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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
(今日はハーレイが来てくれるから…)
 頑張って掃除しなくっちゃ、と張り切ったブルー。爽やかに晴れた土曜日の朝に、朝食の後で。
 二階の自分の部屋に戻って、掃除の手順を確認して。
(床から始めて、ゴミ箱の中身もきちんと捨てて…)
 勉強机も棚とかも…、と取り掛かった掃除。いつも自分でするのだけれども、週末は普段よりも念入りに。ベッドの下とかだけではなくて。もっと細かい所まで。
(だって、ハーレイが来るんだものね?)
 一日一緒に過ごすのだから、綺麗な部屋で迎えたい。埃の一つも無いように。窓ガラスだって、まるで嵌まっていないかのように。
(頑張らなくちゃ…)
 ぼくの部屋だもの、と一人で掃除を済ませた部屋。友達はみんな、母親任せらしいけど。学校に出掛けて留守の間に、掃除して貰うのが常の友人たち。
(任せっ放しだから、色々、隠されちゃうのにね?)
 勉強の邪魔になりそうな本や、ゲームとかを。掃除のついでに「これなのね」と持って行かれてしまって、後から困ることになる。頼んでも返して貰えないから。
(そうなっちゃうのに、掃除、自分でしないんだから…)
 不思議だよね、と思うけれども、変なのは自分の方かもしれない。小さな頃から綺麗好き。今も同じに綺麗好きだし、前の生でも…。
(綺麗好きすぎて、青の間、係が掃除しちゃって…)
 前の自分がメギドに飛び立った時に、何も知らなかった部屋付きの係。部屋の主が二度と戻って来ないなどとは思わないから、心をこめて掃除をした。
 「お帰りになったら、直ぐにお休みになれるように」と、大騒ぎだったシャングリラの中で。
 メギドの炎でパニックの者たちも多かった中で、頑張った係。「これが自分の仕事だから」と。
 そのせいで、何も残りはしなかった部屋。
 後でハーレイが形見を探しに入っても。…銀色の髪の一筋さえも。



 ぼくのせいだよね、とコツンと叩いた頭。「ハーレイに悪いことをしちゃった」と。
 けれど、それくらいの綺麗好きだし、今の自分もそっくり同じ。朝からせっせと掃除した部屋。窓際に置かれた、ハーレイと座る椅子とテーブル。それも整えて大満足。
 勉強机の前に座って、部屋をぐるりと眺め回して…。
(よし!)
 これで完成、と大きく頷いた。いつハーレイが来ても大丈夫、と。
 そうは思っても、まだ早い時間。この時間には、来ないハーレイ。早すぎる訪問は、ハーレイにとってはマナー違反になるらしい。母たちに迷惑がかかるから、と。
 まだ来ないよね、と壁の時計を見てから、ふと思ったこと。此処は自分の部屋だけれども…。
(すっかりハーレイの部屋だよね…)
 ハーレイがいたって可笑しくない部屋、と見回した。扉を開けて入って来る姿も、窓際の椅子に座る姿も、今では馴染みの光景だから。
 何処かにハーレイの姿があるのが普通になってしまった部屋。この部屋に溶け込んでいる恋人。
 来ない日の方が多くても。…いない時間の方が遥かに長くても。
 それに、この部屋にはハーレイ用の椅子だってある。ハーレイが座るためだけの椅子。
 何度もハーレイが座っている内に、重い体重で座面が少しへこんだ椅子。窓際に置かれた椅子の片方。よくよく見ないと分からないけれど、ハーレイが座る椅子はそうなっている。
 前のハーレイのマントの緑を淡くしたような、若い苔の色をした座面。それが少しだけ。
(こんな日が来るなんて、思わなかったよ…)
 自分の部屋に、恋人がやって来るなんて。
 どっしりと重たい椅子とテーブルが、そのためにあった家具だなんて。
 今ではすっかり、ハーレイのための椅子とテーブル。いつも二人で向かい合わせに座る場所。



 ホントに不思議、と眺めた窓際のテーブルと椅子。
 ハーレイが来たら、其処でお茶とお菓子をお供にお喋り。休日だったら、昼食も。二人分なら、充分に置けるテーブルだから。
 とても役立つ、頼もしい家具。ハーレイのための椅子までついているけれど…。
(あのテーブルとかを買って貰った時は…)
 子供らしくない、と思ったものだった。何処から見たって来客用で、客間が似合いそうな家具。もっと軽やかなものがいいのに、と。それに「無くてもいいのに」とも。
 そう考えたのに、今では部屋にピッタリになったテーブルと椅子。今も子供の自分はともかく、大人のハーレイには良く似合う。まるでハーレイのために買ったみたいに。
 デザインも、それに椅子の座面の色も。「あれで良かった」と心の底から思う家具たち。
(子供用のベッドを買い替える時に…)
 テーブルと椅子もやって来た。両親が「これがいい」と選んでくれたもの。
 あれが置かれて、ガラリと変わった部屋の雰囲気。
 幼い子供が暮らす部屋から、ちょっぴりお兄ちゃんの部屋へと。部屋にお客が来るお兄ちゃん。
 もっとも、テーブルと椅子が来たって、友達は滅多に使いはしなかったけれど。
 部屋で大人しく遊ぶよりかは、かくれんぼだとか。おやつの時間も、大勢だからダイニングで。
 あまり出番が来はしなかったテーブルと椅子。
 それが今では大活躍で、片方の椅子はハーレイ専用。



 変われば変わるものだよね、と思う家具たち。それに、ハーレイがいるのが当たり前の部屋。
 前は考えもしなかったのに。恋人が訪ねて来ることなんか。…恋人が出来ることだって。
(ずうっと、この部屋で暮らすんだったら…)
 また模様替えもするのだろう。今はまだ、子供部屋だから。ちょっぴりお兄ちゃんの部屋でも、大人の部屋とは違うから。
 窓際のテーブルと椅子は立派に来客用でも、勉強机は大人用の机になってはいない。父の書斎にあるような机、作りからして重厚に見える机には。
(上の学校に進む時とかに…)
 多分、買い替えになるだろう机。また両親が決めてくれるとか、今度は自分で選ぶとか。
 けれど、上の学校には行かないと決めている自分。上の学校に行ける年になったら、結婚だって出来る年齢。今の学校を卒業したら、十八歳になるのだから。
 待ち遠しい年が十八歳。ハーレイの所へお嫁に行くから、上の学校には行かないし…。
(部屋はこのまま…)
 模様替えはしないで、机を買い替えることも無い。部屋の持ち主はハーレイの家に引越し。
 そうして此処に残った部屋は、帰って来た時には迎えてくれる。「お帰りなさい」と、長いこと此処で暮らしていた自分を。
 テーブルと椅子は持って行こうと思っているから、家具はちょっぴり減っていたって、今の姿と変わらずに。
 子供時代のままの部屋。自分がお嫁に行ってしまっても、大人の世界の仲間入りでも。



 たまにこの家に帰って来たなら、懐かしく思うだろう部屋。思い出が沢山詰まっているから。
 此処で過ごした時の欠片を、そっくり閉じ込めた部屋だから。…時間を止めている部屋は。
 買い替えずに終わった勉強机の前に座って、キョロキョロ見回すだろうけれども…。
(部屋には、少し可哀相かな?)
 これ以上、大きくなれないから。
 子供用の部屋のままで時間が止まってしまって、大人用の部屋に変身させては貰えないから。
 上の学校に通う生徒に相応しい机が入るとか。他にも色々、大人らしく変わってゆくだとか。
 自分が此処に住み続けるなら、部屋も育ってゆくけれど。…自分と一緒に、もっと大きく。
(でも、いいよね?)
 そうなるまでには、十八年ほど幸せに使ったのだから。
 最初は子供用の小さなベッドが置かれて、勉強机なんかは無し。幼稚園では、まだしない勉強。絵を描くなら床で充分なのだし、絵本を読むにも床やベッドがあればいい。
 下の学校に入る時に机を買って貰って、その机も途中で今のに変わった。子供用のベッドが今のベッドに変わったように。
 ベッドが今のに変わる時には、来客用のテーブルと椅子もやって来た。他の家具だって、自分の成長に合わせて色々と増えていった筈。
(…一歳の時には、まだこの部屋は使ってないかな?)
 赤ん坊を一人で寝かせておくには広すぎる部屋。ベビーベッドは別の部屋に置かれて、ベッドの上に吊るす飾りも此処には無かったかもしれない。
 それでも準備はしてあった筈。
 子供が出来たと分かった時から、両親はきっと、部屋のプランを立てていた。
 どういう部屋が喜ばれるかと、まだ生まれても来ない子供を想像して。二人であれこれ、色々なことを相談して。



(その前からだって…)
 自分が母のお腹に宿る前から、この部屋は子供部屋だったのだろう。家を建てる時から、此処に作ろうと両親が決めていた部屋。二階の此処、と。
 もしかしたら、他にも何処かにあったかもしれない子供部屋。二人目の子供が生まれて来たら、その子に使わせるつもりだった部屋が。
(隣の部屋とか…)
 最初は子供部屋として作られた部屋かもしれない。一人っ子でなければ、弟か妹が貰った部屋。今は普通の部屋だけれども、そうはならずに子供部屋になって。
 可能性としては充分にある。子供が何人生まれて来るか、今でも誰も予知など出来ない。
 ハーレイの家にも子供部屋があるくらいなのだし、この部屋の他にも子供部屋。神様が弟か妹を届けてくれていたら、使う筈だった部屋が何処かに。
 一人っ子だったから、子供部屋は一つになったのだけれど。自分が使っているのだけれども…。
(ハーレイの家のは使わないよね…)
 あの部屋も子供部屋なんだけど、と思った途端に、「可哀相」と浮かんだ、さっきの考え。
 いつか自分がお嫁に行ったら、この部屋の時間は止まってしまう。もう大きくはなれないで。
 部屋の住人の成長と一緒に、育ってゆく筈だった部屋。家具が大人用になったりして。
 それが出来ずに、大きくなれない自分の部屋。子供部屋のままで時が止まる部屋は、可哀相だと考えたけれど…。
(ハーレイの家の子供部屋は…)
 もっと可哀相な部屋なんだ、と気が付いた。
 子供部屋として生まれて来たのに、使って貰えないのだから。
 いくら待っても、使う子供は来ない部屋。
 住人がいない今の姿で、いつまでもポツンと残るしかない。使う子供がいない以上は。



 一度だけ見た、ハーレイの家の子供部屋。遊びに出掛けて、家中を案内して貰った時に。
 「この部屋は子供部屋なんだ」と扉を開けてくれたハーレイ。「俺の親父も気が早いよな」と。
 子供部屋だって必要だ、とハーレイの父が用意した部屋。いつか子供が生まれるのだから、子供部屋も作っておかないと、と。
 その子供部屋が使われないまま、放っておかれることになるのは…。
(ぼくのせいなの…?)
 ハーレイが貰う「お嫁さん」は自分で、男だから。
 男の自分がお嫁さんでは、どう頑張っても、子供が生まれはしないから。
(…あの子供部屋…)
 ぼくのせいでとても可哀相、と見開いた瞳。待っても子供が来ないなんて、と。
 子供部屋として用意されたのに、肝心の子供が来ない部屋。育ってゆくことが出来ない部屋。
 其処に子供がやって来たなら、部屋は育ってゆけるのに。
 この部屋が育って来たように。家具を増やしたり買い替えたりして、部屋も成長して来たのに。
 けれど、育たないハーレイの家の子供部屋。
 あの部屋と一緒に育ってゆく子は、何処からもやって来ないから。子供が生まれはしないから。
(…ぼくが男だから、子供、生まれて来なくって…)
 子供部屋の出番は来ないまま。部屋は成長出来ないまま。
 もしも自分が女の子として生まれていたなら、ちゃんと出番があったのに。ハーレイとの子供が生まれるだろうし、その子の部屋になったのに。…子供部屋を貰う頃になったら。
(…ハーレイ、どんなぼくでも好きになるって…)
 猫でも、小鳥でも、何に生まれていたとしたって。…人間ではない姿でも。
 ハーレイはそう言っていたのだし、女の子でも、きっと大丈夫。今の自分が女の子でも。
 考えたことも無かったけれども、その方が良かったのかもしれない。
 女の子だったら、誰が見たって「お嫁さん」。
 男同士よりも普通のカップル、驚く人は何処にもいない。結婚式を挙げる時にも、結婚した後にハーレイが紹介する時にも。「俺の嫁さんだ」と、友達や先輩や、色々な人に。
 それに子供も生まれて来る。結婚して一緒に暮らし始めたら、あの子供部屋を貰う子供が。



 今のままだと育てない部屋、育つことが出来ないハーレイの家の子供部屋。
 其処を使う子供がいないから。男の自分は「お嫁さん」になれるというだけ、ハーレイの子供は産めないから。
(ぼく、失敗した…?)
 今の自分が持つべき姿を、間違えてしまっただろうか。男に生まれて来たなんて。
 新しい命と身体を貰って生まれ変わるのなら、女の子になれば良かったのに。同じように新しい身体になるなら、前の自分とそっくりではなくて女の子。
 そうしていたなら、子供部屋にも出番はあった。育つことの出来ない可哀相な部屋にならずに、子供と一緒に育ってゆけた。あの部屋を貰う子供と一緒に。
(…そしたら、部屋も喜んだよね…?)
 うんとヤンチャな子供が生まれて、壁に落書きされたって。少しも部屋を片付けない子で、足の踏み場も無くなったって。
(放っておかれる部屋よりは、ずっと…)
 幸せな部屋になっただろう。落書きだらけの壁になっても、本やオモチャが転がっていても。
 子供部屋は子供のための部屋だし、ちゃんと成長してゆけるから。
 いつかは壁から落書きが消えて、床もきちんと綺麗になる。子供が育っていったなら。
(…ぼくが女の子に生まれていたら…)
 そうなった筈の子供部屋。
 ハーレイと幸せに暮らせるのならば、女の子でも良かったのに。前とそっくり同じでなくても、少しも困りはしなかったのに。
(…ハーレイと結婚出来るなら…)
 二人一緒に生きてゆけるなら、前の姿にはこだわらない。男でなくても、かまいはしない。
 生まれ変わる時に、神様に「女の子になりたい」とお願いすれば良かっただろうか。
 そして女の子の身体を貰って、ハーレイのお嫁さんになる。
 子供が生まれるお嫁さんに。…子供部屋の出番があるお嫁さんに。



 間違えたかも、と思う自分の身体。「選べたのに、失敗しちゃったかも」と。
 きっと生まれ変わる前にだったら、選ぶことだって出来た筈。前と同じに男の子になるか、女の子の身体を貰うのがいいか。
 選んでいいなら、女の子にしておくべきだった。前とそっくり同じ身体を選んだけれど。
(…ハーレイも、そう思ってるかも…)
 新しい身体になるのだったら、女の子に生まれて来た自分。その方が嬉しかったかもしれない。今度は結婚出来るのだから、子供だって産める「お嫁さん」が。
(…ハーレイ、喜んでいたかもね…)
 今の自分が女の子だったら、今よりも、もっと。男の子の自分に出会うよりも、ずっと。
(どうなの、ハーレイ…?)
 今から女の子になるのは無理だけれども、ハーレイに確かめたい気分。
 そっちの方が良かったかな、と。「ぼくは、女の子の方が良かった?」と。
(ハーレイの家の、子供部屋のためにも…)
 その方がいいに決まってるよね、と考えていたら、聞こえたチャイム。天気がいいから、歩いてやって来たハーレイ。休日は時間がたっぷりあるから、のんびりと。
 母がお茶とお菓子を運んで来てくれた後、テーブルを挟んで向かい合わせに座って訊いた。
「あのね、ぼく…。女の子の方が良かったかな?」
「はあ? 女の子って…」
 お前がか、とハーレイの瞳が丸くなるから、「そう」と自分を指差した。
「ハーレイ、何度も言っているでしょ。…どんなぼくでも好きになる、って」
 ぼくが猫とか小鳥とかでも、ハーレイ、見付けてくれるって…。好きになるって…。
 動物じゃなくて、女の子のぼくでも好きになる?
 今のぼくは前と同じだけれども、ぼくが女の子になってても…?
「そりゃまあ……なあ?」
 男だろうが、女だろうが、お前なのには違いない。
 もちろん俺は一目で惚れるんだろうし、お前しか見えちゃいないだろう。
 俺にはお前しかいないんだから。…前の俺だった時から、ずっと。



 今の俺にはお前だけだ、とハーレイは迷いもせずに答えたけれど。
 女の子の姿に生まれていたって、好きになってくれるらしいけれども、それならば…。
「…ハーレイは、そっちの方が良かった?」
 今みたいに男のぼくじゃなくって、女の子のぼく。…女の子でも好きになるんなら…。
 女の子のぼくだった方が良かったりするの、ハーレイは…?
 どっちなの、と鳶色の瞳を見詰めた。「女の子の方が良かったと思う?」と。
「おいおい、何を言い出すんだか…。俺にとっては、お前の姿が一番でだな…」
 今はチビだが、いずれは前のお前と同じに育つだろうが。
 俺はそういうお前が好きでだ、選べるんなら、今のお前が何よりもいいと思うがな…?
 同じ顔立ちをしてるにしたって、女よりかは男だ、うん。
「本当に…? ハーレイ、ホントに今のぼくでいいの?」
 女の子のぼくでなくってもいいの、子供部屋まで家にあるのに…?
「何なんだ、そりゃ? 子供部屋って…」
 確かに子供部屋ならあるが…、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれがあったらどうした?」と。
 「お前が女の子になるというのと、子供部屋がどう繋がるんだ?」と。
「…子供部屋、可哀相だと思って…。だって、出番が来ないままでしょ?」
 せっかく子供部屋があるのに、子供、生まれて来ないから…。
 ぼくは男で、子供なんかは産めないから。
 女の子だったら、子供部屋、役に立てたのに…。生まれて来る子に使って貰えたのに…。
 それにハーレイだって、ぼくが女の子の方が良くない?
 男同士のカップルじゃなくて、普通のカップルになれるんだから。…ごく当たり前の。
「お前なあ…。さっきも言ったが、俺にはお前が一番なんだ。前とそっくり同じお前が」
 そうするためには、お前は男でなくっちゃな。今のお前で丁度いいんだ。
 女の子のお前に出会っちまったら、その時は仕方ないんだが…。
 いや、間違いなくお前を好きにはなるんだが…。



 きっと途惑っちまうだろうな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 まるで勝手が違うんだから、と。
「違うって…。どういう意味?」
 見た目は違うと思うけど…。顔は同じでも、身体は女の子になっちゃうから…。
 ハーレイと初めて出会った時には、制服、スカートだろうけど…。
「そんなのは大した問題じゃない。スカートだろうが、ズボンだろうが、そんなことはな」
 問題はお前が女だってことだ。…前のお前と違ってな。
 そういうお前を、男のお前と同じように扱っていいのかってこった。
 其処が困った問題だよな、とハーレイが顎に手をやるから。
「同じでいいと思うけど?」
 ぼくはぼくだし、中身はおんなじ。…女の子になったっていうだけだよ。
 ハーレイは何も困らないでしょ、生徒な所も同じなんだし…。
 同じ扱いでいい筈だよ、と言ったのに。
「どうなんだか…。お前が女の子だった場合は、難しいぞ?」
 いくら前の俺たちがソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイにしても、やっぱりなあ…。
 女の子の部屋に男の俺が入るとなったら、お前のお母さんたちだって心配だろう。
 どちらかと言えば、お父さんの方かもしれんな、俺をジロジロ眺めるのは。
 娘に近付く男というのを、父親は警戒するらしいから。
 お父さんたちに心配かけないためには、この部屋のドアはいつでも開けておくとか…。
 この部屋で二人で会ったりしないで、リビングとか客間で話すだとかな。
 でないと俺が疑われちまう、と妙な心配をしているハーレイ。「お前が女だと、そうなるぞ」と大真面目な顔で。
「大丈夫なんじゃないのかなあ…。ずっと昔は、ぼくたち、友達だったんだしね」
 ソルジャーとキャプテンの頃はそうでしょ、ママたちは何も知らないんだから。
「そうもいかんぞ、お前が女になっちまったら」
 俺がお前を見る目も変わってくるかもしれん、と周りは考えちまうだろう。
 実際、幼馴染の二人が結婚しちまうことも多いのが世の中ってヤツだから…。
 子供の頃には仲良く走り回っていたのに、いつの間にやら、友情が恋に変わっちまって。



 そいつと全く同じ理屈だ、とハーレイが軽く広げた両手。「女だったら厄介だぞ?」と。
「お前の方でも、学校の友達に訊かれるかもな。…やたらと俺と一緒にいたら」
 ハーレイ先生は恋人なのか、と尋ねるヤツやら、付き合ってるのかと訊くヤツやら。
 女の子なら、友達も当然、女の子が多くなるんだし…。女の子は恋の話をするのが大好きだ。
 お前、そういう質問を全部、サラリと上手に躱せるんだか…。
 前のお前なら得意そうだが、今のお前は何でも顔に出ちまうからな。
「そっか…。パパやママは平気でも、学校の友達…」
 ぼくの顔、真っ赤になっちゃうかも…。ハーレイを好きか訊かれたら。
 それは確かに厄介だよね、と頷いた。「恋をしてるの、バレちゃいそうだよ」と。
「ほらな、今よりも遥かに大変なんだ。…お前が女の子に生まれていたら」
 其処を乗り越えて、無事に育ってくれても、だ…。
 前みたいに凄い美人になった後にも、気を遣うことになるんだろうな。
 婚約して、結婚に漕ぎ着けたって。お前と一緒に暮らし始めて、何処へ行くにも二人でも、だ。
「…なんで?」
 結婚したのに、どうして気を遣うことになるわけ?
 もう平気じゃない、パパやママの目も、ぼくの友達とかにしたって。
 ぼくとハーレイは一緒にいるのが普通で、何処もおかしくないけれど…?
「それでもだ。お前が女性ということになると、レディーファーストとか、色々と…」
 男の俺が考えなくちゃいけない場面が増えてくるってな。
 冬に二人で店に入ったら、俺がお前のコートを脱がせてやるだとか…。そういうサービス、店にあったら要らないんだが、店も色々あるんだから。
 ドアは必ず俺が開けるとか、約束事が山ほどだ。お前が女だったなら。
 男のお前のようにはいかんさ、お前がいくら「前と同じだ」と言い張ったって。
 周りから見ればお前は女で、俺がぞんざいに扱っていると思われたんでは堪らないからな。



 それだけじゃなくて…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「此処から先が肝心だ」と。
「俺たちに子供が生まれちまったら、人生、変わるぞ?」
 文字通りガラリと変わっちまうんだ、俺たちの子供が生まれたら。男の子でも、女の子でも。
 一人目の子供が生まれた所で、もう変わる。
 俺とお前と、お互いの一番を誰にするかが問題だ。
 どうするんだ、と訊かれたけれども、まるで分からない質問の意味。
「えーっと…?」
 それって何なの、一番って?
 ハーレイとぼくと、何がお互いの一番なの…?
「簡単なことだ。俺たちの子供が生まれたら…。世界で一番大切な人は、誰になるんだ?」
 お前が一番大切だと思う人間は、誰なのか。俺にも同じ質問が投げ掛けられるってな。
 子供は親の宝物だろ、小さかろうが、大きく育った大人だろうが。
 幾つになっても子供は子供で、親にとっては宝物だ。それこそ、ずっと昔から。
 前の俺たちが生きた時代は違うが、あの時代だけが例外なんだ。それに、あの時代でも、子供を愛した親はいた。…ジョミーの両親みたいにな。コルディッツまで一緒に行っちまったほど。
 そういう子供が俺たちに生まれて来るわけで…。
 血が繋がった本当の子供だ、其処の所が問題なんだ。
 世界で一番大切なのは、お前か、子供か。…俺は悩むぞ、何と答えればいいのかを。
 お前なんだ、と思っていたって、心は子供を選んでしまいそうだしな。
 とてもじゃないが決められやしない、とハーレイが眉間に寄せた皺。「お前はどうだ?」と。
「…ぼくだって悩むよ、そんな質問…」
 ハーレイが一番に決まっているけど、でも、子供…。ぼくたちの子供…。
 選べやしないよ、どっちかなんて…!
 どっちも一番大切なんだよ、ハーレイと子供。だけど、ぼくの一番はハーレイだから…。
 どうすればいいの、と頭を抱えた。「ぼくにも、それは決められないよ」と。
「ほら見ろ、困っちまったろうが。…子供が生まれりゃ、人生、変わっちまうぞ」
 そうならないよう、お前は男の方がいいんだ。お互いの一番、お互い、変えたくないだろう?
 そうでなくても、俺は前のお前と同じお前がいいってな。
 前の俺が失くしたのは、お前なんだから。…男のお前で、女じゃなかったんだから。



 違う姿で戻って来たって、好きにはなるが…、と深くなったハーレイの瞳の色。
 「前の通りが一番なんだ」と。猫や小鳥や、女の子の姿のお前よりも、と。
「…俺はお前しか好きにならない。そして、選んでいいのなら…」
 選べるんなら、断然、今のお前がいい。前のお前とそっくり同じに育つお前が。
 女の子のお前に出会うよりもな、とハーレイが真顔で言うものだから…。
「ぼくも、ハーレイが一番のままがいいけれど…。ハーレイの一番でいたいけど…」
 子供が生まれて一番が変わるの、ぼくだって困っちゃうけれど…。
 でも、子供部屋は可哀相じゃない?
 ハーレイの家にある子供部屋がとっても可哀相だよ、ぼくたちに子供がいなかったら。
 可哀相な部屋になっちゃう、と訴えた。「あの子供部屋が可哀相」と。
「その発想は何処から来たんだ? お前、さっきも可哀相だと言ってたが…」
 出番が無いってだけのことじゃないのか、子供部屋の?
 子供がいなけりゃ、子供部屋の出番は来ないもんだし…。まあ、可哀相かもしれないが…。
「それもあるけど、部屋が大きくなれないんだよ」
 出番が無いっていうだけじゃなくて、部屋が育っていけないまま。
 子供部屋は子供と一緒に育っていくでしょ、家具が増えたり、変わったりして。
 最初は子供用のベッドが入って、次は机、っていう風に。…机もベッドも、大きくなったら買い替えていくものじゃない。子供用から、次のサイズやデザインとかに。
 だけど子供が使っていないと、子供部屋は育たないんだよ。誰も育ててくれないから。
 ぼくの部屋、ぼくと一緒に育って来たのに…。今のこういう部屋になるまで。
 ハーレイの部屋も育ったんでしょ、隣町の家にあるハーレイの部屋は。
「なるほどなあ…。可哀相というのは、そういう意味だったのか…」
 一緒に育つ子供がいないから、あの子供部屋は育たないんだな?
 俺の家にある、親父が勝手に作っちまった子供部屋。
「うん…。子供部屋なのに、可哀相、って」
 ぼくがホントに女の子だったら、子供部屋、育っていけたのに…。
 子供が生まれたら困っちゃうことは分かったけれども、あの部屋、やっぱり可哀相だよ…。



 いつまで経っても大きくなれない、と子供部屋を思って項垂れた。
 今の自分が暮らしている部屋は、ちゃんと育って来られたのに。いつか自分がお嫁に行くまで、一緒に育ってゆけるのに。
 同じ部屋でも大違いだよ、と悲しい気持ち。「ぼくのせいだ」と。
 もしも女の子に生まれていたなら、ハーレイの家の子供部屋も育ってゆけただろうに。
「…ぼくのせいだよ、あの部屋が大きくなれないのは…」
 ハーレイのお嫁さんになるのに、ぼくは子供を産めないから…。
「お前の気持ちは、分からないでもないんだが…。しかし、相手は子供部屋だぞ?」
 あれは部屋だし、お前の気持ちを切り替えてやればいいってな。
 子供部屋だと思い込んでいないで、お前の部屋にしたっていいし。
 部屋ってヤツは使いようだ、とハーレイが浮かべてみせた笑み。「お前の部屋だ」と。
「ぼくの部屋?」
 子供部屋でしょ、ぼくの部屋にしてどうするの…?
「デカい子供用の部屋ってことだな、お前は育っちまっているから」
 お前も本が好きなんだから、お前専用の書斎みたいにしようかって話もしていただろう?
 畳の部屋にするって話もあったぞ、今の所は使っていない部屋なんだから。
 何に変えるにせよ、部屋を生かしてやればいいのさ。あの子供部屋って空間をな。
 そうすりゃ、育っていけるから。
 子供と一緒に育つのもいいが、お前や俺が育てちゃいかんと誰も言ってはいないだろうが。
「ホントだ…!」
 ぼくたちが部屋を育てあげればいいんだね。…子供の代わりに、あの子供部屋を。
 それなら部屋も育っていけるね、書斎だとか、畳敷きだとか…。
「分かったか? 要は生かしてやるのが大事だ」
 どういう形に育ててゆくかは、俺たち次第ということだな。
 お前と二人で考えてみては、あちこち寸法を測ったりもして、計画を立てて。



 書斎でもいいし、畳敷きの部屋も素敵だよな、とハーレイが挙げてくれた例。
 今は子供部屋になっているけれど、本棚を幾つも据えれば書斎。もちろん読書用の机も置いて。
 畳を敷くなら、掛軸を飾るスペースを設けてみるとか、畳専用の机を置くだとか。
「机と言っても色々あるぞ。デカイ机から、一人用まで」
 どれを置くかでイメージも変わるし、座布団にしたって色や模様が山ほどだ。
 書斎の方でも、どういう本を揃えてゆくかで、これまた中身が変わるってな。
 今のお前が暮らしてる部屋は、お前が俺と結婚したら、もう成長は出来ないが…。
 お前がこの家に帰って来た時くらいしか、出番は無くなっちまうんだが…。
 この部屋の成長が止まっちまっても、俺の家にある子供部屋の方は育ってゆくんだ。使う子供は誰もいなくても、俺たちが育ててやるんだからな。
 これから成長するって点では、本物の子供部屋と変わらんぞ。
 それに、お前が嫁に来てから、育ち始めるというトコも。
 でもって、本物の子供部屋より、遥かに長生き出来そうだよなあ…。子供部屋ではない分だけ。
 子供部屋なら、この部屋や、隣町の俺の部屋みたいにだ、成長が止まっちまうんだが…。
 あの部屋は、俺たちが使う限りは、いくらでも育っていけるんだしな。
 だから安心しろ、お前はお前のままでいいんだ。
 子供部屋の出番は立派にあるから、可哀相だと思わなくてもな。



 お前は女の子じゃない方がいい、とハーレイは微笑んでくれたから。
 「子供が生まれて、お互いの一番大切な人で悩むのは困る」とも言ってくれたから。
 生まれ変わる時に失敗したかも、とは考えなくてもいいらしい。女の子にするか、男のままか、神様がくれた選べるチャンス。其処で選択ミスをしたかも、と。
「良かった…。ぼく、失敗をしてなくて」
 ちょっぴり心配だったから…。ぼく、失敗をしちゃったかも、って。
「失敗だと?」
 何を失敗するというんだ、お前、いったい何を考えてる…?
 子供部屋が可哀相だと言い出した次は何なんだ、と首を捻ったハーレイ。「次は何だ?」と。
「えっとね…。子供部屋の話と同じかな…?」
 ぼく、女の子に生まれた方が良かったのかな、って思ってたから…。
 女の子になるか、男の子にするか、生まれ変わる前なら選べたかもね、って。
 神様がどっちにするかを訊いてくれてたのに、ぼくは選ぶの、間違えたかも、って…。
 ハーレイは女の子のぼくが欲しかったのに、男の子になってしまったかな、って思ってた…。
「そういうことなら、大成功だ。お前は失敗しちゃいない」
 今はチビでも、育った時には、前のお前とそっくり同じになるんだからな。
 選び間違えたどころか、もう最高の身体を選んで来たのがお前だ。
 チビな所も、俺より年下に生まれた所も、何もかも俺は嬉しいってな。
 お前が大きく育ってゆくのを、俺は見守っていけるんだから。
 子供部屋を育てる話じゃないがだ、育っていくのを側で見られるのは幸せな気分なんだから。



 よくやったぞ、と褒めて貰えたから、頑張ってちゃんと大きくなろう。
 今はチビでも、いつかは前の自分とそっくり同じ姿に。
 前のハーレイが失くした姿と同じに育って、子供部屋を二人で育ててゆこう。
 子供は生まれて来ないけれども、子供の代わりに、ハーレイの家の子供部屋を。
 本物の子供に与える代わりに、あの部屋を自分たちで育てる。
 書斎にするとか、畳を敷くとか、使い方は幾つもありそうだから。
 うんと幸せな部屋になるよう、ハーレイと二人で考えてやって、幾つもプランを立てて。
 そういう日々も、きっと幸せ。
 ハーレイと二人で生きてゆけるし、一番大切な人は誰かも、ずっと変わりはしないのだから…。




             育たない部屋・了


※自分と一緒に育って来た部屋から、ハーレイの家の子供部屋のことを考え始めたブルー。
 子供がいないと育たないよ、と。でも、女の子に生まれていたら、との心配は不要なのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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(羽衣伝説…)
 日本のお話だけじゃないんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 人間が地球しか知らなかった頃、語られていた羽衣と天女の話。
 日本だけでも幾つもあったと伝わるけれども、似た伝説が他の地域にも存在したらしい。有名なものだと、北欧神話のワルキューレ。白鳥に化身する乙女。
 彼女たちの持ち物は羽衣のように、空を飛んでゆくためのもの。白鳥になって翔けた乙女たち。姿を変えるための衣を隠されてしまい、人間の男と結婚したワルキューレもいたというから…。
(羽衣のお話そっくりだよ…)
 日本からは遠く離れているのに、瓜二つに出来ている話。羽衣の天女と、ワルキューレと。
 伝説が生まれた遠い昔は、今よりもずっと遠かった距離。日本と、ワルキューレの伝説の辺り。簡単に行き来は出来なかったろうに、どうやって伝わったのだろう。
 なんとも不思議でたまらないから、羽衣はあったと考えたくなる。空を飛ぶ力を持った何かが。
(羽衣って、サイオン増幅装置みたいなものかな?)
 それがあったら、空を自由に飛べるようだから。…前の自分が飛んでいたように。
 日本だけの伝説ではないというなら、羽衣は存在したのだろうか。天女の絵には必ず描かれる、ふうわりと薄くて軽い羽衣。天女が空を飛ぶための道具。
 ワルキューレの方なら、白鳥に化けられる衣。そういえば、日本の天女伝説の中にも…。
(…白鳥になって舞い降りるお話…)
 何処かの湖にあったと思う。羽衣を脱いで水浴びしている間に、人間に盗まれてしまった羽衣。他の天女たちは白鳥に戻って逃げてゆくのに、帰れなくなった天女が一人。
 ワルキューレの話そのもののような、白鳥の天女。羽衣を盗んだ男と結婚した天女。
 北欧と日本の間は遠くて、伝説などを伝えられたとは思えないのに。旅をするにも、文字の形で届けるにしても、あまりにも離れすぎているから。



 それなのに、とても似ている伝説。白鳥になって舞い降りる天女と、白鳥になるワルキューレ。
 どちらも羽衣を使うのだから、羽衣のモデルがありそうな感じ。
(サイオン増幅装置だったら、誰でも空を飛べるよね?)
 羽衣の正体はそれだろうか、とケーキを頬張りながら考えたけれど。
 増幅装置を奪われたのなら、飛べなくなるのも当然だよね、とも思ったけれど…。
(羽衣の伝説、女の人ばかり…)
 天に帰れなくなった男性の話は、一度も聞いたことが無い。羽衣を奪われるのは、どの伝説でも天女なのだし、ワルキューレも女性。
 ならば、サイオンを使って飛んでいたのとは違うだろう。女性ばかりだというのなら。
 それに大昔からミュウがいたなら、前の自分たちは人類に追われていないから。ミュウも人間の種族の一つで、居場所がきちんとあっただろうから…。
(羽衣、サイオン増幅装置じゃないみたい…)
 やっぱり伝説の中にしか無い、空想の産物なのだろう。モデルなどは無くて、ただの伝説。
 地球のあちこちに羽衣伝説があっても、日本の天女と北欧神話のワルキューレの話が、不思議なくらいにそっくりでも。
 けれど、羽衣には憧れる。たとえ女性の持ち物でも。
 それさえあったら、自由に飛んでゆける空。ふわりと身体に巻き付けてみたり、真っ白な白鳥になったりして。
(前のぼくみたいに…)
 高く舞い上がって、何処までだって青い空を翔けてゆける筈。羽衣を持っていたならば。
 今の自分も、羽衣があれば飛べるのに。
 不器用になったサイオンの代わりに、天女の羽衣。それを纏って、青い青い空を。
 せっかく青い地球に来たのに、飛べない自分。
 地球の大地を空から見たなら、きっと幸せ一杯だろうに。家の庭から舞い上がったなら、郊外に広がる山や野原も、流れる川も見えるだろうに。



 羽衣がとても欲しいけれども、生憎と伝説の中にしか無い。どんなに欲しいと願ってみたって、空から落ちては来ない羽衣。
(羽衣は天女の持ち物なんだから、仕方ないけど…)
 手に入らなくて当然だけど、と思うけれども、残念な気持ち。羽衣があったら飛べるのに、と。
 おやつを食べ終えて、閉じた新聞。「羽衣、欲しいな…」と。
 二階の自分の部屋に帰っても、羽衣が頭を離れない。羽衣があればいいのに、と。
 勉強机の前に座って、さっきの続きを考えてみた。「違うみたい」と却下した考えだけれど。
(羽衣がサイオン増幅装置だったら…) 
 そういう性質の道具だったら、今の自分は間違いなく飛べる。羽衣を貰いさえすれば。
 単にサイオンが不器用なだけで、今でもタイプ・ブルーだから。羽衣無しでも飛べるだけの力、それを身体に秘めているから。
 きっと簡単に舞い上がれる筈、羽衣を身に着けたなら。…サイオンを増幅出来たなら。
(前のぼくみたいに、飛びたいな…)
 空から下を見てみたいよ、と思うのだけれど、サイオン増幅装置は無い。羽衣どころか、装置が存在していない。
 宇宙船などのシールド用に使われているものを除いたら。
 衝突事故を避けるためにと、宇宙船や宇宙ステーションなどに張られているシールド。宇宙では小さな岩が当たっても、船体に穴が開いたりするから。
 そうならないよう、乗員のサイオンを増幅して張っておくのがシールド。
 白いシャングリラにあったのと同じ仕組みが、今の時代も使われている。少ない人数でも張れるシールド、増幅装置を載せておいたら。
 一人一人のサイオンは弱く僅かなものであっても、増幅装置がそれを補ってくれるから。
 今も存在するサイオンの増幅装置は、シールド用のものくらい。安全を確保するために使われ、他の目的には使用されない。
(サイオン・キャノンも無いものね…) 
 白いシャングリラが誇った武器。人類の船と互角に戦うことが出来たサイオン・キャノン。
 あれもサイオン増幅装置を使ったけれども、今の時代は要らない技術。広い宇宙から武器は姿を消したから。誰も戦ったりしないから。
(サイオン増幅装置の出番も、前のぼくたちの時代より少なくなっちゃった…)
 技術は進歩したというのに、廃れた技術。「必要無い」と終わってしまった研究。



 もしも、あのままミュウが追われ続けていたなら、羽衣も出来ていたろうか。タイプ・ブルーに生まれなくても、強力なサイオンを使えるように。
 サイオンさえあれば、誰でもタイプ・ブルー並みの力を揮える羽衣。
 空を飛んだり、サイオンを使って攻撃したりと、力を増幅してくれる装置。ふわりと軽く出来た羽衣、それを一枚、纏いさえすれば、誰もがタイプ・ブルーになれる。
 元々はタイプ・グリーンでも。タイプ・イエローでも、思念波が主なタイプ・レッドでも。
(便利だけれども、物騒だよね…)
 ミュウなら誰でも、ソルジャー級の能力を発揮するなんて。
 普段は農場や厨房で穏やかに暮らしているのに、船の危機には羽衣を纏って戦うだなんて。
 向かってくる敵を倒すために。人類軍の船を端から落として、シャングリラを守り抜くために。
(…全員が戦う船なんて…)
 強い船にはなるだろうけれど、ミュウは本来、優しいもの。戦いには向かない、優しすぎる心を持った生き物。
 いくら生き残るためだとはいえ、皆が戦う船になったら、ミュウの性質まで変わってしまう。
 羽衣を纏って戦う時には、優しい心を捨てていないと駄目だから。敵に情けをかけていたなら、戦いに出てゆく意味が無いから。
(…優しい心を殺してしまって戦っていたら、だんだん心が麻痺していって…)
 ミュウは優しさを失うだろうし、そんな方向に進む前に戦いが終わって良かった。サイオン増幅装置の機能を、戦いのための羽衣に転用する前に。
 羽衣は欲しいと思うけれども、物騒な研究の産物だったら、無くていいから。
 それさえあったら空を飛べても、ミュウが優しさを失くしてしまいそうな恐れがある物なら。



 羽衣が無くて良かったかもね、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、羽衣伝説、知ってる?」
 幾つもあるでしょ、天女の伝説。羽衣で空を飛ぶ天女。
「…お前、俺を誰だと思ってるんだ?」
 失礼なヤツだな、と顔を顰めたハーレイ。「俺は古典の教師なんだが」と。
 羽衣伝説も知らないようでは、古典の教師は務まらない。それを承知で言っているのか、と。
「分かってるけど…。日本のだったら、ハーレイは詳しいだろうけど…」
 日本のじゃなくて、他の場所にもあるみたいだから…。地球のあちこちに、羽衣伝説。
 北欧神話のワルキューレとか。
「なんだ、そういう質問なのか。…ワルキューレの話は有名だよな」
 そっくりの話が日本にもあったもんだから…。余呉湖ってトコの天女の伝説だ。
 琵琶湖って湖、教わるだろう?
 昔の日本で一番大きかった湖だしなあ、知らなきゃ話にならないから。
 余呉湖は琵琶湖の直ぐ側にあって、其処に白鳥の姿の天女が舞い降りたという伝説だ。白鳥って所がそっくりだってな、ワルキューレと。…ワルキューレも羽衣を隠されるんだが…。
 ワルキューレは白鳥になって飛ぶから、とハーレイも知っていた天女の伝説。白鳥になる天女の話は、余呉湖に伝わるものだったらしい。
「えっとね…。羽衣伝説は色々な所にあるんです、って今日の新聞に載っていたから…」
 羽衣の正体はサイオン増幅装置だったのかも、って考えちゃって…。
 そういう道具があったとしたなら、タイプ・ブルーじゃなくても空を飛べるよ。
 羽衣を盗られたら飛べなくなるのは、自分が持ってるサイオンだけでは飛べないからで…。



 どう思う、と披露してみた説。おやつの後に考えたものの、「違う」と却下した説だけれども。
「羽衣を使って飛んでた天女は、サイオンを増幅していたんだよ」
 自分の力じゃ飛べないけれども、羽衣があったら飛べるんだから。…羽衣がサイオン増幅装置。
「ふうむ…。お前が考えた新説なんだな、羽衣伝説をどう解釈するかの」
 斬新なアイデアだとは思うが、問題が一つあるわけで…。
 羽衣伝説で空を飛ぶのは、女性だけだぞ。天女もワルキューレも、他の伝説でも女性ばかりだ。
 サイオンの増幅装置だったら、男だって飛んでいるだろう。空を飛ぶ道具があるんだから。
 女性しか飛んでいないというのが、何処か変だと思うがな…?
 飛びたい男性から文句が出るぞ、というのがハーレイの意見。道具があるなら公平に、と。
「だよね、やっぱり違うよね…」
 ぼくも考えてはみたんだけれども、女の人しかいなかったのなら伝説だよね、って…。
 羽衣はお話の中にしか無くて、本物は無くて、サイオン増幅装置の方だって無し。
 それに昔からミュウがいたなら、歴史は変わっているだろうから…。人間の中には、空を飛べる種族もいるらしい、ってことになるだけで、滅ぼす方には行かないよ。いくらSD体制でもね。
 羽衣も天女も、全部伝説なんだけど…。夢のお話なんだけど…。
 それでも、羽衣、ちょっぴり欲しいな。
 あったら空を飛べるんだもの。…今のぼくでも。
「お前、飛べなくなっちまったからな」
 前のお前と全く同じで、今のお前もタイプ・ブルーなのに…。
 タイプ・ブルーだったら飛べる筈なのに、お前ときたら、飛べない上に不器用と来た。
 思念波だって上手く使えないしな、とハーレイが笑うものだから。
「でしょ? 笑われちゃうほど不器用なんだよ、今のぼくはね」
 窓から飛ぼうとしたら落ちるし、羽衣が無いと飛べないんだよ。サイオン増幅装置か、本物の。
 本物が空から落ちて来るとか、天女が貸してくれるとか…。
 それが無理なら、サイオン増幅装置だけれど…。そんな装置は何処にも無いでしょ?
 サイオン増幅装置そのものが、前のぼくたちが生きてた頃より減っちゃった。
 使っている場所、今ではホントに少ないから…。
 だけど、人類との戦いがもっと長引いていたら、どうだったと思う…?



 ミュウが追われる時代が続いていたならば、と話してみた。個人用のサイオン増幅装置のこと。
 羽衣のように身に纏うだけで、どんなミュウでも戦える力を持つ装置。
 タイプ・ブルーとは違うミュウでも、生身で宇宙空間を駆けて、人類軍の船を落とせる羽衣。
「…そういうのが出来ていたかもね、って思ったんだけど…」
 簡単にサイオンを増幅出来たら、誰でも人類と戦えるようになるわけだから…。
 ソルジャーじゃなくても、ナスカの子供たちでなくても。
 そしたら戦力がグンと増えるし、人類軍にも勝てそうじゃない。攻撃力だって凄いんだから。
「サイオンさえあれば、誰でもソルジャー級のミュウになれる装置か…」
 誕生していた可能性ってヤツは大いにあるな。人類の方でも、似たような研究をしていたし…。
 個人単位で使うヤツをな、とハーレイが言うから、丸くなった目。
「それって…。人類がサイオンの増幅装置を作っていたわけ?」
 ミュウと戦うならサイオンだ、って…。人類にもサイオン、少しくらいはあったとか…?
 増幅したなら、ミュウと互角に戦えるかも、って増幅装置を研究してたの…?
「残念ながら、その逆だ。人類にサイオンは無かったからな」
 人類のヤツらが研究したのはAPDだ。アンチ・サイオン・デバイススーツ。
 サイオンを無効化しちまう装置だ、歴史の授業で習うだろう?
 そいつを兵士に着せておいたら、サイオンで攻撃されても平気な仕組みだってな。
 完璧なものは作り出せなかったが…。お蔭で、俺たちは勝てたんだが。
「そうだったっけ…。前のぼくが死んじゃった後の話だけれど…」
 人類が研究を進めていたなら、ミュウだって対抗するよね、きっと。
 APDの出来が凄かったんなら、それで無効化されないように、って増幅装置を開発して。
「現に兆しは見えてたな。…あの騒ぎの後で」
 サイオン攻撃が効かないヤツらが、シャングリラに攻め込んで来たわけだから…。
 それも特殊訓練を受けたメンバーズじゃなくて、APDを着込んだだけの普通の兵士だ。
 厄介なものを作りやがった、と俺は頭を抱えたんだが、ゼルやヒルマンは逆にヒントにした。
 個人単位で使用可能な、サイオン増幅装置を開発しようと。
 APDみたいに大袈裟じゃなくて、ちょいと腕にでも着けておいたらサイオンが強くなる装置。
 もっとも、実行に移す前に地球に着いちまったが…。
 そんな装置を作らなくても、ミュウは戦いに勝ったんだがな。



 案が出ただけで終わっちまった、とハーレイが軽く広げてみせた手。
「APDの逆は誕生しなかったんだ。…話だけでな」
 ゼルが自分の船を持っていなけりゃ、もう早速に開発にかかっていたんだろうが…。
 別の船に移ってしまっていたしな、ヒルマンと二人で研究三昧の日々とはいかん。
 まだシャングリラに乗っていたなら、せっせと研究しただろうがな。
「…羽衣、出来ていたかもしれないんだ…」
 物騒な方の羽衣じゃなくて、空を飛ぶためだけの羽衣。
 ゼルたちが思い付いた増幅装置が出来ていたなら、個人で使えるわけだから…。
 作れそうでしょ、今の時代なら。…平和利用で、ただの羽衣。
 そういうのがあったら、誰でも空を飛べるんだよ。物騒な羽衣は嫌だけれどね。
 開発を始めて、完成しないまま、っていうのが理想かな。個人用ならこう作る、っていう理論は出来てて、其処で戦いが終わるんだよ。
 其処で止まっていればいいな、と描いた夢。
 誰もが戦う時代は来なくて、その方法だけが確立した状態。個人用のサイオン増幅装置を作れる技術があったら、それを応用出来るから。
 タイプ・ブルーに生まれなくても、誰でも空を舞えるから。…羽衣のように、それを使って。
「羽衣か…。それがお前の夢なんだな?」
 本物だろうが、ゼルたちが開発したヤツだろうが、空を飛ばせてくれる羽衣。
 今のお前でも空を飛べるような道具が、お前は欲しくてたまらない、ってトコか。
「飛べたらいいな、って思うもの…」
 乗り物を使って飛ぶんじゃなくって、ぼくの身体だけで。…前のぼくみたいに。
 空を飛べたら、きっと素敵だと思うから…。
 青い空だよ、本物の地球の。…それに空から色々見えるよ、森も林も、山も川もね。



 飛んでみたいよ、と言ったのだけれど、ハーレイは「俺は違うな」と瞳の色を深くした。何処か悲しそうな表情で。
「俺は飛べないお前がいいがな…。何度も言っていることだが」
 前のお前は飛びすぎちまった。俺の手から離れて、メギドまでな。…空を飛べたせいで。
 お前が空を飛べなかったら、俺はお前を失くしていない。お前はメギドに行けないんだから。
 もしも、お前が羽衣で飛んでいたんなら…。
 増幅装置の羽衣じゃなくて、天女みたいに羽衣を持って、この世に生まれて来たのなら…。
 俺はそいつを隠しただろうな、お前が飛ぶための羽衣を。
「え…?」
 なんで、と驚いたけれど、「当然だろうが」と答えたハーレイ。
「もちろん、最初から隠しやしない。お前が空を飛べなかったら、みんな飢え死にするからな」
 初めの間はそれでいいんだ、思う通りに飛んでいたって。何をしようが、俺は止めない。
 しかし、お前の身体が弱っちまったら、話は別だ。…二度と飛べないよう、隠さないとな。
 ジョミーを追い掛けて飛んでっちまった段階で。
 俺が止めても、お前は一人で行っちまったし…。力を使い果たしちまって、落ちちまったし。
 幸い、生きて戻りはしたがだ、あんな思いはもうしたくない。
 羽衣を奪って隠すしかないだろ、お前が飛んで行けないように。
「隠すだなんて…。そう簡単にはいかないよ?」
 ぼくが盗ませるわけがないでしょ、本物の羽衣だったなら。
 それを使わないと飛べないものなら、盗まれてしまったら大変だもの。…飛べなくなるから。
「どうなんだか…。確かに、普段のお前じゃ無理だが…」
 お前、眠っていただろうが。十五年間も、一度も起きずに。
 隙だらけだぞ、寝ていた間なら。…俺が青の間に忍び込もうが、何をしようが。
「あ…!」
 ホントだ、寝てたら何も出来ない…。羽衣をしっかり持って寝てても、寝てるんだから…。
 ハーレイが勝手に持って行っても、ぼくはちっとも気付かないまま…。
「ほら見ろ。充分、盗み出せたぞ」
 お前の大事な羽衣だろうが、握り締めたままで寝ていようがな。



 眠っている間に盗み出した、とハーレイの顔は真剣だった。「お前の羽衣は隠さないと」と。
 二度と飛べないように、青の間から奪って隠すという。隠し場所を見付けて、押し込んで。
「そうでもしないと、お前は飛んでっちまうんだから…。隠しておくのが一番だ」
 泥棒の真似をすることになるが、お前が無茶をするのを止めるには、こいつがいい。
 羽衣が無ければ、お前は飛べやしないんだから。
「それ、困るよ…。起きたら羽衣が無いなんて…」
 返してよ、ぼくはメギドに行かなきゃいけないんだから。飛べないと行けやしないんだから…!
「いや、返さん」
 返したら、お前は行っちまうしな。…いくら頼まれても、駄目なものは駄目だ。
 俺は羽衣を返さないぞ、とハーレイが睨み付けるから。
「…だったら、ハーレイの部屋から盗むよ」
 ぼくの羽衣なんだから。…隠されちゃった羽衣は取り返すものでしょ、お話の中の天女はそう。
 それと同じで、ぼくの羽衣も取り返すだけ。
 ハーレイがブリッジに行ってる間に、部屋中を捜して見付け出すよ。…ぼくの羽衣。
 見付けたら後は盗んで終わり、と言ってやったら、鳶色の瞳に宿った悲しげな光。まるで、あの日に引き戻されたかのように。…遠い昔に、赤いナスカがメギドの炎に滅ぼされた日に。
「お前が羽衣を盗み出しちまうということは…。俺は結局、失うのか?」
 前のお前は羽衣でメギドに飛んでっちまって、それっきりなのか…?
 羽衣は俺が隠しておいたというのに、お前に取り戻されてしまって…?
「そうだけど…。でないと、メギドは止められないよ」
 ぼくしかメギドに行けなかったし、羽衣のお話はどれもそうでしょ?
 隠しておいても天女が見付けて、天に帰って行っておしまい。
 前のぼくは天に帰る代わりに、メギドに飛んで行くんだけれど…。羽衣を見付け出したらね。
「うーむ…」
 相手がお前じゃ、隠し場所は直ぐにバレるんだろうし…。
 俺の留守に盗みに来られたんでは、取り戻せないようにシールドを張ることも出来んしな…。



 お前は飛んでっちまうのか、と呻くハーレイ。「羽衣を隠しても無駄なのか」と。
 本当に悲しそうな顔だけれども、そんな顔をされても変えられない過去。ソルジャーだった前の自分の生き方。…空を飛ぶための羽衣を持って生まれて、その力で飛んでいたとしたって。
「メギドを止めるの、前のぼくの役目だったしね。…シャングリラのみんなを守ることが」
 盗んでだって飛んで行かなきゃ、メギドまで。
 ハーレイが羽衣を隠してしまったんなら、部屋中を捜して、取り戻して。
 ぼくの羽衣を取り返すんだし、盗むのとは少し違うかもね、と笑みを浮かべたのだけれど。
 盗まれた品物を奪い返すのなら、泥棒じゃないよ、とも言ったのだけれど。
「…泥棒かどうかはともかくとして…。お前、本当にそれでいいのか?」
 お前の羽衣、俺の部屋から平気で盗み出せるのか?
 何のためらいもなく手に引っ掴んで、そのまま飛んで行けるのか…?
 それを知りたい、と問い掛けられた。「お前は辛いと思わないのか」と。
 天女だったら、真っ直ぐに天に帰るのだけれど。…地上に未練は無いのだけれども、その辺りをどう思うんだ、と。
「えーっと…?」
 ぼくが羽衣を見付けたら…。やっと見付けた、って思うだろうけど…。
 大急ぎで引っ張り出すんだろうけど、それを着けても…。
 これで飛べるんだ、ってホッとしたとしても…。その羽衣で飛んで行くまでには…。
 どうしたかな、とハーレイに問われた通りに考えてみた。羽衣を見付けた後の自分は…、と。
(…前のぼく…)
 羽衣を身に纏ったとしても、きっと本物の天女のようにはいかないだろう。
 天に帰りたいわけではないから、死が待つメギドへ飛ぶのだから。
 それに羽衣を隠してしまった、ハーレイの気持ちも痛いほど分かる。何故、盗んだのか。羽衣を隠した理由は何かも、誰よりも分かるのが自分。
 「飛んで欲しくない」と願うハーレイの気持ち。「行かせたくない」と思う心も。
 天女だったら、何も考えずに飛んでゆくのに。
 やっと羽衣を取り戻せたと、我が子さえ置いて去ってゆくのに。



 本物の天女が天に帰るように、直ぐに飛ぶことは出来ない自分。隠された羽衣を見付けても。
 隠し場所から引っ張り出しても、ふわりと身体に巻き付けても。
「…ぼく、泣くかもね…。ごめん、って…」
 ハーレイの気持ちを台無しにしてしまうんだから。…意地悪で隠したわけじゃないのに…。
 ぼくが羽衣を持っていたら大変なことになりそうだから、って青の間から盗み出したのに…。
 だけど、行かなきゃいけないから…。ハーレイとも、もうお別れだから…。
 手紙を書いて置いて行くかも、「ぼくの羽衣、持ってってごめん」って。
 ぼくのために隠してくれていたのに、勝手に盗んで行っちゃうなんて、って…。
 羽衣の代わりに手紙を残して行ったかもね、と前の自分になったつもりで答えたら…。
「そうか、手紙か…。お前が書いてくれるんだな」
 俺の部屋から消えてしまった羽衣の代わりに、お前の手紙。…お前の気持ちが書かれた手紙。
 そいつがあったら、少しは辛さが紛れたかもな。…お前を失くしちまっても。
 お前の手紙を肌身離さず、どんな時でも持ち続けて。
 前のお前の形見は何も無かったから…。髪の毛も残っちゃいなかったからな。
 お前の部屋はすっかり掃除されちまってて、とハーレイが辛そうに歪めた唇。綺麗好きな部屋の主のためにと、部屋付きの係が戦いの最中に掃除を済ませて、何も残らなかった青の間。
「そうだったね…。ハーレイ、ぼくの髪の毛を探しに行ったのに…」
 青の間には何も残っていなくて、ぼくの気配も消えちゃっていて…。
 そうなっちゃうなら、前のぼく、ホントに羽衣で飛んでいれば良かったね。
 ハーレイが羽衣を盗んで何処かに隠してしまって、ぼくが見付けて盗み返して…。
 代わりに手紙を置いて行くんだよ、ぼくの形見になるように。「ごめんね」って書いて。
「…俺は形見を貰えるわけだな、お前が飛んで行っちまっても」
 羽衣を隠したことは無駄になっても、お前の手紙は俺の所に残るのか…。
 そうやって手紙を貰えたとしても、俺はどのみち、泣くんだがな。
 前のお前を失くしちまって、残りの人生は独りぼっちだ。…戦い続けて、地球に着くまで。
 だが、待てよ…。



 俺は隠してしまったかもな、とハーレイの顔に浮かんだ笑み。
 お前の羽衣というヤツを、と。
「多分、隠してしまったんだろう。…お前の羽衣」
 きっとそうだな、そんな気がする。
 俺だな、とハーレイは可笑しそうなのだけれど。
「…ぼく、羽衣は持っていないよ?」
 前のぼくは羽衣を使って飛んではいないし、今のぼくだと欲しいくらいで…。
 羽衣、ホントに欲しいんだけど、と傾げた首。持っていない羽衣を隠すも何も、と。
「そうだろうなあ、今のお前は羽衣を持っていないんだから」
 欲しいと思うのも無理はない。もう一度空を飛んでみたくて、羽衣が欲しくなるのもな。
 しかし、お前はそいつを持ってはいないんだ。…俺が隠してしまったからな。
「隠したって…。どういう意味?」
 ハーレイが何を隠すって言うの、ぼくは羽衣なんか持ってはいなかったよ?
「そのまんまの意味さ。…前の俺が隠してしまったんだ」
 お前が二度と飛べないように、前のお前の羽衣を。
 羽衣の形はしちゃいなかったが、お前、自由に飛べたんだからな?
 その力がお前の羽衣だ。…俺はそいつを隠したわけだな、お前が飛んで行けないように。
「…いつ?」
 ぼくの力をいつ隠したの、何処へ隠してしまったっていうの…?
「さてなあ…? 前の俺が死んで直ぐだったんだか、生まれ変わって来る前だか…」
 俺も覚えちゃいないんだ。地球の上に生まれて来る前のことは、何一つな。…お前もそうだろ?
 だから訊かれても答えられんな、羽衣を何処に隠したのかは。
 隠し場所を覚えていないんだから、返してやることも出来ないな、うん。
 羽衣が欲しいと言われても無理だ、とハーレイは涼しい顔だけれども。
「酷いよ、それ!」
 今なら飛べても困らないのに…!
 ハーレイだって少しも困らないでしょ、平和な時代になったんだから…!



 なのに羽衣を隠すなんて、と睨み付けた。「ぼくの羽衣、返してよ!」と。
「ぼくは羽衣が欲しいくらいなのに、ハーレイが隠してしまったなんて…」
 ハーレイが隠してしまわなかったら、今のぼくだって飛べたのに…!
 ホントに酷い、と意地悪な恋人を責めたけれども、ハーレイは「すまん」と言葉で謝っただけ。心から詫びていない証拠に、唇は笑みを湛えたまま。
「…お前には悪いと思うんだが…。前の俺はすっかり懲りていたから…」
 ジョミーを追い掛けて飛んでった上に、最後はメギドまで飛んじまったろうが。前のお前は。
 放っておいたら、お前は勝手に飛んじまうんだ。…そうしていなくなっちまう。
 前の俺なら隠しかねないだろ、お前の羽衣。飛ぶための力というヤツを。
 飛ぶだけに限らず、お前の力そのものかもな。強すぎるサイオンを隠してしまえ、と。
 そうやって俺が隠したかもな、とハーレイが片目を瞑るから。
「…ぼくが不器用なのは、ハーレイがやったの?」
 サイオン、とことん不器用だけれど、ぼくの力はハーレイが隠してしまったわけ…?
「そうだ、と言いたい所なんだが…。違うんじゃないか?」
 お前が幸せに生きてゆけるように、神様がやったことなんだろうと思うがな…。
 お父さんとお母さんにたっぷり甘えて、俺にも甘えて、そうやって生きていける人生。
 強いサイオンを持っているより、不器用な方がずっと甘えやすいし…。
 だが、俺がそいつを隠したんなら、愉快じゃないか。
 お前の羽衣を盗んじまって、何処かに隠してしまったのならな。
「返してよ、ぼくの羽衣を!」
 ぼくはホントに空を飛びたくて、羽衣、欲しくてたまらないのに…!
 空を飛んで地球を見てみたいのに…!
「俺じゃないって言ってるだろうが、神様なんだ、と」
 お前の羽衣を隠しちまったのは、神様だ。…もう飛ばなくてもいいんだから、と。
 他の力も要らないだろうと、全部隠してしまったんだな。
「うー…」
 ハーレイにしても、神様にしても、どっちも酷いよ!
 ぼくの羽衣を隠しちゃうなんて、飛べないようにしてしまったなんて…。



 乗り物を使わずに空を飛びたいのに、と膨れていたら。「ぼくの羽衣…」と怒っていたら。
「お前が空を飛ぶ練習なら、手伝ってやるとも言ったがな?」
 前に約束してやっただろうが。…プールでコツを掴むトコから教えてやろう、と。
 俺は空など飛べはしないが、水の中なら浮けるわけだし…。空を飛ぶのと似ているからな。
 お前が感覚を取り戻せるまで、気長にプールで付き合ってやる、と。
 そう言ったぞ、というハーレイの言葉には覚えがあった。大きくなった時の約束の一つ。
「羽衣、返してくれるんだね?」
 ハーレイが隠してしまった羽衣、反省して返してくれるんだ…?
「だから、俺が隠したわけではないと…。神様なんだと言ってるだろうが」
 俺にはそんな力は無いしな、お前の羽衣を隠したくても。…隠そうとしても。
「じゃあ、取り返すのを手伝ってくれるの?」
 神様が何処かに隠した羽衣、ぼくが取り戻せるように。…ちゃんと見付けて使えるように。
「俺としては、二度と飛んで欲しくはないんだが…」
 そうは言っても、今のお前が飛ぶ姿はとても綺麗だろうし…。それを見たいのは確かだな。
 きっと天使のように見えるぞ、今のお前が飛べたなら。
 実は俺にも、直ぐには決められないってな。…お前が飛べる方がいいのか、そうじゃないのか。
 二人でゆっくり考えようじゃないか、どっちがいいか。
 いつか一緒に暮らし始めたら、今のお前の羽衣をどうするかをな。
「…そうだね、急がないものね…」
 ぼくが飛べなくても、ぼくしか困らないんだから。
 急いで羽衣を取り返さないと、シャングリラの仲間が危ないわけじゃないんだから…。
「そういうこった。…羽衣、直ぐには要らないだろうが」
 お前の夢だというだけだしなあ、空を飛ぶこと。…俺も少しは見てみたいんだが…。
 前の俺がすっかり懲りていなけりゃ、喜んで協力してやるんだが…。お前の羽衣を捜すこと。
 まあ、急ぐことはないってな。神様が隠していらっしゃるなら、安心だ。
 羽衣は天使がきちんと手入れをしてくれているさ、たまには風を通したりして。



 「捜す時には俺も手伝うから、無茶はするなよ」と撫でられた頭。
 前のお前みたいに一人で飛んで行くんじゃないぞ、と。
「うん、分かってる…」
 分かってるよ、と笑みを返した。「今度は一人で行きはしないよ」と。
 前の自分は一人きりでメギドへ飛んだけれども、そんなことは二度としないから。
 空を飛ぶために、前の自分が持っていた羽衣。宇宙空間も飛べた強いサイオン。
 その羽衣を隠したのは神様だろうと思うけれども、ハーレイでもいい。
 二度と一人で飛んで行かないよう、ハーレイが何処かに隠した羽衣。
 そう考えた方が、幸せだと思えたりもする。
 「酷い」とハーレイを責めたけれども、「羽衣を返して」と怒ったけれども、それでもいい。
 羽衣伝説の天女たちと違って、ハーレイの側を離れようとは思わないから。
 ハーレイが羽衣を隠したのなら、いつまでも二人、幸せに生きてゆくだけだから…。




            羽衣・了


※サイオンが不器用になってしまった今のブルー。羽衣を奪われた天女と同じで飛べない空。
 前のブルーが持っていた羽衣を、ハーレイが隠してしまったのかも。飛んで行かないように。
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(航宙日誌…)
 やっぱり人気、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
 キャプテン・ハーレイの航宙日誌。前のハーレイが綴った日誌が色々、気軽に買える文庫版から本物そっくりの復刻版まで。
 値段も違えばサイズも違う。復刻版と文庫版の他にも様々な大きさ、それから値段。元の日誌の抜粋だとか、子供でも読める簡単な文章になったものとか。
(買う人、沢山いるものね…)
 キャプテン・ハーレイの日誌は、超一級の歴史資料だから。前の自分たちが生きた時代の歴史を知るには、欠かせない資料。歴史が好きな子供だったら、読んでみることもあるだろう。
 研究者向けの復刻版だと、値段はとても高くなる。前のハーレイが羽根ペンで綴った文字たち、それをそのまま写しているから。
 歴史好きとか、研究者だとか、読みたい人が大勢いる日誌。趣味で買う人がいるということも、最近になって耳にした。
(…キャプテン・ハーレイのファンの人…)
 一人だけしか知らないけれども、今のハーレイの馴染みの人。行きつけの理髪店の店主が、前のハーレイのファンだった。ハーレイに「キャプテン・ハーレイ風」の髪型を勧めたほどに。恋人がいると聞いた途端に、「ソルジャー・ブルー風にカットしたい」と言い出したほどに。
(…その人、研究者向けの復刻版も欲しいって…)
 ハーレイがそう話していたから、研究者でなくてもファンなら買うのが復刻版。いくら高くても揃えてみたいと考えるらしい。
 色々な人が買って読むのが航宙日誌。文庫に、子供向けの仕様に、本物そっくりの復刻版やら。
 こうして広告を眺めていると、本当に凄いロングセラー。
 古典の本にも負けない勢い、今も売れ続けているのだから。ずっと昔から売られているのに。
(ハーレイ、有名作家だよ…)
 小説の形はしていないけれど、エッセイとも違う中身だけれど。
 それでも充分、有名作家。これだけのロングセラーなら。時代を越えて売れているなら。



 何百年も書いていたんだものね、と戻った二階の自分の部屋。おやつの後で。
 勉強机の前に座って、思い返した航宙日誌。前のハーレイがせっせと綴っていたけれど…。
(人気があるのも分かる気がするよ)
 日誌の中身がどうであろうと、ハーレイの文章に遊びがまるで無かったとしても、綴られた文はミュウの歴史そのもの。初代のミュウたちがどう生きていたか、それが分かるのが航宙日誌。
 人類側の記録は多くあるけれど、ミュウの側から書かれたものは他に無いから。
 広い宇宙の何処を探しても、ミュウが書いた記録はあの一つだけ。
(誰も日誌は書かなかったから…)
 シャングリラで生きた仲間たち。アルタミラからの時代をずっと、あの船で生きた仲間は何人もいたのだけれど。けして少なくなかったけれども、誰も日誌は残さなかった。
 彼らが書いた記録となったら、自分の仕事の覚え書きくらい。引き継ぎの時に使う程度の。
 長老と呼ばれたゼルもブラウも、博識だったヒルマンとエラの二人も、そのタイプ。日誌の形で書き残すよりは、覚え書きやら、レポートやら。
(…ヒルマンとエラなら論文だったし、ゼルだったら図面とかなんだよ)
 それらが今に残っていたって、ミュウの歴史の記録にはならない。研究資料になるという程度。例の航宙日誌と突き合わせないと、時期の特定すらも危うい。
 白いシャングリラの設計図にしても、いつから在ったか分からないから。
 初めての自然出産だって、ジョミーがそれを宣言した日は、航宙日誌の中にしか無い。カリナは日記を書かなかったし、ノルディが記録を残していたって…。
(…カリナが診察に来てからだよね?)
 身ごもったのかも、とメディカル・ルームにやって来るまで出来ないカルテ。それまでに色々と勉強したって、それはカルテに書かれはしない。
(前のハーレイ、ホントに凄いよ…)
 日々の出来事を淡々と綴っていたのが、後の時代に役立つなんて。
 今でもロングセラーになるほど、色々な人が必要としている日誌を残しておいただなんて。



 改めて思う、キャプテン・ハーレイの日誌の偉大さ。コツコツと毎日書き続けたこと。
 他の仲間たちは、誰も書いてはいなかったのに。前の自分も、何も綴りはしなかったのに。
 ソルジャーだった前のぼくでも書かなかった、と思ったけれど。日誌は存在しないのだけれど。
(もしも、ソルジャー・ブルーの日誌があったら…)
 物凄い人気だっただろう。キャプテン・ハーレイの航宙日誌が、これだけ売れているのだから。見た目の人気と関係無く。…前のハーレイのファンの数とは無関係に。
(前のハーレイ、あんまり人気が無いものね…)
 写真集が出版されていないのだから、注目されていないということ。出版したって、売れそうにない前のハーレイの写真集。
 けれど、ソルジャー・ブルーは違う。自分でもちょっぴり恥ずかしいけれど、写真集が出ている数なら誰にも負けない。ジョミーにも、もちろんキースにだって。
 そんな具合だから、もしも日誌があったなら…。
(日誌だけでも売れるんだろうし…)
 写真集に日誌の抜粋があれば、きっと人気を集める筈。手軽に読めて、写真も楽しめるから。
 それとは逆に、写真が豊富な日誌も売れる。ふんだんに写真を鏤めたならば、文字だけの日誌を売り出すよりも。
(凄く売れそう…)
 キャプテン・ハーレイの航宙日誌を越える売り上げ、ついでにロングセラーにも。
 そうなったろう、と容易に想像出来るのに…。



(前のぼくの日誌…)
 なんで無いわけ、と首を傾げた。どうしてハーレイの航宙日誌しか無いのだろう、と。
 書かなかったものは、存在する筈がないけれど。残っていなくて当然だけれど、書かずにおいた理由が分からない。ソルジャー・ブルーとしての日誌を。
 今の自分は日記をつけてはいないのだけれど、前の自分は事情が違う。置かれた立場も、生き方だって。…長い年月、たった一人のソルジャーだったし、ミュウの長として生きていた。
(前のぼくなら…)
 ハーレイのように、日誌を書いていたって不思議ではない。
 日々の出来事や、ソルジャーが下した判断などを。船の中で見聞きしたことも。
(ソルジャーの日誌…)
 それは日誌で日記ではないし、ハーレイとの恋は書けないけれど。プライベートなことも書けはしないけれども、前の自分はソルジャーだから…。
(日誌、書いておけば良かったのに…)
 どういう日々を過ごしていたのか、様々な出来事にどう対処したか。会議の議題や、長老たちと交わした意見。それに彼らがどう答えたのか、そういったことを。
 自分が書いておきさえしたなら、後々、ジョミーの参考にもなった。判断に迷った時に開いて、似たような例が何処かに無いかと探したりして。
(…記憶装置はあったけど…)
 ジョミーに遺した記憶装置に、それらも入っていたのだけれど。
 記憶装置にしか入っていない記録は、他の仲間は見られない。ジョミーの言葉が本当かどうか、誰も確かめることは出来ない。
 「ソルジャー・ブルーの意志でもある」と言われても。ジョミーがそうだと主張しても。
 その点、日誌の形だったら、他の仲間も読むことが出来る。長老だったヒルマンやエラも、若いナスカの子供たちも。
 前の自分の意志を確かめ、それに従って動けた筈。
 ジョミーが「こうだ」と述べた意見が、前の自分のとは違っていたって、溜息をついても従った筈。もしも日誌を書いていたなら、「これから先は、ジョミーに従え」と綴ったろうから。



 日誌があったら、大いに役立ったことだろう。ジョミーがソルジャーを継いだ後には。
 前のハーレイの航宙日誌も、そのために綴られていたものだった。ハーレイの代で地球まで辿り着けなかったら、次のキャプテンが立つだろうから。…その時に日誌が助けになれば、と。
 前の自分はそれを知っていたのに、どうして日誌を書こうと思わなかったのか。
 キャプテンが次の世代を意識していたなら、ソルジャーの自分も同じように考えるべきなのに。
(大失敗…)
 前のぼくも日誌を書けば良かった、とコツンと叩いた頭。そうすればジョミーの役に立ったし、船の仲間たちの参考にもなった筈なのに。
 ゼルたちだって、ジョミーの考えを頭から否定したりはしなかったろうに。「若すぎる」というだけのことで。アルタミラを知らない世代は駄目だと、決めてかかって。
 そうならないよう、日誌を書いておくべきだった、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで口にした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの日誌…」
「日誌?」
 前のお前の日誌なのか、と丸くなったハーレイの鳶色の瞳。
「そう。前のハーレイの航宙日誌みたいなヤツ」
「日誌って…。お前、書いてはいないだろう?」
 俺は知らんぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の日誌なんかが、あったか?」と。
「そうなんだけど…。前のぼく、日誌を書いてはいないんだけれど…」
 日誌、書いておけば良かったかな、って思ったんだよ。日誌があったら、役に立ちそう。
 ジョミーも参考に出来ただろうし、船のみんなも悩んだ時には、開いて読んでみたりして。
「そりゃまあ、あればそうなったろうが…」
 役に立っただろうとは思うが、無かったものは仕方ない。お前は日誌を書かなかったんだから。
「そのことなんだよ。…前のぼく、日誌を書けば良かったのに、思い付きさえしなくって…」
 今頃になって気が付いちゃった。ぼくも日誌を書くべきだった、って。
 ハーレイが書くのを見ていたくせに、駄目だよね。前のぼくの目、節穴だったよ…。
 もっときちんと考えていたら、ぼくも日誌を書いたのに。
 …ハーレイの航宙日誌とは別に、ソルジャーの日誌。



 ホントに駄目なソルジャーだよね、と零した溜息。まるで気付かなかっただなんて、と。
 日誌があったら、どれほど役に立つかということに。後の時代に、自分の命が燃え尽きた後に。
「…今まで気付きもしないだなんて、ホントに駄目で考えなしだよ」
 前のぼく、長生きしてたってだけで、後のことまでは少しも考えてなくて…。
 ソルジャーだったら、きちんと記録を残しておくべきだったのにね。みんなのために。
 馬鹿で間抜けだよ、前のぼくって。
「それは違うぞ、お前が忘れているだけだ」
 前のお前は、そのことを思い付いていた。ソルジャーの日誌を書き残すことを。
 俺は知ってる、とハーレイが言うから驚いた。そんな馬鹿な、と。
「え…?」
 忘れてるって…。どういうこと?
 それに日誌を思い付いたんなら、前のぼくは書いたと思うんだけど…?
「本当に忘れちまったんだな、綺麗サッパリ…。お前ってヤツは」
 生まれ変わる時に落として来たのか、その後の人生が長すぎたせいで忘れちまったか。
 お前、俺に相談に来たろうが。…日誌の件で。
 ソルジャーになって間も無い頃だな、此処まで言っても思い出せんか?
 俺の所に来たんだがなあ、日誌の書き方を教えてくれと。日誌は俺の方が先輩だから。
「そうだったっけ…!」
 ハーレイ、日誌を書いていたから…。
 どういう風に書けばいいのか、書き方、教えて貰いたくって…。



 思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやったこと。
 まだ名前だけがシャングリラだった船で、ソルジャーの任に就いた後。ご大層な尊称で呼ばれる日々にも慣れて来た頃、ハーレイの日誌が気になり始めた。
 一日の終わりに、必ず書いている航宙日誌。船の出来事を記すキャプテン。
 その姿を何度も目にしていたから、考えた。ソルジャーになった自分も、あんな風に日誌を書くべきだろうか、と。
(ソルジャーはキャプテンよりも偉いんだしね…?)
 単なるリーダーだった頃とは違うのだ、と嫌でも思い知らされるのがソルジャーの立場。歩いていれば誰もが礼を取るほど、それまでとは違ってしまった生活。
 皆の頂点に立つのがソルジャーなのだし、キャプテンよりも責任は重い。ならば、記録も必要になってくるだろう。どういう日々を過ごしているのか、ソルジャーの役目は何なのか。
(だけど、日誌の書き方なんて…)
 分からなかったのが前の自分。心も身体も長く成長を止めていたから、ソルジャーとはいえ姿は少年。中身の方も、姿に見合った少年の心。ハーレイのような大人になってはいない。
(…子供が日誌を書いたって…)
 きっと大人のようにはいかない。子供っぽいだけならマシだけれども、書くべきことを抜かしているとか、まるで日誌の体を成してはいないとか。
 それでは日誌を書く意味が無いし、相談に出掛けて行ったのだった。いつも航宙日誌を忘れずに綴る、大先輩のハーレイに。
 シャングリラの中の一日が終わって、通路の灯りが「夜なのだから」と落とされた後に。



 遊びに行くのとは違っていたから、少し緊張した扉の前。「開いてるぞ」というハーレイの声を聞いたら、いつもの自分に戻ったけれど。
 扉を開けて中に入って、勧められるままに座った椅子。もうハーレイは日誌を書き終えた後で、机の上には閉じられたそれ。
 そちらの方に視線をやって、訪問の用件を切り出した。
「航宙日誌…。今日の分はもう書いたんだね。…ぼくも日誌を書こうと思って…」
 ソルジャーだからね、日誌も書いておくべきだろうと思うんだ。でも…。
 日誌というのは、どんなことを書けばいいんだい?
 書き方を教わりたいんだけれど、と質問したら、「見せてやらんぞ」と返したハーレイ。
「何度も言ったが、航宙日誌は俺の日記だ。…いくらソルジャーでも見せられんな」
 勝手に覗いたりもするなよ、と軽く睨んだハーレイの言葉遣いは、まだ普通だった。エラが色々言っていたけれど、こうして二人で話す時には、まだ敬語ではなかったハーレイ。
「分かっているよ。覗こうとは思っていないけど…」
 だから教えて欲しくって…。勝手に見るより、教わる方がいいからね。
 ぼくだと何を書くべきなのかな、ソルジャーの日誌を作るのならば。
 君は日誌の先輩だから、と訊いたのだけれど、ハーレイは逆に尋ねて来た。
「書き方って…。お前、日誌を書きたいのか?」
「そうだよ、日誌を書いておいたら、いつかは役に立つだろう?」
 君の日誌と同じようにね。
 ぼくは地球まで行くつもりだけど、辿り着けなかった時は日誌が役に立つ。
 それが誰かは分からないけれど、ぼくの跡を継いでくれる人。…迷った時には、ぼくの日誌。
 読んでくれたら、其処に答えがあるだろうから。
「どうなんだか…。俺はそういうつもりで日誌を書いてはいるが…」
 お前は俺とは立場が違う。
 ソルジャーとキャプテンってだけじゃなくてだ、何から何まで違いすぎるってな。
 誰も参考に出来やしないぞ、お前の生き方。
 俺の生き方なら、真似られるヤツも、参考にするヤツもいるんだろうが…。



 違うのか、と覗き込まれた瞳。射るような視線で、真っ直ぐに。
 ミュウという種族が発見されて以来、一人しかいないタイプ・ブルー。「それがお前だ」と。
 宇宙に一人きりの存在、そんなお前と同じに生きられる人間が誰かいるのか、と。
「考えてもみろ。お前だからこそ、ソルジャーなんだ」
 お前と同じに生きられないなら、誰もソルジャーにはなれないが…。
 いるのか、タイプ・ブルーの仲間。…お前と同じサイオンを使いこなせるヤツが?
 どうなんだ、と見詰められたから。
「…誰もいないね…」
 この船には誰も乗っていないよ、ぼくのようなことが出来る仲間は。
 アルタミラでも、タイプ・ブルーは他に誰もいなくて…。だから殺されずに生かされていて…。
 これで死ぬんだ、と思った時でも、いつも治療されて、気が付いたら檻の中だった…。
「そうだろう? 人類ですらも分かっていたんだ。お前の代わりはいないってことを」
 俺たちミュウも気付いてるってな、お前だけしかいないということ。
 お前しかソルジャーになれやしないし、お前の仕事はお前にしか出来ん。
 その分、お前の責任も重い。…一人きりしかいないんだから。
 俺の方なら、厨房からキャプテンになったほどだし、船を操れる仲間は他にもいる。他の仕事が山ほどあっても、俺にしか出来ないわけじゃない。俺が纏めているってだけで。
 だがな、お前は違うんだ。…お前がいなくなっちまったら、誰がこの船を守ってくれる?
 仲間たちが食う飯にしたって、もう何処からも来やしない。お前が奪いに行かなかったら。
 お前は船の仲間の命を預かってるんだ、お前自身が責任の重さをまるで気にしていなくても。
 俺よりも遥かに重く出来てて、誰も代わりに持っちゃくれない責任ってヤツ。
 お前はそいつを背負ってるわけだ、仲間たちの命も、このシャングリラも、ミュウの未来も。



 そんな毎日を書き残しておいて楽しいか、と問い掛けられた。
 一人、日誌を読み返してみては、後悔することにならないか、と。
「今みたいな夜の時間に、だ。…その日の分の日誌をお前が書いた後だな」
 こういう時間に、前に書いた日誌を読んでみて。…そうだった、と思い返して。
「後悔だって…?」
 日誌を書いたことを後悔するのかい?
 書こうと決めた日誌だったら、後悔しないと思うけれどね…?
 ぼくが自分で決めたことなのに、どうして後悔するんだい?
 君は不思議なことを言うね、とハーレイを見詰め返したけれども、「違う」と返った静かな声。
「日誌を書くってことじゃない。…其処に書かれている中身が問題なんだ」
 お前が自分で残した記録。そいつを読んだら、色々なことを思い出すから…。
 あの時、こうすりゃ良かったんだ、と悔やむことだってあるだろう。
 幸い、今の所は平穏無事でだ、何も起こっちゃいないんだが…。
 お前、アルタミラから脱出した後、ハンスのことを悔やんでいただろう。思い出す度に。
 もっとサイオンがあったなら、と。
 救おうと思う気持ちが強かったならば、サイオンを使えていたんじゃないか、とも。
 お前のサイオンは尽きちまってたが、意識はあったわけだから…。
 その分、余力があった筈だと。…もう無理だ、と思っていなかったならば、救えていたとな。
「…うん…。今でも、たまに思い出すよ」
 どうして救えなかったのかと。…あそこで力を使えていたなら、ハンスも船にいた筈だとね。
「ほらな。…そういう記録を書いていくのがソルジャーなんだ」
 それがソルジャーの日誌になるんだ、お前は船の仲間たちの命を背負うんだから。
 読み返してみても辛いだけだぞ、自分を責めるばかりでな。
「でも…。楽しいことも幾つもあるよ?」
 生きていて良かった、と思えることが。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、楽しかったよ。
「それはまあ…。だが、それだけじゃ済まない時が来ないと何故言えるんだ?」
 いくら平穏無事な日々でも、俺たちは追われる存在だ。
 ミュウに生まれたというだけでな。



 この先も無事とは限らないんだ、とハーレイの瞳は穏やかだけれど、真剣だった。
 人類軍に見付かった時は、逃げるだけしか術がない船。武装していない民間船では、とても戦うことは出来ない。改造する技術も、今はまだ無い。
 それがシャングリラで、ミュウの仲間たちを乗せた箱舟。何処かに着弾したとしたって、空気が流れ出さないようにと、隔壁で遮断して逃げることしか出来ない船が。
「俺たちの船は、そういう船だ。いくらお前が守っていたって、運が悪けりゃ被弾しちまう」
 その時、其処に誰かがいたなら、そいつも危ない。シールドを張り損なっちまえばな。
 もしも、そういう不幸な事故が起こったら…。
 お前、その事故を、どんな思いで日誌に書くんだ?
 きっと涙が出るのを堪えて、懸命に書くんだろうがな…。書いた後にはどうするんだ?
「…何度でも読むよ。忘れないように」
 同じようなことが二度と起こらないように、何度でも。…どうすれば良かったかを考えながら。
 ぼくはどうするべきだったのかを。
「俺が思った通りじゃないか。ハンスの事故の時と同じだ」
 何度も日誌を読み返しては、その度にお前は後悔するんだ。ちゃんと最善を尽くしたのか、と。
 読み返す度に、過ぎ去った過去に囚われちまう。自分のせいだ、と自分を責めて。
 そういう辛い日誌を書いていきたいか、お前?
 とっくに終わっちまったことまで、お前に突き付けてくるような辛い日誌を…?
「それが必要なんだったら…」
 船のみんなの役に立つなら、きちんと書いておこうと思う。辛いだなんて言わないでね。
 それもソルジャーの役目だろう、と答えたけれど。
「お前にそれは必要無い。…辛い日誌は要らないんだ」
 さっきも言ったが、お前の代わりはいないんだから。…今も、これから先にもな。
 辛い思いをして書き残したって、日誌は誰の役にも立たん。そんな日誌に意味は無いだろ?
 この船のことは俺が書くから、お前は何も書かなくていい。
 ソルジャーの日誌は無くていいんだ、お前が辛くなるだけだから。
 いいな、と肩に置かれたハーレイの手。
 「日誌は書くな」と。「仲間たちには、俺の航宙日誌があれば足りる」と。



 そうだった、と蘇って来た、あの夜のこと。「日誌は要らない」と諭したハーレイ。
 日誌の書き方を教わりに行って、止められてしまった前の自分。「書くな」と日誌の大先輩に。
 ハーレイは一番の友達でもあったし、そのハーレイが止めるからには、書くべきではない。そう思ったから、日誌は書かないことにした。ソルジャーの日誌はやめておこう、と。
「…前のぼくの日誌…。前のハーレイが止めたんだ…」
 ぼくは書こうと思っていたのに、書かなくていい、って。…必要無い、って。
「そうだが、お前、書きたかったか?」
 俺は生まれ変わって別の俺だし、今だから、もう一度訊いてみるんだが。
 お前は日誌を書いた方が良かったと思っているのか、ソルジャーの日誌を…?
「どうだろう…?」
 書いておいた方が良かったのかな、と改めて考えた日誌のこと。前の自分が書かずに終わった、ソルジャーの日誌。
 あれから長い時が流れて、ジョミーを見付け出したのだけれど。
 奇跡のように現れた二人目のタイプ・ブルーで、シャングリラに迎え入れたけれども。
 補聴器に仕込んだ記憶装置を持っていたから、日誌はまるで必要無かった。文字にしなくても、記憶を丸ごと渡せたから。…下手に文章の形にするより、正確に全てを伝えられたから。
 もっとも、十五年間もの深い眠りに就いていた間は、渡しそびれてしまったけれど。
 ああいう時こそ、ジョミーは記憶装置が欲しかったろうに。
 ソルジャー候補でしかなかったのが、いきなりソルジャーになったのだから。
 何の引き継ぎもしてはいなくて、正式なお披露目もされないままで。
 皆を導くにはどうすればいいか、手探りで歩くしか無かったジョミー。
 記憶装置さえ持っていたなら、ヒントも答えも、その中に山と詰まっていたのに。



 何の前触れもなく導き手を失い、放り出されてしまったジョミー。ただでも味方が少ない船で。
 それでも懸命に頑張り続けて、人類に向けての思念波通信を行ったけれど…。
(…裏目に出ちゃって、責められちゃって…)
 ブリッジにも顔を出さない日が長く続いていたという。青の間に来ては、佇むだけで。
 きっとジョミーは、前の自分の導きを欲していたのだろう。進むべき道が分からなくて。
 何処に向かって歩めばいいのか、教えてくれる者が誰もいなくて。
 それを思うと、前の自分がすべきだったことは…。
「…前のぼく、ジョミーに記憶装置を渡しそびれて眠っちゃって…」
 まさか目が覚めないとは思わないしね、寝ちゃう前には少し眠かっただけなんだから。
 十五年間も眠っちゃうんだと分かっていたなら、記憶装置、ジョミーに渡しておいたのに…。
 あんなことになるなら、ソルジャーの日誌、書いておけば良かったんだよね。
 そしたらジョミーも読めたのに…。色々と参考になっただろうし、自信も持てたよ。
 ぼくが眠ってしまっていたって、ぼくの考えは日誌に書いてあるんだから。…やり方だって。
「おいおい、お前の日誌って…。お前が生きているのにか?」
 深く眠っているだけなんだし、あの状態では勝手に開いて読めはしないぞ。
 いくらジョミーがソルジャーになっても、青の間に出入り自由でもな。
「読めないって…。なんで?」
 どうして駄目なの、ぼくの日誌はそういう時に読むためのものでしょ…?
「いや、無理だ。俺の航宙日誌と同じだ、書いた人間が生きてる間は許可が要る」
 読んでもいい、という許しがな。
 それをお前が出してないなら、ジョミーは勝手に読むことは出来ん。其処に日誌があったって。
 ついでに言うなら、許可を出せるような余裕があったら、記憶装置を渡したろうが。
「…そうだね、そっちの方がずっと早いし、正確だし…」
 眠っちゃうんだ、って分かっていたなら、記憶装置を渡していたよ。ジョミーのために。
「俺たちも記憶装置を知ってはいたが…。外してジョミーに渡してはいない」
 必要だろうと分かっていたって、お前の許可が無いんだからな。…眠っちまって。
 だから日誌が書いてあっても同じことだ。「読め」とは言わんな、ジョミーにだって。
「そっか…」
 書いておいても、無駄だったんだ…。本当に役に立ちそうな時に、出番が無いなら。



 ソルジャーの日誌は、あったとしても役に立たないものだったらしい。ジョミーがそれを求めていた時、読むための許可は出なかったから。
 ハーレイたちは記憶装置の存在さえも、ジョミーに教えなかったのだから。
 もしもジョミーが手にしていたなら、求める答えを得られただろうに。迷った時には、導く声も記憶装置から聞こえたろうに。
「…駄目だよね、ぼく…。記憶装置は渡しそびれるし、日誌も書いていなかったし…」
 ホントに駄目なソルジャーだったよ、ジョミーに悪いことをしちゃった…。
「ジョミーの件はともかくとして…。要らなかったんだ、お前の日誌は」
 お前が辛くなるだけだから、とハーレイは慰めてくれるのだけど。
「でも…。ハンスの事故みたいなことは起こっていないよ?」
 死んじゃった仲間もいたけれど…。事故じゃないでしょ、病気だったよ。
 日誌に書いても、そんなに辛くはなかったと思う。…悲しいけどね。
「船じゃそうだが、外の世界にはミュウの子供たちがいたろうが」
 助け損なった子だって多いぞ、ユニバーサルのヤツらに先を越されて。
 お前はそいつを書かなきゃならん。…日誌を書いていたならな。
 子供たちの悲鳴が聞こえて来そうな、読み返す度に辛い気持ちになる日誌を。
「そうなっちゃうね…」
 助け出せなかった子供たちのことも、きちんと書かなきゃいけないから…。
 子供たちの名前も、助け損ねた状況とかも。
 それもソルジャーの役目だもの、と今でも心が痛くなる。死んでいった子供たちを思うと。
「今のお前でも、そういう顔になるんだから…。思い出しただけで」
 書くなと止めて正解だったな、前のお前のソルジャーの日誌。
 お前が思い出して泣くのを、俺は防げたようだから…。お前の心を少しは軽く出来たから。
「うん、ハーレイのお蔭だよ。…毎晩のように後悔しなくて済んだから」
 それにね…。もしも日誌を書いてたら…。



 ハーレイのように強くない自分は、恋を書けないのが辛かっただろう。
 日々の出来事を綴ってゆくのに、恋の思い出を鏤めることは出来ないから。どんなにハーレイを想っていたって、欠片も記せはしないのだから。
「…前のハーレイのことを書けないなんて…。何も残しておけないなんて…」
 そんなの辛いよ、辛すぎるよ。
 日誌はぼくの日記なのに。…ソルジャーとしてのことは書けても、本当のぼくのことは駄目。
 きっと毎晩、辛かったと思う。ハーレイに恋をしちゃった後は。
 ハーレイとのことを何も書いたらいけないだなんて、悲しくて辛くて、泣いちゃったかも…。
「なるほどな…。確かに書けんな、俺とのことは」
 俺は平気で嘘を書けたが、お前の心は俺よりも遥かに繊細だったというわけだ。
 恋をしているのに書けないことが、辛くて悲しくなっちまうなら。
 ソルジャーの日誌、書いていなくて良かったな。
 俺のアドバイスは思った以上に、前のお前を助けた、と。書くな、とお前を止めたことで。
「そうみたい…」
 ありがとう、あの時、ぼくを止めてくれて。
 ハーレイが止めてくれなかったら、ぼく、書いてたと思うから…。
 書き方を習って、毎晩、真面目に。…これもソルジャーの仕事だから、って。
 色々なことを思い出しては、後悔で泣くのはいいけれど…。それも勉強なんだけど…。
 二度と後悔しないように、って避ける方法も考えるだろうから。
 だけど、ハーレイのことを書けない方は…。
 どんなに悲しくて泣いていたって、勉強になんかならないから…。
 ただ辛いだけで、涙が零れて、日誌、書くのも辛くなるから…。



 ソルジャーの日誌が無くて良かった、とハーレイに「ありがとう」と頭を下げた。
 前のハーレイが止めずにいたなら、きっと日誌を書いていたから。毎晩、日誌を綴り続けては、何度も泣いていただろうから。
「ホントにハーレイのお蔭だよ。…前のぼくが泣かずに済んだのは」
 もしも日誌を書いていたなら、何度泣いたか、数えることも出来ないくらい。
 ハーレイのことを書けないだけでも、涙が溢れて止まらなかったと思うから…。
「礼を言ってくれるのは嬉しいんだが…。先の先まで読めたわけではないからな、俺も」
 あの時、お前を止めた理由は、お前の代わりは誰もいない、ってヤツだったんだが…。
 来ちまったからな、タイプ・ブルーの後継者が。
 ソルジャーの日誌、あれば参考になっただろうに…。記憶装置と同じようにな。
 お前がいなくなっちまった後しか、出番が無かったとしても。
「それでもだよ。…あれば良かったかな、とは思うけれどね」
 無かったお蔭で、辛い思いをしなくて済んだよ。日誌を書いたり、読み返したりで。
 どうして書いたら駄目なんだろう、ってハーレイのことを思う度に涙が止まらないとか。
「そりゃあ良かった。…結果的にお前を救えたんなら」
 今のお前も、色々なことを思い出さずに済むからな。
 お前の日誌は書かれていないし、何処にも残っていないんだから。
「それなんだけど…。ハーレイは平気?」
 航宙日誌が残ってるのに…。本屋さんに行ったら、一杯並んでいたりするのに。
 今日も新聞に広告があったよ、そのせいで前のぼくの日誌のことを考えちゃったんだけど…。
「俺の航宙日誌のことか?」
 大丈夫だ、こうして俺を心配してくれるお前がいるからな。
 前の俺はお前を失くしちまったが、お前は戻って来てくれたから。



 お蔭で今の俺は幸せ者なんだ、と笑顔のハーレイ。「宇宙で一番の幸せ者だ」と。
 「お前と一緒に青い地球まで来られた上に、すっかり平和な時代だから」と。
 今は幸せなのだろうけれど、辛かった時もあっただろうに。
 前のハーレイの地球までの道は、最後は生ける屍のような日々だけで埋め尽くされたのに。
 それでも「幸せ者だ」と言ってくれる人、前の自分が日誌を書こうとしたのを止めてくれた人。
 「辛い思いをすることはない」と、「俺の日誌があればいいから」と。
 この優しくて愛おしい人と、また巡り会えて同じ時間を生きてゆく。
 今度こそ、離れてしまわずに。
 青く蘇った水の星の上で、しっかりと手を繋ぎ合って。
 いつまでも、何処までも二人一緒に、幸せを幾つも拾い集めて、心の日誌に書き記しながら…。




           無かった日誌・了


※ソルジャー・ブルーの日誌は無いのですけど、実は、書こうとしたことがあったのです。
 けれど、書かれずに終わった日誌。前のハーレイが止めたお蔭で、救われた前のブルーの心。
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(…これが野菜で出来てるの?)
 本当に、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 綺麗な花や葉っぱの形に彫られた彫刻。鳥や龍だってあるのだけれども、その材料はどれも…。
(野菜に、フルーツ…)
 キュウリで出来た花や白鳥、それから亀。ニンジンで彫られた龍や火の鳥。赤いカブラを彫った薔薇やら、メロンを丸ごと使って彫り上げた花籠なんかも。
 材料はこれ、と言われなければ分からないほどの芸術品。本物そっくりに見える花まで。
 この作品たちは名前もそのまま、ベジタブルカービングにフルーツカービング。野菜を彫ったらベジタブル。果物を彫ったら、フルーツカービングになるらしい。
(復活して来た文化なんだ…)
 SD体制が崩壊した後、復活して来た様々な文化。遠い昔に地球のあちこちで生まれた料理や、伝統文化や、他にも色々。
 この彫刻たちも、その一つ。元はタイという国の宮廷の文化。食卓を美しく彩るために、様々な花や鳥などを彫った。野菜に果物、食べられる素材ばかりを使って。
 今の時代は趣味でやる人が多いという。タイの文化を復活させた地域はもちろん、この地域にもいる愛好家たち。
 新聞に載っている作品の一部は、この地域の人が彫ったもの。花も、細かく彫られた鳥も。
(柔らかい材料を彫るんだしね?)
 野菜や、パイナップルなどの果物。歯で簡単に噛み切れるのだし、木彫りや石の彫刻とは違う。楽々と彫れて、簡単なのだと思ったのに。
 愛好家が多いのも、直ぐに上達出来るからだと考えたのに…。



 嘘、と大きく見開いた瞳。新聞の記事を読み進めたら。
(使うの、ナイフが一本だけなの?)
 ベジタブルカービングも、フルーツカービングも、専用のナイフが一本だけ。道具はそれだけ、どちらにも使える共通のナイフ。相手が野菜でも、果物でも。
 鳥やら花やら、色々な形を彫り上げなくてはいけないのに。細かい部分まで彫り込まなければ、繊細な鳥は出来上がらない。翼を広げたキュウリの白鳥も、誇らしげなニンジンの火の鳥だって。
(こんなに細かいのを彫っていくのも…)
 メロンを丸ごと刳りぬいた花籠、それを作るのもナイフ一本。途中で道具を変えたりはしない。挑む相手が野菜だろうと、果物だろうと。
 硬い部分を彫ってゆく時も、柔らかな部分に細かい彫刻を施す時も。
(彫刻刀は使わないんだ…)
 初心者向けの教室だったら、用意しているらしいけれども。普通の彫刻と同じように。
 どういう風に彫ればいいのか、初心者にはまるで謎だから。野菜や果物の硬さがどうかも、まだ見当がつかないから。
(…コツを掴んだら、彫刻刀は卒業…)
 これからはナイフを使いましょう、と渡されるナイフ。それも一本、彫刻刀なら色々あるのに。目的に合わせて、違うタイプのを使えるのに。
(…何を彫るのも、このナイフだけ…)
 凄い、と改めて眺めた作品の数々。花も、花籠も、鳥たちも、龍や亀なども。
 ナイフ一本でこんなに彫れるだなんて、と。花を彫るのも、鳥の羽根を彫るのも、道具は同じ。
 きっと、ナイフをどう使うかで変わる彫り方。こう彫りたいなら、こんな具合、と。



(ぼくには無理…)
 そんな器用な彫り方はとても出来ないよ、と感心しながら戻った部屋。おやつのケーキと紅茶をのんびり味わった後で、もう一度さっきの新聞を見て。
 勉強机の前に座って、考えてみたベジタブルカービング。それにフルーツカービングも。
 人間が地球しか知らなかった頃に、タイで生まれた工芸品。ナイフ一本だけで彫り上げる、花や鳥たち。野菜や果物、食べられる材料だけを使って。
 どれも見事なものだったけれど、自分にはとても彫れそうにない。ナイフしか使えないのでは。大まかに彫るのも、細かい模様を刻み込むのも、全く同じナイフだけでは。
 美術の授業で彫刻刀を使うのだって、鮮やかとは言えない腕前の自分。
(おっかなびっくり…)
 彫刻刀の刃は鋭いから、先生に何度も脅された。木を削っていて、自分の手までウッカリ一緒に削らないように、と。
 手を滑らせたら削ってしまうし、そうでなくても何かのはずみで削りがちだから、と。
 それから、笑顔で注意もされた。「シールドなんかは反則ですよ」と。
 今の時代は、サイオンは使わないのがマナー。彫刻刀で削ってしまわないよう、手にシールドを張るのは反則。あくまで自分で注意すること、それが大切なことだから、と。
(反則したくても、出来ないから!)
 やっている子も多かったけれど、使えなかった反則技。サイオンを上手く扱えないから、片手にシールドを張っておくのは無理。
(…両方の手にだって張れないよ…)
 彫刻刀での怪我を防ぐシールド、それを左手にだけ張りたくても。彫刻刀の刃が怖くても。
 いつもビクビク、怪我をしないかと。手まで一緒に削らないかと。



 幸い、一度もしていない怪我。とても慎重にやっていたからか、たまたま運が良かったのか。
 彫刻刀で怪我をした子は、何人か見ているのだから。保健室に連れて行かれた子たち。
(ぼくが果物や野菜を彫ろうとしたら…)
 きっと怪我してしまうのだろう。今日まで無事に過ごして来たのに、あっさりと。
 野菜はともかく、果物は滑りやすそうな感じ。甘いメロンもパイナップルも、みずみずしい分、水気がたっぷり。彫っている間に、ツルッと滑ってしまいそう。
 おまけにナイフ一本で彫ってゆくのだから、余計に手元が危ういだろう。彫刻刀とは違うから。
(力加減が難しそうだよ…)
 どういう具合に彫りたいのかは、ナイフを握った自分次第。彫刻刀なら、目的に合わせて選んで替えてゆけるのに。「今度はこっち」と。
 そうする代わりに、変えるナイフの使い方。刃先で彫るとか、全体を上手く使うとか。
(使い方、想像もつかないんだけど…)
 ナイフなんかでどうやるの、と首を傾げても分からない。繊細な模様の彫り方も。クルンと中を刳りぬいた花籠、それをナイフで彫る方法も。
 あれを彫る人たちは器用だよね、と本当に感心してしまう。ナイフ一本で色々な形、花も鳥も、龍も作るのだから。
(ぼくと違って、ホントに器用…)
 自分だったら、出来上がる前に怪我をして終わり。ナイフでスパッと指とかを切って。大騒ぎで怪我の手当てをするだけ、絆創膏や傷薬で。
(絶対、そっち…)
 そうなるのが目に見えている。ナイフ一本で挑んだら。
 野菜や果物、それを使って花や鳥たちを彫り上げようと挑戦したら。



 世の中には器用な人がいるよね、と感動させられるベジタブルカービング。果物を使うフルーツカービングも。
 彫刻刀も使わずに彫るなんて、と技術の高さを思ったけれど。ナイフ一本で仕上げる腕前、その素晴らしさに脱帽だけれど。
(…あれ?)
 ナイフ、と掠めた遠い遠い記憶。ナイフで彫ってゆくということ。
 前のハーレイもそうだった、と蘇って来た前の自分の記憶。何度も目にした、ハーレイの趣味。木の塊から色々なものを彫っていた。実用品から、宇宙遺産のウサギまで。
(あのウサギ、ホントはナキネズミで…)
 宇宙のみんなが騙されてるよ、と呆れるしかない木彫りのウサギ。今の時代は博物館にあって、百年に一度の特別公開の時は長蛇の列。
 ナキネズミだとは誰も知らないから。「ミュウの子供が沢山生まれますように」と、ハーレイが彫ったウサギのお守り、そう信じられているものだから。
 ナキネズミがウサギに化けたくらいに、酷い腕前の彫刻家。前のハーレイはそうだったけれど、使った道具はナイフだけ。それも一本きりのナイフで、彫刻刀は使わなかった。
 何を彫るにも、いつでもナイフ。それだけを使って作った木彫りの作品たち。
(ハーレイ、ホントは器用だったの?)
 あまりにも下手な彫刻だったし、不器用なのだと頭から思っていたけれど。不器用すぎる下手の横好き、そうだと評価していたけれど。
 ナイフ一本で彫っていたなら、ベジタブルカービングやフルーツカービングと同じこと。
 新聞で眺めた綺麗な彫刻、あれを彫るのもナイフ一本。前のハーレイがやっていたのと同じに。
(木の方がずっと硬いんだから…)
 果物や野菜よりも硬い素材を、ナイフ一本で彫っていたハーレイ。彫刻刀を使いもせずに。
 もしかしたら、芸術的センスが無かっただけで、本当は器用だったのだろうか。ナイフがあれば何でも彫ることが出来たハーレイは。…酷すぎた腕の彫刻家は。



 そうだったのかも、と今頃になって気付いたこと。前のハーレイは器用だったのでは、と。
(芸術品の出来は最悪だったけど…)
 ナキネズミがウサギに化ける腕だったけれど、実用品の方は違った。スプーンとかなら、見事に仕上げていたハーレイ。注文する仲間が大勢いたほど、評価が高かった木彫りの実用品。
 それを思うと、彫刻の才能はあったのだろうか。まるで才能が無かったのなら、ナイフ一本では無理だという気がしてくる木彫り。彫刻刀を使っていいなら、別だけれども。
(スプーンを一本、彫るにしたって…)
 自分にはとても彫れそうにない。ナイフ一本しか使えないのでは。
 彫刻刀を使って彫ろうとしたって、木の塊から彫るのは無理。どう削るのかが分からないから。鉛筆で下絵を描いてみたって、大まかな形を削り出すのも難しそうに思えるから。
(やっぱりハーレイ、才能があったの?)
 あんなに下手くそだったのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、ハーレイ、器用だった?」
 本当は手先が器用だったの、ハーレイは…?
「はあ?」
 何の話だ、と目を丸くしているハーレイ。「料理の話か?」と。「包丁さばきは自信があるが」などと言っているから、「そうじゃないよ」と首を横に振った。
「今のハーレイだと、料理なのかもしれないけれど…。前のハーレイの話だよ」
 木彫りで色々作っていたでしょ、だから手先が器用だったのかな、って…。
 ハーレイ、何でも作れたから。
「ほほう…。俺の芸術をやっと認めてくれたのか?」
 今のお前にも馬鹿にされたが、ようやく腕を分かってくれたか。いいだろ、例のナキネズミ。
 勝手にウサギにされちまったが、あれは立派にナキネズミだしな?
「そっちじゃなくって、前のハーレイの彫り方だよ」
 ナイフ一本で彫っていたでしょ、どんな物でも。…スプーンも、他の芸術品も。
「その通りだが?」
 あれさえあれば何処でも彫れたし、お蔭で色々作れたってな。暇な時にはナイフを出して。
 例のナキネズミも、ブリッジで彫っていたくらいだから。



 ナイフ一本で出来る趣味だ、とハーレイが見せた誇らしげな顔。「他に道具は何も要らん」と。木の塊とナイフさえあれば、後は下絵用の鉛筆くらい、と。
「スケッチよりも簡単だぞ? スケッチブックが要らないからな」
 それに何処でも出来るのがいい。俺が座れる場所さえあったら、木彫りを始められるんだから。
「やっぱり…! ナイフ一本だけだよね、あれ」
 前のハーレイ、本当は器用だったんじゃないの?
 ナイフ一本で何でも彫っていたなんて、物凄く器用だったとか…。だって、ナイフが一本だよ?
 彫刻刀とかじゃないんだもの。…彫刻だったら、普通は彫刻刀なのに…。
 何を彫りたいかで、使う彫刻刀だって変わるものでしょ?
 それなのにナイフだけなんて…。ホントに凄すぎ、前のハーレイ。
「なんだ、今頃気が付いたのか? 前の俺が使っていた道具の凄さに」
 確かにナイフ一本で彫るというのは難しいだろうな、慣れていないと。…前の俺みたいに。
 器用だったことを分かって貰えて光栄なんだが、何故、今なんだ?
 どうして今頃、前の俺の木彫りの腕に注目したんだ、お前は?
 それが謎だ、と鳶色の瞳に見詰められたから、「えっとね…」と始めた新聞の話。
「今日の新聞に載ってたんだよ、とても綺麗な花とか鳥の彫刻が」
 彫刻なのに、材料が野菜と果物で…。ベジタブルカービングとフルーツカービング。
 どっちもナイフ一本だけで彫るんです、って書いてあったからビックリしちゃって…。
「あれか、丸ごと食える彫刻だな」
 使った部分にもよるんだろうが、その気になったら食っちまえるヤツ。あれは凄いよな。
 出来も凄いが、野菜や果物を芸術品にしちまう所がなあ…。



 実に凄い、とハーレイも知っていたベジタブルカービングとフルーツカービング。野菜や果物をナイフ一本で彫って仕上げる彫刻。
 知っているなら作れるのだろうか、と胸を躍らせて、ぶつけた質問。
「ハーレイも出来る?」
 あれって、ハーレイにも作れるの?
 包丁さばきには自信があるって言っていたよね、ベジタブルカービングも出来たりする…?
「ナイフと包丁とは違うしな…。それに今の俺は木彫りをやってはいないから…」
 挑んでみたって無理なんだろうが、前の俺なら出来ただろう。
 彫るものが木から野菜に変わるだけだし、果物だって彫れただろうな。
「本当に? 前のハーレイ、ホントに出来たの?」
 もしかしたら、って思ってたけど、あんな凄いのも作れたわけ…?
 野菜や果物を彫ってあったの、とても綺麗で芸術品って感じだったよ?
 前のハーレイが作った芸術品って、ナキネズミがウサギになっちゃうくらいに酷くって…。
「見本さえ見せて貰えれば彫れたな、こういう風に彫ってくれ、と」
 前の俺たちが生きた時代に、ああいう文化は無かったが…。昔の写真でもあれば。
 こいつは野菜で出来ているんだ、と花の写真でも渡して貰って、野菜を寄越してくれればな。
 どういう形に仕上げればいいか、それさえ分かれば充分だ。
 ナイフ一本で彫ってみせたさ、薔薇の花だろうが、小鳥だろうが。



 簡単なもんだ、と自信たっぷりだけれど。見本さえあれば出来たと、本人も言っているけれど。
 前のハーレイが本当に器用だったとしたなら、彫刻の出来はどうして酷かったのだろう?
 芸術的なセンスが無かったにしても、綺麗な花や小鳥を彫れる腕前があったなら…。
「…野菜や果物の花や小鳥は彫れるのに…。上手に彫れたって言ってるのに…」
 前のハーレイ、なんで駄目だったの?
「駄目って、何がだ?」
 ちゃんと彫れると言っただろうが、とハーレイは野菜と果物のつもりでいるようだから。
「木彫りだよ! 前のハーレイが作った彫刻!」
 どれも酷かったよ、実用品じゃなかったヤツは。…スプーンとかなら上手かったけれど。
 だけど、芸術だって言ってた彫刻、とんでもない出来のヤツばっかりで…。
 宇宙遺産のウサギもそうだし、ヒルマンが頼んだフクロウはトトロになっちゃったでしょ?
 もっと上手に彫れた筈だよ、野菜や果物で花や小鳥が彫れるなら。
 本物そっくりのナキネズミだとか、空を飛びそうなフクロウだとか…。
 どうして彫れなかったわけ、と問い詰めた。素晴らしい腕があったのに、と。
「そりゃあ、作れたかもしれないが…。やれと言われれば…」
 しかし、それを芸術とは言わんだろうが。本物そっくりに彫るってだけじゃ。
「芸術って?」
「独創性ってヤツだ、同じ彫るなら独創性が大切だ。彫刻家としての俺の腕だな」
 同じ木の塊を彫るにしたって、俺の魂のままに彫るんだ。
 本物そっくりに作るんじゃなくて、これはこうだ、と俺の魂が捉えた姿に仕上げるんだな。
 ナキネズミにしても、ヒルマンの注文だったフクロウにしても。
「…それ、ホント?」
 前のハーレイには、そう見えたわけ?
 ナキネズミはウサギみたいに見えてて、フクロウはトトロだったって言うの…?
「いや、それは…。その…」
 そう見えたというわけではなくて…。
 俺の独創性を発揮する前に、こう、基本になる彫刻と言うか…。
 普通に彫るなら、こう彫るべきだ、という当たり前の手本というヤツがだな…。



 何処にも無かったモンだから、というのがハーレイの言い訳。
 ベジタブルカービングや、フルーツカービングのように見本があったならば、と聞かされた話。ナキネズミもフクロウも、基本の形があったら手本に出来たんだが、と。 
 一理あるとは思うけれども、ナキネズミはともかく、フクロウの方。
 ミュウが作り出した生き物ではないし、データベースを端から探せば、彫刻の写真もあった筈。それこそ様々な形のものが。
 だから生まれてくる疑問。ハーレイの話は本当だろうか、と。
「お手本が何処にも無かったから、って言うんだね?」
 それがあったら前のハーレイでも、凄い芸術品を彫り上げることが出来たわけ?
 ナキネズミはウサギにならなくて済んで、フクロウはちゃんとフクロウのままで…。
 きちんとしたのを彫れたって言うの、お手本になる基本の彫刻があれば…?
 本当なの、と問いただしたら、「どうだかなあ…」とハーレイは顎に手を当てた。
「見本はこうだ、と資料を貰ったとしても…。はてさて、出来はどうなったんだか…」
 木の塊と向き合っちまえば、俺の考えが入っちまうしな?
 下絵をきちんと描いていたって、「こうじゃないんだ」と何処かで変えたくなっちまう。
 この通りに彫ったら、そいつは俺の作品じゃない、と思い始めて。
 そうやってあちこち変えていったら、見本とは別のが出来ちまうから…。
「本当に?」
 言い訳にしか聞こえないんだけれども、ハーレイの彫刻の腕が酷かったのは芸術なの?
 本当は上手に彫れるんだけれど、ハーレイが好きに彫ってた結果があれなわけ?
 ナキネズミがウサギになってしまったのも、フクロウがトトロになっちゃったのも。
「芸術っていうのは、そういうもんだと思うがな?」
 世の中の芸術ってヤツを見てみろ、彫刻でも絵でも、何でもいいから。
 これを彫りました、って言われていたって、その通りに見えない彫刻が山ほどあるだろうが。
 絵の方にしても、凄い美人をモデルにしたのに、落書きみたいに見えるヤツとか。



 俺の木彫りもそれと同じだ、とハーレイは大真面目に言い切った。「芸術品だ」と。
 木彫りの腕とはまるで関係無く、魂のままに彫った作品。酷いようでも俺の自慢の作品だ、と。
「ナキネズミがウサギに見えるヤツらが悪いんだ。…フクロウがトトロに見えるのもな」
 俺が違うと言っているんだ、作った俺の言葉が正しい。俺の芸術なんだから。
 そういや、お前…。前の俺にも言わなかったか?
「言うって…。何を?」
 何のことなの、とキョトンとしたら、「今と同じだ」と答えたハーレイ。
「きちんと上手に彫れないのか、と言ってくれたぞ」
 全く違うものに見えるし、酷すぎると。…俺の芸術作品を。
「いつのこと?」
 それって、いつなの、ハーレイが何を彫っていた時?
「いつだっけかなあ…。お前に言われたことは確かで…」
 お前なんだから、ナキネズミってことだけは有り得ない。トォニィがナスカで生まれた時には、お前は眠ってたんだしな。
 フクロウの方も、お前、存在自体を知らなかったから違うわけで…。
 あれは何だったか、俺が彫ってた芸術品は、だ…。
 そうだ、鶏を彫ろうとしてたんだっけな、あの時の俺は。
「鶏?」
 ハーレイ、鶏なんかも彫ってた?
 下手くそな木彫りは幾つも見たけど、鶏も誰かの注文だったの?
「俺が彫りたかったというだけなんだが…。ちょっといいじゃないか、鶏も」
 シャングリラでも飼っていたしな、本物をじっくり見られるだろうが。生きたモデルを。
 雄鶏を彫ったらいいかもしれん、と思い付いたんだ。
 朝一番に時をつくるし、なかなかに堂々としているからなあ…。雄鶏ってヤツは。
「思い出した…!」
 あったよ、ハーレイが彫ってた鶏。
 ハーレイの芸術作品だったし、どう見ても鶏じゃなかったけれど…。



 確かにあった、と浮かび上がって来た記憶。前のハーレイが彫った雄鶏。
 最初の出会いは、キャプテンの部屋へ泊まりに出掛けて行った時。恋人同士になっていたから、たまに泊まったハーレイのベッド。恋人の部屋で過ごす時間が好きだったから。
 その日も夜に出掛けてみたら、ハーレイが机で向き合っていた木の塊。木彫りを始める前の常。
 暫くじっと木を見詰めてから、鉛筆で線を描いてゆく。彫ろうとしている物の下絵を。
 そこそこ大きな塊だったし、興味津々で問い掛けた自分。ハーレイの手許を覗き込みながら。
「今度は何が出来るんだい?」
 スプーンとかではなさそうだけれど、君の得意な芸術だとか…?
「鶏ですよ。雄鶏を彫ってみようと思いまして…」
 雌鶏と違って絵になりますしね、雄鶏は。高らかに鳴いている時などは、特に。
 あの堂々とした姿を彫り上げられたら、この木も大いに満足かと…。スプーンになるより。
 いい作品に仕上げてみせますよ、とハーレイは自信満々だったけれど、日頃の腕が腕だけに…。
(ちっとも期待出来ない、って…)
 前の自分は考えた。ハーレイの腕では、雄鶏など彫れるわけがない、と。
 そうは思っても、雄鶏と聞けば好奇心がむくむくと湧いて来るもの。白いシャングリラの農場で時をつくっている雄鶏。立派な鶏冠を持った鶏。
 ハーレイが彫ったら何が出来るか、ちゃんと雄鶏に見えるかどうか。
 其処が大いに気になる所で、行く末を見届けたくなった。結果はもちろん、彫ってゆく間も。
 下絵では雄鶏らしく見えているのが、どんな形に出来上がるかを。



 木彫りの雄鶏が完成するまで、時々、泊まりに来ようと思った自分。ハーレイがナイフで彫っているのを、側で見学するために。
 何度か足を運ぶ間に、木の塊から雄鶏が姿を現したけれど。雄鶏が生まれる筈なのだけれど…。
「…別の物になって来ていないかい?」
 君は雄鶏だと言っていたよね、とハーレイが彫っている木を指差した。
 「ぼくの目には、これが雄鶏のようには見えないけれど」と。
「…そうでしょうか?」
 雄鶏のつもりなのですが、と彫る手を止めて眺め回したハーレイ。持ち上げてみたり、真横からしげしげ見詰めたりと。
 その結論が「雄鶏ですよ?」と出たものだから、「違うだろう?」と呆れ返った。雄鶏らしくは見えない木。どう贔屓目に見ても、譲っても。
「雄鶏だなんて…。これじゃアヒルだよ、本物のアヒルはシャングリラにはいないけど…」
 君もアヒルは知っているだろう、鶏とは違うことくらいは。…これはアヒルだね。
 クチバシも駄目だし、尻尾の辺りも、本物の雄鶏とは違いすぎるよ。
 雄鶏らしく見せるんだったら、あちこち直してやらないと…。
 ちょっと貸して、とハーレイから奪った雄鶏とナイフ。
 「ぼくが上手に直してあげる」と宣言して。
 ハーレイに「どいて」と椅子を譲らせて、自分が机の前に座って。



 さて、と彫り始めた木彫りの雄鶏。左手で持って、右手にナイフ。
 ハーレイの部屋では恋人同士で過ごすのだから、とうに外していた手袋。ソルジャーの手袋は、二人きりの時には外すもの。他の衣装は着けていたって。
 素手で木彫りに取り掛かったけれど、硬かったのが素材の木。バターのように切れはしないし、削るだけでも一苦労。ほんの僅かな修正でさえも。
(えっと…?)
 どう直すのがいいのかな、とナイフを握って悪戦苦闘する内に…。
「危ない!」
 叫びと共に飛んで来た、ハーレイの緑のサイオンの光。
 アッと思ったら、シールドされていた左手。ハーレイが放ったサイオンで。
 それが弾いたナイフの刃。左手にグサリと食い込む代わりに、キンと響かせた金属音。
「………?」
 ナイフを持ったまま、呆然と見詰めた自分の手許。何が起こったのか、直ぐ分からなくて。
「良かった…。お怪我は無いですか?」
 ブルー、と呼び掛けるハーレイの声で、やっと気付いた。さっき自分が見舞われた危機に。
「…大丈夫だけど……」
 なんともないよ、と返事してから、ナイフを置いて眺めた左手。
 もう少しで怪我をする所だった。ハーレイがシールドしてくれなかったら、雄鶏の木彫りを削る代わりに、自分の左手をナイフで抉って。
 手袋をはめていないから。
 爆風も炎も防げる手袋、ソルジャーの手を守る手袋は、自分で外してしまったから。



 もしもナイフで抉っていたら、とゾッとした左手。木が硬いだけに、上手く削ろうと力を入れていたナイフ。あれが左手を襲っていたなら、掠り傷では済まなかっただろう。
(…当たった所が悪かったら…)
 ノルディに縫われていたかもしれない。パックリと口を開いた傷を。
 「いったい何をなさったのです?」と尋ねられながら、何針も。「手袋はどうなさいました」と睨み付けられて、包帯をグルグル巻き付けられて。
 助かった、とホッと息をついて、「ありがとう」とハーレイに御礼を言った。自分では気付いていなかったのだし、ハーレイが弾いてくれなかったら、間違いなく怪我をしていたから。
「…君のお蔭で助かったよ。もう少しで、ノルディにお説教をされる所だったかも…」
 縫うような傷になっていたなら、酷く叱られただろうね。「手袋を外すとは何事です」と。
 油断してたよ、こういう作業をしている時こそ、あの手袋が役に立つのに…。
 ナイフの怖さを思い知ったけど、君は怪我をしたりはしないのかい?
 手に包帯を巻いた姿は、まるで覚えが無いんだけれど…?
「慣れていますからね、これが私の趣味ですし」
 怪我をするようでは、話になりはしませんよ。ゼルたちにも叱られてしまいます。
 「何をウカウカしとるんじゃ!」と。…手を怪我したなら、舵が握れなくなりますから。
「慣れているのは分かるけれども、最初の頃は?」
 君だって最初は初めての筈だよ、木彫りをするのは。…ナイフには慣れていそうだけれど…。
 厨房でもナイフを使っていたけど、木と野菜とは違うだろう?
「そうですね。慣れなかった頃は、こういう時に備えてシールドですよ」
 キャプテンは手が大切ですから、怪我をしないよう、シールドしながら彫っていました。
 それならナイフが当たったとしても、切れる心配はありませんから。
「…ぼくにもそれを言ってくれれば良かったのに…」
 左手をシールドするくらいのことは、ぼくには何でもないんだから。
「忘れていました、初心者でらっしゃるということを」
 私の作品を直すだなどと仰ったので…。木彫りには慣れてらっしゃるつもりでおりました。
 あなたが木彫りをなさらないことは、誰よりも知っている筈ですのに…。
 ブルー、申し訳ありません。…あなたにお怪我をさせる所でした。私の不注意のせいで。



 無事で良かった、と左手に落とされたハーレイのキス。左手にも詫びるかのように。
 ハーレイの彫刻は下手だけれども、木彫りの腕はいいらしい、と思った自分。その時に、ふと。
 自分と違って、怪我をしないで彫れるのだから。
 雄鶏には見えないような物でも、アヒルにしか見えない木の塊でも。
「…前のハーレイ、腕は良かったんだね、本当に」
 木彫りの腕は確かだったよ。ぼくよりも、ずっと。
「おっ、認めたか?」
 俺の芸術を分かってくれたか、今頃になってしまったが…。前のお前は認めてくれなかったが、そうか、認めてくれるのか。俺も頑張った甲斐があったな、何と言われても。
「怪我をしないで彫れたんだもの。それだけで充分、凄いと思うよ」
 前のハーレイなら、ベジタブルカービングも、きっと出来たね。フルーツカービングだって。
 ナイフだけで花とか鳥とかを彫って、シャングリラの食卓を飾れそう。
 ソルジャー主催の食事会なら、思い切り腕を揮えそうだよ。テーブルに飾れば映えるものね。
「前の俺が知っていさえすればな、あの文化をな…」
 果物や野菜で見事な彫刻が作れるんだ、ということを。そうすりゃ、俺の評価も上がった。
 厨房を離れた後にしたって、趣味の範囲で野菜や果物をナイフで彫って。
「無かったっけね、あんな文化は…」
 ヒルマンもエラも、見付けて来たりはしなかったから…。見付けていたら素敵だったのに。
 前のハーレイの出番が増えるし、評価もグンと上がっていたよ。果物や野菜を彫る度に。
 木彫りは駄目でも、こういうヤツなら凄く綺麗に彫れるんだ、って。
 そういえば、あの雄鶏はどうなったっけ?
 ぼくが直そうとして怪我をしかけた雄鶏、ちゃんと雄鶏に仕上がってた…?
「あれなら、お前に散々笑われて終わりだったが?」
 完成した後に、「何処から見たってアヒルだ」と言われちまってな。直せもしない、と。
「ごめん…。あの時のぼくも、腕はいいんだと思ったけれど…」
 ハーレイの木彫りの腕はいいけど、その腕を使って出来上がるものが酷かったから…。
 やっぱり下手くそなんだよね、って思うしかなくて、あの雄鶏も…。



 出来上がったらアヒルにしか見えなかったから、と肩を竦めた。
 どうしてああなっちゃうんだろうね、と。
「前のハーレイ、本当に腕は良かったのに…」
 怪我をしないで彫れたのもそうだし、ナイフ一本で何でも彫れたのだって上手な証拠。
 木彫りの腕は確かなんだよ、なのにどうして変な物ばかりが出来上がったわけ?
 ナキネズミはウサギで、フクロウはトトロで、雄鶏はアヒルになっちゃったなんて。
「さてなあ…? そいつはお前の思い込みっていうヤツで…」
 前の俺は下手ではなかったんだ。木彫りも、そいつで出来上がる物も。
 芸術っていうのはそうしたモンだろ、理解して貰うまでには時間がかかる。
 とても有名な芸術家にしても、作品が本当に評価されたのは、死んじまった後の時代だとかな。
「…宇宙遺産のウサギは今でもウサギのままだよ、理解されてないよ?」
 誰が見たって、ナキネズミには見えないんだから。…ウサギで通っているんだから。
「しかし、あれは立派な宇宙遺産だぞ。評価はされてる」
 キャプテン・ハーレイの木彫りの腕も、立派に評価されたってな。
 ああして宇宙遺産になってだ、特別公開される時には大勢の人が並んで見物するんだから。
「言い訳にしか聞こえないけど…」
 ナキネズミがウサギになっちゃったことは、どうするの?
 ウサギと間違えられちゃったから、ミュウの子供が沢山生まれますように、ってお守りで…。
 ナキネズミのままだと、ただのオモチャで終わりなんだよ、あのウサギは。
「どうだかな? 前の俺なら、ベジタブルカービングだって出来たんだ」
 やろうと思えば作れたわけで、そういう文化が無かっただけで…。
 俺の木彫りの腕は確かだ、だからこそ宇宙遺産のウサギも見事に彫れたってな。
「…野菜や果物を彫るのを見てれば、みんなの評価も変わってたかな?」
 ナキネズミもフクロウも、ハーレイの芸術作品なんだ、って。…下手なんじゃなくて。
「そうかもなあ…」
 実は綺麗な物も彫れるんです、と腕前を披露するべきだったか…。
 生憎とチャンスは無かったわけだが、野菜や果物で花だの鳥だのを見事に彫って。



 スプーンやフォークを彫っていたんじゃ、俺の本当の腕は分かって貰えないしな、とハーレイが浮かべた苦笑い。「ナイフ一本で彫れる凄さを、披露するチャンスを逃しちまった」と。
 前の自分たちが生きた時代に、ベジタブルカービングは無かったから。フルーツカービングも。
 ナイフ一本で野菜や果物に施す彫刻、それを愛でるという文化も。
 今の時代なら、ハーレイの腕を生かせそうなのに。ナイフ一本で彫刻する腕、それを生かす場がありそうなのに。
「…ねえ、今のハーレイにはホントに無理なの?」
 ベジタブルカービングとかは出来そうにないの、木彫りをやっていないから…?
 包丁でお魚とかを上手に切れても、野菜や果物に彫刻は無理…?
「やってみたことがないからなあ…。やろうと思ったことだって無いし」
 いつか試すか、お前と一緒に。
 料理のついでに、ちょいと綺麗に飾りを作ってみるっていうのも悪くはないぞ。
 食卓を凝った彫刻で飾れて、果物だったら後で丸ごと食えるしな。
「一緒にって…。ぼく、今度こそ怪我をしそうだよ!」
 左手、シールド出来ないんだから…。美術の授業の、彫刻刀だって怖いんだから…!
「今度は俺も怪我をするかもしれないぞ。今の時代は、サイオンは使わないのが基本だからな」
 俺だって使わないのが好みで、もうキャプテンでもないわけだから…。
 左手をグサリとやっちまうかもな、前の俺なら使い慣れてた筈のナイフで。
 だが、野菜や果物は木彫りよりかは、柔らかい分だけ彫りやすいし…。
 手が滑らないように気を付けていれば、木彫りよりは怪我も少ないだろう。
 怪我をしたって、前のお前が危なかったみたいな、縫うような怪我にはならんだろうし…。
「だったら、二人で練習してみる?」
 ぼくは初心者だから、彫刻刀で彫る所から。…ハーレイは最初からナイフ一本で。
「それもいいなあ、前の俺たちに戻ったつもりで」
 きっと楽しいぞ、野菜や果物を彫ってみるのも。
 前のお前は彫刻刀を使っちゃいないが、今のお前は彫刻刀なら使えるからな。



 どうだ、と誘って貰ったから。
 ナイフ一本で木彫りをしていた、ハーレイからの誘いだから。
 結婚した時にも覚えていたなら、二人であれこれ彫ってみようか。
 野菜や果物をナイフ一本で、それに彫刻刀で。
 今のハーレイの腕前はどうか、本当に綺麗に彫れるのか。変な芸術にならないで。
 野菜や果物で出来た花やら、鳥たちやら。
 ハーレイと二人で綺麗に彫れたら、きっと最高に楽しい筈。
 前の自分たちは全く知らなかったもので、今ならではの文化だから。
 蘇った青い地球に来たから、そんなものをナイフで、彫刻刀で彫れるのだから…。




            木彫りとナイフ・了

※出来上がった作品は散々でしたが、木彫りの腕だけは確かだったらしい、前のハーレイ。
 野菜やフルーツも、ナイフ一本で彫れたかもしれません。あの時代に、それがあったならば。
 パソコンが壊れたせいで2月になった、1月分の2度目の更新。今月は普通に2度目です。
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(行っちゃった…)
 帰っちゃった、とブルーが見送ったテールライト。遠ざかってゆく車の光。
 ハーレイの愛車の後ろに灯っているライト。金曜日の夜、「またな」と帰って行ったハーレイ。前のハーレイのマントと同じ色の車を運転して。濃い緑色をした愛車に乗って。
 懸命に手を振るのだけれども、ハーレイからはもう見えないだろう。テールライトは遠ざかって消えていったから。夜の住宅街の向こうへ。
(あーあ…)
 溜息をついて入った庭。見送りに出ていた道路から。門扉を閉めて鍵をかけたら、ハーレイとは別の世界の住人。チビの自分はこの家に住んで、ハーレイの家は何ブロックも離れた所。
(さよならだなんて…)
 今日は学校があった日だから、ハーレイが帰りに寄ってくれただけでも運がいい。学校の仕事が長引いた日には、訪ねて来てはくれないから。
 それは分かっているのだけれども、寂しい気持ちは拭えない。ついさっきまでは、あれこれ話が出来たのに。二人きりで部屋でお茶を飲んだり、両親も一緒の夕食だって。
(ホントに色々、お喋りしてて…)
 ハーレイの声に、姿に、夢中だった自分。「ハーレイと一緒なんだよ」と。
 キスは駄目でも恋人同士で、大好きでたまらないハーレイ。側にいられるというだけで。温かな声が耳に届いて、穏やかな瞳を見られるだけで。
 幸せ一杯で過ごしていたのに、楽しい時間はアッと言う間に過ぎるもの。気付けばとっくに通り過ぎていて、こうして終わりがやって来る。
 食後のお茶の時間も終わって、帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
 ガレージに停めていた愛車に乗って、エンジンをかけて走り出して。
 そのハーレイが乗った車はもう見えない。「あそこだよ」と分かるテールライトも。
 表の道路に戻ってみたって、何処にも見えないテールライト。夜の道路があるだけで。道沿いの家に灯る灯りや、街灯の光があるだけで。



 庭から家の中へと入って、戻った二階の自分の部屋。ハーレイとお茶を飲んでいた部屋。
 其処にハーレイの姿は無いから、零れてしまった小さな溜息。さっきまで一緒だったのに、と。
(寂しいよ…)
 ハーレイが運転して行った車。濃い緑色の車の助手席に乗って、ハーレイの家に帰りたいのに。自分も車に乗ってゆけるなら、それが出来たら幸せなのに。
 ハーレイが開ける運転席とは、違った方の扉を開けて。シートに座って、扉を閉めて。
 そしたら車が走り出しても、寂しい気持ちになったりはしない。自分も一緒に乗っているから、夜の道を二人で走るのだから。
 ほんの短いドライブだけれど、ハーレイの家に着くまでの道を。ガレージに車が滑り込むまで、ハーレイがエンジンを止めるまで。
(そうしたいけど、まだまだ無理…)
 十四歳にしかならない自分は、当分はこうして見送るだけ。
 今日の自分がそうだったように、家の表の道路に出て。ハーレイに「またね」と手を振って。
 車が行ってしまうのを。…テールライトが見えなくなるのを。



 お風呂に入ったら、後は寝るだけ。パジャマ姿で、窓の向こうを覗いてみた。カーテンは閉めたまま、上半身と頭を突っ込んで。
 庭園灯が灯った庭と生垣、それをぼんやり見下ろしていたら、通った車。黒っぽい影とライトが見えただけなのだけれど、表の道路を走って行った。ハーレイの車が去ったのと同じ方向へ。
(ハーレイの車も…)
 こんな風に此処から見ることがある。濃い緑色は夜の暗さに溶けてしまって、シルエット。光が当たった時以外は。街灯だとか、庭園灯だとか。
 はっきり見えるのはテールライトで、「帰って行くんだ」と分かる遠ざかる光。
 普段は表で見送るけれども、病気の時には窓からお別れ。今のようにカーテンの陰に入って。
(起きちゃ駄目だ、って言われても…)
 ハーレイが「しっかり眠って早く治せよ?」と灯りを消して部屋を出たって、足音が消えた後、何度見送ったか分からない。
 こっそりと起きて、カーテンを閉めた窓の陰から。ハーレイに気付かれないように。
 テールライトが消えてゆくのを、遠ざかって見えなくなってゆくのを。
(ああいう時には、ホントに寂しい…)
 外で見送る時よりも、ずっと。表の通りに立って手を振る時よりも。
 きっと心が弱くなっているからだろう。病気のせいで、弱ってしまった身体と一緒に心まで。
 窓から車を見送りながら、涙が零れる時だって。
 「帰っちゃった」と。
 ハーレイの車は行ってしまって、テールライトももう見えないよ、と。



 今の車で思い出しちゃった、と離れた窓。ハーレイはとっくに家に着いただろうし、ゆっくりと寛いでいそうな時間。熱いコーヒーでも淹れて。
 置いて帰ったチビの恋人、自分の心も知らないで。
(テールライト…)
 なんて寂しい光だろう、とベッドに腰掛けて考えた。消えてゆく光は寂しいよ、と。
 テールライトを点けて帰って行ったハーレイ、愛おしい人はまた来るのだと分かっていても。
 それっきりになってしまいはしなくて、再び会えると分かっていても。
(今日だと、明日には…)
 夜が明けたら土曜日なのだし、またハーレイに会うことが出来る。
 休日だから、車の出番は無いけれど。天気のいい日は、ハーレイはいつも歩いて来るから。雨が降る日や、降りそうな時だけ、車でやって来るハーレイ。休みの日には。
 仕事の帰りに寄ってくれる日は、いつでも車。今日も車で来ていたように。
 テールライトが消えていっても、ハーレイにはまた会えるのだけれど。ほんの短い間のお別れ、どんなに会えない日が続いたって、せいぜい数日なのだけれども。
(でも、会えるって分かっていたって…)
 悲しすぎる光がテールライト。いつ見送っても、何度、大きく手を振っても。
 さよなら、と小さくなってゆく光。
 ハーレイを乗せた車が点けている光、恋人の居場所はどんどん遠くなってゆくから。
 さっきまで家の前にいたのに、遠ざかって消えてしまうから。



(さよならの光…)
 テールライトはそうだよね、と思った途端に、胸を掠めていったこと。
 前の自分は見ていない。
 シャングリラが去ってゆく光を。白い鯨のテールライトを、「さよなら」と消えてゆく光を。
(テールライトじゃなかったけれど…)
 白いシャングリラも、暗い宇宙で後ろから見れば、幾つかの光が灯っていた。鯨のヒレのように見える部分などには、位置を示すための青い色の灯り。
 それにエンジンの強い光も、テールライトのようなもの。「あそこにいる」と分かるから。
 漆黒の宇宙を飛んでいたって、シャングリラの居場所を教えた光。
 けれど、メギドに飛んだ自分は…。
(テールライト、見送れなかったんだよ…)
 白い鯨が去ってゆくのを、自分が守ったシャングリラを。
 命と引き換えに守り抜いた船を、無事に飛んでゆくシャングリラを。
 あの時の自分は泣きじゃくっていたから、それどころではなかったけれど。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、悲しくて泣いていたのだけれど。
(…だけど、シャングリラが見えていたなら…)
 シャングリラがいた赤いナスカと、あんなに離れていなかったなら。メギドとナスカが、もっと近い場所にあったなら。
 泣きながらも、きっと見送れた。白いシャングリラが旅立つのを。
 自分は其処には戻れないけれど、あそこにハーレイがいるのだと。
 ハーレイがしっかりと舵を握って、シャングリラは地球に向かうのだと。
 遠ざかってゆくテールライトを、エンジンの光を見送っただろう。光が宇宙に溶けてゆくのを。漆黒の闇に吸い込まれるように、「さよなら」と消えてゆく光を。
 メギドが爆発する時まで。前の自分の命の焔が、それと一緒に消える時まで。
 あるいは倒れて命尽きるまで、意識が闇に飲まれるまで。



 もしも、そうしていられたら。白いシャングリラを見送れたなら。
(ハーレイとの絆…)
 切れてしまった、と思わずに済んだかもしれない。ハーレイの温もりを失くしていても。
 シャングリラの居場所を教えてくれる、テールライトの光の向こう。それを点けた船、ミュウの仲間たちを乗せた白い箱船。光の中にはハーレイもいる。テールライトを点けている船に。
 ハーレイの温もりは消えたけれども、今は見送るだけなのだから、と。
 温もりをくれた温かな腕は、あの光と一緒にあるのだから、と。
(さよならだけれど、ハーレイは見えているものね…)
 姿そのものは見えないけれども、ハーレイが舵を握る船。シャングリラの光が見えているなら、ハーレイが見えているのと同じ。ハーレイを乗せた船なのだから。
 右手が凍えていたとしたって、ギュッと握ったかもしれない。自分の意志で。
 失くしてしまったハーレイの温もり、それを右手に取り戻そうと。
 白いシャングリラのテールライトを見送りながら。「あそこにハーレイはいるのだから」と。
 絆は切れてしまっていないと、今もハーレイとは繋がっている、と。
(ハーレイの姿は見えなくっても…)
 白いシャングリラが其処に在るなら、ハーレイも其処に確かにいる。あの箱舟の舵を握って。
 キャプテンの務めを果たさなければ、と真っ直ぐに前を見詰めて立って。
 テールライトが遠くなったら、絆は細くなってゆくけれど。きっと切れたりしないだろう。船がどんなに遠くなっても、光が闇に溶けていっても。
 ワープして視界から消えていっても、切れることなく続きそうな絆。ハーレイと前の自分の間を繋ぎ続ける、細いけれども強い糸。けして切れずに、繋がったままの。
 白いシャングリラを、テールライトを見送ることが出来たなら。
 右の瞳は撃たれてしまって潰されたから、左の目でしか見られなくても。
 半分欠けてしまった視界が、涙で滲んでぼやけていても。



(…シャングリラ、見送りたかったかも…)
 そう思ったら零れた涙。両方の瞳から、涙の粒が盛り上がって。溢れて流れて、頬を伝って。
 守った船を見送ることさえ、出来ずに終わった前の自分。
 シャングリラからは遠く離れていたから、ジルベスター・エイトとナスカの間は遠すぎたから。
 もっと近くにシャングリラがいたら、テールライトを見送れたのに。
 「さよなら」と、「いつか地球まで行って」と。
 自分の命は尽きるけれども、シャングリラは無事に飛び立てたから。暗い宇宙へ船出したから、遠くなってゆくのがテールライト。白い鯨が旅立った証。
 それさえ見られず、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。
 前の自分は、なんと悲しい最期だったか、と思うと止まらない涙。
 テールライトが見えていたなら、皆の旅立ちを見送ったのに。ハーレイとの絆もきちんと自分で結び直して、右手をギュッと握ったろうに。
 温もりは消えてしまったけれども、こうして思い出せるから、と。
 シャングリラが遠くへ去ってしまっても、自分の命が此処で尽きても、ハーレイとの絆は切れてしまいはしないから、と。
 きっと笑みさえ浮かべただろうに、見送れなかったシャングリラ。遠ざかる光を、漆黒の宇宙を飛んでゆく船のテールライトを。
(見たかったよ…)
 シャングリラの光が遠くなるのを、テールライトが消えてゆくのを。
 けれども、出来なかったこと。シャングリラから遠く離れたメギドで死んでいった自分。
 本当に悲しくてたまらないから、胸が締め付けられるようだから…。
(明日は、ハーレイに…)
 うんと甘えることにしよう、と両腕で抱き締めた自分の身体。ハーレイは此処にいないから。
 明日になっても覚えていたなら、大きな身体に抱き付いて、頬をすり寄せたりもして。
 ハーレイと一緒に地球に来られたと、今はこうして幸せだから、と。



 それがいいよね、と潜り込んだベッド。今の自分はチビの子供で、両親と地球で暮らしている。子供部屋だって持っているから、こうして眠れる自分用のベッド。
 青の間にあったベッドよりずっと小さいけれども、心地良い眠りをくれる場所。
 一晩眠れば、明日はハーレイが来てくれる。ハーレイに会ったら、抱き付いて、甘えて…。
(…メギドの夢は嫌だけれどね?)
 あそこでシャングリラを見送りたかった、と考えていたせいで、メギドの悪夢が訪れたら困る。怖くて夜中に飛び起きる夢。前の自分が死んでゆく夢。
 メギドの夢を見ませんように、と祈りながらウトウト眠ってしまって、気付けば其処はメギドの中で。青い光が消えてしまった制御室。発射されることはないメギド。
 とうに壊れて、後は沈んでゆくだけだから。爆発のせいで、装甲も破壊されているから。
(…シャングリラ……)
 あんな所に、と見付けた船。遠いけれども、白い鯨だと分かる船。
 爆発で穴が開いた装甲、それの向こうに広がる宇宙。漆黒の闇にポツンと灯ったテールライト。
 長い年月、其処で暮らしたから、シャングリラの光を間違えはしない。
 遠く離れて、小さな光の点になっても。星たちの中に紛れていても。
(シャングリラは無事に飛び立てたんだ…)
 良かった、と漏らした安堵の息。もう大丈夫だと、白い鯨は飛べたから、と。
 メギドの炎に飲まれはしないで、仲間たちを乗せて飛び立った船。この宙域から去ってゆく光。
 シャングリラの無事を確かめられたら、思い残すことは何も無い。
(どうか地球まで…)
 白いシャングリラの仲間たちが幸せであるように。ミュウの未来が幸多きものであるように。
 シャングリラの舵を今も握っているだろう恋人、ハーレイもどうか青い地球へ、と捧げた祈り。
 自分は共に行けないけれども、皆は幸せに青い地球へ、と。
 冷たいと感じはしなかった右手。
 皆の幸せを祈る間も、右手は凍えていなかった。ただ、シャングリラを見送っただけ。
 無事に飛べたと、テールライトが宇宙の闇に消えてゆくのを。



(あれ…?)
 何処、と見回した自分の周り。パチリと開いた両方の瞳。右の瞳は砕けてしまった筈なのに。
 なんだか変だ、と思った自分はベッドの上。朝の光がカーテンの向こうから射して来る。
(…今のって、夢…)
 前のぼくのつもりで夢を見てた、と気が付いた。夢が覚めたから、チビの自分がいるのだと。
 子供部屋に置かれたベッドの上に。十四歳の自分用のベッドに。
(あの夢って…)
 メギドの夢でも全然違う、と見詰めた右手。この手は冷たく凍えなかったし、いつもの悲しさや苦しさも無い。「やり遂げた」という思いがあるだけ。
 シャングリラは無事に飛び立てたから。ミュウの仲間たちとハーレイを乗せて、宇宙に船出して行ったから。宇宙の何処かにあるだろう地球、其処を目指して。…ミュウの未来へ。
 夢の中身が変わっていたのは、きっとテールライトのことを考えたせい。
 シャングリラのそれを見送りたかった、と眠る前に思って泣いていたから。白いシャングリラのテールライトを見送れたならば、前の自分は悲しい最期を迎えずに済んでいただろう、と。
 そう思ったから、夢の中身が変わった。
 同じメギドの夢だけれども、白いシャングリラを見送る夢に。



 いつもと全く違った夢。目覚めた後にも、鮮やかに思い出せる夢。
 だから、ハーレイが訪ねて来た時、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日はハーレイに甘える予定だったんだけど…」
 そういうつもりでいたんだけれど、と言ったらハーレイは怪訝そうな顔。
「予定だって?」
 なんだ、甘える予定というのは。…それに、その予定がどうかしたのか?
 それだけでは何も分からんぞ、というハーレイの疑問は当然だろう。普段だったら、ハーレイが何をやっていようが、甘える時には甘えるから。
 断りも無しにチョコンと膝の上に座るとか、いきなりギュッと抱き付くだとか。
「予定だってば、甘えようと思っていたんだよ。…昨日の夜から」
 甘えるつもりだったんだけど…。変わっちゃったよ、夢を見たせいで。…ぼくの気分が。
「夢ということは…。メギドなのか?」
 違うな、メギドの夢を見たなら、甘える方に行く筈だ。お前、いつでもそうなんだから。
 いったい何の夢を見たんだ、甘えたい気分が消し飛ぶだなんて…?
「えっとね…。甘えたい気分が消えたって言うより、ぼくが満足しちゃったんだよ」
 昨日の夜には、ハーレイに甘えるしかない、って思うくらいに悲しくて…。
 涙まで出ちゃったほどなんだけれど、その悲しさが無くなっちゃった。夢のお蔭で。
 見たのはメギドの夢だったけれど、ぼくの手、凍えなかったんだよ。いつも右手が凍えるのに。
「ほほう…。その夢には俺が出て来たのか?」
 俺はお前を助けられたのか、メギドの夢に登場して…?
「ううん、出て来たのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
 メギドを沈めにやって来たのか、とハーレイが訊くから、「違うよ」と首を横に振った。
「ただシャングリラが出て来ただけ。うんと遠くを飛んでいたけど…」
 あれは確かにシャングリラだったよ、夢の中のぼくにも分かっていたから。
 だって見間違えるわけがないもの、シャングリラが宇宙を飛んでゆく姿。



 無事に飛び立ったことが分かったから、と説明した。
 ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、それを見られて安心した、と。いつもの夢なら、独りぼっちで泣きじゃくるけれど、ハーレイも無事だと分かったお蔭で泣かずに済んだ、と。
「ホントだよ? ちゃんとシャングリラが見えたから…」
 シャングリラなんだ、って分かる光だったから、泣いたりしないでホッとしてたよ。ハーレイもあの船に乗っているから、みんなと地球まで行くんだよね、って。
 ぼくは一緒に行けないけれども、みんなが無事ならそれでいい、って…。
 シャングリラは飛んで行っちゃったけれど、光を見ながらお祈りしてた。夢の中でね。
「…あんな所から見えたのか、それが?」
 お前が夢に見るってことはだ、今日まで忘れてしまってただけで、見えていたのか?
 もちろん肉眼じゃ見えないだろうが、サイオンの目では見えていたとか…?
「見えなかったよ、そんな力が残っていたわけがないじゃない」
 メギドからシャングリラを探せるほどなら、前のぼくは生きて戻っていたよ。
 大怪我をしてても、シャングリラまで。…ジョミーを呼んで、途中まで迎えに来て貰って。
 力は少しも残っていなくて、シャングリラが無事かどうかも知らないままで終わったけれど…。
 無事でいて欲しい、って思いながら死んだのが前のぼくなんだけど…。
 でもね、シャングリラを見送りたかった、って思ったんだよ。
 昨日の夜に、ハーレイの車を見送った後で。
 お風呂に入って、それから暫く起きていて…。窓の外もちょっぴり眺めたりして。
 ハーレイが車で帰って行く時は、テールライトが見えるから…。じきに見えなくなるけどね。
 シャングリラだって、後ろから見たらエンジンとかの光、テールライトに見えるでしょ?
 それを見送りたかったな、って考えちゃって…。
 メギドで独りぼっちになっても、シャングリラの光が見えていたなら良かったかも、って。
 だって、みんなが乗ってる船だよ?
 シャングリラなんだ、って見送ることが出来たら、前のぼく、泣かなかったかも、って…。
 でも、シャングリラは見えなかったし、前のぼくは悲しすぎたよね、って…。
 そう思ったから、ハーレイに甘えるつもりだったんだよ。…今日、会ったらね。



 色々と考えてしまったせいで夢を見ちゃった、と打ち明けた。
 メギドの悪夢は見たくないのに、メギドの夢を見てしまった、とも。夢の中身は、まるで違っていたけれど。独りぼっちで泣きじゃくりながら、死んでゆく夢ではなかったけれど。
「夢のぼく、やっぱり独りぼっちでいたけれど…。誰も側にはいなかったけれど…」
 それでも泣いていなかったんだよ、いつもの夢とは違ってね。
 右手が凍えて冷たい感じもしなかった。この話、さっきもしていたでしょ?
 同じように死んでしまう夢でも、シャングリラを見送ることが出来たら、幸せみたい。
 シャングリラがどんどん遠くなっていって、消えてしまうような夢でもね。
 夢の中のぼく、どうして平気だったのかな…?
 シャングリラはぼくを置いて行くのに、ぼくは一人で死んじゃうのに…。
 今のぼくが幸せに生きてるからかな、おんなじようにテールライトを見てても。
 ハーレイの車、帰って行っても、また来るもんね。
 テールライトが見えなくなっても、もうハーレイに会えなくなるってわけじゃないから。
 それと重なっちゃったのかな、と傾げた首。
 「夢の中のぼくは、今のぼくと重なっちゃってたかな?」と。
 夢にいたのは前の自分でも、今の自分の幸せな経験を何処かに持っていたのだろうか、と。
「そのせいだろうな、シャングリラは行ってしまうんだから」
 行ったきり二度と戻って来ないし、お前は独りぼっちのままだ。余計に寂しくなりそうだぞ。
 いや、前のお前なら、そうは思わなかったかもしれん。
 本当にシャングリラの光が見えていたなら、満足だったかもしれないな。
 前のお前は、今のお前よりも遥かに我慢強かった。…仲間たちのことが最優先で、自分のことはいつも後回しで。
 そのせいでメギドまで行っちまったんだ、仲間たちとシャングリラを守ろうとして。
 だからシャングリラの無事を知ったら、独りぼっちで死ぬ運命でも、幸せに思ったかもしれん。
 自分の役目を果たせたんだし、ミュウの未来が続いてゆくのを、その目で確かめたんだから。



 シャングリラの光が遠ざかってゆくなら、それは仲間たちが生き延びた証拠。メギドの劫火から無事に逃れて、ミュウの未来へと旅立った証。
 「前のお前なら、幸せな気持ちで見送ったかもしれないな」と話したハーレイなのだけれども。
 ふと曇ったのが鳶色の瞳。「俺は無理だな」と。
「…俺には、とても出来んだろう。遠ざかってゆく光を見送ることは」
 お前のようには出来ないな。…たとえ夢でも、俺には無理だ。
「え…?」
 ハーレイが見送る光ってなあに、何が無理なの?
「夢でも無理だと言っただろうが。今の俺じゃなくて、前の俺だな」
 前のお前がシャングリラが飛んで行くのを見なかったように、前の俺だって見ていない。
 シャングリラじゃなくて、前のお前だが…。
 お前がメギドへ飛んで行くのを、前の俺は見てはいないんだ。…青い光が遠ざかるのを。
 ジョミーの話じゃ、お前、消えちまったらしいしな?
 瞬間移動で行ってしまって、何処へ飛んだかも分からなかった。お前が行ってしまった方向。
 シャングリラのレーダーに映っていた点、その内の一つが消えてしまって、それっきりだ。
 次にお前が現れた場所は、もうレーダーでは捉えられない所になっていたんだろう。
 お前がそれを意図していたのか、そうじゃないのかは分からんが…。
 青い光に包まれたお前が飛んで行くのを、もしも肉眼で見ていたら…。
 レーダーに映った点にしたって、そいつがどんどん遠くなっていって、消えちまったら…。



 きっと一生、悔やみ続けた、とハーレイの手が伸びて来て握られた右手。
 今日の夢では凍えていないし、「温めてよ」と頼んだわけではないというのに。甘える予定も、夢のお蔭で変わったと伝えた筈なのに。
 けれどハーレイは褐色の両手で、右手をすっぽりと包んでいるから…。
「…なんでハーレイは見送れないの?」
 前のぼくが飛んで行く姿を。…肉眼でも、それにレーダーでも。
 見送りたかった、って言うんだったら分かるけれども、その逆だなんて…。
 前のぼくは其処まで考えてないし、飛べるだけの距離を稼ぎたくって瞬間移動したんだけれど。
 どうしてそんなことを言うの、とハーレイの顔を見詰めたら…。
「いいか、見送ったら、お前を失くしてしまうんだぞ?」
 俺が見ている青い光は、二度と戻って来やしない。…お前はそのために行ったんだから。
 青い光が見えなくなったら、お前とはもうお別れだ。レーダーから影が消えた時にも。
 前のお前が見送りたかったシャングリラには、ちゃんと未来があるだろう?
 お前が見ていた夢の中でも、現実に起こった出来事でもな。シャングリラは無事に地球まで辿り着いたし、消えてしまいやしなかった。沈んだりしないで、未来があった。
 しかし、お前にはそいつが無いんだ。…メギドに向かって飛ぶお前には。
 未来なんか無くて、死んじまうだけだ。俺から遠くなればなるほど。
 そうなることが分かっているのに、俺が見送れると思うのか…?
「あ…!」
 ホントだ、前のぼくとシャングリラだったら、まるで逆様…。
 おんなじように消えて行っても、遠くなっていく光でも…。
 前のぼくだと本当に消えて、戻って来ない光だものね…。シャングリラの光は宇宙に消えても、別の所へ旅をしてゆくだけなんだけれど…。
 全然違うよ、どっちも遠くなる光だけれど。
 前のハーレイがぼくを見送れないのは、前のぼくは戻って来ないから…。



 それで「無理だ」と言ったのか、と分かったハーレイの言葉の理由。ハーレイの胸にある思い。
 もしも戻って来ないのだったら、テールライトは見送れない。
 今のハーレイが乗っている車、それの光が消えて行ったら、もうお別れだと言うのなら。二度とハーレイに会えはしなくて、テールライトが見えなくなった時が別れの瞬間ならば。
(…お別れなんだ、って分かっていたって、見送れないよ…)
 テールライトが見えなくなったら、別れを思い知らされるから。あまりにも悲しすぎる別れを、現実を目の前に突き付けられてしまうから。
 さよならと一緒に「またね」があるから、見送れる車のテールライト。「また来てね」と大きく手を振りながら。テールライトが見えなくなるまで、車が行ってしまうまで。
 メギドでシャングリラを見送る夢だって、多分、同じこと。
 また見ることは叶わなくても、シャングリラは未来がある船だから。夢も希望も乗っている船、別れた途端に消えてしまいはしないから。
「そっか…。ぼく、あんな夢まで見ちゃったから…」
 テールライトを見送ることって、幸せなんだと思ったのに…。
 さよならの光でも、幸せな光。見送っていたら、心が温かくなる光。ちょっぴり寂しい気持ちがしたって、見られないよりもずっといいよね、って…。
 でも…。
 そうじゃない時もあるんだね。…前のハーレイだと、幸せどころか悲しいだけの光だから。
 見られない方が良かったんだ、って今でも思うほどだから…。前のぼくが飛んで行った時の光。
「まあな…。前の俺にはな」
 今の時代だと、チビのお前が思う通りに幸せな光になるんだろうが。…余程でなければ。
「ホント?」
「考えてもみろ、「またな」と嘘をついたりすることはないだろう?」
 俺が「またな」と帰った時には、ちゃんとまた会いに来るんだし…。
 誰だってそういう具合だろうが、俺に限らず。



 遠くへ旅立つ宇宙船だって、とハーレイが優しく撫でてくれた右手。「お前の手だな」と。
「前の俺はお前を失くしちまったが、お前でさえも帰って来たんだ。俺の所へ」
 今はそういう時代なんだぞ、
すっかり平和で戦いも何も無い時代。
 技術もずいぶん進んだんだし、どんなに遠くへ行った船でも、いつかは帰って来るもんだ。前の俺たちが生きた頃だと、行ったきりになる船も珍しくはなかったが…。
 戻って来たって、乗組員が世代交代しちまってるとか。人類だけに、年を取り過ぎちまって。
 しかし今だと、そういうことは起こらないから…。
 他の星へ移住するんです、と引越したヤツも、それっきりにはならないだろう?
 郵便も届けば、通信だってあるからな。直接会える機会は少なくなっちまっても。
「そうだね…!」
 宙港とかまで見送りに行っても、飛んで行く船、ちゃんと帰って来るものね…。
 乗って行った人が次の便には乗ってなくても、「またね」って約束したらいつかは会えるもの。
 会えないままになったりしないよ、何年か会えずに待つってことはあってもね。
 パパやママの友達だってそうだもの、と頷いた。遠い星へと引越して行った知り合いの人。
 「あの船だな」と父が夜空を指差したことも何度かあった。友達が乗っている船だ、と。
 消えてゆく光を父と一緒に見上げたけれども、友達はまた会いに来た。宇宙船に乗って、他所の星から。「大きくなったな」と頭を撫でてくれたりもして。



 そういうものか、と納得した今の時代のこと。今は悲しいテールライトは無いらしい。
 ハーレイが「俺は無理だな」と夢に見るのさえ嫌がったような、遠ざかって消えてゆく光は。
 二度と戻れない場所へ向かって、真っ直ぐに飛んでゆく光は。
 平和な時代になったんだね、と考えていたら、ハーレイが右手を返してくれた。「お前のだ」と優しい笑みを浮かべて。
「今日のお前は、温めなくてもいいらしいしな? メギドの夢を見たくせに」
 俺の方が逆に欲しがっちまった、お前の手を。…前のお前を思い出したら、不安になって。
 前のお前がメギドへ飛んで行く時の光、夢でも見たくはないからなあ…。
 それでだ、今のお前の場合は、テールライトが好きなのか?
 俺の車を見送った後で、色々と考え事をして、ついでに泣いてたようだがな…?
「…泣いてたのは、前のぼくのことを考えてたからで…」
 前のぼく、可哀相だったよね、って。…シャングリラを見送れなかったから。
 夢でシャングリラを見送ったぼくは、いつもの夢よりずっと幸せだったんだけど…。
 今のぼくは寂しいよ、テールライトは。「またね」の光で、また会えても。
 ハーレイの車を見送るだけで、一緒に帰れないんだから。
「なるほどなあ…。また会えるんだと分かっていたって、寂しい光に見えるってことか」
 しかしだ、今は無理でも、いつかはお前も俺と一緒に帰れるんだぞ?
 何処へ出掛けても俺の車で、俺の隣に座ってな。…テールライトを見送る代わりに。
 その日を楽しみにしていちゃどうだ?
 いつかはアレに乗るんだから、と思っていれば、幸せな光に見えて来そうだぞ。
 何事も気の持ちようだってな、テールライトをどう思うかも。
「前のぼくなら出来そうだけれど、今のぼくは強くないんだよ!」
 シャングリラの光を夢で見送って、幸せだったぼくみたいには…!
 あんな風に強くなれやしないよ、今のぼくはうんと弱虫になってしまったもの…!
 だからね…。



 今日はゆっくりしていってね、と立ち上がって回り込んだテーブル。ハーレイが座る、向かい側へと。椅子の後ろから両手を回して抱き付いた。
 「テールライトは遅いほどいいよ」と。
 遠くなるのはゆっくりでいいと、うんとゆっくり走らせて、と。
「ゆっくり走れば、見えなくなるまでの時間が少しは長くなるでしょ?」
 だからお願い、テールライトが遠くなるのを遅くしてよね。
「おいおい、今日は天気がいいから、俺は車じゃないんだが?」
 此処まで歩いて来ちまったんだし、テールライトを遅くするも何も…。
 そいつは出来ない相談で…、とハーレイは苦笑しているけれど。譲る気持ちなど全く無いから、車で来てはいない恋人に出した注文。
「じゃあ、帰る時はゆっくり歩いて!」
 ハーレイ、歩くの、速いんだもの…。大股でぐんぐん行っちゃうから。
「ゆっくりか…。俺が覚えていたならな」
 帰る時まで覚えていたなら、注文通りに歩いてやろう。ちょっと遅めに。
「約束だよ?」
 ぼくも約束、忘れないから、ハーレイもちゃんと覚えておいて。今日の帰りはゆっくりだよ!
 メギドの夢まで見ちゃった日だから、と大きな身体に甘えて約束。「絶対だよ?」と。
 いくら幸せな部分があっても、遠ざかってゆくテールライトは、やっぱり何処か寂しいから。
 見送れる強さを今の自分は持っていないから、甘えたくなる。
 早く一緒に帰れるようになりたいから。
 ハーレイの車のテールライトを見送るよりかは、同じ車で帰りたいから…。



            テールライト・了

※前のブルーには見送れなかった、ナスカを離れてゆくシャングリラが遠ざかってゆく光。
 もしも見ることが出来ていたなら、きっと満足だったのでしょう。自分の務めを全て終えて。
 パソコンが壊れたため、実際のUPが2月10日になったことをお詫びいたします。
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