シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(百名山…)
こんなのがあるんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
ダイニングで広げてみた新聞。其処に「百名山」の文字。何処かの山の名前だろうか、と思って記事を読み始めたら…。
(ずっと昔に…)
まだ人間が地球しか知らなかった時代、この辺りに在った小さな島国。それが日本で、その国でブームになった登山。同じ登るなら、目標があった方がいい。
その目標になった山たちが百名山。元は登山家でもあった小説家が選んだ、百の山たち。随筆の中で「この山がいい」と「百名山」という言葉も作った。
最初の頃には、ごくごく一部の山好きだけが知っていたという百名山。ところが、登山ブームが到来、登りたい人がググンと増えた。
どうせ登るなら、百名山に行くのがいい。日本のあちこちに散らばる山たち、百もある山を制覇しようと。「全部登った」と誇るのもいいし、「あと幾つ」と数えてゆくのも楽しいから。
若い人から、仕事を辞めた後の趣味にと始める人まで、大勢の人が百名山を目指したけれど。
(うーん…)
とても高い、と驚いてしまった山の標高。
特に人気だった山たちの高さが幾つか、どれも千メートルを軽く超えていた。一番低かった山も千メートル以上、というデータ。
(…千メートルって…)
かなり高いよ、と山登りをしない自分でも分かる。沢山の人が登りたがった百名山は、登山家が選んだ山だっただけに、簡単に登れる山ばかりではなかったらしい。
(魔の山だって…)
遭難事故が多発したから、そう呼ばれた山も百名山の一つ。それでも登りにゆく人たち。
もっとも、地球が滅びに向かった頃には、忘れ去られていたのだけれど。百名山も、山に登るという趣味も。
登りに行けたわけがないしね、と滅びようとしていた地球のことを思う。
大気は汚染されてしまって、地下には分解不可能な毒素。海からは魚影が消えていったし、緑も自然に育たなくなった。自然の中で楽しみたくても、もはや何処にも無かった自然。
(…百名山だって、きっと禿山…)
高い山だけに、緑の木々たちが消える前から、天辺の方は禿げていたかもしれないけれど。
二千メートルを越す山たちだったら、最初から木などは一本も無くて、むき出しの岩肌ばかりの景色だったかもしれないけれど。
(それでも高山植物くらい…)
あった筈だし、その植物さえ失われたのが滅びゆく地球。
人間は山に登る代わりに、懸命に地球にしがみ付こうとした。母なる地球を取り戻そうと努力し続け、結局、離れざるを得なかった地球。SD体制を敷いてまで。
(それでも、青い地球は取り戻せなくて…)
SD体制の崩壊と共に、燃え上がった地球。激しい地殻変動の末に、蘇ったのが今の地球。
青い地球が宇宙に戻ったお蔭で、前とは違う日本が出来た。かつて日本が在った辺りに。
其処に戻った人間たち。今の時代は誰もがミュウ。
日本の文化を復活させて楽しみながら暮らす間に、山好きの人が唱え始めた。登山をするなら、百名山があった方がいい。新しい時代の百名山はこれにしよう、と。
(それで今でも、百名山っていうのがあるんだ…)
せっかくの百名山だから、と今は失われた百名山と同じ名前をつけたりして。
遥かな昔にあった本物、その名で呼ばれる蘇った地球に生まれた山。正式名称は違う名前でも、山好きの間では通じる名前。「ああ、あの山か」と。
(ホントの名前は違う山でも、山が大好きな人には富士山…)
そういった具合に愛される山。
本物の富士山は地殻変動で消えてしまって、もう無いのに。…それでも今も富士山はある。山が大好きな人の間では、そういう名前で呼ばれる山が。
新しく選ばれた、今の時代の百名山。昔と同じに、日本のあちこちに散らばる山たち。
その百名山を目指す人たちもいる。サイオンは抜きで、自分の足で。
(凄いよね…)
記事に書かれた、今の百名山も高いのに。優に千メートルを超える山たち、今もやっぱり。
高すぎだよ、と思う百名山。下の学校の遠足で出掛けた郊外の山でも、自分には充分、高かった山。千メートルにはとても届かない山で、遠足には丁度いい高さでも。
(学校のみんなで出掛けて行っても…)
下の学年の子たちと一緒に、途中に残った遠足もあった。弱い身体では登れないから、疲れないように山道の途中でおしまい。学校に上がったばかりの子たちも、それほど登れはしないから。
(ちょっとだけ登って、そこでお弁当…)
自分よりも下の学年の子たちと、一緒に食べたお弁当。山道をもっと上に向かった、他の生徒が戻って来てくれるまで、待っていた自分。
休んでしまった遠足もあった。病気だというわけでもないのに。
(下の学年の子たちの遠足、別の場所だと…)
疲れても途中で残れはしないし、先生だって一人だけのために一緒に残っているのは無理。低い山でも山は山だし、足を挫いたりする子もいるから…。
(先生、みんなと行かないと…)
他の生徒の面倒を見ることが出来ない。だから最初から、遠足は休み。
(パパやママと一緒に行った山でも…)
お遊び程度の山登り。小高い丘のような山やら、小さな子供でも歩けるハイキングコース。町の景色が綺麗に見えたら、「此処でお弁当にしよう」と父が足を止めて、おしまいだとか。
山の頂までは行かない登山。…あれでも登山と言うのなら。
小さな頃からそんな具合で、今も虚弱で体育は直ぐに見学だから…。
(百名山なんて…)
絶対に無理で、登れるわけがない山たち。
逆立ちしたって、ただの一つも登れはしない。一番低いと書かれた山でも、千メートルを超えている高さ。自分の足ではとても無理だし、挑むだけ無駄といった趣。
世の中には変わった趣味があるよね、と新聞を閉じて戻った二階の自分の部屋。キッチンの母に「御馳走様」と、空になったカップやお皿を返して。
(百名山かあ…)
山好きの間では、蘇っているらしい百名山。元になった山は失われたのに、わざわざ同じ名前で呼んで。正式な名前がちゃんとあるのに、それとは別に。
サイオンは抜きで、自分の足で登る山。大変だろうに、百名山を登る人たち。なんとも凄い、と思うけれども、自分には無理な趣味なのだけれど。
(でも、昔から…)
登山が好きな人たちがいたから、好まれた山が百名山。全部登ろう、と大勢の人が目指した山。
遠い昔の日本の人たち、百名山を愛した山登りを趣味にしていた人たち。
そういう人が多かったから、今の時代も百名山がある。新しく選ばれた百名山が。
今は人間は誰もがミュウだし、「サイオンは抜きで」登るのがいいと言われていたって、いざとなったら使えるサイオン。「使うな」とは誰も言わないから。
(使わないのが社会のルールで、マナーだっていうだけのことで…)
困った時には大人だって使う。急な雨で傘を持っていなくて、それでも先を急ぐなら雨を弾いてくれるシールド。誰も「駄目だ」と咎めはしないし、「急ぐんだな」と見ているだけ。
けれど、本物の百名山があった時代に生きた人には、サイオンは無い。ミュウはいなくて、人類しか住んでいなかった地球。サイオンが使えないのなら…。
(遭難事故だって…)
記事に載っていた魔の山でなくても、きっと幾つもあった筈。
足を滑らせて転落したって、サイオンが無いと止まれない。落っこちたら死ぬしかない所でも。高い崖から宙へと放り出されても。
それでも登っていた人たち。とても高い山や、危険な場所が幾つもある山を。
どんなに大変な道のりでも、山が好きだから。山の頂に立ちたいから。
(其処に山があるから…)
そう言ったという、登山家の話を聞いたことがある。地球が青かった時代に生きた登山家。
其処に山があるから、「だから登る」と。…ただ登りたいだけなのだと。
確か、エベレストを目指した人の言葉だった、という記憶。地形が変わってしまう前の時代の、地球に聳えていた最高峰。まだ未踏峰だった頂を、「其処に山があるから」と目指した登山家。
(…其処にあっても、ぼくは御免だけどね)
高い山など、登れはしない。どう頑張っても、弱い身体で登るのは無理。
地球を夢見た前の自分も、自分の二本の足を使って山に登ろうとは思わなかった。エベレストがあったヒマラヤ山脈、其処にも行きたかったのに。
もしかしたら、例の登山家の言葉。「其処に山があるから」という言葉は、前の自分が何処かで目にしたものかもしれない。白いシャングリラのデータベースか、ライブラリーで。
ヒマラヤの高峰に咲くという花、青いケシの花に焦がれていたから。
いつか地球まで辿り着いたら、やりたかった夢の一つが青いケシ。青い天上の花を見ること。
(ヒマラヤの青いケシを見るには…)
空を飛んでゆこうと夢を描いていた。白いシャングリラで地球に着いたら、空を飛ぼうと。
前の自分は自由自在に空を飛べたし、ケシが咲く峰よりも高く舞い上がれたから。空の上から、青いケシの花を探すことだって出来たから。
そういう夢を持っていたのに、生まれ変わって青い地球まで来られたのに…。
(…ぼくのサイオン、うんと不器用になっちゃって…)
空を飛ぶなど、夢のまた夢。
青いケシを見に出掛けてゆくなら、今の自分はヤクの背中に乗るしかない。ヒマラヤ育ちの強い動物、ヤクの足で登って貰う山。自分ではとても登れないから。
(ヒマラヤだったら、ヤクがいるけど…)
日本の山にヤクはいないし、百名山はもうお手上げ。ヤクがいるなら、乗せて貰って登ることも出来そうなのだけど。…ヤクの足で行ける所までなら。天辺までは無理かもしれないけれど。
(山の天辺、尖ってたりするから…)
ヤクの足では登れない山もあるだろう。それでも途中までならば、と思ってもヤクはいないのが日本。百名山に登りたければ、自分の足で歩くしかない。
麓から歩き始めるにしても、途中までは車で行ける道路があったにしても。
無理だよね、と思う百名山。一番低い山でも無理、と。
(その辺の山でも大変なんだよ、今のぼくだと…)
学校の遠足で出掛けた山でも、天辺まで行けなかったほど。下の学年の子たちと一緒に、山道の途中で待っていたほど。上まで登りに行った同級生たち、彼らが山を下りてくるまで。
遠足で行くような山に登るだけでも一苦労、と考えた所で不意に掠めた記憶。
前の自分が見ていた山。空を自由に飛ぶことが出来た、ソルジャー・ブルーだった自分が。
(…山があっても、直ぐにおしまい…)
白いシャングリラが長く潜んだ、アルテメシアの山はそうだった。雲海に覆われた星の山たち。
あの星にあった育英都市。アタラクシアと、エネルゲイアと。
二つの育英都市を取り巻くような形で、緑の山はあったのだけれど…。
(山登りをして、越えるのは禁止…)
そういう規則になっていた。人類が暮らす世界では。
テラフォーミングされて、緑の木々が茂る山並み。その山肌から緑が消えて、岩山に変わる所が境界。緑の山には自由に行けても、岩山の方へ越えては行けない。
岩山を越えて外へ出ることは禁止だった世界、それがアタラクシアとエネルゲイア。
(前のぼくたちには、そんな規則は…)
関係無いから、シャングリラは其処に隠れていた。人類の規則などミュウには無意味なのだし、守らねばならない理由も無い。その人類に追われる身だから、逃れなくてはならないから。
岩だらけの山と荒れた大地の上を覆う雲海、白い雲の中がシャングリラの居場所。山を越えたら何があるのか、前の自分たちは知っていたけれど…。
(アルテメシアにいた子供たちは…)
ハイキングで山を越えてゆけなくて、子供たちを育てる養父母も同じ。規則は規則で、養父母が山を越えていたなら、子供たちも真似をしたくなるから。
(あんな星だと、百名山なんて…)
作りたくても、作れなかったことだろう。その山を越えて行けないなら。山の頂に立って下界を見下ろすことが出来ないのなら。
百もの山を登る趣味だって、持てそうになかったアルテメシア。人類が暮らした都市の周りに、それだけの数の峰は無かったと思うから。
アルテメシアには無かっただろう、と考えざるを得ない百名山。前の自分は百名山など、聞いたことさえ無かったけれど。
(他の星なら…)
あったのかな、とも思う百名山。素敵な山が百あったならば、百名山は作れるから。今の日本が新しいのを作っているように、他の星でも。
(ノアとかだったら…)
SD体制の時代の首都惑星、ノア。白い輪さえかかっていなかったならば、地球と間違えそうな青さを誇っていた星。人類が最初にテラフォーミングに成功した星だったし、ほぼ全体が…。
(人間が暮らせる環境だった筈で…)
山だって、きっと幾つもあった。百どころではない数だろう山が。
あの星だったら百名山も作れたろうか、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ハーレイ、百名山って知ってる?」
今日の新聞に載ってたんだよ、有名な山らしいんだけど…。全部で百もあるんだって。
「百名山か…。あるなあ、俺も幾つか見たことはあるぞ」
実に綺麗な山なんだよな、とハーレイは目を細めている。「どれも、まさしく名山だ」と。
「見たことがあるって…。それじゃ、登っていないんだね?」
どの山も、見たっていうだけのことで…?
「登ろうってトコまでは、やっていないな。…近くまでは行ってみたんだが」
もう少し行ったら登山口だ、って所まで出掛けた山もあったな。景色が綺麗だったから。
山を見ながらのんびり歩いて、ちょっとしたハイキング気分てトコだ。
親父たちや友達と旅に出掛けた時だな、なかなかに素敵な山ばかりだぞ。
どの山もな、とハーレイは旅先で眺めた山を思い浮かべているらしい。山には登らず、見ていただけの名山たち。「あれがそうだ」と指差し合って。記念写真も撮ったりして。
いい山なんだぞ、とハーレイが山の姿を褒めるものだから、不思議になって傾げた首。そんなに素敵な山だったのなら、登ってくればいいのに、と。
柔道と水泳で鍛えた身体を持つハーレイなら、ひ弱な自分とは違う。楽々と山を登れそうだし、登山口まで行ってしまえば良さそうなのに。「ちょっと登ってくるから」と。
「…その山、なんで登らなかったの?」
上まで登るのは、時間、足りないかもしれないけれど…。少しくらいなら…。
ハーレイだったら、身体、鍛えてあるんだし…。山登りをしたって疲れないでしょ?
旅行の記念に登ってくれば良かったのに、と疑問をそのままぶつけたら。
「そいつは無理だな、ああいう山じゃ。…百名山、記事で読んだんだろう?」
山によっては高さが凄いし、俺が旅先で見て来た山はそういうヤツだ。遠足気分の山じゃない。
その手の山を登るとなったら、相応の装備が必要になる。道具じゃなくても、服や靴だな。
ついでに届けも厳しいからなあ、「ちょっと登ってみるだけです」とはいかないんだ。
「届け…?」
それって何なの、山に登るのに何か出さなきゃいけないの…?
「そういう決まりになってるな。昔の時代の真似ってことで」
本物の百名山があった時代の日本を真似ているんだ。
山に登る前には、入山届けを出さなきゃいかん。こういうコースで登ります、とな。
それを登山口で係に渡して、それから装備のチェックを受ける。山を登るのに相応しい靴やら、服の準備が整っているか。…足りていないと、もう駄目だってな。
観光気分で登ろうとしたら止められちまう、とハーレイが軽く広げた両手。
高い山に登れば危険が伴うものだし、遭難事故が起こらないよう、観光客はお断りだ、と。
「…観光気分じゃ駄目って言っても…。でも…」
みんなサイオンを持っているでしょ、ぼくみたいに不器用でなければ安心。
足を滑らせても、ちゃんとサイオンで止まれるんだから、事故なんかにはならないよ?
「そのサイオンをだ、使わないのがルールだからなあ…。登山ってヤツは」
入山届けも、装備のチェックも、遊びの内だ。
きちんと準備が出来てますか、と念を押されるわけだな。それに、届けを出しておけば、だ…。
山に入った後、もしも天候が荒れたりしたなら、入山届けを出した所から連絡が来る。避難した場所は安全なのか、という確認やら、「救助に行った方がいいか」という質問も。
「避難するって…。シールド、あるでしょ?」
嵐の中でも、大丈夫だと思うけど…。そりゃ、消耗を防ぐんだったら、シールドよりも山小屋に入る方がいいけど…。山小屋が無くても、岩陰だとか。
それに救助も、要らないって人が多そうだけど…。瞬間移動で戻れる人もいる筈だよ?
瞬間移動は無理にしたって、サイオンがあれば安全な場所まで行ける筈だし…。
それなのに救助を頼んだりするの、と尋ねたら。
「そのようだ。ギリギリの所まで踏ん張ってこそだ、というのが登山の醍醐味らしいぞ?」
サイオンは使わずに、いける所まで。…救助に出掛ける方はサイオンを使うんだがな。
瞬間移動で飛んで行ったり、救助方法は色々らしいが…。
そいつを「頼む」と言わずに何処まで頑張れるかが、登山をやる連中のプライドってヤツだ。
「凄いね…。なんだか我慢大会みたい…」
シールドを張ったら安心なのに、張らないだなんて。…救助を頼んだりするなんて…。
「登山はスポーツの一種だからな。そういうことにもなるだろうさ」
自然を相手に戦うわけだし、そう簡単に「参りました」と降参したくはないだろう?
俺ならしないな、ギリギリまで。…まだ戦える、と思う間は。
「山登り、スポーツだったんだ…」
それって、前のぼくたちが生きてた時代にもあった?
「はあ? 登山のことか?」
山に登ってるヤツらはいたのか、っていう質問なのか、お前が言うのは…?
それだったら…、とハーレイが答えようとするのを遮った。訊きたかったことは別だから。
「登山じゃなくって、山の方だよ」
山に登るなら、まず山が無いと駄目じゃない。
でないと登山に行けないものね、山が何処にも無かったら。
ぼくが訊いてるのは、そっちの方。…登れる山はあったのかどうか。
百名山だよ、と抱えていた疑問を口にした。ハーレイが訪ねて来るよりも前に、考えていた山のこと。前の自分が生きた時代も、百名山は何処かにあっただろうか、と。
「百名山、今は新しいのがあるでしょ? ハーレイも幾つか見たってヤツが」
前のぼくたちが生きた頃にも、百名山はあったのかな、って思ってて…。
アルテメシアには無さそうだけど…。
あそこの星だと、山を越えるの、一般人は禁止だったから。アタラクシアも、エネルゲイアも。
そんな決まりがあった星だと、登れそうな山は百も無いしね。百名山は選べないよ。
でも、他の星にはあったのかなあ、って…。
ノアとかだったら、山も沢山ありそうだから…。育英惑星ってわけでもないしね、百名山。
「…無いな、結論から言えば」
前の俺たちが生きた時代に、百名山は存在しなかった。存在する理由も、その意義もな。
あったわけがない、というハーレイの言葉に驚いた。
「え…? 無かったって…」
どういうことなの、百名山が無かっただけなら分かるけど…。
そんなに沢山、綺麗な山が見付からなかったってことだよね、って思うけど…。
だから存在する理由が無いのはいいけど、意義が無いって、どういう意味?
まるで百名山、存在してたら駄目みたいな風に聞こえるよ…?
「その通りだが?」
無かったんだ、登山そのものが。…スポーツとしては。
登るヤツらがいないんだったら、百名山を作る必要も無い。…むしろ無い方がいいってこった。
山が無いなら、誰も登りに行かないぞ。
うっかり百名山があったら、登ろうと思うヤツらが出て来る。だから作っちゃ駄目なんだ。
「…なんで?」
どうして百名山を作っちゃ駄目なの、それに登山が無かったりするの…?
登山は今も人気のスポーツなんでしょ、サイオンを使わないのが面白い、っていうくらいに…?
「其処が問題だったんだ。…命懸けのスポーツだという所がな」
今でもプロの登山家はいるわけなんだが、前の俺たちが生きてた時代。
誰が登山家になればいいのか、そいつを機械が決めるのか…?
よく考えて思い出してみろよ、と言われたSD体制の時代。マザー・システムが統治した世界。
完全な管理出産だった社会の中では、適性を調べて決められた進路。
育英都市での成績や発育ぶりを機械が見定め、成人検査で振り分けた。次の教育段階へ。
養父母の許を離れた後には、教育ステーションで四年間。成績と才能の有無で選別、決められる最終的な職業。
命懸けの仕事も無いことはなくて、軍人やパイロットなどがそう。ただし、どちらも欠かせないもので、彼ら無しでは成り立たない社会。いわば必須の職業なのだし、命懸けでも必要なもの。
けれど、登山家は社会に欠かせない職業ではない。いなくても誰も困りはしない。
同じスポーツ選手だったら、命を懸ける登山家などより、皆が眺めて楽しめるスポーツのプロを養成すべき。サッカーだとか、マラソンだとか。
「…登山家、いなかった時代だったんだ…」
前のぼくたちはシャングリラの中しか知らなかったし、スポーツ選手も詳しくなくて…。
プロがいるんだ、って知っていただけで、どんなスポーツのプロがいたかは知らないよ。
だけど確かに、登山家は必要無かったかも…。山まで出掛けて眺めないしね、登ってる所。
「そういうことだ。職業としての登山家は存在しなかった。SD体制の時代はな」
人類が登山家をやるとなったら、もう文字通りに命懸けだ。サイオンを持っていないんだから。
そんなスポーツのプロを作ったりしたら、不満が噴出しかねない。殺す気なのか、と。
だから登山は趣味でやるもので、その趣味の方も、安全に登れる低い山だけだった。
惑星の開発などの仕事で、高い山に登ったヤツらはいたが…。
それは仕事の一環なんだし、安全を確保するのが第一だ。命は懸けずに守る方だな。
最先端の技術を駆使して、ロボットにサポートさせたりもした。安全に登っていけるように。
命を守って、出来るだけ楽に登るというのが、高い山を登る時の常識だったから…。
サイオンも抜きで登るもんだ、というスタイルの今の登山とは…。
まるで違うぞ、という説明。
同じ高い山を登るにしたって、今は楽しみながら登るスポーツ。自分自身の体力や気力、それを限界まで引き出して。…サイオンは抜きで出来る所まで。
遭難しそうになっていたって、自分のサイオンを使う代わりに救助要請。それでこそ真の登山家なのだし、アマチュアもプロもそういう精神。
けれど、SD体制の時代は違った。命懸けの登山をする人間は誰もいなくて、百名山も無かった時代。人間がそれに挑み始めたら、危険が増えるだけだから。
「…プロの登山家は作れなかった、っていうのは分かるけど…」
危ない仕事で、だけど社会の役に立つようなものでもなくて…。
わざわざプロを作ったとしても、事故が起きたら困ったことになりそうだけれど…。
そんな時代でも、山に登ろうって人はいなかったの?
「其処に山があるから」っていう言葉があるでしょ、山に登りに行く理由。昔の登山家の言葉。
あれみたいに、山があるから登るっていうのは無かったの…?
アルテメシアでは山を越えるのは禁止だったけど、そうじゃない星なら登りたい人も…。
いそうだけれど、と考えたけれど、ハーレイは「SD体制の時代だぞ?」と苦い顔をした。
「人類を治めていたのは機械だ。…最終的な判断は全部、機械がやっていたってな」
機械は遊び心というのを理解しないし、理解しようとも考えない。…機械なんだから。
とにかく社会を守るのが一番、人間の命も守ってこそだ。ミュウだと殺しちまったんだが。
守るべき人間が危険な山に登りたい、と言い出したならば、禁止だな。「危険だから」と。
そうでない場合は、命を守るための工夫を山ほど施された上で、仕事で登山だ。
やむを得ず登るわけなんだしなあ、命なんか懸けたくないのにな…?
「…仕事はともかく、登りたいって言っても禁止だなんて…」
それって、面白みがないよ。…命懸けってことが、とても楽しいとは言わないけれど…。
危ないから、って最初から禁止されてる世界じゃ、のびのび暮らしていけないかも…。
「だからこそ、今は人気だってな」
登山も、百名山を登りに出掛けてゆくってことも。…サイオンは抜きで。
「そっか…。自分の限界と戦うってことが、出来る時代になったんだね」
いけません、って機械に止められずに。…やりたい人は、好きに山に登れて、百名山もあって。
時代のお蔭もあったのか、と思った今の百名山。前の自分が生きた時代は無かったもの。登山もプロの登山家たちも、百名山も。
SD体制の時代と今とが違うことは百も承知だけれども、登山まで消えていたなんて、と本当にただ驚くばかり。遠い昔には、「其処に山があるから」と登った登山家もいたというのに。
ハーレイが百名山の幾つかを見たと聞いたら、「登っていないの?」と不思議だったほど、今は登山が普通なのに。
「えっとね…。登山、今はすっかり普通になってるみたいだけれど…」
こんな風に登山の話をしてたら、ハーレイ、登りたくならない?
記念写真だけで帰って来ちゃった、綺麗だったっていう山とかに。
ハーレイ、山も好きそうだけど、と尋ねてみたら。
「俺か? そうだな、惹かれないでもないが…。機会があれば、と思いもするが…」
お前、登山は無理だろう?
百名山に登るどころか、その辺にあるような低い山でも。
「無理に決まっているじゃない!」
学校から遠足に出掛けた時でも、ぼくは途中でおしまいだったよ?
山の天辺まで登れないから、下の学年の子たちと一緒に途中までだけ…。其処でお弁当。
天辺まで行ったみんなが帰って来るまで待ってたんだよ、疲れてしまわないように。
途中で待つのが無理な時だと、遠足ごとお休みだったんだから…!
熱なんか少しも出ていないのに、ぼくに山登りは無理だから、って止められてお休み…。
「ほらな、お前は身体が弱いし、そうなっちまう」
お前がそういう具合だからなあ、俺も山には登らない。
これからも記念写真だけで終わりだ、どんなに綺麗で登りたくなる山に出会っても。
「…どうして?」
ハーレイだったら登れそうだよ、難しすぎる山じゃなかったら。
プロの登山家でなければ無理です、っていう山は無理でも、百名山はそうじゃないでしょ?
いろんな人が目指してるんだし、体力があれば登れそうだけど…。
ぼくは無理でも、ハーレイならね。
記念写真は山の天辺で撮ればいいのに、と持ち掛けた。自分は一緒に写れないけれど、百名山の頂に立つハーレイは素敵だろうから。
「記念撮影、山の天辺の方が断然いいよ。麓なんかより」
高い山なら、うんと遠くまで写りそうだし…。それとも一面の青空かな?
きっと素敵な写真が撮れるよ、そういうハーレイの写真、見たいな…。
登りに行くなら下で待ってる、と言ったのに。…山小屋に泊まって帰って来るなら、宿で留守番しているから、とも言ったのに。
「さっきも言ったが、一人じゃつまらん。…お前が一緒じゃないなんて」
お前と二人で暮らしているのに、俺だけロマンを追い掛けるなんて、論外だ。
百名山を登るというのも、魅力的ではあるんだが…。お前に留守番させたくはない。
俺は登山家には向いていないな、こんな調子じゃ。
名のある登山家にはなれやしないぞ、とハーレイが笑うものだから。
「それ、どういうこと?」
ハーレイの何処が向いていないの、登山家に?
ぼくが留守番するのと何か関係あるわけ、ハーレイが登山家になれるかどうか…?
「大いに関係あるってな。今の時代は大して意味は無いんだが…」
人間がミュウじゃなかった時代。…遭難したら、死んじまうしかなかった頃の登山家ってヤツ。
ずっと昔の登山家たちは、恋人よりもロマンが優先だったんだそうだ。
山に登るというロマン。登った挙句に、山で死んじまっても本望だ、とな。
「それって…。それじゃ、恋人は…?」
大切な人が山で死んでしまったら、恋人の方はどうなっちゃうの…?
「もちろん一人で残されちまうが、なにしろ山で死んだんだしな」
大好きな山で死んだんだから、と納得して健気だったそうだぞ。
とんでもない事故に遭ってしまって、身体さえ回収出来なくても。…雪崩に巻き込まれて行方が分からないとか、何処に落ちたか、探してもサッパリ手掛かり無しとか。
それでも山を恨みはしないで、いい人生を送った人だ、と思ったらしいが…。
好きな山で命を落としたわけだし、本人も大満足だろう、と。
昔の登山家はそうしたモンだ、というハーレイの言葉に震え上がった。
独りぼっちで置いてゆかれるなど、とんでもない。いくら恋人が満足だろうと、残されるなんて耐えられない。…前のハーレイはそれに耐えたけれども、自分にはとても無理だから…。
「ぼくには無理だよ、そんなのは…!」
今の時代は誰でもミュウだし、山で死んだりするようなことはないだろうけど…。
救助に行く人もきちんといるから、遭難したって怪我くらいで済むんだろうけど…。
それでも嫌だよ、昔の話だ、って言われても…!
悲しすぎるよ、独りぼっちになるなんて…!
「俺もお前を置いては死ねん。…それも好き勝手にした末だなんて、最低だろうが」
いくら自分が好きなことでも、お前を残して死んじまうような真似は出来んな、間違っても。
だから登山家は向いてないんだ、俺なんかには。
登ったら気持ちいいだろうな、と思うような山があったって。…百名山がある時代でも。
だがな…。
せっかく山がある時代だから、と向けられた笑み。
アルテメシアの雲海に潜んだ時代と違って、今は二人で蘇った青い地球の上。
何処まで行っても「山を越えるな」と言われはしないし、登山は無理でも、山のある世界を満喫しよう、と。
緑の山を幾つ越えても、それで終わりにはならない星。
アルテメシアにいた頃だったら、緑の山を越えた後には、岩山と荒地だったのに。山を見ながら暮らした育英都市の子供や養父母、彼らは山を越えることを禁じられたのに。
その上、登山家もいなかった時代。
百名山がある星どころか、プロの登山家がいなかった。趣味で山登りをするにしたって、安全に登れる低い山だけ。
それが前の自分たちが生きた時代で、機械が治めていた世界。
「あの忌々しいSD体制は終わっちまって、今じゃ地球だって青くて、だ…」
俺たちはその地球に生まれたんだし、山に登れる世界を楽しまなきゃ損だ。
お前は低い山しか登れないから、百名山とはいかないが…。
俺たち流に決めて登るというのもアリだぞ、せっかくの青い地球なんだから。
きっと楽しいぞ、と言われたけれども、「俺たち流」というのが謎。首を傾げるしかない言葉。
「何を決めるの?」
ぼくたちに合わせるっていう意味みたいだけど、何を決めるわけ…?
「百名山に決まっているだろうが、俺たち流の」
お前でも登れそうな山を百ほど選んで、そいつを制覇してゆく、と。
姿の綺麗な山がいいなあ、低い山でも綺麗な山は幾つもあるんだから。
「…それもぼくには無理そうだけど…」
だって山でしょ、途中で疲れてしまいそう。低い山でも、山は山だもの。
天辺までは登れないかも…、と挑む前から音を上げた。「ぼくには無理」と。
「無理か、そういう百名山も?」
だったら、山の麓に立ってみるだけでもいいじゃないか。綺麗な景色を見ながらな。
この山の向こうにもずっと幾つも幾つも、山ってヤツが続いているんだ、と見るだけでも。
誰も「越えるな」と言いやしないし、岩山が来たら終わりってわけでもないんだから。
「そうだね…!」
何処の山でも終点じゃないね、越えちゃ駄目な山は無いものね…。
岩だらけの山で緑が無くても、其処でおしまいってわけじゃないから…。
その山を越えてずうっと行ったら、また緑の山が戻って来るよ。岩だらけの山に緑が無いのは、山が高すぎるせいで、低くなったら、また木があるから…。
アルテメシアとは違うよね、と分かっている青い地球の岩山。
高い山には、緑の木々は無いけれど。…それは森林限界のせいで、人工的な星とは違う。
「山を越えるな」と禁止されていた、アルテメシアとは違った世界。
低い場所では山は緑だし、登山家だっている時代。
山登りが趣味の人も多くて、今の時代は百名山まで出来ている。
せっかくなのだし、いつかハーレイと暮らし始めたら、山を満喫してみよう。
前の自分たちが生きた頃には無かった職業、プロの登山家までいるほどだから。
サイオンは抜きで山に挑むのも、今の平和な時代だからこそ出来ること。
(百名山を登るのは無理だけど…)
山は見に行かなくっちゃね、と夢見る未来。
ハーレイと二人で山を眺めて、記念写真も沢山撮ろう。
山を越えても、誰も咎めはしない時代。
どんな山でも自由に登れて、写真も撮りに行けるから。
何処までも続いてゆく青い地球の山を、百も二百も、幾つでも眺められるのだから…。
山があるから・了
※SD体制が敷かれた時代は、いなかったのがプロの登山家。機械が設けなかった職業。
山を越えてゆくことが禁止だったり、今とは全く違った世界。百名山があるのも今ならでは。
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こんなのがあるんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
ダイニングで広げてみた新聞。其処に「百名山」の文字。何処かの山の名前だろうか、と思って記事を読み始めたら…。
(ずっと昔に…)
まだ人間が地球しか知らなかった時代、この辺りに在った小さな島国。それが日本で、その国でブームになった登山。同じ登るなら、目標があった方がいい。
その目標になった山たちが百名山。元は登山家でもあった小説家が選んだ、百の山たち。随筆の中で「この山がいい」と「百名山」という言葉も作った。
最初の頃には、ごくごく一部の山好きだけが知っていたという百名山。ところが、登山ブームが到来、登りたい人がググンと増えた。
どうせ登るなら、百名山に行くのがいい。日本のあちこちに散らばる山たち、百もある山を制覇しようと。「全部登った」と誇るのもいいし、「あと幾つ」と数えてゆくのも楽しいから。
若い人から、仕事を辞めた後の趣味にと始める人まで、大勢の人が百名山を目指したけれど。
(うーん…)
とても高い、と驚いてしまった山の標高。
特に人気だった山たちの高さが幾つか、どれも千メートルを軽く超えていた。一番低かった山も千メートル以上、というデータ。
(…千メートルって…)
かなり高いよ、と山登りをしない自分でも分かる。沢山の人が登りたがった百名山は、登山家が選んだ山だっただけに、簡単に登れる山ばかりではなかったらしい。
(魔の山だって…)
遭難事故が多発したから、そう呼ばれた山も百名山の一つ。それでも登りにゆく人たち。
もっとも、地球が滅びに向かった頃には、忘れ去られていたのだけれど。百名山も、山に登るという趣味も。
登りに行けたわけがないしね、と滅びようとしていた地球のことを思う。
大気は汚染されてしまって、地下には分解不可能な毒素。海からは魚影が消えていったし、緑も自然に育たなくなった。自然の中で楽しみたくても、もはや何処にも無かった自然。
(…百名山だって、きっと禿山…)
高い山だけに、緑の木々たちが消える前から、天辺の方は禿げていたかもしれないけれど。
二千メートルを越す山たちだったら、最初から木などは一本も無くて、むき出しの岩肌ばかりの景色だったかもしれないけれど。
(それでも高山植物くらい…)
あった筈だし、その植物さえ失われたのが滅びゆく地球。
人間は山に登る代わりに、懸命に地球にしがみ付こうとした。母なる地球を取り戻そうと努力し続け、結局、離れざるを得なかった地球。SD体制を敷いてまで。
(それでも、青い地球は取り戻せなくて…)
SD体制の崩壊と共に、燃え上がった地球。激しい地殻変動の末に、蘇ったのが今の地球。
青い地球が宇宙に戻ったお蔭で、前とは違う日本が出来た。かつて日本が在った辺りに。
其処に戻った人間たち。今の時代は誰もがミュウ。
日本の文化を復活させて楽しみながら暮らす間に、山好きの人が唱え始めた。登山をするなら、百名山があった方がいい。新しい時代の百名山はこれにしよう、と。
(それで今でも、百名山っていうのがあるんだ…)
せっかくの百名山だから、と今は失われた百名山と同じ名前をつけたりして。
遥かな昔にあった本物、その名で呼ばれる蘇った地球に生まれた山。正式名称は違う名前でも、山好きの間では通じる名前。「ああ、あの山か」と。
(ホントの名前は違う山でも、山が大好きな人には富士山…)
そういった具合に愛される山。
本物の富士山は地殻変動で消えてしまって、もう無いのに。…それでも今も富士山はある。山が大好きな人の間では、そういう名前で呼ばれる山が。
新しく選ばれた、今の時代の百名山。昔と同じに、日本のあちこちに散らばる山たち。
その百名山を目指す人たちもいる。サイオンは抜きで、自分の足で。
(凄いよね…)
記事に書かれた、今の百名山も高いのに。優に千メートルを超える山たち、今もやっぱり。
高すぎだよ、と思う百名山。下の学校の遠足で出掛けた郊外の山でも、自分には充分、高かった山。千メートルにはとても届かない山で、遠足には丁度いい高さでも。
(学校のみんなで出掛けて行っても…)
下の学年の子たちと一緒に、途中に残った遠足もあった。弱い身体では登れないから、疲れないように山道の途中でおしまい。学校に上がったばかりの子たちも、それほど登れはしないから。
(ちょっとだけ登って、そこでお弁当…)
自分よりも下の学年の子たちと、一緒に食べたお弁当。山道をもっと上に向かった、他の生徒が戻って来てくれるまで、待っていた自分。
休んでしまった遠足もあった。病気だというわけでもないのに。
(下の学年の子たちの遠足、別の場所だと…)
疲れても途中で残れはしないし、先生だって一人だけのために一緒に残っているのは無理。低い山でも山は山だし、足を挫いたりする子もいるから…。
(先生、みんなと行かないと…)
他の生徒の面倒を見ることが出来ない。だから最初から、遠足は休み。
(パパやママと一緒に行った山でも…)
お遊び程度の山登り。小高い丘のような山やら、小さな子供でも歩けるハイキングコース。町の景色が綺麗に見えたら、「此処でお弁当にしよう」と父が足を止めて、おしまいだとか。
山の頂までは行かない登山。…あれでも登山と言うのなら。
小さな頃からそんな具合で、今も虚弱で体育は直ぐに見学だから…。
(百名山なんて…)
絶対に無理で、登れるわけがない山たち。
逆立ちしたって、ただの一つも登れはしない。一番低いと書かれた山でも、千メートルを超えている高さ。自分の足ではとても無理だし、挑むだけ無駄といった趣。
世の中には変わった趣味があるよね、と新聞を閉じて戻った二階の自分の部屋。キッチンの母に「御馳走様」と、空になったカップやお皿を返して。
(百名山かあ…)
山好きの間では、蘇っているらしい百名山。元になった山は失われたのに、わざわざ同じ名前で呼んで。正式な名前がちゃんとあるのに、それとは別に。
サイオンは抜きで、自分の足で登る山。大変だろうに、百名山を登る人たち。なんとも凄い、と思うけれども、自分には無理な趣味なのだけれど。
(でも、昔から…)
登山が好きな人たちがいたから、好まれた山が百名山。全部登ろう、と大勢の人が目指した山。
遠い昔の日本の人たち、百名山を愛した山登りを趣味にしていた人たち。
そういう人が多かったから、今の時代も百名山がある。新しく選ばれた百名山が。
今は人間は誰もがミュウだし、「サイオンは抜きで」登るのがいいと言われていたって、いざとなったら使えるサイオン。「使うな」とは誰も言わないから。
(使わないのが社会のルールで、マナーだっていうだけのことで…)
困った時には大人だって使う。急な雨で傘を持っていなくて、それでも先を急ぐなら雨を弾いてくれるシールド。誰も「駄目だ」と咎めはしないし、「急ぐんだな」と見ているだけ。
けれど、本物の百名山があった時代に生きた人には、サイオンは無い。ミュウはいなくて、人類しか住んでいなかった地球。サイオンが使えないのなら…。
(遭難事故だって…)
記事に載っていた魔の山でなくても、きっと幾つもあった筈。
足を滑らせて転落したって、サイオンが無いと止まれない。落っこちたら死ぬしかない所でも。高い崖から宙へと放り出されても。
それでも登っていた人たち。とても高い山や、危険な場所が幾つもある山を。
どんなに大変な道のりでも、山が好きだから。山の頂に立ちたいから。
(其処に山があるから…)
そう言ったという、登山家の話を聞いたことがある。地球が青かった時代に生きた登山家。
其処に山があるから、「だから登る」と。…ただ登りたいだけなのだと。
確か、エベレストを目指した人の言葉だった、という記憶。地形が変わってしまう前の時代の、地球に聳えていた最高峰。まだ未踏峰だった頂を、「其処に山があるから」と目指した登山家。
(…其処にあっても、ぼくは御免だけどね)
高い山など、登れはしない。どう頑張っても、弱い身体で登るのは無理。
地球を夢見た前の自分も、自分の二本の足を使って山に登ろうとは思わなかった。エベレストがあったヒマラヤ山脈、其処にも行きたかったのに。
もしかしたら、例の登山家の言葉。「其処に山があるから」という言葉は、前の自分が何処かで目にしたものかもしれない。白いシャングリラのデータベースか、ライブラリーで。
ヒマラヤの高峰に咲くという花、青いケシの花に焦がれていたから。
いつか地球まで辿り着いたら、やりたかった夢の一つが青いケシ。青い天上の花を見ること。
(ヒマラヤの青いケシを見るには…)
空を飛んでゆこうと夢を描いていた。白いシャングリラで地球に着いたら、空を飛ぼうと。
前の自分は自由自在に空を飛べたし、ケシが咲く峰よりも高く舞い上がれたから。空の上から、青いケシの花を探すことだって出来たから。
そういう夢を持っていたのに、生まれ変わって青い地球まで来られたのに…。
(…ぼくのサイオン、うんと不器用になっちゃって…)
空を飛ぶなど、夢のまた夢。
青いケシを見に出掛けてゆくなら、今の自分はヤクの背中に乗るしかない。ヒマラヤ育ちの強い動物、ヤクの足で登って貰う山。自分ではとても登れないから。
(ヒマラヤだったら、ヤクがいるけど…)
日本の山にヤクはいないし、百名山はもうお手上げ。ヤクがいるなら、乗せて貰って登ることも出来そうなのだけど。…ヤクの足で行ける所までなら。天辺までは無理かもしれないけれど。
(山の天辺、尖ってたりするから…)
ヤクの足では登れない山もあるだろう。それでも途中までならば、と思ってもヤクはいないのが日本。百名山に登りたければ、自分の足で歩くしかない。
麓から歩き始めるにしても、途中までは車で行ける道路があったにしても。
無理だよね、と思う百名山。一番低い山でも無理、と。
(その辺の山でも大変なんだよ、今のぼくだと…)
学校の遠足で出掛けた山でも、天辺まで行けなかったほど。下の学年の子たちと一緒に、山道の途中で待っていたほど。上まで登りに行った同級生たち、彼らが山を下りてくるまで。
遠足で行くような山に登るだけでも一苦労、と考えた所で不意に掠めた記憶。
前の自分が見ていた山。空を自由に飛ぶことが出来た、ソルジャー・ブルーだった自分が。
(…山があっても、直ぐにおしまい…)
白いシャングリラが長く潜んだ、アルテメシアの山はそうだった。雲海に覆われた星の山たち。
あの星にあった育英都市。アタラクシアと、エネルゲイアと。
二つの育英都市を取り巻くような形で、緑の山はあったのだけれど…。
(山登りをして、越えるのは禁止…)
そういう規則になっていた。人類が暮らす世界では。
テラフォーミングされて、緑の木々が茂る山並み。その山肌から緑が消えて、岩山に変わる所が境界。緑の山には自由に行けても、岩山の方へ越えては行けない。
岩山を越えて外へ出ることは禁止だった世界、それがアタラクシアとエネルゲイア。
(前のぼくたちには、そんな規則は…)
関係無いから、シャングリラは其処に隠れていた。人類の規則などミュウには無意味なのだし、守らねばならない理由も無い。その人類に追われる身だから、逃れなくてはならないから。
岩だらけの山と荒れた大地の上を覆う雲海、白い雲の中がシャングリラの居場所。山を越えたら何があるのか、前の自分たちは知っていたけれど…。
(アルテメシアにいた子供たちは…)
ハイキングで山を越えてゆけなくて、子供たちを育てる養父母も同じ。規則は規則で、養父母が山を越えていたなら、子供たちも真似をしたくなるから。
(あんな星だと、百名山なんて…)
作りたくても、作れなかったことだろう。その山を越えて行けないなら。山の頂に立って下界を見下ろすことが出来ないのなら。
百もの山を登る趣味だって、持てそうになかったアルテメシア。人類が暮らした都市の周りに、それだけの数の峰は無かったと思うから。
アルテメシアには無かっただろう、と考えざるを得ない百名山。前の自分は百名山など、聞いたことさえ無かったけれど。
(他の星なら…)
あったのかな、とも思う百名山。素敵な山が百あったならば、百名山は作れるから。今の日本が新しいのを作っているように、他の星でも。
(ノアとかだったら…)
SD体制の時代の首都惑星、ノア。白い輪さえかかっていなかったならば、地球と間違えそうな青さを誇っていた星。人類が最初にテラフォーミングに成功した星だったし、ほぼ全体が…。
(人間が暮らせる環境だった筈で…)
山だって、きっと幾つもあった。百どころではない数だろう山が。
あの星だったら百名山も作れたろうか、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ハーレイ、百名山って知ってる?」
今日の新聞に載ってたんだよ、有名な山らしいんだけど…。全部で百もあるんだって。
「百名山か…。あるなあ、俺も幾つか見たことはあるぞ」
実に綺麗な山なんだよな、とハーレイは目を細めている。「どれも、まさしく名山だ」と。
「見たことがあるって…。それじゃ、登っていないんだね?」
どの山も、見たっていうだけのことで…?
「登ろうってトコまでは、やっていないな。…近くまでは行ってみたんだが」
もう少し行ったら登山口だ、って所まで出掛けた山もあったな。景色が綺麗だったから。
山を見ながらのんびり歩いて、ちょっとしたハイキング気分てトコだ。
親父たちや友達と旅に出掛けた時だな、なかなかに素敵な山ばかりだぞ。
どの山もな、とハーレイは旅先で眺めた山を思い浮かべているらしい。山には登らず、見ていただけの名山たち。「あれがそうだ」と指差し合って。記念写真も撮ったりして。
いい山なんだぞ、とハーレイが山の姿を褒めるものだから、不思議になって傾げた首。そんなに素敵な山だったのなら、登ってくればいいのに、と。
柔道と水泳で鍛えた身体を持つハーレイなら、ひ弱な自分とは違う。楽々と山を登れそうだし、登山口まで行ってしまえば良さそうなのに。「ちょっと登ってくるから」と。
「…その山、なんで登らなかったの?」
上まで登るのは、時間、足りないかもしれないけれど…。少しくらいなら…。
ハーレイだったら、身体、鍛えてあるんだし…。山登りをしたって疲れないでしょ?
旅行の記念に登ってくれば良かったのに、と疑問をそのままぶつけたら。
「そいつは無理だな、ああいう山じゃ。…百名山、記事で読んだんだろう?」
山によっては高さが凄いし、俺が旅先で見て来た山はそういうヤツだ。遠足気分の山じゃない。
その手の山を登るとなったら、相応の装備が必要になる。道具じゃなくても、服や靴だな。
ついでに届けも厳しいからなあ、「ちょっと登ってみるだけです」とはいかないんだ。
「届け…?」
それって何なの、山に登るのに何か出さなきゃいけないの…?
「そういう決まりになってるな。昔の時代の真似ってことで」
本物の百名山があった時代の日本を真似ているんだ。
山に登る前には、入山届けを出さなきゃいかん。こういうコースで登ります、とな。
それを登山口で係に渡して、それから装備のチェックを受ける。山を登るのに相応しい靴やら、服の準備が整っているか。…足りていないと、もう駄目だってな。
観光気分で登ろうとしたら止められちまう、とハーレイが軽く広げた両手。
高い山に登れば危険が伴うものだし、遭難事故が起こらないよう、観光客はお断りだ、と。
「…観光気分じゃ駄目って言っても…。でも…」
みんなサイオンを持っているでしょ、ぼくみたいに不器用でなければ安心。
足を滑らせても、ちゃんとサイオンで止まれるんだから、事故なんかにはならないよ?
「そのサイオンをだ、使わないのがルールだからなあ…。登山ってヤツは」
入山届けも、装備のチェックも、遊びの内だ。
きちんと準備が出来てますか、と念を押されるわけだな。それに、届けを出しておけば、だ…。
山に入った後、もしも天候が荒れたりしたなら、入山届けを出した所から連絡が来る。避難した場所は安全なのか、という確認やら、「救助に行った方がいいか」という質問も。
「避難するって…。シールド、あるでしょ?」
嵐の中でも、大丈夫だと思うけど…。そりゃ、消耗を防ぐんだったら、シールドよりも山小屋に入る方がいいけど…。山小屋が無くても、岩陰だとか。
それに救助も、要らないって人が多そうだけど…。瞬間移動で戻れる人もいる筈だよ?
瞬間移動は無理にしたって、サイオンがあれば安全な場所まで行ける筈だし…。
それなのに救助を頼んだりするの、と尋ねたら。
「そのようだ。ギリギリの所まで踏ん張ってこそだ、というのが登山の醍醐味らしいぞ?」
サイオンは使わずに、いける所まで。…救助に出掛ける方はサイオンを使うんだがな。
瞬間移動で飛んで行ったり、救助方法は色々らしいが…。
そいつを「頼む」と言わずに何処まで頑張れるかが、登山をやる連中のプライドってヤツだ。
「凄いね…。なんだか我慢大会みたい…」
シールドを張ったら安心なのに、張らないだなんて。…救助を頼んだりするなんて…。
「登山はスポーツの一種だからな。そういうことにもなるだろうさ」
自然を相手に戦うわけだし、そう簡単に「参りました」と降参したくはないだろう?
俺ならしないな、ギリギリまで。…まだ戦える、と思う間は。
「山登り、スポーツだったんだ…」
それって、前のぼくたちが生きてた時代にもあった?
「はあ? 登山のことか?」
山に登ってるヤツらはいたのか、っていう質問なのか、お前が言うのは…?
それだったら…、とハーレイが答えようとするのを遮った。訊きたかったことは別だから。
「登山じゃなくって、山の方だよ」
山に登るなら、まず山が無いと駄目じゃない。
でないと登山に行けないものね、山が何処にも無かったら。
ぼくが訊いてるのは、そっちの方。…登れる山はあったのかどうか。
百名山だよ、と抱えていた疑問を口にした。ハーレイが訪ねて来るよりも前に、考えていた山のこと。前の自分が生きた時代も、百名山は何処かにあっただろうか、と。
「百名山、今は新しいのがあるでしょ? ハーレイも幾つか見たってヤツが」
前のぼくたちが生きた頃にも、百名山はあったのかな、って思ってて…。
アルテメシアには無さそうだけど…。
あそこの星だと、山を越えるの、一般人は禁止だったから。アタラクシアも、エネルゲイアも。
そんな決まりがあった星だと、登れそうな山は百も無いしね。百名山は選べないよ。
でも、他の星にはあったのかなあ、って…。
ノアとかだったら、山も沢山ありそうだから…。育英惑星ってわけでもないしね、百名山。
「…無いな、結論から言えば」
前の俺たちが生きた時代に、百名山は存在しなかった。存在する理由も、その意義もな。
あったわけがない、というハーレイの言葉に驚いた。
「え…? 無かったって…」
どういうことなの、百名山が無かっただけなら分かるけど…。
そんなに沢山、綺麗な山が見付からなかったってことだよね、って思うけど…。
だから存在する理由が無いのはいいけど、意義が無いって、どういう意味?
まるで百名山、存在してたら駄目みたいな風に聞こえるよ…?
「その通りだが?」
無かったんだ、登山そのものが。…スポーツとしては。
登るヤツらがいないんだったら、百名山を作る必要も無い。…むしろ無い方がいいってこった。
山が無いなら、誰も登りに行かないぞ。
うっかり百名山があったら、登ろうと思うヤツらが出て来る。だから作っちゃ駄目なんだ。
「…なんで?」
どうして百名山を作っちゃ駄目なの、それに登山が無かったりするの…?
登山は今も人気のスポーツなんでしょ、サイオンを使わないのが面白い、っていうくらいに…?
「其処が問題だったんだ。…命懸けのスポーツだという所がな」
今でもプロの登山家はいるわけなんだが、前の俺たちが生きてた時代。
誰が登山家になればいいのか、そいつを機械が決めるのか…?
よく考えて思い出してみろよ、と言われたSD体制の時代。マザー・システムが統治した世界。
完全な管理出産だった社会の中では、適性を調べて決められた進路。
育英都市での成績や発育ぶりを機械が見定め、成人検査で振り分けた。次の教育段階へ。
養父母の許を離れた後には、教育ステーションで四年間。成績と才能の有無で選別、決められる最終的な職業。
命懸けの仕事も無いことはなくて、軍人やパイロットなどがそう。ただし、どちらも欠かせないもので、彼ら無しでは成り立たない社会。いわば必須の職業なのだし、命懸けでも必要なもの。
けれど、登山家は社会に欠かせない職業ではない。いなくても誰も困りはしない。
同じスポーツ選手だったら、命を懸ける登山家などより、皆が眺めて楽しめるスポーツのプロを養成すべき。サッカーだとか、マラソンだとか。
「…登山家、いなかった時代だったんだ…」
前のぼくたちはシャングリラの中しか知らなかったし、スポーツ選手も詳しくなくて…。
プロがいるんだ、って知っていただけで、どんなスポーツのプロがいたかは知らないよ。
だけど確かに、登山家は必要無かったかも…。山まで出掛けて眺めないしね、登ってる所。
「そういうことだ。職業としての登山家は存在しなかった。SD体制の時代はな」
人類が登山家をやるとなったら、もう文字通りに命懸けだ。サイオンを持っていないんだから。
そんなスポーツのプロを作ったりしたら、不満が噴出しかねない。殺す気なのか、と。
だから登山は趣味でやるもので、その趣味の方も、安全に登れる低い山だけだった。
惑星の開発などの仕事で、高い山に登ったヤツらはいたが…。
それは仕事の一環なんだし、安全を確保するのが第一だ。命は懸けずに守る方だな。
最先端の技術を駆使して、ロボットにサポートさせたりもした。安全に登っていけるように。
命を守って、出来るだけ楽に登るというのが、高い山を登る時の常識だったから…。
サイオンも抜きで登るもんだ、というスタイルの今の登山とは…。
まるで違うぞ、という説明。
同じ高い山を登るにしたって、今は楽しみながら登るスポーツ。自分自身の体力や気力、それを限界まで引き出して。…サイオンは抜きで出来る所まで。
遭難しそうになっていたって、自分のサイオンを使う代わりに救助要請。それでこそ真の登山家なのだし、アマチュアもプロもそういう精神。
けれど、SD体制の時代は違った。命懸けの登山をする人間は誰もいなくて、百名山も無かった時代。人間がそれに挑み始めたら、危険が増えるだけだから。
「…プロの登山家は作れなかった、っていうのは分かるけど…」
危ない仕事で、だけど社会の役に立つようなものでもなくて…。
わざわざプロを作ったとしても、事故が起きたら困ったことになりそうだけれど…。
そんな時代でも、山に登ろうって人はいなかったの?
「其処に山があるから」っていう言葉があるでしょ、山に登りに行く理由。昔の登山家の言葉。
あれみたいに、山があるから登るっていうのは無かったの…?
アルテメシアでは山を越えるのは禁止だったけど、そうじゃない星なら登りたい人も…。
いそうだけれど、と考えたけれど、ハーレイは「SD体制の時代だぞ?」と苦い顔をした。
「人類を治めていたのは機械だ。…最終的な判断は全部、機械がやっていたってな」
機械は遊び心というのを理解しないし、理解しようとも考えない。…機械なんだから。
とにかく社会を守るのが一番、人間の命も守ってこそだ。ミュウだと殺しちまったんだが。
守るべき人間が危険な山に登りたい、と言い出したならば、禁止だな。「危険だから」と。
そうでない場合は、命を守るための工夫を山ほど施された上で、仕事で登山だ。
やむを得ず登るわけなんだしなあ、命なんか懸けたくないのにな…?
「…仕事はともかく、登りたいって言っても禁止だなんて…」
それって、面白みがないよ。…命懸けってことが、とても楽しいとは言わないけれど…。
危ないから、って最初から禁止されてる世界じゃ、のびのび暮らしていけないかも…。
「だからこそ、今は人気だってな」
登山も、百名山を登りに出掛けてゆくってことも。…サイオンは抜きで。
「そっか…。自分の限界と戦うってことが、出来る時代になったんだね」
いけません、って機械に止められずに。…やりたい人は、好きに山に登れて、百名山もあって。
時代のお蔭もあったのか、と思った今の百名山。前の自分が生きた時代は無かったもの。登山もプロの登山家たちも、百名山も。
SD体制の時代と今とが違うことは百も承知だけれども、登山まで消えていたなんて、と本当にただ驚くばかり。遠い昔には、「其処に山があるから」と登った登山家もいたというのに。
ハーレイが百名山の幾つかを見たと聞いたら、「登っていないの?」と不思議だったほど、今は登山が普通なのに。
「えっとね…。登山、今はすっかり普通になってるみたいだけれど…」
こんな風に登山の話をしてたら、ハーレイ、登りたくならない?
記念写真だけで帰って来ちゃった、綺麗だったっていう山とかに。
ハーレイ、山も好きそうだけど、と尋ねてみたら。
「俺か? そうだな、惹かれないでもないが…。機会があれば、と思いもするが…」
お前、登山は無理だろう?
百名山に登るどころか、その辺にあるような低い山でも。
「無理に決まっているじゃない!」
学校から遠足に出掛けた時でも、ぼくは途中でおしまいだったよ?
山の天辺まで登れないから、下の学年の子たちと一緒に途中までだけ…。其処でお弁当。
天辺まで行ったみんなが帰って来るまで待ってたんだよ、疲れてしまわないように。
途中で待つのが無理な時だと、遠足ごとお休みだったんだから…!
熱なんか少しも出ていないのに、ぼくに山登りは無理だから、って止められてお休み…。
「ほらな、お前は身体が弱いし、そうなっちまう」
お前がそういう具合だからなあ、俺も山には登らない。
これからも記念写真だけで終わりだ、どんなに綺麗で登りたくなる山に出会っても。
「…どうして?」
ハーレイだったら登れそうだよ、難しすぎる山じゃなかったら。
プロの登山家でなければ無理です、っていう山は無理でも、百名山はそうじゃないでしょ?
いろんな人が目指してるんだし、体力があれば登れそうだけど…。
ぼくは無理でも、ハーレイならね。
記念写真は山の天辺で撮ればいいのに、と持ち掛けた。自分は一緒に写れないけれど、百名山の頂に立つハーレイは素敵だろうから。
「記念撮影、山の天辺の方が断然いいよ。麓なんかより」
高い山なら、うんと遠くまで写りそうだし…。それとも一面の青空かな?
きっと素敵な写真が撮れるよ、そういうハーレイの写真、見たいな…。
登りに行くなら下で待ってる、と言ったのに。…山小屋に泊まって帰って来るなら、宿で留守番しているから、とも言ったのに。
「さっきも言ったが、一人じゃつまらん。…お前が一緒じゃないなんて」
お前と二人で暮らしているのに、俺だけロマンを追い掛けるなんて、論外だ。
百名山を登るというのも、魅力的ではあるんだが…。お前に留守番させたくはない。
俺は登山家には向いていないな、こんな調子じゃ。
名のある登山家にはなれやしないぞ、とハーレイが笑うものだから。
「それ、どういうこと?」
ハーレイの何処が向いていないの、登山家に?
ぼくが留守番するのと何か関係あるわけ、ハーレイが登山家になれるかどうか…?
「大いに関係あるってな。今の時代は大して意味は無いんだが…」
人間がミュウじゃなかった時代。…遭難したら、死んじまうしかなかった頃の登山家ってヤツ。
ずっと昔の登山家たちは、恋人よりもロマンが優先だったんだそうだ。
山に登るというロマン。登った挙句に、山で死んじまっても本望だ、とな。
「それって…。それじゃ、恋人は…?」
大切な人が山で死んでしまったら、恋人の方はどうなっちゃうの…?
「もちろん一人で残されちまうが、なにしろ山で死んだんだしな」
大好きな山で死んだんだから、と納得して健気だったそうだぞ。
とんでもない事故に遭ってしまって、身体さえ回収出来なくても。…雪崩に巻き込まれて行方が分からないとか、何処に落ちたか、探してもサッパリ手掛かり無しとか。
それでも山を恨みはしないで、いい人生を送った人だ、と思ったらしいが…。
好きな山で命を落としたわけだし、本人も大満足だろう、と。
昔の登山家はそうしたモンだ、というハーレイの言葉に震え上がった。
独りぼっちで置いてゆかれるなど、とんでもない。いくら恋人が満足だろうと、残されるなんて耐えられない。…前のハーレイはそれに耐えたけれども、自分にはとても無理だから…。
「ぼくには無理だよ、そんなのは…!」
今の時代は誰でもミュウだし、山で死んだりするようなことはないだろうけど…。
救助に行く人もきちんといるから、遭難したって怪我くらいで済むんだろうけど…。
それでも嫌だよ、昔の話だ、って言われても…!
悲しすぎるよ、独りぼっちになるなんて…!
「俺もお前を置いては死ねん。…それも好き勝手にした末だなんて、最低だろうが」
いくら自分が好きなことでも、お前を残して死んじまうような真似は出来んな、間違っても。
だから登山家は向いてないんだ、俺なんかには。
登ったら気持ちいいだろうな、と思うような山があったって。…百名山がある時代でも。
だがな…。
せっかく山がある時代だから、と向けられた笑み。
アルテメシアの雲海に潜んだ時代と違って、今は二人で蘇った青い地球の上。
何処まで行っても「山を越えるな」と言われはしないし、登山は無理でも、山のある世界を満喫しよう、と。
緑の山を幾つ越えても、それで終わりにはならない星。
アルテメシアにいた頃だったら、緑の山を越えた後には、岩山と荒地だったのに。山を見ながら暮らした育英都市の子供や養父母、彼らは山を越えることを禁じられたのに。
その上、登山家もいなかった時代。
百名山がある星どころか、プロの登山家がいなかった。趣味で山登りをするにしたって、安全に登れる低い山だけ。
それが前の自分たちが生きた時代で、機械が治めていた世界。
「あの忌々しいSD体制は終わっちまって、今じゃ地球だって青くて、だ…」
俺たちはその地球に生まれたんだし、山に登れる世界を楽しまなきゃ損だ。
お前は低い山しか登れないから、百名山とはいかないが…。
俺たち流に決めて登るというのもアリだぞ、せっかくの青い地球なんだから。
きっと楽しいぞ、と言われたけれども、「俺たち流」というのが謎。首を傾げるしかない言葉。
「何を決めるの?」
ぼくたちに合わせるっていう意味みたいだけど、何を決めるわけ…?
「百名山に決まっているだろうが、俺たち流の」
お前でも登れそうな山を百ほど選んで、そいつを制覇してゆく、と。
姿の綺麗な山がいいなあ、低い山でも綺麗な山は幾つもあるんだから。
「…それもぼくには無理そうだけど…」
だって山でしょ、途中で疲れてしまいそう。低い山でも、山は山だもの。
天辺までは登れないかも…、と挑む前から音を上げた。「ぼくには無理」と。
「無理か、そういう百名山も?」
だったら、山の麓に立ってみるだけでもいいじゃないか。綺麗な景色を見ながらな。
この山の向こうにもずっと幾つも幾つも、山ってヤツが続いているんだ、と見るだけでも。
誰も「越えるな」と言いやしないし、岩山が来たら終わりってわけでもないんだから。
「そうだね…!」
何処の山でも終点じゃないね、越えちゃ駄目な山は無いものね…。
岩だらけの山で緑が無くても、其処でおしまいってわけじゃないから…。
その山を越えてずうっと行ったら、また緑の山が戻って来るよ。岩だらけの山に緑が無いのは、山が高すぎるせいで、低くなったら、また木があるから…。
アルテメシアとは違うよね、と分かっている青い地球の岩山。
高い山には、緑の木々は無いけれど。…それは森林限界のせいで、人工的な星とは違う。
「山を越えるな」と禁止されていた、アルテメシアとは違った世界。
低い場所では山は緑だし、登山家だっている時代。
山登りが趣味の人も多くて、今の時代は百名山まで出来ている。
せっかくなのだし、いつかハーレイと暮らし始めたら、山を満喫してみよう。
前の自分たちが生きた頃には無かった職業、プロの登山家までいるほどだから。
サイオンは抜きで山に挑むのも、今の平和な時代だからこそ出来ること。
(百名山を登るのは無理だけど…)
山は見に行かなくっちゃね、と夢見る未来。
ハーレイと二人で山を眺めて、記念写真も沢山撮ろう。
山を越えても、誰も咎めはしない時代。
どんな山でも自由に登れて、写真も撮りに行けるから。
何処までも続いてゆく青い地球の山を、百も二百も、幾つでも眺められるのだから…。
山があるから・了
※SD体制が敷かれた時代は、いなかったのがプロの登山家。機械が設けなかった職業。
山を越えてゆくことが禁止だったり、今とは全く違った世界。百名山があるのも今ならでは。
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「あれっ…。雨になりそう?」
暗くなってきたよ、とブルーが眺めた窓の外。
ハーレイと過ごす休日の午後に、俄かに曇り始めた空。さっきまで晴れていた筈なのに。いつの間にやら湧いていた雲が、青かった空を覆い尽くそうとしているのが今。
「そうだな、こいつは降りそうだな」
ひと雨来るぞ、とハーレイも窓の向こうの空を見ている。「すっかり曇っちまったな」と。
「雨になっちゃうんだ…。酷くなる?」
酷い雨になったら、ハーレイが帰る時が大変…。今日は車じゃないんだもの。
傘はパパのを貸してあげられるけれど、バス停に着くまでに濡れちゃいそうだよ。
酷い雨だと、地面からも跳ねてくるもんね、と心配になった。叩き付けるように降る土砂降りの雨は、地面で跳ねて靴やズボンを濡らすから。
傘では防げない、地面の上で跳ねる雨粒。シールドを張れば防げるけれども、ハーレイはそれを好まない。今の時代はサイオンを使わないのがマナーで、子供はともかく、大人なら…。
(濡れて大変、って分かっていたって…)
雨の中では張らないシールド。急な雨で傘を持っていなければ雨宿り。余程でなければ、大雨の中をシールドで走る大人はいない。仕事でとても急いでいるとか、そんな時だけ。
だから夜まで雨が止まなければ、ハーレイだって困るだろう。何ブロックも離れた家まで、雨の中を歩いて帰るのは無理。路線バスを使って帰るにしたって、バス停までに濡れる靴やズボン。
せっかくハーレイが来てくれたのに、と見上げる雲。大雨にならなきゃいいけれど、と。
「そう酷い雨にはならんだろう。ザッと降るかもしれないが…」
いきなり大粒で来そうな雲だが、まあ、その内に止むんじゃないか?
直ぐに止むとは言えないが…。
俺が帰るような時間までには、充分に止むと思うがな…?
こいつは夜まで降り続ける雨じゃないだろう、というのがハーレイの読み。土砂降りの雨でも、多分、長くは降らない雨。早ければ一時間も経たない間に、雲ごと何処かへ去ってゆく。
「そんなトコだと思うんだが…。雲の感じと、流れ方でな」
よく見ろ、一面の雲に見えても止まっちゃいない。凄い速さで流れてるから。
こういう雲だと、行っちまうのも早いんだ。
雨も雲ごと行っちまうから、とハーレイが指した空の雲。確かに雲は流れている。
「ホントだ、凄い速さで流れてる…。空を丸ごと蓋したみたいに見えるのに」
それじゃ降っても、直ぐ止むんだね。雲と一緒に行っちゃうから。
良かった、夜まで降る雨じゃなくて。ハーレイの予報は、よく当たるもの。
「俺だって外すこともあるがな、人間だから」
プロがやってる天気予報でも外れるんだし、仕方ない。未来が見えるわけでもないしな。
はてさて、どんな雨になるやら…。
じきに降るぞ、というハーレイの言葉通りに、暫く経ったら、もう真っ暗になった外。日が沈むにはまだ早いのに、まるで夕方になったかのよう。
(…昼間なのに、夜になっちゃった…)
明るかった空を覚えているから、夜が来たような気がするよね、と思っている間に、大粒の雨が降り出した。庭の木々や屋根に大きな雨粒が一つ、二つと落ちる音がして、それが始まり。
みるみる内に外は一面の雨で、ザーザーと激しく降り注ぐ音。窓ガラスにも雨の雫が流れる。
「ハーレイの予報、大当たりだね」
いきなり降ってくるって所も、大粒なのも。ホントに凄い雨だけど…。
この雨、じきに止むんだっていう方の予報も当たる?
「さてなあ…? そいつは空の気分次第で…」
こういった雲が次から次へと湧いて来るなら、直ぐには止まん。
今の雲が他所へ流れて行っても、次の雲が流れて来ちまうから…。雨を降らせるような雲がな。
其処までは俺も読めやしないし、どうなんだかなあ…。
天気予報を見て来た感じじゃ、そうはならんと思うんだが。
おっと、光った…!
空を切り裂いた稲光。そして雷鳴。
ゴロゴロと轟いた音が消えたら、「思った通りか…」と空を見ているハーレイ。
「雲の具合からして、来るんじゃないかと思ったが…。やっぱり雷つきだったな」
派手に鳴ったな、とハーレイは雷まで予想していたらしい。流れて来る雲を見ただけで。
「凄いね、雷が鳴るっていうのも分かるんだ…」
これって、近い?
今の雷、もう直ぐ側まで来ているの…?
「来ているだろうな、だから木の下は危ないぞ」
雨宿りをしに入っちゃいかん、とハーレイが指差す庭にある木たち。葉を茂らせた木たちは雨を防いでくれそうだけれど、こういう雨の時には危険。
家よりも高くなっている木は、雷を招きやすいから。いわゆる落雷。
「…落ちるんだ…。木の下にいたら、雷が…」
避雷針が近くにあっても駄目なの、やっぱり落ちる…?
「当然だろうが、雷ってヤツは気まぐれなんだ。…こういう雲と同じでな」
避雷針みたいに高くなってりゃ、気の向いた場所にドカンと落ちる。選んじゃくれんぞ。
あっちに避雷針があるから、と避けて行ってはくれないってな。
ついでに言うなら、お前みたいにシールドも出来ないガキの場合は心配ないが…。
「…何かあるの?」
雷とシールド、何か関係あったりするわけ…?
まさか雷を呼びやすいってことはないよね、シールドはそういう性質じゃないし…。
でも危ないの、と丸くなった目。シールドの何処が落雷の危機を招くのだろう?
「シールドそのものが駄目ってことではないんだが…」
なまじシールドが上手いガキだと、こんな雨の中で傘が無くても濡れないからな。
それで安心して、「雨が止んだらまた遊ぼう」というのが危ない。
家に帰ったり、軒下に入って雨を避ける代わりに、そのまま其処に突っ立ってると…。
その場所がうんと見晴らしが良くて、周りに何も無いようなトコ。
野原だの、広いグラウンドや河原だったりするとだな…。
そいつに向かって真っ直ぐ落ちて来ちまうぞ、とハーレイが軽く広げた手。
周りに高い木などが無ければ、人間めがけて落ちる雷。其処が一番高いわけだし、たかが子供の背丈くらいでも落ちて来る。雷は高い所に落ちやすいから、ポツンと立つ子は格好の餌食。
もっとも、雷が落ちた場合は、シールドの方も本能的に強化されるから…。
「衝撃で倒れるとか、飛ばされるとか…。そんな程度ではあるんだが」
打ち身や軽い擦り傷ってトコだ、ショックの方はデカイがな。
いきなりドカンと来ちまうわけだし、気絶するのが普通だから…。シールドは消えて、すっかりずぶ濡れな末路なんだが。
「ずぶ濡れでもいいよ、その程度の怪我で済むんなら」
良かった、もっと大変なのかと思っちゃった。雷が落ちると、木だって裂けたりするんでしょ?
子供に落ちたら大怪我するとか、死んじゃうだとか…。
そうならないなら安心だよね、と言ったのだけれど。
「勘違いするなよ、今の時代だから安心なだけだ。子供に雷が落ちた時でも、今だから無事だ」
みんなサイオンを持ってるお蔭で、雷の危険もグンと減ったというわけだな。
ずっと昔は、落雷のせいで死んじまう人も多かったんだ。
前の俺たちが生きてた頃でも、ゼロじゃなかったかもしれないなあ…。
きちんと対策していなかったら、人類は危なかったろう、とハーレイが言うものだから。
「サイオンが無いと落雷で死んじゃうんなら…。ぼくも危ない?」
人類と変わらないくらいに不器用なんだよ、ぼくのサイオン。…シールドも無理。
ぼくに落ちたら、死んじゃうのかな…?
「お前の場合も、本能ってヤツでいけるだろ。命の危機なら、サイオンの方で出て来るさ」
シールドしよう、と思わなくても、それよりも前に。お前が自覚しなくても。
なんと言っても最強のタイプ・ブルーなんだし、一度とはいえ瞬間移動もしてるしな。
あの時は俺もビックリしたが…。目を覚ましたら、お前が俺のベッドの中にいるんだから。
「…あれ、もう一回やりたいんだけど…」
ハーレイの家まで行ってみたいよ、寝てる間に。そしたら、一緒に朝御飯…。
「勘弁してくれ、俺にとっては大迷惑なサプライズだから」
チビのお前じゃ、手がかかるだけだ。…ちゃんと育ったお前だったら歓迎だがな。
来るんじゃないぞ、と釘を刺されてしまった、ハーレイの家への瞬間移動。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイの家には行けない決まり。出掛けて行っても中に入れては貰えない。チャイムを押しても、きっと無視されるだけ。
(でなきゃ、「帰れ」って言われちゃうんだよ)
チビだから仕方ないけどね…、と心の中で溜息をついているのに、ハーレイの方は雨見物。
「おっと、また光った」
派手に光ったぞ、お前、見てたか…?
「今の、近いね。さっきのより」
光って直ぐに音がしたもの、さっきは少し間があったよ。稲光を見てから、音がするまでに。
「その通りだな。雷は音で分かりやすいんだが…」
近いのかどうか、近付いて来ているかどうかも、音が目安になるんだが…。
それがだ、青空でも落ちることがあるから危ないんだぞ。何の前触れも無いってヤツだ。
「青空なのに雷なの…?」
どういう仕組み、と質問してみた、青空の時に落雷するケース。やはり、何処かに雷雲が隠れているらしい。人間の目には遠い距離でも、雷にとってはほんの少しで、遠い所から飛んで来る。
怖いけれども、自然は凄い、と感心していたら尋ねられた。
「お前、雷は怖くないのか?」
好奇心一杯って顔をしてるが、怖いと思わないのか、雷…?
「平気だよ、なんで?」
そりゃ、落雷は怖いけど…。シールドも全然自信が無いから、落ちて欲しくはないけれど…。
「今はそうだろうが、ガキの頃だな」
怖くなかったのか、雷ってヤツ。
今みたいに急に暗くなってだ、ゴロゴロと鳴り出すわけだから…。
チビには怖い代物だろうが、雷の仕組みも全く分かっていないんだしな。
小さかった頃はどうなんだ、とハーレイに訊かれた雷のこと。もちろん怖いものだった。両親にくっついて泣いていたほど、恐ろしかったものが雷。
「小さい頃なら、ぼくだって怖いに決まってるじゃない…!」
パパやママにくっついて泣いてたくらいで、雷なんか大嫌い。うんと怖くて、苦手だったよ。
今は平気になったけど…。もう子供とは違うから。
「そうだろうなあ、大抵のガキと犬は雷が駄目なモンだし」
お前も怖くて当然だってな。俺は怖かった覚えは無いがだ、物心つくまでは駄目だったろう。
いくら俺でもガキはガキだし、犬と似たようなモンだろうから。
「犬って…?」
なんで犬なの、どうして犬が出て来るの…?
雷の話をしているんだよ、と傾げた首。幼い子供の方はともかく、犬というのは何だろう?
「犬か? 犬ってヤツは、あの音が苦手らしいんだ。ガキと同じで」
雷には音が付き物だしなあ、昼間だろうが、夜に来ようが。…ゴロゴロ鳴るのが雷だろ?
犬の耳には、不愉快すぎる音らしい。逃げ出したくて、鎖を切っちまうくらい。
お前も音だろ、苦手だったの。
今じゃ全く平気なようだが、雷が怖くて泣いてた頃は…?
「えーっと…」
どうだったのかな、雷だよね…?
ピカッと光って、ゴロゴロ鳴ってて、うんと怖くて泣きじゃくってて…。
パパとママの側にいたんだっけ、と手繰ってみた記憶。幼かった自分が嫌った雷。
(…ゴロゴロ鳴るから…)
早く何処かに行って欲しくて、両親にしがみついていた。雷は大嫌いだったから。
鳴っている間はピカピカ光るし、もう恐ろしくてたまらない。うっかり顔を上げた途端に、空を切り裂いてゆく稲妻。
(…昼でも光るし、夜だともっと強く光って…)
あの稲光が怖かった。窓の向こうで走る稲妻、その後で音がやって来る。
けれど、音より稲妻の方。音はしないで、夜に遠くで光る稲光も怖かったから。夜空を真っ白に染める光も、雲を切り裂くような光も。
怖かったものは稲光。雷鳴よりも、ずっと怖かった光。
ゴロゴロと鳴る音が聞こえなくても、夜ならば見える稲光。その光だけで身体が竦んだ。じきにピカピカ光り出すから、雷がやって来るのだから。
「…ぼくの苦手は、雷の音じゃなかったみたい…」
音も怖いけど、その前に光。雷の音は光の後に鳴り始めるから、光ほどには…。
多分、怖くはなかったと思う、と話したら。
「はあ? 光って…」
雷と言えば音だろうが、とハーレイは怪訝そうな顔。「犬も子供も、音が苦手だ」と。
「違うよ、ぼくは稲光だよ」
音よりもずっと怖かった筈で、音がしなくても怖かったから。…光っただけで。
夜の雷だと、うんと遠くで鳴っていたって、光だけ見えることがあるでしょ?
ゴロゴロいう音は聞こえなくても、雲がピカピカ光ってる時。
…ああいう光も、ぼくは嫌いで怖かったから…。ホントに光が苦手だったんだよ、音よりも。
「稲光だってか、あの音じゃなくて…?」
お前、何か勘違いってヤツをしてないか?
フクロウの鳴き声も駄目だったんだろ、小さかった頃は。…この前まで苦手だったくらいに。
前の俺がヒルマンに頼まれて彫ったフクロウ、アレの話をしてやるまでは。
フクロウの声でメギドの夢を見ちまったろうが、と指摘されたけれども、それとは別。
「あれはオバケだよ、フクロウの声は。…オバケの声だと思ったんだもの」
雷はオバケじゃなくて雷。どんなにゴロゴロ音が凄くても、雷はオバケじゃないものね。
だから鳴っても、光ほど怖くなかったんだよ、と説明したら。
「それは分かったが、雷がオバケじゃないのなら…」
どうして光が苦手になるんだ、怖がらなくてもいいだろうが。
音とセットで怖がってたなら話は分かるが、光だけでも怖かったなんて変だぞ、お前。
それとも雷は光のオバケか、お前にはそう見えていたのか…?
「さあ…?」
どうだったんだろう、雷、光のオバケなのかな?
それなら怖くて当然だけれど、光のオバケの怖い絵本があったとか…?
雷の音より、稲光の方が恐ろしかった幼い自分。すっかり忘れていたけれど。
(なんで光が怖かったわけ…?)
ハーレイにも変だと言われたけれども、自分でも不思議に思うこと。どうして稲光だったのか。雷を怖がる子供だったら、音が苦手なのが普通だろうに。
(ホントに光のオバケの絵本があったのかな…?)
空から降ってくる光のオバケ。そういう絵本に出会っていたなら、稲光が苦手でも分かる。光はとても怖いものだし、あれはオバケ、と震える子供。
(だけど、怖い絵本なんかを小さい子供に…)
読ませるとは、とても思えない。幼稚園にも、きっと置いてはいなかっただろう。子供が怖がる本を置くなど、幼稚園の先生たちがするわけがない。
(下の学校の図書室だったら、怖い絵本もあったけど…)
それは「怖さ」を楽しめる年の子供たちのためで、幼稚園から上がったばかりの子たちは、ただ怖そうに見ていただけ。「あの棚の本は、表紙を見ただけでもオバケが出そう」と。
(学校に行くようになる前から、雷、怖かったんだし…)
図書室で読んだ本のせいではない。光のオバケの怖い絵本があったとしても。
稲光が怖くて泣いていたのは、もっと幼くて小さい頃から。幼稚園の頃にはとうに怖くて、空が光るのが嫌だった。音を連れて来る昼の稲光も、夜に遠くで光っているだけの稲光でも。
(やっぱり光が怖いんだよね…?)
何故、と更に遡ってみた記憶。ずいぶんおぼろな記憶だけれども、怖かったことは覚えている。稲光がピカピカするのが怖くて、泣き叫んでいた子供時代。
(パパやママにギュッとくっついて…)
見ないでいようとした稲光。
あれが光ったら、全部おしまい。何もかも全部消えてしまって、おしまいだから。
そう思って震えていた自分。稲光で空が光った時には、「全部おしまいになっちゃうよ」と。
それだ、と思い出したこと。稲光が怖いと思った理由。
「稲光…。あれが光るとおしまいなんだよ、そう思ったから怖くて泣いてた…」
パパもママも、世界も全部おしまい。全部消えちゃう、って怖くって…。
だから稲光が怖かったんだよ、音じゃなくって光の方が。
世界が消えてしまうんだもの、とハーレイに話した、幼かった頃の自分が感じた恐怖。雷の音が聞こえなくても、稲光だけで震えていた自分。
「おいおい、世界が消えちまうって…。そいつは神様のお怒りか?」
神様がお怒りになった時には、雷が鳴ると言うんだが…。
この世界が終わっちまう時にも、神様の怒りで雷が轟くとは言うが…。
お前、そんなの知っていたのか、今よりもずっとチビなのに…?
幼稚園の先生が聖書の話でもしたか、絵本があったか。そんなトコだと思うんだが…。
「パパとママもそう言ったけど…。「それは神様の本の中だけ」って」
悪い子じゃないから、神様は世界を消したりしない、って言ってくれたけど…。
雷が来ても大丈夫、って教えてくれたんだけれど、やっぱり駄目。
稲光を見たら、怖くて泣いてた。あれが光ると、全部おしまいになっちゃいそうで…。
ずっと怖かったよ、何も起きないって分かる年になるまで。
稲光で空が光っていたって、世界はおしまいになったりしない、って。
「なるほどなあ…。稲光が光ると、世界が終わっちまうのか…」
それで音よりも光の方が怖かった、と。
雷が苦手な子供は多いもんだが、光が駄目とは、珍しいタイプだったんだな、お前。
少なくとも俺は一度も聞いたことがないぞ、音よりも稲光が怖いだなんて話は。
「ハーレイも珍しいと思うんだ…」
ぼくって変かな、自分でも忘れていたけれど…。雷の音より、光の方が怖かったこと。
でもね、本とかのせいじゃないような気がするよ。
幼稚園で聞いた話や、読んだ絵本にあったことなら、きっと、あんなに怖くないから。
パパとママが「それはお話の中だけだから」って言ってくれたら、「そうなんだ」って思うよ、きっと。元が絵本や、先生のお話だったらね。
怖い気持ちは消えていた筈、と育った自分でも分かること。
稲光が光ると世界が消えてしまうのだ、と絵本や先生の話で知識を仕入れたのなら、両親が違う話を聞かせてくれたら、それを信じる筈だから。
「絵本にはこう書いてあったけど、違うんだよ」と。幼稚園の先生に聞いたとしたって、両親が違うと言ってくれたら、小さな子供のことだから…。
(パパとママの話が本当だよ、って…)
疑いもなく信じることだろう。幼い子供が暮らす世界では、先生よりもずっと大きな存在なのが両親。その両親が「大丈夫」と言ってくれたら、何も怖くはなくなるもの。
最初の間は無理だとしたって、繰り返す内に。「光ってるけど、パパもママもいてくれるよ」とギュッと抱き付いて、「ここは安全」と。
(だけど稲光、パパやママがいても、怖かったんだし…)
おまけに世界が消えてしまうと思っていたのが、幼かった自分。稲光を見る度に怖くて怖くて、音よりもずっと恐ろしくて…。
もしかしたら、と気付いたこと。幼かった頃の自分は、何も覚えていなかったけれど…。
「前のぼくかな、稲光がとても怖かったのって…?」
記憶は戻っていないままでも、稲光で怖い思いをしたこと、何処かに残っていたのかも…。
「お前、とんでもない嵐の時でも飛んでたろ」
アルテメシアで、ミュウの子供を助けに飛び出して行った時には。
船の周りが雷雲だろうが、飛んで行く先が酷い雷雨だろうが。
第一、そうやって飛んで行っても、世界が終わりはしないじゃないか。助け損なった子供たちもいたが、世界が滅びはしなかった。…シャングリラは無事に飛んでたからな。
待てよ…?
アルテメシアじゃなくてだな…、とハーレイは顎に手をやった。
「どうかした?」
何か思い出したの、前のぼくと稲光のことで…?
「…心当たりというヤツなんだが…」
今、確証を探してる。本当にそれで合っているのか、違うのか、前の俺の記憶を。
ハーレイが追っているらしい記憶。アルテメシアでなければ何処の稲光なのか。
(…稲光が空に見えるような星に、行ってはいない筈なんだけど…)
シャングリラが他の惑星に降りたことなど、数えるほどしか無かった筈。白い鯨に改造する時、どうしても重力が必要だから、と降りた星には…。
(雲なんか無くて、星が見えるだけで…)
そういう惑星を選んでいた。下手に大気を持った星だと、有毒な雨が降ったりもする。人体や、船を構成する金属には毒になる雨。それは困るし、いっそ大気は無い方がいい。
(大気が無いから、雲だって無くて…)
稲光が光るわけがないのに、と考えていたら…。
「あれだ、アルタミラだ…!」
間違いない、とハーレイが口にしたから驚いた。
「え?」
アルタミラって…。アルタミラだよね、前のぼくたちが逃げ出した星。
「そうだ、あそこで見たんだが…。覚えていないか、あの星で見た稲光」
光ってたぞ、と言われたけれども、生憎と炎の記憶しかない。アルタミラといえば炎の地獄で、空も炎の色に染まっていたのだから。
「アルタミラの空は、燃えてたよ?」
メギドで星ごと焼かれたんだし、空まで真っ赤。空は煙と赤い雲だけ。
「それなんだがな…。心当たりと言っただろうが」
俺もナスカが燃えるまで忘れちまっていた上、そのまま放っておいた記憶だ。…今日までな。
前のお前を失くしちまって、ナスカごと封印しちまったから。
ナスカがメギドにやられた時にだ、俺たちは地上をモニターしてた。通信が繋がっていた間は。
それで見たんだ、ナスカの空に稲光が光っていたのをな。
メギドの炎は、星を丸ごと滅ぼすついでに、稲光も連れて来るらしい。大気も乱れちまうから。
たまに光るのを見ている間に、気が付いた。
俺はアルタミラでも見ていたんだ、と。
メギドが呼んだ稲光をな…、とハーレイが掴んだ稲光の記憶。アルタミラで見たという稲光。
けれど、その光を自分は覚えてはいない。空は真っ赤に燃えていただけ。
「稲光って…。いつ?」
ぼくは少しも覚えていないよ、ハーレイだけが見たんじゃないの…?
前のぼくがシェルターを壊して直ぐなら、ぼくはポカンと座り込んでただけだったから。
「違うな、あれよりも後のことだ。お前と一緒に走っていた時」
一人でも多く助け出そう、とシェルターを開けに急いだだろうが。…あの時の空だ。
雷の音は覚えちゃいないが、こう、空を切り裂いて光ってた。
それこそ神様が怒ったみたいに、炎の色の空を横切ったり、地上に向けて落ちていったり。
「そうだっけ…!」
忘れちゃってた、と蘇って来た時の彼方の記憶。前の自分が燃えるアルタミラで目にした光景。
炎の地獄の中で見たのだった、空を引き裂く稲光を。
(ピカッと光って…)
其処から空が裂けてゆくように思えた、忌まわしい光。メギドの炎が呼んだ稲妻。
ハーレイと二人、閉じ込められた仲間たちを救おうとして、走るのに懸命だったけれども…。
(終わりの光だ、って…)
そう感じていた稲光。あれが光ると、滅びに一歩近付くのだと。
激しい地震で揺れ動く地面とは、また別のこと。空が裂かれて消える気がして、稲光が空を引き裂く度に、空が無くなってしまうような気がして。
空が無くなったら、もう呼吸は出来ない。誰も生きてはいられない。
(そうなっちゃう前に…)
一人でも多く助けなければ、とハーレイと二人で走り続けた。稲光に裂かれる空の下を。
そうやって開けた、最後のシェルター。「早く」と中の仲間を逃がした。
彼らと一緒に駆け込んだ船で、ギリギリまで待った生き残り。もう全員が乗った筈だけれども、誰か逃げては来ないかと。…間違った方へ逃げた仲間がいるなら、待たねばと。
その船からも見ていた終わりの光。
空を引き裂き、天から地へと落ちる滅びの稲妻。
神ではなくて人がやったのだけれど、星の終わりを連れて来たのは稲光だった…。
あれだったのか、と気付いた世界の終わり。幼かった自分が「全部おしまい」と思い込んでいた稲光。それが光れば全て終わると、世界が消えてしまうのだと。
「…稲光が怖かったの、前のぼくの記憶?」
雷の音は覚えてないけど、きっと聞こえなかったんだろうね。地震が何度も起こっていたから、揺れる音やら崩れる音で。
稲光だけが記憶に残って、世界の終わりだと思ってて…。
前のぼくはホントに世界の終わりを見たから、今のぼくも稲光が怖かったのかな…?
「そうなんだろうな、それ以外には何も思い付かないし…」
前のお前は稲光の怖さを克服してたが、今のお前に出ちまったか。雷の音よりも稲光が苦手な、珍しい子供になっちまって。
前のお前みたいに育っていなくて、チビだったからかもしれないな。
生まれてから、ほんの数年しか経っていないチビ。
世界の終わりをその目で見るには、まだ小さすぎるようなチビなんだしな…?
「なんだか凄いね。記憶は戻っていなかったのに、稲光は覚えていたんだ、ぼく…」
稲光が光ったら、世界が終わってしまうこと。…全部なくなって消えてしまうこと…。
それで怖くて泣いてたんなら、他のことも覚えていたかったよ。
ほんのちょっぴりだけでいいから、ハーレイのことも覚えていてもいいのに…。
稲光よりも、そっちがいい、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。同じ持つなら、ハーレイの記憶。
「俺だって?」
記憶が戻っていない時でも、俺を覚えていたかったってか…?
「うん。ハーレイなんだ、って分からなくても、見たら大好きになっちゃうんだよ」
稲光は嫌いだったけれども、ハーレイなら好きに決まっているもの。
公園とかでジョギング中のハーレイを見付けて、気に入ってしまって、追い掛けるとか。
大好きなんだもの、捕まえなくちゃね、ハーレイを。
「追い掛けるって…。お前、倒れちまうぞ、そんな無茶をしたら」
俺のスピード、幼稚園児が追い掛けられるような速さじゃないぞ。今のお前でも無理そうだが。
「だから呼ぶってば、お兄ちゃん、って」
頑張って追い掛けて走るけれども、ちゃんと声だって出して呼ぶから。
そしたら止まってくれるでしょ、と笑みを浮かべた。小さな子供が呼んでいるなら、ハーレイは放って行ったりはしない。いくら知らない子供でも。「何処の子供だ?」と首を捻っても。
「ハーレイ、絶対、行っちゃわないよ。ぼくが追い掛けて走っていたら」
子供の声でも、「待ってよ」って大きな声で呼んだら。「お兄ちゃん、待って」って。
ハーレイだったら止まる筈だよ、と自信たっぷりで言ったのに。
「お兄ちゃんなあ…」
お兄ちゃんか、と複雑そうな顔の恋人。「止まってやるさ」と答える代わりに。
「…どうかしたの?」
ハーレイ、止まってくれないの?
ぼくが「お兄ちゃん」って呼んでいたって、聞こえないふりをして行ってしまうの…?
「いや、行っちまいはしないがな…。それよりも前の問題なんだ」
可愛い声でだ、「お兄ちゃん」と呼ばれる代わりに、「おじちゃん」と呼ばれそうなんだが…。
お前が幼稚園児の頃なら、俺はまだ二十代なのにな…?
後半だが、というハーレイの言葉。たとえ後半でも、二十代なら「おじちゃん」は酷だろう。
けれど、幼稚園児の目から見たなら、きっと「おじちゃん」。「お兄ちゃん」と呼べる相手は、今の学校の生徒くらいまでだろうと思うから…。
「そうかもね。お兄ちゃんじゃなくて、おじちゃんかも…」
おじちゃんだったら、ハーレイは嫌?
「ショックではあるが、お前、可愛いから許してやる。おじちゃんでもな」
お兄ちゃんだ、と言い直させるかもしれないが。
「ホント? ハーレイにも、ぼくが分かるわけ?」
ぼくがハーレイを大好きになって追い掛けるみたいに、ハーレイもぼくに気付いてくれるの?
「お前なんだ、とは分からんだろうが、可愛い子だな、とは思うだろう」
俺のことを「おじちゃん」呼ばわりされても、「お兄ちゃん」と呼んでくれなくてもな。
「それじゃ、一緒に遊んでくれる?」
「もちろんだ。しかし、出会えていないようだし…」
出会う運命では無かったんだろうな、同じ町に住んでいたってな…。
時が来るまで会えない運命だったんだろう、とハーレイは残念そうな顔。
「おじちゃんでもいいから、チビのお前に会いたかったな」と、公園はよく走るのに、と。
「まったく、どうして駄目だったんだか…。公園、お前もお母さんと行っていたらしいのに」
すれ違いさえもしなかったなんて、神様も意地悪なことをなさるもんだな。
ちょっと会わせてくれればいいのに、俺たちが知り合いになれるように。
「いつもそういう話になるよね、もっと早くに出会えていたら、って」
赤ちゃんのぼくには会ったかもしれない、って聞いたけど…。
生まれた病院を退院する時、ハーレイが見たっていう赤ちゃん。…ストールにくるまって、春の雪が降る日に退院した子。
「あれも記憶はハッキリしてはいないしなあ…」
同じ雪の日に退院してった、他の赤ん坊かもしれないからな。
なにしろ雪が舞っていたんだ、ストールでくるもうと思う母親、多いだろうから。
「それはそうだけど…。赤ちゃんが風邪を引いたら困るし、暖かくしてあげるんだろうけど…」
ハーレイが見たのが、ぼくだとしたなら、なんでその時は会えたのかな?
それから後は一度も会えなくなってしまったのに、どうして退院した日だけ…?
「神様のお計らいってことだろ、お前が初めて外に出た日だ」
生まれた時には病院なんだし、外の世界に出るのはその日が初めてだろうが。
俺に出会える最初のチャンスで、その瞬間に通り掛かるよう、神様が決めて下さったんだ。俺が走って行く速さやら、どういうコースで走るのかを。
「だから会えたの?」
神様のお蔭で、ぼくが初めて外に出た日に…?
「お前だったとすれば、だがな」
まさに運命の出会いというヤツで、お前は外の世界に出た瞬間に俺と出会ったわけだ。
それっきり二度と会えないままでも、うんと劇的な出会いだぞ。
病院の外はこんな世界、と出て来た途端に、未来の恋人が前を走ってゆくんだから。
そういう出会いも洒落てるじゃないか、とハーレイが目をやった窓の外。
「あの日は雪で、今日は雨で…」と、眺めたガラス窓の向こうは…。
「おっ、止んで来たな、凄い雨だったが」
雷もそんなに鳴らなかったな、お前の声が聞き取れないほどに酷くはなかったし。
じきに止むぞ、という言葉通りに止みそうな雨。空もすっかり明るくなって。
「ハーレイの予報、当たったね」
酷い雨でも、そんなに長くは降らないだろう、って。
それに雷が鳴ったお蔭で、稲光がとても怖かった謎も解けちゃった。小さかった頃には怖かったことも忘れていたけど、あれって、前のぼくだったんだ…。
稲光が光ったら、全部おしまいだと思ってたのは。
「お前がアルタミラの稲光を覚えていたとはな…」
それもすっかり克服した筈の、メギドの炎が呼んだ稲光の怖さってヤツを。
人間の記憶は分からんものだな、何がヒョッコリ顔を出すやら…。
「他にも何かあるのかな?」
アルタミラで見てた稲光の他にも、前のぼくの記憶を引き摺ってること。
ぼくはちっとも気付いてなくても、怖いものとか、好きなものとか。
「俺たちのことだ、きっと山ほどあるんだろう」
自分じゃ全く知らない間に、前の自分だった頃の記憶を重ねてしまっていること。
お前も、もちろん俺の方でも。
まあ、そういうのを探しながら、だ…。
のんびりと生きていこうじゃないか、とパチンと片目を瞑ったハーレイ。
これからも時間はたっぷりとあるし、「今日は思わぬ雷見物も出来たしな」と。
「まさかお前が、稲光が怖いチビだったとは…」
今じゃすっかり平気なようだが、稲光が光ると世界の終わりが来るんだな?
「そう思っていたみたいだけど…。今のぼくは少しも怖くないから」
またハーレイと二人で見たいな、稲光。…雷の話を聞いたりして。
犬は雷が嫌いだなんて、ぼくはちっとも知らなかったから。
「お前、今度も克服したんだな。稲光の怖さを」
全部おしまい、と怖くて泣いてたチビの子供が、今じゃ雷見物か。また見たいとは、恐れ入る。
稲光が遠くで光るだけでも、お前、駄目だったと聞いたのに…。
「育ったからね、あの頃よりも」
じきに前のぼくとそっくり同じに育つよ、ちゃんと背が伸びて。
そしたらハーレイとデートに行けるし、キスだって…。
「其処は急ぐな。急がなくてもいいんだ、お前は」
稲光が怖い子供のままだと可哀相だから、育ってくれて良かったが…。
これから先はゆっくり育て、とお決まりの台詞。「子供時代を、うんと楽しめ」と。
(…チビのぼくだって、早く卒業したいのに…)
稲光が怖い子供を卒業したように、チビの自分も早く卒業したいけど。
前の自分と同じ背丈に、早く育ちたいと思うけれども、ハーレイの気持ちも分かるから…。
焦らずにゆっくり大きくなろう。
神様が背丈を前と同じにしてくれるまでは、子供時代を楽しもう。
今日の稲光で一つ思い出したように、ハーレイと二人で前の自分たちの思い出を集めながら。
幾つもの記憶の欠片を拾い集めながら、幸せな日々を過ごしてゆこう。
青い地球では、稲光が幾つ光ったとしても、世界が終わりはしないのだから…。
終わりの稲光・了
※幼かった頃のブルーが怖がった雷。けれど、音ではなくて稲光の方が怖かったのです。
「あれが光ると、全部おしまい」と思わせたのは、アルタミラで見た稲光。不思議ですよね。
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暗くなってきたよ、とブルーが眺めた窓の外。
ハーレイと過ごす休日の午後に、俄かに曇り始めた空。さっきまで晴れていた筈なのに。いつの間にやら湧いていた雲が、青かった空を覆い尽くそうとしているのが今。
「そうだな、こいつは降りそうだな」
ひと雨来るぞ、とハーレイも窓の向こうの空を見ている。「すっかり曇っちまったな」と。
「雨になっちゃうんだ…。酷くなる?」
酷い雨になったら、ハーレイが帰る時が大変…。今日は車じゃないんだもの。
傘はパパのを貸してあげられるけれど、バス停に着くまでに濡れちゃいそうだよ。
酷い雨だと、地面からも跳ねてくるもんね、と心配になった。叩き付けるように降る土砂降りの雨は、地面で跳ねて靴やズボンを濡らすから。
傘では防げない、地面の上で跳ねる雨粒。シールドを張れば防げるけれども、ハーレイはそれを好まない。今の時代はサイオンを使わないのがマナーで、子供はともかく、大人なら…。
(濡れて大変、って分かっていたって…)
雨の中では張らないシールド。急な雨で傘を持っていなければ雨宿り。余程でなければ、大雨の中をシールドで走る大人はいない。仕事でとても急いでいるとか、そんな時だけ。
だから夜まで雨が止まなければ、ハーレイだって困るだろう。何ブロックも離れた家まで、雨の中を歩いて帰るのは無理。路線バスを使って帰るにしたって、バス停までに濡れる靴やズボン。
せっかくハーレイが来てくれたのに、と見上げる雲。大雨にならなきゃいいけれど、と。
「そう酷い雨にはならんだろう。ザッと降るかもしれないが…」
いきなり大粒で来そうな雲だが、まあ、その内に止むんじゃないか?
直ぐに止むとは言えないが…。
俺が帰るような時間までには、充分に止むと思うがな…?
こいつは夜まで降り続ける雨じゃないだろう、というのがハーレイの読み。土砂降りの雨でも、多分、長くは降らない雨。早ければ一時間も経たない間に、雲ごと何処かへ去ってゆく。
「そんなトコだと思うんだが…。雲の感じと、流れ方でな」
よく見ろ、一面の雲に見えても止まっちゃいない。凄い速さで流れてるから。
こういう雲だと、行っちまうのも早いんだ。
雨も雲ごと行っちまうから、とハーレイが指した空の雲。確かに雲は流れている。
「ホントだ、凄い速さで流れてる…。空を丸ごと蓋したみたいに見えるのに」
それじゃ降っても、直ぐ止むんだね。雲と一緒に行っちゃうから。
良かった、夜まで降る雨じゃなくて。ハーレイの予報は、よく当たるもの。
「俺だって外すこともあるがな、人間だから」
プロがやってる天気予報でも外れるんだし、仕方ない。未来が見えるわけでもないしな。
はてさて、どんな雨になるやら…。
じきに降るぞ、というハーレイの言葉通りに、暫く経ったら、もう真っ暗になった外。日が沈むにはまだ早いのに、まるで夕方になったかのよう。
(…昼間なのに、夜になっちゃった…)
明るかった空を覚えているから、夜が来たような気がするよね、と思っている間に、大粒の雨が降り出した。庭の木々や屋根に大きな雨粒が一つ、二つと落ちる音がして、それが始まり。
みるみる内に外は一面の雨で、ザーザーと激しく降り注ぐ音。窓ガラスにも雨の雫が流れる。
「ハーレイの予報、大当たりだね」
いきなり降ってくるって所も、大粒なのも。ホントに凄い雨だけど…。
この雨、じきに止むんだっていう方の予報も当たる?
「さてなあ…? そいつは空の気分次第で…」
こういった雲が次から次へと湧いて来るなら、直ぐには止まん。
今の雲が他所へ流れて行っても、次の雲が流れて来ちまうから…。雨を降らせるような雲がな。
其処までは俺も読めやしないし、どうなんだかなあ…。
天気予報を見て来た感じじゃ、そうはならんと思うんだが。
おっと、光った…!
空を切り裂いた稲光。そして雷鳴。
ゴロゴロと轟いた音が消えたら、「思った通りか…」と空を見ているハーレイ。
「雲の具合からして、来るんじゃないかと思ったが…。やっぱり雷つきだったな」
派手に鳴ったな、とハーレイは雷まで予想していたらしい。流れて来る雲を見ただけで。
「凄いね、雷が鳴るっていうのも分かるんだ…」
これって、近い?
今の雷、もう直ぐ側まで来ているの…?
「来ているだろうな、だから木の下は危ないぞ」
雨宿りをしに入っちゃいかん、とハーレイが指差す庭にある木たち。葉を茂らせた木たちは雨を防いでくれそうだけれど、こういう雨の時には危険。
家よりも高くなっている木は、雷を招きやすいから。いわゆる落雷。
「…落ちるんだ…。木の下にいたら、雷が…」
避雷針が近くにあっても駄目なの、やっぱり落ちる…?
「当然だろうが、雷ってヤツは気まぐれなんだ。…こういう雲と同じでな」
避雷針みたいに高くなってりゃ、気の向いた場所にドカンと落ちる。選んじゃくれんぞ。
あっちに避雷針があるから、と避けて行ってはくれないってな。
ついでに言うなら、お前みたいにシールドも出来ないガキの場合は心配ないが…。
「…何かあるの?」
雷とシールド、何か関係あったりするわけ…?
まさか雷を呼びやすいってことはないよね、シールドはそういう性質じゃないし…。
でも危ないの、と丸くなった目。シールドの何処が落雷の危機を招くのだろう?
「シールドそのものが駄目ってことではないんだが…」
なまじシールドが上手いガキだと、こんな雨の中で傘が無くても濡れないからな。
それで安心して、「雨が止んだらまた遊ぼう」というのが危ない。
家に帰ったり、軒下に入って雨を避ける代わりに、そのまま其処に突っ立ってると…。
その場所がうんと見晴らしが良くて、周りに何も無いようなトコ。
野原だの、広いグラウンドや河原だったりするとだな…。
そいつに向かって真っ直ぐ落ちて来ちまうぞ、とハーレイが軽く広げた手。
周りに高い木などが無ければ、人間めがけて落ちる雷。其処が一番高いわけだし、たかが子供の背丈くらいでも落ちて来る。雷は高い所に落ちやすいから、ポツンと立つ子は格好の餌食。
もっとも、雷が落ちた場合は、シールドの方も本能的に強化されるから…。
「衝撃で倒れるとか、飛ばされるとか…。そんな程度ではあるんだが」
打ち身や軽い擦り傷ってトコだ、ショックの方はデカイがな。
いきなりドカンと来ちまうわけだし、気絶するのが普通だから…。シールドは消えて、すっかりずぶ濡れな末路なんだが。
「ずぶ濡れでもいいよ、その程度の怪我で済むんなら」
良かった、もっと大変なのかと思っちゃった。雷が落ちると、木だって裂けたりするんでしょ?
子供に落ちたら大怪我するとか、死んじゃうだとか…。
そうならないなら安心だよね、と言ったのだけれど。
「勘違いするなよ、今の時代だから安心なだけだ。子供に雷が落ちた時でも、今だから無事だ」
みんなサイオンを持ってるお蔭で、雷の危険もグンと減ったというわけだな。
ずっと昔は、落雷のせいで死んじまう人も多かったんだ。
前の俺たちが生きてた頃でも、ゼロじゃなかったかもしれないなあ…。
きちんと対策していなかったら、人類は危なかったろう、とハーレイが言うものだから。
「サイオンが無いと落雷で死んじゃうんなら…。ぼくも危ない?」
人類と変わらないくらいに不器用なんだよ、ぼくのサイオン。…シールドも無理。
ぼくに落ちたら、死んじゃうのかな…?
「お前の場合も、本能ってヤツでいけるだろ。命の危機なら、サイオンの方で出て来るさ」
シールドしよう、と思わなくても、それよりも前に。お前が自覚しなくても。
なんと言っても最強のタイプ・ブルーなんだし、一度とはいえ瞬間移動もしてるしな。
あの時は俺もビックリしたが…。目を覚ましたら、お前が俺のベッドの中にいるんだから。
「…あれ、もう一回やりたいんだけど…」
ハーレイの家まで行ってみたいよ、寝てる間に。そしたら、一緒に朝御飯…。
「勘弁してくれ、俺にとっては大迷惑なサプライズだから」
チビのお前じゃ、手がかかるだけだ。…ちゃんと育ったお前だったら歓迎だがな。
来るんじゃないぞ、と釘を刺されてしまった、ハーレイの家への瞬間移動。
前の自分と同じ背丈に育たない限り、ハーレイの家には行けない決まり。出掛けて行っても中に入れては貰えない。チャイムを押しても、きっと無視されるだけ。
(でなきゃ、「帰れ」って言われちゃうんだよ)
チビだから仕方ないけどね…、と心の中で溜息をついているのに、ハーレイの方は雨見物。
「おっと、また光った」
派手に光ったぞ、お前、見てたか…?
「今の、近いね。さっきのより」
光って直ぐに音がしたもの、さっきは少し間があったよ。稲光を見てから、音がするまでに。
「その通りだな。雷は音で分かりやすいんだが…」
近いのかどうか、近付いて来ているかどうかも、音が目安になるんだが…。
それがだ、青空でも落ちることがあるから危ないんだぞ。何の前触れも無いってヤツだ。
「青空なのに雷なの…?」
どういう仕組み、と質問してみた、青空の時に落雷するケース。やはり、何処かに雷雲が隠れているらしい。人間の目には遠い距離でも、雷にとってはほんの少しで、遠い所から飛んで来る。
怖いけれども、自然は凄い、と感心していたら尋ねられた。
「お前、雷は怖くないのか?」
好奇心一杯って顔をしてるが、怖いと思わないのか、雷…?
「平気だよ、なんで?」
そりゃ、落雷は怖いけど…。シールドも全然自信が無いから、落ちて欲しくはないけれど…。
「今はそうだろうが、ガキの頃だな」
怖くなかったのか、雷ってヤツ。
今みたいに急に暗くなってだ、ゴロゴロと鳴り出すわけだから…。
チビには怖い代物だろうが、雷の仕組みも全く分かっていないんだしな。
小さかった頃はどうなんだ、とハーレイに訊かれた雷のこと。もちろん怖いものだった。両親にくっついて泣いていたほど、恐ろしかったものが雷。
「小さい頃なら、ぼくだって怖いに決まってるじゃない…!」
パパやママにくっついて泣いてたくらいで、雷なんか大嫌い。うんと怖くて、苦手だったよ。
今は平気になったけど…。もう子供とは違うから。
「そうだろうなあ、大抵のガキと犬は雷が駄目なモンだし」
お前も怖くて当然だってな。俺は怖かった覚えは無いがだ、物心つくまでは駄目だったろう。
いくら俺でもガキはガキだし、犬と似たようなモンだろうから。
「犬って…?」
なんで犬なの、どうして犬が出て来るの…?
雷の話をしているんだよ、と傾げた首。幼い子供の方はともかく、犬というのは何だろう?
「犬か? 犬ってヤツは、あの音が苦手らしいんだ。ガキと同じで」
雷には音が付き物だしなあ、昼間だろうが、夜に来ようが。…ゴロゴロ鳴るのが雷だろ?
犬の耳には、不愉快すぎる音らしい。逃げ出したくて、鎖を切っちまうくらい。
お前も音だろ、苦手だったの。
今じゃ全く平気なようだが、雷が怖くて泣いてた頃は…?
「えーっと…」
どうだったのかな、雷だよね…?
ピカッと光って、ゴロゴロ鳴ってて、うんと怖くて泣きじゃくってて…。
パパとママの側にいたんだっけ、と手繰ってみた記憶。幼かった自分が嫌った雷。
(…ゴロゴロ鳴るから…)
早く何処かに行って欲しくて、両親にしがみついていた。雷は大嫌いだったから。
鳴っている間はピカピカ光るし、もう恐ろしくてたまらない。うっかり顔を上げた途端に、空を切り裂いてゆく稲妻。
(…昼でも光るし、夜だともっと強く光って…)
あの稲光が怖かった。窓の向こうで走る稲妻、その後で音がやって来る。
けれど、音より稲妻の方。音はしないで、夜に遠くで光る稲光も怖かったから。夜空を真っ白に染める光も、雲を切り裂くような光も。
怖かったものは稲光。雷鳴よりも、ずっと怖かった光。
ゴロゴロと鳴る音が聞こえなくても、夜ならば見える稲光。その光だけで身体が竦んだ。じきにピカピカ光り出すから、雷がやって来るのだから。
「…ぼくの苦手は、雷の音じゃなかったみたい…」
音も怖いけど、その前に光。雷の音は光の後に鳴り始めるから、光ほどには…。
多分、怖くはなかったと思う、と話したら。
「はあ? 光って…」
雷と言えば音だろうが、とハーレイは怪訝そうな顔。「犬も子供も、音が苦手だ」と。
「違うよ、ぼくは稲光だよ」
音よりもずっと怖かった筈で、音がしなくても怖かったから。…光っただけで。
夜の雷だと、うんと遠くで鳴っていたって、光だけ見えることがあるでしょ?
ゴロゴロいう音は聞こえなくても、雲がピカピカ光ってる時。
…ああいう光も、ぼくは嫌いで怖かったから…。ホントに光が苦手だったんだよ、音よりも。
「稲光だってか、あの音じゃなくて…?」
お前、何か勘違いってヤツをしてないか?
フクロウの鳴き声も駄目だったんだろ、小さかった頃は。…この前まで苦手だったくらいに。
前の俺がヒルマンに頼まれて彫ったフクロウ、アレの話をしてやるまでは。
フクロウの声でメギドの夢を見ちまったろうが、と指摘されたけれども、それとは別。
「あれはオバケだよ、フクロウの声は。…オバケの声だと思ったんだもの」
雷はオバケじゃなくて雷。どんなにゴロゴロ音が凄くても、雷はオバケじゃないものね。
だから鳴っても、光ほど怖くなかったんだよ、と説明したら。
「それは分かったが、雷がオバケじゃないのなら…」
どうして光が苦手になるんだ、怖がらなくてもいいだろうが。
音とセットで怖がってたなら話は分かるが、光だけでも怖かったなんて変だぞ、お前。
それとも雷は光のオバケか、お前にはそう見えていたのか…?
「さあ…?」
どうだったんだろう、雷、光のオバケなのかな?
それなら怖くて当然だけれど、光のオバケの怖い絵本があったとか…?
雷の音より、稲光の方が恐ろしかった幼い自分。すっかり忘れていたけれど。
(なんで光が怖かったわけ…?)
ハーレイにも変だと言われたけれども、自分でも不思議に思うこと。どうして稲光だったのか。雷を怖がる子供だったら、音が苦手なのが普通だろうに。
(ホントに光のオバケの絵本があったのかな…?)
空から降ってくる光のオバケ。そういう絵本に出会っていたなら、稲光が苦手でも分かる。光はとても怖いものだし、あれはオバケ、と震える子供。
(だけど、怖い絵本なんかを小さい子供に…)
読ませるとは、とても思えない。幼稚園にも、きっと置いてはいなかっただろう。子供が怖がる本を置くなど、幼稚園の先生たちがするわけがない。
(下の学校の図書室だったら、怖い絵本もあったけど…)
それは「怖さ」を楽しめる年の子供たちのためで、幼稚園から上がったばかりの子たちは、ただ怖そうに見ていただけ。「あの棚の本は、表紙を見ただけでもオバケが出そう」と。
(学校に行くようになる前から、雷、怖かったんだし…)
図書室で読んだ本のせいではない。光のオバケの怖い絵本があったとしても。
稲光が怖くて泣いていたのは、もっと幼くて小さい頃から。幼稚園の頃にはとうに怖くて、空が光るのが嫌だった。音を連れて来る昼の稲光も、夜に遠くで光っているだけの稲光でも。
(やっぱり光が怖いんだよね…?)
何故、と更に遡ってみた記憶。ずいぶんおぼろな記憶だけれども、怖かったことは覚えている。稲光がピカピカするのが怖くて、泣き叫んでいた子供時代。
(パパやママにギュッとくっついて…)
見ないでいようとした稲光。
あれが光ったら、全部おしまい。何もかも全部消えてしまって、おしまいだから。
そう思って震えていた自分。稲光で空が光った時には、「全部おしまいになっちゃうよ」と。
それだ、と思い出したこと。稲光が怖いと思った理由。
「稲光…。あれが光るとおしまいなんだよ、そう思ったから怖くて泣いてた…」
パパもママも、世界も全部おしまい。全部消えちゃう、って怖くって…。
だから稲光が怖かったんだよ、音じゃなくって光の方が。
世界が消えてしまうんだもの、とハーレイに話した、幼かった頃の自分が感じた恐怖。雷の音が聞こえなくても、稲光だけで震えていた自分。
「おいおい、世界が消えちまうって…。そいつは神様のお怒りか?」
神様がお怒りになった時には、雷が鳴ると言うんだが…。
この世界が終わっちまう時にも、神様の怒りで雷が轟くとは言うが…。
お前、そんなの知っていたのか、今よりもずっとチビなのに…?
幼稚園の先生が聖書の話でもしたか、絵本があったか。そんなトコだと思うんだが…。
「パパとママもそう言ったけど…。「それは神様の本の中だけ」って」
悪い子じゃないから、神様は世界を消したりしない、って言ってくれたけど…。
雷が来ても大丈夫、って教えてくれたんだけれど、やっぱり駄目。
稲光を見たら、怖くて泣いてた。あれが光ると、全部おしまいになっちゃいそうで…。
ずっと怖かったよ、何も起きないって分かる年になるまで。
稲光で空が光っていたって、世界はおしまいになったりしない、って。
「なるほどなあ…。稲光が光ると、世界が終わっちまうのか…」
それで音よりも光の方が怖かった、と。
雷が苦手な子供は多いもんだが、光が駄目とは、珍しいタイプだったんだな、お前。
少なくとも俺は一度も聞いたことがないぞ、音よりも稲光が怖いだなんて話は。
「ハーレイも珍しいと思うんだ…」
ぼくって変かな、自分でも忘れていたけれど…。雷の音より、光の方が怖かったこと。
でもね、本とかのせいじゃないような気がするよ。
幼稚園で聞いた話や、読んだ絵本にあったことなら、きっと、あんなに怖くないから。
パパとママが「それはお話の中だけだから」って言ってくれたら、「そうなんだ」って思うよ、きっと。元が絵本や、先生のお話だったらね。
怖い気持ちは消えていた筈、と育った自分でも分かること。
稲光が光ると世界が消えてしまうのだ、と絵本や先生の話で知識を仕入れたのなら、両親が違う話を聞かせてくれたら、それを信じる筈だから。
「絵本にはこう書いてあったけど、違うんだよ」と。幼稚園の先生に聞いたとしたって、両親が違うと言ってくれたら、小さな子供のことだから…。
(パパとママの話が本当だよ、って…)
疑いもなく信じることだろう。幼い子供が暮らす世界では、先生よりもずっと大きな存在なのが両親。その両親が「大丈夫」と言ってくれたら、何も怖くはなくなるもの。
最初の間は無理だとしたって、繰り返す内に。「光ってるけど、パパもママもいてくれるよ」とギュッと抱き付いて、「ここは安全」と。
(だけど稲光、パパやママがいても、怖かったんだし…)
おまけに世界が消えてしまうと思っていたのが、幼かった自分。稲光を見る度に怖くて怖くて、音よりもずっと恐ろしくて…。
もしかしたら、と気付いたこと。幼かった頃の自分は、何も覚えていなかったけれど…。
「前のぼくかな、稲光がとても怖かったのって…?」
記憶は戻っていないままでも、稲光で怖い思いをしたこと、何処かに残っていたのかも…。
「お前、とんでもない嵐の時でも飛んでたろ」
アルテメシアで、ミュウの子供を助けに飛び出して行った時には。
船の周りが雷雲だろうが、飛んで行く先が酷い雷雨だろうが。
第一、そうやって飛んで行っても、世界が終わりはしないじゃないか。助け損なった子供たちもいたが、世界が滅びはしなかった。…シャングリラは無事に飛んでたからな。
待てよ…?
アルテメシアじゃなくてだな…、とハーレイは顎に手をやった。
「どうかした?」
何か思い出したの、前のぼくと稲光のことで…?
「…心当たりというヤツなんだが…」
今、確証を探してる。本当にそれで合っているのか、違うのか、前の俺の記憶を。
ハーレイが追っているらしい記憶。アルテメシアでなければ何処の稲光なのか。
(…稲光が空に見えるような星に、行ってはいない筈なんだけど…)
シャングリラが他の惑星に降りたことなど、数えるほどしか無かった筈。白い鯨に改造する時、どうしても重力が必要だから、と降りた星には…。
(雲なんか無くて、星が見えるだけで…)
そういう惑星を選んでいた。下手に大気を持った星だと、有毒な雨が降ったりもする。人体や、船を構成する金属には毒になる雨。それは困るし、いっそ大気は無い方がいい。
(大気が無いから、雲だって無くて…)
稲光が光るわけがないのに、と考えていたら…。
「あれだ、アルタミラだ…!」
間違いない、とハーレイが口にしたから驚いた。
「え?」
アルタミラって…。アルタミラだよね、前のぼくたちが逃げ出した星。
「そうだ、あそこで見たんだが…。覚えていないか、あの星で見た稲光」
光ってたぞ、と言われたけれども、生憎と炎の記憶しかない。アルタミラといえば炎の地獄で、空も炎の色に染まっていたのだから。
「アルタミラの空は、燃えてたよ?」
メギドで星ごと焼かれたんだし、空まで真っ赤。空は煙と赤い雲だけ。
「それなんだがな…。心当たりと言っただろうが」
俺もナスカが燃えるまで忘れちまっていた上、そのまま放っておいた記憶だ。…今日までな。
前のお前を失くしちまって、ナスカごと封印しちまったから。
ナスカがメギドにやられた時にだ、俺たちは地上をモニターしてた。通信が繋がっていた間は。
それで見たんだ、ナスカの空に稲光が光っていたのをな。
メギドの炎は、星を丸ごと滅ぼすついでに、稲光も連れて来るらしい。大気も乱れちまうから。
たまに光るのを見ている間に、気が付いた。
俺はアルタミラでも見ていたんだ、と。
メギドが呼んだ稲光をな…、とハーレイが掴んだ稲光の記憶。アルタミラで見たという稲光。
けれど、その光を自分は覚えてはいない。空は真っ赤に燃えていただけ。
「稲光って…。いつ?」
ぼくは少しも覚えていないよ、ハーレイだけが見たんじゃないの…?
前のぼくがシェルターを壊して直ぐなら、ぼくはポカンと座り込んでただけだったから。
「違うな、あれよりも後のことだ。お前と一緒に走っていた時」
一人でも多く助け出そう、とシェルターを開けに急いだだろうが。…あの時の空だ。
雷の音は覚えちゃいないが、こう、空を切り裂いて光ってた。
それこそ神様が怒ったみたいに、炎の色の空を横切ったり、地上に向けて落ちていったり。
「そうだっけ…!」
忘れちゃってた、と蘇って来た時の彼方の記憶。前の自分が燃えるアルタミラで目にした光景。
炎の地獄の中で見たのだった、空を引き裂く稲光を。
(ピカッと光って…)
其処から空が裂けてゆくように思えた、忌まわしい光。メギドの炎が呼んだ稲妻。
ハーレイと二人、閉じ込められた仲間たちを救おうとして、走るのに懸命だったけれども…。
(終わりの光だ、って…)
そう感じていた稲光。あれが光ると、滅びに一歩近付くのだと。
激しい地震で揺れ動く地面とは、また別のこと。空が裂かれて消える気がして、稲光が空を引き裂く度に、空が無くなってしまうような気がして。
空が無くなったら、もう呼吸は出来ない。誰も生きてはいられない。
(そうなっちゃう前に…)
一人でも多く助けなければ、とハーレイと二人で走り続けた。稲光に裂かれる空の下を。
そうやって開けた、最後のシェルター。「早く」と中の仲間を逃がした。
彼らと一緒に駆け込んだ船で、ギリギリまで待った生き残り。もう全員が乗った筈だけれども、誰か逃げては来ないかと。…間違った方へ逃げた仲間がいるなら、待たねばと。
その船からも見ていた終わりの光。
空を引き裂き、天から地へと落ちる滅びの稲妻。
神ではなくて人がやったのだけれど、星の終わりを連れて来たのは稲光だった…。
あれだったのか、と気付いた世界の終わり。幼かった自分が「全部おしまい」と思い込んでいた稲光。それが光れば全て終わると、世界が消えてしまうのだと。
「…稲光が怖かったの、前のぼくの記憶?」
雷の音は覚えてないけど、きっと聞こえなかったんだろうね。地震が何度も起こっていたから、揺れる音やら崩れる音で。
稲光だけが記憶に残って、世界の終わりだと思ってて…。
前のぼくはホントに世界の終わりを見たから、今のぼくも稲光が怖かったのかな…?
「そうなんだろうな、それ以外には何も思い付かないし…」
前のお前は稲光の怖さを克服してたが、今のお前に出ちまったか。雷の音よりも稲光が苦手な、珍しい子供になっちまって。
前のお前みたいに育っていなくて、チビだったからかもしれないな。
生まれてから、ほんの数年しか経っていないチビ。
世界の終わりをその目で見るには、まだ小さすぎるようなチビなんだしな…?
「なんだか凄いね。記憶は戻っていなかったのに、稲光は覚えていたんだ、ぼく…」
稲光が光ったら、世界が終わってしまうこと。…全部なくなって消えてしまうこと…。
それで怖くて泣いてたんなら、他のことも覚えていたかったよ。
ほんのちょっぴりだけでいいから、ハーレイのことも覚えていてもいいのに…。
稲光よりも、そっちがいい、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。同じ持つなら、ハーレイの記憶。
「俺だって?」
記憶が戻っていない時でも、俺を覚えていたかったってか…?
「うん。ハーレイなんだ、って分からなくても、見たら大好きになっちゃうんだよ」
稲光は嫌いだったけれども、ハーレイなら好きに決まっているもの。
公園とかでジョギング中のハーレイを見付けて、気に入ってしまって、追い掛けるとか。
大好きなんだもの、捕まえなくちゃね、ハーレイを。
「追い掛けるって…。お前、倒れちまうぞ、そんな無茶をしたら」
俺のスピード、幼稚園児が追い掛けられるような速さじゃないぞ。今のお前でも無理そうだが。
「だから呼ぶってば、お兄ちゃん、って」
頑張って追い掛けて走るけれども、ちゃんと声だって出して呼ぶから。
そしたら止まってくれるでしょ、と笑みを浮かべた。小さな子供が呼んでいるなら、ハーレイは放って行ったりはしない。いくら知らない子供でも。「何処の子供だ?」と首を捻っても。
「ハーレイ、絶対、行っちゃわないよ。ぼくが追い掛けて走っていたら」
子供の声でも、「待ってよ」って大きな声で呼んだら。「お兄ちゃん、待って」って。
ハーレイだったら止まる筈だよ、と自信たっぷりで言ったのに。
「お兄ちゃんなあ…」
お兄ちゃんか、と複雑そうな顔の恋人。「止まってやるさ」と答える代わりに。
「…どうかしたの?」
ハーレイ、止まってくれないの?
ぼくが「お兄ちゃん」って呼んでいたって、聞こえないふりをして行ってしまうの…?
「いや、行っちまいはしないがな…。それよりも前の問題なんだ」
可愛い声でだ、「お兄ちゃん」と呼ばれる代わりに、「おじちゃん」と呼ばれそうなんだが…。
お前が幼稚園児の頃なら、俺はまだ二十代なのにな…?
後半だが、というハーレイの言葉。たとえ後半でも、二十代なら「おじちゃん」は酷だろう。
けれど、幼稚園児の目から見たなら、きっと「おじちゃん」。「お兄ちゃん」と呼べる相手は、今の学校の生徒くらいまでだろうと思うから…。
「そうかもね。お兄ちゃんじゃなくて、おじちゃんかも…」
おじちゃんだったら、ハーレイは嫌?
「ショックではあるが、お前、可愛いから許してやる。おじちゃんでもな」
お兄ちゃんだ、と言い直させるかもしれないが。
「ホント? ハーレイにも、ぼくが分かるわけ?」
ぼくがハーレイを大好きになって追い掛けるみたいに、ハーレイもぼくに気付いてくれるの?
「お前なんだ、とは分からんだろうが、可愛い子だな、とは思うだろう」
俺のことを「おじちゃん」呼ばわりされても、「お兄ちゃん」と呼んでくれなくてもな。
「それじゃ、一緒に遊んでくれる?」
「もちろんだ。しかし、出会えていないようだし…」
出会う運命では無かったんだろうな、同じ町に住んでいたってな…。
時が来るまで会えない運命だったんだろう、とハーレイは残念そうな顔。
「おじちゃんでもいいから、チビのお前に会いたかったな」と、公園はよく走るのに、と。
「まったく、どうして駄目だったんだか…。公園、お前もお母さんと行っていたらしいのに」
すれ違いさえもしなかったなんて、神様も意地悪なことをなさるもんだな。
ちょっと会わせてくれればいいのに、俺たちが知り合いになれるように。
「いつもそういう話になるよね、もっと早くに出会えていたら、って」
赤ちゃんのぼくには会ったかもしれない、って聞いたけど…。
生まれた病院を退院する時、ハーレイが見たっていう赤ちゃん。…ストールにくるまって、春の雪が降る日に退院した子。
「あれも記憶はハッキリしてはいないしなあ…」
同じ雪の日に退院してった、他の赤ん坊かもしれないからな。
なにしろ雪が舞っていたんだ、ストールでくるもうと思う母親、多いだろうから。
「それはそうだけど…。赤ちゃんが風邪を引いたら困るし、暖かくしてあげるんだろうけど…」
ハーレイが見たのが、ぼくだとしたなら、なんでその時は会えたのかな?
それから後は一度も会えなくなってしまったのに、どうして退院した日だけ…?
「神様のお計らいってことだろ、お前が初めて外に出た日だ」
生まれた時には病院なんだし、外の世界に出るのはその日が初めてだろうが。
俺に出会える最初のチャンスで、その瞬間に通り掛かるよう、神様が決めて下さったんだ。俺が走って行く速さやら、どういうコースで走るのかを。
「だから会えたの?」
神様のお蔭で、ぼくが初めて外に出た日に…?
「お前だったとすれば、だがな」
まさに運命の出会いというヤツで、お前は外の世界に出た瞬間に俺と出会ったわけだ。
それっきり二度と会えないままでも、うんと劇的な出会いだぞ。
病院の外はこんな世界、と出て来た途端に、未来の恋人が前を走ってゆくんだから。
そういう出会いも洒落てるじゃないか、とハーレイが目をやった窓の外。
「あの日は雪で、今日は雨で…」と、眺めたガラス窓の向こうは…。
「おっ、止んで来たな、凄い雨だったが」
雷もそんなに鳴らなかったな、お前の声が聞き取れないほどに酷くはなかったし。
じきに止むぞ、という言葉通りに止みそうな雨。空もすっかり明るくなって。
「ハーレイの予報、当たったね」
酷い雨でも、そんなに長くは降らないだろう、って。
それに雷が鳴ったお蔭で、稲光がとても怖かった謎も解けちゃった。小さかった頃には怖かったことも忘れていたけど、あれって、前のぼくだったんだ…。
稲光が光ったら、全部おしまいだと思ってたのは。
「お前がアルタミラの稲光を覚えていたとはな…」
それもすっかり克服した筈の、メギドの炎が呼んだ稲光の怖さってヤツを。
人間の記憶は分からんものだな、何がヒョッコリ顔を出すやら…。
「他にも何かあるのかな?」
アルタミラで見てた稲光の他にも、前のぼくの記憶を引き摺ってること。
ぼくはちっとも気付いてなくても、怖いものとか、好きなものとか。
「俺たちのことだ、きっと山ほどあるんだろう」
自分じゃ全く知らない間に、前の自分だった頃の記憶を重ねてしまっていること。
お前も、もちろん俺の方でも。
まあ、そういうのを探しながら、だ…。
のんびりと生きていこうじゃないか、とパチンと片目を瞑ったハーレイ。
これからも時間はたっぷりとあるし、「今日は思わぬ雷見物も出来たしな」と。
「まさかお前が、稲光が怖いチビだったとは…」
今じゃすっかり平気なようだが、稲光が光ると世界の終わりが来るんだな?
「そう思っていたみたいだけど…。今のぼくは少しも怖くないから」
またハーレイと二人で見たいな、稲光。…雷の話を聞いたりして。
犬は雷が嫌いだなんて、ぼくはちっとも知らなかったから。
「お前、今度も克服したんだな。稲光の怖さを」
全部おしまい、と怖くて泣いてたチビの子供が、今じゃ雷見物か。また見たいとは、恐れ入る。
稲光が遠くで光るだけでも、お前、駄目だったと聞いたのに…。
「育ったからね、あの頃よりも」
じきに前のぼくとそっくり同じに育つよ、ちゃんと背が伸びて。
そしたらハーレイとデートに行けるし、キスだって…。
「其処は急ぐな。急がなくてもいいんだ、お前は」
稲光が怖い子供のままだと可哀相だから、育ってくれて良かったが…。
これから先はゆっくり育て、とお決まりの台詞。「子供時代を、うんと楽しめ」と。
(…チビのぼくだって、早く卒業したいのに…)
稲光が怖い子供を卒業したように、チビの自分も早く卒業したいけど。
前の自分と同じ背丈に、早く育ちたいと思うけれども、ハーレイの気持ちも分かるから…。
焦らずにゆっくり大きくなろう。
神様が背丈を前と同じにしてくれるまでは、子供時代を楽しもう。
今日の稲光で一つ思い出したように、ハーレイと二人で前の自分たちの思い出を集めながら。
幾つもの記憶の欠片を拾い集めながら、幸せな日々を過ごしてゆこう。
青い地球では、稲光が幾つ光ったとしても、世界が終わりはしないのだから…。
終わりの稲光・了
※幼かった頃のブルーが怖がった雷。けれど、音ではなくて稲光の方が怖かったのです。
「あれが光ると、全部おしまい」と思わせたのは、アルタミラで見た稲光。不思議ですよね。
(植木鉢…)
こんな所に、とブルーが眺めた鉢。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの住宅街だけれども、あちこちの庭や花壇をキョロキョロ見ながら帰るのが好き。今日もそうして歩く間に、生垣越しに覗いた庭。
植木鉢は其処に置かれていた。庭の芝生の上にチョコンと、鮮やかな色の植木鉢。
(子供の名前…)
如何にも子供が好きそうなデザインの鉢で、名前つき。可愛らしい字で書いてあるけれど、この家に子供はいたろうか?
どう見ても小さな子供の文字だし、それから鉢。
(この植木鉢…)
幼稚園とかで貰う植木鉢にそっくり。幼稚園と、下の学校に入って間も無い頃に貰った植木鉢。だから子供の物だと分かる。鉢のデザインも、書かれた名前も持ち主は子供だと教えてくれる。
(子供、いたっけ…?)
小さな子供を庭で見掛けた覚えは無い。ついでに植木鉢の方も問題。
何も植わっていない鉢には、土がたっぷり入っていた。幼稚園や学校から鉢を貰って来たなら、何か植わっている筈なのに。花の時期はもう過ぎたとしたって、その後の茎。
それも枯れたというのだったら、お役御免の植木鉢。綺麗に洗って次のシーズンまでは何処かに仕舞っておくとか、そうでないなら新しく蒔いた種のラベルをつけるとか。
植木鉢ならそうなるだろうに、どちらでもなくて、中身は土だけ。
おまけに置かれた場所は芝生で、普通だったら今が盛りの花の鉢などを飾りたい筈で…。
なんとも謎だ、と気になり始めた植木鉢。
道から良く見える場所に置くなら、土だけの鉢より何か植わった植木鉢がいいと思うのに。花が咲いたものや、葉っぱが綺麗な植物や。
小さな子供がいるのだったら、貰ったばかりの鉢を置くかもしれないけれど…。
(…それでも何か植わってるよね?)
土だけでラベルも無いだなんて、と首を傾げていた所へ、出て来た御主人。家の裏側から、庭の手入れをするために。
「こんにちは!」
ピョコンと頭を下げて挨拶、「おかえり」と返してくれた御主人。
「ブルー君、どうかしたのかい?」
庭を見てたね、と尋ねられた。庭仕事の支度をしている時から、きっと気付いていたのだろう。こちら側からは見えないけれども、御主人には見えていた姿。生垣の側に立っているのが。
「えっと、その鉢…」
植木鉢が気になっちゃって…。覗いたら、其処にあったから…。
「ああ、これだね。子供用だからねえ、そりゃ気になるだろうね」
うちに子供はいないから。…いったい何処から来たんだろう、と不思議なんだろう?
この鉢は孫がくれたんだよ、と御主人は嬉しそうな顔。
少し離れた所に住んでいるという、お孫さん。植木鉢に名前が書いてある子供。お孫さんから、鉢ごと貰ったプレゼント。「おじいちゃんと、おばあちゃんに」と。
もっとも、今は人間は誰もがミュウの時代なのだし、お年寄りではない「おじいちゃん」。今は買い物に行っているらしい「おばあちゃん」だって、名前だけのこと。
それでも、お孫さんにとっては、大好きな「おじいちゃん」と「おばあちゃん」。
だから大事な植木鉢を持って来たらしい。今日の昼間に、「プレゼント」と。
どおりで知らない筈だよね、と思った可愛い植木鉢。学校に行っている間に届いたのだし、朝は無かったわけだから。…昨日帰って来る時にも。
お孫さんから貰った鉢なら、芝生に置いておくのも分かる。土しか入っていなくても。花なんか咲いていない鉢でも、心のこもったプレゼント。
(きっと、お孫さんと一緒に…)
置く場所を選んだんだよね、と温かくなった胸。「此処に置こう」と、芝生に鉢を飾る御主人の姿が目に浮かぶよう。見栄えのする花が咲いた鉢より、お孫さんに貰った鉢が一番。
そう考えていたら、御主人が指差した植木鉢。
「この鉢だけどね…。幼稚園で花を育てていた鉢を、貰って帰って来たらしいんだよ」
プレゼント用の花とセットになっているらしくてね…。だからプレゼントに、というわけさ。
「花?」
何処に、と見詰めた植木鉢の中。土しか入っていない鉢だし、花のラベルもついてはいない。
「ちゃんと植わっているんだよ。この土の中に」
何の花かは内緒だよ、と可愛い秘密だったから…。実は私も知らなくってね。
芽を出してからのお楽しみだ、と御主人が眺めている植木鉢。土が入っているだけの鉢。
「いったい何が咲くんだろうね」と、お孫さんの顔を見ているみたいに目を細めて。
「…何の花かも分からないなんて…。育て方は?」
どうすればいいの、と丸くなった目。花の正体が謎のままでは、育て方だって分からない。
「芽を出すまでは、たまに水やり。…乾きすぎない程度にね」
まだ、それだけしか聞いていないね。ほら、この通り、土しか見えないから。
芽が出て来たなら、育て方の続きを孫が教えてくれるんだ、と御主人は笑顔。
「いつ芽が出るかも謎だけれどね」と、「早く報告してあげたいね」と。
お孫さんはきっと秘密の続きを教えられる日を、楽しみに待っている筈だから。どうやって花を咲かせればいいか、大得意で説明したいだろうから。
これはそういうプレゼントだよ、と聞かされて家に帰って来て。
ダイニングでおやつを食べる間に、また植木鉢を思い出す。芝生にチョコンと置かれた鉢。今は土しか見えない鉢でも、自慢の花が咲いている鉢を飾って披露するかのように。
(おじさん、楽しそうだったよね…)
正体不明の花が植わった植木鉢。それを教えてくれる間も、何度も植木鉢を眺めて。
植木鉢は母も幾つか持っているけれど、謎の植木鉢は一つも無い。鉢に植わった花たちの種は、母が自分で蒔くのだから。「この鉢はこれ」とラベルも添えて。
(ああいうプレゼント、素敵だよね…)
何が育つのか分からない鉢。幼稚園の先生の粋なアイデア。
ただ植木鉢を持って帰るより、ああした方がずっといい。「自分で好きな花を植えてね」と鉢を貰うのも嬉しいけれども、そのままプレゼントになる鉢の方が心が弾む。
(パパやママにあげても喜ばれるし…)
あの御主人のような、おじいちゃんたちに届けに行っても、きっと喜ばれる植木鉢。芽が出たら続きを教えて貰える、土だけに見える素敵な鉢。
(おじさんも、透視したりしないで…)
透視すれば種か球根かくらいは分かる筈なのに、調べない鉢の土の中。
お孫さんの心を覗いても答えが出て来るだろうに、それもしないで芽が出るのを待つ。いったい何の花だろうか、と土が乾いたら水やりをして。
花を育てながら謎解きも出来る、そういう楽しみ。
いつか土から芽が出て来たって、芽だけでは何か分からない花もあるから余計に面白い。詳しい人に尋ねてみるとか、色々な所で調べてみたなら、芽だけでも分かるだろうけれど…。
(おじさん、それもしないよね?)
もっと育って正体が分かる時が来るまで、お孫さんから習った通りに世話をするだけ。水やりをしたり、必要だったら肥料も与えてみたりして。
芽が出るまでは謎が一杯、芽が出てからも謎は解けないかもしれない植木鉢。芽が出て来た、と思いはしたって、正体不明の花の苗。
なんとも素敵で、ワクワクしそうなプレゼント。貰った方も、プレゼントした子供の方も。
(内緒だよ、って…)
幼稚園に通っているという、幼い子供が抱えた秘密。あの御主人のお孫さんだって、早く秘密を教えてみたいし、芽が出る日を楽しみに待つのだろう。芽だけでは謎の植物だったら、もっと長く秘密を抱えておける。
(ホントはこの花、っていう答え…)
教えたいけれど、教えない。おじいちゃんたちも、たまに訊くのだろう。「何の花だい?」と。それでも「内緒」と答えるだろう幼い子供。「花が咲くまで秘密だよ」だとか。
(ぼくもあげれば良かったかも…)
貰った相手も、自分も楽しいプレゼント。謎が詰まった植木鉢。
ぼくだって、おじいちゃんとかに…、と思ったけれど。幼稚園で貰った植木鉢なら、確かに家にあったのだけれど。
(植木鉢、届けに行くには遠すぎ…)
祖父や祖母が住んでいる家は。父方も、それに母方だって、日帰りするには遠すぎる場所。
そのせいで思い付きさえしなかったろうか、植木鉢をプレゼントするということ。
(秘密の花は植えてなくても…)
春になったら花が咲くよ、と届けたら喜んで貰えたろうに。咲く花のラベルがついていたって、秘密の鉢ではない鉢だって。孫から貰った植木鉢だし、きっと大切に世話をしてくれた筈。
けれど自分はそうしなかったから、貰って帰った植木鉢は…。
(ママが花を植えて…)
せっせと世話して育てていた。「せっかく貰ったんだから」と、幼い自分が「ブルー」と名前を書いた植木鉢で。子供が好きそうなデザインの鉢で、名前も書かれている鉢で。
(あの植木鉢…)
流石に今は、もう庭に無い。「子供っぽい鉢はもうおしまい」と。
母のことだから、大切に何処かに仕舞っているかもしれないけれど。一人息子の名前が書かれた植木鉢だし、捨てたりしないで、ちゃんと包んで。
ママなら仕舞っておきそうだよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
「ブルー」と名前を書いた植木鉢は、今でも家にありそうな感じ。貰った自分が大きくなって、鉢の出番が無くなっても。…母が何かを植えなくなっても。
(植木鉢…)
今の自分は貰ったけれど、前の自分は植木鉢など持っていなかった。成人検査を受ける前なら、貰ったのかもしれないけれど。本物の家族はいない時代でも、子供時代はあったから。
(ぼくが忘れてしまっただけで…)
前の自分も、幼かった頃は植木鉢を持っていたかもしれない。今とは時代が違うのだから、謎の植木鉢は無理だけれども。…プレゼントしようにも、祖父母は何処にもいなかったから。
(子供たちはヒルマンに貰ってたっけ…)
白いシャングリラにいたミュウの子供たち。幼い子たちは、今の自分が貰ったように可愛い植木鉢を貰った。鉢に自分の名前を書いて、花の命を育てていた。ヒルマンの教育方針で。
子供でなくても、部屋に植木鉢を置く仲間たちの数は少なくなかった。自分の部屋にも花や緑が欲しい仲間は、植木鉢。沢山の花を育てたいなら、プランターだって。
白いシャングリラにも植木鉢はあって、子供たちや大人が花を育てていたけれど…。
(ぼくが育てたかった花は、スズラン…)
ハーレイに贈るためのスズラン。
五月一日には恋人同士が贈り合っていた、スズランを束ねた小さな花束。そのスズランを摘みに行きたくても、ソルジャーの身ではどうにもならない。
(でも、青の間でスズランの花を育てても…)
五月一日にスズランの花が消えてしまったら、誰かに贈ったと知られてしまう。部屋付きの係は鉢を見るだろうし、「花が無くなった」と直ぐに気付くから。
ソルジャーが恋をしていることがバレるスズラン、それを育てるのは無謀なこと。恋の相手も、きっと詮索されるから。そうなったならば、ハーレイとの恋が知れそうだから。
此処では無理だ、と諦めたスズランの花を育てること。
植木鉢さえ置いておけたら、スズランを咲かせられるのに。…ソルジャーでなければ、咲かせた花を愛おしい人に贈れるのに。
(だから、花なんて…)
育てたことさえ無かったっけ、と思った青の間。前の自分が暮らしていた部屋。やたらと大きな部屋だったけれど、あそこに植木鉢は無かった。
その気になったら、置けるスペースはあったのに。一つどころか、もう幾つでも。
けれど、無かった植木鉢。育てたい花は無理なのだから、と貰いに行きさえしないままで…。
(…あれ?)
あったような気がしないでもない。青の間には一つも無かった筈の植木鉢。それも普通の植木鉢とは違って、名前が書かれた植木鉢が。
(…ブルーって…?)
まさか、と手繰ってみる記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたこと。
三百年以上の歳月を生きたソルジャー・ブルー。白い鯨になった船でも長く暮らして、青の間で生きていたけれど。深い海の底を思わせる部屋に、思い出は幾つもあるのだけれど…。
植木鉢に名前を書いた覚えなどは無いし、植木鉢の記憶もハッキリしない。どういう形の植木鉢だったか、その欠片さえも浮かんで来ないから…。
(夢なのかな…?)
前の自分が生きていた頃に、青の間のベッドで見た夢だとか。
子供たちと何度も遊んでいたから、その子供たちになったつもりで。夢の中では、自分も子供の一人になっていたかもしれない。
(植木鉢に花…)
子供たちが鉢に種を蒔いたり、球根を植えたりしている所もよく見ていた。ヒルマンに植木鉢を貰った子供が、嬉しそうに名前を書く姿も。
(…子供になってる夢を見たなら…)
前の自分も、夢の中でヒルマンに貰っただろう。自分専用の植木鉢を。
きっと貰ったら大喜びで名前を書いて、土を入れたら、ワクワクしながら花の種や球根を中へ。他の子供たちと一緒にはしゃいで、「これは、ぼくの」と。
そのせいかな、と思ったけれど。名前が書かれた植木鉢は夢で、前の自分が夢の中で持っていたものなのだろう、と考えたけれど。
(でも…)
青の間にあった植木鉢。そういう思いが消えてくれない。
子供になった夢を見たなら、植木鉢が青の間にあるわけがない。子供たちと遊んだ部屋や公園、そういった場所に置かれただろう植木鉢。ソルジャーが暮らす部屋ではなくて。
(子供なんだし、青の間になんか…)
来ようとも思わないだろう。楽しい夢を見ていたのならば、なおのこと。
ソルジャーであることを忘れて、ただのブルーで子供の自分。植木鉢を貰えるような幼い子供になった夢なら、青の間はきっと出て来ない。
(…それなのに、青の間に植木鉢なんて…)
まさか本物があの部屋にあった筈もないのに、と首を捻っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、植木鉢のことを知ってる?」
「はあ?」
植木鉢って…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「植木鉢と言っても色々あるが」と。
花が植わった植木鉢から、花を育てるための植木鉢まで、大きさも形も実に様々。どの植木鉢のことを言っているのか、と逆に訊き返されたから…。
「うんと基本の植木鉢だよ、多分、誰でも一番最初に貰いそうなヤツ」
幼稚園とかで貰って色々植えるでしょ?
自分の名前を書いて世話して、花が終わったら植木鉢を貰って持って帰るんだよ。
「ああ、あれなあ!」
確かに人生初の植木鉢だ、あれで出会うっていうのが普通だよな。
幼稚園児じゃ、いくらなんでもガーデニングの趣味なんか持っちゃいないから…。
家族に好きな人がいたって、一緒に花を植える代わりにスコップで土を掘るのが子供だ。
せっかくの花壇を踏んづけちまって、すっかり駄目にしちまうのも。
そういう子供に花の育て方を教えるんだな、と綻ぶハーレイの顔。「遊びを兼ねた教育だ」と。
「もっとも、それを教えてみたって、そうそう上手くはいかないが…」
自分が育てる花は大事にしてやっていても、家だと花壇にボールを投げ込んじまうとか。
子供ってヤツはそういうモンだし、小さい間は難しい。叱られても、分かっちゃいないから。
あの植木鉢か、お前が言うのは。…俺も朝顔とかを植えたな、幼稚園でも、学校でも。
お前は何を植えたんだ、という質問。「人生初の植木鉢の花は何だった?」と。
「えっとね、最初は多分、チューリップ…」
それに朝顔も下の学校で植えてたよ。観察日記を書いていたから。
「定番だよなあ、その辺りはな。…チューリップも朝顔も、強い花だから」
子供でも充分育てられるし、育てた甲斐がある花も咲く。如何にも花だ、という花がな。
…それで、その植木鉢がどうしたんだ?
今の学校じゃ出番が無いぞ、と教師としてのハーレイの指摘。下の学校とは違うわけだし、植木鉢に何かを植えているのは園芸部の生徒くらいだが、と。
「今じゃなくって…。前のぼくだよ、シャングリラが白い鯨になった後のこと」
シャングリラにもあったよ、植木鉢が。
小さな子たちがヒルマンに貰って、名前を書いてた植木鉢がね。
「あったな、そういう植木鉢も」
ヒルマンがきちんと世話させていたが、あの植木鉢が何か問題なのか?
前のお前の記憶のことか、と鳶色の瞳で覗き込まれた。「植木鉢で何か思い出したか?」と。
「ああいう鉢をね、前のぼくも持っていたような気がするんだけれど…」
それもね、ただの植木鉢とは違うんだよ。
子供たちが持ってた鉢と同じで、名前付きの鉢。…前のぼくの名前。
でも、気のせいかもしれないし…。
名前を書いた覚えは無いしね、植木鉢には。それに記憶も少しもハッキリして来ないから…。
前のぼくが見ていた夢だったのかな、小さな子供になったつもりで。
植木鉢、青の間にあったような気がするんだけれども、夢の記憶と混ざっちゃったとか…。
青の間に植木鉢は無かったしね、と話したら、ハーレイも頷いた。
「あるわけないよな、あそこには…。そもそも、花なんか育てちゃいないし」
おまけに、お前の名前が書いてある植木鉢なんて…。
それこそ有り得ん、「ソルジャー・ブルー」と書かれた植木鉢なんぞは。
いや、待てよ…?
植木鉢だな、と顎に手を当てたハーレイ。「俺も見たような気がして来た」と。
「見たって…。ホント?」
前のハーレイも植木鉢を見たの、青の間で…?
ぼくが夢で見たヤツじゃなくって、本当に本物の植木鉢を…?
何処にあったの、と身を乗り出した。ハーレイもそれを見たと言うなら、植木鉢は本当にあった筈。前の自分の夢とは違って、実在していた植木鉢。ならば植木鉢に書かれた名前も…。
(ぼくの名前で、ぼくが書いたわけ…?)
子供たちと一緒に鉢を貰って、花を育てていたのだろうか。「ぼくもやるよ」と我儘を言って、ヒルマンに鉢を一つ譲って貰っただとか。
「ちょっと待ってくれ、今、整理中だ。植木鉢を見たってトコまでは…」
ハッキリして来た、植木鉢は確かに青の間にあった。だが、置かれていた理由がだな…。
なんだってアレがあったんだか…。それに花を見たという覚えも無いし…。
そうだ、お前が貰ったんだ!
「えっ?」
貰ったって何なの、誰に植木鉢を貰ったわけ…?
くれそうな人がいないんだけど…、と探った記憶。前の自分は植木鉢どころか、花さえも貰っていないと思う。恋人だったハーレイからも貰わなかったし、ましてや植木鉢なんて…。
「お前に植木鉢をプレゼントしたのは、子供たちだ」
いつもソルジャーに遊んで貰って、仲良くしていたモンだから…。
御礼に植木鉢をプレゼントしたってわけだな、何が咲くかはお楽しみ、と。
「そうだっけ…!」
貰ったんだっけ、子供たちから…。
養育部門へ遊びに行ったら、「これ、ソルジャーにプレゼント」って…。
思い出した、と蘇った記憶。前の自分が子供たちからプレゼントされた植木鉢。
今日の帰り道に出会った御主人、あの御主人と全く同じに、謎のプレゼントを貰ったのだった。何かの種が植わっているらしい植木鉢。見た目にはただ、土が入っているだけの。
(ホントに、今日のと同じだったよ)
何が咲くかは秘密だから、と子供たちが煌めかせていた瞳。「ソルジャーにも内緒」と、それは嬉しそうに。時々水をやっていたなら、その内に芽が出て花が咲くから、と。
(ぼくの名前も…)
ちゃんと「ソルジャー」と書かれていた鉢。子供らしい字で、「ソルジャー」とだけ。
ソルジャーは前の自分だけしかいなかったのだし、子供たちもそう呼んでいたから。
(プレゼント、とても嬉しくて…)
子供たちが「秘密」と言ったからには、探りはすまいと自分で決めた。何が咲くのかは気になるけれども、透視することも、子供たちの心を読むこともしてはならないと。
手に入れた素敵なプレゼント。いつか何かの花を咲かせる植木鉢。
でも…。
「ハーレイ、前のぼくが貰った植木鉢…。確かに貰ったんだけど…」
貰った後はどうなっちゃったの、とても嬉しかった筈なのに…。
覚えていないよ、植木鉢があったことまで忘れていたくらいに。…どうしてかな?
何か変だよ、とハーレイに訊いた。「どうして覚えていないんだろう?」と。
「忘れちまったか? そうなるのも無理はないんだが…」
植木鉢はともかく、青の間には問題があったんだ。植木鉢と暮らしてゆくにはな。
「問題って…。なあに?」
「芽が出るまでは良かったんだが…。土の中ってトコは真っ暗だしな」
ところが、土から出て来た後。芽がヒョッコリと顔を出した後が駄目だった。
あそこ、灯りが暗かったろうが。
部屋全体が見渡せないよう、照明を暗く設定していた。あの部屋を広く見せるために。
そのせいでだな…。
「…思い出したよ、せっかく芽を出してくれたのに…」
栄養が足りなさすぎたんだっけ…。元気にすくすく育つためには、光が栄養だったのに。
顔を出して直ぐは良かったけれども、元気が無かった弱々しい芽。伸びてゆくほどに、生命力が減ってゆくかのよう。
前の自分も、じきに気付いた。青の間の光が暗すぎるのだと。
白いシャングリラの公園や農場、植物を育てる場所は何処も明るい。太陽を模した人工の照明、それが煌々と照らし出すから。
けれど、青の間ではそうはいかない。照明は暗くしておくもの。部屋を作る時なら、工事用にと明るい照明もあったけれども…。
(取り外しちゃって、もう無くて…)
明るくしようにも、そのための設備を持っていないのが青の間だった。奥にあるキッチンやバスルームならば、もっと明るく出来るのだけれど。…他の仲間たちの部屋と同じに。
それが分かったから、前のハーレイに相談した。勤務を終えて、青の間に来てくれた時に。
「この鉢だけど…。此処だと光が足りなさすぎるよ、どんどん弱って来てしまって…」
奥のバスルームやキッチンだったら、充分に明るく出来そうだけれど…。
点けっ放しには出来ないよね、昼の間はずっとだなんて…。この植木鉢のためだけに…?
「それは問題ありませんが…。エネルギーの使用量だけから言えば」
船のエネルギーには余裕があります、部屋の一つや二つを賄えないようでは話になりません。
昼間どころか二十四時間、点けっ放しになさっていたって何の支障もございませんが…。
ただ、バスルームやキッチンで花を育てゆくというのは…。
可哀相では、というのがハーレイの意見。
花は人の目を楽しませるために咲くものなのだし、見て貰えない場所で咲かせるなど、と。
前の自分もそう思ったから、少し考えてこう言った。
「普段はキッチンの方で育てて、たまにこっちへ持って来るのはどうだろう?」
今みたいな時間に運んで来たなら、君と二人で見てやれるから…。
夜は植物も眠るらしいし、朝まで此処でも大丈夫だろう。朝食の後で返してやれば。
「そういう方法もありますね。…昼間でも、あなたが御覧になる時は此処へ持って来るとか」
少しの間くらいでしたら、暗くなっても大丈夫でしょう。
外の世界で育っていたなら、雨や曇りの日は普段よりもずっと暗いのですから。
その方法なら上手く育ちそうです、とハーレイも賛成してくれた案。
昼間はキッチンに鉢を運んで、灯りを点けっ放しにする。農場や公園ほどではなくても、充分に明るく出来るから。青の間よりは、ずっと明るいから。
「じゃあ、その方法でやってみるから、エネルギーの方はよろしく頼むよ」
この鉢だけのために、キッチンが無駄に明るくなるけれど…。
ぼくが暮らしているだけだったら、三度の食事の時くらいしか照明は必要無いのにね。
他で節約しようとしたって、この部屋はもう、これ以上は暗く出来ないし…。
「船のエネルギーなら、問題は無いと申し上げましたが?」
キッチン程度の広さでしたら、それこそ百ほど点けっ放しでも大丈夫です。それも二十四時間、夜も昼間も関係無く。…ですから、どうぞキッチンの方でお育て下さい。
明日の朝から早速に…、とキャプテンからの許可も下りたし、キッチンに移してやった鉢。何が咲くのか謎の植木鉢は、キッチンで暮らしてゆくことになった。
夜は灯りを消してやったり、青の間の方へ運び出したり、昼と夜とを作り出そうと努力した鉢。
キッチンで光を浴びられるようになった途端に、みるみる元気に育ち始めて…。
「どうやらチューリップのようですね」
蕾の方はまだですが…。この葉はチューリップの葉ですよ、きっと。
似たような葉の花があるかもしれませんが…、とハーレイが眺めた植木鉢。夜になったから、とキッチンから青の間へ運んで来ておいたのを、しげしげと。
「君もチューリップだと思うかい?」
そういう葉だよね。これだけ大きくなったんだから、間違いないと思うんだけれど…。
蕾がつくまで分からないかな、子供たちは今も答えを教えてくれないし…。
「花で分かるよ」としか言わないんだよね、本当に秘密のプレゼントらしい。
チューリップだろうと思うけれども、早く蕾がつかないかな…?
花が咲くのが楽しみだよね、と何度もハーレイと話す間に、蕾がついた。
ぐんぐん大きく育つ蕾は、もう間違いなくチューリップ。何色の花が咲くのだろう、とワクワク眺めて、色がつくのを待ち続けた。
そうしたら、うっすらと見えて来たピンク。緑色だった蕾にピンクが宿ったから…。
(女の子が選んでくれたのかな?)
ピンク色なら、女の子が選びそうな色。「この色が好き!」と、幾つもの色がある中から。
それとも誰かが「強そうだから」と選んだ球根、色のことなど考えもせずに。ヒルマンが幾つも並べた中から、「これ!」と掴んで、この植木鉢へ。
(ピンク色だしね…?)
まさかソルジャーの自分に似合う色でもあるまいし…、と膨らむ想像。わざわざ選んだピンク色なのか、偶然ピンクの花だっただけか。
ピンク色をした花に至るまでの事情は実に様々、どれが当たりか分からないから、また楽しい。それでもピンク色の花だし、「ピンクだったよ」とハーレイにも見せようとして運び出したら。
(あ…!)
キッチンから外に出したら翳ってしまったピンク。薄紫の紗を被せたように。
青の間の灯りでは、あのピンク色は綺麗に見えない。これはこれで綺麗な色だけれども、本来の素敵なピンク色。元気な子供たちの頬っぺたみたいな、あの艶やかなピンク色は…。
(此処だと、見えない…)
青い灯りに吸われてしまって、まるで夜の国で咲く花のよう。太陽の光が射さない国で。
この部屋では育てられないどころか、花の色さえ、キッチンかバスルームでしか見られない花。持って生まれた本当の色を、出すことが出来ないチューリップ。
もうすぐ開く筈なのに。…輝くようなピンク色の花が、誇らかに咲く筈なのに。
(可哀相…)
此処で咲いても、本当の姿を見て貰えないチューリップ。
キッチンでは綺麗に咲いていられても、愛でるためにと運び出されたら、たちまち失せてしまう色。美しいことに変わりはなくても、自慢の色が損なわれる花。
せっかく此処まで育ったのに。…もうすぐ花が咲きそうなのに。
そんな花はとても可哀相だ、と痛んだ心。同じ咲くなら、本当の姿を見せられる場所で咲かせてやりたい。
そう思ったから、仕事を終えたハーレイが青の間にやって来た時、植木鉢を見せた。
「ほら、ピンク色の花だったんだよ。…やっと分かった」
今日の昼間に、色を覗かせたんだけど…。じきにすっかりピンクになるよ。蕾が丸ごと。
「そうですね。あとどのくらいで咲くのでしょう?」
楽しみですね、と眺めるハーレイは気付いているのか、いないのか。…この花の色に。
「ぼくも楽しみなんだけど…。でもね、此処じゃ綺麗に見えないんだ」
ピンク色だとは分かるけれども、本当の色はこうじゃない。…キッチンで見ると分かるんだよ。
「此処は照明がこうですから…。青みを帯びてしまいますね…」
「そう。本当の色で咲かせてやるには、キッチンかバスルームでないと駄目なんだ」
だけど、そんな所で咲かせるなんて…。可哀相だよ、せっかく咲くのに。
キッチンで育てるのは可哀相だ、と此処へ運んでは、君と眺めてやったのに…。
肝心の花が駄目になるなんて、と曇らせた顔。本当に可哀相だから。
「では、この花をどうなさりたいと?」
「綺麗な姿で咲ける所へ、此処から移してやりたいよ。…明るい所へ」
公園でもいいし、農場でもいい。場所は幾らでもあるんだけれど…。
問題は、これをプレゼントしてくれた子供たち。
子供たちの心を傷つけないで移せる方法、何か無いかな…?
此処だと綺麗に咲けないんだから、とにかく花が幸せになれる所へね。
「それは…」
仰ることはよく分かるのですが…。
花が可哀相だとお思いになるのも、もっともなことだと思うのですが…。
しかし…、と考え込んでしまったハーレイ。
「この鉢を、何処かへ移すというのは…」と。元を辿れば子供たちからのプレゼント。今日まで此処で育てて来たから、大丈夫だと思い込んでいるのが子供たち。
青の間の照明では駄目だから、とキッチンで育てたことは知らない。青の間では花の色が綺麗に見えないことにも、気付きはしない。
「…今から何処かへ移すとなったら、子供たちはガッカリするでしょう」
ソルジャーのお気に召さない花だったのか、と勘違いをして。
チューリップの花がお嫌いだったと考えるのか、ピンク色の花がお嫌いだったと思うのか…。
いずれにしても、今からですと、そういう結果にしかならないかと…。
「そうだよね…。もっと早くに移していれば…」
青の間の灯りでは植物を育てられないから、と説明して他所に移せば良かった。
でも手遅れだよ、此処まで育ててしまったから。
何か無いかな、上手く引越し出来る方法…。
「あればいいのですが…。何か…」
子供たちも、あなたも、どちらも傷つかない方法。…それがあれば…。
何か見付かればいいのですが…、とハーレイは腕組みをして眉間に皺。深く考えている時の癖。
「…駄目かな、君でも思い付かないのかい?」
船の仲間たちのことも、この船のことも、君はぼくより詳しい筈で…。
ぼくは漠然と知っているだけで、君のようにデータで知っているわけじゃないからね。
「そう仰られても…。いえ、その船です…!」
こういう方法は如何でしょう?
このチューリップを、船の仲間たちに鉢ごとプレゼントなさるのは。
「プレゼント?」
「そうです。ソルジャーが此処までお育てになった、立派な花を贈るのですよ」
これからが綺麗な時だから、と船の仲間たちが眺めて楽しめるように。
食堂だったら皆が見ますよ、食事に出掛けてゆく度に。
「いいね、あそこは明るいし…。この花も綺麗に咲ける筈だよ」
子供たちから貰った花を、今度はぼくが贈るわけだね。…船のみんなに。
ありがとう、とハーレイに抱き付いて御礼のキスを贈った。
その方法なら、子供たちの心も傷付かない。プレゼントした花は立派に育って、船の仲間たちの目を楽しませるために食堂に引越しするのだから。
綺麗な花が咲くと分かったからこそ、船の仲間たちに贈るプレゼントに選ばれたのだから。
(それなら絶対、大丈夫だもんね…?)
子供たちが贈った謎の植木鉢は、大出世。ソルジャーからのプレゼントとなったら、皆の注目を浴びるもの。たとえチューリップの鉢であろうが、一輪しか咲かない花だろうが。
そう決まったから、次の日の朝、朝食の後で植木鉢を食堂まで運んで行った。
キャプテンのハーレイに恭しく持たせて、「ソルジャー」と書かれたチューリップの鉢を。
迎えに出て来た食堂の者たちに、「青の間で育てた花だから」と譲り渡した植木鉢。映える所に置いて欲しい、とソルジャーとしての笑みを浮かべて。
「あの花、人気だったよね?」
ぼくは青の間から思念で見ていたけれど…。咲く前から注目されてたよ。
「うむ。咲き終わった後にも、奪い合いでな」
ソルジャーが育てたチューリップだから、と女性たちが欲しがって大騒ぎだった。
なにしろ相手はチューリップだしな、きちんと世話すりゃ次の年だって咲くんだから。
次の年と言えば、そっちも期待されたよなあ…。
また来年もソルジャーから花のプレゼントが来るかもしれん、と。
「うん…。期待するのはかまわないけど、青の間、花には向いてないから…」
またキッチンで育てるだなんて、花が可哀相すぎるんだよ。…どんな花でも。
「お前、ヒルマンに上手く断らせたんだよなあ…。次の年の花のプレゼント」
子供たちは残念がっていたがな、「ソルジャーにプレゼントしちゃ駄目だなんて」と。
「食堂の花が人気だったの、子供たちだって知っていたしね」
でも、青の間では見られないんだもの。…どう頑張っても、せっかくの花が。
「其処なんだよなあ…。お前がせっせと世話をしたって、最後がなあ…」
船の仲間へのプレゼントなんじゃ、お前が頑張る意味が無いから。
園芸係ってわけでもないのに、育てただけで終わっちまって、花を見られずじまいじゃな。
たった一回きりだったよな、とハーレイが笑う植木鉢。
青の間にたった一度だけあった、植木鉢という花を育てる道具。
「お前、今度はどうしたい?」
俺の家なら植木鉢も置けるぞ、何処にだって。…家の中でも、庭でもな。
育てたいなら、植木鉢を置いてくれてもいいが。
「植木鉢…。今度は確かに置けるだろうけど、子供たちは、もうくれないよ?」
此処はシャングリラじゃないし…。
今日のおじさんの家みたいに、お孫さんが持っても来てくれないし…。
「ふうむ…。なら、俺がプレゼントしてやろうか?」
お前がやってみたいと言うなら、謎の植木鉢のプレゼント。
今のお前じゃ、どう頑張っても、正体が分かるわけがないからな。
俺の心を読めやしないし、植木鉢の中を透視するのも無理なんだから。
「いいかも…!」
植木鉢で何か育てるんなら、ハーレイがくれる謎の植木鉢がいいな。育て方も謎で、名前も謎。
どんな花が咲くのか、育ててみないと分からないのを育てたいよ…!
もう青の間じゃないんだけどね、と欲しくなって来たプレゼント。
何が育つかまるで分からない、ハーレイがくれる謎の植木鉢。
それを育ててみるのもいい。
芽が出ただけでも、きっと幸せ。
立派に育ってハーレイと花を眺める頃には、もっと幸せ一杯だから…。
謎の植木鉢・了
※ブルーが出会った、何が咲くか謎な植木鉢。前のブルーも、それを育てていたのです。
子供たちから貰って、青の間で育てた花ですけれど…。青の間の照明には、問題がありすぎ。
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こんな所に、とブルーが眺めた鉢。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
いつもの住宅街だけれども、あちこちの庭や花壇をキョロキョロ見ながら帰るのが好き。今日もそうして歩く間に、生垣越しに覗いた庭。
植木鉢は其処に置かれていた。庭の芝生の上にチョコンと、鮮やかな色の植木鉢。
(子供の名前…)
如何にも子供が好きそうなデザインの鉢で、名前つき。可愛らしい字で書いてあるけれど、この家に子供はいたろうか?
どう見ても小さな子供の文字だし、それから鉢。
(この植木鉢…)
幼稚園とかで貰う植木鉢にそっくり。幼稚園と、下の学校に入って間も無い頃に貰った植木鉢。だから子供の物だと分かる。鉢のデザインも、書かれた名前も持ち主は子供だと教えてくれる。
(子供、いたっけ…?)
小さな子供を庭で見掛けた覚えは無い。ついでに植木鉢の方も問題。
何も植わっていない鉢には、土がたっぷり入っていた。幼稚園や学校から鉢を貰って来たなら、何か植わっている筈なのに。花の時期はもう過ぎたとしたって、その後の茎。
それも枯れたというのだったら、お役御免の植木鉢。綺麗に洗って次のシーズンまでは何処かに仕舞っておくとか、そうでないなら新しく蒔いた種のラベルをつけるとか。
植木鉢ならそうなるだろうに、どちらでもなくて、中身は土だけ。
おまけに置かれた場所は芝生で、普通だったら今が盛りの花の鉢などを飾りたい筈で…。
なんとも謎だ、と気になり始めた植木鉢。
道から良く見える場所に置くなら、土だけの鉢より何か植わった植木鉢がいいと思うのに。花が咲いたものや、葉っぱが綺麗な植物や。
小さな子供がいるのだったら、貰ったばかりの鉢を置くかもしれないけれど…。
(…それでも何か植わってるよね?)
土だけでラベルも無いだなんて、と首を傾げていた所へ、出て来た御主人。家の裏側から、庭の手入れをするために。
「こんにちは!」
ピョコンと頭を下げて挨拶、「おかえり」と返してくれた御主人。
「ブルー君、どうかしたのかい?」
庭を見てたね、と尋ねられた。庭仕事の支度をしている時から、きっと気付いていたのだろう。こちら側からは見えないけれども、御主人には見えていた姿。生垣の側に立っているのが。
「えっと、その鉢…」
植木鉢が気になっちゃって…。覗いたら、其処にあったから…。
「ああ、これだね。子供用だからねえ、そりゃ気になるだろうね」
うちに子供はいないから。…いったい何処から来たんだろう、と不思議なんだろう?
この鉢は孫がくれたんだよ、と御主人は嬉しそうな顔。
少し離れた所に住んでいるという、お孫さん。植木鉢に名前が書いてある子供。お孫さんから、鉢ごと貰ったプレゼント。「おじいちゃんと、おばあちゃんに」と。
もっとも、今は人間は誰もがミュウの時代なのだし、お年寄りではない「おじいちゃん」。今は買い物に行っているらしい「おばあちゃん」だって、名前だけのこと。
それでも、お孫さんにとっては、大好きな「おじいちゃん」と「おばあちゃん」。
だから大事な植木鉢を持って来たらしい。今日の昼間に、「プレゼント」と。
どおりで知らない筈だよね、と思った可愛い植木鉢。学校に行っている間に届いたのだし、朝は無かったわけだから。…昨日帰って来る時にも。
お孫さんから貰った鉢なら、芝生に置いておくのも分かる。土しか入っていなくても。花なんか咲いていない鉢でも、心のこもったプレゼント。
(きっと、お孫さんと一緒に…)
置く場所を選んだんだよね、と温かくなった胸。「此処に置こう」と、芝生に鉢を飾る御主人の姿が目に浮かぶよう。見栄えのする花が咲いた鉢より、お孫さんに貰った鉢が一番。
そう考えていたら、御主人が指差した植木鉢。
「この鉢だけどね…。幼稚園で花を育てていた鉢を、貰って帰って来たらしいんだよ」
プレゼント用の花とセットになっているらしくてね…。だからプレゼントに、というわけさ。
「花?」
何処に、と見詰めた植木鉢の中。土しか入っていない鉢だし、花のラベルもついてはいない。
「ちゃんと植わっているんだよ。この土の中に」
何の花かは内緒だよ、と可愛い秘密だったから…。実は私も知らなくってね。
芽を出してからのお楽しみだ、と御主人が眺めている植木鉢。土が入っているだけの鉢。
「いったい何が咲くんだろうね」と、お孫さんの顔を見ているみたいに目を細めて。
「…何の花かも分からないなんて…。育て方は?」
どうすればいいの、と丸くなった目。花の正体が謎のままでは、育て方だって分からない。
「芽を出すまでは、たまに水やり。…乾きすぎない程度にね」
まだ、それだけしか聞いていないね。ほら、この通り、土しか見えないから。
芽が出て来たなら、育て方の続きを孫が教えてくれるんだ、と御主人は笑顔。
「いつ芽が出るかも謎だけれどね」と、「早く報告してあげたいね」と。
お孫さんはきっと秘密の続きを教えられる日を、楽しみに待っている筈だから。どうやって花を咲かせればいいか、大得意で説明したいだろうから。
これはそういうプレゼントだよ、と聞かされて家に帰って来て。
ダイニングでおやつを食べる間に、また植木鉢を思い出す。芝生にチョコンと置かれた鉢。今は土しか見えない鉢でも、自慢の花が咲いている鉢を飾って披露するかのように。
(おじさん、楽しそうだったよね…)
正体不明の花が植わった植木鉢。それを教えてくれる間も、何度も植木鉢を眺めて。
植木鉢は母も幾つか持っているけれど、謎の植木鉢は一つも無い。鉢に植わった花たちの種は、母が自分で蒔くのだから。「この鉢はこれ」とラベルも添えて。
(ああいうプレゼント、素敵だよね…)
何が育つのか分からない鉢。幼稚園の先生の粋なアイデア。
ただ植木鉢を持って帰るより、ああした方がずっといい。「自分で好きな花を植えてね」と鉢を貰うのも嬉しいけれども、そのままプレゼントになる鉢の方が心が弾む。
(パパやママにあげても喜ばれるし…)
あの御主人のような、おじいちゃんたちに届けに行っても、きっと喜ばれる植木鉢。芽が出たら続きを教えて貰える、土だけに見える素敵な鉢。
(おじさんも、透視したりしないで…)
透視すれば種か球根かくらいは分かる筈なのに、調べない鉢の土の中。
お孫さんの心を覗いても答えが出て来るだろうに、それもしないで芽が出るのを待つ。いったい何の花だろうか、と土が乾いたら水やりをして。
花を育てながら謎解きも出来る、そういう楽しみ。
いつか土から芽が出て来たって、芽だけでは何か分からない花もあるから余計に面白い。詳しい人に尋ねてみるとか、色々な所で調べてみたなら、芽だけでも分かるだろうけれど…。
(おじさん、それもしないよね?)
もっと育って正体が分かる時が来るまで、お孫さんから習った通りに世話をするだけ。水やりをしたり、必要だったら肥料も与えてみたりして。
芽が出るまでは謎が一杯、芽が出てからも謎は解けないかもしれない植木鉢。芽が出て来た、と思いはしたって、正体不明の花の苗。
なんとも素敵で、ワクワクしそうなプレゼント。貰った方も、プレゼントした子供の方も。
(内緒だよ、って…)
幼稚園に通っているという、幼い子供が抱えた秘密。あの御主人のお孫さんだって、早く秘密を教えてみたいし、芽が出る日を楽しみに待つのだろう。芽だけでは謎の植物だったら、もっと長く秘密を抱えておける。
(ホントはこの花、っていう答え…)
教えたいけれど、教えない。おじいちゃんたちも、たまに訊くのだろう。「何の花だい?」と。それでも「内緒」と答えるだろう幼い子供。「花が咲くまで秘密だよ」だとか。
(ぼくもあげれば良かったかも…)
貰った相手も、自分も楽しいプレゼント。謎が詰まった植木鉢。
ぼくだって、おじいちゃんとかに…、と思ったけれど。幼稚園で貰った植木鉢なら、確かに家にあったのだけれど。
(植木鉢、届けに行くには遠すぎ…)
祖父や祖母が住んでいる家は。父方も、それに母方だって、日帰りするには遠すぎる場所。
そのせいで思い付きさえしなかったろうか、植木鉢をプレゼントするということ。
(秘密の花は植えてなくても…)
春になったら花が咲くよ、と届けたら喜んで貰えたろうに。咲く花のラベルがついていたって、秘密の鉢ではない鉢だって。孫から貰った植木鉢だし、きっと大切に世話をしてくれた筈。
けれど自分はそうしなかったから、貰って帰った植木鉢は…。
(ママが花を植えて…)
せっせと世話して育てていた。「せっかく貰ったんだから」と、幼い自分が「ブルー」と名前を書いた植木鉢で。子供が好きそうなデザインの鉢で、名前も書かれている鉢で。
(あの植木鉢…)
流石に今は、もう庭に無い。「子供っぽい鉢はもうおしまい」と。
母のことだから、大切に何処かに仕舞っているかもしれないけれど。一人息子の名前が書かれた植木鉢だし、捨てたりしないで、ちゃんと包んで。
ママなら仕舞っておきそうだよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
「ブルー」と名前を書いた植木鉢は、今でも家にありそうな感じ。貰った自分が大きくなって、鉢の出番が無くなっても。…母が何かを植えなくなっても。
(植木鉢…)
今の自分は貰ったけれど、前の自分は植木鉢など持っていなかった。成人検査を受ける前なら、貰ったのかもしれないけれど。本物の家族はいない時代でも、子供時代はあったから。
(ぼくが忘れてしまっただけで…)
前の自分も、幼かった頃は植木鉢を持っていたかもしれない。今とは時代が違うのだから、謎の植木鉢は無理だけれども。…プレゼントしようにも、祖父母は何処にもいなかったから。
(子供たちはヒルマンに貰ってたっけ…)
白いシャングリラにいたミュウの子供たち。幼い子たちは、今の自分が貰ったように可愛い植木鉢を貰った。鉢に自分の名前を書いて、花の命を育てていた。ヒルマンの教育方針で。
子供でなくても、部屋に植木鉢を置く仲間たちの数は少なくなかった。自分の部屋にも花や緑が欲しい仲間は、植木鉢。沢山の花を育てたいなら、プランターだって。
白いシャングリラにも植木鉢はあって、子供たちや大人が花を育てていたけれど…。
(ぼくが育てたかった花は、スズラン…)
ハーレイに贈るためのスズラン。
五月一日には恋人同士が贈り合っていた、スズランを束ねた小さな花束。そのスズランを摘みに行きたくても、ソルジャーの身ではどうにもならない。
(でも、青の間でスズランの花を育てても…)
五月一日にスズランの花が消えてしまったら、誰かに贈ったと知られてしまう。部屋付きの係は鉢を見るだろうし、「花が無くなった」と直ぐに気付くから。
ソルジャーが恋をしていることがバレるスズラン、それを育てるのは無謀なこと。恋の相手も、きっと詮索されるから。そうなったならば、ハーレイとの恋が知れそうだから。
此処では無理だ、と諦めたスズランの花を育てること。
植木鉢さえ置いておけたら、スズランを咲かせられるのに。…ソルジャーでなければ、咲かせた花を愛おしい人に贈れるのに。
(だから、花なんて…)
育てたことさえ無かったっけ、と思った青の間。前の自分が暮らしていた部屋。やたらと大きな部屋だったけれど、あそこに植木鉢は無かった。
その気になったら、置けるスペースはあったのに。一つどころか、もう幾つでも。
けれど、無かった植木鉢。育てたい花は無理なのだから、と貰いに行きさえしないままで…。
(…あれ?)
あったような気がしないでもない。青の間には一つも無かった筈の植木鉢。それも普通の植木鉢とは違って、名前が書かれた植木鉢が。
(…ブルーって…?)
まさか、と手繰ってみる記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたこと。
三百年以上の歳月を生きたソルジャー・ブルー。白い鯨になった船でも長く暮らして、青の間で生きていたけれど。深い海の底を思わせる部屋に、思い出は幾つもあるのだけれど…。
植木鉢に名前を書いた覚えなどは無いし、植木鉢の記憶もハッキリしない。どういう形の植木鉢だったか、その欠片さえも浮かんで来ないから…。
(夢なのかな…?)
前の自分が生きていた頃に、青の間のベッドで見た夢だとか。
子供たちと何度も遊んでいたから、その子供たちになったつもりで。夢の中では、自分も子供の一人になっていたかもしれない。
(植木鉢に花…)
子供たちが鉢に種を蒔いたり、球根を植えたりしている所もよく見ていた。ヒルマンに植木鉢を貰った子供が、嬉しそうに名前を書く姿も。
(…子供になってる夢を見たなら…)
前の自分も、夢の中でヒルマンに貰っただろう。自分専用の植木鉢を。
きっと貰ったら大喜びで名前を書いて、土を入れたら、ワクワクしながら花の種や球根を中へ。他の子供たちと一緒にはしゃいで、「これは、ぼくの」と。
そのせいかな、と思ったけれど。名前が書かれた植木鉢は夢で、前の自分が夢の中で持っていたものなのだろう、と考えたけれど。
(でも…)
青の間にあった植木鉢。そういう思いが消えてくれない。
子供になった夢を見たなら、植木鉢が青の間にあるわけがない。子供たちと遊んだ部屋や公園、そういった場所に置かれただろう植木鉢。ソルジャーが暮らす部屋ではなくて。
(子供なんだし、青の間になんか…)
来ようとも思わないだろう。楽しい夢を見ていたのならば、なおのこと。
ソルジャーであることを忘れて、ただのブルーで子供の自分。植木鉢を貰えるような幼い子供になった夢なら、青の間はきっと出て来ない。
(…それなのに、青の間に植木鉢なんて…)
まさか本物があの部屋にあった筈もないのに、と首を捻っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、植木鉢のことを知ってる?」
「はあ?」
植木鉢って…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「植木鉢と言っても色々あるが」と。
花が植わった植木鉢から、花を育てるための植木鉢まで、大きさも形も実に様々。どの植木鉢のことを言っているのか、と逆に訊き返されたから…。
「うんと基本の植木鉢だよ、多分、誰でも一番最初に貰いそうなヤツ」
幼稚園とかで貰って色々植えるでしょ?
自分の名前を書いて世話して、花が終わったら植木鉢を貰って持って帰るんだよ。
「ああ、あれなあ!」
確かに人生初の植木鉢だ、あれで出会うっていうのが普通だよな。
幼稚園児じゃ、いくらなんでもガーデニングの趣味なんか持っちゃいないから…。
家族に好きな人がいたって、一緒に花を植える代わりにスコップで土を掘るのが子供だ。
せっかくの花壇を踏んづけちまって、すっかり駄目にしちまうのも。
そういう子供に花の育て方を教えるんだな、と綻ぶハーレイの顔。「遊びを兼ねた教育だ」と。
「もっとも、それを教えてみたって、そうそう上手くはいかないが…」
自分が育てる花は大事にしてやっていても、家だと花壇にボールを投げ込んじまうとか。
子供ってヤツはそういうモンだし、小さい間は難しい。叱られても、分かっちゃいないから。
あの植木鉢か、お前が言うのは。…俺も朝顔とかを植えたな、幼稚園でも、学校でも。
お前は何を植えたんだ、という質問。「人生初の植木鉢の花は何だった?」と。
「えっとね、最初は多分、チューリップ…」
それに朝顔も下の学校で植えてたよ。観察日記を書いていたから。
「定番だよなあ、その辺りはな。…チューリップも朝顔も、強い花だから」
子供でも充分育てられるし、育てた甲斐がある花も咲く。如何にも花だ、という花がな。
…それで、その植木鉢がどうしたんだ?
今の学校じゃ出番が無いぞ、と教師としてのハーレイの指摘。下の学校とは違うわけだし、植木鉢に何かを植えているのは園芸部の生徒くらいだが、と。
「今じゃなくって…。前のぼくだよ、シャングリラが白い鯨になった後のこと」
シャングリラにもあったよ、植木鉢が。
小さな子たちがヒルマンに貰って、名前を書いてた植木鉢がね。
「あったな、そういう植木鉢も」
ヒルマンがきちんと世話させていたが、あの植木鉢が何か問題なのか?
前のお前の記憶のことか、と鳶色の瞳で覗き込まれた。「植木鉢で何か思い出したか?」と。
「ああいう鉢をね、前のぼくも持っていたような気がするんだけれど…」
それもね、ただの植木鉢とは違うんだよ。
子供たちが持ってた鉢と同じで、名前付きの鉢。…前のぼくの名前。
でも、気のせいかもしれないし…。
名前を書いた覚えは無いしね、植木鉢には。それに記憶も少しもハッキリして来ないから…。
前のぼくが見ていた夢だったのかな、小さな子供になったつもりで。
植木鉢、青の間にあったような気がするんだけれども、夢の記憶と混ざっちゃったとか…。
青の間に植木鉢は無かったしね、と話したら、ハーレイも頷いた。
「あるわけないよな、あそこには…。そもそも、花なんか育てちゃいないし」
おまけに、お前の名前が書いてある植木鉢なんて…。
それこそ有り得ん、「ソルジャー・ブルー」と書かれた植木鉢なんぞは。
いや、待てよ…?
植木鉢だな、と顎に手を当てたハーレイ。「俺も見たような気がして来た」と。
「見たって…。ホント?」
前のハーレイも植木鉢を見たの、青の間で…?
ぼくが夢で見たヤツじゃなくって、本当に本物の植木鉢を…?
何処にあったの、と身を乗り出した。ハーレイもそれを見たと言うなら、植木鉢は本当にあった筈。前の自分の夢とは違って、実在していた植木鉢。ならば植木鉢に書かれた名前も…。
(ぼくの名前で、ぼくが書いたわけ…?)
子供たちと一緒に鉢を貰って、花を育てていたのだろうか。「ぼくもやるよ」と我儘を言って、ヒルマンに鉢を一つ譲って貰っただとか。
「ちょっと待ってくれ、今、整理中だ。植木鉢を見たってトコまでは…」
ハッキリして来た、植木鉢は確かに青の間にあった。だが、置かれていた理由がだな…。
なんだってアレがあったんだか…。それに花を見たという覚えも無いし…。
そうだ、お前が貰ったんだ!
「えっ?」
貰ったって何なの、誰に植木鉢を貰ったわけ…?
くれそうな人がいないんだけど…、と探った記憶。前の自分は植木鉢どころか、花さえも貰っていないと思う。恋人だったハーレイからも貰わなかったし、ましてや植木鉢なんて…。
「お前に植木鉢をプレゼントしたのは、子供たちだ」
いつもソルジャーに遊んで貰って、仲良くしていたモンだから…。
御礼に植木鉢をプレゼントしたってわけだな、何が咲くかはお楽しみ、と。
「そうだっけ…!」
貰ったんだっけ、子供たちから…。
養育部門へ遊びに行ったら、「これ、ソルジャーにプレゼント」って…。
思い出した、と蘇った記憶。前の自分が子供たちからプレゼントされた植木鉢。
今日の帰り道に出会った御主人、あの御主人と全く同じに、謎のプレゼントを貰ったのだった。何かの種が植わっているらしい植木鉢。見た目にはただ、土が入っているだけの。
(ホントに、今日のと同じだったよ)
何が咲くかは秘密だから、と子供たちが煌めかせていた瞳。「ソルジャーにも内緒」と、それは嬉しそうに。時々水をやっていたなら、その内に芽が出て花が咲くから、と。
(ぼくの名前も…)
ちゃんと「ソルジャー」と書かれていた鉢。子供らしい字で、「ソルジャー」とだけ。
ソルジャーは前の自分だけしかいなかったのだし、子供たちもそう呼んでいたから。
(プレゼント、とても嬉しくて…)
子供たちが「秘密」と言ったからには、探りはすまいと自分で決めた。何が咲くのかは気になるけれども、透視することも、子供たちの心を読むこともしてはならないと。
手に入れた素敵なプレゼント。いつか何かの花を咲かせる植木鉢。
でも…。
「ハーレイ、前のぼくが貰った植木鉢…。確かに貰ったんだけど…」
貰った後はどうなっちゃったの、とても嬉しかった筈なのに…。
覚えていないよ、植木鉢があったことまで忘れていたくらいに。…どうしてかな?
何か変だよ、とハーレイに訊いた。「どうして覚えていないんだろう?」と。
「忘れちまったか? そうなるのも無理はないんだが…」
植木鉢はともかく、青の間には問題があったんだ。植木鉢と暮らしてゆくにはな。
「問題って…。なあに?」
「芽が出るまでは良かったんだが…。土の中ってトコは真っ暗だしな」
ところが、土から出て来た後。芽がヒョッコリと顔を出した後が駄目だった。
あそこ、灯りが暗かったろうが。
部屋全体が見渡せないよう、照明を暗く設定していた。あの部屋を広く見せるために。
そのせいでだな…。
「…思い出したよ、せっかく芽を出してくれたのに…」
栄養が足りなさすぎたんだっけ…。元気にすくすく育つためには、光が栄養だったのに。
顔を出して直ぐは良かったけれども、元気が無かった弱々しい芽。伸びてゆくほどに、生命力が減ってゆくかのよう。
前の自分も、じきに気付いた。青の間の光が暗すぎるのだと。
白いシャングリラの公園や農場、植物を育てる場所は何処も明るい。太陽を模した人工の照明、それが煌々と照らし出すから。
けれど、青の間ではそうはいかない。照明は暗くしておくもの。部屋を作る時なら、工事用にと明るい照明もあったけれども…。
(取り外しちゃって、もう無くて…)
明るくしようにも、そのための設備を持っていないのが青の間だった。奥にあるキッチンやバスルームならば、もっと明るく出来るのだけれど。…他の仲間たちの部屋と同じに。
それが分かったから、前のハーレイに相談した。勤務を終えて、青の間に来てくれた時に。
「この鉢だけど…。此処だと光が足りなさすぎるよ、どんどん弱って来てしまって…」
奥のバスルームやキッチンだったら、充分に明るく出来そうだけれど…。
点けっ放しには出来ないよね、昼の間はずっとだなんて…。この植木鉢のためだけに…?
「それは問題ありませんが…。エネルギーの使用量だけから言えば」
船のエネルギーには余裕があります、部屋の一つや二つを賄えないようでは話になりません。
昼間どころか二十四時間、点けっ放しになさっていたって何の支障もございませんが…。
ただ、バスルームやキッチンで花を育てゆくというのは…。
可哀相では、というのがハーレイの意見。
花は人の目を楽しませるために咲くものなのだし、見て貰えない場所で咲かせるなど、と。
前の自分もそう思ったから、少し考えてこう言った。
「普段はキッチンの方で育てて、たまにこっちへ持って来るのはどうだろう?」
今みたいな時間に運んで来たなら、君と二人で見てやれるから…。
夜は植物も眠るらしいし、朝まで此処でも大丈夫だろう。朝食の後で返してやれば。
「そういう方法もありますね。…昼間でも、あなたが御覧になる時は此処へ持って来るとか」
少しの間くらいでしたら、暗くなっても大丈夫でしょう。
外の世界で育っていたなら、雨や曇りの日は普段よりもずっと暗いのですから。
その方法なら上手く育ちそうです、とハーレイも賛成してくれた案。
昼間はキッチンに鉢を運んで、灯りを点けっ放しにする。農場や公園ほどではなくても、充分に明るく出来るから。青の間よりは、ずっと明るいから。
「じゃあ、その方法でやってみるから、エネルギーの方はよろしく頼むよ」
この鉢だけのために、キッチンが無駄に明るくなるけれど…。
ぼくが暮らしているだけだったら、三度の食事の時くらいしか照明は必要無いのにね。
他で節約しようとしたって、この部屋はもう、これ以上は暗く出来ないし…。
「船のエネルギーなら、問題は無いと申し上げましたが?」
キッチン程度の広さでしたら、それこそ百ほど点けっ放しでも大丈夫です。それも二十四時間、夜も昼間も関係無く。…ですから、どうぞキッチンの方でお育て下さい。
明日の朝から早速に…、とキャプテンからの許可も下りたし、キッチンに移してやった鉢。何が咲くのか謎の植木鉢は、キッチンで暮らしてゆくことになった。
夜は灯りを消してやったり、青の間の方へ運び出したり、昼と夜とを作り出そうと努力した鉢。
キッチンで光を浴びられるようになった途端に、みるみる元気に育ち始めて…。
「どうやらチューリップのようですね」
蕾の方はまだですが…。この葉はチューリップの葉ですよ、きっと。
似たような葉の花があるかもしれませんが…、とハーレイが眺めた植木鉢。夜になったから、とキッチンから青の間へ運んで来ておいたのを、しげしげと。
「君もチューリップだと思うかい?」
そういう葉だよね。これだけ大きくなったんだから、間違いないと思うんだけれど…。
蕾がつくまで分からないかな、子供たちは今も答えを教えてくれないし…。
「花で分かるよ」としか言わないんだよね、本当に秘密のプレゼントらしい。
チューリップだろうと思うけれども、早く蕾がつかないかな…?
花が咲くのが楽しみだよね、と何度もハーレイと話す間に、蕾がついた。
ぐんぐん大きく育つ蕾は、もう間違いなくチューリップ。何色の花が咲くのだろう、とワクワク眺めて、色がつくのを待ち続けた。
そうしたら、うっすらと見えて来たピンク。緑色だった蕾にピンクが宿ったから…。
(女の子が選んでくれたのかな?)
ピンク色なら、女の子が選びそうな色。「この色が好き!」と、幾つもの色がある中から。
それとも誰かが「強そうだから」と選んだ球根、色のことなど考えもせずに。ヒルマンが幾つも並べた中から、「これ!」と掴んで、この植木鉢へ。
(ピンク色だしね…?)
まさかソルジャーの自分に似合う色でもあるまいし…、と膨らむ想像。わざわざ選んだピンク色なのか、偶然ピンクの花だっただけか。
ピンク色をした花に至るまでの事情は実に様々、どれが当たりか分からないから、また楽しい。それでもピンク色の花だし、「ピンクだったよ」とハーレイにも見せようとして運び出したら。
(あ…!)
キッチンから外に出したら翳ってしまったピンク。薄紫の紗を被せたように。
青の間の灯りでは、あのピンク色は綺麗に見えない。これはこれで綺麗な色だけれども、本来の素敵なピンク色。元気な子供たちの頬っぺたみたいな、あの艶やかなピンク色は…。
(此処だと、見えない…)
青い灯りに吸われてしまって、まるで夜の国で咲く花のよう。太陽の光が射さない国で。
この部屋では育てられないどころか、花の色さえ、キッチンかバスルームでしか見られない花。持って生まれた本当の色を、出すことが出来ないチューリップ。
もうすぐ開く筈なのに。…輝くようなピンク色の花が、誇らかに咲く筈なのに。
(可哀相…)
此処で咲いても、本当の姿を見て貰えないチューリップ。
キッチンでは綺麗に咲いていられても、愛でるためにと運び出されたら、たちまち失せてしまう色。美しいことに変わりはなくても、自慢の色が損なわれる花。
せっかく此処まで育ったのに。…もうすぐ花が咲きそうなのに。
そんな花はとても可哀相だ、と痛んだ心。同じ咲くなら、本当の姿を見せられる場所で咲かせてやりたい。
そう思ったから、仕事を終えたハーレイが青の間にやって来た時、植木鉢を見せた。
「ほら、ピンク色の花だったんだよ。…やっと分かった」
今日の昼間に、色を覗かせたんだけど…。じきにすっかりピンクになるよ。蕾が丸ごと。
「そうですね。あとどのくらいで咲くのでしょう?」
楽しみですね、と眺めるハーレイは気付いているのか、いないのか。…この花の色に。
「ぼくも楽しみなんだけど…。でもね、此処じゃ綺麗に見えないんだ」
ピンク色だとは分かるけれども、本当の色はこうじゃない。…キッチンで見ると分かるんだよ。
「此処は照明がこうですから…。青みを帯びてしまいますね…」
「そう。本当の色で咲かせてやるには、キッチンかバスルームでないと駄目なんだ」
だけど、そんな所で咲かせるなんて…。可哀相だよ、せっかく咲くのに。
キッチンで育てるのは可哀相だ、と此処へ運んでは、君と眺めてやったのに…。
肝心の花が駄目になるなんて、と曇らせた顔。本当に可哀相だから。
「では、この花をどうなさりたいと?」
「綺麗な姿で咲ける所へ、此処から移してやりたいよ。…明るい所へ」
公園でもいいし、農場でもいい。場所は幾らでもあるんだけれど…。
問題は、これをプレゼントしてくれた子供たち。
子供たちの心を傷つけないで移せる方法、何か無いかな…?
此処だと綺麗に咲けないんだから、とにかく花が幸せになれる所へね。
「それは…」
仰ることはよく分かるのですが…。
花が可哀相だとお思いになるのも、もっともなことだと思うのですが…。
しかし…、と考え込んでしまったハーレイ。
「この鉢を、何処かへ移すというのは…」と。元を辿れば子供たちからのプレゼント。今日まで此処で育てて来たから、大丈夫だと思い込んでいるのが子供たち。
青の間の照明では駄目だから、とキッチンで育てたことは知らない。青の間では花の色が綺麗に見えないことにも、気付きはしない。
「…今から何処かへ移すとなったら、子供たちはガッカリするでしょう」
ソルジャーのお気に召さない花だったのか、と勘違いをして。
チューリップの花がお嫌いだったと考えるのか、ピンク色の花がお嫌いだったと思うのか…。
いずれにしても、今からですと、そういう結果にしかならないかと…。
「そうだよね…。もっと早くに移していれば…」
青の間の灯りでは植物を育てられないから、と説明して他所に移せば良かった。
でも手遅れだよ、此処まで育ててしまったから。
何か無いかな、上手く引越し出来る方法…。
「あればいいのですが…。何か…」
子供たちも、あなたも、どちらも傷つかない方法。…それがあれば…。
何か見付かればいいのですが…、とハーレイは腕組みをして眉間に皺。深く考えている時の癖。
「…駄目かな、君でも思い付かないのかい?」
船の仲間たちのことも、この船のことも、君はぼくより詳しい筈で…。
ぼくは漠然と知っているだけで、君のようにデータで知っているわけじゃないからね。
「そう仰られても…。いえ、その船です…!」
こういう方法は如何でしょう?
このチューリップを、船の仲間たちに鉢ごとプレゼントなさるのは。
「プレゼント?」
「そうです。ソルジャーが此処までお育てになった、立派な花を贈るのですよ」
これからが綺麗な時だから、と船の仲間たちが眺めて楽しめるように。
食堂だったら皆が見ますよ、食事に出掛けてゆく度に。
「いいね、あそこは明るいし…。この花も綺麗に咲ける筈だよ」
子供たちから貰った花を、今度はぼくが贈るわけだね。…船のみんなに。
ありがとう、とハーレイに抱き付いて御礼のキスを贈った。
その方法なら、子供たちの心も傷付かない。プレゼントした花は立派に育って、船の仲間たちの目を楽しませるために食堂に引越しするのだから。
綺麗な花が咲くと分かったからこそ、船の仲間たちに贈るプレゼントに選ばれたのだから。
(それなら絶対、大丈夫だもんね…?)
子供たちが贈った謎の植木鉢は、大出世。ソルジャーからのプレゼントとなったら、皆の注目を浴びるもの。たとえチューリップの鉢であろうが、一輪しか咲かない花だろうが。
そう決まったから、次の日の朝、朝食の後で植木鉢を食堂まで運んで行った。
キャプテンのハーレイに恭しく持たせて、「ソルジャー」と書かれたチューリップの鉢を。
迎えに出て来た食堂の者たちに、「青の間で育てた花だから」と譲り渡した植木鉢。映える所に置いて欲しい、とソルジャーとしての笑みを浮かべて。
「あの花、人気だったよね?」
ぼくは青の間から思念で見ていたけれど…。咲く前から注目されてたよ。
「うむ。咲き終わった後にも、奪い合いでな」
ソルジャーが育てたチューリップだから、と女性たちが欲しがって大騒ぎだった。
なにしろ相手はチューリップだしな、きちんと世話すりゃ次の年だって咲くんだから。
次の年と言えば、そっちも期待されたよなあ…。
また来年もソルジャーから花のプレゼントが来るかもしれん、と。
「うん…。期待するのはかまわないけど、青の間、花には向いてないから…」
またキッチンで育てるだなんて、花が可哀相すぎるんだよ。…どんな花でも。
「お前、ヒルマンに上手く断らせたんだよなあ…。次の年の花のプレゼント」
子供たちは残念がっていたがな、「ソルジャーにプレゼントしちゃ駄目だなんて」と。
「食堂の花が人気だったの、子供たちだって知っていたしね」
でも、青の間では見られないんだもの。…どう頑張っても、せっかくの花が。
「其処なんだよなあ…。お前がせっせと世話をしたって、最後がなあ…」
船の仲間へのプレゼントなんじゃ、お前が頑張る意味が無いから。
園芸係ってわけでもないのに、育てただけで終わっちまって、花を見られずじまいじゃな。
たった一回きりだったよな、とハーレイが笑う植木鉢。
青の間にたった一度だけあった、植木鉢という花を育てる道具。
「お前、今度はどうしたい?」
俺の家なら植木鉢も置けるぞ、何処にだって。…家の中でも、庭でもな。
育てたいなら、植木鉢を置いてくれてもいいが。
「植木鉢…。今度は確かに置けるだろうけど、子供たちは、もうくれないよ?」
此処はシャングリラじゃないし…。
今日のおじさんの家みたいに、お孫さんが持っても来てくれないし…。
「ふうむ…。なら、俺がプレゼントしてやろうか?」
お前がやってみたいと言うなら、謎の植木鉢のプレゼント。
今のお前じゃ、どう頑張っても、正体が分かるわけがないからな。
俺の心を読めやしないし、植木鉢の中を透視するのも無理なんだから。
「いいかも…!」
植木鉢で何か育てるんなら、ハーレイがくれる謎の植木鉢がいいな。育て方も謎で、名前も謎。
どんな花が咲くのか、育ててみないと分からないのを育てたいよ…!
もう青の間じゃないんだけどね、と欲しくなって来たプレゼント。
何が育つかまるで分からない、ハーレイがくれる謎の植木鉢。
それを育ててみるのもいい。
芽が出ただけでも、きっと幸せ。
立派に育ってハーレイと花を眺める頃には、もっと幸せ一杯だから…。
謎の植木鉢・了
※ブルーが出会った、何が咲くか謎な植木鉢。前のブルーも、それを育てていたのです。
子供たちから貰って、青の間で育てた花ですけれど…。青の間の照明には、問題がありすぎ。
(すっかり止んで良かったよね)
通り雨、とブルーが眺める窓の外。学校からの帰りに、いつもの路線バスの中から。
午後の授業の時間に、いきなり降って来た雨。晴れていた空が急に曇ったかと思うと、突然に。
最初はパラパラ、それから本降り。叩き付けるように激しく降ったのだけれど…。
帰る時間までには止んで、今ではすっかり青い空。雨など降ってはいなかったように。
(でも、降った証拠…)
バスの窓には、ちょっぴり水滴。このバスはきっと、雨の間も何処かを走っていたのだろう。
雨が降り続けている間だったら、雨粒は窓を流れるけれど。バスが走れば後ろの方へと、ガラス伝いに走るのだけれど…。
雨の名残の水の雫は、もう動かない。窓に貼り付いて微かに揺れているだけ。
(その内に乾いて消えちゃうんだよ)
太陽の光と、雨上がりの空気に吸い取られて。「空へお帰り」と連れてゆかれて。
雫が全部消えてしまったら、バスの窓だって元通り。ちょっぴりの埃がガラスに残って、雨粒の形を教えてくれるかもしれないけれど。
(…ぼくが乗ってる間は無理そう…)
ほんの少ししか乗らないから、と思う間に着いたバス停。家の近くの。
バスから降りて歩く途中に、道に見付けた水溜まり。道路は平らなように見えても、沢山の車がへこみを作ってゆくもの。普段は全く分からないけれど、雨が降ったらよく分かる。
(こうやって水が溜まるから…)
雨が降った証拠、と水溜まりの中を覗き込んだら青い空。
何の気なしに見たのだけれども、水溜まりの中は舗装されている道路ではなくて…。
(映ってる…)
地球の空が、と仰いだ遥か頭の上。今は青空、ぽっかりと白い雲が幾つか。
それがそっくり映っていた。水溜まりが鏡になったみたいに。
地面にも地球の空があるよ、と気付いたら、とても素敵な気分。
前の自分が焦がれた地球。青い水の星にいつか行こうと、行きたいと願い続けていた。
遠く遥かな時の彼方で、地球を夢見たソルジャー・ブルー。けれど、叶わなかった夢。
(…行く前に死んでしまったから…)
夢の星のままで終わった地球。あの頃の地球は死の星だったと、知りもしないで。青い水の星が何処かにあると信じたままで。
(今はホントに青い地球だよ)
それに自分は地球まで来た。新しい命と身体を貰って、蘇った青い地球の上に。
水溜まりの中にも、その地球の空。頭の上にも、地面の上にも、「此処は地球だ」と空がある。青く澄み切って、白い雲まで浮かべた空が。
(水溜まり…)
もっと無いかな、と嬉しくなった水溜まりの中に映る空。地面に散らばる青空の欠片。
それが見たくて、もっと見付けたくて、水溜まりを探しながら歩いた道。あそこにもあるよ、と道を渡ったり、「次はあっち」と急いだり。
生垣に囲まれた家に着いても、探したくなる水溜まり。門扉を開けて入ったけれども…。
(…庭は無理かな?)
芝生の上には、見付けられない水溜まり。芝生は水はけがいいものだから、窪んでいたって水は溜まらない。直ぐに吸い込まれて消えてしまって。
(うーん…)
こっちはどうかな、と見に行った庭で一番大きな木の下。
其処に置かれた白いテーブルと椅子に、雨の名残がくっついていた。庭の景色が主だけれども、よく見れば青い空の欠片も映った水滴。
(殆ど庭の景色なんだけど…)
よし、と眺めた幾つもの水の雫たち。
地球の空の欠片が地面の上にも一杯だよ、と。ぼくの家の庭の中にもあるよ、と。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間にも眺めた外。
ダイニングの大きなガラス窓の向こう、青空と、たまに木の枝などから落ちる水滴。急に降った雨が庭に残した、水の粒がポタリと落ちてゆく。家の軒やら、木の葉先から滴って。
あの水たちも、やがて庭から消える。太陽の光と風が空へと連れ戻すから。
そうでなければ地面に吸われて、土の下へと潜り込んで。
(…さっき見た道路の水溜まりも…)
白いテーブルと椅子についた雫も、その内に消えてゆくのだろう。
水溜まりや雫が消えていったら、空たちも消える。今は地面に落ちている欠片、水溜まりや雫に映った地球の空たちは。
(…空の欠片が地面に一杯…)
いずれ空へと帰るのだけれど、なんとも心が弾む光景。
空を仰げば本物の空で、地面の上には空の欠片たち。それも本物の地球の空。
(…こんな体験、地球でないとね?)
出来っこないよ、と外を見ながら食べていたおやつ。「ぼくが地球まで来たからだよ」と。
おやつを食べ終えて部屋に帰っても、窓から外を覗いてみる。
(此処から見たって…)
空は映っていないんだけど、と濡れた木々の枝を見れば、やっぱり雫。
もっと近くに寄ってみたなら、あの雫にも空があるのだろう。ポタリと滴り落ちる前にも、下へ向かって落ちる時にも。
まあるい水の鏡になって、空を映しているだろう雫。
空から降って来た雨の粒たちは、空の欠片を連れて来る。まるで空からの贈り物のよう。
「地面の上にも空をどうぞ」と、「好きなだけ眺めて下さいね」と。
ホントに地球でなきゃ見られない景色、と考える。地球の空からのプレゼント。
雨が降ったら、地面にも空。水溜まりの中を覗き込んだら、水の雫たちを覗いてみたら。
(…前のぼくだと…)
前の自分が見ていた雨。白いシャングリラが長く潜んだ雲海の星、アルテメシア。
あの星にも雨は降ったけれども、其処で水溜まりに空が映っても…。
(アルテメシアの空なんだよ)
地面に落ちた空の欠片は、アルテメシアの空でしかない。前の自分が焦がれ続けた、青い地球の空とは違ったもの。同じ空でも、天と地ほどに違う空。
だから、しみじみ覗いてもいない。地面の上に空を見付けても。雨上がりだったアルテメシアに降りても、水溜まりに空が映っていても。
(地球に行っても、こんな風かな、って…)
思った程度で、感激などはしなかった。
地面に落ちた空の欠片が幾つあっても。「映ってるな」と気付いた時も。
アルテメシアでさえ、そういった具合だったから。水溜まりを探して歩きはしないし、あちこち覗き込んだりもしない。「此処にも空があるだろうか」と、水溜まりや水の雫の中を。
曲がりなりにも雨が降っていたアルテメシア。
テラフォーミングされた星でも、雨は空から降ってくるもの。
けれど…。
(シャングリラだと…)
空の欠片を見付けるどころか、雨さえ降らなかった船。
いくらシャングリラが巨大な船でも、所詮は閉ざされた小さな世界。空も地面も何も無かった。船の周りに雲はあっても、雲海の中を飛ぶ船でも。
雨が無かったシャングリラ。踏みしめる地面も持たずに生きていたミュウたち。
白いシャングリラはそういう船だし、雨が降らないから水溜まりなんて、と思ったけれど。あの船の中に小さな空の欠片たちが、落ちていた筈もないのだけれど…。
(公園…)
不意に頭を掠めた記憶。シャングリラが誇った広い公園、ブリッジが浮かんでいた公園。
一面の芝生だったけれども、そうでない場所も幾つかあった。芝生の下の土が見えている場所。散歩道やら、子供が遊ぶための場所やら、土と触れ合うための場所。地面の代わり。
そういった場所に、たまに水溜まりが出来ていた。
(今日の帰りの道路みたいに…)
自然に窪んでしまった所。通る仲間や、遊ぶ子供の足に踏まれて低くなった部分。
水溜まりは其処に姿を現わし、子供たちがはしゃいだりもしていた。歓声を上げて、小さな足で踏んで回っていた水溜まり。
水溜まりの中で遊んでいたなら、靴が汚れてしまうのに。バシャバシャと踏んで走り回ったら、土を含んだ水が飛び散って、服まで汚れてしまうのに。
(子供たち、遊んでいたんだっけ…)
公園にあった水溜まりで、と懐かしく蘇って来た光景。それは賑やかに、水溜まりと戯れていた子供たち。広い公園にそれが出来たら、地面を模した土の上に水があったなら。
そうだった、と思うけれども、その水溜まり。子供たちの足が跳ね上げた水。土が混じっていた筈なのだし、靴も、子供たちの服も台無し。
せっかく係が洗ったのに。毎日、綺麗な服を着られるよう、心を配っていた係。
子供たちの靴も、養育部門の者たちがせっせと磨いていた。小さな子供は靴の手入れどころか、下手をすれば裸足で走りかねないほどだから。
(…非効率的…)
昼間に散水するなんて、と水溜まりのことを考えた。
あの公園に出来た水溜まりは、散水で出来たものだから。芝生や木たちに水をやろうと、公園に備えられた散水用のシステム。それが撒いた水で水溜まりが出来て、遊んでいたのが子供たち。
夜の間に済ませておいたら、水溜まりは朝までに消えるのに。
そうしておいたら、子供たちの服や靴などが、泥で汚れはしないのに。
非効率的だとしか思えないのが、あの水溜まり。
子供たちの服を洗う係や、靴を磨いていた仲間たち。彼らの手間を増やした悪者、それが公園の水溜まり。もしも水溜まりが無かったならば、子供たちは其処で遊ばないのに。
(…なんで昼間にやってたわけ?)
あの水撒きを。
遊ぶのが好きな小さな子たちは、ヒルマンが止めても聞くわけがない。水溜まりがあったら遊び始めるし、服も、靴だって泥だらけ。
そうなることが見えているのに、昼間に公園に撒かれた水。窪みに溜まってしまう水。
しかも、毎日ではなかった昼間の散水。毎日だったら、公園の木々には欠かせないものだと思うけれども、水溜まりが出来ていたのは毎日ではない。夜の間に散水した日もあったのだろう。
(非効率的だって分かっていたから、夜だよね?)
夜の方が何かと便利な筈だ、と今の自分にも分かること。公園は皆の憩いの場だから、来た時に水を撒かれたならば…。
(公園から逃げるか、東屋に入ってやり過ごすか…)
そのどちらかしか無かった筈。雨が降らないシャングリラには、雨傘などは無かったから。
シールドで水を防ぐにしたって、それでは水は防げても…。
(公園に来た意味が無いよね?)
一息つこう、と来たのだろうに、いきなり上から降り注ぐ水。のんびり過ごそうと選んだ公園、其処で張らねばならないシールド。
(それじゃサイオンの訓練だってば…!)
シールドが嫌なら公園を出るか、東屋に飛び込んで雨宿りならぬ散水よけ。今日はこれだけ、と撒かれる水が止まるまで。…もう水の粒は落ちて来ない、と分かるまで。
(迷惑すぎるよ…)
非効率的な上に、うんと迷惑、と考えてしまう昼間の散水。
子供たちの服や靴は泥にまみれて、大人たちは憩いの場所が台無し。それに憩いの時間だって。
なんとも解せない、昼間にやっていた散水。公園に出来ていた水溜まり。
何故、あんなことをしたのだろう、と首を傾げていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、シャングリラの公園…。ブリッジが見えた、一番広い公園だけど…」
なんで昼間に水撒きしてたの、あそこって?
「はあ? 水撒きって…?」
なんの話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あそこの水撒きがどうかしたのか?」と。
「そのままだってば、水撒きをする話だよ。…その時間のこと」
たまにやってたでしょ、昼間に水撒き。いつもは昼間じゃなかったのに。
昼間にやるから、あちこちに水溜まりが出来ちゃって…。其処で子供たちが遊んでいたよ。
水溜まりの中に足を突っ込んだり、踏んづけて走り回ったり。
子供たちが着ていた服も、靴だって、水溜まりで遊ぶと泥だらけ…。
そうなっちゃうのに決まっているから、水を撒くのは夜の間にしておけばいいのに…。
でなきゃ、子供は公園に立ち入り禁止だとか。…水溜まりがちゃんと消えるまで。
どうしても昼間に撒くんだったら、その方がずっと良さそうだよ。
公園に来た大人も、いきなり水が撒かれちゃったら困っちゃうでしょ…?
昼間に撒くのは非効率的だよ、と述べてみた今の自分の意見。それなのに何故、と時の彼方ではキャプテンだった恋人に訊いてみたのだけれど…。
「おいおいおい…。忘れちまったのか?」
昼間には意味があったんだぞ、とハーレイは目を丸くした。「なんてこった」と。そして続けてこうも言われた。「そもそも、お前が原因なんだが?」と。
「原因って…。ぼくが?」
前のぼくなの、昼間に公園で水撒きしていた理由って…?
どうして、と今度はこちらが驚く番。前の自分は、いったい何をしたのだろう?
「本当に忘れちまったのか…。仕方ないヤツだな、お前が自分で言い出したくせに」
前のお前が言ったんだぞ。雨も降らない船なんて、とな。
「あ…!」
ホントだ、前のぼくだった…。雨が降らない、って言ったんだっけ…。
思い出した、と戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
シャングリラは白い鯨に改造されて、アルテメシアの雲海の中を居場所に決めた。人類が住んでいる星だったら、いざという時に頼りにもなる。物資の調達が容易だから。
消えない雲海と船そのものを隠すステルス・デバイス、それさえあれば安心な船。
白いシャングリラは名前通りにミュウの楽園、白い鯨の形の箱舟。
船の中だけが世界の全てだけれども、自給自足で生きてゆけるし、何も不自由はしなかった。
(公園だって、船に幾つも…)
ブリッジが見える広い公園と、居住区に鏤められた公園。
どの公園にも人工の風が吹いたものだし、水撒きは何処も夜の間に。昼間に撒くと、仲間たちの憩いの場所が駄目になる。ベンチも何もかも濡れてしまうし、居合わせた仲間も濡れるから。
そういう風に決めたプログラム。散水は人がいない夜間に、自動で。
けれども、前の自分がアルテメシアに降り立った時に…。
(水溜まり…)
雨上がりに降りた、郊外の野原。其処に水溜まりがあった。たまたま土が窪んでいて。
その水溜まりに映った空に気付いて、覗き込んだ。「こんな所に空がある」と。
空を映していた水溜まり。まるで自然の鏡のように。
いつか行きたい地球の空もきっと、こういう風に映るのだろう。雨が降ったら。
(シャングリラには、空なんか無かったから…)
考えたこともなかった景色。水さえあったら、空が地面に映るだなんて。
シャングリラには無いのが空。何処も天井が見えるだけ。せいぜい、公園の天窓くらい。船では一番広い公園、その上に窓はあるけれど…。
(…いつも雲の中で、空なんか…)
見えはしないし、その上、肝心の水溜まり。それさえも船では目にしない。
どの公園も夜の間に散水するから、朝には消えてしまっている水。その雫さえも残さずに。
(船の外なら、空から雨が降って来て…)
こういう水溜まりも出来る。自然に出来た窪みに溜まって、空を映している水溜まり。
シャングリラの中には無い空を。…青く晴れ渡った、雨上がりの空を。
地球でもきっとこう見えるだろう、と暫く見ていた水の中の空。地面の上に映し出された空。
テラフォーミングで人が住めるようになった星でも、水溜まりを覗けば空がある。地球の空とは違っていたって、空は空。
なのに、シャングリラは水溜まりさえも出来ない船。
空が無いどころか、その空を映す水溜まりの一つも無いのが今のシャングリラ。
(これじゃ駄目だ、って…)
そう思ったから、招集した会議。キャプテンと、長老の四人を集めて提案した。シャングリラの公園に雨を降らせることは無理だろうか、と。
「本物の雨が無理だというのは分かっている。…だが、似せることは出来るだろう?」
今の公園の散水システム、あれを改造してやれば。…雨そっくりに水を撒けるような形に。
「出来ないことはないだろうがね…」
今の設備が無駄になる、とヒルマンが答えた。「それに非効率的でもあるね」と。
少ない水でも木々に充分に行き渡るよう、出来ているのが今のシステム。それの代わりに、ただザーザーと降らせるだけでは、水だって無駄になるのだから、と。
「でも…。今は水溜まりも無い船なんだよ、シャングリラは」
「水溜まり…?」
それはいったい、と誰もが不思議そうな顔をしたけれど、「水溜まりだよ」と繰り返した。
「アルテメシアで水溜まりを見たんだ。その中に空が映っていたよ」
雨上がりの青く晴れた空がね。あれが自然な景色なんだよ、水溜まりも無い船と違って。
「この船に自然は無いんじゃがな?」
空も無いわい、とゼルが呆れた風に鼻を鳴らしたけれども、諦めずに続けようとした説得。
「自然は無くても、真似られるよ。公園に雨を降らせたら」
「それを言うなら、雨とセットで雪も降らせようって言うのかい?」
そこまでやるなら賛成だけどね、と笑ったのがブラウ。
「雪が降ったら楽しいけれども、そんな余裕は無い船だよ」とも。
いくらこの船が楽園の名前を持っていたって、雪を降らせる余裕までは…、と。
ブラウにも笑い飛ばされた雨。しかも「雪まで降らせたいのか」と。
雪は考えてもいなかったけれど、魅力的な言葉ではあった。アルテメシアには雪も降るから。
「…雪…。雨が出来るのなら、雪だって…」
降らせられそうな気がするよ。人工の雪があると聞くから、冬になったら…。
雪も降らせてはどうだろう、と更に推し進めた話。シャングリラの公園に雨と雪を、と。
けして不可能ではなさそうだから。検討する価値はありそうなように思えたから。
けれど、ヒルマンは賛成してはくれなかった。
「雪を降らせることは可能だ。雨と同じで、システムを作り替えさえすれば」
ただ、問題がありすぎる。この船は確かに楽園だがね…。
そうした部分にエネルギーを割くより、もっと有効に利用しないと。船の中が全てなのだから。
「…駄目かな?」
雪はともかく、雨の方も…?
公園に降らせられたらいいのに、と言い募っても、ゼルにまで「駄目じゃ!」と否定された。
「余計なエネルギーは回せん、たかが水撒きの話じゃからな」
第一、システムの改造だけでも手間暇がかかる。今のシステムで充分なんじゃ!
さっきブラウも余裕が無いと言ったじゃろうが、と水を向けられたブラウは頷いたけれど。
「でもねえ…。ソルジャーの案にも一理あるねえ、雨が降らないのは本当だから」
そうは言っても、雨を降らせる余裕は無いし…。もちろん雪もね。
だからさ、昼間に水撒きするっていうのはどうだい?
今は夜中にやっているのを、昼間に変えれば公園はずぶ濡れになるわけだろう?
そうすりゃ水溜まりも出来るだろうさ、とブラウが出した代替案。
雨とはかなり違うけれども、散水すれば木々は濡れるし、きっと水溜まりも出来る筈。今よりは自然に近付くだろう、と。気分だけでも雨が降った後を味わえるのでは、と。
「そうか、その手があったんだ…。昼の間に水を撒いたら、水溜まりも…」
ブラウの案がいいと思うよ、ぼくは。…この方法でも駄目かい、ヒルマン?
散水システムを使う時間を変えるだけだし、非効率的でもないと思うんだけどね…?
その方法でやってみたい、とヒルマンの顔を窺った。
本物の雨が駄目だと言うなら、せめて水に濡れた公園だけでも、と考えたから。散水システムで水を撒いても、水溜まりは出来るだろうから。
「夜の間に水を撒くのは、みんなの都合を考えてだけのことだろう?」
濡れた公園より、快適に過ごせる公園の方がいいからね。
でも、それだけでは駄目なんだ。…雨も降らない船のままでは、やっぱり駄目だよ。
昼の間に水撒きしたなら、水溜まりが出来て、気分だけでも…。
雨が降ったように見える筈だ、と畳み掛けたら、ヒルマンの顔に浮かんだ笑み。
「反対する理由は全く無いね。…エネルギーの無駄にならないのなら」
それに子供たちにも、雨上がりの景色を見せてやれるよ。紛い物だがね。
所詮は公園の中だけなのだし、水の降らせ方も本物の雨とは違うのだから。
「それでもいいよ。水溜まりも出来ない船よりは」
雨は無理でも、水溜まりが出来れば充分だ。…その上に空は映らなくても。
昼の間に水を撒こう、と乗り出した膝。「その方法があったじゃないか」と。
「ですが、ソルジャー…。毎日というのは、私は賛成しかねます」
今の散水方法は色々と検討した結果なのですから、とエラが口を挟んだ。効率よく水やりをしてやるのならば、仲間たちの都合を考えて夜。昼間の散水はたまにでいい、と。
「それもそうだね…。公園が濡れていたら、困る仲間もいそうだし…」
月に一回くらいだろうか、今までは全く無かったことを思ったら。
好評だったら、様子を見ながら徐々に回数を増やしていけば…。
「そんな所じゃろうな、皆も慣れてはおらんから」
濡れた公園も気に入った、という声が上がってからでいいじゃろ、増やすのは。
最初は月に一回じゃな、と髭を引っ張ったゼル。
「皆が慣れたら、自然を真似ればいいじゃろう」と。
「では、散水を昼間に実施してみる、ということでよろしいですか?」
キャプテンとしても、反対は全くございません、とハーレイが纏めにかかった会議。
雨を真似るシステムを作る代わりに、昼間に散水。最初は月に一回程度で実施してゆく、と。
そして行われた昼間の散水。あらかじめ皆に予告した上で、時間通りに水が撒かれた。船で一番大きな公園、ブリッジが端に浮かんでいる公園で。
雨の降り方とは違ったけれども、木々も芝生もしっとりと水を含んだ散水。枝や葉先から落ちる水滴、土が見える場所には水溜まり。東屋にもベンチにも、散歩道にも降り注いだ水。
集まっていた船の誰もが、濡れた景色を楽しんだ。「本物の雨が降ったようだ」と。
ヒルマンが連れて来た子供たちだって、走り回って喜んだ。水溜まりを踏んではしゃぐ他にも、木々から滴る水に当たっては「冷たい!」だの、「頭が濡れちゃった」だのと。
(みんな、とっても大喜びで…)
最初は月に一度の予定が、早々に二度目をやることになった。二度目をやったら、次は三度目。
すっかり公園に定着したら、「他の公園でもやって欲しい」という声が出て…。
「昼間の散水、いろんな公園でやったっけね」
みんなが濡れた景色に慣れたら、それが当たり前になっちゃったから。
昼間はいつも乾いてるなんてつまらない、ってことで他の公園でも昼間に水撒き。
「うむ。一斉にやらずに、日をずらしてな」
少しでも多く楽しめる方がいいだろう、と実施する公園を俺が中心になって決めてたんだが…。
面白いもんだな、人間ってヤツは。
暫くの間はそれで良かったが、どうせやるならランダムに、っていう声が増えて来てだな…。
予告も要らん、と言うもんだから、お望み通りにしてやった。
もう文字通りに予告無しで、とハーレイは懐かしそうな顔。
月一回で始めた筈の昼間の散水、それは全部の公園が対象になって、ついには全く予告無し。
散水時間を決めるプログラムもランダムになったものだから、うっかり公園に入っていると…。
「いきなり水撒きが始まっちゃって、びしょ濡れになる仲間、いたっけね」
シールドで防ぐ暇もなくって、頭から水を被っちゃって。
其処でシールドすればいいのに、一度濡れたら、もうそれっきり。降って来ちゃった、って。
「いたなあ、そういうヤツらもな」
子供たちだって、ヒルマンもろとも濡れてたが…。
「早く入りなさい!」と、ヒルマンが東屋に走り込ませたモンだったが…。
しかし、そいつが大人気だった、とハーレイが顔を綻ばせる。「愉快だったな」と。
「俺はブリッジからよく見てたんだが、大人も子供も大はしゃぎだ」
こういうモンだ、と慣れちまってからも、プログラムはランダムのままだったから…。
やっぱり慌てて走って行くんだ、いきなり降られた仲間がな。
正確に言えば、雨じゃないんだから、水を撒かれたわけなんだが…。
「忘れちゃってたよ、あのイベント…」
子供たちは喜んで遊んでたのにね、水溜まりで。…公園に水が撒かれた時は。
「俺もすっかり忘れていたなあ、お前が話を持ち出すまでは」
昼間の水撒きで直ぐに思い出したが、それはキャプテンだったからなんだろう。定着するまでに色々考えたりもしたから、そのせいで覚えていたってわけだ。前の俺の記憶の中できちんと。
とはいえ、アルテメシアを離れた後には、もう無かったしな…。
ジョミーを迎えた時の騒ぎで、既に無くなっちまっていたが…。爆撃であちこち壊れたから。
ナスカに着いて本物の雨に感動してたが、その雨を見るまでに十二年だ。
それだけの間、ずっと宇宙を放浪していて、人類軍に発見されては追われてたしな…。
昼間にやってた水撒きのことも、水溜まりも忘れちまっていたさ。
ナスカに着いた時にはとっくに、俺はそのことを忘れてた。
前のお前が「雨を降らせたい」と言っていたことも、水溜まりを作りたいと言い出したことも。
雨上がりの虹なら、せっせと追い掛けていたんだがなあ…。
虹の橋のたもとには、宝物が埋まっていると聞いたからな、と話すハーレイ。その宝物は、深い眠りに就いてしまったソルジャー・ブルーの魂だった、と前にハーレイから聞いている。
「じゃあ、ナスカでは水溜まりの中を覗いていないの?」
ラベンダー色だったっていうナスカの空が地面にあるのは、見ていないわけ…?
「水溜まりに映っていた空か? そりゃ、気付いてはいたんだろうが…」
俺の足元にあるわけなんだし、目に入ってはいただろう。
しかし、感慨深くは見てないな。前のお前が思ったように、「空がある」と感激しちゃいない。
お前の魂を探しに行くには、水溜まりは余計なものだったんだ。
虹を追い掛けて歩くんだからな、水溜まりがあったら邪魔だろうが。
靴は汚れるし、足は滑るし…、というのが前のハーレイが感じたこと。
赤いナスカで虹がかかる度、ハーレイは虹を追っていた。虹の橋のたもとに辿り着いたら、手に入るという宝物。橋のたもとを掘り起こして。
宝物を見付けたら、眠り続けるソルジャー・ブルーの魂、それが目覚めてくれるのかも、と。
「俺の目当ては虹だったんだし、消えちまう前に追い掛けないと…」
結局、一度も辿り着けないままだったがな。…なにしろ、相手は虹なんだから。
虹を追い掛けて歩く間は、水溜まりは俺の邪魔をするもので…。
虹の橋まで辿り着けなくて帰る時には、俺はガッカリしてたから…。
水溜まりをわざわざ覗きはしないし、跨ぐか、避けて通るかだよな。…俺の前にあったら。
だから知らん、と言われたナスカの水溜まりの空。
きっとあっただろう、ラベンダー色をした空の欠片たち。雨上がりの赤いナスカの地面に。
「そうだよね…。前のハーレイ、水溜まりどころじゃなかったよね…」
ぼくがちっとも目覚めないから、虹を追い掛けて宝物探し。…前のぼくの魂。
そっちに必死になっていたなら、水溜まりの中まで楽しめないよね。水溜まりに映ったナスカの空に見惚れているより、避ける方。…その水溜まりを。
ごめんね、眠っちゃっていて…。
ずっとハーレイのことを放りっ放しで、十五年間も眠っちゃっていたなんて…。
「かまわんさ。…お前は生きててくれたんだから」
眠ったままでも、目覚めなくても、お前が生きていてくれただけで充分だった。
青の間に行けばお前がいたしな、深く眠っていただけで。
このまま地球まで行けそうだよな、と夢を見たこともあったんだ。…眠ったままでも。
もしも地球まで辿り着けたら、どうやってお前を起こしたもんか、って考えたりもな。
「ほら、着いたぞ」って起こしてやらんと駄目だから。
俺は幸せな夢を見てたし、それでいい。水溜まりに映る空なんかよりも、幸せな夢。
お前と一緒に地球に着いたら、という夢をまた見られたからな。
ところで…、とハーレイに向けられた視線。
ハーレイの話が話だっただけに、メギドへ飛んでしまったことかと思ったけれど。あんなに虹を追い掛けたのに、無駄骨だったと言われるのかと、内心ギクリとしたのだけれど。
「…お前、どうして水撒きの話になったんだ?」
シャングリラの昼間の水撒きのこと、とハーレイはまるで違う方へと話を向けた。そういう話になった理由は、今日の午後に降ってた通り雨か、と。
それもハーレイの優しさだと分かる。前のハーレイの深い悲しみを、あえて口にはしないこと。
だから自分も、それに応えることにした。ナスカで起こった悲劇は無かったかのように。
「…ううん、降ってた雨じゃなくって、帰り道に見付けた水溜まり」
バス停から家まで歩く途中で見付けたんだよ、道路にあった水溜まりをね。
それで覗いたら、水溜まりの中に頭の上の空が映ってて…。
この空は地球の空だよね、って水溜まりを覗き込んじゃった。地面にも地球の空が一杯。
水溜まりがあったら空が映るし、小さな水の雫にだって。
こういう景色は地球だから見られるんだよね、って考えていたら思い出したんだよ。子供たちがよく遊んだりしてた、シャングリラの公園の水溜まりのことを。
それで水溜まりが出来た原因の方に頭が行っちゃった、とハーレイにきちんと説明したら。
「なるほどな…。地面にも地球の空が一杯だったか、水溜まりに映るもんだから」
そりゃ良かったなあ、嬉しかっただろう?
頭の上には地球の空があって、足の下にも地球の空が幾つもあるわけだしな。
「そうだよ、空の欠片が一杯。感動しちゃった」
水溜まりを端から覗きながら帰って、家の庭でも見ていたよ。…水溜まりは無かったんだけど。
ぼくの家の庭、芝生だから…。水はけが良すぎて、水溜まりは無し。
だからね、水の雫を覗いたわけ。
庭でハーレイと使うテーブルと椅子に、水の雫が幾つもあって…。
それを覗いたら、庭の景色と一緒に空も映ってた。小さいけど、ちゃんと地球の空がね。
次はハーレイと一緒に覗きたいな、と持ちかけた。
水の雫を覗くだけなら、家の庭でも出来るから。雨上がりなら、いつでも出来ることだから。
「いいでしょ、庭に出て覗こうよ」
雨が止んでから直ぐの時なら、水溜まりだって何処かにありそう。花壇とかに。
覗いたら地球の空が見えるよ、ハーレイと一緒に見てみたいな。地面に落ちてる空の欠片を。
この次に雨が降った時に…、と頼んだら。
「水溜まりもいいが、もっとデカいスケールでいこうじゃないか」
せっかく地球の空が映るのを見るんだからなあ、どうせだったら逆さ富士とか。
そういうのをな、と言われたけれども、掴めない意味。
「逆さ富士?」
それって何なの、どんなものなの?
水溜まりよりも大きいってことは分かるけれども、逆さ富士なんて知らないよ…?
「知らんだろうなあ、今は無いから。…富士山って山は知っているだろ?」
昔の日本で一番高くて、綺麗だと言われていた山だ。
その富士山は、今は何処にも無いがだな…。まだ富士山があった頃に、だ…。
人気だったのが逆さ富士だ、とハーレイが教えてくれたこと。
富士山の麓にあった湖、其処に逆さに映る富士山。その風景が逆さ富士。
それが美しかったというから、見に出掛けようという話。富士山はもう無いのだけれども、他の湖や山があるから。湖に映る姿が美しい山は、今の時代もあちこちに。
そういう湖がハーレイのお勧め。地球の空も景色もそっくりそのまま、映し出す湖面。
「いいね、大きな水溜まりだね」
水溜まりだなんて名前で呼んだら、湖が怒りそうだけど…。だけど、大きな水溜まり。
うんと大きな空が映って、地球の景色も映るんだね?
「そういうことだな、同じ水溜まりならデカいのがいい」
いつか二人で見に行こう。お前が大きくなったら旅行だ、そういう景色が見られる場所へ。
シャングリラの水溜まりとはスケールが違うぞ、相手は湖なんだから。
あのシャングリラよりも遥かにデカい湖、地球には幾つもあるんだからな。
もちろん普通の水溜まりだって二人で見よう、とハーレイは約束してくれた。
この次に雨が降って来た時、一緒にいる間に止んだなら。晴れて青空が覗いたら。
まだ水溜まりがありそうな内に庭に出てみて、地面の上の小さな空の欠片を眺める。水溜まりを二人で覗き込んで。
「地面の上にも地球の空があるね」と、「そうだな」と頷き合ったりして。
ハーレイと二人で青い地球までやって来たから、それが見られる。地面の上の空の欠片が。
もっと大きな水溜まりみたいな、湖にだって出掛けてゆける。
いつか自分が大きくなったら、水溜まりよりを覗くよりもずっと素敵な、空を映し出す湖へ。
(…逆さ富士、今だと、どんな景色になるのかな…?)
湖に映る景色の方も、それを映し出す湖も。…ハーレイのお勧め、今の時代の逆さ富士。
ハーレイと二人で暮らし始めたら、地球の大きな湖に映る空を、景色を眺めにゆこう。
この星は水の星だから。
地面の上にも、空を映す水がある星だから。
前の自分が焦がれ続けた、青い地球ならではの水溜まり。
湖という名のとても大きな水溜まりにだって、地球の空が綺麗に映るのだから…。
水溜まり・了
※ブルーが気付いた、水溜まりの中に映った空。シャングリラでは見られなかった光景。
船にあったのは、ただの水溜まりだけ。けれど喜んだ仲間たち。今なら水溜まりどころか湖。
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通り雨、とブルーが眺める窓の外。学校からの帰りに、いつもの路線バスの中から。
午後の授業の時間に、いきなり降って来た雨。晴れていた空が急に曇ったかと思うと、突然に。
最初はパラパラ、それから本降り。叩き付けるように激しく降ったのだけれど…。
帰る時間までには止んで、今ではすっかり青い空。雨など降ってはいなかったように。
(でも、降った証拠…)
バスの窓には、ちょっぴり水滴。このバスはきっと、雨の間も何処かを走っていたのだろう。
雨が降り続けている間だったら、雨粒は窓を流れるけれど。バスが走れば後ろの方へと、ガラス伝いに走るのだけれど…。
雨の名残の水の雫は、もう動かない。窓に貼り付いて微かに揺れているだけ。
(その内に乾いて消えちゃうんだよ)
太陽の光と、雨上がりの空気に吸い取られて。「空へお帰り」と連れてゆかれて。
雫が全部消えてしまったら、バスの窓だって元通り。ちょっぴりの埃がガラスに残って、雨粒の形を教えてくれるかもしれないけれど。
(…ぼくが乗ってる間は無理そう…)
ほんの少ししか乗らないから、と思う間に着いたバス停。家の近くの。
バスから降りて歩く途中に、道に見付けた水溜まり。道路は平らなように見えても、沢山の車がへこみを作ってゆくもの。普段は全く分からないけれど、雨が降ったらよく分かる。
(こうやって水が溜まるから…)
雨が降った証拠、と水溜まりの中を覗き込んだら青い空。
何の気なしに見たのだけれども、水溜まりの中は舗装されている道路ではなくて…。
(映ってる…)
地球の空が、と仰いだ遥か頭の上。今は青空、ぽっかりと白い雲が幾つか。
それがそっくり映っていた。水溜まりが鏡になったみたいに。
地面にも地球の空があるよ、と気付いたら、とても素敵な気分。
前の自分が焦がれた地球。青い水の星にいつか行こうと、行きたいと願い続けていた。
遠く遥かな時の彼方で、地球を夢見たソルジャー・ブルー。けれど、叶わなかった夢。
(…行く前に死んでしまったから…)
夢の星のままで終わった地球。あの頃の地球は死の星だったと、知りもしないで。青い水の星が何処かにあると信じたままで。
(今はホントに青い地球だよ)
それに自分は地球まで来た。新しい命と身体を貰って、蘇った青い地球の上に。
水溜まりの中にも、その地球の空。頭の上にも、地面の上にも、「此処は地球だ」と空がある。青く澄み切って、白い雲まで浮かべた空が。
(水溜まり…)
もっと無いかな、と嬉しくなった水溜まりの中に映る空。地面に散らばる青空の欠片。
それが見たくて、もっと見付けたくて、水溜まりを探しながら歩いた道。あそこにもあるよ、と道を渡ったり、「次はあっち」と急いだり。
生垣に囲まれた家に着いても、探したくなる水溜まり。門扉を開けて入ったけれども…。
(…庭は無理かな?)
芝生の上には、見付けられない水溜まり。芝生は水はけがいいものだから、窪んでいたって水は溜まらない。直ぐに吸い込まれて消えてしまって。
(うーん…)
こっちはどうかな、と見に行った庭で一番大きな木の下。
其処に置かれた白いテーブルと椅子に、雨の名残がくっついていた。庭の景色が主だけれども、よく見れば青い空の欠片も映った水滴。
(殆ど庭の景色なんだけど…)
よし、と眺めた幾つもの水の雫たち。
地球の空の欠片が地面の上にも一杯だよ、と。ぼくの家の庭の中にもあるよ、と。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間にも眺めた外。
ダイニングの大きなガラス窓の向こう、青空と、たまに木の枝などから落ちる水滴。急に降った雨が庭に残した、水の粒がポタリと落ちてゆく。家の軒やら、木の葉先から滴って。
あの水たちも、やがて庭から消える。太陽の光と風が空へと連れ戻すから。
そうでなければ地面に吸われて、土の下へと潜り込んで。
(…さっき見た道路の水溜まりも…)
白いテーブルと椅子についた雫も、その内に消えてゆくのだろう。
水溜まりや雫が消えていったら、空たちも消える。今は地面に落ちている欠片、水溜まりや雫に映った地球の空たちは。
(…空の欠片が地面に一杯…)
いずれ空へと帰るのだけれど、なんとも心が弾む光景。
空を仰げば本物の空で、地面の上には空の欠片たち。それも本物の地球の空。
(…こんな体験、地球でないとね?)
出来っこないよ、と外を見ながら食べていたおやつ。「ぼくが地球まで来たからだよ」と。
おやつを食べ終えて部屋に帰っても、窓から外を覗いてみる。
(此処から見たって…)
空は映っていないんだけど、と濡れた木々の枝を見れば、やっぱり雫。
もっと近くに寄ってみたなら、あの雫にも空があるのだろう。ポタリと滴り落ちる前にも、下へ向かって落ちる時にも。
まあるい水の鏡になって、空を映しているだろう雫。
空から降って来た雨の粒たちは、空の欠片を連れて来る。まるで空からの贈り物のよう。
「地面の上にも空をどうぞ」と、「好きなだけ眺めて下さいね」と。
ホントに地球でなきゃ見られない景色、と考える。地球の空からのプレゼント。
雨が降ったら、地面にも空。水溜まりの中を覗き込んだら、水の雫たちを覗いてみたら。
(…前のぼくだと…)
前の自分が見ていた雨。白いシャングリラが長く潜んだ雲海の星、アルテメシア。
あの星にも雨は降ったけれども、其処で水溜まりに空が映っても…。
(アルテメシアの空なんだよ)
地面に落ちた空の欠片は、アルテメシアの空でしかない。前の自分が焦がれ続けた、青い地球の空とは違ったもの。同じ空でも、天と地ほどに違う空。
だから、しみじみ覗いてもいない。地面の上に空を見付けても。雨上がりだったアルテメシアに降りても、水溜まりに空が映っていても。
(地球に行っても、こんな風かな、って…)
思った程度で、感激などはしなかった。
地面に落ちた空の欠片が幾つあっても。「映ってるな」と気付いた時も。
アルテメシアでさえ、そういった具合だったから。水溜まりを探して歩きはしないし、あちこち覗き込んだりもしない。「此処にも空があるだろうか」と、水溜まりや水の雫の中を。
曲がりなりにも雨が降っていたアルテメシア。
テラフォーミングされた星でも、雨は空から降ってくるもの。
けれど…。
(シャングリラだと…)
空の欠片を見付けるどころか、雨さえ降らなかった船。
いくらシャングリラが巨大な船でも、所詮は閉ざされた小さな世界。空も地面も何も無かった。船の周りに雲はあっても、雲海の中を飛ぶ船でも。
雨が無かったシャングリラ。踏みしめる地面も持たずに生きていたミュウたち。
白いシャングリラはそういう船だし、雨が降らないから水溜まりなんて、と思ったけれど。あの船の中に小さな空の欠片たちが、落ちていた筈もないのだけれど…。
(公園…)
不意に頭を掠めた記憶。シャングリラが誇った広い公園、ブリッジが浮かんでいた公園。
一面の芝生だったけれども、そうでない場所も幾つかあった。芝生の下の土が見えている場所。散歩道やら、子供が遊ぶための場所やら、土と触れ合うための場所。地面の代わり。
そういった場所に、たまに水溜まりが出来ていた。
(今日の帰りの道路みたいに…)
自然に窪んでしまった所。通る仲間や、遊ぶ子供の足に踏まれて低くなった部分。
水溜まりは其処に姿を現わし、子供たちがはしゃいだりもしていた。歓声を上げて、小さな足で踏んで回っていた水溜まり。
水溜まりの中で遊んでいたなら、靴が汚れてしまうのに。バシャバシャと踏んで走り回ったら、土を含んだ水が飛び散って、服まで汚れてしまうのに。
(子供たち、遊んでいたんだっけ…)
公園にあった水溜まりで、と懐かしく蘇って来た光景。それは賑やかに、水溜まりと戯れていた子供たち。広い公園にそれが出来たら、地面を模した土の上に水があったなら。
そうだった、と思うけれども、その水溜まり。子供たちの足が跳ね上げた水。土が混じっていた筈なのだし、靴も、子供たちの服も台無し。
せっかく係が洗ったのに。毎日、綺麗な服を着られるよう、心を配っていた係。
子供たちの靴も、養育部門の者たちがせっせと磨いていた。小さな子供は靴の手入れどころか、下手をすれば裸足で走りかねないほどだから。
(…非効率的…)
昼間に散水するなんて、と水溜まりのことを考えた。
あの公園に出来た水溜まりは、散水で出来たものだから。芝生や木たちに水をやろうと、公園に備えられた散水用のシステム。それが撒いた水で水溜まりが出来て、遊んでいたのが子供たち。
夜の間に済ませておいたら、水溜まりは朝までに消えるのに。
そうしておいたら、子供たちの服や靴などが、泥で汚れはしないのに。
非効率的だとしか思えないのが、あの水溜まり。
子供たちの服を洗う係や、靴を磨いていた仲間たち。彼らの手間を増やした悪者、それが公園の水溜まり。もしも水溜まりが無かったならば、子供たちは其処で遊ばないのに。
(…なんで昼間にやってたわけ?)
あの水撒きを。
遊ぶのが好きな小さな子たちは、ヒルマンが止めても聞くわけがない。水溜まりがあったら遊び始めるし、服も、靴だって泥だらけ。
そうなることが見えているのに、昼間に公園に撒かれた水。窪みに溜まってしまう水。
しかも、毎日ではなかった昼間の散水。毎日だったら、公園の木々には欠かせないものだと思うけれども、水溜まりが出来ていたのは毎日ではない。夜の間に散水した日もあったのだろう。
(非効率的だって分かっていたから、夜だよね?)
夜の方が何かと便利な筈だ、と今の自分にも分かること。公園は皆の憩いの場だから、来た時に水を撒かれたならば…。
(公園から逃げるか、東屋に入ってやり過ごすか…)
そのどちらかしか無かった筈。雨が降らないシャングリラには、雨傘などは無かったから。
シールドで水を防ぐにしたって、それでは水は防げても…。
(公園に来た意味が無いよね?)
一息つこう、と来たのだろうに、いきなり上から降り注ぐ水。のんびり過ごそうと選んだ公園、其処で張らねばならないシールド。
(それじゃサイオンの訓練だってば…!)
シールドが嫌なら公園を出るか、東屋に飛び込んで雨宿りならぬ散水よけ。今日はこれだけ、と撒かれる水が止まるまで。…もう水の粒は落ちて来ない、と分かるまで。
(迷惑すぎるよ…)
非効率的な上に、うんと迷惑、と考えてしまう昼間の散水。
子供たちの服や靴は泥にまみれて、大人たちは憩いの場所が台無し。それに憩いの時間だって。
なんとも解せない、昼間にやっていた散水。公園に出来ていた水溜まり。
何故、あんなことをしたのだろう、と首を傾げていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、シャングリラの公園…。ブリッジが見えた、一番広い公園だけど…」
なんで昼間に水撒きしてたの、あそこって?
「はあ? 水撒きって…?」
なんの話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あそこの水撒きがどうかしたのか?」と。
「そのままだってば、水撒きをする話だよ。…その時間のこと」
たまにやってたでしょ、昼間に水撒き。いつもは昼間じゃなかったのに。
昼間にやるから、あちこちに水溜まりが出来ちゃって…。其処で子供たちが遊んでいたよ。
水溜まりの中に足を突っ込んだり、踏んづけて走り回ったり。
子供たちが着ていた服も、靴だって、水溜まりで遊ぶと泥だらけ…。
そうなっちゃうのに決まっているから、水を撒くのは夜の間にしておけばいいのに…。
でなきゃ、子供は公園に立ち入り禁止だとか。…水溜まりがちゃんと消えるまで。
どうしても昼間に撒くんだったら、その方がずっと良さそうだよ。
公園に来た大人も、いきなり水が撒かれちゃったら困っちゃうでしょ…?
昼間に撒くのは非効率的だよ、と述べてみた今の自分の意見。それなのに何故、と時の彼方ではキャプテンだった恋人に訊いてみたのだけれど…。
「おいおいおい…。忘れちまったのか?」
昼間には意味があったんだぞ、とハーレイは目を丸くした。「なんてこった」と。そして続けてこうも言われた。「そもそも、お前が原因なんだが?」と。
「原因って…。ぼくが?」
前のぼくなの、昼間に公園で水撒きしていた理由って…?
どうして、と今度はこちらが驚く番。前の自分は、いったい何をしたのだろう?
「本当に忘れちまったのか…。仕方ないヤツだな、お前が自分で言い出したくせに」
前のお前が言ったんだぞ。雨も降らない船なんて、とな。
「あ…!」
ホントだ、前のぼくだった…。雨が降らない、って言ったんだっけ…。
思い出した、と戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
シャングリラは白い鯨に改造されて、アルテメシアの雲海の中を居場所に決めた。人類が住んでいる星だったら、いざという時に頼りにもなる。物資の調達が容易だから。
消えない雲海と船そのものを隠すステルス・デバイス、それさえあれば安心な船。
白いシャングリラは名前通りにミュウの楽園、白い鯨の形の箱舟。
船の中だけが世界の全てだけれども、自給自足で生きてゆけるし、何も不自由はしなかった。
(公園だって、船に幾つも…)
ブリッジが見える広い公園と、居住区に鏤められた公園。
どの公園にも人工の風が吹いたものだし、水撒きは何処も夜の間に。昼間に撒くと、仲間たちの憩いの場所が駄目になる。ベンチも何もかも濡れてしまうし、居合わせた仲間も濡れるから。
そういう風に決めたプログラム。散水は人がいない夜間に、自動で。
けれども、前の自分がアルテメシアに降り立った時に…。
(水溜まり…)
雨上がりに降りた、郊外の野原。其処に水溜まりがあった。たまたま土が窪んでいて。
その水溜まりに映った空に気付いて、覗き込んだ。「こんな所に空がある」と。
空を映していた水溜まり。まるで自然の鏡のように。
いつか行きたい地球の空もきっと、こういう風に映るのだろう。雨が降ったら。
(シャングリラには、空なんか無かったから…)
考えたこともなかった景色。水さえあったら、空が地面に映るだなんて。
シャングリラには無いのが空。何処も天井が見えるだけ。せいぜい、公園の天窓くらい。船では一番広い公園、その上に窓はあるけれど…。
(…いつも雲の中で、空なんか…)
見えはしないし、その上、肝心の水溜まり。それさえも船では目にしない。
どの公園も夜の間に散水するから、朝には消えてしまっている水。その雫さえも残さずに。
(船の外なら、空から雨が降って来て…)
こういう水溜まりも出来る。自然に出来た窪みに溜まって、空を映している水溜まり。
シャングリラの中には無い空を。…青く晴れ渡った、雨上がりの空を。
地球でもきっとこう見えるだろう、と暫く見ていた水の中の空。地面の上に映し出された空。
テラフォーミングで人が住めるようになった星でも、水溜まりを覗けば空がある。地球の空とは違っていたって、空は空。
なのに、シャングリラは水溜まりさえも出来ない船。
空が無いどころか、その空を映す水溜まりの一つも無いのが今のシャングリラ。
(これじゃ駄目だ、って…)
そう思ったから、招集した会議。キャプテンと、長老の四人を集めて提案した。シャングリラの公園に雨を降らせることは無理だろうか、と。
「本物の雨が無理だというのは分かっている。…だが、似せることは出来るだろう?」
今の公園の散水システム、あれを改造してやれば。…雨そっくりに水を撒けるような形に。
「出来ないことはないだろうがね…」
今の設備が無駄になる、とヒルマンが答えた。「それに非効率的でもあるね」と。
少ない水でも木々に充分に行き渡るよう、出来ているのが今のシステム。それの代わりに、ただザーザーと降らせるだけでは、水だって無駄になるのだから、と。
「でも…。今は水溜まりも無い船なんだよ、シャングリラは」
「水溜まり…?」
それはいったい、と誰もが不思議そうな顔をしたけれど、「水溜まりだよ」と繰り返した。
「アルテメシアで水溜まりを見たんだ。その中に空が映っていたよ」
雨上がりの青く晴れた空がね。あれが自然な景色なんだよ、水溜まりも無い船と違って。
「この船に自然は無いんじゃがな?」
空も無いわい、とゼルが呆れた風に鼻を鳴らしたけれども、諦めずに続けようとした説得。
「自然は無くても、真似られるよ。公園に雨を降らせたら」
「それを言うなら、雨とセットで雪も降らせようって言うのかい?」
そこまでやるなら賛成だけどね、と笑ったのがブラウ。
「雪が降ったら楽しいけれども、そんな余裕は無い船だよ」とも。
いくらこの船が楽園の名前を持っていたって、雪を降らせる余裕までは…、と。
ブラウにも笑い飛ばされた雨。しかも「雪まで降らせたいのか」と。
雪は考えてもいなかったけれど、魅力的な言葉ではあった。アルテメシアには雪も降るから。
「…雪…。雨が出来るのなら、雪だって…」
降らせられそうな気がするよ。人工の雪があると聞くから、冬になったら…。
雪も降らせてはどうだろう、と更に推し進めた話。シャングリラの公園に雨と雪を、と。
けして不可能ではなさそうだから。検討する価値はありそうなように思えたから。
けれど、ヒルマンは賛成してはくれなかった。
「雪を降らせることは可能だ。雨と同じで、システムを作り替えさえすれば」
ただ、問題がありすぎる。この船は確かに楽園だがね…。
そうした部分にエネルギーを割くより、もっと有効に利用しないと。船の中が全てなのだから。
「…駄目かな?」
雪はともかく、雨の方も…?
公園に降らせられたらいいのに、と言い募っても、ゼルにまで「駄目じゃ!」と否定された。
「余計なエネルギーは回せん、たかが水撒きの話じゃからな」
第一、システムの改造だけでも手間暇がかかる。今のシステムで充分なんじゃ!
さっきブラウも余裕が無いと言ったじゃろうが、と水を向けられたブラウは頷いたけれど。
「でもねえ…。ソルジャーの案にも一理あるねえ、雨が降らないのは本当だから」
そうは言っても、雨を降らせる余裕は無いし…。もちろん雪もね。
だからさ、昼間に水撒きするっていうのはどうだい?
今は夜中にやっているのを、昼間に変えれば公園はずぶ濡れになるわけだろう?
そうすりゃ水溜まりも出来るだろうさ、とブラウが出した代替案。
雨とはかなり違うけれども、散水すれば木々は濡れるし、きっと水溜まりも出来る筈。今よりは自然に近付くだろう、と。気分だけでも雨が降った後を味わえるのでは、と。
「そうか、その手があったんだ…。昼の間に水を撒いたら、水溜まりも…」
ブラウの案がいいと思うよ、ぼくは。…この方法でも駄目かい、ヒルマン?
散水システムを使う時間を変えるだけだし、非効率的でもないと思うんだけどね…?
その方法でやってみたい、とヒルマンの顔を窺った。
本物の雨が駄目だと言うなら、せめて水に濡れた公園だけでも、と考えたから。散水システムで水を撒いても、水溜まりは出来るだろうから。
「夜の間に水を撒くのは、みんなの都合を考えてだけのことだろう?」
濡れた公園より、快適に過ごせる公園の方がいいからね。
でも、それだけでは駄目なんだ。…雨も降らない船のままでは、やっぱり駄目だよ。
昼の間に水撒きしたなら、水溜まりが出来て、気分だけでも…。
雨が降ったように見える筈だ、と畳み掛けたら、ヒルマンの顔に浮かんだ笑み。
「反対する理由は全く無いね。…エネルギーの無駄にならないのなら」
それに子供たちにも、雨上がりの景色を見せてやれるよ。紛い物だがね。
所詮は公園の中だけなのだし、水の降らせ方も本物の雨とは違うのだから。
「それでもいいよ。水溜まりも出来ない船よりは」
雨は無理でも、水溜まりが出来れば充分だ。…その上に空は映らなくても。
昼の間に水を撒こう、と乗り出した膝。「その方法があったじゃないか」と。
「ですが、ソルジャー…。毎日というのは、私は賛成しかねます」
今の散水方法は色々と検討した結果なのですから、とエラが口を挟んだ。効率よく水やりをしてやるのならば、仲間たちの都合を考えて夜。昼間の散水はたまにでいい、と。
「それもそうだね…。公園が濡れていたら、困る仲間もいそうだし…」
月に一回くらいだろうか、今までは全く無かったことを思ったら。
好評だったら、様子を見ながら徐々に回数を増やしていけば…。
「そんな所じゃろうな、皆も慣れてはおらんから」
濡れた公園も気に入った、という声が上がってからでいいじゃろ、増やすのは。
最初は月に一回じゃな、と髭を引っ張ったゼル。
「皆が慣れたら、自然を真似ればいいじゃろう」と。
「では、散水を昼間に実施してみる、ということでよろしいですか?」
キャプテンとしても、反対は全くございません、とハーレイが纏めにかかった会議。
雨を真似るシステムを作る代わりに、昼間に散水。最初は月に一回程度で実施してゆく、と。
そして行われた昼間の散水。あらかじめ皆に予告した上で、時間通りに水が撒かれた。船で一番大きな公園、ブリッジが端に浮かんでいる公園で。
雨の降り方とは違ったけれども、木々も芝生もしっとりと水を含んだ散水。枝や葉先から落ちる水滴、土が見える場所には水溜まり。東屋にもベンチにも、散歩道にも降り注いだ水。
集まっていた船の誰もが、濡れた景色を楽しんだ。「本物の雨が降ったようだ」と。
ヒルマンが連れて来た子供たちだって、走り回って喜んだ。水溜まりを踏んではしゃぐ他にも、木々から滴る水に当たっては「冷たい!」だの、「頭が濡れちゃった」だのと。
(みんな、とっても大喜びで…)
最初は月に一度の予定が、早々に二度目をやることになった。二度目をやったら、次は三度目。
すっかり公園に定着したら、「他の公園でもやって欲しい」という声が出て…。
「昼間の散水、いろんな公園でやったっけね」
みんなが濡れた景色に慣れたら、それが当たり前になっちゃったから。
昼間はいつも乾いてるなんてつまらない、ってことで他の公園でも昼間に水撒き。
「うむ。一斉にやらずに、日をずらしてな」
少しでも多く楽しめる方がいいだろう、と実施する公園を俺が中心になって決めてたんだが…。
面白いもんだな、人間ってヤツは。
暫くの間はそれで良かったが、どうせやるならランダムに、っていう声が増えて来てだな…。
予告も要らん、と言うもんだから、お望み通りにしてやった。
もう文字通りに予告無しで、とハーレイは懐かしそうな顔。
月一回で始めた筈の昼間の散水、それは全部の公園が対象になって、ついには全く予告無し。
散水時間を決めるプログラムもランダムになったものだから、うっかり公園に入っていると…。
「いきなり水撒きが始まっちゃって、びしょ濡れになる仲間、いたっけね」
シールドで防ぐ暇もなくって、頭から水を被っちゃって。
其処でシールドすればいいのに、一度濡れたら、もうそれっきり。降って来ちゃった、って。
「いたなあ、そういうヤツらもな」
子供たちだって、ヒルマンもろとも濡れてたが…。
「早く入りなさい!」と、ヒルマンが東屋に走り込ませたモンだったが…。
しかし、そいつが大人気だった、とハーレイが顔を綻ばせる。「愉快だったな」と。
「俺はブリッジからよく見てたんだが、大人も子供も大はしゃぎだ」
こういうモンだ、と慣れちまってからも、プログラムはランダムのままだったから…。
やっぱり慌てて走って行くんだ、いきなり降られた仲間がな。
正確に言えば、雨じゃないんだから、水を撒かれたわけなんだが…。
「忘れちゃってたよ、あのイベント…」
子供たちは喜んで遊んでたのにね、水溜まりで。…公園に水が撒かれた時は。
「俺もすっかり忘れていたなあ、お前が話を持ち出すまでは」
昼間の水撒きで直ぐに思い出したが、それはキャプテンだったからなんだろう。定着するまでに色々考えたりもしたから、そのせいで覚えていたってわけだ。前の俺の記憶の中できちんと。
とはいえ、アルテメシアを離れた後には、もう無かったしな…。
ジョミーを迎えた時の騒ぎで、既に無くなっちまっていたが…。爆撃であちこち壊れたから。
ナスカに着いて本物の雨に感動してたが、その雨を見るまでに十二年だ。
それだけの間、ずっと宇宙を放浪していて、人類軍に発見されては追われてたしな…。
昼間にやってた水撒きのことも、水溜まりも忘れちまっていたさ。
ナスカに着いた時にはとっくに、俺はそのことを忘れてた。
前のお前が「雨を降らせたい」と言っていたことも、水溜まりを作りたいと言い出したことも。
雨上がりの虹なら、せっせと追い掛けていたんだがなあ…。
虹の橋のたもとには、宝物が埋まっていると聞いたからな、と話すハーレイ。その宝物は、深い眠りに就いてしまったソルジャー・ブルーの魂だった、と前にハーレイから聞いている。
「じゃあ、ナスカでは水溜まりの中を覗いていないの?」
ラベンダー色だったっていうナスカの空が地面にあるのは、見ていないわけ…?
「水溜まりに映っていた空か? そりゃ、気付いてはいたんだろうが…」
俺の足元にあるわけなんだし、目に入ってはいただろう。
しかし、感慨深くは見てないな。前のお前が思ったように、「空がある」と感激しちゃいない。
お前の魂を探しに行くには、水溜まりは余計なものだったんだ。
虹を追い掛けて歩くんだからな、水溜まりがあったら邪魔だろうが。
靴は汚れるし、足は滑るし…、というのが前のハーレイが感じたこと。
赤いナスカで虹がかかる度、ハーレイは虹を追っていた。虹の橋のたもとに辿り着いたら、手に入るという宝物。橋のたもとを掘り起こして。
宝物を見付けたら、眠り続けるソルジャー・ブルーの魂、それが目覚めてくれるのかも、と。
「俺の目当ては虹だったんだし、消えちまう前に追い掛けないと…」
結局、一度も辿り着けないままだったがな。…なにしろ、相手は虹なんだから。
虹を追い掛けて歩く間は、水溜まりは俺の邪魔をするもので…。
虹の橋まで辿り着けなくて帰る時には、俺はガッカリしてたから…。
水溜まりをわざわざ覗きはしないし、跨ぐか、避けて通るかだよな。…俺の前にあったら。
だから知らん、と言われたナスカの水溜まりの空。
きっとあっただろう、ラベンダー色をした空の欠片たち。雨上がりの赤いナスカの地面に。
「そうだよね…。前のハーレイ、水溜まりどころじゃなかったよね…」
ぼくがちっとも目覚めないから、虹を追い掛けて宝物探し。…前のぼくの魂。
そっちに必死になっていたなら、水溜まりの中まで楽しめないよね。水溜まりに映ったナスカの空に見惚れているより、避ける方。…その水溜まりを。
ごめんね、眠っちゃっていて…。
ずっとハーレイのことを放りっ放しで、十五年間も眠っちゃっていたなんて…。
「かまわんさ。…お前は生きててくれたんだから」
眠ったままでも、目覚めなくても、お前が生きていてくれただけで充分だった。
青の間に行けばお前がいたしな、深く眠っていただけで。
このまま地球まで行けそうだよな、と夢を見たこともあったんだ。…眠ったままでも。
もしも地球まで辿り着けたら、どうやってお前を起こしたもんか、って考えたりもな。
「ほら、着いたぞ」って起こしてやらんと駄目だから。
俺は幸せな夢を見てたし、それでいい。水溜まりに映る空なんかよりも、幸せな夢。
お前と一緒に地球に着いたら、という夢をまた見られたからな。
ところで…、とハーレイに向けられた視線。
ハーレイの話が話だっただけに、メギドへ飛んでしまったことかと思ったけれど。あんなに虹を追い掛けたのに、無駄骨だったと言われるのかと、内心ギクリとしたのだけれど。
「…お前、どうして水撒きの話になったんだ?」
シャングリラの昼間の水撒きのこと、とハーレイはまるで違う方へと話を向けた。そういう話になった理由は、今日の午後に降ってた通り雨か、と。
それもハーレイの優しさだと分かる。前のハーレイの深い悲しみを、あえて口にはしないこと。
だから自分も、それに応えることにした。ナスカで起こった悲劇は無かったかのように。
「…ううん、降ってた雨じゃなくって、帰り道に見付けた水溜まり」
バス停から家まで歩く途中で見付けたんだよ、道路にあった水溜まりをね。
それで覗いたら、水溜まりの中に頭の上の空が映ってて…。
この空は地球の空だよね、って水溜まりを覗き込んじゃった。地面にも地球の空が一杯。
水溜まりがあったら空が映るし、小さな水の雫にだって。
こういう景色は地球だから見られるんだよね、って考えていたら思い出したんだよ。子供たちがよく遊んだりしてた、シャングリラの公園の水溜まりのことを。
それで水溜まりが出来た原因の方に頭が行っちゃった、とハーレイにきちんと説明したら。
「なるほどな…。地面にも地球の空が一杯だったか、水溜まりに映るもんだから」
そりゃ良かったなあ、嬉しかっただろう?
頭の上には地球の空があって、足の下にも地球の空が幾つもあるわけだしな。
「そうだよ、空の欠片が一杯。感動しちゃった」
水溜まりを端から覗きながら帰って、家の庭でも見ていたよ。…水溜まりは無かったんだけど。
ぼくの家の庭、芝生だから…。水はけが良すぎて、水溜まりは無し。
だからね、水の雫を覗いたわけ。
庭でハーレイと使うテーブルと椅子に、水の雫が幾つもあって…。
それを覗いたら、庭の景色と一緒に空も映ってた。小さいけど、ちゃんと地球の空がね。
次はハーレイと一緒に覗きたいな、と持ちかけた。
水の雫を覗くだけなら、家の庭でも出来るから。雨上がりなら、いつでも出来ることだから。
「いいでしょ、庭に出て覗こうよ」
雨が止んでから直ぐの時なら、水溜まりだって何処かにありそう。花壇とかに。
覗いたら地球の空が見えるよ、ハーレイと一緒に見てみたいな。地面に落ちてる空の欠片を。
この次に雨が降った時に…、と頼んだら。
「水溜まりもいいが、もっとデカいスケールでいこうじゃないか」
せっかく地球の空が映るのを見るんだからなあ、どうせだったら逆さ富士とか。
そういうのをな、と言われたけれども、掴めない意味。
「逆さ富士?」
それって何なの、どんなものなの?
水溜まりよりも大きいってことは分かるけれども、逆さ富士なんて知らないよ…?
「知らんだろうなあ、今は無いから。…富士山って山は知っているだろ?」
昔の日本で一番高くて、綺麗だと言われていた山だ。
その富士山は、今は何処にも無いがだな…。まだ富士山があった頃に、だ…。
人気だったのが逆さ富士だ、とハーレイが教えてくれたこと。
富士山の麓にあった湖、其処に逆さに映る富士山。その風景が逆さ富士。
それが美しかったというから、見に出掛けようという話。富士山はもう無いのだけれども、他の湖や山があるから。湖に映る姿が美しい山は、今の時代もあちこちに。
そういう湖がハーレイのお勧め。地球の空も景色もそっくりそのまま、映し出す湖面。
「いいね、大きな水溜まりだね」
水溜まりだなんて名前で呼んだら、湖が怒りそうだけど…。だけど、大きな水溜まり。
うんと大きな空が映って、地球の景色も映るんだね?
「そういうことだな、同じ水溜まりならデカいのがいい」
いつか二人で見に行こう。お前が大きくなったら旅行だ、そういう景色が見られる場所へ。
シャングリラの水溜まりとはスケールが違うぞ、相手は湖なんだから。
あのシャングリラよりも遥かにデカい湖、地球には幾つもあるんだからな。
もちろん普通の水溜まりだって二人で見よう、とハーレイは約束してくれた。
この次に雨が降って来た時、一緒にいる間に止んだなら。晴れて青空が覗いたら。
まだ水溜まりがありそうな内に庭に出てみて、地面の上の小さな空の欠片を眺める。水溜まりを二人で覗き込んで。
「地面の上にも地球の空があるね」と、「そうだな」と頷き合ったりして。
ハーレイと二人で青い地球までやって来たから、それが見られる。地面の上の空の欠片が。
もっと大きな水溜まりみたいな、湖にだって出掛けてゆける。
いつか自分が大きくなったら、水溜まりよりを覗くよりもずっと素敵な、空を映し出す湖へ。
(…逆さ富士、今だと、どんな景色になるのかな…?)
湖に映る景色の方も、それを映し出す湖も。…ハーレイのお勧め、今の時代の逆さ富士。
ハーレイと二人で暮らし始めたら、地球の大きな湖に映る空を、景色を眺めにゆこう。
この星は水の星だから。
地面の上にも、空を映す水がある星だから。
前の自分が焦がれ続けた、青い地球ならではの水溜まり。
湖という名のとても大きな水溜まりにだって、地球の空が綺麗に映るのだから…。
水溜まり・了
※ブルーが気付いた、水溜まりの中に映った空。シャングリラでは見られなかった光景。
船にあったのは、ただの水溜まりだけ。けれど喜んだ仲間たち。今なら水溜まりどころか湖。
(あっ…!)
嘘、とブルーが崩したバランス。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で。
不意に、もつれてしまった足。自分で自分の足を引っ掛けたか、それとも歩幅が狂ったものか。止める暇も無くて、気付けば転んでいた道路。それは見事に、ペシャンと、ドサリと。
(転んじゃった…)
自分の目と同じ高さに道路。向こうの方へと伸びているのが良く分かる。両脇に並ぶ家だって。大慌てで手をついて起き上がったけれど、立ち上がって膝の埃を払ったけれど。
(こんな所で…)
転ぶなんて、と文字通り顔から火が出そう。多分、真っ赤に染まっている顔。もしかしたら耳の先っぽまで。誰が見たって「何か失敗したんだな」と分かるくらいに。
余所見しながら歩いたせい。生垣の向こうに見えている庭、何があるのかとキョロキョロして。花壇の花やら、駆け回っているペットたち。そういったものを探していて。
お蔭で転んで、しかも道路には何も無い。足を引っ掛けそうな段差も、石ころだって。
道路に何か落ちていたなら、それのせいだと言えるのに。自分のせいでも、知らないふり。
けれど出来ない、その言い訳。道路には何も無いのだから。
(…転んだの、誰も見ていないよね?)
少し鼓動が落ち着いて来たら、気になったものは目撃者。何処かの庭で見ていた人とか、窓から偶然、見た人だとか。
(…誰もいない筈…)
庭にも窓にも見えない人影。サッと引っ込んだりもしなかったから、きっと目撃者はいない。
転んだ所を見られなくて良かった、と平気なふりで家へと歩き始めたけれど。転ぶ前と同じに、庭や生垣を眺めながらの道なのだけれど。
いつもより少し速くなる足。
現場から早く離れたくて。とても恥ずかしい思いをした場所、其処を急いで立ち去りたくて。
家に帰り着いて、制服を脱いで、おやつを食べにダイニングに行っても、まだ頭から離れない。道路で転んでしまったこと。何も無いのに、ペッシャンと。
(格好悪い…)
あれじゃ子供、と消えてくれない恥ずかしさ。学校の制服を着ていただけに、なお恥ずかしい。下の学校の子供だったら、制服は着ていないから。制服だけで、今の学校だと分かるから。
(…下の学校なら、まだマシなのに…)
あそこで同じに転んでいたって、自分よりは子供。誰が見たって、下の学校に通っている子。
ところが自分は、そうはいかない。制服が「下の学校の子じゃないですよ」と知らせるから。
(転ぶなんて、ホントにカッコ悪すぎ…)
幸い怪我はしなかったから、母にはなんとかバレずに済んだ。制服のズボンが守ってくれた膝。ついてしまった手も、擦り剥いたりはしなかった。
転んだはずみに怪我をしていたら、必要になるのが薬箱。コッソリ手当てをしようとしたって、母に見付かって訊かれてしまう。「どうしたの?」と。
(雨の日だったら、まだマシなのに…)
制服は濡れて汚れるけれども、「滑った」と言い訳出来るから。
本当は余所見で転んでいたって、雨の日の道路は滑りやすいもの。母はもちろん、誰かが現場を目撃したって、「滑ったんだな」と思ってくれる。
何も無いのに、転んだなどとは気付かずに。「可哀相に」と同情しても貰える筈。
(でも、誰も見ていなかったんだし…)
制服も汚れはしなかったのだし、もうバレない。帰り道で転んでいたことは。母にも、ご近所の人たちにも。
目撃者はゼロで、薬箱のお世話にもならなかったから。
(良かったよね…)
転んでたのがバレなくて、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
何も無い所で転ぶだなんて、もう本当に子供のよう。それも自分より遥かに小さい、下の学校にさえ行っていない子。幼稚園児とか、もっと幼い子とか。
(小さい頃ならいいんだけれど…)
道で見事に転んでいたって、大勢の人が現場を目撃していたとしたって。
幼かった頃なら、よく転んでは泣いていた。家の庭でも、さっきのような道路でも。母と一緒に遊びに出掛けた公園でだって。
今よりもずっと小さな身体は、バランスを取るのが下手くそなもの。何かのはずみに、コロンと転がる道路や芝生。そうなったらもう、それだけでビックリするのが子供。
おまけに痛いし、ただワンワンと泣くしかない。ほんのちょっぴり、膝が赤くなっただけの怪我でも。血が滲むだけで、流れ出してはいなくても。
転んでしまって、立ち上がれもしないで、その場で「痛いよ」と泣きじゃくっていたら…。
(いろんな人が…)
小さかった自分を助けてくれた。母の他にも、通り掛かった人たちが。
「大丈夫?」とキャンディーをくれた人だって。「痛いのが消えるお薬をどうぞ」と。
擦り剥いてしまった膝や、赤くなった手。怪我をしていた所には…。
(子供絆創膏…)
可愛い絵が描かれた、子供の目には素敵な絆創膏。それをバッグやポケットから出して、傷口に貼ってくれた人もいた。「ちょっとしみるけど…」と消毒用の布とかで埃を拭ってくれた後で。
ああいう用意をしていた人たち、自分の子供用でなければ、お孫さん用だったのだろう。小さな子供が転んだ時には、直ぐに必要なものだから。
(ママだって、持っていたんだけど…)
不思議なことに、知らない誰かが手当てしてくれたら、遥かに良く効くような気がした。魔法をかけて貰えたようで。
「痛いのが消えるお薬だから」と、貰ったキャンディーだって、そう。
同じキャンディーを母に貰うより、ずっと素敵で良く効く薬。子供絆創膏の絵だって、頼もしく思えて嬉しかった。まだズキズキと痛んでいても、涙がポロポロ零れていても。
魔法みたい、と子供心に思ったこと。貰ったキャンディーや、貼って貰った子供絆創膏。
きっと心が弾んでいたから、効くように思ったのだろう。知らない人たちが「大丈夫?」と心配してくれて、優しく慰めてくれたから。…泣きじゃくっているだけのチビの子供を。
(今のぼくが道で転んでいたって…)
キャンディーなんかは貰えない。可愛らしい子供絆創膏も。
今の学校の制服を着ているような大きな子供は、どちらも貰えはしなくって…。
(大丈夫かい、って…)
生垣越しに顔を出すだろう、現場を見ていたご近所の御主人。
後はせいぜい、薬箱くらい。「傷の手当てをして行かないと」と家に入れて貰って、擦り剥いた膝や手とかの手当て。傷薬と普通の絆創膏で。
(運が良かったら…)
おやつも出るかもしれないけれど。「食べて行くかい?」と、奥さんの自慢のケーキとか。
それもいいよね、と想像を繰り広げていた、転んだ後の自分の姿。キャンディーや子供絆創膏の代わりに、薬箱と、運が良ければおやつ。
ちょっぴり素敵な光景だけれど、そういう夢を描いてしまうのだから…。
(ぼくって、子供…)
転んだのが恥ずかしくて逃げ出したけれど、かまって欲しくもあるらしい。
幼かった頃はそうだったように、もしも誰かが見ていたならば。自分を心配してくれたなら。
(顔は恥ずかしくて真っ赤でも…)
薬箱を断って帰りはしないで、きっと入ってしまうだろう家。御主人の後ろにくっついて。
傷薬と普通の絆創膏でも、傷の手当てをして貰えたら、とても嬉しい。その後でおやつを出して貰ったなら、すっかり御機嫌。
(美味しいね、ってニコニコ笑って…)
自分が転んだことも忘れて、御主人や奥さんと話していそう。ペットを飼っている家だったら、一緒に遊んだりもして。
そうなりそう、と思った今の自分が転んだ後。もう幼いとは言えないけれども、中身はそっくりそのまま子供。キャンディーがおやつに、子供絆創膏が普通の絆創膏に変わるだけ。期待している掛けられる声、「大丈夫かい?」と。
転んだことは、とても恥ずかしいのに。幼かった頃の自分みたいに、泣きじゃくったりはしない筈なのに。
(小さい頃から変わってないよ…)
大きくなったのは身体だけ。中身は幼かった頃と同じで、転んだらかまって欲しがる子供。薬箱から出て来るだろう絆創膏と傷薬。それで満足、おやつがあったら、もっと嬉しい大きな子供。
こんな調子だから、ハーレイに「チビ」と言われるのだろう。
キスだって駄目で子供扱い、「前のお前と同じ背丈に育つまでは」とお預けのキス。
そうなるのも仕方ないのかも、と自分の姿を顧みてみる。今もやっぱり、転んだ時にはかまって欲しい子供らしいから。
(うーん…)
転んだ現場に居合わせたのがハーレイだったら、どうなるのだろう?
もしも二人で、あそこを並んで歩いていたら。ハーレイの目の前で、道路に転んでしまったら。
(逃げようだなんて、思わなくって…)
急いで立ち上がって逃げる代わりに、助け起こして貰えることを期待していそう。
「大丈夫か?」と差し出される手。とても大きな褐色の手が、こちらに伸ばされることを。その手でしっかり抱え起こして、「怪我してないか?」と訊かれることを。
ハーレイがそう尋ねてくれたら、自分はきっと…。
(痛くないのに、痛いって騒いで…)
抱き上げて運んで貰おうとするか、背中に背負って欲しがるか。
足が痛くて歩けないから、「家まで連れて帰って」と。
逞しい腕と頑丈な身体を持った恋人、好きでたまらないハーレイに世話をして欲しくて。
困った顔をするだろうけれど、断ったりはしない筈の恋人。「自分で歩け」と突き放すことは、きっとハーレイはしないから…。
(抱っこか、おんぶで家まで運んで貰って…)
帰り着いたら、傷の手当てをせがむのだろう。ハーレイが「見せてみろ」と言わなくても。傷の手当てをしなければ、と薬箱を持って来てくれるように、母に頼みに行かなくても。
(ちょっぴり赤くなってるだけでも…)
擦り剥いてはいなくて打ち身だけでも、「うんと痛い」と騒ぎそうな自分。
ハーレイに甘えてみたいから。傷薬も絆創膏も要らない傷でも、優しく手当てして欲しいから。
(そんなの、出来っこないんだけどね…)
二人で外を歩きはしないし、もしも散歩に出掛けたとしても、帰ったら家には母がいる筈。休日だったら父だっているし、二人とも直ぐに気付いてしまう。
(門扉のトコで、ハーレイ、チャイムを鳴らすだろうし…)
歩けない自分を抱いているとか、背負っているなら、門扉を開けてくれる人が必要。怪我をした自分は開けられないから、母か父。それを呼ぼうと鳴らされるチャイム。
父と母と、どちらが出て来たにしても、一人息子はハーレイに運ばれて帰宅。抱っこか、背中に背負われているか、足が痛いのは一目瞭然。
怪我となったら、母が手当てをするだろう。ハーレイに任せておきはしないで。
その母が「大変!」と薬箱を持って来たならば…。
(叱られちゃうよ…)
痛いと訴えている足を調べて、「怪我なんかしていないでしょ」と。
少し擦り剥いていたとしたって、「自分の足で歩ける筈よ」と、ペタリと貼られる絆創膏。
ちゃんと自分の足で歩けるのに、ハーレイに迷惑をかけたこと。それを叱って、お仕置きに…。
(絆創膏を貼った上から、ポンって…)
軽く叩くのだろう母。「このくらい、我慢しなさい」と。
幼い子供だったらともかく、十四歳になっている子供。「甘えん坊って年じゃないわ」と、母に叱られて、ハーレイに謝るように言われる。「我儘を言ってごめんなさい」と。
そんな感じ、と思うけれども、出来るわけがない夢のような話。
ハーレイと並んで外を歩いて、助け起こして貰うこと。今は二人で出掛けはしないし、転ぶことさえ出来ないから。ハーレイの前で道路にペシャンと転ぶことなど、不可能だから。
(ぼくが大きくなってからだと…)
一緒に歩くことは出来るけれども、転んだら今より恥ずかしい。
前の自分と同じ背丈に育っているなら、何処から見たって立派な大人。十八歳でも、子供だとは言えない年頃の筈。そんなに大きく育った大人は、まず転ばない。
(…ホントに足でも滑らせないと…)
転ばないのが一人前の大人で、転んだとしてもサッと立ち上がるもの。転んだ拍子に足を捻って動けないとか、やむを得ない事情が無い限りは。
(でも…)
ハーレイは助けてくれるだろうか、もしも自分が転んだら。二人並んで歩く途中で、ペシャンと転んでしまったなら。
「お前、子供か?」と笑いながらでも。「転ぶような物は落ちてないぞ?」と呆れ顔でも、あの大きな手を差し出して。無様に道路に伸びた自分に、「ほら、掴まれ」と。
(ハーレイ、助けてくれるのかな…?)
どうなのだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが転んだら、助けてくれる?」
「はあ?」
転ぶって…。何処で転ぶと言うんだ、体育の時間のグラウンドか?
でなきゃ廊下か、校舎の中とか、渡り廊下とか。…そういう所で、転んだお前を助けろと?
他にも誰かいそうだがな、とハーレイは怪訝そうな顔。「体育の時間なら、先生がいるし…」と首を捻って、「廊下にも友達、誰かいないか?」と。
「俺が助けに行くよりも前に、そっちを頼るべきだと思うが」という意見。「断然、早い」と。
「学校だったら、そうなんだけど…」
ぼくもハーレイが助けに来てくれるまで、待っていたりはしないけど…。
そうじゃなくって、ぼくが転ぶのは…。
「えっとね…」と、今日の帰りに転んだことを打ち明けた。恥ずかしかったことも話して、幼い頃の思い出も。キャンディーに、子供絆創膏。
「今のぼくなら、薬箱が出て来るんだろうけど…。今日みたいに道で転んでたらね」
家で手当てをして行きなさい、って家の中に入れて貰えると思う。もしも誰かが見ていたら。
怪我の手当てが済んだ後には、運が良ければ、おやつも出そう。
そんなことまで考えちゃうぼくは、まだまだ子供なんだけど…。ハーレイが言う通りに、本当にチビ。まだハーレイと一緒に歩けもしないけど…。
いつかデートに出掛けた時にね、ぼくが転んでいたらどうする…?
転んじゃったら助けてくれる、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「ぼくを助けてくれるの?」と。
「そりゃまあ、なあ…?」
助けないわけがないだろう。俺の大事な恋人なんだし、もう嫁さんかもしれないな。
転んだままで放っておきはしないし、俺は大急ぎで助け起こすが…?
「ホント?」
ハーレイ、ちゃんと助けてくれるの、転んでいたら…?
「自分で起きろよ」って言ったりしないで、ぼくを助けて立たせてくれるの…?
「もちろんだ。前も助けてやったじゃないか」
お前が転んじまった時には、きちんとな。お前を放って行ったりはせずに。
「え…?」
転んだって…。それに助けたって、それ、いつの話…?
知らないよ、と驚いて目を丸くした。ハーレイの前で転んだことは無い筈だから。倒れたことはあったけれども、転ぶのとはまるで違うから。
「忘れちまったか?」
覚えてないのか、一番最初に転んでた時は、お前、今と同じでチビだったぞ。
今のお前とそっくり同じに、痩せっぽちでチビの子供だったが…?
「チビ…?」
それって、前のぼくのこと…?
前のぼく、何処かで転んでいたかな、ハーレイと一緒にいた時に…?
何処だったろう、と考えてみても分からない。チビだったのなら、アルタミラから脱出した頃。
船の通路で転んでいたのか、前のハーレイがいた厨房の床か。
(…厨房の床なら、いつもピカピカ…)
食料を扱う場所だから、と毎日、磨き上げられた床。夕食の後の掃除はもちろん、他の時間にも手が空いた時は、誰かがせっせと磨いていた。野菜くずなどで汚れないように、と。
あそこだったら、滑って転んだこともあるかも、と厨房の床を思い浮かべていたら…。
「お前、アルタミラで転んでいただろうが」
俺と出会って直ぐの頃だな、最初はポカンと一人で座り込んでたが…。
あれは転んだとは言わないだろうし、助け起こした内には入らん。俺が立たせてやったがな。
その後だ、後。
俺と一緒に走ったろうが、というハーレイの言葉で蘇った記憶。
「あっ…!」
思い出したよ、前のハーレイと一緒に走ってたんだっけ…。何度も転んじゃったけど。
他の仲間たちが閉じ込められたシェルター、全部、開けなきゃ駄目だったから。
でないと、みんな死んじゃうもんね、と手繰った前の自分の記憶。ハーレイと走った炎の地獄。
メギドの炎で滅びようとしていたアルタミラ。
空まで真っ赤に染め上げた炎、激しい地震で揺れ動く地面。その上を二人で走っていた。仲間を助け出すために。…幾つものシェルターに閉じ込められて、死を待つだけのミュウの仲間を。
二人で開けて回ったシェルター。鍵を開けたり、扉が歪んで開かない時には壊したりして。
そうやってあちこち走る間に、瓦礫に足を取られて転んだ。
(何処へ行っても、瓦礫だらけで…)
道と呼べそうな場所は殆ど無かった、あの星の上。
辛うじて道路が残っていたって、地震で入った無数の亀裂。段差だらけで、波打った路面。
そんな所を走ったのだから、転ばない方がどうかしている。歩幅が大きいハーレイはともかく、チビだった前の自分の方は。
瓦礫をヒョイと跨げはしなくて、段差も楽に越えては行けない。跨いだつもりでも、引っ掛かる足。越えたつもりでも、越えられなかった段差。
いったい何度転んだことか、と蘇って来たアルタミラの記憶。炎の海を走っていた時。
ドサリと地面に投げ出される度、ハーレイが助け起こしてくれた。「大丈夫か?」と、手を差し出して。がっしりとしていた大きな手。
(あの頃のハーレイは、今より若かったんだけど…)
とうに大人になっていたから、手の大きさは今と変わらない。自分の方も今と同じにチビ。心も身体も成長を止めて、十四歳の頃のままだったから。
(手の大きさ、今と同じなんだよ)
アルタミラで初めて出会った時の、ハーレイの手も、自分の手も。
今の自分の小さな右手を、よく温めてくれるハーレイ。前の生の最後にメギドで凍えた、悲しい記憶を秘めた右手を。そっと、温もりを移すために。
その度に思う、ハーレイの手の温かさと、それに逞しさ。とても頼もしくて、大きな手。
(あれと同じ手だったっけ…)
前の自分が助けて貰った、ハーレイの手も。
アルタミラで何度も転んだけれども、その度に自分を起こしてくれた手。瓦礫に覆われた地面の高さが、目の高さと同じになる度に。転んで地面に身体ごと叩き付けられる度に。
ハーレイはチビだった前の自分を、何度も助け起こしてくれた。手を差し出したり、逞しい腕でグイと抱えて抱き起こしたり。
助けられる度に、訊かれたこと。まだ走れるかと、痛くないかと。
燃える地面は、多分、熱かったから。大気までが炎に炙られて燃えて、息をするのも苦しかった筈。他の仲間を助けるのに夢中で、意識してなどいなかったけれど。
だから、前のハーレイは尋ねてくれたのだろう。前の自分が転んでしまって、助け起こす度に。
走る力は残っているかと、何処か怪我して痛くはないか、と。
(前のぼく、ハーレイに「大丈夫」って…)
そう答えては、二人で走り続けた。燃える星の上を、揺れる地面を。
また転んでも、起こして貰って。
瓦礫に躓いて放り出されても、段差に足を取られても。
身体ごと地面に叩き付けられて、目に入るものは瓦礫や波打つ道路だけになってしまっても。
何度も見えなくなった空。転べば、空は見えないから。忌まわしい炎の色の空さえ。
行く手の景色も消えてしまって、見えるものは地表を覆う物だけ。瓦礫と、それを舐める炎と、深い亀裂や幾つもの段差。
たったそれだけ、他には何も見えたりはしない。目の高さが地面と同じになったら、滅びてゆく星の地面に叩き付けられたなら。
(転んじゃったら、本当に地獄…)
その上を走っている時よりもずっと、無残に見えたアルタミラ。瓦礫と炎と滅びゆく地面、その他には何も無いのだから。空も行く手も、目に入っては来ないのだから。
なんて酷い、と思った景色。この星はもう終わりなのだと、滅びるのだと思い知らされた地面。
それが視界を覆い尽くす度に、転んだのだと嫌でも分かった。
ドサリと地面に突っ伏した自分、見えなくなった目指していた場所。その上にあるだろう空も。
(起きなくちゃ、って…)
早く立ち上がって行かなければ、と思った、仲間たちが閉じ込められたシェルター。
こうして自分が転んでいる間も、星は滅びに向かっているから。絶え間ない地震でシェルターが壊れて、仲間たちの命が奪われるから。
立たなければ、と自分に命じた。「転んでいる暇は無いんだから」と。起きて、立ち上がれと。
けれど、そうして立ち上がる前に…。
(ぼくが自分で起き上がる前に…)
ハーレイの手が目の前にあった。前のハーレイの大きな手が。
自分よりも前を、先を走っていた筈なのに、「ほら」と「掴まれ」と。
いつの間に気付いて戻って来たのか、必ずあったハーレイの手。
前の自分が、地面に叩き付けられる度に。転んでしまって、視界が地獄に覆われる度に。
(ハーレイの手に掴まって、引っ張り起こして貰って…)
またハーレイと走り続けた。
時には、抱え起こされて。「大丈夫か?」と、「痛くないか」と尋ねて貰って。
あそこだった、と鮮やかに戻って来た記憶。
前のハーレイと二人で走って、何度も転んだアルタミラ。炎の地獄で、足を取られて。
「…ハーレイ、起こしてくれていたんだ…」
ぼくがアルタミラで転んじゃったら、戻って来て。…ぼくよりも前を走ってたのに。
何度転んでも、いつもハーレイが助け起こしてくれたよ。
ぼくが自分で立ち上がる前に、ちゃんとハーレイの手があったから…。
「思い出したか?」
前のお前とは、会った時から、不思議なほどに息が合ったモンだから…。
お前が転んだら分かるんだよなあ、俺の背中に目玉はついていなかったんだが。
何か変だぞ、と振り返る度に、お前が転んじまってた。俺の後ろで、地面に叩き付けられて。
その度に走って戻っていたんだ、とても放っておけないからな。
いくらサイオンが強いと言っても、お前、身体はチビなんだから。…それに中身も。
転んだお前を助けていたのは、あれが最初のヤツでだな…。
お前がデカくなった後にも…。
やっぱりお前は転んじまっていたんだが、と指摘された。
もう痩せっぽちのチビではなくて、ソルジャーと呼ばれ始めてからも。キャプテンになっていた前のハーレイを従えての視察の途中で、それは見事に。
「ソルジャーの威厳も何も、あったもんではなかったってな」と笑うハーレイ。
転ぶ度にマントの下敷きだったと、「ソルジャーのマント包みだ」と。
「パイ皮包みなら料理なんだが、マント包みは料理じゃないな」などと、可笑しそうに。
通路で転んだソルジャーの身体は、頭と足の先っぽ以外は、マントにすっぽり包まれていたと。
ハーレイ曰く、「ソルジャーのマント包み」なるもの。
背中に翻っている筈のマントに包まれ、シャングリラの通路に転がるソルジャー。紫のマントが広がる下には、前の自分の身体が入っていたわけで…。
(そうだっけ…!)
ソルジャーのぼくでも転んだんだよ、と「マント包み」で戻った記憶。
今のハーレイが言う「ソルジャーのマント包み」となったら、まるで料理のようだけど。何かのパイ皮包みみたいに、前の自分がお皿に載っていそうだけれど。
(…ハーレイ、今も料理が得意だから…)
そんなのを思い付くんだよね、と思う「ソルジャーのマント包み」。前の自分がシャングリラの通路で転んだ時には、マント包みが出来ていた。頭と足の先っぽ以外は、全部マントの下敷きで。
(ソルジャーのマント包みって…)
それが通路で出来た理由は今日と同じで、原因は余所見。
ハーレイと視察に行くと言っても、目的地が遠い時もある。其処に着くまでに通る通路で、ふと目を引いた色々なもの。「あれは何だろう?」といった具合に、逸れていった視線。
行く手を真っ直ぐ見詰める代わりに、あらぬ方へと向けられた瞳。
そういった時に、崩したバランス。歩幅が僅かに狂ったはずみや、不意にもつれてしまった足。
(余所見してたら、やっちゃうんだよ…)
今の自分よりも大きく育った、ソルジャー・ブルーだった自分でも。
白と銀の上着に紫のマント、そういう洒落た衣装に身体を包んでいても。
(前のぼくなら、転んじゃっても…)
本当はサイオンで支えられた身体。
通路に無様に倒れ込む前に、紫のマントの下敷きになって「マント包み」が出来上がる前に。
それは確かに出来たのだけれど、ハーレイの手が欲しかった。
「大丈夫ですか?」と差し出される手。
転んでしまった前の自分を、しっかりと助け起こしてくれる手。
だから使わなかったサイオン。
このままだったら、転んでしまうと分かっていても。
シャングリラの通路と目の高さとが、じきに同じになってしまうと気が付いていても。
「マント包み、忘れちゃいないだろうな?」と、鳶色の瞳が見据えるから。
「前のお前の得意技でだ、俺は何度も見ていたんだが…?」とも言われたから。
「…覚えてるってば、マント包み…」
そういう名前はついてなくって、ぼくが転んでただけなんだけど…。
マントの下敷きになってしまって、頭と足の先っぽだけしか出てなかったことは本当だけど。
でも、ソルジャーのマント包みだなんて…。
前のぼく、お料理みたいじゃない、と唇を少し尖らせた。「それ、酷くない?」と。
「酷いってことなら、どっちなんだか…。俺か、お前か」
チビのお前の方じゃなくって、マント包みになってた方の、前のお前が問題だってな。
お前、いつでも転んでマント包みになっては、前の俺に助け起こさせるんだ。
周りに誰かいた時だったら、絶対、転びはしなかったがな。
転んじまう前にサイオンでヒョイと支えて、気付かせさえもしなかった。…転びかけたことを。
しかし、俺しかいない時には、マント包みになっちまう。
「起こしてくれ」と言わんばかりに、ものの見事に転んじまって。
酷いというのはアレのことだろ、お前、本当は転ばずにいられたんだから。
俺の他にも誰かいればな…、と軽く睨んで来るハーレイの瞳。「お前も充分、酷いだろう」と。
「だって、それ…。恥ずかしいじゃない!」
仲間たちの前で転ぶだなんて、恥ずかしすぎるよ。…前のぼく、子供じゃないんだから。
今のぼくでも、今日の帰りに転んだ時には、とても恥ずかしかったんだから…!
ソルジャーだった時に転ぶなんて、と反論した。他の仲間が見ている前では、転べない。
「…俺の前ならいいと言うのか?」
転んじまおうが、マント包みになっちまおうが。
今の俺が思い出してみたって、あの格好は無様だとしか思えないんだが…。
「ソルジャーのマント包み」と呼んだら美味そうなんだが、そいつをプラスして考えたって。
マントの中身は前のお前で、前の俺には御馳走だったが、それでもなあ…。
ソルジャーだった方のお前は、俺の御馳走ではないんだから。
恋人同士だったことさえ秘密だ、とハーレイが眉間に寄せている皺。
「そのソルジャーがマント包みになっていたって、前の俺は食えやしなかった」と。
「いいか、よくよく考えてみろよ? …前のお前と、俺とのこと」
俺たちの仲は秘密だったし、ソルジャーのお前の前に立ったら、俺はあくまでキャプテンだ。
いくらお前に恋していたって、それを顔には出せないってな。
なのに遠慮なくマント包みになっていたのが、前のお前というわけで…。
俺に助けろと言っていたんだ、声や思念にもしないでな。…黙ってマント包みになって。
自分じゃ決して起きないと来た、とハーレイは苦情を言うのだけれど。
「だって、ハーレイが側にいたんだよ?」
前のハーレイは、ぼくの特別。恋人同士になる前からでも、ずっと特別。
起こして欲しくもなるじゃない。他の仲間がいないんだったら、転んでしまって。
ぼくが転んだままでいたなら、ハーレイ、助けてくれるんだから。
いつも起こしてくれていたでしょ、と微笑んだ。「ソルジャーのぼくが転んだ時も」と。
「特別なあ…。分かっちゃいたがな、そうだってことは」
前のお前がマント包みになっちまうのは、俺の前だけで、俺に甘えてただけなんだ、と。
今から思えば、子供みたいな我儘なんだが…。
俺に助け起こして貰うためだけに、転んじまってマント包みだなんて。
前のお前は、充分に大人だったんだが…、とハーレイがフウとついた溜息。
「チビのお前と変わらないな」と、「転んだら助けてくれるのか、と訊くお前とな」と。
「…そっか、前のぼくでもおんなじ…」
ハーレイに助けて欲しくて転んで、起こしてくれるの、待っていたっけ…。
前のぼく、マント包みになってた頃には、チビの子供じゃなかったのに。
ちゃんと育ったソルジャーのぼくで、マントまで着けていたのにね…。
それでもマント包みなんだ、と今の自分と重ねてみた。前の自分でもその有様なら、今の自分が転んだ後の夢を描くのも仕方ない。薬箱はともかく、おやつを御馳走になれたらいいな、と。
「前のお前も、俺の前ではデカい子供だ。…ソルジャーでもな」
俺は面倒の見甲斐があったが、他のヤツらには、マント包みは見せられん。
無様なソルジャーの姿もそうだし、俺に甘えてた姿もな。
だから今度も安心して転べ、と言って貰えた。「ちゃんと面倒見てやるから」と。
「お前、もうサイオンでは支えられないしな、転びそうになっても」
不器用すぎて出来やしないだろ、そんな芸当。…今のお前のサイオンでは無理だ。
つまり、何処ででも転ぶしかないが…。
転んじまう時には、街でデートの真っ最中でも、お前は転んじまうんだが。
とはいえ、転んでも、俺がいるんだし…。何も心配要らないってな。
マントが無いから、マント包みは出来ないんだが…、と今度も助けてくれるらしいハーレイ。
けれど、街でデートの真っ最中だと、周りを歩いていそうな人たち。
幼かった頃ならいいのだけれども、前の自分とそっくり同じに育った自分が転ぶとなると…。
「ハーレイ、助け起こしてくれるのは、とても嬉しいんだけど…」
街でデートの最中だなんて、そんな時には転びたくないよ…!
きっと周りには人が一杯だし、転んじゃったら恥ずかしいじゃない…!
今日のぼくでも恥ずかしかった、と言ったのに。目撃者がいなくてホッとしたのが自分なのに。
「なあに、恥ずかしがることは無いってな。もっと真っ赤な顔にしてやるから」
大勢の人が見ている前でだ、お姫様抱っこで歩いてやる。俺の腕でヒョイと抱き上げて。
お前、転んだら足が痛くて、とても歩けやしないだろうが。
「抱っこって…。それって、街の真ん中なんでしょ?」
自分で歩くよ、抱っこなんかをしてくれなくても!
抱っこはやめて、と慌てたけれども、ハーレイは涼しい顔で続けた。
「転んだ時には助けてくれるか、と言っただろ、お前?」
助けてやるって言っているんだ、遠慮しないで任せておけ。お前に「歩け」とは言わないから。
「恥ずかしいってば、街の中では…!」
転ぶよりもずっと恥ずかしいじゃない、抱っこされて歩いているなんて…!
「恋人同士でデートなんだぞ、いいじゃないか。俺もお前を、周りに見せびらかせるしな」
こんな美人が俺のものだ、と自慢しながら歩くんだ。
前の俺だと、そいつは出来なかったしな…。
シャングリラの中でも最高の美人を自慢したくても、ソルジャーとキャプテンだったから。
お前とデートに出掛けられる日が楽しみだな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「ソルジャーのマント包みは無理だが、派手に転べよ」と。
どうやら自分が転んだ時には、抱っこが待っているらしい。ハーレイの逞しい腕で、軽々と抱き上げられて。…二人並んで歩く代わりに、お姫様抱っこでデートの続き。
(なんだか、とっても恥ずかしいけど…)
そういうデートは、今だからこそ出来ること。前の自分たちには出来なかったこと。
マント包みになるのがせいぜい、そういう二人だったから…。
今のハーレイにお姫様抱っこで歩いて貰って、恥ずかしくても、心ではきっと誇らしい。
耳まで赤くなっていたって、幸せだから。
ハーレイに大切にして貰えるのが、嬉しくてたまらないだろうから。
(街の真ん中で、派手に転んじゃっても…)
幸せだろう、未来の自分。前の自分と同じ姿に育った、今よりもずっと大きな自分。
幼い子供でもないというのに、ハーレイの腕に抱かれて運ばれながら。
「恥ずかしいから下ろしてよ!」と言っていたって、きっと幸せに違いない。
もしもハーレイが「そうか?」と素直に下ろしてくれたら、「酷い!」と怒りそうだから。
せっかくの抱っこが逃げてしまったら、「下ろすなんて!」と怒るだろうから…。
転んだ時には・了
※転んだ時にはハーレイに助けて欲しい、と思ったブルー。前の生でも同じだったのです。
本当はサイオンで支えられるのに、ハーレイしかいない時には、ソルジャーのマント包みに。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
嘘、とブルーが崩したバランス。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で。
不意に、もつれてしまった足。自分で自分の足を引っ掛けたか、それとも歩幅が狂ったものか。止める暇も無くて、気付けば転んでいた道路。それは見事に、ペシャンと、ドサリと。
(転んじゃった…)
自分の目と同じ高さに道路。向こうの方へと伸びているのが良く分かる。両脇に並ぶ家だって。大慌てで手をついて起き上がったけれど、立ち上がって膝の埃を払ったけれど。
(こんな所で…)
転ぶなんて、と文字通り顔から火が出そう。多分、真っ赤に染まっている顔。もしかしたら耳の先っぽまで。誰が見たって「何か失敗したんだな」と分かるくらいに。
余所見しながら歩いたせい。生垣の向こうに見えている庭、何があるのかとキョロキョロして。花壇の花やら、駆け回っているペットたち。そういったものを探していて。
お蔭で転んで、しかも道路には何も無い。足を引っ掛けそうな段差も、石ころだって。
道路に何か落ちていたなら、それのせいだと言えるのに。自分のせいでも、知らないふり。
けれど出来ない、その言い訳。道路には何も無いのだから。
(…転んだの、誰も見ていないよね?)
少し鼓動が落ち着いて来たら、気になったものは目撃者。何処かの庭で見ていた人とか、窓から偶然、見た人だとか。
(…誰もいない筈…)
庭にも窓にも見えない人影。サッと引っ込んだりもしなかったから、きっと目撃者はいない。
転んだ所を見られなくて良かった、と平気なふりで家へと歩き始めたけれど。転ぶ前と同じに、庭や生垣を眺めながらの道なのだけれど。
いつもより少し速くなる足。
現場から早く離れたくて。とても恥ずかしい思いをした場所、其処を急いで立ち去りたくて。
家に帰り着いて、制服を脱いで、おやつを食べにダイニングに行っても、まだ頭から離れない。道路で転んでしまったこと。何も無いのに、ペッシャンと。
(格好悪い…)
あれじゃ子供、と消えてくれない恥ずかしさ。学校の制服を着ていただけに、なお恥ずかしい。下の学校の子供だったら、制服は着ていないから。制服だけで、今の学校だと分かるから。
(…下の学校なら、まだマシなのに…)
あそこで同じに転んでいたって、自分よりは子供。誰が見たって、下の学校に通っている子。
ところが自分は、そうはいかない。制服が「下の学校の子じゃないですよ」と知らせるから。
(転ぶなんて、ホントにカッコ悪すぎ…)
幸い怪我はしなかったから、母にはなんとかバレずに済んだ。制服のズボンが守ってくれた膝。ついてしまった手も、擦り剥いたりはしなかった。
転んだはずみに怪我をしていたら、必要になるのが薬箱。コッソリ手当てをしようとしたって、母に見付かって訊かれてしまう。「どうしたの?」と。
(雨の日だったら、まだマシなのに…)
制服は濡れて汚れるけれども、「滑った」と言い訳出来るから。
本当は余所見で転んでいたって、雨の日の道路は滑りやすいもの。母はもちろん、誰かが現場を目撃したって、「滑ったんだな」と思ってくれる。
何も無いのに、転んだなどとは気付かずに。「可哀相に」と同情しても貰える筈。
(でも、誰も見ていなかったんだし…)
制服も汚れはしなかったのだし、もうバレない。帰り道で転んでいたことは。母にも、ご近所の人たちにも。
目撃者はゼロで、薬箱のお世話にもならなかったから。
(良かったよね…)
転んでたのがバレなくて、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
何も無い所で転ぶだなんて、もう本当に子供のよう。それも自分より遥かに小さい、下の学校にさえ行っていない子。幼稚園児とか、もっと幼い子とか。
(小さい頃ならいいんだけれど…)
道で見事に転んでいたって、大勢の人が現場を目撃していたとしたって。
幼かった頃なら、よく転んでは泣いていた。家の庭でも、さっきのような道路でも。母と一緒に遊びに出掛けた公園でだって。
今よりもずっと小さな身体は、バランスを取るのが下手くそなもの。何かのはずみに、コロンと転がる道路や芝生。そうなったらもう、それだけでビックリするのが子供。
おまけに痛いし、ただワンワンと泣くしかない。ほんのちょっぴり、膝が赤くなっただけの怪我でも。血が滲むだけで、流れ出してはいなくても。
転んでしまって、立ち上がれもしないで、その場で「痛いよ」と泣きじゃくっていたら…。
(いろんな人が…)
小さかった自分を助けてくれた。母の他にも、通り掛かった人たちが。
「大丈夫?」とキャンディーをくれた人だって。「痛いのが消えるお薬をどうぞ」と。
擦り剥いてしまった膝や、赤くなった手。怪我をしていた所には…。
(子供絆創膏…)
可愛い絵が描かれた、子供の目には素敵な絆創膏。それをバッグやポケットから出して、傷口に貼ってくれた人もいた。「ちょっとしみるけど…」と消毒用の布とかで埃を拭ってくれた後で。
ああいう用意をしていた人たち、自分の子供用でなければ、お孫さん用だったのだろう。小さな子供が転んだ時には、直ぐに必要なものだから。
(ママだって、持っていたんだけど…)
不思議なことに、知らない誰かが手当てしてくれたら、遥かに良く効くような気がした。魔法をかけて貰えたようで。
「痛いのが消えるお薬だから」と、貰ったキャンディーだって、そう。
同じキャンディーを母に貰うより、ずっと素敵で良く効く薬。子供絆創膏の絵だって、頼もしく思えて嬉しかった。まだズキズキと痛んでいても、涙がポロポロ零れていても。
魔法みたい、と子供心に思ったこと。貰ったキャンディーや、貼って貰った子供絆創膏。
きっと心が弾んでいたから、効くように思ったのだろう。知らない人たちが「大丈夫?」と心配してくれて、優しく慰めてくれたから。…泣きじゃくっているだけのチビの子供を。
(今のぼくが道で転んでいたって…)
キャンディーなんかは貰えない。可愛らしい子供絆創膏も。
今の学校の制服を着ているような大きな子供は、どちらも貰えはしなくって…。
(大丈夫かい、って…)
生垣越しに顔を出すだろう、現場を見ていたご近所の御主人。
後はせいぜい、薬箱くらい。「傷の手当てをして行かないと」と家に入れて貰って、擦り剥いた膝や手とかの手当て。傷薬と普通の絆創膏で。
(運が良かったら…)
おやつも出るかもしれないけれど。「食べて行くかい?」と、奥さんの自慢のケーキとか。
それもいいよね、と想像を繰り広げていた、転んだ後の自分の姿。キャンディーや子供絆創膏の代わりに、薬箱と、運が良ければおやつ。
ちょっぴり素敵な光景だけれど、そういう夢を描いてしまうのだから…。
(ぼくって、子供…)
転んだのが恥ずかしくて逃げ出したけれど、かまって欲しくもあるらしい。
幼かった頃はそうだったように、もしも誰かが見ていたならば。自分を心配してくれたなら。
(顔は恥ずかしくて真っ赤でも…)
薬箱を断って帰りはしないで、きっと入ってしまうだろう家。御主人の後ろにくっついて。
傷薬と普通の絆創膏でも、傷の手当てをして貰えたら、とても嬉しい。その後でおやつを出して貰ったなら、すっかり御機嫌。
(美味しいね、ってニコニコ笑って…)
自分が転んだことも忘れて、御主人や奥さんと話していそう。ペットを飼っている家だったら、一緒に遊んだりもして。
そうなりそう、と思った今の自分が転んだ後。もう幼いとは言えないけれども、中身はそっくりそのまま子供。キャンディーがおやつに、子供絆創膏が普通の絆創膏に変わるだけ。期待している掛けられる声、「大丈夫かい?」と。
転んだことは、とても恥ずかしいのに。幼かった頃の自分みたいに、泣きじゃくったりはしない筈なのに。
(小さい頃から変わってないよ…)
大きくなったのは身体だけ。中身は幼かった頃と同じで、転んだらかまって欲しがる子供。薬箱から出て来るだろう絆創膏と傷薬。それで満足、おやつがあったら、もっと嬉しい大きな子供。
こんな調子だから、ハーレイに「チビ」と言われるのだろう。
キスだって駄目で子供扱い、「前のお前と同じ背丈に育つまでは」とお預けのキス。
そうなるのも仕方ないのかも、と自分の姿を顧みてみる。今もやっぱり、転んだ時にはかまって欲しい子供らしいから。
(うーん…)
転んだ現場に居合わせたのがハーレイだったら、どうなるのだろう?
もしも二人で、あそこを並んで歩いていたら。ハーレイの目の前で、道路に転んでしまったら。
(逃げようだなんて、思わなくって…)
急いで立ち上がって逃げる代わりに、助け起こして貰えることを期待していそう。
「大丈夫か?」と差し出される手。とても大きな褐色の手が、こちらに伸ばされることを。その手でしっかり抱え起こして、「怪我してないか?」と訊かれることを。
ハーレイがそう尋ねてくれたら、自分はきっと…。
(痛くないのに、痛いって騒いで…)
抱き上げて運んで貰おうとするか、背中に背負って欲しがるか。
足が痛くて歩けないから、「家まで連れて帰って」と。
逞しい腕と頑丈な身体を持った恋人、好きでたまらないハーレイに世話をして欲しくて。
困った顔をするだろうけれど、断ったりはしない筈の恋人。「自分で歩け」と突き放すことは、きっとハーレイはしないから…。
(抱っこか、おんぶで家まで運んで貰って…)
帰り着いたら、傷の手当てをせがむのだろう。ハーレイが「見せてみろ」と言わなくても。傷の手当てをしなければ、と薬箱を持って来てくれるように、母に頼みに行かなくても。
(ちょっぴり赤くなってるだけでも…)
擦り剥いてはいなくて打ち身だけでも、「うんと痛い」と騒ぎそうな自分。
ハーレイに甘えてみたいから。傷薬も絆創膏も要らない傷でも、優しく手当てして欲しいから。
(そんなの、出来っこないんだけどね…)
二人で外を歩きはしないし、もしも散歩に出掛けたとしても、帰ったら家には母がいる筈。休日だったら父だっているし、二人とも直ぐに気付いてしまう。
(門扉のトコで、ハーレイ、チャイムを鳴らすだろうし…)
歩けない自分を抱いているとか、背負っているなら、門扉を開けてくれる人が必要。怪我をした自分は開けられないから、母か父。それを呼ぼうと鳴らされるチャイム。
父と母と、どちらが出て来たにしても、一人息子はハーレイに運ばれて帰宅。抱っこか、背中に背負われているか、足が痛いのは一目瞭然。
怪我となったら、母が手当てをするだろう。ハーレイに任せておきはしないで。
その母が「大変!」と薬箱を持って来たならば…。
(叱られちゃうよ…)
痛いと訴えている足を調べて、「怪我なんかしていないでしょ」と。
少し擦り剥いていたとしたって、「自分の足で歩ける筈よ」と、ペタリと貼られる絆創膏。
ちゃんと自分の足で歩けるのに、ハーレイに迷惑をかけたこと。それを叱って、お仕置きに…。
(絆創膏を貼った上から、ポンって…)
軽く叩くのだろう母。「このくらい、我慢しなさい」と。
幼い子供だったらともかく、十四歳になっている子供。「甘えん坊って年じゃないわ」と、母に叱られて、ハーレイに謝るように言われる。「我儘を言ってごめんなさい」と。
そんな感じ、と思うけれども、出来るわけがない夢のような話。
ハーレイと並んで外を歩いて、助け起こして貰うこと。今は二人で出掛けはしないし、転ぶことさえ出来ないから。ハーレイの前で道路にペシャンと転ぶことなど、不可能だから。
(ぼくが大きくなってからだと…)
一緒に歩くことは出来るけれども、転んだら今より恥ずかしい。
前の自分と同じ背丈に育っているなら、何処から見たって立派な大人。十八歳でも、子供だとは言えない年頃の筈。そんなに大きく育った大人は、まず転ばない。
(…ホントに足でも滑らせないと…)
転ばないのが一人前の大人で、転んだとしてもサッと立ち上がるもの。転んだ拍子に足を捻って動けないとか、やむを得ない事情が無い限りは。
(でも…)
ハーレイは助けてくれるだろうか、もしも自分が転んだら。二人並んで歩く途中で、ペシャンと転んでしまったなら。
「お前、子供か?」と笑いながらでも。「転ぶような物は落ちてないぞ?」と呆れ顔でも、あの大きな手を差し出して。無様に道路に伸びた自分に、「ほら、掴まれ」と。
(ハーレイ、助けてくれるのかな…?)
どうなのだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが転んだら、助けてくれる?」
「はあ?」
転ぶって…。何処で転ぶと言うんだ、体育の時間のグラウンドか?
でなきゃ廊下か、校舎の中とか、渡り廊下とか。…そういう所で、転んだお前を助けろと?
他にも誰かいそうだがな、とハーレイは怪訝そうな顔。「体育の時間なら、先生がいるし…」と首を捻って、「廊下にも友達、誰かいないか?」と。
「俺が助けに行くよりも前に、そっちを頼るべきだと思うが」という意見。「断然、早い」と。
「学校だったら、そうなんだけど…」
ぼくもハーレイが助けに来てくれるまで、待っていたりはしないけど…。
そうじゃなくって、ぼくが転ぶのは…。
「えっとね…」と、今日の帰りに転んだことを打ち明けた。恥ずかしかったことも話して、幼い頃の思い出も。キャンディーに、子供絆創膏。
「今のぼくなら、薬箱が出て来るんだろうけど…。今日みたいに道で転んでたらね」
家で手当てをして行きなさい、って家の中に入れて貰えると思う。もしも誰かが見ていたら。
怪我の手当てが済んだ後には、運が良ければ、おやつも出そう。
そんなことまで考えちゃうぼくは、まだまだ子供なんだけど…。ハーレイが言う通りに、本当にチビ。まだハーレイと一緒に歩けもしないけど…。
いつかデートに出掛けた時にね、ぼくが転んでいたらどうする…?
転んじゃったら助けてくれる、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「ぼくを助けてくれるの?」と。
「そりゃまあ、なあ…?」
助けないわけがないだろう。俺の大事な恋人なんだし、もう嫁さんかもしれないな。
転んだままで放っておきはしないし、俺は大急ぎで助け起こすが…?
「ホント?」
ハーレイ、ちゃんと助けてくれるの、転んでいたら…?
「自分で起きろよ」って言ったりしないで、ぼくを助けて立たせてくれるの…?
「もちろんだ。前も助けてやったじゃないか」
お前が転んじまった時には、きちんとな。お前を放って行ったりはせずに。
「え…?」
転んだって…。それに助けたって、それ、いつの話…?
知らないよ、と驚いて目を丸くした。ハーレイの前で転んだことは無い筈だから。倒れたことはあったけれども、転ぶのとはまるで違うから。
「忘れちまったか?」
覚えてないのか、一番最初に転んでた時は、お前、今と同じでチビだったぞ。
今のお前とそっくり同じに、痩せっぽちでチビの子供だったが…?
「チビ…?」
それって、前のぼくのこと…?
前のぼく、何処かで転んでいたかな、ハーレイと一緒にいた時に…?
何処だったろう、と考えてみても分からない。チビだったのなら、アルタミラから脱出した頃。
船の通路で転んでいたのか、前のハーレイがいた厨房の床か。
(…厨房の床なら、いつもピカピカ…)
食料を扱う場所だから、と毎日、磨き上げられた床。夕食の後の掃除はもちろん、他の時間にも手が空いた時は、誰かがせっせと磨いていた。野菜くずなどで汚れないように、と。
あそこだったら、滑って転んだこともあるかも、と厨房の床を思い浮かべていたら…。
「お前、アルタミラで転んでいただろうが」
俺と出会って直ぐの頃だな、最初はポカンと一人で座り込んでたが…。
あれは転んだとは言わないだろうし、助け起こした内には入らん。俺が立たせてやったがな。
その後だ、後。
俺と一緒に走ったろうが、というハーレイの言葉で蘇った記憶。
「あっ…!」
思い出したよ、前のハーレイと一緒に走ってたんだっけ…。何度も転んじゃったけど。
他の仲間たちが閉じ込められたシェルター、全部、開けなきゃ駄目だったから。
でないと、みんな死んじゃうもんね、と手繰った前の自分の記憶。ハーレイと走った炎の地獄。
メギドの炎で滅びようとしていたアルタミラ。
空まで真っ赤に染め上げた炎、激しい地震で揺れ動く地面。その上を二人で走っていた。仲間を助け出すために。…幾つものシェルターに閉じ込められて、死を待つだけのミュウの仲間を。
二人で開けて回ったシェルター。鍵を開けたり、扉が歪んで開かない時には壊したりして。
そうやってあちこち走る間に、瓦礫に足を取られて転んだ。
(何処へ行っても、瓦礫だらけで…)
道と呼べそうな場所は殆ど無かった、あの星の上。
辛うじて道路が残っていたって、地震で入った無数の亀裂。段差だらけで、波打った路面。
そんな所を走ったのだから、転ばない方がどうかしている。歩幅が大きいハーレイはともかく、チビだった前の自分の方は。
瓦礫をヒョイと跨げはしなくて、段差も楽に越えては行けない。跨いだつもりでも、引っ掛かる足。越えたつもりでも、越えられなかった段差。
いったい何度転んだことか、と蘇って来たアルタミラの記憶。炎の海を走っていた時。
ドサリと地面に投げ出される度、ハーレイが助け起こしてくれた。「大丈夫か?」と、手を差し出して。がっしりとしていた大きな手。
(あの頃のハーレイは、今より若かったんだけど…)
とうに大人になっていたから、手の大きさは今と変わらない。自分の方も今と同じにチビ。心も身体も成長を止めて、十四歳の頃のままだったから。
(手の大きさ、今と同じなんだよ)
アルタミラで初めて出会った時の、ハーレイの手も、自分の手も。
今の自分の小さな右手を、よく温めてくれるハーレイ。前の生の最後にメギドで凍えた、悲しい記憶を秘めた右手を。そっと、温もりを移すために。
その度に思う、ハーレイの手の温かさと、それに逞しさ。とても頼もしくて、大きな手。
(あれと同じ手だったっけ…)
前の自分が助けて貰った、ハーレイの手も。
アルタミラで何度も転んだけれども、その度に自分を起こしてくれた手。瓦礫に覆われた地面の高さが、目の高さと同じになる度に。転んで地面に身体ごと叩き付けられる度に。
ハーレイはチビだった前の自分を、何度も助け起こしてくれた。手を差し出したり、逞しい腕でグイと抱えて抱き起こしたり。
助けられる度に、訊かれたこと。まだ走れるかと、痛くないかと。
燃える地面は、多分、熱かったから。大気までが炎に炙られて燃えて、息をするのも苦しかった筈。他の仲間を助けるのに夢中で、意識してなどいなかったけれど。
だから、前のハーレイは尋ねてくれたのだろう。前の自分が転んでしまって、助け起こす度に。
走る力は残っているかと、何処か怪我して痛くはないか、と。
(前のぼく、ハーレイに「大丈夫」って…)
そう答えては、二人で走り続けた。燃える星の上を、揺れる地面を。
また転んでも、起こして貰って。
瓦礫に躓いて放り出されても、段差に足を取られても。
身体ごと地面に叩き付けられて、目に入るものは瓦礫や波打つ道路だけになってしまっても。
何度も見えなくなった空。転べば、空は見えないから。忌まわしい炎の色の空さえ。
行く手の景色も消えてしまって、見えるものは地表を覆う物だけ。瓦礫と、それを舐める炎と、深い亀裂や幾つもの段差。
たったそれだけ、他には何も見えたりはしない。目の高さが地面と同じになったら、滅びてゆく星の地面に叩き付けられたなら。
(転んじゃったら、本当に地獄…)
その上を走っている時よりもずっと、無残に見えたアルタミラ。瓦礫と炎と滅びゆく地面、その他には何も無いのだから。空も行く手も、目に入っては来ないのだから。
なんて酷い、と思った景色。この星はもう終わりなのだと、滅びるのだと思い知らされた地面。
それが視界を覆い尽くす度に、転んだのだと嫌でも分かった。
ドサリと地面に突っ伏した自分、見えなくなった目指していた場所。その上にあるだろう空も。
(起きなくちゃ、って…)
早く立ち上がって行かなければ、と思った、仲間たちが閉じ込められたシェルター。
こうして自分が転んでいる間も、星は滅びに向かっているから。絶え間ない地震でシェルターが壊れて、仲間たちの命が奪われるから。
立たなければ、と自分に命じた。「転んでいる暇は無いんだから」と。起きて、立ち上がれと。
けれど、そうして立ち上がる前に…。
(ぼくが自分で起き上がる前に…)
ハーレイの手が目の前にあった。前のハーレイの大きな手が。
自分よりも前を、先を走っていた筈なのに、「ほら」と「掴まれ」と。
いつの間に気付いて戻って来たのか、必ずあったハーレイの手。
前の自分が、地面に叩き付けられる度に。転んでしまって、視界が地獄に覆われる度に。
(ハーレイの手に掴まって、引っ張り起こして貰って…)
またハーレイと走り続けた。
時には、抱え起こされて。「大丈夫か?」と、「痛くないか」と尋ねて貰って。
あそこだった、と鮮やかに戻って来た記憶。
前のハーレイと二人で走って、何度も転んだアルタミラ。炎の地獄で、足を取られて。
「…ハーレイ、起こしてくれていたんだ…」
ぼくがアルタミラで転んじゃったら、戻って来て。…ぼくよりも前を走ってたのに。
何度転んでも、いつもハーレイが助け起こしてくれたよ。
ぼくが自分で立ち上がる前に、ちゃんとハーレイの手があったから…。
「思い出したか?」
前のお前とは、会った時から、不思議なほどに息が合ったモンだから…。
お前が転んだら分かるんだよなあ、俺の背中に目玉はついていなかったんだが。
何か変だぞ、と振り返る度に、お前が転んじまってた。俺の後ろで、地面に叩き付けられて。
その度に走って戻っていたんだ、とても放っておけないからな。
いくらサイオンが強いと言っても、お前、身体はチビなんだから。…それに中身も。
転んだお前を助けていたのは、あれが最初のヤツでだな…。
お前がデカくなった後にも…。
やっぱりお前は転んじまっていたんだが、と指摘された。
もう痩せっぽちのチビではなくて、ソルジャーと呼ばれ始めてからも。キャプテンになっていた前のハーレイを従えての視察の途中で、それは見事に。
「ソルジャーの威厳も何も、あったもんではなかったってな」と笑うハーレイ。
転ぶ度にマントの下敷きだったと、「ソルジャーのマント包みだ」と。
「パイ皮包みなら料理なんだが、マント包みは料理じゃないな」などと、可笑しそうに。
通路で転んだソルジャーの身体は、頭と足の先っぽ以外は、マントにすっぽり包まれていたと。
ハーレイ曰く、「ソルジャーのマント包み」なるもの。
背中に翻っている筈のマントに包まれ、シャングリラの通路に転がるソルジャー。紫のマントが広がる下には、前の自分の身体が入っていたわけで…。
(そうだっけ…!)
ソルジャーのぼくでも転んだんだよ、と「マント包み」で戻った記憶。
今のハーレイが言う「ソルジャーのマント包み」となったら、まるで料理のようだけど。何かのパイ皮包みみたいに、前の自分がお皿に載っていそうだけれど。
(…ハーレイ、今も料理が得意だから…)
そんなのを思い付くんだよね、と思う「ソルジャーのマント包み」。前の自分がシャングリラの通路で転んだ時には、マント包みが出来ていた。頭と足の先っぽ以外は、全部マントの下敷きで。
(ソルジャーのマント包みって…)
それが通路で出来た理由は今日と同じで、原因は余所見。
ハーレイと視察に行くと言っても、目的地が遠い時もある。其処に着くまでに通る通路で、ふと目を引いた色々なもの。「あれは何だろう?」といった具合に、逸れていった視線。
行く手を真っ直ぐ見詰める代わりに、あらぬ方へと向けられた瞳。
そういった時に、崩したバランス。歩幅が僅かに狂ったはずみや、不意にもつれてしまった足。
(余所見してたら、やっちゃうんだよ…)
今の自分よりも大きく育った、ソルジャー・ブルーだった自分でも。
白と銀の上着に紫のマント、そういう洒落た衣装に身体を包んでいても。
(前のぼくなら、転んじゃっても…)
本当はサイオンで支えられた身体。
通路に無様に倒れ込む前に、紫のマントの下敷きになって「マント包み」が出来上がる前に。
それは確かに出来たのだけれど、ハーレイの手が欲しかった。
「大丈夫ですか?」と差し出される手。
転んでしまった前の自分を、しっかりと助け起こしてくれる手。
だから使わなかったサイオン。
このままだったら、転んでしまうと分かっていても。
シャングリラの通路と目の高さとが、じきに同じになってしまうと気が付いていても。
「マント包み、忘れちゃいないだろうな?」と、鳶色の瞳が見据えるから。
「前のお前の得意技でだ、俺は何度も見ていたんだが…?」とも言われたから。
「…覚えてるってば、マント包み…」
そういう名前はついてなくって、ぼくが転んでただけなんだけど…。
マントの下敷きになってしまって、頭と足の先っぽだけしか出てなかったことは本当だけど。
でも、ソルジャーのマント包みだなんて…。
前のぼく、お料理みたいじゃない、と唇を少し尖らせた。「それ、酷くない?」と。
「酷いってことなら、どっちなんだか…。俺か、お前か」
チビのお前の方じゃなくって、マント包みになってた方の、前のお前が問題だってな。
お前、いつでも転んでマント包みになっては、前の俺に助け起こさせるんだ。
周りに誰かいた時だったら、絶対、転びはしなかったがな。
転んじまう前にサイオンでヒョイと支えて、気付かせさえもしなかった。…転びかけたことを。
しかし、俺しかいない時には、マント包みになっちまう。
「起こしてくれ」と言わんばかりに、ものの見事に転んじまって。
酷いというのはアレのことだろ、お前、本当は転ばずにいられたんだから。
俺の他にも誰かいればな…、と軽く睨んで来るハーレイの瞳。「お前も充分、酷いだろう」と。
「だって、それ…。恥ずかしいじゃない!」
仲間たちの前で転ぶだなんて、恥ずかしすぎるよ。…前のぼく、子供じゃないんだから。
今のぼくでも、今日の帰りに転んだ時には、とても恥ずかしかったんだから…!
ソルジャーだった時に転ぶなんて、と反論した。他の仲間が見ている前では、転べない。
「…俺の前ならいいと言うのか?」
転んじまおうが、マント包みになっちまおうが。
今の俺が思い出してみたって、あの格好は無様だとしか思えないんだが…。
「ソルジャーのマント包み」と呼んだら美味そうなんだが、そいつをプラスして考えたって。
マントの中身は前のお前で、前の俺には御馳走だったが、それでもなあ…。
ソルジャーだった方のお前は、俺の御馳走ではないんだから。
恋人同士だったことさえ秘密だ、とハーレイが眉間に寄せている皺。
「そのソルジャーがマント包みになっていたって、前の俺は食えやしなかった」と。
「いいか、よくよく考えてみろよ? …前のお前と、俺とのこと」
俺たちの仲は秘密だったし、ソルジャーのお前の前に立ったら、俺はあくまでキャプテンだ。
いくらお前に恋していたって、それを顔には出せないってな。
なのに遠慮なくマント包みになっていたのが、前のお前というわけで…。
俺に助けろと言っていたんだ、声や思念にもしないでな。…黙ってマント包みになって。
自分じゃ決して起きないと来た、とハーレイは苦情を言うのだけれど。
「だって、ハーレイが側にいたんだよ?」
前のハーレイは、ぼくの特別。恋人同士になる前からでも、ずっと特別。
起こして欲しくもなるじゃない。他の仲間がいないんだったら、転んでしまって。
ぼくが転んだままでいたなら、ハーレイ、助けてくれるんだから。
いつも起こしてくれていたでしょ、と微笑んだ。「ソルジャーのぼくが転んだ時も」と。
「特別なあ…。分かっちゃいたがな、そうだってことは」
前のお前がマント包みになっちまうのは、俺の前だけで、俺に甘えてただけなんだ、と。
今から思えば、子供みたいな我儘なんだが…。
俺に助け起こして貰うためだけに、転んじまってマント包みだなんて。
前のお前は、充分に大人だったんだが…、とハーレイがフウとついた溜息。
「チビのお前と変わらないな」と、「転んだら助けてくれるのか、と訊くお前とな」と。
「…そっか、前のぼくでもおんなじ…」
ハーレイに助けて欲しくて転んで、起こしてくれるの、待っていたっけ…。
前のぼく、マント包みになってた頃には、チビの子供じゃなかったのに。
ちゃんと育ったソルジャーのぼくで、マントまで着けていたのにね…。
それでもマント包みなんだ、と今の自分と重ねてみた。前の自分でもその有様なら、今の自分が転んだ後の夢を描くのも仕方ない。薬箱はともかく、おやつを御馳走になれたらいいな、と。
「前のお前も、俺の前ではデカい子供だ。…ソルジャーでもな」
俺は面倒の見甲斐があったが、他のヤツらには、マント包みは見せられん。
無様なソルジャーの姿もそうだし、俺に甘えてた姿もな。
だから今度も安心して転べ、と言って貰えた。「ちゃんと面倒見てやるから」と。
「お前、もうサイオンでは支えられないしな、転びそうになっても」
不器用すぎて出来やしないだろ、そんな芸当。…今のお前のサイオンでは無理だ。
つまり、何処ででも転ぶしかないが…。
転んじまう時には、街でデートの真っ最中でも、お前は転んじまうんだが。
とはいえ、転んでも、俺がいるんだし…。何も心配要らないってな。
マントが無いから、マント包みは出来ないんだが…、と今度も助けてくれるらしいハーレイ。
けれど、街でデートの真っ最中だと、周りを歩いていそうな人たち。
幼かった頃ならいいのだけれども、前の自分とそっくり同じに育った自分が転ぶとなると…。
「ハーレイ、助け起こしてくれるのは、とても嬉しいんだけど…」
街でデートの最中だなんて、そんな時には転びたくないよ…!
きっと周りには人が一杯だし、転んじゃったら恥ずかしいじゃない…!
今日のぼくでも恥ずかしかった、と言ったのに。目撃者がいなくてホッとしたのが自分なのに。
「なあに、恥ずかしがることは無いってな。もっと真っ赤な顔にしてやるから」
大勢の人が見ている前でだ、お姫様抱っこで歩いてやる。俺の腕でヒョイと抱き上げて。
お前、転んだら足が痛くて、とても歩けやしないだろうが。
「抱っこって…。それって、街の真ん中なんでしょ?」
自分で歩くよ、抱っこなんかをしてくれなくても!
抱っこはやめて、と慌てたけれども、ハーレイは涼しい顔で続けた。
「転んだ時には助けてくれるか、と言っただろ、お前?」
助けてやるって言っているんだ、遠慮しないで任せておけ。お前に「歩け」とは言わないから。
「恥ずかしいってば、街の中では…!」
転ぶよりもずっと恥ずかしいじゃない、抱っこされて歩いているなんて…!
「恋人同士でデートなんだぞ、いいじゃないか。俺もお前を、周りに見せびらかせるしな」
こんな美人が俺のものだ、と自慢しながら歩くんだ。
前の俺だと、そいつは出来なかったしな…。
シャングリラの中でも最高の美人を自慢したくても、ソルジャーとキャプテンだったから。
お前とデートに出掛けられる日が楽しみだな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「ソルジャーのマント包みは無理だが、派手に転べよ」と。
どうやら自分が転んだ時には、抱っこが待っているらしい。ハーレイの逞しい腕で、軽々と抱き上げられて。…二人並んで歩く代わりに、お姫様抱っこでデートの続き。
(なんだか、とっても恥ずかしいけど…)
そういうデートは、今だからこそ出来ること。前の自分たちには出来なかったこと。
マント包みになるのがせいぜい、そういう二人だったから…。
今のハーレイにお姫様抱っこで歩いて貰って、恥ずかしくても、心ではきっと誇らしい。
耳まで赤くなっていたって、幸せだから。
ハーレイに大切にして貰えるのが、嬉しくてたまらないだろうから。
(街の真ん中で、派手に転んじゃっても…)
幸せだろう、未来の自分。前の自分と同じ姿に育った、今よりもずっと大きな自分。
幼い子供でもないというのに、ハーレイの腕に抱かれて運ばれながら。
「恥ずかしいから下ろしてよ!」と言っていたって、きっと幸せに違いない。
もしもハーレイが「そうか?」と素直に下ろしてくれたら、「酷い!」と怒りそうだから。
せっかくの抱っこが逃げてしまったら、「下ろすなんて!」と怒るだろうから…。
転んだ時には・了
※転んだ時にはハーレイに助けて欲しい、と思ったブルー。前の生でも同じだったのです。
本当はサイオンで支えられるのに、ハーレイしかいない時には、ソルジャーのマント包みに。