼルたち、上手く使えたかな?」
 シャングリラでこれを使ってみよう、って誰かがお箸を思い付いたら。
 ゼルやブラウは使えたのかな、握ってグサリと刺したりせずに。
「そいつは無理だろ。ゼルは手先は器用だったが、いきなり箸を渡されてもなあ…」
 ナイフやフォークで慣れているんだ、どうしても握っちまうだろう。
 ブラウの方だと迷うことなく握ってグサリだ、豪快な性格だっただけにな。
「やっぱり…? エラだったら少しはマシだったかな?」
「エラの場合は手本にならねばと完璧を目指していたと思うぞ、箸の使い方」
 シャングリラに箸を持ち込むとしたら、ヒルマンかエラか、どちらかだ。
 案外、ヒルマンたちは知ってたかもなあ、箸という道具。
「知らなかったんじゃないの?」
 見たことがないよ、シャングリラでお箸。
 ヒルマンやエラが知っていたなら、試してみそうな気がするんだけど…。
「分からんぞ。データベースの資料に「使いづらい」と書いてあったら、わざわざ作るか?」
 作り上げても使うのに苦労するような代物、誰も喜びはしないだろうが。
 調理器具としては便利なんだと気付くなんてことも無いだろうしな、箸が使えないと調理器具の本領は発揮されないままなわけだし。
「そうだね、食べるのに使うだけなら面倒かも…」
 便利なナイフやフォークがあるのに、お箸だなんて。困っちゃうよね、使うことになったら。
「実際、難しいらしいしな? 慣れていないと」
 俺たちみたいに生まれた時から周りにあった、って地域以外じゃ苦労するらしい。
 寿司なんかを食べに店に入って、箸が出て来ても上手く使えなくて。
 頑張った挙句に「ナイフとフォークを出して下さい」って頼むケースもあるそうだしな。
「それは分かるよ」
 前のぼくでも、サイオン抜きなら似たようなことになったと思うよ。
 お箸じゃとても食べられないから、ナイフとフォークを出して欲しい、って。



 それで…、とブルーはテーブルの割り箸を指差した。
「ハーレイ、このお箸、ぼくにくれるの?」
 お土産はお箸の話らしいけど、この割り箸は貰ってもいいの?
「寿司屋で貰った割り箸だぞ?」
 持ち帰り用のただの割り箸で、寿司屋の名前の袋が無ければ何処の店のかも謎なんだが?
「でも、ハーレイが持って来てくれた割り箸だよ?」
 ハーレイが貰った割り箸なんだし、ハーレイのものだと思うんだ。だから、ちょうだい。
「そんなものでも欲しいのか、お前?」
「欲しいよ、これはハーレイの割り箸なんだから」
 くれるんだったら記念に欲しいな、ハーレイとお箸の話をしていた記念に。
 ちゃんと引き出しに仕舞っておくから、要らないんだったら、ぼくにちょうだい。
 お寿司を買ったら貰えるんでしょ、この割り箸。
 これからも幾つも貰うんだろうし、今日の記念に欲しいんだけど…。



 ちょうだい、と瞳を輝かせている小さな恋人。
 割り箸が欲しいと、持ち帰り寿司に付いて来た割り箸が欲しいと強請る恋人。
 貰えるものだと思っているらしいが、ハーレイはやおら腕組みをして。
「駄目だな、こいつは高級品の割り箸だからな」
 お前にはやれん。持って帰るさ。
「なんで?」
 ハーレイ、普通の割り箸なんだって言ったじゃない!
 特別な木で出来てるわけでもないって言っていたくせに、なんで高級品?
「地球の木材で出来てるからな」
 俺たちにとっては高級品でも何でもないが、だ。
 他の星に住んでるヤツらからすれば、地球の木材で出来た家具とかは特別扱いの高級品だぞ。
「それは家具とかになる木材でしょ!」
 割り箸になる木は違うじゃない!
 なんて言ったっけ、間伐材?
 家具とかに使う木を育てる間に間引いていく木で作ると聞いたよ、だから安い、って!
「間伐材には違いないが、だ。それでも地球で育った木だぞ?」
 そいつで作った割り箸なんだ。前のお前には高級どころか貴重品だぞ、この割り箸。
 何処かで見たならフィシスみたいに攫ったんじゃないのか、割り箸でも?
「…そうかも…」
 地球の木で作った割り箸なんだ、って分かったら欲しくて盗んでいたかも…。
 何に使う道具か分からなくっても、地球の木で出来ているんだったら。
「ほら見ろ、高級品だったろうが」
 前のお前が無理をしてでも盗みそうなものなら高級品だな、間違いない。



 だからやらん、と言われてブルーは膨れたけれど。
 「ケチ!」と叫んで膨れたけれども、割り箸ごときを大切にしたい恋人だからこそ、渡せない。
 持ち帰り寿司に付いてくるような割り箸を欲しいと強請った小さな恋人。
 記念に欲しがる、小さなブルー。
 前の生から愛し続けた恋人のために、ブルーのために贈るものなら、もっといいものを。
 そう思ったから、こう約束した。
「膨れなくっても、いつか買ってやるさ。割り箸なんかより素敵な箸をな」
 ちゃんとした箸を買おうじゃないか。専門店でな。
「ホント?」
「本当だとも。ただし、結婚したらな」
 それまで待ってろ、あと数年の辛抱だろうが。
「酷い…!」
 待たせるんなら、高級品の割り箸、ちょうだい。意地悪しないで、それをちょうだい。
「酷くないだろ、俺と揃いの箸にしようと言っているんだ」
 夫婦箸っていう箸があるんだぞ。夫婦で持つよう、二つセットの箸なんだ。
「そんなのがあるの?」
「ああ。大きめの箸と、それより少し小さい箸とのセットだな」
 色が違ったり、模様が少し変えてあったり、サイズが違うだけだったり。
 そりゃあ色々な夫婦箸があるさ、そういう箸を二人で買おうと言ってるんだが…。
 夫婦箸よりも割り箸がいいか?
 それなら止めんし、この割り箸をプレゼントさせて貰ってもいいが。
「ううん、割り箸、返しておくよ」
 もう欲しいって強請らないから、そっちのお箸。
 二つセットのお箸を買ってよ、ハーレイとお揃いのお箸がいいよ。
 結婚したら二人で買いに行こうよ、ハーレイにもぼくにも似合いそうなお箸。



 約束だよ、とブルーは割り箸を素直に諦めてくれたから。
 欲しいと強請るのをやめて返してくれたから。
(夫婦箸なあ…)
 いつか二人で持つのだったら、どんな箸がいいか、とハーレイは笑みを浮かべて考える。
 前の生では存在さえも知らずに終わった箸というもの。
 今は馴染みの、当たり前になった食事の道具。
 それを二人で使えるのだから、こだわりの箸を選びたい。
 素材も、細工も、もちろん色も。
 この愛らしい恋人と揃いにするなら、どういう箸を二人で選びに出掛けようかと…。




          お箸・了

※シャングリラの時代には、無かった箸。今では当たり前に使っているものなのに。
 そして「夫婦箸」が欲しくなってしまったブルー。いつかはハーレイと買いに行けますね。
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 学校から帰っておやつを食べながら、ふと見たダイニングのテーブルの上。端っこの方に普段は無いもの。おやつの時間には消えているもの。
 お塩と胡椒と。
 二つお揃いのガラスの器で、胡椒はペッパーミルになってる。
 おやつにお塩と胡椒は要らない。食事だって要るとは限らないから、使う時だけ棚から出て来る筈なんだけれど。
(ママ、仕舞い忘れた?)
 きっとそうなんだ。
 ぼくが学校に行っている間にお昼御飯を一人で食べて、そのまんま。
 お買い物に出掛けて忘れちゃったか、お客さんがチャイムを鳴らしたか。お皿とかをキッチンに持ってった後でテーブルを拭いていたなら、忘れちゃうこともあるだろう。
 後で、って思って、それっきり。
 テーブルの端っこに乗っかってたって、特に邪魔にはならないんだから。
(ママのお昼御飯、何だったのかな?)
 ぼくは学校でランチ定食、今日は大好きなハンバーグを食べて来たんだけれど。
 お塩と胡椒は使わなかったし、ママが一人でハンバーグってことも無いんだろうし…。
(スパゲティとか?)
 茹でて、好みの具材やソースをかけて。仕上げにお塩と胡椒っていうのは如何にもありそう。



 ママが置き忘れたペッパーミル。
 ガラスの器の中に詰まった色とりどりの胡椒の粒たち、ママのお気に入り。
 黒いの、白いの、それから赤いの。緑色のも混じってる。熟した時期とかで違うんだっけ?
 とにかく色々、いろんな色をした胡椒のミックス。
 ぼくの家では食卓にはこれ。もう一味、って時にはガリッと挽いて。
 シチューに振ったり、使い方は一杯あるんだけれど。
 ママのお昼御飯はスパゲティだったかも、って考えちゃったら。



(トォニィ好みのスパゲティ…)
 そういう謳い文句の料理があったっけ、って可笑しくなった。
 前にハーレイに食べに出掛けて貰ったシャングリラの歴代ソルジャーの食事。それの再現という楽しいイベント。
 レストラン部門を併設しているパン屋さんの企画で、この町では人気のチェーン店。ハーレイの家の近所にもあって、偶然チラシを貰ったとかで、ぼくの家まで持って来たんだ。
 前のぼくの分は、よりにもよってアルタミラの餌だったオーツ麦のシリアルがメイン。目玉焼きなんかもついていたけど、メインは餌。
 どんな感じか知りたかったから、ハーレイに頼んで行って貰った。アルタミラの餌はヘルシーが売りなだけで味は最悪、流石のハーレイも嫌だったみたい。「あれだけは無理だ」って呻いてた。
(でも、トォニィのはリンゴのタルトまでついてたんだよ)
 ハーレイは食べていないけれども、チラシで見たから知っている。トォニィが好きだったというスパゲティ。根拠はトォニィへの当時のインタビュー。
 お塩と胡椒だけで味付けしたスパゲティ、ってことになっていた。リンゴのタルトも好物って。
 とてもシンプルな、お塩と胡椒だけのスパゲティ。
 もっと色々なスパゲティの食べ方、沢山ありそうなんだけれども。



(お塩と胡椒があれば、大抵…)
 スパゲティに限らず、パラッと一振り、魔法みたいに美味しさが増す。
 ある意味、調味料の王様みたいなお塩と胡椒。
 それだけで味付けしたスパゲティが本当にトォニィの好みだったら、案外、グルメだったかも。あれこれ工夫を凝らしたものより、スパゲティ本来の味を生かした食べ方が好みだったなら。
(忙しくって食べてる時間がありません、ってわけじゃないものね?)
 それはジョミーの方だった。
 食事を再現するイベントの時も、「昼食を摂る時間が無い日に食べた」と謳ったサンドイッチがメインになったほどに。
 トォニィは最後のソルジャーなんだし、多忙と言ってもたかが知れてる。スパゲティをゆっくり味わう時間くらいは充分にあった。食材だって豊富に手に入ったろうし…。
(グルメなソルジャー?)
 スパゲティは色々食べて来たけど、お塩と胡椒が一番いい、って言ったとしたなら通だと思う。いわゆるグルメ。他のスパゲティは食べ飽きました、っていう感じ。
(かっこいいかも…)
 スパゲティにお塩と胡椒だけ。それが大好きだったソルジャーだなんて。



(お塩と胡椒…)
 ペッパーミルの中、赤や緑や白の胡椒の粒。食卓に欠かせない胡椒。
 和風の食事とかだと要らないけれども、お料理によっては無くてはならない調味料。
 キッチンにだって常備してあるし、ママがお料理に合わせてブラックペッパーだとか、ホワイトペッパーって使い分けてる調味料。
 お料理用ならハーブソルトも置いてあるけど、必ず胡椒が入ってる。ローズマリーとかタイム、セージなんかといったハーブと一緒に、胡椒も入る。
(お塩だけだと…)
 ちょっぴり足りない、料理の味付け。
 もう一味、って時にお塩じゃ話にならない。それだと塩辛さが増すっていうだけ。アクセントが欲しいなら、お塩だけでは駄目なんだ。胡椒をパラリと、それが大切。
 だけど…。
(…シャングリラには胡椒、無かったんだよ)
 胡椒が無かったんだっけ、って考えながらおやつを頬張った。
 当たり前のような顔してテーブルに乗ってる、ママが仕舞い忘れたペッパーミル。
 これが無かった船だった、って。
 色とりどりの胡椒どころか、一粒の胡椒も無かったっけ、って。



 おやつを食べ終えて、お皿やカップをキッチンのママに返しに行って。
 二階のぼくの部屋に戻って、勉強机の前に座って考えの続き。
(今じゃ胡椒は普通なんだけど…)
 この家の子供に生まれて来てから、胡椒が無くって困った覚えは一度も無いんだけれど。小さい時には胡椒なんかは食べていなかったけれど、それでも家には在った筈。パパやママが使っていた筈の胡椒。お料理に、食べる時にパラッとアクセントに、って。
 そういう便利な胡椒が無かったシャングリラ。
 ほんのちょっとの間だけだったけれど、胡椒は無かった。
 船の中の何処を探し回っても、胡椒は存在しなかったんだ。



 シャングリラを本物の楽園にしよう、って自給自足を目指した船。
 人類から奪って生きていたのでは自立出来ないと、船もそのために大きく改造するのだと。
 もう奪わない、って決めた時には大量の岩塩を備蓄していた。小惑星から採った岩塩。
 人間には塩分が必要なのだと、お塩があったら生きて行ける、と。
 それで充分、食事にはこれで足りる筈だと思ったのに…。



「やっぱり一味足りないねえ…」
 ブラウがぼやいた。
 何か足りないと、何処か物足りないような気がしてならないと。
「贅沢は言わんが、やはり足りんのう…」
 どうも何かが、ってゼルも言ったし、ぼくにもそういう気持ちは分かった。
 自給自足の食生活を始めて、暫く経ったらブチ当たった壁。
 深刻な問題じゃないんだけれども、食事する度に引っ掛かってくる違和感とでも言うのかな?
 もう少し、って感じる味。
 決して不味いとは思わないけど、足りない何か。
 それが何なのか、よく分からない。何故なのか理由が掴めない。
 トマトを煮込んでベースにしたって、なんだか足りない。お塩はきちんと入っているのに。
 これは困った、とぼくも思ったから、ゼルやヒルマンたちに招集をかけた。
 いずれは家畜も飼う予定なのに、一味足りない味のままでは大変だから。
 きちんと原因を究明せねばと、何が足りないのかと長老会議。
 当時は長老って呼ばれるほどには年寄りじゃなかった彼らだけれど。



 ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。それにキャプテンのハーレイと、ソルジャーのぼく。
 シャングリラの改造は順調だったし、それに関する議題についても話し合った後で。
 ぼくは「ところで…」と話題を変えた。
 食事に一味足りなくはないかと、どうもそういう気がするけれど、と。
 直ぐに反応したのはゼルで。
「うむ。塩さえあったら充分じゃろうと思ったんじゃが…」
 何か足りない気がするのう…。トマトをたっぷり使ってあっても、どうも何処かが違うんじゃ。
「あたしも全く同感だね」
 塩味が足りていないんじゃあ、って足してみたけど辛くなっただけさ。
 まったく何が足りないんだか…。最低限の砂糖は確保出来てる筈なんだけどね?
「ふうむ…。私は心配していたのだがね」
 気がかりだった、とヒルマンが言ったら、「私もです」とエラが頷いたから。
「どういうことだい?」
 ヒルマン、君には予想がついていたのかい?
 こうなるだろうと、塩だけがあっても駄目なのだと。
 分かっているのなら、その原因を話して貰って解決策を急いで考えないとね。



「これだ、と思うものならあるねえ…。ハーレイ、君なら分からないかね?」
 どうして一味足りないのか、とハーレイに視線を向けたヒルマン。
 何故ハーレイに訊くんだろう、と不思議だったけれど、ハーレイは意外にも口を開いて。
「もしかしたら…、とは思いますが」
 推測の域を出ないのですが、これではないか、と思うものなら確かにあります。
「何なんじゃ、それは?」
 わしにはサッパリ分からんというのに、ハーレイ、お前は分かるとでも?
「…当たっているかどうかは謎ですが…。胡椒ではないかと」
「胡椒だって?」
 ぼくは思わず声を上げてた。
 胡椒と言ったら、人類から奪って生きていた頃は食卓にあった調味料。パラリと振ってただけの代物で、細かい粉だとクシャミが出たり。
 そんなものが重要なんだろうか、と思ったけれど。
 ハーレイは真面目な顔で続けた。足りないものとは胡椒なのではないだろうか、と。
「厨房に居た頃、料理と言ったら塩と胡椒でした」
 下拵えの段階で使う時もあれば、料理の途中で入れる時も。もちろん仕上げも塩と胡椒です。
 味見してから塩を足したり、胡椒を振って味を整えたりと。
 塩だけでは足りないということになれば、胡椒だろうと思うのですが…。



「なるほどのう…。塩と胡椒はセットじゃった、と」
「言われりゃそうかもしれないねえ…」
 あたしも胡椒を振ってたもんだよ、胡椒がテーブルにあった頃はね。
 だけど好みで振ってたんだし、無くてもいいかと思ったけどねえ…。料理する時点で塩と胡椒を使っていたなら、足りないのはやっぱり胡椒かねえ?
「それで正解だよ、ハーレイの言う通り胡椒なのだよ」
 入れるだけで料理の風味が変わる。魔法のように料理を美味しくするから、遠い昔には貴重品とされていたらしい。遠く離れた別の国からの輸入品でね。そうだったね、エラ?
「ええ。胡椒は金と同じくらいに貴重だったということです」
 同じ重さの金と取り引きされたと言います、それだけの価値があったのです。
「金と同じって…。そこまで貴重なものだったのかい?」
 唖然とした、ぼく。
 たかが胡椒と思ったけれども、金と同じじゃ凄すぎる。
 でも、ヒルマンとエラは「そうだ」と答えた。遥かな昔は本当に金と同等の価値があった、と。
 王侯貴族のための食卓から始まった胡椒の歴史。
 肉に、魚に欠かせないスパイス、料理を美味しくする調味料。防腐作用もあったという。
 塩も高価なものだったらしくて、胡椒と合わせて専用の凝った容器が作られたほど。
 食卓に豪奢な塩と胡椒入れ、塩と胡椒は料理を美味しく食べるために欠かせない品だったから。



「それじゃ、塩だけじゃ物足りない料理を美味しくしたかったら…」
 胡椒が必要だということかい?
 塩や砂糖だけではまるで駄目だと、胡椒を入れない限りは駄目だと…?
 ぼくがそう訊いたら、ヒルマンは「うむ」と答えを返した。
「解決するには胡椒しか無いということになるね」
 シャングリラで胡椒を栽培する。それ以外に道は無いのだろうね。
「胡椒は育てられるのかい?」
 この船の中で、胡椒の栽培は可能なのかい?
「暖かい地方の植物だからね、温室があれば育つだろう」
 ゼル、温室は作れそうかね?
 胡椒専用の温室などは改造計画には入っていなかったが…。
「そのくらいのことは可能じゃろう。農業用のスペースは充分に取っておるからな」
 要るんじゃったら早速、設計に取り掛からんとな。
 どのくらいの大きさがあればいいんじゃ、その温室は?



 ヒルマンは胡椒の性質などを話し始めた。
 蔓だけれども、育てば蔓は木の幹のように堅くなるらしい。支柱を作って巻き付けて育て、人の背丈の倍以上の高さになった辺りで成長は止まる。
 それから後はかなりの年数、同じ蔓から胡椒を収穫できるけれども。
「ただし、問題が一つあってね…」
「なんだい?」
「種から育てても、上手くいかないらしいのだよ」
「そいつはおかしいんじゃないのかい?」
 種じゃないか、とブラウが割って入った。
 胡椒があった頃には種のようなものを挽いて料理に振りかけていたし、胡椒は種だと。
 なのに種から育たないだなんて、記憶違いをしていないかい、と。
「それが、どうやら挿し木で増やす植物らしくて…。種からは発芽しにくいようだ」
 種が手に入ればやってはみるが、と難しい顔をしたヒルマン。
 入手するなら種の方が恐らく簡単だろうが、発芽するという保証は無いと。
「すると、確実に育てたかったら、挿し木した苗が要るのかい?」
「そうなるね」
 手っ取り早いのはその方法だ。
 発芽するかどうかを試しているより、期間も短縮出来るのだし。



 ぼくは急いで奪いに出掛けた。
 料理に足りないものが何なのか分かったからには、胡椒を奪いに。
 シャングリラに無い植物の種や苗、飼う予定の家畜や魚なんかは奪わないと手に入らない。
 これは奪って生きるのとは違う。奪ったもので生きてゆくのとは違う。
 いわば初期投資で、最初の一つを奪いさえすれば、後はシャングリラで増やすのだから。
(種から育てられるんだったら、輸送船を狙えばいいんだけれど…)
 物資を奪って生きていた頃に、色とりどりの胡椒を手に入れたことが何回かあった。赤い胡椒は完熟した実だと言うから、発芽するならそうした胡椒を奪えばいい。
 けれど、胡椒は種からではなくて挿し木で育てる。種では駄目で、苗が必要。
(何処の星でも…)
 人類が住んでいるなら、何処の星でも胡椒を育てるための農園が存在するという。大規模に栽培している星からの輸入が主だけれども、万一の時に備えて農園。
 人類がそうするくらいなのだし、胡椒は本当に欠かせない調味料なのだろう。
 そんなことを考えながら、シャングリラから一番近い星まで宇宙を駆けて行った。胡椒の農園はどんなものかをデータベースの資料で調べて、奪うべき苗のデータも調べて。



 そうして奪った、胡椒の苗。
 たった一本では心許ないから、五本まとめて失敬して来た。
 シャングリラの方では、ゼルが「これで二十本は育てられるわい」と温室を完成させていた。
 だけど…。
「ちょいと、三年もかかるんだって?」
 本当なのかい、とオッドアイの目を見開いたブラウ。「そのようだ」と唸ったヒルマン。
 ぼくが奪った五本の胡椒はホントに苗木で、実を付けるまでに三年かかるという勘定。それでは今年は採れはしないし、来年になっても胡椒は採れない。
「奪い直して来ようか、大きいのを?」
 苗木はこういう大きさのヤツしか無かったけれども、育った木ならば沢山あったし…。
 あれなら今でも実を付けていたし、奪って来れば直ぐに充分な量の胡椒が採れるよ。
「根付かなかったらどうするんじゃ!」
 デカイんじゃろうが、育った胡椒は。
 そうなってくると環境が変われば枯れる恐れが出て来るわい。苗木じゃったら大丈夫じゃがな。頑固になるほど育っておらんし、適応力だけはあるじゃろうて。
「私もゼルに賛成だよ」
 大きい木よりは苗だろうねえ、シャングリラで育ってくれそうなのはね。
 苗で行こう、とヒルマンも地道な努力の道を選んだから。
「じゃあ、三年も待つってことになるんだね。それまでの間は…」
「胡椒無しかい、しょうがないねえ…」
 諦めるしかないか、ってブラウが大きな溜息をついたら。
「どうせ今まで無かったんじゃ。気付かなかったら、この先もずっと無いんじゃぞ?」
 無いよりはずっとマシじゃろうが。三年待ったら手に入るんじゃ。
「それはそうかもしれないねえ…」
 待つとしようか、気長にね。あと三年の辛抱なんだねえ…。



 三年待ったら、手に入る胡椒。それまで三年、我慢するだけ。
 足りないものが何だったのかが分からなかった間は、分からないから気にしなかった。
 でも、それが何だか気付いてしまうと胡椒が欲しい。
 あの味だ、って思い出したら欲しくなる。料理に一振りしたくなる。
(少し振るだけで変わるんだものね、お料理の味が…)
 美味しくなる魔法の調味料。それが胡椒だ、と気付けば食べたくなるのが人情。
 その胡椒の苗が船にやって来た、ということは誰もが知っているから。三年待ったらあの胡椒が採れると分かっているから、船中の期待がそれに集まる。
 温室の中の胡椒の苗。
 まだ柔らかい蔓を支柱に巻き付け、支えてせっせと世話をした。
 その係じゃない仲間までが。「手伝おうか」と声を掛けては、宝物を育てるように胡椒を。



 順調に進んでゆく、自給自足の楽園に向けての改造や整備。
 家畜も来たけど、鶏がやって来て卵も産むようになったんだけれど。
「オムレツは出来ても、胡椒がねえ…」
 パラリと一振りしたいもんだね、目玉焼きにもね。それだけでグンと変わるのにさ。
 惜しい、とブラウが残念がって。
「まだまだじゃな」
 卵は充分、行き渡るようになったんじゃがのう…。胡椒は暫く待たされそうじゃのう。
 そもそも三年経った時にも、どれほどの量が採れるものやら…。
 気軽にパラリと振れる日までは、三年どころじゃなさそうじゃぞ。
 やれやれ、と頭を振っていたゼル。
 ゼルの予言のせいじゃないけど、三年も待ってやっと採れても、たっぷり使える量ではなくて。
 船の仲間が好きなだけ使える量には届かなくって。
 収穫された胡椒は色とりどりとはいかなかった。
 料理との相性なんかも考えた末に、完熟前の実を乾燥させたブラックペッパー、黒胡椒。胡椒の実は全部ブラックペッパーになって、厨房で管理をすると決まった。
 使い道は当然、料理のためで。個人が持ち出してオムレツや目玉焼きには振れない。この料理に胡椒をもう少し、と思っても厨房からブラックペッパーの瓶が届きはしない。
「ここで一振りしたいんじゃがのう…」
 ヒルマンやエラが言った通りに貴重品じゃな、厨房から一歩も出て来ないわい。
 いや、胡椒じゃから一粒かのう? それとも一つまみと言うべきかのう…。
「その通りだねえ…」
 あたしも一振りしたいんだけどさ、交換しようにも同じ重さの金なんか何処にも無いってね。
 何年待ったらいいんだろうねえ、気軽にパラリと胡椒を振れる日までさ。



 まだか、まだか、と誰もが心待ちにしていた胡椒。
 もっと大きく育たないかと、沢山の実を付けてくれないものかと世話に通った温室の胡椒。
 ようやっと一人前の丈に成長して、ブドウみたいに実が連なった房が幾つも付いて。
 それを収穫して、収穫時期や加工方法によって黒の他にも赤、白、緑。
 色とりどりの胡椒が入ったペッパーミルが食堂に置かれる日が来たんだけれど。
 カラフルな胡椒を贅沢に使えるようになるまで、相当な時間と手間とがかかったと思う。けれど胡椒の効果は抜群、料理はぐんと美味しくなった。たった一振り、それで変わった。
 シャングリラで育てていた胡椒。
 一粒の胡椒がうんと貴重だった、そんな時期があったシャングリラ…。



 胡椒が貴重品だったっけね、って考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。
 ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座って、訊いてみた。
 「シャングリラの胡椒、覚えてる?」って。
「胡椒?」
「うん。…シャングリラに胡椒が無かった頃。お塩だけしか無かった頃だよ」
 お砂糖は少し作っていたけど…。
 なんだか味が物足りないね、ってヒルマンたちと会議をしていた時。
 前のハーレイ、気が付いたよね。足りないものは胡椒だ、って。
「まあな」
「やっぱりレシピを見てたから? 大抵のお料理はお塩と胡椒、って書いてあったの?」
「その辺もあるが…。料理人としての勘でもあるな」
 胡椒ってヤツは塩よりもずっと僅かな量でだ、料理の味をまるで変えちまう。
 塩は充分に確保してたし、それで何かが足りないとくれば胡椒だろう。
 ドカンと入れる類のものじゃないから、料理をやらない奴にしてみれば好みで振るだけのものに過ぎんが、料理していた方からすればな…。
 塩コショウの胡椒を忘れただけでだ、味が全く決まらなくって「入れ忘れたぞ」ってことになるわけだ。試作していて、何度やったか分からないなあ、その手のうっかりミスってヤツな。
 最終的には辻褄が合うが、胡椒を忘れた料理っていうのは味見してみたら間抜けなもんだぞ。



「そっかあ…。胡椒ってとっても大事なんだね、そこまで変わってくるんだったら」
 お塩と胡椒だけで味付けしました、っていうお料理なんかは、あの頃はとても作れないし…。
 トォニィ好みのスパゲティの話が本当だったら贅沢だよね。
 前にハーレイの家の近くのパン屋さんでやっていたでしょ、ソルジャーの食事の再現イベント。トォニィが好きだったっていうスパゲティの味付け、お塩と胡椒だけだったもの。
「そうだな、昔のシャングリラでそいつを食っていたらな」
 周りのヤツらが腰を抜かすぞ、なんて豪華なスパゲティなんだ、と。
「やっぱり平和な時代のソルジャーっていうのは凄いよね」
 スパゲティなんかに胡椒で味付けするんだよ?
 それだけの量の胡椒があったら、もっと有効な使い道がいくらでもありそうなのに…。
「おいおい、ジョミーだってまるで知らなかったぞ?」
 胡椒が無かった時代なんぞは。どんな料理にも気軽に胡椒を振ってた筈だが?
「そうだったっけ…」
 胡椒はすっかり定着してたね、食堂にあるのが当たり前だっけね。
 ぼくの青の間にだって置いてたんだし、ジョミーはそういう苦労話は知らなかったかもね…。



 今のぼくが胡椒が無い生活なんてしたこと無いのと同じで、ジョミーも胡椒は当然のように白い鯨で使ってた。目玉焼きにも、シチューにもパラリ。もう一味、って胡椒をパラリ。
 今のぼくだって、もうちょっと…、って胡椒を振ってる日も多いから…。
「ねえ、ハーレイ。もしも今、胡椒が無くなっちゃったら…」
 ハーレイ、どうする?
「俺は早速、明日から困るぞ。…いや、困らんか」
「えっ?」
「別の文化があるってこった」
 胡椒が無ければ山椒を使えばいいじゃない、とな。
「なに、それ?」
 女の人みたいな喋り方だよ、それって特別な意味でもあるの?
「知らないか? SD体制よりもずうっと昔の有名な話さ。フランスって国の王妃様のな」
 国民が飢えててパンも食えやしない、って聞かされてこう言ったそうだ。
 「パンが無いならお菓子を食べればいいのに」と。
「へえ…!」
 王妃様らしい話だね。国民の生活がどうなってるかなんてこと、知らずに暮らしていたんだね。
「作り話だっていうことだがな。それと、お菓子の意味が違うんだって説もあるそうだぞ」
 王妃様が言ったお菓子な、そいつはクグロフだった、って話。王妃様の故郷の国のお菓子だ。
 クグロフだったらブリオッシュ風の生地だし、パンに似てないこともない。
 パンが無いならそっちにすれば、と思ったとしても不思議じゃないよな。
「ハーレイ、フランスなんかにも詳しいの?」
「いや? 俺はクグロフの方を調べていただけだ。そしたらついでに出て来たのさ」
 菓子も作ると言っただろうが。
 こいつも作れんことはないな、とデータベースを漁ってる間に出くわしたってな、王妃様に。



 王妃様の話はともかく…、ってパチンと片目を瞑ったハーレイ。
「まあ、胡椒が無ければ山椒だ。でなきゃ七味だ、どっちも使える」
 意外な料理に合うんだぞ。ステーキだって七味で食えるし、山椒ソースもあるからな。
「そうかもね。ピリッと辛いのを上手く生かせば使えそうだね」
 ハーレイだったら色々と工夫出来るかも…。
 だけど、前のぼくたちはどっちも知らないよ? 山椒も七味も。
「だから胡椒で困ったんだろうが」
 とにかく苗を奪って育てて、って実に気の長い話だよな。
 山椒も育てるのに時間はかかるが、葉っぱだけなら一年目でも味見くらいは出来るんだ。
「うん。…胡椒、貴重だったから野菜スープにも入ってないしね」
 ハーレイの野菜スープのシャングリラ風。お塩だけだよ、胡椒は無いよ。
「あれはお前が入れるなと!」
 レシピを変えるな、とうるさく言うから、胡椒を入れずに終わっただけだぞ、間違えるなよ?
「分かってるよ。あれも胡椒をパラッと振ったら…」
「劇的に美味くなると思うぞ、試してみるか?」
「ううん、要らない」
 前のぼくが食べないままで終わった味付けのスープは要らないよ。
 美味しくなっても別物になったら、それはぼくが好きだったスープじゃないんだもの。



 あれはあれでいいよ、って笑ったけれど。あのままでいいよ、って言ったけれども。
 もしもあのまま胡椒無しなら、シャングリラは楽園じゃなかったと思う。
 物足りない味が続いていたなら、胡椒を育てて解決しよう、っていう方向に行かなかったら。
 食事はやっぱり大切なんだし、美味しくなくっちゃ楽園気分になれないから。
「胡椒の名前…。天国の種子って言ってたっけ?」
「ヒルマンとエラがな。そういう名前で呼ばれていた、って言っていたなあ…」
 同じ重さの金と取り引きされていた頃に。
 前の俺たちは胡椒で取り引きをしてはいないが、まさに天国の種子だった、ってな。
 食事が劇的に美味くなったし、美味い食事を食えるからこそ楽園だろうが、名前通りの。
「そうだよね。食事が不味くちゃ、毎日が楽しくないものね」
 アルタミラの餌よりは遥かに美味しかったけど。
 それでも胡椒が無かった食事は、ちょっぴり寂しい味だったものね…。



 胡椒を育てて、ぐんと美味しく変身を遂げたシャングリラの食事。
 最初の収穫を迎えるまでに三年もかかってしまった胡椒。
 みんなが好きなだけ使えるようになったのはもっと後だった、貴重品の胡椒。
 それが今では色とりどりの胡椒がペッパーミルに入って家に置かれてて、ハーブソルトなんかも揃ってる。ハーブとお塩と胡椒のミックス。
 おまけに地球産、青い地球の上で育った胡椒。
「ハーレイ、今の胡椒は全部、地球産だよ?」
 ぼくの家のも、ハーレイが普段に使ってるのも、全部、地球産。
「地球の胡椒か…。そいつはとてつもない貴重品だな」
「同じ重さの金どころじゃない値打ちだね」
 ペッパーミルに一杯分のを前のぼくたちが買おうとしたら。
 どれだけのお金が必要なのかな、ちょっと想像もつかないよね…?
「うむ。ミュウと取り引きしてくれる所があったとしても…」
 無理なんじゃないか、前の俺たちがそいつを買うのは。…胡椒の値段が高すぎてな。



 あのシャングリラを売り飛ばしたって買えないね、ってハーレイと二人で笑い合った。
 トォニィの時代に売り払ったって、地球の胡椒は絶対に買えやしないんだ。
 青い地球なんか何処にも無いから。
 それこそホントに天国の種子で、買おうとしたって見付かりやしない。
 その地球の上に生まれ変わったぼくたちの特権、胡椒がたっぷり。
 どんなお料理にもパラッと一振り、地球の胡椒を好きな時にパラッと、欲しいだけの量を…。




           胡椒・了

※白い鯨を作り上げたものの、一味足りなかったもの。その正体は胡椒だったらしいです。
 「ミュウの楽園」が出来上がるまでの道は手探り。今では、地球の胡椒を使い放題。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




今年も夏休みがやって来ました。初日の今日は会長さんのマンションに集まって毎年恒例の打ち合わせです。柔道部の合宿とジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験ツアーは重ねてあるのがお約束ですから、それ以降の分を組むわけですけど…。
「さーて、ジョミーは明日から璃慕恩院と…。ぼくの顔に泥を塗らないように!」
会長さんがウキウキと。
「サムは毎年覚えがいいけど、ジョミーはねえ…。いいかい、老師にも報告は行っているんだ、無駄なあがきはしないで欲しいね」
「そうだぜ、ジョミー。お前、毎年、逆らいすぎだって!」
サム君も会長さんの肩を持っています。
「麦飯は嫌だとか、パンが食いてえとか…。いい加減無駄だと分かってるだろ!」
「言うくらいいいだろ、ストレス解消なんだから!」
知るもんか、と脹れっ面のジョミー君。これも毎年の光景なだけに、放置とばかりにキース君が。
「それでだ、俺たちの合宿と璃慕恩院とが此処で終わってだ、山の別荘に行くんだったな?」
「そうです、そうです」
シロエ君がマツカ君の方を見ながら。
「マツカ先輩、いつでもOKでしたっけ?」
「ええ。電車の手配も任せて下さい」
「やったね!」
躍り上がっているジョミー君。このためだけに修行体験ツアーを耐え抜くと言っても過言ではなく、みんなが苦笑しています。さて、お楽しみの山の別荘は…。
「間は三日も開ければいいな。毎年そうだし」
「キース先輩次第ですよ。お盆の卒塔婆書きがありますからね」
「今年は前倒しで頑張っている。間は二日でも大丈夫だぞ」
俺は計画的にやる、と親指を立てるキース君の姿は実に頼もしく、山の別荘行きの日取りも決まりました。海の別荘の方は夏休み前にソルジャーが押し掛けて来て決めてしまいましたし、予定の方は大体これで大丈夫かな?
「あ、山の別荘に行くまでの間にちょっといいかな?」
会長さんがカレンダーを覗き込みました。
「三日あるから、真ん中でいいか…。良かったら付き合って欲しいんだけど」
「「「は?」」」
「ワケありでねえ…」
うん、と頷いている会長さん。ワケありって何か予定でも?



「何さ、それ! 変なモノならお断りだし!」
特にお寺と坊主関係、とジョミー君が声を上げました。
「ただでもお盆が近いんだから! イヤな予感しかしてこないっ!」
「うんうん、ジョミーもお坊さんらしくなってきたねえ、嬉しいよ」
直ぐにお盆と出て来るあたり、と会長さんがニッコリと。
「それでこそぼくの弟子なんだけれど、お寺ってだけで却下しないで欲しいな。他のみんなも」
「お寺ですか?」
それはちょっと、とシロエ君が。
「抹香臭いお付き合いは、あまり…。お断りします」
「私もあんまり…」
スウェナちゃんが言い、私も乗っかり、他のみんなも次々と。しかし…。
「お寺はお寺でも君たちに行けと言ってはいない。もちろんぼくが行くわけでもない」
「「「へ?」」」
「ついでに、この家からは一歩も動かない予定なんだよ。向こうからやって来るからね」
「お寺がですか!?」
どういう意味です、とシロエ君が目を剥き、キース君が。
「出開帳か? あんた、そういうのを頼んだのか!?」
「ううん、全然。…来るのはハーレイ」
「「「教頭先生!?」」」
何処がお寺だ、と顔を見合わせる私たちですが。
「ハーレイから相談に乗って欲しいと言われてねえ…。お寺関係で」
「ま、まさか、教頭先生、世を儚んで出家とかではないでしょうね?」
会長が冷たくあしらうせいで、とシロエ君。
「それに付け込んでお寺へ送り出すっていう企画だったら断固止めます!」
「だよなあ、それは俺だって気が咎めるぜ」
止めに来よう、とサム君も。けれど会長さんは「うーん…」と腕組み。
「そっちだったら喜ばしいけど、むしろその逆?」
「「「逆?」」」
「ぼくとの仲を深めたいから、この際、神仏に縋りたいらしい。それで相談、いわゆる願掛け」
「「「願掛け!?」」」
それについては嫌と言うほど酷い思い出がありました。一年の計は元旦にあり、と教頭先生が神社仏閣を回りまくって会長さんとの結婚祈願をした年が…。あのお正月は大変でしたが、そのイベントの再来ですか?



教頭先生が数年前の元日にやらかした迷惑な願掛け。効果が出る前に消して回る、と会長さんが騒いでいたのに、今回は願掛けの相談に乗ると?
「そうなんだよねえ、ハーレイはぼくの許可を取るべきだと判断したんだ。勝手にやったらぼくが怒るし、願掛けの効果も消して回られておしまいなんだ、と学習したと言うべきか…。それで今回は公認を目指す!」
「あんた公認で願掛けなのか? 結婚祈願で?」
キース君が呆れた顔で。
「それの相談に乗るのか、あんたは」
「え、だって。思い切り面白そうだしねえ…」
腕が鳴るよ、と会長さん。
「ぼくは助言を惜しまない。そしてハーレイは大いに頑張る! これが面白くなければ何だと!」
「あんた、正気か!? 願掛けが成功したらどうする!」
「そりゃあ、その時は結婚するさ。成功すれば…ね」
会長さんの唇に意味深な笑みが。もしや願掛け、成功しない自信があるとか?
「決まってるだろう、でも成功率の高さにかけてはピカイチっていうのを紹介するさ」
「「「ピカイチ?」」」
「そう。どんな無理難題も叶うと噂の願掛け方法!」
「何処の寺だ?」
その手の寺は色々あるが、とキース君。
「あんたが紹介するほどの寺だ、是非とも聞いておきたいが」
「知りたかったら、ハーレイが来る日に君も来たまえ。ぼくとぶるぅじゃ心許ないし、大勢いた方がぼくは安心。なにしろ相手はハーレイだから」
「………。分かった、そういうことなら来よう」
卒塔婆書きを頑張って片付けるまでだ、とキース君が決意し、私たちも野次馬根性全開で。
「ぼくも来ますよ、キース先輩!」
「俺も興味が出て来たぜ! なあ、ジョミー?」
「…ぼくが直接関係ないなら、お寺の話でも別にいいかも…」
はい、はい、はいっ! と参加表明。山の別荘へのお出掛け前には会長さんの家で教頭先生の願掛け相談見学会だと決まりました。教頭先生、夏休みに願掛けをするのでしょうか? ただでも暑い夏に結婚祈願で願掛け三昧って、暑苦しそう…。



柔道部の合宿と璃慕恩院の修行体験ツアーの間は男の子たちは全員、お留守。スウェナちゃんと私は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにフィシスさんも一緒にプールに出掛けたり、会長さんの家でのんびりしたり。アッと言う間に日は過ぎて…。
「ただいま~…」
今年も死んだ、とゲッソリした顔のジョミー君。お坊さんに一歩近づいたサム君、それに柔道部で鍛えてきた三人組も揃って、慰労会をした翌日が会長さんと教頭先生との約束の日です。教頭先生は午後からおいでになると聞いていますし、まずは集まってお昼御飯から。
「かみお~ん♪ 夏はやっぱり夏野菜カレー!」
スパイシーだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が盛り付けてくれて、昨日の焼肉パーティーとは違う味わいに舌鼓。いろんな味のラッシーもあって至れり尽くせり、美味しく食べたその後は…。
「もうすぐハーレイが来るからさ。リビングの方に移動しようか」
「「「はーい!」」」
元気に返事し、勝手知ったる他人の家とばかりにワイワイと移動したのですけど。
「「「!!?」」」
リビングのドアをガチャリと開けた先頭組がピタリと止まって硬直中。何事なのか、と肩越しに顔を突っ込んだ私たちの目に嫌というほど見慣れた姿が。
「こんにちは。お邪魔してるよ」
夏野菜カレーは食べ損ねたけど、と私服姿のソルジャーがソファに腰掛けています。
「急いで来ようと思ったんだけど、ちょっとハーレイと盛り上がっちゃって…」
「真昼間にか!?」
キース君が怒鳴れば、ソルジャーは。
「出ようとしてた所へ報告に来たから、ちょっと息抜きしていかないか、って誘ったら乗って来たんだよ、うん」
「「「………」」」
「あっ、ぼくとハーレイとの昼御飯なら大丈夫! こういった時に備えて栄養剤も常備してるし、栄養補給はバッチリってね! 心も身体もエネルギー充填、午後の時間も溌剌と!」
「分かったから!」
その先は言うな、と会長さんが苦々しい顔で。
「それで、君は何しに来てるわけ?」
「もちろん見学! こっちのハーレイが結婚祈願の願掛けの件で来るんだろう?」
どんなアドバイスをするのか興味あるんだ、と笑顔全開。会長さんは深い溜息をつきましたけれど、来てしまったものは仕方なく…。かくして野次馬が一人増殖、教頭先生を待つのみです。



間もなく玄関のチャイムがピンポーン♪ と。出迎えに行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が足取りも軽く飛び跳ねて来て。
「かみお~ん♪ ハーレイ、来たよ!」
「すまないな、邪魔をして…。なんだか人数が多いようだが」
玄関の靴の数で気付いていたらしい教頭先生、照れておられるみたいです。それでも相談せずに帰る気は無いようで。
「ブルー、この間から頼んでいた件だが…」
「ああ、それね。モノがぼくとの結婚だけにさ、ぶるぅと二人っきりではちょっと…。それで付き添いをお願いしたらこの人数に」
「そ、そうか…。では、真面目に相談に乗ってくれるのだな?」
「うん、その点はぼくも心得てるよ」
相談されたのは銀青だから、と会長さん。
「君も頭を使ったねえ…。ぼくに相談されたら却下だ。でも銀青への相談となると、伝説の高僧の面子にかけて断れないし」
そう言いつつも何故か右手がスッと前へと。
「地獄の沙汰も金次第。…坊主の場合は分かっているね?」
「もちろんだ。言われたとおりに用意してきた」
教頭先生、袱紗包みを取り出し、中から分厚い熨斗袋を。
「お納め下さい、銀青様」
「悪いね、ハーレイ。…坊主はこれがお約束ってね。ぶるぅ、向こうに片付けておいて」
「はぁーい!」
タタタ…と駆けていく「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運んで行った包みの中身は半端な額ではないでしょう。これが目的だったのか、と唖然呆然、そして納得。お金をドカンと貰えるのなら妙な相談でも引き受けそうなのが会長さんで。
「ブルー、熨斗袋、片付けてきたよ!」
「御苦労さま。中身は確認してくれたよね?」
「うんっ! お金、キッチリ入ってた!」
「よし。相談料も貰ったことだし、それじゃ相談に乗るとしようか」
まあ座って、と会長さんが教頭先生に向かい側のソファを勧めました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が人数分のアイスティーを用意し、ついでにマンゴーのムースケーキも。教頭先生の願掛け相談、どんな中身になるのでしょうね?



「ハーレイ。最初に聞いておきたいんだけど…」
会長さんが切り出しました。
「願掛けをしたいって話だったね、ぼくとの結婚祈願で良かった?」
「そのとおりだ。前は勝手にやってしまって悪かった。…それで今回はお前の許可を貰った上で、効果的な方法を教わりたいと」
よろしく頼む、と深々と頭を下げる教頭先生。会長さんは「分かった」と真面目な顔で。
「その願掛け。叶う可能性が限りなく低いってことは分かっているよね?」
「承知している。だからこそ銀青であるお前の知恵を是非借りたい、と」
お百度でも何でもする覚悟だ、と教頭先生は拳を握り締めました。
「夏休みの間なら祈願に集中できるし、どんな苦行も厭わない。相談に応じてくれたからには何かいい手があるのだろう?」
「あるんだけどねえ…。正直、素人さんにはお勧めしかねる代物でさ。その代わり、効果は抜群だよ? どんな無理難題でも聞いて下さる、そういう仏様がおいでなわけ」
「紹介してくれ!」
教頭先生はガバッと絨毯に頭を擦り付けて。
「そういう有難い仏様なら、是非頼む!」
「でもねえ…。本当に難しいと言うか、何と言うか…」
「難しいことは覚悟の上だ! 何処のお寺に行けばいいんだ!」
「お寺もあるけど、其処だと他の信者さんも多数。願掛けとなれば費用の方も高くつく。個人的にお祭りするなら格安コースで、ご利益バッチリ!」
どっちにする? と会長さんは尋ねました。
「お寺に出掛けてお坊さんに頼むか、個人的にお祭りして自分で頼むか。…ただしリスクは高くなるねえ、自前のコース。その代わりご利益一人占めってね」
「一人占めか…」
それは美味しい、と呟く教頭先生。
「個人的にお祭りと言うと、アレか、仏壇みたいなものか?」
「そうなるね。その仏様の好物を供えてお祭りすればいいわけだけど…。ご利益を貰うにはリスクがつきものって仏様でさ、ドジを踏んだら祟られるんだ。そういう仏様でも良ければ」
「ドジを踏まなきゃいいんだろう? お前を嫁に貰うためなら頑張れる!」
「了解。覚悟があるなら直ぐに渡してあげられるけど?」
用意はあるんだ、と会長さんは教頭先生を真顔で見詰めました。
「その仏様を受け取ったら君は頑張るしかない。自信が無いならお返ししておく。失礼にならない間にね」



お祭りするのにドジを踏んだら祟ると言われる仏様。会長さんは用意したそうですが、教頭先生はどうなさるのか…。唾を飲み込む私たちの前で、教頭先生は決然と。
「お祭りさせて頂く! 持って帰って今日から直ぐに!」
「なるほどねえ…。それじゃ後悔しないようにね」
はい、と空中に何処からか取り出された両手で持てるほどの小さな御厨子。会長さんはサイオンで宙に浮かせたままで、受け取るようにと促しました。教頭先生がそれを手に取って押し頂くと、会長さんが重々しい声で。
「これで御縁は結ばれた…ってね。あまり祟りが酷いようなら、ぼくに返さずにペセトラに行ってくれるかな?」
「ペセトラ?」
「そう、ペセトラ。あそこの郊外の山に有名なお寺があってさ、其処でお祭りされているのがその仏様。個人的にお祭りをして失敗した人は其処に預けに出掛けるようだよ」
「お、おい…」
声を上げたのはキース君でした。
「今、ペセトラとか言ってたな? そいつはもしかして聖天様か?」
「おや、知ってた?」
「坊主なら一応、知ってるだろう! 俺たちの宗派とは無縁だが!」
「それはそれは。ハーレイ、この通り有名な仏様だから」
キースでも一発で分かるくらいに、と会長さんは綺麗な笑みを。
「聖天様はね、もうご利益が絶大なんだ。君も聞いたことはあるだろう?」
「うむ。象の頭の仏様だな」
「それだけじゃないよ。象の頭の仏様が二体、抱き合っておられるのが本当の形! でなきゃ象の頭の仏様と観音様とが抱き合う像だね、その名も歓喜天ってね」
夫婦和合にも御利益が…、と会長さんが言った途端にソルジャーが。
「それ、ぼくも欲しい!」
「「「は?」」」
「夫婦和合に効くんだったら欲しいんだけど! ご利益バッチリなんだろう?」
キラキラと輝く赤い瞳は教頭先生が持った御厨子に注がれ、横取りしかねない勢いですが。
「…素人さんにはお勧めしないと言っただろう」
だからダメだ、と会長さん。
「ハッキリ言うけど、この後、ハーレイはエライ目に遭う。今となっては手遅れだけどね、思い切り受け取ってしまったからね」
「「「………」」」
もはや手遅れとはこれ如何に。御利益絶大と聞いてましたが、どうなると?



「…た、祟るのか、これは?」
教頭先生が震える声を絞り出しました。
「いや、確かに祟ると聞いてはいたが…! しかしだ、きちんとお祭りすれば…!」
「そうなんだけどねえ、君の場合はお願い事が問題なんだよ」
ぼくとの結婚祈願だから、と会長さん。
「ブルーの場合はお祭りの仕方が適当すぎて祟られそうだから止めたけれども、君はきちんとお祭りしてても危ないわけ。なにしろお願い事がお願い事だし」
「結婚祈願が問題なのか?」
顔色が悪い教頭先生に、会長さんは。
「普通の結婚祈願だったら特に問題ないんだよ。でもさ、ぼくとの結婚祈願は普通なら絶対に叶わないヤツで、そういう場合は願掛けになる。その願掛けにはお約束が一つ!」
「約束?」
「いわゆる断ち物。好物を断って願を掛けるって、よく聞くだろう?」
「ああ、あるな…」
酒とかだな、と教頭先生。
「お前との結婚が叶うんだったら酒くらい…。もちろん肉でも魚でも断つぞ」
「甘いね、聖天様の場合はそうはいかない。一番の好物を断たなきゃ駄目でさ、君の場合はぼくになるかと」
「…お前だと!?」
「そう、このぼくだよね」
好物だろう? と会長さんは自分の顔を指差して。
「ぼくが今のを口にしなけりゃ、あるいはお酒でもいけたかも…。だけど聖天様の耳には入った。君の一番の好物はぼくで、願掛けするならそれを断つんだ、と!」
「…そ、そんな…。そういうことになってしまったのか?」
「だから最初に言っただろう? リスクが高いけどそれでもいいか、と。いやもう、祟りが楽しみだねえ…」
「ちょっと待て!」
キース君が割って入りました。
「あんた、最初からその勘定で相談に乗ったんじゃないだろうな!?」
「そうだけど?」
会長さんの唇に浮かぶ悪魔の微笑み。
「せっかく楽しい夏休みなんだ。娯楽は増やしてなんぼなんだよ、君も大いに楽しみたまえ」



会長さんが教頭先生に授与した御厨子の中身は聖天様。祟りが凄いらしいのですけど、会長さんは教頭先生が祟られる方向を目指したそうで。
「いいかい、ハーレイ? ぼくとの結婚祈願を頼む以上は、ぼくを断つ! ちょうど夏休みだし、会わずに済むよね、学校で」
「そうなるのか? お前を断つとは会わないことか?」
「はい、自分で宣言したってね。言わなかったら、ぼくを押し倒したりしない限りは大丈夫だった筈なんだけど…。女断ちとかをする場合にはさ、女性とよろしくやらなかったら無問題だし」
ただし、と会長さんは御厨子をビシィッと指差して。
「君がお祭りする聖天様はお聞きになってしまわれたわけ! ぼくと会わずに願を掛けます、と君は約束したわけだ。ぼくの家から出て行った後は会わないようにするしかないねえ…」
「お前と結婚するまでか!?」
「それは流石に無理だろうから、ぼくが結婚を承知すればいい」
そこで願い事が成就するし、と会長さんはニコニコと。
「ぼくからの電話か、あるいは手紙か。それとも思念か謎だけれどさ、何らかの手段で君と結婚してもいいよ、と連絡があるまで頑張るんだね」
「まさかお前の声を聞くのも駄目なのか!?」
「あーあ、またまた自分で言ってるし…。はい、声を聞くのもアウトだよね、これで」
全部聞こえているからねえ、と御厨子を眺める会長さん。
「断ち物の約束を破ると派手に祟るよ、聖天様は。ぼくから結婚の連絡があるまで根性で頑張っていくしかないかと」
「お、お前の写真を眺めるくらいは許されるんだな?」
「さあ、どうだか…。自分で危ないと思うんだったらやめておけば? ついでに、ぼくをオカズにして楽しむのもヤバイと思うよ、それじゃ断ち物になってないから」
そこで会長さんは大きく声を張り上げて。
「お聞きになっておられますかー!? こういうルールで頑張るそうです!」
「ちょ、待ってくれ! ブルー、今のは!?」
「君の代わりにガッツリ約束! これでバッチリ!」
銀青がお願いしてあげたから、と会長さんは笑顔ですけど、教頭先生、徹底的に追い込まれた上にドツボにはまっておられませんか…?



約束を破ると祟ると噂の仏様。その恐ろしい聖天様を相手に会長さんが教頭先生の代理とばかりにガンガン約束、それも断ち物というエゲツなさ。
「というわけでね、君は聖天様に約束したのさ、ブルー断ちをね」
「…ブ、ブルー断ち……」
無理だ、と呻いた教頭先生の後ろで「あーっ!」という悲鳴。アイスティーのおかわりを注ぐべく、ポットを持って歩いていた「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお盆がグラリと傾き。
「「「!!!」」」
懸命にポットを押さえた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の努力も空しく、教頭先生の頭にバシャッと冷たい紅茶がかかりました。
「ご、ごめんなさいっ! でもでも、なんで…」
タオルを持って来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」は教頭先生に手渡しながら泣きそうな顔。
「ぼく、ちゃんとお盆を持ってたのに…。ハーレイ、ホントにごめんなさい…」
「いや、そんなに濡れてはいないしな」
大丈夫だ、と教頭先生、タオルで頭をガシガシと。
「それにだ、私が床に座っていたのも悪い。きちんと椅子に座っていればポットよりも頭の方が高かったからな」
教頭先生は会長さんに頭を下げた時のままで床に座っておられました。柔道は基本が正座ですから、長時間でも苦にならないのが強みです。そういうやり取りを見ながら、会長さんが。
「あーあ、早速お叱りが来たね」
「お叱り?」
「さっき無理だと言っただろう? ブルー断ちがさ」
「い、言ったが、それが…?」
どうかしたのか、と返す教頭先生に、会長さんは「その前に!」と厳しい声を。
「ハーレイ、御厨子!」
「は?」
「床にじか置き! 大事な御厨子が!」
「床?」
ああ、と教頭先生の手が絨毯の上に置かれた御厨子の方へ。さっきまで手に持っておられたのですが、頭を拭くためのタオルと引き換えに床に置かれてしまっていました。それを取ろうと屈み込まれた教頭先生の足に濡れタオルを持って来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」が躓いて…。
「キャーッ!」
ベシャッ! という音と共に、アイスティーで濡れた頭用だった濡れタオルは教頭先生の背中にヒットしました。水分多めに絞ってあっただけにシャツの背中がグッショリと。これってまさかの祟りでしょうか? 教頭先生に水難の相が?



「ごめんなさい、ハーレイ、ごめんなさいーっ!」
わざとじゃないよう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は半泣きでしたが、会長さんが「うん」と教頭先生の代わりに返事し。
「ぶるぅは何も悪くない。悪いのは全てハーレイってね」
早く御厨子を手に持つべし、と教頭先生に命令を。
「背中も頭も濡れたままでいいよ、それがお叱りというヤツだ。聖天様からの有難い御指導」
「指導?」
水難がか、と困惑顔の教頭先生に、会長さんは。
「今回は水難の形で出たけど、お叱りは色々あるらしいよ? こうすべし、と叱って下さるわけだよ、道を誤らないように! 最初のお叱りは「無理だ」と言ったことに対するお叱り。しっかりやれ、と言っておられる。二度目のは床にじか置きのお叱り」
会長さん曰く、聖天様は穢れを嫌う仏様だそうで、御厨子を床に置くことなどは言語道断。お祭りする場所は清潔に保ち、お供え物も絶やしてはならず。
「いいかい、ハーレイ。家に帰ってお祭りしたらね、大根を供えるのを忘れずに!」
「大根だと?」
「聖天様の好物なんだよ、何が無くても大根は必須! それも左右に一本ずつ!」
「わ、分かった…。大根なのだな」
教頭先生は真剣でした。御利益を頂くどころか早々に水難、それが祟りではなく御指導とくれば、祟りがどれほどのレベルなのかは想像に難くありません。お祭りを失敗して祟りが来たら大変だという気持ちが表情に出ています。
「と、ところで、ブルー…。祟られた時はどうするんだった?」
「もう忘れた? ペセトラのお寺に持って行くんだよ、ペセトラの聖天様で検索すればすぐ分かる。でもねえ、初日からお返しすることを考えていては御利益も何も」
「そ、そうだな、まずは御利益だったな。お前との結婚をお願いするんだ、少々のリスクは覚悟しないといけないな」
「その調子! それじゃ今日から頑張って。ブルー断ちはもう絶対なんだし、用が済んだら帰った方がいいと思うよ」
会長さんがリビングのドアを示しましたが、教頭先生は「待ってくれ」と。
「そっちのブルーはどうなるんだ? もう一人いるが、あちらもブルーに含まれるのか?」
「ああ、そういえば其処にいたねえ、ぼくそっくりのが…。でもって君には学習能力が皆無のようだね、これで墓穴は幾つ目かな?」
ニンマリと笑う会長さん。
「君が「含まれるのか」と訊いた時点で聖天様にカウントされてるよ。あれもブルーの内である、とね」
ゲッと仰け反る教頭先生、見事な墓穴。ブルー断ちの対象がまた増えましたか、そうですか…。



聖天様に願を掛けるには断ち物が要るという話。一番の好物を断たねばならず、普通だったらお酒や食べ物で済むというのに教頭先生の場合はブルー断ち。会長さんに誘導される形で墓穴を掘りまくり、ソルジャーまでもがブルー断ちとやらの対象となって。
「…ハーレイ、君も大変だねえ…。自分で選んだ道だとはいえ、ぼくも感動」
「ほ、本当にこれでお前と結婚出来るのだろうな?」
「それはもちろん。…ただし、途中で放り出したら命が無いから」
「「「命?」」」
教頭先生どころか私たちまでも訊き返した中、キース君が沈痛な面持ちで。
「…聖天様は本気で怖いんだ。専門に祈願する行者で天寿を全うした者は無いとまで聞く」
「せ、専門家でもヤバイのかよ?」
サム君がうろたえ、シロエ君が。
「じょ、冗談ですよね、キース先輩? まさかそこまで…」
「いや、本当だ。…普通の祈願ならお叱り程度の祟りで済むが、願い事が難しくなればお叱りも大きくなっていくんだ。行者は代理でそういう祈願を引き受けるだけにリスクが高い」
聖天様はハイリスク、ハイリターンの仏様だ、とキース君は御厨子から目を逸らすように。
「そもそも御厨子に入っておられる時点でヤバイ。行者は開けて直接拝むが、その分、リスクも高くなる。普通は秘仏の扱いだからな」
「「「秘仏…」」」
「そうだ。住職でさえも御厨子の前では目を伏せる。そして決して扉を開けない」
開けたら思い切り終わりなのだ、と言われましても。それって祟りが来るという意味?
「祟りに決まっているだろう! しかしだ、開けずに拝むだけでも願掛けの途中で投げるのはヤバイ。たとえ何年かかろうともだ、願い事が叶うまで信仰しないと祟ると聞くぞ」
「そ、それじゃ教頭先生は…」
ジョミー君の声が引き攣り、教頭先生も真っ青な顔で。
「わ、私はブルーと結婚出来るまでブルー断ちだということか? どちらのブルーに会ってもアウトで、声を聞いたりするのもアウトで、写真を飾ったりすることも…」
「…そうなります…」
キース君の言葉は教頭先生には死刑宣告のように聞こえたでしょう。ウッカリ願を掛けたばかりに、会長さんとの結婚が叶う時までブルー断ち。しかも途中で放り出したら祟られる上に、命の危機かもしれないわけで。
「ほ、放り出したら命が無いというのも本当なのか?」
「…そういう噂も確かにあります。少なくとも口から出まかせの嘘ではないかと」
この俺が止めるべきでした、とキース君が言っても時すでに遅し。教頭先生は聖天様に願を掛けた上、断ち物も誓ってしまいましたってば…。



その御利益が絶大な分、祟りも凄い聖天様。祟りだかお叱りだかの一端は教頭先生の水難で証明済み。たったあれだけで水難とくれば、願掛けの途中でやめてしまったら命が無いのも本当っぽく。
「…わ、私にブルー断ちで一生行けと…」
ガクガクと震え始めた教頭先生、それでも御厨子を離すわけにはいきません。床に落としたら祟られますし、放置して逃げたら命の危機。どうあっても有難く拝むしかなく、それが嫌なら遙かペセトラまで返しに行くという道があるのみ。
「嫌ならやめていいんだよ?」
お好きにどうぞ、と会長さん。
「君が願掛けをしたいというから相談に乗った。リスクが高くても拝むと言うから、御厨子も渡してあげたんだ。…どうしても命が惜しいと言うなら、やめる助けはしてあげるけど?」
「…で、出来るのか?」
「ぼくは専門の行者じゃないけど、此処からペセトラまで瞬間移動で御厨子を運ぶくらいはね。元々、御厨子も失礼のないよう保管してたし、その程度なら」
お安いご用、と微笑みつつも、会長さんは。
「でもねえ…。君の願掛けって、ブルー断ちも出来なきゃ命の危機も避けたいだなんて、もう呆れるしかないってね。おまけに結婚したい相手のぼくにさ、聖天様の始末をしろって?」
「そ、それは…!」
「ぼくでも細心の注意を払って運ぶ必要があるんだよ、それ。…せめて自分で返しに行くとか」
それも出来ないようではねえ…、と会長さんの声は氷点下。
「もっとも、その前に拝んで欲しいと思うけどね? 夏休み中にお百度を踏んでもいいと思っていたんだったら、夏休み中くらい拝んでみたら? 駄目で元々!」
「…だ、駄目で元々…」
「そう! ひょっとしたら叶うかもしれないと思わないわけ? 聖天様は御利益を疑うことも御嫌いになる。こうしている間も君はお叱りの種を貯めているわけで」
「お、お叱り…」
教頭先生が言い終わらない内に「あっ!」とソルジャーの声が上がって。
「「「わぁっ!!」」」
高みの見物とばかりにアイスティーのグラスを弄んでいたソルジャーの手からグラスが離れて宙を飛び…。グラスは辛うじて割れなかったものの、教頭先生、またも頭からビショ濡れです。
「…ご、ごめん、ハーレイ、手が滑った…」
申し訳ない、と謝るソルジャーと、顔面蒼白の教頭先生と。
「…ま、またしてもお叱りなのか…。ご、御利益を疑ったからか、そうなのか…?」
なんという、と御厨子を捧げ持って教頭先生、平謝り。もはや拝むしか無さそうな気が…。



こうして教頭先生は御利益と祟りが背中合わせな聖天様の御厨子を持って家に帰る羽目になってしまわれました。夏休みの間くらいは拝んでみろ、と言われてしまえば他に選択肢はありません。ついでにキッパリ、ブルー断ちで。
「いいねえ、今年の夏休みは実に爽やかになりそうだ」
ハーレイの影が皆無なひと夏、と会長さんが大きく伸びを。あれから私たちは山の別荘ライフを堪能した後、アルテメシアに戻って夏休みを存分に楽しんでいます。キース君の卒塔婆書きも無事に終わって、今日は朝からプールに出掛けて、さっき帰って来たところ。
「かみお~ん♪ フルーツパフェとチョコレートパフェ、とっちにする?」
「俺、フルーツパフェ!」
「ぼくはチョコレートパフェでお願いします!」
お昼御飯はプールの帰りに食べましたから、会長さんの家でおやつタイム。フルーツだ、チョコだ、と賑やかな注文が飛び交う中で。
「チョコレートパフェの大盛り、リキュール多めで!」
フワリと翻る紫のマント。優雅に姿を現したソルジャーがストンとリビングのソファに腰掛けて。
「いやあ、ハーレイ、頑張ってるねえ…。ブルー断ちとか」
「そりゃまあ、ぼくとの結婚と自分の命が懸かってるしねえ?」
お蔭でアヤシイ電話も来ないし静かでいい、と会長さん。
「あれから祟りに遭ってない分、もうすぐ願いが叶いそうだと燃えているんじゃないのかな」
「祟りなら、さっき祟られてたけど?」
ソルジャーがクッと喉を鳴らして。
「此処に来る前に寄って来たんだ、陣中見舞いに。ぼくが姿を見せた途端に満面の笑みさ、ブルー断ちに入って長いから…。それで「お茶でも如何ですか」と言った瞬間、運の尽きだよ」
教頭先生、冷蔵庫から出した緑茶のボトルを引っくり返してズボンがビショ濡れ、床の絨毯も悲惨なことになったのだそうで。
「…嘘だろ、なんでそうなるわけ!?」
会長さんが叫んで、ソルジャーが。
「ブルー、尻尾が出てるけど? お叱りじゃなかったのかい、水難ってヤツは」
「で、でも…!」
「聖天様は存在しないって?」
「「「えぇっ!?」」」
どういう意味だ、と私たちは顔を見合わせたのですけれど。



「空っぽなんだよ、あの御厨子はね」
ソルジャーがチョコレートパフェにスプーンを突っ込みながらパチンとウインク。
「何も入っていやしない。…ハーレイの水難はブルーがサイオンで細工していたのさ、ぶるぅも気付かない高度なレベルで! ぼくにはバレバレだったけどね」
「じゃ、じゃあ、最後のアイスティーは…?」
ジョミー君が言うアイスティーとはソルジャーが手を滑らせた分。ソルジャーは「あれね」とニッコリ笑って。
「その場のノリって大切じゃないか。ぼくも一緒に遊んだだけだよ、ブルーは知ってる」
「うん、絶妙のタイミングでやってくれたよね」
「あの時は綺麗に合わせて来たのに、此処で尻尾を出すなんて…。ぼくが祟られてたと言った以上は祟り認定しなくっちゃ!」
「し、失敗した…」
ぼくとしたことが、と悔しそうな顔の会長さん。ということは、ソルジャーが教頭先生の家で見て来た祟りというのもソルジャーが? あの御厨子は本当に空っぽだと?
「空っぽに決まっているじゃないか。ブルーはリスクは冒さないと見た」
「そういうわけでもないけれど…。ぼくも一応、高僧だしね。仏様で遊びはしないよ」
まして聖天様ともなれば…、と会長さんは肩をブルッと。
「聖天様は本気でシャレにならない。ぼくが言ったこともキースの話も、この世界ではよく知られた話さ。…ついでにハーレイ、自分でもあれこれ調べたようだよ」
教頭先生、聖天様の祟りは本当かどうかを独自に調査。調べた結果は会長さんとキース君の話を裏付けた上に、更なる恐怖を与えたらしく…。
「いやもう、失礼があったら命が無いって震え上がったみたいだね。でも御利益の凄さも分かってしまって、諦め切れずに拝む日々ってね」
「うんうん、見た、見た! ハーレイの家のリビングに祭壇があって、大根を差した大きな花瓶がドッカンと!」
実にシュールだ、と笑うソルジャー。
「それで、これからどうするわけ? 空っぽの御厨子」
「夏休みが明けてもブルー断ちとはいかないからねえ…。折を見てストップをかけようかと」
「ふうん? 結婚を承諾するとか?」
「まさか! ハーレイが音を上げるしかない祟りの連続」
それしかないだろ、と会長さんはニヤニヤニヤ。
「ペセトラのお寺に納めに行くしかないって形でエンドマークさ。そこでもう一度巻き上げる!」
お寺まで運ぶのを引き受けてドカンと大儲けなのだ、と会長さんが挙げた金額は目の玉が飛び出るようなものでした。空の御厨子を授けて儲けて、引き取り料で更なる大儲け。



「…おまけにブルー断ちで安泰な夏休みかあ…」
君も鬼だね、とソルジャーは呟きましたけれども、派手な祟りをやらかす時には一枚噛むとか言い出して。
「どうかな、海の別荘行きの辺りでこう、色々と」
「いいねえ、あそこは君の結婚記念日合わせで日を組んでるし」
「だろ? 今年は祝いに来てくれないのか、と声を掛けに行くから、そのタイミングで!」
是非やるべし! と持ち掛けるソルジャーと、その気になった会長さんとの悪辣な打ち合わせは夕食の席でも続いていました。教頭先生を見舞う不幸は空恐ろしいものばかりで。
「…キース先輩、どうなんです、アレ…」
「聖天様ならどれもアリだが、御厨子が空というのがな…」
「教頭先生、最初から最後まで騙されたままでおしまいなんだ?」
南無阿弥陀仏、とジョミー君が合掌しています。イワシの頭も信心からとは言いますけれども、空の御厨子を拝みまくって祟られる場合は何と言うんだか…。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花?」
「饅頭怖い?」
「それは全然違うと思う…」
何なんだろう、と首を傾げる私たちを他所に、まだ続いている祟りの相談。そうとも知らずに教頭先生、今も絶賛ブルー断ち。会長さんとの結婚のために命を懸けての願掛けですけど、御厨子の中には空気だけ。お気の毒としか言えない展開、心からお悔やみ申し上げます~!




            祟りと願掛け・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が「エライ目に遭われた」聖天様。実際、御利益と祟りが半端ないそうで…。
 管理人の家の近所にも「いらっしゃる」んですけど、絵馬を書く勇気はナッシングです。
 今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
 次回は 「第3月曜」 2月20日の更新となります、よろしくです~!

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 こちらでの場外編、2月は、恒例の「七福神めぐり」。無事にお寺に行けますかねえ…?
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