シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「んー…」
上手く描けない、とハーレイの向かいでブルーがついた溜息。
今日は土曜日、ブルーの家を訪ねて来たのだけれど。午前中から二人で過ごしたブルーの部屋。其処で昼食、出て来た料理はオムライス。
それを食べようとしていた所で、ブルーの手にはケチャップの容器。オムライスにケチャップで描こうとした絵。「ぼくとハーレイは、ウサギのカップルなんだから」と。
つまりウサギを描きたかったらしい。ブルーも自分もウサギ年の生まれで、ウサギのカップル。
「…それがウサギってか?」
ウサギの顔の筈だよな、と眺めたブルーのオムライスの上。下手な落書きにしか見えない絵。
「やっぱり変?」
耳も口も上手くいかないよ、とブルーも残念そう。「これじゃウサギに見えないよね」と。
「ウサギなあ…。描くなら、こうだな」
まずは顔から耳を生やして、とケチャップで描いてゆくウサギの輪郭。クルンと引いて、二本の耳も。ウサギの顔の形が出来たら、お次は目。つぶらな瞳をケチャップで丸く。
(…でもって、鼻をこう描いて、と…)
チョンと絞り出してやったケチャップ。鼻が出来たら、ウサギらしい口も。
そうやって器用に描き上げたウサギ。「俺ならこうだ」と。
「ハーレイ、凄い!」
ぼくのウサギと全然違うよ、ホントにウサギ。凄く上手いね、ケチャップの絵。
「なあに、ケーキのデコレーションの要領だってな」
ウサギくらいは簡単だぞ。お前、ケーキ作りは手伝わないのか?
どうなんだ、と尋ねてみたら、口ごもったブルー。
「…ママが作ってるの、たまに手伝うけど、飾りの方は…」
やってないんだよ、小さい頃に何度も失敗したから。模様を描くのも、絞るだけのも。
薔薇の花びらを作る練習とかも、ママと一緒にやったんだけどね…。
ちっとも上手くいかなかった、とブルーは小さく肩を竦めた。「だから飾りは手伝わない」と。
ケーキ作りを手伝った時も、デコレーションは母に任せているらしい。今のブルーなら、手先も器用になっただろうに、お任せのまま。それでは上手になるわけがない。
デコレーションの方はもちろん、ケチャップで絵を描くことも。どちらも要領は同じだから。
「やってないのか、デコレーション…。それなら下手でも仕方ないな」
こいつも一種の修行だから。…経験ってヤツがものを言うんだ、ケチャップの絵も。
修行を積まないと上手く描けんぞ、と指差したブルーのオムライス。「そうなっちまう」と。
「分かった、頑張る…!」
練習するよ、とブルーが握ったケチャップの容器。もう一度絵を描くつもりで。
「おいおい、ケチャップまみれになるぞ。せっかくの美味いオムライスが」
味だって台無しになるじゃないか、とブルーを止めた。適量だからこそ、美味しいケチャップ。
「でも、練習…」
練習しないと上手くならない、って言ったの、ハーレイじゃない!
だから練習したいのに…。ケチャップで上手に絵を描く練習。
「またにしておけ、お母さんにも失礼だろうが」
食べ始めてから胡椒を振るとか、ケチャップを少し増やすとか…。そういうのならいいんだが。
自分の好みの味にするのは問題無い。だが、一口も食べない間に入れるというのは失礼だ。
マナー違反だぞ、「お好みでどうぞ」と勧められても、食べる前なら控えめにだ。
今からケチャップを増やしちゃいかん。練習は次の機会にだな。
ケチャップで模様を描ける料理が出た時にしろ、とテーブルに置かせたケチャップの容器。
「うー…」
ホントに練習したかったのに…。ハーレイだって、修行を積めって言ったのに…。
今から描いたら、練習、一回出来るんだけどな…。
駄目だなんて、とガッカリしたブルー。「こんなのじゃ上手くならないよ」と。
オムライスを頬張り始めた後にも、食べながらチラチラとケチャップの容器を見たりしている。目の端の方で、「あそこにケチャップ…」と未練がましく。
(…また描き始めるんじゃなかろうな?)
まだケチャップがついていないトコとか、皿とかに、と心配になってくるくらい。ケチャップで絵を描きたいブルーは、まだまだ未練たっぷりだから。…ケチャップ修行に。
やろうとしたら止めないと、と考えていたら、不意に頭を掠めた記憶。赤いケチャップ。
(ケチャップだと…?)
遠く遥かな時の彼方から来た記憶。前のブルーと、それにケチャップ。
まるで繋がりそうもないのに、何故、と首を捻るよりも先に気が付いた。そのままだった、と。
前のブルーもケチャップで絵を描いていたもの。朝食がオムレツだった時には。
白いシャングリラでの朝の習慣。青の間で食べた、ソルジャーとキャプテンとしての朝食。係にオムレツを注文したら、ブルーはケチャップで絵を描こうとした。描きたい気分になった朝には。
「…お前、今も昔も変わらんなあ…」
そう口にすると、キョトンとしたブルー。オムライスを掬ったスプーンを持って。
「変わらないって…。何が?」
今も昔も、って言うんだったら、前のぼくでしょ?
いったい何が変わらないの、とブルーはオムライスを頬張った。パクンとそれは美味しそうに。
「オムライスではなかったんだが…。ケチャップで絵を描いていただろ」
青の間でもよく描いてたもんだが、それよりも前も。…白い鯨になる前の船で。
食堂でケチャップを使う場面があったら、お前、描こうとしてたんだ。
「ああ…!」
ホントだ、ケチャップ…。前のぼくもケチャップで描いていたっけ、色々なものに。
青の間だったら、朝のオムレツだったよね。
思い出した、と煌めいたブルーの瞳。「前のぼく、あれが好きだったよ」と。
「ケチャップで描くの、気に入ってたけど…。誰が教えてくれたんだっけ?」
アルタミラの檻で生きてた頃には、ケチャップの絵なんか描けるわけがないし…。
子供の頃の記憶は失くしちゃったし、覚えていそうにないんだけれど…。描いてたとしても。
だから誰かに教わった筈、とブルーの記憶はまだ中途半端。曖昧な部分があるらしい。
「お前に教えたのは、前の俺だな。こうして食べると面白いぞ、と」
まだ厨房にいた頃だから…。ずいぶんと古い話だってな。
俺もケチャップで絵を描いたという記憶は、まるで残っていなかったんだが…。
思い付いたんだ、と指で示したケチャップの容器。「前の俺がこいつを見ていた時に」と。
名前だけは「シャングリラ」と立派だった船。
其処の厨房で料理をしていた時代に、ふと閃いたのがケチャップの容器の使い方。赤いトマトを煮詰めて作った、ケチャップを絞り出せるから…。
(上手く使えば、絵が描けそうだと思ったんだよな)
ケーキなどに使うデコレーション。…ケーキは作っていなかったけれど、データベースで料理を色々と調べる間に、そういう知識も仕入れていた。「絞り出したら、絵が描ける」こと。
それを生かして、ただケチャップを塗るよりは、とブルーの料理の上に書いてやった。ブルーの名前を、赤いケチャップで。
最初はそれだ、と教えてやったら、ブルーの記憶も戻って来た。「そうだっけね」と。
「ハーレイが書いてくれたんだっけ…。ぼくの名前を」
嬉しかったんだよ、このお皿の料理はぼくだけの、って気分になって。…誰も取らないけど。
でもね、名前が書いてあるだけで、特別な気分がするじゃない。
「お前、はしゃいでいたからなあ…。あれで気に入って、次から色々リクエストして…」
他にも何か描いて欲しい、と俺に注文したもんだ。いわゆるケチャップのデコレーションを。
文字だけじゃなくて、絵も描いてくれ、と。…その内に自分で描き始めたが。
「楽しそうだし、自分でもやりたくなってくるもの」
すっかりぼくのお気に入りだよ、ケチャップで何か描くってこと。…字とか、絵だとか。
前のブルーが描いていたケチャップの絵や、文字やら。上手く描けたら、大喜びで眺めていた。
ソルジャーの尊称がついた後にも、せっせと描いていたブルー。
白い鯨になる前の船でも、青の間でも。ケチャップで絵を描ける料理があったら、絵を描こうと思い立ったなら。
ケチャップはいつも船にあったし、描くのは好きに出来たのだけれど…。
(待てよ…?)
そのケチャップで、心に引っ掛かったこと。「合成品」と。
(合成品のトマトケチャップなら…)
白い鯨が完成してから、暫くの間、作っていた。自給自足で生きてゆく船を目指したけれども、栽培が軌道に乗ってくれるまでの期間は、トマトが足りなかったから。
もちろんトマトは採れたのだけれど、形を残したい料理の方に優先的に回すもの。形が無くても問題無いなら、合成品を使っていた。トマトケチャップや、トマトペーストならば合成品。
(だよなあ…?)
合成品のトマトと言ったら、あの時期だけだった筈なんだが、と思うのにまだ引っ掛かる。一時しのぎにと作られていた、合成品のトマトケチャップが。
ほんの短い間だけだった、合成品のトマトケチャップ。白い鯨になった直後の一時期だけ。
トマトの栽培は至って簡単なもので、充分な量の苗を育てられるようになったら、合成品は姿を消した。本物のトマトが次から次へと実る船では、もう必要が無かったから。
あったことすら忘れていたほどの、合成品のトマトケチャップ。
なのにどうして引っ掛かるのか、自分でもまるで分からない。相手はただのトマトケチャップ。
(何故だ…?)
合成だろうが、本物だろうが、見た目では区別がつかなかった出来。
それに不味くもなかったわけだし、キャプテンとしては及第点を出せる代物。ずっと合成品しか無かったのなら「駄目だ」と切り捨てるけれど。「ケチャップも作れない船だった」と。
トマトの栽培に失敗していれば、そういう結末。ケチャップの原料に回せるだけのトマトが無い船、なんとも情けないシャングリラ。自給自足を謳っていたって、合成品が出回る船。
けれども、そうはならなかったし、何の問題も無かった筈。…トマトケチャップに関しては。
いったい何処が引っ掛かるんだ、と捻った首。「あれで良かった筈なんだが」と。
トマトが沢山採れない間は、合成品を使うこと。きちんと会議にかけて決めたし、事前に試食もしていたほど。皆が「不味い」と言い出さないよう、船の改造を始める前から。
(分からんな…)
まるで謎だ、とオムライスを口に突っ込んでみても分からない。ケチャップの味も、記憶の鍵を運んで来てはくれない。「合成品でも、充分こういう味だったよな」と思う程度で。
「…ハーレイ、どうかした?」
何か気になることでもあるの、とブルーに訊かれた。「急に黙って、どうしちゃったの?」と。
「すまん、つい…。合成品のトマトが気になってだな…」
待て、それだ!
合成のトマトが問題だったんだ、と蘇った記憶。言葉に出したら、遠い記憶の海の底から。
「何の話?」
合成品のトマトって…、とブルーは怪訝そうな顔。ブルーにとっても、合成品のトマトと言えば一時しのぎの物だろう。ほんの一時期、白い鯨で作られただけの。
けれど…。
「ナスカだ。あそこで起こっちまった対立…」
古い世代と、ナスカにこだわった若い世代と。あの対立が激しくなった原因…。
元はトマトだ、と瞠った目。
あれから目に見えてこじれ始めた、と思い出した出来事。トマトと、合成品のトマトと。
「トマト…。ナスカでも採れた野菜だよね?」
前のぼくは食べ損なったんだけど、とブルーの赤い瞳が瞬く。古い世代はナスカの野菜を嫌っていたから、前のブルーにも供されなかった。十五年もの長い眠りから覚めても、当然のように。
「うむ。あの星の最初の収穫だった」
トマトとキュウリと、タマネギにニンジン。
それを籠に入れて、「受け取って下さい」とルリが差し出したっけな、ジョミーに。
ナスカで最初の収穫です、と嬉しそうな顔で。
ジョミーはトマトに齧り付いてだ、「美味しい! 太陽の味がする」と言ったんだが…。
同じトマトを、ゼルがだな…。
齧るなり床に叩き付けた、とブルーに話した。「この話、前にもしたんだが…」と。
「だが、あの時はトマトの話だけでだ…。問題の根はもっと深かったんだ」
やっと思い出した、今になってな。ゼルが怒って怒鳴った言葉が、実に厄介だったこと。
ゼルはトマトを叩き付けるなり、こう言ったんだ。「こんな臭い物が食えるか」と。
合成の方がまだマシだ、とな。
「…それって酷い…」
みんなが頑張って作ったトマトを捨てちゃうなんて。…味に文句をつけるだなんて。
それで対立しないわけがないよ、若い世代を頭から否定したんだから。
「ゼルがやったことも酷いんだが…。褒められたことじゃなかったんだが…」
言葉の方がもっと酷かった。…結果的には、そうなったんだ。
あれで誤解が生まれちまった、「合成の方がマシだ」と言ったモンだから。
「…どういう意味?」
誤解って、とブルーはオムライスを頬張りながら尋ねた。「いったい何が誤解されたの?」と。
ゼルがトマトを投げ捨てただけで充分酷いし、誤解も何も、とブルーは言うのだけれど。
「そのトマトだ。…お前、合成トマトなんかがあると思うか?」
あったと思うか、と言い換えてもいい。トマトそのものの形をしていた、合成品のトマト。
そんな代物、あのシャングリラに存在してたか、ほんの一時期だけにしたって…?
「トマトの形の合成品って…。あるわけないでしょ、そんなヘンテコなもの」
白い鯨に改造した後、トマトが充分採れなくっても、丸ごとの形で合成したりはしなかったよ。
足りなかった時は、本物のトマトは無しで、合成品のケチャップとかトマトペーストの出番。
そういうので出来る料理を作っていたでしょ、「トマトは暫く我慢してくれ」って。
農場でトマトが採れ始めるまでは、トマト風味のお料理で我慢。
みんな分かってくれていたから、文句を言う人は誰もいなかったよ。
白い鯨で丸ごとのトマトが出て来た時には、いつも本物。…太陽の味はしなくってもね。
人工の照明で育てたものでも、トマトはトマト、と答えたブルー。トマトの形の合成品などは、一度も作っていなかった、と。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物のトマトは船でも作れたんだから」
最初の間は量が足りなくて、ケチャップとかを合成したけれど…。丸ごとのトマトは本物だけ。
合成のトマトなんかは作っていないよ、作ろうって話も出なかったけれど…?
「そうなんだが…。其処の所を誤解したのが若いヤツらだ」
合成トマトケチャップがあった時代を知らなかったからな、若い連中は。
シャングリラにもトマトはちゃんとあるのに、「合成の方がマシだ」と言われちまったんだぞ?
ゼルにしてみれば、合成ケチャップのトマトの方が、という意味なんだが…。
それを知らないヤツらが聞いたら、どういう意味に取れると思う?
「…言いがかりにしか聞こえないよね?」
シャングリラのトマトよりも、ずっと酷い味。…合成した方がマシなくらいだ、って。
合成品のトマトは作ってないけど、こんなトマトより、それを開発した方がマシ、って言われてしまったみたい…。お話にならない味のトマトだ、って。
「そういうこった。…若いヤツらは、その通りの意味に受け取ったんだ」
お前が言った通りにな。ありもしない合成のトマトの方がマシだ、と罵倒されたと考えた。
話はたちまち広がっちまって、対立が酷くなる切っ掛けになっちまったんだ。
俺も事情を把握してはいたが、あえて説明しなかったから…。ゼルの言葉の本当の意味。
「なんで?」
教えてあげれば良かったのに、とブルーは不思議そうだけれども。
「…自分で歴史を紐解けば良かろう、と考えたんだ」
合成のトマトで腹を立てたなら、あの船に合成品が溢れていた時代を調べるがいい、と。
最初からトマトが充分にあったか、他の作物はどうだったのか。
コーヒーやチョコレートの代用品だったキャロブにしたって、初めの間は船には無かった。
あれはゼルの一言で来た植物だぞ、「子供たちに合成品のチョコレートを食べさせたくない」と言ってくれたお蔭で。
トマトの件で「合成の方がマシだ」と言ったのは、そのゼルだ。…白い鯨を作ったのも。
合成トマトを切っ掛けにして、色々なことを知ってくれればいい、と思ったんだが…。
馬鹿な選択をしたもんだ、と零した溜息。オムライスの最後の一口をスプーンで頬張って。
「前の俺も、つくづく馬鹿だった。何に期待をしていたんだか…」
ナスカに夢中の若いヤツらが、シャングリラの過去を振り返るわけがないのにな。
古い世代に腹を立てていたなら、なおのことだ。
俺としたことが…、と皿に置いたスプーン。「御馳走様」と。
「それじゃ、みんなは誤解したまま?」
合成トマトの方がマシだ、ってゼルが悪口を言ったんだ、っていう風に。
ありもしない合成トマトなんかと比べられた、って酷い悪口だと思い込んだまま…?
そうだったの、とブルーが見上げてくる。オムライスを口に運びながら。
「恐らく、そうだったんだろう。…トマトの件は違うようだ、と噂が流れはしなかったから」
そしてゼルたちはナスカの野菜を酷く嫌って、食べることさえ無かったし…。
余計にこじれる一方だったというわけだな。若い世代と古い世代の対立ってヤツは。
「…ハーレイ、みんなに教えてあげれば良かったね。合成トマトは誤解なんだ、って」
ゼルだって言葉不足だよ。
合成のトマトケチャップの方がよっぽどマシだ、って言えば通じた筈なのに…。
それでもみんなは怒っただろうけど、言い返すことは出来たと思う。失礼な、ってね。
合成品なんかを作らなくても、これからはナスカで沢山のトマトが実るんだから、って…。
「そうだな、お前が言う通りかもしれないな…」
合成のトマトというのが何のことなのか、それだけでも皆に通じていたら…。
きちんと意味を把握していたら、同じ怒りでも別の方へと行っただろう。
合成品のケチャップよりも美味いケチャップ、そいつをナスカのトマトで作ってみせるとか。
「いつか作るから、それを食べてから文句を言え」と噛み付くだとか。
そうすりゃ、こじれはしなかったんだ。…対立したって、ライバル意識の塊ってだけで。
古い世代をいつか見返してやる、と前向きに努力するだけだから。
合成品よりも美味いナスカのケチャップが出来たかもな、と思い返さずにはいられない。対立の方向が違っていたなら、結果も違っていたのだろうに。
「あそこにヒルマンがいたならな…」
こじれずに済んでいたかもしれん。あの時、あいつが一緒だったら。
あいつだったら…、と思い浮かべた博識な友。皆が「教授」と呼んだくらいに。
「ヒルマン?」
騒ぎの時にはいなかったの?
初めての収穫をジョミーに渡そうっていう時なんだし、ヒルマンも一緒にいそうなのに…。
ハーレイたちの方じゃなくって、ルリたちの方に。…みんなヒルマンの教え子だから。
「カリナに子供が生まれるからなあ、準備で忙しかったんだ」
とうにナスカでの暮らしがメインで、其処はお前の読み通りだが…。
生憎、あの場にはいなかった。ノルディと二人で調べ物の最中だったか、育児環境を整える方で走り回っていたんだか…。
もしもヒルマンがゼルの言葉を聞いていたなら、その場で注意しただろう。ゼルに向かって。
「その言い回しは誤解される」と、「合成品はケチャップだっただろう」とな。
それだけで空気が変わったのになあ…。「なんだ、トマトじゃなかったのか」と。
「だけど、エラだっていたんでしょ?」
エラだってピンと来ていた筈だよ、ヒルマンみたいに。「これはマズイ」って。
「それがだな…。エラは、ヒルマンのように柔軟な考え方は持っていなかった」
ジョミーが自然出産を提案した時も、真っ先に反対したのがエラだ。それは倫理に反する、と。
そういう考え方なわけだし、ゼルがトマトを不味いと言ったら、同じ方に考えが行っただろう。
合成品のトマトケチャップがあった、と納得しちまっておしまいだ。
「あれよりも美味しくないらしい」と、ゼルの肩を持ってしまったわけだな。
合成品のケチャップを知らない若い世代が、言葉の意味を誤解するかも、とは考えないで。
「そっか…。そうなっちゃうかもね…」
エラはけっこう頑固だったし、ヒルマンみたいに子供たちと過ごしたわけでもないし…。
気が付かないままになっちゃいそうだね、合成品のケチャップとトマトの違いに。
そんな所から亀裂が大きくなっただなんて、とブルーは悲しげな顔でオムライスの残りを綺麗に食べた。「御馳走様」とスプーンも置いて、ケチャップの容器をチラと眺めて…。
「…合成品のケチャップ、ほんの少しの間だけしか無かったのにね…」
そのケチャップのせいで、とんでもないことになっちゃった。
若い仲間は知らなかったから。…トマトは船で沢山採れてて、ケチャップも本物だったから。
前のぼくが目を覚ましていたなら、みんなの誤解に気が付いたのに…。
「だろうな、お前の所にも俺が報告に行っただろうし…」
合成トマトの件はきちんと皆に説明したのか、と俺に訊いたんだろうな、前のお前は。
「そう。最初はゼルを呼び出して叱るんだろうけど…」
トマトを投げ捨てたことだけ叱って、それでおしまいだろうけど。
ゼルがみんなに言った言葉は知らないんだから、合成トマトなんて思いもしないよ。
でも、対立が酷くなったなら…。
ナスカの様子も青の間から思念で探り始めるから、誤解にだって気が付くってば。
合成のトマトなんだと勘違いをして、みんなが怒り始めたことにね。
前のぼくなら誤解なんだって分かったけれども、ジョミーじゃ、其処まで無理だったよね…。
「…ジョミーが知らなかったからなあ、合成トマトの正体を」
船に来た時は、普通のケチャップだったんだから。…トマトペーストも本物だったし、気付けと言う方が無理ってモンだ。
ずっと昔は本当に合成品のトマトがあって、そいつはケチャップやペーストなんかのトマト味。それで料理を作ってたなんて、ジョミーに分かるわけがない。
いくらソルジャーを継いだとはいえ、あれはソルジャーとして必要な知識じゃないからな。
「…ジョミー、何だと思っていたんだろう?」
ゼルがナスカのトマトよりマシだ、って言った合成のトマト。
ジョミーも一緒に聞いていたんだし、若い仲間たちと同じように誤解したのかな…?
「まず間違いなく、そのコースだな。ゼルの悪口で嫌がらせだと」
まさか本当に合成トマトが存在したとは、ジョミーは全く知らないんだし…。
俺も教えはしなかったからな、若いヤツらに種明かしをしてはいかんと思って。
ジョミーが答えを知っていたんじゃ、誰も勉強しやしない。シャングリラの歴史というヤツを。
教えておけば良かったんだがな…、と後悔しても、もう戻せない時。ゼルの言葉に端を発した、若い世代の合成トマトへの誤解。
元を辿れば、白い鯨が完成した後、一時しのぎに作られたトマト味をした合成品。トマトの形もしていないかった物で、ケチャップやトマトペーストのこと。トマト風味になるように、と。
「…俺も本当に馬鹿だったよなあ…」
合成トマトの正体ってヤツを早めにバラしておいたら、派手にこじれはしなかったのに。
若いヤツらが過去を勉強しないことにしたって、よく考えれば気付けたのにな。
失敗だった、と広げた両手。「今頃になってぼやいてみたって、とうに手遅れなんだがな」と。
「ナスカも、ナスカで出来たトマトも、とっくに無いしね…」
ホントに怖いね、誤解って…。合成トマトは、ケチャップとかのことだったのに。
ケチャップなんだって分かっていたなら、若い仲間も考え方が違っていたと思うよ。当たり前のように船で食べてたケチャップ、それで苦労した時代も昔はあったんだ、ってね。
「まったくだ。…古い世代の苦労を知ったら、ヤツらも変わっていただろう」
俺はそいつを狙ったわけだが、結果的には大失敗だ。学ぶどころか、対立が酷くなる一方で。
挙句にヤツらがナスカに残って、逃げようとしなかったモンだから…。
そうなったせいで、前のお前を失くしちまう羽目に陥ったのかと思うとな…。
「全部トマトのせいだ、って?」
ナスカで大勢の仲間が死んじゃったのも、前のぼくがメギドに行ったのも。
「そうなるのかもしれないなあ…。元は一個のトマトだった、と」
ゼルが齧って、臭いと投げ捨てちまったトマト。
あれが全ての元凶かもなあ、トマトに罪は無いんだが…。
ついでに合成トマトの方にも、罪は全く無いってな。あれは大いに役立ったから。
白い鯨で充分な量のトマトが採れ始めるまで、あれで色々な料理を作れた。合成ケチャップと、合成トマトペーストと。
あれが無かったら、もっと不満が出ていたろう。トマトベースの料理はけっこう多いんだから。
しかしだな…。
合成トマトが一人歩きをしちまった、と眺めたケチャップの容器。
遠い昔にゼルが言い放った、「合成のトマトの方がマシだ」という言葉。合成のトマトの正体は丸ごとのトマトではなくて、ケチャップやトマトペーストだったのに。
若い仲間がその正体に気付いてくれたら、全ては変わっていた筈なのに…。
「…俺は合成ケチャップのせいで、前のお前を失くしたのか…?」
そうでなきゃ、たった一個のトマト。ゼルに合成トマトと言わせた、あのトマトのせいで。
どちらにも罪は無いんだがな、と零れた溜息。「ゼルもそこまで思っちゃいまい」と。
あの言葉を口にした時には。「合成のトマトの方がマシだ」と詰った時には、ゼルにも分かっていなかったろう。それがどういう結果を招くか、どんな悲劇を引き寄せるのか。
「いいじゃない、トマトでもケチャップでも」
原因がどっちだったにしたって、ぼくはハーレイの所に帰って来たよ?
それにケチャップで絵だって描けるよ、さっきウサギを描いていたでしょ?
オムライスにね、と微笑むブルーの皿の上には、もうスプーンだけ。ケチャップの絵はすっかり食べてしまって、何処にも残っていないから。
「ウサギの絵なあ…。上手く描けてはいなかったがな」
あの絵の何処がウサギなんだか、と苦笑するしかない今のブルーの腕前。前のブルーは、上手に色々描いていたのに。…食堂でも、それに青の間でも。
「前のぼくは上手だったんだけど…」
今よりもずっと上手に描けていたのに、あの腕、何処に行っちゃったのかな…?
「年季が違うというヤツだ。前のお前は、何年ケチャップで絵を描いたんだか…」
うんと修行を積んでいたしな、お前が敵うわけがない。十四年しか生きていないんだから。
そういや、ナスカでも描いたか、アレ?
前のお前が目覚めた後だな、飯は食ってたと聞いてるんだが…。
「えーっと…?」
ケチャップで絵を描いてたのか、っていうことだよね?
朝のオムレツとか、ケチャップで絵を描けそうな料理が出て来た時に…?
どうだったろう、と記憶を手繰り始めたブルーの瞳に滲んだ涙。微かに光った涙の粒は、直ぐに盛り上がって目から零れた。もう留まっていられなくて、頬を伝ってポロリと一粒。
「おい、どうした?」
いきなり泣いちまうなんて、とブルーの顔を覗き込んだら、また溢れ出した真珠の涙。
「…書いたんだよ…。絵じゃなくて、字を…」
前のぼく、最後にケチャップで、ハーレイの名前…。
「なんだって!?」
俺の名前か、と問い返したら、ポロポロと零れ続ける涙。前のブルーが泣いているかのように。
小さなブルーは溢れる涙を拭おうともせずに、涙交じりの声で続けた。
「メギドに行った日の朝御飯の時に、オムレツに書いていたんだよ…」
もうハーレイと朝御飯は食べられなかったから…。ハーレイ、忙しかったから。
こんなに上手に書けたよね、って一人で眺めて、それからオムレツ、食べたんだよ…。
ハーレイのことが好きだったよ、って…。名前もちゃんと綺麗に書ける、って。
「そうだったのか…」
すまん、朝飯には行くべきだった。…前のソルジャーでも、きちんと朝の報告に。
お前と朝飯を食うべきだったな、その時間ならあったんだ。俺だって飯は食うんだから。
「…ジョミーの所に行っていたんじゃないの?」
キャプテンはソルジャーと朝御飯を食べるものだったでしょ、とブルーは言うのだけれど。
「その習慣はもう無かったんだ。…ナスカの頃には、とっくにな」
ジョミーがソルジャーになった後にも、続けるべきだという声は多かったんだがな…。
肝心のジョミーが嫌がっちまって、それっきりだった。
つまり朝飯を食うためだったら、お前の所に行けたわけだな、堂々と。
目覚めたばかりの前のソルジャーに、色々なことを報告しに行くんだから。…前と同じに。
畜生、どうしてそいつを思い付かなかったんだか…。
お前と二人で過ごせた上に、ケチャップで書いてくれたっていう俺の名前も見られたのにな…。
俺としたことが、と前の自分の迂闊さがとても悔しいけれど。
オムレツにケチャップで字を書いていた前のブルーの心を思うと、悲しくてたまらないけれど。
「…ハーレイ、そんな顔をしないで」
ごめんね、とブルーがグイと拭った涙。「もう泣かないよ」と健気に笑んで。
「泣かないって…。しかし、お前は…」
前のお前は、朝飯の時まで独りぼっちで…。俺の名前をオムレツに書くくらいしか…。
せっかく上手に書いてみたって、俺はお前の側にいなくて…。
俺のせいだ、と詫びたけれども、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「ハーレイのせいなんかじゃないよ。…トマトのせいでもないし、合成トマトの方だって…」
ぼくが勝手に泣いちゃっただけで、それは前のぼくのことを思い出したから…。
オムレツにハーレイの名前を書いていたのが、ついさっきみたいな気がしちゃったから…。
でもね、ぼくなら大丈夫。
今はハーレイと一緒なんだし、幸せだから。こうして御飯も食べられるから…。
オムライス、すっかり食べちゃったけど。…お皿、空っぽになっちゃったけれど。
ぼくは平気、とブルーの涙は止まって笑顔に変わったから。
「そうだな、今度はこれから修行なんだな、ケチャップの絵は」
今のお前はウサギも描けない有様なんだし、前のお前の腕前までは遠そうだ。
頑張って腕を上げることだな、前のお前に負けないように。
コツコツと努力の積み重ねだぞ、とケチャップの容器を指差した。「練習あるのみ」と、日々の努力が大切だから、と。
「努力もいいけど…。またハーレイにコツを教わるよ」
今のぼくだと、朝御飯の時にハーレイの名前は書けないから…。
そんなの書いたら、パパやママが変に思うでしょ?
だから結婚してから修行、とブルーが浮かべた笑み。「今はまだ無理」と。
「ふうむ…。そういうことなら、いつかケーキ作りも一緒にするか?」
今のお前はデコレーションは下手くそらしいし、俺が一から教えてやるから。
「もちろんだよ!」
ハーレイと一緒にケーキを作るの、やりたいに決まっているじゃない…!
でも、その前に毎朝のケチャップからだね、とブルーは幸せそうだから。
「結婚したら、朝はオムレツにハーレイの名前なんだよ」と、ケチャップで書く気満々だから。
(…うん、今の俺たちには、ケチャップはだな…)
前と同じに絵を描いたりして楽しめるもの。オムレツやオムライスに、ウサギや文字を。
赤いケチャップで好きに描けるし、ブルーにコツも教えてやれる。
「こうだぞ」とケチャップの容器を手にして、手本を描いて。もっと上手になりたいブルーに、ケーキのデコレーションの技も伝授して。
(前のあいつより、ずっと上手になれるだろうなあ…)
綺麗にケーキを飾れるようになったなら。ケチャップの絵よりも難しい技を、ブルーがマスターしたならば。
きっとそうなるに決まっているから、合成トマトの悲しい誤解は、もう遠い過去でいいだろう。
前の自分が失くしたブルーは、ちゃんと帰って来てくれたから。
今度は地球で育ったトマトのケチャップ、それで二人で好きなように絵を描けるのだから…。
合成品のトマト・了
※ナスカで採れたトマトにゼルがぶつけた、「合成のトマトの方がマシ」という酷い言葉。
若い世代との対立を悪化させたそれは、誤解が原因。合成したのはケチャップだったのです。←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
学校の帰り道に、ブルーが出会った人。バス停から家まで歩く途中で。
顔馴染みの御主人で、家だって近い。でも、その家では犬を飼っていたろうか?
元気に挨拶したのだけれども、ついつい犬を見てしまう。御主人が握ったリードの先の。
「えっと、この犬…」
前からいたの、と訊いてみた。飼い始めたなら、母が教えてくれそうだから。子犬がいるとか、通ったら犬が座っていたとか。
「孫のだよ。預かってるんだ、旅行中でね」
ペットのホテルよりも犬は嬉しいだろう、と笑顔の御主人。好きな時間に散歩に行けるし、顔を知っている人の家でもあるし、と。
こうして話をしている間も、パタパタと尻尾を振っている犬。とても嬉しそうに。
犬には詳しくないのだけれど、多分、昔の日本の犬の一種。大きい犬だ、とは思わなかったし、柴犬という種類だろうか。茶色い毛皮で、ピンと立った耳。
「吠えないね」
ぼくを見たって、と見詰めた犬。散歩中の犬に近付きすぎたら、吠えることだって多いのに。
「人が好きなんだよ、撫でてみるかい?」
吠えないし、もちろん噛みもしないよ、と御主人が言ってくれたから。
「いいの?」
身体を屈めて撫でてみた背中。猫とは違った手触りだけれど、温かな身体。命の温もり。それにパタパタ振られる尻尾。ちぎれそうなほどに、右に左に。
御機嫌なのだ、と分かるのが尻尾。そうやってブンブン振られていたら。
顔を見たなら喜んでいると分かるけれども、それよりも分かりやすいのが尻尾。振られる尻尾は御機嫌な印、人に出会って振られる時は…。
(大好きの印…)
その人のことが大好きですよ、と尻尾を振って伝える犬。会えてとっても嬉しいです、と。
本当に人が好きなのだ、と尻尾のお蔭で分かるから。自分も好かれているようだから、御主人に尋ねることにした。今もパタパタ揺れている尻尾、それが気になってたまらない。
「尻尾、触ってみてもいい?」
嫌がられるわけじゃなかったら、と眺めた尻尾。きっと大事な尻尾だろうし、触られたら嫌かもしれないから。飼っている人なら大丈夫でも、会ったばかりの自分は駄目とか。
ちょっぴり心配だったのだけれど、「もちろんだよ」と答えた御主人。
「嫌がる犬もいるらしいけどね、触って貰うと喜ぶから」
どうぞ、と出して貰えたお許し。いきなり尻尾は失礼かな、と背中から撫でて、尻尾に触れた。そうっと、御機嫌そうな尻尾に。
(ちょっとだけ…)
引っ張るわけじゃないからね、と触った尻尾。犬は怒りはしなかった。代わりに尻尾がブンブン振られて、手にパタパタと当たったくらい。「もっと、もっと」と。
それが嬉しくて、暫く夢中で犬と遊んだ。背中を撫でたり、尻尾に触らせて貰ったり。御主人が犬を座らせてくれて、握手をさせて貰ったり。
いつまでも遊んでいたかったけれど、御主人も犬も散歩の途中。これから出掛ける所らしいし、あまり引き止めても悪いだろう。
(きっと沢山歩きたいよね?)
道端で止まって遊んでいるより、元気に散歩。公園に行くとか、他にも色々。
そう思ったから、「ありがとう」と御主人に告げたお別れ。「楽しかった」と頭を下げて。
さよなら、と手を振った時にも揺れていた尻尾。「また遊んでね」とパタパタと。学校の帰りに会った時には、また遊ぼうと。
御主人と一緒に歩き出しても、犬の尻尾は揺れたまま。「楽しかったね」と言うように。
初めて出会った、柴犬らしい茶色の犬。ご近所さんの家に、今だけいる犬。
(可愛かったな…)
小さい犬じゃなくても可愛いよ、と家に帰っても思い出す。おやつの間も、二階の部屋に戻った後も。なんて気のいい犬だったろうと、あんなに尻尾を振ってくれて、と。
勉強机の前に座って、楽しかった時間に思いを馳せた。初対面なのに、吠えたりしないで尻尾も触らせてくれた犬。うっかり名前を聞き忘れたほど、アッと言う間に仲良しになれた。
猫も好きだけれど、犬もいい。
さっきみたいに、尻尾で自分の気持ちを伝えてくれるから。嬉しい時にはブンブン振って。
(猫の尻尾は、ちょっぴり気取った感じ…)
犬とは全然違うよね、と考えてしまうのが猫たちの尻尾。しなやかな尻尾を得意そうに立てて、澄まし顔で歩いてゆく猫たち。
尻尾はピンと立てているもの、犬のようにパタパタ振ったりはしない。猫たちならば。
(怒った時には振っているけど…)
たまに見掛ける猫同士の喧嘩。道端とか、この家の庭とかで。
睨み合ったまま姿勢を低くして、右に左に振られる尻尾。不機嫌そうな声で唸りながら。尻尾を地面すれすれに振って、バサリ、バサリと音がするよう。
…ゆっくりと振るものだから。喧嘩の相手よりも自分が強い、と威嚇するために振る尻尾。
猫が尻尾を左右に振るのは、そういう時。普段はピンと立てているだけ、驚いた時は…。
(…尻尾、パンパンに膨らんじゃって…)
まるでブラシのようになる。怒った時にも、同じに膨らむ猫たちの尻尾。フーッと怒って、毛を逆立てて。身体中の毛が逆立ったならば、尻尾の毛だって逆立つから。
(犬でも猫でも、尻尾で分かるよ)
どういう気持ちか、眺めただけで。御機嫌なのか、不機嫌なのか。
仲間同士なら分かって当然、人間にだって通じる気持ち。「怒ってます」とか、「楽しいです」とか、尻尾の様子を見るだけで。
御機嫌でパタパタ振られる尻尾や、ションボリと垂れてしまった尻尾。それを見たなら、ピンとくる気持ち。まるで言葉が通じなくても。
便利だよね、と思った尻尾。犬や猫たちが持っている尻尾。仲間はもちろん、自分たちの言葉を知らない人間にだって、尻尾が気持ちを伝えてくれる。ブンブン振ったりするだけで。
(とっても便利に出来てるよね…)
ああいう風に、尻尾で気持ちを伝えられたら素敵なのに。犬や猫たちの尻尾みたいに、自分にも尻尾。今の自分はサイオンがとても不器用になって、思念波もろくに紡げないから…。
(代わりに尻尾…)
あったらいいな、と考えた尻尾。今の自分についていたなら、きっと尻尾は役に立つ。パタパタ振っていたならば。嬉しそうにブンブン揺れていたなら。
尻尾があったら、ハーレイも一目で分かってくれる。どんなに好きでたまらないのか、会えたら嬉しくてたまらないのか。
ハーレイに会ったら、パタパタ振られる自分の尻尾。帰り道に会った犬の尻尾みたいに。
(キスは駄目だ、って叱られたら…)
どれほどしょげてしまうのかだって、尻尾がハーレイに教えてくれる。
ついさっきまでパタパタ振られていたのが、ションボリとなって垂れ下がって。心そのままに、萎れた葉っぱみたいになって。
(…ホントに分かりやすいよね?)
ぼくの気持ち、と思う「尻尾がある」自分。言葉では上手く伝わらなくても、頼もしい尻尾。
それに尻尾は正直なのだし、嘘をついたりしないもの。心をそのまま映し出す鏡。
誰だってそれを知っているから、ハーレイにもきっと分かる筈。嬉しい気持ちも、悲しい気分も伝わる尻尾。
元気にパタパタ振られているのか、寂しそうに垂れてしまっているか。
見れば気持ちが分かるのが尻尾、思念波では伝えられなくても。…上手く言葉に出来なくても。
もしも尻尾を持っていたなら、今よりも素敵。そんな気分がしてくる尻尾。
とことん不器用になったサイオン、それの代わりに尻尾があったら便利なのに、と。
(尻尾、欲しいな…)
ぼくにも尻尾があればいいのに、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、問い掛けた。
「あのね、尻尾があったらいいと思わない?」
「はあ?」
尻尾って何だ、と怪訝そうなハーレイ。「俺に尻尾があるといいのか?」と。
「違うよ、尻尾が欲しいのは、ぼく…。尻尾は尻尾で、本物の尻尾」
動物って、尻尾を見れば気持ちが分かるでしょ?
喜んでるとか、ガッカリだとか、怒ってるのとかも、全部、尻尾に出ちゃってる。
犬とか猫が持ってる尻尾はそういう仕組みで、心の中身が表れるよね?
気持ちを伝えるためのもの、と説明したら、ハーレイも「そうだな」と頷いた。
「確かに尻尾は分かりやすいが、犬の尻尾が欲しいのか?」
犬の尻尾は、猫よりも分かりやすいしな。俺のお勧めは犬の尻尾だが…。
「ハーレイもやっぱり、そう思う? 猫より犬の尻尾がいい、って」
だけど欲しいのは、本物の犬の尻尾じゃなくって、猫の尻尾が欲しいわけでもなくて…。
ぼくに尻尾があったらいいな、って。
本当に本物のぼくの尻尾で、ぼくのお尻に生えてる尻尾。ちゃんと毛皮もくっついたヤツ。
尻尾があったら、思念波の代わりに直ぐに分かるよ。ぼくの気持ちがハーレイにもね。
ちょっと尻尾の方を見たなら、心の中身が丸ごと尻尾に出てるんだから。
ハーレイに会えて嬉しい気持ちも、ハーレイが好きでたまらないのも。
きっと今なら、ちぎれそうなくらいに振ってると思う。…ぼくに尻尾がついていたらね。
ハーレイが来てくれたから嬉しいんだもの、と言葉で伝えた自分の気持ち。
尻尾があったら、もうそれだけで伝わるのに。パタパタと振れば、直ぐに分かって貰えるのに。
「…こんな風に言葉にしなくてもいいよ、尻尾があれば」
ハーレイが尻尾を見てくれるだけで、ぼくの気持ちが分かるんだもの。
だから欲しいな、と話した尻尾。うんと不器用な思念波の代わりに、ぼくに尻尾、と。
「なるほどなあ…。そういう理由で尻尾が欲しい、と」
お前の気持ちは分からないでもないんだが…。
本物の尻尾を持つんだったら、お前の場合はウサギの尻尾になっちまうのか?
ウサギの尻尾か、と尋ねられたから、キョトンとした。質問の意味が掴めなくて。
「…ウサギ?」
どうしてウサギの尻尾になるわけ、ハーレイのお勧めの尻尾じゃないよ?
お勧めは犬の尻尾だって言っていなかった?
…ぼくにくっつける尻尾の話とは違ったけれど…。分かりやすい尻尾のことだったけれど。
心の中身を伝えやすいのは犬の尻尾なんでしょ、そうじゃないの?
猫よりも犬、と「俺のお勧めだ」と言われた尻尾を挙げたのだけれど。
「そいつは尻尾の分かりやすさで、お前の尻尾の話じゃないぞ」
お前が尻尾を持つんだったら、その方向で考えないとな。…お前に似合いそうな尻尾を。
それでウサギの尻尾なのかと訊いたんだ。
俺たちはウサギのカップルだからな、お互い、ウサギ年だから。
ついでにお前がチビだった頃は、ウサギになりたかったそうだし…。元気に走り回れるウサギ。
お前がウサギになっていたなら、俺も茶色のウサギになるって話をしてたと思うんだが…?
「そうだっけね! 白いウサギと茶色のウサギ…」
ぼくたちが一緒に暮らせるように、ハーレイが巣穴を広げてくれるんだっけ。ぼく用の巣穴だと狭すぎるから、もっと広くて立派な巣穴になるように。
それなら、ぼくが尻尾を貰うんだったら、ウサギの尻尾。
犬の尻尾よりも、ウサギの尻尾の方がピッタリ。…ぼくの姿は人間だけどね。
あれ?
でも、ウサギって…。
素敵な尻尾が見付かったよ、と思ったウサギの尻尾。自分らしくて、ハーレイもお勧め。
もしも尻尾をつけて貰えるなら
、断然、ウサギ、と考えたけれど。ウサギに決めた、と真っ白な尻尾を夢見たけれども、その尻尾。フワフワの毛皮のウサギの尻尾。
ウサギは尻尾をどう動かしているのだろう?
嬉しかったらパタパタ振るとか、ションボリしたら垂れ下がるとか。ウサギの尻尾は、そういう動きをしていたろうか…?
(…幼稚園の時、ウサギの小屋…)
お気に入りでいつも覗いていた。ウサギと友達になりたくて。友達になれたら、自分もウサギになれるだろうと考えて。
熱心に見ていたウサギだけれども、肝心の尻尾のことを知らない。ピョンピョン跳ね回っていたウサギたちは、尻尾で気持ちを伝えて来たりはしなかったから。
(…尻尾よりは、耳…)
ウサギの気持ちは耳で分かった。ピンと立てたり、神経質にピクピクさせていたりと。
嬉しい気持ちや悲しい気持ちを伝える時には、ウサギは耳を使ったろうか?
幼かった自分はそこまで観察しなかったけれど、尻尾の代わりに耳で表現していただとか。
(尻尾も使うかもだけど…)
人間にまでは通じない。ウサギ同士でしか分からないだろう、尻尾で表すウサギの気持ち。
これでは駄目だ、と気が付いた。
いくら自分に似合うとしても、ウサギの尻尾では気持ちが伝わらない。
誰よりもそれを知って欲しい人に、ハーレイに分かって貰えない。
ウサギが尻尾をどう動かしたら御機嫌なのか、ハーレイは知らないだろうから。ウサギの尻尾が欲しいと思った、自分だってまるで知らないから。
言葉を使って伝えなくても、思念波が駄目でも、自分の気持ちが伝わる尻尾。
欲しい尻尾はそういう尻尾で、ウサギの尻尾では話にならない。気持ちが伝わらないのでは。
「…ハーレイ、ウサギの尻尾は駄目だよ」
ウサギ年のぼくにはピッタリだけれど、素敵だと思ったんだけど…。
使えないよ、と小さな溜息。「ウサギの尻尾は、ちっとも役に立たないみたい」と。
「何故だ? お前に似合いそうだと思うんだが…」
真っ白でフワフワの尻尾だしなあ、犬よりもお前らしいぞ、ずっと。それに可愛いじゃないか。
ウサギの尻尾は何故駄目なんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「良く似合うのに」と。
「見た目は駄目じゃないんだけれど…。ウサギの尻尾、ぼくも好きだけど…」
でもね、ウサギが尻尾をどう動かすのか、ぼくは少しも知らないんだよ。
幼稚園の時に何度も見てたけれども、嬉しい時の動かし方とか、悲しい時の様子とか…。
どうなってたのか、ホントに知らない。耳の方なら、尻尾よりかは分かるけど。
普通の人はきっとそうだよ、ハーレイだって詳しくないでしょ?
ウサギの尻尾の動かし方、と言ったら「確かにな…」と苦笑したハーレイ。
「俺にもウサギの尻尾は分からん。見るなら耳だな、お前が正しい」
ウサギの尻尾は可愛らしくても、くっつける意味が無いってことか。お前の気持ちが伝わらない尻尾じゃ、ただの飾りになっちまうしな。
そうなってくると、犬の尻尾か、猫の尻尾になるんだろうが…。
お前に似合う尻尾となったら、どれなんだか…。ウサギがいいと思ったのになあ…。
ウサギの尻尾が駄目ってことはだ、何の尻尾が似合うんだろうな…?
犬にも猫にも、尻尾の種類は色々あるし…、と考え込んでいるハーレイ。腕組みまでして。
「俺のお勧めは犬なんだが…」と言っていたくせに、猫の尻尾も挙げてみている。長毛種の猫の尻尾もいいとか、シャム猫の尻尾も捨て難いとか。
「…チビのお前じゃ、シャム猫の尻尾は今一つ似合わないんだが…」
大きくなったら似合うと思うぞ、ああいう澄ました尻尾もな。とびきりの美人になるんだから。
フサフサの猫の尻尾も似合いそうだな、犬の尻尾も悪くはないが…。
猫もなかなか…、とハーレイの考えは「似合うかどうか」の方に傾いてゆくものだから。
「似合う尻尾が一番いいに決まっているけど、ウサギの尻尾は駄目だったでしょ?」
気持ちが伝わる尻尾でなくちゃ。…ぼくが言葉を使わなくても、思念波がまるで駄目でもね。
そういう尻尾、あったらホントに便利だろうと思わない?
ハーレイに会えて嬉しい時には、尻尾も御機嫌。ぼくが不機嫌なら、尻尾も不機嫌。
気持ちは尻尾が伝えてくれるわけだから…。
ハーレイがキスを断った時も、尻尾はとても便利だよ?
ぼくは怒ってプウッと膨れていなくても済むし、ハーレイも「ケチ!」って言われないしね。
「代わりに尻尾が言うんだろうが。…俺に向かって、「ハーレイのケチ!」と」
言葉かどうかはともかくとして、「ケチ!」と動いている尻尾。
その上、プウッと膨れてるんだな。お前の膨れっ面の代わりに、それは見事に。
尻尾が膨らんじまっているのか、そいつは見ないと分からんわけだが…。
それでも見れば分かるって仕組みなんだな、とハーレイはお手上げのポーズ。両手を軽く広げてみせて、「そりゃたまらんな」と。
言葉と顔とでケチ呼ばわりか、尻尾に「ケチ!」と言われるのか。どう転んだって、ハーレイはケチと言われる立場で、膨れっ面もされるわけだから。
「尻尾、良さそうだと思うんだけど…」
不器用なぼくでも、思念波の代わりに尻尾があったら、言葉無しでも伝わるから…。
尻尾はとても役に立つから、尻尾、ホントに欲しいんだけどな…。
ぼくの気持ちが伝わる尻尾、と繰り返したら、「ふうむ…」と少し翳ったハーレイの瞳。尻尾の話には似合わない、深い瞳の色。お日様が急に翳ったように。
「お前の気持ちが伝わる尻尾か…。その尻尾は、今のお前より…」
前のお前に欲しかったな、とハーレイは意外な言葉を口にした。ソルジャー・ブルーだった前の自分には、尻尾なんかは要らないのに。尻尾が無くても困らないのに。
最強のサイオンを誇っていたのがソルジャー・ブルー。思念波の扱いだって、誰よりも上。
なのに、どうして尻尾が欲しいと言うのか、まるで分からないものだから…。
「…前のぼくにって…。なんで?」
前のぼくなら、思念波、ちゃんと使えたんだよ。尻尾は要らなかったんだけど…。
尻尾がついていなくったって、前のぼく、困りはしなかったよ…?
「お前には必要無かっただろうな、尻尾なんぞは」
そのくらいは俺にも分かっている。前のお前に尻尾が要らないことは充分、承知してるが…。
欲しかったのは俺だ、お前に尻尾があったらな、と。
ソルジャー・ブルーに尻尾があったら、俺の役に立ってくれただろうに、と思うんだ。
「尻尾がハーレイの役に立つって…。どうしてなの?」
前のぼくの心、そんなに覗いてみたかった?
心は遮蔽していたけれども、ハーレイの前では緩めていたよ?
わざわざ尻尾で確かめなくても、前のハーレイはぼくの心を覗き込めたと思うんだけど…。
滅多に読まれなかったけれどね、と優しかった前のハーレイを想う。余程でなければ、読まれはしなかった心の中身。…隠し事を秘めていた時だって。フィシスを見付けた時のこととか。
前のハーレイなら心を覗けた筈なのだけれど、どうして尻尾が欲しいのだろう?
尻尾で何を知りたかったのだろう、と首を捻っていたら…。
「俺が尻尾を欲しがる理由か? 尻尾に気持ちが表れるからだ」
お前がいくら隠していたって、お前の心が丸分かりだろうが。…尻尾があれば。
誰が見たって、尻尾なら分かる。お前が何を考えてるのか、どういう気持ちでいるのかが。
だから、尻尾さえついていればだな…。
メギドに飛ぼうとしていた時だ、と真っ直ぐに覗き込まれた瞳。前のハーレイとの別れの時。
白いシャングリラのブリッジに行って、ハーレイにだけ告げていた別れ。触れた腕から、そっと思念を滑り込ませて。「ジョミーを支えてやってくれ」と。
ハーレイだけに密かに伝えた、前の自分が死に赴くこと。二度とシャングリラに戻らないこと。
それにブリッジの誰もが気付いた、と今のハーレイに指摘された。
尻尾は嘘をつけないから。心の中身が、そのまま尻尾に出てしまうから。
「どんなにお前が隠していたって、無駄だってな。…お前に尻尾がくっついていれば」
顔には出さずに立っていてもだ、尻尾にちゃんと出ているわけだ。…お前の気持ち。
もうシャングリラには戻れないんだ、と尻尾は知っているんだからな。
シュンと萎れてしまっているのか、元気が無いか。…どっちにしたって、言葉通りじゃないのは分かる。ナスカの仲間たちの説得、それだけだったら、尻尾はそうはならないからな。
「…そうなのかも…」
尻尾は心と繋がってるから、ホントに尻尾に出ちゃうかも…。前のぼくの心、隠していても。
「ほら見ろ、否定出来んだろうが」
そうなっていれば、みんなが気付いてお前を止めたぞ。ジョミーだってな。
お前に尻尾がありさえすれば、俺はお前を失くさなかった。…みんなが止めてくれるんだから。
俺が動けなかったとしたって、ブリッジのヤツらが全員でな。
止められちまえば、振り払ってまでは行けんだろうが。力にしたって、ジョミーがいるし。
違うのか、うん?
前のお前に尻尾があったら、お前は行けやしなかった。
俺にだけコッソリ言葉を残して、一人きりでメギドに行こうとしてもな。
尻尾は大いに役に立つんだ、というのがハーレイの主張。ソルジャー・ブルーを失わずに済む、とても大切で役立つ尻尾。本当は何をしようというのか、尻尾を見れば分かるから。
「お前の尻尾が、お前の命が消えちまうのを防ぐってな」
尻尾は嘘をつけないからなあ、お前の心をそっくりそのまま、鏡みたいに映すんだから。
お蔭で俺たちは前のお前を止められる、とハーレイが語る尻尾の役目。ブリッジの仲間に真実を伝えて、前の自分を止めさせること。「ソルジャー・ブルーを行かせては駄目だ」と。
「…そんな尻尾、マントで隠しておくよ」
どうせ尻尾はマントの下だし、誰も覗けはしないもの。…ぼくの尻尾がどうなっていても。
見えない尻尾はどうしようもないでしょ、気付く仲間は一人もいないよ。
最初から見えていないんだから、と尻尾を隠してくれるマントに感謝したのに…。
「マントに隠れて見えないってか? 其処の所は心配は要らん」
邪魔なマントは、俺が「失礼します」とめくるまでだ。お前の尻尾が良く見えるように。
お前からの思念を受け取った後に、掴んでめくっちまってな。
ブリッジのヤツらにも、ジョミーにも尻尾が見えるように…、とハーレイは笑う。マントの下に隠していたって、捲れば尻尾は出て来るから、と。
「めくるって…。ホントに失礼だと思うけど?」
ソルジャーのマントを、みんなの前で捲るだなんて。…尻尾を丸見えにしちゃうなんてね。
エラが怒るよ、と眉を顰めたけれども、「非常時だしな?」とハーレイは澄ました顔。
「失礼だとしても、ソルジャーの命には代えられん」
お前を失くしちまうよりかは、ソルジャーに無礼を働いた方が遥かにマシだ。そう思わんか?
「そんなことをしたら、恋人同士だってバレちゃうよ?」
ハーレイがぼくを失くしたくないこと、ブリッジどころか、船のみんなに。シャングリラ中に。
「いや、バレたりはしないってな」
お前の尻尾を皆に見せるのも、立派にキャプテンの仕事の内だ。マントをめくっちまうのも。
ソルジャー・ブルーは嘘をついているんだ、と全員に知らせなきゃいけないだろうが。
前のお前を失くしちまったら、大損害ってヤツなんだから。…それこそ取り返しがつかん。
お前の思念を受け取っただけじゃ、黙って見送るしか無かったんだがな…。
他のヤツらはお前の言葉を信じてたんだし、前の俺には証明しようがないんだから。
これは嘘だと、本当は二度と戻らないんだ、という俺だけが知っていたことを。
其処の所が変わってくる、とハーレイの顔に溢れる自信。「前のお前に尻尾があれば」と。
ソルジャー・ブルーをメギドに行かせはしないと、全員で止めてみせるから、と。
「俺の役目は、前のお前にちょいと無礼を働くことで…」
マントをめくって尻尾を披露だ、嘘をつけない正直なお前の尻尾をな。
お前がいくら嘘をついても、尻尾は正直者だから…。誰が見たって、嘘だと見破れるんだから。
これもキャプテンの役目なんだ、とハーレイが言うのも間違いではない。ソルジャー・ブルーを失う道より、失わない道を選ぶのもまた正しいから。
その道を選んで進んだ結果が、どうなろうとも。…地球に着くのが遅れようとも。
「…尻尾、そういう風に使うの?」
ぼくの尻尾、と見詰めた恋人。ソルジャー・ブルーの嘘を尻尾で、皆に暴きたかったハーレイ。
嘘をつけないだろう尻尾を、ブリッジの皆に「こうだ」とマントをめくって見せて。
「前のお前についていたならな」
俺の役に立つと言っただろうが、前のお前に尻尾がくっついていれば。…欲しかった、ともな。
しかしだ、今のお前じゃなあ…。尻尾、あっても大して変わりはしないぞ。
どんな尻尾がついていたって、今のお前の人生ってヤツは変わらんさ。
まるで同じだ、と笑ったハーレイ。「尻尾があろうが、無かろうが、全く同じだよな」と。
「大違いだと思うけど…」
尻尾はとても便利なんだし、ぼくの気持ちをハーレイに伝えてくれるから…。
ホントに尻尾があればいいのに、前のぼくには要らないけれど。前のぼくだと、尻尾があったら大変なことになっちゃうから…。メギドに行けなくなってしまって。
「今のお前も尻尾は要らんと思うがな?」
お前の心の中身だったら、俺には手に取るように分かるさ。…尻尾が無くても、表情だけで。
それにだ、心の欠片も幾つも零れているし…。前のお前だった頃と違ってな。
さっきまでは尻尾で弾んでいたぞ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「あればいいな」と、心の欠片がキラキラ零れていたが、と。
「今はションボリしているようだが…。前のお前の話になって」
前の俺を独りぼっちにしちまったことや、メギドなんかを思い出してな。…尻尾のせいで。
どうだ、俺の読みは間違ってるか?
お前に尻尾はついちゃいないが、俺にはこう見えているんだが…?
「…間違ってない…」
ハーレイが言うこと、当たっているよ。…尻尾が欲しくてはしゃいでいたのも、今はションボリしてるのも。…ちょっぴりだけどね、ションボリなのは。
「ほらな、きちんと当てただろうが。…だからお前に尻尾は要らない」
俺にはいつでも、お前の気持ちが分かっているんだ。尻尾が無くても、お前の気持ちは全部。
尻尾無しでも、何も問題無いってな。俺には伝わっているんだから。
「でも、キスをしてくれないじゃない!」
ぼくの気持ちが分かっているなら、ハーレイはキスをくれる筈だよ!
キスして欲しいの、本当にホントなんだから…。尻尾があったら、ちゃんと見えるんだから!
「そいつも俺には分かっているぞ。お前の心は尻尾無しでも丸見えだしな」
しかし、それとキスとは話が別だ。分かっていたって、叶えてやれないこともある。
キスが駄目な理由、嫌というほど何度も説明してやったがな?
まだ足りないなら、いくらでもお前に聞かせてやるが。
「ハーレイのケチ!」
分かってるんなら、キスしてくれてもいいじゃない…!
尻尾が無くても分かるほどなら、ぼくにキスしてくれてもいいのに…!
ケチなんだから、とプウッと膨れてやったら、「ふむふむ…」と楽しげなハーレイの顔。
「お前のお得意の膨れっ面だな。それを尻尾でやるとなったら…」
どんな具合になるやらなあ?
尻尾もプウッと膨れちまうのか、それとも怒った猫の尻尾みたいにユサユサ揺れるか。
犬の膨れっ面は知らんが、そういう時の尻尾はどうなっているのやら…。
もっとも、お前は尻尾でやるより、顔の方がいいと思うがな?
俺もお前の顔を見ていられるわけだし、尻尾よりかは顔でお願いしたいモンだが。
「え?」
顔って何なの、なんで尻尾より顔になるわけ?
ぼくに尻尾がついていたって、膨れるのは顔がいいって言うの…?
膨れた顔の方が好きなの、と丸くなった目。尻尾で気持ちを表せるのなら、膨れっ面をしなくていいのに。ハーレイだって、いつも「フグだ」と言っている顔を見なくて済むのに。
「お前が膨れないというのは、まあ、有難くはあるんだが…」
可愛らしい顔のままなわけだし、膨れっ面よりはいいんだが…。問題はお前の尻尾なんだ。
もしもお前に尻尾があったら、そっちにも気を配らなきゃいかん。
俺の考えで合っているのか、間違ってるのか、そういったトコ。
尻尾は嘘をつけないからなあ、念のために確認しておかないと。お前の顔と尻尾と、両方。
「…じゃあ、ハーレイの視線がズレちゃうの?」
ぼくの顔から尻尾の方に?
膨れっ面なのか、そうじゃないのか、ハーレイは尻尾を見て確かめるの?
「そうなるだろうな、尻尾があれば」
お前の心が零れていたって、顔も尻尾も確かめないと…。
そいつが礼儀というモンだろうが、お前には尻尾があるんだから。嘘をつけない尻尾がな。
正直者な尻尾がどうなっているか、それをきちんと確かめること。忘れないように、顔と両方。
顔は笑顔でも、尻尾は膨れてフグのようかもしれないから。…尻尾は嘘をつかないから。
「初めてのキスをしようって時になっても、まずは尻尾の確認かもな」
俺はともかく、お前の気持ちが大切だから…。
キスをしたい気分になってるかどうか、顔を見て、次は尻尾を見る、と。
尻尾の確認を忘れちゃならん、とハーレイは大真面目な顔だから。
「それって、雰囲気が台無しだよ!」
ぼくの顔から視線を逸らして、尻尾だなんて!
キス出来るんだ、ってドキドキしながら待っているのに、尻尾を確認するなんて…!
酷い、とプンスカ怒ってやった。「あんまりだよ」と、「それでもホントに恋人なの?」と。
「そう思うんなら、尻尾は要らないってことだろうが。…今のお前には」
俺だってお前の顔だけを見てキスをしたいし、尻尾にまで気を配るのは遠慮したいしな。
もっとも、その迷惑な尻尾ってヤツ。
前のお前には、ついていた方が良かったな、と思わないでもないんだが…。
尻尾がついてりゃ、前の俺はお前を失くしていないんだから。
「それはそうかもしれないけれど…。前のハーレイ、喜んだかもしれないけれど…」
前のぼくだって、尻尾を確認してからのキスは喜ばないよ!
マントをめくって、みんなに尻尾を見せる方なら、今のぼくなら許すけど…。
前のハーレイが辛かったことを知っているから、それは許してあげるんだけれど…。
だけど、キスの前に尻尾を確認してたら怒るよ?
今のぼくでも、前のぼくでも、それはホントに怒るんだからね…!
「よし。だったら尻尾は要らない、と」
尻尾があったらそうなっちまうし、尻尾は無いのが一番だ。
猫のも犬のも、ウサギの尻尾も。…欲しがらなくても、お前には必要無いんだから。
お前の心はきちんと顔で分かるから、という言葉。
褒められたのか、サイオンの扱いが不器用なのを馬鹿にされたのか。
少し複雑な気分だけれども、ソルジャー・ブルーに尻尾があれば、と思ったハーレイ。尻尾さえあればメギドに飛ぶのを止められたのだ、と考えるハーレイの気持ちは分かるから…。
「…今度は嘘はつかないよ」
前のぼくみたいな嘘は、絶対つかない。
ハーレイがぼくの尻尾をみんなに見せなくちゃ、って思うようなのは。…マントの下になってる尻尾を、「失礼します」って出さなきゃいけないようなのは。
もうやらない、と約束しようとしたのだけれど。
「その必要も無いだろ、今は」
お前が嘘をついたとしたって、その嘘にお前の命は懸かってないからな。
前のお前の頃と違って、今は平和な時代だから…。命懸けの嘘は無理なんだから。
「そうだっけ…!」
嘘をついても、ハーレイに叱られるだけでおしまい。
前のハーレイにやったみたいに、悲しませたりはしないから…。
ハーレイを置いて行ったりしないし、独りぼっちにさせもしないよ。…いつまでも一緒。
ぼくに尻尾が欲しかったなんて、もう絶対に言わせないから…!
サイオンが不器用になってしまって、気持ちを表す尻尾が欲しいと思うくらいの自分だけれど。
尻尾が欲しいと考えたけれど、不器用な自分に合わせたように、今は世界もすっかり平和。
だから尻尾を欲しがらなくても、幸せに生きてゆけるだろう。
猫の尻尾も犬の尻尾も、もちろんウサギの尻尾だって。
わざわざ尻尾を見て貰わなくても、心の中身はハーレイに筒抜けらしいから。
さっきもハーレイは心を見事に言い当てたのだし、尻尾は無くてもかまわない。
尻尾なんかを見てはいないで、顔だけを真っ直ぐ見ていて欲しい。
青い地球にハーレイと二人で生まれ変わって、一緒に生きてゆくのだから。
ハーレイの瞳で顔だけを見詰めて貰える世界の方が、ずっと幸せに違いないから…。
尻尾があれば・了
※ブルーが欲しいと思った尻尾。ハーレイは、前のブルーに尻尾が欲しかったとか。
確かに尻尾があった場合は、メギドへ飛べなかったかも。そして今は、尻尾は要らない世界。
困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
今、何をしてた、と響き渡ったハーレイの声。教室中に、窓のガラスまで揺れそうなほどに。
ブルーも含めて教室の皆が驚いた。いったい何が起こったのかと、誰もが目を丸くしている中。並んだ机の間の通路を、ゆっくりと歩いてゆくハーレイ。一足、一足、踏みしめるように。
やがて止まった、一人の男子生徒の側。彼の机を指でトン、と叩くと…。
「出せ、今のを」
此処に、と促す机の上。「今のを此処に出すんだな」と。
「何もしていません!」
男子生徒は叫んだけれども、顔には「違う」と書かれている。そういう表情なのだから…。
「俺には何か見えたんだがな?」
確かに見たぞ、とハーレイの方も譲らない。「早く出せ」と。
「見間違いです、先生の!」
「…そうか?」
俺はそうとは思わんが、とハーレイが手を突っ込んだ机。「なら、確かめてみるとするか」と。中を探って、引っ張り出して来た漫画の本。「読んでたろうが」と机の上に。
男子生徒は顔色を変えたけれども、それでも懸命に言い張った。
「いえ、この本は休み時間から入れてただけで…」
授業のチャイムが鳴ったんで、此処に入れたんです。別に鞄に入れなくても…。
みんな色々入れてますよね、漫画でなくても。お弁当とか、本だとか…。
漫画の本だって同じなんです、と必死の言い訳。ハーレイに発見されたのだったら、読んでいたことは確実なのに。それでも彼は「やっていない」と繰り返すから…。
「いい度胸だ。なら、手を出せ」
「え?」
目を見開いた男子生徒に、ハーレイはこう言葉を続けた。
「出したくないなら、手を出さなくてもいいんだが…。この距離だったら簡単だからな」
言わない以上は、読むしかなかろう。…お前の心。
手を握れたら俺も楽だが、出さないのなら仕方ない。いいから、そのまま座ってるんだな。
「せ、先生…?」
「お前が潔白だったら謝る。俺の目が節穴なんだから」
だが、違ったなら、宿題をサービスするからな?
お前は授業中に漫画で、俺に嘘までついたんだ。やっていない、と。…さて、読むとするか。
俺か、お前か、どっちの言うことが正しいか…、とハーレイがスウッと細めた目。
「待って下さい!」
読んでました、と男子生徒は白状した。「すみませんでした」と肩を落として、ションボリと。
「やっぱりか…。嘘をつくだけ無駄だってな。こいつは俺が貰っておく」
後で職員室まで取りに来い、と没収されてしまった漫画。それに一人だけに出された宿題。自白した分、サービスだとかで少なめに。他の生徒よりは遥かに多いけれども。
「お前が白状していなかったら、本当はこれだけ出したいトコだ」と、サービスで減らした量を強調されて。
「これに懲りたら他のヤツらも気を付けろ」と、ハーレイは教室の前に戻った。「続けるぞ」と授業の続き。何も起こりはしなかったように。
授業が終わって、ハーレイが去って行った後。男子生徒の机の周りは賑やかだった。他の男子に取り囲まれて、呆れられて。
「馬鹿だよな、お前。…なんで漫画を読んでたんだよ」
ハーレイ先生、背が高いんだぜ。他の先生より、ずっと上から見えるじゃねえかよ。
机の下で読んでいたって丸見えだ、とワイワイと騒ぐ男子たち。「読むなら他の時間だ」とも。
「読みたかったんだよ、続きが気になって…」
丁度いいトコで、授業のチャイムが鳴ったから…。読みたくなるだろ、そういう時って?
「…それで没収されてしまったら、続きどころじゃねえと思うぜ」
ハーレイ先生、丸ごと持ってっちまったじゃねえか。取りに行けるの、放課後だぞ?
それまで全く読めやしねえし、読めねえ上に宿題のオマケも貰っていりゃあ、世話ねえよ。
もう本当に馬鹿としか…。他に言いようがねえってモンで…。
教室中が呆れてるぜ、と男子生徒の友人たちは容赦ない。「女子も馬鹿だと思ってるぞ」と。
「……俺も自分でそう思う……」
俺が馬鹿だった、と項垂れている生徒。ハーレイが「後で」と言ったからには、もう放課後まで読めない漫画。取り戻すまでは、どんなに続きが気になっても。その上、宿題まで出された彼。
(ホントに馬鹿かも…)
分かってないよね、と思ってしまう。ハーレイにバレてしまった時点で、もう隠したって無駄というもの。「やっていません」と嘘をついても、心を読まれておしまいなだけ。
さっきハーレイが言っていたように、「俺か、お前か、どっちが正しい?」と読まれる心。
(タイプ・ブルーの生徒だったら、大丈夫かもしれないけれど…)
心の遮蔽が強くなるから、そう簡単には読まれない。先生が読もうと頑張ったって。
とはいえ、前の自分が生きた頃より増えてはいても、今も少ないタイプ・ブルー。大抵の生徒は心を読まれたら、おしまい。叱られるだとか、没収だとか、宿題を沢山サービスだとか。
放課後になったら、例の男子は「また叱られるよな…」とハーレイの所に出掛けて行った。没収された漫画を返して貰いに、付き添いの友達も何人か連れて。
それを見送った後に家に帰って、いつものようにダイニングでおやつ。母の手作り、熱い紅茶も淹れて貰って、のんびりと。
「御馳走様」と二階の部屋に戻ったら、思い出した男子生徒の顔。今日の出来事、それも古典の授業中のこと。没収されてしまった漫画と、宿題サービス。
(ぼくなら、ハーレイの授業の時間に漫画なんて…)
絶対、読まない、と勉強机の前に座って考える。漫画でなくても、他の本でも。どんなに続きが気になっていても、そんなものより、ハーレイの授業の方が好き。
下を向いて何か読んでいたなら、ハーレイの顔が見られない。大好きな声だって聞き逃すから。心が他所に行ってしまって、恋人を忘れてしまうから。
せっかく、其処にいてくれるのに。学校では「ハーレイ先生」でも。
(他の先生の授業の時でも、やらないけどね?)
バレたら心を読まれるだとか、没収だとか、そういうのとは関係無しに。学校は勉強をする所。先生の授業を聞きに行く場所、休み時間や放課後以外は。
勉強をするために登校したのに、他のことなんて、とんでもない。いつも真面目に聞く優等生。余所見もしないし、他のことをコソコソやったりもしない。
(でも、授業中に他の色々なこと…)
やっている生徒は時々いる。漫画を読むとか、大胆な場合はコッソリお弁当だとか。
どんなことでも、先生にバレたら、今日の生徒と同じコースで…。
(隠すだけ無駄…)
やっていないと主張したって、心の中身を読まれておしまい。「全部、心に書いてあるが」と。
バレた後には叱られる。隠そうとしていたことも含めて、それは厳しく。
下の学校の頃から、何度も見て来た叱られる生徒。先生に心を読まれてしまって、隠そうとしたことの分までお仕置き。宿題サービスとか、先生のお手伝いだとか。
やっていない、と隠しおおせた生徒は一人も見たことが無いのだから…。
(タイプ・ブルーがいなかったんだよ)
きっとそうだ、と考えた。悪さをしていて、先生に見付かった生徒の中には一人も。自分が通う学校では。…下の学校でも、今の学校でも。
そうでなければ、先生もタイプ・ブルーだったか。悪さを発見した先生の方も。
(先生もタイプ・ブルーだったら…)
いくら生徒がタイプ・ブルーでも、敵わない。力不足の子供は勝てない。
心を遮蔽しようとしたって、経験不足。子供なのだし、上手く心を隠せはしない。先生の方が、何枚も上手。タイプ・ブルー同士の対決でも。
(ぼくだって、タイプ・ブルーだけれど…)
力不足とか、経験不足以前の問題。とことん不器用になったサイオン。前の自分の頃と比べて、雲泥の差どころの騒ぎではない。サイオンは無いも同然なくらい。
前と同じにタイプ・ブルーでも。最強の筈のタイプ・ブルーに生まれて来ても。
そのサイオンを上手く扱えないから、心の中身は読まれ放題。先生に横に立たれたら。睨んで、「手を出しなさい」と言われなくても、きっと。
わざわざ手まで握らなくても、とうに心が零れているから。「バレちゃった」と。
(悪い生徒じゃなくて良かった…)
ホントに良かった、とホッと安堵の息をついたら、気付いたこと。
悪さをしていたのが先生にバレて、隠そうとしても無駄だということ。当然だよね、と叱られた生徒を見ていたけれど。「ぼくなら、しない」とも思ったけれど…。
その隠し事、と心を掠めたこと。隠そうとする生徒と、暴く先生との攻防戦。今日までに自分が見て来た勝負は、悉く先生の勝ちだった。どう隠したって、先生に敵いはしないから。
(今の時代だと、普通だけど…)
自分もすっかり慣れていた。隠そうとしても、心を読まれてしまうこと。授業中の悪さが先生にバレたら、何処の学校でも起こるのだろう。
そういう場面に限らなくても、心を読むということは普通。人間はみんな、ミュウだから。
社会のマナーで、読まないのがルールになっているだけ。まだまだ小さな子供同士なら…。
(当てっこだとか…)
そんなゲームをしたりもする。色々な物を一人が隠して、他のみんなで捜しにゆく。隠し場所は何処か、心を読んで。「何処なのかな?」と心を覗き込んで。
そういう遊びで、隠した方も読まれないように努力するもの。サイオンの扱いが上手い子供は、偽の情報を流すことだってある。「あそこだよ」と全く違う場所を心に思い浮かべて。
人気の高い遊びだけれども、サイオンが不器用な自分は全く出来ない。どう頑張っても、隠した子の心が見えないから。覗き込むことさえ出来ない始末。
(ぼくの友達、あのゲームは…)
ルールを変えてくれていた。不器用すぎる自分のために。他の子たちは、元のルールで楽しんで遊べる筈なのに。
(ぼくが何にも読めないから…)
心の中身を読ませる代わりに、言葉でヒントを出す方法。「大きな木だよ」とか、「水がある」とか。大きな木ならば、公園には何本も生えているのに。水がある場所も幾つもあるのに。
ヒントでも充分、楽しめたゲーム。隠し場所は木の側の水飲み場だったり、そんな具合で。
サイオンはまるで駄目な自分も、そうやって遊んでいたけれど。心の中身を読み取れないから、ルールを変えて貰ったけれど…。
(みんなミュウだから、誰も変だと思わないだけで…)
心を読まれるのは、自分の力が足りないから。先生に悪さがバレてしまうのも、遊びで頑張って隠した何かが、発見されてしまうのも。
どちらも、心を隠し通せない自分が悪い。力不足で、自分の責任。
でも…。
隠せずに読まれてしまうこと。心の中身を読まれてしまって、知られること。
(人類だったら…)
今はもう宇宙の何処にもいない、人類と名乗っていた種族。前の自分が生きた時代に、ミュウを殲滅しようと努力した者たち。
彼らだったら、どうだっただろう?
どういう風に感じたのだろう、心を読まれるということを。心の中身を他の誰かが容易く読んでゆくというのに、自分は全く読めはしなくて、欠片も掴めないことを。
(怖くない…?)
そのことが、とても。
人類同士なら何も起こらなくても、ミュウと出会ったら起こる出来事。自分にしか見えない筈の心を、心の中身を知られてしまう。
それが敵意でなかったとしても。好意だとしても、口にする前に。
素敵な何かをプレゼントしようと、驚かせたくて何処かに隠して持っていたって。
(…怖いし、それになんだか嫌だ…)
ぼくだって、と思った「心を読まれる」こと。いつも心が零れてしまって、何かと失敗しがちな自分。ハーレイはもちろん、友達相手にコッソリ計画してみても。
いったい何度失敗したのか、自分でも数え切れないほど。つい最近のことだけでも。
心の中身がバレてしまっても、けして嫌だと思いはしない。怖いと思うことだって無いし、逆に情けない気持ちになるだけ。「ぼくって、駄目だ」と。「また失敗だよ」と、肩を落として。
(今は、誰でもミュウだから…)
そういう世界に生きているから、サイオンが不器用な自分のせいだと思うだけ。もっと器用なら読まれはしないし、不器用なのも自分の個性。
他の人たちには簡単なことが出来なくたって、ミュウには違いないのだから。サイオンは自分も持っているのに、使いこなせないだけだから。
けれど…。
もしもサイオンが無かったら。…不器用に生まれたわけではなくて、自分が人類だったなら。
(…サイオンなんかは持っていなくて、この世界に独りぼっちなら…)
戦争も武器も無い平和な世界が、恐ろしく見えるかもしれない。殺されたり、追われたりしない世界でも。誰も自分を嫌わなくても、とても親切な人ばかりでも。
周りの人たちは、心の中身を読むのだから。言葉にしなくても、「どうぞ」と欲しかったものを差し出して来たり、手を貸してくれたりするのだから。
(ぼくには当たり前だけど…)
不器用なのだし、なんとも思いはしない。物心ついた時には、そういう世界にいたのだから。
自分は上手く読めないけれども、他の人たちは心を読み取る世界。「ぼくって駄目だ」と思っていれば良かった世界。ゲームのルールも変えて貰って。
そんなものだ、と幸せに生きて来たのだけれども、たった一人の人類だったら恐ろしいだろう。心を読まれているというのに、自分の方では欠片も読めはしないのだから。
しかも自分とは異なる種族。家族でもなければ友達でもない、そんな者たちに囲まれて、一人。
(…ミュウが嫌われたの…)
無理もないかも、と今頃、分かった。人類がミュウを恐れた理由。
人の心を食う化け物、と言われた理由も。
ミュウは土足で人の心に踏み込むから。遮蔽できない人類の心、それを端から読み取るから。
恐れ、忌み嫌い、蔑む気持ち。「化け物」とミュウを嘲笑いつつも、人類はいつも恐れていた。この瞬間にも、心を読まれているのだと。自分の心はミュウに筒抜けなのだから、と。
(…アルタミラでも、いつも怖がられてた…)
気味悪がられていた自分。たった一人のタイプ・ブルーで、それは酷い目に遭わされたのに。
自分も人類を恐れていたのに、彼らの方でも怖がっていた。「化け物だから」と、人類とは違う生き物だと。
触れることさえ嫌がる気配を感じたくらいに、ミュウを嫌悪した人類たち。研究者たちも、檻を管理していた者たちも。
そうだったのか、と今になってやっと理解した。人類がどうしてミュウをあんなに恐れたのか。人の心を食う化け物だと忌み嫌ったのか。
(今のぼくは、幸せに育って来たから…)
何も怖がりはしないだけ。自分の心を読まれることも、自分ではまるで読めないことも。
不器用なのだし仕方がない、と残念に思っていたくらい。「もっと器用になりたいよ」と。
けれど突然、今のような世界に放り込まれてしまったら。
此処で幸せに育つ代わりに、ある日いきなり、心を読める人ばかりが住む世界に向かって、突き落とされてしまったら…。
(絶対、怖い…)
怖くて、とても気味悪い。自分は心を読めもしないのに、周りの人々は読むのが普通。どういう仕組みになっているのか、言葉にする前に先回りされる。あらゆる場面で。
自分には、それが出来ないのに。…相手が何を思っているのか、その欠片さえも見えないのに。
(…ホントに怖くて、どうしたらいいか分からなくって…)
きっと外にも出られなくなる。外に出たなら、心の中身を誰もに読まれてしまうのだから。何を考えながら歩いているのか、皆に筒抜けなのだから。
…どうして気付かなかったのだろう。その怖さに。恐ろしさに。
人類がミュウに覚えるだろう恐怖、それを微塵も考えもせずに、歩み寄れると思ったのだろう。ミュウと人類とは手を取り合えると考えた自分。ソルジャー・ブルーだった、前の自分。
あまりにも考えなしだった。人類の心を思うことさえしなかった。
ミュウがサイオンを封印するなら、歩み寄れたのかもしれないけれど…。
(サイオンを持ったままだったら…)
忌み嫌われてしまって当然、恐れられるのも当然のこと。
人類にすれば、歩み寄りたくもないだろう。近付いたならば、一方的に読まれる心。隠す術さえ持っていないのに、勝手に心を覗き込まれて。
ミュウ同士ならば、隠せるのに。読まれたくないことは隠しておけるし、それが出来ないなら、自分の力が足りないだけ。そういう時には、「読まないで欲しい」と伝えることも出来るのに。
人類には心を隠す方法が無かったのだ、と気が付いた。不器用な今の自分と違って、サイオンを持たなかった人類。ミュウならそれを持っているのに、人類は持っていなかった。
サイオンが不器用な今の自分には、少しだけ分かる人類がミュウに覚えた恐怖。
(…間違えちゃってた…)
前の自分の考え方。心から願った、ミュウと人類との共存。
けれども、サイオンを捨てるか、封印でもしない限りは、人類はミュウを怖がるだけ。ミュウに近付いたら、心を読まれてしまうから。「読まないで」と伝えることも出来ずに。
その状態では、歩み寄れていた筈もない、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。ミュウは怖いね」
「はあ?」
どう怖いんだ、と瞬いた鳶色の瞳。「お前も俺も、ミュウなんだが?」と。
「そうだけど…。人類から見たミュウのことだよ」
「なんだって?」
人類ってことは、前の俺たちの時代の話か、それは?
確かに人類軍と派手に戦いはしたが…。勝ったわけだし、怖かったのかもしれないが…。
「えっとね…。戦いが始まってからじゃなくって、それよりも前」
今日のハーレイ、生徒に注意してたでしょ?
漫画の本を没収してたよ、その前に脅していたじゃない。心を覗けば全部分かる、って。
あれで気が付いたよ、あの力、人類には怖いんだよ。…自分の心を読まれちゃうこと。隠そうとしても隠せなくって、何もかも知られてしまうってこと。
今のぼくだと分かる気がするよ、人類はきっと怖かったんだ、って。
ぼくのサイオン、とことん不器用になって、あの頃の人類とそれほど変わらないんだから。
「なるほどな…。今のお前は、心を読まれないように遮蔽することは出来ないか…」
前のお前ならば完璧だったが、それとは逆というわけだな。
「そう、読むことも出来ないんだよ」
ホントに人類と似たような感じ。…ミュウの世界に一人だけ混じってしまったみたいに。
ぼくは慣れてるから平気だけれども、人類は怖かったと思う。…ミュウが現れたら、心の中身をすっかり読まれてしまうんだから。
その人類とミュウが初めて顔を合わせたのが、前のぼくたちが生きてた時代、と説明した。心を読まれることを恐れる種族と、心を読むのが当たり前の種族。
「前のぼくの考え、間違っていたよ。…そう思っちゃった」
ソルジャー・ブルーは甘かったんだ、って。人類の気持ちをまるで分かっていなかったんだよ。
「分かっていないって…。どういう風にだ?」
前のお前も色々と考えていた筈だが、とハーレイが首を捻るから。
「ミュウのことを理解して貰おう、っていう考え方。…分かり合えると思っていたこと」
人類とミュウは兄弟なんだ、って思ってたけど、それは間違ってはいないんだけど…。
サイオンを捨てなきゃ駄目だったんだよ、本当に分かり合いたかったら。
ミュウだけが人類の心を読めるというのは、ちっとも公平なことじゃないでしょ?
サイオンを捨てることが無理なら、封印する方法を開発するとか…。
「封印するって…。APDか?」
人類のヤツらが開発していた、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あんな具合に、サイオンが効かないようにする道具を、人類が持てば良かったと…?
「違うよ、APDは人類が開発したんだけれど…。人類に作らせていたんじゃ駄目」
作って下さい、ってお願いするんじゃなくって、ぼくたちが開発するべきだったんだよ。
サイオンを無効化する方法を、自発的にね。…人類がミュウを怖がらなくても済むように。
そうしていたなら、人類も考えてくれていたかも…。話し合うことを。
「ふうむ…。そいつは一理あるかもしれないな」
キースの野郎が捕虜になってた時、ジョミーに訊いたそうだ。「星の自転を止められるか」と。
ジョミーは、「やってみなければ分からない」と答えたらしいんだが…。
その時、キースはこう言った。「その力がある限り、分かり合うことは出来ない」とな。
「…そうなんだ…」
星の自転とは違うけれども、人の心を読むのも同じサイオンだから…。
サイオンがあったら駄目ってことだよね、キースがジョミーに言った言葉は…。
遠い昔に、キースがジョミーに投げ掛けた問い。それに、その答えを受けてぶつけた言葉。
キースには見えていたのだろうか。人類とミュウの間に横たわる溝、深い問題の根本が。
前の自分は気付かないままで終わったけれども、キースは見抜いていたろうか?
サイオンという力の怖さも、それがあったら人類がミュウを恐れることも。
「…キース、気付いていたのかな…。どうして人類はミュウを怖がるのか」
ミュウには心を読み取る力があるから、心を隠すことが出来ない人類にとっては怖い存在。
そのままだと分かり合うなんて無理で、サイオンを捨てて来ないと駄目だ、って。
「…多分な。しかし、キースはそれを克服したんだろう」
ミュウはサイオンを持ったままでいたのに、手を取り合う道を選んだんだから。
あいつを褒めたいとは思わないんだが、その点は評価してやってもいい。
ミュウへの恐れを克服出来た所だけはな、とハーレイが言うから、尋ねてみた。
「それが出来たのって…。キース、心を読まれない訓練を積んでいたからかな?」
とても凄かったよ、キースの心理防壁は。…本当にこれが人類なのか、って思うくらいに。
そういう心を持っていたから、他の人類も努力次第で何とか出来ると思ったのかな…?
「むしろ逆だと思うがな? 俺は」
前のお前も、それにジョミーも少しは読んだと聞いているしな、あいつの心。…違うのか?
「そうだけど…。それがあったら、どうして逆なの?」
分からないよ、と瞳を瞬かせたら、「読んだんだろう?」と返った言葉。
「お前もジョミーも、読まれないように訓練していたキースの心を読んじまった」
読まれる恐怖を知ったわけだな、キースが初めて知った恐怖だ。…ミュウの本当の恐ろしさ。
こうして心に入り込むのかと、防ぐ方法は無いらしい、とも。
そいつを思い知らされちまって、その上で色々と考えることになったんだろう。人類の指導者としてな。人類とミュウに分かれた現状をどうするべきか、次の時代にどう繋ぐのか。
ミュウ因子の排除というのも含めて、キースは何年も考え続けた。
そして導き出した結論があれだ。
SD体制もマザー・システムも時代遅れだという、大演説。
自分がグランド・マザーに粛清されても、人類が正しい道を選んで進んでゆけるように、と。
お蔭で今の平和な時代がある、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「キースの選択は正しかった」と、ミュウへの恐怖を克服出来たからこそだ、と。
「あいつが決断していなかったら、もっと長引いていただろう。…地球までの道は」
ミュウの時代が訪れるのも、遅くなっていたに違いないな。
「…キース、偉いね…」
心を読まれて怖かったんなら、徹底的に退治してもいいのに…。そうするつもりだったのに。
ナスカをメギドで焼いた時には、そういうつもりだったんだよ。…一人残らず滅ぼすつもり。
でも、考えを変えちゃった…。いろんな条件が重なったにしても、キースが一人で考えて。
だから偉いよ。グランド・マザーは、そういう風にしろとは絶対、言わないのに…。
マザー・イライザも、そんな風には、キースを育てていない筈なのに…。
「どうなんだかなあ…。偉かったことは確かだろうが…」
時代はミュウに味方していた。トォニィたちが生まれたことも、ジョミーの両親や、スウェナのようなミュウの理解者が現れたことも、その証拠だ。
キースが決断しなかったとしても、いずれはミュウの時代になった。…キースが国家主席の間は無理でも、次の時代か、その次にはな。
「そうだろうけど…。そうなる前にキースが決めたよ、ミュウと一緒に生きてゆくことを」
キースは本当に偉かったんだよ。ミュウを受け入れる決断が出来ただなんて。
ぼくなら、怖くて出来たかどうか…。
心を読まれることの怖さも知ったんだったら、余計にミュウが怖くなりそう。
「…出来そうにないのは、今のお前か?」
前のお前なら、自分がどんな思いをしたって、世界を優先しそうだからな。
「うん…。今のぼくだよ、ミュウの怖さに気が付いた、ぼく」
サイオンがとことん不器用なせいで、今頃、分かったんだけど…。人類の気持ち。
「今のお前は弱虫だしな? そんな考えになっちまうほど」
もしも自分が人類だったら、と考えただけで怖いと思っちまう弱虫。
キースとは違うさ、人類の世界を背負うためだけに作り出されたヤツとはな。
機械に作り出された割には、人間くさいヤツだったが…、という所で止まった言葉。
「おっと、あいつを褒めすぎちまった。…俺としたことが、お前のせいで」
キースの野郎を偉いだなんて、俺の台詞とも思えんな。
まったく…、とハーレイは苦々しい顔。「俺はあいつが嫌いなのに」と。
「ううん、ハーレイもキースを分かってくれているんだな、って嬉しいよ、ぼく」
いつもキースの悪口ばかりで、会ったら一発殴りたいとか、そんなのばかり。
だけど、ハーレイもちゃんと分かってるんだよね。…本当のキースは偉いってことが。
ホントに嬉しい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
ハーレイのキース嫌いは酷くて、何度も心を痛めたから。「ぼくのせいだ」と。
前の自分がメギドで撃たれなかったら、キースは其処まで憎まれていない。撃たれた傷痕と同じ聖痕、それをハーレイが見ていなかったら。
「…俺は分かりたくもないんだが…」
キースの偉さなんていうのは分かりたくないし、認めるつもりも無いんだが?
お前に釣られて、ついつい余計なことまで話してしまっただけで。
俺はキースを許しはしない、とハーレイの眉間の皺が深めになったけれども。
「いつか分かるよ、ハーレイにもね。…そして嫌いじゃなくなるってば」
ハーレイがキースを嫌いになったの、前のぼくを撃ったせいだから…。
でもね、ぼくはハーレイの所に帰って来たでしょ、チビだけど。
まだ小さいけど、大きくなったら、前のぼくと同じになるんだよ。…ホントにそっくり。
だからキースは悪くないってば、ぼくは帰って来たんだから。
「…そいつはキースのお蔭じゃないと思うがなあ…」
あいつは全く関わっちゃいないぞ、お前が生きて帰って来たことに関しては。
これは神様が起こした奇跡で、聖痕までつけて下さっただろうが。
聖痕のお蔭で、キースの罪がバレちまったってな。…前のお前に何をしたのか。
あいつの心は読めなかったが、神様が教えて下さった。あいつが隠してやがったことを。
あの馬鹿野郎が何処に逃げても、見付けた時には、俺は必ず殴ってやる。
生憎とまだ出会えないがだ、許してやるつもりは全く無いぞ。…この手であいつを殴るまでは。
しかし、お前は此処にいるよな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「俺のブルーだ」と、「うんと不器用だが、お前だよな」と。
「…本当にお前なんだろうか、と思っちまうくらいに、サイオンは不器用になっちまったが…」
おまけにチビだが、お前は俺のブルーなんだ。…前の俺が失くしちまったお前。
生きて帰って来てくれたんだよな、もう一度、俺の目の前に。
「そうだよ、これが今のぼく。…人類みたいになっちゃったけど」
サイオンは殆ど使えないから、タイプ・ブルーだなんて、嘘みたいだよね。…誰が見たって。
お蔭で、人類の気持ちが分かったけれど…。ミュウが本当に怖かったんだ、って。
前のぼくの考え、やっぱり間違ってた?
ミュウはサイオンを捨てるべきだったの、でなきゃ封印するだとか…?
サイオンを持ったままで人類と分かり合おうなんて、ぼくの考え、甘すぎたかな…?
「間違っちゃいないさ、前のお前は。…前のお前の考え方は」
今の時代は、人間はみんなミュウばかりだ。誰もがサイオンを持っているだろう?
お前みたいに不器用なヤツでも、サイオンはちゃんと備わっている。それが大切なことなんだ。
普段は心を読んだりしないし、それが社会のマナーでもある。
だがな、派手な喧嘩をしちまった時とか、友達との仲がこじれた時には、サイオンの出番だ。
こういう風に考えてます、と相手に直接伝えられるし、心を読んで貰うことも出来る。
心を読むのが得意じゃないお前も、「読んで下さい」と明け渡されたら読めるだろ?
そうやって誰もが分かり合える世界、そいつがミュウの世界だってな。
心の底から分かり合えるからこそ、平和なんだ。…戦いも無ければ、武器も要らない。
本気の喧嘩は、何処からも起こらないからな。殴り合いになっても、その場限りでおしまいだ。後でよくよく考えてみれば、「悪かったかな」と思うモンだから…。
其処に気付いたら、言葉にしにくい気持ちは心を見て貰う。それで解決しちまうわけで…。
こういう社会は、サイオン抜きでは無理なんだ。…人類に合わせて封印したなら、もう駄目だ。
だから、前のお前は間違っていない。サイオンは人間に必要な進化だったんだから。
「そっか…。サイオンのお蔭で、平和な時代になったんだよね…」
サイオンを封印してしまっていたら、今もミュウ同士で何処かで戦争だったかも…。
お互いの心が分からなかったら、本気の喧嘩がこじれてしまって、戦争になってしまうから…。
間違えていなかったんなら良かった、とホッとついた息。前の自分の考え方。
サイオンはあっても良かったんだ、と。
「…前のぼく、間違えちゃったのかと思ったよ…」
人類から見たら、ミュウはとっても怖そうだから…。そんな感じがしちゃったから。
とても怖いと思われてたのに、怖い力を振りかざしながら「仲良くしよう」って言う方が無理。
それに気付かないで過ごしてたなんて、間抜けだよね、って思っちゃったから…。
でも、間違えてはいなかったんだ…。サイオンが必要な進化だったら。
「当然だろうが、それでこそミュウだ。…ミュウはサイオンを持っていてこそなんだぞ」
そいつを封印しちまうだとか、無効化してまで人類に媚を売ってもなあ…。
何の解決にもなりやしないぞ、平和な時代は来やしない。…サイオン抜きの世界だなんて。
前のお前のことだとはいえ、否定しちゃいかん、自分をな。
間違えたように思えていたって、そいつが正しかったんだから。
「…自分を否定したら駄目って言うなら、ぼくの不器用さは?」
とっても不器用で、思念波もろくに使えなくって…。心はいつも読まれ放題。
ハーレイにも、友達にも、ぼくの考え、筒抜けになってしまうんだけど…。
脅かしてやろう、ってワクワクしてても、その前に気付かれちゃうんだけれど…。
「そいつも俺には愛おしいってな、守り甲斐があって」
もう本当に不器用だからなあ、危なっかしくて見ちゃいられない。
お前ときたら、其処の窓から落っこちたら骨が折れるんだろうし…。池に落ちたら溺れるし。
そうならないよう、俺が一生、お前を守るしかないってな。
前のお前なら、俺が守られる方だったんだが…。
お前を守る、と偉そうなことを言っていたって、シャングリラごとお前に守られていたからな。
前のお前みたいな無茶はするなよ、と釘を刺されたけれど。
鳶色の瞳に見据えられたけれど、ハーレイの心配はもう要らない。
平和な時代に命懸けの無茶はもう出来ないから、それに弱虫になってしまったから…。
今度は守って貰うだけ。
ハーレイに側で守って貰って、幸せに生きてゆけばいいだけ。
不器用すぎて心を読むことも出来ないけれども、読まれる一方なのだけれども。
人類と違って、ちゃんとミュウなのだし、何も怖がらなくてもいい。
周りが器用な人ばかりでも、心を読める人ばかりでも。
みんなが自分を気遣ってくれるし、必要だったら遊びのルールも変えてくれたりする世界。
其処に生まれてハーレイと二人、手を繋ぎ合って生きてゆく。
青い地球の上で、何処までも二人、幸せに微笑み交わしながら…。
読まれる心・了
※人類が何故、ミュウを恐れたのか、今になって理解したブルー。心を読まれる恐ろしさを。
そしてキースは、読まれる怖さを知ったからこそ、あの選択をしたのかも。考え抜いた末に。
それに綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
評判が高い料理のお店で、いつも予約で一杯らしい。行くなら予約をするのが一番。でないと、席が無いことの方が多いから。キャンセルが出ても、直ぐに埋まってしまうから。
それでも通り掛かった人が「空いてますか?」と尋ねるほど。店の表に出ている料理の写真が、これと同じに美味しそうだから。添えられたメニューも素敵だから。
(予約無しでも、運が良ければ入れるんだ…)
急なキャンセルは、ありがちなもの。友達と行こうと予約したのに、友達が来られないだとか。家族で行こうと計画したのに、誰かの都合が悪くなったとか。
けれど確実に入りたいなら、予約すること。この日の何時にお願いします、と。
(お休みの日にはハーレイが来るから、行かないけどね?)
両親と食事に出掛けてゆくより、ハーレイと過ごす方がいい。母が作った料理を食べて、お茶やお菓子も楽しんで。
どんなに料理が美味しそうでも、お店に行くより家にいる方がいいんだから、と考えながら読み進めた記事。お料理なんかに釣られないよ、と。
そうしたら、驚かされたこと。「行かないんだから」と思った、このお店は…。
(小さな子供は…)
予約をしたって入れない店。雰囲気を壊してしまうから。
子供連れなら、予約の時に訊かれる年齢。「お子様は何歳でらっしゃいますか?」と。その子の年が足りなかったら、断られてしまう。予約なしでも変わらないルール。「何歳ですか?」と。
(ぼくの年だと、大丈夫だけど…)
ちょっぴり酷くないだろうか、と思った「小さな子供は入れない」決まり。
美味しそうな料理が出される店なら、子供だって食べてみたいだろうに。家族の誰かが出掛けて来たなら、話を聞いて行ってみたくもなるのだろうに。
(なんだかガッカリ…)
お店への夢が壊れてしまった。最初は一目で惹かれたのに。…料理の写真を目にしただけで。
同じように写真を眺めた子供も、きっと大勢いるのだろうに。お店に入れない年の子でも。
その子供たちの夢が砕けてしまう店。「行きたいよ」と強請ってみたって、行けないのだから。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を思い出す。美味しそうだった料理の写真も。
(あんなに素敵な料理のお店…)
子供だって入っていいと思う、と消えない不満。「ホントに酷い」と。
自分は入れる年だけれども、入れない年の子供たちのことを思ったら。あの記事を見て、お店に行きたくなった子供も可哀相だけれど、もっと可哀相な子供もいそう。
(お店の前には、料理の写真とメニューが出してあるんだから…)
通り掛かって食べたくなる子もいるだろう。「これ、美味しそう!」と、歓声を上げて。
其処で普通のお店だったら、「此処で食べよう」と家族で入ってゆけるのに。ワクワクしながら店の扉を開けて入れるのに、あの店の場合はそうはいかない。
きっと写真やメニューと一緒に、注意書きも添えてあるのだろう。小さな子供は入れないこと。子供はそれに気付かなくても、大人は気付く筈だから…。
「入りたいよ」と駄々をこねても、「子供は駄目なお店だから」と言われてしまう。そう書いてある、と指差されて。「入っても、外に出されてしまうよ」と。
もしもそんな目に遭ったとしたなら、心が傷ついてしまいそう。「どうして駄目なの?」と。
目を真ん丸にして父や母を見上げて、「嘘でしょ?」とも。
(ぼくなら、泣きそう…)
両親と街を歩いていた時、そういう店に出会ったら。何も知らずに料理に惹かれて、入りたいと思った素敵なお店。「此処がいいな」と足を止めたのに、「ブルーは駄目」と言われたら。
「ブルーの年だと入れないよ」と父が教えてくれたなら。母も「そうね」と頷いたなら。
いつも優しい筈の両親、その両親に「駄目」と引っ張られる手。
「此処は駄目だから、他のお店」と、「他にもお店は沢山あるから」と。
食べたい料理は、この店にしか無さそうなのに。メニューの写真はそういうものだし、何処にも同じものは無いのに。
分かっているのに、入れないお店。小さな子供はお断りの店で、子供の我儘は通らないから。
きっとホントに泣いちゃうんだよ、と光景が目に浮かぶよう。お店の表で踏ん張って泣くことはしないけれども、涙がポロポロ零れるだろう。「どうしてなの?」と。
美味しそうなのに、自分は入れないお店の料理。それが食べたいのに、子供は入れて貰えない。納得出来るわけがないから、泣きながら店を離れるのだろう。「ぼくは駄目なの?」と、振り返りながら。「あそこのお店が良かったのに」と。
歩く間も、止まらない涙。他のお店に入った後にも、まだポロポロと零れそう。
父がメニューを広げてくれて、「こんなのもあるぞ」と指差したって、母が「これも素敵よ」と言ったって。それがどんなに美味しそうでも、本当に食べたかった料理は…。
(…入れなかったお店の料理…)
今いる店には無い料理。だから注文して料理が来たって、またまた溢れ出しそうな涙。此処でもこんなに美味しいのならば、さっきのお店はもっと美味しい筈なのに、と。
(好き嫌いが無いのと、食べたいかどうかは別だから…)
泣きながら食べていそうな料理。子供が喜びそうなプレートで出て来ても。可愛らしい子供用のエプロンなんかを着けて貰っても、スプーンやフォークが子供用の特別なデザインでも。
(その内に涙は止まるだろうけど…)
御機嫌で食べるのだろうけれども、それまでの間。悲しい気持ちが消えない間は、涙が幾つも。
「どうして子供は入れないの?」と。
何も悪いことはしていないのに。お店に迷惑をかけてはいないし、入りたかっただけなのに。
写真の料理がとても美味しそうで、食べてみたいと思ったから。それが食べたくなったから。
けれど、入れもしなかった店。「小さな子供は入れませんよ」と、入る前から断られて。
そうなったならば、悲しくてたまらないだろう。自分がその目に遭ったとしたら、ポロポロ零すだろう涙。別のお店に入った後にも、其処で料理が出て来た後も。
(だって、断られちゃったんだから…)
小さな子供だというだけで、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた気持ち。
どう考えても、あんまりだから。小さな子供を断る店など、酷すぎるから。
「あのね、ハーレイ…。今日の新聞、酷いんだよ」
読んだら悲しくなって来ちゃった、と鳶色の瞳の恋人に報告。「あんまりだよ」と勢い込んで。
「酷いって…。お前の悪口でも書いてあったのか?」
今のお前ってことは無いから、前のお前だな。…ソルジャー・ブルー。
大英雄の悪口というのも珍しいが、とハーレイは派手に勘違いをした。「どう酷いんだ?」と。
「そうじゃないけど…。ぼくの悪口じゃないんだけれども、似たような感じ…」
ぼくが今より小さかったら、きっと悪口になるんだよ。子供は駄目です、って言うんだから。
新聞に記事が載ってたんだよ、小さな子供は入れないお店。
美味しそうなお店だったのに…。お料理の写真、とっても素敵だったのに。
でもね、小さな子供は入っちゃ駄目なんだって。…ハーレイ、酷いと思わない?
「…たまにあるだろ、そういう店」
多くはないが、珍しいとも思わないな、というのがハーレイの意見。驚いたことに。
「そうなの? それじゃ、ハーレイは酷いと思わないわけ?」
お店のやり方が正しいって言うの、小さな子供は入れないんだよ?
「まるで間違ってはいないと思うぞ。ゆったりと落ち着いて食事したい人も多いんだから」
そういうつもりで店に入っても、小さな子供がいたんじゃなあ…。
子供はどうしても賑やかに騒いじまうモンだし、走り回ったりする子もいるだろうが。
一緒に遊べる子がいなくたって、元気な子供はじっとしていないぞ?
お気に入りの歌を歌い出すとか、ナイフやフォークを振り回すとかな。
他のお客さんの気持ちを考えてみろ、とハーレイは店の肩を持つ方。店の雰囲気を保つためには必要なことで、小さな子供は駄目というのも不思議ではない、と。
「お客さんのために作った決まりだ。ごゆっくり食事をなさって下さい、というサービスだ」
子供が走り回っていったんじゃ、どうにも落ち着かないからな。歌にしたって。
「…そうじゃない子も沢山いるよ?」
大人しく座って食事をする子。…小さかった頃の、ぼくだって、そう。
パパやママとはお喋りしたけど、大きな声ではなかったと思う…。歌を歌ったりもしないよ。
それにお店で走りもしない、と言ったのだけれど。
「俺も充分、分かっちゃいるが…。店の方でも、そいつは承知しているぞ」
だがな、店が選んじゃ駄目だろうが。入って来た客の品定めってヤツは良くないぞ。
同じ子供でも、この子は店に入ってもいいが、この子は駄目だ、って言われて嬉しいか?
店に入ったら振り分けられてだ、入れる子供と断られる子に分かれちまうのは。
「それは嫌かも…。お店の人が決めるんだよね?」
ぼくは入れる方の子供でも、他の子供が断られるのを見たら楽しくなくなっちゃうよ。
いくら美味しいお料理が出ても、きっと、とっても悲しい気持ち。
断られてションボリ出て行く子供を見ちゃったら。…あの子も食べたかったよね、って…。
「分かったか。そうならないよう、最初から纏めて断ってるんだ」
大人しく出来る年になるまで、子供は全部駄目だとな。行儀のいい子も、そうでない子も。
それならそういうルールなんだし、お客さんにも失礼じゃない。
子供連れで入っちゃ駄目な店だ、と思うだけだし、不愉快な思いをすることもない。他の誰かの子供が食事をしてるというのに、自分の子供は断られちまって、ムッとするとか。
色々な人のことを思えば、一番安心なルールだな。
ゆっくり食事をしたい人にも、子供と一緒に楽しく食事をしたい人にも。
そうだろうが、と説明されたら、分からないでもないけれど。ハーレイの言葉が、きっと正しいけれども、それでも心に引っ掛かること。
ゆっくり食事をしたい大人も、子供連れの大人も、「これはルールだ」と分かるのだけれど。
小さな子供は、そんなルールは分からない。現に自分も、ハーレイに聞くまで怒っていたほど。なんという酷い店だろうか、と。
「それがルールかもしれないけれど…。だけど、子供は傷ついちゃうよ?」
小さいだけで、お店に入れないなんて。…美味しそうでも、お料理、食べられないなんて…。
ぼくならホントに泣いてしまうよ、入れても貰えないんだから。
「そうなっちまう子もいるんだろうが…。其処は前向きに考えないとな」
いつか入れる時は来るんだ、大きくなったら。そしたら此処に食べに来よう、と思うべきだぞ。
負けるもんかと、大きくなって来てやるんだから、と。
「…そういうものなの?」
ぼくだと、ポロポロ泣いていそうだけれど…。あのお店、ぼくは入れないんだ、って。
「いつまでも泣いちゃいないだろう? その内に機嫌も直るしな」
最初は悲しい気持ちになっても、何処かで考えを切り替えるもんだ。その日は無理でも、もっと先でも。…ある時、そいつに気付くってな。「大きくなったら行けるじゃないか」と。
ずっと子供のままじゃないから、いつかは行ける。店に入れる時が来るんだ。
もっとも、お前はチビのままでだ、少しも育ちやしないんだが。
「それは余計だよ、あのお店、ぼくでも入れるよ!」
ぼくの年なら入れるんだけど、入れない子が可哀相…。新聞の写真で行きたくなった子も、街で見掛けて入りたくなった小さな子供も。
「これが食べたい」ってパパやママに言っても駄目なんだよ?
此処は子供は駄目なお店、って言われておしまい。…どうして駄目なのか、分からないのに。
ハーレイが教えてくれたようなこと、小さな子供じゃ、聞いても意味が掴めないのに…。
お行儀のいい子ほど可哀相、と訴えた。お店の雰囲気を壊さないのに、小さな子供というだけで駄目。入れる資格は充分あるのに、年が足りないというだけで。
「そうでしょ、年の問題だけだよ?」
お店の人が入っていいかを決めるよりかはマシだろうけど、やっぱり可哀相だと思う。
あと一週間で入れる年になるんです、っていう子供だって入れないんだから。
「まあな。そういう意味では、可哀相かもしれないが…」
しかし、大きくなったら入れる。どんな子供でも、店が決めてる年になったら。
いつまで経っても入れて貰えないってわけじゃないだろ、其処はデカイぞ。
将来に夢と希望が持てるし、たかが料理の店にしたって、入れる時が必ず来るというのはな。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
お店の話と違うみたいに聞こえるんだけど…。お料理を食べに行く話とは。
「気付いたか? 前の俺たちの頃の話だ、今じゃとっくに昔話になっちまったが…」
あの時代にミュウに生まれちまったら、いつまで経とうがミュウのままだぞ。
いくら待っても、人類になれるわけじゃない。
小さな子供は大きくなれるが、ミュウは人類にはなれないだろうが。
どう頑張っても、人類の仲間入りをするのは無理だったんだ。一人前の人類にはなれん。
小さすぎて店に入れない子は、何年か待てば入れるが…。
前の俺たちはそうじゃなかっただろう?
人類の仲間入りなど出来やしないし、人類が入る店にも入れないままだ。…違うのか?
「そうだったっけ…」
人類とミュウは、違う生き物だと思われてたから…。
同じだとは思って貰えなかったし、人間だとさえ、誰にも思われないままで…。
今とはまるで違ったのだ、と思い出した時の彼方でのこと。
ミュウに生まれたというだけのことで、人間扱いされなかった前の自分たち。人類とは違うと、滅ぼすべきだと言われた種族。発見されたら処分されるか、研究施設に送られるか。
「…ホントだ、お店に入れる時なんて、絶対、来なかったよね…」
お店は人類のためだけにあって、人類が出掛けて行くための場所。…ミュウじゃなくって。
ミュウがお店に入ろうとしても、バレたら殺されちゃうんだから…。
「そういうことだな。…いくら大きく育っていこうが、ミュウは何処までもミュウなんだ」
シャングリラにしか居場所は無くてだ、人類の仲間入りは出来ない。人類になれやしないから。
それに比べりゃ、小さな子供が店に入れないっていう決まりくらいは可愛いもんだ。
いつかは必ず入れるんだし、子供の方も我慢しないとな。
少々、悲しい思いをしようが、そいつは小さい間だけのことで済むんだから。
「それでも酷いと思うけど…」
前のぼくたちよりはマシだけれども、悲しくなるのは子供なんだよ?
お店の決まりの意味も分からない小さな子供で、ポロポロ泣くしかないんだもの。
「酷いも何も、社会のルールでマナーなんだぞ。その店ならお前は入れるようだが…」
酒を飲むために入る店だと、お前でも無理だ。
もう文字通りに門前払いだ、中に入れては貰えないってな。…酒を飲める年じゃないんだから。
「そっちは仕方ないけれど…。駄目なことくらい、分かるけど…」
料理のお店はそうじゃないでしょ、お店の雰囲気だけのことだよ?
お料理は子供でも食べられるもので、食べたくなる子供、きっと沢山いる筈なのに…。
「さっきも言ったが、将来に希望が持てるだろうが」
大きくなったら食べに行くんだ、と入れる年になるのを夢見る。
次に店の前を通った時には、「前より少し育ったから…」と料理の写真を見るわけだ。
あとどのくらいで入れるだろう、と指を折って数えたりもして。
来年になったら入れそうだ、と胸を膨らませたり、早く誕生日が来てくれないかと思ったり。
前の俺たちにそれが出来たか、と問い掛けられた。将来に希望を持つということ。
「漠然としたヤツじゃ駄目なんだぞ? 具体的な目標になっていないと」
この日が来たら確実に叶う、という希望。…待っていれば必ずやって来る未来。
小さな子供は入れません、って店に入りたかったら、入れる年になればいいんだが…。
そういう夢を持つということ、前の俺たちに出来たのか…?
どうなんだ、と瞳を覗き込まれて、横に振るしかなかった首。「出来なかった」と。
「…前のぼくたちには、必ず貰える未来なんか何も無かったよ…」
地球に行こう、って思っていただけ…。地球に行ったら、ミュウも認めて貰えそうだから。
だけど、その日がいつになるかは分からなかったし…。来るかどうかも分からないまま。
それでも、地球に行くっていう目標が無いと、何も出来ないままだから…。
いつ行けるのかは、まるで見当もつかなくっても、それだけが希望…。
「ほら見ろ、前の俺たちには必ず貰える将来の希望は何も無かった」
誰でも貰えたものと言ったら、実験室とか、檻だとか…。ついでに殺されちまう結末。
実験室や檻でいいなら、誰だって入れて貰えたが…。
前のお前みたいなチビの子供でも、ちゃんと入れては貰えたんだが。
小さな子供は入れません、とは言われないでだ、他のヤツらと同じようにな。
「一緒にしないでよ、実験室と料理のお店を」
全然違うよ、料理のお店は入れなかったら悲しいけれど…。実験室とか檻だと、逆。
入れて貰えない方がずっといいんだし、断られた方がいいんだもの。
「そうか?」
一緒にしたっていいと思うがな、希望ってヤツを語るためには。
今の平和な時代だからこそ、一緒に語っちまっていいんだ。
希望が無かった前の俺たちのことと、小さすぎる子供は入れない店の話とをな。
今だから出来る話なんだ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。今のお前と俺だから、と。
「前の俺たちだった頃には、まだ見えてさえもいなかった。…ミュウの時代というヤツは」
そんな時代が来ればいい、と思ってはいても、いつ来るのかさえ分からなかった。
「小さな子供はお断りです」という料理の店なら、断られたって次があるんだが…。いつかその子が大きくなったら、ちゃんと店には入れるんだが…。
しかしミュウだと、そうはいかなかった。前の俺たちが生きた時代は。
人類の店にミュウは決して入れやしないし、入れる時だって来なかったんだ。大きくなろうが、ミュウは人類にはなれないからな。…いつまで経ってもミュウのままで。
ミュウの時代を掴むことさえ、夢物語だったのが前の俺たちだ。…長い長い間。
その点、今だと同じミュウでも大違いだぞ?
入っていい時まで待ちさえしたなら、どんな店でも入れて貰える。小さな子供は駄目な店でも、今のお前が門前払いを食らってしまう、酒を飲ませてくれる店でも。
「まだ入れません」と断られたって、何年か待てば堂々と店に入れるってな。小さかった子供は大きく育つし、チビのお前も大人になるから。
…いい時代だと思わんか?
同じミュウ同士で、「今はまだ駄目です」とも言えるんだから。
ミュウがルールを作っているんだ、人類じゃなくて。
小さな子供は入れない店も、チビのお前は断られちまう酒を飲ませる店にしたって。
前の俺たちの時代だったら、どんなルールも人類が決めていただろう?
同じ世界にミュウもいたのに、ミュウの意見は一切、抜きで。
人間扱いさえしようとしないで、何もかも人類のためだけにあった。色々な店も、店のルールも人類のためだ。…ミュウのためじゃなくて。
社会のルールがミュウを認めていなかったんでは、そうなっちまって当然だがな。
そんな時代が終わった今では、ミュウのルールだ、とハーレイは笑う。人類のルールは、何処を探しても残っていないと。
「元は人類のルールだったのを、ミュウが引き継いでるヤツも多いが…」
それだってミュウが決めたことだろ、「このルールは今も役に立つから使おう」と。
もう人類のルールじゃないんだ、ミュウが選んで「使おう」と決めた時点でな。
小さな子供は入れません、って店のルールも、元を辿ればSD体制よりも前の時代に遡る。まだ人間が地球しか知らなかった時代に、そういう店が生まれたそうだ。
だから元々は人類のルールだったわけだが…。そいつが今ではミュウのルールになったってな。
「ホントだ、そういう考え方も出来るね」
今のぼくたちの世界のルールは、人類が決めたルールじゃなくって、全部ミュウのルール…。
社会のルールも、色々なお店が作ったルールも。
それに何でも、「ミュウだから駄目」ってわけでもないし…。
小さな子供が入れないお店は、まだ小さすぎるから、っていうだけだものね。…小さな子供には可哀相でも、前のぼくたちが生きてた時代のミュウよりはマシ。
いつか大きくなった時には、お店に入っていいんだから。大きくなるまでだけの我慢で。
「そうなんだよなあ、お前は憤慨してたがな」
俺が来た途端に、「酷い」だなんて言い出して。…何のことかと思っちまったぞ。
お前は可哀相だと言うがな、あれはあれでだ、幸せなルールというヤツだ。
ちょっぴり意地悪なように見えても、子供にとっては励みにもなる。将来の夢で希望だな。
早く大きくなるんだ、と。
大きくなったら今は入れない店に入れて、美味い料理が食べられる。世界がグンと広がるんだ。そういう夢を持たせてくれるぞ、あのルールはな。
断られた時にはガッカリだろうし、泣いちまう子供も多いだろうが…。
其処の所を通り過ぎたら、待っているのは未来への夢だ。「大きくなろう」と、そしたら店にも入れるんだ、と。
もっとも俺は、お前にはゆっくり育って欲しいが…。
早く大きくなろうとしないで、今の幸せを味わいながら、子供らしく過ごして欲しいんだが。
何度も言ったろ、前のお前が失くしちまった子供時代の分までな。
今のお前は幸せに生きてゆけるんだから。…本物のお母さんたちと一緒に住んで。
慌てて大きく育つんじゃないぞ、と釘を刺された。まるで育たなくて、背丈も伸びないのが悩みなのに。今のハーレイに出会った時から、背は一ミリも伸びていないのに。
だから意地悪な恋人を見詰めて、こう訊いてみた。
「えっとね…。今日の新聞に記事が載ってた、小さな子供は入れないお店…」
あのお店、ぼくの年なら入れるけれど…。お料理、とっても美味しそうなんだけど…。
ハーレイ、食べに連れて行ってはくれないよね?
お店の話からミュウの話にもなっちゃったんだし、お店、一緒に行きたいんだけど…。
「駄目だな、デートになっちまうから」
お前と食事に行くとなったら、そいつは立派にデートだぞ?
その上、小さな子供は入れない店と来たもんだ。どう考えても、落ち着いた店に決まってる。
デートに使うかどうかはともかく、ゆっくりと食事を楽しむ店だな。俺が教え子たちと一緒に、ワイワイ出掛ける店と違って。
そんな店にお前を連れて行けるか、前のお前と同じ背丈に育っているなら別だがな。
「やっぱり…?」
「当たり前だろうが、これも何度も言った筈だぞ。デートは大きくなってからだ、と」
そういう話を持ち出すお前は、俺とデートに出掛けられる日を目指しているわけで…。
いつか必ず叶う将来の希望ってヤツが、お前の場合はデートなんだ。他にも色々ある筈だが。
店に入れない小さな子供も同じことだな、デートの代わりに店に入れる日を目指すんだ。
今は駄目でも、一人前の小さな紳士や淑女になろう、と。
そうすりゃ店の扉は開くし、美味しい料理を食べに入れる。子供ながらも、胸を張ってな。前は入るのを断った店が、今度は「どうぞ」と恭しく迎えてくれるんだから。
それでも酷い店だと思うか、お前が言ってた店のこと。
いつか入れるようになった時には、店の魅力もグンと大きく増しそうだがな?
前は入れなかったのに、と堂々と入って行く時には。…扉の向こうはどんな世界だろう、と。
テーブルや椅子はどんなのだろうと、料理の他にもお楽しみが山ほどあるだろうから。
「そうかもね…」
子供は駄目です、って断られてから、ずっと入りたかったんだから…。
夢だって大きく膨らんでるよね、断られないでスッと入れたお店より。食べたいお料理も増えていそうだよ、何度も何度も、お店の前を「まだ入れない…」って通っていた間に。
自分ならきっとそうなるだろう、と思ったこと。まだ入れない夢のお店は、憧れの店。通る度に膨らむだろう夢。扉の向こう側を夢見て、美味しそうな料理の写真を眺めて。
前の自分が、青い水の星に焦がれたように。まだ座標さえも掴めない地球、其処へ行こうと夢を描いたように。
前の自分と違う所は、店の扉は待てば必ず開かれること。子供にとっては長い時間でも、ほんの数年、待ちさえすれば。…店に入れる年にさえなれば。
其処が地球との違いだよね、と前の自分が辿り着けなかった青い星を思った。あの頃には地球は死の星のままで、青くはなかったのだけど。…青い地球は夢でしかなかったけれど。
その青い地球に来たのが今の自分で、世界のルールはミュウが決めたルール。前の自分が生きた時代は、ミュウという種族は店に入れもしなかったのに。
そう考えたら、ふと思い出した。前にハーレイから聞かされたこと。
「…ねえ、ハーレイ…。前のぼくたちが生きた時代は、お店、人類のためのものだったけど…」
アルテメシアを落とした後には、シャングリラの仲間も買い物に出掛けられたんだよね?
嬉しかったかな、初めてお店に入れた時は。…前のハーレイが配ったお小遣いを持って。
「そうに決まっているだろう? 買い物がそれは凄かったんだ、と話してやったぞ」
いったい何をする気なんだ、と思うような物まで買って来ちまって…。
出番が無さそうな自転車だとか、いつ着るんだと呆れるような服をドッサリ山ほどだとか。
無理もないがな、世界がいきなり大きく開けたんだから。
データくらいしか見られなかった店って所に、客として入って行けるんだからな。
気が大きくなって羽目も外すさ、とハーレイが苦笑するものだから。
「それと同じかな、今はお店に入れない小さな子供が、いつかお店に入れるようになる時も?」
夢が一杯で、胸だってきっとドキドキしてて…。
あれも食べよう、これも食べよう、って欲張りながら入るのかもね。沢山食べられないくせに。
子供なんだし、今のぼくより、もっと少ししか食べられるわけがないんだけれど…。
それでも欲張って注文するとか、注文しようとしてお父さんたちに止められるとか。
「うむ。初めての買い物に出掛けて行ったヤツらと全く同じだろうな」
しかも子供だから、もっと凄いぞ。夢も一杯、憧れ一杯、ついでに我儘一杯ってな。
さぞかし凄い光景だろうさ、とハーレイは大きく頷いた。シャングリラの仲間の比ではないと。
「ようやく店に入れた子供たちの感激は俺が保証するから、入れてやらない店を恨むな」
小さな子供を断るからには、そうする理由があるんだから。
他のお客のことを色々考えた上で、決めたルールだ。それに子供連れの親たちの方も、不愉快な気分にならないように。「あの子は良くて、うちの子供は駄目なんて」というのは嫌だろう?
最初から纏めて断っておけば、大勢の人が嫌な思いをしなくて済む。
断られた子供は可哀相だが、いつかは入れて、店への夢も憧れも膨らむわけだから…。
そうそう悪い話じゃないだろ、ミュウに生まれただけで酷い目に遭った時代に比べたら。…店に入れる権利どころか、生きる権利も無かったのが前の俺たちだしな?
「うん…。でも、ハーレイと一緒に行きたいなあ…」
あのお店、今のぼくでも入れるのに…。チビだけれども、小さい子供じゃないんだから。
ハーレイと二人で出掛けて行ったら、ちゃんと食事が出来るのに…。
でも連れて行ってくれないんだね、と尖らせた唇。「ハーレイのケチ!」と。
「それも理屈は同じだろ。…小さな子供は入れないのと、根っこの所は同じだってな」
俺と出掛けてゆくとなったら、それはデートになっちまうから…。
今のお前だと、デートが出来る背丈に育っていないんだ。店に入るには、まだ年が足りない子供みたいに。…二十センチほど足りていないな、お前の背丈。前のお前と同じになるには。
だがな、お前もいつかはデートに行けるんだ。俺と一緒に。
前のお前と同じに育てば、どんな店でも、デートだから、と堂々とな。
それを楽しみに待てば待つほど、デートの魅力も増すってもんだ。まだ入れない店の扉を眺める間に、どんどん夢が膨らむみたいに。…デートの魅力もそれと同じだ、きっと凄いぞ?
初めてのデートに行くとなったら、約束した時から夢がキラキラしちまってな。
「…もう相当に待ったんだけど…」
ハーレイにうんと待たされてるから、夢は一杯なんだけど…。憧れも、デートの魅力だって。
キラキラしすぎて、目が眩みそう。…それでもデートはまだ行けないの?
「まだだな、お前はチビなんだから」
ゆっくり育てと言っているだろ、今を楽しめ。…これはさっきも言ったことだが。
未来の夢もたっぷり見ながら、デートに行ける日を待つんだな。いつか必ず行けるんだから。
子供時代は今だけだぞ、とハーレイに念を押されたから。
「慌てるんじゃない」と、「急いで育つな」と、鳶色の瞳が優しい光を湛えるから。
少しも育たないチビだけれども、いつかデートに出掛けられる日を楽しみに待っていればいい。
ハーレイが「デートは駄目だ」と言うのも、意地悪ではなくて、ちゃんと理由がある。
つい「ハーレイのケチ!」と膨れてしまっても、唇を尖らせてしまっても。
(…ぼくが大きくなるまでは駄目…)
前の自分と同じ背丈に成長するまで、キスをするのも、デートも駄目。
それはハーレイが決めたルールで、小さな子供は入れない店と同じこと。今はそういうルールを守って、じっと我慢をするべき時。
ハーレイとの間のルールが大切、それを守ってゆくことも。
いつか必ず、デートに行ける日がやって来る。前と同じに大きくなったら、ハーレイとデートに出掛けてゆける。
今はデートに行けないルールが、「行ってもいい」と許してくれるから。
同じルールの筈だけれども、「駄目だ」から「いいぞ」に変わってくれる。
その日が来たなら、ハーレイと一緒に初めてのデート。
楽しみに待って、待って待ち続けて、幸せ一杯で出掛けてゆける。
ハーレイと二人で何処へでも行けるし、どんな店にも入ってゆける、今のルールが変わった時。
同じルールのままなのだけれど、前と同じに育ったら。
デートに行ける姿に成長したなら、必ずデートに誘って貰えて、幸せな時を過ごせるから…。
入れない店・了
※小さな子供は入れて貰えない、美味しそうな料理の店。憤慨したブルーですけれど…。
大きくなったら、もちろん入ってゆけるのです。未来に希望を持てる世界が、今という時代。