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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧
「こんにちは!」
 学校の帰り道に、ブルーが出会った人。バス停から家まで歩く途中で。
 顔馴染みの御主人で、家だって近い。でも、その家では犬を飼っていたろうか?
 元気に挨拶したのだけれども、ついつい犬を見てしまう。御主人が握ったリードの先の。
「えっと、この犬…」
 前からいたの、と訊いてみた。飼い始めたなら、母が教えてくれそうだから。子犬がいるとか、通ったら犬が座っていたとか。
「孫のだよ。預かってるんだ、旅行中でね」
 ペットのホテルよりも犬は嬉しいだろう、と笑顔の御主人。好きな時間に散歩に行けるし、顔を知っている人の家でもあるし、と。
 こうして話をしている間も、パタパタと尻尾を振っている犬。とても嬉しそうに。
 犬には詳しくないのだけれど、多分、昔の日本の犬の一種。大きい犬だ、とは思わなかったし、柴犬という種類だろうか。茶色い毛皮で、ピンと立った耳。
「吠えないね」
 ぼくを見たって、と見詰めた犬。散歩中の犬に近付きすぎたら、吠えることだって多いのに。
「人が好きなんだよ、撫でてみるかい?」
 吠えないし、もちろん噛みもしないよ、と御主人が言ってくれたから。
「いいの?」
 身体を屈めて撫でてみた背中。猫とは違った手触りだけれど、温かな身体。命の温もり。それにパタパタ振られる尻尾。ちぎれそうなほどに、右に左に。
 御機嫌なのだ、と分かるのが尻尾。そうやってブンブン振られていたら。
 顔を見たなら喜んでいると分かるけれども、それよりも分かりやすいのが尻尾。振られる尻尾は御機嫌な印、人に出会って振られる時は…。
(大好きの印…)
 その人のことが大好きですよ、と尻尾を振って伝える犬。会えてとっても嬉しいです、と。



 本当に人が好きなのだ、と尻尾のお蔭で分かるから。自分も好かれているようだから、御主人に尋ねることにした。今もパタパタ揺れている尻尾、それが気になってたまらない。
「尻尾、触ってみてもいい?」
 嫌がられるわけじゃなかったら、と眺めた尻尾。きっと大事な尻尾だろうし、触られたら嫌かもしれないから。飼っている人なら大丈夫でも、会ったばかりの自分は駄目とか。
 ちょっぴり心配だったのだけれど、「もちろんだよ」と答えた御主人。
「嫌がる犬もいるらしいけどね、触って貰うと喜ぶから」
 どうぞ、と出して貰えたお許し。いきなり尻尾は失礼かな、と背中から撫でて、尻尾に触れた。そうっと、御機嫌そうな尻尾に。
(ちょっとだけ…)
 引っ張るわけじゃないからね、と触った尻尾。犬は怒りはしなかった。代わりに尻尾がブンブン振られて、手にパタパタと当たったくらい。「もっと、もっと」と。
 それが嬉しくて、暫く夢中で犬と遊んだ。背中を撫でたり、尻尾に触らせて貰ったり。御主人が犬を座らせてくれて、握手をさせて貰ったり。
 いつまでも遊んでいたかったけれど、御主人も犬も散歩の途中。これから出掛ける所らしいし、あまり引き止めても悪いだろう。
(きっと沢山歩きたいよね?)
 道端で止まって遊んでいるより、元気に散歩。公園に行くとか、他にも色々。
 そう思ったから、「ありがとう」と御主人に告げたお別れ。「楽しかった」と頭を下げて。
 さよなら、と手を振った時にも揺れていた尻尾。「また遊んでね」とパタパタと。学校の帰りに会った時には、また遊ぼうと。
 御主人と一緒に歩き出しても、犬の尻尾は揺れたまま。「楽しかったね」と言うように。



 初めて出会った、柴犬らしい茶色の犬。ご近所さんの家に、今だけいる犬。
(可愛かったな…)
 小さい犬じゃなくても可愛いよ、と家に帰っても思い出す。おやつの間も、二階の部屋に戻った後も。なんて気のいい犬だったろうと、あんなに尻尾を振ってくれて、と。
 勉強机の前に座って、楽しかった時間に思いを馳せた。初対面なのに、吠えたりしないで尻尾も触らせてくれた犬。うっかり名前を聞き忘れたほど、アッと言う間に仲良しになれた。
 猫も好きだけれど、犬もいい。
 さっきみたいに、尻尾で自分の気持ちを伝えてくれるから。嬉しい時にはブンブン振って。
(猫の尻尾は、ちょっぴり気取った感じ…)
 犬とは全然違うよね、と考えてしまうのが猫たちの尻尾。しなやかな尻尾を得意そうに立てて、澄まし顔で歩いてゆく猫たち。
 尻尾はピンと立てているもの、犬のようにパタパタ振ったりはしない。猫たちならば。
(怒った時には振っているけど…)
 たまに見掛ける猫同士の喧嘩。道端とか、この家の庭とかで。
 睨み合ったまま姿勢を低くして、右に左に振られる尻尾。不機嫌そうな声で唸りながら。尻尾を地面すれすれに振って、バサリ、バサリと音がするよう。
 …ゆっくりと振るものだから。喧嘩の相手よりも自分が強い、と威嚇するために振る尻尾。
 猫が尻尾を左右に振るのは、そういう時。普段はピンと立てているだけ、驚いた時は…。
(…尻尾、パンパンに膨らんじゃって…)
 まるでブラシのようになる。怒った時にも、同じに膨らむ猫たちの尻尾。フーッと怒って、毛を逆立てて。身体中の毛が逆立ったならば、尻尾の毛だって逆立つから。
(犬でも猫でも、尻尾で分かるよ)
 どういう気持ちか、眺めただけで。御機嫌なのか、不機嫌なのか。
 仲間同士なら分かって当然、人間にだって通じる気持ち。「怒ってます」とか、「楽しいです」とか、尻尾の様子を見るだけで。
 御機嫌でパタパタ振られる尻尾や、ションボリと垂れてしまった尻尾。それを見たなら、ピンとくる気持ち。まるで言葉が通じなくても。



 便利だよね、と思った尻尾。犬や猫たちが持っている尻尾。仲間はもちろん、自分たちの言葉を知らない人間にだって、尻尾が気持ちを伝えてくれる。ブンブン振ったりするだけで。
(とっても便利に出来てるよね…)
 ああいう風に、尻尾で気持ちを伝えられたら素敵なのに。犬や猫たちの尻尾みたいに、自分にも尻尾。今の自分はサイオンがとても不器用になって、思念波もろくに紡げないから…。
(代わりに尻尾…)
 あったらいいな、と考えた尻尾。今の自分についていたなら、きっと尻尾は役に立つ。パタパタ振っていたならば。嬉しそうにブンブン揺れていたなら。
 尻尾があったら、ハーレイも一目で分かってくれる。どんなに好きでたまらないのか、会えたら嬉しくてたまらないのか。
 ハーレイに会ったら、パタパタ振られる自分の尻尾。帰り道に会った犬の尻尾みたいに。
(キスは駄目だ、って叱られたら…)
 どれほどしょげてしまうのかだって、尻尾がハーレイに教えてくれる。
 ついさっきまでパタパタ振られていたのが、ションボリとなって垂れ下がって。心そのままに、萎れた葉っぱみたいになって。
(…ホントに分かりやすいよね?)
 ぼくの気持ち、と思う「尻尾がある」自分。言葉では上手く伝わらなくても、頼もしい尻尾。
 それに尻尾は正直なのだし、嘘をついたりしないもの。心をそのまま映し出す鏡。
 誰だってそれを知っているから、ハーレイにもきっと分かる筈。嬉しい気持ちも、悲しい気分も伝わる尻尾。
 元気にパタパタ振られているのか、寂しそうに垂れてしまっているか。
 見れば気持ちが分かるのが尻尾、思念波では伝えられなくても。…上手く言葉に出来なくても。



 もしも尻尾を持っていたなら、今よりも素敵。そんな気分がしてくる尻尾。
 とことん不器用になったサイオン、それの代わりに尻尾があったら便利なのに、と。
(尻尾、欲しいな…)
 ぼくにも尻尾があればいいのに、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、問い掛けた。
「あのね、尻尾があったらいいと思わない?」
「はあ?」
 尻尾って何だ、と怪訝そうなハーレイ。「俺に尻尾があるといいのか?」と。
「違うよ、尻尾が欲しいのは、ぼく…。尻尾は尻尾で、本物の尻尾」
 動物って、尻尾を見れば気持ちが分かるでしょ?
 喜んでるとか、ガッカリだとか、怒ってるのとかも、全部、尻尾に出ちゃってる。
 犬とか猫が持ってる尻尾はそういう仕組みで、心の中身が表れるよね?
 気持ちを伝えるためのもの、と説明したら、ハーレイも「そうだな」と頷いた。
「確かに尻尾は分かりやすいが、犬の尻尾が欲しいのか?」
 犬の尻尾は、猫よりも分かりやすいしな。俺のお勧めは犬の尻尾だが…。
「ハーレイもやっぱり、そう思う? 猫より犬の尻尾がいい、って」
 だけど欲しいのは、本物の犬の尻尾じゃなくって、猫の尻尾が欲しいわけでもなくて…。
 ぼくに尻尾があったらいいな、って。
 本当に本物のぼくの尻尾で、ぼくのお尻に生えてる尻尾。ちゃんと毛皮もくっついたヤツ。
 尻尾があったら、思念波の代わりに直ぐに分かるよ。ぼくの気持ちがハーレイにもね。
 ちょっと尻尾の方を見たなら、心の中身が丸ごと尻尾に出てるんだから。
 ハーレイに会えて嬉しい気持ちも、ハーレイが好きでたまらないのも。
 きっと今なら、ちぎれそうなくらいに振ってると思う。…ぼくに尻尾がついていたらね。



 ハーレイが来てくれたから嬉しいんだもの、と言葉で伝えた自分の気持ち。
 尻尾があったら、もうそれだけで伝わるのに。パタパタと振れば、直ぐに分かって貰えるのに。
「…こんな風に言葉にしなくてもいいよ、尻尾があれば」
 ハーレイが尻尾を見てくれるだけで、ぼくの気持ちが分かるんだもの。
 だから欲しいな、と話した尻尾。うんと不器用な思念波の代わりに、ぼくに尻尾、と。
「なるほどなあ…。そういう理由で尻尾が欲しい、と」
 お前の気持ちは分からないでもないんだが…。
 本物の尻尾を持つんだったら、お前の場合はウサギの尻尾になっちまうのか?
 ウサギの尻尾か、と尋ねられたから、キョトンとした。質問の意味が掴めなくて。
「…ウサギ?」
 どうしてウサギの尻尾になるわけ、ハーレイのお勧めの尻尾じゃないよ?
 お勧めは犬の尻尾だって言っていなかった?
 …ぼくにくっつける尻尾の話とは違ったけれど…。分かりやすい尻尾のことだったけれど。
 心の中身を伝えやすいのは犬の尻尾なんでしょ、そうじゃないの?
 猫よりも犬、と「俺のお勧めだ」と言われた尻尾を挙げたのだけれど。
「そいつは尻尾の分かりやすさで、お前の尻尾の話じゃないぞ」
 お前が尻尾を持つんだったら、その方向で考えないとな。…お前に似合いそうな尻尾を。
 それでウサギの尻尾なのかと訊いたんだ。
 俺たちはウサギのカップルだからな、お互い、ウサギ年だから。
 ついでにお前がチビだった頃は、ウサギになりたかったそうだし…。元気に走り回れるウサギ。
 お前がウサギになっていたなら、俺も茶色のウサギになるって話をしてたと思うんだが…?
「そうだっけね! 白いウサギと茶色のウサギ…」
 ぼくたちが一緒に暮らせるように、ハーレイが巣穴を広げてくれるんだっけ。ぼく用の巣穴だと狭すぎるから、もっと広くて立派な巣穴になるように。
 それなら、ぼくが尻尾を貰うんだったら、ウサギの尻尾。
 犬の尻尾よりも、ウサギの尻尾の方がピッタリ。…ぼくの姿は人間だけどね。
 あれ?
 でも、ウサギって…。



 素敵な尻尾が見付かったよ、と思ったウサギの尻尾。自分らしくて、ハーレイもお勧め。
 もしも尻尾をつけて貰えるなら
、断然、ウサギ、と考えたけれど。ウサギに決めた、と真っ白な尻尾を夢見たけれども、その尻尾。フワフワの毛皮のウサギの尻尾。
 ウサギは尻尾をどう動かしているのだろう?
 嬉しかったらパタパタ振るとか、ションボリしたら垂れ下がるとか。ウサギの尻尾は、そういう動きをしていたろうか…?
(…幼稚園の時、ウサギの小屋…)
 お気に入りでいつも覗いていた。ウサギと友達になりたくて。友達になれたら、自分もウサギになれるだろうと考えて。
 熱心に見ていたウサギだけれども、肝心の尻尾のことを知らない。ピョンピョン跳ね回っていたウサギたちは、尻尾で気持ちを伝えて来たりはしなかったから。
(…尻尾よりは、耳…)
 ウサギの気持ちは耳で分かった。ピンと立てたり、神経質にピクピクさせていたりと。
 嬉しい気持ちや悲しい気持ちを伝える時には、ウサギは耳を使ったろうか?
 幼かった自分はそこまで観察しなかったけれど、尻尾の代わりに耳で表現していただとか。
(尻尾も使うかもだけど…)
 人間にまでは通じない。ウサギ同士でしか分からないだろう、尻尾で表すウサギの気持ち。
 これでは駄目だ、と気が付いた。
 いくら自分に似合うとしても、ウサギの尻尾では気持ちが伝わらない。
 誰よりもそれを知って欲しい人に、ハーレイに分かって貰えない。
 ウサギが尻尾をどう動かしたら御機嫌なのか、ハーレイは知らないだろうから。ウサギの尻尾が欲しいと思った、自分だってまるで知らないから。



 言葉を使って伝えなくても、思念波が駄目でも、自分の気持ちが伝わる尻尾。
 欲しい尻尾はそういう尻尾で、ウサギの尻尾では話にならない。気持ちが伝わらないのでは。
「…ハーレイ、ウサギの尻尾は駄目だよ」
 ウサギ年のぼくにはピッタリだけれど、素敵だと思ったんだけど…。
 使えないよ、と小さな溜息。「ウサギの尻尾は、ちっとも役に立たないみたい」と。
「何故だ? お前に似合いそうだと思うんだが…」
 真っ白でフワフワの尻尾だしなあ、犬よりもお前らしいぞ、ずっと。それに可愛いじゃないか。
 ウサギの尻尾は何故駄目なんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「良く似合うのに」と。
「見た目は駄目じゃないんだけれど…。ウサギの尻尾、ぼくも好きだけど…」
 でもね、ウサギが尻尾をどう動かすのか、ぼくは少しも知らないんだよ。
 幼稚園の時に何度も見てたけれども、嬉しい時の動かし方とか、悲しい時の様子とか…。
 どうなってたのか、ホントに知らない。耳の方なら、尻尾よりかは分かるけど。
 普通の人はきっとそうだよ、ハーレイだって詳しくないでしょ?
 ウサギの尻尾の動かし方、と言ったら「確かにな…」と苦笑したハーレイ。
「俺にもウサギの尻尾は分からん。見るなら耳だな、お前が正しい」
 ウサギの尻尾は可愛らしくても、くっつける意味が無いってことか。お前の気持ちが伝わらない尻尾じゃ、ただの飾りになっちまうしな。
 そうなってくると、犬の尻尾か、猫の尻尾になるんだろうが…。
 お前に似合う尻尾となったら、どれなんだか…。ウサギがいいと思ったのになあ…。
 ウサギの尻尾が駄目ってことはだ、何の尻尾が似合うんだろうな…?



 犬にも猫にも、尻尾の種類は色々あるし…、と考え込んでいるハーレイ。腕組みまでして。
 「俺のお勧めは犬なんだが…」と言っていたくせに、猫の尻尾も挙げてみている。長毛種の猫の尻尾もいいとか、シャム猫の尻尾も捨て難いとか。
「…チビのお前じゃ、シャム猫の尻尾は今一つ似合わないんだが…」
 大きくなったら似合うと思うぞ、ああいう澄ました尻尾もな。とびきりの美人になるんだから。
 フサフサの猫の尻尾も似合いそうだな、犬の尻尾も悪くはないが…。
 猫もなかなか…、とハーレイの考えは「似合うかどうか」の方に傾いてゆくものだから。
「似合う尻尾が一番いいに決まっているけど、ウサギの尻尾は駄目だったでしょ?」
 気持ちが伝わる尻尾でなくちゃ。…ぼくが言葉を使わなくても、思念波がまるで駄目でもね。
 そういう尻尾、あったらホントに便利だろうと思わない?
 ハーレイに会えて嬉しい時には、尻尾も御機嫌。ぼくが不機嫌なら、尻尾も不機嫌。
 気持ちは尻尾が伝えてくれるわけだから…。
 ハーレイがキスを断った時も、尻尾はとても便利だよ?
 ぼくは怒ってプウッと膨れていなくても済むし、ハーレイも「ケチ!」って言われないしね。
「代わりに尻尾が言うんだろうが。…俺に向かって、「ハーレイのケチ!」と」
 言葉かどうかはともかくとして、「ケチ!」と動いている尻尾。
 その上、プウッと膨れてるんだな。お前の膨れっ面の代わりに、それは見事に。
 尻尾が膨らんじまっているのか、そいつは見ないと分からんわけだが…。
 それでも見れば分かるって仕組みなんだな、とハーレイはお手上げのポーズ。両手を軽く広げてみせて、「そりゃたまらんな」と。
 言葉と顔とでケチ呼ばわりか、尻尾に「ケチ!」と言われるのか。どう転んだって、ハーレイはケチと言われる立場で、膨れっ面もされるわけだから。
「尻尾、良さそうだと思うんだけど…」
 不器用なぼくでも、思念波の代わりに尻尾があったら、言葉無しでも伝わるから…。
 尻尾はとても役に立つから、尻尾、ホントに欲しいんだけどな…。



 ぼくの気持ちが伝わる尻尾、と繰り返したら、「ふうむ…」と少し翳ったハーレイの瞳。尻尾の話には似合わない、深い瞳の色。お日様が急に翳ったように。
「お前の気持ちが伝わる尻尾か…。その尻尾は、今のお前より…」
 前のお前に欲しかったな、とハーレイは意外な言葉を口にした。ソルジャー・ブルーだった前の自分には、尻尾なんかは要らないのに。尻尾が無くても困らないのに。
 最強のサイオンを誇っていたのがソルジャー・ブルー。思念波の扱いだって、誰よりも上。
 なのに、どうして尻尾が欲しいと言うのか、まるで分からないものだから…。
「…前のぼくにって…。なんで?」
 前のぼくなら、思念波、ちゃんと使えたんだよ。尻尾は要らなかったんだけど…。
 尻尾がついていなくったって、前のぼく、困りはしなかったよ…?
「お前には必要無かっただろうな、尻尾なんぞは」
 そのくらいは俺にも分かっている。前のお前に尻尾が要らないことは充分、承知してるが…。
 欲しかったのは俺だ、お前に尻尾があったらな、と。
 ソルジャー・ブルーに尻尾があったら、俺の役に立ってくれただろうに、と思うんだ。
「尻尾がハーレイの役に立つって…。どうしてなの?」
 前のぼくの心、そんなに覗いてみたかった?
 心は遮蔽していたけれども、ハーレイの前では緩めていたよ?
 わざわざ尻尾で確かめなくても、前のハーレイはぼくの心を覗き込めたと思うんだけど…。
 滅多に読まれなかったけれどね、と優しかった前のハーレイを想う。余程でなければ、読まれはしなかった心の中身。…隠し事を秘めていた時だって。フィシスを見付けた時のこととか。
 前のハーレイなら心を覗けた筈なのだけれど、どうして尻尾が欲しいのだろう?
 尻尾で何を知りたかったのだろう、と首を捻っていたら…。
「俺が尻尾を欲しがる理由か? 尻尾に気持ちが表れるからだ」
 お前がいくら隠していたって、お前の心が丸分かりだろうが。…尻尾があれば。
 誰が見たって、尻尾なら分かる。お前が何を考えてるのか、どういう気持ちでいるのかが。
 だから、尻尾さえついていればだな…。



 メギドに飛ぼうとしていた時だ、と真っ直ぐに覗き込まれた瞳。前のハーレイとの別れの時。
 白いシャングリラのブリッジに行って、ハーレイにだけ告げていた別れ。触れた腕から、そっと思念を滑り込ませて。「ジョミーを支えてやってくれ」と。
 ハーレイだけに密かに伝えた、前の自分が死に赴くこと。二度とシャングリラに戻らないこと。
 それにブリッジの誰もが気付いた、と今のハーレイに指摘された。
 尻尾は嘘をつけないから。心の中身が、そのまま尻尾に出てしまうから。
「どんなにお前が隠していたって、無駄だってな。…お前に尻尾がくっついていれば」
 顔には出さずに立っていてもだ、尻尾にちゃんと出ているわけだ。…お前の気持ち。
 もうシャングリラには戻れないんだ、と尻尾は知っているんだからな。
 シュンと萎れてしまっているのか、元気が無いか。…どっちにしたって、言葉通りじゃないのは分かる。ナスカの仲間たちの説得、それだけだったら、尻尾はそうはならないからな。
「…そうなのかも…」
 尻尾は心と繋がってるから、ホントに尻尾に出ちゃうかも…。前のぼくの心、隠していても。
「ほら見ろ、否定出来んだろうが」
 そうなっていれば、みんなが気付いてお前を止めたぞ。ジョミーだってな。
 お前に尻尾がありさえすれば、俺はお前を失くさなかった。…みんなが止めてくれるんだから。
 俺が動けなかったとしたって、ブリッジのヤツらが全員でな。
 止められちまえば、振り払ってまでは行けんだろうが。力にしたって、ジョミーがいるし。
 違うのか、うん?
 前のお前に尻尾があったら、お前は行けやしなかった。
 俺にだけコッソリ言葉を残して、一人きりでメギドに行こうとしてもな。



 尻尾は大いに役に立つんだ、というのがハーレイの主張。ソルジャー・ブルーを失わずに済む、とても大切で役立つ尻尾。本当は何をしようというのか、尻尾を見れば分かるから。
「お前の尻尾が、お前の命が消えちまうのを防ぐってな」
 尻尾は嘘をつけないからなあ、お前の心をそっくりそのまま、鏡みたいに映すんだから。
 お蔭で俺たちは前のお前を止められる、とハーレイが語る尻尾の役目。ブリッジの仲間に真実を伝えて、前の自分を止めさせること。「ソルジャー・ブルーを行かせては駄目だ」と。
「…そんな尻尾、マントで隠しておくよ」
 どうせ尻尾はマントの下だし、誰も覗けはしないもの。…ぼくの尻尾がどうなっていても。
 見えない尻尾はどうしようもないでしょ、気付く仲間は一人もいないよ。
 最初から見えていないんだから、と尻尾を隠してくれるマントに感謝したのに…。
「マントに隠れて見えないってか? 其処の所は心配は要らん」
 邪魔なマントは、俺が「失礼します」とめくるまでだ。お前の尻尾が良く見えるように。
 お前からの思念を受け取った後に、掴んでめくっちまってな。
 ブリッジのヤツらにも、ジョミーにも尻尾が見えるように…、とハーレイは笑う。マントの下に隠していたって、捲れば尻尾は出て来るから、と。
「めくるって…。ホントに失礼だと思うけど?」
 ソルジャーのマントを、みんなの前で捲るだなんて。…尻尾を丸見えにしちゃうなんてね。
 エラが怒るよ、と眉を顰めたけれども、「非常時だしな?」とハーレイは澄ました顔。
「失礼だとしても、ソルジャーの命には代えられん」
 お前を失くしちまうよりかは、ソルジャーに無礼を働いた方が遥かにマシだ。そう思わんか?
「そんなことをしたら、恋人同士だってバレちゃうよ?」
 ハーレイがぼくを失くしたくないこと、ブリッジどころか、船のみんなに。シャングリラ中に。
「いや、バレたりはしないってな」
 お前の尻尾を皆に見せるのも、立派にキャプテンの仕事の内だ。マントをめくっちまうのも。
 ソルジャー・ブルーは嘘をついているんだ、と全員に知らせなきゃいけないだろうが。
 前のお前を失くしちまったら、大損害ってヤツなんだから。…それこそ取り返しがつかん。
 お前の思念を受け取っただけじゃ、黙って見送るしか無かったんだがな…。
 他のヤツらはお前の言葉を信じてたんだし、前の俺には証明しようがないんだから。
 これは嘘だと、本当は二度と戻らないんだ、という俺だけが知っていたことを。



 其処の所が変わってくる、とハーレイの顔に溢れる自信。「前のお前に尻尾があれば」と。
 ソルジャー・ブルーをメギドに行かせはしないと、全員で止めてみせるから、と。
「俺の役目は、前のお前にちょいと無礼を働くことで…」
 マントをめくって尻尾を披露だ、嘘をつけない正直なお前の尻尾をな。
 お前がいくら嘘をついても、尻尾は正直者だから…。誰が見たって、嘘だと見破れるんだから。
 これもキャプテンの役目なんだ、とハーレイが言うのも間違いではない。ソルジャー・ブルーを失う道より、失わない道を選ぶのもまた正しいから。
 その道を選んで進んだ結果が、どうなろうとも。…地球に着くのが遅れようとも。
「…尻尾、そういう風に使うの?」
 ぼくの尻尾、と見詰めた恋人。ソルジャー・ブルーの嘘を尻尾で、皆に暴きたかったハーレイ。
 嘘をつけないだろう尻尾を、ブリッジの皆に「こうだ」とマントをめくって見せて。
「前のお前についていたならな」
 俺の役に立つと言っただろうが、前のお前に尻尾がくっついていれば。…欲しかった、ともな。
 しかしだ、今のお前じゃなあ…。尻尾、あっても大して変わりはしないぞ。
 どんな尻尾がついていたって、今のお前の人生ってヤツは変わらんさ。
 まるで同じだ、と笑ったハーレイ。「尻尾があろうが、無かろうが、全く同じだよな」と。
「大違いだと思うけど…」
 尻尾はとても便利なんだし、ぼくの気持ちをハーレイに伝えてくれるから…。
 ホントに尻尾があればいいのに、前のぼくには要らないけれど。前のぼくだと、尻尾があったら大変なことになっちゃうから…。メギドに行けなくなってしまって。
「今のお前も尻尾は要らんと思うがな?」
 お前の心の中身だったら、俺には手に取るように分かるさ。…尻尾が無くても、表情だけで。
 それにだ、心の欠片も幾つも零れているし…。前のお前だった頃と違ってな。



 さっきまでは尻尾で弾んでいたぞ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
 「あればいいな」と、心の欠片がキラキラ零れていたが、と。
「今はションボリしているようだが…。前のお前の話になって」
 前の俺を独りぼっちにしちまったことや、メギドなんかを思い出してな。…尻尾のせいで。
 どうだ、俺の読みは間違ってるか?
 お前に尻尾はついちゃいないが、俺にはこう見えているんだが…?
「…間違ってない…」
 ハーレイが言うこと、当たっているよ。…尻尾が欲しくてはしゃいでいたのも、今はションボリしてるのも。…ちょっぴりだけどね、ションボリなのは。
「ほらな、きちんと当てただろうが。…だからお前に尻尾は要らない」
 俺にはいつでも、お前の気持ちが分かっているんだ。尻尾が無くても、お前の気持ちは全部。
 尻尾無しでも、何も問題無いってな。俺には伝わっているんだから。
「でも、キスをしてくれないじゃない!」
 ぼくの気持ちが分かっているなら、ハーレイはキスをくれる筈だよ!
 キスして欲しいの、本当にホントなんだから…。尻尾があったら、ちゃんと見えるんだから!
「そいつも俺には分かっているぞ。お前の心は尻尾無しでも丸見えだしな」
 しかし、それとキスとは話が別だ。分かっていたって、叶えてやれないこともある。
 キスが駄目な理由、嫌というほど何度も説明してやったがな?
 まだ足りないなら、いくらでもお前に聞かせてやるが。
「ハーレイのケチ!」
 分かってるんなら、キスしてくれてもいいじゃない…!
 尻尾が無くても分かるほどなら、ぼくにキスしてくれてもいいのに…!



 ケチなんだから、とプウッと膨れてやったら、「ふむふむ…」と楽しげなハーレイの顔。
「お前のお得意の膨れっ面だな。それを尻尾でやるとなったら…」
 どんな具合になるやらなあ?
 尻尾もプウッと膨れちまうのか、それとも怒った猫の尻尾みたいにユサユサ揺れるか。
 犬の膨れっ面は知らんが、そういう時の尻尾はどうなっているのやら…。
 もっとも、お前は尻尾でやるより、顔の方がいいと思うがな?
 俺もお前の顔を見ていられるわけだし、尻尾よりかは顔でお願いしたいモンだが。
「え?」
 顔って何なの、なんで尻尾より顔になるわけ?
 ぼくに尻尾がついていたって、膨れるのは顔がいいって言うの…?
 膨れた顔の方が好きなの、と丸くなった目。尻尾で気持ちを表せるのなら、膨れっ面をしなくていいのに。ハーレイだって、いつも「フグだ」と言っている顔を見なくて済むのに。
「お前が膨れないというのは、まあ、有難くはあるんだが…」
 可愛らしい顔のままなわけだし、膨れっ面よりはいいんだが…。問題はお前の尻尾なんだ。
 もしもお前に尻尾があったら、そっちにも気を配らなきゃいかん。
 俺の考えで合っているのか、間違ってるのか、そういったトコ。
 尻尾は嘘をつけないからなあ、念のために確認しておかないと。お前の顔と尻尾と、両方。
「…じゃあ、ハーレイの視線がズレちゃうの?」
 ぼくの顔から尻尾の方に?
 膨れっ面なのか、そうじゃないのか、ハーレイは尻尾を見て確かめるの?
「そうなるだろうな、尻尾があれば」
 お前の心が零れていたって、顔も尻尾も確かめないと…。
 そいつが礼儀というモンだろうが、お前には尻尾があるんだから。嘘をつけない尻尾がな。



 正直者な尻尾がどうなっているか、それをきちんと確かめること。忘れないように、顔と両方。
 顔は笑顔でも、尻尾は膨れてフグのようかもしれないから。…尻尾は嘘をつかないから。
「初めてのキスをしようって時になっても、まずは尻尾の確認かもな」
 俺はともかく、お前の気持ちが大切だから…。
 キスをしたい気分になってるかどうか、顔を見て、次は尻尾を見る、と。
 尻尾の確認を忘れちゃならん、とハーレイは大真面目な顔だから。
「それって、雰囲気が台無しだよ!」
 ぼくの顔から視線を逸らして、尻尾だなんて!
 キス出来るんだ、ってドキドキしながら待っているのに、尻尾を確認するなんて…!
 酷い、とプンスカ怒ってやった。「あんまりだよ」と、「それでもホントに恋人なの?」と。
「そう思うんなら、尻尾は要らないってことだろうが。…今のお前には」
 俺だってお前の顔だけを見てキスをしたいし、尻尾にまで気を配るのは遠慮したいしな。
 もっとも、その迷惑な尻尾ってヤツ。
 前のお前には、ついていた方が良かったな、と思わないでもないんだが…。
 尻尾がついてりゃ、前の俺はお前を失くしていないんだから。
「それはそうかもしれないけれど…。前のハーレイ、喜んだかもしれないけれど…」
 前のぼくだって、尻尾を確認してからのキスは喜ばないよ!
 マントをめくって、みんなに尻尾を見せる方なら、今のぼくなら許すけど…。
 前のハーレイが辛かったことを知っているから、それは許してあげるんだけれど…。
 だけど、キスの前に尻尾を確認してたら怒るよ?
 今のぼくでも、前のぼくでも、それはホントに怒るんだからね…!
「よし。だったら尻尾は要らない、と」
 尻尾があったらそうなっちまうし、尻尾は無いのが一番だ。
 猫のも犬のも、ウサギの尻尾も。…欲しがらなくても、お前には必要無いんだから。



 お前の心はきちんと顔で分かるから、という言葉。
 褒められたのか、サイオンの扱いが不器用なのを馬鹿にされたのか。
 少し複雑な気分だけれども、ソルジャー・ブルーに尻尾があれば、と思ったハーレイ。尻尾さえあればメギドに飛ぶのを止められたのだ、と考えるハーレイの気持ちは分かるから…。
「…今度は嘘はつかないよ」
 前のぼくみたいな嘘は、絶対つかない。
 ハーレイがぼくの尻尾をみんなに見せなくちゃ、って思うようなのは。…マントの下になってる尻尾を、「失礼します」って出さなきゃいけないようなのは。
 もうやらない、と約束しようとしたのだけれど。
「その必要も無いだろ、今は」
 お前が嘘をついたとしたって、その嘘にお前の命は懸かってないからな。
 前のお前の頃と違って、今は平和な時代だから…。命懸けの嘘は無理なんだから。
「そうだっけ…!」
 嘘をついても、ハーレイに叱られるだけでおしまい。
 前のハーレイにやったみたいに、悲しませたりはしないから…。
 ハーレイを置いて行ったりしないし、独りぼっちにさせもしないよ。…いつまでも一緒。
 ぼくに尻尾が欲しかったなんて、もう絶対に言わせないから…!



 サイオンが不器用になってしまって、気持ちを表す尻尾が欲しいと思うくらいの自分だけれど。
 尻尾が欲しいと考えたけれど、不器用な自分に合わせたように、今は世界もすっかり平和。
 だから尻尾を欲しがらなくても、幸せに生きてゆけるだろう。
 猫の尻尾も犬の尻尾も、もちろんウサギの尻尾だって。
 わざわざ尻尾を見て貰わなくても、心の中身はハーレイに筒抜けらしいから。
 さっきもハーレイは心を見事に言い当てたのだし、尻尾は無くてもかまわない。
 尻尾なんかを見てはいないで、顔だけを真っ直ぐ見ていて欲しい。
 青い地球にハーレイと二人で生まれ変わって、一緒に生きてゆくのだから。
 ハーレイの瞳で顔だけを見詰めて貰える世界の方が、ずっと幸せに違いないから…。




             尻尾があれば・了


※ブルーが欲しいと思った尻尾。ハーレイは、前のブルーに尻尾が欲しかったとか。
 確かに尻尾があった場合は、メギドへ飛べなかったかも。そして今は、尻尾は要らない世界。
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(えーっと…?)
 困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
 今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
 何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
 黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
 ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
 せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
 なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
 思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
 口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
 それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
 優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
 それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
 話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。



 それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
 ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
 二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
 それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
 お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
 前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
 生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
 ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
 どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
 死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
 だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
 ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
 分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
 当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
 天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
 そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。



 会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
 それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
 俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
 もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
 ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
 とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
 猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
 三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
 猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
 どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
 通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
 庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
 天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
 それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
 俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
 離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
 ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
 しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
 待てよ…?



 天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
 そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
 ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
 天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
 今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
 話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
 青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
 まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
 あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
 青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
 違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
 あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
 覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
 正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
 ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。



 思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
 まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
 とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
 あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
 いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
 静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
 今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
 見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
 様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
 ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
 白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
 ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
 だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
 あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
 退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
 今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。



 遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
 それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
 天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
 一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
 そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
 我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
 天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
 神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
 笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
 人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
 そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
 もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
 さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
 天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
 天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
 会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
 これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。



 それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
 今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
 けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
 いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
 今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
 シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
 天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
 上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
 そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
 今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
 「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
 白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
 何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
 今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
 皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
 ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。



 他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
 もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
 ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
 何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
 みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
 「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
 天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
 上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
 まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
 しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
 今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
 心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
 キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
 「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
 前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
 会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
 どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
 誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
 こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
 あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
 前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
 白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
 通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
 何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。



 願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
 それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
 前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
 会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
 通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
 一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
 狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
 このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
 俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
 自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
 疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
 前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
 みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
 前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
 だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
 急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
 天使、いるよね?
 本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
 シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
 お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
 そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
 神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
 天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。



 前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
 純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
 お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
 守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
 きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
 聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
 そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
 猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
 ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
 猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
 俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
 だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
 俺たちの様子を見に来たってか?
 あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
 ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
 それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
 今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
 天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
 それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。



 こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
 ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
 聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
 「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
 椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
 天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
 ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
 だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
 俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
 うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
 恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
 天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
 ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
 「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
 いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
 きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
 神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
 唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
 ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
 唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
 とても優しいキスだったけれど。
 ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。



 あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
 ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
 こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
 ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
 やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
 けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
 天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
 ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
 ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
 チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
 なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
 子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
 だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
 俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
 いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
 ケチと言われようが、睨まれようがな。
 俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
 ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
 恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
 天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
 キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
 きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。



 そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
 恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
 天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
 でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
 違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
 あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
 それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
 俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
 これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
 どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
 唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
 いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
 前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
 ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
 幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
 お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
 色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
 今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。



 天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
 その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
 不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
 今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
 ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
 シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
 白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
 天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
 神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
 今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
 何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
 叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
 神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
 白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
 ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。



 白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
 そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
 姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
 それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
 青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
 地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
 欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
 こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
 天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
 今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
 どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
 本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
 ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
 前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。



 我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
 いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
 今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
 部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
 幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
 ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
 本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
 たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
 ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。




              天使が通る時・了


※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
 シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
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「こらあっ、そこ!」
 今、何をしてた、と響き渡ったハーレイの声。教室中に、窓のガラスまで揺れそうなほどに。
 ブルーも含めて教室の皆が驚いた。いったい何が起こったのかと、誰もが目を丸くしている中。並んだ机の間の通路を、ゆっくりと歩いてゆくハーレイ。一足、一足、踏みしめるように。
 やがて止まった、一人の男子生徒の側。彼の机を指でトン、と叩くと…。
「出せ、今のを」
 此処に、と促す机の上。「今のを此処に出すんだな」と。
「何もしていません!」
 男子生徒は叫んだけれども、顔には「違う」と書かれている。そういう表情なのだから…。
「俺には何か見えたんだがな?」
 確かに見たぞ、とハーレイの方も譲らない。「早く出せ」と。
「見間違いです、先生の!」
「…そうか?」
 俺はそうとは思わんが、とハーレイが手を突っ込んだ机。「なら、確かめてみるとするか」と。中を探って、引っ張り出して来た漫画の本。「読んでたろうが」と机の上に。
 男子生徒は顔色を変えたけれども、それでも懸命に言い張った。
「いえ、この本は休み時間から入れてただけで…」
 授業のチャイムが鳴ったんで、此処に入れたんです。別に鞄に入れなくても…。
 みんな色々入れてますよね、漫画でなくても。お弁当とか、本だとか…。



 漫画の本だって同じなんです、と必死の言い訳。ハーレイに発見されたのだったら、読んでいたことは確実なのに。それでも彼は「やっていない」と繰り返すから…。
「いい度胸だ。なら、手を出せ」
「え?」
 目を見開いた男子生徒に、ハーレイはこう言葉を続けた。
「出したくないなら、手を出さなくてもいいんだが…。この距離だったら簡単だからな」
 言わない以上は、読むしかなかろう。…お前の心。
 手を握れたら俺も楽だが、出さないのなら仕方ない。いいから、そのまま座ってるんだな。
「せ、先生…?」
「お前が潔白だったら謝る。俺の目が節穴なんだから」
 だが、違ったなら、宿題をサービスするからな?
 お前は授業中に漫画で、俺に嘘までついたんだ。やっていない、と。…さて、読むとするか。
 俺か、お前か、どっちの言うことが正しいか…、とハーレイがスウッと細めた目。
「待って下さい!」
 読んでました、と男子生徒は白状した。「すみませんでした」と肩を落として、ションボリと。
「やっぱりか…。嘘をつくだけ無駄だってな。こいつは俺が貰っておく」
 後で職員室まで取りに来い、と没収されてしまった漫画。それに一人だけに出された宿題。自白した分、サービスだとかで少なめに。他の生徒よりは遥かに多いけれども。
 「お前が白状していなかったら、本当はこれだけ出したいトコだ」と、サービスで減らした量を強調されて。
 「これに懲りたら他のヤツらも気を付けろ」と、ハーレイは教室の前に戻った。「続けるぞ」と授業の続き。何も起こりはしなかったように。




 授業が終わって、ハーレイが去って行った後。男子生徒の机の周りは賑やかだった。他の男子に取り囲まれて、呆れられて。
「馬鹿だよな、お前。…なんで漫画を読んでたんだよ」
 ハーレイ先生、背が高いんだぜ。他の先生より、ずっと上から見えるじゃねえかよ。
 机の下で読んでいたって丸見えだ、とワイワイと騒ぐ男子たち。「読むなら他の時間だ」とも。
「読みたかったんだよ、続きが気になって…」
 丁度いいトコで、授業のチャイムが鳴ったから…。読みたくなるだろ、そういう時って?
「…それで没収されてしまったら、続きどころじゃねえと思うぜ」
 ハーレイ先生、丸ごと持ってっちまったじゃねえか。取りに行けるの、放課後だぞ?
 それまで全く読めやしねえし、読めねえ上に宿題のオマケも貰っていりゃあ、世話ねえよ。
 もう本当に馬鹿としか…。他に言いようがねえってモンで…。
 教室中が呆れてるぜ、と男子生徒の友人たちは容赦ない。「女子も馬鹿だと思ってるぞ」と。
「……俺も自分でそう思う……」
 俺が馬鹿だった、と項垂れている生徒。ハーレイが「後で」と言ったからには、もう放課後まで読めない漫画。取り戻すまでは、どんなに続きが気になっても。その上、宿題まで出された彼。
(ホントに馬鹿かも…)
 分かってないよね、と思ってしまう。ハーレイにバレてしまった時点で、もう隠したって無駄というもの。「やっていません」と嘘をついても、心を読まれておしまいなだけ。
 さっきハーレイが言っていたように、「俺か、お前か、どっちが正しい?」と読まれる心。
(タイプ・ブルーの生徒だったら、大丈夫かもしれないけれど…)
 心の遮蔽が強くなるから、そう簡単には読まれない。先生が読もうと頑張ったって。
 とはいえ、前の自分が生きた頃より増えてはいても、今も少ないタイプ・ブルー。大抵の生徒は心を読まれたら、おしまい。叱られるだとか、没収だとか、宿題を沢山サービスだとか。




 放課後になったら、例の男子は「また叱られるよな…」とハーレイの所に出掛けて行った。没収された漫画を返して貰いに、付き添いの友達も何人か連れて。
 それを見送った後に家に帰って、いつものようにダイニングでおやつ。母の手作り、熱い紅茶も淹れて貰って、のんびりと。
 「御馳走様」と二階の部屋に戻ったら、思い出した男子生徒の顔。今日の出来事、それも古典の授業中のこと。没収されてしまった漫画と、宿題サービス。
(ぼくなら、ハーレイの授業の時間に漫画なんて…)
 絶対、読まない、と勉強机の前に座って考える。漫画でなくても、他の本でも。どんなに続きが気になっていても、そんなものより、ハーレイの授業の方が好き。
 下を向いて何か読んでいたなら、ハーレイの顔が見られない。大好きな声だって聞き逃すから。心が他所に行ってしまって、恋人を忘れてしまうから。
 せっかく、其処にいてくれるのに。学校では「ハーレイ先生」でも。
(他の先生の授業の時でも、やらないけどね?)
 バレたら心を読まれるだとか、没収だとか、そういうのとは関係無しに。学校は勉強をする所。先生の授業を聞きに行く場所、休み時間や放課後以外は。
 勉強をするために登校したのに、他のことなんて、とんでもない。いつも真面目に聞く優等生。余所見もしないし、他のことをコソコソやったりもしない。
(でも、授業中に他の色々なこと…)
 やっている生徒は時々いる。漫画を読むとか、大胆な場合はコッソリお弁当だとか。
 どんなことでも、先生にバレたら、今日の生徒と同じコースで…。
(隠すだけ無駄…)
 やっていないと主張したって、心の中身を読まれておしまい。「全部、心に書いてあるが」と。
 バレた後には叱られる。隠そうとしていたことも含めて、それは厳しく。



 下の学校の頃から、何度も見て来た叱られる生徒。先生に心を読まれてしまって、隠そうとしたことの分までお仕置き。宿題サービスとか、先生のお手伝いだとか。
 やっていない、と隠しおおせた生徒は一人も見たことが無いのだから…。
(タイプ・ブルーがいなかったんだよ)
 きっとそうだ、と考えた。悪さをしていて、先生に見付かった生徒の中には一人も。自分が通う学校では。…下の学校でも、今の学校でも。
 そうでなければ、先生もタイプ・ブルーだったか。悪さを発見した先生の方も。
(先生もタイプ・ブルーだったら…)
 いくら生徒がタイプ・ブルーでも、敵わない。力不足の子供は勝てない。
 心を遮蔽しようとしたって、経験不足。子供なのだし、上手く心を隠せはしない。先生の方が、何枚も上手。タイプ・ブルー同士の対決でも。
(ぼくだって、タイプ・ブルーだけれど…)
 力不足とか、経験不足以前の問題。とことん不器用になったサイオン。前の自分の頃と比べて、雲泥の差どころの騒ぎではない。サイオンは無いも同然なくらい。
 前と同じにタイプ・ブルーでも。最強の筈のタイプ・ブルーに生まれて来ても。
 そのサイオンを上手く扱えないから、心の中身は読まれ放題。先生に横に立たれたら。睨んで、「手を出しなさい」と言われなくても、きっと。
 わざわざ手まで握らなくても、とうに心が零れているから。「バレちゃった」と。
(悪い生徒じゃなくて良かった…)
 ホントに良かった、とホッと安堵の息をついたら、気付いたこと。
 悪さをしていたのが先生にバレて、隠そうとしても無駄だということ。当然だよね、と叱られた生徒を見ていたけれど。「ぼくなら、しない」とも思ったけれど…。



 その隠し事、と心を掠めたこと。隠そうとする生徒と、暴く先生との攻防戦。今日までに自分が見て来た勝負は、悉く先生の勝ちだった。どう隠したって、先生に敵いはしないから。
(今の時代だと、普通だけど…)
 自分もすっかり慣れていた。隠そうとしても、心を読まれてしまうこと。授業中の悪さが先生にバレたら、何処の学校でも起こるのだろう。
 そういう場面に限らなくても、心を読むということは普通。人間はみんな、ミュウだから。
 社会のマナーで、読まないのがルールになっているだけ。まだまだ小さな子供同士なら…。
(当てっこだとか…)
 そんなゲームをしたりもする。色々な物を一人が隠して、他のみんなで捜しにゆく。隠し場所は何処か、心を読んで。「何処なのかな?」と心を覗き込んで。
 そういう遊びで、隠した方も読まれないように努力するもの。サイオンの扱いが上手い子供は、偽の情報を流すことだってある。「あそこだよ」と全く違う場所を心に思い浮かべて。
 人気の高い遊びだけれども、サイオンが不器用な自分は全く出来ない。どう頑張っても、隠した子の心が見えないから。覗き込むことさえ出来ない始末。
(ぼくの友達、あのゲームは…)
 ルールを変えてくれていた。不器用すぎる自分のために。他の子たちは、元のルールで楽しんで遊べる筈なのに。
(ぼくが何にも読めないから…)
 心の中身を読ませる代わりに、言葉でヒントを出す方法。「大きな木だよ」とか、「水がある」とか。大きな木ならば、公園には何本も生えているのに。水がある場所も幾つもあるのに。
 ヒントでも充分、楽しめたゲーム。隠し場所は木の側の水飲み場だったり、そんな具合で。
 サイオンはまるで駄目な自分も、そうやって遊んでいたけれど。心の中身を読み取れないから、ルールを変えて貰ったけれど…。
(みんなミュウだから、誰も変だと思わないだけで…)
 心を読まれるのは、自分の力が足りないから。先生に悪さがバレてしまうのも、遊びで頑張って隠した何かが、発見されてしまうのも。
 どちらも、心を隠し通せない自分が悪い。力不足で、自分の責任。
 でも…。



 隠せずに読まれてしまうこと。心の中身を読まれてしまって、知られること。
(人類だったら…)
 今はもう宇宙の何処にもいない、人類と名乗っていた種族。前の自分が生きた時代に、ミュウを殲滅しようと努力した者たち。
 彼らだったら、どうだっただろう?
 どういう風に感じたのだろう、心を読まれるということを。心の中身を他の誰かが容易く読んでゆくというのに、自分は全く読めはしなくて、欠片も掴めないことを。
(怖くない…?)
 そのことが、とても。
 人類同士なら何も起こらなくても、ミュウと出会ったら起こる出来事。自分にしか見えない筈の心を、心の中身を知られてしまう。
 それが敵意でなかったとしても。好意だとしても、口にする前に。
 素敵な何かをプレゼントしようと、驚かせたくて何処かに隠して持っていたって。
(…怖いし、それになんだか嫌だ…)
 ぼくだって、と思った「心を読まれる」こと。いつも心が零れてしまって、何かと失敗しがちな自分。ハーレイはもちろん、友達相手にコッソリ計画してみても。
 いったい何度失敗したのか、自分でも数え切れないほど。つい最近のことだけでも。
 心の中身がバレてしまっても、けして嫌だと思いはしない。怖いと思うことだって無いし、逆に情けない気持ちになるだけ。「ぼくって、駄目だ」と。「また失敗だよ」と、肩を落として。
(今は、誰でもミュウだから…)
 そういう世界に生きているから、サイオンが不器用な自分のせいだと思うだけ。もっと器用なら読まれはしないし、不器用なのも自分の個性。
 他の人たちには簡単なことが出来なくたって、ミュウには違いないのだから。サイオンは自分も持っているのに、使いこなせないだけだから。
 けれど…。



 もしもサイオンが無かったら。…不器用に生まれたわけではなくて、自分が人類だったなら。
(…サイオンなんかは持っていなくて、この世界に独りぼっちなら…)
 戦争も武器も無い平和な世界が、恐ろしく見えるかもしれない。殺されたり、追われたりしない世界でも。誰も自分を嫌わなくても、とても親切な人ばかりでも。
 周りの人たちは、心の中身を読むのだから。言葉にしなくても、「どうぞ」と欲しかったものを差し出して来たり、手を貸してくれたりするのだから。
(ぼくには当たり前だけど…)
 不器用なのだし、なんとも思いはしない。物心ついた時には、そういう世界にいたのだから。
 自分は上手く読めないけれども、他の人たちは心を読み取る世界。「ぼくって駄目だ」と思っていれば良かった世界。ゲームのルールも変えて貰って。
 そんなものだ、と幸せに生きて来たのだけれども、たった一人の人類だったら恐ろしいだろう。心を読まれているというのに、自分の方では欠片も読めはしないのだから。
 しかも自分とは異なる種族。家族でもなければ友達でもない、そんな者たちに囲まれて、一人。
(…ミュウが嫌われたの…)
 無理もないかも、と今頃、分かった。人類がミュウを恐れた理由。
 人の心を食う化け物、と言われた理由も。
 ミュウは土足で人の心に踏み込むから。遮蔽できない人類の心、それを端から読み取るから。
 恐れ、忌み嫌い、蔑む気持ち。「化け物」とミュウを嘲笑いつつも、人類はいつも恐れていた。この瞬間にも、心を読まれているのだと。自分の心はミュウに筒抜けなのだから、と。
(…アルタミラでも、いつも怖がられてた…)
 気味悪がられていた自分。たった一人のタイプ・ブルーで、それは酷い目に遭わされたのに。
 自分も人類を恐れていたのに、彼らの方でも怖がっていた。「化け物だから」と、人類とは違う生き物だと。
 触れることさえ嫌がる気配を感じたくらいに、ミュウを嫌悪した人類たち。研究者たちも、檻を管理していた者たちも。



 そうだったのか、と今になってやっと理解した。人類がどうしてミュウをあんなに恐れたのか。人の心を食う化け物だと忌み嫌ったのか。
(今のぼくは、幸せに育って来たから…)
 何も怖がりはしないだけ。自分の心を読まれることも、自分ではまるで読めないことも。
 不器用なのだし仕方がない、と残念に思っていたくらい。「もっと器用になりたいよ」と。
 けれど突然、今のような世界に放り込まれてしまったら。
 此処で幸せに育つ代わりに、ある日いきなり、心を読める人ばかりが住む世界に向かって、突き落とされてしまったら…。
(絶対、怖い…)
 怖くて、とても気味悪い。自分は心を読めもしないのに、周りの人々は読むのが普通。どういう仕組みになっているのか、言葉にする前に先回りされる。あらゆる場面で。
 自分には、それが出来ないのに。…相手が何を思っているのか、その欠片さえも見えないのに。
(…ホントに怖くて、どうしたらいいか分からなくって…)
 きっと外にも出られなくなる。外に出たなら、心の中身を誰もに読まれてしまうのだから。何を考えながら歩いているのか、皆に筒抜けなのだから。
 …どうして気付かなかったのだろう。その怖さに。恐ろしさに。
 人類がミュウに覚えるだろう恐怖、それを微塵も考えもせずに、歩み寄れると思ったのだろう。ミュウと人類とは手を取り合えると考えた自分。ソルジャー・ブルーだった、前の自分。
 あまりにも考えなしだった。人類の心を思うことさえしなかった。
 ミュウがサイオンを封印するなら、歩み寄れたのかもしれないけれど…。
(サイオンを持ったままだったら…)
 忌み嫌われてしまって当然、恐れられるのも当然のこと。
 人類にすれば、歩み寄りたくもないだろう。近付いたならば、一方的に読まれる心。隠す術さえ持っていないのに、勝手に心を覗き込まれて。
 ミュウ同士ならば、隠せるのに。読まれたくないことは隠しておけるし、それが出来ないなら、自分の力が足りないだけ。そういう時には、「読まないで欲しい」と伝えることも出来るのに。



 人類には心を隠す方法が無かったのだ、と気が付いた。不器用な今の自分と違って、サイオンを持たなかった人類。ミュウならそれを持っているのに、人類は持っていなかった。
 サイオンが不器用な今の自分には、少しだけ分かる人類がミュウに覚えた恐怖。
(…間違えちゃってた…)
 前の自分の考え方。心から願った、ミュウと人類との共存。
 けれども、サイオンを捨てるか、封印でもしない限りは、人類はミュウを怖がるだけ。ミュウに近付いたら、心を読まれてしまうから。「読まないで」と伝えることも出来ずに。
 その状態では、歩み寄れていた筈もない、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。ミュウは怖いね」
「はあ?」
 どう怖いんだ、と瞬いた鳶色の瞳。「お前も俺も、ミュウなんだが?」と。
「そうだけど…。人類から見たミュウのことだよ」
「なんだって?」
 人類ってことは、前の俺たちの時代の話か、それは?
 確かに人類軍と派手に戦いはしたが…。勝ったわけだし、怖かったのかもしれないが…。
「えっとね…。戦いが始まってからじゃなくって、それよりも前」
 今日のハーレイ、生徒に注意してたでしょ?
 漫画の本を没収してたよ、その前に脅していたじゃない。心を覗けば全部分かる、って。
 あれで気が付いたよ、あの力、人類には怖いんだよ。…自分の心を読まれちゃうこと。隠そうとしても隠せなくって、何もかも知られてしまうってこと。
 今のぼくだと分かる気がするよ、人類はきっと怖かったんだ、って。
 ぼくのサイオン、とことん不器用になって、あの頃の人類とそれほど変わらないんだから。
「なるほどな…。今のお前は、心を読まれないように遮蔽することは出来ないか…」
 前のお前ならば完璧だったが、それとは逆というわけだな。
「そう、読むことも出来ないんだよ」
 ホントに人類と似たような感じ。…ミュウの世界に一人だけ混じってしまったみたいに。
 ぼくは慣れてるから平気だけれども、人類は怖かったと思う。…ミュウが現れたら、心の中身をすっかり読まれてしまうんだから。



 その人類とミュウが初めて顔を合わせたのが、前のぼくたちが生きてた時代、と説明した。心を読まれることを恐れる種族と、心を読むのが当たり前の種族。
「前のぼくの考え、間違っていたよ。…そう思っちゃった」
 ソルジャー・ブルーは甘かったんだ、って。人類の気持ちをまるで分かっていなかったんだよ。
「分かっていないって…。どういう風にだ?」
 前のお前も色々と考えていた筈だが、とハーレイが首を捻るから。
「ミュウのことを理解して貰おう、っていう考え方。…分かり合えると思っていたこと」
 人類とミュウは兄弟なんだ、って思ってたけど、それは間違ってはいないんだけど…。
 サイオンを捨てなきゃ駄目だったんだよ、本当に分かり合いたかったら。
 ミュウだけが人類の心を読めるというのは、ちっとも公平なことじゃないでしょ?
 サイオンを捨てることが無理なら、封印する方法を開発するとか…。
「封印するって…。APDか?」
 人類のヤツらが開発していた、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あんな具合に、サイオンが効かないようにする道具を、人類が持てば良かったと…?
「違うよ、APDは人類が開発したんだけれど…。人類に作らせていたんじゃ駄目」
 作って下さい、ってお願いするんじゃなくって、ぼくたちが開発するべきだったんだよ。
 サイオンを無効化する方法を、自発的にね。…人類がミュウを怖がらなくても済むように。
 そうしていたなら、人類も考えてくれていたかも…。話し合うことを。
「ふうむ…。そいつは一理あるかもしれないな」
 キースの野郎が捕虜になってた時、ジョミーに訊いたそうだ。「星の自転を止められるか」と。
 ジョミーは、「やってみなければ分からない」と答えたらしいんだが…。
 その時、キースはこう言った。「その力がある限り、分かり合うことは出来ない」とな。
「…そうなんだ…」
 星の自転とは違うけれども、人の心を読むのも同じサイオンだから…。
 サイオンがあったら駄目ってことだよね、キースがジョミーに言った言葉は…。



 遠い昔に、キースがジョミーに投げ掛けた問い。それに、その答えを受けてぶつけた言葉。
 キースには見えていたのだろうか。人類とミュウの間に横たわる溝、深い問題の根本が。
 前の自分は気付かないままで終わったけれども、キースは見抜いていたろうか?
 サイオンという力の怖さも、それがあったら人類がミュウを恐れることも。
「…キース、気付いていたのかな…。どうして人類はミュウを怖がるのか」
 ミュウには心を読み取る力があるから、心を隠すことが出来ない人類にとっては怖い存在。
 そのままだと分かり合うなんて無理で、サイオンを捨てて来ないと駄目だ、って。
「…多分な。しかし、キースはそれを克服したんだろう」
 ミュウはサイオンを持ったままでいたのに、手を取り合う道を選んだんだから。
 あいつを褒めたいとは思わないんだが、その点は評価してやってもいい。
 ミュウへの恐れを克服出来た所だけはな、とハーレイが言うから、尋ねてみた。
「それが出来たのって…。キース、心を読まれない訓練を積んでいたからかな?」
 とても凄かったよ、キースの心理防壁は。…本当にこれが人類なのか、って思うくらいに。
 そういう心を持っていたから、他の人類も努力次第で何とか出来ると思ったのかな…?
「むしろ逆だと思うがな? 俺は」
 前のお前も、それにジョミーも少しは読んだと聞いているしな、あいつの心。…違うのか?
「そうだけど…。それがあったら、どうして逆なの?」
 分からないよ、と瞳を瞬かせたら、「読んだんだろう?」と返った言葉。
「お前もジョミーも、読まれないように訓練していたキースの心を読んじまった」
 読まれる恐怖を知ったわけだな、キースが初めて知った恐怖だ。…ミュウの本当の恐ろしさ。
 こうして心に入り込むのかと、防ぐ方法は無いらしい、とも。
 そいつを思い知らされちまって、その上で色々と考えることになったんだろう。人類の指導者としてな。人類とミュウに分かれた現状をどうするべきか、次の時代にどう繋ぐのか。
 ミュウ因子の排除というのも含めて、キースは何年も考え続けた。
 そして導き出した結論があれだ。
 SD体制もマザー・システムも時代遅れだという、大演説。
 自分がグランド・マザーに粛清されても、人類が正しい道を選んで進んでゆけるように、と。



 お蔭で今の平和な時代がある、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
 「キースの選択は正しかった」と、ミュウへの恐怖を克服出来たからこそだ、と。
「あいつが決断していなかったら、もっと長引いていただろう。…地球までの道は」
 ミュウの時代が訪れるのも、遅くなっていたに違いないな。
「…キース、偉いね…」
 心を読まれて怖かったんなら、徹底的に退治してもいいのに…。そうするつもりだったのに。
 ナスカをメギドで焼いた時には、そういうつもりだったんだよ。…一人残らず滅ぼすつもり。
 でも、考えを変えちゃった…。いろんな条件が重なったにしても、キースが一人で考えて。
 だから偉いよ。グランド・マザーは、そういう風にしろとは絶対、言わないのに…。
 マザー・イライザも、そんな風には、キースを育てていない筈なのに…。
「どうなんだかなあ…。偉かったことは確かだろうが…」
 時代はミュウに味方していた。トォニィたちが生まれたことも、ジョミーの両親や、スウェナのようなミュウの理解者が現れたことも、その証拠だ。
 キースが決断しなかったとしても、いずれはミュウの時代になった。…キースが国家主席の間は無理でも、次の時代か、その次にはな。
「そうだろうけど…。そうなる前にキースが決めたよ、ミュウと一緒に生きてゆくことを」
 キースは本当に偉かったんだよ。ミュウを受け入れる決断が出来ただなんて。
 ぼくなら、怖くて出来たかどうか…。
 心を読まれることの怖さも知ったんだったら、余計にミュウが怖くなりそう。
「…出来そうにないのは、今のお前か?」
 前のお前なら、自分がどんな思いをしたって、世界を優先しそうだからな。
「うん…。今のぼくだよ、ミュウの怖さに気が付いた、ぼく」
 サイオンがとことん不器用なせいで、今頃、分かったんだけど…。人類の気持ち。
「今のお前は弱虫だしな? そんな考えになっちまうほど」
 もしも自分が人類だったら、と考えただけで怖いと思っちまう弱虫。
 キースとは違うさ、人類の世界を背負うためだけに作り出されたヤツとはな。



 機械に作り出された割には、人間くさいヤツだったが…、という所で止まった言葉。
「おっと、あいつを褒めすぎちまった。…俺としたことが、お前のせいで」
 キースの野郎を偉いだなんて、俺の台詞とも思えんな。
 まったく…、とハーレイは苦々しい顔。「俺はあいつが嫌いなのに」と。
「ううん、ハーレイもキースを分かってくれているんだな、って嬉しいよ、ぼく」
 いつもキースの悪口ばかりで、会ったら一発殴りたいとか、そんなのばかり。
 だけど、ハーレイもちゃんと分かってるんだよね。…本当のキースは偉いってことが。
 ホントに嬉しい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
 ハーレイのキース嫌いは酷くて、何度も心を痛めたから。「ぼくのせいだ」と。
 前の自分がメギドで撃たれなかったら、キースは其処まで憎まれていない。撃たれた傷痕と同じ聖痕、それをハーレイが見ていなかったら。
「…俺は分かりたくもないんだが…」
 キースの偉さなんていうのは分かりたくないし、認めるつもりも無いんだが?
 お前に釣られて、ついつい余計なことまで話してしまっただけで。
 俺はキースを許しはしない、とハーレイの眉間の皺が深めになったけれども。
「いつか分かるよ、ハーレイにもね。…そして嫌いじゃなくなるってば」
 ハーレイがキースを嫌いになったの、前のぼくを撃ったせいだから…。
 でもね、ぼくはハーレイの所に帰って来たでしょ、チビだけど。
 まだ小さいけど、大きくなったら、前のぼくと同じになるんだよ。…ホントにそっくり。
 だからキースは悪くないってば、ぼくは帰って来たんだから。
「…そいつはキースのお蔭じゃないと思うがなあ…」
 あいつは全く関わっちゃいないぞ、お前が生きて帰って来たことに関しては。
 これは神様が起こした奇跡で、聖痕までつけて下さっただろうが。
 聖痕のお蔭で、キースの罪がバレちまったってな。…前のお前に何をしたのか。
 あいつの心は読めなかったが、神様が教えて下さった。あいつが隠してやがったことを。
 あの馬鹿野郎が何処に逃げても、見付けた時には、俺は必ず殴ってやる。
 生憎とまだ出会えないがだ、許してやるつもりは全く無いぞ。…この手であいつを殴るまでは。



 しかし、お前は此処にいるよな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
 「俺のブルーだ」と、「うんと不器用だが、お前だよな」と。
「…本当にお前なんだろうか、と思っちまうくらいに、サイオンは不器用になっちまったが…」
 おまけにチビだが、お前は俺のブルーなんだ。…前の俺が失くしちまったお前。
 生きて帰って来てくれたんだよな、もう一度、俺の目の前に。
「そうだよ、これが今のぼく。…人類みたいになっちゃったけど」
 サイオンは殆ど使えないから、タイプ・ブルーだなんて、嘘みたいだよね。…誰が見たって。
 お蔭で、人類の気持ちが分かったけれど…。ミュウが本当に怖かったんだ、って。
 前のぼくの考え、やっぱり間違ってた?
 ミュウはサイオンを捨てるべきだったの、でなきゃ封印するだとか…?
 サイオンを持ったままで人類と分かり合おうなんて、ぼくの考え、甘すぎたかな…?
「間違っちゃいないさ、前のお前は。…前のお前の考え方は」
 今の時代は、人間はみんなミュウばかりだ。誰もがサイオンを持っているだろう?
 お前みたいに不器用なヤツでも、サイオンはちゃんと備わっている。それが大切なことなんだ。
 普段は心を読んだりしないし、それが社会のマナーでもある。
 だがな、派手な喧嘩をしちまった時とか、友達との仲がこじれた時には、サイオンの出番だ。
 こういう風に考えてます、と相手に直接伝えられるし、心を読んで貰うことも出来る。
 心を読むのが得意じゃないお前も、「読んで下さい」と明け渡されたら読めるだろ?
 そうやって誰もが分かり合える世界、そいつがミュウの世界だってな。
 心の底から分かり合えるからこそ、平和なんだ。…戦いも無ければ、武器も要らない。
 本気の喧嘩は、何処からも起こらないからな。殴り合いになっても、その場限りでおしまいだ。後でよくよく考えてみれば、「悪かったかな」と思うモンだから…。
 其処に気付いたら、言葉にしにくい気持ちは心を見て貰う。それで解決しちまうわけで…。
 こういう社会は、サイオン抜きでは無理なんだ。…人類に合わせて封印したなら、もう駄目だ。
 だから、前のお前は間違っていない。サイオンは人間に必要な進化だったんだから。
「そっか…。サイオンのお蔭で、平和な時代になったんだよね…」
 サイオンを封印してしまっていたら、今もミュウ同士で何処かで戦争だったかも…。
 お互いの心が分からなかったら、本気の喧嘩がこじれてしまって、戦争になってしまうから…。



 間違えていなかったんなら良かった、とホッとついた息。前の自分の考え方。
 サイオンはあっても良かったんだ、と。
「…前のぼく、間違えちゃったのかと思ったよ…」
 人類から見たら、ミュウはとっても怖そうだから…。そんな感じがしちゃったから。
 とても怖いと思われてたのに、怖い力を振りかざしながら「仲良くしよう」って言う方が無理。
 それに気付かないで過ごしてたなんて、間抜けだよね、って思っちゃったから…。
 でも、間違えてはいなかったんだ…。サイオンが必要な進化だったら。
「当然だろうが、それでこそミュウだ。…ミュウはサイオンを持っていてこそなんだぞ」
 そいつを封印しちまうだとか、無効化してまで人類に媚を売ってもなあ…。
 何の解決にもなりやしないぞ、平和な時代は来やしない。…サイオン抜きの世界だなんて。
 前のお前のことだとはいえ、否定しちゃいかん、自分をな。
 間違えたように思えていたって、そいつが正しかったんだから。
「…自分を否定したら駄目って言うなら、ぼくの不器用さは?」
 とっても不器用で、思念波もろくに使えなくって…。心はいつも読まれ放題。
 ハーレイにも、友達にも、ぼくの考え、筒抜けになってしまうんだけど…。
 脅かしてやろう、ってワクワクしてても、その前に気付かれちゃうんだけれど…。
「そいつも俺には愛おしいってな、守り甲斐があって」
 もう本当に不器用だからなあ、危なっかしくて見ちゃいられない。
 お前ときたら、其処の窓から落っこちたら骨が折れるんだろうし…。池に落ちたら溺れるし。
 そうならないよう、俺が一生、お前を守るしかないってな。
 前のお前なら、俺が守られる方だったんだが…。
 お前を守る、と偉そうなことを言っていたって、シャングリラごとお前に守られていたからな。



 前のお前みたいな無茶はするなよ、と釘を刺されたけれど。
 鳶色の瞳に見据えられたけれど、ハーレイの心配はもう要らない。
 平和な時代に命懸けの無茶はもう出来ないから、それに弱虫になってしまったから…。
 今度は守って貰うだけ。
 ハーレイに側で守って貰って、幸せに生きてゆけばいいだけ。
 不器用すぎて心を読むことも出来ないけれども、読まれる一方なのだけれども。
 人類と違って、ちゃんとミュウなのだし、何も怖がらなくてもいい。
 周りが器用な人ばかりでも、心を読める人ばかりでも。
 みんなが自分を気遣ってくれるし、必要だったら遊びのルールも変えてくれたりする世界。
 其処に生まれてハーレイと二人、手を繋ぎ合って生きてゆく。
 青い地球の上で、何処までも二人、幸せに微笑み交わしながら…。




             読まれる心・了


※人類が何故、ミュウを恐れたのか、今になって理解したブルー。心を読まれる恐ろしさを。
 そしてキースは、読まれる怖さを知ったからこそ、あの選択をしたのかも。考え抜いた末に。
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(美味しそう…)
 それに綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 評判が高い料理のお店で、いつも予約で一杯らしい。行くなら予約をするのが一番。でないと、席が無いことの方が多いから。キャンセルが出ても、直ぐに埋まってしまうから。
 それでも通り掛かった人が「空いてますか?」と尋ねるほど。店の表に出ている料理の写真が、これと同じに美味しそうだから。添えられたメニューも素敵だから。
(予約無しでも、運が良ければ入れるんだ…)
 急なキャンセルは、ありがちなもの。友達と行こうと予約したのに、友達が来られないだとか。家族で行こうと計画したのに、誰かの都合が悪くなったとか。
 けれど確実に入りたいなら、予約すること。この日の何時にお願いします、と。
(お休みの日にはハーレイが来るから、行かないけどね?)
 両親と食事に出掛けてゆくより、ハーレイと過ごす方がいい。母が作った料理を食べて、お茶やお菓子も楽しんで。
 どんなに料理が美味しそうでも、お店に行くより家にいる方がいいんだから、と考えながら読み進めた記事。お料理なんかに釣られないよ、と。
 そうしたら、驚かされたこと。「行かないんだから」と思った、このお店は…。
(小さな子供は…)
 予約をしたって入れない店。雰囲気を壊してしまうから。
 子供連れなら、予約の時に訊かれる年齢。「お子様は何歳でらっしゃいますか?」と。その子の年が足りなかったら、断られてしまう。予約なしでも変わらないルール。「何歳ですか?」と。
(ぼくの年だと、大丈夫だけど…)
 ちょっぴり酷くないだろうか、と思った「小さな子供は入れない」決まり。
 美味しそうな料理が出される店なら、子供だって食べてみたいだろうに。家族の誰かが出掛けて来たなら、話を聞いて行ってみたくもなるのだろうに。
(なんだかガッカリ…)
 お店への夢が壊れてしまった。最初は一目で惹かれたのに。…料理の写真を目にしただけで。
 同じように写真を眺めた子供も、きっと大勢いるのだろうに。お店に入れない年の子でも。
 その子供たちの夢が砕けてしまう店。「行きたいよ」と強請ってみたって、行けないのだから。



 おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
 勉強机に頬杖をついて、さっきの記事を思い出す。美味しそうだった料理の写真も。
(あんなに素敵な料理のお店…)
 子供だって入っていいと思う、と消えない不満。「ホントに酷い」と。
 自分は入れる年だけれども、入れない年の子供たちのことを思ったら。あの記事を見て、お店に行きたくなった子供も可哀相だけれど、もっと可哀相な子供もいそう。
(お店の前には、料理の写真とメニューが出してあるんだから…)
 通り掛かって食べたくなる子もいるだろう。「これ、美味しそう!」と、歓声を上げて。
 其処で普通のお店だったら、「此処で食べよう」と家族で入ってゆけるのに。ワクワクしながら店の扉を開けて入れるのに、あの店の場合はそうはいかない。
 きっと写真やメニューと一緒に、注意書きも添えてあるのだろう。小さな子供は入れないこと。子供はそれに気付かなくても、大人は気付く筈だから…。
 「入りたいよ」と駄々をこねても、「子供は駄目なお店だから」と言われてしまう。そう書いてある、と指差されて。「入っても、外に出されてしまうよ」と。
 もしもそんな目に遭ったとしたなら、心が傷ついてしまいそう。「どうして駄目なの?」と。
 目を真ん丸にして父や母を見上げて、「嘘でしょ?」とも。
(ぼくなら、泣きそう…)
 両親と街を歩いていた時、そういう店に出会ったら。何も知らずに料理に惹かれて、入りたいと思った素敵なお店。「此処がいいな」と足を止めたのに、「ブルーは駄目」と言われたら。
 「ブルーの年だと入れないよ」と父が教えてくれたなら。母も「そうね」と頷いたなら。
 いつも優しい筈の両親、その両親に「駄目」と引っ張られる手。
 「此処は駄目だから、他のお店」と、「他にもお店は沢山あるから」と。
 食べたい料理は、この店にしか無さそうなのに。メニューの写真はそういうものだし、何処にも同じものは無いのに。
 分かっているのに、入れないお店。小さな子供はお断りの店で、子供の我儘は通らないから。



 きっとホントに泣いちゃうんだよ、と光景が目に浮かぶよう。お店の表で踏ん張って泣くことはしないけれども、涙がポロポロ零れるだろう。「どうしてなの?」と。
 美味しそうなのに、自分は入れないお店の料理。それが食べたいのに、子供は入れて貰えない。納得出来るわけがないから、泣きながら店を離れるのだろう。「ぼくは駄目なの?」と、振り返りながら。「あそこのお店が良かったのに」と。
 歩く間も、止まらない涙。他のお店に入った後にも、まだポロポロと零れそう。
 父がメニューを広げてくれて、「こんなのもあるぞ」と指差したって、母が「これも素敵よ」と言ったって。それがどんなに美味しそうでも、本当に食べたかった料理は…。
(…入れなかったお店の料理…)
 今いる店には無い料理。だから注文して料理が来たって、またまた溢れ出しそうな涙。此処でもこんなに美味しいのならば、さっきのお店はもっと美味しい筈なのに、と。
(好き嫌いが無いのと、食べたいかどうかは別だから…)
 泣きながら食べていそうな料理。子供が喜びそうなプレートで出て来ても。可愛らしい子供用のエプロンなんかを着けて貰っても、スプーンやフォークが子供用の特別なデザインでも。
(その内に涙は止まるだろうけど…)
 御機嫌で食べるのだろうけれども、それまでの間。悲しい気持ちが消えない間は、涙が幾つも。
 「どうして子供は入れないの?」と。
 何も悪いことはしていないのに。お店に迷惑をかけてはいないし、入りたかっただけなのに。
 写真の料理がとても美味しそうで、食べてみたいと思ったから。それが食べたくなったから。
 けれど、入れもしなかった店。「小さな子供は入れませんよ」と、入る前から断られて。



 そうなったならば、悲しくてたまらないだろう。自分がその目に遭ったとしたら、ポロポロ零すだろう涙。別のお店に入った後にも、其処で料理が出て来た後も。
(だって、断られちゃったんだから…)
 小さな子供だというだけで、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた気持ち。
 どう考えても、あんまりだから。小さな子供を断る店など、酷すぎるから。
「あのね、ハーレイ…。今日の新聞、酷いんだよ」
 読んだら悲しくなって来ちゃった、と鳶色の瞳の恋人に報告。「あんまりだよ」と勢い込んで。
「酷いって…。お前の悪口でも書いてあったのか?」
 今のお前ってことは無いから、前のお前だな。…ソルジャー・ブルー。
 大英雄の悪口というのも珍しいが、とハーレイは派手に勘違いをした。「どう酷いんだ?」と。
「そうじゃないけど…。ぼくの悪口じゃないんだけれども、似たような感じ…」
 ぼくが今より小さかったら、きっと悪口になるんだよ。子供は駄目です、って言うんだから。
 新聞に記事が載ってたんだよ、小さな子供は入れないお店。
 美味しそうなお店だったのに…。お料理の写真、とっても素敵だったのに。
 でもね、小さな子供は入っちゃ駄目なんだって。…ハーレイ、酷いと思わない?
「…たまにあるだろ、そういう店」
 多くはないが、珍しいとも思わないな、というのがハーレイの意見。驚いたことに。
「そうなの? それじゃ、ハーレイは酷いと思わないわけ?」
 お店のやり方が正しいって言うの、小さな子供は入れないんだよ?
「まるで間違ってはいないと思うぞ。ゆったりと落ち着いて食事したい人も多いんだから」
 そういうつもりで店に入っても、小さな子供がいたんじゃなあ…。
 子供はどうしても賑やかに騒いじまうモンだし、走り回ったりする子もいるだろうが。
 一緒に遊べる子がいなくたって、元気な子供はじっとしていないぞ?
 お気に入りの歌を歌い出すとか、ナイフやフォークを振り回すとかな。



 他のお客さんの気持ちを考えてみろ、とハーレイは店の肩を持つ方。店の雰囲気を保つためには必要なことで、小さな子供は駄目というのも不思議ではない、と。
「お客さんのために作った決まりだ。ごゆっくり食事をなさって下さい、というサービスだ」
 子供が走り回っていったんじゃ、どうにも落ち着かないからな。歌にしたって。
「…そうじゃない子も沢山いるよ?」
 大人しく座って食事をする子。…小さかった頃の、ぼくだって、そう。
 パパやママとはお喋りしたけど、大きな声ではなかったと思う…。歌を歌ったりもしないよ。
 それにお店で走りもしない、と言ったのだけれど。
「俺も充分、分かっちゃいるが…。店の方でも、そいつは承知しているぞ」
 だがな、店が選んじゃ駄目だろうが。入って来た客の品定めってヤツは良くないぞ。
 同じ子供でも、この子は店に入ってもいいが、この子は駄目だ、って言われて嬉しいか?
 店に入ったら振り分けられてだ、入れる子供と断られる子に分かれちまうのは。
「それは嫌かも…。お店の人が決めるんだよね?」
 ぼくは入れる方の子供でも、他の子供が断られるのを見たら楽しくなくなっちゃうよ。
 いくら美味しいお料理が出ても、きっと、とっても悲しい気持ち。
 断られてションボリ出て行く子供を見ちゃったら。…あの子も食べたかったよね、って…。
「分かったか。そうならないよう、最初から纏めて断ってるんだ」
 大人しく出来る年になるまで、子供は全部駄目だとな。行儀のいい子も、そうでない子も。
 それならそういうルールなんだし、お客さんにも失礼じゃない。
 子供連れで入っちゃ駄目な店だ、と思うだけだし、不愉快な思いをすることもない。他の誰かの子供が食事をしてるというのに、自分の子供は断られちまって、ムッとするとか。
 色々な人のことを思えば、一番安心なルールだな。
 ゆっくり食事をしたい人にも、子供と一緒に楽しく食事をしたい人にも。



 そうだろうが、と説明されたら、分からないでもないけれど。ハーレイの言葉が、きっと正しいけれども、それでも心に引っ掛かること。
 ゆっくり食事をしたい大人も、子供連れの大人も、「これはルールだ」と分かるのだけれど。
 小さな子供は、そんなルールは分からない。現に自分も、ハーレイに聞くまで怒っていたほど。なんという酷い店だろうか、と。
「それがルールかもしれないけれど…。だけど、子供は傷ついちゃうよ?」
 小さいだけで、お店に入れないなんて。…美味しそうでも、お料理、食べられないなんて…。
 ぼくならホントに泣いてしまうよ、入れても貰えないんだから。
「そうなっちまう子もいるんだろうが…。其処は前向きに考えないとな」
 いつか入れる時は来るんだ、大きくなったら。そしたら此処に食べに来よう、と思うべきだぞ。
 負けるもんかと、大きくなって来てやるんだから、と。
「…そういうものなの?」
 ぼくだと、ポロポロ泣いていそうだけれど…。あのお店、ぼくは入れないんだ、って。
「いつまでも泣いちゃいないだろう? その内に機嫌も直るしな」
 最初は悲しい気持ちになっても、何処かで考えを切り替えるもんだ。その日は無理でも、もっと先でも。…ある時、そいつに気付くってな。「大きくなったら行けるじゃないか」と。
 ずっと子供のままじゃないから、いつかは行ける。店に入れる時が来るんだ。
 もっとも、お前はチビのままでだ、少しも育ちやしないんだが。
「それは余計だよ、あのお店、ぼくでも入れるよ!」
 ぼくの年なら入れるんだけど、入れない子が可哀相…。新聞の写真で行きたくなった子も、街で見掛けて入りたくなった小さな子供も。
 「これが食べたい」ってパパやママに言っても駄目なんだよ?
 此処は子供は駄目なお店、って言われておしまい。…どうして駄目なのか、分からないのに。
 ハーレイが教えてくれたようなこと、小さな子供じゃ、聞いても意味が掴めないのに…。



 お行儀のいい子ほど可哀相、と訴えた。お店の雰囲気を壊さないのに、小さな子供というだけで駄目。入れる資格は充分あるのに、年が足りないというだけで。
「そうでしょ、年の問題だけだよ?」
 お店の人が入っていいかを決めるよりかはマシだろうけど、やっぱり可哀相だと思う。
 あと一週間で入れる年になるんです、っていう子供だって入れないんだから。
「まあな。そういう意味では、可哀相かもしれないが…」
 しかし、大きくなったら入れる。どんな子供でも、店が決めてる年になったら。
 いつまで経っても入れて貰えないってわけじゃないだろ、其処はデカイぞ。
 将来に夢と希望が持てるし、たかが料理の店にしたって、入れる時が必ず来るというのはな。
「ハーレイ、それって…。どういう意味?」
 お店の話と違うみたいに聞こえるんだけど…。お料理を食べに行く話とは。
「気付いたか? 前の俺たちの頃の話だ、今じゃとっくに昔話になっちまったが…」
 あの時代にミュウに生まれちまったら、いつまで経とうがミュウのままだぞ。
 いくら待っても、人類になれるわけじゃない。
 小さな子供は大きくなれるが、ミュウは人類にはなれないだろうが。
 どう頑張っても、人類の仲間入りをするのは無理だったんだ。一人前の人類にはなれん。
 小さすぎて店に入れない子は、何年か待てば入れるが…。
 前の俺たちはそうじゃなかっただろう?
 人類の仲間入りなど出来やしないし、人類が入る店にも入れないままだ。…違うのか?
「そうだったっけ…」
 人類とミュウは、違う生き物だと思われてたから…。
 同じだとは思って貰えなかったし、人間だとさえ、誰にも思われないままで…。



 今とはまるで違ったのだ、と思い出した時の彼方でのこと。
 ミュウに生まれたというだけのことで、人間扱いされなかった前の自分たち。人類とは違うと、滅ぼすべきだと言われた種族。発見されたら処分されるか、研究施設に送られるか。
「…ホントだ、お店に入れる時なんて、絶対、来なかったよね…」
 お店は人類のためだけにあって、人類が出掛けて行くための場所。…ミュウじゃなくって。
 ミュウがお店に入ろうとしても、バレたら殺されちゃうんだから…。
「そういうことだな。…いくら大きく育っていこうが、ミュウは何処までもミュウなんだ」
 シャングリラにしか居場所は無くてだ、人類の仲間入りは出来ない。人類になれやしないから。
 それに比べりゃ、小さな子供が店に入れないっていう決まりくらいは可愛いもんだ。
 いつかは必ず入れるんだし、子供の方も我慢しないとな。
 少々、悲しい思いをしようが、そいつは小さい間だけのことで済むんだから。
「それでも酷いと思うけど…」
 前のぼくたちよりはマシだけれども、悲しくなるのは子供なんだよ?
 お店の決まりの意味も分からない小さな子供で、ポロポロ泣くしかないんだもの。
「酷いも何も、社会のルールでマナーなんだぞ。その店ならお前は入れるようだが…」
 酒を飲むために入る店だと、お前でも無理だ。
 もう文字通りに門前払いだ、中に入れては貰えないってな。…酒を飲める年じゃないんだから。
「そっちは仕方ないけれど…。駄目なことくらい、分かるけど…」
 料理のお店はそうじゃないでしょ、お店の雰囲気だけのことだよ?
 お料理は子供でも食べられるもので、食べたくなる子供、きっと沢山いる筈なのに…。
「さっきも言ったが、将来に希望が持てるだろうが」
 大きくなったら食べに行くんだ、と入れる年になるのを夢見る。
 次に店の前を通った時には、「前より少し育ったから…」と料理の写真を見るわけだ。
 あとどのくらいで入れるだろう、と指を折って数えたりもして。
 来年になったら入れそうだ、と胸を膨らませたり、早く誕生日が来てくれないかと思ったり。



 前の俺たちにそれが出来たか、と問い掛けられた。将来に希望を持つということ。
「漠然としたヤツじゃ駄目なんだぞ? 具体的な目標になっていないと」
 この日が来たら確実に叶う、という希望。…待っていれば必ずやって来る未来。
 小さな子供は入れません、って店に入りたかったら、入れる年になればいいんだが…。
 そういう夢を持つということ、前の俺たちに出来たのか…?
 どうなんだ、と瞳を覗き込まれて、横に振るしかなかった首。「出来なかった」と。
「…前のぼくたちには、必ず貰える未来なんか何も無かったよ…」
 地球に行こう、って思っていただけ…。地球に行ったら、ミュウも認めて貰えそうだから。
 だけど、その日がいつになるかは分からなかったし…。来るかどうかも分からないまま。
 それでも、地球に行くっていう目標が無いと、何も出来ないままだから…。
 いつ行けるのかは、まるで見当もつかなくっても、それだけが希望…。
「ほら見ろ、前の俺たちには必ず貰える将来の希望は何も無かった」
 誰でも貰えたものと言ったら、実験室とか、檻だとか…。ついでに殺されちまう結末。
 実験室や檻でいいなら、誰だって入れて貰えたが…。
 前のお前みたいなチビの子供でも、ちゃんと入れては貰えたんだが。
 小さな子供は入れません、とは言われないでだ、他のヤツらと同じようにな。
「一緒にしないでよ、実験室と料理のお店を」
 全然違うよ、料理のお店は入れなかったら悲しいけれど…。実験室とか檻だと、逆。
 入れて貰えない方がずっといいんだし、断られた方がいいんだもの。
「そうか?」
 一緒にしたっていいと思うがな、希望ってヤツを語るためには。
 今の平和な時代だからこそ、一緒に語っちまっていいんだ。
 希望が無かった前の俺たちのことと、小さすぎる子供は入れない店の話とをな。



 今だから出来る話なんだ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。今のお前と俺だから、と。
「前の俺たちだった頃には、まだ見えてさえもいなかった。…ミュウの時代というヤツは」
 そんな時代が来ればいい、と思ってはいても、いつ来るのかさえ分からなかった。
 「小さな子供はお断りです」という料理の店なら、断られたって次があるんだが…。いつかその子が大きくなったら、ちゃんと店には入れるんだが…。
 しかしミュウだと、そうはいかなかった。前の俺たちが生きた時代は。
 人類の店にミュウは決して入れやしないし、入れる時だって来なかったんだ。大きくなろうが、ミュウは人類にはなれないからな。…いつまで経ってもミュウのままで。
 ミュウの時代を掴むことさえ、夢物語だったのが前の俺たちだ。…長い長い間。
 その点、今だと同じミュウでも大違いだぞ?
 入っていい時まで待ちさえしたなら、どんな店でも入れて貰える。小さな子供は駄目な店でも、今のお前が門前払いを食らってしまう、酒を飲ませてくれる店でも。
 「まだ入れません」と断られたって、何年か待てば堂々と店に入れるってな。小さかった子供は大きく育つし、チビのお前も大人になるから。
 …いい時代だと思わんか?
 同じミュウ同士で、「今はまだ駄目です」とも言えるんだから。
 ミュウがルールを作っているんだ、人類じゃなくて。
 小さな子供は入れない店も、チビのお前は断られちまう酒を飲ませる店にしたって。
 前の俺たちの時代だったら、どんなルールも人類が決めていただろう?
 同じ世界にミュウもいたのに、ミュウの意見は一切、抜きで。
 人間扱いさえしようとしないで、何もかも人類のためだけにあった。色々な店も、店のルールも人類のためだ。…ミュウのためじゃなくて。
 社会のルールがミュウを認めていなかったんでは、そうなっちまって当然だがな。



 そんな時代が終わった今では、ミュウのルールだ、とハーレイは笑う。人類のルールは、何処を探しても残っていないと。
「元は人類のルールだったのを、ミュウが引き継いでるヤツも多いが…」
 それだってミュウが決めたことだろ、「このルールは今も役に立つから使おう」と。
 もう人類のルールじゃないんだ、ミュウが選んで「使おう」と決めた時点でな。
 小さな子供は入れません、って店のルールも、元を辿ればSD体制よりも前の時代に遡る。まだ人間が地球しか知らなかった時代に、そういう店が生まれたそうだ。
 だから元々は人類のルールだったわけだが…。そいつが今ではミュウのルールになったってな。
「ホントだ、そういう考え方も出来るね」
 今のぼくたちの世界のルールは、人類が決めたルールじゃなくって、全部ミュウのルール…。
 社会のルールも、色々なお店が作ったルールも。
 それに何でも、「ミュウだから駄目」ってわけでもないし…。
 小さな子供が入れないお店は、まだ小さすぎるから、っていうだけだものね。…小さな子供には可哀相でも、前のぼくたちが生きてた時代のミュウよりはマシ。
 いつか大きくなった時には、お店に入っていいんだから。大きくなるまでだけの我慢で。
「そうなんだよなあ、お前は憤慨してたがな」
 俺が来た途端に、「酷い」だなんて言い出して。…何のことかと思っちまったぞ。
 お前は可哀相だと言うがな、あれはあれでだ、幸せなルールというヤツだ。
 ちょっぴり意地悪なように見えても、子供にとっては励みにもなる。将来の夢で希望だな。
 早く大きくなるんだ、と。
 大きくなったら今は入れない店に入れて、美味い料理が食べられる。世界がグンと広がるんだ。そういう夢を持たせてくれるぞ、あのルールはな。
 断られた時にはガッカリだろうし、泣いちまう子供も多いだろうが…。
 其処の所を通り過ぎたら、待っているのは未来への夢だ。「大きくなろう」と、そしたら店にも入れるんだ、と。
 もっとも俺は、お前にはゆっくり育って欲しいが…。
 早く大きくなろうとしないで、今の幸せを味わいながら、子供らしく過ごして欲しいんだが。
 何度も言ったろ、前のお前が失くしちまった子供時代の分までな。
 今のお前は幸せに生きてゆけるんだから。…本物のお母さんたちと一緒に住んで。



 慌てて大きく育つんじゃないぞ、と釘を刺された。まるで育たなくて、背丈も伸びないのが悩みなのに。今のハーレイに出会った時から、背は一ミリも伸びていないのに。
 だから意地悪な恋人を見詰めて、こう訊いてみた。
「えっとね…。今日の新聞に記事が載ってた、小さな子供は入れないお店…」
 あのお店、ぼくの年なら入れるけれど…。お料理、とっても美味しそうなんだけど…。
 ハーレイ、食べに連れて行ってはくれないよね?
 お店の話からミュウの話にもなっちゃったんだし、お店、一緒に行きたいんだけど…。
「駄目だな、デートになっちまうから」
 お前と食事に行くとなったら、そいつは立派にデートだぞ?
 その上、小さな子供は入れない店と来たもんだ。どう考えても、落ち着いた店に決まってる。
 デートに使うかどうかはともかく、ゆっくりと食事を楽しむ店だな。俺が教え子たちと一緒に、ワイワイ出掛ける店と違って。
 そんな店にお前を連れて行けるか、前のお前と同じ背丈に育っているなら別だがな。
「やっぱり…?」
「当たり前だろうが、これも何度も言った筈だぞ。デートは大きくなってからだ、と」
 そういう話を持ち出すお前は、俺とデートに出掛けられる日を目指しているわけで…。
 いつか必ず叶う将来の希望ってヤツが、お前の場合はデートなんだ。他にも色々ある筈だが。
 店に入れない小さな子供も同じことだな、デートの代わりに店に入れる日を目指すんだ。
 今は駄目でも、一人前の小さな紳士や淑女になろう、と。
 そうすりゃ店の扉は開くし、美味しい料理を食べに入れる。子供ながらも、胸を張ってな。前は入るのを断った店が、今度は「どうぞ」と恭しく迎えてくれるんだから。
 それでも酷い店だと思うか、お前が言ってた店のこと。
 いつか入れるようになった時には、店の魅力もグンと大きく増しそうだがな?
 前は入れなかったのに、と堂々と入って行く時には。…扉の向こうはどんな世界だろう、と。
 テーブルや椅子はどんなのだろうと、料理の他にもお楽しみが山ほどあるだろうから。
「そうかもね…」
 子供は駄目です、って断られてから、ずっと入りたかったんだから…。
 夢だって大きく膨らんでるよね、断られないでスッと入れたお店より。食べたいお料理も増えていそうだよ、何度も何度も、お店の前を「まだ入れない…」って通っていた間に。



 自分ならきっとそうなるだろう、と思ったこと。まだ入れない夢のお店は、憧れの店。通る度に膨らむだろう夢。扉の向こう側を夢見て、美味しそうな料理の写真を眺めて。
 前の自分が、青い水の星に焦がれたように。まだ座標さえも掴めない地球、其処へ行こうと夢を描いたように。
 前の自分と違う所は、店の扉は待てば必ず開かれること。子供にとっては長い時間でも、ほんの数年、待ちさえすれば。…店に入れる年にさえなれば。
 其処が地球との違いだよね、と前の自分が辿り着けなかった青い星を思った。あの頃には地球は死の星のままで、青くはなかったのだけど。…青い地球は夢でしかなかったけれど。
 その青い地球に来たのが今の自分で、世界のルールはミュウが決めたルール。前の自分が生きた時代は、ミュウという種族は店に入れもしなかったのに。
 そう考えたら、ふと思い出した。前にハーレイから聞かされたこと。
「…ねえ、ハーレイ…。前のぼくたちが生きた時代は、お店、人類のためのものだったけど…」
 アルテメシアを落とした後には、シャングリラの仲間も買い物に出掛けられたんだよね?
 嬉しかったかな、初めてお店に入れた時は。…前のハーレイが配ったお小遣いを持って。
「そうに決まっているだろう? 買い物がそれは凄かったんだ、と話してやったぞ」
 いったい何をする気なんだ、と思うような物まで買って来ちまって…。
 出番が無さそうな自転車だとか、いつ着るんだと呆れるような服をドッサリ山ほどだとか。
 無理もないがな、世界がいきなり大きく開けたんだから。
 データくらいしか見られなかった店って所に、客として入って行けるんだからな。
 気が大きくなって羽目も外すさ、とハーレイが苦笑するものだから。
「それと同じかな、今はお店に入れない小さな子供が、いつかお店に入れるようになる時も?」
 夢が一杯で、胸だってきっとドキドキしてて…。
 あれも食べよう、これも食べよう、って欲張りながら入るのかもね。沢山食べられないくせに。
 子供なんだし、今のぼくより、もっと少ししか食べられるわけがないんだけれど…。
 それでも欲張って注文するとか、注文しようとしてお父さんたちに止められるとか。
「うむ。初めての買い物に出掛けて行ったヤツらと全く同じだろうな」
 しかも子供だから、もっと凄いぞ。夢も一杯、憧れ一杯、ついでに我儘一杯ってな。



 さぞかし凄い光景だろうさ、とハーレイは大きく頷いた。シャングリラの仲間の比ではないと。
「ようやく店に入れた子供たちの感激は俺が保証するから、入れてやらない店を恨むな」
 小さな子供を断るからには、そうする理由があるんだから。
 他のお客のことを色々考えた上で、決めたルールだ。それに子供連れの親たちの方も、不愉快な気分にならないように。「あの子は良くて、うちの子供は駄目なんて」というのは嫌だろう?
 最初から纏めて断っておけば、大勢の人が嫌な思いをしなくて済む。
 断られた子供は可哀相だが、いつかは入れて、店への夢も憧れも膨らむわけだから…。
 そうそう悪い話じゃないだろ、ミュウに生まれただけで酷い目に遭った時代に比べたら。…店に入れる権利どころか、生きる権利も無かったのが前の俺たちだしな?
「うん…。でも、ハーレイと一緒に行きたいなあ…」
 あのお店、今のぼくでも入れるのに…。チビだけれども、小さい子供じゃないんだから。
 ハーレイと二人で出掛けて行ったら、ちゃんと食事が出来るのに…。
 でも連れて行ってくれないんだね、と尖らせた唇。「ハーレイのケチ!」と。
「それも理屈は同じだろ。…小さな子供は入れないのと、根っこの所は同じだってな」
 俺と出掛けてゆくとなったら、それはデートになっちまうから…。
 今のお前だと、デートが出来る背丈に育っていないんだ。店に入るには、まだ年が足りない子供みたいに。…二十センチほど足りていないな、お前の背丈。前のお前と同じになるには。
 だがな、お前もいつかはデートに行けるんだ。俺と一緒に。
 前のお前と同じに育てば、どんな店でも、デートだから、と堂々とな。
 それを楽しみに待てば待つほど、デートの魅力も増すってもんだ。まだ入れない店の扉を眺める間に、どんどん夢が膨らむみたいに。…デートの魅力もそれと同じだ、きっと凄いぞ?
 初めてのデートに行くとなったら、約束した時から夢がキラキラしちまってな。
「…もう相当に待ったんだけど…」
 ハーレイにうんと待たされてるから、夢は一杯なんだけど…。憧れも、デートの魅力だって。
 キラキラしすぎて、目が眩みそう。…それでもデートはまだ行けないの?
「まだだな、お前はチビなんだから」
 ゆっくり育てと言っているだろ、今を楽しめ。…これはさっきも言ったことだが。
 未来の夢もたっぷり見ながら、デートに行ける日を待つんだな。いつか必ず行けるんだから。



 子供時代は今だけだぞ、とハーレイに念を押されたから。
 「慌てるんじゃない」と、「急いで育つな」と、鳶色の瞳が優しい光を湛えるから。
 少しも育たないチビだけれども、いつかデートに出掛けられる日を楽しみに待っていればいい。
 ハーレイが「デートは駄目だ」と言うのも、意地悪ではなくて、ちゃんと理由がある。
 つい「ハーレイのケチ!」と膨れてしまっても、唇を尖らせてしまっても。
(…ぼくが大きくなるまでは駄目…)
 前の自分と同じ背丈に成長するまで、キスをするのも、デートも駄目。
 それはハーレイが決めたルールで、小さな子供は入れない店と同じこと。今はそういうルールを守って、じっと我慢をするべき時。
 ハーレイとの間のルールが大切、それを守ってゆくことも。
 いつか必ず、デートに行ける日がやって来る。前と同じに大きくなったら、ハーレイとデートに出掛けてゆける。
 今はデートに行けないルールが、「行ってもいい」と許してくれるから。
 同じルールの筈だけれども、「駄目だ」から「いいぞ」に変わってくれる。
 その日が来たなら、ハーレイと一緒に初めてのデート。
 楽しみに待って、待って待ち続けて、幸せ一杯で出掛けてゆける。
 ハーレイと二人で何処へでも行けるし、どんな店にも入ってゆける、今のルールが変わった時。
 同じルールのままなのだけれど、前と同じに育ったら。
 デートに行ける姿に成長したなら、必ずデートに誘って貰えて、幸せな時を過ごせるから…。




            入れない店・了


※小さな子供は入れて貰えない、美味しそうな料理の店。憤慨したブルーですけれど…。
 大きくなったら、もちろん入ってゆけるのです。未来に希望を持てる世界が、今という時代。
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(ふうむ…)
 どれにするかな、とハーレイが眺めたメニュー。
 今日は午前中だけの研修、そちらの方は済ませて来た。学校に行く前に食事にしよう、と入った店で渡されたメニュー。「此処なら、ゆっくり出来そうだな」と選んだ店。
 学校に行くのは急がないから、たまには一人でのんびり昼食。そんな気分で入ったものの…。
(ランチセットでいいんだが…)
 悩んじまうな、と思うのがランチセットの中身。メインの料理が一種類ではなかった店。どれを選んでも値段は全く変わらないのに、四種類もあった。それほど広くはない店なのに。
(食後はコーヒーで決まりなんだが…)
 紅茶かどうかは悩まない。コーヒー好きだし、キャプテン・ハーレイだった頃からコーヒー党。其処は簡単に決まるのだけれど、料理の方はそうはいかない。
(どれも美味そうな感じだし…)
 メニューに添えられている写真。皿に盛られた四種類の料理、食欲をそそるものばかり。これは困った、と眺める中で惹かれたのが期間限定の文字。
(この料理だけは入れ替わるんだな)
 四種類の中で、その枠だけが。一月ごとに変わってゆくのか、シーズンごとか。あるいは店主の気分で変わるのかもしれない。
 つまりは次に店に来たって、あるとは限らない料理。同じ注文するのだったら、そういう料理を頼むのがいい。またこの店に来るかは謎だし、次の機会は無いにしても。
(一期一会って言葉もあるしな?)
 こいつを食えるのは今日だけなのかもしれないぞ、と期間限定のパスタに決めた。他の三種類も魅力的だし、捨て難いけれど。
 大ぶりなサンドイッチは、如何にも食べ応えがありそうな感じ。グツグツと音を立てていそうなグラタンだって、スパイスが効いていそうなカレーの方も。



 それでも期間限定がいい、と選んだメニュー。直ぐに届いたサラダの皿。バゲットも、バターを添えて二切れ。
(カレーにしてたら、このバゲットは無いんだっけな)
 どんな具合か、と少し千切って頬張ってみたら、なかなかの味。此処で焼くとは思えないから、パン専門の店から仕入れているのだろう。きっと店主のこだわりの店。
 いいバゲットを出して来る店は、料理も期待出来るもの。この店に入って正解だった、と自分の勘を褒める間にパスタの方もやって来た。
 七種類の豆を使ったというピリ辛のパスタ。ミートソースもたっぷりと。
(うん、美味い!)
 パスタで当たりだ、と口に運びながら眺めた周り。他の席の様子も目に入るから。
 ピリ辛のパスタで満足だけれど、他の三種類の料理を選んだ人たちもいる。熱々のグラタンや、カレーの皿や。思った通りに大きいサイズのサンドイッチを齧る人だって。
 きっと、どの料理も美味しいのだろう。パスタでなくても、グラタンやサンドイッチでも。この店だったら、味は間違いなさそうだから。
(ランチセットでなきゃ、もっと色々あるわけで…)
 パスタだったらソースが変わって、サンドイッチは中身が変わる。入った時に眺めたメニューに幾つも載っていた料理。写真もつけて。
(単品にしても良かったかもな?)
 同じパスタを頼むにしたって、ランチセットとは違ったものを。少し高めになったとしたって、食後のコーヒーが別料金になったって。
 それだけの価値がある味なんだ、と味わうパスタ。「他のも美味いに違いない」と。
(ちょっと早まりすぎたってか?)
 俺としたことが、と少し残念な気分。パスタがとても美味しい上に、バゲットもいい店だから。こういう店なら、どんな料理も満足の味になる筈だから。



 もっとゆっくり周りを見てから決めるべきだった、とパスタを頬張る。いくらメニューに写真があっても、やはり実物には敵わない。どんな具合に盛られて来るかも、どう食べるかも。
(…みんな美味そうに食ってるからなあ…)
 サンドイッチも良さそうだよな、と目が行ってしまう。「あのサイズなら齧り甲斐がある」と。上品で小さいものよりも。
(大きすぎても、こういう所じゃ食べにくいんだが…)
 丁度いいサイズになっているのが心憎い。店主のセンスがいいのだろう、と一目で分かる。他の料理も、きっと店主の自信作。
(見回してから決めりゃ良かったなあ…)
 多分、余計に悩む結果になっただろうけれど、時間はたっぷりあったから。メニューを眺めて、他の客たちの料理を眺めて、またメニューへと戻ったり。
(学校の方は、別に行かなくてもいい日なんだし…)
 研修があった日は、そうなっている。午前中だけで終わったのなら、午後は自由に使っていい。遊びに行こうが、家でゆったり過ごしていようが、何処からも文句は出ないもの。
(俺が勝手に学校に行こうとしているだけで…)
 何時に着いても、同僚たちが驚くだけ。「今日は研修でお休みなのでは?」と。
 そういう日だから、メニューで悩んでいたっていい。店に迷惑をかけない程度の時間なら。直ぐ決めなくても、「決まったら呼びます」と言ったって。
 急ぎ過ぎたか、と思うけれども、これが性分。
 仕事がある日はサッサと決めるし、そうそう悩みはしないもの。ランチセットにするか、単品にするか、それが最初に決めること。大抵は其処で決まる注文。
 今日はたまたまランチセットが四種類あって、少し迷ってしまったけれど。



 俺のスタイルはそうなんだ、と思う注文する方法。食事を楽しみたい時はともかく、食べるだけなら悩まない。どれが自分の目的に合うか、ただそれだけで選んでゆく。
 量をたっぷり食べたいのならば、これだとか。急いで食べて店を出るなら、これがいいとか。
(俺だけじゃなくて、前の俺にしたって同じだからな)
 しかもあっちはキャプテンだった、と苦笑い。今よりもずっと多忙な日々で、そうそうのんびりしてはいられない。食事も、それに休憩も。
 前の俺だった時からの癖だ、と考えなくても分かること。食事よりも仕事が最優先だ、と。他の仲間が食べている料理、それを見てから決める余裕などあるものか、と。
 そんな暇などあるわけがない、と思った所でハタと気付いた。前の自分が生きていた船。
(選べたか…?)
 シャングリラの食堂で、食べる料理を。昼食にしても、夕食にしても。白い鯨になった船でも、料理を選んで食べられたのか、と辿った前の自分の記憶。「それは無理だ」と。
 選べるわけがなかった料理。食堂は店ではないのだから。食事は栄養を摂るためのもので、皆の身体を養う場所。胃袋を満たすことは出来ても、あれこれ選んで食べられはしない。幾つも並んだ料理の中から選ぶことさえ出来なかった船。
 厨房の者たちが「今日はこれだ」と決めた料理が、出て来た船がシャングリラ。トレイに載せて渡されるだけで、「これを」と注文などは出来ない。
(せいぜい、朝の卵の調理方法…)
 その程度だった、と思う選べたメニュー。朝食の卵をどう料理するか、それは選べた。固ゆでにするか、半熟か。目玉焼きがいいか、オムレツなのか。
 けれど、それだけ。他の料理を選べはしなくて、注文も出来なかった船。「あれが食べたい」と思っていたって、それが出る日を待つ他はない。
 「今日、食べたい」と思っても。…ライブラリーで読んだ本に出て来て、食べたい気分になっていたって。仲間たちとの他愛ない話、それで話題になったって。



(おいおいおい…)
 贅沢すぎるぞ、と見詰めた皿。なんてこった、と。
 七種類の豆を使ったピリ辛パスタ。自分で選んだ料理だけれども、前の自分には出来なかった。四種類ものランチメニューを出されはしないし、選ぶことだって無かったから。
 そうやって一つ選んだというのに、目移りしていたのが自分。サンドイッチも良さそうだとか、単品にして他のパスタでも良かったろうか、と。
(時間はたっぷりあったのに、なんて考えてたぞ?)
 贅沢者め、と額をコツンと叩きたい気分。他の客たちがいなかったなら。
 前の自分は多忙だったけれど、時間に余裕があった時でも料理を選べはしなかった。食堂の中を眺め回しても、誰のトレイにも同じ料理しか無かったから。同じ皿に盛られた同じ料理だけ。
(いつも一種類だったんだ…)
 メインの料理も、サラダなども。
 厨房の係に注文する時、出来たことは量の調整くらい。「多めに」だとか、「少なめに」とか。それが出来たら、もう充分に満ち足りた気分になれた船。
(俺の場合は大盛りだったが…)
 少なめの仲間も多かった。たまに食堂に出て来たブルーも「少なめ」の一人。好き嫌いはまるで無かったけれども、食べられる量は、けして多くはなかったから。
(この時間だと…)
 ブルーも学校で食事だろうか。ランチ仲間と食堂に出掛けて行って。
 名前はシャングリラと同じに食堂だけれど、今のブルーが通う学校の食堂も料理を色々選べる。定番のランチセットは毎日一種類でも、他に幾つもある単品。オムライスとか、パスタとか。
 だからブルーも選んだだろう。「今日はこれにしよう」と、食堂で。
(俺もあいつも、とんでもない贅沢をしてたってわけか…)
 何を食べようかと、迷って選ぶ料理だなんて。悩む時間が短かろうとも、選ぶというだけで既に贅沢。シャングリラでは選べなかったから。料理は出て来るだけだったから。
(あいつに話してやらないとな?)
 如何に贅沢に暮らしているのか、今の時代の素晴らしさを。
 今日は帰りにブルーの家を訪ねてゆけるし、その時に。本当だったら休んでいい日に、予定外の仕事は来ないから。「これで帰ります」と、学校を出ればいいのだから。



 そうやって出勤した学校。案の定、驚いた同僚たち。「またですか」と。研修を終えて出勤したことは何度もあるから、予想はしていたようだけれども。
 やろうと思った仕事と、柔道部の指導。それが済んだらブルーの家へ。今日の研修は愛車も一緒だったし、ごくごく短い時間で着いた。歩くよりも、ずっと早い時間で。
 ブルーの部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合うなり投げ掛けた問い。
「お前、今日の昼飯は何だった?」
 食堂で何を食べたんだ、と訊いてやったら「ランチだよ?」と答えたブルー。
「いつも食べてるランチセット。…お昼御飯がどうかしたの?」
「なんだ、他のにしなかったのか。色々あるのに」
 たまにはランチセットじゃないのも食えばいいのに…。お前、大抵、ランチだよな?
「ランチセット、いつも美味しそうだから…。それに今日のはハンバーグ」
 人気なんだよ、ハンバーグの日は。…ぼくの友達、全員、ランチセットにしていたもの。
 いつもは違う友達だって、とブルーは説明してくれた。ハンバーグの時の人気の高さ。すっかり売り切れてしまう日だってあるらしい。遅く来た子が食べ損ねるほど。
「なるほどな。ちゃんとお前も選んだってわけだ」
「え? 選ぶって…。何を?」
 ぼくはいつものランチセットで、とブルーはキョトンとしているけれど。
「飯だ、飯。…お前がランチセットを選ぶの、美味そうだからだろ?」
 ついでに今日は人気メニューのハンバーグの日で、お前も大満足だった、と。
 それはお前が数ある食堂のメニューの中から、ランチセットを選んだということになる。他にも色々あるんだから。お前の好みがランチセットだというだけで。
 実はな、俺も今日は昼飯を選んでて…。学校じゃなくて、外の店だが。
「外のお店で昼御飯って…。ハーレイ、今日は研修だったの?」
 普段は学校で食べているでしょ、食堂とか、お弁当だとか。お店で食べていたなら、研修?
「よく分かったな。午前中だけのヤツだったがな」
 だから昼飯を食った後には、学校に行って来たんだが…。
 休んでもいいことになっていたって、ついつい、足が向いちまうんだ。



 柔道部の指導もして来たんだぞ、と話してから昼食に戻した話題。「美味い店だった」と。
「出て来たバゲットが美味かった。ああいう店にハズレは無いんだ」
 そういうトコまで気を配る店は、美味いと相場が決まってる。そして本当に美味かったんだが、食ってる途中で気が付いた。
 とんでもない贅沢をしてるんだな、と。
「贅沢って…。ハーレイ、高いお店に入ったの?」
 一人で行くより、デートとかに使うような店。…そういうお店で食べて来たの?
 ぼくも一緒に行きたかったよ、とブルーが言うから、「デートにはまだ早いだろうが」と叱ってやった。「前のお前と同じ背丈に育ってからだ」と。
「それに、お前は勘違いしてる。俺が食ってた店は普通の店だぞ、ありきたりの」
 値段も普通なら、店構えもごくごく普通だったが…。ランチセットは多かったかもな。四種類もあって、其処から選べたモンだから…。メインの料理を。
 其処が俺の言う贅沢なんだ。料理ってヤツを選べる所。
 お前もランチセットにしようと選んだわけだが、今の俺たちならではだぞ、これは。
 …シャングリラの食堂、飯時に行って料理を選べたか?
 白い鯨になる前はもちろん、白い鯨で立派な食堂が出来た後にも。
「…選ぶって…。そんなの、シャングリラじゃ無理だったっけね…」
 ホントだ、ハーレイが言う通りだよ。今のぼくたち、凄い贅沢をしているみたい。学校の食堂、ランチセットの他にも色々あるから…。ぼくもそっちを頼んでる日も、たまにあるから。
 でも、シャングリラだと、食事の時間の料理は全部決まってて…。
 これはどうしても食べられない、っていう人がいた時は…。
「駄目ならこれにしておくんだな、とドンと出ただろ、選べもしないで」
 その日の厨房の都合に合わせて、予備に作ってある料理。食えない連中向けのヤツ。
 両方駄目だ、と言い出すヤツが出ないようにと、その辺は考えてあったんだがな。
「そういう仕組みだったっけ…」
 ぼくは好き嫌いが無かったけれども、あった仲間は、みんなそう。
 係に「食べられません」って言ったら、別のトレイを渡されるんだよ。みんなと違う料理のが。
 だけど、選べたわけじゃないよね。…最初からそれに決まってるんだし、選ぶのは無理。



 あれは選ぶと言わないよね、とブルーも頷いている通り。
 白い鯨になった後でも、まるで選べなかった食堂。大勢の仲間が食べに行くのに、メニューさえ存在しなかった。選ぶことなど出来ないのだから、メニューがあったわけもない。
 朝、昼、晩と三度の食事は、厨房の係が決めていた。栄養バランスなどを考慮し、様々な食材を組み合わせて。飽きが来ないよう、味付けや調理方法を変えて。
「…前のお前の朝飯だったら、選べたんだがな」
 食堂で食うんじゃなかったからなあ、青の間で俺と食ってただけで。…それ専門の係もいたし。
 しかし、あれでもメニューがあったわけではないし…。
 卵料理を選べた所は、他のヤツらと同じだった。食堂で選べた唯一の料理が朝の卵だっけな。
 前のお前と俺の特権は、それの他にも少し注文出来たってトコで…。
 トーストよりもホットケーキがいいとか、焼いたソーセージもつけてくれとか。
 そんな程度の注文だったぞ、前の俺たちが選べた朝飯。
「係はいたけど、無茶なんか言えなかったよね…」
 朝御飯を作りに来てくれるんだし、もうそれだけで贅沢だから…。他のみんなと違うんだもの。
 その気になったら、我儘、言えただろうけれど…。
 食堂だって、夜食だったらサンドイッチとかも注文出来たから…。誰が頼みに行ってもね。
「晩飯が済んだら、厨房が暇になるからな」
 後片付けと次の日の仕込みくらいで、大忙しってわけじゃないもんだから…。
 だが、船のヤツらが次から次へと食べにやって来る飯時は無理だ。別の料理はしていられない。
 食事を食べに来たヤツらだって、悩んで決めてる時間は無いぞ。メニューが無いから。
 其処で何かを迷うとしたなら、「苦手なんだが、どうしようか」ってトコだけだ。
 「これは食えない」と申し出て別の料理を貰うか、我慢して食っておく方にするか。
 どっちにしたって早く決めないと、他の仲間が迷惑なんだ。
「…行列して受け取る所だったものね、食堂は…」
 自分の順番が回って来たら、係にトレイを渡されるだけ。
 渡される前に「別のがいい」って言っておいたら、時間は無駄にならないけれど…。
 トレイが来てからそれを言ったら、次の仲間を待たせちゃうものね。
 料理の見本は、いつも一応、出ていたけれど…。苦手な人用の別の料理の見本も。



 白いシャングリラにも無かったメニュー。選ぶことなど出来なかった料理。トレイに載せられ、渡されるだけ。その料理が苦手だった場合は、代わりのものを。
「…あれは選ぶとは言えないだろうな、苦手だから替えてくれというのは」
 食べられる料理がそれしか無いから、そっちを選んだだけなんだから。
 今日の俺みたいに、美味そうなのが幾つも揃った中から、選ぶってわけじゃないんだし…。
 お前のランチセットにしたって、他の料理は食べられないってことでもないし…。
 いつ見ても美味そうだから選ぶわけだろ、ランチセットを?
 今の俺たちには、何を食おうかと選ぶ自由も、そいつで悩める場所も幾つもあるんだが…。
「贅沢だよね、本当に…。シャングリラの頃と比べたら」
 あの船で料理を好きに選べて、食べられた時ってあったっけ?
 夜食用の注文が出来る時間以外で、そういう自由がある時間。これがいいな、って。
「無かったな。あの船じゃ、料理の注文は出来ん。夜食の時間帯なら、なんとかなったが…」
 その代わり、注文出来る料理も少ない。厨房のヤツらと、食材の在庫次第だから。
 好きに選んで食べるとなったら、パーティーの時に皿の上から選べた程度で…。
 あれにしたって、料理そのものは選べやしない。皿に盛り付けて出されたヤツが全部だから。
 もっと他のが食べたいんだが、と思っていたって、注文するのは無理だったからな。
 ついでに言うなら、皿の上から選べた料理も、今のバイキングには敵わんぞ。
 色々あるだろ、バイキングの料理。ホテルの朝飯とかにしたって。
 朝飯でも料理がドッサリだ、と広げた両手。卵料理やサラダで終わりじゃないんだから、と。
「シャングリラで好きに選べた料理…。バイキングにも負けちゃうね…」
 朝御飯のヤツにも負けてしまうよ、トーストもホットケーキも、白い御飯もあるんだもの。
 料理も山ほど置いてあるよね、サラダだけでも何種類も。
 朝からお肉もお魚もあって、和風のも、中華風だって。…シャングリラのパーティーよりも上。
 今はそういう時代なんだし、お料理、選べて当たり前だよね。
 何にしようか悩めるだなんて、ホントに贅沢なんだけど…。



 ミュウの箱舟だった船。楽園という名のシャングリラ。白い鯨は自給自足で生きてゆける設備を誇ったけれども、所詮は閉じた楽園だった。
 食料に不自由しない船でも、今の時代の朝食バイキングにさえも勝てなかった船。パーティーの時に並べた料理の中身でさえも、まるで勝負にならなかった船。
 そんな具合だから、普段の料理を選べはしない。食事の時間に、何を食べようかと迷いたくても無かった選択肢。皆と同じものか、それが苦手な人用に作られた予備の料理か、その二つだけ。
 選ぶ自由が無い船なのだし、メニューを広げて眺める贅沢だって無い。
「…つくづく贅沢になったもんだな、俺たちも」
 今日の俺は写真付きのメニューを眺めて悩んで、お前は食堂に張り出してあるメニューだろ?
 ランチセットの中身はコレ、って書いてあるヤツと、いつも貼ってあるオムライスとか。
 シャングリラじゃ、そいつも出来なかったな。夜食を注文するにしたって、訊くだけだから。
 厨房に出掛けて、「何が作れる?」と。…サンドイッチの中身にしても。
「あの船にはメニュー、無かったもんね」
 こういう料理があるんです、って書いてあるものは無かったよ。写真付きのも、字だけのも。
 厨房で出て来るものしか無くって、見本が置いてあっただけ。今日の食事はこういう料理、ってトレイに載せて。…苦手だったら「替えて下さい」って言えるようにね。
「メニューなあ…。どういう料理かを書くだけだったら、無かったこともないんだが?」
 生憎と写真は無かったがな、と今日の店で見たメニューと比べてみる。頭の中で。
 白いシャングリラで目にしたメニューと、今日の贅沢なメニューとを。
「メニュー、シャングリラにあったっけ?」
 そんなの、見たこと無いけれど…。メニューがあったら、みんなが眺めていそうだけれど。
 覚えてないよ、とブルーが言うから、「忘れちまったか?」と笑みを浮かべた。
「ソルジャー主催の食事会だと作っていたぞ」
 一種の記念品ってヤツだな、出席者が持って帰れるように。ソルジャーと食べた料理の中身を、何度も思い出せるようにと。
 エラが張り切っていただろうが。これが無くては話にならん、と。



 テーブルに置いてあったもんだが、と両手で示したメニューのサイズ。二つ折りだ、と。それを広げて立ててあったと、書かれた順に料理が出たが、と。
「ソルジャー専用の食器に盛られて、そりゃあ仰々しく…」
 でもって、係がメニューの通りに言ってたぞ。魚のポワレでソースがどうとか。
「…あれ、メニューなの?」
 エラはメニューだと言っていたけど、あれだと選べないじゃない。書いてある通りに、出て来るだけで。…一番上から順番に。
 今日のハーレイが見て来たメニューと全然違うよ、とブルーが首を傾げるから。
「選ぶメニューとは違うがな…。あれもメニューの一種ではある」
 そしてシャングリラでは、唯一のメニューだったんだ。あの船でメニューと言ったらアレだ。
 今なら店に出掛けて行ったら、ああいうコース料理でも選べるヤツがあるのに…。
 俺が悩んだメニューみたいに、メイン料理を選ぶとか。スープも選べるヤツだとか…。
「そうだよね…。あるよね、そういうの…」
 ぼくは少ししか食べられないから、レストラン、滅多に行かないけれど…。
 そういうメニューで選んだことなら、何度かあったよ。
 お肉よりかは、お魚の方がお腹一杯にならないかも、って魚料理にするとかね。
 スープが選べる所だったら、ポタージュじゃなくてコンソメスープ。
 ポタージュスープは、お腹一杯になっちゃうから…。
 「少なめに入れて」ってお願いしたって、あまり少なくはならないものね。



 コース料理のような凝ったものでも、肉か魚か、選べる店があるくらい。スープの種類も。
 けれどシャングリラでは無理だった。メニューを広げて、食べたい料理を選ぶこと。今の時代はブルーの学校の食堂でさえも、色々選べるものなのに。ランチセットは一種類でも、他の何かを。
 今日の昼食に入った店なら、ランチセットのメイン料理を四種類の中から選べたのに。
「今だと選ぶの、当たり前になってしまったからなあ…」
 俺が物心ついた頃には、もうメニューを見て選んでた。写真付きなら、指差してな。小さすぎて字なんか読めないチビでも、そうして選べたもんだから…。
 俺もすっかり慣れちまっていて、今日まで気付きもしなかった。メニューを眺めて、色々選べる贅沢ってヤツに。
 気付いたからには、これからはゆっくり選ばないと、とは思うんだが…。
 また直ぐにサッと決めちまいそうだ、仕事のある日は。…外で一人で食ってるんなら、その日は暇なんだろうにな。今日と同じで、本当は休んでしまっていい日。
「それって、前のハーレイがキャプテンだったから?」
 前のハーレイ、いつも仕事が沢山あって…。食事も休憩も早めに切り上げてたでしょ、少しでも早くブリッジに戻るのがキャプテンだから、って。
 そうやって急いでいたりするのに、子供たちの相手はしてあげるんだよ。放っておかずに。
 ハーレイらしいな、って思ってた。…あの頃を身体が覚えてるのかな、仕事のある日は、サッと食事を決めてしまうの。急がなくちゃ、って前のハーレイが…?
「俺もそのせいかと思ったんだが…。よく考えたら、運動をやってたせいかもな」
 柔道にしても、水泳にしても、練習も合宿も時間厳守だ。むしろ早めに、と叩き込まれる。朝は早起き、飯も急いで食べなきゃならん。それも、しっかりよく噛んで、だぞ?
 そう仕込まれたのが俺なわけでだ、飯をのんびり食っていたせいで遅れるなんぞは論外だ。
 きっとそっちの方なんだろうな、メニューを見て直ぐに決めちまうのは。
 前の俺でも、同じようにしそうではあるが…。前の俺はメニューで選んでないしな。
「そっか…。シャングリラでは、お料理、選んでないものね…」
 だけど、前のハーレイなら、ホントにやりそうだよ。メニューを見せたら、直ぐに選ぶこと。
 「これから仕事がありますから」って、短い時間で食べられそうなお料理とかをね。



 前のハーレイでも、きっとそうだよ、とブルーにまで言われてしまうほど。
 青い地球の上に生まれ変わっても、新しい命と身体を貰っても。平和な時代にやって来たって、仕事の時には大急ぎ。じっくり料理を選んでいいのに、メニューを見るなり決めてしまうくらい。
「お前にだって、そう見えるのか…。だったら、前の俺かもなあ…」
 前の俺も混じっているかもしれんな、急いで決めようとしちまうこと。…仕事のある日は。
 しかしだ、前の俺だと選ぶ自由も無かった料理を、今は色々選べるわけで…。
 仕事の時は無理かもしれんが、いつかお前とデートの時には、ゆっくりと悩むことにするかな。
 どれにしようか、お前も一緒に、あれこれ悩んでみようじゃないか。
 好き嫌いは無くても、選びたいだろ、お前だって?
 今日も選んでいたようだしな、と提案してやった、メニューを広げて悩むこと。いつかブルーが大きくなったら、二人でデートに出掛けて行って。メニューが豊富な店に入って。
「もちろん選んでみたいよ、ぼくも」
 シャングリラの時代は抜きにしたって、選ぶの、楽しそうだから…。色々選べるお店だったら。
 でも、選ぶのに困っちゃうかもしれないね。
 メニューのお料理、どれも美味しそうで。…今日のハーレイが迷ったみたいに。
 四種類の中から選ぶだけでも、迷ったんでしょ、と見詰めるブルー。仕事のある日に入ったお店だったのに、と。
 「そういう時のハーレイだって悩むんだったら、ぼくはホントに迷っちゃうよ」と。
「だったら、全部頼んじまえばいいじゃないか」
 悩むくらいなら、端から頼んで食っちまえ。時間はたっぷりあるんだから。
 メニューを広げて悩む時間も山ほどある上、食べる時間もゆったり取れるぞ。
 前の俺たちの頃と違って、仕事が待ってるわけじゃない。
 デートに出掛けて行こうって日だぞ、店が営業している間は、のんびり食ってていいんだから。



 そうするべきだ、と勧めてやったのだけれど。「全部頼んで食べてしまえ」と言ったけれども、困ったような表情のブルー。「無理そうだけど…」と。
「ハーレイ、それ…。ぼくが食べ切れると思う?」
 前のぼくだって、食堂に行ったら「少なめに」って頼んでいたんだよ?
 ぼくが大きくなった時にも、同じことになると思うけど…。お料理が多いと、お腹一杯。
 食べたいお料理を全部頼んでも、絶対、食べ切れないんだから。…お腹一杯になってしまって。
「お前の場合は、そうなるだろうな」 
 前のお前も、今のお前も、あまり沢山食べられそうにはないんだが…。
 お前が注文しようって時は、俺とデートの真っ最中だぞ?
 俺がお前と一緒なわけで、同じテーブルにいるんだから…。お前が食べてみたい料理を、シェアすることも出来るってな。
「シェア…?」
 なあに、とブルーは不思議そうだから、「知らないか?」と微笑み掛けた。
「料理を二人で分けるんだ。皿を二人分、貰ってな」
 そうすりゃ、お前が食わなかった分は、俺が綺麗に平らげてやれる。お前が幾つ頼んでいても。
 でなきゃ、お前と俺とで全く別の料理を頼んで、途中で交換するだとか。
 俺はお前が食べてみたい料理を食うことにするから、適当なトコで「取り替えて」とな。
「それって、とっても楽しいかも…!」
 色々頼んで、ハーレイと分けて食べるのも…。ハーレイとお料理を交換するのも。
 どっちも素敵で、やってみたいよ。美味しそうな料理を、一つだけ選べなかった時には。
 だけど、やっぱり食べられる量は少ないだろうし…。
 欲張って沢山頼んじゃっても、お腹一杯だと、ぼくはどうにもならないから…。



 選べるお料理の数は少なくなりそう、とブルーは残念そうな顔。「お店の人にも悪いもの」と。いくら助けて貰ったとしても、食べ切れなくなってしまうなら、と。
「…そうでしょ、ハーレイ? お料理してくれる人に悪いよ」
 お腹一杯になってしまったら、せっかくのお料理、食べられないもの…。
 まだありますよ、って運んで来てくれても、ぼくは見ているしかないんだもの。ハーレイが全部食べる所を、「それ、美味しい?」って訊くだけで。
 そんなの、ホントに失礼だから…。あまり沢山頼んじゃ駄目だよ、いくら悩んでしまっても。
 だから少ししか頼めないよ、というのがブルーの悩み。メニューで選べる時代ならでは。
 前の自分たちが生きた頃なら、悩む必要さえ無かったこと。選ぶ料理が無かったから。メニューさえも無い船だったから。
「少ししか頼めないってか…。そういうことなら、また行けばいいだろ、続きを食べに」
「続き?」
「そのままの意味さ。次のデートで、この前の続き、と食べに行くんだ」
 何度もやってりゃ、いくらお前が少しずつしか食べられなくても、メニューを制覇だ。それこそ端から端まで食えるぞ、料理も、それにデザートだって。
「それもいいかも…。おんなじお店でデートなんだね」
 美味しいお料理、どんなのか、全部食べるまで。…メニューにあるのを、ホントに全部。
「いいか、必ず限定品から食べるんだぞ?」
 今日の俺もそいつで決めたんだ。期間限定と書いてあったから、ある間に、とな。あの店にまた行くかどうかは別にして。
 旬の素材で作る料理も多いからなあ、制覇するなら先に押さえるのは限定品だ。
「分かった、いつでも食べられるお料理は後回しだね」
「そういうこった。…ついでに、店に入る前にも沢山悩めるぞ」
 何の料理を食べに行こうか、というトコからな。今の時代は料理の種類も山ほどだから。
「贅沢すぎだよ、今のぼくたち…」
 メニューだけでも悩めそうなのに、食べに行けるお店の種類も一杯。
 シャングリラの食堂の頃が嘘みたいだよね、あの食堂でも、充分、美味しかったのに…。



 だけど素敵、とブルーの瞳が未来の夢に煌めいているから、デートの時にはゆっくり悩もう。
 今の時代は選べる料理に、選べる食事が出来る店。
 いつかブルーとデートの時には、何処に入るか、まずは食事をする店から。
 ブルーと二人で悩むのもいいし、いったい何処へ連れて行こうかと一人で調べて悩むのもいい。
 店を決めたらブルーと入って、今度はメニューを広げて悩む。
 自分も、ブルーも、ずらりと並んだ料理の中から、どれを選んで食べようかと。
 シャングリラにいた頃と違って、今は色々選べるから。
 二人で違う料理を頼んで、分けて食べてもいいのだから。
 そしてブルーが望むのだったら、幾つも頼んでシェアだっていい。
 同じ料理を分けて食べるのも、きっと幸せだろうから。
 そうやって何度も店を訪ねて、メニューを制覇するのもいい。
 ブルーと二人で通い続けて、すっかり店の馴染みになって。
 気に入りの席も覚えて貰って、其処に座って、料理と一緒にブルーの笑顔も堪能して…。




             選べる料理・了


※今のハーレイやブルーにとっては、料理を選ぶのは当たり前。店でも、学校の食堂でも。
 けれど、シャングリラでは違ったのです。何を選ぶか悩める今。デートの時にも悩んでこそ。
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