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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 ハーレイは寝室で風呂上がりの一杯を楽しんでいた。季節はそろそろ初夏だったから、喉越しのいい酒に氷を浮かべてゆったりと。ビールも好きだが、寝る前に飲むにはあまり向かない。今日は仕事が忙しかったし、早めに休もうと寝室での一杯と相成った。
(ブルーの家にも寄れなかったな…)
 小さな恋人の顔を思い浮かべる。平日でも時間が取れた時にはブルーの家を訪ねる習慣。だが、今週は対外試合を控えた柔道部の指導と仕事の両立で時間が取れずに週の半ばに至っていた。
(明日には寄ってやりたいんだが…)
 そのためには仕事の段取りをどうするか、と頭の中で計画を立てる。早めに出勤して仕事をしてから柔道部の朝練をするべきか。校門が開くのは何時だったか、家を何時に出ればいいのか。
(…確か六時には開いてる筈だな、すると五時半に起きて朝飯で…)
 今から寝れば睡眠時間は充分に取れる。もう一時間早く起きても平気なくらいに早い時間。
「よし、それでいくか」
 ブルーに会うためにも早く寝よう、とグラスの酒を一気に呷ろうとして。
「しまった…!」
 勢いをつけすぎた酒がグラスと唇の間から僅かに伝って、ポトリと一滴、滴り落ちた。真っ白なシーツに琥珀色の染み。ほんの一雫だが、白いシーツだけによく目立つ。
「………。ロクなことにならんな」
 つい、うっかり。
 寝室のソファとテーブルで飲めば良かったものを、風呂上がりにキッチンで注いで二階の寝室に持って上がって来たから、そのままベッドに腰掛けた。部屋に入ってすぐにドッカリと。
「しかしなあ…。ベッドで一杯も捨て難いしな?」
 まあいいか、と空になったグラスをテーブルに置くために立って、直ぐに戻った。琥珀色をした染みは気になるが、どうせシーツは洗う予定をしていたし…。その時にひと手間増えるだけだ。
「つい、うっかり……か」
 ベッドに入る前のひと時、染みを見ていたら思い出した。前の生でのブルーのことを。



 今のブルーよりも背が高く、顔立ちも大人のそれだったブルー。それは美しく、気高かった前の生での恋人。いつからか彼に心惹かれて、親しい友から想いを寄せる人へと変わった。その想いを胸に秘めておくべきか、打ち明けるべきか。
 既にソルジャーと呼ばれ、青の間を居としていたブルーはハーレイが独占出来る存在ではない。常にシャングリラ全体に思念を巡らせ、船を守っているブルー。全てのミュウを愛する彼を自分の欲で一人占めなど出来るわけがない…。
 そう考えたから、躊躇した。募る想いを打ち明けたとしても、ブルーは困惑するだろうから。
 けれども、ふとしたブルーの仕草。ハーレイと二人きりの時しか見せない、その表情。自分だけでは無かったのだ、と気付いた時、どれほど嬉しかったか。ブルーも同じ思いなのだ、と。
 それからゆっくりと時間をかけてブルーの想いを確かめ、ようやく優しいキスを交わした。その日から恋人同士となって、少しずつ想いを深めていって。
 青の間でブルーと結ばれた時は、もうお互いに溢れる想いが止まらなかった。想いのままに腕を絡めて、求め合って。…そうして二人、抱き合ったままで眠ったのだけれど。
 次の日の朝、ブルーよりも先に目覚めたハーレイは身体を起こすなり絶句した。
(……これはあまりに……)
 全身から血の気が引いてゆく。まだ眠っているブルーの身体の下のシーツは酷く乱れて皺だらけだった。もちろんハーレイの下に広がるシーツも。
 しかも恐らく、皺だけで済みはしないだろう。愛し合うことに夢中で何も考えてはいなかった。自分もブルーも何度達したのか覚えていないし、その後始末などは頭に無かった。
(…ま、まずい…)
 ブルーの身体を傷つけたりはしていないと思う。苦痛を与えないように注意したから、血の色の染みは無いとは思う。しかし血の染みは無かったとしても、自分とブルーが放ったものは…。
 その跡は隠しようがない。ブルーのベッドで何があったか、係の者に知られてしまう。ブルーの相手が自分だとまでは知れないとしても、ブルーが誰かと愛を交わしていたことは。
(最悪だ……)
 ソルジャーとして誰もが敬うブルー。そのブルーを自分が引き摺り落とした。誰よりも気高く、凛として高みに立っていたブルーを、恋に溺れる「ただの人」にまで落としてしてしまった…。



 激しい後悔に苛まれ、暗澹たる気分で瞑目していたハーレイの耳に「どうしたの?」と柔らかな声がかかった。目を開けばブルーが横たわったままで見上げている。まだうっとりと酔いを残した瞳で、甘やかな笑みを湛えた唇で。
「…ブルー…」
 言えない。この愛しい人にはとても言えない、とハーレイは起こしていた身体を沈めてブルーを強く抱き締めた。何としてでもブルーを守る、と思ったけれども、どうすれば良いのか。この船の備品は自分の権限で動かせるものの、誰にも見られずにシーツを処分する方法などは…。
「…ハーレイ?」
 言葉にせずとも不安は伝わる。目覚めてから暫くはハーレイに甘え、その胸に身体を擦り寄せていたブルーが半身を起こし、ハーレイの不安の元を探った。ベッドに何かがあるのだ、と。
「あっ…!」
 ハーレイと同じものを其処に見たのだろう。ブルーも言葉を失っていたが、どうしようもない。
「…すみません、ブルー。私が…、私が注意するべきでした…」
 申し訳ありません、とハーレイは身体を起こして詫びた。
「直ぐにシーツを取り替えます。…係の者が替えに来る前に洗いに出せば分からないかと…。青の間の分のシーツのデータは私が何とか誤魔化しますから」
 船長の権限で書き換えられないことはなかった。不審に思う者があってもデータが無ければ思い違いで済むだろう。それしかない、と考えたのだが。
「…大丈夫」
 ブルーが白い指でシーツをそうっと撫でた。
「大丈夫だよ、ハーレイ、こんなものは…ね。こうしてしまえば」
 一瞬、青い光がベッドを覆って、消えた後には染み一つ無い真っ白なシーツ。激しく乱れて皺が寄った跡も何ひとつとして無い、いつもの通りのブルーのベッド。
「……魔法ですか?」
 思わず口をついて出たハーレイの言葉に、ブルーが「まあね」と微笑んでみせる。
「ベッドメイクは見慣れているから、その通りにしてみたんだけれど…。新しいシーツに替えて、前のは洗濯。もう水の中に浸けてあるから誰も汚れに気が付かないよ」
「…で、ですが…。係の者には、いったい何と?」
「多分、ぼくには訊かないだろうと思うけど…。もしも訊かれたら、水を零したと言っておくよ」
 自分が汚したシーツの始末は自分でしないと。ソルジャーでもね、とブルーは笑った。
 誰よりも強いサイオンを持ったブルーにとっては、シーツの入れ替えはほんの一瞬。ハーレイの目には魔法に見えたそれが、青の間で何度繰り返されたことだろう。たまに訊く者が出てくる度にブルーが答えた「水を零した」。その言い訳はいつしか定番になった。



 誰も気付かなかった青の間での秘めごと。初めて二人で過ごした翌朝の小さな事件が二人の間で笑い話になった頃には、ハーレイの部屋でも逢瀬を重ねた。
 キャプテンであるハーレイの部屋もまた、青の間同様、専属の者がベッドメイクをするのが常。此処でもブルーが乱れたシーツをサイオンで取り替え、新しいものを用意した。その手際良さに、ハーレイは目を瞠ったものだ。
「あなたのベッドなら慣れておられるのも分かりますが…。私の部屋のベッドメイクなど、いつの間にご覧になったのです?」
 暇潰しに覗いていたのだろうか、とハーレイは不思議に思ったのだが。
「これかい? 此処のベッドが覚えてるんだよ、どうするのかをね」
「ベッドが…ですか?」
「正確に言えば、係の残留思念かな? こう引っ張って、こっちをこう、と緊張している気持ちがよく分かる。キャプテンの部屋で失礼が無いよう、若いクルーは必死なんだね」
 キャプテンはとても怖いものね、とブルーが赤い瞳を煌めかせてハーレイの眉間に触れた。
「ほら、此処に皺。これを見るだけでも怖いってね」
「そんなことは…!」
「分かっているよ。君は怒鳴りも怒りもしない、って。…だから余計に尊敬される。若いクルーの憧れなんだよ、キャプテンは。そのキャプテンのお部屋係だ、頑張らないと」
 それで、とブルーは小首を傾げた。
「憧れのキャプテンのシーツを取り替えに来てくれた子に、何と言い訳するんだい? 自分で取り替えなければならなくなった不始末とやらは何にするわけ?」
「…私の場合は、水と言うより酒でしょうか…」
 ハーレイは苦笑しながら答えた。
「水を零した、は使用中だと仰るのでしょう? ならば酒しか思い付きません」
「ぼく専用の言い訳だからと独占する気は無いけれど…。オリジナリティは大切かもね。ぼくだと水で、君だとお酒。うん、お酒を零したと言っておいてよ」
 こうしてハーレイの部屋での逢瀬の後は「酒を零した」がハーレイの決まり文句となった。係のクルーは素直に信じて、中には零して減った酒の心配をした者までがあったほどで。
 そんな調子だから、ハーレイはたまにブルーをこう誘った。「酒を零しに来ませんか?」と。
 ブルーは酒に弱くて苦手だったけれど、いつも艶めいた笑みを返して酒を零しに訪れた。肝心の酒は飲みもしないで、ハーレイとの逢瀬に酔いしれるために…。



「本当に零しちまったな…」
 あれから長い長い時を飛び越え、辿り着いた地球でハーレイは呟く。「酒を零した」と言い訳をしていたキャプテンの部屋は今はもう無い。流れ去った時が白いシャングリラごと連れ去った。
 そのシャングリラで辿り着いた地球も、あの時の死に絶えた星ではない。
 青い水の星として蘇った地球。其処に自分は還って来た。死の星だった地球の地の底で息絶えた身体の代わりに今の身体を得て、新しい生を手に入れて。
 同じ地球の上に、今の自分が住む同じ町に、ブルーも生まれ変わって来た。メギドで失った命の代わりに新しい生を得、十四歳の少年として生きている。前よりも幼く、小さなブルー。ブルーに会いにゆくのだった、と思い出す。
 考えごとをしていた間に時が経ったかと時計を見たが、さほど時間は流れていない。テーブルの上の酒のグラスもまだ乾いてはいなかった。飲めるほどには残っていないが、グラスの底に残った液体。シーツに小さな染みくらいなら作れるかもしれない、ほんの僅かな量の酒。
 その酒のお仲間がシーツに拵えた染みを見ながら、ハーレイはフッと笑みを零した。
「…酒を零してくれるどころか、水も零せはしないんだがな…。今のあいつは」
 十四歳の小さなブルー。恋人なのだと主張しはしても、あまりに幼い身体のブルー。ハーレイと結ばれる日を夢見てはいるが、身体も心も幼すぎてどうにも話にならない。
「あいつが酒を零してくれる代わりに、俺が零してしまったか…。まだまだ待てと言われたようで縁起でもないが、ゆっくり育って欲しいからなあ…」
 前世のブルーが失くしてしまった幼い時代の幸せな記憶。ブルーにはそれを取り戻して欲しい。前の分を補ってなお余りある幸福な時間を過ごして欲しい。そのためならば何十年でも待てる、と思っているのだけれど。
「はてさて、あいつが酒だの水だの、零してくれるのはいつのことやら…」
 前の生での誘い文句をブルーは覚えているのだろうか?
 小さなブルーに「俺の家へ酒を零しに来ないか?」と言おうものなら、「行ってもいいの?」と喜びそうだ。その意味すらも考えはせずに、遊びに来ていいと許可を貰ったと歓声を上げて。
(…酒を零して遊ぶというのは、いったいどういう状況だろうな?)
 サッパリ分からん、と小さなブルーが考えそうな中身を想像してみる。スポーツ選手が祝賀会でやるシャンパンシャワー。その手のものしか思い付かない。学生時代に何度かやったが、なかなか高揚するものではある。ブルーに浴びせたら喜ぶだろうか?
(はしゃぎそうだが、酒は零してくれんしなあ…)
 ずぶ濡れになったブルーの姿はハーレイの心臓に悪そうだ。シャツがうっかり透けたりしたなら理性が危うくなってくる。これ以上はもう考えるな、とハーレイは自分にストップをかけた。



 年相応に無垢で愛らしい小さなブルー。無邪気な笑顔を思い浮かべれば邪心を抱ける筈もない。前の生では同じ姿でも一人前の戦士だったし、サイオンも比類ない強さだったけれど。
「…今のあいつには出来そうもないな、零す以前の問題だな」
 シーツに出来てしまった琥珀色の染みを指先でつつく。
 水や酒を零したと言い訳をしては、一瞬の内にシーツを取り替えた前世のブルー。魔法のように見えたその技を今のブルーは持ってはいない。瞬間移動が出来ないのだから、その応用とも言える例の魔法を使うことなど無理なのだ。
「あいつが自分のベッドに水を零したら、まずはママだな」
 大慌てで駆けてゆく姿は想像するのに難くない。「ママ、零しちゃった!」と叫びながら部屋を飛び出し、転がるように階段を下りて母の所へと一直線に。
 サイオンの扱いに長けるどころか、不器用かもしれない小さなブルー。それもまたハーレイには嬉しかった。ブルーが力を伸ばさなくてもいい世界だという証明だから。
(…そんなあいつが、あれを見たなら…)
 クックッとハーレイは笑い始めた。
 青の間で初めて二人一緒に過ごして、翌朝、愕然と眺めたベッド。前の生のブルーはソルジャーならではの冷静さと技で対処し、微笑んでさえいたのだけれど。
(あいつは間違いなくパニックだな)
 そう、あのベッドを見せられたならば小さなブルーはパニックだろう。どうしてベッドがそんな状態に陥ったのかも分かりはしないに違いない。そう考えると可笑しくなる。
 何かと言えば「本物の恋人同士になりたい」と口にする小さなブルー。ハーレイに向かって何度「キスしていいよ?」と誘ってきたかも数え切れないくらいだったが、中身は正真正銘の子供。
(うんうん、あいつは覚えていないぞ、肝心のことは)
 そうに違いない、とハーレイは思う。
 前世の記憶を全て思い出した、とブルーは言うし、実際、記憶は持っているらしい。だからこそ本物の恋人同士になれる日を待ち焦がれ、早く育ちたいと願うのだが…。
(本当に色っぽい記憶となったら抜け落ちているか、ぼやけているかだ)
 現に誘われたことがない。あの懐かしい誘い文句をブルーから聞いたことがない。
 ハーレイの部屋に行きたいと強請る代わりに、前世のブルーが笑みを浮かべて囁いた言葉。
 桜色の唇が歌うように紡いでいた言葉。
「ハーレイ? 最近、お酒を切らしているようだけど?」と。
 滅多に誘われなかったからこそ覚えている。普段は自分が誘っていたから。
 そう、彼の人から誘われる前に「酒を零しに来ませんか?」と。



 今のハーレイの家に、ブルーは遊びに来られない。ハーレイ自身がそう決めた。それをブルーはきちんと守って、ハーレイの方から訪ねて来るのを待っている。
 ハーレイの家に来たい筈なのに、前世での口実の酒を持ち出さないブルー。
 まだ十四歳の小さな子供で、法律でも酒は飲めないブルー。
 小さな身体と無垢で幼い心に合わせて、記憶もきっとぼやけるのだろう。背伸びしている子供と同じで大人びたことを口にしてはいても、ブルーは何も分かってはいない。
(…あのベッドだって確実に忘れているな)
 前の生で初めての朝を迎えたベッド。
 小さなブルーに、そういう記憶は、きっと、無い。
 それでもブルーが愛おしい。この地球の上で巡り会えたブルーが愛おしい…。
「…寝るか、明日はあいつの家まで行ってやらんとな」
 ついでに少しからかってみるか、とハーレイはシーツに残った琥珀色の染みに視線を落とす。
 懐かしい誘い文句を忘れたであろう小さなブルー。
 ハーレイが「昨夜、うっかり酒を零してな」と白状したなら、何と答えを返すだろう?
 「酔っ払ったの?」か、それとも「もったいないよ」か。
 どちらにしても、前の生のブルーの艶やかな笑みと言葉は返らない。
 「それじゃ今夜はぼくが行くよ」と微笑んだブルー。
 あの頃のブルーとそっくり同じに育ったブルーを手に出来る日はまだ遠いけれど。
(…うん、今のあいつも可愛らしいんだ)
 待っていろよ、とハーレイはベッドにもぐり込んだ。
 明日はお前の家に行くから、と……。




           言い訳の雫・了


※前のハーレイとブルーの秘めごと。小さなブルーは覚えていない、前の自分の誘い文句。
 今度は言い訳の要らない二人ですけど、二人きりで過ごせる夜はまだ遠いようです…。
 ←拍手してやろう、という方はこちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






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 夏休みのある日。今日はハーレイは午前中に柔道部の指導があるから、ブルーの家を訪ねて来るのは午後になる。ブルーは母と昼食を食べて、二階に戻ろうとしたのだけれど。
「ブルー。それ、ママの部屋に持って行ってくれるかしら?」
 母が紙袋を指差した。綺麗な色と模様の紙袋。
「うんっ!」
「ドレッサーの所に置いてくれればいいから」
「分かった!」
 化粧品の類なのだろう。小さな紙袋を提げたブルーは足取りも軽く階段を上り、母の部屋の扉を開けて入って、ドレッサーの前に袋を置いて。
(ママの部屋かあ…)
 この部屋に母のベッドは置いてあるのだが、恐らく母は使っていない。隣の父の部屋に置かれた大きなベッドが多分、二人用。幼い頃にはブルーも其処で何度も両親と一緒に眠っていた。今なら二人用のベッドの意味が良く分かる。
(…ぼくとハーレイ、いつになったら一緒のベッドで寝られるのかな…)
 出会った時の百五十センチから伸びない背丈。前世の自分と同じ背丈にならない限りはキスさえ許して貰えない。同じベッドなんて夢のまた夢、いつになるやら見当もつかず。
(…早く結婚したいんだけど…)
 母の部屋に飾られた結婚式の写真。今よりも若い両親が幸せそうな笑顔で写っている。ブルーはそれを羨ましそうに眺めながら。
(ぼくって、ドレスを着るのかな? 二人ともタキシードなんて変だよね?)
 並んで立っている分にはかまわないけれど、これは流石に可笑しいと思う。母を両腕でしっかり抱き上げて立つ父と、その腕の中で笑顔の母と。結婚写真の定番の一つ。このポーズでハーレイがタキシードのブルーを抱いていたなら、さながらコメディ。
(やっぱりドレスしか無さそうだよね…)
 こういう写真は撮りたいもの、と両親の写真を目に焼き付けてブルーは自分の部屋に戻った。



(ドレスかあ…)
 生まれてこの方、ドレスなんかは着たこともない。学校はずっと共学だったし、いくらブルーが可愛らしくても演劇などで女の子の役は回って来ない。小さい頃に「女の子?」と訊かれたことは多かったけれど、ちゃんとズボンを履いていた。
(でも、あの写真を撮りたかったらドレスだよね…)
 ドレスというものの着心地どころか、どうやって着るのかも分からなかった。その辺りはプロにお任せとしても、ああいった服で上手に歩くことが出来るのだろうか?
(踏んづけて転んじゃったりして…)
 それは非常に格好が悪い。かと言って最初からハーレイに抱いて歩いて貰うのも…。
(思い切りルール違反だよね?)
 結婚式が終わるまでは自分の足で歩いてゆくしかない筈だ。これは困った、とドレスの長い裾をどう捌くべきか悩み始めたブルーだったが。
「…あれ?」
 そういえば、と思考が別の方向へ向いた。
「ぼく、一回もハーレイに抱っこして貰ってないよ…」
 ドレス姿でないと似合いそうにない結婚式の写真の定番、新郎の両腕に抱かれた花嫁。
 前の生ではハーレイと結婚こそ出来なかったけれど、ああいう風に抱き上げられたことは何度もあった。ハーレイの逞しい腕に抱えられて運んで貰った。
 なのにハーレイと再会してから、そんな経験は一度も無い。ハーレイはブルーを胸に抱き締めてくれるけれども、あんな風に抱き上げて貰ったことは無い。
(…お姫様抱っこって言うんだっけ…)
 シャングリラに居た頃、若いミュウたちがそう呼んでいた。ハーレイに「お姫様抱っこだね」と言ったら「あなたは私のお姫様ですから」と真顔で返され、二人して大笑いしたものだ。ブルーは実はソルジャーではなく、シャングリラのお姫様だったのか、と。
(あれも大きくなるまでダメなの?)
 キスと同じでお預けだろうか、と考えたけれど、お預けにされる理由が思い当たらない。唇へのキスは大人のものかもしれなかったが、両腕でヒョイと抱き上げるくらい…。
(パパだって抱っこしてくれるよ、うん)
 ブルーが熱を出した時など、父が抱えてベッドに運んでくれたりする。ということは、特に問題なさそうだ。一度ハーレイに頼んでみよう、と決心した。そう、今日ハーレイが来たら、早速。



 間もなくハーレイが訪ねて来てくれ、母が部屋まで案内してきた。母はアイスティーとお菓子をテーブルに置いて階下へと去り、ブルーは勇んで切り出してみる。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「お姫様抱っこはかまわないよね?」
「はあ?」
 ハーレイがポカンと口を開けた。それにかまわず、ブルーは続ける。
「お姫様抱っこ! まだ一回もして貰ってないよ」
「…お姫様抱っこって…。アレか、俺がお前を抱き上げるヤツか?」
「そう! パパもしてくれるし、お姫様抱っこはダメじゃないよね、キスと違って」
 期待に満ちた瞳でハーレイを見詰め、「お願い!」とペコリと頭を下げた。
「ちょっとでいいから抱っこしてみてよ」
「……全く必要無いと思うが」
 つれない返事にブルーは「なんで?」と目を見開いた。
「ぼくがお願いしているんだから、必要はあると思うけど…」
「無いな」
「どうして? 前は抱っこしてくれてたよ? それに前よりずっと軽いよ」
 ぼくの体重、と自分の小さな身体を指差す。
「今の方がずっと軽いのに…。持ち上げやすいのに、なんでダメなの?」
「前より軽いのは知っているさ。俺の膝の上に乗っかっていても軽いからな」
「だったら、どうして! 重くないのに! ちょっとでいいから!」
 ほんの少し歩いてくれるだけでいいのだ、とブルーは強請った。けれどハーレイは「駄目だ」の一点張りで、立ち上がる気配も見せてくれない。
「ハーレイのケチ!」
「ケチでかまわん。とにかく俺はやる気はない」
「…ちょっとだけでも?」
「そのちょっとで、だ。お前は何処へ行くつもりなんだ」
 鳶色の瞳がブルーの瞳を真正面から覗き込んだ。
「俺がお前を運んでいた先は、ベッド以外に無かった筈だぞ」
「えっ…?」
 思いもよらない言葉に暫し考え込み、遠い記憶を探ってみる。お姫様抱っこで連れて行って貰う先には、本当にベッドしか無かっただろうか?



 前の生で何度も抱き上げてくれたハーレイの腕。頑丈だった腕の逞しさと力強さを覚えている。今よりも重かったブルーの身体を軽々と抱き上げ、危なげもなく運んでくれた。ふわりと宙に浮く感覚。自分のサイオンで浮き上がるのとは全く違った心地よさ。
「…ベッドだけってこと、ないと思うけど…」
 それならば青の間かハーレイの部屋での記憶だけしか無い筈だ。ブルーの記憶が違うと告げる。シャングリラの長い通路やブリッジ、公園なども覚えていた。何処でもハーレイの腕にしっかりと抱かれて周りを見たり、高い天井を見上げたり…。
「ハーレイ、絶対、間違ってるよ! 通路も公園もそれで歩いた!」
「いや、間違えているのはお前だ。俺はお前をベッドにしか運んでいないんだが?」
「そんなことない!」
 通路はともかく、ブリッジや公園にベッドは無い。百歩譲って通路の方なら行き先がメディカルルームのベッドということもあっただろうが…。
 懸命に言い募るブルーだったが、ハーレイは「お前が忘れているだけだ」と譲らない。
「俺がお前を運ぶ時には行き先はベッドだ、間違いはない」
「でも…! ブリッジと公園にベッドは無いよ!」
「ああ、ブリッジと公園にはな。せいぜい休憩用の椅子くらいだな」
「だったら、なんで!」
 ハーレイの記憶違いか、お姫様抱っこをしたくないがゆえの逃げ口上か。どちらかだとブルーは思ったのだが、ハーレイがフウと溜息をつく。
「…覚えてないのも無理ないかもな。俺が目的地に着いた頃には、お前、大抵、寝ていたからな」
「寝てた…?」
 そんな記憶は全く無かった。ハーレイの腕に抱かれて移動するシャングリラの通路や公園などは気持ち良かったし、眠ってしまうわけがないのに…。
「ぼくは寝ないよ、せっかくハーレイがぼくを運んでくれているのに」
「その気が無くても寝てるんだ。…俺はお前が倒れた時しか、外でお前を運んではいない。お前、冷静に考えてみろよ? それ以外で俺がお前を運んでいたなら、周りに何と言い訳するんだ」
「あっ…!」
 そう言われればその通りだった。前の生では身も心も結ばれた本物の恋人同士だったけれども、周囲にはそれを隠し通した。ハーレイが理由も無くブルーを抱き上げて運んで歩けば、当然、仲を疑われる。ということは、自分の記憶が抜けているだけで…。
「分かったか? お前は運ぶ途中で寝ちまっただけだ。行き先はベッドだったんだ」
 ハーレイの指摘に反論出来ない。お姫様抱っこで辿り着く先は本当にベッドだったのだ。



「…思い出したか? つまりだ、俺に今のお前を運ぶ理由は無いわけだ」
 お前はピンピンしてるんだから、と鳶色の瞳に笑みの色が浮かぶ。
「気分が悪いわけでもないし、倒れちまったわけでもない。…ついでに、そういう理由以外で俺がお前をベッドに運ぶには早過ぎるしな」
「嘘……」
 あの懐かしい浮遊感を味わえないなんて。今のブルーの身体だったらヒョイと抱き上げて何処へでも運んで貰えそうなのに、行き先はベッド限定だなんて…。
「じゃ、じゃあ…。じゃあ、ハーレイ…」
 ブルーは一縷の望みを託して尋ねてみた。
「もしも学校でぼくが倒れて動けなかったら、運んでくれる?」
「………。それはお姫様抱っこでか?」
「うん。それならいいよね、保健室まで」
 保健室ならば行き先はベッド。いつもは保健委員のクラスメイトや担任に連れられて行っているけれど、ブルーはヨロヨロ歩いてゆくか、あるいは車椅子で運ばれるか。しかしハーレイが倒れた現場に行き合わせたなら、抱き上げて運んでくれるだろう。それだけの力は充分にあるし…。
「お前を保健室までか?」
「そうだよ、保健室のベッドに運んで欲しいんだけど」
 倒れたからには気分は相当に悪いのだろうが、ハーレイの腕で運ばれるのなら悪くない。途中で意識を失くしたとしても、お姫様抱っこをして貰える。ほんの一瞬のことであっても、胸に幸せな記憶が残る。今の生でのお姫様抱っこ。
 赤い瞳をキラキラと輝かせるブルーの姿に、ハーレイは「お前なあ…」と苦笑いをした。
「…その運び方は、普通は嫌がるモンなんだが?」
「そうなの?」
 ブルーは驚いて目を丸くした。あんなに気持ちのいい運ばれ方は無いと思うのに、嫌がるなんて信じられない。クラスメイトの肩を借りて重い足を引き摺って歩くより、ぐらぐらと揺れる身体を車椅子に委ねて運ばれてゆくより、ずっと、ずっと楽で気持ちが良くて…。
 顔いっぱいに「信じられない」気持ちが溢れるブルー。けれどハーレイがプッと吹き出す。
「まあ、女の子なら大喜びだな、なにしろお姫様抱っこだからな? しかしだ、男は全く違うぞ。何処の学校でも俺のクラブのヤツらにとっては罰ゲーム的な扱いだったが」
 注意を守らずに怪我をした生徒をアレで運ぶ、とハーレイは言った。
「やめて下さいと叫んでいようが、知ったことではないからな。下ろして下さいと泣きの涙が定番なんだが、俺は下ろさん。それが究極の罰ってヤツだ」



 男子たるもの、お姫様抱っこで運ばれるなどは屈辱の極み。それがハーレイが顧問を務めてきた柔道部や水泳部の生徒の共通の認識なのだという。自分が注意を守らなかったがゆえに怪我をし、その見せしめとして校内引き回しの刑を食らうのだ、と。
 ブルーは心底、驚いた。ハーレイに抱き上げられて運ばれることを嫌がる者がいるなんて…。
「じゃあ、どうやって運んでいるの? そういう罰にならない時は?」
 きちんと注意を払っていても怪我をすることは少なくない。体育の時間は苦手だけれども、その体育で何度も見て来た。転んだり、誰かと接触したりして怪我をした子を。
 不幸にして怪我をしてしまったハーレイの教え子はどうなるのだろう? ブルーが抱いた素朴な疑問に、ハーレイは「ああ」と事も無げに答えた。
「もちろん、背負うさ」
「背負う!?」
 ハーレイの広い背中だったら、体格のいい生徒であっても背負えるだろう。そして…。
「ぼく、一回もやったことない!」
 ブルーはハーレイの広い背中に背負って貰ったことが無かった。今の生でも一度も無いし、前の生でも経験が無い。あんなに大きな背中なのに。がっしりとした肩幅が頼もしいのに…。
 自分は如何に美味しい思いをし損ねたのか、という気がした。お姫様抱っこも素敵だけれども、背中だってきっと気持ちいい。ハーレイの温もりを感じながら揺られて、支えられて。
 むくむくと湧き上がって来る背中への憧れ。ハーレイの背中に背負われてみたい。
「それ、やって欲しい! 背負って欲しいよ!」
 前の時にもやってないもの、とブルーがせがむと「前は必要無かったろうが」と返された。
「お前は大きくても軽かったしな? 様子を見ながら運ぶ分には抱いた方がいい」
「でも…!」
「お前も背負えと言わなかったぞ、抱っこで満足してたんだろうが」
「……うーっ……」
 言い返そうにも、前の生で背負って欲しいと思ったことが無いのは事実。ハーレイが他の誰かを背負って歩いていたなら思い付いたろうが、生憎と一度も目にしなかった。それでも背中に向いてしまった目は「それもやりたい」とブルーの心をかき立てる。あの広い背中に背負われたいと。
 そう、今度の生では背負って欲しい。お姫様抱っこもやって欲しいし、温かな背中も感じたい。どちらも家では無理そうだけれど、もしも学校で倒れたならば…。



「ハーレイ、背負うか、抱っこか、どっちか!」
 どっちでもいいから、とブルーは強請った。学校の中で倒れていたなら運んで欲しいと。
「分かった、分かった。…いつかその辺で倒れてたらな」
 行き先がベッドだったら運んでやる、とハーレイがパチンと片目を瞑る。
「ただしあくまで学校で、だぞ。この家の中なら運ぶまでもないしな、ベッドは其処だ」
 担ぎ上げたらゴールインだ、と笑うハーレイに、ブルーは「学校でいいよ」と頷く。
「学校でいいから、どっちか、お願い」
「よしきた、俺に任せておけ。…いやはや、今から楽しみだな? どんな噂が立つやらなあ…」
「噂?」
「お前の噂さ、お姫様抱っこで運ばれてったら不名誉だぞ! 一生モノの男の恥だ」
 女の子にも何と言われるやらなあ、とハーレイは可笑しくてたまらないという様子で笑った。
「俺とお前が恋人同士なんていう嬉しい噂はまず立たないさ。お前に笑える名前がつくのが見えるようだな、ブルーちゃんとか」
「ブルーちゃん!?」
「お姫様だぞ、女の子の名前は「ちゃん」づけだろうが」
「…そ、それは……」
 小さな頃には「ブルーちゃん」だった。よく女の子と間違えられていた頃は、お隣のおばさんや郵便配達のおじさんたちにそう呼ばれていたし、ブルー自身も気にしなかった。それがいつからか「ブルー君」に代わり、成長した気になっていたのに「ブルーちゃん」だとは…。
「嫌だよ、ブルーちゃんなんて! 学校で抱っこは要らないよ!」
「なんでだ、して欲しかったんだろう?」
 遠慮するな、と胸を叩いてみせるハーレイに「背負う方でいいよ!」とブルーは叫んだ。
「抱っこの方は我慢するから! 大きくなるまで!」
 そうは言ったものの、少し寂しい。して欲しかったお姫様抱っこ。ハーレイの腕に身体を預けて運ばれる時の例えようもない充足感と心地よさは当分、今の身体では味わえない。
 俯いてしまったブルーの頭をハーレイの手がクシャリと撫でた。
「…分かってるさ、お前の気持ちはな。だがな、今はまだ応えてやれないんだ」
 すまん、と真摯な瞳で謝るハーレイ。さっきまでの笑いが嘘だったように。
「…ハーレイ…?」
「いつかお前が大きくなったら、ちゃんとベッドまで連れてってやる。…意味は分かるな?」
「…うん…」
 ブルーの頬が真っ赤に染まった。いつか望みが叶う時には、自分は、きっと…。



 今は叶わないらしい、お姫様抱っこ。
 けれどブルーには今の生での目標が出来た。前の生では思いもしなかったハーレイの背中。その広い背中に背負って貰って移動すること。
「ねえ、ハーレイ? 背負って貰う方なら学校でやってくれるんだよね?」
「お前の家だとベッドに担ぎ上げて終わりだからなあ、まあ、学校しか無いだろうな」
 だが、とハーレイはブルーの額を指先で弾く。
「それを狙って無理して学校へ来るのは無しだ。お前が寝込む姿は見たくないんだ」
「…だけど…」
「でも、も、だけど、も聞きたくはないな」
 病気になって辛い思いをするのも、苦しくなるのも、お前だろうが。
 背負ってやるのは何でもないが、その前に、お前。行き倒れるなよ、学校で……な。
 しっかり食べて、丈夫になれ。
「……うん……」
 それがハーレイの心からの望みで、ブルーの身体を気遣っての言葉なのだと分かったから。
 ブルーはコクリと頷いた。
 学校で倒れないようにしたい。ハーレイに心配させたくはない。
(…でも……)
 同じ倒れるならハーレイの前で、と子供ならではの欲張り心も顔を出す。
 お姫様抱っこは当分無理でも、ハーレイの背中。其処に背負って貰えるのならば、保健室行きも気にしない。倒れて、寝込んで、学校を休んでしまったとしても…。
(それにハーレイのスープもつくしね)
 ブルーが寝込んだ時には大抵、ハーレイが家まで作りに来てくれる。
 前の生でブルーのためだけに作ってくれていた野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴で優しい味わいのスープ。
 広い背中に背負って貰って、あの懐かしい味のスープが飲めるなら…。
(うん、それだけでとっても幸せだよね)
 ふふっ、とブルーは微笑んだ。ハーレイに心配させたくはないのだけれども、心配してかまって欲しいとも思う。いつか一緒に暮らせるようになるまでの間は、そのくらい…。
(いいよね、ちょっとくらいはね…)
 ねえ、ハーレイ?
 ちょっとくらい我儘を言ってもいいよね、ぼくはハーレイの恋人だから…。




            ぼくを運んで・了


※今はして貰えない、お姫様抱っこ。流石に色々無理がありすぎますね、これは。
 今度は背負って欲しくなったようですが、子供ならではの我儘全開かも…。
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「ハーレイの家、楽しかったのに…」
 ブルーは自分のベッドの上で膝を抱えて蹲っていた。今日は初めてハーレイの家に招かれ、母が焼いてくれたパウンドケーキを手土産に提げて出掛けて行った。家の中をぐるりと一周して見せて貰ったり、ハーレイが作ってくれたシチューなども食べた。
 それは楽しい時間を過ごして、明日も行きたいと思ったのに。今日は土曜日だから明日は日曜、ハーレイが家に来てくれる予定だったし、代わりに自分が訪ねて行きたいと思ったのに。
「…もうハーレイの家に行けないだなんて…」
 ブルーの表情が年相応ではなかったから、と大きくなるまで来てはいけないと言われてしまって次の機会は無くなった。ハーレイにバス停まで送って貰う時から、もう悲しくてたまらなかった。
 バスが来て、ハーレイと別れて乗って。手を振っているハーレイの姿が遠くに見えなくなったら涙が零れた。そのまま泣き出しそうになるのをグッと堪えて我慢した。
 ハーレイの家には行けなくなってしまったけれども、それは小さい間だけ。いつか身体が大きくなったら呼んで貰えるのだし、その時はいつかやって来る。ほんの数年待つだけなのだし、何より自分は前の生より幸せだから…。
 懸命に自分にそう言い聞かせて、「今日はとっても楽しかったよ」と両親に告げた。
 夕食の席ではハーレイの家での出来事を笑顔で二人に話して聞かせた。素敵な時間をたっぷりと味わって来たことは事実だったし、話したいことは山ほどあった。
 それでも自分の部屋に戻って、後は寝るだけになると寂しくなる。ハーレイが暮らしている家に明日も遊びに行きたかった、と悲しくなる。
(…でも、明日はハーレイが来てくれるから…。また会えるから…)
 前の生でメギドへ飛んだ時には明日など無かった。
 最後にハーレイの腕に触れた右の手。その手に残ったハーレイの温もりだけを抱いて逝くのだと覚悟して飛んだ。それなのにキースに撃たれた痛みが酷くて、大切な温もりを失くしてしまった。独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと泣きながら死んだ。
 あの時の絶望と悲しみを思えば、今の自分はどれほど幸せなことか。
 明日もハーレイに会うことが出来て、明後日も、その先のずっと先までも…。
 そしていつかはキスを交わして、本物の恋人同士になれる。結婚して共に歩んでゆく。
 ほんの少しの我慢なのだ、とブルーはベッドにもぐり込んで丸くなった。
(…今は一人だけど、大きくなったら…)
 いつかは一人で眠らなくてもいい日が来る。ハーレイの優しい腕に抱かれて眠れる日が来る。
 ハーレイの家に行けるくらいに大きくなったら、そうなる日もきっと近いのだ…。



 そんな思いで眠った次の日。約束通りハーレイが午前中からブルーを訪ねて来てくれた。普段と変わらない顔だったけれど、母がお茶とお菓子をテーブルに置いて部屋から出てゆくと…。
「ブルー、昨日はすまなかったな。…大丈夫か、あれから泣かなかったか?」
 ごめんな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「お前を呼んではやりたいんだが、色々と…な。本当にすまん」
「ううん、ぼくなら大丈夫。泣いていないよ」
 本当は帰りのバスで泣きかかったけれど、ブルーは笑顔で「平気」と答えた。ハーレイがホッとしたのが分かる。自分を心配してくれていたのだ、と感じて嬉しくなる。
(…本当のことを言わなくて良かった…)
 ハーレイを悲しませたくはなかったから。本当のことを告げたところで、ハーレイの家に呼んで貰えるわけではないと分かっていたから。そんな判断が出来る自分がちょっぴり誇らしく思えて、自慢したい気持ちになっていたら。
「そうだ、昨日の約束な」
 ハーレイが胸ポケットに手を突っ込んだ。
「約束?」
 昨日交わした約束と言えば、ハーレイの家へ二度と訪ねて行かないこと。もしかして誓約書でも作って持って来たのだろうか? そんな書類にサインしなくても、約束はちゃんと守るのに…。
(ぼくって、信用されてない?)
 少しガッカリしたのだけれど。
「ほら、ブルー。約束通り持って来てやったぞ」
 ハーレイがポケットから取り出したものは、折れ曲がらないように透明なケースに収めた一枚の写真。日だまりの床にチョコンと座った真っ白な可愛い猫の写真で。
「アルバムにあるか探しておくと言ってただろう? おふくろの猫だ」
「これ、ミーシャなの?」
「そうさ、お前に約束したから探してきたんだ。約束はきちんと守らないとな」
 お前もだぞ、と写真をテーブルに置きながらハーレイが微笑む。
「寂しいだろうが、大きくなるまで俺の家には絶対来るなよ。前とそっくりに大きくなったら、好きなだけ遊びに来ればいいから」
「うんっ!」
 ハーレイが約束を守ってくれたことが嬉しかった。ブルー自身はすっかり忘れてしまっていたというのに、写真を探して持って来てくれた。ほんの小さな約束をきちんと守ってくれたハーレイ。だから自分も応えなければ。ハーレイの家に行けないことは悲しいけれども、約束だから。



 テーブルの真ん中に置かれたミーシャの写真。ハーレイの家で聞いた話に出て来たとおりの白い猫。ハーレイが生まれるよりも前から、ハーレイの母が飼っていた猫。
「可愛い猫だね、ホントに真っ白」
「この頃で何歳くらいだったかなあ…。今のお前よりも年上の筈だが」
「ええっ?」
 ブルーは写真を覗き込んだ。そんな年にはとても見えない可愛らしい猫。
「お前より上には見えんだろう? それがミーシャの凄い所さ、おまけに甘えん坊だったしな? 俺の家に来た客はすっかり騙されていたもんだ。年寄り猫だとは誰も気付かん」
「それでおやつを貰えてたの?」
「可愛いですね、なんて言われてな。撫でて貰って、おやつ付きだ」
「そうなんだ…」
 写真の猫は確かに可愛い。道端で会ったらブルーだって声を掛けずにはいられないだろう。声を掛けて、そっと撫でてみて。甘えてくるなら抱き上げてみて…。
「ミーシャは本当に甘えん坊でな。その辺りはお前にそっくりだったな」
「ぼく?」
「甘えん坊な所がな。…俺の方が後に生まれて来たのに、俺が学校に行き始める頃にはミーシャに甘えられていたもんだ。自分よりでかくて抱っこしてくれれば甘えていいと思ったんだろうな」
 うん、本当にお前に似ている。
 ハーレイは向かい側に座ったブルーを見ながら目を細めた。
「前のお前は俺より年上だったしな? それなのに俺に甘えてばかりで、本当にミーシャそっくりだった。…ミーシャと違うのは俺にしか甘えて来なかったっていう所だな」
「……ソルジャーだったし……」
「それだけか? お前が一番年寄りだったからだろ、ゼルよりもな」
「…そうなのかも……」
 年長者としての遠慮も確かにあった。長老だけしかいない席では冗談なども飛び交っていたが、其処でもブルーは一番年上。砕けた口調で話しはしても、甘えた覚えは一度も無かった。
 前の生でブルーが甘えられた相手はハーレイだけ。アルタミラを脱出して間もない頃から甘えていたと記憶している。誰よりも頑丈で体格の良かったハーレイは、少年の姿で成長が止まっていたブルーを壊れ物のように扱い、何かと言えば「しっかり食べろ」と言っていたものだ。
 ブルーがソルジャーになってからはハーレイも敬語で話したけれども、それまではブルーを年下扱いするかのような言葉遣いが多かった…。



 懐かしく遠い過去へと思いを馳せていたら、ハーレイが「おい」と呼び掛けて来た。
「まさかお前、今度は狙って生まれて来たんじゃないだろうな?」
「えっ?」
「俺より小さく生まれて来ようと、わざと後から生まれなかったか?」
 怪しいぞ、と言われたブルーは「違うよ!」とムキになって反論した。
「そんなわけないよ、ぼくは小さすぎたから困ってるのに!」
 しかしハーレイは可笑しそうに笑う。
「そうか? 小さすぎなければ俺がデカイ方が良かったんじゃないのか、その辺の加減を間違えて生まれてしまっただけで」
 予定ではもっと早く生まれて、充分大きく育った姿で出会うつもりで…、と揶揄われると自信が無くなってきた。十四歳を迎えたらハーレイと出会う運命だったのだろう、とブルーは固く信じているのだけれど、もしかしたら、もっと大きく育った姿で再会するつもりだったかも…。
(…失敗しちゃった? 今のハーレイに出会う時にはもっと育ってる筈だった?)
 前の生での姿そっくりに育っていたなら、待ち時間などは必要無かった。出会って直ぐに本物の恋人同士になれたし、ハーレイの家に来てはいけないと言われることも無かった筈で…。
「……ぼく、計算を間違えちゃった…?」
 シュンとするブルーに、ハーレイが「いいじゃないか」と穏やかな笑みを浮かべて語る。
「たとえ計算ミスだとしても、俺はその方が嬉しいな。今度こそお前を守ってやれるし、俺の方が年上なんだから正真正銘、保護者になれる。教師と生徒じゃなくても、だ」
 自分がブルーを何処かへ連れて出掛けるのならば立場は保護者だ、とハーレイは言った。
「実際は何処にも連れてはやれんが、海でも山でも俺が保護者ということになる。遊園地でもな。そして今は保護者として出掛けられない代わりに、将来は俺がお前の保護者になるんだろう?」
 お前のお父さんとお母さんに代わって、お前をしっかり守らないとな。
 軽く片目を瞑るハーレイに、ブルーの頬が赤く染まった。いつかハーレイと一緒に暮らす時にはハーレイが保護者。保護者と呼ぶのかどうかはともかく、ブルーは守られる立場なのだ。



 小さすぎたのは失敗だけれど、ハーレイに守って貰える立場だと思うと嬉しい。前の生でもそうだったのだが、あの頃はハーレイの方が年下。その事実を思い出す度に心配になった。ハーレイは優しくしてくれるけれど、何処かで無理をしてはいないか、と。
(今度は心配しなくていいんだ…。ハーレイ、ホントにぼくより大きいんだもの)
 ハーレイは今のブルーよりもずっと年上。倍以上も年が離れている。だから甘えても可笑しくはないし、ハーレイにもうんと余裕がある。そういったことを考えていたら、尋ねられた。
「ブルー、お前はどうなんだ? 俺よりも早く生まれていた方が良かったか? 姿は前と同じだとしても、今の姿の俺に出会うには、お前、三十七歳以上でないとな」
 俺は三十七歳だから、とハーレイは自分を指差した。
「…そっか、ハーレイよりも年上だったら三十七歳以上になるんだ…」
 ブルーは赤い瞳を丸くした。
 自分の外見の年は前の姿で止めているにしても、三十七歳のハーレイに会うには自分の年はそれ以上でないといけない計算になってくる。
(んーと…。一歳だけ年上でも今で三十八歳なわけ? ぼくは十四歳だから、今の年に二十四年も足すの? そんなに足さなきゃいけないの?)
 今の生では十四年しか生きていないが、前の生での記憶があるから二十四年という歳月の長さは見当がつく。それだけでも長すぎると思えてくるのに、ハーレイと出会うまでには三十八年という年数が必要なわけで、最小限の年齢差でさえ三十八年。
(…前と同じくらいに年上だったら…)
 想像するのも恐ろしかった。そんなに長い間、一人で待てない。ハーレイに会えずに一人きりで何十年も待ちたくはないし、待てるわけがない。
「ぼく、待てないよ…。ハーレイと会うまで、そんなに待てない! 今が限界!」
 十四年でも長すぎだよ、とブルーは叫んだ。出来るものなら少しでも早く出会いたかった。同じ地球の上で、同じ町で二人とも暮らしていたのに、この年になるまで会えなかった。記憶が蘇っていなかったから平気だったけれど、それでも今から思えば悲しい。
 もっと早くハーレイと出会いたかった。子供扱いの期間が長くなっても、それでも幸せだったと思う。大好きなハーレイと同じ町に住んで、休日になればこうして会って…。



 切々と訴えたブルーに向かって、ハーレイがニヤリと笑ってみせた。
「…俺は三十七年間ほど待ったんだが? 寂しい独身人生ってヤツで」
「ハーレイ、凄い…」
 ブルーは心の底からそう思った。三十七年も待ったハーレイは偉い。今の生がどんなに充実していようと、三十七年という歳月は長い。その間、ブルーは何処にも居なかったのに。十四年前には生まれていたけれど、ハーレイとは出会えなかったのに。
「ハーレイ、一人で寂しくなかった? 独身人生とか、そんなのじゃなくて」
「ん? …そうだな、誰かが家に居てくれたらいいのにな、と思ったことなら何度もあったが…。その先を考えられなかった。俺の家には子供部屋もあるのに、嫁さんはなあ…」
 全く想像出来なかった、とハーレイは不思議そうに首を傾げた。
「親父もおふくろも嫁はまだかとも言わなかったし、そのせいってこともないんだろうが…。どういうわけだか、嫁さんも子供もまるで頭に浮かばなかった。今から思えばお前のせいだな」
 こんな美人を貰う予定ではどうにもならん、とハーレイが笑う。
「俺にとってはお前が最高の美人だからなあ、それ以外は目にも入らなかったんだろう。ずいぶん長いこと待たされた上に、まだまだ嫁には貰えそうもない」
「ごめんね、ハーレイ…。ぼくだったらそんなに待てないと思う…」
 だから急いで大きくなる、とブルーは言ったが、ハーレイは「いや」と優しく微笑んだ。
「ゆっくりでいいさ、焦らなくてもゆっくりでいい。…俺はお前にもう会えたんだし、長い時間を待つのも慣れた。三十七年も待っていたんだ、お前の顔を見ていられるなら何年でも待てる」
「でも…」
「お前が大きくなりたいってか? そうだな、俺の家にも来られないしな、今のままだと」
 だが焦るな、とハーレイの手がブルーの頭をポンポンと叩く。
「俺は小さなお前が好きだし、俺がお前を守れる大人で良かったと思う。前みたいに外見だけってわけじゃなくてだ、中身の方も俺が年上なんだ。…その年上の俺が言うんだ、子供の時間をうんと楽しめ。前に叶わなかった分まで幸せに生きて、ゆっくり大きくなるんだ、ブルー」
「…うん……」
 早く大きくなりたいけれども、ハーレイが「ゆっくり」と何度も繰り返すのだし、それは大切なことなのだろう。
(…だけど、やっぱり早く大きくなりたいよ…)
 どっちの方がいいのかな、とブルーは思う。ゆっくり大きくなるのがいいのか、早く大きくなる方なのか。でも、どちらでもきっと幸せになれる。大きくなったら、きっと幸せに…。



(…ハーレイより後に生まれて良かった)
 テーブルの上のミーシャの写真を眺める。甘えん坊で可愛らしくても、ハーレイより年上で先に生まれていたミーシャ。前の生の自分はミーシャとまるで変わらない。年下だったハーレイの胸に縋って甘やかされて、その温かさに酔っていた。
 けれど今の自分は前とは違う。ハーレイはブルーよりも遙かに年上で、立派な大人。ハーレイの方がずっと大きくて、ブルーは小さな子供に過ぎない。今はその差が悲しいけれども、ハーレイが先に生まれていたから、今度は本当に守って貰える。
 前の生のようにハーレイの負担になっていないかと気にしなくていい。ハーレイは本当に守れる立場に生まれたのだし、ずっと年上なのだから。
(ちょっぴり小さすぎちゃったけど…。でも、いつか必ず大きくなるから)
 そして今は行けないハーレイの家にも、何度でも呼んで貰えるようになる。またハーレイの家に行けるようになったら、本物の恋人同士にもなれる。
(…それまでは我慢しなくっちゃ…。ハーレイの家に行けないのは寂しいけれど、でも…)
 ブルー自身も忘れ去っていた約束を守ってくれたハーレイ。
 アルバムからミーシャの写真を探して、ブルーの家まで持って来てくれたハーレイ。
(ハーレイ、約束を忘れずにいてくれたもんね…)
 だからぼくも寂しいけど、約束を守る。
 いつかハーレイがいいと言うまで、ハーレイの家には行かない約束。
 今のぼくはハーレイよりもずっと小さな子供だから。
 ぼくより年上なハーレイの言うことはちゃんと守るよ、ハーレイはぼくより大人だから…。




         白い猫の写真・了


※今回のお話はシリーズ第9話、「初めての訪問」の後日談でした、今更ですけど。
 これもじっくり書いておきたかったんです。それに、ブルーとハーレイの絆も。
 先に生まれて待っていたハーレイ。今度こそブルーは本当に甘えていいのです。

 そして、このお話。
 管理人的には「すっげえターニングポイント」ってヤツです、どうでもいいですが。
 このお話のプロットを作ろうとしていた日の朝、別のプロットが頭にありました。
 そこで「おっと、牛乳瓶、出しておかないと」と玄関先に向かった管理人。
 牛乳配達用の箱の蓋をパタンと閉めた瞬間、プロットを綺麗に忘れていました。
 どう頑張っても思い出せなくて、「まあいいか」と別の話を作ったわけですけれど。
 あの日、牛乳配達用の箱にプロットを突っ込まなかったら、連載は残り僅かでした。

 牛乳瓶と一緒に突っ込んだばかりに、別の方向へと向かったお話。
 御存知の方は御存知でしょうが、ストック、100話をとっくに超えてます。
 別コンテンツとのしがらみで「出せずにいる」という小心者です、ここ、別館だし…。
 144話目を某ピクシブにフライングでUPしてみました。
 「早くそこまでUPして!」という方がおられましたら、拍手から一言お願いします~!
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 それは十四歳の小さなブルーがメギドでの出来事を夢に見て飛び起きてしまった夜のこと。前の生での悲しすぎた最期をもう何度夢に見ただろう。その度にとても怖くなる。自分は本当に生きているのかと、何もかもが儚い夢ではないかと。
(…怖いよ、ハーレイ…)
 ハーレイに側に居て欲しい。ブルーは確かに生きているのだと、強く抱き締めて教えて欲しい。前世よりも小さな今の身体が本物なのだと、メギドで撃たれた身体の代わりに手に入れたのだと。
 けれどハーレイの家は何ブロックも離れた所で、夜の夜中に一人で行くには遠すぎた。前の生と違って瞬間移動が出来ないブルーには越えられない距離。ハーレイだけに届く思念も紡げない。
(…会いたいよ、ハーレイ…。怖いよ、ハーレイ…)
 側にいてよ、と涙を零してもハーレイが来てくれるわけもない。ハーレイの家はとても遠いし、そうでなくても「来てはいけない」と言われてしまった。一度だけ出掛けたハーレイの家。其処でブルーが見せた表情が年相応ではなかったとかで、大きくなるまでは行けなくなった。
 そういったことを考えてゆけば「今」は確かにあるのだけれど。
 その「今」が揺らぎそうになる。ハーレイとの日々はメギドで死んだソルジャー・ブルーが見ている夢で、十四歳の小さな自分は地球に行きたかった彼の魂が作り出した幻なのではないかと。
 気が付けば全てが消えていそうで怖かった。自分は死んで独りぼっちで、ハーレイも今の両親も誰もいなくて、この部屋も家ごと消えてしまって…。
(怖いよ、ハーレイ…。側にいてよ…)
 会いたいのに、と泣きながらブルーは眠りに落ちていった。前の生の最期にハーレイの温もりを失くして凍えた右の手をキュッと握り締め、その手をいつも温めてくれるハーレイの大きな温かい手を思い浮かべて…。



 怖くて恐ろしくてたまらなかったのに。辛くて悲しくて寂しかったのに、何故か優しい温もりに包まれ、それを求めて縋り付いた。すると温もりはブルーをすっぽり包んでくれて、暖かな眠りが訪れる。温もりが何なのか分からないけれど、恐ろしさも怖さも何処かへ消えた。
(…気持ちいい…)
 それに温かい、と心地よい温もりに身体を擦り寄せ、それに包まれてぐっすり眠った。そうして夜が明け、ぱっちりと目を覚ましてみたら。
「…あれ?」
 夢だとばかり思っていた温もりがまだ側に在る。どうしてだろう、と見回してみるとハーレイの腕の中に居た。これも夢かと瞬きをしたが、ハーレイは消えるわけではなくて。
(そっか、ハーレイ、来てくれたんだ…!)
 怖い夢を見て泣いていたから、気付いて来てくれたのだろう。もう嬉しくてたまらない。幸せな気持ちが溢れ出すままに、ハーレイに向かって微笑みかけた。
「…おはよう、ハーレイ。もしかして、気が付いて来てくれた…?」
 ところがハーレイの答えはブルーが予想だにしなかったもので。
「違う、来たのはお前の方だ。…お前がいるのは俺のベッドで、この家は俺の家なんだが…」
 言われた途端に気が付いた。自分のベッドよりも大きなベッド。ならば自分は飛んで来たのだ。出来ない筈の瞬間移動で空間を超えて、ハーレイの家まで。
(ぼく、飛べたんだ…!)
 ハーレイの家まで飛んで来られた。喜びで胸が弾けそうになる。昨夜見た夢は怖かったけれど、ハーレイはちゃんと目の前にいる。ハーレイの家も本当に在る。この幸せな今が現実。
「ハーレイ…!」
 大きな身体に抱き付き、広い胸に頬を擦り寄せた。もう今度から怖い夢を見ても大丈夫。自分は飛ぶことが出来るのだから、こうして飛んで来ればいい。
 そう言ったらハーレイは「怖い夢を見たらいつでも来い」と許してくれたし、普段は来られないハーレイの家も夢を見た時は例外にして貰えるのだろう。
 嬉しくて幸せでたまらないのに、ハーレイは何処か遠い目をしていて。
「…ハーレイ? どうしたの、何か迷惑だった?」
 心配になって尋ねれば、苦笑いしながら。
「い、いや…。今日は学校は休みだったな、と思ってな」
 朝飯にするか? と訊かれてブルーはコクリと頷いた。そういえば今日は土曜日だった。学校のある日でなくて良かった、とブルーも思う。ハーレイの家で一緒に朝食を食べられるのだから。



「よし、お前のために腕を奮うとするか。これでも料理は得意なんだぞ」
 沢山食べて大きくなれよ、とハーレイがブルーの髪をクシャクシャと撫でてベッドから降りた。そのハーレイが徹夜でブルーへの欲望と戦っていたことをブルーは知らない。だから急いで自分もベッドから降り、ハーレイの腕にギュッと抱き付く。
「こらっ、俺はこれから歯磨きと着替えだ! ついてくるなよ!」
「なんで?」
「お前の視線は心臓に悪い!」
 此処で待ってろ、と二階の寝室から一階のリビングへ連れて行かれた。ソファに座らされ、目の前の床にスリッパが置かれる。
「足が冷たいなら履いていろ。裸足でもいいぞ」
 じゃあな、と出てゆくハーレイは裸足。シャングリラに居た頃と違って、今の生では家の中では靴は履かないのが基本だった。来客用のスリッパをじっと見詰めてから、履かない方を選択する。次はいつ来られるか分からないハーレイの家なのだから、素足で床を感じていたい。
(…ふふっ、フカフカ)
 リビングに敷かれた絨毯の柔らかな感触を味わい、それから部屋をあちこち眺めた。壁際の棚のトロフィーはハーレイが柔道や水泳で勝ち取ったもので、前に来た時に見せて貰った。ハーレイの好みらしい落ち着いた壁紙などは前の生でのハーレイの部屋を思わせる。
 キョロキョロしていると、半開きの扉の向こうからハーレイの声が聞こえて来た。
「ええ、ええ…。はい、怖い夢を見たのが引き金だったようで…」
(あれ?)
 ぼくのことだ、と耳をそばだてた。話している相手は多分、母か父。
「大丈夫です、後で送って行きます。…元々、伺う予定でしたから」
 ご心配なく、という声を最後に会話は終わって、暫く経って。
「待たせたな、ブルー。食事にしようか」
 着替えを済ませたハーレイが来て、「寒くないか?」と訊かれたけれど、パジャマ姿でも風邪を引くような季節ではない。
「うん、平気!」
「すまんな、お前が着られそうな服は無いからなあ…。じゃあ、飯にするか」
 こっちだ、とダイニングに向かうハーレイの腕にブルーはまたしても抱き付いていた。



 ハーレイの家を一度だけ訪ねた時に、二人で昼食を食べたテーブル。そこの椅子の一つに座ったブルーに、ハーレイが隣のキッチンから声を掛けてくる。
「ブルー、オムレツの卵は何個……って、訊くまでもないな、一個だな?」
「ハーレイ、二個なの?」
 驚いたものの、身体の大きなハーレイだったら自分の倍は食べるだろう。そう思ったのに。
「それだけじゃ足らんし、俺はソーセージも焼くんだが」
「……嘘……」
「ということは、お前、ソーセージは要らないんだな? うんうん、分かった」
 すぐ作るからな、と笑いの混じったハーレイの声。やがてホカホカと美味しそうな湯気を立てるオムレツの皿が運ばれて来て、大きい方のオムレツの皿にはソーセージが一緒に乗っかっている。
(…凄いや…。ハーレイ、朝からこんなに食べるの?)
 トーストだってハーレイの分はうんと分厚く、ブルーのトーストは薄くてたったの一枚。そう、ハーレイのトーストは分厚くて二枚。
「ブルー、ミルクはこれに一杯でいいか?」
 温めるか、と出て来たマグカップの大きさにブルーは仰天した。いつも家で使っているカップの倍くらいは入りそうな大きなカップ。そんなカップに一杯だなんて言われても…。
「そ、それの半分くらいでいいから!」
「遠慮しなくていいんだぞ? お前、大きくなりたいんだしな」
 勢いよくミルクを注ぎ入れるハーレイを「ダメ!」と叫んで必死に止めたら、「冗談だが?」とニッと笑われた。
「これは俺のだ。お前にはこっちで充分だろう」
 普通サイズのカップが出て来てホッとするブルーに、ハーレイがクックッと喉を鳴らした。
「お前、これだけしか飲めないのか…。そんな調子じゃ、いつになったら育つやら…」
「もうすぐだよ!」
「どうだかな? 朝食ってヤツは大事なんだぞ、それがこんなにちょっぴりではなあ…」
 俺ならとても昼まで持たん、とハーレイは豪快に食べ始める。オムレツにソーセージ、ミルクもたっぷり。分厚いトースト、サラダもブルーの倍以上はあった。どれもとっても美味しいけれど。
(…あんなに沢山、食べられないよ…)
 幸せだけれど、少し悔しい。お前はまだまだ小さいままだ、とハーレイにからかわれてしまったようで…。



 朝食が終わるとハーレイが手際よく後片付けを済ませ、「さてと、お前を送らないとな」と口にしたものの。自分のベッドから瞬間移動をして来たブルーはパジャマしか着てはいなかった。家の中なら問題は無いが、ブルーの家まで車で移動をするにしても…。
「うーむ…。お前の服をどうしたもんかな…」
 ハーレイはブルーの姿を眺めて考え込んだ。デザインは普通のシャツに見えるし、襟だって一応ついている。一見してパジャマと分かりはしないが、パジャマには違いないわけで。
(…だが、俺のシャツを貸した方が余計に変だよな? 致命的にサイズが違うしな…)
 上から羽織るものでもあれば、と思ったけれども、良いものを全く思い付かない。バスタオルは却って可笑しいだろうし、毛布の類は言わずもがなだ。
「ハーレイ、ぼくはこのままでいいよ?」
 ハーレイの服は着られないでしょ、とブルーが自分のパジャマの襟を引っ張りながら。
「パジャマなんです、って言わなかったら普通のシャツに見えると思うし」
「どうだかなあ…。しかし、それしか無いようだな。仕方ない、堂々と座っていろ」
「うん、そうする」
 裸の王様みたいだね、とブルーはニッコリ微笑んだ。裸という言葉にハーレイの心臓がドキリと跳ねたが、それはブルーがベッドに飛び込んで来てから徹夜で己の欲望と戦い続けていたからで。
(…いかん、童話のタイトルに反応していてどうする!)
 己を叱咤し、ハーレイはブルーの足元に目をやった。スリッパを履いていない裸足の足。小さな足に合うサイズの靴は家には無い。服はパジャマで済ませるとしても、裸足で外には出られない。
「…俺の靴ではデカすぎるしなあ…」
 ハーレイの呟きに、ブルーも自分の足を見た。ハーレイの足より遙かに小さい自分の足。
「でも、ハーレイの靴しかないよね?」
「脱げちまいそうだな、いっそスリッパにしておくか? 一足くらいならダメになっても…」
 ハーレイが言うスリッパは来客用のもの。本来は家の中で履くものなのだが、ブルーのためなら一足くらい外に出しても、と考えた。それならばブルーの足にも合う。けれど…。
「もったいないよ!」
 ブルーが叫んだ。
「それにハーレイの靴、履いてみたいよ、脱げてもいいから」
「履いてみたいって…。お前…」
「ぼく、ハーレイの恋人だもの! ハーレイの靴、履いてみたいな…」
 ダメ? と上目遣いに強請られ、ハーレイは折れた。ブルーの愛らしく小さな素足に自分の靴という美味しい眺めはハーレイ自身も惹かれるものがあったから…。



 こうして履物は決まったのだが、いざ履いてみるとハーレイの靴はブルーの足には大きすぎた。歩けば小さな足だけが前に出てゆき、重たい靴が取り残される。これでは駄目だと最初の案だったスリッパに手を伸ばすハーレイをブルーが「待って」と止めた。
「ハーレイ、あれは?」
 指差す先に大きなサンダル。ハーレイが愛車を洗う時などに履くもので、お世辞にも綺麗だとは言い難い。もちろん綺麗に洗ってはあるが、使用感があると言うべきか。
「あれか? …あれは洗車と水撒き用ので、外に出掛ける靴じゃないしな…」
「あれでいいよ」
 決めた! とブルーはピョコンと飛んだ。サンダルの上に着地し、両足に履いて一歩踏み出す。
「うん、これだったら大丈夫! 引っ掛かるから!」
 でも大きい、と自分の足の周りに余ったスペースをまじまじ見回しているブルー。
「そりゃ大きいさ、底の面積は靴よりもうんと広い筈だぞ」
「そうなの? 靴もずいぶん大きかったけど…」
 脱げちゃうんだもの、と借りそびれてしまった靴を見つつも、ブルーは満足そうだった。たとえサンダルでもハーレイが普段、履いている物。それを自分が履いているのが嬉しいのだろう。
(しかし本当に小さな足だな…)
 ハーレイの唇に笑みが零れる。前の生のブルーも細くて華奢だったけれど、今のブルーはもっと小さい。ハーレイの大きな靴を履かせても、その眺めに胸が高鳴る代わりに愛らしさばかりが目につくほどに…。



 パジャマ姿で、足にはハーレイの大きなサンダルを履いて。ブルーはドキドキしながら離れ難いハーレイの家の玄関から出た。次に来られるのはいつだろう?
(また来たいけど…。でも、どうやって飛んで来たのか分からないしね…)
 恐ろしい夢を見ないと来られそうになく、必ず来られるわけでもない。メギドの夢なら今までに何度も見たのに、飛んで来られたことは一度も無い。
(…当分、来られないのかも…)
 名残惜しげに覗き込んでいた扉をハーレイが閉めて鍵をかけた。
「さあ、行くか。お前、俺の車は初めてだったな」
「うんっ!」
 ブルーの胸のドキドキは車のせい。前に来た時には見ていただけのハーレイの車。学校の駐車場でも目にするけれども、乗せて貰えるとは思いもしなかったハーレイの車。
 ハーレイと二人で庭を横切り、ガレージに行って。助手席のドアを開けて貰ってハーレイよりも先に乗り込んだ。ブルーの身体には些か大きすぎるシートだったが、座り心地はいい。
(…ふふっ)
 まさかハーレイの車に乗れるなんて、と嬉しい気持ちがこみ上げて来る。ハーレイのサンダルにハーレイの車。パジャマ姿でも気にしない。
「おいおい、なんだか嬉しそうだな」
 隣に乗り込んだハーレイがエンジンをかけながら言うから、「うん!」と答えた。
「だって、ハーレイの車だもの」
「なるほど、ちょっとしたドライブ気分か」
 行くぞ、とハンドルを握るハーレイ。
「シャングリラみたいに飛びはしないが、車もけっこう面白いもんだ」



 走り出した車はゆっくりと住宅街の中を抜けてゆく。前にハーレイに「もう来てはいけない」と言われたブルーが、それを告げたハーレイに送られてションボリと歩いて帰った道。あの時と同じ道をまたハーレイと通っている。今度はハーレイが運転する車に乗って。
(…夢みたいだ…)
 ハーレイの車、とドキドキしているブルーはろくに景色も見ていなかった。真っ白な猫が尻尾をピンと立てて道を横切り、ハーレイが「おっ!」と声を上げても生返事。
「ブルー、今の猫、ちょっとミーシャに似ていたな……って、聞いちゃいないか」
 見えてもいないな、とハーレイは苦笑しながら助手席に座った恋人をチラリと横目で眺める。
(まったく、何を見ているんだか…。そんな所も可愛いんだが)
 この小さすぎる恋人を本物のドライブに連れ出せる日はいつのことやら、と考えつつハンドルを握るハーレイの横顔をブルーがドキドキしながら見詰める。
(…かっこいいよね…)
 シャングリラに居た頃は、舵を握るハーレイに見惚れていることは出来なかった。ハーレイとの仲を悟られないよう、常にソルジャーの貌をしていた。
(あの頃もこういう顔だったのかな、キャプテン・ハーレイ…)
 それとも今は自分を隣に乗せている分、優しい顔をしているだろうか? あるいは穏やかで甘い顔なのか、運転中だから厳しいのか。
(…よく分からないや…)
 もっと見ていたい、とブルーは願う。家までの道が少しでも混んでいるように。信号で少しでも長く止まっているように…。



 けれど夢のドライブは呆気なく終わってしまって、気付けば見慣れた住宅街。ブルーの家を取り巻く生垣が見えたかと思うと、ハーレイが車を来客用のスペースに入れる。もう少しだけ、と強く願ったのに、車は停まった。
「ブルー、着いたぞ。…ほら、お母さんだ」
 そう言いながらハーレイが運転席から降りて助手席のドアを開けてくれたから、ブルーは車から出るしかなかった。ハーレイの大きなサンダルを履いた足を地面に下ろせば、扉を開けに来ていた母が「あらっ!」と気付いて声を上げる。
「ハーレイ先生、すみません、ブルーが色々とご迷惑を…。この子ったら、もう、パジャマだけで靴も履かないで…! ブルー、靴を持ってくるから其処にいなさい」
 パタパタと急いで戻って行った母は直ぐにブルーの靴を持って来て履き替えさせた。ハーレイの大きなサンダルがブルーの足から消えて無くなる。
(…ハーレイのサンダル…)
 もう少し履いていたかったのに、と思う間も無くサンダルは消えた。ハーレイの手がサンダルをヒョイと掴んで助手席の床に放り込み、ドアをバタンと閉めてしまった。さっきまでブルーが独占していた乗り心地のいいシートもサンダルと一緒にドアの向こうに消えた。
「ブルー? ハーレイ先生にきちんと御礼を言うのよ」
 そして急いで着替えなさい、と指図する母はハーレイにしきりに謝っている。家の中から父まで出て来た。「ハーレイ先生、すみません!」と謝りながら。
「いえいえ、どうせついでですから」
 今日はこちらに来る日でしたし、とハーレイは両親と挨拶を始めてしまって、ブルーの大好きな恋人の顔ではなくなった。そう、今のハーレイは「ハーレイ先生」。
(…なんだか魔法が解けたみたいだ…)
 ハーレイのサンダルを脱いでしまったら魔法が解けたシンデレラ。お姫様ではないのだけれど、そんな気持ちがしてしまう。魔法のサンダルを探してハーレイの車を覗こうとしたら、母の声。
「ブルー、いつまでパジャマで立ってるの? それとハーレイ先生に、御礼!」
「う、うんっ! …ありがとう、ハーレイ。それに、ごめんね」
 頭を下げると「いいや」と大きな手でクシャリと頭を撫でられた。
「さあ、着替えて来い。俺は後からゆっくり行くから」
「はーい! ハーレイ、また後でね!」
 魔法が解けてしまった小さな足にサイズぴったりの自分の靴。ブルーはハーレイに向かって手を振り、玄関の方へと駆け出した。魔法の時間は終わったけれども、今日は一日、ハーレイと一緒。此処は夢でもメギドでもなくて、青い地球の上。
(ずっとハーレイと一緒なんだよ)
 これから先も、ずっと、ずっと、ハーレイと一緒。いつかハーレイと結婚して……。




            夢のような朝・了


※今回のお話はシリーズ第2話、「君の許へと」の裏話でした、今更ですけど。
 一度じっくり書きたかったのです、あの日の二人の朝御飯とかを。
 ブルーの足には大きなサンダル、パジャマ姿でも幸せな朝。
 ←拍手してやろうという方は、こちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








 前の生の最期にハーレイの温もりを失くしたブルー。メギドへと飛ぶ前、ハーレイの腕に最後に触れた右手に残った温もりを抱いて逝くつもりだったのに、撃たれた痛みで失くしたブルー。右の手が冷たいと、独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ前の生のブルー。
 その悲しみを覚えているから、ブルーは右の手をハーレイが握ってやると喜ぶ。温もりが戻って来たと幸せそうな顔で微笑む。
 凍えた右手が前世の最後の記憶だったから、右手を握ることが一番多いのだけれど。ハーレイと再会した時にブルーの身体に浮かび上がったメギドで撃たれた時の傷痕。小さな身体を血に染めた傷痕が現れた場所に手を当ててやることもブルーは好んだ。
 後ろからそっと抱き締められて、両方の肩に、左の脇腹に、順に当てられてゆくハーレイの手。最後に撃たれた右の瞳に手を当ててから、ハーレイはブルーの右の手を握る。傷の痛みで失くしてしまったという温もりを移してやるために。
 メギドでブルーが撃たれた傷痕。キースが弾を撃ち込んだ数も、容赦なく撃ちながら狙った順もハーレイはすっかり覚えてしまった。
 小さなブルーはもちろんだけれど、ソルジャー・ブルーだった頃のブルーも細くて華奢な身体をしていたというのに、そんな身体に何発もの弾を撃ち込むとは、何処まで残虐な男なのか。獲物を狩るような気持ちで楽しみながらブルーを撃ったのだろうか、と考えてしまう。
 死の星だった地球でキースに再会した時は、ブルーの死の真相など知らなかった。だから冷静に会談に臨むことが出来たが、彼がブルーをどう扱ったかを知っていたなら、どうなったことか。
 キャプテンとしての立場も忘れてキースを罵り、あるいは殴っていたかもしれない。八つ裂きにしても足りないくらいに憎いけれども、あの時のハーレイは知らなかった。目の前の男がブルーを撃ったことも、その傷の痛みのせいでブルーがハーレイの温もりを失くしたことも。
 皮肉なことに、ハーレイが全てを知った時にはキースは何処にも居なかった。遙かに過ぎ去った時の彼方で英雄になってしまっていた。人類とミュウとの和解を促し、SD体制を終わらせた男。遠い日にブルーを撃った男は、生ある間にブルーに心で詫びただろうか。
 それすらも今は分からない。自分もブルーも青い地球の上で新たな生を生きているのだし、前の生での恨み言など口にしても仕方ないのだけれど。過ぎたことだと思いたいけれど、ブルーを抱き締めて傷の痕に順に手を当ててゆく時、ハーレイの胸がキリリと痛む。
 ブルーが味わった苦痛と悲しみ。それをブルーに与えた男を殴ることすらしなかった自分。
 知らなかったからと済ませてしまうには、あまりにも苦しい戻れない過去。
 ミュウと人類の懸け橋となったキースを憎むわけにはいかない。ブルーもまたキースを恨んではいない。
 キースを殴れる機会は二度と来ないし、殴るべきでもないのだが…。



 今となってはどうしようもない遠くへ流れ去ってしまった時間。小さなブルーの身体に順に手を当てる時は温もりを移すことだけを…、と考えていても、たまにこうして囚われる。過去に戻ってキースを捕まえ、力の限りに殴りたくなる。
(…どうして気付かなかったんだ…。あいつがブルーに何をしたのか、あの時、俺が気付いていたなら…!)
 思わず腕の中のブルーを強く抱き締め、愚か過ぎた過去の自分を激しく悔やむハーレイの耳に、遠慮がちな声がかけられた。「…ハーレイ?」と呼び掛けてくるブルーの声。
「ねえ、ハーレイ…。どうかしたの?」
 いつから呼ばれていたのだろうか。我に返ったハーレイの顔をブルーが心配そうに見上げる。
「考えごと? 今日はもしかして忙しかった?」
「…いや、なんでもない。すまん、傷の手当てが途中だったな」
 後は右目か、とブルーの左の肩に当てていた手を離し、その手で右目を覆おうとしたら。
「ハーレイ。…キスは額と頬っぺたしかダメ?」
 唐突なブルーの言葉に、ハーレイは驚いて動きを止めた。
「キス?」
「うん。ハーレイ、いつも言ってるよね? ぼくへのキスは頬と額だけだ、って」
「その通りだが?」
 いきなり何を言い出すのか、とブルーを見下ろす。今はブルーがメギドで受けた傷痕を順に辿る途中で、キスをせがまれるような覚えは無かった。しかしハーレイが暗澹たる思いに囚われていた間に、ブルーの方も考えごとをしていた可能性はゼロではなくて。
(…キスというのが怪しいな…)
 ハーレイが傷の痕に手を当ててゆく時、ブルーはいつも目を閉じている。手のひらから伝わってくる温もりを逃してしまわないよう、余さずその身に取り込めるよう。全身で温もりを感じる内に心地よさに酔い、前の生の自分と重ねてしまうのか、キスを強請ってくることもあった。
 そういう時には腕を絡ませてくるのが常なのだけれど、何度も「駄目だ」と叱り付けただけに、戦法を変えて来たかもしれない。此処は軽くあしらっておくに限る、と判断をして。
「なんだ、手の甲にでもキスしろってか?」
 お姫様か、と冗談めかして言えば、「そうじゃなくって…」とブルーが返した。
「手の甲じゃなくて、右目、ダメかな?」
「右目?」
 ハーレイは思わず目を見開いた。



 ブルーが最後に撃たれた右目。サイオンシールドで防ぎ切れなくて撃たれてしまった。その時の痛みがハーレイの温もりを完全に消してしまったという。
 今は傷痕すら無いブルーの右の目。けれどハーレイは小さなブルーの瞳から流れた血の色の涙を覚えている。あれが全ての始まりだった。ブルーの身体に撃たれた傷痕が浮かび上がって、夥しい血が溢れ出して…。駆け寄り、抱え起こした瞬間、自分が誰かを思い出した。
 メギドで撃たれたブルーは右の瞳も、ハーレイの温もりも失くしてしまった。その痕跡を微塵も留めていない瞳で、小さなブルーがハーレイを見詰める。
「次に温めてくれる場所って、右目だよね? ハーレイの手だと大きすぎるよ、いつも言ってる」
「そうだな、文句を言われるな。肝心の目が温まらないから指で触れ、と」
 ブルーの右目を覆って温めてやるには、ハーレイの手は大きすぎた。顔の半分を覆わんばかりの手は額や頬を温めはしても、窪んだ目には届かない。ついつい忘れて手で覆っては苦情を言われ、指を揃えて瞼を温めることになる。
「…それね、指先だけで温めて貰うよりキスがいいな、って思ったんだけど…」
 ダメ? とブルーは小首を傾げた。
「ハーレイ、キスはやっぱり額と頬っぺたにしかしてくれない?」
「…お前の右目か…」
 ハーレイは暫し考え込んだ。ブルーへのキスは頬と額だけだと決めていたけれど、それは唇へのキスを欲しがるブルーを戒めるため。まだ十四歳にしかならないブルーに唇へのキスは早過ぎた。しかし瞼はどうだろう?
(…前は何度もキスしてたんだが…)
 前の生では宝石のようなブルーの瞳が愛おしくて瞼にキスを落とした。おやすみのキスも幾度となく瞼に落としてやった。頬と額へのキスも、瞼へのキスもさして変わりはないとも思える。
(…それに右目だしな…)
 ブルーが最後に撃たれた右の目。
 小さなブルーがそれを語るまで知らなかったが、キースは薄い笑いさえ浮かべて撃ったという。勝ち誇ったように「これで終わりだ」と言い放って。
 あの頃のキースのやり口からして、如何にも最後に撃ちそうな場所。ブルーの息の根を止めるのではなく、ただ悪戯に傷つけ、貶めるために。無意味に苦しめ、優越感を味わうために。
 強い意志を宿して煌めいていたブルーの瞳。
 深い憂いと悲しみとを底に湛えてもなお、美しく澄み切っていたブルーの瞳。
 それを撃つなど狂気の沙汰だ。どうすれば撃つことが出来るというのだ、あの瞳を。
 あの忌まわしいキースしか撃てない。あの悪魔にしか撃てるわけがない…。



「……ハーレイ?」
 またしても自分の思いに囚われてしまったハーレイの心をブルーの声が呼び戻す。十四歳にしかならない小さなブルーが愛くるしい瞳で見上げてくる。
 ソルジャー・ブルーだった頃とは違うけれども、ハーレイを捕えて離さない瞳。撃たれた痕跡を残してはいない、一対の赤く輝く宝石。その宝石の中にハーレイの姿が映っている。
「ハーレイ、右目はやっぱりダメ?」
 少し悲しそうな色を浮かべる赤い瞳は、前の生で潰れてしまった右目。キースに撃たれて潰れた右の目。それを思うとたまらなくなる。その場を見てはいないけれども、この瞳が潰されてしまうなど耐えられはしない。決して潰してはならないと思う。だから…。
「…分かった。右目はキスがいいんだな?」
「うん」
 嬉しそうにブルーが頷いた。
「キスだけでいいよ、じっと温めてくれなくてもいい」
「当たり前だ。…そういうキスをしろと言うなら俺は断る」
 額や頬と同じキスだからな、とハーレイはブルーに念を押した。触れるだけのキスを軽く落とすだけで、温めるためのキスではないと。



「…じゃあ、お願い」
 よろしく、とブルーが瞳を閉じる。それ自体は普段と変わらないもので、傷痕に順に手を当てる時のブルーの習慣。現にさっきまでも目を閉じていたし、何ら問題無いのだが…。
(…お、おい…。この状態でキスなのか?)
 右目へのキスを承諾したものの、ハーレイは窮地に陥った。
 頬や額へのキスと同じつもりでいたのに、何かが違う。ブルーの瞳が閉じているだけで胸の奥が微かに波立ってくる。
(…こ、これは……)
 額や頬にキスを落としてもブルーは目を閉じてしまうけれども、最初から目を瞑ってはいない。目を閉じてキスを待ってはいない。それなのに今は二つの宝石が見えない状態。
 これでは、まるで…。
(…どう見てもキスを待ってるんだが! いや、本当に待っているんだが!)
 ブルーの注文は右目へのキス。右の瞼に落とされるキス。それを待って瞼を閉じているのだが、ハーレイの心はあらぬ方へと向かってしまう。
 前の生でブルーが瞳を閉じてキスを待っている時、それはおやすみのキスでは無かった。
 頬や額へのキスでもなくて、待っていたのは恋人同士が交わすキス。唇を重ねる本物のキス。
(…ま、まずい……)
 こんな筈では、と焦れば焦るほど前世の記憶が蘇ってくる。ブルーと交わした本物のキス。瞳を閉じて待つブルーの顎を捉え、そうっと唇を重ねた記憶。噛み付くようにキスしたこともあった。
 美しかったソルジャー・ブルー。
 幼い顔立ちの小さなブルーとは違うのだ、と分かってはいても重なって見える。その内面を映し出す瞳が見えないせいで余計に二人が重なってしまう。ソルジャー・ブルーと小さなブルー。前の生で愛したソルジャー・ブルーと、今の愛らしい小さなブルーが。
(…こ、これは厳しい…)
 キスをしなければならない右の目。それなのに唇にキスしたくなる。右の瞼にキスする代わりに唇にしてしまいそうになる。そんなハーレイの心を知ってか知らずか、ブルーの唇が小さく動く。
「ハーレイ、まだ?」
「…あ、ああ…」
 キスだったな、と返して咳払いをするのが精一杯だった。
 ブルーには少し待っていて貰おう。ざわめく心が凪いでくるまで、胸の鼓動が鎮まるまで…。



 無理難題を持ち出したブルーの方には、ハーレイを困らせる気など全く無かった。本物のキスを強請る気も無く、右目へのキスが欲しかっただけ。
 前の生の最期に撃たれた右の目。それまでに撃たれた傷の痛みも酷かったけれど、弾を防ごうと張ったシールドを貫かれるとは思わなかった。弾が飛んで来るのが見えていたのに、避けるだけの力がもう残ってはいなかった。
 右の瞳に走った激痛。真っ赤に塗り潰された視界は直ぐ闇に変わり、右目を失くしたと気付いた時には右の瞳よりも大切なものを失っていた。右の手に残ったハーレイの温もり。最期まで抱いていようと思ったハーレイの温もりを痛みで失くした。
 持てるサイオンの全てをぶつけてメギドを破壊したけれど。
 メギドの制御室に満ちた青い光とサイオン・バーストの光との中で、ブルーは独りきりだった。ハーレイの温もりがあれば一人ではないと思ったのに。ハーレイからは遠く離れた場所でも、心は最期まで共に在るのだと思っていたのに。
 ハーレイの温もりを持っていた筈の右手は冷たく凍えて、ブルーは独りぼっちになった。右手が冷たいと泣きじゃくっても、温もりは戻って来なかった。
 独りぼっちになってしまったと、右手が冷たいと泣きじゃくりながらブルーは死んだ。
 あの時、右目さえ撃たれなければ。
 右の瞳さえ撃たれなければ、ハーレイの温もりを持っていられた。傷の痛みの前に薄れて微かなものになってしまってはいても、まだハーレイの温もりは在った。それがあればブルーは一人ではなくて、ハーレイと共に居た筈なのだ…。
(…右目が最悪だったんだよ、うん)
 だから温めて欲しいと思った。ハーレイの武骨な指で温めて貰うのも好きだけれども、たまにはキスが欲しいと思った。額と頬にしか貰えないキス。それでも心が温かくなる。幸せで胸が一杯になる。ハーレイの温かな唇が降ってくるだけで。柔らかな感触が触れてゆくだけで。
(…まだかな、キス…)
 欲しいんだけどな、と待ちくたびれて「ハーレイ、まだ?」と促した。そうしたら…。
「…あ、ああ…。キスだったな」
 ハーレイらしくない少し狼狽えた声と、咳払い。おまけにキスはまだ貰えない。
(……なんで?)
 いったい何がダメなんだろう、とブルーは懸命に考えた。やっぱりキスは頬と額にしか貰えないもので、右目といえども例外ではないということだろうか?
 日頃から唇へのキスを強請っているくせに、小さなブルーは気付かなかった。今の状況が唇へのキスを待っているのとそっくり同じであることに…。



「…ねえ、ハーレイ…」
 やっぱりダメ? とブルーはパチリと目を開けた。ソルジャー・ブルーの瞳とは違う、無邪気な光を湛えた瞳。それは追い詰められていたハーレイを救うには充分すぎる煌めきで。
「こら、目を開けたらキス出来んだろう!」
「ごめんなさいっ!」
 慌ててギュッと瞑った瞼にハーレイのキスが降って来た。
 キースに最後に撃たれた右の目。瞳と一緒にハーレイの温もりまで失くしてしまった悲しすぎる記憶。その右の目を癒すかのように温かな唇が優しく触れて、心がじんわり温かくなった。ほんの一瞬、触れて離れていった唇。それでもとても嬉しくなる。手で温めて貰うよりも…。
(うん、これからは右目にはキス!)
 それがいいな、とブルーは瞳を閉じたままウットリと考えていたのだけれど。
 ハーレイの方は夢見心地のブルーの顔をまともに見られず、不自然に目を逸らしていた。
(…まずいぞ、やっぱりこのパターンはまずい)
 ブルーが子供らしい表情でダメ押しをしたからキス出来たものの、次回は上手く運ぶかどうか。それに毎回、躊躇してはブルーに強請られてキスということになったら、ブルーもいつかは気付くだろう。何故ハーレイがキスを躊躇うのか、その裏に隠された事情なるものに。
(…そうなったら絶対、こいつは調子に乗ってくるんだ)
 何かといえば「キスしていいよ?」と口にするブルー。普段は鼻であしらっているが、右目へのキスにかこつけて目を瞑ったまま言われたら…。
 自分がそれでキスをするとは思わない。そうしないだけの自制心はある。けれど波立ち騒ぐ心をその度に抑えつけ、穏やかな笑みを浮かべ続けることは拷問に近い。だから…。
「…ブルー、悪いが……」
 お前へのキスはやっぱり、頬と額だけだ。
 そう告げられたブルーは心底ガッカリしたのだが、元々、キスはそういう約束。
「…うん、分かった…」
 とても温かかったのに、と残念がるブルーの右の手をハーレイが握る。
「ほら、ブルー。最後は右手を温めるんだろう?」
「うんっ!」
 ハーレイの温もりを失くした右の手。前の生の最期に凍えてしまったブルーの右の手。
 その手にハーレイは温もりを移す。ブルーが気に入ったらしい右目へのキスをしてやれない分の謝罪をこめて。
 どうかブルーの今度の生が幸せなものであるように。
 この手が二度と凍えないよう、何処までも自分が守ってやるから、と……。




           右目へのキス・了


※ブルーの瞳が閉じているだけで、瞼へのキスを躊躇うハーレイ。無理もありませんが。
 その原因に全く気付かないブルー、まだまだ小さなお子様ですね。

※聖痕シリーズの書き下ろしショート、50話を超えました。何処まで行くのやら…。
 ←拍手してやろうという方は、こちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






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