シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(先っぽがお辞儀しているんだよ)
うん、とブルーが眺めた糸杉。学校からの帰り、バス停から家まで歩く道の途中。
道沿いに並ぶ家の一軒、其処の庭にすっくと聳える糸杉。いつも目にする木なのだけれど。毎日前を通るけれども、ふと目に付いた木の天辺。
糸杉らしくヒョロリと伸びた天辺、それが少しだけ曲がっていた。まるでお辞儀をしているかのように。天辺もそうだし、注意して見れば他にも先だけ曲がった枝が何本か。
曲がると言ってもほんの少しだけ、注意しないと分からない程度。ごくごく控えめなお辞儀。
それでも糸杉はお辞儀する木で、この木だって、ちゃんと。
(うん、いつもお辞儀をしている木…)
面白いよね、と足を止めて糸杉を観察している内に。お辞儀した枝を探す間に、浮かんだ疑問。
(…誰に教わったんだっけ?)
糸杉のお辞儀。木の天辺が曲がっていること。
いつの間にやら知っていた知識、糸杉を見たらぽっかりと浮かび上がった知識。なんとも思わず木の天辺を眺めたけれども、お辞儀を確認したけれど。
前には全く知らなかった気がする、糸杉のお辞儀。そう思って見上げたことが無い。
(パパとかママに教わったんなら…)
きっと何度もお辞儀を見た筈、幼い頃なら自分もペコリとお辞儀を返したことだろう。なにしろ幼い子供なのだし、相手が木だってお辞儀する。お辞儀していると教えられたなら。
(うん、きっと…)
気付けば、自分も「こんにちは」と。礼儀正しく、ピョコンと、ペコリと。
ところがそういう覚えなどは無くて、糸杉はただの糸杉だった。そういう名前で呼ばれる庭木。天辺なんかは気にしていなくて、お辞儀に気付く筈も無い。
そうなってくると…。
(前のぼく?)
自分の記憶ではなかったのだろうか、糸杉のお辞儀。天辺が曲がっているということ。
前の自分の記憶だったら頷けるけれど、今日まで全く気付かないのも納得だけれど。
(でも、糸杉…)
美味しい実をつける果樹とは違うし、糸杉はただの庭木に過ぎない。この家のように高く聳える木に仕立てるか、もっと低めに刈り込んで並べて生垣にするか、そういった庭木。
シャングリラでは役に立ちそうもなくて、綺麗な花だって咲きはしないし…。
(…公園向けってわけじゃないよね)
どう考えても、白い鯨には似合わない。使えそうにない糸杉の木。
それとも自分が覚えていないだけで、糸杉は木材向けだったろうか。固くて丈夫で何かと便利な木だからと植えられていたか、成長が早くて使いやすかったか。
(…どうだったかなあ?)
シャングリラで木材にするための木を切る時はお祭り騒ぎで、自分も手伝っていたけれど。変な方へ倒れて怪我人が出てはいけないから、と万一に備えて見ていたけれど。
糸杉を切った記憶は無かった、ただの一度も。切られていたのは、もっと他の木。
(なんで糸杉?)
分からないや、と糸杉のお辞儀を見上げて首を捻って、それから家へと帰って行った。
自分の家まで辿り着いても、思い出せない糸杉の記憶。糸杉のお辞儀。
着替えを済ませて、ダイニングでおやつを食べる間も糸杉が頭から離れない。
(先っぽがお辞儀…)
何のためだったろうか、糸杉のお辞儀。
道ゆく人に挨拶するのか、仲間同士で挨拶するのか。さっき見た木は庭に一本きりの糸杉、他に仲間はいなかったけれど、何処かの仲間に「こんにちは」と頭を下げているとか…?
(天辺がほんの少しだけ…)
知らなかったら気付かないままでいそうなお辞儀。ほんの僅かだけ曲がった天辺。
(なんだか猫の尻尾みたいだ…)
猫が真っ直ぐ立てた尻尾の先っぽが曲がっていることがある。猫の気分で、ほんのちょっぴり。猫の尻尾は自由に曲がるし、気取って先だけ曲げていることも。
糸杉のお辞儀は猫の尻尾を連想するけれど、尻尾と違ってその日の気分で曲がりはしない。木に神経は通っていないし、曲げるための骨組みも入っていない。
それでもお辞儀している木。糸杉はお辞儀をしているもの。いつも、いつでも、どんな時でも。
何のために…、と考え込みながら紅茶のカップを傾けた途端、ハッと気付いた。
シャングリラだ、と。
あの白い船にも糸杉があったと、いつもお辞儀をしていたのだと。
おやつを食べ終えて、自分の部屋に戻って取り出したシャングリラの写真集。
ハーレイとお揃い、父に強請って買って貰った豪華版。それのページを順にめくっていって。
(あった…!)
開いたページに墓碑公園。白いシャングリラの居住区の中、鏤められた幾つもの公園の一つ。
亡くなった仲間の名前を刻んだ真っ白な墓碑があった公園、其処に糸杉が写っていた。今日まで何度も眺めていたのに、素通りしていた糸杉の木。
あまりにも自然に溶け込んでいたし、墓碑とセットだと思っていたから。糸杉と真っ白な墓碑がセットで、二つで一つと言っていいほどに馴染んだ光景だったから。
糸杉の他にも公園に相応しい木が植えられていたし、草花だって。
そうした全てをひっくるめた形で墓碑公園だと見ていただけで、糸杉の木には気付かなかった。
とても大切な木だったのに。墓碑と糸杉とが、墓碑公園の主役だったのに。
どうして自分は忘れていたのか、一本だけあった糸杉の木を。お辞儀する木を…。
(ハンスの木…)
最初はそういう名前の木だった。墓碑公園に植えられた一本だけの糸杉。
ハンスではなくて、「ハンスの木」。そう呼ばれていた、白いシャングリラの仲間たちに。白い鯨が出来上がる前から船で一緒だった、アルタミラからの脱出組に。
船にハンスはいなかったけれど。名前の持ち主はアルタミラを離陸した時に船から投げ出されてしまって、燃え盛る地獄へ真っ直ぐに落ちて行ったのだけれど。
宇宙船の操船などは誰もが初めての経験、閉め忘れてしまった乗降口。
ハンスは其処から落ちてしまった、船の外へと。ゼルが懸命に掴んでいた手も離れてしまった。
救い出せずに喪ったハンス、ゼルの弟。
せっかく船まで走って来たのに、ゼルと一緒に乗り込んだのに。
その事故から長い歳月が流れて、船の改造が決まった時。白い鯨を造る時。
様々な設備や施設の案が出される中、いつかは必要になるであろうと言われた墓碑。亡くなった仲間を悼む施設もいずれは要ると、いつか作らねばならないと。
まだまだ先の話だけれども、そういうスペースを設けておこう、と議題が出された時。
「いつかじゃと?」
今要るんじゃ、と声を荒げたゼル。ヒルマンやブラウ、後に長老と呼ばれる者たちが集った席。どういった案を採用するか、と検討していた会議の席で、ゼルがテーブルを拳で叩いた。
いつかどころか、とうに一人死んでしまったと。
弟だったと、この船に乗れずに燃える地獄に落ちて行ったと。
「ああ…。そうだったっけね、ハンスがいたんだ」
ごめんよ、ゼル。あんたの弟だったんだっけね…。
忘れていたわけじゃないんだけどね、とブラウが詫びて、ブルーも含めて皆が謝った。
いつかではなくて、今すぐに作ってもかまわないくらいの墓碑なるもの。ハンスのために。遠い昔に亡くしたハンスを悼む施設が必要だった。
この船に乗っていないばかりに、その影が薄れがちだったハンス。墓碑と言われても浮かばないほどに、ピンと来る者がゼルの他にはいなかったほどに。
あれほどに悲しく、痛ましい最期だったのに。
自由に向かって飛び立つ船から、他の仲間たちを乗せた船から、独りきりで落ちて行ったのに。
そんなわけで決まった墓碑公園。
亡くなった者たちが寂しくないよう、居住区の中の公園の一つを使おうと決めた。気が向いたらフラリと立ち寄れるように、憩いの場としても使えるように。
作るとなったら墓碑ももちろん必要だけれど、それを据えただけでは片手落ち。墓碑に手向ける花がいつでも咲いているよう、様々な季節の花を沢山植えておかねば。
けれども、花なら他の公園にも咲くのだから。
もっと特別な何かが欲しい。墓碑のある公園に相応しい何か。
とはいえ、公園らしい雰囲気も壊したくないし、出来れば樹木の類で何か、と。
墓碑公園に合いそうな木は…、とヒルマンとエラがデータベースを調べに出掛けて。
見付けて来た木が糸杉だった。その木がピッタリに違いないと。
「…糸杉だって?」
何故、とブルーが尋ねてみれば、「そうです」とエラが示した写真。空に向かって伸びた糸杉。
「この写真の此処をご覧下さい。木の天辺が少し曲がっておりますでしょう?」
糸杉はお辞儀するのだそうです、こういった風に木の天辺が。
常に頭を垂れるそうです、と言ったエラの言葉をヒルマンが引き継いで話し始めた。
「糸杉は哀悼の木なのだよ」
死者を悼んで永遠に頭を下げ続けるそうだ、ギリシャ神話から来た話だがね。
キュパリッソスという名の少年がいてね、その少年は鹿と友達だった。ところがある時、誤ってその鹿を槍で殺してしまったのだよ。
少年は酷く嘆き悲しんで、「永遠に悲しみ続けることをお許し下さい」と神に願った。
そうして少年は糸杉に姿を変えて貰って、今も頭を垂れ続けている。…そんな話があるそうだ。
だから、糸杉はサイプリスとも言うね。ギリシャ語でキパリス、キュパリッソスの意味だ。
永遠に頭を下げ続ける木。死者を悼んで頭を垂れる木。
SD体制が始まるよりも昔、人間が地球しか知らなかった時代の墓地には多かったらしい糸杉。哀悼の糸杉に囲まれた島を描いた名画もあったという。「死の島」という名の。ヒルマンとエラはその絵のデータも持って来ていた、ベックリンなる画家が描いた絵。
それだけのデータが揃ったからには、反対する理由は何処にも無くて。
「じゃあ、それにしよう」
糸杉を植えることにしよう、とブルーが同意し、ゼルもブラウもハーレイも賛成。
墓碑公園には糸杉を一本、亡くなった仲間を永遠に悼み続けてくれる木を。
ただ、シャングリラは船だから。白い大きな鯨に改造をしても、宇宙船には違いないから。
「地面に植えた糸杉のように、伸ばし放題というわけにはいかないがね」とヒルマンが言った。白い鯨で一番大きな公園になる場所なら可能だけれども、居住区では、と。
それでも糸杉は上手い具合に、手入れさえすれば樹高を低く保てる木。生垣に出来るくらいだと言うから、居住区の中の墓碑公園でも充分育ててゆくことが出来る。
天辺を常にお辞儀させたいなら、そのように刈り込んでやりさえすれば。
こうして決まった墓碑公園の木。哀悼の意を表す糸杉。永遠にお辞儀をし続ける糸杉。
白い鯨が完成した後、ブルーが人類の施設から苗木を奪って植えた。
墓碑公園に据えられた白い墓碑の側に。
人類も来ないような星から採掘して来た本物の大理石の墓碑。真っ白な墓碑の、その隣に。
苗木とはいえ、ハーレイの背よりも少し高いくらいの木だったから。その天辺は少し曲がって、さながらお辞儀をしているようで。
「本当にお辞儀するんだねえ…」
一人前に、とブラウが感心したら。
「ハンスのためにお辞儀してくれているんじゃ」
ハンスの木じゃ、と言ったゼル。今の所は、と。
白い墓碑にはハンスの名前しか無かったから。刻まれた名前はハンスのものだけ。
後は銘文、アルタミラで亡くなった名前も分からないミュウたちを悼み、捧げる文章。
アルタミラではミュウは一人ずつ檻に入れられ、互いに会うことも無かったから。実験のために引き出される時ですら、決して顔を合わせぬようにと別の通路を歩まされたから。
何人のミュウがアルタミラで死んだか、彼らの名はなんと言ったのか。分からないから、名前を呼べるのはハンスだけ。顔を見知った者がいたのもハンスだけ。
ゆえに糸杉はゼルが言うままにハンスの木。その名でいいと、誰も反対しなかった。
それから平穏な時が流れて、ハンスの木は大きく育っていった。日毎に伸びて丈を伸ばした。
すくすくと伸びるハンスの木。ゼルが手入れをしてやっていた。
公園などの木々の管理は管轄外なのに、係の者たちが手入れする時には手伝って。枝の剪定や、年に何度かの肥料を与える作業など。暇でさえあれば、ゼルは出掛けて行った。
「此処にハンスが乗っておるような気がしてのう…」
世話をせずにはいられんのじゃ、と照れたような笑いを浮かべたゼル。
ただの木だとは思えないのだと、弟の名前がついた木ならば兄が面倒を見てやらねば、と。
白い鯨が出来上がってから歳月が経って、墓碑の名前は幾つか増えた。
寿命の長いミュウだけれども、全体的に虚弱な種族。病には勝てず、神の許へと旅立って行った仲間たち。彼らの名前が新たに刻まれ、ハンスだけではなくなってしまった墓碑の持ち主。
ハンスの木は他の仲間のためのものにもなったのだけれど、ゼルは手入れを欠かさなかった。
糸杉に名前を付けた頃のままに、「元はハンスの木だから」と。
「この木はのう…。わしの弟の代わりなんじゃ」
ハンスを船に乗せてはやれなかったが、ハンスは今でも此処におるんじゃ。この木になって。
きっとこの船に乗っておるわい、わしが生きておる間はのう…。
なあ、と糸杉の幹を叩いていたゼル。まるでハンスが糸杉に変身したかのように。
皆を見守るのがハンスの役目じゃ、とも言っていた。
アルタミラから飛び立った後の船の仲間を、皆を天から見守っていると。
自分の代わりに長生きしてくれと、いつかはきっと青い地球まで行ってくれと。
(ハンスの木…)
シャングリラの写真集に収められた墓碑。糸杉の木と白い墓碑がある墓碑公園。
前の自分の、ソルジャー・ブルーの名前も其処にあるのだろう。ジョミーたちの名も。
白いシャングリラはトォニィの代に継がれたのだし、きっと墓碑には前の自分やハーレイたちの名前も刻まれた筈。
この写真集では分からないけれど。
プライベートな空間以外は拡大して見ることが出来る仕様の本だけれども、墓碑公園は対象外。個人の名前が刻まれたからか、あるいは死者への敬意なのか。ルーペで拡大出来はしなくて、何も読み取ることは出来ない。真っ白な墓碑があるというだけ。
(前のぼくの名前…)
どんな風に刻んであるのだろう?
御大層な墓碑が立つ記念墓地とは違うような気がする、ひっそりと刻まれているのでは、と。
他の仲間たちの名前と何ら変わらず、文字の大きさもまるで同じで。
データベースで調べてみたなら、きっと答えはあるだろうけれど。
求める写真がある筈だけれど、同じ確認するならば…。
(ハーレイに訊きたい…)
前の自分の名が刻まれた墓碑を、ハーレイは見ている筈だから。見なかったとは思えないから。
そう思っていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄り、見下ろしてみれば手を振るハーレイ。
丁度いい所へ来てくれた、と早速訊いてみることにした。母がお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。…ハンスの木のこと、覚えてる?」
墓碑公園にあった糸杉、ゼルがせっせと世話をしていたハンスの木だよ。
「ああ、あれな。もちろん俺も覚えているが…」
どうかしたのか、ハンスの木が?
「えっとね…。ハンスの木を思い出したんだけど…。糸杉を見たら思い出したんだけれど…」
ハンスの木じゃなくて、あれとセットの墓碑の方。
あの墓碑に前のぼくの名前も刻んであったと思うんだけど…。どんな風かな、と思っちゃって。
ソルジャーらしく立派だったか、他の仲間と全く同じに刻んであったか。
ぼくはみんなと同じ扱いだった方が嬉しいけれども、本当の所はどうなのかなあ、って。
ハーレイは見たでしょ、前のぼくの名前が刻んであるのを。
どう刻んだの、と尋ねたら。
立派だったか控えめだったか、どちらなのかと尋ねてみたら。
「…それがな…」
答える代わりに口ごもったハーレイ。言いにくいことでもあるかのように。
「どうしたの?」
前のぼくの名前、立派すぎたの?
みんなと同じ方が良かった、って言ったけれども、立派でもいいよ?
ハーレイたちがそう決めたんなら、ちゃんと気持ちがこもっているもの。それで充分。
「いや、それが…」
皆と同じになってしまった、とハーレイの顔が悲しそうに歪んだ。
文字の大きさが皆と同じなのは仕方ないとして、俺が刻んでやれなかった、と。
「え?」
ぼくの名前が特別扱いじゃなかったことは分かったけれど…。
刻んでやれなかったっていうのは、なあに?
どういう意味なの、と問い掛けてみれば。
何のことかと確認してみれば、文字通りに名前を刻むという意味。
前のブルーが長い眠りに就いていた間に辿り着いたナスカ。
其処で生まれた初めての自然出産児、トォニィの父はユウイと言った。若い世代のミュウだったけれど、事故で命を落としたユウイ。格納庫での誘導中に、ギブリの暴走に巻き込まれて。
そのユウイの名を墓碑に刻んだのが、妻のカリナとユウイの友人たちだった。それ以来、墓碑の名前は親しかった者が刻むことになっていたらしい。
亡くなった者への思いをこめて、その魂が安らかであるようにと。
「…ぼくが眠っちゃう前には、そんな決まりは…」
聞いたことが無いよ、ただの一度も。墓碑公園の責任者が刻んでいただけで…。
「無かったさ、お前の言う通り」
ユウイの時からだと言っただろうが。カリナが刻みたいと言ったんだ。ユウイの名前を。
そのユウイはナスカに墓が作られたんだが、墓碑にも刻むと説明をしたら、自分がやると…。
どうしても、と頼み込まれちゃ断れないしな?
大理石を彫るには専門の道具も必要になるが、と言っても聞きやしなかった。無理そうだったら少しだけでも、ほんの少しでも彫りたいんだ、と。
実際の所、カリナだけでは彫れなくってな、ユウイの友達だった男たちの出番になったんだが。
ナスカで生まれた新しい習慣。
墓碑公園に死者の名前を刻む時には、親しかった者たちが彫るというもの。
赤いナスカがメギドの炎で滅ぼされた後、ナスカで亡くなった多くの仲間たちの名も、ゆかりの者たちがそれぞれ刻んだ。友人や、仕事仲間などが思いをこめて。
けれどもブルーの名前だけは…。
ナスカで亡くなった者たちの名前の一番最初に刻まれたブルーの名だけは違った。以前の通りに墓碑公園の責任者が刻み、縁ある者たちは墓碑に触れさえしなかった。
「…みんな忙しすぎたんだ。俺も、ジョミーも、ゼルたちもな」
とにかく合同で葬儀はしたがだ、それさえも俺たちは仕事の合間に駆け付けたって具合でな…。
墓碑にまで頭が回らなくって、任せると言ったか言わなかったかさえも覚えていない。
一段落して、そうだった、と墓碑公園まで出掛けて行って…。
刻まれたお前の名前を見付けて、やっと気付いたという有様だ。大切な仕事を忘れていた、と。
ハーレイが墓碑を前にした時には、とうに刻まれていたという名前。ブルーの名前。
文字の大きさこそ他の仲間たちと同じだったけれど、ソルジャーだからと、最優先で。
亡くなった順番からすれば最後であろうに、ナスカで亡くなった誰よりも先に。
「…すまん。俺がウッカリしていたばかりに…」
苦しそうに顔を歪めるハーレイ。「すまん」と、本当にすまないと。
「なんで?」
どうしてハーレイが謝るわけ?
謝ることなんか何も無いでしょ、ハーレイが指図して立派すぎるのを彫らせたんならともかく。
そういうのはぼくの好みじゃないから、謝ってくれてもいいんだけれど…。
「…俺が刻んでやれなかったからだ、お前の名前を」
お前の恋人だったのに…。誰よりも親しい仲だったのに。カリナがユウイの名を刻んだのと全く同じに恋人同士で、俺が刻むのが正しいやり方だったのに…。
もちろん、恋人だったからとは言えん。しかし、お前の友人としてなら刻むことが出来た。他の誰よりも親しかったと、一番古い友達なんだと。
そう言いさえすれば、俺が刻めたんだ。仕事の合間に刻みに行っては、心でお前と話しながら。
それなのに俺は、考え付きさえしなかった。俺がお前にしてやれる最後のことだったのに…。
「…ほんのちょっぴり残念だけど…」
ハーレイに名前を刻んで貰えるチャンスは逃したけれども、ぼくはちっとも気にしないよ。
そういう決まりが出来ていたことも知らないし…。
ハーレイがとっても忙しかっただろうってことも、ぼくにはちゃんと分かっているから。
それにハンスの木があるしね、と微笑んだ。
墓碑の側にはハンスの木があって常にお辞儀をしていたのだから、ハンスが一緒、と。
「そうなのか…?」
お前、ハンスと一緒にいたのか、死んじまった後は?
「分からない…」
一緒にいたのか、いなかったのか。死んだ後の記憶は何も無いしね、分からないよ。
メギドでハーレイの温もりを失くして、泣きじゃくりながら死んだけど…。それっきりだけど。
まるでなんにも覚えてないけど、生まれ変わる前はハーレイと一緒だったに決まっているよ。
ハーレイが死ぬ前は、もしかしたらハンスと一緒だったかもしれないね。
でも、そんなことはもう、どうでもいいんだ。ハーレイと地球に来られたから、いい。
「…そうか?」
本当にそれだけでいいのか、俺はお前の名前を刻み損なっちまったのに…。
恋人だったくせに、言い訳の一つも思い付くどころか、刻むことさえ忘れてたのに。
「いいんだよ。だって、ぼくは今、幸せだから」
もしもハーレイがぼくの名前を刻んでくれても、こうして会えなかったなら。
そんな墓碑には何の意味も無いよ、ただの記念碑みたいなもので。
そうは言ったけれど、少しだけ気になる白い墓碑。白い鯨の墓碑公園。
シャングリラはトォニィが解体を決めて、宇宙から消えてしまったから。遥かに遠い時の彼方に去ってしまったから、墓碑公園は、墓碑は、どうなったろう?
「ねえ、ハーレイ…。あの墓碑、今も何処かにあるの?」
それとも、消えて無くなっちゃった?
歴史資料で何処かにあるのか、残ってないのか、ハーレイ、知ってる?
「あれなあ…。ずいぶん前に調べたんだが、今でも残っているそうだぞ」
俺やジョミーの名前まで増えて、アルテメシアの記念館にな。
ミュウの歴史の始まりの星だっていう位置付けだしなあ、アルテメシアは。シャングリラの森もあると言ったろ、シャングリラにあった木を沢山移植した森が。木は代替わりしちまったが…。
そういう星だし、あの墓碑もアルテメシアにあるんだ。見に行きたいか?
いつかお前と結婚したなら、懐かしの星まで旅をしてみるか…?
「ううん、アルテメシアには行かなくていいよ」
他にも用事があるなら行くけど、あの墓碑とかを見るだけだったら。
そんな所までわざわざ出掛けて行く価値が無いよ、ぼくの名前があるってだけでしょ?
ハーレイが刻んでくれた名前だったら見たいけれど、とクスッと笑った。
どんな風になったか眺めてみたいし、刻んだ時の裏話なども聞けそうだから、と。
けれども、そうではなかった墓碑。ハーレイどころかゼルたちすらも刻んではおらず、ゆかりの者は誰も関わってはいなかった名前。
それではただの墓碑というだけ、見に出掛けても感慨も何も無さそうだ、と。
「アルテメシアとかノアにある記念墓地と同じでどうでもいいよ」
ぼくのお墓だけど、ぼくのだっていう感じがしないし…。
いつかホントについでがあったら、あれに名前が刻んである仲間たちに挨拶しに行く程度かな。
「俺もだな」
お前以上に遠慮したいな、お前の名前を刻めなかったっていう罪悪感が押し寄せてくるからな。
ハンスや早くに逝っちまった仲間に挨拶出来たら充分だ。
ただし、そのためだけに、はるばるアルテメシアまで旅をしようとも思わないがな。
ハンスたちには心で挨拶すればいいんだ、思い出した時に心をこめて。
その方がヤツらもきっと喜ぶ、青い地球からメッセージが届くって勘定だからな。
「それはそうかも…。出掛けて行くより、地球からだね」
ハンスだってきっと、地球へ行きたいと思った時代があったんだろうし…。
成人検査で記憶が消えても、地球への憧れは消えないんだし。
青い地球までちゃんと来たよ、ってお祈りするのが一番だよね。
「うむ。産地直送の土産を貰った気分なんじゃないのか、地球からの祈り」
本当に本物の地球だからなあ、昔のまんまに青い水の星に戻った地球。
「…今度のぼくたち、地球にお墓が出来るんだね」
それにハーレイと一緒のお墓。ぼくはハーレイのお嫁さんだし、そうなるんでしょ?
「間違いなくな」
お前が嫌だと言い出さない限りは、俺とお前で二人で一つ。
そういう墓に入るってことになるんだろうなあ、まだ用意してはいないがな。
「用意してたらビックリだよ…!」
今からそんなの用意している人なんか無いよ、平均寿命まで三百年以上もあるんだよ?
何が何でも此処がいいんだ、って決めてる場所があって、予約する人はあるかもだけど…。
それでも多分、予約止まりで、お墓までは用意してないよ…!
青い地球の上、今度はハーレイと二人で一つのお墓に入る。
ハンスの木は植わっていないけれども、今度は離れずにハーレイと一緒。二人で一つ。
もしかしたら、糸杉を側に植えるかもしれないけれど。白い大理石の墓碑を作って、前と同じに演出するかもしれないけれど…。
「だけどぼくたち、其処にはいないね」
お墓があっても中身はきっと空っぽなんだよ、ハーレイと二人で行ってしまって。
天国か何処か知らないけれども、ハーレイと二人、手を繋いで。
「だろうな、また何処かへ行ってしまうんだろうなあ、お前と二人で」
この地球に来る前に二人で居た場所、其処へ還って行くんだろう。俺にも記憶が全く無いが…。
其処での暮らしに飽きちまったら、また二人して地球に来るとするか。
「うんっ!」
ハーレイと二人で地球に来ようよ、やっぱり地球が一番だもの。
ぼくたちがいつか還って行く場所、とても素敵かもしれないけれど…。
だけど、飽きたら、二人で地球。この次も地球に生まれるんだよ。
青い地球に二人で帰って来よう、と約束してから。
指切りしてから、ブルーはプッと小さく吹き出した。
「もう次の約束をしてるだなんて…。気が早すぎ…!」
これから三百年以上もあるのに、今からそんな先のことまで約束しちゃってどうするんだろ?
「まったくだ」
お互い、気が早いにもほどがあるってな。
俺たちの時間はまだまだこれから、結婚してさえいないってのに…。
そういや、例のハンスの木。…面白いことを思い出したぞ。
「なに?」
ハンスの木のことなの、それとも糸杉?
「糸杉の方だ。あれの小さいのはクリスマスツリーにもなるんだよな」
本物のクリスマスツリーはモミの木なんだが、糸杉もそれっぽい形だろうが。
クリスマス前には飾り付けてだ、花屋なんかに並んでいるぞ。ミニサイズの糸杉。
「そうなの? じゃあ、お墓に糸杉を植えて貰うよりも前にそっちだね!」
クリスマスツリーの糸杉もいいね、小さかったらテーブルとかにも飾れるし…。
結婚したなら、それも欲しいな。
大きなクリスマスツリーはもちろんだけれど、ちょっと飾っておけるミニサイズのも。
ハーレイと二人でクリスマス、と小さな糸杉のクリスマスツリーを思い浮かべる。
小さくても天辺は少し曲がっているのだろうか?
クリスマスツリーの天辺には星を取り付けるのだし、曲がっていても分からないだろう。
だからこそ糸杉でもクリスマスツリーで、哀悼の木ではなくて飾りが沢山。
(…ふふっ、ハーレイと二人でクリスマス…)
二人きりの家で迎えるクリスマスはどんなに素敵だろうか、と頬が緩んだ。
天辺が曲がっている糸杉。お辞儀していたハンスの木。
お辞儀する木はまだ要らない。
青い地球の上、幸せを沢山積み重ねながら、ハーレイと生きてゆくのだから…。
ハンスの木・了
※ブルーが思い出した、「ハンスの木」。それにシャングリラの墓碑公園のこと。
前のブルーが眠っていた間に、生まれた習慣。辛い思いをしたハーレイですけど、今は幸せ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(本当に年下になっちまったな…)
正真正銘チビで年下、とハーレイはブルーの写真を眺めた。
今日はブルーの家には寄れなかったけれど、学校で見かけて挨拶された。「ハーレイ先生!」と声を掛けて来て、ペコリとお辞儀をしたブルー。小さなブルー。
書斎の机の上に飾ったフォトフレームの中、自分とブルーが写った写真。自分の左腕にブルーが両腕でギュッと抱き付いて、笑顔。それは嬉しそうに、弾けるように。
(チビなんだよなあ…)
こうして見ると本当に小さい、背丈も低いし身体も細い。まだまだ子供といった感じで。
(…でもって、年下と来たもんだ…)
教師と教え子、もうそれだけで充分な年の差、ブルーの方がずっと年下。
それが不思議で、けれども嬉しい。今度は自分が守る立場だと実感出来る年の差だから。二人で何処へ出掛けて行っても、自分の方が保護者だろうから。
小さなブルーが前と同じに育ったとしても、やはり自分の方が年上。変わらず年上。
(二人一緒に飯を食っても、俺が支払うのが自然だしな?)
そう考えるだけで顔が綻ぶ。自分がブルーの保護者になれると、守ってやれると。
(今も守り役ではあるんだが…)
既にそういう立場だよな、とコーヒーのカップを傾けた。愛用の大きなマグカップ。淹れ立ての熱いコーヒー片手に、書斎で寛ぐ食後のひと時。
ブルーの写真を前にしながら、小さなブルーを想いながら。
前の生でもブルーは自分より若い姿で、出会った時からそうだった。アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた日に閉じ込められていたシェルターの中で、前のブルーと初めて出会った。
出られはしないと思ったシェルター、それをサイオンで破壊したブルー。
凄い子供だと驚嘆しつつも、座り込んでいたブルーに声を掛けたのが全ての始まり。崩れてゆく地面を二人で走って、幾つものシェルターを開けて仲間を逃がした。
てっきり子供だと思っていたから、懸命に庇って走り続けて。アルタミラから辛くも逃げ出した船の中でも、年上らしくブルーの世話をしてやった。こんなに小さいのだからと。
ところが、落ち着いた頃に知ったブルーの年。ブルーが覚えていた、生まれた年。研究者たちが実験の度に口にするから、ブルーも記憶していたらしい。
それを聞いたら仰天した。年下の小さな子供どころか、とんでもない年上だったブルー。外見は幼い少年そのもの、心も身体も成長を止めたままでいたから気付かなかった。
(何処から見たって、チビで年下…)
年上なのだと分かった後にも、そういう風には扱えなくて。
いつでもブルーを子供扱い、もっと大きく育ててやろうと頑張っていた。アルタミラの檻の中でブルーが失くした未来への希望、それがある世界へ来たのだから。自由を手に入れたのだから。
(あいつがソルジャーになっちまった後も…)
キャプテンとして敬語で話さねばならない立場になった後でも、まるで無かったブルーが年上という感覚。自分よりも年が遥かに上だという感覚。
単にブルーが偉くなったから、ソルジャーと呼ばれるようになったから、使った敬語。年長者に対するものではなかった、ただの一度も。キャプテンとしての立場ゆえに敬語で話し続けた。
(…俺の他に敬語に切り替えたヤツは、エラくらいだしな?)
礼儀作法にうるさかったエラ。仲間たちにも「ソルジャーには敬語で」と徹底させた。
けれども、後に長老と呼ばれるようになったブラウとゼルとヒルマンと。脱出直後からブルーと親しくしていた彼らは、敬語を忘れがちだった。使わなかったと言ってもいいくらいに。
(しかしなあ…。俺はキャプテンだったからなあ…)
シャングリラの仲間を纏める存在、皆の手本にならねばならない。ソルジャーのブルーに自分が気安く口を利いていたら、それでいいのだと思う仲間も出て来るから。
それはマズイ、と敬語を使い続けた、どんな時でも。ウッカリ崩れてしまわないよう、ブルーと恋仲になった後にも。
(あいつがソルジャーだったから、敬語…)
年長者を敬う敬語ではなくて、ソルジャーに対する礼儀だった敬語。年上だとは思わなかった。頭でそうだと理解していても、心の中では常に年下。守るべき存在、幼かったブルー。
ソルジャーになっても、すっかり大きく育った後にも、出会った時の印象そのまま。
とはいえ、ブルーは年上だった。その事実だけは変えられなかった。
自分よりも先に生まれていた分、早く迎えてしまった寿命。外見の年齢が如何に若くても、命の灯火はまた別物で。
死んでしまう、と泣きじゃくったブルー。もうすぐハーレイと離れてしまう、と。
結局、ブルーは寿命ではなくて、メギドで死んでしまったけれど。
共に逝くと何度も誓った自分を独り残して、「ジョミーを頼む」と白いシャングリラで生きろと縛って、一人きりで逝ってしまったけれど…。
(今度は俺が先に逝くんだ)
順番からすれば、そういうこと。
前と違って、今度は自分が年上だから。外見通りに立派に年上、先に寿命を迎える筈。
小さなブルーは、共に逝くと言っているけれど。
二人同時でなければ嫌だと、残されて一人で生きるのは嫌だと。
だから心を結んでおこう、と何度も何度も頼まれている。結婚したなら、心の一部をサイオンで結んでおいて欲しいと。そうすればきっと、鼓動が同時に止まるからと。
サイオンの扱いが不器用なブルーに出来はしないし、それをするのは自分の役目。
(そのつもりではあるんだが…)
願いを聞いてやろうと思うし、自分もブルーと共に逝けるのなら幸せだけれど。
ブルーの寿命が縮んじまうな、と心がツキンと痛んでしまう。いくらブルーの望みであっても、まだ生きられる筈のブルーの命を奪うのだから。
二十四歳も年下のブルー、二十年以上も生きてゆける筈のブルーの命を。
(二十四歳か…)
それだけ大きく開いた年の差、今のブルーは遥かに年下。
小さなブルーが自分の誕生日を迎えてくれれば、二十三歳の差になるけれど。
この地球の上で出会った時と同じ、二十三歳の差に戻るけれども。
(…俺の誕生日が来ちまったからな…)
夏休みもあと三日で終わる、という日に迎えた誕生日。ブルーに羽根ペンを貰った日。あの日に年の差が広がった。それまでの差より一年余分に、一年多めに。
今の自分は三十八歳、十四歳のブルーの年の倍よりもまだ多い年。プラス十歳という勘定。
ブルーの年を二倍してみても二十八歳、三十八歳には十歳も足りない。
(大した差だ…)
とんだ年の差だ、と苦笑が漏れた。
今度の自分はブルーよりも上で、二十四年も年上で。二十四年ということは…。
(二ダースだな)
年はダースで数えないけれど、二十四年の差ならば二ダース。
十二年が二回、二ダース分もの大きな違いで、ブルーはそれだけ小さくて…。
(…ん?)
待てよ、と指を折ってみた。二十四年の違いで、十二年が二回。二ダースの年の差。
何度か数えて数え直して、それから「うーむ…」と低く唸った。
(俺としたことが…)
間抜けだった、と自分の頭に拳をゴツンと一発。
今日まで気付いていなかった。
この偶然に、いや、運命といった所だろうか。
古典の教師をしているからには、もっと早くにピンと来ていても良さそうなのに。馴染んだ古い書物の中には、何度も出て来るものなのに。
十二年が二回、年の差が二ダース。
遠い昔にこの地域にあった小さな島国、日本の古典を読むのだったら欠かせない知識、十二年がセットになっているもの。
(同じ干支だ…)
小さなブルーと、自分の干支。
生まれ年を示す十二の動物、十二年で一回りしてくる干支。年の差が二ダースあるというなら、自分とブルーの干支は同じで。
今は使われない古い暦だと、自分とブルーは同じ動物、お揃いの干支。
自分が卯年で、ウサギなのだということは…。
(あいつ、本物のウサギだったか…)
ウサギになりたかった小さなブルー。幼い頃にはウサギになろうと夢見たブルー。
白い毛皮に赤い瞳のウサギになりたかったのだ、と聞かされた時には可笑しかったけれど。子供らしい夢だと思ったけれども、ブルーはウサギ年だった。
もしもブルーがウサギの姿になっていたなら、人間をやめてウサギになると言った自分も。
(わざわざウサギにならなくっても、元からウサギだったんだ…)
ブルーも自分も二人揃って、生まれながらのウサギ年。本物のウサギ。
そういう姿はしていないけれど、二人とも同じウサギ年。
(白いウサギと茶色いウサギか…)
ウサギの姿になったとしたなら、前にブルーと話した通りに白いウサギと茶色いウサギ。一つの巣穴で一緒に暮らして、ウサギのカップル。
お揃いの好きなブルーが知ったら、どれほど喜ぶことだろう。生まれた時からお揃いなのだと、同じ干支だと聞かされたなら。
(明日は土曜日だし…)
丁度いいな、と紙を取り出して書き付けた。
十二の干支を表す漢字を。今は使われていない暦の、十二の動物を指し示す文字を。
明くる日は爽やかに晴れた土曜で、歩いてブルーの家に出掛けて。
二階の部屋でテーブルを挟んで向かい合って座ると、ブルーに質問を投げ掛けた。
「お前、自分の生まれた年を知ってるか?」
何年生まれですか、って訊かれた時に答えるヤツだが。
「うん、知ってるよ」
もちろんだよ、と返った答え。小さなブルーの生まれ年。
「俺が生まれた年も知っているよな?」
「当たり前だよ、忘れるわけがないじゃない」
ハーレイが生まれた年なんだもの、と誕生日付きで返って来た。三十八年前に生まれた年が。
得意げな顔をしているブルーに、「その二つ…」と切り出してみる。
「実は二つとも同じなんだが…」
お前が生まれた年と、俺が生まれた年。まるで同じだ、俺も昨日まで気付かなかったが。
「同じって…。何処が?」
何が同じなの、何かの記念の年だった?
ぼくは全く心当たりが無いんだけれども、ハーレイ、何に気が付いたの?
キョトンとしている小さなブルー。
赤い瞳をパチクリとさせて、思い当たる何かを懸命に探しているようだけれど。そうそう気付く筈もないから、種明かしをしてやることにした。
「お前、干支というのを知ってるか?」
古典の授業でたまに出るだろ、ナントカの年、といった具合に。
「少しだけ…」
確か動物の名前なんだよね、虎とか龍とか。
「そう、それだ。…その干支、全部で幾つあった?」
「んーと…?」
羊でしょ、犬っていうのもあったし…。猫は入っていなかったかな?
どうなんだろう、と数え始めたブルー。どうやら覚えていそうもない。全部の干支も、一回りで十二年になるということも。
「猫は干支には入っちゃいないな。いいか、全部で十二だ、十二」
ほら、と昨夜に書いておいた紙をテーブルに置いた。
これが干支だと、これだけある、と。
「干支ってヤツはな、毎年、順番に変わって行くんだ」
今じゃカレンダーにも載っていないが、俺は職業柄、調べてみたりもしているからなあ…。
今年はこいつだ、こいつの年だ。
「…なんて読むの、これ?」
ブルーの疑問はもっともなもの。とても動物とは思えない文字、習っていなければ読めない上に意味も掴めないことだろう。
「巳だな、巳と読む。蛇の意味だ」
「ふうん…?」
他のも動物に見えない字ばかり並んでいるけど…。干支の話がどうかしたの?
「大いに関係があるんだがなあ、お前と俺とが同じってヤツに」
まだ分からないか、とクッと笑った。
干支は全部で十二あるんだが、お前と俺との年の差は幾つだ、と。
「二十四歳でしょ、ハーレイが三十八歳だから」
ぼくの誕生日が来たら二十三歳違いになるけれど…。あっ!?
ぼくとハーレイ、もしかしたら干支っていうのが同じ?
「そうさ、お前と俺とは同じだ」
生まれた年の干支が全く同じなわけだな、二十四歳違いだからな。
この年だ、と卯の字を指差した。
卯と書いてウサギ、俺もお前もウサギ年だ、と。
「…ぼくもハーレイもウサギ年なの?」
ウサギの年に生まれたってことになるわけ、二人とも?
「うむ。二十四年違いで生まれて来たってことはだ、干支も同じだ」
十二年ごとに同じのが回って来るんだからなあ、同じ干支でなきゃおかしいだろうが。
「ホントに同じ?」
ホントのホントにハーレイとぼくと、同じウサギの年に生まれたの?
「ああ、お揃いというわけだ」
お前もウサギで、俺もウサギだ。二人揃ってウサギなんだな、お揃いでウサギ。
お前、お揃い、大好きだろうが。凄いお揃いだったってことだ、干支がお揃いなんだからな。
同級生って言うならともかく、そうでもないのに干支はなかなか揃わんぞ?
普通は十二歳も年が違えば、話題からして合わなくなったりしちまうからなあ…。
そこを同じと来たもんだ。しかも二十四歳も違うと言うのに。
厳密に言うと全く同じではないんだがな、と補足してやった。
十二の干支を書き付けた紙に、十干十二支、と愛用のペンで十と十二を書き足して。
「なに、これ?」
干支に数字が入っちゃったけど、こうすると何か意味が変わるの?
「変わると言うより、より詳しくと言った所か。暦を表すのは十二の動物だけじゃないんだ」
こいつは十干、その名の通りに十個ある。五行と言ってな、世界を構成する五つの要素が火とか水とか。それぞれに二つ、兄と弟、それで十干。
その十干と干支を組み合わせて毎年の暦が変わって行くのさ、火の年の兄と巳の年だとか。
もっとも、火とか水とかをそのまま文字に書くわけじゃないが…。
干支の巳だとか卯とかと同じで、火の兄だったら丙って具合に読みにくい字を当てるんだがな。
十干十二支は六十年かけて一回りだ、とブルーに教えた。
六十年かけてやっと一巡、そこで初めて十干と干支の組み合わせが再び重なるのだ、と。
「だからだ、お前と俺とは同じウサギでも微妙に変わってくるってことだ」
この十干ってヤツが違うわけだな、お前と俺じゃ。
「それって、意味があったりするの?」
そこが違うと何か違うの、同じウサギの年生まれでも?
「性格とかに影響するんだ、と遠い昔には言ってたらしいが…」
例えば、午年。同じ馬でも、丙午の女性は気が強すぎて、嫁に貰うには向かないだとかな。
だが今は…。そんな話は誰もしないな、そもそも干支なんぞは誰も気にしていないし。
SD体制が始まるよりも前の時代に廃れちまって、機械が計算しているだけだ。SD体制が崩壊した後、文化を復活させるついでに干支も遡って計算し直しはしたが…。
俺みたいに興味のあるヤツだけしかデータベースを見てはいないな、今年が何年なのか、とな。
銀河標準時間はあっても、それぞれの星で一年の長さも変わるわけだし…。
地球で生まれれば干支の通りに暦が回るが、そうでなければ実感ゼロな代物だろうが。
銀河標準時間の通りに暮らしている星、地球の他には無いんだからな。
「そっか…。じゃあ、地球生まれのぼくたちだと…」
意味があるのかな、その十干とかいうものも?
「いや、無いだろ。あるんだったらSD体制が始まる頃までそういう暦が続いていたさ」
だがなあ…。干支の方には意味があるかもな、俺たちの場合はウサギ年だが。
お前、ウサギになりたかったんだろう、と言ってやったら。
「そうだけど…。そのせいかな?」
ウサギ年だったから憧れたのかな、ぼくもウサギになりたいな、って。
「違うと思うぞ。同じウサギ年に生まれた俺はだ、そうは思わなかったんだからな」
一度も思ったことは無いなあ、ウサギになってみたいとは。あるいは忘れただけかもしれんが。
しかしだ、俺も確かにウサギだ。
お前と同じでウサギなんだ、と自分の顔を指差した。
自分が茶色の毛皮のウサギで、ブルーが白い毛皮のウサギ。同じウサギ年で茶色のウサギと白いウサギのカップルになるぞと、ウサギ同士で丁度いいじゃないか、と。
「ハーレイと同じウサギ同士でカップル…」
茶色のウサギと白いウサギなの、ぼくとハーレイ?
「そうさ、いいとは思わないか?」
干支がお揃いだからこそ出来ることだぞ、ズレていたら妙なことになる。同じウサギ同士で揃う代わりにウサギと蛇とか、ウサギと羊のカップルだとか。
それだと絵にもなりはしないし、誰もカップルだとは思ってくれん。俺もお前もウサギ年だから茶色いウサギと白いウサギで揃うんだ。うんと似合いのカップルだぞ。
「…前のぼくたちは?」
前もウサギのカップルなのかな、それとも羊や馬だったのかな?
「計算してみたい気持ちは分かるが、生憎と前の俺たちは…」
年の差が十二の倍数じゃないぞ、同じ干支ではなかったわけだな。俺かお前か、どっちかが今と全く同じにウサギだった可能性もゼロではないが…。
「そうだったっけね、干支は同じじゃなかったんだね…」
ぼくかハーレイ、どっちかがウサギだったとしても…。
ウサギとはまるで似合わない動物とカップルになって、見た目にとんでもなかったかもね。
前のぼくたちの干支は計算しても意味が無いね、と頷くブルー。
ハーレイとお揃いの干支でないなら、同じ動物同士のカップルになってくれないのなら、と。
「…今のぼくたち、お揃いでウサギ年だけど…。おんなじ干支に生まれたけれど…」
これって、やっぱり神様が合わせてくれたのかなあ?
お揃いの干支になれるように、って二十四歳違いで生まれるようにしてくれたのかな?
「どうだかなあ…」
そいつは俺にもサッパリ分からん。神様かもしれんし、違うかもしれん。
お前に聖痕を下さった神様が生まれた国には、干支なんていうものは無かったからなあ…。
とはいえ、その神様はSD体制があった頃にも消えずに残った神様だったし…。
前の俺たちが生きてた時代の唯一の神様だったわけだし、干支も御存知なのかもしれん。今度の俺たちを送り出す時に、きちんと合わせて下さったかもな。
あるいは全くの偶然ってヤツで、神様も今頃「そうだったのか」と驚いて暦を見ておられるか。
そればっかりはどうにも分からないなあ、神様に訊いてみないとな。
ブルーには謎だと言ったけれども、青い地球の上で再び出会えたブルー。
二人揃って生まれ変わって、こうして出会えた小さなブルー。
自分は年を取るのを止めたけれども、今の姿はキャプテン・ハーレイだった頃の自分と瓜二つ。この外見でブルーと巡り会えた。早すぎることも、遅すぎることもない年で。
ブルーはこれから前と同じに育ってゆく。恐らくは四年ほどかけて。
それを思えば、ブルーも四年ほど早く生まれていてもいいのに。
前とそっくり同じ姿に育っていたなら、すぐに結婚出来たのだろうに。
そうはならずに、二十四歳違いで生まれて来たブルー。小さな姿で出会ったブルー。
この年の差で、同じ干支。同じウサギの年に生まれた、ブルーも自分も。
そうなったことは運命だろうと思えてしまう。
前の生からの運命で絆、今度は干支まで同じなのだと。
遥かな昔に廃れたとはいえ、干支は干支。自分たちが生まれて来た地域に遠い昔にあった島国、日本で使われていた暦。それで言うなら同じウサギで、まるで同じに生まれたからと。
そういったことに思いを巡らせていたら、ブルーが「ねえ」と呼び掛けて来た。
「前のぼくたちの時も、お揃いの干支に生まれていたなら良かったのにね…」
そしたら結婚出来てなくても、カップル。心の中ではカップルだったよ、ウサギとかで。
ハーレイもぼくもウサギなんだ、って思えて幸せだっただろうにね…。
「おいおい、さっきも話してやったが…」
あの時代に干支の概念は無いぞ、マザー・システムが消してしまってな。
データベースの古い本には載っていただろうが、誰も気にしちゃいなかった。ヒルマンもエラも調べちゃいないぞ、前の俺たちが生きていた時代の干支を。
調べ物好きのヤツらが一度も調べていないってことは、調べようという気にならない時代。
そんな時代に生きたってことだ、前のお前も俺も、みんなも。
計算出来るだけの機械はあったし、その気になったら新年の度に今は何年かが分かったろうに。
新年を迎えるイベントの時に、ヒルマンやエラが「今年はウサギ年です」と宣言するとかな。
しかし、そいつは無かったんだし…。
前のお前と俺の干支もだ、分からないままで良かったのさ。どうせ同じじゃなかっただろうが。
今だからこそ干支なんだ、と微笑んでやれば。
「うん、今だから…。それに地球の上に生まれたからだね」
干支の暦が使える地球。…干支が載ってるカレンダーは見たことないけれど…。
だけど計算してるって言うし、ぼくもハーレイもウサギ年だし…。
あっ、そうだ!
「どうしたんだ?」
干支のカレンダーが見たいと言うなら、データベースの調べ方を教えてやってもいいが…。
まずはお前が干支を覚えんとな、十二の干支をスラスラと順に言える程度に。
「そうじゃなくって、今が巳年で蛇なんでしょ?」
ぼくたちが結婚する年の干支って、どの動物になるんだろう?
ウサギ年のぼくたちに似合う干支かな、それとも似合っていないのかなあ…?
どうなるだろう、とブルーが訊くから。
結婚の予定も立てていないのに、気になってたまらないようだから。
「そうだな、お前がしょっちゅう言ってる通りに、十八歳で結婚するのなら…」
四年後ってことだろ、今から順に数えて行くと、だ。
今が巳年で、来年が午年。次が未で、その次が申で…。うん、酉年だな。
これだ、と紙をトンと叩いた。「酉」と書いた文字を。
「鳥…。それって、鶏?」
鶏のことなの、酉っていうのは。干支の酉なら、普通の鳥じゃなくて。
「そうだが…。酉年と言ったら鶏なんだが…」
音だけ聞いたら、空を飛んでる鳥と全く変わらんなあ…。
そっちの鳥なら、前の俺たち。…色々と御縁があったんだっけな、シャングリラでな。
ついでに鶏、シャングリラで飼ってた大切な動物だったっけか…。卵を幾つも産んでくれたし、肉にもなったし、実に頼もしい存在だったな、鶏ってヤツは。
そうしてみるとだ、シャングリラと酉年、やたらと縁が深そうだよなあ…。
白いシャングリラにあしらわれていた、自由の翼。
ミュウを表す文字と一緒に描かれた翼は鳥の翼で、自由の象徴でもあった。広い空を何処までも飛んでゆける鳥、その鳥の翼のように自由に、と。
ミュウのシンボルマークでもあったフェニックスの羽根にしても、そう。フェニックスの羽根は今一つハッキリしない、と鳳凰の尾羽根になったけれども。孔雀の羽根を真似たけれども。
シャングリラの甲板に描かれていた鳥、あれもフェニックスのつもりではあった。あの絵の元になった絵はハチドリだけれど、普通の絵ではなかったから。誰が描いたのかも謎のままに消えた、SD体制に入るよりも前に消えてしまったナスカの地上絵、それのハチドリ。
そう、シャングリラは白い鯨だったけども、あちこちに鳥の姿があった。空を自由に飛んでゆく鳥、その鳥のように地球へ行こうと、青い地球まで飛んでゆこうと。
「うーむ、シャングリラは鳥の絵が溢れた船だったっけな…」
こう、考えてみればみるほど、やたらと鳥だ。シンボルマークも、船に描かれた絵も。
普段は意識していなかったし、鳥だとも思っていなかったんだが…。
そのシャングリラの世話になってた、俺とお前が結婚しそうな時期に酉年が回って来るとは…。
これも運命かもしれないな。俺たちの干支が同じウサギになったのと同じで、運命の干支。
「それじゃ、酉年に結婚出来る?」
酉年が運命の干支なんだったら、その酉年に。
ぼくが十八歳になる年の干支が酉になるっていうんでしょ?
結婚出来そうな感じの干支だよ、ううん、その年に結婚しなさい、って神様が選んでくれそうな感じ。ハーレイとぼくが結婚するなら酉年ですよ、って。
ぼくは何度も言っているじゃない、十八歳になったら結婚したい、って。
きっと最初から決まってるんだよ、ぼくがハーレイとおんなじウサギ年に生まれて来た時から。
「そうだな、結婚出来るといいな」
俺もお前と早く結婚したいとは思っているんだが…。
お前、未だにチビだからなあ、チビのお前を嫁さんに貰うというのもなあ…。
いくら神様が酉年ですよ、と仰ったってだ、お前の背丈がチビのままでは難しいってな。
運命の酉年に結婚したいと言うんだったら、お前もきちんと努力しろ。
しっかりと食って、前のお前と同じ姿になるように育つ。それが一番大事なことだ。
頑張って背を伸ばしておけよ、と小さなブルーに言い聞かせたけれど。
ブルーも真剣な顔で「うん」と頷いているのだけれども、今から四年後。今はまだ十四歳にしかならないブルーが結婚出来る十八歳を迎える年が、酉年なのだと言うのなら。
シャングリラと、前の自分たちが暮らした白い船との縁が深い年に当たるのならば。
(今と変わらないチビでも結婚してやるか…)
そうしようかと思わないでもない。
万一、ブルーが育たなくても、ブルーの両親が結婚を許してくれたなら。
小さなブルーを自分と結婚させてもかまわない、と言ってくれるならば、結婚しようか。
酉年はどうやら運命の干支だと思えて来たから、白いシャングリラを思わせる年に。
シャングリラのあちこちに鏤められていた、鳥との縁が深そうな年に。
(よし、四年後だな)
そのつもりで準備しておこう、と心のメモに書き付けた。
小さなブルーには言わないけれども、自分の中では四年後と決める。
四年後の酉年、シャングリラと縁の深い年。
その年にブルーと結婚しようと、ウサギのカップルになることにしよう、と。
今度は二人、まるで同じの干支だから。
運命のように同じウサギ年で、お揃いの干支に生まれて来たから。
きっと結婚する時も、干支。
今は使われない干支の御縁で、シャングリラを思わせる酉年にブルーと結婚式を…。
お揃いの干支・了
※今のブルーとハーレイの年の差は、二十四歳。同じ干支になる勘定です。
そして二人ともウサギ年。ウサギのカップルになるらしいです、白いウサギと茶色のウサギ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あ…)
引越しの車、とブルーは乗っていたバスの窓から覗いた。
学校からの帰り、いつもの路線バスの中。信号待ちで止まった所へ横に並んだトラックが一台。さほど大きくはないのだけれども、引越し用の荷物を専門に運ぶトラック、そうだと分かる。
(ふうん…)
引越し用だと何が載せられているのだろう。それとも荷物を下ろした帰りで空っぽなのか。興味津々、気になる中身。けれども透視は出来ない車。ブルーでなくても、他の誰でも。
(プライバシー…)
今の時代は、人間はみんなミュウだから。サイオンを持った者ばかりだから、透視能力を備えた人も多くて、そういう人ならトラックの荷台くらいは覗き放題、見放題。
トラック以外の車でも。普通に走っている乗用車でも中を見られるのが透視能力者で、それでは誰もが落ち着かない。いくら見ないのがマナーと言っても、幼い子供の能力者もいる。
ゆえに車には透視出来ない仕組みが施され、タイプ・ブルーでも覗けないらしい。小さい頃からそう聞いているし、社会の常識。
サイオンの扱いがとことん不器用なブルーでなくても、引越しトラックは覗けない。中に荷物が載っているのか、空で走っているのかさえも。
(でも、例外…)
透視が出来る引越し用の車があるのだという有名な話。誰もが知っている話。透視しようとするサイオンを遮る仕組みを無効に出来る引越しトラック。一時的に仕組みを解いたトラック。
それが来たなら、誰でも中身を透視していい。荷台に何が載っているのか、覗いても誰も咎めはしない。むしろ覗き見大いに歓迎、そんなトラックにはマークがつく。
どうぞ中身を見て下さいと、透視出来る人は覗いて下さい、と知らせるマークが。
(花嫁さんの引越しの車…)
引越しと呼ぶのかどうかは知らないけれども、結婚して新しく住む家へ荷物を運びたい時に頼む車で、結婚式よりも前に走るのが普通。結婚したら直ぐに使えるようにと運んでおく荷物。
新しく買った様々な家具や、新居で使うための道具や、それは沢山の花嫁の荷物。幸せの荷物。
それを大勢の人に見て欲しいから、見て祝福をして貰いたいから、透視歓迎、覗き見歓迎。
気付いたら中を見て下さいね、と専用のマークをつけて走ってゆく引越しトラック。
(四つ葉のクローバーなんだよね…)
そういう時だけ、引越しトラックにつけられるマーク。目立つ所にペタリと貼って。
幼い頃から何度も出会った、父と母とに教えて貰った。あれは花嫁さんの車のマーク、と。
ところがブルーには透視能力など無いものだから、無いに等しいものだから。
中を覗けると教えられても、トラックの荷台は透けてくれない。前の自分の記憶が戻る前だし、どんな具合に透けて見えるのか、イメージさえも掴めなかった。
けれど、お祝い事の車なのだとは分かったから。幼いなりに理解したから、手を振っておいた。花嫁さんが幸せになれますように、とマークをつけたトラックに向けて。
(あんまり走っていないんだけど…)
どうせ透視は出来はしないし、と思っていたから、気付いていないだけかもしれない。引越しの車が走って来たな、と横目で眺めているだけで。
花嫁の荷物を載せているマーク、四つ葉のマーク。しかも四枚の葉っぱの内の一枚だけがハートらしくピンク色になっていたりする。四つ葉の緑にピンクのハート。
(とっても幸せそうなんだよ…)
これから結婚するんです、という花嫁の幸せに溢れた心をそっくり表しているようで。ピンクのハートに幸せが詰まっているようで。
幸せの四つ葉のクローバーのマーク、花嫁の荷物を載せている印。
このトラックにはついていない、とバスの窓から観察した。普通の引越しトラックなんだ、と。
赤だった信号が青になったら、引越しトラックはバスよりも先に走って行った。バス停で止まる間に行ってしまって、見えなくなった。
それきり追い付くことも無いまま、家の近所のバス停に着いて。バスを降りたら、歩いて家へ。
母に「ただいま」と挨拶を済ませ、部屋で着替えて、ダイニングでおやつ。引越しのトラックを目にしたことなど綺麗に忘れて、ケーキを食べてホットミルクも飲んで。
キッチンの母に「御馳走様」とお皿やカップを返して、部屋に戻って勉強机の前に座った。何をしようか、本でも読もうかと考えていたら、頭を掠めた引越しトラック。帰りのバスで見た車。
(引越しの車…)
なんとなく見ていただけだったけれど。
どうせ荷物は見えはしないと、透視能力があったとしても無理な車だと見ていたけれど。花嫁の荷物の車でもない、と眺めたけれども、今頃気付いた。
いつか自分もお世話になるのだと、引越しトラックを頼むのだった、と。
(だって、ハーレイのお嫁さん…)
結婚した後はハーレイの家に住もうと決めていた。ハーレイは「俺がこの家に来たっていいぞ」などと冗談めかして言うのだけれども、それはちょっぴり恥ずかしい。
(パパとママがいる家でお嫁さんなんて…)
本物の恋人同士の時間をハーレイと過ごすのが結婚生活、両親と一緒だと恥ずかしすぎる。頬が真っ赤に染まってしまう。それは困るし、結婚するならハーレイの家へ。
そうなってくると必要な引越し、ハーレイの家まで荷物を運ぶのに引越しの車を頼まなければ。
花嫁の荷物を載せています、という四つ葉のマークをつけた車を。
道ゆく人々が祝福してくれる、ピンクのハートが一枚混じった四つ葉のマークがついた車を。
(だけど、引越し…)
車を頼むのはいいけれど。花嫁になって引越すからには、引越し用の車だけれど。
自分の部屋をぐるりと見回し、小さなブルーは首を傾げた。
(何を載せて行くの?)
引越し用の車に載せる荷物は、何を選べばいいのだろう?
家具も道具も、ハーレイの家には色々揃っている筈だから。一人暮らしが長い分だけ、持ち物も充実しているだろうし、足りないものなど無さそうで。
(子供部屋まであるような家…)
遊びに出掛けた時に見せて貰った家の中。ガランとしていた印象は無い。つまりは家具も揃っているということ、あの家に見合った大きさの家具が。ハーレイが使っても余るほどの家具が。
クローゼットにしても、食器棚にしても、きっと余裕はたっぷりとあって。
ブルーの分の荷物が増えても、溢れずに仕舞えるに違いない。
大抵のものは今ある分だけで充分間に合う、買い足さなくても問題無い筈。
ハーレイの家に何でもあるというなら…。
(もしかして、要らない?)
引越し用のトラックなどは。花嫁の荷物のマークの車は。
載せてゆくだけの荷物が無いから、運んで貰うような荷物を持っていないから。
(なんだか残念…)
せっかくお嫁に行くというのに、荷物無しだなんて。
見かけた人たちが祝福してくれる、幸せのマークの引越しトラックを頼めないなんて。
(ぼくの荷物も、少しはあるけど…)
服や身の回りのこまごまとしたもの、後はせいぜい本くらい。トラックを頼む量ではない。箱に詰めたら、普通の車で運べる程度のささやかな荷物。
(ハーレイの車で運べばおしまい…)
一度に全部は運べなくても、何往復かすれば充分。たったそれだけしかない荷物。引越しの車を頼めない荷物。
(…それって、とっても寂しいんだけど…)
花嫁の荷物を運ぶ車の出番が無いまま、結婚式。
ピンクのハートが一枚混じった、四つ葉のマークをつけた車で荷物を運んでゆけないなんて。
大好きなハーレイと結婚するのに、今度は結婚出来るのに。
(引越しの荷物…)
ハーレイの車に載せてゆくには大きすぎる荷物が何か無いか、と考えていて。
部屋にある家具などを端から眺めて、クローゼット、と思い付いた。ハーレイの家には代わりの家具があるだろうけれど、このクローゼットは特別だから。秘密の印がついているから。
ハーレイもきっと気付いてはいない、鉛筆で微かに引いた線。前の自分の背丈と同じ高さの所に引いた線。それが目標、そこまで自分の背丈が伸びたら…。
(ハーレイとキスが出来るんだよ)
その日が来るまで、何度見上げることだろう。鉛筆で微かに引いてある線を。ハーレイとキスが出来る背丈を教えてくれる小さな印を。
このクローゼットは持って行ってもいいかもしれない。印のことをハーレイに話せば、賛成してくれることだろう。「お前の思い出の家具なんだな」と。持って来ればいいと、きっと笑顔で。
(他に何か…)
クローゼットだけではトラックの荷台が余るだろうから、かさばりそうな思い出の荷物。他にも何か、と部屋のあちこちに視線を投げ掛ける内に目に入った窓。いつもハーレイに手を振る窓。
その窓を見て気が付いた。窓から見下ろせる庭に置かれた大切な家具に。
(テーブルと椅子…!)
庭で一番大きな木の下、据えられた白いテーブルと椅子。出しっ放しにしておける家具。雨風に強くて丈夫な存在、軽く拭くだけで汚れも落ちる。買った時と同じに真っ白なまま。
あれを持って行こう、引越しの車に載せて貰って。
ハーレイと初めてのデートをした場所、忘れられない思い出の場所。何度も二人でお茶を飲んだ場所、今でも晴れた休日の午後には外でティータイムをすることもあるし…。
(うん、あのテーブルと椅子は持って行かなくちゃ!)
頑丈に出来た屋外用だから、結婚する頃にも新品同様、剥げていたりはしない筈。小さな傷なら出来ているかもしれないけれども、その傷にも思い出が詰まるのだろう。
いつの間に出来た傷なんだろう、とハーレイと二人で指でなぞったり、眺めたりといった。
(でも…)
白いテーブルと椅子は引越しの車に載せられるけれど、梱包して載せて貰えるけれど。
お気に入りの場所ごと持っては行けない。あのテーブルと椅子が置いてある場所、その場所ごと車に載せてはゆけない。
(あの木はトラックに載せられないよ…)
庭で一番大きな木。運ぶとしたなら、それこそ専用の大きなトラックが要ることだろう。花嫁の荷物を運ぶ車とは別に、庭木の手入れを専門に手掛ける業者の車が。
そこまでして家から運んでゆけない、ハーレイの家の庭に植え替えることも出来ない。あの木はこの家の庭が居場所で定位置なのだし、知らない家に連れてゆかれても困るだろう。それに根付くとも限らないから、枯らしてしまったら可哀相だし…。
(ハーレイの家に…)
白いテーブルと椅子を置くのにピッタリの場所はあるのだろうか?
あの木の代わりに木陰を提供してくれるような、頼もしい木はあっただろうか?
(どうだったっけ…)
ハーレイの家の建物に夢中で、ろくに見ないで帰って来た庭。広さは充分あったけれども、木も何本もあったけれども、白いテーブルと椅子を置いても大丈夫な場所の記憶が無い。
(木の大きさを覚えていないよ…)
より正確に言うなら、枝ぶり。枝を周囲に広げない種類の木も色々とある。そういった木なら、いくら大きくても木陰を作り出してはくれない。真っ直ぐに上へと伸びるだけの木。
ハーレイの家の庭はどうだったろうか、と考え込んでいたら、チャイムが鳴った。窓から覗けば手を振るハーレイ。門扉の前で、こちらに向かって。
これはハーレイに訊かねばなるまい、庭の持ち主なのだから。
部屋に来てくれたハーレイと二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせ。
早速、窓を指差して訊いた。あそこの白いテーブルと椅子はハーレイの家の庭に置けるか、と。
「あれか? もちろん置けそうな場所ならあるが…」
なんだ、突然、どうしたんだ?
あのテーブルと椅子をどうするつもりだ、俺の家の庭に置けるか、って…。
「…お嫁さんの車…」
「はあ?」
鳶色の瞳が丸くなった。全く意味が分からない、と言わんばかりの表情だから。
「えっとね、引越しの車のことだよ。あるでしょ、花嫁さんの荷物を運ぶ車が」
四つ葉のマークをつけたトラック。中を透視したってかまわない車。
「あるな、お前には透視は出来そうもないが…。見たのか、花嫁さんの車を?」
あのマークをつけて走ってる車、行きか帰りのバスから見たのか?
「ううん、普通の引越しトラック…」
帰りに乗ったバスの隣に止まってたんだよ、信号待ちの間。
その時は花嫁さんの荷物の車じゃないな、って思っただけで帰って来たけど…。
でも、とブルーは説明した。
花嫁の荷物を運ぶ車には、自分もいつかはお世話になるから、荷物を考えていたのだ、と。同じ引越すなら花嫁の荷物だと示すマークをつけた車を頼みたい、と。
「ぼくの荷物は少しだけだし、ハーレイの車で運べないこともないんだろうけど…」
それじゃ、やっぱり寂しいよ。お嫁さんらしく、あの車で荷物を運びたいよ…。
「気の早いヤツだな、今から引越しの算段なのか?」
でもって、荷物が少なすぎるからと、かさばる荷物を探している、と…。
「駄目…?」
引越しトラックを頼みたいからって荷物を増やすというのは駄目?
「駄目とは言わんが…。嫁に来るなんて、一生に一度のことなんだからな」
特別なトラックを頼みたい気持ちは分からんでもない。無理やり荷物を増やしてでもな。
それで、あそこのテーブルと椅子がどうしたって?
あれも荷物の候補だと言うのか、お前の嫁入り道具ってヤツの?
ハーレイの口から「嫁入り道具」という言葉。ブルーの心臓がドキリと跳ねた。花嫁の荷物だと思っていたのだけれども、そういう言葉もあったのだった。嫁入り道具。
なんて素敵な響きだろう、と胸を高鳴らせて、嫁入り道具にしたい白いテーブルと椅子を置ける場所があるかをもう一度訊いた。
「えっと…。あのテーブルと椅子を持って行きたいけど、置ける場所、ある?」
ハーレイの家の庭にあるかな、あれを置ける場所。
「そりゃあ、あるが…。さっきも言った通りにな」
いくらでもあるぞ、置けそうな場所は。俺の家の庭は無駄に広いし。
俺が最初の頃に持って来ていた、キャンプ用のテーブルと椅子があっただろう?
あれは俺の家の庭で使うヤツだぞ、置き場所に困ったことは一度も無いな。
「それじゃ、大きな木とかはある?」
ぼくの家であれを置いているような、いい具合に木漏れ日が射し込む所。
そんな風に枝を広げている木は、ハーレイの家の庭にもあるの?
「なるほどなあ…。置き場所というのは、そういう意味か…」
お前がのんびりお茶を飲むのに向いている場所、と言いたかったのか。
あのテーブルと椅子を持って来るだけの価値がある場所の有無ってわけだな。そういうことなら俺も悩むな、場所はいくらでもあるんだが…。
実は試してみたことがない、とハーレイは苦笑交じりに答えた。
「あの家に住んで長いんだが…。庭とも長い付き合いなんだが、一人でお茶は飲まんしな?」
俺が女性なら、そういった気にもなったんだろうが、生憎と男の一人暮らしだ。庭にテーブルを出して一人でお茶と洒落込むよりかは、書斎でコーヒーなんだよなあ…。
ついでに、俺の家でキャンプ用のテーブルと椅子を持ち出す時には太陽の下だ。柔道部員だの、水泳部員だのが押し掛けるんだぞ、木陰でお茶ってわけじゃない。ヤツらにお茶は似合わんさ。
バーベキューとかだ、と語るハーレイ。眩しい日射しが似合いなのだと。
だからハーレイは知らないらしい。白いテーブルと椅子を置けそうな木陰というものを。
「…じゃあ、あのテーブルと椅子を持って行っても…」
置けそうな場所は無いかもしれないの?
ハーレイの家の庭にも木はあるけれども、ぼくが気に入りそうな木陰は?
「いや、そうと決まったわけでもないぞ。まるで木陰が無いわけじゃないし…」
あれが置けるような場所を探せばいいだろ、きっと何処かにあるだろうさ。
お前の好みにピッタリの場所、と微笑まれた。
白いテーブルと椅子にお似合いの木陰、そういった場所が庭の何処かに隠れているぞ、と。
「…隠れているの?」
「うむ。俺が今まで気付かないんだ、それは隠れているからだろう?」
木は何本も植えてあるから、もちろん木陰だってある。俺が気にしていなかっただけで。
お前の気に入る場所が見付かるまで、あちこち探して移動はどうだ?
今日はこっちで、次はあっち、と。テーブルと椅子を俺が運んで。
「…お茶の度に場所を変えるわけ?」
「そうさ、テーブルと椅子を運ぶくらいは俺には何でもないからな」
ヒョイと持ち上げて移動するだけだ、お茶の時間の途中でも。
思った以上に眩しすぎるぞ、なんて時には、ティーセットとかを避難させてから移動だな。
場所を変えたら、またセッティングをすればいいんだ。それからお茶を続行する、と。
今から俺が探しておくという手もあるが…、とハーレイは鳶色の瞳を片方瞑って。
「どうせだったら、お前も一緒に探したいだろ?」
なんと言っても、お前が住むようになる家にくっついている庭なんだ。
その庭にどんな場所があるのか、どういう風に陽が当たるのか。そいつを自分の目で確かめたいとは思わんか?
俺に任せてしまうよりかは、二人で一緒にお茶にピッタリの場所を探してみるのが。
「そうだね、その方が楽しそう!」
此処だから、って案内されても嬉しいけれども、まだ見付かっていないなら…。
ハーレイも見付けていないんだったら、その場所、二人で探したいな。
「よし、それだったら決まりだな。俺と二人で庭を回って木陰の旅だ」
これからよろしく、っていろんな場所に挨拶をして回るといい。俺と二人でお茶を飲みながら。
あのテーブルと椅子を持って来るなら、庭のあちこちでお茶にしようじゃないか。
「うんっ!」
お茶の途中で移動するなら、ぼく、ティーセットくらいは運んで行くよ?
ハーレイがテーブルと椅子を運んで、ぼくはティーポットとカップとお菓子。
「ほほう、そいつは頼もしいな。まあ、その程度ならお前でも充分、持てるだろうし…」
お前のお母さんだって二階まで運んで来るんだからなあ、お茶とお菓子を。
だったら、そっちはお前に任せておくことにするか。だが…。
この家に残しておくのも一つの手だぞ、とハーレイに言われた白いテーブルと椅子。
今の木の下に、お前の居場所に、と。
「え…?」
居場所ってなあに、どういう意味なの?
「そのままの意味だ。お前がたまにこの家に帰って来た時、居場所が無いと困るだろう?」
お前が住んでた部屋は荷物ごと引越しちまって空っぽ、庭も空っぽ。…寂しくないか?
せっかく家に帰って来たのに、自分の居場所が無いんじゃなあ…。
「そっか…。言われてみればそうかもね…」
お気に入りの本とか、丸ごと引越しちゃうんだし…。この部屋もガランとしちゃうんだね。
「分かったか? お前の部屋の家具だけは残しておく手もあるが…」
それでも中身は空っぽだしなあ、やっぱり寂しくなると思うぞ。
「ぼくの家具…。クローゼットは持って行きたいんだけど…」
「あれをか? 確かに服とかを入れたままで運べるサービスもあるし、便利ではあるか…」
ブルーが書いた背丈の印を知らないハーレイは、勝手に納得したようで。
一人で使えるクローゼットもいいかもしれないと、持って来るといいと頷いた。
「ホント? クローゼットは持って行ってもいいんだね?」
「もちろんだ。…しかし、あれが無くなると部屋が一気に寂しくなるなあ…」
ベッドは残しておくにしたって、見慣れた景色が変わっちまうぞ。
勉強机も多分、置いては行くんだろうが…。
それでも部屋の印象がかなり…、と見回すハーレイの視線を追っている内にブルーの目に付いたもの。まるで気付いていなかったもの。
「あっ、そうだ!」
いきなりブルーが声を上げたから、ハーレイが「どうした?」と問い掛けて来た。
「どうかしたのか、何か用でも思い出したか?」
「そうじゃなくって…。このテーブルと椅子も持って行かなくちゃ!」
今、ハーレイと使っているヤツ。これは絶対、持って行かなきゃいけないんだよ。
いつもハーレイと使ってるんだし、持って行きたいよ。ぼくとハーレイとの思い出の場所。
「忘れていたのか、こいつの存在?」
置いて行くとか、持って行くとか、そういう以前に忘れていた、と…。
そんな所か、今の様子じゃ?
「…うん…」
ホントにすっかり忘れちゃっていたよ、その椅子、ハーレイの指定席なのに。
こっちの椅子がぼくの指定席で、それとテーブルとでセットのもの。
とても大事なテーブルと椅子なのに、頭に浮かびもしなかったなんて…。
庭の白いテーブルと椅子に気を取られちゃってた、と白状した。
同じテーブルと椅子ならこっちの方が遥かに思い出深くて、絶対に持って行きたいのに、と。
「だけど…。これも持って行っちゃうと、ぼくの部屋、ホントに寂しくなるね」
クローゼットが無くなっちゃって、此処のテーブルと椅子も無くなって…。
本棚は殆ど空っぽだろうし、ぼくの部屋だって感じがしなくなるかも…。
ベッドと机は置いてあっても、ハーレイが言う通りに寂しい感じ。ぼくの部屋なんだけど、ぼくらしい感じがしないって言うか…。
「ほらな、そういうものなんだ。俺にも経験が無いこともない」
「…経験?」
「隣町の親父の家のことさ。あそこにも俺の部屋があるんだ、俺が使っていた部屋が」
この町に引越ししてくる時にな、家具はそっくり新しくしたが…。
たまに帰った時に使えばいいさ、とベッドも机も置いて来たんだが、やっぱり何かが違うんだ。俺の気に入りの本とかがゴッソリ消えちまっただけで、気分は他人の部屋ってトコか。
親父の家に泊まる時には使っちゃいるがだ、昔のようには落ち着かん。元の俺の部屋でのんびり過ごす代わりにリビングにいたり、ダイニングやキッチンに居座ってたり…。
要は昔のまんまの場所がいいんだな、家具とかは多少変わっていても。
親父とおふくろが前と同じに生活していて、同じような匂いがする場所がな…。
だから、とハーレイは窓の向こうの庭に目を遣って。
「お前も寂しくならないようにだ、あそこのテーブルと椅子は置いといちゃどうだ?」
そうすりゃ、あそこは変わらないままだ。今と同じにお前の居場所だ、花壇の花とかが違う花になっても。お前があそこに座った時には、前と同じに迎えてくれるぞ、テーブルと椅子が。
「…どうしようかな…」
ハーレイが話してくれた経験、分かる気がするよ。
あのテーブルと椅子を持って行きたいな、って思った時にね、木は運べないって気が付いて…。
あそこに生えてる庭で一番大きな木。庭のテーブルと椅子はあの木とセットで、あれごと持って行きたいんだけど…。
それがハーレイの言ってる昔のまんまっていうヤツなんだね、あの木の下が。
「そういうことだな、あの木の下がお前の居場所ってわけだ」
あの木を俺の家の庭に持って来たって、お前の居場所にはならんと思うぞ。
たとえ上手に植え替えられても、お前は「違う」と思うだろう。あそこにあるからこそなんだ。この家の庭にどっしりと立って、お前の居場所を作っているのがあの木なんだな。
そこに気付いたなら、テーブルと椅子は残しておくのがお勧めだ。お前が此処に帰って来た時、庭に出るだけで昔と変わらない居場所があるっていうわけだからな。
あちこちウロウロ探さなくても庭に出るだけで落ち着くぞ、と言われたけれど。
一理あるとは思うのだけれど、白いテーブルと椅子をハーレイの家に持って行けたら、また別の居場所が見付かるのだと聞いていたから。
ハーレイと二人で似合う木陰を探して回って、庭に挨拶したい気持ちもあったから。
「テーブルと椅子…。置いておきたい気もするけれども、持って行きたい気もするし…」
あれを持って行ってハーレイの家の庭にも挨拶したいよ、これからよろしく、って。
あのテーブルと椅子が似合う場所を探しに、ハーレイと庭をあちこち回って。
「なら、それ用に新しく買って持って来たらどうだ?」
花嫁さんの荷物ってヤツは新品の家具が多いんだ。しかし、お前はクローゼットだの、この椅子だのと言ってるし…。新品どころか馴染みの家具ばかり積み込む気だろ?
庭用のテーブルと椅子くらいは新品でどうだ、値段も大して高くはないしな。結婚祝いに、って頼まなくてもお父さんが買ってくれると思うぞ、あれとそっくり同じヤツを。
俺の家は新しい家じゃないがだ、庭に新品の白いテーブルと椅子が来たなら立派に新居だ。
新しいのを買って持って来い、今のはそのまま残しておいて。
「そっか、同じのを買って貰えばいいんだよね…!」
パパとママに頼んで、あれと同じの。
結婚する頃にもきっと同じのを売っているよね、それがあったらハーレイの家の庭でもお茶。
庭に挨拶して回ってから、ハーレイの家にもぼくの居場所を作れるよね。ぼくの家のテーブルと椅子はそのまま残して、ぼくの居場所に取っておいて。
花嫁の荷物を運ぶ車に、四つ葉のマークをつけた車に、新しい白いテーブルと椅子。
載せてゆくのもいいかもしれない、ハーレイの家の庭の木陰に置くために。
ハーレイと初めてのデートをした場所、それはこの家にそのまま残して、思い出の場所を新しく探して作り出すために。ハーレイの家の庭でお気に入りの場所を見付けて、据えて。
(それもいいよね…)
庭で使うための白いテーブルと椅子。それを引越しの車に載せる。
この部屋に置いてある、今、ハーレイと向かい合わせでお茶を飲んでいるテーブルと椅子も。
(やたらテーブルと椅子だらけだけど…)
それにクローゼット、それだけあったら引越し用の車。一番小さなサイズの車には充分お世話になれそうだから。
ハーレイの車で何回か往復、それで終わりの引越しには決してならないから。
花嫁の荷物を運ぶ車で引越しが出来る、ハーレイの家へ。四つ葉のマークをつけた車で。
(テーブルと椅子…)
部屋のと、庭用の白いテーブルと椅子と。
庭で一番大きな木の下、ハーレイと初めてのデートで座った場所。その白いテーブルと椅子とをどうしよう?
庭にあるのを車に載せるか、新しく買って積んで貰うか。
(ぼくの居場所を残すんだったら、庭のはそのまま…)
今日はそういう気分だけれども、明日になったらどうなっているか分からない。持って行きたい気分かもしれない、今ある白いテーブルと椅子を。
(…最初はあれを持って行こうと思ってたんだし…)
どうしようかな、と悩ましいけれど、まだまだ考える時間はたっぷりとある。結婚出来る十八歳までは何年もあるから、まだ来ないから。
けれど、その日が待ち遠しい。
新しいテーブルと椅子を買うにしても、今のをそのまま積み込むにしても。
花嫁の荷物が載っているのだ、と周りに知らせる四つ葉のマーク。
それをつけた引越し用の車を頼んで、荷物を運んで貰える日が。
ハーレイの花嫁になるための荷物をトラックに積んで、この家から送り出せる日が。
その日が来たなら、結婚式はすぐそこだから。ハーレイと結婚出来るのだから…。
花嫁の荷物・了
※ブルーが見かけた、花嫁さんの荷物のトラック。いつか自分もお世話になるんですけど…。
庭にある白いテーブルと椅子を、ハーレイの家に持って行くべきか。悩む時間はたっぷり。
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(んーと…)
授業中にクラッとしちゃった、ぼく。軽い眩暈がしたみたい。
このまま授業を受け続けてたら、マズイと思う。きっと途中で倒れてしまう。今はまだ最悪ってほどの気分じゃないけど、その内にだんだん悪くなってきて…。
(…そうなってからだと…)
手遅れなんだ、って分かってる。教室はもちろん大騒ぎになるし、倒れちゃったぼくを運ぶには一人じゃ無理。意識不明じゃ、車椅子に乗せても押す人とぼくを支える人とが必要。
だから早めに行かなきゃならない保健室。今なら歩いて行けるから。
お昼休みが済んで、午後の一時間目の授業中。ランチの間はなんともなかったんだけど…。
(…保健室…)
思い切って手を挙げることにした。
これがハーレイの授業だったら未練たっぷり、倒れるまで聞いていそうだけれど。そんな前科もあったりするけど、ハーレイの授業じゃなかったから。次の時間も違うから…。
いいや、って挙げた手、先生が「どうしたんだ?」って気付いてくれた。
「えっと…。急に気分が悪くなって…」
「それは駄目だな、保健室だな」
行って来い、って言ってくれた先生。教科書もノートもそのまま置いて行けばいいから、って。
一人で行けます、って立ち上がったけれど、付き添ってくれた保健委員の男子。先生も一人じゃ駄目だと心配そうだし、ここは甘えておくことにした。
実際、平気なつもりだったのに、立った途端に眩暈がしたから。
保健室まで歩く途中で倒れてしまっちゃ、もっと大勢に迷惑がかかる。ぼくが他のクラスの前で倒れていたなら、そこのクラスの授業は中断。縁もゆかりも無いぼくのせいで。
(…ありそうな話なんだよね…)
春に起こした聖痕現象のせいで、ぼくはすっかり有名人。顔も名前も何処のクラスかも、誰でも一目で分かると思う。身体が弱いってことも知られているけど…。
(倒れちゃってたら、また聖痕が出たのかも、って大騒ぎなんだよ)
ぼくのクラスの友達だったら慣れているけど、そうじゃない他所のクラスだったら、きっと。
聖痕現象を見たい生徒が騒ぎ出しちゃって、我先に廊下に出て来ちゃうんだ。先生が止めても、大勢、野次馬。下手をしたら隣のクラスからだって。
(…聖痕、二度と出ないんだけどな…)
でも、それを知ってるのは四人だけ。パパとママとハーレイ、それと診てくれたお医者さん。
他の人たちは何も知らなくて、ハーレイはぼくが聖痕現象を起こさないための守り役なんだし、野次馬が来るのも仕方ない。ぼくが廊下で倒れていたら。
(野次馬防止…)
倒れちゃ駄目だ、って支えて貰って歩いてた、ぼく。
たまにクラッとしそうになるから、肩を借りるのが一番いい。保健委員の子には悪いけれども、やっぱり一人じゃ無理みたいだから。
そうして廊下を歩いて行ったら、向こうからやって来たハーレイ。廊下の角を曲がって現れた。今の時間は授業が無いみたい。
ハーレイはすぐにぼくに気付いて。
「おっ、保健室か?」
具合が悪くなったのか、そいつ?
「そうなんです」
保健委員の子が答えてくれた。ぼくの代わりに説明してくれた、保健室に行く途中だと。
そうしたら…。
「よし、俺が代わろう。保健室まで連れて行っておく」
お前は教室に帰っていいぞ。何の授業かは知らないがな。
「ハーレイ先生、いいんですか?」
「授業中だろ、保健委員の仕事とはいえ、聞き逃しちまうぞ」
俺が代わるから、急いで戻れ。先生に訊かれたら、俺と交代したと伝えておくんだな。
任せておけ、って交代しちゃったぼくの付き添い。保健委員の子はペコリとお辞儀して、走って教室に戻って行った。ホントは廊下を走っちゃ駄目だけど、こういう時には例外だよね。
でも…。
「さて、どうするかな…」
俺では肩は貸せんしなあ…。これだけ身長に違いがあるとだ、どうにも無理だ。
運んで行くって方法もあるが、抱っこもおんぶもマズイよな?
まるで小さな子供みたいだし、他の生徒が通り掛かったら恥ずかしいだろ?
(恥ずかしくなんかないってば…!)
むしろ歓迎、ぼくは全然かまわないのに、ハーレイは勝手に決めちゃった。
抱っこもおんぶも、どっちも駄目、って。
保健委員の子から預かったぼくの身体を腕で支えながら、そういう風に決めてしまった。
(…車椅子…?)
そうなるんだろうか、ハーレイが押して行くんだろうか。ぼくを待たせて、保健室から車椅子を借りて持って来て。
きっとそうだ、と思ったんだけど…。
「車椅子の出番ってほどじゃないしなあ…。お前、どうにか歩けるんだろ?」
「…うん…」
眩暈がするだけ、って頷いた。「はい」って言うのを忘れちゃってた、ハーレイ、学校では先生なのに。ハーレイじゃなくて「ハーレイ先生」なのに。
でもハーレイは「うん」じゃないだろ、って、ぼくの右手を取って。
「俺の服、しっかり握ってろ。此処だ、此処」
大丈夫だ、スーツの上着ってヤツは生地が頑丈に出来てるからな。そう簡単に破れやしないさ、お前の体重が少しかかったくらいじゃな。
掴んでおけ、って握らされたハーレイの上着の端っこ。肩の代わりに上着の端。
そして左手で支えてくれた、ぼくの背中を。大きな手を添えて。
これなら歩ける。右手でハーレイの上着を握って、ぼくの背中にハーレイの手。倒れないように支えてくれる手。
「…ありがとう…」
「歩けそうか? よし、ゆっくりと歩いて行くからな」
忘れるなよ、ハーレイ先生だぞ?
学校ではハーレイ先生だ。間違えないよう、気を付けてくれよ。
ハーレイと並んでゆっくり歩いて、連れてって貰った保健室。慣れっこの部屋。
ぼくを保健室の先生に預けて、ハーレイは帰って行ったけど。ぼくがベッドに横になる前に姿を消してしまったけれど。
カーテンが引かれたベッドの上に転がっていたら、背中がじんわり温かい。ぼくの背中を支えてくれてたハーレイの左手が残した温もり。それがポカポカ、温かな背中。
(ふふっ、あったかい…)
まだ少しクラクラするけれど。眩暈は残っているんだけれども、背中に温もり。ハーレイの手が背中にくれた温もり。それが心地良くて、幸せな気分。
あったかいよ、って思ってる内にすうっと眠ってしまって、どのくらい眠っていたんだろう?
パチリと目を開けたら、眩暈は消えてしまっていた。起き上がってもなんともなかった。自分の身体だからハッキリと分かる、もう大丈夫、って。
(ハーレイの温もりを貰ったからかな?)
もう消えちゃったけど、眠る時まで、眠ってる間もポカポカだった背中。温かかった背中。
おまじないみたいに効いた温もり、ハーレイの左手がくれた温もり。
ベッドから下りて、最後の授業の途中で戻れた、教室にちゃんと。一人で歩いて。
ママの迎えも要らなかった。いつも通りにバスで帰れた。
バスから降りて家まで歩く途中も、家に着いてからも何度も思い出してたハーレイ。大きな手が背中にくれた温もり。温かかったよ、って。
保健室に行ったことはママにもきちんと報告したけど、眩暈は治ってしまったから。
ママが用意してくれたおやつを食べて、部屋に戻って勉強机の前に座った。ベッドに入ろうって気にはならなかったし、具合が悪いわけでもないから。
こんなに気分が良くなるだなんて、やっぱり温もりのお蔭だろうか。保健室のベッドで寝ていた間中、ポカポカしていた背中の温もり。ハーレイがくれたおまじない。
(背中のおまじない…)
温かかったよね、ってまた思い出して。
ハーレイの左手のお蔭で治ったんだよ、って幸せな気持ちに浸っていて…。
(…あれ?)
ふと掠めていった、遠い遠い記憶。前のぼくの記憶。
それと今とが重なった。前のぼくにも温もりの記憶、背中に感じた温もりの記憶。
ぴたりと重なる温もりの大きさ、ハーレイの手としか思えない。ハーレイの左手なんだ、って。
だけど、そんなこと、あるわけがない。前のぼくとハーレイは並んで歩きはしなかった。ただの一度も並んで歩けやしなかった。
前のぼくはソルジャーだったから。前のハーレイはキャプテンだったから。
ソルジャーの後ろに従うキャプテン、白いシャングリラでは常にそうだった。何処へ行くにも。
ハーレイはぼくの後ろを歩いて、並んでなんかはいなかった。
前のぼくの背中に温もりをくれるわけがなかった、貰える筈もなかった温もり。前のハーレイの左手がくれる温もり。
なのに確かに背中に温もり、温かかった手の記憶。前のぼくの背中に添えられてた手。
ぼくが間違える筈がないんだ、ハーレイの手の温もりを。
貰えるわけがなかったものでも。貰えない筈の温もりでも。あれは確かにハーレイの手で…。
(…なんで?)
どうしてそんな記憶があるのか、夢で見たとも思えない。
きっとホントに起こってたことで、ハーレイがぼくを支えてた。今日みたいに。
(…ハーレイ、ぼくを連れてっていたの…?)
シャングリラに保健室なんかは無かったけれど、と遠い記憶を手繰ってみた。ハーレイが支えてくれていたなら、行き先はメディカル・ルームだろうか、と。
(えーっと…)
何かとうるさかったドクター・ノルディ。注射も検査も大嫌いだったぼくは、ノルディの診察も好きじゃなかった。注射と検査がつきものだから。
行きたくない、と嫌がるぼくをハーレイが宥めて連れて行った時の記憶なんだろうか、温もりの記憶。背中に残った温もりの記憶。
でも、もっと…。
温かな思い出とセットなんだ、っていう気がした。
注射や検査や薬が待ってるメディカル・ルームに行く時じゃなくて、もっと幸せを感じた時間。それがいつだったのかを思い出したくて、背中のポカポカを追い掛けていたら。
今日のポカポカと、前のぼくが覚えてるポカポカを重ね合わせてみていたら…。
(そうだ、ハーレイ…!)
鮮やかに蘇って来た前のぼくの記憶。キャプテンだった頃のハーレイとの思い出。
だけどキャプテンではなかったハーレイ、キャプテンの顔をするのをやめてたハーレイ。ぼくと二人きり、シャングリラの中を並んで歩いてくれてたハーレイ。ぼくの背中に左手を添えて。
(うん、左手…)
あの時もハーレイの左手だった。今日と同じに。
身体が弱かった前のぼく。それでもソルジャーだったぼく。
シャングリラの中では一番偉くて、ハーレイを従えて歩いてた。何処へ行く時も。二人で一緒に出掛ける時にはハーレイが後ろ。そういう決まりで、そういう順番。
そのソルジャーとキャプテンとの決まり、それが崩れた時の思い出。背中のポカポカ。
具合が悪いのを隠して視察とかに出掛けようとしたら、ハーレイが…。
(通路で支えてくれていたっけ…)
ぼくの隣にスッと並んで、ぼくの背中に左手を当てて。肩を貸す代わりに左手だった。フラリと倒れそうになった時には腕を回して抱き留めてくれた。
そう出来るように隣に並んで、背中に当ててくれてた左手。ぼくを支えてくれてた左手。
誰も見ていない所でくらいは弱さを見せてもいいのですよ、って。
行き先に辿り着くまで、ずっと。
行った先でもさりげなく側についていてくれた、いざとなったら支えられるように。
ぼくの後ろを歩く代わりに、何気ない風で隣に並んで。
ソルジャーのぼくに用があるなら、後ろからでは話せないから。打ち合わせでもしているように見せかけて隣についててくれたハーレイ。
其処から戻る時には、またぼくの隣。誰もいない通路で背中に左手、ポカポカと温かい左の手を添えて。ぼくを支えて。
(背中のポカポカ…)
前のぼくの記憶と重なったポカポカ、ハーレイがくれた背中のポカポカ。
保健室に行く途中で出会わなかったら、きっと思い出しさえしなかった記憶。ハーレイはぼくの後ろなんだと思い込んでいたし、そういう記憶しか無かったから。
あんなに何度も支えて貰って歩いていたのに、まるで忘れてしまってたなんて…。
(ハーレイ、覚えているのかな?)
前のぼくを支えて歩いていたこと。前のぼくの背中に添えてた左手。
覚えていて欲しい、もしも忘れてしまっていたって、今日ので思い出していて欲しい。
前のぼくよりチビだけれども、ぼくを支えてくれたんだから。前と同じに左の手で。
ぼくがチビだから、上着の端まで握らせてくれて。
(…ハーレイに会いたい…)
会って話をしてみたい。ぼくが思い出した背中のポカポカ、前のぼくの背中にあったポカポカ。
その話をハーレイとしたいんだけど、って何度も何度も窓の方を見た。
ハーレイが来てくれるかな、って。仕事が早く終わってくれたらいいんだけれど、って。
(来て欲しいな…)
ぼくが保健室のお世話になっちゃったことを、ハーレイは知っているんだから。
元気に帰って行ったことまで、多分、聞いてはいるんだろうけど…。
(ママの迎えで帰らなかったし、来てくれないとか?)
あの様子なら大丈夫、って思っていたらどうしよう。ぼくの家に寄らずに帰っちゃうとか…。
それだけは無いと思いたい。
だけど知らないハーレイの予定。会議があるなら遅くなったら寄れないだろうし、柔道部の方の練習が長い日だってあるし…。
(…来て欲しいのに…)
こんな日だから会いたいんだよ、って祈るような気持ち、何度も見た窓。
神様がお祈りを聞いてくれたのか、ハーレイがチャイムを鳴らしてくれた。門扉の横の。窓から大きく手を振ってみたら、振り返してくれて。
普段と変わらないお茶の時間の始まり、ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで。
「元気そうだな、思った以上に。バスで一人で帰って行った、とは聞かされたんだが…」
最後の授業も途中から出ていたらしいな、お前。
「うん。家に帰ってからおやつも食べたよ」
すっかり元気で、もう大丈夫。ぼくの身体だもの、自分で分かるよ。
「…保健室へお前を運んだ時には、野菜スープの出番なのかと思ったがなあ…」
帰りに作りに行かないとな、と段取りをしていたんだが…。
お前は一人で帰ったと聞いて、なんだか拍子抜けしたぞ。元気なのはいいことなんだがな。
「えっとね…。ハーレイのおまじないのお蔭なんだよ」
それで元気になったんだと思う、おまじないのお蔭。
「…おまじない?」
「そう。背中にくれたよ、ハーレイの温もり」
ぼくを支えていてくれたでしょ?
あの手の温もり、背中に残っていたんだよ。それがポカポカ温かくって…。
気持ち良くって、ぐっすり眠っちゃってた。寝ていた間もポカポカだったよ、ぼくの背中。
それで目が覚めたら、眩暈が治って元気になってた。きっと幸せに眠れたからだよ、ハーレイの温もりを背中に貰って。
だから、おまじない。背中のポカポカ、ハーレイがくれたおまじないだと思うんだ。
「おまじないって…。俺の温もりって、お前が温めて欲しい場所…」
右手だけじゃなかったというわけなのか?
メギドで凍えちまった右の手、そいつは俺もよく知ってるが…。背中も温めて欲しかったのか?
「そうみたい…」
ぼくも忘れてしまっていたけど、背中のポカポカで思い出したよ。
この温もりも大好きだった、って。ぼくの背中にハーレイの左手がくれるポカポカ。
前のぼくが貰っていたんだよ、って話してみた。背中にハーレイの左手の温もり。
ハーレイはそのことを覚えてる? って。
「あのね…。ハーレイはいつも、ぼくの後ろを歩いていたけど…」
背中に温もりをくれていた時は違ったよ。ハーレイはぼくの隣にいたよ。
並んで歩いて、背中にポカポカ。ぼくの背中を左手で支えていてくれたんだよ…。
「そういや、お前の杖代わりだったな」
思い出したぞ、学校じゃ仕事が頭にあったし、思い出しさえしなかったが…。
前の俺はお前の杖だったっけな、お前がヨロヨロしていた時には。
「杖!?」
杖だって言うの、もっと素敵な言い方はないの?
その言い方だと、杖が無くっちゃ歩けないような年寄りみたいに聞こえるじゃない…!
酷いや、って怒ったぼくだけれども、その通りだから。
ハーレイの左手の支えが無ければ、倒れちゃいそうな時も多かったから。
(でも、年寄り…)
杖なんて、今の時代はお年寄りだってついてはいない。年を重ねた外見が好きな人だって少なくないけど、流石に杖を頼りに歩かなければ駄目なほどには年を取ったりしないから。
もちろん、杖はあるけれど。
どちらかと言えば年を重ねた人用のお洒落なアイテム、若い外見だと似合わないお洒落。好みの杖を握ってお出掛け、ちょっぴり気取った紳士なんかの御用達。
そうでなければ、足を怪我した時につく杖、それはホントの意味での杖。
(今だと杖をつくのは怪我しちゃった人…)
分かっているけど、ぼくの中には前のぼくの記憶がたっぷり入ってる。前のぼくが生きた時代に杖と言ったら、お年寄りの杖。怪我人よりも、お年寄り。お洒落なアイテムなんかじゃなくって、実用品として使われてた杖。
そういう時代に生きていたぼくの杖代わりだなんて言われちゃったら…。
(どう考えても年寄りだよ…!)
前のぼくを捕まえて年寄り扱い、酷すぎるよ、って膨れたぼく。膨れっ面になったぼく。
なのに、ハーレイは鼻で笑って、ぼくの額をピンと弾いた。指先で軽く。
「年寄りみたい、と言うがな、お前…」
前のお前は俺より遥かに年上だったろうが、それでも年寄りじゃないと言うのか?
お前の方が俺より若かったなんてこと、有り得なかったと思うがな…?
「そうだけど…。ホントに年寄りだったんだけど…!」
もう間違いなく、ハーレイよりも年寄りだったけど…!
ハーレイが前のぼくの杖代わりだっただなんて、酷すぎない!?
まさかハーレイ、ぼくを支えながら杖のつもりで歩いていたとか…?
あんまりだよ、って文句をぶつけた。前のぼくが年寄りだっただなんて。
キースに向かってそう言ったけれど、「年寄り」と自分で名乗ったけれど。
自分で言うのと、人に言われるのは別だから。それもハーレイに言われるだなんて、ダメージが大きくて怒りたくなる。年寄りじゃない、って。
ぷりぷり怒ったぼくだけれども、プンプン膨れていたけれど。
ハーレイが「だがな…」って悲しそうな顔。
いけない、怒り過ぎちゃったろうか、悲しい気持ちにさせちゃったろうか?
ハーレイにしてみれば軽い冗談、それなのに怒っちゃったから。
プンスカ膨れてしまっていたから、やり過ぎちゃったのかもしれない、ぼく。
慌ててやめた膨れっ面。
ハーレイを困らせるつもりは無くって、悲しませたいとも思わないから。
「…どうしたの?」
ぼくが怒ったから、悲しくなった?
ごめんね、ハーレイ。そんなつもりは無かったんだよ、ちょっぴり怒り過ぎちゃった…。
「いや、そうじゃなくて…。前のお前の頃の話だ」
本当にお前に杖が要る時、俺は支えてやれなかった。お前は杖が欲しかったろうに…。
すまん、杖と言ったら怒るんだったな、年寄り扱いされた、って。
「…それ、いつの話?」
別に杖でもかまわないんだよ、もう怒ったりはしないから。
それよりいつなの、前のぼくをハーレイが支えられなかった時っていうのは…?
「キースの脱出騒ぎの時だ」
シャングリラ中が大混乱だった時に、お前、いきなり目覚めたろうが。
そしてキースを止めに出掛けたぞ、たった一人で。
「ああ…!」
そういえば、ハーレイ、いなかったっけ…。
ぼくが呼んでも反応が無くて、誰も気付いてくれなかったっけ…。
白い鯨で目覚めたあの日を、出来事を、一気に思い出した、ぼく。
十五年間も眠り続けた前のぼくの側には、医療スタッフさえいなかった。あまりにも長く眠っていたから、自動でデータが取られていただけ。
データはメディカル・ルームに絶えず送られていたんだけれども、ぼくの目覚めを示すデータは医療スタッフに届かなかった。みんな忙しくしていたから。カリナの暴走で増える怪我人、それに手を取られてデータを読んではいなかった。
目覚めて直ぐには、何が起こったのかが分からなくて。
だけどシャングリラの危機だというのは感じ取っていたし、そのせいで目覚めたんだから。
とにかく状況を把握しようとベッドから下りて外に出た。スロープを歩いて青の間の外へ。
途端に押し寄せて来た不安と混乱、それから調和を乱す存在。
船の中に渦巻く皆の思念で、地球の男が逃げたと分かった。それを追っている者が誰もいないということも。
地球の男が脱出するのを止められる者はぼくしかいない。ぼくしか気付いていないんだから。
なのに無かった支えてくれる手、ぼくが歩くのを助けてくれる手。
ハーレイは何処にも見付からなくって、思念さえ届けられなくて。仕方ないから一人で歩いた、格納庫までの長い通路をよろけながら。
地球の男が脱出するなら、格納庫。其処しかないから、先回りをして倒そうと。
「…お前、あんな時でも一人で歩いて…」
眠りから覚めて直ぐの身体じゃ、歩くだけでも辛かったろうに…。
俺を呼ぶだけの思念波も送れなかったほどの身体で、どんな思いをして歩いていたのか…。
すまない、お前を放っておいて。…キャプテンのくせに、気付きもしないで…。
「仕方ないよ、ああいう時だったから」
ハーレイだって大変だった筈だよ、船の中はメチャメチャ、キースは逃げるし…。
おまけにジョミーはナスカだったし、あの状況でぼくに気付けと言う方が無理。
「そうなんだが…。事実、そういう状態だったが、それでもな…」
俺が支えてやりたかった。格納庫に向かって歩くお前を、俺が支えてやれていたなら…。
それを散々後悔したんだ、お前がトォニィと一緒にメディカル・ルームに運ばれた後で。
「…そうだったの?」
「ああ。…しかし俺には、それを謝る暇さえ無かった」
ようやくお前に会えた時には、ゼルたちも一緒にいたからな。個人的な話は何も出来ず仕舞いで終わっちまって、それっきりだ。
お前のために野菜スープを作る暇さえ、俺には取れなかったんだ…。
「うん…。知ってるよ…」
ハーレイ、何度もぼくに謝ってくれたから。
あの時は何も出来なかった、って何度も何度も言っているよね…。
「それだけじゃないんだ、俺がお前の杖になり損なった時」
もう一つあるんだ、俺がお前を支えてやならきゃいけなかった時が。
「まだあるの?」
ぼくには思い付かないけれど…。いつの話?
「…お前がメギドに飛び立つ前だ」
ブリッジまで一人で来ただろうが。もう大丈夫だ、と平気なふりを装って。
「そうだけど…」
どうして、そこでハーレイがぼくを支える話が出て来るの?
ぼくはジョミーと一緒に行ったし、ハーレイが来たって支えられる場所は何処にも無いよ?
「そうじゃない。…お前がブリッジに来る前のことだ」
あの時は全く思いもしなかったんだが、今にしてみれば…。
お前が青の間からブリッジまで歩いて来る途中。
あそこも支えてやりたかった、と思うわけだな、きっとお前は歩き辛かった筈なんだ。
弱った身体でブリッジまでだぞ、短い距離ではないんだから。
お前がブリッジに来ようとしてる、って気付きさえすれば、支えてやれた。
あんな時でも、キャプテンだからこそ「ソルジャーがお呼びだ」と飛び出せたんだ。
「…ハーレイにそれをされていたなら、飛べていないよ」
ぼくはメギドに飛べなかったよ、ハーレイの左手から離れたくなくて。
右手に持ってたほんの少しの温もりだけだったから、飛べたんだ。
背中にハーレイの温もりをずうっと感じて歩いて行ったなら…。ブリッジに着く前に心が挫けて飛べなくなったよ、離れたくない、って。
「やはりな…」
背中の温もりと聞いてピンと来たんだ、もしかしたら、と。
俺が支えてブリッジまで一緒に行っていたなら、お前はシャングリラに残ったかも、と。
やっぱり支えに行くべきだった、って悔しそうな顔をしているハーレイ。
あの時の俺は色々と手一杯で頭が回らなかった、って。
「…青の間をモニターしておけば良かった、お前が動いたら分かるように」
そうしていたなら、俺はブリッジから飛び出して支えに走ったのに…。
お前の背中を左手で支えて、ブリッジまでの通路を一緒に歩いて。
それでお前がメギドに飛ばずに残ってくれたら、俺はどんなに幸せだったか…。ミュウの未来がどうなっていようが、地球が死の星のままだろうが。
「…もう済んだことだよ、何もかも」
前のぼくはとっくに死んでしまったし、そのお蔭で今があるんでしょ?
平和な世界も、青い地球も。
…だからハーレイは間違っていないよ、ぼくを支えなかったこと。
支えていたなら、ぼくはメギドに飛べていないし、平和な世界も青い地球もきっと無かったよ。神様がハーレイにそうさせたんだよ、ぼくの杖になってはいけない、って。
「だが…」
弱り切ったお前を支え損ねたことが二回だ、それも重大な場面ばかりだ。
前のお前を支え続けた俺にしてみれば、とんでもないミスというわけなんだが…。
悔やんでも悔やみ切れないと言うか、取り返しのつかない過ちと言うか…。
ハーレイがあんまり辛そうだから。
とうの昔に終わってしまったことだというのに、辛そうな顔をしているから。
「…じゃあ、今度また支えてよ」
今のぼくを支えて、背中のポカポカ、ぼくにちょうだい。前のぼくの分も。
「学校でか?」
上手い具合に出くわしたならば、それはもちろん支えてやるが…。
「結婚してからでもいいよ?」
学校でチャンスが無いままだったら、結婚した後で。
「お前なあ…」
結婚した後に支えて貰って何処へ行く気だ、何をするんだ?
俺の嫁さんになるんだろ、お前。その後で支えろと言われてもなあ…。
嫁さんにそんな無茶をさせる馬鹿が何処にいるか、って呆れられた。
病気にしたって怪我にしたって、支えが無ければ歩けないような状態のお嫁さん。
そんなお嫁さんに何かをさせるような人はいない、と言われてみれば、そうだから。
「…それじゃ、ぼくがハーレイに支えて貰えるのは学校に通ってる間だけ?」
結婚した後には背中のポカポカ、もう貰えないの?
あの温かさも好きなんだけど…。
「いや、結婚した後は、それよりももっと甘やかしてやる」
背中を支えるだけなんてケチな真似はしないさ、堂々とお前を運ぶことにする。
寝込んじまっても、どうしても何処かへ行きたいんだとか、無茶を言い出した時にはな。
絶対に無いとは言い切れないだろ、具合が悪くても庭に出たいとか。
そういう時には抱っこにおんぶだ、とハーレイが言ってくれたから。
任せておけ、って逞しい胸を叩いてくれたから、大いに期待しようと思う。
(背中のポカポカも嬉しいけれど…)
結婚した後は抱っこにおんぶ。
ハーレイの腕に抱っこされたり、背中に背負って貰ったり。
具合の悪い時には甘え放題、きっと治りも早いんだろう。
ハーレイがくれた、おまじない。背中のポカポカ、ホントにとってもよく効いたから…。
背中の温もり・了
※前のブルーが視察に行く時、傍らで支えていたハーレイ。万一に備えて、左手を添えて。
ブルーの背中にあった温もり。思い出したら、今度も欲しくなってしまいますよね。
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(こう来たか…)
親父だな、とハーレイはテーブルの上を見詰めた。
ブルーの家には寄りそびれた金曜日のことだけれども、留守の間に父が勝手に入った証拠。この家の合鍵を持っているから、「先にやってるぞ」とダイニングで何か食べていたりもするのが父。釣りの成果を料理していたこともしばしば、最近はめっきり減ってしまったが…。
(俺が帰るとは限らんからなあ…)
小さなブルーの守り役になって、帰宅時間が遅い日が増えた。仕事が早く終わればブルーの家に行くから、夕食はそちらで済ませてしまう。だから少なくなってしまった父の不意打ち。
とはいえ、敵も心得たもので、ブルーの家には寄れそうもない日を選んでやって来たりもする。真っ直ぐ家に帰る日はいつだ、と予め聞き出しておいたりして。
しかし、先日の通信は違った。今度の土曜日はブルーの家に行くのか、と訊いて来た父。行くと答えたら「分かった」の一言、他の予定は訊かれなかった。
だから…。
(何かあるとは思っていたが…)
予想外だ、と見下ろすダイニングのテーブル、ドンと置かれた籐製の籠。それに一杯、ドッサリ入った紫色の果実、よく熟れたアケビ。どれもパカリと口を開いて食べ頃の香り。
手書きのメモも添えられていた。「ブルー君に持って行ってやれ」と。
(アケビなあ…)
確かに珍しいものではある。山に行かないと採れない果実。食料品店に並びはしないし、売っている場所があるとしたなら、山から近い山菜などを扱う店。それくらいしか思い付かない。
採りに行くにせよ、買いに行くにせよ、どちらにしてもアケビが採れる山に行くしかなくて。
(ブルーも多分、知らないだろうなあ…)
本物のアケビは見たことが無いに違いない。アケビそのものは有名だから、写真などで知ってはいるだろうけれど、手に取ったことも一度も無ければ、食べたことだって。
なにしろブルーは身体が弱い。アケビ狩りには向かない身体。
山の方へと出掛けるにしても、せいぜい軽いハイキング。それも殆ど行かなかったと聞くから、アケビが売られているシーズンに山菜の店を覗いたことも無いだろう。
(あの手の店は山の近くにしか無いからな?)
山で採って来たものを並べて売る店、けして大きな店ではない。わざわざ車で出掛ける客より、散歩のついでに立ち寄る客が多いのであろう小さな店。店の構えも素朴なもの。
父はアケビを買って来たのか、はたまた採りに出掛けたのか。
(親父のことだし…)
採ったんだろうな、と思いながらも通信を入れることにした。まずは着替えで、それから通信。アケビの礼を言っておかなくては。
スーツを脱いで、夕食の支度に取り掛かる前。
父の家へと通信を入れたら、アケビは予想通りに採って来たもの。ただしアケビ狩りに出掛けたわけではなくて…。
(釣りの土産か…)
親父らしい、と思ってしまう。釣り好きの父は川へも海へも釣りにゆくけれど、釣りをするには情報収集、その範囲は釣りだけに留まらない。其処に行ったら何が出来るか、何があるのか。広く調べて楽しむのが釣り、釣りのついでに他にも色々。
今日のアケビもそうだった。以前から何度も通っている場所、アケビが採れる山深い川。其処で釣りをし、釣りの合間にアケビ狩り。
(今の季節ならあるからなあ…)
父が言うには、山ほど実っていたらしい。届けた分だけで終わりではなくて、自分の家にも沢山あるから幾つも食べた、と声が弾んでいた。甘くて美味いぞ、と。ブルー君にも是非、と。
(親父からの土産か…)
小さなブルーの喜ぶ姿が目に見えるようだ。
未来の家族からのプレゼント。きっと大はしゃぎで眺めるのだろう、お土産なんだ、と。
次の日、アケビを籠ごと提げてゆくかどうか暫し考えてから。
(…籠だと中身が丸見えだしな?)
ブルーがアケビだと気付くかどうかはともかくとして、どうせなら驚いて欲しいから。籐の籠はやめて袋に移した、中身が見えない紙の袋に。
いい天気だから紙袋を手に歩いて出掛けて、着いた生垣に囲まれた家。
門扉の脇のチャイムを鳴らすと二階の窓からブルーが手を振り、振り返す内にブルーの母が出て来た。門扉を開けに。
その母に紙袋を渡し、「アケビなんです」と中身を見せた。
「この通り、沢山ありますから…。皆さんでどうぞ」
ブルー君にも食べさせたいですし、おやつに添えて頂けますか?
「ええ。でも…。アケビに合うお茶って何ですの?」
「さあ…?」
お茶はハーレイにも盲点だった。アケビはそれだけを食べるものだし、お茶菓子ではない。何が合うのか分からないから、お菓子の方を優先して下さい、と答えておいた。
いつものお菓子にアケビがオマケでいいでしょう、と。
ブルーの部屋に案内されて間もなく、運ばれて来たお菓子の皿とアケビが幾つも盛られた器と。
お菓子が軽めのケーキだったから、お茶は紅茶になっていた。ティーカップとポット、それらがテーブルの上に揃って、ブルーの母が「ごゆっくりどうぞ」と出て行った後。
「ハーレイ、これ…」
お土産なの、とブルーがアケビを指差したから。
「そうなんだが…。こいつは俺の土産じゃなくてだ、親父からだ」
この前、今日はお前の家に行くのかと訊いて来たから、行くと答えておいたんだが…。
昨日、帰ったら、こいつがあったというわけだ。お前に持って行ってやれ、とメモつきでな。
「ホント!?」
ハーレイのお父さんからぼくにお土産?
アケビって何処に売ってるものなの、お父さん、ぼくを覚えていてくれたんだ…!
お土産なんて、と大喜びのブルー。
もっと喜ばせることになってしまうけれど、アケビは買って来たものではないから。
「生憎と、こいつは売り物じゃない。売っている店も親父は知ってる筈なんだが…」
買ったんじゃなくて採って来たんだ、釣りに出掛けた場所にドッサリあったそうだぞ。
「そうだったの? それじゃ、ホントにお土産なんだ…」
ぼくのために採って来てくれたんだね、アケビ。こんなに沢山…!
「ついでなんだと思うがなあ…。釣りのついでにアケビ狩りだろ」
もっと沢山持って来たんだ、お母さんに袋ごと渡しておいた。親父の家にも山ほどあるんだし、お前用ってわけではないな。親父とおふくろも食うんだからなあ、あくまでついでだ。
「でも通信があったんでしょ?」
ぼくの家に行くのかどうか、って。
そう訊いてから採りに出掛けてくれたんだったら、ぼくの分も入っていたんだよ。ぼくが食べる分だけ多めに採って来てくれたアケビだってば、ぼくのなんだよ。
ぼく用のお土産、とブルーは大感激で。
お父さんにちゃんと御礼を伝えておいてね、と何度も念を押し、それから器のアケビを眺めて。
「…食べていい?」
御礼は言ったから食べていいよね、このアケビ。
「ああ。…って、お前、食い方、知ってるのか?」
「えっ?」
「アケビだ、アケビ。アケビの食い方を知っているのかと訊いているんだ」
「…食べ方って、このまま食べるんでしょ?」
だって果物、とアケビを一つ手に取ったブルー。案の定、紫の皮ごと食べようとしているから。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない。お前、分かっていないじゃないか」
アケビってヤツは皮ごと食ったら駄目なんだ。皮じゃなくって、弾けた中身。中身だ、中身。
中に入っている白い部分を食べるのだ、と教えてやった。
「この白いトコだ、ここだけ食うんだ。種は食えんが」
種だらけだから気を付けて食えよ。ちゃんとこっちの皿に出すんだ、その種は。
此処、と小さな皿を示してやった。ブルーの母が種入れ用にとつけてくれたらしい白い小皿を。
「うん、分かった。…んーと…。わあ、甘い!」
なんだかクリームみたいだね。ねっとりしてるし、フルーツ味のクリームみたい。
種だらけだけど…。クリームだと種は無いんだけれど…。
美味しそうに一個を食べてしまって、皮の置き場を探しているブルー。種入れ用の小皿には皮は収まらない。ブルーの母もそこまでは気が回らなかったという所か。
「此処でいいだろ、テーブルの上で」
皮には粘りも何も無いしな、置いておいてもいいんじゃないか?
テーブルが汚れちまいはしないさ、器がすっかり空になったら器に戻せばいいんだしな。
「そっか、そうだね!」
そうしようっと、と皮をテーブルに置いて、次はケーキ、とフォークを持ったブルーだけれど。ケーキを口へと運んだのだけれど、甘さが足りないと言い出した。ケーキの甘さが。
「…ママのケーキ、もっと甘いと思うんだけど…」
お砂糖の量を間違えたのかな、ちょっぴり甘さが足りないみたい。ママ、失敗…?
「それは違うぞ、アケビのせいだな」
甘いアケビを先に食ったから、ケーキの甘さが物足りなく思えてしまうんだ。じきに慣れるさ、そのケーキの味。そして甘いと思うんだろうが…。
アケビの方ももっと食うだろ、大きさの割に食える部分は少ないんだしな?
「うんっ! ハーレイのお父さんのお土産だものね」
ぼく用に採って来てくれたお土産、ちゃんと美味しく食べなくちゃ。
種だらけでも甘いクリームみたいなんだし、もっと何個も食べるよ、ぼくは。
その言葉通り、三個も食べたブルーだけれど。
ケーキと紅茶も味わいながらアケビに手を伸ばし、三個も食べてしまったけれど。
ハーレイと二人で食べたアケビの皮がテーブルの上にコロンと置かれて転がっているから。紫の色が鮮やかだから、ブルーはそれに惹かれるらしくて。
「アケビの皮…。美味しそうなのに…」
食べられないなんて、とっても残念。中身があんなに甘いんだったら、きっと皮だって…。
「おいおい、見かけに騙されちゃいかん。確かに見た目は美味そうなんだが…」
アケビの皮は甘くはないんだ、少し苦いぞ。
「苦いって…。ハーレイ、食べたことあるの?」
「食えるからなあ、アケビの皮は」
もちろん何度も食ってるさ。苦いと知ってる程度にはな。
「嘘…。さっき、食べられないって言ったじゃない!」
ぼくが皮ごと食べようとしたら、その食べ方は間違ってる、って…!
「その話だって嘘ではないぞ。このままじゃ無理だ、生では食えたもんじゃない」
しかし、食おうと思った人はいたんだろうなあ、食い方があるって所を見ると。
「生だと駄目って…。じゃあ、どうするの?」
茹でたりするわけ、この皮を?
でなきゃ焼くとか、そうしたら食べられるようになるわけ、アケビの皮も?
「アケビの皮には詰め物だな」
この通り中が空っぽだしなあ、そこを活かして食おうってトコだ。
詰め物をする料理は色々あるだろ、それのアケビ版だな。
中に挽肉を詰めるのだ、と話したら。
ハンバーグのようにタマネギやキノコの刻んだのを入れて、蒸したり焼いたりして食べるのだ、と教えてやったら、ブルーはテーブルに置かれたアケビの皮を指先でチョンとつついてみて。
「…それ、食べてみたい…」
「なんだって?」
「食べてみたいよ、その…なんだったっけ、アケビの肉詰め?」
ハーレイ、ちょっと作ってくれない?
皮なら此処に幾つもあるし、もっと食べたらもっと増えるし…。
「なんで俺が!」
そいつを作るということになるんだ、俺は食べ方の話をしただけでだな…!
作るだなんて言っていないぞ、どうして俺が肉詰めなんぞを作ってやらんといかんのだ…!
「…アケビはお店で売っていないもの」
売ってるんなら、ぼくだって食べ方を知ってるよ。皮は食べないとか、中身だけだとか。
「それはそうだが…。アケビは普通の店には無いが…」
「そうでしょ、ママだって知らないよ、きっと。アケビは皮まで食べられるなんて」
だからお願い、アケビの肉詰め、作ってみてよ。ぼくも食べたくなってきたから。
「俺はこの家では料理をしないと言ってるだろうが!」
手料理だって持って来ないし、野菜スープのシャングリラ風を作ってやるのがせいぜいだ。
俺は客だという扱いだし、客に料理をさせるなんぞは論外なんだ…!
お母さんを恐縮させちまうだけだ、と断った。
客はキッチンには立たないものだと、もてなすべき客に料理をさせたら失礼になる、と。
ところが、それで諦めないのが小さなブルーで。
「じゃあ、ママに言って」
「はあ?」
料理をしてもいいですか、と言えってか?
それはそれでお母さんも断り切れんし、もっと恐縮されそうなんだが…。
「違うよ、ママに教えてあげてよ、アケビの肉詰めの作り方を」
ママが作れるように教えて、そしたら作って貰えるから。
「お前なあ…」
そいつも俺はどうかと思うぞ、いくら客でも料理のリクエストはなあ…。
何をお召し上がりになりますか、と訊かれたんなら失礼じゃないが、そうでもないのに注文か?
厚かましすぎる客だと思われてしまいそうなんだが、レシピを話してリクエストなんて。
それは流石にマズイだろう、とハーレイは断固拒否したけれど。
駄目だと何度も言ったのだけれど、ブルーがあまりに食べたそうな顔をしているから。アケビの肉詰めを食べてみたい、と顔いっぱいに書いてあるから、腹を括って。
そろそろ昼食は如何ですか、と覗きに来たブルーの母に声をかけてみた。
「すみません。アケビの料理はなさいますか?」
「…アケビ料理?」
これはそのまま食べるものだと思っていたんですけれど…。この中身だけを。
あらっ、すみません、皮を入れる器、用意するのを忘れてましたわ。
申し訳ありません、とテーブルの上に転がっている皮に慌てるブルーの母。「いいえ」と笑顔で返しながら紫色の皮を示して。
「やっぱり御存知ないですよねえ…。アケビを使った料理なんかは」
私の母は作るんですが、とアケビ料理の話をした。アケビの皮を使った肉詰め。この皮に挽肉を詰める料理だと、蒸したり焼いたりするものなのだ、と。
「知りませんでしたわ…。それじゃ、ハーレイ先生も?」
お作りになりますの、アケビの肉詰め。お料理がお好きだと伺ってますし…。
「やらないことはないですが…」
アケビさえあれば、もちろん作れるんですが。
他所のお宅にお邪魔してまでアケビ料理を始めるのは、ちょっと…。
マナー違反だと分かってますから、キッチンをお借りしようとまでは思いませんが…。
ブルー君が食べたいそうなので、と作って貰えないかと持ち掛けた。
アケビの皮を使った肉詰め。レシピはお話しますから、と。
「皮の味は少し苦いんです。けれどもこういう形ですから、肉詰めにはピッタリなんですよ」
詰める中身はハンバーグの種に似てますね。タマネギやキノコを刻んで挽肉と合わせるんです。味付けは好みで醤油や、味噌や。
それを詰めたら蒸して仕上げたり、焼いたりするというわけです。
「面白そうですわね、アケビの肉詰め」
確かにトマトなんかと違って、くり抜かなくても中身を食べたら直ぐに器が出来ますわ。
そういうお料理があるのでしたら、頂いたアケビが新鮮な内に。
此処の皮も使えるというわけですわね、アケビ料理。
せっかくですから、と乗り気のブルーの母。
ブルーが渡したメモに早速レシピを書き付け、空いたケーキ皿を下げるついでに持って行った。テーブルの上に幾つも転がっていたアケビの皮と一緒に。
「ママ、作ってくれるみたいだけれど…」
お昼御飯には間に合わないね、と扉の方を見ているブルー。母が閉めて行った部屋の扉を。
「当たり前だろう、材料が無けりゃ買い出しからだぞ」
挽肉さえあればキノコだろうがタマネギだろうが、とは言っておいたが…。
事実、そういう料理なんだが、挽肉が無けりゃ始まらん。無かったら買いに行く所からだ。
あったとしたって、昼飯の用意は殆ど出来てる筈なんだぞ。
アケビ料理を作っている間に、せっかくの飯が冷めちまったらどうするんだ。
昼飯には絶対、間に合わん。作って貰えることになっただけでも有難く思っておくことだな。
お前が我儘を言うから、お母さんの仕事が一つ増えたぞ、と額を指で弾いてやったけれども。
罪の意識は無さそうなブルー。アケビ料理に夢中のブルー。
間もなく母が運んで来た昼食、其処にアケビの肉詰めは無くて。
母は「アケビ料理は晩御飯にね」と告げたのだけれど、ブルーときたら。
その母が去って昼食のピラフを食べ始めるなり、こう言い出した。
「…アケビ、おやつに食べたいな…」
えっと、この果物のアケビじゃなくて。アケビの肉詰め。
これはいつでも食べられるから、とブルーが指したアケビが盛られた器。午前中に食べた分だけ減ったけれども、紫のアケビがまだ入っている。
「おやつだと!?」
アケビ料理をおやつに食おうと言うのか、お前?
そりゃあ、大きさはこんなモンだし…。
おやつにコロッケってヤツだっているし、それ自体は変とは言わないが…。
お母さんの手間を考えてみろ。夕食のつもりで支度するんだろうに、おやつまでか…!
我儘が過ぎる、と呆れたけれども、そこはブルーで。
昼食の皿を下げに来た母に強請り始めた。
アケビの肉詰めをおやつの時間に食べてみたいと、一個だけでもかまわないから、と。
「…晩御飯じゃないの? アケビの肉詰めは立派なお料理よ?」
お茶とも合わないと思うんだけれど…。緑茶ならともかく、お紅茶には。
「でも、おやつがいい!」
一個でいいから食べてみたいよ、せっかくハーレイに聞いたんだもの。
少しでも早く食べてみたいし、おやつにアケビの肉詰めがいいよ。
「あらあら…。食べたい気分になっちゃったのねえ、仕方ないわねえ…」
それじゃ両方、と微笑んだ母。
おやつ用に作って夕食にも、と。
「ありがとう、ママ!」
「どういたしまして。ブルーが食べたいお料理なんでしょ、お安い御用よ」
おやつを楽しみにしていなさいな、と母は食後のお茶をテーブルに置いて出て行った。これから買い出しに出掛けてゆくのか、冷蔵庫に挽肉が入っているのか。
買い出し無しでも、アケビ料理を二回も作るのは間違いないから、手間が倍だから、ハーレイはフウと溜息をついた。
「お前、とことん我儘だな」
アケビ、アケビ、って騒がなくても、晩飯になったら食えるだろうに。
「だって…。ハーレイと二人で食べたいよ」
晩御飯だとパパとママも一緒で、二人きりでは食べられないもの。
せっかくのハーレイのお父さんのお土産、ハーレイと二人でゆっくり食べてみたいんだもの…。
そしておやつに出て来たアケビ。
ブルーの母が「お茶はやっぱりこれなんでしょうねえ…」と緑茶と一緒にトレイに載せて運んで来たアケビ。肉詰めのアケビがブルーの分とハーレイの分と、二個ずつ皿に載っていた。
味付けは味噌にしたという。フライパンで焼いて仕上げて来た、と。
紫色だったアケビはナスをこんがり焼いたかのように色が変わって、中に挽肉。皮の裂け目からはみ出すくらいに詰められた挽肉、タマネギとキノコもたっぷり入っているらしい。
「…ハーレイ先生、こんな具合でよろしいんでしょうか?」
教わった通りにしてみましたけど、アケビ料理は初めてですから…。
「ええ、私が作ってもこういう感じになりますね」
すみません、お手数をおかけしまして…。アケビを持って来たばかりに。
「いいえ、お蔭でレパートリーが広がりましたわ」
お夕食には蒸してみようかと思ってますの。
また味わいが変わるんでしょうし、楽しみですわ。
ええ、試食用はもちろん作りましたし、これから主人と食べるんですのよ。主人もアケビ料理は初耳だとかで、おやつに作るならお相伴だ、って。
ブルーの母が料理とお茶とを置いて去ってゆくなり、小さなブルーはアケビの肉詰めにガブリと皮ごと齧り付いた。モグモグと噛んで味わい、飲み下して。
「…ちょっぴり苦いね、見た目はそうでもなさそうなのに…」
ナスみたいだ、って思ったけれども、ナスは焼いても苦くはならないし…。
「だから言ったろ、苦いって」
アケビの皮は苦いんだから、料理したって苦さは残っちまうってな。
肉詰めだからな、子供が好きそうな感じなんだが、どちらかと言えば大人向けだ。
酒の肴にいいんだぞ。…って、お前は酒は駄目だったっけなあ…。
「もっと他にも詰められそうだね、挽肉じゃなくても」
御飯を詰めたりするのはないの?
トマトとかだとハーブライスを詰めたりするけど、アケビに御飯は詰めないの…?
「ハーブライスなあ…。俺はそいつは試したことが無いんだが…」
あくまで肉詰め一本槍だが、バリエーションなら幾つもあるな。
蒸した後に溜まった肉汁を使ってソースを作って餡かけ風とか、衣をつけてフライだとか。
どれも美味いぞ、手間をかけるだけの価値があるってな。
「やっぱり…!」
ママにスラスラ教えてたから、詳しいんじゃないかと思っていたんだ、アケビの肉詰め。
きっと何度も作ったんだ、って。工夫も色々していそうだ、って…。
そういう話が聞きたかった、と笑顔のブルー。嬉しそうなブルー。
だからアケビの肉詰めをおやつに強請ったと、ハーレイと二人で食べたかった、と。
「晩御飯の時だと、パパとママに話を持って行かれてしまうんだもの…」
二人とも、ハーレイがぼくの相手で疲れちゃってる、と思ってるから仕方ないけど…。
でも、本当にハーレイを取られてしまうし、アケビ料理の話をしてても同じだよ、きっと。
ぼくが訊くよりも先にママが訊くとか、パパが相槌を打っちゃうとか。
今みたいな中身の話を聞けても、ぼくは楽しさ半分以下になっちゃうんだよ…。
「ふうむ…。その点は俺も否定出来んな」
だが、お母さんたちは俺を気遣ってくれているんだ、そこの所を間違えるなよ?
恨んじまったら罰が当たるぞ、家族でもない俺を夕食の席に加えてくれるんだからな。
「…分かってるけど…。でも…」
たまには我儘言っていいでしょ、ママだって面白がってるし。
ぼくが我儘言わなかったら、今日のアケビ料理は一回だけだよ、焼くのか蒸すのか、片方だけ。
ママは両方試せるんだし、これでいいんだと思うんだけど…。
「そういうのを屁理屈と言うんだ、チビ」
あれは立派な我儘だったぞ、ショーウインドウの前で欲しいと踏ん張るガキと変わらん。
なにがおやつにアケビ料理だ、お母さんの菓子の出番を奪っちまって…。
午後のおやつにケーキでも焼いてあっただろうに、とハーレイは嘆いてみせたけれども。
ブルーの方はケロリとしたもので、アケビの肉詰めを頬張りながら。
「苦味に慣れたら美味しいね、これ」
ハーレイのお父さんとアケビの話も聞きたいな。お父さんもアケビの肉詰め、作るの?
「まあな。しかし、親父はどっちかと言えばアケビを採ってくる方で…」
レシピの工夫は主におふくろだぞ、こうすれば美味いんじゃないか、って。
それを食って親父がアイデアを出すんだ、次はこういうのも美味いかも、とな。
そういう意味では共同作業と言えないこともないなあ、アケビ料理は。
「…だったら、ぼくのアイデアも言ったら採用して貰えそう?」
アケビ料理にハーブライス。挽肉の代わりに御飯を詰める、って言ったよ、ぼくは。
「悪くはないかもしれないなあ…」
試してみるかな、まずは挽肉に米を混ぜるトコから始めてみて。
いけるようなら米の比率をだんだん増やして、最終的にはハーブライスで。
…米の中にナッツを入れてもいいかもしれんな、胡桃とかをな。ナッツもアケビも秋の味覚だ、ナッツをたっぷり。案外、出会い物かもしれんぞ、アケビとナッツ。
美味いのが出来たら親父たちに教えて、元はお前のアイデアだったと伝えてやるさ。
もっとも、アケビ。
親父が届けに来てくれた分は丸ごと持って来ちまったしなあ、料理のチャンスはいつになるやらサッパリ謎だな、また採って来てくれないとなあ…?
そいつもウッカリ全部届けてしまいそうだが、と苦笑しながらの幸せな時間。
お菓子の代わりにアケビの肉詰めを食べて、紅茶の代わりに緑茶を飲んで。
こういう午後もいいものだ、と緑茶のおかわりを注いでいたら。
「ぼくもアケビ、採りに行きたいな…」
山に行けばドッサリ実ってるんでしょ、今日、持って来てくれたみたいなアケビが。
普通のお店には売ってないんだし、アケビを採りに行ってみたいよ。
「いつかはな」
お前だったら行けるだろうさ。親父も喜んで案内するんだろうし。
「ぼくだったら、って…。どういう意味?」
「俺の嫁さんになるんだろ、お前。だからこそだな」
今の所は親父だけしか山ほど採っては来られないんだ。
俺が教師になってからだしな、親父がアケビを一度にドッサリ採ってくるようになったのは。
それまでは十個もあれば上等だっていう具合だったが、今じゃ御覧の通りだってな。
親父の秘密の場所らしいから、と話してやった。
釣り仲間の誰にも教えていないと、けれど家族なら話は別だと。
ブルーが新しい家族になったら連れて行きたがる、と言ってやったらブルーは行く気満々。もうその場所を知ったかのように顔を輝かせるから、一応、注意はしておいた。
「…俺が思うに、とんでもない山の奥じゃないかと…」
道があるとも限らないような場所を、川沿いに登って行くんじゃないかと思うんだがな?
お前、そういう場所でも親父について行くのか、アケビ狩りに?
「うん。疲れちゃったら、ハーレイ、背負って」
「背負うって…。今ならともかく、デカく育ったお前をか!?」
「駄目…?」
大きくなったら背負えないっていうこともないでしょ、ハーレイ、力持ちだから。
今のハーレイは鍛えているから、ぼくくらい軽く背負えない…?
「まあ、いいがな…」
くたばっちまったら背負ってやるから、アケビ狩りをする体力くらいは残しておけよ?
せっかく着いたのに一個も採れずに座ってました、じゃ、情けないにもほどがあるからな。
アケビ狩りには行きたいけれども、山道で疲れてしまいそうな未来のブルー。
前と同じに大きく育っても、丈夫になりそうもない身体が弱いブルー。
そういうブルーとアケビ狩りに行くのもいいだろう。疲れてしまったら背中に背負って。
道案内をする父も笑うに違いない。疲れたのなら一休みするか、と釣りの道具を地面に下ろしてレジャーシートをブルーのために広げてくれるとか。
いつかはブルーとアケビ狩りだな、と考えていたら。
「ハーレイ、アケビを沢山採って来られたら料理もしようね」
アケビの肉詰め…。ううん、その頃にはハーブライス詰めも出来ているかも!
「お前も一緒に作るのか?」
それとも俺が一人でやるのか、肉詰めもハーブライスの方も。…ハーブライスは試作もしてないからなあ、美味いのが出来る保証は無いが。
「蒸すとか焼くとかは難しいかもしれないけれど…」
詰めるくらいは出来るでしょ? アケビの皮に。肉もお米も。
「確かになあ…。そのくらいは出来んと話にならんな」
料理以前の問題だ。お前、手先までは不器用じゃなかった筈だよな?
「うん。前のぼくだと危なかったけどね、お裁縫はね」
今度はお裁縫だって家庭科で習った程度のことは出来るし、きっとアケビに詰めるのだって…。
前のぼくでも詰められたかもしれないよ?
シャングリラにはアケビもアケビ料理も無かったから、詰めるチャンスが無かっただけで。
「無かったなあ、シャングリラにアケビはなあ…」
もちろん地球にもアケビは無かった、前の俺たちが生きた頃にはな。
いい時代に俺たちは生まれて来たなあ、地球が蘇って今ではアケビもあるんだからな。
ブルーと二人、青い地球の上に生まれ変わって、いつかはアケビ狩りにゆく。
結婚してブルーと家族になって、今の自分を育ててくれた父と。
その日が来るのを夢に見ながら、小さなブルーと頬張るアケビ。肉詰めはもう食べ終えたから、器に盛られた生のアケビの甘い中身だけを。紫色の皮は残して、その中身だけを。
夕食の席でもきっと話が弾むだろう。
アケビの肉詰めを前に、ブルーや、ブルーの両親たちと。
シャングリラにアケビはありませんでしたね、と、もちろんアケビ料理も、と。
今はアケビがドッサリと実る秘密の場所があるらしい地球。
いつかはブルーと二人きりの家で、アケビ料理を作ってみよう。
ブルーの提案のハーブライス詰めも、美味しいかどうか試作してみて…。
お土産のアケビ・了
※ハーレイの父からブルーへのお土産に、アケビ。そのまま食べても美味しいのですが…。
料理も作れると聞いたブルーの我儘、お茶の時間はアケビの肉詰め。ハーレイ直伝のレシピ。
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