シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
キョロキョロとテーブルを見回した、ぼく。
学校から帰っておやつの時間で、ケーキを食べようとしてるんだけど。
ケーキのお供にママが淹れてくれた熱い紅茶とティーポット。それに小さなミルクピッチャー。
ママに「紅茶はレモンかミルクかどっち?」と訊かれて、ミルク。
特に考えたわけじゃなくって、なんとなくミルク。
プレーンなシフォンケーキにはどっちでも合うし、ミルクでもレモンでもかまわなかったんだ。
だけど突然、ふと思ったこと。
(もっと大きめ…)
ケーキは充分な大きさだけれど、ミルクピッチャー。小さいサイズのミルクピッチャー。
これじゃ足りない、という気がしてきた。大きなミルクピッチャーがいい、と。
朝御飯の時とか、パパも一緒のお茶の時間に置いてある大きなミルクピッチャー。カップ一杯分くらいのミルクが楽々と入るミルクピッチャー。
(あれがいいんだけど…)
ほんのちょっぴりしか入らないような、小さなミルクピッチャーじゃなくて。
もっとしっかり、どっしりとした大きなミルクピッチャーがいい。
(ミルクが沢山入るのがいいよ)
何故だか紅茶にミルクをたっぷり入れたくなった。
普段はそんなに入れないのに。
ママが用意してくれた量のミルクで丁度いいのに。
(確か、この辺…)
食器棚の中を覗き込んでいたら、ママがダイニングに入って来た。
「どうしたの? 何か探し物?」
「ミルクピッチャー…」
「出してあるでしょ? ミルクも入れて」
ちゃんとあそこにあるじゃない、って不思議そうなママ。でも…。
「もっと大きいのが欲しいんだけど…」
ミルクが沢山入るのがいい、って言った、ぼく。大きいミルクピッチャーがいいよ、と。
「ああ、あれね」
此処よ、ってママは直ぐに棚から取り出してくれた。白い陶器のミルクピッチャー。飾りなんか無くて実用本位の、たっぷりと入るミルクピッチャー。
テーブルに置いて、冷蔵庫からミルクを持って来た。幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶に入ったミルク。ぼくが毎朝、飲んでいるミルク。
大きな瓶から、ミルクピッチャーになみなみと入れて…。
よし、とテーブルに着いて、カップに熱い紅茶を注いだ。それからミルクもたっぷりと。
お砂糖を入れて、一口飲んで。
(うん、この味!)
紅茶は薄くなっちゃったけれど、ミルクの風味がうんと優しい。柔らかで甘い口当たり。飲むとなんだか懐かしい気分。この味だよ、って心が跳ねてる。
だけど、紅茶を飲むぼくを見ていたママは。
「ミルクを沢山って…。背を伸ばしたいの?」
「えーっと…。なんにも思っていなかったけれど…」
そうなのかも、っていう気もした。
ミルクと言ったら、背を伸ばすもの。背を伸ばしたくて、ぼくが毎朝飲んでいるもの。
(懐かしい気がするってことは…)
ミルクたっぷりの紅茶は多分、前のぼくのお気に入りなんだろう。
ぼくと同じで背を伸ばすため?
前のぼくも背丈を伸ばしたくって、紅茶にミルクをたっぷりだった…?
(どうだったのかな…?)
おやつを食べる間中、ぼくは半分、うわの空。
シフォンケーキを頬張る間も、ミルクたっぷりの紅茶をコクリと飲み込む時も。
前のぼくの遠い記憶を探って、お茶の時間の記憶も探って。
なのに掴めない、紅茶の記憶。
紅茶が薄くなってしまうほどに沢山、ミルクを注いで飲んでいた記憶。
食べ終わっても記憶は戻って来なくて、キッチンのママにお皿とカップを返しに行った。大きなミルクピッチャーも。
「御馳走様」って渡したけれども、記憶はやっぱり戻らなかった。
ミルクたっぷりの紅茶の記憶。うんと沢山のミルクを紅茶に入れてた記憶。
部屋に帰ってから勉強机の前に座って考えたけれど、思い出せない。戻らない記憶。
気になるけれども、前のぼくって。
前のぼくは背なんか伸ばしたかった?
紅茶にミルクをたっぷりなほどに、頑張って背丈を伸ばしたかった…?
(頑張らなくても勝手に伸びたよ?)
アルタミラでは長いこと成長を止めてたぼくだけれども、脱出した後は順調に伸びた。止めてた反動なんかじゃなくって、ごくごく自然に伸びていった背丈。
しっかり食べろよ、ってハーレイに言われて。
チビだったぼくに「食わなきゃ大きくなれないからな」って何度も言っては、自分が厨房で工夫した料理をあれこれ盛り付けて食べさせてくれた。いろんな料理を。
食材が偏ってキャベツ地獄やジャガイモ地獄になった時でも、ちゃんと料理が色々出て来た。
(もっと食えよ、って、おかわりも盛り付けられちゃったっけ…)
ハーレイは配膳係じゃなかったけれども、係を呼び止めて「こっちも頼む」って入れさせてた。ぼくが少しでも多く食べるよう、一緒に食べながら目を光らせてた。
ハーレイがキャプテンになっちゃった後も。
自分で料理をしなくなった後も、「しっかり食えよ」って。
そのお蔭だろうか、前のぼくの背はぐんぐんと伸びて、チビじゃなくなったんだった。
(じゃあ、なんでミルク?)
ミルクも飲めよ、ってハーレイに言われた記憶は無い。
前のぼくがいつも聞いてた言葉は、「しっかり食べろよ」とか「もっと食べろ」とか。
ハーレイは食事をうるさく言っていたけど、ミルクについては覚えが無い。
(…前のぼくの好み?)
ミルクをたっぷり入れた紅茶は前のぼくが好んだものだったろうか?
そうやって飲むのが好きだったろうか?
(前のぼくが紅茶を飲んでいた時は…)
お茶の時間をゆっくり楽しむようになった頃には、青の間に居た。
ソルジャー専用のミュウの紋章入りのカップやポットで、のんびりと紅茶を飲んでいた。紅茶はもちろんシャングリラ産。白い鯨の中で栽培したもの。
(ストレートの紅茶も、レモンティーも…)
ミルクティーも、それぞれ気分で選んだ。その日の気分や、お菓子に合わせて。
この飲み方が特に好きだ、っていうのは無かった筈なんだけど。
無かったように思うんだけれど…。
(でも、ミルクたっぷり…)
あの味が懐かしいと思うからには、きっと何かがあったんだ。
それが何だか思い出せない、と頭を悩ませていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄ったぼくの目に映った、手を振るハーレイ。庭を隔てた門扉の向こうで、大きく右手を振ってるハーレイ。
(ハーレイだったら覚えてるかな?)
どうなのかな、って思ったけれども、ぼくでさえ分からない記憶。
いつのものかも分からないんだし、ハーレイにだって無理に決まってる。
(せめて時期でも分かっていればね…)
前のぼくがそれを好きだった時期。
だけど覚えていないし、訊けない。ハーレイだって困ってしまうだろう。
諦めよう、って思ったけれども。
ハーレイを部屋まで案内して来たママがテーブルの上に置いてった紅茶。お菓子と一緒に並べた紅茶。今日はミルクティー、ポットの隣に少し大きめのミルクピッチャー。
二人分のミルクが入るサイズのそれを目にしたら、閃いた。
(そうだ!)
もう一度ミルクたっぷりで飲んだら、今度は思い出せるかも。
前のぼくの恋人のハーレイも目の前に居るし、さっきよりかは条件がいい。
だから…。
「ねえ、ハーレイ。ハーレイ、ミルクはあっても無くてもいいんだよね?」
紅茶に入れるミルク。ミルク無しでも飲めるんだよね?
「そうだが?」
「じゃあ、ちょうだい。ハーレイの分のミルク」
ぼくにちょうだい、ハーレイの分も。
「それはかまわないが、何なんだ?」
「えーっと…」
見れば分かるよ、ぼくがしたいこと。ハーレイの分のミルクを欲しがった理由。
ぼくはカップに紅茶を半分だけ淹れて、もう半分はミルクを注いだ。
ミルクピッチャーの中身のミルクをたっぷり、濃いめの紅茶が薄くなるほどに。
「お前、そんなに入れるのか?」
いつもそんなに沢山入れてたか、ミルク?
「入れたくなった…」
なんでかな、って思い出したくて、もう一度。
おやつの時間に急に飲みたくなったんだ。ミルクをたっぷり入れた紅茶が。
ママに頼んで、ミルクピッチャー、大きいのを出して貰ったよ。
それでミルクが沢山入った紅茶を飲んだら、とても懐かしい気分になって…。
前のぼくだ、って直ぐに分かった。
でもね、どうしてミルクたっぷりの紅茶なのかが分からないんだ。
そういう紅茶が好きだった、って記憶が全く無いんだよ。
考えていたらハーレイが来たし、もう一度、って試してみたんだけれど…。
「ふうむ…。で、思い出せたか?」
どうだ、戻って来そうか、記憶?
前のお前が飲んでいたらしい、ミルクたっぷりの紅茶とやらは?
「駄目みたい…。ハーレイも覚えてなさそうだよね?」
「すまんが、俺の記憶にも無い。前のお前は確かに紅茶が好きではあったが…」
こうでなければ、という飲み方のこだわりとなったら全く知らん。
とにかく紅茶が好きだったな、という程度でしかない。
「ぼくもなんだよ、自分のことなのに覚えてなくて…。何なんだろう、ミルクたっぷりって…」
この味が好きって、紅茶よりもミルクが大事だったとしか思えないんだけれど…。
「うむ。そんな感じの飲み方ではあるな」
紅茶よりもミルク、そういった感じが強いんだが…。
前のお前は今のお前ほど、ミルクにこだわる理由なんか無いと思うがな?
身長を伸ばそうとしていたわけでもあるまいし、ってハーレイも同じ意見だけれど。
それでもミルクが大事だったらしい、前のぼく。
紅茶よりもミルク、って思ってたらしい、ミルク沢山の紅茶の飲み方。
そうなってくると…。
「ハーレイ。シャングリラの紅茶、ミルクたっぷりで誤魔化さなきゃいけない年ってあった?」
「はあ?」
「紅茶の出来だよ、シャングリラの紅茶は香りが高いってわけじゃなかったし…」
味まで駄目だった年があるのかな、色だけなんです、っていう酷い出来。
やたら渋いとか、そんなのだったらミルクたっぷりで飲むしか道が無かったかも…。
「そいつは無いだろ、流石にな」
出来が悪くても、紅茶は紅茶だ。飲めないほどの出来になったら覚えているさ。
キャプテンの所には農作物の出来に関する情報も上がってくるからな。
今年は駄目だと、とても飲めないと言って来たなら、流石の俺も…。
ん…?
待てよ、ってハーレイは首を捻った。顎に手を当てて、考え込んでる。
ぼくの紅茶の記憶の端っこ、ハーレイは見付け出したんだろうか?
そうだといいな、とドキドキしながら考え事の邪魔をしないようにしていたら…。
「そいつは紅茶の記憶じゃないな。ミルクの方だ」
「ミルク?」
なんでミルク、って、ぼくの瞳は真ん丸になった。
前のぼくもやっぱり、背丈を伸ばそうとミルクを飲んでいたんだろうか、って。
そしたらハーレイは「そうじゃないさ」と笑みを浮かべて話の続きを教えてくれた。
「自給自足の生活を始めて、船で牛を飼って。ミルクが取れるようにはなったが…」
船のみんなに充分な量が行き渡るようになるまで、ミルクティーなんかには使えなかった。
余分に使えるミルクってヤツが出来て初めて紅茶に回せるようになったろ?
「うん」
最初の間は飲む分だとか、料理用だとか…。
紅茶に入れてもいいんです、ってミルクが取れるようになるまで、暫く時間がかかったね。
「そのミルクが、だ。沢山取れるようになったから、と前のお前にドッカンと…」
「ああ、あった…!」
思い出したよ、その話。
とても沢山のミルクを貰ってしまったんだっけ…。ぼくの紅茶用に。
シャングリラでの牛の飼育が軌道に乗ってから、どのくらい経った頃だっただろう?
青の間に食事を運ぶ係がトレイに乗っけて、恭しく運んで来たミルク。
いつもの小さな器じゃなくって、ぐんと大きなミルクピッチャー。
それにたっぷり入ったミルクが届けられた。
紅茶用のミルクをお持ちしましたと、ご自由にお使い下さいと。
報告がてらハーレイまでがくっついてたから、何事なのかと思って尋ねた。
「これはまた…。ずいぶん多いけど、一日分かい?」
今日はミルクティーを何度も楽しめそうだね、ありがとう。
「いいえ、ソルジャー。一回分です」
お使いになれるようでしたら、午前中のお茶にお使い下さい。午後になりましたら、また新鮮なものを運ばせますから。
「一回分って…。こんなに沢山?」
「ミルクはまだまだございますので、午後の分も夜の分もお持ち出来ます」
牛たちが立派に育ってくれました。宇宙船での生活にも慣れて元気一杯に暮らしております。
ミルクの生産も安定しました、これからは毎日ミルクを三回運ばせますから。
量はこれだけ、それを三回です。
もしも多すぎるとお思いでしたら、その時は調整いたします。
飲み切れなかったら冷蔵で保存しておいて下さい、と言われたミルク。
ハーレイと係が出て行った後で、早速、使ってみることにした。
お湯を沸かして、ポットに紅茶の葉を入れて。熱いお湯で紅茶の葉が開くのを待って、カップに半分注いでみた。濃い目の紅茶をカップに半分。
其処にミルクをうんとたっぷり、紅茶が冷めない程度にたっぷり。
今まで飲んでたミルクティーとはまるで違った、ミルクが勝っているほどの紅茶。ミルクの白に紅茶の色を混ぜたような、優しい色合い。
いつもと同じ量の砂糖を落として、スプーンで混ぜてから口に運んだら。
(美味しい…!)
ぼくが知ってたミルクティーとは違った味わい。ミルクのコクがふんわり広がってゆく。
柔らかい味って言うのかな?
同じミルクを入れた紅茶でも、前のと全然違うんだ。優しくて甘くて、温かい味。一度飲んだら癖になる味、やみつきになってしまう味。
ぼくはすっかり虜になって、その日はもちろん、その次の日も。
そのまた次の日も沢山のミルクを運んで貰って、ミルクティーばかりを楽しんでいた。レモンの存在なんかは忘れて、ストレートで飲むことも忘れてしまって。
それからレモンやストレートの紅茶を思い出すまで、ミルクたっぷりで飲んでいたぼく。
ハーレイと紅茶を楽しむ時にも、ミルクたっぷりのミルクティーをせっせと勧めていたぼく。
まだハーレイとは友達同士で、恋人同士じゃなかったけれど。
そうやってハーレイにミルクティーを御馳走してたら、ある日、訊かれた。
「ソルジャー、ミルクが後ですか?」
「駄目なのかい?」
二つ並べた紅茶のカップにミルクを注ごうとしていた、ぼく。
ミルクは先に注ぐものだったのか、と驚いて手を止めてしまったんだけれど。
「いえ、後だと駄目だというわけではなく…。食堂で少し論争が」
食堂でも、こういうミルクティーを楽しめるようになりましたから。
そうしたら二通りに分かれてしまったのです、ミルクを入れるのが先か後かに。
先に入れる者たちは「絶対に先だ」と言って譲らず、後の者たちは「絶対、後だ」と。どちらも自分のやり方が正しいと主張し、日々、論争の種になっていましたね。先だ、後だと。
結局、ヒルマンとエラが調べて、なんとか落ち着いたのですが…。
「そうだったんだ…。それで、正解はどっちだったの?」
「正解と言うべきかどうかが難しいのですが…」
元々、紅茶は特権階級の飲み物だったとのことで、その階級ではミルクは後に入れるもの。後に庶民に広がった時に先に入れる方法が生まれたそうです。
理由は定かではないらしいですが、熱い紅茶でカップが割れてしまわないよう、先にミルクだという説などもあったとか。
もっとも、SD体制に入ろうかというような頃には先も後も無かったそうですけどね。それこそ個人の好み次第で、後でも先でも、どちらも間違いではなかったという話でした。
「なるほど、正解は後だけれども、今の時代はどちらでもいい、と」
ぼくはたまたま正解なんだね、誰に習ったわけでもないんだけれど…。
なんとなく後だという気がしていて、後に入れてただけなんだけれど…。
でも、そういうのでもめるんだ…?
ミルクは先なのか、後なのか、って食堂で毎日論争になって、ヒルマンとエラまで引っ張り出す騒ぎになっちゃったんだ?
「半分以上は論争と言うより、お祭り騒ぎだったんですがね」
誰に教わったわけでもないのに、先に入れるか後に入れるかの二つに分かれる。自分はこれだと思い込んでいて、変えるつもりにならない入れ方。
これは失くした記憶なんだろう、と皆が喜んでいるのですよ。
育った家の記憶はすっかり失くしてしまったけれども、こんな所に残っていたと。
身体が覚えていてくれていたのだと、紅茶のミルクは先か後かを。
「そういうことか…。だったら、ぼくのも育ててくれた人たちの入れ方なんだ…」
ミルクは後で、っていう人たちがぼくを育ててくれたんだね。
紅茶のミルクは後で入れてた、その入れ方が好きな人たちの家で大きくなったんだ、ぼくは。
「恐らくは。でなければ特に考えもせずに、自然に後にはならないでしょう」
ミルクの量が少なかった頃には、誰もが後から入れたのですが…。
たっぷりと入れられるようになった途端に、先と後とに綺麗に分かれてしまいましたからね。
「じゃあ、ハーレイはどっちなんだい?」
紅茶のミルクは、先なのか後か。君はどっちが好きだったんだい?
「後のようです」
沢山あっても、ついつい後に…。キャプテンですから、どちらにもつかずに中立で、と思ってはいても身体が勝手に動くのですよ。ミルクは後だ、と。
「それなら、ぼくと同じだね」
ハーレイもぼくと同じなんだね、ミルクは後から入れるんだね。
ふふっ、って嬉しくなった、ぼく。
まだ恋人同士ではなかったけれども、ハーレイと同じ入れ方だというのがお気に入りで。
ハーレイもぼくもミルクは後だと、紅茶のミルクは後に入れるのだと喜んでいた。
そうして紅茶にたっぷりとミルク。
ハーレイが青の間にいない時でも、一人でゆっくりと紅茶にミルクを注いでた。
ミルクは後から、って。
これはハーレイも同じなんだと、同じ好みの人たちに育てられたんだ、って。
「思い出した…!」
ミルクだった、と叫んだ、ぼく。
紅茶にミルクをたっぷり入れてた前のぼくの記憶は、紅茶じゃなくってミルクの方。
ミルクを沢山入れられる時代がやって来た時に、せっせとミルクを入れては飲んでいたんだ。
その味ももちろん好きだったけれど、ハーレイと同じミルクの入れ方。
ぼくもハーレイもミルクは後だと、後からなんだと噛み締めるようにミルクを紅茶の後から。
そうして生まれたカップの中身をスプーンで混ぜては、幸せ一杯。
ハーレイもぼくもこれで育ったと、こういう習慣の人たちに育てられたんだ、と。
「思い出せたか、そりゃ良かったな」
前のお前に付き合わされて、ミルクティーばかり飲んでた甲斐があったってな。
お前、あれから暫くの間、紅茶と言ったらミルクをたっぷり入れていたしな。
ミルクたっぷりの紅茶が好きだと言うわけじゃなくて、ミルクの入れ方の問題だったが。
「…そんな理由だったから思い出せないんだよ…」
ああいう紅茶が好きだったのなら、簡単に思い出せただろうけど…。
ミルクの入れ方なんて無理だよ、それこそ身体の記憶なんだもの。身体が覚えていたんだもの。
前のぼくの記憶はすっかり消されていたのに、ミルクの入れ方は覚えていたもの…。
「そうかもしれんな、食堂で派手にもめたくらいに大切な記憶らしいんだがな」
育ての親と育った家の記憶だ、うんと大事なものなんだろうが…。
意識して覚えていたわけじゃないし、生まれ変わったら余計に記憶から抜けちまうってな。
それに、今のお前。
前のお前と全く同じで、ミルクは後かららしいしな?
「うん…。小さい頃からずっとこうだよ、パパもママも後から入れているしね」
ハーレイは今度はどっちなの?
今はミルクは先なの、後なの、今の家ではどっちだったの?
「気になるか?」
「ならない筈がないじゃない!」
たっぷりのミルクを出したことが無いから分からないよ、どっち?
「今も後だな。親父もおふくろもそうだったからな、俺も釣られて自然にな」
「じゃあ、同じだね」
今度もハーレイと同じなんだね、ミルクの入れ方。
紅茶にミルクを入れる順番、今度もハーレイとおんなじなんだね…。
今度も同じ、って心がほんのり温かくなった。
前のぼくとハーレイを育てた人たちの記憶は、お互い、失くしてしまったけれど。
機械に消されてしまったけれども、ミルクの入れ方を身体が覚えていてくれた。紅茶にミルクを後から入れる人たちが育ててくれていたんだ、って覚えてた。
そのぼくたちが生まれ変わっても、おんなじミルクの入れ方の家。前のぼくたちの養父母と同じ習慣を持った人たちの子供に生まれて来た。
ぼくもハーレイも、前と同じに育ってる。
見た目の姿もそうだけれども、ミルクの入れ方。
紅茶にミルクを入れる順番が前と全く同じだったなんて、もう嬉しくてたまらない。
神様はちゃんと選んでくれたと、ぼくたちが何処に生まれるべきかを選んでくれていたんだと。
ハーレイもぼくも、基本の部分は前とおんなじ、そうなるように生まれ変わって…。
「ハーレイ、紅茶にミルクをたっぷり…じゃないよね?」
そういう飲み方が好きってわけではないよね、今のハーレイも?
「お前にミルクを譲れるくらいの人間だからな」
譲ってくれと言うから譲ってやったが、まさか前のお前の記憶を探していたとはなあ…。
俺の記憶が役に立ったようで何よりだが。
「ハーレイが好きなの、コーヒーだもんね…」
シャングリラでもコーヒー、飲んでたし…。
あれは代用品だったけれど。キャロブのコーヒーだったんだけれど…。
「ガキの頃には流石に違うがな」
いくら本物のコーヒーが飲める世界に来てもだ、ガキの舌にはコーヒーは合わん。
親父たちが飲んでいるのを強請って後悔したことが何度もあったな、これは飲めんと。
だから多少はお前の気持ちってヤツが分かるさ、コーヒーが苦手なお前の気持ち。
そうは言ったけど、育ったら前のハーレイと同じでコーヒー好きになってしまったハーレイ。
寝る前に飲んでも全く平気で、夜の書斎で大きなマグカップに一杯の熱いコーヒー。
前と全くおんなじハーレイ。
コーヒーが好きで、紅茶にミルクを入れるんだったら後だと思っているハーレイ。
でも…。
「ねえ、ハーレイ。ぼくたち、前のぼくたちと色々な所がそっくりだけれど…」
前とは違うって所も沢山あるよね、今のぼくたち。
何処が違うのか、咄嗟には何も出てこないけれど…。
「多分な。何より今度は結婚だろ?」
結婚だけは前の俺たちには不可能だったぞ、逆立ちしてもな。
「そうだっけ!」
うんと違うね、結婚だものね。
前のぼくたちには出来ないどころか、恋人同士っていうのも秘密。
それが今度は結婚なんだし、前のぼくたちとは違うんだよね…。
今度のぼくたちは結婚する。結婚式を挙げて、一緒に暮らす。
そこが一番、大きな違い。
前のぼくたちとの大きな違い。
結婚して二人で歩いてゆくんだ、手を繋ぎ合って離れないで。
何処までも二人一緒の未来。ハーレイと二人、いつまでも一緒。
(ハーレイと二人で暮らすんだよ…)
もう少ししたら、ぼくの背丈が前のぼくと同じになったなら。結婚出来る年になったなら。
前と同じに育った後にやってくる、前よりもずうっと大きな幸せ。
恋人同士ってだけじゃなくって、ちゃんと結婚出来るんだ。
そう、ぼくたちは前とは違う。
紅茶にミルクを入れる順番は変わらなくっても、前と違って幸せな未来があるんだから…。
紅茶とミルク・了
※ブルーが思い出した、ミルクティーのこと。紅茶にミルクを入れるのは、先か後なのか。
前のハーレイとは「お揃い」だったミルクの入れ方。今度もやっぱりお揃いです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
春はやっぱり桜が一番。今年は週末にバッチリ見頃になりました。会長さんのサイオン裏技で場所取り完璧、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の特製お花見弁当で食事も豪華に。その勢いで夜桜ライトアップまで粘って、打ち上げとばかりに会長さんのマンションへやって来たのですが。
「かみお~ん♪ コーヒーの人は手を挙げてーっ!」
「「「はいっ!」」」
パパッと上がった手を数えたら、お次は紅茶の注文取り。ホットココアなんかもあって至れり尽くせり、その中で…。
「ホットココアに砂糖多めで、ホイップクリーム山盛りで!」
「「「………」」」
どう考えてもソレは合わないんじゃなかろうか、と注文主に視線が集中。
「ん? 美味しいよ、豪華お好み焼き! それと焼きそば」
どっちも非常に捨て難い、と屋台グルメならぬ帰り道の店で買い込んで来た持ち帰り用の器をキープする人、その名も会長さんのそっくりさんのソルジャーです。私服でキメて来ていますけども、すれ違う人が思わず振り返る超絶美形がお好み焼きにホットココアって…。しかも激甘。
「もうちょっとマシなチョイスにしたまえ、飲み物くらい!」
会長さんが怒鳴り付けても何処吹く風。
「いいじゃないか、飲むのはぼくなんだしね? 美味しく食べて美味しく飲む!」
「はいはい、分かった。ぶるぅ、激甘ココアだそうだ」
「了解~♪」
キッチンへ跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、間もなく全員分の飲み物を持って戻って来ました。ソルジャーの他にも面子は大勢、広いリビングは実に賑やか。
「はいどうぞ!」
「ありがとうございます」
コーヒーを受け取る私服のキャプテン。
「どういたしまして~! ゆっくりお泊まりしていってね!」
「お世話になります、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げたキャプテン、今夜は私たちと一緒にお泊まり。大食漢の「ぶるぅ」も来ています。更には教頭先生までがお泊まり組で、これだけ聞けば大荒れしそうな感じですけど、何故か滅多に荒れないお花見。満開の桜は場の雰囲気も癒すのかも…。
「「「カンパーイ!!!」」」
紅茶やコーヒーで乾杯も何もないですって? いいじゃないですか、宴会、宴会!
夜桜の後も会長さんの家でワイワイガヤガヤ。ピザだ、うどんだ、いやラーメンだ、と夜食もお菓子もどんどん食べて騒いでいると。
「んーと…。ぼくね、この前、凄いもの見たの!」
唐突に叫んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」ならぬ悪戯小僧の「ぶるぅ」の方。ガツガツとピザを頬張りながらの台詞です。
「「「凄いもの?」」」
「うんっ! すっごく美人の!」
「「「美人?」」」
なんじゃそりゃ、と皆でオウム返しに返したら。
「凄い美人のブルーだったのーっ!!!」
「「「は?」」」
視線はもれなくソルジャーの方に。確かに美形は美形ですけど、見慣れた今ではどうと言うことも…。「ぶるぅ」はもっと見慣れている筈で、凄いも何も無さそうですが?
「…美人?」
ぼくが? と自分を指差すソルジャー。
「すっごく美人って、いつのことかな? それは是非とも参考に聞いておかないと!」
「えとえと、ブルーのことじゃなくって!」
「「「へ?」」」
今度は皆で会長さんの顔を眺めました。凄く美人って、会長さんが? けれど「ぶるぅ」は。
「そっちも違うーーーっ!!」
「「「ええっ!?」」」
ソルジャーでも無し、会長さんでも無し、されども凄く美人のブルー。そんなブルーが何処に居るのか、と暫し悩んでいたところ。
「察するに、それは夢オチだな?」
キース君がズバリと指摘しました。
「凄い美人のブルーが出て来る夢を見たってオチだろう?」
「違うよ、ホントに見たんだもん!」
「何処でですか?」
シロエ君の問いに、「ぶるぅ」はエヘンと胸を張り。
「シャングリラ!」
「「「シャングリラ?」」」
なんだ、やっぱり夢オチってヤツじゃないですか! シャングリラ号とソルジャーや会長さんはセットもの。夢と現実を混同するって、小さな子供にありがちですよね?
夢オチだったか、と回れ右とばかりに宴会モードに戻ろうとした私たち。しかし「ぶるぅ」は「ホントなんだもん!」と脹れっ面で、放置した場合は大惨事っぽい予感がヒシヒシ。なにしろ悪戯小僧です。御機嫌を損ねたらどうなるか…。
「分かったよ。…何処で見たわけ?」
会長さんが尋ねました。宴会場かつお泊まり場所の提供者としては惨事を回避したいのでしょう。
「シャングリラだよ、何処のか分かんないけど!」
「「「え???」」」
「適当に飛んだら落っこちたの!」
きちんと目標を定めずに空間移動をしようとした「ぶるぅ」は、こちらの世界に飛び込む代わりに謎のシャングリラに落ちたのだそうで。
「こっちの世界にもシャングリラはあるって聞いていたから、それかと思って…。だったら見学しとこうかな、って歩いてたんだよ、船の中を」
「それで?」
会長さんが先を促し、ソルジャーが。
「其処に居たわけ? 凄い美人のブルーというのが」
「うんっ! こっちのシャングリラだったら青の間は誰もいないよね、って瞬間移動したら人がいたからビックリしてシールドで隠れたんだけど」
ふむふむ。誰もが興味津々です。別の世界とはまた面白いネタで。
「でね、シールドの中から覗いてみたらブルーがいたの! 用事があって来てたのかな、って思って見てみたんだけど、なんか違うし…」
「美人だったわけ?」
このぼくよりも、と会長さん、些か不満そう。自分の美貌に絶大な自信を持っているだけに、同じ顔形で「凄い美人」と称される別の世界のブルーとやらに対抗心を燃やしているのでしょう。
「んとんと、ブルーよりも、ブルーよりも美人だったあ!」
「「………」」
ブルーの沈黙、二人前。会長さんとソルジャー、憮然とした顔をしています。
「なんでぼくより!」
「ぼくより美人って有り得ないだろ!」
同じ顔だ、とハモった声に、「ぶるぅ」は「でも…」と二人を交互に眺めてから。
「あっちのブルーが美人だった! すっごい美人!」
「「ちょっと!!」」
許すまじ、とばかりに「ぶるぅ」を睨み付けるブルーが二人。お気持ちはよく分かりますけど、凄い美人も気になりますよね?
自分の顔には自信満々の会長さんとソルジャーよりも美人だという何処ぞのブルー。青の間に居たということは間違いなく別の世界のブルーだったわけで、凄い美人だとはこれ如何に。
「ぶるぅ。…ちょっと訊くけど」
ソルジャーが「ぶるぅ」をジト目で見ながら。
「実はこっちのブルーだったってオチじゃないだろうね、特殊メイクの」
「特殊メイクって何さ! ぼくは素顔で勝負だってば!」
会長さんが喚き、「ぶるぅ」の方も。
「…特殊メイクはどうか知らないけど、こっちのブルーじゃなかったよ?」
「なんだ、特殊メイクかもしれないんだ?」
ホッと安堵の吐息のソルジャー。
「それなら美人でも分かるかも…。ぼくもブルーもメイクはしないし」
「えとえと、特殊メイクって、お化粧?」
「化粧の内に入るだろうねえ、塗るものが普通と違うだけでさ」
「…だったら特殊メイクじゃないかも…」
塗ってなかったし、と考え込んでいる「ぶるぅ」。
「頬っぺたとか唇とか綺麗だったけど、お化粧って感じじゃなかったもん!」
「…頬っぺた?」
「唇?」
ソルジャーと会長さんが顔を見合わせ、相手の顔のパーツをガン見してから声を揃えて。
「「なんかムカつく!!」」
「でもでも、美人だったんだもん! こんなのだもん!」
通じないことに業を煮やしたか、「ぶるぅ」が宙に噂のブルーの映像を。こ、これは確かに凄いかもです。会長さんたちと全く同じ顔形なのに、更に美しく透き通るような肌、ほんのり紅をさしているのかと勘違いしそうな桜の唇。それほどなのに、どう見てもすっぴん、ノーメイクで。
「「「……スゴイ……」」」
度肝を抜かれた私たちの横で別の反応が二通り。
「素晴らしすぎる…」
「ええ、本当に…」
凄いブルーです、とキャプテンと教頭先生が熱い溜息、その一方で。
「同じブルーで、なんで此処まで!」
「差がつくわけ!?」
許せねえ、と言わんばかりのブルーが二人。会長さんとソルジャーは映像の中の美人なブルーに牙を剥いてますが、そりゃまあ、こんなに差がついたら……ねえ?
凄い美人なブルーの証拠を示した「ぶるぅ」は映像をパッと消しましたけれど、収まらないのが二人のブルー。特にソルジャーは自分の伴侶なキャプテンが「凄い」発言をして教頭先生と共に見惚れていたのがショックだったらしく。
「…何か秘訣があるんだろうか?」
どう思う? と話を振った先は会長さんで。
「秘訣だなんて言われても…。美肌には規則正しい生活と栄養バランス…」
「その辺、ぼくはガタガタだよ! それでも君との差はついてないし!」
「…其処なんだよねえ、ぼくにもサッパリ謎なんだけど…」
他に何か、と会長さんの視線が私たちに。
「誰か知らない? 美肌の秘訣」
「あんたにだけは訊かれたくないが」
キース君が切り返しました。
「顔には自信アリなんだろうが! 俺たちに訊くな、俺たちに!」
「そうなんだけどさ、この際、何でも意見があればと」
「……サプリでしょうか?」
シロエ君がおずおずと。
「色々あると聞いてますから、あの世界には凄いのがあるかもしれません」
「なるほど、サプリか…」
「それはあるかも…」
至極真面目なブルーが二人。劇的に差がつくアイテムとなればサプリか、はたまた基礎化粧品か。でも、どちらにしても…。
「…あの世界にしか無いわけだよね?」
「無いんだよねえ?」
せめてサンプルの一つでもあれば、と超特大の溜息が二つ。サンプルさえあればソルジャーの世界で分析するとか、エロドクターに分析させるとか…。けれど「ぶるぅ」の空間移動は適当すぎて、件の美人が居たシャングリラには二度と辿り着けそうもないらしくって。
「…サンプルは無理か…」
「せめて盗み出しておいて欲しかった…」
どうして其処で悪戯小僧の本領を発揮しなかったのだ、と残念MAXな二人のブルー。
「他所のシャングリラだからと遠慮しなくても、派手にやらかしてくれればねえ…」
「いや、本当に…」
「えとえと、サンプル?」
サンプルって? と「ぶるぅ」が首を傾げました。
「なんか不思議なお薬だったら、勝手に貰って来ちゃったんだけど…?」
ちょろまかして来たという不思議な薬。それこそが美貌の秘訣なのでは、と私たちは考え、渦中の人な二人のブルーも当然のように思い至ったわけで。
「「それだ、ぶるぅ!」」
重なったブルー二人分の声に、「ぶるぅ」はキョトンと。
「サプリって、お薬のことだったの?」
「薬と言うのか、何と言うか…。とにかく飲んだらいろんな効果が!」
「そうそう、肌が綺麗になるとか!」
サプリは何処だ、と二人が詰め寄り、「ぶるぅ」は「えーっと…」と後ずさりながら。
「怒らない? …悪戯したって怒らない?」
「「怒らない!!」」
むしろ褒める、と二人がタッグ。何としてでもその薬を、と狙っているのが丸分かり。「ぶるぅ」は「分かった」と頷いてから「はい」と空間移動で大きな瓶を取り出しました。中には真珠のような色と形の錠剤がビッチリ、分析するには充分すぎる量があります。
「…こんなデカイのを盗って来たわけ?」
ジャムの徳用瓶もかくやな大きさの瓶。もっと小さい瓶は無かったのか、と突っ込みたい気持ちは分からないでもないのですけど、「ぶるぅ」は「うんっ!」と澄ました顔で。
「悪戯するならスケールはドカンと大きくだもん! あっちのハーレイ、凄く大事そうに持っていたから、小瓶を盗るより大瓶だもん!」
「「「…ハーレイ?」」」
凄い美人なブルー用の薬じゃなかったんですか、この大瓶。ハーレイと言えばもれなく船長、そんな人用の薬を盗っても何の役にも立たないんじゃあ?
「…ハーレイ用の薬だったか…」
「意味が無いねえ…」
バカバカしい、と二人のブルーが言った途端に。
「違うもん!」
ブルー用だもん、と「ぶるぅ」が敢然と反論しました。
「ハーレイがコレを飲ませてたんだよ、美人のブルーに! はいどうぞ、って!」
「「「は?」」」
何処のシャングリラかは分からないものの、船長が美人なブルーにお薬。それはサプリの一種であっても、どちらかと言えば栄養剤では…?
「…健康維持のための薬か…」
「それっぽいねえ…」
こりゃ駄目だ、と匙を投げてしまったブルーが二人。ところが「ぶるぅ」は「そうじゃないし!」と叫んで、真珠の粒が沢山詰まった大きな瓶をリビングのテーブルにドカンと置くと。
「栄養剤なんか盗らないもん! 不思議なお薬だから盗ったんだもん!」
「…不思議な薬?」
そういえばそういう話だったか、とソルジャーが首を捻りつつ。
「その薬はどう不思議なわけ?」
「えっとね、ハーレイがコレをブルーに飲ませるとねえ…」
「「うんうん」」
聞き入っている二人のブルー。ただでも美人な例のブルーが更に美人とか、そういう薬?
「もっと美人になっちゃうの!」
「なんだって!?」
「あれ以上まだ!?」
それはスゴイ、と食らいつく二人。サンプルは「ぶるぅ」が徳用瓶サイズでガッツリ盗み出しましたから、後は分析あるのみでしょうか。
「もっと美人になる薬ときたよ…」
「普段からそれを飲んでいるなら、あのレベルでも納得かも…」
是非飲むべし、と意見が一致するブルーが二名いるのですけど、「ぶるぅ」が「うーん…」と。
「ホントに飲むの?」
「「飲む!!!」」
「…飲んでもいいけど、胸がおっきくなっちゃうよ?」
「「「胸?」」」
二人のブルーに私たちの声も加わりました。胸が大きくと聞こえましたが?
「うん、胸が大きくなるお薬なの!」
「「「はあ?」」」
「だからね、ブルーの胸がうんと大きくなるの! そしたらハーレイが服を脱がせて」
「ちょ、ちょっと待った!」
会長さんが「ぶるぅ」を制止してから。
「そ、それはもしかして女性並み? あのブルーはまさか女になるとか?」
「うんっ!」
元気よく返事した「ぶるぅ」の声に全員、ドン引き。まさかまさかの性転換薬、それが目の前の徳用瓶だと…?
よりにもよって女性になる薬。美人になるのも納得です。日頃からそんなアヤシイ薬を飲んでいたなら、効き目が切れている時にだって美人要素を引き摺るでしょう。男性と女性、どちらがお肌がしっとりツヤツヤ、唇の色も美しいかは考えるまでもないことで…。
「……お、女……」
会長さんの声が震えて、ソルジャーが。
「ぶ、ぶるぅ…。そのハーレイは、まさか女のぼくを…」
「なんか大人の時間だったよ、すっごく胸のおっきなブルーと!」
「「「うわー…」」」
ひでえ、と誰が言ったのか。教頭先生とキャプテンも眉間の皺を深くしながら。
「…それは立派な変態ですね…」
「まったくです。わざわざブルーに薬を飲ませて女にするなど、変態でしか有り得ませんよ」
そりゃそうだろう、と私たちも頷いたのですけれど。
「………ん?」
一番最初に矛盾に気付いたのが会長さんで。
「薬を飲ませて男を女に、というのは確かに変態だけどさ…。ぼくもドン引きしちゃったけれども、それって結果は普通じゃないかな?」
「「「普通?」」」
「うん。…男同士の方が変だよ、男と女なら普通だってば!」
「「「あー…」」」
それはそうかも、と目から鱗がポロリンと。凄い美人の男なブルーと大人の時間をやらかすよりかは、女なブルーとやっている方が普通かもです。してみれば、例の薬を美人なブルーに飲ませる船長、至って普通な趣味の持ち主なのかもで…。
「…変態ってわけじゃなかったんだ?」
ジョミー君が言い、サム君が。
「言われてみればそうかもなあ…。いやまあ、俺は男のブルーの方が好みだけどよ」
「サム先輩もそっちの人ですしねえ…。でも、普通だったら其処は女ですよ」
シロエ君の指摘に、マツカ君も。
「…性別を変える件はともかく、普通は女性が相手ですよね?」
「真っ当な趣味をしているのかしら、ぶるぅが見てきた別の世界のハーレイって人は?」
スウェナちゃんの意見は至極正論、性転換の件さえなければその船長はいわゆるノーマル。教頭先生やキャプテンなどより正常な人になるわけで…。
「変態どころか正常ねえ…」
だけど理解の範疇外だ、と会長さん。それはどういう意味合いで…?
「えっ? まず一番はハーレイとやろうって辺りだよ、うん」
会長さんは凄い美人なブルーの嗜好を真正面から否定しました。
「ハーレイなんかが趣味っていうのが理解出来ない。しかもハーレイがノーマルだからって、自分の性別まで変えるなんてねえ…。いやもう、変態はブルーの方かと」
「その点は同意」
深く頷いているソルジャー。
「この身体でヤッてなんぼなんだよ、なんでわざわざ女になるわけ? おまけにハーレイの好みで女になってるわけだろう? ぼくは受け身はお断りだってば!」
自分の意志で女になるならともかく、とソルジャー、ブツブツ。
「凄い美人は羨ましいけど、女はねえ…」
「ぼくも美貌は羨ましいけど、そこまでしてねえ…」
リスク高すぎ、と二人のブルーの意見が一致。ところが人数がこれだけいれば、ズレている人もいるわけでして。
「…私も同じ意見だな。お前は断然、男でないと」
教頭先生が会長さんの肩をガッシリと掴み、真剣な愛の告白を。
「女になってくれとは言わない。…確かにあれほどの美人は捨て難いのだが、女となったら興醒めだしな。お前は今のままがいいんだ、俺は男のお前が好きだ」
「ちょ、ちょっと…!」
「だからだ、あそこの薬を飲まなくてもいい。お前は今のままで充分、美人だ。女なお前より断然、男だ。…是非とも嫁に来て欲しいのだが」
「お断りだし!」
この変態が! と会長さんは教頭先生の腕を振りほどくと。
「君の場合はその変態を治すべきだね、その方がいい」
「女になってくれるのか?」
「なんでそういうことになるのさ!」
都合のいいように解釈するな、と柳眉を吊り上げる会長さん。
「ぼくが女に変化するより、最初から女性を探したまえ! 君に釣り合う女性ってヤツを!」
「私にはお前しか考えられん。だからだな、お前が女になるというなら私もこの際」
「……この際?」
「女なお前を相手に出来るよう、自分をキッチリ鍛えるまでだ!」
教頭先生の思考は斜め上というヤツでした。まずは会長さんありき。会長さんが男だったら最高であって、万一、女になってしまったなら、自分の好みを変えるんですか、そうですか…。
「うーん…。ある意味、天晴れだよねえ」
ソルジャーがしみじみ呟きました。会長さんは教頭先生の発言のズレっぷりに頭を抱えて呻いていますが、ソルジャーにとっては違ったようで。
「ハーレイ、今のを聞いたかい? ブルーが男であるのが一番、それがダメなら自分もそっちに合わせるそうだ。…お前の場合はどうなんだろうね、ぼくが女になってしまったら?」
「努力します!」
キャプテンは即答、ソルジャーはそれは満足そうに。
「なるほど、お前も努力をする、と。…ぼくも大いに愛されてるねえ」
「もちろんです! 一刻も早く元に戻るよう、あらゆる努力を惜しみません!」
「…元に戻る?」
「そうです、早く男に戻って頂きませんと!」
グッと拳を握るキャプテン。その表情は先ほどの愛の告白な教頭先生と同様、とても真剣なのですけれど。
「…ぼくに男に戻れって?」
「はい! でないと大いに楽しめませんし!」
「…ちょっと待って。それって、お前が楽しめないっていう意味なんじゃあ?」
「あなたもです! 萎えたままでは如何なものかと!」
ヌカロクどころではありませんし、と謎の単語を発したキャプテンに向かって、ソルジャーが氷点下に冷えた瞳で。
「…萎えたまま? つまり、女のぼくでは欲情しない、と」
「当然でしょう! 男のあなたが最高なんです、女では気分が乗りません!」
男が最高、と讃える所まではキャプテンも教頭先生と同じ。ただ、その先が違いました。女だったらそれに合わせて自分を変える、と言ってのけたのが教頭先生、元に戻す努力をすると答えた方がキャプテンで…。
「分かった。…要するに、お前は自分の好みが優先である、と」
良く分かった、とソルジャーの声は絶対零度な氷の響き。
「お前の好みに合わせるために、ぼくの性別を変化させるというわけだな?」
「い、いえ、そうではなく…! あなたは本来、男ですから、元に戻すと…!」
「いや、違う。女になったぼくに合わせるつもりは毛頭無くて、自分自身が萎えないようにと女のぼくを男にするんだ。…それは凄い美人なぼくを作ったという変態と同じレベルだけど?」
ぼくの身体を自分好みにカスタマイズ、とソルジャーはキャプテンに指を突き付けました。
「ぼくの身体より自分が優先、もう最低な変態だってば!」
女になった相手に合わせて自分を変えるか、相手の身体を元に戻すか。どっちの方が変態なのかと尋ねられても困ります。世間一般には男と女で、自分を変えても女相手が正しい選択。しかし元から男同士のカップルの場合、元に戻して男にしないと変態じみたことになるかも…。
「とにかくお前が変態なんだよ、間違いない!」
それは絶対、と主張するソルジャーが正論なのか、はたまた女になった会長さん相手でも努力あるのみと言い切った教頭先生が変態なのか。教頭先生とキャプテン、どちらが真の変態なのかは判定が難しすぎました。でも…。
「変態と言ったら変態なんだよ、お前の方が!」
ギャーギャーと喚くソルジャーはキャプテンを変態と決め付け、夫婦の危機というヤツです。此処はキャプテンの肩を持たないとヤバイのかも、と思えてきました。
「…どうすりゃいいんだ、この状況を」
キース君がヒソヒソ声で尋ね、シロエ君が。
「いっそ飲ませたらどうでしょう? 例の薬を」
「「「えぇっ!?」」」
「シーッ! 聞こえたら命が無いですよ?」
お静かに、とシロエ君が声をひそめてヒソヒソヒソ。
「今は机上の空論ですから、マズイ方向にしか行かないわけで…。実際、薬を飲んでしまったら分かるでしょう。そのままの状態で夜を過ごすか、何が何でも元に戻すか」
「しかしだ、元に戻す薬は無いんだぞ?」
其処をどうする、とキース君。
「あいつがそのまま女だったら、俺たちの命は確実に無い」
「その内、勝手に元に戻りますよ。ぶるぅが盗ってきた薬の量の多さからして、効果があるのは長い時間ではない筈です。せいぜい一粒で一晩かと。…それと飲むのはお任せコースで」
「「「お任せコース?」」」
「ぼくたちが飲ませたら殺されますよ? 自分で飲んで頂きましょう」
ちょっと煽って、とシロエ君は恐ろしいことを言い出しました。
「どのくらい愛されているのか試してみれば、と横から煽れば飲みますよ」
「…し、しかし…」
あいつが女に、と腰が引けているキース君。私たちだって同様でしたが、そんな状態がソルジャーにバレない筈がなく。
「……面白そうな相談だねえ?」
赤い瞳が私たちをひたと見据えました。もしかして人生、終わりましたか…?
「ふうん…。実際に飲んでみて愛を試す、と」
面白い、と真珠そっくりの粒が詰まった瓶を手に取るソルジャー。
「女になっても愛せるかどうか、そこの所を確かめるんだね?」
「…ま、まあ…。そういうトコです……」
間違ってません、とシロエ君。ビッシリと汗をかいてますけど、ソルジャーの方は涼しい顔で。
「そうだってさ。はい、ブルー」
どうぞ、と瓶を差し出した先には会長さんが。
「とりあえず君が飲んでみたまえ、君なら問題ないだろう? こっちのハーレイは究極のヘタレ! 君が女に変わった所で急にコトには及べない。女になった君を相手に熱烈な言葉を吐けるかどうか、そこだけ分かれば充分だよ、うん」
「な、なんでそういうことになるわけ!?」
「君だと実害ゼロだから! こっちのハーレイが熱い台詞を吐いていようが、女の君を押し倒したりは出来ないし…。君もハーレイも変な趣味に目覚める心配は全く無いよね」
其処の所を是非確かめたい、とソルジャーは会長さんに詰め寄りました。
「でもって君のハーレイの愛が実証されたら、ぼくのハーレイは愛情不足! 男のぼくしかダメというのはよろしくない。結婚までした夫婦だよ? 許されないとは思わないかい?」
「だ、だったら君も飲むんだろうね? 許されないなら!」
「なんで?」
これ以上夫婦の危機を深めてどうする、というのがソルジャーの意見。
「ただでも夫婦の危機なんだよ? これで女になったぼくを相手にヤれないとなったら最低最悪、もう別れるしかないんじゃないかと!」
「じゃ、じゃあ、ぼくにだけ飲ませてどうするつもりさ!」
「えっ? そりゃもう、あの愛の深さを見習えと! 冷え切った夫婦の仲を燃え上がらせるべく今夜は励めと!」
ねえ? とソルジャーはキャプテンに視線を向けました。
「こっちのハーレイに愛の深さで負けたとなったら、お前には後が無いわけだしねえ? もうヌカロクは基本中の基本、今夜は徹夜で励むしかないと思うけど?」
「は、はいっ! 頑張らせて頂きますっ!」
「うんうん、その勢いで男のぼくを相手に、ね。…というわけで、ブルー、よろしく」
夫婦の危機を回避するための着火剤になれ、とソルジャーは瓶を会長さんに突き付けました。
「一錠、飲んでみてくれる? 美人になれるのは間違いないしね」
飲めば美人になる薬。凄い美人が出来上がるものの、もれなく胸がついてくるとか。それも立派な女性の胸で、どうやら男が女になってしまうという薬。いくら実害ナッシングでも、会長さんが女になりがたるわけがなく…。
「嫌だってば! ぼくは飲まない!」
「凄い美人になるんだよ? 君も見ただろ、あの美人を! 羨ましいって言ったじゃないか!」
「言ったけれども、それとこれとは話が別で!」
飲む、飲まないで押し問答になりつつある中、ソルジャーがキラリと目を光らせて。
「嫌なら口に突っ込むまでか…。サイオン勝負なら、ぼくに分がある」
「ちょ、ちょっと!」
「自発的に飲むか、飲まされるかの違いだってば! どっちがいい?」
「どっちも嫌だーーーっ!!」
必死に逃げを打つ会長さんと、瓶を片手に「さあ飲め」と迫るソルジャーと。サイオン勝負なる言葉が出た以上、会長さんの負けは見えていました。サイオンで口を開けさせられて薬を一錠放り込まれるか、口の中にポイと瞬間移動か。
「…ま、マズイですよ、このままだと…!」
「シロエ、お前が言い出したんだぞ!」
「そんなことを言ってる場合じゃないですってば、キース先輩!」
なんとかしないと、と叫ぶシロエ君を筆頭に焦りまくりの私たち。このまま行けば会長さんは凄い美人で女なコースへまっしぐらです。それが分かっているのか否か、女でもそれに合わせると言い切っただけに気にしていないのか、動かないのが教頭先生。
「ブルーへの愛はどうなったのさ!」
助けに来れば、とジョミー君が毒づく声すら聞こえているのかサッパリ謎。腕組みをして見ているだけで、止めるわけでもなさそうで…。
「誰か助けてーーーっ! ぶるぅーーーっ!!」
会長さんの悲鳴に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が動きかけると、ソルジャーが。
「ぶるぅ、これは美人になる薬! ブルーも欲しいと言っていただろ、そういうサプリ!」
「え? でもでも、ブルー、嫌がってるよ?」
「それは副作用があるからで! 知っているだろ、副作用を恐れちゃ薬は飲めない」
「そっかあ! 風邪薬とかで眠くなるよね♪」
分かったぁー! とアッサリ丸め込まれて、タイプ・ブルーな援軍、轟沈。ソルジャーはウキウキと瓶の蓋を開けにかかりました。もうダメだ、と私たちが目を瞑りかけた時。
「ブルーーーっ!!!」
マッハの速さでソルジャーにタックルをかました人影。よろけたソルジャーの手から瓶を奪い取り、キュキュッと蓋を開けるその人は…。
「「「教頭先生!?」」」
「ブルーが危ないのはよく分かった。嫌がっているのも分かったのだが、どうするべきかで悩んでな…。この薬さえ無かったならば!」
「「「…無かったならば?」」」
読めない教頭先生の行動。ソルジャーもポカンと眺めるだけで、瓶を取り返しには行かないようです。教頭先生は蓋を開けると、会長さんにニッコリ微笑みかけました。
「これさえ無ければブルーの身体が危機に陥ることはない。私が全部消し去ってやる」
「…ど、どうやって?」
会長さんの疑問はもっともなもの。教頭先生に瞬間移動の技は無い上、あの錠剤を燃やしたりする能力も皆無の筈ですが…?
「分かり切っている、こうするまでだ! 飲んでしまえば何も残らん!」
「「「えぇぇっ!?」」」
ザラザラザラ…ッと瓶から溢れた真珠の粒が、教頭先生が大きく開けた口の中へと。まさかまさかの教頭先生が凄い美人で、おまけに胸までドッカンですか? しかも徳用瓶じみた大きな瓶に一杯分だと、効き目はいつまで続くのやら…。
「つまんなーーーいっ!!!」
真っ白な灰になりかかっていた私たちの耳に届いた「ぶるぅ」の叫び。パアァァァッ! と青いサイオンが迸り、部屋が一瞬ユラリと揺れて。
「「「…い、今のは…?」」」
そして教頭先生は、と目をやった先に先刻までと寸分違わぬ大きな姿。美人でもなく大きな胸も無く、何処から見ても立派な男性。ただ、違っている点が一つだけ…。
「あれっ、薬は?」
ジョミー君がキョロキョロ、教頭先生も自分の手をじっと見詰めて「どうなったのだ?」と。薬の瓶がありません。真珠の粒がビッチリ詰まった徳用瓶が影も形も…。
「飛ばしちゃったもん!」
なんか面白くないんだもん、と「ぶるぅ」がプウッと頬っぺたを膨らませて。
「ブルーが美人になる薬なのに、ハーレイが美人じゃつまんないし! もっと面白くなりそうな所に飛ばしたんだもん、美人になれます、って!」
「「「………」」」
それは何処だ、と訊きたい台詞を全員がグッと飲み込みました。なにしろ相手は災難を運んでくる薬。何処かへ消えたなら万々歳で、触らぬ神に祟りなしです…。
こうして迷惑な薬は消え失せ、お花見の夜は更けて無事にお開き。ソルジャー夫妻は自分たちのゲストルームに引っ込み、「ぶるぅ」は「そるじゃぁ・ぶるぅ」と土鍋を並べてお泊まりで。
「…ハーレイ、一応、御礼は言っとく」
助かった、と会長さんが教頭先生に差し出したものは花見団子の残りを盛ったお皿でした。
「これ、ぼくの気持ち。…夜食に食べてよ、これくらいしか無くってごめん」
「い、いや…。お前が無事ならいいんだ、うん」
「ありがとう。これも綺麗に食べてくれると嬉しいな。明日になったら乾いてしまって味が落ちるし、美味しい間に…。此処のはホントに美味しいんだよ」
遠慮しないで、と極上の笑みの会長さん。教頭先生は恐縮しつつも御礼を言っておられますけど、心の中では泣いておられることでしょう。甘いものが苦手な教頭先生、花見団子は一つも食べておられません。それなのにお皿に山盛りだなんて…。
「ハーレイ、ホントにありがとう! 朝になったら御礼に緑茶を運んであげるね、その時にお皿を下げるから!」
「「「………」」」
鬼だ、と私たちは顔を見合わせました。会長さん手ずから目覚めの一服は嬉しいでしょうが、それまでに花見団子を完食の刑。身体を張って会長さんを救おうとしたのに、この始末。これでは例の薬を本当に飲んで女性化してても、ロクなことにはならなかったような…。
何処かのシャングリラから「ぶるぅ」が盗んだ、凄い美人なブルーとやらが出来上がる薬。何処へ消えたかも大騒ぎすらも遠いものとなった数日後の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋にソルジャーがフラリと現れました。
「こんにちは。…この前の薬、覚えてる? ほら、凄い美人なぼくが出来ると噂のアレ」
「ああ、アレな」
見付かったのか? とキース君が訊けば、ソルジャーは「まあね」と頷いて。
「ぶるぅの人選は見事だったよ、お蔭でぼくのシャングリラは笑いの渦だ」
「「「は?」」」
「特にブリッジと機関部が酷い。なにしろゼルがフサッてるから」
「「「へ?」」」
なんのこっちゃ、と首を傾げた私たちですが。
「分からないかな、ゼルがフサフサなんだってば! ゼルの頭にフサフサと毛が!」
「「「えぇっ!?」」」
「ぶるぅはゼルが美人になったら笑えるだろうと単純に考えただけらしいんだけど…。モノが女になる薬だけに、女性ホルモン爆発なのかな? もうアフロかっていう勢いでフサフサなんだよ」
こんな感じ、とソルジャーが見せてくれた映像の中には頭がモコモコの羊状態なゼル先生ならぬゼル機関長が立っていました。髭は直毛、ソルジャーの記憶では若い頃には癖毛じゃなかった筈のゼル機関長が真っ白なアフロヘアーでモコモコ、フワフワ。あまつさえ…。
「本人、この薬のせいで生えてきたって分かってるからガンガン飲むしね? すっかり美人になってしまって、どうしようかと…」
「……これは酷いね……」
会長さんが打った相槌のとおり、ゼル機関長は美老人と化していました。
「ね、君だってそう思うだろ? でもねえ、ゼルはまずは髪の毛らしいんだ。それであちこちで言ってるんだよ、「フサりたいけど女はキツイのよ~」って! 「キツイのう」ですらない状態」
「「「うわー…」」」
御愁傷様としか言いようのない事態になったようです。ソルジャーは懸命に「ぶるぅの悪戯だから」と火消しをしているらしいですけど、最悪の場合はシャングリラ中の記憶消去しかない模様。
「……最悪ですね?」
シロエ君が呟き、キース君が。
「いや待て、ブルーが女よりかはこっちの方が…。いや、しかし…」
変態カップル登場がマシか、美老人なゼル機関長か。どちらも記憶を消去するしか後始末が出来そうにありません。「ぶるぅ」が盗んだ妙な薬と、凄い美人なブルーが住むというシャングリラ。二度と遭遇しませんようにと祈るより他は無いような…。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。
飲んで美人に・了
※新年あけましておめでとうございます。
シャングリラ学園、本年もよろしくお願いいたします。
新年早々、強烈な話でスミマセンです、でも、こういうのがシャン学というヤツですから!
「女体化の危機か」と思われた方もあるかもですけど、「その趣味は、ねえ!」と。
来月は第3月曜更新ですと、今回の更新から1ヶ月以上経ってしまいます。
よってオマケ更新が入ることになります、2月は月2更新です。
次回は 「第1月曜」 2月6日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、1月は、除夜の鐘の存在意義と「ありよう」を巡って論争中…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ふうむ…)
週の後半は冷えるのか、とハーレイは天気予報に溜息をついた。まだ紅葉には早いと言うのに、季節外れの冷え込みがやって来る。
昼間は平年並みに上がるが、朝晩がぐんと冷え込むらしい。高い山では初雪だとも。
(こいつはマズイな…)
丈夫な身体の自分はいい。顧問をしている柔道部の方も、冷え込みはむしろ歓迎だった。冷たい朝の空気の中での稽古は気分が引き締まるから。
しかし…。
(ブルー…)
生まれ変わって再び出会った恋人のブルー。十四歳にしかならないブルー。
前の生と同じに弱い身体に、これからの寒い季節は厳しい。両親と共に暮らしているのだから、服装や寝具の心配は要らないだろうと思うけれども。
(あいつの右手…)
それが一番の気がかりだった。
前の生の最期にメギドで凍えたブルーの右手。最後まで持っていたいと願った、ハーレイの腕に触れた時の温もりを失くしてしまって、泣きながら死んでいったと聞く。
独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと。
冷たく凍えた右手の記憶はあまりにも辛くて悲しいもので、ブルーは今でも忘れていない。右の手を握ってやれば喜ぶし、温めてやれば幸せそうに笑う。
(温まってる時はいいんだが…)
右手が冷たく冷えてしまうと、メギドの悪夢がブルーを襲った。秋が訪れて朝夕の気温が低めになったら、ブルーは繰り返し苦しめられた。
なんとか助けてやりたいと願い、思い付いたのがサポーター。手のひらを包む医療用のもの。
薄いけれども通気性に優れ、けして眠りを妨げはしない。その上、締め付ける力の加減も調整が可能だったから。自分がブルーの右手を握ってやる時の強さで注文をした。
そのサポーターは大いに役立ち、ブルーは「メギドの夢にハーレイが来たよ」と喜んだけれど。
メギドの悪夢は、少し軽減しているようだけれども。
(寝てない時がなあ…)
眠っていない時も、ブルーは右手が冷えるのを嫌う。メギドで凍えた悲しい記憶が蘇るから。
何かと言えば「温めてよ」と差し出されてくる、小さな右の手。
暑い夏でも右手は出て来た。「温めてよ」と、「ハーレイの温もりが欲しいから」と。
そんなブルーがこれからの季節、ただでも冷える手をどうするのか。
記憶を取り戻す前であったら、息を吹きかけたり擦り合わせたりと自分で温めただろうけれど。今のブルーはそうはいかなくて、起きている時にもあのサポーターを着けそうで。
(手が冷たい、と思ったら急いで着けそうだぞ)
なにしろ自分が握ってやる時の強さを再現してあるものだから。
「ハーレイに握って貰ってるみたいだ」とブルーが顔を綻ばせたほどのサポーターだから、手が冷たいと感じた時には迷わずに着けてしまうだろう。
けれど…。
(いつもサポーターを着けていたなら、癖になって効き目が薄れてしまうぞ)
人の身体は慣れるものだし、サポーターの締め付けを常のものだと感じ始める。そうなれば夢に対抗できない。メギドの悪夢からブルーを守ってやれなくなる。
それは避けたいし、サポーターを着けっぱなしにしないようにと、ブルーを戒めたいけれど。
ただ「着けるな」と言っただけでは可哀相だというものだ。
あのサポーターが使えないなら、代わりに右手を温める方法を教えてやりたい。起きている間はこうしておけと、この方法で温めておけ、と。
(何かいい手があればいいんだが…)
夜の書斎でコーヒーを口にしながら考える。
マグカップにたっぷりと淹れたコーヒー。厚手のカップを通して手に伝わって来る、その熱さ。
こんな風に触れて右手を温められるカップがブルーの側にあったなら…。
(あいつ、コーヒーは苦手だからなあ…)
ホットミルクがいいだろうか、と思い付いた。冷めにくいカップにホットミルク。
背を伸ばしたいと毎朝ミルクを飲んでいるらしいブルーに言ったら、嫌味なのかと仏頂面になるかもしれないけれども、お勧めではあるホットミルク。
夜に飲むなら、紅茶よりも断然ホットミルクがいいだろう。
ミルクにはカフェインが入っていないし、目が冴えてしまう恐れが無いのだから。
(冷える夜にはホットミルクだ、と教えておくか)
自分で手と手を擦り合わせるより、息を吹きかけるより遥かに優れた方法だと思う。
何もせずともカップを通して伝わる温もりは、きっと優しくブルーの右手を温める筈だ。自然に温め、心を癒してくれる筈。
此処はメギドではなく暖かい家で、温かいミルクもあるのだ、と。右手を温めてくれるミルクのカップが手の中に確かにあるのだ、と。
名案だな、と思ったけれども。
(嫌味なのか、を回避するには…)
ホットミルクを勧めただけでは「それ、嫌味?」と言いそうなブルー。
背丈を伸ばそうと懸命にミルクを飲んでいるらしい小さなブルー。
せっかくの提案を「嫌味なの?」と受け止められるのも何処か悲しい。ホットミルクが一番だと思って勧めているのに、嫌味の意味など微塵も無いのに。
(ホットミルクか…)
ただ温めるだけでは芸が無い。他に何か、と思いを巡らせる。
自分が子供だった頃には、母が蜂蜜をよく入れてくれた。ホットミルクには蜂蜜が合うと、砂糖よりも柔らかな味わいになると。
(蜂蜜なあ…)
ブルーの家でもホットミルクには蜂蜜だろうか?
俺の家ではこうだったんだ、と話せば興味を示しそうではあるけれども。
(俺がガキの頃の話だからなあ…)
その程度でブルーが納得してホットミルクを飲むだろうか、と甚だ疑問ではあった。もっと他に何か無いものか。
ブルーが釣られそうなもの。小さなブルーがホットミルクを飲みそうな何か。
(…待てよ?)
不意に頭を掠めた記憶。
調べ物をするための端末を起動し、思い付いた言葉を打ち込んでみた。
セキ・レイ・シロエ。
そしてホットミルク。
表示された文字たちは求めるものとはまるで違って、歴史に残った少年の名だったり、ミルクの温め方だったり。
(…違ったのか?)
記憶違いか、とデータベースの情報を引き出してみては、端から確認してゆく内に。
(よし!)
見付け出したぞ、と目的の情報を掴んでニヤリとした。
これでホットミルクは大丈夫だろう。
好奇心旺盛な子供でもある小さなブルーは、釣られて挑戦する筈だ。
(しかしだ…。ホットミルクは一時的なものに過ぎんしな?)
飲んでしまって、カップの温もりが無くなった後。
ブルーの右手はまた冷たくなり、温もりを失くして冷えていってしまう。いくら暖房を強くしていても、真冬に半袖で過ごせるくらいの室温にまでは上げられない。外へ出た時に身体に悪いし、虚弱なブルーにそれは出来ない。
つまりは何処からか忍び寄る冷気に右手は冷やされ、凍えてゆく。
遠い昔に、メギドで冷たく凍えたように。ハーレイの温もりを失くして凍えたように。
(もっと何かが無いもんかな…)
いつでも右手を温めることが出来る方法。
ホットミルクを飲み終えた後も、冷たいと思えば出来る方法。
(ブルーが自分で出来る何かで…)
擦り合わせたりするのではなくて、ブルーだけのための特別な方法。
あのサポーターのようにブルー専用の、右手を温めるためだけにある方法。
(まじないでもあればいいんだが…)
腕組みをしながら考え込んでいて、ふと思い出した。
子供時代に父の釣り仲間やその子供たちと、大勢で海まで釣りに出掛けた時のこと。車での遠出だったのだけれど、「車酔いをしそうだ」と不安そうだった父の釣り仲間の子。
車酔いの薬は飲んでいるから大丈夫だ、と言われても心配していた子供。
あの子供は、確か…。
(字を飲んでいたな)
手のひらに指で書いて貰った字を飲んでいた。誰にも見えない、指で書かれただけの文字。あの時は「車」と大きく一文字。
それを飲んだなら克服出来る、と言い聞かされて飲み干す見えない文字。
(人という字を飲むのもあったか…)
大勢の人の前に出る時、あがらないためのおまじない。人を克服するために飲む「人」の文字。
自分が知っているのは二つだけれども、他にも飲む文字はあるかもしれない。
手のひらに書いて、それを飲み込めば苦手を克服出来る見えない魔法の文字たちが。
(ひとつ、こいつを捻ってみるか…)
ブルーの苦手。
それを飲み干し、克服するためのおまじない。
(だが、メギドは…)
最大の苦手はメギドなのだろうが、そんな文字は飲みたくないだろう。いくら苦手でも、それを克服したくても。
そもそもメギドなどという忌まわしい文字を手のひらに書きたくもないだろうし…。
(ん?)
ブルーが書きたくなさそうな文字。
ならば…。
(そうだ、書くんだ)
それがいい、と笑みを深くした。
ブルーのためのおまじない。右手が冷たく凍えないよう、自分で出来るおまじない。
明日は幸い、ブルーの家に寄れそうだから。
二つの対策を教えておこう。
ホットミルクと、おまじない。右手が冷たい時にはこれを、と小さなブルーに。
次の日、仕事帰りにブルーの家に寄ると。
二階のブルーの部屋に入ると、案の定、ブルーは不安そうで。
「ハーレイ、今週…。今日はまだ暖かそうだけど…」
「うむ。冷えるらしいな、後半は」
高い山では初雪だろうという予報だしな、この辺りもぐんと冷え込むだろうな。
「ぼくの右手も冷えそうだけれど…。冷たくなってしまいそうだけど…」
でも、ハーレイに貰ったサポーターがあるものね。
メギドを思い出しそうになったら着ければいいよね、サポーターを。
「おいおい、あれを着けすぎるなよ?」
慣れちまったら意味が無くなる。着けているのが普通になったら効果が無いぞ。
寝る時だけにしておくんだ、と諭せばブルーの顔が曇った。
「寝る時しか着けちゃいけないの?」
「効かなくなったら困るだろうが」
メギドの夢は嫌だろ、お前。寝ている間はコントロールが利かないんだからな。
「でも…」
手が冷たいのは嫌なんだよ。
右手が冷えると、どうしてもメギドを思い出しちゃう…。
「それでもだ」
駄目だ、とハーレイは一つ目の策をブルーに聞かせた。
「いいか、起きている時に右手が冷えたら。冷たいという感じがしたら…」
ホットミルクを飲んでおけ。カップを触れば手が温まるし、身体も芯から温まるからな。
「ホットミルク!?」
ぼくにミルクを飲めって言うの?
毎朝きちんと飲んでいるのに、まだ足りないからホットミルク!?
「怒るな、チビだと言ったわけでは…」
「今、言った!」
チビだと言ったよ、酷いよ、ハーレイ!
ぼくがチビだからホットミルクを飲めって言うんだ、ちょっとくらいは育つだろ、って!
背が伸びないから困っているのに、それって嫌味!?
予想に違わず、怒り出したブルー。
ぷりぷりと膨れっ面になっているから、秘策を披露することにした。データベースで拾い上げた情報、苦労して見付けて来た情報。
「お前に勧めたホットミルクだが…。普通に飲むのは嫌だと言うなら、シロエ風にしとけ」
あれだ、セキ・レイ・シロエのシロエだ。そのシロエ風だ。
「なに、それ?」
シロエ風だなんて、何なの、ハーレイ?
「あまり知られていないんだがなあ、シナモンミルクでマヌカ多めだ」
「えっ…?」
「シナモンミルクにマヌカって蜂蜜を多めに入れる、という意味さ」
そいつがシロエの注文だったそうだ、お気に入りのな。
どういう神様の悪戯なんだか、ステーション時代に一緒だった誰かが覚えていたらしい。これがシロエの注文だったと、こういう注文の仕方だった、と。
いや、思い出したと言うべきか…。SD体制が終わった後にな。
SD体制が在った頃にはシロエに関する記憶ってヤツは端から消されてしまっていたし…。
「そうなんだ…」
凄いね、それを思い出した人。
シロエの友達の誰かなのかな、それともライバルだったのかな…?
「ちょっと興味が出て来たか?」
ただのホットミルクなら腹が立つだろうが、こいつは少し特別だからな。
「うん。シロエのお気に入りだったミルクなら飲んでみたいな」
まるで知らないわけじゃないしね。ジョミーから聞いてて、知ってたし…。
救い出せずにアルテメシアに置いて行っちゃったこと、前のぼくも気がかりだったから。無事に育って欲しいと祈っていたけど、死んじゃった…。
そのシロエの声、前のぼくも聞いてたみたいだから。…地球へ行こう、って。
「なら、今週はそいつを試してみろ。お母さんに頼んでマヌカだな」
「マヌカって、なあに?」
そういう名前の蜂蜜があるの?
「ああ。正確に言えばマヌカハニーだ、マヌカ蜂蜜って所だな」
マヌカって木から採れる蜜だけを集めた蜂蜜らしいぞ、他の木の蜜は入ってないんだ。
「ふうん…。一種類の木だけの蜂蜜だなんて、シャングリラには無かったね」
蜂蜜はいろんな花のが混じって当たり前だったし、選んでられるほどに沢山の花は無かったし。
「うむ、人類は贅沢なもんだな」
教育ステーションで蜂蜜なんぞは採れないからなあ、何処かの星から送ってたわけだ。そいつをシロエみたいな生徒が気軽に注文出来ちまう。
前の俺たちには考えられない贅沢ってヤツだ、蜂蜜をあれこれ選ぶだなんてな。
シャングリラとはまるで別世界だな、と苦笑しながら、ハーレイは小さなブルーを見詰めた。
「いいな、シナモンミルクのマヌカ多めだ。それと、もう一つ」
「まだ何かあるの?」
ホットミルクの特別な飲み方、他にもあるの?
「ミルクとは何の関係も無い。とっておきのおまじないさ」
ちょっと右手を出してみろ。手のひらを上にして、俺の前にな。
「温めてくれるの?」
「いや、おまじないをかけておく」
「おまじない…?」
不思議そうな顔でブルーが差し出した右の手のひら。小さな手のひら。
其処に人差し指の先でゆっくりと大きく書いてやった。
ハートのマークを。
「ハーレイ、これって…!」
頬が赤くなったブルーに向かって優しく微笑む。
「こいつなら単純で忘れないだろ?」
俺が書いた跡、なぞってみろ。お前の指で。今ならハッキリ分かるだろうが。
「うん…」
嬉しそうに、少し恥ずかしそうにブルーの左手の人差し指が右の手のひらの上にハートを描く。ハーレイが書いてやった通りに、見えないハートをなぞるように。
「書けたか? そしたら、そいつを飲んでみるんだな」
「飲む?」
「手のひらを口へ持って行ってだ、其処に書いたハートのマークを飲むんだ」
飲んだつもりになれってことだな、ハートマークを口に入れたとな。
そういう類のおまじないがあるんだ、苦手なものを書いて飲んだら克服出来るというヤツが。
俺が知ってるのは車の字を飲んで車酔いを防ぐのと、人前であがらないように人の字を飲むっていうヤツなんだが…。
そいつを捻ってハートマークだ、俺のオリジナルだ。
克服しろっていうんじゃなくって、俺が書いてやったハートのマークを飲めってことだな。
飲んでみろ、とハーレイに言われたブルーだけれど。
右の手のひらに書かれた見えないハートを飲むように言われたブルーだけれど。
「んーと…」
ハーレイの褐色の指が大きく描いたハートのマーク。目には見えないハートのマーク。
自分の指でなぞったとはいえ、愛の印のハートのマーク。
それを口まで持って行った上に、本当に飲めるわけではなくても飲み込むだなんて…!
ブルーは何度も右手を口許に近付け、眺めては再び離してみて。
「…だ、駄目かも…」
飲もうと思っても飲み込めないかも、このハートマーク…!
「真っ赤だな、お前。耳の先まで赤く染まってしまっているぞ」
それだけ赤くなっているなら、手もいい感じに温まってないか?
いつも「温めてくれ」ってうるさい、お前の右の手。
「う、うん…」
温かいって言うより、熱いくらいかも…。ポカポカを通り越して熱いよ、右の手のひらが…!
「そりゃ良かったな。おまじないをかけた甲斐があったってな」
ホットミルクと、右手にそいつを書いて飲むのと。
サポーターを使わなくても、それで何とかいけそうだろうが、今週の冷え込み。
「いけるかも…」
ハーレイの言う通り、サポーターが効かなくなったら夜中に困るし…。
寝るまでは着けずに頑張ってみるよ、ホットミルクとおまじないで。
冷え込むという予報は当たって、次の日の夕方から急激に下がってしまった気温。今の季節には珍しいほど朝晩は冷えて、そして、週末。
ブルーの右手はどうだったろう、と案じながら訪ねたハーレイは、小さなブルーの苦情と報告を聞く羽目になった。シロエ風のホットミルクについて。
「ハーレイ、マヌカの説明をきちんとしてくれないから…!」
酷い、とブルーは些か御機嫌斜めだった。
マヌカは風邪の予防にいいそうだから、と母にたっぷり入れられたと。そういう蜂蜜だと知っていたなら自分で買ったと、味見もしてから自分で入れたと。
「シロエ風のホットミルクって、変な味だよ!」
ママがたっぷり入れていたから、うんと甘いんだと思ったのに…!
お薬っぽいよ、あのマヌカって!
「おいおい、マヌカは蜂蜜だぞ?」
甘くないわけがないと思うが。そりゃあ確かに風邪の予防にも、風邪薬にもなるんだが…。
あれも蜂蜜には違いないんだし、少しばかり癖があるってだけだろ?
「そうなんだけど…。でも、ママがたっぷり入れちゃうから…」
「シロエ風だと、元からマヌカは多めだぞ?」
ああいう味がシロエの好みだ、と楽しんで味わう余裕は無いのか、お前の舌には?
お前、好き嫌いが無いのが売りだろうが。俺と同じで。
「うー…。好き嫌いはホントに無いんだけれど…」
でも、お薬っぽい味がするのはあんまり…。
お薬なんかが好きな人って、きっといないと思うんだけど…!
あの味は嫌だ、とブルーが膨れる。
右手はカップで温まるけれど、とんでもない飲み物がやって来たと。普通のホットミルクならばともかく、シロエ風。マヌカ多めのシナモンミルクは自分の舌には合わないと。
「ママがすっかり気に入っちゃったよ、風邪の予防になりそうだ、って!」
ぼくは弱くて風邪を引きやすいし、これを飲んでいれば引く回数が減るかも、って…。
冬の間中、飲まされそうだよ、どうすればいいの?
「うーむ…。お母さん、気に入っちまったのか…」
「そうなんだよ!」
ハーレイのせいだよ、責任取ってよ!
あのシロエ風のミルク、毎日、毎日、飲まされちゃったらミルクだって嫌いになりそうだよ!
「そいつは困るな、お前の背丈が全く伸びなくなりそうだしな?」
「そう思うんなら何とかしてよ! あのホットミルク!」
もう嫌だ、とほんの数回で音を上げている小さな恋人。好き嫌いが無い筈の小さな恋人。
相当に運が悪かったのだろう、とハーレイはクックッと喉を鳴らした。
「何とかするのはホットミルクじゃなくてマヌカだな、うん」
「ママはやめてくれないと思うんだけど…。マヌカも、たっぷり入れるのも…」
ぼくが自分で言い出したんだし、飲む気になったと思ってるんだよ、あのお薬を!
「そうだろうなあ、マヌカ多めだしな?」
お前、当たりが悪かったんだ。マヌカの味には色々あるしな、薬っぽいのに当たっただけだ。
お母さんはお前のためにと思って、目に付いたのを買ったんだろうし…。
薬っぽいからこれは嫌だ、とお母さんに説明するんだな。
次は試食をして買ってくれと、薬っぽくないマヌカがいいと。
「そういうマヌカも売ってるの?」
「もちろんだ。個人の好みは色々だからな、薬っぽいのが好きだって人も中にはいるのさ」
薬が好きだというわけじゃなくて、薬っぽいから効きそうだと思って食べるわけだな。
お前の舌には合わなかったなら、普通のマヌカを頼んでおけ。
好き嫌いの無いお前が「これは嫌だ」と言うんだったら、お母さんは急いで別のに変えるさ。
薬っぽい味のマヌカの残りはお母さんに任せるんだな、とハーレイは笑う。
風邪の予防に食べて貰うか、味など分からなくなってしまうように料理に使うか。
「だが、買い替えて貰うまでの間は我慢しろよ?」
お母さんは知らずに買って来たんだし、其処は感謝をしなくちゃな。お前の身体のことを考えてマヌカたっぷりのホットミルクなんだ、恨んじゃ駄目だぞ。
「分かってる…」
美味しいマヌカもあるんだったら、買って貰えるまでは飲んでおくよ。
だけどシロエって、どういう味が好みだったわけ?
あのとんでもない薬っぽいのが好きだったんなら、ぼくには理解出来ないけれど…!
「さてなあ…。其処までは記録に無いんだろうなあ、あのステーションは廃校だからな」
ミュウの思念波通信で汚染されたってことで閉鎖されたし、データも廃棄だっただろう。
どんなマヌカを仕入れていたのか、今となっては知りようもないさ。
シロエの声を聞いたっていうお前が好みを聞いてないなら、もう永遠の謎だってな。
薬っぽいマヌカが好みだったか、普通の味のが好みだったか。
ところで…、と小さな恋人に尋ねた。
自分に会うなり、ホットミルクの苦情を述べた恋人に。あれは嫌だと文句を言った恋人に。
「シロエ風のホットミルクはともかくとして、だ」
おまじないの方はどうだったんだ?
俺がかけてやったハートのおまじない。あれは効かずに終わっちまったか?
「効いた!」
凄く効いたよ、ハーレイがくれたおまじない。
ハートを飲んでも暖かくなるし、右の手のひらにハートを描いたら右手がポカポカ熱いんだよ。
冷えて来たな、って思ったら手のひらにハートを描いたよ、ハーレイのハート。
もっと描いて、と右手が出て来た。小さな右手がテーブルの上に。ハーレイの前に。
もっとハートを、いつも右手が温かいようにハートを描いて、と。
「ふうむ…。こいつが効くんならな」
ほら、とハートを描いてやる。
冷え込みが来る前に書いてやったように、右の手のひらに大きくハートを。
ブルーは見えないハートを嬉しそうに見詰め、それから花が開くように笑んだ。
「これって、愛の告白だよね?」
愛してます、って印のハートマークなんだよね、ねえ、ハーレイ…?
「そう考えるのはお前の勝手だ」
俺がどういうつもりで書いても、お前はそうだと思うんだろうが?
「うんっ!」
ハーレイがぼくにハートのマークをくれるんだったら、愛の告白。
それを飲んだら幸せになれて、心も右手もポカポカなんだよ。
ハーレイにハートを貰った、って。ぼくの右手にハートのマークを描いてくれた、って。
「どう考えるのも勝手だが…。お前の右手がポカポカだったら、俺としては充分嬉しいな」
お前の右手が凍えないなら、それでいい。冷たくないならそれでいいのさ。
このおまじないは効いたようだな、とハートのマークを描いてやる。
メギドで凍えた悲しみを秘める小さな右手に、温もりをこめて。
冷え込みで凍えてしまわないよう、思いをこめて。
褐色の指先でゆっくり、ゆっくり、恋人のために大きなハートの形のマークを…。
温める方法・了
※ハーレイがブルーに教えた、冷えないための二つの方法。シロエ風のミルクと、おまじない。
おまじないの方が効きそうですけど、シロエ風のミルクもブルーの定番になりそうです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
学校から帰って、おやつの時間。ママが焼いておいてくれたケーキと、温かい紅茶。ちょっぴり冷える季節になって来たから、あったかい紅茶は身体も心も温まる。幸せだよね、って。
(パパとママがいて、ちゃんと家もあって…)
おまけに青い地球の上だし、って考えながらケーキを頬張っていたら。
「ブルー!」
キッチンの方からママの声がした。
「なあに?」
「ハーレイ先生のスリッパ、届いたわよ!」
「ホント!?」
何処だろう、ってキョロキョロしてたら壁際に見付けた紙袋。何のロゴも無いシンプルな袋。
だけど…。
「其処にあるでしょ?」
ママがダイニングに入って来た。
それよ、って言われなくても分かる。あの紙袋はシンプルだけれど、特別だから。
早速、紙袋の所まで行って、手を突っ込んだ。
(わあ…!)
中から出て来た、大きなスリッパ。厚手のウールで、底の部分は分厚いフェルト。
模様は市松模様になってて、濃紺と、前のハーレイのマントそっくりな緑色との組み合わせ。
「その模様の生地で良かったのよね?」
「うんっ!」
間違いないよ、ってママに笑顔で返事した。
ぼくが選んだ、ハーレイのスリッパ。寒い季節になったら活躍する筈の冬用のスリッパ。
(ふふっ、スリッパ…)
届いたんだ、って嬉しくなった。スリッパは紙袋の中に戻したけれども、おやつの間中、視線がそっちに行ってしまって困るほど。あそこにスリッパが入ってるんだ、って。
幸せ一杯でおやつを食べ終えて、ママに「御馳走様」ってお皿とカップを渡して。
まだ冬じゃなくて、スリッパの出番は来ていないから。
ぼくの部屋に仕舞っておくね、って紙袋を持ってダイニングを出た。踊り出しそうな足で廊下を歩いて、階段をトントンとスリッパの袋を連れて上って。
部屋に入って、そうっと、そうっと、袋の中からスリッパを出した。
市松模様の大きなスリッパを。前のハーレイのマントの緑と、濃紺が混ざったスリッパを。
それを履く人の足に相応しいサイズのスリッパ。うんと大きな、ウールのスリッパ。
(ハーレイのだよ)
これはハーレイのスリッパだよ、って触って、撫でて。
ウールの手触りに頬を擦りつけたくなる。スリッパに頬っぺたを擦りつけるなんて、って言われそうだけれど、これはハーレイのスリッパだから。
ハーレイのために届いたスリッパ、それだけで嬉しくてたまらないから。
ぼくの家のスリッパ、冬は特別。
他の季節はあまりスリッパは履いてないから、何処で買おうが、どんなのだろうが気にしない。
でも冬だけは違うんだ。寒い季節はみんな夜にはスリッパを履くから、実は決まったスリッパがある。お客様用みたいに高いのを買うってわけじゃなくって、値段は普通。ごくごく普通。
だけどちょっぴり特別、手作り。
(神様のスリッパ…)
前のぼくが生きていた頃にも消えなかった神様。クリスマスに馬小屋で生まれた神様。
その神様の教会で秋のバザーの時に売られる、手作りスリッパ。
丁寧に手作りされてるからなんだろうか、履き心地が良くて、暖かくって、足をすっぽり包んでくれる。一度履いたらもう手放せない、そんな気持ちがしてくるスリッパ。
(寒い冬でもポカポカなんだよ、これを履いたら)
身体の弱いぼくは体温の調節が上手く出来なくて、冬になったら足が冷たくなるのが普通。足の先から冷えてくるけど、スリッパを履いて膝掛けをかけてる間は大丈夫。足がとっても暖かい。
(パパとママもスリッパ、好きなんだよね)
この神様のスリッパが。手作りのウールのスリッパが。
ぼくの家は誰も教会には通ってないけど、パパとママとが結婚した年に貰ったプレゼントがこれだった。冬用に、ってママの友達から。
それですっかり気に入ってしまって、冬のスリッパはこれなんだ。
丈夫だし、丁寧に手作りしてあるお蔭で、何年かは持つ優れもの。ぼくも小さな頃からこれ。
小さすぎた頃にはサイズが無くって、履きたくっても履けなかったから。
初めて子供用のを履けた年には嬉しかった。ぼくのスリッパがやっと出来た、って。
(履いて家中、散歩したっけ…)
ぼくの足にピッタリのスリッパが得意で、履き心地が良くて足が軽くて。
教会のバザー用のスリッパだけれど、注文しておけば作って貰える。
わざわざバザーに出掛けなくても家に届くから、ママに頼んだ。ハーレイのスリッパ、って。
夏の終わりに、秋が来るんだ、って気が付いた頃に。
「ママ、ハーレイの分のスリッパが欲しいよ、冬のスリッパ」
注文するなら秋のバザーの頃までなんでしょ?
パパもママもぼくも、冬になったら履くんだもの。ハーレイだけ仲間外れになっちゃう…。
「そうねえ…。パパもそんなことを言っていたわね、ブルーに訊くか、って」
今年は注文する年じゃないけど、ハーレイ先生の分が要るんだったら早い間に注文を、って。
「じゃあ、いいの?」
ハーレイのスリッパ、買ってくれるの?
「もちろんよ」
ブルーはハーレイ先生のことが大好きだものね。
それにハーレイ先生はお夕食も一緒に食べて頂くくらいで、家族みたいなものでしょう?
ブルーが欲しいなら、パパやママたちと同じスリッパをきちんと用意しなくっちゃね。
ママは色の見本を送って貰ってくれた。
バザーで売るようなスリッパだから、立派なカタログなんかじゃなくて。「こんな色です」って印刷しただけの紙と一緒に、注文用紙。選んだ色とサイズを書き込む注文用紙。
どれにしようか悩んだけれども、前のハーレイのマントの色が入った市松模様に惹かれたぼく。
今のハーレイの車の色だって、こういう緑。きっとハーレイも好きな緑色。
「これがいいな」
ママ、この模様のスリッパがいいよ。紺と緑色。
「あら、先生の車の色ね。この緑色」
「ハーレイのマントの色なんだよ。キャプテン・ハーレイだった頃のマントの」
こういう色でしょ、今も残っている写真。
「そういえば…。ハーレイ先生、あの車をお買いになった時には記憶が無かった筈なのにね」
面白いわねえ、記憶が無くてもマントの色の車だなんて。
生まれ変わっても選びたいほど、お気に入りの緑だったのかしら?
お気に入りだけあって似合いそうね、って言ってくれたママ。
この模様のスリッパはハーレイに似合うって、似合いそうなスリッパになると思うわ、って。
緑だけじゃなくって濃紺、黒に見えるほどの紺も入るし、ハーレイのスーツにも私服にも似合うスリッパが出来てくるだろう、って。
「ハーレイ先生の足だと、サイズは…」
これね、ってママが印をつけてた一番大きなサイズのスリッパ。
ぼくだと子供用なのに。
でなきゃ女性用、そういうサイズのスリッパのぼく。
(ハーレイの靴も大きいものね)
それにお客様用スリッパだって、ママは大きいサイズのを出してる。大きな大人の男の人用。
ハーレイは最初の間こそ履いていたけど、今では履いたり履かなかったり。
その日の気分で決めるらしくて、もう「お客様」じゃない印。
お客様用のスリッパを履いて客間に座るんじゃなくて、家族同様。出されたスリッパを履くのが当然じゃなくて、履かずに歩いていたっていい。
だけど冬用にって注文するスリッパはハーレイ専用、ハーレイだけのスリッパが家に届くんだ。
お客様じゃないから用意するスリッパ、パパやママやぼくと同じタイプの普段のスリッパ。
それもハーレイ用にって生地を選んで作って貰ったスリッパが。
(ハーレイのマントの緑色…)
その色が入った生地がいい、って選んだ緑と濃紺の市松模様。
うんと楽しみにしていたスリッパ。
(忘れちゃってたけど…)
ママに「欲しい」って頼んだことも、選んで注文していたことも。
毎日が幸せで、ハーレイと二人で地球に来られた幸せで心が一杯の毎日を過ごして、スリッパは何処かへ消えてしまってた。ホントに綺麗に忘れちゃってた。
でも、スリッパが家にやって来た。何の飾りも無い紙袋に入って、ちゃんと届いた。
注文通りのハーレイのスリッパ。
前のハーレイのマントの緑が入ったスリッパ。
(大きいスリッパ…)
ちょっとだけ、って足を突っ込んでみた。
肝心のハーレイは試し履きさえしていないけれど、ちょっとだけ。
ぼくが履いたらどれだけ余るか、どんなに大きいスリッパなのか、って好奇心。そうっと両足を入れた途端に、ぼくの頭に蘇った記憶。前のぼくじゃなくって、今のぼくの記憶。
(ハーレイのサンダル…!)
一度だけ借りた、ハーレイのサンダル。車を洗ったりする時に履くって言ってたサンダル。
メギドの夢を見たぼくが寝てる間に瞬間移動でハーレイの家まで飛んじゃった時に、ハーレイに借りて履いたサンダル。裸足じゃハーレイの車の所まで歩けないから。
本当は靴を借りるつもりが、大きすぎる靴はぼくの足からすっぽ抜けちゃって、脱げて。
それじゃ駄目だとサンダルになった。辛うじて引っ掛かってくれたサンダルに。
ハーレイの靴は脱げちゃったけれど、すっぽ抜けない、今度のスリッパ。
足をすっぽり包み込むように縫い上げられてる、厚手のウール地はダテじゃない。持ち主よりも遥かに小さいぼくの足でも、しっかり包んでくれるんだ。
引っ掛かっていただけのサンダルと違って、足の半分くらいをしっかり。
(ぼくの足より、うんと大きい…)
ハーレイの靴と違って逃げて行かない、頼もしいスリッパ。
この冬からはハーレイ専用、ぼくの家で暮らす大きなスリッパ。
(えーっと…)
ぼくのスリッパをクローゼットから出してみた。冬用のスリッパ、神様のスリッパ。
もしも背が伸びて育っていたなら、足も大きくなっていたなら。
新しいスリッパが家に届いて、これと取り替えて履く筈だったんだけれど…。
ぼくの背丈は去年と同じで、足のサイズも変わらなくって。
新しいスリッパは必要が無くて、ハーレイのだけを注文することになっちゃった。ぼくの足には去年の冬のと同じスリッパ、丈夫だから今年も使えるスリッパ。
(やっぱりハーレイのスリッパと全然違うよ)
ハーレイ用のと並べた、ぼくのスリッパ。水色の厚手のウールのスリッパ。
大きさがまるで違いすぎ。
(ホントに大人と子供みたいだ…)
それはちょっぴり悲しいけれども、「まだ子供だ」って言われたみたいで悲しいけれど。
だけどハーレイのスリッパの隣にぼくのスリッパ、心がじんわり温かくなる。
いつかはきっとこんな日が来るんだ、ハーレイの靴の隣にぼくの靴を並べて置ける日が。一緒に暮らして、靴もスリッパも隣同士が普通の日々が。
(こんな風に並んでいるんだよ、きっと)
ぼくの靴やスリッパは今より大きくなるけど、見た目にはきっと、こんな風。ハーレイの大きな足のサイズには敵わないから、大きい靴やスリッパと、それに比べて小さいのと。
そう思ったら、スリッパを一緒に並べておきたくなったけれども。
冬になったらハーレイ用のとぼくのスリッパを、いつも並べておきたいけれど。
でも、ハーレイのは玄関に行ってしまうんだ。ハーレイが来た時、ママが出せるように。
並んだ姿を見ていられるのは冬が来るまで、ぼくの部屋に仕舞ってある間だけ…。
いつまでも並べて眺めたいのに、そういうわけにはいかないスリッパ。
ハーレイの分は冬になったら玄関に行ってしまうから。其処で仕舞われてしまうから。
(並べるんなら、今の間だけ…)
幸せな景色を眺めたかったら、今の間に楽しむしかない。
ぼくのスリッパをクローゼットから出して、ハーレイのスリッパも紙袋から出して二つ並べて。
そうして大きなスリッパと小さなスリッパが隣同士でいるのを眺める。
きっといつかはこんな風にって、ハーレイの靴とぼくの靴とが並ぶんだ、って。
また夜になったら並べてみよう、と小さなスリッパをクローゼットの中に仕舞った。ハーレイのスリッパも紙袋に戻して、ちょっと考えてから勉強机の隣に置いた。
せっかくのスリッパ、見えない所に片付けちゃうのはもったいない。今日の間は見える所にと、紙袋の中に入れてあっても「スリッパがある」と思い出せる所に置いておこう、と。
それから宿題を済ませて、本を読んでいたらチャイムの音。窓から覗くとハーレイの姿。
(スリッパが届いたら、ハーレイが来たよ!)
なんて素敵なタイミングだろう。紙袋を片付けなくて良かった。ハーレイのスリッパを何処かに仕舞い込む前でホントに良かった。
届いたその日に見て貰えるなんて、スリッパだってきっと嬉しいと思う。履いてくれる人の前に出されて、直ぐに紹介されるんだから。
ハーレイがぼくの部屋に来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。
お茶とお菓子を運んで来たママの足音が階段を下りてゆくなり、ぼくは心を弾ませて言った。
「スリッパ、買ったよ!」
「スリッパ?」
「うん、ハーレイ用の冬のスリッパ」
ぼくの家のは特別なんだよ、冬の間は。だからハーレイの分を買ったんだ。
模様を選んで、ママに注文して貰って…。
今日、届いたから、ぼくの部屋に置いてあるんだよ。まだ冬までは少しあるから。
これ、って紙袋から出して見せたら。
あのスリッパをハーレイの椅子の横に置いたら、ハーレイの鳶色の瞳が見開かれて。
「ほほう…! なんで分かった?」
「えっ?」
「こいつは俺のスリッパだってこと、どうして分かった?」
訊かれてる意味が分からない。ハーレイのスリッパはハーレイのもので、そのためにスリッパを注文しておいたんだし、ハーレイのものに決まってる。何の質問なんだろう?
ぼくは首を傾げてハーレイに訊いた。
「どういう意味?」
ハーレイのスリッパを買っておいたら、それは絶対、ハーレイのものだと思うんだけど…。
「こいつは教会のスリッパだろう? 秋のバザーで売られるスリッパ」
「うん。ぼくの家は教会に行ってないから、注文して届けて貰うんだけど…」
「俺の家と全く同じだな。誰も教会には行っていないが…」
親父もおふくろもこれが好きでな、ずっと買ってる。頑丈に出来てるスリッパだけに、毎年ってわけではないんだがな。
そして俺のは昔からコレだ。
緑と紺の市松模様だ、初めてスリッパを買って貰った年からこれなんだ。
「嘘…!」
ハーレイ、これを履いてたの?
これとおんなじのを子供の頃から買って貰って、今もスリッパ、使っていたの…?
信じられない素敵な偶然。
ハーレイのスリッパが本物になった。本当に本物のハーレイのスリッパ。ハーレイがまだ隣町の家に居た頃から使っていたのと同じ模様のスリッパだなんて。教会のスリッパだったなんて。
まだ試し履きだってして貰ってないのに、このスリッパは本物なんだ。
「それじゃハーレイ、サイズもこれで良かったの?」
「もちろんだ。履かなくっても一目で分かるさ、俺の足にピッタリ合うってな」
この年になったらもう育たないし、この大きさのと付き合い続けて何年なんだか…。
今でもおふくろが毎年訊いてくるんだ、今年は買うのか、買わないのか、とな。
なにしろこういう身体だからなあ、いくら頑丈に作ってあっても少し短めの付き合いだ。普通の人なら何年間でも使える所を、年によっては一冬でおさらばしちまったりな。
「一冬で駄目になっちゃうの?」
こんなに丈夫なスリッパなのに?
ハーレイ、どういう履き方をしたの、そういう年は?
「おいおい、人を怪獣みたいに言うなよ、スリッパを履きすぎちまっただけだ」
書斎でゆっくり本を読むより、やたら料理に凝ってた年とか。
立ちっ放しだと座っているより体重ってヤツがかかるだろうが。俺の重さでくたびれただけだ、流石の丈夫なスリッパもな。
「そっか…。ハーレイ、ぼくよりもずっと重たいものね」
ずうっとスリッパに乗っかっていたら、スリッパだって疲れて潰れちゃうかも…。
だけど普通に履いていた年は、一冬で駄目にはならないんだよね?
「まあな」
お前もお父さんたちが履いているなら分かるだろう?
こいつは頑丈で、長く付き合えるスリッパなんだっていうことが。
その辺もあって親父もおふくろもお気に入りだな、これは本物のスリッパなんだ、と。
本物のスリッパ、ちょっぴり特別な神様のスリッパ。
神様が作って売っているわけじゃないんだけれども、教会のバザーで売られるスリッパ。
ハーレイも、ハーレイのお父さんとお母さんも、冬になったらそれだと言うから。
おまけにハーレイのは、ぼくが注文しておいたのと同じ模様だと聞いたから。
ぼくは嬉しくなってしまって、ぼくのスリッパをクローゼットから出してきて見せた。
「ぼくの、これだよ」って、水色の小さなスリッパを。
そうしたら…。
「お前、ずっとそれか?」
小さい頃から同じ生地のを選んでいるのか、俺と同じで?
「うん。ぼくのは水色」
どうして水色を選んだのかは忘れちゃったけど、いつも水色。注文する時は水色だよ。
「なら、これからもそいつを買うか」
「えっ?」
これからって…。サイズが変わった時のこと?
多分、大きくなっても水色のスリッパを買うんじゃないかと思うけど…。
「大きくなってはいるんだろうが…。俺と結婚した後のことさ」
俺と一緒に暮らすようになっても、冬に履くならこのスリッパだろ?
一度履いたら手放せないって評判なんだし、出来ればこいつを履きたいんだろう?
「そう!」
ハーレイもおんなじスリッパだった、って分かっちゃったら、変えたいだなんて思わないよ。
これからも神様のスリッパがいいな、教会のバザーで売ってるスリッパ。
ハーレイのは緑と紺色のヤツで、ぼくのが水色。
「よし、分かった。結婚してもこいつを履き続ける、と」
お前も、俺も。
同じ生地のをずうっと続けて、駄目になる度に買い替えて…な。
一生こいつの世話になるとするか、ってハーレイが言って、頷いた、ぼく。
結婚したって冬になったら神様のスリッパ、ぼくのお気に入りの神様のスリッパ。
ずうっと履いていけるんだ、ってハーレイのと並べたぼくのスリッパを眺めていたら、何故だかハーレイが溜息をついた。
「しかし、悩ましい所だな…」
「何が?」
何か問題でもあるんだろうか、って不安が広がりかけたんだけれど。
ハーレイの口から出て来た言葉は、ぼくの予想とはまるで違って。
「結婚してから後にこいつを買う時、どうすべきかが問題だ」
おふくろに頼むか、お前のお母さんに頼んで買うか。そいつが大いに問題だな。
「頼むって…。ぼくたちが自分で注文をすればいいんじゃないの?」
「新規受付をしていればな」
「どういうこと?」
「こいつは人気商品なんだ。バザーの会場で買うならともかく、注文で届けて貰う方は…」
なかなか難しいらしいと聞いたぞ、新規受付があっても順番待ちになるくらいに。
「ハーレイのスリッパ、注文出来たよ?」
色の見本も送ってくれたよ、それを見てこれに決めたんだもの。ママが注文してくれたもの。
「ずっと長い間、買っているからだ」
昔からのお客さんってことになったら、その分の枠があるからな。
だが、俺たちが新しく申し込もうとしたって、空いている分があるのかどうか…。
バザーに行っても欲しい模様とサイズのスリッパがあるとは限らん。
確実に欲しいなら、前から注文し続けてる人に頼むのが間違いないんだが…。
お前のお母さんに頼むか、おふくろにするか、ってハーレイが頭を悩ませてるから。
ぼくも神様のスリッパは手に入れたいから、どうなるのかな、って考えながら訊いてみた。
「ハーレイのお母さん、ハーレイのスリッパを注文したがる?」
「もちろんだ」
ついでに支払いもするんだろうなあ、今と同じで。
そうさ、俺はスリッパの代金を払ったことは一度も無いんだ。親父が支払っちまってな。
「ぼくのママも注文したがりそうだよ…」
お金だって、ぼくは一度も払ってないから、結婚したってパパが支払うことになりそう。ぼくはスリッパを注文して貰って、「届いたわよ」って渡して貰えるだけで。
「うーむ…。それなら別々に注文して貰うか、今まで通りに」
俺はおふくろに、お前はお前のお母さんに。
別々のツテで手に入れるとするか、自分用のスリッパ。
「それは嫌だよ!」
せっかくハーレイと結婚したのに、なんで別々?
小さい頃からのお気に入りのスリッパ、どうして一緒に注文して手に入れられないの?
「だから言ったろ、新規受付をしていないと無理だと。…待てよ?」
だったら、一回おきに頼んでみることにするか?
お前のお母さんと、俺のおふくろと。二人分を頼む代わりに、一回おきで。
「それがいいかも…」
先に頼むの、やっぱりハーレイのお母さんの方になるのかな?
ぼくはハーレイのお嫁さんだし、ハーレイのお母さん、ぼくのママより先輩だもんね…。
誰に頼もうか、どうやって買おうか、ちょっぴり悩ましい冬のスリッパ。
厚手のウールで分厚いフェルトの底が頼もしい、丁寧な手作りの神様のスリッパ。
だけど模様は決まってる。
ハーレイはマントの色とおんなじ緑に濃紺を合わせた市松模様で、ぼくは水色、これは絶対。
そういうスリッパをセットで買おうと、二人分をセットで注文しようと、其処も絶対。
ハーレイのお母さんに頼んで買ったら、次に買う時はぼくのママに。
ぼくのママに頼んで注文したなら、次の注文はハーレイのお母さんに頼んでして貰う。
それが一番いいのかな、って、ハーレイと二人で話をしてた。
まだまだ先の話だけれども、いつか結婚した時は、って。
その夜、帰って行くハーレイを見送った後で。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、寝る前にもう一度スリッパを出した。
ぼくの水色のスリッパじゃなくて、紺と緑のハーレイのスリッパ。紙袋から出して眺めてみた。
ハーレイは試し履きをしていないけど…。
履かなくっても一目で分かると、自分の足にピッタリなんだと自信たっぷりだったけど。
(ハーレイのスリッパ…)
神様のスリッパ、ぼくの家の冬の特別なんだ、って注文したのに。
ハーレイに似合いそうな模様はこれなんだ、って注文したのに、届いてみたら。出来てきたのをハーレイに見せたら、それはハーレイのスリッパだった。
「なんで分かった?」って言われてしまった、ハーレイのお気に入りの冬のスリッパ。
小さい頃から、ハーレイがずうっと履いて来たのと同じスリッパ。
そんなつもりは全然無くって、ハーレイのために、冬のスリッパを注文してみただけなのに…。
ハーレイが冬に家で履くのと同じスリッパを手に入れた、ぼく。
大好きなハーレイの足を包むのと、おんなじスリッパを手に入れた、ぼく。
(ホントにハーレイのスリッパだったよ…)
頬ずりしたかったほどのスリッパは、本物のハーレイのスリッパだった。
ホントのホントにハーレイのスリッパ、ハーレイが冬に履いてるスリッパ。
(んーと…)
頬ずりは流石に、なんだか間抜けで馬鹿みたいだから。
だけどスリッパは特別だから、と、ちょっと迷って、枕の隣にそうっと置いた。
ぼくの足を少しだけ突っ込んだけれど、まだ一回も履いていないから。
履いて歩いたわけじゃないから、ベッドに入れてもきっと問題ないだろう。
ハーレイのスリッパと一緒に眠って、ハーレイの夢を見てみたい。
紺と緑のハーレイのスリッパ、いつかはぼくの水色のスリッパと並ぶ予定の模様のスリッパ。
(結婚した後は、一緒に注文して貰うんだよ。ハーレイのと、ぼくの)
最初は誰が注文してくれるんだろう?
ハーレイのお母さんかな、それともママかな?
想像しただけで胸がドキドキ、枕の隣に置いたスリッパを撫でて、触って。
うんと幸せな夢が見られそうな魔法のスリッパ。
大好きなハーレイの足を包む予定の、神様のスリッパ。
これと一緒に、夢の中に入って行ったなら。
ハーレイと二人で暮らしてる家が、幸せ一杯のぼくの未来が、きっと今夜の夢に出て来るよ…。
スリッパ・了
※ブルーの家で用意した、ハーレイ用の特別なスリッパ。実はハーレイの愛用品でした。
二人で暮らすようになっても、使いたいスリッパ。ブルーが枕の隣に置くのも当然ですよね。
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学校から帰って、制服を脱いで。家で着るシャツに着替えていたんだけれど。
早く着替えておやつにしよう、って。
(あっ…!)
後は袖口、って何気なく留めていたボタン。一番下を留めて、後は袖だけ、っていう所。心の奥から溢れ出して来た幸福感に頬が緩んだ。
(まだ袖口にもボタンがあるよ)
右手と左手、袖口にボタンが一つずつ。ボタン穴をくぐらせて留める、ごく単純なものだけど。
(ボタン…)
前のぼくの服には無かったもの。ソルジャーの衣装には無かったボタン。
それを留められる、この幸せ。小さなボタンを幾つも幾つも、留めて着られる服がある幸せ。
(こんなの、何年ぶりだろう…)
二百年は軽いよね、って考えてから苦笑した。二百年だなんて、前のぼくだ。
でも、前のぼくが幸せそうな微笑みを浮かべてる。ボタンがあるって、まだ袖口のを右と左と、二つもボタンを留められるんだ、って。
(んーと…)
とても嬉しそうな前のぼく。幸せ一杯の、今のぼくの胸。
おやつは早く食べたいけれども、ボタンの幸せも捨て難くって。
(どうしようかな?)
せっかくの幸せ、うんとゆっくり味わってみたいし、噛み締めたい。おやつとボタンの幸せとは両立しないよね、って考え込んで。
(うん、片方だけ留めずにおこうっと!)
そうしたら、きっと。
おやつの後で部屋に戻って、なんで片方留まってないのか、ぼくは気になる筈だから。ボタンを留めようと触ってみたなら、思い出せると思うから。
(ボタンがあるって幸せなんだよ)
忘れちゃ駄目、って自分に言い聞かせながら、右手の袖だけボタンを留めた。左の手でゆっくりボタンをボタン穴へと押し込み、幸せな気持ちでくぐらせる。
ボタンを留めるっていうのはこんな感じで、こうやって服を留めるんだよ、って。
左手の袖口を留めなくっても、おやつを食べるのに困りはしない。
階段を下りてダイニングに行って、ママが用意してくれたおやつを見たらボタンの幸せは消えてしまって、それっきり。袖口なんか気にもしないで、おやつに夢中。
ママも片方の袖口が留まってないなんて気が付かなくって、紅茶を淹れてくれたりして。学校であったこととか、ママと色々お喋りしてたらボタンの幸せはもう出てこない。
御馳走様、ってダイニングを出て、部屋へと階段を上がる時にも。
(今日のおやつも美味しかったな)
勉強机の前に座って、頬杖をついて。
フォトフレームの中のハーレイの写真に、ぼくと二人で写した写真に「今日も幸せ」って報告をしようとしていて、左の袖口が留まっていない、って気付いたけれど。
(外れちゃった?)
ボタンをきっちり留めておかずに、半分だけ押し込んでおいたとか?
急いでおやつ、って思ってたぼくが如何にもやりそうなことだから。慌てんぼだよね、と外れたボタンを留めようと右手で袖口に触れて…。
(違った…!)
慌てて留めたってわけじゃなかった。わざと外しておいたんだった。
ボタンの幸せを噛み締めたくって、おやつの後でしみじみと幸せを味わいたくて。
(…ただのボタンなんだけどね?)
特別なボタンでもなんでもなくって、ありふれたボタン。こういうシャツにはついてるボタン。凝った服だと共布でくるんだボタンなんかもあるけれど…。
今のぼくには当たり前のボタン。毎日のように留めてるボタン。
制服のシャツも、普段のシャツにも、それにパジャマもボタンが幾つもくっついている。開いた袖口、服の前やら襟元やらをボタンで留めて当たり前。
何の気なしに留めてるボタンで、慣れた手つきでボタン穴に押し込んでいたけれど。
今も外してあった左の袖口についてるボタンを、そうっと押し込んでくぐらせたけれど。
(ホントにボタンだ…)
これでいいかな、って留めた袖口を引っ張ってみた。
今じゃ、ありふれたボタンというもの。毎日の服にくっついてるもの。
なのに幸せな気持ちが溢れてくる。ボタンがあるって、ボタンで袖口を留めるんだよ、って。
(これって、何年ぶりなんだろう…)
本当に二百年ぶりくらいかも、って前のぼくが心の中で跳ねてる。幸せ一杯でニコニコしてる。二百年ぶりでは足りないかもって、もっと長いこと出会ってないかも、って。
(制服が出来たせいだしね…)
遠い昔にシャングリラで着ていた、ソルジャーの衣装。前のぼくが毎日、着ていた衣装。
ソルジャーの衣装にはボタンが無かった。
服を着るのに必要なものは、ファスナーとマントの留金だけ。
(効率優先…)
緊急事態に陥った時に、ボタンなんかをのんびり留めてはいられないから。とにかく速さが優先されてて、サッと上げられるファスナーだけ。
マントの留金はあったけれども、これはマントが外れないように別扱いで付けられたもの。見た目の問題とかじゃなくって、必要だったから付いてた留金。
あの衣装の何処にもボタンは無かった。
ソルジャーらしく、と仰々しいデザインになっていたけど、ボタンは無かった。
(ハーレイだって…)
キャプテンの制服にだって無かったボタン。
肩章まで付いた威厳たっぷりの偉そうな服も、ファスナーとマントの留金だけ。
長老たちの服もそれは同じで、他の仲間たちの制服も含めて、誰の服にも無かったボタン。ただファスナーを引き上げるだけの、着脱の早さが求められた服。
そんな調子だから、フィシスが着ていたロングドレスにさえもボタンは無かった。あれは色々と凝った服だったけれど、デザインした仲間の頭の中にはボタンなんてものは無かったんだろう。
普段、使わないものだから。
ボタンなんてもの、シャングリラの仲間たちが着ていた衣装に一つも付いてはいなかったから。
(最後にボタンを留めたのって…)
制服が出来る前のこと。ソルジャーの衣装が出来上がるよりも前。
もうずいぶんと遠い昔で、前のぼくが持ってた記憶の中でさえ、二百年では足りない昔。
(でもって、最初に留めたボタンは…)
そう、最初。
前のぼくが最初に留めていたボタン。
アルタミラの研究所で着せられた服にボタンは無くって、頭から被るだけだったから。
実験動物にお洒落なんかは必要無いから、着せておけばいいっていうだけの服。粗末だった服。それを長年着ている間に、服はどうでもよくなった。どんな服を着て生きていたかも忘れた。
だけど、アルタミラから脱出した船で見付けた服。
小さかったぼくにピッタリのサイズの服を探すのに苦労したけど、見付け出した服。それまでの服とはまるで違って、ボタンで留めるように出来ていた服。
ドキドキしながら、ワクワクしながらボタンを留めた。ボタンをボタン穴にそうっとくぐらせ、それで留まる服に胸が高鳴った。
こういう服が着られるようになったんだ、って。
いちいちボタンで留めなきゃならない手のかかる服を、これからは好きに着られるんだ、って。
留めていったボタンは自由の象徴。
被るだけの単純な服とは違って、一つ一つ留めていくボタン。
もう幸せでたまらなかった。
自由なんだって、ボタンを一つずつ留めて着る服を着られる自由を手に入れた、って。
(いつの間に忘れちゃったんだろう…)
初めてのボタンの幸福感を。
自由になったと、手間暇かけなきゃ着られない服を纏える時代がやって来たんだと幸せに酔った瞬間を。これからはずっと自由なんだ、と。
幸せ一杯で留めていたボタン。初めてのボタン。
それなのに、ぼくは忘れてしまって。
ボタンがあるって、それを留められる幸せってヤツも忘れてしまって、時が流れて。
ソルジャーの衣装に、ファスナーと留金だけの服に変わる時も、何も思いはしなかった。やはりスピードが大切だろうと、服の仕組みに納得していただけだった。
(人間って、慣れてしまうんだ…)
平和が続くと、幸せな時が続いてしまうと、慣れて何とも思わなくなる。
そういった日々は当たり前のことで、特別でも何でもないことなんだ、と日常に変わる。幸せを幸せだと思わなくなり、鈍感になってしまうんだ。これが普通だと、日常なんだと。
(あんなに幸せだったのに…。ボタン…)
前のぼくを幸せにしてくれたボタン。初めてボタンを留めた時に感じた幸福感。
すっかり忘れて、ボタンなんてものは見慣れたものになっちゃってたから。
ボタンの無い服が出来て来たって、これでボタンに「さよなら」なんだとは思わなかった。針の先ほどの寂しさも無くて、それが嫌だとも思わなくって。
今度はこういう服になるのだと、御大層な服だと考えただけ。
重たいマントまでくっついていると、やたら大袈裟で派手な衣装にされてしまったと。
ボタンが無いっていう事実よりも、そっちが問題だったぼく。
ソルジャーの衣装は目立ちすぎだと、もっと控えめで良かったのに、と。
(ボタン、パジャマには一応、あったんだけどね…?)
前のぼくが着ていたパジャマには、ボタンが付いてた。パジャマだから袖には無かったけれど。
だけどパジャマは眠る時に着替えるものだから。
ソルジャーの衣装を脱ぎ捨てて、お風呂に入って、其処で身に着けるものだから。
寝る時はこれだ、と思っていただけ。
何度ボタンを留めていたって、それを留められる幸せを感じはしなかった。
(それに…)
ハーレイに恋をして、恋が実って。
二人で一緒に眠るようになったら着なかったパジャマ。要らなくなってしまったパジャマ。
ハーレイの温もりに包まれていたから、パジャマなんか要らなかったんだ。大きな身体がぼくのパジャマで、すっぽりと包んでくれていたから。
そんなこんなで、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
普段に着ている制服やシャツにボタンがあるという幸福。
一つ一つ留めていかなきゃならない、手間のかかる服を着られる幸せ。
(今のぼくの服、ボタンがくっついているんだよ…)
ボタン穴にくぐらせて留めるボタンが。
飾りに付いているんじゃなくって、必要だから付いているボタン。それを留めている時間が今のぼくにはたっぷりとあって、急ぐ必要なんか何処にも無くて。
(遅刻しそうになっちゃった時は別だけれどね?)
ゆっくりと留めていられるボタン。贅沢な時間を持っているぼく。
(ボタンを留めるのに時間がかかる、って考えたこともなかったくらいに時間が沢山…)
ぼくが自由に使える時間。好きに使っていい時間。
それが沢山あるって幸せに、ボタンのお蔭で気付いたぼく。幸せを思い出した、ぼく。
(こんな日にハーレイに会えるといいんだけれど…)
仕事の帰りに寄ってくれたらいいんだけれど。
もしも会えたらボタンの話をしなくっちゃ、と制服のシャツを勉強机の椅子に掛けておいた。
明日に着る分を出して、ボタンのついたシャツを椅子の背に。
ハーレイが来てくれますように、って祈ってからどのくらい経っただろう?
門扉の脇にあるチャイムが鳴って、窓に駆け寄ったらハーレイがぼくに手を振っていた。ママが門扉を開けに出掛けて、ハーレイをぼくの部屋まで案内して上がって来たんだけれど。
お茶とお菓子も持って来たけど、そのママが椅子のシャツに気付いて。
「あらっ、シャツ?」
どうして椅子に掛けてあるの、と訊かれて慌てて誤魔化したぼく。
明日の支度をしようとしていて、シャツのボタンが緩んでいたから付け直したと。畳み直したら皺になりそうだから、椅子に掛けておくことにしたんだ、と。
「あらまあ…。お洗濯していて気付かなかったわ、ごめんなさいね」
畳む時にも気付かなかったわ、ってママは謝って部屋を出て行った。
(ママ、ごめんなさい…!)
ホントはボタンなんか全然、緩んでいなかったのに。
ママがきちんと綺麗に畳んで、仕舞っておいてくれたのに…!
ぼくが心の中でママに必死に謝ってるなんて、ハーレイはまるで知らないから。
言い訳がホントだと信じているから、紅茶のカップを傾けながら。
「そうか、ボタンを付け直したのか…。お前、今度は器用だからなあ、サイオンはともかく」
上手に裁縫が出来るってことは実に立派だ、前のお前と違ってな。
「前のぼくのことは言いっこなし!」
「しかしだ、現に前のお前は俺の制服のほつれさえも上手に直せやしなかったろうが」
俺が笑ったらむきになって、意地になっちまって。
縫い目も針跡も無いシャツを作って俺にプレゼントしてくれたよな?
覚えているか、前のお前が作ったシャツ。
スカボローフェアだ、あの歌に出て来る亜麻のシャツだ。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイムって歌だ、スカボローフェアは。
そういうシャツを作っていたろう、不器用だった前のお前は…?
これが藪蛇って言うんだろうか?
前のぼくの裁縫の腕の不器用さを思い出されてしまったけれども、今日の話題はそれじゃない。前のぼくが作ったスカボローフェアに出て来るシャツじゃなくって…。
「えーっと…。あのシャツ、ホントはボタンが違って…」
「はあ?」
違うボタンを付けてあるのか、制服のシャツはボタンも一応、指定だぞ?
まあ、パッと見た目に分からないなら問題無いが…。指定のボタンが家にあるとは限らんし。
「そうじゃなくって…。ボタンを覚えておくために掛けてあったんだよ」
シャツにはボタンが付いているから忘れないよね、って。
制服のシャツにボタンはセットのものでしょ、ボタンで留めなきゃ着られないから。
あのね、とハーレイに話したぼく。
ボタンがあるって幸せだよね、って。
「ぼくの制服のシャツも、今、着てるシャツもボタンなんだよ」
着るのにとっても手間がかかるよ、ボタンを一つずつ留めていくんだから。
ファスナーだったら引き上げるだけで、多分、ボタンの一個分だよ、かかる時間は。
そういう風に手間のかかる服を毎日、毎日、着ていられるって幸せじゃない?
「なるほどなあ…」
確かにそうだな、俺も毎朝せっせと留めているくせに気付かなかったぞ。
その上、服と柔道着とを何度も着替えたりしているのにな。
柔道着にボタンは付いていないが、シャツの方には沢山ボタンが付いているなあ、袖口にまで。そいつを全部留めてる間に、キャプテンの制服なら上着の上からマントを羽織っていられるな。
そう思うと実に優雅なもんだな、たかがシャツでも。
「ね、そうでしょ?」
幸せでしょ、手間が沢山かかる服を普段に着ているなんて。
時間がかかると思いもしないで、ボタンを幾つも留めていられる毎日だなんて。
「うむ」
考えたことも無かったなあ…。
今の俺が毎日のように着ているシャツがだ、時間ってヤツをたっぷり使って着るものだとは。
時間を贅沢に使っているとは、今の今まで思いも気付きもしなかったなあ…。
凄い所に気が付いたな、ってハーレイはぼくを褒めてくれた。
前の自分だって忘れていたと、着るのに手間と時間とがかかるボタンの幸せを忘れていた、と。
「お前、なかなか鋭いぞ。ボタンを留めてて思い出すなんて、俺の年ではもう無理かもな」
今の俺の身体で三十八年も生きちまってるし、お前のようにはいかんかもしれん。
平和ボケが酷いと言ってしまえばそれまでだが。
しかし、ボタンか…。
今度のお前はボタンよりももっと手間がかかる服を着られるぞ。
前のお前にとっては夢みたいな服を、きっと思ってもみなかった服を。
「なあに、それ?」
どんな服なの、ボタンよりも手間がかかるって…?
「花嫁衣裳さ」
ウェディングドレスってヤツを着るには、準備が沢山要るんだぞ?
専用の下着を着けるトコから始まるらしいし、そう簡単には着られないってな。
「あっ、そうか…!」
ドレスのスカート、ただ着ただけでは膨らまないよね。
きっと色々必要なんだね、ドレスのデザインに合わせたものが。
ホントにボタンよりも手間がかかりそう…。肝心のドレスに辿り着く前に。
着る前に準備が必要だっていうウェディングドレス。
一つ一つボタンを留めるどころか、特別な下着まで着ないと着られないドレス。
前のぼくには夢見ることさえ出来なかった「お嫁さん」になるために、今度のぼくは花嫁衣装を着ることになる。うんと手間暇がかかるドレスを、ボタンどころじゃないドレスを。
「前のぼく、ウェディングドレスを着られる日なんて考えたこともなかったよ…」
ハーレイと結婚出来やしないし、そんな夢なんて見られなかった。
ウェディングドレスなんかホントに一度も、ただの一度も想像したことがなかったよ…。
「まあ、シャングリラに豪華なウェディングドレスは無かったんだが…」
今度のお前は着るんだからなあ、どうせだったらボタンで背中を留めるドレスを誂えるか?
俺の友達の結婚式で見たことがあるんだ、そりゃあ沢山の真っ白なボタンが並んでいたさ。
嫁さんのこだわりだったらしくて、わざわざ説明があったんだ。
もっとも、そいつを聞かせたかった相手は俺じゃなくって、嫁さんの女友達だろうがな。
「あははっ、そうだね!」
ハーレイにドレスを自慢したって、全然意味が無いものね。
ぼくがボタンって言い出しちゃったし、もしかしたら役に立つかもだけど。
「うむ。ああいうドレスを作るんだったら、その時は尋ねてみてもいいなあ、何処で作ったか」
背中にズラリと白いボタンだ、幾つ留めたらウェディングドレスを着られるんだか…。
あんなドレスも手間がかかるが、俺のおふくろも着ていた白無垢。そっちも着るのに凄い時間がかかるらしいし、お前はどっちを着てみたい?
「ボタン沢山のドレスか、白無垢?」
どっちがいいかな、どっちが余計に幸せな気分になれるかな…?
「さあな…?」
その時になったら悩めばいいさ。
白無垢にするか、ドレスにするか。
どうせお前はボタンの幸せなんぞは忘れちまって、デザインだけで選ぶんだろうし。
もし奇跡的に思い出したら、ボタンがズラリと並んだドレスになりそうだがな。
背中に一杯、真っ白なボタン。
ハーレイの話じゃ、白いボタンはドレスとおんなじ布でくるんであった、っていう。白い共布でくるんだボタンが飾りみたいに背中に行列してたんだって。
ボタンの幸せを、ボタンを留められる幸せってヤツを、結婚する時に思い出したら。
花嫁衣装を選ぼうって時に思い出せたら、そういうドレスを選ぶのもいい。
今度のぼくには時間が一杯、こんなに沢山のボタンを留めなきゃいけないドレスを作ってお嫁に行ける、って。背中に並んだ真っ白なボタンの行列みたいに、幸せも行列してるって。
次から次へと途切れない幸せ、ズラリと行列している幸せ。
ボタンの幸せがうんと膨らんで列になったと、今度のぼくの幸せはホントに行列なんだ、って。
ハーレイに「ボタンの幸せの行列なんだよ」って話したら、「気が早いヤツだな」って呆れ顔をされてしまったけれど。「思い出せるとは限らないぞ」って額を指で弾かれたけれど。
思い出せたら、そういうドレス。背中にボタンが一杯のドレス。
「ハーレイ、ぼくが思い出せたら、そのドレスを着てたお嫁さんに訊くのを忘れないでよ?」
何処で作ったドレスだったか、何処で注文出来るのか。
ぼくは絶対、そういうドレスを着たいと思っているんだから…!
「分かった、分かった。ちゃんと訊いてやるさ、お前が着たいと言うのならな」
ボタン一杯のウェディングドレスで嫁に来い。
幸せが行列でやって来るという凄いドレスなんだろ、今度のお前にピッタリだしな。
うんと幸せになるといい、ってハーレイは約束してくれた。
途切れない幸せの行列が来るよう、ボタンびっしりのウェディングドレスを着ればいい、って。
「お前を今度こそ幸せにするのが俺の夢だし、ウェディングドレスも注文どおりにしないとな」
欲しいと言われたドレスのためなら、土下座したってあの友達から聞き出してやるさ。
そういう未来の話もいいがだ、これから寒い冬になったら。
重ね着できるぞ、何枚もな。
そいつも前の俺たちには縁が無かったものだろ、一年中、同じ制服で。
「ホントだね」
シャングリラの中の公園とかでは四季を調整していたけれど。
制服は年中おんなじだったね、夏服も冬服も無かったものね。もちろん、薄着も重ね着だって。
シャングリラの公園の四季は穏やかなもので、冬の季節でも寒すぎるなんてことは無かった。
だから無かった、重ね着なるもの。
前のぼくも含めて、誰一人として「冬だから」って服を何枚も重ねた人はいなかった。
だけど今度のぼくは違って、冬になったら色々と着る。手袋やマフラーも着けたりしてる。
そう言ったら、ハーレイは「手袋もいいが…」って笑みを浮かべて。
「何枚も重ね着して着ぶくれてみるか、可愛いぞ、きっと」
コロコロと丸くて、転がりそうで。そういうお前も見てみたいような気がするな。
「どうせ何処へも行けないじゃない!」
丸くなってる、って笑うだけでしょ、ハーレイが!
「そうでもないさ」
俺が来る日に雪がドッサリ積もったなら。
庭で雪遊びくらいは付き合ってやる。雪合戦なんかはとても無理だが、雪だるまとかな。
「ホント!?」
ハーレイ、ホントに付き合ってくれるの、雪遊び?
庭で一緒に雪だるまとかを作ってくれるの、ハーレイが?
本当に、って念を押したら、ハーレイは「ああ」と頷いてくれた。
「だからだ、お前、風邪には用心しろよ?」
風邪で寝込んで遊べません、なんてことにならないようにな、肝心の時に。
「うんっ!」
遊んだ後にも風邪を引かないよう、ちゃんと暖かくして外に出るから。
ハーレイに「丸くて転がりそうだ」って言われそうでも、しっかり重ね着。
「よし。お前がきちんと重ね着したなら、雪遊びに外へ出て行く時にだな…」
マフラーくらいは俺が巻いてやるさ、仕上げにな。
「えっ、ハーレイが巻いてくれるの?」
「お前がいい子にしていれば、だがな」
「…いい子?」
「うむ。子供の世話は大人が責任を持ってしてやらないとな」
外に行くなら、寒くないようマフラーをぐるぐる巻き付けてやる。子供の世話の基本だろうが。
「恋人じゃないの?」
其処で子供なの、恋人の世話をするんじゃなくて?
「お前、チビだろ?」
チビは子供だと思ったが?
だからキッチリ面倒を見るさ、マフラーをしっかり巻いてやってな。
チビだと決め付けられちゃった、ぼく。
酷い、と膨れっ面になったけれども、唇を尖らせちゃったけれども。
(でも、ハーレイがマフラーを巻いてくれるんだよね?)
そんな日が来るなんて、前のぼくは夢にも思っていなくて、想像すらもしなかったから。
この際、いい子でチビ扱いでもかまわないか、って気がしてきた。
前の生では服に付いてはいなかったボタンに、出来なかった重ね着。
だけど今ではボタンは当たり前のように服に付いてて、冬になったら重ね着が普通。
そういう世界でハーレイと会えて、二人で歩いて行くんだから。
いつかは結婚出来る世界で、未来へ歩いて行くんだから。
今はいい子でチビ扱いでもかまわない。
チビのぼくでも、きっといつかはウェディングドレスのお嫁さん。
大好きなハーレイのお嫁さん。
もしも、その時に覚えていたなら、ボタンを留められることの幸せを鮮やかに思い出せたなら。
背中に真っ白なボタンの行列、ボタンで留めて着るウェディングドレス。
ボタンの幸せが途切れないドレスでお嫁に行くんだ、ハーレイと一緒に暮らす家へと…。
ボタンの幸せ・了
※ソルジャーの服には無かったボタン。効率だけが優先されて。けれど今ではボタンのある服。
ゆっくりとボタンを留めてゆける幸せ。ボタン一杯のウェディングドレスも素敵そうです。
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