シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
ぱらり。
シャングリラの写真集のページをめくる。前はハーレイとのたった一つのお揃いだった写真集。ハーレイが見付けて先に買って来て、教えてくれた。
ぼくのお小遣いでは買えない値段の豪華版。パパに強請って買って貰った。シャングリラの姿も懐かしかったけれど、ハーレイと同じ写真集を持っていることが嬉しかった。
お揃いの持ち物は夏休みの一番最後の日に増えて、机の上にフォトフレーム。飴色をした木製のそれに入った、ぼくとハーレイとの記念写真。眺めるだけで幸せになれるハーレイの笑顔と、隣で嬉しそうに笑っているぼく。ハーレイの左腕にギュッと両腕で抱き付いたぼく。
写真の中のハーレイに見守られながら勉強をしたり、本を読んだり。なんて幸せなんだろうかと胸が温かくなる時間。その机でシャングリラの写真集の世界に入り込んでゆく。
白い大きな鯨のようだったシャングリラ。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
楽園の名をつけたその船は役目を終えて時の彼方に消えたけれども、今でも一番有名な宇宙船。こうして写真集が売られているほど、人気の高いシャングリラ。
地球が燃えてトォニィがソルジャーを引き継いだ時には、人類とミュウは歩み寄り始めていた。十年と経たずに完全な共存状態になって、ミュウの母船は要らなくなった。トォニィも船を降り、シャングリラは見学用に公開されたり、時には記念飛行をしたり。
その頃に撮られた写真を編んで作られた写真集。宇宙空間を飛ぶシャングリラや、人の住む星を背景に浮かぶシャングリラも何枚も収まっている。
最後のソルジャーとなったトォニィは地球で命尽きたジョミーたちの思い出を大切に守り、皆の生きた証をそのままに残しておいてくれた。手を触れないで、皆が離れたその時のままで。
だから此処には青の間も、キャプテンの部屋も、ぼくが見ていた頃と全く変わらず写っている。ハーレイの机に置かれた白い羽根ペンも、棚に並んだ航宙日誌も。
懐かしい部屋を順に巡って、それから公園の奥に見えるブリッジ。展望室も天体の間も、ぼくが暮らしていた頃のまま。
何もかもが時を止めたかのように写真集の中に在るのだけれど、ぼくが居た頃と決定的に異なるものが一つだけ。写真集には写ってはおらず、説明すらも無いのだけれど…。
写真集に載っているシャングリラの広い格納庫。一機のギブリに焦点を当てて撮ってあるから、他のシャトルや小型船の姿は分からない。シルエットか、もしくはフレームの外か。
船体の改造を終える前から広かったシャングリラの格納庫。改造する時には「もっと大きく」と注文をつけた。皆は其処に人類側から奪った機体がズラリと並ぶと思ったようだ。戦闘機を揃えて万一の時に備えるのだ、と。
既にソルジャーだった、ぼく。唯一の戦力だったぼくの指示だから、広い格納庫が完成した。
シャングリラの前身だった船に在ったシャトルを数機備えただけの、ガランとした広い格納庫。
ぼくは其処に一つの夢を託した。
皆が期待した戦闘機などではなくて、ミュウの命を守ってゆくために必要な船。
いつの日か、此処に救命艇を置く。シャングリラに居るミュウたち全員を乗せても充分な数の。
そう言ったら、案の定、厳しい意見が幾つも出て来た。直ぐに怒り出すゼルはもちろん、大勢の他のミュウたちからも。「そんな余裕が何処にあるか」だの「誰が助けてくれるんだ」だのと。
救命艇を建造できる技術はあっても資材など無いし、たとえ作れても救助は来ない。救難信号を発信したって、仲間の船は何処からも来ない。人類側に発見されて捕まるのが目に見えている。
皆の主張は正しかったから、これはあくまで夢だと言った。
今は救命艇を作れはしないし、作っても救助に来る船は無い。ミュウを乗せた船はシャングリラだけで、それを失った時は終わりの時。
でも、いつか。
ミュウを乗せた船が宇宙を行き交い、救難信号を出せば救助される時代が来るだろう。そういう時代が必ず来る。ミュウの船でも救命艇を積んであるのが当たり前の時代がやって来る。
シャングリラみたいに大きな船なら、救命艇は沢山要る。それを積み込む時に備えて、格納庫は広く作っておこう、と。後で広げるのは難しいから、今から広くしておくのだと。
改造前の船の救命艇は作り替えられてシャトルになった。そうせざるを得ない時代だった。
必要のない救命艇より、使える船がある方がいい。
資材が手に入るようになっても、シャトルやミュウの救出に使う小型船を建造するのが最優先。格納庫に船は増えていったけれど、ぼくが夢見た救命艇は誰も作りはしなかった。
それでもいつか、と夢を見ながら長い眠りに就き、目覚めた時にはナスカに居た。十五年ぶりに見た格納庫。ミュウに仇なす地球の男を其処で倒すべく、先回りをして辿り着いた。
ギブリの車輪に背中を預けて座って待つ間に、ぼくは周りを見回した。広い格納庫を作り上げた時代の何倍もに増えた幾つもの機体。それでも救命艇は無かった。
ナスカに基地を作ったとはいえ、ミュウの居場所はナスカの他には無かったから。この宇宙にはシャングリラの他にミュウの船は無く、救命艇で脱出したって助けてくれる仲間の船など何処にも存在しなかったから…。
そう、あの時には救命艇は載っていなかった。けれど、前のぼくが死んでから後に夢は叶って、地球に辿り着いた頃には救命艇が在ったという。当時の資料で確かに見付けた。
ただ、救命艇がいつ出来たのかが分からない。資料を見付けたデータベースに建造した日などは記されておらず、シャングリラに居たミュウ全員が乗れるだけの数が在ったことしか分からない。
ハーレイの航宙日誌を扱うデータベースも見てみたけれども、中身が多すぎてお手上げだった。この辺りかと見当をつけて探してみても、どうにもならない。
いつの間にか備え付けられていた救命艇。
ソルジャー・ブルーだった前の生のぼくが最後まで欲しかった救命艇。
キースとの戦いを控えた時でさえ、格納庫の中を見ていたほどに。
ぼくの夢だった救命艇。いつ出来たのかを知りたくなったら止まらない。
ハーレイに訊いてみようと思った。覚えていない筈が無いから。
きっとハーレイが指揮して作らせた船。何故ならハーレイはキャプテンだから。シャングリラに居るミュウたちの命を預かる立場のキャプテンだから…。
週末の土曜日、訪ねて来てくれたハーレイに尋ねてみた。ぼくの部屋で向かい合わせに座って、二人でお茶を飲んでいる時に。
「ねえ、ハーレイ。…シャングリラに在った救命艇って、いつ作ったの?」
「知っていたのか? 作ったことを」
ハーレイが目を丸くするから、「うん」と頷く。
「気になったから調べてみたんだ。…地球に行った後には出来ただろうと思ったんだけど、もっと前に出来ていたんだね」
「ああ。アルテメシアを落として直ぐに作ったな」
「そんなに早く?」
予想外の答えに驚いた。そこまで早いとは思わなかったし、ハーレイの航宙日誌もアルテメシア陥落の辺りは調べていない。ハーレイは「早いだろう?」と笑みを浮かべた。
「救命艇はお前の夢だったからな。…ジョミーに言ったさ、そのとおりに。アルテメシアを味方に付けたからには、其処から救助船が来る。それに備えて作るべきだ、と」
「…それで?」
「その場で作ると言ってくれたぞ。思い付かなかった、と苦笑いしながら指図してたな。行動力は充分なソルジャーだったが、勢いで進むだけではなあ…」
生き残る手段も講じてこそだ、とハーレイが笑う。
「俺たちを助けに来てくれる船が出来たからには、そいつが来るまで生きていないとな? お前が救命艇をいつか作ると言わなかったら、俺もそこまで気が回ったかは自信が無いが」
「ハーレイならきっと思い付いたよ、キャプテンだもの」
いつだって船の仲間の安全を考えていたキャプテン・ハーレイだもの…。
「お前に言われると嬉しくなるな。俺たちが作った救命艇だが、地球でも役立った筈なんだ。近い星に降りて救助を待てる仕様に作っておいたし、短距離なら自力で航行可能だからな」
「そっか…。良かった。役に立ったなら、作っておいてホントに良かった」
…ぼくが作ったわけじゃないけど。
ハーレイが言って、ジョミーが作らせた船なんだけど…。
「いや、お前だ」
救命艇を作らせたのはお前の言葉だ、とハーレイの鳶色の瞳がぼくを真っ直ぐに見た。
「お前が何度も言っていたからこそ、後回しにせずに取り掛かれた。…あのタイミングだったから作れたんだ。本格的な戦闘に入ってからだと、まず無理だったな」
人類軍との戦いは熾烈を極めた、とハーレイは語る。ぼくも前世の記憶を取り戻してから自分で調べて知っていた。あの強かったナスカの子でさえ失ったほどの激しい戦い。人類軍の全てを敵に回しての戦いの火蓋が切って落とされた後は、救命艇どころじゃなかっただろう。
「…そうだね、作ってる暇は無かっただろうね」
「いつ攻撃が来るか分からないしな? しかしだ、お前の言葉のお蔭で俺たちは救命艇ってヤツを持っていたんだ。それがどれだけ心強かったか、お前なら直ぐに分かるだろう?」
戦闘の真っ最中には救命艇は意味が無いかもしれない。
しかし、戦いに勝っても船体に傷を負い、船内に留まれなくなる可能性もある。そうなった時に助けに来てくれる船があっても、救命艇が無ければ全員が逃げることは出来ない。
「まずは全員が無事に脱出出来んとな? それが出来るのが有難かったさ、救命艇に乗れれば皆が安全に生き延びられるんだ」
もしも無かったら、一部の者しか助からない。せっかく助けが来るというのに。
「シャングリラが沈んだとしても、生き残っていれば新しい船で地球を目指せる。だがな、船ごと沈んじまったらミュウの歴史も其処で終わりだ。救命艇は必要だったんだ」
幸い、出番は無かったが…、と過ぎ去った時を振り返るハーレイに向かって呟いてみた。
「……タイタニック…」
「ああ。お前が何度も口にしていた。遠い昔の地球の船だな」
「…うん。人数分の救命ボートを積んでいなかった豪華客船。氷山と衝突して、大勢が死んだ」
SD体制が始まるよりも前、映画や物語にもなっていた実話。今のぼくも本で読んだけれども、ソルジャー・ブルーだったぼくも知っていた。アルタミラから脱出した後、救命艇の建造を考えた時点で出会った情報。
シャングリラを決してタイタニックにしてはならない、と救命艇が一層欲しくなった。それでも夢は夢に過ぎなくて、前のぼくが生きていた間に救命艇は作られなかった。
でも…。
「救命艇が出来て良かった。シャングリラは事故に遭わずに引退出来たみたいだけれど」
ぼくがいなくなった後でも出来て良かった、と思ったから。そう言ったら、ハーレイは「充分に役に立ったさ、あれは」と微笑んでくれた。
「ちゃんとした記録は残ってないがな、俺もジョミーも死んでしまった後で地球に残った者たちを助けるために降ろしたシャトル。…それを調べたら、シャトルの数が俺の記憶より多かった」
「えっ?」
「俺の記憶よりも多いシャトルが降りていたんだ、燃える地球にな。数え直す前に俺は気付いた。降りたのはシャトルだけじゃない。救命艇も使ったんだ、と」
お前が見付けたタイタニックの話が燃え上がる地球から人を助けた。
タイタニックにならないように、と積み込ませていた救命艇が燃える地球で役に立ったんだ。
何の記録も残っていないが、俺はそうだと確信している。
「お前が作らせた救命艇だ。…あれに乗った人はお前に助けられたわけだな、燃える地球から」
「…ぼくじゃない」
ぼくじゃないよ、と今の生でも前の生でも出会った船に思いを馳せた。
遙かな昔に地球の海に沈んだ豪華客船。大勢の人を乗せたまま、深い水底に消えた悲劇の船。
「救命艇を作らなくちゃ、と何度もぼくに思わせたのはタイタニック。…救命艇に乗り込んだ人を助け出したのはタイタニックなんだよ、ぼくじゃなくって」
この地球の何処かに今も眠っているだろう船。
地形も何もかも変わってしまって、沈んだ場所すら無くなったけれど、きっと何処かに…。
「タイタニックか…」
この地球の何処かに今もあるのか、とハーレイは少し考え込んで。
「地球と言えば、前の俺の身体も何処かにあるんだな。…タイタニックが今もあるなら」
「ジョミーたちもね」
ぼくはハーレイの言葉に懐かしい名前を付け加えた。地球の地の底で死んでいったと知った仲間たち。ゼルにヒルマン、エラ、それにブラウ。ジョミーを助けに降りて戻らなかったリオ。ぼくを撃ったキースも、人類とミュウの和解を促して命尽きたと聞く。
「…みんな、何処かに身体があるんだよ。でも、ハーレイかあ…。なんだか不思議」
ハーレイはぼくの目の前にいるのに、前の身体も何処かにある。形なんか残っていないだろうと思うけれども、この地球の何処かに前のハーレイが埋まっている。
それなのにちゃんとハーレイはいるから、ぼくは不思議でたまらない。
「…俺もだ。改めて言われると実際、不思議な感じだな。…何処に眠っているんだろうなあ、俺の身体は」
今のは此処にあるんだがな、とハーレイが自分の腕をしげしげと見詰めるものだから。
「ぼくの身体はどうなったのかも分からないけど、ハーレイはちゃんと地球になれたね」
前のハーレイの身体を地の底深くへ飲み込んだ地球。その地球が青く蘇った今、ハーレイの前の身体は何処かで地球の一部になったんだろう。
青い海の中か、緑の大地か。それとも青空にぽっかりと浮かぶ白い雲なのか…。
「前の俺は地球になったってか?」
「うん。…そして今のぼくを乗っけてくれているんだよ、この地球の上に」
まるで救命艇みたいに、とハーレイの大きな身体に抱き付く。ハーレイの膝の上に乗っかって、温かな胸に頬を擦り寄せながら。
前のぼくの夢だった救命艇。
ハーレイが覚えていてくれて、ジョミーが作らせて、燃える地球の上で役に立った。
その地球の地の底に消えたハーレイの前の身体は地球になった。ぼくが生まれ変わって来た青い地球になって、ぼくを上に乗せてくれている。
前の身体が何処に行ったのかも分からない、ぼく。気付けば青い地球という名前の救命艇の上に乗っかっていた。その青い地球の一部は前のハーレイの身体で出来ていて…。
「ぼくは地球になったハーレイに拾われたのかな? この救命艇に乗って行けって」
「…それならいいな。前の俺の身体がお前を乗せる船になったのなら…な」
地球で死んだ甲斐があるってもんだ、とハーレイがぼくを抱き締めて笑う。
あの時はお前の所へ行けるとしか思わなかったが、まさかお前を拾えるとは…、と。
「きっとそうだよ、ぼくは何処かで漂ってた」
身体だって何処にあるのか分かりはしないし、魂だって…。
「ハーレイがぼくを拾ってくれて、ちゃんと連れて来てくれたんだよ。きっと……地球まで」
「おいおい、俺がお前を地球まで、ってか?」
俺は地球になったんじゃなかったのか、とハーレイは慌てているけれど。
地球になった前のハーレイと、今のハーレイと、どちらもハーレイ。
ぼくの大好きな、ぼくが愛したハーレイの中身は、地球になった部分とは、きっと、別。
ハーレイの中身を構成している心とか魂だとか呼ばれるもの。
その魂がぼくを探して、拾って、地球まで運んでくれた気がする。
だって、前のぼくは地球から遠く離れた所で、独りきりで死んでしまったから。
それなのにハーレイと地球の上に居るし、その青い地球の一部は前のハーレイだったもの。
きっと、きっと……ハーレイがぼくの救命艇。
青い地球になったハーレイも、地球まで連れて来てくれたハーレイの魂も、救命艇。
ハーレイがぼくを乗せてくれたから、ぼくは地球の上で幸せなんだと思う。
どうしてなんだか分からないけれど、そう思うんだ。
前のぼくの夢を忘れずにいてくれて、救命艇を作るようにジョミーに言ったハーレイ。
青い地球の一部になったハーレイ。
ハーレイならきっと、ぼくに「乗れ」と言ってくれるんだ。
青い地球という名前の救命艇と、ハーレイの魂で出来た救命艇と。
俺と一緒に地球へ行こうと、地球になった俺の上で幸せに生きろと………きっと……。
夢だった救命艇・了
※ソルジャー・ブルーが生きた時代は、シャングリラに無かった救命艇。
いつかはと望んでいたブルー。叶ったことは嬉しいですよね、命尽きた後でも…。
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「んー…」
ブルーの意識を揺さぶる目覚ましの音。学校のある日は必ず目覚ましをセットしていたが、今は休日も目覚ましをかけることが多い。休日は大好きなハーレイが訪ねて来る日。寝過ごして掃除をし損なったら大変だから、きちんと早起きしなければ。
「うー…」
ハーレイの夢を見ていたというのに、心地よい眠りを破られた。無粋な目覚ましに手を伸ばし、アラームを止めようとしたのだけれど。上手く止められず、仕方なく時計を引っ掴んだ。憎らしいアラームをエイッと止めて、アナログの文字盤を睨み付ける。
(…もうちょっとでキスが出来たのに…!)
青の間でハーレイと甘い時間を過ごす夢。抱き締められてキスを交わして…、という直前で夢は砕け散り、キスさえ許してくれないハーレイが居る現実の世界へと戻ってしまった。
(目覚ましなんか大嫌いだよ!)
もう何度目になるのだろうか。いい所で邪魔をしてくれる時計。いつも、いつも、いつも…!
こんな時計、と叩きのめしたい気分で睨むブルーだったが。
「あ…!」
そういえば、この意のままにならない目覚まし時計。アラームの音を何種類かのメロディに変更出来る仕様の時計で、それだけではなく音声データが入れられる仕掛け。
買って貰った時、父に「お前は大丈夫だとは思うが、目覚ましの音で起きてこない日が続いたら音を替えるからな」と脅されたものだ。「フライパンを叩く音が鳴るようにしてやるぞ」と。
フライパンを叩く音はともかく、音声データ。一度も入れていないけれども…。
(ハーレイの声で起きてみたいよ)
いいな、とブルーは考えた。アラームの代わりにハーレイの声。大好きでたまらないハーレイの声で起こされるのなら、素敵な夢を破られたって腹が立ったりしないだろう。
(朝ですよ、とか…。起きて下さい、とか…)
前の生で何度もハーレイに優しく揺り起こされた。そうっと肩を揺さぶられながら、温かな声が降って来た。録音された声でもいいから、ああいう声に起こされたなら…。
(…幸せだよね?)
うっとりと夢の世界に足を突っ込んでいると、部屋の扉が叩かれた。
「ブルー!? 起きて来ないと遅刻するわよ!」
朝御飯はとっくに出来ているのよ、と母が呼ぶ声。いけない、今日は学校だった!
大慌てでベッドを飛び出し、顔を洗って着替えを済ませて。朝食を食べて、背が高くなるように祈りをこめてミルクも飲んだ。いつものバスにも遅れずに乗り、学校へ。
慌ただしかった朝だったけれど、三時間目の古典の授業でハーレイの声をたっぷり聞けて、姿も存分に堪能出来た。大満足な学校の日。
(これでハーレイが家に来てくれたら最高だけど…)
平日でも仕事が早く終わるとハーレイが訪ねて来てくれる。そういう日には両親も一緒に夕食を食べて、ブルーの部屋で少し話も出来る。
(今日はどうかな?)
宿題と予習をする間にも窓から下を何度も見下ろし、見慣れた車が来ないかと待った。前の生のハーレイのマントと同じ色の車。それが来たなら素敵な時間の始まりなのだが…。
(うーん…。この時間だともう、無理っぽいよね…)
待っている間に、すっかり夕暮れ。時計の針もハーレイが来そうな時間を過ぎている。
(ちょっと残念…)
無情な時間を示す時計を見ていて思い出した。朝、バタバタと部屋から駆け出した理由。
(そうだ、目覚まし時計のデータ!)
どうやって入れるのだっただろうか。説明書なんて失くしてしまって、とっくに無い。それでも見れば分かるであろう、と目覚まし時計を手に取った。
(…えーっと…。多分、この辺がマイク…)
機械には疎くて弱いのだけれど、素晴らしい使い方を見付けたからには方法を理解しなくては。あれか、これかと弄っている内に目的のボタンらしきものに辿り着いた。
(これかな?)
カチリと押し込めば、微かな作動音。試しに「朝ですよ」とハーレイの声を真似てみる。前世で幾度も聞いていた声。優しく起こしてくれた声。
(…どうだろう?)
慣れない手つきで更に操作し、アラームを一分後にセットしてみたら。
「朝ですよ」
(やった…!)
ハーレイの声とは似ても似つかない自分の声。けれど夢のアラームへの記念すべき偉大な一歩を刻んだことには間違いない。次にハーレイが訪ねて来たなら、この手順。大好きなハーレイの声で目を覚ますために、あの穏やかな声を吹き込んで貰わなければ。
ハーレイが家に来てくれた時は、とにかく目覚ましに音声データ。忘れないように心にメモして待つこと二日、土曜日の朝にハーレイが門扉の脇のチャイムを鳴らした。朝と言っても早過ぎない時間。ブルーの家の朝食が済んで、母が後片付けを終える頃合い。
「ブルー、おはよう」
母の案内で二階に上がって来たハーレイを、ブルーは大喜びで部屋に迎え入れた。首を長くして待ったハーレイの来訪。母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去ってゆくなり、嬉々として頼む。
「ねえ、ハーレイ。音声、入れてよ」
「音声?」
「この時計、アラームの音を替えられるんだよ。ハーレイの声で起きたいな、って思うんだけど」
目覚まし時計を持って来てテーブルに置くと、ハーレイは「ふむ…」と腕組みをした。
「なるほどな。「起床!」でいいのか?」
「えーっ!? そんなんじゃなくて…」
「じゃあ、どんなのだ」
「…朝ですよ、とか…。起きて下さい、だとか…。前みたいなヤツ」
前とはソルジャー・ブルーだった頃。しかしハーレイは快諾するどころか「はあ?」と呆れ顔になってしまって。
「前ならともかく、なんで今のお前に向かって敬語で起こさにゃならんのだ」
子供相手には「起床」で充分、というのがハーレイの言い分。
「実際にお前を起こすにしたって、起床と叫ぶか、布団を引っぺがすくらいのことだな」
「そうなるわけ?」
「当たり前だろうが、優しく揺り起こす義務などは無い。言っておくがな、俺は教師なんだぞ」
生徒を相手に指示を飛ばす立場にいる自分だから、ブルー相手でも容赦はしない。そう言われて悔しくなってきたから、ブルーは負けずに言い返す。
「だったら、恋人の立場で入れてよ! 前のとおりじゃなくていいから!」
「起きろ」でもいいし、「朝だぞ」でもいい。優しく恋人を起こして欲しい。
強請るブルーに、ハーレイが「お前なあ…」と小さな溜息をついた。
「起床と叫ぶ声ならともかく、恋人に言うような声って、お前…。お母さんに聞かれたらどうするつもりだ、俺たちの仲を勘ぐられるかもしれないぞ?」
「…そっか……」
それは考えていなかった。確かに父や母が聞いたら変だと思われてしまうかもしれない。
でも…。
諦め切れないハーレイの声で喋る目覚まし。「起床!」と叫ぶ教師ではなく、恋人の声で優しく起こしてくれる目覚まし。
暫し考えた末に、名案がポンと頭に浮かんだ。
「だったら、夜中に鳴らすから! そしてアラームと切り替えるんだよ、朝用のを」
この方法なら大丈夫。ハーレイの声に起こして貰って、翌朝に備えて目覚ましをセット。
素晴らしいアイデアだという気がしたのに、ハーレイは「駄目だな」と即座に却下してくれた。
「夜中に起きるなど論外だ。睡眠不足になってしまうぞ、子供はしっかり寝ないとな」
「…ダメなの?」
ハーレイの声で起きてみたいのに。揺さぶる腕はついていなくても、あの声だけで嬉しいのに。何かいい方法は無いのだろうか、と更に考えを巡らせてみて。
「それじゃ、いい夢が見られそうな声を吹き込んでよ。ゆっくり眠れとか、おやすみだとか」
そういう声なら夢は途切れはしないだろう。朝までぐっすり眠れる上に、きっとハーレイが出る夢もつく。それがいいな、と思ったけれども…。
「お前、目覚ましは何に使うか知ってるか? そんなのでどうやって起きる気だ」
馬鹿か、と遠慮のない言葉を浴びせられた。ハーレイの鳶色の瞳が笑っている。
「…うー…。起きる気はあるけど…。あるんだけれど…!」
けれどハーレイの意見は正しい。いい夢を見られる音声が流れる目覚ましでは目を覚ませない。起きるためには相応しい音やメッセージが欠かせないわけで…。
「ねえ、ハーレイ。二段構えの目覚ましっていうのは無いのかな…」
「ん? 最初の音で起きなかったら次の音、ってタイプのヤツか? あるにはあるが…」
ハーレイはブルーの目覚まし時計を手に取り、あちこち触って調べてみて。
「この時計にはそういう機能は無いようだな。もう一つあったら出来るだろうが」
「もう一つ?」
「時計を二つセットするのさ、先に鳴る分と二度目の分だな」
「ぼく、買う!」
二つ目の目覚まし時計を買うよ、とブルーは張り切って宣言した。でなければ二段構えになった目覚まし時計。一つ目の時計はハーレイの声で囁いてくれて、二つ目の時計のアラームで起きる。いい夢が見られるハーレイの声を眠っている間に聞くための仕掛け。
これで完璧、と得意満面のブルーだったが、ハーレイはクッと喉を鳴らした。
「おいおい、お母さんに何と言い訳するんだ? 目覚ましが二つに増えた理由を」
十四歳の小さなブルーは寝起きがいい。体調が悪い時を除けば、目覚ましの音で起きないことは皆無と言っても良いほどだったし、目覚まし時計は一つで足りる。
自分のベッドで眠るようになり、自分で起きろと言われた時に父が買ってくれた目覚まし時計。それを今日まで使って来ていて、増やさねばならない理由など無い。もしも二つ目の時計を買って来たなら、母は不思議に思いそうだけれど。
「部屋の掃除はぼくだから!」
掃除をするのは自分なのだし、気付かれることはないだろう。
そう思ったのに、ハーレイは「さてな?」と揶揄うような視線を向けて来る。
「お母さんは絶対に部屋に来ないのか?」
「来ないよ!」
ブルーは自信を持って答えた。この部屋はブルーの小さなお城。幼かった頃はともかくとして、今は自分で掃除をするから完全に独立した空間。母は掃除しに入って来ないし、学校へ行っている間にコッソリ覗きに来たりもしない。小さなブルーは優等生で、隠し事などしないのだから。
「ほほう…。そのお母さんなら、さっきお茶を持って部屋に来ていたようだが?」
「…そ、それは…」
否定出来ないその事実。ハーレイが畳み掛けて来る。
「ついでに、お前が寝込んでいる時。お母さんが世話をしに出入りするんじゃなかったか?」
「……そうだけど……」
さっき「絶対」と言い切った手前、ブルーはどんどん俯くしかない。ブルーのお城は実際の所は出入り自由で、母ばかりか父も入って来る。体調を崩して寝込んだ時には両親が交代で様子を見に来てくれるし、食事の世話もしてくれる。
ベッドの脇に椅子を持って来て心配そうに座る両親。そんな二人が増えた目覚ましに気付かないとは思えない。気付けば当然、何故増えたのかと訊かれてしまう。
(…ハーレイの声を入れて貰ったなんて言えないよ…)
それも起きるための音声ではなく、安眠用。両親が知ったら不審がられる。どうしてハーレイの声で眠りたいのか、理由をきっと追及される。
(……恋人だなんて、絶対、言えない……)
言ってしまったら、知られたら、終わり。ハーレイと部屋で二人きりの時間は二度と過ごせず、下手をすれば自由に会えなくなる。会えたとしても監視付き。父か母かの目が光っていて、会話の中身も全て聞かれてしまうだろう。
(…それは困るよ…)
目覚まし時計を二つ持つのは無理だった。大好きなハーレイの声で眠りたかったのに…。
どうやら夢は叶いそうにない、ハーレイの声を眠りの中で耳にすること。
叶わないなら、せめて本来の目覚まし時計の使い方。ハーレイの声で目覚めてみたい。父や母が聞いても安全なもので、なおかつ幸せな朝を迎えられるようなメッセージ。
「ハーレイ、目覚ましなら入れてくれるんだよね?」
「恋人用でなくていいならな」
恋人用のはお断りだぞ、とハーレイが怖い顔をする。
「さっきも説明したと思うが、お前のお父さんとお母さんに聞かれたら大変だからな」
「…分かってる…。でも、目覚まし用って、「起床」だけなの? ホントにそれだけ?」
もう少し何か欲しかった。「朝ですよ」ほどでなくても、「朝だぞ」でいい。恋人らしい甘さは無くていいから、穏やかに起こしてくれればいい。しかしハーレイが返した言葉は。
「起床と言ったら、それだけだが。…グラウンド五周とか、つけてやろうか?」
俺の学生時代の基本だ、とハーレイは右手の親指を立てた。
「柔道にしても水泳にしても、よく合宿があったしな? そういう時には朝は「起床!」だ。凄い大声で叩き起こされて、着替えたら直ぐに走るんだぞ。懐かしの朝というヤツだ」
それで良ければ入れてやる。どうだ?
寄越せ、と時計に褐色の手が伸ばされたけれど、ブルーは「やだ」と背後に隠した。
「じゃあ、目覚ましには使わないから、何か甘い台詞。コッソリ聞くんだ」
アラーム代わりに使わなければ、両親は決して気付かない。ハーレイの声が聞きたくなった時、目覚まし時計に録音されたメッセージを聞く。そうしておこう、と譲歩したのに。
「まだ言ってるのか。起床以外は絶対に入れん」
入れてやらん、とハーレイの態度は冷たかった。こうなったら梃子でも動かないのがハーレイであって、キャプテンだった頃からそうだ。
(…ケチなんだから…!)
両親にバレそうな使い方はブルーだって怖いからしたくない。だからハーレイの声を目覚ましに入れて一人で聞くだけ、ささやかな秘密の宝物。ハーレイの声で囁く時計。
(…ハーレイが吹き込んでくれないんだったら、録音してやる!)
この部屋で何度となく恋人同士の会話をして来た。キスは駄目だと叱られるけれど、ハーレイの甘い言葉だけなら何度も聞いた。
(俺のブルーとか、俺の小さなブルーとか…)
そんな言葉を拾えればいい。最初に押すのはこのボタン。それでマイクのスイッチが入る。
ブルーは背後に隠した目覚まし時計を手探りでコソコソ操作した。ハーレイは気付いていないと思う。言いたいことだけ言ってくれた後は、のんびり紅茶を飲んでいるのだし…。
「ねえ、ハーレイ?」
此処からは恋人同士の時間。
甘える口調で呼び掛けながら、マイクのスイッチをオンにした。さあ、ハーレイはどんな言葉を自分に向けてくれるだろう?
ドキドキと跳ねる心臓は期待に高鳴り、耳もウサギならピンと立たんばかり。補聴器の要らないブルーの耳に、スウッとハーレイが息を吸い込む音が聞こえて。
「起床ーっ! グラウンド、駆け足、五周!」
「ええっ!?」
あまりのことに、ブルーはマイクをオフにするのを忘れた。「ええっ!?」と叫んだ自分の声も録音されたに違いない。慌てふためいてスイッチを切り、目覚まし時計を机に乗せる。
「…なんでバレたの?」
「バレないとでも思っていたのか、子供のくせに」
ハーレイの大きな手が目覚ましを掴み、無情な音声が再生された。「起床!」とブルーの悲鳴のセットもの。ガックリと項垂れるブルーの姿に、ハーレイが「やれやれ」と頬を緩める。
「何をしようと考えてるのか、すっかり顔に出ていたぞ。…そういう間抜けな所もアレだが、もうちょっと器用に出来んのか。手でコソコソとやってりゃ分かる」
サイオンはどうした、と言われたけれども、今のブルーはサイオンを上手く操れない。マイクのスイッチを入れるどころか、自分の背後がどうなっているかも分からない。それでは時計を弄れはしないし、だからこそ手を使い、見抜かれたわけで…。
「……ぼくが不器用なの、知ってるくせに……」
恨みがましく呟いてみたら、ハーレイは「まあな」と笑みを浮かべた。
「その不器用さも俺は意外に好きなんだがな? 前のお前みたいにならなくていいさ、不器用だと安心してられる。…一人でメギドへ飛んで行ったり出来ないからな」
「……もうやらないよ」
約束するよ、とブルーはハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「ハーレイを置いて行ったりしないよ、それは本当。…それは約束するけれど……」
こっそり録音はしたかった。大好きでたまらないハーレイの声。
バレてしまって台無しになった分の代わりに、今度はもっと上手に録りたい。
どんな言葉でもかまわないから、優しくて幸せになれる声…。
「…そうか、俺を置いては行かないんだな」
いいことだ、とハーレイが満足そうに微笑む。
「前の俺を置いて一人で逝っちまった分はキッチリ反省してるってわけだ」
「…うん。ハーレイのことは大好きだから、もうやらない」
「よし。なら、御褒美をやらんとな。目覚ましを貸せ、一つ入れておいてやる」
「ホント!?」
ブルーは顔を輝かせた。御褒美に入れて貰える声なら、きっと素敵なメッセージだろう。
聞くだけで心が温かくなるような、ハーレイからの御褒美の言葉。甘くて優しい幸せな言葉。
「どんなの? 何を入れてくれるの?」
「慌てるな。思い切り元気になれるヤツだぞ、これで爽やかに目を覚ましてくれ」
「え?」
待って、と言う前にハーレイの手がマイクをオンにした。肺いっぱいに空気を吸い込んで…。
「起床ーーーっ!!!」
ビリビリと窓のガラスが震えそうな声。
カチンとボタンを押し込んでマイクをオフにし、「どうだ?」と得意げに笑うハーレイ。
泣きそうな顔で「酷いよ!」と抗議するのが精一杯だった小さなブルー。ハーレイは「子供にはこれが一番なのさ」と取り合ってくれず、暫く後にお茶のおかわりを持って来た母の言葉が更なる一撃をブルーに与えた。
「あらっ、目覚まし…。ハーレイ先生のさっきの声って、それだったのね?」
明日から元気に起きられそうね、と母がブルーの肩に手を置く。
「ハーレイ先生に起こして貰えば身体も丈夫になるわよ、きっと」
「私もそういう気がしましてね…。全力で叫ばせて頂きました」
グラウンド五周も付けましょうか、と母と笑い合っているハーレイ。母は「入れて貰えば?」とグラウンド五周なる台詞の追加を推す有様だし、目覚まし時計は悲惨なことになりそうだった。
(…なんでこういうことになるわけ?)
ハーレイの甘い声で目覚めたいと思っただけなのに。
優しく起こして欲しかったのに、これではまるで運動部員。
(…朝ですよ、とか…。起きて下さいとか、そういう台詞が欲しかったのに…!)
脹れっ面をしようにも、目の前に母。ハーレイを睨むことすら出来ないブルーは気付かない。
恋人の甘い言葉で目を覚ますには、今の自分は幼すぎるということに。
いつか本物のハーレイの声に起こして貰える時が来るまで、気付きそうもない小さなブルー。
そんなブルーが「起床!」の声を目覚ましに使って起きる日もまた、来そうになかった…。
目覚まし時計・了
※ハーレイの声で優しく起こされたいブルーですけど…。そう簡単にはいかないようです。
入れて貰った「起床ーっ!」の音声、使う日なんか来るんでしょうか…?
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「あれっ?」
美味しそう、とブルーの視線はテーブルの上に置かれた缶に惹き付けられた。金色をした平たい円形の缶。蓋の部分に刷られた写真が目を惹いた。緑色の葉と、雪のように白い塊が幾つか。
「なんだかお砂糖の塊みたい…」
口に入れればフワリと溶けそうなコロンとした塊。真っ白な雪を思わせる塊の群れに添えられた緑の葉っぱが瑞々しい。白い雪は砂糖の塊に見えるけれども、何だろう?
「…甘いのかな?」
蓋を開けてみたらミントの爽やかな香りが立ち昇ったから、ミントキャンディーなのだと直ぐに分かった。硬いのか、それとも柔らかいのか。見た目では知れない砂糖の塊を思わせるそれ。
もっと甘い香りの食べ物を想像したから蓋を開けてみたが、何故かミントもいいなと思った。
清しい香りに誘われるままに一個つまんで口に入れると、ふわっと儚く溶けてしまって。
(…キャンディーじゃないの?)
さながらミントの味と香りを纏った砂糖の塊。淡雪みたいに舌の上でほどけた。
「お砂糖なのかな?」
紅茶にでも入れるものだろうか、と缶を眺める一方で。
(……なんだろう?)
妙に懐かしい感じがした。初めて味わった筈だというのに、心がほんのりと温かくなる。前にもこれを食べたのだろうか?
(小さい頃かな?)
とても素敵な思い出と結び付いていそうな優しい感覚。
けれど考えても思い出せないから、記憶の糸口を手繰り寄せようと、もう一つ口に入れてみる。ほろっと崩れる甘い塊とミントの香りに湧き上がってくる幸福感。
ミントの香りか、この甘さなのか。余韻だけを残して瞬く間に溶ける、舌触りなのか。この上もない幸せの記憶に繋がっているものはどれだろう?
それに幸せとは何だったろう?
(…分かんない…)
思い出そうと、もう一つ摘む。塊がホロリと形を失うその瞬間に幸せを確かに感じるけれども、掴もうとすると何処かへ消えて無くなってしまう。だから…。
幼い頃に読んだ、古い古い童話。目の前に浮かんだ幻を消すまいとして、沢山のマッチを次々と燃やした貧しい少女の物語。そのマッチ売りの少女よろしく、ブルーも幸せの記憶を追った。
金色の缶の蓋を開けたまま、白い塊を一つ、また一つ。それでも掴めない幸せの記憶。ミントの味と香りを纏った甘い塊がブルーの心に幸せだけを置いてゆく。
二つ、三つと舌の上に乗せ、気付けばずいぶん減ってしまった白い塊。金色の缶に一杯詰まっていた塊は今や三分の二くらいとなって、明らかに誰かが食べたと分かる減りっぷり。しかも家には母の他にはブルーしかおらず、父の帰宅はもう少し後。
(…ぼくって、こんなに食べちゃった…?)
口溶けの良い塊だったから、ついつい幾つも口に運んだ。記憶を追うのに夢中になった。しかし大量に食べた事実は缶の中身で一目瞭然。
(…晩御飯、入るといいんだけれど…)
それからママとパパにバレませんように。
祈るような気持ちで缶の蓋を閉め、抜き足、差し足。缶が置いてあったダイニングを抜け出し、二階の自室に急いで戻った。勉強机の前に座ると、頬杖をついて考える。
(…何だったんだろう、あの塊…)
幸せの記憶と結び付いている筈の、甘くてミントの香りがするもの。金色の缶も、美味しそうと眺めた蓋の写真も記憶には無い。それでも自分は知っている。何処かであれに出会っている。
(…誰かに貰って食べたのかな?)
一所懸命に記憶を探っていたら、母が「晩御飯よ」と呼びに来た。ダイニングに行けば、金色の缶。テーブルの端に置かれた、あの缶。それだけでは記憶を辿れないけれど、あれの中身が…。
「ブルー? さっきから少しも減っていないわよ」
母に注意され、慌ててポタージュスープを掬った。スープ皿の底が見えてくる頃には胃が早々と降参を叫ぶ。食が細いブルーの食事量に合わせて少なく盛られた白身魚の香草焼きも、パンすらも入りそうにない。
「…ブルー。そこのキャンディー、食べたでしょう?」
母がブルーを軽く睨んで、缶の中身の減り具合を父に報告したから言い訳不可能。夕食前に沢山食べるからだ、と二人がかりで叱られた。
「おやつの食べ過ぎと変わらないのよ、あんなに食べて」
「沢山食べるなら食事でないとな? おやつでは背が伸びないぞ」
「……ごめんなさい……」
シュンと項垂れ、両親に謝ったブルーだけれど。
(…ホントに覚えているんだけどなあ、あのキャンディー…)
うっかり沢山食べ過ぎたほどに幸せの欠片を運んで来てくれた、ミントのキャンディー。何処で食べたのか、誰に貰ったのか、どうにも気になってたまらない。
幸せの記憶に繋がっている味は、いったい何処にあったのだろう?
懐かしいと呼ぶには曖昧に過ぎる記憶だけれども、追い続けずにはいられない。両親に叱られたことなど些細なことで、どうしても知りたいキャンディーの記憶。
パジャマに着替えてベッドに入っても、ブルーは幸せの記憶を探す。明かりを消した部屋の暗い天井を見上げ、あのキャンディーの味と舌触りとを思い出してみる。
(ミントのキャンディー…)
口に入れたら砂糖の塊のようにフワッと溶けた。舌の上から消えてしまったキャンディーの味が口の中に広がり、ふんわりとミントの爽やかな香り。
幾つも幾つも口にしたキャンディーの名残りを求めて舌を少しだけ動かした時。
(あっ…!)
思い出した、とブルーは瞳を見開いた。
(……ハーレイのキスだ……)
今の生での記憶ではなく、ソルジャー・ブルーだった前世の記憶。ミントの香りを纏ったキス。
(…ぼくが酔っ払った次の日のキスだ…)
前の生のブルーは酒に弱くて、僅かな量でも二日酔いすることが多かった。それでもハーレイが酒を好むから、と飲みたくなって強請った挙句に二日酔い。頭痛もしたし、胸やけもした。そんな時にハーレイがしてくれたキス。
「ミントは胸やけに効くのですよ」と、口移しにミントの香りを貰った。ほんのりと甘く感じたミントはキャンディーだったのか、シロップなのか。すうっと身体に染み込んだ香り。
(そうだ、ハーレイのキスだったんだ…)
そう思うともう、たまらなくなって。
今はハーレイに禁じられているキスの味だと思い出してしまうと、それが欲しくなって。
こっそり起き出して、両親も寝静まった家の中を階下へと下り、常夜灯の明かりに浮かぶ金色の缶からもう一個だけ。口に入れると淡雪みたいに溶けて消えるから、そうっと手に持って部屋へと戻る。
ベッドにもぐって、叱られそうだけれど、歯磨きを済ませた口にミントのキャンディー。
ほろりと崩れる甘い塊が、思わず涙が零れそうなほどに幸せな記憶を運んで来た。
(…ハーレイのキスだ…)
ああ…。なんて幸せなんだろう。
ハーレイ、ぼくは思い出したよ、君がくれた優しいキスの味を……。
(ねえ、ハーレイ。ミントのキャンディーって、覚えてる? でなきゃ、シロップ…)
問い掛けたい気持ちをブルーはグッと我慢した。
せっかく思い出したハーレイの優しいキスの味。喋ったら幸せが減ってしまいそうだから、胸の奥に大切に仕舞い込む。
(…ハーレイ、絶対、何か言うんだ)
ブルーにキスを禁じたハーレイ。その味を思い出したと言おうものなら、勘違いだと否定されて終わるか、笑われるか。ブルーと一緒に懐かしい思い出に浸ってくれよう筈もない。
(でも、ハーレイのキスの味だしね?)
ミントの香りと、ふうわりと溶ける砂糖菓子が残してゆく甘さ。
あの組み合わせが思い出させた。ごくごく普通のミントキャンディーでは上手くいかない。舌の上で儚く消えるからこそ、ハーレイのキスだと気付くことが出来た。硬いキャンディーを口の中で転がしていても、ハーレイのキスには結び付かない。
(…あのキャンディーだから思い出せるんだよ、ハーレイのキス…)
口に入れてから溶けて無くなるまで、ほんの少しの魔法の時間。ハーレイがくれたミントの味のキスと、そのキスを貰った時の幸せが胸に蘇る時間。
それが欲しくて金色の缶を開け、大切に一つ、手の中に握って自分の部屋へ。
食べ過ぎてまた両親に叱られないよう、もっと欲しいけれど一つだけ。一つだけにしておこうと決めているのに、我慢できずに缶の蓋を開ける。
一日に二つくらい、きっと父には叱られない。三つでも母は叱らないと思う。きちんと食事さえ食べているなら四つでも叱られないと思うし、五つ食べても大丈夫…。
そんな調子で食べていっても、暫くの間は缶が空になる度に新しい缶が代わりに置かれていた。両親も気に入りの味なのだろう。だから安心して食べ続けていたブルーだけれど。
両親が食べる以上の量をブルーはせっせと食べていたらしく、キャンディーばかりを食べるのは身体に悪い、と母に言われて金色の缶は姿を消した。
(…ハーレイのキスのキャンディー、なくなっちゃった…!)
もうあの味が無いだなんて、と泣きそうになる。テーブルの上から消えてしまった金色の缶。
でも両親から時折、ふんわり漂うミントの香り。
何処かに缶はある筈だけれど、ブルーのサイオンでは見付け出せない。買いに行こうにも売っている店が分からない。近所の食料品店には置いていなかった。町の大きな食料品店だろうと思ったけれども、どの店か見当もつかないし…。
ダイニングのテーブルから無くなってしまった、ハーレイのキスの味のキャンディー。
どうにも諦めることが出来ずに、ブルーはとうとう直訴した。もちろん両親を相手にではない。あのキスをくれた張本人のハーレイが家を訪ねて来た時、面と向かって切り出した。
「ハーレイ、キャンディーのお店、知ってる?」
「…キャンディー?」
ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合ったハーレイが怪訝そうな顔をする。
「うん、キャンディー。知ってたら買って来て欲しいんだけど…」
「キャンディーくらい何処にでも売っているだろう?」
「ちょっと特別なキャンディーなんだよ、近くのお店には置いてないんだ」
「お母さんに頼めばいいだろうが」
ハーレイの台詞は正論だったから、ブルーは仕方なく白状した。身体に悪いと隠されてしまい、何処にあるのか分からないのだ、と。
「食べ過ぎて隠されてしまっただと? キャンディーをか?」
感心せんがな…、とハーレイの眉間に皺が寄る。腕組みまでして咎める顔つき。
「沢山食べて大きくなれとは確かに言った。しかしだ、菓子は食事じゃないぞ」
キャンディーの代わりに三食しっかり食べることだ。
そうすれば空腹感は消えるし、キャンディーの食べ過ぎなんていう不健康なこともしなくなる。
頑張って食べろ、とハーレイは厳しい顔をするのだけれど、ブルーの方も負けてはいない。
「でも、欲しいんだもの」
右手を伸ばしてハーレイの腕に触れ、「こんなのだよ」と直接イメージを送り込んだ。いつもはサイオンを使わないから、ハーレイも油断していたらしい。何の遮蔽もされることなく、ブルーが注ぎ込んだ金色の缶と中身のイメージ。ついでにしっかり、ミントの味のキスの記憶も。
「ちょ、お前…!」
ハーレイの顔色がみるみる変わって、赤く染まった頬の色。
してやったり、とブルーは得意げに微笑んだ。
「買って来てよ、これ。…そしたらキスは大きくなるまで我慢するから」
上手くいった、と本当に嬉しくてたまらない。前の生と違ってサイオンの扱いが不器用になってしまったブルー。優れた遮蔽能力を持つハーレイに勝てるかどうかが心配だったが、この様子なら大丈夫。
ハーレイはきっと、キャンディーを探しに出掛けてくれるだろう。
自らが禁じたキスの代わりに、自分のキスを思い出させるミントの味のキャンディーを…。
ブルーが見付けたミントのキャンディー。ハーレイのキスと同じ味がする宝物。
どうしても欲しくて仕方ないから、あのキスをくれたハーレイに頼むことにした。立派な大人で車にも乗れて、買い物にも出掛けてゆくハーレイ。料理も自分でしているのだから、食料品店にも詳しいだろう。幾つか回って探してくれれば何処かで扱っている筈だ。
「ね、ハーレイ? どんな缶か分かれば探せるでしょ?」
「…それはそうだが、どういうつもりだ」
渋面を作るハーレイに向かって「キスの味だよ」と笑顔で答える。
「ハーレイのキスと同じ味だって思い出したら、食べたくて我慢出来なくて…。幾つ食べてもまた欲しくなって、パパとママに隠されちゃったんだ。キスの代わりに買ってよ、これ」
「……お前が大きくなったらな」
前のお前と同じくらいに、というお決まりの文句。ブルーは驚き、「なんで!?」と叫んだ。
「なんで大きくならなきゃダメなの? キャンディーなのに! キスじゃないのに!」
「忘れたのか、お前? あれはどういうキスだったのか」
「えっ…?」
「前のお前が酔っ払った時しかしていない。…要するに酒を飲んだ時だな」
そして二日酔いになった時だ、とハーレイは大真面目な瞳で言った。
「今のお前に酒は飲めないし、飲ませられない。まだ飲める年じゃないからな。…未成年のお前は酔っ払うことも二日酔いになることもないし、こういうキスとは無関係だ」
つまりだ、ミントキャンディーの味がするキスは我慢以前の問題ってことだ。
今のお前には必要ない、と突き放されてしまったけれど。
「でも…! でも他に思い出せないんだってば、キスの味が…!」
ブルーは必死に食い下がった。あのキャンディーだけがハーレイのキスと結び付く味で、あれを食べれば幸せな気分になれるのだ、と。あれさえあればキスを我慢する日々であっても、なんとか乗り越えられそうなのだ、と。しかし…。
「…お前なあ…」
何歳なんだ、と例によってお決まりのハーレイの言葉。ブルーは「十四歳…」と小さく返す。
「ほら見ろ、たったの十四歳だ。その年でキスを我慢と言ったらキスが呆れる」
「だけど…!」
「前のお前は関係ない。キャンディーが欲しいのは今のお前で、十四歳のお前にそれは要らない」
キスもキャンディーもどちらも要らない、とハーレイはフフンと鼻で笑った。
「前のお前ならキスもミントも必要だったさ、酔っ払うしな? しかしお前はどっちも要らない。キャンディーは潔く諦めるんだな」
十四歳の小さなブルーが、たまたま見付けたキスの味。ハーレイのキスの味のキャンディー。
ところが肝心のハーレイ曰く、そのキスの味は小さなブルーには要らないもの。酒を飲むことが出来て二日酔いになる、大人のブルーにしか必要ないもの。
「酷いよ、ハーレイ!」
ブルーは抗議の声を上げたが、ハーレイが動じるわけもない。悠然と腕を組み、余裕たっぷり。
「俺は酷いとは思わんが? …そもそもお前が大きければだ、キャンディーなんぞに頼らなくても本物のキスが出来るんだしな? それも出来ない子供のくせにだ、キスの味など知ってどうする」
「本当に思い出したんだもの!」
「どうだかなあ…。挙句にキャンディーの食い過ぎで隠されてしまった辺りがなあ…」
立派に子供だ、とハーレイは組んだ腕をほどくと、右手の指先でブルーの額をピンと弾いた。
「いたっ!」
「そうさ、お前はこういう扱いをされる子供だ。もしもお前がきちんと育った大人だったら、額を弾く代わりにキスだな。…キスの味がするキャンディーなんぞを強請られたらな」
其処でキャンディーを買いに出掛ける馬鹿はいない、とハーレイが笑う。
キスの味がするキャンディーが欲しいと恋人が言うなら本物のキス。まずはキスから、それでもキャンディーが欲しいと言われて初めて買いに出掛けるものなのだ、と。
「その辺のことも分からないくせにキャンディーが欲しくて強請ったんだろうが、今のお前は? 要するにキスの味がするキャンディーとやらは、お前にはただのキャンディーなのさ」
「違うよ、あれはホントにハーレイのキスの味なんだってば!」
「…百歩譲ってそうだとしてもな、二日酔いの時のキスだろう? 酒も飲めないお子様のお前には早過ぎる味ということだ。そのキャンディーは諦めておけ」
でなければ普通のミントキャンディーにしろ。
それなら何処にでも売っているしな?
ブルーの訴えはハーレイに笑われておしまいだった。前にブルーが危惧したとおりに、共に昔を懐かしむどころか徹底してお子様扱いしてくれた末に普通のミントキャンディーだなんて…。
(…ハーレイのキスの味だったのに…)
子供扱いされても大好きでたまらないハーレイ。そのハーレイがくれたミントの味のキス。
(あのキャンディーの味が一番近いのに…)
帰宅するハーレイを見送った後、自室で脹れっ面になったブルーだったが、ふと思い出す。
ハーレイのキスで貰ったミントはキャンディーだったのか、シロップなのか。ミント風味の他のものなのか、それを訊くのを忘れていた。
(…忘れちゃってた…!)
もしかして、先にそっちを訊くべきだった?
それも訊かずにミントのキャンディーにこだわった辺りもいけなかったとか…?
(……昔の話をするんだったら、あれは何かって訊かなきゃ昔話にならないよね……)
どうやら自分は間違えたらしい。ハーレイが言うように立派なお子様、目先のことしか見えない子供。けれど今頃気付いても遅い。ハーレイはとっくの昔に家に帰ってしまったし…。
(…ど、どうしよう…。もう訊けないよね? 訊いても笑われるだけだよね…?)
ミントの味がしたハーレイのキス。どうしてミントの味がしたのか、今となっては謎のキス。
でも、ハーレイのキスの味が欲しい。金色の缶に入ったキャンディーが欲しい。
(…通信販売はあるんだろうけど、家に届くからママにバレるし…)
こっそり探して盗み食いしようにも、隠し場所が何処か分からない。
(いつかはママも隠してたこと、忘れちゃうかもしれないけれど…)
その日がやって来るのが早いか、ハーレイが本物のキスをくれるようになる日が早いのか。
いったいどちらが早いのだろう、と真剣に悩むブルーは正真正銘お子様だった。
どう考えても、金色の缶がブルーの前に再登場する方が早いだろう。
もっとも、それまでミントの味がしたハーレイのキスを覚えているかどうかが怪しい。
摘み食いをして、また最初から「なんで?」と幸せの記憶を追求しそうな小さなブルー。
そんなブルーが本物のキスを貰える日までは、まだまだ幸せな我慢が続きそうだった……。
ミントの記憶・了
※ハーレイのキスの味のキャンディー、と沢山食べ過ぎて、缶を隠されてしまったブルー。
可哀相ですけど、まだまだ子供な証拠です。本物のキスを貰うには早すぎですね。
ミントのキャンディーにはモデルがあります、シンプキンのアフターディナーミント。
オンラインで買える所も色々、食べてみたい方は是非どうぞv
公式サイトはこちらをクリック→アフターディナーミント
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「ほら、ブルー。こんなのが出来ているらしいぞ?」
ハーレイが持って来た一枚の紙を覗き込んだブルーは仰天した。カラーでプリントされた紙には青い目玉が溢れている。小さなものから大きなものまで、丸いものやら雫形やら。
今日は休日、ハーレイと二人、ブルーの部屋で向かい合って座っているのだけれど。
「なに、これ?」
「メデューサの目さ。覚えていないか?」
「…メデューサの目?」
何処かで聞いた言葉のような、と改めて紙に刷られた沢山の目玉を眺めてみて。
「あっ…! もしかして、これってヒルマンが言ってた…」
「そうさ、前の俺たちの服の赤い石だ」
あの石の元だ、と微笑むハーレイがプリントアウトしてきた青い目玉は『地球の歩き方』という人気のデータベースから引っ張り出して来たものらしい。
地球の様々な地域へ気ままな旅をする人が情報を得たり、自分が得た知識を付け加えたりもするデータベース。ブルーも存在を知ってはいるが、十四歳の子供には少し敷居が高すぎた。旅の計画すらも立てられない上に、旅行の資金だって無い。
「ハーレイ、此処はよく見ているの?」
「ああ。前の記憶を取り戻す前から、気が向くままにな。適当にデータを引っ張り出すだけだが、これは違うぞ。ヒルマンの話を思い出したから調べてみたんだ」
確かこの辺りの話だったか、とアクセスしてみたら、こいつを見付けた。
地域の独自性にこだわる今の地球なら、きっと作っていると思った。
「こいつが昔のトルコの辺りで、こっちはギリシャだ。写真だけ抜き出して来たんだが…」
凄いだろ、とハーレイが指先でなぞる画像の青い目玉は魔除けのお守り。見た人を石に変えると伝わる遠い昔の神話に出て来る怪物、メデューサの目を象ったもの。
邪視と言ったか、悪意の籠もった呪いの視線を弾き返すための目玉のお守り。悪意のある視線を弾き返すには、相手を石にしてしまうほどのメデューサの目が相応しい。
「前の俺たちが生きた時代には無かったのにな? 人間ってヤツは逞しいよな、地球と一緒に文化まで復活させるなんてな」
「うん…。本当に凄いね、人は。あの頃、ぼくたちは人間扱いじゃなかったけれど」
「その俺たちが今じゃ立派な人間ってヤツだ。分からんもんだな」
ついでに二人で青い地球まで来ちまったな、とハーレイは感慨深そうに言った。あの頃の地球の姿を思うと今の青い地球はまさに奇跡だ、と。
「そんな地球にだ、今はメデューサの目まであるんだ。俺たちはヒルマンの話と古い資料だけしか知らなかったのに、ちゃんと本物が出来てるんだぞ」
「そうだね。あの頃の地球には絶対に無いね」
地球は死に絶えた星であったし、其処に文化など残ってはいない。長い長い時を経て蘇った星に遠い昔のお守りだったメデューサの目が復活していた。それを思うと嬉しくなる。前の生の自分は辿り着けずに終わったけれども、メギドを沈めておいたからこそ青い地球まで来られたのだと。
「メデューサの目かあ…。凄いね、SD体制よりもずっと古いのに、伝わったんだ…」
「きちんとデータが残っていたのが大きいだろうな。…メデューサの目は復活したのに、俺たちの赤い石の理由は伝わらずに終わってしまったな…」
歴史の彼方に消えてしまった、シャングリラに居たミュウの制服の赤い石。誰の服にも何処かに必ず赤い色の石があしらわれていた。大部分のミュウとソルジャーの衣装は襟元に。キャプテンの服はマントの飾りに。長老たちの服でもマントの飾りで、フィシスは首飾りに赤い石。
赤い石が選ばれた理由は確かにあったのだけれど。
「だって、伝わらないと思うよ。…ぼくはジョミーにも話してないもの」
「そうだったのか!?」
ハーレイが驚いた顔をするから「うん」と頷く。
「訊かれなかったから、話さなかった。…恥ずかしいしね」
それに理由を説明したなら、ジョミーがソルジャーになった時点で石の色を緑に変えなくちゃ。
そんな面倒なことはしなくていい。それに…。
「ぼくに縛られる必要は無いんだよ。ただの赤い石でかまわないじゃない」
「…お前は最初からそう言っていたな。ヒルマンが赤を推した時から」
「青でも、緑でも、別にいいもの」
制服の色に似合っていればいい。
ブルーは心からそう思っていたし、そもそもは制服を作ろうという話だった筈。
それが何処かで変わってしまった。変わった理由がメデューサの目玉。
ハーレイが持って来てくれた紙に刷られた、沢山の青い目玉のお守り。遠い昔の地球のお守り。
あの時には多分、実物は博物館くらいにしか無かっただろうと思うけれども…。
シャングリラでの生活が軌道に乗って、制服を作る案が出た。全員一致で作ることが決まると、次はデザインの選定で。
男女で制服のデザインが変わってくるし、ソルジャーとキャプテン、長老も変わる。そこで皆の服に共通な何かが欲しいという話が出て、採用されたものが同じ色の石。ミュウのシンボル。
黒がベースの服が多いから、赤か、青か、緑がいいであろうと服飾部門の者たちが挙げた。
赤と青と緑。その中から一つを選んで使う。
アンケートで決めようかと考えていたら、長老たちを集めた会議でヒルマンが赤を推してきた。根拠になったのが、あのお守り。魔除けのメデューサの瞳のお守り。
青いメデューサの瞳の代わりに、ソルジャーであるブルーの瞳の赤。人類側の攻撃を全て退け、ミュウとシャングリラを守り続けるブルーの瞳。
その赤がいい、と唱えたヒルマンに長老たちが次々と賛同した。同じシンボルなら、意味のある色を使いたい。自分たちにとっての魔除けの色なら赤であろう、と。
「…ぼくはメデューサの青い目でいいと思ったのに…」
小さなブルーは不満そうに唇を尖らせた。
「でなきゃ緑でも良かったじゃない、服の色に似合えば良かったんだし」
「そう言うな。…俺たちは縋りたかったんだ。ヒルマンが言ったメデューサの目に。魔除けの力を持っていそうな、お前の赤い瞳の色に」
「ぼくの目にそんな力なんか無いよ。そう言ったのに…」
それにその話は皆にしないで、と口止めしたのに、みんなで喋ってくれちゃって…。そのせいで赤になっちゃったんだよね、ぼくたちの石。
「賛成しない方がどうかしていると思うがな?」
シャングリラ中のミュウたちの賛成を得て、制服にあしらう石は赤と決まった。そうして制服が作られて配られ、新しく船に来たミュウたちも制服と共に赤い石を貰った。しかし…。
「お前が恥ずかしがって「新しく来た者たちには絶対に言うな」と緘口令を敷いてしまったから、伝わらずに消えてしまったじゃないか。…どうして赤い石だったのかが」
まさかジョミーにも言わなかったとは、とハーレイが指で額を押さえる。
「せっかくの由来を次のソルジャーにも伝えなかったとは思わなかったぞ」
「いいんだよ。ただの赤い石、それだけでいい」
意味なんか何処にも無くていいんだ、とブルーはクスッと笑ったのだけれど。
「…ぼくの目かあ…」
ふと思い出した。いつもいつも、心を掠める前の生の記憶は右の手ばかり。
その手で最後にハーレイに触れた温もりを失くして、メギドで冷たく凍えた右の手。凍えた手が冷たいと泣きながら前の自分は死んでいったけれども、何故、ハーレイの温もりを失くしたのか。
キースに撃たれた傷の痛みが酷くて温もりが薄れ、右の瞳への銃撃が完全に奪い去っていった。最期まで抱いていたいと願った温もりを右手から奪い、消してしまった。
そう、右の瞳。
失くしたものはハーレイの温もりだけれど、ブルーは自分の右目も失くした。
「…ぼくの右目…」
「ん?」
ハーレイはもちろん右目のことを知っているから、心配そうな顔になる。
右の瞳がどうかしたのかと、問うような目を向けて来るから、ブルーは「平気」と微笑んだ。
「…キースに撃たれた、ぼくの右の目。…ぼくの目が本当に魔除けだったら、あの右目がお守りになってくれたかな…。みんなが地球まで行けるように…」
遙かな昔にヒルマンが話したメデューサの目を象った魔除けのお守り。
ガラスで作られていたという青いお守りは、災いから人を守って割れると聞いた。もしも自分の目がミュウたちの魔除けのお守りだったなら、砕かれた右の瞳は皆を守って割れたのだろうか。
「…メデューサの目は人を守ったら割れるんだよ。ぼくの右目もそうだったのかな…」
…それなら、いい。
撃たれた痛みで君の温もりを失くしたけれども、みんなのお守りになったのならば。
「…ブルー…」
ハーレイの手がそっと伸ばされ、ブルーの右の頬に触れ、瞳も包んだ。
「きっとお守りにして下さったさ、神様は……な。だから俺たちは地球まで行けた」
この瞳だ、と閉じた瞼の上から温かい指で優しく撫でられる。
此処に在ったソルジャー・ブルーの赤い瞳がミュウを、シャングリラを守ったのだ、と。
「…お前の瞳。前のお前の赤い瞳は、間違いなくミュウのお守りだったさ」
…もっとも、俺はそんな悲しいお守りを貰うよりかは、お前を連れて行きたかったがな…。
地球へ。
苦渋に満ちたハーレイの顔。
今もなお遠い昔に失くしてしまったソルジャー・ブルーを忘れられないハーレイの苦痛。それを知るから、ブルーは「ぼくは居るよ」とハーレイを見詰める。
ぼくは此処に居るよ、生きているよ、と。
「ねえ、ハーレイ。…ちゃんと着いたよ、青い地球へ。ぼくは地球まで来られたんだよ」
まだ小さいから、君が失くした時の姿じゃないけれど。
もう何年かしたら育つよ、ソルジャー・ブルーとそっくり同じに。
…だから待ってて。ぼくが大きくなるのを待ってて、前とおんなじ姿になるまで…。
ね? と首を傾げれば、「そうだな」と鳶色の瞳が和らいだ。
「…そうだな、お前は帰って来たな…。ついでに地球まで来たんだったな」
「うん。ハーレイと一緒に地球まで来たよ」
青い地球だよ、とブルーは窓の向こうの空に目をやり、それからメデューサの目が沢山刷られた紙を指先でチョンとつついた。
「本物の地球だから、本物のお守りがあるんだよ。メデューサの目の」
ぼくたちの赤い石みたいな、こじつけじゃなくて。
本当に本物の魔除けの目玉で、赤じゃなくて青い目玉のお守り。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物の魔除けの目玉は青いんだものね」
「…それは違うな。お前の瞳も、俺たちにとっては本物だったさ」
これと何ひとつ変わりやしない、とハーレイは青いメデューサの目とブルーの赤い瞳とを何度も見比べてから。
「いや、これよりも強かった。本当に守ってくれたんだからな、俺たちを」
メギドだけじゃなくて、それまでの日々も。
お前の赤いその瞳こそが、俺たちの魔除けのお守りだった。
そんな理由を知らないヤツらが殆どを占める時代になっても、本物で最強だったんだろう。
俺たちを地球まで連れて行ったジョミーも、この目が見付けて来たんだからな。
…違うか、ブルー?
お前の赤い瞳が無ければ、どうにもこうにもならなかったさ…。
「…そうかなあ…?」
ブルーにはあまり自信が無かった。
メギドで失った右の瞳は効果があったかもしれないけれども、それは命と引き換えだったから。
普段、自分の顔に在っただけの瞳に魔除けの力など無さそうなのに…。
「お前が信じないと言うならそれでもいいがな、少なくとも俺にはそうだと思えた。…俺の服には二つあったが、お前がメギドに行っちまった後で何度眺めたか分からない」
こいつがただのお守りではなくて、此処にお前が居るのなら。
居るのならば俺たちを守ってくれ、と何度祈ったか分からない…。
もっとも、うっかり祈る度に謝る日々だったがな。
「なんで謝るの?」
「これ以上、まだお前に頼って縋るつもりか、と情けないじゃないか。…お前はおれたちを守って死んじまったのに、そんなお前に死んでなお重荷を背負わせるのか、と…」
そんなことは出来ん。…断じて出来ん。
たとえお前が許したとしても、俺自身が許せなかったんだ。
お前を守ると誓っていたくせに、守るどころか守られちまった。
そうしてお前は死んじまった…。
「お守りだったら当然だよ? 人を守ったら代わりに割れるとヒルマンは言ったよ」
「割れてしまったお守りに向かってまだ頑張れと言うようなもんだぞ、死んだお前に守ってくれと祈るのは。…何度となくやっちまったがな…」
すまん、とハーレイが謝るから。
多分、ぼくの瞳の色の石には少しくらい効き目があったんだろう。
お守りとしての効果はともかく、気休めとでも言うのかな…。
祈れば救われるような気持ちになるから、ハーレイは祈っていたんだと思う。
ぼくが死んだ後、あの石の意味を知っていたのは長老たちと、ごくごく僅かな年配者だけ。
彼らの支えになっていたなら、それで良かったと思っておこう。
ぼくの瞳の色に合わせて赤かった石。
メデューサの目のお守りを気取るだなんて恥ずかしいけれど、効いていたならそれでいい。
ほんの僅かな人だけのための魔除けの石でも、彼らの救いになっていたなら…。
でも…。
ぼくの瞳の色のお守りはシャングリラに居たミュウを守っただけ。
役目を終えたら時の彼方に消えたというのに、メデューサの目は残った末に復活を遂げた。
本当に本物のお守りだったから、青い目玉は地球の上に戻って来たんだと思う。
青い地球の上に青い目玉の魔除けのお守り。
ぼくの瞳よりずっと効きそうで、きっと本物の魔除けのお守り。
どのくらい効くのか、ちょっと試してみたい気もする。
「ねえ、ハーレイ。…このお守りって、よく効くのかな?」
青い目玉の写真を指差したら、「どうだかな?」と答えが返った。
「なにしろ魔除けのお守りだしな? 除けるものが無ければガラス玉だぞ、青いだけの」
「…んーと…。そういえば今って平和だったね、前のぼくたちの頃と違って」
「そうだろう? 特に出番を思い付かんが、欲しいのか?」
いつか買うか、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「前のお前は自分の瞳を魔除けにされちまってたし、今度はこいつに守ってもらうか? 現地じゃ人気の土産物らしいぞ」
「えっ、そうなの?」
「だから沢山あるんだろうが。…結婚したら此処へ行ってだ、似合いそうなヤツを探すとしよう」
家を丸ごと守るタイプの玄関用の大きな目玉から、手首につけるブレスレットまで。青い目玉のお守りはバラエティー豊かに揃うのだそうで、なんだか嬉しくなってきた。
シャングリラでは由来を思い出す度に恥ずかしくなった赤い石。あの頃の恥ずかしさを帳消しに出来るほど、青い目玉のお守りを沢山買い込んでドッサリ飾るのもいいかもしれない。
「おいおい、家じゅう目玉だらけか?」
「ぼくは時々、そういう気分になってたんだけど? シャングリラで!」
あっちにもこっちにも赤い石。
誰の服を見ても赤い瞳の色のお守り。
それに気付いた時のいたたまれないような気持ちに比べれば、青い目玉のお守りくらい…!
「分かった、分かった。…その頃までお前が根に持っていたら、目玉だらけでも我慢してやる」
赤い石になった責任の一部は俺にもあるし、とハーレイは白旗を高く掲げた。
キャプテンだった上に長老でもあったハーレイの責任は、赤い石に関してはけっこう重い。
そこら中に目玉が溢れ返った気分というのを、ちょっぴり味わって欲しいかも…。
もっともハーレイに本当の意味で思い知らせるには、青い目玉じゃ駄目なんだけれど。
ハーレイの瞳と同じ色をした、鳶色にしないと駄目なんだけれど…。
青いガラスの目玉のお守り、メデューサの目。
魔除けの目玉をいつかハーレイと一緒に買いに行きたい。家じゅうに飾ってハーレイを苛めるかどうかはともかく、ぼく専用に一つは欲しい。
ソルジャー・ブルーの赤い瞳はお守りにされて、ぼくに目玉のお守りは無かった。自分が自分のお守りだなんて何かが違うし、今度の生ではメデューサの目玉のお守りが欲しい。
魔除けなんか要らない平和な世界で、ぼくの手首に青い綺麗な魔除けの目玉。首から下げられるペンダントでもいいし、とにかく自分の瞳とは違う本物の魔除け。
買いに行く時の参考にしようと、ハーレイが刷って来た沢山の青い目玉の写真を眺めていたら。
「こいつが復活するんだったら、俺たちの赤い石の由来も伝わっていて欲しかったが…」
ハーレイが名残惜しげにボソリと呟く。
「嫌だよ、そんな恥ずかしいこと!」
絶対に嫌だ、と文句を言った。
あの石はぼくの瞳の色で、赤い瞳はぼく一人だけ。
自分の瞳の色をしたお守りに囲まれて暮らす恥ずかしさと、いたたまれなさは誰も知らない。
ぼく一人だけしか持たなかった瞳の色だし、誰も分かってくれはしないし、分からない。
「忘れられてて良かったんだよ、あの石の色は!」
そう、今だって忘れられるなら忘れたい。
青い目玉のお守りを買いに行きたい気持ちごと忘れてしまってもかまわない。
「ハーレイに言われるまで忘れてたくらいに、忘れたいと思っていたんだからね…!」
叫んでやっても、ハーレイはまだボソボソと赤い瞳の色のお守りにこだわっている。
やっぱり青い目玉のお守りを山ほど買って飾ってやろうか、家じゅうが目玉だらけになるほど。
そしたら少しはぼくの気分が分かると思うよ、残念どころじゃないってことが。
忘れてしまいたい、赤い石の由来。
神様、青い目玉も忘れてしまってかまわないから、綺麗に忘れられますように…。
メデューサの目・了
※ミュウの制服の赤い石。実はお守りだったのです。前のブルーの瞳の色をした魔除け。
前のブルーには意味が無かったお守りですけど、今度は本物の魔除けの目玉が手に入りそう。
青い目玉のお守りはナザールボンジュウ。検索すると色々見付かりますv
一例は、こちらをクリック→目玉のお守り
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(…まさかね…)
ブルーはキッチンの棚に重ねて置かれた幾つものザルを見上げていた。母が水切りなどに使っているザル。頭に被れそうな大きなものから、グレープフルーツを一個入れれば溢れてしまいそうな小さなものまで。色も素材も様々なそれが、今のブルーの心配の種。
(…被らないとは思うんだけど…)
今日の二時間目、大好きなハーレイの古典の授業。皆が退屈してくる授業時間の半ば頃、絶妙のタイミングでハーレイが持ち出してくる蘊蓄たっぷりの楽しい雑談。遠い昔の伝説だったり、今は失われた習慣だったりと、生徒の心をガッチリと掴み、自分の話に引き戻す。
ブルーも大好きな時間だったが、まさか怖い話になるなんて。
(…あんなの、ただの言い伝えだよね?)
迷信なのだと信じたい。本当だったら恐ろしすぎるし、仮に本当でも自分とは全く関係が無いと思いたい。それほどに怖くて恐ろしい話。あまりに怖くて、こうして見ずにはいられない。
(…ザルを被ると背が伸びない、って…)
ハーレイが話した、SD体制が始まるよりも遙か昔の言い伝え。皆は笑って聞いていたけれど、ブルーには笑いごとではなかった。
学年で一番小さいブルー。三月の一番末が誕生日だから、年も学年で一番幼い。小さくて当然と考えていた日が懐かしい。
(…背が伸びないと困るんだけど…!)
ホントのホントに困るんだけど、と心配の種のザルを見上げる。
ブルーの身長は百五十センチ。前世での恋人、ハーレイと出会って記憶が蘇り、前の生の自分と同じ背丈の百七十センチが目標になった。そこまで伸びないとハーレイはキスも許してくれない。
それなのに全く伸びてくれない背丈。たとえ言い伝えでもザルの話は恐ろしすぎる。
自分は被っていない筈だと思うけれども、背が伸びないだなんて、やっぱり怖い。
(…だけど、子供じゃ届かないしね?)
記憶にある限り、ザルの置き場所は幼い頃から変わってはいない。キッチンの棚の一番上。今のブルーでも手を伸ばさないと取れない場所だし、子供の手は絶対に届かない筈。
(椅子に上っても無理だよね、うん)
第一、幼いブルーは棚の所まで椅子を運べなかっただろう。だから絶対に大丈夫。
背が伸びなくなるという恐ろしいザルを自分は決して被ってはいない、と頷いてキッチンの中を見回し、再びザルを見上げてみる。あそこがザルの定位置なのだから、大丈夫…。
ホッと息をつき、二階の自分の部屋に戻った。暫くして母に「おやつよ」と呼ばれ、読んでいた本に栞を挟んで階下へと下りる。ダイニングのテーブルにシフォンケーキ。キッチンのオーブンに入っていたものはこれだったのか、と納得しながら自分の椅子に座った。
母と二人でのティータイム。今日の出来事などを母に報告していたら。
「ブルー、キッチンで何を見てたの?」
唐突に母が尋ねてきた。ザルに気を取られて気付かなかったが、どうやら見られていたらしい。恥ずかしいから誤魔化そうかとも思ったけれども、考えようによってはチャンスだ。幼かった頃の自分がザルを被っていなかったことを、母なら証言してくれるだろう。
「えっと…。ママ、ぼくが小さかった頃なんだけど…」
ぼくの背、キッチンの棚まで届かなかったよね?
サイオンで浮かんだりもしていないよね、と思い切って切り出してみた。
「なあに? キッチンの棚がどうかしたの?」
「…ザル…。あそこにあるザル、オモチャにしたりはしてないよね、ぼく?」
「ザル?」
ブルーは母が即座に否定するだろうと期待した。なのに…。
「あらっ、もしかして忘れちゃったの?」
幼稚園に持って行ったじゃないの、と思わぬ答えが返って来た。
「ザルにいっぱいボールを貰って帰って来たでしょ、スーパーボール」
「…スーパーボール…」
記憶の彼方から蘇って来る遠い日の思い出。
ソルジャー・ブルーだった頃よりは遙かに近しい記憶だけれども、幼かった幼稚園児のブルー。制服を着て帽子を被って、小さな鞄を肩から掛けて、幼稚園のバスに乗っていた。
幼稚園で人気があったオモチャがスーパーボール。よく弾むゴムで出来たボールで、競い合って投げたり弾いたりした。家にも沢山あればいいのに、と思っていたことを覚えている。夢が叶って山ほど貰って、大喜びで帰りのバスに乗った日のことも。
宝物だった沢山の小さなスーパーボール。きらきら光って、いろんな色で。
そうだ、幼稚園の遊びで貰った。水に浮かべたスーパーボールを掬う遊びにザルを使った。前の日に先生が「素早く沢山掬えない子は、大きいザルを持って来てね」と説明してくれたから、他の子に取られてしまわないよう、大きなザルが要ると思った。
母に頼んで用意して貰った幼稚園の帽子よりも大きなザル。一度に沢山のボールが掬えるザル。これで素早い子にも負けはしない、と喜んだ。
(そのザルを持って行って…。どうしたっけ?)
誰にも負けない秘密兵器の大きなザル。帽子よりも大きいザルが嬉しくて、幼稚園の鞄と並べて眺めた。あれで沢山ボールを掬って貰って帰ろうとワクワクしていた。
何度もザルを手に取ってみて、幼稚園の帽子のサイズと比べて大満足で、うんと得意になって。帽子よりも大きいんだ、と嬉しくなった末に部屋の鏡を覗き込みながら…。
(…被っちゃった…!)
鏡に映った得意そうな顔の幼い自分。帽子よろしく大きな黄色いザルを被って、満面の笑顔。
(…ど、どうしよう…。被っちゃったんだ…!)
思い出してしまった最悪な記憶。顔から血の気が引きそうになる。被ったら背が伸びなくなると教わったザル。それを被った幼い自分。取り返しのつかない過去の過ち。
ブルーの異変に気付いたのだろう、母が紅茶のポットを手にして尋ねてきた。
「どうしたの、ブルー?」
「……ザル……。ぼく、被っちゃった…」
「ああ、そうねえ!」
とっても可愛かったわよ、と母はブルーのカップに紅茶のおかわりを注ぐ。
「幼稚園から帰って来るなり被ってたわねえ、ぼくのが一番大きかったよ、って」
「…か、被ってたの?」
「あらっ、ゲームをした日の話じゃないの? 他の日にもザルを被ってたの?」
「う、うん…。前の日の晩に……」
大きなザルが嬉しかったから、と白状しながらもブルーの気分はドン底だった。ザルは一度しか被っていないと思っていたのに、帰ってからも被ったという自分。この調子では幼稚園でもきっと被っていただろう。誰よりも大きなザルが自慢で、幼稚園の帽子よりも大きいのだ、と。
可笑しそうに笑う母にはザルの言い伝えを話せなかった。母は言い伝えを聞いたことがないのに違いない。知っていたならブルーを止めてくれた筈。「ザルを被ると背が伸びないわよ」と。
(……被っちゃったなんて……)
被ってしまうと背が伸びなくなる呪いのアイテム。遠い昔の言い伝えのザル。
幼稚園の先生たちもザルの言い伝えを聞いたことがなかったのだろう。被ってはいけないと注意されたら覚えている筈。家に帰ってもう一度被るわけがない。
スーパーボールを山ほど貰って御機嫌で家に帰ったけれども、大きなザルで得はしなかった。
一度に沢山掬えるザルで挑むか、普通のザルで素早く何度も掬ってゆくか。結局の所、ボールを幾つ掬えるかは個人の力量であって、遊びが終わると持っているボールの数はまちまち。
ブルーは山のように掬って満足だったが、まるで掬えなかった子も少なくはなくて、そんな子は追加のボールを貰った。先生が公平に数を数えて、足りない子には幾つも追加があった。
(…おんなじだけ貰ったんだっけ…)
自分で掬った分、好みの色のボールが多いという利点はあったのだけれど、貰ったボールの数はみんなと同じ。欲張って大きなザルを持って行っても、遊びで有利だっただけ。
(…被った分だけ、損をしちゃった?)
欲張った者が酷い目に遭う昔話を思い出す。ハーレイお得意の雑談の中でも大きなつづらの話を聞いた。つづらは遠い昔の時代の蓋つきの籠。身体に見合った小さなつづらを選ぶと宝物入りで、欲張って大きなつづらを選べば中身は怪物という話。
(…ホントに怪物だったんだけど…)
大きなザルには「頭に被ると背が伸びない」という恐ろしいオバケがくっついて来た。怖すぎる怪物を追い払いたければ、どうすればいいというのだろう?
相手はSD体制の時代よりもまだ前の古い言い伝え。それだけ古ければ力の方も凄そうだ。
(…確か、言霊だったっけ…?)
ハーレイの雑談で聞いたと思う。言葉には霊的な力が宿るという話。長い年月を生き続けて来たザルの言い伝えがどれだけの力を秘めているのか、考えるだに恐ろしい。
(…言い伝えを消すなら、言い伝えかな…?)
そうでなければ、おまじない。
背が伸びる言い伝えかおまじないを探して実行すれば、とブルーは考えた。幼い自分が知らずに被ったザルの呪いを無効にするには、逆のことをするしかないのだろう、と。
身長を伸ばす効果を持つ言い伝えか、もしくはおまじない。
背が伸びなくなるザルの呪いを自分にかけてしまったらしいブルーは必死になって探し回った。図書館に置いてある本はもちろん、データベースも端から調べた。
それなのに何も見つからない。背が伸びなくなるザルの言い伝えは何処にでもあるのに、伸ばす方は諸説入り乱れて決定打が無い。そもそも言い伝えに入っていないのだ。
(…迷信って呼べるレベルですらないよ…)
背が伸びるおまじないは幾つもあったが、統一性を欠いていた。
目標の身長を紙に書いて枕の下に入れて眠るだとか、「背が伸びますように」と唱えてミルクを飲むだとか。ザルの呪いに比べるとまるで説得力が無い。
(これが一番、それっぽいけど…)
目を付けたおまじないは「ひまわりの種を黄色い布に包んで靴に入れる」という簡単なもの。
身長を書いた紙やミルクよりは幾分、マシに思えた。ひまわりは背丈の高い花だし、黄色い布も色をわざわざ指定してある所が頼もしい。
(…でも、言い伝えの中には入ってないよ…)
何処を探しても言い伝えの中にはハーレイから聞いたザルの話だけ。ひまわりの種は含まれてはおらず、効果のほどは根拠が無かった。
(どうしよう…。ぼくのザルって、無効に出来るの?)
本を調べても駄目、データベースを探しても駄目。
ついに手詰まりとなったブルーが縋れる手段は、もはやハーレイだけだった。ザルの言い伝えを雑談レベルで持ち出してこられるハーレイならば、対抗手段を知っている可能性がある。なにしろ古典の教師なのだし、古い言い伝えにも詳しいだろう。
出来ればハーレイには話したくなかった過去の過ち。素敵な自分だけを見て欲しいのだけれど、そんなことは言っていられない。ザルの呪いで背が伸びなければ、ハーレイとキスを交わすことも出来ずに小さいままで過ごさなくてはならないのだし…。
ブルーは訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座って覚悟を決めた。
「…ハーレイ…。こないだの授業で言ってたザル…」
「ざる?」
何のことだ、と問うハーレイに「言い伝え…」と口ごもりながら。
「ザルを被ると背が伸びなくなる、って言ったでしょ? あれの反対のおまじない、教えて」
「…はあ?」
ポカンと口を開けたハーレイだったが、少しして意味が飲み込めたようで。
「ああ、ザルな。…ザルは頭に被るものじゃない、っていう意味の戒めだったらしいぞ、あれは。食べ物を入れる器を粗末にするな、という意味もあるし、不衛生だという意味でもある」
「…それで?」
「だからだ、ザルを被ると背が伸びないぞ、と怖がらせないと子供ってヤツは悪戯するしな?」
脅すだけだ、とハーレイは笑った。本当に背が伸びなくなるという根拠は何処にも無い、と。
「で、お前も悪戯したクチなのか? あれの反対を知りたいってことは?」
「悪戯じゃないよ!」
ブルーはムキになって反論した。
「幼稚園の時だし、被ってもママは怒らなかったし!」
「なるほど、お母さんも知らなかった…、と。可愛いだろうな、幼稚園時代のお前の頭にザルか」
幼稚園の帽子に負けないくらいに似合いそうだ、とハーレイが目を細めるから。
「笑いごとじゃないよ!」
真剣になって怒りをぶつける。
ザルの言い伝えに根拠が無くても、現に自分の背は伸びない、と。
ブルーにとっては人生が懸かった背丈の問題。前世と同じ百七十センチまで伸びなかった時は、大好きなハーレイと結婚どころかキスも出来ずに終わるしかない。
今の身長は百五十センチ、まだ二十センチも伸ばさなくてはいけないわけで、ザルの呪いなどに捕まったのでは堪らない。事実無根の言い伝えだろうが、言霊なるものも馬鹿には出来ない。現にサイオンなどは霊的と言えば霊的なのだし…。
懸命に言い募るブルーの姿に、ハーレイがフウと溜息をついた。
「分かった、分かった。…それで、お前、ザルを被っちまった頃にはどのくらいのチビだ?」
「んーと…。多分、このくらい……かな?」
幼稚園時代のブルーは眠る時は両親のベッドに行っていたけれど、自分の部屋は今と同じ部屋。当時の視点の高さからしてこのくらい、という高さを右手で示す。
「ふうむ…。安心しろ、確実に背は伸びている」
大丈夫だ、とハーレイは穏やかに微笑んでくれたが、ブルーの心配は其処ではない。
「でも、今、全然伸びないんだけど…! 一ミリも!」
「確かにな…。ザルの呪いが今頃だってか? さて、SD体制の時代よりも古い言い伝えだけに、どうしたもんかな…」
「…もしかしてハーレイも知らないわけ? ザルの反対…」
「残念ながら、俺もそいつは全く知らん」
ハーレイの答えに、ブルーは絶望的な気持ちになった。幼い自分が被ってしまった呪いのザル。それが今まさに祟っているかもしれないというのに、対抗手段が皆無だなんて…。
「じゃ、じゃあ、ひまわりの種は?」
「ひまわりの種?」
「ひまわりの種を黄色い布で包んで靴に入れると背が伸びるって…!」
縋るような思いで口にしてみたが。
「ほほう…。そいつは初耳だな。入れてみたらどうだ?」
「…ハーレイが知らないんだったら全然ダメだよ…」
ザルのパワーの方が強いよ、とブルーはガックリと項垂れる。
呪われてしまった自分の背丈。もしもこのまま、百五十センチで止まってしまったら…。
「こらこら、しょげるな」
ハーレイの大きな手が伸びて来て、ポンポンと頭を叩かれた。
「お前も俺も、前とそっくりの姿になるよう生まれ変わって来たんだろ? 呪われたにしてもだ、ちゃんと百七十センチまでいけるさ。…前世のお前を信じておけ」
ソルジャー・ブルーとそっくりになるなら百七十センチは要るんだからな。
その背に届くまでにどのくらいかかるかは、ザルを被ってしまった分だけ時間が加算されるかもしれないが。
「…ぼく、本当に百七十センチになれる…?」
まだ心配そうな顔のブルーに、ハーレイは「なれるさ」と笑顔を返した。
「いつかはきっと、前のお前とそっくりになれる。…しかしだ、俺は小さなお前も好きだし、今の姿を長く見られるならザルに感謝をしないとな」
「ええっ?」
「何度も言っているだろう? 焦らず、ゆっくり大きくなれと。…お前が焦ってもザルがそいつを止めてくれるのなら俺は嬉しい」
ついでに言えば、とハーレイの鳶色の瞳がブルーを見詰める。
「ザルを頭に被ったという幼稚園時代のお前に会いたかったな。とても可愛い子供だったろうに、俺は会えずに来ちまった。せっかく同じ町に居たのに、残念なことをしたもんだ」
「ぼくも若いハーレイに会ってみたかったよ。公園で会って肩車とか…」
もしもその頃に会えていたなら、とブルーも思う。
言い伝えを知っていたハーレイがいればザルを被りはしなかったろうし、背丈が伸びない呪いの影に怯えなくても済んだだろう。それに何より…。
(…もっと長い時間をハーレイと一緒に過ごせたよ…)
小さな自分を抱き上げて貰って、今よりもずっと小さいのだから、きっと家にも遊びに行けて。文字通り家族ぐるみの付き合いになって、旅行にも一緒に行けたかもしれない。
けれども、それは叶わなかった。
十四年間も同じ町に住んでいたのに、ハーレイとは出会えないままだった。だから…。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくたち、きっと何処かで会っていたよね、知らなかっただけで」
ブルーの言葉にハーレイが頷く。
「そうだな、同じ町で暮らしていたんだしな? すれ違ったりはしてるだろうな」
俺たちだからな、と鳶色の瞳が片方、パチンと閉じて開いた。
「まるで会っていないってことだけは無いさ。前から数えりゃ何年越しの付き合いなんだか」
「うん。…会える時が来ていなかっただけ。きっとそうだよ」
「うんうん、今よりも小さなお前にあの傷痕は背負えんさ」
あれが無ければ記憶は戻らない仕掛けになっていたのだろう、とハーレイの手がブルーの両肩に触れて離れた。聖痕現象と診断されたブルーの傷痕。前世の最期にメギドで撃たれた時の傷痕。
「今のお前でも痛かっただろうに…。小さかったらショック死しかねん」
「…だろうね。だけど、あの傷のお蔭でハーレイに会えた。だから、いいんだ」
とても痛かったけれどかまわないんだ、とブルーは微笑む。
実際、傷痕が現れた時には痛みのあまりに気を失ってしまったけれども、ハーレイに再び会えた喜びもまた大きかった。もう一度会えたと、ハーレイの腕の中に帰って来られた、と…。
「そうか、痛くてもかまわないってか。…よし、その意気でザルの呪いも吹っ飛ばしておけ」
あの傷に比べりゃザルの呪いくらいは大したこともないだろう、と言われればそういう気もしてくる。ザルは幼い自分でも被ってしまえたけれども、あの傷の痛みは耐えられはしない。
「…今のぼくならザルの呪いにでも勝てる?」
「勝てるさ、前のお前が負った傷の痛みも乗り越えたしな。前のお前にきっと追い付ける」
呪いのザルにこう言っておけ。負けやしないと、いつか百七十センチになるんだ、とな。
「うんっ!」
どんな言い伝えよりも、おまじないよりも、ハーレイの言葉が嬉しかった。
死の星だった地球が蘇るほどの長い長い時を越えて、生まれ変わって来たハーレイ。
その言葉にはきっと、力がある。
ザルの言い伝えにも負けない言霊。古い言い伝えよりも強い言霊。
誰よりも好きで、誰よりも頼れるハーレイの言葉。
だからブルーはザルの呪いをもう恐れない。
知らずに被ってしまったけれども、大好きなハーレイが「大丈夫だ」と言ってくれたから…。
呪われた背丈・了
※ザルを被ったら背が伸びないと聞いてしまって、震え上がったブルーです。
背が伸びるおまじないより心強いのがハーレイの言葉。「大丈夫だ」という一言だけで…。
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