シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(…え?)
それは地球を見ている時に起こった。フィシスの地球。
天体の間を訪ねる至福のひと時、銀河の海に浮かぶ母なる地球。青い真珠。
フィシスと手を絡め、思念の波長を合わせるだけで遠い地球まで飛んでゆける。旅が出来る。
このシャングリラを遠く離れて、ソル太陽系の第三惑星へと。
ただの映像に過ぎないけれども、フィシスを生み出した機械が植え付けた記憶だけども。それを知りつつ、なお焦がれずにはいられない。誰かが撮った地球の姿だから。地球は本物なのだから。
水槽の中に居た幼い少女。青い地球の映像を抱いていた少女。
無から生み出された生命体でも、どうしても彼女が欲しかった。彼女の地球が。
サイオンを分け与え、生まれながらのミュウだと偽り、白いシャングリラに連れて来た。地球を抱く女神なのだ、と船の仲間たちに紹介した。彼女は特別な存在だ、と。
船に来た時には幼かったフィシスも、すっかり育ってそれは美しい女性となった。床にまで届く金色の髪に、誰をも魅了する美貌。その上、タロットカードを使って未来を読み取る占い師。
今では文字通りミュウの女神で、思惑以上の存在となった。
誰もフィシスを疑わない。ミュウとは違うと気付きもしない。彼女の抱く地球を見たいと、折があれば是非、と誰もが願う。
それほどに鮮やかな地球の映像、青い地球へと渡ってゆく旅。
飽きること無く何時間でも見ていられるほど、焦がれてやまないフィシスの地球。
その地球の映像が不意に揺らいだ、絡み合う思念の波が揺れて打ち消し合ったかのように。
映像の海に誰かが石でも投げたかのように、乱れてしまった青い地球の姿。
「ソルジャー!?」
同時に上がったフィシスの悲鳴。
気付けば床に倒れ伏していた、さっきまで自分が立っていた床に。
フィシスは酷く驚き慌てて、アルフレートを呼ぼうと奥へと行きかけたけれど。
「…大丈夫。なんでもないよ」
もう平気だから、と身体を起こした。現に何ともなかった身体。眩暈もしないし、起きられる。
けれどもフィシスが心配するから、「これでいいかい?」と椅子に腰掛けた。「こうしていれば倒れないから」と、「倒れるとも思えないけれど」と。
「でも、ソルジャー…。さっきは一瞬、気を失っておられたのでは…」
「そうらしいけれど…。でも心配は要らないよ、フィシス」
貧血だろう、と微笑んでみせた。
昨日は船の外へ出ていたから、と。アルテメシアに降りていたから、きっと疲れが出たのだと。
フィシスはホッと安堵の息を漏らして、アルフレートにお茶の支度を頼んだ。
「今日はソルジャーがお疲れですから、お菓子は甘いものをご用意して」と。
甘いものは疲れが取れると言うから、フィシスと二人でお茶を飲みながら食べた菓子。その間もフィシスは気遣ってくれた、「本当にもう大丈夫ですか?」と。
「大丈夫だよ」と「何ともないから」と、何度応えてやったろう。事実、何ともないのだから。
けれど…。
(そんなに力は使っていない筈なのに…)
何があったというわけでもない、昨日の外出。アルテメシアの様子を探りに降りただけ。
思った以上に疲れただろうか、あのくらいのことで?
知らぬ間に疲れが溜まっただろうか、寝不足にでもなっているのだろうか…?
自覚は全く無いのだけれど。きちんと眠れている筈だけれど…。
夜になって、青の間へハーレイが一日の報告をしにやって来て。
挨拶もそこそこに、報告の前に言われた言葉。
「ソルジャー、倒れられたとか」
「参ったな。君の耳にも入ったのかい?」
「ええ、フィシスから聞きました」
酷く心配していましたが…。お身体の具合が悪いのでは、と。
「大したことはないよ。今までにも無かったわけではないしね、フィシスの前で倒れたことは」
そんな時のと比べてみるなら、今日のなんかは数の内にも入らない。ただの貧血。
それより、早く報告を。…それが終わらないと、ぼくはブルーに戻れないんだ。
早くソルジャーからブルーになりたい、と促した。今日の報告を済ませてくれ、と。
ハーレイの報告が終わるのを待って、普段ははめたままの手袋を外した。
ソルジャーの衣装を構成するもの。マントと同じで、つけているのが当たり前のもの。
その手袋はハーレイの前でしか外さない。恋人同士の時間の始まりの合図。
心得たようにハーレイの顔が近付いて来たから、キスを交わして。
それから二人でお茶を楽しみ、シャワーを浴びてベッドに入ろうとしたら。ハーレイの腕に抱き締められて甘い時間を過ごそうとしたら。
「…いけません。今日はお休みにならないと」
昼間の貧血をお忘れですか?
今夜はごゆっくりお休み下さい、お身体をしっかり休めて頂かないといけませんから。
お側についておりますから、と添い寝だけで済まされてしまった夜。愛し合えずに終わった夜。
物足りない気もするのだけれども、それもたまには心地よい。
ハーレイの優しい温もりに包まれ、腕の中で眠るだけの夜。
そう思ったのに。
(また…?)
クラリ、と揺れた気がする視界。
あれから数日、公園で子供たちと一緒に遊んでいた時。
ほんの一瞬、感じた足元の頼りなさ。とはいえ、今度は倒れなかった。少し身体が傾いだ程度。
顔を上げれば、ブリッジの端からハーレイがこちらを見ていたから。
なんでもないよ、と手を振っておいた。
ハーレイは息抜きをしていたのだろう、ブリッジから公園を見下ろしながら。
休憩室へと出掛ける代わりに。好きなコーヒーを飲みにゆく代わりに。
恋人の自分が公園に居るから、きっと見ていてくれたのだ。休憩室に行くより、コーヒーを飲むより、恋人の姿を追っていたい、と。
そう思うと悪い気持ちはしない。愛されている、と頬が緩みそうになる。
子供たちのいる場では手を振ることしか出来ないけれども、あそこに自分の恋人がいる、と。
夜を迎えて、青の間に報告に来たハーレイ。
先日と同じで、挨拶が済むと報告を始める代わりに口にした言葉。
「ソルジャー、お加減が悪くていらっしゃるのでは?」
「何故だい?」
「昼間、公園で…」
ふらついておられたように思うのですが。子供たちと遊んでらっしゃった時に。
「ああ、あれかい? なんでもないよ」
少し眩暈がしただけだから。この前みたいに倒れてはいないし、ほんの一瞬だけだったからね。
大丈夫だよ、と手袋を外したのに。
報告を終わらせて恋人同士の二人に戻ろう、と合図したのに、ハーレイは厳しい顔をした。また添い寝だけで終わってしまった、二人一緒に眠っているのに愛を交わせずに。
二度も続くと嬉しくないから。
期待外れな気持ちの方が大きくて、添い寝を素直に喜べないから。
(気を付けよう…)
少し疲れているかもしれない、自分でも気付かない内に。
疲れるようなことをしていた自覚は全く無いけれど。
(…自覚があったら疲れないか…)
きっと何処かに原因が、と暫くは自重しようと思った。
船の外に出るなら、早めに戻る。のんびり景色を楽しんだりせずに、用が済めば直ぐに。
そうして気を付けていたというのに…。
頻繁に起こし始めた眩暈。
時も所も選ばなかった。青の間だったり、公園だったり、通路だったり。
フィシスの前でも何度も起こした、その度に口止めしておいたけれど。
「ぼくがハーレイに叱られるからね」と、知らせないよう言い含めたけれど。
何処でも起こしてしまうものだから、ハーレイにもついに気付かれた。今のブルーは体調不良の最たるもので、「大丈夫」は信用できないと。
自分が見ただけでも何度目なのか、と怖い顔をして叱られた。大丈夫ではないだろう、と。
「ノルディの診察を受けて下さい」
それで結果が問題無ければ、大丈夫だと私も安心出来ます。
問題があるなら、お嫌でも治療を受けて頂かないと。大切なお身体なのですから。
「うん…」
分かったよ、君がそこまで言うのなら。
…それに眩暈を起こした日の夜は、添い寝しかしてくれないんだし…。
明日、メディカル・ルームに行ってくるよ。それで安心なんだろ、君は?
渋々受けた医療チェック。
成人検査の機械を連想させる医療機器の数々は好きではないけれど。
検査のためにと血を採られるのも、アルタミラの研究所を思い出させるから嫌なのだけれど。
それでも一度だけなのだから、と我慢してチェックを済ませたのに。
「…え?」
ノルディの言葉の意味が掴めず、訊き返したら。
「定期的に、と申し上げました。一度だけでは分かりかねます」
ソルジャーは日頃、こういった検査を酷く嫌ってらっしゃいますから…。
お嫌いなことは充分承知しておりますが、継続的なデータが必要です。暫く通って頂きます。
次は一週間後においで下さい、と検査の告知。
そうして何度も検査を続けた、一週間ごとに。けれども検査と診察ばかりで貰えない薬。
眩暈の原因は貧血だろうと思ったけれども、そちらもあまり良くならないし…。
(検査と診察で余計に疲れるんだ…)
心身に負担がかかっているのだ、と溜息をついた。精神的な疲労が溜まっているに違いないと。
だから治らない、突発的に起こす貧血。ミュウは精神の不調が身体に現れやすいから。
(…ストレスは悪いに決まっているのに…)
なのに検査と診察の日々が続くのだろうか、と不満で一杯になって来たある日。
いつもの検査と診察の後でノルディに呼ばれた。
こちらへ、と。
メディカル・ルームの一角に設けられている小さな一室。
中の様子を窺えないようにした、カウンセリング用の小部屋。
部屋の存在は知っていたけれど、患者として入ったことは無かった。
ノルディが扉に施錠する間に周りを見回し、向かい合って椅子に腰掛けるなり尋ねてみた。
「ぼくは心の問題なのかい?」
この部屋に案内するなんて。…此処はカウンセリング用の部屋だろう?
「…そうとも言えます。心のケアが必要ですので」
「どういう意味だい?」
心因性のものだと言うなら、この定期的な検査を止めてくれるだけでも変わってくるよ。
正直な所、ぼくは相当参っているんだ。…そろそろ解放してくれないかな?
「いえ。…大変申し上げにくいのですが、実はソルジャーのお身体は…」
衰えつつあります、と宣告された。
確実に死へと向かいつつあると、あと二十年も持たないだろう、と。
「二十年…。あと二十年でぼくは死ぬと?」
「はい。あるいは十年かもしれません。こればかりは今の時点では…」
分かりかねます、データが充分ではありませんから。けれども、延びることはありません。
ソルジャーに残されたお時間は、長く持っても二十年です。
「…そんなに悪いデータなのかい?」
「ええ。…必要ならば詳しく御説明させて頂きますが」
ご覧下さい、とノルディが取り出したデータ。今日までの検査で得られたデータ。
細胞レベルで進行しつつある老化。滅びに向かって。
外見の年齢を止めているから、外からは全く分からないだけ。
死にゆこうとしているブルーの肉体。持って二十年、十年かもしれない寿命の残り。
ノルディは他言しないと言ったけれども。
見た目で気付かれるほどには死は近くないし、知れれば船はパニックだから、と。
それからノルディと何を話したか、心のケアとやらをして貰ったかの記憶は無い。
眩暈を起こしているわけでもないのに、ふらついた足。真っ直ぐに歩けなかった足。
他の仲間に出会わないよう、人通りが少ない通路を通って戻った青の間。
まだふらつく足でスロープを上り、ベッドにドサリと倒れ込んだ。
(ぼくが死ぬ…)
あと二十年で尽きると言われた命。
たったの二十年、それだけしか残っていないらしい命。下手をすれば十年で消えてしまう命。
それよりも短いことも有り得る、なにしろデータが無いのだから。
人類よりも遥かに寿命の長いミュウの老化を詳しく調べたデータなどは無い。この船で暮らして先に逝った者たちのデータだけが頼り、けれども老衰で死んだ仲間はただの一人もいない。
つまりは参考データが無いということ、死の国へ旅立った仲間が遺したデータだけしか。
滅びへと向かう肉体のデータが残ってはいても、ブルーの命の残りを正確に読み取れはしない。
二十年なのか、十年なのか。もしかしたら、僅か数年しか残っていないのか。
(ぼくが死んだら…)
船はなんとかなるだろうけれど。
新しい仲間の救出は専門の潜入班がこなしているから、今後も続けられる筈。
人類側との戦闘にしても、本格的なものは一度も無かった。アルテメシアに来る前も、後も。
外へ出した小型艇が身元不明の船として追われて逃げた程度で、威嚇射撃をされただけ。人類はミュウの船だと気付いてはおらず、社会の秩序から外れて生きる海賊の類と思っただろう。
それゆえに深追いされることもなく、シャングリラは未だに存在自体を知られてはいない。
今まで通りの生活を続けてゆこうというなら、自分が死んでも船は守れる。
威嚇射撃をされた船の救助に、生身で飛び出せる者がいなくなるというだけのこと。安全確実に救い出すことは難しくなってしまうけれども、応援の船を出せば解決出来る筈。
そういった訓練も積んで来たのだし、速やかに移行できるだろう。
このシャングリラの未来は守れる、自分が死んでしまった後も。
ただ…。
(地球へは…)
シャングリラは行けなくなるかもしれない。
未だ座標も掴めない地球。其処へ旅立つ準備は始まっておらず、何の用意も出来てはいない。
白い鯨はアルテメシアの雲海から外へと出られないままで、地球へは向かえないかもしれない。
シャングリラでさえも、そうなのだから。
この船でさえも、今のままでは地球へ行けそうもないのだから。
(…ぼくは行けない…)
青い地球には辿り着けない、あれほどに焦がれ続けた星に。
地球が見たくてフィシスを船まで連れて来たほどに、本物の地球に着く日を夢見て来たのに。
その地球に行けない、とても着けない。
辿り着くどころか、旅立つよりも前に尽きてしまう命。消えてしまう自分の命の灯火。
それに…。
(ハーレイ…)
アルタミラを脱出したその日から一緒だったハーレイ、今は恋人同士のハーレイ。
いつまでも一緒だと思っていた。二人で地球まで行けるものだと信じていた。
けれども、それは叶わなくなった。
自分の命が尽きると言うなら、その時がハーレイとの永遠の別れ。
死の国に向かう自分はハーレイと引き裂かれてしまい、離れてしまう。会えなくなってしまう。
どんなにハーレイを求めようとも、会いたいと泣いて泣き叫ぼうとも、もう会えない。
自分が死んでしまったなら。死者の世界へ引き込まれたなら。
(…ハーレイと会えなくなるなんて…)
想像したことさえも無かった、ハーレイとの仲が終わる日など。
何処までも二人で共にゆくのだと、いつも二人だと思っていたのに。
まさか自分が先に逝くなど、死神の大鎌が振り下ろされてハーレイとの絆を切ってしまうなど、本当にただの一度も考えさえもしなくて、ハーレイとの恋に、幸せに、酔っていたのに…。
(……ハーレイ……)
会えなくなる。いつか会えなくなってしまう。
二十年先か、十年先か。もっと早くに訪れるかもしれない別れ。
涙で世界がぼやけ始めた、まるでその日が来たかのように。
こうして薄れて消えてゆくのだと、この世界からいなくなるのだと、全てを溶かしてしまうかのように…。
一人きりで泣いて、涙で枕を濡らし続けて。
それでも部屋付きの係が来た時は、平静な風を装った。食事も普段と変わりなく食べた。
ソルジャーとしての精神は鍛え抜かれていたから。弱さを見せてはならないから。
そうして長すぎる一日が終わり、ハーレイが報告をしに青の間に来て。
挨拶の後に、こう付け加えた。この所、一週間おきにハーレイが挨拶の続きに口にする言葉。
「今日は診察の日でらっしゃいましたね、如何でしたか?」
お身体にお変わりはありませんか、と問われた途端に崩れそうになってしまった心。保ち続けたソルジャーの貌が歪んでしまった、その瞬間。
ハッと気付いて気分を引き締め、顔だけは元に戻したけれど。
心の中はとうに涙に染まって、ハーレイも何かを感じ取ったらしく。
「ソルジャー…?」
どうなさいましたか、ご気分でも…?
「…ブルーでいい…」
ブルーと呼んでくれればいい。ソルジャーじゃなくて。…今日はそういう気分だから。
ぼくはブルーだ、と手袋を外した。恋人同士の時間が始まる合図。
ハーレイの、いや、キャプテンの報告をまだ聞き終えてはいないのに。ソルジャーとして聞いておくべき報告、それをハーレイは始めてすらもいないのに。
「…ソルジャー…?」
不審そうに顰められる眉。何事なのかと訝るハーレイ。
本当は叫び出したい気分だったけれど、それを押し止めてソルジャーとしての言葉を紡いだ。
「このままで聞くよ、君の報告。…今日のシャングリラはどうだったんだい…?」
「…はい。ブリッジには異常ありません。機関部も特に問題は無く…」
お決まりの異常なしの報告、それに仲間たちの間で起こったことなど。会議の予定や審議すべき議題、いつもと変わりない中身だったけれど。
その報告を聞き終えるまでが長かった。上の空ではなかったけれど。ソルジャーとして全て頭に入れはしたけれど、それはソルジャーだったから。長くソルジャーとして立っていたから。
「以上です」とハーレイが一礼した途端に零れた涙。
ただのブルーに戻った瞬間。
「ソルジャー…!」
驚き慌てるハーレイに「ブルーだよ…」と返すのが精一杯で。
とめどなく零れ始めた涙。もう止められなくなってしまった、心に溢れていた涙。心から瞳へと堰を切って流れ、何を言えばいいのかも分からなくて。
「どうなさったのです?」
何か悲しい出来事でも…、と訊かれたから。ハーレイが糸口を作ったから。
「ごめん、ハーレイ…。泣いちゃって、ごめん。でも…。ぼくの命は…」
もう持たないんだよ、地球に着くまで。持って二十年、それだけしか残っていないんだよ。
十年ほどかもしれない、って…。
「そんな…!」
ハーレイは絶句し、ブルーを胸へと抱き込んだ。強い両腕で、広い胸へと。
その胸に縋り付き、泣くしかなくて。
泣きじゃくるだけのブルーの姿に、ハーレイがその背を撫でながら訊いた。
「…何か聞き間違えてはおられませんか? ノルディから報告は来ておりませんが…」
キャプテンの私が知らないからには、ノルディなりの警告だったとか…。
無茶をなさるとそうなりますよ、と脅されたのではありませんか?
頻繁に眩暈を起こしていらっしゃるのに、あなたは普段通りに動こうとなさいますから。
きっとそうです、とハーレイはブルーを宥めたけれど。
ノルディの脅しだったのだろうと言ったけれども、ブルーは真実を知っているから。
カウンセリング用の小部屋で告げられたことも、見せられたデータも全て嘘ではなかったから。
「…本当だよ。ノルディは誰にも話さないと…」
そう言っていたよ、ぼくに。皆がパニックに陥るから。
…ソルジャーのぼくがいなくなるなど、皆には受け入れ難いだろうから…。
「ですが、ブルー…。そうした事情でも、キャプテンの私には報告があると思いますが」
なのに私は知らないのですし、やはり脅しだと考えた方が…。
「…君にはいずれ知れると思う。折を見てノルディが話すだろう」
ゼルやブラウやヒルマンたちにも。…エラもだね。
君たちは知っておくべきだから。
シャングリラの今後のことがあるから、近い内にか、数ヶ月先か、報告はきっと届くだろう。
もしもノルディが言わないようなら、ぼくから話せと促さなければ。
この船を守り続けるためには、ぼくがいなくなった後のことまで早い間に決めておかないと。
でも…。
ソルジャーとしての責任感だけで語れた言葉はそこまでだった。
ハーレイの腕の中、言うべきことを言ってしまえば、もう本当にただのブルーに戻るだけ。
ソルジャーではないただのブルーに、ハーレイに恋をしているブルーに。
「…ハーレイ、ぼくは死んでしまう…。あと二十年か、十年くらいで」
もっと早くに死ぬかもしれない、ノルディにも正確な時期は予測できない。
だけど死ぬんだ、それだけは確か。ぼくの寿命は尽きてしまって、もうすぐ死んでいくんだよ。二度と元気になれはしなくて、その内に、いつか…。
ぼくがいなくなる、とブルーは泣いた。
このシャングリラから消えていなくなると、君と離れてしまうのだと。
辛くて悲しくてたまらない別れ。
今は抱き締めていてくれるこの強い腕も、広い胸も自分は失くしてしまう。
死の国へと連れ去られ、たった一人で消えてゆかねばならないから。
ハーレイが舵を握っている白い船から、何処とも知れない遠い世界へ一人で旅に出るのだから。
もう戻っては来られない道を独り歩いて、この世ではない場所へゆくのだから…。
「もう会えない…。ハーレイには二度と会えないんだよ…」
ぼくの命が尽きてしまったら、死んでしまったら……二度と。
ずっとハーレイと一緒なんだと思っていたのに、もうすぐ終わりが来るんだよ…。
「…いえ、ご一緒に」
「えっ?」
何を言われたのか、とブルーは赤い瞳を見開いた。ハーレイは何を言ったのかと。
泣き濡れた瞳で見上げてみれば、ハーレイの唇には笑みさえもあって。
「ご一緒に、と申し上げました。あなたを離しはいたしません」
終わりだなどと仰らないで下さい、私が決して終わらせません。
あなたの命が尽きるのだとしても、それが本当のことであったとしても。
何処までも共に、とハーレイはブルーに微笑み掛けた。
もう決めました、と。私の覚悟は決まりました、と。
「…ハーレイ、それは…」
ぼくと一緒に来てくれるのかい?
ぼくの命が尽きる時には、君も一緒に来てくれると…?
「ええ。あなたと一緒に参ります」
お一人で逝かせることはしません、必ず私も参りますとも。あなたと一緒に、何処へまでも。
あなたを決して離しはしないと誓います。何があっても離れないと。
「…でも、船は…?」
このシャングリラはどうなるんだい?
ぼくがいなくなった上に、君までも消えてしまったら…?
「この船くらいは、どうとでもなります」
今日までこうしてやって来たのです、皆で力を合わせれば乗り越えられるでしょう。
それも出来ないような船では、元から未来などありはしません。
…その基礎はあなたが作ったものです、あなたの力が無ければ何処にも無かった船です。
あなたが私を連れて行っても、誰も文句は言いますまい。
シャングリラはこのままで残るのですから、それを守るのが皆の務めというものでしょう。
違いますか、ブルー…?
ですから二人で旅に出ましょう、独りきりだなどと仰らないで。
どうか泣き止んで下さいませんか、と抱き込まれた胸。広くて逞しいハーレイの胸。
其処が何処よりも温かくて。
背を撫でてくれる手が優しくて、とても心地良くて。
(…君と二人で行けるのなら…)
命尽きた後も、ハーレイと二人、何処までも共にゆけるというなら。
頑張ってみよう、と涙が止まらないままに決意した。
自分の命は尽きるけれども、独りぼっちで旅立つわけではないのだから。ハーレイも一緒に旅に出るのだから、その旅のために準備をしよう。
ソルジャーの自分がいなくなった後も、キャプテンのハーレイを失った後も、白い鯨が迷わないように。白いシャングリラが、仲間たちが道を見失わぬように。
出来る所まで、この船のために。ミュウの仲間たちの未来のために。
それがソルジャーの務めなのだと、最後まですべき大切な役目なのだから、と。
この日から後も、何度も何度も、泣いて、ハーレイに慰められて。
フィシスが身に抱く青い地球を見ては、また涙して。
尽きてしまう命、焦がれ続けた地球をその目に映すことなく消えてしまう自分の命の灯火。
どう足掻いても死へと歩む身体を止められはせずに、日毎に衰えてゆく肉体の力。
床に臥せる日が少しずつ増え、ハーレイたちにもノルディが話した。
ソルジャーの命はもうすぐ尽きると、その日はそれほど遠くはないと。
ゼルやブラウたちは酷く驚き、信じたくない現実に涙したけれど。それでも自分たちがこの船を守らねばならぬと決意も新たに、ブルーの負担を減らす会議を早速始めた。
ブルーの命を少しでも長くと、ソルジャーの代わりに出来る仕事は何があるかと。
実際の所、ブルーが担わねばならぬ役目は無いも同然だったから。
白い鯨となったシャングリラでは、全てが上手く運んでいたから。結論としては、アルテメシアから離れなければ安全だろう、ということになった。
地球を目指すことは諦めざるを得ないが、皆の安全が第一だから、と。
そうしてシャングリラは守りの姿勢に入ったけれど。
ソルジャー不在の時代に備えて、地球へ向かう夢を封印する道が選ばれたけれど。
そんな中で床に臥せりながらも、ブルーは未来を見付け出した。
ミュウの未来を照らす光を、自分の代わりに仲間たちを導く希望の星を。
アルテメシアで養父母としての登録を済ませた夫妻に託された子供。
太陽のように輝く金髪の赤子、緑の瞳の健康なジョミー・マーキス・シン。
(…彼に託そう、ミュウの未来を)
今はまだ、人工子宮から取り出されたばかりの赤ん坊だけれど。
彼ならばきっと、自分の跡を継いでくれるだろう。ソルジャーの務めを果たせるだろう。
(…彼を迎えるまで、ぼくの命が消えずに済んだらいいのだけれど…)
そうすれば地球への道も開ける、自分の意志を、思いを伝えられたなら。
シャングリラを青い地球へと導いてくれと、ジョミーに直接、語れたならば。
(…それが出来れば、本当に…)
心残りは無いのだけれど、と思うけれども、そればかりは意のままになりはしないから。
運に任せておくよりはなくて、神に祈るしか出来ないけれど…。
(…ぼくは行けるんだよ、ハーレイと二人で)
命の灯が消えてしまっても。このシャングリラからいなくなっても。
ハーレイはシドに船を託した。次のキャプテンを密かに決めた。
だから、何処へまでも二人、共にゆける。
命尽きる時にも、ハーレイと共に。
焦がれ続けた青い地球には辿り着けなくても、ハーレイと二人で旅立とう。
白いシャングリラを離れて、遠くへ。
未だ見ぬ世界へ、目では見られぬ遠い世界へ。
もしも、その世界で飛べるのならば。
ハーレイと二人、魂となって翼を広げて飛んでゆきたい。
シャングリラよりも先に青い地球まで、夢に見続けた青い母なる星まで…。
悲しみの予兆・了
※前のブルーが「命の終わり」を悟った時。青い地球を肉眼で見られる時は来ない、と。
それよりも辛かったのが、ハーレイとの別れ。そして「共に」と言ってくれたハーレイ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ブルーの家に寄れなかった日の夜、ふと取り出してみた写真集。
夕食の後片付けをしてからコーヒーを淹れて、湯気を立てるマグカップを持って移った書斎で。
小さなブルー曰く、「ハーレイとお揃いの写真集」。
書店で見付けて一目で気に入り、小さなブルーに教えてやった。「少し高いが、懐かしい写真が沢山あるぞ」と。豪華版だから、ブルーが自分で買うには高い。父に強請って手に入れたらしい。
以来、お揃いなのだと主張している。ハーレイとお揃いの写真集だ、と。
(お揃いなあ…)
一緒に買ったわけでもないのに、とブルーの愛らしい発想に頬を緩めた。お揃いが好きな小さなブルー。食べれば無くなるものであっても、同じものを貰えば「お揃いだ」と喜ぶ。
(おふくろのマーマレードだって…)
ブルーにかかれば、お揃いの味。朝の食卓がお揃いということになるらしい。
そんなブルーが大切にしている写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。船体そのものの写真も多いが、青の間やブリッジ、公園などの内部の写真も何枚もあった。
開く度に蘇る、遠い遠い記憶。この船で過ごした前の生の自分。
熱いコーヒーを口にしながら、気まぐれにページをめくっていて。
シャングリラの内部を見て回ったり、宇宙空間を飛んでゆく姿を眺めたりしていて。
(そういえば…)
何枚も載っているシャングリラの写真。あらゆる角度から写されているし、同じ角度でも背景がまるで違っていたりと、一枚ごとに変わる表情。白い鯨の様々な姿。
どれも懐かしく、こうであったと心が温かくなるけれど。自分はこの船に乗って旅をしたのだと思うけれども、この写真集に収録された写真の中には、その頃の時代のものは無い。白い鯨の姿は同じでも、其処に自分が乗ってはいない。
何処を飛んでいるシャングリラにも。漆黒の宇宙空間であっても、惑星の側を飛んでいても。
(俺じゃないんだ…)
写真集の主役の白いシャングリラのキャプテンは。
前の自分がキャプテンだった時代のシャングリラの写真も残ってはいるが、この写真集の写真は違う。平和な時代にトォニィが撮らせた写真たち。白い鯨を後の世までも伝えるために。
そのシャングリラのキャプテンと言えば、今の時代もハーレイだけれど。
誰に訊いても「キャプテン・ハーレイ」と答えが返るだろうけれど、写真集の中を飛ぶ白い鯨のキャプテンは前の自分ではなくて。
(シドだな…)
シャングリラの舵を握っているのは。白い鯨を飛ばしているのは。
トォニィの時代を担ったキャプテン、それがシドだった。キャプテン・シド。
シドの指揮で飛んだシャングリラ。
燃え上がる地球を後に旅立ち、宇宙をあちこち回ったと聞く。ノアへも、アルテメシアへも。
キャプテン・シドが舵を握った白い船。主任操舵士は誰だか知らない。
前の自分がそうだったのと同じで、四六時中、シドが操舵したわけではない筈で。主任操舵士も誰かいた筈なのだが、全く心当たりが無かった。主任操舵士に任命されそうな者。
(多分、調べりゃ分かるんだろうが…)
データベースには入っていると思うが、調べてみても自分が知らない名前だということもある。後に乗り込んだ者であったら、まるで知りようがないのだから。
(そしてだ、次のキャプテンは…)
シドの次のキャプテンは、もういなかった。シドが最後のキャプテンとなった。白い鯨の。
トォニィがシャングリラの解体を決めた時点で、シドはまだ充分に若かったろう。その若さでは自分の後継者も多分…。
(決めてはいないな)
候補者さえも頭に無かったことだろう。脂の乗り切った時期のキャプテンには不要だから。跡を継ぐ者を選ぶ暇があったら、一人でも多く操舵を教えて、船のあれこれを教えてやって…。
前の自分でさえ、後継者などは考えてさえもいなかった。
シャングリラの操舵を教えた者は多かったけれど。万一に備えて、何人もに伝授したけれど。
そうしてはいても、決めていなかった後継者。自分の次の代のキャプテン。
(俺が地球まで運ぼうってつもりでいたからな)
白いシャングリラを青い地球まで。
ブルーを乗せて、いつかシャングリラで地球へ行こうと思っていた。
時が来たなら。青い地球がある座標を掴んで、其処へ行く準備が整ったなら。
けれど…。
(あいつの命が…)
寿命が尽きる、と泣き出したブルー。
自分の命はもうすぐ終わると、ハーレイと別れて死の世界へと旅立つのだ、と。
離れたくない、とブルーは泣いた。地球を見られないことよりも別れが辛いと、この腕の中から去らねばならないことが何よりも悲しくてたまらないと。
涙を流して胸に縋ったブルー。別れが来るのだと訴えたブルー。
とても放っておけなかった。ブルーの悲しみもそうだけれども、自分だって辛い。大切な恋人がいなくなるなど、黙って見てはいられない。
だから誓った、一緒にゆくと。ブルーの命が尽きる時には、自分も共に旅立つからと。
何度も誓って、慰めてやって。
本当にブルーを追おうと決めた。死の世界までも追ってゆこうと、ブルーと二人で逝くのだと。
(そう決めたから…)
ブルーを追おうと決意したからには必要なこと。
死ぬための薬も用意したけれど、自分がいなくなった後。
シャングリラを地球まで運べるようにと、後継者を探すことにした。自分の次のキャプテンを。
(キャプテンがいなけりゃ、船はどうにもならんしな…)
動かせるだけでは話にならないシャングリラ。船を纏めてゆける者が要る。
自分もそういう理由でキャプテンに推された、操舵など出来なかったのに。厨房で料理しながら倉庫の備品を管理していただけだというのに、適任だからと。
次のキャプテンを選ぶのであれば、年若い者にするのがいい。
若すぎるくらいで丁度いい。
ブルーを継ぐ者も、きっと若いだろうから。ソルジャーの称号を受け継ぐ者。
そういう者がいるとしたならば、だが。
今の時点では有望な者など見付かってはおらず、タイプ・ブルーはただ一人だけ。見付かるとは限らない次のソルジャー。
けれど見付かるとしたら、これから先。未来に生まれてくるだろう者。
まだ生まれてもいないソルジャーを支えるキャプテンの年は若いほどいい、息が合うように。
(誰にする…?)
操舵が出来る者は何人もいたが、一番若いのがシドだった。
責任感に溢れ、真面目な若者。彼ならばきっと、いいキャプテンになるだろう。
そうは思っても、急に後継者を育て始めたら怪しまれる。どういうつもりかと、ゼルやブラウが訝り、問い詰め始めるだろう。何を考えているのかと。
(不審がられないように継がせるならば…)
一足飛びにキャプテン候補ではなくて、その前段階。準備段階だと言い訳すること。
キャプテンの職が務まる人間を探し出すことが如何に難しいか、ゼルたちは充分承知している。今のシャングリラでは皆の役目が細分化された分、更に困難になっていることも。
(船全体を把握出来てるヤツなんぞ、何人いるんだか…)
アルテメシアに来てから加わった若い者たちの中には恐らくいない。ただの一人も。
だから育成を始めるのだ、と説明すればゼルたちも納得する筈。
今から育てておかなければと、長い時間がかかるのだからと。
(ただの操舵士とは違うんだ、と自覚して貰わなきゃいかんしなあ…)
どうするべきか、と思案を巡らせ、考え出したのが主任操舵士。
それまでは無かった役職を一つ。
操舵が出来る者は多いが、彼らの中でもトップに立つのだ、と思えば自覚も芽生えるだろう。
年若くても、一番の若手であっても、頑張らねばと。
(キャプテンの候補なんだしな?)
それらしく制服も変えねばなるまい。他の者たちと同じ制服では責任感に欠けるから。
こういう服を纏うからには相応しく振舞わなければならない、と思わせなくてはいけないから。
(服ってヤツも大切なんだ…)
自分が着ているからこそ分かる。制服が持つ力というもの。
キャプテンの制服に袖を通せば気が引き締まるし、表情までもが変わるほどで。
(かといって、皆の制服と違いすぎてもなあ…)
他のブリッジ要員たちとの兼ね合いというものがある。プレッシャーを与えすぎてもいけない。
かつて皆の制服をデザインした服飾部門のデザイン係に相談をしたら、提案された上着。制服の上から羽織る形にしてはどうか、とデザイン画も描いてくれたから。重々しすぎず、主任操舵士の肩書きに似合いそうな服に思えたから。
早速、採用することにした。このデザインでよろしく頼む、と。
主任操舵士の制服が決まれば、その採寸もせねばならないから。
自分の部屋に夜、シドを呼んだ。青の間のブルーに一日の報告に行って、「今夜は一度戻らせて頂きます」と断ってから。先に眠っていてくれていいと、来るのが遅くなりそうだから、と。
そうした夜も少なくないから、ブルーは「ご苦労様」と見送ってくれて。
キャプテンの部屋に戻って間もなく、呼ばれたシドがやって来た。
「御用ですか?」
「うむ」
入れ、と招き入れ、よくヒルマンやゼルと飲むテーブルに案内して。
飲むか、と酒を差し出した。部屋に置いている合成の酒。それとグラスを二人分。
頂きます、とは返事したものの、注がれた酒を飲まないシド。口をつけようとしないシド。
この辺りも自分の見込み通りだ、と嬉しくなった。
勧められても酒を飲まない生真面目さ。キャプテンに欠かせない資質。
しかし、それだけではまだ足りない。生真面目なだけではキャプテンになれない。皆の心を掴むためには、大らかさもまた必要だから。臨機応変、砕けた口調も場合によっては要るのだから。
それを教えてやらないと…、とシドの分のグラスを指で弾いた。飲むといい、と。
「遠慮していないで、まあ飲んでみろ」
俺の秘蔵の酒なんだ。その辺の酒とはちょっと違うぞ、合成だがな。
「お気持ちは有難く頂きますが…」
「明日の操船に差し支えるか?」
「はい」
あくまで生真面目な顔だから。酒席に似合わない顔だから。
そんなことでは話にならんぞ、と笑ってやった。いつでも素面とは限らない、と。
「今の所は平穏無事だが、人類軍の船と出くわした時に酒が入っていたらどうする」
寝酒を一杯やった後でだ、ヤツらが来ないとは限らんのだがな?
「そういうことなら、最初から飲まないことにします」
非番の時でも飲まないように心掛けます、万一ということがあるのでしたら。
「それでは人生、面白くないぞ。皆とも上手く付き合えないしな」
飲む時は大いに飲んでいいんだ、今夜の酒は俺のおごりだ。まあ飲め、美味い酒だからな。
「は、はい…。頂きます」
おっかなびっくり、飲んだシド。琥珀色の酒に「美味しいですね」と顔を綻ばせたから。
それを見届けて、「よし」と改めて切り出した。
今のは前祝いの酒なのだと。祝いのための一杯なのだ、と。
「前祝い…ですか?」
何の、と怪訝そうなシド。祝う理由など無さそうなのに、という顔をしているシド。
そうだろうな、と心で呟きつつも、穏やかに微笑んでみせて。
「主任操舵士に任命しようと思っている」
「えっ…?」
「主任操舵士だ、操舵士のトップだ」
そういう者も必要なんだ、と何気ないふりを装った。先は長いし、次の世代も育てねば、と。
「いずれはキャプテンにもなって貰わないとなあ、このシャングリラの」
「キャプテンって…。そんなに先の話ですか?」
「当たり前だろう。俺がいつからキャプテンだったと思っている」
遥かに前だぞ、この船が全く違う形をしていた頃から俺はキャプテンをやっていたんだ。
ブリッジだって今とは別物だったが、そんな時代からのキャプテン稼業だ。
お前がキャプテンになるだろう年と、俺がキャプテンを始めた年と。
比べてみりゃあ、きっと俺の方が十年単位で若いだろうな。
ゆくゆくは引退もしてみたいしな、とおどけてみせた。
第一線に立ち続けるのは年寄りにはキツイ、と。
「そう仰いますが、キャプテンはまだ…」
「ああ、当分は現役だろうさ。元気ってヤツは充分にある。だがな…」
潮時というものはあるもんだ、と誤魔化しておいた。決めた心は隠しておいた。ブルーを追って逝くのだと決めた、その決意は心に秘めたままで。
何も知らないシドに語り掛けた、「腕が鈍ることもあるだろう」と。
そんな時が来たなら現役引退、キャプテンの座を譲ることにする、と。
シャングリラを最良の状態に保つためには、鈍った腕では駄目なのだと。
「引退しても補佐はしてやる。必要だったら相談にも乗るが…」
キャプテンたる者、他人に頼って決めていたんじゃ話にならん。
必要なことは会議にかけても、いざという場面で決断するのはキャプテンだろうが。
それが出来る人材を育てておきたい、俺が元気でいる間にな。
何年かかるか分からないんだ、俺のやり方を今から勉強しておけ。俺を継ぐつもりで。
「…私にキャプテンが務まるでしょうか?」
もっと適任の者がいるのでは…。私では年も若すぎますから。
「分かっていないな、俺はその若さを買ったんだ」
先は長いと言った筈だぞ、年寄りを据えるより若者がいい。それだけ長く仕事が出来る。現役で働ける期間が長けりゃ、後継者だってゆっくり育ててゆけるしな?
俺みたいに引退なんて道も選べる、後進に道を譲って隠居生活というわけだ。
若い内から始めればこそだ、お前も未来の隠居生活を夢見て努力してくれ。
隠居生活をするというのは嘘だったけれど、他のことは本当だったから。
良心が痛むということも無くて、スラスラと嘘をつき通した。いずれ引退するのだから、と。
「いいか、少しずつ覚えていけばいいんだ、いろんなことをな」
お前は俺より恵まれているぞ、最初からブリッジ勤務だろうが。しかも操舵の担当だ。
俺なんかは厨房出身だったしなあ、最初は操舵も出来ないキャプテンだったってな。
「あの話は本当だったんですか!?」
キャプテンが厨房にいらっしゃったという話。聞いてはいますが、ただの噂かと…。
てっきり噂だとばかり思って、調べてみたことも無いのですが…。
「知らないヤツらが増えたからなあ、あの頃の俺を。そいつは噂じゃないんだ、シド」
フライパンも船も似たようなものさ、と言ってたな、俺は。
どっちも焦がしちゃ駄目だってな…、とかつての自分の気に入りの台詞を教えてやった。
そう言って船を操っていたと、シャングリラの操舵を覚えたのだと。
「フライパンですか…!」
驚きで目を丸くしているシド。
「うむ、フライパンだ。舵の前には俺はフライパンを握っていたんだ」
厨房にあるだろ、フライパンが幾つも。俺が使っていた頃のフライパンは代替わりしちまって、愛用のヤツはもう無いんだが…。フライパンも鍋も手に馴染んでたな、料理人だしな?
「本当にキャプテンがフライパンを…?」
「そうさ、キャプテンになろうと決心した時もフライパンで料理をしていたな」
新しい炒め物を試作しながら考えていたんだ、キャプテンになるかどうかをな。
考え事に気を取られていて、ウッカリ焦がすトコだった。まずい、とフライパンを振った拍子に船がガクンと揺れたんだ。…障害物でも避けたか何かだ、まるでタイミングを合わせたように。
それで閃いたわけだ、フライパンも船も似ているな、と。
どっちも扱いを間違えば焦げるし、上手に使えば命を守れる。生きて行くには船も料理も不可欠だろうが、俺たちの場合は。
船が無ければ生活出来んし、料理が無ければ飢え死にしちまう。
フライパンも船も同じなんだな、と気付かされたから、俺はキャプテンになったってわけだ。
「…キャプテンの仰る通りですね…」
フライパンも船も、どちらも欠かせないものですね。それにどちらも、焦げてしまったら駄目になりますし…。
「名文句だろ? 今じゃ言わなくなったがな。フライパンも船も理屈は同じだ」
そんな台詞を言ってた俺がだ、今じゃ厨房にいたというのが噂だと思われるレベルだぞ?
お前なら立派なキャプテンになれるさ、俺よりも遥かに凄腕のな。
フライパンの話はシドの心を見事に掴んだ。
厨房からでも転身出来たというのが大いに心強かったのだろう、頑張らねばと決意したようだ。主任操舵士としてキャプテンの仕事を学んでゆこうと、一人前のキャプテンになろうと。
この調子ならば大丈夫だろう、シドが本当のことを知らなくても。
キャプテン・ハーレイは引退する代わりに消えてしまうのだと、ブルーを追って死に赴くのだと気付かないままで過ごしていても。
ある日、自分がいなくなっても、シドならば務めを果たしてくれる。若くしてキャプテンの任に就いても、このシャングリラを地球まで運んでくれることだろう。
(これでいい…)
シャングリラの未来はシドに任せた、と肩の荷が下りたような気がした。
これでブルーを追ってゆけると、約束通りにブルーと離れることなく旅立てると。
その夜は、シドと酒を飲みながら語り合って。
頃合いを見てシドを帰して、自分は青の間に再び戻った。ブルーが待っている部屋へ。
愛おしい人はもう眠っていたから、ベッドに入って華奢な身体をそっと抱き寄せ、口付けた。
ひと仕事終えて来ましたよ、と。遅くなってしまってすみません、と。
翌日、シドと二人で服飾部門まで採寸に行った。主任操舵士の上着を作るための採寸。
白いシャングリラに一人しかいない、主任操舵士。一人だけしか着ない上着を作るために。
そして替えの分も含めて上着が出来上がって。
主任操舵士という役職を作ると、将来のキャプテン候補なのだと、ゼルたちにも既に話は通してあったから。
ブリッジの仲間たちを非番の者まで呼び集めてから、シドを自分の隣に立たせて宣言した。
主任操舵士の就任を。いつかはシドがキャプテンになる日が来るだろう、と。
それからシドに上着を着せ掛けてやった、完成したばかりの主任操舵士の制服を。
キャプテン手ずから着せて貰って、緊張しながらも頬を紅潮させたシド。
祝いの雰囲気が溢れたブリッジ。
シドは主任操舵士となって初めての操舵を難なくこなした。上着は邪魔にはならなかった。服飾部門の者たちの仕事は確かなもので、デザインも良いものであったから。
主任操舵士の誕生に華やぐブリッジ、他の部署からも仲間たちが祝いに顔を出した。
ブルーも後から祝いの言葉をシドに贈りにやって来た。
「おめでとう」と、それは嬉しそうに。
今まで以上にハーレイの助けになって欲しいと、キャプテンは激務なのだから、と。
ブルーでさえも信じたキャプテン候補。シドを育成する理由。
もうバレはしない、と確信した。誰も自分の真の目的に気付きはしないと。
シャングリラに主任操舵士が生まれた日の夜、青の間で一日の報告をした後、ブルーに告げた。
これで準備は整いました、と。
「準備…?」
不思議そうに首を傾げたブルー。今の報告では何も気付かなかったけれど、と。
「あなたと行くための準備ですよ」
「…何の話だい?」
行くって、何処へ…?
明日は視察の予定があるとは聞いていないけれど…。もっと先かな、何日か先の予定なのかな?
「そうですね。…いつになるかは分かりませんが…」
あなた次第と申し上げればいいのでしょうか?
シドは私の後継者です。このシャングリラから私が消えたら、シドがキャプテンになるのです。
…お分かりですか?
私はあなたと共に参ります、キャプテンの仕事をシドに任せて。
いつかあなたの命が尽きたら、私も一緒に行くのですよ。あなたの側を離れることなく。
ハッと息を飲んで顔色を変えたブルーだけれど。
赤い瞳がみるみる潤んだけれども、唇から零れた「ありがとう」という小さな声。
これでハーレイと一緒に行ける、と。
「ええ、何処まででもご一緒させて頂きますとも」
そのためにシドを選びました、とブルーの身体を強く抱き締めた。
誰一人気付いていないけれども、シャングリラを託す準備をしました、と。シドならばきっと、遠い地球までシャングリラを運んでくれるでしょう、と。
「うん…。そうだね、ハーレイ。…シドならば、きっと…」
ぼくとハーレイがいなくなっても、シャングリラをきちんと守り続けてくれるだろうね。
人類軍の船に見付からないよう、見付かっても上手く躱せるように。
この船はきっと地球まで行けるね、キャプテン・シドが運んで行ってくれるんだね…。
ぼくは地球へは行けないけれど。
ハーレイと二人で、別の世界へ行くんだけれど…。
二人で行こう、と交わした口付け。何処までも共に、と。
(なのに、あいつは…)
逝っちまったんだ、と唇を噛んだ。
自分がシドを選んだように、ブルーが選んだ後継者。太陽のようだった少年、ジョミー。
彼にソルジャーの座を譲るだけでなく、彼の未来を守って逝った。
ミュウの未来を、ミュウを導けとジョミーに全てを託して、メギドで。たった一人きりで。
ブルーを追ってはゆけなかった自分。
追ってゆく代わりに取り残された。独りぼっちでシャングリラに。
ブルーが遺した言葉に縛られ、ジョミーを支えるためにだけ生きた。
心はとうに死んでいたのに、ブルーを失くして屍のようになっていたのに、キャプテンとして。
キャプテン・シドは生まれてはくれず、キャプテン・ハーレイの代が続いた。
死の星だった地球に辿り着くまで、地球の地の底で全てが終わってしまうまで。
赤いナスカが砕けたあの日に、追えずに失くしてしまったブルー。
周到に準備をしたというのに、自分を置いて逝ってしまったブルー。
どれほどに辛く苦しい日々だったろうか、地球までの道は。
自分の代わりはいるというのに、そのためにシドを育てていたのに、任命出来ずにキャプテンのままで地球まで行った。シドをキャプテンには出来なかった。
ブルーがそれを望んだから。キャプテンでいてくれと願ったから。
(…俺はジョミーの時代に役立つキャプテン候補を選んだのに…)
ブルーの跡を継ぐ者がいるなら、それに相応しく若い者を、とシドを選んで育てたのに。
そのことをブルーは知っていたのに、自分に任せて逝ってしまった。
「ジョミーを頼む」と、「君たちが支えてやってくれ」と。
自分を選んだブルーは多分、間違ってはいなかったと思う。
地球までの道は、戦いに次ぐ戦いの道は、シドには荷が重すぎたことだろう。あそこで自分までいなくなったら、シャングリラは地球まで行けたかどうか…。
(…ジョミーやトォニィだけなら行けたんだろうが…)
他の仲間たちを乗せたあの船が無事に着けたかは分からない。
熟練のキャプテンだった自分でさえも、これでいいのかと手探りの航路だったのだから。
(…せっかくシドを育てていたのに、出番が来ないままだったよなあ…)
最後までキャプテンのままだった自分。キャプテン・ハーレイとして終わった自分。
ブルーを失くして、追ってもゆけずに独りぼっちで生きるしか無かった地球までの道。意味さえ無かったキャプテン候補。主任操舵士に任命したシド。
けれども、今はブルーがいるから。
青い地球の上に二人一緒に生まれ変わって、小さなブルーが帰って来たから。
(もういいんだ…)
ブルーとは地球で出会えたから。今度こそ二人で生きてゆけるから。
文句は言うまい、前の生でシドの出番が来なかったことについては何も。
前のブルーが遺した言葉を守って、キャプテンのままで歩んだ地球までの道の苦しさも。
(ブルーと会えればそれでいいんだ、あいつと巡り会えたんだから…)
それに、シド。前の自分が選んだシド。
シドは立派にキャプテンになったし、トォニィの補佐も見事に務めた。白いシャングリラの舵を握って宇宙をあちこち旅して回った、ミュウの時代を築くために。
キャプテン・シドは確かに居たのだ、自分が任命しなかっただけで。
白いシャングリラのブリッジには確かにキャプテン・シドが立っていた。前の自分とデザインが少し違ったキャプテンの制服をカッチリと着て。
シャングリラが役目を終えたその日まで、キャプテン・シドはブリッジに居た。
前の自分が座った席に。キャプテンだけが座れる席に。
あの日、ブルーを追おうと決めなかったら。
ブルーを追ってゆこうと決意し、シドを選ばなかったなら。
(シャングリラは暫く、キャプテン不在だったかもしれないなあ…)
キャプテンもソルジャーも、長老たちも、皆が地球で死んでしまったから。
新しいソルジャーのトォニィはいても、トォニィは身体だけが大人で精神は子供だったから。
トォニィだけではシャングリラの秩序を保てたかどうか分からない。
現に、最後のキャプテンとなったキャプテン・シド。
燃え上がる地球を後にした船で、最後のキャプテンが航海長や機関長を決めたと伝わるから。
(…シドだったからこそ、出来たんだ…)
次のキャプテンはシドなのだ、とシャングリラの誰もが知っていたから就けたキャプテンの任。反対する者は一人も無かったことだろう。
キャプテン・ハーレイがいなくなった今はシドをと、シドがキャプテンになるべきだと。
船の秩序はキャプテンがいてこそ守れるもの。キャプテンさえいれば何とかなる。慣れぬ仕事に途惑う者が多い船でも、キャプテンが毅然と立ってさえいれば。
(…キャプテン候補を決めておいて良かった…)
前の自分の選択は誤ってはいなかった。
シャングリラはキャプテン不在の船にならずに、無事にトォニィの代に継がれた。
そういうつもりで選んだわけではなかったけれど。
シドをキャプテン候補に決めた理由は、トォニィのためではなかったけれど。
(キャプテン・シドか…)
いいキャプテンになってくれた、と冷めたコーヒーの残りを飲み干した。
ブルーとお揃いの白いシャングリラの写真集。
それをパタリと閉じ、表紙に刷られたシャングリラに見入る。
キャプテン・シドが乗っている船に、キャプテン・シドが舵を握っている船に。
(…うん、シドが動かしているシャングリラなんだ…)
明日は仕事を早めに終わらせ、ブルーの家に寄って話してやろう。
お揃いだという写真集を持って来させて、二人で開いて。
「このシャングリラはシドが舵を握っているんだよな」と。
前のブルーを追うために決めたキャプテン候補が、主任操舵士に選ばれたシドが。
キャプテン・シドには会えなかったけれど、遥かな時の彼方の彼に向かって伝えてやりたい。
シャングリラをよくぞ守ってくれたと、お前は立派なキャプテンだった、と…。
船を継ぐ者・了
※ハーレイが選んだ後継者、シド。本当の理由は誰にも明かさず、キャプテン候補として。
引継ぎは出来ずに終わりましたが、選んでおいた価値はあったのです。次の世代のために。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(いいな…)
羨ましいな、とブルーは小さな溜息をついた。
学校から帰って、おやつの時間の最中だけれど。羨ましいものはお菓子などとは全く違った。
帰り道に出会った微笑ましい光景。バス停から家まで歩く途中で見たキャッチボール。
下の学校に通う男の子、確か二年生か三年生。その子と、ブルーも顔馴染みの父親。その二人がキャッチボールをしていた、家の前の道路で楽しそうに。
今日は父親の仕事が休みで、遊ぶ時間が取れたのだろう。親子で仲良くボール遊び。
それが羨ましいと思ってしまう。ボールのやり取り、点数などとは関係無しに。
(ぼくもハーレイと…)
あんな風に遊んでみたい、という気になった。遊ぶ親子を見ていたら。飛んでゆくボールや弾むボールを眺めていたら。
ボールを使ったコミュニケーション、投げて、受け止めて、受け止め損ねて笑い合って。
父とではなくて、ハーレイとボール遊びをしてみたい。さっきの親子がしていたように。
キャッチボールもいいし、サッカーだって。
大勢でボールを奪い合うサッカーは疲れるけれども、一対一なら、きっと楽しい。そう思える。ハーレイは手加減してくれそうだし、ボールの扱いも上手そうだから。
(明日はサッカーする子だって…)
いるんだけどな、と壁のカレンダーに目を遣った。
今日は金曜、明日は土曜日。学校も仕事も休みの週末、父親と遊ぶ予定の友人も少なくはない。現に一人はサッカーだと言った、近くに住んでいる従兄弟たちも一緒にサッカーだと。
(近所の公園でやるんだぜ、って…)
チームの人数は少ないけれども、父や従兄弟や叔父たちとサッカー、頑張るんだと声を弾ませていた友人。試合の後には家に帰ってバーベキューだとも。
バスケットボールを父に教わるという友人もいた。家の庭に作って貰ったゴールを目指して父と練習、教える父は学生時代にバスケットボールのクラブに所属していたから、と。
(ボール遊び…)
明日は友人の他にも多くの同級生たちがやるのだろう。父親と遊ぶ予定の子も何人も。
(ぼくだって…)
幼い頃には父とボールで遊んだ。生まれつき身体の弱い子ではあっても、少しくらいは。
けれども学校の友人たちがやるような激しい遊びはとても出来なくて、ほんの真似事。サッカーボールは蹴ると言うより転がす程度で、それを追い掛けて遊んでいた。庭の芝生で。
キャッチボールもして貰ったけれど、ボールが行き交う距離は短く、すぐに休憩時間になった。何度か投げたら、キャッチ出来たら「休もうか」と。
(あんまり頑張ると疲れちゃうから、って…)
サッカーも、それにキャッチボールも、満喫する前に「このくらいにしよう」と父が宣言した。ボール遊びは終わってしまって、家の中へと促された。
半時間も遊んでいなかったろうか、それでもはしゃいで熱を出すことが多かった。父は加減していたのだけれども、ブルーは全力だったから。身体中でボールを追っていたから。
幼かった頃には熱を出そうが、懲りずに父にボール遊びを強請ったけれど。
分別というものが身に付いて来たら、ボール遊びと発熱の関係も分かってくるから、無理を言うことも少なくなって。
自然とやらなくなってしまった、庭での父とのボール遊び。
(それをハーレイとやろうだなんて…)
絶対に無理、と首を振った。
ハーレイが手加減してくれていても、きっと自分には強すぎる。投げられるボールが、ボールの飛んで来る強さが。
第一、ボールを持ってはいない。遊ばないから、家には一つも。
(でも、ボール遊び…)
やってみたい、と心で思い描く。
幼い頃に父とやっていたように、ハーレイと二人でボール遊びを。
(キャッチボールでもいいし、サッカーだって…)
うんと遅めに投げて貰えば、キャッチボールも出来そうで。転がすだけならサッカーだって。
出来たらいいな、と思うけれども、自分の家には無いボール。
ハーレイの家には大勢の生徒が遊びに行くから、持っているかもしれないけれど。庭でボールを使って遊ぼう、と置いているかもしれないけれど。
(頼んだら持って来てくれそうなんだけど…)
出来るだろうか、ハーレイと何かボール遊びが。
今までに一度もしていないけれど、ハーレイは付き合ってくれるだろうか?
柔道だの水泳だのをやる子たちとはまるで違って、弱々しい自分とのボール遊び。家にボールを持っていたとしても、持って来た上で手加減してまで、我儘に付き合ってくれるのだろうか…?
自分の部屋に戻った後にも考え込んでいたら、チャイムが鳴った。
ボール遊びをしてみたくなった、そのハーレイがやって来たから。仕事帰りに訪ねて来たから、ついつい口から零れた言葉。テーブルを挟んで向かい合わせで座った途端に。
「…ボール遊び…」
「はあ?」
怪訝そうな顔になったハーレイ。
「ボール遊びがどうかしたのか?」と尋ねられたから、学校の帰りに見かけた親子の話をした。キャッチボールをしていた親子。とても羨ましかったのだ、と。
それに友人たちの明日のボール遊びの予定も話した、幼い頃には父と遊んでいたことも。
だからハーレイと何か出来たらと、ボール遊びをしてみたい、と。
「ボール遊びか…。お前、身体が弱いしなあ…」
「やっぱり駄目? ぼくの家、ボールも無いんだよ」
遊ばないから無くなってしまった、とボールが無いことも打ち明けた。ボール遊びに欠かせないボールを持っていないと、ハーレイの家にはあるだろうか、と。
「ボールなあ…。そりゃあ、無いこともないんだが…」
クソガキどもを遊ばせるんなら、庭でボールは定番だしな?
しかし、お前とボール遊びか…。そいつは思いもよらなかったな。
考えてはおく、と言ったハーレイ。
頭から駄目だと断られたわけではなかったから。
(ボール遊び…。してくれるのかな?)
キャッチボールでも、サッカーでもいい。手加減だらけで、転がるボールを拾うだけでもきっと楽しい、ハーレイとなら。ハーレイとボールで遊べるのなら。
明日の土曜日には出来るのだろうか、ボール遊びが?
(出来たらいいな…)
幼稚園児並みの扱いをされてもかまわないから。
ハーレイが転がしてくれるボールを拾うだけでも充分だから。
そして迎えた土曜日は晴れ、庭で遊ぶには最高の天気。
(ボール遊びが出来るといいのに…)
やってみたいよ、と首を長くして待つ内、訪れた待ち人。二階のブルーの部屋でハーレイが荷物から出して来たボール。サッカーボールよりも小さなボール。
「持って来てやったぞ、ご注文のボール」
「ボール遊びをしてくれるの?」
「うむ。外へは出ずにな」
「えっ?」
ボール遊びなのに、と目を丸くしたら、「お母さんたちには言っておいた」とウインクされた。心配無用だと、今日は二人でボールで遊ぼうと。
外へは出ないというボール遊び。ハーレイが手にしたボールが何かも分からない。
(バレーボールとも違うよ、あれ…)
真っ白なボール、艶のあるボール。見た目にはよく弾みそうなボール。
(何をするわけ…?)
しげしげとボールを見詰めていたら、ハーレイはボールを床へと置いた。転がらないよう、手を添えてそっと。その場に落ち着いてしまったボール。
「まあ、食っちまえ、菓子」
ついでにお茶も飲むんだな。腹が減っては戦が出来ん、と言うだろうが。
「うん…」
そう答えてはみたけれど。やはり気になる、謎のボールと外へは出ないボール遊びなるもの。
(どんなのか想像つかないんだけど…!)
けれど、お菓子を食べてしまわないと教えて貰えそうもない遊び。ボールの正体。仕方ないからフォークでケーキを口へと運んだ、ボールを横目で眺めながら。
ボールの話はして貰えないまま、それでも二人で色々話して。ケーキのお皿が綺麗に空になり、一杯目の紅茶も無くなった所でハーレイが「さて」と椅子から立ち上がった。
「そろそろ始めてみるとするかな、ボール遊びを」
お茶をおかわりする前に、とポットから二杯目の紅茶は注がず、「此処はシールド」と包まれたテーブル。ハーレイのグリーンのサイオン・カラーを纏って淡く輝くテーブル。
「シールドって…。何をするの?」
「こうするのさ」
ハーレイが手に取った、さっきのボール。床に投げられ、ポンと跳ね上がったそれをハーレイの手が叩き落として、また跳ねたのを叩くから。
「えっと…。ドリブル?」
「そう見えるか? いいか、見てろよ」
「わあ…!」
凄い、とブルーは歓声を上げた。ただのドリブルとは違っていたそれ。
床から跳ねたボールに当たらないよう、ヒョイと片足を上げて下をくぐらせたり、跳ねるまでの間に身体をクルリと一回転させて何事も無かったかのようにポンと再び叩いたり。
ボールをつきながら動くハーレイ、つく手を交差させたりもする。床で弾むボールを手で受けるけれど、叩いて床へと戻すけれども、それに合わせて様々なことをしてみせるハーレイ。
それはさながらボールと戯れているかのようで。
「なあに、それ?」
何と言う名前のスポーツなの、とブルーは尋ねた。見たこともない遊び方だから。ドリブルとはまるで違うから。
「毬つきさ」
「まりつき…?」
聞いたことさえ無い言葉。毬という単語は知っているけれど、毬つきは初めて聞く言葉。
「毬は分かるだろ、ボールだな。そいつをつくんだ、こうして叩く、と」
この辺りに日本って国があった時代の古い遊びだ、俺はおふくろに教わったんだ。
本当はこうだ、と歌がついた。下手なんだがな、と苦笑いしながら。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ…」
ボールを叩いてはクルリと回って、足の下をくぐらせたりしつつ歌うハーレイ。けして下手とは言えない歌。上手な歌。ブルーにも歌は聞き覚えがあって。
「その歌、それの歌だったの?」
古い歌だっていうのは知っていたけど、えーっと、毬つき? それに使う歌?
「そうだ、本当はな。毬つきに使うから手毬唄と言うんだ」
他にも色々あるんだが…。おふくろは幾つも歌えるんだが…。
俺はこいつしか覚えてないなあ、歌よりも技の練習の方に夢中になっていたからな。
やってみるか、と渡されたボール。ハーレイが意のままに操っていたボール。
白いボールをポンとついてみて、床で弾んで戻って来たのを、またポンと床へ戻してやって。
「よし、その調子だ。基礎はきちんと出来るようだな」
そこで片足、と合図されたから、右足を上げてみたけれど。ボールはその足をくぐる代わりに、足にぶつかって別の方へと飛んでしまった。もちろん追い掛けて叩けはしないし、好きにポンポン跳ねて転がってしまったボール。壁に当たってコロコロと。
「…失敗しちゃった…」
ボールを拾って元の位置に戻ると、「コツが要るんだ」と教えられた。ボールが跳ね返るまでの時間を見定め、それに合わせて足を上げろ、と。
理屈は理解できるけれども、上手くいかないのが毬つきで。
「違うな、手本を見せてやるからよく見ておけよ?」
こうだ、とハーレイにかかれば何でもないこと、ボールを足にくぐらせること。あんな風に、と返して貰ったボールに挑戦してみるけれど。
(今かな?)
これで出来る筈、と足を上げてもぶつかるボール。くぐってくれずに足に当たるボール。
上手く出来ない毬つきの基本らしい技。足の下をくぐってくれないボール。
ブルーがせっせと頑張っていたら、「一休みしろ」と解かれたテーブルのシールド。あらぬ方へ飛んだボールがカップやお皿を割らないように、とハーレイが張っていたシールド。
そのテーブルを挟んで座って、お茶のおかわりをカップに注いでハーレイの昔話を聞いた。今はまだブルーは遊びに行けない、隣町のハーレイが育った家。庭に大きな夏ミカンの木があると聞く家。その家でハーレイが母に習った毬つきの話。
「おふくろは昔の遊びも好きなんだ。毬つきもその中の一つだな」
ガキだった頃の俺には曲芸みたいに見えたんだ。覚えてやろう、と頑張ってたなあ、おふくろは笑っていたけどな。元は女の子の遊びなのに、と、そりゃあ可笑しそうに。
「女の子の遊びだったんだ…」
「うむ。男の方は同じ毬なら蹴鞠だ、蹴鞠」
「蹴鞠?」
「毬を蹴るんだ、しかし地面に落としちゃいかん。落とさないように蹴り続けるのさ」
こう輪になって、と聞かされた蹴鞠は毬つきよりも遥かに難しそうだった。蹴り上げられた毬が自分の所へ落ちて来たなら、地面につく前に上へと蹴る。次の人へとパスを送る蹴鞠。
(…毬つきの方がよっぽど簡単…)
一人で練習すればいいのだし、遊ぶ時にも一人だけ。自分のペースで遊べる毬つき、他の人からパスされはしない。それに何より、ハーレイに習った。ハーレイに教えて貰った毬つき。
古い遊びでも、女の子向けの遊びであってもかまわない。ハーレイと同じ技を持てるのならば。
「毬つき、ぼくも上手になりたいな…」
ハーレイがやってるみたいに、上手に。足の下をくぐらせるだけじゃなくって、他にも色々。
「ふうむ…。お前にピッタリのボール遊びかもしれんな、毬つきってヤツは」
「なんで?」
どうしてぼくにピッタリだって言うの、ちっとも上手に出来ないのに。
「そこだ、上手に出来ないって所だ。毬つきはサイオン抜きでやるのが決まりだからな」
サイオンを使っちまえば、俺がやってたような技だって誰でも出来る。毬の動きを操れるしな。しかし、そいつは反則ってヤツで、毬つきはサイオンを使っちゃいかん。
つまりだ、お前みたいにサイオンが不器用なヤツでも、頑張り次第で上手に出来る、と。
「そっか…」
ぼくだとズルをしたくなっても、サイオン、上手く使えないしね…。
練習さえすれば、サイオンが使える人よりも上手に毬つき出来るかもしれないんだね。
頑張れば自分だってハーレイのように毬つき出来る筈、と休憩を挟んで、また毬つき。
白いボールと格闘する間、ハーレイはテーブルにシールドを張っていてくれた。それに毬つきの手本も何度も見せてくれたし、「今だ」とタイミングも声で知らせてくれた。
「休めよ」と言うのも忘れずに。少し休めと、椅子に座れと。
そうして二人で練習する内、母が運んで来た昼食。「上手になった?」と微笑んだ母。
昼食を食べる間は毬つきは休憩、食後のお茶が運ばれて来るまで休んだけれど。
「ハーレイ、毬つき、またやろうよ」
もうたっぷりと休んだから。一時間くらいは休んでいたから、さっきの続き。
「疲れちまうぞ。お前、俺が来てからずっと毬つきばかりだろうが」
休む時間を取らせてはいるが、やりすぎはいかん。おやつを食べてからにしておけ。
「でも、覚えたいよ…!」
休みすぎたら勘が狂うよ、ぼくは覚えていないんだから!
足の下をヒョイとくぐらせるヤツ、まだ一回も出来ていないんだから…!
あれを覚えるまで練習させて、とハーレイにせがんで、頑張って。
続け過ぎると疲れるぞ、と渋るハーレイに「じゃあ、歌に合わせてつく練習」と言い訳をして、足は上げずにボールだけをついた。ボールが床から戻って来る時間を掴めるように。
「あんたがたどこさ、肥後さ…」
そう歌いながらボールをついたり、足の下をくぐらせる練習をしたり。
午後のおやつを母が運んで来るまで、休み休みで頑張った毬つき。歌に合わせてつく方は上手になったけれども、くぐらせられない足の下。
おやつを食べ終えて、またやろうとしたら、「そのくらいにしておけ」と止められたけれど。
「もうちょっと…!」
あと少しだけ頑張れば出来そうなんだよ、もうちょっとだけ…!
結局、何度も休憩をさせられながらも、夕食前まで続けた練習。
なんとかボールは足の下をくぐってくれるようにはなったけれども。
「…持って帰っちゃうの?」
ボール、とブルーは帰り支度を始めたハーレイの手元を見詰めた。白いボールは荷物の中。出て来た時とは逆のコースで入れられてしまった、荷物の中へと。
「置いて帰ったら、お前、絶対、無理するからな」
一人で練習なんかしてみろ、夢中になって時計なんか見ないに決まってる。
俺がついてても「もうちょっと」ばかり言っていたんだ、見てなきゃ無茶な練習をする。
そうならないように持って帰るさ、ボールが無ければどうにもならんし。
「また明日な」と手を振ったハーレイと一緒に帰って行ってしまったボール。練習したくても、ブルーの家には無いボール。
仕方がないから、あの歌を歌うことにした。毬つきの歌を。
「あんたがたどこさ…」
歌に合わせてボールをついているつもりで上げてみた足。このタイミングならば、ボールは足に当たることなく上手にくぐってくれただろう。
(うん、こうやって練習すれば…!)
ボールが無くても、弾む姿は覚えているから。本物のボールが跳ねていないから、どんな技でも練習出来そうな気さえしてくる。床で弾んで戻って来る前にこういう技を、と。
(クルリと回るの、やっていたよね…)
弾むボールに背を向けるようにクルリと回転、そんな技さえ今なら出来る。ポンと叩いて、幻のボールが弾む間に身体をクルリと、ハーレイがやっていたように。
(こうして練習しておけば…)
明日は上手につけるだろう。足をくぐらせる技を復習したなら、その次はこれ。
(きっとハーレイ、ビックリするよ)
頑張らなくちゃ、と幻のボールを何度も何度もつき続けた。母に「お風呂よ」と呼ばれるまで。お風呂に入ってパジャマを着た後も、ベッドに入る時間になるまで、何度も何度も。
満足するまで練習してからベッドに入ったブルーだけれど。
心地良い疲れに引き込まれるように、ぐっすり朝まで眠ったのだけれど。
日曜日の朝、目覚ましの音で目を覚まして起きようとした途端。
(えっ…?)
クラリと軽い眩暈が襲った。枕に逆戻りしてしまった頭。
一瞬だったから、天井が回りはしないけど。身体も重くはなかったけれど。
(いけない…!)
昨夜、頑張り過ぎた毬つき。幻のボールで続けた練習。
そうならないよう、ハーレイはボールを持って帰って行ったというのに。「無茶をしそうだ」と言われていたのに、本当に無茶をした自分。ありもしないボールをついているつもりで。
(…失敗しちゃった…)
けれど眩暈はほんの一瞬、それきり起こらなかったから。
何食わぬ顔をして顔を洗って、ダイニングで朝食を食べる時にも両親には言わずに隠し通した。今日も毬つきの練習をしたいし、新しい技も試したいから。
眩暈を起こしたと告げてしまえば、母はハーレイに報告するに決まっている。そうなれば練習はさせて貰えず、ボールに触れられもしないのだから。
幸い、二度目の眩暈は起こらず、顔色だって悪くはなくて。
もう大丈夫だと、平気なのだと思っていたのに、訪ねて来てくれたハーレイは椅子に座るなり、ブルーの顔を覗き込むと。
「毬つきの練習、今日は駄目だな」
「えっ?」
何故、とブルーは瞬きをした。新しい技にも挑みたいのに、何故駄目なのか。
「お前、具合が悪いんだろう?」
「そんなこと…!」
ない、と反論したけれど。「顔に書いてある」と指摘された。それは隠し事をしている顔だと、具合が悪いに違いないと。
「寝てなきゃいけないほどでもない。…軽い眩暈を起こしたってトコか」
「なんで分かるの!?」
「後ろめたそうな目つきだからだ。バレませんように、と俺を見ているってことは、バレたら困る何かがあるってことで…。考えてみれば直ぐに分かるさ、お前は毬つきがしたいんだしな」
具合が悪けりゃ、毬つきなんかはさせられん。そう言われるのが嫌で黙っていたんだろうが…。
この俺に嘘をつこうだなんて、チビには百年早いんだ。
前のお前の時にしたって、俺にだけはバレていたろうが。具合が悪いのに「大丈夫だよ」と嘘をついてたな、前のお前も。俺には呆気なくバレていたがな。
今日は毬つきはさせられないな、と言い渡された。
身体を動かす遊びは駄目だと、今日は大人しく過ごすようにと。
「…ボール…。ハーレイ、持って来ているんでしょ?」
ほんのちょっとだけ、触っちゃ駄目? 一回か二回、ポンとつくだけ。椅子に座って。
「ボールは持っては来ているんだが…。こういうオチだと思っていたしな」
俺が帰った後に何をしたかは知らないが…。お前のことだし、ボール無しでも何かやったな。
無茶をするなと注意したって、この有様だ。今日はボールは禁止だ、禁止。
これにしておけ、と荷物の中から出て来た小さなボール。そう見えたそれは、本物の手毬。
色とりどりの糸でかがられ、美しい模様がついた手毬で。
「手毬…?」
テーブルに置かれた手毬をブルーがまじまじと見詰めていると。
「毬つきってヤツは、元々はこういう手毬を使っていたんだ」
今じゃ手毬は毬つきと言うより、飾り物になってしまっているがな。…もっとも、そいつはSD体制が始まるよりも前の時代から既にそうだった。実用品じゃなくて飾り物だ。
同じ飾るなら凝った模様を、と色々な手毬が作られていたんだ、手間暇かけてな。
この手毬は俺のおふくろの手作りの手毬だ、こういうのを作るのも大好きだからな。
「ホント…?」
「うむ。飾りだけあって、そんなに弾みはしないんだが…」
やってみてもいいぞ、と促されたから、ブルーは手毬を床に向かって投げてみた。昨日ボールでやっていたように、跳ね返って来たらついてみようと。
それなのに弾まない手毬。床に落ちても僅かしか跳ねず、コロンと転がってしまった手毬。
「…手毬なのに跳ねてくれないの?」
床に屈んで拾い上げると、ハーレイが「うむ」と頷いた。
「さっきも言ったろ、飾り物だと。今じゃ毬つきはボールだってな」
よく弾むボールがちゃんとあるんだ、こういう跳ねない手毬よりかは断然そっちだ。
こんな手毬じゃ、出来る技も限られてくるからなあ…。
「そうだね、ハーレイがやっていた技、こういう手毬じゃ出来ないね…」
どんなに上手についていたって、毬が高くは跳ねないんだもの。
跳ねてる間にクルッと回ったりしている暇が無いよね、毬が落っこちちゃうものね…。
飾りなんだ、とブルーは手毬を観察してみた。模様も地色も糸で出来ていて、幾重にも巻かれて毬の形になっている。芯になるものはあるのだろうけれど、それを一面に取り巻いた糸。中の芯が全く見えなくなるまで重ねて巻かれた細い細い糸。
(なんだか凄い…)
どれほどの手間がかかるものなのか、どれほど根気が要るものなのか。細い糸だけで模様を描き出すなど、地色まで糸で埋め尽くすなど。
「気に入ったのか、それ? プレゼントしてやるわけにはいかんが…」
大人しくするなら、そいつを貸しておいてやる。暫くベッドに横になっておけ。
「…寝るの?」
寝なくちゃ駄目なの、ハーレイが来てくれたのに…?
「ぐっすり寝ろとは言ってないだろ、横になれと言っているだけだ。身体を休めた方がいい」
疲れすぎたんだ、昨日の毬つきを頑張り過ぎて。それと、その後の自主トレーニングだな。
明日、学校を休みたくなきゃ、しっかり疲れを取っておくんだ。
横になるだけでも違うからなあ、座っているよりその方が早く治るってな。
パジャマには着替えなくてもいいから、とベッドの方を指差された。
言われるままに横になったら、ふわりと掛けられた薄い上掛け。
「ウッカリ寝ちまうってこともあるしな、これは掛けておけ」
「…うん…」
寝たくないけど、と返したら「ほら」と置かれた手毬。枕の側に。ブルーからよく見える所に。
「眠気覚ましだ、さっき貸してやると言っただろう」
触っていてもいいし、見るだけでもいい。退屈しのぎに持っておくんだな。
もっとも、退屈している暇があるかは分からんが…。
今から昔話をしてやる、この俺の昔話だぞ?
それとも本物の昔話の方がいいのか、いわゆるお伽話ってヤツが。
「…ううん、ハーレイの昔話がいいよ」
うんと昔の話がいい。ハーレイがぼくより小さかったくらいの、うんと小さな子供の頃の。
そういう話を聞かせて欲しいな、せっかくだから。
「よしきた、俺のガキの頃だな」
柔道と水泳はやってたんだが、そういうのは抜きで話してやろう。
ネタだけは山ほど持っているんだ、武勇伝から失敗談まで、それこそ星の数ほどな。
昔々、隣町の大きな夏ミカンの木がある家に…、と始まったハーレイの語る昔話。
王子様の代わりにクソガキが主人公の物語。
(…ふふっ、クソガキ…)
ブルーの知らない今のハーレイ、出会うよりも遥かに前のハーレイ。
そのハーレイが、少年のハーレイが駆け回る姿が見える気がした、隣町の家で。夏ミカンの木がある家の庭を走って、あちこちに顔を突っ込んで回って。
毬つきの練習は家の中で母と一緒にしたという。二人並んでボールをついて。
弾むボールに猫のミーシャがじゃれついたことや、ミーシャにボールが当たったことや。
(痛かったよね、ミーシャ…。クソガキのボール)
ミーシャの尻尾に当たったボールは、ハーレイがついたらしいから。ポンと叩いて弾んだ先に、ミーシャの真っ白な尻尾があったらしいから。
暫くは御機嫌斜めだったミーシャ。ハーレイがミルクを御馳走するまで拗ねていたミーシャ。
(ハーレイがクソガキ…)
その頃のハーレイを見てみたかった、とクスクスと笑う。
毬つきの練習は出来なかったけれども、それは幸せな日曜日。
ハーレイの母が作った手毬を見ながら、触りながらクソガキの昔話を聞いている自分。
(…毬つきだけでもネタが山盛り…)
クスッと笑ってしまう話や、ミーシャが気の毒になる話。ハーレイの思い出が詰まった毬つき。
いつかまた、ハーレイと毬つきをしたい。
疲れさせてしまった、とハーレイが心配しなくても済むようになったなら。
焦らずにゆっくり練習出来るよう、同じ家で暮らすようになったなら。
そして毬つきの思い出を増やそう、今はまだ一つしか持っていないから。
昨日の分しか持っていないから、毬つきの思い出をハーレイと二人で、二人分で…。
毬つき・了
※ブルーがハーレイとやってみたくなった、ボール遊び。教えて貰った遊びは毬つき。
夢中になって練習しすぎた結果、寝込んでしまいましたけど…。それでも幸せ一杯の日。
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大好きなお風呂。ブルーはお風呂が好きでたまらない。
体調を崩してしまった時でも、熱が無ければ入ろうとするほどのお風呂好き。バスタブに入ってゆったり浸かって、寛ぎの時間。
今夜もゆっくりと身体を温め、心地良いバスタイムを楽しんだ後で、バスタオルをふわりと。
(ふふっ、幸せ…)
お日様の匂いのバスタオルが。
今日は朝から良く晴れた一日だったから。母がバスタオルも外に干して乾かしたのだろう、陽の光をたっぷり吸い込むように。ふわふわのタオルになるように。
機械でも充分乾かせるけれど、仕上がり具合は同じだけれど。
陽に当てたタオルはやっぱり違う。機械では出せない太陽の匂い、陽の光を吸うから漂う匂い。
ふわふわのフカフカに乾いたタオルは肌に気持ち良く、鼻でも感じる幸せの香り。
こういうタオルに出会えた時には、特に幸せになるけれど。いつも以上に幸せなお風呂上がりになるのだけれども、今日の幸せはもっと大きくて。
心の底から湧き上がる喜び、なんて幸せなのだろうかと。
ふわふわのタオルだと、ふかふかのタオルだと跳ねている心。弾んだ心。
バスタオルを羽織っただけだというのに。お日様の匂いの大きなタオルを一枚羽織って、水気を拭おうとしただけなのに。
(…なんで?)
何故そんな風に思ったのか。特別な気持ちになったのか。たった一枚のバスタオルで。
不思議でたまらない、お風呂上がり。
お日様の匂いのバスタオルならば、天気のいい日には必ず出会えるものなのに。母が出掛けたりしない限りは、ほぼ間違いなく出会えるのに。
(どうして今日は特別なの?)
身体を丁寧に拭いてみたけれど、分からない。ふかふかのタオルが水気を吸うだけ、濡れた肌が乾いてサッパリするだけ。お湯の温もりを残したままで。バスタブで身体を隅々まで包んだ、熱いお湯の名残を留めたままで。
拭き終わったバスタオルを専用の籠へと放り込む前に、顔だけを埋めてみたけれど。
何か分かるかとパジャマ姿でバスタオルに顔を埋めたけれども、掴めない理由。幸せの理由。
バスタオルは水気を吸ってしまって、もうフカフカではなかったから。
ふわふわの幸せも、お日様の匂いも、何処かへ消えてしまったから。
仕方ないから、湿ったバスタオルに別れを告げた。専用の籠へと放り込んで。
温まった身体で部屋に戻って、腰を下ろしたベッドの端。
パジャマだけでも寒くはないから、そのまま其処で考え事。お風呂上がりからの考え事の続き。
(バスタオル…)
どうしようもなく幸せだった。バスタオルを肩に羽織っただけで。
ふかふかのタオルが濡れた身体を包み込んだだけで。
(それはいつもと変わらないのに…)
お日様の匂いのバスタオルが気持ちいいのは、普段と同じ。幸せだけれど、当たり前のこと。
幸せなのだと感じるけれども、ふわふわでお日様の匂いだから。太陽の光を浴びたバスタオルで昼間の幸せが蘇るから。今日は天気のいい日だったと、こんな幸せな出来事があった、と。
けれども今日は違っていた。いつもの幸せとは違っていた。
もっと大きな幸福感。満ち足りた気持ちとは少し違って、身体中に幸せが広がった。
ふかふかのタオルだと、ふわふわのバスタオルに包まれたと。
自分にとっては当たり前の小さな幸せなのに。湯気を立てているホットミルクやココアを喉へと落とし込む時、ホッとするのと変わらない程度の小さな小さな幸せなのに。
なのに特別に思えた幸せ、心が弾んだほどの幸せ。
では、あの気持ちは…。
(…ぼくじゃない?)
今の自分とは違う自分が連れて来たろうか、あの幸せを?
たった一枚のバスタオルだけで、太陽の匂いのバスタオルだけで。
(今のぼくとは違うとしたら…)
それならば分かる。前の自分の記憶が心を掠めたのなら、違う幸せにも出会うだろう。
前の自分は、今の自分とは全く違った人生を生きていたのだから。
違う人生ならば幸せの記憶もまるで違うし、同じバスタオルでも見る目が異なる。
(シャングリラにはお日様、無かったしね…)
白い鯨の公園などを照らした光は人工のもので、洗濯物など干してはいない。乾かしていない。
そのせいで幸せだと思っただろうか、地球の太陽の光の匂いがするタオルだと。
(…そうなのかな?)
前の自分も太陽の光は知っていたから。白い鯨の外に出た時は、アルテメシアの太陽の日射しを浴びていたから、それが幸せの記憶なのかと考えた。
前の自分は眺めるだけしか出来なかった太陽、洗濯物を乾かすことなど出来なかった光。
きっとそうだと、そういう記憶が幸せを運んで来たのだろうと、遡ってみた前の自分の記憶。
太陽の記憶は何だったろうかと、バスタオルの幸せと繋がらないかと手繰り寄せていて…。
(アルタミラ…!)
それだ、と気付いた幸せの意味。バスタオルで感じた幸福の理由。
アルテメシアの太陽の記憶では無かった、あの幸せを連れて来たものは。バスタオルに包まれて幸福感を覚えたことの引き金、それは前の自分の辛く惨めな時代の記憶。
(…あの頃は何も無かったんだよ…)
狭い檻と幾つもの実験室。檻から引き出されて歩いた通路といったものしか無かった時代。
自分の意志では何も出来なくて、持ち物さえも何も無かった。自由に使えるものなどは無くて、心も身体も成長を止めた。
自分では意識しなかったけれど、育っても未来がありはしないから。何処までゆこうが檻の中が全て、其処から自由に外に出られはしないから。
(バスタオルなんて…)
何処にも無かった、ただの一枚も。
お日様の匂いのタオルどころか、くたびれて湿ったバスタオルさえも貰えなかった。そういった物は不要だったから。実験動物にお風呂など要りはしなくて、バスタオルも同じ。
実験や日々の暮らしで汚れてしまった身体は洗浄用の部屋で洗われた。四方八方から吹き付ける水で洗われ、それが終われば乾燥用の風が壁から吹き出した。
実験で傷ついた身体が、肌がひび割れようとも、実験動物は乾かされるだけ。
柔らかいタオルを貰えはしなくて、自分の身体を拭くことも出来ずに乾かされていた。どんなに痛くて転げ回ろうが、悲鳴を上げて蹲ろうが、乾燥用の風は止まらなかった。
実験動物に優しくしてやる必要は無いと、バスタオルも風呂も、何もかも要りはしないのだと。
あまりにも惨い時間を、日々を長く過ごしたから、研究所の檻で生きていたから。
アルタミラから脱出した直後に浴びたシャワーが嬉しかった。燃え上がり崩れゆく星を走る内に汚れてしまった身体を清めてくれたシャワーが、冷水ではなくて熱かった湯が。
それにシャワーを浴びに行く時、「ほら」と渡されたバスタオルも。
ハーレイが貰って来てくれたバスタオル。ふわりと乾いていたタオル。
「要るだろ」と褐色の手が差し出した。
シャワーを浴びるならタオルが無いと、と大きなバスタオルを渡された。これを使えと。
(あの時のタオル…)
成人検査を受けるよりも前の記憶は全て失くしてしまったけれど。
シャワーを浴びたり、バスタブに浸かったり、そうした記憶も微塵も残っていなかったけれど。
辛うじて覚えていた使い方。シャワーも、ふかふかのバスタオルも。
熱いお湯で身体中の埃を洗い流して、サッパリした後にくるまったタオル。ふかふかのタオル。乾燥用の風とは違って、身体を優しく包み込んだタオル。何の痛みも感じさせずに、ただ心地良さだけを与えてくれた。肌に残った水気を吸い取り、乾かしてくれた。
その時に感じた幸福感。ふかふかの手触りが幸せだったバスタオル。
実験動物から人になれたと、バスタオルを使える人間の世界に戻れたのだ、と。
後にシャングリラと名を変えた船に乗り込んでからは、当たり前に使えたバスタオル。
シャワーを浴びに行きたい時には一枚、いつでも自由に使って良かった。様々なものを洗濯する役目を選んだ者たちが、毎日洗ってくれていたから。洗って乾かし、所定の場所に置いたから。
そこから一枚、好きに取ってはシャワーを浴びに出掛けていた。
人間だからこそ出来た贅沢、シャワーも、それに乾かすための大きなバスタオルも。
最初の間は船に備え付けられていたバスタオルを使っていたのだけれども、人類の船から物資を奪うようになると、バスタオルの質はぐんと上がった。専用に運ぶ輸送船から失敬したから。同じ奪うなら上質なものをと、高級品を狙ったから。
そうして良いものを使っていたから、白い鯨が出来上がった後も。
(タオルはふかふか…)
青の間のタオルも、仲間たちが使ったバスタオルも。
肌触りの良いタオルに慣れたら手放せないから、作る者たちも妥協しないで本物を目指した。自給自足の船の中でも良いものは出来ると、作り出せると。
(うん、本当にふかふかだったよ…)
アルタミラから脱出した直後に使ったバスタオルも、白いシャングリラのバスタオルも。
乾いた空気をたっぷりと含んでふかふかしていた、お日様の匂いはしなかったけれど。船の中に本物の太陽は無いから、日射しは存在しなかったから。
(だけど、ふかふか…)
幸せだった、と思い出したから。あのバスタオルが幸せな日々だったのだ、と気付いたから。
明日、ハーレイに話してみようと思った。自分が見付けた幸せのことを、記憶の彼方から届いたバスタオルの幸せのことを。
明日は土曜日だから、ハーレイが訪ねて来てくれる日だから、バスタオルのことを。
忘れないよう、メモを取り出して「バスタオル」と書き、勉強机の真ん中に置いた。こうすれば朝には気が付くだろうし、忘れていても思い出せるから。
翌朝、目覚めてメモを目にして。
(バスタオルだっけね)
もう忘れない、と顔を洗いに行ったら、其処でもタオル。ふかふかの感触、お日様の匂いがするタオル。一度戻った記憶は鮮やかで、そのタオルも昨夜の幸福感を届けてくれた。
ふかふかのタオルは幸せなのだと、こうしたタオルを使える幸せな日々を自分は手に入れたと。
顔を拭いて、それから朝食を食べて。部屋の掃除を終えて待つ内に、鳴らされたチャイム。待ち人が部屋にやって来たから、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったから。
母が置いて行ってくれたお茶を飲みながら、早速、タオルの話を始めた。
「ねえ、タオルって幸せだよね。…バスタオルとか」
「はあ?」
意味が掴めていないハーレイ。怪訝そうな顔をしているハーレイ。
それはそうだろう、いきなりタオルの話では。しかも「幸せ」などと言われたのでは。
だから慌てて続きを話した。「アルタミラの後」と。
初めてシャワーを浴びに行く時、ハーレイにタオルを貰ったよ、と。
バスタオルを「ほら」と渡してくれたと、「要るだろ」と持って来てくれたと。
「ああ、あれな。…お前、ボーッとしていたからな」
シャワーの順番、もうすぐだぞ、と言ってやってもボーッとしてて…。
どうすりゃいいのか分からない、って顔をしてたから、バスタオルを貰いに行って来たんだ。
「そうだった…?」
覚えていないよ、シャワーがとっても嬉しかったことは覚えているけど…。
ハーレイがバスタオルをくれたってことも、ちゃんと覚えているんだけれど。
「そのシャワー。…バスタオルもだが、使い方から教えなくちゃいかんのかと思ったぞ、俺は」
何もかもすっかり忘れちまって、シャワーの浴び方も分からないかと…。
バスタオルの意味も分かってないかと、一瞬、本気で心配したな。
「いくらなんでも、そこまでは…。ううん、ちょっぴり危なかったかも」
シャワーの使い方、絵で書いてあったから分かったけれど…。あれが無かったら、お湯と水との切り替えなんかは気が付かなくって、頭から水を浴びていたかも…。うんと冷たいのを。
それで身体が凍えちゃっても、お湯にすればいいって知らずに最後まで浴びて。
バスタオルだって、身体を拭く代わりにくるまって震えていたかも、そういう使い方だ、って。
シャワーを浴びたら寒くなるから、暖かくなるように羽織るんだ、って。
「お前なあ…。やはり危険はあったわけだな、あの時のシャワー」
ボーッとしていただけじゃないんだな、半分、分かっていなかったんだな。
シャワーって言葉を覚えてはいても、記憶は曖昧になっていた、と。
その日の気分で熱い湯にしたり、冷たい水でスッキリしたりといった部分は忘れてたのか…。
記憶が危うくなっていたなら付き添ってやれば良かったな、とハーレイはフウと溜息をついて。
「…それで、バスタオルだかタオルだかの何処が幸せだと言うんだ、お前は?」
使い方を間違えそうだったらしいが、どの辺が幸せに繋がるんだ…?
「そっちは今のぼくとも繋がっているんだよ。ふかふかのをいつでも使えるもの」
お日様の匂いがしているタオルとか、バスタオル。ふかふかのフワフワのタオルのこと。
前のぼくもタオルを使う時には幸せな気分がしたけれど…。
今のぼくだと当たり前になってしまっているよね、ほんのちょっぴりだけの幸せ。バスタオルの使い方も危なかったような前のぼくだと、もっと幸せだったのに…。
お日様の匂いのバスタオルだったら、幸せどころか感激だろうと思うんだけど…。
「なるほどなあ…。それがタオルの幸せってヤツか、やっと分かった」
お前、青の間でも言っていたしな。ふかふかだ、って。
「やっぱり話していたんだね、ぼく。…前のぼくのタオルの幸せのこと」
「毎日ってわけではなかったがな」
たまに思い出したように話していたなあ、こういうタオルが使える毎日は幸せだ、とな。
そういや、前のお前のタオルの幸せ。
バスタオルだとかタオルだけじゃなくて、もっと他にもあったっけなあ…。
ふかふかになったタオルの幸せ。それを使える日々の幸せ。
前のブルーはバスタオルやタオルの他にも幸せを感じていた、と言われたけれど。
それが何なのか、どういったものでタオルの幸せを噛み締めていたのか、考えてみても欠片さえ思い出せなくて。何処にタオルの幸せがあったか、手掛かりさえも見付からなくて。
「…ハーレイ、それって何処にあったの? 前のぼくが言ってたタオルの幸せ」
バスタオルとかタオルじゃないなら、何処からタオルの幸せになるの…?
「ん…? タオルそのものではなくてだな…。タオル地ってヤツだ、バスローブだ」
あれはタオル地で出来ていただろ、風呂上がりにしか着ないわけだが。
「あったね、そういうバスローブ…。お風呂上がりにしか使わないから、贅沢だって?」
そう言ったのかな、前のぼく。こんなに贅沢な使い方をしているタオルだよ、って。
お風呂上がりにしか着られない服を作れる生活が出来るんだよ、って。
「いや、そうじゃなくて…。お前が幸せを感じていたのは俺のバスローブだ」
「ハーレイの…?」
普通のより多めに生地が要るからかな、ハーレイのためのバスローブだと。
うんと贅沢に作れる時代になったんだ、って眺めていたかな、前のぼくって…?
「うーむ…。その様子だと、お前、忘れたんだな。せっせと運んでくれていたのに」
「え…?」
何のことかとブルーは首を傾げたけれど。思い出せないタオルの幸せ、ハーレイのバスローブを運んだ自分。何処から何処へと運んでいたのか、何故バスローブを運んだのか。
まるで全く記憶には無くて、「どういう意味?」と尋ねてみたら。
「そのままの意味だ、前のお前がやっていたんだ。…流石にアレは隠しておけないからな」
瞬間移動で運んでくれたぞ、俺の部屋から。戻す時にも瞬間移動で。
忘れちまったか、俺のバスローブをお前が運んでいたことを?
「ああ…!」
分かった、とブルーの脳裏に蘇った記憶。
確かに自分が運んでいた。前の自分が瞬間移動で、タオル地のハーレイのバスローブを。
白いシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイと秘密の恋人同士だった頃。
毎夜のように青の間に泊まっていたハーレイ。ブルーのベッドで眠ったハーレイ。
朝まで青の間で過ごすからには、シャワーも浴びるし、バスタブにも浸かる。そうなってくると必要だったバスローブ。風呂上がりにだけ纏う、タオル地で出来たバスローブ。
バスタオルやタオルはハーレイが使っても誤魔化せたけれど。ブルーが多めに使ったらしい、と部屋付きの係は納得して洗濯しに行ったけれど。
バスローブの方はそうはいかない。数は誤魔化せてもサイズという壁が立ちはだかった。
「ハーレイのバスローブ、大きかったものね…」
「そういうこった。お前のを借りて着るってわけにはいかなかったんだ」
俺の身体には小さすぎるし、どうにもならん。
丈は短めで済ませるにしても、肩幅からして違うヤツをだ、無理に着られはしないだろうが。
大は小を兼ねるって言葉はあっても、逆の言葉は無いんだからな。
ハーレイが青の間に泊まるからには、バスローブが欠かせないのだけれど。ブルーのサイズでは役に立たないし、ハーレイ用のものを纏うしかない。シャングリラで一番サイズの大きなハーレイ用のバスローブを。
けれども、替えの下着などと同じで、ハーレイが青の間に持っては来られないバスローブ。船の中を持って歩けはしない。替えの下着やバスローブといった、明らかに泊まりのための荷物を。
だからブルーが運んでいた。瞬間移動で、バレないように。誰にも見付からないように。
ハーレイが泊まるための荷物を、大きなサイズのバスローブなどを。
「…忘れちゃってたよ、ハーレイのバスローブを運んでいたこと…」
あれも一種のタオルだよね、とハーレイを見れば「うむ」と返って来た返事。
「それでだ、お前のタオルの幸せってヤツは、運んでいたって話じゃないぞ」
お前が俺の部屋に泊まる時には、お前、俺のを使っていたろう。
大きすぎると、袖は余るし丈も長すぎると言ってはいたがだ、自分のは持って来ないんだ。
俺のヤツがいいと、これを着るんだと、いつもブカブカのを着て御機嫌だったぞ。
「そうだっけね…」
そっちもすっかり忘れちゃっていたよ、ぼくがハーレイのを着てたってこと。
とても大きなバスローブだよね、って思いながら借りていたのにね…。
大きかったハーレイのバスローブ。袖丈は余ったし、着丈もブルーには長すぎたけれど。身幅も余っていたのだけれども、幸せだった、という記憶。
ハーレイの身体の大きさを感じて、幸せに浸っていた記憶。
あのバスローブをまた着てみたい。タオル地で出来た、ハーレイのためのバスローブを。
だから…。
「ハーレイ、今もバスローブを使ってる?」
お風呂上がりには着ていたりするの、バスローブを?
「まあな。直ぐにパジャマ、って気分じゃない日はバスローブだなあ…。しかし、お前は…」
使っていそうにないなあ、チビだしな?
バスローブなんぞは着る暇も無くて、風呂上がりは直ぐにパジャマだろうが。
「うん…。バスローブなんかは持っていないよ」
でも、ハーレイが持っているなら、またハーレイのを着たいんだけど…。
ぼくには大きすぎるバスローブ、今度も着させて欲しいんだけど…。
着せてくれる? と小首を傾げたけれど。
ハーレイは首を縦には振らずに、「駄目だ」とすげなく断った。
「駄目だな、結婚するまでは駄目だ」
お前がどんなに頼み込もうが、強請っていようが、結婚するまで着せてはやれん。
「やっぱり…?」
駄目なの、ハーレイのバスローブ?
ぼくが育ってキス出来るようになっても、ハーレイの家へ行けるようになっても、バスローブは着せてくれないの…?
「当然だろうが。けじめだ、けじめ」
何度も言っているだろうが、と額を指で弾かれた。
バスローブを着るような状況を先走って作りはしないと、そういったことは結婚式を挙げるまで我慢しておけと。
まずはプロポーズでそれから婚約、ブルーが待ち望む関係になれるのは結婚してから。
何処へ行っても後ろめたい思いをせずに済むよう、正しい付き合いをしなくては、と。
「…前のぼくたちには、誰もなんにも言わなかったのに…」
けじめなんて言葉はハーレイだって一度も言わなかったよ、ぼくは一度も言われていないよ。
「そもそも誰も知らなかっただろうが、前の俺たちの関係のことは」
知られていなかったし、知らせるつもりも全く無かった。けじめも何もあるもんか。
前のお前と結婚出来ると言うんだったら、俺もあれこれ考えて動いていただろうがな。
しかし今度はそういうわけにはいかないのだから、と諭された。
いつか結婚して共に暮らそうと思うからには、そこに至る道筋を外れないように。けして前後を間違えないよう、後ろめたい気持ちにならぬように、と。
おまけに、今の互いの立場は教師と生徒。ブルーの守り役でもあるハーレイ。
そういう関係の二人だからこそ、けじめが大切。正しく、と。
「親父にも厳しく言われてるんだ。俺の顔を見たら注意するんだ、親父はな」
あんな小さい子に手を出しちゃいかんと、結婚するまで我慢しろと。
いくら将来を誓ってはいても、それとこれとは別物だってな。
「…キスしてもいいよ?」
ぼくはちっともかまわないから、キスしてくれてもいいんだけれど。
ハーレイのお父さんに言い付けやしないし、ちゃんと一生、内緒にするから。
「キスも駄目だと何度も言ってる筈だがな?」
前のお前と同じ背丈になるまでは駄目だと言った筈だが?
タオルの幸せとやらを綺麗サッパリ忘れていたついでに、そっちも忘れてしまったか、お前…?
絶対に駄目だ、と鳶色の瞳に睨まれた。キスも大きくなるまで駄目だと。
キスさえも駄目では、いつになるやら見当もつかないハーレイのバスローブを借りられる日。
ブルーの身体には大きすぎるそれを、借りて幸せに浸れる日。
ガックリと項垂れたブルーだけれども、髪をクシャリと撫でられた。伸びて来た手に。
「そうしょげるな。前のお前もお気に入りだった、俺用のでっかいバスローブだが…」
いつかお前と揃いで買えるさ、いつかはな。
「お揃い?」
「そうだ。お前、お揃いが大好きだろうが。バスローブも揃いにしようじゃないか」
前の俺たちでは、そういうわけにはいかなかったが…。
ある意味、揃いのバスローブではあったがな。シャングリラではバスローブのデザインは一種類だけで、誰でも同じのデザインだったし…。
男用のと女用の違いは胸の刺繍の色だけだったろ?
男用が水色で女用がピンクだったかなあ…。ミュウの紋章の形の刺繍。
しかし今度は色々なデザインのを選べるぞ、と微笑まれた。
サイズさえあれば気に入ったものをと、色も形も選び放題だと。
「…じゃあ、ぼくのとハーレイのと、両方のサイズがあるヤツを?」
これがいいな、と思うのがあったら、サイズは色々あるんですか、って訊いてみるわけ?
「そうさ、楽しい買い物だろう?」
お前がこれにするんだ、と思うのを選べばいい。まずは選んで、それから店員さんの出番だ。
俺のとお前の、両方のサイズがあるかどうかを調べて貰って、あったら二人で買って帰ろう。
お前の好みで選んじまって、俺にはまるで似合わなくても、俺はそいつにしておくから。
「うんっ! ハーレイと二人で買いに行くんだね」
大丈夫だよ、ぼくの好みを押し付けたりはしないから。
それよりハーレイが選ぶのがいいよ、自分に似合いそうなのを。ぼくがそっちに合わせる方。
だって、ハーレイのを借りたいんだから。
また借りて着ようと思ってるんだし、ハーレイに似合うのを選んで買おうよ、お店に出掛けて。
「ふうむ…。お前が借りて着たいと言うなら、そうなるか…」
俺の好みで選んじまってもかまわないんだな、どうせお前は俺のを借りて着たがるんだから。
…そうすると俺のは二着要るなあ、そのバスローブ。
俺が着ようと思っているのに、お前が横から持って行くんだしな…?
もっとも、脱がせりゃ済むわけなんだが、お前が俺のを着ていたとしても。
ただなあ、それだと二人揃ってバスローブを着ている時間が無いしな…。
やっぱり二着か、買う時には。…俺はすっかり忘れてそうだが、二着要るんだということを。
いつかは揃いのバスローブ。それを二人で買いに出掛ける。
だからそれまではけじめだな、と念を押されてしまったけれど。バスローブは貸してやらないと言われたけれど。
アルタミラの檻で生きていた頃には、思いもよらなかった幸福すぎる未来だから。
白いシャングリラでさえ、夢にも見なかった結婚生活だから。
文句を言っては駄目だと思うし、膨れもしない。いつか必ず、そういう未来が来るのだから。
「ねえ、ハーレイ。今度はハーレイが泊まるための荷物、運ばなくてもいいんだね」
今のぼくは瞬間移動も出来ないけれども、運べなくても大丈夫だよね?
「ああ、堂々と同じ家で暮らしているんだからな」
荷物なんかを運ぶ必要は微塵も無いなあ、家の中で移動するだけだしな?
二人一緒に暮らしてる家で、誰も文句を言いやしないさ、俺たちだけしかいないんだからな。
そんな生活だから夜も長いぞ、とパチンと片目を瞑られた。
土曜日は特に、と。いくら夜更かしをしてもいいのだから、と。
「…うん…」
意味を考えて、頬が真っ赤に染まったけれど。耳まで赤いかもしれないけれど。
今度は揃いのバスローブ。二人で選んだバスローブ。
バスタオルをふわりと身体に巻き付ける時の幸せにしても、前の生より、もっと、きっと…。
そう考えた心が零れていたのだろう。ハーレイがニヤリと笑みを浮かべた。
「うんうん、バスタオルの幸せだっけな。お前の幸せの記憶の始まり」
なんなら風呂上がりには俺が拭いてやろうか、バスタオルで?
そしてバスローブを着せてやる、と…。
お前のその日の気分に合わせて、お前のサイズのや、俺用のヤツを。
「えーっと…。それってちょっぴり恥ずかしいかも…」
「恥ずかしい? チビのお前はそうかもしれんが…」
結婚する頃には言わないんじゃないか、その台詞。
なにしろ俺の嫁さんなんだし、大切に拭いてやるくらいはなあ…?
前の俺たちならやってたろうが、と指摘されてみれば、そうだった。
そんな日もあった、ハーレイがブルーの身体をバスタオルでくるんで拭いていた日も。
「いいな、そういう日が来るまでは、だ…。それまでは正しく、けじめだな」
結婚した後にはけじめは要らんし、楽しみにしとけ。
俺のバスローブを借りるってヤツも、俺にバスタオルで拭かれる方も。
「うん…」
今は我慢するしかないんだね?
ハーレイのバスローブを借りたくっても、結婚まで我慢。
けじめだなんて言われちゃったら、貸してって頼んでも無駄みたいだしね…。
「うむ」と大きく頷いたハーレイ。「けじめってヤツが大切なんだ」と。
言い聞かされるとちょっぴり不満で、けれど、とびきり待ち遠しい。
その日が来るのが、けじめとやらが要らなくなる日が。
結婚したなら、ハーレイとお揃いのバスローブ。
それを着せて貰う、その日の気分で自分のを着たり、ハーレイのを貸して貰ったり。
お風呂上がりにバスタオルで優しく拭いて貰って、「また後でな」とハーレイはバスルームへ。
そしてハーレイがバスローブ姿で戻って来たら。
温まった身体をバスローブに包んで、ブルーの所へやって来たなら。
二人きりの甘くて長い夜が始まる、この地球の上で。
生まれ変わって再び出会えた、青い地球の上にあるハーレイの家で…。
タオルの幸せ・了
※ブルーがバスタオルから感じた幸せ。前の生でのアルタミラの記憶と、その後に得た自由。
けれど、それだけではなかったのです。前のハーレイのバスローブ。さて、今度は…?
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(あ…!)
学校がいつもより早く終わった日の帰り道。バス停から家まで歩く道。
まだ早い午後、昼下がりといった時間帯。秋の日射しは柔らかなもので、暖かな午後の帰り道。
歩く途中でブルーが見付けた女の子。
顔馴染みの夫婦が住む家の庭で昼寝をしていた。背もたれが倒せる籐の椅子で。子供の身体には大きすぎるほどの、それは寝心地が良さそうな椅子で。
小さな身体の下にはクッション、膝の上には薄い上掛け。気持ち良さそうな昼寝の時間。
(お孫さんだっけ…)
遠い地域に住んでいる子供。小さい頃から何度か見かけた。この家に遊びに来ている時に。
会わない間に大きくなったよね、と生垣越しに覗き込んでみる。足を止めて。
出会った頃のフィシスくらいの年なのだろうか、幼い金髪の女の子。
前に会った時はもっと小さくて、自分の中にはフィシスの記憶も全く無かった。前の生の記憶は戻っていなくて、フィシスは歴史の中にいた人。
それが今では事情が違う。昼寝している女の子の髪型がフィシスそっくりだと思ってしまう。
白いシャングリラに連れて来た頃、フィシスの髪はこうだった。まだ床にまでは届いておらず、長い髪だったというだけのこと。
だから見た目には特別ではなく、盲目だったということ以外は、ごくごく普通の女の子だった。占いをしたり、その身に地球を抱いていたりと、中身は特別だったけれども。
(んーと…)
この女の子はフィシスではないという気がするけれど。
フィシスだと感じはしないけれども、同じ髪型、同じ金髪。出会った頃のフィシスと同じ。
(ちょっぴり似てる…?)
年恰好と髪型以外に共通点は何も無いのに、何故だか似ている気がするフィシス。遥かな記憶の彼方のフィシスを思い出させる、目の前の少女。
(なんで…?)
どうしてだろう、と眺めていたら、金色の睫毛が微かに震えて、パチリと開いたその瞳。現れた綺麗な緑色の瞳。
途端にフィシスはいなくなった。跡形もなく消えて、少女が残った。
「…ブルーお兄ちゃん?」
「あ、うん…。こんにちは」
ぼくのこと、覚えていてくれた? と訊いたら、笑顔で頷いた少女。覚えてるわ、と。
椅子から下りて生垣の側までやって来た少女と暫く話をしたけれど。
少女の祖父母も出て来て見守ってくれていたけれど。
(やっぱり違う…)
話せば話すほどに、フィシスとは違う。前の自分の記憶に残ったフィシスとは違う。
似て見えたのは髪型だけ。少女が「それでね…」と無邪気にはしゃぐ度に揺れる、金の色をした長い髪だけ。切り揃えられた前髪と顔を縁取る金色の糸。それだけがフィシス。
他は何もかも違っていた。顔立ちも違えば、中身も違った。
幼かったフィシスとは話し方も違う、もちろん話の内容だって。占いの話は欠片さえも無くて、少女の心は今の満ち足りた日々で一杯で。
友達の話や両親の話、祖父母の話と、くるくると変わる少女の話。相槌を打てば、フィシスとは違う笑顔が返って来る。まるで似ていない笑顔と顔立ち、髪型だけしか似ていない少女。
何故似ていると思ったのか。
フィシスに似ていると眺めていたのか、今となってはもう分からない。
話せば話すほどに、フィシスとは違う。その姿さえもが、フィシスとはまるで違うのに…。
どのくらい立ち話をしていたろうか。
明日には自分の家に帰ると言った少女に「また会おうね」と手を振って別れて、家に帰って。
着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間も、頭に残っていた少女。少しフィシスに似ていると感じてしまった少女。髪型だけしかフィシスと似てはいなかったのに。
(…でも、フィシス…)
最初は確かに似ていると思った、何故か似ていると。それが不思議で眺めていた。
おやつを食べ終えても気になる少女。フィシスとは全く違った少女。
部屋に戻ってから、勉強机の前に座ってまた考えた。
どうしてフィシスを連想したのかと、全くの別人だったのに、と。
年恰好と髪型以外は似てはいなくて、それも分かっていた筈なのに、と。
帰り道で少女を見付けた所から、順に記憶を並べてみて。
どの辺りまでフィシスだと思っていたのか、それを掴もうと整理していて。
(そうだ、瞳…)
緑色をしていた少女の瞳。澄んだ若葉の鮮やかな緑。
あの瞳が開いた瞬間までは、フィシスに似ていると眺めていた。幼い少女の頃のフィシスに。
閉じていた瞳がそう思わせた。眠っていた少女の閉じた瞳が。
フィシスの瞳は開かなかったから。
シャングリラに連れて来るよりも前も、シャングリラに連れて来た後も。
ただの一度もフィシスの瞼は開きはしなくて、その下の瞳は現れなかった。そう、一度も。
だから、あの少女が重なった。
幼かったフィシスと同じ髪型、それに閉じていた瞳。
開いた途端にフィシスの面影は消えてしまった、緑色の瞳を見た瞬間に。
少女の顔を彩る二粒の宝石、フィシスの顔には無かった宝石。その欠片さえも無かった宝石。
けれど…。
(青い瞳…)
キースのそれに似た、青い瞳。薄い色の青、アイスブルー。
一面に凍った湖の青だと、それがフィシスの瞳の色だと知ってはいた。気付いてはいた。
フィシスの瞼は開かなかったけれど、瞼の下に眼球は確かに在ったから。
あの水槽の中でフィシスが眠っていた頃から知っていた。
どんな瞳かと覗いてみたから、サイオンで探って覗いたから。
フィシスの瞳が開かないことに気付いて間もない頃に覗いた、その瞳を。
視力は全く無かったけれど。
何の役にも立たない瞳で、瞼が開いてくれないからには、飾りにすらもならなかったけども。
閉じたままだったフィシスの瞳。
瞼の下には青い色があると、アイスブルーの瞳なのだと見ることも叶わなかった宝石。
フィシスの顔を彩りさえもしないで、瞼の下に眠っていた瞳。
開く所を想像しさえもしなかった。開いたならばどうであろうかと思うことさえも。
(もしも、フィシスの瞳が開いていたら…)
視力が無くても、瞳が開いていたのなら。
さっき出会った少女さながらに、アイスブルーの宝石が二つ覗いていたなら。
(そういう人だっていたんだよね…)
今の時代は医学が進んで治せるけれども、前の自分が生きた頃には盲目の者も少なくなかった。開いてはいても視力の無い目を持っていたケースも珍しくはなくて。
ただの飾りに過ぎない瞳。用を成さない二つの宝石。
フィシスの瞳がそれだったならば、シャングリラに連れて行っただろうか?
サイオンを与え、ミュウにしてまで前の自分は攫ったろうか?
手に入れたろうか、あの少女を。水槽の中に居た、あのフィシスを…?
(…ううん…)
きっと連れては行かなかった。白いシャングリラには迎えなかった。
いくらフィシスの地球に惹かれても、それを常に見たいと願っていても。
攫うことなく、サイオンを与えることもなく、時が来たらフィシスと別れただろう。水槽の中のフィシスに別れを告げただろう。
「君の地球を見るのは今日で終わりだよ」と、「今日まで見せてくれてありがとう」と。
そうしてフィシスは水槽から出され、別の人生を歩んだだろう。
貴重な実験のサンプルとして研究者たちに囲まれて暮らすか、あるいは他の人類と一緒の生活をさせられてデータを取られるか。
いずれにしても、ミュウとは無関係な生。シャングリラなど知らず、サイオンも持たず、ただの人類として生きてゆく道。その人生にミュウの長などは要らないから。
(…最後に記憶を消してお別れ…)
自分と会っていたフィシスの記憶を消してしまって別れただろう。「さようなら」と。
あの瞳が開いていたならば。
視力は無くとも、アイスブルーの瞳が輝いていたならば。
(何もかも見られているような気がするものね…)
視力が無い分、その瞳は何処も見ていないから。焦点を結びはしないから。
その分、瞳に映った全て。それを見通すような気がする、奥の奥まで。
目に見える形に囚われない分、それが持つ本質といったものまで。
(…それにサイオン…)
フィシスに与えたサイオンの力。ミュウだけが持っている特殊な能力。
思念波での会話と基礎的な力、それらを分けて与えるだけではフィシスは自由に動けはしない。盲目だから。視力が無いから。
目を閉じていても見ることが出来る能力、それを与えねばならないけれど。それが無ければ船の中でフィシスは困るだろうから、分け与えなければならないけれど。
人類は本来、持たない能力。ある筈もない高度なサイオン能力。
「見る」という力がフィシスの身体にどう作用するかは謎だった。単に見えるようになるというだけか、健康な身体を持っている分、もっと強い力を持つというのか。
しかも健康なだけではなくて、無から生み出された生命体。マザー・システムが誇る最高傑作。目が見えないという点を除けば、非の打ち所がないフィシスの肉体。
それほどの器がサイオンを持てば、どう変化するか分からない。思った以上の力を得そうな気がした。「見る」という力に関しては。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが予想した通り、危惧した通り。
フィシスは未来を「見る」力を得た。ブルーにさえ無かった、予知の能力。神秘の能力。
もしも瞳が開いていたなら、未来だけでなくて隠されたものまで見たかもしれない。瞳に映ったものの全てを、それらのものの奥底までをも。
心を読むのとは違った形で奥の奥まで、人の器に宿る思いの底の底まで。
そうなっていたら、前の自分とハーレイとの恋も見抜かれただろう。一目見ただけで、見えない瞳に自分たちの姿を映しただけで。
(うん、きっと…)
フィシスがそういう力を持っていたなら、一瞬で知れた。誰にも明かしていなかった恋が。長い年月、隠し通した恋を見抜かれ、知られていた。
そうなってしまうことを恐れて、フィシスを攫いはしなかったろう。
見えない瞳が何を見るのか、それが恐ろしかっただろうから。
サイオンを与えることさえしないで、地球を抱く少女と別れただろう。フィシスが抱く青い地球ごと、フィシスそのものを諦めただろう。
手に入れることは出来ないと。
彼女の瞳が何を見るかが分からないから、シャングリラには連れてゆけないと。
あるいは、力が無かったとしても。
フィシスに「見る」ための力を与えることなく、盲目のままで連れて帰ったとしても。
思念波での会話などの基礎の力だけで、船内の移動や日々の暮らしは他の者の手を借りるという形にしておいたとしても。
(目が開いていたら…)
フィシスの瞳が開いていたなら、見られる度に心が痛む。
何も見ていないアイスブルーの瞳に自分が映るのを見る度、心の奥がツキンと痛む。
フィシスの世話はアルフレートがしただろうけれど、彼がフィシスを連れてシャングリラの中を移動しただろうけれど。その時に自分と出会っていたなら、アルフレートはこう言っただろう。
「ソルジャーがおいでですよ、フィシス様」と。
そうしてフィシスを自分の方へと向かせただろう。見えぬ瞳でも、あらぬ方を眺めてしまわないように。ソルジャーに礼を取れるように、と。
フィシスが自分の方を向いたなら、見えない瞳が向けられたなら。
アイスブルーの瞳に自分の姿が映って、フィシスと向き合うことになる。見えていなくても。
その度に心がツキンと痛む。
自分の心はフィシスの上には無いのに、と。
青い地球が見たくて攫って来ただけで、地球を抱く女神が欲しかっただけ。
フィシスが自分に向けているようなひたむきな愛などは無くて、地球を欲しただけなのに、と。
本当に地球だけを愛したわけではないけれど。
それを見せてくれたフィシスごと愛して慈しんだけども、人形を愛でるのと変わらない愛。
自分の心を捧げる愛とは違った愛。異なった愛。
真に心から愛した人なら、他にいるから。フィシスと取り替えるつもりは無いから。
だから攫えない、攫えはしない。
フィシスの瞳が開いていたなら、アイスブルーの瞳が自分に向けられるのなら。
たとえサイオンで「見る」という力を得なかったとしても、盲目のままであったとしても。
あの目で見られたら辛くなるから。
フィシスが前の自分にくれたのと同じだけの愛を、想いを、自分は決して返せないから。
(閉じてて良かった…)
フィシスの瞳。一度も開きはしなかった瞳。
顔の飾りにすらなりはしなくて、瞼の下に隠されたままで終わったアイスブルー。氷に覆われた湖の青の、誰も知らなかったフィシスの瞳。
フィシスの瞳が開いていたなら、攫わなかったと思うけれども。
それは今だからこそ、そう思うだけで、水槽の中のフィシスに出会った頃だったなら。
フィシスが抱く地球に魅せられ、通い詰めていた頃の自分だったなら。
我慢出来ずに攫ったかもしれない、瞳が開いているフィシスを。アイスブルーの瞳の少女を。
「見る」力だけは与えずにおいて、盲目のままで。
どうしてもフィシスが、地球が欲しいと、アイスブルーの瞳を持った少女を。
(そうなっていたら…)
自分も心が痛んだろうけれど、ハーレイもきっと困ったと思う。
フィシスが側に来る度に、きっと。アイスブルーの瞳がハーレイを映す度に、きっと。
その瞳を持つ少女が慕って愛するブルーを、自分が奪ってしまっているから。
ブルーの心は決してフィシスに向きはしなくて、ハーレイだけを見ているのだから…。
そんなことをつらつらと考えていたら、チャイムの音が聞こえて来た。
仕事帰りのハーレイが鳴らしたチャイムの音。窓から見下ろせば、手を振る人影。門扉の前で。
そのハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座ってから。お茶とお菓子を前にしながら。
「あのね、今日、学校の帰りにね…」
フィシスに会ったよ、と切り出したら。
ハーレイが驚いて息を飲むから、「そう思っただけ」と笑ってみせた。別人だった、と。
「赤ちゃんの頃から知ってる子なんだ、ご近所さんのお孫さん」
ぼくが出会った頃のフィシスくらいになってて、フィシスとおんなじ髪型をしてて…。
庭の椅子で昼寝をしていたんだよ、今日はお天気が良かったから。すやすやと寝てたよ、気持ち良さそうに。大きくなったよね、って覗き込んだんだけど…。
瞳が開くまでフィシスに見えた、とあの話をした。
一連の話。似てもいない少女がフィシスに似ているように思えたのだ、という話。
澄んだ若葉の緑の瞳をしていた少女。
ただ目を閉じていたというだけのことで、フィシスを思わせた少女の顔。
それらを話して、言葉を切って。
ハーレイを見詰めて、こう問い掛けた。
「もしもだよ。…もしもフィシスの瞳が開いていたら…」
視力は無くても開いていたなら、ハーレイはどうだったと思う?
「どういう意味だ?」
「冷静でいられたのか、っていう意味だよ。フィシスの前で」
フィシスの瞳にじっと見られたら、どうだった?
キャプテンじゃなくて、ぼくの恋人の方のハーレイ。
ぼくたちのことは何も知らない筈のフィシスが、ハーレイの顔をじっと見上げていたら…?
視力が無いから何も見えない筈なんだけどね、と説明をしたら。
ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
「それは確かに落ち着かないな。キャプテンとしての俺はともかく、中身の俺がな」
何を思って見詰めてるんだ、と心配になってくるだろうな。
何処かでヘマでもやらかしたのかと、お前とのことがバレちまったかと。
フィシスはお前を慕ってたしなあ、恋する女性の勘ってヤツでだ、恋敵は俺だと見抜いたとか。
「やっぱりね…」
ハーレイだってそうなっちゃうんだ、フィシスが側に来て見詰めていたら。
見えてないだけに、フィシスがいったい何を見てるのか、余計な心配しちゃうよね…。
ぼくも駄目だ、とブルーは小さな溜息をついた。
フィシスの瞳が開いていたなら、きっと攫えなかったと思う、と。
攫うことを諦め、ミュウにもしないで研究所に残しておいただろうと。フィシスが抱いた地球に魅せられ、どんなに焦がれて通い詰めようとも、自分は攫わなかっただろうと。
「もしかしたら、それでも攫っていたかもしれないけれど…。攫っていたら後が大変だよ」
ぼくもハーレイも落ち着かなくって、フィシスが来る度にハラハラしちゃって。
瞳が閉じてるのと開いてるのとで、まるで全く違うだなんて…。
見えないって所は同じなのにね、前のぼくが「見る」力さえ与えてなければ。
目がパッチリと開いてるだけで、何の役にも立たないんだけれど…。
それでも怖いよ、フィシスの瞳が開いていたら。
見えない筈の瞳がじっと見てたら、フィシスには何か見えるんだろうか、って気になるものね。
ホントに怖い、と肩を震わせたブルーだけれど。
ハーレイの方は、フィシスの瞳を知らないから。ブルーと違って、瞼の下の瞳を知らないから。
具体的なイメージが掴めないのか、顎に手を当てて首を捻った。
「フィシスの瞳か…。開いていたなら不安ではあるが、どうも今一つ実感がな…」
どういう感じの顔になるのか、俺には全く想像がつかん。
お前が見たっていう女の子じゃないが、瞳を閉じてる顔しか頭に浮かばないんだ。俺はそういう顔しか知らんし、瞳の色さえ分からないからな。
「キースと同じ色だったよ」
「それは…!」
あのキースと同じだったのか、フィシス。…そんな瞳の色だったのか…。
知らなくて良かった、という気がするぞ。知っていたなら、俺はフィシスをどう見ていたか…。
フィシスがキースを逃がしちまったのは事故だと自分を納得させていたが、同じ色の目じゃな。
どういう生まれか知っていただけに、睨んじまったかもしれないなあ…。
「キースと同じ色っていうのは今だから言えることだよ、ハーレイ。フィシスの方が先」
ぼくがフィシスと出会った頃には、キースは何処にもいなかったんだし…。
キースの方が真似してたんだよ、フィシスの瞳の色の真似をね。
でも、ハーレイの気持ちも分かる。ハーレイはキース、今でもとっても嫌いだものね。
「…お前、それもあってキースを嫌っていないのか?」
フィシスと同じ瞳の色。そのせいもあるのか、お前がキースを嫌わない理由。
「ううん、瞳の色は少しも関係無いよ」
キースを作った遺伝子データの元がフィシスだってことも、瞳の色も無関係だよ。
フィシスとキースは違う人間だし、ぼくがキースを嫌わない理由になりはしないよ、瞳の色は。
まるで別物なんだもの、とブルーは肩を竦めてみせた。
同じ色でも違う瞳、と。
キースの瞳は色そのままに氷の瞳で凍てついていたと、感情すらも凍っていたと。
フィシスの瞳に感情の色は無かったけれども、その代わり、凍ってもいなかったと。
何も映していなかった瞳。映すことなく瞼に覆われていた瞳。
フィシスの意志では瞼は動かず、けして開かなかったから。
瞼が開いてアイスブルーの瞳が光に晒されることは、ついに一度も無かったから。
感情を一度も宿すことなく、凍ることもなく、顔の飾りにさえならなかった瞳。
前のブルーの他には見た者すらも無かった、凍った湖の色を湛えた瞳…。
「だけど、フィシスの瞳が開かなくて良かった…」
開いていたなら、きっと諦めるしか無かったから…。フィシスをシャングリラに迎えること。
どんなにフィシスの地球が見たくても、あの目で見られたら困ることの方が多いから。
地球は欲しくても、困ることが多いと分かっているなら諦めるしか…。
「お前、あの地球、好きだったからな」
フィシスの地球。身体がすっかり弱っちまっても、お前、あの地球、見ていたものなあ…。
「うん…。あれが好きだったよ、フィシスよりもね」
フィシスよりも地球が好きだった。フィシスが持ってた青い地球が。
「それを知ってるのは俺だけだがな」
俺しか知らなかったんだよなあ、お前はフィシスよりもフィシスの地球の方が好きだったこと。
シャングリラ中がすっかり勘違いしてて、誰も気付かなかったんだよなあ…。
遠い遠い昔、白いシャングリラがあった頃。
その船でブルーがフィシスの抱く地球を、飽きずに眺め続けていた頃。
誰もがブルーはフィシスのことが好きなのだと思い込んでいた。
恋人とは少し違うけれども。恋とは違った感情だけれど、フィシスを愛しているのだと。
けれども実の所は違って、ブルーが愛していたのは地球。フィシスの中に在った青い地球。
それを見せていたフィシス自身も、きっと気付いてはいなかったろう。
ブルーの想いは地球の上にあると、それを持つがゆえに自分も愛されているのだとは。
ブルーが自分を女神と呼ぶのは地球を抱くゆえで、それゆえに女神なのだとは…。
「フィシスの瞳が開いていたなら、あの地球だって…」
後ろめたくて見ていられないよ、ぼくの表情、バレているんじゃないか、って。
フィシスを見る目とはまるで違うと、地球の方に恋をしているんだ、ってバレてしまいそうで。
「そうだろうなあ…」
目が見えないんじゃ、じっと目を開けて地球をお前に見せたかもしれんし…。
そうなってくると、お前も心が落ち着かないよな、本心ってヤツを見抜かれそうでな。
「うん…。だけどフィシスの目は閉じたままで、ぼくはフィシスを攫えたわけで…」
もしかしたら、フィシスは神様がぼくにくれたんだろうか?
前のぼくが希望を失わないために。失くさないために…。
「希望って…。俺じゃ足りなかったか?」
俺がいるだけでは足りなかったって言うのか、前のお前の人生には。
もっと何度も愛しているって言うべきだったか、前の俺は…?
「ううん、ハーレイの愛は充分貰っていたよ。こんなに貰っていいんだろうか、って思うほどに」
ハーレイとの愛なら失くさなかったし、希望だって持っていたけれど…。
それとは違って地球への夢だよ。いつかは地球へ行こう、っていう夢。
「なるほどなあ…。そいつは俺ではどうにもならんな」
お前を地球まで連れて行ってやる、と約束はしたが、お前に地球を見せてはやれんし…。
フィシスに頼るしかないってわけだな、地球へ行く夢を持ち続けるなら。
いつかハーレイと地球へ、と願ったブルーだけれど。
白いシャングリラで青い地球まで、共に行きたいと願ったけれど。
命が尽きると気付いた時には、地球をも諦めそうだった。
どうせ駄目だと、青い地球には辿り着けないと。その前に寿命が尽きてしまうと。
けれど、もうフィシスが来ていたから。フィシスがとうに船に居たから。
フィシスが抱いた幻の地球で、挫けそうな心を慰めていた。
あの青い地球までシャングリラの皆を、と。
それが自分の務めなのだと、ソルジャーの最後の務めなのだと。
自分の命は尽きるのだとしても、何処かに道はある筈だから。
皆を地球へと連れてゆける道が、きっと何処かにある筈だから。
命尽きる前にそれを見付けて皆を導こうと、地球への道筋をつけておこうと…。
「もしもフィシスがいなかったなら…。ぼくはあの時、地球を捨てていたよ」
地球へ行こう、っていう夢を。地球への希望を。
持っていたって、着く前に死んでしまうんだから。ぼくは地球には行けないんだから…。
「俺と一緒に行けないからなのか、いつか行こうと約束したのに」
シャングリラでお前を連れて行ってやると俺は誓ったが、お前の命が持たないからか?
「そう。辿り付けもしない夢の国なんかは要らないよ」
夢物語と変わらないんだよ、青い地球なんて。
だけど、ハーレイは来てくれると言ってくれたんだから。ぼくが死んでも、ぼくと一緒に。
その約束の方が、よっぽど大事。
…行けもしない地球に行く夢よりもね。
「約束、破っちまったがな。…俺はお前と一緒に行ってはやれなかった」
「それはぼくの方だよ、ハーレイに約束を破らせちゃった」
ジョミーを頼む、ってシャングリラに縛り付けちゃって。
前のぼくがフィシスの地球のお蔭で諦めずに済んだ、地球への希望。
諦めなかったからジョミーを見付けて、みんなが地球まで行けるように道を付けられたけど…。
フィシスを攫って来ていなかったら、きっとジョミーを見付けていないよ。
探そうともせずに泣いてばかりで、何もしないままで前のぼくの命は終わっていたよ…。
フィシスの瞳。閉じた瞼の下に隠された、アイスブルーの色だった瞳。
それが開いていなかったからこそ、ブルーはフィシスを攫うことが出来た。サイオンを与えて、白いシャングリラに迎え入れて女神と呼び続けた。
フィシスが抱いた地球が欲しくて攫ったお蔭で、地球への希望を失くさずに済んだ。ジョミーを見出し、次の世代を託すことが出来た。
フィシスの瞳が開かなかったのは、神からの贈り物なのだろうか?
地球を抱くフィシスは機械が生み出した命だけれど。
無から生まれた、神の領域を侵す生命だったのだけれど…。
「ねえ、ハーレイ。…フィシスは機械が生み出したけれど…」
きっと本当は神様なんだよ、神様が作ってくれたんだよ。
そして前のぼくにくれたんだと思う、フィシスの地球ごと、前のぼくに。
フィシスの目が閉じたままだったのもきっと、神様がそうしてくれたんだよ…。
「そうかもしれんな。フィシスの瞳が開いていたなら、お前は攫わなかったと言うし…」
何よりも、今のお前の聖痕。
そいつは神様がお前に下さったもので、お蔭でお前に出会えたんだしな。
「うん…。何もかも神様のお蔭だよね、きっと」
前のぼくがフィシスを手に入れられたのも、ハーレイと地球でまた出会えたのも。
フィシスの瞳が閉じていたのも、神様のお蔭なんだよね、きっと…。
地球を抱く女神、フィシスに嘘をついていたけれど。
ハーレイとの恋を隠したけれど。
大切なのはフィシスなのだと、女神と呼んで慈しみ、愛しているふりをしていたけれど。
もしもフィシスの瞳が開いていたなら、つけなかった嘘。
攫えずに終わっていただろうフィシス。
フィシスも神がくれたのだろう。前の自分が地球への希望を捨てぬように、と。
その神が今度は聖痕をくれた。
ハーレイと地球で巡り会えるよう、今度こそ共に生きられるよう。
だから今度は幸せになれる。ハーレイと二人、前の自分が夢に見ていた青い地球の上で…。
フィシスの瞳・了
※開くことは無かった、フィシスの瞳。もしも盲目でも開いていたなら、違っていた未来。
閉じたままの瞳で良かったのです、前のブルーが地球への夢を抱き続けるためには…。
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