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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「あっ…!」
 流れ星、とブルーは叫んだ。
 土曜日の夜、ハーレイを見送りに出た庭で見上げた夜の空。玄関を開けて、二人一緒に外へ出た途端に流れて行った星。瞬きを忘れた蛍のように。空の星が一個、落っこちたように。
「綺麗だったね!」
 ねえ、ハーレイも今のを見てた?
「見ていたが…。お前、願い事、したか?」
「…願い事?」
「流れ星にはするもんだろうが、願い事」
 消えてしまう前に三度、願い事を。ちゃんと言えたら叶うと言うだろ、知らなかったか?
「そういえば…」
 忘れちゃってた、とブルーは空を仰いだ。
 もう一度星が流れないかと、流れ星が飛んでくれないかと。
 秋の夜空は澄んでいるから、鏤められた星も多いけれども。それは幾つもの星が瞬いているのだけれども、その星が流れるわけではないから。
 流星群の時期でも無いから、待ってもそうそう上手く出会える筈などなくて。



「まだかな、次の…」
 早く流れてくれないかな、と小さなブルーが呟くまでに五分くらいは経っただろうか。あるいはほんの一分だったろうか、いずれにしても夜気に晒されてただ立っているには長すぎる時間で。
「馬鹿、風邪を引くぞ。いつまで立ってるつもりなんだ」
 それに俺も帰らなくてはいけないしな、とハーレイがブルーの肩をポンと叩けば。
「ハーレイ、明日も来てくれるんだよね?」
「日曜日だからな」
 ちゃんと朝から来てやるさ。だから入れよ、流れ星なんか待っていないでな。
 またな、と軽く手を振って帰ってゆく恋人。門扉をくぐって外の通りへ、星空の下を歩いてゆくハーレイ。生垣に隔てられてしまった恋人にブルーは何度も手を振ったけれど。
「早く入れよ、冷えちまうぞ?」
「うん…」
 去り際に声で促されては仕方ない。
 ハーレイの影が見えなくなった後、遠ざかってゆく足音を聞きながら、また空を見て。
(流れ星…)
 足音が聞こえる間にもう一つ、と願ったけれども、星たちは静かに瞬くだけ。流れてはくれず、諦めて家に入るしかなかった。
 ハーレイの足音はもう聞こえないし、「早く入れよ」と叱られたような気がするから。



 けれど、どうにも忘れられない流れ星。また出会いたい流れ星。
 お風呂に入るまで、自分の部屋の窓から空を眺めた。星が一つ落ちてゆかないかと。ハーレイと二人で見た時のように、スイと流れてくれないかと。
 お風呂に入ってパジャマに着替えた後もカーテンを開けて覗いたけれども、流れない星。いくら待っても落ちてはこない流れ星。
(やっぱり駄目…)
 あの一個だけ、と溜息をついた。
 願い事を唱えることなど忘れて見上げてしまった星。願い事を唱え損ねた星。
 なんとも惜しくてたまらないけれど。
 失敗した、と今もこうして流れ星を探しているのだけれども、何を願いたかったのだろう?
 流れ星が流れてゆく間に三度。
 消えるまでに三度。



(幸せになれますように、でいいよね?)
 願い事をするなら、多分、それ。
 今でも充分幸せだけれど、もっと幸せになりたいから。ハーレイと幸せに暮らしたいから。
 この地球の上で、生まれ変わって来た青い地球の上で。
 ならば願い事は、ただ「幸せに」と願うよりも。
(早く結婚出来ますように…?)
 晴れてハーレイと二人きりの暮らしを始めたいなら、願い事はそれ。一日でも早い結婚式。
(でも…)
 結婚すれば今よりもずっと幸せになれるに決まっているから、やはり幸せを願うべきだろうか?
 それとも早い結婚を願って、少しでも早く二人きりの幸せを手にするか。
(うーん…)
 考え始めたらキリが無かった。他にもどんどん欲が出て来て。
 ハーレイとキスが出来るように背を伸ばしたいとか、本物の恋人同士になりたいだとか。
 どれも幸せへと繋がる道。幸せが手に入る道。
 一番いいのは何だろう?
 流れる星に三度願うなら、流れ星に願いをかけるなら。



(やっぱり、幸せ…)
 そう願うのが一番だろうか、と考えたけれど。
 流れ星を待ちながら決めかけたけれど、「だけど…」と少し心配になった。
 星に願うのは自分の幸せだけでいいのだろうか?
 自分一人が幸せであれば、それで自分は幸せだろうか?
(…ううん…)
 それは違う、と直ぐに出た答え。
 自分一人が幸せになっても意味が無い。ハーレイにだって幸せになって欲しいから。二人一緒に暮らしてゆくのに、生きてゆくのに、自分一人だけが幸せだなんて、とんでもない。
(ハーレイの分も…)
 願わなくては、と気が付いた。
 三度唱えるのは難しそうな気がするけれども、二人で幸せになれますようにと。
 ハーレイと二人、幸せに生きてゆけますようにと。



(うん、それ!)
 願い事をするならそれがいい、と決めて夜空に別れを告げた。
 夜更かしをしても星は流れないし、今夜は諦めて眠らなければ、と。
 窓のカーテンを閉めて、ベッドに潜り込んで、明かりを消して。
 次に流れ星に出会うことがあれば、と願い事を頭で繰り返す。決めたばかりの願い事を。
(ハーレイと幸せになれますように…)
 二人で幸せになれますように、と何度も唱えた。流れ星は何処にも無いけれど。常夜灯が灯っただけの部屋には、星などは流れないのだけれど。
(ハーレイと幸せに…)
 流れ星を見たら唱えなければ、消えてしまう前にこれを三回。
 練習なのだと、もっと早くと。
 流れ星が落ちてしまうまでの間に三度、と練習し続けた。もっと早く。もっともっと、早く。
 そうして唱え続ける内に…。



(あれ?)
 前にも自分は願わなかったろうか?
 流れてゆく星に。
 夜空を流れる星に向かって、こうして早口言葉のように。
(いつ…?)
 幼かった頃には色々願った。
 たまにしか出会えなかったけれども、見付けた時には沢山の願い事をした。
 流れ星はとうに消えているのに、落ちてしまった後だというのに、幾つも幾つも願い事を。
 子供ならではの無邪気さでもって、きっと叶うに違いないと。
 それのことかと思ったけれど。
 オモチャやお菓子や、欲しいものなら山のようにあった頃だから。
 きっとそれだ、と思いかけたけども。



(それにしては欲張り…)
 幼い子供の願い事にしては、妙に欲張りだった気がする。
 何が何でも叶えて欲しいと、この願いだけは叶えて欲しいと。
(…オモチャとかで…?)
 お菓子もオモチャも好きではあった。欲しくて強請りもしていたけれども、幼かっただけに一晩眠れば忘れることなど当たり前で。
(どうしても欲しいものなんて…)
 この願いだけは、と星に祈るほど、幼い自分は欲しがったろうか?
 そこまで欲張りだっただろうか?
 けれども確かに願っていた、という記憶。
 夜空を流れる星に向かって早口言葉で。
 消える前に三度と、落ちてしまう前に三回と。



(小さい頃のぼくが…?)
 いったい何を願ったのだろう、と不思議に思った時、不意に掠めた遠い遠い記憶。
 子供だった頃よりもずっとずっと昔、遠い彼方に過ぎ去った昔。
 前のぼくだ、と。前の自分が願ったのだ、と。
(アルテメシア…)
 暗い宇宙を長く旅して、辿り着いて隠れた雲海の星。白い鯨を隠した星。
 シャングリラは雲海の中だったけれど。
 ブリッジからも、展望室からも、一面に広がる雲しか見えない星だったけれど。
 前の自分は何度も地上に降りていた。人類の情報などを探りに、ミュウの子供の救出のために。
 そうやって降りた、ある夜のこと。
 星が流れてゆくのを見付けた。雲海の中では見られない星。夜空を横切って流れた星。
 流れ星は大気のある星でしか目にすることが叶わないから。
 珍しいものを見た、とその時は思った。
 知識の中にはあったけれども、初めて肉眼で捉えたと。あれが流れ星というものなのか、と。
 そしてヒルマンに話したのだったか、白いシャングリラに帰った後で。
 博識な彼なら喜ぶだろうと、どんなものだったか話してやろうと。
 そうしたら…。



「願い事をしておいたかね?」
 流れ星に出会ったのなら、とヒルマンに訊かれた。その星に願いをかけておいたか、と。
「願い事?」
 何のことだか分からなかったし、首を傾げてしまった自分。
 どうして流れ星に願い事なのか、と訝っていたら、ヒルマンはこう話したものだ。
「流れ星に願いをかけたそうだよ、人間がまだ地球で暮らしていた頃には」
 星が流れて消えるまでの間に願い事を三度唱えたというね、そうすれば星が叶えてくれると。
 もっとも、星が流れるのは一瞬だから…。
 見付けたと思えば消えてしまうだけに、難しかったと言われているがね。
「そうだったのかい?」
 流れ星を見たら願い事をするものだったんだ…。
 知らなかったよ、次からやってみよう。
 流れ星に出会ったら願わなくてはね、願い事を叶えてくれる星なら。



 その次に流れる星を見た時。流れてゆく星を見付けた時。
 迷わずに「地球へ」と願いをかけた。
 地球へ行きたいと、どうか地球まで行けますように、と。
 消えるまでに三度唱えられたか、あまり自信が無かったけれど。それでも願いをかけはした。
 地球へと、地球へ行きたいのだと。
 ちゃんと願えた、と流れ星が消えた空を仰いで、ふと思った。
 今の願いは自分中心に過ぎただろうか?
 遠く青い地球に焦がれるあまりに、ソルジャーらしからぬ我儘を願ってしまったろうか?
(でも…。みんなで地球へ行くのだし…)
 白いシャングリラで、いつかは地球へ。
 未だ座標も掴めぬ地球まで、この雲海の星を離れて母なる地球へ。
 地球へ降りることが叶う時には、自分たちはもう追われる身ではない筈だから。
 ミュウの存在を人類に認めて貰って、地球の上に立てる筈だから。
(…地球に行けるなら、きっとみんなも幸せな筈だ)
 その願いでいい、と願い続けた。
 流れる星を目にする度に。見付けた、と星に気が付く度に。
 地球へと、いつかは必ず地球へと。
 ある時はミュウの未来も願った。幸多かれと、皆が幸せであるようにと。
 けれど…。



 ハーレイに恋をして、実った後。
 キスを交わして、結ばれて、秘めた仲ながらも恋人同士になれた後。
 気付けば星に願っていた。流れ星に願いをかけていた。
 どうかハーレイといつまでも、と。
 この幸せが続くようにと、ハーレイと二人で過ごせるようにと。
 地球へ、と願いをかける代わりに。ミュウの幸せを願う代わりに。
(いけない…!)
 ソルジャーの自分がこんな私的な願い事などしてはいけない。
 しかもハーレイとの恋は誰にも明かせないことであったし、言うなれば後ろめたい恋。どんなに幸せな恋であっても、シャングリラの中では許されない恋。
 ソルジャーとキャプテン、船の実権を握る二人が恋仲だなどと知れたら大変なことになる。誰の指示を仰げばいいのか、誰を信じてついてゆけばいいのか、皆が迷うし、どうにもならない。
 だからこそ伏せたままの恋。知られないよう、隠している恋。
 そんな恋の行方を、幸せな未来を願うことなど、してはならないと思ったのに。
 もうこれきりだと、一度限りだと、固く自分を戒めたのに。
 心というのは正直なもので、それから後も…。



(ハーレイと、って願っちゃったんだ…)
 三度に一度は願ってしまった。どんなに気を付け、駄目だと自分に言い聞かせていても。
 星が流れれば、「ハーレイと地球へ」と。
 いつか二人で辿り着きたいと、地球で幸せに暮らしたいと。
 そう願う度に自分を責めたけれども。
 また間違えたと、星に願うべきことを誤ったのだと、唇を噛んで項垂れたけども。
(…もしかして、そのせいで地球に来られた…?)
 流れ星に願いをかけていた自分は、前の自分はメギドで死んでしまったけれど。
 ソルジャー・ブルーは地球を見られずに死んでいったし、ハーレイの温もりも失くしたけれど。
(ぼく、地球にいるよ…)
 ハーレイと二人、生まれ変わって青い地球の上に。
 もう戦いなどありはしなくて、人は皆、ミュウになってしまった遥かな未来の地球の上に。
 前の自分がかけた願いを神が叶えてくれたのだろうか、そうして地球へと来たのだろうか…?
 長い長い時がかかったけれども、前の自分が焦がれた地球に。
(流れ星…)
 三度に一度はうっかり願った、ハーレイと二人で地球へ行く未来。
 星への願いは、とても効いたというのだろうか?
 こんな奇跡が起こるくらいに、ハーレイと再び生きて巡り会えたほどに…。



 前の自分が願い続けた流れ星。願いをかけた流れ星。
 次の日、ハーレイが来てくれたから。
 約束通りに朝から訪ねて来てくれたから、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、弾んだ心をそのままにぶつけた。こうして会えるのも星のお蔭だと、流れ星に願ったからなのだと。
「ハーレイ、流れ星、効くね」
「はあ?」
 いきなり言っても、ハーレイに通じるわけがない。
 鳶色の瞳が丸くなったから、こうだったよ、と話をした。前の自分が見た流れ星。願いをかけたアルテメシアの流れ星。
 願い事を星に叶えて貰ったと、ハーレイと地球へ来られたと。
 青い地球の上に生まれ変わって、また出会うことが出来たのだ、と。



「お前、そんなの祈っていたのか…」
 流れ星を見たら俺と地球へ、って三度唱えていたっていうのか?
「うん、ハーレイは?」
 ハーレイはどんな願い事をしてたの、流れ星に?
 それって、叶った?
「馬鹿、ブリッジから見えるのか?」
 ブリッジでなくても、あのシャングリラの何処から見えるんだ、流れ星なんて。
 周りはすっかり雲の海だぞ、レーダーに映った隕石に向かって祈れってか?
「そういえば…。ごめん、うっかり忘れちゃってた。昨夜は覚えていたんだけどね」
 ハーレイに会ったら忘れちゃったんだよ、昨日、一緒に外で流れ星を見てたから…。
 ついハーレイも見ていたような気になっちゃって、間違えちゃった。
 前のぼくしか見られなかったのにね、アルテメシアの流れ星は。
 潜入班の仲間たちだったら、運が良ければ見付けていたかもしれないけれど…。



 雲海の中に居たシャングリラ。雲の海しか見えはしなかったシャングリラ。
 星が流れても見られなかった。夜空に流れる星は無かった。
 レーダーが捉える隕石はあっても、それは流れる星ではないから。夜の空から零れ落ちたように飛んでゆく星とは違うから…。
(前のぼくだけが見られたんだよ、流れ星は…)
 潜入班の者たちと違って、流れ星に願いをかけるだけの余裕も持っていたから。
 星が流れると、流れ星だと眺めるだけの心の余裕もあったから。
 誰も見られない星なのだから、と祈ったのだった、流れ星に。
 シャングリラの仲間の誰一人として見られはしないし、願いをかけられもしないから、と。
(消えるまでの間に三度唱えたら、叶うって…)
 地球へ、と懸命に唱え続けた。ミュウの未来に幸多かれ、とも幾度も唱えた。
 流れ星に祈ることが出来ないシャングリラの仲間たちの分までも、と。
 けれども三度に一度は唱えた、自分自身の願い事。
 ハーレイと二人でいつか地球へと、ハーレイと幸せになりたいと。
 三度に一度は自分の願いを唱えてしまった。いくら戒めても、駄目だと自分を責め続けても。



「前のぼく…。悪いソルジャーだったかな?」
 ミュウのみんなを放ってしまって、自分のお願い事ばかり…。
 ソルジャーだったら、そんなことをしていちゃいけないのにね?
 みんなで一緒に地球へ行こう、って、ミュウが幸せになれますように、ってお願いしないと駄目だったのにね…。
「まさか。悪いソルジャーなんかであるものか」
 お前はきちんと願ったんだろ、流れ星に?
 俺とのことも祈ったかもしれんが、三度の内の二度まではミュウのために祈っていたんだろう?
「そうだけど…」
 三度に一度はハーレイとぼくのことだったんだよ、それじゃ駄目だよ。
 ソルジャーだったら、全部をみんなのお願い事に使わなきゃ。
 流れ星を見付けたら、みんなのために。地球へ行こうと、みんな幸せになれますように、って。



 やっぱり悪いソルジャーだよね、と小さなブルーは俯いたけれど。
 自分のことばかり願ってしまった、とシュンと萎れてしまったけれども、「そうじゃないさ」と大きな手で頭を撫でられた。ハーレイの大きな褐色の手で。
「お前は悪いソルジャーじゃないし、精一杯、頑張って願いをかけた」
 だからこそだ、お前が流れ星にかけた願いを神様が叶えて下さったんだとしたら。
「えっ?」
 どうしてそうなるの、ぼくが三度に一度はお願いしちゃった、ハーレイとのこと…。
 なんで叶えて貰えたの?
「お前の他の願い事。きちんと全部、叶っただろうが」
 地球へ行こうってヤツは俺だってちゃんと見届けたんだぞ、そいつが叶った瞬間にな。
 前のお前が夢に見ていた青い星ではなかったが…。それでも地球には違いなかった、地球までは辿り着けたんだ。
 それから、ミュウの幸せってヤツ。これも間違いなく実現しただろ、現に今だってミュウは幸せ一杯ってヤツだ。前の俺は、そこまでは見届けられずに死んじまったがな。
 お前がかけてた願い事。すっかり全部叶っているんだ、前のお前は頑張ったのさ。
 流れ星を見る度に三度願って、凄い願いを叶えたってな。
 そんなお前が悪いソルジャーでなんか、あるものか。
 神様は分かって下さってたんだ、お前の気持ちも、お前が願いをかけたかったことも。



 だから叶った、とハーレイは鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
 地球へとブルーが願った未来も、ミュウが幸せである未来も。
「それだけの願いをかけたお前が、ほんの少しだけ願ったこと。お前は失敗だったと言うが…」
 お前の本当の願いはそれだろ、神様にはきっと届いていたさ。
 祈っちまう度に失敗したと悔やんでたことも、何もかも、全部。
 ほんの少しだけ、欲張るどころか、願ったことさえ失敗だったと悔やんじまうような願い事。
 それを叶えて下さらないほど、神様ってヤツは酷くはないと思うがな…?
「…そうなの…?」
 前のぼくが願って、だけど欲張りじゃなかったから…。
 ハーレイと二人で地球に来られたの、今の地球の上に生まれ変わって…?
「多分な。…そうじゃないかという気がするな」
 前のお前が流れ星に祈っていたのなら。見付ける度に三度願っていたのなら…。
 流れ星が叶えた願いだったら、欲張らなかったのが良かったんだろう。
 いつもいつも俺との幸せばかりを願っていたなら、それまでにお前が願っていた分。
 地球へ、って分も、ミュウの幸せも、叶わなかったかもしれないなあ…。
 欲張りなヤツの願い事っていうのは叶わないのが定番だろう?
 俺の授業で教えるような昔話でも、他の地域に古くから伝わる昔話でも、そんなモンだってな。



 欲張り者の願い事は叶わないものだ、と言われてみれば一理あるから。
 そうした話はブルーも幾つも知っているから、にわかに心配になって来た。
 昨夜、ハーレイと二人で目にした流れ星。願い事のことなど忘れて見ていた流れ星。
 あの後、懸命に夜空を見上げた自分。
 もう一度星が流れないかと、願い事をかけられないかと、星が流れるのを待っていた自分。
 おまけに流れ星に願うのならば…、とベッドの中で練習までした。
 消える前に三度唱えなければと、頑張って三度唱えるのだと。
 「ハーレイと幸せになれますように」と、何度も練習したけれど。
 次に流れ星を見たら唱えられるよう、頭に叩き込んだのだけども、それは欲張り者だろうか?
 これを唱えるのだと、こう願うのだと待ち構えていてはいけないだろうか?
 前の自分がやっていたように、自分の願いは後回し。
 もっと他のことを、世の中の役に立つようなことを願う間に、たまにウッカリ、三度に一度。
 そういう願い事でなければ流れ星には届きもしなくて、叶いもしないというのだろうか…?
 今では誰でも流れ星を自由に見られるけれど。
 流れた時に運良く夜空を見ていさえすれば、誰でも願いをかけられるけれど…。



 今度の自分がかけたい願いはどうなのか。
 叶うのかどうか、気がかりで仕方ないものだから。
 小さなブルーは目の前の恋人に訊くことにした。前の生では流れ星など見られなかった恋人に。前の自分が願ったお蔭で、この地球の上で会えたのかもしれない恋人に。
「…あのね…。前のぼくが欲張りじゃなかったから、願いが叶ったと言うんなら…」
 今度もお願い、欲張っちゃ駄目?
 流れ星を見付けた時にするお願い事は欲張ったら駄目なの、どうなの、ハーレイ…?
「欲張るって…。お前、何を祈りたかったんだ?」
 昨夜のお前は願い事さえ無かったようだが、あれから何が出来たんだ?
 とんでもないものでも欲しくなったか、お父さんたちに強請っても駄目だと言われそうなもの。
 そういったものでも願っておいたら、まるで無効でも無いと思うが…。
 前のお前みたいな願い事をするヤツよりかは、自分のためにと祈るヤツの方が多そうだしな?
 それでお前は何をお願いしたいんだ。欲張りがどうの、って今度は何だ…?



「んーと…」
 言おうか、それとも言わずにおくか。
 ブルーは少し迷ったけれども、願い事の中身を言わないことには判断をして貰えないから。
 欲張りかどうか、ハーレイにもきっと分からないから、思い切って口にすることにした。今度の自分の願い事を。昨夜、ベッドで何度も何度も、唱えるためにと練習していた願い事を。
「…ハーレイと幸せになれますように、って…」
 そう唱えようと思ってたんだよ、次に流れ星を見付けたら。
 だけど、これだと欲張りになってしまうんだよね?
 前のぼくなら、三度に一度しかお願いしてはいなかったんだし…。それも失敗して唱えちゃっただけだし、最初からこればかり唱えてたんじゃ、やっぱりお願い、聞いて貰えない…?
「おいおい、そいつは祈らなくてもいいんだぞ?」
 お前の願い事がそれなら、流れ星にわざわざ頼まなくても大丈夫だな。
「なんで?」
 願い事だよ、ぼくのお願い事なんだよ?
「要は叶えばいいんだろうが。流れ星を探さなくてもな」
 俺と幸せになりたいだなんて言われなくても、ちゃんと幸せにしてやるから。
 世界で一番幸せなヤツにしてやりたい、と俺は思っているんだからな。



 願い事をするなら他のにしておけ、とハーレイが笑う。
 せっかくの流れ星だから。
 見たいと願ってもそう簡単にはお目にかかれない、空からの贈り物だから。
 もっと普通の願い事をしろと、三度唱えるならそうしておけと。
 前のブルーが祈り続けた時代と違って、今は誰でも夜空を仰げる時代だから。自分の運で流れる星に出会うことが出来る時代だから。
 運良く出会えた流れ星には、自分自身の願い事。自分が叶えて欲しいことを三度。
 そういう時代に生まれ変わったブルーなのだし、今度こそ、個人的なこと。
 唱えるのならばそれを願えと、うんと欲張りでいいのだから、と。



「…欲張りでいいの?」
 ぼくのお願い事、欲張りな中身でかまわないの?
 流れ星に呆れられちゃって叶わないとか、そんなことになってしまわない…?
「欲張りでいいさ、今度のお前はソルジャーなんかじゃないんだからな」
 前のお前にしたって、だ…。
 流れ星にまで願っていたのか、ミュウの未来のことなんかを。
 自分の願いは後回しにして、願っちまったら失敗したなんて考えて…。
 そこまで頑張り続けた挙句に、メギドにまで飛んで行かなくてもなあ…?
 もっと俺にも頼って、甘えて、幸せに生きて欲しかったがな…。



 前のお前は頑張り過ぎだ、と額をコツンとつつかれた。
 今度は頑張る必要は無いと、前の分まで守って幸せにしてやるからと。
「いいな、俺との幸せなんぞは流れ星に祈るまでもない」
 俺が幸せにすると言ったらそいつを信じろ、流れ星に願うならもっと他のだ。
 お前にだって一つや二つはあるだろう。叶えばいいな、と思うようなヤツ。
「えーっと…。あるかな、そういうの…」
 早くハーレイのお嫁さんになりたいな、とか、キスしたいな、とか…。
 ハーレイ抜きだと何も出てこないよ、ぼくのお願い。
「ふうむ…。まあ、ゆっくりと考えておけ」
 次に流れ星に出会うまでにだ、これだっていう願い事ってヤツをな。
「うん、そうする」
 滅多に見られないのが流れ星だし、考えておくよ。何か素敵なお願い事。



 一つくらいは見付けてみるね、とハーレイに笑顔で返したけれど。
 夜になってハーレイが「またな」と帰る時、夜空を見上げてみたけれど。
 流れ星は今日は流れてくれずに、秋の星たちが幾つも幾つも清かに瞬いていただけで。
(…今夜は駄目かな…)
 出会えないかな、と部屋の窓から空を眺めた。流れ星が落ちてゆくかと、空を。
 けれども、思い付かない願い。
 流れ星に頼みたい、三度唱えたい、願い事。
 昨夜何度も練習していた、「ハーレイと幸せになれますように」という祈りしか。
 だから今度は流れ星への早口言葉は唱えなくてもいいかもしれない。
 消えてしまう前にと、三度唱える早口言葉の願い事。
 今度の自分のその願い事は、ハーレイが叶えてくれるのだから。
 流れ星に願いを三度唱えずとも、ハーレイと二人、いつも、何処までも幸せに。
 この地球の上で、夜になったら星が流れる青い地球の上で…。




           流れ星・了

※前のブルーが流れ星にかけた願い事。仲間たちを地球へと思いながらも、自分のことも。
 三度に一度の願い事でも、叶ったのが今。前の生で頑張った分だけ、今度は幸せに…。
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(茶柱…)
 知らなかった、ってハーレイの授業を聞いていた、ぼく。
 正確に言えば雑談だけど。みんなが授業に飽きて来る頃に、絶妙のタイミングで始まる雑談。
 これが人気で、みんな慌てて授業に戻る。聞き逃しちゃったら損だから、って。
(ハーレイ、いつも上手いよね…)
 誰も余所見なんかをしてはいないし、ハーレイの話に夢中って感じ。もちろん、ぼくも。
「いいか、立つと縁起がいいんだぞ?」
 覚えておけよ、って繰り返してからハーレイは授業に戻って行った。教室の前の大きなボード。その隅っこに「茶柱」って書いて、丸で囲んで。



(茶柱、見たことないんだけどな…)
 立ったら縁起がいい茶柱。幸運を呼び込むという茶柱。
 ぼくは一度も見たことが無い。ハーレイが教えてくれた幸運の印を全く知らない。
 家に帰って、おやつを食べながらママに話したら。
 ママは茶柱を知っているの、って訊いてみたら。
「あら、ブルーには教えていなかったかしら?」
 意外な答えが返って来た。ぼくは茶柱、生まれて初めて聞いたのに。
「…常識なの?」
 ママ、茶柱は知らない方がおかしいの?
「そうでもないけど…」
 知っているわよ、って笑顔のママ。
 ママだけじゃなくてパパも知ってるって、立つと縁起がいいってことも。



「だけど茶柱、ぼく、知らないよ?」
 見たことだって無いんだけれど…。うんと珍しいの?
「それもあるけど…。ブルーはあんまり飲まないものね」
 お茶を飲まなきゃ出会えないでしょ、茶柱には。見たことが無くても不思議じゃないわ。
「飲まないって…。お茶、飲んでるよ?」
 今だって、ってカップを指差した。ママが淹れてくれた紅茶のカップ。
 そうしたら、クスッと笑ったママ。
「ブルー。…ハーレイ先生のお話、よく聞いてたの?」
「聞いてないわけがないじゃない! だから茶柱、覚えてるんだよ!」
 お茶を淹れたら立つって聞いたよ、立つと縁起がいいんだぞ、って。
「そのお茶よ。お茶が大切なのよ」
 茶柱を見たいなら、お茶を飲まなくちゃ。そういうお茶をね。



 紅茶じゃ駄目なの、って教えて貰った。
 茶柱が立つのは日本のお茶よ、って。
 SD体制が始まるよりもずうっと昔に、ぼくたちが住んでる地域の辺りにあった島国、日本。
 とても小さな国だったけれど、いろんな文化を持っていた。独特のお茶も。
 マザー・システムに一度は消されてしまった文化。日本のお茶も姿を消した。だけど今では復活していて、色々なお茶が売られてる。茶柱はそういうお茶でないと、って教わったけれど。
「ハーレイ、そんなの言ってなかったよ!」
 お茶を淹れたら立つんだぞ、って聞いただけだよ、授業では!
 ハーレイの説明不足なんだよ、ぼくはきちんと聞いていたもの!
「あらあら…。そうねえ、わざわざ仰らないかもしれないわね?」
 授業と関係の無いお話だったら、お茶としか。
 ブルーみたいに家に帰って「茶柱が立たない」って思っている子がいるかもしれないわねえ…。
「いるってば!」
 何人もいるに決まっているよ。今頃、紅茶で頑張ってる子!



 そうは言ったけど、部屋に戻ったら急に自信が無くなった、ぼく。
 ひょっとして聞き逃しちゃったんだろうか、ハーレイの授業。授業じゃなくて雑談だけれど。
(確かにお茶って言ってた筈…)
 日本のお茶とは言わなかった、と授業中のことを思い出していたら、チャイムの音。門扉の脇についてるチャイム。
 それを鳴らして、ハーレイが寄ってくれたから。
 仕事帰りに来てくれたから、ママが運んで来た紅茶を指差して、訊いてみた。ママが扉を閉めて出て行った後で。ハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ハーレイ、茶柱、立たないよ?」
 帰ってからママと飲んだ時にも立たなかったし、今も立ってはいないんだけど…。
「そりゃそうだろ。紅茶じゃそいつは無理ってモンだ」
 日本のお茶でしか立たんぞ、茶柱。紅茶じゃまるで別物だしなあ、元になる葉は同じなんだが。
「そんなの、授業で聞いていないよ!」
「俺はお茶だと言った筈だが?」
「うん、だから…!」
 紅茶のことだと思ったんだよ、お茶って紅茶のことじゃない!
 お茶をどうぞ、って淹れてくれるの、何処でも普通は紅茶だけど!



 前のぼくが白いシャングリラで生きてた時代も、今の時代もお茶と言えば紅茶。
 ママがお茶会をやってる時にも、ポットで紅茶を淹れているから。
 ご近所さんの家とかにお邪魔した時、出してくれるのも紅茶だから。
 茶柱の話を聞かされたぼくが紅茶のことだと思い込んでも、ちっともおかしくない筈なんだ。
 でも、ハーレイは…。
「その後に俺は説明していた筈だがな?」
 茶柱は日本の国の話で、お茶と言ったら日本のお茶だと。
 俺は古典の教師なんだぞ、雑談にだって日本の文化を織り込まないとな、たまにはな?
「嘘…!」
 ハーレイ、お茶って言ったんだ…。
 ちゃんと「日本のお茶だ」、って。



 その部分を聞いていなかった、ぼく。肝心の話を聞き落とした、ぼく。
 茶柱で頭が一杯になって。
 立つと縁起がいいんだと聞いて、幸運を呼び込めると聞いて。
 肩を落としてたら、鳶色の瞳に見詰められて。
「そんなに興味があったのか、お前?」
 たかが茶柱だぞ、聞き逃したって問題は無いと思うがな?
「大事なことだよ、ハーレイの授業だったから!」
「あれは雑談だったんだが?」
 授業とはまるで関係無くてだ、居眠りそうなヤツらを呼び戻すためのだな…。
「でも、大切だよ!」
 ハーレイの話なんだから! ハーレイが話をしてるんだから…!



 大好きでたまらないハーレイ。
 学校では「ハーレイ先生」だけれど、大好きなことは変わらない。会えるだけで幸せ、その上に声を聞くことが出来る素敵な時間が授業中。
 どんなことでも聞いていたいし、聞き逃すなんて、とんでもない。余所見だってしない。
 そういう気持ちで座っていたのに、ちょっぴりショック。
 茶柱がどういうお茶で立つかを聞いてなかった。ハーレイは話をしたらしいのに。
 だけど幸運を呼び込む茶柱、この目で確かめてみたいから。
 どうすれば立つの、って尋ねたけれど。立て方を訊こうとしたんだけれど。
「まあ、運だな」
 運が良ければ茶柱が立つし、悪けりゃ駄目だ。
 だからこそ縁起がいいと言うのさ、茶柱が立った時にはな。
「えーっ!」
 運ってだけなの、コツとかじゃないの?
 それじゃ茶柱、頑張ってみても立てる方法、無いじゃない…!



 茶柱が立つかどうかは運任せ。
 「そんなモンだ」と笑ったハーレイが帰った後で。
 パパとママも一緒に夕食を食べて、「またな」と手を振って車で帰ってしまった後で。
(茶柱…)
 ぼくの頭から消えない茶柱。離れていかない、お茶に立つ茶柱。
 立つと縁起がいいと言うから、幸運が来ると聞かされたから。
 どうにも気になってたまらない。
 しかも日本のお茶でないと立たない、立ってくれないらしい茶柱。
 前のぼくの頃には何処にも無かった日本のお茶で立つというから、なおのこと。
(立ててみたいな…)
 ぼくも、茶柱。幸運を呼び込んでくれる茶柱。
 ハーレイと幸せになれるように。
 うんと幸せな結婚が出来て、二人一緒に暮らせるように。
(茶柱を立てるなら、日本のお茶…)
 今度からハーレイが来てくれた時は、紅茶の代わりに日本のお茶にしてみようか?
 そうすればきっと立つだろうから。
 何度もそういうお茶を出したら、運任せの茶柱だって、いつかは。



 次の日、ママにそう言ったら。
 学校から帰って、おやつの時間に頼んでみたら。
「かまわないけれど…。茶柱は誰に渡せばいいの?」
「えっ?」
 どういう意味、ってキョトンとした、ぼく。
 ママは訊き方を変えて来た。
「茶柱が立っているお茶は、ブルーに渡すの?」
 それともハーレイ先生に渡すの、どっちがいいの?
「ええっ…?」
 そこまでは考えていなかった、ぼく。
 言われてみれば、運が良くないと立たない茶柱、二人分も一度に立つわけがない。
 ハーレイか、ぼくか、どちらか一人。茶柱のお茶は一人分だけ。
(えーっと…)
 どっちに決めればいいんだろう?
 ぼくの分にするか、ハーレイに渡して貰う方にするか。選びかねてしまう、茶柱のお茶。
 決められそうにない、縁起のいいお茶…。



 考え込んでしまったぼくは、よっぽど真剣な顔で悩んでいたんだろう。
 ママがクスクス可笑しそうに。
「それじゃ、ブルーが自分で淹れてみたら?」
 お茶の用意はしてあげるから、ハーレイ先生の分と、ブルーの分と。
 淹れ方はそんなに難しくないのよ、紅茶と同じ。
 ママが葉っぱを入れておくから、お湯を注いで待てばいいのよ、葉っぱがきちんと開くまでね。
「そうしてみる!」
 ぼくが淹れるから、持って来てね。日本のお茶用の、えーっと…。
「急須でしょ?」
「そう、それ!」
 家庭科の授業で一度だけ淹れたよ、だからぼくでも大丈夫だよ。
 ハーレイが家に来てくれた時は、日本のお茶の用意をしてね!



 ママにお願いをしたら、その日にハーレイが寄ってくれたけど。
 昨日と今日とで、二日続けて来てくれたけれど。
 お茶は昨日のとは全く違った。ママが準備した急須と湯呑み。お菓子も日本のお茶によく合う、お饅頭を載せたお皿が二つ。
 ぼくが早速、急須の蓋を取ってお湯を注いだら。
「珍しいな、お前が淹れるのか?」
「うんっ!」
 淹れたことはあるから、任せておいて。んーと…。
 そろそろかな、って湯呑みに緑茶を入れた。ハーレイの分と、ぼくの分との二つの湯呑み。
(おんなじ濃さになるように、って…)
 学校で習った通りに交互に注いでみたけれど。淡い緑のお茶をたっぷり入れたんだけど…。
 立ってくれなかった、幸運の茶柱。
 なんにも入っていない、お茶。
 ハーレイの分にも、ぼくの分にも、茶柱は立っていなかった。



(…茶柱、無理なの?)
 せっかく頑張って淹れたのに、ってしょげてたら。
 お饅頭を食べるのも忘れて、湯呑みの中身を見詰めていたら。
「どうした?」
 美味いお茶じゃないか、お前、淹れるの上手だな。
 しかしだ、早く飲まんと冷めちまうぞ。こういうお茶はだ、熱い間が美味いんだ。
 まあ、夏になったら氷で淹れるっていうのもあるがな、そいつもとびきり美味いんだがな。
「…氷で淹れても茶柱は立つの?」
「そりゃあ、運さえ良ければ立つな」
 淹れ始めてから飲むまでに時間がかかる分だけ、値打ちの高い茶柱かもな?
 なにしろ氷で淹れるには、だ。急須の上に氷を山盛り、それが自然に溶けるのを待つ。すっかり溶けたら出来上がるわけだが、いくら夏でも五分や十分で出来やしないさ、氷のはな。
「氷でやっても立つんだ、茶柱…」
 ぼくが淹れても立たないのに…。もしかして、ぼくは運が悪いの?
「なるほど、茶柱を立てたかったのか…」
 それで日本のお茶だったんだな、やっと分かった。
 どうしても立ててみたいと言うなら、早道ってヤツが無いこともない。
 ちょっとした反則技だがな。



 茶柱が立ちやすいお茶があるんだぞ、って教えて貰った。
 反則技でも、秘密の抜け道。茶柱を立てるための方法、使わないという手は無いから。
 ハーレイが「またな」って帰ってった後で、ママの所へ走って行った。
「ママ、茶柱なら雁金だって!」
 葉っぱじゃなくって茎のお茶だから、普通のお茶より立ちやすいって!
 ハーレイに教えて貰ったんだよ、茶柱を立てる反則技!
「…そんなことまで習ったの?」
「そう! だって茶柱、立ててみたいもの!」
 雁金、ある? それとも買って貰わなくちゃ駄目…?
「あるけれど…」
 ちょっぴりランクが落ちるのよ、って言ったママ。困り顔のママ。
 お客様に出すなら、今日、ぼくが淹れて駄目だった玉露、葉っぱの部分を使ったお茶。そっちの方がいいお茶なのよ、とママは教えてくれたけど。雁金よりいい、って言うけれど。
 別に雁金でかまいやしない。
 緑茶ですらない、ほうじ茶だって出してることがあるんだから。
 ほうじ茶の方が似合うお土産を、ハーレイが持って来てくれた時は。お煎餅とかを貰った時は。
 雁金にして、ってママに強請った。
 次にハーレイが来てくれた時は、急須に雁金、入れておいてね、って。



 そして、土曜日。
 朝から綺麗に晴れた青空で、ハーレイは歩いてやって来た。
 ぼくの部屋で向かい合わせに座って、ワクワクしながら用意したお茶。ママがテーブルに置いて行ってくれた急須の蓋を取って、お湯を注いで、暫く蒸らして。
 もういいかな、ってハーレイの分と、ぼくの分とを交互に淹れていった、ぼく。
 今度もやっぱり駄目だろうか、って心配してたら…。
「あっ、ゴミ!」
 失敗しちゃった、って叫んでしまった。
「ゴミ?」
 何処だ、ってハーレイが覗き込むから。
「これ!」
 お茶の中に茎が入っちゃってた。プカプカ浮いてる、お茶の茎。立ってるみたいにプッカリと。
 大失敗、って、つまみ上げようとしたら。
 道具なんかは持ってないから、ゴミが入ったお茶がぼくのでいいや、って指で拾おうとして突っ込みかけたら…。



「待て。そいつが茶柱だ」
 ゴミじゃないんだ、茶柱ってヤツはそういうモンだ。
「ホント!?」
 初めて見た、って躍り上がった、ぼく。
 茶柱がプカリと立ってる湯呑みは、それがゴミだと思い込んだ時に、ぼくのだと決めてしまっていたから、ぼくのもの。ぼくの湯呑みに立った茶柱。
 お茶は最後の一滴までキッチリ注ぎ分けてから、茶柱の湯呑みをぼくの前に置いた。ハーレイの分もきちんと渡して、それから茶柱をしみじみ眺めて。
「ハーレイ、これって縁起がいいんだよね?」
 茶柱が立ったら幸運を呼び込めるんだものね。
「まあな」
 うんと昔からそう言うんだしな、幸運の印ではあるだろうさ。
「ぼく、幸せな結婚が出来る?」
 結婚出来るに決まっているけど、ぼくが思ってるより、もっと早くに結婚式を挙げられるとか。
 ハーレイのプロポーズがとても早くて、アッと言う間に婚約だとか…。
「どうだかなあ…」
 その茶柱でだ、幸せな結婚となると難しいかもな。
「なんで?」
 ちゃんと立ったよ、これが茶柱なんでしょ?
 なのにどうして難しくなるの、幸運を呼べる茶柱なのに…!



 それって変だ、と湯呑みの中を覗いたけれど。
 茶柱がコロンと横倒しになって、立ってないのかと思ったけれども、プカリと立ってた。
 今もプカプカ立っているのに、何がどう難しいんだろう?
 分かんないや、と首を傾げていたら…。
「お前、喋っちまっただろうが」
「何を?」
「茶柱だ。ゴミと間違えて叫びはしたが、だ…」
 それが茶柱だと分かった後もだ、茶柱、茶柱と大喜びで喋っていたろうが。
 喋っちゃ駄目なんだ、茶柱の幸運を自分に呼び込むためにはな。
 そいつはコッソリ飲むもんだ、って大笑いされた。
 茶柱が立っていることは誰にも内緒で、幸運は知られない内に飲み込むもの。見付からないよう飲んでしまって、素知らぬふりをすべきもの。
 茶柱なんかは無かったですよと、そんなものは立っていませんよ、と。



「嘘…」
 茶柱ってそういうものだったの?
 ぼくの幸運、喋っちゃったから消えちゃったなんて、ホントなの…?
「本当だ」
 お前には気の毒な話なんだが、茶柱はそうして飲み込んでこそだ。
 立った、立ったと触れ回るようなものじゃないんだ、幸運は一人占めってな。
「一人占めって…。だけど、四つ葉のクローバーとかは…!」
 見付けました、って自慢するじゃない!
 鼻高々で見せて回るけど、それで幸運が消えちゃうだなんて聞かないよ!
 前のぼくは一つも見付けられずに終わったけれども、子供たちは見付けて得意だったよ?
 ヒルマンだって「黙っていなさい」って止めなかったし、みんなに知られてもいいんでしょ?
「四つ葉のクローバーはそうなんだが、だ」
 他にも色々と幸運のシンボルってヤツはあるんだが、喋っちまうと幸運が逃げるものもある。
 茶柱はそっちの方なわけだな、逃がしたくなきゃ黙っていろ、と。
 あれだけ連呼しちまったんだし、その茶柱は多分、効かんだろうなあ…。
「うー…」
 そこまで授業で言っておいてよ、茶柱の話をするんだったら!
 ぼくの茶柱、何の役にも立たないじゃない…!



 嬉しくて喋っちゃった、ぼく。茶柱が立ったと喜んだ、ぼく。
 だけど茶柱はコッソリ飲むもの、幸運を逃しちゃっただろうか、とガックリしてたら。
 効き目がすっかり消えてしまった茶柱を見ながら萎れていたら。
「いいじゃないか、これで覚えただろう?」
 茶柱が立った時には黙ってコッソリ飲むもんだ、と。他のヤツらに知られない内に。
「うん…」
 失敗したからもう忘れないよ、茶柱が立ったらどうするか。
 ちゃんと黙って飲むことにするよ、幸運が来ますように、って。
「それで良し、と。…次からはコッソリ飲んでおけ」
 俺と結婚した後にもな。幸運を逃しちゃつまらんだろうが。
「それは駄目だよ!」
 結婚した後に茶柱だったら、ハーレイと二人でお茶を飲む時に立つんでしょ?
 そんなの、コッソリ飲めないよ!
 幸運を呼べる茶柱なのに…!



 ハーレイに黙って飲み込むなんて、って言った、ぼく。
 せっかく茶柱が立ったのに、って。
 幸せになれると、幸運が来ると、茶柱が教えてくれてるのに、って。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくに幸せが来るんだよ?」
 ハーレイがくれる幸せに決まってるんだよ、その幸せって。
 なのにハーレイに内緒で飲むって、酷くない?
 幸せにしてくれてありがとう、って、茶柱が立ったよ、って教えたいじゃない…!
「しかしだな…。茶柱ってヤツはコッソリでないと…」
 知られないように飲み込まないとだ、幸運を逃しちまうんだが?
 俺に喋ったら逃げて行くんだぞ、お前の茶柱がくれる幸運。
「…じゃあ、回す」
「はあ?」
 鳶色の瞳が丸くなったけど、ぼくの心はもう決まってる。だから…。
「茶柱が立った湯呑みを回すよ、ハーレイの前に」
 ぼくの茶柱、ハーレイにあげるよ。こっそりとね。
 ハーレイがそれを飲んだらいいよ。ぼくに喋らずに、黙ってゴクンと。
 そしたら幸運はハーレイのものになるんでしょ?
 ぼくはいいんだ、いつもハーレイから幸せを沢山、貰っているのに決まっているから。
 茶柱の幸運はハーレイにあげるよ、それくらいしか、ぼくはあげられないから。



 湯呑みを取り替えてハーレイにあげる、って宣言したら。
 コッソリ飲み込んで幸せになって、ってニッコリ笑ったら。
「いや、お前のだとバレるぞ、それは」
 いくらコッソリ取り替えたってだ、一目でお前のだと分かるってな。
 そうなりゃ、俺はお前に返すし、お前が黙って飲んでおけ。お前の茶柱なんだから。
「…なんでバレるの?」
 ハーレイがお茶を淹れたんだったら分かるけど…。
 ぼくが淹れたら、バレるわけがないと思うんだけど。はい、って渡すだけだもの。
「結婚した後のことだろう?」
「そうだよ、二人で暮らしてるんだし」
 ぼくの湯呑みをハーレイに渡しても、誰もなんにも言わないよ?
 見てる人だっていないわけだし、黙って渡せばコッソリなんだよ、幸運は逃げて行かないよ?
 ハーレイの所に回した茶柱、どうしてぼくのだと分かるわけ?
 心が零れてバレるんだったら、その内にきっとバレなくなるよ。
 最初の間は直ぐにバレても、慣れたら「はい」っていつも通りに渡せるよ、きっと。



 サイオンの扱いが不器用なぼく。ハーレイに心が筒抜けなぼく。
 嬉しい時とか、はしゃいだ時にはホントに筒抜け、心の中身が丸見えだって聞いてるから。
 茶柱もそれでバレるんだろうと考えたけど。
 ハーレイにあげよう、って弾んだ心がポロリと零れて拾われちゃうんだ、と思ったけれど。
「そうじゃなくてだ、どんなに心をガードしたってバレるってな」
 お前と俺とじゃ湯呑みが全く違うんだから。
 お前専用の湯呑みってヤツが俺の所にやって来たなら、バレない方がおかしいだろうが。
「…どうして違う湯呑みになるの?」
 同じのでいいと思うけど…。ハーレイ、ぼくと同じの湯呑みは嫌なの?
 もしかして、お気に入りの湯呑みがあったりする?
 それは一人で使いたいから、ぼくには別のを使えって?
 …それなら仕方ないけれど……。



 同じ湯呑みが良かったな、って俯いた。
 今度は結婚出来るのに。ハーレイと一緒に暮らしてゆけるのに、違う湯呑みになるなんて。
 お揃いの湯呑みを使いたいのに、まるで別のになるなんて…。
 シュンとしちゃった、ぼくだけれども。
「…お前、勘違いをしてないか?」
 その顔だとどうやらそうみたいだな、ってハーレイの手が伸びて来た。
 ぼくの頭をクシャクシャと撫でて、「知らないのか?」ってポンと軽く叩いたから。
「…知らないって、何を?」
 茶柱、他にも何か意味があった?
 コッソリ飲まなきゃいけないっていうだけじゃなくて、もっと何かあるの?
「茶柱が立つ湯呑みの方さ。そいつをお前は知らんようだな」
「湯呑みくらいは知ってるよ。…ハーレイのと同じのは駄目だってことも」
 ぼくは同じのが良かったけれど…。お揃いになるんだと思っていたけど…。
「それがお前の勘違いってヤツだ。揃いの湯呑みだが、同じじゃないんだ」
 夫婦湯呑みと言ってだな…。名前そのままだ、二つ一組で夫婦用に作ってあるわけだ。
 ただし全く同じじゃない。大きさが違うとか、色が違うとか…。
 何処かで区別が出来る仕組みだ、どっちが誰の湯呑みか、ってな。
 そういう湯呑みを買おうと思っていたんだが…。
 嫌か、お前は夫婦湯呑みは?



「…夫婦湯呑み…」
 知らなかった、って目をパチクリとさせた、ぼく。
 お揃いだけれど、まるでそっくりじゃない湯呑みだなんて。
 ハーレイとぼくと、二人分でセットで、だけど何処かが似ていない湯呑み。大きさが違ったり、色が違ったり、自分専用のを選べるけれども、ちゃんとお揃いになってるだなんて…。
「ん? 嫌なのか、夫婦湯呑みってヤツは?」
 お揃いが好きなお前だからなあ、そういったものも好きじゃないかと思ってたんだが。
「それ、欲しい!」
 欲しいよ、ハーレイの分とセットの湯呑み!
 見た目がそっくり同じでなくても、二つセットの湯呑みだったら欲しいってば!
「ほらな、お前は欲しがるわけで、だ…」
 そうなるとお前の湯呑みが俺の所に来たら一目でバレるってな。
 これはお前の湯呑みじゃないかと、この茶柱はお前のだろう、と。
 当然、俺は送り返すぞ、本物の持ち主の所へな。幸運の茶柱、立っているぞと言わずにな。
「…そっか…」
 ハーレイに幸せをあげたくっても、湯呑みでバレてしまうんだ?
 ぼくの所に立った茶柱だったってこと。
 それじゃハーレイにはあげられないよね、あげても戻って来ちゃうんだものね…。



 夫婦湯呑みは欲しいけど。ハーレイのと、ぼくのと、セットの湯呑みは欲しいけど。
 専用の湯呑みを使っていたんじゃ、ハーレイに茶柱を譲れない。
 幸運を呼び込む茶柱を譲ってあげられない。
 ぼくはハーレイから貰ってばかりで、幸せを贈られるばっかりで…。
 せめてお返しに茶柱くらい、って思ったけれども、あげられない。
 夫婦湯呑みでバレるから。ぼくの湯呑みに立った茶柱だと、ハーレイにバレてしまうから。
(ぼくばかり幸せを貰いっぱなし…)
 それもなんだか申し訳ないし、ハーレイにだってお返しをしたい。
 たまには同じ湯呑みにしようか、ハーレイのと、ぼくの。
 お客様用の湯呑みとかなら、同じのが幾つもある筈だから。そういう湯呑みで、たまにはお茶。
 上手く茶柱が立ってくれたら、それをハーレイに渡せばいい。
 それなら絶対バレないよね、って言ったんだけど。
 ハーレイ、飲んでくれるよね、って譲るつもりで言ったんだけれど。



「ふうむ…。お前の気持ちは嬉しいが、だ」
 そんな時に限って、茶柱は立ってくれないってな。
「…やっぱりそう?」
 ハーレイもそんな気がしちゃう?
 ぼくが頑張っても、夫婦湯呑みを使わずにお茶を淹れても駄目だ、って…?
「まあなあ、狙って立てられるものじゃないからな、あれは」
 あくまで運だし、俺に譲ろうと努力するだけ無駄ってもんだ。
 それにだ、俺はお前に贈ってばかりというわけじゃないぞ、幸せってヤツを。
 お前からもちゃんと貰っているのさ、お前に自覚が無いってだけだ。
 今だって貰い続けているんだ、こうして話していられるだけでな。
 お前は帰って来てくれただろう? 俺の所へ、前のお前と同じ姿で。
 …ちょっぴり小さくなっちまったが、いずれは育って見分けがつかなくなるんだし…。
 そんなお前を嫁に貰える俺は幸せ者なんだ。
 お前から茶柱を貰うどころか、俺の方から「どうぞ」と譲ってやらんとな。
 今度こそお前を守ると決めたし、幸せだってうんと沢山、お前にやろうと決めているしな。



 だから茶柱はお前のものだ、ってハーレイは言ってくれたけど。
 立った時には全部お前が飲むといい、って笑っているけど、その茶柱。
 やろうと思って立てられるものじゃないみたいだから、運の問題だから、難しそう。
 だけど、今度のぼくたちだから。
 四つ葉のクローバーをいくら探しても見付けられなかった、前のぼくたちとは違うから。
「…ハーレイ、茶柱、また立つよね?」
 結婚した後でもきっと立つよね、譲り合いが何度も出来るくらいに。
「うむ、現に一回目で見事に立ったんだからな」
 正確に言えば二回目なんだが、雁金に変えたら一度で立ったくらいだし…。
 お前の運も大したものだな、今度はな?
 四つ葉のクローバーが見付からなかった前のお前とは違うってな。



 幸せになれるに決まっているさ、って片目を瞑ってみせたハーレイ。
 俺が幸せにしてやるからって、茶柱も全部一人占めして幸せになれ、って。
「いいか、コッソリ飲むんだぞ? 今日みたいに失敗しないでな」
「そっちの方も頑張るけれど…。ハーレイに茶柱を譲る方でも頑張るよ」
 バレないように譲る方法、って、ぼくも片目を瞑っておいた。
 幸せを分けてあげたいから。ハーレイにも幸運を沢山掴んで欲しいから。
 茶柱の幸運、今日は失敗して逃したけれども、もう次からは逃さない。
 ハーレイと二人、コッソリ譲って、譲り合ってはコッソリ飲んで。
 飲み込んで幸運を呼び込まなくっちゃ、幾つも、幾つも、うんと沢山。
 ハーレイもぼくも、今度こそ幸せになるんだから。
 幸運の茶柱が湯呑みにプッカリ浮かぶ地球。青い地球の上で、二人で夫婦湯呑みを買って…。




           幸運の茶柱・了

※茶柱が立つと縁起がいい、とハーレイの授業で聞いて、頑張ったブルー。
 幸運の茶柱を一人占めするより、ハーレイに譲りたい未来。二人で夫婦湯呑みを買って。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










「ママ、おやつちょうだい!」
 ブルーはダイニングに足を踏み入れるなり、母に強請った。
 学校から戻って、着替えて降りて来たダイニング。今日のおやつは何だろうか、と。
 シフォンケーキだと言われたから。ふうわりと軽くて絹の舌触りのケーキだから。
「えっとね…。シロエ風のホットミルクも!」
「はいはい、マヌカ多めのシナモンミルクね」
 どうぞ、と用意してくれた母。切り分けられたケーキが載ったお皿も、湯気を立てているホットミルクも。
「ありがとう、ママ!」
 美味しそう、とシフォンケーキにフォークを入れると。
「ママも一緒に頂こうかしら…。ほんの少しだけ」
「うんっ! ママもホットミルク?」
「そうねえ、シロエ風っていうのもいいわね」
 ハーレイ先生のお勧めだものね、と母は自分用のカップにホットミルクを注いで来た。小さめに切ったシフォンケーキを載せたお皿も運んで来たから、母と二人でティータイム。
 あれこれ楽しくお喋りをして、学校であったことの報告もして。
 じゃあね、と、「御馳走様!」と二階の部屋に戻ろうとしたら。



「ハーレイ先生、来て下さるといいわね」
 声を掛けられ、コクリと頷く。
「今日は来てくれると思うんだけど…」
「あら、予知なの?」
「ううん、ぼくの勘!」
 予知能力なんかあるわけないでしょ、ぼくのサイオン、まるで駄目だし…。
 それにね、予知じゃフィシスに敵わなかったよ、ほんのちょっぴり出来たってだけ。
 ソルジャー・ブルーだった頃でもそうだよ、何か予感がする、って程度。
 今のぼくだとそれも無理だよ、と返事をすれば。
「そうね、ブルーはブルーだものね」
「…なあに?」
 ブルーはブルー、って、どういう意味?
「パパとママのブルーよ、って言ってるの。元はソルジャー・ブルーでもね」
 まだまだ小さな子供だもの、と母に頭を撫でられた。
 ママのブルーは可愛らしくて、小さなソルジャー・ブルーなの、と。
 パパとママとの宝物よ、と。



 母の優しい笑顔は嬉しかったけれど。
 頭を撫でてくれた柔らかな手だって、とても誇らしい気持ちになったけれども。
 階段を上がって部屋に戻って、勉強机の前に座ったら。
 其処に飾ったフォトフレームの中、ハーレイと二人で写した写真に目を遣ったら。
 ハーレイの左腕、両腕でギュッと抱き付いた自分。ハーレイよりもずっと背が低い自分。それに顔立ちも少年のそれで、前の自分とは比べようもなくて。
(可愛らしくて、小さな…)
 母の言葉が蘇って来た。「可愛らしくて小さなソルジャー・ブルーなの」と。
 写真の自分と何処も変わらない、背丈すらも伸びていないままの自分。たったの一ミリも伸びてくれずに百五十センチしか無いままの背丈。
 あれが自分の目標なのだ、とクローゼットに鉛筆で微かにつけた印の高さはまだ遠い。
 前の自分の、ソルジャー・ブルーの背丈の高さに引いた線。
 ハーレイにもチビと言われるけれど。
 小さいとも可愛いとも何度も言われたけれど。



(見た目だけ…だよね?)
 写真の中の自分がハーレイよりもずっと小さいように。
 キャプテン・ハーレイと並んで立っていた頃より、肩の高さがずっと低いように。
 十四歳にしかならないのだから、まだまだ子供なのだから。前の自分のようにはいかない。
 小さくて当然、可愛らしいと形容されても、それが当然。
 きっとそう、と思ったのだけど。
 そうだと写真を眺めたけれども、今の自分の姿はこうだと頬杖をついて観察したけれど。
(…違う?)
 もしかしたら、と頭を掠めた、さっきまでのこと。
 学校はともかく、家に帰ってから。
 おやつを食べながら母と交わした言葉の数々。
 はしゃいで、笑って、それは沢山の言葉を紡いだ自分だったのだけれど。
 どれも…。



(ソルジャー・ブルーじゃ…ない…?)
 前の自分なら、あんな風には話さない。
 白い上着に紫のマント、青の間に居た自分なら。ソルジャー・ブルーだった頃の自分なら…。
 「ママ、おやつ」と言いはしないだろう。
 「ちょうだい」とも。
 自然に口から出した言葉で、今の自分には馴染んだ口調で、少しも変ではないけれど。
(前のぼくなら…)
 どう言ったろうか、母はとっくにいなかったけれど。
 前の自分を育ててくれた養父母の記憶も失くしたけれども、いたとしたなら。
 ソルジャー・ブルーだった自分の目の前に、母がいたなら。



(…お母さん…?)
 ママと呼ぶには育ちすぎていたソルジャー・ブルー。
 母に向かって呼び掛けるならば、「お母さん」。そうでなければ「母さん」と。
 前の自分が生きた時代は、十四歳で養父母と別れたけれど。離されたけれど、シャングリラには養父母の記憶を持っていた者たちもいた。彼らは、確かそう呼んでいた。
 育ててくれた母を懐かしむ時、「母さん」、あるいは「お母さん」と。
 ソルジャー・ブルーだった自分が、養父母の記憶を持っていたなら。それを誰かに語り聞かせるなら、どう呼んだろうか。その母が現れて呼び掛けるならば、どうだったろうか?



(…ママにおやつを頼むなら…)
 行儀よく「お母さん」と呼んだのだろうか、前の自分は?
 ソルジャー・ブルーが母におやつを注文するなら、さっき自分がやっていたように頼むなら。
(お母さん、おやつ…)
 おやつは少し変かもしれないけれど。もっと相応しい言葉があるかもしれないけれど。
 生憎と何一つ思い付かないから、おやつの方は仕方ない。
 けれど、「ちょうだい」は如何にもまずい。それは子供の言葉だから。
 甘える時なら「ちょうだい」と言っても良さそうだけれど、普通におやつを頼みたいなら…。
(お母さん、おやつお願いできる?)
 頭の中で組み立てた言葉に、「そう、それ!」と声を上げたくなった。
 前の自分ならば、そうなったろう。ソルジャー・ブルーが母親におやつを頼むのならば。
 ところが自分がやったことと言えば、「ママ、おやつちょうだい!」と、それは無邪気に、変だとも思わずに、ためらいもせずに。
 つまり自分は、ソルジャー・ブルーではない今の自分は…。



(ちょうだい、な子供…)
 おまけに「お母さん」とは違って「ママ」。
 よちよち歩きの幼児でも言える「ママ」なる呼び方、少しも大人らしくない。
 今の今まで全く気付いていなかったけれど。まるで気付いていなかったけれど、言葉遣いというものからして間違っていた。
 誰が聞いても子供の言葉で、前の自分とは違いすぎる。
(声のせいだけじゃなかったんだ…!)
 前の自分とは違う声。まだ声変わりをしていない声。
 そういう声で話しているから、何を言ってもハーレイに鼻で笑われるのだと思っていたけれど。
 お前はチビだと、チビで子供だと相手にされずに終わるのだと信じていたけれど。
 声はもとより、言葉からして幼かった。
 ハーレイと並んで写真に収まった子供そのまま、十四歳の子供にお似合いの言葉。
 前の自分が喋っただろう、大人の言葉が話せない自分。



(これを直さないと…)
 ハーレイはキスをしてくれるどころかチビ呼ばわりのお子様扱い、それでは困る。
 いつまで経っても伸びない背丈も問題だけれど、言葉遣いも大いに問題。
(直さなくっちゃ…)
 前の自分と同じ口調に。今よりも落ち着いた声をしていたソルジャー・ブルーに似合う言葉に。
 頑張らねば、と決意を固めた。
 何も知らない両親の前では無理だけれども、子供らしく振る舞わねばならないけれど。
 せめてハーレイの前では、と。
 前の生からの恋人であった、ハーレイと二人きりで話す時には、と。
 そうすればきっと、ハーレイの気持ちも変わるだろう。自分を見る目も変わるのだろう。
 姿こそ今も小さいけれども、中身は前の自分と同じに大人だと。
 心が、中身が大人だと認めて貰えたのなら、キスだって…。
 きっとキスくらいは貰えると思う。その先は駄目でも、唇にキスを落とすくらいは。



(えーっと…)
 前の自分ならどう話すのか、と懸命に記憶を手繰っていっては引き寄せて。
(あのね、とかも駄目…)
 「なんで?」も間違いなく論外。「でしょ?」も明らかに今の自分ならでは。
 使っては駄目であろう言葉を頭の中でチェックしてゆき、次々と見えない壺の中へ詰めた。心に作った、目には決して見えない壺。言葉を封印するための壺。
 誰も見ることが叶わない壺にせっせと詰め込み、出てこないよう蓋を厳重に。
 もちろん言葉を一つ詰める度に、言い換えるならば何にするかも考えた。
 あくまでソルジャー・ブルーらしく。何処までもソルジャー・ブルーらしく、と。



 ギュウギュウと言葉を詰め込んだ壺を、心の奥へと仕舞い込んで。
 壺の中の言葉はもう使うまいと、ハーレイの前では使わないのだ、と自分自身に誓っていたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイムの音。この時間にあれを鳴らすのは…。
(ハーレイ…!)
 窓に駆け寄り、見下ろしてみれば庭を隔てた向こうで手を振るハーレイ。
 応えて大きく振り返してから、ハタと気付いた。
(子供っぽい…?)
 こんな仕草も駄目だろうか、と少し控えめに振ってみた。
 前の自分が手を振った時はこのくらい、と。
 すると、ハーレイもそうしたから。手の振り方が急に小さくなったから。
(遊んでる、って思われてる…?)
 大きく振っていた手を控えめにして、何か企んでいると誤解されたとか…。
 けれども、これからが真剣勝負。
 ハーレイと二人きりで向き合う時間が大切なのだ、と言葉遣いを改めて意識し直した。
 ソルジャー・ブルーと同じ言葉を、大人らしい言葉を使わねば。
 外見はチビのままだけれども、中身は前と同じなのだとハーレイに知って貰わねば。
 変わったのは姿形だけ。
 魂は、心は、前の自分だと。ソルジャー・ブルーは此処にいるのだ、と。

 

 間もなく母がハーレイを部屋に案内して来て、お茶とお菓子とを置いて行って。
 その間は壺に詰めた言葉も使っておいた。母が怪しまないように。
 だからハーレイも気付きはしなくて、母の足音が階段を下りて消えてゆくと。
「どうした、今日は変わった手の振り方をしていたな?」
 いつもみたいにブンブン振らずに、なんて言うのか…。
 妙に澄ました、気取ったみたいな感じだったが?
「…少し気を付けようと思って」
「何にだ?」
 鳶色の瞳が怪訝そうに細められたけれども、ブルーの決意は揺らがなくて。
 桜色をしたその唇から、前の自分が紡いだであろう言葉を返した。
「あまりに子供っぽいことをしてると、君に笑われてしまうからね」
「はあ…?」
 子供っぽいって…。お前、立派に子供だろうが、違うのか?
 熱でもあるのか、と額に大きな手を当てられた。
 どうかしたのかと、何処か変だと。



 「熱は無いな」とハーレイが首を捻るから。
 具合が悪そうでもないのだが、と見詰めて来るから、ブルーはクスッと小さく笑った。
「おかしいかい?」
「可笑しいかって…。そりゃあ可笑しいが…」
 お前とも思えない台詞だったが、何を考えているんだ、お前?
 それでだ、なんだ、その上品ぶった仕草は?
「上品って…。そう見えるのかな?」
 ぼくはそんなにガサツだったかな、自分ではこれが普通じゃないかと思うんだけどね?
 上品も何も…、と普段は嬉々としてフォークで切り取るケーキをそうっと静かに切った。
 ティーカップに注いだ紅茶を混ぜるスプーンも、カチャカチャと音を立てないように。
 ソルジャー・ブルーだった頃にはそうしていたから。
 誰に躾けられたわけでもなかったけれども、あえて言うならエラだったろうか?
 礼儀作法に厳しかったエラ。
 長老たちだけでお茶を楽しむ時にも、紅茶をゴクゴク飲んだりはせずに、上品に。
 同じ女性でもブラウの方だと、喉が乾いたと言わんばかりに一気に飲み干し、おかわりを注いでいたものだけれど。お菓子の類も豪快に口へと運ぶのがブラウだったのだけれど。



 十四歳の小さなブルーは、どちらかと言えばブラウに近い。
 食が細いというだけのことで、美味しいお菓子があれば飛び付く。食欲さえあれば、自分の口に見合ったサイズに切ってパクリと齧り付く。ケーキもタルトも、パイやムースも。
 それがケーキをそうっと切ったり、いつもならカチャカチャ音をさせて混ぜる紅茶をあまりにも静かに混ぜるものだから、ハーレイの方にしてみれば…。
「不気味だぞ、お前」
 悪いものでも食ったのか、って訊きたいくらいに妙なんだが…。いったい何を企んでいる?
「失礼だね、ハーレイ」
 ずいぶんな言われようだけど…。ぼくを誰だと思っているわけ?
「誰って…。お前はお前だろう?」
 それ以外の何でもないと思うが、何かあるのか?
 服だっていつもと変わりないように見えるんだがな…?
「分からないのかい、ごく簡単な質問なのに」
 ぼくはぼくだよ、君のブルーだよ。
 そうだろう、ハーレイ…?



 精一杯、前の自分の口調を真似たのに。
 そういった言葉を口にした時の笑みまで真似てみせたのに。
 ハーレイは盛大に吹き出した。それは可笑しそうに、もうたまらないというように。
「なるほど、そういうゲームだってか」
 それなら付き合ってやらんとな。お前が膨れてしまう前にな…、って、これじゃいかんか。
 俺もキッチリ切り替えんと…。
 それで、これにはどういう理由が?
「ぼくらしくしようと思ってね」
 平和ボケとでも言うのかな…。すっかり今に慣れてしまって、色々とお留守になっていた。
 それじゃ駄目だと気付いたんだよ、少し遅すぎた気もするけれどね。
「反対する理由はございませんが…」
 私は反対いたしませんが、そうなさって何か得でもあると?
 あなたが苦労をなさるだけではないのですか?
「そんなことはないよ」
 これでも充分、考えたしね。それに、こうしておいたなら…。
 君の心が手に入るだろう?
 ぼくから少し離れてしまった、君の心が。



 例えばキスとか…、と微笑んでやれば。
 ハーレイは少し困った顔で。
「とうに手に入れていらっしゃるかと思うのですが…」
 こんな不自由をなさらなくとも、私の拙いキスくらいは。
「いや、まだだよ?」
 ぼくは一つも貰ってはいない。少なくとも、ぼくの記憶には無い。
 君の勘違いじゃないのかい?
 学校の仕事や柔道部の指導で忙しそうだし、記憶違いをしているとか…。
「いいえ、確かに差し上げました」
 頬と額に幾つも、何度も。それこそ数え切れないくらいに差し上げた筈だと思うのですが?
「それじゃ足りない。ぼくはキスには数えていないよ、そういったキスは」
 この地球で君に巡り会えたけれど、再会のキスすら貰ってはいない。
 ぼくは今でも君のブルーのつもりなのにね…?
「では、どうしろと仰るのです?」
 何を求めていらっしゃるのですか、この私に…?
「言ったろう、キスを貰っていないと。…ぼくにキスを」
 再会のキスが欲しいんだけどね…?
「かしこまりました」
 仰せの通りに。…再会のキスを。
 せっかくあなたに会えたのですから、心からのキスをあなたのために。



 ハーレイが椅子から立ち上がって。
 ブルーが座った椅子の方へとやって来たから、してやったりと瞼を閉じた。
 効果はあったと、これでハーレイからキスが貰えるに違いないと。
 前の自分と同じ背丈になるまでは無理だと諦め果てていた唇へのキス。それが貰えると、ついに唇にキスを贈って貰えるのだと。
(ハーレイのキス…)
 言葉遣いを改めたことは正しかった、と自信を深めたブルーだけれど。
 自分の誤りに気付いて良かったと、やはり言葉や仕草も大切だったのだ、と心躍らせて待ったのだけれど。
(…えっ?)
 額に、頬に落とされたキス。慣れ親しんだいつものキス。
 その後にキスをして貰えるのだと、次は唇だと待ち焦がれたのに、それっきり。
 唇にキスを落とす代わりに、ハーレイが去ってゆく気配。
 キスは済んだと、元の椅子へと戻ることにするか、と床を微かに軋ませて。
 それでは困る。
 再会のキスを貰っていないし、唇へのキスはどうなったのか。
 パチリと瞳を開けてみたらば、ハーレイは椅子に戻っていたから。
 テーブルを挟んで向かい側の椅子に、ハーレイの定位置に元の通りに座っていたから。



「これじゃ全然足りないってば!」
 叫んだ途端に、ニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。
 ブルーは慌てて両手で口を押えたけれども、既に手遅れというもので。
 ハーレイの耳は捉えてしまった。ブルーの口から漏れた言葉を、十四歳の子供の言葉遣いを。
(やっちゃった…!)
 心の中に仕舞っておいた封印の壺。子供らしい言葉を詰め込んだ壺。
 しっかりと封印を施した筈が、ポンと飛び出してしまった言葉。開いてしまった壺の蓋。
 アタフタとするブルーに向かって、ハーレイは至極真面目な口調で。
「ソルジャー・ブルーはそのようには仰いませんでしたね」
 私が記憶している通りでしたら、「これでは全然足りやしない」と仰ったかと。
 「全然」ではなくて、「全く」だったかもしれませんが。
 「まるで足りない」とも仰いましたね、「これではまるで足りないじゃないか」と。
 淡々と並べ立てられる言葉。
 ソルジャー・ブルーはこうであったと、このように話していた筈だと。
 それをブルー自身が懸命に考えたものより遥かに自然に、流れるように話すものだから。
 ハーレイがそれらの言葉を使っていたかの如くに流れ出て来るものだから。
 こうも違うかと、考えて作り上げた言葉と本来のものとは違うものかと、突き付けられた厳しい現実。ハーレイにとっては、前の自分の口調や言葉遣いは意識せずとも思い出せるもの。こういうものだと、こうであったと、スラスラと真似てみせられるもの。
 ブルーには出来なかったのに。
 今の自分の言葉をせっせと壺に押し込め、記憶を手繰ってようやっと真似ただけなのに。
 使わないよう封印していた壺の中身も、あっさり零れてしまったのに…。



 所詮は猿真似だったのか、と思い知らされた、前の自分の口調の真似。
 ハーレイは楽々と真似るというのに、当の自分が真似られなかったソルジャー・ブルー。
 あんなに考えて頑張ったのに、と小さなブルーはもう悔しくてたまらなくて。
「うー…」
 そんな声しか出てこない。失敗した、と呻く声しか。
 しかしハーレイの方はそうではなくて、真面目くさったキャプテンさながらの顔で。
「うー、とも仰いませんでした」
 そのような時には黙ったままでらっしゃいましたね、何も仰らずに。
 そうでなければ、「ぼくとしたことが…」と溜息をついていらっしゃったかと。
「ハーレイのバカッ!」
 短く怒鳴れば、ハーレイは「ええ」と頷いた。
「それは何度も仰いましたね、ハーレイの馬鹿、と何度も浴びせられましたが…」
 確かに仰っておられたのですが、それは間違いないのですが…。



 尻尾が見えておりますよ、とクックッと喉を鳴らしたハーレイ。
 大きな古狸の尻尾ではなくて、キツネの尻尾でもなくて。
 それは可愛らしい尻尾が見えると、ふわふわのフカフカの尻尾が見えると。
「子狸でしょうか、それともウサギか…」
 そういえば、あなたは小さい頃にはウサギになりたいと思ってらっしゃったとか…。
 ならば子狸よりもウサギの尻尾と思った方がよろしいですか?
 そういう愛らしい尻尾ですね。
 あなたのお尻にくっついた尻尾は、チラチラと見えている尻尾は。
「なんで尻尾!」
 どうして尻尾の話になるわけ、ぼく、尻尾なんかは生えてないのに!
 それにハーレイ、何処から尻尾が見えるって言うの!?
 テーブルに隠れて見えない筈だよ、ホントに尻尾がくっついてたって!
 尻尾、尻尾、って、ぼくはそんなのくっついてないよ!
「おやおや、先に音を上げられたのはあなたですか?」
 尻尾どころか、もう全身が見えておりますが?
 どうやらあなたは、尻尾の話を御存知なかったようですねえ…。



 ゲームオーバーだな、とゲーム終了を告げられた。
 もうキャプテン・ハーレイの真似はやめだと、元の口調に戻らせて貰う、と。
「お前、あの言い回しを知らないのか?」
 尻尾を出すってよく言うだろうが、化けの皮が剥がれるとも言うが…。
 化けていたキツネや狸の尻尾が見えちまったら、正体が何か分かるだろ?
 そいつのつもりで言ったんだがなあ、さっきの尻尾。
 お前、せっせとソルジャー・ブルーの真似をしてたが、どんどんボロが出ちまってたしな?
 それで「尻尾が見えているぞ」って俺が教えてやっているのに、お前ときたら…。
 出てた尻尾を仕舞うどころか、全身丸ごと出しちまったと来たもんだ。
 尻尾の話で頭に来たのか? 本物の尻尾は生えてないしな。
「ハーレイがあんな言い方をするから悪いんだよ!」
 真面目な顔して尻尾、尻尾、って言われたら何かと思うじゃない!
 ぼくに尻尾は生えてないのに、何処から尻尾が出て来るんだろう、って!
「ほほう…。お前、知ってはいたんだな? 尻尾を出すっていう言葉」
「当たり前だよ、そのくらいのことは知ってるよ!」
 でなきゃトップは取れないよ!
 ぼくの成績、ハーレイだって知ってるくせに!
 テストだったらちゃんと分かるよ、尻尾を出すって意味くらい…!



 ブルーは膨れっ面になったけれども、尻尾の話で尻尾を出したのは自分だから。
 尻尾どころか全身を出して、化けの皮が剥がれてしまったから。
 あんなに頑張って壺に詰め込んだ言葉はすっかり零れてしまった。一つ残らず壺から飛び出し、元あった場所へ戻ってしまった。
 ソルジャー・ブルーの口調はもう真似られない。前の自分の真似は出来ない。
 十四歳の子供の口調で怒って、膨れて、当たり散らして。
 たった一つだけ、ソルジャー・ブルーとそっくり同じな言い回し。
 「ハーレイのバカ!」と口にする度、それをぶつけられた筈のハーレイが腹を抱えて笑い出す。
 その台詞だけは間違っていないと、実に見事でその通りだと。
 点数をつけるなら百点満点、文句なしのソルジャー・ブルーの台詞。
 流石お前だと、生まれ変わっても一つくらいは何か取柄があるようだ、と。
「サイオンはとことん不器用な上に、思いっ切りのチビなんだがなあ…」
 それでもそいつはソルジャー・ブルーだ、間違いない。
 頑張らなくても完璧な出来だ、もうそれ以上は練習しなくてもいいってな。その台詞だけは。
「ハーレイのバカっ!」
 どうしてそういうトコで褒めるわけ、ぼくはあんなに頑張ったのに!
 前のぼくらしくしようと思って、ケーキも紅茶も、うんとお行儀よく食べたのに!
 そしたらハーレイは不気味だなんて言ってくれたし、酷すぎなんだよ、何もかも全部!
 バカだけ満点を貰っちゃっても、嬉しくもなんともないってば…!



 息もつかずに一気にまくし立てたブルーだったけども、ハーレイはただ笑うだけ。
 馬鹿だけは満点をプレゼントすると、なんなら紙に書こうかとまで。
「ハーレイの馬鹿に関しては免許皆伝です、と大きく書いてやってもいいぞ?」
 この俺を馬鹿にした台詞を書いてやろうと言うんだからなあ、大サービスというヤツだ。
 何か無いのか、そういったことを書くのに向いてるデッカイ紙。
 画用紙でもいいから持って来い。免許皆伝と書いてやるから。
「そんなサービス、要らないよ!」
 日記にも書かなくていいからね!
 ぼくがソルジャー・ブルーの真似をして失敗しちゃったことは!
 自分の言葉も真似が出来ない情けないヤツ、って書いたら本気で怒るからね…!
「書きやしないさ、俺の日記は覚え書きだと言ってるだろうが」
 そういう俺がだ、「ハーレイの馬鹿」と紙に書こうと言っているんだ、遠慮するな。
 今を逃したらもう書かないぞ?
「ハーレイのバカっ!」
 ぼくが要らないって言っているのに、押し付けなくてもいいじゃない!
 そんな台詞だけ免許皆伝でも、ちっとも嬉しくないんだからね…!



 もっと他の台詞…、とブルーは懸命に訴えたけれど、それは子供の言葉でしかなくて。
 ソルジャー・ブルーの真似は出来なくて、すっかりいつもの言葉遣いで。
 「ハーレイのバカ!」と繰り返す内に、ハーレイが「それで?」と問うて来た。
「お前、なんだってこんな馬鹿な遊びを思い付いたんだ?」
 前のお前の口真似だなんて、チビがやってもまるで似合っていないんだがな?
「ぼくらしくしようと思ってる、って言ったでしょ!」
 真剣なんだよ、ハーレイにちゃんと見て貰いたくて!
 見た目はチビでも、中身は前と変わらないよ、って、おんなじだよ、って!
「…どの辺がどう同じなんだか…。尻尾は最初から丸見えだったと思うがなあ…」
 悪いものでも食ったのか、と思ったくらいに可笑しかったが、今日のお前の喋り方。
 しかしだ、お前が本気で取り組むつもりだと言うのなら…。
 まあ、付き合ってやらんこともない。俺もキャプテン・ハーレイらしく、だ。
 頑張るんだな、ソルジャー・ブルーを目指してな。
「もちろんだよ!」
 この次はきちんとやってみせるよ、前のぼくみたいな喋り方。
 ちゃんと出来たら、ハーレイだってぼくを認めてくれるだろうしね!



 そうは宣言したものの。
 やってみせると言い張ったものの、キャプテン・ハーレイの丁寧すぎる言葉遣いより。
 今のハーレイの砕けた口調が、「私」よりも「俺」なハーレイの方が断然、好きで嬉しいから。
 小さなブルーは二度と挑みはしないだろう。
 前の自分の口調を真似して背伸びしようとは、より大人らしく見て貰おうとは。
 とはいえ、いつかすっかり忘れてしまえば、またやるのかもしれないけれど。
 背伸びしようと、中身はこうだと、大人の口調。
 ソルジャー・ブルーだった頃に自分が使った、子供には似合わない口調。
 それが少しも似合っていないと、小さなブルーは気付きもしない。
 自分の中身は前と同じだと、ちっとも変わっていないのだと。
 そしてハーレイが笑いを堪える。
 次にはどんな事件が起こるか、小さなブルーは何をやらかしてくるのだろうかと。
 「ハーレイの馬鹿」だけは免許皆伝、前の通りの小さなブルー。
 前の自分と同じ姿も、その喋り方も、まだ当分は手に入りそうもないけれど。
 恋人だけは前と同じに持っている。
 「ハーレイのバカ!」と言われようとも満点をくれる優しい恋人を、とうに小さな手の中に…。





            違った口調・了

※ハーレイが子供扱いするのは、子供っぽい口調のせいだと思い込んだブルー。
 頑張って直して喋っていたのに、出てしまった尻尾。子供にはそれがお似合いですよね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(なんだか変…?)
 金曜日の夜。ブルーが喉に覚えた違和感。
 お風呂に入って、パジャマに着替えて部屋で寛いでいた時間に、ふと。
 喉の奥が少し痒い気がする。それにザラリとした感覚も。
 風邪の引き始めに少し似ていて、こうした時には喉が痛くなるのではなかったか。
(ハーレイの金柑…)
 特効薬だ、と前に貰った。風邪に効くのだと金柑の甘煮が詰まった瓶を。
 ハーレイの母が作った甘煮。隣町にあるハーレイの両親の家で実った金柑の実で。
 風邪の予防にもなると聞いたし、喉にもいいと聞かされたから。
 食べてみようか、と思ったけれど。
 キッチンの棚に仕舞ってあるのを食べに行こうかと考えたけれど。



(このくらいなら…)
 ほんの僅かな、喉に意識を集中しなければ分からない程度の痒みとザラつき。
 気が付かなければ何もしないでベッドに入っていそうなほどの。
 ごくごく軽くて、見逃していても不思議ではない、錯覚で済ませられそうに感じる喉の訴え。
 普通のキャンディーを舐めればいいや、と自分で決めた。
 あの金柑はもったいないと、ここぞという時にこそ食べるべきだと。
 階段を下りてリビングを覗くと、まだ両親が其処に居たから。
 どうしたのかと尋ねられたから、「ちょっとキャンディーが食べたくなった」と誤魔化した。
 歯は磨くからと、キャンディーを一つ貰っていくねと、ダイニングにあった缶から一つ。様々な色と味のキャンディー、そこから適当に一つ取り出して口へと入れた。
 それが失敗だとは思いもせずに。
 柑橘系の味がするなと、金柑の甘煮とは違った味だと、舐めたら収まってくれた喉。
 唾液が痒みを抑えただけだと、ザラつきも潤いで消えただけだと、ブルーに分かるわけがない。
(もう大丈夫!)
 金柑を奮発しないで良かった、とベッドに入って眠りに就いた。
 歯も磨いたから口はスッキリ、明日はハーレイが来てくれる日だと心弾ませ、上掛けを被って。



 ところが翌朝、目を覚ましたら。
(喉…?)
 消えてくれた筈の違和感どころか、もう明らかに風邪の症状。喉の奥が腫れている感じ。
 けれども、声は出せたから。普段と変わらない声が出たから、さほど酷くはないのだろう。熱を測っても平熱だったし、クシャミや鼻水も全く無いし…。
(ただの喉風邪…)
 これならバレない。自分が我慢をしていさえすれば、両親も風邪と気付きはしない。
(平気だよね?)
 絶対に見破られない筈、と顔を洗って服も着替えた。ウガイは念入りにしておいたけれど。喉が少しでも良くなるようにと、ガラガラと水とウガイ薬ですすいだけれど。

(これで良し、っと…!)
 準備万端、食事をしようとダイニングに颯爽と入って行った。
 喉風邪なんかを引いてはいないと、元気そのものだと自分に言い聞かせるように。
 トーストの焼ける匂いや、オムレツやソーセージの匂い。扉を開けたら包まれてしまう、暖かな朝の食卓の匂い。それを一杯に吸い込みながら「おはよう」と明るく挨拶したら。
 父と母の手がピタリと止まって、二人ともが。
「どうしたの、ブルー?」
「声、変じゃないか?」
 掠れている、と指摘された。いつもの声とはまるで違うと。
「そんなことないよ、普通だよ!」
 起きたばかりだから変なだけ、と主張したけれど、その声が既に変だったから。
 妙にあちこち引っ掛かるような、そういう発声だったから。
 「見せてみなさい」と母に手招きされた。此処へ来て口を開けなさい、と。
 仕方なく開けさせられた口。大きく開けと命じた母が覗き込み、父も椅子から立って来て。
「喉が真っ赤よ、痛いんでしょう?」
「こいつは酷いな、声が変な筈だ」
 どう見ても風邪だ、嘘をついても無駄だぞ、ブルー。この喉な上に、その声ではな。



 朝食が済んだら車を出そう、と言い出した父。
 病院へ行かねばと、早く手当てをして貰わねばと。
「そんな…!」
 ブルーは泣きそうな表情になった。
 病院だなんて、とんでもない。今日はハーレイが来てくれる日なのに。
 そんな所へ出掛けてゆくより、ハーレイと二人で過ごしたいのに。
 声に出しては言わなかったけれど、母には気持ちが通じたらしくて。
「大丈夫よ。ハーレイ先生には連絡しておいてあげるから」
「でも…!」
 それではハーレイは来てはくれない。朝から病院に行くと知ったら、ハーレイは…。
 でも、言えない。それが嫌だと言えはしない、と唇を引き結んで項垂れていたら。
「病院から帰ってくる頃に来て下さい、と連絡をすればいいんでしょ?」
 熱は無いようだし、喉だけだものね。
 ハーレイ先生に会いたいんでしょう、今日は来て下さる日だったから。
「うん…!」
 ありがとう、ママ!
 そうしてくれるなら病院に行くよ、パパの車で。
 早めに行ったら、早く診察、終わるんだよね?
「ブルーったら…」
 もう喋らないで、朝御飯をちゃんと食べなさい。喋ると喉が酷くなるわよ、今よりもね。
 それと栄養、しっかりと食べて身体に元気をあげないとね?



 ブルーは本当にハーレイ先生のことが大好きなのね、と呆れられたけれど。
 喉が痛くても病院に行かずに我慢しようとするなんて、と父も母も困り顔だけど。
(だって、本当に好きなんだもの…)
 ハーレイのことが。
 会えるチャンスを逃すことなど出来はしないし、したくもない。
 喉の具合が最悪だろうが、声がとてつもなく変であろうが。
 学校の日ならば諦めて休みもするだろうけれど、今日は貴重な週末の土曜日なのだから。
(ぼくが好きなの、キャプテン・ハーレイじゃなくてハーレイなんだけどね…)
 勘違いをしているであろう両親。
 前の生での右腕であったキャプテン・ハーレイとの友情なのだと、二人は親友だったのだろうと信じているであろう両親。だからブルーが会いたがるのだと、親友と過ごしたいのだと。
(友達じゃなくて恋人なんだけどね?)
 元は友達だったけれど、と緩みそうになる頬を引き締めた。
 親友から恋人へと変わったハーレイ、今の生でもキスさえ出来ない仲でも恋人。
 そのハーレイに会いたかったら、まずは朝食、それから病院。
 両親の言い付けをきちんと聞かねば、ハーレイに会えはしないのだから。



 父が運転する車で母に付き添われて、病院に行って。
 顔馴染みと言っていいほどの医師の診察を受けて、「風邪ですな」と喉に薬を塗られた。独特の味がする薬。効きそうだけれど、けして美味とは言えない薬を。
「今日は一日、安静に。ベッドで身体を休めて下さい」
 そこまでは全く問題無かった。
 ブルーが予想していた通りで、ホッと一息ついたのだけれど。
「喉のためには喋らない方がいいでしょう」
「えっ…!」
「声ですよ。思念波まで禁止とは言っていませんよ、大丈夫」
 慌てなくても、と年配の医師は笑ったけれども、ブルーには笑い事ではなかった。
 医師とは長い付き合いだけれど、物心ついた頃から何度もお世話になっているけれど。
 診察の折にサイオンを使う機会は無いに等しいから、医師は全く知らないのだ。目の前の患者は思念波を上手く操れないことを。声の代わりに思念波で会話を交わすことなど、不可能なことを。
(喋れないなんて…!)
 愕然としているブルーを他所に、医師は「お大事に」とにこやかな笑みを浮かべてくれた。
 帰りの挨拶は要りませんよと、それよりも黙っていることですね、と。



 思いもよらない診断が下った、病院からの帰り道。
 父の車の中、隣に座った母の袖をクイと引っ張った。此処までは黙っていたけれど…。
「ママ、ぼくの喉…」
「シーッ!」
 喋っちゃ駄目でしょ、と叱られた。話したいのなら思念波で、と。
「ぼく、思念波は…!」
 ひりつく喉で声を上げたら、運転席の父までが。
「ブルー、先生の仰ったことは聞きなさい」
 ママから聞いたぞ、今日は一日、思念波だ。
 お前の思念波は使えるレベルになっちゃいないが、パパとママには通じるだろう?
 休みの日だからそれでいいんだ、きちんと黙って早く治しなさい。



 両親揃って諭されてしまえば、もう肉声は使えない。
 父と母には拙い思念波が通じるけれども、なんとか会話が出来るけれども。
(ハーレイが来てくれるのに…!)
 昨日から待ち焦がれていたハーレイ。今日は二人きりで話が出来ると心躍らせて待ったのに。
 声が出せなくては何も話せず、おまけに自分はベッドで安静。
 どうしたらいいと言うのだろう?
 ハーレイは沈黙に飽きてしまって、さっさと帰ってゆくかもしれない。
 「ブルー君を疲れさせてはいけませんから」と口では言いつつ、ジムか道場に行こうと回れ右をしてしまうかも…。
 それだけは困る。それは避けたい。
 せっかく来てくれたハーレイが帰ってしまったのでは、悲しいどころの騒ぎではない。
(そうだ、嘘…)
 喋れないことを言わなければいいのだ、ハーレイに。
 喉を傷めて声が変だと、喉風邪なのだと、その事実だけを告げて他は秘密に。



 医師に「喋らないように」と注意されたことは黙っておこう、と決意したのに。
 ハーレイが来てもそれは言うまいと、知らぬふりをしようと決めたのに。
 運の悪いことに、父の車が家に着いたら、先にハーレイが待っていた。門扉の側に立ち、笑顔で車に手を振ってくれた。「待っていたぞ」と、「大丈夫か?」と声を掛けるように。
「ハーレイ先生、お待たせしましてすみません…!」
 母が急いで車から降りて詫びる間に、父も車をガレージに入れてやって来た。母と一緒に車から降りたブルーの所へ。
 両親の前では黙っていよう、と沈黙を守るブルーを尻目に、父と母はハーレイに医師の診立てと例の言葉を話してしまった。
 ブルーは今日は喋れないから、思念波で喋るようにさせて下さい、と。
「分かりました。ブルー君と話すなら思念波ですね」
(嘘…!)
 ハーレイは百も承知の筈なのに。
 ブルーの思念波が喋れるレベルではないことを。
 それなのにハーレイに知られてしまった、肉声を禁止されていることを。
 ハーレイは帰ってしまうのだろうか、退屈だからと欠伸をして。
 ブルーの蔵書では時間潰しにもなりはしないと、今日はジムにでも行くとするか、と。



 話したくても、話せない。喉から言葉を紡ぎ出せない。
 母に部屋へと連行された。早くパジャマに着替えるようにと、そしてベッドに入るようにと。
 その間、ハーレイは階下で父と談笑していたらしくて、ブルーの部屋までやって来た時には手にカップ。普段はブルーの部屋で飲まない、コーヒーのカップ。
 ハーレイがそれをテーブルに置いて間もなく、母がお菓子を運んで来た。本当だったらブルーも一緒に食べる筈だったケーキのお皿を一人分だけ。
 「ごゆっくりどうぞ」と微笑む代わりに「すみません」と頭を下げながら。
 我儘な一人息子だけれども、どうぞよろしくお願いします、と。



 母の足音が階段を下りて消えていった後、ブルーはそうっと口を開いた。
 声が掠れないよう注意しながら、喉の辺りを意識しながら。
「ねえ、ハーレイ…」
「思念波で喋れと言われた筈だが?」
 いつもの椅子に腰掛けたハーレイにピシャリと叱り付けられた。
 椅子はベッドの脇に運ばれ、ハーレイは直ぐ側に居るのだけれど。手を伸ばしたら触れる所に、ハーレイの膝があるのだけれど。
 喋れないのでは、これだけ近くても見詰めることしか出来ないから。
 許されないから、叱られてもいいと声を絞り出した。
「でも…!」
「でもも何もない。今日は喋るなと言われたんだろ、ちゃんと聞いたぞ」
 明日には喋りたいんだろうが。
 日曜だしなあ、俺は明日だって来るつもりだしな?
 それにだ、お前、痛いんだろ、喉。その声を聞けば痛いと分かるさ、普通の声ではないからな。
 喉から熱が出ることもあるぞ、と脅された。それも高い熱が。
 だから黙れ、と。
 高熱が出たら大変だからと、声が出ないだけでは済まないからと。



「馬鹿者めが…。おふくろの金柑、食わなかったな?」
 早めに食えと言っておいたのに。いくらでもやると、お前専用だと言っといたのに…。
 どうなんだ、と問い詰められれば頷くしかない。
 食べなかったことは本当だから。
 宝物の金柑を食べるよりは、とキャンディーを舐めてしまったから。
 上掛けの下で首を竦めて縮こまっていると、ハーレイがついた大きな溜息。
「まったく…。あれほど言っておいたのに…」
 馬鹿が、と屈み込んだハーレイの荷物の中から何か出て来た。小さめのジャムの瓶を思わせる、ガラス瓶。それに詰まった深い金色。
 夏ミカンの実のマーマレードよりも、金柑の甘煮よりも深みを帯びた金の色合い。
 それなあに、と尋ねかけて慌てて口を噤んだ。
 知りたいけれども、声を出してはいけないから。喉を治さないといけないから。



「それで良し。いいか、喋っちゃ駄目だってな」
 こいつは金柑が透明になるまで煮詰めたものさ。もう柔らかめの飴ってトコだな、飴とは違った舌触りだがな。これもおふくろが作っているんだ、甘煮を作るついでにな。
 こんな具合だ、と爪楊枝に刺した金柑を一つ見せられた。
 種を抜くためにこうするのだ、と周りに幾つもの切り込みを入れられ、平たく押し潰された丸い実。金柑と言われれば金柑だけれど、花の形のようにも見える実。
 元の姿が分からないほど透明になってしまった金柑。まるで飴細工のような金柑。
 よく効くぞ、と口に落とし込まれた。
 甘煮よりも喉に優しい味だと、痛む喉にはこれが効くと。



 ハーレイが含ませてくれた金柑。甘煮よりも手間がかかった金柑。
 それは甘くて、柔らかいけれども噛めばほろ苦い金柑の味。ハーレイの母が作った甘煮と同じ。
 もっと味わいが深いけれども。
 手間と時間をかけてある分だけ、その味は深くて、温かみさえも覚えそうなのだけれど。
(…ハーレイのお母さんの味…)
 まだ会ったことがない、ハーレイの母。
 いつかハーレイが伴侶に迎えるブルーのためにと、夏ミカンで作ったマーマレードをくれる母。金柑の甘煮も贈ってくれた。風邪の予防にと、引いた時にもこれが効くと。
 そのハーレイの母が金柑を煮詰めて作り上げたらしい、甘煮よりも手間がかかるもの。
 感想を伝えたいのだけれども、御礼も言いたいと思うけれども。
(喋れない…)
 それに思念波も紡げやしない、と金柑を口の中で転がしながら涙が零れそうになる。
 どうしてこんな時に限って特別なことが起こるのか、と。
 この気持ちは今、伝えたいのに。
 喋れるようになってからでは、きっと値打ちも無いのだろうに…。



 泣いてしまってはハーレイに悪い、と目を閉じた。
 嬉しさゆえの涙なのだと伝わらなかったら、申し訳ないでは済まないから。
 この金柑の実が不味かったのかと勘違いをさせてしまったのでは、ハーレイの心遣いを無にするばかりか、ハーレイの母にも詫びようがなくて、どうすればいいのか分からないから。
 そう思ったから、目から涙が溢れないよう、瞼を閉ざしてしまったのに。
(えっ?)
 上掛けの下で手を握られた。
 いつの間に滑り込ませていたのか、大きくて逞しい手で、右の手をキュッと。
 温もりを移してくれる時のように、あの温かな褐色の手で。
 そうして声が降って来た。
 パチリと目を開けたブルーを見下ろし、鳶色の瞳が柔らかな光を湛えていた。



「そのまま頭で考えてみろ」
 声にはしないで、頭の中でな。
(えーっと…?)
 いったいどういう意味なのだろうか、とブルーは瞳を瞬かせたけれど。
「それでいい。お前の心は伝わってるさ」
「ホント?」
「こら、声に出すな!」
 ちゃんと聞こえているからな、と微笑むハーレイ。
 この手を通して伝わっていると、お前が言葉にしたいことは、と。
(凄い、ハーレイ…)
 ママとパパしか出来ないのに…!
 ぼくは思念波が上手く使えないから、喋れない時はママとパパがこうしてくれるのに…!
「俺を誰だと思ってるんだ?」
 今のお前との付き合いは短いかもしれん。お父さんとお母さんよりずっと短い。
 だがな、その前はどうだったんだ?
 何年、お前と一緒に暮らした?
 同じ家に住んではいなかったが、だ。前のお前と前の俺とは…。
(そうだったね…)
 ずうっとハーレイと一緒だったね、ハーレイと二人で暮らしていたね。
 あのシャングリラで、どんな時でも。
 ぼくがメギドに飛んでしまうまで、ずうっと恋人同士だったね…。



 そのハーレイに自分の心が伝わらない筈がないのだった、と褐色の手を握り返せば。
 ハーレイの声が問うて来た。
「それで金柑、どうだった?」
 俺のおふくろが煮詰めた金柑、美味かったか?
(美味しかった!)
 ありがとう、と想いを送るまでもなく、「いや」と返って来た答え。
 思念波ではなくて、ちゃんと言葉で。唇と舌を使った言葉で。
「このくらいのことは何でもないさ。早く治してやりたいしな」
 金柑の甘煮を贈ってやっても、食わずに風邪を引くようなお前だからなあ…。
 こいつはお前にプレゼントせずに、毎回、持参すべきだな。
 そうそう喉風邪を引かれたのではたまらないがだ、引いちまったら持ってくるとするか。
 この金柑を食って早く治せと、俺のおふくろの手作りだしな、と。
(うん…。その方がいいと、ぼくも思うよ)
 瓶ごと欲しいと思っちゃうけど、貰ってもきっと食べ損なうから。
 金柑の甘煮と同じで大事にし過ぎて、風邪を引いちゃっても食べずにいそう…。
「そうだろうなあ、お前だけにな」
 これで何度目だ、金柑の甘煮を食わないで風邪を引いたのは?
 そういうのを世間じゃこう言うんだなあ、「宝の持ち腐れ」という風にな。
 お前の場合は「猫に小判」かもしれないな?
 使い道ってヤツが分かってないなら、猫に小判の方だよなあ…?



 酷すぎる例えを出されたけれども、膨れっ面になったブルーだけども。
 ハーレイは喉をクックッと鳴らして、それは可笑しそうに。
「うんうん、言葉で喋れない分だけ、文句がワンワン響いてくるな」
 酷いだの、馬鹿だの、意地悪だのと。
 全部一度にぶつけられる分、言葉よりいいかもしれないぞ?
 口は一つしか無いんだからなあ、馬鹿と意地悪とを同時に言ったり出来んだろうが。
 今のお前は俺への悪口大合唱だぞ、チビのお前が何十人もで悪口をコーラスしてるってな。



 そりゃあ賑やかで景気がいいさ、とハーレイがブルーの額をつつく。
 空いた方の手で、右手を握った手はそのままにして。
「それだけ元気があるようだったら、どうやら喉だけの風邪みたいだな」
 とはいえ、喉風邪を甘く見たらだ、駄目だとさっきも言ったよな?
 高い熱が出ると、喉は大事にしなくちゃいかんと。
 俺は喋るが、お前は喋るな。
 何も心配しなくったってだ、ちゃんと聞こえているからな。
 俺への悪口の大合唱だって、おふくろの金柑を美味いと喜んでくれたことだって。
(うん…)
 ハーレイが言葉にしてくれてるから、伝わってること、ぼくにも分かるよ。
 思念波でだって返せるだろうに、わざわざ言葉にしてくれるんだね。
 ありがとう、言葉を使ってくれて。
 ハーレイの声が耳に届くと、それだけで幸せな気持ちになるよ。
 ぼくはハーレイと話してるんだって、喋れないけどハーレイと話をしてるんだ、って…。



 それはブルーの心からの想いだったから。
 ハーレイの声を聞くことが出来て、本当に嬉しかったから。
 その心もまた大合唱となって、手から伝わったのだろう。
 「こんな声でも役に立つのか?」とハーレイが笑い、ブルーの右手をキュッと握って。
「俺の声を聞いていたいと言うなら、退屈しのぎに何か話をしてやるさ」
 何が聞きたい?
 特別授業か、それとも俺の失敗談か。武勇伝だって、まだまだ沢山あるんだぞ?
 お前、喋れない病人だからな、うんとサービスしてやろう。
 リクエストがあったら遠慮なく言えよ、どういう話を聞きたいんだ?
(…ハーレイの昔話がいいよ)
 前のハーレイの話じゃなくって、今のハーレイの昔話。
 ぼくに会うまでに何をしてたか、どんな所でどんな人たちに会ったのか…。
 そういう話が聞きたいな。ぼくの知らないハーレイのことを。
「よしきた、それじゃ最初はだな…」
 親父の話といこうじゃないか。俺が初めて釣りに出掛けた時の話だ、親父とな。
 あの釣り好きの親父ときたら、だ…。



 色々な話を聞かせて貰って、ワクワクしながら声に出せない相槌を打って。
 それをハーレイは端から拾って、上手に話をするものだから。
 まるで言葉を交わしているかの如くに、次から次へと昔語りの翼を広げるものだから。
 ブルーもその場に居たかのように心が躍った。ハーレイに手を引かれ、あちらこちらへ旅して、飛んで。様々な人に出会って、笑って、もう楽しくてたまらなかった。
 そうこうする内に、なんだか眠くなって来た、と思ったら。
「疲れちまったか? お前、ずいぶん、はしゃいでたしな」
 少し眠れ。せっかくベッドに入ってるんだし、眠れば風邪の治りも早いぞ。
(でも、ハーレイ…。帰っちゃわない?)
 ぼくが寝ちゃったら退屈だろうし、家に帰るとか、ジムに泳ぎに行くだとか…。
「帰らんさ。今日は夜まで居てやるから」
 土曜日はそういう約束だったろ、俺に用事が出来ない限りは夜まで此処に居るってな。
 退屈だからと誰が帰るか、お前の寝顔を見てるだけでも俺は幸せなんだしな。



 ゆっくり寝てろ、と額を撫でられた。
 右の手は変わらず握られたままで、ハーレイの空いた方の手で。
 いつしかブルーは眠ってしまって、夢も見ないで深く眠って。
 ふわりと意識が浮上した時、目が覚めて瞼を開けた時。
(ハーレイ…?)
 何処、と探すまでもなく返った返事。
 此処にいるさ、と。
 お前の側に、と握られた右手。
 ブルーの手よりもずっと大きな手が、今も右手を握っていたから。
(ずっと握っていてくれたの?)
 ぼくが寝ている間中、ずっと…?
「たまにサボッてたんだがな」
 飯も食ったし、とハーレイが空いた手でテーブルの方を指差した。
 いつの間にやら入れ替わっていた、テーブルの上に置かれたカップやケーキのお皿。ハーレイが自分で持って来ていたコーヒーのカップは別のカップに、ケーキのお皿も違ったものに。
(…御飯のお皿に見えないんだけど…)
 それともハーレイ、御飯の代わりにお茶とケーキで我慢してたの?
「おいおい、お前のお母さんがそんな真似をするわけないだろうが」
 昼飯の時間はとっくに済んださ、美味いのを食わせて貰ったぞ?
 その後でお茶も飲んだってわけだ、あの通り、菓子までつけて貰ってな。



 俺だけ先に食っちまったが、とハーレイの瞳がブルーを見詰める。
「目が覚めたんなら飯にするか?」
 寝てたからなあ、腹はそんなに減ってないかもしれないが。
(御飯って…。ハーレイのスープ?)
 いつものスープを作ってくれるの、野菜スープのシャングリラ風を?
「俺の手が離れていいんならな」
 スープを作りに行くんだったら、お前の右手は離さないとな?
(やだ…!)
 それなら野菜スープはいいよ。ママが作ってくれるだろうから、そっちでいいよ。
 きっとその内に、ママが様子を見に来るだろうし…。
「冗談だ。野菜スープなら、とっくに用意は出来てるってな」
 キッチンの鍋に入っているさ、とハーレイがパチンと片目を瞑った。
 ブルーがぐっすり眠っている間に作っておいたと、温め直して持って来ると。
(流石、ハーレイ…!)
 じゃあ、ちょっとだけ右手、離してもいいよ。
 スープを取りに行ってる間は、大人しく一人で待っているから。



 そうして、野菜スープが入った器を載せたトレイが届いて。
 いつもならハーレイに一匙ずつ食べさせて貰うのだけれど、そうなると手が離れるから。
 右手を握ってくれていた手が離れたままになってしまって、ハーレイに心が伝わらないから。
 ブルーはベッドサイドに置かれたトレイに手を伸ばした。
 スープに添えられたスプーンを右手で握ったら。
「おっ、今日は自分で食うんだな?」
 いいことだ、とハーレイが言うから、黙って左手を差し出した。
 さっきまで握って貰っていた右手の代わりに、左手。利き手ではない方の左手。
 握っていて、と。
 こちらの手は食べるのに使わないから、この手を握って話をして、と。
 一言も喋りはしなかったけれど、ハーレイは「うむ」と大きく頷いてくれた。
 今度は左手を握るのだなと、左手と喋ればいいのだな、と。



 「スープを零さないように気を付けろよ」と声を掛けられて、握られた左手。
 またハーレイと繋がった、と飛び跳ねた心はそのままハーレイの手へと流れて。
「やっと自分で食う気になったかと思ったら…。こうなるとはなあ」
 甘えん坊だな、どう転んでも。
 お前というヤツは、何処かで必ず俺に甘えてくるんだなあ…。
(甘えていいでしょ?)
 病気の時くらいは甘えていいでしょ、病気じゃない時も、ちょっとくらいは?
「ああ。今度は守ると約束したしな」
 今度こそお前を守ってやるんだ、と言ったからには甘えていいぞ。
 前のお前は、甘えてばかりじゃいられなかった。
 だがな、お前は違うんだ。いくら甘えても誰も困らん。もうソルジャーじゃないんだからな。
 困るヤツがいるなら俺くらいだなあ、こうして片手が塞がりっ放しになっちまって。
 もっとも、そいつも役得ってヤツだ。
 お前の手だって俺に握られっ放しってわけで、俺から逃げられやしないんだしな。



 しっかり食べて早く治せよ、と見守られながら、ブルーは野菜スープを味わって食べる。
 繋がった手と手で話をしながら、野菜スープを作ってくれた手を握り返しながら。
 とても美味しいと、この味が何よりも好きだったと。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープだけれど。
 前の自分はこれが好きだったと、病気の時にはこれだったと。
(ねえ、ハーレイ…。明日には喋れるようになるかな?)
 ぼくの喉、明日には治るかな?
「夜まで大人しくしていればな。喋ったりせずに」
 スープを食ったら、金柑も食えよ?
 俺のおふくろが煮詰めた金柑、喉風邪には良く効くんだからな。
(うん…。うん、ハーレイ…)
 ちゃんと食べるよ、その金柑も。
 ハーレイのお母さんが作るんだものね、絶対に効くに決まっているもの…。



 喋れないけれど、握り合った手と手で話が出来る。
 思念波が上手く使えないブルーだけれども、こうして心を分かって貰える。
 両親にしか出来ないと思っていた技を使ったハーレイ。
 手を握るだけで想いが伝わるハーレイ。
 前の生からの大切な恋人、この地球の上に生まれ変わって再び出会えた想い人。
 明日には喉も治る気がする。
 野菜スープと、ハーレイが「猫に小判だ」と笑った透明な甘い金柑があれば。
 今も左手を握っていてくれる、ハーレイの温もりがありさえすれば…。




            喉風邪・了

※喉風邪を引いてしまったブルー。喋ることは厳禁、ガッカリしたんですけれど…。
 手を握って心を読んでくれたハーレイ。不器用で思念波が使えなくても、幸せな休日に。
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(あれ…?)
 何かが違う、とブルーは首を傾げた。
 お風呂に入ってパジャマに着替えて、部屋でのんびりしていたけれど。本を読んだりもしたのだけれども、そろそろベッドに入らねば、と始めた準備。
 明日の朝は気温が少し低いと天気予報で聞いていたから、夜中に冷えてくるかもしれない。
 まだ秋とはいえ、そういった夜も珍しくはない。眠っている間に気温が下がると、恐ろしい夢がやって来る。メギドの悪夢が。
 前の生の最後に失くしてしまった、右の手に持っていたハーレイの温もり。
 独りぼっちになってしまったと泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。前の生の自分。
 右手が冷えるとそれを思い出すし、夢の中なら、夢はメギドに置き換わる。
 ソルジャー・ブルーが死んでいった場所に。泣きながら死んだ悲しい記憶に。



 秋に入ってから立て続けに見た、メギドの悪夢。
 右手が冷えてしまうからだ、と手袋をはめて眠ってみたりもしてはみたのに、防げなくて。
 どうにもならないと嘆いた自分に、ハーレイがくれたサポーター。医療用の薄いサポーター。
 通気性がいいから眠りを妨げないと言われた。
 その上、ハーレイが右手を握ってくれる時の力加減を再現したとも。
(…ハーレイに手を握って貰ってるみたいなんだけど…)
 そんな感じがするサポーター。
 初めて着けた日は、メギドの悪夢の最後にハーレイが来てくれた。凍えた右手に温もりを届けに来てくれた。
 幻のハーレイだったけれども。
 遠いシャングリラから、ハーレイの想いだけが宇宙を駆けてメギドまでやって来たのだけれど。
 それでも温もりは右手に戻って、夢の終わりは悲しくなかった。もう一人ではないのだと。
(サポーターのお蔭なんだけど…)
 あれ以来、メギドの悪夢は劇的に減った。夢そのものを滅多に見なくなったから、冷える夜にはサポーター。悪夢の予防にサポーター。
 なのに…。



(何か変…?)
 いつものように右手に着けようとしたら、感じた違和感。
 そうではないと、それを着けるのではないのだと。
(なんで…?)
 サポーターが無ければ夢を見る。右手が冷えてしまった夜には何が起こるか分かっている。
 着けずに眠るなど、とんでもないのに。出来もしないのに、何故、違うのだと思うのか。
(そんなこと…)
 自分がこれを着けたがらない筈が無い。けれども「違う」と感じる心。
 それが何故だか分からないから、サポーターを着けてみたけれど。
 右の手が温もりに包まれたけれど、ハーレイの手に握られているようで幸せだけれど。
(やっぱり違う…)
 こうじゃなくて、と訴える心。
 着けるのではないと、こうするのではないのだと。
(どうしてなの?)
 これが無ければ困るのに、と途惑いながらも、一度外してみることにした。
 そうすれば分かるかもしれない、とサポーターを左手で外した途端に掠めた記憶。
 右手から抜いた、その瞬間に。



(そうだ、手袋…!)
 前の自分がはめていた手袋。ソルジャーの衣装の一部でもあった、両手を包んでいた手袋。
 あれを自分は外したのだった、眠る時に、手から。
 たった今、サポーターを右手から外したのと同じに、手袋を外して肌を晒した。
 常にはめていた、あの手袋。あれを外した、今やったように。
 眠る時には。もっと正確には、眠るよりも前に。
(…ハーレイの前で…)
 そう、ハーレイの前でだけ。
 自分がソルジャーではなくなった時に。ソルジャーではなくて、ただのブルーに戻った時に。
 もちろん本当にソルジャーの称号を返上したわけではなかったけれど。
 そんなことなど出来もしなくて、ソルジャー・ブルーのままだったけれど。
 心だけは「ただのブルー」になった。ブルーに戻れた。
 手袋を外せば、その下の肌を空気に晒せば。



(あの手袋…)
 いつからあれをはめ始めたのか。両手を覆って肌を見せなくなったのか。
 考えずとも答えは直ぐに出て来た。
 ソルジャーの制服が出来た時。やたら仰々しく、マントまで付いた立派すぎる衣装。仕上がると同時に着せられてしまい、もう脱ぐことは出来なくなった。
 ソルジャーだからと、皆を導くソルジャーにはこれが相応しいからと皆に言われて。
(それでも最初の間はまだ…)
 デザインだけは最後まで同じだったけれど、衣装の素材は変わっていった。
 より良いものへと、より着けやすくて防御力の優れた素材へと。
 シャングリラが白い鯨になった頃には、ソルジャーの衣装も完全なものとなっていた。ミュウの特性を生かし、心地良い熱や温もりは通しても、爆炎のような害をなす熱は通さない素材。
 手袋もそういう材質だった。
 着けたままでも不自由がないよう、肌の一部であるかの如くに作り上げられた。



(あれなら外さなくてもね…?)
 初期の衣装だった頃は手袋を外していることも多かったけれど、完成品ともなったら違う。
 一度はめたら、外す方が却って面倒なほど。
 外せば置く場所が必要になるし、置き場が無ければ手に持つしかない。それでは片手が塞がってしまう。両手で何かをするには向かない。
(よく出来てたんだよ、あの手袋は)
 ティーカップを持っても滑らない。何をするにも困らない。
 仲間たちと握手を交わす時にだって、手の温もりが伝わって来た。相手にも自分の手の温かさが伝わるわけだし、手袋ははめていないも同じ。
 そんなわけだから、いつしか手袋に慣れてしまって、眠る時しか外さなくなった。
 バスルームに行こうという時に外して、朝を迎えてパジャマを脱いだら、またはめた。
 手袋の下の素肌を見る者は誰もいなくて、それが普通だと思っていた。
 ハーレイが青の間に来ていた時も。
 キャプテンとしての訪問ではなくて、一番の友として来てくれた時も。
 ハーレイのためにと紅茶を淹れたりしていたけれども、手袋は外さないままで。
 はめたままでのティータイムだった。
 手袋をはめた手で二人分のカップに紅茶を注いで、自分のカップも手袋をはめた手で持って。
 何の不自由も感じなかったし、楽しくお茶の時間を過ごした。



 そうしていたのに、ふと物足りなくなってしまって。
 「また今度」と握手する時に、間に挟まった一枚の布。薄い手袋。
 それがあるのがもどかしくなって、これは要らないと心の何処かで思い始めて。
(あの頃から、恋…)
 自分では気付いていなかったけれど、今にして思えば、きっとその頃。
 ハーレイの手にじかに触れてみたいと、温かくて大きな手に触れたいと願い始めた恋の始まり。
(恋だとは思っていなかったけどね)
 まるで気付きもしなかった自分。
 ハーレイは一番の友達なのだと、大切な友だと思い込んだままでいたけれど。
 それでも時々、手袋を外してハーレイとお茶を飲むようになった。
 一日の報告に来てくれた後や、遊びに訪ねて来てくれた時に。
 手袋は要らないと外してしまって、「また今度」と握手して見送っていた。
 自分では友達を見送るつもりで、一番の友達に手を振るつもりで。



 けれど、恋だとついに気付いて。
 想いが叶ってハーレイとキスを交わすようになったら、手袋はもう、はめていたくなかった。
 ハーレイの前では、キャプテンとしての職務が終わったハーレイの前では。
 だからはめなくなった手袋。ハーレイの前では外した手袋。
 結ばれた後には、もう手袋は…。



(あれが切り替え…)
 青の間で夜にハーレイから一日の報告を聞いて、手袋を外せば恋人同士の時間の始まり。
 ソルジャーではない、という印。
 ただのブルーだと、ハーレイに恋をしているブルーなのだと。
 その背にマントを着けていようが、ソルジャーの白い上着を纏っていようが、もう違った。
 あの手袋さえ外してしまえば、前の自分はソルジャーなどではなかった。
 ハーレイに恋をしていたブルー。
 ただのブルーで、ミュウの長でもなんでもなかった。
 青の間に住まっているというだけ、ただそれだけのミュウで、人間だった…。



(手袋で切り替えていたなんて…!)
 ソルジャーだった自分と、一人のミュウとしての自分とを。
 それもハーレイの前でだけ。
(あの手袋…)
 わざと外してみせたこともあった。
 ハーレイの報告がなかなか終わらない時に、焦れながら。
 早く終わらせろと言わんばかりに。
 ゆっくりと手から手袋を取った。
 報告はまだ終わらないのかと、自分の用意はとうに整っているのに、と。
 マントも上着も、きちんと着込んで着けたままで。
 ソルジャーとしての表情は全く動かさないまま、手袋だけをこれ見よがしに手から外して。



(前のぼくの合図…)
 あの手袋が。
 それを外すということが。
 今からはただのブルーなのだと、ハーレイの恋人のブルーなのだと知らせる合図。
 もう手袋は外したのだから、そのように扱ってくれと知らせた。
 ソルジャーではないと、恋人なのだと。



(ハーレイ、覚えているのかな…?)
 前の自分がしていた合図を、手袋を外すという意味を。
 ハーレイの前でだけやっていたことを、それにこめられた自分の想いを。
(…覚えてるのか、確かめたいけど…)
 気になるけれども、肝心要の手袋なるもの。
 今の自分は手袋などをはめて暮らしてはいない。もうソルジャーではないのだから。あの手袋は要らないのだから。
 十四歳になったばかりの普通の子供に手袋は要らず、冬用のものしか持ってはいない。
 冷たい北風が吹きつける季節にはめるものしか。
 けれど…。



 ゴソゴソとクローゼットの中を探った。手袋が仕舞ってある場所を。
 そこを覗き込み、一組、取り出してみたけれど。
 前の自分の手袋にそっくりのものがあるわけがなくて、色だってまるで同じではなくて。
 遠目に見たなら似たようなものかと、白いアンゴラの手袋を一組。
 アンゴラだけにフワフワしていて、ソルジャーの手袋とは似ても似つかないものだけれども。
(…これでいいかな?)
 水色や紺の手袋よりかはマシだろう。いくらフワフワでも、少しはそれらしく見えるだろう。
 明日は土曜日、ハーレイが来る時にはめていようか?
 この手袋をはめてハーレイを待とうか、いつもの椅子に腰掛けて?
 しかし…。



(ママがいたっけ…!)
 いつもハーレイを部屋まで案内して来る母。お茶とお菓子を運んで来る母。
 手袋をはめた自分を見たなら、母は訝しむことだろう。
 冬でもないのに、冬でも家に入る時には手袋を外している筈なのに、と。
(ママ、絶対に変に思うよ)
 それどころか「どうしたの?」と訊かれてしまうに違いない。
 手袋に何の意味があるのかと、怪我でもしたのか、手が冷たいのかと。
 そうなればハーレイの意識もそちらへ向いてしまうし、手袋はただの「変なもの」。季節外れの変な手袋、その認識でおしまいだろう。
 母が部屋まで来てしまうからには、最初からはめてはいられない。
 とはいえ、手袋の合図をハーレイに思い出して貰えるチャンスはあるかもしれないし…。
(見える所に置いておけば…)
 忘れないように、と通学用の鞄の隣に吊るして眠った。
 手袋を思い出す切っ掛けになった、あのサポーターを右手に着けて。



 メギドの悪夢は襲っては来ず、次の日の朝。
 ベッドから起き出して手袋を見るなり、昨夜の出来事が脳裏に浮かんだ。
(そうだ、手袋…!)
 これをはめるんだったっけ、と白いアンゴラの手袋を撫でる。
 前の自分の手袋の合図。ただのブルーだと、ソルジャーではないという合図。
 恋人同士の時間の始まりを告げる合図を、ハーレイの前でもう一度やって見せるのだった。
 この手袋をはめて、前の自分のように外して。
 それが出来るだけのチャンスさえあれば。
(ハーレイが席を外してくれれば…)
 すまん、と階下の母の所へでも出掛けて行ってくれたなら。
 戻って来るまでの間に手袋をはめてしまえばいい。
 ふわふわの白い手袋だけども、前の自分の手袋とはまるで似ていないけれど。
 それでも手袋なのだから。
 微笑みながら外して見せればいい。
 ハーレイが部屋に戻って来たら。「すまなかったな」と部屋に入って来たなら。



(ふふっ、手袋…)
 手袋の合図、と心の中で何度も繰り返しながら、躍る心を抑えながら。
 朝食と部屋の掃除とを終えて、計画を練って練習もした。前の自分の仕草を真似て。
 白いアンゴラの手袋をはめて、こう外すのだと何度も、何度も。
 そうこうする内にチャイムの音がし、ハーレイがやって来たけれど。
 母の案内で部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったけれど。



「なんだ、あれは?」
 あの手袋は、とハーレイに目を留められた。
 昨夜と同じに鞄と並んで吊られた手袋、ふわふわのモコモコ、季節外れの白い手袋。
 それは奇妙な代物だけれど、今の自分はあれしか持っていなかったから。
 前の自分のような手袋は、ソルジャー・ブルーの持ち物に良く似た手袋は持っていないから…。
 精一杯、澄ました顔で答えた。「手袋だよ」と。
「…手袋?」
 ハーレイは手袋をまじまじと見詰め、それからブルーに向き直って。
「そいつはアレを見りゃあ分かると思うがな?」
 俺が訊いてるのは、あれが手袋かどうかじゃなくて、だ。
 なんだって手袋があそこにあるのか、どういうつもりで出してあるのかということなんだが…。
 まだ手袋の要るような季節じゃないだろ、外へ出るにしても?
 寝る時に手が冷たいって話は前に聞いたし、サポーターをプレゼントしてやった筈だがな?



 あのサポーターでは足りなくなったか、と訊かれたから。
 ブルーは「ううん」と首を横に振って。
「ハーレイ、何かを思い出さない?」
 あそこに手袋が吊ってあったら、あの手袋があるのを見たら。
「クリスマスか?」
 かなり気が早いが、と笑われた。
 クリスマスに向けての広告さえも見かけはしないと、それにあちらは靴下だと。
 吊るしておいたら、夜の間にサンタクロースがプレゼントを入れて行ってくれる靴下。
 それの真似かと、今からクリスマスプレゼントの催促なのか、と。
「違うってば…!」
 クリスマスだなんて言っていないよ、手袋だよ!
 それに靴下とも間違えてないよ、ホントのホントに手袋だってば…!



 ブルーはむきになって主張したけれど、ハーレイは一向に思い出さないようだから。
 ピンと来てさえくれないものだから、椅子から立って例の手袋を取って来た。
 元の椅子へと座り直して、これでも思い出さないのか、とはめて見せたけれど。
 白いフワフワのアンゴラの手袋を両手にはめてみたけれど。
「ほほう、似合うな。ずいぶんと可愛らしいじゃないか」
 ウサギの手みたいで可愛いぞ、うん。
 そういや、お前、将来の夢はウサギだったか、チビだった頃は?
 ウサギになりたいと思ってたって話を聞かされたっけな、手だけなら充分ウサギに見えるぞ。
「そうじゃなくって…!」
 ぼくが言ってるのは手袋なんだよ、この手袋が大事なんだよ!



 こう、と手袋をゆっくり外した。
 右手で左手の手袋を引っ張り、手首から指先へと肌を晒してゆく。
 左手がすっかり露わになったら、今度は右手を。
 前の自分と同じ仕草で、朝から何度も練習していたあの仕草で。
 わざと時間をかけて右手の手袋を外して見せれば、ハーレイがハッと息を飲んだ。
「お前…!」
 それきり、後が続かないから。
 後の台詞が続かないから、ブルーは手袋をテーブルに置いた。一組を綺麗に重ねて揃えて、前の自分の仕草をなぞって。
「…分かった?」
 この手袋の意味が何だったのか、ハーレイ、分かってくれたよね?
 さっきクリスマスって言っていたから、クリスマスにぼくに贈ってくれる?
 ぼくがハーレイから欲しいプレゼントを、と誘うような笑みを浮かべてみせた。
 前の自分がそうやったように、手袋の合図で促した時にそうしたように。



 ブルーは自信たっぷりだったし、通じた筈だと思ったのに。
 もう間違いなく通じたのだと思っていたのに、ハーレイの返事はこうだった。
「うむ。そいつに似合うマフラーだな」
 手袋はあるからマフラーが欲しいと、そう言うんだな?
「えっ?」
 思わぬ言葉にブルーの瞳は丸くなったけれど、ハーレイは至極真面目な顔で。
「違うのか? 俺はてっきりマフラーかと…」
 それとセットで持ちたいのかと思ったんだが、マフラーじゃないなら何なんだ?
 ちゃんと言葉で言ってくれんと、ファッションってヤツには疎くてなあ…。
「ぼくが欲しいのは、褐色の…!」
 褐色の肌をした恋人なのだ、と言うだけの度胸は流石に無くて。
 「褐色の」だけで止めたものだから、それを聞いていたハーレイの方は。
「ああ、褐色のマフラーな」
 白よりもそっちの方が好みか、色の指定があったんだな。
 褐色か…。そういう色をしたウサギもいるしな、お前が着けても似合うだろうさ。
 そういやアンゴラはウサギだったか、褐色のアンゴラのマフラーだな、うん。



 覚えておこう、とハーレイのポケットから取り出された手帳。それに愛用の瑠璃色のペン。
 手帳をパラパラとめくるハーレイは、本当に書き付けそうだから。
 瑠璃色のペンで、ナスカの星座が鏤められているペンで、覚え書きを残しそうだから。
(ぼくにクリスマスプレゼント、って…!)
 書かれたら最後、ハーレイは約束をきちんと守るに違いない。
 まだ先だけれど、クリスマスに備えてプレゼントを買おうと出掛けて行って。
 あちこちの店で色々比べて、自分がいいと思ったマフラー。
 白いアンゴラの手袋に合うと、ブルーに似合うと思ったマフラーを選んでくるだろうから。
 褐色のマフラーを綺麗に包んで貰って、「プレゼントだ」と贈ってくれそうだから。



「違うんだってば…!」
 マフラーじゃないよ、ぼくが欲しいのはマフラーじゃなくて!
 ハーレイだよ、と訴えた。
 クリスマスプレゼントをくれるんだったらハーレイがいいと、その意味なのだと。
 褐色はハーレイの肌の色だと、それを贈って欲しいのだと。
 息もつかずに言い終えた後は、もう耳までが赤かったけれど。
 それでも言えたと、ちゃんと言えたとブルーは上目遣いでハーレイを見る。
 このプレゼントは貰えそうかと、クリスマスに贈ってくれるだろうかと。
 白いアンゴラの手袋だったけれど、合図は送った。
 こうだと、今の自分の想いはこうなのだと。



 手袋の合図が伝わるように。
 伝わって欲しい、と頬も耳も染めて、祈るような気持ちで恋人を見詰める。
 どうか分かってと、前の自分の手袋の合図を思い出して、と。
 手袋を外せば、恋人同士の時間の始まり。
 クリスマスにはそれが欲しいと、クリスマスプレゼントはハーレイがいいと。
 こうして向かい合わせで座るだけでなくて、膝の上に座ったり、抱き締めて貰うのでもなくて。
 前の自分がそうだったように、本当に恋人同士だからこそ持てる時間を。
 褐色の肌を纏った身体に包まれ、ただ幸せに酔っていたいと。
 今の自分はキスさえ許して貰えないけども、せめてクリスマスのプレゼントには、と。
 ほんの一夜の夢でいいから、サンタクロースがトナカイの橇で駆けてゆく間の、イブの夜だけの夢でかまわないから…、と。



「やっぱりか…」
 あれだったのか、と深い溜息。
 ハーレイが手帳とペンとをポケットに仕舞い、眉間に皺が刻まれた。普段よりも深く寄せられた皺が、まるで心と呼応するような深めの皺が。
 鳶色の瞳は白い手袋とブルーの顔とを交互に眺めて、呆れ果てたような色だから。
 子供の相手など出来るものかと、していられるかと言わんばかりの様子だから。
 ブルーの期待はたちまち萎んで、シュンと項垂れるしかなくなって。
「…気付いてたの?」
 ぼくが手袋を用意した意味、気付いてた?
 わざわざ外して見せなくっても、もしかしなくても、手袋だけで?
「最初からな」
 俺は前から言ってるだろうが、お前の心はお見通しだと。
 普段はそこまで酷くはないがな、お前、気持ちが高ぶってる時は中身がすっかり零れてるんだ。
 今日も初めからそうだった。
 俺がこの部屋に入った途端に、手袋、手袋とはしゃいだ心が弾けていたさ。
 手袋で俺に合図をしようと、あれで合図をしていたと。
 前の自分がやった通りに練習もしたし、きっと俺が釣れる筈だとな。



 馬鹿が、と額を小突かれた。
 十四歳のチビが何をするかと、手袋で誘うには早すぎるのだ、と。
「いいか、お前はキスも出来ないチビでだな…」
 つまりは身体もうんとチビなわけで、手だって子供の手だってな。
 前のお前が白いフワフワの手袋をしてりゃ、俺だってグッと来るかもしれん。
 お前が手袋を外さなくても、そのフワフワの下の手を見てみたくてウズウズしながら、外すのを待っていたかもしれん。まだかと、まだ手袋を取ってくれないのかと。
 だがな、今のお前じゃウサギみたいなチビの手なんだ。どう見たって可愛いだけの手だ。
 キュッと握ってみたくなるのがせいぜいだってな、その手じゃな。
 手袋の中身はどのくらい詰まっているんだろうかと、暖かそうな手袋だが、と。
 同じ手袋をはめてみたって、それをはめる手が違うのさ。
 外した途端に色気が出るのが前のお前で、今のお前じゃ食い気ってトコか。
 こういうフワフワの手袋をしてれば、くっついちまって食えない菓子もあるからなあ…。やっと食えると菓子に飛び付くのが今のお前で、前のお前はそうじゃないってな。
 菓子なんかよりも先にこっちなんだ、と俺に目だけで強請れた筈だ。
 それを寄越せと、そっちを先に食わせろとな。



「お菓子よりも先に食べるものって…」
 なんなの、ハーレイ?
 ハーレイがお茶を淹れてくれるの、そっちの方が先だった?
 確かにポロポロ崩れるクッキーとかなら、お茶を一口飲んでからの方が美味しいけれど…。
「ふむふむ、やっぱり分かっていない、と」
 前のお前が焦れてた時はな、何は無くとも一番にキスだ。そいつで機嫌を直して貰うのが先だ、お前が腹を減らしてたってな。
 キスを忘れてお茶なんぞ淹れに出掛けていたなら、どうなったやら…。
 もっとも、俺の方にしたって、お茶を淹れてるよりキスしたいしな?
 そういう悲劇は起こらなかったな、俺がお茶を淹れる間にお前がすっかり怒ってしまって、青の間からポイと蹴り出されるとか、平手打ちを食らってしまうとかはな。



「…そうだったっけ?」
 ブルーはキョトンとするしかなかった。
 手袋の合図は確かに覚えていたけれど。焦れた自分が手袋を外して見せていたことも、ハッキリ覚えているのだけれど。
 それから後は必ずベッドに直行ではなくて、お茶の時間を持ったりもした。
 美味しいお菓子があるのだから、と二人でゆっくり食べたりもした。
 朝までは二人きりなのだから。
 二人きりの時間を過ごせるのだから、とハーレイを誘って、それは色々な夜の過ごし方。
 「何は無くとも一番にキス」と強請った記憶は何処にも無くて…。
「思い出せないのがガキの証拠ってな」
 お前の記憶は中途半端だ、とハーレイに鼻で笑われた。
 だからお前には菓子が似合いだと、キスよりも菓子の方が似合うと。
 フワフワの手袋を外したら菓子をパッと掴んで、齧って。
 「美味しいね」と笑顔になるのが似合いの子供で、それに見合った手をしていると。
 手袋を外せば色気ではなく、食い気が出て来る子供の手。
 どんなに前の自分の仕草を真似ても駄目だと、それは芝居でしかないと。



 ハーレイは白いアンゴラの手袋を掴み、「小さな手だな」と褐色の手のひらに重ねてみて。
 「フカフカだな」と、「前のお前がはめても似合いそうだな」と微笑んだ後で。
 手袋をテーブルの上に戻すと、小さなブルーに軽く片目を瞑ってみせた。
「もう分かったろ? お前にはマフラーがピッタリなのさ」
 こいつとセットで出来るマフラー、それがお前に似合いだってな。
「酷い…!」
 マフラーじゃないって言ったのに!
 ちゃんと褐色のハーレイが欲しいって言っているのに、マフラーなの?
「当たり前だろ、そういう台詞を口にするには早すぎるんだ、チビ」
 それに、貰えるだけマシだろうが。
 たとえ嬉しくないプレゼントでもだ、俺からのクリスマスプレゼント。
 まだまだ先の話だがなあ、まだ秋だしな?
 …俺もすっかり忘れちまうかもしれないなあ…。マフラーどころか、その手袋もな。
 やっぱり手帳に書いておく方がいいか?
 お前、褐色のマフラーが欲しいと強請ってたってな。
「うー…」
 書かなくていいよ、マフラーなんて!
 ぼくはそんなの欲しがってないし、貰ってもそれは嫌がらせだよ!



 要らないからね、とブルーは叫んだけれど。
 断ったけれど、ハーレイは可笑しそうに笑い転げて白い手袋を何度も指でつついていたから。
 「いい手触りだ」と、「お前に似合う」と繰り返したから、もしかしたら。
 クリスマスが来たら、マフラーを貰ってしまうのかもしれない。
 注文の品だと、お前が欲しがったマフラーを買って来てやったと。
 そんなプレゼントは欲しくないのに、欲しいとも思っていないのに。
(でも…)
 同じマフラーを貰うのだったら、褐色のマフラーもきっと悪くはないだろう。
 ハーレイの肌の色のマフラー。
 誰よりも好きな恋人の肌と同じ色合いの、フカフカで暖かなマフラーがいい。
 白いアンゴラの手袋とセットのマフラー。
 ハーレイに貰ったプレゼント。
 手袋を使って誘惑するには早すぎたけれど、それが包んでくれるのならば。
 褐色の肌をした恋人の代わりに、暖かく包んでくれるのならば…。




           手袋の合図・了

※前のブルーがハーレイに送った、手袋の合図。ソルジャーから「ブルー」に戻る時。
 思い出した小さなブルーですけど、用意した手袋は大失敗。マフラーが貰えるみたいです。
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