シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれ…?)
何かが違う、とブルーは首を傾げた。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、部屋でのんびりしていたけれど。本を読んだりもしたのだけれども、そろそろベッドに入らねば、と始めた準備。
明日の朝は気温が少し低いと天気予報で聞いていたから、夜中に冷えてくるかもしれない。
まだ秋とはいえ、そういった夜も珍しくはない。眠っている間に気温が下がると、恐ろしい夢がやって来る。メギドの悪夢が。
前の生の最後に失くしてしまった、右の手に持っていたハーレイの温もり。
独りぼっちになってしまったと泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。前の生の自分。
右手が冷えるとそれを思い出すし、夢の中なら、夢はメギドに置き換わる。
ソルジャー・ブルーが死んでいった場所に。泣きながら死んだ悲しい記憶に。
秋に入ってから立て続けに見た、メギドの悪夢。
右手が冷えてしまうからだ、と手袋をはめて眠ってみたりもしてはみたのに、防げなくて。
どうにもならないと嘆いた自分に、ハーレイがくれたサポーター。医療用の薄いサポーター。
通気性がいいから眠りを妨げないと言われた。
その上、ハーレイが右手を握ってくれる時の力加減を再現したとも。
(…ハーレイに手を握って貰ってるみたいなんだけど…)
そんな感じがするサポーター。
初めて着けた日は、メギドの悪夢の最後にハーレイが来てくれた。凍えた右手に温もりを届けに来てくれた。
幻のハーレイだったけれども。
遠いシャングリラから、ハーレイの想いだけが宇宙を駆けてメギドまでやって来たのだけれど。
それでも温もりは右手に戻って、夢の終わりは悲しくなかった。もう一人ではないのだと。
(サポーターのお蔭なんだけど…)
あれ以来、メギドの悪夢は劇的に減った。夢そのものを滅多に見なくなったから、冷える夜にはサポーター。悪夢の予防にサポーター。
なのに…。
(何か変…?)
いつものように右手に着けようとしたら、感じた違和感。
そうではないと、それを着けるのではないのだと。
(なんで…?)
サポーターが無ければ夢を見る。右手が冷えてしまった夜には何が起こるか分かっている。
着けずに眠るなど、とんでもないのに。出来もしないのに、何故、違うのだと思うのか。
(そんなこと…)
自分がこれを着けたがらない筈が無い。けれども「違う」と感じる心。
それが何故だか分からないから、サポーターを着けてみたけれど。
右の手が温もりに包まれたけれど、ハーレイの手に握られているようで幸せだけれど。
(やっぱり違う…)
こうじゃなくて、と訴える心。
着けるのではないと、こうするのではないのだと。
(どうしてなの?)
これが無ければ困るのに、と途惑いながらも、一度外してみることにした。
そうすれば分かるかもしれない、とサポーターを左手で外した途端に掠めた記憶。
右手から抜いた、その瞬間に。
(そうだ、手袋…!)
前の自分がはめていた手袋。ソルジャーの衣装の一部でもあった、両手を包んでいた手袋。
あれを自分は外したのだった、眠る時に、手から。
たった今、サポーターを右手から外したのと同じに、手袋を外して肌を晒した。
常にはめていた、あの手袋。あれを外した、今やったように。
眠る時には。もっと正確には、眠るよりも前に。
(…ハーレイの前で…)
そう、ハーレイの前でだけ。
自分がソルジャーではなくなった時に。ソルジャーではなくて、ただのブルーに戻った時に。
もちろん本当にソルジャーの称号を返上したわけではなかったけれど。
そんなことなど出来もしなくて、ソルジャー・ブルーのままだったけれど。
心だけは「ただのブルー」になった。ブルーに戻れた。
手袋を外せば、その下の肌を空気に晒せば。
(あの手袋…)
いつからあれをはめ始めたのか。両手を覆って肌を見せなくなったのか。
考えずとも答えは直ぐに出て来た。
ソルジャーの制服が出来た時。やたら仰々しく、マントまで付いた立派すぎる衣装。仕上がると同時に着せられてしまい、もう脱ぐことは出来なくなった。
ソルジャーだからと、皆を導くソルジャーにはこれが相応しいからと皆に言われて。
(それでも最初の間はまだ…)
デザインだけは最後まで同じだったけれど、衣装の素材は変わっていった。
より良いものへと、より着けやすくて防御力の優れた素材へと。
シャングリラが白い鯨になった頃には、ソルジャーの衣装も完全なものとなっていた。ミュウの特性を生かし、心地良い熱や温もりは通しても、爆炎のような害をなす熱は通さない素材。
手袋もそういう材質だった。
着けたままでも不自由がないよう、肌の一部であるかの如くに作り上げられた。
(あれなら外さなくてもね…?)
初期の衣装だった頃は手袋を外していることも多かったけれど、完成品ともなったら違う。
一度はめたら、外す方が却って面倒なほど。
外せば置く場所が必要になるし、置き場が無ければ手に持つしかない。それでは片手が塞がってしまう。両手で何かをするには向かない。
(よく出来てたんだよ、あの手袋は)
ティーカップを持っても滑らない。何をするにも困らない。
仲間たちと握手を交わす時にだって、手の温もりが伝わって来た。相手にも自分の手の温かさが伝わるわけだし、手袋ははめていないも同じ。
そんなわけだから、いつしか手袋に慣れてしまって、眠る時しか外さなくなった。
バスルームに行こうという時に外して、朝を迎えてパジャマを脱いだら、またはめた。
手袋の下の素肌を見る者は誰もいなくて、それが普通だと思っていた。
ハーレイが青の間に来ていた時も。
キャプテンとしての訪問ではなくて、一番の友として来てくれた時も。
ハーレイのためにと紅茶を淹れたりしていたけれども、手袋は外さないままで。
はめたままでのティータイムだった。
手袋をはめた手で二人分のカップに紅茶を注いで、自分のカップも手袋をはめた手で持って。
何の不自由も感じなかったし、楽しくお茶の時間を過ごした。
そうしていたのに、ふと物足りなくなってしまって。
「また今度」と握手する時に、間に挟まった一枚の布。薄い手袋。
それがあるのがもどかしくなって、これは要らないと心の何処かで思い始めて。
(あの頃から、恋…)
自分では気付いていなかったけれど、今にして思えば、きっとその頃。
ハーレイの手にじかに触れてみたいと、温かくて大きな手に触れたいと願い始めた恋の始まり。
(恋だとは思っていなかったけどね)
まるで気付きもしなかった自分。
ハーレイは一番の友達なのだと、大切な友だと思い込んだままでいたけれど。
それでも時々、手袋を外してハーレイとお茶を飲むようになった。
一日の報告に来てくれた後や、遊びに訪ねて来てくれた時に。
手袋は要らないと外してしまって、「また今度」と握手して見送っていた。
自分では友達を見送るつもりで、一番の友達に手を振るつもりで。
けれど、恋だとついに気付いて。
想いが叶ってハーレイとキスを交わすようになったら、手袋はもう、はめていたくなかった。
ハーレイの前では、キャプテンとしての職務が終わったハーレイの前では。
だからはめなくなった手袋。ハーレイの前では外した手袋。
結ばれた後には、もう手袋は…。
(あれが切り替え…)
青の間で夜にハーレイから一日の報告を聞いて、手袋を外せば恋人同士の時間の始まり。
ソルジャーではない、という印。
ただのブルーだと、ハーレイに恋をしているブルーなのだと。
その背にマントを着けていようが、ソルジャーの白い上着を纏っていようが、もう違った。
あの手袋さえ外してしまえば、前の自分はソルジャーなどではなかった。
ハーレイに恋をしていたブルー。
ただのブルーで、ミュウの長でもなんでもなかった。
青の間に住まっているというだけ、ただそれだけのミュウで、人間だった…。
(手袋で切り替えていたなんて…!)
ソルジャーだった自分と、一人のミュウとしての自分とを。
それもハーレイの前でだけ。
(あの手袋…)
わざと外してみせたこともあった。
ハーレイの報告がなかなか終わらない時に、焦れながら。
早く終わらせろと言わんばかりに。
ゆっくりと手から手袋を取った。
報告はまだ終わらないのかと、自分の用意はとうに整っているのに、と。
マントも上着も、きちんと着込んで着けたままで。
ソルジャーとしての表情は全く動かさないまま、手袋だけをこれ見よがしに手から外して。
(前のぼくの合図…)
あの手袋が。
それを外すということが。
今からはただのブルーなのだと、ハーレイの恋人のブルーなのだと知らせる合図。
もう手袋は外したのだから、そのように扱ってくれと知らせた。
ソルジャーではないと、恋人なのだと。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
前の自分がしていた合図を、手袋を外すという意味を。
ハーレイの前でだけやっていたことを、それにこめられた自分の想いを。
(…覚えてるのか、確かめたいけど…)
気になるけれども、肝心要の手袋なるもの。
今の自分は手袋などをはめて暮らしてはいない。もうソルジャーではないのだから。あの手袋は要らないのだから。
十四歳になったばかりの普通の子供に手袋は要らず、冬用のものしか持ってはいない。
冷たい北風が吹きつける季節にはめるものしか。
けれど…。
ゴソゴソとクローゼットの中を探った。手袋が仕舞ってある場所を。
そこを覗き込み、一組、取り出してみたけれど。
前の自分の手袋にそっくりのものがあるわけがなくて、色だってまるで同じではなくて。
遠目に見たなら似たようなものかと、白いアンゴラの手袋を一組。
アンゴラだけにフワフワしていて、ソルジャーの手袋とは似ても似つかないものだけれども。
(…これでいいかな?)
水色や紺の手袋よりかはマシだろう。いくらフワフワでも、少しはそれらしく見えるだろう。
明日は土曜日、ハーレイが来る時にはめていようか?
この手袋をはめてハーレイを待とうか、いつもの椅子に腰掛けて?
しかし…。
(ママがいたっけ…!)
いつもハーレイを部屋まで案内して来る母。お茶とお菓子を運んで来る母。
手袋をはめた自分を見たなら、母は訝しむことだろう。
冬でもないのに、冬でも家に入る時には手袋を外している筈なのに、と。
(ママ、絶対に変に思うよ)
それどころか「どうしたの?」と訊かれてしまうに違いない。
手袋に何の意味があるのかと、怪我でもしたのか、手が冷たいのかと。
そうなればハーレイの意識もそちらへ向いてしまうし、手袋はただの「変なもの」。季節外れの変な手袋、その認識でおしまいだろう。
母が部屋まで来てしまうからには、最初からはめてはいられない。
とはいえ、手袋の合図をハーレイに思い出して貰えるチャンスはあるかもしれないし…。
(見える所に置いておけば…)
忘れないように、と通学用の鞄の隣に吊るして眠った。
手袋を思い出す切っ掛けになった、あのサポーターを右手に着けて。
メギドの悪夢は襲っては来ず、次の日の朝。
ベッドから起き出して手袋を見るなり、昨夜の出来事が脳裏に浮かんだ。
(そうだ、手袋…!)
これをはめるんだったっけ、と白いアンゴラの手袋を撫でる。
前の自分の手袋の合図。ただのブルーだと、ソルジャーではないという合図。
恋人同士の時間の始まりを告げる合図を、ハーレイの前でもう一度やって見せるのだった。
この手袋をはめて、前の自分のように外して。
それが出来るだけのチャンスさえあれば。
(ハーレイが席を外してくれれば…)
すまん、と階下の母の所へでも出掛けて行ってくれたなら。
戻って来るまでの間に手袋をはめてしまえばいい。
ふわふわの白い手袋だけども、前の自分の手袋とはまるで似ていないけれど。
それでも手袋なのだから。
微笑みながら外して見せればいい。
ハーレイが部屋に戻って来たら。「すまなかったな」と部屋に入って来たなら。
(ふふっ、手袋…)
手袋の合図、と心の中で何度も繰り返しながら、躍る心を抑えながら。
朝食と部屋の掃除とを終えて、計画を練って練習もした。前の自分の仕草を真似て。
白いアンゴラの手袋をはめて、こう外すのだと何度も、何度も。
そうこうする内にチャイムの音がし、ハーレイがやって来たけれど。
母の案内で部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったけれど。
「なんだ、あれは?」
あの手袋は、とハーレイに目を留められた。
昨夜と同じに鞄と並んで吊られた手袋、ふわふわのモコモコ、季節外れの白い手袋。
それは奇妙な代物だけれど、今の自分はあれしか持っていなかったから。
前の自分のような手袋は、ソルジャー・ブルーの持ち物に良く似た手袋は持っていないから…。
精一杯、澄ました顔で答えた。「手袋だよ」と。
「…手袋?」
ハーレイは手袋をまじまじと見詰め、それからブルーに向き直って。
「そいつはアレを見りゃあ分かると思うがな?」
俺が訊いてるのは、あれが手袋かどうかじゃなくて、だ。
なんだって手袋があそこにあるのか、どういうつもりで出してあるのかということなんだが…。
まだ手袋の要るような季節じゃないだろ、外へ出るにしても?
寝る時に手が冷たいって話は前に聞いたし、サポーターをプレゼントしてやった筈だがな?
あのサポーターでは足りなくなったか、と訊かれたから。
ブルーは「ううん」と首を横に振って。
「ハーレイ、何かを思い出さない?」
あそこに手袋が吊ってあったら、あの手袋があるのを見たら。
「クリスマスか?」
かなり気が早いが、と笑われた。
クリスマスに向けての広告さえも見かけはしないと、それにあちらは靴下だと。
吊るしておいたら、夜の間にサンタクロースがプレゼントを入れて行ってくれる靴下。
それの真似かと、今からクリスマスプレゼントの催促なのか、と。
「違うってば…!」
クリスマスだなんて言っていないよ、手袋だよ!
それに靴下とも間違えてないよ、ホントのホントに手袋だってば…!
ブルーはむきになって主張したけれど、ハーレイは一向に思い出さないようだから。
ピンと来てさえくれないものだから、椅子から立って例の手袋を取って来た。
元の椅子へと座り直して、これでも思い出さないのか、とはめて見せたけれど。
白いフワフワのアンゴラの手袋を両手にはめてみたけれど。
「ほほう、似合うな。ずいぶんと可愛らしいじゃないか」
ウサギの手みたいで可愛いぞ、うん。
そういや、お前、将来の夢はウサギだったか、チビだった頃は?
ウサギになりたいと思ってたって話を聞かされたっけな、手だけなら充分ウサギに見えるぞ。
「そうじゃなくって…!」
ぼくが言ってるのは手袋なんだよ、この手袋が大事なんだよ!
こう、と手袋をゆっくり外した。
右手で左手の手袋を引っ張り、手首から指先へと肌を晒してゆく。
左手がすっかり露わになったら、今度は右手を。
前の自分と同じ仕草で、朝から何度も練習していたあの仕草で。
わざと時間をかけて右手の手袋を外して見せれば、ハーレイがハッと息を飲んだ。
「お前…!」
それきり、後が続かないから。
後の台詞が続かないから、ブルーは手袋をテーブルに置いた。一組を綺麗に重ねて揃えて、前の自分の仕草をなぞって。
「…分かった?」
この手袋の意味が何だったのか、ハーレイ、分かってくれたよね?
さっきクリスマスって言っていたから、クリスマスにぼくに贈ってくれる?
ぼくがハーレイから欲しいプレゼントを、と誘うような笑みを浮かべてみせた。
前の自分がそうやったように、手袋の合図で促した時にそうしたように。
ブルーは自信たっぷりだったし、通じた筈だと思ったのに。
もう間違いなく通じたのだと思っていたのに、ハーレイの返事はこうだった。
「うむ。そいつに似合うマフラーだな」
手袋はあるからマフラーが欲しいと、そう言うんだな?
「えっ?」
思わぬ言葉にブルーの瞳は丸くなったけれど、ハーレイは至極真面目な顔で。
「違うのか? 俺はてっきりマフラーかと…」
それとセットで持ちたいのかと思ったんだが、マフラーじゃないなら何なんだ?
ちゃんと言葉で言ってくれんと、ファッションってヤツには疎くてなあ…。
「ぼくが欲しいのは、褐色の…!」
褐色の肌をした恋人なのだ、と言うだけの度胸は流石に無くて。
「褐色の」だけで止めたものだから、それを聞いていたハーレイの方は。
「ああ、褐色のマフラーな」
白よりもそっちの方が好みか、色の指定があったんだな。
褐色か…。そういう色をしたウサギもいるしな、お前が着けても似合うだろうさ。
そういやアンゴラはウサギだったか、褐色のアンゴラのマフラーだな、うん。
覚えておこう、とハーレイのポケットから取り出された手帳。それに愛用の瑠璃色のペン。
手帳をパラパラとめくるハーレイは、本当に書き付けそうだから。
瑠璃色のペンで、ナスカの星座が鏤められているペンで、覚え書きを残しそうだから。
(ぼくにクリスマスプレゼント、って…!)
書かれたら最後、ハーレイは約束をきちんと守るに違いない。
まだ先だけれど、クリスマスに備えてプレゼントを買おうと出掛けて行って。
あちこちの店で色々比べて、自分がいいと思ったマフラー。
白いアンゴラの手袋に合うと、ブルーに似合うと思ったマフラーを選んでくるだろうから。
褐色のマフラーを綺麗に包んで貰って、「プレゼントだ」と贈ってくれそうだから。
「違うんだってば…!」
マフラーじゃないよ、ぼくが欲しいのはマフラーじゃなくて!
ハーレイだよ、と訴えた。
クリスマスプレゼントをくれるんだったらハーレイがいいと、その意味なのだと。
褐色はハーレイの肌の色だと、それを贈って欲しいのだと。
息もつかずに言い終えた後は、もう耳までが赤かったけれど。
それでも言えたと、ちゃんと言えたとブルーは上目遣いでハーレイを見る。
このプレゼントは貰えそうかと、クリスマスに贈ってくれるだろうかと。
白いアンゴラの手袋だったけれど、合図は送った。
こうだと、今の自分の想いはこうなのだと。
手袋の合図が伝わるように。
伝わって欲しい、と頬も耳も染めて、祈るような気持ちで恋人を見詰める。
どうか分かってと、前の自分の手袋の合図を思い出して、と。
手袋を外せば、恋人同士の時間の始まり。
クリスマスにはそれが欲しいと、クリスマスプレゼントはハーレイがいいと。
こうして向かい合わせで座るだけでなくて、膝の上に座ったり、抱き締めて貰うのでもなくて。
前の自分がそうだったように、本当に恋人同士だからこそ持てる時間を。
褐色の肌を纏った身体に包まれ、ただ幸せに酔っていたいと。
今の自分はキスさえ許して貰えないけども、せめてクリスマスのプレゼントには、と。
ほんの一夜の夢でいいから、サンタクロースがトナカイの橇で駆けてゆく間の、イブの夜だけの夢でかまわないから…、と。
「やっぱりか…」
あれだったのか、と深い溜息。
ハーレイが手帳とペンとをポケットに仕舞い、眉間に皺が刻まれた。普段よりも深く寄せられた皺が、まるで心と呼応するような深めの皺が。
鳶色の瞳は白い手袋とブルーの顔とを交互に眺めて、呆れ果てたような色だから。
子供の相手など出来るものかと、していられるかと言わんばかりの様子だから。
ブルーの期待はたちまち萎んで、シュンと項垂れるしかなくなって。
「…気付いてたの?」
ぼくが手袋を用意した意味、気付いてた?
わざわざ外して見せなくっても、もしかしなくても、手袋だけで?
「最初からな」
俺は前から言ってるだろうが、お前の心はお見通しだと。
普段はそこまで酷くはないがな、お前、気持ちが高ぶってる時は中身がすっかり零れてるんだ。
今日も初めからそうだった。
俺がこの部屋に入った途端に、手袋、手袋とはしゃいだ心が弾けていたさ。
手袋で俺に合図をしようと、あれで合図をしていたと。
前の自分がやった通りに練習もしたし、きっと俺が釣れる筈だとな。
馬鹿が、と額を小突かれた。
十四歳のチビが何をするかと、手袋で誘うには早すぎるのだ、と。
「いいか、お前はキスも出来ないチビでだな…」
つまりは身体もうんとチビなわけで、手だって子供の手だってな。
前のお前が白いフワフワの手袋をしてりゃ、俺だってグッと来るかもしれん。
お前が手袋を外さなくても、そのフワフワの下の手を見てみたくてウズウズしながら、外すのを待っていたかもしれん。まだかと、まだ手袋を取ってくれないのかと。
だがな、今のお前じゃウサギみたいなチビの手なんだ。どう見たって可愛いだけの手だ。
キュッと握ってみたくなるのがせいぜいだってな、その手じゃな。
手袋の中身はどのくらい詰まっているんだろうかと、暖かそうな手袋だが、と。
同じ手袋をはめてみたって、それをはめる手が違うのさ。
外した途端に色気が出るのが前のお前で、今のお前じゃ食い気ってトコか。
こういうフワフワの手袋をしてれば、くっついちまって食えない菓子もあるからなあ…。やっと食えると菓子に飛び付くのが今のお前で、前のお前はそうじゃないってな。
菓子なんかよりも先にこっちなんだ、と俺に目だけで強請れた筈だ。
それを寄越せと、そっちを先に食わせろとな。
「お菓子よりも先に食べるものって…」
なんなの、ハーレイ?
ハーレイがお茶を淹れてくれるの、そっちの方が先だった?
確かにポロポロ崩れるクッキーとかなら、お茶を一口飲んでからの方が美味しいけれど…。
「ふむふむ、やっぱり分かっていない、と」
前のお前が焦れてた時はな、何は無くとも一番にキスだ。そいつで機嫌を直して貰うのが先だ、お前が腹を減らしてたってな。
キスを忘れてお茶なんぞ淹れに出掛けていたなら、どうなったやら…。
もっとも、俺の方にしたって、お茶を淹れてるよりキスしたいしな?
そういう悲劇は起こらなかったな、俺がお茶を淹れる間にお前がすっかり怒ってしまって、青の間からポイと蹴り出されるとか、平手打ちを食らってしまうとかはな。
「…そうだったっけ?」
ブルーはキョトンとするしかなかった。
手袋の合図は確かに覚えていたけれど。焦れた自分が手袋を外して見せていたことも、ハッキリ覚えているのだけれど。
それから後は必ずベッドに直行ではなくて、お茶の時間を持ったりもした。
美味しいお菓子があるのだから、と二人でゆっくり食べたりもした。
朝までは二人きりなのだから。
二人きりの時間を過ごせるのだから、とハーレイを誘って、それは色々な夜の過ごし方。
「何は無くとも一番にキス」と強請った記憶は何処にも無くて…。
「思い出せないのがガキの証拠ってな」
お前の記憶は中途半端だ、とハーレイに鼻で笑われた。
だからお前には菓子が似合いだと、キスよりも菓子の方が似合うと。
フワフワの手袋を外したら菓子をパッと掴んで、齧って。
「美味しいね」と笑顔になるのが似合いの子供で、それに見合った手をしていると。
手袋を外せば色気ではなく、食い気が出て来る子供の手。
どんなに前の自分の仕草を真似ても駄目だと、それは芝居でしかないと。
ハーレイは白いアンゴラの手袋を掴み、「小さな手だな」と褐色の手のひらに重ねてみて。
「フカフカだな」と、「前のお前がはめても似合いそうだな」と微笑んだ後で。
手袋をテーブルの上に戻すと、小さなブルーに軽く片目を瞑ってみせた。
「もう分かったろ? お前にはマフラーがピッタリなのさ」
こいつとセットで出来るマフラー、それがお前に似合いだってな。
「酷い…!」
マフラーじゃないって言ったのに!
ちゃんと褐色のハーレイが欲しいって言っているのに、マフラーなの?
「当たり前だろ、そういう台詞を口にするには早すぎるんだ、チビ」
それに、貰えるだけマシだろうが。
たとえ嬉しくないプレゼントでもだ、俺からのクリスマスプレゼント。
まだまだ先の話だがなあ、まだ秋だしな?
…俺もすっかり忘れちまうかもしれないなあ…。マフラーどころか、その手袋もな。
やっぱり手帳に書いておく方がいいか?
お前、褐色のマフラーが欲しいと強請ってたってな。
「うー…」
書かなくていいよ、マフラーなんて!
ぼくはそんなの欲しがってないし、貰ってもそれは嫌がらせだよ!
要らないからね、とブルーは叫んだけれど。
断ったけれど、ハーレイは可笑しそうに笑い転げて白い手袋を何度も指でつついていたから。
「いい手触りだ」と、「お前に似合う」と繰り返したから、もしかしたら。
クリスマスが来たら、マフラーを貰ってしまうのかもしれない。
注文の品だと、お前が欲しがったマフラーを買って来てやったと。
そんなプレゼントは欲しくないのに、欲しいとも思っていないのに。
(でも…)
同じマフラーを貰うのだったら、褐色のマフラーもきっと悪くはないだろう。
ハーレイの肌の色のマフラー。
誰よりも好きな恋人の肌と同じ色合いの、フカフカで暖かなマフラーがいい。
白いアンゴラの手袋とセットのマフラー。
ハーレイに貰ったプレゼント。
手袋を使って誘惑するには早すぎたけれど、それが包んでくれるのならば。
褐色の肌をした恋人の代わりに、暖かく包んでくれるのならば…。
手袋の合図・了
※前のブルーがハーレイに送った、手袋の合図。ソルジャーから「ブルー」に戻る時。
思い出した小さなブルーですけど、用意した手袋は大失敗。マフラーが貰えるみたいです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(一生の不覚というヤツか…)
思い出しちまった、とハーレイは溜息をついて頭を振った。
一生どころか二生の不覚と言うべきか。そんな言葉があるかどうかは謎だけれども。
(しかし、確かに二生目だしな?)
一度目の生を生きた自分は死んでしまった。遠い昔に、この地球の深い地の底で。
今の自分は二度目の生を生きている。人の人生を一生と言うなら、二生目と言っていいだろう。
(そいつは有難いことなんだが…)
思いがけずも前世の記憶が戻って、二度目の生だと気が付いた。しかも恋人までついて来た。
前の生で愛したソルジャー・ブルー。
気高く美しかったブルーは十四歳の少年になって戻って来た。青い地球の上で巡り会えた。前の自分が辿り着いた時には死の星だった、母なる地球。その地球が命を取り戻した後で。
まだ十四歳にしかならないブルーは幼すぎるから、伴侶には迎えられないけれど。
それでも守り役という名目の下に、平日だって仕事が早く終わりさえすれば家へ会いに行ける。
今日は生憎、寄れなかったから、一人の夕食。
とはいえ一人暮らしは長いし、料理も好きだし、それなりに楽しい時間を過ごした。ところが、後片付けを済ませて、コーヒーでも、と思った途端に降って来た記憶。普段は忘れている記憶。
前の自分のものならまだしも…。
(今の俺のでもあるんだ、これが)
情けないような、悲しいような。さりとてどうにもならない記憶。
思い出したら、あれやこれやが一気に蘇って来るものだから。
(うーむ…)
複雑な顔をするしかなかった。よりにもよってコレなのか、と。
愛用のマグカップにコーヒーを淹れて、書斎に行って。
机の前に腰掛けてもなお、何処へも行ってはくれない記憶。一向に消えてくれない記憶。
(まったく…)
俺としたことが、と「二生の不覚」と心の中で繰り返しながら、一冊の本を棚から取り出した。
白いシャングリラが表紙に刷られた写真集。船の中の写真も多く収められた豪華版。
「お揃いだよね」と小さなブルーの声が聞こえた気がするけれど。
この写真集を見付けて教えてやったら、ブルーも父に強請って買って貰って大切にしているのだけれど。懐かしい船体や船内が載った写真集は自分も気に入っているのだけれど…。
(まさかこういうことになるとは…)
パラパラとめくって開いたページに、トォニィの私室。最後のソルジャーだったトォニィ。
彼の部屋の窓辺に置かれた宝物たち、それが非常に問題だった。
人類との戦いの最中に死んでいったアルテラ、彼女が遺したボトルはトォニィらしくていい。
アルテラ自身はそれが形見になるとも思わず、トォニィに渡しただけなのだけれど。
「あなたの笑顔が好き」と書き入れただけだけれども、そのメッセージは今の時代にも伝わっていた。アルテラが書いた筆跡そのまま、意中の人に渡すカードに印刷されていたりもする。
(こいつはいいんだ、こっちの方は…)
トォニィの想いも、アルテラの想いも愛の形として残ったから。
けれども、ボトルの隣にあるもの。チョコンと座った木彫りのウサギに見えるもの。
(こいつはウサギじゃなかったんだが…)
前の自分が彫った木彫りのナキネズミ。
初めての自然出産児だったトォニィのために、と部屋で、ブリッジでせっせと彫った。木彫りはとても好きだったけれど、評判の方はよろしくなくて。
(実用品のスプーンとかなら、欲しがるヤツも多かったんだが…)
何かを象った作品の方は、悉く散々な評価を受けた。
ヒルマンの注文で彫ったフクロウも「これはトトロだ」と酷評された。お蔭でSD体制が始まるよりも遥かな昔の『となりのトトロ』という心温まる映画を知りはしたけれど…。
下手くそな木彫りで得をしたことは、トトロの映画だけかもしれない。それほどに酷い木彫りの腕前、トォニィのために彫ったものとて例外ではなく。
(ナキネズミのつもりだったんだがなあ…)
ミュウが開発した生き物。ネズミとリスを掛け合わせたもの。
それこそが新しいミュウの時代を担う子供に相応しい、と意気込んで取り組んだ作品なのに。
(何処で間違えちまったんだか…)
木の塊に下絵を描いた段階では、間違いなくナキネズミだったと思う。
まるでリスのような大きな尻尾に、首の周りのフサフサの毛皮。少し尖ったその顔も。
けれどもナイフを手にして彫り始めて行ったら、どうにも上手くいかないバランス。尖った顔は再現できたが、やたらと長くなった耳。代わりに尻尾が短くなった。申し訳程度の長さの尻尾。
(俺も変だとは思ったんだ…!)
なんとかナキネズミらしくならないものか、とブリッジで工夫していたら。
間の悪いことに、ブラウがやって来た。それも足音を忍ばせて。
「カリナが子供を産んだって?」と声を掛けられたが、慌てて木彫りを背中の後ろに隠したが。
ブラウは最初から全て見ていたらしくて、隠すだけ無駄というものだった。
ステルス・デバイスがどうのこうのと、シャングリラに纏わる連絡事項を伝え終わると、改めて覗き込まれた背後。「それを出しな」と、「見てたんだから」と。
そして言われた、「ウサギかい?」と。「ナキネズミだ!」と主張したものの、自分でも自信が持てない作品。ブラウが納得するわけがない。
「どの辺がどうナキネズミだい?」とニヤニヤしながら、しげしげ見られた。耳も尻尾もウサギそのもの、ナキネズミらしさの欠片も無いと。
(これがナキネズミなら、ウサギに対する認識ってヤツを改めなきゃね、とまで言いやがって!)
大笑いしながら去って行ったブラウ。
「ウサギとナキネズミは似てもいないよ」と、「あんたの目は歪んでいるのかい?」と。
そこまで言われてはたまらないから、ナキネズミらしくと頑張ったけれど。
努力に努力を重ねたけれども、やはりウサギにしか見えなくて。
(…ナキネズミだと言おうと思ったんだが…)
トォニィに贈る時には一言添えて、と決意したのだが、そうは問屋がおろさなかった。
赤い星に降りて、カリナとトォニィに対面して。
「気に入って貰えるといいのだが…」とナキネズミの木彫りを差し出す横から、ブラウが解説を加えてくれた。キャプテンが手ずから彫ったウサギだと、トォニィのためのウサギなのだと。
何処から見たってウサギにしか見えないナキネズミ。
カリナは素直にブラウを信じた。笑顔で受け取り、トォニィに持たせて母ならではの笑み。
「ほら、トォニィ。ウサギさんよ?」と、「キャプテンが彫って下さったのよ」と。
その瞬間に木彫りはウサギになってしまった。ナキネズミからウサギに変身を遂げた。
挙句の果てに、今では立派な宇宙遺産。
地球で一番大きな博物館の所蔵品となり、百年に一度だけ特別公開されるという有様。
(…やはり訂正するべきだったか?)
ウサギだとして独り歩きを始める前に。
「ミュウの子供が沢山生まれますように」との祈りがこもったウサギなのだと解説までついて、宇宙遺産になってしまう前に。
あれをトォニィに贈った時に「ウサギではない」と正しておいたら、宇宙遺産のウサギは残っていなかっただろう。幼かったトォニィのオモチャの一つで終わっただろう。
いつしか忘れ去られてしまって、ソルジャーになったトォニィの部屋の窓辺に飾られもせずに、時の彼方にひっそりと消えて失われていたに違いない。
しかし…。
(あんな場面で訂正できたか?)
自分や長老たちと、トォニィが初めて出会った、あの時。
そこで自分の木彫りの腕前を懸命に言い訳しようものなら、台無しになったろう、場の雰囲気。
(キャプテンの俺が必死に言い訳なんぞは…)
みっともない上に、聞き苦しい。その上、木彫りが下手くそなことを公言するも同然の行為。
とはいえ、トォニィ誕生という慶事の真っ最中。
大笑いで終わっていたかもしれない。そんなこともあるさと、キャプテンだって人間だからと。
ウサギに見えてもナキネズミなのだと、酷いナキネズミもあったものだと。
(…こんなことになると分かっていたなら…)
あのナキネズミがトォニィのオモチャだけでは終わらず、長い時を越えると知っていたなら。
宇宙遺産などという大層なものになってしまって、博物館に置かれると分かっていたら。
(…しかも、それだけでは済まなくてだな…)
もう一度、この目でアレを拝むような羽目になるとは思わなかった。
ブルーと二人で青い地球の上に生まれ変わって、あのナキネズミが辿って来た道を、前の自分が予想もしなかった出世街道を知らされることになろうとは…。
(こういうオチだと知っていたら、だ)
何としてでも訂正したろう、ウサギではなくてナキネズミだと。
宇宙遺産などにはならなくていいから、ただのガラクタとして時の彼方に消えていいから。
(…本当に二生の不覚なんだ…)
自分自身も「ウサギ」という解説が恥ずかしいけれど、何よりブルー。十四歳の小さなブルー。
そのブルーだって、あれはウサギだと信じていた。
「実はナキネズミだ」と白状した時、丸い目をして驚いた。
ついでに「下手くそな木彫りを作ったハーレイが悪い」と、「宇宙遺産のウサギを見に出掛ける人が気の毒だ」とまで言われてしまった。
ウサギだったら値打ちもあるけれど、ナキネズミでは全く価値が無いと。
大勢の人を騙しているのだと、御大層な解説つきのウサギに化けたナキネズミで、と。
(しかしなあ…)
ブルーには呆れられ、けなされたけれど。
あのナキネズミが宇宙遺産になったからこそ、今のブルーに見て貰える。青い地球の上に生まれ変わったブルーに自分の木彫りを見て貰える。ウサギだろうが、本当はナキネズミだろうが。
前のブルーは見られなかった木彫りのナキネズミを。
初めての自然出産児を、トォニィの誕生を祝って彫り上げたあのナキネズミを。
(…そこが難しい所だな…)
恥ずかしい腕前の木彫りではあっても、小さなブルーもウサギだと思っていた出来であっても。
宇宙遺産として残ったからこそ、ブルーに「これだ」と見せることが出来る。
自分が彫ったと、前の自分が彫った木彫りのナキネズミだと。
たとえ笑われてしまったとしても。ウサギでしかないと笑い転げられても。
(ブルーには見せられなかったからなあ…)
前のブルーには、前の自分が愛したソルジャー・ブルーには。
あのナキネズミを彫っていた時、ブルーは長い眠りの中で。
いつ目覚めるとも知れない眠りで、ドクターにすらも分からなかった。いつの日かブルーが再び目覚めるか、それとも一度も目覚めないまま、永遠の眠りに就いてしまうのか。
ブルーの思念を追うことには誰よりも長けていたのに、その思念すらも掴めない眠り。ブルーの手を握り、その心へと語り掛けても何の応えも返らなかった。
眠り続けるブルーが紡いでいるだろう夢も、その夢の小さな欠片さえも拾えはしなかった。
(…あいつの身体は確かにあるのに、命も確かにあったのに…)
どうしても掴めない、ブルーの心。ブルーの魂が奏でる音色。
だからナスカで虹を探した。雨が降る度に、雨上がりに架かった虹の橋を追った。
虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから。
それを見付ければ、見付けて掘り出すことが出来れば、ブルーが目覚めるかもしれないと。
自分にとっての宝物と言えば、ブルーの魂だったから。
虹のたもとに埋まっているそれを見付け出そうと、何度も何度も虹を追って赤い星を歩いた。
そうして虹を追い続ける間に、ナスカで起こった記念すべき出来事。
SD体制が始まって以来、一度も無かった自然出産。母の胎内から生まれたトォニィ。
そのトォニィに贈ってやるならこれだ、とナキネズミを彫ることにした。
前のブルーが作らせた生き物、青い毛皮をしたナキネズミを。
青い地球に焦がれ、幸せを運ぶ青い鳥を飼いたいと願ったブルー。
青い鳥は何の役にも立たないから、と皆に反対され、諦めたブルーを覚えていた。せめてと青い毛皮を纏ったナキネズミを選び、その血統を育てさせていたことも。
ブルーの想いが、青い地球と青い鳥に憧れたブルーの想いがこもったナキネズミ。
誰が知らずとも自分はそれを知っていたから、ナキネズミを彫ろうと決めたのだった。
ナキネズミは思念での会話が下手な子供たちをサポートするための生き物だったし、言うなれば子供たちの良き友、遊び友達。
トォニィにそれを贈ったとしても、誰も不思議には思うまい。
眠り続けるブルーの代わりにと、ブルーの想いをも届けてやろうと彫ったのだとは。
(…あいつにもいつか、見て貰えると思っていたんだ)
眠り続けていたブルーが目覚めたならば。
これを彫ったと、ブルーの分までと思って彫ったと、あのナキネズミを見せるつもりだった。
二人でトォニィの許を訪ねて、とんでもない出来の木彫り細工を出して貰って。
前のソルジャーと、キャプテンの自分。二人揃って出掛けて行っても、トォニィの両親は光栄に思いこそすれ、訝しんだりはしないから。どうしてこういう組み合わせかと不思議に思いはしないだろうから。
(あの木彫りだって、喜んで持って来てくれたんだろう…)
今も大事に持っていますと、トォニィのお気に入りです、と。
ユウイもカリナもウサギだと思ったままだったろうし、ブルーもウサギだと思っただろう。
青の間に戻った後で「ナキネズミです」と言おうものなら、きっと吹き出されたことだろう。
「君らしいよ」とか、「どう見てもあれはウサギだったよ」とか。
けれど、「相変わらず木彫りは下手なんだね」と笑われようが、それで良かった。
長い眠りから覚めたブルーと二人で笑い合えたなら、と。
そんな日が来ると信じ、願い続けていた。
虹の橋のたもとを探し続けて、ブルーの魂を探し続けて。
けれども、それは叶わなくて。
あのナキネズミをブルーと二人で眺められる日は訪れなくて。
(行っちまったんだ…)
ようやく目覚めてくれたブルーは、その瞬間からソルジャーだった。戦うための戦士だった。
まだ満足に動けぬ身体でキースと対峙し、それから後は激動の時間。
恋人同士の語らいはおろか、二人きりで話せる機会も持てずに運命の時が来てしまった。
ブルーは木彫りのナキネズミが作られたことさえ知らずに、メギドへと飛んで行ってしまった。
ただ一人きりで、たった一人で。
そして帰って来なかった。白いシャングリラにも、涙にくれる自分の許へも。
愛しい人は逝ってしまって、独りシャングリラに残された自分。
ブルーが最後に残した言葉を守って、地球までの道を歩んだけれど。シャングリラを運んで遠い地球まで行ったけれども、心はとうに死んでしまっていたのだろう。
自分はそれきり、思い出しさえしなかった。
ブルーと二人で見たいと願った木彫りのことを。
トォニィに贈った、あのナキネズミを。
(なのに、こいつは長い時を越えて…)
青い地球まで先に着いていた。自分よりも先に青い地球へと、立派に辿り着いていた。
今はもう無いシャングリラ。時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
白い鯨の写真が編まれた写真集では、トォニィの私室の窓辺に写っているけれど。
アルテラが残したボトルと一緒に写っているのだけれども、ボトルは既に残っていない。それに書かれたメッセージだけが今に伝わり、恋人たちに人気のカードなどに刷られて贈られる。
しかし、ナキネズミの方は違った。
ウサギだと信じられたばかりに、お守りなのだと勘違いされて宇宙遺産へと出世を遂げた。
一番最初の自然出産児の誕生を祝い、ミュウの子供が沢山生まれてくるようにという祈りと共に彫られたものだと、キャプテン・ハーレイが自ら彫ったウサギのお守りだったのだと。
ウサギは沢山の子供を産むことで知られていたから、豊穣のシンボルでもあったから。
宇宙遺産になったウサギは青く蘇った地球へ運ばれ、博物館に収まっている。
普段はレプリカのみの展示で、本物の公開は百年に一度。
幸運なことに、その博物館は自分とブルーが住んでいる町に建てられていた。大して広い町でもないのに、人が多いというわけでもないのに、色々な条件に適ったとかで。
(俺はこいつをブルーに見せたかったんだ…)
前のブルーに。誰よりも愛したソルジャー・ブルーに。
彼を失くした後、忘れてしまっていたけれど。
木彫りどころか、生きたナキネズミの方でさえをも、すっかり忘れてひたすらに地球を目指したけれど。其処に着ければ全て終わると、自分の役目はそれで終わりだと。
(…地球に着いたら、俺の役目が終わったら…)
追ってゆこうと思っていた。先に一人で、独りぼっちで逝ってしまったブルーを追って。
死に赴こうと、睡眠薬を飲んで眠るように逝こうと決意していた。
なのに運命とは分からないもので、薬など要りはしなかった。死の星だった地球の地の底、崩れ落ちて来た瓦礫が自分の命を奪った。
そうして全ては終わってしまって、自分の生涯は其処で終わった筈なのだけれど。
(二生目があったと来たもんだ…)
しかも途中から、前の自分とそっくり同じに育った姿になった所から。
それまではまるで別の人生、前の自分と重なるどころか、成人検査も人体実験も無い人生を謳歌して来た。青い地球の上、本物の両親の許に生まれて、のびのびと。
(まさか、こういう人生が待っているとはなあ…)
夢にも思いはしなかった。瓦礫に押し潰される瞬間でさえも、次の生など思わなかった。
これでブルーの許へゆけると、約束通りに追って逝けると笑みさえ浮かべていなかったか。
それがいったいどうしたわけだか、二度目の生が待っていた。
ブルーも同じ地球の上に生まれて来ていた。自分よりもずっと年下になって、小さくなって。
十四歳になる小さなブルーは、木彫りを笑ってくれたけれども。
ナキネズミになんか見えはしないと、ウサギでしかないと笑ったけれど。
(…元々は笑い合うつもりだったしな?)
前のブルーと二人で見たなら、トォニィの部屋を二人で訪ねて行ったなら。
ユウイとカリナが「キャプテンに頂いたウサギです」と例の木彫りを持って来るだろうし、どう見てもウサギでしかないし…。
ブルーに「あれはナキネズミです」と言えば言うほど、笑いを誘っていたことだろう。遠慮なく笑い飛ばされた挙句、木彫りの腕前もけなされただろう。
恋人同士であったからこそ、遠慮なく。
あんなに下手だとは思わなかったと、どう彫ったならばナキネズミがウサギになるのかと。
(…うん、間違いなく言われていたな)
それを思えば恥と言ってはいけないのだろうか?
一生どころか二生の不覚とぼやいたりしては駄目なのだろうか?
(前のあいつだって笑うんだからな、今のあいつよりも酷いかもなあ…)
小さなブルーよりも三百年以上も長く生きていた前のブルー。
一旦、笑うと決めたが最後、知る限りの語彙を並べ立てて酷評したかもしれない。あの木彫りを批評するならこうだと、これが笑わずにいられるものかと。
前のブルーも、今のブルーも、どちらもあれを笑うのならば。
木彫りのナキネズミがウサギにしか見えないと笑うのだったら、あの木彫り。
よくぞ今日まで残ってくれたと、自分は喜ぶべきなのだろうか?
宇宙遺産は恥ずかしすぎるが、あれをブルーに見せてやることが出来るのだから。
(しかしなあ…)
きっとブルーは大笑いする。展示ケースの前で笑い転げる。
いつか二人で見に行った時に。
小さなブルーが前のブルーと同じに育って、結婚した後か、それとも結婚前のデートか。
百年に一度の特別公開までは五十年ほどあるらしいから、展示ケースのウサギはレプリカ。
本物そっくりのレプリカのウサギで大笑いをして、置物を買うと言うのだろう。
これを見に来たお土産に買うと、ミュージアムショップに寄るのだと。
(確か、色々あるんだ、あれは…)
原寸大で再現してある置物はもちろん、小ぶりなものやら、お守り感覚のアクセサリーまで。
いくらなんでもアクセサリーを買ってつけたいとまでは言わないだろうが、間違いなく何かしら買わされてしまって、ブルーは御機嫌なのだろう。
やっと来られたと、ハーレイと一緒に木彫りのウサギを見に来られたと。
(…本当はウサギじゃないんだが…)
ナキネズミなのだ、と力説したってブルーは聞かない。きっと聞いてはくれないのだ。
展示ケースにはウサギとあったと、ミュージアムショップでもウサギと書かれているからと。
(俺はそれでもいいんだが…)
どうせ元々、前のブルーと笑い合いたかった木彫りなのだし、ウサギだろうが気にすまい。
そうは思っても、自分にとってはナキネズミ。一生の不覚、二生の不覚の下手くそな木彫り。
(…なんとかアレをナキネズミだと認めて貰える道は…)
写真集の中の木彫りを見れば見るほど、絶望的な気持ちになってくる。
彫っていた時からウサギに見えたし、完成してもウサギに見えたし、今では宇宙遺産のウサギ。自分ごときが足掻いた所で、覆せそうな説が見付からない。
(たかがこいつの訂正のために、俺の前世を明かすというのも情けないしな…)
それではあまりに大人げないし、前の自分の木彫りの下手さも明るみに出るし、したくない。
何よりブルーが巻き添えになる。
ブルーが沈黙を守ったとしても、否定したとしても、あの姿。
前世はソルジャー・ブルーであろうと世の人は見るし、探りも入れたくなるだろう。そうなってからでは、もう遅い。ブルーの前世も知られてしまって、その後はいったいどうなることか…。
(恋人同士っていうのがなあ…)
好意的に受け止めて貰えればいいが、そうならないということもある。
宇宙遺産のウサギごときで無用のトラブルは招きたくないし、一生の不覚でも黙るのが吉。
それが二生の不覚であっても、ブルーを守ってやりたいのならば。
(特別公開で本物を見るんだって言ってたなあ…)
一番乗りで見ようと、ウサギを見ようと。
つまりは、今の小さなブルーは自分の前世を明かす予定は無いわけだ。
もしも前世を明かしていたなら、特別公開などを待たなくとも、ウサギは見に行けるのだから。それに関わる関係者として、それこそ特別待遇で。
(黙ってる方がいいんだろうなあ、俺たちのことは)
ごくごく平凡に暮らしたかったら、何処にでもいる恋人同士でいたければ。
(アレの特別公開か…)
自分もお目にかかったことは無いのだけれども、噂だけなら聞いている。百年に一度のチャンスだけあって、大勢の人が詰めかけると。その行列は何日も前から博物館を取り巻くほどだと。
(そいつに一番乗りとなったら、ただごとじゃないぞ)
もっとも、ブルーの望みとなったら、休暇を取ってでも並ぶけれども。
それこそ一番乗りで駆け付け、列の先頭で何日でも待つだけの覚悟は充分あるけれど。
(前のあいつを失くした後でだ、地球に着くまでにかかった時間のことを思えば一瞬だしな?)
行列に並ぶ苦労にしたって、アルタミラの研究所時代の地獄などとは比較にならない。
順番待ちをしている人向けに食事や飲み物を売りに来るとも聞いているから、まるで天国。
要は待つだけ、特別展示が始まるその日にブルーを迎えて、二人並んで入館するまで。
(…でもって、中に入るのはいいが…)
宇宙遺産のウサギを展示したケースの前に立つまではいいが、そこでウサギを目にしたならば。
(もう間違いなく喧嘩だな)
喧嘩と呼ぶのかどうかはともかく、言い争い。ウサギを指差し、二人ともまるで譲らずに。
ウサギだ、いやいやナキネズミだと。
「キャプテン・ハーレイ作の木彫りのウサギ」と書いてあるだろうに、それを無視して。
ブルーは「ウサギだ」と主張しているのだから展示説明とも合っているけれど、自分の方は…。
(周りのヤツらが何と思うやら…)
正気を疑われるかもしれない。どう見てもウサギで、説明もウサギ。
それを捕まえて「ナキネズミだ」と言い張る自分は、さぞかし滑稽なのだろうと。
そうは言っても、木彫りのウサギは宇宙遺産。百年に一度の特別公開。
詰めかけた客たちは、喧嘩など全く気にしていないだろうけれど。
宇宙遺産のウサギに夢中で、くだらない喧嘩など気にも留めてはいないだろうけれど。
(レプリカの方を見に行った時でも同じだろうな)
展示ケースの前で二人で喧嘩して、笑って、また喧嘩して。
ウサギだ、いやいやナキネズミだと。
一段落したら他の展示も眺めて、博物館のレストランで食事をしながらまた笑って。
あれはウサギだと、ナキネズミだと。
(…あそこときたら、再入場が可能と来たもんだ)
レプリカを展示している時なら、同じ日の内なら何度でもケースを眺めにゆける。
ブルーは飽きずに見に行くだろう。食事やお茶で休憩をしては、ウサギを収めたケースの前へ。
宇宙遺産になってしまったウサギを笑いに、前の自分が彫ったウサギを笑い飛ばしに。
(本当に一生の不覚なんだが…)
一生どころではなくて二生の不覚で、情けない出来の木彫りなのだが…。
前のブルーに見せたかったものを、今のブルーが見るのだから。
見て貰えないままに終わったナキネズミの木彫りを、ちゃんと見て貰えるのだから。
どんな恥でも、それは喜ぶべきだろう。
ナキネズミがウサギになってしまっていても、ウサギにしか見えないナキネズミでも。
それに…。
(二人一緒に見られるんだしな?)
この地球の上で。二人一緒に生まれ変わった、青い地球の上にある博物館で。
ウサギにしか見えないナキネズミを見て、ミュージアムショップで買い物をして。
そして、この家へ二人で帰ってくる。
結婚前ならまだ無理だけれど、結婚した後もレプリカのウサギをきっと見に行くだろうから。
(あいつ、レプリカのウサギの置物を買って、家に置こうと言ってたっけな…)
二人で暮らす家にレプリカのウサギ。
今は自分が一人で住んでいるこの家へブルーと帰ってくる。
ウサギを笑い飛ばされた後で、笑い飛ばしてくれたブルーと。
その頃には、きっと…。
(この書斎だって…)
お役御免になるのだろう。
今は自分の城だけれども、ブルーが来たら。
この家でブルーと一緒に暮らすようになったなら。
今みたいに書斎にコーヒーを運んで来たりはしないだろう。一人で飲みはしないだろう。
(きっと二人でリビングなんだ)
自分はコーヒー、ブルーは紅茶で、寛いだ食後のひと時を過ごす。
日記くらいはこの部屋へ書きに来るのだろうけれど…。
(その間もあいつが待っているんだ)
木彫りのナキネズミをウサギだと笑ってくれたブルーが、リビングでお茶を飲みながら。
自分が戻れば、きっとこう訊くに違いない。
「日記にはちゃんと書いたの?」と。
例のウサギを笑われたことはちゃんと書いたかと、前の自分の反省文も、と。
「下手な木彫りですみませんでした」と、「あれはどう見てもウサギです」と。
ブルーならばきっと、クスクス笑って「書いた?」と言うに違いない。
(そう思うとなあ…)
木彫りのウサギも悪くない。
本当はナキネズミだったけれども、間違われたままで今の時代まで残ったことも。
ブルーと二人で笑い合った後で、暖かな家へ帰れるのだから…。
残ったウサギ・了
※前のハーレイが彫った木彫りのナキネズミ。宇宙遺産のウサギになってしまいましたが…。
お蔭で今まで残ったわけで、ブルーにも見て貰えるのです。間違えられてウサギでも、幸せ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「わっ…!」
ママ、すまん、ってパパの声。
土曜日の朝の食事のテーブル、パパのシャツの袖口にべったりケチャップ。元はオムレツの上に乗ってたケチャップ、それが袖口にくっついた。
何か取ろうとして失敗したみたい。普段着のシャツだけど、見事に真っ赤。パパが慌てて拭いてみたって、トマトの染みは取れやしなくって。
「あらあら…。洗うから、脱いで別のに着替えて」
下手に拭くよりその方がいいわ、ってママが止めに入った。
「悪いな、ママ」
「いいわよ、今日はお洗濯のついでもあるし」
そのくらいの染み、なんでもないわ。ちょっと待っててね。
新しいシャツを取って来るわ、って出て行ったママ。
洗濯物を洗う機械はあるんだけれど。放り込んでおけば綺麗に洗って、乾かすところまで機械がやってくれるんだけど。
ママのこだわり、それとは別に手洗いもある。機械任せにしておきたくない大切なものは、手で洗ってから機械に軽く絞って貰って、日陰に干して自然の風で乾かすとか。
今日は朝から天気がいいから、そういうものを洗うんだろう。それと一緒にパパのシャツも。
「はい、どうぞ。こっちを着てね」
ママが運んで来た、別のシャツ。パパが着替えをしている間に、ママはケチャップがくっついたシャツを抱えて持ってった。すぐに洗濯するのかな、って思っていたら。
「染みだけ先に落として来たわ。食事が済んだら洗って干すわね」
「すまんな、ママ。朝から余計な仕事を増やして」
「いいえ、全然。このくらいのことは当たり前でしょ?」
サッと洗うくらいは何でもないのよ、早めに洗っておくのが一番。そうすれば手間も省けるの。
ああいった染みは時間が経つほど取れにくくなって、跡が残ってしまうのよ。
それより食事の続きにしましょ。トースト、もう一枚、食べるのよね?
おかわり用のトーストを焼き始めたママ。
パパが食べかけてたオムレツも温め直して渡してる。シャツにケチャップをつけてしまった例のオムレツ。嬉しそうに早速フォークを入れてる、新しいシャツに着替えたパパ。
(奥さんって感じ…)
ママを見てたら、そう思った。パパの奥さん、つまりお嫁さん。
汚れちゃったシャツをアッと言う間に綺麗にしちゃって、着替え用のシャツも運んで来て。
朝御飯の予定には入っていないことをパッとこなして、もうダイニングに戻ってる。トーストを焼いたり、オムレツを温め直したり。
ホントに手際よくやっちゃったママ。ケチャップがベッタリくっつく事件は、まるで起こってもいなかったように。すっかりいつもどおりの食卓。
(ぼくもあんな風に…)
やってあげたいな、ハーレイに。
食事の途中でハーレイが服に何か飛ばしちゃったら、急いで着替えを取って来て渡す。こっちに着替えて、って渡して、洗って。
戻って来たら「綺麗になったよ」ってニッコリ笑って、食事の続きを始めるんだ。冷めちゃったものは温め直して、御飯のおかわりなんかもよそって。
(うん、お嫁さんっていう感じだよね!)
それでこそハーレイのお嫁さん。慌てず騒がず、きちんと自分の役目を果たせるお嫁さん。
洗濯は家庭科の授業でちょっと習っただけなんだけど。
機械任せにしない方法、ほんのちょっぴり。
朝御飯が終わって部屋に帰って、掃除をして。
ハーレイが来てくれるのを待ちながら、少し考えてみた。
朝からママの凄さを見せられちゃったし、ぼくもあんな風にならなくちゃ、って。
ハーレイのために色々と出来るお嫁さん。どんなことでも、上手にこなせるお嫁さん。
(洗濯も覚えておかないと…)
機械に入れれば出来るとはいえ、ハーレイは自分でプレスするくらいにマメだから。
もちろん機械も使うだろうけど、きっと手洗いもしているタイプ。
(…お気に入りのネクタイだとか?)
それくらいしか思い付かないけれども、他にも何かあるかもしれない。上等のシャツとか。
(スーツはクリーニングだけれど…)
他にクリーニングに出しているものは何だっけ?
冬のセーター、これはクリーニング。だけどそれだけじゃなさそうだし…。
(どれを家で洗って、どれがクリーニング…?)
考えてみたけど、分からない。ネクタイもクリーニングに出すんだったか、違うのか。
(…ぼくって全然、分かってないよ…)
学校の家庭科で習った中身は、ぼくが普段に着ているような服の洗濯。
シャツやズボンにくっついてるタグで素材を調べて、洗い方をきちんと選びましょう、って。
たったのそれだけ、ハーレイみたいな大人が着ている服のことは何も教わらなかった。スーツやネクタイはどうすればいいのか、どうやって洗うものなのか。
(…クリーニングだって…)
何処かに染みがついちゃった時は、印をつけたりするのかもしれない。ケチャップとかの染みと普通の汚れは全く違うし、洗い方だってきっと違うだろうから。
(こういう風に洗って下さい、ってお願いするだけでいい…のかな?)
そう言えばお店で染みのついた場所を調べてくれるか、それとも自分で印をつけて行くのか。
(ママはどうしてるんだっけ…?)
そんなことさえ知らない、ぼく。まるで分かっていない、ぼく。
だけどママには訊けやしないし、クリーニングに出すのを見学することだって出来ないし…。
それに家庭科の授業でも習えやしないだろう。自分の服の洗濯がせいぜい、大人用の服の洗い方までは教えて貰えそうにない。
(結婚するまでに覚えなくっちゃいけないことは多いよね…)
十八歳になったら結婚するんだ、って決めているけど、知らないことが多すぎる。今のぼくには出来ないことも。
そう、今朝のママがパパッとこなした洗濯みたいに。
(ああいうお嫁さんになりたいのにな…)
ハーレイの役に立つお嫁さん。喜んで貰えるお嫁さん。洗濯や他にも色々、沢山。
でも、お嫁さんになるための勉強が出来る学校にはまだ行けないし…。
なんていう名前の学校だったっけ、上の学校とは違う学校。お嫁さんのお稽古が出来る学校。
(お料理とかだって、教えて貰える筈だけど…)
婚約してから入学したって間に合うんだろうか、結婚までに?
立派なお嫁さんになれるんだろうか、結婚式を挙げる日までに…?
(ああいう学校って、何ヶ月くらい通うものなの?)
短期集中講座があればいいのに、一ヶ月くらいで習えるコース。
本物の学校に通うつもりで頑張って通って、誰よりも熱心に勉強するから、短いコース。
そうしたら、ぼくもママみたいになれると思うんだけど…。アッと言う間に。
(食事はハーレイが作るって言っているけれど…)
料理が得意なハーレイだから。料理をするのが大好きだから。
「お前は何もしなくていいいのさ」がハーレイの口癖なんだけど。
ぼくは家に居て、ハーレイに「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」って言うだけでいいと何度も言われているんだけれど。
それでもやっぱりお嫁さんだし、掃除や洗濯は出来た方がいいと思うんだ。
洗濯は今のぼくには難しそうだけど、掃除だったら得意だから、と部屋をグルリと見回した所で気が付いた。ぼくが掃除をしている場所って、この部屋だけだということに。
(…掃除…)
書斎やリビングは、多分なんとか出来る筈。それにダイニングも。
(キッチンとかバスルームも…)
前のぼくが時々やっていたから、出来ないこともないだろう。道具は違うかもしれないけれど。
(…掃除くらいは出来そうかな…?)
他に掃除をする場所は…、と指を折ってたら、出て来た寝室。
ぼくの部屋と基本は変わらないよね、って思ったけれど。ベッドが大きくなるだけだよね、って考えたけれど、そのベッド。
(ハーレイと一緒に寝たベッド…!)
それも寝てたっていうだけじゃない。恋人同士なんだから。
(……ベッドメーキング……)
きっと皺だらけになってるベッド。それをきちんとしなくちゃならない。
前のぼくみたいにサイオンでサッと出来たなら。一瞬でベッドリネンを入れ替えることが出来たなら…。
あれなら恥ずかしがってる暇も無いけど、今のぼくだとそうはいかない。
(シーツを剥がして、上掛けだって…)
上掛けもクシャクシャになってるだろう。それを元通りに引っ張って直して、おまけにシーツ。こっちは洗うしかなさそう。皺だけじゃなくて、もっととんでもない状態だから。
(…出来ないかも…)
酷いことになってしまったシーツをベッドから剥がしてゆくなんて。
新しいシーツを敷く方だったら、大した手間ではないけれど。その前に剥がしたシーツの方には皺が一杯、汚れだって、きっと。
そんなシーツを腕に抱えて、洗濯する場所まで持って行くなんて、とても出来ない。
恥ずかしくて、とても。
寝る前に着ていたパジャマか、服か。そういうのだって、寝室に落ちているかもしれない。
ハーレイと二人、脱ぎ散らかしたままで。
(…普通に脱いだ服ならいいけど…!)
ベッドに入る前に脱いで畳んだ服ならいいけど、そうでなければ恥ずかしい。
どうやって脱いだか、脱がされたのかを思い出すような服なんて…!
寝室の掃除はちょっと無理かも、と行き詰まった挙句に服まで無理そう。
ベッドに入る前のあれやこれやが蘇る服は洗えないかも、と顔を真っ赤にしたけれど。
(それに下着…!)
服だけじゃなくて下着があった。一番最後に脱ぐ一枚が。
(それ、絶対に落っこちてる筈…)
寝室に、きっと。落ちてなくても、洗濯物の中に混じってる。
ハーレイが最後に脱いだ下着が。ベッドに入る前に脱いだ下着が。
(…ど、どうしよう…!)
前のぼくはハーレイの下着なんかは洗っていない。ただの一度も洗っちゃいない。
本当に本物の恋人同士で、ハーレイは何度も何度も、数え切れないほど下着を脱いだけど。前のぼくの部屋で、青の間で下着を脱いでいたけど、ちゃんと自分で持って帰って洗ってた。
ハーレイが洗ったわけじゃなくって、専属の係がいたんだけれど。
キャプテンの下着や制服を洗う係が洗っていたんだけれど…。
今度はそういう係はいない。ハーレイの下着を洗ってくれる係なんかは何処にもいない。
ハーレイが自分で洗濯をするか、お嫁さんのぼくが洗うか、どっちか。
そして洗濯はぼくがやるんだ、と張り切ってたけど…。
(洗えないかも…)
汚れたシーツも恥ずかしいけど、下着はもっと恥ずかしい。
ハーレイが脱いだ下着だなんて、恥ずかしくてとても洗えやしない。
いくら機械が洗って乾かしてくれても、機械に入れるのと畳んで仕舞うのは人間の仕事。それは人間がやらなきゃいけない。こう洗って、って機械に指示を出すのと、洗い上がって乾いた下着を機械から出して、きちんと畳んで片付けるのとは。
(…機械に入れるのも恥ずかしいけど…)
ハーレイの下着に触るのも恥ずかしいと思うけれども、エイッと掴んで放り込むなら、そっちは一瞬だけのこと。後は機械が洗ってくれる。でも…。
(仕舞えないかも…)
洗い上がった下着が畳めなくて。
畳むためには触らなくちゃ駄目だし、畳まずに突っ込むわけにはいかない。ママが毎日やってるみたいに、下着には下着の畳み方がある。
折って、畳んで、皺を伸ばすみたいにサッと撫でるだけ、たったそれだけなんだけど…。
(…ハーレイの下着…)
ぼくのより、ずっと大きな下着。ぼくが育っても、ハーレイの方が遥かに大きい。
そのハーレイが履いたり脱いだりしてる下着を畳むだけの度胸はぼくには無い。
度胸って言葉は違うかもだけど、とにかく畳めそうにない。
(…ちょっとずつやれば慣れるかな…?)
いきなり下着を洗おうとせずに、まずは普通の洗濯物から。
ハーレイが普段に着てるシャツとか、ズボンとか。そういうので慣れて…。
少しずつ度胸をつけていったら、下着だっていつかは洗えるようになるだろう。機械が乾かしてくれた下着を畳むことだって出来るだろう。
だけど…。
(いつ慣れるの?)
結婚してからやっていたんじゃ間に合わない。ハーレイの下着だけは洗わずにおいて、シャツやズボンだけを洗っていたんじゃどうにもならない。
(それじゃお嫁さん失格だよ…!)
洗濯が出来ないお嫁さん。毎日取り替えなくちゃいけない、下着が洗えないお嫁さん。
情けないなんてものじゃないから何とかしたいと思うけれども、今からハーレイのシャツとかを洗えるチャンスなんかは多分、何処にも…。
ありやしない、って溜息をついた所で思い出した。
(今朝のパパみたいに…!)
ぼくが洗濯をしようと考え始めた原因、今朝、パパの袖口についたケチャップ。
あんな風にハーレイの服に何か起きたら、洗っちゃおう。ぼくの部屋で食事をしてる時とかに、シャツやズボンが汚れちゃったら。
(うん、それだったら…!)
まるでチャンスが無いこともないし、「ぼくが洗うよ」って言えばいいんだ、ハーレイに。
家庭科の授業で習ったみたいにタグを調べて、汚れた部分を手洗いで。
何度もシャツやズボンを洗って、経験を積んでいくのがいい。そうすればハーレイのシャツには慣れるし、ズボンにだって。慣れて来たなら、きっと下着も…。
そんな決心をぼくがしてたら、チャイムの音。
洗濯物でぼくを悩ませていたハーレイがやって来ちゃって、決心も洗濯も綺麗に忘れて。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。お茶とお菓子をお供に午前中を過ごして、お昼御飯。トマトソースのスパゲティ。
お喋りしながら食べてたんだけど…。
「しまった…!」
やっちまった、ってフォークを置いたハーレイ。
シャツの胸元、はねちゃったソース。点々とついたトマトのソース。
ぼくは一気に思い出した。決心のことと、洗濯のこと。
なんて幸運なんだろう。
決心した日に洗うチャンスがやって来た。ハーレイのシャツを洗えるチャンスが。
(洗わなくっちゃね?)
だって、トマトのソースだもの。赤い点々がシャツに飛び散っているんだもの。
ぼくは勇んで立ち上がった。椅子から、ガタンと。
「ハーレイ、脱いで」
「はあ?」
鳶色の瞳が丸くなった。それはそうだろう、いきなり「脱いで」と言われちゃったら。
急ぎ過ぎちゃって、説明不足。ぼくは慌てて言い直した。
「そのシャツ、脱いでよ。洗わなくっちゃいけないから」
染みになっちゃうよ、トマトのソースは。放っておいたら跡が残るよ、消えなくなって。
「いや、洗面所を貸してくれれば…」
「えっ?」
「こういうのはだ、軽くつまみ洗いをしておけば…」
帰ってからきちんと染み抜きをすれば、すっきり綺麗になるもんだ。ちょっと失礼して借りるとするかな、洗面所。
「駄目だってば、そんなやり方じゃ! ママー!」
部屋の扉を開けて、「ママ!」って叫んだ。
「急いで来て」って、「ハーレイのシャツにトマトソースがついちゃった!」って。
階段を上がってやって来たママに、「駄目だよね?」って指差して見せた。
この染みはきちんと洗わなくちゃ、って。
「ハーレイったら、洗面所で洗うって言うんだよ!」
軽く洗って、家に帰ってから洗い直すって…。それじゃ綺麗に取れないよね?
「そうねえ、落ちないこともあるわね。トマトのソースは色が残ってしまいがちだし」
色もそうだし、お帰りになる時に残ったままだわ、薄い染みがね。
ハーレイ先生、そのシャツ、洗わせて頂きますわ。夕食までには乾きますから。
「いえ、私は…」
大したシャツでもありませんしね、この程度でしたら洗って頂くほどでも…。
「いけませんわ、本当に染みが残ってしまいますもの」
ブルーの言う通り、早めに洗うのが一番ですわ。今なら跡も残りませんわよ、間違いなく。
少しだけお待ち下さいね、って出て行ったママ。
何処へ行くのかな、と首を傾げたぼくだったけれど、戻って来たママの手にパパのバスローブ。お風呂上がりによく着てるヤツで、確か何枚かあった筈。
「すみません、ハーレイ先生に合いそうなサイズの服が無くって…」
これを羽織っていて下さいな。シャツは今から洗いますから。
「申し訳ありません…!」
お世話になります、ってシャツを脱いだハーレイ。下着の上にパパのバスローブを羽織ったら、脱いだシャツはママが持ってった。乾いたら持って来ますわね、って。
トントンと階段を下りてゆく足音が消えて…。
「良かったね、ハーレイ」
これでトマトソースは綺麗に落ちるよ、染みにならずに。帰る時には元通りだよ。
「ああ、お母さんには手間をかけるが…」
「平気だってば、ママ、手洗いのプロなんだよ」
アッと言う間に洗っちゃうんだよ、あのくらいならね。
今朝だってパパがケチャップをベッタリつけちゃってたけど、直ぐに洗いに持って行ったよ。
もう染みだけは落としておいたから、って戻って来てパパのトーストを焼いてたくらいだもの。
ホントに早くて、ほんの一瞬。
そう言った途端に気が付いた。
ぼくが洗うんだった、ってことに。
トマトソースが飛んでしまったハーレイのシャツは、ママじゃなくて、ぼくが。
「…失敗した…」
失敗しちゃった、って肩を落としたら、ハーレイが変な顔をした。
「なんでお前が失敗するんだ、失敗したのは俺の方だろ?」
いい年をしてる大人のくせにだ、トマトソースを飛ばしちまうなんて。
「ぼくもなんだよ、大失敗だよ…」
ハーレイも失敗したかもだけれど、ぼくも失敗。
「何をだ?」
お前が何を失敗したんだ、トマトソースは服に飛んではいないようだが?
「…洗い損ねちゃった…」
ハーレイが汚しちゃったシャツ。
ママが洗いに持ってっちゃったよ、すっかり綺麗に洗われちゃうんだ、トマトソース。
ぼくが洗いたかったのに…。
洗おうと思って、「脱いで」ってハーレイに言ったのに…!
ハーレイのシャツを洗い損ねた、ってションボリと項垂れてしまった、ぼく。
さっきのシャツはぼくが洗う予定だったのに、って。
「洗う予定って…。何故だ?」
どうしてお前が俺のシャツを洗う予定になるんだ、トマトソースは偶然だぞ?
それとも俺がやって来たならシャツを洗おうと決めていたのか、俺には理解しかねるが。
どう転んだらシャツを洗うなんていう発想になるんだ、お前?
お客さんのシャツを洗ってもてなすだなんて、俺は一度も聞いたことすら無いんだがな…?
「お客さんだからっていうんじゃなくって、慣れようと思って…」
今から慣れておかなきゃ駄目だと思ったんだよ、そういうことにも。
「何に慣れるんだ?」
「洗濯…」
ハーレイのシャツとかズボンを洗って、洗濯に慣れておかないと…。
でないと困ったことになりそうなんだよ、ハーレイのお嫁さんになった時に…!
洗えないものが出来ちゃいそう、って俯いたぼく。
下着なんて言葉は口に出せなくて、でも、洗えそうにないものはそれで。
本当に駄目なお嫁さんになっちゃうんだ、ってしょげてたら。
「慣れないと洗えないものか…。シャツやズボンじゃないとすると、だ…」
下着ってトコか、俺の下着。
このバスローブから覗いているようなヤツじゃなくって、ズボンの下の方のヤツだな?
「………」
ぼくは返事をしなかったけれど、出来なかったけれど。
ハーレイにはそれだけで分かったらしくて、額をコツンと小突かれた。
「馬鹿。いつも言ってるだろうが、俺がやるって」
家のことは俺が全部やるんだ、と言った以上は洗濯も俺がやるってことだ。
洗濯も掃除も料理も、全部。
「でも、お嫁さん…」
ぼくはハーレイのお嫁さんだよ、お嫁さんになるんだよ?
料理はハーレイに敵いっこないから任せるとしても、洗濯くらいは出来ないと…。
「お前は何もしなくていいって何度も言ってる筈だがな?」
嫁に来てくれさえすればいいんだ、俺と暮らしてくれればな。
それだけで俺は幸せなんだし、お前のためなら洗濯も掃除も喜んで…、だ。
いくらでもやるさ、お前の代わりに。
それは嫁さんの仕事じゃないのか、と誰が言おうが、俺がやりたくてやるんだからな。
だが…。
やりたいんなら話は別だ、ってニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。
お前がどうしても洗いたいのなら止めないぞ、って。
シャツでもズボンでも好きに洗えと、下着だって洗ってかまわないと。
「お前の意志は尊重せんとな、やりたいことまで止めてはいかん」
是非洗いたいと言うんだったら、洗濯はお前に任せるが?
「…ど、どうしよう…」
洗えるのかな、ぼくなんかでも?
慣れてなくっても、お嫁さんになったら洗えるようになるのかな…?
「さてなあ、そいつは俺にも分からんが…」
どうするんだ、お前?
俺のシャツだのズボンだのをだ、お前が洗ってくれるのか…?
「え、えーっと…。機械が洗ってくれるから…」
手で洗うものは難しいかもしれないけれど…。
そうじゃないものは機械が洗うし、乾かしてくれるから出来るかな…?
ぼくは機械に入れるだけだし、後は畳んで片付けて…。
そういえば畳めないんだったっけ、って真っ赤になった。
シャツやズボンはきちんと畳んで片付けられても、さっきハーレイに言われたもの。
ハーレイの下着はちょっと無理かも、って。
パパのバスローブから覗いてるような下着はいいけど、そうじゃないのは…。
そういう下着を折って、畳んで、皺を伸ばして。
(…触らなくっちゃ出来ないんだけど…!)
恥ずかしくって触れやしない、と耳の先まで赤くなってたら、ハーレイに顔を覗き込まれた。
「どうした?」
お前、耳まで真っ赤だぞ。なんで洗濯でそうなっちまうか謎なんだが…。
「……畳めないかも……」
ハーレイの洗濯物、畳めないかも、恥ずかしくって。
だって、触らなくっちゃ畳めないんだし…。
「ほほう…。触るのも恥ずかしいと来たか、お前は」
うん、間違いなく俺が考えてるような下着で合ってるってな、お前を困らせる洗濯物はな。
そういうことなら、放っておけ。
「えっ?」
放っておくって…。洗濯しないで?
「そうなるな。そして洗濯も俺の係ということは、だ…」
機械が乾かした洗濯物も俺が畳むのさ。俺のはもちろん、お前のもな。
シャツだけじゃないぞ、お前の小さな下着もだな。
「ぼくのも!?」
ハーレイがぼくのも畳んじゃうわけ、洗濯をして?
そして片付けに運んで行くわけ、ぼくの分まで…!
ハーレイがぼくの下着を洗って、畳んで、仕舞って。
あの大きな手がぼくの下着を折って、畳んで、皺を伸ばして片付ける。
(んーと…)
考えただけで顔がもっと真っ赤に染まりそう。ぼくの下着をハーレイが畳んで片付けるなんて。
ハーレイが片付けてくれた下着を、ぼくが取り出して履くなんて…。
それはそれで、とても恥ずかしいような気がするんだけれど。
恥ずかしいどころか、ハーレイが洗ってくれた下着なんて、着けるのもちょっと…。
「ハーレイ、ぼくのは洗わなくていいよ!」
ちゃんと自分で洗うから!
自分の分くらい、自分できちんと洗えるから…!
「いいじゃないか、ついでに洗うんだしな?」
それに、お前は俺の嫁さんになるんだし。そんなに恥ずかしがらなくっても…。
お前の下着は俺だって見るし、何度も触って脱がすんだしなあ?
そうだろ、チビ?
お前がしょっちゅう俺に言ってる、本物の恋人同士とやら。
そうなるためには、俺に下着を触られたくらいで恥ずかしがってちゃ、どうにもこうにも…。
「恥ずかしいんだよ!」
だから嫌だよ、洗わないでよ、ぼくの分まで!
洗濯はハーレイに任せておくけど、ぼくの分だけは放っておいてよ…!
「分かった、分かった。お前の下着だけは俺は洗わない、と…」
しかしだ、他の洗濯物はだ。俺のと一緒に洗っちまうぞ、その方がうんと手間要らずだしな?
お前は自分の下着だけを洗っていればいいのさ、俺に「触るな」と怒鳴りながらな。
その調子じゃベッドメーキングも無理だろ、恥ずかしくてな?
そいつも俺がやってやる。もちろんシーツも俺が洗うさ、お前が無理をしなくってもな。
俺は何度も言ってるからなあ、嫁に来てくれれば充分だと。
本当に俺はそれでいいんだ、お前を嫁に貰えさえすれば。
料理も掃除も洗濯も出来ない嫁さんで全くかまわないんだぞ、俺は満足してるんだからな。
今度こそお前を幸せにすると決めてるんだし、そいつが俺の仕事ってヤツだ。
お前が幸せに暮らせるようにと、家のことを全部するのもな。
だから安心して嫁に来い、ってパチンと片目を瞑られた。
洗濯なんかは頑張らなくていいと、ぼくが洗われて嫌なものだけ自分で洗っていればいいと。
(…自分の下着しか洗わないなんて…)
役立たずのお嫁さんになりそうな、ぼく。
料理も掃除も洗濯もしなくて、ベッドメーキングも出来ない酷いお嫁さん。
それでいいいんだ、ってハーレイは微笑んでくれるけど。
ぼくが家に居るだけでいいって言ってくれるけど、満足だって言うけれど。
(だけど、ちょっとはお嫁さんらしく…)
せっかくハーレイのお嫁さんになった以上は、出来れば頑張ってみたいから。
お嫁さんらしいこともしてみたいから。
まずは洗濯、出来そうなことからやってみようと思うんだ。
シャツを洗って、ズボンを洗って、少しずつ慣れて…。
次のチャンスにはママに取られてしまう前にハーレイに脱いで貰って、ぼくが手洗い。
家庭科でちょっぴり習っただけで少し危ういけれども、ハーレイのシャツをぼくの手で…。
洗濯物・了
※ハーレイの服を洗濯したい、と夢見たブルーですけれど。服だけでは済まないのが洗濯。
出来そうにない、と真っ赤になってしまった顔。いつかは洗濯できるんでしょうか…?
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(あっ…!)
朝、起き上がろうとして覚えた眩暈。ベッドから身体を起こそうとした瞬間に。
ブルーはベッドに引き戻されたけれど。頭が枕に沈んだけれども、少し経ったら。
(…落ち着いた…?)
閉じていた目を恐る恐る開けた。ごくごく普通に天井が見える。見回せば、部屋も。揺れたりはしないし、回りもしない。
(んーと…)
慎重に身体を起こしてみた。両手をついて、そうっと、そうっと。
それから身体の位置をずらして、ベッドの縁に腰掛けてみて。
(…大丈夫だよね?)
気分が悪いとは感じない。立ち上がってみても眩暈はしない。身体が重いわけでもないし…。
本当に具合が悪いのだったら、恐らくこうはいかないだろう。ベッドに座り込むか、力が抜けて床にストンと座ってしまうか。
けれども、両足はきちんと力が入って床をしっかり踏みしめていた。普段と全く変わらない。
(気のせいだったとは思わないけど…)
眩暈は確かに起こしたのだけれど、大したことはない、とブルーは結論付けた。
今日はハーレイが来てくれる日なのだから。
朝から夜まで一緒に過ごせる、土曜日がやっと来たのだから。
(…学校に行く日だったらもう少し…)
慎重に考えもするのだけれど。本当にただの眩暈なのかと、時間をかけて見定めるけれど。
今の自分の体調はどうか、手足を動かして確かめてみたり、軽く体操してみたり。
以前だったら、そんなことすらしなかった。眩暈を起こせば大事を取って休んでいたから、何も行動しなかったけれど、今では違う。学校に行けばハーレイに会うことが出来るから。
(何度も失敗しちゃっているしね…)
ハーレイに会いたくて、ハーレイの授業を聞きたくて。
無理をして登校してしまった後、倒れてしまったり、何日も休む羽目になったり。
結果的にハーレイに会える日が減るという有様、それを重ねれば用心もする。
(でも…)
ハーレイが家に来てくれる方なら、自分は家で待っているだけ。学校に行くより負担も軽い。
それに、さっき眩暈を起こしたこと。
(ママに言ったら連絡されちゃう…)
ハーレイの家に。母は急いで通信を入れて、実はこうだと報告するに違いない。
そしてハーレイは来てはくれないだろう。来ればブルーが休めないから。ベッドで大人しくしているどころか、はしゃいでしまって疲れてしまうに決まっているから。
(絶対、来てはくれないんだよ…)
この家に来ずとも、ハーレイが休日を過ごせる場所は他に幾らでもあるのだから。
ジムへ泳ぎに出掛けてしまうか、柔道の道場へ行ってしまうか。
(内緒…)
眩暈のことを言ってはいけない。両親に知られるわけにはいかない。
両手で頬をパチンと叩いて気合を入れると、背筋をシャンと伸ばして顔を洗いに洗面所へ。鏡に映った自分はいつもと同じで、顔色が悪いわけではなかった。目元も眠たそうではないし…。
(うん、平気!)
これなら決して見破られない、と自信を持った。きちんと着替えてダイニングに行って、両親に朝の挨拶をすると「おはよう」と返って来た笑顔。父も母も全く気付いてはいない。
「ブルー、しっかり食べるんだぞ?」
「朝からそんなに入らないよ!」
パパみたいには食べられないよ、と文句を言いながらの朝食の席。眩暈のことはバレなかった。
お気に入りのマーマレードを塗ったトーストも食べられた。
ハーレイに貰ったマーマレード。ハーレイの母が作った夏ミカンの実のマーマレード。美味しく食べてミルクも飲んだし、自分でも眩暈を起こしたことなど忘れるほど。
食べ終えた後は部屋の掃除で、これも楽々と片付いたから。
(大丈夫!)
もう大丈夫、と嬉しくなった。何処も悪くないと、朝の眩暈は気のせいだったに違いないと。
少しだけ身体が重たいような気もするけれど。
ほんの少しだけ、ほんのちょっぴり。
とはいえ、二度目は起こらない眩暈。身体の重さも、疲れた日ならばよくあることで。
(体育の授業が終わった後だと、こうだよね?)
見学しないで出席した時は、暫く身体が重いと感じる。少し休めば元に戻るし、具合が悪くなるほどでもない。この程度なら…、と身体の重さは気にせず放っておくことにした。
そうして待つ内に、ハーレイが訪ねて来てくれたから。チャイムを鳴らす音がしたから、窓から大きく手を振った。
母の案内で部屋に入って来たハーレイに向かって「おはよう」と元気に挨拶もした。
なのに…。
母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去って間もなく、覗き込まれてしまった瞳。
向かい合わせで腰掛けたハーレイの鳶色の瞳が、ブルーの瞳を見詰めるから。
(…バレちゃう?)
眩暈のことがバレてしまってはたまらない。身体が少し重たいことも。
それは困るから、何気ないふりで視線を逸らそうとしたら「駄目だ」と言われた。
嘘をつくなと、その目はそうだと。
「ついていないよ!」
ぼく、嘘なんかはつかないよ!
ホントだってば、ハーレイ、何を言い出すの?
「いや、分かる。…お前のその目は嘘をついてる目だってな」
いったい何を隠してる?
俺には言えないような何かか…?
「何も…」
隠していないよ、嘘じゃないよ。
ハーレイに嘘を言ったりしないよ、ホントだよ!
絶対に嘘をついてはいない、と言い張った。そんなことはないと、ハーレイの思い違いだと。
けれども、本当はそちらの方が嘘だから。言えば言うほど嘘を重ねるわけだから。
何度も重ねて問われる間に、だんだん俯いてしまっていて。
とうとう白状させられた。
朝に起こした眩暈のことを。身体が重いと感じることも。
「馬鹿、寝ておけ!」
そんな時に起きている奴があるか、お前、ただでも弱いんだろうが!
どうしてお母さんたちに言わずに嘘をついたんだ!
「だって…!」
言ったら、ハーレイ、来てくれないから…。
ママがハーレイに連絡しちゃって、ハーレイ、何処かへ行っちゃうから…。ジムとか、道場。
「お前なあ…。俺はそこまで薄情じゃないぞ、お前の具合が悪いというのに遊びに行くほど」
様子を見に来るに決まってるだろう、お前の家まで。
俺はジムには行っちゃいないし、これから出掛けるつもりも無い。
今日は一日、お前の家に居てやるから。
お前がベッドの住人でもな。
だからサッサとベッドに入れ、と叱り付けられた。
お母さんには俺が言ってくるから、と。
「少し具合が悪いようだ、と話してくる。その間にパジャマに着替えておけ」
お前の裸は目の毒だからな、俺にはな。
うっかり見たなら、我慢出来ずに食っちまうかもしれないだろうが。
「ハーレイっ…!」
ブルーは真っ赤になったけれども、ハーレイは悪戯っぽく片目を瞑った。
「冗談に決まっているだろう。お前みたいなチビを食うほど飢えちゃいないが、だ…」
その程度の冗談くらいはサービスしてやるさ、病人だからな。
今ので身体が温まったろ、温かい間に着替えておけよ?
お前のお母さんに話してくるか、とハーレイが部屋を出て行った後。
ブルーはパジャマを取り出したけれど、ふと考えた。
もしも着替えずにいたならば、と。
(…そしたらハーレイの前で着替えだしね?)
シャツもズボンも、下着だってパンツだけを残して他のは全部。脱いでしまって殆ど裸。
お風呂上がりにする時みたいに、そんな姿からパジャマをゆっくり着てみよう。
上から着るのが効果的だろうか、ズボンを先に履くよりも…?
(目の毒…)
パジャマの上だけを着けて足が覗くのと、上半身だけが見えているのと、どちらがいいのか。
よりハーレイの目の毒なのか、と思案を巡らせ、クスクスと笑う。
どちらの着方を選んだとしても、きっとハーレイは目のやり場に困ることだろう。いくら自分が子供であっても、裸は裸。肌の色などは前の自分と全く変わりはしないのだし…。
(ふふっ、ハーレイ、どうするかな?)
さっきの自分がそうだったように真っ赤になるのか、大人の余裕を装うか。
それでもきっと心の中ではドキドキするのに違いない。恋人の裸を見ているのだから。すっかり裸ではないにしたって、限りなくそれに近いのだから。
(どうなるんだろう…?)
楽しみだよね、とパジャマを抱えてベッドの端に腰掛けていたら、ノックの音。
扉が外から軽く叩かれ、ハーレイの声が聞こえて来た。
「グズグズしてないで早く着替えろよ?」
でないと入ってやらないからな。いつまで経っても。
「なんで分かったの!?」
着替えておくって、ぼく、言ったのに…!
「気配ってヤツだ、そいつで分かる」
さっさと着替えろ、そうしないなら俺は帰るぞ?
「待ってよ、それは困るってば!」
ちゃんと着替えるから、帰らないでよ!
ハーレイ、今日は一日いてくれるって言っていたじゃない…!
ブルーの目論見は見事に外れた。ハーレイは何もかもお見通しだった。
渋々、一人きりの部屋でパジャマに着替えて、「もういいよ」と扉の向こうに声を掛ければ。
「よし」と入って来たハーレイ。
それでいいのだと、チビのお前に裸の披露はまだ早いと。
「着替えたんなら、ベッドに入れ」
裸足でボーッと突っ立ってないで、早くベッドに入らんと身体が冷えてしまうぞ。
「うん…」
ゴソゴソとベッドに入って上掛けを引っ張ると、ハーレイが首元まで被せてくれた。その上から大きな手がポンと置かれて、「これでいいか?」と微笑まれる。
上掛けの具合は丁度いいかと、肩までしっかりくるまったかと。
「ありがとう、ハーレイ…」
これくらいでいいよ、あったかいよ。
でも…。
どうして分かるの、ぼくの嘘が?
眩暈を起こしたことを黙っていたのも、着替えないで部屋に居たことも…?
そのことが本当に不思議だったから。
どうして両親にも分からなかった嘘を見抜かれたのかと、着替えなかったことも知られたのかと不思議でたまらなかったから。
ベッドの中から見上げて尋ねると、ハーレイは「それはな…」と椅子を運んで来た。テーブルの所に置いてあった椅子を、いつも自分が座る方の椅子を。
その椅子をベッドの脇に据えると、腰掛けてブルーを見下ろしながら。
「お前、嘘をつくのが下手だからなあ、直ぐに分かるさ」
見てるだけで分かる、これは嘘だと。でなければ何か隠していると。
「心が零れてしまうから?」
ぼくは遮蔽がまるで駄目だから、考えてることが筒抜けなの?
パパやママにはバレなくっても、ハーレイには分かってしまうとか…?
「今のお前はそれもあるがだ、前の時から下手だった」
「前?」
「前のお前さ、ソルジャー・ブルーも嘘をつくのが下手だったんだ」
ただし、そいつは俺限定だったみたいだがな。
他のヤツらは騙されていたし、今のお前のお父さんやお母さんと似たようなものかもしれん。
しかし俺には通じなかった。どんな嘘でも分かっちまったな、嘘だとな。
怪我も病気も見抜いたろうが、とハーレイは言った。
シャングリラの誰もが気付きもしなかった、ブルーが負った怪我や身体の不調。そういった時も自分だけは必ず気付いていたと。ドクターに診せたり、ベッドに送り込んだりしていたと。
「…そう言われればそうだったっけね…」
ハーレイ、いつでも怖い顔をして睨み付けるんだ、ドクターに診て貰いましたか、って。
掠り傷だよ、って言っても連れて行かれたっけ、メディカルルームに。そんなに大した怪我じゃなくても、ちょっと掠っただけの傷でも。
「一事が万事だ、お前はいつでも隠してたからな」
掠り傷だと言われた所で信用できるか、この目で見るまで。実際、包帯を巻くような傷も負っただろうが、掠り傷だと言っていたがな。
「だけど、包帯程度だったよ? 縫うような怪我はしていないってば」
それなのにハーレイ、ホントに大袈裟なんだから…。ノルディに「怪我人です」って言うんだ、ぼくを無理やり引っ張って行って。
「当たり前だろうが、お前は嘘をつくんだからな」
どんな傷でも掠り傷なんだ、俺に信用されなくなっても当然だろうと思うがな?
それに病気の時も同じだ、平気なふりをして歩き回って、無理して悪化させちまうんだ。
誰も気付いちゃいないからなあ、そうなっちまう前にベッドに送り込めるのは俺だけだった。
どうしたわけだか、俺にしてみれば分かりやすい嘘が、他のヤツらは全く分からなかったんだ。
最たるものがメギドだった、とハーレイが零す。
あの嘘だけは見抜きたくなかったと、見抜けたことが辛かったと。
「…誰も気付いちゃいなかったんだ。お前が何を考えていたか」
お前が二度と戻らないこと、戻るつもりが無いということ。
「それは仕方ないよ、ぼくはハーレイにしか言わなかったよ」
ぼくがいなくなってもジョミーを支えてやってくれ、っていうことは。
みんなに知れたらパニックになるし、ハーレイにしか言葉を残せなかった。
ぼくは死ぬとは言わなかったけれど、あの言葉で気付かない方が変だよ、ぼくの気持ちに。
「いや、その前から分かっていたさ」
お前の目でな、とハーレイの顔が辛そうに歪んだ。
あの日に引き戻されたかのように。
ブルーがメギドへと飛んだあの日に、その直前のシャングリラに。
「…ブリッジへ来た時のお前の目。あの目が既に違っていたんだ」
いつものお前の目とは違った。俺には一目で分かっちまった。
お前は決意を固めたんだと、何もかもを捨てるつもりだと。シャングリラも、俺も、お前自身の命も、全部。何も残らない所へ行こうとしているんだと読めちまった。
直ぐにお前を止めたかったが、お前と来たら…。
ナスカへ降りると、ジョミーと一緒に説得に行くとスラスラと嘘をつくんだからな。
「…そうしなければ出して貰えなかったよ、シャングリラから」
あの段階ではメギドだとハッキリしていたわけじゃないけど、とにかく人類軍の攻撃。
それを防ぎに飛んでゆけるのも、命懸けでシャングリラを守って死んでも影響が出ないのも前のぼくしかいなかったし…。
あそこでぼくが出るのを止めたら、シャングリラは沈んでしまうんだから。
「それはそうだが、お前の嘘は上手すぎたんだ」
お蔭でお前が飛んでった後も、誰も気付いちゃいなかった。
お前が戻らないことに。二度と戻りはしないことに…。
それだけに余計、辛かった。
ブリッジの連中が掛けてくる言葉も、ナスカに残ったヤツらへの対処も。
お前が命を捨てようというのに、真っ直ぐに死へと飛んでったのに。俺の周りじゃ、その真実が見えていないヤツらが俺の指示を待っていやがるんだ。
ソルジャー・ブルーが死ぬというのに、長い長いことミュウを守ったお前が死ぬというのに。
…しかもお前は、俺にとってはソルジャー以上の存在だった。
お前が死んだら俺も死ぬんだと、数え切れないほどに誓った、前のお前に。
そのお前が一人で逝っちまうんだぞ、俺をシャングリラに残してな…。
最悪な気分だったんだ、と呻くハーレイ。
あの嘘だけは気付きたくなかったと、少しでも後に知りたかったと。
「お前の目だけで気付くよりはな、言葉の方で気付きたかった」
そうすりゃ少しは、ほんの少しは生き地獄の時間が減ってただろう。
ナスカに降りると嘘をつくお前を見守るヤツらに、イラついたりもしないでな。
お前に置いて行かれちまった俺の地獄は、あの瞬間から始まったようなものなんだ。ブリッジでお前を見送った後は、もう地獄へと一直線だ。
お前を失くして、一人残されて。
…それでも地球まで行くしかなかった、お前の言葉を守ってな…。
「ごめん…」
ぼくのせいだね、嘘をつくのが下手だったから。
ハーレイにも見破れないような嘘をつくべきだったね、普段はともかく、あの時だけは。
「いや、いいさ」
お前が俺に嘘を上手につけないってことを、あの時以外は辛いと思いはしなかったからな。
それまでは散々、役得もあった。だからいいんだ。
「役得?」
なにそれ、ぼくの嘘で何か得でもしてたの、ハーレイ?
「していたとも。数え切れないほどな」
お前の嘘を見抜けたからこそ、ソルジャー・ブルーの世話が堂々と出来た。
恋人同士だと全くバレずに、寝込んじまったお前を見舞って、世話して。
ただのキャプテンだとそうはいかんぞ、何故ソルジャーの世話をするのかと疑われてたな。
ブリッジを抜けて野菜スープを作りに行ってやるだとか…、と例を挙げたハーレイ。
前のブルーが好んでいたスープ。どんなに弱り果てた時でも、それだけは喉を通ったスープ。
何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープは、ハーレイだけが作っていた。厨房の者たちは材料の野菜を用意するだけで、刻む所からハーレイがやった。
普通だったら、そうした仕事は厨房の係がしていただろう。
最初に作ったのがハーレイだとしても、次からはレシピを託された係が作っただろう。
ソルジャー・ブルーが好むスープはこう作るのだと、厨房にレシピが置かれていたことだろう。
けれども、そうはならなかった。
スープを作るのは常にハーレイ、キャプテンだったハーレイだけ。
「少し外す」とブリッジを抜けて厨房に出掛け、野菜を抱えて青の間に行って。奥のキッチンでスープを作っては、ベッドのブルーに食べさせていた。
そう、文字通りに「食べさせた」。
「熱いですよ」とスプーンで掬って、そうっと口へと運んでやって。
ブルーが自分で食べていたことも多いけれども、そうした甘い時間もあった。
ハーレイの手から、一匙ずつ。スープの器が空になるまで、何度も口を開けていたブルー。
誰も気付いてはいなかった。
ハーレイがスープを用意するだけの係ではないということに。
「な? 俺がお前の世話をしてても、誰も変だと思わなかったから出来たんだ、あれは」
まさかお前に食べさせてたなんて、厨房のヤツらでも気付きやしないさ。
俺が野菜を取りに行ったら労ってくれたぞ、「大変ですね」と。
大変どころか、俺はデートに出掛けるんだがな、堂々と仕事をサボッてな。
そういったことが出来たのも、だ…。
俺が最初に見抜くからだな、お前の嘘を。何処も悪くないと平気な顔をしてつく嘘を。
お前をベッドに送り込んでから、ノルディを呼んでいたからなあ…。
ノルディにも一目置かれてたんだぞ、「早めに治療に取り掛かれるので有難いです」と。
病気ってヤツは罹り始めの治療が大切だからな、こじらせてからじゃ遅いしな?
そしてだ、俺はますますお前の専属の係になれたってわけだ、病気の時の。
なんたってノルディのお墨付きだし、俺が一番、お前の体調が分かってるってな。
実に分かりやすい嘘だった、とハーレイが喉の奥で笑うから。
役得だった、と可笑しそうだから、小さなブルーは上掛けの下から問い掛けた。
「じゃあ、今のぼくの嘘は…」
どうなの、ハーレイ?
前のぼくと同じで、やっぱり下手くそ?
「分かりやすいさ、前以上にな」
今日だって見事に見破ったろうが、お前の嘘。
眩暈を起こしたことを黙っていたのも、着替えろと言ったのに聞かなかったこともな。
「それだと、全部バレちゃうの?」
どんなに頑張って嘘をついても、ハーレイにはバレてしまうわけ?
「多分な」
よほど工夫をしない限りはバレるだろうなあ、ついてもな。
工夫したって無駄だという気もしないでもない。前のお前でも俺には敵わなかったんだしな。
余裕たっぷりに言われてしまって、ブルーは唇を尖らせた。
「ぼくだけ嘘がバレちゃうだなんて、不公平だと思わない?」
だって、ぼくにはハーレイの嘘が分からないのに…。
いつだって「冗談だ」って笑われるまで騙されちゃったままだよ、ハーレイの嘘に。
「前のお前の時からそうだな、そいつはな」
俺がついてる嘘ってヤツにだ、気付かないっていうのはな。
「そうだよ、ハーレイ、読ませないんだ。…本当のことは」
読もうとしたって、ガードがうんと固くって。
…その代わり、教えてくれたけれどね。
もう食料が尽きてしまうんだ、って、ぼくにだけとか。
「あったな、そういう事件もな」
お前に教えちまったことを後悔したがだ、結果的には良かったか…。みんな揃って飢え死にってトコを助けられたからな、お前にな。
「ああいう所はいつも読めなかったよ、ずっと後になっても」
「そうか?」
「うん。一度も読めたことがなかった…」
ハーレイが自分一人の胸に収めておこう、って決めた部分は読めなかったんだ。
ぼくがどんなに頑張ってみても、それだけは読めはしなかった。
余計な心配をかけないように、って黙っていたこと、多かっただろうと思うけど…。
シャングリラの中でも、トラブルは色々とあっただろうから。…仲間同士の諍いとかね。
今度もやっぱりそうなのだろうか、とブルーが呟く。
自分の嘘ばかり見抜かれてしまって、ハーレイの嘘は見抜けないのかと。
「今度も同じかな、今日もハーレイにバレちゃったし…」
ハーレイに騙されて笑われちゃってることも多いし、おんなじなのかな…。
「さあな? そいつはどうだかなあ…」
結婚したら一緒に暮らすんだからな、俺が嘘をつく時の癖に気付いたりするかもしれん。
俺は自分じゃ気付いていないが、嘘をついた後にする仕草だとか、そういうのがな。
…だがな、今度は見抜けない方が楽しいぞ?
「なんで?」
ぼくばかりが損をしそうな気がするんだけど…。
「そう悲観するな。ものは考えようってヤツだぞ、嘘によっては分からない方がいいこともある」
今夜の料理は時間が無いから手抜きにするぞ、と言っておいて御馳走を買ってくるとかな。
たまには買って来た飯っていうのも悪くないだろ、家では出来ないようなヤツ。
ドカンと大量に作らなきゃ美味くない料理を何種類もだ、買い込んで来てパーティーだとか。
「ああ…!」
そういうお料理、家で作るなら一種類しか無理だよね…。
沢山作れば同じものばかりを食べることになるし、それじゃ二日で飽きちゃうもんね。
「うむ。だからだ、プロの作った料理を二人前ずつ沢山買うのさ」
そしてズラリと並べ立ててだ、端から味見をするってな。
お互い、好き嫌いが無いのが売りだからなあ、うんと楽しいパーティーになるぞ。
手抜き料理だと思っていたのがパーティーだなんて、嬉しい嘘っていうヤツだろうが?
誕生日だってサプライズだ、とハーレイは笑う。
三月の一番末の日はブルーの誕生日。
何も用意はしていないのだ、と謝っておいて、とびきりのデートに連れ出すとか。
「もちろん用意は周到ってな。店とかにもしっかり予約を入れて」
お前が喜ぶようなプレゼントもきちんと買っておくんだ、お前に気付かれないように。
どういうものを欲しがってるのか、俺はお前に尋ねるわけだが、お前はそうだと分からない。
まるで関係ない話だと思って答えていたのが、実はプレゼントの下調べってわけだ。
そういった嘘を見抜いちまったら、お前、嬉しさ半減だぞ。
「…それじゃ、ハーレイの嘘は分からない方が…」
いいってことかな、今度のぼくは?
「その方がグンとお得だぞ?」
俺はそっちをお勧めするがな、俺にコロリと騙されちまって、最終的にはいい目をする。
それがお勧めコースってヤツだ、素直に嘘を信じておけ。
「うんっ!」
お得だったら、そうするよ。
ぼくが困ってしまうような嘘、ハーレイは絶対、つかないものね…!
前のハーレイもそうだったから、と頷いたブルーだったけれども。
騙されることにしておこう、と決めたけれども、少し心に引っ掛かること。
「でも…。ぼくの嘘の方は損じゃない?」
ぼくの嘘がハーレイにバレちゃうってことは、ぼくはサプライズをしてあげられないよ?
ハーレイのお誕生日とかにコッソリ準備をやっていたってバレちゃうんだけど…。
それは損だと思わない?
ぼくばかりサプライズで喜ばせて貰って、ハーレイはサプライズは無しだなんて…。
「いや、サプライズはもう沢山だ」
メギドだけで、とハーレイが顔を顰めてみせる。
ブルーが目覚めて喜んだのも束の間、メギドへ飛ばれてしまったと。
一生分のをあれでやられたから、サプライズはもう要らないと。
「あれがサプライズって…」
ごめんね、ハーレイ。
嘘が下手な上に、とんでもないサプライズまでやってしまって。
そういうつもりじゃなかったんだけど、ハーレイには酷いサプライズだよね…。
「いいさ、お前は帰って来たしな」
俺よりも年下のチビになっちまったが、ちゃんと帰って来てくれた。
だからいいんだ、謝らなくても。
俺のお前は此処にいるしな…。
嘘の下手なお前、と額をコツンと小突かれて。
少し眠れ、と優しく頭を撫でられる。
俺がついているから少し眠れと、明日は元気になってくれよ、と。
「うん…。うん、ハーレイ…」
帰らないでよ、寝てる間に。ちゃんと夜まで家にいてよ…?
「帰らないさ。約束したろう?」
ジムにも行かんし、道場にも行かん。
その手の嘘はつかないさ。お前の信用を失くしちまうしな、そういった嘘は俺はつかない。
お前が嬉しくなっちまう嘘か、騙されても笑って済むような嘘か。
そんなのだけだな、つくのはな。
今度こそお前を守るんだから、と上掛けをそうっと掛け直されて。
ブルーは「うん」と瞼を閉じた。
ハーレイは決して嘘をつかない。自分が悲しむような嘘はつかない。
目覚めたらきっと、温かな声で「起きたか?」と訊いてくれるハーレイが側にいる筈だから…。
つけない嘘・了
※今も昔も、ハーレイには嘘をつけないブルー。どんな時でも、見抜かれてしまって。
そしてブルーには嘘をつかないハーレイ。今の生では、サプライズという嘘が楽しみかも。
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「おっ…!」
しまった、って響いたハーレイの声。
床にチャリンと何かが落ちた。もっと重たい音だったのかもしれないけれど。
金属が立てる、独特の音。向かい合わせで座ってたテーブルの多分、真下辺りで。
(また銭亀?)
前にハーレイの財布から零れて落っこちた小さな亀のお守り、それが銭亀。お金が貯まるのと、延命長寿だったかな?
そういう力を持ったお守り、知らなかったぼくは何処かの星のお金だと思ったんだったっけ。
ぼくが拾うよ、ってテーブルの下に潜り込んだら、落ちていたものは亀じゃなかった。銭亀よりずっと大きなもの。鍵が幾つもくっつけられたキーホルダー。
(何の鍵だろ?)
見ただけじゃ何か分からない鍵がドッサリ、ホントに色々。
拾い上げてみたら、そこそこ重い。銭亀だったら何匹分になるんだろう?
(…銭亀も素敵だったけど…)
この鍵だって、何か物語があるかもしれない。それが聞けたら嬉しいんだけどな、鍵たちの話。
キーホルダーを拾って這い出して、「はい」ってハーレイに渡して訊いた。
ワクワクしながら訊いてみた。
何の鍵なの、って。いっぱいあるね、って。
「そりゃまあ、なあ…?」
大人になったら色々と要るさ。年を重ねりゃ、少しずつ増えてゆくもんだ。
お前は持っていないのか、鍵は?
「あるよ、家の鍵」
ちゃんと合鍵、作って貰って持ってるよ。学校へ行く時はいつも鞄に入れてるもの。
使ったことはないけれど、って答えた、ぼく。
実際、一度も無かったから。
ママには「帰って来て鍵がかかっていたなら、自分で開けて入るのよ」って言われてるけれど、そんな場面には出会っていない。ママはいつでも家に居てくれる。
ぼくの身体が弱いからかな、留守番なんかはあまりさせたくないみたい。ちょっと買い物とか、ご近所さんの家に行くとか、そういう時しか留守番をすることはない。
だから学校から戻って家の鍵を自分で開けたことなんか、ホントに一度も無かったんだ。
持ってるってだけの、この家の鍵。一度も使ったことがない鍵。
そう説明したら、ハーレイは「なるほどなあ…」って大きく頷いた。
「確かにお前は普通のガキより弱いからなあ、お母さんだって心配だろうな」
具合が悪くなってないかと、フラフラしながら家に帰って来るんじゃないかと。
おまけに妙に我慢強いと来たもんだ。たとえ具合が悪くったってだ、家に帰って誰もいなけりゃ留守番を始めるんだろ、お前?
普通のガキなら鍵を掛けちまって寝に行く所を、ベッドに入ったりせずに。
「うん、多分…。その内にママが帰って来るしね」
鍵がかかってたら、ぼくが帰ってないかと思ってママも心配しちゃうだろうし…。
それにママの留守に、ご近所さんが何か届けに来るかもしれないし。
「やっぱりなあ…。そういう所は前のお前と変わらんな」
心配させまいとして無理をするんだ、そっちの方が周りはよっぽど心配しちまうものだがな。
ついでに責任感が強くて、頑張っちまう。任されてもいない留守番までな。
…それでだ、お前が持っている鍵、家のだけか?
「そうだけど…。他に鍵って、何かあった?」
ぼくの友達も家の鍵しか持っていないよ、訊いてみたことはないけれど…。多分。
「普段は持ち歩かないんだろうが、だ。自転車の鍵っていうのがあるぞ」
そいつはお前は持ってないのか、自転車の鍵。
「ぼく、自転車には乗らないからね」
乗れないんじゃないよ、って慌てて付け加えた。勘違いされたら癪だから。
ぼくだって自転車くらいは乗れる。うんと頑張って練習したから、乗って走れる。
だけど身体が丈夫じゃないから、自転車は疲れてしまうんだ。クラッとした時には、もう遅い。自転車ごと倒れて怪我をしちゃったことが一回、それ以来、ぼくは乗ってはいない。
ハーレイにもきちんと説明をした。危ないから乗っていないだけ、って。
「お前、自転車にも乗れなかったのか…」
すまん、乗れないんじゃなくて乗らないんだったな。
「そうだよ、危うきに近寄らずだよ!」
パパにもママにも止められてるから、ぼくの自転車、家に無いでしょ?
下の学校の時に怪我した自転車、あれが最後の自転車なんだ。家の近所は走れたけれども、次の自転車、買って貰えなかったんだよ。自転車が小さくなっちゃっても。
「そいつは正しい選択だろうな、お母さんたちにしてみればな」
ガキってヤツはだ、大きくなるほど、自転車に乗って遠くへ行こうとするもんだ。お前の友達もそうだったろうし、そうなりゃ、お前もついて行く。疲れてしまってもついて行くだろ?
そうして何処かで自転車ごと倒れて怪我をしたなら大変だ。家から遠けりゃ遠いほどな。
「うん…。分かってるから、諦めたけど…」
たまに友達が羨ましくなるよ、学校が終わったら自転車に乗って集まろう、なんて時にはね。
今でも時々そう思うけれど、自転車で遠くへ出掛けちゃったら、家でハーレイに会えないし…。
仕事が早く終わったから、って来てくれた時に、帰ってないかもしれないし…。
だからいいんだ、自転車なんかは乗れなくっても。
「そう来たか…。俺が来るから自転車は要らん、と」
実に光栄だな、楽しみに待って貰えるとはな。
しかしだ、そんな調子だと…。自転車の鍵も持たないとなると、こういった鍵とも縁が無いか。
見ても全然分からんだろうな、どの鍵が何の鍵なのか。
「うん…」
いっぱいあるな、って思うけれども、どれがどれだか…。
ハーレイがどういう鍵を持つのか分かっていないし、ホントに見当がつかないよ。
「だろうな、それじゃ解説してやるとするか」
大サービスだぞ、何の鍵かを教えるんだからな。鍵さえあったら、お前もそいつを開けられる。
もっとも、プレゼントする気は全く無いから、開けるチャンスも無いだろうがな。
…いいか、こいつが車の鍵だ。これを失くしたら車には乗れん。
これが学校の俺のロッカー。こっちは柔道部の方で使うロッカーのだ。
そしてこれがだ…。
ハーレイが説明してくれた鍵。キーホルダーについている鍵。
柔道の道場のとか、ジムのだとか。鍵が色々、覚え切れないくらいだけれど。
「ふむ…。こいつは、いつかお前も持つな」
銀色をした小さな鍵。ぼくが持つって、どうしてだろう?
「何の鍵なの?」
その鍵、何に使っているの?
「毎日お世話になっているなあ、俺の家に出入りするのにな」
玄関の鍵だ、俺の家のな。お前もいずれは使うんだろうが?
「あっ…!」
そうだね、その鍵、要るんだね…。一番大事な鍵だものね。
それが無くっちゃ、ハーレイの家には入れないものね…。
ぼくが将来、ハーレイのお嫁さんになるんなら。
あの家に住むなら、ぼくも持つ鍵。お世話にならなきゃいけない鍵。
ハーレイが出掛けて留守の間に買い物に行くには、あの鍵を使って閉めたり、開けたり。
玄関の大きな扉を通って出入りするんだ、まだ二回しか通ったことが無いけれど。
一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時と、メギドの夢を見て瞬間移動で行っちゃった時と。瞬間移動した時は出て来ただけで、入る時は扉を使っていない。
だけど覚えてる、ハーレイの家の玄関の扉。ハーレイが住んでる、あの家の扉。
それの鍵だと思うと嬉しい。その鍵をいつか持てるってことも。
「今は駄目なの?」
その鍵、今はまだ貰えないの?
ハーレイの家の鍵なんだったら、早めに渡してくれたりしない…?
「お前に渡しても、持ってる意味が無いだろうが」
俺の家には来られないくせに、って笑われた。来てもいいって許可は出していないぞ、って。
「そうだけど…。でも、欲しいよ」
「使えない鍵を持っていたって、仕方がないと思うがな?」
鍵ってヤツは使ってこそだぞ、使うために作られているんだからな。合鍵もそうだ。
それとも、お前。俺の留守に空き巣に入るつもりか?
ずいぶん可愛くてチビの空き巣だが、そいつが入り込むのか、うん…?
(空き巣…)
家の人が留守にしている間に、忍び込んで盗みをするのが空き巣。いわゆる泥棒。
そんな悪い人、今の時代にはいないけど。
言葉は今でも残っているから、空き巣が何かはぼくにも分かる。
前のぼくの頃には、まだいた空き巣。マザー・システムが監視してても、いた空き巣。監視網があっても、悪いことをする人たちはいた。それに…。
(潜入班だって、空き巣みたいなものだよね?)
ミュウの子供たちを救い出すために、アルテメシアに送り込んでいた潜入班。彼らは人が住んでいない家を見付けて、人類のふりをして暮らしていた。あれも一種の空き巣だろう。泥棒をしてはいないけれども、住むために必要なエネルギーとかをタダで使っていたんだから。
(んーと…)
潜入班のことを思い出したら、むくむくと頭を擡げて来たもの。
ぼくも空き巣になりたくなった。いつか持てる筈の銀色の鍵を早めに貰って、チビの空き巣に。
(ハーレイの留守に家に入って…)
玄関の扉を合鍵で開けて、堂々と入っていく空き巣。ちょっぴりドキドキする冒険。
きちんと靴を脱いで家に上がって、脱いだ靴はちゃんと揃えて端っこに置くんだ、お行儀よく。
それからあちこち覗いて回って、お茶を飲んだり、お菓子をつまんだり。
入ったからには掃除もしなくちゃ、きっと汚れてはいないだろうけど、しっかり掃除。テーブルとかもピカピカに拭いて、お嫁さんになった時のための練習。
そしてハーレイが帰って来たなら、笑顔で「おかえりなさい」って…。
「おい、筒抜けだぞ、空き巣」
「えっ…!」
零れちゃってた、ぼくの夢。ぼくの心から零れていた夢。
夢中で想像してたからかな、ハーレイに全部バレちゃっていた。空き巣って呼ばれて、おでこをコツンと小突かれた。「悪戯者めが」って。
「この鍵はまだまだ渡せんな」
俺が留守の間に入り込まれていたらたまらん、来るなと言ってあるのにな。
そういう危険があるとなったら、お前が充分に育つまではだ、渡すわけにはいかないってな。
「ハーレイのケチ…!」
ホントにやるとは言っていないよ、ハーレイの留守に入って空き巣。
やってみたいな、って思ってただけで、実行するとは言っていないってば…!
だからちょうだい、って強請ったけれども、合鍵は貰えそうにない。
ハーレイはぼくを綺麗に無視して、次の鍵の説明に移ってしまった。学校のだったか、それとも別の何かだったか、三つほど鍵を見せて貰って「これで全部だ」って言われたけれど。
(えーっと…)
まだ一つ残っている鍵がある。何に使うのか、聞いてない鍵。
ぼくの記憶違いっていうんじゃないんだ、こんな鍵なら一度聞いたら忘れやしない。
うんとレトロな、鍵っぽい鍵。SD体制が始まるよりも前の時代から使われていそうな形の鍵。
だけどちっとも古くない。古く見えるように加工がしてあるだけ。
もしかしたら、鍵じゃないんだろうか?
キーホルダーなんだし、最初からついてた飾りの鍵?
そういったこともありそうだけれど、やっぱりその鍵が気になるから…。
「ハーレイ、これは何の鍵なの?」
何も説明を聞いてないけど、キーホルダーについてる飾り?
「ああ、こいつか…。いずれ要る鍵だ」
今は使っていないからなあ、説明は要らんと思ったんだが。
「いつ使うの?」
「お前と結婚した後だな」
まだまだ当分先のことだな、お前、十四歳だしな?
おまけにチビだし、結婚出来るのはいつのことやら…。それまで出番が無い鍵だ。
「何に使うの?」
「もちろん鍵を掛けるためさ」
それ以外に無いだろ、鍵の使い道なんて。いくら見た目がレトロな鍵でも。
「鍵って…。何に?」
何に掛けるの、鍵なんかを?
結婚したから鍵を掛けるって、いったい何処に…?
急に心配になってきた、ぼく。
ハーレイと結婚したら家の合鍵を貰えるらしいのに、玄関を開けられるようになるのに。自由に家に出入り出来るのに、そうなったら鍵を掛けるらしい、何か。
(それって、ぼくが開けられないように…?)
まさかね、って思ったぼくだったけれど、ハーレイの答えはこうだった。
「鍵を掛ける場所が知りたいってか?」
決まってるだろう、俺の机の引き出しだ。こいつはそのための鍵ってわけだ。
「引き出しって…。ハーレイ、ぼくのこと、疑ってる?」
開けて色々探しそうだ、って。
ハーレイが仕事に行ってる間に、ぼくが中身を調べてそうだ、って…。
「やらないのか、お前?」
「やらないよ!」
本物の空き巣じゃないんだから!
ハーレイの引き出し、勝手に開けたり、中を覗いたりしないよ、ぼくは!
そんなことはしない、って叫んだけれど。
絶対やらない、って言い張ったけれど。
(…でも……)
中身が何だか分からない引き出しが家にあったら、ハーレイがそれをとても大事にしてたなら。
毎日、毎日、そういうハーレイを目にしていたなら、ぼくの気持ちも揺らぎそう。
あの引き出しには何が入っているんだろう、って。
ハーレイは何を大事に仕舞っているんだろう、って。
(…掃除してたら、机だって…)
拭きに行くだろうし、部屋の中を掃除している時にも引き出しはきっと目に入る。大切な何かが入った引き出し、それが何なのかぼくには決して教えてくれない内緒で秘密の引き出しの中身。
その上を、前を何度も掃除して回る内に、とうとう我慢出来なくなって…。
(…やっちゃうかも…)
引き出しの中を覗いちゃうかも、ハーレイのことは全部知りたいから。
どんなことでも知っていたいし、分かっていたいと思うから…。
ぼくの心が零れていたのか、それとも顔に出てたのか。
あの鍵をハーレイが指でつついた。
「ほら見ろ、この鍵は必要なんだ」
悪いお前が開けに来るしな、そう出来ないように鍵を掛けとかないとな。
「そんな…!」
やっぱりぼくを疑ってるの?
まだ子供だもの、ちょっぴり気になることもあるけど、大きくなったらやらないよ…!
前のぼくと同じくらいに大きくなったら我慢出来るよ、今は無理でも…!
それなのに鍵を掛けるなんて酷い、って泣きそうになったぼくだったけれど。
「冗談だ」って笑ったハーレイ。今までのは全部冗談だ、って。
「この鍵はな…。今だからこそ必要なのさ」
現役の鍵だ、ある意味、何よりも大事な鍵だな、こいつはな。
「なんで?」
引き出しの鍵でしょ、どうしてそれが今、必要なの?
「悪いガキどもが手ぐすね引いて狙っていやがるからな」
俺がクラブで指導しているガキどもだ。
あいつらを家に呼んだら文字通り家探しってヤツになっちまうんだな、家じゅう覗いて引っ掻き回して凄い騒ぎになるからなあ…。
俺の秘密を暴きたいのか、単なる好奇心なのか。
プライバシーを守り通したかったら、一ヶ所くらいは鍵を掛けとかんとな?
そのための鍵だ、ってハーレイは片目を瞑ってみせた。
俺の日記を入れてある引き出しにだけは、こいつで鍵を掛けるんだ、って。
「そっか、日記…」
でも、ハーレイの日記は覚え書きでしょ、
見られたって別にいいんじゃないの?
ぼくのことだって書いていないって言ってるんだし、誰が見たって良さそうだけど…。
「忘れちまったのか、前の俺が書いてた航宙日誌」
あれも日記じゃなかったわけだが、前のお前にも一切読ませていなかったろうが。
俺の日記だ、と秘密にしていた筈だぞ、最後までな。
「そういえば…。日記じゃなくても日記なんだね、ハーレイの日記」
「俺にとっては大事な記録というヤツだからな」
航宙日誌の時と同じだ、俺が読んだら書いてないことまで分かるんだ。
それは日記ということだろうが、悪ガキどもにまで見せてやることはないってな。
ヤツらが来る日はこいつで鍵だ、とハーレイの指がつまんだ鍵。
形も古いし、古く見せるための加工もしてある鍵だから。
「レトロな鍵だね、引き出しの鍵」
ホントに飾りかと思っちゃったよ、キーホルダーの飾り。だけどその鍵、使えるんだね?
「効き目って意味なら普通の鍵と変わらないってな、こんなのでもな」
ガッチリと鍵は掛かるわけだし、これで充分に役に立つ。
ただ、この通り単純な形だからなあ、合鍵どころかヘアピンがあれば開けられるらしい。試してみたことは一度も無いがだ、空き巣がいたような時代だったら格好の獲物って所だな。
「ふうん…。でも、ハーレイが好きそうな鍵だよね」
「この手の鍵がついてるヤツ、って選んで買った机だからなあ、俺のはな」
木で出来た机って所にも大いにこだわったんだが、鍵の形にもこだわった。こういうのだ、と。
前の俺と違って選び放題だったからなあ、今度の俺はな。
「ハーレイの机…。ぼくはハッキリ覚えていないよ」
書斎にあったな、ってことくらいしか…。後は今度も木の机ってことと。
「お前、一度しか見ていないからな」
家の中を案内してやった時に入っただけだな、書斎はな。
「そう。…二度目はチラッと見えただけだよ」
ハーレイと一緒に歩いてた時、廊下からチラッと見えたけど…。たったそれだけ。
前のハーレイの机の方がお馴染みだよ、って言った、ぼく。
あっちの方なら今でも鮮やかに思い出せるし、色も形も覚えているよ、って。
前のハーレイが使っていた机。味わいが出ると、せっせと磨いた木で出来た机。
「ねえ、ハーレイ。あの机に鍵はあったっけ?」
引き出しに鍵はついていたかな、あの机も…?
「いや、無かった」
鍵なんかついちゃいなかったな、あれは。どの引き出しでも覗き放題、開け放題だ。
部屋付きの係が掃除のついでに開けてたってこともあるんじゃないか?
俺は開けるなとは言わなかったし、掃除をしようと開けて中身を出すとかな。
鍵がついてはいなかったという、前のハーレイが大事にしていた木の机。
つけようか、って話はあったらしいんだけれど、ハーレイはそれを蹴ったって。
鍵は要らないと、必要無いと。
「…なんで?」
キャプテンの部屋の机なんだよ、今のハーレイとは違ったんだよ?
クラブの生徒を相手にするのと、シャングリラの仲間を相手にするのじゃ違いすぎない?
前のハーレイの方が引き出しに鍵が要りそうなのに…。
どうして鍵をつける話を断っちゃったの?
「隠し事は一つで沢山だ」
それ以上あったら隠し切れんな、プライベートな秘密ってヤツは。
「一つ?」
何それ、何を隠していたの?
「分からないか?」
前のお前と恋人同士だったということさ。知られるわけにはいかなかったろ、誰にもな。
その他に何を隠すと言うんだ、わざわざ引き出しに鍵まで掛けて?
ウッカリ鍵つきの引き出しなんぞを貰っちまったら、肝心の秘密がお留守になるぞ。
あれは鍵では守れない隠し事だったんだから、と言われれば、そう。
前のぼくとの恋を引き出しに入れて、鍵を掛けたりすることは出来ない。恋はそういうものじゃない。もしも引き出しに入れられたとしても、そこから溢れて出て来るのが恋。
だって、好きだと思う気持ちは止められないから。
どんどん想いが膨れ上がって、募ってゆくのが恋なんだから。
だからハーレイは引き出しに鍵をつける話を断ってしまったんだろう。
前のぼくとの恋を隠さなければと、そっちの方が遥かに大切だからと。
引き出しの中には入らないものを隠さなければいけないから。気を緩めたら大変だから。
航宙日誌にも一切書かずに、ぼくとの恋を隠し通した。
白いシャングリラが地球に着くまで、前のハーレイの命が終わる時まで…。
「前の俺の鍵は、いわばお前さ」
お前が俺の鍵だったんだ。引き出しに鍵をつけなくても。
「ぼく?」
どういう意味なの、ぼくが鍵って…?
「前のお前だ、前のお前を守るためなら俺は何でも隠せたわけだな」
自分の気持ちも、それ以外のことも。
前のお前が俺だけに明かした秘密なんかも、俺は喋らなかっただろうが。…俺は最後まで誰にも話さなかったぞ、フィシスが本当は何だったのかを。
トォニィが気付いちまった時にも、俺は黙っていただけだ。俺は一切、喋ってはいない。
そうやって守り通した秘密も、今となっては歴史の常識なんだがな。フィシスの生まれも、前のお前がサイオンを与えたということもな…。
「じゃあ、今のぼくは?」
ハーレイの鍵になっているわけ、今のぼくも?
今のハーレイは引き出しに鍵を掛けているけど、今のぼくも鍵の役目をしてるの?
「どうだかなあ…」
鍵だっていう気は全くしないな、今のお前はソルジャー・ブルーじゃないからな。
ただのチビだし、お前、秘密も無いだろうが。
この家に住んでる子供ってだけで、誰もお前に注目したりはしていないしな?
隠すようなことは何も無いからな、って言われちゃった。
残念だけれど、今のぼくは鍵にはならないみたい。前のぼくなら鍵だったのに。
ハーレイが引き出しに鍵をつけるのを断ったくらいに、大切な鍵の役目をしていたらしいのに。
(ちょっぴり残念…)
でも、隠し事なんか要らない時代に生まれたんだし、それでいいかな、と思っていたら。
ハーレイの鍵でなくてもかまわないよね、って考えてたら。
「…待てよ。今でもお前は俺の鍵だな」
間違いない。今のお前も俺にとっては大切な鍵だ。
「どうして?」
隠し事なんか今は一つも無いでしょ、なのにどうして、ぼくが鍵なの?
ぼくがハーレイの鍵になる理由、何処にも無いと思うんだけど…。
「いや、一つデカイのが今もあるんだ」
お前のお父さんやお母さんたちに内緒だ、俺たちのこと。
俺はあくまでキャプテン・ハーレイの生まれ変わりで、お前の守り役なんだろう?
恋人だとは一度も言っていないぞ、しかも当分、秘密だってな。
「ホントだ…!」
ハーレイは何度も来てくれてるけど、パパもママも気付いてないものね。
優しくて親切な先生なんだ、って思ってるだけで、恋人だとは思っていないものね…。
今もハーレイの鍵だったらしい、チビのぼく。
ソルジャー・ブルーみたいに偉くはないけど、ハーレイの鍵になっているぼく。
机の引き出しに掛ける鍵より、ずっと大事な鍵だった、ぼく。
でも…。
「お前は今でも俺の鍵だが、いつかはお役御免になるな」
前と違って、今度は結婚出来るんだ。いつまでも鍵をやってなくてもいいってな。
「うん。パパとママに話してもいい時が来たら、ぼくは鍵ではなくなるんだね」
ハーレイは隠し事をしなくてもいいし、もう鍵なんかは要らないものね。
「うむ。お前は俺の鍵の代わりに、俺の嫁さんになるってわけだ」
結婚式を挙げて、堂々と。お父さんたちにも祝福して貰って、うんと幸せな花嫁にな。
今度こそ俺が守ってやるから、必ず嫁に来るんだぞ?
そしたら家の鍵をやるから、ってハーレイは約束してくれた。
ハーレイの家の玄関を開けることが出来る、銀色をした小さな鍵。
勝手口の方の鍵と一緒に合鍵を作って、キーホルダーに入れて、ぼくに渡してくれるって。
ぼくがいつでも開けられるように、鍵を掛けて家を出られるように。
それに…。
こいつの合鍵も作るとするか、ってレトロな形の引き出しの鍵。
古びた感じに見えるように、と加工してある鍵だけど…。
「ハーレイ、その鍵…」
引き出しの中身は秘密じゃないの?
ぼくが開けたら駄目だから、って言っていたでしょ、冗談だって言い出す前は?
「お前に隠さなければいけないようなものは入れないさ」
隠し事など俺はしないし、そういったものも作りはしない。
しかしだ、一応、鍵が掛かる引き出しになってはいるからなあ…。
出来れば開けないでくれると嬉しいんだがな、俺にもプライバシーがあるってことで。
「開けちゃうかも…」
だって、合鍵はくれるんでしょ?
何が入っているのか覗いてみたいよ、一回くらいは引き出しを開けて。
…駄目……?
「やっぱり、お前は開けるんだな?」
そういう正直なお前も好きだぞ、だからこその合鍵なんだがな。
開けたい時には開けてみればいいさ、俺がどういうつまらないものを入れているのか探しにな。
日記だって読みたきゃ読んだっていいぞ、覚え書きでもかまわないなら。
「それでもいいよ」
ハーレイが書いた日記なんだな、ってページをめくれるだけで幸せ。
結婚式の日くらいは書いてあるんだろうから、そこばかり開いて何度も読むよ。
「こらっ、何度もって…。一度じゃないのか!」
「合鍵は有効に使わなくっちゃね?」
せっかくハーレイがくれた鍵なんだもの。何度でも使うよ、ハーレイの留守に。
家で一人で待っているのが寂しい時には開けてみるんだ、ハーレイが鍵を掛けた引き出し。
そうして引き出しの中身を眺めて、また戻して。
早く帰って来ないかなあ、って鍵を掛けたり、開けたりするんだ。
いいでしょ、ハーレイ?
「参ったな…。そういうおねだりをされちまったら、だ」
うんと言うしかないってな。
好きなだけ開けたり閉めたりしてくれ、それでお前が幸せだったら何も言わんさ。
ただし、お前を喜ばせるような日記を書いてやるほど、俺はサービスしないからな…?
ハーレイは苦笑いしているけれども、ちょっぴり期待しておこう。
ぼくが引き出しを開けるようになったら、日記の書き方が少し変わるかも…。
いつか貰えるらしい鍵。
ハーレイの家の玄関の鍵と勝手口の鍵と、机の引き出しのレトロな鍵。
三つの鍵をキーホルダーに入れて渡して貰って、ぼくはハーレイの日記を読むんだ。
日記が入った引き出しの鍵を、レトロな合鍵でカチャリと開けて。
大好きなハーレイのお嫁さんになって、家の鍵を開けたり閉めたり出来る日が来たら…。
大切な鍵・了
※前のハーレイでも、今のハーレイでも、「大切な鍵」はブルーらしいです。
そんなハーレイの机の引き出しの鍵。いつか合鍵を貰った時には、開けるのがブルー。
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