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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 その日は朝からシトシトと雨。今の季節に相応しい秋雨、それほど強くはない雨脚。
 けれども傘は必要だから、とブルーが差して出掛けた雨傘。弱い身体に雨は大敵、濡れた所から冷えてしまって風邪を引くから。
 夏の最中でも危ないというのに、今は秋。濡れないようにと雨傘を差して学校へ。
 バスに乗るまでにすれ違った人は、誰でも傘を差していた。バスの中でも、畳んだ傘を手にした人ばかり。ところが、学校から近いバス停で降りたら、そうではなくて。
 自分は傘を広げたというのに、学校へ向かう生徒たちの中には…。
(差してない人…)
 何人か混ざった、傘を差していない生徒たち。シールドで雨を防いでいるから、淡い黄色や緑の光に包まれて。
 もれなく男子で、シールドと自分の度胸に自信のある生徒。颯爽と歩いてゆく彼ら。
 学校からは「雨の日は傘を差すように」と何度も指導されているのに。サイオンは使わず、人間らしく、と。人間が全てミュウになっている、今の時代の約束事。
(でも、チェックしているわけじゃないし…)
 校則違反とまでは言われない。傘の代わりにシールドでも。
 教師とすれ違ったら、「傘は?」と軽く睨まれる程度。だから彼らは傘を差さずに堂々と登校、睨まれた時には「忘れました」と悪びれもせずに言い訳をして。
(…前のぼくなら…)
 傘を差さない方でいられた。メギドの炎も受け止めたシールド、土砂降りだって軽く防げる。
 今の自分も、器用だったら出来た筈。度胸はともかく、前と同じにタイプ・ブルーだから。
 傘を差さない生徒たちの中には見えない、青い光を帯びたシールド。本当だったら、彼らよりもずっと見事なシールドを張れる筈なのに…。
(…不器用だしね…)
 まるで使えない、今の自分が持つサイオン。名前ばかりのタイプ・ブルー。
 溜息をついて傘を畳んで、校舎に入った。こんな日は不器用さを思い知らされるよね、と。



 朝の溜息はもう忘れていた、三時間目のハーレイの授業。
 雨はまだシトシトと窓の向こうで降っているけれど、突然、ハーレイが教科書を置いて。
「このクラスにもイギリス紳士がいるようだな」
 お前とお前、と指差された男子。他にも何人かいるかもな、と。
(イギリス紳士…?)
 ブルーもキョトンとしたのだけれども、クラスの生徒もポカンとした顔。ハーレイが「お前」と指した生徒は、この地域の生まれの筈だから。つまりは日本で、イギリスなどとは無関係。
 けれど、ハーレイはかまわず続けた。
「俺が見掛けたのは、お前たちだ。…イギリス生まれか?」
 立派なイギリス紳士だったが、イギリスから引越して来たのか、うん…?
「違います!」
 何故、と慌てる男子が二人。多分、生粋の日本生まれで、日本育ちだろう二人。
 日本という国は今は無いけれど、この辺りには昔、日本があったから。その名を貰って、あえて呼ぶなら日本になるのがこの地域。
 其処で育った筈の彼らが、どうしてイギリス生まれになるのか。意味が全く分からない。周りのクラスメイトも同様、ザワザワと囁く声が広がる。
 ハーレイが言った、イギリス紳士とは何だろう?
 指された男子は、どちらかと言えばヤンチャな方。紳士というより、悪ガキなのに。



「お前たち、傘を差さずに来ただろうが」
 俺は見てたぞ、お前たちが傘を差さずに歩いていたのを。
 それでイギリス紳士だと言ったんだ、と始まった雑談。ハーレイの授業のお楽しみ。ためになる話や、笑い話や、クラス中が熱心に聞き入る時間。
(傘のお話…)
 遠い昔のヨーロッパ。まだ人間が地球しか知らなかった頃。
 其処では傘と言ったら日傘で、女性が差して歩くもの。強い日射しを遮るために。
 少し経ったら、雨を避けるのにも使うようになった。傘があったら防げる雨。
 それでも傘は女性の持ち物、男性は雨傘などは差さない。彼らには馬車があったから。馬車には屋根がついているから、乗り込めば決して濡れたりはしない。何処へ行くにも快適な馬車。
 もし雨傘を差していたなら、馬車が持てないと皆に知らせるようなもの。
 いくら立派な身なりをしたって、服を整えるのが精一杯。馬車が買えるお金はありません、と。馬車を持つには、かなりの費用が必要だから。馬はもちろん、御者を雇って他にも色々。
 馬車は紳士のステイタスシンボル、持てないことは恥ずかしい。雨傘を差して馬車が無いのだと知られるよりかは、濡れて歩いた方がマシ。馬車の迎えがまだ来なくて、と。
 そういう時代に登場したのが、ジョナス・ハンウェイなる人物。十八世紀の半ばの人。
 立派なイギリス紳士だったというのに、彼は雨傘に惚れ込んだ。旅をした先で、雨傘の便利さに気付いたから。是非ともこれを広めるべきだ、と考えた彼。
 それには自分が差さなければ、と笑われながらも雨の日には傘。特別に誂えた立派な雨傘。
 紳士が集うクラブにも雨傘を差して出掛けて、ひたすら重ね続けた努力。
 お蔭で傘はイギリス紳士のシンボルになって、誰もが競って持つようになった。自分の傘を。
 ただし…。



「やっぱりその後も差さなかったそうだ、イギリス紳士は」
 傘は持ってるだけなんだ、というオマケがついた。持つだけで差さないイギリス紳士。
 雨が降ったら、帽子で粋に避けるもの。彼らはお洒落な帽子を被って出歩いたから。
 傘はステッキと同じで紳士の持ち物、高価な雨傘はステイタスシンボル。こんなに立派な雨傘を作らせました、と周りに知らせるためのもの。充分な財産を持っています、と。
 そうやって生まれた雨傘だから、傘の柄はステッキのように曲がっているらしい。昔も今も。
 立派な傘を持っているのに、差そうとしなかったイギリス紳士。傘は持ち物だったから。
 「傘を差さないヤツらはそれだ」と笑ったハーレイ。
 シールドを張って雨を防いで、傘を差してはいなかった生徒。
 「差さないにしても、傘を持ったら立派なイギリス紳士になれるぞ」と。
 ドッと笑いに包まれた教室。それでハーレイはイギリス紳士と言ったのか、と。
(ふうん…?)
 雨の日に傘を差していなければ、イギリス紳士。
 面白かった、と大満足だった雑談の時間。今日も素敵な話が聞けた。雨傘について。



 雨は帰る時にもシトシト、校舎から出るのに傘を広げた。
 帰ってゆく生徒の中に混じったイギリス紳士。シールドで雨を防いで歩く男子たち、ハーレイに教わったばかりのイギリス紳士が何人か。傘を差さずに悠然と。
 イギリス紳士だ、と眺めながらも自分は傘の中だけれど。濡れないように広げているけれど。
 紳士のための雨傘が生まれる前の時代は、傘は女性のための持ち物。
 馬車が無いのだと思われないよう、紳士は傘を持たずに歩いた。雨の中でも。それを思うと…。
(ぼくって、駄目かも…)
 傘を差さないと歩けないタイプ・ブルーだから。不器用なせいで張れないシールド。
 お洒落に傘を抱えて歩けはしなくて、イギリス紳士は気取れない。傘を畳めば、濡れるだけ。
(…ハーレイだとシールド、張れるのにね?)
 前のハーレイも、今のハーレイも、防御に優れたタイプ・グリーン。自分のように不器用というわけでもないから、今のハーレイもシールドは上手く張れる筈。
 きっとハーレイなら、イギリス紳士のクチだったろう。隣町の家で育ったハーレイ。
 子供時代はヤンチャだったと聞いているから、雨の日も傘を差さずに登校。
 その光景が目に浮かぶようで、クスッと零してしまった笑い。
 ぼくはイギリス紳士になれないけれども、ハーレイはきっとイギリス紳士、と。



 家に帰ってもシトシトと雨。イギリス紳士な子供時代のハーレイが駆けてゆきそうな。
 今日はハーレイは来てくれるだろうか。仕事帰りの、大人のハーレイ。
 来て欲しいな、と部屋で何度も窓を見ていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄り、見下ろした庭と門扉の向こう。大きな雨傘を広げたハーレイ、当たり前のように差しているけれど…。
(要らないんだよね?)
 傘なんか、きっと、本当は。
 もう大人だから、「人間らしく」と差しているだけで、シールドすれば要らない雨傘。
 きっとそうだという気がするから、ハーレイと部屋で向かい合うなり訊いてみた。
「ねえ、ハーレイもイギリス紳士?」
「はあ?」
 いきなりなんだ、何の話だ?
 俺はイギリス生まれじゃなくてだ、隣町で生まれて育ったんだが…?
「今日のハーレイの話だってば。…ぼくのクラスでやってた授業」
 傘のお話、していたじゃない。傘を差さずに登校した子はイギリス紳士、って。
 ハーレイの子供の頃はどうなの、イギリス紳士な子供だったの?
「あれか…。うん、確かにイギリス紳士だったな」
 シールドすれば濡れないわけだし、傘を差すなんて面倒じゃないか。
 それに学校に行く時は降っていたって、帰る頃には止んでいることもよくあるだろう?
 晴れちまっていたら傘を忘れて帰るのがオチだ、忘れないためにも持って行かないのが一番だ。
 だが、あの頃の俺はイギリス紳士を知らんしなあ…。



 気の利いた言い訳は出来なかった、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 今なら先生に「傘は?」と睨まれた時は、「イギリス紳士ですから」と胸を張れるんだが、と。
「ハーレイ、やっぱりそうだったんだ…」
 イギリス紳士だったのかな、って想像したけど、当たっていたよ。
 タイプ・グリーンはシールドを張るのが上手いから…。子供の頃にはやってたよね、って。
 さっきは傘を差していたけど、子供だった頃はイギリス紳士、って。
「まあな。…ヤンチャ盛りだ、ついついやりたくなるってもんだ」
 もっとも、今から考えてみれば、前の俺のせいってヤツも少しはあるかもしれんがな。
 俺がイギリス紳士になっちまった理由。
「えっ?」
 前のハーレイって…。なんで、前のハーレイがイギリス紳士?
 何処でそんなのやっていたわけ、シャングリラに雨は降らなかったよ…?
 公園とかに水撒きする時は、雨に似ていたかもしれないけれど…。水撒きの時間は入らないのが基本だったよ、植物の休憩時間だから。
「シャングリラじゃなくて、ナスカだ、ナスカ」
 雨上がりに虹を探していたって話をしたろう、ナスカには雨が降ったんだ。本物の雨が。
 しかし、シャングリラに雨傘は一つも無かったからな。
 ナスカに着くまで雨の中には出なかったんだし、準備していたわけがない。アルテメシアの雲の中にいるか、でなきゃ宇宙を飛んでいるか。
 傘の出番は全く無いから、誰も傘など作らんだろうが。



 前の自分は深い眠りに就いていたから見ていないけれど、雨が降ったというナスカ。
 淡いラベンダー色の空から、植物たちを育てる恵みの雨が。
 それにちなんで、ジョミーがナキネズミに「レイン」と名前をつけた。恵みの雨のレイン、と。
 赤いナスカに降り注いだ雨。白いシャングリラに雨傘は乗っていなかったのに。
 雨は何度も降ったけれども、何故か作られなかった雨傘。
 誰一人として傘を思い付かなくて、雨が降ったらシールドで防ぐものだった。
「前の俺だって、そうだったわけだ。雨が降ってるな、と思った時にはシールドだった」
 そいつを覚えていたかもしれんな、自分じゃ気付いていなかったが。
 …だから余計にイギリス紳士だ、傘を差さないのが当たり前の暮らしをしてたんだから。
 本物のイギリス紳士とは事情が全く違うが、ナスカじゃ傘は差さないってな。男も女も、大人も子供も。…それを四年もやっていればだ、傘は差さないものだと思ってしまうだろうが。
「…四年もやったら、そうなるかもね…」
 雨の日は傘を差しましょう、って注意する先生だって一人もいないんだし…。
 ヒルマンやエラがそう言わないなら、雨はシールドで防ぐものだと思っちゃうよね。サイオンを普段の生活に使っちゃ駄目だ、って注意してたの、あの二人だから。
「そのヒルマンとエラも、雨の時はシールドを張っていたからなあ…」
 雨傘のことを知らなかったとは思えないがだ、作ろうと言いもしなかった。何故なんだか…。
 ひょっとしたら、わざと黙っていたかもしれないな。雨傘のことを。
 ナスカには少し寄っただけだ、というのがエラたちの考え方だったんだし…。ナスカに合わせて雨傘を作って渡してしまえば、若いヤツらが勘違いをしかねないからな。
 この星にずっと住んでいいんだ、というお許しが出たと。こうして傘まで出来たんだし、と。



 実際の所はどうだったのかは分からないがな、と窓の外の雨をチラリと眺めたハーレイ。
 前の俺は何も聞いてはいないし、ナスカに雨傘が無かった理由は謎なんだが、と。
「…何故無かったかは俺にも分からん。だが、傘無しで四年間だ」
 シールドで雨を防ぐというのは、便利だったんだか、不便だったのか…。
 濡れない点では、傘よりもシールドの方が上ではあるが…。せっかくの雨を弾いちまって、雨の恵みが分からないのが不便だと言えば不便だったな。
 ゼルはわざわざシールドを解いてみたんだぞ。雨というのはどんなものか、と。
「そっか…。シールドしてたら、雨はシールドの周りを流れるだけだし…」
 ちょっと触ってみようとしたって、その手もシールドされちゃうね。
 シールドは身体を丸ごと包み込むもので、手とか足だけヒョイと出すのは無理なんだっけ…。
 うんと頑張ったら、そういう使い方も出来るものかもしれないけれど。
「前のお前がやってないなら、多分、簡単ではないんだろうな」
 自分の身体を守るために張るのがシールドなんだし、はみ出しちまったら話にならん。
 爆風だろうが、小雨だろうが、身体をすっぽり守ってこそのシールドだろう。
 ナスカに傘があったとしたらだ、ゼルは傘の下から手だけを出せば良かったんだが…。傘の柄を持っていない方の手を、突き出すだけで良かったんだが。
 …生憎と傘は無かったからなあ、シールドを解いて身体ごと濡れるしかなかったってな。挙句の果てにツルリと滑って、濡れた地面に尻餅だった。
 転んじまった、とブツブツ文句を言ってはいたが…。嬉しそうではあったな、ゼルは。
 あの時に傘さえ差していたなら、もっと嬉しそうな顔だったろう。
 滑って転びはしないわけだし、ずぶ濡れにもならずに済んだんだから。



 傘があったら、ゼルは雨の良さだけを味わえたんだろうな、とハーレイが見ている遠い星。
 時の彼方で砕けてしまった、今はもう無い、赤い星、ナスカ。
 其処に降った雨を前の自分は見ていない。雨を降らせたラベンダー色の空も。
 ハーレイと共有出来ない思い出、それが寂しい気もするけれど。二人で青い地球まで来たから、今を楽しむべきだろう。地球に降る雨を、傘を差すのが当たり前になった今の世界を。
「えーっと、ハーレイ…。ゼルの話だけど…」
 きちんと傘を差していたって、滑る時にはツルンと滑るよ?
 それに転ぶよ、と話した今の自分の経験。赤いナスカではなくて、青い地球での。
 幼かった頃に雨傘を差して、小さな足には可愛い長靴。生垣の葉っぱにカタツムリがいないか、キョロキョロしながら歩いていた道。水たまりを踏んで見事に転んだ。ツルッと滑って。
 傘は転んだはずみに吹っ飛び、水たまりの中についた尻餅。
 泣きじゃくりながら帰る羽目になった、傘は拾ってもずぶ濡れだから。もうカタツムリを探せはしなくて、家までがとても遠かった記憶。それまでは楽しく歩いていたのに。
 家に帰ったら、驚いた母に熱いお風呂に入れられた。「大変!」と服を全部剥がされ、もの凄く熱いシャワーをかけられ、そのままお風呂。
 母の勢いにビックリしたから、涙はピタリと止まってしまった。熱いお風呂に浸けられて。
 お蔭できっと、風邪は引かずに済んだのだろう。こうして覚えているのだから。
 その後で熱を出していたなら、寝込んだショックで全部忘れてしまったろうから…。



 小さかった頃の失敗談。傘があってもずぶ濡れになった、ゼルよりも間抜けな幼かった自分。
 こうなるんだよ、と披露した話に、ハーレイは穏やかに微笑んでくれた。
「なるほどなあ…。傘があっても、ゼルみたいに滑って転びもする、と」
 そうやって派手に転んだお前は、律儀に傘を差してたわけで…。
 今のお前はイギリス紳士にはなれないんだよな、シールドを張れやしないんだから。
 前に俺の傘を借りて帰っていたし…。折り畳み傘を家に忘れて来ちまって。
「…前のぼくなら、イギリス紳士になれたんだけど…」
 ちゃんとシールド出来たんだけど。…雨が降ったら、傘の代わりに。
「だろうな、ナスカで前のお前が起きていればな」
 シャングリラで眠ったままでいないで、起きてあの星に降りてたら…。
 雨の日だったら、そりゃあ見事なシールドを張っていたんだろうなあ…。青い色のヤツを。
「アルテメシアでやってたよ!」
 シャングリラの外に出て行った時に、雨が降ったらシールドだってば。
 ハーレイたちが知らないだけだよ、そんなトコまでモニターしていたわけじゃないから…。
 ぼくとは思念で連絡がついたし、それで充分だったから。
 いちいち報告なんかしないよ、「雨が降って来たからシールド中」なんて、つまらないことは。
 前のぼくには当たり前のことで、ちっとも難しくはなくて…。
 降って来たな、って思った時にはシールドだったよ、考えただけで張れたんだよ…!



 とても上手に張れたんだから、と頬を膨らませた。
 今の学校にいるイギリス紳士たちよりずっと上手に、と。
「ホントだってば、前のハーレイたちが一度も見ていないだけ…」
 何度も何度も張ってたんだよ、アルテメシアで雨がポツポツ降って来た時は。
「…そいつが出来なくなったってか?」
 前のお前はイギリス紳士を気取っていたってわけではないが…。シールドは得意で、雨の時にはシールドだった、と。
 それが今では下手くそどころか、シールドの欠片も張れやしない、と言うんだな。
 イギリス紳士の真似は出来なくて、雨が降る日は傘が無いと家から出られない、と。
「うん…。今のぼく、ホントに不器用だから…」
 ハーレイの子供の頃と違って、イギリス紳士は無理みたい。
 今のぼくだってタイプ・ブルーなのに、前のぼくとは月とスッポン。
 傘は差さずにカッコ良く、って出来やしないよ、どう頑張っても。
 せっかくイギリス紳士の話を聞いても、真似は出来っこないんだよ。雨の日は傘が無いと駄目。
 馬車も車も持っていなくて、シールドも無理で、傘を差すしか無いんだから…。



 傘は元々、女の人の持ち物だよね、と項垂れた。ハーレイの授業で覚えた知識。
 遠い昔のヨーロッパでは傘は日傘で、女の人だけが差したんだから、と。
「…ぼくって、その頃の駄目な男の人みたい…」
 ハーレイが言ってた男の人が雨傘を差してせっせと歩いて、紳士のシンボルになるよりも前の。
 男の人が傘を差したら、馬車が無いんだって思われた頃の。
 …学校のみんなは、ちゃんとシールド張れるのに…。傘を差してる人だって。
 だけど、ぼくにはシールドが無くて、なんだか馬車が無いみたい。
 みんなは馬車を持っているのに、ぼくだけ馬車が無いんだよ。シールドを張れる力が無いから。
 傘を差すしか方法が無いのと、「人間らしく」って傘を差すのは違うんだもの…。
「別にいいじゃないか、今の時代は傘を差すのが普通なんだから」
 傘が無かったナスカの頃とは違うんだ。…大抵の人は傘を差してる時代だろうが。
 タイプ・ブルーの人でも差してる、それが今では当たり前になっているんだぞ?
 出掛けた先で急に降り出したら、傘を借りるか、雨宿りするか…。大勢の人が集まる場所なら、急な雨だと安い傘が売られて、急いでいる人は買って行く。
 そうじゃないのか、シールドしながら大雨の中を突っ走る大人は滅多にいないぞ。シールドして必死に走っていたなら、親切な人が車を停めてくれるってな。「乗りませんか」と。
 だから堂々と傘を差してりゃいいんだ、チビでもタイプ・ブルーなんです、という顔をして。
 一人前の大人は傘を差さずに歩かないから、今から練習してるんです、とな。



 シールドの代わりに傘というのは大人っぽいぞ、とハーレイは教えてくれたのだけれど。
 それもそうかも、と思った途端に、そのハーレイが言い出したこと。
「…殆どの地域じゃ、大人は傘を差すものなんだが…。雨が降ったら傘なんだが…」
 ずっと昔にイギリスだった辺りの地域は違うらしいな、こだわりってヤツがあるらしい。
 文化を復活させたからには、こうでないと、とイギリス紳士を気取る大人が多いんだそうだ。
 傘は差さずに持って歩くもので、シールドもしない。
 …土砂降りとなったら違うんだろうが、少しくらいの雨なら傘は無しだってな。
「傘を差さない場所は今でもあるんじゃない!」
 イギリスだけかもしれなくっても、ナスカの頃と同じで傘は差さない所。
 傘を差さないのがお洒落なんでしょ、イギリス紳士の頃みたいに…!
 …シールドで避けもしないんだったら、ホントにカッコいいじゃない…!
 ぼくはそっちも絶対無理だよ、濡れたら風邪を引くんだから…!



 幼かった頃に、雨の日に転んでしまった自分。母に「大変!」と熱いお風呂に入れられた。
 弱い身体はあの頃と少しも変わらないから、雨に濡れたら風邪を引く。身体が凍えて、すっかり冷たくなってしまって。
 そんな身体では、今もいるらしいイギリス紳士の真似は出来ない。雨が降るのに傘を差さずに、悠々と歩いていられはしない。たとえ霧雨だったとしても。
「…ぼく、カッコ悪い…。傘を差さないと歩けないなんて…」
 イギリスだった所に生まれなくって良かったよ。…イギリス紳士になれないから。
 此処で良かった、大人になったら傘を差すのがカッコいいんだ、っていう場所に生まれて。
 …シールドが張れないと馬車を持っていないような気持ちになるのは、今だけだもの。
 一人前の大人になったら、傘はきちんと差すものだしね。
「そうだぞ、今だけ我慢しておけば、傘を差すのがカッコいい年になれるってもんだ」
 俺だって今じゃ傘を差すだろ、お前が窓から見ていた通りに。…お前くらいの年の頃には、傘を差さずにイギリス紳士をやってたのにな。
 …まあ、日本でもあったらしいんだが…。傘を差さないのがカッコ良かったという話。
 今の季節じゃなくて春だが…。冷たい雨ではなかったんだが。
「なに、それ…。春だと傘を差さない文化だったの?」
 日本だと春にそれをやるわけ、イギリス紳士と違って日本の紳士は春だけ傘を差さないの…?
 なんで春なの、季節は春だと決まっているの…?
「暖かいからじゃないのか、春は」
 少しくらいなら濡れてしまっても、風邪を引かない季節だし…。
 夏の雨だと、日本だった頃には酷い土砂降りが普通だったから、ずぶ濡れになるし。
 それで春ってことなんだろうな、文化ってほどじゃないんだが…。
 昔の侍をモデルにして作った、劇の中の台詞だったんだがな。



 ハーレイの古典の範疇になるのか、それとも薀蓄の方になるのか。
 月形半平太という主人公の侍、その名台詞が「春雨じゃ、濡れて参ろう」というものだった。
 連れの舞妓に傘を差し掛けてやる場面で、自分は濡れてもかまわないから、と。
 印象深い台詞だったらしくて、言葉だけが一人歩きを始めた。劇を観たことがない人まで使ったほどに。小雨の中を傘無しで歩くような時には、気取って真似て。
「やっぱり、カッコいい人は傘を差さないものじゃない…!」
 イギリス紳士だけじゃなくって、日本でも…!
 紳士じゃなくって侍だけれど、お芝居の登場人物だけど…!
 真似をする人が沢山いたなら、カッコいいってことなんだよ。傘を差さずに歩くことが…!
 傘を差さなきゃ歩けないぼくは、イギリスでも日本でも駄目なんだってば…!
「今の時代は違うと言ったろ、差す方が普通なんだから」
 いい年の大人が傘を差さずにシールドしてたら、そっちの方が変なのが今の時代だぞ?
 財布を家に忘れて来たから傘が買えないとか、借りられる場所が無かっただとか…。
 何か事情があるんだろう、と誰かが声を掛けるってな。「車に乗って行きませんか」とか、この傘を貸してあげますから、とか。
 お前くらいの年の子供がシールドしながら突っ走っていても、そういうことにはならないが…。
 面倒だから傘を持たずに出たな、とニヤニヤされるだけなんだが。
 だから、お前も堂々とすればいいと言ったぞ、「傘を差して歩く練習中です」と。
「何も知らない大人から見たら、そうなるのかもしれないけれど…」
 お行儀のいい子供に見えるかもしれないけれども、ぼくには分かっているんだもの…!
 ぼくは傘無しでは歩けないから、傘を差して歩いているだけなんだ、って。
 傘を差さないのと、差すしかないのは違うんだよ…!



 天と地ほどに違うんだから、と今の境遇を訴えた。
 前の自分だった頃は簡単に張れた、降ってくる雨を避けるシールド。それが張れない今の自分。
 今日は朝から雨だから、と傘を差して出掛けた学校で出会った、シールドを張った男子たち。
 それだけでも充分、今の自分は駄目だと思っていたのに、ハーレイが話したイギリス紳士。傘を差さずに歩くのがお洒落、傘を差したら馬車を持っていないと思われた時代。
「今日のハーレイ、ぼくのクラスにイギリス紳士がいるって話をしたんだもの…」
 不器用さを思い知らされちゃったよ、今のぼくの。
 イギリス紳士は絶対に無理で、なんだったっけ…。春雨だったら傘を差さない侍の話。そっちも無理だよ、濡れたら風邪を引いちゃうんだから…!
 春でも夏でも、ぼくの身体は雨に濡れたら風邪なんだから!
 水たまりで転んじゃった時には、たまたま運が良かっただけ。ママが急いで熱いお風呂に入れてくれなきゃ、間違いなく風邪を引いたんだから…!
「ふうむ…。お前としては、傘を差さずに歩ける自分が憧れってことか」
 でなきゃ目標にしたいわけだな、そういう自分を。前のお前みたいにシールドが張れて、雨でも傘が要らないのを。
 器用になりたいという気持ちは分かる。お前、とことん不器用だしなあ、サイオンが。
 しかしだ、傘は大切なんだぞ、イギリス紳士のステイタスシンボルだった傘とは違った所で。
 いいか、落ち着いて考えてみろ。
 傘が無いと出来ないことがあるんだ、傘が無かったナスカじゃ絶対に出来ないことがな。
 …もっとも、あの時代に傘があったとしたって、前のお前と俺とじゃ無理だが…。
 ソルジャーとキャプテンだった以上は、やろうって方が無理なんだが。
 キャプテンの俺は、ソルジャーに傘を差し掛けるだけで、隣に並べはしないだろうしな。
 傘があっても、相合傘とはいかなかったな、前のお前と俺ではな…。



 その相合傘が出来る時代が今だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 傘が無いと相合傘は出来ないわけだし、俺としては大いに傘を差したいんだが…、と。
「お前が傘を差さないクチなら、そいつが出来なくなっちまうんだ」
 イギリス紳士や、「春雨じゃ、濡れて参ろう」ってヤツを気取るんだったら、相合傘はな…。
 お前の場合はどうなんだ?
 俺と一緒に相合傘で歩いてゆくより、傘を差さずにイギリス紳士の方がいいのか?
「そっか、ハーレイと相合傘…!」
 傘を差さなきゃ、相合傘は出来ないね…。持ってるだけのイギリス紳士じゃ、相合傘は無理。
 春雨だから、って濡れて歩いても、相合傘にはならないよね…。
「その相合傘、やりたいんだろうが」
 お前の顔を見ただけで分かる。…イギリス紳士も、月形半平太も、頭の中から吹っ飛んだろう?
 俺と二人で相合傘だ、と思った途端に、綺麗に全部。
「うんっ!」
 そっちの方がいいに決まっているじゃない…!
 ハーレイと二人で傘を差さずに歩けたとしても、ちゃんとシールド出来たとしても…。相合傘の方がずっと素敵で、それをやりたいからシールドしないよ。
 二人で一つの傘がいいもの、前のぼくだと無理だったけど…。
 ナスカで起きてて、傘があっても、ハーレイと恋人同士だったってことは秘密だったし…。
 雨のナスカに降りる時には、ハーレイがぼくに傘を差し掛けてくれるだけ。…そうでなければ、別々の傘を差して歩いていくしかないよね、ソルジャーとキャプテンなんだもの。
 二人で一つの傘を差して歩こうとしたら、誰かがサッと傘を渡してくれるんだよ。自分の傘を。
 「こちらの傘をお持ち下さい」って、「私はシールドしますから」って。
「ははっ、ナスカでイギリス紳士か、月形半平太の登場なんだな」
 誰がそいつをやるんだろうなあ、キムかハロルドか、それともリオか…?
 ナスカの頃には、キムもハロルドも、立派な大人になってたからなあ、イギリス紳士を気取っていたって似合ったろうさ。
 しかし、俺たちはイギリス紳士や月形半平太が出て来ない方が良かったわけで…。二人で一つの傘を差すのが良かっただろうな、あの頃は出来ない相談だったが。



 今の時代は傘だってあるし、相合傘も出来る恋人同士になれるんだから、と微笑むハーレイ。
 いつか二人で雨の中を歩ける時が来たなら、二人用のデカイ傘を買うかな、と。
「上等な傘を買おうじゃないか。お前と二人で入れる傘を」
 二人で入っても濡れないくらいに大きいのをな。
 専門の店に行けば色々な傘が並んでいるから、うんと奮発しようじゃないか。
 前の俺たちには無かったものだし、あったとしたって相合傘は出来ない二人だったんだから。
「…ホント?」
 これがいいな、って選んだ傘が高い傘でもかまわない…?
 急な雨の時に売られる傘なら、うんと沢山買えそうなのでも…?
「当たり前だろうが、俺たちのための相合傘だぞ。ただの傘とは違うんだ」
 お前と二人で差す傘なんだし、とびきりの傘を買わないと…。
 イギリス紳士の傘にも負けない、お洒落なヤツを。
 俺の隣の美人のお前が一層綺麗に見える傘がいいな、お前の姿が引き立つヤツが。



 そういう傘を買って二人で差そうじゃないか、と誘われたから。
 傘を差さずに歩くようなら、相合傘など出来ないから。
 雨が降ったら傘を差さないと歩けないような、不器用な自分もいいだろう。
 シールドを張って傘を差さずに歩くことは出来ない、不器用な自分。
 イギリス紳士は気取れないけれど、代わりにハーレイと相合傘。
 二人で一つの傘に入って、雨の中を二人で歩いてゆこう。
 恋を隠していた白いシャングリラには無かった雨傘、それを二人で堂々と差して…。




             紳士の雨傘・了

※今のブルーは傘を差すしかありませんけど、シャングリラには存在しなかった雨傘。
 ナスカでも使っていなかった傘を、今度は二人で差すのです。雨が降る日に、相合傘で…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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「日本には昔、貝合わせという遊びがあって、だ…」
 古典の授業とまるで重ならないこともないな、とハーレイが始めた得意の雑談。生徒が集中力を切らさないよう、授業の途中に挟み込まれる。居眠りしそうだった生徒もハッと目覚める、楽しい話や珍しい話。
 今日は何かな、とブルーの心も浮き立った。貝合わせとは、どんな遊びだろう?
(貝を使って遊ぶんだよね?)
 何をするのかと続きを待ったら、女性が遊ぶものだった。遠い昔に、ハマグリの殻で。
 貝は左右で一組になって、中には同じ絵が描いてあるもの。その片方を伏せてズラリと並べて、もう片方は一枚ずつ出す。その一枚とピタリと合う貝、それを探すのが貝合わせ。
 伏せてあるから中の絵が見えるわけなどはないし、貝殻の模様だけを頼りに。ハマグリを使った神経衰弱、そういった遊びらしいのだけれど。
「これがなかなか難しかったらしい。分かりやすい模様の貝ならいいんだが…」
 紛らわしい模様の貝も多くて、これだと思ってもハズレだとかな。
 そしてだ、中に絵なんか描いてなくても貝合わせは出来ないこともない。お前たちが家で遊んでみたいんだったら、まずはハマグリ集めだな。数さえ揃えば真似事は出来る。
 絵を描かなくても遊べる理由は、ハマグリだ。別の貝とは、絶対にピタリと合わないからな。
「そうなんですか?」
 同じサイズならいけそうですが、と飛んだ質問。ハーレイは「無理だ」と直ぐに答えた。
「疑うんなら、試してみろ。ハマグリを食った時にでも」
 俺だって、こいつを知った時には試してみたんだ、幾つもな。
 今度こそは、と合わせてみたって、カチリと嵌まりはしなかった。元から対の貝以外はな。
 だからだな…。



 他の貝とは、決して合わないらしいハマグリ。
 まるで夫婦のようだから、と遊び道具から嫁入り道具に昇格したのが貝合わせの貝。綺麗な絵を描かせて、貝桶と呼ばれた専用の豪華な箱までつけて。
「貝も立派なら、貝桶も実に立派だったそうだ。嫁入り道具の花形ってトコだ」
 大名は知っているだろう。大名の家の嫁入り道具は山のようにあったわけなんだが…。その中で一番大切なヤツが、貝合わせを詰めた貝桶なんだ。
 嫁入り行列の先頭を飾って、着いたら真っ先に引き渡された。他にも道具はあるのにな。
「へえ…!」
 遊び道具が一番ですか、と驚くクラスメイトたち。もちろん、ブルーも驚いたけれど。
 嫁入り道具なら、もっと高価な物も沢山あっただろうに。生活に欠かせない物も山ほど。なのに貝桶、遊びの道具が一番というのが不思議な所。
「遊び道具には違いないんだが…。他の貝とは決して合わない、そこが重要だったってことだ」
 他所の家には嫁ぎません、という意味がこもっていたんだな。他の貝とは合わないんだから。
 一生、相手は一人だけです、と誓いを立てるには持ってこいだろ?
 もっとも、誓いを立てたくっても、庶民には無理なものだったんだが…。どうしてかって?
 貝合わせの貝も、貝桶の方も高すぎてな、という締め括り。
 特権階級の遊び道具だった貝合わせ。
 そういう遊びが生まれた時代も、嫁入り道具になった時代も。
 ハマグリの中に絵を描かせるなど、庶民にはとても出来ない贅沢。立派な貝桶を誂えることも。



 初めて知った、貝合わせという遊びや嫁入り道具になった貝桶。
 面白かった、と聞いて帰ったら、夕食のテーブルでバッタリ出会った。その貝殻に。
 ハーレイは帰りに寄ってくれなかったけれど、食卓に出て来たハマグリの酒蒸し。深めの大きな皿に盛られて、ホカホカと湯気を立てるハマグリ。
(…ハマグリ、出ちゃった…)
 貝殻だけがあったら遊べる、とハーレイが話した貝合わせ。中に絵などは無いハマグリでも。
 他の貝殻とは合わないのだから、家で試してみればいい、と。
 タイミング良く出会ったハマグリ。自分の皿に取り分けて食べる間も、なんとも気になる。他の貝とは合わないのかと、どれも似たような大きさなのに、と。
 幾つか食べて殻が増えたら、我慢出来なくなってしまって。
「んーと…。このハマグリ…」
「どうしたの、ブルー?」
 お腹一杯になっちゃったの、と母が訊くから、首を横に振った。
「ううん、そうじゃなくて…。ハマグリの殻」
 食事中だし、お行儀が悪いとは思うんだけど…。この殻、くっつけてみてもいい?
「えっ? 殻は元からくっついてるでしょ、二枚ずつ」
「それを外すんだよ。…外した貝殻、他のとくっつけてみたいんだけど…」
 他の貝でもくっつくかどうか、と中身を食べてしまったハマグリの殻をつついたら。
「なんだ、ハーレイ先生か?」
 また面白いことでも聞いて来たのか、と父の瞳が笑っている。
「分かっちゃった?」
 今日の授業で教わったんだよ。…授業じゃなくって、雑談の時間だったけど…。
 でもね、古典と無関係でもないかもな、って。だって、日本のずっと昔の遊びだから。



 ハマグリを使った遊びなんだよ、と貝合わせの説明をしながら幾つかの殻を外してみた。二枚で一組、それをパキンと切り離して。似たような大きさの貝を選んで。
 さて…、と合わせにかかったハマグリ。模様は無視して、大きさだけが同じようなのを。
 けれど合わない、重なるようでもピタリとくっついてはくれないハマグリ。同じ模様のハマグリ同士なら、カチリと微かな音がするのに。隙間なくピタッとくっつくのに。
 あれもこれもと他の貝殻を幾つも外して挑んでみても、貝が違うと確かに合わない。ハーレイが教室で言った通りに、殻だけあったら貝合わせを始められそうなほどに。
「面白いもんだな、それだけあっても駄目なのか」
 パパはその遊びは知らなかったし、試してみたことも無かったなあ…。
 何度もハマグリ、食べたんだが。
「ママもちっとも知らなかったわ、お料理の後に捨てちゃったハマグリは沢山あるのに」
 あのハマグリの殻を全部残してあっても、やっぱり一つも合わないのよね?
 ずうっと昔に大勢の人が試してみたから、そんな遊びが出来たわけだし…。
「ぼくもホントにビックリしちゃった…」
 これとこれなんかは、大きさ、ホントにおんなじだよ?
 模様も似たような感じなんだし、くっつきそうに見えるんだけど…。やっぱり駄目。
 面白いよね、そっくりさんでも合わないだなんて。元のこれしかカチッて音はしないんだから。
 これもそれも駄目、と幾つも試して遊んだハマグリ。
 いったい誰がこういう遊びを思い付いたろうと、中に綺麗な絵を描いてまで、と。
 夕食の後で、全部のハマグリの殻を揃えて挑んだけれども、合う貝は一枚に一つずつ。他の貝とピタリとくっつく貝は無かった、ただの一つも。



 せっせとハマグリを合わせて遊んだ次の日は土曜日。
 貝合わせの話を教室でやった、ハーレイが訪ねて来てくれたから。報告しなきゃ、とテーブルを挟んで向かい合わせで早速話した。
「あのね、貝合わせ、やってみたよ」
 本物じゃないけど、ハーレイが言ってた貝殻だけのヤツなんだけど…。
「ほう? もう試したのか、俺が話したのは昨日だぞ?」
 お前、お母さんに我儘を言ったわけではないだろうな?
 遊びたいから、ハマグリの料理を作ってくれ、と。
「違うよ、偶然だったんだってば! …ホントだよ?」
 ママに確かめてくれたっていいよ、ぼくはなんにも頼んでいないよ。晩御飯だ、って呼ばれて、下りて行ったら、ハマグリの酒蒸し…。お皿にドッサリ。
 このくらい、と示したお皿の大きさ。これに一杯、と。
「なるほど、ハマグリの酒蒸しと来たか。それは沢山試せそうだな」
 で、貝合わせをやった結果はどうだったんだ。…他の貝と合う貝ってヤツは見付かったか?
「一つも無かった…。そっくりの貝でも合わなかったよ」
 模様が似ていて、大きさもおんなじようなハマグリ。
 これなら合うかも、って合わせてみたって、カチッと音はしなくって…。
 どうやってもピタリとくっつかなかった、元から一緒だった貝同士はピタッとくっつくのに。



 あんなにあっても全然ダメ、とお手上げのポーズで広げてみせた手。
 沢山あったら、いつかは合うのが見付かるだろうか、と。
「ママは、ハマグリのお料理を何度も作ってくれたんだけど…」
 あの貝殻が全部残っていたって、やっぱり一つも合わないのかな…?
「合わんと思うぞ、そういう貝は一つも無かったんだろう。…ずっと昔から」
 地球が滅びてしまうよりも前から、いろんな人が試した筈だぞ。
 貝合わせの遊びが出来た頃には、今よりもずっと真剣に。
 なにしろ、ハマグリが珍しかった時代なんだ。…貝合わせで遊んだ貴族たちの都は、海が近くに無かったからな。今みたいに気軽に買えやしないし、食べられもしない。
 次にハマグリを食えるのはいつか、まるで分からないわけなんだから…。そりゃあ真剣に探しただろうさ、合いそうな貝があるかどうかを。
 何人もの貴族が頑張って探して、とうとう見付からなかったんじゃないか?
 他のハマグリともピタリと合うヤツ、ついに一つも。
「それで貝合わせが出来ちゃったの?」
 一個だけしか合わないんだから、それで遊ぼうって思い付いたの?
 ハマグリの殻で神経衰弱、やってみたらきっと楽しそう、って。
「多分な、始まりはそんなのじゃないか?」
 最初は絵なんか、描いていなかったかもしれないな。
 とにかく合う貝を探し出すだけで、ハマグリの数も決まっていなくて。



 貝合わせの遊びが生まれた時代。遠く遥かな昔の地球の、日本という国の平安時代。
 海から遠かった平安の都、元々は珍しい貝殻を持ち寄って競う遊びが貝合わせだった。模様や、貝の形やら。より珍しい貝を出した者が勝ち、そういう遊び。
 その時代には、貝合わせは貝覆いと呼ばれていたらしい。誰が始めたかは伝わっていない。中の絵が最初からあったかどうかも、ハマグリの数がどうだったかも。
「そうなんだ…。だけど、他の貝とは合わないってことに気付いて始めた遊びだったら…」
 貝合わせ、ぼくとハーレイみたいだね。…ううん、始まりは貝覆いだっけ。
「はあ? なんで俺たちが貝合わせなんだ?」
 貝覆いの方でも何でもいいがだ、どうやったら俺たちがそれになるんだ…?
「貝合わせの遊びじゃなくって、ハマグリ…。貝合わせに使うハマグリだよ」
 他の貝とはくっつかないから、貝合わせの貝になっちゃったんでしょ?
 中に綺麗な絵を描いて貰って、二枚で一組。他の貝とはくっつかないのが二枚で一組。
 ぼくとハーレイ、それに似てるよ。…他の人とは恋人同士にならないから。
 前のぼくたちだった時もそうで、今だってそう。
 生まれ変わっても、他の人とは絶対、くっつかないんだもの。
 …きっと、無理やりくっつけようとしたって駄目。だから今でも一緒なんだよ。
「それはそうかもしれないなあ…」
 お前以外の誰かを恋人に欲しいと思ったことなんか無いし…。
 前のお前と一緒だった頃にも、そうだったんだし。
 確かにハマグリなのかもしれんな、他の誰とも決してくっつかないんだからな。



 茶色と白の組み合わせなんぞは聞いたこともないが、と可笑しそうなハーレイ。
 そんな色違いになったハマグリなんか、と。
「茶色と白のハマグリ…。無いの?」
 ぼくとハーレイみたいなハマグリ、もしかして探しても見付からないの?
 他の貝と合うハマグリが見付からないのと一緒で、茶色と白のハマグリも無い…?
「どうなんだかなあ…。ハマグリとは違う種類の貝なら、その手のヤツもあるんだが…」
 元々左右で色が違う貝は幾つかあるんだ。
 茶色と白の貝ならホタテ貝だな、あれはパキッと外しちまったらそれっきりだが…。貝合わせの貝に使うのは無理で、お洒落に料理を盛り付けるだとか、そんな風にしか使えないんだが。
 月日貝ってヤツも有名なんだぞ、色が違うから月日貝という名前になった。片方が夕陽のような朱色で、もう片方が淡い黄色で月みたいだ、とな。
 しかし、月日貝もホタテ貝と形が似ている貝だし、貝合わせには使えんなあ…。
「色違いが普通になってる貝だと、貝合わせは無理な形なのかな…?」
 貝合わせをするのにピッタリだから、ってハマグリが選ばれたんだろうけど…。
 茶色と白の貝、ハマグリには無いの…?
 ぼくとハーレイの色をした貝殻、ハマグリだと見付けられないの…?
「さてなあ…?」
 少なくとも俺は見たことが無いな、見たという話も聞いてはいない。
 親父やおふくろが出会ったのなら、何かのついでに俺に話しているんだろうし…。
 友達が見付けても、「こんなのを見た」と実物を持って来そうだぞ。
 しょっちゅう見付かるようなものなら、そういうことにはならないってな。



 ハーレイによると、ハマグリの殻の左右は同じ模様になるのが基本だという。色も同じで模様も同じ。そういう種類の二枚貝。
 たまに左右で違う模様のハマグリが見付かるらしいけれども。
「…それって、ハマグリのミュウなのかな?」
 おんなじ模様のハマグリが普通で、たまに混じっているんなら。
 …今じゃなくって、前のぼくたちだった頃のミュウ。周りは殆ど人類ばかりで。
「いや、どちらかと言えばアルビノだろう」
 お前みたいに色素が抜ける程度のことだな、前の俺たちの時代だとしても。
 前のお前はサイオンがあったから大変だったが、アルビノだけなら問題にはならなかったろう。
 外見が違うというだけなんだし、マザー・システムに睨まれる理由にはならん。
 それと同じだ、模様が違うハマグリも。
 進化したわけじゃないんだからなあ、突然変異というヤツだ。
 珍しいな、と思われはしても、ハマグリってトコは何も変わらん。ミュウと違って。
「そうなの? …それ、ハマグリのミュウじゃないなら…」
 茶色と白のも、あっても良さそうなんだけど…。
 ぼくとハーレイの色のハマグリ、ハーレイ、ホントに聞いたことが無いの…?
「無いなあ、茶色っぽく見えるハマグリだったら知ってるが…」
 白っぽいハマグリも珍しくないが、一つの貝でセットというのは…。
 見たことも無ければ聞いたことだって一度も無いんだ、さっき話した通りにな。



 無いと聞かされたら、俄かに欲しくなってきた。茶色と白のハマグリが。
 他の貝とは決して合わない二枚の貝殻、その片方が茶色のハマグリ。もう片方は真っ白の。
 もしもあったら、自分とハーレイみたいだから。
 生まれ変わっても恋人同士で、他の人とはくっつきもしない、茶色と白の二人だから。
 白い肌の自分と、褐色の肌のハーレイと。それを映したようなハマグリ、茶色と白のが欲しいと思う。他のハマグリとは合わないハマグリ、茶色と白でしか合わない貝が。
「…そういうハマグリ、何処かに無いかな…」
 茶色と白のハマグリがあるなら、大事にするから欲しいんだけど…。
 でも、珍しいのなら、見付けた人が持ってっちゃうかな、くれる代わりに。
「おいおい、そんなの何にするんだ?」
 大事にするって、コレクションとか、そういったものか?
 俺とお前の色だって言うし、お前専用の宝箱にでも入れておくのか?
「違うよ、宝物じゃなくってお守り」
 その二枚だけしか、くっつく貝は無いんだもの。他の貝じゃ駄目。
 だから、ぼくとハーレイが離れないように、お守りにしたいと思わない?
 きっとハマグリが繋いでくれるよ、もう片方の貝とくっつきたいから。
 離れていたって、こっちだよ、って呼ぶと思うよ、もう片方を。



 片方の殻は茶色で、もう片方は白のハマグリ。
 そんなハマグリが手に入ったなら、片方ずつ持っておけばいいよ、と提案してみた。
 ハーレイが白の貝殻を持って、ぼくは茶色、と。
「ぼくの所にはハーレイの色で、ハーレイの所には、ぼくの色の白」
 逆でもいいけど、ぼくは自分の色のを持つより、ハーレイの色のを持っていたいし…。
 ハーレイもぼくの色がいいでしょ、自分の色をした方の貝殻よりかは。
「ふうむ…。俺の色のを持っていたって、少しも嬉しくないからなあ…」
 お前なんだ、と思える色の方が欲しいな、俺だって。白い方のを。
 茶色と白でセットのハマグリの殻を、俺とお前で片方ずつか…。そいつはいいかもしれないな。
 もう片方の貝が呼ぶから、離れないお守りになってくれる、と。
「うん、絶対に離れないお守り」
 何処にいたって、ハマグリが相手を呼んでいるから、ぼくたちも離れないんだよ。
 だって、ぼくたちが離れちゃったら、ハマグリは相手とくっつけないし…。
 それにね、もう片方の貝としか合わないハマグリを持っているんだもの。
 ぼくの恋人はハーレイだけだし、ハーレイとしかくっつかないよ。
 そんな気持ちもこもったお守り、きっと素敵だと思うんだけど…。
 あるなら欲しいな、ハマグリのお守り。
 茶色の方を持っていたいよ、ハーレイには白い方を渡して。



 何処かにあるなら欲しいんだけど、とハマグリのお守りに思いを馳せたのに。
 茶色い貝殻と白い貝殻、それがピタリと合わさるハマグリが欲しいのに…。
「そのお守りは要らないんじゃないか?」
 持っていなくてもいいような気がしないでもないぞ、ハマグリの殻は。
「なんで?」
 ハーレイと離れないお守りなんだよ、大切に持っておきたいじゃない!
 離れちゃっても大丈夫、ってハマグリの殻を片方ずつ。
 ぼくはハーレイの色の茶色で、ハーレイはぼくの色の真っ白。
「…だから要らないと言っているんだ。俺たちは離れはしないだろうが」
 俺が仕事に出掛ける程度だ、離れるとしても。…それは離れる内にも入らん、仕事が終わったら急いで家に帰るんだから。出掛けるのと離れるのはまるで違うぞ、そう思わないか?
 俺とお前は、離れることなど無いだろうが。
 どんな時でも、今度こそは。
 死ぬ時まで二人一緒だろうが、お前がそうしたいと言ったんだから。
 …前の俺たちみたいに離れてしまうことは無いだろ、絶対に。
 俺はお前の手を離しやしないし、何処までも一緒だと誓った筈だぞ、今度こそはな。
 前の俺みたいに、お前を一人で行かせはしない。俺がお前を守ってやるんだ、今の俺には充分な力があるんだから。
 …お前が一人で頑張らなくても、俺が代わりに頑張ってやる。どんな時でも、離れないで。
「だけど、お守り…」
 やっぱり欲しいよ、ハーレイとぼくの色のハマグリ。
 他の貝とは合わないって聞いたら、ハマグリのお守り、欲しいんだけど…。



 ハーレイに教わった貝合わせ。沢山のハマグリの殻で試してみたから、ピタリと合う貝は元から一緒にいた貝だけだ、と分かっている。
 遠い昔には嫁入り道具になったくらいに、他の貝とは合わないハマグリ。
 茶色と白が片方ずつのハマグリは聞いたことも無い、と言われてしまえば余計に欲しい。自分とハーレイのようなハマグリ、茶色と白がセットの貝が。
「…俺はお守りは要らんと言ったが、ハマグリも要らんとは言っていないぞ」
 そういうハマグリが見付かったなら、の話だが…。
 お前と俺とで持つんじゃなくって、一緒に置いておこうじゃないか。茶色と白のを。
 いつも仲良く並べておくとか、くっつけておいてやるのもいい。海にいた時みたいにな。
 その方がハマグリも喜ぶだろうさ、いつでも一緒なんだから。
 離れ離れで持っておくより、二つ一緒に俺たちの家に飾っておこう。俺とお前の色のハマグリ。
 せっかくだからな、中に絵を描くのも悪くはないぞ。
 本物の貝合わせの貝みたいにだ、綺麗に磨いて、好きな絵を描く、と。
「それもいいかも…。ハマグリだって、一緒がいいよね」
 お守りにされて離れ離れになっているより、いつでも一緒。
 隣に並べて置いてあるとか、くっつけて貰う方がいいよね、ずうっと一緒にいたんだから。
 中身の貝をしっかり守って、茶色と白とで、いつも一緒で。



 いつかハーレイと結婚したなら、何処へ行くにもハーレイと二人。
 ハーレイは仕事に出掛けるだけだし、離れるのと出掛けるのは別らしいから。
 それなら茶色と白とがセットになったハマグリの貝殻は、家に飾っておくのもいい。ハーレイが仕事で留守の間は、一人で眺めてみたりして。
(ハーレイと一緒、って、カチッと二つくっつけてみて…)
 ピッタリ合う貝はこの二枚だけ、と撫でてみるのも素敵だろう。ぼくたちみたい、と。
 くっつけて、外して、またくっつけて。
 何度遊んでも飽きないオモチャで、きっと顔だって綻んでくる。とても幸せ、と。
 そう考えたのはいいのだけれども、そのハマグリが置いてある家。
 ハーレイと二人で暮らせる幸せな家は、今はまだまだ手が届かない。
 前の自分と同じ背丈になるまでは。
 結婚出来る年の十八歳になって、ハーレイと結婚するまでは。
(今のぼくには、まだ先の話…)
 十四歳にしかならない子供で、おまけにチビのままだから。
 ハーレイと再会してから少しも、背丈が伸びてくれないのだから。



 これは駄目だ、と零れた溜息。当分、結婚出来はしなくて、ハマグリだって飾れない。
 ハーレイと一緒に暮らす家には置いておけない、茶色と白がセットのハマグリ。
「…ハマグリ、飾るのはいいんだけれど…。素敵なんだけど…」
 まだハーレイと結婚式を挙げられないから、やっぱり離れ離れだよ。
 今日だって、ハーレイ、晩御飯を食べたら「またな」って帰って行っちゃうし…。
 ホントに離れずにいられる日なんか、まだまだずうっと先なんだから…。
 ぼくはこの家にいるしかないから、ハマグリのお守り、持っていたいな、ハーレイの色の。
 結婚した後は二つ一緒に飾っておくから、それまでの間は、お守りに欲しい…。
 ぼくには茶色い方の貝殻、ハーレイは白い方の貝殻。
 探して欲しいよ、そういうハマグリ。…二人でお守りに出来るハマグリ。
「俺が探すのか、そのハマグリを…?」
 見たことも無いと言った筈だぞ、そんな代物をどうやって探せと?
 運良く見付けた人がいたって、珍しいから俺には譲ってくれそうもないが…?
「えーっと、こういうのは…。なんて言うんだっけ、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる…?」
 ハーレイが下手って言うんじゃなくって、数が大切だと思う!
 きっとハマグリが沢山あるほど、見付かる可能性も高くなるんだよ。確率って言うの…?
 だから、ハーレイがハマグリを沢山食べてくれたら見付かるかも!
 酒蒸しの他にも一杯あるでしょ、ハマグリを沢山食べる方法!
「俺に山ほど食えってか!?」
 ハマグリを少しだけ入れるんじゃなくて、ハマグリが主役の料理を山ほど…。
 そうやって探し出せって言うのか、珍品の茶色と白のハマグリ…?



 とんでもないな、と天井を仰いだハーレイだけれど。
 一生分のハマグリを食べる勢いで挑む羽目になるのか、と溜息交じりの苦笑いだけれど。
「それも悪くはないかもな…。ハマグリを食って食いまくるのも」
 今度はお前の手を離さないと決めているから、お前が欲しいと言うのなら…。
 前の俺が離してしまった分まで、俺は頑張るべきかもしれん。たとえハマグリ相手だろうが。
 分かった、お守り、探してやろう。
 片方が茶色で、もう片方が白のハマグリ。…俺たちみたいな色のヤツを。
 見付けられたら、お前に茶色い方を渡してやるから。白い方は俺が大切に持って。
「ホント?」
 探してくれるの、ハマグリのお料理を沢山作って?
 ハーレイだったら、きっと食べ飽きないように上手にお料理出来ると思う…!
 頑張ってね、ハマグリが主役のお料理。ハマグリを幾つも使えるように。
「そうそう毎日、ハマグリばかりは食えんがな…。いくら俺でも、そいつは飽きる」
 好き嫌いが無いのと、料理の素材はまた別物で…。
 ハマグリ地獄は勘弁してくれ、もうシャングリラの時代とはまるで違うんだから。
 とはいえ、努力はしていかないとな、お前の注文のハマグリ探し。
 多分、見付からないとは思うが、心してハマグリを食うことにしよう。
 貝が食べたい気分になったら、ハマグリで満足出来るかどうかを胃袋に訊いて。
「ありがとう! ハマグリ探し、ぼくも手伝うよ」
 ハーレイが頑張ってくれているのに、ぼくだけのんびりしてられないし…。
 ママに色々リクエストするよ、ハマグリを食べてみたいから、って。
「こらこら、気持ちは嬉しいんだが…。お前はやめとけ、疑われるぞ」
 お母さんだって、なんでいきなりハマグリなんだ、と思うだろう。
 ハマグリと俺が繋がってるのは、貝合わせの話でとっくにバレてるんだし…。
 今度は何を始めたのかと質問されたら、お前、ウッカリ言いかねないぞ。
 お守り探しで、茶色と白のハマグリなんだ、と。
 得意になって喋っちまったら、俺とお前がどういう仲かを勘繰られてだな…。



 実は恋人同士じゃないかと疑われちまう、というハーレイの意見は一理あるから。
 自分が茶色と白のハマグリを見付け出したら、大喜びで喋りそうだから。
(…お守りなんだよ、って絶対、言うよね…)
 何のお守りかは喋らなくても、「ハーレイとぼくとで、片方ずつ」とか。
 まだまだチビで子供の自分は、きっとはしゃいで喋るだろうから。
(…ハーレイが言う通り、危なすぎるよ…)
 両親が変だと疑いそうな、ハーレイと自分のためのお守り。茶色と白でセットのハマグリ。
 それを自分で探そうとするのは、今の間はやめておいた方がいいだろう。
 この家で暮らす子供の間は、ハマグリ探しはハーレイ任せ。
 ハーレイが食べたい気分になったら、ハマグリをドッサリ買って貰って。
 ハマグリ地獄にならない程度に、ハマグリの料理を食べて貰って。
(…前のぼく、色々やっちゃったから…)
 前のハーレイがキャプテンになる前、まだ厨房にいた頃に。
 人類の輸送船から奪った食材、それの中身が偏り過ぎて。
 ジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツだらけのキャベツ地獄。前の自分がコンテナの中身を調べもしないで奪った頃は。
 けれど、ハーレイはいつも上手に乗り切ってくれた。調理法などに工夫を凝らして、誰も文句を言えないように。出来るだけ、皆が飽きないように。
(奪い直しに行って来ようか、って言ったのに…)
 必要無い、と言ったハーレイ。「俺がなんとかしてみるから」と。
 あの船で頑張ってくれたハーレイでさえも、ハマグリ地獄は御免らしいのが平和な今。
 ハマグリ地獄に陥らないよう、食べ飽きないよう、ゆっくりハマグリを探して欲しい。
 茶色と白のハマグリを。
 片方の殻はハーレイの色で、もう片方は自分の色をしている素敵なハマグリを。



 そうして、いつか結婚したなら、二人でそれを探してみよう。
 何度も何度もハマグリを買って、美味しいハマグリ料理を食べて。
「ねえ、ハーレイ。…お守りのハマグリ、見付からなくても…」
 見付からないままで、ハーレイと結婚しちゃっても。
 諦めないで探してみたいな、茶色と白のを。ぼくとハーレイみたいな色のハマグリ…。
 家に飾ろうって言っていたでしょ、見付かったら飾っておくんだよ。
 ハマグリのお料理、二人で何度も食べてみようよ、それを探しに。
「もちろんだ。俺も諦めるつもりはないしな、一旦、探し始めたら」
 忘れちまったら話は別だが、覚えていたなら二人で探していかないと…。
 お前が欲しいと思ったハマグリ、俺も見付けてやりたいからな。
 そのためのハマグリ、買うのもいいが…。潮干狩りもいいぞ、海に出掛けて。
 二人でのんびり探そうじゃないか、海の中にいるかもしれないからな。
「あったね、今はそういうの…!」
 小さかった頃に、パパとママと一緒に海でやったよ、潮干狩り。
 とっても大きなハマグリを採ったよ、ぼく、頑張って掘ったんだから…!
 ハーレイと二人で出掛けて行ったら、きっと、とっても楽しいよね。
 前のぼくたちが行きたかった地球の海なんだもの。
 海を見ながらハマグリ探しで、ハーレイと二人で潮干狩りだもの…!



 白いシャングリラで行こうと夢見た水の星。青く輝く母なる地球。
 あの頃の地球は死の星のままで、海にハマグリはいなかったけれど。
 今では青く蘇った地球で、其処にハーレイと二人で来られた。まるで奇跡が起こったように。
 前とそっくり同じ姿で、青い地球の上に生まれ変わって。
 自分たちなら見付けられる日が来るかもしれない、茶色と白のハマグリを。
 ハーレイが「聞いたことも無いが」と首を捻った、左右で色が違ったものを。
 生まれ変わっても、こうして出会えて、一緒だから。
 お互いの他には要らないから。
 他の貝とは決して合わない、ハマグリのように。
 どんなに見た目がそっくりな貝でも、カチリと合わないハマグリのように、お互いだけ。
 だから、見付かるかもしれない。
 ハーレイの色の茶色と、自分の白と。
 そういう殻を持ったハマグリ、左右で色が違った貝が。



「…ハーレイ、茶色と白のハマグリ、見付かるといいね」
 ぼくとハーレイの色のハマグリ。
 いつか見付けて、家に飾っておきたいね…。中に綺麗な絵を描いたりして。
「見付からなくても、俺たちはずっと一緒だろうが」
 わざわざハマグリに頼まなくても、俺にはお前だけなんだ。
 茶色の俺には、白のお前だけしか合わないってな。
 他のを持って来たとしたって、どれも合うわけがないんだから。…ハマグリみたいに。
「ぼくもハーレイだけだよ、ずっと」
 ホントのホントに、ハーレイだけ。
 前のぼくだった頃から、ずっとおんなじ。
 茶色をしているハーレイだけしか、ぼくにはピタリと合わないんだよ。
 きっと、出会った時から、ずっと。
 アルタミラで初めて会った時から、ハーレイとは息が合ったんだもの。
 ハーレイと二人でシェルターを開けて回った時から、ぼくたち、ピッタリ合ってたんだよ。
 あの頃はハマグリ、知らなかったけど…。
 貝合わせなんていう遊びの話も、ちっとも知らなかったんだけど…。
 だけど、あの時から、ずっと茶色と白のハマグリ。
 ハーレイとぼくは、ずっとそういう色の違ったハマグリみたいに、一緒の二人だったんだよ…。



 きっとそうだ、と思えるから。
 茶色と白のハマグリのように、二人一緒に生きていたのだと思うから。
 今度もいつかは一緒に暮らして、幸せに生きて、そして二人で還ってゆこう。
 此処へ来る前にいた場所へ。
 青い地球の上に生まれてくる前、二人で一緒にいただろう場所へ。
 其処で二人で時を過ごして、またいつか二人、地球に戻って来るのだろう。
 いつまでも、何処までも、離れないで。
 何処へ行くにも、還ってゆくにも、ハーレイと二人。
 他の貝とは決して合わないハマグリのように、お互いだけしか要らないから。
 ハーレイには白で、自分は茶色。
 その色だけしか、お互い、欲しいと思いはしない。
 ハマグリのように、相手はたった一人だけ。
 他の相手は要らないから。お互いがいれば、もうそれだけで誰よりも幸せなのだから…。




             ハマグリの遊び・了

※ブルーが欲しくなってしまった、茶色と白の貝殻を持ったハマグリ。お守り用に、と。
 今の二人なら、そんなハマグリにも、出会える日が来るかもしれません。青い地球の上で。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










「ママ、それなあに?」
 ブルーがキョトンと見詰めたもの。
 学校から帰って、丁度おやつを食べ終わる頃。ダイニングに母がやって来た。小さな布製の袋を持って。淡いピンクの布袋。母の手のひらに収まるくらいの、薄く透き通って見える布地の。
「お友達に頂いたのよ。乳香ですって」
 中身はこんなの、と母が開けた袋。中にもう一つ透明な袋、密閉出来ると一目で分かる。透けて見える袋に幾つも入った、不規則な形の小さな塊。乳白色の。オレンジ色を帯びたものやら、薄い緑をおびたものやら。
「乳香って…?」
 それはいったい何だろう、と眺めた塊。食べるものではなさそうだけれど。
「お香よ、木から採れる樹脂なの。ずうっと昔は教会で焚いていたらしいわよ」
 とても大きな香炉に入れてね、天井から吊るして振っていた教会もあったんですって。
 手に持てるサイズの香炉を振りながら、神父さんが歩いていた教会とか。
「ふうん…? 教会で使ったくらいだったら、いい匂いなの?」
 ゴツゴツに見える塊だけれど…。見た目もあんまり綺麗じゃないけど。
「そうねえ、キャンディーを叩き潰したみたいな感じね」
 ママはお香だと聞いてから見たし、お家に行ったら素敵な匂いがしていたから…。
 不思議な形のお香なのね、と思ったけれども、知らなかったら変な塊かもしれないわね。
 でもね、ちょっと触ってみれば分かるわ。
 手を出して、とコロンと手のひらに塊が一つ。
(えーっと…?)
 特に匂いはしないんだけど、と指先でつまむと粉っぽい感じがする表面。樹脂のくせに。
(ツルッとしてない…)
 そういえば、松脂は滑り止めだと聞いたことがある。野球をやっている友達から。
(これも滑り止め…)
 指先に粉がついちゃった、と白い粉がくっついた指を何の気なしに擦り合わせたら。
(えっ…?)
 ふわりと漂った木の香り。粉がついていた指先から。



 いきなり鼻腔をくすぐった香り。まるでログハウスに入ったように。そうでなければ、深い森の奥に足を踏み入れたように。
(…乳香の匂い?)
 これがそうなの、と塊を鼻先に持って行っても、匂いはしない。さっき一瞬、掠めただけ。
 勘違いかとキョロキョロ見回していたら、母がクスッと小さく笑った。
「森の匂いがしたんでしょ、ブルー?」
 でも、今は匂いは消えちゃったんでしょ、ママにも分かるわ、そうだったから。
 それが乳香の匂いなの。…だけど、匂いをゆっくり楽しみたいなら、焚かなくちゃ駄目。
 置いておくだけでは、匂いは消えてしまうのよ。
 乳香はこうして使うものなの、と母が持って来た小さな香炉。たまに微かな煙が昇っている所に出会うもの。玄関を入った所に置いてあったり、リビングだったり。煙の香りは日によって違う。
 母は香炉の蓋を開けて炭に火を点けた。暫く経ったら、その上に幾つか置かれた乳香。
 どうなるのかな、とワクワクしながら見ている内に。
「わあ…!」
 凄い、と声を上げてしまった。樹脂の塊から白い煙が昇った途端に、さっきの香り。
 ダイニングごとログハウスの中に引越したようで、おまけに深い森の中。外へ出たなら、大きな木々がぐるりと周りを囲んでいそうな。見渡す限りの針葉樹の森。
(…ヒノキみたい…?)
 一番身近な香りで言うなら、きっとヒノキの匂いだろう。ログハウスも森も、ヒノキの香り。
 ほんの小さな塊の何処に、部屋一杯に広がるヒノキの香りがギュッと詰まっていたのだろうか。
「ね、素敵でしょう? 森の中をお散歩しているみたいで」
 ママもビックリしちゃったのよ。お家を作り替えたのかしら、と思ったくらい。
 ちょっといいでしょ、森林浴の気分になれて。
「ホントだね!」
 ぼくは森まで、滅多に出掛けて行けないけれど…。ログハウスだって、ほんのちょっぴり。
 だけど、家ごと引越したみたい。森の中に住んでて、ログハウスみたい…!



 驚いてしまった、乳香の煙に連れて行かれた森の奥。一歩も動きはしなかったのに。
 魔法の煙に包まれたように、深い針葉樹の森を旅した。香炉から煙が立ち昇る間は、塊が溶けて無くなるまでは。
 魔法のランプに思えた香炉。普段から母が使っているのに、それを見ている筈なのに。
 素敵な旅をさせてくれた母に「ありがとう」と言って、二階にある自分の部屋に戻ったら…。
(まだ森の匂い…?)
 乳香の煙はもう消えたのに、と見回したけれど、確かにさっきの香りがする。煙が此処まで来ていただろうか、部屋の扉は閉まっていたのに。
(何処かの隙間から入って来たとか…?)
 煙だしね、と勉強机の前に座ると、匂いも一緒について来た。自分の動きに合わせたように。
 何故、と後ろを振り向いたはずみに分かった香りの理由。
(ぼくの服…)
 服に香りが残っていた。もしかしたら、髪にも残っているかもしれない。
 森の中にいるような気がした乳香の匂い。針葉樹の森の奥へと入って行ったら、漂う匂い。
(あんなに小さな塊なのに…)
 しっかりと香りが残るものらしい。煙みたいに儚くは消えてしまわずに。
 それに、樹脂から森の奥の香り。森の匂いをギュッと閉じ込めたままで固まった樹脂。
(きっと、深い森の奥で採れるんだよね)
 乳香という樹脂の塊は。乳白色の、不規則でゴツゴツした塊は。
 そうに違いない、と服に残った香りから森を思い浮かべる。乳香の故郷の森の姿を。
 きっと深くて広い森だと、何処まで行っても出られないくらいに大きな森、と。



 幼い頃から、両親と何度か出掛けた森。ログハウスに泊まったことだってあった。乳香の香りがしていた木の家。天井も壁も全部木の家、木目の模様が面白かった。
(動物が隠れていたりして…)
 板に描かれた自然の模様。其処に隠れた絵を探していた、天井や壁を眺め回して。ログハウスの外の壁にも動物は隠れていたのだけれども、森の中には本物の動物。
(遊びに来ないか、待っていたっけ…)
 夜になったら、お伽話みたいにランタンを提げた森の生き物たちが訪ねて来るかと。太陽が輝く昼の間は、森を駆けてゆく鹿やキツネが見えはしないかと。
 楽しかった思い出が沢山の森。生まれつき身体が弱かったから、長い滞在は無理だったけれど。
(シャングリラだと、森は無かったんだよ)
 前の自分が暮らした船。楽園という名の白い鯨がいくら大きくても、流石に森は乗せられない。
 乳香が運んだ森の匂いは、今のぼくしか知らない匂い、と思ったけれど。
 服に残った微かな香りを、スウッと深く吸い込んだけれど。
(…ぼく、知ってた…?)
 前の自分の記憶にもあった、と思った香り。知っている、と反応を返した遠い遠い記憶。
 何故、と首を傾げたけれども、長く潜んだ雲海の星。アルテメシアには人工の森があったから。前の自分は其処へ何度も降りていたから、その時に覚えた香りだろう。
 ミュウと判断された子供を救い出す準備をしていた時やら、色々な用事で潜んだ森。
(シャングリラだったわけがないもの…)
 船に森など無かったから。
 木材にするための木は何本か植えていたけれど、伐採する時はお祭り騒ぎになったほど。普段は見られない珍しい光景、それを見ようと大勢の仲間が集まって来て。



 たった一本の木を切るだけのことで、皆が賑やかに騒いでいた船。本物の森では有り得ない話。森に行ったら、木は何本でもあるのだから。
 一本切っても、どれが減ったか分からないほどに。切り株でようやく気付くくらいに。
 シャングリラと森は全然違う、と考えたけれど。
(…でも、あった…?)
 ああいう森の香りが船に。針葉樹の森の爽やかな香り、乳香の煙にそっくりな香り。
 それをシャングリラで吸い込んだような、そんな気がしてたまらない。森は無かった筈なのに。木の香りだって、あれほどに強く船に漂ってはいなかったろうに。
(…伐採した時は、匂いがしたけど…)
 直ぐに何処かへ消えてしまった。材木にするために運び出されて、それきりだから。
 森の匂いだと、深く吸い込むチャンス自体も滅多に無かった。木を伐採した時だけの香り。
(ひょっとして、香水みたいなもの…?)
 香水だったら、合成することも出来ただろう。
 そういう香りが好きな仲間が多かったなら。森の香りが欲しいと希望が出されたならば。
(…匂い、知らないと駄目なんだけど…)
 でないと希望も出せないけれど、と首を捻った前の自分の微かな記憶。
 アルテメシアで森に降りていた自分はともかく、他の仲間とは縁遠い香り。木を切った時に漂う匂いは普段は船には無いものだけれど、それが気に入られていたのだろうか。
 森の匂いは、心が落ち着くものだから。
 木を切った時の香りがいつでもあったならば、と希望が出されて、森の匂いを作ったろうか…?



 シャングリラに森の匂いはあったのかな、と遠い記憶を探っていたら聞こえたチャイム。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、疑問をぶつけることにした。キャプテンを務めたハーレイだったら、そうしたことにも詳しい筈。
 あの香りが船にあったとしたなら、どんな経緯で生まれたのか。何処で使われた香りなのかも、間違いなく知っているだろうから。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラに森の匂いって、あった?」
 森の匂いがしてたのかな、って…。あの船の中で。
「はあ? 森の匂いって、お前…。考える必要も無いだろうが」
 あるわけがないぞ、そんな匂いは。
 森の匂いとか言い出す以前に、シャングリラに森は無かったんだし。
「そうだよね…。やっぱり、あるわけないよね…」
 ぼく、勘違いをしていたみたい。…今のぼくと、ごっちゃになっちゃったかも…。
「森の匂いがどうかしたのか?」
 お前、森にでも行って来たのか、俺は話を聞いちゃいないが。…いつ出掛けたんだ?
「えっと…。森に行ってたわけじゃなくって…」
 そうじゃないけど森の匂いで、なんて言ったらいいんだろう…?
 シャングリラにこういう匂いがあったかも、っていう気がして来ちゃって…。



 なんと説明すべきだろうか、と服を嗅いでみたら、袖に残っていた匂い。
 言葉にするより早そうだから、とハーレイの前に差し出した腕。
「この匂いだよ、ぼくの袖の匂い」
 ちょっぴり袖に残っているから、分かると思う。…どう?
「ほう…。ヒノキみたいな匂いがするな」
 なんの匂いだ、木屑に袖でも突っ込んだのか?
 確かに森の匂いではあるな、お前の袖にくっついてるのは。
「乳香だって。…ママが貰って来たんだよ」
 それを香炉で焚いて貰ったら、ぼくの服までこういう匂いになっちゃった…。
「なるほど、乳香だったのか」
「知ってるの?」
「もちろんだ。有名な香料なんだしな」
 だが、嗅いだのは初めてだ。…もっと甘いんだと思っていたなあ、菓子みたいに。
 森の匂いだとは知らなかったぞ、百聞は一見に如かずってか。
「本物、見てみる?」
 ちゃんと焚いたら、もっと凄いんだよ。部屋ごと森になっちゃったみたい。
 服にも匂いがくっつくほどだし、ホントのホントに凄いんだから…!
「本物って…。かまわないのか?」
「ママに頼めば大丈夫だよ」
 ハーレイも本物を知りたいみたい、ってお願いしたら香炉を貸してくれるよ。
 乳香だって分けてくれると思うよ、ちょっと行ってくる!
 ママー!



 トントンと階段を駆け下りて行って、借りて来た香炉と、貰った乳香が何粒か。
 母に教えて貰った通りに、炭にそうっと火を点けて…。
「この上に乳香、乗っけるんだよ」
 乳白色の粒を置いて間もなく、昇り始めた乳香の煙。ふうわりと部屋に広がる匂い。何もかもが木に変わったように。部屋ごと森に引越したように。
「こいつは凄いな…。森そのものだな」
 でなきゃアレだな、森の中に建ってるログハウスに入った時の匂いだ。
「でしょ? ぼくもログハウスだと思っちゃったよ、ママが香炉で焚いてくれた時に」
 それでね、この匂いなんだけど…。
 ぼく、シャングリラで嗅いだような気がして仕方なくって…。こういう感じの森の匂いを。
「この匂いをか?」
 おいおい、森そのものの匂いじゃないか。…どう考えても、森の匂いだ。
 シャングリラに森なんかは無かったわけでだ、ログハウスだって…。
 そんな建物は作っちゃいないぞ、木材用の木を育ててはいたが、あれは需要があったからで…。
 余った分で俺が木彫りを作ってはいても、ログハウスを建てるほどには余っていない。
 伐採した木は端から加工で、匂いなんかはアッと言う間に消えちまっていたぞ、船からな。



 こんな匂いがシャングリラにあったわけがない、と香炉を見ていたハーレイだけれど。
 鳶色の瞳が、煙になってゆく乳香の粒をじっと見詰めていたのだけれど…。
「待てよ、アレか?」
 ハーレイがそう呟いたから。
「あった? …こういう匂いの香水とかが」
 香水しか思い付かないけれども、シャングリラで合成していたわけ…?
「いや、香水じゃなくて…。そのものってヤツだ」
「えっ?」
 それってなんなの、どういう意味なの?
「これがあったと言っているんだ。…乳香がな」
 前のお前だ、乳香を奪って来ちまったんだ。
 奪おうとして出掛けたわけじゃなくって、他の物資に紛れ込んでた。
 覚えていないか、此処で燃えているような粒を沢山、お前は奪って来たわけなんだが。
 このくらいの袋一杯に、とハーレイが両手で示した大きさ。褐色の手のひら二つ分くらい。
 目を丸くして眺めた瞬間、遠い記憶が蘇って来た。
「そうだっけ…!」
 箱を開けたら、布の袋が入ってて…。
 袋の中身が全部、乳香。…最初は何だか分からなくって、ハーレイたちと見てたんだっけ…。



 シャングリラがまだ、白い鯨になるよりも前。
 生きてゆくために必要な物資は、人類の輸送船から奪っていた。前の自分が出掛けて行って。
 ある日、コンテナごと奪った沢山の物資に紛れていた箱。それの中身が乳香入りの布袋。
 生憎と箱には、何も書かれていなかった。布袋にも、何処かの星らしき名前だけ。
 ハーレイは既にキャプテンになっていたから、物資の管理をしていた者から連絡が来た。中身が謎の荷物があったと、廃棄処分にすべきだろうか、と。
 そういう連絡が入った時には、前の自分とキャプテンのハーレイ、それにゼルたち四人の出番。荷物の処分をどうするべきかを決定するための最高機関。
 限られた物資で生きてゆかねばならない船だし、使える物資は有効活用したいから。
 どういう使い道があるのか、それを検討すべきだから。
 よほど役立たない物でない限りは、大抵は此処で救済された。使うべき場所を見付け出しては、使い方を指示して、其処へ回して。



 そんな具合で、乳香がドッサリ詰まった袋も、会議の席へとやって来たけれど。
「なんだい、これは?」
 小石ってわけでもなさそうだけどさ、変な物だねえ…。
 初めて見たよ、とブラウが一粒つまみ上げてみて、「変な匂いだ」と指を拭った。指先についた白っぽい粉が妙な匂いで、妙だけれども悪くはないと。
「ふむ…。確かに悪くはない匂いじゃのう」
 馴染みのない匂いではあるんじゃが…、とゼルも真似てみて、食べられるのかと質問を投げた。こういった時に強いヒルマン、博識で調べ物の得意な友に。
「さて…。どうなのだろうね?」
 匂いと見た目で判断するのは危険だというのが常識なのだし…。
 エラと私で調べてみよう。
 袋に書かれた文字は手掛かりにならないだろうし、どうしたものか…。
 匂いと見た目を頼りにするしか道は無さそうだね、それで候補を絞り込んでから分析する、と。
 食べられる物なら厨房に回して、駄目でも何かに使えそうな気はするのだがね。



 単なる私の勘なのだが、と乳白色の粒を幾つか手にして調べ物に向かったヒルマンとエラ。
 彼らがデータベースで調べた結果は、乳香だった。
 もう一度招集された会議の席で、報告された「乳香」という乳白色の粒たちの名前。
「乳香? …香料なのかい、この粒は?」
 どおりで匂いがするわけだ、と前の自分もつまんでみた粒。ブラウやゼルがしていたように。
「貴重な香料だったらしいよ、昔はね」
 人類が地球しか知らなかった時代は、とても貴重なものだったそうだ。
 今は栽培に適した場所も多いらしいが…、とヒルマンが用意していた香炉。物資の中に混ざっていたのを、捨てずに倉庫に入れてあった品。
 初めての出番だったのだけれど、香炉の中の炭に火が点き、その上に乳香の粒が置かれたら…。
「いい香りじゃないか、妙な匂いだと思ったけどさ」
 なんだか気分がスッキリするよ、とブラウが一番に述べた感想。船の中では嗅いだことのない、不思議な匂い。けれど、爽やかだと思える匂い。
「データベースの情報によると、森の匂いがするそうだよ。…我々とは無縁のものだがね」
 この船の中に森などは無いし、森の匂いを覚えてもいない。
 しかし、森林浴という言葉があったくらいに、人間は森に惹かれるようだ。いい匂いだと感じる気持ちに、記憶は関係無いのだろうね。
 我々は本物の森を知らないのに…、感慨深げに言ったヒルマン。森はこういう匂いらしい、と。
「乳香は森で採れるのかい?」
 前の自分がそう訊いた。今の自分と全く同じに、豊かな森を思い浮かべて。
 まだその頃には、データでしか知らなかった森。何処までも木々が深く茂った光景を。
「いや、元々は砂漠だそうだ」
 今も似たようなものだと思うよ、テラフォーミングしても上手くいかない場所も多いし…。
 そういった土地で栽培しているのだろうね、荒地のままで放っておくより、農地がいいから。



 遠く遥かな昔の地球。乳香は砂漠に生えている木から採集するものだった。樹皮に傷をつけて、滲み出した樹液が固まったものが乳香になる。乳香の木が育つ砂漠は、ごく限られた地域だけ。
「何処ででも採れたものではないから、黄金と同じ値段で取引されたようだね」
 なにしろ砂漠で採れるものだし、輸送するにも砂漠を運んでゆくしかない。
 砂漠の旅には危険が伴う。珍しい上に、運ぶのも命懸けとなったら、高くなるのも当然だろう。
「そんなに貴重だったのかい?」
 黄金と同じ値段だなんて…、と乳香の粒をまじまじと眺めた前の自分。
 それほとに高い香料を贅沢に使っていた人間とは、やはり王者の類だろうかと。
 ところが、外れてしまった推測。
 乳香は人が使うのではなく、神に捧げる香だった。遠い昔に栄えた砂漠の王国、エジプトでも。後の時代の教会でも。
「教会で神に祈る時には、必ず焚いていた時代もあったそうだよ」
 その習慣は薄れてしまって、特別な時しか焚かないように変わっていって…。
 今では普通の香料の一つになったようだね、香りがいいからと色々なものにブレンドされて。
「こんな塊が神様用だった時代がねえ…」
 おまけに金とおんなじ値段だったなんて、冗談だとしか思えないけどね…?
 ついでに、この船に教会は無いし…。
 乳香とやらは使うしかないね、適当な場所で。
 匂いは確かにいいんだから、とブラウが最初に下した判断。前の自分も、ハーレイたちも異議は全く無かったから。
 乳香は休憩室などで焚かれた、偶然奪った塊が船にあった間は。
 倉庫に幾つか突っ込まれていた、香炉や炭を引っ張り出して。



 乳香が物資に紛れていたのは、その一度だけ。
 布袋に詰まっていた分が焚かれて無くなってしまった後には、忘れ去られていたのだけれど。
 シャングリラが白い鯨に改造されたら、乳香にも転機がやって来た。
「お前も覚えているだろう? 公園とかが出来て、船のあちこちに緑が増えて…」
 みんなが花や緑の香りを楽しむ時代になってだな…。
 乳香を思い出したヤツらが…、とハーレイが指差す香炉の中身。乳香は燃えて消えてしまって、今は炭しか残っていない。けれども、部屋には森の香りが漂ったまま。
 シャングリラの皆もそうだった。
 遠い昔に焚いて無くなってしまった乳香。船の何処にも無いというのに、心に残っていた香り。森の匂いがする香だったと、皆は忘れていなかった。まるで残り香があったかのように。
 白い鯨に余裕が出来たら、誰からともなく出て来た声。
 この船で乳香の木を育ててゆくのは無理だろうかと、あの香りが今、あったなら、と。
 森の匂いだと言われた乳香。
 今ならば森の緑も想像出来ると、神に捧げる香だった理由も納得出来る、と。
 神に祈りを捧げる余裕も充分あるから、乳香の木を育てられたら、と。
 乳香を焚いて神に祈れば届きそうだ、と上がった声。
 人類にとってはただの香料に過ぎないのならば、この船では乳香を神に捧げてみたいと。
「そうだったっけ…」
 人類が神様用に使ってないなら、使おうって…。
 蜜蝋の蝋燭と同じ理屈で、ミュウ専用。…お祈り用には乳香だっけね、シャングリラでは。



 遠く遥かな昔の地球では、一部の砂漠にしか無かったという乳香の木。
 前の自分たちが生きた時代には、荒地でも育つ作物とされて、あちこちの星に植えられていた。
 もう珍しくはなかった乳香。テラフォーミングの成果が現れなければ、植えられたほどに。
 樹脂を採取する乳香の木は、子供たちの教材にもいいとヒルマンも大いに推したから。
 居住区に幾つも鏤めてあった公園の一つを、乳香の木に適した環境に整備した。
 雌雄は別なのが乳香の木。
 それもきちんと考慮しながら、前の自分が奪った苗。人類のための農業施設から。
 乳香の木は順調に育って、係の者たちが世話をしていた。樹皮に傷をつけ、樹脂を固めて乳香の粒を採取しながら。乳白色の塊を幾つも幾つも、幹から剥がして集めながら。



 本物の乳香の香りがあったシャングリラ。
 白いシャングリラになるよりも遥かな昔に焚かれて、後の時代にも焚かれた乳香。白い鯨では、乳香は船で作るもの。乳香の木から樹脂を集めて、シャングリラ生まれの乳香を。
 前の自分が覚えていた香りは、それだった。シャングリラにあった、と思った森の匂いは。
「…あの乳香、何処にあったっけ?」
 乳香の木が植えてあった場所は、なんとなく思い出せるんだけど…。
 あの木から採った乳香は何処に置いてたのかな、倉庫かな…?
「蝋燭と同じだ、係がいたな」
 倉庫の物資の管理係の一人がそれだ。専用の係を決めておかんと、直ぐに対応出来ないし…。
 乳香を焚きたい気持ちになったら、出掛けて行って頼むんだ。下さい、とな。
 そしたら香炉や炭と一緒に渡して貰えた。そいつを部屋に持って帰って、祈ればいい。使い方も教えて貰えたからなあ、こうするんです、と丁寧に。
 蝋燭を貰って灯してもいいし、乳香を焚いても良かったわけだ。自分の部屋で祈る時にはな。
「うん…。思い出したよ、前のぼくも焚いていたんだっけ…」
 倉庫に出掛けて、係に頼んで。…香炉と乳香を出して貰って。
「俺も一緒にいたっけなあ…」
 お前が乳香を焚いていた時は、前の俺も一緒だったんだ。
 どういうわけだか、お前、いつでも俺と焚くんだ、わざわざ呼んだり、待っていたりして。
 「せっかく貰って来たんだから」って、俺が行くまで焚かずにいたなあ…。
 貴重な乳香なんだから、って頑固に言い張り続けてな。
「だってそうでしょ、本当だもの」
 昔は金と同じ値段で取引されてた、神様専用のお香なんだよ?
 一人占めするより、ハーレイと二人でお祈りした方が神様にも届きやすいかな、って…。



 白いシャングリラで採れた乳香。船で育てているとは言っても、山のようには採れない乳香。
 ソルジャーが他の仲間たちの分まで、使ってしまっては悪いから。
 本当にたまに、貰って焚いた。
 青の間で、そっと。
 ハーレイと恋人同士になるよりも前から、いつも二人で。
「無事に地球まで行けますように、って祈ったっけね…」
 乳香を焚いて、森の匂いが広がったら。…シャングリラで地球まで行けますように、って。
「お前と俺と、二人でな…」
 二人一緒に辿り着くんだ、って祈ってたっけな、お前と一緒に。
 …恋人同士になるよりも前から、ずっと二人で祈ってたのに…。お前、祈らなくなったんだ。
 寿命が尽きると分かった後には、自分のためには。
 乳香を貰って来て焚くことはあっても、いつも仲間のためだけだった。
 俺と一緒に地球へ行こう、って祈りはしなくて、俺にも「祈らなくてもいい」って…。
「…叶わないことまで、祈っちゃ駄目だと思っていたから…」
 神様に二人でお願いするなら、叶えて貰えることでなくっちゃ。
 …我儘を言ったら、他のお祈りまで聞いて貰えなくなりそうだもの。
 だから、お祈り、やめたんだよ。…前のぼくのためのお祈りは…。



 自分のためには祈らなくなった後にも、ハーレイと二人で捧げた祈り。
 乳香を貰って、香炉を借りて。…青の間で、二人。森の匂いが漂う中で。
「…最後に焚いたの、いつだったっけ…?」
 覚えていないよ、ハーレイは今も覚えてる…?
 前のぼくと二人で乳香を焚いて、最後にお祈りしていた日はいつだったのか…。
「うーむ…。それはジョミーじゃないのか?」
 お前、ジョミーが生まれた後にだ、何度か焚いていただろう?
 次のソルジャーが無事に育つようにと、誕生日とかに…。
 …それだ、ジョミーをシャングリラに迎え入れる前に焚いたんだ。
 目覚めの日の直前ってわけじゃなかったが、準備を始めて、ナキネズミも船から送り出して…。
 そういう頃に、お前が乳香と香炉を用意してだな…。
「…焚いたんだっけね、ハーレイと…」
 いつもみたいに、二人一緒に。…炭に火を点けて、乳香を乗せて。
「作戦が上手くいくように、ってな…。ジョミーを無事にシャングリラに迎えられるように」
 あれが最後になっちまったなあ、お前と二人で乳香を焚くことは二度と無かった。
 …もう一度くらいは焚けるだろうと思ってたのにな、ジョミーの次の誕生日とかに…。



 前のハーレイと二人で乳香を焚いて、作戦の成功を祈った自分。
 新しいソルジャーになってくれるジョミー、彼を首尾よくユニバーサルから救えるように、と。
 けれども、予想以上のジョミーの反発。
 シャングリラから家に戻ったジョミーは、暴れ馬のようになってしまった。計算ずくで、家へと帰した筈だったのに。両親がいないと知ったジョミーは、船に戻ると踏んでいたのに。
(…思った以上に、ジョミーは強情…)
 シャングリラに戻らず、捕まったジョミー。心理検査に抵抗して目覚め、爆発したサイオン。
 遥か上空へと逃げるジョミーを追い掛けて飛んで、前の自分は力を使い果たしてしまった。
 乳香を焚いて祈る体力は残ってはおらず、ただ横たわっているしかなかった。
 アルテメシアの雲海の中に潜む間に、ジョミーの誕生日が巡って来ても。
 ハーレイと二人で焚くための乳香、それを貰いにはもう行けなかった。
 力が尽きてしまった身体に、保管してある倉庫までの道は遠すぎたから。
 ハーレイに頼んで行って貰うのも、悪いような気がして頼まないままになったから…。



 そうだったのか、と見詰めた香炉。とうに乳香は燃え尽きたけれど、森の匂いが残った服。
 強い香りを纏った煙が、また新しく染み込んだから。
 前のハーレイと二人で焚いていた香り、あの香りが部屋に広がっていった後だから。
「…ハーレイと一緒に乳香を焚いたの、あれ以来だね…」
 ちっとも気付いていなかったけれど、あの時以来。
 あれが最後で、今日まで焚いていなかったんだよ。…すっかり忘れてしまっていたけど。
「俺も忘れてしまっていたなあ…。お前が香炉を持って来たって」
 何年ぶりになるんだろうなあ、こうして二人で焚いたのは。
 そうだ、今のお前の人生ってヤツはこれからなんだし、今の、祈ってもいいんじゃないか?
 俺たちのために、久しぶりに。
 …もう乳香は焚いちまったが、今から祈っても間に合うかもしれん。
「ホントだ…!」
 急がなくっちゃ、まだ服とかには匂いが残っているんだから…!
 二人でお祈り、今の分で…!



 早く、早く、とハーレイを急かして、二人一緒に目を閉じた。
 遠く遥かな時の彼方で、二人で行こうと祈った地球。
 青い地球には来てしまったけれど、今は新しい人生だから。
 自分もハーレイも青い地球の上に生まれ変わったから、幸せを祈ってもいいだろう。
 二人で一緒に焚いた乳香、森の香りが微かに残っている内に。
 幸せに生きてゆけますようにと、久しぶりに神に祈っても。
 いつまでも、何処までも、ハーレイと二人。
 この地球で生きてゆけますようにと、いつまでも何処までも、二人、手を繋いで幸せにと…。




            乳香の香り・了

※神に捧げる香だった、乳香。白いシャングリラでも乳香の木を植えて、祈る時にはその香を。
 前のブルーもハーレイと一緒に何度も祈ったもの。今は青い地球で、幸福を祈れる時代。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(ハーレイの席…)
 此処だったよね、とブルーが開いた写真集。白いシャングリラが表紙を飾った、ハーレイの本とお揃いのもの。
 学校から帰った後に、勉強机の前に座って広げてみた。その席が見たくなったから。
 前のハーレイが座っていた席。キャプテン・ハーレイが座った場所を。
(…ハーレイ、いつも此処にいたよね…)
 茶色い革張りのようにも見える、キャプテンの席。本物の革ではなかったけれど。もっと丈夫な人工の素材、座り心地は革と変わらない。そういう風に作ってあった。何時間でも座れるように。
(座り心地が一番だものね)
 普段はともかく、非常事態には座りっ放しになるだろうから。「座り心地が大切なんじゃ!」と譲らなかったゼルのお蔭で、キャプテンの席も周りの席も座り心地は最高だった筈。
(下手な客船にも負けんわい、って…)
 自慢の椅子じゃ、と威張ったゼル。誰が座ってもピタリと馴染むし、座り心地もいいのだと。
 特別な手入れをしてやらなくても五百年くらいは持つであろう、と自信もたっぷり。
(…ゼルの席だって、おんなじだもんね?)
 こだわるよね、とクスッと笑った。「ハーレイの分だけなら、適当に作っていたかもね」と。



 シャングリラで一番広い公園、その公園の上に浮いていたブリッジ。
 本当は公園を作る予定は無かった、ブリッジの周りは危険だから。人類軍に攻撃された時には、真っ先にブリッジが狙われるから。
 なのに「広いスペースを公園にしたい」という声が多くて、出来てしまった広い公園。
 船に危険が迫った時には避難場所として使う代わりに、其処から逃げねばならない公園。何処か間違った公園だったけれど、人気の憩いの場所ではあった。
 公園からはブリッジが見えて、ブリッジからは公園が見える。ブリッジ勤務の者にも憩いの緑。公園の方を眺めさえすれば、緑の芝生や木々の緑や。
(…公園の方が良かったよね、きっと…)
 がらんどうで放っておくより、殺風景なスペースに仕上げるよりも。
 公園とセットになったブリッジ、シャングリラの姿に少し似ていた。宇宙船のようで、おまけに浮いているものだから、箱舟と呼んだ者たちもいた。ブリッジのことを。
 中でもコアブリッジと呼ばれた部分。シャングリラの指揮が執られた中枢。
 円形のスペースに配置された席、ゼルの御自慢の椅子が幾つも。ゼルもブラウもエラも、其処に座っていたけれど。誰の席も同じに見えるのだけど。
 舵輪の正面に位置していたのがキャプテンの席。舵輪から一番近い席。
 白いシャングリラの舵を取る舵輪、いつでも其処へ走れるように。キャプテン自ら舵輪を握って船を操る時に備えて、キャプテンの席は舵輪の正面。



 ハーレイの席、と広げた写真集では、その席に誰も座ってはいない。
 他の席にも誰もいなくて、コアブリッジだけを捉えた写真。停まっている時に撮ったのだろう。ノアか、それともアルテメシアか、シャングリラには馴染みの宙港で。
 キャプテンの席に、其処の主は座っていないけれども…。
(…ハーレイじゃなくて、シドの席…) 
 見慣れたハーレイの席ではあっても、この写真集ではシドの席。キャプテン・シドが座る席。 写真集の元になった写真が撮られた時代は、トォニィの代になっていたから。
 それを思うと少し寂しい。
 ずっとハーレイが座っていたのに、もうハーレイの席ではないのだ、と。
 地球の地の底で死んでしまった前のハーレイ。代わりにシドがキャプテンになって、ハーレイの席を受け継いだ。ハーレイの席はシドの席になって、この写真集の席はシドの席。
(でも、ぼくだって、もういなかったしね…)
 前の自分はとうの昔に死んでいたから、その後のことは分からない。誰が座っていようとも。
 どうせ分かっていなかったのだし、ハーレイの席でなくてもいいか、と考えた所で…。



 あれっ、と気付いた写真集の中のシャングリラ。キャプテン・シドが舵を握っていた船。
(…トォニィだよね?)
 この写真集の船のソルジャー。白いシャングリラの長はトォニィ。
 そうだったっけ、と覗き込んだけれど、コアブリッジの写真にトォニィの席は…。
(やっぱり無いの?)
 一つ、二つと順に数えたコアブリッジに配置された椅子。ゼル御自慢の座席の数は昔と同じ。
 つまりトォニィの席は無いまま。
 前の自分やジョミーが生きた時代と変わらず、ソルジャーの席が無いブリッジ。
(トォニィの席、作らなかったんだ…)
 人類との戦いやSD体制が全て終わって、平和な時代が訪れた後も。
 白いシャングリラが招かれるままに、宇宙のあちこちを旅する時代になってからも。
 ブリッジにトォニィのための席は作られていなかった。作ってもかまわなかったのに。
(トォニィ、船を変えたくなかった…?)
 前の自分やジョミーの時代のままにしておきたかっただろうか、シャングリラを。
 単に改造が面倒だっただけかもしれないけれど。
 コアブリッジに椅子を一つ増やすには、キャプテンの椅子を除いた全部を…。
(外してしまって、場所も移して…)
 増えた分を含めて、均等に設置し直さなければいけないから。
 面倒だから、と放っておいたかもね、とトォニィの席が無い写真を眺めた。



 コアブリッジには無い、ソルジャーの席。其処だけではなくて、ブリッジの何処にも。
 箱舟とも呼ばれた公園の上に浮かんだブリッジ、あそこにソルジャーのための席は無かった。
 ソルジャーは視察に出掛けてゆくだけ、でなければコアブリッジの中央に立つだけ。専用の席は何処にも無いから、用が無ければブリッジにいる必要も無い。
(…前のぼくの時は…)
 ソルジャー・ブルーの席が無いのは、ソルジャーは航行に携わらなくてもいい、という意味。
 船のことはキャプテンやブリッジの仲間に任せて、のんびり過ごしていて下さい、と。
 表向きはそういうことだったけれど。船の仲間たちも、そうだと信じていたけれど。
(…ホントは違った…)
 唯一のタイプ・ブルーのソルジャー。ただ一人だけの戦える者。
 前の自分は名前通りに戦士で戦力、シャングリラを守って攻撃にだって出てゆける。
 けれど、ブリッジで腰掛けていては、戦うことも守ることも出来はしないから。
 立ってゆかないと、どちらの役にも立たないから。
(だから無かった…)
 ソルジャーのための席などは。コアブリッジにも、ブリッジの中の他の場所にも。
 白い鯨に改造する時、設けられなかったソルジャーの席。
 人類軍からの攻撃を受けたら、ソルジャーは船の外で戦うか、船をシールドで覆って守るか。
 ブリッジの席では何も出来ない、戦うことも、守ることさえも。
 シャングリラ全体を守るとなったら、集中力が必要だから。
 船を守ろうと怒声が飛び交うブリッジにいては、シールドに集中出来ないから。



 改造前の船だった頃は、誰も気にしていなかった。ソルジャーの席の有無などは。
 こういう特殊なブリッジではなくて、ごくごく普通の宇宙船。何処にでもある平凡なブリッジ、席の配置も平凡なもの。操縦用の席やら、副操縦士のための席やら、他にも色々。
 ソルジャーの席は無かったけれども、無いと決まってもいなかったから。
(ぼくだって、たまに…)
 ブリッジに出掛けて行った時には、空いていた席に座ったりもした。席の主が休憩に行ったり、非番で空いているような時は。
 常に全員が詰めていたわけではなかったブリッジ。のんびり宇宙を旅した時代。
 人類の船に見付からないよう、宇宙を飛べればそれで良かった。白い鯨になるよりも前は。
 とにかく生きて旅をすること、未来に向かって生き延びることが何よりも大切だった船。
 ソルジャーの自分が何処にいたって、何も言われはしなかった。ブリッジの席に座っていても。
 持ち主が留守なら座れたのだし、キャプテンの席の隣でも。
(副操縦士…)
 本来は、そんなポジションだった。前の自分がストンと座った、キャプテンの隣にあった席。
 座ったところで、船は動かせなかったけれど。操縦は手伝えなかったけれど。
 本物の船と、シミュレーターとは違うから。遊びで船は操れないから。
 いつも座っていたというだけ、副操縦士の席から眺めていただけ。
 ハーレイが船を操るのを。
 かつては厨房でフライパンを握っていた手で、それは見事に船を前へと進めてゆくのを。



 そういう風に過ごしていたのに、ブリッジに座っていられたのに。
 白い鯨への改造計画、ブリッジの案が提出された会議の席で驚いた。自分の席が無かったから。研究を主な仕事にしていたヒルマンはともかく、ブラウもエラもゼルも居場所があったのに。
「…ぼくの席は?」
 ソルジャーの席が無いようだけれど、この案はどうなっているんだい…?
 間違いでは、と図面を指したら、「要らんじゃろうが」とゼルが即座に返した。
「ソルジャーが座って何をするんじゃ、ブリッジで」
 此処での仕事は無いじゃろうが、と言ったゼルの横からブラウやエラも口を揃えた。
 普段はいいかもしれないけれども、非常事態の時にはマズイ、と。
 ソルジャーは船の外へと出て戦うか、シールドで船を守り抜くか。どちらもブリッジでは無理なことだし、ソルジャーの席は設けられないというのが彼らの意見。
「一応、あってもいいと思うけど…」
 ぼくの力が必要な時は、直ぐに飛び出して行けるから…。そうでない時はブリッジにいれば…。
 ブリッジは船の心臓なんだし、ソルジャーの席も作るべきだよ。
「駄目じゃ。ソルジャーがその席におらんと、皆が不安になってしまうわい」
 ソルジャーが席を離れるくらいの非常事態じゃと、船中に知れてしまうじゃろうが。
 一人が慌てれば皆が慌てる、思念波で直ぐに広がるからのう…。
 騒ぎを大きくするだけじゃわい、とゼルが髭を引っ張り、ブラウも大きく頷いた。
「そうだよ、ドッシリ構えているなら別なんだけどね」
 ブリッジでちょいと目を瞑るだけで、守りも攻撃も出来るんだったら、誰も何にも言わないよ。
 だけど、そいつは無理だろうしね、周りがバタバタし始めた時に集中出来るわけがない。
 攻撃だって外に出た方が楽だろうし、と言われてみれば、その通りで。
 反論出来はしなかった。ゼルやブラウの意見は正しく、何処も間違ってはいないのだから。



 船が新しく生まれ変わるのに、そのブリッジには無くなるらしい自分の居場所。
 作って貰えないソルジャーの席。
 今のブリッジとはまるで違った、ミュウの船らしいブリッジがゼロから作られるのに。人類には想像も出来ないだろうブリッジ、それが誕生するというのに。
 自分の居場所は其処に無いのか、と図面に視線を彷徨わせていたら、ゼル指先で叩いた図面。
「此処がハーレイの席になるんじゃ、キャプテンの席じゃ」
 ブリッジでドッシリ構えておくのは、キャプテンの役目というヤツじゃろうが。
 慌てず、騒がず、指揮を執り続ける。そういう役目はキャプテンに任せておけばいいんじゃ。
 ソルジャーには別の役目があるじゃろ、万一の時は。
「うん…。ぼくがブリッジに座っていたんじゃ、確かにどうにもならないね…」
 外へ出てゆくか、シールドに集中できる場所に移るか、どちらかだろうし…。
 ぼくがブリッジからいなくなったら、相当にマズイと皆に知らせるようなものだね、確かにね。
 アッと言う間に広まるだろうね、ぼくがブリッジから出たということ…。



 ミュウの特徴の一つは思念波。瞬時に情報を共有出来る力は強みだけれども、諸刃の剣。
 抑え切れない強い感情を、さざ波のように船に広げてしまうから。それを拾った仲間の心から、別の仲間の心へと。次から次へと連鎖してゆく、喜びだろうが、悲しみだろうが。
(…今みたいに、みんながミュウって時代じゃないから…)
 誰も備えてはいなかった。他の誰かの感情や心に共鳴しないで、自分の心を守る力を。
 今の時代なら、サイオンが不器用な自分でさえも、生まれつき備えている力なのに。
 それを持たなかった初期のミュウばかりが乗っていた船がシャングリラ。
 ブリッジの仲間が動揺したなら、船の仲間に直ぐに伝わる。
 人類軍の攻撃だけでもパニックだろうに、その中でソルジャーがブリッジから姿を消したなら。攻撃に出たか、守りに入ったか、どちらにしても戦況が悪化したということ。
 ブリッジにいては防ぎ切れないと判断したから、席を離れただろうソルジャー。
(これは危ない、って誰かが思えば…)
 その感情はブリッジから近い所の誰かに伝わり、そこから次へ。そのまた次へと広がってゆく。
 一度広がり始めた思念の連鎖は、そう簡単には止められない。
 誰かが気付いて「大丈夫だ」と叫んだとしても、「本当なのか」と疑う心もまた連鎖する。
 そうなった時は、船の航行に支障を来たすどころか、最悪の場合は沈むだろう。
 いくらハーレイたちが頑張っていても、何処かで生じてしまう綻び。
 もう駄目なのだと誰かが思えば、たちまちそれが広がるから。
 船を守ろうという強い感情は砕けてしまって、装備する予定のサイオン・シールドは霧消する。船の姿を消し去るためのステルス・デバイス、それも崩れて無くなってしまう。
 剥き出しになった上に守りを失くせば、後は猛攻を浴びるだけ。
 どんなに自分が守ろうとしても、ハーレイたちが死力を尽くしたとしても、もう救えない。
 船の仲間たちが、駄目だと船を諦めたなら。助からないと思い込んだら…。



 ソルジャーだからこそ分かっていたこと。ミュウという種族の特徴と弱さ。
 負の感情の連鎖が引き起こす悲劇、それは確かに起こり得るから。
 指摘された以上は、もう押せなかった。諦めざるを得なかった。
 すっかり新しく生まれ変わる船、白い鯨のブリッジに席を設けることを。ソルジャーの席を。
(ホントは欲しかったんだけど…)
 そうすることで生まれるリスクを考えてみたら、とても通せはしない我儘。白いシャングリラのブリッジに自分は座れはしない。そのための席は無いのだから。
 ソルジャーの席を作ってしまえば、リスクが高まるだけなのだから…。
(…作れないね、って言うしかなくて…)
 ブリッジにソルジャーの席は設けないことに決まって、正式に書かれた設計図。コアブリッジに設置する椅子も、ゼルがあれこれ考えていた。
 「五百年は使えるようにしておくんじゃ」だとか、「座り心地の良さが大切なんじゃ」とか。
 ソルジャーの分は無い椅子を。座り心地がどうであろうが、自分は関係無いだろう椅子。
 たまたまブリッジに立ち寄った時に、空いていたなら別だけれども。



 白い鯨の全体像が決定されて、資材集めも順調に進み、改造が始まる少し前のこと。
 ふらりとブリッジに出掛けて行ったら、ハーレイの隣が空いていたから。
 副操縦士の席が「どうぞ」とばかりに待っていたから、其処にストンと腰を下ろして…。
「あと少しだけだね」
 ハーレイにそう掛けた声。船の前方を真っ直ぐ見ているキャプテンに。
「何がです?」
 あと少しとは、とハーレイが顔をこちらへ向けたから。
「ぼくの席だよ。…君の隣に座っていられるのは、あと少しだけ」
 改造されたブリッジになったら、ぼくの席はもう無いんだから。
 …君の隣には座れなくなるよ、あと少ししたら。
「そうですね…」
 エラやブラウの席が空いていたとしても、今のようには…。
 ブリッジクルーも増えるのですから、二人しかいないという状態にはならないでしょうね。
 今はあなたと私だけしか、ブリッジにはいないわけですが…。当分は誰も戻りませんが。
 こういう機会が無くなるのだな、と考えてみたら、少し寂しい気もします。
 あと少しだな、と気付かされたら。
「ぼくもだよ…」
 新しい船のブリッジには、ぼくの席が無いというのも寂しいけれど…。
 君の隣に座れなくなるのが寂しいな。
 何度も此処に座っていたしね、君がキャプテンになってから。
 この船を動かせるようになった後には、よくこの席に座っていたから…。
 新しい船では、それが出来なくなるというのが寂しいかな…。



 もうあと少しで見納めなのか、と黙って見詰めた漆黒の宇宙。副操縦士の席からの眺め。
 ハーレイも黙々と船を操り、暫く無言で二人で座って。
 瞬かない星が幾つも散らばる宇宙を、船は進んで行ったのだけれど。ハーレイがスイと指差した先。褐色の指が示した惑星。
「ソルジャー、あの星を周りませんか?」
 あと数分で通過しますから、あれを回って飛ぶのもいいかと…。
「そういう航路設定なのかい?」
 時間調整か何かのためかな、それとも進路を少し変えるとか?
 星の引力に助けて貰って…?
「いえ、これが最後かもしれませんから…」
 ソルジャーを隣に乗せて飛べる機会は、これが最後かもしれません。
 次においでになった時にも、その席が空いているかどうかは分かりませんし…。
 空いていたとしても、二人きりとは限りません。
 今日までは何度もあったことですが、新しい船ではもう無理ですし…。
 この船で次があるかどうかも、まるで分かりませんからね。



 あの星を一周してゆきましょう、とハーレイが提案してくれた星。
 なんの変哲もない、恒星からも遠く離れた惑星だった。目立った特徴すらも無い星。表面を覆う大気も地表も、宇宙では至って見慣れたもの。旅をしていれば幾つも見掛ける、そんな惑星。
 何処の星系だったかは忘れた。何番惑星だったのかも。
 けれども、ハーレイと二人で周った。名前だけだった頃のシャングリラで。白い鯨になるよりも前の、人類がコンスティテューションと呼んでいた船で。
 ハーレイが一人で決めた航路の変更。通り過ぎるだけの予定の星を周ってゆく航路。
 誰からも文句は来なかった。
 惑星から離れた所を通過する代わりに、衛星軌道に入っても。星の周りを回り始めても。
 どういう航路で飛んでいようが、危険が無ければ誰も気にしていなかったから。
 警報の類も鳴りはしないから、ハーレイは慣れた手つきで船を進めた。
 「一周すると言っても、直ぐなのですが」と、「そんなに長くはないのですが…」と。



 衛星軌道から見下ろした星。船の真下を流れてゆく星。
 特に珍しくもない筈の星が、その時はとても綺麗に思えた。雲も、その下に見える地表も。
「綺麗だね…」
 人は住めない星だろうけれど、ちゃんと空には雲が浮いてて…。雲の下には地面があって。
 とても綺麗だよ、この星の周りを飛べて良かった。通過してたら、見られなかった景色だから。
「これが地球ならいいのですけどね…」
 残念なことに、名前さえもついていないような星で…。
 けれど、いつかは地球までお連れしますよ。いつか必ず、青い地球まで。
 新しい船が出来上がったなら、地球へ行ける日も近付くでしょう。
 今の船では戦えませんが、新しい船にはサイオン・キャノンも出来るのですから。
「それは嬉しいけど…。約束してくれるのは頼もしいけど…」
 ハーレイの腕と新しい船があったら、きっと地球まで行けると思う。いつかは、きっと。
 だけど、ぼくはもう、君の隣に席が無くなってしまうんだけれど…。
 こんな風に隣に座れはしなくて、他の席にだって、座れるかどうか…。
「大丈夫ですよ。地球に着いたら、戦いは必ず終わるでしょうから」
 平和になったら、空いている席も出来ますよ。ブリッジに詰めている必要は無いのですから。
 今日のようにガランと誰もいない日が来るでしょう。
 キャプテンだけしかいないような日が、何処の席でも好きにお座りになれる日が。
「そうだね、きっとそうなるだろうね…。地球に着いたら」
 またこうやって座ってみたいな、君の隣に。
 新しい船のブリッジだったら、眺めも変わるんだろうけど…。
 その船にこうして乗ってみたいと思うよ、君の隣に空いている席が出来たらね。



 地球を一周して飛ぶ船に、と夢見たけれど。新しい船で地球を周ろう、と思ったけれど。
 それがハーレイの隣に座った、最後になってしまったのだった。
 改造に入る前にもう一度、とブリッジを覗きに行っても、空いていなかったハーレイの隣。前の自分が何度も座った、副操縦士のための席。
 ハーレイの隣には座れないまま、始まってしまった船の改造。
 前の自分は改造中の船を守るのに忙しくなって、もうブリッジには立ち寄れなかった。覗いても直ぐに持ち場に戻ってシールドを張ったり、船の周りを警戒したり。
 そうこうする間にブリッジは新しい場所に移って、まるで違う姿になってしまった。公園の上に浮かぶ形のブリッジ、円形のコアブリッジがキャプテンの居場所。
 ハーレイやゼルたちの席はあっても、ソルジャーの席は其処に無かった。
 ゼルがこだわって作らせた椅子は、前の自分の分が無かった。五百年は持つと言われた椅子は。茶色い革張りを思わせる椅子は。
 それでも、いつかと夢を見ていた。またハーレイの隣に座れる日が来るだろうと。
 お気に入りだった副操縦士の席は無くなったけれど、また別の席に。
 一番の狙い目はエラの席。ハーレイの左隣の席。
 副操縦士の席も左隣にあったのだから、と其処が空く日を待ち焦がれていた。
 あそこから見たらどんなだろうかと、地球の周りを飛んでゆく時はどういう風に見えるのかと。
 きっといつかは座れるだろうと、ハーレイの隣で地球を見ようと。



 それほどに地球に焦がれていたのに。ハーレイの隣で青い水の星を見たかったのに。
(新しい船が出来ても、ぼくは地球まで…)
 ついに行けないままだった。辿り着けずに終わってしまった。
 メギドを沈めて、前の自分の命は終わってしまったから。ハーレイとも離れてしまったから。
 前の自分は、二度とハーレイの隣に座れはしなかった。あんなにも夢を描いていたのに。
(…いつかは地球の周りをハーレイに飛んで貰おう、って…)
 ハーレイの隣に座って飛ぼうと、新しい船でもハーレイの隣に座るのがいい、と。
 今から思えば、ハーレイの隣の席に座って、あの船で惑星を周っていた時。
 自分では気付いていなかったけれど、とうにハーレイに恋をしていたのだろう。
 そしてハーレイの方でも、きっと。
 「あの星を周ってゆきませんか」と航路を変えてくれたハーレイ。
 最後になるかもしれないから、と。
 「新しい船が出来たら、いつか地球までお連れしますよ」と。
 その時はまた隣の席が空くだろうから、其処に座ってくれればいい、と…。



 改造が済んで、白い鯨になった船。ミュウの力でゼロから作り上げたブリッジ。
 人類のものとはまるで違って、五百年は持つとゼルが自慢した、茶色い革張りを思わせる椅子が幾つも並んでいたのに…。
(ぼくの席、無かった…)
 あのブリッジに、ソルジャーのための席は無かった。それを作ってはならないから。
 本当は、ハーレイの隣に座っていたかったのに。改造前の船でそうしたように。
 副操縦士の席とは違っていたって、コアブリッジに席が欲しかったのに。
 ゼル御自慢の椅子でなくてもいいから、座り心地が悪い椅子でもかまわないから、キャプテンの席の隣に欲しかった。自分の席が、ソルジャーの席が。
 無理だと分かっていたけれど。
 白いシャングリラが置かれた状況、それに当時のミュウの弱さと。
 それを思うと絶対に無理で、新しいブリッジにソルジャーの席を作れはしなかったのだけど。
(トォニィは何処かに座れたのかな…)
 何度数えても、増えてはいないコアブリッジの席。ソルジャーの席は設けられないまま。
 けれど、トォニィはきっと座っていただろう。
 前の自分が夢に見たような、平和な時代だったのだから。
 キャプテン・シドの隣の席でも、何処でも空いていたのだろう。
 全員がコアブリッジに詰める必要などは無かったから。
 今日は此処だ、と空いている場所にストンと座ってゆけたのだろう。
 ソルジャーの席を作らなくても、空きは幾つもあったから。前の自分の頃と違って…。



 座り損ねたハーレイの隣。
 トォニィはシドの隣に座れただろうに、前の自分はハーレイの隣に座れなかった。
 改造前の船で隣に座ったあの日が、最後の思い出になってしまった。また座れると思ったのに。
 いつか地球まで辿り着いたら、また座ろうと夢を描いていたのに。
(座れないままになっちゃった…)
 溜息をついて、パタンと閉じた白いシャングリラの写真集。ぼくの席が無かった船だっけ、と。
 本棚に写真集を返して、また溜息を零していたら、ハーレイが訪ねて来てくれたから。
 そうだ、と訊いてみることにした。前の自分とハーレイとのことを。
「あのね、ハーレイ…。ぼくの席、無かったんだけど…」
「はあ?」
 お前の席ならあっただろうが、今日も座っているのを見たが?
 それとも席替えで消えちまったのか、俺の授業の後で席替えがあったのか?
 たまたまお前が移った先で、机か椅子かが壊れちまったか…?
「そうじゃなくって、前のぼくだよ」
 シャングリラのコアブリッジにあった椅子…。
 ゼルの自慢の椅子だったけれど、ぼくの席だけ無かったんだよ。ソルジャーの席は。
「ああ、あれなあ…」
 仕方ないだろ、あの頃は事情が事情なんだから。
 ソルジャーの席を作っちまったら、後が大変だったんだ。…お前も分かっていただろうが。
「そうだけど…。だけど、座りたかったんだよ…」
 ハーレイの隣に座りたかったな、エラが座っていた席に。いつでも左に座っていたから。
 前のぼくが好きだった副操縦士の席、ハーレイの左側だったから…。
 あそこに座ろう、って思っていたのに、座れないままになっちゃったんだよ。
 あの席、きっとトォニィは座っていたんだろうけど…。
 ソルジャーの席が増えてないから、トォニィは座れたんだろうけど…。



 前のぼくは座り損なっちゃった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
 白い鯨では一度も座れないままだったけど、と。
「…ぼくがハーレイの隣に座れていたのは、改造する前の船だった頃で…」
 また座れると思っていたのに、とうとう座れないままで…。
 ハーレイ、ぼくが最後に隣に座っていた日に、惑星の周りを飛んでくれたの、覚えてる…?
 「これが最後かもしれませんから」って、ちょっと航路を変えてくれて。
 ぼくとハーレイしかブリッジにいなかった時なんだけれど…。
「あったっけなあ…!」
 懐かしいなあ、まさか本当に最後になるとは俺も思っていなかったんだが…。
 あの船での最後ってつもり程度で、次があるさと軽い気持ちでいたわけなんだが…。
 本当に最後だと分かっていたなら、二周くらいはするべきだった。
 三周でもいいな、いや、誰かがブリッジにやって来るまで、ずっと周ってても良かったなあ…。
「…ホント? ぼく、ハーレイに訊きたいんだけど…」
 あの時、ぼくを好きだった?
 ぼくのこと、好きだと思ってくれてた…?
 ちっとも気付いていなかったけれど、ぼくはハーレイのことが好きだったんだと思うんだよ。
 だから隣に座りたくって、空いてる時には座っていて…。
 白い鯨になった後には、もうブリッジに席は無いけど、いつか座ろうと思ってたんだ、って。
 …ハーレイはぼくのこと、好きだった…?
「俺もとっくに好きだったんだろうな、お前と同じで」
 それで航路を変えようと思ったんだろう。
 お前と並んで座れるチャンスは当分やって来そうにないし…。二人きりというのも難しいし。
 今の内だと考えたんだな、お前とゆっくり飛んでおこうと。
 次はいつだか分からないから、お前と二人で外を眺めておかないと、とな…。



 シャングリラでドライブしちまったらしい、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
 前のお前とドライブをしたと、地球までは連れて行ってはやれなかったが、と。
「…約束したのに、守れなかったな…。だが、あんな赤い地球ではなあ…」
 お前もガッカリしたんだろうなあ、もしも地球まで行っていたなら。
 あの星の方がよっぽどマシだ、とドライブしていた星の話を持ち出したかもな。
 …それでも、お前は俺の隣に座って眺めたかったんだろうが…。
 地球が少しも青くなくても、俺の隣で見ていられるなら、それで満足だったんだろうが…。
「うん…。ハーレイの隣に座って眺められるんならね」
 きっと充分だったと思うよ、前のぼくには。…地球まで行けずに終わったけれど…。
 でも、今は来たよ、青い地球まで。
 ハーレイの隣に座っていけるよ、前のぼくが座っていたみたいに。
「おいおい…。今の俺はだ、宇宙船なんかは全く動かせないんだが?」
 前のお前に約束はしたが、生憎と俺はパイロットじゃなくて…。
 ただの古典の教師ってヤツで、お前を隣に乗っけて地球を一周するのは無理なんだが…?
「ううん、ハーレイの車で充分!」
 それでいいんだよ、いつか乗っけて走ってくれれば。
 星を一周しなくていいから、ぼくを隣に乗せてドライブしてくれれば。
 行き先はホントに何処でもいいよ。
 あの時みたいにハーレイが決めて、「行こう」って言ってくれる所でいいから。
「よしきた、車でドライブだったら任せておけ」
 お前の行きたい所へ好きなだけ俺が連れてってやろう、前の俺が約束していた分まで。
 地球には二人で来ちまったんだし、車で行ける所だったら何処でもいいぞ。
 車でいいなら、シャングリラでなくてもいいのならな…。



 いつかお前が大きく育って俺とドライブ出来る日が来たら、とハーレイが約束してくれたから。
 またハーレイの隣に座ろう、宇宙船ではなくて車だけれど。
 副操縦士の席でもコアブリッジでもなくて、助手席に乗って行くのだけれど。
 遠く遥かな時の彼方で、二人で座っていたように。
 お互い、恋をしていることにも気付かないままで、シャングリラでドライブした日のように。
 今度は恋人同士で、いつか。
 ハーレイの車の助手席に乗って、青い地球の上を走ってゆこう。
 惑星の周りは飛べないけれども、幸せなドライブに違いないから。
 またハーレイの隣に座って、二人だけで何処までも、いつまでも走ってゆけるのだから…。




          ブリッジの席・了

※白いシャングリラの何処にも無かった、ソルジャーの席。作るわけにはいかなかったのです。
 改造する前、ハーレイの隣が好きだったブルー。いつかハーレイの愛車で、隣の席に…。
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(あれ…?)
 学校の帰りにブルーの耳に届いた音。バス停から家まで歩く途中で。
 カーンと澄んだ鐘の音が一つ。何処からともなく、風に乗って。
(下の学校…)
 あそこの鐘、と顔が綻ぶ。今の学校に入学するまでは、家から歩いて通っていた。幼稚園の次は下の学校、自分が初めて通った学校。勉強をしに行く所。
 幼稚園は遊びの場所だったからか、学校嫌いの子も多かった。勉強も、じっと自分の席に座っていなければならない規則も、遊び盛りの子供には向いていないから。
(…大きくなっても、おんなじだけどね?)
 友達と遊べる時間はともかく、授業は大抵、歓迎されない。今、通っている学校でも。なんとも嫌われ者の学校、勉強を教える場所だということで損をしている。
 学校でなければ得られないものも多いのに。新しい友達も、学校で大勢出来てゆくのに。
(ぼくも、そうだったんだから…)
 下の学校で幾つも貰った、知識も、それに友達だって。
 家から歩いて行ける距離だから、その学校の鐘がたまに聞こえる。上手い具合に風に乗ったら。
 さっき聞こえていたように。一つだけ、カーンと。
 授業の合図のチャイムと違って、いつでも音は一回きり。
 今日はなんだか懐かしい。あの鐘の音が、澄んだ響きが。久しぶりに聞こえたからだろうか?
(…それに、学校の鐘だしね?)
 今の学校に入る前には、八年もお世話になったのだから。何度も耳にしたのだから。
 懐かしいこともあるだろう。学校の鐘、と。
 もう聞こえない鐘の音。いつも一度しか鳴らさない鐘、二度目の音は届かない。
 気付いた時には通り過ぎてしまっていた音だから、余計に懐かしいかもしれない。学校の鐘、と意識した時は、響きが残っていただけだから。



 きっとそのせい、と考えて家に帰ったけれど。残りの道をのんびり歩いて行ったのだけれど。
 家に着いて、制服を脱いで着替えて、ダイニングでおやつを頬張っていたら、また思い出した。鐘の音がとても懐かしかった、と。
 鼓膜を震わせただけではなかった、あの鐘の音。心の襞まで震わせていった。澄んだ響きで。
 たった一回、カーンと鳴らされ、耳に届いただけなのに。
(…あの鐘、そんなに好きだったっけ?) 
 授業の合図には使われない鐘、休み時間を知らせる鐘だった。他にも色々、生徒を校庭に集める時とか、完全下校の時間が迫った時だとか。
 生徒の注意を引き付けるために鳴らされる鐘。何度も鳴らすより効果的だと思われていたのか、いつでも一度きりだった鐘。カーンと一回。
(本物の鐘で…)
 小さな鐘楼のような所に吊るされていた。紐を引っ張って鳴らしていた鐘。
 いい音がする鐘だったことは確かだけれど。今の学校には無いものだけれど。
(でも、懐かしいほどじゃ…)
 ないように思うのに、懐かしい。帰り道に聞こえた、あの鐘の音が。
 まるで覚えていないけれども、鳴らしたことでもあっただろうか?
 たまに希望者が鳴らせた鐘。係の先生が出て来た時に、サッと元気に手を挙げたなら。
(んーと…)
 どうだったっけ、と考えたけれど、鳴らしてはいない。紐を手にした記憶が無いから。
 多分、名乗りを上げる勇気も無かっただろう。ついでに、力一杯、鳴らさなくてはいけない鐘。一度だけしか鳴らさないのだし、学校中に届くようにと。
 失敗したら大変だから、と眺めていたのに違いない。ぼくには無理、と。



 下の学校の鐘は、そういう鐘。自分はいつも見ていただけ。鐘の響きを聞いていただけ。
 けれど、懐かしくてたまらない。おやつを食べ終えて部屋に戻っても、まだ耳の奥に残った音。帰り道に聞こえた、あの鐘の音。
(やっぱり、ぼくも鳴らしたのかな?)
 勇気を奮って、名乗りを上げて。精一杯の力を鐘にぶつけて、カーンと一回。
 それとも鳴らしたかったのだろうか、今頃になって思い出すほど。鳴らしたかったな、と響きを追い掛けるほど。とうに通り過ぎてしまった鐘の音、それを懐かしく思うほど。
(ぼくの馬鹿…)
 きっと鳴らしていないのだろう。鳴らしていたなら、誇らしく覚えていそうだから。
 しみじみと懐かしむくらいだったら、鳴らしておけば良かったのに。
 そうすれば思い出が一つ増えたし、今日の鐘の音も感慨深く聞けただろう。「誰だろう?」と。係の先生が鳴らしていたのか、生徒の中の誰かだろうか、と。
(今のぼくなら…)
 名乗れると思う、「ぼくもやりたい」と前に出られる。他に希望者がひしめいていても、グイと前に出て、ジャンケンもして。
 運良く勝てたら鐘を鳴らせるし、負けても次のチャンスはある。一回限りで挫けるような真似はしなくて、鳴らせるまで挑戦出来ると思う。何度でも勇気を出して名乗って。



 見ていただけの鐘を鳴らせそうなのが、上の学校に上がった自分。鐘があった下の学校の頃は、本当に見ていただけだったのに。
(今の学校に上がったから?)
 制服がある上の学校。「お兄ちゃん」になった気分で袖を通した入学式の日。義務教育の最後の学校、卒業した後は結婚も出来る十八歳。
 大人に一歩近付く学校、其処に進んだから勇気がグンと増えただろうか。
 でなければ、前の自分の勇気。記憶と一緒に、ソルジャー・ブルーの分が戻って来たろうか?
(…前のぼくかも…)
 英雄だったソルジャー・ブルー。知らない人など、誰もいないほどの。
 学校の授業で教わる前から、子供は自然と何処かで覚える。前の自分の名前と姿を。一番最初のミュウの長。ミュウの時代が始まる切っ掛け、それを作った偉大な英雄。
 今の自分でさえ、あの生き方は真似られない。
 いつでも仲間たちが優先、命まで捨ててメギドを沈めた。白いシャングリラを守るために。迷いさえせずに、そう決めた自分。此処で自分が行かなければ、と。
 とても敵わない、前の自分の勇気と生き方。逆立ちしたって敵いはしない。
 同じ魂が生まれ変わって、今の自分がいるというのに。記憶もちゃんと持っているのに。
 弱虫になってしまった自分。ソルジャー・ブルーだったとは思えないほど、ちっぽけな自分。



(でも、前のぼくの記憶を思い出したお蔭で、ちょっぴり勇気…)
 下の学校の生徒だった頃は、見ていただけで終わった鐘。あれを鳴らせる勇気が増えた。今なら自分も手を挙げられるし、あの鐘だって鳴らせるだろう。
 ソルジャー・ブルーの勇気の欠片を貰ったから。前の自分の強さの記憶を持っているから。
 前のぼくのお蔭で、前よりも強いぼくになれた、と思った途端に。
(あの鐘…!)
 帰り道にカーンと聞こえた鐘。懐かしさを覚えた、澄んだ鐘の音。
 懐かしい音はシャングリラだった、白い鯨であの音を聞いた。前の自分が生きていた船で。
 けれど、シャングリラに、ああいう鐘はあっただろうか?
 白い鯨に、ミュウの箱舟に、澄んだ音のする鐘は据えられていたのだろうか?
(…船に教会、無かったよ?)
 今の時代に鐘と言ったら、教会の鐘が真っ先に浮かぶ。前の自分が生きた時代も、そうだった。ただ一人だけ消されずに残った神のためにあった教会と、其処の鐘楼に吊るされた鐘と。
 シャングリラには設けなかった教会、鐘も鐘楼もあるわけがない。
 ヒルマンが子供たちに勉強を教えていた教室では、合図はチャイムか船内放送。鐘など鳴らしていなかった。紐を引っ張って鳴らすような鐘は。
(…他に鐘って…)
 公園などで見掛けるカリヨン、幾つもの鐘を鳴らして奏でる音楽。それも白いシャングリラには無かったもの。カリヨンとは違った、一つだけの鐘も。
 墓碑公園にも無かった気がする、あそこは祈りの場だったけれど。鐘の音が似合いそうだけど。



 遠い記憶をいくら探っても、まるで見覚えが無いらしい鐘。
 なのに確かに聞いた気がする、白いシャングリラで前の自分が。鐘は何処にも無かったのに。
(…ハーレイだったら、知ってるかな?)
 誰よりも船に詳しいキャプテン、シャングリラの全てを把握していたキャプテン・ハーレイ。
 今のハーレイが覚えているなら訊いてみたい、と思っていたらチャイムが鳴った。仕事の帰りに来てくれた恋人、教師になったキャプテン・ハーレイ。
 いつものテーブルを挟んで座って、母がお茶とお菓子を置いて去った後、早速尋ねた。
「あのね、シャングリラに鐘ってあった?」
 ハーレイだったら、きっと覚えていそうだけれど…。あの船に鐘があったのなら。
「鐘? …鐘って、どういう鐘なんだ?」
 ガランガランと鳴らすヤツなら、その辺で使っていたんじゃないか?
 こう、手に握って鳴らす鐘だな、あれはけっこう音が響くし。
「それじゃなくって、教会の鐘みたいなの…」
 ちゃんと紐を引っ張って鳴らすヤツだよ、下の学校の時にあったんだよ。
 今のぼくが前に行ってた学校、小さな鐘楼みたいなのがあって…。いい音がする鐘がついてた。
 何かの合図の時に鳴らすんだよ、一回だけね。休み時間だとか、他にも色々。
 たまに風に乗って聞こえて来るから、今日の帰りに聞いたんだけど…。
 バス停から歩いて帰る途中で、カーンって一回、鳴ったんだけど…。



 その音が妙に懐かしかった、と恋人に向かって説明をした。
 最初は今の自分の思い出なのかと考えたけれども、違うらしいと。前の自分だと、同じ鐘の音を白いシャングリラで聞いたのだ、と。
「ホントなんだよ、でも、鐘があった場所が分からなくって…」
 何処にも無かった、っていう気がするんだけれども、前のぼくは鐘の音を聞いたし…。
 あの鐘、本物じゃなかったのかな?
 そういう音を流してたのかな、食事の合図とか、そんな具合で船内放送…。
「いや、鐘の音は使っていない。そいつは俺が保証する」
 音楽だとか、色々なのを使ってはいたが…。船の空気が和むようにと工夫していたが、鐘の音は採用してないな。…少なくとも、俺がキャプテンになった後には。
 つまり、お前の言う白い鯨じゃ使っていないということだ。最初の頃の船はともかく。
 船内放送には使ってないのに、前のお前が聞いたとなると…。
 何処かに鐘があったってことか、あのシャングリラに教会みたいな感じの鐘なあ…。
「…やっぱり無かった?」
 ぼくの記憶が間違ってるかな、今のぼくのと混ざっちゃった?
 その可能性だってゼロじゃないよね、混ざってしまって、ごっちゃになって。
「さてなあ…?」
 そう簡単には混ざらないだろうと思うんだが…。少なくとも、俺はごっちゃにならないし。
 シャングリラだな、と思った時には、間違いなく前の俺の記憶だ。
 なにしろ船が世界の全てだ、そうそう今と混じりはしないぞ。地球とはまるで違うんだから。
 お前も多分、同じだろうし…。鐘の音を聞いたと言うんだったら、その音は確かにあったんだ。
 だが、鐘なあ…。あのシャングリラで鐘だってか…?



 シャングリラで鐘のありそうな場所…、とハーレイも暫く考え込んで。
「お前、シャングリラの写真集は見たか?」
 あれを広げて確かめてみたか、何処かに鐘が写っていないか。
「…ううん、見てない…」
「なら、持って来い。俺とお揃いなのが自慢だろうが」
 一緒に見よう、と促されて棚から取って来た写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
 ハーレイと二人でページをめくって、船の中を端から探していった。公園や食堂、展望室。皆が休憩に使っていた部屋、順に調べてゆくのだけれども、やはり写っていない鐘。
 最後のページに辿り着いても、鐘はとうとう見付からなかった。
「…無かったね、鐘…」
 ぼくの気のせいだったのかな?
 今のぼくのと混じっちゃったかな、下の学校にあった鐘の音と…?
「いや、俺も聞いたような気がしてきたぞ」
 お前に鐘だと言われ続けたせいってわけでもないだろう。俺は影響されるタイプじゃないし…。
 今の俺もそうだし、前の俺もそうだ。周りの意見に流されてたんじゃ、キャプテンも無理なら、柔道も水泳も、大して上達しやしないってな。
 俺まで聞いたと思うからには、シャングリラに鐘はあったんだろう。本物の鐘が。
 しかし…。



 何処で、とハーレイは首を捻った。
写真集を広げて探し回っても、無かった鐘。
 もしもシャングリラに鐘があったら、何処かに写っていそうなのに。
「分からんな…。これだけ探して、ヒントすらも無いというのが不思議だ」
 鐘ってヤツは目立つモンだぞ、使い方からしてそうなんだし…。
 あれを鳴らすのは合図と相場が決まっているんだ、それだけに目立っていなくちゃならん。
 人目につかない場所で鳴らしても、合図の役目を果たせないしな。
「…そうなの?」
 鐘ってそういうものだったの?
 下の学校では、確かに合図に使っていたけど…。鐘は元々、そういうものなの?
「そうらしいぞ。お前の学校にあった鐘もそうだし、教会の鐘も似たようなモンだ」
 教会の鐘だと、お祈りの時間が始まる合図に鳴らすんだそうだ。
 結婚式とかの時にも鳴らすが、本来はお祈り用らしい。毎日、決まった時間に鳴らして。
 …待てよ?
 教会の鐘はお祈りの合図で…。
「ハーレイ、何か思い出した?」
「それだ、お祈りの合図ってヤツだ」
 シャングリラの鐘もそれだったんだ。…お祈りの合図に鳴らしてた鐘だ。
「お祈りって…。シャングリラには教会、無かったよ?」
 前のぼくたちは教会を作っていないし、お祈りの合図もあるわけがないよ。
 ハーレイ、何かと間違えていない…?
「おいおい、キャプテンだった俺が、船の設備を間違えるってか?」
 失礼なヤツだな、キャプテン・ハーレイに向かって「間違いだ」なんて。
 まあ、今の俺はただの古典の教師なんだし、そう言われても仕方がないが…。しかしだ、記憶はしっかりしてるぞ、前の俺の分の。
 シャングリラに鐘は確かにあった。お祈りの合図に鳴らすためのヤツが。
 …これだ、これ。



 写真集には載っていないが…、とハーレイが指差す休憩室。
仲間たちの憩いの場所だった部屋。丸ごと写せるわけではないから、捉え切れていない壁や天井の全て。
「…此処にあったの?」
 ぼくは全く覚えてないけど、どの辺り?
 此処でみんなでお祈りしたかな、それの合図の鐘だったかな…?
「此処じゃなくてだ、もっと別の場所に…」
 休憩室という名前だったが、小さいのが一つあったんだ。休憩室は他に幾つもあったが、それは特別なヤツだった。…身体じゃなくって、心が休憩するための部屋だ。
 教会代わりに作っただろうが、そういう部屋を。
「えっ…?」
 休憩室でしょ、なんで教会の代わりになるの…?
 教会は神様のための場所だよ、休憩しに行く所じゃないよ…?
「心のためだと俺は言ったぞ。心を休憩させたい時には此処だ、という部屋だった」
 自分の部屋では、癒せないような時もあるだろう。…色々なことを思い出しちまって。
 そういった時には神様に癒して貰える場所が必要だ、とヒルマンとエラが言い出したんだ。
 本物の教会は専門の神父とかがいないと無理だし、祈るための部屋だけ作っておこうと。
 祈りたい時に、祈りたいヤツが好きに使えるような場所をな。
「ああ…!」
 そういえばあったね、とても小さな休憩室が。
 他の休憩室とは違って、賑やかじゃなかった静かな部屋が…。



 すっかり忘れてしまっていた。ハーレイにそれを聞かされるまで。
 前の自分たちが休憩室と呼んだ、小さな部屋。教会の代わりに作った部屋。存在したことさえ、まるで覚えていなかった。教会があったら其処でするのだろう、結婚式や仲間の葬儀。そういった儀式は他の所でやっていたから。仲間たちが大勢入れるようにと、もっと広い部屋で。
 白いシャングリラの一角にあった、祈りのための休憩室。心を休憩させるための小部屋。
 本当に小さくて、けれど大切な部屋の一つで…。
「鐘はあそこにあったんだ。…お前が言っていたような鐘が」
 部屋の端っこに吊るしてあった。紐を引っ張って鳴らす鐘がな。
「思い出したよ、自分で鐘を鳴らすんだっけ…」
 お祈りしたい気持ちの時には、自分で紐を引っ張って。
 …そういう気分になれない時には、黙って座っているための部屋。自分の心が落ち着くまで。
 ちゃんと落ち着いたら、そのまま静かに出て行ってもいいし、鐘を鳴らして帰ってもいいし…。
 あそこはそういう部屋だったっけね、お祈りのための鐘がある場所。
 これからお祈りしますから、って鐘を鳴らしたり、神様への御礼に鳴らしたり…。
 鐘を鳴らすための決まりは何も無くって、誰でも自由に鳴らせたんだっけ…。



 休憩室と呼ばれていた小部屋。仲間たちとお喋りをするような休憩室とは違った部屋。
 飲み物も食べ物も置かれてはおらず、休憩用の椅子とテーブルがあっただけ。それから鐘と。
 教会の代わりにと設けられた部屋、使い方は決まっていなかった。
 祈りたい人が、祈りたい時に出掛けてゆけばそれで良かった。
 何を祈るのも個人の自由で、鐘を鳴らすのも、鳴らさないのも個人の自由。
 記憶から抜け落ちてしまっていた小部屋、白いシャングリラの教会代わりだった部屋。
 誰も来ないままで一ヶ月だとか、そういう失礼があっては神様に申し訳ないから、と神様の像は無かったけれど。
 神様に仕える専門の仲間は誰もいなくて、教会を彩るステンドグラスも無かったけれど。
 それでも確かに、教会の代わりを立派に果たしていた小部屋。心のための休憩室。
 休憩室で祈る人には、けして事情を訊いてはいけない。その人が涙を流していても。
 黙って自分も祈るのが礼儀、そうでなければ立ち去るもの。
 涙を流している人が話したくないならば。事情を打ち明けたくないのなら。
 鐘はその部屋の壁際にあった。神様の像を据える代わりに。
 小さな小さな部屋だったけれど、吊るされた鐘はゼルが工夫を凝らした鐘。本物の教会の鐘にも負けないものをと、形や金属の配合を何度も検討しながら作り上げた鐘。
 あの部屋に丁度いいように。小さな部屋でも、よく響くように。
 誰が鳴らしても、余韻のある美しい音が響いていた鐘。澄んだ、天まで届きそうな音が。



 白いシャングリラで、前の自分が聞いた鐘の音。あれは祈りの鐘だった。休憩室の壁に吊るしてあった鐘。誰が鳴らしてもよかった鐘。
 祈りたい時に紐を引っ張ってやれば、透き通った音が響き渡った。小さな部屋の中でなければ、きっと遠くまで届いた音が。
 今日の帰り道に聞いた鐘のように、白いシャングリラに鐘の音は響いていたのだろう。鐘の音が外に漏れないようにと作られた部屋でなかったら。
 祈りのための部屋の中でだけ、響くように作られていなかったなら。
(…壁に細工をしてたんだっけ…)
 鐘の音は一つ間違ったならば、騒音にもなるという話だったから。
 遠い遥かな昔の地球でも、問題になった時代があったとヒルマンとエラが調べて来たから。
 本物の教会の鐘楼の鐘は、夜中でも鳴っているものだった。人の心に余裕があった時代には。
 ところが人が余裕を失くして、自分のことしか考えないような時代になったら、教会の鐘の音は騒音になった。夜も昼も鳴ってうるさいから、と。止めて欲しいと殺到した苦情。
 それぞれの暮らしがあるだろうから、と最初は夜だけ止めていた鐘。
 夜は鳴らなくなったというのに、今度は朝早い鐘が嫌われた。あれもうるさい、と。
 そんな具合で、最後には鐘を鳴らさなくなった教会もあったほどだという。
(人類はなんて身勝手なんだ、って思ったけれど…)
 実際にそういう例があったなら、考慮しておくべきだろう。ミュウは心が優しいけれども、船の中だけが全ての世界。聞きたくない時に鐘が聞こえたら、苛立つこともあるだろうから。
 祈りの心を託した鐘が騒音になってしまわないよう、小部屋の壁には細工がされた。サイオンは使わず、吸音材で包んでおいたのだったか。
 鐘の音は部屋には響くけれども、部屋の外には零れなかった。
 だから自分も何処で聞いたか、思い出せずにいた有様。祈りのために鳴らした時しか、鐘の音は聞こえなかったから。
 白いシャングリラの何処に行っても、聞こえた音ではなかったから。



 前の自分も鳴らした鐘。小部屋に入ったら先にいた誰か、他の仲間が鳴らすのも聞いた。
 清らかに澄んだ響きの音を。天まで響いてゆきそうな音を。
 けれども、鐘は写っていない。シャングリラの主だった部屋を収めてあるのに、休憩室の写真も載っているのに。
「…あの部屋、どうして載っていないんだろ?」
 小さいけれども、とても大切な部屋だったのに。…休憩室より、ずっと大事な部屋なのに。
 写真集にも入ってないから、ぼくもハーレイも忘れてたじゃない…!
 きちんと載せておかなきゃ駄目だよ、抜けちゃってるなんて片手落ちだよ…!
「…ある意味、神聖な部屋とも言えるからなあ…」
 教会とは違うが、それの代わりに作った部屋だ。他の部屋とは少し違うぞ、あの部屋は。
 遊びに来ました、と記念に一枚、写真を撮れるような場所ではないだろう?
 前のお前や俺の部屋とは違うんだ。…そのせいじゃないか?
 皆が祈っていた部屋だからな、こういう写真集に載せるつもりは無かったかもしれん。
 娯楽のための出版物には決して載せるな、とトォニィが指示を出したとしたなら、研究者向けのデータくらいしか無いだろう。
 …もしかしたら、そいつも無いかもしれん。
 あの部屋の写真は一枚も撮らずに、シャングリラを解体させたかもしれんな、トォニィは。
 見世物じゃない、と記録は一切残さずに。
 残したとしても、興味本位では見られないよう、厳重に管理がしてあるとかな。



 トォニィたちも祈っていたかもしれないから、というのがハーレイの読み。
 自分も祈りを捧げた場所なら、きっとあの部屋の重さも意味も分かるだろうから、と。
「…俺が思うに、トォニィは祈った可能性ってヤツが高いだろう」
 間違いなく祈っていたんじゃないか、と思わないでもないわけだ。…あの部屋でな。
「そうなの?」
 前のハーレイたちが死んじゃった後かな、ジョミーも地球で死んじゃったから…。
 トォニィはジョミーが大好きだったし、あの部屋、使っていたかもね…。
「その時もそうだが、前の俺が生きていた間。…その間に一度は祈っていそうだ」
 確証は無いが、そういう気がする。トォニィはあそこに行っただろう、と。
「…いつ?」
 アルテラたちなの、トォニィはアルテラに貰ったボトルを忘れなかったし…。
 あのボトルに書かれたメッセージだって、ちゃんと今まで伝わってるし。
「そいつも恐らく入るんだろうが、俺が言うのはマツカを殺しちまった時だ」
 キースを殺しに行ったというのに、仲間の命を奪っちまった。…事故だったがな。
 俺が真相をジョミーから聞いた時には、トォニィは酷く悔やんでいた。
 そういうことか、と傍目に見たって分かるくらいに泣きそうな顔をしていたな…。
 まさか俺にまで知られているとは、恐らく気付いていなかったろうが。
 それが普段のトォニィだったら、「余計なことまでかまうんじゃない!」と怒鳴っただろうに、何も言わずにいたからな。
 …多分、気付いちゃいなかったんだ。自分がどんな顔をしているのかさえ。
 人類の命は山ほど奪っていたトォニィだが、仲間を殺してしまったショックは大きいし…。
 なのに、マツカの葬儀は無かった。シャングリラの仲間じゃないからな。
 アルテラたちが死んだ時には皆が祈って、墓碑にも名前が彫られたんだが、マツカは違った。
 だから祈りに行ったんじゃないかと思うわけだ。…あの部屋で一人、鐘を鳴らして。
 殺しちまったマツカの葬儀を、誰一人してはくれないんだから。



 トォニィがマツカを殺したことは、一部の者しか知らなかったらしい。
 地球が目の前に迫っていたから、ジョミーが敷いた緘口令。皆が動揺しないようにと、マツカの死は固く伏せられた。
 人類の側に、国家主席の側近としてミュウがいたのだと知れたら酷い騒ぎになるから。このまま進んで行っていいのか、迷う者たちも出るだろうから。
 確かに仲間が、一人のミュウが死んだというのに、誰もその死を悼んでくれない。それも仲間に殺されたのに。トォニィが誤って殺したのに。
 マツカを殺したトォニィだけしか、祈れる者はいなかった。前のハーレイも心で祈っておくのが精一杯。船の仲間にマツカのことを知らせるわけにはいかないから。
 きっとジョミーもハーレイと同じ、祈りには行かなかったろう。地球へ行くのが最優先で。
 トォニィは一人で祈るしかなかった、マツカのために。
 自分一人で背負ってゆくには、あまりにも重いその十字架。自分の部屋での祈りだけでは。
 それまで一度もあの部屋に入っていなかったとしても、トォニィは小部屋に入っただろう。鐘を鳴らして祈りを捧げに、自分が殺したマツカのために。
 ミュウの最後のソルジャーになった、トォニィが一人で鳴らした鐘。
 誰も祈りを捧げてくれないマツカの魂、彼が真っ直ぐ天国へ飛んでゆけるようにと。



 悲しい祈りを捧げたトォニィ。自分が殺してしまった仲間を、マツカを悼んで鐘を鳴らして。
 ハーレイはそうだと考えていた。トォニィはあの部屋に行った筈だ、と。
 今の自分も、ハーレイと同じ考えだから。トォニィは小部屋で祈っただろうと思うから。
「そっか…。トォニィが一人で祈るしかなかったことがあるなら…」
 他の仲間は誰も知らなくて、一人きりで苦しい思いをしながら鐘を鳴らしていたんなら…。
 あの部屋の写真は撮らせないかもね、さっきハーレイが言った通りに。
 撮らせたとしても、ホントに一部の研究者向けで、普通の人には見られない仕組み。
 データベースにアクセスしたって、きっと引き出せないんだね。ハーレイもぼくも、今は普通の人間だから…。
「そうなんだろうと俺は思うぞ、写真集に載っていないってことは」
 この写真集は、一番内容が充実していると評判なんだ。そいつにも載っていないんだから。
 …お蔭で俺も忘れていたがな、あの部屋のことも、鐘があったことも。
 お前が鐘だと言い出した時も、直ぐには思い出せない始末で。



 前のお前のために何度も行っていたのに、とハーレイが言うから。
 すっかり忘れてしまっていたとは情けないな、と苦い笑いを浮かべているから。
「…そうだったの?」
 ハーレイ、あそこで祈ってくれたの、前のぼくのために?
 ぼくはハーレイを酷い目に遭わせちゃったのに…。独りぼっちにしちゃったのに。
「だからこそだな。…行かないわけがないだろう」
 お前の所に届くといい、と鐘を鳴らして祈っていた。地球に着いたら俺も行くから、と。
 俺が行くまで待っていてくれと、寂しがらずにいてくれと。…俺の祈りが届くのなら、と。
 鐘の音がお前に届いていたかは知らないが…。お前も覚えていないようだが。
 それはともかく、前のお前も行ってたんだな、あの部屋に。
 シャングリラにああいう鐘があったと、ちゃんと覚えていたんだから。
「うん…」
 いろんな時に祈りに行ったよ、あそこまで。
 先に誰かがいたこともあるけど、ぼくも祈りたかったから…。
 ソルジャーだってお祈りしたってかまわないでしょ、ミュウの未来を祈るんだから。
 …そうやって鐘を鳴らしてたんだよ、ゼルが作って吊るしてくれた鐘を。
 前のぼくもあそこでお祈りしてたよ、ハーレイとは一度も会わなかったけど。



 白いシャングリラの休憩室。祈りのための小さな部屋。
 あの部屋で何度、祈りの鐘を鳴らしただろう。澄んだ音を部屋に響かせる鐘を。
 神に届いてくれればいいと、祈りが神に届くようにと。
「…ハーレイ、あの部屋、シャングリラの教会だったのかな?」
 本物の教会は作っていなくて、あそこは休憩室だったけれど。
 神様の像も、十字架も無かった部屋だったけれど、あれが教会だったのかな…?
「ふうむ…。教会じゃなくて代用品だが、立派に役目は果たしていたなあ…」
 結婚式とかには使えなかったが、祈りの場所にはなったわけだし…。
 前の俺たちも祈ったわけだし、あれも教会だったんだろうな。神様の像が無かっただけで。
「今は教会、ちゃんとあるよね」
 本物の教会が町に建ってて、鐘楼だってくっついていて…。
 この家からは離れているから、鐘の音は聞こえてこないんだけど。
「お前、教会、行ってるのか?」
 真面目に祈りに行っているのか、クリスマスとかに?
「ううん、ハーレイは?」
 ぼくは教会には通ってないけど、ハーレイは行ったりしているの?
「お前と同じだ、俺も全く行ってないってな」
 美味いものが食えるバザーでもあると聞き付けたんなら、話は別だが…。
 そうでなければ、御縁は全く無いってヤツだ。
 あれが教会の鐘の音だな、と意識したことさえ一度も無いなあ、ただの鐘だな。
 カーンと鳴ってりゃ鐘ってだけでだ、学校の鐘か教会の鐘かも俺は気にしていないってな。
 前の俺は何度も真面目に鳴らしていたんだが…。あの部屋の鐘を。



 鐘を鳴らして祈る必要も無いほど幸せになってしまったんだな、とハーレイは楽しそうだから。
 あの鐘のことも二人揃って忘れるくらい、と肩を竦めて笑っているから。
 きっとそういうことなのだろう。
 前の自分たちの頃と違って、鐘を鳴らして縋るような祈りを捧げなくてもいいのだろう。
 神様にはたまにお願いするだけ。
 教会どころか自分の家から、うんと自分に都合よく。これを叶えて下さい、と。
 鐘を自分で鳴らしもしないで、欲張りに。
 早く大きくなれますようにと祈ってみたり、早く結婚出来ますようにと祈ったり。
 ハーレイと二人、平和な時代に、青い地球に生まれて来られたから。
 祈りの鐘を鳴らさなくても、幸せが幾つも降ってくるから。
 そしていつかは、結婚式の鐘が鳴るのだろう。
 ハーレイと一緒に歩き出す日に、幾つも、幾つも、幸せの鐘。
 澄んだ鐘の音が響き渡る中、幸せに包まれて歩いてゆく。
 いつまでも、何処までも、ハーレイと二人。キスを交わして、しっかりと手を握り合って…。




            祈りの鐘・了

※白いシャングリラにあった、祈りを捧げるための鐘。それを鳴らして祈った小さな休憩室。
 けれど、写真集には載せられていないのです。きっと、とても大切な部屋だったから。
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