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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(綺麗…!)
 鶴だ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 頭の天辺が赤い丹頂鶴の写真。つがいなのだろう、真っ白な雪原で翼を広げて向かい合う二羽。すらりと伸びた首と、長い足と。黒い羽根が混じった大きな白い翼。
(この鳥だけなんだ…)
 地球が一度滅びてしまうよりも前、日本と呼ばれた小さな島国。その国があった辺りだとされる地域、其処で繁殖する鶴は。他にも鶴はいるらしいけれど。
 人間がまだ地球しか知らなかった時代、その頃から日本で子育てをする鶴は丹頂鶴だけ。そして日本では最大の鳥。今も昔も。
 背の高さは百四十センチもあるというから、チビの自分とあまり変わらない。翼を一杯に広げた時には二メートル以上、ハーレイの背よりもまだ大きい。
 なんて大きな鳥なのだろう、と感心して読んでいったのだけれど。
(…一度、滅びかけて…)
 絶滅したとも思われた鳥。人間に乱獲されてしまって、姿が何処にも見えなくなって。
 その姿がミュウと重なった。前の自分が生きた時代の。…人間に狩られ、殺されたミュウたち。
(人間って、ずっと昔から、こう…)
 自分たちの勝手で、生き物を死へと追いやった。最後は母なる地球までをも。今の時代は誰もがミュウで、愚かなことはしないけれども。



 滅びかかった丹頂鶴。いなくなったと思われた鳥は、再発見されて保護されたという。
 たった十羽とも、十数羽とも伝わる群れ。釧路湿原の鶴居村で見付かり、狩られはせずに。
 元のように数を増やしてゆこうと、努力を重ねた人間たち。餌が少なくなる冬にトウモロコシを与えたりして、飢死を防いだのが効いたという。
 湿原で暮らす丹頂鶴。サルルンカムイ、遠い昔のアイヌの言葉で「湿原の神」。
 ふうん…、と読み進めていった記事。残念なことに、この辺りでは出会えないらしい。北の方へ旅をしない限りは、同じ地域の中でも無理。
 丹頂鶴の寿命は三十年ほどで…。
(一生、相手を変えないの?)
 そんなに長く生きるというのに、つがいになったら一生を共に暮らしてゆく。毎年、一緒に雛を育てて、いつも一緒に暮らし続けて。
 鳥によっては、繁殖期の度にパートナーを変えるらしいのに。前の相手とは別れてしまって。
(求愛のダンス…)
 二月頃には舞うのだという。まだ雪に覆われたままの大地で、向かい合って。最初に目を引いた写真がそれ。翼を広げた雌雄の鶴。
 パートナーを探して、互いに舞うという鶴の舞。鳴き交わして、翼を広げて舞って。
(最初だけなの…?)
 つがいになったら、生涯、相手を変えないから。
 若い鶴たちだけが舞う、パートナーを探す鶴の舞。つがいの鶴は愛を確かめるためにだけ舞う。他の相手は欲しくないから、向き合って、互いに呼び合いながら。
 けれども、それが出来ない鶴もいる。パートナーを失くしてしまって、もう一度、相手を探して舞う鶴。似たような鶴がいないかと。…誰かいないかと、悲しい舞を。
 初めて相手を探す鶴たちが舞う中で。つがいの鶴たちが愛を確かめ合う中で。



 生涯、相手を変えない鳥。つがいになった相手が死ぬまで、添い遂げる鳥。
 クチバシが折れてしまったパートナーのために、餌を与え続けた鶴までいたという。自分で餌が取れなくなったら、鳥の寿命はおしまいなのに。飢えて死ぬしかないものなのに。
 けれど、パートナーの命を守った鶴。食べやすいように餌を千切って、食べさせてやって。常に一緒に餌場に出掛けて、相手の分まで餌を探して。
 それほどに愛情深いから。…本当だったら生きられないようなパートナーも守る鳥だから。
(相手が死んでも…)
 その場をなかなか離れないという。パートナーを失くしてしまった鶴は。
 死んだ相手はもう動かないし、鳴いても声は返らないのに、其処から動こうとしない鶴。じっと立ったまま、餌を探しに行く時以外は。
 死骸を狙ってキツネやカラスが近付いて来たら、翼を大きく広げて威嚇し、クチバシでつついて追い払う。いつも一緒だった相手の身体を、守らなければいけないから。
 朽ちて骨だけになってしまっても、その行動は変わらない。骨だけになっても、一緒に過ごした相手は其処にいるのだから。…もう動いてはくれないだけで。声を返してくれないだけで。
 そうして守って守り続けて、寄り添い続ける丹頂鶴。
 雨で死骸が流されるだとか、雪が積もって下に隠れてしまうとか。姿が見えなくなって初めて、何処かへ飛んでゆくという。
 自分の相手はいなくなったから、次のパートナーを見付けるために。
 新しくつがいになってくれる相手、それを探して、一緒に暮らしてゆくために。



 失くしてしまったパートナー。けれど、紡いでゆくべき命。
 自分の寿命がまだ続くのなら、新しい相手と出会って、一緒に暮らして、雛を育てて。
 でも…。
(見付かるのかな…?)
 一緒に生きてくれる鶴。…若い鶴だけが求愛のダンスを舞う場所で。他の鶴たちは、互いの絆を確かめ合いながら舞う場所で。
 きっと、見付かりはするのだろうけれど。…まさか一羽で舞い続けることはないだろうけれど。
(…可哀相…)
 つがいだった相手が死んでしまった、独りぼっちになった鶴。相手の身体が骨だけになっても、側を離れようとしない鶴。
 どんなに悲しくて寂しいだろう。もう応えてはくれない相手。動かない相手。
 ずっと一緒に子供を育てて、何十年も離れずに暮らしていたのに。何処へ行く時も、互いの姿があるのが当たり前だったのに…。



 こんな鳥だったとは知らなかった、と読み終えた記事。丹頂鶴の切ないほどの愛と想いと。
 その記事の最後に、オマケが一つくっついていた。オシドリ夫婦と呼ばれるオシドリ。仲のいい夫婦の例えにもされるオシドリだけれど、実際は…。
(毎年、相手を変える鳥!?)
 とんでもない、と仰天してしまったオシドリの夫婦。
 子育てを終えたオシドリの夫婦は、そこでお別れ。雛が巣立ったら、自由を求めて飛んでゆく。華やかな姿が目を引く雄も、地味な雌の方も。これで今年の恋は終わり、と。
 次の年には、また新しい相手を探す。前の相手を探しもしないで、誰にしようかと。
 丹頂鶴なら、鶴の舞の季節の直前までが子育てなのに。
 首から上がまだ丹頂鶴らしい色にならない幼鳥、その子と一緒に家族で暮らす。鶴の舞には早い幼鳥、その子と子別れするまでは。「もう駄目だよ」と突き放すまでは、餌も与えて。
 子別れをしたら、鶴の舞の季節。つがいで舞って、愛を確かめて、次の子育て。
 パートナーを変えることなく、同じ相手と。…死んでも側を離れないほど、愛する鶴と。
 本物のオシドリ夫婦はオシドリではなくて、鶴だった。
 誰も「鶴夫婦」とは言わないのに。あくまで「オシドリ夫婦」なのに。



 どうやら自分も勘違いをしていたらしい、と閉じた新聞。オシドリなんて、と。
 騙されてたよ、と考えながら、おやつを食べ終えて、部屋に帰って。
(オシドリよりも、丹頂鶴…)
 そっちが本物のオシドリ夫婦、と勉強机の前に腰掛けた。其処に飾ったフォトフレーム。飴色の木枠の中はハーレイと二人で写した写真。夏休みの一番最後の日に。
 今はまだ、二人一緒の写真はこれしか無いけれど。…いつかは結婚写真も撮れる。両親の部屋に飾ってあるような、幸せ一杯の素敵な写真を。
 今度はハーレイと結婚出来るし、前の自分たちのように恋を隠して生きなくてもいい。同じ家で暮らして、いつまでも一緒。今度は夫婦になれるのだから。
 毎年相手を変えるオシドリより、ずっと相手を変えないという丹頂鶴。そっちでいたい、と夢を描いた今のハーレイと自分。傍目には「オシドリ夫婦」と言われても、本当は丹頂鶴の夫婦。
 前の生で恋をしていた相手と、生まれ変わっても一緒だから。蘇った青い地球に生まれて、今も恋しているのだから。
 この先も、きっと。
 青い地球での生が終わっても、離れないできっと一緒の筈。
 此処に生まれて来るよりも前に、二人でいただろう場所に還って。死んだ後にも、二人一緒で。
 さっき新聞で読んだ丹頂鶴のつがいのように、離れないまま。いつまでも、きっと。



 相手が死んでしまった後にも、其処を離れない丹頂鶴。動かなくなっても、骨になっても。
 その身体がすっかり見えなくなるまで、朽ちても守り続ける鶴。キツネやカラスを追い払って。
(パートナーが死んでも、離れないなんて…)
 ずっと守って側にいるなんて、鳥なのに凄い、と改めて思った所で気が付いた。
 丹頂鶴は動かなくなったパートナーの側を離れず、いつまでも守ろうとするのだけれど。
(…前のハーレイ…)
 キャプテン・ハーレイだったハーレイは失くしたのだった。…前の自分を。
 何処までも共にと何度も誓ってくれていたのに、相手を失くしてしまったハーレイ。
 しかも、メギドで。シャングリラからは遠く離れた場所で。
(前のぼくの身体…)
 メギドと共に砕けてしまって、シャングリラに残りはしなかった。
 丹頂鶴が懸命に守り続けるという、パートナーの身体。動かなくても、骨になっても。キツネやカラスを追い払いながら、決して側から離れようとせずに。
 それが見えなくなってしまう日まで。大雨や雪に消される日まで。
 鶴でもそうして守り抜くのに、側にいたいと願うのに。
 前のハーレイは、近付くキツネやカラスを追い払うどころか、触れることさえ出来なかった。
 死んでしまった前の自分に。…動かなくなってしまった身体に。
 鶴でも守り続けるらしい身体を、前の自分は何処にも残しはしなかったから。
 暗い宇宙に散った身体は、シャングリラに戻らなかったから。



 今の今まで、考えたことも無かったけれど。
 ハーレイの温もりをメギドで失くして、独りぼっちになったことばかりを思い、訴え続けて来たけれど。…前の自分が死んでしまった後のハーレイは…。
(…もしかして、物凄く辛かった…?)
 たった一人で残されたというだけではなくて。
 守る身体さえも失くしてしまって。
 つがいの相手を失った鶴が、いつまでも守ろうとする身体。骨になっても、側を離れずに。側に立ってじっと守り続けて、キツネやカラスを追い払って。
 鶴でさえも大切に想い続けて、相手の死骸を守るのに。…消えるまで去ろうとしないのに。
 ハーレイは前の自分の身体を守れはしなくて、触れることさえ叶わなかった。
 シャングリラに戻って来なかった身体。…動かなくなってしまった身体。それさえも見られず、側にいられなかったハーレイ。
 とても辛くて悲しかったろうか、せめて側にと思ったろうか。死んで動かない身体でも。
 鶴でもそれを願うのだから。側を離れずにいるのだから。
(…ハーレイだって、そうだった…?)
 前の自分は、ハーレイに「ジョミーを支えてやってくれ」と伝えてメギドへ飛び去ったけれど。それきり戻りはしなかったけれど。
 ハーレイを独りぼっちにしたのだけれども、もしも、身体だけ戻っていたら。
 動かなくなった身体だけでも戻っていたなら、少しは辛くなかっただろうか。同じように一人、残されたとしても。…シャングリラに独りぼっちでも。
 キツネやカラスは来ないけれども、動かない身体を守れたら。側にいることが出来たなら。



 けして叶いはしなかったこと。メギドで死んだ前の自分の身体が、あそこで消えずにハーレイの所に戻ること。
 それは無理だったと分かるけれども、ハーレイが動かなくなった身体に出会えていたら。自分が愛した者の身体を目にすることが出来たなら。
 気が済むまで側で見ていられたなら、辛さは減っていたのだろうか。
 つがいの相手を失くした鶴が死んだ相手に寄り添い続けて、守ることを生き甲斐にするように。愛の証を立てるかのように、相手を守り続けるように。
 前のハーレイもそれが出来たら、独りぼっちだと思わずに済んでいたのだろうか…?
(…どうだったの…?)
 今の自分には分からないこと。前の自分は、考えさえもしなかったこと。
 其処まで思いはしなかった。一人残されるハーレイの辛さも、きっと考えてはいなかったから。それに気付いていたとしたなら、他にも言葉を残したろうから。
 恋人同士の別れのキスは交わせなくても、「先に行って待っているよ」とでも。
 「君が来るまで待っているから」と伝えさえすれば、ハーレイにもきっと救いが生まれた。先に逝った恋人を追ってゆく日まで、頑張らねばと。「今もブルーは待っているから」と。
 それもしようとしなかった自分。…身体も残さず死んでゆくことが、ハーレイにとってどれだけ辛いか。考えもしないし、気付きさえしない。
 現に今まで、あの鶴の話を読むまで思いもしなかったから。
 だから分からない、ハーレイの思い。…前の自分の骸があったら、救われたのかは。



 本当にどうだったのだろう、と考え込んでしまったこと。前のハーレイの辛さと悲しみ。
 前の自分でも分からなかったのに、今の自分に分かるわけがない、と見詰めるハーレイと一緒に写した写真。ハーレイの隣に写ったチビ。
 こんなチビでは分からないけれど、それでも知りたい気持ちになる。前のハーレイも鶴と同じに側で守りたかっただろうか、と。
 ぐるぐる考え続けていたら、チャイムが鳴った。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、仲のいいカップルのこと…。オシドリ夫婦ってよく言うでしょ?」
 だけどオシドリ、本当は相手を変えるって…。ずっとおんなじ相手じゃなくって、雛が巣立ちを済ませた途端にカップル解消。
 次の年には新しい相手を探しに出掛けて、別のカップルになってしまうって…。
「そうらしいなあ、面白いもんだ」
 オシドリの夫婦には、ちゃんと伝説もあるんだが…。
 狩人に殺された雄の首をだ、しっかりと羽の下に抱えていた雌のオシドリの話とか。
 しかし本物のオシドリときたら、お前が言ってた通りなんだよな。毎年、新しい恋をするんだ。
「人間の勘違いだよね。でも…。丹頂鶴は相手を変えないんだって」
 本当に本物のオシドリ夫婦で、つがいになったら、ずっと一緒。
 相手が死んでしまわない限りは、一生、おんなじ相手と暮らしていくって…。
「鶴の仲間はそうだと聞くが?」
 丹頂鶴に限らず、どれも。…この地域で繁殖している鶴は、丹頂鶴しかいないそうだが。



 渡ってくる鶴なら冬に二種類いるからな、とハーレイが挙げたナベヅルとマナヅル。この地域で子育てはしないけれども、どちらも相手を変えない鳥。一度つがいになったなら。
 丹頂鶴でなくても、鶴の仲間はそういう習性を持つらしい。ハーレイは知っているようだから。
「じゃあ、相手が死んでも離れないって、知ってた?」
 パートナーが死んじゃった時。…直ぐに飛んでは行かない、ってこと。
「暫くは其処にいるらしいな?」
 他の鳥なら行っちまうのに、相手を変えない鳥となったら愛情深いというわけだ。
「暫くじゃないよ…!」
 ちょっとどころか、うんと長く側にいるんだよ。…キツネやカラスを追い払いながら。
 そういうのが死体を食べちゃわないよう、翼を広げて脅かしてみたり、クチバシでつついて。
 食事の時には離れて行くけど、それ以外は側で守るんだって。…骨になっても、まだ側にいて。
 雨とか雪で死体がすっかり消えてしまうまで、ずっと守って、側で過ごして…。
 姿が見えなくなって初めて、何処かへ飛んで行っちゃうんだって。
「そうだったのか…。骨になっても、まだ守るんだな」
 さっき話したオシドリの伝説、あれの雌のオシドリが抱えていた首もそうなんだが…。
 雌のオシドリを狩人が殺したら、羽の下から骨になった雄の首が出て来るんだが。
 まさにそれだな、丹頂鶴。…本当に相手を想ってるんだな、とっくに死んでしまってるのに。
「可哀相でしょ?」
 最後まで諦められないんだよ。骨になっても、相手のことを。
 消えてしまったら諦めるけれど、それまではずっと、好きだから側にいるんだよ…。
「…忘れられないってことなんだろうなあ…」
 ずっと一緒に暮らしてたんだし、その相手を。…好きだったから、守って側にいるんだな…。



 可哀相にな、とハーレイも相手を失くした鶴の姿を思い浮かべているようだから。
 どんなに寂しいことだろうかと、残されてしまった鶴に同情しているから。
「それでね、前のハーレイなんだけど…」
 肝心のことを訊かなければ、と切り出してみたら、怪訝そうな顔になったハーレイ。
「…俺がどうかしたか?」
 鶴の話だろ、どうして其処で前の俺の名前が出て来るんだ…?
「ハーレイ、前のぼくの身体、あったらどうした?」
「はあ?」
 前のお前の身体って…。ますます分からん、鶴の話はどうなったんだ。
 そりゃあ確かに、前のお前は鶴みたいな凄い美人だったが…。
「鶴って…。鶴でもいいけど、その、前のぼくの身体」
 メギドで消えてしまうんじゃなくて、ちゃんとシャングリラに戻っていたら。
 死んじゃった鶴と同じで動かないけど、ただの死体になっているけど…。
 あった方がハーレイ、辛くなかった…?
 何も残らずに消えてしまうより、身体が戻った方が良かった…?
「そういう意味か…。鶴とは其処で繋がるんだな」
 死んじまったお前の身体を守って、側にいられた方がいいか、と。
 最初からすっかり失くしちまうより、鶴みたいに側で守って、眺めて。…俺の気が済むまで。
 シャングリラにキツネやカラスは来ないが、お前の身体を守れていたら、か…。
 …どうだったろうな、前の俺ならどうしたろうなあ…。



 知らなかった方が良かったくらいの最期だしな、と呻いたハーレイ。
 前の俺は何も知らないままで終わってしまったんだが、と。
「…お前、キースに何発も撃たれちまったし…。右目まで潰されちまったし…」
 もう血まみれで、その上、お前は死んじまった後で…。
 そんな身体が戻っていたなら、俺はキースを決して許せはしなかったろう。…今以上に。
 お前をそういう風にしたのが誰かは、直ぐに想像がつくからな。
 死んじまったお前を抱き締めて泣いて、泣きながら「殺してやる」と怒鳴って。
 …恋人同士だったとはバレないだろうな、お前が俺の友達だったことは誰でも知ってる。いつも敬語で話していたのは、お前がソルジャーだったからだ、ということも。
 どんなに怒って泣いていようが、誰も疑いはしないだろうし…。
 キースを憎んで憎み続けて、八つ裂きにするほど憎んだろうな。…いつか必ず殺してやる、と。
「…ホント?」
 だけど、キースを殺せるチャンスは無くって、そのまま地球まで行っちゃったから…。
 地球に降りたら、殴ってた?
 前から何度も言っているものね、「キースを殴り損なった」って。
 キースが前のぼくに何をしたのか知らなかったから、殴る代わりに挨拶した、って…。
「ああ、間違いなく殴っていたな」
 顔を見るなり、派手にお見舞いしただろう。…会談の前であろうが、何だろうが。
 あいつの顔が歪むくらいに、俺の全身の力をこめて。
 …だが…。



 それで片付いていたんだろうか、とハーレイは腕組みをして考え込んだ。
 今まで引き摺って嫌う代わりに、あそこで一発殴って終わりになっただろうか、と。
「前の俺もキースを憎んではいたが…。前のお前が死んじまったのは、キースのせいだし」
 あいつがメギドを持って来なけりゃ、俺はお前を失くさなかった。
 キースのせいだ、と憎み続けて地球まで行ったが、それだけのことだ。
 俺は恨みのぶつけようが無くて、憎み方さえ知らなかった。…憎いと思っていただけで。
 前のお前がどうなったのかを知らなかったせいだ、そうなったのは。
 …もしも、血まみれで死んだお前の身体を見ていたら。
 泣きながら抱き締める羽目になっていたなら、誰に憎しみをぶつけるべきかはハッキリしてた。
 お前を残酷に撃ち殺したキース、あいつも同じ目に遭わせてやると。
 殺せないなら、殴るまでだ。…お前の痛みの一部だけでも味わうがいい、と。
 多分、右目にお見舞いしたろう、渾身の力をぶつけてな。…目の周りにアザが残るようなのを。
 会談の時にキースの顔が腫れていようが、アザがあろうが、知ったことか。
 …しかし、それでスッキリしたのかもしれん。仇は討った、と。
 その一発で俺は恨みを晴らしてたかもな、国家主席の顔に立派なアザを作って。
 今日まで憎み続ける代わりに、一発殴って「これで終わった」と。
 前のお前が撃たれた分を見事に返してやった、と会談の席で国家主席のアザを眺めて満足して。
 …あの会談が始まる前には、全宇宙規模で中継していたんだから。
 キースの顔のアザってヤツもだ、全宇宙規模でお披露目になって、もう最高の晴れ舞台ってな。
「…なんだかキースが気の毒だけど…。今の時代までアザのある写真が残りそうだけど…」
 それでハーレイがスッキリしたなら、前のぼくの身体、残ってた方が良かったね。
 メギドから戻せるわけがないけど、戻す方法があったなら…。
「そうだな…。俺もその方が良かったかもな」
 どんなに辛い思いをしようが、お前を助けられなかったと泣き崩れることになっていようが。
 …お前の身体が戻っていたなら、俺はお前に会えたんだからな。
 動かなくなった身体だろうが、お前には違いないんだから。



 きっと守っていたんだろう、とハーレイが呟く。
 そういう身体が戻って来たなら、弔った後も、白いシャングリラに残しておいて。
 「ブルーは最期まで、地球に行きたいと望んでいたから」と、キャプテンの貌で皆に宣言して。
 誰も反対しない筈だから、地球に着くまで、柩に入れて。
「…お前の身体を保存できる柩、作るくらいは簡単だからな」
 それだけの技術は船にあったし、やろうと思えばいくらでも出来た。…あの戦闘の最中でも。
 外からもちゃんと中を覗けて、少しくらいなら蓋を開けても大丈夫なヤツ。
 そういう透明な柩を作って、青の間に置かせておいただろう。あそこがお前の部屋なんだから。
 他の仲間も、もちろんお前に会いに出掛けてゆくんだろうが…。
 俺が行くなら、誰も来ないような夜中だな。仕事が終わった後に一人で。
 …実際の俺は、そんな時間や空き時間に行っては、ナキネズミと話していたんだが…。レインがいなけりゃ、一人でお前と話しているつもりで過ごしてたんだが。
 もしも柩にお前がいたなら、お前に話し掛けただろう。
 何度も眺めて、柩を開けても大丈夫な間は、お前の手をそっと握ってやって。 
 …柩の蓋を閉じる前には、お前の手を撫でていたんだろうな。こんな手だった、と。
 蓋を閉じても名残惜しくて、外から何度も手を重ねようとしていただろう。
 帰る時には「また来るからな」と、お前にきちんと約束をして。
 柩の上からお前にキスして、お前の姿を目に焼き付けてから帰って行くんだ。…次に来る時まで忘れないように。目を閉じたら、いつでも思い出せるように。
 キャプテンとしてなら、何度でも訪ねて行けるんだろうが…。
 恋人として次に訪ねられるチャンスは、いつになるのか分からないしな。



 地球に着くまで、何度も何度も、青の間を訪ねて行っただろう、とハーレイは言った。
 キャプテンとしての役目とは別に、前の自分の恋人として。
 …誰にもそうだと知られないように。誰も青の間には行かない時間に、一人きりで。
 ソルジャー・ブルーの友達だったキャプテン・ハーレイの、私的な訪問。今は亡き友と語り合う時間、それだと皆は思うだろうから。
 けれど、本当は恋人に会いに。…二度と目を開けてはくれないけれども、恋人だから。
 大切な人が眠っているから、その手を握りに、キスを落としに。
 時間が許す限り柩に寄り添い、眠り続ける恋人が寂しくないように…。
「…お前は寂しがり屋だったからなあ、寿命が尽きると知った時には泣いてたくらいに」
 俺と離れてしまうんだ、って泣いていただろ、前のお前は。
 そんなお前が、一人きりで先に死んじまって…。寂しくない筈がないんだからな。
 しかしだ、俺は地球に着くまで、お前を追っては行けないんだし…。
 出来るだけ側にいてやるより他には、どうすることも出来ないんだから。…地球に着くまでは。
 だったら、お前が寂しがらないように訪ねて行っては、側にいないと…。
 俺が行かないと、お前、寂しくてシクシク泣いていそうだからな。…独りぼっちだ、って。
「そっか…。ハーレイ、鶴とおんなじだね」
 相手が死んじゃった鶴とおんなじ。…いつまでも側を離れない、って。
 鶴は餌を食べに行ってる間だけ、側を離れるらしいけど…。ハーレイは仕事の間だけ。
 そうでない時は、死んじゃったぼくの側にいるんだね。ぼくはもう、動きもしないのに…。
 ハーレイがどんなに呼んでくれても、返事もしないし、目も開けないのに…。



 まるでつがいの相手を失くした鶴のようだ、と考えてしまったハーレイの姿。
 前の自分の身体はメギドで消えてしまったけれども、それがあったら、そうなったのかと。
 ハーレイは動かなくなった前の自分の身体を守って、柩の側に佇んだのかと。
 キツネやカラスから守る代わりに、葬らせないよう守り続けて。
 「地球に行きたいと願っていたから」と、クチバシでつつく代わりに言葉で守って。
 生きていた時の姿そのままで、透明な柩に収めた身体。
 鶴が失くしたつがいの相手は朽ちるけれども、朽ちない身体をハーレイは守る。愛おしむようにキスを落として、何度も何度も手を握りながら。
 柩の蓋を開けられない時は、柩の上から手を重ねて。
 永遠の眠りに就いた前の自分が、青の間で独り、寂しがることがないように。
 自分も仕事が忙しいだろうに、せっせと時間を作り出しては、青の間へ足を運び続けて。
 相手を失くした鶴は、そうして過ごすから。…骨になっても側を離れず、寄り添い続けて守って過ごす。生涯を共にと願った相手を。
 守ろうと寄り添い続けた身体が、雨に流されて消えてしまうまで。白い雪の下に埋もれるまで。
 そうなるまでは決して離れない鶴。
 ハーレイも同じに、前の自分に寄り添い続けた。…もしも動かない身体が戻っていたならば。
 白いシャングリラに、前の自分の柩が置かれていたならば。



 本当に鶴とそっくりだね、と繰り返したら、「そうしたかったな」と答えたハーレイ。
 「前の俺には夢物語で、今だから言えることなんだが」と。
 悲しげに揺れる鳶色の瞳。…「前のお前は戻らなかった」と。メギドに行ってしまったきりで。
「…お前の身体を柩に入れて、俺が守って。…それが出来ていたら、良かったかもな…」
 キースを八つ裂きにしたくなるような、血まみれのお前を見ていたとしても。
 冷たくなっちまったお前の身体を、抱き締めて泣くことになったとしても。
 …もう一度、お前に会えたなら…。あれっきりになっていなかったならば、俺は守った。
 お前が返事をしてくれなくても、二度と目を開けてくれなくても。
 それでも、お前は俺の側で眠っているんだから。…二度と起きてはくれないってだけで。
 眠るお前が寂しくないよう、俺が守ってやらないとな。…お前には俺しかいないんだから。
 もちろん、柩に入れる前には、傷が分からないようにしてやっただろう。
 ノルディに頼んで、出来る限りのことをしてから、眠っているように目を閉じさせて。
 染み一つない綺麗な服を着せてやって、それからそっと寝かせてやって。
 …何度も覗きに行ったんだろう。
 お前が起きないと分かっていたって、お前の隣で過ごすためにな。
 鶴と同じだ、俺にはお前しかいやしない。…他のヤツでは駄目なんだ。お前もそうだろ?
 だから、地球まで連れて行ったさ。俺の大事なお前を守って。
 …残念なことに、そいつは出来なかったがな…。
 お前はメギドに飛んでったきりで、身体も戻って来なかったから。
 …鶴みたいに最後まで寄り添いたくても、肝心の身体が無いんじゃなあ…。



 前の俺は鶴になり損なったな、とハーレイが浮かべた辛そうな笑み。
 出来ることなら、そんな風に鶴になりたかった、と。つがいの相手を失くした鶴に。
「…ごめん…。ごめん、ハーレイ…」
 前のぼくの身体、無くなっちゃってて、本当にごめん…。
 もしも残ってたら、ハーレイの辛さはマシになってた筈だったのに…。
 キースのことだって殴って終わりで、国家主席の顔写真にアザが残っておしまいだったのに…。
 ごめんね、ぼくがメギドで死んじゃったから…。ぼくの身体、メギドで消えちゃったから…。
「お前が謝ることじゃない。…前のお前は間違っちゃいない」
 何度も言ったぞ、間違えたのは俺の方だと。…お前を追い掛けるべきだった、とな。
 そうでなければ、全力でお前を引き止めるかだ。…物分かりのいい顔をして送り出す代わりに。
 俺はどっちもしなかったんだし、自業自得というヤツだ。鶴になり損なったのは。
 …何の努力もしなかったヤツには、悔やむ資格は無いんだから。文句だって言えん。
 それにだ、前の俺は鶴にもなれなかったが、今度はお前と一緒だろうが。
 ずっとお前と二人で暮らして、死ぬ時も一緒に死ぬんだろ?
 お前、一人で生きたくはなくて、俺と一緒に死ぬんだって言っているんだから。
「うん…。ハーレイと一緒でなくちゃ嫌だよ」
 相手を失くした鶴みたいになったら、悲しくて生きていけないもの。
 ハーレイといつまでも、何処までも一緒。死ぬ時もハーレイと一緒なんだよ、今度のぼくは。
 ずうっとハーレイと二人一緒で、鶴みたいに一緒に暮らすんだよ…。



 何処までも一緒、とハーレイの小指と絡めた小指。「約束だよ」と。
 「いつかハーレイと結婚する日に、ハーレイとぼくの心を結んでよね」と。
 そうしておいたら、きっと心臓が一緒に止まってくれるから。
 青い地球での命が尽きても、二人、離れはしないから。
 いつか心臓が止まる日が来ても、お互い、鶴の舞は舞わなくてもいい。
 つがいの相手を失くした鶴の、悲しい舞は舞わなくていい。
 それは要らない二人だから。
 鶴の舞は愛を確かめ合うだけ、そのためだけに舞うのだから。
 生まれ変わって来た青い地球の上で、最後までずっと、手を繋いだまま。
 地球での満ち足りた生を終えたら、元来た場所へと、二人で還ってゆくのだから…。




            鶴のように・了

※一生、相手を変えない鶴。パートナーが死んでしまっても、その側を離れずに守る鳥。
 前のブルーの亡骸が船に戻っていたなら、ハーレイもそうした筈。叶わなかったのですが。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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(魔法のランプ…)
 あったっけね、とブルーが覗いた新聞の記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 遠く遥かな昔の地球。其処で生まれた不思議な伝説。願い事を叶えて貰える魔法のランプ。
 独特な形の金属製のランプ、それを擦るとランプの精が現れる。願い事を三つ、叶えるために。新聞に載っているランプの写真。「こういう形のランプですよ」と。
 小さい頃に童話を読んでいたから、写真だけでピンと来るランプの形。魔法のランプ、と。
 それから三つの願いのことも。
(三つだから…)
 今の自分が魔法のランプを手に入れたならば、願い事の一つは背丈を伸ばして貰うこと。少しも伸びてくれない背丈を、前の自分と同じ背丈に。それが最初の願い事。
 二つ目は十八歳にして貰うこと。十八歳になれば、ハーレイと結婚出来るから。
(三つ目は結婚…)
 ハーレイと結婚させて貰って、めでたし、めでたし。
 それで全部、と大満足で指を折ってから、「ぼくって馬鹿だ…」と頭を振った。三つ目の願いは結婚だなんて、文字通りの馬鹿としか言えない。
 最高のハッピーエンドに思えるけれども、背丈が伸びて十八歳になれば、何の障害も無い結婚。何もしなくてもプロポーズされて、結婚出来るに決まっているから。
 つまりは要らない、「結婚させて」という三つ目の願い。無駄に使った願い事。もうそれ以上は頼めないのに、願い事は三つでおしまいなのに。
(こんな風に三つとも、使っちゃうんだ…)
 きっとそうだ、と新聞のランプの写真を眺めた。ランプの精が住んでいそうな形のランプ。
 本物の魔法のランプがあったとしたなら、今のようなことになるのだろう。ランプの精が現れた途端に、ワクワクしながら願い事を三つ。
 深く考えたりもしないで、アッと言う間に三つとも。願わなくても叶うようなことまで。



 馬鹿だった、と情けない気持ちで帰った部屋。これじゃホントにただの馬鹿だ、と。
 けれど、せっかくの機会だから、と勉強机の前に座って、真面目に考えることにした。そういうチャンスは無さそうだけれど、魔法のランプを手に入れた時の願い事。
 少しは利口な考え方が出来るようになるかもしれないから。これも考え方の練習、頭の体操。
(願い事が三つ…)
 この数だけは変えられない。魔法のランプの童話にもあった約束事。願い事が叶う数を増やして欲しいと願っても、ランプの精は叶えてくれない。「それは駄目です」と。
 三つしか出来ない願い事。今度はきちんと考えなければ、さっきのようにならないものを。
(…でも、一つ目は…)
 背丈を伸ばして貰うことで決まり。ハーレイと再会した日から、一ミリも伸びてくれない背丈。前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスも出来ないのだから。
(ちゃんと大きく育ったら…)
 結婚が出来る十八歳になる方は、我慢して待っていたっていい。前の自分と同じ姿になったら、ハーレイはキスを許してくれる。二人でデートも出来るわけだし、今より素敵な日々になる筈。
 キスにデートと充実していたら、きっと短く感じる時間。結婚までの年数だって。
(休みの日には、ドライブとか食事…)
 一週間が経つのが直ぐだろう。週末を楽しみにカレンダーを眺めて、今よりも早く流れる時間。ふと気が付いたら十八歳の誕生日が直ぐそこに来ているのかも…。
 懸命に我慢しなくても。まだまだ先だと、何度も溜息をつかなくても。



 「十八歳にして下さい」という願い事をしないのだったら、叶えて貰える願いは二つ。さっきは使ってしまったけれども、慎重になったら使わなくてもいい願い事。十八歳にして貰うことは。
 叶えて貰える数が一つ増えた、と嬉しくなった。少しは利口になったらしい自分。残った二つの願い事をどう使おうか?
 ランプの精に、二つ目の願い事をするのなら…。
(幸せになれますように、って…)
 それが一番かもしれない。ハッピーエンドを迎えた後も幸せに。「ハーレイと二人で」と頼んでおけば、もう完璧。
(三つ目は…)
 ハーレイといつまでも一緒にいられますように。本当に二人、いつまでも一緒。
 これで間違いなく幸せな人生、三つの願いはこれだ、と満足感に浸ったのだけれど…。
(また失敗…!)
 失敗しちゃった、と頭を抱えた。また三つ目で失敗した、と。
 前の生では引き裂かれるようにハーレイと別れてしまったけれども、今は二人で青い地球の上。長い長い時を二人で飛び越え、この地球の上で再会出来た。きっとそれまでも何処かで二人、同じ所にいたのだろう。何も覚えていないだけで。
 生まれ変わっても一緒なのだし、ランプの精に頼まなくても二人一緒に決まっている。どんなに時が流れて行っても、何回生まれ変わろうとも。
 ハーレイと二人、いつまでも、きっと。何処までも二人、離れないままで。



 今度は頑張って考えていたのに、また三つ目で失敗した願い事。無駄に使ってしまった三つ目。ランプの精に頼まなくても、その願い事は叶うのに。
 また失敗、と三つ目を考え直すのだけれど、ハーレイと結婚して幸せになった自分だと…。
(三つ目、なあに…?)
 これというのを思い付かない。幸せ一杯に暮らす自分に、切実な願いは無さそうだから。いくら考えても浮かばないから、三つ目の願いは取っておくのがいいのだろうか。
(ランプの精、ちゃんと待っててくれるよね…?)
 時間切れがあるとは、童話には書かれていなかったと思う。いつか願いを思い付くまで、待って貰うのもいいかもしれない。「まだ無いから」と。
 それともハーレイに譲ろうか。自分は二つも叶えたのだし、ハーレイにも一つ。魔法のランプで叶えたいことが、ハーレイにもあるかもしれないから。
(それもいいかも…)
 三つ目の願いはハーレイの分、と頬が緩んだ。ハーレイは何を願うのだろう?
(…三つじゃなくって、一つだけだから…。慎重だよね?)
 無駄遣いなんかしない筈、と思ったけれども、気付いたこと。ランプの持ち主は自分なのだし、その願い事をハーレイに譲ろうというのなら…。
(三つ目はハーレイに譲ります、っていうのがお願いになる?)
 自分以外の誰かの主人になって欲しい、とランプの精に頼むのだから願い事。三つ目の願い事はそれでおしまいらしい。ハーレイに一つ譲る代わりに、何の願いも叶わないままで。
(三つとも叶えましたから、ってランプの精が消えちゃって…)
 また無駄遣いになった三つ目の願い。今度こそは、と精一杯に努力したのに。



 せっせと頭の体操をしても、上手くいかない三つの願い。魔法のランプは無いけれど。
(前のぼくなら…)
 どうなったろうか、三つの願いが叶うとしたら。ソルジャー・ブルーだった頃の自分なら。
 ソルジャー・ブルーならば、今の自分よりも、ずっと有効に願いを使えたことだろう。ミュウのためにと懸命に生きていたのだから。…最後は命までも投げ出したほどに。
 あの頃の自分が魔法のランプを手に入れたなら…、と青の間に戻った気分で考え始めた。
(一つ目は、地球に行くことで…)
 前の自分が夢に見た地球。他の仲間も望んでいたから、それが一つ目。
 二つ目は人類とミュウが仲良くなること。そうすれば追われることはなくなり、戦いも終わる。平和な時代が訪れるのだから、そうしたら…。
(ハーレイと結婚させて下さい、って…!)
 これで三つ、と喜んだ。流石はソルジャー・ブルーだった、と。
 チビの自分とは比較にならない、立派な願い。地球に行くことと、人類との和解。世界のために二つも使って、最後の一つを自分のために。願いは三つもあったのに。
 なんて立派で欲の無い使い方だろう、と自分の素晴らしさに酔いかけたけれど。
(…地球に行って、ミュウと人類が仲良くなったら…)
 もうソルジャーは要らないのだった。白いシャングリラもお役御免で、要らないキャプテン。
 そういう時代が訪れたならば、ただのブルーとハーレイなだけ。結婚出来て当然だった。ずっと隠し続けていた恋を明かして、大勢の仲間に祝福されて。
(また三つ目で失敗しちゃった…)
 ランプの精に頼らなくてもいい結婚。それを頼んで、三つの願いは全ておしまい。



 前の自分で考えてみても、上手くいかない願い事。チビの自分が考えるからか、前の自分が同じことをしても駄目なのか。
 なにしろ、魔法のランプだから。そうそう上手く使えるものでもなさそうだから。
(…前のぼくでも大失敗かも…)
 難しそうだし、と考え込んでいたら、チャイムが鳴った。窓から覗けば、門扉の向こうで大きく手を振っているハーレイの姿。今日は仕事が早めに終わったのだろう。
 母がお茶とお菓子を運んで来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。さっきからの考え事をハーレイにも訊いてみようかな、と思ったから。
「あのね、三つのお願い、知ってる?」
 そう尋ねたら、「三枚の御札か?」と返したハーレイ。
「有名な昔話だな。…日本の古典というヤツだ」
「え?」
「アレだろ、お使いに出掛ける小僧さんが持って行く御札。和尚さんに貰って」
 ハーレイが教えてくれた昔話。お使いに出掛けて、山姥に食べられそうになった小僧の話。遠い昔の日本が舞台で、魔法のランプの話とは違う。
 三枚の御札は上手く使われていたけれど。たった三枚で、小僧は寺まで逃げられたから。山姥に食べてしまわれはせずに、和尚が助けてくれる寺まで。
 とはいえ、それは自分が言いたい三つの願いとは違う伝説。
「それじゃなくって、魔法のランプ…!」
 御札と違ってランプの精だよ、願い事が三つ叶うんだよ。ランプを擦ったら、ランプの精が三つ叶えてくれるんだってば…!



 でも…、とシュンと項垂れた。「御札みたいに上手く使えればいいんだけれど」と。
「魔法のランプが手に入ったとしても、ぼくだと、上手く使えないみたい…」
 いくら考えても、三つ目で失敗しちゃうんだよ。お願いしなくてもいいことを頼んだり、もっとつまらない失敗をしたり。
 …前のぼくになったつもりで考えてみても、やっぱり失敗…。
「魔法のランプの方だったのか…。今の俺だと、三枚の御札の方が馴染み深いんだが…」
 懐かしいよなあ、よく話してたな。魔法のランプっていうヤツのことも。
「話してたって…。誰と?」
「前のお前だが?」
 懐かしいって言ったらそれしか無いだろ、今の俺なら三枚の御札なんだから。
「前のぼく…?」
 魔法のランプの話なんかをしてたっけ?
 それに、ハーレイと話してたんだよね、魔法のランプ…?
「忘れちまったか?」
 元々は魔法のランプじゃなくてだ、ごく平凡なランプから始まった話だったが…。
 シャングリラでランプを作った時に。…白い鯨が出来上がった後だな、オイルのランプだ。
「オイルランプ…?」
 それって、オイルを使うヤツだよね。元からあったと思うんだけど…。白い鯨になる前から。
 非常用にってあった筈だよ、エネルギー系統が駄目になっちゃった時に備えて。
「まあな。…真っ暗な宇宙を飛んでいるんだ、明かりが消えたらどうにもならんし…」
 修理しようにも、船自体が真っ暗な中ではなあ…。幸い、そんな目には一度も遭わなかったが。
 そういう時のためのヤツだろ、お前が言うのは。オイルで灯すランプ。
 そのオイルをだ、白い鯨に改造した後、一部をオリーブオイルに替えたってわけだ。オリーブ、あの船で作っていたんだから。



 自給自足で生きてゆく船に生まれ変わったシャングリラ。白い鯨は全てを船の中だけで賄えた。様々な作物を育てたけれども、オリーブの木もその一つ。良質な油が採れるから。
 その栽培が軌道に乗って、オリーブオイルが充分に採れるようになった後。
 本物のオリーブオイルがあるのだから、とランプの一部をオリーブオイルのランプに切り替える話になった。元から船にあった非常用のランプ、それのオイルを天然素材で、と。
「覚えていないか、切り替えたのは作業用のランプじゃなかったから…」
 公園とかで使うヤツをオリーブオイルのにしたわけだから。
 …どうせなら、とヒルマンとエラが懲りたがったんだ。昔風のデザインのランプにしたい、と。
 古代ギリシャ風だっけな、陶器のヤツで…。魔法のランプを平たくしたようなデザインで。
「あったっけね…!」
 思い出したよ、それにするんだ、ってヒルマンとエラが言ったから…。
 別に反対する理由も無いから、いいと思う、って前のぼくも賛成してたんだっけ。ブラウたちも賛成で、作ることになって…。
 そういう作業が得意な仲間が、資料を貰って作ったっけね…。



 とても古風な陶器のランプ。古代ギリシャ風の素朴なオイルランプが幾つも出来た。
 魔法のランプを平たくしたような形、と今のハーレイは表現したけれど、まさにそういう平たいランプ。取っ手と、オイルを満たす本体と、注ぎ口のようになった火口と。
 オリーブオイルに浸した灯芯に火を点けるだけで、優しい焔が火口に灯る。白いシャングリラに生まれたランプは、新しいけれど古風なもの。
 ギリシャ式の黒絵に赤絵とヒルマンとエラは言ったのだったか、黒と茶色にも見える赤褐色とで絵が描かれていた。ギリシャ神話や、古代ギリシャ風の動物などの絵が。
 非常用のランプとはいえ、公園にも備えられたから。
 夜になったら灯してもいい、と許可が出されていたから、たまに灯している仲間がいた。公園に明かりはあったのだけれど、それとは別に。
 少し暗い場所にあるようなテーブルでオイルランプを灯して、ゆっくりと語らう仲間たち。
 グループで灯す者たちも多かったけれど、後には恋人同士が増えた。居住区に幾つも鏤められた小さな公園、そちらはカップルの御用達。
 先客がいなければ、オイルランプを灯してデート。明るすぎないのが好まれていた。
 前の自分も、ハーレイと…。



 灯したのだった、と懐かしくなった陶器のランプ。白いシャングリラの公園で。
「あれを灯して、ハーレイとデートしてたんだっけ…」
 ハーレイの仕事が早く終わったら、公園に行って。…他のカップルがやってたみたいに。
「間違えるなよ、最初はデートじゃなかったんだぞ」
 単なる友達同士だったんだからな。グループじゃなかったというだけのことだ、たまたま二人で座ってただけだ。夜の公園で、ランプを灯して。
 ただのソルジャーとキャプテンの視察だっただろうが、一番最初は。
 古めかしいランプを作ってはみたが、使い勝手はどんなものか、と二人で出掛けて行ったんだ。暗すぎるだとか、使いにくいとか、そんなのだと話にならないからな。
 ヒルマンとエラが何と言おうが、役に立たないランプは駄目だし。
「そういえば、ハーレイ、そう言ったっけね…」
 駄目なようなら、キャプテンとして元のランプに戻させる、って…。
 だから最初は、ランプを灯して座る代わりに、あちこち二人で歩いたんだっけ。…暗い所でも、足元がちゃんと見えるかどうか。
 持って歩いても消えたりしないか、そんなのまでチェックしてたんだっけね…。



 ランプの使い勝手のチェックをしていた、一番最初のランプでの視察。前のハーレイはランプが役に立つものと判断したから、素朴なランプはそのまま残った。
 オリーブオイルを使った非常用のランプ。いつの間にやら、恋人たちの夜のデートの定番。
 けれど、ソルジャーとキャプテンの視察だと言えば、堂々と灯しにゆけるから。ハーレイと恋人同士になった後にも、デートを続けたのだった。視察のふりをして、ロマンチックなひと時を。
「あれで、お前が部屋にも欲しいと言い出してだな…」
 そうそうデートに行けはしないし、青の間にも一つ欲しいんだ、とな。
「…作って貰えたんだっけ?」
 覚えていないよ、青の間にあんなランプがあったということは。…忘れちゃったかな?
「今更無理だろ、と前の俺が呆れて言ったんだ。…そういう言い方はしなかったがな」
 あの頃は敬語で話してたんだし、「今更、無理だと思いますが…」ってトコだったろうな。
 ランプが出来てから、何年経っていたんだか…。出来て間もない頃ならともかく、遅すぎた。
 なんだって今頃、そんなランプを欲しがるんだ、と勘繰られるぞ、と注意したんだが…。
 そしたら、お前は屁理屈をこねた。「魔法のランプにすればいいよ」と。
「…そうだったっけ…」
 魔法のランプが欲しかったんじゃなくて、欲しかったのはランプだったんだけど…。
 公園でいつも灯してたヤツが欲しかったけれど、ハーレイが「無理だ」って言ったから…。
 それなら魔法のランプにすれば、って前のぼく、思ったんだっけ…。



 すっかり忘れていたけれど。前の自分がランプを欲しいと思ったことさえ、今の今まですっかり忘れていたのだけれど。
 青の間にも一つあればいいのに、と願ったランプ。それを灯せばデートの気分になれるから。
 公園のと同じ陶器のランプは駄目だと言うなら、ランプのデザインを変えればいい。ヒルマンやエラも納得しそうな魔法のランプ。その形ならば押し通せるかも、と考えたのだった。
「いいと思うんだけどね、魔法のランプは」
 エラは何かと、ぼくを特別に扱いたがるし…。この部屋にも特別な非常灯を置きたい、と言えば納得するんじゃないかな。…普通のランプは駄目でもね。
 それに、魔法のランプだから…。運が良ければ、願いが三つ叶うってこともありそうだから。
「はあ…。特別な形のランプというのは、確かにエラも前向きに考えてくれそうですが…」
 魔法のランプが気になりますね。…三つの願いは何になさるんです?
 もしも本当にランプの精が現れたならば、どんな願い事をなさるおつもりですか…?
「それはもちろん…。ミュウの未来と、地球に行くことと、平和かな?」
 ミュウが人類に殺されずに生きていける未来と、地球に行くこと。…それから平和な時代だよ。
 これで三つになるわけだからね、願いが叶えば嬉しいじゃないか。
「…そういう世界は素晴らしいですが…。三つの願いをする価値も充分ありそうですが…」
 本当にそれでいいのですか?
 三つの願いは、本当にそれでかまわないと…?
「もちろんだよ。…ぼくの願いが叶うのならね」
 ぼくが願うのは、今、言った三つ。それよりも他に望みはしない。ランプの精が現れたなら。
 だけど、所詮は魔法のランプに似ているだけ。…魔法のランプにはならないと思うよ、どんなに欲しいと望んでもね。
「どうでしょう…?」
 今の時代は、遠い昔とは違いますから…。けして有り得ないと言えるかどうか…。



 人類も忘れているでしょうから、と心配そうな顔をしたハーレイ。
「彼らも知ってはいるでしょう。…魔法のランプの伝説くらいは」
 ですが、その伝説を信じる心を人類が持っているのかどうか…。こういう時代ですからね。
 誰も信じていないのだったら、ランプの精も行き場を失くしたことでしょう。何処へ行こうかと彷徨っているかもしれません。…地球を離れて、この宇宙を。
 そんな時代に、あなたが魔法のランプを作ろうと仰っておられるのですよ?
 ランプの精がそれを見付けたら、丁度いいと入り込みそうですが…?
「偽物のランプが本物になると言うのかい?」
 この船で作った形が似ているだけのランプに、本物のランプの精が入って…?
「絶対に無いと言い切れますか?」
 我々が持っているサイオン。…これも人類にとっては信じられない力です。忌み嫌うほどに。
 けれど、我々は生きていますし、作り話ではありません。…ランプの精も同じことです。絶対にいないとは誰にも言えないことでしょう。…少なくとも私は言い切れません。
 もしも、本当にランプの精があなたの前に現れたなら。
 三つの願いを叶えてやろうと言われたならば…。その願い事で後悔なさいませんか?
 元の話では、三つの願いが叶った後には、心に悔いが残るようですが…。
「…どうなんだろう?」
 ぼくも話は知っているから、魔法のランプと言ったんだけれど…。
 三つの願いは、あれで正しいと思うんだけれど、ぼくは間違っているんだろうか…?
「いえ、間違ってはいらっしゃいません。…とても素晴らしい願い事だと思います」
 平和な時代が訪れるでしょうし、皆も喜ぶことでしょう。
 ですから、ソルジャーとしては正しい願い事ですが…。ソルジャーではない、あなたの方は…?
 他に三つの願い事を持っておられませんか?
「…ぼくの願い事…」
 ソルジャーではなくて、ぼく自身の…。それは…。



 まるで考えてもいなかったこと。ソルジャーではなくて、ただのブルーとしての願い事。
 ランプの精に頼みたいことは、三つではとても足りないだろう。欲張りと言ってもいいほどに。
(…ぼくの願い事は…)
 失くした記憶を取り戻したいし、ハーレイと幸せに生きてゆきたい。これでもう二つ、一つしか残らない願い事。他にも山ほどあるというのに。
 地球に行きたいし、人類に追われない世界も欲しい。出来れば地球で暮らしてみたいし…。
 どれを願えばいいのだろう。三つ目の願いを言うのなら。
 それよりも前に、ソルジャーとして三つの願いをしたなら、自分のためにはただの一つも…。
(…残らないんだ…)
 叶うことは地球に行くことだけ。ミュウの未来も、平和な時代も、失くした記憶を自分にくれはしないだろう。ハーレイと幸せに生きてゆけるかどうかも、多分、自分の運次第。
「…ハーレイ…。ぼくは後悔するんだろうか?」
 三つの願いを叶えた後には、やっぱり後悔するんだろうか…?
 みんなが喜んでくれたとしたって、ぼくの願いは叶わなかった、と…。
「なさるような気がいたしますが…?」
 ですから、こうして申し上げているのです。…ランプの精が現れた時が心配ですから。
 あなたが後悔なさらないだろうと思っていたなら、私は止めはいたしません。
 魔法のランプにそっくりのランプをお作りになろうが、それが本物になってしまおうが。



 本当に心配そうだった前のハーレイ。忠告の意味もよく分かった。
(ランプの精なんて、いないとは思ったんだけど…)
 絶対とは確かに言えない世界。現に自分も、思いもしなかったミュウへと変化したのだから。
 それを思うと、魔法のランプは恐ろしい。本物になってしまった時には、ランプの精が現れる。三つの願いを叶えるために。
(…ソルジャーとしての願い事なら、本当にあの三つだけれど…)
 自分自身のこととなったら、三つでは足りない願い事。ソルジャーとして願えば、三つの願いはおしまいなのに。…自分のためには残らないのに。
 けれど、最初から自分のためにと願えはしない。船の仲間を、ミュウの未来を放っておくなど、自分には出来はしないから。願っても悔いが残るだけだから。
(…ぼくだけ幸せになったって…)
 他の仲間たちのことを思っては、心が痛み続けるのだろう。なんということをしたのか、と。
 逆に、仲間たちのために三つの願いを使ったならば。
(…ぼくには一つも残らなかった、って…)
 きっと悲しむ日が来るだろう。どうしてあの時、これを願わなかったのかと。
 三つの願いを叶えて貰って、後悔したくはなかったから。
 魔法のランプを模したランプを作らせることはやめたのだった。前の自分は。
 青の間にランプを置くことも諦めざるを得なくて、ランプを灯してのデートは公園でだけ。夜の公園でハーレイと二人、そっと灯して過ごしただけ。
 仲間には視察のふりをして。…抱き合うこともキスも出来ない、二人きりのデート。それでも、充分幸せだった。今夜は恋人同士でデート、と。



 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が欲しがったランプ。
 本物の魔法のランプが欲しかったわけではなかったけれども、その形を模したランプを、と。
 そう願ったから、前のハーレイと魔法のランプの話になった。三つの願いをどうするのか、と。
 ソルジャー・ブルーだった前の自分の、迷いない答え。
 一つ目の願いは、ミュウたちの未来。二つ目の願いは地球へ行くこと。三つ目の願いは、平和な時代。それで全部だと、叶えばいいと。
 それは立派な答えだったけれど、あくまでソルジャー・ブルーの願い。前の自分の本当の願いは一つも入っていなかった。
(地球へ行くことは重なるけれど…)
 ソルジャーとしての願いでないなら、それは一つ目にはならない願い。
 自分のために三つの願いを使っていいなら、失くした記憶を取り戻すこと。そして、ハーレイと幸せに生きてゆくこと。これで二つ、と前の自分は考えたから。
(三つ目で、地球に行ったって…)
 きっと嬉しくはなかっただろう。純粋に自分自身のためでも、他に何かがあった筈だ、と。
 三つの願いを叶えた後には、必ず残っただろう悔い。
 ソルジャー・ブルーとして願った時には、「ぼくのためには一つも使えなかった」と。
 自分自身のために願ったら、「どうして仲間のために使わなかったのだろう」と。
 考えた末に、魔法のランプを諦めた自分。
 本物ではなくて、その形を模したランプだったのに、前の自分は恐れてやめた。
 もしも本物になったならば、と怖かったから。…きっと後悔するだろうから。



 今の自分は、三つ目で失敗ばかりだと嘆いていたけれど。
 結婚だとか、ハーレイといつまでも一緒がいいとか、三つ目の願いはハーレイに、とか。幾つも失敗を重ねた三つ目、どれも前の自分の願いにはとても及ばない。
 前の自分なら、そんな願いをしようとも思わなかったから。
(他に一杯、もっと大切な…)
 叶えたかった願い事。ソルジャー・ブルーとしてなら三つで、それは見事に使えたけれど。三つ叶えてしまった後には、叶えられなかった自分自身の願いが沢山。
 そうしてソルジャー・ブルーが後悔しただろう、自分のための願い事。
 今の自分とは比べようもなく、切なく、悲しい願いの数々。
(ハーレイと幸せに生きていきたかったのに、って…)
 きっと悲しんだろうソルジャー・ブルー。今の自分は願わなくても、幸せになれる人生なのに。
(失くした記憶は、どうしようもないけど…)
 ぼくも忘れたままなんだから、と考えたけれど、今の自分は忘れてはいない。蘇った青い地球に生まれて、今日まで生きて来た日々を。両親も、家も、友達も、全部。
(…今のぼくの方が、ずっと幸せ…)
 前の自分よりも遥かに幸せに生きている分、減っているだろう願いの切実さ。
 だから余計に失敗をする。願いを軽く思っている分、三つ目で何度も重ねた失敗。
 そうではなかったソルジャー・ブルーも、駄目だと願いを諦めたのに。
 叶えたいことが沢山あっても、自分にはとても願えはしないと。
 願った後には悔いが残るから、魔法のランプを作りはすまい、と…。



 前の自分がどう考えたのかを思い出したら、手に負えないと気が付いた。
 魔法のランプが叶えてくれる三つの願い。失敗するのは当然なのだと、今の自分が使いこなせる筈が無かった代物なのだ、と。
「そっか、魔法のランプのお願い…。前のぼくでも無理だったんだ…」
 今のぼくには上手く使えない、って思ってたけど…。前のぼくのつもりで考えても駄目だ、って思ったけれど…。
 前のぼく、ホントに考えてたんだ、ぼくよりもずっと真剣に…。
 ハーレイに言われたからだったけれど、ちゃんと考えて、後悔するのが怖くなっちゃって…。
 本物の魔法のランプになったら大変だから、って偽物のランプもやめちゃった…。
 ぼくに使えるわけがないよね、前のぼくでも無理だと思っていたんだから。
「そういうことだな。お前もすっかり思い出したか」
 魔法のランプは、ソルジャー・ブルーでも使いこなせなかったんだ。お前じゃ無理だな、チビで弱虫なんだから。…失敗した、って泣き出すに決まっているんだから。
 しかしだ、今のお前は魔法のランプをとっくに持っているんだが…?
 わざわざ探しに行かなくっても、前のお前みたいにそっくりなヤツを作らせなくても。
 でもって、お前の願いを叶えに現れるランプの精はだな…。



 俺だ、と自分を指差したハーレイ。
「いいか、俺がお前のランプの精だ。…お前が俺の御主人様だ」
 願いは三つしか叶えられないとか、そういうケチなことは言わない。
 どんな願いでも、幾つでもいい。俺の力で叶うことなら、俺は幾つでも叶えてやる。
 お前のためなら、俺は何でも出来るんだ。…無茶なことさえ言われなければ。
「ホント?」
 …ハーレイがぼくのランプの精なの、三つよりも沢山言ってもいいの?
 ハーレイだったら、ぼくのお願い、簡単に叶えられそうだけど…。
 ぼくの背丈は伸ばせなくても、大きくなったら結婚して一緒にいてくれるんだし…。
「なるほど、今のお前の願いは大体、分かった」
 大きく育って、俺と結婚したいってトコだな。その辺りで三つとも使っちまった、と。
 安心しろ、三つの願いで終わりだとは俺は言わないから。…もっと我儘も言っていいから。
 俺は今度こそ、お前のために生きると決めているんだ。お前のランプの精みたいに。
 お前の願いは何でも叶える。…前の俺が出来なかった分までな。



 うんと欲張りに願ってもいいし、ランプを擦らなくてもいいぞ、と頼もしいランプの精だから。
 今の自分は、ハーレイが住んでいる魔法のランプをとっくに持っているらしいから。
 三つの願いに頼らなくても、願わなくても、きっと幸せになれるのだろう。
 いつか背丈が伸びたなら。
 ハーレイという名前のランプの精と、結婚して一緒に暮らし始めたら…。




           魔法のランプ・了

※ブルーが欲しくなった魔法のランプ。前のブルーも、魔法のランプを欲しがったのです。
 けれど願いを叶えたなら、必ず残る悔い。今のブルーには、願い事は無限なランプの精が。
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 朝から爽やかに晴れた土曜日。今日はハーレイが来てくれる日、とブルーの心は弾むよう。
 天気がいいから、ハーレイは歩いてやって来るのだろう。運が良ければ、お土産もある。途中で買って来てくれて。
(お土産、あるといいんだけれど…)
 チビの自分が貰えるお土産は、食べ物ばかり。残しておける物は貰えない。それでも欲しくなるお土産。あるといいな、と。
 朝食を食べて、部屋の掃除も綺麗に済ませて。そろそろかな、と何度も窓を覗いてみるのに。
(…ハーレイ、まだ…?)
 いつもだったら、とうに来ている時間。なのに、ハーレイは歩いて来ない。車も見えない。前のハーレイのマントの色をしている愛車。それも走って来はしない。
 時計を眺めては、窓を覗いて待っているのに。朝からずっと待っているのに、来ないハーレイ。
(まだなのかな…?)
 遅すぎるよ、と階段を下りて玄関先まで行ってみたけれど、鳴らないチャイム。扉を開けても、庭を隔てた門扉の向こうにハーレイはいない。
 出くわした母に「ハーレイに通信を入れてみてよ」と頼んだら…。
「ハーレイ先生にも御都合があるでしょ?」
 お出掛けになる時間が遅れることだってあるわ、ほんの少し遅いだけじゃない。
 急な用事で来られなくなったなら、ハーレイ先生から連絡が来るに決まっているでしょ。
 遅いと思うのはブルーの都合ね、と取り合ってくれなかった母。
 それもそうか、と納得して部屋に戻ったけれど。



 更に待っても、ハーレイは家に来てくれないまま。歩いて来る姿も、車も、どちらも見えない。窓から顔を出して覗いても、伸び上がっても。
(なんで…?)
 時計を見れば、いつもの時間をとうに一時間は過ぎている。いくらなんでも遅すぎる時間。
 これは変だ、と母の所へ言いに行ったのに。
「そうねえ、確かに遅いけど…。お昼御飯に遅れそうなら、通信が入ると思うわよ」
 でも、通信は来ていないから…。その内にいらっしゃるわよ、きっと。
 部屋に戻って待ってらっしゃい、窓から見てればいいでしょう?
「えーっ!」
 ママ、通信は?
 まだ家ですか、って訊いてくれないの?
「さっきも言ったわ、ハーレイ先生にも御都合があるの」
 家を出ようとなさってる時に通信が入ったら、また戻らなくちゃいけないのよ?
 ご迷惑をお掛けするから駄目、と断られた通信。ハーレイの家への連絡手段。母は通信機のある部屋とは別の所にいたから、自分でコッソリ入れようかどうか迷ったけれど。
 通信機の前で暫く眺めて、諦めた。
 登録してあるハーレイの番号。呼び出しても留守ならかまわないけれど、繋がったならば。
 ハーレイが出て、「丁度良かった。今日は行けなくなったんだ」と言われたりしたら、その場で泣き出してしまいそうだから。「そんな…」と涙をポロポロ零して。
 それに、母にも叱られるだろう。「駄目だと言ったのに、通信、入れたの?」と。
 ハーレイが来られなくなったのならば、自分が伝えに行くしかないから。
 悲しい情報を伝えなくてはいけない上に、叱られたのでは踏んだり蹴ったり。それは嫌だから、通信を入れるのは諦めるしかないだろう。



 仕方ないから部屋に戻って、待つのだけれど。やっぱり来てはくれないハーレイ。
 窓の向こうを覗くのも悲しくなってきたから、机で本を読むことにした。もっとも頭はすっかりお留守で、文字を眺めているというだけ。少しもページを捲れはしない。
(お土産を買いに出掛けて、遅くなったりはしないだろうし…)
 どうなっちゃったの、と頭の中身はハーレイばかり。本など読んでいないのと同じ。ハーレイのことしか考えられなくて、ぐるぐるしていたらチャイムが鳴った。
(ハーレイ…!)
 やっと来てくれた、と駆け寄った窓。門扉の向こう、手を振るハーレイが左手に提げている箱。
(お土産!)
 遅くなった原因はこれだったのか、と一気に機嫌が良くなった。あれを買うために行列したか、遠い所まで行って来たのか。きっと素敵なお土産だろう、と心が浮き立つ。箱を見ただけで。
 ハーレイが母に案内されて来たから、早速、訊いた。お茶とお菓子はまだだけれども。
「お土産、なあに?」
 箱が見えたよ、何のお土産?
「ケーキじゃないのか、お母さんに渡して来たんだが」
「えっ…?」
 ハーレイ、中身、知らないの…?
 そういう売り方のケーキだろうか、と考えていたら、母が運んで来たケーキが幾つも入った箱。色々あるから、好きなのをどうぞ、と。
「んーと…。どれにしようかな…」
 箱の中を覗いて、迷って、「これ」と選んでお皿に載せて貰ったケーキ。ハーレイも一個。母は残りを運んで行って、代わりに紅茶のカップやポットを持って来た。「ごゆっくりどうぞ」と。



 いつもの土曜日より遅いけれども、やっとハーレイと二人きり。お土産もあるし、とハーレイがくれたケーキを御機嫌で眺めていたら。
「こりゃまた、美味そうなケーキだなあ…」
 そうハーレイが口にしたから、驚いた。ケーキはハーレイが持って来たのに。
「…美味しそうって…。ハーレイが買って来たんでしょ?」
 中身は最初から詰めてあったのかもしれないけれど…。選べないお店かもしれないけれど。
 見本のケーキは出ていなかったの、こんなケーキが入っています、って…。
「選ぶも何も…。俺は箱ごと貰ったんだ」
「貰った!?」
「うむ。…遅刻のお詫びだ」
 遅くなったろ、いつもよりずっと。…そいつのお詫びに貰ったってわけだ。
「それなら買うでしょ、お詫びなんだから」
 なんで貰うの、話が変だよ?
「それはまあ…。遅刻したのは俺なんだが…」
 遅刻の原因は、俺じゃなかったってことだ。遅刻しないよう、きちんと家を出たんだから。
 そいつが途中で狂っちまった、のんびりと道を歩いていたらな。



 普段通りに着けるように、と歩き始めたハーレイだけれど。此処に着くまでの真ん中辺り。丁度そういう辺りの所で、ハーレイが出会った迷子の子猫。
 最初は迷子と気付かなかったらしい。道端の植え込み、其処から声が聞こえたから。
「ヒョイと覗いたら、ブチのチビでな。撫でてやって、歩き出そうとしたら…」
 俺を呼ぶんだ、「行かないでくれ」って。…そういう声って、あるだろうが。
 よくよく見たら、なんだか心細そうで…。試しに歩き出したら、植え込みの中に潜っちまって。
 戻って行ったら、中でブルブル震えてるんだ。隠れてます、って感じでな。
 これは変だ、と気付くだろ?
 何かに追い掛けられたのだろう、とハーレイは考えたらしい。それで怖くて怯えていると。
 可哀相だからと子猫を抱き上げてやって、誰か預かってくれそうな人は、と見回しながら歩いていたら張り紙があった。迷子の子猫を探す張り紙。昨日から行方不明と書かれて、写真も。
 まさか、と腕の中の子猫を見たら、その猫だった。模様も、真ん丸な瞳の色も。



「それで届けに行って来たんだ、見付けちまったら行くしかないだろ」
 ただ、子猫の家が遠くてなあ…。俺にとっては大した距離じゃないんだが。
 此処へ来るには回り道ってヤツだ、まるで違う方へと行っちまったから。…遅くなってすまん。
「…子猫…」
 迷子の子猫を届けてたんだ…。凄く遅いと思ったけれど…。
「本当にすまん。…おまけに、御礼を買って来ますから、って言われちまって…」
 直ぐですから、ってケーキを買いに行ってくれたんだ。ちょっと待ってて下さいね、とな。
 待ってる間に、通信、入れれば良かったなあ…。その家で借りて、「遅くなるから」、って。
 でなきゃ、途中の何処かで入れても良かったんだ。…通信機、幾つかあるのにな。
 俺としたことがウッカリしていた、子猫が無事に家に帰れたもんだから…。
 良かったな、って思っちまって、肝心のチビを忘れてた。
 此処にもチビがいるっていうのに、チビの子猫の心配ばかりで。



 ハーレイが迷子の子猫を届けに出掛けて行った家。
 その家に着いたら、母猫がいたのだという。兄弟のチビの子猫たちも。迷子だった子猫を連れて入った途端に、転がるように走って来た母猫。兄弟猫も急いでやって来た。
「母親が顔を舐めてやってな、他のチビどももミャーミャー鳴いて…」
 俺が連れてったチビは、もう俺なんか見ちゃいなかった。家族の方がいいに決まっているしな。
「そうだよね…」
 お母さんとかの方がいいよね、いつも一緒にいたんだもの。
「だろうな、迷子になっちまうまでは。…離れたことなんか無かっただろう。可哀相に」
 その家の人に聞いた話じゃ、庭で遊んでいて、行方不明になっちまったそうだ。
 お前の家と同じで生垣だったし、出たり入ったりして遊んでたんだな。ところが、ヒョイと表へ出てった途端に、通り掛かった犬に吠えられて駆け出しちまって…。
 家の人が慌てて飛び出してったが、それっきりだ。…チビは見付からなかったんだ。
「…それで昨日から行方不明だったの?」
 張り紙も張ってあったのに…。家の人だって、ずいぶん探していたんだろうに。
「子猫だから、怖くて隠れちまっていたんだろう。人が来た時は」
 名前を呼ばれて出ようとしたって、他の人が歩いていたんじゃなあ…。
 サッと引っ込んで隠れるしか道が無かったってことだ、怖い目に遭いたくないんなら。
 それでも我慢の限界ってトコで、たまたま俺が通ったわけだ。動物には好かれるタイプだし…。声を掛けても大丈夫だろうと思ったんだな、あのチビも。
「…子猫、お腹が空いてただろうね…」
 ハーレイが通るまで、きっと御飯は無かっただろうし…。子猫じゃ狩りも出来ないし。
「そりゃなあ…。あんなチビじゃ無理だ」
 ようやく子猫用の食事が出来るようになったくらいのチビなんだぞ?
 水くらいは舐めていたかもしれんが、飯は無理だな。



 母猫たちに囲まれた後は、ガツガツと食べていたらしい子猫。たっぷりと入れて貰った食事を。子猫用の柔らかいキャットフードに、ミルクも飲んで。
 ハーレイは正しいことをして遅刻したのだから、怒る気持ちはなくなった。
「良かった…。子猫が家に帰れて」
 回り道でも、遅くなっても、ハーレイが子猫を送ってあげてくれて。
「おっ、俺を許してくれるのか?」
 肝心のチビを忘れちまって、通信も入れずに遅刻したんだが…。悪いと思っているんだが。
「だって、ハーレイが子猫を見付けなかったら、もっと大変…」
 ハーレイだったから、子猫も声を掛けられたんだよ、「助けて」って。
 「行かないで」っていう声で鳴いてたんでしょ、きっと本当に心細かったんだと思うから…。
 もしもハーレイが見付けて助けてあげなかったら、子猫、家には帰れなかったかも…。
「そうかもなあ…」
 俺の代わりにデカイ犬でも連れた人が来たら、逃げるんだろうし。…此処も駄目だ、と。
 怯えて隠れて逃げてる間に、どんどん遠くへ行っちまうこともあるからなあ…。
 張り紙を見てくれる人もいないような所になったら、もう帰れんし…。
 あんなチビだと、そうなっちまうことも少なくないし。



 小さな子猫が迷子になったら、帰れないことも多いのだという。家から離れ過ぎた場合は。
 誰かが拾って飼ってくれるけれど、もう独りぼっち。親も兄弟もいなくなって。
「やっぱり、帰れなくなっちゃうんだ…。早く見付けて貰えなかったら」
 そんなことになったら可哀相だよ、前のぼくみたい。子猫、帰れて良かったよ…。
「前のお前だと?」
 どうしてそういうことになるんだ、お前、迷子になってたか?
 いくらシャングリラがデカイ船でも、前のお前なら何処からでもヒョイと飛べただろうが。今の不器用なお前と違って、行きたい所へ瞬間移動で。
「迷子じゃないけど、独りぼっち…。そっちの方だよ」
 前のぼく、メギドでそうなっちゃったよ。…ハーレイの温もりを失くしたから。
 帰れないのは分かっていたけど、独りぼっちになるなんて思っていなかったから…。ハーレイと一緒なんだと思ってたから、前のぼく、泣きながら死んじゃった…。
 子猫がそうならなくて良かった、独りぼっちは悲しいもの。どんなに優しい人が見付けて飼ってくれても、独りぼっちは寂しいもの…。
「それか…。メギドと重ねちまったか」
 確かにそうかもしれないな。…犬に吠えられてビックリするのも、撃たれちまうのも似たようなモンか…。あの子猫は家に帰れなくなって、前のお前は右手が凍えちまって。
 どっちも独りぼっちだなあ…。
 子猫は無事に家に帰れたが、前のお前はそれっきりか…。だが…。



 ちゃんと帰って来たじゃないか、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「少々、小さくなっちまったが…。お前もちゃんと帰って来ただろ?」
 あの子猫みたいに、俺の所へ。多分、神様に拾って貰って。
「うん…。誰かが拾ってくれたんだとしたら、神様だと思う。…帰る所を探してくれたんなら」
 でも、ハーレイかもしれないよ?
 独りぼっちのぼくを見付けて、今日の子猫みたいに拾ってくれて。…地球に行こう、って。
 ハーレイだったら見付けてくれそう、ぼくが隠れて震えていても。
 もう酷い目に遭うのは嫌だ、って誰にも会わずに隠れていても。
 …きっとハーレイなら見付けてくれるよ、「もう怖くないから、俺と行こう」って。
 その途端に、ぼくも気が付くんだよ。もう出て行っても平気なんだ、って。誰が呼んでるのか、声で分かるもの。…ハーレイの声は分かるんだもの…。



 ハーレイが見付けてくれたのかも、と話していて思い出したこと。
 今日のハーレイは子猫を助けて遅刻したけれど、前のハーレイもそれに似ていたっけ、と。
「そうだ、前のハーレイも遅刻してたっけね」
 今のハーレイみたいな感じで。…子猫は拾っていないけれども。
「はあ? 遅刻って…」
 ブリッジにでも遅刻してたか、お前の記憶に残るほど派手に遅れてはいない筈だが…。
 せいぜい五分くらいってトコだぞ、ブリッジにしても、会議にしても。
「…そういうのはね。ハーレイが仕事で遅刻していたことは無かったよ」
 遅れたとしても、ホントに少し。遅れた理由も仕事のせい。…ちゃんとしなくちゃ、ってキリのいいトコまで手を抜かないから。
 ぼくが言うのは、今日とおんなじ。…ぼくの所に遅刻するんだよ、青の間に遅刻。
 ちゃんと行きます、って約束してても、みんなの悩みを聞いてあげたりしている間に。
 もう来るかな、って紅茶とかを用意して待っているのに、ハーレイ、ちっとも来ないんだよ。
 五分くらいの遅刻じゃなくって、三十分とか、一時間とか。
「あったっけなあ…!」
 仕事が終わったら直ぐに行くから、と言っておいたのに凄い遅刻とか…。
 昼間に時間が取れそうだから、って約束したのに、その時間をとっくに過ぎちまったとか。



 すまん、とハーレイが頭を下げた。今度の俺もやっちまった、と。
「…お前をすっかり待たせちまった、そんなつもりはなかったのにな」
 前の俺だった頃と全く同じだ、お前が思い出した通りに。
 ただし、今日のは猫だったが…。仲間の相談に乗っていたならまだしも、子猫なんだが…。
 おまけに、通信を入れるのも忘れちまってた。…俺を待ってるチビがいるのに。
「今だからだよ、ハーレイが助けてあげる相手が子猫になるのは」
 助けて、って呼ぶのが子猫なんでしょ、平和な証拠。
 今は平和な時代なんだもの、ハーレイだけが頼りだっていう人はいないでしょ?
 子猫しか困っていなかったんだよ、ハーレイを遅刻させるほどには。
 人間はハーレイに頼らなくても、ちゃんと他にも道があるから。
「まあなあ…。困っていたって、誰かはいるな。人間だったら」
 あの子猫には、俺しかいなかったみたいだが…。俺より前には、頼りになりそうなヤツが一人も通らなかった、と。でなきゃ、通っても気付かなかったか。寝ちまっていたら気付かないしな。
 だが、人間なら、わざわざ俺を呼び止めなくても、他に頼れるヤツがいるわけで…。
 教え子には親がついてるもんだし、先にそっちに行くだろうなあ…。
 親にはちょっと、と思うにしたって、友達だって大勢いるし。
 お前の言う通り、子猫くらいなものかもしれんな。…俺を呼び止めて遅刻させるヤツ。



 シャングリラの時代とは違うからな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 平和な時代になってしまったら、キャプテン・ハーレイに用があるのは子猫くらいか、と。
「俺の行き先も、青の間から此処に変わっちまったし…」
 来るのが遅いと待っているのも、ソルジャー・ブルーじゃなくてチビだし。
 それだけ変われば、俺を呼び止めるのがチビの子猫になっちまうのも無理はないかもな。…ん?
 待てよ、シャングリラの頃でも似たようなモンだと思うんだが?
 平和な時代かどうかはともかく、俺を呼ばなくても相談に乗ってくれそうなヤツは…。
 今と同じにいたんじゃないのか、シャングリラには仲間が大勢いたんだから。
「それはそうだけど…。親はいなかったよ、シャングリラにいた仲間たちには」
 本物の親はトォニィたちの時代までいないし、養父母だって…。
 前のぼくたちみたいに最初からいないか、アルテメシアでミュウだと分かってお別れになるか。
 親は誰にもいなかったじゃない、どんなに相談したくても。
 …今の時代は本物の親がいるけれど。トォニィたちみたいに、血の繋がった親が。
 それに、シャングリラだと、友達に相談するにしたって、船の仲間しかいなかったんだよ?
 船の中が世界の全部なんだし、友達だって、その中だけ。
 言いにくいこともあったと思うよ、友達には。
 その友達の友達は誰だろう、って考え始めたら、船中に相談するのとおんなじ。
 筒抜けになりはしないけれども、そうなっちゃったらどうしよう、って怖くならない…?



 今の時代は、いくらでもいる相談相手。悩みに応じて、相手も色々。
 自分のような子供だったら、真っ先に思い浮かべるのが親。頼りにもなるし、一番身近。一緒の家で暮らしているから、いつでも気軽に相談出来る。好きな時間に。
 学校のテストの成績を親に言うのが怖い、という悩み事なら、これは友達。自分の場合は一度も経験していないけれど、そういう悩みも子供には多い。「家に帰れない」としょげているとか。
 その友達と喧嘩したなら、仲直りさせてくれそうな友達に相談に行く。実はちょっと、と。
 大人の場合も、きっと似たようなものだろう。
 子供よりも世界が広い分だけ、相談相手も増えてゆく。結婚したなら、結婚相手が親よりも近い相談相手。親にも変わらず相談出来るし、結婚相手の親にだって。
 仕事を始めたら、仕事仲間や、仕事で出会った大勢の人や。
 友達にしたって、色々な機会にどんどん増える。上の学校に進めば増えるし、仕事場でも。旅をしたなら、その旅先でも。
 もちろん悩みも増えるだろうけれど、相談相手も増えているから大丈夫。
 仕事のことなら、仕事で出来た仲間が大いに頼れるだろうし、他の仕事に就いた友達も、きっと頼りになるのだろう。「俺の場合は…」といった具合に。
 人間関係の悩みにしたって、子供の頃より広がった世界は、きっと遥かに頼もしいから。
 知り合いの数が増えた分だけ。友達の数が増えた分だけ、頼りになる人も増えるから。



 けれど、白いシャングリラは今の時代とは全く違った。
 船の中が全てで、閉じていた世界。人間も船の仲間が全て。
 しかも人間は多くなかった。子供から大人までを全て数えても、町の住人にはとても及ばない。大規模な上の学校だったら、生徒だけでシャングリラの人口を越える。
 たったそれだけの人数な上に、その中に混じる大人と子供。
 同じ大人でも、アルタミラ時代からの古参もいれば、アルテメシアから加わった者も。
 おまけに、無かった本物の家族。大人にも、それに子供にも。
 一番身近な相談相手がいない世界で、船の外には出られない世界。生まれた悩みを相談したいと思った時にも、船の仲間しか頼れない。
 仕事の悩みだったらともかく、人間関係の悩みとなったら大変だった。大人も、子供も。
 誰かと喧嘩をしてしまったから、と相談しようにも、船の中の世界が狭すぎて。
 友達同士も繋がっているのが普通だったから、下手に相談すればこじれてしまいかねない。誰に相談すべきなのかを見定めないと、失敗することも多かった船。
 相談を受けた相手が「それは嘘だ。こう聞いている」と話を聞いてくれなかったり、喧嘩相手の肩を持つのはよくある話。
 ソルジャー候補だったジョミーでさえもが、前の自分が深い眠りに就いた後には孤立したほど。
 船の仲間と上手くやってゆけずに、引きこもっていたと今のハーレイに聞いた。
 人類に送った思念波通信、それが失敗に終わったせいで。
 シャングリラは人類軍に追われ始めて、ジョミーを責める者たちが増えた。なのに、ジョミーは持っていなかった相談相手。ソルジャー候補としての悩みは前の自分が聞いていたから。



(…前のぼくが、ちょっと気配り不足…)
 今にして思えば、そうだったろう。
 全てジョミーに任せるのではなくて、人脈を作らせておくべきだった。ソルジャーという立場にいたって、相談相手が必要な時もあるのだから。
(前のぼくには、ハーレイがいて…)
 いつでも、何でも相談出来た。前のハーレイの「一番古い友達」、それが前の自分だったから。
 最初は友達、後には恋人。どんなことでも、ハーレイにだけは打ち明けられた。
(フィシスを攫って来た時も、そう…)
 人間でさえもなかったフィシス。機械が無から創った生命。
 それをミュウだと偽って船に迎え入れた時も、ハーレイだけは知っていた真実。自分一人だけで抱えずに済んだ。フィシスの秘密を。
 前の自分は相談相手を持っていたのに、ジョミーにもそれが必要なのだと気付かなかった。そのせいで孤立したジョミー。相談相手がいなかったから。
(…ハーレイ、前のぼくの恋人だったから…)
 懸命に仲を隠していたから、その重要さが分かっていなかった自分。ソルジャーとキャプテン、そういう仲だと「ソルジャーとしては」思っていたから。
 ソルジャーには補佐役がいればいいのだと、前の自分は勘違いした。前のハーレイは、傍目には補佐役だったから。ソルジャー・ブルーの右腕で、キャプテン。
(…だけど、恋人で、友達…)
 それを失念していた自分。ジョミーにもハーレイとの仲を悟られないよう、それまで以上に隠し続けたから。ハーレイがどういう存在なのかを。
 だから思いもしなかった。ジョミーにも誰か、相談相手を作らねば、とは。
 ソルジャー候補の悩みは自分が聞けばいいことなのだし、一人立ちした後はキャプテンや長老がいれば充分だろうと、前の自分は考えた。自分自身の相談相手はキャプテンだけで足りたから。



 シャングリラという特殊な世界の中では、難しかった悩みの相談。
 前の自分の配慮が足りずに、ジョミーが孤立したほどに。きっとジョミーも怖かったのだろう。相談相手を間違えたならば、どうなるか分かっていただろうから。
 下手に誰かに相談したなら、船中に知れてしまわないかと、それも恐ろしかっただろう。
「…ハーレイ、前のぼくも失敗しちゃったんだよ。…ジョミーのことで」
 ジョミーが何でも相談出来る友達を作るの、忘れちゃってた…。ぼくにはハーレイがいたのに、恋人だから、って思い込んでて、隠してて…。
 そのせいでジョミーは独りぼっちになっちゃったんだよ、誰にも相談出来なかったから。
 思念波通信が失敗した時、相談相手がちゃんといたなら…。ジョミーは孤立しなかったと思う。悩みを何でもぶつけられるし、頼りになるし…。
 ぼくはその役、ハーレイでいいと勝手に思い込んじゃってたよ。ハーレイ、いろんな仲間たちの相談、聞いていたから…。聞いては遅刻しちゃってたから。
 でも、ジョミーにハーレイをきちんと紹介してもいないのに、そうそう相談出来ないよね…。
「そう言われれば、そうかもなあ…」
 思念波通信をしようと思う、っていう相談には来ていたんだが…。
 失敗した後には来ていなかったな、そういえば。…俺に叱られると思っていたかもしれないな。
 「どうしてブリッジに来ないんだ」と小言ばかりで、怖かったかもしれん。
 俺の方でも、キャプテンとしての立場ってヤツがあるからなあ…。
 うん、俺も失敗しちまったんだ。前のお前と同じでな。
 ジョミーに一言、こう言ってやれば良かったんだ。「悩みがあるなら聞いてやるぞ?」と。
 「長年そいつをやって来たから、人生相談のプロなんだ」とな。



 なにしろ子供の人生相談までしていたわけで…、とハーレイが言う通り。
 キャプテン・ハーレイは子供たちにも呼び止められた。青の間へ行こうとしていた時に。
「そっか、子供もいたっけね…」
 大人ばかりじゃなかったよね、と思い浮かべた子供たちの顔。幼かった頃のヤエや、シドやら。
 「将来はどうしたらいいのだろう」と真剣な顔でキャプテンを呼び止めた子供たち。この船での将来に不安がある、と子供なりに将来を心配している顔で。
 ハーレイが話を聞いてやったら、子供たちの相談事は「なりたいもの」の話ではなくて…。
「まったく、何が将来なんだか…。あいつらときたら」
 そう言って俺を呼び止めるくせに、大抵、喧嘩とかなんだ。相談事も、悩みってヤツも。
 船での将来には違いないがな、喧嘩したままだと遊び場はお先真っ暗なんだし。
 しかしだ、普通は将来と言えば、船でどういう仕事をするとか、そんな話だと思うだろうが。
「でも…。大人の時だって、そうじゃない」
 ハーレイを呼び止めてた大人。…将来って言い方はしなかったけれど、どうやって生きていけばいいだろうとか、そんな感じで。
 生きるか死ぬかって顔をしてるから、ハーレイ、何か大失敗でもしたんだろうかと思うのに…。
 話を聞いたら子供たちと同じ。誰かと喧嘩をしちゃっただとか、そんなのばかり。
 本当にキャプテンに相談するしかなさそうなことは、誰も相談しないんだよ。
「当然と言えば当然だろうな、それが大人の場合はな」
 …キャプテンの指示を仰ぐようなことは、まずは自分の持ち場で相談。
 そっちで話をきちんと纏めて、しかるべき場所で訊くもんだ。会議に出すとか、ブリッジとか。
 歩いている俺を捕まえてみても、「資料はどうした」と言われるのがオチだ。
 まったく、子供も、大人ってヤツも…。俺を何だと思ってたんだか、キャプテンなのにな?



 船を纏めるのが仕事ではあるが…、と困ったような顔で笑うハーレイ。
 キャプテンという立場にいたのに、ハーレイは少しも偉そうな顔をしなかった。怒った時でも、頭ごなしに怒鳴るようなことは無かったキャプテン。
 だから余計に皆に頼られ、いつの間にやら相談係になっていた。前の自分は、それをジョミーに伝え忘れてしまったけれど。
「ハーレイ、ホントに人生相談のプロだったものね…」
 子供から大人まで、ちゃんと真面目に話を聞いて。アドバイスだって、きちんとして。
 …キャプテンなんだもの、船の仲間が喧嘩したままだと、上手くいかないのを知ってるものね。
 人間関係が壊れちゃったら、シャングリラはもう、おしまいだもの。
「そういうこった。…喧嘩はほどほどにしておかんとな」
 相談に来たヤツの悩みに合わせて、その辺のトコを説明する、と。子供だったら、子供向けに。
 それで大抵、丸く収まる。…ジョミーの場合は、俺は相談に乗り損ねたが。
 でもって、その手の人生相談。
 いつも捕まっては、遅刻だってな。…お前が青の間で待っているのに。
「遅刻したって、怒らなかったよ?」
「前のお前はお見通しだったからなあ、サイオンで」
 シャングリラの外の世界まで自由自在に見られたんだし、軽いモンだろ。
 いくら待っても俺が来ないんなら、何処で油を売っているのか、ヒョイと覗いて。
「…そうだった…」
 ハーレイ、遅いな、って船の中を探れば見付かったから…。
 人生相談をやっているのも直ぐに分かったから、終わるまで待とうって思ってただけ。
 どうして遅刻か理由が分かれば、怒る理由も無いものね?
 ヒルマンやゼルとお酒を飲んでて遅刻だったら怒るけれども、人生相談の方なら怒らないよ。



 迷子の子猫を送ってあげて遅刻するのと同じだもの、と言ったけれども。
 今の自分は、ハーレイが子猫の家を探して歩いていたのも、まるで知らないままだった。迷子を送り届けた御礼に、ケーキを貰って来たことも。
 サイオンが不器用な今の自分はハーレイの様子を探れはしないし、社会のルールもそういう風になっている。サイオンの使用は控えるのがルール、人間らしい生き方を、と。
「えーっと…。ハーレイ、また今日みたいに遅刻しちゃう?」
 迷子の子猫にまた呼ばれたとか、人間の迷子を見付けちゃったとか…?
「やっちまうかもしれないが…。次からは通信を入れることにする」
 お前をすっかり待たせちまうし、何処かで「遅れそうだ」と連絡するさ。
 今日みたいに忘れていなければな。…本当にすまん、忘れちまって。
「忘れてもいいよ」
 …忘れちゃってもいいよ、そういう理由で遅刻だったら。
「おい、いいのか?」
「いいよ、前のハーレイの頃から遅刻してたし…。ハーレイが優しいからなんだし」
 遅れてもいいから、ぼくの所へ来てくれれば。
 ちゃんと家まで来てくれるんなら、遅刻しちゃっても、通信を入れるのを忘れていても。
「来ない筈なんかないだろう…!」
 今日だって俺はいつも通りに家を出たんだぞ、子猫に会わなきゃ時間ピッタリに着く筈だった。
 子猫を送り届けた後にも、せっせと急いでいたんだからな…?



 お前と一緒に暮らし始めるまでは、俺はきちんと通ってくるさ、とハーレイが片目を瞑るから。
 今日のような遅刻はあるかもしれないけれども、来てくれるのを待っていよう。
 誰にでも優しいハーレイだからこそ、遅刻してしまうことになるから。
 迷子の子猫を送り届けたり、シャングリラで人生相談をしたり。
 いつかはそういうハーレイと同じ家で暮らして、帰りを待つことになるのが自分。
 ハーレイの帰りを待って待ち続けて、「遅くなってすまん」と言われることもあるのだろう。
 前の自分が待ちぼうけを食らった、青の間のように。
 困っている誰かをハーレイが助けて、帰りがすっかり遅くなって。
(…だけど、青の間とは違うしね?)
 今度はハーレイと二人で生きてゆくのだから。
 二人きりの家で暮らすのだから、遅刻されてもかまわない。
 その日は遅くなったとしたって、いつまでも二人、一緒だから。
 何処かでゆっくり、心ゆくまで、二人だけの甘くて幸せな時間を持てるのだから…。




           遅刻の理由・了

※迷子の子猫を送り届けて、遅刻して来たハーレイ。前の生でも、似たようなことが何度も。
 人生相談の達人だったのに、前のブルーはジョミーを紹介し忘れたのです。可哀想に…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(えっ…?)
 とんでもない、とブルーが目を丸くした新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 何気なく見たら「新婚旅行」という文字が目に入ったから、読むことにした。SD体制が始まる前の、遠く遥かな昔のイギリス。その時代の貴族の新婚旅行についての記事。
 広い領地に豪華な邸宅、特権階級だった貴族たち。きっと素敵な旅行だろうと思ったのに。
(お嫁さん、いきなり仕事なの…?)
 そう書かれていたから、驚いた。貴族だったら、仕事なんかは無さそうだから。大勢の使用人がいる筈なのだし、家事は一切しなくていい。まして新婚旅行ともなれば、本当に遊び暮らすだけ。そういうイメージで読み始めたのに…。
(…なんだか違う…)
 全然違う、と仰天させられた遠い昔の新婚旅行。
 後の時代には事情が変わって、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったけれども。その前の時代は全く違った。長い旅には違いなくても、その行き先。
(…他所の家だなんて…)
 親戚や友人の屋敷を丸ごと空けて貰って、其処に滞在したという。貴族どころか、王族だって。
 家はもちろん、馬車も使用人もそのまま借りる。屋敷の持ち主は他の所へ移っているから…。
(…着いた日の、御飯…)
 そのくらいは用意されているかもしれないけれど。次の日からは、下手をしたら着いた日の夕食辺りから、使用人に出さねばならない指示。「これを用意して下さいね」と。
 食べたい食事を、食べたい時間に。お茶を飲みたくても、そのように。



 いきなり家事の一切合切、それの指図が花嫁の仕事。自分で用意をしなくて済むだけ、使用人がしてくれるというだけ。
(…御飯も、掃除も…)
 洗濯だって、指示をしないと上手く回らない貴族の生活。放っておいたら、自分の望み通りには何一つして貰えない。屋敷を貸してくれた人のやり方でしか動かないだろう使用人たち。
 この時間に食事をしたいと思うのだったら、時間を指示して、メニューまで。
 そうしなかったら、何が出たって言えない文句。下手をすれば無いかもしれない食事。その上、自分の生活ばかりではなくて…。
(お茶会に、食事の会まで開くの?)
 そんなものまで開催するらしい。近くで暮らしている貴族や名士なんかを招いて。
 主催するのは初めてなのに。使用人たちとも顔を合わせたばかりで、屋敷だってまるで把握してしないだろうに。どういう部屋があるのかも。用意出来るだろう食材なども。
(なのに、こなして初めて一人前…?)
 酷いとしか思えないけれど。苛められているような感じだけれど。
 当時の貴族には当たり前のことで、誰からも文句は出なかったらしい。そういうものだと思っていたから、新婚旅行が初仕事の場所。夫はともかく、花嫁の方は。
(…今の時代は違うよね?)
 貴族なんかはとっくにいないし、その貴族だって「これは酷い」と思い始めたから、夫婦だけで長い旅行に出掛けるようになったのだろう。
 花嫁が初日から仕事をしなくても済むように。新婚旅行を楽しめるように。
 きっと素敵なホテルに泊まって、色々な場所を旅して回って。



 ビックリした、と目をパチクリとさせてしまった遠い昔の新婚旅行。
 あんな時代じゃなくて良かった、と新聞を閉じて部屋に帰った。今で良かった、と。
 勉強机の前に座って眺めた、ハーレイと写した記念写真。夏休みの一番最後の日に。ハーレイの腕にギュッと抱き付いた自分、二人揃って最高の笑顔。
(ハーレイと新婚旅行に行ったら…)
 さっき読んだ貴族の旅行などとは違って、素敵で楽しいことだろう。使用人に指図しなくても、旅先で全部して貰えるから。食事の支度も、掃除なんかも、その道のプロに任せておけば。
 結婚式を挙げて、それから旅行。
 二人で選んだ場所へ向かって、荷物だけを持って。二人きりで出掛ける初めての旅。
(色々、初めて…)
 ふふっ、と緩んでしまった頬。ちょっぴり赤いかもしれない。
 ホテルに泊まってゆっくりしたなら、二人きりの夜。キスを交わして、それから、それから…。
 きっと初めてのハーレイとの夜になるのだろう。やっと本物の恋人同士になれる夜。
 チビの自分に「キスは駄目だ」と叱るハーレイ。
 前の自分と同じ背丈になるまでは、とキスもしてくれないのがハーレイ。
 あれほどうるさいハーレイなのだし、結婚するまでは許してくれそうな気がしないから。いくら強請っても、誘ったとしても、前の自分たちのような恋人同士になることは。
 本当に甘くて、幸せな夜。心も身体も、きっと幸せ一杯で。
 旅の間中、甘い甘い日々が続くのだろう。朝から夜まで、何度も何度もキスを交わして。



 何処へ行くのかは分からないけれど、宇宙から地球を見に出掛けるという話もあった。宇宙船で地球の周りを回る旅。今の自分は宇宙から青い地球を一度も見ていないから。
(だけど、何処でもかまわないよね)
 ハーレイと二人で初めての旅に行けるなら。二人きりの日々を過ごせるのなら。
 地球を眺める旅でなくても、地球の上での旅で充分。他の地域へ出掛けさえせずに、今の自分が暮らす地域の中の旅でも。
 二人きりで過ごす、甘い旅行を終えてこの町に帰って来たら…。
(ハーレイの家に帰るんだよ)
 今の自分が生まれ育った、この家ではなくてハーレイの家。其処に二人で帰ってゆく。
 きっと初めて泊まる家。
 それまでにも何度も遊びに行ったり、結婚の準備で何度も出入りはするだろうけれど…。相手はキスさえ許してくれないハーレイなのだし、結婚するまでは泊めてくれそうもない。いくら大きく育っていたって、「もう夜だしな?」と車に乗せられて、家へと送り返されて。
 だから、新婚旅行から帰って来た日が、ハーレイの家での初めての夜。そういう予感。
 とても新鮮で特別な夜。
(ホントに色々…)
 本物の恋人同士になっていたって、ハーレイのベッドは初めてだから。
 ハーレイの寝室で夜を過ごすのも、その夜が初めてなのだから。
 新婚旅行の時とは違って、もっと幸せで満ち足りた夜。これからはずっと二人一緒、と。



 次の日の朝は、初めての朝食。ハーレイの家で迎える初めての朝で、二人きりの食事。
(…ホントは一回、食べちゃってるけど…)
 ハーレイの家で朝も迎えているのだけれども、あれは別。メギドの悪夢を見てしまった夜、何も知らずに瞬間移動をしていた自分。ハーレイのベッドに飛び込んだけれど、たったそれだけ。目を覚ましたらハーレイのベッドにいたというだけ、朝食の後は…。
(送り返されちゃったんだよ…!)
 元の家へと、ハーレイの車で。朝食を食べたら、それっきりで。
 そんな風にはならない朝が、新婚旅行から帰った次の日。ゆっくりと起きて、もしかしたら目が覚めた後にも、恋人同士の甘い時間が持てるかも…。
(…前のぼくたちだと、無理だったから…)
 朝になったら、ソルジャーとキャプテン。名残のキスが精一杯。
 シャワーを浴びて制服を着けて、時間通りに朝食だった。係の者がやって来るから。二人きりの食事には違いなくても、決まった時間。キャプテンからの朝の報告、それを聞く食事だったから。
(ちゃんと報告も聞いていたしね…)
 恋人同士の会話はあっても、定刻に始まって終わった食事。ベッドで戯れてはいられなかった。
 けれど、今度はソルジャーでもキャプテンでもない二人。何時に起きてもかまわない。
(お昼まで寝ててもいいんだものね?)
 ベッドで甘えて過ごしていようが、朝から愛を交わしていようが。
 また頬っぺたが熱くなる。それを想像してみただけで。
 幸せに過ごして起きた後には、遅い時間でも朝御飯。ハーレイが作ってくれるのだろう。たった一度だけ、飛んで来てしまったあの日と同じで。
 「お前、オムレツの卵は幾つだ?」などと尋ねてくれて。
 ハーレイはきっとコーヒーを淹れて、其処から始まるだろう一日。トーストの匂いや卵料理や、美味しそうな匂いが漂う中で。



 新婚旅行から帰って来たって、ハーレイの休暇が続く間は、本当に蜂蜜のような日々。甘い甘い時を二人で過ごして、ハネムーンの続きの幸せな日々。
 でも…。
(終わったら、仕事…)
 今頃になって気付いた現実。ハーレイの休暇はいつか終わって、仕事にゆく。学校へと。
 自分はポツンと残されるのだった、家に一人で。ハーレイを仕事に送り出して。
 結婚式や新婚旅行や、楽しかった日々が終わったら。ハーレイの休暇が済んでしまったら。
(…ゴールじゃなかった…)
 ずっと幸せな甘いことばかりが続くんじゃなかった、と零れた溜息。
 ハーレイとの結婚が目標だけれど、結婚式はゴールではなくて、始まりだった。二人で暮らしてゆくことの。ハーレイと一緒に生きてゆく日々の。
 ずっとその日を夢に見ている、色々なことも始まるけれど。旅行も食事も、日帰りではない長いドライブだって出来るのだけれど。
(独りぼっち…)
 ハーレイと一緒に暮らしていたって、仕事にはついて行けないから。
 朝、ハーレイを送り出したら、一人で家にいるしかない。時間を潰せることを見付けて。掃除や洗濯をするにしたって、きっと一日もかかりはしないし、他に時間を潰せる何か。
 そういう何かが見付からないなら…。
(ぼくも仕事に出掛けるとか…?)
 仕事はあまり、向いていそうにないけれど。
 ハーレイにも、そう言われたけれど。家にいる方が似合いそうだと。



 やりたい仕事は思い付かないし、前の自分はソルジャーだった。まるで役には立たない経験。
 今のハーレイもキャプテンだった頃とは全く違う仕事だけれども、ハーレイの場合は…。
(元々、違う仕事の経験者だったんだよ!)
 厨房からブリッジに転職したのが前のハーレイ。料理とキャプテンは違いすぎる仕事。それでも苦もなくこなしていたから、古典の教師という今の仕事も天職の一つなのだろう。
 それに比べて自分ときたら、出来そうな仕事も思い付かない。家にいるしか無さそうな自分。
(どうなるの、ぼく…?)
 ハーレイが仕事で留守の間は、何をしていればいいのだろう?
 母のように料理を頑張ってみるとか、お菓子作りや、庭仕事や。お菓子作りなら…。
(ハーレイの好きなパウンドケーキ…)
 大好物だと聞いているから、マスターしようと思っているケーキ。ハーレイの母が作るケーキと同じ味のを、それが焼ける母に教わって。
 見事に焼けたら、ハーレイの笑顔が見られそうだけれど。
 そう毎日は作れないだろう。同じお菓子しか出ない日々だと、ハーレイが飽きてしまうから。
 他にも色々なお菓子や料理を作るためには…。
(お嫁さんの学校…)
 料理やお菓子の作り方を教えてくれる学校に行くのが、多分、一番。
 行こうと思ったこともあるけれど、男の子向けのコースは無い。残念なことに、対象はあくまで女性ばかりで、男性が行くならプロの料理人を目指す学校。
 お嫁さんの学校と違って毎日授業で、通う期間も長すぎる。とても行ってはいられない。
 そうなってくると…。



(現場で勉強…?)
 さっき新聞で読んだばかりの、イギリス貴族の花嫁のように。
 新婚旅行に行った途端にぶっつけ本番、食事のメニューも家の中のことも、何から何まで一人でやるしかなかった花嫁。自分が指示を出さないことには、食事も出ては来ないのだから。
(きっと色々、失敗だって…)
 起こっていたに違いない。慣れない間は、きっと沢山。そうやって経験を積んだのだろう。
(使用人を使うか、自分でやるかの違いだけ…)
 イギリス貴族の花嫁も自分も、初心者という点は全く同じ。現場で勉強するしかない。料理も、他の色々なことも。
(前のぼくだって、やっていないし…)
 青の間の掃除をしていた程度。係にばかり任せていては悪いから、と出来る範囲で。
 けれど、料理や洗濯などはしていなかった。
 アルタミラからの脱出直後は、ゴチャゴチャだった船の中を整理したりもしたけれど。気付けば物資を奪うのが仕事、他の雑事は誰かがやってくれていた。
 ソルジャーと呼ばれるようになれば尚更、青の間を貰った後には部屋付きの係が何人も。
 そういう風に暮らしていたから、前の自分も家事については初心者同然。
 今の自分はチビの子供で、やっぱり掃除だけしか出来ない。ハーレイと十八歳で結婚するなら、家事を勉強する暇も無い。今の学校を卒業したら、直ぐに十八歳だから。



 どうやら本当に現場で勉強するしかない家事。料理も洗濯も、その他のことも。
(…ぼく、上手く出来る…?)
 母のように上手く出来るだろうか、家事というものを。ハーレイが留守にしている間に。仕事に出掛けている間に。掃除はともかく、料理や洗濯。
 上手く出来なくても、ハーレイは怒りはしないだろうけど。派手に失敗していたとしても、怒る代わりに「大丈夫か?」と逆に慰めてくれそうだけれど。
(怒る…?)
 ふと引っ掛かった、その言葉。きっと怒らない、と思ったハーレイ。
 そのハーレイには叱られたことが滅多にない。今の自分も、前の自分も。
(キスは駄目だ、って…)
 怖い顔をして睨まれはしても、その程度。コツンと額を小突かれるだとか、軽い拳が降ってくる程度。子供だからというだけではないだろう。前の自分も、怒ったハーレイは殆ど知らない。
 怒る時には理由があったし、前の自分も納得していた。だから…。
(喧嘩だって…)
 記憶にある限り、酷い喧嘩はしていない。
 ハーレイはいつでも折れてくれたし、自分も我儘ではなかったから。
 互いの立場を思い遣っては、仲直りするのが常だった。ハーレイが「少し言葉が過ぎました」と謝って来たり、前の自分が「ぼくが悪かったよ」と謝ったり。
 ハーレイが本気で怒り出す前に、終わってしまっていた喧嘩。白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイは怒りはしなかった。怒ったとしても、酷い喧嘩は起こらなかった。



 怒った所を滅多に見てはいないハーレイ。前の自分と過ごしたハーレイ。
(でも、今のぼく…)
 今のハーレイも穏やかだけれど、問題は今の自分の方。平和な時代に育った自分。優しい両親と一緒に暮らして、愛されて育って来たものだから。
(…独りぼっちに慣れていないし…)
 ハーレイと二人で暮らし始めたら、「帰りが遅い」と怒ってしまうかもしれない。仕事なのだと分かってはいても、寂しくて。独りぼっちで過ごす時間が長すぎて。
 ハーレイは少しも悪くないのに、まるでハーレイが悪いかのように。
 遅くなる日が続いたら。…遅いのだったら、ハーレイはその分、長く仕事をしたのだろうに。
 ただの我儘、前の自分なら決して言いはしなかったこと。怒るどころか、気遣っていた。そんな時間まで仕事をしていたハーレイを。「遅かったけれど、大丈夫かい?」と。
 けれど、今の自分に言えるだろうか?
 自分の寂しさばかりをぶつけて、ハーレイのことは考えそうもない。前の自分の頃と違って。
(ハーレイと旅行に行く時だって…)
 思い通りに運ばなかったら、不満を零してしまいそうな自分。少し予定が狂っただけで。
 ハーレイは何も悪くないのに、「こんなの、酷い!」と。早い話が八つ当たり。
 そうなったとしても、ハーレイは笑っていそうだけれど。
 「俺のせいではないんだがな?」と余裕たっぷり、気分転換になりそうな話題なんかも。きっと怒りで返しはしなくて、軽く受け流して微笑んでくれて。



 ハーレイだったら絶対にそう、と考えたけれど。
 前のハーレイと三百年以上も同じ船で生きていたのだから、と思ったけれど。
(もしかしたら…)
 今度は事情が違うのだった、とハタと気付いた二人きりの暮らし。いつか結婚してからの日々。
 同じ家に住むのだし、毎日一緒。喧嘩したって、お互い、同じ家の中。
 もしも自分の我儘が元でハーレイが腹に据えかねていても、距離を置きたいと思っていても…。
(…何処かでバッタリ…)
 会ってしまうとか、会った途端に、またしても自分が何か我儘を言うだとか。
(それでホントに怒っちゃっても…)
 顔を合わせずには暮らせない。同じ家なら必ず出会う。食事まで別には出来ないから。そこまでやったら、もう本当に大喧嘩。そうなるよりも前に…。
(ハーレイ、怒っちゃうんだよ…)
 堪忍袋の緒が切れて。きっと自分が見たこともない怖い顔をして。
 「お前と一緒に飯が食えるか!」とか、「お前の顔なんか見たくもない」とか。
 そんなハーレイは知らないけれど。前の自分は、一度も出会っていないのだけれど。
 酷く怒ったら、ハーレイはどうなってしまうのだろう?
(まさか、叩くとか…?)
 前の自分は叩かれたことは無いのだけれども、今の自分は何度もコツンとやられているから。
 ああいう優しい「コツン」の代わりに、平手打ち。
 大きな手で頬っぺたを引っぱたかれて、「反省しろ!」と怒鳴られるとか。



 思ってもみなかった、ハーレイに叱られて叩かれること。
 今の自分なら起こりかねない、そういう悲劇。ハーレイと暮らし始めたならば。
(…そんな…)
 もし本当にそうなったならば、きっと自分は泣き出すだろう。ハーレイに頬を打たれた途端に。
 自分が悪いと分かっていても。ハーレイが怒るのは当然なのだと思っていても。
 悲しくて、そして辛くて、痛くて。
 どうしてこうなってしまったのだろうと、ハーレイに叩かれるなんて、と。
 前の自分だった頃から、ずっと一緒に生きて来たのに。酷い喧嘩は一度もしなくて、ハーレイが自分を叩くことなど無かったのに、と。
 ポロポロと涙を零しそうな自分。堪え切れずに泣き声だって。
(でも、ハーレイの方がずっと…)
 辛そうな顔になるだろう。悲しそうな顔をしているだろう。
 自分が泣いてしまったら。
 「こいつが悪い」と思っていたって、きっと後悔するのだろう。思わず叩いてしまったことを。どうして叩いてしまったのかと、ハーレイは悔やむに決まっているから。
(我慢しなくちゃ…)
 酷い喧嘩にならないように。我儘ばかりでハーレイを怒らせないように。
 頭を冷やしに庭に出るとか、冷たい水で顔を洗うとか。気分を切り替えて戻れるように。
 ハーレイを悲しませたくはないから。
 幸せ一杯に育った今の自分は、前の自分よりもずっと我儘。
 ハーレイがどんなに譲ってくれても、もっと我儘を言いそうだから。ハーレイが怒り出すまで、遠慮なく。頬を叩かれて泣き出す羽目になってしまうまで、好き放題に。



 何度も何度も夢に見て来た結婚生活。ハーレイと二人きりの家。
 甘くて幸せな日々が始まるのだと思っていたのに、現実はそうはいかないらしい。さっき読んだ遠い昔の貴族の花嫁も大変だけれど、自分も充分、大変だった。
 料理や家事はなんとかなっても、抑えられそうにない自分の我儘。ハーレイの帰りが遅いからと怒って、大喧嘩になることもありそうで。
 平手打ちなどされてしまったら、ハーレイも自分も悲しいのだから、我慢するしかないだろう。独りぼっちが寂しい時でも、そうは言わずに。ハーレイに我儘をぶつけないで。
(なんだか大変…)
 結婚したらホントに大変そうだ、と考えていたら、そのハーレイが仕事の帰りにやって来た。
 母がお茶とお菓子を運んでくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。二人きりで過ごせる時間。いつもだったら大喜びで、夕食まで楽しくお喋りだけれど。
(…今だから我儘、言えるんだよね?)
 自分はチビで、まだ子供だから。
 ハーレイと一緒に住んではいなくて、我儘を言っても額をコツンと小突かれるだけ。大きな手が伸びて来て「こら」とコツンと。「我儘を言うな」と。
 コツンとやられても、夕食が済んだらハーレイは「またな」と帰って行くから、怒ったとしてもそれっきり。家に帰れば忘れるだろうし、明日になったら元のハーレイ。
 けれど、同じ家で暮らしていたなら、怒った気持ちは溜まるまま。家の中でバッタリ会ったら、我儘を重ねそうなのが自分。
 ハーレイの怒りが爆発するまで、堪忍袋の緒が切れるまで。頬を叩かれてしまうまで。



 お互い、悲しい気持ちをしなくて済むよう、結婚したら我儘は我慢、とハーレイの顔をついつい見詰めてしまったから。
「おい、俺の顔がどうかしたのか?」
 さっきからじっと見ているようだが、何処かに何かくっついてるか?
「んーとね…。我慢しなくっちゃ、って」
 いつもハーレイが、そういう顔でいられるように。ちゃんと我慢、って。
「はあ?」
 我慢って、何を我慢するんだ、お前?
 いつもってことは、今だけのことじゃなさそうなんだが…。どういう我慢だ、お前の我慢。
「今はいいんだよ、一緒に暮らしていないから」
 いつかハーレイと結婚するでしょ、その後の話。我慢しなくちゃ、って。
「なんだそれは? どうしたらそういうことになるんだ、結婚したらって…」
 お前の夢だろ、俺の嫁さんになるというのは。…夢が叶うのに、我慢というのが謎なんだが?
「えっと…。ハーレイと一緒に暮らすことになるから、我慢なんだよ」
 ハーレイを怒らせないように。
 今みたいに我儘ばかり言ってたら、いつか喧嘩になっちゃいそう。
 ハーレイが帰って来るのが遅いから、って文句を言うとか、他にも色々言いそうなんだよ。
 前のぼくなら、ちゃんと我慢が出来たんだけど…。今のぼくは駄目。
 アルタミラとかで苦労をしないで育って来たから、ホントに我儘一杯だもの…。
 きっと言っちゃう、我慢出来なくて我儘ばかり。
 そうならないように、きちんと我慢しなくっちゃ、って思うから…。



 一緒に暮らしていくんだものね、と決意表明したのだけれど。
 ハーレイは「なんだ、そんなことか」と笑みを浮かべた。「気にしないが?」と。
「結婚したって、お前はお前だ。我慢しなくていいんだぞ?」
 今と全く同じでいいんだ、チビの子供でさえなけりゃ。…ちゃんと大きく育っていれば。
 好きなだけ我儘を言えばいいのさ、俺の嫁さんなんだから。
 今よりももっと我儘になっていいと思うぞ、お母さんたちの目も無いからな。
「でも…。ハーレイ、怒ると思うんだけど…」
 うんと仕事が忙しいのに、「早く帰って」って我儘ばっかり言ってたりしたら。
 前のぼくみたいに「疲れていない?」って言うよりも前に、「遅いよ」って文句ばかりなら…。
「ふうむ…。その程度で俺は怒りはしないが?」
 それだけ寂しかったんだな、とギュッと抱き締めてやるってトコだな。遅くなってすまん、と。
「…ホント? 怒って平手打ちとかはしない?」
 ぼくがハーレイを怒らせちゃったら、そういうこともありそうだな、って…。
 だから我慢、って思うんだけど…。
「おいおい、失礼なヤツだな、お前」
 俺がお前を引っぱたいたことが一度でもあったと言うのか、お前は?
 もしも本当に怒ったとしても、前のお前との喧嘩程度だ。
 睨んで終わりだ、ギロリとな。
 それで充分、お前には効くし…。足りなきゃ怒鳴っておけばいい。
 前のお前に怒鳴っちゃいないが、船のヤツらには何度か怒鳴ったこともあるしな。
 ついでに、だ…。
 前の俺だった頃に、俺が誰かを殴った所。…お前、そうそう知りはしないと思うんだがな…?
 三百年以上も生きてたんだが、数えるほどしか手を上げたことは無いのが俺の自慢だ。
 ゼルは別だぞ、あれは喧嘩友達でじゃれ合いだからな。



 余程でなければ仲間たちに手を上げたことは無い、と言ったハーレイ。
 パンチ力には自信があったが、それは最後の切り札だから、と。
「…ただの喧嘩で殴ったことは一度も無い。平手打ちでもな」
 ガツンと一発食らわない限り、目が覚めないような大馬鹿者。そういうヤツしか殴らなかった。
 それも散々、手を尽くした後で「これしかない」と思った時だ。
 ゼルにお見舞いしていたパンチも、あいつが老けてしまった後にはやっていないから…。
 お前、本当に殆ど知らない筈だぞ、俺が誰かを殴ったのは。
 …忘れちまったか?
「ううん…。思い出した」
 ハーレイは睨むだけだったんだよね、怒ってた時も。誰かが凄いヘマをやっても。
 呆れたみたいに溜息をついて、腕組みをして睨んでいるだけ。「分からないか?」って。
 「俺がどうして怒っているのか分からないほど、お前は馬鹿か?」って…。
 怒鳴ることだって、ホントに必要な時だけだったよ。…普段は睨んで溜息だけ。
 あれで充分、仲間は震え上がっていたし…。怒らせたんだ、ってペコペコ謝ってたし。
 殴られた人って、ハーレイの指示を守らずに危ないことをした人だよね?
 一つ間違えたら大事故だ、っていうようなことをやった人だけ。
「そういうことだ。…お前も覚えていたか」
 殴られなければ分からないヤツしか殴ってはいない。…殴られたヤツが目を覚ますように。
 もっとも、それが通じなかったヤツもいたんだがなあ、前のお前が寝ちまった後に。
 ナスカでのことだ、あの星で生きると言い張ったハロルドに一発お見舞いしてやった。
 シャングリラにはもう戻らない、と寝言を言っていたからな。
 …だが、ハロルドには通じなかった。見ていた他の若いヤツらにも。
 あの一発で目が覚めていたなら、ナスカの悲劇は起こらなかった。馬鹿は死ぬまで治らない、と昔から言うが、その通りになっちまったんだ。…ハロルドは。
「そうだっけね…」
 ハロルド、ナスカで死んじゃったから…。せっかくハーレイが殴ったのにね。



 前のハーレイが手を上げたことは、確かに殆ど無かったのだった。
 だからこそ睨みと溜息だけで震え上がった仲間たち。「相当に機嫌が悪いようだ」と。
 そんなハーレイが平手打ちなどする筈がない。命を危険に晒したわけではないのだから。
「分かったか? 大丈夫だ、修行を積んである」
 そう簡単には殴らないよう、かれこれ三百年以上もな。…平手打ちでも同じことだ。
 お前が喧嘩を吹っ掛けて来ても、受けて立たない自信もあるし…。
 心配は要らん、結婚したって我儘放題のお前でいいんだ。俺はお前を叩きはしない。
「そっか…。睨むだけなんだね」
 ちょっぴり我儘が酷くても。…睨んで溜息、それだけなんだ…。
「そうそう睨みもしないと思うぞ。お前の我儘にも慣れているからな」
 前のお前も、ソルジャーとしての我儘ってヤツは相当だった。
 俺が止めても、絶対に聞かん。それが必要だと思った時には、止めるだけ無駄というヤツで。
 ジョミーを追い掛けて飛んでっちまうわ、挙句の果てにメギドまで飛んでしまいやがって…。
 あの時でさえ俺は叩いていないぞ、前のお前を。
 メギドはともかく、ジョミーの時なら叩けたんだが…。



 お前はベッドで動けなかったし、とピンと指先で弾かれた額。
 それでも俺は叩かなかった、と。
「…ハーレイ、ぼくを叩きたかった?」
 ジョミーの時には我慢していたらしいけど…。メギドの時は。
 命を危険に晒したんだし、前のぼくの頬っぺた、叩きたかった…?
「当然だろうが。…お前が生きて戻っていたらな」
 殴るわけには流石にいかんし、派手に平手打ちを食らわせただろう。パアンと一発。
 なんて危ない真似をしたんだと、そこまでしろとは言っていないと。
 …そうだな、ジョミーの時に叩けば良かったか…。
 あそこで一発叩いていたなら、前のお前も、もう少し命を大切にしたかもしれないな。メギドに飛ぶ前に少し考えて、他に最善の道は無いかと。
 俺がお前を甘やかしちまって、叩かずに放っておいたから…。
 本当に叩いてやりたかった時に、お前は戻って来なかった。…メギドからな。
「…前のぼく、叩かれ損なったんだ…」
 ジョミーの時と、メギドの時と。…合わせて二回。
 知らなかったよ、二回も叩かれ損なったなんて。…今のぼくの心配ばっかりしてて。
 ハーレイはぼくを引っぱたくかも、って。
「なるほど、叩かれ損なった、と…。そういう言い方も出来るのか、あれは」
 だったら、今度は叩いてやろうか?
 前のお前が叩かれたかったように聞こえないこともなかったしな。
 平和な時代じゃ、命の危機も無さそうなんだが…。お望みとあれば、一発くらいは。
 我儘が過ぎた時に一発お見舞いするかな、その頬っぺたに。…もちろん、結婚した後だが。
「遠慮しておく…!」
 叩かれちゃ困るから、我慢しようと思ったんだから…!
 結婚したら我慢が大変だけれど、ハーレイを怒らせて叩かれないよう、頑張らなくちゃ、って!
 叩いて欲しいなんて言っていないよ、痛そうだから…!
 ぼく、叩かれたら、きっと泣いちゃうんだから…!



 叩かないでよ、と悲鳴を上げたのだけれど。
 痛い平手打ちも御免だけれども、前のハーレイが前の自分を叩き損ねたと言うのなら。
 本当に叩きたかった時には、前の自分がもういなかったと言うのなら。
 一度くらいは叩かれてみようか、我儘を言って。
 ハーレイが睨んでも、溜息をついても、ちっとも聞かずに我儘放題。
 前の自分は、どうやらハーレイに叩かれ損なったらしいから。
 メギドから生きて戻っていたなら、ハーレイに頬を派手に叩かれたらしいから。
 我儘を言って、溜息をつかせて、睨ませた後で、頬っぺたを出して。
 「ぼくの頬っぺたを叩いてもいいよ」と、「あの時の分を返していいよ」と。
 ハーレイはきっと、叩きはしないだろうけど。
 きっと笑って許してくれるのだろうけれど、一度くらいは叩かれてもいい。
 幸せな日々を二人で生きてゆくなら、前の自分がハーレイを酷く悲しませた分の一発を。
 きっとペチンと叩かれるだけで、痛くないだろう平手打ち。
 ハーレイは今も、ずっと昔も、変わらずに優しいままだから。
 そのハーレイといつか結婚式を挙げて、二人きりの日々を幸せに生きてゆくのだから…。




          結婚したなら・了

※結婚した後は、色々と我慢しないと、ハーレイを怒らせるかも、と心配になったブルー。
 ハーレイの平手打ちは、前のブルーが二回、食らい損ねたらしいです。一度目で叩けば…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(んーと…)
 やっぱり浮けない、とブルーが見上げたクローゼット。
 学校から帰って、おやつを食べた後で。二階の自分の部屋に戻って。
 クローゼットの上の方、鉛筆で微かに引いてある線。前の自分の背丈の高さに。ハーレイと再会してから間もない頃に、自分で書いた。これが目標、と。
 床から丁度、百七十センチ。チビの自分が其処まで育てば、前の自分とそっくり同じ姿になる。
 ソルジャー・ブルーだった頃の姿に。ハーレイとキスが出来る背丈に。
 けれど、クローゼットに書いた印は遠いまま。いつもこうして見上げるだけ。届かないよ、と。
 少しも近付いてくれない印。百五十センチから、一ミリさえも伸びない背丈。
 それに…。
(…あの高さにだって、届かないよ…)
 届かないのは背丈ではなくて、自分の頭がある高さ。こうして見上げるだけしか出来ない。
 あそこに印を書き入れた日には、あの高さまで浮けたのに。サイオンを使って、ふうわりと。
 前の自分の視点で見たなら、この部屋はどう見えるのか。床の位置やら、棚の高さやら、色々と眺めて遊んでいた。前とそっくり同じに育てばこう見える筈、と。
 浮き上がったり、床に下りたり、何度も繰り返し遊んでいたのに…。
 今はちっとも浮かない身体。どんなに印を見上げていても。



 駄目だ、と今日もついた溜息。ぼくは少しも浮けないみたい、と。
 タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いが不器用な自分。両親も呆れてしまうほど。瞬間移動は夢のまた夢、空も飛べない。床から浮くことだって出来ない。
(あの日は前のぼくだった?)
 クローゼットに書いた印の高さに浮いていた日は。浮いたり下りたり、楽しんだ日は。
 きっと気分が高揚していて、無意識の内にやっていたこと。
 そういうつもりは無かったけれども、前の自分の記憶か経験、そういったものを引き出して。
 遠く遥かな時の彼方でやっていたことを、そのまま写して。
(…今のぼくのサイオン、不器用だけど…)
 あの日は確かに浮いて遊んだ。前の自分の視点はこう、と。努力しなくても出来たこと。
 それから、メギドの悪夢を見た日に、ハーレイの家まで飛んで行った自分。無意識の内に、瞬間移動で。ハーレイが眠っていたベッドまで。
 だから自分にも、潜在的には…。
(力、あるよね?)
 サイオンは生まれつき不器用だけれど。自分の意志では、まるで使えはしないけど。
 それでも力は持っているから、使えることもあるのだろう。
 前の自分が身体の中に戻った時には、きっと上手に。
 たったの二回しか、経験してはいないけれども。…クローゼットに印を書いていた日と、悪夢の後に瞬間移動で飛んで行った日と。



 二つだけしか無い経験。前の自分が自由自在に使ったサイオン、それを自分も使えた日。
(前のぼくさえ戻って来たら…)
 浮くどころか空へ飛び立てるのに、と床を蹴っても浮かない身体。クローゼットに書いた印は、ほんの一瞬、近付いただけ。身体ごと床に戻ってしまった。
 ジャンプの限界、今の自分はこれしか出来ない。エイッと飛び上がることだけしか。
(こうやって勢いをつけておいたら…)
 力の限りに飛び上がったなら、前の自分なら天井を突き抜けてゆけるだろう。凄い速さで。
 今の自分がそれをやったら、酷く叱られそうだけど。「天井と屋根を壊すなんて」と。
 けれど要らない、壊す心配。天井も屋根も破れはしない。自分は飛んでゆけないのだから。
(…ホントに絶対、出来ないんだから…)
 飛んでみたくても絶対に無理、と思った所で気が付いた。前のぼくだって、やっていない、と。飛び上がることは簡単だったけれど、真上には飛んでいなかった。
 シャングリラからは瞬間移動で出ていたから。雲海に潜む白い鯨を浮上させたら危険だから。
 でも…。



(真上に飛んだよ?)
 上に向かって真っ直ぐ飛んだ、と訴える記憶。そうやって高く飛んで行った、と。
 出来る筈がないことなのに。シャングリラから真上に向かって飛び立つことは不可能なのに。
(えーっと…?)
 シャングリラではなかったろうか、と首を傾げた。シャングリラ以外に船と言ったら、小型艇。前の自分が小型艇などで出るだろうか、と考える内に浮かんだギブリ。
(ナスカで、ジョミーと…)
 二人でギブリに乗り込んだ。ナスカに残った仲間たちの説得に行く、と嘘をついて。ハーレイにだけは、本当のことを思念で伝えて。
 シャングリラを離れて直ぐに襲ったメギドの炎。防ごうとギブリから飛んだけれども、あの時も瞬間移動だった。そのまま上に向かって飛んだら、ギブリを壊してしまうから。



 あれも違う、と首を振った記憶。けれども、真上に飛んで行った記憶。
 真っ直ぐに飛んで、もっと高く。ぐんぐんと上へ、遥か上へと。
(何処で…?)
 有り得ない筈の、真上に向かって飛んでゆくこと。白いシャングリラでは出来ないのに。真上に飛べはしないのに。
(…前のぼくが夢の中でやってた…?)
 本当に起こった出来事ではなくて、夢だろうかと思った記憶。そうかもしれない、と遠い記憶を手繰ってみる。とても気持ちのいい夢だったから、それを覚えていたのだろうかと。
 シャングリラから上に飛べたなら、と。何処までも高く飛んで行けたら、と心に刻み付けた夢。
 そうだったかも、と考えた途端、不意に浮かんで来た記憶。
(ジョミー…!)
 思い出した、と得られた答え。真上に向かって飛び立った自分。シャングリラから。
 前の自分が連れて来させたソルジャー候補。成人検査から救ったジョミー。けれど、ジョミーは手に余った。どうしても船に馴染まなかった。
 現実を知れば変わるだろうと、帰したアタラクシアの家。其処に養父母はいなかったから。
 あの時代に一般人として生きていた者は、子供を一人育てるのが義務。それを終えれば、休暇が貰えた。その間にユニバーサルの職員たちが来て、家から子供の痕跡を消す。何もかもを。
 ジョミーが家に帰った時には、全て終わって空っぽだった。両親は長い休暇に出掛けて、彼らの荷物は誤って処分されないようにと他所に預けてあったから。



 何も無い家を見せ付けられたら、ジョミーは戻ると考えたのに。
 そうはならずに、アタラクシアを歩き回ったジョミー。学校へ出掛けて幼馴染にも会った。成人検査を受けた後には、二度と戻らない筈なのに。
 それだけ動けば、ユニバーサルに居場所が知れる。ジョミーは捕まり、深層心理検査を無理やり受けさせられて…。
(…サイオン、爆発しちゃったんだよ…)
 ユニバーサルの建物を破壊し、空に逃げ場を求めたジョミー。闇雲に逃げて、飛び続けて。
 何機もの戦闘機の攻撃を避けて、高く、遠くと飛んで行ったジョミー。
 あの時だった。前の自分がシャングリラから飛び立ったのは。
 逃げるジョミーを連れ戻せるのは、もう自分しかいなかったから。小型艇では追えないから。
 雲海の中から僅かに浮上したシャングリラ。高く聳えるアーチの先端、それが雲から覗く程度の高度まで。
 その上に立って、浮上するのを待っていた自分。
 雲の海から外に出た時、アーチを蹴って真上へと飛んだ。ハーレイが止める声も聞かずに。
 「お待ち下さい、そのお身体では…!」と叫んだハーレイの思念。
 それを振り切り、真っ直ぐに上へ。ジョミーを追って一直線に。



 あれだったのか、と思い出した記憶。シャングリラから上へと飛び立った自分。
 クローゼットの印を見上げて、それから勉強机の前に座った。溜息をついて、頬杖もついて。
(…前のぼく、いつも…)
 ハーレイとは別れを惜しめなかったらしい。これが最後だと分かっていても。
 メギドに向かって飛んだ時にも、ジョミーを追い掛けて飛んだ時にも。
 すっかり忘れていたけれど。メギドで迎えた死が悲しすぎて、アルテメシアでも同じだったと、気付かないままでいたけれど。
(…シャングリラを浮上させろ、って…)
 前の自分がそう命じた。ジョミーを追って飛んでゆくには、残しておかねばならないサイオン。少しでも負担を軽くしようと、瞬間移動で出るのをやめた。それだけでかなり違うから。
 「ぼくが出るから」と命じられた時、ハーレイは止めたかった筈。前の自分を。
 行けば命を失くすから。
 残り少なかった前の自分の命の灯、それが消えるのは確実だから。
 けれど、他には無かった道。自分以外の誰にも出来ない、ジョミーを船に連れ戻すこと。
 ハーレイに「出る」と思念で伝えただけで、前の自分は飛ぶしか無かった。
 それが自分の務めだったから。もしもジョミーを失ったならば、シャングリラの未来もミュウの未来も、何もかもが潰えてしまうのだから。



(…前のぼく、飛んで行っちゃった…)
 ハーレイに「さよなら」も言えないままで。「ありがとう」とも伝えないままで。
 白いシャングリラを離れて飛び立ち、ただひたすらにジョミーを追って。上へと、もっと高くと飛んだ。ジョミーが飛んでゆく方へ。
 後継者として選んだジョミー。そのエネルギーの強さに魅せられ、残り僅かな命も忘れて飛んで行ったけれど。笑みさえ浮かべたほどだけれども。
 ジョミーを捕まえ、成人検査の時の記憶を送り込むのが限界だった。それが最後に使えた力。
(あれでおしまい…)
 そうなるだろうと覚悟していた通り。其処で自分の力は尽きた。
 命の焔が消えてゆくのを感じる間もなく、力を失い、落ちて行った身体。アルテメシアの引力のままに、真っ直ぐに下へ。
 薄れ、霞んでゆく意識。ジョミーに詫びて、そしてハーレイに…。
(ごめん、って…)
 闇の中へと落ちてゆく前に、懸命に紡いだ最後の想い。届きはしないと分かっていても。
 ごめん、とハーレイに謝った自分。
 シャングリラにはもう帰れない、と。このまま尽きてしまうだろう命。
 帰れたとしても、ハーレイと話す時間は取れない。船の仲間たちへの遺言、それを伝えるだけで精一杯で。
 さよならも言えないままだった。「ありがとう」とも伝えられずに消えてゆく命。
 誰よりも愛し続けたハーレイ、恋人に別れも告げられずに…。



 悲しみの中で失くした意識。「ごめん」とハーレイに詫びて、そのまま。
 なのに、気付けば身体に戻っていた力。ジョミーに救われ、拾った命。
 自分は青の間に運び込まれて、傷の手当てをされていた。駆け付けたノルディや看護師たちに。
(…ジョミーが「生きて」って…)
 意識は無くても覚えていた。注ぎ込まれた強い思いとエネルギーとを。
 生かしてくれたジョミーのためにと、仲間たちに思念で語り掛けた言葉。生きて戻れたら、こう話そうと考えていた遺言の中身。「ジョミーを指標にして、地球へ向かえ」と。
 もう遺言ではなかったけれど。暫くは生きていられそうだから。
 それでも消耗していた身体は眠りを欲して、語り終えた後には開かなかった瞼。誰がいるのか、確かめたくても。…ハーレイがいないのは分かるけれども、他には誰が、と考えても。
 引き摺り込もうとしている睡魔。抗う力がある筈も無くて。
 このまま眠れば、二度と目覚めは来ないかもしれない。身体は命を繋いだとしても、心は二度と目覚めないまま。
 そう思うけれど、開かない瞳。身体から抜けてゆく力…。



 逆らえないままに眠ってしまって、ぽっかりと目を覚ました夜中。
(ハーレイが…)
 側で見守ってくれていた。ベッドの脇に椅子を運んで来て、一人きりで。…キャプテンの制服をカッチリと着て。
 そのハーレイの額に残った傷の痕。何処で怪我を…、と驚いたけれど。
「お目覚めですか? ブルー」
 ソルジャーとは呼ばなかったハーレイ。それならば、誰もいないのだろう。青の間には。
 他に誰かがいるのだったら、「ブルー」と呼ばれはしないのだから。
「…ノルディは?」
 ぼくの手当てをしに来ていたと思うんだけど…。看護師たちも。
「もう大丈夫だと帰ってゆきましたよ」
 あなたの容体が落ち着いたので…。点滴も刺さっていないでしょう?
 今夜は私がお側におります、と温かな手で包み込まれた手。
 皆にもそう言っておきましたから、と。
「…君が…?」
「はい。正々堂々といられますよ。…これが私の仕事ですから」
 あなたの様子を一晩見るのが、今夜の私の役目なんです。医療スタッフは多忙ですからね。
 …この傷、お気付きになりましたか?
 船が揺れたはずみに、強くぶつけてしまったんです。けれど、これでも掠り傷ですよ。
「…まさか、ハーレイ…」
 シャングリラは見付かってしまったのかい?
 人類に位置を知られてしまって、それで攻撃されたのかい…?
「ご心配には及びません。…キャプテンの私が決めたことです」
 あなたとジョミーを守るためには、それも必要だったかと…。シャングリラを浮上させました。敵の目をこちらに向けさせるために。
 怪我人が何人も出てはいますが、皆、無事です。ミュウにはシールドがありますからね。



 私はウッカリ張り損ねまして…、とハーレイが指した額の傷痕。
「どうやら油断していたようです、咄嗟にシールド出来なかったほどに」
 防御に優れたタイプ・グリーンだから、という慢心があったかもしれません。直撃弾を食らった者でも、軽い火傷や打撲だけだというのがいます。
 船が揺れて転んだ程度で怪我をするなど…。情けないとしか言えませんよ。
 ノルディも「塗っておけ」と薬を投げて寄越しただけです、傷を診てさえくれませんでした。
「…そうだったんだ…。それで船の中が…」
 あちこち落ち着いていなかったんだね、何故そうなのかを確かめるだけの力は無くて…。
 後でみんなに謝らなければ、ぼくたちのせいで危険に晒してしまったのなら。
「それはジョミーの役目でしょう。…船の仲間に詫びて回るなら」
 もっとも、今は次のソルジャーに指名されてしまったわけですからね。ジョミーに「詫びろ」と詰め寄る仲間はいないでしょう。…あなたにそうする仲間がいないのと同じ理屈で。
 大丈夫ですよ、誰も怒っていません。シャングリラは無事に逃げ延びましたし、自信がついたと言っている者もいるくらいです。人類軍が来ても大丈夫だ、と。
「本当に…?」
 君を信じてもいいのかい…?
 酷い怪我をした者は本当にいなくて、シャングリラもちゃんと飛べるのかい…?
「ええ。…現に今でも飛んでいますよ」
 キャプテンの私がブリッジにいなくても、いつも通りに雲の中を。
 アルテメシアから逃げ出さなくても良かったからこそ、シャングリラは雲の中なんですよ。



 ご心配無く、と説明された仲間たちと船の被害状況は、確かにそれほど酷くなかった。船の方は修理が始まっているし、怪我をした仲間はメディカルルームで治療中。重傷者は皆無。
 良かった、と安堵の息をついたら、「スープをお召し上がりになりますか?」と優しい微笑み。
「野菜スープを用意してあります。夜中ですから、軽いものの方が…」
 他にも何かお召し上がりになるのでしたら、厨房の者たちに連絡致しますが。
「…作っておいてくれたのかい?」
 ぼくがぐっすり寝ている間に、あのスープを…?
「そうですが…。作り立ての方が良かったですか?」
 お目覚めになってから作った方が良かったでしょうか、先に作っておくよりも…?
「ううん、今から作りに行ったら、暫く君は留守なわけだし…」
 スープ作りで時間を取られてしまうよりかは、君が側にいてくれる方がいい。
 今夜はぼくの側にいるのがキャプテンの仕事なんだろう?
 …この部屋で君が正々堂々と夜を過ごせるチャンスは、ぼくも大事にしたいしね…。
 作っておいてくれたスープがいいよ。…温め直すだけのスープの方がね。
「分かりました。…温めて来ます」
 お待ち下さい、直ぐにこちらへお持ちしますから。
 いつもと同じで、野菜を刻んで煮込んだだけのスープなのですけどね。



 特別なことは何もしていませんよ、とスープを温めに奥のキッチンへ向かったハーレイ。
 また食べられるとは思っていなかった、ハーレイが作る野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープ。
 それをハーレイが運んで来てくれた。小さめのスープの器に入れて。
「どうぞ、ブルー。…熱いですから、お気を付けて」
 慌てると舌を火傷しますよ、それでは私と変わりません。…額に怪我をした私と同じで、ただの間抜けになりますからね。
「そうだね、気を付けて飲むことにするよ」
 ノルディたちは忙しくしているそうだし、舌の火傷は診てくれそうもないからね。
 君の怪我よりも放っておかれそうだよ、戦闘中の怪我とは違うんだから。
 …気を付けなくちゃ、とスプーンで掬って、息を吹きかけて軽く冷まして。
 口に含んだ湯気の立つスープ。眠っている間に、ハーレイが作っておいてくれた野菜のスープ。
 素朴すぎる味が美味しくて、そして温かくて。
 また食べられた、と零れた涙。
 このシャングリラから飛び立つ時には、もう戻れないと思っていたのに。
 生きて帰って来られはしなくて、ハーレイにも二度と会えないままで。
 きっとそうなる、と決めていた覚悟。自分の命はこれで尽きると。
 けれど、帰って来られた自分。…遺言を遺すためにではなくて、まだ暫くは残された時間。
 まだ生きられると、生きているのだと野菜スープが教えてくれた。
 魂だけでは、きっと味など分からないから。…温かさもきっと、感じないから。



 頬を伝って落ちた涙に、ハーレイが驚いて顔を覗き込んだ。
「どうなさいました?」
 熱すぎましたか、そんなにグラグラ煮立てたわけではなかったのですが…。
「…そうじゃない。舌に火傷はしていないよ。…それは間抜けだと君にも注意されたから」
 ただ、この味が嬉しくて…。また君のスープを飲めるのが信じられなくて…。
 帰って来られたんだ、と思ったら涙が零れてしまっただけ。
 ぼくは死なずに生きているんだ、と実感したらね…。
「…ずいぶんと無茶をなさいましたからね、あなたは」
 私が止めても、少しも聞こうとなさらなくて…。シャングリラを浮上させろと仰っただけで。
 どんな気持ちで私が船を浮上させたか、あなたはお分かりになりますか?
 …浮上させたら、私はあなたを失うのですよ?
 そうなることが分かっているのに、その指示を出すのは私なんです。…キャプテンですから。
「…分かっているよ。…ちゃんと分かっていたけれど…」
 他には道が無かったんだよ、ぼくが出て行くしか道は無かった。誰もジョミーを追えないから。
 …ジョミーのお蔭で、ぼくの命は延びたけれどね。
 でも、それは夢にも思わなかったことだから…。ぼくは死ぬんだと思っていたから…。
 力が尽きて落ちてゆく時、考えていたよ。君に「さよなら」を言いそびれたな、と。
 ごめん、ハーレイ。…さよならも言わずに行ってしまって。
「まったくです」
 私の身にもなって下さい、「さよなら」も言えなかったあなたを送り出した時の。
 送り出すしかなかったのですよ、そうなるのだと分かっていても…。



 生きて戻って来て下さって良かった、と強く抱き締められた胸。
 野菜スープを飲み終えた途端に、逞しい腕に捉えられて。広い胸へと抱き込まれて。
 「あんなことは二度となさらないで下さい」と。
「…よろしいですね? ソルジャーはもう、ジョミーですから」
 ソルジャー候補と呼ばれてはいても、これからはジョミーが戦力なのです。…あなたには新しい役目があります、ジョミーを導いてゆくということ。
 そのためにも決して無理はなさらず、お身体を大切になさらなければいけません。お命を危険に晒すことなど、言語道断というものです。
 ジョミーも失望することでしょう。…あなたが命を無駄になさったら。
「分かっているよ。…ジョミーが生かしてくれたんだからね」
 あの時、ジョミーが「生きて」と願ってくれなかったら、ぼくは戻れはしなかった。ジョミーの強い思いと、願い。…それが命を延ばしてくれた。
 強い思いは力を生むから、ジョミーの願いがエネルギーの塊のように変わってね。
 …本当だったら、ぼくは今頃、死んでしまっていたんだろうに…。
 ジョミーがぼくにくれた命を無駄にしようとは思わない。…無駄にはしないよ、絶対にね。



 それに…、とハーレイの腕の中で続けた言葉。
 君に「さよなら」を言わないままで死んだりしない、と約束した。言えなかったことを悔やんでいたから、これだけは必ず言わなければ、と。
「…約束するよ。ぼくの命が尽きる時には、きっと言うから」
 だから、キャプテンとしてでいいから、ぼくの手を握っていて欲しい。…ぼくの側で。
 手をしっかりと握っていてくれれば、必ず「さよなら」は伝えるから。
 …どんなに弱っていたとしたって、最後に君に。ぼくは最期まで君だけを想い続けるから…。
「ええ、ブルー。…約束します。あなたの手を握ってお見送りしましょう、その時が来たら」
 ですが、ほんの少しの間だけですよ。…お別れするのは。
 直ぐに追い掛けてゆきますから。私も、あなたがいらっしゃる場所へ。
「…君の気持ちは嬉しいけれど…。君と一緒なら、ぼくも幸せだろうけど…」
 そうしたら、ジョミーはどうなるんだい?
 この船でジョミーは独りぼっちだ、ぼくも君も死んでしまったら。
「ジョミーのことなら、なんとでもなります」
 あなたが飛び出して行かれた時にもそう思いました。あなたがお戻りにならなかった時は、私も一緒に行かなければ、と。
 …あなたの寿命が尽きると分かった時から、私は約束しております。ご一緒すると。
 ですから、引き継ぎが済み次第、あなたを追ってゆきます。…長くはお待たせ致しません。



 この船にはシドもいますから、と真顔だったハーレイ。必ず一緒に参りますから、と。
 シドはハーレイの後継者だった。…キャプテン・ハーレイの跡を継げるよう、ハーレイが選んだ次のキャプテン。主任操舵士という役職を作り、ハーレイ自身が任命して。
 そう、シドは前の自分が命尽きた後、ハーレイが後を追えるようにと選び出した者。死んだ後も何処までも共にいようと、必ず追ってゆくからと。
(…そっか…)
 そういう約束だったんだっけ、と思い出した時の彼方でのこと。
 ジョミーを追い掛けて飛んだ自分が生きて戻って、あの日、ハーレイと交わした約束。死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、それを言わずに死にはしないと。
 言いそびれたままで死にゆく自分が悲しかったから、それを忘れていなかったから。ジョミーの力に救われて生きて戻った後も。
 だから必ず言おうと思った。いつかその日が来た時には。
 いつも自分の側にいてくれた愛おしい人に、「さよなら」と。そして「ありがとう」と、想いの全てをハーレイに向けて。
 けれど、自分は約束を破ってしまったのだった。
 あんなに悔やんでいたというのに、それをすっかり忘れてしまって。
 赤いナスカに滅びの危機が迫っていた時、十五年もの長い眠りから目覚めた自分。自分の役目は皆の未来を守ることだと、躊躇いもせずにメギドへと飛んだ。
 約束していた「さよなら」も言わずに、「ジョミーを頼む」とハーレイを船に縛り付けて。



 前の自分が破った約束。ハーレイに「さよなら」と言いもしないで、前の自分は飛び去った。
 ジョミーを追い掛けて飛び立った時に、それを後悔したというのに。二度としないと、死ぬ時は必ず「さよなら」を言うと、ハーレイに約束していたのに。
 約束をきちんと守るどころか、忘れてしまっていたのが自分。それも今日まで。
 ハーレイはどんなに悲しかっただろうか、聞けずに終わった前の自分の別れの言葉。必ず言うと約束したのに、「さよなら」と言いもしなかった自分。
(ぼく、本当に酷いことしちゃった…)
 謝らないと、と机の前で項垂れていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋で向かい合うなり謝った。母が「ごゆっくりどうぞ」と去るのを待って。
「ハーレイ、ごめん…」
 ホントにごめん。ぼく、ハーレイに悪いことしちゃった…。
「はあ?」
 ごめんって…。お前、俺の授業中に何かやっていたのか、机の下で…?
「授業の話じゃないんだけれど…。ぼくは約束、破っちゃったんだよ」
「何の話だ?」
 俺は宿題を出していないと思うんだが…。何の約束を破ったんだ?
「前のぼく…。ハーレイに約束してたのに…」
 ぼくが死ぬ時には、ハーレイに「さよなら」を言うって約束したんだよ。…アルテメシアで。
 ジョミーを追い掛けて飛んで行った時に、ハーレイに「さよなら」を言いそびれちゃって…。
 言えなかったな、って悲しい気持ちで死んじゃう所を、ジョミーに助けられたから…。
 これじゃ駄目だ、ってハーレイに約束したのが「さよなら」。
 死ぬ時は必ず言うことにする、って前のハーレイに約束してた。…もう懲りたから、って。
 だけど、忘れてしまったんだよ。…そういう約束をしていたことを。
 言わないままでメギドに行っちゃったんだよ、ぼくは約束、破っちゃった…。



 おまけに約束のことも忘れちゃってた、と謝った。前の自分がした約束を。
「…今日まで忘れてしまってたんだよ、ハーレイに約束してたのに…」
 さよならを言わずに行ってしまって、今日まで思い出しもしないで…。
 ホントにごめん。…ハーレイ、とっても悲しかったと思うから…。
「いいんだ、お前、帰って来ただろ?」
 帰って来たなら、さよならも何も無いからな。…さよならってヤツは別れる時に言うもんだ。
 ちゃんと帰って来るんだったら、最初から「さよなら」は要らないだろうが。
「え…?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ?
 前のぼくは帰って来なかったんだよ、メギドに行っちゃってそれっきりだよ…?
 きちんと「さよなら」を言って行かなきゃ、駄目だったんだと思うんだけど…。
「前のお前はそうなんだろうが…。今のお前さ」
 少々チビだが、お前は帰って来たってな。俺の所へ。…あのまま別れてしまわないで。
 だから「さよなら」を言い損なったと謝らなくてもいいだろうが。
 言う必要は無かったってことだ、こうして帰って来たんだから。ほんの少しだけ、お前が留守をしていたわけだな、俺の前から。
 気にしなくていいんだ、「さよなら」くらい。…お前は帰って来たんだろうが。



 それに謝ってくれたからな、とハーレイは笑顔。もう充分だ、と。
「…そうでなくても、とうに時効だ。前の俺だった頃からな」
 お前も忘れていたってことだが、俺もすっかり忘れていたんだ。…その約束。
 そういう約束をしていたことさえ、綺麗サッパリ忘れちまってた。お前がメギドに飛んで行った時は、もう覚えてはいなかったんだ。
 覚えていたなら、悲しかったかもしれないが…。あの約束はどうなったんだ、と思っていたかもしれないが…。
 何も覚えていなかったんだし、前の俺は何とも思っちゃいない。お前が「さよなら」を言うのを忘れたままで行っちまおうが、それは全く気にしなかった。
 お前がいなくなっちまった、と落ち込んだだけで、「さよなら」はどうでも良かったんだ。
「ホント…?」
 ハーレイ、ホントに忘れちゃっていたの、嘘をついていない?
 …ぼくが悪いと思わないように、覚えていたのに「忘れた」なんて言ってはいない…?
 ぼくのサイオンは不器用だから、ハーレイが嘘をついていたって分からないんだもの。
「安心しろ。…本当のことだ、忘れていたのは」
 あれから色々ありすぎたからな、俺も覚えちゃいられなかった。
 お前が眠ってしまわなければ、きっと忘れはしなかったろうが…。それはお前も同じだな。
 俺はお前が寝ている間も働き続けて、あの約束を忘れちまった。キャプテン稼業は忙しいんだ。
 そしてお前は、ぐっすりと深く眠りすぎてて、俺と同じに忘れちまった、と。
 お互いの顔を見ながら何度も話していたなら、事情は違っていたんだろうがな。
 …お前も俺も忘れちまった約束なんぞは、破ってもいい。どんなに大事な約束だろうと、覚えていなけりゃ意味が無いんだ。
 片方だけが覚えていたって、そいつは空しいだけだろうが。ちゃんと守っても、ちっとも相手に通じていないし、喜んでも貰えないんだから。
 二人揃って忘れたってことは、本当に必要無かったってことだ。お前の「さよなら」。



 だからかまわん、と大きな手でクシャリと撫でられた頭。
 今度は何処までも一緒だろうが、と。
「いつまでも二人一緒なんだし、「さよなら」は要らん」
 あんな約束、今度も必要無いってな。…「さよなら」の出番が無いんだから。
「そうだっけね…」
 今はハーレイが帰って行く時は「さよなら」だけど…。約束していた「さよなら」とは別。
 ただの挨拶の言葉なんだし、会えなくなるわけじゃないんだものね。…死んでしまって。
「そういうこった。…今度は別の約束をしておくべきだな」
 さよならじゃなくて、一生、俺の側から離れない、ってヤツでよろしく頼む。
 今度は守れよ、忘れちまわないで。…俺も今度は忘れないから。
「うん、ハーレイ…。今度は一生、「さよなら」は無し」
 死ぬ時だって一緒なんだもの、「さよなら」はもう要らないよ。
 結婚したら、ずっとハーレイの側にいるから。…前のぼくみたいなことは、絶対しないよ。



 守るからね、とハーレイと小指を絡めて約束をした。
 前の自分が破った約束、それは時効だと言ってくれた優しいハーレイと。
 別れの言葉を伝えるという悲しい約束、そんな約束は今は要らない。
 今度は何処までも、いつまでも一緒。
 「さよなら」の言葉は、ただ挨拶のためにだけ。
 二人一緒に生まれ変わった、青い地球の上でずっと二人で生きてゆくから。
 しっかりと手と手を繋ぎ合わせて、幸せに歩いてゆくのだから…。




           忘れた約束・了

※前のブルーがハーレイと交わした約束。死ぬ前には必ず「さよなら」を言うから、と。
 けれど約束は守られなくて、約束したことも忘れたままだったのです。時効ですけれど。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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