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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(駄目だあ…)
 今日もダメだ、と大きな溜息をついた、ぼく。
 ベッドに入る前にちょっとだけサイオンの練習を、と思ったけれども、今夜も駄目。ぼくの隣にクローゼット。ハーレイと出会って間もない頃に、鉛筆で微かな印を付けたクローゼット。
(ぼくの目標も遠いけど…)
 書いてある線は床から百七十センチの所にある。前のぼくの背丈と同じ高さに。
 其処まで育てばキスを許してやる、って言ったハーレイ。育たないと絶対、出来ないキス。その約束をさせられた日に、測って付けた小さな印。ぼくの目標。
 だけどそれから一ミリも育ってくれない背丈は、今も百五十センチのままで。
(おまけに、サイオン…)
 とことん不器用になってしまった、ぼくのサイオン。タイプ・ブルーとも思えないレベル。思念すら上手に紡げやしないし、瞬間移動だってまるで出来ない。
 クローゼットに付けた印の高さまでヒョイと浮き上がることも実は全く得意じゃない。あの印を書いた日は気分が高揚していたんだろう、「ここまでだよ」って浮き上がれたのに。
 ぼくの背丈が百七十センチになったら視点がどうなるか、何度だって浮いて確かめられたのに。
(今日も浮けない…)
 全然、身体が浮き上がらない。足でジャンプした方がマシなんじゃあ、っていう感じ。その上、思い通りのタイミングで浮いてもくれないし…。



(ホントにあの日が特別だったんだ…)
 前のぼくの視点の高さで見下ろせた床とか、見回した部屋の中だとか。
 あの日が奇跡。あの時が奇跡。
 練習したって再現不可能、たまに偶然、印の高さまで浮けるけれども、ホントに偶然。浮いたと喜んだ次の瞬間、ストンと落ちていたりもする。
 前のぼくと同じ高さの背丈になれる日も遠いけれども、サイオンを扱えるようになる日も遠い。遠いどころか、永遠に来ないような気もする、不器用なぼく。
(印を付けた日だけが特別…)
 きっとあの日は、勢いだけで出来たんだ。
 この高さまで育ったらハーレイとキス、って胸がときめいて、ドキドキしてて。
 サイオンは精神の力なんだし、そういう時には普段よりも強くなるんだろう。
(特別で偶然…)
 意識してやれることじゃなくって、意識していないから出来たこと。
 ハーレイの家まで瞬間移動で飛んで行っちゃった時と同じで。
 メギドの悪夢が怖くて怖くて、泣きながら眠って、知らない間にハーレイのベッドまで瞬間移動しちゃった時と同じで、無意識の産物。
 つまりはサイオンを自由に操れない、ぼく。前のぼくのようにはいかない、ぼく。



(とことん、不器用…)
 タイプ・ブルーには違いないけど、名前だけ。サイオン・タイプがブルーなだけ。
 最強のくせに、他のタイプの友達にだって敵いやしない。グリーンもイエローも、レッドにも。
 ロクになんにも出来ない、ぼく。
 思念波も駄目ならシールドも駄目で、もちろん空なんて飛べるわけがない。
 前のぼくなら呼吸するように簡単に出来たことが一つも出来やしなくて、標準以下。サイオンのレベルを測定されても「危険なし」って出る、人畜無害な今のぼく。
(喧嘩でウッカリ使っちゃっても、怪我もさせられないっていうレベル…!)
 怪我と言ったら派手に聞こえるけど、ここで言う怪我は掠り傷。
 サイオンが当たって掠り傷だとか、衝撃で転んで掠り傷とか、そんなことさえ起こさない。前のぼくなら指を触れもせずに戦闘機だって落とせたのに。



 ぼくの見た目は前のぼくの小さな頃にそっくり、育ってもきっと、前のぼくと同じ。
 遺伝子レベルだと違うだろうけど、基本的には前とおんなじ器のつもり。
 なのに不器用、サイオンを上手に扱えないだなんて…。
(これって器のせいなんだろうか?)
 何処かがちょっぴり、前のぼくとは違っているとか。
 遺伝子の配列のたった一ヶ所、それが違うだけで大きく変わってくるかもしれない。見た目には前と同じに見えても、中身の違い。そうだとしたら、ちょっと悔しい。
 もっと器用な身体に生まれていたなら、サイオンだって自由自在で。
 ハーレイの家に行きたいな、って思ったら一瞬で飛んで行けてしまって、帰りも楽々。
(そんな身体だったら良かったんだけど…)
 器用な身体に生まれたかった、って思ってしまう。
 でも、どうだろう?
 相手はサイオン、精神の力。
 器が違えば扱える力も違ってくるのか、器なんかはまるで関係無いのか。
 その辺のことは生まれ変わって来た人の例が無いから、分からない。
 もしも生まれ変わりの先達がいたら、前に比べてどうですか、って訊けるのに…。
 そういった人の体験談を元に、データでもあれば分かるのに…。



 生まれ変わりの前例なんか無いから分かんないや、って思ったんだけど。
 自分の器を、身体を別のと取り替えて魂を移した人なんか無いし、と思ったんだけど。
(あっ…!)
 すっかり忘れてしまっていた。魂を移す、ってことを考えた途端に蘇った記憶。
 前のぼくが夢に見ていたこと。
 魂と器って関係について、描き続けた壮大な夢。
 きっといつかは、って。
 いつか実現出来るといいのに、って。



 前のぼくの夢。
 叶うならば、と抱いていた夢。
(身体っていう器が無くなったなら…)
 魂が入った身体という器。前のぼくの魂を縛っていた器が身体というもの。
 思念体という形では抜け出せるけれど、戻って行かなきゃならない器。離れるわけにはいかない器。それを離れたら死んでしまうし、思念体になって行ける範囲は限られていた。
 思念体でもサイオンは充分使えるけれども、制約ってヤツが多すぎたんだ。身体を出てから戻るまでの時間とか、身体から離れていられる距離とか。
(あれが不自由だったんだよ…)
 もう少し、と心で思っても越えられない壁。決して越えてはならない壁。
 その壁が消えてしまったならば、と思い描いた。
 魂を縛る肉体を失くしてしまったならば。魂が身体から切り離されたら。
 それは前のぼくの死を意味するけれども、肉体の死を迎え、魂が自由になったなら。
(身体に戻る必要なんかが無くなったら…)
 思念体であった時と違って、何処へでも行けるんじゃないかと思った。
 広い宇宙を何処までも飛んで、時間も空間も、もう意味が無くて。
 心の赴くままに飛んで、飛び続けて、もしかしたら焦がれた地球へまでも。



(人類全部にメッセージを送ることだって…)
 魂を縛る器が無いなら、サイオンも無制限に、無限に広げて全宇宙にぼくのメッセージを。
 ミュウと人類とは兄弟なのだと、手を取り合って生きられる筈だと呼び掛けたかった。
 誰の心にも等しくメッセージを届けられたなら、きっとミュウへの思いも変わる。思念波ならば誤解は生まれないから。正しく理解して貰えるから。
 心と心での対話になるから、どんなに機械が干渉したって、人は人同士で分かり合える。機械による支配を崩すべきだと、ミュウを受け入れようと思って貰える。
(心に直接語り掛けたら、前のぼくの思いも願いも人類側に伝わる筈だったんだよ)
 だから伝えようと、いつか伝えたいと思い始めた。
 肉体の死を迎えたならば。魂が身体の枷を離れて自由に飛翔出来たなら。
 その時が来るのをぼくは夢見て、いつか必ずと熱く願って。
 溢れる思いを抑え切れずに、友達だったハーレイに披露した。
 まだ恋人同士ではなかったハーレイ。一番の友達だったハーレイ。
 青の間を訪ねて来てくれた時に、頬を紅潮させて話した。
 ぼくの夢だよ、って。
 誰にも話していないけれども、君だけは笑わずに真面目に聞いてくれるよね、って。



「ねえ、ハーレイ。いつか、ぼくが死んでしまったら…」
 魂が身体から解き放たれて、何処までも飛んでゆけるようになったなら。
 ぼくの思念を宇宙全体に大きく広げて、人類に向かってメッセージを送ってみたいんだ。
 ミュウと人類とは兄弟だよ、と。怖くなんかないと、分かり合えると。
 思念で送ったメッセージならば、人類の心にも上手く届くと思わないかい?
 心と心が触れ合うんだから、誤解なんか決して生まれやしない。
 まるで神様のお使いになったみたいに、ミュウと人類とを繋げそうな気がしているんだよ。
 やってみないと分からないけれど、これがぼくの夢。
 それを思うと、少し楽しみになってくるかな、死んでしまう日が。
「ブルー。本気で仰っているのですか?」
 死んだ後のことが楽しみだなどと。
 いつか死んだらそれをしようと、その日が来るのが夢だとあなたは仰るのですか?
 確かに、そういうことが出来たら。
 我々は逃げ隠れする必要も無くなり、人類と共に生きてゆける日が来るのでしょうが…。
 その日を見ないで、あなた自身が死んでしまってどうするのです?
 いくらあなたが成し遂げた偉大なことであっても、その時、あなたは何処にもいない。
 それで満足だと仰いますか?
 ミュウの未来さえ拓くことが出来れば、ご自分の命は失くしてもいいと?



 ハーレイはぼくが話した夢を笑いはしなかったけれど、眉間に皺を刻んで怒った。
 してはならないと、そんな夢など描いていてはならないと。
 恐ろしいほど真剣な瞳で叱られ、二度と夢など見るなと言われた。
 死んでどうすると、生きてこそだと。
 ミュウと人類が手を取り合った時に、其処に居なくてどうするのだと。
 ぼくは名案だと思っていたのに。
 この夢が叶えば、ミュウの未来は明るいだろうと思っていたのに…。



(だけど…)
 いつの間にかハーレイに恋をしていて。
 気付けばハーレイに恋をしていて、ハーレイの背中を見詰めていた。
 アルタミラから脱出した後、チビだったぼくがくっついて歩いたハーレイの後ろ。大きな背中。
 其処に戻りたいと、ハーレイの後ろに戻りたいのだと願い始めて、恋だと気付いて。
 その恋が実って、ハーレイの背中の後ろじゃなくって、腕の中がぼくの居場所になった。逞しい腕に抱き締められて、すっぽりと包まれる広い胸の中。いつだって温かかったハーレイの胸。
(あの腕の中で過ごして、一緒に眠って…)
 訪れた、幸せでたまらない時間。ハーレイと二人、恋人同士のキスを交わして、愛を交わして。
 誰よりも愛する人が出来たら、死にたくなんかなくなってしまった。
 死んだらやりたいと夢見たことも忘れてしまって、死というものさえ遠く感じて。
 いつまでもハーレイと二人だと思った。ずうっと二人で生きてゆくのだと、離れはしないと。



 そうして幸せに包まれていたのに、時の流れは残酷なもので。
 見た目はともかく、本当はハーレイよりもずっと年上だった前のぼく。
 少し体力が落ちたような、と感じた時には死に向かって歩き始めていた。指の間から零れ落ちてゆく砂粒のように失われていった持ち時間。ぼくの身体が生きて動いていられる時間。
 それの残りが少なくなった、と悲しい現実を突き付けられた。ある日、突然。
(…ホントに突然だったんだよ…)
 一時的な体力の低下ではなくて、この先は落ちる一方なのだと自覚させられた運命のあの日。
 ぼくの寿命が尽きてしまうと分かった日の夜。
 ハーレイに縋って泣きじゃくった、ぼく。
 死にたくないと、ハーレイと離れたくないと。けれども死んでしまうのだ、と。
「大丈夫ですよ、ブルー。私が側に居ますから」
 お一人で逝かせはしませんから、と背中を優しく撫でられ、涙を拭われて安心した。
 ハーレイと一緒なんだ、って。
 たとえ死神に捕まったとしても、ハーレイも一緒に来てくれるんだ、って。



 ハーレイの腕の中、抱き締められて慰められて、いつまでも一緒だと確かめ合って。
 死でさえもぼくたちを引き裂けやしない、と安堵の涙を流していた時。
 ぼくの中にはとっくに無かった。何処にも残っていなかった。
 恋をする前に持っていた夢。
 死んでしまったら地球へまでも飛んで、ミュウと人類との絆になる夢。
 いつか魂が身体を離れたならば、と抱いていた夢は欠片もありはしなかった。
 すっかり忘れてしまっていた。
 そんな夢を抱いていたことさえも。いつかはと夢を見ていたことも。



(恋をしちゃうと駄目なんだろうか…)
 人は弱くなってしまうのかもしれない。心が弱くなるのだろうか。
 一人きりで生きていた時より、二人で生きるようになった時の方が。共に暮らしている方が。
 いつも互いに支え合っているようなものなのだから。
 二人だったら何でも出来ても、一人では何も出来なくなるとか。
 抱き合っていれば、手を握り合っていれば強いけれども、離れてしまえば無力だとか。
(そうなのかも…)
 メギドで独り、泣きじゃくりながら死んだぼく。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、ただ独りきりで。
 悲しくて寂しくて、泣きながら死んだ。
 もう会えないと、ハーレイには二度と会えないのだと。



 あの時、あの夢を持っていたなら。
 肉体という魂を縛る器が消えた時には地球へまでも飛ぼうと、宇宙の果てまでも思念波に乗せて思いを伝えてミュウと人類との懸け橋になろうという夢を失くしていなかったなら。
 全ては変わっていたんだろうか…?
 前のぼくの思いは宇宙に広がり、ミュウと人類とは手を取り合えていたんだろうか…?
(まさかね…)
 いくら前のぼくのサイオンが強くて、自由自在に扱えていても。
 其処までの力は無かっただろう。
 身体を離れても、肉体の枷から解き放たれても、きっと無かった。
 かつて持っていた壮大な夢を叶えられるほどの力は無かったと思う。未来を変えるほどの力は。
(夢は夢だよ)
 前のぼくは夢を忘れたままで死んでしまったから、それは数には入らないとしても。
 あれから今までの長い長い時の流れの中、何人ものタイプ・ブルーが生まれては、死んで。
 タイプ・ブルーも珍しくはない時代が来たけど、それほどの人数が生きては死んでいったけど。
 死んでしまった後に強かった人の話なんかは知らないから。
 身体という器を失った後に、この世の中に影響を与えた人の例なんかは一つも無いから。
 仮に前のぼくが夢を忘れていなかったとしても、夢は夢だったと思うんだ。
 前のぼくは夢を叶えられはせず、ただ消えていっただけなんだろう、と。
 だから…。



(ぼくがハーレイに恋をしたのは…)
 間違いじゃないよね?
 そのせいで夢を忘れちゃったけれど。
 忘れたどころか思い出しもせずに、泣きながらメギドで死んじゃったけれど。
(ミュウの未来と幸せだけは、それでも祈っていたけれど…)
 死ぬ間際まで忘れはしなかったけれど、夢はすっかり忘れ果てていた。
 身体を離れたら地球へまでも飛び、宇宙に広く思念を広げてミュウと人類とを結ぶ夢。
(あの夢を覚えていたとしたって、きっと役には立たなかった筈…)
 何の役にも立ちはしなくて、死の世界へと旅立っただけだと思うんだけれど。
 それなのに、怖い。
 やっぱり、怖い。
 ぼくが忘れていなかったなら…、って。
 ミュウと人類とが争うことなく手を握り合う千載一遇のチャンスを無駄にしたかも、って。



(ぼくのせいなの…?)
 もしも覚えていて、メッセージを送っていたならば。
 戦いは無くて、誰も死なずに全てはナスカで終わっただろうか。
 ナスカが燃えてメギドが沈んだ戦いを最後に、ミュウと人類とは共存の道を歩んだだろうか。
(あんな夢、前のぼくしか持ってはいないよ…)
 その上、前のぼくが一番最初に死んでしまったタイプ・ブルーで、あの時が歴史の一つの節目。
 もしもあの夢を持っていたなら、叶えていたなら全ては変わった。
 恋をしちゃいけなかったんだろうか、前のぼくは…?
 ハーレイに恋をしなかったならば、未来は変わっていたんだろうか…?



(どうなの、ハーレイ?)
 訊きたいけれども、ハーレイはいない。
 まだ眠ってはいないだろうけど、何ブロックも離れた所にある家の書斎か、寝室に居るか。
 思念波だって届きやしない。
 今の時代は誰もがミュウになっているから、家などには思念波を遮る仕組みが施されているし、ぼくのサイオンが不器用でなくてもハーレイの家に届くような思念は紡げない。
 ハーレイが起きていたって無駄。ぼくの疑問をぶつけられないなら無駄でしかない。
(ずうっと昔は…)
 SD体制が始まるよりも遥かな昔は、こんな夜中でも声を届けたり聞いたり出来る便利な機械があったって言う。一人一人がそれを持ってて、好きな時に会話が出来たんだ、って。
 だけどその機械はSD体制に入ると同時に無くなった。マザー・システムが統治し易いように。人同士が密に連絡を取り合い、結束されたりしないように。
 そうしてSD体制が崩壊した後も、いつでも何処でも会話が出来た機械は復活しなかった。
 人は人らしく、出来るだけ互いに顔を合わせて話をするのが望ましい、って。
 それは分かるけど、ミュウの力…。
 特徴だったサイオンの力、思念波でさえも連絡手段に使うことが出来ない世界だなんて。
 ハーレイの声を聞きたくてたまらない時に、意見を聞かせて貰いたい時に連絡の取りようが無い世界だなんて、平和だけれども、ちょっぴり寂しい。



(前のぼくなら…)
 夜中でも怖い夢を見てうなされたりした時は、ハーレイがそうっと起こしてくれた。
 夢が悪い方向へ転がらないよう、思念で、力強い腕で支えて目覚める方へと導いてくれた。あの頃のぼくが見ていた悪夢は、アルタミラで暮らした孤独な檻。過酷に過ぎた人体実験。
 それは夢だと、過去のものだとハーレイは優しく抱き締めてくれた。
 怖くなくなるまで、ぼくが眠るまで側でずっと起きていてくれた。
(そういうのも全部駄目だったの…?)
 恋をして、ハーレイと毎晩一緒に眠って。
 側に居て貰って、うんと幸せで、満ち足りていた二人で過ごした時間。
 そんなものも全部、本当はいけないことだったの…?



(だからメギドで…)
 冷たく凍えた、ぼくの右の手。
 最後まで持っていたいと願った、ハーレイの温もりを失くした右の手…。
 あれは神様の罰だったろうか?
 ミュウと人類の間を取り持つ唯一のチャンスを、大切な機会を忘れ果ててしまったぼくへの罰。それを忘れて、夢を忘れてハーレイとの恋に溺れたぼくへの神様の罰。
 忘れたお前がいけないのだ、と。
 すべきことすら忘れ果てた者にはもう恋人など要りはしないと、それが諸悪の根源なのだと。
 恋さえしなければ夢を忘れず、肉体という器の枷を離れて大きく羽ばたいていただろうに、と。



(そんなの怖い…)
 ぼくの恋が間違いだっただなんて。
 死んだ後のことを夢見て生きるべきだったのに、恋に溺れて道を踏み誤っただなんて。
(間違いじゃなかったと思いたいけど…)
 ハーレイは「生きてこそだ」って怒ったんだし、ぼくは間違ってはいなかったと思う。死んだらおしまい、生きてこそだと、ハーレイと一緒に生きた前の生は正しかったと思うけれども。
 それを改めて確かめたくても、ハーレイはいない。
 今のぼくの側にハーレイはいなくて、訊きたくってもぼくの声さえ届きやしない…。



 ぐるぐると考えたままでベッドに入って、でも、眠れなくて。
 怖くて怖くて震えていたのに、いつの間に眠ってしまったんだろう?
 気が付いたら朝で、珍しくぼくは昨夜の出来事を覚えていた。
 怖かったことを。
 前のぼくの恋は間違いだったんじゃないかと、怖くてたまらなかったことを。
(そうだ、土曜日…!)
 昨夜はあまりの怖さにすっかり忘れてしまっていたけど、今日は土曜日。ハーレイが朝から来てくれる日で、一緒に過ごせる筈だから。
(訊いてみよう、ハーレイに!)
 前のぼくは取り返しのつかない過ちを犯して死んでいったのか、そうじゃないのか。
 恋をして夢を忘れちゃったことは、とてつもない間違いだったんじゃなかったろうか、って。



 そして、訪ねて来てくれたハーレイに話した。
 ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせの指定席。鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
 前のぼくの恋は間違っていたんだろうか、って。
「ぼくの右手、罰が当たったのかも…。ハーレイに恋をしちゃったから」
 夢を忘れたままで死んでしまって、何の役にも立たずに終わってしまったから…。
 ミュウと人類を繋ぐチャンスをふいにしたから、恋なんかもう要らないだろう、って神様の罰で冷たく凍えてしまったのかも…。
「馬鹿」
「えっ?」
 いきなり馬鹿だなんて言われて、やっぱり間違いだったのかも、って一瞬、思った。
 だけどハーレイの目はとても優しくて、咎めるような目つきじゃなくて。
 「間違ってないさ」ってハーレイの手がぼくの頭をクシャリと撫でた。
 自信を持てって、前の自分に自信を持ってやれ、って。



「いいか、お前は何も間違えてはいないんだ。ソルジャー・ブルーは間違えてないさ」
 恋をしたことも、夢を忘れてしまったことも。
 何もかもお前は間違えちゃいない、前のお前は間違ったことはしていないんだ。
 前の俺が言った言葉を覚えていないか、生きてこそだ、と。
 夢を忘れてしまったお前は懸命に生きて、シャングリラを、前の俺たちを必死に守り続けて。
 生きていたから、死んだ後の夢なんて見ちゃいなかったから、お前は強かった。
 死んだ後に夢を託していたなら、もっと早くにお前の命は消えてしまっていただろう。
 生きるってことに貪欲でなけりゃ生き残れないし、ナスカまで持ちはしなかったさ。
 そうしてお前はナスカまで生きて、メギドに飛んで。
 お前の命と引き換えになったろ、ミュウの未来も今の青い地球も。
 それでいいんだ、それ以上は誰も望まない。
 お前は堂々としてればいいのさ、間違えたなんて思わずにな。



「ホント…?」
 ぼく、神様に叱られない?
 ハーレイに恋をして夢を忘れてしまっていたこと、神様は怒っていらっしゃらない…?
「ああ。心配無用だ、神様は其処まで厳しいことは仰らない」
 恋もしないで、ミュウのためだけに生きろとまでは決して仰らないさ。罰を当てたりもな。
 前のお前は充分にやった。お前でなければ出来ないことを全力でやって生きただろう?
 シャングリラを、俺たちを守り続けて、メギドを沈めて。
 そんなお前がもしも間違っていたんだったら、今、こうして俺と地球にはいないさ。神様の罰が当たってしまって、地球に来るどころか何処へ行ったやら…。
 俺とも会えないままなんだろうな、永遠にな。
 罰っていうのは、そういうもんだ。いい人生なんか貰えやしないぞ、神様の罰が当たったら。
「ハーレイ、それ…。信じてもいい?」
 前のぼくは間違っていなかった、って。
 恋をしたけど、夢を忘れてしまっていたけど、間違った生き方はしていない、って…。
「もちろんだ。間違ってなんかいなかった証拠に、お前が此処に居るってことさ」
 俺と一緒に、青い地球の上に。少々チビだが、前のお前と同じ姿で。
 最高の御褒美ってヤツを下さっただろうが、神様は。
 今度こそお前の恋を本当に叶えて、ちゃんと幸せになれるようにと。
 前のお前みたいに秘密にしないで、結婚して俺といつまでも一緒に暮らせるようにな。



 だから心配なんか要らない、ってハーレイはぼくを抱き締めてくれた。
 こっちへ来い、って膝の上に乗せて。
 前のぼくはなんにも間違えちゃいないと、恋をしたことも、夢を忘れてしまったことも。
(あったかい…)
 ハーレイの腕も、広くて逞しい胸も温かい。
 前のぼくが夢を忘れてしまった、とても幸せな腕の中。うんと優しい温もりの中。
(こういう時にキスが出来たら…)
 ほんの触れるだけのキスでいいから、ハーレイとキスを交わせたら…。
 だけど背丈が足りない、ぼく。キスをするには背丈がまだまだ足りない小さなぼく。
 ハーレイとキスが出来ないことが残念で、ちょっぴり悔しくなるんだけれど。
 こうしてハーレイと二人、地球に居ることが神様のくれた御褒美だったら、そのくらいは我慢をしようと思う。キスが出来ないことくらい、我慢。
 罰が当たったら困るから。
 この欲張りめ、って罰を当てられちゃったら困るから。
 恋をしちゃって、大事な夢を忘れたぼく。
 死んだらミュウと人類を繋ぐ懸け橋になろうと夢見ていながら、忘れてしまった前のぼく。
 魂が身体を離れて自由になったらそれをするのだと思っていたくせに、忘れたぼく。
 そんなぼくでも許して素敵な御褒美をくれた、神様に叱られないように…。




           恋と忘却・了

※前のブルーが恋をする前、「いつか死んだら」と考えた、ミュウと人類の架け橋になること。
 けれど恋をして、それを忘れて…。その罰が当たったかと恐れるブルー。大丈夫ですよね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(うーむ…)
 書斎でコーヒーを飲んでいた最中、短く呻いた。
 今日はブルーの家に寄って来たから、いつもより遅めの寛ぎの時間。夜更けと呼ぶにはまだ少し早いかもしれなかったが。
 大きなマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それに心を解き放っていたら。
 不意に脳裏に蘇って来た、ブルーの声。小さな恋人が愛らしい声で紡いだ言葉。
「キスしてもいいよ…?」
 桜色の唇が歌うように言った。
 キスしてもいいよと、キスしていいよ、と。



(俺としたことが…)
 油断していたら、久しぶりに食らった可愛い攻撃。禁止してあるキスを強請る言葉。
 「キスして」ではなくて、「キスしてもいいよ」。
 本当は自分がして欲しいくせに、ハーレイを誘おうとしている殺し文句。
 小さなブルーを膝の上に乗せて甘えさせていたら、その唇から飛び出して来た。いきなりに何の前触れも無く。それは愛くるしい笑みを浮かべて。



(だんだん知恵がついて来やがって…!)
 出会った頃には嫌というほど聞かされた言葉。
 駄目だと叱っても、しかめっ面をしても、会う度に何度もキスを強請られた。時には首に両腕を回し、一人前の恋人気取りで目を閉じたりして。
 そうしたこともめっきり減ったが、敵もなかなかしぶといと言うか、逞しいと言うか。
(俺が油断した隙を突いてくるんだ!)
 そう、今日のように。
 身構えていない時を狙って、まるで警戒していない時を狙って放たれる言葉。
 きっとブルーも何度も何度も断られる内に、叱られる内に学習したというヤツだろう。
 四六時中、強請って繰り返すよりも効果的なタイミングで言った方がいい、と。
 小さなブルーは、そう思っているに違いないのだが。



(チビはチビだけに、外しているがな…)
 自信たっぷりに繰り出される攻撃は、確かに絶妙のタイミングではある。
 今夜のように心の奥深くスルリと忍び込んでおいて、今頃になってフワリと浮上するほどに。
 けれども、タイミングはともかく、ブルーが身に纏う雰囲気の方がズレていた。外している、と思うのは其処だ。
 ブルーとしては、前の自分の表情や声を真似ているつもりなのだろうけれど。キスを強請るのに相応しい顔をしているつもりだろうけど、生憎とやはり何処かが違う。
 声変わりしていない声もそうだが、その表情。
 所詮は子供の顔でしかなく、背伸びしてみても子供は子供。



(今のあいつなら、家に呼んでも…)
 大丈夫だろうという気がする。
 再会を遂げて間もない頃に、「ハーレイの家に行きたい」と請われて気軽に受けた。生徒を家に招くことは多いし、それと変わりはしないだろうと。
 ところが、訪ねて来たブルー。
 年相応にはしゃぎ、家のあちこちを見て回ったりして御機嫌だったが、合間、合間にふと見せる顔が幼い子供のそれとは違った。
 小さなブルーの面差しの向こうに幾度も透けて揺らめいて見えたソルジャー・ブルー。寂しげな顔の、頼りなげな顔のソルジャー・ブルー。
 思わずそれを抱き締めたくなり、腕の中に収めてしまいたくなって。
 前の自分が失くしてしまったブルーを手にしたいと強く願ってしまって、懸命に思い留まった。これは違うと、小さなブルーは前のブルーとは違うのだ、と。
(うっかり抱き締めちまっていたら…)
 とても止まりはしなかったろう。ブルーを丸ごと手中にするまで、小さな身体を己だけのものにしてしまうまで。
 それは決して許されないから、「大きくなるまで家には来るな」とブルーに告げた。前の背丈と同じに育つまで、この家に来てはならないと。
(そうは言ったが…)
 今のブルーには、もう出来まい。
 自分を恐れさせたあの表情は、ソルジャー・ブルーと同じ表情はもう出来まい。
 それくらいブルーは今の小さな身体に馴染んだ。
 年相応の愛らしい子供になった。
 キスを強請られても「まだ子供だな」と余裕の笑みで見守れるほどの小さな子供に。



(だが、約束は約束だしな?)
 いくら脅威が無くなったとはいえ、今更、解いてやることもない。
 ブルーの家でしか会えないことには慣れているのだし、お互い、不自由はしていない。ブルーがたまに、教え子を家に招いたと聞いて「いいな…」と羨ましがる程度。
 それにブルーはこれから育つ。育てばソルジャー・ブルーの姿に、前のブルーの姿に近付く。
 そうなってくれば再び増してゆく脅威。
 けれども一度、家に来るのを許してしまえば、もう一度追い払うことは難しい。
 ゆえに、このまま遠ざけておくのが一番いい。
 家には来るなと、前のブルーと同じ背丈に育つまでは決して来ては駄目なのだ、と。



(しかし…)
 俺も忍耐強くなったもんだな、と笑みが零れた。
 ブルーと出会って間もない頃なら、あんな台詞を思い出したら。
 愛らしい唇でブルーが紡いだ、誘う言葉を思い出したら。「キスしていいよ」と可愛らしい声が蘇ったなら、もう平静ではいられなかった。
(うん、充分にマズかったってな)
 こんな所でコーヒー片手に、のんびりと回想しているどころではなかっただろう。
 カップの後片付けさえもしないで寝室に直行、けしからぬ行為に及んだことは請け合いで。
(何度、その目に遭ったんだか…)
 最近はそういうことも無い。
 自分の中の雄がざわめき、頭を擡げることなどは無い。
 小さなブルーが膝に座って胸に身体を寄せて来た日も、「キスしていいよ」と言われた日にも。
 ただただ愛しく思うばかりで、守ってやらねばと誓いを新たにするだけで。



(年を取ったか…?)
 まさかな、と苦笑してみたけれども、この忍耐力。
 ブルーの誘いを余裕で躱せる、笑って躱せる今の自分の心の強さが頼もしい。
 日頃、ブルーに「ゆっくり育てよ」と口癖のように言っているけれど。前のブルーと同じ背丈に育つ時まで、何十年でも待っていてやる、と繰り返し言っているのだけれど。
 この調子ならば、本当に何十年でも待てる気がする。
 小さなブルーの身体を欲する自分を叱ることなく、泰然自若として大人の余裕で。
 たとえ本当に何十年という時を待たされることになったとしても。



(待てよ…?)
 何十年、と考えた所で、ふと引っ掛かった。
 前の自分はどのくらいの時をブルーと過ごした…?
 今も忘れることが出来ない、前のブルーと。メギドで失くしてしまったブルーと。



(アルタミラから後が三百年だ…)
 あの生き地獄から脱出した日にブルーと出会った。
 偶然にも同じシェルターに閉じ込められていた、今のブルーと変わらない姿をしたブルーに。
 それから長い長い時をブルーと共に過ごして、フィシスが来てからも変わることなく。
 青い地球をその身に抱く少女に前のブルーが魅せられた後も、ブルーとの絆は切れなかった。
(しかし、あいつは弱っていって…)
 衰え始めたブルーの体力。弱くなっていった命の炎。
 虚弱だった身体が急速に弱ってしまった時には、後継者になるジョミーがもう生まれていた。
 それゆえの世代交代だろう、とブルーが笑って言ったくらいに。
 悲しげな笑みではあったけれども。寂しげな笑みではあったのだけれど。
(寿命なんだよ、と笑いはしたが…)
 自らの命が尽きると悟ったブルーは何度も、何度も泣いた。ハーレイの胸で何度も泣いた。
 ハーレイと地球へは行けそうもないと、もうすぐ死んでしまうのだと。
 泣きじゃくるブルーを強く抱き締め、涙を拭ってやっていた記憶。
 その時が来ても独りぼっちで逝かせはしないと、自分も何処までも一緒にゆくから、と。



(あいつ、年寄りだがチビだったんだ…)
 出会った時には今のブルーと全く同じにチビだったブルー。小さかったブルー。
 その後、育ちはしたけれど。
 今の小さなブルーと違って順調に育ちはしたのだけれども、ブルーはチビで。
 リーダーとして物資を奪いに出掛けるよりも前は、自分の後ろにくっついていた。隠れてまではいなかったけれど、後ろをついて歩いていた。
 まるで幼子がそうするように。親の背中を追い掛けるように。
(心は俺より、ずっと年下…)
 そんなブルーと何十年を共に過ごしただろう?
 キャプテンの任も、ブルーの補佐役になれるのならば、と喜んで受けた。ソルジャーと呼ばれるようになるよりも前のブルーがそれを望んだから。「ハーレイにならば命を預けられる」と。
 ブルーの力になれればと願い、キャプテンにまでなって、ブルーと共に生きていた。
 恋人ではなく、友達として。
 互いに誰よりも心を許せる、一番の友達同士として。



(おいおい、本当に何十年だぞ?)
 前の自分はいったいどれだけ、前のブルーと友達としての時を過ごしたのか。
 シャングリラが巨大な白い鯨となって、青の間が立派に出来上がった後も友達同士で。
 お互いの部屋を訪ね合ったり、二人でお茶を飲んだりはしても、友達同士。
 ブルーへの恋に気が付いた時は、どのくらい経っていたのだったか…。
(考えちゃいかん…!)
 何十年では済まないかもしれない、友達同士で過ごしていた時。
 縁起でもない、と思った所でハタと思い出した。



(あいつ、自分からは言わなかったぞ…!)
 キスしてもいいよ、とは一度たりとも。
 互いの想いを確かめ合って恋人同士として初めてのキスを交わすまでの間には、ただの一度も。
 ブルーは言いはしなかった。今の小さなブルーのようには。
 キスを交わすのが常になってからは、強請って来ることもあったけれども。
 ブルーはあくまで控えめだったし、晩熟でもあって。
(そもそも、キスすら知らなかったんじゃないか?)
 恋人同士で交わすものだということを。愛し合う者同士、キスを交わすということを。
(嫌なことを思い出して来たような…)
 忘れていた、とハーレイは呻く。
 今の今まで忘れ去っていたと、前のブルーはキスさえ知らなかったのだと。



 アルタミラから脱出した後、ブルーがまだまだチビだった頃に、頬や額にしてやったキス。
 年は上だが心が幼いままのブルーに幾度もキスをしてやった。
 くすぐったそうに、嬉しそうに笑っていたブルー。キスを貰って幸せそうにしていたブルー。
(可愛かったんだ、あいつ…)
 甘やかすように、キスを幾つも。頬に、額に、触れるだけのキス。
 けれどブルーが育ってからはご無沙汰だった。
 小さかったブルーが育つにつれてキスは間遠になってしまって、いつしか消えた。
 ブルーも後ろにくっつかなくなり、ソルジャーとして前を歩くようになった。キャプテンだった自分を従え、堂々と歩いていたブルー。
(青の間が出来てからもそうだったんだが…)
 ソルジャーの威厳を高めるためにと作り上げられた、壮大な青の間。ブルーは其処で一人きりの暮らしをしていたけれども、不自由は無さそうだったけれども。
 それが何故だか、側に居たがるようになって。
 用も無いのにキャプテンの部屋を訪ねて来たり、一日の報告を終えた自分を引き留めたり。
 座っていれば隣に腰を下ろして、もたれて来たりもするようになって…。



(うんうん、やたらとくっつきたがるようになったんだった)
 もたれたままで眠ってしまったり、ただ幸せそうに寄り添っていたり。
 そうした時にブルーが浮かべていた表情。
 自分と同じだと、ブルーも同じだと気付いて嬉しかったのだった。
 これは恋だと、互いに恋をしているのだと。
 焦らずにゆっくりとブルーの本当の気持ちを確かめ、額に落としてやったキス。
 何年ぶりだか、もはや思い出せないくらいに長い間、していなかったキス。
 ブルーは拒みはしなかった。
 次は頬へとキスを落としても、ふわりと花が綻ぶように笑んだ。



(だがなあ…)
 それで満足してしまったのが前のブルーで。
 恋が叶ったと、想いが叶ったと幸せ一杯だったブルーは本当に晩熟だったのだ。
 ただ側に居て抱き締め合うだけ、額と頬へのキスだけで充分。
 もうそれだけで満ち足りていたから、その先を望みはしなかった。もちろん唇へのキスも。
 思い付きさえしなかった、と表現するのが正しいだろう。
(前の俺も蛇の生殺しか…?)
 思い出したくなかったのに、と悲しい気持ちになってくる。
 小さな身体のブルーではなくて育ったブルーと恋をしたのに、キスをするなら頬か額に。唇へのキスはブルーが望んでもいないのだから、と我慢でお預けの日々が続いた。
 恋人と共に過ごしているのに、抱き締め合うだけ。
 頬と額にそうっとキスを落としてやるだけ。



(それに比べれば、今度のあいつは…)
 今はキスさえ禁止してある、小さなブルー。
 禁じられているのに「キスしていいよ」と、桜色の唇で歌うように紡ぐ小さな恋人。
 一人前の恋人気取りで首に腕まで回してくるほど、キスに焦がれているブルー。
 前の記憶を持っている分、時が満ちれば簡単に突破出来そうだけども。
 キスくらい、きっとブルーの背丈が前と同じになったその日に幾度でも交わせるだろうけれど。
(前の俺は苦労をしたんだった…)
 ブルーにキスを教えるのに。
 恋人同士のキスはこうだと、唇へのキスを教え込むのに。



(その俺は何処で知ったんだ…?)
 キスの仕方を、と思ったけれども、追及したならロクでもないことを思い出しそうで。
 今の小さなブルーへの欲望に負けて寝室へ突っ走るのと変わらない記憶が彼方から蘇りそうで。
(俺は最低なヤツだったのか…?)
 前の自分を友達だと信じてくれていたブルーを裏切っていたのか、と情けなくなる。大切な友を欲にまみれた目で見ていたかと、あわよくばと狙っていたのかと。
 いつか手にするチャンスを夢見て、よからぬ企てをしていたのかと。
 しかし…。
(違うな、ライブラリーにあった小説だな)
 戯れに手に取った小説の中にそういう描写が在ったのだった、と遠い昔の記憶が教えた。
 恋人同士はキスを交わすと、口付けを交わすものだと其処に記されていたと蘇る記憶。
 ホッと一息ついたけれども。
 ブルーを手に入れようと画策していたわけではないのだ、と安堵したけれど。
 恋愛小説などを読んでいた時点で、もう充分に下心だか下地だかが生まれていたかもしれない。
 いつか自分も恋をするのだと、こういった恋をしてみたいと。



(キスの先のことも…)
 ブルーとの恋が成就した後にライブラリーで調べたのだった、と溜息をつく。
 どうすればいいのか、どうするべきなのか。
(その手の資料まで揃っていたっていうのが凄いが…)
 お蔭でブルーの身体を傷つけることなく、痛い思いをさせることなく手に入れられたと自負している。もしも資料が無かったならば、初めての夜は一体どうなってしまったことか。
(勉強したのは俺ばかりなんだ…)
 晩熟だったブルー。恋に気付いても、頬と額へのキスで満足していたブルー。
 要はブルーは、とことん受け身で。
 自分の方からは決して動かず、動く必要などは微塵も感じていなかった。



(キスだって、だ。唇にしてやれば充分っていうヤツだったしなあ…)
 唇にそうっと、触れるだけのキス。初めての唇と唇が触れ合ったキス。
 頬や額へのキスと違って、特別な場所へのキスだったから。
 ブルーも他のカップルが交わすキスは知っていたから、それで満足してしまった。恋人同士でのキスはこうだと、唇を合わせるキスを交わした、と。
 だが生憎と、前のブルーが知っていたキスは挨拶のキス。
 恋人同士が交わしてはいても、触れ合っただけの軽いキス。人前でも恥ずかしくなかったキス。
 それよりも深いキスがあろうとは、前のブルーは夢にも思っていなかったから。
(俺はサイオンに感謝するぞ…!)
 言葉ではとても言えないから。
 本当のキスはこうするものだと、言葉で教える度胸などありはしないから。
 肩にもたれたりしているブルーに悟られないよう、そうっと知識を滑り込ませた。安心し切って心まで委ねて来ているブルーの意識の下へと、知識を送った。
 キスは唇に触れるだけのものではないと、もっと深くて強いものだと。
 繰り返し、繰り返し、そう送り込んで。
 ようやっとブルーが物足りなさそうな顔をしたから、初めて本当のキスを交わした。
 恋人同士の長い長いキスを、互いの身体の一部を絡み合わせるキスを。



(そこまで行くのにどれだけかかった…?)
 思い出すだに物悲しくなる、前の自分が辿った恋路。
 きちんと大きく育ったブルーと恋をしたくせに、回り道を延々と歩み続けた前の生。
 頬と額へのキスで充分だと思っていたような晩熟のブルーを相手に涙ぐましい努力をしていた。
(育ったブルーだったんだが…!)
 今のブルーに「この背丈まで育て」と言い聞かせてある背丈に育っていたブルー。
 けれども中身はまるで子供で、恋をしていても全く成長しなかった。
 何処までも晩熟で、キスさえ強請りもしなかったブルー。
 それに比べれば、今の小さなブルーの方は。
 キスだけだったら何の苦労も要らないだろう。
 その先のことも、時さえ来れば。
 小さなブルーが前と同じに育ちさえすれば自然に解決、愛を交わせる筈なのだけれど。



(前の俺はそっちも苦労したんだ…!)
 せっかく知識を仕入れて来たのに、ブルーはといえば唇を重ねるキスだけでもう満足で。
 これで本当に恋人同士になれたのだ、と固く信じて疑いもせずに、幸せそうにしていたから。
 ただ抱き合ってキスを交わしては、それは嬉しそうに微笑んだから。
(…俺がスケベなだけかもしれん、と自信が揺らいで来たんだ、あれで…!)
 ブルーがそれで充分だと感じているのだったら、いっそこのままで居ようかとも思った。優しく抱き締め、キスを交わすだけで過ごそうかという気持ちにもなった。
 けれども、やはりブルーが欲しい。
 恋が実って手に入れたブルーを、愛おしいブルーを自分だけのものにしてしまいたい。
 きっとブルーもそうであろうと、晩熟だから分からないだけであろうと思うことにした。キスが何かも知らなかったように、身体を繋げることもブルーは知らないのだと。
(きちんと教えりゃ、応える筈だと思ったんだよなあ…)
 それでもブルーが無反応なら、その時は潔く諦めよう。
 キスだけで一生を終えることにしよう、と決意を固めて、キスの時と同じように教えた。触れた場所から知識をそうっと滑り込ませて、ブルーがそれに反応するまで。
 物足りなさそうな顔をするまで、ただひたすらに辛抱強く。
 キスどころでは済まない深い行為だけに、どれほど苦労したことか。
 晩熟なブルーに教え込むのに、繰り返し、繰り返し、意識の下へと送り込むのに…。



 苦労を重ねてブルーを手にした、前の自分。
 晩熟だったブルーにキスから教えて、ようやく手に入れることが叶ったキャプテン・ハーレイ。
 その道のりにかかった時間は考えたくもなく、思い出すまいと記憶に鍵を掛けた。
 縁起でもないと、あれほどに待たされてたまるものかと。
 けれど…。
(今度はどうやら楽勝だしな?)
 まだ幼いのに、小さいというのにキスを強請ってくるブルー。
 「キスしていいよ」と自分から言ってくるブルー。
 時さえ来れば、ブルーが前のブルーと同じ背丈に育ちさえすれば。
 苦労せずともブルーは手の中に落ちて来る。
 熟した果実が落ちて来るように、何もせずとも自然と枝から落ちて来るように。



(本物の恋人同士だっけな)
 今の小さなブルーの口癖。
 最近は滅多に言わないけれども、出会った頃にはうるさいほどに言われたものだ。大きく育って早く本物の恋人同士になりたいのだ、と。
 それは結ばれたいという強い望みで、小さなブルーは今すぐにでも、と思っていたほど。
 身体も心も幼すぎるのに、前の生で夜毎に交わした甘い睦言を今すぐにでも、と。
(あいつが大きく育ちさえすれば、そっちの方だって簡単だしな?)
 誘いさえすれば、今のブルーは直ぐに応じる。
 前のブルーのような待ち時間は無くて、何を教える必要も無い。時が満ちれば結ばれるだけ。
 ならば、余裕で待てるだろう。
 何十年という時を待たされたとしても、時さえ満ちれば今のブルーが言う本物の恋人同士という間柄。何の苦労も長い回り道も要りはしなくて、ブルーとの本当の恋が始まる。
(うん、今度の恋には余計な待ち時間ってヤツが無いんだな)
 今の自分の落ち着きの元はこれだったのか、と気が付いた。
 何もせずとも手に入るブルー。
 手に入れているも同然のブルー。
 今は小さくて話にも何もならないけれども、育ちさえすれば正真正銘の恋人になる。
 前とそっくり同じ姿に美しく育ち、キスもその先も、全て承知の非の打ち所がない恋人に。



(要は待ってりゃいいんだからな)
 そう、今の自分は前と違って待つだけでいい。
 ただのんびりと待っているだけ、下調べも要らず苦労も要らない。前の自分の苦労は要らない。
 ゆっくりと待つのが自分の仕事で、その日は確実にやって来る。
 小さなブルーもいつかは大きく育つ筈だし、焦らずに待っていればいい。
 まだ青い果実が熟す日まで。
 固くて小さな青い果実が、食べ頃に育って落ちて来るまで。
 甘い香りをその身に纏わせ、すっかり熟して枝から離れて落ちて来るまで…。



(まだまだ、あいつは熟してないんだ)
 一人前だと主張していても、熟してはいない小さな果実。まだ青い果実。
 食べてみれば美味しいのかもしれないけれども、それは許されないことだから。
 教師としての自分はもちろん、大人としても許されはしない。
 いくらブルーに望まれようとも、十四歳の小さな子供に手を出すことなどしてはならない。
 それに、前のブルーのその頃の味など知らないから。
 今のブルーと変わらない頃の、アルタミラから脱出した頃のブルーの味など知りはしないから。
 食べてみようと思いはしないし、食べたくてたまらないわけでもない。
 未熟な果実をあえて食べずとも、熟すのを待てばいいだけのこと。



(うん、待てるさ)
 充分に待てる、と大きく頷く。
 何年でも、たとえ何十年という時が必要でも自分は待てる。
 前の自分のような回り道は要らず、待ち時間も苦労も要らないのだから。
 その上、運が良かったならば。
(小さいあいつが嫁に来るかもしれんしな?)
 もしもブルーが育たなかったら、育たないままで結婚出来る十八歳になってしまったら。
 周りが止めても、ブルーは聞かない。きっと聞かない。
 何年間かは我慢したとしても、いずれ強引に嫁入りしてくるに違いない、という気がするから。
(チビのあいつが嫁に来たなら…)
 キスは禁止だと、大きくなるまでキスは駄目だと言い聞かせても意味が無いだろう。小さくてもブルーは花嫁なのだし、同じベッドで眠るのだろうし。
 そうなったならば小さなブルーと、キスも、その先も…。



(うーむ…)
 小さなブルーとキスを交わしたら、結ばれたならばどうだろうか、と思ってしまって。
 ついウッカリと考えてしまって、慌てて頭からそれを追い出そうと首を大きく左右に振った。
 そうして冷めたコーヒーを一気に飲んだけれども。
(…………)
 いかん、と立ち上がり、空になったカップをキッチンへと足早に運んで行った。
 辛うじて片付けをするだけの理性は残っていたから、洗って戸棚に仕舞ったけれど。コーヒーの残り香も消えたけれども、もしかすると。
 今夜は捕まってしまったかもしれない。
 余裕で躱して逃げて来た筈の、小さな恋人がかけた呪文に。



「キスしてもいいよ?」
 身体の奥底で熱い熱が疼く。
 頭を擡げる情欲の獣。
 耳の奥で愛らしい声が囁く。
 キスしてもいいよと、ぼくはいいよ、と…。




            可愛い誘惑・了

※前のブルーと恋をした後、色々と苦労したらしいハーレイ。…ブルーが奥手だったせいで。
 今度は要らない苦労ですけど、その代わり誘惑されるのです。待たされたって、それも幸せ。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









「ブルー!」
 キッチンからママの声がして。
 ドキンと胸を躍らせた、ぼく。おやつを食べてる最中だけれど、ちゃんと予感がしてたんだ。
「揚げ立て、試食するでしょう?」
「うんっ!」
 ほらね、やっぱり。
 学校から帰って直ぐに覗いたキッチン。いつも通りに綺麗に片付いてたけれど。だけど見付けた揚げ物用のお鍋。油は入っていなかったけれど、あれがある時は…。



(早めに出てたらコロッケなんだよ)
 ママのコロッケ。ママが作ってくれるコロッケ。
 揚げ立てはホクホクでホントに美味しい。どんなおやつも敵いやしない。カリッと揚がった衣に熱々の中身、匂いだけで齧り付きたくなっちゃう。
 おやつじゃなくっておかずだけど。コロッケはおかずなんだけど…。
 だけど食べたい、揚げ立てコロッケ。おやつの他にも食べたいコロッケ。
(晩御飯だと、御飯も他のおかずもあるもの…)
 いつも夕食の直前に揚げてくれるんだけれど、それだと沢山入らないぼく。他のおかずや御飯が邪魔して、美味しくっても幾つも食べるってわけにはいかない。
 だから試食で、おやつの時に冷蔵庫で休ませてるのを一個だけ揚げてくれるんだ。
 もちろん充分に休ませてから。



(特別に作ってくれるんだものね)
 コロッケのタネを少し取り分けて、小判型じゃなくってまあるく丸めて。
 揚げる油も他のを揚げる時より少なめ、ぼくの試食用を一個、揚げられる分だけ。
 そのために出ていた、揚げ物用のお鍋。フライとかだと、こんな時間にはまだ出ていない。
(パパが帰ってくる時間に合わせているもの)
 コロッケの日だけは、ちょっと特別。ぼくの試食用を揚げるためにだけ早く出るお鍋。待ってる間に漂って来たいい匂い。ママがコロッケを油の中に入れたんだ。
(小さいから、すぐに揚がるんだよ)
 流石に一瞬では揚がらないから、待ち時間がちょっぴりあるけれど。冷蔵庫で休ませてたタネにしっかり火が通るまでの間、美味しそうな匂いを嗅ぎながら。



 ぼくだけが食べる特製コロッケ、ミニサイズ。
 ミートボールよりも、タコ焼きよりも小さなコロッケ。コロンとまあるい小さなコロッケ。
 いつだって一個。揚げ立ての味の試食用が一個。
 まだかな、まだかな、って首を長くして待ってた間はどのくらいだろう?
「はい、どうぞ」
 召し上がれ、ってママがフォークを添えて持って来てくれた。小皿に乗っかったホカホカの揚げ立て、揚げ物用の白い紙を敷いた上にチョコンと一個。
「舌を火傷しないように気を付けてね」
「うんっ!」
 大丈夫、ってフォークで刺して、息を吹きかけて、熱さを確かめてから頬張った。
(ふふっ、美味しい!)
 ホクホクの熱々、衣もサクサク。たったの二口で無くなってしまうのが惜しいコロッケ。もっと食べたくなっちゃうコロッケ。
 今日のおやつも美味しかったけど、ママのコロッケは格別なんだ。
 これを食べたら、大抵のおやつは霞んじゃう。特にこういう肌寒い季節になってくると。



 御馳走様、ってママにお皿を返して、部屋に戻って。
 勉強机の前に座っても、忘れられないママのコロッケ。食べて来たばかりの試食用。
(美味しかったな…)
 まだ舌の上とか頬っぺたの内側にコロッケの味が残ってる。それと温かさ。サクッとした衣も、ホクホクの中身も、ぼくにとっては後を引く味。最高のおやつ。
 本当はもっと食べたいけれど。試食用なら三個くらいはいける筈だと思うんだけれど。
(だけど、食べ過ぎるんだよね…)
 ずうっと昔に強請って強請って、普通サイズのを一個、揚げて貰って食べたことがある。
 いつもの試食用じゃ嫌だと、もっと大きいのが食べたいんだ、と。
 ママは「晩御飯、ちゃんと食べられるの?」って何度も訊いたし、「さっきおやつも食べていたでしょう?」って言われたけれど。
 だけど食べたくて、「平気だもん!」と答えた、ぼく。コロッケが食べたかった、ぼく。
 「知らないわよ?」って言いながら揚げてくれたママ。試食用より大きなコロッケ、御飯と同じサイズのコロッケ。ぼくは大喜びだった。「ありがとう!」って齧り付いた。
 おやつとは別腹、とっても美味しく食べられたのに。
(本当に美味しかったのに…)
 晩御飯にも沢山食べるんだ、って楽しみに待っていたというのに、頼りないお腹。消化に時間がかかる胃袋。
 肝心の晩御飯の時にコロッケを一個、それが精一杯。御飯も他のおかずもサラダも、半分ほども食べられなくって、「欲張るからだ」とパパに睨まれた。
 「ちゃんとママから聞いているぞ」って、「大きなコロッケを食べたらしいな?」って。



(今なら、きっと普通のコロッケを一個食べても…)
 いけるような気がするんだけれど。
 あの頃よりもずっと大きくなったし、大丈夫じゃないかと思ったりもする。
 普通サイズは難しくっても、試食用の数を増やして貰おうかな、とも思うんだけど…。
 問題はその後に待ってる夕食。きちんと食べ切ることが出来るか、そこが大切。
(失敗しちゃったら睨まれるくらいじゃ済まないしね?)
 だって、十四歳だから。
 義務教育の最後の学校に入学しちゃった、十四歳にもなる子供だから。
 「自分の胃袋の限界も分からないのか、お前は?」って、きっとお説教されるんだ。まだ十歳の頃とかだったら、睨まれて終わりだろうけれど。
(それに…)
 恋人までいるぼくが強請りに行くのも可笑しいよね、と自分で自分に言い聞かせた。
 チビだけれども、ぼくには恋人がいるんだから。ハーレイのお嫁さんになるんだから。
(ただの子供でチビじゃないんだよ)
 ちゃんと恋人がいて、お嫁さんになるっていうのは魔法の呪文。
 子供っぽい我儘を抑え付けるにはピッタリの呪文。
 それを自分に向かって唱えた。おねだりしている場合じゃないよ、って。



(結婚しちゃったら我慢もしないと…)
 お嫁さんが我儘を言ったりしていちゃ駄目だろう。
 いい子にしなくちゃ、と言うのも変だけれども、いい大人?
 とにかく我儘なんかは言わずに、聞き分けのいい人間ってヤツにならなくちゃ。
 でも…。
 試食用のコロッケ。大好物の揚げ立てコロッケ。
 あれの魅力は捨て難くって、結婚したって簡単に忘れられそうにない。
(ハーレイ、作ってくれるかな…)
 うんと美味しい揚げ立てコロッケ、ホクホクの熱々のミニサイズ。
 ぼくのお気に入り、ぼくの特別。
 本当だったらお嫁さんのぼくが揚げるんだろうけど、ハーレイは料理をするって言うから。上手らしいから、任せておいても良さそうな感じ。ぼくが悪戦苦闘するより、きっと美味しい。
 だけど試食用まではどうだろう…?
 あれはママだから揚げてくれるもので、きっとぼくだけの特別の味。胃袋が元気な普通の子供は試食用なんか要らないだろうし、あんなコロッケを食べている子は、きっとぼくだけ。
 もちろんハーレイも試食用コロッケなんかは知らないだろうと思うんだ。
 あれが欲しいのに、あれが食べたいのに。
 結婚したって、ハーレイのお嫁さんになったって。



(頼むっていうのも子供っぽいよね…)
 結婚してから「作ってよ」ってハーレイに頼んだら笑われてしまいそう。
 「お前、子供だな」とか、「チビだった頃と変わらんな」とか。
 ママにさえおねだり出来ないのに。試食用を増やして欲しい、って頼めないから、我慢しようと自分に呪文をかけたのに。
 恋人だっているんだろうと、お嫁さんになるんだろうと。だから我慢、って。
(でも…)
 頼んでおくなら今の内だろうか、ハーレイがぼくを子供扱いしている間に。
 チビだ、子供だ、って言っている間に、将来のために頼んでおく…?
(試食用のコロッケ…)
 揚げ立ての魅力はとても大きくて、もっと食べたいほどだから。
 それと永遠に「さよなら」だなんて、今のぼくには耐えられやしない。御飯の時しか揚げ立てのコロッケが食べられないんじゃ、コロッケの美味しさが半減しちゃう。
 おやつとは別に試食でちょっぴり、先に食べるからワクワクするんだ。
 今日の御飯はコロッケなんだ、って、揚げ立ての熱々を頬張る時間が最高だから。



(だけど、ホントに子供っぽいし…)
 いくら子供の間に頼むにしたってあんまりだろうか、と悩んでいたらチャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイムの音。窓から覗いたら、案の定、大きく手を振るハーレイの姿。
 よし、とぼくは決心した。
 ハーレイが来たのも何かの縁で、きっと神様が頼んでいいって許して下さったんだろう。
 試食用のコロッケを揚げて欲しいと頼んでもいいと、今の内に頼んでおきなさい、と。



 そうやって決意を固めた、ぼく。
 ママがハーレイを案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて。そのテーブルを間に二人で向かい合わせに座って、ぼくは早速、コロッケの話をすることにした。
 いきなり「試食用を揚げて欲しい」って強請っちゃホントにただの子供だし、普通にコロッケの話題から。ごくごく自然に、試食用の「し」の字も出さないように。
「ねえ、ハーレイ。今日の夕食、コロッケなんだよ」
「ほう…。楽しみだな」
 そう言ったハーレイは本当にコロッケを楽しみにしているみたいだから。
「ハーレイもコロッケ、好きだったりする?」
「揚げ立ては実に美味いからな」
 うむ、って嬉しそうな顔。
「揚げ立てが美味しいって、知ってるの?」
「そりゃまあ、な」
 美味いだろうが、ってハーレイの顔が綻ぶ。コロッケは揚げ立てがいいんだぞ、って。



 揚げ立ての美味しさを知ってたハーレイ。
 ぼくみたいに試食用コロッケも食べるんだろうか、って思っていたら。
「自分でも揚げるし、道端で食ってる時だってあるぞ」
「道端?」
 なんで、ってビックリしたんだけれど。ハーレイにとっては不思議でも何でもないらしくって。
「歩いてる時とかに美味そうな匂いがしてくりゃ食べるさ」
 肉屋の店先で揚げているヤツ。プロの味には家じゃ絶対に勝てないからな。
「そうなの?」
 勝てないって、ぼくのママとかハーレイでも駄目?
 どうして勝てなくなっちゃうの?
「揚げてる油が違うんだ。肉屋の油はラードだからな。それも出来立てのラードってヤツだ」
 そいつを手に入れるには肉屋じゃないとな、売ってるラードじゃ駄目なんだ。
「へえ…!」
 知らなかった、と驚いた、ぼく。
 肉屋さんのコロッケも美味しいけれども、まさか油が違っただなんて…!



「お前、食ったことないのか、店先で?」
 この近所の店でも揚げているだろ、美味そうなのを。通りすがりに見ているんだが…。
「食べ過ぎるから、って駄目なんだよ。ママが買うだけ」
 買って来てすぐの熱々の間も、ぼくは食べさせて貰えないんだよ。食事の時間まではお預け。
 今日のコロッケはお店のじゃなくて、ママがこれから揚げるんだけど…。
「うーむ…。肉屋のコロッケも美味いんだがなあ、特に店先で食う揚げ立てのヤツは」
「ぼくは無理みたい…。お店に試食サイズは無いもの」
「はあ?」
 そういやコロッケの試食は無いか…。カツとかだったら、たまに見かけるが。
「試食に出ているヤツじゃなくって!」
 こんなのだよ、ってハーレイに詳しく説明した。
 いつも食べてる試食用。ぼく専用の特別サイズのまあるいコロッケ、小さなコロッケ。大きさも指で「このくらい」って作ってみせて。
 ぼくのはこんなの、って。こういう試食用なんだよ、って。



「おやつに揚げて貰うんだよ」
 ママがコロッケを作った時は。
 晩御飯だと沢山食べられないから、おやつに一個。だから試食用で小さいコロッケ。
「優しいお母さんで良かったじゃないか」
 なかなかそこまでしてはくれんぞ、おやつの時間にわざわざ一個だけ揚げるなんてな。油だってそのためだけに熱くしなけりゃならないんだし…。
「うん。だけど小さい頃から揚げてくれるよ、「試食するでしょ?」って」
 それでね、ハーレイ…。
 ぼく、試食用のコロッケが好きなんだけど…。御飯の時とは別に食べるのが好きなんだけど…。
 もしもハーレイと結婚しちゃったら、試食用のコロッケ、無くなっちゃうよね…。
 ママはもう揚げてくれないもの。
「俺にも試食用を作れってか?」
 お前の言ってるミニサイズ。そいつをおやつに揚げろってか?
「駄目?」
 やっぱり駄目かな、結婚した時は試食用のコロッケ、諦めておいた方がいい…?
「いや、欲しいのなら作ってやるが…」
 どうしてもお前が欲しいんだったら、作ってやらないこともない。
 お前のお母さんのと同じ味のが作れるかどうかは全く謎だが、小さなコロッケくらいならな。



 ハーレイは腕組みをして「試食用だな」と頷いてくれた。
「ふうむ…。結婚したなら、コロッケを作る時には余分に一個か」
 お前がおやつに食べる分を一個。試食用とやらを別に作ればいいんだな、うん。
「いいの?」
 試食用サイズのを作ってくれるの、それをおやつに揚げてくれるの?
「ああ。おやつ用だろ、飯とは別に。仕事のある日は無理かもしれんが、休みの日にはな」
 おやつの時間にちゃんと揚げるさ、俺の分もついでに揚げるからな。
「えっ?」
 ハーレイの分って、ハーレイも食べるの、試食用のコロッケ?
「もちろんだ。揚げ立ては美味いと言っただろうが。道端で食ってることもあるぞ、と」
 お前が試食で一個食うなら、俺用のも一緒に揚げて食わんとな。
 俺のおやつだ、試食用だ。
 どうせ油は熱くするんだし、一個でも二個でも手間は変わらん。



「えーっと…」
 ぼくの試食用コロッケを揚げてくれるのはいいんだけれども、自分用もと言い出したハーレイ。そのハーレイは試食用を幾つ食べるんだろう?
 ぼくでも一個じゃ物足りないのに、ハーレイ、一個で足りるんだろうか…?
 心配になって、訊くことにした。足りないんだったら申し訳ないし、ハーレイの試食用は多めでいいよ、って言っておかなきゃいけないから。
「…ハーレイが自分のおやつに揚げる試食用のって、一個?」
 ぼくに合わせて一個だけだと足りないんじゃない?
 もっと多めに食べてくれていいよ、二個とか、三個とかを揚げてくれても。
「ほほう、心配してくれるのか? 俺の胃袋」
 俺が作って揚げるんだからな、ちゃんと自分で加減をするさ。
 そうだな、普通サイズを一個ってトコか…。もしかしたら二個かもしれないが。
「普通サイズを一個か二個って…。そんなに食べるの?」
 御飯じゃなくって試食用だよ、おやつだよ?
「悪いか、俺がお前くらいの年の頃には充分、おやつだ」
 普通サイズの一個や二個はな。
 俺だけじゃないぞ、柔道の道場仲間や水泳を一緒にやってたヤツら。帰り道の肉屋でコロッケを何度も買って食ったな、家に帰るまでの間のおやつ代わりに。
 学校帰りに買ってる普通の男子生徒もいたから、コロッケ一個はおやつだろうな。



 ハーレイ曰く、ぼくくらいの年の男の子だったら、おやつにコロッケ一個は普通。
 それも試食用のサイズじゃないのをペロリとおやつに食べるのが普通。
 ママが揚げてくれるような試食用じゃなくって、普通サイズを一個だなんて…。
「…ぼくが変なの?」
 試食用のを一個だけ食べてる、ぼくって変なの…?
「変じゃないだろ、沢山食えないってだけだろうが」
 単なる胃袋のサイズの違いだ、でなけりゃ消化のスピードだな。
 おやつを食ってから晩飯までにだ、胃袋の中身が消えさえしたなら何の問題も無いんだからな。
 というわけでだ、俺の試食用コロッケは普通のを一個。もしくは二個だ。
「羨ましいかも…」
 思わずポロリと本音が零れた。
「羨ましいだと?」
 怪訝そうな顔をしているハーレイ。
 俺の胃袋が羨ましいのか、って訊いて来たから、「ううん」と首を左右に振った。
「ハーレイの胃袋じゃなくって、おやつに食べられるコロッケの数…」
 試食用、増やしたいんだけれど…。
 今の一個じゃ物足りないから、二個か三個に増やしたいんだけど…。
 そう思ったけど、頼めないんだよ。ママにおねだり出来ないんだよ…。



 前に食べ過ぎてパパに睨まれちゃったし、と打ち明けた、ぼく。
 ずうっと昔に強請って失敗してしまったから、増やして欲しいと言いにくい、ぼく。
「お嫁さんになるんだから、って言わずに我慢してるんだけど…」
 ハーレイが沢山食べるって聞いたら、つい、羨ましくなっちゃった…。
「嫁さんなあ…。嫁さんになるから我儘は言わずにおこうってか?」
「そう。…ぼくには最強の呪文なんだよ、我慢するには」
 お嫁さんになろうと思っているのに、子供っぽいことをしちゃ駄目だ、って。
 我慢しなくちゃいけないんだ、って。
「それなのに俺には強請っている、と」
 試食用のコロッケを揚げて欲しいと、作って欲しいと強請るわけだな?
「今の内だと思ったから…」
 頼むんだったら、ハーレイがぼくを子供扱いしてる間にしなくっちゃ、って。
 子供だったら少しくらいは我儘を言っても許されそうだし、今の間に頼んじゃおう、って…。



 シュンと項垂れちゃった、ぼく。
 いくら子供でも、結婚してから後のことまで我儘を言ったら駄目だったろうか…?
 ハーレイに呆れられちゃったかも、って俯いていたら、髪をクシャリと撫でられた。褐色の手でクシャッと撫でられて、「馬鹿」と言われた。
 やっぱり馬鹿なことをしちゃったんだ、と思ったんだけど。
 ハーレイはぼくの頭をポンと軽く叩いて、もう一度「馬鹿」って、ぼくの髪を撫でた。
「しょげるな、馬鹿。でかくなっても強請っていいのさ」
 我慢しなけりゃいけないだなんて、それだと俺の立場が無いぞ。
「なんで?」
「俺の嫁さんになるんだろうが。遠慮しないで我儘も言え」
 うんと我儘を言って、強請って。その方がいいな、俺としてはな。
「…いいの?」
 お嫁さんなのに我儘言ってて、本当にいいの?
「前のお前は言ってただろうが」
 あれが欲しいとか、あれを持って来いとか。
 何度ブリッジの俺に思念を飛ばして注文したんだ、あれは我儘じゃないのか、おい?
「そういえば…」
 いつも色々言っていたかも、青の間に来る時に持って来て、って…。
 前のぼく、我儘言っちゃってたかも…。



「ほら見ろ、言っていたろうが」
 前のお前は嫁さんってわけじゃなかったが、ってハーレイは片目をパチンと瞑った。
「俺の嫁さんではなかったが…、だ。嫁さんみたいなものだったろうが」
 お前が嫁に来たとしてもだ、あの頃と何も変わりはしないさ。
 嫁さんだから我慢しろとか、我儘を言うなとか、俺の都合で縛ってどうする。
 お前は好きにしてればいいんだ、嫁に来てやったと威張っていろ。
「…威張るの?」
「威張っていいだろ、うんと美人になるんだからな。誰もが嫁に欲しがるような」
 何処へでも嫁に行けたというのに来てやったぞ、と威張っておけ。
 そして我儘も言って、強請って。
 嫁さんの我儘を叶えてやるのも甲斐性の内だ、叶えてやれるのは嬉しいもんだ。
 前の俺には出来なかったことが今度は出来るし、お前を思い切り甘えさせてやるのが夢なんだ。
 甘えさせてやって、守ってやって。
 そういう生活が俺の夢だぞ、どんどん我儘を言えばいいのさ。



 コロッケもだ、って言ったハーレイ。
 試食用のコロッケも我儘を言って強請ればいいと。
「コロッケの試食用も我儘の内だ。おまけに、たかがコロッケなんだぞ」
 お前のおやつ用に別に作って揚げればいいっていうだけだろうが。
 その程度のことも出来んようでは、他の我儘を叶えてやるなど無理に決まっているからなあ…。
 いいか、コロッケはちゃんと強請れよ?
 作るんだったら試食用もと、おやつに絶対食べるんだから、と。
「じゃあ、結婚したら試食用サイズのコロッケ、増やせる?」
 今は一個しか作って貰えないけど、ハーレイ、数を増やしてくれる?
「お安い御用だ。二個でも、三個でも作ってやるが、だ」
 ただし、食い過ぎて肝心の飯を食い切れなかったら…。
 俺がせっせと腕を奮った飯をすっかり残しちまったら、覚悟しとけよ?



 ハーレイの台詞はもっともだから。
 ぼくのパパやママでもおんなじことを言うだろうから、覚悟はしてる。
 おやつの食べ過ぎで御飯がお腹に入らなかったら、ハーレイだって、きっと…。
「…残したら、怒る?」
 それとも、睨む?
「いや」
 俺は怒りも睨みもしないが?
「じゃあ、どうするの?」
 覚悟しとけ、って言ったじゃない。怒ったり睨んだりしないんだったら、どう覚悟するの?
「お前が残しちまった食事は俺が纏めて食っちまうが、だ」
 だから食事は無駄にはならんが、残しちまったお前の方。
 食い過ぎた上に運動不足だ、ということになるな。運動すれば腹が減るもんだしな。
 運動不足は身体に良くない。
 つまり付き合え、と。
 俺と一緒に運動して貰う。腹ごなしを兼ねてたっぷりとな。
「う、運動って…!」
 まさかジョギング!?
 ぼくも走るの、ハーレイと一緒に?



 そんなの無理だ、と悲鳴を上げたぼくだけれども。
 ただでも走るのは得意じゃないのに、ハーレイと一緒にジョギングだなんて…!
 震え上がってしまったけれども、ハーレイはなんだかニヤニヤしてる。
 ぼくを苛めるつもりだろうか、とビクビクしてたら、褐色の頬が可笑しそうに緩んで。
「晩飯を食い終わってからジョギングか、おい」
 そいつは健康的とは言えんな、夜食が欲しくなっちまう。
 ジョギングするなら軽く食う程度だ、腹一杯に食ってからでは身体にも負担がかかるしな。
「じゃあ、何?」
 ハーレイ、たっぷり運動って言ったよ、ぼく、運動は苦手なんだけど…!
「なあに、お前でも簡単に出来る運動さ」
 前のお前も得意だったし、お前だって充分こなせるだろう。
 ただ、チビのお前にはまだ早い。
「えっ?」
「思い切り運動に付き合って貰う。…育ったお前でないと無理だが」
 家の中で出来る運動ってヤツだ。寝ながら出来るとも言うかもなあ…。
「寝ながら…?」
 首を傾げてしまった、ぼく。
 家の中で出来て、寝ながら出来て…。



(マット運動…?)
 それくらいしか思い付かないけれども、前のぼくはマット運動なんかはやってない。得意だとかそういう以前の問題。今のぼくはもちろんマット運動も下手で…。
(大きくなったら上手になるっていうこと、ある…?)
 うんと下手くそなマット運動、クルンと回って起き上がるどころか転がってるぼく。マットから外れて落っこちたりもするし、前のぼくみたいに育ったとしても多分、無理。
(ハーレイに支えて貰うとか…?)
 体育の先生が補助してくれるように、支えてクルンと上手に回らせてくれるんだろうか?
 そうやって練習しろってことかな、ハーレイもぼくの身体を支えたりしなきゃいけないし…。
(嬉しくない…)
 ジョギングよりはマシだけれども、マット運動だって好きじゃない。
 いくら家の中で出来る運動でも嫌だ、と思ったんだけど。
「おいおい、マットが違うんだがな?」
 そんな色気の無いマットじゃない、ってハーレイがスッと指差した先。ぼくの部屋の中の何処にマットが、と視線を遣ったら…。
(マットレス…!)
 確かにマットはあったけれども、マットレス。ぼくのベッドのマットレス。
 あれを使って運動だなんて、それって、もしかしなくても…!
「分かったか、チビ」
 コロッケの試食用を食い過ぎた時は、運動だ。俺と二人でたっぷりと…な。



 ちゃんと育ったら付き合えよ、って言われて、真っ赤になってしまった、ぼく。
 試食用のコロッケを欲張り過ぎたら、食べられてしまうらしい、ぼく。
 運動と称してベッドの上で、ハーレイに美味しく食べられてしまう。
 だけど、我儘を言ってもいいのがお嫁さんだと言うのなら。
 それに待ってる罰がそれなら、強請ってみよう。
 うんと優しい、ぼくの大好きなハーレイに。
 試食用のコロッケの数を増やしてと、一個じゃとても足りないからと。
 ぼくのお気に入りの揚げ立てコロッケ、ミニサイズ。
 おやつ用に小さなコロッケを二つ作ってと、三つか、四つか、もっとでもいい、と…。




          コロッケ・了

※ブルーが大好きな試食用のコロッケ。結婚した後も食べたいから、と強請るくらいに。
 結婚してから食べ過ぎた時は、運動しないと駄目らしいです。とても幸せな運動ですけどね。
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(月か…)
 あいつに似ているな、とハーレイは西の空に浮かんだ月を見上げた。もうとっぷりと暮れた空。
 仕事で遅くなってしまってブルーの家には寄れなかったが、空にブルーがいるようだ。
 秋の夜空に輝く月。
 三日月よりは少し日が経っている。けれども半月まではとてもいかない、細い月。
 まだ頼りなげな、細っこい月。
 さしずめ、チビのブルーといったところか。十四歳の小さなブルー。
 そんな気がする、今夜の月。
 同じ月でも前のブルーであったら、満月。
 その美しさを余す所なく見せる満月、見る者の目を惹き付けずにはおかない澄み切った光。
 十五夜、名月、十三夜。それに十六夜…、と月の名を心で挙げてゆく。
 どれもブルーだと、前のブルーだと。



 ガレージから、庭から、玄関先からと何度も月を見、名残を惜しみつつ家に入った。
 もしや窓から見えはしないか、と覗いてはみたが、予想したとおり無理らしい。
(ブルーみたいだと思っちまうと、離れ難いもんだな)
 普段はさほど気にしない月。満ちて来たなとか、欠けてゆくのかとか、その程度の月。
 けれども今夜は月が気にかかる。
 ブルーに似ている、と見上げた月が。



 前の生から思っていた。ブルーはさながら月のようだと。
 ずうっと思っていたのだけれども、その思いが一層強くなったのが、ジョミーが来た時。
 ソルジャー候補としてシャングリラに迎え入れたジョミーはまるで太陽だった。
 明るい金髪、前向きな性格。
 太陽そのものな強い生命力と輝きを纏った少年、それがジョミーで。
 彼が来てから、ますます「ブルーは月だ」と思った。
 次のソルジャーは太陽のようだが、今のソルジャーは月なのだな、と。
 そして祈った。
 太陽の圧倒的な光の前には儚く弱い月だけれども、その光が消えてしまわぬようにと。
 シャングリラに太陽を迎えたとはいえ、太陽と月とは対の存在。
 消えてくれるなと、月のような恋人の命の灯がいつまでも消えぬようにと、ただ祈っていた。
 太陽と月とは共に在るべきだと、太陽の光で輝く月が消えてしまってはいけないのだ、と。



(だが、待てよ…?)
 ジョミーを太陽に例える者たちは多かったけれど、対するブルー。
 長い年月をソルジャーとして生きたブルーを、仲間たちは月に例えていただろうか?
 ブルーを月だと言っただろうか、と遠い記憶を探ってみて。
(…言わなかったか?)
 月だと聞かされた覚えが無い。
 そう言った者もあるいは居たかもしれないけれども、シャングリラ中に流布したものではない。ジョミーは太陽だったけれども、前のブルーは月ではなかった。
 あれほどに月が似合うというのに、月を見てブルーだと思ったのに。
 銀色の髪に真っ白な肌。
 印象的な赤い瞳はともかく、他の部分は月だったとしか思えぬブルー。ソルジャーとして纏った上着も白と銀とで、月の光のようだったのに。



(…月ってヤツが無かったからなあ、仕方ないと言えばそれまでなんだが…)
 アルテメシアにも、後に降りたナスカにも無かった月。
 月が無いのでは、ブルーに例えようもない。身近に無いなら、それは頭に浮かびはしない。
 けれど…。
 誰も「月だ」と言い出さない中、月なのだと思い続けた自分。月のようだと思った自分。
 アルテメシアには無かった月。雲海に遮られて見えないのではなく、無かった月。
 前の自分はそれを何処で見たろう?
 無い筈の月を、ブルーに似た月を、いったい何処で…?



(天体の間か?)
 空が無かったシャングリラ。雲の海の中に空は無かった。もちろん夜空も、夜空の星も。
 その代わりというわけでもなかったけれども、地球の夜空を彩る星座を投影していた天体の間。季節に合わせて変わる星座は、地球の様々な場所からの見え方も再現できた。
 北極、南極、赤道直下。
 標準だった地点はかつてイギリスと呼ばれた場所だと記憶している。
 銀河標準時間を算出するための基準とされていた地点。SD体制よりも前の時代にはグリニッジ標準時の名であったそれの由来となった天文台が建っていた場所。
 其処から見上げる四季の星座を投影するのが常だったけれど、月も投影していたけれど。
 今の地球ではこう見えるのだと、満ち欠けする月も映していたのだけれど。
 所詮は機械が映し出す月で、光の像に過ぎなくて。
 その美しさまでは伝わらないから、ブルーは月とは呼ばれなかった。
 ソルジャー・ブルーは月のようだとシャングリラで言われはしなかった。



(では、何処だ…?)
 何処で見たろう。
 ブルーさながらの月の光を。
 天体の間の月ではないと言うなら、前の自分は何処で本物の月を見たろう…?
(…本物の月はこうじゃないんだ、と思っていたぞ、俺は)
 もっと綺麗だと、もっと美しいものなのだと。
 それはブルーにとても似ていると、本物の月はブルーのようだと。
 けれども何処でそれを見たのか、それが全く思い出せない。前の自分が月を見た場所。
(何処だったんだ…?)
 夕食の支度をしながら遠い記憶を手繰り続ける。
 肉を、野菜を切ってゆく間に、味噌汁の出汁を取る間に。料理を台無しにしてしまわぬよう気を付けながらも、前の生の記憶を追い続ける。



(アルタミラでは月どころでは…)
 脱出した時にはメギドの炎で燃え上がっていて、空は真っ赤に染まっていた。粉塵と煙と炎しか無かったあの赤い空に、月が昇っていたのだとしても。
 あの空に月が懸かっていたのだとしても、見上げる余裕はまるで無かった。
(第一、そいつは綺麗な月じゃなかったろうさ)
 月が美しく輝く夜には大気は澄んでいるものだから。
 そういう季節や、そういった夜に煌々と照るのが月なのだから、燃え盛る空では濁るだけ。その美を損ねる塵に覆われ、ぼんやりと空に浮かぶだけ。
(あの日の月だったってことだけは絶対に無いな)
 アルタミラの月ではないと思うが、あるいはあそこで失くした記憶か。
 成人検査と、その後に何度も繰り返された人体実験。何もかも消されてしまった記憶。養父母と暮らしていた頃の記憶。
 消えて無くなった記憶の何処かに月が潜んでいたのだろうか?
 幼かった自分が見上げた月が。アルタミラの空に高く昇った、本物の月が。



(その可能性は有り得るな…)
 消された記憶の中の月か、と結論づけて出来上がった料理を盛り付けた。
 炊き立ての御飯も茶碗によそって、テーブルに着いて。誰も居なくても「いただきます」と合掌してから食べ始める。今の両親や先輩たちから叩き込まれた礼儀作法で、これは欠かさない。
(こういったことも前の俺だと、何もかも忘れちまっていたしな…)
 養父母の顔も、彼らが教えてくれたことも。
 それと同じで月の記憶も消えたのだろう、と箸を進めていたけれど。
 だが、もっと。
 失くしてしまった記憶の彼方のおぼろげな月。それとは違う、と何かが心に引っ掛かる。
 もっと確かな月を見たのだと、遠い昔の自分の記憶がざわめく気配。
 はっきりと月を見た気がする。
 これぞ月だと、ブルーのようだと思った月を。



 何処で…、と考え込みながら夕食を終えて、片付けをして。
 コーヒーを淹れたマグカップを手に向かった書斎で、腰掛けた途端に鮮やかに蘇って来た記憶。
(シャングリラか…!)
 前の自分が見た月の記憶。
 それはシャングリラではあったけれども、天体の間に映し出された月ではなかった。天体の間がまだ無かった頃。シャングリラが白い鯨として完成された姿を現す前。
(そうだ、月のある星に降りていたんだ…)
 シャングリラを巨大な白い鯨にするべく改造していた最中のこと。
 宇宙空間では出来ない作業が幾つも生じた。重力が無いと、星の上に降りないと出来ない改造。そうした過程に差し掛かる度に、無人の星を選んで降ろした。
 改造中に降りていた星。
 其処に月が在った。
 シャングリラが人類に見付からないよう、シールドを張っていたブルーの姿を月明かりで見た。
 大気など無い星の上に立ち、涼やかな顔をしていたブルーを。
 生身の身体に月の光を浴びたブルーを。



(綺麗だったっけな…)
 月光の下に佇むソルジャー・ブルー。
 まだ恋をしてはいなかったけれど、その立ち姿に、整った顔立ちに見惚れていた。
 モニター越しに見ているだけでは足りなくなって、どうしても肉眼で見てみたくなって。仕事の合間に宇宙服を着て外へも出てみた。ブルーが生身で立つ星の上へ。
(視察してくる、とキャプテンらしい理由をつけちゃいたが、だ)
 単にブルーを見たかっただけ。月光の中に居たブルーの姿を。
 そうして外へ出て直ぐ側で見た、月明かりに照らされたブルーはそれは美しくて。
 銀色の髪に、透けるような肌に月の光を浴びて立つさまは、名工の手になる銀細工のようで。
 ただただ、魂を奪われていた。
 月が似合うと、まるで銀細工のような人だ、と。
(銀細工なんて、シャングリラには一つも無かったんだがな)
 そんな贅沢なものは無かったのに、と苦笑する。
 本やデータでしか存在を知らず、美しい宝物の一つなのだと認識していた銀細工。
 ブルーをそれに例えていたとは、存外、自分も大したロマンチストだったのだな、と。

 

 今の世界ならば銀もあるのだけれど。
 博物館だの美術館だのに行けば、それは素晴らしい銀の細工物を目にすることもあるけれど。
(肝心のブルーがチビではなあ…)
 月のようだと、銀細工のようだと思ったブルーは小さくなって帰って来た。十四歳の幼い少年になったブルーと、青い地球の上で再び出会えた。
 小さなブルーは銀細工と呼ぶには愛らしすぎて、それらしくない。
 まだ幼くて柔らかすぎる頬に、子供らしさの抜けない手足。愛くるしい笑顔。
(ああいうのは何と呼べばいいんだ?)
 銀細工ではない、小さなブルー。
 滑らかな肌をしているけれども、前のブルーのように白磁の肌というわけでもない。子供の肌に磁器の冷たさは無くて、硬質な光を帯びてもいなくて。
 だから磁器製とも呼べないだろう。銀細工でも磁器でもないブルー。
(うーむ…)
 あえて言うなら砂糖細工の菓子だろうか。
 粉砂糖をベースに作り上げられた細工物。口に入れれば舌の上で溶ける、砂糖細工の甘い菓子。
 そんなトコだな、と砂糖細工なるものを思い浮かべていたのだけれど。



(いかん、食いたくなってくるじゃないか)
 砂糖細工の薔薇だの城だのといった類ではなくて、小さなブルーを。
 幼すぎるブルーを、砂糖細工のようなブルーを食べてみたい、と生まれた欲望。
 しかし、砂糖細工の方ならともかく、銀細工だか磁器だかの前のブルーを食べていた自分は…。
(ずいぶんと丈夫な歯だったな、おい)
 銀だの磁器だのを食っても欠けない頑丈な歯か、と前の自分の歯の丈夫さに笑う。顎もさぞかし強かったろうと、銀だの磁器だのを食べるのだから、と。
(磁器は大体想像がつくが、銀っていうヤツは食ったらどういう音がするんだ?)
 ガチンと冷たい音がするのか、もっと鈍い音か。
 そういった馬鹿馬鹿しいことを真面目に考えなければ思考を他へと逸らせない。
 砂糖細工の小さなブルー。
 味わってみたくても、それは禁忌で。
 小さな身体を、幼い身体を食べることなど、教師でなくとも許されなくて…。



(チビのままで結婚したならな?)
 もしもブルーが成長しなくて、今の姿のままで嫁に来たならば。
 結婚出来る年にはなっているのだから、少し舐めてみるくらいは許されるか、という気がする。
 砂糖細工の小さなブルーは甘いか、それとも柔らかいのか。
 ほんの少し、舐めるくらいなら。
 砂糖細工にそっと歯を立てるくらいなら。
(マシュマロみたいな感じかもなあ…)
 白磁の肌ではなくてマシュマロ。ふんわりと柔らかく、甘いマシュマロ。
 砂糖細工も悪くないけれど、小さなブルーはマシュマロだろうか?



(食う方向から離れないのか、俺は!)
 そいつは危険な思想ってヤツだ、と自分の頭をゴツンと叩いた。けれど離れない砂糖菓子。
 頭にしっかり住み着いてしまった、砂糖細工の小さなブルー。
(まずい、こいつは実にマズイぞ)
 砂糖細工から遠ざからねば、と銀細工の方へ向かうことにした。
 前の自分が食べていたブルー。月のようだと思ったブルー。
 白磁の肌は見た目よりもずっと柔らかくて、まるで手のひらに吸い付くようで…。
(うん、滑らかな上生菓子とかな)
 上生菓子だ、と前のブルーの肌の感触を菓子になぞらえた。
 前の自分たちが生きた頃には無かった和菓子。存在すらも消されていた菓子。今の自分が暮らす地域に遠い昔に在った島国、日本の菓子。
(月も似合うが、上生菓子だってピッタリだぞ?)
 前のブルーの肌を例えてやるならば、と馴染み深い菓子たちを思い浮かべる。
 月見の頃ならウサギを象ったものだとか。
 上質な白餡をたっぷり使って、表面を丁寧に仕上げた練り切り。
 でなければ求肥。
 どちらも前のブルーに似合う、と味わいと食感に思いを馳せていて…。



(いや、待てよ?)
 求肥の菓子は多いけれども、白く柔らかな求肥に透ける淡い桃色の餡や羊羹。
 それは小さなブルーの頬っぺたのようで。
 薔薇色と呼ぶには淡すぎるブルーの頬の色。ほんのひと刷毛、はいたほどの淡い桃の色。それに似ていると、小さなブルーも求肥なのだと、求肥の菓子だと心が騒いで。
(どう転んでも食う方へ行ってしまうのか、俺は…!)
 馬鹿め、と頭をもう一度叩いた。ゴツンと、自分の拳でゴツンと。



 食べてはならない、小さなブルー。
 どんなにブルーが美味しそうでも、美味しそうな見た目を湛えていても。
 けれど、育ったブルーならば…。
(食えるんだがな?)
 銀細工のブルーでも、磁器のブルーでも。
 歯の丈夫さとはまるで関係なく、顎の強さなども問題ではなく。
 それらはあくまで小さなブルーから気を逸らすための冗談であって、歯も顎もまるで関係ない。ブルーを食べるのに、月のようなブルーを味わうために必要なものはただ一つだけ。
 ブルーが好きだと、愛しているのだという気持ちだけがあればいい。
 それだけがあれば、ブルーを求める気持ちさえあれば、いつかブルーを食べることが出来る。
 砂糖細工のブルーではなく、銀細工になってくれたなら。
 小さなブルーが大きく育って、細い月ではなく、丸い月になってくれたなら。



(丸い月なら…)
 食っていいんだ、と思ったけれど。
 何年か待てば食える筈だ、と小さなブルーが育つのを待つつもりだけれど。
(前のあいつか…)
 月が映える、と見惚れていた頃のブルーは食べ損なった。本物の月の光を浴びていた頃の、月を思わせる銀細工のブルーを食べ損なった。
 ブルーはすっかり育っていたのに、しっかりと満ちた月だったのに。
(まさに十五夜だったんだがなあ…)
 月が似合っていたブルー。食べても構わない姿をしていた、あの頃のブルー。
 なのに自分は食べ損なった。
 まだ恋をしていなかったから。
 とうにブルーに恋していたとしても、それと気付いていなかったから。
 ただ美しいと見惚れていただけ、月が似合うと眺めていただけ。
 ブルーへの恋に気付いた時には、もうシャングリラの上に月は無かった。月の無い星へ、雲海の星へ着いてしまってから前のブルーに恋をした。
 月のようだと、銀細工のようだと月の在った星で見惚れたブルーに。
 そうして月だと思い続けた。
 ブルーは本当に月のようだと、月の光が無くなった後で。



(前のあいつとは、月明かりの下では…)
 キスすらも交わしはしなかった。
 恋人同士ではなくてソルジャーとキャプテン、せいぜい「一番古い友達」。
 月の在る星に宇宙服を着て降りて行っても「来たのかい?」と笑顔で迎えられ、ブルーの案内で船の中からは見られない箇所を視察に回っていた程度。作業中の仲間を労った程度。
(前のあいつとの月の思い出は、それだけなのか…)
 月見さえもしていなかった。
 空に浮かぶ月はあくまで光源、改造中のシャングリラを照らす月光という名の自然光。人の手で作る必要が無くて、エネルギーが要らない無尽蔵の光。
 それが照らしている間に、と作業を急がせ、月見の発想はまるで無かった。
 ブルーと二人で月の光の下に居たのに、月の光を浴びたブルーを綺麗だと思って見ていたのに。



(前の俺が次に本物の月を見たのは…)
 月のようなブルーを失くした後。銀細工のブルーをメギドで失くしてしまった後。
 ブルーに恋をして、思いが叶って、月のようなブルーを手に入れた。
 誰にも明かせない恋だったけれど、幸せな時を二人で過ごして、共に暮らして。シャングリラでいつまでも一緒なのだ、と思っていたのに、ブルーを失くした。
 月のようなブルーは逝ってしまって、独りシャングリラに取り残された。
(月のある星にも行ったんだろうが…)
 かつて追われたアルテメシアから、月の無かった星から始めた地球への侵攻。
 幾つもの星を落として手に入れ、ひたすらに地球への道を進んだ。降りた星には月を持つものもあったろう。しかし自分の記憶には無い。月を仰いだ記憶など無い。
(前の俺が見ていた本物の月は…)
 この地球の月。それを目にした。汚染された大気で赤く濁った満月を、地球に降りた夜に。
(だが、あんな月は…。月じゃなかった)
 ブルーに似合うと思った月。そんな月はあの日の地球には無かった。清らかに澄んだ月の光など何処にもありはしなかった。
 遠い日に降りた月の在った地球では、自分の隣にブルーはいなくて。月のようなブルーはとうに彼方へ飛び去った後で、赤い月では思い出しさえもしなかった。
 月が似合った美しい人を。
 一刻も早く追ってゆきたいと願い続けた愛おしい人の、月のような面影も佇まいも…。



(よし、今度は!)
 今度こそは、と心に誓った。
 月の映える恋人を、月のようなブルーを、月明かりの下で抱き締めよう。
 青い地球を照らす月明かりの中でキスを交わそう。
 そして…。
(前の俺が食い損なってしまった分を取り返さんとな?)
 月の似合うブルーを、月の在った場所で食べ損なってしまった自分。
 ブルーに恋をしていなかったから、見惚れただけで終わった自分。
 わざわざ宇宙服まで着て見に出掛けて、その美しさだけを眺めて終わってしまった自分。
(馬鹿としか言いようがないんだが…)
 おまけにブルーへの恋を自覚したのも遥か後。救いようのない馬鹿とも言える。
 馬鹿で間抜けだった前の自分が食べ損ねた分を取り返さねば、と強く思わずにはいられない。
 幸い、今では青い地球の上。宇宙服など要りはしないし、月だって正真正銘の月。
(月と言えば地球の月だしな? 本家本元は)
 一ヶ月かけて満ちて欠けてゆく、地球の月。
 前の自分が仰いだ頃とは別物のように澄み切った月。
 その月の下でブルーを食べる。前の自分が食べ損なってしまった、月の光を浴びたブルーを。



(流石にカーテンを開けっ放しというのはマズイか?)
 寝室に射し込む月光の中で、月のようなブルーを食べたいという気がするのだけれど。
 カーテンを開け放ったままで抱こうとしたなら、月の似合うブルーは怒るだろうか?
 これはあまりに恥ずかしすぎると、せめてカーテンを閉めて欲しいと。
(そう言われそうな気もするんだが…)
 ブルーの機嫌を損ねそうだが、月の光の下でブルーを抱きたい。
 前の自分が食べ損なったブルーを、月明かりに照らされたブルーを食べたい。心ゆくまで抱いて愛して、味わいたいと思う自分がいる。
(月の光はあいつに似合うに違いないんだ…)
 ソルジャーの衣装を纏っていてすら、あれほどに綺麗だったのだから。
 余計なものなど何も無ければ、それこそ月の精だと思う。
 銀細工の身体に月の光だけ、身に纏うものは射し込む月の光だけ。
 どんなに美しく映えるだろうか、と思い描く。ブルーが月だけを纏ったならば。
 それを食べられる自分はどれほどの幸せに胸を満たされ、幸福に酔ってゆくのだろうか。
 月のようなブルーは自分のものだと、この銀細工は自分一人のものなのだと。



(よしよし、食う方向がズレていったぞ、うん)
 食べるならやっぱり育ったブルーだ、と一人、腕組みをして大きく頷く。
 月の光の下で抱くなら、其処で食べるなら銀細工の方のブルーでなくては。
 前の自分が食べ損なってしまった、あの月の似合うブルーでなくては。
(チビでは、月の光の下ではなあ…)
 今の小さなブルーだったら。
 砂糖細工のブルーだったなら、月の光の下に置いても。
(美味そうなんじゃなくて、可愛いだけだな)
 匂い立つような色香を帯びはしないだろう。しゃぶりつきたくはならないだろう。
 銀細工ではなくて砂糖菓子だから。
 どんなに繊細に作ってあっても、銀や磁器のように月の光を反射したりはしないから。
 その身に月の光を映して、宿して清かに光る代わりに、ほんのりと月に染まるだけ。
 月見団子が月の光に白く浮かんでいるのと同じで、ただ愛らしく其処に在るだけ。
 砂糖細工の小さなブルー。
 月の光の下で食べるには、幼すぎてどうにもならないブルー。
(早い話が月見団子ってことなんだな)
 月ではなくて、と笑みが零れる。
 月のようでも月ならぬ月見団子なのだと、食べるにはまだまだ早すぎるのだと。



 砂糖細工の、月見団子の小さなブルー。
 月が似合っても、銀細工のようだとは言ってやれない小さなブルー。
(いつまで砂糖菓子なんだかな?)
 砂糖細工のままなんだかな、とハーレイの笑みが深くなる。
(月見団子で砂糖細工か…)
 そんなブルーもまた、可愛い。
 ブルーに言ったら怒るだろうけれど、砂糖菓子だなどと言ったら膨れてしまうのだろうけれど。
(しかし、そいつが可愛らしいんだ)
 一人前の恋人気取りで、キスを強請ったりするブルー。
 砂糖細工の小さなブルー。
 愛おしいけれど、食べてしまいたい気もするけれども、まだ早い。
 月明かりの下で食べるのが似合う、銀細工のブルーのようになるにはまだ早い。
 まだ待たねば、とハーレイは小さな恋人を想う。
 待ってやらねばと、まだ待たねばと。
 小さなブルーを食べられる日は少なくともまだ数年先で、その日まで待ってやらねばなるまい。
 満月のようなブルーに育つ時まで、銀細工のブルーに育つ時まで。
 どんなに遠くとも、長い道のりになろうとも。
 今宵、空に在る細い月。
 それが真円に満ちる夜まではまだ遠いように、長すぎる時を待たされようとも、愛おしい恋人が愛を交わすのに相応しい姿に育つ時まで…。




            月と砂糖細工・了

※前のブルーは月のような人。それに銀細工。今のブルーは月見団子で、甘い砂糖細工。
 いつか大きく育った姿は、美しい月になる筈ですけど…。その日はまだまだ先らしいですね。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




今年の冬は寒さが厳しく、除夜の鐘も初詣も雪の中。何かといえば雪、雪、また雪。これは引きこもるしかないと意見が一致し、子供は風の子なんて言葉は何処へやら。この週末も会長さんの家に集まって一泊二日の鍋パーティーだと洒落込んだまではいいのですけど。
「…なんであんたが面子にいるんだ」
解せん、とキース君が睨む先にはソルジャーが。
「えっ、別にいいだろ、ぼくのシャングリラは暇なんだからさ。…ついでにハーレイ、今日は忙しいから夜になっても使えるかどうか」
「「「は?」」」
「夜はいわゆる夫婦の時間! お疲れ気味ではどうにもこうにも…。薬はあんまり使いたくないし、道具もハーレイはドン引きするしね」
「「「………」」」
またか、と溜息の私たち。大人の時間はサッパリですけど、要するにソルジャーは暇を持て余していて、運が悪いと泊まり込まれてしまうようです。それを避けるためにもキャプテンの仕事が早く終わることを祈るだけ。でも…。
「キース、仕事がサクサク進む御祈祷ってあるのかよ?」
サム君が尋ね、会長さんが。
「ウチの宗派は基本がお念仏だしねえ…。目的別の御祈祷は無いよ、残念ながら。お念仏とお経はいつものコースで、ちょこっとお願いを付け加えるくらいが限界かと」
総本山の璃慕恩院では、そのやり方で合格祈願などもするとかで。
「…この際、お念仏でも唱えますか?」
シロエ君の発案で、唱えようかということに。お仕事サクサク終了祈願は伝説の高僧、銀青様な会長さんにお任せコース。さて、と湿っぽく唱えようとしたら。
「ちょっと待ってー!」
先にテレビ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の大きな声が。
「「「テレビ?」」」
「うんっ! 今からスケート、ハイライトなの!」
ダイニングに置かれた大きなテレビの電源が入り、映し出されたスケートリンク。そういえば昨日だったか、フィギュアスケートの大会が何処かであったかな?
「御祈祷、これが済んでからでいい? どうせみんなもお食事中だし」
「あ、ああ…。それはまあ…」
確かに鍋の最中ではある、とキース君。寄せ鍋パーティーはまさに佳境で、グツグツ煮える鍋を囲んでのお念仏はあまり効かないかも…。お念仏、後でいいですよね?



御祈祷の前にテレビ観賞。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はフィギュアスケートが好きと言うより、華麗なジャンプや回転などの技が見たかったらしいです。
「わあっ、凄いや! 四回転~っ!」
まだまだ見るんだ、とテレビに釘付け、私たちも鍋を食べつつスケート観賞。サイオンを使えば回転数は増やせるだろうとか、ジャンプももっと飛べる筈だとか、スポーツマンシップから著しく外れた話に興じていたのですけど。
「…あれっ?」
時ならぬ声の主はソルジャー。綺麗な女性が滑っていますが、まさか好みのタイプだとか?
「えーっと…。うんうん、やっぱりそうか…」
「どうかした?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「ちょっと質問してもいいかな、スケートのことで」
「どうぞ。…ぼくに分かるか謎だけれどね」
「今、滑ってる人の服なんだけど」
「「「服?」」」
何処か変わっているのだろうか、とテレビに注目。けれど火の鳥のイメージだという鮮やかな赤が華やかなだけで、後は羽根を何枚も重ねたように見える全体のデザインが目を引く程度。そう、まるで羽根で出来た服を着ているような。
「この服、直接着ているわけじゃないんだね」
「「「へ?」」」
直接も何も、服は普通に着るものです。特にスケートは着ぶくれたら負け、出来るだけ身体のラインに合わせたデザインになる筈ですが…?
「ごめん、訊き方が悪かったかな? この赤い服、凄く大胆なデザインだなぁ、と思ったんだけど…。肩は丸出し、裾も短くて足が丸見えだと思ったんだけど…。よくよく見たら肌の色と同じ色の服がくっついてるな、と」
「「「ああ!」」」
そういう意味か、と理解しました。スケート靴まで覆う肌色のタイツに、実は手首まである肌色の袖。胸元もガバッと開いているようで、その実、首の所まで肌色が覆っているわけで。
「なるほどねえ…。今頃になって気が付いた、と」
会長さんが確認をすれば、ソルジャーは「うん」と首をコックリ。
「今までに滑った人たちの服もこうだったのかい? ぼくが見落としてただけで」
「そうなるね。これはそういう決まりだから」
肌の露出は禁止事項だ、と会長さん。うん、こういう服って、そうですよね!



スラリと長い手足に加えて肩や胸元も大胆に見せる女性の衣装。ところがどっこい、その実態は肌色スーツとも言うべきものでしっかりガードで、見えるどころか完全武装。私たちには馴染み深くて常識でしたが、ソルジャーは全く知らなかったらしく。
「決まり事なんだ…。じゃあ、今、リンクに出て来たこの人の服も」
「片方の肩が丸見えっぽいけど、しっかりバッチリ隠されてるよ」
会長さんがワンショルダーっぽい衣装の女性を示すと、ソルジャーは「本当だ…」と呟いて。
「足もすっかり隠れてるんだね、今の今まで騙されてたな」
「そう見えるように作られてるしね? やっぱり魅力はアピールしないと」
「魅力?」
「女性ならではの身体のライン! だけどホントに見せてしまったらスケートの技術を評価どころか別物になってしまうしねえ…」
露出度の高さを競ってるわけじゃないんだから、と会長さんは言ったのですけど。
「でもさ、見えた方が嬉しい人が多いから、こういう服になるわけだろう?」
「身も蓋も無い言われようだけど、其処は完全には否定できない」
「うんうん、なるほど…」
面白い服もあるものだ、とソルジャーはすっかり衣装に夢中。スケートの技術も見てあげて、と言いたくなるほど服ばっかりを見ている有様。
「うわあ、これまた大胆だねえ…」
「そういう視点で眺める競技じゃないってば! 失礼だろう!」
「見てくれと言わんばかりの衣装で出る方が悪いと思うけどなあ…」
ひたすら「凄い」を連発しながらのソルジャーのスケート観賞は明らかに何処かがズレていました。私たちがジャンプや回転技に歓声を上げても声は上がらず、見ているものは服、服、服。次はどういうデザインなのか、と食い入るように眺め続けて、ようやっとテレビ放映が終わり…。
「うーん、本当に凄いものを見せて貰ったよ」
「そう言いつつも食いやがったな、俺の分まで!」
キース君が投入した具をソルジャーが横から掻っ攫ったとか、盗られただとか。不満たらたらのキース君を他所に、ソルジャーは。
「ところで、さっきの服なんだけど…。あれって作れる?」
「「「は?」」」
「作れるのかな、って訊いてるんだよ、ぼくもああいうのを着てみたい」
「「「えぇっ!?」」」
まさに青天の霹靂というヤツ。露出多めの女性向けフィギュアスケートの衣装。それを着たいとは、どういう趣味の持ち主なんだか…。



「…君の質問に答える前に、一つ訊くけど」
会長さんが切り出しました。
「君はスケートをやりたいわけ? それとも服を着てみたいだけ?」
「服の方だねえ…」
「なんでまた?」
「見た目に露出が多いから!」
そこがいいんだ、とソルジャー、キッパリ。
「ああいう格好でウロついてればね、ハーレイだってその気になるかと」
「何処をウロつくつもりなのさ!」
「決まってるじゃないか、ぼくのシャングリラのブリッジだよ!」
「最悪だってば!」
自分の威厳を地に落とす気か、と会長さんが責めたのですけど、ソルジャーの方は何処吹く風で。
「落とさないようにあの服なんだよ、分からないかな? 一見、露出はググンと多め。でも実際は手袋もバッチリ、ブーツだってキッチリ履いています、なソルジャーの衣装!」
「「「そ、ソルジャー?」」」
「そう! マントは身体を隠しちゃうから外しておくしかないかもだけれど、他はしっかり装着状態! だけど見た目は上着だけしか着ていません…って服は無理かな?」
作れないかな、とソルジャーの赤い瞳が「そるじゃぁ・ぶるぅ」をチラチラと。お裁縫も得意な「そるじゃぁ・ぶるぅ」なら縫える可能性は大いにあります。案の定、ソルジャーの意図を理解していない無邪気な子供はニコニコと。
「あのね、ソルジャーの服は色々と特別製だから…。宇宙空間とかも飛べないとダメだし、そういうのはぼくにはちょっと無理かなぁ? でも、普段着なら作れるよ?」
「普段着って普通に着られるんだよね、さっきのスケートの服みたいに?」
「うんっ! 手袋もブーツも見えないヤツを作ればいいの?」
「そう! 上着だけです、っていう服が欲しいな、いつものコレ」
ソルジャーは私服に着替える前に身に着けていた白い上着を空中にパッと取り出しました。
「これ一枚しか着てないように見えるのが理想かな。…それで、作れる?」
「えとえと…。頑張ってみるけど、いつ使うの?」
「出来上がったら即、着て歩く! 早い方がいいなあ、それこそ明日でもいいくらい!」
「んーと…。御飯の用意をしなくていいなら、明日の夜には出来るかな?」
型紙がどうとか、布がどうとか。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はとても真剣で…。
「明日の夜にはなんとかなりそう! …でも、御飯が…」
「そこは出前でいいと思うよ、ぼくの奢りで! ノルディにお小遣いを貰ったトコだし!」
お寿司でもピザでも遠慮なく頼んでくれたまえ、と言われましても。…ソルジャー、本気で「上着しか着ていないっぽい」トンデモな服を作る気ですか…?



お裁縫大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」をガッツリ巻き込み、ソルジャーは妙な衣装を作らせて着る気満々でした。しかもキャプテンの仕事が終わらなかったようで、お泊まりコース。
「…お念仏を忘れましたしね…」
シロエ君の痛恨の言葉にズズーン…と落ち込む私たち。キャプテンの仕事がサクサク進むよう、お念仏を唱えて御祈祷をする予定だったのに…。フィギュアスケートのお蔭ですっかり忘れて、災難までが降って来る始末。よりにもよって「上着だけ」に見えるソルジャーの衣装。
「…どう考えてもヤバイよねえ…。ぶるぅが奥で頑張ってるヤツ」
ジョミー君がぼやけば、キース君も。
「当たり前だろう。上着だけだぞ、他はまるっと肌色なんだぞ!」
「猥褻ですよね…」
シロエ君の台詞をソルジャーが聞き咎め、人差し指をチッチッと。
「猥褻だなんて、とんでもない! ぼくはキチンと服を着てるし、問題なんかは全く無い筈! さっきのスケートだってそうだろ、見えちゃ駄目だから肌色を着てるわけだろう?」
「…そうなんだけどね…」
会長さんが疲れ果てた声で。
「なんでそっちの方へ行くかな、ブリッジの士気が下がるだけだと思うけど? そんな格好でウロつかれたら」
「全体としてはそうなるだろうね。ゼルは血管が切れるかもだし、エラは頭痛で倒れそうだ。だけどブラウは楽しんでくれると思うんだよ、うん」
「その前にキャプテンが卒倒するんじゃないのかい?」
「こっちのハーレイみたいにヘタレてないから、ぼくを抱えてダッシュで逃げると踏んでいる。そしてそのまま青の間のベッドに傾れ込むのさ、勤務中だったことも忘れる勢い!」
「……いいけどね……」
好きにしてくれ、と会長さんは右手をヒラヒラ。
「君とハーレイとの仲はバレてるんだよね、ハーレイが気付いてないだけで?」
「そうだよ、だから上着一枚でウロウロしてたら「誘いに来たな」と思ってくれるさ、好意的に」
「……どうなんだか……」
会長さんが特大の溜息をついて、後は野となれ山となれ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は徹夜モードで衣装作りに燃えていますし、此処はソルジャーの奢りだという出前を注文しますかねえ?
「俺、ラーメンな!」
「ぼくは特上握りかなあ…」
てんでバラバラな注文ですけど、こんな深夜にラーメンにお寿司。開いてるお店があるのだろうか、と考えていたら「ホテル・アルテメシア!」と会長さん。本来はルームサービス用のメニューを使って家までお届け、それはとっても高そうですねえ?



夜食は出前で朝食も出前、お昼御飯ももちろん出前。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はソルジャーの注文通りの服を縫うべく頑張りまくって、ついに夕方。
「かみお~ん♪ 出来たよ、お洋服!」
飛び跳ねて来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」に、ソルジャーは嬉々とした表情で。
「本当かい? 着てみてもいい?」
「うんっ! 試着しないとピッタリかどうか分からないしね、直すんだったら急がないと」
「ありがとう。それじゃ早速…」
いそいそとリビングを出て奥の方へと向かったソルジャー。やがて戻って来た時には…。
「「「………」」」
これは絶対アウトだろう! と全員が思ったに違いありません。教頭先生が何度かやらされた裸エプロンなども真っ青な凄まじさ。ソルジャー服の裸上着だなんて…。
「どうかな、コレ?」
私たちの感想を求めるソルジャー、裸上着で右へ左へ。いえ、本当は裸ではなく、ソルジャーの肌の色にピタリと合わせた布で覆われているわけですが…。
「どうと言われても、最悪としか」
会長さんがバッサリ切り捨てました。
「趣味が悪すぎだよ、何処から見ても立派な裸上着だし!」
「分かってないねえ、そこがいいんだ。それにさ、裸じゃないって直ぐに分かるし! 此処さえ見れば、もう一発で!」
あるべき所にあるものが無い、とソルジャーが指差す大事な部分。ソルジャー服の上着はお尻はすっかり隠れますけど、前の部分は開いたデザイン。つまりは肌色の布が無ければとんでもない場所が丸出しになって…。
「最低限のマナーだよ、それは!」
会長さんが怒鳴り付けました。
「君の世界はどうか知らないけど、ぼくたちの世界で其処が丸見えだったら犯罪だし!」
「露出狂という言葉もあるぞ」
キース君も横から割り込み、露出狂が逮捕される根拠の法律と罰則までもスラスラスラ。
「…というわけでな、あんたは警察に捕まるわけだが…。その部分に布が無ければな」
「ちゃんとあるじゃないか、問題なし!」
そしてシャングリラにその手の規則は無い、とソルジャーは高らかに宣言を。
「シャングリラではある意味、ぼくが法律! ぼくが白いと言った時にはカラスも白い!」
「……もう好きにしたら?」
ご自由にどうぞ、と会長さんが匙を投げ、私たちも全員、見事にお手上げ。ソルジャーは裸上着な衣装の試着を終えると、それを抱えてワクワク帰って行ったのでした…。



世にも恐ろしい裸上着風のソルジャーの衣装。どうなったのかも考えたくはなく、縫い上げた「そるじゃぁ・ぶるぅ」だけが評判を心待ちにする中、月曜日は何事も起こらずに過ぎて、やがて火曜日の放課後になって。
「…何も起こらねえな?」
今日も平常運転だよな、とサム君がホットココアを飲みつつ胡桃ケーキをモグモグと。もしかしたらソルジャーは例の衣装を着ていないのかもしれません。人類軍とやらの攻撃が来たなら裸上着で遊ぶどころか、本物のソルジャーの衣装で最前線で戦闘ですし…。
「ブルーには悪いと思うけれどさ、そっちの方が平和だよねえ…」
会長さんがそう言った途端、部屋の空気がユラリと揺れて。
「戦闘の何処が平和なのさ!」
紫のマントがフワリと翻り、キッチリ着込んだソルジャー登場。…裸上着は?
「ああ、アレね。そもそもブリッジで着ていないから!」
「「「え?」」」
やっぱり非常事態だったか、とSD体制でのソルジャーの苦労を垣間見た気がしたのですけど。
「そうじゃなくって! いきなりアレを着てブリッジに行って、ハーレイが卒倒したらマズイじゃないか。あれでも小鳥の心臓なんだよ、ぼくとの仲に限定だけどさ」
「「「………」」」
あのキャプテンに小鳥の心臓。似合わないこと夥しい、と突っ込みたいですが、ソルジャー限定ならばアリかも。そのキャプテンがどうしたんですって?
「だからさ、ウッカリ卒倒されてしまったら裸上着の魅力も何も…。そう思ったから、青の間で披露することにした。絶対、喜ぶと踏んでいたのに!」
「…ダメだったわけ?」
会長さんの問いに、ソルジャーは「うん」と頷いて。
「一瞬、嬉しかったらしいんだけどねえ、裸上着だと思い込んでさ。…それが仕掛けに気付いた途端に文句たらたら、これはダメだとか燃えないだとか」
「燃えないって…。そりゃまあ、服は着ているわけだしね?」
アレはあくまで視覚のサービス、と会長さんが返したら。
「違うってば、其処じゃないんだよ! ブリッジに着て行こうかと言ったら「恥をかくのはあなたですが?」なんて言い出しちゃってさ、もう本当に燃えないらしい」
「…なんで?」
「ハーレイ、好みは脱がす方だったんだよ! 「何の恥じらいもなく脱がれた所で、私は嬉しくありませんが?」だってさ、喜んだのは一瞬だけで!」
「「「………」」」
知ったことか、と言いたい気分を私たちはグッと飲み込みました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の力作がパアになったらしい事実は分かりましたし、これで少しは反省するかと…。



キャプテンの好みは脱がれる方ならぬ脱がす方。ソルジャーご自慢の裸上着な衣装はお好みではなく、もちろん裸上着でブリッジをウロつかれたとしても燃え上がる筈もないわけで。
「…どうすりゃいいのさ、あのハーレイを!」
「脱がせて貰えば?」
ごくごく普通に、と会長さん。
「でもって二人で楽しむことだね、ぼくたちの世界を巻き込まないで!」
「脱がせるだけって芸が無いじゃないか!」
定番中の定番なんだし、とソルジャー、ブツブツ。
「そりゃあ、強引にレイプ風とか、バリエーションは幾つかあるけどねえ? だけど変わり映えはしないわけだし、こう、斬新な脱がせ方とか!」
「………ハサミ」
会長さんが意味不明な単語を口にしました。
「ハサミ? なんだい、それは」
「こう、縫い目に沿ってチョキチョキと切る! いい感じだと思うけど?」
「「「………」」」
何故に会長さんまでがアヤシイ発言を始めるのでしょう? ソルジャーは身を乗り出して「なかなかいいね」なんて言っていますし、ハサミは魅力的なのかも…。
「ハサミで少しずつ服を切るのか…。素敵だけれども、服が台無しになっちゃうねえ…」
「その辺は君が考えたまえ!」
アイデアは出した、と会長さんはプイとそっぽを。ソルジャーは「ハサミかあ…」とウットリし始めましたし、もうあの二人は放っておくのが良さそうです。
「下手に喋ると墓穴だしな」
キース君が小声でそう言い、私たちは飲み物と胡桃ケーキに専念することに。おかわりもしてのんびりまったり、ワイワイ騒いでいたのですけど。
「えーっと…」
ジュースの瓶って開けられる? と謎の台詞が「そるじゃぁ・ぶるぅ」の口から飛び出しました。
「「「瓶?」」」
「そう! ハサミのお話を考えていたら思い出したの、開けられる?」
「そりゃまあ、普通は誰でも……なあ?」
サム君が答えて、シロエ君も。
「栓抜き無しだとキツイですけど、あったらポンと一発ですよ」
「えとえと…。やっぱり普通は栓抜き、要るよね?」
「要ると思うが?」
キース君の返事に「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「そっかぁ…」とニッコリ。
「それじゃハーレイ、凄いんだ! ビールの瓶を口で開けたよ」
「「「えぇっ!?」」」
それはまさかの歯が栓抜きというアレですか? 教頭先生、凄すぎるかも…。



「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頭の中で何がズレたか、歯で栓抜き。ビールの瓶を開けられるという教頭先生、流石は柔道十段です。そんな芸を持ってらっしゃったのか、と皆で感動していたら。
「…なになに、こっちのハーレイがどうしたって?」
ソルジャーが首を突っ込んできて。
「えっ…。ビールの瓶を歯で開けるって!?」
信じられない、と目を丸くするソルジャーに、会長さんが。
「それが出来るんだよ、一種の隠し芸かもしれない。学校絡みの宴会なんかでたまに披露するみたいだし…。ぼくはああいう野蛮な芸は」
「凄いじゃないか!」
会長さんの言葉が終わらない内にソルジャーが膝を乗り出して。
「そうか、ビールの瓶を歯でねえ…。その芸、応用出来そうだよ、うん」
「「「応用?」」」
「ハサミなんかよりずっと深いよ、口で脱がせればいいんだってば!」
これは燃える、とソルジャーはグッと拳を握りました。
「いいアイデアをありがとう! 今夜が楽しみ!」
口でじっくり脱がせて貰う、と叫ぶなりパッと消えたソルジャー。私たち、何かやりましたか?
「……口で脱がす、ね……」
上級者向け、と会長さんが深い溜息。
「一応、覚悟はしておきたまえ。無事に済まない可能性が高い」
「「「は?」」」
「ビール瓶だよ。このタイミングで持ち出さないで欲しかったな、と。…あ、ぶるぅは悪くないんだけどね。君たちが暇を持て余してなきゃ言わなかったと思うから」
「そこで俺たちのせいになるのか!?」
どういう理屈だ、というキース君の反論は無視されました。
「とにかく、ブルーがアヤシイ話を持ち込んで来たら自分自身を呪うんだね。…ぼくは君たちを思い切り呪いたい気分になるだろうけど」
「…なんで?」
ビール瓶の何処がマズかったわけ、とジョミー君。それは私も訊きたいですが…。
「分からないかな、ブルーが口だと言ってただろう? 歯で栓を抜くと聞いて閃いたんだよ、脱がすのが趣味なあっちのハーレイに口で脱がせて貰おうと!」
「「「!!!」」」
それはマズイ、とタラリ冷汗。キャプテンが無事にやり遂げたならば御礼と結果報告の猥談もどきで済むのでしょうけど、もしも失敗した時は…?



教頭先生のビール瓶開けの芸が、思わぬことから別の世界へ飛び火した模様。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の口からその芸を聞いた時には「凄い」の一言だったというのに、同じ「凄い」がソルジャーにかかると別方向へと大暴走で。
「……どうなったと思う?」
ジョミー君が小声でコソコソと。あれから日は経ち、今日は金曜日の放課後です。しかも普通の金曜ではなく、十三日の金曜日。キース君によると更に仏滅、あまつさえ三隣亡とかいう大凶としか言いようのない強烈な日で。
「…日が悪いからな…」
嫌な予感しかしないんだが、とキース君。
「しかしだ、今の段階であいつが来ないということは、だ」
「無事に終わるかもしれないですよね、もうすぐ五時半になりますし」
シャングリラ学園、日暮れが早い冬の間は五時半が完全下校の時刻。一部のクラブ活動を除いて生徒は下校と決まっています。ただし特別生は例外、学校の廊下で野宿しようが無問題。でも、私たちに野宿の趣味はありませんから、完全下校のチャイムが鳴ったら大抵、解散しているわけで。
「この調子だと来ないわよね?」
スウェナちゃんがマツカ君に振り、マツカ君も。
「来ないだろうと思いたいです」
「マツカ先輩、そこは強気に行くべきです! 来ないと断言すべきです!」
昔から言霊と言いますし、とシロエ君が強調した時、キンコーン♪ と完全下校のチャイムが。
「「「やった!!」」」
来なかった、と私たちは急いで帰り支度を始めました。キャプテンはきっとソルジャーの注文に見事に応えたのでしょう。そうに違いない、と鞄を確認、さて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を後にするべく立ち上がったら。
「間に合ったーっ!」
「「「!!?」」」
ダッシュならぬ空間移動で滑り込んで来たお客様。紫のマントのいわゆるソルジャー。
「ごめん、ごめん! 思い切り手間取っちゃってさ、用意するのに」
「「「…用意?」」」
「ここじゃアレだから、続きはブルーの家でいいかな」
「ちょ、ちょっと、君は何を勝手に!」
一人で決めるな、と会長さんが叫ぶよりも前にパアァッと溢れた青いサイオン。ソルジャー、一人で全員を連れて飛びますか! 誰も行くとは言ってないのに、殺生なーっ!



瞬間移動でフワリ、ドッスン。会長さんの家のリビングに放り出されて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が明かりをパチンと。部屋は明るくなりましたけれど、私たちの気分は既にドン底。
「…なんでこういうことになるんだ…」
キース君が呻くと、ソルジャーは。
「急いでたんだよ、全員揃っていた方がいいし! ぼく一人では頼みにくいし!」
「「「は?」」」
「こっちのハーレイ! どうしてもお願いしたかったんだよ、例の芸をさ」
「「「芸?」」」
ビール瓶開けのことでしょうか? そんなの、ビール瓶さえ用意して行けばソルジャー単独でも簡単にお願い出来そうですが?
「ビール瓶開けだけならね」
ぼくがお願いしたいのは指導、とソルジャーの答えは斜め上。いったい何の指導を頼むと?
「ぼくのハーレイに芸を仕込んで欲しいんだ。ビール瓶を開ける芸を持った口でさ、如何にしてぼくの服を脱がせるか、そういった点をビシバシと!」
「そ、それは…。それは些か無理があるかと…」
会長さんが必死に言葉を紡ぎました。
「君のハーレイが口で脱がせられなかったということは分かった。だけど、こっちのハーレイにその手の芸当が出来るかどうかはまた別物で!」
「やってみなけりゃ分からないだろう!」
物は試しと昔から言う、とソルジャー、負けずに切り返し。
「もしも上手に出来るようなら、その技を是非、ぼくのハーレイに! ダメで元々、ここは一発、チャレンジだけでも!」
そのための道具を用意していて遅くなった、とソルジャーが指をパチンと鳴らすと。
「「「えぇっ!?」」」
リビングのド真ん中にソルジャーそっくりの人影が二つ。よくよく見れば人形らしくて、それにソルジャーの衣装が着せつけてあって。
「いい感じだろ? 材料はすぐに揃ったんだけど、作るのに手間がかかってねえ…」
「自作したわけ?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは「ううん」とアッサリ否定。
「ぼくのシャングリラには色々な技を持ったクルーが揃っているんだよ。空き時間にコッソリ作って貰った。あ、もちろん記憶は消去してきたよ?」
こんなモノを作らせたことがバレたら大惨事だし、と笑うソルジャー。たかが自分にそっくりの人形、作ったとバレたら何故大惨事に?



「え、大惨事になる理由かい?」
ソルジャーは得意げに人形の片方を指先でチョン、と。
「あんっ!」
「「「???」」」
なに、今の声? ソルジャーそっくりの声でしたけど…?
「ちなみに、こっちも」
もう一体の人形をソルジャーがつつくと「あんっ!」と鼻にかかった甘い声。もしや人形が鳴きましたか? そういう仕掛けになってるんですか?
「ご名答! ぼくが感じる部分と同じ所を刺激すると声が出る仕掛け。流石のぼくもそういう部分を大々的に公開する趣味は無いからねえ…。人形を作った記憶ごと消去」
「「「………」」」
恥じらいが無いと評判のソルジャーですけど、少しくらいはあったようです、恥じらい属性。それで、この人形をどうすると?
「こっちのハーレイに一つ、ぼくのハーレイに一つ! ぼくの服を口で脱がせる作業を人形相手に実地で指導で勉強会!」
ゲッと仰け反っても時すでに遅し。ビール瓶を歯で開けられる教頭先生の話を持ち出した時点で墓穴を掘っていたのです。深い墓穴が十三日の金曜日に「さあ入れ」と言ってきただけで、穴はとっくに出来ていたらしく。
「それでね、是非ハーレイの所へ一緒に行って、ご指導ご鞭撻をよろしくと…」
人生終わった。そう思ったのは私だけではないでしょう。下手に触ると「あんっ!」と声を上げる人形相手に、口を使ってソルジャーの衣装を脱がせるための勉強会。その人形の姿形はソルジャーそっくり、つまりは会長さんにも瓜二つで…。
「まさか嫌とは言わないよねえ? 日頃からSD体制の下で苦労しているぼくの頼みを…」
「もう分かった! 分かったから!」
会長さんが頭を抱えて、墓穴が口をパックリと。もう入るしかありません。虎穴に入らずんば虎児を得ず、とは聞きますけれども、お墓は全く要りませんから「入らない」というチョイスは無いんですか、そうですか…。



こうして不幸にも決まってしまった勉強会。まさかそういうモノだとも言えず、ソルジャーの瞬間移動で教頭先生の家へ夕食後に強制連行された私たちは「ビール瓶を歯で開けられる芸」についてだけ教えを請う方向で頼み込みました。
「ビール瓶か…。あれは素人には難しすぎると思うのだが…」
下手をすると歯をやられるぞ、と難しい顔の教頭先生にソルジャーがパチンとウインク。
「その点は心配無用だってば、ぼくのハーレイには念のために歯科検診を受けさせたから! 虫歯も無いし歯茎もしっかり、後は適切な指導さえあれば!」
「…そこまで仰るのでしたら、引き受けさせて頂きますが…。そちらのシャングリラでも宴会芸の出番があるのでしょうか?」
「それはもちろん! 春になったら公園の桜が咲くからね。夜桜を貸し切りで長老たちとの大宴会が待っているんだ、歯でビール瓶を開ければ絶対にウケる!」
真っ赤な嘘が立て板に水。ソルジャーの世界にビールの瓶はあるそうですけど、それを歯で開ける宴会芸などソルジャーはどうでもいいのです。宴会芸よりも服の脱がせ方、そのためにマネキンならぬ特製の人形まで用意していて…。
「練習はブルーの家でやるんだ。もう夕食が済んでいるなら、今すぐにでも!」
「分かりました。片付けも終わりましたし、大丈夫ですが」
「じゃあ、決まり!」
さあ行こう、とソルジャーが声を掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も「かみお~ん♪」と御機嫌で力を合わせて瞬間移動。戻った先のリビングには例の人形が在って。
「な、何なのだ、これは!?」
目を見開いた教頭先生ですけど、ソルジャーは。
「ああ、それ? 実はね、ビール瓶を開けられる口を見込んでお願いがね…。ちょっと待ってよ、ぼくのハーレイも直ぐに呼ぶから」
次の瞬間、キャプテンの制服を纏った教頭先生のそっくりさんがリビングに。
「こんばんは、ご無沙汰しております。本日は御指導を頂けるそうで…」
「いえいえ、お役に立てますかどうか」
「私よりは上でいらっしゃるかと…。なにしろ私はファスナーすらも全く下ろせない有様ですし」
「……ファスナー?」
首を捻った教頭先生に、キャプテンは「これですよ、これ」と人形の襟元を指差しました。
「まずはコレだと思うのですが…。其処まで行きつく以前にですね、マントの留金が全く外れないんです。歯が立たないとでも申しましょうか…」
「…は、歯……」
教頭先生、唖然呆然。ビール瓶の栓を開けるどころか、ソルジャー服の留金を歯で。しかも人形は下手に触ると鳴くんですけど、どうなさいます…?



それから後に起こった惨事は予想どおりのものでした。教頭先生には退路など無く、前進あるのみ。先達の技を習おうと待ち構えているキャプテンがいる以上、まずは留金外しからで。
「…マントの理屈は分かっておいでかと思うのですが…」
「はいっ!」
「此処ですね、此処の襟の所からこう…。ビールの栓を抜く要領でグッと!」
日頃の妄想人生はダテではなかったらしくて、教頭先生は留金をパチンと口で。しかしキャプテンは上手くいかなくて、もたついた末に。
「…すみません、もう一度お願い出来ますでしょうか?」
「いいですが…」
留金外しをもう一度実演するとなったら、外したものを戻さなければいけません。教頭先生が留金をはめるべく人形の襟元を掴んだ拍子に。
「あんっ!」
「は?」
「あ、その人形!」
ソルジャーが声を上げました。
「ぼくのイイ所に当たると鳴く仕掛けなんだ、ちょっといいだろ?」
「…い、いい所……」
「そう! ブルーと同じかどうかは分からないけれど、気分が出るように細工をね。…ハーレイ、実演してあげてくれる?」
名指しされたハーレイはもちろんキャプテン。心得たとばかりにスッと手を上げ。
「ブルーが特に弱い所となりますと…。この辺りかと」
「あんっ!」
「当たりでしたね、他には此処とか、この辺りもですね」
「あんっ! あんっ!」
教頭先生、ツツーッと鼻血。けれどキャプテンの指導を引き受けたからには逃亡不可能。やむなく人形にマントを着せ直し、口でパチンと留金を。
「…い、如何でしょうか?」
「は、はあ…。私にはどうも今一つ…」
ですが、とキャプテンは留金外しに四苦八苦しながら続けました。
「人形を脱がし終えるまで修行しろ、とブルーに言われておりまして…。この先もよろしくお願いします」
「こ、この先…?」
「はい! 上着もアンダーも、その下もです!」
「…そ、その下……」
ツツツツツーッと伝った真っ赤な鼻血。ドッターン! と仰向けに倒れて意識を失くした教頭先生はお約束というヤツでしょう。



「うーん…。師匠なしでの修行になっちゃったか…」
でも人形は二つあるしね? と、ソルジャー、ニヤリ。
「二つとも脱がし終える頃には腕もググンと上がっているさ。留金外しの要領は二度も見せてくれたし、その応用で頑張って!」
「は、はいっ!」
「いやもう、この人形は本当によく出来ているから…。頑張れば下着を脱がす頃には」
「その先、禁止!!」
さっさと帰れ、と会長さんの怒りが爆発。ソルジャーは人形を二つとキャプテンを連れてそそくさと逃げ去り、床に倒れた教頭先生だけが残されました。でも…。
「あの人形、まだ何か仕掛けがあるわけ?」
ジョミー君が尋ね、キース君が。
「俺が知るか!」
「ああ、あれねえ…」
本当に実に仕掛けが猥褻、と会長さんが超特大の溜息を。
「あえて何処とは言わないけれどね、変化するらしいよ、形と体積」
「「「は?」」」
「分からないくらいが丁度いい。ぼくも人形にモザイクをかけずに済んだし、ホッと一息」
うーん、と伸びをする会長さん。人形相手にモザイクだなんて、何なのでしょう? 形と体積が変化でモザイク、ついでに仕掛けがとても猥褻。
「…何だろうねえ?」
「さあな?」
とにかく二度目が無いことを祈る、というキース君の意見に誰もが賛成。今度こそしっかり御祈祷すべし、とお念仏を唱え、会長さんが祈願の一言。
「ブルー退散!!!」
伝説の高僧、銀青様の有難い御祈祷でソルジャーを封じられますように。猥褻な仕掛けの人形とやらが二度とこっちに出て来ませんよう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。




          脱いだら最高・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が「歯でビール瓶を開けられる」ばかりに、エライことになってしまうお話。
 ああいう人形でなかったんなら、きっと上手に脱がせられたかと思いますです。
 2016年最後の更新がコレって、なんともはや。ちなみに「ユーリ」は観てません。
 来年も懲りずに続けますので、どうぞよろしく。それでは皆様、良いお年を。
 次回は 「第3月曜」 1月16日の更新となります、よろしくです~!

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 こちらでの場外編、12月は、除夜の鐘で流れる煩悩を巡ってエライことに…。
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