忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「ブルー」
「ん?」
 ハーレイと向かい合わせでの昼食。此処はブルーの部屋だったから、二人きりでの昼食である。休日にハーレイが訪ねて来てくれると、昼食は大抵、このパターンだ。ブルーの母が頃合いを見て食後のお茶を持ってくるまで、ゆっくり食事を楽しむのだけれど。
 ハーレイが手を止めてブルーの顔を覗き込むから、ブルーの食事の手も止まった。
「ハーレイ、ぼくがどうかした?」
「いや…。お前、何でもよく食べるな」
「えっ?」
 思いもよらない言葉にブルーは自分の前に置かれた昼食の皿に目をやり、首を傾げた。ピラフとスープと、それからサラダ。ハーレイのピラフは大盛りだったが、ブルーの分はお子様ランチかと思われそうなほどの量しかない。スープもサラダもハーレイの分よりずっと少ない。
 どう見ても「少なめ」でしかない食事なのに、よく食べるだなどと言われても…。
「ああ、違うんだ。俺が言うのは量じゃなくてだ、お前は食べる量が俺よりも少ないってだけで、実に何でも食べるよな…と思ってな。好き嫌いは無いのか、お前?」
「そう言えば…。無いね」
 ハーレイと再会してから何度も一緒に食事をしてきた。ブルーの家での昼食と夕食、ハーレイの家で一度だけ御馳走になった昼食。どれも盛り付けられた分は食べたし、普段の食事も特に嫌いなものは無い。料理も、むろん食材も。
「パパとママにもよく言われるよ。小さい頃から好き嫌いが無い子供だったから、身体が弱くても大きな病気はしないのかも、って」
「なるほどなあ…。俺も好き嫌いは全く無いんだが、この身体だから不思議がるヤツがいるわけが無いし、自分でも特に何とも思わなかった。しかしだ、お前も好き嫌いが無いとなるとだ」
 これは前世のせいかもな、と言われてブルーは目を丸くした。
「そっか…。そうかもしれないね」
 思ってもみなかった前の生の自分。ソルジャー・ブルーであった頃の自分…。



 前世でハーレイと共に暮らしていた白い船。あのシャングリラがミュウたちの楽園になるまでは長くかかったし、アルタミラを脱出して間もない頃には様々な苦労をしたものだ。
「うん、あの頃は好き嫌いどころじゃなかったよね。食べ物はあるだけで有難い、って」
 最初の間はシャングリラの前身であった船に積み込まれていた食料だけ。それが無くなりそうになった頃、ブルーが近くを航行していた輸送船から食料をコッソリ盗み出した。食材を選ぶ余裕は無いから、コンテナの中にあった分が全て。
 食料が無くなってくればブルーが出掛けて調達する。そういう日々が長く続いた。食料を詰めたコンテナの中身は非常食ばかりの時もあったし、やたらジャガイモだけが多かったりもした。
「ふふ、思い出した。来る日も来る日もジャガイモだらけの食事とかさ」
「あったな、まるごと全部がジャガイモだったら悲惨だったろうな」
「流石にそれだと再調達だよ、どうにもならない」
「まったくだ。芋だけでは栄養が偏っちまうからなあ…」
 ジャガイモ尽くしの他にもキャベツだらけで急いで食べねばならなかったことや、大量の牛肉に喜んだものの皆が食べ飽きてしまったことや。今となっては笑い話な食材の話は沢山あった。
「でも、ハーレイ。…食べ飽きたり出来るだけマシだったんだよね、アルタミラよりは」
「ああ。アルタミラは本当に酷かったからな」
 人間扱いされていなかった研究所。実験動物に過ぎないミュウの食事など餌でしかない。しかも実験動物なのだから家畜以下であり、肉体の質を高めるための餌は与えて貰えなかった。
「ハーレイが大きく育ったんだし、栄養は足りていたんだろうけど…。何も選べなかったよね」
「基本がシリアルだったしなあ…。後はせいぜい、パンとスープか」
「そう。おかずがついたら大御馳走でさ、どんなものでも嬉しかったよ」
 調理されて器に盛られた料理は餌ではないと思えたから。成人検査よりも前の記憶は欠片すらも残っていなかったけれど、餌と食事の違いくらい分かる。
 味の良し悪しは気にしなかった。熱を通して味が付けてある、それだけで食事なのだと思えた。いつも同じなパンとスープやシリアルとは違う、ヒトの食べ物。
 研究員たちにそういう意図があったかどうかは分からなかったが、特別な食事。ブルーは喜んでそれを食べたし、ハーレイも同じだったという。実験動物から人に戻れる時間。
「俺たちはアレを美味いと思って食っていたしな…」
「本当に美味しかったもの。独りぼっちの食事だったけど」
「違いない。檻の中で黙々と食うだけだったな」
 誰とも会話を交わすことなく、餌を与えられるだけの食事の時間。それでも料理と呼べるものが出て来ると嬉しかった。動物から人に戻れたようで。自分は今も人間なのだと思うことが出来て。



 アルタミラから辛くも脱出したものの、シャングリラでの食事も最初の間は大変だった。外から調達する方法はリスクが高いと自給自足を目指しはしたが、軌道に乗るまで試行錯誤の繰り返し。既にキャプテンだったハーレイの元には頭の痛い報告が殺到していたものだ。
「シャングリラもなあ…。最初は本当に苦労したよな、あれが採れすぎたとか、足りないだとか」
「野菜がきちんと採れるようになるまでは卵も船の中では無理だったものね」
「家畜も魚も餌が要るしな。あんな頃でも、お前がきちんと食べてくれたから嬉しかった。お前が育っていくのを見るのが嬉しかったな、栄養が足りてる証拠だからな」
「…スープしか飲まない日もあったけど?」
 君のスープ、とブルーは笑う。ハーレイが野菜を細かく刻んで煮込んでくれた野菜のスープ。
「あれもなあ…。もうちょっと何かあったならなあ、もっと美味いのを作れたんだが」
「ぼくはあの味が好きだったよ。…だから最初のままのが良かった」
「お前、頑固にそう言ったからな。それで何ひとつ工夫を凝らせないまま今に至る、と」
 ハーレイが作る「野菜スープのシャングリラ風」は今もブルーの好物だった。基本の調味料しか使わないから、ブルーの母が何かと口を出したがるそれ。ブルーが体調を崩した時に、ハーレイが見舞いがてら作りに来てくれるスープ。
「あのスープ、ホントに好きなんだもの。でも…。ぼくってどうして育たないのかな、ハーレイに会ってから頑張ってるのに。きちんと食べてミルクも飲むようにしてるのに…」
「今に育つさ。そしてとびっきりの美人になるんだ、誰もが振り返って見るくらいのな」
 そしてその美人は俺のものだ、とハーレイは片目を瞑ってみせる。
 育ったブルーは自分一人だけのものなのだから、他の人間には見ることだけしか許さないと。



「なあ、ブルー。いつかお前が大きくなったら、俺たちの好き嫌いを探しに行こうか」
「なに、それ?」
 ブルーはキョトンとした顔でハーレイを見た。好き嫌いを探しに行くとは何だろう?
「好き嫌いさ。この世の中にはいろんな食べ物があるらしいしな?」
 SD体制の頃と違って、とハーレイがブルーに微笑みかける。
「あの頃は何処の星でも似たような物を食ってたらしいが、今はこの地球だけでも何種類の料理があるんだか…。何処の地域も独自性を出そうとSD体制前の資料まで調べて頑張ってるぞ」
「そうだね。ぼくたちの住んでる所は和風を目指してるんだよね」
「何処まで昔のとおりか知らんが、俺たちが見たことも無かった料理も沢山あるしな」
「うん。少なくともシャングリラに昆布出汁は無かったよ」
 魚は養殖していたけれども、海藻までは手が回らなかった。回ったとしても、昆布からスープの材料が取れるという知識を持たなかった。昆布出汁を使った料理は今の生で生まれて来た地域では珍しくはなく、本物の地球の海で育った昆布を元にして透明なスープが作られる。
「昆布出汁なあ…。あれは本当に聞いたことすら無かったな、前は」
「ぼくは昆布も知らなかったよ」
「俺もだ。アルテメシアにも海はあったが、昆布が生えていたかどうかも知らん」
「海藻はあったけど、昆布はどうかなあ…」
 ブルーはユニバーサルに追われるミュウを救出する途中で海に何度か潜った。自分たちが目指す地球を覆う海もこの海とよく似ているのだろうか、と頭の何処かで思っていた。地球が死に絶えた星のままだとは考えもせずに、その青い海を夢に見ていた。
 アルテメシアの海の底でゆらゆらと揺れていた何種類もの海藻。あれは植物園の植物と同じで、見るためだけのものだったろうか。たとえ昆布が生えていたとしても、それが食べられる海藻だということを誰も知らないままだったろうか…。
 遙か遠くに過ぎ去った昔。アルテメシアの海を見ていたブルーはもういない。ソルジャーだったブルーはメギドで死んで、蘇った地球に生まれ変わった。それなのに今の生でも好き嫌いを感じたことが無いとは、前の生でどれほどの辛酸を嘗めていたのか…。
 ブルーは少しだけ悲しくなった。ハーレイと二人、青い地球の上に生まれて出会って、こんなに幸せに生きているのに、前の生を自分でも知らない所で引き摺ってしまっているのかと。
 その思いを読み取ったかのように、ハーレイがもう一度、ブルーに言った。
「お前の好き嫌いを探しに行こうじゃないか。もちろん俺の分も一緒に探すぞ」



 いつか、とハーレイの鳶色の瞳が細められる。
「いつかお前と結婚したらだ、あちこちに食べに行かないか? この地域だけじゃない、それこそ地球のいろんな所へ出掛けて行くんだ、好き嫌いを探しに」
 きっと何処かに一つくらいはあると思うぞ、俺たちでも「嫌い」と言うようなものが。
 茶目っ気たっぷりに煌めく瞳に、ブルーは「うーん…」と首を捻った。
「そんなの、あるかな? だって、ぼくたちだよ?」
 初期のシャングリラで長く耐乏生活をして、アルタミラでは家畜にも劣る扱いで。どんな物でも口に入れられる物は必ず食べたし、好き嫌いなどありはしなかった。今の平和な地球で調理された食材が口に合わないだなんて、まず有り得ないとブルーは思うのだけれど。
 ハーレイの方はそうは思わないらしく、自信たっぷりに返してきた。
「何処かにはあるさ。そうでなければ、人生、つまらん」
「そんなものなの?」
 驚くブルーに「そうさ」とハーレイは親指を立てる。
「前の俺たちには好き嫌いをするだけの余裕が無かった。そんな環境でもなかったしな。しかし、今の俺たちはそうじゃない。人並みに好き嫌いってヤツを作りたいじゃないか」
「好き嫌いって、作るものなの?」
「ああ。嫌いが無ければ好きでもいい。もう一回あれを食べたいってヤツを見付けるとかな」
「いいね、それ。ぼくにそういう食べ物が出来たら、作ってくれる?」
 ブルーは期待に瞳を煌めかせた。料理は得意だと聞くハーレイ。野菜スープのシャングリラ風は昔と同じ味だし、一度だけ訪ねたハーレイの家で出て来たシチューも美味しかった。二人で旅して見付けた料理をハーレイが再現してくれたなら、どんなに素敵なことだろう。
 そのハーレイもまた、ブルーのおねだりが嬉しかったらしく。
「もちろんだ。腕によりをかけて作ってやるさ」
 自信満々で答える姿に、ブルーの中に悪戯心が生まれて来た。それをそのまま口にしてみる。
「其処でしか獲れない魚とかなら、どうするの? 取り寄せたって、きっと美味しくないよ」
 獲れたての魚と、そうでない魚はやっぱり違う。好き嫌いの無いブルーだけれども、同じ魚でも刺身で食べるなら新鮮な方が断然いい。そう思ったから魚と言った。ハーレイを少し困らせるにはピッタリのものだと思ったから。
 けれどハーレイは事も無げにサラリとこう告げた。
「二人で何度でも食べに行けばいいさ。それが出来る自由ってヤツも手に入れたんだ、俺たちは」



 海の幸でも山の幸でも、一年の間のほんの僅かな時期しか手に入らない食材でも。それを食べるために何度でも出掛けてゆける。何処へでも二人で旅が出来る、とハーレイが語る。
「そうだろう、ブルー? 俺たちは何処へでも行けるんだ。シャングリラでしか生きられなかった時代は終わって、もう俺たちは自由だろうが」
「うん。…うん、そうだね」
「おまけに寿命もたっぷりとあるぞ? この俺だって平均寿命には三百年以上足りないしな」
 たとえ百歳で結婚したって二百年以上も旅が出来る、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「いいか、二百年以上だぞ? 俺たちが白い鯨になったシャングリラで旅をしたのと同じくらいに長い時間だ。それも結婚が俺が百歳の時だった時の話で、実際はもっと早いだろうしな」
「…ぼくの背、全然伸びないんだけど…」
「俺は今、三十七歳なんだ。百歳までには六十年もかかるわけでだ、いくらお前でも六十年かけて二十センチってことは無いだろう。長くて三十年ってトコだと思うぞ」
「さ、三十年!?」
 酷い、とブルーは悲鳴を上げた。そんなに待てるわけがない。
「三十年も待つくらいだったら、小さくっても結婚するよ! 十八歳で結婚出来るんだから!」
「分かった、分かった。もしもお前がチビのままなら、適当なトコで貰ってやるさ」
 その代わり結婚してもキスは無しだぞ、と言われたけれども、ブルーは頷く。キス無しだろうが本物の恋人同士になれなかろうが、ハーレイと一緒に暮らせるだけで幸せだから。結婚しない限りその幸せは決して訪れはしないから…。
「約束だよ、ハーレイ? ぼくが小さくても結婚してよ?」
「それはかまわんが、俺としては育った方がいい。見せびらかして歩きたいしな、美人のお前を。好き嫌い探しの旅の先でも見せびらかすのさ、このとびっきりの美人は俺のものだ、と」
 旅をしよう、とハーレイが誘う。足の向くまま、気の向くままに、前の生では叶わなかった好き嫌いをするために食べ歩くのだと。
 前の生でブルーが行きたいと焦がれ、ハーレイが懸命に目指した地球。その地球の上をあちこち旅して、名物を食べて、景色を眺めて。
 気に入った物をまた食べるために、気に入った場所をまた訪れるために、同じ場所へも出掛けてゆく。もちろん新しい場所も訪ねて、お気に入りを増やしてゆくのだと。好き嫌いも増やして味に文句を零してみたり、舌鼓を打って「また食べたい」と記憶に刻み付けるのだと…。



「ねえ、ハーレイ。…景色より食べる方が先?」
「可笑しいか? まずは俺たちが失くしちまった好き嫌いを探すのが肝心だろうが」
 それに、とハーレイは大真面目な顔で古典の教師らしく古い諺を挙げた。
「花より団子、と習わなかったか? 見て綺麗なだけの花よりもだ、食って美味い団子の方が役に立つんだと言うだろう。景色は綺麗なだけなんだからな、名物を食うのが正解だ」
「そっか、そういうものなんだ…」
 ブルーは素直に納得したのに、教えたハーレイがプッと吹き出す。
「こらっ、其処で信じるヤツがあるか! 今のは俺のこじつけってヤツで、花より団子の使い方としては微妙なトコだな。テストでお前が書いて来てもだ、丸をつけつつ「?」と書くな」
 もう少し巧い例を書かないと「?」マーク抜きの丸はやれない、と笑うハーレイ。
「前のお前は知らなかっただろう諺だから仕方ないんだが…。優等生だろ、せっかくの上等な頭は賢く使えよ? 俺に騙されるようでは話にならん」
「ハーレイの方が先生なんだよ、ぼくより賢くて当然だから!」
 ブルーは唇を尖らせた。
「先生の方が絶対、賢い! だから間違ったことを教えないでよ!」
「そう来たか…。うんうん、でもなあ…。好き嫌い探しはしたいだろうが?」
 どうなんだ? と尋ねられたら否とは言えない。景色を見るのも良さそうだけれど、今の生まで引き摺ってしまった「好き嫌いの無い自分」を解き放ってやるのも楽しそうだった。
 ハーレイと二人で旅をして、それぞれの好き嫌いを何処かで見付け出す。好きな食べ物は何度も食べに出掛けてもいいし、自分たちの家で作れる料理ならハーレイに作って貰って食べる。
 食べ物も景色も、我儘を言ってかまわない旅。シャングリラでは決して叶わなかった我儘放題の旅に二人で出掛ける。前の生で行きたいと願った地球で。ハーレイが辿り着いた時には死に絶えた星だった地球が蘇り、二人して其処に生まれたのだから。
 ブルーはハーレイに「うん」と笑顔で返すと、未来の夢を言の葉に乗せた。
「うん、ハーレイ。…いつか行こうね、好き嫌い探し」
「ああ、行こう」
 ハーレイがコクリと大きく頷き、微笑みながら。
「二人で見付け出さなきゃな。俺たちがすっかり失くしてしまった好き嫌いってヤツを、何処かで必ず見付けよう。だから頑張って沢山食べろ」
 残ってるぞ、と褐色の指がブルーの皿のピラフを指差す。
 いいか、俺と二人で旅に出るには、結婚するのに相応しい背丈にきちんと育つトコからだ。
 大きくならんと始まらないしな、俺たちの旅は。
 万が一、お前がチビだった時は…。約束どおり貰ってはやるが、その前にまずは努力してくれ。




          好き嫌いを探しに・了


※食が細くても好き嫌いが無いブルー。前の生での記憶を引き摺っているみたいですね。
 ハーレイと一緒に食べ歩きの旅で見付けて欲しいものです、今ならではの好き嫌い。
 ←拍手してやろうという方は、こちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









PR

 ハーレイは寝室で風呂上がりの一杯を楽しんでいた。季節はそろそろ初夏だったから、喉越しのいい酒に氷を浮かべてゆったりと。ビールも好きだが、寝る前に飲むにはあまり向かない。今日は仕事が忙しかったし、早めに休もうと寝室での一杯と相成った。
(ブルーの家にも寄れなかったな…)
 小さな恋人の顔を思い浮かべる。平日でも時間が取れた時にはブルーの家を訪ねる習慣。だが、今週は対外試合を控えた柔道部の指導と仕事の両立で時間が取れずに週の半ばに至っていた。
(明日には寄ってやりたいんだが…)
 そのためには仕事の段取りをどうするか、と頭の中で計画を立てる。早めに出勤して仕事をしてから柔道部の朝練をするべきか。校門が開くのは何時だったか、家を何時に出ればいいのか。
(…確か六時には開いてる筈だな、すると五時半に起きて朝飯で…)
 今から寝れば睡眠時間は充分に取れる。もう一時間早く起きても平気なくらいに早い時間。
「よし、それでいくか」
 ブルーに会うためにも早く寝よう、とグラスの酒を一気に呷ろうとして。
「しまった…!」
 勢いをつけすぎた酒がグラスと唇の間から僅かに伝って、ポトリと一滴、滴り落ちた。真っ白なシーツに琥珀色の染み。ほんの一雫だが、白いシーツだけによく目立つ。
「………。ロクなことにならんな」
 つい、うっかり。
 寝室のソファとテーブルで飲めば良かったものを、風呂上がりにキッチンで注いで二階の寝室に持って上がって来たから、そのままベッドに腰掛けた。部屋に入ってすぐにドッカリと。
「しかしなあ…。ベッドで一杯も捨て難いしな?」
 まあいいか、と空になったグラスをテーブルに置くために立って、直ぐに戻った。琥珀色をした染みは気になるが、どうせシーツは洗う予定をしていたし…。その時にひと手間増えるだけだ。
「つい、うっかり……か」
 ベッドに入る前のひと時、染みを見ていたら思い出した。前の生でのブルーのことを。



 今のブルーよりも背が高く、顔立ちも大人のそれだったブルー。それは美しく、気高かった前の生での恋人。いつからか彼に心惹かれて、親しい友から想いを寄せる人へと変わった。その想いを胸に秘めておくべきか、打ち明けるべきか。
 既にソルジャーと呼ばれ、青の間を居としていたブルーはハーレイが独占出来る存在ではない。常にシャングリラ全体に思念を巡らせ、船を守っているブルー。全てのミュウを愛する彼を自分の欲で一人占めなど出来るわけがない…。
 そう考えたから、躊躇した。募る想いを打ち明けたとしても、ブルーは困惑するだろうから。
 けれども、ふとしたブルーの仕草。ハーレイと二人きりの時しか見せない、その表情。自分だけでは無かったのだ、と気付いた時、どれほど嬉しかったか。ブルーも同じ思いなのだ、と。
 それからゆっくりと時間をかけてブルーの想いを確かめ、ようやく優しいキスを交わした。その日から恋人同士となって、少しずつ想いを深めていって。
 青の間でブルーと結ばれた時は、もうお互いに溢れる想いが止まらなかった。想いのままに腕を絡めて、求め合って。…そうして二人、抱き合ったままで眠ったのだけれど。
 次の日の朝、ブルーよりも先に目覚めたハーレイは身体を起こすなり絶句した。
(……これはあまりに……)
 全身から血の気が引いてゆく。まだ眠っているブルーの身体の下のシーツは酷く乱れて皺だらけだった。もちろんハーレイの下に広がるシーツも。
 しかも恐らく、皺だけで済みはしないだろう。愛し合うことに夢中で何も考えてはいなかった。自分もブルーも何度達したのか覚えていないし、その後始末などは頭に無かった。
(…ま、まずい…)
 ブルーの身体を傷つけたりはしていないと思う。苦痛を与えないように注意したから、血の色の染みは無いとは思う。しかし血の染みは無かったとしても、自分とブルーが放ったものは…。
 その跡は隠しようがない。ブルーのベッドで何があったか、係の者に知られてしまう。ブルーの相手が自分だとまでは知れないとしても、ブルーが誰かと愛を交わしていたことは。
(最悪だ……)
 ソルジャーとして誰もが敬うブルー。そのブルーを自分が引き摺り落とした。誰よりも気高く、凛として高みに立っていたブルーを、恋に溺れる「ただの人」にまで落としてしてしまった…。



 激しい後悔に苛まれ、暗澹たる気分で瞑目していたハーレイの耳に「どうしたの?」と柔らかな声がかかった。目を開けばブルーが横たわったままで見上げている。まだうっとりと酔いを残した瞳で、甘やかな笑みを湛えた唇で。
「…ブルー…」
 言えない。この愛しい人にはとても言えない、とハーレイは起こしていた身体を沈めてブルーを強く抱き締めた。何としてでもブルーを守る、と思ったけれども、どうすれば良いのか。この船の備品は自分の権限で動かせるものの、誰にも見られずにシーツを処分する方法などは…。
「…ハーレイ?」
 言葉にせずとも不安は伝わる。目覚めてから暫くはハーレイに甘え、その胸に身体を擦り寄せていたブルーが半身を起こし、ハーレイの不安の元を探った。ベッドに何かがあるのだ、と。
「あっ…!」
 ハーレイと同じものを其処に見たのだろう。ブルーも言葉を失っていたが、どうしようもない。
「…すみません、ブルー。私が…、私が注意するべきでした…」
 申し訳ありません、とハーレイは身体を起こして詫びた。
「直ぐにシーツを取り替えます。…係の者が替えに来る前に洗いに出せば分からないかと…。青の間の分のシーツのデータは私が何とか誤魔化しますから」
 船長の権限で書き換えられないことはなかった。不審に思う者があってもデータが無ければ思い違いで済むだろう。それしかない、と考えたのだが。
「…大丈夫」
 ブルーが白い指でシーツをそうっと撫でた。
「大丈夫だよ、ハーレイ、こんなものは…ね。こうしてしまえば」
 一瞬、青い光がベッドを覆って、消えた後には染み一つ無い真っ白なシーツ。激しく乱れて皺が寄った跡も何ひとつとして無い、いつもの通りのブルーのベッド。
「……魔法ですか?」
 思わず口をついて出たハーレイの言葉に、ブルーが「まあね」と微笑んでみせる。
「ベッドメイクは見慣れているから、その通りにしてみたんだけれど…。新しいシーツに替えて、前のは洗濯。もう水の中に浸けてあるから誰も汚れに気が付かないよ」
「…で、ですが…。係の者には、いったい何と?」
「多分、ぼくには訊かないだろうと思うけど…。もしも訊かれたら、水を零したと言っておくよ」
 自分が汚したシーツの始末は自分でしないと。ソルジャーでもね、とブルーは笑った。
 誰よりも強いサイオンを持ったブルーにとっては、シーツの入れ替えはほんの一瞬。ハーレイの目には魔法に見えたそれが、青の間で何度繰り返されたことだろう。たまに訊く者が出てくる度にブルーが答えた「水を零した」。その言い訳はいつしか定番になった。



 誰も気付かなかった青の間での秘めごと。初めて二人で過ごした翌朝の小さな事件が二人の間で笑い話になった頃には、ハーレイの部屋でも逢瀬を重ねた。
 キャプテンであるハーレイの部屋もまた、青の間同様、専属の者がベッドメイクをするのが常。此処でもブルーが乱れたシーツをサイオンで取り替え、新しいものを用意した。その手際良さに、ハーレイは目を瞠ったものだ。
「あなたのベッドなら慣れておられるのも分かりますが…。私の部屋のベッドメイクなど、いつの間にご覧になったのです?」
 暇潰しに覗いていたのだろうか、とハーレイは不思議に思ったのだが。
「これかい? 此処のベッドが覚えてるんだよ、どうするのかをね」
「ベッドが…ですか?」
「正確に言えば、係の残留思念かな? こう引っ張って、こっちをこう、と緊張している気持ちがよく分かる。キャプテンの部屋で失礼が無いよう、若いクルーは必死なんだね」
 キャプテンはとても怖いものね、とブルーが赤い瞳を煌めかせてハーレイの眉間に触れた。
「ほら、此処に皺。これを見るだけでも怖いってね」
「そんなことは…!」
「分かっているよ。君は怒鳴りも怒りもしない、って。…だから余計に尊敬される。若いクルーの憧れなんだよ、キャプテンは。そのキャプテンのお部屋係だ、頑張らないと」
 それで、とブルーは小首を傾げた。
「憧れのキャプテンのシーツを取り替えに来てくれた子に、何と言い訳するんだい? 自分で取り替えなければならなくなった不始末とやらは何にするわけ?」
「…私の場合は、水と言うより酒でしょうか…」
 ハーレイは苦笑しながら答えた。
「水を零した、は使用中だと仰るのでしょう? ならば酒しか思い付きません」
「ぼく専用の言い訳だからと独占する気は無いけれど…。オリジナリティは大切かもね。ぼくだと水で、君だとお酒。うん、お酒を零したと言っておいてよ」
 こうしてハーレイの部屋での逢瀬の後は「酒を零した」がハーレイの決まり文句となった。係のクルーは素直に信じて、中には零して減った酒の心配をした者までがあったほどで。
 そんな調子だから、ハーレイはたまにブルーをこう誘った。「酒を零しに来ませんか?」と。
 ブルーは酒に弱くて苦手だったけれど、いつも艶めいた笑みを返して酒を零しに訪れた。肝心の酒は飲みもしないで、ハーレイとの逢瀬に酔いしれるために…。



「本当に零しちまったな…」
 あれから長い長い時を飛び越え、辿り着いた地球でハーレイは呟く。「酒を零した」と言い訳をしていたキャプテンの部屋は今はもう無い。流れ去った時が白いシャングリラごと連れ去った。
 そのシャングリラで辿り着いた地球も、あの時の死に絶えた星ではない。
 青い水の星として蘇った地球。其処に自分は還って来た。死の星だった地球の地の底で息絶えた身体の代わりに今の身体を得て、新しい生を手に入れて。
 同じ地球の上に、今の自分が住む同じ町に、ブルーも生まれ変わって来た。メギドで失った命の代わりに新しい生を得、十四歳の少年として生きている。前よりも幼く、小さなブルー。ブルーに会いにゆくのだった、と思い出す。
 考えごとをしていた間に時が経ったかと時計を見たが、さほど時間は流れていない。テーブルの上の酒のグラスもまだ乾いてはいなかった。飲めるほどには残っていないが、グラスの底に残った液体。シーツに小さな染みくらいなら作れるかもしれない、ほんの僅かな量の酒。
 その酒のお仲間がシーツに拵えた染みを見ながら、ハーレイはフッと笑みを零した。
「…酒を零してくれるどころか、水も零せはしないんだがな…。今のあいつは」
 十四歳の小さなブルー。恋人なのだと主張しはしても、あまりに幼い身体のブルー。ハーレイと結ばれる日を夢見てはいるが、身体も心も幼すぎてどうにも話にならない。
「あいつが酒を零してくれる代わりに、俺が零してしまったか…。まだまだ待てと言われたようで縁起でもないが、ゆっくり育って欲しいからなあ…」
 前世のブルーが失くしてしまった幼い時代の幸せな記憶。ブルーにはそれを取り戻して欲しい。前の分を補ってなお余りある幸福な時間を過ごして欲しい。そのためならば何十年でも待てる、と思っているのだけれど。
「はてさて、あいつが酒だの水だの、零してくれるのはいつのことやら…」
 前の生での誘い文句をブルーは覚えているのだろうか?
 小さなブルーに「俺の家へ酒を零しに来ないか?」と言おうものなら、「行ってもいいの?」と喜びそうだ。その意味すらも考えはせずに、遊びに来ていいと許可を貰ったと歓声を上げて。
(…酒を零して遊ぶというのは、いったいどういう状況だろうな?)
 サッパリ分からん、と小さなブルーが考えそうな中身を想像してみる。スポーツ選手が祝賀会でやるシャンパンシャワー。その手のものしか思い付かない。学生時代に何度かやったが、なかなか高揚するものではある。ブルーに浴びせたら喜ぶだろうか?
(はしゃぎそうだが、酒は零してくれんしなあ…)
 ずぶ濡れになったブルーの姿はハーレイの心臓に悪そうだ。シャツがうっかり透けたりしたなら理性が危うくなってくる。これ以上はもう考えるな、とハーレイは自分にストップをかけた。



 年相応に無垢で愛らしい小さなブルー。無邪気な笑顔を思い浮かべれば邪心を抱ける筈もない。前の生では同じ姿でも一人前の戦士だったし、サイオンも比類ない強さだったけれど。
「…今のあいつには出来そうもないな、零す以前の問題だな」
 シーツに出来てしまった琥珀色の染みを指先でつつく。
 水や酒を零したと言い訳をしては、一瞬の内にシーツを取り替えた前世のブルー。魔法のように見えたその技を今のブルーは持ってはいない。瞬間移動が出来ないのだから、その応用とも言える例の魔法を使うことなど無理なのだ。
「あいつが自分のベッドに水を零したら、まずはママだな」
 大慌てで駆けてゆく姿は想像するのに難くない。「ママ、零しちゃった!」と叫びながら部屋を飛び出し、転がるように階段を下りて母の所へと一直線に。
 サイオンの扱いに長けるどころか、不器用かもしれない小さなブルー。それもまたハーレイには嬉しかった。ブルーが力を伸ばさなくてもいい世界だという証明だから。
(…そんなあいつが、あれを見たなら…)
 クックッとハーレイは笑い始めた。
 青の間で初めて二人一緒に過ごして、翌朝、愕然と眺めたベッド。前の生のブルーはソルジャーならではの冷静さと技で対処し、微笑んでさえいたのだけれど。
(あいつは間違いなくパニックだな)
 そう、あのベッドを見せられたならば小さなブルーはパニックだろう。どうしてベッドがそんな状態に陥ったのかも分かりはしないに違いない。そう考えると可笑しくなる。
 何かと言えば「本物の恋人同士になりたい」と口にする小さなブルー。ハーレイに向かって何度「キスしていいよ?」と誘ってきたかも数え切れないくらいだったが、中身は正真正銘の子供。
(うんうん、あいつは覚えていないぞ、肝心のことは)
 そうに違いない、とハーレイは思う。
 前世の記憶を全て思い出した、とブルーは言うし、実際、記憶は持っているらしい。だからこそ本物の恋人同士になれる日を待ち焦がれ、早く育ちたいと願うのだが…。
(本当に色っぽい記憶となったら抜け落ちているか、ぼやけているかだ)
 現に誘われたことがない。あの懐かしい誘い文句をブルーから聞いたことがない。
 ハーレイの部屋に行きたいと強請る代わりに、前世のブルーが笑みを浮かべて囁いた言葉。
 桜色の唇が歌うように紡いでいた言葉。
「ハーレイ? 最近、お酒を切らしているようだけど?」と。
 滅多に誘われなかったからこそ覚えている。普段は自分が誘っていたから。
 そう、彼の人から誘われる前に「酒を零しに来ませんか?」と。



 今のハーレイの家に、ブルーは遊びに来られない。ハーレイ自身がそう決めた。それをブルーはきちんと守って、ハーレイの方から訪ねて来るのを待っている。
 ハーレイの家に来たい筈なのに、前世での口実の酒を持ち出さないブルー。
 まだ十四歳の小さな子供で、法律でも酒は飲めないブルー。
 小さな身体と無垢で幼い心に合わせて、記憶もきっとぼやけるのだろう。背伸びしている子供と同じで大人びたことを口にしてはいても、ブルーは何も分かってはいない。
(…あのベッドだって確実に忘れているな)
 前の生で初めての朝を迎えたベッド。
 小さなブルーに、そういう記憶は、きっと、無い。
 それでもブルーが愛おしい。この地球の上で巡り会えたブルーが愛おしい…。
「…寝るか、明日はあいつの家まで行ってやらんとな」
 ついでに少しからかってみるか、とハーレイはシーツに残った琥珀色の染みに視線を落とす。
 懐かしい誘い文句を忘れたであろう小さなブルー。
 ハーレイが「昨夜、うっかり酒を零してな」と白状したなら、何と答えを返すだろう?
 「酔っ払ったの?」か、それとも「もったいないよ」か。
 どちらにしても、前の生のブルーの艶やかな笑みと言葉は返らない。
 「それじゃ今夜はぼくが行くよ」と微笑んだブルー。
 あの頃のブルーとそっくり同じに育ったブルーを手に出来る日はまだ遠いけれど。
(…うん、今のあいつも可愛らしいんだ)
 待っていろよ、とハーレイはベッドにもぐり込んだ。
 明日はお前の家に行くから、と……。




           言い訳の雫・了


※前のハーレイとブルーの秘めごと。小さなブルーは覚えていない、前の自分の誘い文句。
 今度は言い訳の要らない二人ですけど、二人きりで過ごせる夜はまだ遠いようです…。
 ←拍手してやろう、という方はこちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






 夏休みのある日。今日はハーレイは午前中に柔道部の指導があるから、ブルーの家を訪ねて来るのは午後になる。ブルーは母と昼食を食べて、二階に戻ろうとしたのだけれど。
「ブルー。それ、ママの部屋に持って行ってくれるかしら?」
 母が紙袋を指差した。綺麗な色と模様の紙袋。
「うんっ!」
「ドレッサーの所に置いてくれればいいから」
「分かった!」
 化粧品の類なのだろう。小さな紙袋を提げたブルーは足取りも軽く階段を上り、母の部屋の扉を開けて入って、ドレッサーの前に袋を置いて。
(ママの部屋かあ…)
 この部屋に母のベッドは置いてあるのだが、恐らく母は使っていない。隣の父の部屋に置かれた大きなベッドが多分、二人用。幼い頃にはブルーも其処で何度も両親と一緒に眠っていた。今なら二人用のベッドの意味が良く分かる。
(…ぼくとハーレイ、いつになったら一緒のベッドで寝られるのかな…)
 出会った時の百五十センチから伸びない背丈。前世の自分と同じ背丈にならない限りはキスさえ許して貰えない。同じベッドなんて夢のまた夢、いつになるやら見当もつかず。
(…早く結婚したいんだけど…)
 母の部屋に飾られた結婚式の写真。今よりも若い両親が幸せそうな笑顔で写っている。ブルーはそれを羨ましそうに眺めながら。
(ぼくって、ドレスを着るのかな? 二人ともタキシードなんて変だよね?)
 並んで立っている分にはかまわないけれど、これは流石に可笑しいと思う。母を両腕でしっかり抱き上げて立つ父と、その腕の中で笑顔の母と。結婚写真の定番の一つ。このポーズでハーレイがタキシードのブルーを抱いていたなら、さながらコメディ。
(やっぱりドレスしか無さそうだよね…)
 こういう写真は撮りたいもの、と両親の写真を目に焼き付けてブルーは自分の部屋に戻った。



(ドレスかあ…)
 生まれてこの方、ドレスなんかは着たこともない。学校はずっと共学だったし、いくらブルーが可愛らしくても演劇などで女の子の役は回って来ない。小さい頃に「女の子?」と訊かれたことは多かったけれど、ちゃんとズボンを履いていた。
(でも、あの写真を撮りたかったらドレスだよね…)
 ドレスというものの着心地どころか、どうやって着るのかも分からなかった。その辺りはプロにお任せとしても、ああいった服で上手に歩くことが出来るのだろうか?
(踏んづけて転んじゃったりして…)
 それは非常に格好が悪い。かと言って最初からハーレイに抱いて歩いて貰うのも…。
(思い切りルール違反だよね?)
 結婚式が終わるまでは自分の足で歩いてゆくしかない筈だ。これは困った、とドレスの長い裾をどう捌くべきか悩み始めたブルーだったが。
「…あれ?」
 そういえば、と思考が別の方向へ向いた。
「ぼく、一回もハーレイに抱っこして貰ってないよ…」
 ドレス姿でないと似合いそうにない結婚式の写真の定番、新郎の両腕に抱かれた花嫁。
 前の生ではハーレイと結婚こそ出来なかったけれど、ああいう風に抱き上げられたことは何度もあった。ハーレイの逞しい腕に抱えられて運んで貰った。
 なのにハーレイと再会してから、そんな経験は一度も無い。ハーレイはブルーを胸に抱き締めてくれるけれども、あんな風に抱き上げて貰ったことは無い。
(…お姫様抱っこって言うんだっけ…)
 シャングリラに居た頃、若いミュウたちがそう呼んでいた。ハーレイに「お姫様抱っこだね」と言ったら「あなたは私のお姫様ですから」と真顔で返され、二人して大笑いしたものだ。ブルーは実はソルジャーではなく、シャングリラのお姫様だったのか、と。
(あれも大きくなるまでダメなの?)
 キスと同じでお預けだろうか、と考えたけれど、お預けにされる理由が思い当たらない。唇へのキスは大人のものかもしれなかったが、両腕でヒョイと抱き上げるくらい…。
(パパだって抱っこしてくれるよ、うん)
 ブルーが熱を出した時など、父が抱えてベッドに運んでくれたりする。ということは、特に問題なさそうだ。一度ハーレイに頼んでみよう、と決心した。そう、今日ハーレイが来たら、早速。



 間もなくハーレイが訪ねて来てくれ、母が部屋まで案内してきた。母はアイスティーとお菓子をテーブルに置いて階下へと去り、ブルーは勇んで切り出してみる。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「お姫様抱っこはかまわないよね?」
「はあ?」
 ハーレイがポカンと口を開けた。それにかまわず、ブルーは続ける。
「お姫様抱っこ! まだ一回もして貰ってないよ」
「…お姫様抱っこって…。アレか、俺がお前を抱き上げるヤツか?」
「そう! パパもしてくれるし、お姫様抱っこはダメじゃないよね、キスと違って」
 期待に満ちた瞳でハーレイを見詰め、「お願い!」とペコリと頭を下げた。
「ちょっとでいいから抱っこしてみてよ」
「……全く必要無いと思うが」
 つれない返事にブルーは「なんで?」と目を見開いた。
「ぼくがお願いしているんだから、必要はあると思うけど…」
「無いな」
「どうして? 前は抱っこしてくれてたよ? それに前よりずっと軽いよ」
 ぼくの体重、と自分の小さな身体を指差す。
「今の方がずっと軽いのに…。持ち上げやすいのに、なんでダメなの?」
「前より軽いのは知っているさ。俺の膝の上に乗っかっていても軽いからな」
「だったら、どうして! 重くないのに! ちょっとでいいから!」
 ほんの少し歩いてくれるだけでいいのだ、とブルーは強請った。けれどハーレイは「駄目だ」の一点張りで、立ち上がる気配も見せてくれない。
「ハーレイのケチ!」
「ケチでかまわん。とにかく俺はやる気はない」
「…ちょっとだけでも?」
「そのちょっとで、だ。お前は何処へ行くつもりなんだ」
 鳶色の瞳がブルーの瞳を真正面から覗き込んだ。
「俺がお前を運んでいた先は、ベッド以外に無かった筈だぞ」
「えっ…?」
 思いもよらない言葉に暫し考え込み、遠い記憶を探ってみる。お姫様抱っこで連れて行って貰う先には、本当にベッドしか無かっただろうか?



 前の生で何度も抱き上げてくれたハーレイの腕。頑丈だった腕の逞しさと力強さを覚えている。今よりも重かったブルーの身体を軽々と抱き上げ、危なげもなく運んでくれた。ふわりと宙に浮く感覚。自分のサイオンで浮き上がるのとは全く違った心地よさ。
「…ベッドだけってこと、ないと思うけど…」
 それならば青の間かハーレイの部屋での記憶だけしか無い筈だ。ブルーの記憶が違うと告げる。シャングリラの長い通路やブリッジ、公園なども覚えていた。何処でもハーレイの腕にしっかりと抱かれて周りを見たり、高い天井を見上げたり…。
「ハーレイ、絶対、間違ってるよ! 通路も公園もそれで歩いた!」
「いや、間違えているのはお前だ。俺はお前をベッドにしか運んでいないんだが?」
「そんなことない!」
 通路はともかく、ブリッジや公園にベッドは無い。百歩譲って通路の方なら行き先がメディカルルームのベッドということもあっただろうが…。
 懸命に言い募るブルーだったが、ハーレイは「お前が忘れているだけだ」と譲らない。
「俺がお前を運ぶ時には行き先はベッドだ、間違いはない」
「でも…! ブリッジと公園にベッドは無いよ!」
「ああ、ブリッジと公園にはな。せいぜい休憩用の椅子くらいだな」
「だったら、なんで!」
 ハーレイの記憶違いか、お姫様抱っこをしたくないがゆえの逃げ口上か。どちらかだとブルーは思ったのだが、ハーレイがフウと溜息をつく。
「…覚えてないのも無理ないかもな。俺が目的地に着いた頃には、お前、大抵、寝ていたからな」
「寝てた…?」
 そんな記憶は全く無かった。ハーレイの腕に抱かれて移動するシャングリラの通路や公園などは気持ち良かったし、眠ってしまうわけがないのに…。
「ぼくは寝ないよ、せっかくハーレイがぼくを運んでくれているのに」
「その気が無くても寝てるんだ。…俺はお前が倒れた時しか、外でお前を運んではいない。お前、冷静に考えてみろよ? それ以外で俺がお前を運んでいたなら、周りに何と言い訳するんだ」
「あっ…!」
 そう言われればその通りだった。前の生では身も心も結ばれた本物の恋人同士だったけれども、周囲にはそれを隠し通した。ハーレイが理由も無くブルーを抱き上げて運んで歩けば、当然、仲を疑われる。ということは、自分の記憶が抜けているだけで…。
「分かったか? お前は運ぶ途中で寝ちまっただけだ。行き先はベッドだったんだ」
 ハーレイの指摘に反論出来ない。お姫様抱っこで辿り着く先は本当にベッドだったのだ。



「…思い出したか? つまりだ、俺に今のお前を運ぶ理由は無いわけだ」
 お前はピンピンしてるんだから、と鳶色の瞳に笑みの色が浮かぶ。
「気分が悪いわけでもないし、倒れちまったわけでもない。…ついでに、そういう理由以外で俺がお前をベッドに運ぶには早過ぎるしな」
「嘘……」
 あの懐かしい浮遊感を味わえないなんて。今のブルーの身体だったらヒョイと抱き上げて何処へでも運んで貰えそうなのに、行き先はベッド限定だなんて…。
「じゃ、じゃあ…。じゃあ、ハーレイ…」
 ブルーは一縷の望みを託して尋ねてみた。
「もしも学校でぼくが倒れて動けなかったら、運んでくれる?」
「………。それはお姫様抱っこでか?」
「うん。それならいいよね、保健室まで」
 保健室ならば行き先はベッド。いつもは保健委員のクラスメイトや担任に連れられて行っているけれど、ブルーはヨロヨロ歩いてゆくか、あるいは車椅子で運ばれるか。しかしハーレイが倒れた現場に行き合わせたなら、抱き上げて運んでくれるだろう。それだけの力は充分にあるし…。
「お前を保健室までか?」
「そうだよ、保健室のベッドに運んで欲しいんだけど」
 倒れたからには気分は相当に悪いのだろうが、ハーレイの腕で運ばれるのなら悪くない。途中で意識を失くしたとしても、お姫様抱っこをして貰える。ほんの一瞬のことであっても、胸に幸せな記憶が残る。今の生でのお姫様抱っこ。
 赤い瞳をキラキラと輝かせるブルーの姿に、ハーレイは「お前なあ…」と苦笑いをした。
「…その運び方は、普通は嫌がるモンなんだが?」
「そうなの?」
 ブルーは驚いて目を丸くした。あんなに気持ちのいい運ばれ方は無いと思うのに、嫌がるなんて信じられない。クラスメイトの肩を借りて重い足を引き摺って歩くより、ぐらぐらと揺れる身体を車椅子に委ねて運ばれてゆくより、ずっと、ずっと楽で気持ちが良くて…。
 顔いっぱいに「信じられない」気持ちが溢れるブルー。けれどハーレイがプッと吹き出す。
「まあ、女の子なら大喜びだな、なにしろお姫様抱っこだからな? しかしだ、男は全く違うぞ。何処の学校でも俺のクラブのヤツらにとっては罰ゲーム的な扱いだったが」
 注意を守らずに怪我をした生徒をアレで運ぶ、とハーレイは言った。
「やめて下さいと叫んでいようが、知ったことではないからな。下ろして下さいと泣きの涙が定番なんだが、俺は下ろさん。それが究極の罰ってヤツだ」



 男子たるもの、お姫様抱っこで運ばれるなどは屈辱の極み。それがハーレイが顧問を務めてきた柔道部や水泳部の生徒の共通の認識なのだという。自分が注意を守らなかったがゆえに怪我をし、その見せしめとして校内引き回しの刑を食らうのだ、と。
 ブルーは心底、驚いた。ハーレイに抱き上げられて運ばれることを嫌がる者がいるなんて…。
「じゃあ、どうやって運んでいるの? そういう罰にならない時は?」
 きちんと注意を払っていても怪我をすることは少なくない。体育の時間は苦手だけれども、その体育で何度も見て来た。転んだり、誰かと接触したりして怪我をした子を。
 不幸にして怪我をしてしまったハーレイの教え子はどうなるのだろう? ブルーが抱いた素朴な疑問に、ハーレイは「ああ」と事も無げに答えた。
「もちろん、背負うさ」
「背負う!?」
 ハーレイの広い背中だったら、体格のいい生徒であっても背負えるだろう。そして…。
「ぼく、一回もやったことない!」
 ブルーはハーレイの広い背中に背負って貰ったことが無かった。今の生でも一度も無いし、前の生でも経験が無い。あんなに大きな背中なのに。がっしりとした肩幅が頼もしいのに…。
 自分は如何に美味しい思いをし損ねたのか、という気がした。お姫様抱っこも素敵だけれども、背中だってきっと気持ちいい。ハーレイの温もりを感じながら揺られて、支えられて。
 むくむくと湧き上がって来る背中への憧れ。ハーレイの背中に背負われてみたい。
「それ、やって欲しい! 背負って欲しいよ!」
 前の時にもやってないもの、とブルーがせがむと「前は必要無かったろうが」と返された。
「お前は大きくても軽かったしな? 様子を見ながら運ぶ分には抱いた方がいい」
「でも…!」
「お前も背負えと言わなかったぞ、抱っこで満足してたんだろうが」
「……うーっ……」
 言い返そうにも、前の生で背負って欲しいと思ったことが無いのは事実。ハーレイが他の誰かを背負って歩いていたなら思い付いたろうが、生憎と一度も目にしなかった。それでも背中に向いてしまった目は「それもやりたい」とブルーの心をかき立てる。あの広い背中に背負われたいと。
 そう、今度の生では背負って欲しい。お姫様抱っこもやって欲しいし、温かな背中も感じたい。どちらも家では無理そうだけれど、もしも学校で倒れたならば…。



「ハーレイ、背負うか、抱っこか、どっちか!」
 どっちでもいいから、とブルーは強請った。学校の中で倒れていたなら運んで欲しいと。
「分かった、分かった。…いつかその辺で倒れてたらな」
 行き先がベッドだったら運んでやる、とハーレイがパチンと片目を瞑る。
「ただしあくまで学校で、だぞ。この家の中なら運ぶまでもないしな、ベッドは其処だ」
 担ぎ上げたらゴールインだ、と笑うハーレイに、ブルーは「学校でいいよ」と頷く。
「学校でいいから、どっちか、お願い」
「よしきた、俺に任せておけ。…いやはや、今から楽しみだな? どんな噂が立つやらなあ…」
「噂?」
「お前の噂さ、お姫様抱っこで運ばれてったら不名誉だぞ! 一生モノの男の恥だ」
 女の子にも何と言われるやらなあ、とハーレイは可笑しくてたまらないという様子で笑った。
「俺とお前が恋人同士なんていう嬉しい噂はまず立たないさ。お前に笑える名前がつくのが見えるようだな、ブルーちゃんとか」
「ブルーちゃん!?」
「お姫様だぞ、女の子の名前は「ちゃん」づけだろうが」
「…そ、それは……」
 小さな頃には「ブルーちゃん」だった。よく女の子と間違えられていた頃は、お隣のおばさんや郵便配達のおじさんたちにそう呼ばれていたし、ブルー自身も気にしなかった。それがいつからか「ブルー君」に代わり、成長した気になっていたのに「ブルーちゃん」だとは…。
「嫌だよ、ブルーちゃんなんて! 学校で抱っこは要らないよ!」
「なんでだ、して欲しかったんだろう?」
 遠慮するな、と胸を叩いてみせるハーレイに「背負う方でいいよ!」とブルーは叫んだ。
「抱っこの方は我慢するから! 大きくなるまで!」
 そうは言ったものの、少し寂しい。して欲しかったお姫様抱っこ。ハーレイの腕に身体を預けて運ばれる時の例えようもない充足感と心地よさは当分、今の身体では味わえない。
 俯いてしまったブルーの頭をハーレイの手がクシャリと撫でた。
「…分かってるさ、お前の気持ちはな。だがな、今はまだ応えてやれないんだ」
 すまん、と真摯な瞳で謝るハーレイ。さっきまでの笑いが嘘だったように。
「…ハーレイ…?」
「いつかお前が大きくなったら、ちゃんとベッドまで連れてってやる。…意味は分かるな?」
「…うん…」
 ブルーの頬が真っ赤に染まった。いつか望みが叶う時には、自分は、きっと…。



 今は叶わないらしい、お姫様抱っこ。
 けれどブルーには今の生での目標が出来た。前の生では思いもしなかったハーレイの背中。その広い背中に背負って貰って移動すること。
「ねえ、ハーレイ? 背負って貰う方なら学校でやってくれるんだよね?」
「お前の家だとベッドに担ぎ上げて終わりだからなあ、まあ、学校しか無いだろうな」
 だが、とハーレイはブルーの額を指先で弾く。
「それを狙って無理して学校へ来るのは無しだ。お前が寝込む姿は見たくないんだ」
「…だけど…」
「でも、も、だけど、も聞きたくはないな」
 病気になって辛い思いをするのも、苦しくなるのも、お前だろうが。
 背負ってやるのは何でもないが、その前に、お前。行き倒れるなよ、学校で……な。
 しっかり食べて、丈夫になれ。
「……うん……」
 それがハーレイの心からの望みで、ブルーの身体を気遣っての言葉なのだと分かったから。
 ブルーはコクリと頷いた。
 学校で倒れないようにしたい。ハーレイに心配させたくはない。
(…でも……)
 同じ倒れるならハーレイの前で、と子供ならではの欲張り心も顔を出す。
 お姫様抱っこは当分無理でも、ハーレイの背中。其処に背負って貰えるのならば、保健室行きも気にしない。倒れて、寝込んで、学校を休んでしまったとしても…。
(それにハーレイのスープもつくしね)
 ブルーが寝込んだ時には大抵、ハーレイが家まで作りに来てくれる。
 前の生でブルーのためだけに作ってくれていた野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴で優しい味わいのスープ。
 広い背中に背負って貰って、あの懐かしい味のスープが飲めるなら…。
(うん、それだけでとっても幸せだよね)
 ふふっ、とブルーは微笑んだ。ハーレイに心配させたくはないのだけれども、心配してかまって欲しいとも思う。いつか一緒に暮らせるようになるまでの間は、そのくらい…。
(いいよね、ちょっとくらいはね…)
 ねえ、ハーレイ?
 ちょっとくらい我儘を言ってもいいよね、ぼくはハーレイの恋人だから…。




            ぼくを運んで・了


※今はして貰えない、お姫様抱っこ。流石に色々無理がありすぎますね、これは。
 今度は背負って欲しくなったようですが、子供ならではの我儘全開かも…。
 ←拍手して下さる方がおられましたらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






「ハーレイの家、楽しかったのに…」
 ブルーは自分のベッドの上で膝を抱えて蹲っていた。今日は初めてハーレイの家に招かれ、母が焼いてくれたパウンドケーキを手土産に提げて出掛けて行った。家の中をぐるりと一周して見せて貰ったり、ハーレイが作ってくれたシチューなども食べた。
 それは楽しい時間を過ごして、明日も行きたいと思ったのに。今日は土曜日だから明日は日曜、ハーレイが家に来てくれる予定だったし、代わりに自分が訪ねて行きたいと思ったのに。
「…もうハーレイの家に行けないだなんて…」
 ブルーの表情が年相応ではなかったから、と大きくなるまで来てはいけないと言われてしまって次の機会は無くなった。ハーレイにバス停まで送って貰う時から、もう悲しくてたまらなかった。
 バスが来て、ハーレイと別れて乗って。手を振っているハーレイの姿が遠くに見えなくなったら涙が零れた。そのまま泣き出しそうになるのをグッと堪えて我慢した。
 ハーレイの家には行けなくなってしまったけれども、それは小さい間だけ。いつか身体が大きくなったら呼んで貰えるのだし、その時はいつかやって来る。ほんの数年待つだけなのだし、何より自分は前の生より幸せだから…。
 懸命に自分にそう言い聞かせて、「今日はとっても楽しかったよ」と両親に告げた。
 夕食の席ではハーレイの家での出来事を笑顔で二人に話して聞かせた。素敵な時間をたっぷりと味わって来たことは事実だったし、話したいことは山ほどあった。
 それでも自分の部屋に戻って、後は寝るだけになると寂しくなる。ハーレイが暮らしている家に明日も遊びに行きたかった、と悲しくなる。
(…でも、明日はハーレイが来てくれるから…。また会えるから…)
 前の生でメギドへ飛んだ時には明日など無かった。
 最後にハーレイの腕に触れた右の手。その手に残ったハーレイの温もりだけを抱いて逝くのだと覚悟して飛んだ。それなのにキースに撃たれた痛みが酷くて、大切な温もりを失くしてしまった。独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと泣きながら死んだ。
 あの時の絶望と悲しみを思えば、今の自分はどれほど幸せなことか。
 明日もハーレイに会うことが出来て、明後日も、その先のずっと先までも…。
 そしていつかはキスを交わして、本物の恋人同士になれる。結婚して共に歩んでゆく。
 ほんの少しの我慢なのだ、とブルーはベッドにもぐり込んで丸くなった。
(…今は一人だけど、大きくなったら…)
 いつかは一人で眠らなくてもいい日が来る。ハーレイの優しい腕に抱かれて眠れる日が来る。
 ハーレイの家に行けるくらいに大きくなったら、そうなる日もきっと近いのだ…。



 そんな思いで眠った次の日。約束通りハーレイが午前中からブルーを訪ねて来てくれた。普段と変わらない顔だったけれど、母がお茶とお菓子をテーブルに置いて部屋から出てゆくと…。
「ブルー、昨日はすまなかったな。…大丈夫か、あれから泣かなかったか?」
 ごめんな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「お前を呼んではやりたいんだが、色々と…な。本当にすまん」
「ううん、ぼくなら大丈夫。泣いていないよ」
 本当は帰りのバスで泣きかかったけれど、ブルーは笑顔で「平気」と答えた。ハーレイがホッとしたのが分かる。自分を心配してくれていたのだ、と感じて嬉しくなる。
(…本当のことを言わなくて良かった…)
 ハーレイを悲しませたくはなかったから。本当のことを告げたところで、ハーレイの家に呼んで貰えるわけではないと分かっていたから。そんな判断が出来る自分がちょっぴり誇らしく思えて、自慢したい気持ちになっていたら。
「そうだ、昨日の約束な」
 ハーレイが胸ポケットに手を突っ込んだ。
「約束?」
 昨日交わした約束と言えば、ハーレイの家へ二度と訪ねて行かないこと。もしかして誓約書でも作って持って来たのだろうか? そんな書類にサインしなくても、約束はちゃんと守るのに…。
(ぼくって、信用されてない?)
 少しガッカリしたのだけれど。
「ほら、ブルー。約束通り持って来てやったぞ」
 ハーレイがポケットから取り出したものは、折れ曲がらないように透明なケースに収めた一枚の写真。日だまりの床にチョコンと座った真っ白な可愛い猫の写真で。
「アルバムにあるか探しておくと言ってただろう? おふくろの猫だ」
「これ、ミーシャなの?」
「そうさ、お前に約束したから探してきたんだ。約束はきちんと守らないとな」
 お前もだぞ、と写真をテーブルに置きながらハーレイが微笑む。
「寂しいだろうが、大きくなるまで俺の家には絶対来るなよ。前とそっくりに大きくなったら、好きなだけ遊びに来ればいいから」
「うんっ!」
 ハーレイが約束を守ってくれたことが嬉しかった。ブルー自身はすっかり忘れてしまっていたというのに、写真を探して持って来てくれた。ほんの小さな約束をきちんと守ってくれたハーレイ。だから自分も応えなければ。ハーレイの家に行けないことは悲しいけれども、約束だから。



 テーブルの真ん中に置かれたミーシャの写真。ハーレイの家で聞いた話に出て来たとおりの白い猫。ハーレイが生まれるよりも前から、ハーレイの母が飼っていた猫。
「可愛い猫だね、ホントに真っ白」
「この頃で何歳くらいだったかなあ…。今のお前よりも年上の筈だが」
「ええっ?」
 ブルーは写真を覗き込んだ。そんな年にはとても見えない可愛らしい猫。
「お前より上には見えんだろう? それがミーシャの凄い所さ、おまけに甘えん坊だったしな? 俺の家に来た客はすっかり騙されていたもんだ。年寄り猫だとは誰も気付かん」
「それでおやつを貰えてたの?」
「可愛いですね、なんて言われてな。撫でて貰って、おやつ付きだ」
「そうなんだ…」
 写真の猫は確かに可愛い。道端で会ったらブルーだって声を掛けずにはいられないだろう。声を掛けて、そっと撫でてみて。甘えてくるなら抱き上げてみて…。
「ミーシャは本当に甘えん坊でな。その辺りはお前にそっくりだったな」
「ぼく?」
「甘えん坊な所がな。…俺の方が後に生まれて来たのに、俺が学校に行き始める頃にはミーシャに甘えられていたもんだ。自分よりでかくて抱っこしてくれれば甘えていいと思ったんだろうな」
 うん、本当にお前に似ている。
 ハーレイは向かい側に座ったブルーを見ながら目を細めた。
「前のお前は俺より年上だったしな? それなのに俺に甘えてばかりで、本当にミーシャそっくりだった。…ミーシャと違うのは俺にしか甘えて来なかったっていう所だな」
「……ソルジャーだったし……」
「それだけか? お前が一番年寄りだったからだろ、ゼルよりもな」
「…そうなのかも……」
 年長者としての遠慮も確かにあった。長老だけしかいない席では冗談なども飛び交っていたが、其処でもブルーは一番年上。砕けた口調で話しはしても、甘えた覚えは一度も無かった。
 前の生でブルーが甘えられた相手はハーレイだけ。アルタミラを脱出して間もない頃から甘えていたと記憶している。誰よりも頑丈で体格の良かったハーレイは、少年の姿で成長が止まっていたブルーを壊れ物のように扱い、何かと言えば「しっかり食べろ」と言っていたものだ。
 ブルーがソルジャーになってからはハーレイも敬語で話したけれども、それまではブルーを年下扱いするかのような言葉遣いが多かった…。



 懐かしく遠い過去へと思いを馳せていたら、ハーレイが「おい」と呼び掛けて来た。
「まさかお前、今度は狙って生まれて来たんじゃないだろうな?」
「えっ?」
「俺より小さく生まれて来ようと、わざと後から生まれなかったか?」
 怪しいぞ、と言われたブルーは「違うよ!」とムキになって反論した。
「そんなわけないよ、ぼくは小さすぎたから困ってるのに!」
 しかしハーレイは可笑しそうに笑う。
「そうか? 小さすぎなければ俺がデカイ方が良かったんじゃないのか、その辺の加減を間違えて生まれてしまっただけで」
 予定ではもっと早く生まれて、充分大きく育った姿で出会うつもりで…、と揶揄われると自信が無くなってきた。十四歳を迎えたらハーレイと出会う運命だったのだろう、とブルーは固く信じているのだけれど、もしかしたら、もっと大きく育った姿で再会するつもりだったかも…。
(…失敗しちゃった? 今のハーレイに出会う時にはもっと育ってる筈だった?)
 前の生での姿そっくりに育っていたなら、待ち時間などは必要無かった。出会って直ぐに本物の恋人同士になれたし、ハーレイの家に来てはいけないと言われることも無かった筈で…。
「……ぼく、計算を間違えちゃった…?」
 シュンとするブルーに、ハーレイが「いいじゃないか」と穏やかな笑みを浮かべて語る。
「たとえ計算ミスだとしても、俺はその方が嬉しいな。今度こそお前を守ってやれるし、俺の方が年上なんだから正真正銘、保護者になれる。教師と生徒じゃなくても、だ」
 自分がブルーを何処かへ連れて出掛けるのならば立場は保護者だ、とハーレイは言った。
「実際は何処にも連れてはやれんが、海でも山でも俺が保護者ということになる。遊園地でもな。そして今は保護者として出掛けられない代わりに、将来は俺がお前の保護者になるんだろう?」
 お前のお父さんとお母さんに代わって、お前をしっかり守らないとな。
 軽く片目を瞑るハーレイに、ブルーの頬が赤く染まった。いつかハーレイと一緒に暮らす時にはハーレイが保護者。保護者と呼ぶのかどうかはともかく、ブルーは守られる立場なのだ。



 小さすぎたのは失敗だけれど、ハーレイに守って貰える立場だと思うと嬉しい。前の生でもそうだったのだが、あの頃はハーレイの方が年下。その事実を思い出す度に心配になった。ハーレイは優しくしてくれるけれど、何処かで無理をしてはいないか、と。
(今度は心配しなくていいんだ…。ハーレイ、ホントにぼくより大きいんだもの)
 ハーレイは今のブルーよりもずっと年上。倍以上も年が離れている。だから甘えても可笑しくはないし、ハーレイにもうんと余裕がある。そういったことを考えていたら、尋ねられた。
「ブルー、お前はどうなんだ? 俺よりも早く生まれていた方が良かったか? 姿は前と同じだとしても、今の姿の俺に出会うには、お前、三十七歳以上でないとな」
 俺は三十七歳だから、とハーレイは自分を指差した。
「…そっか、ハーレイよりも年上だったら三十七歳以上になるんだ…」
 ブルーは赤い瞳を丸くした。
 自分の外見の年は前の姿で止めているにしても、三十七歳のハーレイに会うには自分の年はそれ以上でないといけない計算になってくる。
(んーと…。一歳だけ年上でも今で三十八歳なわけ? ぼくは十四歳だから、今の年に二十四年も足すの? そんなに足さなきゃいけないの?)
 今の生では十四年しか生きていないが、前の生での記憶があるから二十四年という歳月の長さは見当がつく。それだけでも長すぎると思えてくるのに、ハーレイと出会うまでには三十八年という年数が必要なわけで、最小限の年齢差でさえ三十八年。
(…前と同じくらいに年上だったら…)
 想像するのも恐ろしかった。そんなに長い間、一人で待てない。ハーレイに会えずに一人きりで何十年も待ちたくはないし、待てるわけがない。
「ぼく、待てないよ…。ハーレイと会うまで、そんなに待てない! 今が限界!」
 十四年でも長すぎだよ、とブルーは叫んだ。出来るものなら少しでも早く出会いたかった。同じ地球の上で、同じ町で二人とも暮らしていたのに、この年になるまで会えなかった。記憶が蘇っていなかったから平気だったけれど、それでも今から思えば悲しい。
 もっと早くハーレイと出会いたかった。子供扱いの期間が長くなっても、それでも幸せだったと思う。大好きなハーレイと同じ町に住んで、休日になればこうして会って…。



 切々と訴えたブルーに向かって、ハーレイがニヤリと笑ってみせた。
「…俺は三十七年間ほど待ったんだが? 寂しい独身人生ってヤツで」
「ハーレイ、凄い…」
 ブルーは心の底からそう思った。三十七年も待ったハーレイは偉い。今の生がどんなに充実していようと、三十七年という歳月は長い。その間、ブルーは何処にも居なかったのに。十四年前には生まれていたけれど、ハーレイとは出会えなかったのに。
「ハーレイ、一人で寂しくなかった? 独身人生とか、そんなのじゃなくて」
「ん? …そうだな、誰かが家に居てくれたらいいのにな、と思ったことなら何度もあったが…。その先を考えられなかった。俺の家には子供部屋もあるのに、嫁さんはなあ…」
 全く想像出来なかった、とハーレイは不思議そうに首を傾げた。
「親父もおふくろも嫁はまだかとも言わなかったし、そのせいってこともないんだろうが…。どういうわけだか、嫁さんも子供もまるで頭に浮かばなかった。今から思えばお前のせいだな」
 こんな美人を貰う予定ではどうにもならん、とハーレイが笑う。
「俺にとってはお前が最高の美人だからなあ、それ以外は目にも入らなかったんだろう。ずいぶん長いこと待たされた上に、まだまだ嫁には貰えそうもない」
「ごめんね、ハーレイ…。ぼくだったらそんなに待てないと思う…」
 だから急いで大きくなる、とブルーは言ったが、ハーレイは「いや」と優しく微笑んだ。
「ゆっくりでいいさ、焦らなくてもゆっくりでいい。…俺はお前にもう会えたんだし、長い時間を待つのも慣れた。三十七年も待っていたんだ、お前の顔を見ていられるなら何年でも待てる」
「でも…」
「お前が大きくなりたいってか? そうだな、俺の家にも来られないしな、今のままだと」
 だが焦るな、とハーレイの手がブルーの頭をポンポンと叩く。
「俺は小さなお前が好きだし、俺がお前を守れる大人で良かったと思う。前みたいに外見だけってわけじゃなくてだ、中身の方も俺が年上なんだ。…その年上の俺が言うんだ、子供の時間をうんと楽しめ。前に叶わなかった分まで幸せに生きて、ゆっくり大きくなるんだ、ブルー」
「…うん……」
 早く大きくなりたいけれども、ハーレイが「ゆっくり」と何度も繰り返すのだし、それは大切なことなのだろう。
(…だけど、やっぱり早く大きくなりたいよ…)
 どっちの方がいいのかな、とブルーは思う。ゆっくり大きくなるのがいいのか、早く大きくなる方なのか。でも、どちらでもきっと幸せになれる。大きくなったら、きっと幸せに…。



(…ハーレイより後に生まれて良かった)
 テーブルの上のミーシャの写真を眺める。甘えん坊で可愛らしくても、ハーレイより年上で先に生まれていたミーシャ。前の生の自分はミーシャとまるで変わらない。年下だったハーレイの胸に縋って甘やかされて、その温かさに酔っていた。
 けれど今の自分は前とは違う。ハーレイはブルーよりも遙かに年上で、立派な大人。ハーレイの方がずっと大きくて、ブルーは小さな子供に過ぎない。今はその差が悲しいけれども、ハーレイが先に生まれていたから、今度は本当に守って貰える。
 前の生のようにハーレイの負担になっていないかと気にしなくていい。ハーレイは本当に守れる立場に生まれたのだし、ずっと年上なのだから。
(ちょっぴり小さすぎちゃったけど…。でも、いつか必ず大きくなるから)
 そして今は行けないハーレイの家にも、何度でも呼んで貰えるようになる。またハーレイの家に行けるようになったら、本物の恋人同士にもなれる。
(…それまでは我慢しなくっちゃ…。ハーレイの家に行けないのは寂しいけれど、でも…)
 ブルー自身も忘れ去っていた約束を守ってくれたハーレイ。
 アルバムからミーシャの写真を探して、ブルーの家まで持って来てくれたハーレイ。
(ハーレイ、約束を忘れずにいてくれたもんね…)
 だからぼくも寂しいけど、約束を守る。
 いつかハーレイがいいと言うまで、ハーレイの家には行かない約束。
 今のぼくはハーレイよりもずっと小さな子供だから。
 ぼくより年上なハーレイの言うことはちゃんと守るよ、ハーレイはぼくより大人だから…。




         白い猫の写真・了


※今回のお話はシリーズ第9話、「初めての訪問」の後日談でした、今更ですけど。
 これもじっくり書いておきたかったんです。それに、ブルーとハーレイの絆も。
 先に生まれて待っていたハーレイ。今度こそブルーは本当に甘えていいのです。

 そして、このお話。
 管理人的には「すっげえターニングポイント」ってヤツです、どうでもいいですが。
 このお話のプロットを作ろうとしていた日の朝、別のプロットが頭にありました。
 そこで「おっと、牛乳瓶、出しておかないと」と玄関先に向かった管理人。
 牛乳配達用の箱の蓋をパタンと閉めた瞬間、プロットを綺麗に忘れていました。
 どう頑張っても思い出せなくて、「まあいいか」と別の話を作ったわけですけれど。
 あの日、牛乳配達用の箱にプロットを突っ込まなかったら、連載は残り僅かでした。

 牛乳瓶と一緒に突っ込んだばかりに、別の方向へと向かったお話。
 御存知の方は御存知でしょうが、ストック、100話をとっくに超えてます。
 別コンテンツとのしがらみで「出せずにいる」という小心者です、ここ、別館だし…。
 144話目を某ピクシブにフライングでUPしてみました。
 「早くそこまでUPして!」という方がおられましたら、拍手から一言お願いします~!
 ←pixivへは、こちらからv
 ←拍手やコメント下さるなら、こちらv
 ←聖痕シリーズ書き下ろしショートは、こちらv









 それは十四歳の小さなブルーがメギドでの出来事を夢に見て飛び起きてしまった夜のこと。前の生での悲しすぎた最期をもう何度夢に見ただろう。その度にとても怖くなる。自分は本当に生きているのかと、何もかもが儚い夢ではないかと。
(…怖いよ、ハーレイ…)
 ハーレイに側に居て欲しい。ブルーは確かに生きているのだと、強く抱き締めて教えて欲しい。前世よりも小さな今の身体が本物なのだと、メギドで撃たれた身体の代わりに手に入れたのだと。
 けれどハーレイの家は何ブロックも離れた所で、夜の夜中に一人で行くには遠すぎた。前の生と違って瞬間移動が出来ないブルーには越えられない距離。ハーレイだけに届く思念も紡げない。
(…会いたいよ、ハーレイ…。怖いよ、ハーレイ…)
 側にいてよ、と涙を零してもハーレイが来てくれるわけもない。ハーレイの家はとても遠いし、そうでなくても「来てはいけない」と言われてしまった。一度だけ出掛けたハーレイの家。其処でブルーが見せた表情が年相応ではなかったとかで、大きくなるまでは行けなくなった。
 そういったことを考えてゆけば「今」は確かにあるのだけれど。
 その「今」が揺らぎそうになる。ハーレイとの日々はメギドで死んだソルジャー・ブルーが見ている夢で、十四歳の小さな自分は地球に行きたかった彼の魂が作り出した幻なのではないかと。
 気が付けば全てが消えていそうで怖かった。自分は死んで独りぼっちで、ハーレイも今の両親も誰もいなくて、この部屋も家ごと消えてしまって…。
(怖いよ、ハーレイ…。側にいてよ…)
 会いたいのに、と泣きながらブルーは眠りに落ちていった。前の生の最期にハーレイの温もりを失くして凍えた右の手をキュッと握り締め、その手をいつも温めてくれるハーレイの大きな温かい手を思い浮かべて…。



 怖くて恐ろしくてたまらなかったのに。辛くて悲しくて寂しかったのに、何故か優しい温もりに包まれ、それを求めて縋り付いた。すると温もりはブルーをすっぽり包んでくれて、暖かな眠りが訪れる。温もりが何なのか分からないけれど、恐ろしさも怖さも何処かへ消えた。
(…気持ちいい…)
 それに温かい、と心地よい温もりに身体を擦り寄せ、それに包まれてぐっすり眠った。そうして夜が明け、ぱっちりと目を覚ましてみたら。
「…あれ?」
 夢だとばかり思っていた温もりがまだ側に在る。どうしてだろう、と見回してみるとハーレイの腕の中に居た。これも夢かと瞬きをしたが、ハーレイは消えるわけではなくて。
(そっか、ハーレイ、来てくれたんだ…!)
 怖い夢を見て泣いていたから、気付いて来てくれたのだろう。もう嬉しくてたまらない。幸せな気持ちが溢れ出すままに、ハーレイに向かって微笑みかけた。
「…おはよう、ハーレイ。もしかして、気が付いて来てくれた…?」
 ところがハーレイの答えはブルーが予想だにしなかったもので。
「違う、来たのはお前の方だ。…お前がいるのは俺のベッドで、この家は俺の家なんだが…」
 言われた途端に気が付いた。自分のベッドよりも大きなベッド。ならば自分は飛んで来たのだ。出来ない筈の瞬間移動で空間を超えて、ハーレイの家まで。
(ぼく、飛べたんだ…!)
 ハーレイの家まで飛んで来られた。喜びで胸が弾けそうになる。昨夜見た夢は怖かったけれど、ハーレイはちゃんと目の前にいる。ハーレイの家も本当に在る。この幸せな今が現実。
「ハーレイ…!」
 大きな身体に抱き付き、広い胸に頬を擦り寄せた。もう今度から怖い夢を見ても大丈夫。自分は飛ぶことが出来るのだから、こうして飛んで来ればいい。
 そう言ったらハーレイは「怖い夢を見たらいつでも来い」と許してくれたし、普段は来られないハーレイの家も夢を見た時は例外にして貰えるのだろう。
 嬉しくて幸せでたまらないのに、ハーレイは何処か遠い目をしていて。
「…ハーレイ? どうしたの、何か迷惑だった?」
 心配になって尋ねれば、苦笑いしながら。
「い、いや…。今日は学校は休みだったな、と思ってな」
 朝飯にするか? と訊かれてブルーはコクリと頷いた。そういえば今日は土曜日だった。学校のある日でなくて良かった、とブルーも思う。ハーレイの家で一緒に朝食を食べられるのだから。



「よし、お前のために腕を奮うとするか。これでも料理は得意なんだぞ」
 沢山食べて大きくなれよ、とハーレイがブルーの髪をクシャクシャと撫でてベッドから降りた。そのハーレイが徹夜でブルーへの欲望と戦っていたことをブルーは知らない。だから急いで自分もベッドから降り、ハーレイの腕にギュッと抱き付く。
「こらっ、俺はこれから歯磨きと着替えだ! ついてくるなよ!」
「なんで?」
「お前の視線は心臓に悪い!」
 此処で待ってろ、と二階の寝室から一階のリビングへ連れて行かれた。ソファに座らされ、目の前の床にスリッパが置かれる。
「足が冷たいなら履いていろ。裸足でもいいぞ」
 じゃあな、と出てゆくハーレイは裸足。シャングリラに居た頃と違って、今の生では家の中では靴は履かないのが基本だった。来客用のスリッパをじっと見詰めてから、履かない方を選択する。次はいつ来られるか分からないハーレイの家なのだから、素足で床を感じていたい。
(…ふふっ、フカフカ)
 リビングに敷かれた絨毯の柔らかな感触を味わい、それから部屋をあちこち眺めた。壁際の棚のトロフィーはハーレイが柔道や水泳で勝ち取ったもので、前に来た時に見せて貰った。ハーレイの好みらしい落ち着いた壁紙などは前の生でのハーレイの部屋を思わせる。
 キョロキョロしていると、半開きの扉の向こうからハーレイの声が聞こえて来た。
「ええ、ええ…。はい、怖い夢を見たのが引き金だったようで…」
(あれ?)
 ぼくのことだ、と耳をそばだてた。話している相手は多分、母か父。
「大丈夫です、後で送って行きます。…元々、伺う予定でしたから」
 ご心配なく、という声を最後に会話は終わって、暫く経って。
「待たせたな、ブルー。食事にしようか」
 着替えを済ませたハーレイが来て、「寒くないか?」と訊かれたけれど、パジャマ姿でも風邪を引くような季節ではない。
「うん、平気!」
「すまんな、お前が着られそうな服は無いからなあ…。じゃあ、飯にするか」
 こっちだ、とダイニングに向かうハーレイの腕にブルーはまたしても抱き付いていた。



 ハーレイの家を一度だけ訪ねた時に、二人で昼食を食べたテーブル。そこの椅子の一つに座ったブルーに、ハーレイが隣のキッチンから声を掛けてくる。
「ブルー、オムレツの卵は何個……って、訊くまでもないな、一個だな?」
「ハーレイ、二個なの?」
 驚いたものの、身体の大きなハーレイだったら自分の倍は食べるだろう。そう思ったのに。
「それだけじゃ足らんし、俺はソーセージも焼くんだが」
「……嘘……」
「ということは、お前、ソーセージは要らないんだな? うんうん、分かった」
 すぐ作るからな、と笑いの混じったハーレイの声。やがてホカホカと美味しそうな湯気を立てるオムレツの皿が運ばれて来て、大きい方のオムレツの皿にはソーセージが一緒に乗っかっている。
(…凄いや…。ハーレイ、朝からこんなに食べるの?)
 トーストだってハーレイの分はうんと分厚く、ブルーのトーストは薄くてたったの一枚。そう、ハーレイのトーストは分厚くて二枚。
「ブルー、ミルクはこれに一杯でいいか?」
 温めるか、と出て来たマグカップの大きさにブルーは仰天した。いつも家で使っているカップの倍くらいは入りそうな大きなカップ。そんなカップに一杯だなんて言われても…。
「そ、それの半分くらいでいいから!」
「遠慮しなくていいんだぞ? お前、大きくなりたいんだしな」
 勢いよくミルクを注ぎ入れるハーレイを「ダメ!」と叫んで必死に止めたら、「冗談だが?」とニッと笑われた。
「これは俺のだ。お前にはこっちで充分だろう」
 普通サイズのカップが出て来てホッとするブルーに、ハーレイがクックッと喉を鳴らした。
「お前、これだけしか飲めないのか…。そんな調子じゃ、いつになったら育つやら…」
「もうすぐだよ!」
「どうだかな? 朝食ってヤツは大事なんだぞ、それがこんなにちょっぴりではなあ…」
 俺ならとても昼まで持たん、とハーレイは豪快に食べ始める。オムレツにソーセージ、ミルクもたっぷり。分厚いトースト、サラダもブルーの倍以上はあった。どれもとっても美味しいけれど。
(…あんなに沢山、食べられないよ…)
 幸せだけれど、少し悔しい。お前はまだまだ小さいままだ、とハーレイにからかわれてしまったようで…。



 朝食が終わるとハーレイが手際よく後片付けを済ませ、「さてと、お前を送らないとな」と口にしたものの。自分のベッドから瞬間移動をして来たブルーはパジャマしか着てはいなかった。家の中なら問題は無いが、ブルーの家まで車で移動をするにしても…。
「うーむ…。お前の服をどうしたもんかな…」
 ハーレイはブルーの姿を眺めて考え込んだ。デザインは普通のシャツに見えるし、襟だって一応ついている。一見してパジャマと分かりはしないが、パジャマには違いないわけで。
(…だが、俺のシャツを貸した方が余計に変だよな? 致命的にサイズが違うしな…)
 上から羽織るものでもあれば、と思ったけれども、良いものを全く思い付かない。バスタオルは却って可笑しいだろうし、毛布の類は言わずもがなだ。
「ハーレイ、ぼくはこのままでいいよ?」
 ハーレイの服は着られないでしょ、とブルーが自分のパジャマの襟を引っ張りながら。
「パジャマなんです、って言わなかったら普通のシャツに見えると思うし」
「どうだかなあ…。しかし、それしか無いようだな。仕方ない、堂々と座っていろ」
「うん、そうする」
 裸の王様みたいだね、とブルーはニッコリ微笑んだ。裸という言葉にハーレイの心臓がドキリと跳ねたが、それはブルーがベッドに飛び込んで来てから徹夜で己の欲望と戦い続けていたからで。
(…いかん、童話のタイトルに反応していてどうする!)
 己を叱咤し、ハーレイはブルーの足元に目をやった。スリッパを履いていない裸足の足。小さな足に合うサイズの靴は家には無い。服はパジャマで済ませるとしても、裸足で外には出られない。
「…俺の靴ではデカすぎるしなあ…」
 ハーレイの呟きに、ブルーも自分の足を見た。ハーレイの足より遙かに小さい自分の足。
「でも、ハーレイの靴しかないよね?」
「脱げちまいそうだな、いっそスリッパにしておくか? 一足くらいならダメになっても…」
 ハーレイが言うスリッパは来客用のもの。本来は家の中で履くものなのだが、ブルーのためなら一足くらい外に出しても、と考えた。それならばブルーの足にも合う。けれど…。
「もったいないよ!」
 ブルーが叫んだ。
「それにハーレイの靴、履いてみたいよ、脱げてもいいから」
「履いてみたいって…。お前…」
「ぼく、ハーレイの恋人だもの! ハーレイの靴、履いてみたいな…」
 ダメ? と上目遣いに強請られ、ハーレイは折れた。ブルーの愛らしく小さな素足に自分の靴という美味しい眺めはハーレイ自身も惹かれるものがあったから…。



 こうして履物は決まったのだが、いざ履いてみるとハーレイの靴はブルーの足には大きすぎた。歩けば小さな足だけが前に出てゆき、重たい靴が取り残される。これでは駄目だと最初の案だったスリッパに手を伸ばすハーレイをブルーが「待って」と止めた。
「ハーレイ、あれは?」
 指差す先に大きなサンダル。ハーレイが愛車を洗う時などに履くもので、お世辞にも綺麗だとは言い難い。もちろん綺麗に洗ってはあるが、使用感があると言うべきか。
「あれか? …あれは洗車と水撒き用ので、外に出掛ける靴じゃないしな…」
「あれでいいよ」
 決めた! とブルーはピョコンと飛んだ。サンダルの上に着地し、両足に履いて一歩踏み出す。
「うん、これだったら大丈夫! 引っ掛かるから!」
 でも大きい、と自分の足の周りに余ったスペースをまじまじ見回しているブルー。
「そりゃ大きいさ、底の面積は靴よりもうんと広い筈だぞ」
「そうなの? 靴もずいぶん大きかったけど…」
 脱げちゃうんだもの、と借りそびれてしまった靴を見つつも、ブルーは満足そうだった。たとえサンダルでもハーレイが普段、履いている物。それを自分が履いているのが嬉しいのだろう。
(しかし本当に小さな足だな…)
 ハーレイの唇に笑みが零れる。前の生のブルーも細くて華奢だったけれど、今のブルーはもっと小さい。ハーレイの大きな靴を履かせても、その眺めに胸が高鳴る代わりに愛らしさばかりが目につくほどに…。



 パジャマ姿で、足にはハーレイの大きなサンダルを履いて。ブルーはドキドキしながら離れ難いハーレイの家の玄関から出た。次に来られるのはいつだろう?
(また来たいけど…。でも、どうやって飛んで来たのか分からないしね…)
 恐ろしい夢を見ないと来られそうになく、必ず来られるわけでもない。メギドの夢なら今までに何度も見たのに、飛んで来られたことは一度も無い。
(…当分、来られないのかも…)
 名残惜しげに覗き込んでいた扉をハーレイが閉めて鍵をかけた。
「さあ、行くか。お前、俺の車は初めてだったな」
「うんっ!」
 ブルーの胸のドキドキは車のせい。前に来た時には見ていただけのハーレイの車。学校の駐車場でも目にするけれども、乗せて貰えるとは思いもしなかったハーレイの車。
 ハーレイと二人で庭を横切り、ガレージに行って。助手席のドアを開けて貰ってハーレイよりも先に乗り込んだ。ブルーの身体には些か大きすぎるシートだったが、座り心地はいい。
(…ふふっ)
 まさかハーレイの車に乗れるなんて、と嬉しい気持ちがこみ上げて来る。ハーレイのサンダルにハーレイの車。パジャマ姿でも気にしない。
「おいおい、なんだか嬉しそうだな」
 隣に乗り込んだハーレイがエンジンをかけながら言うから、「うん!」と答えた。
「だって、ハーレイの車だもの」
「なるほど、ちょっとしたドライブ気分か」
 行くぞ、とハンドルを握るハーレイ。
「シャングリラみたいに飛びはしないが、車もけっこう面白いもんだ」



 走り出した車はゆっくりと住宅街の中を抜けてゆく。前にハーレイに「もう来てはいけない」と言われたブルーが、それを告げたハーレイに送られてションボリと歩いて帰った道。あの時と同じ道をまたハーレイと通っている。今度はハーレイが運転する車に乗って。
(…夢みたいだ…)
 ハーレイの車、とドキドキしているブルーはろくに景色も見ていなかった。真っ白な猫が尻尾をピンと立てて道を横切り、ハーレイが「おっ!」と声を上げても生返事。
「ブルー、今の猫、ちょっとミーシャに似ていたな……って、聞いちゃいないか」
 見えてもいないな、とハーレイは苦笑しながら助手席に座った恋人をチラリと横目で眺める。
(まったく、何を見ているんだか…。そんな所も可愛いんだが)
 この小さすぎる恋人を本物のドライブに連れ出せる日はいつのことやら、と考えつつハンドルを握るハーレイの横顔をブルーがドキドキしながら見詰める。
(…かっこいいよね…)
 シャングリラに居た頃は、舵を握るハーレイに見惚れていることは出来なかった。ハーレイとの仲を悟られないよう、常にソルジャーの貌をしていた。
(あの頃もこういう顔だったのかな、キャプテン・ハーレイ…)
 それとも今は自分を隣に乗せている分、優しい顔をしているだろうか? あるいは穏やかで甘い顔なのか、運転中だから厳しいのか。
(…よく分からないや…)
 もっと見ていたい、とブルーは願う。家までの道が少しでも混んでいるように。信号で少しでも長く止まっているように…。



 けれど夢のドライブは呆気なく終わってしまって、気付けば見慣れた住宅街。ブルーの家を取り巻く生垣が見えたかと思うと、ハーレイが車を来客用のスペースに入れる。もう少しだけ、と強く願ったのに、車は停まった。
「ブルー、着いたぞ。…ほら、お母さんだ」
 そう言いながらハーレイが運転席から降りて助手席のドアを開けてくれたから、ブルーは車から出るしかなかった。ハーレイの大きなサンダルを履いた足を地面に下ろせば、扉を開けに来ていた母が「あらっ!」と気付いて声を上げる。
「ハーレイ先生、すみません、ブルーが色々とご迷惑を…。この子ったら、もう、パジャマだけで靴も履かないで…! ブルー、靴を持ってくるから其処にいなさい」
 パタパタと急いで戻って行った母は直ぐにブルーの靴を持って来て履き替えさせた。ハーレイの大きなサンダルがブルーの足から消えて無くなる。
(…ハーレイのサンダル…)
 もう少し履いていたかったのに、と思う間も無くサンダルは消えた。ハーレイの手がサンダルをヒョイと掴んで助手席の床に放り込み、ドアをバタンと閉めてしまった。さっきまでブルーが独占していた乗り心地のいいシートもサンダルと一緒にドアの向こうに消えた。
「ブルー? ハーレイ先生にきちんと御礼を言うのよ」
 そして急いで着替えなさい、と指図する母はハーレイにしきりに謝っている。家の中から父まで出て来た。「ハーレイ先生、すみません!」と謝りながら。
「いえいえ、どうせついでですから」
 今日はこちらに来る日でしたし、とハーレイは両親と挨拶を始めてしまって、ブルーの大好きな恋人の顔ではなくなった。そう、今のハーレイは「ハーレイ先生」。
(…なんだか魔法が解けたみたいだ…)
 ハーレイのサンダルを脱いでしまったら魔法が解けたシンデレラ。お姫様ではないのだけれど、そんな気持ちがしてしまう。魔法のサンダルを探してハーレイの車を覗こうとしたら、母の声。
「ブルー、いつまでパジャマで立ってるの? それとハーレイ先生に、御礼!」
「う、うんっ! …ありがとう、ハーレイ。それに、ごめんね」
 頭を下げると「いいや」と大きな手でクシャリと頭を撫でられた。
「さあ、着替えて来い。俺は後からゆっくり行くから」
「はーい! ハーレイ、また後でね!」
 魔法が解けてしまった小さな足にサイズぴったりの自分の靴。ブルーはハーレイに向かって手を振り、玄関の方へと駆け出した。魔法の時間は終わったけれども、今日は一日、ハーレイと一緒。此処は夢でもメギドでもなくて、青い地球の上。
(ずっとハーレイと一緒なんだよ)
 これから先も、ずっと、ずっと、ハーレイと一緒。いつかハーレイと結婚して……。




            夢のような朝・了


※今回のお話はシリーズ第2話、「君の許へと」の裏話でした、今更ですけど。
 一度じっくり書きたかったのです、あの日の二人の朝御飯とかを。
 ブルーの足には大きなサンダル、パジャマ姿でも幸せな朝。
 ←拍手してやろうという方は、こちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]