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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(新聞か…)
 シャングリラには無かったな、とハーレイはまだ暗い庭を眺めた。
 生垣の向こうをライトが横切り、新聞配達のバイクが次の配達先へと走り去る音。
 こんな休日の朝であっても。
 夏ならば明るい時間だけれども、夜の続きの星が瞬く早朝の闇の中でも新聞を配るバイクの音。
 今の自分には当たり前のことで、隣町の両親の家に居た頃にも新聞は毎日届いていた。雨の日も雪の日も届く新聞。そういうものだと思い込んでいたが…。



(新聞が届かない人生だったぞ、前の俺はな)
 玄関を開けて庭を横切り、ポストから新聞を引っ張り出した。
 持って入るとコーヒーを淹れて、新聞を手に取ってみる。朝食にするには早すぎる時間。こんな時には先に新聞、それから朝食の支度というのが習慣だった。
(新聞なあ…)
 今でこそ馴染みのものだけれども、前の生では縁が無かった。
 アルタミラでミュウと判断される前なら養父母の家で見ていただろう。父が新聞を広げる姿や、母が気になる記事を切り抜く所などを。きっと自分も印を付けたり、色々と。
(子供向けのイベントの情報なんかも多めに載っていたんだろうしな)
 アルタミラは惨劇の舞台として歴史に残るけれども、本来はガニメデの育英都市。多くの子供が養父母と暮らし、巣立ってゆくための星だった。
 育英都市の主役はあくまで子供。
 子育てを終えて引退した夫婦や、子供たちを育てる社会に欠かせない役割を負う者の他は、皆が子育て中の星。ゆえに子供が社会の中心、イベントは大抵、子供がメイン。
(アルテメシアもそうだったからな)
 シャングリラに新聞は来なかったけれど、情報は傍受していたから。
 人類の新聞がどのようなものかは把握していたから、子供向けの記事も多いと分かる。
(前の俺も子供時代にはきっと…)
 そういった記事を養父母に見せては、行きたい場所などを伝えただろう。連れて行って貰って、感動したり、喜んだりもしたのだろうが…。
(消えちまったなあ、記憶ごとな)
 成人検査に脱落した後、養父母の記憶は失くしてしまった。子供時代の記憶も消えた。
 閉じ込められた檻に新聞は届かず、何の情報も得られなくなった。
 外の世界がどうなっているか、自分はどうなってしまうのかすらも。



(研究者どもは新聞も読んでいたんだろうなあ…)
 アルタミラがメギドに破壊されるまでは、あの星でも人類が暮らしていた。育英都市を閉鎖する決断が下されるまでは、養父母と暮らす子供たちも居た。
 彼らの家には新聞が届いていただろう。
 グランド・マザーがアルタミラの殲滅を決定した時も、幾重にも真実を覆い隠した記事が新聞の紙面に大きく刷られて、彼らは納得したのだろう。この星を出ねば、と。
(俺たちにとっては不意打ちだったが、人類は準備してただろうしな?)
 子育て中の養父母たちに偽りの情報を告げて、充分な引越し期間を与えて別の星へと。
 何の疑いも抱かずに彼らが旅立った後は、グランド・マザーからの命令が出るまで待機状態。
(新聞はいつまであったんだかなあ…)
 アルタミラが滅びたその日の朝まで、実は配られていたのだろうか?
 寄港中の船もあっただろうから、一般人たちが真実に気付かないように。
 あくまで急な決定なのだと、本日付でこの星は滅ぶと、それだけが書かれた新聞が。
(シャングリラの中には、そういう新聞は無かったんだが…)
 脱出するのに使った船。まだシャングリラではなかった船。
 乗員たちは慌ただしく他の船に移ったらしい、という痕跡はあちこちにあったけれども、それを引き起こした原因は全く見付からなかった。通信も残っていなかった。
(やはり新聞だったのか?)
 宙港で急を告げる新聞が配られ、それを握ったまま慌てて船を捨てて行ったか。
 足の速い他の船に移れと、直ちにアルタミラから離れるようにと書かれただけの新聞記事。
(そうだったのかもしれないなあ…)
 船の中に乗員たちへの脱出命令は何も無かったのだし、そうかもしれない。
 もっとも、受けた通信を消去してから脱出したという可能性もゼロではないのだが…。



(前の俺たちには新聞なんかは無かったんだ)
 新聞が毎日届いていた筈の、子供時代の記憶は失くした。
 研究所の檻に新聞は届きはしなかった。
 アルタミラから脱出した後も、定期的に届く刊行物など、何処からも送られては来ない。新聞が届く筈もない。人類の世界から弾き出されたミュウが住む船に新聞は来ない。
 もちろん毎日のニュースでさえも。
(ニュースは盗むものだったしな…)
 人類の通信を傍受して得た、様々なニュース。
 最新版とは限らなかった。通信を交わしている船に左右され、その内容も偏りがちで。
 知りたい情報が常にあるとは言えなかった時代。作物の出来や輸送状況、それがニュースになる船などもあった。あるいは客船の予約状況だったり。



 アルテメシアに辿り着くまでは、雲海の中に居を定めるまでは、そういう状態。
 雲海の星に腰を据えても…。
(ニュースは最新になったんだがなあ…)
 いくらでも傍受出来た、アルテメシアの空を飛び交う人類のニュース。
 家庭に配られる新聞のための情報も飛び込んで来たのだけれど。
(新聞は刷らなかったんだ…)
 人類の世界の出来事などは知りたくもない、という者も多かったから。
 アルタミラからの仲間だけでなく、アルテメシアで新しく救出された仲間でさえも。
 人類といえば忌まわしいもので、思い出したくもないと思う者たち。



(ニュース映像を傍受したって…)
 見ていた者はごく一部だけ。
 そう簡単には動揺しない、精神の強い者たちだけ。
(俺やブルーは仕事だったが…)
 ソルジャーとして、キャプテンとして、知っておかねばならない情報。
 人類の世界が今はどうなのか、どんな方向へ向かってゆくのか。
 それを知らねば自分たちの進路も決められないから、ニュースにも目を通していた。
 アルテメシアに辿り着く前から。
 暗い宇宙を、居場所を求めてあちこち旅をしていた頃から。



(もっとも、情報統制されていたがな)
 ニュースといえども、巧みに操作がされていた時代。
 支配する機械に、マザー・システムにとって都合がいいように。
 裏にある真実を見抜けないように。
 そのシステムから弾き出されたミュウだからこそ、見抜けた真実も沢山あった。
(俺たちのことはMだったか…)
 アルタミラを脱出した頃から変わらない隠語。
 Mの代わりにミュウと呼ばれたなら、明らかな敵意を向けられた証拠。
 ミュウという言葉を一般人は知らなかったから。
 それを使っているということは、人類が本気でミュウに対する対策を練っている証。
 そんなニュースしか見ていなかった時代に比べたら…。



(平和なもんだな)
 今、手にしている新聞の中身も。
 当たり前のように毎日届くという現実も。
 今日だって朝も暗い内から、配達のバイクが走って行った。空にまだ星が瞬く時間に。
(ご苦労様です、と言いたくなるよな)
 昔ながらの配達システム。
 バイクを走らせて家のポストに配ってゆく。一軒、一軒、配って回る。
 朝一番に間に合うようにと。
 仕事に、学校に出掛けてゆく前に読めるようにと、その家の人々が目覚める前に。
(朝だけじゃなくて、夕刊もあるし…)
 夕刊の方は、帰って来たら届いているのだけれど。
 ポストから取り出し、持って入るのが常なのだけれど。
(配達の人に礼を言いたくなってくるなあ…)
 早起きして顔を合わせた時には、挨拶を交わして礼を言いながら受け取る新聞。
 手渡しで貰ってくる新聞。
 その新聞が家に届くことがどれほど平和で嬉しいことなのか、其処に気付いてしまったら。
(どうぞ、と毎朝、菓子をポストに置きたいくらいだ)
 お持ち下さいと、配達の途中か終わった後にでも食べて下さいと。
 今度、早く起きた日に新聞の嬉しさを思い出したら。
 毎朝届くその素晴らしさに、思いを馳せる日があったなら。
 熱いコーヒーでも御馳走しようか、配達の人に。
 来る時間はほぼ決まっているから、それに合わせてコーヒーを淹れて。



(新聞配達っていうシステムがシャングリラの中にもあったらなあ…)
 仲間たちがニュースに向ける視線も変わっただろうか。
 毎日、新聞を刷って、配って。
 仲間たちの手元に選び抜いたニュースを届けていたら。
 アルテメシアで配られる新聞を真似て、ニュースの他にもあれこれと載せて。
(選んだニュースしか載せないとなると、情報統制のようではあるが…)
 それでも全く触れないよりかはマシだったろう。
 今の人類の世の中はこうだと、こういうニュースがあるようだと。
 人類が大多数を占めていた以上、目を逸らしていても弱くなるだけ。彼らを知らねば、と情報を得てこそ強くなれるし、現実に立ち向かう勇気も生まれる。
 ニュースだけでは気が滅入る、という者が多いに決まっているから、様々な記事。
 シャングリラで起こった愉快な事件や、厨房のメニューのお知らせなど。
 書き手を募って連載小説も出来ただろう。
 そうした新聞を作っていたなら、娯楽にもなっていたかもしれない。
 配達はまだか、と心待ちにする者が少しずつ増えて、外の世界にも関心を持ち始めて。
 人類のニュースを多く載せても読めるようになっていたかもしれない。
 今はこうだと、今の世の中はこうなのだ、と。



(はてさて、ブルーはどう思うんだか…)
 シャングリラで新聞を印刷するなら、まずは会議をする所から。
 ゼルやヒルマンたちを集めて、議題を出して。
 案が纏まればソルジャーだったブルーが承認を下すわけだが、新聞に賛成してくれたろうか?
 小さなブルーに訊いてみよう、と新聞の二文字を頭に叩き込んだ。
 新聞を作ってみれば良かったと、作っていれば良かったのに、と。



 アイデアの元になった新聞を読んで、朝食を作って美味しく食べて。
 時計を見てからブルーの家へと出発した。天気がいいから、もちろん歩いて。
 目指す家に着けば、門扉の脇に郵便ポスト。
 普段は気に留めていなかったけれど、其処に新聞が届くのだ。
 取りに来るのはブルーの母か、それとも父か。
 早起きをした日はブルーが取りに出るかもしれない。
 「取ってくるよ」と庭を横切り、ポストから新聞を持ってゆく。目を引く記事が載っていたなら読みながら歩いて、両親が待っているダイニングまで。



 平和な朝の一コマを思い浮かべながら、ブルーの部屋に案内されて。
 お茶とお菓子が載ったテーブルを挟んで向かい合って座り、小さな恋人に微笑み掛けた。
「なあ、ブルー。…新聞が届く生活っていうのはいいもんだな」
「新聞?」
 怪訝そうなブルーが外に目を遣る。
 新聞というのはポストに届くあの新聞かと、毎日配達される新聞のことなのかと。
「そうだ、幸せだと思わないか?」
 毎日、色々なニュースが届く。配達の人が届けてくれる。
 そいつを毎日、ゆっくり読むことが出来るんだぞ?
 飲み物を片手に読んだっていいし、読むスタイルも好き好きだ。実に贅沢だと思わんか?
 最新のニュースが毎日ポストに届くんだからな。好きなだけお読み下さい、と。
「言われてみれば…」
 前のぼくたち、新聞は取っていなかったね。
 ニュースは人類のを傍受するもので、興味のある人だけが見てたんだよね…。
「その新聞。シャングリラで作れば良かったかもな、と思ってな」
 俺たちで載せるニュースを選んで、色々な記事と組み合わせて。
 それをみんなに配っていたなら、船の外にも関心を持って貰えたかもな、と思うんだ。
 人類のことなど知りたくもない、と逃げていないで、相手のことも知る方向で。
「あの時代も新聞、あったんだよね…」
 シャングリラで傍受していた通信の中に、新聞に載せる中身もあったんだっけ。
 それを丸ごと印刷したなら、人類が読むのと同じ新聞が出来上がるヤツ。
 情報はちゃんと入ってたんだし、新聞、作れば良かったかもね。
 ハーレイが言うように、どういう記事を載せればいいかは、きちんと選んで。



 真似をしてみれば良かったね、とブルーは微笑んだ。
 人類を真似て新聞を作れば良かったと。
 ニュースや様々な記事を織り込んで、シャングリラで配れば良かったと。
「毎日、みんなの部屋に届けて、食堂や休憩室にも置いて…。そうだ、人類にも!」
「人類だと?」
 なんだ、それは? 人類に新聞を届けるのか?
「うん。ミュウからの定期刊行物だよ、毎朝ぼくが届けに行くんだ」
 新聞です、って放り込むんだよ、大勢の人が読んでくれそうな所を狙って。
 ユニバーサルが回収する前に読まれてしまいそうな場所に、ミュウが作った新聞を。
「読んで貰うって…。何を書く気だ、その新聞に?」
「ミュウの日常。こういう暮らしをしています、って」
 新しい仲間を迎えましたとか、そんな記事もいいね。こういう子です、って紹介記事とか。
「おい、シャングリラの存在がバレるぞ、どんな船なのか」
「肝心の部分はぼかすんだよ。それで大丈夫だったと思うけど?」
 ぼくの存在はバレてたんだし、アルテメシアの何処かに隠れ場所があることは確実だしね。
 それでもシャングリラは発見されずにいたんだよ?
 新聞を作って配っていたって、何処から配りにやって来るかも掴めないってば。
「ユニバーサルとテラズ・ナンバーを刺激するだけだと思うがな?」
 また来やがったと迎撃するとか、お前が狙われるだけで何の効果も無いと思うが。
「分からないよ?」
 機械にも限度があるんだから、とブルーは笑った。
 いくら記憶を処理したとしても、不特定多数が毎日のように目にしてしまうミュウの新聞。
 しつこく毎日やっていたなら、人類の方でも覚えてしまうと。
 今日もそういう時間ではないかと、自分たちのとは違う新聞が放り込まれる頃ではないかと。



「ミュウからの新聞が届くってか?」
 ユニバーサルが血相を変えて回収に来るような新聞が。
 存在自体が極秘にされてるミュウが刷ってる新聞なんぞを、人類が毎日読むわけか?
「そう。ミュウっていうのは何だろう、って不思議に思うよ、そして記憶に残るんだ」
 記憶をせっせと消しても消しても、新聞は毎日届くんだから。
 ミュウって呼ばれる別の種族がいるらしい、って微かに記憶に残るよ、きっと。
 そのミュウからの新聞なんだよ、お勧めのレシピなんかも載せて。
「おい、レシピって…。平和すぎないか、その新聞は?」
 前のお前の主義主張だとか、そんなのを載せるんじゃなくってレシピか?
「そういう所から始めるんだよ、ミュウに関心を持ってもらうために」
 ミュウという存在が意識の上に定着したなら、一歩前進。
 レシピなんかを載せた新聞を配ってるんだし、敵じゃない、って思って貰えそうだよ。
 ユニバーサルがいくら敵だと言っても、ホントは違うんじゃないかって。
 平和な新聞を刷ってるんだし、人類の敵ではなさそうだ、って。



「なるほどなあ…。確かに王道というヤツではある」
 流石だな、お前。
 ただのチビかと思っちゃいたがだ、やっぱりソルジャー・ブルーだな。
 お前が配ると言ってる新聞、やり方としては王道なんだ。
「そうなの?」
「うむ。SD体制の頃にやっていたかどうかは分からんが…」
 敵対している相手が勢力を持ってる地域に宣伝用のビラや新聞を撒くって方法があった。
 今の支配者は間違ってるとか、自分たちが来たらこういう世の中に変わりますよ、という宣伝。自分たちの地域じゃ生活はこうだと、見本に新聞を撒いたりな。
 信じて貰えれば万々歳だし、一般市民を攻撃するより平和な戦法というヤツだ。
「そんな方法、何処で聞いたの?」
 まさか古典の範囲じゃないよね、戦争の話みたいだもんね?
「古典ではないな。前の俺だな、ライブラリーで読んでた本の中にあった」
「ハーレイ、言わなかったじゃない!」
 そういう方法があるんだってこと!
 もしも前のぼくが知っていたなら、絶対、検討してみてたのに!
「あの状況で誰が思い付くか!」
 使えそうだなとも思わなかったな、変わった戦法があるものだ、と読んでいただけだ。
 いいか、前の俺たちはシャングリラごと雲海の中なんだ。
 ミュウの存在すらも知られていない星に居たんだってことを忘れるなよ?



 前の俺たちは隠れてたんだぞ、とブルーを諭す。
 そんな状況ではミュウの宣伝など出来はしないし、とても無理だと。
 けれど、ブルーは残念そうで。
「思い付いていたら、新聞、配りに行ったのに…」
 ミュウに気付いて貰うために。敵じゃないんだ、って知って貰うために。
 ユニバーサルとかテラズ・ナンバーとの持久戦になるけど、それで人類に知って貰えるのなら。
 気長に続けて、ミュウを覚えて貰えるのなら…。
「危険でもか?」
 お前が毎日来るとなったら、奴らは間違いなく攻撃を仕掛けてくると思うが。
 負けるようなお前じゃないとは思うが、それでも敵地に飛び込むことには違いないしな。
「平気だってば、ソルジャーだしね?」
 やられちゃうほど弱くはないよ。逃げ足にだって自信はあるもの、今のぼくとは全く違って。



 それに、とブルーは笑みを浮かべる。
 いざとなったら瞬間移動で配達できたと、シャングリラから出ずに配れたと。
「ぼくは新聞が印刷できるのを待って、瞬間移動で船の外へと放り出すだけ。行き先を決めて」
 人類が集まるターミナルとか、広場だとか。
 何処へだって簡単に届けられるよ、前のぼくなら。
 瞬間移動で届けてもいいし、空から撒いて逃げてもいいよね、シャングリラ新聞。
「シャングリラ新聞なあ…。そういう名前をつけるからには、俺たちが読むのと共通なのか?」
 人類に配ったのと同じ新聞をシャングリラの中でも配るのか?
「それもいいかもね、わざわざ別のを作るよりも」
 ホントにホントのミュウの日常、等身大のシャングリラ。
 平和に暮らしているんです、って宣伝するなら、同じ新聞が効果的かもね?
「うむ。作ってみていたら良かったかもなあ…」
 シャングリラの日々を綴った新聞、まずはシャングリラで評判を見て。
 いいようだったら部数を増やして、人類の世界に配りに行って。
 ミュウとは何かを知って貰えたなら、アルテメシアからは追われなかったかもしれないなあ…。
 前の俺たちの地球への侵攻、アルテメシアから始めたわけだが。
 ナスカから舞い戻って始めなくても、アルテメシアから出発できたのかもなあ、ミュウの存在があの星で知られていたならば。
 敵じゃないんだと、ミュウもヒトだと、アルテメシアでは認めてくれたのかもなあ…。



 もしもシャングリラで新聞を作って、配っていたなら。
 それを自分たちだけで読むのではなくて、人類にも配達していたのなら。
 ミュウと人類との間の距離は、少しは変わっていたのだろうか?
 アルテメシアから追われる代わりに、其処から地球へと旅立てたろうか?
 ミュウもヒトだと認めてくれた人類たちに見送られる中、白い鯨は飛び立てたろうか。
 隠れ住んでいた雲海から出て、白い船体を煌めかせて。
 遥かな地球へと、別の一歩を刻んで飛び立てていたのだろうか…。



「ねえ、ハーレイ。どうだったんだろうね、もしも新聞を配っていたなら」
 アルテメシアで人類に新聞を届けていたなら、ぼくたちの道は変わったと思う?
 ナスカまでの道を全部すっ飛ばして、地球に向かっていたんだと思う?
「さあな…。そいつはなんとも分からないが…」
 それにナスカに寄っていなけりゃ、トォニィたちが生まれていたのかどうか。
 トォニィたちがいない状態では、戦ったとしても勝てた自信が無いからな…。
 ただ、出発からして別となるとだ、戦いも変わっていたかもしれん。
 アルテメシアで何があったか、ミュウとは何かを人類は知ることになるわけなんだし…。
 案外、あっさり話し合いのテーブルに着けたってことも有り得るな。
「そうでしょ? 地球がどうなったのかは分からないけれど…」
 あんな風に派手に壊れなければ、今の青い地球に戻らないから、其処が問題なんだけど…。
 無駄な血を流さずに済んだんだったら、新聞、作っておきたかったな。
 せっせと配って、ミュウと人類とは違わないよ、って頑張って宣伝したんだけどな…。



 ミュウの日常にお勧めレシピ、とブルーが夢の新聞記事を挙げるけれども。
 新聞が実現していたのならば、全ては変わったかもしれないけれど。
 ハーレイはフウと溜息をついて、小さなブルーの瞳を見詰めた。
「お前の新聞、悪くないとは思うんだがな…。使えただろうとも思うんだが…」
 それを本当に実行していれば、アルテメシアから地球に旅立てて、ナスカなんぞには行かなくて済んで。そうやって旅がまるで変わって、前のお前が死なずに済んでいたのなら。
 メギドなんかは出ても来ないで戦いが終わっていたのなら…。
 俺は自分の馬鹿さ加減を呪うより他に無いってな。
 どうして新聞を思い付かなかったと、知っていたくせに使わなかった、と。
 それを後悔するしかないなあ、後悔先に立たずとは言うが。



「じゃあ、無し」
 新聞を作って配る話は要らないよ。そんなアイデアだって要らない。
「なんだと?」
 お前、配りたかったと言わなかったか?
 そういう新聞を作りたかったと、人類に配っておきたかったと。
「言ったけど…。素敵な考えだと思ったけれども、もう過ぎちゃったことだしね?」
 作らなかったことをハーレイが後悔するんだったら、新聞は無し。
 シャングリラ新聞なんかは無しだよ、実際、作らなかったんだから。
 新聞は一度も作らなかったし、誰も読んではいないんだものね、ただの一人も。
 だから要らない。
 シャングリラの新聞、作らなくてもいいんだよ。
 ぼくたちが読むための新聞は今ので充分。
 毎日、家のポストに配達されてくる新聞があればそれで幸せ。



 新聞は今の平和な世界のがあればいいんだよ、と小さなブルーは歌うように言った。
 シャングリラでの新聞は要らなかったと、作る必要も無かったと。
 ハーレイが後悔するようなものなら無くていいのだと、夢見る必要も無いものなのだと。
「今は今だよ、無かったものは仕方ないもの」
 シャングリラに新聞は無かったんだし、無いものは配れないものね。
 夢のお話だよ、ただの夢だよ。
「だが…。あの時、俺が思い付いていたなら…」
「それも無し」
 ホントに新聞は今ので充分、毎日届くって幸せだけで充分なんだよ。
 今の新聞、ぼくも大好き。
 毎日、色々なことが読めるのも楽しくて好きだし、毎日ポストに届くのも好き。
「そうなのか?」
 お前が新聞配達を楽しみにしてるというのは初耳だが…?
「えっとね…。怖い夢を見て暗い間に目が覚めた時に、新聞配達、頼もしいんだよ」
 メギドの夢で飛び起きた時に、怖くて震えてたらバイクの音が聞こえて来るんだ。
 そしたら怖い気持ちが消えるよ、此処は地球だ、って直ぐに分かるから。
 新聞配達の人がバイクで走ってる地球で、今日もポストに地球のニュースが届いたよ、って。
「なるほどなあ…」
 そいつは確かに頼もしいかもな、前の俺たちには新聞は届きやしないしな。
 新聞も無けりゃ、バイクで届くってこともない。
 うん、新聞が届くってだけで充分なんだな、青い地球の上で、毎日、毎日。
「そうだよ、いつもニュースを運んでくれるし、それで充分」
 前のぼくたちの時代みたいに機械がニュースをコントロールもしてないし…。
 今の新聞、読み物としても楽しい記事とかで一杯だものね。



 青い地球の上、新聞配達のバイクが配って回る新聞。
 今の時代の新聞だからこそ、幸せな気持ちで届くのを待って読むことが出来る。
 情報統制をするまでもなくて、平和なニュースしか無い新聞。
 人間が全てミュウになった時代の優しい新聞。
 たまに悲しい事故などのニュースも載るのだけれど。
 そういった時に皆で祈りを捧げられることもまた、平和な時代の証だから…。



 いつかはきっと、ブルーとハーレイが共に暮らす家に新聞が届く日が来るだろう。
 夏ならば空が明けて来た頃に、夜明けが遅い季節は空に幾つも星がある内に。
 表のポストに新聞が届いて、バイクが走り去ってゆく。
 朝一番に届いた新聞を取りに出るのはハーレイか、それともブルーの役目か。
 二人とも、新聞が届く頃にはまだ夢の中。
 幸せな一日の始まりの前の、穏やかな眠りに捕まったままで…。




          新聞・了

※今は当たり前のように届く、新聞というもの。それが届かなかった船がシャングリラ。
 船で作って人類に配りに行っていたなら、歴史は変わっていたのかも。ミュウも人なのだと。
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(美味しい…!)
 まだ秋だけれど、赤いリンゴも出回るようになったから。
 ぼくが住んでる所よりも北の方では冬が早くて、その辺りで採れたリンゴがお店に並ぶから。
 今日のおやつはママのお手製、リンゴのコンポート、赤ワイン煮。
 真っ赤なリンゴをくるくると剥いて、カットして赤ワインで煮込んであるんだ、もちろんお砂糖たっぷりで。赤ワインを吸って、半透明になってるリンゴ。赤ワインの色に染まったリンゴ。
 アルコールはすっかり飛ばしてあるから、ぼくでも安心。
(ふふっ、ちょっぴり大人の気分!)
 まだまだお酒は飲めないけれど。
 飲める年になっても、前のぼくと同じでお酒に弱いかもしれないけれど。
 だけどワインは大人の飲み物、それを使ったお菓子っていうだけで胸がときめく。
 もうちょっと、って。
 あと何年か我慢したなら、ぼくは十八歳になる。ハーレイと結婚出来る年に。
 お酒は二十歳まで駄目だけれども、結婚したなら大人の仲間入りみたいなものなんだから…。
(もう少ししたら大人なんだよ)
 あと何年かで手が届く筈の大人というもの、大人が楽しむ飲み物がワイン。
 それで煮込まれた赤いリンゴは憧れの世界の欠片を運んで来てくれる。
 赤ワインの赤に染まったリンゴ。アルコール無しでも幸せな気分で酔っ払えそう。
 甘いコンポート、ホイップクリームに庭のミントの葉っぱも添えて。



(赤ワイン煮…)
 フォークで切っては、口へと運んで。
 シナモンの風味も味わいながら、ぼくは御機嫌。
 だって赤ワイン煮、大人の飲み物で作って貰ったおやつだから。アルコール分は飛んでいたって背伸びして大人の気分だから。
 前のぼくみたいに大きくなったら、ぼくも大人の仲間入り。
 ちっとも背丈が伸びてくれないチビのぼくだけど、いつかは大人の仲間入り。
(十八歳までには育つよね、きっと)
 そしたら結婚、お酒は飲めない年でも大人扱いして貰える筈。
 もうちょっとだよ、って今日は前向き、ひょっとしたら赤ワインで酔っ払ってる?
 アルコールは飛んでる筈なんだけれど、赤ワインの味だけで酔っ払えちゃう?
 それもいいかも、こんなに心が浮き立つんなら。



 前のぼくの背丈、それが目標。
 そこまで育てばハーレイがキスを許してくれる。
 シャングリラに居た頃は、当たり前のように交わしていたキス。それが今では頬と額にしかして貰えなくて、膨れてばかりのチビのぼく。
 そのキスだって、あと少しだけの我慢だよね、って思っちゃう。ホントに前向き、今日のぼく。赤ワインで酔っ払っているんだとしても、うんと幸せ、素敵な気分。
 白い鯨でハーレイと一緒に居た頃みたいに、もうすぐ二人で暮らすんだよ、って。



(シャングリラにもワインはあったんだっけ…)
 リンゴのコンポートなんかは作ってないけど、一度も作っていなかったけれど。
 シャングリラでリンゴは育てていたけど、赤ワイン煮になることは無かった。
 ワインは貴重品だったから。
 本物のワインはとっても貴重で、お菓子なんかに使えるものではなかったから。
 もちろん合成品のワインはあったし、それを使えばコンポートだって作れそうだけれど、合成のワインは嗜好品。飲むのが第一、それと料理用。お菓子にはあくまで風味づけ。
(船のみんなに行き渡るだけのリンゴの赤ワイン煮なんて、凄い量のワインが要るんだし…)
 厨房の係は作ろうと思わなかっただろう。もったいない、って。
 でも…。
(赤ワインだけは本物のヤツがあったよね)
 ブドウを搾って、樽で仕込んだホントに本物の赤ワイン。
 合成のお酒ばかりだった中で、あれだけは本物のお酒だったんだ。
 懐かしいな、ってリンゴのコンポートを頬張った。
 あのワインの味にちょっぴり似てると、お砂糖が入って甘いけれども、確かに似てると。
 お酒に弱かったぼくは少しだけしか飲まなかったから、ハッキリ覚えてはいないんだけれど。



 おやつを食べ終えて、キッチンのママにお皿やカップを返しに行って。
 それから二階の部屋に戻って、勉強机で頬杖をついて。
(リンゴのコンポート、美味しかったな…)
 赤ワインたっぷり、お砂糖たっぷり。シナモンも少し。
 ホイップクリームにミントの葉っぱも。
 ちょっぴり背伸びで大人な気分がしてくるお菓子で、酔っ払ったかもしれないけれど。ぼくには嬉しい大人っぽい味、大人の飲み物の赤ワインの味。
 シャングリラでは作らなかったけれども、その気になったら作れたと思う。
 材料は揃っていたんだから。
 リンゴとお砂糖、シナモン、ミントにホイップクリーム。
 もちろん本物の赤ワインだって。
 全員の分は絶対無理でも、一人分ならきっと作れた。前のぼくが一人で食べるだけなら。



(ソルジャーの分だけ、っていうのは反則?)
 そういったことはしないように、って仲間には言ってあったんだけれど。
 ソルジャーだから、って特別扱いをしては駄目だ、と何度も伝えてあったんだけれど。
(でも、赤ワイン煮…)
 食べてみたかったような気がしてきた。材料は揃ってたんだ、と思うと。
 青い地球の上に生まれ変わった今のぼくだから、そんな我儘を思い付いたりするんだろうけど。
(厨房の係に「作って欲しい」って言ったら、反則…)
 喜んで作って貰えたとしても、それだと自分でルールを破ったことになる。
 「ソルジャーを特別扱いするな」と言っていたくせに、自分だけのために特別なものを作らせることになるんだから。それも貴重な赤ワインを使って。
 それはマズイし、許されそうにないんだけれど。



(ハーレイだったら作ってくれたと思うんだよ)
 前のハーレイは厨房出身、料理が得意。青の間には小さなキッチンがあったし、あそこで作れば誰も絶対、気付きやしない。リンゴが一個くらい減っても、生クリームが少し減っても。
 前のぼくが「食べてみたいよ」って言ったら、ハーレイはきっと作ってくれた。
 甘くて美味しい、赤ワインの色に染まったリンゴのコンポート。
 本物の赤ワインを使って、煮込んで。
(ちょっとくらい減ってもバレないんだものね、赤ワイン)
 リンゴや砂糖や生クリームが減っちゃったことを言い訳するより、ずっと簡単。
 だって、天使が飲んじゃうんだから。
 「美味しいね」って飲んでしまうんだから。
 実はシャングリラには天使がいたんだ。
 お酒の大好きな天使ってヤツが。



 年に一回、新年を迎えるイベントの時だけ、シャングリラで飲んだ赤ワイン。
 みんなで乾杯していたワイン。
 そのためにだけ、ワイン用のブドウを取り分けておいて木の樽に入れて熟成させてた。お祝いに使う大切なワイン、クリスマス生まれの神様の血だと伝わる赤ワイン。
 天使はそれを飲んでいた。
 誰にも「下さい」なんて言わずに、こっそりと。



 前のぼくたちが最初にワインを仕込んだ年。
 特別に作った木の樽に入れて、専用の倉庫で熟成させた。温度や湿度の管理も完璧、樽に一杯のワインが出来ると頭から信じていたんだけれど。
「なんで減るんじゃ!」
 樽からボトルに移していた日に、用意しておいたボトルが余った。仕込んだワインを入れようと作ったボトルが余って、減っていたことが初めて分かった。
 そういう報告が上がって来たから、いつものゼルたちを集めて会議。ハーレイが読み上げた事実なるものに、「どうしてなんじゃ」と頭を振ったゼル。
「倉庫の管理は厳重じゃった筈じゃぞ、勝手に入れはしない筈じゃが」
「そうだよ、それに樽だって封印していた筈だよ」
 ブラウも「変だ」と言い出した。
「封印、破れていなかったんだろ? だったら密閉されてたってことさ」
 それなのに、なんで減るんだい?
 考えたくないけど、ワインをサイオンでコッソリと盗む悪い奴が居たってことなのかい?
「違うね、これはそういうものなのだよ」
 減るものだよ、とヒルマンが笑って、エラも穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、本物のワインだからこそ減るのです」
 木の樽から自然に蒸発してゆくのですよ、ああして熟成させている内に。
 そうやって樽から消えてしまったワインを、天使の取り分と呼ぶのだそうです。
 天使が飲んだと、その分だけ減ってしまったのだと。



「ふうむ、天使の取り分じゃったか…」
 仕方ないのう、そういうことなら。しかしじゃ、それは秘密にしておかねばならん。
 この件については調査中じゃ、と言わねばな。
 ゼルが奇妙なことを言うから、ヒルマンが「何故だね?」と訊いたんだけれど。
「分からんか? そういう言い訳で飲むヤツが出るといかんじゃろうが」
 樽のワインは減るものらしい、と広まってみろ。
 少しくらいなら、と味見したがる奴が出るわい、サイオンで盗み出せるんじゃからな。
「なるほどねえ…。あたしもちょいと欲しくなってきたね」
 そろそろいいだろ、って味見に一口。天使が飲むなら一口くらいは欲しいもんだね、樽の間に。
「わしらが飲んでどうするんじゃ!」
 手本にならねばいかん立場じゃぞ、それが盗んで飲みたいなどとは言語道断というヤツじゃ!
「ぼくがシールドしておこうか?」
 ワインの樽ごと。そうすれば蒸発して減ることもないし、問題は解決しそうだけれど。
「それでは美味しくならないのでは、と思うのだがね」
 自然に蒸発してゆく過程も含めて、ワインの熟成が進むのだろうし。
 不自然なシールドを施すよりかは、自然に任せておきたいものだね。
「でも、今後のことを考えると…。天使の取り分、いつかは知られてしまいそうだよ」
 知れてしまったら、ゼルが言ってた不心得者。
 少しだけ、と考える者が出るかもしれない。その対策としてもシールドは有効そうだけど…。
「そこまでのことは要らんじゃろう」
 本当にシールドを張るまでもないわい、ソルジャーが厳重に管理していると広めておけば効果があるじゃろう。それでも減っているようだ、と知れたら天使の取り分の出番じゃな。これは自然に起こることじゃと、防ぎようがない現象なんじゃと。



 ぼくはシールドを張らなかったから、毎年、毎年、減っちゃうワイン。
 天使が飲んでた赤ワイン。
 その内に船でも有名になって、天使の取り分を知らない大人はいなくなった。けれども便乗してコッソリ飲もうという者は無くて、天使だけが飲んでた赤ワイン。
 樽で仕込んだワインは毎年、同じ環境で熟成させてる筈なんだけれど、天使の取り分は少しずつ変わる。多めだったり、少なめだったり、気まぐれな天使が飲んだ分だけ。
 それがどのくらい続いただろう?
 ある日、一日の報告をしに青の間に来たハーレイと二人でお茶を飲んでいたら。
「ソルジャー、天使の取り分ですが…」
 今年はどのくらいの量になるのでしょうねえ、毎年、好きなだけ飲まれていますが…。
 天使の好みで増減するというのが実に不思議です、まるで人間が抜き取っているかのように。
「そうだね。そういう話を持ち出すってことは、君の分を取って欲しいのかい?」
 ぼくは実際には管理してないけど、あの樽の番をしていることになってるし…。
 君が飲む分をほんの少しだけ、天使の取り分で抜き取ってくれと?
「いえ、そうではなく…。天使の取り分という現象ですよ」
 調べてみましたら、どんな酒でも起こるようですし…。合成の悲しさを思い知らされますね。
「えっ?」
「合成の酒は天使も嫌っているようです。大量に仕込んではあるのですが…」
 減らないんですよ、と笑ったハーレイ。
 合成のラムも、ウイスキーも、ブランデーも天使は全く飲まないらしい。
 知らんぷりをして素通りするだけ、ほんの一口も飲みはしないで。



「天使が飲むような酒は美味いだろうと思うのですが…」
 まるで飲まないということになると、合成の酒はそれだけ不味いのでしょう。
 天使が取り分を欲しがる酒の美味さは、どれほどでしょうね。
「昔はあったね、そういうお酒も」
 人類から物資を奪っていた頃は、お酒も沢山。よく紛れてたし、みんなに配っていたけれど…。
 あれが天使の好きな味なんだね、ぼくはお酒は駄目だったけれど。
「いつか飲めたなら、どんな味だったか思い出せるとは思いますが…」
 合成の酒に慣れてしまって、あちらの味を忘れました。美味い酒だった、という記憶だけです。どう美味かったか、どんな味わいだったのか。その辺が曖昧になってしまいました。
 舌が忘れてしまったようです、とハーレイは少し悲しそうで。
 天使も飲まない合成のお酒を飲むしかないのも、気の毒に思えてきたものだから。
「それならラムとかも作ってみようか、本物を?」
 ワインみたいに大きな樽を使うんじゃなくて、小さな樽で。
「無理ですよ。ラムの原料はサトウキビですし、ラム酒に回せる分があるなら砂糖を増産するべきでしょう」
 ウイスキーにしても同じことです。大麦、ライ麦、トウモロコシなどの穀物が原料ですから。
「ブランデーはブドウじゃなかったかな?」
 それで間違いありませんが…。ブドウから作った白ワインを蒸留するのですよ?
 赤ワインでさえもギリギリなんです、ブランデーなんかを作れる余裕はありませんよ。
 年に一度の赤ワインだけで充分です、って言ったハーレイ。
 ぼくの飲み残しを貰っている分、他の仲間より多めに飲めているのですから、って。



 そんなハーレイと恋人同士になった後。
 ハーレイはぼくの特別になって、大切な人になったから。
 シャングリラの仲間の誰よりも大事で、愛おしい人になったから。
 天使の取り分が出来るお酒をハーレイに飲ませてあげたいと思ったけれど。なんとかして本物のラムやブランデー、ウイスキーを作れないかと思ったけれど。
 でもハーレイが前に言っていた通り、それは不可能。
 ラムを作るだけのサトウキビがあるなら、料理やお菓子に欠かせない砂糖を増産すべき。穀物もウイスキーを作れるほどなら、食料の備蓄に回さなければ。
 白ワインが原料だというブランデーなどは論外だったし、本物のお酒は作れない。
 ぼくがソルジャーでも、そんな命令、下せやしない。
 だけどハーレイにお酒をあげたい。
 天使が飲むという本物のお酒を、お酒が大好きなハーレイのために。



 ハーレイにお酒、って考え続けて、だけどお酒は作れなくって。
(ちょっとだけ…)
 赤ワインをほんの少しだけ、ってサイオンで盗み出した、ぼく。
 その頃にはワインは樽に詰めてから一年で飲むより、二年、三年、って置いた方がいいって話も出ていて、乾杯用のワインを取り出した後に残ったワインは樽の中。乾杯の時には長く熟成させたワインの方から順に使って、その年のワインはかなりの量が残るもの。
 だから樽にはワインがたっぷり、ちゃんと熟成されたワインがたっぷり。
 ちょっと考えて、去年のワインを失敬した。樽にけっこう残っていたから大丈夫。
 これは天使の取り分だから、って。



 その夜、ハーレイが青の間にやって来て、目を丸くした。
「なんですか、これは?」
 ぼくが出しておいたグラスが二つ。テーブルの上にグラスが二つ。
 どっちも空っぽ、透明なグラスが置いてあるだけ。
「乾杯用だよ」
「は?」
「君との記念日に乾杯するんだ」
 あれから一年になる日だものね、って微笑んだ、ぼく。
 ハーレイと初めてベッドに入った記念日だから、と。
「覚えてらっしゃったのですか…」
「ぼくが大切な記念日を忘れるとでも?」
 そして、これはね…。
 内緒だよ、と注いだ赤ワイン。失敬して来た本物のワイン。ハーレイは直ぐに気が付いた。
「ソルジャー、これは…!」
「二人きりの時はソルジャーじゃなくてブルーだけれど?」
 それにね、これは天使の取り分。天使がワインを飲んだんだよ。
「しかし…!」
「大丈夫。樽には沢山入っていたから、このくらいならね」
 今年の天使は多めに飲んだな、って係が納得するだけだよ。報告だってそれでおしまい。
 それとも、君は怒るかい?
 ソルジャーが盗みを働いていた、と。
「いえ、共犯にさせて頂きます」
 盗み出しておられたらしい、と気付きましたが、誰にも報告いたしません。
 犯人蔵匿は立派な罪です、これで私も有罪です。



 ワイン泥棒になったソルジャーと、それを匿ったキャプテンと。
 二人揃って犯罪者になってしまったけれども、誰も気付きやしないから。
 ワインが減ったのは天使の取り分、今年の天使がちょっぴり多めに飲んでしまっただけだから。
 ぼくもハーレイも捕まりはしないし、叱られることも絶対に無い。
 貴重なワインをグラスに二杯分も盗んだ大泥棒と、匿った悪人なんだけど。
「ハーレイ、今日から犯罪者だね」
「ええ。あなたも犯罪者になられたわけです、二人組のワイン泥棒ですよ」
 盗んだ犯人と、犯人を突き出さない私。
 おまけにこれから乾杯ですしね、あなたが盗み出した赤ワインで。
「うん。ハーレイが共犯者になってくれたお蔭で、泥棒扱いは免れそうだ」
「大切な恋人を泥棒にしたいような人間はいませんよ」
「そうかもね。お互い、一生、黙っていないと…。相手が犯罪者だったということ」
「もちろんです。航宙日誌にも書きませんとも」
 ハーレイが大真面目な顔で言い切った後で、可笑しくて笑い合ったぼくたち。
 ソルジャーとキャプテンがワインを盗んで飲んでいたことは誰も知らずに終わるだろう、って。



 ぼくが盗んだ天使の取り分、貴重な樽から盗み出して来た赤ワイン。
 二つのグラスに注いだけれども、ぼくはもちろん口を付けただけ。
 お酒を飲んだら酔っ払うから、ほんのちょっぴり舐めただけ。
 残りのワインはハーレイに渡して、ハーレイが二杯飲むことになった。
 本物のラムやブランデー、ウイスキーはとても無理だから、せめて本物の赤ワイン。天使が取り分を持ってゆくという、本物のお酒をハーレイに。
 「ハーレイにあげたかったんだ」って言ったら、ハーレイは大感激でキスをしてくれた。ぼくを抱き締めて何度も何度も、赤ワインの味がするキスを。
 その夜のキスも赤ワインの味が残ってた。
 ハーレイとベッドで愛し合う中、何度も交わしたキスに微かな赤ワインの味。
 もう残ってはいない筈なのに、赤ワインの味がしていたキス。
 それから毎年、記念日はそれ。
 こっそり、本物の赤ワイン。
 天使が飲んだと言い訳しながら、ぼくがこっそり盗んで乾杯。
 恋人同士になれて良かったと、いつまでも離れずに生きてゆこうと…。



(思い出しちゃった…!)
 記念日のことを忘れていた、ぼく。
 天使の取り分は覚えていたのに、天使じゃなくって自分が盗んでいたことを。
 これは天使が飲んだ分だ、って樽からワインを盗んでたことを。
(ハーレイと二人で乾杯して、キス…)
 毎年、赤ワインの味がしていたような気がするキス。記念日のキス。
 あのキスの味をもう一度確かめたいんだけれど…。
(コンポート…)
 ママが作ったコンポート。赤ワインの色に染まったリンゴ。
 あれを食べれば赤ワインの味が分かるけれども、今日のおやつはもう食べちゃった。ハーレイが来たらママはお菓子を出して来るんだし、今、コンポートを食べに行ったら…。
(ハーレイが来た時、ぼくの分のお菓子が無いんだよ!)
 晩御飯を残すに決まっているから、ママはお菓子を抜きにするんだ。それは寂しい。ハーレイと同じお菓子を食べたい。食べながらあれこれ話をしたい。
 そうしたいなら、諦めるしかないコンポート。
 赤ワインの味を確かめたくても、おかわりなんかは食べに行けやしない。
(…ハーレイが来たらデザートに出るかな?)
 ぼくに同じお菓子を続けて出すより、ママは別のを選びそう。晩御飯のデザートも別のお菓子になってしまうかもしれないけれども、出ないと決まったわけでもない。
(だって、ハーレイはコンポートを食べていないんだものね?)
 うん、そうかも。
 赤ワインの味、ハーレイも一緒の晩御飯の時に幸せ一杯でしっかり確かめられるかも…!



 そうだといいな、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
 ママが出したお菓子はリンゴのコンポートじゃなかったから。
 よし、とテーブルを挟んで向かい合いながら訊いてみた。
「ハーレイ、ぼくにリンゴのコンポート、作ってくれる?」
 赤ワインたっぷりで煮込んだリンゴ。アルコールをしっかり飛ばしたヤツ。
「今か?」
 俺の料理は持って来られないと何度も言ってる筈だがな?
 お母さんに恐縮されちまうから、そいつは駄目だと。
「ううん、今じゃなくって前のハーレイ」
 今日のおやつがそうだったから…。
 美味しかったから、これ、シャングリラでも作れたかな、って考えてたんだ。
 前のハーレイなら作れたかもね、って。青の間のキッチンでリンゴを煮込んで。
「お前が欲しいと言っていたらな」
 前のお前に頼まれたのなら、それくらいは作ってやっただろうな。
 大した手間はかからんわけだし、材料もたかが知れてるからな。
「赤ワインだけど…。合成じゃなくて本物だよ?」
 本物の赤ワインで煮たコンポートがいいな、その方が美味しいだろうしね。
「本物だと? お前、盗むつもりか?」
 あれは厳重に管理されてて、前のお前が管理責任者みたいなことになっていなかったか?
 年に一度しか飲めないワインだ、いくらお前でも菓子を作るために盗むというのは感心せんが。
「平気だってば、天使の取り分」
「おい、お前…!」
 天使の取り分だと言ったか、お前?
 だから減っても大丈夫だ、と?



 ロクでもないことを考えてるな、って睨んだハーレイ。
 赤ワインで煮込んだコンポートを食べて知恵がついたな、って眉間に皺を寄せてるハーレイ。
 ぼくは天使の取り分としか言ってないのに、この反応。
 やっぱりハーレイも思い出したんだ、って分かったから。
 記念日に二人で乾杯したことを、本物の赤ワインを飲んでいたことを、ハーレイも思い出したに違いないから、ぼくはニッコリ笑って言った。
「あのね…。今日の晩御飯のデザート、リンゴのコンポートの可能性が高いんだけど」
「なんだって?」
「おやつに食べた、って言ったでしょ? だから出るかも」
 今、テーブルの上に載ってないから、晩御飯の後で出て来るのかも…。
 ママが作ったコンポート。赤ワインの色で綺麗なんだよ、それにとっても美味しかったよ。
 もしも出て来たら味わって食べてね、前のぼくたちの思い出の赤ワインの味がするんだから。
「そいつは勘弁願いたいが…」
 このタイミングでか、って呻いたハーレイ。
 もう絶対に思い出したに決まってる。記念日の乾杯も、記念日のキスも。
 赤ワインの味がしていたあのキスのことを、ハーレイも思い出したんだ…!

 ぼくは嬉しくなってしまって、空に舞い上がりそうだった。
 ハーレイとのキス、記念日のキス。
 それに記念日には乾杯していた。本物の赤ワインを盗んでコッソリ、毎年、二人で。
 天使の取り分って言い訳しながら、大泥棒のぼくと泥棒を匿ったハーレイがキスを交わしてた。
 他のみんなは年に一度しか飲めないワイン。
 前のぼくがキッチリ管理していて、年に一回、新年だけしか飲めなかった貴重な赤ワイン。
 好きに飲んでも叱られないのはシャングリラに住んでた天使だけ。
 お酒が好きだった天使だけ。
 そのお酒好きの天使のせいにして、ぼくとハーレイとが乾杯してた。
 本物の恋人同士になった記念日が巡ってくる度、盗み出したワインで二人きりで。
 ハーレイも思い出してくれたからには今日は最高、きっと素敵な夕食になる。
 デザートにリンゴのコンポートが出たら、二人で視線を交わし合って。
 でも…。



(すっかり忘れて食べちゃったよ…!)
 夕食の後で、ハーレイと二人でお茶まで飲んで。
 「またな」ってハーレイが手を振って帰って行った後で、歯噛みしたぼく。
 食べちゃった、リンゴのコンポート。
 ママがデザートに用意してくれた、赤ワインで煮込んだ美味しいリンゴ。
 赤ワインのことなんか見事に忘れて、無邪気にパクパク食べちゃった、ぼく。
 ホイップクリームをたっぷりとつけて、夢中で頬張っちゃったけど…。
 ハーレイは覚えていたんだろうか?
 前のぼくとの記念日の話、ハーレイはしっかり思い出しながら味わって食べていたんだろうか?
(…ハーレイがぼくを見てたかどうかも覚えてないよ…)
 パパとママも交えた夕食の間、ハーレイはいつも笑顔だから。
 それを見ているだけで幸せ、コンポートの意味も天使の取り分も頭の中には全く無かった。
 赤ワインの味すら噛み締め損ねた、大馬鹿なぼく。
 次のチャンスには思い出せるんだろうか、赤ワインの味が何だったのか。
 ハーレイとの記念日のキスの味だったんだ、って。これで乾杯してたんだよね、って。
 シャングリラに住んでた、お酒好きな天使。
 赤ワインに会ったら思い出したい。天使の取り分と、記念日のキスを…。




          天使の取り分・了

※ワインを醸造する間に、持ってゆく天使。いわゆる「天使の取り分」ですけれど…。
 それにかこつけて、「本物のワイン」で乾杯していたハーレイとブルー。幸せな犯罪者たち。
 
 







(…あれ?)
 あのストール、ってママの手元に目がいった。
 午後から急に冷えて来たから、ママが急いで出して来た箱。ストールを何枚も仕舞ってある箱。
 リビングで開けて、どれにしようか選んでるみたい。あれこれと出して、広げてみて。
 明日はお出掛けなんだって。
 ぼくが学校から帰るまでには戻ってるから、って言ってたけれど。
 コートを着るには少し早いし、ストールなのかな?
 ふわりと一枚、羽織っておいたらかなり違うと思うんだ。
 コートと違って畳める所も便利そう。その辺が多分、選ばれた理由。
 ママがストールの箱を持ち出して、色々広げている理由。



 ちょっと冷える中、学校から家に帰って来たぼく。
 ママはおやつを用意してくれて、ホットミルクも作ってくれた。シナモンミルクのマヌカ多め。ハーレイに教わったセキ・レイ・シロエの好みだったミルク。
 それからママは「ちょっとお出掛けの用意をするから」ってダイニングから出て行った。服でも選びに行くのかな、って見送ったけれど、ストールだった。リビングに置かれたストールの箱。
 おやつを食べ終わったから、食器をキッチンに返して、御馳走様って言いに行ったんだけど。
 リビングを覗いてみたんだけれど。



(あれって…)
 ママが広げてみているストール。
 花びらみたいに優しい青から淡い水色までを染め上げた、グラデーションになったストール。
 なんて言ったかな、普通のストールよりも上等な素材で織られたストール、ママのお気に入り。
 「軽いのにとっても暖かいのよ」って何度も聞いた。
 小さい頃からママが持ってて、触らせて貰ったら柔らかくって。
(なんだか懐かしい…)
 胸の奥からこみ上げて来た、懐かしさ。
 ママが羽織っていた姿だけじゃなくて、もっと親しみを感じる何か。
(ぼく、借りてた…?)
 覚えてないけど、ぼくもあのストール、使ってた?
 なんだかそういう気持ちがするんだ、ぼくにとってもお馴染みだよ、って。
(なんで…?)
 どうしてなのかが分からないから、よく見よう、ってリビングに入って行った。
 青いストール、小さな頃から見ていただけの筈なのに。
 借りたことなんか無い筈なのに…。



「ママ、それ、なあに?」
「えっ?」
 ストールを持ったままで顔を上げたママ。
 青いグラデーションのストール。軽くて柔らかい、大判のストール。
「そのストール、なあに?」
 ママのお気に入りのストールってことは知っているけど…。上等なのも知っているけど。
 懐かしい気持ちがするんだよ。そのストール、ぼくも使ったりした?
 ぼくは借りたの、って訊いてみた。
 大きなサイズのストールだから、小さかった頃に羽織れば明らかに床に引き摺るだろうに。
 上等なんだし、オモチャにしたなら「ダメよ」って叱られてしまうだろうに。
 それでも懐かしくてたまらないから、このストールにはきっと何かがある。
 ぼくの心を捕まえて離さない、思い出か何か。
 ママに叱られたオマケつきでも、胸が躍るような素敵な記憶。



「ぼく、それでソルジャー・ブルーごっこでもしてた?」
 マントのつもりで着ちゃってた?
 床に引き摺ってしまいそうだけど、ソルジャー・ブルーのマントもそうだし…。
 紫じゃないけど、そのストールを借りてやったの、ソルジャー・ブルーのマントの真似。
「していないわよ?」
 そもそもやっていないじゃない、って言われちゃった。
 「ブルーはソルジャー・ブルーごっこなんかはしていないでしょ」って。
 子供に人気のソルジャー・ブルーごっこ。
 大英雄のソルジャー・ブルーになったつもりで遊ぶんだ。もちろんマントは欠かせない。まずはマントで、家の中ならシーツだったり、毛布だったり。
(男の子なら大抵、やるんだけれど…)
 ぼくはソルジャー・ブルーごっこをしたことがない。ただの一度も。
 見た目だけなら、ソルジャー・ブルーにそっくりだけれど。
 ソルジャー・ブルーごっこで木から飛び降りて、怪我をしちゃった友達だったらいるけれど。



「でも、そのストール…」
 ホントのホントに懐かしいんだよ、貸して貰ったと思うんだけど…。
「覚えてるの?」
「えっ?」
 今度はぼくが驚く番。
 全然覚えていないけれども、「覚えてるの?」って訊かれたってことは借りたんだ。
 だけど記憶が全く無い。
 借りて幸せ一杯だったら、きっと記憶に残っている筈。それなのに無いということは…。
(忘れたい気持ちとセットなんだよ、うんと叱られちゃったとか…)
 記憶ごと消してしまいたい、って思うような悲惨な出来事とセットの思い出、ストールの記憶。
 ぼくは綺麗に忘れてしまって、懐かしさだけしか残ってないけど。
 黙って持ち出して汚したりした…?
 御機嫌で羽織って絵でも描いてて、インクの染みがついちゃったとか…?
「ごめんなさい、ママ…!」
 ぼくは慌てて謝った。
 忘れちゃっててごめんなさい、って。ストールに悪戯したんだよね、って。
「違うわよ。悪戯なんかをしてはいないわ」
 これはブルーの、ってママは優しく微笑んでくれた。
 ぼくの最初のストールなんだ、って。



「最初…?」
「そうよ」
 一番最初、ってママはストールを広げてくれた。
 青いグラデーションの大きなストール、柔らかくて暖かくて軽いストール。
「ママがブルーに着せてあげたの、今よりもずうっと小さな頃に」
 このくらいね、ってママが示した大きさ。
 うんと小さな身体のぼく。チビどころじゃなくて、赤ちゃんのぼく。
 三月の一番最後の日に生まれて、暫くの間は病院に居て。
 暖かくなる季節に向かって、お日様がポカポカ射している中で家へと向かう筈だった。退院してママの腕に抱かれて。
 それなのに、退院するっていう日。
 季節外れの寒波が来ちゃって、桜も咲いているのに白い雪が舞った。
 病院の中は暖かいけれど、パパの車も暖房が効いているけれど。車に乗る時と、家に着いて入るまでの間はそうはいかない。肌を刺す冷たい空気が待ってる。
「サイオン・シールドで包んでも良かったんだけど…」
 それだとブルーに分からないでしょ、外の空気が。
 せっかく初めて外に出るのに、シールドの中だとつまらないでしょ?
 だから、ってママは青いストールを両手に掛けて笑顔で言った。
 ぼくに着せたと、赤ちゃんだったぼくにこのストールを着せたのだと。
 ストールは入院する時に持っては行かなかったから。
 パパは仕舞ってある場所が分からないから、思念で伝えて病院まで持って来て貰って。
 「これにくるまれてブルーは退院したの」って教えて貰った。
 ママに抱っこされて、パパの車で。
 季節外れの雪が舞う日に、生まれて初めてのドライブをして。



(あのストール…)
 部屋に帰って、勉強机の前に座って考えた。
 なんだか大切そうな気がするストール。
 懐かしい、って思う気持ちに加えて、大事なものだって気までして来た。
 ママの話を聞いたからかな、ぼくの最初のストールなんだ、って。
 赤ちゃんだったぼくを包んだ初めてのストールだから、こういう気持ちになるんだろうか?
(でも…)
 それだけにしては強すぎる思い。
 あれは特別、あのストールは特別なんだ、って胸の奥から湧き上がる気持ち。
(赤ちゃんの時の記憶があるって人もいるよね…)
 もしかしたら、ぼくも。
 すっかり忘れてしまってるだけで、退院した日の記憶が何処かにあるかもしれない。
 病院でママがストールを巻いてくれてた時とか、初めて外を見た時だとか。
 それともパパの車から降りて、この家を見ながら入って来た時。
 赤ちゃんだったぼくの瞳に映った、庭の木だとか、家とか、玄関。
(そういう記憶を持ってるのかも…)
 だとしたら、それを見てみたい。
 青い地球の上に生まれ変わって最初の記憶を、一番最初に目で見て経験したものを。
 景色も、それから雪が舞う日の冷たい空気も。



 あのストールを借りたら思い出せるだろうか、ってママに頼んで借りて来た。
 明日のお出掛けは別のストールに決めたと言うから、ちょっとだけ、って。
 箱から出して貰って、借りて。
 部屋まで持って帰ってふわりと広げた大きなストール。両端に織り糸を捩った房。綺麗に揃った房の色までグラデーション。花びらみたいな青の房から、淡い水色をした房まで。
(これにくるんで貰ったんだから…)
 こんな感じ、と羽織ってみたけど、思い出せない。
 身体にくるりと巻き付けてみても、ストールに頬っぺたをくっつけてみても。
 赤ちゃんだったぼくを包んだストール。
 雪の舞う日に、初めて外へ出たぼくを包んでくれたストール。
(暖かかったと思うんだけど…)
 寒くなんかなくて、ストールのお蔭でポカポカで。
 だけど頬っぺたには冷たい空気が触れていた筈だと思うから。
 ストールにくるまっていられる幸せを、赤ちゃんのぼくは分かっていたと思うんだ。
 そのせいで特別に思うんだろうか?
 これのお蔭で暖かかったと、寒い日だけどとても暖かかったんだ、と。



(暖かかったのが特別だったのかな?)
 メギドで凍えた右手の記憶は、赤ちゃんのぼくには無い筈だけれど。
 暖かいってことがどれほど幸せで素敵なのかは、微かに感じていたかもしれない。
 暖かくなったと、もう寒くないと、幸せなんだと。
(あったかいのが特別だった…?)
 だからストールを懐かしく思っているんだろうか。暖かかったと、ぼくを温めてくれたんだと。ママと同じで暖かかったと、この中でとても幸せだったと。
(ストールの刷り込み…)
 鳥の中には卵から孵って最初に見たものを親だと思い込むのがいるらしいから。
 ぼくもストールをママと同じくらいに特別だと思っちゃったとか?
 ママみたいに暖かかったから。
 ママと同じに、ぼくを包んで暖かく守ってくれたから。
(そうなのかな?)
 だったら、やっぱり思い出したい。
 あったかいストールにくるまって見たものや、感じた空気を。
 赤ちゃんだったぼくの頬っぺたに空からひとひら落ちたかもしれない、季節外れの雪の結晶を。



 なんとかして思い出せないものか、と考えていたら、チャイムが鳴って。
 窓から覗いたらハーレイが見上げて手を振ってたから、ストールの思い出は暫くお預け。
 ハーレイの方が大切だもの、と畳んで椅子の背もたれに掛けた。勉強机の所の椅子の。
 これで汚れる心配は無し、とポンと叩いて、ハーレイが来るのを待ったんだけど。
 ママに案内されて来たハーレイは、テーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いた。
「お前、ストール使うのか?」
 珍しい趣味だな、お前くらいの年の男の子だったら上着だろうと思うんだが…。
「あれは借りたんだよ、ママのだよ」
 ちょっと気になることがあるから、借りて来ただけ。
 でも…。ストールを使うのって、珍しいの?
 冬は膝掛けに別のを使うよ、ママに貰った厚手のストール。薄くした毛布みたいなのを。
「なるほど、膝掛け代わりになあ…」
 お前は弱いし、膝掛けも馴染みのものなんだろう。
 しかしだ、元気なガキってヤツはだ、膝掛けなんかは要らないってな。
「そうかも…」
 でもね、ママから借りたストール。
 あっちの方ならお世話になった子も多いと思うな、寒い冬の日に。
 赤ちゃんだった頃なら、ストールを巻いて貰った子供もきっと多いと思うんだよね。
 ぼくもそういう話をママから聞いて来たんだけれど…。
 このストールがそうだったのよ、って聞いて、その頃の記憶が無いか探しているんだけれど…。



 頑張っても思い出せないんだよ、って立ち上がって勉強机の椅子からストールを取った。
「もっと小さかったら思い出せるのかな?」
 これですっぽりくるめるくらいに小さかったら、ぼくの記憶も戻るのかな?
 忘れちゃってる、赤ちゃんの記憶。
 ぼくはチビだけど、もうストールにはくるめないしね…。そこまで小さくないんだもの。
 ほらね、ってストールを羽織って見せた。
 ストールでくるむには大きすぎだよ、って。
 そしたら息を飲んだハーレイ。
 ぼくにも聞こえるほど息の音がしたし、鳶色の目だって大きくなってる。
「どうかしたの?」
 ぼくにストール、似合わなかった?
「いや…。そういうわけではないんだが…」
「なんだか変だよ?」
 ハーレイ、ビックリしたみたいだけど。
 ギョッとするほど似合ってないかな、赤ちゃんじゃないぼくには、このストールは…?



「記憶違いかもしれん」
 俺の記憶だ、記憶違いだ。
「なに?」
「単なるストールの記憶なんだが…」
「ストール? それにハーレイの記憶違いだなんて…」
 ひょっとしてハーレイ、こういうストールを何処かで見たの?
 ぼくを見たの、って訊いてみた。
 ママと一緒に退院した日に着ていたんだよ、って。
 赤ちゃんだったぼくが生まれて初めて、病院の外に出られた日。パパの車でこの家に連れて来て貰った、四月の初め。
 雪が降ってて寒かったんだ、って。
 桜はとっくに咲いていたけど、季節外れの雪で寒い日だったからストールの中、って。



「雪だと…?」
「うん、雪」
 ぼくは全然、ちっとも思い出せないけれど。
 雪が降ってたってママが言ったよ、だからストールにくるんだんだ、って。
 パパに家から持って来て貰って、このストールに。
 その日の記憶が戻らないかな、ってママにストールを借りて来たんだけれど…。
「俺はお前に会ったかもしれない」
「えっ?」
「チビどころじゃない、赤ん坊だった頃の小さなお前だ」
 生まれたばかりで、まだ這うことさえ出来ないお前。
 自分の家さえ知らないお前に、俺は病院の前で会ってたかもなあ…。



 あの日…、ってハーレイは遠い記憶を探る目をして。
「俺はいつもの習慣でジョギングしていた。特にコースは決めていなくて、気の向くままにな」
 家を出発して、あちこちに咲いてる桜を眺めながらのコースってトコか。
 桜に雪だと、季節外れの雪になったな、と走っていたんだ。
 公園を抜けて、側にある病院の前まで来たら、歩道の脇に車が停まってて。
 俺くらいの年の男が病院から出て来て、後ろのドアを開けたから。
 病人さんが通るんだったら邪魔しちゃマズイな、と足を止めたら、病人さんではなかったんだ。
「ママ…?」
「さてなあ、そいつは分からないが…」
 顔までは覚えていないからな。
 俺もジョギングの途中だったし、じろじろ見るのも失礼だしな。
 ただ、赤ん坊を抱いていた。大事そうにストールでくるんだ子供を、まるで宝物みたいにな。
「ぼく…?」
「そのストールの色が記憶に無い」
 全く覚えちゃいないんだが…。見た瞬間にハッとしたんだ、そのストール。
 掛けてあった時は何とも思わなかったが、お前が羽織った途端にな。
 何処かで見たぞ、と確かに思った。
 だが、その時点では何処なのかも謎で、いつだったのかも分からなかった。
 ストールを見たな、というだけの記憶だ。それだけでは何の意味も無い。
 記憶違いだと言ったのはそれだ、意味すら無いんじゃどうにもならん。
 しかし、お前がストールにくるまって退院したとか、季節外れの雪だったとか。
 そういった話を聞いていたら記憶が戻って来たんだ、ストールにくるまった赤ん坊だ、と。
 母親に抱かれて車に乗り込む所を見たなと、あの時は雪が降っていたな、と。



「まさか、本当にぼくだったの?」
 ハーレイが見ていた、その赤ちゃん。
 ストールにくるまれていたって赤ちゃん、ぼくだった?
 このストールにくるまれてたなら、それはぼくだと思うんだけど…。
 いくらなんでも同じような日に同じストールで退院する子は、他にはいないと思うんだけど…。
「分からんなあ…」
 肝心のストールの色の記憶が無いからな。
 さっきから必死に考えちゃいるが、ストールにくるまれた赤ん坊って所が限界だ。
 ストールの色も思い出さなきゃ、母親の顔立ちも思い出せない。父親の方もな。
 これではお前だと言い切れはしないし、他の子だって可能性もある。
 なにしろあの日は寒かったからなあ、退院する子は誰でも何かにくるまったろうさ。
 シールドするって方法はあるが、生まれて初めての外なんだしな?
 外の空気を吸わせてやるなら、シールドするよりくるんでやるのがお勧めだ。
 ストールの子供、お前の他にも誰か居たかもしれないしな。



「そうだね…。ママもそういうことを言ったよ、シールドの中ではつまらないでしょ、って」
 だからストールにくるんだのよ、ってママも言ってた。
 他の子のママも同じようなことを考えそうだね、シールドじゃなくてくるめる何か、って。
 ハーレイが病院の前で見てた赤ちゃん、ぼくだとは限らないんだね…。
「そういうことだな、俺の記憶がハッキリしてれば絞り込めるんだが…」
 ストールの色とか、車の色とか。
 その辺が決め手になりそうなんだが、生憎とどっちも覚えてないなあ…。
「ハーレイ、それからどうしたの?」
 ストールにくるまった赤ちゃんを立ち止まって見てて、その後は?
 止まってたんなら、赤ちゃんが車に乗り込むトコまで見てたんだよね?
「ああ。ちゃんと父親がドアを閉めてやって、運転席に乗り込む所も見てたな」
 赤ん坊を乗っけた車が発進するのを見送ってから、俺もジョギング再開だ。
 あの子が元気に育つといいな、と颯爽と町を走って行ったな。
 俺みたいに丈夫に育ってくれよと、いきなり風邪なんか引くんじゃないぞと。
 どういうわけだか男の子だと決めてかかっていたなあ、顔を見たわけでもないのにな?
 女の子だったらとんだ迷惑だな、俺みたいに育てと祈られたらな。



「あははっ、そうかもしれないね」
 丈夫なのはいいけど、風邪を引かずに育てというのも嬉しいけれど。
 ハーレイみたいに、って所は余計だったかもしれないね。
 女の子がハーレイみたいに育っちゃったら、とっても大変。
 性格とかなら大丈夫だけど、見た目がハーレイみたいだったら恨まれそうだよ、思いっ切り。
「お前なあ…。それが恋人に向かって言うことか?」
「だって、ハーレイなんだもの」
 ハーレイの姿、ぼくにはカッコ良く見えるけれども。
 シャングリラでは色々と言われていたじゃない。薔薇のジャムが似合わないハーレイだったよ? 似合わないからってクジ引きの箱が素通りしてたよ、ハーレイの前を。
「それは事実だが…。俺も事実を否定はしないが」
 もう少しマシな言いようっていうのは無いのか、お前。
 自分の目までを否定している気がしてこないか、節穴なんだと。
 誰もが認める「薔薇のジャムが似合わない男」がカッコ良く見える自分の目。そいつが実は節穴なんだという方向では考えないのか、お前ってヤツは。
「ううん、ちっとも」
 ぼくはぼくだよ、自分の目だってちゃんと自信を持っているもの。
 ハーレイのカッコ良さが分からない方が間違いなんだよ、分からない人の目が節穴なだけ。
 でもね、女の子がハーレイみたいな姿だったら困るってことはぼくにも分かるよ?
 ハーレイにお祈りされた赤ちゃん、女の子でなければいいんだけどね…。



 女の子だったら可哀相すぎ、って言ったら、ハーレイがギロリと睨むから。
 「まだ言うのか」って眉間に皺を刻んでいるから、話題を戻すことにした。苛めすぎたら仕返しされるし、その前に話を戻さなくっちゃ。
「ねえ、ハーレイ。お祈りされた子、男の子だったら何の問題も無いんだけれど…」
 その赤ちゃんって、ぼくだった?
 ハーレイはぼくを見たんだと思う?
 退院して行くぼくに出会って、元気に育てよって見送ったんだと思ってる?
「さあな? そいつはどうだかなあ…」
 何度も言ったろ、決め手に欠けると。
 ストールの色か、車の色か。どっちかを俺が覚えていたなら、裏付けってヤツが出来るがな…。
 今の状態だと、お前のお父さんやお母さんと記憶を突き合わせたって、上手くは行かん。
 俺の方の記憶がボケちまっていて、お母さんたちが見ても首を捻るしかないってな。



 あの日に、ぼくを見たのかどうか。
 分からないな、とハーレイは慎重に答えるけれど。
 パパやママにも確認しようが無いんだけれども、もしもハーレイと出会っていたなら…。
「あのね、ハーレイが見ていた赤ちゃんがぼくだったら…」
 ぼくは元気に育ったよ?
 退院して直ぐに風邪を引いちゃったなんて聞いていないし、お祈り、効いたよ。
「そのようだな。俺のように、と祈った割にはちょいと弱いがな」
「ハーレイが祈ってくれたからだよ、ぼくが元気に育つように、って」
 弱いけれども、大きな病気は一回もしてはいないもの。
 ハーレイがお祈りしてくれなかったら、大きな病気に罹っていたかも…。
「あれがお前だとは限らんのだが?」
 俺はストールにくるまれた赤ん坊に出会っただけでだ、あの子が男だったかどうかも知らん。
 季節外れの雪は降っていたが、お前の他にも退院する子は居ただろうしな。
「でも、ぼくだよ」
 ハーレイが会った子、ぼくなんだよ。
 このストールを見てハッとしたなら、おんなじストールをその日に見たんだ。
 ぼくをくるんだストールなんだよ、赤ちゃんだったぼくをママがくるんでくれたストール。
 間違いないってぼくは思うな、あの日、ハーレイに会ったんだ、って。
「俺もそういう気がして来たな…」
 そのストール、初めて見た筈なんだが。
 どうにもそういう気がしなくってな、あの日に見ていたストールかもなあ…。



 俺たちはあの日に出会ったかもな、ってハーレイの顔が綻んだ。
 ぼくが生まれて、ママと一緒に退院した日に。
 季節外れの雪が降った日、病院の前で。
 ハーレイはジョギングの真っ最中で、ぼくを抱いたママのために足を止めてくれて。
 ぼくはママのストールにくるまってハーレイの前を通って行った。パパの車に乗り込むために。この家にやって来るために。
(ぼく、ハーレイに会っていたんだ…)
 それで特別な気がするんだろうか、このストールは。
 ぼくの記憶が戻ってなくても、ハーレイに初めて出会った日。
 その日に着ていたストールだから。これにくるまれてハーレイに出会ったストールだから。
(赤ちゃんの時の記憶と言うより、神様が教えてくれたのかな?)
 これをハーレイに見せてみなさい、って。
 そしたら素敵なことが分かると、これは特別なストールだから、と。



(本当の所は分からないけど…)
 ぼくとハーレイ、あの日に本当に出会ったかどうかは分からない。
 ハーレイの記憶はぼんやりしていて、パパやママの記憶を確認したって「間違いない」と言える決め手に欠けているから。
 他に見ていた人がいたって、その人たちだって記憶はとっくにぼやけているから。
(だけど、ぼくだと思うんだよね)
 そんな気がするし、そう信じたい。
 あの日、ハーレイと会ったんだ、って。
 ママのストールにくるまれたぼくと、ジョギング中のハーレイが病院の前で出会ってた、って。



 育ってからなら、会ったかもしれないって思っていたけど。
 何処かで颯爽と走ってゆくハーレイに手を振ったかも、って思っていたけど。
 ぼくが初めて、生まれた病院から外へ出られた日。
 外の空気に生まれて初めて触れたその日に、ハーレイと出会っていたのなら…。
「もし、ハーレイに会っていたなら、運命だよね?」
 運命の出会いってよく言うけれども、本当にそれ。
 あの日にハーレイと会ったんだったら、運命だったと思わない?
「うむ。まさに運命というヤツだな」
 そんな時点で出会っていたなら、運命の出会いを通り越して、だ…。
 前の俺たちからの続きで腐れ縁かもな、ってハーレイは笑って言ったけれども。
 腐れ縁なんて言われ方でも、あの日にハーレイと出会っていたい。
 季節外れの雪が降ってて、ママのストールにくるまれてた日。
 生まれ変わってまた巡り会えたぼくたちだからこそ、初めて病院の外へ出られたあの日に…。




          ストール・了

※季節外れの雪が舞う日に、初めて「外に出た」赤ん坊のブルー。母のストールにくるまれて。
 同じ日にハーレイが出会った「ストールに包まれた」赤ちゃんは…。きっとブルーですね。
 










(さて、と…)
 ブルーの家へ出掛ける日の朝。週末といえども、習慣で早い時間に目覚めるのが常。
 まずは新聞、届いたばかりのを取って来てから朝食の支度。
(目玉焼きにするか、スクランブルエッグか…)
 何にするかな、と暫し思案してからオムレツに決めた。ハーブの風味が際立つソーセージを昨日買って来たから、それも何本か焼いて添えよう。
 後はサラダに、オニオンスープ。薄切りのタマネギをバターで炒めて、コンソメを入れて。
(よし、そんなトコだな)
 サラダ用にと野菜を刻んで、それからタマネギ。小鍋で軽く炒めた後は様子を見るだけ。茶色くなるまで時々混ぜながら他の作業を。
 ソーセージはオムレツの後に同じフライパンを使って焼くのが手間いらずだ。
 オムレツにかかるか、と卵をボウルに二個、割り入れて…。



(三個でやっても良かったかもな?)
 もう一個増やすか、ソーセージを多めに焼くことにするか。
 今の段階なら卵を一個増やすくらいは何でもない。味に変化が出るわけでもない。なにしろ卵は割ったばかりで、箸で溶いている真っ最中。塩コショウすらもしてはいないし…。
 足すんだったら今の内だな、などと考えていて。
(ん?)
 何の気なしに混ぜていた箸。
 卵を溶く時はいつも使っている、料理用の箸。食卓で使う箸とは違った、木の箸だけれど。
(おいおい、こいつは…)
 有り得んぞ、と箸を置いてフォークを取って来た。金属製の大きなフォーク。パスタを食べたりする時に使う、ごくごく普通の大きなフォーク。
 箸の代わりにフォークを握って、ボウルの卵に挑戦した。
 それで溶こうと、黄身と白身を万遍なく上手に混ぜてみようと。



 カシャカシャとキッチンに響く音。箸の音とは異なった音。
 ボウルにフォークが何度も当たって、黄身と白身が混ざってゆく。オムレツを作るならしっかりかき混ぜ、偏らないようにしなければ。
 黄身と白身では火の通りが変わるし、上手く混ざっていなかった時は出来栄えが悪い。切ったら一目で素人にも分かる下手なオムレツ、此処が白身だと分かるオムレツ。
(出来んことはないが…)
 うーむ、とハーレイは低く呻いた。
 フォークで卵を溶きほぐすことは可能なのだが、どうにも効率が良さそうにない。箸を一本しか持たずにやったらこうなるか、といった感じで頼りない。
 前の自分は確かにフォークで卵を溶いたが、今となっては信じ難い、それ。
 厨房に居た頃、幾つもの卵を溶きほぐしたのに。
 前のブルーが殻に入った卵を奪って来た時は、こうしてフォークで溶いていたのに。



(箸の方がうんと優れものだぞ?)
 信じられん、と箸に持ち替えたら、アッと言う間に卵は混ざった。実に頼もしい調理器具。
 卵をフライパンに流して、手際よくオムレツに仕上げていって。
 皿に移したら、お次はハーブ風味のソーセージを炒め、その間にオニオンスープも出来た。味を確かめ、カップに移して、やおら朝食。
 「いただきます」と合掌してから食べ始めるのも習慣だった。
 誰も居なくても、必須の挨拶。食べ物への感謝の気持ちをこめて。
 生まれ育った家で、柔道や水泳の先輩たちからも叩き込まれた「いただきます」。今でも決して忘れはしないし、外食する時も合掌はする。
 しかし…。



(忘れちまっていたぞ、卵をフォークで溶いてただなんて…)
 箸で溶くのに慣れた今では、なんとも不便な調理器具。箸でやったら直ぐ出来ることに、無駄な時間を取るフォーク。一本の箸で混ぜているようだ、とまで思ったフォーク。
 けれども、無かった。
 前の自分が生きていた時代に、二本の棒を並べた箸は。
(箸というものからして無かったのか…!)
 SD体制の時代に消された文化。今は復活を遂げて身の回りにある、小さな島国、日本の文化。遥かな昔にこの地域に在ったと言われる様々な文化。
 それと前の自分が生きた時代の文化との間の多くの違いに、何度も驚いて来たけれど。
 食べ物に関しても、幾度も気付いて来たのだけれど。
 その食べ物を口に運ぶ道具。食べるための道具。
(まさか、箸自体が無かったとはなあ…)
 すっかり慣れてしまっていたから、箸が無かったとは全く思いもしなかった。
 青い地球の上に生まれた時から箸は馴染んで来た道具だから。
 物心つくかつかない内から、いつも周りに在ったから。
 幼かった日に、母が「ほら」と小皿の上に乗せてくれた味見用の欠片も、箸でつまんで。
 父が「食うか?」と口に入れてくれた酒のつまみも、箸で運ばれた。
 幼稚園などに持って出掛けた弁当箱にも、箸入れがセット。
 スプーンやフォークも日常に使うものだけれども、無ければたちまち困る箸。
 味噌汁を作ってもスプーンで飲んだら味気ない気分がするだろう。刺身をフォークで食べるのも嫌だ。煮魚をナイフでカットするのも。



(衝撃の事実というヤツだな…)
 オムレツもソーセージもフォークで口へと運ぶけれども。
 オニオンスープはスプーンで掬っているのだけれども、サラダには箸。それが今の普通。
(だが、シャングリラだと、こうはいかんぞ)
 サラダもフォークで食べるものだった。それが普通だと考えていたし、箸などは無いし…。
(今日の話題は箸で決まりだな)
 ブルーと二人でこれを話そう、と割り箸を荷物に忍ばせた。
 箸は幾つも家にあるのだが、あえてオマケに貰った箸。無料で貰った、ただの割り箸。
 仕事の帰りにたまに買って帰る、美味しいと評判の近所の寿司屋。店でも食べられて、持ち帰りサービスも充実している。そこの店名が刷られた紙の袋に入った割り箸を、一つ。
 箸は一膳、二膳と数えるけれども、この際、一つでかまわない。ブルーと話したいことは呼び名ではなくて、箸という存在そのものだから。



 いい天気だから歩いて出掛けて、ブルーの家に着いて。
 二階の部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、早速笑顔で切り出した。
「土産話を持って来たぞ」
「お土産じゃなくて?」
 小さなブルーがそう返したから。
「そうそう土産があると思うか?」
 お前は期待をし過ぎていないか、土産なんぞは滅多に持っては来ないだろうが。
「お土産、毎回、あったっていいと思うんだけど…。ぼく、ハーレイの恋人だよ?」
 いつもプレゼントを貰えたっていいと思うけどなあ、恋人なんだし。
「自分が置かれた状況ってヤツを考えろよ?」
 此処は青の間じゃなくて、お前の家で、だ。
 お前と俺とが恋人同士だなんてことは全く知らないお父さんとお母さんが一緒だろうが。
 何度も土産を提げて来たなら恐縮される。今のペースが限界ってトコだ。
 今日の所は土産話で我慢しておけ、本物の土産はまた今度だな。
 今度と言ってもこの次じゃないぞ、そのくらいのことは分かるな、お前?



「うー…」
 ブルーは唇を尖らせたけれど、ハーレイは譲ってやらないから。
 諦めたらしく、まだ不満さが溢れる瞳で尋ねてきた。
「土産話って、ハーレイ、何処かに行ったっけ?」
 ぼくは気付かなかったけれども、日帰りで研修か何かに行って来たの?
「いや?」
「だよねえ…。それなのに土産話って、何?」
「ん? それはな…」
 これだ、と割り箸を取り出して見せた。例の割り箸をテーブルに置く。
「えーっと…。これって、お寿司屋さんの?」
 聞いたことがあるよ、この名前。ハーレイの家から近かったの?
「そうだが」
 けっこう近いぞ、仕事帰りにたまに買って帰る。店で食ってることもあるなあ、美味いんだぞ。
「連れてってくれるの?」
「誰が!」
 なんでお前を連れて行かなきゃならんのだ。
 第一、お前がチビの間は外で一緒に食事はしないと言っただろうが。
 その代わりに、って持って来てやったのが庭のテーブルと椅子の始まりなんだぞ、忘れたのか?



「…じゃあ、この次のお土産だとか?」
「寿司がか?」
「巻き寿司でも握り寿司でも好きだよ。ちらし寿司だって」
 このお店の一番人気のお寿司は何なの、ハーレイのお勧めのお寿司もいいなあ…。
 どっちがいいかな、一番人気とハーレイのお勧めのお寿司だったら。
「なんでそういう話になるんだ」
「お土産」
 買って来てくれるつもりなんでしょ、ここのお寿司を。
 だから割り箸を持って来て見せてくれたんでしょ?
 どれがいいんだ、って。お土産に買うなら何のお寿司が欲しいんだ、って。
「土産話だ!」
 誰も土産だとは言っていないぞ、一言も。
 土産と土産話とは違う。俺が持って来たのは土産話で、土産とはまるで関係ないぞ。



 欲張りめが…、と苦笑しながら、ハーレイは割り箸を指でつついた。
「お前、何とも思わないか?」
「何が?」
「割り箸だが」
 こいつを眺めて何も思わないのか、土産に寿司だという他には?
 割り箸ってヤツについてはどうなんだ。寿司じゃなくって、割り箸の方だ。
「んーと…。これって普通の割り箸だよね?」
 変わった割り箸には見えないけれども、これがどうかした?
「なら、袋から出してよく見てみろ。手に取ってな」
「袋から…?」
 ブルーは割り箸を持ってみたのだけれど。
 言われた通りに袋から出して見てみたけれども、ごくごく見慣れた普通の割り箸。店名が刻んであるわけでもなく、袋が無ければ寿司屋のものとは誰にも分からないだろう。
 だから…。



「普通だけど…?」
 ぼくには普通の割り箸に見えるよ、この割り箸。
 それとも何処かが特別なの?
 お寿司によく合う木で出来てるとか、そういうこだわりの割り箸なの?
「その手のヤツなら店の名前を入れてるさ。そいつも売りになるからな」
 残念ながら何処にでもあるような割り箸なんだが、その割り箸。
 前のお前になったつもりで持ったらどうなる?
「えっ?」
「使い方、お前、分かるのか?」
 箸はどうやって使うものなのか、そもそも何に使うのか。食事に使うって分かるのか?
「えーっと…」
 変な棒だと思っちゃうかも、食べる道具だとは思わないかも…。
「こいつをパキンと割る所からして謎だろうが」
 二本入っていりゃ、二本の棒を何かに使うと見当がつくが…。
 こんな風にくっついた割り箸が出たら、間にメモでも挟んでおくのかと考えそうだぞ。わざわざ割ろうとは、まず思わん。こういう道具だと思うだけだな。
「そうかも…」
 間に挟んでおくための道具。前のぼくでも、そう思いそう。
 割り箸なんかは知りもしないし、お箸だって全く見たことがないし…。
 土産話って、それなわけ?
 今の今まで気付かなかったよ、前のぼくたちはお箸を知らずに暮らしてたなんて。
 ハーレイ、凄いね。
 お箸なんて今では当たり前なのに、どうやってそれを思い出したの?
 前はお箸は無かった、って。前のぼくたちが生きてた頃にはお箸は存在しなかった、って…。



「今朝、オムレツを作ろうとしていて気が付いたんだ」
 卵を箸で溶きほぐしてたら、前はこいつじゃなかったな、とな。
 それでフォークを持ち出したんだが、フォークはなかなか難儀だったぞ。箸のようには扱えん。今の俺には腹立たしいだけの道具だったな、フォークはな。
「前のハーレイ、フォークだったよ?」
 フォークで卵をかき混ぜていたよ、ボウルを抱えて。
 ちゃんと上手に混ぜていたけど、フォークじゃ駄目なの、卵を混ぜるの。
「それしか無ければ慣れるもんだし、コツを掴めば楽なんだろうが…」
 箸で混ぜるのに慣れちまった俺に「フォークで混ぜろ」と言われてもなあ…。
 それにだ、卵を混ぜるだけじゃなくて。
 揚げ物をするなら、断然、箸だな。
 小さなものから大きなものまで自由自在にヒョイとつまめて、裏返すのにも便利な道具だ。
 料理をするにも便利なものだし、食うにも便利だと思わんか?
 色々なサイズのナイフやフォークを用意しなくても、箸だけあったらいいんだからな。



「ホントだね」
 このお魚は大きいから、って大きなお箸に持ち替えなくても平気だし…。
 御飯を食べるのとおかずを食べるのに別のお箸、ってこともないよね。
「そうだろう? 箸ってヤツはだ、和風の料理ってヤツに関しては万能らしいぞ」
 和風の料理でなくても、だ。
 こいつが無ければラーメンも食えん。ナイフやフォークでラーメンは無理だ。
「無理そうだね…」
 お箸、元々はラーメンの国から来たのかな?
 日本っていう国の文化は中国の方から来たのも多い、って教わるものね。
「うむ。箸が生まれたのはその辺りだな」
 周りの国にも広がっていって、日本もその中の一つだったわけだ。
 今の時代は和食と一緒にあちこちの地域に普及してるが、どうして消えてしまってたんだか…。
「SD体制が消してしまったんでしょ?」
 マザー・システムが統治しやすいように。
 いろんな文化を纏め上げるのは厄介だから、って一つに統一しちゃった時に。
「それは分かるんだが、箸ってヤツはだ…」
 調理器具としても優れものだが。
 箸があるだけで調理が楽になる料理も多いと思うんだがなあ…。
「お料理するのに便利だから、って道具としてだけ残しておくのは難しそうだよ」
 何かのはずみに「ホントは食事に使った道具だ」って気付かれちゃったら困るんじゃない?
 お箸で食べようと思い付かれたら記憶処理だよ、面倒だよ?
「まあ、そうだろうな」
 SD体制の時代に箸で食べてたら、そいつは異端だ。
 それを切っ掛けに何に気付くか分からないしな、そうなっちまう前に記憶消去が必要か…。
 たかが調理器具のせいで手間が増えるより、最初から無いのが一番だな、箸。



 機械が人間を統治していた、SD体制が敷かれていた頃。
 多様な文化は認められなくて、たった一つしか文化は無かった。何処の星へ行っても同じ生活、同じ文化に食文化。
 人類の世界から弾き出されたミュウであっても、元がそういう世界で育った人間だから。
 あえて別の文化を築き上げようとは思わなかったし、技術が別になっただけ。
 シャングリラに独自の改造を加え、サイオンを大いに生かしたけれども、それが限界。
 人類とは違う生き方をしよう、と誰も思いはしなかった。
 目指した生活は「人並みの生活」、すなわち人類と同レベルのもの。
 そうやって完成させた楽園、シャングリラは言わば箱庭だった。人類が暮らす世界の縮小版。
 ゆえに人類と同じ文化で、食文化も同じ。
 箸などは無くて、それを作ろうと考えた者さえいなかったから…。



「前の俺は箸を扱えていたと思うか?」
「調理器具のお箸?」
 卵を溶くとか、揚げ物だとか。そういうのに使う、道具のお箸?
「いや、食べる方だ」
 今の俺だと、目玉焼きなんかも箸で食おうと思えば食えるが…。
 スクランブルエッグなら楽々なんだが、前の俺にも出来たと思うか、そういう食べ方?
「無理じゃない?」
 落っことしちゃうとか、つまめないとか。困りそうだよ、卵料理じゃなくっても。
 一口サイズに切ったお肉でも、お箸で食べろって言われちゃったら突き刺しそうだよ。
「やはりそうか?」
 グサリと刺すしかないと思うか、肉の場合は。
「うん。前のぼくだって無理そうだもの」
 はい、ってお箸を渡されたとしても、持ち方からして変だと思うよ。
 二本纏めてギュッと握って、それでグサッと刺していくだけ。刺せない食べ物はサイオンだよ。刺してます、って見せかけておいて、サイオンで支えて口に運ぶしかなさそうな感じ。
 今のぼくだとそっちの方が無理なんだけど…。
 サイオンで支えるなんて芸当、出来っこないから、絶対に無理。その分、お箸は使えるけどね。前のぼくには想像もつかない持ち方のお箸、いつも使っているんだもの。



 ぼくも時代も変わっちゃった、とブルーはペロリと舌を出した。
 前の自分は箸が使えず、今の自分は箸は使えてもサイオンの方がサッパリ駄目だと。
「でも…。前のぼくには使えなくっても、便利なのにね、お箸」
 ぼくはお料理しないけれども、お料理にもとっても便利なんでしょ?
「うむ。それに、食う方にしても箸は偉大な道具だぞ?」
 箸が無くても、そういうサイズの棒が二本あったら食えるしな。
 それこそ木の枝を適当に切って、箸の代わりに使えるわけだ。箸なんか持ってなくてもな。
「ホントだ…!」
 木の枝だなんて、ハーレイ、やったの?
 お箸の代わりに木の枝を使って食べたの、ハーレイ?
「ガキの頃に親父と釣りに行ってな。弁当は忘れずに持ってたんだが、箸を忘れた」
 おふくろが忘れたって言うんじゃなくって、俺が自分で包み忘れただけなんだがな。
 これじゃ食えない、と青ざめていたら、親父がその辺の木の枝を切って箸を作ってくれた。
「そっか…!」
「木さえ選べば便利なもんだぞ、木の枝の箸」
「選ぶの?」
 使いやすいような枝を選ぶとか、そういう意味?
「そうじゃなくって、毒の有無だな。下手に触ったらかぶれちまう木とかがあるからな」
 毒のある木を箸に使ったら大変じゃないか。
 SD体制の頃なら毒のある動植物を排除してたし、その手の心配は無かったらしいが。
「その代わり、お箸が無かったよ?」
 お箸になる木は選び放題でも、お箸を知らなきゃ使えないよ。
 木の枝のお箸、SD体制の時代には作り方さえ誰も知らないから使わないよ…。



 もしもお箸があったなら…、とブルーが首を傾げて尋ねた。
「ゼルたち、上手く使えたかな?」
 シャングリラでこれを使ってみよう、って誰かがお箸を思い付いたら。
 ゼルやブラウは使えたのかな、握ってグサリと刺したりせずに。
「そいつは無理だろ。ゼルは手先は器用だったが、いきなり箸を渡されてもなあ…」
 ナイフやフォークで慣れているんだ、どうしても握っちまうだろう。
 ブラウの方だと迷うことなく握ってグサリだ、豪快な性格だっただけにな。
「やっぱり…? エラだったら少しはマシだったかな?」
「エラの場合は手本にならねばと完璧を目指していたと思うぞ、箸の使い方」
 シャングリラに箸を持ち込むとしたら、ヒルマンかエラか、どちらかだ。
 案外、ヒルマンたちは知ってたかもなあ、箸という道具。
「知らなかったんじゃないの?」
 見たことがないよ、シャングリラでお箸。
 ヒルマンやエラが知っていたなら、試してみそうな気がするんだけど…。
「分からんぞ。データベースの資料に「使いづらい」と書いてあったら、わざわざ作るか?」
 作り上げても使うのに苦労するような代物、誰も喜びはしないだろうが。
 調理器具としては便利なんだと気付くなんてことも無いだろうしな、箸が使えないと調理器具の本領は発揮されないままなわけだし。
「そうだね、食べるのに使うだけなら面倒かも…」
 便利なナイフやフォークがあるのに、お箸だなんて。困っちゃうよね、使うことになったら。
「実際、難しいらしいしな? 慣れていないと」
 俺たちみたいに生まれた時から周りにあった、って地域以外じゃ苦労するらしい。
 寿司なんかを食べに店に入って、箸が出て来ても上手く使えなくて。
 頑張った挙句に「ナイフとフォークを出して下さい」って頼むケースもあるそうだしな。
「それは分かるよ」
 前のぼくでも、サイオン抜きなら似たようなことになったと思うよ。
 お箸じゃとても食べられないから、ナイフとフォークを出して欲しい、って。



 それで…、とブルーはテーブルの割り箸を指差した。
「ハーレイ、このお箸、ぼくにくれるの?」
 お土産はお箸の話らしいけど、この割り箸は貰ってもいいの?
「寿司屋で貰った割り箸だぞ?」
 持ち帰り用のただの割り箸で、寿司屋の名前の袋が無ければ何処の店のかも謎なんだが?
「でも、ハーレイが持って来てくれた割り箸だよ?」
 ハーレイが貰った割り箸なんだし、ハーレイのものだと思うんだ。だから、ちょうだい。
「そんなものでも欲しいのか、お前?」
「欲しいよ、これはハーレイの割り箸なんだから」
 くれるんだったら記念に欲しいな、ハーレイとお箸の話をしていた記念に。
 ちゃんと引き出しに仕舞っておくから、要らないんだったら、ぼくにちょうだい。
 お寿司を買ったら貰えるんでしょ、この割り箸。
 これからも幾つも貰うんだろうし、今日の記念に欲しいんだけど…。



 ちょうだい、と瞳を輝かせている小さな恋人。
 割り箸が欲しいと、持ち帰り寿司に付いて来た割り箸が欲しいと強請る恋人。
 貰えるものだと思っているらしいが、ハーレイはやおら腕組みをして。
「駄目だな、こいつは高級品の割り箸だからな」
 お前にはやれん。持って帰るさ。
「なんで?」
 ハーレイ、普通の割り箸なんだって言ったじゃない!
 特別な木で出来てるわけでもないって言っていたくせに、なんで高級品?
「地球の木材で出来てるからな」
 俺たちにとっては高級品でも何でもないが、だ。
 他の星に住んでるヤツらからすれば、地球の木材で出来た家具とかは特別扱いの高級品だぞ。
「それは家具とかになる木材でしょ!」
 割り箸になる木は違うじゃない!
 なんて言ったっけ、間伐材?
 家具とかに使う木を育てる間に間引いていく木で作ると聞いたよ、だから安い、って!
「間伐材には違いないが、だ。それでも地球で育った木だぞ?」
 そいつで作った割り箸なんだ。前のお前には高級どころか貴重品だぞ、この割り箸。
 何処かで見たならフィシスみたいに攫ったんじゃないのか、割り箸でも?
「…そうかも…」
 地球の木で作った割り箸なんだ、って分かったら欲しくて盗んでいたかも…。
 何に使う道具か分からなくっても、地球の木で出来ているんだったら。
「ほら見ろ、高級品だったろうが」
 前のお前が無理をしてでも盗みそうなものなら高級品だな、間違いない。



 だからやらん、と言われてブルーは膨れたけれど。
 「ケチ!」と叫んで膨れたけれども、割り箸ごときを大切にしたい恋人だからこそ、渡せない。
 持ち帰り寿司に付いてくるような割り箸を欲しいと強請った小さな恋人。
 記念に欲しがる、小さなブルー。
 前の生から愛し続けた恋人のために、ブルーのために贈るものなら、もっといいものを。
 そう思ったから、こう約束した。
「膨れなくっても、いつか買ってやるさ。割り箸なんかより素敵な箸をな」
 ちゃんとした箸を買おうじゃないか。専門店でな。
「ホント?」
「本当だとも。ただし、結婚したらな」
 それまで待ってろ、あと数年の辛抱だろうが。
「酷い…!」
 待たせるんなら、高級品の割り箸、ちょうだい。意地悪しないで、それをちょうだい。
「酷くないだろ、俺と揃いの箸にしようと言っているんだ」
 夫婦箸っていう箸があるんだぞ。夫婦で持つよう、二つセットの箸なんだ。
「そんなのがあるの?」
「ああ。大きめの箸と、それより少し小さい箸とのセットだな」
 色が違ったり、模様が少し変えてあったり、サイズが違うだけだったり。
 そりゃあ色々な夫婦箸があるさ、そういう箸を二人で買おうと言ってるんだが…。
 夫婦箸よりも割り箸がいいか?
 それなら止めんし、この割り箸をプレゼントさせて貰ってもいいが。
「ううん、割り箸、返しておくよ」
 もう欲しいって強請らないから、そっちのお箸。
 二つセットのお箸を買ってよ、ハーレイとお揃いのお箸がいいよ。
 結婚したら二人で買いに行こうよ、ハーレイにもぼくにも似合いそうなお箸。



 約束だよ、とブルーは割り箸を素直に諦めてくれたから。
 欲しいと強請るのをやめて返してくれたから。
(夫婦箸なあ…)
 いつか二人で持つのだったら、どんな箸がいいか、とハーレイは笑みを浮かべて考える。
 前の生では存在さえも知らずに終わった箸というもの。
 今は馴染みの、当たり前になった食事の道具。
 それを二人で使えるのだから、こだわりの箸を選びたい。
 素材も、細工も、もちろん色も。
 この愛らしい恋人と揃いにするなら、どういう箸を二人で選びに出掛けようかと…。




          お箸・了

※シャングリラの時代には、無かった箸。今では当たり前に使っているものなのに。
 そして「夫婦箸」が欲しくなってしまったブルー。いつかはハーレイと買いに行けますね。
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 学校から帰っておやつを食べながら、ふと見たダイニングのテーブルの上。端っこの方に普段は無いもの。おやつの時間には消えているもの。
 お塩と胡椒と。
 二つお揃いのガラスの器で、胡椒はペッパーミルになってる。
 おやつにお塩と胡椒は要らない。食事だって要るとは限らないから、使う時だけ棚から出て来る筈なんだけれど。
(ママ、仕舞い忘れた?)
 きっとそうなんだ。
 ぼくが学校に行っている間にお昼御飯を一人で食べて、そのまんま。
 お買い物に出掛けて忘れちゃったか、お客さんがチャイムを鳴らしたか。お皿とかをキッチンに持ってった後でテーブルを拭いていたなら、忘れちゃうこともあるだろう。
 後で、って思って、それっきり。
 テーブルの端っこに乗っかってたって、特に邪魔にはならないんだから。
(ママのお昼御飯、何だったのかな?)
 ぼくは学校でランチ定食、今日は大好きなハンバーグを食べて来たんだけれど。
 お塩と胡椒は使わなかったし、ママが一人でハンバーグってことも無いんだろうし…。
(スパゲティとか?)
 茹でて、好みの具材やソースをかけて。仕上げにお塩と胡椒っていうのは如何にもありそう。



 ママが置き忘れたペッパーミル。
 ガラスの器の中に詰まった色とりどりの胡椒の粒たち、ママのお気に入り。
 黒いの、白いの、それから赤いの。緑色のも混じってる。熟した時期とかで違うんだっけ?
 とにかく色々、いろんな色をした胡椒のミックス。
 ぼくの家では食卓にはこれ。もう一味、って時にはガリッと挽いて。
 シチューに振ったり、使い方は一杯あるんだけれど。
 ママのお昼御飯はスパゲティだったかも、って考えちゃったら。



(トォニィ好みのスパゲティ…)
 そういう謳い文句の料理があったっけ、って可笑しくなった。
 前にハーレイに食べに出掛けて貰ったシャングリラの歴代ソルジャーの食事。それの再現という楽しいイベント。
 レストラン部門を併設しているパン屋さんの企画で、この町では人気のチェーン店。ハーレイの家の近所にもあって、偶然チラシを貰ったとかで、ぼくの家まで持って来たんだ。
 前のぼくの分は、よりにもよってアルタミラの餌だったオーツ麦のシリアルがメイン。目玉焼きなんかもついていたけど、メインは餌。
 どんな感じか知りたかったから、ハーレイに頼んで行って貰った。アルタミラの餌はヘルシーが売りなだけで味は最悪、流石のハーレイも嫌だったみたい。「あれだけは無理だ」って呻いてた。
(でも、トォニィのはリンゴのタルトまでついてたんだよ)
 ハーレイは食べていないけれども、チラシで見たから知っている。トォニィが好きだったというスパゲティ。根拠はトォニィへの当時のインタビュー。
 お塩と胡椒だけで味付けしたスパゲティ、ってことになっていた。リンゴのタルトも好物って。
 とてもシンプルな、お塩と胡椒だけのスパゲティ。
 もっと色々なスパゲティの食べ方、沢山ありそうなんだけれども。



(お塩と胡椒があれば、大抵…)
 スパゲティに限らず、パラッと一振り、魔法みたいに美味しさが増す。
 ある意味、調味料の王様みたいなお塩と胡椒。
 それだけで味付けしたスパゲティが本当にトォニィの好みだったら、案外、グルメだったかも。あれこれ工夫を凝らしたものより、スパゲティ本来の味を生かした食べ方が好みだったなら。
(忙しくって食べてる時間がありません、ってわけじゃないものね?)
 それはジョミーの方だった。
 食事を再現するイベントの時も、「昼食を摂る時間が無い日に食べた」と謳ったサンドイッチがメインになったほどに。
 トォニィは最後のソルジャーなんだし、多忙と言ってもたかが知れてる。スパゲティをゆっくり味わう時間くらいは充分にあった。食材だって豊富に手に入ったろうし…。
(グルメなソルジャー?)
 スパゲティは色々食べて来たけど、お塩と胡椒が一番いい、って言ったとしたなら通だと思う。いわゆるグルメ。他のスパゲティは食べ飽きました、っていう感じ。
(かっこいいかも…)
 スパゲティにお塩と胡椒だけ。それが大好きだったソルジャーだなんて。



(お塩と胡椒…)
 ペッパーミルの中、赤や緑や白の胡椒の粒。食卓に欠かせない胡椒。
 和風の食事とかだと要らないけれども、お料理によっては無くてはならない調味料。
 キッチンにだって常備してあるし、ママがお料理に合わせてブラックペッパーだとか、ホワイトペッパーって使い分けてる調味料。
 お料理用ならハーブソルトも置いてあるけど、必ず胡椒が入ってる。ローズマリーとかタイム、セージなんかといったハーブと一緒に、胡椒も入る。
(お塩だけだと…)
 ちょっぴり足りない、料理の味付け。
 もう一味、って時にお塩じゃ話にならない。それだと塩辛さが増すっていうだけ。アクセントが欲しいなら、お塩だけでは駄目なんだ。胡椒をパラリと、それが大切。
 だけど…。
(…シャングリラには胡椒、無かったんだよ)
 胡椒が無かったんだっけ、って考えながらおやつを頬張った。
 当たり前のような顔してテーブルに乗ってる、ママが仕舞い忘れたペッパーミル。
 これが無かった船だった、って。
 色とりどりの胡椒どころか、一粒の胡椒も無かったっけ、って。



 おやつを食べ終えて、お皿やカップをキッチンのママに返しに行って。
 二階のぼくの部屋に戻って、勉強机の前に座って考えの続き。
(今じゃ胡椒は普通なんだけど…)
 この家の子供に生まれて来てから、胡椒が無くって困った覚えは一度も無いんだけれど。小さい時には胡椒なんかは食べていなかったけれど、それでも家には在った筈。パパやママが使っていた筈の胡椒。お料理に、食べる時にパラッとアクセントに、って。
 そういう便利な胡椒が無かったシャングリラ。
 ほんのちょっとの間だけだったけれど、胡椒は無かった。
 船の中の何処を探し回っても、胡椒は存在しなかったんだ。



 シャングリラを本物の楽園にしよう、って自給自足を目指した船。
 人類から奪って生きていたのでは自立出来ないと、船もそのために大きく改造するのだと。
 もう奪わない、って決めた時には大量の岩塩を備蓄していた。小惑星から採った岩塩。
 人間には塩分が必要なのだと、お塩があったら生きて行ける、と。
 それで充分、食事にはこれで足りる筈だと思ったのに…。



「やっぱり一味足りないねえ…」
 ブラウがぼやいた。
 何か足りないと、何処か物足りないような気がしてならないと。
「贅沢は言わんが、やはり足りんのう…」
 どうも何かが、ってゼルも言ったし、ぼくにもそういう気持ちは分かった。
 自給自足の食生活を始めて、暫く経ったらブチ当たった壁。
 深刻な問題じゃないんだけれども、食事する度に引っ掛かってくる違和感とでも言うのかな?
 もう少し、って感じる味。
 決して不味いとは思わないけど、足りない何か。
 それが何なのか、よく分からない。何故なのか理由が掴めない。
 トマトを煮込んでベースにしたって、なんだか足りない。お塩はきちんと入っているのに。
 これは困った、とぼくも思ったから、ゼルやヒルマンたちに招集をかけた。
 いずれは家畜も飼う予定なのに、一味足りない味のままでは大変だから。
 きちんと原因を究明せねばと、何が足りないのかと長老会議。
 当時は長老って呼ばれるほどには年寄りじゃなかった彼らだけれど。



 ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。それにキャプテンのハーレイと、ソルジャーのぼく。
 シャングリラの改造は順調だったし、それに関する議題についても話し合った後で。
 ぼくは「ところで…」と話題を変えた。
 食事に一味足りなくはないかと、どうもそういう気がするけれど、と。
 直ぐに反応したのはゼルで。
「うむ。塩さえあったら充分じゃろうと思ったんじゃが…」
 何か足りない気がするのう…。トマトをたっぷり使ってあっても、どうも何処かが違うんじゃ。
「あたしも全く同感だね」
 塩味が足りていないんじゃあ、って足してみたけど辛くなっただけさ。
 まったく何が足りないんだか…。最低限の砂糖は確保出来てる筈なんだけどね?
「ふうむ…。私は心配していたのだがね」
 気がかりだった、とヒルマンが言ったら、「私もです」とエラが頷いたから。
「どういうことだい?」
 ヒルマン、君には予想がついていたのかい?
 こうなるだろうと、塩だけがあっても駄目なのだと。
 分かっているのなら、その原因を話して貰って解決策を急いで考えないとね。



「これだ、と思うものならあるねえ…。ハーレイ、君なら分からないかね?」
 どうして一味足りないのか、とハーレイに視線を向けたヒルマン。
 何故ハーレイに訊くんだろう、と不思議だったけれど、ハーレイは意外にも口を開いて。
「もしかしたら…、とは思いますが」
 推測の域を出ないのですが、これではないか、と思うものなら確かにあります。
「何なんじゃ、それは?」
 わしにはサッパリ分からんというのに、ハーレイ、お前は分かるとでも?
「…当たっているかどうかは謎ですが…。胡椒ではないかと」
「胡椒だって?」
 ぼくは思わず声を上げてた。
 胡椒と言ったら、人類から奪って生きていた頃は食卓にあった調味料。パラリと振ってただけの代物で、細かい粉だとクシャミが出たり。
 そんなものが重要なんだろうか、と思ったけれど。
 ハーレイは真面目な顔で続けた。足りないものとは胡椒なのではないだろうか、と。
「厨房に居た頃、料理と言ったら塩と胡椒でした」
 下拵えの段階で使う時もあれば、料理の途中で入れる時も。もちろん仕上げも塩と胡椒です。
 味見してから塩を足したり、胡椒を振って味を整えたりと。
 塩だけでは足りないということになれば、胡椒だろうと思うのですが…。



「なるほどのう…。塩と胡椒はセットじゃった、と」
「言われりゃそうかもしれないねえ…」
 あたしも胡椒を振ってたもんだよ、胡椒がテーブルにあった頃はね。
 だけど好みで振ってたんだし、無くてもいいかと思ったけどねえ…。料理する時点で塩と胡椒を使っていたなら、足りないのはやっぱり胡椒かねえ?
「それで正解だよ、ハーレイの言う通り胡椒なのだよ」
 入れるだけで料理の風味が変わる。魔法のように料理を美味しくするから、遠い昔には貴重品とされていたらしい。遠く離れた別の国からの輸入品でね。そうだったね、エラ?
「ええ。胡椒は金と同じくらいに貴重だったということです」
 同じ重さの金と取り引きされたと言います、それだけの価値があったのです。
「金と同じって…。そこまで貴重なものだったのかい?」
 唖然とした、ぼく。
 たかが胡椒と思ったけれども、金と同じじゃ凄すぎる。
 でも、ヒルマンとエラは「そうだ」と答えた。遥かな昔は本当に金と同等の価値があった、と。
 王侯貴族のための食卓から始まった胡椒の歴史。
 肉に、魚に欠かせないスパイス、料理を美味しくする調味料。防腐作用もあったという。
 塩も高価なものだったらしくて、胡椒と合わせて専用の凝った容器が作られたほど。
 食卓に豪奢な塩と胡椒入れ、塩と胡椒は料理を美味しく食べるために欠かせない品だったから。



「それじゃ、塩だけじゃ物足りない料理を美味しくしたかったら…」
 胡椒が必要だということかい?
 塩や砂糖だけではまるで駄目だと、胡椒を入れない限りは駄目だと…?
 ぼくがそう訊いたら、ヒルマンは「うむ」と答えを返した。
「解決するには胡椒しか無いということになるね」
 シャングリラで胡椒を栽培する。それ以外に道は無いのだろうね。
「胡椒は育てられるのかい?」
 この船の中で、胡椒の栽培は可能なのかい?
「暖かい地方の植物だからね、温室があれば育つだろう」
 ゼル、温室は作れそうかね?
 胡椒専用の温室などは改造計画には入っていなかったが…。
「そのくらいのことは可能じゃろう。農業用のスペースは充分に取っておるからな」
 要るんじゃったら早速、設計に取り掛からんとな。
 どのくらいの大きさがあればいいんじゃ、その温室は?



 ヒルマンは胡椒の性質などを話し始めた。
 蔓だけれども、育てば蔓は木の幹のように堅くなるらしい。支柱を作って巻き付けて育て、人の背丈の倍以上の高さになった辺りで成長は止まる。
 それから後はかなりの年数、同じ蔓から胡椒を収穫できるけれども。
「ただし、問題が一つあってね…」
「なんだい?」
「種から育てても、上手くいかないらしいのだよ」
「そいつはおかしいんじゃないのかい?」
 種じゃないか、とブラウが割って入った。
 胡椒があった頃には種のようなものを挽いて料理に振りかけていたし、胡椒は種だと。
 なのに種から育たないだなんて、記憶違いをしていないかい、と。
「それが、どうやら挿し木で増やす植物らしくて…。種からは発芽しにくいようだ」
 種が手に入ればやってはみるが、と難しい顔をしたヒルマン。
 入手するなら種の方が恐らく簡単だろうが、発芽するという保証は無いと。
「すると、確実に育てたかったら、挿し木した苗が要るのかい?」
「そうなるね」
 手っ取り早いのはその方法だ。
 発芽するかどうかを試しているより、期間も短縮出来るのだし。



 ぼくは急いで奪いに出掛けた。
 料理に足りないものが何なのか分かったからには、胡椒を奪いに。
 シャングリラに無い植物の種や苗、飼う予定の家畜や魚なんかは奪わないと手に入らない。
 これは奪って生きるのとは違う。奪ったもので生きてゆくのとは違う。
 いわば初期投資で、最初の一つを奪いさえすれば、後はシャングリラで増やすのだから。
(種から育てられるんだったら、輸送船を狙えばいいんだけれど…)
 物資を奪って生きていた頃に、色とりどりの胡椒を手に入れたことが何回かあった。赤い胡椒は完熟した実だと言うから、発芽するならそうした胡椒を奪えばいい。
 けれど、胡椒は種からではなくて挿し木で育てる。種では駄目で、苗が必要。
(何処の星でも…)
 人類が住んでいるなら、何処の星でも胡椒を育てるための農園が存在するという。大規模に栽培している星からの輸入が主だけれども、万一の時に備えて農園。
 人類がそうするくらいなのだし、胡椒は本当に欠かせない調味料なのだろう。
 そんなことを考えながら、シャングリラから一番近い星まで宇宙を駆けて行った。胡椒の農園はどんなものかをデータベースの資料で調べて、奪うべき苗のデータも調べて。



 そうして奪った、胡椒の苗。
 たった一本では心許ないから、五本まとめて失敬して来た。
 シャングリラの方では、ゼルが「これで二十本は育てられるわい」と温室を完成させていた。
 だけど…。
「ちょいと、三年もかかるんだって?」
 本当なのかい、とオッドアイの目を見開いたブラウ。「そのようだ」と唸ったヒルマン。
 ぼくが奪った五本の胡椒はホントに苗木で、実を付けるまでに三年かかるという勘定。それでは今年は採れはしないし、来年になっても胡椒は採れない。
「奪い直して来ようか、大きいのを?」
 苗木はこういう大きさのヤツしか無かったけれども、育った木ならば沢山あったし…。
 あれなら今でも実を付けていたし、奪って来れば直ぐに充分な量の胡椒が採れるよ。
「根付かなかったらどうするんじゃ!」
 デカイんじゃろうが、育った胡椒は。
 そうなってくると環境が変われば枯れる恐れが出て来るわい。苗木じゃったら大丈夫じゃがな。頑固になるほど育っておらんし、適応力だけはあるじゃろうて。
「私もゼルに賛成だよ」
 大きい木よりは苗だろうねえ、シャングリラで育ってくれそうなのはね。
 苗で行こう、とヒルマンも地道な努力の道を選んだから。
「じゃあ、三年も待つってことになるんだね。それまでの間は…」
「胡椒無しかい、しょうがないねえ…」
 諦めるしかないか、ってブラウが大きな溜息をついたら。
「どうせ今まで無かったんじゃ。気付かなかったら、この先もずっと無いんじゃぞ?」
 無いよりはずっとマシじゃろうが。三年待ったら手に入るんじゃ。
「それはそうかもしれないねえ…」
 待つとしようか、気長にね。あと三年の辛抱なんだねえ…。



 三年待ったら、手に入る胡椒。それまで三年、我慢するだけ。
 足りないものが何だったのかが分からなかった間は、分からないから気にしなかった。
 でも、それが何だか気付いてしまうと胡椒が欲しい。
 あの味だ、って思い出したら欲しくなる。料理に一振りしたくなる。
(少し振るだけで変わるんだものね、お料理の味が…)
 美味しくなる魔法の調味料。それが胡椒だ、と気付けば食べたくなるのが人情。
 その胡椒の苗が船にやって来た、ということは誰もが知っているから。三年待ったらあの胡椒が採れると分かっているから、船中の期待がそれに集まる。
 温室の中の胡椒の苗。
 まだ柔らかい蔓を支柱に巻き付け、支えてせっせと世話をした。
 その係じゃない仲間までが。「手伝おうか」と声を掛けては、宝物を育てるように胡椒を。



 順調に進んでゆく、自給自足の楽園に向けての改造や整備。
 家畜も来たけど、鶏がやって来て卵も産むようになったんだけれど。
「オムレツは出来ても、胡椒がねえ…」
 パラリと一振りしたいもんだね、目玉焼きにもね。それだけでグンと変わるのにさ。
 惜しい、とブラウが残念がって。
「まだまだじゃな」
 卵は充分、行き渡るようになったんじゃがのう…。胡椒は暫く待たされそうじゃのう。
 そもそも三年経った時にも、どれほどの量が採れるものやら…。
 気軽にパラリと振れる日までは、三年どころじゃなさそうじゃぞ。
 やれやれ、と頭を振っていたゼル。
 ゼルの予言のせいじゃないけど、三年も待ってやっと採れても、たっぷり使える量ではなくて。
 船の仲間が好きなだけ使える量には届かなくって。
 収穫された胡椒は色とりどりとはいかなかった。
 料理との相性なんかも考えた末に、完熟前の実を乾燥させたブラックペッパー、黒胡椒。胡椒の実は全部ブラックペッパーになって、厨房で管理をすると決まった。
 使い道は当然、料理のためで。個人が持ち出してオムレツや目玉焼きには振れない。この料理に胡椒をもう少し、と思っても厨房からブラックペッパーの瓶が届きはしない。
「ここで一振りしたいんじゃがのう…」
 ヒルマンやエラが言った通りに貴重品じゃな、厨房から一歩も出て来ないわい。
 いや、胡椒じゃから一粒かのう? それとも一つまみと言うべきかのう…。
「その通りだねえ…」
 あたしも一振りしたいんだけどさ、交換しようにも同じ重さの金なんか何処にも無いってね。
 何年待ったらいいんだろうねえ、気軽にパラリと胡椒を振れる日までさ。



 まだか、まだか、と誰もが心待ちにしていた胡椒。
 もっと大きく育たないかと、沢山の実を付けてくれないものかと世話に通った温室の胡椒。
 ようやっと一人前の丈に成長して、ブドウみたいに実が連なった房が幾つも付いて。
 それを収穫して、収穫時期や加工方法によって黒の他にも赤、白、緑。
 色とりどりの胡椒が入ったペッパーミルが食堂に置かれる日が来たんだけれど。
 カラフルな胡椒を贅沢に使えるようになるまで、相当な時間と手間とがかかったと思う。けれど胡椒の効果は抜群、料理はぐんと美味しくなった。たった一振り、それで変わった。
 シャングリラで育てていた胡椒。
 一粒の胡椒がうんと貴重だった、そんな時期があったシャングリラ…。



 胡椒が貴重品だったっけね、って考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。
 ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座って、訊いてみた。
 「シャングリラの胡椒、覚えてる?」って。
「胡椒?」
「うん。…シャングリラに胡椒が無かった頃。お塩だけしか無かった頃だよ」
 お砂糖は少し作っていたけど…。
 なんだか味が物足りないね、ってヒルマンたちと会議をしていた時。
 前のハーレイ、気が付いたよね。足りないものは胡椒だ、って。
「まあな」
「やっぱりレシピを見てたから? 大抵のお料理はお塩と胡椒、って書いてあったの?」
「その辺もあるが…。料理人としての勘でもあるな」
 胡椒ってヤツは塩よりもずっと僅かな量でだ、料理の味をまるで変えちまう。
 塩は充分に確保してたし、それで何かが足りないとくれば胡椒だろう。
 ドカンと入れる類のものじゃないから、料理をやらない奴にしてみれば好みで振るだけのものに過ぎんが、料理していた方からすればな…。
 塩コショウの胡椒を忘れただけでだ、味が全く決まらなくって「入れ忘れたぞ」ってことになるわけだ。試作していて、何度やったか分からないなあ、その手のうっかりミスってヤツな。
 最終的には辻褄が合うが、胡椒を忘れた料理っていうのは味見してみたら間抜けなもんだぞ。



「そっかあ…。胡椒ってとっても大事なんだね、そこまで変わってくるんだったら」
 お塩と胡椒だけで味付けしました、っていうお料理なんかは、あの頃はとても作れないし…。
 トォニィ好みのスパゲティの話が本当だったら贅沢だよね。
 前にハーレイの家の近くのパン屋さんでやっていたでしょ、ソルジャーの食事の再現イベント。トォニィが好きだったっていうスパゲティの味付け、お塩と胡椒だけだったもの。
「そうだな、昔のシャングリラでそいつを食っていたらな」
 周りのヤツらが腰を抜かすぞ、なんて豪華なスパゲティなんだ、と。
「やっぱり平和な時代のソルジャーっていうのは凄いよね」
 スパゲティなんかに胡椒で味付けするんだよ?
 それだけの量の胡椒があったら、もっと有効な使い道がいくらでもありそうなのに…。
「おいおい、ジョミーだってまるで知らなかったぞ?」
 胡椒が無かった時代なんぞは。どんな料理にも気軽に胡椒を振ってた筈だが?
「そうだったっけ…」
 胡椒はすっかり定着してたね、食堂にあるのが当たり前だっけね。
 ぼくの青の間にだって置いてたんだし、ジョミーはそういう苦労話は知らなかったかもね…。



 今のぼくが胡椒が無い生活なんてしたこと無いのと同じで、ジョミーも胡椒は当然のように白い鯨で使ってた。目玉焼きにも、シチューにもパラリ。もう一味、って胡椒をパラリ。
 今のぼくだって、もうちょっと…、って胡椒を振ってる日も多いから…。
「ねえ、ハーレイ。もしも今、胡椒が無くなっちゃったら…」
 ハーレイ、どうする?
「俺は早速、明日から困るぞ。…いや、困らんか」
「えっ?」
「別の文化があるってこった」
 胡椒が無ければ山椒を使えばいいじゃない、とな。
「なに、それ?」
 女の人みたいな喋り方だよ、それって特別な意味でもあるの?
「知らないか? SD体制よりもずうっと昔の有名な話さ。フランスって国の王妃様のな」
 国民が飢えててパンも食えやしない、って聞かされてこう言ったそうだ。
 「パンが無いならお菓子を食べればいいのに」と。
「へえ…!」
 王妃様らしい話だね。国民の生活がどうなってるかなんてこと、知らずに暮らしていたんだね。
「作り話だっていうことだがな。それと、お菓子の意味が違うんだって説もあるそうだぞ」
 王妃様が言ったお菓子な、そいつはクグロフだった、って話。王妃様の故郷の国のお菓子だ。
 クグロフだったらブリオッシュ風の生地だし、パンに似てないこともない。
 パンが無いならそっちにすれば、と思ったとしても不思議じゃないよな。
「ハーレイ、フランスなんかにも詳しいの?」
「いや? 俺はクグロフの方を調べていただけだ。そしたらついでに出て来たのさ」
 菓子も作ると言っただろうが。
 こいつも作れんことはないな、とデータベースを漁ってる間に出くわしたってな、王妃様に。



 王妃様の話はともかく…、ってパチンと片目を瞑ったハーレイ。
「まあ、胡椒が無ければ山椒だ。でなきゃ七味だ、どっちも使える」
 意外な料理に合うんだぞ。ステーキだって七味で食えるし、山椒ソースもあるからな。
「そうかもね。ピリッと辛いのを上手く生かせば使えそうだね」
 ハーレイだったら色々と工夫出来るかも…。
 だけど、前のぼくたちはどっちも知らないよ? 山椒も七味も。
「だから胡椒で困ったんだろうが」
 とにかく苗を奪って育てて、って実に気の長い話だよな。
 山椒も育てるのに時間はかかるが、葉っぱだけなら一年目でも味見くらいは出来るんだ。
「うん。…胡椒、貴重だったから野菜スープにも入ってないしね」
 ハーレイの野菜スープのシャングリラ風。お塩だけだよ、胡椒は無いよ。
「あれはお前が入れるなと!」
 レシピを変えるな、とうるさく言うから、胡椒を入れずに終わっただけだぞ、間違えるなよ?
「分かってるよ。あれも胡椒をパラッと振ったら…」
「劇的に美味くなると思うぞ、試してみるか?」
「ううん、要らない」
 前のぼくが食べないままで終わった味付けのスープは要らないよ。
 美味しくなっても別物になったら、それはぼくが好きだったスープじゃないんだもの。



 あれはあれでいいよ、って笑ったけれど。あのままでいいよ、って言ったけれども。
 もしもあのまま胡椒無しなら、シャングリラは楽園じゃなかったと思う。
 物足りない味が続いていたなら、胡椒を育てて解決しよう、っていう方向に行かなかったら。
 食事はやっぱり大切なんだし、美味しくなくっちゃ楽園気分になれないから。
「胡椒の名前…。天国の種子って言ってたっけ?」
「ヒルマンとエラがな。そういう名前で呼ばれていた、って言っていたなあ…」
 同じ重さの金と取り引きされていた頃に。
 前の俺たちは胡椒で取り引きをしてはいないが、まさに天国の種子だった、ってな。
 食事が劇的に美味くなったし、美味い食事を食えるからこそ楽園だろうが、名前通りの。
「そうだよね。食事が不味くちゃ、毎日が楽しくないものね」
 アルタミラの餌よりは遥かに美味しかったけど。
 それでも胡椒が無かった食事は、ちょっぴり寂しい味だったものね…。



 胡椒を育てて、ぐんと美味しく変身を遂げたシャングリラの食事。
 最初の収穫を迎えるまでに三年もかかってしまった胡椒。
 みんなが好きなだけ使えるようになったのはもっと後だった、貴重品の胡椒。
 それが今では色とりどりの胡椒がペッパーミルに入って家に置かれてて、ハーブソルトなんかも揃ってる。ハーブとお塩と胡椒のミックス。
 おまけに地球産、青い地球の上で育った胡椒。
「ハーレイ、今の胡椒は全部、地球産だよ?」
 ぼくの家のも、ハーレイが普段に使ってるのも、全部、地球産。
「地球の胡椒か…。そいつはとてつもない貴重品だな」
「同じ重さの金どころじゃない値打ちだね」
 ペッパーミルに一杯分のを前のぼくたちが買おうとしたら。
 どれだけのお金が必要なのかな、ちょっと想像もつかないよね…?
「うむ。ミュウと取り引きしてくれる所があったとしても…」
 無理なんじゃないか、前の俺たちがそいつを買うのは。…胡椒の値段が高すぎてな。



 あのシャングリラを売り飛ばしたって買えないね、ってハーレイと二人で笑い合った。
 トォニィの時代に売り払ったって、地球の胡椒は絶対に買えやしないんだ。
 青い地球なんか何処にも無いから。
 それこそホントに天国の種子で、買おうとしたって見付かりやしない。
 その地球の上に生まれ変わったぼくたちの特権、胡椒がたっぷり。
 どんなお料理にもパラッと一振り、地球の胡椒を好きな時にパラッと、欲しいだけの量を…。




           胡椒・了

※白い鯨を作り上げたものの、一味足りなかったもの。その正体は胡椒だったらしいです。
 「ミュウの楽園」が出来上がるまでの道は手探り。今では、地球の胡椒を使い放題。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
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