シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
なに、とブルーが見詰めた窓の外。今の光は何だったの、と。
学校の帰り、いつもの路線バスの中。お気に入りの席に座って外を見ていたら、眩しい光が目を射たから。何の前触れも無く、突然に。
光ったものの正体は、と眺めてみても分からない。光るものは何も無さそうな外。こんな昼間にライトを点けても、そう眩しくはならない筈。
ますます変だ、と気になって外を見詰めるけれども、あの場所でだけの光だったら…。
(もう離れちゃって、何の光か…)
分かんないよ、と思った所でピカッと来た光。あれだ、と光の方を追ったら、其処にいた車。
(……車……)
対向車線を来た、車の屋根の照り返し。太陽の光をそのまま反射した車。
信号停止で止まっているから、よく見てみると…。
(光ってる…)
屋根のが特に眩しいけれども、ボンネットも弾いている光。まるで車が光っているよう。
バスの車高が高いから見える、他の何台もの車の屋根。光っているのは、一台だけしか見えないけれど。他の車は、ごくごく普通。
(鏡の反射とかと同じで…)
角度の問題。太陽と車と、車を見ている自分の視線の高さ。それが揃ったら、ピカリと光る。
さっき「なあに?」と驚いた光も、きっと車が弾いた光。眩しいほどの照り返し。
まるで気付いていなかったけれど、そうなる所を車が走って行ったのだろう。バスの窓から外を眺めていた時に。車など見てはいなかった時に。
あんなに眩しく光るのだったら、太陽の光を弾くなら…。
(ハーレイの車も…)
走っていたら、光る筈。太陽の光を浴びて、ピカッと。
濃い緑色の車だけれども、いつも綺麗に磨いてあるから。鏡みたいにピカピカだから。
バス停に着いて歩道に降りたら、もうさっきほどは光らない車。
道ゆく車をじっと見ていても、高さも角度も、バスとは違っているのが今。照り返しが目を射ることはなくて、少し光った車が通り過ぎるだけ。光の加減で、ほんの僅かに。
眩しいとは思わない車。
家の方へと歩き始めても、やっぱり光る車は無い。ご近所さんのガレージにある車はもちろん、側を通って行った車も。家までの道で、向こうから来た一台の車。
(パパの車は、今は無いけど…)
此処にあっても光らないよね、と家のガレージも観察した。太陽があそこなんだから、と。
光る車は見られないまま、入った家。
着替えてダイニングに出掛けて行って、美味しく食べた母の手作りのケーキ。
「御馳走様」と二階の部屋に戻って、窓から外を見下ろしたけれど…。
(道路との間に、生垣があるから…)
此処から見たって、車は光りそうにない。道を走って行ったとしても。どちらの方向から走って来たって、弾いた光は生垣の向こう。
(光、木の葉が飲み込んじゃう…)
青々と茂った常緑樹の生垣、それの葉と枝が遮る光。車が光を反射したって。
考えてみれば、ハーレイの愛車が光る所も…。
(見たことない…)
ハーレイが車に乗って来る日は、休日だったら、雨模様か雨が近い空。そんな空では光らない。
おまけにやっぱり生垣の向こうを走って来るから、光っても此処から見られはしない。
(晴れた日に、車…)
出会って間も無い初夏の頃には、そういう日だって何回かあった。
庭で一番大きな木の下、ハーレイが「デート用だぞ」と据え付けてくれた、キャンプ用の椅子とテーブルと。あれを運んで来てくれた頃は、晴れた日に車で来ていたハーレイ。
けれど、照り返しを見た記憶は無い。ガレージまで車を眺めに行ったりしていたのに。
仕方ないよね、と零れた溜息。晴れた日にハーレイの車が来ていた時には、車より…。
(トランクの中身の方に夢中で…)
車はろくに見ていなかった。ハーレイが魔法のように取り出すテーブル、それから椅子。
そちらの方に目を奪われて、ついでにハーレイにも夢中。車を見ているわけがない。太陽の光を反射していても、きっと気にさえ留めてはいない。「眩しい」とさえも。
(今だと、ハーレイ、晴れた日は乗って来ないから…)
見られないよ、と分かっているのが照り返し。
学校のある日は帰りに車で来てくれるけれど、もうその頃には太陽の光は強くないから。西へと傾き始めているから、ガレージの辺りはとうに日陰になっている。
(ハーレイの車が太陽の光を弾くトコ…)
自慢の愛車の照り返しに出会えそうな日は当分先、と思った所で頭を掠めていったこと。太陽の光を受けて輝く照り返し。
(あれ…?)
どうだったかな、と本棚の中から引っ張り出した、白いシャングリラの写真集。前にハーレイに教えて貰った豪華版。父に強請って買って貰って、ハーレイとお揃いで持っている。
その写真集のページをめくってゆくと…。
(光ってる…)
太陽の光を弾く船体。晴れ渡ったアルテメシアの上空、其処で輝くシャングリラ。
アタラクシアの町の上にでも浮かんでいるのか、飛んでゆく所を撮ったのか。真っ白な船体が、まるで鏡になったよう。綺麗に反射している光。白い鯨の巨大な船体、その一部分が光った瞬間。
写真は見事に、照り返しを写し取っていた。
白い鯨が光るのを。…太陽の光を眩く弾いて、青空に浮かんでいる所を。
アルテメシアの太陽を浴びた、シャングリラ。白い船体が放つ光は、太陽の光の照り返し。
その美しさは、写真集で見慣れていたけれど。
何度も広げて眺めてみては、「綺麗だよね」と思っていた写真なのだけど…。
(前のぼく…)
ソルジャー・ブルーだった前の自分は、こんなシャングリラは見ていない。ただの一度も。
白い鯨は、いつも雲海の中だったから。
前の自分が空を飛んでも、シャングリラは常に雲の中。太陽の光を直接浴びはしないし、船体が光ることもない。太陽の光を反射しようにも、その太陽が雲の向こうでは。
(…ぼくだけが空を飛んでいたって…)
見えるわけがなかった照り返し。雲の中にいる白い鯨は、けして光りはしないから。
そのシャングリラがアルテメシアを離れる時には、衛星兵器に狙い撃ちされて、雲の海から外へ一部が出た筈だけれど…。
前の自分は、船の外には出ていない。船を守れるだけの力は、もう無かったから。
青の間のベッドに横たわったまま、「ワープしよう」と決断するのが精一杯。そんな状態では、シャングリラを外から見られるようにと、思念体で抜け出す余裕さえ無い。
だから見ていない照り返し。…船が光を浴びていたって。
(ジョミーは見たかな?)
もしかしたら、白いシャングリラの照り返しを。
ミュウの子供だと分かったシロエを救い出そうと、船を離れていたジョミー。慌てて船に戻ったけれども、その時に目にしていたろうか。太陽の光を浴びて輝く船体を。
(そんなの、気が付く暇も無かったかな…)
衛星兵器からの攻撃、それを防ぐのがジョミーの役目だったから。
白いシャングリラが沈まないよう、死力を尽くして守らなくてはいけなかったから。
ジョミーでさえも、アルテメシアを離れる時には、そういう状態。
きっと照り返しには気付きもしないで、船へと飛んで戻っただろう。白い鯨を守り抜くために。
もう戦えなかった前の自分の代わりに、シールドを展開するために。
(照り返し、ジョミーも見ていなくって…)
前の自分も、見ないまま。…白いシャングリラは、アルテメシアから宇宙へと逃げた。
太陽の光はもう無い所へ、漆黒の宇宙空間へ。瞬かない星たちが散らばる場所へ。
そうなるよりも前は、前の自分がシャングリラで旅をしていた頃には…。
(せいぜい、恒星…)
見ていた光は、その程度。白いシャングリラから見えた光は。
アルテメシアに辿り着くまでに、旅をした宇宙。幾つかの恒星の側も通ったけれども、それほど近付いてはいない。照り返しが船を照らすほどには。
(…あんまり近付きすぎるより…)
距離を保って飛んでいたのがシャングリラ。前のハーレイが取っていた航路。
キャプテン・ハーレイの愉快な口癖、「フライパンも船も似たようなモンだ」を忠実に守って。
フライパンも船も焦がさないことが大切なのだし、恒星に近付きすぎたら焦げるのが船。
いつも安全な距離を取っていただけに、其処で物資の調達のために宇宙へと出ても…。
(…照り返しなんか…)
一度も見られはしなかった。太陽でもある恒星までは、遠かったから。
白い鯨へと改造する時、船を下ろした惑星上でなら、月明かりの中に浮かぶシャングリラも見たけれど。船体がぼうっと白く光って、まるで発光しているようにも見えたけれども。
(こんなの、知らない…)
眩しいほどに輝く、太陽からの照り返し。ピカリと反射する、目を射るほどに強すぎる光。
それを浴びているシャングリラなどは、ただの一度も見なかった。
写真集ではお馴染みだけれど、前の自分が全く知らないシャングリラの姿。
知っているようなつもりでいたのに、と見詰めた写真。白い船体の一部が光ったシャングリラ。
今日の帰り道、バスの窓から見ていた車の屋根みたいに。照り返しで眩しく感じた車。
(なんだか新鮮…)
ぼくの知らないシャングリラ、と見ている姿を、ハーレイは知っているのだろう。この写真集で見たわけではなくて、肉眼で。前のハーレイだった頃の瞳で。
アルテメシアを落とした後なら、きっとこういうシャングリラの姿も目にした筈。様々な惑星に降りていたから、照り返しで光るシャングリラだって。
その筈だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、照り返しを見たことある?」
「照り返し?」
なんだそれは、とハーレイは怪訝そうな顔。「照り返しがどうかしたのか?」と。
「えっとね…。今日の帰りに車が光っていたんだよ」
バスの窓から外を見てたら、いきなりピカッと何かが光って…。
さっきのは何の光だろう、って見ている間に、向こうから車が走って来て…。
それで照り返しだって分かったんだよ、車の屋根が太陽の光を反射して光ってたんだ、って。
「アレか、お前もやられたんだな。バスに乗っかってて」
なかなかに眩しいもんだぞ、あれは。運転してると、「かなわんな」と思うくらいに。
夕方は特によく光る、とハーレイが言うのは車の話。道路を走っている車。
「そうじゃなくって…。元は車の照り返しだけど、ぼくが訊いてるのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
白い鯨か、お前が言うのは白い鯨の照り返しなのか?
「そう。…そっちに頭が行っちゃったんだよ」
今のハーレイが乗ってる車の照り返し、ぼくは一度も見たことないから…。
まだ当分は無理だよね、って思ってる内に、シャングリラのことに気が付いちゃって…。
これ、と勉強机から、あのシャングリラの写真集を持って来て、広げて見せた。
照り返しで光るシャングリラの写真。「ハーレイはこういうのも見たんでしょ?」と。
「アルテメシアを手に入れた後なら、あちこちの星で見られた筈だよ」
大気圏の中に浮かんでいたでしょ、いろんな星で。
そういう時なら、照り返しだって見えるから…。ハーレイが船の外に出ればね。
「確かに見たが…。お前、こいつが気になるのか?」
照り返しなんぞ、何処で見たって同じだぞ。太陽の光は、何処も似たようなモンだから…。
人間が住んでる惑星なんだし、それこそ夕日や、真っ昼間の光や、そんな程度の違いだけだ。
緑や青色に光っているような太陽は無いしな、人間が暮らす恒星系には。
特に珍しくも何ともないが、とハーレイが言うものだから。
「…そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
前のぼく、これを知らないんだよ。…こんな風に光るシャングリラ。
「なんだって?」
前のお前が知らないだなんて…。今のお前なら当然だろうが、前のお前だぞ?
自由自在に空を飛べたし、俺よりも先に見ていそうだが…。
昼間に船の外に出たなら、太陽が昇っているんだから。
前のお前も照り返しくらいは見ているだろう、とハーレイも気付いていなかった。雲海の中では船は輝かないことに。…照り返しで光りはしないことに。
「ハーレイだってそう思うんなら、ぼくが今日まで気付かないのも仕方ないかも…」
前のぼく、アルテメシアで何度も外に出たけど、シャングリラは雲の中だったから…。
こんな風には光らないんだよ、雲の中だと太陽の光を直接浴びることは無いから。
「そういや、そうか…。いつだって雲の中だったっけな」
シャングリラが雲の中にいたんじゃ、お前が出たって照り返しを見るというのは無理か…。
そいつをすっかり忘れてた。気付かなかったと言うべきか…。
此処に載ってる、こういう姿。
照り返しで眩しく光る姿は、お前が知らないシャングリラの顔というヤツなんだな。
前のお前が知らない顔か、とハーレイが紡いだ言い回し。それが心に響いて来た。
白いシャングリラには違いないけれど、前の自分は見ていない顔。
「うん、その言葉! ぼくも思った!」
上手く言葉に出来なかったけど、ハーレイが言った言葉がピッタリ。
照り返しで光るシャングリラの姿は、前のぼくが知らない顔なんだよ。…シャングリラのね。
あの船でずっと暮らしていたのに、一度も見せてくれなかった顔。前のぼくが生きてた間には。
いなくなった後には、前のハーレイも、他のみんなも見た顔だけど…。
この照り返し、地球の太陽だとどう見えたの、と尋ねたら。
「地球か? あの時は、シャングリラは衛星軌道上に置いて行ったから…」
それに俺たちは真っ直ぐ地球に降下したから、見てないな。
降りる前に船の周りを飛んでいたなら、少しくらいは光っていたかもしれないが…。太陽までは遠かったんだが、地球の太陽は充分な明るさを持ってたからな。
しかし、生憎と前の俺は見てはいないんだ。
シャングリラが地球の大気圏内まで降りた時には、もう地殻変動が始まっていた。
前の俺は地面の遥か下にいたし、生きていたって見えやしないさ。…照り返しはな。
「そうだったんだ…」
地球の太陽で光るシャングリラは、前のハーレイも見ていないんだね。…ぼくだけじゃなくて。
「トォニィたちが見ただけだろうな、眺める余裕があったなら」
多分、無かったとは思うんだが…。余裕も、外に出るようなことも。あの時の大気圏内では。
それにだ、仮に船から出たとしたって、あんなに酷く汚れちまった大気だと…。
大して綺麗じゃなかっただろう。照り返しってヤツを目にしていても。
今の大気の中に降りたら、きっと綺麗に光るんだろうが…。
此処に載ってる写真みたいに、真っ青な空に浮かんでな。
こいつはアルテメシアの空だが、本物の地球の、抜けるように青い空の上で。
太陽の光を一面に浴びて、キラリと眩しく弾き返して。
さぞかし見事なんだろうな、とハーレイの目が細められた。
シャングリラが其処にあるかのように。…地球の太陽を浴びて光っているかのように。
「…じゃあ、シャングリラは、本物の地球の太陽の光を知らないんだね」
汚染された大気圏内だけしか、飛んでいないから。…宇宙空間だと少し違うから。
前のぼくがシャングリラの照り返しを一度も見てないみたいに、本物の太陽を知らないまま。
こんな風に澄んだ空気を通して、射して来る地球の太陽は。
シャングリラは見ていないんだよね、と眺めた窓の外。夕方だけれど、まだ明るい。
「そうなるのかもな、あれも太陽ではあったんだが…」
月だって赤くなっちまうような、濁った大気の中を通って来たんじゃ、ちょっと違うか…。
同じ太陽の光にしても。…シャングリラが見たのと、今のとではな。
太陽だが「月とスッポン」ってヤツか、とハーレイが持ち出した絶妙な言葉。確かにそのくらい違っただろう。白いシャングリラが浴びた太陽と、今の地球を照らす太陽とは。
太陽そのものは変わらなくても、地球を覆う大気が違うから。
シャングリラが地球までやって来た頃は、地球は死の星。それが今では青い水の星で、元の姿を取り戻した、まさに母なる星。その差はとても大きなものだし、別の星と言ってもいいくらい。
「…ホントに月とスッポンだよね、地球の太陽…。前のぼくたちの頃と、今では」
前のぼくはシャングリラの照り返しを一度も見られなくって、シャングリラは本物の太陽の光を知らなくて…。
シャングリラはもう何処にも無いから、どっちも見られないままってこと。
ぼくは照り返しを見られないままで、シャングリラは今の太陽の光を見られないから。
「うむ…。そうなっちまうな、残念だがな」
シャングリラはとっくに消えちまったし、地球に持っては来られない。
今のお前に見せてやりたくても、無いものはどうしようもないからなあ…。
シャングリラが今もありさえしたなら、お前に見せてやれるのに。…照り返しってヤツを。
普段は他所の星にあっても、地球まで来るってことになったら、見に連れてやって。
もちろん結婚してからなんだが、シャングリラさえ残っていたならな…。
いや、待てよ…?
少しで良ければ見られるんじゃないか、とハーレイはポンと手を打った。
ほんの少しなら、シャングリラの照り返しを見られるかもな、と。
「そいつを見るには、運ってヤツが必要なんだが…」
俺たち二人の運が良くないと、無理な話ではあるんだが…。
運次第だ、とハーレイは言ったけれども、雲を掴むような話に聞こえる。白いシャングリラは、時の彼方に消え去った船。時の流れに消えてしまって、今は写真集の中にあるだけ。
「運次第って…。ハーレイ、シャングリラはもう無いよ?」
遊園地になら、シャングリラの形の乗り物だってあるけれど…。あれは違うよ。
いくら見た目がそっくりだって、シャングリラの形に作ってあるだけ。
あれの照り返しが見られたとしても、それだと紛い物だから…。
写真集の方がずっといいよね、と指差した写真。「これは本物のシャングリラだもの」と。
地球のとは違うアルテメシアの太陽だけれど、ハーレイも指摘していた通り。
人間が暮らす惑星だったら、太陽の光はそれほど違いはしないのだから。
「いいや、本物、あるだろうが。…遊園地の乗り物なんかじゃなくて」
うんと小さくなっちまったが、今もシャングリラはあるってな。
このくらいのサイズで、とハーレイの指でトンと叩かれた薬指の付け根。左の手の。
「え…?」
オモチャよりも小さそうな船。とても小さなシャングリラ。薬指の幅くらいしか無いのなら。
それが本物のシャングリラだなんて、いったいどういう意味なのだろう…?
「俺だともう少しデカくなるなあ、俺の指だとコレだから」
お前の指よりずっと太いし、いつかお前が大きくなっても、俺の方が指は太いまま、と。
俺の指まで言ってやっても分からんか?
いいか、左手の薬指だぞ、この指には意味があるんだが…。
前の俺たちとは縁が無かったが、今の俺たちには大切な指になるってな。今度は堂々と、お前と結婚出来るんだから。
左手の薬指の指輪だ、シャングリラ・リングというヤツだ。
「あ…!」
あったね、シャングリラ・リング…。あれはホントにシャングリラだっけ…!
そういえば、と思い出したこと。今の時代にも残り続ける、本物の白いシャングリラ。
トォニィが解体を決めたシャングリラは、時の彼方に消えたのだけれど。役目を終えたミュウの箱舟、白い鯨は今は何処にも無いけれど…。
白いシャングリラの船体の一部だった金属、それが今でも残されている。その塊から、決まった数だけ作られる指輪。一年に一度、作り出される結婚指輪。
今の宇宙では、結婚を決めたカップルだったら、誰でも指輪を作って貰える。白いシャングリラから採られた金属、それを使って対の指輪を。
けれど、申し込めるチャンスは一度だけ。抽選に当たれば「シャングリラ・リング」と呼ばれる指輪がやって来る。ハーレイの分と、自分の分と。
いつかハーレイと結婚する時、シャングリラ・リングを手に入れることが出来たなら…。
「…指輪の分だけ、照り返し、あるね」
ほんの少しでも、シャングリラだから…。小さくても本物なんだから。
指輪に太陽の光が当たれば、それがシャングリラの照り返し。…ぼくのも、ハーレイが嵌めてる指輪も、ちゃんと光を反射するから。
「そういうことになるってな。指輪サイズでも、本当に本物のシャングリラだ」
白い鯨と同じように光るかもしれないな。あの船と全く同じ具合に。
シャングリラ・リングは、銀色だとも、白っぽい金のようだともいう話だし…。
白い鯨にそっくりらしい、とハーレイが浮かべた優しい笑み。「指輪になっても白い鯨だ」と。
「それって…。色は決まっていないの?」
銀色だとか、白っぽい金だとか…。似てるようでも少し違うよ。
同じ塊から作る筈なのに、違うだなんて…。指輪にする時、何か入れたりするのかな?
加工しやすいように別の何かを、と傾げた首。
白い鯨の船体だけでは、指輪を作れはしないのだろうか、と。
「そう思うだろうが、そうじゃないらしいぞ」
どの指輪も出来上がりは全部同じだ、混ぜ物は何もしていないから。
元はシャングリラの一部だったヤツを、溶かして指輪に加工し直すだけなんだしな。
指輪は丸ごとシャングリラだ、とハーレイは説明してくれた。「混ぜ物は一切無しなんだ」と。
形を指輪に作り替えるだけ、それがシャングリラ・リングだという。白い鯨の船体だった金属、他には一切何も入れない。
「そういう仕組みになっているんだ、シャングリラ・リングは」
シャングリラそのものの記念だからなあ、手を加えたら駄目だろう。
金属の比率を変えちまったら、もうシャングリラじゃなくなっちまう。ただの合金で、あの船の思い出にはならない。そのままの姿で残さないと。
シャングリラ・リングは、白い鯨の船体の色じゃなくてだ、船を作っていた金属だから…。
あの上から塗装していた船だろ、シャングリラは。色々な都合で、真っ白な船に。
金属だけで出来てる指輪だったら、白い鯨には見えない筈だが…。
何も塗ってはいないんだしなあ、銀なら銀で、白っぽい金なら、そういう色の筈なんだが…。
どうしたわけだか、白い鯨にそっくりな色に見えちまう時があるそうだ。
前の俺たちの船と同じに、真っ白に光って見える時が。
「不思議だね…。銀色だったり、白っぽい金だったりっていうのは分かるけど…」
金属なんだし、光の具合で見え方は変わるかもしれないけれど…。
シャングリラみたいに塗装してないのに、白い鯨の色に見えるだなんて。
それって、とっても不思議な感じ。シャングリラで出来てる指輪だからかな…?
「どうなんだかなあ…? 俺にもサッパリ分からんが…」
其処が光のマジックだってな、白い鯨にも見えちまうのが。…銀色とかの筈の指輪が。
だが、色の仕組みの方はどうあれ、照り返しはちゃんと見られるぞ。
前のお前が見損ねちまった、シャングリラの。
指輪の分だけのヤツにしたって、本物には違いないからな。塗装してない金属でも。
「欲しいよ、シャングリラ・リング…!」
シャングリラの照り返しが見られる指輪で、前のぼくたちが暮らした船の記念なんだから…。
「俺たちだったら、当たるって気もするんだが…」
外れやしない、って気はしているんだが、こればっかりは運だからなあ…。
どうなるのかは分からないよな、申し込むまで。…申し込んで抽選の結果が出るまで。
当たってくれるといいんだがな、とハーレイにも読めないシャングリラ・リング。当たるのか、作って貰えるのか。二人揃って薬指に嵌める時が来るのか、またシャングリラに会えるのか。
「俺の運、悪くはないんだが…。お前はどうだ?」
ラッキーな方か、と尋ねられたけれど、どうなのだろう。クジなど、滅多に引かないから。
「分かんない…。悪くないとは思うんだけど…」
神様にお願いしておかなくちゃね、シャングリラ・リングを申し込んだら。
抽選でハズレになりませんように、って毎日、お祈りしなくっちゃ。
シャングリラ・リングを貰えるように、と眺めた左手の薬指。いつか結婚指輪を嵌める予定の、今はまだ細い子供の指。
前の自分とそっくり同じ姿に育って、結婚式を挙げられる日が来たならば。…ハーレイの花嫁になる日が来たなら、この指に結婚指輪が嵌まる。ハーレイと指輪の交換をして。
(…結婚指輪に、シャングリラ・リングを貰えたら…)
指輪を嵌めた手が本物の地球の太陽を浴びたら、白いシャングリラの照り返しが見られる。前の自分は見られなかった、太陽の光を弾く姿が。
そしてシャングリラは、本物の地球の太陽を見ることが出来る。とても小さな指輪だけれども、今の自分の指に嵌まって。
白いシャングリラが見られないままで終わってしまった、蘇った地球を眩く照らす太陽を。
薬指に嵌まったシャングリラ・リング。小さな指輪に姿を変えた、懐かしい白いシャングリラ。
それはいつでも指にあるのだし、何処へ行く時も嵌めておくのが結婚指輪。
(…ということは…)
シャングリラ・リングを貰えて嵌めていたなら、白いシャングリラは色々な所へ行ける。薬指に嵌まって、自分と一緒に移動して。
地球のあちこちへ出掛けてゆけるし、もちろん自分がハーレイと二人で暮らす家へも。
(それって凄い…)
ホントに凄い、と丸くなった目。
白いシャングリラは、本物の地球の太陽を知らないままで終わったけれども、今度は青い地球の上。真っ青な海も、緑の森も、シャングリラは見ることが出来るんだ、と。
今の自分がシャングリラ・リングを嵌めたなら。…白いシャングリラと一緒だったら。
とても素敵で、素晴らしいこと。シャングリラ・リングを貰えさえしたら…。
「ねえ、ハーレイ。ぼくたちの指に、シャングリラ・リングを嵌められたら…」
抽選に当たって、ちゃんと結婚指輪に出来たら、とっても素敵。
シャングリラ、うんと小さくなっちゃうけれど…。指輪サイズのシャングリラだけど…。
でも、シャングリラは何処へでも行けるよ、ぼくたちと一緒に。
結婚指輪はいつも嵌めてるものでしょ、だから旅行にも食事にも、ドライブだって。
何処へ行く時もシャングリラと一緒で、あちこちに連れてあげられそう。前のぼくたちが生きていた船を、いろんな所へ、色々な場所へ。
それに、ぼくたちの家の中にも入れちゃうんだよ。指輪サイズのシャングリラだから。
玄関からでも、庭からでも…、と披露した。小さな自分が気付いたことを。
「家の中まで入れるってか? 俺の車でも、家の中には入れないんだが…」
ガレージまでしか入れやしないし、玄関なんかは、とても通れやしないんだが…。
シャングリラ、大した出世だな。
人間様と一緒にあちこち出掛けて、家に入って、ゆっくりのんびり暮らせるとはなあ…。
俺の指に嵌まってコーヒーなんかも飲むらしいぞ、と可笑しそうに笑っているハーレイ。きっと紅茶も飲むんだろうと、「お前、コーヒーじゃなくて紅茶だしな?」と。
「ケーキなんかも食べると思うよ、ぼくたちと一緒なんだから」
シャングリラ、とても頑張った宇宙船だもの…。そのくらいの御褒美、当たり前だよ。
家に入れるのも、コーヒーや紅茶を飲めるのも。…ケーキを食べられることだって。
だけど、シャングリラ、凄くビックリしちゃうかも…。
コーヒーや紅茶は美味しく飲んでも、それよりも前にビックリ仰天。
地球が青いことにも驚くだろうけど、ぼくとハーレイが結婚だなんて。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが結婚しちゃって、シャングリラ・リングを二人で指に嵌めてるなんて…。
もしかしたら腰を抜かしちゃうかも、と瞬かせた瞳。「青い地球よりビックリだよね」と。
「…ぼくたちがシャングリラ・リングを当てたら、ホントに大変」
どういうカップルが嵌めるんだろう、って顔を出したら、ぼくとハーレイだよ?
シャングリラ・リング、ビックリして床に落っこちちゃうかも、届いた箱を開けた途端に。
ぼくとハーレイが覗き込んだら、ホントのホントに驚いちゃって。
落ちちゃうかもね、と心配になったシャングリラ・リング。驚いて箱から転がり落ちて。揃いの指輪の片方どころか、両方ともが。
「その心配は無いってな。俺とお前の所へ来たって、シャングリラだったら大丈夫だ」
驚くだろうが、きっと喜んでくれると思うぞ。あの船は全部知っていたしな、俺たちのことを。
前のお前と、俺とのこと。
船の仲間たちは知らなかったが、シャングリラは知っていたんだから。…何もかもをな。
「そっか…。そうだよね、シャングリラで暮らしていたんだから」
前のぼくたちが恋をしてたのも、みんなに内緒で一緒にいたのも、全部知ってた筈だよね。
ハーレイもぼくも、あの船で生きていたんだもの。
でも…。それじゃ、何もかも全部、シャングリラに見られちゃってたの?
前のぼくたちが抱き合ってたのも、キスしていたのも、シャングリラは全部見ていたわけ…?
シャングリラの中にいたんだものね、と染まった頬。きっと真っ赤に違いない。
あまりにも恥ずかしすぎるから。白いシャングリラに見られていたとは、思ったことさえ一度も無かったものだから。
「そうなるんだろうが、今度もそうだぞ。…今の俺たち」
運良くシャングリラ・リングが当たって、指輪を嵌めっ放しなら。
シャングリラは俺たちと一緒なんだし、今度も何もかも見られちまうってな。
俺たちがシャングリラの中にいるのか、シャングリラが俺たちにくっついてるかの違いだけで。
シャングリラは此処から見てるってわけだ、とハーレイがつついた自分の左の薬指の付け根。
「うーん…」
やっぱり今度も見られちゃうわけ、シャングリラ・リングを嵌めてたら…?
ハーレイとぼくが指輪を嵌めていたなら、何をしててもシャングリラと一緒なんだから…。
困ったことになっちゃった、と見詰めた自分の左の手。今はまだ細い薬指。
いつかハーレイと結婚したなら、シャングリラ・リングを其処に嵌めたいけれど。
白いシャングリラを、あちこちに連れて行きたいけれど。
(旅行に、食事に、他にも色々…)
満喫して欲しい、蘇った青い地球での暮らし。あの白い船に、白い鯨に。
前の自分が守った船。ハーレイが舵を握っていた船。
誰にも言わずに終わってしまった、前の自分たちの恋を守っていてくれた船。
白いシャングリラには、どんなに御礼を言っても足りない。言葉ではとても言い尽くせないし、紅茶もケーキも、コーヒーも御馳走してあげたい。
(本物の地球の太陽だって…)
その照り返しを指輪の姿で見せられるよう、左手を空へと伸ばしたいけれど。眩い光を、本物の太陽が放つ光を、シャングリラに浴びさせてあげたいけれど。
(ぼくとハーレイが結婚したら…)
前と同じに恋人同士の日々が始まる。今は許して貰えないキスや、その先のことも。
ハーレイと二人でベッドに入って愛を交わす時も、白いシャングリラは左手の薬指にちゃんと、くっついて眺めているわけで…。
「…恥ずかしいから外そうかな…」
シャングリラ・リング、お風呂の前に。…外して箱に入れておいたら、見られないから。
朝に起きたら嵌めればいいでしょ、寝る時まで嵌めていなくっても…?
「お風呂に入る前に、外してもいい?」と訊いてみた。シャングリラに全部見られているのは、やっぱりどうにも恥ずかしいから。
「好きにすればいいが、その話、そこでやめておけよ?」
指輪はいつでも嵌めておくんだ、って話なら可愛らしいがな…。
いつ外そうかと相談だなんて、お前、いったい何歳なんだ。結婚出来る年じゃないだろうが。
お前みたいなチビには早い、とハーレイにコツンと小突かれた額。
「もっと大きくなってからだ」と、「前のお前と同じ背丈に育ってから相談するんだな」と。
「指輪を外すタイミングなんぞ、俺は知らん」と、腕組みをして軽く睨まれたけれど。
チビのくせに、とハーレイは顔を顰めるけれども、いつかシャングリラを指に嵌めたい。
シャングリラ・リングを抽選で当てて、左手の薬指に嵌める小さなシャングリラ。
指輪サイズになった白い鯨を、前のハーレイと長く暮らした懐かしい船を、大切な左の薬指に。
(結婚指輪は、いつも嵌めてるものだから…)
白いシャングリラに、本物の地球の太陽の光をプレゼントしてあげて、前の自分が知らなかったシャングリラの顔を少しだけ覗かせて貰う。
太陽の光を受けて輝くシャングリラを。白いシャングリラの照り返しを。
(いつも、シャングリラと一緒…)
それがいいな、とシャングリラ・リングが当たるようにと夢を見る。
あの懐かしい白い鯨に、沢山の御礼をしたいから。
綺麗な景色も、御馳走なんかも、ハーレイと二人で、たっぷりと味わわせてあげたいから…。
照り返し・了
※前のブルーは見られなかった、シャングリラの船体の照り返し。それに今はもう無い船。
けれど、指輪になったシャングリラに、また会うことが出来るかも。何処へ行く時にも一緒。
クルンと回ったブルーの視界。体育の授業の真っ最中に、グラウンドで。
まだ午前中で、日射しが暑いわけでもないのに。さっき始めたばかりのサッカー、走りすぎてはいないのに。
けれど、回ってしまった目。よく考えたら、ボールを追い掛けて全力疾走、それもいきなり。
いつもだったら、これだけの距離を一気に走り抜いたりはしない。足の速い仲間たちにお任せ、端で見ているだけなのが自分。
(頑張り過ぎちゃった…)
たまたま誰もいなかったから。…いける、と思ったものだから。
倒れちゃうんだ、と思ったけれども、止まらない身体。スローモーションみたいに感じる時間。色々なことを、こうして考えていられるほどに。
(時間、伸びてる…)
地面が遠い、と感じる間に遠ざかる意識。まだグラウンドに倒れない身体。
眩暈を感じた瞬間からだと、かなり経ったと思うのに。けれど時間は、まるで飴のように伸びてゆく。もう倒れても良さそうなのに、と意識はフッと消えてしまって…。
「おい、ブルー!」
大丈夫か、と頭の上から聞こえて来た声。
此処にいる筈がないハーレイの声で、背中の下に感じる地面。仰向けに寝かされているらしい。
「ハーレイ……先生…?」
うっかり「ハーレイ」と呼びそうになって、慌てて付け加えた「先生」。
ぼんやりと瞼を押し上げてみたら、ハーレイがいたものだから。
側に屈み込んで、心配そうな顔のハーレイ。鳶色の瞳が見下ろしている。「大丈夫か?」と。
何処から見たってハーレイそのもの、夢を見ているとは思えない。
グラウンドで倒れた筈なのに。…身体の下には地面の感触、体育の授業中なのに。
よくよく見たら、ハーレイの後ろに見える青空。やっぱり此処はグラウンド。
他の生徒の声も聞こえるし、サッカーボールを追う音だって。シュートやドリブル、グラウンドだけで聞ける音。
(なんで…?)
どうしてハーレイが此処にいるの、と訊きたいけれど。見下ろしながら日陰を作ってくれている優しい恋人、温かな声の持ち主に尋ねたいけれど。
(……敬語……)
学校でハーレイと話す時には、いつでも敬語。学校では「ハーレイ先生」だから。
その大切な敬語が使えそうにない。上手く話せなくて、家での言葉が口から零れてしまいそう。先生と話す言葉ではない、友達に向けるような言葉が。
だから目だけを瞬かせた。「なんで?」と、「どうして此処にいるの?」と。
ハーレイは直ぐに分かったらしくて、穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「驚いたか? たまたま通り掛かったんだ。空き時間だからな」
ちょいと学校の中を散歩だ、そしたらお前が倒れる所を、偶然、目撃しちまった、と…。
しかしだ、お前、暫く意識が無かったし…。
こりゃ保健室に行くしかないな、とハーレイは体育の先生と相談し始めた。グラウンドで授業を見学するより、保健室。ベッドに寝かせて、それから家に帰した方が、と。
「私もそう思っていたんですよ。帰らせた方が良さそうです」
保健委員を呼びましょう、と手を上げかけた体育の先生を、「いえ」と止めたハーレイ。
「私が連れて行きますよ。授業中の生徒よりかは暇ですからね」
それに、ブルー君の守り役でもあります。大丈夫ですよ、お任せ下さい。
先生も、どうぞ授業の続きを。…あっちの方で揉めていますよ、オフサイドかどうか。
行ってあげて下さい、とハーレイが促したから、体育の先生は「お願いします」と、生徒たちの方へ走って行った。「こら、騒ぐな!」と、声を上げながら。
(…ハーレイが連れてってくれるんだ…)
保健委員の生徒の代わりに、保健室まで。グラウンドからは距離がある場所。
少し遠いから、背中に背負ってくれるのだろうか。「倒れたお前を運ぶ時には、おんぶだな」と前に言っていたことがあるから。学校の中で倒れていたなら、ハーレイがおんぶ。
それとも抱っこ、と期待したのに。
柔道部員の生徒たちには罰でしかない、「お姫様抱っこ」での保健室行き。ハーレイが注意したことを守らず、その結果、怪我をしたならば。「行くぞ」と、逞しい両腕で抱き上げられて。
(柔道部員には恥らしいけど、ぼくはお姫様抱っこでも…)
いいんだけどな、と夢を見たのに、「おい、立てるか?」と言ったハーレイ。
「熱は無いしな、倒れたはずみに足を捻ってもいないようだし…」
立てるんだったら、俺が支えて歩くから。
「あ、はい…。多分…」
大丈夫です、と起き上がってみても、世界が回りはしなかった。身体に力が入らないだけ。少し重くて、だるい感じで。
その程度だったら立つしかなくて、外れた期待。おんぶも抱っこも、何処かに消えた。
保健委員の生徒と行くなら、歩いてゆくのが当然のこと。ヨロヨロしていても、歩けるのなら。歩けないなら、車椅子とか担架の出番。
(…おんぶも抱っこも無しなんだ…)
せっかくハーレイが来てくれたのに、と残念だけれど、ハーレイはしっかり支えてくれた。
力が入らない足で立ち上がる時も、手を貸してくれて。
なんとか立ったら、身体に腕を回してくれて。
「俺に掴まれ。…お前とじゃ、背が違いすぎるしな」
服を握ってもかまわないから。
スーツがちょっぴり皺になろうが、俺は文句を言いはしないぞ。
ゆっくり歩けよ、とハーレイが一歩踏み出した足。チビの自分に合わせてくれた小さな歩幅。
「この歩き方で大丈夫か?」と確かめてくれた。「お前に合わせたつもりなんだが…」と。
ハーレイだったら、もっと大股で歩くのに。背筋もシャンと真っ直ぐ伸ばして。
そのハーレイが腰を屈めて、一緒に歩いてくれている。置き去りにしてしまわないように。
(夢みたい…)
ハーレイと並んで歩けるなんて。それも二人きりで、学校の中で。
保健室まで距離があることを感謝した。ハーレイと二人で歩く時間が、遠い分だけ増えるから。
倒れないようハーレイの上着の裾を掴んで歩いて、グラウンドから少し離れた所で…。
「おい、ブルー。ボロを出すなよ?」
「え…?」
なあに、とハーレイの顔を仰いだら、返った苦笑。
「ほら、それだ。…其処は「なあに?」じゃなくて、「何ですか?」だろうが」
学校の中では、俺はハーレイ先生だ。…お前の家とは違うってな。
いつもみたいに敬語で話せる自信が無いなら、黙っておけ。
他の先生だって通るし、保健室にも先生ってヤツがいるんだから。
分かったな、と刺された釘。「失敗するより、最初から喋らない方がマシだ」と。
それきり、黙ってしまったハーレイ。…ハーレイが話せば、きっと自分も話し出すから。
会話はプツンと途切れてしまって、黙って歩くしかないのだけれど。
(喋れなくても…)
ハーレイと二人だったら幸せだよ、と校舎に入って歩いた廊下。
保健室がもっと遠いといいなと、まだまだ着きたくないんだけれど、と心の中で繰り返して。
そうは思っても、どんな道にもある終点。「保健室」と書かれた部屋の前に着いた。
ハーレイが扉を「ほら」と開けてくれて、中に入ると、顔馴染みになった女の先生。保健室には何度も来ているのだから、当然だけれど。
「ブルー君?」と名前を呼んだ先生に、ハーレイが「ええ」と代わりに答えた。
「体育の授業で倒れたんです。いきなり全力疾走したそうで…。この通りですよ」
たまたま私が通りましてね、こうして連れて来たんです。保健委員も授業がありますからね。
ベッドに寝かせていいですか?
熱は無いですから、それほど心配要らないだろうとは思うんですが…。
「どうぞ、ベッドは何処でも空いてますから」
今日の保健室は暇なんです、と保健室の先生が言う通り。並んだベッドはどれも空っぽ、先客は誰もいなかった。「暇なんです」と言うほどだから、怪我をした子もいないのだろう。
「良かったな、ベッドが空いていて。…選び放題だぞ、何処がいい?」
そうおどけながら、ハーレイはベッドに座らせてくれた。体操服にグラウンドの土がくっついていないか確認してから、「寝ていろよ」という命令。
ベッドの上に横になったら、上掛けがそっと被せられた。「こんなモンかな」と胸の辺りまで。
その間に、保健室の先生が「ブルー君の家に連絡を」と、通信を入れていたのだけれど。
「…お留守みたいですわね」
困ったような先生の声で、気が付いた。母が通信に出ない理由。
(ママ、出掛けるって…)
昨日の夜に、そう聞いた。「明日はお友達と出掛けて来るわ」と。午前中だけと言っていた母。知り合いが小さな展覧会をするから、それを見に行くと。
思い出したから、そう言った。「母は午前中は留守なんです」と、ベッドの上から。
午前中だけと聞いたのだけれど、行き先は小さな展覧会。しかも知り合いが開いたもの。其処へ友達と出掛けたのなら、昼御飯も食べて来るかもしれない。
(…だけど、どうだか分からないから…)
今、言わなくてもいいだろう、と「午前中は留守」と伝えたものの…。
「そりゃ困ったな…。お母さん、出掛けちまってるのか…」
お前、行き先、知らないだろうな、と首を捻っているハーレイ。「こりゃ連絡は無理だな」と。
「後で通信を入れてみますわ、お昼休みにでも」
その頃にはお帰りになるでしょうから、と保健室の先生が書いているメモ。きっと中身は、次に通信を入れる時間。「お昼休み」だとか、「午前中は留守」とか、そんな感じで。
「すみません、ブルー君をよろしくお願いします」
また昼休みに、様子を見に来てみますから。…あ、連絡がつくようでしたら…。
ブルー君は私が送って行くと伝えて下さい、とハーレイが口にした言葉。
「午後は授業が無いですから」と、「これも守り役の役目の内でしょう」とも。
母が迎えに来るのだったら、タクシーを使うことになる。そうするよりもずっといい、と。
(ホント…!?)
ハーレイに送って貰えるんだ、と高鳴った胸。
学校の駐車場に停めてある濃い緑色の車、前のハーレイのマントの色とそっくりな車。あの車で家まで送って貰える。ハーレイの運転で、助手席に乗って。
(ハーレイの車で、家までドライブ…)
ほんの短い距離だけれども、二人きりで乗ってゆく車。ハーレイの車で走れる道路。
それを思うと、もう嬉しくてたまらない。
(身体、なんだか重いから…)
下手をしたなら明日は欠席、それはとっても癪だけど。
学校を休むことになったら、その日は会えない「ハーレイ先生」。昼の間はハーレイに会えずに終わってしまう。「ハーレイ先生」の方にしたって、ハーレイには違いないのだから。
嬉しい反面、癪にも障る「倒れた」こと。
ハーレイと一緒に保健室に来られて、家まで送って貰えるにしても…、と複雑な気分。大喜びの自分と、悔しい自分と、どちらも本当。
いったいどちらが大きいだろう、と考えていたら、こちらの方へ向いたハーレイ。
「そうだ、お前の制服とかは…。ロッカーか?」
今は体操服に運動靴だし、ロッカーの中といった所か。制服も、靴も。
「はい…」
ロッカーです、と返事した。其処に入れてある、制服と靴。体育の授業の前に着替えて、入れた自分のロッカーの中。鍵などは無いロッカーだけれど。
「開けてもいいな? 俺が送って行くんだから」
今じゃないがな、後で送って行く時に。…でないと、お前の服も靴も無いし。
どうせ持ち物検査の時には、抜き打ちで開けちまうのがロッカーだしな?
いいな、と念を押すハーレイ。「開けないとお前の服が出せない」と、大真面目な顔で。
「すみません。お願いします…」
「よし。…じゃあ、また後で見に来るから」
お母さんと早く連絡がつくといいな、とハーレイは保健室から出て行った。「よろしく」と女の先生に軽く頭を下げて。
次に来るのは昼休み。それまでは授業か、他の用事で忙しいのか。
(…ずっとついてて欲しいんだけど…)
そう思ったって、此処は学校。ハーレイはあくまで「ハーレイ先生」、一人占めしたり出来ない場所。保健室まで連れて来て貰えただけでも幸運なのだし、贅沢なことはとても言えない。
それに…、と綻んでしまった顔。
母にきちんと連絡がついたら、ハーレイが家まで送ってくれる。
チビの自分は、まだドライブには行けない車で。いつも見ているだけの車で。
ハーレイと出会って間も無い頃に、一度だけ乗せて貰った車。
メギドの悪夢に襲われた夜、無意識の内にハーレイの家まで飛んでいた。瞬間移動で、ベッドの中へ。何も知らずに朝まで眠って、朝食の後で、パジャマのままで家までドライブ。
あの時だけしか乗ってはいない。いつか乗りたい、ハーレイの隣の助手席に座れる車には。
(…車で送って貰えるんだよ…!)
ぼくの家まで、と天にも昇る心地だけれども、ふと心配になったロッカー。教室の後ろに幾つも並んだロッカーの一つ、自分の名前が書かれた紙がついているロッカーだけど。
(…ハーレイがあれを開けるんだよね?)
他の生徒たちもいる教室で、「荷物を取りに来たからな」と。鍵は無いから、カチャリと簡単に開く扉。そのロッカーの中を、ハーレイが覗き込むわけで…。
きちんと制服を入れただろうか?
畳みもしないで突っ込まないで、皺にならないように綺麗に。それに靴とか、ロッカーの中身。美術の授業で使う絵具や、他にも色々入れている場所。
(通学鞄も…)
ハーレイが持って来てくれる筈。そちらは訊かれなかったけれども、服と一緒に届くのだろう。鞄に入れるべき物たちを選んで、ハーレイが詰めて。
(…酷いことになっていないかな…)
鞄の中と、教科書とかを入れた机の中。
整理しながら入れるタイプとはいえ、いつもそうとは限らない。
(たまに、慌てて…)
いい加減に突っ込んでしまったりする、机や鞄やロッカーの中身。休み時間に友達と話す間に、ついつい時間が経ってしまって。チャイムの音でビックリ仰天、エイッと放り込む中身。
(変なことになっていませんように…)
今更どうにもならないのだけど、祈るような気持ち。「神様、お願い」と心の中で。
けれど、だるくて重たい身体。自然と瞼が重くなっていって、身体もベッドに沈んでゆくよう。
いつの間にやら、スウッと眠りに落ちてしまって…。
「ブルー君?」
大丈夫、という保健室の先生の声で目が覚めた。あれからどのくらい経ったのだろう?
そう思いながら「はい」と答えた。天井が回っていたりはしないし、大丈夫と言えば大丈夫。
「…少し身体が重いですけど…。大丈夫です」
「良かったわ。よく寝ていたし、あれから熱も出ていないから。でも…」
お母さん、まだ連絡がつかないの。今はお昼休みの時間だけれど…。
どう、お昼御飯は食べられそう?
食べられそうなら、食堂から何か届けて貰うわ、と先生は笑顔。「何か食べる?」と。
「えーっと…」
どうだろうか、と考えたけれど、頭に浮かぶのはランチセットのプレート。食べられそうもない量と中身と。他には何も浮かんで来ないし、「無理かも…」と答えかけた所へ開いた扉。
「ブルー君のお母さん、どうでしたか?」と入って来たハーレイ。
「あれから連絡、つきましたか? それなら送って行きますが…」
「いえ、それが…」
まだなんです、と先生が応じて、ハーレイは「そうですか…」とベッドの方にやって来た。
「お母さん、まだ家に帰ってないんだな。この時間だったら、外で食事かもなあ…」
それなら暫くかかるだろう。…分かった、昼飯、持って来てやるから。
「えっ…?」
キョトンと瞳を見開いてから、「いえ、いいです…」と俯き加減で断った。ハーレイの心遣いは嬉しいけれども、昼御飯はとても食べられない。保健室の先生にだって、断るつもりだったから。
ハーレイにもそう説明したのに、「お前なあ…」と顰められた顔。
「お母さん、何時に帰って来るかも分からないんだぞ?」
何も食べないなんて、身体に悪い。お前、体育で走ってたしな?
運動した分、エネルギーを入れてやらないと。
いつものランチセットは無理でも、プリンくらいは食えるだろうが。
買って来てやる、と出掛けて行ったハーレイ。「直ぐに戻る」と、保健室の扉の向こうへ。
言葉通りに、本当に直ぐに戻って来たのがハーレイの凄さ。食堂まで走ったわけでもないのに、歩幅が大きいと歩く速度も速いから。
手には食堂で売られているプリン。放課後に食べる生徒もいるから、昼休みには売り切れない。
「食っとけ、プリンは病人食にもいいんだぞ」
卵と砂糖で栄養満点、ただし食い過ぎると駄目だがな。甘い物ばかり食ってちゃいかん。
だが、お前には必要だ。腹が減ったら、治るものも治らないからな。
食えよ、とプリンを見せられた。「ベッドの上で食っていいから」と、スプーンもつけて。
「はい…。ありがとうございます…」
うん、と言えないのが悔しい。それに「ありがとう!」も。
学校ではハーレイは「ハーレイ先生」、敬語でしか話すことが出来ない。「起きられるか?」と支えて起こしてくれても、プリンを持たせて貰っても。…それにスプーンも。
ハーレイが側にいてくれるのに。プリンだって買ってくれたのに。
(でも、美味しい…)
甘くてとっても優しい味、とスプーンで掬って頬張っていたら。
「あ、ブルー君のお母さんですか?」
保健室の先生が話しながら、「良かったわね」と向けてくれた笑み。ようやく母についた連絡。
先生は様子をテキパキ伝えて、ハーレイが送ってゆくこともきちんと話してくれて…。
「良かったな、ブルー。家のベッドで寝られるぞ」
食い終わったら送って行くか。…俺はお前の服と荷物を取ってくるから。
プリン、残さずに食うんだぞ?
栄養不足じゃ話にならん。さてと、お前の制服と靴と、それに鞄と…。
昼休みの時間で丁度良かった、とハーレイは荷物を取りに出掛けた。
「俺は昼飯、先に食っといたから心配ないぞ」と、気になっていたことをヒョイと口にして。
今の時間が授業中なら、教室でロッカーを開けていたなら悪目立ちだな、と笑いながら。
教室へ荷物を取りに行ったハーレイ。これから開けられるだろうロッカー。覗かれる鞄と、机の中と。帰り支度を整えるために。
(ロッカーも鞄も、机も、きちんとしてますように…)
神様お願い、とプリンを食べる間もお祈り。今頃いくらお祈りしたって、手遅れなのに。いくら神様でも、ロッカーや鞄を整理したりはしてくれないのに。
それでも祈って、プリンを綺麗に食べ終えた所へ…。
「待たせたな」と、制服と鞄を持って来てくれたハーレイ。通学用の靴だって。
「お前の荷物は、これで全部、と…。安心しろ、机の中もきちんと確かめたからな」
忘れ物は一つも無い筈だ。プリントとかも、クラスのヤツらに確認したから。
食い終わったんなら、着替えろよ。
お前が着替えをしている間に、運動靴を返して来るから。…さっき持って行けば良かったな。
運動靴、ベッドの住人には要らないのにな、とハーレイは教室に行ってしまった。ベッドの脇の床に揃えてあった、運動靴を左手に持って。
(…着替えるトコ、ハーレイ、見てくれないんだ…)
着替えるためには体操服を脱いだりするのに、ハーレイは自分の恋人なのに。
前の自分なら、何度も脱がせて貰ったのに。
(ハーレイのケチ…!)
キスも断る恋人なのだし、当然と言えば当然だけれど。着替えなんかは見てもくれない。
保健室の先生だって、ベッド周りのカーテンをサッと引いたけれども。…他の生徒が入って来た時、着替えている姿が見えないように。
(…どうせ、こうなっちゃうんだけどね…)
ハーレイが此処に残っていたって、カーテンの向こう。
「早くしろよ?」などと言いながら。着替える姿は影さえ見ないで、保健室の先生と話すとか。
そうなることが分かっているから、なんとも悲しい。
どうせチビだよ、と悔しい気分。それに学校、ハーレイが「ハーレイ先生」なことも残念。
膨れっ面になってしまいそうなのを、我慢して着替えて、腰掛けたベッド。靴を履いたら、丁度戻って来たハーレイ。扉が開く音と、「着替えたか?」という声と。
「あ、はい…!」
終わりました、と開けたカーテン。「よし」とハーレイが通学鞄を持ってくれた。
「行くとするかな。…先生、お世話になりました」
送って来ます、と保健室の先生に挨拶も。
大急ぎで自分も頭を下げた。ピョコンと、「ありがとうございました」と御礼。
やっぱり少しふらつく足。ハーレイが支えて歩いてくれて、保健室を出て、少し行ったら。
「大丈夫か、ブルー? なんとか歩けはするようだが…」
プリン、美味かったか?
ちゃんと栄養になりそうか、と問い掛けられた。「お前の昼飯、プリンだけだが」と。
「はい…」
美味しかったです、と答えるのだけで精一杯。「ありがとうございました」も言い忘れた。あのプリンは、ハーレイが買って来てくれたプリンだったのに。
(…ぼくって駄目かも…)
御礼も言えない駄目な生徒、と思うけれども、まだ校舎の中。
ハーレイは「ハーレイ先生」なのだし、下手に喋ったら、きっと敬語が崩れてしまう。家で使う言葉になってしまって、周りの生徒や先生たちに…。
(偉そうな喋り方をしてる、って…)
呆れられるか、叱られるか。
そうなることが分かっているから、話せない。…黙って歩いてゆくしかない。
ハーレイにしっかり支えて貰って、二人並んで歩いていても。恋人と一緒に歩いていても。
ホントに残念、と心で溜息を零してみたり、「御礼も言えない、駄目な子だよね」と、プリンの御礼を言いそびれたことを悔やんだりして、歩いた廊下。保健室から、校舎の外へ出るまでの。
(廊下、こんなに長かったっけ…?)
話しながらだと直ぐなのに、と思う間に、ようやっと、外。校舎を離れて、ハーレイの車がある駐車場が其処に近付いて来たら…。
「ドライブだな」
「え…?」
もう、頑張って敬語で話さなくても大丈夫な場所。昼休みの終わりのチャイムが鳴ったし、誰も此処まで来はしない。生徒も、それに先生だって。
そういう所で、ハーレイの口から出て来た言葉が「ドライブだな」。
ドライブとはどういう意味だろう、と目を丸くして見上げたハーレイの顔。ドライブを期待していたのだけれども、まさかハーレイが言うとは思わなかったから。
「なあに、お前の家までドライブだってな。…ドライブにしては短い距離だが」
お前がバス通学をしてるってだけで、元気な生徒は歩きに自転車。
たったそれだけの距離しか無いドライブだし、ついでにお前は病人なんだが…。
乗れ、とハーレイに開けて貰った助手席のドア。
其処に座ったら、「鞄はお前が持ってろよ」と通学鞄を渡された。膝の上にポンと乗せられて。
「俺はあっちだ」と、助手席のドアがバタンと外から閉まって、ハーレイが車の前を横切る。
運転席の方のドアを開いて、乗り込むために。
(これ、本当にドライブなんだ…!)
ぼくの家までの間なんだけど、とキョロキョロ周りを見回した。
ハーレイの車で家までドライブ、短い距離でも二人きり。こういう車だったっけ、と天井や床やシートなんかを目で追ってゆく。
(…ハーレイの車…)
いつもハーレイが乗ってる車、と誇らしい気分。それの助手席、其処に自分がいるのだから。
まるでデートの帰りみたいに、ハーレイが送ってくれるのだから。
ワクワクする間に、運転席に座ったハーレイ。ハンドルやシートやミラーを確かめ、エンジンをかけて、車が動き出した時。
「シャングリラ、発進!」
そう懐かしい声が上がった。遠く遥かな時の彼方で、何度も耳にしていた言葉。
キャプテンだった前のハーレイ、そのハーレイが舵を握って、あるいはブリッジのキャプテンの席でかけた号令。「シャングリラ、発進!」と、誰の耳にも届くようにと大きな声で。
(…シャングリラ…)
そうだったっけ、と思った車。ハーレイの車は、いつかシャングリラになる車。
今のハーレイと今の自分と、二人だけのために動くシャングリラ。今は濃い緑色の車で、白い車ではないけれど。…白いシャングリラではないのだけれど。
ぼくとハーレイのシャングリラ、とハーレイの方に顔を向けたら、「うん?」と視線。
「ああ言ってやりたい所なんだが、まだ言えないな。…お前、チビだし」
俺とデートに出掛けてゆくには、年も背丈も足りてない。シャングリラに乗るには早いってな。
今のはちょっとしたサービスってトコだ、俺もケチではないんだぞ。
お前の元気が出るように言ってみたんだが、と駐車場を出て走り始めた車。校門を抜けて、後にした学校。道路に出たらもう、本当にハーレイと二人きり。
いくら制服を着込んでいても、膝の上に通学鞄があっても、「ハーレイ先生」はもういない。
学校の外では、もう教え子ではない自分。ハーレイだって、教師ではない。
(…ぼくとハーレイと、二人だけ…)
まだシャングリラとは呼んで貰えない車だけれども、ハーレイと二人。
前の生と同じに恋人同士で、二人きりで走ってゆく道路。
ほんの短い距離にしたって、家に着くまでの道だって。…学校から帰るだけだって。
いつかデートに出掛ける時には、自分が座る筈の席。ハーレイの隣にある助手席。
其処に座って前を見ている。ハーレイが見ているのと同じ景色を、ほんの少しだけ隣にずれて。
そのハーレイはハンドルを握って、未来のシャングリラを操る。真っ直ぐに、時には右に左に、家へと続いている道を。
(気分だけでも、ドライブで、デート…)
はしゃぎたいのに、重たい身体。
学校を早退するほどなのだし、身体が軽いわけがない。どんなに心が軽くても。
踊り出したいくらいに弾んで、羽が生えて飛んでゆけそうでも。
ハーレイと話もしたいというのに、だるくて力が入らない。それでも、と口を開いてみた。
「…えっとね…」
この車、と言った途端に、重々しい声。
「静かにしていろ。酔っちまうぞ」
お前に元気が無いっていうのは分かるんだ。…声の調子で。
そういう時には酔いやすい。お前みたいに身体が弱けりゃ、なおのことだ。
ゆっくり走っているつもりなんだが、他の車には迷惑かけられないからなあ…。
これが限度だ、だから黙って乗っていろ。…酔わないように。
いいな、と幼い子供に言い聞かせるように、ハーレイが注意するものだから。
「…うん…」
そう頷くしか道は無かった。
酔ってしまったら、ハーレイの好意を台無しにする。家に着いたら車酔いでフラフラ、今よりも酷い状態だなんて。
そんな自分を母が見たなら、きっとハーレイに平謝り。「ご迷惑をおかけしました」と。
車に酔うほど具合が悪いと知っていたなら、タクシーで迎えに行ったのに、と。
(…そんなことになったら…)
次のチャンスは二度と訪れない。
学校で倒れて、ハーレイの車で家までドライブ。
そうしたくても、母が保健室の先生に「迎えに行きます」と言ってしまうから。ハーレイの車で帰る代わりに、タクシーに乗って帰る家。…母と一緒に。
またハーレイの車で家に帰りたかったら、酔わないこと。ハーレイの注意を守ること。
仕方なく黙って、助手席のシートに深くもたれて乗っている内に、もう家の近くの住宅街。
(バス停だって、過ぎちゃった…)
いつも歩いて帰ってゆく道、其処をハーレイの車で走って、見えて来た生垣に囲まれた家。
ガレージに車が滑り込んだら、家の中から出て来た母。
「ハーレイ先生、すみません!」
家まで送って来て頂くなんて、と母が駆けて来て、ハーレイも「いいえ」と運転席から降りた。ドアを閉めて、助手席の方に向かってやって来る。
家に着いたのだし、此処は学校ではないし…。
(ハーレイに抱っこして貰える?)
逞しい両腕で抱き上げられて、車からふわりと降ろされる。それとも、背中におんぶだろうか。
(おんぶだったら、助手席のドアは手で閉められるけど…)
抱っこの方なら、足で蹴ってドアを閉めるとか。…母に「お願いします」と閉めて貰うとか。
玄関の扉も、母が開けたりするのだろう。ハーレイは自分を抱っこかおんぶで、部屋まで運んでくれるのだから。…ハーレイに余計な手間をかけるより、母が扉の開け閉めの係。
(玄関も、ぼくの部屋の扉も…)
ママだよね、と考える。おんぶでも、それに抱っこでも。
学校ではどちらも駄目だったけれど、家なら、きっと抱っこか、おんぶ。
どっちなのかな、と夢見る間に、ハーレイが開けた助手席のドア。
「降りられるか?」
酔ってないか、とハーレイが降ろしたのは鞄だけだった。膝に乗せていた通学鞄。
それを降ろして母に渡して、それっきり。「掴まれ」と手が差し出されただけ。
(…抱っこは?)
それに、おんぶは、なんて訊けるわけがない。母が鞄を持って直ぐ側にいるし、ハーレイの手が目の前にあるのだから。「どうした?」とでも言うように。
「……大丈夫……」
降りられるよ、と掴まった、がっしりした手。自分で降りるしかなかった助手席。
この手に抱っこして欲しかったのに。…抱っこが駄目なら、おんぶで運んで欲しかったのに。
どっちも駄目になっちゃった、と突っ立っている間に閉まったドア。
いつか自分が乗る筈の席は、もうハーレイが閉めた扉の向こう。濃い緑色をしているドアの。
「ハーレイ先生、本当にすみません…。お仕事中でらっしゃいますのに」
ブルーを送って下さるなんて、と母が何度もお辞儀している。「ご迷惑をお掛けしました」と。
「いえ、空き時間ですから、かまいませんよ」
丁度いい息抜きになりました。仕事中には、なかなか運転出来ませんしね。
車で出られる人はいないか、と声でも掛からない限り、車で走りたくても無理で…。
じゃあな、ブルー。
家でいい子にしているんだぞ、とクシャリと撫でられた頭。大きな手で。
「え…?」
まさか、と見詰めたハーレイの顔。「じゃあな」とか、「いい子にしろ」だとか。
これでは、まるでお別れのよう。…たった今、家に着いたばかりで、お茶の用意もまだなのに。
「分かってるだろ、俺は学校に戻らんと…。仕事中だからな」
空き時間でも、お前を送って出て来たついでに、ゆっくりお茶とはいかないってな。
その辺の所は、俺はきちんとしたいんだ。…誰も何にも言わないからこそ、けじめってヤツ。
また帰り道に寄ってやるから、大人しく寝てろ。無理をしないで。
晩飯の時にも、まだ食欲が戻ってなければ俺のスープの出番だよな、と笑顔のハーレイ。
「お母さんと早く家に入れ」と、「ゆっくり寝るのも薬からな」と。
もう一度、頭をクシャリと撫でると、ハーレイは車に乗ってしまった。運転席に。
(そんな…!)
此処まで来たのに行っちゃうの、とハーレイに縋り付きたい気分。
「ぼくの部屋まで一緒に来てよ」と、「ベッドに入るまで側にいてよ」と。
けれど、閉まった車のドア。内側からバタンと、呆気なく。
直ぐにエンジンがかかる音がして、手を振って走り去ったハーレイ。
「じゃあな」と、運転席の窓越しに。
いつか二人だけのシャングリラになる車、それを走らせて、真っ直ぐに元の学校へと。
(…行っちゃった…)
ハーレイ、帰って行っちゃった、と声も出ないで立ち尽くしていたら、母の声。
「どうしたの、ブルー? ボーッとしちゃって…」
具合が悪いのなら、早く寝ないといけないわ。パジャマに着替えて、ちゃんとベッドで。
ごめんなさいね、留守にしていて。
お友達に食事に誘われたけれど、食べずに帰れば良かったわ。…ブルーが帰って来るんなら。
「ううん…。ちゃんと保健室のベッドで寝てたから」
ママはちっとも悪くないよ、と微笑んだけれど。
家に入ってパジャマに着替えて、大人しくベッドに入ったけれど。
(抱っこも、おんぶも…)
駄目だったよ、と本当に残念でたまらない。
ハーレイの逞しい腕か背中で、部屋に運んで欲しかったのに。玄関を入って、階段を上がって、二階の部屋まで、ハーレイに抱っこか、おんぶで帰る。
そうしてベッドに寝かせて貰って、上掛けもそっと被せて貰って、ハーレイは暫く、一人きりでお茶。自分が眠ってしまうまでの間、椅子に腰掛けてベッドの側で。
(…送ってくれるんなら、そこまでして欲しかったのに…)
空き時間なら、やってくれても良かったのに、と考えるけれど、あっさり砕けてしまった夢。
それでも、幸せなドライブは出来た。
ハーレイと二人で、いつかシャングリラになる車で。
(…シャングリラ、発進! っていう声も…)
ちゃんとサービスして貰えた。
学校で倒れてしまった時に、ハーレイが上手く居合わせたから。
その上、母が外出していたお蔭。
ハーレイは家まで送ってくれたし、お茶も飲まずに学校に帰って行ったけれども…。
来てくれるよね、と分かっていること。
(学校の仕事が終わったら…)
来ると約束してくれたしね、とウトウトと落ちてゆく眠り。
明日も欠席になってしまっても、きっとハーレイが来てくれる。
食欲が出ないままだった時は、ハーレイが作る野菜スープも飲める筈。
前の生から好きだったスープ、何種類もの野菜をコトコト煮込んだ素朴なスープ。
(…野菜スープのシャングリラ風…)
ちゃんと食欲が戻っていたって、今日はあのスープを頼もうか。
甘いプリンも美味しかったけれど、やっぱりハーレイの野菜スープが一番だから。
「シャングリラ、発進!」という懐かしい声が聞けた、今日のドライブ。
そんな日の夜は、あの懐かしい野菜スープを、ハーレイの側でゆっくり味わいたいから…。
夢のドライブ・了
※体育の授業で倒れたブルー。ハーレイが通り掛かったお蔭で、思いがけない幸運が。
ハーレイの車で家までドライブ。おんぶも抱っこも無しでしたけれど、夢のように素敵な日。
こんな所に、と止まったハーレイの足。土曜日の午前中、ブルーの家へと向かう途中で。
朝早いとは言えないけれども、午前のお茶にはまだ早い時間。ゆっくり、のんびり、回り道でもしながら歩いてゆくのが似合い。早く着きすぎると、ブルーの母に悪いと思うから。
晴れた空の下、気の向くままに歩いて来た道。其処で見付けた、青いようにも見える薔薇。
通り掛かった家の庭から、零れるように咲いた薔薇たち。ほんのりと青みを帯びた花。
(こいつは気付いていなかったな…)
何度も歩いた道だけれども、青い薔薇など。
もう散りかけている花もあるから、前から咲いていたのだろうに。薔薇の木もそこそこの高さ。この大きさなら、気付いてもおかしくない筈なのに。
(青い薔薇か…)
真っ青な花じゃないんだが、と観察してみた薔薇の花たち。幾重にも重なり合った花びら、青が濃いのは真ん中の辺り。けれど淡い青、紫のようにも見える色。いわゆる青い色とは違う。
外側へゆくほど、薄くなる青み。一番外側の花びらになると、白い薔薇かと思うほど。
(筆でぼかしたみたいだな…)
真ん中の青を、外へ向かって。どんどん薄くなるように。自然にぼやけてしまうように。
そんな具合だから、花全体を見れば、ふうわりと青い。ほんの一刷毛、青を刷いたように。
(地味すぎて気が付かなかったか?)
あるいは光の当たり具合で、白い薔薇だと思っていたか。太陽が真っ直ぐ射していたなら、淡い青色は飛びそうだから。
(こんな頼りない青ではなあ…)
そうもなるよな、と眺めた青い薔薇の花。光の加減で消えてしまいそうな儚い青。
前の自分が生きた頃には、真っ青な薔薇があったという。今の時代は、失われた青。写真にしか無い真っ青な薔薇。
今はこういう淡い青だけ、薔薇の品種が幾つあっても。
SD体制の時代だったら存在していた、本当に青い薔薇の花。地球が滅びてしまうよりも前に、その青は作り出されたけれど。
(シャングリラでは育てなかったんだっけな…)
遠い昔に「不可能」を意味したともいう、青い薔薇は。
その不可能を可能にしようと、人間が薔薇たちに組み込んだ色素。それが青色。薔薇は持たない筈の青。人の技術は青い薔薇を完成させたけれども、地球からは青が失われた。
(青い薔薇が吸い取っちまったわけじゃないんだろうが…)
身勝手で愚かな人間たちが、青かった地球を死の星にした。緑は自然に育たなくなり、海からは魚影が消えていって。…地下には分解不可能な毒素。
青い薔薇を見事に咲かせた代わりに、母なる地球を失くした人間。
ヒルマンがそういう話をしたから、青い薔薇は導入しないで終わった。「自然のままに」と。
(…あいつの名前がブルーだったのにな?)
白いシャングリラを導くソルジャー、ミュウたちの長の名前がブルー。「青」という意味を持つ名前。それでも青い薔薇は無かった。「植えよう」という者はいなかった。
最初の頃には「青が無いとは片手落ちだ」という声も上がったけれども、青が無い理由を知れば誰もが納得した船。「自然のままが一番いい」と。
白いシャングリラには無かった青い薔薇の花は、後の時代に失われた。
SD体制の時代に消された文化や、禁じられていた自然出産。様々なものを、かつての姿に戻す過程で、薔薇の姿も元の通りに戻された。青い色素を持った薔薇など、もう要らないと。
(今はこういう薔薇ってことだ…)
同じ青でも、淡い青色。薔薇が本来持っている色素、それだけで作り出せる青。
綺麗なもんだ、と見ている間に、ふと思ったこと。
あいつだったら、こういう青だ、と。
ブルーの名前が意味する青。ブルーを青い薔薇にするなら、きっとこの薔薇。
青い色素を組み込まれた薔薇の花とは違って、自然な青。ほんのりと青い、白い薔薇にも見えるような柔らかい色の花びら。
(あいつと言っても、前のあいつのことだがな…)
同じブルーでも、今のブルーは、まだ薔薇の花は似合わない。
「可愛らしい」と形容するのが似合いの子供で、前のブルーとはまるで違うから。前のブルーは気高く美しかったけれども、今のブルーは愛らしい子供。
(どうしても薔薇にしたいんだったら…)
今が盛りの花とは違って、これから咲く蕾。開いたら何の花になるのか、蕾だけでは分からないほどの小さなもの。色さえも掴めないような。
(…この薔薇にだって、そういう時期があるわけだしな?)
チビのあいつはそんなトコだ、と眺めた薔薇。
まだまだ蕾で、「薔薇なのか?」と枝や葉を調べて、やっと薔薇だと分かる花。
前のブルーなら、蕾ではなくて花なのだけれど。美しく咲いた薔薇の花。
(ついでに、散りかけた花じゃなくてだ…)
こういう花ではないんだよな、と盛りを過ぎた花に目をやった。「これじゃないんだ」と。
前のブルーは、最後まで気高い花だった。開いたばかりの凛とした花、そういう薔薇。
(あいつは、こっちだ)
これがあいつ、と美しく咲いた花を見詰める。今朝、花びらを広げたばかりのような。
三百年以上も生きて、寿命が尽きると分かった頃には、ブルーは弱っていたけれど。その肉体は日々衰えていったけれども、それを悟らせなかったブルー。
(どんなに弱っちまっても…)
散りかけの姿を見せはしなかった。もうすぐ散るのだ、と分かる姿は。
十五年もの長い眠りに就いた時さえ、ブルーは変わらず美しかった。
この薔薇で言えば、とうに盛りを過ぎてしまって、散りかけの花の筈だったのに。ほんの一瞬、目を離した隙に、はらりと花が崩れて落ちても、不思議ではない姿だったのに。
けれども、美しいままだったブルー。深い眠りの底にいてさえ、凛と咲き続けた薔薇の花。この薔薇のように淡い青色、ほんのりと青を纏った姿で。
(そして、本当に一瞬で…)
前のブルーは散ってしまった。文字通り消えてしまった命。漆黒の宇宙で、メギドと共に。
散る姿さえ見せもしないで、美しい薔薇は宇宙に散った。
ふと振り向いたら、花びらだけが地面に散っているように。ついさっきまでは咲いていたのに、散る気配すらも見えはしなかったのに。
そんな最期だ、と思うのが前のブルーの最期。
前の自分も、白いシャングリラにいた仲間たちも、誰一人として見ていない。美しかった薔薇が散ってゆくのを、前のブルーが死んでゆくのを。
(キースの野郎は見ていやがったが…)
あいつがブルーを撃ったんだ、と噛んだ唇。弄ぶように、何発も弾を撃ち込んだキース。
今のブルーに現れた聖痕、あれがそのまま、前のブルーが受けた傷。左の脇腹に、両方の肩に、右の瞳まで撃たれたブルー。
きっと血まみれだったろう。…小さなブルーがそれを体現したように。
けれど、それをしたキースでさえも知りはしなかった。
息絶えた、前のブルーの姿は。
最後まで凛と咲き続けていた、ブルーという薔薇が散った姿は。
(あいつなら、きっと…)
美しい姿だったのだろう、と思わないではいられない。
赤く煌めく宝石のような、右の瞳が失われても。
血まみれでも、息が絶えた後でも。
ただ花びらが落ちているだけ、かつて「ブルー」という名の薔薇だったものが。
その散り敷いた花びらでさえも、息を飲むほど美しく散っているのだろう。こうして零れて散るよりも前は、どれほど綺麗な花だったろうか、と誰もが思いを馳せるほど。
「花びらだけでも美しいから」と、拾って持ち帰りたくなるほどに。
澄んだ水の器に浮かべてやったら、その美しさを愛でられるから。たったひとひら、それだけになってしまった後にも、まだ充分に美しいから。
きっとそうだ、と眺めるブルーを思わせる薔薇。前のブルーに似た、青い薔薇。
(こういう風にはならないな…)
散りかけなのだ、と分かる薔薇の花。やたら広がってしまった花びら、開きすぎている花びらの隙間。じきに一枚、また一枚と零れて落ちてゆくのだろう。すっかり散ってしまうまで。
(…くっついたままで萎れる花びらだって…)
何枚か出て来るかもしれない。茎についたまま、萎れ、色褪せてゆく花びら。
前のブルーは、そんな散り方はしなかった。
一瞬の内に散ってしまって、気付けば花びらが落ちているだけ。そういう最期。
(あいつには、それが似合ってた…)
綺麗なままで逝っちまうのが、と薔薇の花にそっと触れてみた。凛と咲いている、美しい薔薇。咲いたばかりで、露を纏っていそうな薔薇。
ブルーが其処にいるようだから。…前のブルーの姿が薔薇に重なるから。
(これからも綺麗に咲くんだぞ?)
あいつみたいに、と微笑み掛けて、薔薇に別れを告げたけれども。
ほんのりと青い薔薇が咲く家、其処を離れて再び歩き始めたけれども、少し歩いてから気付いたこと。角を曲がって、薔薇たちが見えなくなってから。
(…待てよ…?)
前のブルーはああいう風ではなかった、と眺めていた薔薇。散りかけの姿だった薔薇。
もうすぐ散ってしまうのだろう、あの薔薇の花は来年も咲く。同じ花は二度と咲きはしないし、咲くのは新しく出て来る蕾。
それでも来年は咲くのだろうし、もしかしたら冬の季節にだって。四季咲きの薔薇なら、冬にも花を咲かせるから。上手く育てれば、他の季節にも負けない花を。
けれど、凛と美しく咲いたブルーは…。
(散ってしまって…)
それきり、咲きはしなかった。
新しい蕾をつけることなく、二度と開きはしなかった薔薇。
前の自分はブルーを失くした。美しい薔薇はもう、宇宙の何処にも無かったから。
生きて戻りはしなかったブルー。散ってしまった、気高い薔薇。
(今のあいつは…)
これから花を咲かせようという薔薇だった。まだ小さすぎて、薔薇の花には見えないけれど。
同じ薔薇でもせいぜい蕾で、十四歳にしかならない子供だけれど。
(はてさて、どんな花になるやら…)
さっき見たような青い薔薇なのか、それとも愛らしい薔薇か。
前のブルーのようだと思った、あのほんのりと青かった薔薇。前のブルーが其処にいるようで、指先でそっと触れてみた薔薇。
本当にブルーに似ていたけれども、あくまで前のブルーの姿。今の小さなブルーなら…。
(青と言うより…)
淡いピンクの薔薇かもしれない。
華やかなピンク色とは違って、淡い桃色。今のブルーの頬っぺたのような、優しい薔薇色。白い肌の下の血の色が透けた、命の色の柔らかなピンク。
(今のあいつは、青い薔薇の花じゃないかもな…)
違う色の薔薇になるのかもな、と考えながら歩いた道。小さなブルーが待っている家へ。
歩く間も、様々な色を湛えた薔薇に出会っては、その色合いと今のブルーとを重ねてみる。今のあいつはこれだろうかと、あの色の方がいいだろうかと。
ピンクだけでも何色もあるし、他の色ならもう何色も。赤や黄色や、真っ白な薔薇も。
(何か企んでやがる時のあいつは…)
黄色い薔薇も似合うんだよな、という気もする。心の欠片がキラキラ零れているブルー。
シュンと萎れてしまった時には、白い薔薇。頬っぺたを膨らませて怒る時なら、何色だろう?
(あいつ、コロコロ表情が変わるもんだから…)
どれがあいつに似合う薔薇やら、と出ない結論。
前のブルーなら、あの青い薔薇が似合うのに。…あれがブルーだと、直ぐに姿が重なったのに。
いくら考えても、様々な色の薔薇に出会っても、出て来ない答え。今のブルーに似合いの薔薇。
そうして着いたブルーの家にも、薔薇の花は咲いていたのだけれど。
(うーむ…)
ますますもって決められんぞ、と生垣越しに眺めた庭の薔薇たち。
一色だけなら、この色が今のブルーの薔薇だと思えるのに。ブルーの家にはこの薔薇なのだし、今のブルーも同じ色だと決めてやることが出来るのに。
庭を彩る、ブルーの母が育てている薔薇。一種類なら良かったのに、と考えたけれど。
(そういえば…)
薔薇の花には、愛好家たちが名前をつける。新しい品種を生み出した時に、誇らしげに。
愛する妻の名前をつけたり、お気に入りのスターに捧げてみたり、といった具合に。
そうやって名付けられた中には、「ソルジャー・ブルー」もあるのだろうか?
如何にもありそうな気がして来たから、門扉を開けに来たブルーの母に尋ねてみたら。
「ありますわよ。…薔薇のソルジャー・ブルーなら」
いともあっさり返った答え。前のブルーの名前を持った、薔薇が存在するらしい。
「どんな花かは御存知ですか?」
「ええ。…よろしかったら、お見せしましょうか?」
どうぞ、と思念で送られて来た薔薇のイメージは、さっきの青い薔薇に少し似ていた。花の形がほんの僅かに違うだけ。眺める角度で変わってくるから、あの薔薇がそうだったのかもしれない。
(どおりで、前のあいつに似ていたわけだ…)
そのものズバリの名前だったら、薔薇の姿も似るだろう。前のブルーに。
愛好家が名前をつけた時にも、「似ている」と思っただろうから。
「ソルジャー・ブルーのような薔薇だ」と思ったからこそ、その名を付けた筈だから。
さっきの薔薇は、本当に「ソルジャー・ブルー」だったかもな、と見回した庭。
此処で何度も小さなブルーと過ごしたけれども、青い薔薇を見た覚えが無い。こうして見たって咲いていないし、庭には無さそうな「ソルジャー・ブルー」と呼ばれる薔薇。
なんとも不思議だ、とブルーの母に問い掛けた。今のブルーは、ソルジャー・ブルーから貰った名前。同じアルビノの子供だから、と両親が名付けたと聞いているから。
「庭の薔薇…。ソルジャー・ブルーは植えないんですか?」
ブルー君の名前の薔薇なのに、と訊いてみたくもなるだろう。薔薇を育てていない家なら、特に変でもないけれど…。この家の庭には薔薇があるのだし、ソルジャー・ブルーもありそうなもの。
一人息子の名前を貰うついでに、薔薇だって。今のブルーが生まれた記念に植えるとか。
そうしたら…。
「植えたかったんですけれど…。花屋さんで訊いたら、育てるのが難しい薔薇なんですって」
花が咲きにくいのなら、綺麗に咲くよう、頑張ればいいんですけれど…。
根付いて育つまでが大変な薔薇で、駄目になることも多いと言われましたから…。
枯れてしまったら、嫌でしょう?
一度も花を咲かせもしないで、苗の間に。…せっかく庭に植えてあげても。
「そうですね…。薔薇だって可哀相ですし…」
ブルー君と同じ名前となったら、枯れさせるなどは…。
嫌どころではないですね、と相槌を打った。
一人息子と同じ名前の薔薇が枯れたら、誰の親でも嫌だろう。いくら欲しいと思った薔薇でも、育ちにくいなら冒険したい親はいない筈。
(…誕生記念に、って気軽に植えられやしないよなあ…)
ましてブルーは身体が弱いし、生まれた時からそれは分かっていた筈。
ブルーが丈夫に生まれていたなら、「ソルジャー・ブルー」を庭に植えても、失敗する度、また植え替えればいいけれど…。
(今でも弱いままだしな、あいつ)
薔薇のソルジャー・ブルーはとても植えられないな、と頷かざるを得ない状況。
苗を買って来て植えてみたって、元気が無ければハラハラする。枯れてしまったら、きっと胸が痛むし、その時にブルーが病気だったら、とても心配だろうから。
なるほどな、と薔薇の「ソルジャー・ブルー」が家の庭に無い理由を納得しながら、案内された二階のブルーの部屋。
小さなブルーは窓から下を見ていたらしくて、テーブルを挟んで向かい合うなり尋ねられた。
「ハーレイ、ママと何を話してたの?」
ぼくにお土産、持って来てくれたわけじゃなさそうだけど…。何のお話?
庭で暫く話してたでしょ、とブルーが訊くから、答えてやった。
「薔薇の話さ」
「薔薇…?」
なんで薔薇なの、とキョトンとしている小さなブルー。「ハーレイ、薔薇が好きだっけ?」と。
「違うな、俺の話じゃない。…お前の方だ」
お前はどういう薔薇の花かと思ってな…。何色だろう、と。
「ぼくが薔薇?」
どうして薔薇の花になるの、と瞬いた瞳。「分かんないよ」とブルーは怪訝そうな顔。
「前のお前は薔薇みたいだった、と思ったんだ。…そう考えたのは今の俺だが」
此処まで歩いて来る途中にだ、色々な薔薇にも出会うってわけで…。
その中に、前のお前に似ている薔薇があったから…。
つい立ち止まって眺めちまった、前のお前に似ているな、と。
「前のぼくって…。どんな薔薇なの?」
ちっとも想像出来ないけれど、とブルーが首を傾げているから、差し出した右手。
「手を出せ、記憶を見せてやるから」
さっき見て来たばかりだからなあ、少しもぼやけちゃいないってな。
「ホント? じゃあ、お願い」
ブルーが絡めて来た右手。その小さな手をキュッと握って、「ほら、これだ」と明け渡した心。其処に入っている記憶。
多分、「ソルジャー・ブルー」だろう薔薇。凛と咲いていた、淡い青色を纏った薔薇たち。
どうだった、と手を離してから尋ねた感想。「あれがお前に似ていた薔薇だが」と。
「青いね…」
ハーレイが見た薔薇、青かったんだ…。ほんのちょっぴり、青く見える薔薇。
「うむ。…前の俺たちが生きてた頃には、青い薔薇はもっと青かったがな」
俺の記憶には残っちゃいないし、今の俺が写真で見た程度だが…。
あれこそ本物の青い薔薇だな、今の時代は幻の薔薇になっちまったが。…本物は何処にも残っていなくて、新しく作られることもないから。
「青い薔薇…。地球の青さを吸い取っちゃったみたいな薔薇のことでしょ?」
人工的に青い色素を持たせた薔薇。
…青い薔薇は綺麗に出来たけれども、地球の青さは無くなっちゃった…。汚染されちゃって。
あの青い薔薇は、シャングリラには植えていないよね。いろんな薔薇を育ててたけど…。
「不自然だったからな、青い薔薇は」
本来、存在してはならない色だ。…ヒルマンが強く反対したから、植えてはいない。
しかし、今の時代の青い薔薇は違うぞ。愛好家たちが頑張って作った、自然の色の青なんだ。
ああいう青い薔薇の花なら、お前のイメージそのものだと思って、暫く側で眺めていて…。
くどいようだが、前のお前だぞ?
前のお前のイメージがあれなら、今のお前はどんな薔薇か、と考えながら歩いて来たが…。
まるで答えが出て来ない上に、この家の薔薇も一色じゃなかったと来たもんだ。
一種類しか咲いていないんだったら、それがお前の薔薇ってことでもいいんだが…。
そうじゃないしな、「これがお前だ」と思える薔薇が無くってなあ…。
困ったもんだ、と見ていた間に、薔薇の名前に気が付いた。薔薇につけられてる色々な名前は、そいつを作った愛好家たちの趣味だった、とな。
奥さんの名前をつける人とか、お気に入りのスターの名前だとか…。
それでお母さんに訊いていたんだ、薔薇の名前に「ソルジャー・ブルー」はあるのか、と。
「…前のぼくの薔薇…。それって、あった?」
ソルジャー・ブルーっていう名前の薔薇、あってもおかしくないけれど…。
誰かがつけていそうだけれど。
ホントにあるの、とブルーは興味津々。「もしもあるなら、青い薔薇かな?」と。
「ソルジャー・ブルーってつけるんだものね、青い色をした薔薇になりそう」
でも…。本当に青い薔薇は今は無いから、ソルジャー・ブルーって名前の薔薇はないのかな…?
それとも違う色だとか、と答えを待っているブルー。
ソルジャー・ブルーという名前の薔薇はあるのか、無いのか、どっちだろうと。
「あったぞ、こういう薔薇らしい」
お前のお母さんに見せて貰ったイメージだが、とブルーの右手を握って送り込んだイメージ。
ほんのりと淡い青を纏った、「ソルジャー・ブルー」と呼ばれる薔薇。
「…似てるね、ハーレイが見て来た薔薇と」
前のぼくに似てる、って言っていた薔薇。…さっき見せてくれてた記憶にある薔薇。
同じ薔薇じゃないの、とブルーは瞳を輝かせた。絡めた右手をほどいた後で。
「やっぱりお前もそう思うか? 似てるよなあ…?」
眺める角度をちょっと変えたら、まるで同じになりそうだ。…俺が見たヤツと。
ソルジャー・ブルーだったのかもなあ、前のお前に似ていたんだし。
「そうじゃないかと思うけど…。でも、その薔薇…」
ママは植えてはいないんだ…。
ソルジャー・ブルーっていう薔薇があるなら、植えていたっていいのにね。
ママは庭仕事をするのが好きで、薔薇も幾つも育ててるのに…。前のぼくと同じ名前がついてる薔薇なら、大喜びで植えそうなのに…。
ぼくの名前はソルジャー・ブルーから貰ったんだけど、と考え込んでしまったブルー。
「どうして薔薇のソルジャー・ブルーは無いんだろう?」と。
「それなんだが…。俺も不思議に思っちまって…」
あって当然みたいな薔薇だろ、ソルジャー・ブルー。
似たような薔薇も見て来たトコだし、「植えないんですか?」と尋ねたんだが…。
お母さんも育てたいとは思ったらしい。
ソルジャー・ブルーにそっくりなお前が生まれて来たんじゃ、そうなるよな。
ところがだ…。
育てるのが難しい薔薇だそうだ、と教えてやった。ブルーの母から仕入れた知識。
「ソルジャー・ブルーは、根付くまでの間が大変らしい」
苗の間に駄目になっちまって、一度も花を咲かせないままで枯れちまうことも多いんだそうだ。
それでお前のお母さんは植えていないわけだな、とても難しい薔薇だから。
もしもだ、お前の名前の薔薇が枯れたら、どんな気持ちだ?
前のお前の記憶が戻る前にしたって、ソルジャー・ブルーが枯れちまったら…?
どうなんだ、とブルーの瞳を覗き込んだら、「嬉しくない…」という返事。
「そんなの嫌だよ、ぼくとおんなじ名前なのに…」
猫や犬とは違うけれども、やっぱりうんと悲しくなるよ。枯れちゃった、って…。
これから大きく育つ筈だったのに、枯れちゃうなんて可哀相…。
薔薇の苗、とても可哀相だよ、とブルーが顔を曇らせるから。
「ほらな、お前でもそう思うんだ。…同じ名前だというだけで、薔薇に同情しちまって」
お前のお母さんとなったら、もっと悲しいだろうと思うぞ。…それに心配も山ほどだ。
大事な一人息子と同じ名前の薔薇なんだしなあ、そりゃあ大切にするんだろうが…。
それでも土が合わなかったり、園芸にトラブルはつきものだ。
枯れそうになったら、もうハラハラして、せっせと世話をするんだろう。何か助ける方法は、と花屋さんに訊いたり、詳しい人を連れて来てみたりして。
そうやって無事に育てられたらいいんだが…。なにしろ難しい薔薇らしいからな?
枯れてしまったら、自分を責めるしかないし…。
お前と同じ名前なだけに、お前のことまで心配になって来そうじゃないか。薔薇みたいに病気になっちまわないか、ちゃんと育ってくれるかと。
お母さんは俺にこう言っていたぞ、「枯れてしまったら嫌でしょう?」と。
そうならないよう、ソルジャー・ブルーは植えないでおこう、というのがお母さんの考え方だ。
弱いお前と、枯れやすい薔薇のソルジャー・ブルーが重なったんじゃたまらんからな。
「そうなんだ…」
ぼくが弱いから、ママは植えずにいるんだね。…ソルジャー・ブルーを。
もっと丈夫で元気だったら、薔薇の苗が駄目になったくらいじゃ、心配しないだろうけれど…。
新しい苗を買いに行かなきゃ、って花屋さんに行っては、何度でも挑戦しそうだけれど。
ちゃんと「ソルジャー・ブルー」の花が咲くまで、と小さなブルーが言う通り。
庭仕事が好きで薔薇も育てるブルーの母には、「ソルジャー・ブルー」は魅力たっぷりだろう。
此処に来る途中で見て来た青い薔薇がそれなら、なおのこと。
上手く育てれば、幾つもの花を咲かせる薔薇。しかも美しい青い薔薇だし、きっと育ててみたい筈。その薔薇と同じ名前の一人息子が、丈夫なら。…弱い子供でなかったら。
「お前、素敵なお母さんを持ったな、本当に」
弱いお前が、薔薇みたいに枯れてしまわないよう、気を配ってくれるお母さん。
たとえ薔薇でも、お前と同じ名前だったら枯らすわけにはいかないから、と植えないなんて。
お前が此処まで育った今なら、もう植えたって良さそうなんだが…。
それでも植えないままってトコがだ、とても優しいお母さんだっていう証明だよな。
植えちまう人もいそうだぞ、と見詰めた小さなブルーの顔。ブルーの身体は今も弱いけれども、幼かった頃よりは丈夫だろう。体育の授業も、出られる時には出ているのだから。
其処まで育った息子だったら、もう心配は要らない筈。薔薇のソルジャー・ブルーが枯れても、息子の命の心配まではしなくていい。
だから、植えようと思ったのなら植えられる薔薇。…けれど植えないブルーの母。
息子を大切に思っているから、植えようとしない「ソルジャー・ブルー」。
人によっては、「もういいだろう」と植えるだろうに。「今まで我慢したのだから」と。
「ママは優しいよ、いつだって」
ぼくを大事にしてくれるもの。…病気の時も、元気にしている時も。
たまに叱られることもあるけど、それは悪いことをしちゃったから…。
ママが「駄目」って言っていたのに、守らずにおやつを沢山食べ過ぎちゃった時とか。
叱られる時は理由があるよ、と微笑むブルー。「それでも許してくれるけどね」と。
「…パパにも言い付けられたりするけど、いつも許してくれるよ、ママは」
ごめんなさい、って謝ったら。
「もうしないのよ」って言われちゃうけど…。
次におんなじことをやったら、前よりもうんと叱られちゃうけど、大丈夫。
悪いのはぼくで、ママは優しいから。…許してくれないままになったりはしないから。
「本当にいいお母さんだな、俺なんかは酷く叱られたがなあ…。ガキの頃には」
おやつ抜きの刑は当たり前だったし、下手すりゃそいつが二日も三日も続くとか…。
俺も大概、悪ガキだったし、そうなっても仕方ないんだが。
お前の場合は、おやつ抜きだとポロポロ涙を零してそうだし、そういう刑も無いんだろう?
「無いよ、おやつが無いなんてこと」
病気だから食べちゃいけません、って言われた時は別だけど…。
お医者さんにそう言われた時でも、ママは必ず訊いてくれるよ。ぼくが食べられそうなもの。
先生が「いい」って言ってくれたら、プリンとかを作ってくれるんだから。
食事の代わりに食べられるおやつ、と得意そうな笑みを浮かべたブルー。
「ぼくのママはホントに優しいんだから」と、「おやつ抜きなんか言わないよ」と。
「ふうむ…。俺のおふくろには無い優しさだな、おふくろだって優しいんだが…」
息子の俺が悪ガキではなあ、お前のお母さんの育て方では、どうにもこうにもならないから。
でもって、自慢の優しいお母さんに育てられたお前は、どういう薔薇になるんだか…。
前のお前とは違うんだろうな、同じ薔薇でも花の色だって。
「そうなっちゃうかも…」
今のぼくは、前のぼくよりもずっと幸せだから。
パパとママがいて、ぼくの家があって、ハーレイもいてくれるんだもの。
うんと幸せに暮らしているから、前のぼくとは違う薔薇の花になっちゃいそう…。
「そうだろう? 俺が最初に考えていたイメージでは、だ…」
今のお前は淡いピンクの薔薇ってトコだな。お前の頬っぺたみたいな薔薇色。
前と同じに大きくなったら、また変わるのかもしれないが…。
それでもソルジャー・ブルーの薔薇とは違う気がするんだ、と話してみた。
此処へ来る途中に出会った、「ソルジャー・ブルー」に似ていた、ほんのり青い薔薇。あの花に前のブルーを重ねたけれども、今度は重ならない気がする、と。
「…いつかお前が大きくなっても、あの薔薇じゃない、って気がしてなあ…」
どういう薔薇になるかは謎だが、ああいう感じじゃないっていうか…。
上手く言葉に出来ないんだが、と顎に手を当てたら、「そう思うよ」とクスッと笑ったブルー。
「ぼくも違うと思うよ、それ。…今のぼくはそういう薔薇じゃない、って」
色もそうだし、花だってそう。もっと小さな薔薇かもね。
ハーレイが見て来た青い薔薇の花は大きいけれども、小さい薔薇。
「…小さい薔薇?」
お前みたいにチビってことか?
立派に大きく育つ代わりに、鉢植えサイズになっちまうとか…。テーブルの上に飾っておくのが丁度似合いの、鉢植えの薔薇。
「違うよ、薔薇の木の大きさじゃなくて…。花の方だよ、ぼくが言うのは」
あるでしょ、小さい花が咲く薔薇。ミニサイズの花を咲かせるヤツ。
今のぼく、あれじゃないのかなあ…。もしも薔薇だとしたならね。
同じ薔薇でも、前のぼくみたいに偉くないから…。
ソルジャー・ブルーが大きな花が咲く薔薇だったら、ぼくはミニサイズの花だと思う…。
「おいおい、花が小さいってか?」
偉いかどうかはともかくとしてだ、美人な所は、前のお前とそっくり同じだと思うんだが…。
もうとびきりの美人なんだし、ソルジャー・ブルーに負けない大きさの花を咲かせそうだが…?
美人な所は同じだしな、と言ったのだけれど、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「顔は同じでも、中身は今のぼくだから…。うんとちっぽけで、弱虫のぼく」
そんな中身じゃ、目立たない筈だよ、前みたいには。…ソルジャー・ブルーだった頃と違って。
だから小さい薔薇なんだよ。
前のぼくが大きな花の薔薇なら、今のぼくは小さい花が咲く薔薇。
「そう来たか…。そういうこともあるかもなあ…」
見た目は同じでも、中身の違いか。…色だけじゃなくて、花のサイズも違うのか…。
同じ薔薇でも、花まで小さくなっちまうのか、と小さなブルーを見詰めたけれど。
この愛らしい恋人だったら、育っても確かにそうかもしれない。
姿は前とそっくり同じになっていたって、中身は弱虫でちっぽけなブルー。凛として咲き続ける薔薇と違って、時には弱音を吐いたりして。…もう咲けない、とペシャンと潰れたりもして。
(…こいつだったら、そうかもなあ…)
前のあいつとは違うんだから、と自分の思いに沈んでいたら、掛けられた声。
「ハーレイ、どうかした?」
ぼく、何か変なことでも言っちゃった…?
ミニサイズの薔薇っていうのは駄目かな、ハーレイ、そういうぼくは困るの…?
ちゃんと大きな薔薇がいいの、とブルーが心配そうな顔をするから、「いや」と返した。
「…考え事をしちまっただけだ、前のお前と、今日の薔薇のことで」
前のお前は、散る姿さえも見せなかったな、と思ってな…。
最後まで凛と咲いたままでいたんだ、前のお前は。…散りかけの姿を見せもしないで。
「そうだっけ? シャングリラでは、ちゃんと頑張ってたけど…」
泣いてたよ、ぼくは。…独りぼっちになっちゃった、ってメギドの制御室でね。
散りかけどころか、もっとみっともない姿。…クシャクシャになってしまった薔薇だよ。
萎んでしまって駄目になった薔薇、とブルーは言ったけれども、それは間違い。
「…そうかもしれんが、その姿、誰も目にしていないだろうが」
キースは逃げてしまった後だし、お前の姿を見た者はいない。…本当に駄目になった薔薇でも。
つまりだ、前のお前は最後まで綺麗に咲き続けたんだ。誰も知らない以上はな。
その点、今のお前ということになると…。
もう散りそうだ、と弱音を吐きそうな気がするな。…潰れそうで咲いていられない、とか。
「そうだと思うよ、弱虫だから」
ハーレイはそういう薔薇は嫌なの、ミニサイズの薔薇で弱虫なのは…?
「俺はその方が好みだな。世話のし甲斐があるってもんだ」
せっせと世話して、水をやったり、日陰に入れたりと手のかかる薔薇。うんと弱虫の。
「ありがとう…!」
ぼくはホントに弱虫なんだし、きっとそういう薔薇だろうから…。
弱い薔薇でも、ハーレイがちゃんと守ってくれるんだね、と笑顔のブルー。
「ぼくがペシャンと潰れそうでも、ミニサイズの花しか咲かない薔薇でも」と。
きっと本当に、今度のブルーはそうなのだろう。
小さな花しか咲かせない薔薇で、散りそうになったら元気を失くしてしまう薔薇。
最後まで凛と咲き続けていた前のブルーとは、まるで違った薔薇になるブルー。
けれど、どういう薔薇になっても、美しい花を咲かせてやろう。
大切に守って、世話をして。
今のブルーに似合いの姿で、一番綺麗な花が見事に咲くように。
どんな色合いの薔薇が咲いても、それが今度のブルーだから。
小さな花を咲かせる薔薇でも、愛おしい薔薇。
今度のブルーは、自分が一人占めしてもいい花を咲かせる、それは美しい薔薇なのだから…。
かの人と薔薇・了
※ハーレイが目を留めた薔薇の花。前のブルーを思わせる薔薇で、そういうイメージ。
今のブルーが薔薇になったら、まるで違った薔薇なのかも。それを育てるのも、きっと素敵。
ジョミーにキース、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
それぞれの写真もついているけれど、広告に載っているのは本。写真集ではなくて、子供向けに書かれた偉人伝。「こういう立派な人たちでした」という中身。
子供向けでは定番の本で、そういえば…。
(ぼくも持ってた…)
確かに読んだ、と覚えている。今よりもずっと小さかった頃に。
人類側のキースはともかく、ソルジャー・ブルーとジョミーの分は間違いなく読んだ。どちらも買って貰ったから。何処の家でも、一冊くらいは買うものだけれど…。
(…ぼくは名前がソルジャー・ブルー…)
ソルジャー・ブルーと同じアルビノだから、と両親が「ブルー」と名付けた子供。そのお蔭で、文字が読めるようになったら、プレゼントされたのがソルジャー・ブルーの伝記。子供向けの。
(ブルーの名前は、この人から貰ったんだから、って…)
読み終わったら、ジョミーの分も買って貰えた。ソルジャー・ブルーの跡を継いだソルジャー、SD体制を倒した英雄。「こっちも読んでおかないと」と。
(だけど、キースのは…)
どうだったのか覚えていない。買って貰ったのか、そうでないのかも。
自分で強請った記憶が無いから、恐らく持っていないのだろう。SD体制崩壊の歴史だったら、ジョミーの分で分かるから。…大まかなことは。
(後は学校で教わるし…)
きっとキースの偉人伝まで強請ってはいない。欲しい本なら、他にも沢山あったのだから。
(キースには、とても悪いんだけど…)
このシリーズを読んだとしたって、学校の図書室で借りた本だと思う。一回読んだだけで満足、家にも一冊持っていたいと思いもしないで、それっきり。
父に強請って買って貰うなら、もっとワクワクする本がいい。偉人伝よりも。
多分、キースのは無いだろう本。ソルジャー・ブルーとジョミーの分だけ。
けれど家には確実にあるし、この広告とそっくりな本。表紙も、それに大きさとかも。
(あの本、何処に入れたっけ?)
文字は幼稚園の頃から読めたけれども、よく考えたら、下の学校に入ってから直ぐに読んだ本。両親はきっと、プレゼントする時期も考えてくれていたのだろう。
(幼稚園だと、歴史は習わないもんね?)
いくら「ブルー」という名前の由来にしたって、幼稚園児には難しいかもしれない。書いてあることの意味や、出来事なんかが。
(学校に上がって、直ぐに貰って…)
ソルジャー・ブルーのを読んで、お次はジョミー。ちゃんと本棚にあった筈。小さい頃の本も、お気に入りなら、今も本棚にあるけれど。たまに読んだりもするのだけれど…。
(他の本だと…)
仕舞ってある場所は物置の筈。整理用の箱に入っているのか、あるいは棚か。父の書斎に置いてあることはないだろう。なにしろ子供の本なのだから。
(…ソルジャー・ブルー…)
俄かに読んでみたくなってきた本。子供向けのソルジャー・ブルーの伝記。この本の中で、前の自分はどう書かれたのか。いったいどういう人だったのか。
(歴史の授業で教わるのとは、ちょっと違うよね?)
その人物の生涯を描き出すのが伝記だから。…歴史上の出来事だけを切り取って教える、学校の授業とは切り口がまるで違う筈。しかも伝記の方は読み物。
(…前のぼくの伝記…)
子供向けでも、ちょっぴり読みたい。前の自分がどう描かれたか、知りたい気分。読むのなら、これが丁度良さそう。わざわざ大人向けのを買うより、手軽に読めるだろうから。
読んでみたいな、と思った伝記。子供向けの偉人伝の定番、ソルジャー・ブルーを描いた一冊。前の自分が生きた人生、それが書かれている筈の本。
(でも、物置…)
あそこにあるなら、自分では捜せないように思う。棚ならまだしも、箱の中では手も足も出ない場所が物置。整理して箱に入れたのは母で、そういう箱が幾つも置いてあるのだから。
読みたいけれども、見付け出せそうにない偉人伝。どうしようか、と考え込んでいたら、開いた扉。あの本を片付けただろう母がダイニングに入って来たから、訊いてみた。
「ママ、ぼくの本って、何処にあるの?」
「本?」
部屋にあるでしょ、と当然のように返った答え。「何か見当たらない本でもあるの?」と。
「ぼくが小さかった頃の本だよ。…部屋に無い分」
大好きだった本は今も持っているけど、そうじゃない本の置き場所は何処?
「そういう本なら、物置ね」
ママが仕舞っておいたから、と微笑む母。「一冊も捨てていないわよ」とも。
「やっぱり物置だったんだ…。物置の本、ぼくでも捜せる?」
棚にあるのは見れば分かるけど、箱に仕舞ってある方の本。…何か目印が書いてあるとか。
「捜すって…。何を捜すの?」
絵本だったら、纏めて入れてあるけれど…。箱にも「絵本」と書いたんだけど…。
他の本の箱はどれも「本」だわ、と母が言うから、目印は期待出来そうにない。
「…ソルジャー・ブルーの本…。小さい頃に買ってくれたでしょ?」
この広告に載ってる本。ちょっと読みたくなっちゃって…。
「ああ、それね」
買ってあげたわね、「ブルーの名前はこの人からよ」って。読み終わったらジョミーの分も。
読みたいのなら少し待ってなさいな、と出て行った母は直ぐに戻って来た。「はい」と、頼んだ本を手にして。
「早いね、ママ…」
凄い、とテーブルに置かれた本を眺めた。広告の写真よりも少し古びている本。けれど、表紙は全く同じ。広告そのまま、ソルジャー・ブルーの偉人伝。
「早い理由は簡単よ。…物置には行っていないから」
「えっ?」
なんで、とキョトンと見開いた瞳。母は物置だと言ったのに。…小さい頃の本の置き場は。
「この本はママが読んでたの。ブルーが学校に行ってる間に」
ブルーと同じね、この広告を見付けたから…。
これを読んでた小さなブルーが、今は本物のソルジャー・ブルー。とても不思議な気分でしょ?
なんだか読みたくなっちゃったの、ママも。…あれはどういう本だったかしら、って。
それで捜しに行ったのよ、という母の種明かし。アッと言う間に本が出て来た理由。母は物置で本を見付けて、自分の部屋に置いていたらしい。
「ママ、もう読んだの?」
それとも夜に読むつもりだったの、ママの部屋に置いてあったんなら…?
「全部読んだわ、子供向けだもの。直ぐに読めるわ、ブルーでもね」
懐かしいから、ママの部屋に持って行っただけ。読むなら、部屋に持って帰るといいわ。
「ありがとう、ママ!」
読みたかったんだよ、物置で捜し出せるなら。こんなに早く出て来るだなんて…。
ママが捜していてくれたなんて。
捜してくれてありがとう、と自分の部屋に持って帰った本。おやつを食べ終えた後で。
さて、と勉強机の前に座って、懐かしい本を広げたけれど。子供向けにと大きめの活字、それが並んだページをめくり始めたけれど…。
(えーっと…?)
生き地獄だったアルタミラ時代は、「大変な苦労」と書かれているだけ。狭い檻のことも、酷い人体実験のことも、まるで触れられてはいない本。子供が怖がるからだろうか?
アルタミラからの脱出にしても、ほんの一瞬。「宇宙船を奪って逃げました」とだけ、ハンスのことは書かれていなかった。開いたままだった乗降口から、外へと放り出されたハンス。
(…大人向けの本なら、きっと書いてあるよね?)
脱出の時に死んでしまったハンスの悲劇は、歴史の授業でも教わるから。ミュウの歴史で最初の事故。それまでのミュウは、ただ「殺されていた」だけだったから。
けれど、書かれていない事故。ハンスの名前。…子供向けの本だものね、と思ったけれど。
(もうハーレイがキャプテンなの?)
ハーレイが厨房に立っていた頃も、厨房出身のキャプテンだったことも、本には無かった。白い鯨も直ぐに出来上がって、舞台はアルテメシアに移る。長く潜んだ雲海の星へ。
アルテメシアに着いたら、ミュウの子供たちを何人も救出する日々。やがてジョミーを迎えて、宇宙へ。長かった歳月が本になったら、拍子抜けするほど短くなった。
(フィシスのことも、ほんの少しだけ…)
ミュウの女神を連れて来ました、と書いてあるだけの本。フィシスの生まれについては抜きで。
考えてみれば、フィシスの正体はハーレイだけが知っていたこと。あの頃の船では。
そのハーレイは航宙日誌にも記さなかったし、フィシスの正体は後の時代に明かされただけ。
(ハーレイが本当のことを知っていたのは…)
どうやら知られていないらしい。子供向けの偉人伝ではもちろん、大人向けの歴史の世界でも。
前の自分が生きた時代に、そのことは知らせていないから。前の自分は何も残さなかったから。
それでは誰も知りようがないし、今でも誰も知らないまま。…ハーレイだけに教えた秘密。
フィシスだけでも秘密が一つ、と考えながら読んでいった本。ソルジャー・ブルーの偉人伝。
前の自分がどう生きたのかは、この本に書かれている筈だけれど…。
(なんだか一杯、欠けちゃってる…)
最後のページまで、読み終えた後に思ったこと。メギドを沈めてソルジャー・ブルーは死んだ。自分の命と、ミュウの未来を引き換えにして。「とても立派な最期でした」と結ばれた本。
(…立派なのかもしれないけれど…)
大切なことが抜け落ちていた。ハーレイとの恋も、そのせいでメギドで泣いていたことも。
子供向けの本なら、恋は余計なことだろうけれど、大人向けの本にも書かれてはいない。本当の自分が生きた記録は、どう生きてどう死んでいったのかは。
(…ぼくは、本当のことを知っているのに…)
何も話しはしないまま。ソルジャー・ブルーの生涯については、何一つとして。
それにハーレイも沈黙を守り続けている。キャプテン・ハーレイの記憶を持っているのに。
二人揃って、前の自分たちの膨大な記憶を隠したまま。…明かす予定さえもまるで無いまま。
けれど…。
(…いつかは話さなくっちゃいけない?)
ハーレイとの恋のことはともかく、歴史の真実。前の自分たちが見て来たこと。生きて、自分で作った歴史。アルタミラからの脱出はもちろん、シャングリラで旅した宇宙のことも。
どれを取っても、学者たちがとても知りたいこと。キャプテン・ハーレイの航宙日誌だけでは、明らかにならない様々な事実。
いつかは話すべきなのだろうか、本当のことを知っているなら。記憶を持ったままで今に生まれ変わって、こうして生きているのなら。
新しい命と身体だけれども、言わば歴史の生き証人。自分も、それにハーレイも。
学者たちがどんな質問をしても、本当の答えを返せる人間。「こうなのでは?」と仮説を唱える代わりに、真実を答えられる人間。どうしてそういう答えになるのか、その理由までも。
今の自分の頭の中身。ソルジャー・ブルーとして生きた時代の記憶。歴史だけでなくて、様々な分野の学者たちが知りたいだろう真実。アルタミラも、それにシャングリラのことも。
それらを話すべきなのだろうか、知りたがっている人々に。今も研究し続けている学者たちに。
(どうなんだろう…?)
考えてみても、そう簡単には出せない答え。どうすればいいのか、悩むくらいに大きな秘密。
同じ秘密を抱えた恋人、ハーレイに尋ねてみたいけれども…。
(もうこんな時間…)
夢中で本を読んでいた間に過ぎてしまった、いつもハーレイが来る時間。仕事帰りに訪ねて来てくれる時は、とうにチャイムが鳴っている。鳴らなかったということは…。
今日は来てくれないハーレイ。まだ学校に残っているのか、「今日は遅いから」と寄らずに家へ帰ったか。「遅くなったら、お母さんに迷惑かけるだろうが」が口癖だから。
(でも、明日は…)
土曜日だから、ハーレイは家に来てくれる。午前中から、此処で二人で過ごすために。
その時に訊いてみればいいや、と机の上の本を眺めた。この本が机に置いてあったら忘れない。
(…ソルジャー・ブルーの本だしね?)
何をハーレイに訊こうとしたのか、明日になっても忘れはしない。夕食を食べても、ゆっくりとお風呂に入っても。一晩ぐっすり眠ったとしても。
(ちゃんとハーレイに訊かなくちゃ…)
前の自分の記憶のこと。それを持っていることを明かすか、秘密のままにしておくか。
「ハーレイはどうすればいいと思う?」と。
自分だけでは答えが出ないし、それに自分が明かす時には、ハーレイも一緒だろうから。
ハーレイがいない夕食の後で入ったお風呂。パジャマに着替えて、もう寝るだけの時間。
窓の外はすっかり夜だけれども、勉強机の上の本を手に取った。ソルジャー・ブルーの偉人伝。気まぐれにめくってみたページ。何ヶ所か開いて少し読んでは、考え込んでしまうこと。
(やっぱり、大切な記憶なの…?)
今の自分とハーレイが持っている記憶。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、ミュウの歴史を語る上では欠かせない二人。それが自分とハーレイの前世、今も忘れていない生き様。
(いろんなことを忘れちゃってたり、思い出したりするけれど…)
重要なことは忘れていないし、忘れていたって直ぐに思い出せる。ソルジャーとしての生き方はもちろん、その生涯の中の出来事だって。他の仲間たちがしていたことも。
今の自分の頭の中身は、大勢の人が知りたいこと。真実を探し求めていること。
子供向けに書かれた伝記でなくても、謎のままで欠けた部分が多いソルジャー・ブルーの生涯。その空白を埋められるのは、今の自分の記憶だけ。
(ぼくが話せば、沢山の謎が解けるんだから…)
とても大切で重要な記憶、それを抱えているのが自分。きちんと話して謎を解くべきか、黙っていてもいいものなのか。
その答えすらも分からない上に、自分自身がどうしたいのかも…。
(分かんないよ…)
パタンと閉じて、机に戻した本。子供向けのソルジャー・ブルーの伝記。この本を買って貰った時には、自分でも気付いていなかった。本の中身が自分自身の生涯だとは。
記憶が戻った今になっても、ソルジャー・ブルーは偉大な英雄。宇宙の誰もがそういう認識。
(…今のぼくとは違いすぎるよ…)
だから余計に分からないよ、とベッドに入っても出せない答え。部屋の灯りを消したって。
今の自分が持っている記憶、前の自分はソルジャー・ブルーだったこと。
それを自分は明かしたいのか、隠したいのかも分からない。そんな単純なことさえも。
自分がどういう気持ちでいるのか、自分の意志はどうなのかも。
分からないや、と思う間に眠ってしまって、目覚めたらもう土曜日の朝。明るい日射しが部屋に射し込み、勉強机の上にあの本。それを見るなり、思い出したこと。
(ハーレイに訊いてみなくっちゃ…)
前の自分が誰だったのかを、ソルジャー・ブルーの記憶を明かすか、明かさないままか。
きっとハーレイなら答えてくれる、と考えたから、恋人が来るなり見せた本。窓辺のテーブルで向かい合わせで座るのだけれど、そのテーブルの上に運んで来て。
「あのね、これ…」
ママが物置から出してくれたんだよ、と置いたソルジャー・ブルーの本。小さかった頃に買って貰った偉人伝。昨日も読んでいたけれど。
ハーレイは「ほう…?」と少し古びた本を眺めて、それから視線をこちらに向けた。
「いったい何を持って来たかと思ったら…。なんだ、お前の伝記ってヤツか」
もっとも、前のお前のだが…。今のお前じゃ、伝記にはまだ早すぎるしな。
こんなチビでは、とハーレイが目を細めるから。
「ハーレイも読んだ? これと同じ本」
シリーズで色々あるみたいだけど、ソルジャー・ブルーのことが書いてある本。
「もちろん読んだぞ、ガキの頃にな」
子供向けの伝記の定番だろうが、とハーレイも読んでいた偉人伝。ソルジャー・ブルーの生涯が書かれた、小さな子供向けの本。
「それじゃ、ハーレイ、大人向けのも読んでみた?」
歴史好きの大人の人が読む本、沢山出ている筈だから…。そういうソルジャー・ブルーの伝記。
読んでみたの、と尋ねたけれども、「いや…」と言葉を濁したハーレイ。
「教師だったら、読むべきなのかもしれないが…。俺は歴史の教師じゃないし…」
特に興味も無かったからなあ、ソルジャー・ブルー個人には。
わざわざ本まで買って読むほど、惹かれてたわけじゃなかったってな。記憶が戻って来る前は。
そして記憶が戻っちまったら、本物のお前がいるわけだから…。
本は読まなくてもかまわんだろうが、それよりもお前の御機嫌を取ってやらないと。
本の世界よりも現実の方が大切だ、と鳶色の瞳に見詰められた。「そうじゃないのか?」と。
「お前は此処に生きてるんだし、前のお前も一緒だろうが」
すっかり小さくなっちまったが、お前は俺のブルーだから…。前のお前と同じ魂。
前のお前の本は要らんな、本物を手に入れちまったら。
「そうなっちゃうの? …前のぼくの伝記、ハーレイも子供向けしか読んでいないんだ…」
でも、この本も…。大人向けに書かれた伝記の方でも、中身、色々、欠けちゃってるよね。
ぼくも大人向けの伝記は読んでないけど、想像はつくよ。
前のぼくの伝記、幾つあっても、本当のことばかりじゃないって。
後の時代に想像で書かれたことが多くて、穴だらけ。…ソルジャーっていう名前だけでも。
「まあなあ…。今の時代も諸説あるしな」
名付けた人間の名前にしたって、一つってわけじゃないようだから…。
まさか投票で決めていたとは、どんな学者も知らんだろう。候補が幾つあったのかも。
前の俺は航宙日誌に書いていないし、トォニィどころか、ジョミーも知らないままだったから。
ソルジャーっていうのが何処から来たのか、由来はいったい何だったのかも。
あの時代に生きた俺たちから見りゃ、お前の伝記は穴ばかりってことになるんだろうが…。
それがどうかしたか?
至極当然の結果だと思うが、記録が残っていないんだから。…前の俺も残さなかったしな。
欠けた伝記でも不思議じゃないぞ、とハーレイは納得している様子。今という時代にも、沢山の穴だらけになったソルジャー・ブルーの伝記にも。
「えっと…。ハーレイが言う通り、当然なのかもしれないけれど…」
でもね、ぼくは答えを知ってるんだよ。穴だらけの伝記をきちんと直せる答えをね。
ハーレイもそうでしょ、前のぼくのことを誰よりも知っていたのは前のハーレイだから。
それでね、思ったんだけど…。
いつかは話すべきなのだろうか、と投げ掛けた問い。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、自分たち二人の頭の中身。前の生の記憶。
きっと重要な記憶だろうし、学者たちだって探し続けている筈。遠く遥かな時の彼方で、本当は何があったのか。どういう具合に時が流れて、ミュウの時代に繋がったのか。
「…今のぼくが知っている答え…。きちんと話した方がいいと思う?」
ぼくが話したら、ハーレイも話さなきゃいけないことになるけれど…。
前のハーレイが持ってた記憶も、今のハーレイが前はキャプテン・ハーレイだったことも。
ぼくの記憶が戻った切っ掛け、ハーレイに会ったことなんだから。
「…俺はともかく、お前自身はどうなんだ?」
お前の気持ちというヤツだな。そいつを抜きにして考えたって、答えは出ないぞ。
前は怖いとか言ってたが…。前のお前がやらかしたことの、責任がどうとか言ってたっけな。
お前がソルジャー・ブルーだということになれば、魂は同じなんだから…。
ソルジャー・ブルーとして下した判断、それが今では間違いだったらどうしよう、と。
前のお前が良かれと思って選んだ道がだ、結果的には失敗だったってことも有り得るからな。
歴史の研究が進んでいる分、そう考えるヤツがゼロとは言えない。全てが終わった後の時代は、何とでも言えるわけだから。結果を知っているんだからなあ、解決策も見えてくるってモンだ。
そういったことを突き付けられても、今のお前じゃ困るしかない。
ついでに、ソルジャー・ブルーだった頃ほど強くないから、責任はとても背負えそうにない、と言っていたのがお前なんだが…?
覚えていないか、と逆に訊かれて蘇った記憶。…今のハーレイとそういう話をした、と。
「それ、忘れてた…。前のぼくだった時の責任のこと…」
ぼくは誰かを話すんだったら、前のぼくのことを重ねられちゃうから…。
前のぼくがやったことの責任、取らなくちゃ駄目?
今だと間違いになっちゃってること、謝らなくっちゃいけないだとか…。
それはホントに困るんだけど、と瞬かせた瞳。
ソルジャー・ブルーだった頃に下した判断、その誤りを指摘されても、どうしようもない。時の彼方に戻れはしないし、「ごめんなさい」と詫びることしか出来ない。
前の自分が間違ったせいで、酷い目に遭った仲間たちに。…今はもういない人たちに。
そうなったならば、チビの自分は泣いてしまうし、前と同じに育っていても泣くのだろう。前の自分ほど強くないから、弱虫になってしまったから。
「…前のぼくの間違い、叱られたら、ぼく、泣いちゃうよ…」
謝る間も涙がポロポロ零れてしまって、きっと泣き声。言葉だってちゃんと出て来ないかも…。
責任なんて取れやしないよ、前のぼくが迷惑をかけた仲間は、もういないのに…。
どうすればいいの、とハーレイを見詰めた。「前のぼくの責任、取らなきゃいけない?」と。
「時効だろうと思うがな? とうの昔に」
仮に前のお前が失敗してても、その失敗から何年経ったと思ってるんだ。
死の星だった地球が青く蘇って、俺たちは其処で暮らしてるんだぞ?
とんでもない時が流れたわけだし、時効だ、時効。…誰もお前を責めやしないさ。
何か失敗してたとしても、と頼もしい保証をして貰ったから、ホッとした。前の自分だった頃の判断ミスやら、責任は問われないらしい。
「時効なんだ…。誰にも叱られないんだね、ぼく」
それなら、話した方がいい?
前のぼくの記憶を持っていること。…前のぼくはソルジャー・ブルーだったこと。
きっと大勢の人の役に立つよね、ぼくの記憶があったなら。
「どうだかなあ…。喜ばれるのは間違いないとは思うんだが…」
話しちまったら、お前は今のお前じゃいられなくなるぞ。チビでも、育った後のお前でも。
「…え?」
どういう意味、と丸くなった目。今の自分ではいられないとは、いったい何のことだろう…?
「そのままの意味だ。誰もがお前に、前のお前を重ねるからな」
今のお前であるよりも前に、ソルジャー・ブルーになるってことだ。…前のお前に。
お前自身がどう思っていても、先に立つのはソルジャー・ブルー。
俺も同じになっちまうんだがな、今の俺よりもキャプテン・ハーレイが注目を浴びて。
お互い、インタビューだけではとても済まないだろう、とハーレイはフウと溜息をついた。
実はこういう人間なのだ、と明かしたならば、最初の間はインタビュー。
大勢の新聞記者や学者がドッと押し寄せ、質問攻め。「本当ですか?」と、次から次へと。
前は本当にソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、そういう二人だったのか、と。
本物かどうか、確認が取れるまでの間は、取材とインタビューの日々。
けれど、本物だと分かったならば…。
「俺もお前も、ありとあらゆる所に引っ張り出されるぞ」
派手に取材を受けてた間は、ただ質問に答えるだけで良かったが…。
本物と決まれば、もっと色々なことを話さなければならないだろうな。前のお前や俺として。
研究会やら、講演会やら、沢山の場所が俺たちに用意されるんだろうさ。
ソルジャー・ブルーとしての話や、キャプテン・ハーレイならではの話を期待されて。
話し終わったら、次は質問が飛んで来る。俺やお前の意見を求めて、「どう思いますか?」と。
質問して来たヤツの考え、そいつを聞いては答える羽目に陥るってな。
しかもだ、今の俺やお前の考えじゃなくて、前の俺たちの考え方をしなきゃならんから…。
そいつは如何にも大変そうだ、とハーレイが軽く広げた両手。「疲れちまうぞ」と大袈裟に。
「講演会って…。ぼくが喋るの?」
誰かの講演を聞くんじゃなくって、ぼくが講演するってわけ?
ソルジャー・ブルーだった頃はこういう時代でした、ってマイクの前で…?
おまけに人が大勢だよね、と気が遠くなってしまいそう。今の学校の講堂でさえも、前に立って話すことになったら、足が竦んでしまうだろうに。
「そうなるだろうな、ソルジャー・ブルーなんだから」
キャプテン・ハーレイの俺もだろうが、喋らされることは間違いあるまい。
どういう話を聞けるだろうか、と押し掛けて来ている連中の前で。
式典だって出なきゃいけなくなるかもなあ…。記念墓地とかでやっているヤツ。
SD体制崩壊の記念日とかには、出掛けて行ってスピーチだとか、と凄い話が飛び出した。
前の自分や、ジョミーたちの墓碑がある記念墓地。ノアとアルテメシアのものが有名だけれど、他の星にも記念墓地はある。其処で行われている式典。記念日や、他にも様々な折に。
宇宙のあちこちから、式典のために集まる人々。其処でスピーチをするとなったら、講演会より多い聴衆。中継だって入るのだろうし、新聞記者たちも押し掛ける筈。
「…式典に出掛けてスピーチって…。其処までしなくちゃ駄目なわけ?」
なんだか責任重大そうだし、凄く緊張しそうなんだけど…!
とても声なんか出そうにないけど、それでもスピーチさせられちゃうの…?
ぼくが、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「うむ」と重々しく頷いた。
「当然だろうが、ミュウの時代を作った大英雄が現れたんだぞ」
ソルジャー・ブルーがスピーチしたなら、式典の値打ちがグンと上がると思わんか?
きっとお前は引っ張りだこだな、キャプテン・ハーレイよりも人気で講演会も山ほどだ。
でもって、俺とは恋人同士で、結婚してるということになると…。
どうなると思う、という質問。「俺は、こいつが世間の注目の的だと思うがな?」と。
「そうだ、結婚…。それも訊かれてしまうんだっけ…!」
ハーレイと結婚しているんだから、前のぼくたちのことも訊かれるよね?
ソルジャー・ブルーだった頃にも、恋人同士だったんですか、っていう風に…。
「前の俺たちがどうだったのかは、もう確実に訊かれるな」
恋人同士の二人だったか、前はそうではなかったのか。…今は恋人同士でもな。
出会いが違えば、関係も変わってくるモンだから…。前は違った可能性だって高いんだ。
前の俺たちは親友だったが、今度は恋に落ちちまった、という展開。
それでも別に不思議じゃないが、だ…。そうだと言ったら、みんな納得するんだろうが…。
お前、そいつにどう答えたい?
「どうって…?」
「前も恋人同士だったと胸を張りたいか、「違う」と答えて隠したいのか」
答えたい言葉はどっちなんだ、と訊いている。…今のお前の気持ちってヤツを。
「…どっちだろう…?」
前のぼくたちのことだよね…。それを隠すか、話しちゃうのか…。
どちらだろう、と考え込んだ。直ぐには答えられないから。
(…前のハーレイと、前のぼくの恋…)
お互い、恋をしていたけれども、誰にも明かせなかった恋。
ソルジャーとキャプテン、そういう二人が恋に落ちたと知れてしまったら、白いシャングリラを導くことは出来ないから。…皆がついて来てくれないから。
だから懸命に隠し続けて、恋はそのまま宇宙に消えた。前の自分の命がメギドで潰えた時に。
今の時代なら明かしていいのだけれども、前の自分たちが最後まで隠し通した恋。
誰にも知られず、前のハーレイも航宙日誌に何も記しはしなかった。
その想いを無駄にしてしまう。
今、真実を語ったならば、前の自分たちの努力を踏み躙ることになる。最後まで隠して、黙って死んでいったのに。…前のハーレイも、前の自分も。
そうは思っても、知って欲しいという気もする。
二人して隠して守った恋。遠く遥かな時の彼方で、最後まで守り続けた恋。
実はそういう二人だった、と切ない想いを知って貰えたら、どれほど嬉しいことだろう。
どんな気持ちでメギドへ飛んだか、前のハーレイとの別れが悲しく辛かったか。
それを平和な今の時代に、大勢の人たちに知って貰えたら…、と。
前の自分たちの恋を隠し続けたいと考えるのも、話したいのも、どちらも自分。
答えは自由に決めていいのに、まるで選べない選択肢。二つに一つを選ぶだけなのに、隠すか、話すか、それだけなのに。
だから、俯き加減で呟いた。答えになっていない答えを。
「……分かんない……」
分からないんだよ、今のぼくには決められないみたい。どっちを選んだ方がいいのか。
最後まで隠したままだったんだし、これから先もずっと隠しておきたいのかな、前のぼく…?
それとも堂々と話して胸を張りたいかな、どっちだと思う?
ねえ、とハーレイに訊いたのだけれど。
「おいおい、そいつが俺に分かると思うのか?」
俺もお前と同じ気持ちでいるんだからな。…もしも訊かれたら、どうすればいいか。
喋っちまったら、前の俺たちの努力を無にするような気がしてなあ…。
ああやって必死に隠していたのも、俺たちの恋を大切に守るためだったから。
「じゃあ、ハーレイにも分からないの?」
ぼくに質問していたくせに、ハーレイだって答えられないわけ…?
なのに訊いたの、と意地悪な恋人を睨み付けたら、「今のトコはな」と深くなった瞳の色。
「今の俺には答えられない。…だからだ、俺が思うには…」
いつか俺たちが結婚したら、前の俺たちの想いが叶う。
やっと二人で暮らすことが出来るわけだろう…?
其処の所を考えてみろ、とハーレイは真摯な瞳で語った。
まだ婚約さえもしていないけれども、いずれ結婚する二人。結婚出来る時が来たなら。
その時ようやく成就するのが、前の自分たちが育んだ恋。
死の星だった地球が蘇るほどの、長い長い時を越えて来て、青い地球の上で。
結婚の誓いのキスを交わして、今度こそ二人、幸せな時を生きてゆく。互いの想いを、恋を隠すことなく、同じ家に住んで、家族になって。
「いいか、今度は結婚出来るんだ。…俺たちは堂々と家族になれる。誰にも遠慮しないでな」
その俺たちがだ、どう思うかが鍵になるんだろう。
平凡な恋人同士として、前のようにひっそり暮らすのがいいか、成就した恋を披露したいか。
正直、俺にも想像がつかん。…俺たちがどちらになるのかは。
「それなら、その時を待てばいいんだね?」
前のぼくたちのことを話すか、隠すか、どっちにするのか決めるのは。
ぼくたちが持ってる記憶のことも、その時までは秘密のままで。
「そうなるな。ただ…」
話さないような気がするな…。前の俺たちが誰だったのかは。
やっと二人で生きてゆけるのに、来る日も来る日も、講演会やら式典ではな。
ゆっくりする暇も無いじゃないか、とハーレイが苦い顔をするから。
「そうかもね…。忙しすぎるのは、ぼくも嫌かも…。それにスピーチも講演会も」
でも、黙っててもいいのかな?
ぼくたち、歴史の証人なのに…。ハーレイもぼくも、貴重な記憶を持っているのに。
「もう充分に頑張っただろうが、前のお前が。…ソルジャー・ブルーが」
今度のお前まで、世界のために頑張らなくても、静かに暮らしていいと思うぞ。
お前がそれを願うなら。…誰にも邪魔をされないで。
前の俺たちの時と違って、今のお前は自由なんだ。神様も許して下さるさ。…黙っていたって。
「そうだね…!」
ぼくは何にも出来ないけれども、前のぼく、頑張ったんだっけ…。
こんな本まで出して貰っているほどなんだし、今のぼくの分まで頑張ったよね、きっと…!
黙っていたって大丈夫さ、とハーレイが穏やかに微笑むから。
前の自分が今の分まで、頑張ってくれたらしいから。
(…ぼくが誰かは内緒のままで、前のぼくたちの時みたいに…)
今度もハーレイと二人でひっそり生きていこうか、静かに、けれど幸せに。
まるで目立たない、平凡な恋人同士だけれども、自分たちの恋を大切に。
互いが互いを想い続けて、しっかりと手を繋ぎ合って。
前の自分たちが隠し続けた、恋がようやく実るから。
白いシャングリラで夢に見ていた青い星の上で、二人きりで生きてゆけるのだから…。
前の生の記憶・了
※ブルーとハーレイが持っている、前の生の記憶。歴史的には、とても貴重な資料や証言。
それを明かすか、悩んだブルーですけれど…。今の生では、明かさなくても許して貰える筈。
「んー…」
上手く描けない、とハーレイの向かいでブルーがついた溜息。
今日は土曜日、ブルーの家を訪ねて来たのだけれど。午前中から二人で過ごしたブルーの部屋。其処で昼食、出て来た料理はオムライス。
それを食べようとしていた所で、ブルーの手にはケチャップの容器。オムライスにケチャップで描こうとした絵。「ぼくとハーレイは、ウサギのカップルなんだから」と。
つまりウサギを描きたかったらしい。ブルーも自分もウサギ年の生まれで、ウサギのカップル。
「…それがウサギってか?」
ウサギの顔の筈だよな、と眺めたブルーのオムライスの上。下手な落書きにしか見えない絵。
「やっぱり変?」
耳も口も上手くいかないよ、とブルーも残念そう。「これじゃウサギに見えないよね」と。
「ウサギなあ…。描くなら、こうだな」
まずは顔から耳を生やして、とケチャップで描いてゆくウサギの輪郭。クルンと引いて、二本の耳も。ウサギの顔の形が出来たら、お次は目。つぶらな瞳をケチャップで丸く。
(…でもって、鼻をこう描いて、と…)
チョンと絞り出してやったケチャップ。鼻が出来たら、ウサギらしい口も。
そうやって器用に描き上げたウサギ。「俺ならこうだ」と。
「ハーレイ、凄い!」
ぼくのウサギと全然違うよ、ホントにウサギ。凄く上手いね、ケチャップの絵。
「なあに、ケーキのデコレーションの要領だってな」
ウサギくらいは簡単だぞ。お前、ケーキ作りは手伝わないのか?
どうなんだ、と尋ねてみたら、口ごもったブルー。
「…ママが作ってるの、たまに手伝うけど、飾りの方は…」
やってないんだよ、小さい頃に何度も失敗したから。模様を描くのも、絞るだけのも。
薔薇の花びらを作る練習とかも、ママと一緒にやったんだけどね…。
ちっとも上手くいかなかった、とブルーは小さく肩を竦めた。「だから飾りは手伝わない」と。
ケーキ作りを手伝った時も、デコレーションは母に任せているらしい。今のブルーなら、手先も器用になっただろうに、お任せのまま。それでは上手になるわけがない。
デコレーションの方はもちろん、ケチャップで絵を描くことも。どちらも要領は同じだから。
「やってないのか、デコレーション…。それなら下手でも仕方ないな」
こいつも一種の修行だから。…経験ってヤツがものを言うんだ、ケチャップの絵も。
修行を積まないと上手く描けんぞ、と指差したブルーのオムライス。「そうなっちまう」と。
「分かった、頑張る…!」
練習するよ、とブルーが握ったケチャップの容器。もう一度絵を描くつもりで。
「おいおい、ケチャップまみれになるぞ。せっかくの美味いオムライスが」
味だって台無しになるじゃないか、とブルーを止めた。適量だからこそ、美味しいケチャップ。
「でも、練習…」
練習しないと上手くならない、って言ったの、ハーレイじゃない!
だから練習したいのに…。ケチャップで上手に絵を描く練習。
「またにしておけ、お母さんにも失礼だろうが」
食べ始めてから胡椒を振るとか、ケチャップを少し増やすとか…。そういうのならいいんだが。
自分の好みの味にするのは問題無い。だが、一口も食べない間に入れるというのは失礼だ。
マナー違反だぞ、「お好みでどうぞ」と勧められても、食べる前なら控えめにだ。
今からケチャップを増やしちゃいかん。練習は次の機会にだな。
ケチャップで模様を描ける料理が出た時にしろ、とテーブルに置かせたケチャップの容器。
「うー…」
ホントに練習したかったのに…。ハーレイだって、修行を積めって言ったのに…。
今から描いたら、練習、一回出来るんだけどな…。
駄目だなんて、とガッカリしたブルー。「こんなのじゃ上手くならないよ」と。
オムライスを頬張り始めた後にも、食べながらチラチラとケチャップの容器を見たりしている。目の端の方で、「あそこにケチャップ…」と未練がましく。
(…また描き始めるんじゃなかろうな?)
まだケチャップがついていないトコとか、皿とかに、と心配になってくるくらい。ケチャップで絵を描きたいブルーは、まだまだ未練たっぷりだから。…ケチャップ修行に。
やろうとしたら止めないと、と考えていたら、不意に頭を掠めた記憶。赤いケチャップ。
(ケチャップだと…?)
遠く遥かな時の彼方から来た記憶。前のブルーと、それにケチャップ。
まるで繋がりそうもないのに、何故、と首を捻るよりも先に気が付いた。そのままだった、と。
前のブルーもケチャップで絵を描いていたもの。朝食がオムレツだった時には。
白いシャングリラでの朝の習慣。青の間で食べた、ソルジャーとキャプテンとしての朝食。係にオムレツを注文したら、ブルーはケチャップで絵を描こうとした。描きたい気分になった朝には。
「…お前、今も昔も変わらんなあ…」
そう口にすると、キョトンとしたブルー。オムライスを掬ったスプーンを持って。
「変わらないって…。何が?」
今も昔も、って言うんだったら、前のぼくでしょ?
いったい何が変わらないの、とブルーはオムライスを頬張った。パクンとそれは美味しそうに。
「オムライスではなかったんだが…。ケチャップで絵を描いていただろ」
青の間でもよく描いてたもんだが、それよりも前も。…白い鯨になる前の船で。
食堂でケチャップを使う場面があったら、お前、描こうとしてたんだ。
「ああ…!」
ホントだ、ケチャップ…。前のぼくもケチャップで描いていたっけ、色々なものに。
青の間だったら、朝のオムレツだったよね。
思い出した、と煌めいたブルーの瞳。「前のぼく、あれが好きだったよ」と。
「ケチャップで描くの、気に入ってたけど…。誰が教えてくれたんだっけ?」
アルタミラの檻で生きてた頃には、ケチャップの絵なんか描けるわけがないし…。
子供の頃の記憶は失くしちゃったし、覚えていそうにないんだけれど…。描いてたとしても。
だから誰かに教わった筈、とブルーの記憶はまだ中途半端。曖昧な部分があるらしい。
「お前に教えたのは、前の俺だな。こうして食べると面白いぞ、と」
まだ厨房にいた頃だから…。ずいぶんと古い話だってな。
俺もケチャップで絵を描いたという記憶は、まるで残っていなかったんだが…。
思い付いたんだ、と指で示したケチャップの容器。「前の俺がこいつを見ていた時に」と。
名前だけは「シャングリラ」と立派だった船。
其処の厨房で料理をしていた時代に、ふと閃いたのがケチャップの容器の使い方。赤いトマトを煮詰めて作った、ケチャップを絞り出せるから…。
(上手く使えば、絵が描けそうだと思ったんだよな)
ケーキなどに使うデコレーション。…ケーキは作っていなかったけれど、データベースで料理を色々と調べる間に、そういう知識も仕入れていた。「絞り出したら、絵が描ける」こと。
それを生かして、ただケチャップを塗るよりは、とブルーの料理の上に書いてやった。ブルーの名前を、赤いケチャップで。
最初はそれだ、と教えてやったら、ブルーの記憶も戻って来た。「そうだっけね」と。
「ハーレイが書いてくれたんだっけ…。ぼくの名前を」
嬉しかったんだよ、このお皿の料理はぼくだけの、って気分になって。…誰も取らないけど。
でもね、名前が書いてあるだけで、特別な気分がするじゃない。
「お前、はしゃいでいたからなあ…。あれで気に入って、次から色々リクエストして…」
他にも何か描いて欲しい、と俺に注文したもんだ。いわゆるケチャップのデコレーションを。
文字だけじゃなくて、絵も描いてくれ、と。…その内に自分で描き始めたが。
「楽しそうだし、自分でもやりたくなってくるもの」
すっかりぼくのお気に入りだよ、ケチャップで何か描くってこと。…字とか、絵だとか。
前のブルーが描いていたケチャップの絵や、文字やら。上手く描けたら、大喜びで眺めていた。
ソルジャーの尊称がついた後にも、せっせと描いていたブルー。
白い鯨になる前の船でも、青の間でも。ケチャップで絵を描ける料理があったら、絵を描こうと思い立ったなら。
ケチャップはいつも船にあったし、描くのは好きに出来たのだけれど…。
(待てよ…?)
そのケチャップで、心に引っ掛かったこと。「合成品」と。
(合成品のトマトケチャップなら…)
白い鯨が完成してから、暫くの間、作っていた。自給自足で生きてゆく船を目指したけれども、栽培が軌道に乗ってくれるまでの期間は、トマトが足りなかったから。
もちろんトマトは採れたのだけれど、形を残したい料理の方に優先的に回すもの。形が無くても問題無いなら、合成品を使っていた。トマトケチャップや、トマトペーストならば合成品。
(だよなあ…?)
合成品のトマトと言ったら、あの時期だけだった筈なんだが、と思うのにまだ引っ掛かる。一時しのぎにと作られていた、合成品のトマトケチャップが。
ほんの短い間だけだった、合成品のトマトケチャップ。白い鯨になった直後の一時期だけ。
トマトの栽培は至って簡単なもので、充分な量の苗を育てられるようになったら、合成品は姿を消した。本物のトマトが次から次へと実る船では、もう必要が無かったから。
あったことすら忘れていたほどの、合成品のトマトケチャップ。
なのにどうして引っ掛かるのか、自分でもまるで分からない。相手はただのトマトケチャップ。
(何故だ…?)
合成だろうが、本物だろうが、見た目では区別がつかなかった出来。
それに不味くもなかったわけだし、キャプテンとしては及第点を出せる代物。ずっと合成品しか無かったのなら「駄目だ」と切り捨てるけれど。「ケチャップも作れない船だった」と。
トマトの栽培に失敗していれば、そういう結末。ケチャップの原料に回せるだけのトマトが無い船、なんとも情けないシャングリラ。自給自足を謳っていたって、合成品が出回る船。
けれども、そうはならなかったし、何の問題も無かった筈。…トマトケチャップに関しては。
いったい何処が引っ掛かるんだ、と捻った首。「あれで良かった筈なんだが」と。
トマトが沢山採れない間は、合成品を使うこと。きちんと会議にかけて決めたし、事前に試食もしていたほど。皆が「不味い」と言い出さないよう、船の改造を始める前から。
(分からんな…)
まるで謎だ、とオムライスを口に突っ込んでみても分からない。ケチャップの味も、記憶の鍵を運んで来てはくれない。「合成品でも、充分こういう味だったよな」と思う程度で。
「…ハーレイ、どうかした?」
何か気になることでもあるの、とブルーに訊かれた。「急に黙って、どうしちゃったの?」と。
「すまん、つい…。合成品のトマトが気になってだな…」
待て、それだ!
合成のトマトが問題だったんだ、と蘇った記憶。言葉に出したら、遠い記憶の海の底から。
「何の話?」
合成品のトマトって…、とブルーは怪訝そうな顔。ブルーにとっても、合成品のトマトと言えば一時しのぎの物だろう。ほんの一時期、白い鯨で作られただけの。
けれど…。
「ナスカだ。あそこで起こっちまった対立…」
古い世代と、ナスカにこだわった若い世代と。あの対立が激しくなった原因…。
元はトマトだ、と瞠った目。
あれから目に見えてこじれ始めた、と思い出した出来事。トマトと、合成品のトマトと。
「トマト…。ナスカでも採れた野菜だよね?」
前のぼくは食べ損なったんだけど、とブルーの赤い瞳が瞬く。古い世代はナスカの野菜を嫌っていたから、前のブルーにも供されなかった。十五年もの長い眠りから覚めても、当然のように。
「うむ。あの星の最初の収穫だった」
トマトとキュウリと、タマネギにニンジン。
それを籠に入れて、「受け取って下さい」とルリが差し出したっけな、ジョミーに。
ナスカで最初の収穫です、と嬉しそうな顔で。
ジョミーはトマトに齧り付いてだ、「美味しい! 太陽の味がする」と言ったんだが…。
同じトマトを、ゼルがだな…。
齧るなり床に叩き付けた、とブルーに話した。「この話、前にもしたんだが…」と。
「だが、あの時はトマトの話だけでだ…。問題の根はもっと深かったんだ」
やっと思い出した、今になってな。ゼルが怒って怒鳴った言葉が、実に厄介だったこと。
ゼルはトマトを叩き付けるなり、こう言ったんだ。「こんな臭い物が食えるか」と。
合成の方がまだマシだ、とな。
「…それって酷い…」
みんなが頑張って作ったトマトを捨てちゃうなんて。…味に文句をつけるだなんて。
それで対立しないわけがないよ、若い世代を頭から否定したんだから。
「ゼルがやったことも酷いんだが…。褒められたことじゃなかったんだが…」
言葉の方がもっと酷かった。…結果的には、そうなったんだ。
あれで誤解が生まれちまった、「合成の方がマシだ」と言ったモンだから。
「…どういう意味?」
誤解って、とブルーはオムライスを頬張りながら尋ねた。「いったい何が誤解されたの?」と。
ゼルがトマトを投げ捨てただけで充分酷いし、誤解も何も、とブルーは言うのだけれど。
「そのトマトだ。…お前、合成トマトなんかがあると思うか?」
あったと思うか、と言い換えてもいい。トマトそのものの形をしていた、合成品のトマト。
そんな代物、あのシャングリラに存在してたか、ほんの一時期だけにしたって…?
「トマトの形の合成品って…。あるわけないでしょ、そんなヘンテコなもの」
白い鯨に改造した後、トマトが充分採れなくっても、丸ごとの形で合成したりはしなかったよ。
足りなかった時は、本物のトマトは無しで、合成品のケチャップとかトマトペーストの出番。
そういうので出来る料理を作っていたでしょ、「トマトは暫く我慢してくれ」って。
農場でトマトが採れ始めるまでは、トマト風味のお料理で我慢。
みんな分かってくれていたから、文句を言う人は誰もいなかったよ。
白い鯨で丸ごとのトマトが出て来た時には、いつも本物。…太陽の味はしなくってもね。
人工の照明で育てたものでも、トマトはトマト、と答えたブルー。トマトの形の合成品などは、一度も作っていなかった、と。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物のトマトは船でも作れたんだから」
最初の間は量が足りなくて、ケチャップとかを合成したけれど…。丸ごとのトマトは本物だけ。
合成のトマトなんかは作っていないよ、作ろうって話も出なかったけれど…?
「そうなんだが…。其処の所を誤解したのが若いヤツらだ」
合成トマトケチャップがあった時代を知らなかったからな、若い連中は。
シャングリラにもトマトはちゃんとあるのに、「合成の方がマシだ」と言われちまったんだぞ?
ゼルにしてみれば、合成ケチャップのトマトの方が、という意味なんだが…。
それを知らないヤツらが聞いたら、どういう意味に取れると思う?
「…言いがかりにしか聞こえないよね?」
シャングリラのトマトよりも、ずっと酷い味。…合成した方がマシなくらいだ、って。
合成品のトマトは作ってないけど、こんなトマトより、それを開発した方がマシ、って言われてしまったみたい…。お話にならない味のトマトだ、って。
「そういうこった。…若いヤツらは、その通りの意味に受け取ったんだ」
お前が言った通りにな。ありもしない合成のトマトの方がマシだ、と罵倒されたと考えた。
話はたちまち広がっちまって、対立が酷くなる切っ掛けになっちまったんだ。
俺も事情を把握してはいたが、あえて説明しなかったから…。ゼルの言葉の本当の意味。
「なんで?」
教えてあげれば良かったのに、とブルーは不思議そうだけれども。
「…自分で歴史を紐解けば良かろう、と考えたんだ」
合成のトマトで腹を立てたなら、あの船に合成品が溢れていた時代を調べるがいい、と。
最初からトマトが充分にあったか、他の作物はどうだったのか。
コーヒーやチョコレートの代用品だったキャロブにしたって、初めの間は船には無かった。
あれはゼルの一言で来た植物だぞ、「子供たちに合成品のチョコレートを食べさせたくない」と言ってくれたお蔭で。
トマトの件で「合成の方がマシだ」と言ったのは、そのゼルだ。…白い鯨を作ったのも。
合成トマトを切っ掛けにして、色々なことを知ってくれればいい、と思ったんだが…。
馬鹿な選択をしたもんだ、と零した溜息。オムライスの最後の一口をスプーンで頬張って。
「前の俺も、つくづく馬鹿だった。何に期待をしていたんだか…」
ナスカに夢中の若いヤツらが、シャングリラの過去を振り返るわけがないのにな。
古い世代に腹を立てていたなら、なおのことだ。
俺としたことが…、と皿に置いたスプーン。「御馳走様」と。
「それじゃ、みんなは誤解したまま?」
合成トマトの方がマシだ、ってゼルが悪口を言ったんだ、っていう風に。
ありもしない合成トマトなんかと比べられた、って酷い悪口だと思い込んだまま…?
そうだったの、とブルーが見上げてくる。オムライスを口に運びながら。
「恐らく、そうだったんだろう。…トマトの件は違うようだ、と噂が流れはしなかったから」
そしてゼルたちはナスカの野菜を酷く嫌って、食べることさえ無かったし…。
余計にこじれる一方だったというわけだな。若い世代と古い世代の対立ってヤツは。
「…ハーレイ、みんなに教えてあげれば良かったね。合成トマトは誤解なんだ、って」
ゼルだって言葉不足だよ。
合成のトマトケチャップの方がよっぽどマシだ、って言えば通じた筈なのに…。
それでもみんなは怒っただろうけど、言い返すことは出来たと思う。失礼な、ってね。
合成品なんかを作らなくても、これからはナスカで沢山のトマトが実るんだから、って…。
「そうだな、お前が言う通りかもしれないな…」
合成のトマトというのが何のことなのか、それだけでも皆に通じていたら…。
きちんと意味を把握していたら、同じ怒りでも別の方へと行っただろう。
合成品のケチャップよりも美味いケチャップ、そいつをナスカのトマトで作ってみせるとか。
「いつか作るから、それを食べてから文句を言え」と噛み付くだとか。
そうすりゃ、こじれはしなかったんだ。…対立したって、ライバル意識の塊ってだけで。
古い世代をいつか見返してやる、と前向きに努力するだけだから。
合成品よりも美味いナスカのケチャップが出来たかもな、と思い返さずにはいられない。対立の方向が違っていたなら、結果も違っていたのだろうに。
「あそこにヒルマンがいたならな…」
こじれずに済んでいたかもしれん。あの時、あいつが一緒だったら。
あいつだったら…、と思い浮かべた博識な友。皆が「教授」と呼んだくらいに。
「ヒルマン?」
騒ぎの時にはいなかったの?
初めての収穫をジョミーに渡そうっていう時なんだし、ヒルマンも一緒にいそうなのに…。
ハーレイたちの方じゃなくって、ルリたちの方に。…みんなヒルマンの教え子だから。
「カリナに子供が生まれるからなあ、準備で忙しかったんだ」
とうにナスカでの暮らしがメインで、其処はお前の読み通りだが…。
生憎、あの場にはいなかった。ノルディと二人で調べ物の最中だったか、育児環境を整える方で走り回っていたんだか…。
もしもヒルマンがゼルの言葉を聞いていたなら、その場で注意しただろう。ゼルに向かって。
「その言い回しは誤解される」と、「合成品はケチャップだっただろう」とな。
それだけで空気が変わったのになあ…。「なんだ、トマトじゃなかったのか」と。
「だけど、エラだっていたんでしょ?」
エラだってピンと来ていた筈だよ、ヒルマンみたいに。「これはマズイ」って。
「それがだな…。エラは、ヒルマンのように柔軟な考え方は持っていなかった」
ジョミーが自然出産を提案した時も、真っ先に反対したのがエラだ。それは倫理に反する、と。
そういう考え方なわけだし、ゼルがトマトを不味いと言ったら、同じ方に考えが行っただろう。
合成品のトマトケチャップがあった、と納得しちまっておしまいだ。
「あれよりも美味しくないらしい」と、ゼルの肩を持ってしまったわけだな。
合成品のケチャップを知らない若い世代が、言葉の意味を誤解するかも、とは考えないで。
「そっか…。そうなっちゃうかもね…」
エラはけっこう頑固だったし、ヒルマンみたいに子供たちと過ごしたわけでもないし…。
気が付かないままになっちゃいそうだね、合成品のケチャップとトマトの違いに。
そんな所から亀裂が大きくなっただなんて、とブルーは悲しげな顔でオムライスの残りを綺麗に食べた。「御馳走様」とスプーンも置いて、ケチャップの容器をチラと眺めて…。
「…合成品のケチャップ、ほんの少しの間だけしか無かったのにね…」
そのケチャップのせいで、とんでもないことになっちゃった。
若い仲間は知らなかったから。…トマトは船で沢山採れてて、ケチャップも本物だったから。
前のぼくが目を覚ましていたなら、みんなの誤解に気が付いたのに…。
「だろうな、お前の所にも俺が報告に行っただろうし…」
合成トマトの件はきちんと皆に説明したのか、と俺に訊いたんだろうな、前のお前は。
「そう。最初はゼルを呼び出して叱るんだろうけど…」
トマトを投げ捨てたことだけ叱って、それでおしまいだろうけど。
ゼルがみんなに言った言葉は知らないんだから、合成トマトなんて思いもしないよ。
でも、対立が酷くなったなら…。
ナスカの様子も青の間から思念で探り始めるから、誤解にだって気が付くってば。
合成のトマトなんだと勘違いをして、みんなが怒り始めたことにね。
前のぼくなら誤解なんだって分かったけれども、ジョミーじゃ、其処まで無理だったよね…。
「…ジョミーが知らなかったからなあ、合成トマトの正体を」
船に来た時は、普通のケチャップだったんだから。…トマトペーストも本物だったし、気付けと言う方が無理ってモンだ。
ずっと昔は本当に合成品のトマトがあって、そいつはケチャップやペーストなんかのトマト味。それで料理を作ってたなんて、ジョミーに分かるわけがない。
いくらソルジャーを継いだとはいえ、あれはソルジャーとして必要な知識じゃないからな。
「…ジョミー、何だと思っていたんだろう?」
ゼルがナスカのトマトよりマシだ、って言った合成のトマト。
ジョミーも一緒に聞いていたんだし、若い仲間たちと同じように誤解したのかな…?
「まず間違いなく、そのコースだな。ゼルの悪口で嫌がらせだと」
まさか本当に合成トマトが存在したとは、ジョミーは全く知らないんだし…。
俺も教えはしなかったからな、若いヤツらに種明かしをしてはいかんと思って。
ジョミーが答えを知っていたんじゃ、誰も勉強しやしない。シャングリラの歴史というヤツを。
教えておけば良かったんだがな…、と後悔しても、もう戻せない時。ゼルの言葉に端を発した、若い世代の合成トマトへの誤解。
元を辿れば、白い鯨が完成した後、一時しのぎに作られたトマト味をした合成品。トマトの形もしていないかった物で、ケチャップやトマトペーストのこと。トマト風味になるように、と。
「…俺も本当に馬鹿だったよなあ…」
合成トマトの正体ってヤツを早めにバラしておいたら、派手にこじれはしなかったのに。
若いヤツらが過去を勉強しないことにしたって、よく考えれば気付けたのにな。
失敗だった、と広げた両手。「今頃になってぼやいてみたって、とうに手遅れなんだがな」と。
「ナスカも、ナスカで出来たトマトも、とっくに無いしね…」
ホントに怖いね、誤解って…。合成トマトは、ケチャップとかのことだったのに。
ケチャップなんだって分かっていたなら、若い仲間も考え方が違っていたと思うよ。当たり前のように船で食べてたケチャップ、それで苦労した時代も昔はあったんだ、ってね。
「まったくだ。…古い世代の苦労を知ったら、ヤツらも変わっていただろう」
俺はそいつを狙ったわけだが、結果的には大失敗だ。学ぶどころか、対立が酷くなる一方で。
挙句にヤツらがナスカに残って、逃げようとしなかったモンだから…。
そうなったせいで、前のお前を失くしちまう羽目に陥ったのかと思うとな…。
「全部トマトのせいだ、って?」
ナスカで大勢の仲間が死んじゃったのも、前のぼくがメギドに行ったのも。
「そうなるのかもしれないなあ…。元は一個のトマトだった、と」
ゼルが齧って、臭いと投げ捨てちまったトマト。
あれが全ての元凶かもなあ、トマトに罪は無いんだが…。
ついでに合成トマトの方にも、罪は全く無いってな。あれは大いに役立ったから。
白い鯨で充分な量のトマトが採れ始めるまで、あれで色々な料理を作れた。合成ケチャップと、合成トマトペーストと。
あれが無かったら、もっと不満が出ていたろう。トマトベースの料理はけっこう多いんだから。
しかしだな…。
合成トマトが一人歩きをしちまった、と眺めたケチャップの容器。
遠い昔にゼルが言い放った、「合成のトマトの方がマシだ」という言葉。合成のトマトの正体は丸ごとのトマトではなくて、ケチャップやトマトペーストだったのに。
若い仲間がその正体に気付いてくれたら、全ては変わっていた筈なのに…。
「…俺は合成ケチャップのせいで、前のお前を失くしたのか…?」
そうでなきゃ、たった一個のトマト。ゼルに合成トマトと言わせた、あのトマトのせいで。
どちらにも罪は無いんだがな、と零れた溜息。「ゼルもそこまで思っちゃいまい」と。
あの言葉を口にした時には。「合成のトマトの方がマシだ」と詰った時には、ゼルにも分かっていなかったろう。それがどういう結果を招くか、どんな悲劇を引き寄せるのか。
「いいじゃない、トマトでもケチャップでも」
原因がどっちだったにしたって、ぼくはハーレイの所に帰って来たよ?
それにケチャップで絵だって描けるよ、さっきウサギを描いていたでしょ?
オムライスにね、と微笑むブルーの皿の上には、もうスプーンだけ。ケチャップの絵はすっかり食べてしまって、何処にも残っていないから。
「ウサギの絵なあ…。上手く描けてはいなかったがな」
あの絵の何処がウサギなんだか、と苦笑するしかない今のブルーの腕前。前のブルーは、上手に色々描いていたのに。…食堂でも、それに青の間でも。
「前のぼくは上手だったんだけど…」
今よりもずっと上手に描けていたのに、あの腕、何処に行っちゃったのかな…?
「年季が違うというヤツだ。前のお前は、何年ケチャップで絵を描いたんだか…」
うんと修行を積んでいたしな、お前が敵うわけがない。十四年しか生きていないんだから。
そういや、ナスカでも描いたか、アレ?
前のお前が目覚めた後だな、飯は食ってたと聞いてるんだが…。
「えーっと…?」
ケチャップで絵を描いてたのか、っていうことだよね?
朝のオムレツとか、ケチャップで絵を描けそうな料理が出て来た時に…?
どうだったろう、と記憶を手繰り始めたブルーの瞳に滲んだ涙。微かに光った涙の粒は、直ぐに盛り上がって目から零れた。もう留まっていられなくて、頬を伝ってポロリと一粒。
「おい、どうした?」
いきなり泣いちまうなんて、とブルーの顔を覗き込んだら、また溢れ出した真珠の涙。
「…書いたんだよ…。絵じゃなくて、字を…」
前のぼく、最後にケチャップで、ハーレイの名前…。
「なんだって!?」
俺の名前か、と問い返したら、ポロポロと零れ続ける涙。前のブルーが泣いているかのように。
小さなブルーは溢れる涙を拭おうともせずに、涙交じりの声で続けた。
「メギドに行った日の朝御飯の時に、オムレツに書いていたんだよ…」
もうハーレイと朝御飯は食べられなかったから…。ハーレイ、忙しかったから。
こんなに上手に書けたよね、って一人で眺めて、それからオムレツ、食べたんだよ…。
ハーレイのことが好きだったよ、って…。名前もちゃんと綺麗に書ける、って。
「そうだったのか…」
すまん、朝飯には行くべきだった。…前のソルジャーでも、きちんと朝の報告に。
お前と朝飯を食うべきだったな、その時間ならあったんだ。俺だって飯は食うんだから。
「…ジョミーの所に行っていたんじゃないの?」
キャプテンはソルジャーと朝御飯を食べるものだったでしょ、とブルーは言うのだけれど。
「その習慣はもう無かったんだ。…ナスカの頃には、とっくにな」
ジョミーがソルジャーになった後にも、続けるべきだという声は多かったんだがな…。
肝心のジョミーが嫌がっちまって、それっきりだった。
つまり朝飯を食うためだったら、お前の所に行けたわけだな、堂々と。
目覚めたばかりの前のソルジャーに、色々なことを報告しに行くんだから。…前と同じに。
畜生、どうしてそいつを思い付かなかったんだか…。
お前と二人で過ごせた上に、ケチャップで書いてくれたっていう俺の名前も見られたのにな…。
俺としたことが、と前の自分の迂闊さがとても悔しいけれど。
オムレツにケチャップで字を書いていた前のブルーの心を思うと、悲しくてたまらないけれど。
「…ハーレイ、そんな顔をしないで」
ごめんね、とブルーがグイと拭った涙。「もう泣かないよ」と健気に笑んで。
「泣かないって…。しかし、お前は…」
前のお前は、朝飯の時まで独りぼっちで…。俺の名前をオムレツに書くくらいしか…。
せっかく上手に書いてみたって、俺はお前の側にいなくて…。
俺のせいだ、と詫びたけれども、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「ハーレイのせいなんかじゃないよ。…トマトのせいでもないし、合成トマトの方だって…」
ぼくが勝手に泣いちゃっただけで、それは前のぼくのことを思い出したから…。
オムレツにハーレイの名前を書いていたのが、ついさっきみたいな気がしちゃったから…。
でもね、ぼくなら大丈夫。
今はハーレイと一緒なんだし、幸せだから。こうして御飯も食べられるから…。
オムライス、すっかり食べちゃったけど。…お皿、空っぽになっちゃったけれど。
ぼくは平気、とブルーの涙は止まって笑顔に変わったから。
「そうだな、今度はこれから修行なんだな、ケチャップの絵は」
今のお前はウサギも描けない有様なんだし、前のお前の腕前までは遠そうだ。
頑張って腕を上げることだな、前のお前に負けないように。
コツコツと努力の積み重ねだぞ、とケチャップの容器を指差した。「練習あるのみ」と、日々の努力が大切だから、と。
「努力もいいけど…。またハーレイにコツを教わるよ」
今のぼくだと、朝御飯の時にハーレイの名前は書けないから…。
そんなの書いたら、パパやママが変に思うでしょ?
だから結婚してから修行、とブルーが浮かべた笑み。「今はまだ無理」と。
「ふうむ…。そういうことなら、いつかケーキ作りも一緒にするか?」
今のお前はデコレーションは下手くそらしいし、俺が一から教えてやるから。
「もちろんだよ!」
ハーレイと一緒にケーキを作るの、やりたいに決まっているじゃない…!
でも、その前に毎朝のケチャップからだね、とブルーは幸せそうだから。
「結婚したら、朝はオムレツにハーレイの名前なんだよ」と、ケチャップで書く気満々だから。
(…うん、今の俺たちには、ケチャップはだな…)
前と同じに絵を描いたりして楽しめるもの。オムレツやオムライスに、ウサギや文字を。
赤いケチャップで好きに描けるし、ブルーにコツも教えてやれる。
「こうだぞ」とケチャップの容器を手にして、手本を描いて。もっと上手になりたいブルーに、ケーキのデコレーションの技も伝授して。
(前のあいつより、ずっと上手になれるだろうなあ…)
綺麗にケーキを飾れるようになったなら。ケチャップの絵よりも難しい技を、ブルーがマスターしたならば。
きっとそうなるに決まっているから、合成トマトの悲しい誤解は、もう遠い過去でいいだろう。
前の自分が失くしたブルーは、ちゃんと帰って来てくれたから。
今度は地球で育ったトマトのケチャップ、それで二人で好きなように絵を描けるのだから…。
合成品のトマト・了
※ナスカで採れたトマトにゼルがぶつけた、「合成のトマトの方がマシ」という酷い言葉。
若い世代との対立を悪化させたそれは、誤解が原因。合成したのはケチャップだったのです。←拍手して下さる方は、こちらからv
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