シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
←ハレブル作品へは、こちらからどうぞ。
2014年より、転生ネタ、連載中ですv
←悪戯っ子な本家ぶるぅのお話へは、こちらから。
最新のお話は一番下になりますv
シャン学アーカイブへようこそ!
こちらではアルト様のサイトにありますシャングリラ学園番外編の続きを連載中です。
最新作へは上のバナーからどうぞ。
基本は 「毎月第3月曜」 更新、 「第1月曜」 にオマケ更新することも…。
オマケ更新は前月に予告いたしますので、お話の最後の御挨拶をチェックなさって下さいv
バックナンバーはこちらの 「タイトル一覧」 から全て見られます。
※上記の 「タイトル一覧」 も含めて、青文字の個所は全てにリンク先有りです
そして、ここはシャングリラ学園シリーズのアーカイブでもあります。
アルト様の特設掲示板で連載しました本編と、只今連載中の番外編、及び「そるじゃぁ・ぶるぅ」誕生秘話とも言うべき『シャングリラのし上がり日記』が置いてあります。
こちらの閲覧方法ですが、下記に「タイトル一覧」への御案内がございます。
シリーズごとに設置してありますので、アーカイブへはそちらからお出かけ下さい。
「とりあえずサクッと解説を!」な方はこちらへどうぞ→シャングリラ学園・解説編
また、アルト様が書いて下さった「ぶるぅのお話」及びシャングリラ学園番外編とのコラボ作品が幾つかございます。
そちらは「アルト様からの頂き物」として収録させて頂きましたv
クリックでタイトル一覧に飛びますので、そこから御覧下さいませ。
各シリーズの中のお話については「タイトル一覧」で簡単な解説をつけてあります。
タイトルをクリックで本文に飛べますから、御自由に散策なさって下さいv
ただ、ブログの構造上、「全3話分などを一括表示」が出来ません。
お手数をおかけしますが、一番下までスクロールして2話目、3話目と移動をお願いします~。
重要なオリキャラ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を御存知ない、と仰る方は→こちらをクリック
『シャングリラのし上がり日記』←クリックで「タイトル一覧」に飛べます。
アルト様の2007年クリスマス企画掲示板での連載作品。
成人検査に脱落し、シャングリラに拾われ…な日記であります。
ひたすらバカなお気楽コメディ。
なお、完結後の番外編としてブルー生存EDがあります。
「赤い瞳 青い星」がそれですv
『シャングリラ学園・本編』←クリックで「タイトル一覧」に飛べます。
普通の学生としてシャングリラ学園で3年間を過ごす…筈だったのですが。
入学早々、大変なことになってしまいます。
サイオンに目覚め、一度卒業して特別生になるまでの間に起こるドタバタ。
こればっかりは「順番に読んでみて下さい」としか言えません、というほど実は伏線だらけのお話だったり…。
そこで「細かいことはどうでもいいから外せないポイントを!」な方へのオススメをば。
「入学式」と「クラス発表」。シャン学の仲間たちが集結です。
「夏休み」第1話。キース君の家はお寺だった! しかも生徒会長が実は高僧?
「二学期始業式」。教頭先生の紅白縞トランクスの由来が此処に…。
「二学期終業式」第2話&第3話。生徒会長の過去が語られます。
「冬休み」第1話。シャン学のみんながサイオン持ちな事実が明らかに。
「三学期始業式」第3話。ドクター・ノルディが初登場です。
「卒業旅行」第3話。グレイブ先生とミシェル先生の結婚式。
「就職活動」全3話。シャングリラ号に乗り込み、特別生として再入学!
『シャングリラ学園・番外編』←クリックで「タイトル一覧」に飛べます。
本編終了後、特別生として再びシャングリラ学園に入学を果たしたジョミー君たち。
出席義務すら無いと言われる特別生のお気楽な学園ライフです。
そこへ別の世界のシャングリラ号から生徒会長のそっくりさんが乱入してきて…。
登場人物が増えた分、本編以上にカオスと化した番外編。
完結しておりますが、その後も何故か現在進行形で連載中ですv
『シャングリラ学園・場外編』
こちらはブログ『シャングリラ学園生徒会室』にて毎日更新で連載中です。
シャングリラ学園の本編と番外編でお馴染みのメンバーのお気楽、極楽、学園ライフ。
番外編との繋がりは無く、季節ネタをメインに勝手気ままに綴っております。
「もはや文章とも言えない」形式での連載ですが、「1日1分で読める」が売りです。
『シャングリラ学園シリーズ豆知識』
御存知なくても全く問題ございません。
書き出してみれば大部分がお寺と坊主ネタでした。文字通り『寺へ…』という世界です。
そもそもブルー生徒会長の正体が「ソルジャーで高僧」な段階からして間違っています(笑)
どうしたんだろ、とブルーは首を傾げた。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
道沿いの家の庭に、その家の御主人の姿。家と庭を囲む生垣からは、少し離れた奥の方。其処で大きな木を見上げながら、難しい顔。困ったようにも見える表情。
(あの木が、どうかしたのかな?)
木の葉や枝を眺めたけれども、弱っているという感じは受けない。むしろ生き生きしている木。本当に元気そうだけれども、素人だから元気に見えているだけで…。
(ホントは病気になっちゃってるとか?)
しかも簡単には治らない病気。木の姿がすっかり変わるくらいに、枝を何本も切り落とさないと駄目だとか。
(そういう病気もあるらしいものね…)
治療した後は、太い幹には似合わない細い枝が数本、そんな姿になってしまう木。元通りに枝が茂るまでには何年もかかる、荒療治とも言える治療法。
それが必要な病気の兆しを発見したなら、難しい顔にもなるだろう。もちろん困るし、御主人が悩んでしまうのも分かる。あの木は庭のシンボルツリーなのだから。
(…どうしたの、って訊いてみたいけど…)
御主人の気持ちを考えてみると、黙っている方がいいかもしれない。声を掛けようか、このまま通り過ぎようか、と迷っていたら…。
御主人がこちらに顔を向けたから、慌ててピョコンとお辞儀した。
「こんにちは!」
「おや、ブルー君。今、帰りかい?」
身体もこっちに向けた御主人は、両腕で猫を抱いていた。白地に黒のブチがある猫。しっかりと胸に抱いているから、服と混じって気付かなかった猫の存在。
(白と黒のブチ…)
この家に猫はいただろうか?
いなかったように思うけれども、もう子猫とは呼べない大きさ。滅多に外に出ない猫なら、いることも分からないだろう。知らない間に飼われ始めて、育っていても。
初めて出会った猫にも驚いたけれど、それよりも木の方がずっと気になる。物心ついた時には、もうこの家の庭にあった木。自分も馴染みのシンボルツリー。
「おじさん、その木…。どうかしちゃったの?」
弱っているようには見えないけれども、病気になっちゃってるだとか…?
「この木かい? ちょっぴり困ったことになってねえ…」
其処からだと見えないだろうから…。入って見てやってくれるかい?
どうぞ、と入れて貰った庭。御主人が門扉を開けに来てくれて。
其処まで来るのも、門扉を開けるのも、御主人は猫を抱いたまま。使わない方の腕にしっかり。
(よっぽど可愛がっているんだね)
少しも離さないんだもの、と猫にも挨拶。「こんにちは」と。返事は「ミャア!」。
御主人は木の側に案内してくれて、猫を抱いていない手で木を指差した。
「ほら、見てごらん。…可哀相なことになっちゃったんだ」
「えっと…?」
側で見ても、やっぱり元気そうな木。病気のことは分からないから、何処を見ればいいのか謎。葉っぱに妙な斑点なんかもついてはいない。枝の茂り具合が変なのだろうか?
(可哀相なことになったんだったら、病気だよね…?)
何処で分かるの、と上から下まで何度見たって、元気そのものに思える木。立派な幹も、幹から伸びた枝たちも。
「ブルー君は気が付かないかな? これだよ、これ」
この通り、苔がすっかり剥げちゃってね。この間までは、綺麗な緑だったんだがねえ…。
「本当だ…!」
あちこち剥げてる、と目を丸くした。太い木の幹を覆うようにして、濃い緑の苔が生えている。まるで上等の絨毯みたいにフカフカに見える、薄い割には存在感のある苔たち。
それが無残に剥がれた場所が、幹に幾つも。
(何かで無理やり、剥がしたみたい…)
削り取られたように、長い線になって剥げている苔。剥がれた跡は直線だったり、少し曲がっていたりと色々。剥げてしまった場所は木の皮がむき出しになって、痛々しいくらい。
本当だったら、木の幹はそれでいいのだけれど。…苔が無くても、木の皮だけで充分。
普通の木ならば、幹に苔など生えてはいない。生えていたって、ほんの少しだけ。家の庭の木を思い浮かべても、幹にビッシリ苔を生やした木などは無い。
(この木も、普通の木なんだけどな…)
ありふれた木で、珍しくない木。けれども、苔がよく似合う。こんな風に剥がれてしまった姿を目にした途端に、「可哀相だ」と感じるほどに。
「剥げちゃったって…。この木、どうなっちゃったの?」
病気じゃないよね、苔が剥げちゃう病気なんかは知らないし…。
それに無理やり剥がしたみたいで、虫なんかだと、こんな風にはならないだろうし…。
いったい何が起こったわけ、と御主人の顔を見上げたら。
「この子だよ。…気付かなかった私も悪いんだがね」
御主人がコツンと軽く叩いた、腕の中にいる猫の小さな頭。「駄目じゃないか」と。
猫の方では「ニャア…」と鳴いたものの、謝ったりするわけがない。猫は言葉を話さない上に、元が気ままな生き物だから。
「剥がしちゃったの、猫だったの?」
おじさん、この子、前から飼ってた?
ぼくは初めて会ったんだけど…。子猫の時から、家の中だけで飼ってたとか…?
「いや、この子は孫が飼ってる猫でね…。孫の家は別の所なんだよ」
暫く旅行に行くと言うから、ウチで預かることにしたんだが…。お蔭で、こういう有様なんだ。
庭で遊んで、あちこちの木に登っていたんだろうね。きっと最初は、片っ端から。
それで気に入ったのがこの木で、今じゃすっかり遊び場になって…。
庭に飛び出しては、これに登ったり、下りて来たりするのさ。猫には爪があるからねえ…。
そのせいで剥げてしまったんだ、と御主人が溜息をついている苔。
(猫の爪なら、こうなっちゃうよね…)
登る時にも剥げるだろうし、下りる時にも爪に引っ掛かりそう。そうやって苔が剥げてゆくのも遊びの一つなのかもしれない。「面白いよね」と、わざと爪を余計に出したりして。
(爪の幅だけ、剥がれちゃうから…)
爪を広げて、滑り下りたりもするのだろう。苔を一緒に引き剥がしながら、体重をかけて上からズルズル。如何にも猫が好きそうな遊び。
猫には楽しい遊びだけれども、苔にとっては大いに迷惑。木の幹から無理やり引き剥がされて、その後は枯れてしまっただろう。水分も栄養も摂れなくなって。
苔に覆われていた木の幹だって、みっともない姿にされてしまった。あちこちが剥げて、自慢の服がボロボロだから。
御主人は苔が剥がれた跡を見詰めて、フウと溜息。
「弱ったよ…。今じゃすっかり、こうなんだから。…一目で分かるハゲだらけでね」
せっかく綺麗に生えていたのに、台無しだ。見た目も悪いし、どうにもこうにも…。
「苔はくっつけられないの?」
剥がされた苔は、根っこ…って言うのか、そういうのが駄目になっているから無理だろうけど。
でも、苔だって売っているでしょ、苗とかを扱うお店に行けば…?
苔を買って来て、剥がれちゃった所にくっつけたら、と提案してみた。同じ種類の苔が売られているのだったら、問題は解決しそうだから。…くっつける手間はかかるけれども。
「苔ねえ…。もちろん店にはあるだろうけど、それじゃ不自然になるからね」
後からくっつけてやった場所だけ、変に目立ってしまうんだよ。人間の手が加わるから。
自然に生えるのを待つのが一番いい方法で、この木の苔もそうなんだ。苔なんか一度も植えてはいないよ、勝手に生えて来ただけさ。暮らしやすい条件が揃ったんだろうね。
しかし、これだけ剥げてしまうと、元の通りに戻るには…。
下手をしたら何年もかかるんじゃないかな、と御主人が言うから驚いた。相手は苔だし、じきに元通りに生えて来そうなのに。
「何年もって…。何ヶ月とかの間違いじゃなくて?」
苔って、そんなに分厚くないでしょ。剥げたのが此処で、剥げてないのが此処だから…。
ほんのちょっぴり、と眺めた厚み。数ミリくらいしか無さそうに見える苔の層。
「それが何年もかかるのさ。…こういう風になるにはね」
毎年、毎年、少しずつ育って厚くなるのが苔なんだよ。とても小さな胞子を飛ばしては、自分の仲間を増やしながら。
人間の手で植えてやるには、気難しすぎて手に負えないのが苔ってヤツかな。
庭に植えても、なかなか思うようには育ってくれなくてね。
それを木の幹に植えるとなったら、厄介だろうと思わないかい…?
「盆栽が趣味の人なんかだと、頑張るらしいよ」と御主人は教えてくれた。
大きく育つ筈の木たちを、小さなサイズに育てる盆栽。とても小さいのに、樹齢の方は一人前。何十年とか、百年だとか、そういう木たちを楽しむ世界。
けれど最初から「丁度いい木」は無いわけだから、育て始めて直ぐの間は木だって若い。樹齢は一年、二年とかで。
そういう木たちを少しでも立派に見せたいから、と生やすのが苔。年ふりた木にも負けない幹を作り出そうと、せっせと苔をつけてやる。
ただし、自然に見えないと駄目。年数を経て生えたかのように、色々な苔を枝や幹に。
「幹につく苔と、枝とでは違うらしくてねえ…」
趣味の人たちはうるさいらしいよ、苔の生え具合や種類なんかに。…少しでもいい木に見せたいからねえ、自分の大切な盆栽を。
「そうなんだ…。盆栽って、苔も大事なんだね」
木の形だとか、大きさだけかと思ってた…。小さくても立派に花が咲くとか、そんなので。
「盆栽の趣味は無いんだけどね…。この木の幹は好きだったんだよ」
勝手に苔が生えてくれたお蔭で、堂々として見えるじゃないか。…森の中にある木みたいにね。
友達が来ても、とても羨ましがってくれるから…。
庭の自慢にしていた木なのに、気が付いたらこうなってたんだよ。この子が登ってしまってね。
今ではすっかりお気に入りだし、この子がウチに泊まっている間に、丸禿げじゃないかな。
残っている苔も剥がされちゃって、と御主人は本当に困り顔。御自慢の木の幹を前にして。
「猫を繋いでおくのは駄目?」
そうでなきゃ、家から出さないとか…。
繋いでおいたら、この木に勝手に登りはしないし、家から出なけりゃ登れないよ?
苔を守るのにはいいと思う、と言ったのだけれど。
「それだと、この子が可哀相じゃないか。好きなように遊べないなんて」
庭が大好きで、「出して」と頼みに来るんだよ?
だから何度も出してやっていたら、こうなっていたというわけさ。この木が最高の遊び場で。
この木に登って遊んじゃ駄目だ、と覚えてくれればいいんだけどねえ…。
おっと!
御主人の腕の中にいるのに退屈したのか、遊びたい気分になったのか。ピョンと飛び出した猫が木にスルスルと登って行った。
それは身軽に、アッと言う間に上の方まで。きっと爪だって出ていた筈。爪を立てないと、猫の足では木に登れない。人間みたいに長い指など持っていないから。
「…また剥がれちゃった?」
木についてる苔、今ので剥がれちゃったのかな…?
どうなんだろう、と見上げた木の上。猫は大きな枝の一つで遊んでいる。枝から伸びている枝や葉っぱを、足でチョンチョンつついたりして。
「苔ねえ…。よく分からないけど、剥げたんだろうね。あの勢いで登ったんだから」
それに木の上で楽しく遊んで、下りてくる時に、また剥げるんだよ。
わざわざ幹にへばりつくようにして、ズルズル滑って下りて来るのも大好きだしね…。
もう諦めるしかなさそうだ、と御主人は両手を大きく広げて、お手上げのポーズ。
きっとその内に、苔は丸禿げになるのだろう。白と黒のブチ猫、お孫さんの猫が全部剥がして。この木に登って、また下りて来ては、生えている苔を爪で引っ掛けて。
(なんだか気の毒…)
御自慢の木の幹を駄目にされそうで、困った顔をしている御主人が。
今も木の上にいる猫を呼んでは、「下りる時には、気を付けてくれよ?」と叫んでいるほど。猫さえ注意してくれたならば、苔はそれほど剥げないから。少しは剥げても、全部は剥げない。
(猫が登るの、やめさせちゃったら剥げないんだけど…)
それが一番だと承知していても、猫を繋ごうとはしない御主人。家に閉じ込めないのも分かる。猫を自由にさせてやりたいから、どちらもしない。
お孫さんから預かった猫を、繋ぐのも、家に閉じ込めるのも。
そうしたならば、御自慢の木の幹は丸禿げになったりしないのに。丸禿げよりかは、あちこちが剥げた今のままの方が、元に戻るのも早いだろうに。
(でも…)
御主人はそうしないのだから、猫に任せるしかないだろう。あんまり苔を剥がさないように。
木に登る時も、下りて来る時も、出来るだけ爪を立てないで。
もっとも、猫はその逆のことが好きらしいから、絶望的な状況だけど。
御主人に「さよなら」と挨拶してから、帰った家。庭の木たちを見回したけれど、幹をすっかり苔が覆っている木は無かった。庭で一番大きな木だって、幹に苔など生えてはいない。
(おじさんが自慢するわけだよね)
盆栽が好きな人たちだったら、頑張って生やすらしい苔。まるで自然に生えたかのように。
そういった苔が勝手に幹を覆っていたのが、御自慢のあの木。何の手入れもしてはいなくても、森の奥の木のように見えた風格。緑色の苔が幹を覆っていただけで。
(だけど、あちこち剥げちゃって…)
このままだと丸禿げになりそうな苔。猫が遊んで剥がしてしまって、苔の欠片も無くなって。
そうなったら、あの木は「ただの大きな木」でしかない。庭のシンボルツリーと言っても、ただそれだけ。「立派な木ですね」と褒めてくれる人も減るのだろう。
あれ以上は剥げないといいんだけどね、と玄関を開けて家に入った。「ただいま!」と、元気に奥に向かって呼び掛けて。
二階の部屋で制服を脱いだら、おやつの時間。ダイニングの窓から庭の木を見て、さっきの木と似たような大きさのを探す。その幹に苔が生えていたなら、どんな風だろうと。
(…此処から見たら、ただの緑色だけど…)
庭に出て側に立ってみたなら、とても立派に違いない。木の皮だけに覆われているより、緑色の苔を纏った方が。…それも剥げてはいない苔で。
(剥げてしまったら、木の皮が見えて…)
痛々しいし、見た目も悪い。
その原因は病気ではなくて、猫が悪戯した結果でも。「こうすれば剥がれて面白いんだよ」と、爪を立てて登り下りされたせいでも。
(絶対、カッコ悪いよね…)
ああして剥がされてしまった苔。
御主人の友達がやって来たなら、皆、驚いて眺めるのだろう。「どうなったんだ?」と。
その頃にはもう、あの猫はいない。お孫さんの家に帰ってしまって、知らん顔。
御主人は苔が丸禿げになった木だとか、あちこち剥げてみっともないのを、「実は…」と溜息を幾つも交えて、友達に説明するのだろう。
御自慢の苔がどうして剥げてしまったか、犯人は何処の誰だったのかを。
おやつの間は、木と苔のことを考え続けて、食べ終えてからは二階の自分の部屋に戻って、また考える。勉強机の前に座って。
猫が登る度に木の苔は剥げて、下手をしたなら丸禿げになってしまいそう。お孫さん一家が旅行から帰って、あの猫を迎えにやって来る前に。
苔が生えた木は、猫の一番好きな遊び場。苔を剥がすのが面白いのか、木そのものもお気に入りなのか。せっせと登って下りて来る度に、御自慢の苔が剥げてゆく。猫の爪のせいで。
(おじさんは登って欲しくないけど、猫は登りたくて…)
庭に出たいと駄々をこねては、あの木に向かってまっしぐら。その度に剥がれてしまう苔。
御主人が気付いた時には、とうにああなっていた。あちこちが剥げて、無残なことに。
(おじさん、困っていたけれど…)
それでも猫を繋ぐつもりは無いらしい。家に閉じ込めておくこともしない。
「可哀相じゃないか」と言っていた御主人。猫を力ずくで止めないだなんて、凄いと思う。猫は御自慢の木とは知らずに、これからも登り続けるだろうに。
「駄目じゃないか」と頭をコツンとされても、きっと分かっていないだろうに。
お手上げのポーズをしていた御主人。猫が登った木を見上げて。
(とっても優しい人だよね…)
御自慢の木が駄目になっても、猫を繋ごうとはしない人。家の中に閉じ込めることも。
猫にとっても、本当に優しい人なのだけれど、問題はあの木。
このままだったら、苔は丸禿げ。
御主人の自慢の苔とも知らない、あの猫がすっかり剥がしてしまって。
爪を立てては上まで登って、苔を剥がしながら幹にしがみ付いてズルズル下りて来たりもして。
(あちこち剥げただけの苔でも…)
元の姿に戻るまでには、何年もかかるかもしれない。苔は気難しいと教わったから。
剥げた所に、買って来た苔をペタリと貼っても駄目らしいから。
(丸禿げなんかになっちゃったら…)
御自慢の苔が幹を覆うまでには、どのくらいかかることだろう。ほんの数日で丸禿げになって、戻るまでには年単位。…三年も四年もかかるのだったら、あの御主人が気の毒すぎる。
いくら御主人は承知でも。「仕方ないよ」と、猫の悪戯を許していても。
放っておいたら、苔が丸禿げになってしまいそうな幹。元の通りに苔が生えるまでには、何年もかかってしまうのだから…。
いいアイデアは無いのだろうか、そうなる前に猫を止める方法。
繋いだり、家に閉じ込める以外に、猫が木に登らないようにする方法が何かあればいいのに。
(あの木の周りに柵をしたって、猫じゃ登って越えちゃうし…)
木の幹に何か巻いたりしたなら、今度は苔が駄目になる。太陽の光や、雨の雫が当たらなくて。ほんの短い期間にしたって、小さな苔には致命的な時間だろうから。
(何かあの木を守る方法…)
猫の爪から、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。猫が木に登らない方法を知っている?」
知ってるんなら教えて欲しいな、その方法を。
「はあ? 木に登らない方法って…。木に登らせない方法のことか?」
どうすれば猫が木に登らないように、止められるか。…お前はそいつを知りたいのか?
そうなのか、と尋ねられたから頷いた。知りたい方法はそれだから。
「ハーレイの家にはミーシャがいたでしょ?」
隣町の家に住んでた頃には、真っ白なミーシャ。…登らせないようにしていた木は無い?
この木は駄目、ってハーレイのお父さんが決めていたとか、お母さんが大事にしていた木とか。
「俺の家には、そういった木は無かったなあ…」
だからもちろん、ミーシャは好きに登っていたが?
誰も止めたりしないもんだから、勝手気ままに登って遊んで、飽きたら下りて。
そうやって好きに登った挙句に、下りられなくなっちまった木の話をしたと思うがな?
下りられない、とミャーミャー鳴くから、親父が梯子で登って助けてやったんだが。
「そういえば…。前に聞いたね、その話…」
どの木にも好きに登っていいから、ミーシャ、自分じゃ手に負えない木に登っちゃったんだ…。
登る時には楽しい気分で、どんどん登って行っちゃったけど…。
上に着いたら、下りる方法、ミーシャには分からなかったんだものね。
高い木に登ったまではいいけど、どうすれば下に下りられるのか。
そうだったっけ、と蘇って来た記憶。ミーシャは自分の好きに登って、酷い目に遭った。登った木から下りられなくなって、「助けて」と人間を呼ぶしかなくて。
そんな騒ぎが起こっていたのに、ハーレイの両親は、ミーシャの木登りを止めてはいない。どの木も好きに登れるようにと、そのまま放っておいたのだろう。何の工夫もしないままで。
ならば、ハーレイも策を持ってはいない。あの木の苔を守ってやれる方法。
「そっか、駄目かあ…。ハーレイなら、って思ったのに…」
ぼくだと何にも思い付かないけど、ハーレイは知っているかもね、って…。
「なんだ、どうしたんだ?」
猫を木に登らせない方法だなんて、お前、いったい何をしようとしてるんだ?
この家に猫はいない筈だぞ、友達の誰かが困ってるのか?
しょっちゅう下りられなくなる猫ってヤツもいるそうだから、とハーレイは至極、真面目な顔。登ったら自分では下りられないのに、繰り返す猫がいるらしい。同じ木に何度も登る猫。
「えっと…。そういう猫の話じゃなくって…」
ちゃんと上手に下りられるんだよ、登った後は。…お気に入りの木だから、登るのも上手。
だけど、登る木が問題で…。
今日の帰りに、ぼくも見せて貰ったんだけど…。
苔が丸禿げの危機なんだよ、とハーレイにあの木の説明をした。
帰り道に出会った御主人の自慢の、幹に緑の苔が生えた木。その木の苔を猫が剥がすのだ、と。
剥がれた苔が元の通りに生えるまでには、何年もかかるものらしい、とも。
「なるほどなあ…。猫には爪があるからな」
木に登ったら剥げちまうだろうな、幹に生えてる苔なんかは。
それに猫には、楽しいオモチャになるんだろう。剥がしながらズルズル下りて来るなら。
「やっぱり、遊んでるんだよね…?」
おじさんが大事にしてる苔なのに、そんなの、猫には分かんないから…。
どんどん剥がして、今のままだと丸禿げになってしまいそう。
でもね、おじさんは猫を繋ぐつもりは無いんだよ。…家に閉じ込めたりもしない、って。
それは猫には可哀相だから、苔は丸禿げでも仕方ない、って…。
すっかり諦めているみたいだけど、でも、何か方法があるんなら…。
いいアイデアがあるなら教えて、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
ミーシャには使っていなかったとしても、誰かから聞いた方法があるとか、そういったケースもまるで無いとは言い切れないから。
「お願い、ハーレイ。…何か知らない?」
知ってるんなら、ぼく、おじさんに教えに行くから…!
ううん、ママに頼んで通信を入れて貰うよ、今日の間に…!
おじさんの大事な苔を守れる方法、少しでも早く教えてあげたいもの…!
このままだとホントに丸禿げになっちゃう、とハーレイの知識に縋ったのだけれど。三十八年も生きている分、アイデアも持っていそうだと期待したのだけれど…。
「生憎と、俺は知らないなあ…。お前が知りたがってるような方法は」
苔の大切さなら分かるんだがな、俺だって。…親父もたまに気にしてたから。
庭の木の幹、調べてみては、ちょっと溜息をついたりもして。
「ハーレイ、それって…。ミーシャのせいで剥げちゃった?」
木に登るためには爪を出すから、剥がすつもりは無かったとしても。…お気に入りの木っていうほどじゃなくても、登れば剥げちゃいそうだから…。
「うむ。登る時にも、下りる時にも、爪を立てるのが猫だしな?」
たまにツルッと滑りでもしたら、いつもより派手に剥がれちまう。爪を広げてた幅の分だけ。
もっとも、ミーシャはとっくにいないし、今じゃすっかり元通りに苔が生えてるが…。
その苔、たまに剥げるそうだぞ、とハーレイが言うからキョトンとした。
「え? 剥げるって…?」
ミーシャがいないのに、なんで剥げるの?
新しい猫は飼ってないでしょ、それとも何処かで貰って来たの…?
今は別の猫が飼われているの、と高鳴った胸。もしも別の猫を飼い始めたなら、知りたいことは山のよう。どんな猫なのか、名前は何か。今はどのくらいの大きさなのか、と。
「おいおい、慌てるんじゃない。俺はまだ何も話していないぞ」
たまに剥げると言っただけでだ、犯人の名前も出しちゃいないが…?
とはいえ、お前の勘もまるっきり外れているわけじゃない。
犯人は猫には違いないしな、親父たちの猫じゃないってだけで。
他所の猫だ、とハーレイが教えてくれた犯人。ハーレイの両親が暮らす隣町の家で、緑色の苔が生えた木に登って、苔を剥がしてしまう猫たち。
「お前が出会った猫と違って、犯人は一匹じゃないようだがな…?」
ふらりと庭を通り掛かって、登って遊んで剥がしていくんだ。少しだけとか、派手にとか…。
親父に言わせりゃ、もう明らかに木登り失敗、といった感じのハゲも見つかるらしいな、うん。
猫が滑って落ちた跡だ、とハーレイは可笑しそうな顔。「そういう時には派手にハゲるぞ」と。
「派手にハゲるって…。ハーレイのお父さん、怒らないの?」
生えている苔、お父さんも大事にしている苔でしょ、ミーシャの頃から…?
他所の猫なんかに剥がされちゃっても、許しちゃうわけ…?
入って来たら叱ればいいのに、と思った庭に入って来る猫。追い出されたなら、木登りなんかはしていかない。木の幹に生えた苔は無事だし、派手に剥がれもしないのに。
「追い出すって…。親父も、おふくろも、そんなことは考えもしないだろうなあ…」
俺も同じだ、仮に大事な木があったって。…その木に悪戯されちまっても。
猫が平気で遊べる庭があるっていうのは、いいもんだろ?
公園と同じで、車も走っていないんだから。…猫にとっては、人間様の庭が公園なんだ。
本当に困る理由が無いなら、遊ばせておいてやりたいじゃないか。猫に食われちまうような鳥がいるとか、そういう庭でないのなら。
「そうなんだ…。人間の家にくっついてる庭は、猫の公園…」
猫のための公園なんかは無いから、そう言われたら、そうなのかも…。
車も来ないし、安心して遊べる場所だもの。…木の幹に生えた、苔が剥げるのは困るけど…。
だけど、猫たちが幸せに遊んでいるなら、叱ったりしない方がいいよね…。
その方が猫も嬉しいものね、と口にしたら思い出したこと。
(…遊んでて、それで叱られちゃうって…)
あったっけ、と心が遠く遥かな時の彼方へと飛ぶ。
白いシャングリラにあった、広い農場。あそこに植えていた、沢山の木たち。
自給自足で生きてゆく船には、様々な木々が必要だった。オリーブや果樹や、他にも色々。
その大切な農場の木たちに、子供たちが登って叱られていた。
農場の木たちは、公園の木とは違って、作物を育てるために植えられたものばかりだから。
オリーブオイルを採るためのオリーブ。果樹はもちろん、チョコレートの代用品だったイナゴ豆だって、木に実っていた。
農場の木たちは、船の暮らしに欠かせないもの。眺めて楽しむ公園の木とは、まるで違っていた目的。けれど、子供たちの目から見たなら、どちらも木には違いないから…。
「猫の公園で思い出したよ。…シャングリラの木を」
「シャングリラだと?」
前の俺たちが暮らしてた船か、木なら山ほど植えてたもんだが…。白い鯨の方ならな。
「そう、そっち。あの船の農場に植えていた木は、どれも大切な作物ばかりだったから…」
公園と違って、木登りは禁止だったんだよ。作物が傷んだりしたら大変だから、って。
でも、子供たち…。
あの木に登っちゃっていたよね、木の苔を剥がす猫じゃないけど…。遊ぶために。
「登ってたなあ、そういえば…!」
思い出したぞ、あのシャングリラの悪ガキどもを。…猫より酷い連中だったな。
猫には言葉が通じないから、「その木は駄目だ」と怒鳴るだけ無駄というヤツなんだが…。
あいつらは立派に人間だったし、思念波も持っていたってな。「駄目」が通じる連中だった。
なのに、言うことを少しも聞きやしないんだ。農場の木には登るんじゃない、と何度言っても。
何度注意を繰り返そうが、「登るな」と教え続けようが。
まるで聞いてはいなかったよな、とハーレイが浮かべた苦笑い。シャングリラに迎えたミュウの子たちは、農場にあった木に関して言うなら、悪ガキだった。
大切な作物を育てるための木なのだから、と口を酸っぱくして教えたって、彼らは聞かない。
公園とは違った木が植わっていて、面白そうだと考えるだけ。
けれど大人は「駄目だ」と叱るし、登って遊べば大目玉。「駄目だと言われた筈だろう」と。
それを承知で、コッソリ出掛けていた子供たち。
「バレては駄目だ」と、船の仲間たちの目を盗んでは、農場に向かう通路に入って。
農場に着いたら、見張りも立てた。大人が来た時は、直ぐに逃げないと叱られるから。
そうやって入り込んだと言うのに、子供というのは無邪気なもの。
木登りの遊びに夢中になったら、もう何もかもを忘れてしまう。自分たちが何処にいるのかも。
その内に、見張りの子までが持ち場を離れて登り始めて、ワイワイ騒いで…。
子供たちの末路は、もう見えていた。彼らが農場に向かった時から、どうなるのかは。
農場に向かう姿には、誰も気付かなくても。…途中の通路ですれ違った仲間がいなくても。
白いシャングリラの食生活を支える農場、其処が終日、無人のままの筈がない。夜はともかく、人工の光が煌々と照らす昼の間は。
収穫のために出掛ける者とか、作物の世話に向かう者とか。
いずれ大人が現れるわけで、彼らの耳には直ぐに届いた。木登りに興じる、子供たちの賑やかな歓声が。それは楽しそうに遊ぶ声が。
「あれって、いつでもバレちゃったんだよ。逃げる前に大人に見付かっちゃって」
いつだってバレて、それでお説教…。猫と違って、言葉がちゃんと通じるから。
「その説教。…俺も駆り出されてたぞ、ヒルマンに」
あいつだけでは話にならん、とキャプテンの俺を引っ張り出すんだ。船の最高責任者だから。
「農場の大切さを説いて、大目玉を食らわせてくれ」というのが、ヒルマンの注文だったが…。
俺が大声で怒鳴ってみたって、シュンとするのは、その時だけで…。
何日か経ったら、また同じことを繰り返してた。農場に出掛けて、木登りをして、見付かって。
まるで駄目だから、ソルジャーの出番になったんだがなあ…。
前のお前を呼んだ効果はどうだったんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「効果、あったか?」などと、確かめるように。
「ううん…。前のぼく、子供たちとは、しょっちゅう一緒に遊んでたから…」
農場で木登りはしなかったけれど、でも、子供たちの心は分かるし…。
「何の役にも立たなかったってな、肝心のソルジャーは子供の味方で」
叱るどころか、悪党どもの肩を持つんだ。「許してやってもいいだろう?」と寛大な顔で。
「そう…。ああやって遊べる場所があるのがいいじゃないか、って言っていたっけね」
農場は大事な場所だけれども、人類に見付かって撃たれもしないし、安全だから、って…。
だってそうでしょ、本当に安全なんだから。…人間の家の庭が、猫の公園なのと同じで。
「猫の公園なあ…。前のお前はそうは言わなかったが、アレを言われると弱かった」
子供たちにとっては安全な場所だ、と言われちまうとグウの音も出ない。
前の俺はもちろん、俺を担ぎ出したヒルマンもな。
ゼルは元々、子供好きだし、叱ろうって気はまるで無かったわけだから…。
何度叱られても、子供たちは農場の木たちに登り続けた。徒党を組んで出掛けて行って。
船の大人たちの目を盗んでは、白いシャングリラの食生活を支える、大切な木に。
オリーブの木も、イナゴ豆の木も、他の木や果樹も、子供たちに狙われ、登られていた。梯子は使わず、手と足だけで。…サイオンも、木から滑った時くらいしか使っていなかった。
彼らがせっせと登るものだから、そのせいで収穫量が減ったりしないようにと、農場の係たちは頑張っていた。悪ガキたちと遭遇したなら、叱り飛ばすのは基本だったけれど…。
それと同時に、「この枝には足を掛けるな」だとか、「今の季節は、この木に登るな」だとか、出来る限りの指図をして。「木が傷んだら、お前たちも食えなくなるんだぞ!」などと。
(…前のぼくが、本気で止めてたら…)
木登りは直ぐに止んだだろう。
白いシャングリラを導くソルジャー、その人が「駄目だ」と叱ったら。登ってもいい木は公園の木だけで、農場の木には登るんじゃない、と。
けれども、一度も叱ってはいない。
ヒルマンに請われて出掛けて行っても、前のハーレイまでが腕組みをして子供たちを睨み付けていても。…農場は大切な場所だとはいえ、安心して遊べる所だったから。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくたち、今日のおじさんと同じだね」
木の幹に生えてる苔が丸禿げになってしまったとしても、猫を繋いだりするよりはいい、って。
庭に出さずに閉じ込めるよりも、好きに遊ばせてやりたいから、って…。
農場の木だって、それと同じだよ。木登りさせなきゃ、収穫が増えたかもしれないのにね。
…きっと増えたよ、木が傷むことは無いんだから。
「それは分かっちゃいたんだが…。キャプテンとして見ていた、報告書とかで」
あのガキどもを止めさえしたなら、もう少しくらい増えるだろう、と書かれていたから。
しかし、所詮は「もう少し」だ。誤差の範囲と呼べるくらいの違いでしかない。その量が減って誰が飢えるというわけでもなし、目くじら立てても仕方あるまい。
その程度のことで縛っちまうよりは、自由にのびのびさせてやりたかったしな、子供たちを。
「絶対に駄目だ」と叱るのも俺の仕事だったが、其処まででいい。
規則まで作って徹底させるとか、立ち入り禁止にしちまうよりかは、あれで良かった。
お蔭で逞しく育ってくれたさ、どの子たちもな。…農場で悪事を働きながら。
シドもリオも…、とハーレイが懐かしむ子供たち。白いシャングリラで育った子たち。
後に最後のキャプテンになったシドも、地球で命尽きた英雄のリオも、みんな木登りをしながら育った。公園にある木とは違って、農場に植えられた大切な木で。
「みんな登っていたんだっけね…。子供だった頃は」
大人に見付かって叱られたって、農場に何度も出掛けて行って。…色々な木に。
オリーブの木にも、イナゴ豆の木にも、と子供たちの姿が目に浮かぶよう。前の自分は、何度もサイオンで覗き見たから。「また登っている」と笑みを浮かべて、青の間から。
「公園の木にも登ってはいたが、農場の方が良かったらしいな。…同じ木登りするのなら」
収穫を控えた木には登れなかったし、盗み食いが出来たわけでもないのに…。
リンゴの一つも食えやしないのに、なんだって農場が良かったんだか…。
叱られてエライ目に遭うだけなんだが、とハーレイが顎に手を当てる。何のメリットも無かった農場、どうして其処で木登りなどを…、と。
「きっとスリリングだったんだろうね。農場の木には、苔が生えてはいなかったけど」
登る時とか、下りる時とかに派手に滑って、苔がハゲるわけじゃなかったけれど…。
だけどスリルはあったと思うよ、農場だもの。見張りを立てなきゃいけないような場所だから。
「叱られるのと、背中合わせのスリルってヤツか…」
苔でツルリと滑っちまうか、大人に見付かって怒鳴り付けられるか。…その違いなんだな。
お前が出会った猫の場合は、苔の手ごたえを楽しんでいる、というトコだ。頑張って爪を立てたつもりでも、滑る時だってあるんだし…。その跡がお前の見て来たハゲだな。
シャングリラの農場で木登りしていたガキの場合は、見付かって怒鳴られるスリルをワクワクと楽しみにしていた、と。苔で滑ってしまうのを楽しむ猫みたいに。
まあいいだろうさ、シャングリラの方では、船の役に立つ子たちが立派に育ったんだから。
前のお前が「安全な場所で遊ばせてやれ」と、何度も許してやったお蔭で。
本当にいい子たちだった、とハーレイが挙げてゆく名前。白いシャングリラの悪ガキたち。
「そうだね、みんな立派に育ってくれたよ。でも…」
今日の猫は、どうなっちゃうんだろう?
苔を剥がして登ってもいい、って許して貰って、立派な猫になれるのかな…?
「そっちは役に立ちそうにないな、猫だけに」
第一、子猫じゃなかったんだろうが。既に育った後の猫だぞ、それ以上、どう育つんだ…?
「たとえ立派に育ったとしても、猫の手だからな」とハーレイが笑う、猫の木登り。
御主人の自慢の苔を剥がして、せっせと登り続ける猫。お孫さんが迎えにやって来るまで。
(…猫の手どころか、大迷惑だよ…)
苔が丸禿げになりそうだ、と御主人がしていた、お手上げのポーズ。
猫の手は役に立たないものだし、あの木登りで立派に育っても、どうしようもない厄介な猫。
けれど、白いシャングリラの思い出を連れて来てくれたから、役には立った。
御主人の与り知らない所で、今の自分とハーレイのために。
それに、御主人の役には立たないようでも、ああやって猫が庭で楽しんでいるのなら…。
(お孫さん、きっと喜ぶよね?)
旅行から帰って迎えに来た時、「お気に入りの木が出来たようだよ」と聞かされて。
もしかしたら、あの木の上から下りて来るかもしれない。お孫さんの声で、大喜びで。
木の幹に生えた苔の最後の欠片を、爪でズルズルと引き剥がしながら。
丸禿げになってしまった幹で溜息をつく御主人だって、お孫さんの笑顔で、きっと御機嫌。
「旅行は楽しかったかい?」と訊いたり、猫を眺めて「いい子にしてたよ」と微笑んだり。
猫が最後の苔の欠片を剥がしても。…本当に丸禿げにされてしまっても。
(あの木の苔も、早く元に戻るといいんだけれど…)
今はまだ丸禿げになってはいなくて、あちこちが剥がれてしまっていた苔。
元の緑色を取り戻すまでには、何年もかかるかもしれない苔。
(やっと生えて来ても、あの猫が来て…)
また剥げるかもしれないけれども、それもいい。
子供は未来の宝だから。
白いシャングリラの農場の木で、木登りしていた子供たち。彼らは立派な大人になった。
あの御主人のお孫さんだって、いつか大きく成長する。
苔を剥がしてしまった猫は育たなくても、お孫さんは立派に育ってくれる。
だから御主人も、きっと怒りはしないのだろう。
ようやく元に戻った木の幹の苔を、お孫さんの猫がすっかり丸禿げにしてしまっても…。
苔が生えた木・了
※ブルーが見掛けた猫の遊び。木の幹を覆っている苔を、剥がしてしまうような木登り。
御主人は困り顔で見守るだけ。止めようとしないのですけど、シャングリラでも事情は同じ。
いないかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供からの質問に答えるコーナー。其処に載っている、下の学校に通う男の子の問い。
「どうして青い毛皮の動物はいないんですか?」と。
鳥だったら青いのも沢山いるのに、と男の子が抱いた「青い毛皮」への疑問。言われてみれば、確かに頭に浮かんでこない。青い毛皮の動物などは。
(答えは…?)
回答するのは専門の学者。小さな子供にも分かりやすいよう、易しい言葉を選びながら。
青い毛皮の動物が存在しない理由は、色覚の問題なのだという。色を識別するための能力。
どの生き物でも、自分自身が感知できない体色は持っていないのが基本。持っていたって、その色は意味を成さないから。…他の仲間が見た時に、「分からない」ような色は要らない。
霊長類以外の哺乳類だと、青い色を見ることは出来ないらしい。犬や猫も、他の哺乳類たちも。
(哺乳類は、夜行性の生活が長くて…)
そのせいで色覚が退化した。青い色が見えなくなってしまった。
長い年月、天敵だった爬虫類に追われて隠れる内に。夜の闇に紛れて生きる間に、鮮やかな色が無い夜の世界で暮らす間に。
爬虫類から進化した鳥類、そちらだったら色覚を維持し続けたのに。
鳥たちは空を飛んでゆくから、哺乳類ほどには爬虫類を恐れなくても良かった。昼の間も堂々と飛んで、色のある世界を眺め続けた。
(それで鳥には、青いのがいて…)
セキセイインコや、オオルリなどや、青い色を持つ鳥は沢山。
けれど、青い毛皮を持つ動物はいない。人間やサルのような霊長類、それを除けば、青い色など分からないのだから。青い毛皮でアピールしたって、仲間たちは見てくれないから。
(色覚ってヤツが問題で…)
鳥と同じに青が分かる魚類は、青い身体の種類も多い。他の仲間も「青い」と認識出来るから。
哺乳類の場合は、そうはいかなくて、青い毛皮の動物はいない。鳥には青い色のがいても。
そうだったんだ、と納得して閉じた質問コーナー。「賢くなった」と。
下の学校の男の子の疑問、それに学者が答えたお蔭で。
学校では教えてくれないこと。色覚について習いはしたって、毛皮の色は教わらない。
(もっと学年が上になったら、習うのかもね)
一足お先に教わっちゃった、と嬉しい気分で戻った二階の自分の部屋。空になったカップなどを「御馳走様」と、キッチンの母に返してから。
勉強机の前に座って、さっきの答えを思い出す。青い毛皮を持つ動物は、存在しない。哺乳類は青が見えないのだから、青くなっても仕方ない。
(犬も猫も、みんな青くはないし…)
青いウサギもいないよね、と考えていたら、ふと掠めた記憶。
(あれ…?)
いたじゃないの、と気が付いた。
青い毛皮を持った動物。それを自分は知っている。遠く遥かな時の彼方で、ちゃんと目にした。あれは確かに青い毛皮で、間違いなく哺乳類だった。
(ナキネズミ…)
白いシャングリラで、ミュウが開発した生き物。とうに絶滅したのだけれど。
思念波を上手く扱えない子供のサポート役に、とヒルマンやゼルたちが作り上げた。元になった動物はリスとネズミで、遺伝子レベルの操作や交配などを重ねて。
リスのようにも、ネズミのようにも見えた動物。シャングリラの外にはいない生き物。
(前のぼくが、青い毛皮の個体を選んで…)
この血統を育ててゆこう、という指示を下した。「青い毛皮をした子がいいよ」と。
そうして繁殖させて増やして、ナキネズミは青い毛皮になった。ナキネズミと言ったら、誰もが青い毛皮を思い浮かべたほどに。
思念波を持つ「ナキネズミ」が完成した時だったら、他の毛皮の個体もいたのに。白いのやら、茶色や、黒もブチもいた。研究室のケージの中には、様々な毛皮のナキネズミたち。
(だけど、そっちは選ばなかったし、一代限りで…)
希望者が貰って、ペットにしていた。思念波で会話が出来たのだから、希望者多数で。
けれど、繁殖させてはいない。船の仲間たちと楽しく暮らして、それで終わった。一代きりで。
繁殖したのは青い毛皮を持った血統。
前の自分が「この子にしよう」と選んだ、青い毛皮のナキネズミ。他の色には目もくれないで、一目惚れ。青い毛皮を持っていたから。
そうなったのには理由がある。前の自分が青い毛皮に惹かれたこと。
(青い鳥…)
幸せを運ぶ青い鳥。それを飼いたいと願った自分。船に沢山の幸せを運んでくれるよう。
けれど、一言で切り捨てられた。「青い鳥など役に立たんわ」と、ゼルに言われた。鶏だったら卵を産むし、肉にもなる。シャングリラで飼う価値は、充分にある。
(でも、青い鳥は…)
眺めて楽しむことしか出来ない。卵を産んでも、それは栄養豊富ではなくて、肉にすることさえ出来ない小鳥。まるで反論出来なかった。「それでも飼おう」と押し切ることも。
これでは無理だと諦めたものの、忘れられなかった青い鳥。地球の青色を纏った小鳥。
青い鳥は飼えない船だったから、青い生き物が欲しかった。青い水の星の色を持つものが。
其処へ現れた、青い毛皮のナキネズミ。惹き付けられないわけがない。鳥ではなくても、毛皮が青い生き物だから。…青いナキネズミがいたのだから。
迷うことなく青を選んだ。「この血統を増やしてゆこう」と、青い毛皮のナキネズミを。
前の自分は、何の疑問も抱くことなく、青いナキネズミに決めたのだけれど…。
(青い毛皮を持った動物、何処にもいないって言うのなら…)
ナキネズミは、青い薔薇のよう。
人間が地球しか知らなかった頃、薔薇には青い色が無かった。青い色素を持たなかったから。
青い薔薇と言えば、「不可能」の意味とされていたほど。どう頑張っても、青い薔薇を作り出すことは出来はしない、と。
それでも、無ければ欲しくなるもの。人間は青い薔薇を求めて、改良に改良を重ね続けた。紫に近い青が生み出された時、「ようやく出来た」と愛好家たちが喜んだ青薔薇。
けれども、それが限界だった。本当に「青い」薔薇は出来ずに、紫を帯びた薔薇があっただけ。
なのに、SD体制が敷かれた時代には、存在していた青い薔薇。青い色素を持っていた薔薇。
今の時代もある青薔薇とは違うもの。人工的に青い色素を組み込まれた薔薇。
(真っ青で、綺麗な薔薇だったけど…)
それは不自然な青だから、とシャングリラでは育てなかった。滅びゆく地球と引き換えのように生まれた青薔薇。地球の青を吸い取り、その身に纏ったかのように。
本当にそうではなかっただろうけれど、人間の驕りの象徴だったとも言えた青薔薇。
ヒルマンたちは「青い薔薇は駄目だ」と唱えた。存在してはならない色を持つから、あの船には相応しくないと。「本来の色の薔薇だけでいい」と。
白いシャングリラに薔薇は何本も植えられたけれど、一本も無かった青い薔薇。当時はごくごく当たり前の色で、「青い薔薇が船に無い」ことを、不思議に思った仲間もいたというのに。
(シャングリラはそういう船だったのに、青いナキネズミ…)
哺乳類は持たない、青い色の毛皮。ナキネズミの身体は、青く柔らかな毛に覆われていた。
前の自分は「青い鳥の代わりに育てていこう」と、その色を選んだのだけど。青い毛皮の動物が存在するかどうかも、まるで考えたりはしないで、一目見ただけで。
(この子がいいよ、って決めちゃったけど…)
そう決まったから、ナキネズミは青い毛皮の血統だけが増やされ、青くて当然。誰も不自然だと思いはしなくて、「ナキネズミだな」と見ていただけ。
シャングリラの中で、青い毛皮を持つ生き物に出会ったら。思念波で話し掛けられたら。
(前のぼくも、船のみんなも、すっかり慣れてしまってて…)
「青い」とさえ意識していなかった。それがナキネズミの色だったから。
青い毛皮を持った動物などは存在しないのに。…人類の世界にあった動物園、それを端から見学したって、青い毛皮の動物はいない。図鑑のページを繰ってみたって、データベースに収められた膨大なデータを解析したって。
(青い毛皮の哺乳類は、何処にもいないんだから…)
さっき読んでいた新聞にあった。「青い毛皮の動物がいない」ことの理由。
青を認識できない色覚、それでは青い毛皮は持てない。青くなっても、仲間たちの目には青色が映らないのだから。
(だけど、ナキネズミは青くって…)
有り得ない筈の青い毛皮を纏っていた。あの時代にはあった、青い薔薇のように。人工的に青い色素を組み込み、鮮やかな青に仕立てた薔薇さながらに。
(ナキネズミは動物で、薔薇じゃないけど…)
考えてみれば、ナキネズミだって、青薔薇と同じに「不自然な生き物」。
自然には血が混じらない筈の、リスとネズミを交配した上、DNAなどを弄って作られたもの。動物は持たない筈の思念波、それを使って人間と会話が出来るようにと。
そうやって生まれたナキネズミ。白いシャングリラの実験室から生み出されたもの。
思念波を上手く扱えない子たちの、いい友達になるように。思念波増幅装置の代わりに、生きた増幅装置として。…子供たちを支えるサポート役で、パートナーだったナキネズミ。
(完成した頃には、それで良かったけれど…)
シャングリラがミュウの箱舟だった時代は、重宝がられたナキネズミ。広い船の中を自由に行き来し、子供たちを手伝う役目が無ければ、農場でのんびり暮らしていた。
(牛小屋に入って、牛の背中を走り回ってみたり…)
農場にある木に登ったりして、生き生きとしていたナキネズミたち。子供も生まれて、仲のいいカップルや親子もよく見かけた。農場に視察に行った時には。
けれど、SD体制が倒された後。
人類との長い戦いが終わって、平和な時代が訪れた後は、繁殖力が衰えていったナキネズミ。
生まれる子供の数が減り始めて、やがて生まれなくなって、そして滅びた。
最後の一匹だったオスが死んでしまって、ナキネズミは何処にもいなくなって。
(そうならないよう、絶滅を防ぐ方法は…)
当時でもちゃんと分かっていた。
白いシャングリラで蓄積されていた、様々なデータ。それにナキネズミを作り出した時の方法。そういった情報は残っていたから、分析さえすれば答えは導き出せる。
滅びそうなくらいに減ったナキネズミを、遺伝子レベルで操作したなら、繁殖力は元に戻ると。
シャングリラがあった時代と同じに、いくらでも子供が生まれて来ると。
(方法は、みんな分かってたのに…)
生物学者も、動物園でナキネズミの飼育を担当していた係たちも。
ナキネズミの絶滅を防ぎたかったら、どうすればいいか。まだ充分な数のナキネズミたちがいた間ならば、手を打つことは可能だった。近親交配にならない内に、遺伝子を操作してやれば。
けれども、彼らはそうしなかった。
放っておいたら滅びることに気付いていながら、自然に任せようと決めた人間たち。
「生き物は全て、自然のままに」と。「人間が手を加えることは許されない」と。
青い薔薇も同じ理由で消えた。
地球の青さを吸い取ったかのように生まれた、不自然な青は。青い色素を組み込んだ薔薇は。
今の時代は無い、青い薔薇。青い色素を持っていたから、完璧な青を誇った薔薇。
そういった青薔薇は全て失われて、今では紫を帯びた青薔薇だけ。薔薇が本来持つ色素だけで、出来るだけ青に近付けたもの。
それ以外の青は、「不自然だから」と二度と作り出されず、この宇宙から滅びていった。
青いナキネズミが、今は何処にもいないのと同じで。
(ナキネズミは、毛皮が青かったせいで、滅びたわけじゃないけれど…)
不自然とされたのは青い毛皮ではなくて、その生まれの方。
人間の手で作り出された、「本当だったら、存在しない筈」の生き物。リスとネズミは、自然の中では血が混じり合いはしないから。…全く別の生き物だから。
(それを交配して、おまけに遺伝子操作まで…)
繰り返して出来たのがナキネズミ。青い色素を薔薇に組み込むより、もっと不自然で有り得ないもの。人間が母なる地球に「還ってゆく」なら、そんな生き物を作っていてはいけない。
(だから、滅びるって分かっていても…)
誰も救いはしなかった。ナキネズミの滅びを止めるためには、不自然すぎる操作が必要。それは行ってはならないことだ、と皆が考え、賛同して。
けれど、そうして滅びていったナキネズミ。今は何処にもいない生き物。
彼らがその身に纏った毛皮は、どうして青かったのだろう。
哺乳類は青い色を持たない筈だというのに、ナキネズミは何故、青い毛皮になったのだろう?
(ナキネズミの元になってた、リスもネズミも…)
どちらも青い毛皮ではない。哺乳類だし、青い毛皮を持ってはいない。
彼らをベースに作り出されたナキネズミだって、哺乳類というものだったろう。卵ではなくて、子供を産んでいたのだから。…生まれた子供は、母親の乳で育ったから。
そのナキネズミを青い毛皮にしたいのならば、あの頃にあった青い薔薇と同じで…。
(生き物の仕組みは、分かんないけど…)
どうやるのか見当もつかないけれども、青い色素を組み込む以外に無かっただろう。
目を青色にするのとは違って、毛皮に青が出るように。
青い目だったら、猫だって持っているわけなのだし、目を青くするなら方法はある。けれども、毛皮はそうはいかない。青い毛皮を持った動物、それは存在しないのだから。
青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類には無い筈の色。どうして、青色だったのか。ナキネズミの毛皮に、青を発色させたのか。
(なんで、そんなことをしていたわけ…?)
自然界には存在しない、青い毛皮を持った動物。それがナキネズミで、白いシャングリラで作り出された生き物。平和になったら、「不自然だから」と、滅びの道を皆が選択したような存在。
(…有り得ない生き物には違いないけど…)
そのことを承知で、「不自然な生き物」の象徴として青にしたなら、青い毛皮のナキネズミしかいなかった筈。実験室で生まれたナキネズミは全て青い毛皮で、他の毛色のナキネズミは無しで。
(青がシンボルなんだしね?)
どのナキネズミも、青い毛皮にしておけばいい。白や茶色や、ブチの個体を作らなくても、青い毛皮のものだけでいい。
「不自然だから青でいいのだ」と考えたのなら、そうなっている。他の毛色は全部排除で、どのナキネズミも青くして。「これがナキネズミの色なのだから」と。
けれど、様々な色の個体がいたのがナキネズミ。思念波を持った生き物として、シャングリラに姿を現した時は。「どの血統を育てたいのか」と、前の自分が訊かれた時には。
(…青い毛皮のナキネズミは…)
あの段階では、他のナキネズミたちに「混ざっていただけ」の試作品。
どれを選ぶかは前の自分の自由で、白も茶色も、好きに選べた。黒でもブチでも、気に入りさえすれば。「これにしよう」と考えたなら。
(…白も茶色も、黒いのも、ブチも…)
動物の毛皮としては、ありきたりのもの。リスとネズミがベースにしたって、遺伝子まで何度も操作していれば、様々なものが生まれただろう。三毛でも、縞の毛皮でも。
(でも、青だけは、絶対に…)
生まれて来ないし、青い毛皮になるわけがない。哺乳類が持っていない色なら、遺伝子レベルで弄ってみたって、青などは出ない。…何らかの方法で、青い色素を組み込まない限り。
その筈なのに、青い毛皮のナキネズミがいた。白や茶色やブチに混じって。
つまり、わざわざ青い毛皮の個体を作って、「どれがいいのか」前の自分に選ばせた。
ヒルマンとゼルが。…あのナキネズミたちを開発していた、二人の最高責任者が。
(まさか、ゼルたち…)
もしかしたら、と頭に閃いたこと。
彼らは青い毛皮を持ったナキネズミを、意図的に作り出したのだろうか?
白や茶色や黒やブチでも、能力に差は生まれないのに。…青い毛皮を作ってみたって、色だけのことで能力は別。青い色素を組み込む分だけ、余計な手間がかかる代物。
それでも彼らは作っただろうか、青い毛皮のナキネズミを。…前の自分に選ばせるために。
青い鳥を飼いたいと願った、ソルジャー・ブルー。幸せを運ぶ青い鳥が欲しくて、それでも夢は叶わないまま。青い鳥は役に立たないから、と一蹴されて。
(代わりに青いナキネズミなの…?)
「青い鳥など役に立たんわ」と言ったお詫びに、ゼルたちは青いナキネズミを作ろうと努力したかもしれない。ナキネズミならば「役に立つ」から、シャングリラの中で飼ってもいい。
幸せを運ぶ青い鳥は駄目でも、青い毛皮のナキネズミなら飼える。ソルジャー・ブルーのペットではなくても、船の中に「青い生き物」が生まれる。
しかも、シャングリラの外の世界には「いないもの」。ミュウの船にしかいない生き物。それの毛皮が青かったならば、前の自分が如何にも喜びそうではある。
(…ホントに喜んじゃったしね?)
一目惚れした、青い毛皮のナキネズミ。「この子がいいよ」と、直ぐに選んで。
ゼルとヒルマンは、そのために青い毛皮の個体を作って混ぜておいたのだろうか。哺乳類ならば持たない色素を、ナキネズミの中に組み込んで。
「これで喜んで貰えるのなら」と、青い毛皮を持った個体を生み出して。
(そうだったの…?)
手間暇をかけて、青い毛皮のナキネズミを作った二人。哺乳類には無い、青い毛皮を。
本当の所はまるで分からないけれど、あの時、確かに前の自分は「青い毛皮の個体」を選んだ。完成したという報告を受けて、実験室に出掛けて行って。
様々な毛皮のナキネズミたちをグルリと見回し、青い毛皮に惹き付けられて。
「この子にしよう」と、青い毛皮の血統を育ててゆくことに決めた。他の色には目もくれないで青にしたけれど、他の色を選んでいたならば…。
(青い毛皮を頑張って作った意味なんか…)
無かったのだし、そうなった可能性もある。ゼルとヒルマンの努力は、すっかり水の泡で。
選ばれるとは限られなかった、青い毛皮のナキネズミ。前の自分ならば、ほぼ間違いなく選んでいたのだろうけれど。「青い毛皮だ」と、幸せの青い鳥に重ねて。
(だけど、青いのがいなくても…)
何も困りはしなかった筈。ナキネズミの血統を決めるだけだし、白でもブチでも、気に入りさえすれば問題はない。「この子がいいよ」と選び出すだけ。
(青い毛皮の動物なんかは、いないんだから…)
ナキネズミたちの色に「青」が無くても、「青いのがいない」と責めたりはしない。青い毛皮の個体を作れとゴネたりもしない。どれにしようかと、白や茶色の個体を見比べるだけで。
(…前のぼくは、何も考えていなかったけれど…)
青い毛皮のナキネズミが如何に貴重な存在なのか、有り得ない色を持っているのか。本当に何も気付きはしないで、「青い子がいい」と思っただけ。…青いナキネズミがいたものだから。
(でも、あれは…)
考えるほどに、不思議な色。哺乳類の毛皮には「無い筈の」青。
その青色を、ゼルたちが作った理由が分からない。白や茶色で充分だろうに、混ぜ込んであった青い毛皮のナキネズミ。遺伝子レベルで弄ってみたって、作れない色の毛皮が青。
(ナキネズミを作る実験とは別に、その研究もしてないと…)
青いナキネズミは出来ないけれども、前の自分は何も知らない。ゼルたちが青い個体を開発した理由も、どうやってそれを作ったのかも。
ナキネズミの開発は、生き物を使っていた実験。リスとネズミを何匹も飼っては、交配したり、遺伝子操作を試みたりと、生き物を相手に続ける研究。まるでアルタミラの研究所のように。
(リスやネズミか、ミュウなのかっていう違いだけで…)
どっちも実験動物なのだ、と思っていたから、見たくなかったケージの中の動物たち。狭い檻の中で生きていた頃の、自分の姿が重なりそうで。
そのせいで、ナキネズミたちを開発中だった実験室には…。
(入っていないし、覗いてもいない…)
前の自分はその場所を避けて、ただ報告を聞いていただけ。会議の席で。
研究の進捗状況を聞いては、「続けてくれ」と指示を下しただけ。実験室には行きもしないで、扉の向こうをサイオンで覗くこともしないで。
そんな具合で、実験室には顔を見せなかったソルジャー・ブルー。
ナキネズミの研究が完成するまで、どの血統を育ててゆくのか、意見を求められた時まで。
実験室に一度も姿を現さないなら、研究内容にも興味を示すわけがない。思念波を使える動物を作っていようが、青い毛皮を持った動物を作り出すべく、懸命に努力していようが。
(青い毛皮を持ったナキネズミは、ぼくには内緒で…)
ゼルとヒルマンがコッソリ作って、前の自分にプレゼントしてくれたのだろうか?
青い鳥が欲しかったソルジャー・ブルーに、「代わりにこれを」と、青い毛皮のナキネズミを。鳥でなくてもかまわないのなら、「青いナキネズミ」を選ぶといい、と。
(そうだとしか思えないんだけれど…)
白や茶色もいたのだったら、青いナキネズミを作り出す意味は全くない。能力だけなら、白でもブチでも、どれでも同じなのだから。
「不自然な生き物」の象徴として青を選んだのなら、どのナキネズミも青かった筈。前の自分に選ばせなくても、最初から「青い毛皮」の個体だけしかいなくて。
(前のぼくのために、青いナキネズミを作ってくれたの…?)
そうだったの、と尋ねたくても、ゼルもヒルマンも此処にはいない。二人とも遠い時の彼方で、叫んでみたって届きはしない。前の自分の強い思念波でも、時の流れは遡れない。
本当の所はどうだったのだろうか、青いナキネズミが生まれた理由。
(ハーレイだったら…)
知ってるのかな、と今のハーレイに訊きたくなった。
今は学校の教師だけれども、前のハーレイはキャプテン・ハーレイ。白いシャングリラを預かるキャプテンだったわけだし、あるいは知っているかもしれない。
(研究のことには、ノータッチでも…)
詳しい報告を受けていたとか、視察に出掛けていただとか。
ゼルとヒルマンの報告書などに目を通しながら、「これは何だ?」と質問したり、視察の途中でケージの中を覗き込んだり。…「青くないか?」と、妙な毛色に気が付いて。
(青が完成する前だったら、ちょっぴり青くなるだけだとか…)
部分的に青い所があるとか、なんとなく青く見えるとか。其処でハーレイが気付いていたなら、青くしようとしている理由も聞いただろう。「青い毛皮」を目指す理由を。
今となっては、頼りになるのはハーレイだけ。青い毛皮の謎が知りたくて、仕事の帰りに訪ねて来てくれないか、耳を澄ませていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば、手を振るハーレイ。
(やった…!)
これで訊けるよ、と部屋に来たハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、切り出した。
「あのね、青い毛皮の動物はいないってことを知っている?」
青い毛皮だよ、フサフサの毛皮。…そんな動物はいないんだ、って。
「いないって…。いただろ、青いナキネズミが」
お前だってよく知ってる筈だが、とハーレイは大真面目な顔で返した。「あれは青いぞ」と。
「そうだけど…。それは昔で、ナキネズミはもう、宇宙の何処にもいなくって…」
絶滅しちゃった生き物なんだよ、だから数には入らないよ。とっくにいない生き物だから。
ナキネズミの他に青いの、知ってる?
毛皮が青い動物だけど、と繰り返した。「他にはいない筈なんだけど?」と。
「青い毛皮の動物だって…?」
ナキネズミが直ぐに浮かんじまったが、アレの他に青いヤツってか…?
青い毛皮なあ…。犬や猫には青なんか無いし、ウサギも青くないわけで…。毛皮だろ…?
毛皮が青い生き物か…、と考え込んでから、ハーレイも「いないな」と答えた。青い身体のは、鳥や蛇とか魚だっけな、と。
「でしょ? 鳥や蛇なら青い色のも多いんだけれど…。魚もいるけど…」
哺乳類には、青い色のはいないんだって。
今日の新聞に書いてあったよ、子供向けの質問コーナーに。…でも、答えてたのは専門の学者。
人間とかの霊長類以外は、色覚が退化しちゃってるから、青い色を見ることが出来なくて…。
もし青かったら、自分の色がどうなってるのか、他の仲間がどんな色かも分かんないでしょ?
でも、ナキネズミは青かったんだよ。…あれだって哺乳類なのに。
赤ちゃんを産んで、お乳で育てていたものね、と確認してみたナキネズミのこと。生物学的には哺乳類だよね、と。
「それはまあ…。元になったのがリスとネズミだから…」
哺乳類には違いないだろう。鳥でも爬虫類でもなければ、魚でもないし。
だが、青かったな、あいつらは。…間違いなく哺乳類だった筈だが。
とんでもない色をしてたってわけか、とハーレイは何度か瞬きをした。「青かったんだが」と。
「俺には見慣れた色だったんだが、あの色は有り得ないんだな?」
青い毛皮をした動物ってヤツは、確かにいない。あいつらは色まで特別だったのか…。思念波を持っていただけじゃなくて、毛皮も特別製だったってな。
「あの毛皮…。あの青色は、前のぼくが選んだんだけど…」
青い鳥を飼うのは無理だったから、その代わりに青いナキネズミにしたんだけれど…。
どうして青いナキネズミがいたのか、ハーレイ、知らない?
聞いてないかな、と問い掛けた。それが「知りたいこと」だから。
「どうしてって…。そいつは、どういう意味だ?」
青いナキネズミは青かっただけで、そういう特徴を持った個体だったと思うんだが…?
「其処だよ、青かった所が問題。…哺乳類には無い筈の色で、有り得ない色を作った理由」
哺乳類に青い色が無いなら、青い毛皮にしてやるためには、必要な色素を組み込まないと駄目。生き物の身体に青い色をね。…それって、不自然すぎるでしょ?
あの時代には当たり前だった青い薔薇だって、シャングリラには無かったんだよ。自然の中では生まれない色で、人工的に青い色素を組み込んでたから。…そんな不自然な色は駄目だ、って。
青い薔薇でも植えなかったような船なのに、なんでわざわざナキネズミを青くしちゃったわけ?
船で作った動物なんだし、特別だから、っていう意味だったら、青いのしか作らない筈で…。
不自然な青い毛皮のナキネズミだけで充分なのに、他の毛皮の色、ちゃんとあったよ?
前のぼくが選ばなかっただけで…、と挙げていった白や茶色のナキネズミ。繁殖させずに、一代限りのペットとして配られたナキネズミを。
「いたなあ、そういうヤツらもな。…希望者多数で大人気だったぞ」
もっとも、選ぶ権利を持っていたのは、人間様じゃなかったが。…ナキネズミの方で。
「そうだっけね。…それでね、青いナキネズミのことだけど…。もしかしたら、って…」
ゼルとヒルマン、前のぼくに「青い鳥」の代わりをくれたのかな、って…。
「なんだって?」
青い鳥の代わりというのは何だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれは鳥じゃないぞ?」と。
「そうだけど…。鳥じゃなくってナキネズミだけど、青かったでしょ?」
ほら、青い鳥は駄目だって言われちゃったから…。前のぼくが欲しかった、青い鳥…。
ゼルにハッキリ言われてたでしょ、と説明をした。「青い鳥など何の役にも立たん」と、一刀の下に切って捨てられた日のことを。
けれど、ゼルたちはそれを覚えていて、青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミをプレゼントしてくれたのでは、と。
「そんな気がしているんだけれど…。でも、前のぼくは何も知らなくて…」
実験室を覗いてもいないし、研究のことも会議で聞いていただけで…。どうして有り得ない色の青を作っていたのか、ホントに分からないんだよ。
ハーレイ、青いナキネズミを作ろうとしていた理由を知らない?
キャプテンだったし、船のことには詳しそうだよ。ナキネズミの実験室にしたって。
前のぼくは、アルタミラの記憶と重なっちゃいそうで、あそこは避けてしまっていたから…。
サイオンで覗いてもいない、と白状したら、ハーレイは「すまん」と謝った。
「実は、俺もだ。…キャプテンにあるまじきことなんだろうが、どうにも好きになれなくて…」
キャプテンの仕事は忙しいんだ、と理由をつけては、あそこは避けて通っていた。
まるで行かないわけにもいかんし、出来るだけ、ということではあるが…。
行った時には、最低限の視察程度で、ザッと見渡したらそれで終わりだ。異常は無いな、と確認するのが俺の仕事で、研究のことはサッパリだしな?
ゼルもヒルマンも俺の飲み友達ではあったが、あいつらだって、ナキネズミの開発の話は滅多にしなかった。動物を使った実験なんだし、愉快なことではないからな。
だから、青い毛皮のナキネズミが生まれた理由は分からん。
あいつらが上げて来た細かい報告ってヤツも、形だけしか見ていないから。…この段階だな、と最後だけ見て、専門用語を並べ立てた部分はすっ飛ばして。
だがな…。
あいつらだったら作っただろう、とハーレイは笑んだ。
ゼルとヒルマンが青い鳥の話を覚えていたなら、青い毛皮のナキネズミを。
「…作っていそう?」
前のぼくには内緒にしといて、青い毛皮のナキネズミ…。
哺乳類には青い毛皮が無くても、なんとかして青くしてやろう、って…?
やり方は分かんないけどね、と首を竦めた。
青い薔薇なら植物だから、動物よりは簡単に出来たことだろう。青い色素を組み込んでやって、目が覚めるような青に仕上げることも。
けれど、ナキネズミは動物なのだし、仕組みがまるで分からない。どうすれば青い色素なんかを組み込めたのか、毛皮に発色させられたのか。
「俺にも見当もつかないが…。前はキャプテンだし、今は古典の教師だぞ?」
動物の毛皮を青くしてくれ、と注文されたら、染める以外に無いってな。食っちまっても毒にはならない、青い色素を探して来て。…ゼリーとかを青く染めるヤツとか。
そういうのを毛皮にペタペタと塗って、「青くなったぞ」としか言えないんだが…。
ゼルとヒルマンの場合は違う。あいつらは根っから研究が好きで、才能も充分あったんだ。
そんなヤツらが、前のお前の夢を諦めさせたから…。青い鳥は駄目だ、と切り捨てたから…。
代わりに青いナキネズミだ、と頑張った可能性ってヤツは高いな。
俺には話しても通じんだろう、と放っておいて、二人であれこれ研究して。
そうやって出来たのがアレじゃないか、とハーレイは顎に手を当てた。「他にもいたし…」と、「青の他にもいたんだったら、青はお前へのプレゼントだろう」と。
「本当に?」
やっぱりそうなの、青いナキネズミは、ゼルとヒルマンがぼくにくれたの…?
好きなのを選んでいい、って言っていたのは、ぼくに青いのをくれるためだった…?
全部が青いナキネズミよりも、その方がずっと素敵だもんね…。
色々な毛皮のナキネズミたちが揃ってる中に、青いのが混じっている方が…。
幸せの青い鳥を見付けたみたいな気がするよ、と白いシャングリラに思いを馳せた。実験室まで出掛けて行った日、青いナキネズミを選んだ日に。
「裏付けは何も無いんだが…。データを見たって、分からんだろうな」
青い色素を組み込んだ時のデータが今もあったとしたって、目的までは書かれていまい。
前のお前へのプレゼントならば、なおのこと、そうは書いていないぞ。…あいつらだけに。
だが、飲み友達だった俺の勘だな、「多分、そうだ」と。…お前のために青くしたんだな、と。
「そうだったんだ…」
ナキネズミの毛皮が青かったのは、青い鳥の代わりだったんだ…。
前のぼくが飼いたがっていたから、鳥は駄目でも、ナキネズミなら、って…。
どうやったのかは謎だけれども、青い毛皮のナキネズミを作ったゼルとヒルマン。
哺乳類は持っていない筈の青い毛皮を、青い小鳥を思わせる色を纏うようにと努力を重ねて。
それが出来たら、前の自分に選ばせてくれた。白や茶色や、ブチの毛皮をしたナキネズミたちと一緒に並べて、「どれにしたい?」と。
大喜びで青を選んだ、前の自分。「この子にしよう」と、一目惚れして迷いもせずに。
青い鳥を飼うことは諦めざるを得なかったから、青いナキネズミが嬉しくて。
その青色が「有り得ない色」だとは考えもせずに、青い個体を選んでいた。「この血統を育てていこう」と、青色の毛皮のナキネズミに決めた。
お蔭で、ナキネズミと言えば今も「青」。誰に訊いても「青だ」と返る、毛皮の色。
(前のぼく、ナキネズミに青い鳥を重ねて…)
見ていたこともよくあった。
農場の木に巣箱をかけて、ナキネズミが入るのを待ったことまであったほど。青い鳥の代わりに住んで欲しくて、青いナキネズミのために設けた巣箱。
青いナキネズミは、前の自分にとっては、幸せの青い鳥のようなもの。
鳥ではなくても、空は飛ばなくても、四本の足でトコトコと船の中を歩く生き物でも。それでも充分、青い鳥の代わりになってはいた。幸せの青い鳥の代わりに、あれがいるよ、と。
青い毛皮のナキネズミを作った、ゼルとヒルマンの読みは見事に当たったのだから…。
「ゼルたちに御礼を言いたいな。…ナキネズミの御礼」
青い鳥の代わりに、青い毛皮のを作ってくれてありがとう、って。
前のぼくは少しも気付いていなかったから、御礼、言えずに終わっちゃったし…。
でも、二人とも、今は何処にいるのか分かんなくて…。
前のぼく、ホントにウッカリ者だよね…。せっかく青いのを作ってくれていたのに、青い毛皮が珍しいことには少しも、気付かないままでいたなんて…。
「その辺のことは、ヤツらも気にしちゃいないだろう。気にしていたなら、言うだろうから」
何かのはずみに、恩着せがましく。「作ってやったのに、礼も無しか」と、ズケズケと。
礼を言いたいなら、今からだって、気持ちだけでも伝わるさ。…あいつらのトコに。
俺も一緒に言ってやるから、窓に向かって言うといい。「ありがとう」とな。
「うんっ!」
ゼルとヒルマンに届くといいよね、ぼくたちの御礼。…青いナキネズミを貰った御礼…。
二人で言おうね、とハーレイと声を揃えて、窓の向こうに頭を下げた。「ありがとう」と。
白いシャングリラにいた、青い毛皮のナキネズミ。有り得ない色を持っていた生き物。
あのナキネズミはきっと、ゼルとヒルマンがくれた、青い鳥の代わり。
「青い鳥を諦めたソルジャー・ブルー」のためにと作ってくれた、青い毛皮をしたナキネズミ。
その青いナキネズミを乗せていた船は、ちゃんと幸せを手に入れた。ミュウの未来を。
誰もが幸せに暮らせる世界を、ミュウが殺されない平和な時代を。
それに今の十四歳の自分と、学校の先生になったハーレイにだって…。
(幸せ、ちゃんと来たからね…!)
前の生では手に入らなかった、夢のような世界にやって来た。ハーレイと一緒に、離れないで。
青く蘇った地球の上に生まれて、幸せに生きてゆける今。
(これって、きっと…)
青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミが運んでくれた幸せだろう。
シャングリラに青い鳥はいなくて、青い毛皮のナキネズミたちがいたのだから。
翼を広げて空を飛ぶ代わりに、四本の足でトコトコ歩いたナキネズミが。
そのナキネズミを貰った御礼を、ゼルとヒルマンの二人に届けたい。
「青いナキネズミを作ってくれて、ありがとう」と。
今では、とても幸せだから。この地球の上で、ハーレイと二人、幸せに生きてゆくのだから…。
ナキネズミの青・了
※青い毛皮だったナキネズミ。哺乳類は青を認識出来ないので、青い色を持たないのに。
ナキネズミを作ったヒルマンとゼルが、前のブルーに青い鳥の代わりに、くれた生き物かも。
形が色々、とブルーが見上げた窓の外。学校から帰って、おやつの後で。
二階の自分の部屋の窓から眺めた空。青い空には、雲が幾つも。モコモコなのやら、筋雲やら。
様々な姿をしている雲たち。前の自分ならば、アルテメシアで雲の上を飛んでいたけれど…。
青い地球の上に生まれ変わった自分は、サイオンがすっかり不器用になった。空を飛ぶなど夢のまた夢、思念波さえもろくに紡げないレベル。雲の上は、文字通り「雲の上」。
(こうやって見上げるだけになっても…)
雲の上には行けなくなっても、それも平和の証拠だよね、と考える。前の自分の強いサイオン、あれが無ければ、ミュウは一人も生きられなかった酷い時代。SD体制の時代は遥かな昔。
そのサイオンが不器用でも誰も困らないのも、今が平和な証だけれど…。
(今みたいに、雲…)
地上から雲を見上げる贅沢。
踏みしめる地面を持たなかったミュウには、まるで考えられないこと。雲を仰ぐなんて。
前の自分も、アルテメシアに降りた時には、空に浮かんだ雲を見上げていたけれど…。
(いつも地上にいたわけじゃないし…)
シャングリラは、常に雲の海の中。消えない雲海を隠れ蓑にして、あの星に潜み続けていた。
踏みしめる地面を持たないままで、いつか地球へと願いながら。ミュウと判断され、処分される運命の子たちを救い出しながら。
船の周りは雲の海でも、展望室の窓の向こうは真っ白。雲の形は分からなかった。とても細かい水の粒子が、無数に浮かんでいるだけで。強化ガラスを隔てて流れてゆくだけで。
(まるで霧の中にいるみたいに…)
白いだけだった、船の中から見えた雲。モコモコなのか、そうでないのか、それさえも謎で。
地上に降りれば雲の形は色々だけれど、様々な雲たちが空に浮かんでいたけれど。
(それを見られるのは、前のぼくだけで…)
他の仲間たちは仰ぐことさえ出来なかったし、後ろめたい気持ちになることもあった。潜入班や救出班の仲間も地上に降りるけれども、任務が優先。雲をゆっくり見る暇は無い。
空を仰げない仲間たちを思うと、そうそう雲には酔えなかった。どんなに綺麗な雲があっても、刻一刻と形を変えてゆくのが面白くても。
前の自分が見ていた雲は、そういった雲。のんびり見られはしなかったもの。
見上げる時間はたっぷりあっても、いつも心に仲間たちのことが引っ掛かっていたものだから。
(今だと、ゆっくり…)
こうして考え事だって出来る。仲間たちや白いシャングリラのことは、何も心配しないまま。
SD体制の時代は遠い時の彼方で、今は本当に平和な時代。考え事だって、好きに選べる。空に浮かんだ雲を見ながら、色々なことを。
雲の上には天国があるし、白い翼の天使たちもいる。きっと自分は、其処から来た。青い地球の上で新しい命と身体を貰って、ハーレイと生きてゆけるようにと。
残念なことに、天国の記憶は無いけれど。…ハーレイだって、何も覚えていないのだけれど。
(雲の隙間から、光が射したら…)
地上に向かう光の道が空にあったら、「天使の梯子」の名前で呼ばれる。天使たちが使う、空と地上を結ぶための梯子。
そういう時に空を観察したなら、雲の端から天使が覗いているらしい。眩しい光の中に紛れた、遠い空にいる天使の顔を見られるチャンス。
(天使の梯子が無くっても…)
天使が何処かにいないかな、と目を凝らしてみる。雲の端っこに見えはしないかと、翼を持った天の使いが顔だけを出していないかと。天使を探すだけでも楽しい、雲を仰ぐこと。
(それに、雲の形…)
色々な形の雲がある上、同じ雲でも形が変わる。空の上の気流や、湿度のせいで。
見る間に形が変わってゆく雲もあるし、同じ形を暫く保ち続ける雲も。
(ホントに見てるだけでも楽しい…)
モコモコとした雲の羊がいたり、丸くなった猫のように見えたり。空に浮かんだ雲の彫刻。どの彫刻も雲で出来ているから、すぐに崩れてしまうけれども。
(崩れちゃっても、また違う形…)
羊が猫になったりもする。猫が龍みたいになることだって。
素敵だよね、と眺めていたら、雲の一つが隠した太陽。空を悠々と流れる間に、太陽の道と交差して。太陽の顔を隠す形で横切って。
たちまちサッと陰ったけれども、雲が通り過ぎたら出て来た太陽。元の通りに、青い空の上に。
一瞬だけの曇り空。ほんの一部だけ、雲の影に入っていた所だけで「消えた」太陽。通り過ぎた雲の下にいなかった人は、陰ったことさえ知らないだろう。青空に白い雲があるだけで。
(面白いよね?)
太陽が消えてしまった所と、そうでない所。雲の下にいたか、いなかったかの違いで変わる。
こういうのだって楽しいよ、と考えていたら気が付いた。前の自分が生きた時代のことに。
(シャングリラは雲の中だったけど…)
いつもアルテメシアの雲海の中を飛んだけれども、赤いナスカでは違っていた。前の自分は深く眠っていたから、ナスカに降りてはいないのだけれど。
(ナスカに着いたら、シャングリラは宇宙に浮かんだままで…)
地上に降りようと決めた仲間は、赤い星へと降下した。何機ものシャトルで、船を離れて。
踏みしめる大地を手に入れたミュウ。若い世代が夢中になった、赤い星。
その星にあった二つの太陽の光や、恵みの雨の話だったら、今のハーレイに聞いたけれども…。
(雲の話は聞いていないよ?)
シャングリラから離れて、皆が仰いだ空の雲。ラベンダー色だったというナスカの空に、幾つも浮かんでいただろう雲。
その雲たちは嫌われ者だったのか、愛されたのか。
(曇っちゃったら、お日様の光が遮られるから…)
作物に光が届かなくなる。直ぐに晴れればいいのだけれども、曇ったままなら、気を揉む仲間もいたかもしれない。「こんな空模様で大丈夫かな」と、収穫のことを心配して。
(お日様の光を、うんと沢山浴びないと…)
甘くならない果物もあるし、トマトなどの野菜もそうかもしれない。酸っぱくなるとか、綺麗な色にならないだとか。
それに季節が冬だったならば、太陽が隠れてしまうと寒い。雲に覆われて消えてしまったら。
(…寒くなったり、野菜が美味しくならなかったり…)
雲にはそういう面もあるから、嫌われたろうか?
それとも、今の自分みたいに「眺めて楽しむ」ものだったろうか。雲海の中を飛ぶ船と違って、いつでも空を仰げたから。雲の形を観察することも出来たから。
「今日は羊だ」とか、「あれは猫だ」とか、雲の彫刻を探すことだって。
ナスカの雲は嫌われていたか、愛されていた雲だったのか。…前の自分はまるで知らない。深く眠ったままでいたから、目覚めた時には滅びの時が迫っていたから。
もちろん今の自分も知るわけがなくて、想像の域を出ないもの。ナスカの雲を、仲間たちがどう見ていたのかは。
(えーっと…?)
答えを出せる人がいるなら、ハーレイだけ。赤いナスカにも降りたキャプテン・ハーレイ。
今のハーレイはその生まれ変われりだし、記憶もきちんと引き継いでいる。ハーレイに訊けたらいいんだけれど、と考えていたら、聞こえたチャイム。
(…ハーレイだ!)
この時間なら、と窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。生き証人が訪ねて来てくれたのだし、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、雲って嫌われていた?」
空にある雲、嫌われてたのか、それとも好かれていたのか、どっち…?
「はあ? 雲って…。何の話だ?」
昔の地球の雲の話か、俺が教えている古典の世界の。…まあ、雲によって色々なんだが…。
めでたいと喜ばれる雲もあったし、不吉だと嫌われた雲もあったが…?
喜ばれた雲にも色々あって…、と話し始めたハーレイの言葉を遮った。「そうじゃなくて」と、「前のぼくたちの頃の話」と。
「ぼくが知りたいのは、ナスカの雲だよ。あそこの雲はどうだったのか」
ナスカの太陽や雨の話は聞いたけど…。今のハーレイから、いろんな話を。
虹の話も聞いたけれども、雲の話は聞いていないよ。…ナスカの雲って、嫌われてたの?
「嫌うって…。どうして雲を嫌うんだ?」
何処からそういう話になるんだ、大昔の人間じゃあるまいし…。雲は雲だぞ?
めでたい雲でも、不吉だと言われた雲でも雲の一種だ、とハーレイは「雲」で片付けた。迷信が生きていた時代ならばともかく、SD体制の時代に嫌いはしない、と。
「そうだろうけど…。でも、シャングリラはずっと雲海の中だったし…」
展望室の窓の向こうを隠していたのは、いつだって雲。あれじゃ好きにはなれないよ。
ナスカに着いた後になったら、雲はお日様を隠してしまうから…。
嫌われそうな感じだけれど、と説明をした。
雲が太陽を隠してしまえば、降り注ぐ筈の日射しが地上に届かなくなる。作物を育てたり、実を甘くしたりする光が。
それに冬なら、人間だって「寒い」と感じる。日が照っていたら暖かいのに、雲が太陽を覆って隠してしまったら。
「今のぼくだと、雲があるな、って見上げておしまいだけど…。あるのが当たり前だもの」
前と違って、空を飛ぶのは無理だから…。ホントに見ているだけなんだけど。
今日も見ていて、シャングリラの頃を思い出したら気になったんだよ。ナスカに降りた仲間たちには、雲はどういうものだったかな、って。
「なるほどな…。それで雲だと言い出したのか。ナスカの雲なあ…」
どうだったっけな、とハーレイも考え込んでいる。「あそこじゃ、雲は当たり前に空に浮かんでいたから」と、「前の俺もそれほど気にしてないな」と。
「そうなんだ…。前のハーレイでも、そうだったんなら…」
他の仲間もきっと同じだね、「雲だ」って空を見上げておしまい。好きとか嫌いとか、そういう気持ちは生まれないままで。
「そんなトコだろうな、なんと言ってもただの雲だし」
アルテメシアの雲海の方なら、雲は大事なものだったが…。消えたりしたなら、シャングリラが外に出てしまうから。…ステルス・デバイスが作動してても、そいつはキツイぞ。
監視衛星からは捉えられなくても、視認できる距離に船がいたなら見付かっちまう。正体不明の大型船だ、と調べられたらおしまいだしな?
元はコンスティテューション号だった船だとバレちまうから、とハーレイが言っている通り。
「未知の大型船」と認識されたら、固有周波数から特定可能な船の正体。
記録の上から、いつ消えたのか。何処で消えたか、此処にあるなら、乗っているのは何者かも。
「そうだっけね…。アルテメシアで雲が消えたら、ホントに大変」
だからいつでも雲の中を飛んで、雲海のデータを集め続けていたんだっけ。
一年中、消えないって分かっていたって、星が相手じゃ何が起こるか分からないから…。
なんのはずみで気流が変わるか、雲の流れがどうなるのかは、誰にも正確に読み取れないもの。
何かありそうだ、って予兆があったら、航路を変えて飛ぶくらいしか出来ないものね。
アルテメシアでは大切だった、雲海のデータを集めること。雲が厚い場所を常に選んで、雲海の中を飛び続けること。
けれど、ナスカでは雲の海はもう、必要なかった。懸命に雲に隠れなくても、人類軍が来たりはしない。船から降りて地面にいたって、何も襲っては来ないのだから。
「…ナスカの雲だと、あっても無くても、関係ないよね」
あれが無ければ困っちゃう、っていうわけじゃないから。…アルテメシアの雲と違って。
「うむ。太陽や雨とは違うからなあ、星の上にいても、直接、影響を受けたりはしない」
お前の言ってる作物にしても、旱魃だとか、大雨だったら、皆、大慌てをしたんだろうが…。
雲が太陽を隠した程度じゃ、そうそう困りはしなかったろう。長雨となったら、話は別だが。
しかし、大雨や長雨だったら、問題は雨の方でだな…。それを降らせてる雨雲の方は、さっさと消えてくれればいいのに、と思われておしまいだったんじゃないか?
もっとも、大雨は降っちゃいないし、雨は喜ばれていただけだ。恵みの雨だと、「これで作物がよく育つだろう」と。
そんな具合だから、誰も雲には注目しない。…隠れ家だったわけでもないしな、アルテメシアの頃と違って。
だが、待てよ…?
本当にそれで全部だったか…、とハーレイは顎に手を当てた。「雲だろう…?」と。
「他にも何かありそうなの?」
ナスカの雲にも、何か素敵な話でもあった…?
トォニィが生まれた時の雨で生まれた花園みたいに、とても特別で、みんなが喜びそうなこと。
それとも、前のハーレイが虹を追い掛けて歩いてたような、ちょっと悲しいお話だとか…?
前のハーレイ、虹の橋のたもとを探していたって言うから…。宝物が埋まっているって聞いて。
眠ったままの前のぼくの魂、其処に埋まっていそうだから、って…。
「あれは悲しい話ではないぞ、俺にとっては希望の一つだ。虹を追い掛けて歩いてたのも」
前のお前に目覚めて欲しくて、それを考え付いてだな…。
歩いている時は、ちゃんと幸せだったんだ。「今日こそ宝物を見付けてやろう」と。
追い付けないままで虹が消えても、次の機会がまたあるだろう?
ガッカリしながら歩いていたって、希望までは消えちゃいないんだからな。
其処の所を間違えるなよ、と訂正してから、またハーレイは考えている。「何だった?」と。
ナスカにあった雲の話を、それに纏わるらしい記憶を。
「雲には違いなかった筈だと思うんだが…。しかし、俺には縁のないことで…」
キャプテンの俺が無関係なら、若い世代の連中だよな?
あの星の上でだけ、意味があったか、何かいいことでもあったのか…。雲ってヤツで…。
そうだ、その雲を使ってたんだ!
ナスカにいた若い連中が、とハーレイがポンと叩いた手。「天気予報だ」と。
「…天気予報?」
なんなの、それは?
天気予報っていうのは、ホントに天気予報のことなの、今のぼくたちが知ってるような…?
今日は一日晴れるでしょうとか、明日は午後から雨になりますとか、そういう天気予報のこと?
ぼくは他には知らないけれど、と首を傾げた。天気予報は天気予報で、この先の天気を予想するもの。傘を持たずに出ても大丈夫か、持って出た方がいいのかなどと、暮らしの参考になる予報。
農家の人やら、海で漁をする漁師だったら、仕事などにも役立てる。
けれど、ハーレイは「雲だ」と言った。雲を使った天気予報と言われても…。
(…天気予報は、気象衛星とかを使っているんじゃなかった?)
今の時代も、前の自分が生きた時代も、基本の仕組みは変わらない筈。白いシャングリラでも、似たようなことをやっていた。船の周りの雲海の動きを読むために。
「お前、すっかり忘れているな? その様子だと」
今の俺が得意としているだろうが、雲で天気を読むってヤツ。
空模様を見て、「この雨だったらじきに止むな」とか、「予報じゃ晴れだが、降るぞ」だとか。
あれも天気予報の一種ってヤツだ、観天望気と呼ぶんだがな。
ずっと昔は、天気予報の仕組みは無かったモンだから…。雲だの風だの、自然の動きを観察して天気を読んでいたんだ。漁師も、作物を育てる農家も。
「雲の天気予報…。今のハーレイ、そういえば得意だったっけね」
でも、ナスカでそれをやってたの?
雲の流れや形を眺めて、晴れになるとか、雨になるとか…?
「やっていたとも。…もっとも、そいつをやっていたのは俺じゃないがな」
前の俺じゃなくて、若い世代だ。さっき、お前に言った通りに。
ナスカに入植した連中だな、とハーレイは懐かしそうな顔。「あいつらだった」と。
人類が放棄した植民惑星、かつてジルベスター・セブンと呼ばれていた星。その星にフィシスが「ナスカ」と名付けて、何機ものシャトルが降下していった。
其処で暮らそうと夢を抱いた、若い世代のミュウたちを乗せて。彼らの希望と、未来への大きな夢を積み込んで。
そうして始まった、ナスカでの日々。踏みしめられる地面の上で。
赤いナスカに降りたからには、必要なものが天気予報。様々な作物を育ててゆくにも、ナスカで暮らしてゆくためにも。
作物を上手く育てるためには、気温などのチェックが欠かせない。寒くなりそうなら、そうなる前に保温をするとか、暑くなりそうなら早い間に水を撒くとか。
人間の暮らしの方も同じで、外に出掛けて作業をするなら、準備するものが日によって変わる。雨はシールドで防ぐにしたって、作業の方はそうはいかない。シートで覆って中断するとか、最初から作業を延期するとか。…予定の作業を、別の仕事に切り替えたりして。
防水用のシートを持って出掛けるのか、それは持たずに出ていいのか。作業そのものを、屋内のものに切り替えるのか。持ってゆく工具や道具なんかも、そっくり変わってしまうとしても。
そういったことを決めてゆくには、天気予報が必要だった。雨になるのか、晴れるのかと。
シャングリラの中だけで暮らした頃なら、一部の者しか気にしなかった天気予報。
アルテメシアの雲の流れや、他の様々な気象データは、ブリッジクルーだけが見れば良かった。船の航路を決めてゆくのに、それらは必須のデータだから。
長い年月、船の仲間が見てもいなかった天気予報。この先、どういう天気になるか。どう天候が変わってゆくのか、変わるタイミングは、どの辺りなのか。
それらがナスカで、皆に共有されることになった。赤い星に降りた若い世代に。
ナスカでも気象観測は可能だけれども、シャングリラの方が遥かに優れた機能を持っていた船。長い年月、アルテメシアで観測を続けていただけに。
もちろん船のデータベースにも、膨大な情報が入っていた。人類が暮らす都市があった幾つもの植民惑星や育英惑星、其処で得られた観測データ。
船のコンピューターに計算させれば、ナスカでの天気予報も可能。衛星軌道上に停泊した船で、ナスカを観測し続けながら。どの雲がどう動いてゆくのか、風の流れはどう変わるかと。
白いシャングリラで弾き出された、計算の結果。赤いナスカの天気予報。
それは直ちに、地上で暮らす仲間たちの所に届いたけれども…。
「やっぱり外れちまうんだ。…どんなに計算し直してみても、これで確実だと思っていても」
アルテメシアにいた頃だって、常に観測し続けてないと、急に変わるってことがよくあった。
あの頃よりも遥かに技術が進んだ、今の時代の天気予報だって、百パーセントじゃないだろう?
だからだな…。仕方ないっていうヤツだよなあ、ナスカで予報が外れちまっても。
そうは言っても、頼りにしていた連中からすれば、とても納得できないわけで…。予定していた作業がパアとか、作業を控えて別のにしたのに、雨なんか降りもしなかったとか。
朝から晩まで快晴でな…、とハーレイが浮かべた苦笑い。今の時代でも、よくあること。予報がすっかり外れてしまって、持って出た傘が荷物になっただけで終わるとか。
赤いナスカで天気予報が外れた時には、文句を言っていた仲間たち。
入植地からは遠すぎて見えない、白いシャングリラが浮かぶ方を仰いで、「何やってんだ」と。
けれど、彼らは次第に気付き始めた。
ラベンダー色の空の上にある、雲の形や流れなど。…それが天気と共に動いていることに。
何処に雲が湧けば雨になるのか、あるいは雲は其処にあるだけで晴れるのか。
「…それって、今のハーレイみたいに?」
じきに晴れるぞ、って言ってるみたいに、ナスカの仲間も予報をしてたの?
雲の形だとか、どっちの方に流れて行くかで、雨が降るのか、降らないのかを…?
若い世代の仲間だよね、と赤い瞳を瞬かせた。前の自分がアルテメシアで救い出させた、大勢のミュウの子供たち。彼らが育って、ナスカに降りた。「あの子供たちが、天気予報を?」と。
「そういうことだ。今の俺と同じに、読み始めたんだな、雲の動きを」
ナスカの上で暮らす間に、色々な経験を積んで知識を増やしていって。
シャングリラの方で出した予報が外れちまったら、そいつに腹を立てたりしながら。
あの星と一緒に暮らしていれば、星の気分にも詳しくなる。シャングリラの中で、観測データを見ているだけのヤツらと違って。
あっちの方に雲が出たなら、降るだとか。…あの雲なら、じきに消えるとか。
シャングリラから届く予報と、ヤツらの経験。それを組み合わせりゃ、けっこう当たった。
だが、季節によって変わっちまう部分も沢山あるから、すっかり定着する前に…。
赤いナスカは燃えてしまった。キースが放ったメギドの炎で、跡形もなく。
ミュウの安住の地になるよりも前に。…雲の予報を完成させて、次の世代に伝える前に。
「それでも、ヤツらは楽しんでいたな。自分たちが作った天気予報を」
たった四年しか暮らせなかった星だが、俺が視察に降りた時には、皆、生き生きとしてた。
あいつらが出した予報が当たって、シャングリラが出した予報が外れた、と喜んだりして。もう何年か此処で暮らしたら、天気予報は自分たちだけでも出来るだろう、とな。
そしていつかは、この星の天気をすっかり当ててみせる、と勢い込んでいたもんだ。「俺たちのナスカの天気くらいは、俺たちの力で当ててみせるぞ」と。
「そうなんだ…。みんな、ナスカで、ホントに幸せだったんだね」
雲の予報を見付けたりして、シャングリラよりも当たる天気予報が出来たくらいに。…ナスカのことが好きでなければ、そんなの、絶対、無理だから…。
毎日、ナスカを観察してなきゃ、出来るわけがないことなんだから。…雲の予報なんて。
その方法で、いつか自分たちで天気予報をしようと、みんなはナスカで思ってたのに…。
でも、それよりも前に、そのナスカは…。
メギドの炎で焼かれちゃった、と俯いた。あの星に降りた若い世代は、前の自分も知っていた者ばかりだから。…白いシャングリラで育った世代で、幼かった頃に船に迎えた仲間たち。
彼らはどんなに幸せな日々を、あの星で送ったのだろう。…ナスカの空を流れてゆく雲、それを見上げて生きていたろう…?
彼らが夢を膨らませた星は、夢と一緒に儚く消えた。あの星で生まれた、自然出産児のトォニィたちだけを残して、暗い宇宙に。…ラベンダー色の空も、其処に浮かぶ雲も炎に焼かれて。
「残念だったが、仕方あるまい」
前の俺たちがナスカを選んだのも、それがメギドで滅ぼされたのも、歴史の流れというヤツだ。
ミュウの時代を手に入れるためには、ああなるしかなかったんだろう。
前のお前も失くしちまって、とんでもないことになった星だが…。
あの時代に生きた俺から見たなら、疫病神のような星だったのがナスカなんだが…。
そんな星でも、雲を眺めて楽しめた時代もあったんだ、とハーレイは微笑む。
「雲で予報をしていたんだぞ」と、「ほんの短い間でもな」と。
前のハーレイは、それを確かに見ていたから。…雲の姿で天気予報を始めた、若い仲間たちを。
ラベンダー色だったという、ナスカの空。其処に幾つも浮かんでいた雲。
幼かった頃にシャングリラに来た若い世代は、雲を仰ぐのは初めてと言っても良かっただろう。養父母に育てられた時代は短かったし、シャングリラで暮らした年数の方が遥かに長い。
アルテメシアの地上で仰いだ雲の記憶は、すっかり薄れてしまっていた筈。自分が本当にそれを見たのか、映像などで仕入れた知識か、それさえ区別がつかないほどに。
シャングリラの中では、雲と言ったら「展望室の窓の向こう」を覆い尽くすもの。太陽が昇る、昼の間は真っ白に。太陽が沈んだ後の夜には、闇を含んだ重たい色に。
そんな雲しか知らなかった世代が、赤いナスカで雲と出会った。空にある雲を仰いで暮らして、天気予報までするようになった。「あそこに雲があるから雨」とか、「雨は降らない」とか。
今のハーレイは、それが得意で、観天望気という言葉も口にしていたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくは、それを知らないよ」
雲の形や流れなんかで、天気を読むっていう方法は。…雲の予報は。
ナスカには一度も降りてないから、そんなの、耳にしてもいないし…。眠っていたから、教えてくれる人も一人もいなかったしね。
アルテメシアに隠れてた頃も、前のぼく、やっていないから…。
雲で天気が分かるなんてことには、気付いてさえもいなかったから…。
何度も地上に降りてたのにね、と零した小さな溜息。「前のぼくって、駄目だったかも…」と。
「駄目ってことは無いだろう。前のお前は、立派なソルジャーだったんだから」
とはいえ、雲の予報ってヤツに関しちゃ、そうなるのかもしれないな。アルテメシアも、星には違いなかったんだし、やろうと思えば出来ただろう。…雲の予報も。
雲海だらけの星ではあったが、育英都市は雲海を避けて作ってあったしな。
アタラクシアとか、エネルゲイアの天気予報は出来ただろうさ、とハーレイは笑む。
「前のお前にその気があったら、恐らく出来ていただろう」と。
「…雲の予報を知っていたら、っていうことだよね?」
そういうやり方があるって話を、前のぼくが何処かで読んだりしていたら…。
ううん、ナスカで雲の予報をやってた若い仲間たちは、そんなの知らなかったんだし…。
ナスカで暮らして覚えたんだし、前のぼくでも出来た筈…。
雲の予報は知らなくっても、アタラクシアのも、エネルゲイアの天気予報も…。
若い世代の仲間たちが気付いて始めたのなら、前の自分にも出来たのだろう。アタラクシアや、エネルゲイアの天気予報が。…雲の予報が。
予知能力など使いもしないで、雲の形や流れなどを読む天気予報。白いシャングリラのデータも使わず、コンピューターにも計算させずに。
「雲の天気予報…。今のハーレイは凄く得意だけど、コツはある?」
ぼくにはちっとも分からないけど、天気予報をするためのコツが。…ナスカでも出来た天気予報だし、前のぼくでも、その気になったら、アタラクシアやエネルゲイアで出来たんなら。
コツはあるの、と興味津々で投げ掛けた問い。今のハーレイは、雲の予報の名人だから。
「雲の予報のコツってか? これというコツは無いんだが…」
あるとしたなら、場数を踏むってことだろうな。ナスカでやってた若い世代は、そうだった。
あの星の上で毎日暮らして、新鮮だった空を見上げて、そして覚えていったんだ。こういう雲が出て来た時には、天気ってヤツはこう変わるんだ、と。
今のお前がやりたいのならば、毎日、窓から見ているだけでも、ある程度まではいけるだろう。
関心を持って、きちんと雲を観察してれば。
どういう具合に流れて行ったら、どんな形なら、その後の天気はどうなるのか。
天気の変化と結び付けて覚えることが大事だ、と教えられた。ただ漠然と雲を見ていても、雲の予報は身につかない。雲や風向きをちゃんと覚えて、天気と結び付けないと。
「難しそうだね、雲の予報って…」
雲を観察する所から始めて、それを覚えるだなんて…。その後のお天気、どうなったのかも。
何度も何度も見ている間に、やっと方法が見付かるんだね…?
「そういうことだな、自分で一から始めるんなら」
ナスカのヤツらはそうしたわけだが、幸いなことに、今はデータというヤツがある。
データと呼ぶより、言い伝えとでも呼びたいんだがな、俺の好みとしては。
この地球の上で生きた先人、その人たちが集めてくれた情報を生かしてやればいい。雲の予報をする名人は、代々、そうして来たもんだ。何世代もの積み重ねで。
人間が地球しか知らなかった頃には、その予報しか無かった時代もあったしな?
俺の場合も、そうした知識を幾つも貰って活かしてる。
あの雲だったら、もう確実に降るだとか…。あの雲は雨が降る雲じゃないとか。
雲の形だけで、幾らかは分かるものらしい。雷雲だったら、この形、といった具合に。
それに風向きを加えてやれば、雷雲が来るかどうかが分かる。頭上の雲の流れを読んだら、風の方向が分かるから。
「雷雲ってヤツは基礎の基礎だな、形も覚えやすいだろう?」
あれが雲の予報の入門編ってトコか、子供でも直ぐに覚えられるから。雷雲の形と、風向き。
他に面白いヤツと言ったら、場所が変わると当たらなくなる予報だな。
ナスカでも使われていた方法なんだが、雲が湧く方向や風向きなんかで決まるヤツ。あの方向に雲が湧いたら、必ず雨になるだとか…。この方向に雲が流れて行ったら、明日は晴れるとか。
その手のヤツは、地形で変わってしまうんだ。
同じような雲があったとしたって、場所が違えば、もうそのままでは当て嵌まらない。すっかり逆になるってこともあるほどだから。
こっちは迂闊に使えないぞ、とハーレイは鳶色の瞳で見据える。「覚えたからって、何処ででも使えるモンじゃない」と。
「そうなんだ…。地形で変わってしまうっていうのは分かるけど…」
山に囲まれた場所か、そうじゃないかでも違うんだろうし…。
おんなじように山があっても、その山の向こうがどんな風かは、何処でも同じじゃないものね。
山の向こうは海があったり、ずうっと山が続いていたり…、と考えてみる。地理の授業で習った地図を思い浮かべて、「ホントにいろんな場所があるよね」と。
「よしよし、分かってるじゃないか。変わっちまう理屈というヤツを」
しかし、世の中、理屈だけでは済まないってな。
この地形だからこうだろう、と決めつけるのは素人判断ってヤツで、愚の骨頂だ。何処にでも、色々な気象条件がある。…初めて其処に行ったヤツには、分からないことが山ほどな。
だから、釣りなんかで知らない所へ出掛けた時には、だ…。
自分では「こうだ」と思っていたって、それを使っちゃ駄目なんだ。
思い込みで勝手に動いちまう前に、地元の人の考えを聞く。今日の天気はどうなりますか、と。
そうすりゃ親切に教えて貰えて、天気予報よりも良く当たるってな。
「今日は晴れだと言ってましたが、雨になりますよ」と言われたりもして。
その手の情報、大切なんだぞ。自然が相手の釣りなんかだと。
晴れていたって、急に荒れる時もあるもんだから、とハーレイは首を竦めてみせた。
「そういった時に小さな船で沖に出てたら、大変だぞ?」と、恐ろしそうに。
「今の時代はサイオンがあるから、そう簡単に遭難したりはしないんだが…」
それでも漂流しちまったりしたら、大勢の人に迷惑をかけてしまうしな?
釣りに行った人が帰って来ない、と船を出したり、場合によっては空からも捜索するんだから。
いくら思念波で連絡が取れても、船を見付けて連れ帰らないと駄目だろう?
嵐で流された船の中だと、乗ってる人間もヘトヘトだ。食料や水も流されちまって、腹ペコってこともあるんだから。
そうならないためにも、事前の準備が大切なのだ、と説くハーレイ。天気予報を確かめた上で、地元の人にも話を聞く。自分の考えだけで決めたりしないで、慎重に。
「ふうん…。雲の予報って、難しいんだね」
ナスカでもやってた予報なんだし、簡単なのかと思ったけれど…。ホントにそれを使う時には、自分一人で決めてしまっちゃ駄目なんだ…。
「そうでもないぞ? いつも住んでる町の中なら、何も心配要らんしな」
其処が自分の地元なんだし、他所から来た人に教える方の立場だろうが。こうなりますよ、と。
他所の町でも、何度も通えば自然と覚える。
ナスカでさえも、ちゃんと予報をしてたんだから。たった四年しか住めなかったのに。
それと同じだ、そっちも場数が大切だ。色々な場所に出掛けて行っては、其処ならではの天気の動きを覚えることが。
俺も親父に連れて行かれて、あちこち出掛けて、けっこう覚えた。…色々なことを。
お蔭で、この町と隣町なら、ほぼ大丈夫だな、雲の予報は。
滅多に外れん、とハーレイは自信たっぷりな様子。そして実際、ハーレイの予報は良く当たる。天気予報が「晴れです」と言っても、ハーレイが「降るぞ」と言った日は雨。
「ぼくも覚えたいな、雲の天気予報…」
難しそうでも、覚えたら役に立ちそうだから。
傘を持ってた方がいいのか、持って行かなくてもいいか、自分で分かれば素敵だもの。
天気予報だけだと、外れちゃう時も多いから…。
それに、「所によっては雨」って言うでしょ、あれがどうなるか分かるといいよね…。
天気予報で、気になる言い回しの一つ。「所によっては雨」というもの。
予報の対象区域は広いし、何処で降るのかは分からない。そういった時に雲の予報が出来たら、きっと便利に違いない。「傘が要るよ」とか、「要らないよね」と自分で判断出来たなら。
「ふうむ…。お前がやるなら、まずは頑張って観察からだな」
どの雲が出たら、どういう天気になったのか。そいつを覚えろ、窓から雲を何度も眺めて。
先人の知恵も大切なんだが、自分の力で身につけたことは忘れない。
現にナスカじゃ、本当に一からやったんだから。…あそこで暮らしていた連中は。
もっとも、ヤツらを船に連れて来た前のお前は、そんな予報に気付きもしなかったようだがな。
アルテメシアじゃ、何度も外に出てたのに…。
雲を見上げる機会ってヤツも、前のお前には、山ほどあった筈なんだが…。
それでも気付かなかったのか、とハーレイが言うから、逆に質問してやった。まるで同じのを。
「じゃあ、ハーレイは気付いてたの?」
前のハーレイは、その方法を知ってたって言うの、船の外には出ていなくても…?
アタラクシアとかエネルゲイアの方に動いていく雲、何度もデータを見ている内に…?
「おいおいおい…。前のお前でも気付かないんだぞ、俺に分かると思うのか?」
俺もナスカで目から鱗というヤツだ。「そんな方法があったのか」と。
言われてみれば、確かに筋は通ってた。雲は大気の流れで動くし、それで予報は可能だからな。大気の流れや雲の性質を掴んでいたなら、答えを弾き出せるんだから。
もっとも、そいつを知った後でも、やはりシャングリラで気象データを見ている方が…。
俺の場合は主だったがな、というのが前のハーレイ。
白いシャングリラを纏め上げていた、船の最高責任者。今は英雄のキャプテン・ハーレイ。
船を預かるキャプテンなのだし、天気予報を勘だけで決めてはいけないから。
赤いナスカでそれを覚えて、「こうなるだろう」と思っても。
シャングリラのコンピューターが計算して出した天気予報を見て、「これは外れる」とナスカに送る前に手直ししたくても。
キャプテンは、それをしてはいけない。
たとえナスカの天気予報でも、自分一人の判断だけでは変えられない。「こうなるんだ」という答えを自分が持っていたって、それは雲の予報。ナスカで暮らす仲間に習った、雲の形を読み取る不思議な天気予報。…SD体制の時代には誰も、それを使いはしなかったから。
前のハーレイは使わなかった、雲の天気予報。赤いナスカで聞いてはいても。
「そっちの方が当たるようだ」と感じてはいても、白いシャングリラのデータが全て。其処から計算される答えが「本当のこと」で、赤いナスカの天気予報。
「また外れた」と言われていても。ナスカの仲間は、雲の予報を使っていても。
「…今の俺なら、あの予報でも使えるんだがなあ…」
こういう雲が出たからこうだ、と自信を持って言ってやれるし、それで問題ないんだが…。
「だよね、みんなの命は懸かってないもんね」
学校で天気予報をしたって、誰の命も懸かってないから…。生徒も、それに先生たちだって。
「そうなんだよなあ、柔道部員のヤツらも別に困りはしないぞ。俺の予報が外れても」
せいぜい、降らないと言っていた筈の雨に降られて濡れる程度で…。あいつらだったら、濡れるよりかはシールドだろうな、ちゃっかりと。…俺を信じてしまったお蔭で、傘が無いなら。
そんな平和な時代なんだし、お前もゆっくり覚えていけ。雲の予報を。
観察するのが一番だぞ、とハーレイがまた繰り返すから、「でも…」と恋人の瞳を見詰めた。
「雲の観察は頑張るけれども、ハーレイもぼくに教えてよ?」
大勢の人が雲を見上げて、覚えた知識も大切なんでしょ。何世代もの経験ってヤツの積み重ね。
ハーレイもそれを使ってるんだし、ぼくに教えてくれるよね?
いつか一緒に出掛けられるようになったら、いろんな場所で。
「もちろんだ。…この町でも、隣町でもな」
俺の師匠の、親父と一緒に教えてやるさ。あちこち一緒に出掛けて行っては、雲を指差して。
「あの雲がこう流れているから、今日の天気は…」といった具合にな。
楽しみに待っていることだ、と約束をして貰ったのだし、雲の予報を覚えたい。赤いナスカで、若い世代の仲間たちもしていた天気予報。
それを地球の上でやってみる。…まずは窓から雲の観察、其処から始めて。
天気予報も頼もしいけれど、自分で補足出来たら幸せ。
いつかハーレイに教えて貰って、とても上手になれたらいい。
ハーレイと二人で「降るんだよね?」と傘を持ったり、「大丈夫」と置いて出掛けたり。
そういう予報が出来たらいい。
雲の形を二人で見ながら、「明日は晴れるね」などと、雲が流れてゆく方向を眺めながら…。
雲の天気予報・了
※雲を仰ぐ機会が無かった、アルテメシア時代のミュウたち。ナスカで出会った空の雲。
若い世代は雲を眺めて、天気予報が出来たようです。今のブルーも、ハーレイに習える予定。
楽しみだよね、とブルーが思ったバスの中。朝、学校へと向かう路線バス。
いつも乗っているバスだけれども、幸いなことに座席は常に一つくらいは空いているもの。朝の通勤時間帯だけれど、乗客たちの行き先のお蔭か、はたまた乗ってゆく区間のせいか。
今日も乗ったら直ぐに座れたから、通学鞄を膝の上に置いて、学校のことを考える。ハーレイに会える、古典の授業。それがあるのが今日だから。
ハーレイは学校の教師だけれども、まるで会えずに終わる日もある。お互いが通る廊下や階段、それが全く重ならなくて。姿さえもチラと見られないまま、放課後になってしまう日も。
(古典がある日は、もう絶対に会えるんだから…)
自分のクラスで座っていたなら、ハーレイの方からやって来る。「ハーレイ先生」の貌で、古典を教えに来るのだとしても。…二人きりで話は出来なくても。
(運が良ければ、当てて貰えるし…)
そうなれば、自分が答える間は、ハーレイと一対一の時間。教師と生徒の間柄でも、ハーレイを独占できるのは確か。「当てて貰えたら嬉しいよね」と出てくる欲。
早くハーレイに会えないだろうか、学校に着いて、古典の時間が始まって。
(宿題も、ちゃんとやってあるもの…)
ハーレイが出した古典の宿題。目を通すのはハーレイなのだし、宿題をするにも力が入る。他の科目で出た宿題より、ずっと真剣に取り組みたくなる。「頑張らなくちゃ」と。
(感想文だけどね?)
問題を解いてゆくのではなくて、ハーレイが指示した古典を読むだけ。普通の本と全く同じに。
読み終わったら、感想を書く。自分がそれをどう感じたか。何処が気に入ったのか、とか。
(古文が苦手な生徒だったら、うんと困るだろうけれど…)
そうでなければ、読書感想文を書くのと何処も変わらない。自分が思ったことを書くだけ。
けれど古文がとても苦手な生徒も多いし、充分に設けられていた「宿題の時間」。
提出期限が今日だっただけで、宿題はもっと前から出ていた。古文が苦手な生徒たちでも、最後まできちんと読めるように。…読み終わった後は、感想文を書くための時間も必要になる。
宿題をやる時間はたっぷりあったし、早くに仕上げた。宿題が出た日に、早速、ハーレイが指示した古典を読んで。その日の間に、気になった箇所も書き出して。
張り切って早く仕上げた宿題。感想文だから、「決まった答え」が無い宿題。何処のクラスも、生徒の数だけ違った答えがあるだろう。「こう思った」とか、「主人公は間違ってる」とか。
(そういう宿題なんだから…)
ハーレイも採点するのではなくて、皆の感想を読んでゆく。書いた生徒たちを思い浮かべては、「あいつらしいな」と笑みを浮かべたりして。
「ブルー」と名前が書いてあったら、熱心に読んで貰えるだろう。古典の授業では教え子の中の一人だけれども、本当は恋人なのだから。…それも生まれてくる前からの。
(感想文の中に、「ハーレイが好き」とは書けないけれど…)
思いをこめて書き上げた。読みやすいよう、丁寧な字で。
「頑張ったんだな」と分かって貰えるようにと、表現などにも気を付けて。「いいと思います」ばかりを繰り返すよりは、「素敵でした」とか、「感動しました」。
もちろん誤字や脱字は論外、些細なミスも見落とさないよう、何度も何度も読み返して…。
(もう完璧…)
書き直した所も幾つもあったものね、と考えた所でハタと気付いた。
欠点など、もう何処にも無いだろう感想文。会心の出来で、自信満々なのだけれども…。
(昨夜、寝る前に…)
ベッドに腰掛けて「明日は提出」と思っていたら、書き直したくなった箇所。頭に浮かんだ違う表現、そっちの方がずっといい。「どうして今まで思い付かないの?」と呆れたくらいに。
書き直さなくちゃ、と鞄から出した感想文。読み返してみて、「やっぱりこっち」と消しゴムで消して、その部分を新しく書き直した。「この方がずっといいんだから」と。
それから全体をまた読み直して、「これがピッタリ」と大満足。でも、その後に…。
(宿題、ちゃんと鞄に入れた…?)
まるで記憶に残っていなくて、心配なことに自信も無い。「鞄に入れた」という自信。
なにしろ、早くに仕上げてあった宿題。提出期限の今日が来るより、ずっと前から。
それを何度も書き直したり、読み返したりしていたものだから…。
(感想文の置き場所、机の引き出しの中で…)
其処から出しては、また戻す日々。書き直した日も、「読んだだけ」の日も。
あまりに何度も、引き出しの中に入れたり、出したりしていたのだし…。
(もしかして、あの引き出しに…)
戻しちゃってはいないよね、と慌てて鞄の中を覗いた。膝の上で開けて、手を突っ込んで…。
まずは古典のノートの隣。次は教科書の方を調べて、「こっちかな?」と他の教科の方も見た。何も考えずに突っ込んだのなら、そちらに混じっていそうだから。
鞄の中をゴソゴソ探って、底の底まで捜してみたけれど…。
何処を調べても無かった宿題。入ってはいない感想文。ノートを端から広げてみたって、中には挟まっていなかった。鞄の中に無いのなら…。
(引き出しだ…!)
書き直した後に鞄に入れずに、引き出しに入れたに違いない。何度も出し入れしていたせいで、自分でも全く意識しないで。
(やっちゃった…)
家に置いて来てしまった宿題。それの提出期限は今日。
ハーレイが古典の時間に集めて、持って帰って読む感想文。忘れて行ったら、赤っ恥で大恥。
(ぼくの宿題、出せないんだから…)
宿題を集める方のハーレイはもちろん、クラス中の生徒が見るだろう。「やってないんだ」と。「家に忘れて来たんです」は、宿題をやらずに登校した生徒の「言い訳」の定番なのだから。
普段に出される宿題もそうだし、夏休みなんかの宿題もそう。
本当は「やっていない」というのに、「家に忘れました」と答える生徒。それは堂々と、まるで宿題は「完璧に出来ている」かのように。
(…家に帰って取ってこい、って言う先生は…)
一人もいないし、皆、そうやって言い訳をする。「家に忘れて来ちゃったんです」と。
だから自分が「本当のこと」を言ったって…。
(…宿題なんかやっていなくて、宿題が出たのも忘れてて…)
提出できないというだけのこと。ハーレイから見ても、クラスメイトたちの目から見たって。
(宿題を家に忘れるなんて…)
あんまりだよ、と自分の頭を叩きたい気分。よりにもよって、それを忘れて来るなんて。
家に忘れたのが教科書だったら、他のクラスの誰かに頼めば借りられる。ノートなら別の教科のノートを使って、「古典のノートを持っている」ふり。
でも、宿題だと、そうはいかない。借りるのも、「持っているふり」も。
宿題を家に忘れて来たなら、「同じ宿題」をやるしかない。学校に着いたら、懸命に。
出された問題を解くものだったら、友達に問題用紙を借りて。…生徒によっては、その答えまで丸写しにする「宿題のやり方」。自分なら、ちゃんと解くけれど。
何かをノートに書き写すだとか、そういったものでも、頑張って書けばいいけれど…。
(感想文なんて、学校じゃ無理…!)
レポート用紙や原稿用紙は手に入っても、とても書いてはいられない。時間が足りない。課題の古典は覚えていたって、その感想が丸ごと頭にあったって。
時間が無いなら、感想文を書けはしなくて、提出することが出来ない宿題。…ハーレイが教室にやって来たって、「この前の宿題、集めるぞ」と、クラスをぐるりと見回したって。
持ってはいない宿題は「出せない」。家に忘れたのが本当でも、結果が全て。ハーレイだって、意外そうな顔をするのだろう。「お前が宿題、忘れたってか?」と。
どう聞いたって「やっていません」の意味でしかない、「家に忘れて来ました」という言い訳。かなり前から出ていた宿題だけに、余計に恥ずかしい。
(ハーレイの宿題、持って来るのを忘れるだなんて…)
そのせいで「宿題をやっていない」ことになるなんて。
ハーレイが聞いても、クラスメイトが聞いても、そうなってしまう。宿題を出さずに、「忘れて来ました」と、正直に本当のことを言っても。
(そんなの、嫌だ…)
出来るわけない、と腕の時計を眺めた。今の時間は何時だろう、と。
余裕を持って家を出るから、針が指している時間は遅くはない。学校が始まる時間を知らせる、チャイムの音。遅刻しそうな生徒が慌てる、あの音が鳴るのは、まだずっと先。
(まだ大丈夫…!)
今だったら、きっと間に合う筈。宿題を取りに家に戻って、出直して来ても。
(帰って、取って来た方が…)
宿題を忘れて恥をかくより、ずっとマシ。学校に着くのが少し遅れても、遅刻はしない。
家に帰ろう、と降車ボタンを押した。「次で降ります!」と大急ぎで。
いつもだったら、そのボタンを押すバス停には、まだ着かないのに。
学校の側にあるバス停なら、もう少し先になるというのに。
とにかく急いで帰らなきゃ、と降りたバス停。今までに降りた経験は無い。そんな所に用などは無いし、いつも窓から見ているだけ。
(初めて此処で降りちゃった…)
けれど、余分な料金などは一切かからない。何ヶ月も先まで支払い済みで、鞄につけたチップを機械が読み取るだけ。その期間だったら、いつでも何処でも、乗り降り出来る仕組みのものを。
側の横断歩道を渡って、道路の向かいのバス停に行った。家に帰るなら、そっちでないと。
(此処からだったら…)
自分が使っているバスの他に、違う路線バスもあるらしい。家の方へと走ってゆくのが。
二つもあるなら頼もしいよね、と時刻表を眺めてホッとしたけれど。じきに、どちらかのバスが走って来そうな時間なのだけれど…。
(……来ない……)
待っているのに、時間通りに来てくれないバス。いつものバスも、違う路線のも。
途中の道が混んでいるのか、ずっと向こうで道路工事でもしているか。
(街路樹の枝を切ってるのかも…)
そういう時には、車線が減ってしまうもの。「工事中」だとか「剪定中」とか、理由が書かれた看板がドンと据えられて。場合によっては、誘導係の人までがいて。
(そうなっちゃった…?)
直ぐに来そうなバスが走って来ないなら。…予定の時刻を過ぎているなら。
腕の時計に視線を遣っては、バスが走って来る方を見る。「まだ来ないの?」と伸び上がって。
何度もそれを繰り返していたら、ようやく見えた路線バス。他の車たちのずっと向こうに。早く来ないかと待って、待ち続けて、「やっと来たよ」と乗り込んで…。
(大丈夫だよね?)
家の方へと走ってゆくバス、空いていた席に腰を下ろして考える。
バスが来なくて、思った以上に無駄に時間を費やしたけれど、まだ学校には間に合う筈、と。
いつも通りに余裕を持って家を出たから、始業のチャイムが鳴り響く前に学校に着ける。此処で家まで戻って行っても、家に忘れた宿題を取りに帰っても。
けれど、遅れて走って来たバス。ずいぶん待ったし、これで戻って、またバス停から学校の方へ行くバスに乗るなら、到着時間は、多分ギリギリ。
家の近くのバス停で降りて、腕の時計を確かめた。「ホントにギリギリになっちゃいそう」と。
此処から家まで歩いて帰って、二階の部屋まで駆け上がる。引き出しに忘れた宿題を取りに。
大切な宿題を鞄に入れたら、後は学校に戻るだけ。…時間は本当にギリギリだけれど。
(パパが家にいればいいけれど…)
出勤前なら、頼んで車に乗せて貰おう。「会社に行く前に、ぼくを学校まで送ってよ」と。父の車なら速いし、安心。時刻表なんかも関係なくて、乗ったら直ぐに走り出すだけ。
(それなら、ギリギリなんかじゃなくて…)
もっと早くに着ける筈だよ、と急ぎ足で帰って行った家。本当は走りたいのだけれども、万一の時を考えたならば、体力は残した方がいい。父はとっくに出掛けてしまって、残る手段は路線バスしか無いことだってあるのだから。
急がなくちゃ、と速足で着いて、門扉を開けて庭に飛び込んだ。玄関まで一直線に走って、扉を大きく開け放ったら…。
「あら、ブルー?」
どうしたの、と母が目の前で驚いた顔。掃除の途中か、庭へ出ようとしていたのか。
「忘れ物…!」
取りに戻って来たんだよ、と返事しながら脱ぎ捨てた靴。そのままバタバタ二階に走って、机の引き出しから宿題を出して、鞄の中へ。
(これで宿題は、もう大丈夫…!)
ちゃんと提出できるんだから、と鞄の蓋を閉めて、ポンと軽く叩いた。「大丈夫!」と、忘れて出掛けた自分に言い聞かせるように。
そして大慌てで、階段を下へと駆け下りて行って…。
「ママ、パパは!?」
まだ家にいるの、と母に尋ねた。階段の下に立っていたから。…忘れ物をした一人息子を、その行動を見守るように。
「パパって…。とっくに会社に行ったわよ?」
「本当に…!?」
ど、どうしよう…。それじゃ送って貰えないよね、パパがいるかと思ってたのに…。
パパの車で送って貰えば、学校、直ぐに着けるのに…!
そう叫んだって、父は会社に出掛けた後。母は車を持っていないし、タクシーを呼んで貰うのも妙な話ではある。
(タクシーで来ちゃいけません、っていう決まりなんかは…)
無いのだけれども、学校の前でタクシーから降りたら、目立つだろう。バス通学だって、自分が例外のようなもの。丈夫な生徒は同じ距離でも、自転車だったり、歩いていたり。
(ただでも目立っているんだから…)
それがタクシーで乗り付けたならば、きっと注目を浴びる筈。「いったい何があったんだ?」と皆が眺めて、理由を訊かれるかもしれない。「今日は具合が悪いのか?」とか。
(そうだよ、って嘘はつけるけど…!)
本当は宿題を忘れて取りに戻ったわけだし、いたたまれない気分になってしまいそう。一日中、朝の出来事が頭の中でグルグル、もちろんハーレイの授業中にも。
(そんなの嫌だよ…!)
タクシーが駄目なら、残った手段は路線バスだけ。この時間ならば、本当にギリギリ。
今、バス停に向かっているだろうバス、それを逃してたまるもんか、と家を飛び出して、全力で走った。普段はのんびり歩く道筋、それをバス停までまっしぐらに。
途中で出会った近所の人にも、すれ違いざまに「おはようございます!」と叫んだだけで。
バス停が見えたら、ラストスパート。目の前でバスに行かれたくはない。
(間に合った…!?)
時刻表を見て、辺りをキョロキョロ。バスの後ろ姿などは無いから、走り去ってはいない筈。
大丈夫だよね、と確認する間に、見えて来たバス。「あれに乗らなくちゃ」と気ばかり焦って、バス停の椅子に座って休みもしないで、やって来たバスに乗り込んで…。
(席、空いてない…)
それほど混んではいないのだけれど、一つも無いのが座れる席。どの席にも先客が座っている。「次で降ります」と降車ボタンを押す人もいない。
家から走って、息を切らしたままで立ち続けて、此処にいるのに。…バスに乗ったら、座れると思い込んでいたのに。
(…それに、信号…)
いつも以上に引っ掛かる。タイミング悪く赤に変わって、其処で止まってしまうバス。
「早く」と腕の時計を見ても。「間に合うよね?」と心配しても。
どんどん過ぎてゆく時間。座れないのも辛いのだけれど、時間の方が遥かに気掛かり。
(もう本当にギリギリかも…)
もしかしたら遅刻しちゃうのかも、と焦る間に、なんとかバスは学校の近くのバス停に着いた。とうとう最後まで座れなかったし、息は乱れたままだけれども…。
(走らなくっちゃ…)
でないとチャイムに間に合わない、と鞄を手にして必死に走った。バス停から校門までの間を、もう文字通りに死力を尽くして。…これが体育の授業中なら、見学に回るだろう身体に鞭打って。
(息が苦しくて…)
心臓の鼓動も激しいけれども、遅刻は出来ない。それでは此処まで来た意味がない。遅刻してもいいと思うのだったら、走ってバスには乗らないから。のんびり出掛けて遅刻するから。
そうして目指す校門の前に、先生がいるということは…。
(ホントにギリギリ…!)
「じきに閉めるぞ?」と見張っているのが、先生の役目。チャイムが鳴ったら、閉まってしまう学校の門。それから後に登校したなら、脇の小さな門の方から…。
(入ることになって、先生が名前を確認して…)
遅刻者のリストに入れられる。大きな門から入れたならば、其処に名前は載らないのに。
その前に間に合いますように、と転がるように走り込んだ所でチャイムが鳴った。学校に入った生徒たちにも、遅刻しそうな生徒の耳にも聞こえるように、遠くの方まで木霊しながら。
(間に合った…!)
遅刻じゃないよ、とホッとした途端に、聞こえた声。
「珍しいな」というハーレイの声で、そっちの方を眺めたら…。
(もう朝練が終わった後…)
柔道着ではなくて、スーツを着込んだハーレイ。
校門を閉めている先生とは別に、小さな門の側に立っているから、遅刻した生徒のチェック係。今日はハーレイがその当番で、「名前は?」と訊いて名簿に書き込むのだろう。クラスも、遅刻の理由なんかも聞き出して。
そのハーレイに、「遅刻しないで済んで良かったな」と笑顔を向けられて、気が緩んだのか。
それとも身体が限界だったか。…走った上にバスでは座れず、今も走って来たのだから。
ぐらりと身体が傾いだ気がして、もつれた足。もう走ってはいないのに。
(…嘘……!)
スウッと視界が暗くなってしまって、ハーレイの笑顔が見えなくなった。周りの景色も、足元の地面も、何もかもが。
「ブルー!?」
ハーレイに抱き留められたようにも思うけれども、薄れてゆく意識。重い身体は自分のものではないかのようで、立っているのか、そうでないかも分からない。
(…倒れちゃったの…?)
どうなってるの、と思ったのが最後。
ハッと気付いたら、目に入ったものは白い天井。ベッドの上に寝かされていて、保健室だと直ぐ分かった。何度もお世話になった場所だし、常連と言ってもいいほどだから。
「ブルー君、大丈夫?」
目が覚めたのね、と保健室の先生がベッドの側にやって来た。「何処か痛い?」と。
壁の時計にふと目を遣ったら、もう二時間目が始まる時間。遅刻寸前に駆け込んだものの、朝のクラスでのホームルームも、一時間目も、知らずに眠っていたらしい。
それに、二時間目と言えば…。
(ハーレイの授業…!)
古典の授業は二時間目だよ、と慌てて起き上がろうとした。「宿題を持って行かなくちゃ」と。
そのために家まで帰ったのだし、早く教室に行かなくては。ハーレイが「持って来てるか?」とクラスを見渡す前に。宿題を集め始める前に。
けれどグルンと目が回って…。
(…ぼくの鞄…!)
それが何処かも分からないまま、背中からベッドに沈み込んだ。上半身を起こせもしないで。
「駄目よ、静かに寝ていないと。お母さんには連絡したわ」
じきに迎えに来て下さるから、それまでベッドで寝ていなさいね。
倒れたんだから起きちゃ駄目よ、と念を押された。
まだ宿題を提出できていないのに。
二時間目の授業に行かなかったら、それをハーレイに渡せないのに。
頑張って取りに帰った宿題。バスで戻って、懸命に走って、ちゃんと学校まで持って来たのに、渡せない。…保健室でこうして寝ているからには、「忘れた」ことにはならなくても。
このまま鞄ごと持って帰っても、誰も咎めはしなくても…。
(頑張った意味が無くなっちゃうよ…)
倒れて保健室に来たのは、その宿題を取りに帰ったせい。「ハーレイに渡そう」と、ただ一心に頑張り続けて、こうなってしまったのだから…。
「……宿題……」
「え?」
なあに、と顔を覗き込まれた。「宿題が、どうかしたのかしら?」と。
「…ハーレイ先生の宿題があって…」
今なんです、と訴えた。二時間目が古典の授業なことと、今日が提出期限なことを。その宿題が鞄に入っているから、教室まで持って行きたい、と。
「あらまあ…。やっぱり真面目ね、ブルー君は」
保健室まで来ちゃった生徒は、宿題なんか気にしないのに…。「出さなくていい」と思う生徒もいるわね、やらずに来ちゃったような時だと。
宿題だったら、ハーレイ先生に渡しておいてあげるわよ。お昼休みに。
様子を見に来ると仰ってたから、という先生の言葉は心強いけれど、宿題はちゃんとハーレイに届きそうなのだけど…。
(その時は、ぼく…)
母に連れられて早退した後。ハーレイに自分で渡せはしない。
会心の出来の宿題なのに。それを忘れて来たと気付いて、家まで取りに戻った結果が、こういうことになっているのに。
けれど、どうにもならない状況。教室に行く許可は出なくて、第一、ろくに歩けもしない。
仕方ないから、先生に頼んで鞄を受け取り、中から宿題を引っ張り出した。
「これ、お願いします。…ハーレイ先生に渡して下さい」
「分かったわ。ちゃんと忘れずに渡しておくから、安心しなさい」
あ、お母さんがいらしたみたい。
帰ったら無理をしないで寝るのよ、明日の授業とか宿題のことは気にしないでね。
「無茶は駄目よ」という先生の声に送られ、母と一緒に出た保健室。
そうして連れて帰られた家。学校の駐車場に待たせてあったタクシーに乗せられ、真っ直ぐに。
家に着くなり、押し込まれたベッド。制服を脱がされ、パジャマに着替えさせられて。
母は叱らなかったけれども、原因には気付いているだろう。宿題を取りに戻った時に会ったし、父の車が無かったからには、一人息子がどうなったかも。
(バス停まで走って行っちゃったのも、バスで座れなかったのも…)
母ならば、きっとお見通し。そうやって乗ったバスが遅れて、学校の前でも走ったことも。遅刻寸前に走り込もうと、弱い身体で全力疾走していたことも。
(大失敗…)
ホントに失敗、と情けない気分。
頑張って仕上げた宿題も出せず、ハーレイの授業にも出られずに帰って来たなんて。
昨夜、ウッカリしていたばかりに、宿題を引き出しに入れてしまって。一度は鞄に入れた宿題、それを手直ししていたせいで、家に置き忘れて出たなんて。
(途中で気付いて、取りに戻ったのはいいんだけれど…)
その宿題は、保健室の先生がハーレイに渡してくれる筈。「ブルー君から預かりました」と。
宿題をきちんと「やって来た」ことはハーレイに伝わるけれども、たったそれだけ。期限までに提出したというだけ、他には何の役にも立たない。
あんなに頑張って取りに戻ったのに、ハーレイに届けようとしたのに…。
(きっと心配させちゃっただけ…)
ハーレイは事情を知らないのだから、「ブルーが倒れた」と大慌てしたことだろう。いつもなら早い時間に登校するのに、どうしたわけだか遅刻間際のギリギリの時間に走って来て。ハアハアと息を切らせたままで、門の所で倒れたなんて。
(何があったのかと思うよね…?)
寝坊したから必死だったか、バスの中でウトウト眠ってしまって、終点まで行って戻ったのか。
まさか宿題を取りに戻ったとは思わないだろうし、思い付くのはそういったケース。
(…宿題を取りに家まで帰って、遅刻しそうなのも酷いけど…)
寝坊するのも、乗り過ごして終点から戻ってくるのも、馬鹿のよう。どちらも間抜け。
考えるほどに、涙がポロポロ零れてくる。
「ぼくって、駄目だ」と。「ホントにウッカリしてた馬鹿だよ」と、「ぼくの大馬鹿!」と。
そんな調子だから、気分はドン底。それに身体がだるくて重い。無理をし過ぎて、とても負担をかけたから。…下手な体育の授業の時より、ずっと体力を使ったから。
(ホントに馬鹿だ…)
身体まで駄目にしちゃうだなんて、と後悔したって、もう遅い。弱い身体はとうに限界、悲鳴を上げている状態。「もう動けない」と、「走るどころか、歩くのも無理」と。
それでは食欲があるわけもなくて、昼食は母が作ったスープとプリンだけ。
「何か食べられそう?」と母に訊かれても、首を横に振るしかなかったから。「欲しくない」とベッドで丸くなるだけで、本当に欲しくなかったから。
(それでスープと、甘いプリンと…)
喉ごしが良くて、栄養がつきそうなコーンのポタージュスープ。卵を使った柔らかなプリン。
なんとか食べられはしたのだけれども、夕食も食べられないかもしれない。昼と同じにスープとプリンで、他には何も口にしないで。
(明日の学校…)
保健室の先生は、「明日の授業も宿題も気にしないでね」と言っていた。具合が悪くて早退した子は、宿題をやって行かなくてもいい。欠席していて、復帰した子も。
だから自分も、その注意を受けた。登校するなら、宿題のことは気にせずに。休むのだったら、明日の授業で出される宿題、それは「やらなくてもいい」と。
(……宿題……)
それで頑張りすぎちゃったんだよ、と涙が溢れる。
ハーレイが授業で出した宿題、今日が提出期限だった感想文を「素晴らしいもの」にしたくて、何度も何度も手直しして。昨夜も「こっちの方がいいよ」と書き直したりして。
(いつも机の引き出しに…)
入れたり出したりしていたせいで、昨夜も引き出しに入れてしまった。慣れた方へと、ついついウッカリ。「鞄から出した」ことも忘れて、引き出しの方に。
(そのせいで、持って出るのを忘れて…)
途中で気付いて、取りに戻ろうと頑張った。バスから降りて、家の方へと向かうバスに乗って。
家に戻って宿題を持って、遅刻しないように全力疾走。宿題を持ってゆくために。
頑張って走って学校に着いて、其処までで力尽きてしまった。…宿題は持って行けたけれども。
頑張りすぎてしまった宿題。感想文を書いていた段階でも、それを提出する所でも。
(…家に忘れて来たんです、って…)
本当のことを告げていたなら、きっと倒れたりしなかった。「宿題、やっていないんだな?」と笑われたって、大恥をかいて、赤っ恥だって。
(ハーレイに笑われても、クラスのみんなも笑っていても…)
その方が良かったのだろう。こんな結果を招いてしまって、母やハーレイにまで、心配をかけるくらいなら。…身体がすっかり壊れてしまって、食欲も失せるくらいなら。
(ぼく、明日は…)
学校を休んじゃうんだろうか、と辛くて悲しい。古典の授業は無い日だけれども、休めば学校でハーレイに会えない。チラと姿を見掛けることさえ、チャンスそのものが無くなるから。
(そうなっちゃうの…?)
今日もハーレイに少ししか会えていないのに、と零れる涙。
本当だったら授業でたっぷり会えたのに。好きでたまらない笑顔が見られて、大好きな声が沢山聞ける授業。…それを逃して、おまけに心配までさせた。ハーレイの目の前で倒れてしまって。
(…ごめんね、ハーレイ…)
ぼくがウッカリしてたから…、と思う間に、訪れた眠気。少しでも疲れを取りたい身体が、休む時間を欲しがって。「眠って治そう」と訴え掛けて。
引き摺られるように眠ってしまって、次に意識が浮上した時は…。
「おい、大丈夫か?」
寝ちまってるのか、と聞こえた声。直ぐ耳元で。
「…ハーレイ?」
どうしたの、と目をパチクリとさせた。
ハーレイはまだ学校だろうに、どうして此処にいるのだろう、と。それともこれは夢の世界で、目が覚めたらハーレイは消えるのだろうか…?
「どうしたの、って…。そうか、寝ぼけてるのか」
時間の感覚、寝ていたせいで無くなったんだな。
学校ならとうに終わっちまったさ、いつもの柔道部の方も。
俺の仕事は終わったってわけで、お前の見舞いに来てやったんだが…?
そういえば…、とハーレイは椅子を運んで来た。いつもこの部屋で座る椅子。窓辺に置かれた、ハーレイ専用になっている椅子を、ベッドの側に。
それに座って、ハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「お前の宿題、ちゃんと受け取ったぞ。…保健室の先生が渡してくれた」
昼休みに様子を見に行ってみたら、お前は帰った後だったから…。
どんな具合だったか訊くよりも前に、「ブルー君からです」と渡されちまった。教室まで持って行こうとしたから、代わりに預かっておいたんだ、とな。
「ホント? ちゃんと届いたんなら良かった…。でも、失敗…」
大失敗だよ、今日のぼく…。ごめんね、心配かけちゃって…。
「失敗なあ…。朝から倒れちまったことか?」
お前が遅刻しそうだなんて、珍しい日もあるもんだ、とは思ったが…。あんな時間に、校門まで走って来るなんてな。
気分が悪くて遅れたんなら、あそこで走っているわけがないし…。
いったい何をやらかしたんだ、と鳶色の瞳が覗き込む。「寝坊でもしたか?」と。
「そうじゃなくって…。いつも通りに家を出たけど、あの宿題…」
ハーレイが前に出してた宿題、家に忘れて出ちゃったんだよ。…昨日の晩にも手直しをしてて、鞄に戻すの忘れちゃって…。机の引き出しに入れてしまってて…。
学校へ行くバスに乗ってから、忘れて来たのに気が付いたから…。
宿題を忘れて行きたくなくって、家まで取りに戻らなきゃ、って…。だって、宿題、家に忘れて来たっていうのは、「やっていません」の意味になるでしょ…?
普通はそっちの意味に取るよね、と投げ掛けた問いを、ハーレイは否定しなかった。
「まあ、そうなるのが普通だろうな。…言い訳ってヤツの王道だから」
家まで確かめに行きはしないし、宿題が本当に忘れてあるかどうかは謎ってことで。
「やったんです」と主張されたら、「嘘をつくな」と言い返すのも、教師の仕事の一つだから。
「やっぱりね…。そうなるだろうと思ったから…」
頑張って取りに帰ったんだよ、まだ間に合うよね、って時計を見て。
いつもは降りないバス停で降りて、家の方へ行くバスに乗ろう、って…。
そしたら宿題を取りに帰れて、ハーレイの授業の時にきちんと渡せるから…。
それをやってて遅刻寸前、と目の前の恋人に白状した。
時刻表の通りにバスが来なくて、家に帰るのが遅くなったこと。父は会社に出掛けた後で、車で送って貰えなかったこと。
残る手段はバスだけだから、と乗り遅れないように走ったことも。
「家からバス停まで走ったんだよ、ホントに全力疾走で…。挨拶だって走りながらで」
バス停の椅子は空いていたけど、座ろうって思い付かなくて…。バスが早く来ないか、そっちの方を立って見ていて、一度も座らないままで…。
やっとバスが来て乗り込んでみたら、空いた席、一つも無かったんだよ。…ヘトヘトなのに。
おまけに信号で止まってばかりで、うんと時間がかかってしまって…。
学校の近くのバス停に着いたら、ギリギリの時間。…先生が表に立っているような。
だから急いで走らなくちゃ、って頑張って走って、間に合ったけど…。
門を入ったら、そこでチャイムが鳴ったんだけど…。でも…。
ぼくの力も其処でおしまい、とベッドの中でシュンとした。倒れてしまって、この通りだから。学校を早退する羽目になって、ハーレイにも心配をかけたのだから。
「そうだったのか…。宿題を取りに戻ったとはなあ…」
命懸けで提出したってわけだな、お前が出した感想文。なら、心して読まないと…。
そうとも知らずに受け取って来たが、お前の命が懸かってたなら。
コーヒー片手に読んじゃ駄目だな、とハーレイが表情を引き締めるから、瞳を瞬かせた。
「…命までは懸かっていないけど…」
ぼくは倒れてしまったけれども、それだけだよ?
救急車で病院に行ってはいないし、家の近所の病院にも行っていないから…。
ちょっぴり具合が悪いだけだよ、死にそうにはなっていないってば。
命なんかは懸かってないよ、と言ったのだけれど。
「俺にしてみりゃ、似たようなモンだ」
目の前でお前が倒れたんだぞ、駆け込んで来たかと思ったら。
元気そうだな、と思った途端に、お前、倒れてしまうんだから…。
何事なのかと大慌てな上に、お前の命の心配もする。
お前、元から弱いんだしなあ…。走っちまって、急に具合が悪くなっても不思議じゃないから。
俺の寿命まで縮んじまうだろうが、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「命懸けで宿題を持って来るのは結構なんだが、身体のことも考えろよ?」と。
「お前らしいと言ってしまえば、それまでなんだが…。お前、根っから真面目だからな」
宿題の一つや二つくらいは、忘れたって死にやしないのに…。減点だって知れてるのにな?
まあ、お蔭でお前を運べたんだし、俺は文句は言わないが。
あれは役得と言えるんだろう、と不思議な言葉。いったいどういう意味なのだろう…?
「運んだって…。それに、役得って、何?」
ハーレイがぼくを運んだってことは分かるけど…。保健室まで運んだんでしょ?
先生の仕事の内なんだろうし、何処が役得なのか分からないけれど…?
「簡単なことだ、お前を運んだ方法だな。他の先生たちが、担架を取りに行こうとしたから…」
これで行けます、とお前をヒョイと持ち上げただけだ。
お前の憧れの「お姫様抱っこ」だ、普通の男子生徒だったら、アレは嫌がるものなんだが…?
「えーっ!?」
覚えていないよ、ハーレイが運んでくれていたこと…!
せっかくの、お姫様抱っこ…。前から何度も頼んでたのに…。「いつか、お願い」って。
ぼくは何にも覚えてないのに、ハーレイだけが楽しんでたの…?
お姫様抱っこで、ぼくを運んで…、と尖らせた唇。本当に欠片も覚えていなくて、思い出しさえしないから。「お姫様抱っこだ」と聞かされても。
「当然だろうが、意識不明じゃ覚えているわけがない」
ついでに言うなら、あの状態だと、アレで運んでいても誰も笑わん。何処から見たって、病人を運んでいるわけだから。…それも意識が無い状態の。
もっとも、生徒はもういなかったが…。
チャイムが鳴ったし、みんな教室に行っちまってな、という話。「お姫様抱っこ」で運んでゆく所を目撃したのは、先生たちだけ。
「大丈夫ですか?」と覗き込んでいた先生だとか、例の宿題入りの鞄を手にして、保健室までの道を一緒に歩いた先生だとか。
「聖痕を持った一年生」が「守り役の先生」に運ばれたことは、学校の先生たちしか知らない。生徒は一人も知らないままで、目撃した生徒もいないまま。
幻みたいな「お姫様抱っこ」。覚えていないのは残念だけれど、先生たちしか知らないのなら、まだ諦めがつくというもの。「誰も見ていなかったんだものね?」と。
「そっか…。生徒は誰も見ていないんなら、ホントに病人を一人運んだだけだよね…」
お姫様抱っこで運ばれてたぞ、って噂になることも無いだろうから。
ごめんね、心配かけちゃって…。役得はいいけど、寿命が縮んだらしいから…。
ホントにごめん、と謝った。悪いのは全部自分なのだし、申し訳ないと思うから。
「いや、いいが…。俺のことは気にしなくてもいい」
しかし次から無理はするなよ、宿題は忘れてもかまわないから。…今日みたいにパタリと倒れるよりかは、潔く忘れてくれた方がな…?
「やだ…!」
本当に家に忘れたのかも、って思っていたって、ハーレイ、ぼくに言うんでしょ?
「その宿題は、やっていないんだな?」って、先生なら誰でも言いそうなことを。宿題をやっていない生徒の言い訳、大抵、それなんだから…。
でも…。無茶をしたぼく、何も食べられそうにないから…。
野菜スープを作ってくれる、と尋ねてみた。母のスープとプリンでもかまわないのだけれども、ハーレイが来てくれたのだったら、あのスープがいい。
前の生から好きだったスープ、とても素朴な「野菜スープのシャングリラ風」が。
「野菜スープだな、お安い御用だ」
お前、命懸けで頑張ったんだからな、俺に宿題を提出しようと。
それに比べりゃ、スープ作りの手間は大したことじゃない。だがな…。
頑張りすぎってヤツは良くないんだ、お前だって今日ので懲りたんだろう?
明日も学校に来られるかどうか怪しいくらいで、今だって飯が食えないんだから。
命懸けの無茶をするってヤツはだ、前のお前のメギドだけで終わりにしておいてくれ。あれでも充分、今の俺にはダメージがデカい。…生まれ変わって来た今でもな。
いいな、あれがお前の最後の無茶で、最大の無茶だ。
とはいえ、今日のも命懸けの無茶だぞ、あの時と並ぶくらいにな。
二度と無茶なんかをするんじゃない。…命懸けのは、もう沢山というヤツなんだ。
前のお前は、本当に頑張りすぎちまったから。
分かったな、とハーレイが怖い顔をするから、もう無茶はしたくないけれど。
ハーレイにも、母にも、自分の無茶のせいで、心配をかけたくはないのだけれど…。
(きっと、また…)
似たようなことをやりそうだから、ハーレイの宿題には気を付けよう。ウッカリ家に置き忘れてしまわないよう、鞄の中を何度も確認して。
(…ぼくがウッカリしていて、失敗…)
せっかくの「お姫様抱っこ」を覚えていないのは、きっと神様の罰だろう。
ハーレイにも母にも心配をかけて、その原因は自分だから。
自分がウッカリしていたばかりに、酷い無茶をして、学校で倒れてしまったから。
(次から宿題…)
忘れないようにしなくっちゃ、と思いながらも、目の前のハーレイにリクエストする。
「野菜スープのシャングリラ風」は、ちゃんとスプーンで食べさせて、と。
身体がだるくて起き上がれないから、その食べ方がいいんだけれど、と。
「お姫様抱っこは覚えてないから、スプーンでスープ…。駄目…?」
「仕方ないヤツだな、甘えやがって…。だが、命懸けで宿題、持って来たしな…?」
そのくらいの我儘は許してやろう、とハーレイは優しく微笑んでくれた。
「だが、無茶はいかんぞ?」と、「それをしっかり覚えておけよ」と。
(…だけど、無茶して倒れちゃったから…)
こんな時間を持てるんだよね、と思うと、それも幸せではある。
ハーレイに甘えられる時。
「スープをスプーンで食べさせて」などと注文をして。
無茶をし過ぎた身体はだるくてたまらなくても、心の中は幸せ一杯。
ハーレイと二人きりの時間で、もう少ししたら、あの懐かしい野菜スープも食べられるから…。
忘れた宿題・了
※ハーレイの授業で出された宿題。頑張ったのに、置き忘れて家を出てしまったブルー。
懸命に取りに帰った結果は、学校でダウン。憧れだった、お姫様抱っこ、記憶に無いのです。