シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
ブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
ふと目に留まった運転免許を取るための学校、それの広告。新聞に広告を出すほどだから、車の免許。ごくごく普通の、一般人向け。
(宇宙船だと、ホントに学校…)
多分、飛行機でもそうだろうけれど、パイロット専門の養成学校。そういう所へ入学しないと、運転免許は貰えない。何年間もの勉強と訓練、難関だと聞く試験も受けて。
新聞に広告を載せるまでもなく、その手の学校は志願者が多い。入学試験があるほどなのだし、車の免許とは全く違う。車の方なら、生徒の方がお客様のようなものだから。
(お金を払えば、誰でも入れて…)
教えて貰える車の運転。入学試験などは要らない、申し込んでお金を払うだけ。
後は…、と読んでみた広告。運転免許を手に入れるための方法はどうなっているのだろう、と。
(学校で教えてくれるのは…)
車の運転に必要な知識、交通ルールなどの教室で学ぶ授業が幾つか。他の時間はひたすら運転、学校の中の練習コースで腕を磨いて、それから外へ。教官を乗せた車で走って、本物の道路で積む経験。これで大丈夫、という御墨付きを貰えば無事に卒業。
そこまで行ったら、運転免許を発行してくれる所で試験を受ける。合格したら免許皆伝、やっと手に入る運転免許。
そういう仕組みになっているのか、と広告を眺めて考え込んだ。
新聞に広告が載っているくらいの自動車学校、お金さえ払えば行ける学校。生徒の方がお客様の学校、きっと親切に教えてくれるに違いない。自分が申し込んだって。
まだ年齢が足りないけれど。十四歳では門前払いを食らうけれども、免許を取れる年ならば。
取ろうとも思っていなかった免許、広告のせいで気になったから。
(…免許を取るなら、実技と筆記…)
そういう試験があるらしい、と最後まで読んでフウと溜息。
筆記試験なら楽に合格出来そうだけれど、実技が問題。車を上手に動かせないと不合格だろう。自動車学校はそのためにあるようだから。主な授業は車を運転することだから。
(パパは免許を持ってるし…)
当たり前のように運転している、毎日のように。会社に行くにも、休日に出掛けてゆくのにも。
運転免許は母も持ってはいるらしい。普段は運転していないだけで。
(いざとなったら乗れるんだよね、ママ?)
一度も見たことは無いのだけれども、運転免許を持っているなら母も運転出来るのだろう。日常生活では出番が無くても、ドライブの途中で父と交代するだとか。
長距離ドライブに行くような時は、きっと両親が交代で運転することになる。泊まりで出掛けてゆくような場所へ、車で走ってゆくのなら。
旅行に行く時は車なんだ、と話をしていた友人たちの家では、両親が交代で乗るらしいから。
(長距離ドライブ…)
自分が生まれつき弱かったせいで、車で遠出をすることは無い。その日の間に戻れる距離しか、父は車を出そうとしない。しかも往復の時間は短め、長い距離を走ってゆかない車。
運転する人が交代するようなドライブは、ぼくの家とは無関係、と思った所で気が付いた。父に代わって、母が車のハンドルを握る機会は無さそうだけれど。
(…ハーレイとドライブ…)
運転免許も、車も持っているハーレイ。今の愛車は前のハーレイのマントと同じに濃い緑色。
そのハーレイと、いつかドライブに出掛けるのだった、自分が大きくなったなら。
前の自分と同じ背丈に育った時には、助手席に乗せて貰ってドライブ。最初の目標は隣町にあるハーレイの両親が住んでいる家で、この町を出てゆく一番の遠出。庭に夏ミカンの大きな木がある家まで出掛けてゆくことが。
それが目標なのだけれども、ドライブが普通になって来たなら、もっと遠くへも。
(牧場だとか、海だとか…)
美味しい卵が食べられる牧場や、アイスクリームや牛乳で名高い牧場。そういった所へ出掛けてゆこうと約束に指切り、青い海だって見に行く予定。前の自分が焦がれ続けた地球の海を見に。
他にも色々交わした約束、それを果たしに出掛けてゆくなら、長距離ドライブもあるだろう。
海はともかく、アイスクリームや牛乳で知られた牧場までは遠いのだから。
(…運転免許、取っておかないと駄目?)
ハーレイに代わって、自分が運転するのなら。
運転する人が交代しながら走ってゆくのが、長距離ドライブというものならば。
少なくとも友達の家の場合は、両親が運転を代わるもの。車で遠出をする時には。
おやつを食べ終えて、部屋に帰って。
勉強机の前に頬杖をついて、考え始めた運転免許。さっきの新聞に載っていた広告。運転免許を取るのだったら、まずは自動車学校だけれど。誰でも入学出来るのだけれど…。
(運転免許…)
自分なんかに取れるのだろうか、筆記試験はクリア出来ても問題は実技。運転技術を見る試験。自動車学校で教えて貰える技術だけれども、ハンドルを握って車を動かす、そこが問題。
運動神経は無いに等しいし、反射神経も怪しい自分。
自動車学校の練習コースで車に乗っても、きちんと走ってくれるのかどうか。教官が「こう」と指示した通りに、動かせる自信がまるで無い。車も、ハンドルを握っている手も。
取れるという気が微塵もしない運転免許。自動車学校に通ってみても。
(前のぼくなら…)
マシだったろうか、と思い浮かべたソルジャー・ブルー。
生身で宇宙空間を駆けて、人類の輸送船から物資を奪い続けていた自分。最後はメギドも沈めたくらいで、それは素晴らしい伝説の戦士。大英雄になったソルジャー・ブルー。
あの頃ならば、と思ったけれども、今と同じに弱かった身体は、運動神経と言うよりも…。
(サイオンが頼り…)
障害物だらけの宇宙空間を、凄い速さで飛べたのも。
テラズ・ナンバー・ファイブと互角に渡り合えたのも、全てサイオンがあったから。サイオンの助けを使って動いて、攻撃だって避けられた。
メギドへ向かって飛んだ時には、レーザーさえも軽く躱せた。光の速さで飛んで来るのに。
(…あんなのだって、ヒョイと…)
避けることが出来た、サイオンで捉えたレーザーの光は、速くもなんともなかったから。まるで止まっているようにも見えて、楽々と躱して飛べたから。
レーザーさえも避けて飛べたのがソルジャー・ブルー。今の自分には出来ない芸当。
(…サイオン無しだと、どうなるわけ?)
それが無ければ今の自分と大して変わらなかったのだろうか。伝説の戦士も、運転免許を取りに行ったら挫折するのか、それとも見事に合格なのか。
前の自分に運転技術はありそうだろうか、と遠い記憶を手繰ってみたら…。
(そうだ、シミュレーター!)
あれがあった、と思い出した。白い鯨に改造する前のシャングリラで使ったシミュレーター。
ハーレイがキャプテンに就任した後、それで練習していたから。「操舵は出来なくてもいい」という条件でキャプテンに就任したというのに、操舵を覚えようとしていたハーレイ。
練習中の所へ見学に出掛けて、前の自分も挑んでみた。シミュレーターのスイッチを入れて。
(…ぼくの方が、ずっと…)
ハーレイよりも上手かった。シミュレーターを使って、シャングリラを操縦するということ。
初めて挑戦したというのに、ハーレイよりもずっと。スピードもぐんぐん上げられたほどに。
(あれくらい、簡単…)
最初の間はハーレイよりも上手かったから、と自信を覚えた運転技術。前の自分だったら、車の免許も楽に取れたに違いないと。宇宙船の操縦技術があったのだから、と。
けれど、よくよく考えてみたら、あの時だって…。
(サイオン頼み…)
シミュレーターに次々と表示されてゆく障害物を避けて飛べたのも、スピードをぐんぐん上げてゆけたのも、サイオンで見ていた感覚のお蔭。
前の自分が器用に使いこなしたサイオン、呼吸するように使えていたから無かった自覚。それを使っているのだと。
肉眼の代わりにサイオンの目で見て、それに合わせて動かした身体。シミュレーターの向こうの障害物を避けるならこう、とサイオンが伝える感覚のままに。右へ、左へとそれは素早く。
メギドに向かって飛んでゆく時、レーザーの光を避けた速さで。
前のハーレイが仰天していた、前の自分のシミュレーターでの操舵の腕前。
もしも、あそこでサイオンを使わなかったなら。
純粋に肉体の能力だけで挑んでいたなら、ハーレイに勝利を収める代わりに…。
(シャングリラ、沈没…)
そういうメッセージが画面に表示されていただろう。
障害物接近の警告音が何度か鳴り響いた後で、あっさりと。シミュレーターのスイッチを入れて間もなく、一番最初の小惑星か何かにドカンと派手に衝突して。
なにしろ前の自分の場合も、運動神経も反射神経も、今と同じにゼロだったから。
サイオン抜きのソルジャー・ブルーは、ただの虚弱なミュウだったから。
(改造前のシャングリラの時でも、前のぼくには動かせなくて…)
白い鯨になった後だと、更に難しくなっていたろう操船方法。
あの時代のどんな宇宙船よりも、シャングリラは巨大な船だった。ミュウの箱舟、世界の全てを乗せておくには必要だった大きな船。世界最大の生物とも言われる、本物の鯨さながらに。
それほどの船を動かすとなれば、改造前よりも遥かに上の操船技術を要求されたことだろう。
ハーレイは楽々と新しい船を操ったけれど。
サイオンの助けを借りもしないで、逞しい腕と自分自身の勘だけで。
(無免許運転だったんだけどね…?)
あれはいつだったか、そう言って笑っていたハーレイ。
「俺は試験をパスしてないぞ」と。
後の時代に導入された操舵のための試験は受けていないと、キャプテン・ハーレイは無免許運転だったんだがな、と。
前のハーレイが航宙日誌に書かなかったから、今も知られていない真実。
免許を持たずに、白いシャングリラを地球まで運んだキャプテン・ハーレイ。
本当は無免許運転だったけれども、前のハーレイには出来た操船。
白いシャングリラも、その前の船も、ハーレイは誰よりも見事に操っていた。元はフライパンを持っていたのに、厨房出身だったのに。
それに引き替え、前の自分は、伝説のソルジャー・ブルーときたら…。
(ギブリでも無理…)
サイオンは抜きで操縦しろと命じられたら、どうにもならなかっただろう。シャングリラよりも遥かに小さな、小型艇だったギブリでさえも。
ジョミーが捕えておいたキースは、初めて目にしたギブリを使って逃げたのに。人質まで取って乗り込んだけれど、フィシスはギブリを操れないから、キースが操縦したギブリ。
ミュウが開発した船だっただけに、人類が使う宇宙船とは微妙に違っていたろうに。
(…キースにも負けた…)
初見でギブリの操縦方法を見抜き、シャングリラから逃れたキース。一つ間違えたら、格納庫の壁に激突して終わりだっただろうに。
メンバーズはプロだと、そういう能力の持ち主なのだと分かっているけれど、それでも悔しい。
ソルジャーにも操縦出来ないギブリをキースが持ち逃げしただなんて、と。
(…サイオン抜きだと、ホントにキースに負けちゃうんだよ…!)
メギドを沈めたことはともかく、ギブリの操縦に関しては。
今の自分よりも遥かに高い能力があった、前の自分でさえもその始末。
船には乗せて貰うもの。白いシャングリラも、それにギブリも。
自分ではとても動かせなかった、サイオン抜きでは無理だった。分かっていたから、挑戦さえもしないで乗せて貰っていただけ。ハーレイやシドや、操舵のプロたちが操るシャングリラに。
これは駄目だ、と頭を抱えた前の自分の運転技術。
サイオン抜きだと、乗せて貰うしかなかったらしいソルジャー・ブルー。白いシャングリラも、小さなギブリも、誰かに操縦して貰うだけ。自分はそれに乗ってゆくだけ。
前の自分がそういうことなら、サイオンが不器用な今の自分は…。
(…絶望的だよ…)
運転免許を取りに行っても、手も足も出ないのに違いない。サイオン抜きの前の自分と、状況はまるで同じだから。運動神経も反射神経も、人並み以下しか無いのだから。
(…運転免許は、最初からサイオン抜きだろうけど…)
誰もが同じ条件だと思う、タイプ・ブルーだろうが、イエローだろうが。
人間が全てミュウになっている今の時代は、サイオンは出来るだけ使わないのがマナーで約束。運転免許の試験場でも、きっとサイオンは禁止の筈。使った場合は多分、失格。
(…普通の人なら、サイオン抜きでも取れるのに…)
母も免許を持っているのだし、普通だったら難しくないのが運転免許を取るということ。広告が出ていた自動車学校、其処に暫く通いさえすれば。
車を上手に走らせることさえ出来るようになれば、後は試験を受けるだけ。
(ぼくの友達なら、筆記試験を嫌がりそう…)
「なんで勉強しなきゃいけないんだよ!」と文句を言う姿が目に見えるよう。車の運転を習いに来たのに、教室で授業があるだなんて、と。
自分の場合は、教室の方が楽なのに。筆記試験だけで運転免許を貰えるものなら、そちらの方が楽なのに。
自動車学校のメインだという、実地で運転することよりも。学校のコースや本物の道路で、隣に教官が乗った車のハンドルを握ることよりも。
けれど、実技が要る試験。明らかに運転技術の方が大切、そういう試験なのだと分かる。自動車学校の授業のメインは「運転すること」なのだから。
今のぼくには取れそうもない、と溜息しか出ない運転免許。前の自分でも無理なのだから。
そうは言っても、いつかハーレイとドライブに行くなら要るのだろう。
遠い所へ出掛けてゆくなら、運転免許が必要になる。ハーレイと交代するために。友達の両親がやっているように、交代で運転してゆく車。
海へ行くにも、牧場へ行くにも、きっと長距離ドライブだから。
(…ぼくでも取れる?)
運転免許、と不安しか湧いてくれない心。あまり取れそうにないんだけれど、と。
母でも持っているとは言っても、本当に人それぞれだから。
(…ママの体育の成績、ぼくよりはきっとマシだよね…?)
運動の方はサッパリだった、と聞いたことなど一度も無い母。人並みの成績は取ったのだろう。運動神経も反射神経もゼロに等しい自分と違って、そこそこの点は。
(普通はそっちで、だから車も運転出来て…)
自動車学校に通いさえすれば、運転技術をちゃんと身につけ、試験に合格できるのだろう。運転免許を貰える試験に、きっと一回挑んだだけで。
大多数の人はそうだというのに、自分には無理としか思えないのが運転免許。自動車学校に入学したって、車を運転出来そうにない。
(エンジンはスタートさせられたって…)
その後が無理、と容易に想像出来てしまった自分の末路。
遠い昔に前の自分がハーレイに勝ったシミュレーター。あれをサイオン抜きでやったのと、同じ結果になるのだろう。
シャングリラ沈没というメッセージが表示されるか、車がコースを外れるかの違い。隣に乗った教官が運転を代わってくれなかったら、何処かに衝突して終わり。
そういう結果が見えているのに、運転免許が必要なのが今の世の中。
キャプテン・ハーレイが無免許でいられた時代は終わって、普通の車を運転するにも運転免許。それを自分が取れなかったら…。
(ハーレイと一緒にドライブは無理…)
運転免許を持っていなければ、交代出来ない車の運転。長距離ドライブには出掛けられない。
牧場へも海へも出掛けてゆこう、とハーレイと幾つも約束したのに。
卵が美味しい牧場へ行ってオムレツやホットケーキを端から頼んで食べる予定も、牛乳で名高い牧場の特製アイスクリームを食べにゆくのも、これでは無理。
日帰り出来る海には行けても、もっと遠い所の海には行けない。海沿いに何処までもドライブを続けてゆけはしなくて、途中でおしまい。「此処までだな」とハーレイが車の向きを変えて。
自分が運転を交代出来ない以上は、長いドライブは無理だから。
いつかハーレイとドライブに出掛けるようになっても、行き先は近い所だけ。この町から日帰り出来そうな所、それくらいしか目指せしてゆけない。
ハーレイと運転を交代しなくていい所しか。ハーレイが行ける所までしか。
運転免許が取れなかったら、けして行けない長距離ドライブ。
牧場も、海も、どうにもならない。幾つも幾つも、ハーレイと約束していたのに。
ハーレイと遠くへ出掛けるためには、運転免許が必要だという現実の壁。途中で運転を代われる資格を持っていないと、長距離ドライブには出掛けられない。
牧場も海も、沢山交わした約束はどれも叶わない。
(ぼくの夢…)
前の自分が夢見た地球には来られたけれども、その地球の上で幾つも描いた新しい夢。
それがすっかり駄目になりそう、とガックリと肩を落とした所へ聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたけれど、無くなってしまったハーレイとの未来。
いつか大きく育ったとしても、二人で行けない長距離ドライブ。あんなに夢を見ていたのに。
「どうしたんだ、お前?」
なんだか元気が無さそうだが、と鳶色の瞳で覗き込まれた。何処か具合でも悪いのか、と。
「……運転免許……」
「はあ?」
お前の年ではまだ無理だろうが、自動車学校にだって入れないぞ?
申込書を貰うどころか、「お家の人は?」と訊かれるだろうな、そいつを貰いに行ったらな。
何を考えているのか知らんが、どうして元気が無くなるんだか…。
取れる年になってから続きを考えるんだな、その方がよほど建設的だ。
そこまでにしろ、とクシャリと撫でられた頭。伸びて来た大きな褐色の手で。
けれど、その手の持ち主との未来がかかっているのが運転免許。取れなかったらドライブの夢が殆ど砕けて消えてしまうのに、どうやら自分は取れそうになくて。
「…取れる年になっても無理そうなんだよ…」
ぼくは試験に受からなくって、運転免許は貰えないと思う…。
「そうなのか? そいつは考えすぎだと思うぞ」
大抵は一度で受かるモンだし、一度目で落ちても二度目くらいで通ると聞くが…。
落ちる理由は筆記試験で、お前だったら簡単だろうと思うがな?
お前の成績、トップだろうが。…覚える中身が違ったくらいで、試験に落ちはしないだろう。
今から心配していなくてもだ、自動車学校の教科書を見たら直ぐに覚えるさ、お前ならな。
「筆記試験はいいんだけれど…。そっちは心配してないんだけど…」
実技試験が無理なんだよ。
だって、車を運転出来なきゃ、実技試験はパス出来ないでしょ?
…試験会場にだって行けないと思う、自動車学校で失敗ばかりで、ちっとも卒業出来なくて。
「おいおい、実技って…。前のお前は俺よりも腕が上だったが?」
凄い才能を持っていたくせに何を言うんだ、俺は今でも覚えているぞ。
俺が悪戦苦闘していた、シャングリラにあったシミュレーター。あれを鮮やかに操ったろうが、障害物を避けてスピードを上げて。…しかも初めてだったくせに。
まあ、車ではなかったが…。
宇宙船な上に、シミュレーターで、実地だったわけではないんだが…。
車よりも宇宙船の方が遥かに操縦が難しいんだし、お前なら車の運転くらいは簡単なモンだ。
大船に乗った気持ちで行ってくるといい、きっと初日からスイスイ走れるだろうからな。
「…あれはサイオンだったんだよ…!」
前のぼくがシミュレーターを使ってた時は、サイオンの目で見ていたみたい…。
ぼくの身体もサイオンに合わせて動いていたから、凄い速さで動かせんだよ、シミュレーター。
サイオン抜きでやっていたらね、アッと言う間に警告音が鳴って、それでおしまい。
ハーレイにはとても敵わなくって、シャングリラ沈没って画面が出てたよ、絶対に…。
だから今だと絶対に無理、と打ち明けた。
サイオンの助けが無かった時には前のぼくでも無理なんだから、と。
「…前のぼくでもサイオン抜きだと、シャングリラどころかギブリも無理だよ…」
動かせやしないよ、どう頑張っても。
…運転免許の試験でサイオンはきっと禁止だろうから、前のぼくでも運転免許は取れなくて…。
今のぼくだともっと無理だよ、前のぼくより駄目で弱虫…。
前のぼくなら、取らなきゃ駄目だってことになったら、頑張ると思う。どんなに下手でも、車が運転出来るようになるまで、諦めないで挑戦して。
…でも、今のぼくは前のぼくほど強くないから…。きっと免許は取れないんだよ。
「ふむ…。おおよその事情は分かったが…」
お前には運転の才能が無くて、運転免許は取れそうにない、と。
それは分かったが、どうして元気が無くなるんだ?
運転免許が無くても問題無いだろうが。俺は免許を持ってるんだから。
キャプテン・ハーレイは無免許だったが、今の俺はきちんと持ってるってな。ただし、車の免許なんだが…。宇宙船にも、普通の船にも乗れない平凡なヤツなんだが。
それでも免許はちゃんとあるから、お前を車に乗せてやれるし、何の問題も無い筈だぞ。
お前は隣に乗ってりゃいいんだ、運転免許を持ってなくても。
「だけど、ドライブ…」
普段はそれでかまわなくても、ドライブに行く時に困るんだよ。
ぼくが免許を持っていないと、絶対に、いつか。
最初の間は、近い所へ行くんだろうから大丈夫だけど…。何度もドライブに行き始めたら。
遠い所まで行けないんだもの、と訴えた。
長距離ドライブは交代しながら走るものでしょ、と。
「ぼくの家では行かないけれども、ぼくの友達、家族で遠くまで車で行くから…」
そういう友達が何人もいるよ、誰の家でも交代で運転して行くんだよ。遠い所へ出掛ける時は。
お父さんとお母さんが交代しながら運転なんだよ、何処の家でも。
…だから、ハーレイと遠い所までドライブしようと思ったら…。
ぼくが交代出来ないと駄目で、運転免許を持っていないとハーレイと交代出来なくて…。
いろんな所へ行けなくなっちゃう、いつか行こうね、って約束した場所。
卵が美味しい牧場だとか、海に行こうとか、沢山、沢山、ハーレイと約束してたのに…。
どれも無理だよ、ぼくが免許を持っていないと。
それなのに免許は取れそうもなくて、ハーレイとドライブ出来ないんだよ…。
「なんだ、そんなことか」
それでションボリしてたってわけか、約束がパアになっちまう、と。
心配は要らん、俺を誰だと思ってるんだ?
最初からお前をアテにはしてない、運転を代わって欲しいと思ったこともない。
本当にただの一度もな。
俺が行こうと約束している場所へ出掛ける時には、俺が運転して行くんだ。
牧場も海も、俺が運転してってやるから、お前は隣に座っていろ。
遠すぎて疲れちまった時には、眠っていたってかまわない。着いたら俺が起こしてやるから。
安心して俺に任せておけ、とハーレイは微笑んでくれるけれども。
友達が何度も、「長距離ドライブの時は交代しながら走るんだぜ」と話していたから。
「それじゃハーレイ、疲れてしまうよ」
ずうっと一人で運転してたら、ハーレイがヘトヘトになっちゃうよ…?
そうならないように早めに交代しなくちゃ駄目だ、って友達はみんな言ってるよ…?
次は此処まで、って先に決めておいて、其処に着いたら交代なんだ、って。
「普通はそうかもしれないが…」
俺は違うな、普段からしっかり鍛えてあるし…。交代なんぞは要らないんだ、うん。
前の俺でもシャングリラの舵を握り続けて何時間でも立ちっ放しだ、と言ったハーレイ。
誰にも代わって貰わないで、と。
「任せられるヤツが無かった時には、そうだった。俺が一人でやっていたんだ」
此処は俺しか抜けられないな、と思った小惑星だらけの場所だとか…。
アルテメシアに着いた後にも、雲海の様子が怪しい時には俺だったろうが。
雲の流れがどうなりそうかが分からないのに、他のヤツらに任せられると思うのか?
ウッカリ雲から出ようものなら、シャングリラがいるとバレちまう。…運悪く監視衛星なんぞに捉えられたら、それで終わりだ。
ステルス・デバイスが常に完璧だとは限らないしな、そういう時に限って不具合が出るのが世の常だろうが。こんな筈ではなかったのに、では済まされない。
だから誰にも任せなかったな、俺が一人でやり続けた。…何時間でも、俺一人だけで。
「そういえば…。ハーレイ、何度もやってたっけね」
シャングリラを動かせる仲間は他にもいるのに、休みもしないで。
「代わりますから」って誰かが言っても、「私がやる」って舵を握ったままで…。
ホントのホントに立ちっ放しで、何時間でも一人で動かしていたんだっけね、シャングリラを。
「ほらな、経験だけはたっぷりあるんだ。前の俺の頃からの積み重ねがな」
今の俺だって、何時間でも運転出来るぞ。…もっとも、今の俺の場合は遊びだが。
何処まで休まずに運転出来るか、仲間と競っていたこともあるし、一人で挑んだこともある。
キャプテン・ハーレイ並みの記録も幾つもあるがだ、そこまでの無茶をしなくても…。
ドライブに行こうと言うんだったら、やっぱり休憩しないとな。
乗ってるお前も疲れちまうし、適当な所で一休みだ。
休憩場所なら、今の時代は何処でも山ほどあるだろうが。雲海や宇宙じゃないんだからな。
道端にもあるし、ちょっと外れた所にも。
車を停めて休むための場所には不自由しないぞ、シャングリラの頃とはまるで違って。
休憩しながら運転してゆくなら、シャングリラよりも遥かに楽だ、とハーレイは笑う。
車を停めたら飯も食えるし、コーヒーだって、と。
「シャングリラで舵を握ってた時は、不眠不休どころか食えなかったぞ、飯なんか」
舵を握りながら飯を食ったら、大変なことになっちまう。
ただでも少しの狂いってヤツが命取りなのに、片手で舵を握れるか?
しっかり両手で握らなくちゃいかん、飯も駄目だし、コーヒーも駄目だ。
誰かが口に入れてくれるというのも無理だぞ、そのタイミングで何かあったら終わりだからな。
「そうだっけね…」
ハーレイ、ホントに一人で舵を握ってて…。
食事もしないで、何時間でも立っていたっけ。…他の仲間じゃ駄目だ、って。
ハーレイが頑張ってくれていたから、シャングリラは無事でいられたんだよね、いつだって。
小惑星にぶつかりもしないで、雲海から出ちゃうことも無くって。
…思い出したよ、そういう時の前のハーレイを。
ちっとも疲れた顔はしないで、いつでも真っ直ぐ前を見ていて…。
「思い出したか?」
そいつが前の俺の場合で、文字通り船の仲間の命が懸かっていたわけで…。
あれに比べりゃ、今の時代は天国みたいなものだってな。何時間も一人で運転するのも、遊びで出来るという時代。誰の命も懸かっていないし、そりゃあ気楽なドライブだ。
そういうドライブで鍛えた俺がだ、お前を乗っけて長いドライブに出掛ける、と。
もちろん途中で休憩しながら、お前が行きたい所までな。
牧場でも海でも、何処へだって…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
そのために俺の車がある、と。
「安心しろ、俺が乗せてってやる。お前の居場所は俺の隣だ」
お前が免許を持っていなくても、俺と交代出来なくても。
交代して欲しいと思いもしないし、休憩するのもお前のためだな。俺だけだったら、何時間でも休まずに走ってゆけるんだから。
お前が疲れてしまわないよう、適当な所で休憩しよう。飯を食ったり、何か飲んだり。
間違えるなよ、俺が疲れたから休むんじゃない。お前とゆっくり過ごすために車を停めるんだ。走りっ放しじゃ、お前は絶対、疲れちまうに決まっているんだから。
俺が「寝てろ」と言っておいても、お前は起きていそうだからな。眠くなっても、目を擦って。
お前を休ませるために、お前の顔をじっくり見ながら話すために車を停めて休憩。
それが済んだら、また走るわけだ、長いドライブの続きをお前と一緒に。
いいか、俺はお前を乗せて走りたいんだ、今度こそ。
前のお前を地球まで連れて行ってやれなかった分、お前と二人の今だからこそ。
俺たちだけのためのシャングリラで、長距離ドライブといこうじゃないか。
お前は隣に乗っているだけで、俺と交代なんかはしないで。
だから運転免許は取らないでいてくれた方が俺は嬉しい、とハーレイが言ってくれたから。
「お前が欲しいと言うんでなければ、それは要らん」と笑顔を向けてくれたから。
心配は綺麗に消えてしまって、代わりに夢がまた一つ増えた。
(…長距離ドライブに行くなら、休憩…)
そのための場所には色々な食べ物があるらしいから、それを目当てのドライブもいい。
行き先は決まっているのだけれども、其処までのルートを色々選んで。
これを食べたいからこっちで行こうとか、これも食べたいから、帰りはこっちの道だとか。
きっと楽しいドライブになる。何処へ行くにも、其処から帰ってくる時の道も。
いつか大きく育った時には、ハーレイと二人で長いドライブに出掛けよう。
運転免許は持っていなくても、ハーレイの代わりにハンドルを握って走れなくても。
それは要らないと、頼もしい言葉を貰ったから。
遠い昔にシャングリラの舵を何時間も一人で握り続けた、ハーレイが運転してくれるから。
いつか二人でドライブに行こう、牧場へ、海へ、素敵な楽しい行き先に向けて。
ハーレイが運転してゆく車で、二人のためだけに走ってくれる車に変わったシャングリラで…。
車の免許・了
※前のブルーが素晴らしい腕前を発揮した、操船用のシミュレーター。実はサイオンのお蔭。
サイオンが不器用な今は車の免許も無理そうですけど、心配無用。運転手は、ハーレイ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ほう…?)
美味いんだよな、とハーレイが目を留めた、ソフトクリームと書かれた立て看板。
ブルーの家には寄れなかった日、いつもの食料品店で。
入口から近い特設コーナー、其処にソフトクリームの店が来ていた。しかも上質のバターで名を馳せる牧場の出店。ソフトクリームにもバターが入っているのが売りだという。
謳い文句にも惹かれるけれども、ソフトクリームというのがいい。頼りないほどに柔らかくて、滑らかな出来のアイスクリーム。さながら冷たいホイップクリーム、そういう食感。
(こいつは此処で食ってこそなんだ)
注文すればコーンの中に絞り出されて、「どうぞ」と手渡されるのがソフトクリーム。
サイオンを使って冷やしながら持ち帰ることは出来るけれども、普通はその場で食べるもの。
なにしろ、柔らかさが身上だから。絞り出して直ぐの、滑らかなクリームが美味しいのだから。
アイスクリームを買ったら付けて貰える、保冷バッグも存在しないのがソフトクリーム。
持ち帰り用の品などあるわけがなくて、買ったら直ぐに食べないと溶ける。
誰かのために持ち帰りたいなら、自分でサイオンを使うしかないソフトクリーム。買った店では何もサービスしてくれないから。「これをどうぞ」と保冷バッグは出て来ないから。
自分の家で食べたいと思っても、家までの道はサイオンで冷やしてやりながら。
(…そうやって持って帰るつもりでいたって…)
帰る途中で食っちまうんだ、と子供時代を思い出す。
まだ満足に使えなかったサイオン、それの訓練も兼ねてと高く志しても、誘惑に負けた帰り道。手に持ったソフトクリームが如何にも美味しそうだから、ついつい一口。
滑らかな味を舌が知ったら、もう止められないつまみ食い。
気付いた時にはソフトクリームは消えてしまって、胃袋の中に収まっているのが常だった。
なんと言っても、子供だから。我慢が出来ない食いしん坊。
子供時代に重ねた失敗、家まで持っては帰れなかったソフトクリーム。
(今日の俺でも無理だしなあ…)
駐車場に置いてある車。仕事の帰りにやって来たから、今日の自分は愛車連れ。
サイオンで冷やす技にも、自制心にも、充分に自信があるのだけれども、運転しながら持っては帰れない。ハンドルを片手で握れはしないし、ソフトクリームを置ける台も無いから。
(此処で食うかな)
食べたい気持ちになって来たから、一つ、と頼んだソフトクリーム。買い物を済ませて店を出る時、例のコーナーに立ち寄って。
牧場のロゴ入りの特製コーンに、たっぷりと絞り出されたクリーム。特製バターの風味を損ねてしまわないよう、一つだけしか無い種類。どれにしようかと悩む必要すらも無かった。
ほんのりとバターの色が見えるような、柔らかな白。たったそれだけ、何もつかない。
(こういうヤツも美味いんだ)
店の表で一口食べたら、期待通りの滑らかさ。コクのある甘みはバターが出しているのだろう。
優しい舌触りのソフトクリーム、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
(ガキの頃には、よく食べたよなあ…)
隣町の店でも買って食べたし、家族旅行に出掛けた先でも。
特産品の果物などを使ったソフトクリームは、色々な場所で売られているから。
美味しそうだと思った時には、冬の最中でも食べたりした。家に持っては帰れないから、其処でしか食べられないのだから。
仕事帰りの思わぬ立ち食い、いい年の大人が店の表でソフトクリーム。
けれども、御同輩が他にも数人、食べたくなってしまった人たち。年配の紳士や、家に帰ったら子供が待っていそうな女性の姿も。
(…後から買って帰るのかもなあ…)
自分の分を食べてしまったら、孫や子供のお土産に、と。サイオンで冷やして、上手に持って。
立ち食い仲間と目と目で笑って、美味しく食べたソフトクリーム。
得をした気分になった立ち食い、期待以上に美味だったから。
家に帰って夕食を食べて、コーヒーを淹れて向かった書斎。其処でも頭に浮かんだけれど。
(あれはブルーに持って行くには…)
向いていないな、と弾き出した答え。
いくら美味しくても、持ち帰り用に出来てはいない食べ物だから。
(夏にアイスを買ってやったが…)
ブルーの家へと歩く途中で、バッタリ出会ったアイスクリームの移動販売車。あれも牧場の名物だった。今日のソフトクリームとは別の牧場、そちらは牛乳で名高い牧場。
暑い日だったから、食べようかと思案していた所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で交わした約束、前のブルーと。
(今日はジョミーと食べてしまったから、明日、食べるよ、って…)
前の自分が青の間に持って出掛けたアイスクリーム。前のブルーはそう言った。明日食べるから仕舞っておいて、と。
(それで冷凍庫に入れて…)
次の日にブルーと一緒に食べる約束をした。明日の仕事が終わった後で、と。
(なのに、あいつは眠っちまって…)
十五年間も眠り続けて、アイスクリームを食べる約束は果たされなかった。ブルーの目覚めは、そのまま死へと繋がったから。
白いシャングリラを守るためにと、ブルーは逝ってしまったから。
アイスクリームの約束は思い出しさえもせずに、メギドへと飛んで行ったから。
シャングリラの思い出だったアイスクリーム。前のブルーと交わした約束。
「あの時の約束を果たして貰うぞ」と、買ってブルーに持って行ってやった。アイスクリームを一緒に食べると言っただろうが、と。
(ソフトクリームには、そういう思い出は無いからなあ…)
わざわざ買って行かなくても、と考える。
小さなブルーが欲しがるお土産、それには少々不向きなものだ、と。
(美味かったんだが、サイオンを使って運ぶトコまでは…)
してやらなくてもいいだろう。
夏ならともかく、今の季節には。それに特別な思い出も無いし、買わなくても、と。
(コーヒーなら、思い出もあるってもんだが…)
あいつは苦手な飲み物だがな、と傾けた愛用のマグカップ。絶妙な苦味が嬉しいコーヒー、今の時代はコーヒー豆も選び放題なのだけど。
白いシャングリラでは、そうではなかった。自給自足で生きてゆく船にコーヒーの木は無くて、最初の間は合成品。それが代用品のキャロブに変わって、チョコレートもキャロブで出来ていた。
あの船ならではの食べ物の思い出は多いのだけれど。
(ソフトクリームはなあ…)
特に何も、としか言えない。
空気を含んで滑らかに出来たアイスクリームが、ソフトクリーム。牧場に行けば名物でもある、牛乳が主な材料だから。
持ち帰れないのも人気が高い理由だろう。今日の自分が店の表で立ち食いしていたように。
(サイオンを使って冷やさない限りは…)
長時間はとても持ち運べない。
柔らかく出来たソフトクリームは、コーンに盛られたら溶け始めるから。
こんもりと高く絞り出されても、寿命が短いソフトクリーム。端から溶けて崩れ始めて。
季節によっては食べる間にも、トロリと垂れてしまうほど。
(シャングリラにも不向きだな…)
小さなブルーに持って行くにも不向きなんだが、と思った食べ物。
白いシャングリラでソフトクリームを作ったとしても、食堂でしか出せなかっただろう。直ぐに溶けるし、冷凍庫に入れるわけにもいかない。固くなってしまって駄目になるから。
休憩室でも飲めたコーヒーや紅茶、そんな風に置いてはおけない食べ物。ソフトクリーム専用の機械を休憩室には据えられない。
だから、シャングリラではアイスクリームくらいなもので…、と考えたけれど。
保冷バッグやケースで運べて、冷凍庫があれば何処の部屋でも保存が出来たアイスクリーム、と前の自分の遠い記憶を辿ったけれど。
(…待てよ?)
アイスクリームを手にして急いでいた記憶。
両手に持ったアイスクリーム。溶けてしまわないよう、サイオンでしっかり守りながら。
そうやって通路を急いだ記憶。白いシャングリラの長い通路を。
おかしい、と首を捻った遠い記憶のアイスクリーム。前の自分の急ぎ足。
溶けないように、と懸命だったことも微かに覚えているのだけれど。
(アイスクリームは…)
持ち運び用の保冷バッグもケースもあった。前のブルーと一緒に食べる約束を交わした時にも、保冷バッグに入れて運んだ。厨房で貰って、青の間まで。
白いシャングリラでは、アイスクリームは保冷バッグで運ぶもの。大量に運んでゆくのだったら専用ケースで、どちらも保冷効果は抜群。サイオンなどは使わなくても済むように。
「サイオンは日常生活で使うべきではない」と、ヒルマンもエラも言っていたから。
人間らしく生きるためには、必要最低限のサイオンに留めておくべきだ、と。
シャングリラはそういう船だったから、アイスクリームをサイオンで冷やすことなど言語道断。保冷バッグがあるだろうに、とヒルマンたちが眉を吊り上げただろう。
(…その筈なんだが、なんでまた…)
キャプテン自ら禁を破って、サイオンを使って運んでいたのか。保冷バッグを使わずに。
それとも、保冷バッグが役に立たない場所へ運んで行ったのだろうか?
区画によっては相当な暑さだった機関部、其処でゼルが仕事をしていただとか。
室温が四十度に届きそうな場所では、保冷バッグは役立たない。短時間なら持ち堪えても、長い時間は使えない。ゼルの仕事が一段落するまで、アイスクリームが持ったかどうか。
そういう事情があったとしたなら、保冷バッグを使わない可能性もある。どうせ役には立たない行き先、余計な荷物を持ってゆくより、アイスクリームだけでいいではないか、と。
(…しかし、ゼルなんかとアイスを食うか?)
ゼルとは長い付き合いなのだし、食べていないことも無いだろうけれど、仕事中の所へアイスを二つも運んでゆくとは思えない。サイオンを使って、溶けないように守ってまで。
(そのくらいだったら、凍った飲み物を届けるよなあ?)
アイスクリームを持ってゆくより、ボトルごと凍らせたコーヒーやジュース。
そっちの方が量も多いから喜ばれそうだし、高い室温でいい感じに溶けてゆきそうだから。
ゼルと並んで話をする間に、丁度いい具合に溶けてゆく中身。話の合間に傾けるのには、きっと似合いの量だったろう。「それでな…」と自分が一口飲んで、ゼルも「そうじゃな」と自分の分のボトルを一口。
機関部のゼルに差し入れに行くなら、そっちの方だと断言出来る。現に届けたような記憶も。
保冷バッグは使わなかったけれど、サイオンも使っていなかった機関部のゼルへの届け物。前の自分は届けてはいない、ゼルと二人で食べるためのアイスクリームなどは。
(なら、俺は何処へ…)
アイスクリームを運んでいたのだろう?
保冷バッグを使う代わりに、両手に一個ずつ持って守ったサイオン。溶けないように、と。
機関部の他にも高温の場所はあったけれども、何処へ向かって急いでいたのか。
(…ゼル以外の誰がいるというんだ?)
前の自分が差し入れに出掛けてゆきそうな仲間。高温の場所にいそうな仲間。
誰一人として思い当たらないから、遠い記憶を手繰ってみる。
手にしたアイスは何だったか、と。
何種類かあった、アイスクリームのフレーバー。それが手掛かりにならないだろうか、と。
好物だった仲間を思い出せたら、行き先も見当がつくだろうから。
そうしたら…。
(ソフトクリームか…!)
保冷バッグが無かったわけだ、と腑に落ちたサイオンを使った理由。
ソフトクリームを運んでゆくなら、今も昔も、保冷バッグを使えはしないのだから。
すっかり忘れていたのだけれども、白いシャングリラのソフトクリーム。
滑らかで柔らかいソフトクリームは、白い鯨でも作られていた。食堂に専用の機械を据えて。
(…最初は子供たちだったんだ…)
アルテメシアで保護したミュウの子供たち。その子供たちが、食べたいと恋しがったから。
養父母たちと食べたソフトクリームを、公園などで買って貰った思い出の味を。
白いシャングリラには、普通のアイスクリームしか無かったから。前の自分たちは、その味しか知らなかったから。
(人類の輸送船が運ぶ物資は、アイスクリームの方だしな?)
ソフトクリームをコンテナに詰めて運べはしないし、手に入ったものはアイスクリーム。甘くて冷たい冷凍の菓子はアイスクリームやシャーベットなどで、ソフトクリームは一度も無かった。
だからアイスクリームを作ってはいても、ソフトクリームは無かった船。
アイスクリームがあれば充分、それしか知らない人間ばかり。
ところが、新しく船にやった来た子供たちの方はそうではなかった。ソフトクリームの柔らかい舌触りを知っていた彼らは、あれが食べたいと何度も言った。
アイスクリームを口にする度に、ソフトクリームが食べたいと。
どうしてシャングリラでは出て来ないのかと、もう一度あれが食べたいのに、と。
ソフトクリームなど、初耳だったのが前の自分たち。幼い頃には食べたのだろうに、全く記憶に残ってはおらず、成人検査よりも後に食べてはいない。
けれど、子供たちが欲しがるからには美味しいのだろう。アイスクリームとは違うのだろう。
何度も繰り返された「ソフトクリームが食べたい」という声、子供好きだったゼルが最初に動き始めた。「この船でなんとか作れんのか」と、「機械が要るなら作るんじゃが」と。
そうなってくるとヒルマンの出番、データベースでの調べ物。
ソフトクリームの仕組みは直ぐに分かった、早速ゼルが取り掛かった。ソフトクリームが作れる機械の製作に。「こんな具合じゃな」と図面を書いて。
ソフトクリームにはセットのコーンも、焼くための機械をゼルが作った。厨房に置けるようにとコンパクトなものを。ソフトクリームの機械と並べても、場所を取らないものを。
(そいつを厨房に据え付けて…)
牛乳などの材料を入れて、出来上がりを待ったソフトクリーム。どんなものかと、どういう味がするのかと。
最初に作ったソフトクリームは試食用だったから、前のブルーと自分と、それから長老の四人で食べてみた。先に作っておいたコーンに、厨房のスタッフがクリームよろしく絞り出して。
(美味かったんだ、アレが…)
同じアイスクリームとは思えない味、舌触りが違うというだけで。滑らかなだけで。
子供たちが欲しがったのも頷ける、と誰もが思った。
シャングリラ生まれのソフトクリームは仲間たちにも好評を博し、子供たちはもちろん大喜び。
ただし、食べられる場所は食堂だけ。
保冷バッグは役に立たない上、サイオンを使って持ち運ぶことも好ましくないとされたから。
食べたい時には食堂へ出掛けて注文するもの、食堂で食べて帰るもの。
そのソフトクリームが、前のブルーも気に入りだった。空気を含んだ滑らかな味が。
アイスクリームとは違った味だ、と何度も食べに出掛けていた。
ソルジャーが食堂でソフトクリームを舐めているのは如何なものか、とエラが眉を顰めたから、コッソリと。目立たない陰の方に隠れて、それは美味しそうに。
そうかと思えば、瞬間移動で青の間に持って帰ったりもした。「食堂が駄目なら仕方ないよ」と屁理屈をこねて、サイオンで守って運ぶ以上に強いサイオンを使って運んで。
ソフトクリームが好きだったブルー。嬉しそうに舐めたソルジャー・ブルー。
(あいつ、熱を出して…)
寝込んでしまった時のこと。まだ恋人同士ではなかった頃。
見舞いに行ったら、冷たい物を食べたがったのだった。身体が熱いから、冷たい物を、と。
診察したノルディは、アイスクリームを食べてもいいと許可を出していたのだけれど。栄養価が高いから、身体を冷やさない程度に適量を、と言ったのだけれど。
(どうせなら、あいつが食堂でしか食べられないヤツ…)
青の間の冷凍庫では保存できないソフトクリームを、と食堂へ貰いに行ったのだった。冷凍庫に入っていたアイスクリームを食べさせるよりも、ブルーの好きなソフトクリームを、と。
厨房のスタッフに「一つ作ってくれ」と頼んで、急いだ通路。
ソフトクリームを一個だけ持って、溶けないようにとサイオンで包んで冷やしながら。
青の間に着いてもソフトクリームは無事だったから、「どうぞ」とブルーに差し出した。「一つ貰って来ましたから」と、「アイスクリームよりもお好きでしょう?」と。
ブルーはベッドに身体を起こして、美味しそうに舐めていたのだけれど。
「…君の分は?」
貰って来なかったのかい、と暫くしてから向けられた瞳。君の分は、と。
「いえ、私は…。冷たい物が欲しいと仰ったので…」
ソルジャーの分だけを貰って来ました、と答えたら、「ごめん…」と謝ったブルー。サイオンを使って運んでくれたのだろうに、ハーレイの分は無いだなんて、と。
「いえ、これもキャプテンの仕事の内ですから」と言っているのに、ブルーは申し訳なさそうな顔をしていたものだから。
これでは駄目だと、次からは自分の分も作って貰って運んだ。
「ついでに貰って来たんですよ」と、「私も食べたい気分なので」と。
熱を出したブルーが冷たい物を欲しがる度に、ソフトクリームを両手に持って。
時の彼方から戻った記憶。ソフトクリームを守って急いだ通路。
(そうか、ソフトクリームってヤツは…)
あの滑らかな冷たいクリームは、前のブルーが好んだもの。
ブルーのためにと、前の自分が運んでいたもの。保冷バッグは使えないから、サイオンで守って青の間まで。初めて届けた時は一つで、次からは両手に一つずつ持って。
(前の俺たちも食べていたんだ…)
ブルーの所へ届けた時には、二人一緒に。恋人同士ではなかった頃から。
そうと分かれば、ソフトクリームを買って行かねばならないだろう。今の小さなブルーにも。
自分一人で「美味い」と立ち食いするのではなくて。
(明日は土曜日と来たもんだ)
上手い具合に、ブルーの家を訪ねてゆく日。
特設コーナーのソフトクリームの店は、明日もやっている筈だから。二つ買って行こう、そして運ぼう。溶けないようにサイオンを使って冷やしながら。
遠い昔に、前の自分がシャングリラでそうしていたように。
右手と左手に一つずつ持って、長い通路を急いだように。
次の日の朝、目覚めても忘れていなかった記憶。前のブルーに届けていた物。
それを買わねば、と青空の下を歩いて出掛けて、入った昨日の食料品店。たまに持ち歩く小さなケースを脇に抱えて、「二つ下さい」とソフトクリームを注文した。特製バターが美味しいのを。
渡された二つのソフトクリーム、右手と左手に一つずつ。
溶けてしまわないようサイオンで包んで、颯爽と歩き始めた道。ブルーの家まで続いている道。
ソフトクリームを持って歩く途中も楽しかった。
前の自分が急いだ船の通路とは違って、様々な景色。生垣の木だけでも何種類もあるし、花壇の花はもっと沢山。
すれ違う人たちは揃いの制服を着てはいなくて、シャングリラにはいなかった犬や猫まで。
頭の上には天井の代わりに真っ青な空。雲海とは違った白い雲たち。
同じようにソフトクリームを持っていたって、まるで別物の自分の周り。こんな日が来るとは、夢にも思っていなかった。青の間へと急いでいた頃は。
そうして歩いて、生垣に囲まれたブルーの家に着いたら、左手でソフトクリームを二つ。器用に片手で二つ手にして、門扉の横のチャイムを右手で鳴らした。
左手に持ったソフトクリームを落とさないよう、サイオンで支えておきながら。
チャイムが鳴ったのを確認してから、両手に持ったソフトクリーム。右手と左手に一つずつ。
門扉を開けに出て来たブルーの母が目を丸くした。
「あら、ソフトクリームですの?」
近くで売っていましたかしら。…それとも、途中にお店でも?
「それが…。私の家の近くなんですよ。美味しい店が来ていましてね」
ついでに、これはシャングリラの思い出の味なんです。ブルー君にも食べて欲しくて…。
こうして此処まで持って来ました、と笑ってみせたら、荷物を持ってくれたブルーの母。「少し負担が減りますでしょう?」と、脇に抱えていた小さなケースを。
ソフトクリームを一つ持つから、と申し出ないのがブルーの母ならでは。
思い出の味だと口にしただけで、ソフトクリームを両手に持つべきなのだと気付いてくれる。
この家に何度も通う間に、分かって貰えた前の自分とブルーとのこと。
恋人同士だとは思っていないだろうけれど、思い出を共有している二人だ、と。
ソフトクリームを二つというなら、その片方を自分が預かって持ってはならないと。
そんなわけだから、二階のブルーの部屋に着いても、お茶とお菓子が出るまで、そのまま。
右手と左手にソフトクリーム、そういう姿勢で椅子に座って待っていた。ブルーの母がお菓子を置いて去ってゆくまで、お茶の支度が整うまで。
「ごゆっくりどうぞ」と部屋の扉が閉められてから…。
「ほら、土産だ」
好きな方を選べ、とブルーに差し出してやったソフトクリーム。味はどっちも同じだが、と。
ブルーは二つを見比べてから、「こっち」とヒョイと片方を取った。多分、気分で選んだ方を。
どちらも似たような形なのだし、溶けても崩れてもいないのだから。
「珍しいね、ハーレイがサイオンまで使ってお土産だなんて…」
ソフトクリームを持って帰るの、今のぼくだと絶対に無理。
だって溶けちゃう、ぼくのサイオンだと、冷やしておくなんてことは出来ないんだもの。
「そうだろうな、今のお前ではな」
お前、こういうのを覚えていないか?
「こういうのって…。何を?」
「前のお前だ、ソフトクリームだ」
好きだったんだがな、ソフトクリーム。…こいつほど美味くはなかったが…。
今日の土産のソフトクリームは、バターで有名な牧場のヤツで、昨日食ったら美味かったぞ。
バターが入っているんだそうだ。そのせいだろうな、コクがあるんだ、普通のよりも。
前のお前が好きだったヤツも、俺がこうして何度も運んだ、と上げてみせた両手。
左手はもう空だけれども、「両方の手に一つずつだった」と。
「溶ける前に食べろよ」と自分の分のソフトクリームをペロリと舐めたら。
「そうだ、ハーレイが運んでくれてた…」
前のぼくが熱を出しちゃった時に、ソフトクリーム…。
今日みたいにサイオンで冷やしながら持って来てくれたよね、青の間まで。
ぼくの分と、ハーレイの分と、いつでも二つ。「ついでですから」って。
「お前、冷たい物を欲しがったからな」
ノルディの許可が出ていた時には持ってったもんだ、ソフトクリームを。
アイスクリームよりも喜びそうだから、厨房で作って貰ってな。
「…前のハーレイが病気のぼくにくれていた物…」
野菜スープだけじゃなかったんだね、ソフトクリームまで貰ってたよ、ぼく…。
「ソフトクリーム、俺は作っちゃいないがな」
作っていたのは厨房のヤツらで、俺は運んだだけなんだが。
「でも、ハーレイがいてくれないと届かないよ?」
どんなに待っても、ソフトクリームは届けて貰えなかったと思う…。
保冷バッグでは運べなかったし、アイスクリームは青の間に置いてあったんだから。
ノルディが「食べていいですよ」って言ってたアイスは、冷凍庫のアイス。
ぼくが食堂まで食べに行けない時には、あれしか食べられなかったんだよ、アイスクリーム。
ハーレイが届けてくれなかったら、ホントにアレだけ…。
他の仲間は普通のアイスしか運んで来てくれなかったから、と微笑んだブルー。
ハーレイだけがソフトクリームをぼくに届けてくれたんだよ、と。
「…他のみんなは、冷凍庫にアイスが入っていればいいと思っていたから…」
減った分だけ補充すればいいんだ、って保冷バッグで運んで来ていただけだったから。
…ハーレイが運んでくれなかったら、ソフトクリームは食べられなかったと思う。
誰も訊いてはくれなかったもの、「ソフトクリームを持って来ましょうか?」って。
ハーレイ、ぼくが頼んでもいないのに、ちゃんと届けに来てくれたよ。
…まだ恋人じゃなかったのに。
仲のいい友達だった頃の話なのに…。
「俺がソフトクリームを持って行こうと考え付いた理由ってヤツは…」
キャプテンだったから…ってことはないよな、俺の仕事の内だとは思っていたんだが…。
前のお前の友達だったからだよな?
「うん。…ぼくのことを考えてくれていたからだよ」
ただの友達じゃなくて、ハーレイの一番古い友達。
いつもハーレイ、そう言ってたものね、アルタミラを脱出して直ぐの頃から。
「俺の一番古い友達だ」って、船のみんなに。
そんなハーレイだから、ソフトクリームを思い付いてくれたんだよ。
前のぼくがソフトクリームを食べにコッソリ出掛けてたことも、青の間に持って帰ってたことも知っていたでしょ、ハーレイは?
他のみんなも知っていたけど、届けることまで思い付いてはくれなくて…。
ホントにハーレイだけだったんだよ、前のぼくにソフトクリームを運んで来てくれたのは。
熱い野菜スープと、冷たいソフトクリームと、どっちもハーレイ、とブルーは嬉しそうで。
ハーレイがぼくにくれていた物、とソフトクリームを口に運んだ。思い出した、と。
「そいつは良かった。持って来た甲斐があったってもんだ」
美味いだろ、このソフトクリーム。…俺は昨日に店の表で立ち食いしてたんだがな。
「…そうなの?」
家まで持って帰らなかったの、でなきゃ食べながら歩くとか…。
お店の表で立ち食いするのと、歩きながら食べるのは違うよね…?
「もちろん、今の俺なら家まで楽々と持って帰れるんだが…」
此処まで運べたくらいなんだし、家までなんかは大した距離ではないんだが…。
歩きながら食うのも悪くはないがだ、生憎と俺には車があってな。
「車?」
「俺の車だ、仕事の帰りに店に寄ったから、俺は車を連れていたんだ」
駐車場に停めてあったからなあ、そいつを置いては帰れんだろうが。
ハンドルを握りながら、ソフトクリームをサイオンで冷やしておくのは無理だし…。
置いておくための台でもあったら出来たんだろうが、ソフトクリームに台は無いしな。
持ち帰り用の保冷バッグも付かないだろうが、ソフトクリームには。
前の俺たちが生きてた時代も、今の時代も、ソフトクリームは買ったその場で食うのが基本だ。
でなきゃ、食べながら歩いてゆくか…。
車連れでは歩いて帰れやしないからなあ、店の表で食ってたわけだ。
俺の御同輩が何人かいたぞ、立ち食いしていたお仲間ってヤツが。
美味しく食べてだ、家に帰っても「美味かったな」と覚えていたから、思い出しちまった。
シャングリラにもソフトクリームがあったってことと、俺が運んでいたことを。
…もっとも、今の俺の場合は、サイオンで冷やして運ぶ途中に誘惑に負けて食っちまったが。
ガキの頃だな、家まで持って帰ろうと思って歩き始めるんだが、家に着く頃には手が空っぽだ。
「ふふっ、なんだか見えるみたいだよ」
家に着くまで待てないハーレイ。…だけど、今のハーレイだって運んでくれたよ。
ぼくの家まで、ちゃんと食べずに。それも二つも持っていたのに。
今のハーレイだって運べたじゃない、とブルーが言うから、「年を考えろよ?」と苦笑した。
「ウッカリ食ってたガキの頃とは違うんだから」と。
二人で食べているソフトクリームは、サイオンの守りを失って柔らかく溶けてゆくけれど。
トロリと垂れそうになるのだけれども、それを上手に舌で掬うのもまた楽しい。
前のブルーとも、そうやって食べた。青の間まで運んで行った時には。
「ハーレイ、ソフトクリーム、また食べたいね」
今日のは凄く美味しいけれども、これじゃなくてもかまわないから。
またハーレイと一緒に食べてみたいよ、前のぼくたちが食べてた頃みたいに。
「…お前の気持ちは分からないでもないんだが…」
両手に持って此処まで来るのは目立つんだよなあ、俺はデカイし。
昨日の立ち食い仲間だったら、お孫さんとか、子供に買って帰るんだな、と微笑ましいが…。
俺がやってりゃ、微笑ましいよりも先に人目を引きそうだ。
今日だって多分、見られていたんだと思うぞ。
似合わないことをやっているなと、何処まで持って帰るんだか、と。
…俺は気付いちゃいなかったが…。
シャングリラの通路を急いでた頃とは随分違うと、地球なんだな、と景色を満喫してたんだが。
しかし、二度目は出来れば勘弁願いたい、と肩を竦めた。
今日は夢中で持って来たから平気だったけれど、次からは人目が気になりそうだ、と。
「よっぽど美味い店のが来たとか、そういう時には頑張って持ってくるのもいいが…」
そうでなければ勘弁してくれ、今頃になって恥ずかしくなって来たからな。
…その代わり、いつか二人で食べに行こうじゃないか。
お前が俺の車でドライブに行けるようになったら、美味いソフトクリームを食べに牧場へ。
ソフトクリームは牧場の名物だからな、新鮮な牛乳が材料なんだし。
「うんっ、行こうね!」
ハーレイの車で食べに行こうね、ソフトクリーム。
シャングリラの頃と違って、地球の牛乳で出来ているから、ずっと美味しいに決まってるもの。
ハーレイが運んでくれてたソフトクリームも美味しかったけど、あれよりも、ずっと。
今日のも凄く美味しいものね。
「ふうむ…。二度目は勘弁願いたいとは言ったが、だ…」
俺と一緒に暮らし始めてから、お前が病気になっちまったら。
何処かで買って運ぶとするかな、アイスの許可が出ているようなら、ソフトクリームを。
「それも嬉しい…!」
またハーレイが運んで来てくれるんだね、ソフトクリームを。
今度は地球のソフトクリームを、ぼくが寝ているベッドまで。
もちろん、ハーレイの分もあるよね、今日みたいに。…前のぼくたちが食べてた時みたいに。
「そりゃまあ、なあ…?」
当然だろう、とブルーに向かって瞑った片目。
サイオンで冷やしながらソフトクリームを運ぶとなったら、二人分だ、と。
「ハーレイの分は?」とブルーが申し訳なさそうな顔にならないように。
大きな身体で両手に持って歩いていたなら、目立ったとしても。
(…なんたって、ブルーのためなんだしな?)
前の自分が持って急いだソフトクリーム。
サイオンで冷やして、両手に持って、長い通路を青の間まで。
その思い出のソフトクリームを、今のブルーと何度も食べよう。
二人で来られた青い地球の上で、新鮮な地球の牛乳で作られた滑らかなソフトクリームを…。
ソフトクリーム・了
※シャングリラでも作られていたソフトクリーム。前のブルーの好物だったのです。
それを青の間まで届けたハーレイ。サイオンで冷やして、二人分のをしっかりと持って…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
ハーレイにちょっと似合うかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間。
料理で名を馳せる人の特集、写真の中には様々な分野の料理人たち。トップシェフやら、和風の料理人のトップを指す花板、他にも色々。
どの料理のプロも身に着けている白い制服、それから帽子。料理によって違う制服、同じ白でも違ったデザイン。帽子の方も。
(…前のぼくの頃だと、シェフの制服しか…)
無かったのだろう、他の料理は無かったのだから。中華料理も、和風の料理も。
それはともかく、料理人たちが纏った制服と帽子。料理が得意なハーレイにも似合いそうな服。トップシェフの高く聳える帽子はもちろん、花板や寿司職人の服もいいかもしれない。
(どれも似合うよね?)
そういった服で厨房に立っていたならば。カウンターの向こうで料理をしていたならば。
きっと似合う、と想像してみて「うん」と大きく頷いた。ハーレイならとても良く似合う、と。料理人が着ている服もそうだし、キビキビと料理をしている姿も。寿司を握ったり、フライパンでステーキをフランベしていたり。
(…ホントはハーレイ、柔道と水泳なんだけど…)
プロの選手にならないか、とスカウトが幾つも来ていたと聞く。柔道の選手に水泳の選手。
だからハーレイが何かのプロになっていたなら、スポーツ選手の方だろう。柔道の道か、水泳の方か。料理のプロの方へは行かない。
ついでにハーレイが選んだ仕事は古典の教師で、教師のプロというのは聞かない。教師になった時点で既にプロとも言えるのが教師、制服のある職業でもない。
(だけど、料理の方に行っても…)
身を立てられたかもしれない、今のハーレイ。料理が得意で、大抵の料理は作れるらしいから。店で出された美味しい料理も、自分で再現するらしいから。レシピが無くても、舌と勘だけで。
もっとも、ハーレイ自身に料理人という選択肢は無かっただろうけど。
プロのスポーツ選手になるのか、教師にするかの二つだけしか考えなかっただろうけど。
料理の道でも充分に成功していただろうに、料理人の制服も似合いそうなのに。トップシェフの帽子も、寿司職人が被る帽子も、ハーレイならきっと似合うだろうに。
そちらに行こうともしなかったハーレイ、料理人になりたかったと聞いたことは一度も無い。
前のハーレイは元は厨房出身、異色のキャプテンだったのに。料理人とはまるで違った宇宙船のプロに転身した経歴の持ち主なのに。
(もし、前のハーレイの記憶があったら…)
ほんの微かにでも残っていたなら、今のハーレイは料理人の道を選んだだろうか?
スポーツ選手や教師にはならずに、プロの料理人。何の料理かは分からないけれど、名を上げて新聞に載せて貰えるような。
(ハーレイなら出来たと思うんだけど…)
トップシェフや花板への出世。何処かの店に修行に入って、アッと言う間に腕を磨いて、お店のトップに立つということ。独立して自分の店を持つことも夢ではなさそうな料理の腕前。
(今のハーレイも凄いけれども、前のハーレイも凄かったしね?)
偏った食材しか無いような時も、せっせと工夫を重ねていた。船の仲間たちが飽きないようにと味を変えたり、調理方法を研究してみたり。
何度も試作をしていたハーレイ、もし厨房にハーレイの姿が無かったならば、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄を無事に乗り切れたかどうか。
(…おんなじ料理が続いちゃったら、みんなが限界…)
他に食材が無いということが分かっていたって、噴き出していたろう不満や愚痴。小さな不満が溜まっていったら、些細なことで喧嘩も起こっていたかもしれない。心に余裕が無いのだから。
それでは船はとても持たない、ただでも外へは出られない船。頭を冷やしに行く場所でさえも、船の中にしか無い状態。そこでも出会い頭に喧嘩で、船の空気は殺気立つばかり。
けれども、そうはならずに済んだ。ハーレイが料理をしてくれたから。
ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も乗り越えていった前のハーレイ。フライパン一つでとは流石に言えないけれども、鍋もオーブンも使っていたのだけれど。
(いつも工夫をしてくれてたよ…)
同じ料理ばかりを出しはしなくて、食材は同じでも味や見た目が変わった料理。それが出るから誰も文句を言わなかったし、ハーレイも「今はこれしか無いんだからな!」とキッパリ言えた。
俺は充分に工夫をしたから、何も文句は言わせないぞ、と。文句があるなら自分で作れと、俺の代わりに厨房に立てと。
(あれを言われたら、誰も文句は言えないよ…)
シャングリラの胃袋を預かる厨房、其処に入って皆の料理を作れるだけの腕を持っていたなら、とうに厨房にいるだろうから。他の仕事をするのではなくて、厨房で料理。
(前のハーレイはプロだったしね?)
シャングリラという船の料理のプロ。誰もが認めた最高の腕の料理人。ジャガイモ地獄も軽々と越えて船を進めた、内輪揉めの危機をフライパンを使って回避して。
(あの時のハーレイ、キャプテンみたいなものだったかも…)
船にキャプテンはまだいなかったけれど、シャングリラを救ったのだから。料理が原因で起こる諍い、それを未然に防いだのだから。
料理をしていたハーレイ自身も、気付いてはいなかっただろうけど。
自分の料理の腕前一つで、船を守ったという自覚すら無かっただろうけれども。
とはいえ、ハーレイは船を守った。ブリッジではなくて厨房に立って、舵の代わりに油を引いたフライパンをしっかり握り締めて。
キャプテンと並んで天職とも言えた、前のハーレイの料理の腕。シャングリラのプロの料理人。あのまま厨房に残っていたなら、オリジナルのレシピを幾つも編み出したことだろう。
(凄く美味しいのとか、お洒落なのとか…)
シャングリラ中の話題を掻っ攫いそうな、素晴らしい料理。白い鯨になった後なら、きっと色々生まれていた。前のハーレイの腕があったら、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄を越えて進んだ腕の持ち主がいたならば。
(ホントに料理のプロだったんだよ)
キャプテンなんかになっちゃったけど、と少し惜しんだ料理人としてのハーレイの腕。あのまま厨房に立っていたなら、どんな料理が出来ただろうかと。
白いシャングリラに似合いの料理や、仲間たちの胃袋を引っ掴む料理。
ハーレイだったらきっと出来た、と懐かしんでいてハタと気が付いたこと。
(…なんでハーレイだったわけ?)
シャングリラのプロの料理人。当たり前のように思っていたのだけれども、そのハーレイ。
どうしてハーレイが厨房で料理をしていたのかが問題だった。
前のハーレイの居場所は確かに厨房だったのだけれど、何故、厨房にいたのかが。
(最初に非常食を食べた時には…)
ノータッチだったと記憶している。アルタミラからの脱出直後に初めて食べた食事の時。
封を切るだけで料理が温まったり、パンがふんわりと膨らんだり。そういった非常食が配られ、前の自分はハーレイの隣で食べていた。あの船で一番最初の食事を。
食事をする前はハーレイと二人きりでいたわけなのだし、ハーレイは食事を配ってはいない。
(…ぼくがポロポロ泣いちゃってたから…)
ハーレイに「今の間に泣いておけ」と抱き締めて貰って、誰もいない部屋に二人きり。ようやく涙が止まった所で、ハーレイと食事に行ったのだから。
(…ハーレイは食事の係じゃなかった…)
少なくとも、脱出直後の船の中では。皆に食事を配らなくては、と考えた仲間たちの中には、前のハーレイはいなかった。
(多分、食事係はあのまま…)
非常食を配った者たちがやっていたのだろう。最初に食料を探しに出掛けた仲間たち。その中にハーレイは入っていなくて、厨房を使い始めた時にも頭数に含まれていなかった筈。
なのに、いつの間にやらハーレイは厨房に立っていたわけで…。
(…何があったのかな?)
遠い記憶を手繰ったけれども思い出せない、ハーレイが厨房にいた理由。厨房を居場所に選んだ切っ掛け、それが何かが出て来ない。
前のハーレイは厨房で料理をするようになって、気付けば自分用のエプロンまでも持っていた。物資の中から見付けたのだろう、大きな身体に見合ったサイズのエプロンまでも。
(制服とか帽子は無かったけれど…)
ハーレイ専用のエプロンはあった。替えの分もきっとあったのだろう。きっと毎日、仕事の後にきちんと洗って、自分で管理をしていたものが。
なんとも気になる、前のハーレイが厨房に入った理由。最初から食事を配っていたなら、不思議でも何でもないのだけれど。
(…とにかく何か食べる物を、って動いたんなら分かるんだけど…)
そうでもないのに、ハーレイは厨房の仕事を始めていた。責任者になって料理をしていた。
(…制服と帽子の代わりにエプロン…)
シャングリラの料理のプロなんだけど、と新聞記事の料理人特集を睨み付けても答えは出ない。料理の世界がまるで違うから、参考にすらなってくれない記事。
船の中だけが全ての世界で限られた食材で料理をするのと、沢山の食文化が復活を遂げた平和な時代に料理をするのは違うから。
(…制服だけでも今は色々…)
前の自分が生きた時代にありはしなかった板前や寿司職人の制服、シェフのそれとは似ていない帽子。今の自分なら、一目見ただけで料理人の帽子だと分かるけれども。
(前のぼくだと、分からないよね?)
料理人だとは思わないだろう、制服姿の花板や寿司職人たち。
何の参考にもなりはしない、と新聞記事を閉じてテーブルに置いた。これじゃ駄目だ、と。
おやつを食べ終えて、二階の自分の部屋に帰って。勉強机の前に座った、さっきの続き、と。
遠く遥かな前の自分の記憶を辿って旅をしてゆく。白い鯨になるよりも前のシャングリラ。
(…どうしてハーレイがお料理だったの?)
向いていそうな仕事は他に幾つもあっただろうに。大きな身体をしていたのだから、それと力を生かせる仕事。機関部の仕事も務まったろうし、備品倉庫の管理人だって。
(倉庫の管理も、ハーレイだしね?)
厨房と兼任でやっていた。「見当たらないものがあるならハーレイに訊け」と言われたほどに、有能だった管理人。その職だけでも充分だったろうに、どうしたわけだか厨房まで。
(…ホントにちっとも思い出せない…)
ハーレイが厨房に入った理由か、もしくは動機。
謎だ、と頬杖をついて考え込んでいたら、チャイムの音。窓に駆け寄れば、手を振るハーレイ。仕事の帰りに寄ってくれたから、チャンス到来と訊くことにした。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
まずは今のハーレイの方から訊こう、と目の前の恋人にぶつけた質問。
「ハーレイ、シェフになりたかった?」
「はあ?」
シェフって…。なんだ、お前は何を訊きたいんだ?
「シェフでなくても、板前さんとか、寿司職人とか…」
似合いそうだけど、お料理する人の制服とか帽子。ハーレイだったらきっと似合うよ。シェフもいいけど、板前さんも。お寿司屋さんだって。
「おいおい、制服が似合いそうだ、って…。そういう理由でシェフとかなのか?」
「違うよ、それもあるけれど…。ハーレイはお料理が得意だから」
大抵のお料理は作れるんでしょ、だからシェフとか板前さんになりたかったのかなあ、って。
「料理は確かに好きなんだが…。生憎と俺には柔道と水泳があってだな…」
同じ専門の道を目指すなら、料理よりも断然、そっちの方だ。プロの選手になるって夢だな。
「…先生は?」
先生になったのもハーレイの趣味なの、お料理するより先生の方が良かったわけ?
「教師って仕事を考えてみろ。俺はお前の学校で柔道部の顧問をしているんだぞ」
今までに行ってた学校でもだ、柔道部か水泳部の顧問をしていた。趣味の柔道も水泳も活かせる職業だろうが、教師ってヤツは。
ところが料理じゃそうはいかない、柔道も水泳も全く出番が無いんだから。
そんな仕事を俺が選ぶわけがないだろう。プロ級の腕を役立てる場所が無いんじゃな。
「そっか…。シェフは柔道、やらないもんね…」
水泳だってしないね、板前さんとかお寿司屋さんも。
仕事が無い日に趣味でやるのは出来そうだけど…。お店じゃ何も出来ないものね。
柔道や水泳の腕を活かせないから、と今のハーレイは選ばなかった料理人の道。やはり選択肢に入ってさえもいなかった。料理人になるという道は。
「だったら、前のハーレイは?」
料理人になりたいと思っていたのか、違うのか、どっち?
「何の話だ? 前の俺が何になりたかったか、覚えていたとでも思うのか?」
成人検査よりも前の記憶は無かったんだぞ、前の俺には。
何になりたいと思っていたのか、そいつをしっかり覚えていたなら奇跡だろうと思うがな?
「そこまで前の話じゃなくて…。前のぼくと出会った時よりも後」
前のハーレイ、どうして厨房にいたんだろう、って気になっちゃって…。
今日の新聞に料理人特集が載っていたから、それを見てたら前のハーレイのことも…。
初めの間は、今のハーレイなら料理人になれそうなのに、って思ってたんだよ。
前のハーレイの記憶があったら、お料理の道に行ってたかもね、って。
そしたら、前のハーレイを思い出しちゃって…。だけど、厨房にいた理由が謎。ひょっとして、お料理、したかったわけ?
料理人になろう、って自分で決めたの、それとも誰かに決められちゃった…?
「ああ、あれなあ…。前の俺が厨房を選んだ理由か」
実は俺にも謎なんだよなあ、それも今の俺じゃなくて前の俺だった頃からの謎だ。
何故かは知らんが、放っておけなかったと言うか…。
俺よりも先に厨房で料理をしていたヤツらは、何人もいたわけなんだがな。
お前も覚えているだろう、とハーレイが挙げた仲間たちの名前。厨房の熟練として記憶しているけれども、彼らの方がハーレイよりも先に厨房にいたという。あの船の料理人として。
まだシャングリラの名前も無かった頃の船。一番最初の食事も彼らが探して配った。
「そんなヤツらが揃ってたんだし、俺が後から入らなくても人手は足りていたんだが…」
いつだったか、厨房を覗いてみたら悪戦苦闘していてな。確かシチューを作ってたんだか…。
野菜を切ろうとしていたわけだが、どうにも手元が危なっかしい。素人の俺が見ててもな。
もうちょっと上手くやれるんじゃないかと思って、ついつい厨房に入って行って…。
「…それで?」
「貸してみろ、って誰と代わったんだっけな、そこまでは俺も覚えていないな」
とにかく代わって、やってみたら身体が勝手に動いた。
どういった風に切ればいいんだ、と確認しただけで、そうかと勝手に手が動き出して。
「勝手にって…。ハーレイ、何も考えていなかったのに?」
切りたい形を教わっただけで、その形に綺麗に切れちゃったわけ?
「うむ。…代わろうと言った俺が自分で驚くほどにな」
野菜を切ってた記憶なんぞは全く無いのに、それはトントンとリズミカルに切れてしまうんだ。次に切るのはどれなんだ、って切りながら訊いて、そいつも俺の手が勝手に切った。
どうやら、成人検査を受けるよりも前の子供時代に俺は料理をしていたらしい。なにしろ野菜を切り終わったら、そのまま料理を始めちまったし…。俺も一緒に作るから、と。
成人検査で記憶はすっかり消されちまったが、身体は覚えていたわけだ。包丁の持ち方も、使い方も。料理を作るための手順も、何もかもを。
俺の身体が覚えていたんだ、とハーレイが語った厨房に入った切っ掛けなるもの。元から厨房にいた仲間たちよりも、ずっと上だった前のハーレイの料理の腕前。
此処に決めた、と思ったという。自分が仕事をすべき所は厨房だろうと、料理をするのが向いているから、と。
「それじゃ、前のハーレイはシェフになりたかったとか?」
シャングリラでシェフになるんじゃなくって、成人検査をパスしていたら。
大人になったらやりたかった仕事、シェフだったのかもしれないよ…?
「そいつは俺も考えないではなかったが…。あくまで可能性の一つに過ぎん」
記憶を失くしてしまったんだし、永遠の謎というヤツだ。
シェフを目指していたわけじゃなくて、料理が得意な母親の手伝いをしている間に覚えたという線もある。料理自慢の母親だったら、横で見ていて、やりたくなるってこともあるだろう?
子供は好奇心が旺盛なんだし、うんと小さい頃から一緒に料理を作っていたとか。
「前のハーレイのお父さんは?」
シェフだったっていうことはないわけ、ハーレイにお料理を教えるような。
「テラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータじゃ、料理関係の仕事じゃなかったぞ」
ごくごく普通の勤め人だな、ジョミーの父親と似たようなモンだ。
写真を見たって、料理人の服は着ていなかったし。
「じゃあ、前のハーレイにお料理を教えていたのは、やっぱりお母さん?」
お父さんの仕事がお料理じゃないなら、お母さんの方ってことになるよね、教えた人は。
「そこも謎だな、俺が覚えていない以上は」
料理好きの父親だったという可能性も全くゼロではないだろうが。
休みの日に腕を奮っていたんだったら、子供は興味を持つもんだ。自分もやってみたい、とな。
両親揃って料理上手だったかもしれないわけだし、覚えていないのが残念だった。
俺の身体は自然に動いて料理をするのに、誰に教わったか、どうしても思い出せないんだから。
データにも残っていなかった、とハーレイが浮かべた苦笑い。誰に料理を習ったのか、と。
「シャングリラで厨房を選んだくらいに、前の俺は料理することを覚えていたんだが…」
身体が勝手に動くトコまで覚えていたって、肝心の記憶が無いんじゃなあ…。
「前のハーレイの記憶だったんだ…。お料理」
厨房にしよう、って決めたくらいに、ハーレイ、お料理してたんだ…。成人検査を受ける前は。
お母さんかお父さんが前のハーレイに教えてたんだね、お料理のやり方。
「どうだかなあ…。好きでやってただけかもしれんが」
教えられなくても、自分で勝手に本でも見ながら作っていたってオチかもしれん。
分からない言葉が出て来た時だけ、どうすりゃいいのか母親に訊いて。
「子供向けの料理教室は?」
そういうのがあるでしょ、本物のシェフとかが教えてくれる料理教室。
お料理が好きなら、子供向けのに通っていたかもしれないよ?
「子供のための料理教室か…。今の時代は特に珍しくもないんだが…」
色々な料理を習えるようだが、前の俺たちが生きてた時代にあったかどうかが謎だってな。
育英都市って所は健全な精神を持った子供を育てるための場所でだ、将来のことは二の次だ。
自分が就きたい職業を選べた時代でもないし、何になるかは機械が決めていたろうが。
下手に子供向けの料理教室を作ったりしたら、悪影響を及ぼしかねん。熱心に通って、いつかは本物のシェフになるんだと決めていた子に適性ってヤツが無ければどうなる?
記憶をすっかり消すしかないんだ、マザー・システムに不満を持たれないようにするにはな。
成人検査で余計な手間がかかるってことだ、普通以上に。
そして綺麗に消したつもりが、何かのはずみで蘇ってみろ。人生が狂ってしまうんだから。
子供向けの料理教室は多分無かっただろう、というのがハーレイの読み。
SD体制が敷かれていた時代は、エキスパートを育てる場所は教育ステーションだったから。
「…まさか、料理人になるための教育ステーションも…」
何処かにあったの、シェフを育てる専門の教育ステーションが…?
「あったようだぞ。前の俺は直接見てはいないが…」
地球に向かって進む途中に、そういう教育ステーションが近いと聞いた記憶があるからな。
メンバーズ・エリートや軍人を育てるステーションだったら、陥落させてから進むわけだが…。
料理人用のステーションには用が無いから、そのまま通過した筈だ。トォニィたちだけが出て、教育システムのコンピューターを破壊しておいて。
「…それなら、前のハーレイが成人検査をパスしていたら…」
料理人になりたかったかどうかはともかく、選ばれちゃってた可能性はあるんだね?
身体がお料理を覚えていたっていうほどなんだし、素質は充分ありそうだもの。
「そういうコースに行ってたかもなあ…」
シャングリラの厨房で料理をする代わりに、何処かの星でプロの料理人ってな。
「知らなかったよ、そんな話は」
前のハーレイがプロの料理人になっていたかも、って話なんかは。
「…前の俺も考えてはいなかったしなあ、そういう「もしも」は」
考えたって仕方ないだろ、自分が進み損ねちまった未来の話なんかをな。
成人検査に落っこちちまって、ミュウになっちまって、もう進みようが無いんだから。
人類の世界に残れていたら、って夢は見るだけ無駄ってもんだ。
料理上手だった前のハーレイの厨房時代は、料理と備品倉庫の管理が仕事。
その後はキャプテンとしてシャングリラの舵を握っていたから、失くしてしまった未来の夢より現実の方が大切だった、とハーレイは言った。
もしも自分が成人検査をパスしていたら、という夢物語をしてはいない、と。
「そういうもんだろ、戻れない過去より未来をしっかり見詰めないとな」
でないと道を誤っちまうぞ、キャプテンが過去に囚われていたら。夢を見るより現実と未来。
そいつを睨んで進んでゆくのがキャプテンってヤツで、料理をしていた頃ならともかく…。
待てよ?
…前のお前と話してたかもな、前の俺が進んでいたかもしれない未来の話。
「ぼく?」
前のぼくとそういう話をしたわけ、前のハーレイはお料理のプロだったかも、って…?
「そうだ、キャプテンになるよりも前の俺がな」
厨房で料理をしていた合間に、お前と話していたんだった。
俺は料理の試作をしていて、お前がヒョッコリ覗きに来て…。確か、こう言ったんだっけな。
「ハーレイだったら、料理のプロになれていたかも」と。
「そういえば…!」
思い出したよ、その話。
ハーレイが何を作っていたかは忘れたけれども、野菜を刻むトコから見てて…。
鮮やかだったハーレイの料理の手際。野菜を刻むのも、それを料理に仕上げてゆくのも。
いつ見ても本当に上手だよね、と感心していたら口をついて自然に出ていた言葉。
ハーレイならプロになれていたかも、と。何処かの星で料理のプロに、と。
「俺が料理人になっていたらだ、お前が食べに来るんだっていう話だったぞ」
ある日、フラリと店に入って来て、俺が作る料理を気に入っちまって。
「うん、美味しいに決まっているもの」
シャングリラで作っていたお料理が美味しいんだから、何処かでお店をやってても同じ。
ハーレイとぼくが成人検査をパスしていたなら、ハーレイのお店で出会うんだよ。
ぼくはハーレイのお料理が食べたくてお店に通うようになって、ハーレイに顔を覚えて貰って。
お店に行ったら、注文する前にお勧めの料理をハーレイが教えてくれるんだよ。
メニューには無いお料理なんかも、その日の気分で作ってくれて。
「俺が厨房でやっていたことを、そっくりそのまま店に移せばそうなるんだが…」
実に愉快な話なんだが、前の俺とお前が成人検査をパスしてた場合。
お前の方がずうっと年上なんだよな…。
それにミュウとは違うわけだし、すっかり老けて年相応の姿ってヤツで。
「そこが問題だったんだよね…」
話が合っても、友達になれても、ぼくはハーレイより年寄りなんだし…。
他のお客さんの目もあったりするから、丁寧な言葉で喋るしかないしね、ハーレイは…。
老紳士になっていただろう自分と、まだまだ若いハーレイと。
料理人と客として出会っていたって、いくら親しくなれたとしたって、店の中では互いの立場を優先するしかない二人。店の外でも、老紳士と若者に変わりはないから、若いハーレイは老紳士に敬意を表するのが礼儀。丁寧な言葉遣いで話して、態度もグッと控えめに。
それでは少しも楽しくないから、まるで広がらなかった夢。
こうだったなら、と二人で思い描いたけれども、弾まないままで終わった話。
もしも成人検査をパスして、何処かで出会っていたならば。
料理人になったハーレイの店に、前の自分がフラリと入っていたならば…。
遠く遥かな時の彼方で、ほんのひと時、語り合った「もしも」。
たった一度だけハーレイと話した、成人検査をパスした自分たちの出会いと、その後の話。
ハーレイが料理をしている店に何度も出掛けて、顔馴染みになって、仲良くなって…。
「…そうか、今だったら叶ったんだな、あの夢も」
前の俺たちが話してた時は、お前が年寄りになっちまうってことで叶えたくない夢だったが…。
今なら、お前が立派にチビだ。
年寄りじゃないし、あの話をしていた頃のお前と変わらない姿のチビってわけだ。正真正銘。
「ホントだね…!」
チビのぼくなら、あの話だって実現してたら楽しそう。
ハーレイが何処かでお料理のお店をやってて、ぼくがお客さんでお店に行って。
何処で会えたかな、隣町かな?
それとも、やっぱりこの町なのかな、ハーレイのお店が何処かにあって。
「この町じゃないかという気はするが…。そこまでは愉快な話なんだが…」
俺がやってる料理の店にだ、食べに来たお前に聖痕が出るというわけか?
他のお客もいそうなんだが、チビのお前が血まみれなんだな…?
「…凄く人騒がせな話かも…」
教室でやっても大騒ぎになってしまったけれども、お店の方だともっと迷惑そうだよね?
食事の途中だった人たち、とってもビックリしちゃいそう…。
ハーレイだって、お店、その日は閉めるしかないよね、血だらけの床のお掃除とかで。
…一緒に救急車に乗ってくれる代わりに、お客さんにお金を返したり…。食事の続きは出来なくなってしまうんだろうし、その分のお金。
ぼくが運ばれて行く救急車に乗るのは、ぼくをお店に連れてったパパやママたちで…。
ハーレイは暫く、ぼくの住所も名前も分からないままになっちゃうかもね…。
パパとママが「ご迷惑をかけてすみませんでした」って謝りに行くまで、誰だったのかは謎。
ぼくが帰って来たんだってことは分かるだろうけど、今の名前も住所も謎で。
せっかく再会出来たというのに、まるで違った出会いになってしまいそうな話。
料理人になったハーレイの店は迷惑を蒙り、戻って来たチビの恋人の名前も分からないまま。
今の自分の両親が店まで詫びに出掛けてゆくまで、きっとハーレイは店の掃除をしながら心配し続けるのだろう。救急車で運ばれて行った恋人はどうなったのかと、大怪我をして入院したかと。
けれど、そういう出会いも悪くはなかっただろうか?
最初はハーレイに酷い迷惑をかけるけれども、それから後は店に行ったら会えるのだから。
「お前なあ…。俺が料理人になってた時はだ、教師のようにはいかんぞ、おい」
夏休みなんていう長い休暇は取れやしないし、普段も夜まで店で料理をする日々だ。お前の家に夕食を食べに出掛ける代わりに、お客さんのために料理をするのが仕事だろうが。
週末はもちろん書き入れ時だし、お前の家まで遊びには行けん。朝なら時間がありそうでもだ、料理人だと朝早くから仕入れに出掛けて、店を開けるまでは料理の仕込みだってな。
…お前とゆっくり過ごせる時間はまず無いだろうさ。
店に来てくれれば御馳走はするが、二人きりとはいかんだろうなあ…。他のお客もいるからな。
「そうなんだ…。ハーレイがお料理のお店をやっていた時は、そうなっちゃうんだ?」
二人きりで会えるチャンスは殆ど無くって、ぼくがお店に食べに行くだけ…。
ハーレイ、先生で良かったんだね。お料理のプロになるんじゃなくて。
「そうなるな」
俺たちにとってはピッタリの職を選んだってわけだ、今の俺はな。
チビのお前に会いに行けてだ、一緒に飯まで食えるんだから。
もっとも、俺は料理人になる気は無かったけどな、とハーレイは肩を竦めてみせた。
前の自分は厨房の仕事を選んだけれども、今の自分が料理人になれるコースは無さそうだ、と。
「なんと言っても、柔道と水泳があったからなあ、今の俺には」
料理人になろうって発想自体が最初から無いな、プロになるなら柔道か水泳の選手ってトコだ。
しかし、今度はお前専属の料理人だぞ、結婚したら。
色々と作って食わせてやるから、と言ってるだろうが、何度もな。
「うん、楽しみにしてるけど…」
今のハーレイには、お料理のプロっていう選択肢は全く無かったんだね?
シェフの帽子も、板前さんの帽子も、ハーレイに似合いそうなのに…。
白い制服も絶対に似合うと思うんだけれど、着るつもりなんか無かったんだ…?
「当たり前だろうが、いくら料理が好きだと言っても、それ以上に好きなものがあるんだから」
好きな柔道と水泳を犠牲にしてまで、料理の道を極めようとは思わんな。
料理をするのは確かに好きだし、食べて美味いと思った料理を再現するのも楽しいが…。
お前専属の料理人になれれば充分だな、うん。
料理の道なら、お前専属のシェフだの板前だのでいいんだ、今の俺にはそれが似合いだ。
料理学校には行き損ねたが、と笑うハーレイは、今度も料理人のコースを進めなかったらしい。
前のハーレイが料理人を育てる教育ステーションには行けずに終わってしまったように。
ただし、今度は自分の意志で。
成人検査にパス出来なかった前のハーレイとは違った理由で。
「…俺が思うに、今の俺が教師をやっていられるのも、だ…」
機械が進路を決めていない分、自由が利いたというヤツだろうな。
前の俺のように機械が間に入っていたなら、俺は今頃、柔道か水泳の選手の道をまっしぐらだ。
「…それを言うなら、前のハーレイも水泳をやっていたよね?」
シャングリラのプールで泳いでいたもの、前のハーレイも水泳の選手だったかも…。
成人検査にパスしていたなら、水泳選手になってたのかも。
「どうだかなあ…。あの時代に水泳のプロになるのは厳しそうだぞ、適性ってヤツで」
速く泳げるかどうかも調べるだろうが、長く続けられるタイプかどうかも調べるだろう。他にも色々、機械ならではの適性検査をするんだろうさ。才能だけでは選手まではなあ…。
そっちの教育ステーションよりかは、料理人の行くステーションに送られるコースじゃないか?
記憶をすっかり失くしていたって身体が勝手に動いたくらいに、料理人に向いていたんだから。
どうなってたかはマザー・システムに訊いてみないと分からないがな、と苦笑いするハーレイと今度は話が広がるから。
もしも前のハーレイが料理人の道を進んでいたなら、どんな料理人になっただろうか、と二人であれこれ想像しながら楽しく笑い合えるから。
平和な今の時代が嬉しい、「もしもこういう風だったら」と空想の翼を広げられる世界。
前の自分たちが生きた時代の「もしも」で話を続けられる世界に来たのだから。
料理人が行く教育ステーションに前のハーレイが進んでいたら、と。
遠く遥かな時の彼方で話した時には、広がらずにそれっきりだった話。
それを二人で広げられるから、老紳士だっただろう前の自分も話の種に出来るから。
こうして笑って、笑い転げて、いつかは今のハーレイが料理人になる。
今は小さなチビの自分が前と同じに育ったら。
いつかハーレイと結婚したなら、今の自分の専属になって、きっと最高の料理人に…。
最高の料理人・了
※前のハーレイが厨房に入った理由は、実は料理が上手かったから。理由の方は謎ですけど。
そして今のハーレイも得意な料理。プロではなくて、ブルー専属の料理人になるのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えっ?)
なに、とブルーを仰天させた煙。いきなりブワッと上がった白煙、それもハーレイの授業中に。煙はたちまち教室に広がり、何が起こったか分からないのだけれど。
「こらあっ、誰だ!」
教室の前で怒鳴ったハーレイ、その姿も霞みそうな勢いでモクモク立ち昇る煙。
「ハーレイ先生、お誕生日おめでとうございます!」
叫んだクラスのムードメーカーの男子、煙は彼の机の上からシュウシュウ噴き出していた。丸いボールのような球体、それが吐き出す物凄い煙。
けれど火災を知らせるベルも鳴らなければ、スプリンクラーも作動していないから。あの煙には火は無関係なのに違いない。咳き込む生徒も一人もいないし…。
「おめでとうございます、って…。お前なあ…」
いつと間違えているんだ、おい、とハーレイの顔に呆れた表情。煙の向こうで。
「間違えてません! 八月の二十八日です!」
実は最近知ったんです、と答えた男子。夏休み中なので何もお祝いが出来ませんでした、と。
「…それでスモークボールなのか?」
景気よく煙を吐いているが、と睨むハーレイ。そういう名前が付いているらしい、煙のボール。名前そのままに煙を吐き出すスモークボール。
「はい、クラッカーよりもいいと思いました!」
クラッカーだと一瞬ですけど、スモークボールだと暫く煙が出ますから!
うんと賑やかな感じがしますし、こっちの方が断然いいです!
お誕生日おめでとうございます、と繰り返した男子。悪びれもせずに。
「学校で花火は禁止だが?」
グラウンドはもちろん、教室でやるなど論外だ。夏休み中にグラウンドで遊ぶ場合も、前もって許可を取っていないと駄目なんだが?
「これ、火を点けない方のタイプですけど」
ピンを引き抜くだけのヤツです、スモークボールっていう名前ですけど花火じゃないです!
「オモチャも禁止だ!」
学校にオモチャを持ってくるな、と校則で決まっているだろうが!
鞄に入っているだけだったら何も言わんが、それを使って遊んだ場合は即、没収だ!
「でもですね…。これはお祝いに買ったわけですし…」
せっかく用意したんですから、と新しく出て来たスモークボール。男子がボールのピンを引っこ抜いたら、真っ青な煙がブワッと出て来た。さっきのボールが出した煙が収まりかけていた所へ、追加で青い煙がモクモク。
今度は正体が分かっているから教室中がドッと笑って、拍手している生徒も何人も。
「ハーレイ先生、お誕生日おめでとうございます!」と叫ぶ生徒も。
教室の中は煙で一杯、男子は更にスモークボールを取り出した。ピンッと抜かれたピンの後には煙を吐き出す丸い球体。青い煙の次は黄色で、混ざり合った辺りは緑色の煙。
シュウシュウと煙を吐いているボール、初めて目にしたスモークボール。
(なんだか凄い…)
あんなオモチャが存在するのか、とポカンと眺めるだけだった。ぼくは知らない、と。
ハーレイは煙が立ち昇る生徒の席まで出掛けて叱っていたけれど。スモークボールを取り上げた上に、「他のも出せ」と残りも没収したのだけれど。
スモークボールを幾つも抱えて教室の前に戻ると、中の一つを持ち上げてみせて。
「俺の誕生日祝いはともかく…。叱られるオチは同じなんだから、頭を使え」
どうせやるなら煙幕ごっこだ、それなら逃げられただろうが。
おめでとうございます、と叫んでおいてだ、教室の外に向かって走れば良かったんだ。馬鹿が。
(煙幕ごっこ?)
何だろう、と首を傾げた煙幕ごっこ。まるで初耳、聞いたこともない言葉。
けれど、答えは直ぐに出た。「知らんのか、お前は煙幕ごっこを?」と、ハーレイが男子生徒をジロリと睨んで、それからクラスの皆に説明したものだから。
煙幕ごっこは、煙で姿をくらまして逃げる遊びのこと。スモークボールで上がった煙に紛れて、自分の姿を隠してしまう。上手くいったら、瞬間移動をしたかのように逃げられるらしい。
「こいつを使えば、瞬間移動が出来た気分になるってことだな」
タイプ・ブルーはあまりいないが、他のサイオン・タイプでも出来る瞬間移動だ。
ただし、逃げ足が遅いと話にならない。…直ぐに見付かっちまうからな。
煙幕ごっこにも才能ってヤツが必要なんだ、とハーレイはさっきの生徒をもう一度叱った。次にやる時は逃げ道の方も確保しておけと、そこまでやったら認めてやろう、と。
「だがな、もちろん叱るからな?」
俺が認めるのと、学校の規則は別物だ。二度とやらないのが一番だな、うん。
授業に戻る、とハーレイが広げた古典の教科書。今日は雑談の時間は無いだろう。煙幕ごっこの話で充分、スモークボールの騒ぎでクラス中の目が覚めたから。
(煙幕ごっこ…)
それも知らない、と首を捻るしかなかった遊び。スモークボールを知らない以上は、知っている筈も無いのだけれど。煙幕ごっこはスモークボールを使うのだから。
(ぼくの友達、やってないしね…)
煙幕ごっこも、スモークボールも、遊んでいるのを見たことが無い。
ごくごく普通の花火だったら、何度か一緒に遊んだけれど。夜になってから誰かの家や、近くの公園に集まって。
(ぼくの家でも、何回か…)
芝生が焦げてしまうから、と派手な花火は出来なかったけれど、色々なのを。芝生ではない庭の家とか、公園だったら、もっと色々。
花火と言ったら、噴き出す火花を楽しむものだと思い込んでいた。綺麗な色やら、弾ける火花。煙はオマケでついてくるもので、多すぎた時は…。
(花火が綺麗に見えなくなるから…)
ちょっと休憩、と煙が流れて消えてしまうまで待っていたもの。次の花火に火を点けるのを。
なのに、煙で遊ぶ花火があるらしい。火を点けないでいいタイプのものまであるくらい。
自分は今日まで知らなかったけども、様々な色の煙が噴き出すスモークボール。
凄かったな、と家に帰っても思い出さずにいられない煙。おやつを食べて部屋に戻ってからも。
教室にモクモク広がった煙、真っ白な煙に、青に黄色に。
(ハーレイ、没収してたけど…)
禁止のオモチャを持ち込んだ方が悪いのだから、当然の結末というものだろう。愉快な光景ではあったけれども、規則は規則。ハーレイも教師をやっている以上、学校の規則は厳守するもの。
(煙幕ごっこで逃げちゃっていたら、認めて貰えるらしいけど…)
あくまでハーレイ個人が認めるというだけ、スモークボールはやっぱり没収。クラス中の生徒を楽しませたって、ハーレイが「やるな」と笑っていたって。
つらつらとスモークボールのことを考えていたら、ハーレイが仕事帰りに来てくれたから。母がお茶とお菓子を置いて行った後で、あの男子よろしく元気な声で。
「ハーレイ、お誕生日おめでとう!」
ぼくはお祝い、ちゃんとしたけど、教室で言い損なったから…。おめでとう、ハーレイ!
「お前も煙を出そうと言うのか、スモークボールで?」
あいつの一味か、教室で派手にやろうって度胸が無かっただけで?
「…ううん、スモークボールは持っていないよ」
楽しそうだな、とは思ったけれど…。
あんなオモチャがあるなんてことも知らなかったよ、スモークボール。
花火なんだよね、本当は?
ハーレイ、花火は禁止だって最初に言ってたもんね…?
煙を楽しむ花火自体を見たことが無い、と正直に言った。花火に煙は邪魔なものだから、一面に煙が立ち込めて来たら暫くお休み、と。
「だって、花火が綺麗に見えなくなっちゃうんだもの…。煙が凄いと」
風で消えるまで花火は中止で、煙が消えたらまた遊ぶんだよ。
「スモークボールを知らなかったのか…。そいつはいかんな」
やってる子供は少ないかもしれんが、あれで遊ぶのを知らんというのは損をしているぞ。
「なんで?」
ただの煙だよ、色がついててビックリしたけど…。煙より花火の方がいいでしょ、普通の花火。
「分かっていないな、授業の時にも言っただろうが。煙幕ごっこにしておけ、と」
活動的な遊びなんだぞ、煙幕ごっこというヤツは。
瞬間移動の真似もいいんだが、忍者だ、忍者。煙幕は元々、忍者が使っていたんだから。
「なに、それ…?」
ニンジャってなあに、ぼくはニンジャも知らないんだけど…?
キョトンとしてしまった、ニンジャなるもの。今日は知らないことばかり。スモークボールに、煙幕ごっこ。その上、煙幕はニンジャが使っていたものだなんて。
知識が足りなさすぎるだろうか、と思ったけれども、ハーレイ曰く、ニンジャは学校の授業では出て来ないらしい。歴史の授業でも、古典の方でも。
「昔の日本で、重要な任務を担っていたのが忍者なんだが…。忍者は表舞台には決して出ない」
別名が「忍び」と言うくらいだしな、分かりやすく言うならスパイってトコか。
しかし、忍者はスパイとは違う。諜報活動も暗殺もすれば、偉い人のボディーガードもやった。様々な活躍をしていたわけだが、表に出たなら、もう忍者とは言えないからなあ…。
忍者を束ねたヤツくらいしか、歴史に名前は残っていない。
…後はアレだな、俳句の松尾芭蕉がいるだろ。本当は忍者だったという説があるな、あちこちに出掛けて俳句を詠んだり、教えたり…。それを隠れ蓑にして情報を集めていたってヤツが。
その程度しか分からないのが忍者で、お蔭で色々な伝説が出来た。他の動物に変身出来るとか、分身の術が使えるだとか。
「えーっと…。それって、サイオニック・ドリームじゃないの?」
忍者っていうのはミュウだったんじゃないの、サイオンを使えば全部出来そうなんだけど…?
「生憎と、ただの昔話だ。そんな昔にミュウの集団がいたわけがない」
人間の空想の産物ってことだ、変身するのも、分身の術も。
まさか未来に本当に出来る時代が来るとは、誰も思っていなかったろうさ。
だからこそ夢が広がったんだろうな、忍者を英雄扱いにして。
本物の忍者は松尾芭蕉がそうだったように、地味なもの。自分が忍者だと名乗ることはなくて、任務についても語りはしない。表舞台にも出て来ない。
けれど伝説の忍者の方なら、それは華々しい活躍が語り継がれたという。戦争となったら忍者の出番で、真田十勇士と呼ばれた十人の英雄、その中にも忍者が入っているほどに。
「本来の忍者の姿からすれば、歴史に名前が残るなんぞは有り得ない話なんだがな…」
なのに、実在の人物なのかと勘違いしそうな伝説の忍者もいるってこった。
そんな具合だから、忍者のファンも生まれるわけで…。俺の友達にも好きだったヤツがいたってことでだ、俺も忍者に詳しくなった、と。
…もっとも、ガキだった頃は本当に凄い忍者がいたんだと頭から信じていたんだがな。
信じていたから、忍者の真似だ。スモークボールで煙幕を張って。
「それ、上手くいった?」
忍者みたいに姿を消せたの、煙なんかで?
「風向きとかにもよったんだが…。そいつも煙幕ごっこの重要なポイントだったな」
最初に風の向きを調べて、逃げる方向を考えて…。
それからスモークボールの出番だ、火を点けるにしても、ピンを抜くにしても。
煙がブワッと上がった途端に逃げるわけだが、風向きを読み間違えていたら丸見えだろうが。
風向きは急に変わりもするしな、なかなか忍者のようにはいかんさ、ドロンと姿を消すなんて。
けっこう難しいものなんだ、とハーレイが語る煙幕ごっこ。遠い昔の忍者の真似事。
本物の忍者は表舞台に出て来なかったのに、何故だか伝説になっている忍者。それの真似をして姿を消そうと奮闘していたらしいのだけれど。
「…そうそう上手くはいかなかったし、だから教室でも言ったんだ」
煙に紛れて逃げるトコまでやって見せたら、俺は認めてやってもいいと。学校の規則で駄目だと決まってはいるが、俺個人としては認めてやるとな。
…しかし、お前と話していたら気が付いた。
今にして思えば、うんと平和な遊びってヤツだな、煙幕ごっこ。…今ならではの。
「え?」
どういう意味なの、スモークボールは初めて見たけど平和だったよ?
火事だっていうベルも鳴らなかったし、スプリンクラーも動かなかったし…。
花火の方のスモークボールを使っていたなら、ベルが鳴ったのかもしれないけれど…。
「その辺はあいつも分かってたんだろ、下の学校の子供じゃないんだから」
どういう仕組みで火事を知らせるベルが鳴るのか、その程度のことは。
知っていたから、火を使わないスモークボールで祝ってくれたというわけだ。俺の誕生日を。
…そこで重要なのが俺ってトコだな、煙幕ごっこで遊んで育ったガキだったんだが…。
今日も教室でスモークボールで誕生日を祝って貰ったわけだが、スモークボールが吐く煙。
そいつをよくよく考えてみると、平和なんだという気がしてきた。
煙だぞ、煙。
前の俺たちにとっては煙と言ったら、それは物騒なものだったのにな…。
シャングリラではタバコの煙も嫌がられたぞ、と言われてみれば鮮明に蘇って来た記憶。
一時期、シャングリラでタバコが流行った。前の自分が奪った物資に混ざっていたのが原因で。
けれども、無くなってしまったタバコ。理由は色々あったのだけれど…。
「そうだったっけね…。煙が駄目だ、って言われて姿を消しちゃったね、タバコ」
他の理由は反対しようもあったけれども、煙だけは誰も文句を言えなかったから…。
いくらタバコが気に入ってたって、吸わない人から「アルタミラみたいだ」って言われたら…。
「まったくだ。アルタミラが滅ぼされた時の煙を思い出しちまうから、と来たもんだ」
あの時に見た炎と煙は忘れられんし、心に傷が残ったヤツらも多かった。
タバコの煙はどう考えてもこじつけだろうと思うわけだが、それでもなあ…。同じ煙というのは確かなんだし、言い返すことは誰にも出来ん。
タバコの煙でもあの有様なんだし、スモークボールの煙となったらどうなるか…。
それを思うと、本当に平和になったんだな、と今の時代に感謝したくなる。
アルタミラでお前と一緒に煙と炎の中を走って、やっとの思いで逃げ出したのに…。
今の俺ときたら、スモークボールで煙幕ごっこをしてたんだ。わざわざ自分で煙を出して。
教室で食らったスモークボールも叱ってはいたが、楽しんでいたな。
あそこにいたのが前の俺なら、楽しむどころじゃなかったんだが。
前の俺にはアルタミラの後にも嫌な煙の思い出が多い、とハーレイが眉間に寄せた皺。
お前はまるで知らないだろうが、と。
「…あれは俺しか経験してない。…シャングリラのヤツらはともかくとして」
前のお前は見てはいないな、俺が見て来た嫌な煙は。…アルタミラの地獄よりも後の時代には、一つだけしか。…アルテメシアを追われた時の。
「…見ていないって…。いつ?」
死んじゃった後なら、もちろん見てはいないけど…。
見ようと思っても見られないけど、ハーレイ、煙をいつ見ていたの…?
「前のお前が生きてた間だ。一番最初はジョミーを助けに浮上した時だな」
お前はジョミーを追い掛けて行って、もうシャングリラにはいなかったが…。
グズグズしてたら、人類軍はジョミーとお前を攻撃する方へ行っちまう。そうなるとマズイし、ヤツらの目を他へと逸らすためには、シャングリラを出すしかないだろうが。
雲海の上へと出たまではいいが、予想した以上の攻撃だった。…初の戦闘だし、パニックになる者が多くて、防御セクションのサイオン・シールドが追い付かなくて…。
お蔭で派手に爆撃されちまったんだ、本来だったら防げただろう分までな。
…ブリッジで見てても煙だらけになっちまったわけだ、シャングリラは。
あの時が最初で、あれから後にも色々あったな、前のお前が生きてた間に。
俺は散々に嫌な煙を見ていたってことだ、シャングリラで。
心の傷が多いんだな、と溜息をつくハーレイだけれど。
アルタミラの他にも嫌な煙を山のように見た、と呻くけれども、その唇に微かな笑み。苦笑いと言えばいいのだろうか、そういった笑み。
「…ハーレイ、嫌な煙を一杯見たって言うけれど…。でも、少しだけ笑っていない?」
楽しそうっていうほどじゃないけど、ほんの少し。ちょっぴり笑っているみたいだけど…。
「…まあな。笑っているのは今の俺だな、煙を嫌だと思っているのが前の俺の方で」
俺にしてみれば、煙はオモチャだったんだ。…前の俺の記憶が戻るまでは。
おまけに記憶が戻っていたって、やっぱり今の俺ってヤツがだ、先に立つんだと思ってな…。
教室で煙が上がった時にも、前の俺は反応しなかった。
スモークボールの悪戯なんだ、と直ぐに気付いて叱ってたわけで、前の俺とは全く違う。
前の俺だったら、あそこで楽しむことなど出来ん。そんな余裕は何処にも無かった。
遊びの煙なんぞは知らんし、何が起こったかと原因を掴むトコからだ。…キャプテンとして対処するべきことが山ほどあるしな、シャングリラで煙が出たとなったら。
そうやって生きて死んでいった俺が、煙で遊べる時代が今だ。ガキの頃からスモークボール。
煙幕ごっこで遊んで育って、今日は誕生日まで煙で祝って貰ったってな。
考えてみれば愉快だろうが、とハーレイはすっかり笑顔になった。いい時代だ、と。
「嫌な思い出が沢山あった煙で色々遊んでるんだぞ、今の俺はな」
ガキの頃もそうだし、今日だってそうだ。今の俺には煙はオモチャで、嫌な思い出なんか無い。
本当に平和な時代ってヤツだ、煙で遊んでいられるんだから。
「そうなのかも…。ぼくもアルタミラの煙なんかは忘れていたから」
煙が出た、ってビックリしたけど、ちっとも怖くなかったし…。何かしなくちゃ、と立ち上がりさえもしなかったし。
…前のぼくなら、あそこで直ぐに飛び出さないと駄目なのにね。煙なら緊急事態だもの。
だけどポカンと見てたのがぼくで、ホントになんにも考えてなくて…。
「そうだろう? すっかり安心し切っているって証拠だ、今のお前というヤツが」
怖いことなど起きやしないと、今の世界は安全なんだと。
あれがスモークボールの煙ではなくて火事だったとしても、それを知らせるベルが鳴り響いて、消火用のスプリンクラーが動く。避難の指示を出す俺だっているし、何の心配も無いってな。
今のお前はそれをきちんと知っているから、ポカンと座っていられたわけだ。…前のお前なら、何が起きたのかと、原因を調べにサッと動いていたんだろうが…。
「うん、多分…。でもね、今のぼくは煙は怖くないけど…」
煙と友達ってほどでもないかな、スモークボールを知らなかったし。
忍者の話も、煙幕ごっこもまるで知らなくて、やってる友達もいなかったから…。
ハーレイほどには煙と親しくないのかも、と少し羨ましい気持ちになった。アルタミラのような煙は二度と御免だけれども、シャングリラの煙も御免だけれど。
そういう嫌な煙に幾つも出会って、乗り越えたのが前のハーレイ。どんな時にも冷静に生きて、キャプテンとして煙に対処しながら。
そうやって煙と戦い続けて、その分、今は煙と親しくなったのだろうか。
アルタミラと、アルテメシアを追われた時しか嫌な煙を見ないで生きた自分と、嫌な煙を幾つも見ていたハーレイとの違いが出たのだろうか?
スモークボールで遊んで育つか、知らないままで育って来たか。
ちょっと残念、と零れた溜息。嫌な煙に出会った記憶は沢山欲しくないけれど、煙で遊べる今の時代を自分は満喫していないらしい、と。
そうしたら…。
「ふうむ…。お前、煙で遊んでみたいというわけか」
顔に書いてあるぞ、羨ましいと。…俺ばっかりが遊んでいたのが、羨ましくてたまらないとな。
だったら、今度の土曜日に試してみるか?
「試すって…。何を?」
何を試すの、土曜日に…?
「スモークボールに決まってるだろう」
お前に才能があるかどうかは知らんが、煙幕ごっこを教えてやろう。
本当だったら、タイプ・ブルーに煙幕なんぞは要らないんだが…。瞬間移動で消えるんだが。
お前の場合は不器用だしなあ、煙幕でも無きゃ、姿は絶対、消せやしないし…。頑張るんだな。
火を点けるタイプのヤツじゃなくって、ピンを抜く方のを買って来てやろう。
今日、教室で煙を噴いてたヤツだな、アレなら火傷の心配も要らん。
「ホント?」
教えてくれるの、煙幕ごっこを?
「もちろんだ。知らないようでは損をしている、と言った責任も俺にはあるし…」
楽しみにしていろ、今度の土曜日。スモークボールを持って来てやるから。
教室で起こった悪戯のお蔭で、思わぬ遊びを教わることに決まった土曜日。ハーレイから習えるスモークボールの煙幕ごっこ。
(ぼく、出来るかな…?)
スモークボールを持ち込んだ生徒が煙幕ごっこで逃げおおせていたら、認めてやると言っていたハーレイ。それにハーレイは「難しいぞ」とも話していた。風向きを読んで方向を決めて、上手く逃げないと煙幕には隠れられないと。
(丸見えになっちゃいそうなんだけど…)
あまり無さそうな煙幕ごっことやらの才能。サイオンの方も不器用だけれど、運動もまるで駄目だから。足は遅いし、反射神経は無いに等しいし、煙に隠れて逃げるなどは…。
(…絶対、無理…)
瞬間移動と同じくらいに、今の自分には無理だろう。どう考えても、きっと出来ない。
(…きっとハーレイに笑われるんだよ…)
才能の無さを、可笑しそうに。「お前、煙幕でも姿を消すのは無理なんだな」と。
それでも、今のハーレイが仲良くしている煙を使って遊んでみたい。今は煙で遊ぶことが出来る平和な時代で、教室で突然モクモクと煙が上がるのだから。スモークボールが吐き出す煙が。
首を長くして待った土曜日、ハーレイは「約束通りに買って来たぞ」とスモークボールを持って訪ねて来てくれた。「いい天気だから丁度いいな」と。
部屋で紅茶を一杯飲んで、ケーキを食べたら「行くとするか」と立ち上がったハーレイ。
「庭に出ないと煙幕ごっこは出来ないからな」
なにしろ全力で走って逃げる遊びだからなあ、此処でやったら足音がドタバタ響いちまう。下にいるお父さんとお母さんとに迷惑だろうが、お前はともかく、俺は体重が重いんだから。
行くぞ、と庭に出たハーレイの手にスモークボール。
どうするのかとワクワクしながら眺めていたら、突然、ハーレイが引っこ抜いたピン。ブワッと真っ白な煙が噴き出し、アッと思ったら、もうハーレイはいなかった。
(ハーレイ、何処…?)
ドロンと消えてしまったハーレイ。瞬間移動をしたかのように。
さっきまでハーレイが立っていた場所、其処の芝生にコロンと転がったスモークボール。シュウシュウと煙を上げているけれど、ハーレイの姿は何処にも見えない。
(何処に消えちゃったの?)
キョロキョロと辺りを見回していたら、「俺は此処だぞ」と聞こえた声。
「まったく、何処を探してるんだか…。お前、本当に鈍くなったな」
俺の気配も読めないのか、と家の陰から出て来たハーレイ。庭だとばかり思っていたのに。
「凄い、ハーレイ…!」
いつの間に裏側に行っちゃっていたの、あっちにも庭はあるけれど…。どうやったの?
「なあに、簡単なことだってな。お前が煙に気を取られている間に、パッと走った」
風向きからして、こっちだな、と。
面白かったぞ、家の陰からポカンとしているお前を見てたら。
前のお前だったら、煙幕なんぞは無くてもドロンと姿を消せたというのになあ…。
俺が上手に隠れていたって、「此処だ」と直ぐに見付けただろうに。
すっかり不器用になったお前には、こいつの助けが必要なようだ、と渡された丸い物体が一個。手の中にスモークボールが一つ。
「いいか、このピンを抜けば煙が出るから」
俺が使っていたのと同じで、白い煙だ。風向きを確かめて動くんだぞ?
…今の風だと、あっちに走るのがいいだろう。あの木の陰だな、隠れるならな。
頑張れよ、とポンと叩かれた肩。あそこまで全力で走って行け、と。
「分かった…。ぼく、頑張るから!」
エイッとピンを引っこ抜いたら、派手に立ち昇った真っ白な煙。もうそれだけでビックリ仰天、どうすればいいのか分からなくなった。煙に隠れて逃げるどころか、突っ立って煙を仰ぐだけ。
「おいおい…。お前、全く逃げられてないぞ」
スモークボールを持っててどうする、それじゃ狼煙だ。
此処にいます、と敵に知らせているようなモンだ、煙幕の意味が無いだろうが。
「…そうみたい…」
ビックリしちゃって、見てるだけしか出来ないみたい。
スモークボールで遊んだことが一度も無いから、そのせいなのかな…?
「いや、才能の問題だろう」
俺は初めて遊んだ時にも、スモークボールを投げて逃げたぞ?
風向きを間違えて逃げちまったから、煙幕は役に立たなかったが…。それでも逃げた。
お前の場合はスモークボールに見惚れちまっているというのか、夢中と言うか…。
自分をビックリさせてどうする、周りのヤツらをビックリさせるのが煙幕なんだぞ?
「…そうなんだろうけど…」
分かってるけど、失敗しちゃった…。自分をビックリさせちゃったよ、ぼく…。
ハーレイに何度も教えて貰って頑張ったけれど、捨てて逃げるのが精一杯だった煙を吐く玉。
隠れ場所まで「あそこだ」と教わって走ってゆくのに、上手くいかない煙幕ごっこ。父と母とが庭に出て来て笑って見ている、失敗続きの煙幕ごっこを。
「ハーレイ先生に遊んで貰えて楽しそうね」と、「もっと上手に逃げたらどうだ」と。
息が切れるまで何度も走って、とうとう降参するしか無かった。煙幕ごっこは無理みたい、と。
「ちっとも上手く出来ないよ、ぼく…」
ハーレイみたいに隠れたいけど、これだけやっても駄目なんだもの…!
「才能の無さはよく分かった。絶望的だな、お前は忍者になれそうもない」
タイプ・ブルーとしても駄目だし、煙幕で姿を消すのも無理、と…。
今の時代に忍者はいないが、いたとしても入門出来んな、お前は。煙幕も張れない始末では…。
部屋に戻ってお茶の続きをする方が余程、建設的だ。
残りのスモークボールを使って思い出話をしてやるから。
「…思い出話?」
この間の教室の話じゃないよね、ハーレイが子供だった頃の話とか?
煙幕ごっこで遊んでた頃の話を色々聞かせてくれるの…?
「さてなあ、そいつは部屋に帰ってのお楽しみってな」
これ以上はお前が疲れるだけだし、お茶の続きにしようじゃないか。
ケーキは食ってしまった後だが、紅茶はポットにたっぷり入っていた筈だからな。
二階の部屋に戻ってみたら、紅茶のポットはまだ充分に温かかった。懸命に走り回った時間は、きっと半時間も無かったのだろう。体育の時間の時と比べて、それほど疲れていないから。
紅茶をカップに注いで砂糖。喉を潤したら、煙幕ごっこの才能の無さをまた思い出した。まるで無かった自分の才能、煙と戯れる遊びは向かない。スモークボールで遊べはしない。
(才能、ゼロ…)
ガックリと項垂れていたら、ハーレイが「ほら」と手に取ったスモークボール。思い出話をしてやると約束していたろうが、と。
褐色の指が引っこ抜いたピン。煙を噴き上げるスモークボールを床へとポンと放り投げて。
「そうだな、こういう具合だったな…」
あの時に、俺が見ていた煙は。…モニター越しに確認していただけなんだが。
現場に走れるような状況じゃなかった、俺がブリッジにいなくなったらどうにもならない。船尾損傷、シアンガス発生と報告されても、俺に出来たのは指示を出すことだけだった。
「…それ、いつの話?」
ハーレイが見ていた嫌な煙の話だろうけど、いつだったの?
「前に話してやっただろうが、三連恒星に向かって追い込まれた時だ」
思考機雷の群れに突っ込んじまって、後ろからは人類軍の船が追って来ていた。重力の干渉点を見付けて、其処からワープで逃げたわけだが…。
俺たちを追っていた船に乗っていたのは誰だと思う?
「…誰って…。ぼくが知ってる人なの?」
キースが乗ってたわけがないよね、そんな早くにキースとは出会っていないものね…?
「そのキースの先輩だったと言えば分かるか、今のお前なら?」
歴史の授業で教わるだろうが、マードック大佐。…あの英雄のマードック大佐だ、自分が乗った船をメギドにぶつけて、地球を守った英雄だな。
同じ船にミシェル少尉も乗ってた、俺たちの船を追っていた時も。
…前の俺は最後まで知らなかったが、たまたま調べた資料に載ってたんだよなあ…。
不思議なもんだろ、前のお前もマードック大佐とミシェル少尉に会っていたんだ。眠ったままで何も気付いちゃいなかったろうが、ちゃんと二人に出会っていたのさ。
嫌な煙を見ていた中でも、そういう縁があったらしい、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
他にも何かあるかもしれんと、今の俺だから分かる何かが…、と。
「マードック大佐とミシェル少尉…。ぼく、会ってたんだ…」
優しい人だったんだよね、マードック大佐。
ナスカで残党狩りをしないで、命令を無視してくれた話は歴史の授業で教わるけれど…。
それよりも前には、会っていないんだと思ってた…。ぼくがシャングリラに乗ってた頃には。
「俺だってそう思っていたさ。…それを書いた資料に出会うまではな」
ひょっとしたらだ、山ほど出版されてる俺の航宙日誌の中には、載せているのがあるかもな。
資料を詳しく突き合わせていけば、これがそうだと分かるんだから。
…しかしだ、そういう本を買うより、偶然見付ける方がいい。俺はそう思うが、お前はどうだ?
種明かしをしてある航宙日誌で舞台裏を一気に知りたいタイプか?
「…ううん、ぼくだってハーレイと同じ」
少しずつ分かっていく方がいいよ、きっと神様が順番に教えてくれるんだろうし…。
次に教えていいことはこれで、その次はこれ、って。
「俺もそう思う。…だから、ゆっくり二人で見付けていこうじゃないか」
前の俺たちが生きた時代に何があったか、俺たちは誰に出会っていたのか。
嫌な煙の思い出だった筈が、マードック大佐に繋がっていたりするんだからな。
さて…、とハーレイの指が引っこ抜いたピン。
マードック大佐の思い出話の次はコレだと、今の俺のガキの頃の話だと。
「スモークボールで隠れたつもりが、上手く隠れていなかったわけで…」
それでもお前よりかはマシだ、と聞かせて貰った失敗談。
スモークボールで煙幕ごっこは自分には向いていなかったけれど、こんな風に使うのも面白い。煙がブワッと噴き上げる度に、素敵な思い出話が一つ。
前のハーレイも、前の自分も、嫌な思い出が多かった煙。それが今では遊びの道具で、遠い昔の嫌な煙の一つも、マードック大佐とミシェル少尉に繋がっていた。
色々なことが分かってゆくのも、平和な時代に生まれて来たから。
ハーレイと二人で、青い地球まで来られたから。
煙幕ごっこの才能は無くても、今は煙を楽しめる。スモークボールのピンを引っこ抜いて、一つ二つと思い出話を聞きながら。
きっとこういう休日もいい。部屋中に煙が溢れていたって、思い出話も一杯だから…。
スモークボール・了
※今の時代は、スモークボールで遊べる時代。ブルーは才能皆無でしたけど、楽しかった時間。
そして聞かされた、前のハーレイの煙の思い出。マードック大佐たちにも会っていた二人。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうむ…)
旬には少し早いんだがな、とハーレイが眺めたキウイフルーツ。茶色くて毛が生えた丸い果物、ジャガイモに似ていると言えなくもない。でこぼこが少ないタイプのジャガイモ。
それがドッサリと棚に積まれていた。ブルーの家には寄れなかった日、いつもの食料品店で。
キウイフルーツは人気の果物、一年中、売られているのだけれど。本当の旬はこれからの季節。近所の家の庭で実りつつある、毛だらけの実が。藤棚よろしく作られた棚で。
通る度に「おっ!」と思うけれども、売られている果実に引けを取らない大きさだけれど。
(収穫してから、暫く置いておかないと…)
熟さないのだった、キウイフルーツは。柔らかくて甘い果実になってはくれない。熟すまでには時間がかかるキウイフルーツ、美味しいけれども手がかかる果実。
木に置いておくと霜に当たって駄目になるから、その前に収穫。それから追熟、貯蔵しておいて食べ頃を待つ。果実によって異なる食べ頃、三十日から六十日も。
こうして店頭に並ぶまでにも、果実の個性を見極めながら追熟がされていたのだろう。食べ頃になったものを揃えて、店へと出荷。
今はまだ、キウイフルーツが木にぶら下がっている時期だから。旬には早いと分かるけれども、そうとは知らなかった頃。
(ウッカリ食っちまったんだっけな)
やんちゃ盛りだった子供時代に。今のブルーよりも小さかっただろう背丈の頃に。
隣町の家の近所に、キウイフルーツを植えていた家。立派な棚に茂っていた葉と、幾つも幾つも毛だらけの果実。食べて下さいと言わんばかりに。
背が届かない高さにあったキウイフルーツ、けれど子供には誘惑の果実。美味しそうだと。
もぎたてを一つ食べてみたくて、精一杯のジャンプで奪い取った実。生垣を越えて道路の上まで張り出した蔓から失敬した一個。
(何処で食ったのかは覚えちゃいないが…)
公園にでも持って行ったか、それともその場で齧ったのか。
毛だらけの皮は吐き出して食べればいいだろう、とガブリとやったら、それは固くて渋かった。甘くて柔らかくて美味しいどころか、とんでもない味だったキウイフルーツ。
悪戯者には罰だ、と化けてしまったかのように。甘い果実が渋い果実に。
(毒じゃないだけマシだったがな)
とても食べられたものではない、と捨ててしまったキウイフルーツ。口の中に渋さが暫く残ったけれども、腹を壊しはしなかった。吐き気もしなくて、酷い目に遭ったというだけのこと。
ただ、木の実には厄介なものもあったりする。今では馴染みの梅だけれども、熟す前の青梅を種ごと食べると危険。種の中身が毒だから。
両親から厳しく教えられたものだ、「生の梅の実を食べてはいけない」と。
梅の実は美味しそうなのに。桃の実のような匂いがするのに、誘われて食べたら中身は毒。
(キウイフルーツなあ…)
色々と懐かしく思い出したら、食べたい気分になって来た。旬には早いと眺めていたのに、急に買いたくなった果物。店に並んだキウイフルーツなら、待たなくても直ぐに食べられるから。
子供時代に失敗した分、固くて渋かった自分の獲物。その分をこれで取り返すかな、とズラリと並んだ果実の中から気まぐれに幾つか選び出した。どれも甘いに決まっているから。
(あの日の俺が食い損なった分だ)
それに失敬したわけでもないし、と買って帰ったキウイフルーツ。今から冷やせば、夕食の後にいい具合に食べられることだろう、と冷蔵庫に入れて、夕食の支度。
手際よく作った料理と炊き立ての御飯、満足だった今日の夕食。小さなブルーがいないことさえ除けば、申し分のなかった食卓。
食べ終えた後は冷やした果物の出番、キウイフルーツを食べる番。皮を剥いて綺麗にカットするよりも、子供時代よろしくシンプルに食べてみたいもの。
(流石に齧るのはあんまりだしな?)
真っ二つに切って、スプーンで食べるのがいいだろう。毛だらけの皮の中身を掬って食べれば、薄い皮だけが残る勘定。剥いて食べるよりきっと楽しい、毛だらけの皮をつけたまま食べるのは。
さて、と切って来たキウイフルーツ。食べ頃に冷えていた果実。皿に載せて、スプーンも持って来た。早速一口、スプーンで掬って期待通りの甘さに頷く。これでこそだ、と。
子供時代に齧ったものとはまるで違った、その味わい。とろけるような柔らかさも。美味い、と綻んでしまう顔。これが食べたくてガキの頃の俺は頑張ったんだが、と。
道路まで張り出していた蔓に実っていたキウイフルーツ、それが欲しくて。もぎたてが欲しくてジャンプしたのに、戦果は惨憺たるもので。
(…しかしだ、キウイフルーツの味を知ってたからこそで…)
そうでなければ、きっと挑んでいないだろう。二つに切っただけの果実を味わっていたら、そう思えて来た。なにしろ、見た目が毛だらけだから。
(何処から見たって、毛の生えたジャガイモってトコだしなあ…)
けして美味しそうな姿ではない。甘いだろうとも想像出来ない。見た目だけでは。
なのに毛だらけの皮の内側には、それは瑞々しい緑色。まるで食べられる宝石のように鮮やか、おまけに甘くて柔らかい。スプーンで掬って食べられるほどに。
外側からは全く予想もつかない中身の果実。子供時代の自分を誘惑したほどのキウイフルーツ、けれども見た目は毛の生えたジャガイモ。
(これが食えると見抜いたヤツは凄いかもな?)
しかも追熟させてまで、と感心せずにはいられない。それとも原産地では木の上で甘く熟して、香りを漂わせるのだろうか。此処に美味しい果物があると、今が食べ頃だと。
あるいは動物が食べていたろうか、鳥たちが群れてつついていたとか。
いずれにしても、最初に気付いた人間のお蔭で、キウイフルーツが食べられる。感謝しよう、と思った果実。よくぞ見付けてくれたものだ、と。
(待てよ…?)
何処かでそういう話を聞いた、という記憶。フイと心を掠めていった。
キウイフルーツは食べられると見抜いて、ついでに追熟。収穫したままでは食べられないから、甘くなるまで貯蔵するのだと。
(…何処で聞いたんだ?)
得意の薀蓄の一つだろうか、いつもアンテナを張っているから。
授業に飽きてきた生徒たちの心を捉える雑談、そのための種は幾つあっても足りないもの。常に張り巡らせてある頭のアンテナ、これはと思えば頭に叩き込んでおく。
キウイフルーツについての知識も、そうやって手に入れたのだろうか。今では当たり前のように知っているけれど、何処かで読んだか、耳にしたのか。
きっとそうだな、と考えたのに、「そうではない」と訴える記憶。それは違う、と。
ならば何処で、とキウイフルーツを睨んで、スプーンで口へと運んだら…。
(シャングリラか…!)
あの船にあった、と蘇って来た遠い遠い記憶。シャングリラで食べたキウイフルーツ。
しかも厨房で料理をしていた時代に、シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃に。
そうか、と懐かしい記憶を追った。確かにキウイフルーツだった、と。
自給自足の船になるよりも遥かな昔。皆の命を繋いでいたのは、前のブルーが奪った物資。
ある日、ブルーが持ち帰ったコンテナの中に、大量のキウイフルーツがあった。毛だらけのが。
けれども、成人検査と繰り返された人体実験のせいで皆が失くしてしまった記憶。それが何かが分からなかった。誰も覚えていなかったから。
「なんだい、これは?」
毛だらけじゃないか、と呆れたブラウ。食べ物とも思えないんだけどね、と。
「さてなあ…?」
なんだろうな、とゼルも首を捻ったし、ヒルマンもエラも。
とはいえ、手掛かりならあった。毛だらけのそれが入っていた箱には、キウイフルーツの文字。そういう名前を持った食べ物、フルーツなのだし果物だろう。
手に取ってみたら固かったけれど、固い果物は珍しくない。リンゴのようなものなのだろう、と毛だらけの皮をナイフで剥いて、ゼルたちと試食してみたら…。
「酷い味だな」
食えたもんじゃない、と顔を顰めたゼル。渋くて固いだけじゃないか、と。
「まったくだよ。こんな不味い果物は知らないね」
どの辺がフルーツだと言うんだい、とブラウもぼやいた。口中が渋くなっちまったよ、と。
前の自分も同感だったし、ブルーも「本当に果物なのかな?」と悩んだほど。箱の中身が別のに変わっていたのだろうかと、人類は箱を使い回していたろうかと。
その可能性もゼロではないな、と思ったけれども、それから間もなく出て来た答え。箱の中身はそれで正しいと、これは間違いなく果物だと。
ヒルマンとエラが調べに出掛けて行ったから。キウイフルーツとは何だろうか、と。
データベースに向かった二人は、実は疑っていたらしい。フルーツという名の別の食べ物、その可能性を。海から採れる貝などのことを「海の果物」と呼ぶらしいから。
それと同じで、全く別の食べ物なのに「フルーツ」と名付けてあるのでは、と。
ところが違った、キウイフルーツ。渋いけれども、確かに果物。ただし…。
「このままでは駄目だね、食べられないそうだ」
渋いだけだ、とデータベースから戻ったヒルマンが言うから。
「料理するのか?」
てっきり自分の出番だとばかり思った、調理して食べる果物だろうと。甘く煮るとか、焼いたら甘くなるだとか。どうやってこれを食べればいいのだ、と訊いたのに。
「いや、料理ではなくて…。追熟だそうだ」
「追熟…?」
それはなんだ、と自分はもとより、誰もがキョトンとしたのだけれど。
ヒルマンとエラが言うには、このまま倉庫に突っ込んでおけばいいらしい。柔らかくなるまで、一ヶ月か二ヶ月。まずは一ヶ月ほど待ってみよう、と。
大量のキウイフルーツは箱ごと倉庫に運び込まれて、一ヶ月後。何度か様子を見に出掛けていたヒルマンが「まだ駄目だね」と首を横に振った。
「まだもう少しかかるようだよ、固いままだから」
柔らかくならないと甘くはならない、という話。そのヒルマンが「これでいいだろう」と持って来るまでには更に二週間ほどあっただろうか。
試食してみたら、前の渋さが嘘だったように甘かった。美味な果物に化けたキウイフルーツ。
これはいける、とヒルマンの勧めに従って冷やして、食堂で皆に出してみた。毛だらけの外見も面白いから、と二つに切って、スプーンをつけて。
「美味いな、これは!」
「見た目は悪いが、味はいいよな」
人類はこんなに美味しい果物を食べているのか、と皆が手放しで喜んだから。
「最初は不味かったんだがね…」
我々はそれを食べたんだがね、と苦笑したヒルマン。犠牲者は他にブルーに、ブラウに…、と。
ドッと笑った仲間たち。試食組でも特権ばかりじゃないんだな、と。
見た目が悪くて、おまけに直ぐには食べられなかったキウイフルーツ。輸送船に乗っているほどなのだし、追熟してあるわけがない。輸送先の星で追熟するもの、その方が便利なのだから。
手に入っても完熟するまで倉庫で保管するしかなかった、少し面倒な毛だらけの果物。けれども人気は高かった。毛だらけの皮の中身は甘くて、とろけるように美味しかったから。
奪った物資にキウイフルーツが紛れていたら皆が喜んだ。一ヶ月ほどでまた食べられる、と。
毛だらけのくせに、外見を裏切って美味な果物。緑の宝石が中に詰まったキウイフルーツ。
前の自分が厨房を離れた後も、ブルーがソルジャーになった後にも続いた人気。あの果物をまた食べたいものだと、物資に混ざっていればいいが、と。
追熟などという手間がかかるのに、人気を誇ったキウイフルーツだったから。
(シャングリラを改造する時も…)
採用されたのだった、船で育てる果樹の一つに。
何を育てるかを検討していた時に、希望が多かったキウイフルーツ。栽培方法を調べてみたら、意外なことに手がかからないもの。畑どころか、庭でも栽培出来るくらいに。
その上、沢山の実をつけるという。蔓を伸ばして育つのだけれど、一本で千個も実るほどに。
専用の畑を設けなくても、あの美味しい実がドッサリ採れるとなったら、キウイフルーツは船で育ててみたいもの。畑はもちろん、公園に緑の彩りを添える棚にも使えそうだから。
そればかりか、キウイフルーツの実は栄養価が高くて低カロリー。ビタミンも豊富、自給自足で暮らしてゆく船には打って付けの果物だった。
簡単に育てられるというなら、是非とも採用せねばならない。皆に人気のキウイフルーツ、畑が無くても育つくらいに丈夫なら。
(そういや、あいつが…)
キウイフルーツはキーウィと関係があるのかい、と尋ねたブルー。鳥のキーウィ、と。
白い鯨になるだろう船に、キウイフルーツを導入しようと決まった席で。ゼルやヒルマンたち、長老と呼ばれた四人と前の自分と、ソルジャーの六人。最終決定の会議はいつも六人だった。
今の自分には馴染み深いキーウィ、姿がキウイフルーツにそっくりな鳥。丸っこい身体に特徴のある長いクチバシ、翼は退化していて飛べない。地面をトコトコ歩いてゆくだけ。
動物園に行けばキーウィはいるし、子供でも名前を知っているけれど。
前の自分たちが暮らした船には、動物園などありはしなかった。本物のキーウィを見られる場所などは無くて、本にもそうそう出て来ない鳥。鳩や雀の類と違って、広く知られていないから。
特に鳥好きでもなかっただろうに、キーウィを知っていたブルー。空を飛べない鳥だよ、と。
あの時はキーウィばかりに気を取られていた自分だけれど。
今にして思えば、前のブルーは青い鳥を欲しがったのだった。幸せを運ぶという青い鳥。地球と同じ色を纏っている鳥を。
そんな鳥など役に立たない、と却下されてガッカリしていたブルー。欲しかったのに、と。
キウイフルーツと鳥のキーウィに何か関係は、と訊いたブルーは、青い鳥を思っていたろうか。青い鳥に未練があったのだろうか、それでキーウィと言っただろうか?
キーウィも同じ鳥だから。キウイフルーツに青い鳥を重ねてみたかったろうか?
(訊いてみるかな…)
小さなブルーに。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が訊きそびれたことを。
前のブルーがキーウィの名前を口にした時、青い鳥のことを思っていたか、と。
幸い、明日は土曜日だから。ブルーの家にゆく日だから。
次の日、目覚めても忘れずにいたキーウィのこと。それにシャングリラのキウイフルーツ。
本物のキウイフルーツを持ってゆかねば、と食料品店に寄って買って出掛けた。昼食が済んだらデザートに出して貰おうと。その頃ならよく冷えているから。
キウイフルーツが入った袋をブルーの母に渡しておいたら、案の定、訊かれた。二階の部屋から見ていたブルーに「お土産は?」と。
もう少し待てと、昼飯の後だ、と聞かされたブルーが楽しみにしていたらしいデザート。きっと菓子だと思ったのだろう、出て来たそれに真ん丸になってしまった赤い瞳。
「…キウイフルーツ?」
なんで、と驚くのも無理はない。お菓子の代わりに毛だらけの果物がコロンと一個。真っ二つに切られて、スプーンが添えられただけの。
ブルーの母なら、もっとお洒落な出し方だって出来るのに。皮を剥いて綺麗にカットするとか、カットした上にホイップクリームを添えるとか。
普段だったら、そういう果物。今のブルーが食べているキウイフルーツは。
「覚えていないか、こいつはシャングリラにあったんだぞ」
白い鯨の頃だけじゃなくて、それよりも前から食っていたんだ。俺が厨房にいた時代からな。
最初は謎の毛だらけの物体だったわけだが、キウイフルーツ。
本当にこれは食える物か、と悩んじまったくらいにな。
「…そういえば…。前のぼくが奪った物資の中に…」
山ほど入っていたんだっけね、キウイフルーツがゴロゴロと。
ゼルもヒルマンも、誰も覚えてなかったから…。すっかり忘れてしまっていたから、正体不明。
何なんだろう、って話になったくらいに、変な食べ物だったんだっけ…。
思い出した、とブルーが浮かべた苦笑い。あれでひと騒ぎあったんだっけ、と。
「前のぼくたち、剥いて試食をしちゃったけれど…」
箱にフルーツって書いてなければ食べてないよね、あの時の毛だらけのキウイフルーツ。
ジャガイモみたいにお料理しないと食べられないとか、そんな風に考えちゃったかも…。
「まったくだ。固かった上に毛だらけではな」
フルーツだと箱に書いてあったからこそ、リンゴみたいに剥けばいいんだと思ったわけで…。
しかし、素敵に不味かったんだよな、そうやって食ったら。
「…固くて渋くて、果物の味じゃなかったよ、あれは」
ブラウたちも文句を言っていたけど、ぼくだって口中が渋くなっちゃって…。
箱にはフルーツって書いてあったけど、違う中身が入ってたかな、って詰めた人類を恨んだよ。違う物を箱に詰めたんだったら、面倒がらずに品物の名前を書き直したら、って。
「そう考えるのが普通だよなあ、あの不味さだと」
まさか食べ頃が来ていないだなんて誰が思うか、普通の果物は直ぐに食えるんだから。
ちょっとばかり酸っぱいってことはあっても、その程度のことだ、あそこまで不味くはないぞ。
早く剥きすぎちまったかな、って思いはしてもだ、ちゃんと果物の味はする。バナナだろうが、リンゴだろうが、それなりの味がするっていうのに…。
なんだってアレは一ヶ月以上も待たないと食えない代物なんだか、キウイフルーツ。
今みたいに店で買ったヤツだと、きちんと追熟させてあるから食えるんだがなあ…。
もっとも今の時代も騙されちまった馬鹿が俺だが、と自分の顔を指差した。
「実はな、今の俺がお前よりも背の低いガキだった頃の話だが…」
俺が育った家の近くに、キウイフルーツを庭に植えていた家があったんだ。棚を作って。
そいつの蔓が道路の上まで伸びて来ててな、美味そうな実が幾つもな…。
今の俺はガキの頃からキウイフルーツを食ってたわけだし、美味いってことも知ってるし…。
もぎたての実はきっと美味いに違いない、と考えたんだな、ガキだけに。
親父たちとブドウ狩りとかに行っていたから、新鮮な果物の美味さも分かる。だから見上げて、こいつも食ったら美味いだろうと…。
もちろん普通に手を伸ばしたって届きやしないし、そこでジャンプだ。精一杯に飛んで、見事に一個もぎ取ったまでは良かったが…。
後は分かるな、ガキの頭に追熟なんて言葉は入っていないってことが。
「…ハーレイ、今度もやっちゃったんだ…」
熟していないキウイフルーツ、そのまま食べてしまったんだね。
「皮も剥かずに齧り付いてな。…甘いとばかり思ったんだが…」
もぎたてだったら、皮を吐き出す分を補ってもなお余りある甘さがあるもんだとばかり…。
なのに口中に広がる渋さと来たもんだ。なんだって、今度もやっちまう羽目になったんだか…。
記憶が戻っていない以上は仕方ないんだが、前の俺が懲りていたのにな。
「覚えてないのは本当に仕方ないけれど…」
ジャンプしてまで取らなかったら、今度は食べずに済んだ筈だよ?
その家の人に「一つ下さい」ってお願いしたなら、ちゃんと教えて貰えたのに…。
まだ早いからとか、これは熟してから食べるんだよ、って分けてくれるとか。
それもしないで飛び付くだなんて、食いしん坊だね、家の人が来るまで待てばいいのに。
「…毎日見ていて、美味そうだったからな」
ついに誘惑に負けたってヤツだ、その日に限って。
でもって、自分の手で取ってみたかったんだろうな、頼んで取って貰うよりかは。
ガキってヤツはそんなもんだろ、と語った自分の失敗談。一人で出来ると言い張った挙句、何か失敗をやらかすもんだ、と。お前の場合はどうか知らんが、元気なガキにはありがちだろう、と。
「俺もご多分に漏れず、そういうガキの一人だったってわけで…」
やっちまったわけだ、前の俺の轍を踏むってヤツを。
そいつを昨日、思い出したから、キウイフルーツを買って帰って…。あの時に不味い思いをした分をこれで取り返そう、と食っていたら記憶が戻って来たんだ、前の俺のな。
それで土産に持って来たんだが、お前も思い出したようだし、一つ訊きたい。
…不味かった騒ぎとは別件になるな、シャングリラを改造しようって時代なんだから。
新しい船で何を栽培しようかという会議をしてたら、キウイフルーツが候補に挙がった。人気が抜群の果物だったし、育てやすいことも分かったし…。
導入しよう、と会議で決まった時のことだが、前のお前が訊いていたんだ。
キウイフルーツと鳥のキーウィには何か関係があるのか、と。
「…えーっと…。そうだね、訊いてたね」
名前が似てたし、形もそっくりみたいだったし。
だから気になって訊いちゃったんだよね、鳥のキーウィと関係あるのかな、って。
「そいつが俺の訊きたいトコだ。…どうしてキーウィと言い出したのか」
今のお前なら、話は分かる。動物園に行けば本物がいるからな。印象深い姿の鳥だし、会ったら忘れないだろう。
しかしだ、前のお前の場合は事情が違う。本物なんぞは見られもしないし、データだけだ。
そのキーウィを知っていた上に、あの場で訊いた。キウイフルーツと関係があるのか、と。
お前、青い鳥を欲しがってたしな、それと重ねていたのかと…。
キーウィも鳥には違いないから、とキウイフルーツに青い鳥を重ねようとしてたのか、お前?
「そこまで執念深くはないよ」
青い鳥に無理やりこじつけるほどに、キウイフルーツにはこだわらないけど…。
気になっていたのは、キーウィの方。青い鳥じゃなくって、キーウィなんだよ。
シャングリラでは、本物を見ることは叶わなかったキーウィ。動物園など無かったから。
白い鯨になった後には、アルテメシアに潜んでいたから、前のブルーは本物に出会ったらしい。船の外にある人類の世界の動物園まで出掛けた時に。
もっとも、遊びに行ったというわけではなくて、ミュウの子供を救い出すための下見などで。
けれど、それよりも前の時代にブルーはキーウィの名前を口にした。飛べない鳥、と。
「たまたま本で見付けたんだよ、キーウィのこと」
何の本だったかは覚えてないけど、そういう名前の飛べない鳥がいたってことを。
それにね、何処にでもいた鳥じゃなくて、固有種だって…。
他の場所には棲んでいなくて、ニュージーランドっていう島だけの鳥で…。
ミュウと重なっちゃったんだよ、ぼくの頭の中で。
キーウィは飛べないから減っていっちゃった、って…。逃げられないから捕まっちゃって。
「滅びそうだという意味か?」
数が少ない上に、飛べないばかりに捕まっちまって。
捕まったらそれでおしまいだからな、捕まった上に滅ぼされそうになった前の俺たちか?
アルタミラごと滅ぼされていたら、ミュウはおしまいだったんだから。
「うん…」
ちょっとキーウィみたいでしょ?
前のぼくたち、本当に滅びそうだったから…。
なんとか逃げ出して生きていたけど、人類軍の船に見付かっちゃったらおしまいだもの。
前のブルーが読んだという本。キーウィについて書かれていた本。
地球が滅びるよりも遥かな昔に、キーウィと同じような鳥が幾つも滅びていった。地球の環境は悪化しておらず、どんな生き物でも充分に生息出来たのに。
七面鳥に何処か似ていたドードー、キーウィと同じ島にいた首が長くてダチョウのようなモア。地球の鳥では最大の体重を誇った、エピオルニスもダチョウを思わせる鳥。
どれも絶滅して地上から消えた。人間に狩られ、食用にされて。空を飛べない鳥ゆえの悲劇。
キーウィも人間を警戒することを知らず、そのせいで激減していった。
飛べない上に、人を怖がらないから、簡単に捕まってしまったキーウィ。人間にとっては格好の獲物で、食べるにはもってこいだったから。
空を飛ぶ鳥なら、撃ち落とさないと捕えられないけれど。あるいは罠が必要だけれど。
キーウィは空へと飛んでゆかないし、おまけに人を怖がらない。見付けさえすれば肉が手に入る便利な生き物、肉が歩いてるようなもの。
キーウィは危うく、モアと同じになる所だった。
このままでは滅びてしまう鳥だと、人間が気付かなかったなら。
ようやく気付いて、ニュージーランドのシンボルの鳥に選んで保護してくれなかったなら。
絶滅の危機に瀕したキーウィ。地球に滅びの気配さえもまだ無かった頃に。
今の自分はそれを知っているけれど、前の自分はどうだったろうか。あの時代には地球は滅びた後だったから、どの生き物も等しく地球からは滅び去った後。
キーウィはもちろん、鳩も雀も棲めなくなってしまった地球。人間は生き物を他の惑星に移し、絶滅することだけは辛うじて防いだ。動物も植物も、思い付く限りの地球の全てを。
そんな時代だから、前の自分はキーウィを単なる飛べない鳥だと思っていたかもしれない。空を飛べない鳥は幾つもいるから、その内の一つがキーウィなのだと。
「そうだっけな…。言われてみれば、まるでミュウだな、キーウィって鳥は」
人間の都合で狩られちまって、滅びる所だったんだからな。
「そうでしょ?」
似てるでしょ、キーウィと前のぼくたち。
滅びそうだったってこともそうだけど、滅びそうになってしまった原因。それも同じだよ?
前のぼくたちは、キーウィと同じで知らなかったよ、人類は怖いということを。
人を警戒することを少しも知らなかったから、成人検査を受けちゃって…。
気が付いたら檻に閉じ込められてて、後は殺されるだけだったんだよ。
食べられてしまうか、実験で殺されてしまうかだけの違いだったよ、キーウィとミュウは。
…だから重ねてしまったんだよ、ミュウとキーウィ。
そのキーウィと似たような名前で、似たような果物がキウイフルーツ。
訊きたくなるでしょ、それは関係があるものなのか、って。
前のブルーがミュウと重ねて見ていたキーウィ。果物の名前で直ぐに連想するほどに。
キウイフルーツを育てると決まったら、関係があるのかと尋ねたほどに。
「そのキーウィも今じゃ普通に生きているよな、のびのびと」
動物園にいるのもそうだが、元はニュージーランドだった辺りの地域か?
似たような島を見付けて貰って、自由に生きているようだしな。
「ちゃんと保護して貰ってね」
お肉にされずに、好きにあちこち歩き回って。
地球と一緒に滅びかかったのに、キーウィは立派に生き抜いたんだよ、他の星で。
環境もずいぶん変わっただろうに、何処の星でも子孫を残して頑張ったんだよね、キーウィは。
そうやって頑張って生きていたから、キーウィは今の地球に戻って来られたんだよ。
もう駄目だ、って滅びちゃっていたら、キーウィ、何処にもいないんだもの。
「…ミュウも似たようなものだったのかもなあ…」
滅びちゃいかん、と必死に頑張って生きて、生き残って、やっと地球まで戻れたってトコか。
地球が滅びさえしなかったならば、SD体制なんぞは無かったわけだし…。
そうなっていたら、人類とミュウは敵対する代わりに、自然と交代したんだろうしな。
少しずつミュウの数が増えていって、人類とも自然に混じり合って。
「多分…。地球が滅びる前の時代の実験室でも、ミュウは生まれていたんだものね」
育つ所まで行ったかどうかは分からないけど、ミュウ因子は分かっていたんだから。
排除しちゃ駄目だっていうプログラムがあった以上は、ミュウも生まれていた筈で…。
他の星へと移されてしまって、人工子宮で育つ時代が来ちゃったけれども、生き延びたよね。
キーウィが頑張って生きてたみたいに、前のぼくたちも。
そうやって地球に戻って来られんだよね、ミュウもキーウィも、今の青い地球に。
前のブルーがミュウの姿を重ねたキーウィ。空を飛べなくて滅びかかった鳥。
ミュウも同じに滅びかけたけれど、キーウィのように生き抜いた。受難の時代を越えて今まで。人間が地球に戻れる時が来るまで、ミュウという種族は滅びずに生きた。
SD体制を倒してミュウの時代を築いて、自然出産で子孫を残しながら。
「…ミュウが頑張って地球に戻って、今の俺たちがキウイフルーツを食ってるわけだな」
地球で育ったキウイフルーツを、きちんと追熟させてあるのを。
「キウイフルーツ…。結局、キーウィとは殆ど関係無かったんだよね」
まるで無関係ってわけでもないけど、キウイフルーツはキーウィの島の果物じゃないし…。
「そうらしいよなあ、名産地ではあったみたいだが…」
あの時、ヒルマンが言ってたっけな、ニュージーランドが名産地だから名付けただけだ、と。
キーウィが棲んでた島がたまたま栽培に適していたっていうだけらしいしなあ…。
元々の産地は別の所で、中国の南部だったっけか。
其処からニュージーランドに運んで、沢山採れるから輸出しようって時にキーウィの名前を拝借しておいた、と。島のシンボルになってた鳥だし、姿も似てるし、丁度いい、とな。
もっと深い関係があった方がミュウの船には相応しかったな、とブルーと二人で笑い合った。
ミュウと重なって見えたキーウィと縁が深かったならば、キウイフルーツは白いシャングリラのシンボルにするのに良かったろうに、と。
鳥のキーウィは飼えないけれども、キーウィの代わりにキウイフルーツを育ててゆく船。
これを守ろうと、自分たちも鳥のキーウィのように頑張って生きてゆかねばと。
残念なことに、前のブルーが期待したほどには深くなかったキーウィとの縁。
だから誰もが何も気にせず、実る度に食べていたけれど。
収穫した後、甘くなるまで追熟させては、美味しく食べていたのだけれど。
毛だらけの果物、キウイフルーツは、懐かしいシャングリラの思い出の味。
前のブルーが訊いたフルーツ、それを育てようと決まった席で。
キーウィは関係あるのかい、と。
この果物と鳥のキーウィは、何か繋がりがあるものなのかい、と…。
キウイフルーツ・了
※シャングリラにもあったキウイフルーツ。わざわざ追熟させてまで、食べていた果物。
その果物と鳥のキーウィを重ねて見ていた、前のブルー。ミュウに似ていた鳥だったのです。
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