シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
学校から帰って、おやつを食べて。それから広げてみた新聞。ニュースも色々載っているけど、その他にも。
(お鍋…)
カラーで刷られたお鍋の特集。でも、お料理の記事でもレシピでもなくて、旅行の広告。紅葉を見に行く旅がズラリと並んでる横に季節を先取り、冬の旅行も受け付け中。
冬って季節を実感するには早いからだろうか、多分、食べ物で目を引こうってことなんだろう。お鍋を食べに出掛けませんか、っていう旅の広告、お鍋の特集。
(…お鍋だけってことはないよね?)
ぼくは身体が丈夫じゃないから、こういうツアーは経験が無い。申し込んでから体調を崩したらキャンセルとかが面倒だから、旅行する時はパパとママとが計画を立てて連れてってくれた。
うんと小さい頃からそうだし、旅行の広告とかを見たって行きたいと思ったことが無いけれど。
ちょっぴり惹かれる、お鍋の写真。
(どんな旅なの?)
コースの説明を読んでみた。お鍋はどうやら夜の食事で、昼の間は好みの所へ観光へ。あちこち出掛けて宿に着いたら、お鍋の夕食が待ってる仕組み。
行き先が何処かでお鍋も変わる。食べたいお鍋を選んで、旅行。
(いろんなお鍋があるみたい…)
名物のお鍋が沢山あるけど、多いのはカニとか牡丹鍋。カニなら海辺で、牡丹鍋なら山の方。
(んーと…)
前世の記憶を取り戻してから、旅行ってヤツに行ってない。
本当だったら夏休みの間に行く予定だった、宇宙から地球を眺める旅にも行きそびれちゃった。パパが約束してくれてたのに、思い出しさえしなかった、ぼく。行きたいと言わなかった、ぼく。
ハーレイと会うことに夢中になってて、夏休みだってそれで頭が一杯で。
夏休みになったら平日でもハーレイが家に来てくれる、って舞い上がってしまって、宇宙旅行は綺麗に忘れた。お蔭でぼくは未だに地球を見たことが無い。宇宙に浮かんだ青い真珠を。
(青い地球もいいけど、海も山もいいよね)
冬だと海は青くないかもしれないけれど。雪が舞ってて灰色なのかもしれないけれども、地球の海。青い水の星を覆った海。これは是非とも見てみたい。
山だって、そう。冬の寒さで山の木は枯れて、雪がしんしん降り積もるだけの景色だとしても、地球の山。前のぼくが辿り着けずに終わった地球の大地に聳えてる山。
前のハーレイたちが地球に着いた時は、地球は死の星だったんだけれど。
つまりは前のぼくが生きて地球まで行っても、青い海も緑の山も何処にも無かったんだけど。
それが今ではちゃんとあるんだし、ぼくはその地球の上に生まれたんだし…。
(海とか山もしっかり見たいよ)
ぼくの中に居る、前のぼくと一緒に。
おんなじ一人の人間のくせに、一緒って言ったらおかしいかな?
だけど今のぼくにとっては当たり前のことに、ぼくは時々、驚いてるから。
「前のぼくはこんなの知らなかった」ってビックリするから、前のぼくと今のぼくは二人で一人だと思うんだ。一人だけれども、二人分の記憶、二人分の心。
(二人分って、得した気分だよね)
それに何より、前のぼくが居たからハーレイに会えた。
誰よりも好きで、好きでたまらないハーレイと地球で巡り会えた。
これが一番、素敵なこと。
あの五月の日に起こった奇跡で、ぼくの聖痕が起こした奇跡。
ぼくは今度こそ、ハーレイと二人で生きて行くんだ。結婚して同じ家で暮らして。
(いつかハーレイと、こういう旅行に行きたいなあ…)
宇宙から青い地球を見に行く旅行は、ハーレイが「行こう」と約束してくれた。地球をゆっくり見るだけの旅に、青い地球を見るためだけの旅行に。
そっちはとっくに約束したから、海や山の旅。この広告に載ってるみたいな旅もしてみたい。
ハーレイと二人、旅先でのんびり景色を眺めて、観光をして。
宿に着いたら、お鍋の夕食。海ならカニ鍋、山の方なら牡丹鍋。
(牡丹鍋はイノシシなんだよね?)
今のぼくも牡丹鍋は食べたことが無いけど、前のぼくたちはそれどころじゃない。
カニすらも食べたことが無かった、前のぼく。
カニもイノシシも、前のぼくたちは食べてないから。一回も口にしていないから…。
(ハーレイと食べに行くのもいいよね、いろんなお鍋を)
牡丹鍋とカニ鍋の他にもお鍋は色々、行き先だって選び放題。
いつかハーレイと結婚したなら、二人で旅行で、二人でお鍋を食べに行くんだ。
(好き嫌いを探しに出掛けよう、って約束もしたし…)
ぼくもハーレイも、好き嫌いってヤツが全く無いから。
前のぼくたちが食べ物で苦労していたせいなのか、何でも食べられるみたいだから。
それでは人生つまらないぞ、ってハーレイが言い出したんだった。「俺たちでも食えないような何かを探しに行こうじゃないか」って。
そういう食べ物が見付からないなら、「また食べたい」って思う何かを見付けに旅をしようと。
(いろんなお鍋を食べに行くなら…)
好き嫌い探しの旅の一環ってコトになるのかな?
それとも単なる旅行なのかな、地球の景色を見に行ったついでにお鍋なのかな?
どっちだとしても素敵だよね、って思ったんだけど。
(まだまだ先の話だったよ…)
フウと溜息をついた、ぼく。
広告のツアーに年齢制限なんかは無くって、赤ちゃんから大人まで誰でも行ける。申し込みさえすれば誰でも、好きな日にちに行きたい旅行に行けるというのに…。
(ぼくはチビだし…)
パパとママに連れて行って貰うんだったら、今年の冬だって行けるけれども。
ぼくが一緒に行きたいハーレイと二人で申し込むには、年も背丈もまるで足りない。
(ハーレイとキスも出来ないチビだと、旅行なんかは…)
絶対に無理に決まってる。外で食事をしたいと言っても断られちゃった、ぼくだから。
ハーレイと再会した五月の三日から、ちっとも伸びてくれない背丈。
百五十センチで止まったままで、一ミリも伸びない、チビのままのぼく。
これが順調に伸び始めたとしても、ハーレイがキスを許してくれると言った背丈は遠すぎる。
前のぼくの背丈と同じの百七十センチ、そこまで伸びないとキスは出来ない。たった一年で二十センチも伸びるわけがないし、あと何年かはかかっちゃう。
(ハーレイとお鍋はまだまだ先…)
ホントに何年先なんだか、って情けなくなった、ぼくだったけれど。
溜息混じりに夢のお鍋の広告が載った新聞を閉じて、部屋に戻って。
勉強机の前に座ってから、ハタと気付いた。
(お鍋…?)
冬になったら、お鍋の季節。
お鍋が売り物の旅の広告が載ってるくらいに、冬と言ったらお鍋の季節。
寒い季節は身体が芯から温まるお鍋。雪が降ってる夜もホカホカ、湯気を立ててる温かいお鍋。
ぼくの家でも冬はお鍋の日が多いから。
ママがあれこれ食材を買って、お出汁やスープを工夫したお鍋が色々、沢山。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれた日も、きっとお鍋があるんだろう。味噌仕立てだとか、醤油仕立てだとか。お肉や魚や、野菜を入れて。
(ハーレイが来るって分かっている日は豪華なんだよ)
カニ鍋とまで行くかどうかは分からないけど、普段のお鍋よりも豪華な具材。
ハーレイはとうにお客様じゃなくて家族みたいな存在だけれど、パパとママは歓迎してるから。ちょっぴり特別、お客様向け。
予告無しにハーレイがやって来た日も、冬ならお鍋。
パパもママも一緒の食卓だけれど、お鍋の種類は選べないけど、ハーレイとお鍋。
(ハーレイと同じお鍋から食べられるんだよ…!)
テーブルの真ん中、ぐつぐつ煮えてるお鍋を囲んで、みんなで夕食。お鍋は一つ。
大きなお鍋がテーブルに一つ、そこから自分が食べる分だけ器に取って。
(大皿料理より凄くない?)
盛り付けてあるのを取り分けるんじゃなくて、お鍋で煮えているんだから。
お料理している真っ最中、って感じのトコから取って、掬って。
お皿に盛られた料理だったら、次に取る人が「やだな」って気持ちにならないように、行儀よく綺麗に取って行かなきゃいけないけれども、お鍋は別。
気軽に掬えて、お鍋って器をみんなで共有、同じ器から一斉に食べているようなもの。
(それって凄い…!)
ハーレイとおんなじ器から食べてもいいなんて。
普段だったら絶対出来ない、素敵な食べ方が出来るらしいお鍋。
(これからの季節だと、おでんだって…)
おでんもテーブルの真ん中にお鍋。みんなで囲んで一つのお鍋。
温めておかないと冷めてしまうから、おでんのお鍋ごとドカンと出て来る。玉子に大根、練り物色々、コンニャクとかを自分で掬うんだ。
だけど、おでんは、お箸が別。
煮えたぎってるお鍋じゃないから、沸騰したお出汁で消毒ってわけにはいかないから。
取り分けるためのお箸がつく。それで取るのが、おでんのルール。
(でも、お鍋だと…)
具を入れるお箸は別だけれども、煮えた具材を器に取る時は自分のお箸。
ぼくは自分のお箸をお鍋に突っ込むわけだし、パパやママもそう。
ということは、ハーレイだって自分のお箸を突っ込むわけで…。
(ホントにハーレイと一緒のお鍋!)
ハーレイがお箸を突っ込んだお鍋。好きな具材を取って行ったお鍋。
そのお鍋にぼくもお箸を突っ込む。どれを取ろうか、って選んで、取って。
きっと同時にお鍋の中を覗いてる時もあるだろう。ぼくがお箸を突っ込んでいたら、ハーレイも横から突っ込んでるとか。
(ハーレイが何か取ってる時を狙って、ぼくがお箸を突っ込んだって…)
誰も変だと思わない。お鍋はそういうものだから。
煮えた具材は次々に取らなきゃ煮えすぎるんだし、二人同時に取っては駄目だ、なんてルールも無いんだし…。
(ハーレイとおんなじお鍋で、同時…)
想像しただけで心臓がドキドキしてくる。
パパとママとが一緒にいたって、ハーレイと二人でお鍋な気分。
二人きりとはいかないけれども、気分はハーレイと二人でお鍋って感じ。
(それにハーレイ、料理が得意…)
ママがどんなお鍋を用意したって、具材に火が通るタイミングとかを掴めると思う。どれを先に入れて煮ればいいのか、どのくらい煮たら食べるのに丁度いい頃合いだとか。
(そういうの、絶対、得意そうだよ)
鍋奉行って言うんだったっけ?
お鍋の時に、ああだこうだと張り切って指図をしたがる人。
ハーレイはそういうタイプじゃないけど、お鍋の加減が掴めているなら、ぼくが取り分ける時に世話を焼いてくれる可能性大。あれが煮えてるとか、これを取れとか。
今までだったら、そういう役目はママがしてくれていたんだけれど…。
(ママよりもハーレイに世話して欲しいな)
せっかく料理が得意なんだし、遠慮してないで、「しっかり食えよ」って。
お肉も魚も、ハーレイに「ほら」って言われちゃったら、きっと頑張って食べられそう。ママやパパなら「お腹いっぱい」って答える所を、もうちょっと、って。
だってハーレイと一緒のお鍋で、ハーレイはもりもり食べるんだから。
「これも美味いぞ」とか、「もう食わないのか?」なんて、ぼくにせっせと声を掛けながら。
そうやってどんどん食べてるんだし、もしかしたら…。
(食えよ、って取ってくれるかも…!)
ハーレイのお箸で、ぼくの器に。
お勧めの具材をヒョイとつまんで、ホカホカと湯気が立っているのを。
(ハーレイに入れて貰うだなんて、前のぼくだって未経験だよ…!)
シャングリラでお鍋はやってないから。
ポトフやシチューはあったけれども、あれは最初から器に取り分けてあるものだから。
(シャングリラに居た頃は、お鍋なんていう料理、何処にも無いしね…)
みんなでワイワイお鍋を囲む機会は無かった。
お鍋が無いから、ハーレイと二人でお鍋を食べることも無かった。
本物の恋人同士だったけれども、ハーレイが「どうぞ」と具材を取ってはくれなかった。
前のぼくたちは一緒に食事をしていただけ。
キャプテンからソルジャーへの朝の報告、っていう名目で二人で朝御飯を食べていただけ。
(えーっと…)
好き嫌いが無かった、前のぼく。
朝御飯に嫌いな料理なんかがあるわけもなくて、残そうだなんて思わなかった。パンも卵料理もサラダもスープも、出されたものは何でも食べた。
だけど前のぼくも、今のぼくと同じで食が細かったから、多すぎて食べ切れない時もあって。
そんな時にはハーレイに「これも食べて」とお願いしたら、お皿は綺麗に空っぽになった。半分残した卵料理も、手を付けなかったサラダの器も。
(ハーレイはぼくのお皿の料理を食べていたけど…)
ぼくが半分食べてしまったオムレツなんかも、何度も食べていたんだけれど。
その逆の方は全く無かった。一度も無かった。
(ハーレイの分まで貰っちゃおう、っていうほどの好物も無かったから…)
そういうのがあれば、あるいは強請って貰っていたかもしれないけれど。
生憎、そこまでしたい料理は何も無くって、前のぼくはハーレイのお皿から料理を分けて貰ったことが無い。ハーレイの分まで欲しいんだ、って一度も思わなかったから。
(おんなじ器から食べる、って方は…)
二人一緒にサンドイッチの夜食をつまんでいたりしたけれど。
青の間からブリッジのハーレイに思念を飛ばして、来る時に持って来て貰った色々な出前。
ぼくのために、と注文を受けた厨房のスタッフが作った夜食を二人で食べた。サンドイッチなら同じお皿に手を伸ばしては、一切れずつ取って食べていた。
器に盛られたカットフルーツも二人でフォークを突っ込んでたけど、お鍋じゃないから。
ぼくが食べようとしている所へハーレイのフォークが来ることは無いし、逆だって無い。相手の様子を見ながら食べてて、同じ器から食べてるんです、ってドキドキ感はまるで無かった。
カットフルーツもサンドイッチも、食べ方自体は大皿に盛った料理と変わりはしない。
お鍋と違って遠慮のあるもの、行儀が優先されてしまうもの。
(これを食べろ、ってハーレイが取ってくれることだって無かったものね)
フルーツやサンドイッチを「どうぞ」と譲られたことはあったけれども、取ったのは、ぼく。
「ありがとう」ってフォークで刺したり、手に取って口へ運んだり。
ハーレイがフォークで刺してくれたり、手に持ってぼくのお皿に入れたりなんかは無かった。
(前のぼくでも未経験なんだ…)
ほら、ってハーレイが自分のカトラリーや手で料理を取り分けてくれること。
(だけど、お鍋だとハーレイのお箸で取ってくれるとか…)
それは絶対ありそうだよ、って思うから。
パパとママも「面倒見のいい先生だな」って笑顔で見ているだけだろうから。
お鍋に大いに期待が高まる。
ハーレイに世話して貰わなくっちゃ、って。
まだ二人きりのお鍋じゃないけど、素敵な気分で食べられるよね、って。
お鍋がいいな、って夢を見てたら、チャイムの音。
仕事帰りのハーレイが来たから、ぼくは嬉しくなっちゃって。
ハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座るなり、「ねえ」って切り出した。ママが置いてってくれた紅茶とお菓子も気になるけれども、それより、お鍋。
「あのね…。お鍋の季節が楽しみなんだよ」
まだ先だけれど、冬になったらお鍋でしょ?
新聞に広告が載ってたんだよ、いろんなお鍋が目玉の旅行。それでお鍋の季節が楽しみ。
「鍋の季節って…。何かあるのか?」
お前、鍋料理を食べに旅行に行くのか、冬休みとかに?
珍しいなあ、お前が俺と会うよりも食い物の方が優先だとは…。旅行の間は会えないしな?
「違うよ、広告は見てただけだよ、行かないよ!」
せっかくのお休み、ハーレイと一緒に過ごしたいもの。旅行なんかは行かなくていいよ。
「だが、楽しみだと言わなかったか? 鍋の季節が」
鍋を食いに出掛けて行くんでなければ、どう楽しみだと言うんだ、お前?
「冬になったら、ぼくの家でも夕食にお鍋が出て来るんだもの」
今日はお鍋だ、っていう時にハーレイが寄ってくれたら、ハーレイとお鍋が食べられるんだよ。お休みの日でも、ママがお鍋にしようと思ったら、ハーレイとお鍋。
パパとママも一緒に食べるけれども、おんなじお鍋から自分のお箸で食べるんだし…。
それってドキドキしてこない?
ハーレイもぼくも、おんなじお鍋に自分のお箸を突っ込むんだよ?
そんな食べ方、前のぼくたちは一度もやっていないんだから。
恋人同士だっていう気分がするでしょ、おんなじお鍋で、自分のお箸。
「なるほどなあ…。鍋を囲んで恋人気分か」
確かにそいつはそうかもしれん。前の俺たちは鍋なんて食ってはいないからな。
同じ器に自分のフォークやスプーンなんかを突っ込むなんぞはマナー違反だし、やろうと思いもしなかったしな…。
「そうでしょ、ぼくも思い付きさえしなかったよ」
何度もハーレイと食事をしたのに、同じ器から食べていたのってサンドイッチとフルーツだよ?
あれってつまんでいただけだものね、二人で一緒に食べるお鍋とは全然違うよ。
「うーむ…。鍋の方が親しい感じはするなあ、今の世界じゃ親睦とくれば鍋だしな」
俺も友達とよくやったもんだ、鍋ってヤツを。
大勢で鍋を囲んだ後はだ、大いに仲良くなっていたなあ、その日に初めて会った奴でも。
「…ぼくはそういうお鍋の経験、無いけれど…」
お鍋で友達になれるんだったら、恋人同士にもなれそうだよね?
恋人同士で食べに行くにもピッタリなんだよ、お鍋は、きっと。
パパとママはぼくとハーレイが恋人同士ってことは知らないけれども、ハーレイとお鍋。
恋人気分で食べられそうだし、お鍋の季節が楽しみなんだよ。
「ふうむ…。お前のお母さんは何も知らずに鍋料理を用意するわけだな?」
お前がワクワク待っているとも思いもしないで、寒い季節にいい料理だと。
「別にいいでしょ、ぼくがお鍋にしてって頼みに行くわけじゃないんだから」
たまたまお鍋が出て来るだけだよ、ハーレイが家に来てくれた日に。
「それはそうだが…。お前、ろくでもないことを考え付いたな、鍋の広告を見ただけでな」
「お鍋じゃなくって、旅行の広告! お鍋を食べに出掛ける旅行!」
間違えないでよ、ハーレイと旅行に行きたいなあ、って眺めていたから気が付いただけ!
お鍋って素敵な料理だよね、って。恋人同士で食べるのに良さそうな感じだよね、って。
「分かった、分かった。要するに、俺と一緒に鍋なんだな?」
「そう! それでね、ハーレイ、料理が得意って聞いているから…」
お鍋の中身が煮えてるかどうか、見分けるのも得意そうだよね?
ぼくにお鍋を取り分けてくれる?
この辺りの具が煮えているぞ、ってハーレイのお箸で、ぼくの器に。
「そのくらいは別にかまわんが」
しっかり食えよ、と入れてやったらいいんだろう?
お前、放っておいたら取りそうにないし、火が通った分をどんどん取って。
「ホント?」
ぼくの代わりに取ってくれるの、お肉や野菜。ハーレイが器に入れてくれるの、ぼくが取らずに座っていたら?
「お安い御用だ、チビの世話だろ」
「チビ!?」
恋人じゃなくてチビなわけ!?
ハーレイ、恋人の世話じゃなくってチビの世話だと思っているの!?
酷い、とぼくは怒ったけれど。
恋人を捕まえてチビ呼ばわりなんてあんまりだ、って怒ったけれど。
ハーレイはクックッと可笑しそうに喉を鳴らして、こう言った。
「その発想がチビだからなあ…」
チビの世話だと言ったまでだが、そいつがお気に召さないってか?
そうなってくるとホントにチビだな、もうチビだとしか言いようがない。
「何処が?」
ぼくの発想の何処がチビなの、お鍋は恋人気分になれる、ってハーレイ、認めていたじゃない!
それに気付いたの、ぼくなんだよ?
チビじゃないから気が付いたんだよ、お鍋は素敵なお料理なんだ、って!
「鍋そのものに関しちゃそうだが、取り分けてくれ、っていう辺りがな」
お前、俺の箸であれこれ取り分けてくれ、と頼んで来たが、だ。
俺と二人きりで鍋をやってる時ならどうするんだ?
「もちろん堂々と世話して貰うよ、ハーレイに!」
パパやママがいたら、たまには自分で取らなきゃ変だと思われそうだけど…。
二人きりならハーレイに全部やって貰って、ぼくは食べるだけ。
「俺が具を煮て、煮えたヤツからお前の器に入れてやってか?」
「そうに決まっているじゃない!」
誰も見てないなら、ハーレイに任せておくんだから。
恋人気分で世話して貰って、美味しいお鍋を食べるんだよ。ハーレイと二人きりなんだしね。
自信満々で答えた、ぼく。
だけどハーレイは鳶色の瞳に悪戯っぽい光を湛えて。
「うん、間違いなくチビだってな」
今の答えで得意満面になってるようでは、正真正銘、お前はチビだ。
「なんで?」
ハーレイに世話して欲しいって強請ってるんだよ、うんと我儘な恋人だよ?
「二人きりでも、俺は取り分ける係なんだろ?」
これも食えよ、って、お前の器に。
お前が自分の世話をしない分、俺にせっせと世話させるんだろ?
「そうだよ、うんと堂々とね」
何処から見たって恋人なんです、って直ぐに分かるよ、ハーレイが世話をしてくれていたら。
恋人のために取ってあげているんだな、って。
見ている人なんか誰も無くても、うんと熱々の恋人同士でお鍋なんだよ。
「だからチビだと言うんだ、お前は」
俺が器に入れてやるだけで大満足だという所がな。
「どうして?」
ハーレイに世話して貰えるんだよ、もう最高だと思うけど…。
ぼくはお鍋を食べるだけで良くて、自分で取ったり、煮えてるかどうか確かめたりとかは何一つしなくていいんだもの。
恋人に甘やかして貰えるっていうの、誰だって嬉しい筈だけどな。
「その発想を否定はしないが、詰めが甘いぞ、チビだけあって」
まだまだ甘いな、お前は立派にチビだってな。
「そんなことないよ、ちゃんとお鍋を食べさせて欲しいって言ってるじゃない!」
ハーレイのお箸で取って貰って食べたいっていうの、チビだと思い付かないよ!
「それはそうだが、そこで俺にだ」
食わせてくれ、と強請ってこない辺りがチビだと言うんだ、俺は。
「えっ?」
食べさせてよ、って何度も言ったよ、ハーレイに食べさせて貰うんだよ?
ぼくは自分で何もしないから、ハーレイがぼくの世話をしてよね、って。
「その世話の詰めが甘いんだ。恋人に食わせて貰いたいなら…」
お前は口だけ開けりゃいいんだ、「あーん」ってヤツだ。
そうすりゃ俺が口まで運んでやるってな。
「あっ…!」
まるで考えてもいなかった、ぼく。
だけどハーレイが言ってるとおりで、恋人だったら口を開けておねだりさえすれば…。
「やっぱり気付いていなかったな、チビ」
いいか、鍋だと思い切り熱くなってるからなあ、冷ます過程から要るってな。
俺がフウフウ息を吹きかけて、火傷しないよう冷ましてやって。
「ほら、熱いから気を付けろよ」と差し出すわけだな、「あーん」とな。
お前はそいつをモグモグ食ってだ、その間に俺が次のを冷ます、と。
器の出番は全く無いんだ、せいぜいタレをつけるくらいで。
「それ、やりたい!」
取り分けて貰うより、そっちがいいよ。口を開けるだけで食べられるお鍋がいいよ!
「生意気を言うな、思い付かなかったチビのくせに」
俺の箸であれこれ取ってやったら満足なんだろ、チビのお前は。
口まで運んでやらなくっても、自分の箸でちゃんと食べられるってな、偉いな、お前。
そこはチビでも褒めるトコだな、自分で鍋を食えるんだからな。
「うー…」
酷いよ、ハーレイ、そんな話だけ聞かせておいて!
ぼくだってハーレイに食べさせて欲しいよ、ハーレイのお箸でぼくの口まで!
器なんかに入れるんじゃなくて、冷まして「あーん」って食べさせてよ!
お願い、って頭を下げたのに。
いつかは「あーん」で食べさせて、って頼んでるのに、ハーレイは聞こえていないふり。
全然、話に乗ってくれなくて、知らんぷり。
「鍋の季節が楽しみだな」なんて、お鍋の種類を挙げながら。
「一人で鍋を食ってもつまらんからなあ、今年の冬が待ち遠しいな」って。
そうやってお鍋の話だけして、「お前はまだまだ普通に鍋だ」って笑うハーレイ。
パパやママも一緒に、ただのお鍋、って。
「取り分けるくらいはやってやるから、自分で食えよ」って。
意地悪なハーレイ。
恋人同士のお鍋はこうだ、って話だけして、無視するハーレイ。
ぼくに「あーん」と食べさせてやる、って約束をしてはくれないハーレイ。
だけどいいんだ、冬になったらハーレイと一緒にお鍋だから。
夕食のテーブルにお鍋があったら、ハーレイがお箸を突っ込んだお鍋から、ぼくだって食べる。
ハーレイが自分の使うお箸で、ぼくの器に取り分けてくれる。
パパとママが「面倒見のいい先生」って思う程度に、ごくごく自然に。
今はそれだけで充分幸せ、チビのぼくにはきっとピッタリ。
いつかは「あーん」と食べられるんだし、冬が来たならちょっぴり前進。
ハーレイと二人っきりでお鍋を食べることが出来る、うんと素敵な未来に向かって…。
お鍋の食べ方・了
※「ハーレイと食べたい」とブルーが思った鍋料理。けれど、足りていなかった想像力。
同じ鍋なら「恋人同士の食べ方」の方がいいに決まってます。きっと食べさせて貰えますね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ?)
朝顔…、と覗き込んだ、ぼく。
学校の帰り、バス停から歩いて帰る途中の家。その家の庭に朝顔の花。
もう秋なのに、朝顔は夏の花なのに。
だけど一杯、咲いてる朝顔。赤紫って言えばいいのかな、ちょっぴり赤の混じった紫。濃いめの紫の花がいっぱい。
(秋なんだけど…)
今は秋だし、朝顔の季節じゃないと思うんだけれど。
前の学校に入ったばかりの年に朝顔を育ててた。幼稚園から上がって、直ぐに。
学校で配られた朝顔の種。小さなプランターだって、一人に一つずつついてきた。プランターに自分の名前を書いて、土を入れて貰って、朝顔の種をそうっと植えて。
毎朝、学校で水やりをして、ワクワクしながら育てた朝顔。夏休みに家に持って帰った。学校で書いてた観察日記の続きも書いたし、秋になったら種を集めて学校に持って行ったっけ…。
(先生が丈夫な種を選んで、次の年の子に配るんだよ)
ぼくの朝顔の種も、きっと一年上の先輩が育てた朝顔の種だったんだ。その先輩も一年上の人が育てた種を貰って育てた筈だと思うから。
(ぼくの朝顔、今も前の学校にあると思うな)
何代も後の子孫の朝顔。今の季節だと種が出来てて、来年の新入生が育てる種が生まれるんだ。
そう、朝顔が種を作る季節が秋なんだけれど。
(なんでこの花、今、咲いてるの?)
元気な朝顔は今でも咲いているんだろうけど、元気すぎ。
庭に広がった蔓に沢山、あっちもこっちも紫の花。ちょっぴり赤みを帯びた紫。
(それに、夏には気付かなかったよ?)
夏休みの間は滅多に通りはしなかったけれど、夏休みは八月までだから。九月の初めはまだ夏の内で、暑さの中を歩いてた。今日も暑いな、って日陰を選んで、あちこちの庭を覗きながら。
だけど、この家の朝顔は知らない。夏の間には見かけなかった。
(他の家には朝顔、幾つもあったんだけどな…)
見落としたってこともないだろう。こんなに大きく広がっているし、咲いてれば気付く。
いつから花をつけているかは知らないけれども、絶対、夏からじゃないと思うんだ。元気すぎる花は今が盛りといった感じで、夏じゅう咲いてた朝顔だったら、もっと疲れている筈だから。
(変な朝顔…)
どうして今頃、生き生きと咲いているんだろう?
おまけに時間もとっくに午後だし、朝顔の時間は終わってる。
(秋の朝顔、昼間でも咲いていたりはするけど…)
時間の感覚が狂うんだろうか、うっかり萎み忘れた朝顔。秋にはそういう花も出るけど、全部の花が時間を忘れて咲きっぱなしというのもおかしい。
(花も全然、疲れてないしね?)
朝から咲いててくたびれました、って印象がまるで無い朝顔。みずみずしさを保った朝顔。
咲いてる季節も時間も謎だ、と不思議に思って眺めていたら。
「おや、お客さんとは嬉しいね」
家の中から、庭に出て来たご主人。会ったらいつも挨拶しているご近所さん。
「綺麗に咲いているだろう?」って朝顔の花を指差したから、謎が解けるチャンス。変な季節に咲いてる朝顔、午後になっても咲いてる朝顔。
正体を教えて貰わなくっちゃ、と垣根越しに顔を突っ込んだ。
「えーっと、この花…」
なんていう花?
とっても綺麗な紫だけれど、どういう名前?
「キース・アニアンだよ」
「えっ?」
とんでもない名前を聞かされた、ぼく。
花の名前を訊いたつもりが、そうじゃない名前を聞いてしまった。嫌と言うほど聞き覚えのあるキースの名前。前のぼくを撃った男の名前。
ご主人はニコニコしているけれども、この花の名前、キースだったわけ…?
「…キース…?」
ポカンと口を開けちゃったぼくに、ご主人は「そうだよ」と笑顔で応えて。
「キース・アニアンって言うんだけどねえ…。ああ、この花を知らないのかな?」
花の名前を訊いたんじゃなくて、どういう植物か訊いたのかい?
「朝顔でしょ?」
ちょっぴり季節が変だけれども、秋に咲くから秋朝顔?
こんな時間にも咲いているけど、これって朝顔なんだよね?
「うーん…。朝顔みたいに見えるんだけどね、実は昼顔の一種なんだよ」
だから昼間も咲いているんだ、って教えて貰った。
ずうっとずうっと昔、この地域が日本って島国だった頃は西洋朝顔って呼ばれてたらしい。その頃には青い花を咲かせる品種が有名だった、って。
ヘブンリー・ブルーとか、オーシャン・ブルー。ラッキー・ブルーに、クリスタル・ブルー。
今でも青が、ブルーの花が多い、と言うから。
「ソルジャー・ブルーっていうのもあるの?」
「さあ…? ソルジャー・ブルーねえ、どうなのかな?」
何を植えようか、と店に行った時に苗がズラリと並んでいてね。この花は種では増えないんだ。挿し木と株分けで増やすそうだよ。
面白いな、と植えることに決めて、花の写真を見ながら選んで…。
これにしよう、と気に入った花がキースだっただけで、他の品種は覚えてないねえ…。
キースって聞いてビックリしたけど、ファンでも何でもないんだって。
たまたま選んだ花がキースだっただけで、本物のキースは関係ないって。
ほら、って根っこの辺りの地面から抜いて持って来てくれた札に、花の写真とキースの名前と。
「ホントだ、キース・アニアンなんだ…」
「この花は朝顔と違って、一度植えたら何年も咲いてくれるんだよ」
冬になったら枯れるらしいけど、春に勝手に芽吹くんだ。
枯れたように見えても蘇ってくる花でしぶといからねえ、キースなのかもしれないね。この花に名前を付けた人がどうしてキースと名付けたかまでは知らないけどね。
しぶとい上に繁殖力も強いそうだよ、放っておいたらお隣さんまで行ってしまうほどに。
そういう強さもキース・アニアンなのかもねえ…。
花の性質から名付けてるんなら、ソルジャー・ブルーというのは無いかもしれないよ。しぶといイメージの人じゃないから、キースはあってもソルジャー・ブルーは無いんじゃないかな。
ソルジャー・ブルーは無いかもしれない、と言われて納得しちゃった、ぼく。
しぶとさだったら、断然、キースの方が上。
普通の人なら死んでるよ、っていう局面を幾つも乗り越え、国家主席にまで昇り詰めたキース。どう考えても、傍目にはキースの方がしぶとい。
前のぼくだって実は大概、しぶといんだけど。
寿命が尽きそうだからジョミーを選んで後を託すと宣言したくせに、そこで死なずにナスカまで行って、挙句の果てにメギドを沈めたくらいなんだし…。
だけど世間じゃそうは見なくて、ぼくは地球を見られずに死んでしまった悲劇の英雄。しぶといなんて言ってくれずに、儚く消えたというイメージ。
だからブルーって名前が多い花にもソルジャー・ブルーの代わりにキース。
青い花じゃなくて紫だけど。赤の混じった紫のキース。
今年は秋から咲き始めたけど、来年からは夏にも咲くって。一年目だけが秋からの花で、二年目以降は朝顔よりも早いくらいの六月から咲いて、そのまま秋まで。冬が来るまで咲くという花。
確かにキースだ、とってもしぶとい。
一年で終わる朝顔どころか、何年も生きて花を沢山咲かせるだなんて。
(強すぎなんだよ、キース・アニアン…)
家に帰って、おやつを食べながら思い出し笑い。
うんと逞しくてしぶとい花に名前が付くほど、生命力に溢れたキース・アニアン。地球の男。
ぼくがクスッと零した笑いに、通り掛かったママが気付いたみたいで。
「どうしたの?」
何か楽しいことでもあったの、学校で?
「キース・アニアンだよ」
「なあに?」
キースってなあに、今日はそういう授業だったの?
「ううん、あそこの…バス停の近くの家の朝顔。…昼顔?」
名前を教えて貰ったんだよ、キース・アニアンっていうんだよ、って。
「あの花、そんな名前だったの?」
「うん。ビックリしちゃった、キースだなんて」
「よく怒らずに帰って来たわねえ…」
いきなりキースだなんて言われちゃったら、ブルーはカチンと来るでしょうに。
花の名前でもキースはキースよ、ソルジャー・ブルーの敵だったのよ?
「ぼく、キースのことは別に嫌いじゃないよ、っていつも言ってる」
「そうだけど…」
ブルーはいつでも、そう言うけれど。
撃たれちゃったのよ、あんなに酷い傷を幾つも幾つも…。それに右目まで。
あんまりだわ、って悲しそうなママ。
キースがソルジャー・ブルーを撃ったって話、ただの仮説で今でも根拠は無いんだけれど。
ママはぼくの身体に現れた聖痕を見ているから。知っているから、言うのは分かる。
酷い男だと、前のぼくに酷いことをした悪い奴だ、と思うのも分かる。
でも…。
ぼくはキースを嫌ってはいない。
あの時のキースは自分の役目を果たしただけ。マザー・システムに忠実だっただけ。
自分の生まれを知った後のキースはすっかり変わって、SD体制をも壊してしまった。ミュウの存在を認めるメッセージをスウェナ・ダールトンに託して死んだ。
前のぼくを撃った時の、キースの強さ。揺るぎない意志。
向けられる方向が逆になったら、彼の強さと正義感とはミュウの方へと味方した。異端と断じた筈のミュウへと、かつて自らが滅ぼそうとしたミュウの方へと。
もしもキースの存在が無ければ、あれほどに早くSD体制を倒せたかどうかは分からない。
キースだったから全てを変えることが出来たとぼくは思うし、だからキースは嫌いじゃない。
彼に会えたなら、きっと今なら友達になれると思うから。
だけどママは、ぼくのママだから。
聖痕で血まみれになったぼくを見たから、心配になるっていうのも分かる。
キースなんて名前、ぼくは聞きたくもないんじゃないか、って。
ママの心配、取り越し苦労で、ぼくは全く平気で、元気。心配ないよ、って言わなくちゃ。
「えっと…。ぼく、本当にキース、嫌いじゃないから」
強がりで言っているんじゃなくって、ホントだよ。ホントのホントに嫌いじゃないよ。
「なら、いいけれど…」
それならママも安心だけれど。
あの朝顔がキースだったなんて、どうしようかと思ったわ。
見る度にブルーが腹を立ててたら、身体にも良くはないでしょう?
腹が立つのにグッと我慢して、咲いているのを見ているなんて。
「ぼくがホントに腹が立つなら、我慢して見てないで丸坊主にするよ」
垣根を越えて庭に入って丸坊主にしちゃうよ、あの朝顔のキース・アニアン。
「丸坊主って…。叱られるわよ?」
「そうだろうけど、子供の悪戯!」
名前に腹が立ちました、なんて言わないよ。毟りたいから毟っただけだよ、悪戯なんだよ。
叱られたら急いで逃げて帰って、後から謝りに行くんだよ。ごめんなさい、って。
「あらまあ…。ママも一緒に謝りに行くのね?」
「うんっ!」
ぼくだけで行くより、ママと一緒の方がいいよね。
反省してます、ママにもうんと叱られたんです、って言ったら許して貰えそうだし。
「はいはい、ブルーがやっちゃった時はママも謝ってあげるわよ」
だから本当は腹が立つなら、やってもいいわよ、丸坊主。
あれはキースなんだから仕方がないわ、ってパパにはママから言ってあげるから。
どうしたわけだか、朝顔のキースを丸坊主にしちゃってもいいというお許しが出た。
(なんだか凄い…)
おやつの後で部屋に帰って、その光景を想像してみた。勉強机の前に座って。
(あれを丸坊主にするなんて…)
しぶとい朝顔のキース・アニアン。来年も咲く予定のキース・アニアン。
それを根っこから引っこ抜くとか、蔓を全部毟ってしまうとか。生垣を越えて侵入して。
そんな悪戯、やったことがないぼくだから。
丸坊主もいいかも、って思っちゃう。
如何にも悪戯っ子のやること、大事な朝顔を丸坊主。端から毟って丸坊主。
(やらないけどね)
ママもパパも許してくれるだろうけど、ご近所さんだって謝れば許してくれるだろうけど。
毟られちゃった花が可哀相だし、引っこ抜かれたら流石のキースも枯れちゃうし…。
だけどちょっぴりワクワクする。
ご近所さんの庭で悪戯しようと大暴れしている、ぼくの姿を思い浮かべたら。
朝顔のキースと大格闘する、悪戯っ子なぼくを想像したら。
せっせと朝顔退治をする、ぼく。
朝顔になったキース・アニアンを倒すぼく。
愉快だよね、って考えていたら、チャイムの音。門扉の脇のチャイムが鳴る音。窓から見たら、やっぱりハーレイ。ぼくに向かって手を振るハーレイ。
そのハーレイが部屋に来たって、ぼくは朝顔を丸坊主にする悪戯が頭から抜けなくて。
「どうした、えらく楽しそうだな?」
俺が来たから、っていうのとは少し違うようだが、いいこと、あったか?
「ちょっとね、悪戯」
ママのお許しが出たんだよ。派手に悪戯してもいい、って。
「おいおい、なんだか穏やかじゃないな」
何をしようと言うんだ、お前。それにお許しって、何をやらかすんだ?
鳶色の瞳が丸くなったから、ぼくは得意で披露した。
ご近所さんの朝顔を毟ってもいいとお許しが出たと、丸坊主にしてもいいんだと。
「ぼくがやっちゃったら、ママも一緒に謝りに行ってくれるんだよ」
「朝顔を丸坊主にするってか?」
「昼顔だけどね、ホントは朝顔じゃなくて」
そっくりに見えるけど、ホントは昼顔。秋にも咲いてる朝顔なんだよ。
「何処のだ?」
「ハーレイが見たかどうかは知らないけれど…。バス停からウチの方に少し入ったトコだよ」
ぼくは今日、気付いたんだけど…。紫の花が沢山咲いていたよ、帰ってくる時も。
「そういや、派手に咲いてたな。あそこで車を寄せていたんだ、向こうから一台来たもんでな」
やたら元気な朝顔だな、と思ってたんだが、昼顔だったか。
それなら咲いてて当たり前だな、おまけに秋にも咲く花だってか。
「あの花の名前、キースらしいよ?」
「なんだって!?」
「キース・アニアンっていう名前だったよ、ちゃんと札も見せて貰ったよ」
でも、ご近所さん、キースのファンだから植えたわけではないんだって。
これにしよう、って選んだ品種がキースだっただけで、ただの偶然。
だけどビックリ、ご近所さんがキースを植えちゃうだなんて。
「なるほどなあ…。朝顔のキースが植わっちまったから、丸坊主なのか」
どおりでお許しが出されるわけだな、丸坊主にしたいならやってしまえと。
「ママにね、腹が立たないのかって訊かれたんだよ」
あんな所にキースの名前の花が咲いてるのを見ても大丈夫なの、って。
「そりゃあ訊くだろう、キースだけにな」
お前、平気なのか?
丸坊主だなんて言っちゃいるがだ、丸坊主にしに行くつもりなのか?
「やらないよ。悪戯はちょっぴり魅力的だけど、キースは嫌いじゃないからね」
それに朝顔、可哀相でしょ?
せっかく綺麗に咲いているのに、丸坊主なんかにされちゃったら。
咲かせておいてあげないと、って言ったぼく。
だけどハーレイの眉間に皺。いつもより深めの皺が寄ってる。
「お前はよくても、俺の方が腹が立って来たんだが…」
「ハーレイが?」
なんでハーレイが腹が立つわけ、あの朝顔で?
「朝顔じゃなくて、そいつの名前だ。キースって名だ」
俺はキースに貸しが山ほどあるからな。
あいつが前のお前に何をやったか、知らなかったばかりに殴り損ねた。殴るどころか、ウッカリ挨拶しちまったってな、地球であいつに会った時にな。
そうしてそのまま逃げられちまった、死んで何処かへ逃げやがった。
一発殴ってやりたいもんだが、朝顔に化けて堂々と咲いてやがるとなったら腹が立つ。キースが朝顔に生まれ変わったわけじゃないだろうが、キースの名だけで腹立たしいぞ。
「丸坊主にする?」
あそこのキースを、ぼくの代わりに丸坊主にしちゃう?
「いや、やらん。やりたい気持ちは山々なんだが…」
お前の家に迷惑がかかりそうだしな。
俺がお前の家にしょっちゅう通っているのは知られてるんだし、あの家だって顔馴染みだ。
あの朝顔を丸坊主にしたなら、まずはお前の家に苦情だ、間違いない。次に学校といった所か。
キースめ、よくもあんな所にはびこりやがって…!
「まだまだはびこると思うよ、キース」
今年はどうだか分からないけど、繁殖力が凄いんだって。お隣さんまで伸びて行くほど育つって聞いたし、もっと大きく育つ筈だよ。
「ほほう…。なら、垣根まで出て来るのか?」
今は庭の中だけで咲いてるようだが、いずれ垣根まで来るのか、あれは?
「今年は無理でも来年あたりは来るんじゃないかな」
ご近所さんが蔓を切らなかったら、垣根でも沢山花が咲きそう。
「そうか、そいつは目出度いな」
うんうん、垣根まで伸びて来るんだな、奴は。
「ハーレイ、なんだか嬉しそうだよ?」
「キースだと聞いてしまったからな」
この際、八つ当たりだと言われたとしても。
逃げやがったキースに仕返しするチャンスが俺の前に転がって来たってな。
「毟るつもり?」
丸坊主にはしないって言っていたくせに、気が変わったの?
「それはやらんさ、お前の家にも学校にも迷惑はかけられないし…。だから待つわけだ」
キースの野郎が俺の前まで出て来るのをな。
「垣根まで伸びて来ちゃった時?」
「そうだ」
奴が垣根から首を出したら、年貢の納め時ってな。
朝顔の花を一つ毟って引き裂きながら歩いてくる、って言ったハーレイ。
キースの名前がついた朝顔の花を毟ると宣言したハーレイ。
「引き裂くって…」
朝顔の花をビリビリと裂くの、潰しちゃうの?
「うむ。八つ裂きの刑というヤツだ」
そうしてポイと捨ててくるのさ、何処かの家で肥やしになるよう生垣にでも捨てるとするか。
本当を言えば、お前の目の前で処刑してやりたいくらいだが?
しかし本物のキースじゃないしな、花には罪は無いからなあ…。キースの名前がついてるだけの朝顔なんだし、俺がコッソリ処刑しておく。
「そこまで嫌い?」
キースの名前の朝顔の花を引き裂いちゃうほど、キースが嫌い?
「好きにはなれんな、いくらお前が許しててもな」
あいつがお前に何をしたのか、今の俺はよくよく知ってるからな。
あの野郎、俺たちが何も知らないと思って謝りさえもしなかったんだ。前のお前を撃ったということ。謝るどころか、おくびにも出さずに涼しい顔をしていやがった。
そういう野郎だ、キースってヤツは。俺は一生、水に流してはやらないからな!
よくも俺のブルーを撃ちやがって…、ってハーレイがブツブツ怒ってる。
だけどキースはもういないから、朝顔のキースを処刑する、って。
垣根まで蔓が伸びて来たなら、一輪、毟って八つ裂きの刑にしてやるんだ、って。
前のぼくの仇、って怒る気持ちは分かるけど。
キースを好きになれないっていうのも、分からないではないけれど。
(朝顔のキースを八つ裂きだなんて…)
そうしたいほどに、前のぼくのことを大事に思ってくれてるハーレイ。
キースを憎まずにはいられないハーレイ。
前のぼくを想ってくれていることは嬉しいけれども、朝顔に罪は無いんだけどな…。
たまたま、名前がキースなだけで。
キース・アニアンって名前を付けられただけで、朝顔は何もしていないのにね…。
ハーレイに命を狙われているとも知らない、朝顔のキース。
垣根まで蔓を伸ばして咲いたら、花を一輪、毟られて八つ裂きにされちゃうキース。
(ぼくでも丸坊主にしないのに…)
八つ裂きだなんて、って思っちゃうから。
次の日、学校の行き帰りに見て、夕方にまた見に行ってみた。
そろそろハーレイが来そうな時間なんだよね、って出迎えがてら。
(少し待ってハーレイが来ないようなら、今日は駄目な日…)
ハーレイの仕事が早く終わってくれなかった日。ぼくの家には寄れない日。
そういう日だって多いんだから、朝顔を見に行って戻るだけ。ほんのちょっぴり、夕方の散歩。
外の風は少し冷たいけれども、風邪を引くってほどでもないから。
のんびり歩いて朝顔の咲いてる家の所まで行ったんだけれど。
(まだ咲いてるよ…)
昨日、ハーレイが見たって言ってたし、そうじゃないかとは思ったんだけど。
薄暗くなって来てるのに咲いてる、朝顔のキース。
元気いっぱい、萎みもしないで夕方の風に揺れてるキース。
(ホントにしぶとい…)
流石はキース、って感心するしかない咲きっぷり。
朝顔そっくりの花のくせして、秋まで咲いて。その上、朝から夕方になるまで萎まない花。
(うーん…)
名は体を表す、って言葉はこういう時に使うんだろうか?
キース・アニアン、秋に咲く朝顔。うんとしぶとい、秋の朝顔…。
花を見たらすぐに戻るつもりが、ついつい立ち止まって覗き込んでいたら。
クラクションが鳴って、車が停まった。ぼくの後ろで。
「おい、ブルー?」
窓が開いて、ハーレイの顔が覗いた。薄暗くても分かる、前のハーレイのマントの色をした車の窓から。
「ハーレイ?」
「何してるんだ、こんな所で」
もう夕方だぞ、散歩ってわけでもなさそうだがな?
「お迎え…。ハーレイが来そうな時間だな、って思ったから」
「ほう…。そいつは実に嬉しいな、と言いたいトコだが、アレを見に来たな?」
其処の朝顔。今日も元気に咲いてやがるが、お前、キースを見に来たんだろう?
「うん…」
「やはり毟る!」
「ええっ!?」
「お前がキースを気にするとなれば、俺はますます腹が立つしな」
たとえ朝顔のキースだろうが、キースはキースだ。俺にとってはキース・アニアンだ。
早く垣根までやって来い、ってファイティングポーズを取ってるハーレイ。
運転席から朝顔のキースを睨んで闘志満々の、スーツを纏ったキャプテン・ハーレイ。
そう、ハーレイはキャプテン・ハーレイの貌になっていた。
だけど「いつか倒してみせるからな」って、ぼくに片目を瞑った時にはいつものハーレイ。
ちょっとおどけた、笑顔のハーレイ。
朝顔のキースが垣根まで来たら、八つ裂きにするって言ったハーレイ。
垣根に向かってファイティングポーズまで取っていたけど、何処まで本気なんだろう?
キースが好きだか、嫌いなんだか…。
朝顔のキースでも倒したいほど、今でもホントに嫌いっぽいけど…。
(キース、悪者じゃないんだけどね?)
朝顔のキースも、本物のキースも。
だってホントに悪者だったら、ぼくはキースの心配なんかしない。
こんな夕方に朝顔のキースの様子なんかは見に来ない。
本物のキースを悪者だなんて思ってないから、こうして朝顔を見に来たりする。
ママが「丸坊主にしてもいいわよ」と言った朝顔のキースを、ハーレイが八つ裂きの刑にすると言ってた朝顔のキースを。
「こら、ブルー。いつまでボケッと朝顔を見てる」
俺の方が先に行っちまうぞ、ってハーレイの車が動き出したから。
「待ってよ、ハーレイ!」
家まで乗せてってくれないの?
ぼく、お迎えに来てあげたのに。此処で今まで待っていたのに…!
「知らんな、お前が勝手に散歩に出て来て、偶然出会っただけってヤツだろ」
家は近いんだから歩け、歩け。お前、学校だってバス通学でロクに歩いちゃいないだろうが。
お前のペースで走ってやる、ってノロノロ運転で走り始めたハーレイの車。
本当は隣に並んで歩きたいけれど、「危ないぞ」ってハーレイに窓から叱られたから。
車の後ろを歩くことにして、ぼくにしては速足、急ぎの散歩。
「置いて行ったら怒るからね!」って車に向かって文句を言いながら。
バックミラーで見て笑ってるらしい、ハーレイの声が窓から漏れるのを聞きながら。
そうやって車の後ろを追い掛ける途中、肩越しに後ろを振り返った。
朝顔のキースが咲いている家。
薄暗い中で、少し冷たい夕方の風に紫の朝顔が揺れている家。
何も知らない朝顔のキース。秋だというのに元気一杯、しぶとい朝顔のキース・アニアン。
冬になったら枯れるらしいけど、来年も芽吹いてぐんぐん蔓を伸ばすというから。
垣根の所まで伸びて来たなら、ハーレイが一輪、毟って八つ裂きにすると言うから。
ぼくは朝顔のキースにこっそり、心の中で声を掛けてやった。
(殺されちゃうから、垣根まで出て来ちゃ駄目だからね?)
それから何食わぬ顔してハーレイの車についていく。濃い緑色の車の後ろに。
ぼくが朝顔のキースを庇ったと知ったら、ハーレイは嫉妬で全部刈り込んじゃうかもしれない。
花を一輪毟るどころか、蔓ごと、丸ごと。
「お邪魔します」って庭にズカズカ踏み込んで行って、朝顔退治。
「これには事情がありまして」なんて言い訳しながら、綺麗サッパリ、根こそぎ、全部。
朝顔のキースは丸坊主になって、あの家の人はポカンと見ているだけだろうけど。
あんまりハーレイが堂々としてて、怒るどころじゃないんだろうけど。
(ハーレイ、「すみませんでした」って頭を下げて、お菓子を渡して帰るんだよ)
お詫びのお菓子まで用意しておいて、朝顔のキースを丸坊主。
根っこから抜いて、二度と生えてこないように退治する。
そんなハーレイの姿も、きっと嬉しい。
嫉妬で朝顔のキース退治も、ぼくは嬉しくなるんだろう。
大人げないけど、八つ当たりな上に嫉妬まで入っているんだけれど。
ハーレイがぼくをどれほど大切に思ってくれてるか、朝顔が消えたら分かるから。
朝顔のキースが丸坊主にされて消えてしまったら、キースの影だって消えるんだから。
ハーレイとぼくと、手を繋いで二人で歩く未来にキースは要らない。
お互いがいればそれで充分、キースなんかは朝顔の花でも出て来なくっていいんだから…。
秋の朝顔・了
※秋に咲く朝顔の名前が「キース・アニアン」。きっと人気の品種なんだと思います。
けれど、ハーレイにとっては憎らしい花。いつかは愛でられる日が来るんでしょうけどね。
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(さて、と…)
明日は土曜日、ブルーの家に出掛ける日。
今日は仕事が遅くなって寄れずに帰って来たから、帰宅時間はブルーの家に寄って来た日よりも数時間早い。その代わり、自分で夕食の支度から始めなければならないが。
とはいえ、料理をするのは好きだし、食材を確かめて調理に取り掛かる。御飯が炊き上がる頃に合わせて出来上がるように。
(家で食事もいいもんだしな?)
毎日では侘しくなってくるけれど、今の自分にはブルーという小さな恋人がいる。まだ幼くて、おまけにチビで。ブルーがいつも主張している十八歳での結婚が叶うかどうかは全くの謎。
それでもいずれは結婚して一緒に暮らすのだから、その日を胸に思い描くだけで幸せになれるというものだ。いつかはブルーと二人の食卓、二人で食事。
(未来の嫁さんと週に何度かは一緒に飯だし…)
ブルーの家で昼食と夕食を食べる休日、仕事帰りに寄って夕食。
そういう機会も少なくはないし、お蔭で家で一人の食事も苦にはならない。
(メリハリがあっていいってな、うん)
それに元々、気ままな独身生活を楽しんでいたのが自分だから。
振り返ってみれば、一人の食卓が侘しいと思ったことなど一度も無かったような気もした。
(…するとブルーに出会ったばかりに、一人が続くと侘しいってか?)
人の心とは面白いものだな、と苦笑した。
なまじ恋人が出来たばかりに、一人きりの食事が続くと寂しくなるらしい。
早くブルーと暮らしたいものだと、いつも一緒に食べたいものだと。
そうは言っても、侘しさを感じてしまうほどにはブルーと離れていないから。
週に何度かは一緒の夕食、ブルーの両親も交えた食卓。
ゆえに一人で夕食を食べる日が訪れても、ブルーと出会う前の自分に戻ったかの如く、あれこれ料理を作ったりして楽しむだけの余裕があった。
今日も出来立ての料理と炊き立ての御飯を並べて「いただきます」と合掌をして。
ゆっくりと夕食を味わった後は、片付けを済ませてコーヒーも淹れた。
(ふうむ…)
ブルーの家に寄った日ならば、この時間にはまだ帰宅していない。自分の時間がたっぷり取れる日、その上、明日は土曜で休日。
(一杯やるかな)
やらねばならないことを済ませて、日記も書いて。それからのんびり酒を飲むのもいいだろう。
よし、と立ち上がって書斎へ向かった。まずは仕事と、習慣の日記。
すっかり馴染んだ羽根ペンで今日の日記を書き終え、引き出しの中へ。
引き出しの中、前のブルーの一番有名な写真が表紙に刷られた、ソルジャー・ブルーの写真集。『追憶』というタイトルのそれに上掛けよろしく日記を被せて、「いい夢を見ろよ」と優しく語り掛けてやって。
書斎の明かりをそうっと消してから、ダイニングの方へと戻ってゆく。
一杯やろうと、一人の夜を満喫しようと。
(時間は充分あるんだし…)
つまみに何か作ってみようか。
チーズやナッツといった酒のアテは色々あるのだけれども、時間があるならひと手間かけたい。何にしようか、と考えながらキッチンに足を踏み入れた途端に閃いた。
大根ステーキ。
ガーリックも添えて、バター醤油で。
(熱々を食うのが美味いってな!)
少し冷え始めた秋の夜には丁度いい。酒のお供にもピッタリの味。
それに決めた、と大根を出して、二切れ切った。三切れでもいけるが、今夜は二切れ。皮を薄く剥き、下ごしらえはミルクを温めたり料理を温め直したりするレンジにお任せ。
大根を加熱している間に、ガーリックを手際よく薄切りに。
レンジが仕上がりを告げて来たから、フライパンの出番。
油をひいて、大根とガーリックを一緒に焼いて。先に火が通ったガーリックを大根の上にヒョイヒョイと乗せた。放っておいたら焦げてしまうし、こうすれば大根に風味も移る。
(そろそろだな)
大根を裏返し、ガーリックは大根の焼けた面の上へ。ジュウジュウと音を立てる大根をじっくり焼いたら、バターと醤油を全体に絡めて大根ステーキの出来上がりだ。
もちろんガーリックを乗せておくのも忘れない。ガーリック風味が肝なのだから。
飴色に焼き上がった大根ステーキ。
ダイニングのテーブルで熱々を頬張る。酒を片手に寛ぎの時間。
香ばしく焼けたガーリックが実に食欲をそそり、三切れ作っても良かったか、とも思った。夜は長いし、三切れにしておくべきだったろうか?
暫く食べていなかったから、この味が如何に後を引くかを忘れていた。
(チーズを乗せても酒に合うんだ)
ガーリックの代わりに、とろけるチーズ。
大根は寒さへと向かうこれからの季節が美味しいから。ぐんと旨味が増してくるから。
暑い季節には忘れ去っていた大根ステーキの出番も増えて来るだろう。
夜食に、つまみに、大根ステーキ。
(夏だったら野菜スティックなんだがな)
同じ大根のつまみでも、と考えた所で頭に引っ掛かったもの。
(野菜スティック…?)
夏の間はよく食べた。旬のキュウリに、セロリやニンジン、大根などなど。
ディップも自作で味噌を入れたり、バラエティー豊かに楽しんで味わっていたのだが…。
(前の俺も食ったな、野菜スティック)
シャングリラの食堂でもよく出されていた野菜スティック。
火を通さない生野菜は新鮮さが売りで、自給自足の生活が順調であることの証でもあった。畑で採れたばかりの野菜を切って揃えて野菜スティック。
生野菜のサラダも定番だったし、火を通した野菜料理も色々と作られていたのだけれど。
(…大根ってヤツが無かったんじゃないのか?)
そんな馬鹿な、と愕然とした。
しかし記憶に全く無い。野菜スティックにも、サラダにも。他の料理にも無かった大根。お目にかかった覚えが無かった。あの真っ白な大根なるものに。
(大根だろう…?)
さっき焼き上げて、頬張っている飴色の大根ステーキ。
これも大根だし、料理に、おろしに、刺身のつまにと、大根の出番は非常に多い。
今では欠かせない馴染みの野菜。
買い出しに行けば、必ずと言っていいほど選んで買ってくる大根。
(まるで気付いていなかったぞ…!)
あまりにも当たり前に日々の暮らしにある野菜だから。
初対面とは思わなかった。
青い地球の上に生まれ変わって初めて会ったとは気付かなかった。
(前のあいつも…)
自給自足の生活になるまでは、食料品や物資を奪いに出ていたブルー。
その頃は後のシャングリラでは作り出せなかった食材も豊富に揃っていたものなのだが、大根は一度も船に来ていない。前のブルーは人類の船から大根を奪ってはいない。
恐らく、無かったのだろう。
大根という野菜自体が、それを食材と認識するような食文化が。
(で、どうなんだ?)
実際の所はどうだったろう、と食べ終わった後で書斎に戻って調べてみれば。
やはり無かったらしい大根。
植物としては種の保存のためにと残されていても、食べる文化が何処にも無かった遥かな昔。
前の自分が生きた頃には、大根は食卓に上らなかった。SD体制とマザー・システムが消した。
ゆえに前の自分は大根を知らず、食べたことすら無かったわけで。
(なんてこった…!)
今の今まで気付かなかったとは恐れ入る。
シャングリラでは調理人だったくせに、と自分で自分に呆れ果てもしたが。
(…厨房は初めの頃だけだしな?)
キャプテンになった後なら、厨房のことは管轄外だ。食料の管理は係がいたし、前の自分は届く報告に目を通すだけ。食料が足りているか否かをチェックするだけ。
いや、しかし…。
(食料はともかく、農作物の出来のチェックも…)
それもキャプテンの仕事だった。
作物の出来や、次に作る作物は何にするか、といった報告も見ていた筈で。
(たまに畑も見回っていたし、シャングリラで何を栽培してるか、俺は知ってた筈なんだ)
把握していたのに、なんたる迂闊さ。
これほどの大物にまるで気付いていなかったとは。
野菜売り場では直ぐに目に入る、独特の姿の大きな大根。
それがシャングリラに無かった事実に、今まで気付きもしなかったとは…。
(ブルーも気付いていないだろうなあ…)
明日の話題にしたいものだが、相手は大根。
どうやって話を持って行ったものか。
単に「大根は無かったんだぞ」と話すだけでは面白味に欠けるし、新鮮さも無い。ここは大根を持ってゆきたい所だけれども、丸ごとの大根を提げて出掛けるのは些か間抜けだ。
(かと言って、俺の手料理というのもマズイしなあ…)
調理された大根を手土産にしたい、と考えたものの。
(おでん大根…)
咄嗟に浮かぶものはそれくらい。
持ち帰りも出来る近所の食堂で美味しそうに煮えているけれど。大根だけでも買えるけれども、おでん大根はおやつではない。お菓子代わりに食べられはしない。提げてゆくなら昼食におでん。
(おでんだと焦点がボケそうだしなあ…)
大根のために買って来たのだ、と告げても大根の影が薄すぎる。他の具材の方に目が行く。
(俺は大根を強調したいんだが…)
やはりおでんの大根だけを持って行くしかないのだろうか?
練り物や玉子を入れて貰う代わりに、おでん大根ばかりを買って昼食用に提げてゆくとか。少々偏った昼食になるが、それしかないか、と首を捻って。
(待てよ?)
そうだ、と閃いた別のアイデア。それにしよう、と頷いた。
明日はこれだと、これを土産に持って行こうと。
次の日の朝、ブルーの家を訪ねる土曜日の朝。
朝食を終えて、いい天気だから歩いて出掛けてゆく途中。
近所で人気の中華料理の店の前へと差し掛かった。店主の方針で朝が早いから、営業している。店に入って、目当ての品があるのを確認してから注文をした。
「二つ下さい」
持って帰るので、と言えば包んで袋に入れてくれた。それを提げてブルーの家まで歩いて、門を開けに来たブルーの母に「買って来ました」と渡して中身を説明して。
二階のブルーの部屋に案内されて椅子に腰掛けた後、ジャスミンティーが運ばれて来た。それと先刻、渡した手土産。温めて貰った大根餅。
この家では珍しいジャスミンティーの香りがふわりと漂い、大根餅の匂いと混ざり合う。
ブルーはキョトンとした表情で大根餅を指差した。
「なに、これ?」
ママが「ハーレイ先生が下さったのよ」って言っていたけど、何なの、これ?
「大根餅だが」
食ったことないか、大根餅。美味いんだぞ。
「大根餅なら知っているけど…。此処、美味しいの?」
評判のお店の大根餅なの?
「まあ、食ってみろ」
「ふうん…?」
ブルーは素直に一口齧って、「美味しい!」と顔を綻ばせた。
「そりゃ良かったな。俺の近所じゃ人気の店の大根餅だ」
「お土産なんだね、ありがとう!」
これ、美味しいから、他にも美味しいものが色々ありそう。またお土産に買って欲しいな。
「ただの土産じゃないんだがな」
「えっ?」
どういう意味なの、これって特別?
今日だけの限定品で次に行っても売ってないとか、そういう特別な大根餅…?
「その大根。お前、変だと思わないか?」
「大根餅が?」
やっぱり特別? 何か珍しい材料とかが入っているの?
「いや、俺が言うのは大根だが」
「大根餅には大根でしょ?」
何処が変なの、この大根餅、変わった大根を使って出来ているとか…?
「ごくごく普通の大根だろうと思うがな?」
しかしだ、当たり前で普通な大根ってヤツ。
前の俺たちはそいつを知っていたか、ということだ。
いいか、よくよく考えてみろ。シャングリラでは大根を普通に食っていたのか?
「あっ…!」
確かに変かも、大根を食べるなんていう話を前のぼくが聞いても何のことだか分からないよ。
大根がお店に並んでいたって、食べるものだとは思わないかも…。
「ほら見ろ、大根、変だったろうが」
前の俺が大根を渡されて、食えるものだと聞いたなら。
それなら料理も工夫しただろうが、何も知らずに大根だけを前にしたなら、料理はしないな。
食えるかどうかも分からないんだし、毒でもあったら大変だからな?
他に食うものが何も無いとか、そういう状況に追い込まれた時は毒の有無を調べるトコからだ。間違ってもいきなり料理はしないし、試作品だって作らないってな。
「そっか、大根…。毒かどうかも分からないんだね、前のぼくたち」
美味しそうに見えても毒のあるもの、沢山あるし…。大根なんかはホントに謎だね、見た目じゃ判断つかないどころか、食べ方だって見当つかないよ。
今のぼくなら、大根の食べ方、分かるんだけど…。
大根無しなんて考えられない食べ物も沢山あるんだけれど…。
「俺もだ。大根がメインの料理も今では作るわけだが…」
ゼルたちだと、大根はどうだかなあ…。
メインでなくても食わないかもなあ、大根を出してやったって。
「えーっと…。メインでなくても食べないだなんて、お刺身は?」
大根はつまで添えてあるだけだよ、好みで食べればいいんだよ?
「あいつらが刺身を食うと思うか?」
生の魚だぞ、大根以前に刺身自体が駄目だと思うが。
「大根おろしは?」
「ヘルシーだろうな、ドレッシングに入れてもいいしな」
だがな、大根おろしが合うドレッシング、前の俺たちの時代にはまるで無かったぞ?
そして大根おろしを添えた焼き魚を出したとしたって、大根おろしだけが残っていそうだ。
これは食えんと、魚の味が薄くなるだけだ、とな。
「大根おろしも食べないだなんて…」
まさかゼルたち、大根は全然食べられないとか?
前のぼくでも困りそうではあるけれど…。あの頃に大根おろしとかがお皿に載っていたら。
「ちょっと変わった食い物ってことで、挑戦してみて口に合うとしたら、だ」
大根ステーキくらいじゃないか? レシピによっては美味いと思うのもあるだろうさ。
でなけりゃ野菜スティックだな。それこそディップやドレッシングで好きに出来るしな。
「そうなっちゃうの?」
大根の食べ方、大根ステーキか野菜スティックくらいってことになっちゃうの?
「思い切り馴染みが無いからな」
普段の食い物の味に近付けるしかないってこった。ソースの味とか、ディップの味でな。
「でも、大根…。おろしでもつまでも、アルタミラの餌よりマシだと思うよ?」
少なくとも生の野菜なんだし、あんな餌よりずっとマシだよ。
野菜スティックだって餌よりはマシで、ちょっとは野菜を食べてる気分。
「マシどころか実に美味いんだがなあ、大根ってヤツは」
生だと美味さに限界があるが、料理してやりゃ食い方は色々あるってな。
そいつを知らずに生きていたとは、前の俺たちはどれほどの損をしていたんだか…。
まさかシャングリラに無かったなどとは思わなかったさ、大根っていう野菜がな。
「ホントだね…。今のぼくには当たり前の野菜なんだけど…」
ママが買って来ても、わざわざ「なあに?」って訊かなくっても、大根だって分かるもの。何を作るのかな、って考えるだけで、大根を変だとは思わないもの。
「俺もそうだな、自分で買い物に出掛けて行っては大根を買っているからな」
もうすぐ切れるから買っておかんと、と迷わずに買って帰る野菜だ。大根があるのと無いのとで飯の美味さも変わっちまうぞ、ここで大根おろしがあれば、っていう風にな。
大いに使える野菜だがなあ、前の俺が全く知らなかったとは呆れるより他にないってもんだ。
「そうだよね…。前のぼくだって同じだよ」
大根、シャングリラに似合いそうなのに…。シャングリラっぽい野菜なのに…。
「はあ?」
シャングリラっぽいって、大根がか?
大根の何処がシャングリラっぽくて、シャングリラに似合いそうなんだ?
「白いトコだよ、真っ白なトコ」
シャングリラは白い鯨なんだよ、だから真っ白な大根が似合うと思うんだけど…。
ああいう真っ白な大きな野菜はシャングリラの畑に無かったよ?
白い大根が畑でドッサリ育っていたなら、シャングリラのシンボルになりそうなのに。
シャングリラは大きな白い鯨で、畑には白い大根なんだよ。
「なるほどなあ…」
あの頃には大根を食おうって文化が無かったんだし、大根畑は無理そうだが…。
大根がシャングリラに似合うというなら、今度シャングリラに挑戦するかな、大根で。
「シャングリラ?」
大根でシャングリラに挑戦するって、何をするの?
シャングリラはもう何処にも無いのに、大根なんかで何をするつもり?
「ちょいと彫刻してみるのさ」
野菜彫刻だ、ベジタブルカービングっていうヤツだ。
大根は木よりも柔らかいしな、そいつでシャングリラを彫ろうかと…。
「そんなの出来るの?」
前のハーレイ、木彫りは下手くそだったじゃない。
大根だったら上手く彫れるの、ちゃんとシャングリラが出来上がるの?
「さてなあ、ベジタブルカービングはやってみたことがないからな」
大根を綺麗に細かく彫ってあるのとか、そういった写真を見たことがあるというだけで。
ついでに今の俺は木彫りも全くやっていないし、カンが戻るかどうかも分からん。
だが…。
上手くシャングリラが彫り上がったとしても、食っちまうのはあんまりかもなあ…。
しかし野菜を無駄にするのも勿体ないから、其処が悩ましい所だな。
「煮込んだら白くなくなるよ?」
大根で彫ったシャングリラ。お醤油たっぷりのお出汁で煮込めば、もう白くないよ。
白くなければ食べても問題ないんじゃないかな、白い鯨じゃないんだから。
「茶色く汚れたシャングリラか?」
確かにそいつはシャングリラじゃないし、偽物だな、と思って食えるが…。出汁の味がしみてて美味いんだろうが、汚れちまったシャングリラなあ…。
「シャングリラじゃないでしょ、白くない鯨」
あちこち補修が必要な時は、ちょっぴり茶色い部分も出来てはいたんだろうけれど…。
丸ごと茶色くなるようなことは無かった筈だよ、だからお出汁で煮込んでしまえば平気だよ。
白くない鯨は、もうシャングリラじゃないんだから。
大根を彫って出来たシャングリラは煮込めばいいよ、とブルーが微笑む。
そうすれば遠慮なく食べてしまえるし、大根も無駄にはならないから、と。
「だけど、ハーレイが大根でシャングリラを作るんだったら…」
ぼくも見たいな、大根で出来たシャングリラ。
ハーレイの木彫りの腕は知ってるし、シャングリラに見えないかもしれないけれど。宇宙遺産のウサギみたいに、目指したものとは別になっちゃうかもしれないけれど…。
「おいおい、ナキネズミがウサギに化けたみたいに、シャングリラも別物になるってか?」
ギブリくらいで済んだらまだマシで、鯨どころかウナギになるかもしれないってか?
「ウナギだったら、まだ魚だけど…」
白いからハツカネズミとか。下手に彫ったらハツカネズミが出来上がりそうだよ、大根の。
「こらっ、お前は俺がヘンテコな失敗作を作る方向で期待しているな?」
ウナギが出来るか、ネズミが出来るか。
シャングリラなんて出来やしないから、うんと笑おうと思って「見たい」と言っているんだな?
「笑うだなんて言っていないよ、ハーレイの彫刻が見たいんだよ!」
ベジタブル…カービングだっけ、野菜の彫刻。
今のハーレイ、木彫りはしないって聞いているから、もう見られないと思っていたけど…。
楽しそうに木彫りをしていたハーレイ、また見てみたいと思ったんだよ、野菜でいいから。
大根を彫ってるハーレイでいいから、ナイフ片手に彫刻するトコ。
それを見たいよ、下手くそだなんて馬鹿にしないから。
シャングリラがウナギやネズミになっても、ちゃんとシャングリラだと思って見るから。
「そう来たか…」
俺が彫刻している所を見学したい、と、そういうことだな?
木彫りじゃなくてもかまわないから、何かを彫ってる俺の姿を。
「うん。大根を彫ってるハーレイでいいよ、懐かしいな、って見学するから」
前のハーレイも彫ってたよね、って。
今度のハーレイは大根を相手に彫っているけど、やっぱりハーレイはハーレイだよね、って。
「ふうむ…。なら、結婚してから大根に挑戦してみるとするか」
お前もゆっくり見学できるし、あれこれ口も出せるしな?
そんな風に彫ったらウナギになるとか、ネズミになるとか、好き放題に。
「ハーレイが真剣に彫っているのに、横から悪口は言わないよ?」
「馬鹿。俺は楽しんで彫っているんだ、お前が黙って見ていちゃ、つまらん」
凄いだろう、と感想を求めて訊いてやるから、お前は好きなように言えばいいのさ。
下手くそだとか、とてもシャングリラには見えないだとか。
せっかく今度は結婚するんだ、遠慮しないで悪口もどんどんぶつけるといい。
もちろん俺だって黙っちゃいないぞ、言いたい放題、言い返すからな?
そうやって二人で作ろうじゃないか、大根彫刻のシャングリラ。
お前が余計な口を出すからウナギになったとか、ネズミに化けてしまったとかって責任逃れだ。
そしてお前は俺の腕が下手だと詰ればいいのさ、生まれ変わっても変わりやしないと。
ナキネズミがウサギに化けるだけあって今度も酷いと、これはウナギだ、ネズミなんだと。
「ふふっ、そういうのも楽しそうだね」
ハーレイが大根でシャングリラを彫るの、凄く楽しみになってきたかも…。
ウナギやネズミに化けてしまうの、お互いのせいにするんだね?
ハーレイはぼくのせいだって言って、ぼくはハーレイが下手だって言って。キッチンか何処かで喧嘩しながら大根のシャングリラが出来上がるんだね?
「うむ。俺は精魂こめて彫るから、そりゃあ立派なヤツが出来るさ」
ウナギに見えるかネズミかは知らんが、シャングリラだ。
大根で作った食えるシャングリラが出来上がるんだし、後は二人で食うだけだってな。
「いいね、お鍋に入れてみる?」
「鍋か…。澄んだ出汁なら汚れないから、白いシャングリラのままなんだが?」
白けりゃ偽物のシャングリラにならんし、良心が痛む気もするが…。
「二人で食べるんならいいんじゃない?」
白いシャングリラでも、ハーレイとぼくが食べるんだったら。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイがお鍋にしたなら、許されそうだと思うけど…。
だから食べようよ、分けて、二人で。
「俺たちが食うならかまわないってか?」
そうかもしれんが、どう分けるんだ?
ウナギだかネズミだかに見えるシャングリラを二人で食うなら、どう分ければいい?
「えーっと…。切り方はハーレイに任せるよ」
キャプテンなんだもの、シャングリラのことならキャプテンが決めるのが一番だよ。真っ二つに切るとか、三つに切るとか、食べやすいように切ってくれればいいと思うな。
「分かった、俺が決めるんだな?」
シャングリラの命運は大根になっても俺が決める、と。此処で切るかと、こう分けるかと。
どうせなら大きな大根を買って彫刻してみるか、とハーレイは笑う。
何処で切ろうか悩むくらいの大きなシャングリラが彫れる大根。
そういう大きな大根を彫って、ブルーが横から口出しをして。
二人で賑やかに楽しく言葉を交わして、大根彫刻の白いシャングリラが出来上がる。どう見てもウナギやネズミでしかない、シャングリラ。鯨に見えないシャングリラ。
大きな大根彫刻なのだし、あれこれと料理してみるのもいい。
彫る時に出来た沢山の欠片は野菜サラダや味噌汁の具に。
シャングリラはハーレイが幾つにも切り分けて、鍋や煮物などに。
「ねえ、ハーレイ。大根ステーキも美味しそうだね」
ハーレイが昨日、作っていたっていう大根ステーキ。
白い鯨じゃなくなっちゃうけど、白くなくなっちゃうけれど…。
「デカイ大根を飽きずに食うなら、そいつも俺のお勧めではある」
鍋でも煮物でも大根ばかりじゃ飽きが来るしな、一部は大根ステーキにするか。
酒のつまみに丁度いいんだ、お前の場合は酒は無理だし夜食だな。
俺と二人でのんびりと食うか、シャングリラを切り分けた大根ステーキ。
「うん、食べたい!」
ウナギかネズミか分からないけど、シャングリラだもの。
ハーレイが彫った大根彫刻のシャングリラだもの、お酒も飲まなきゃ。
お疲れ様、って、慰労会。
大根彫刻、とっても大変だったよね、って。
前のハーレイもブルーも知らずに終わってしまった大根なる野菜。
今では馴染みの野菜の大根。
それと前のハーレイの趣味だった木彫りを合わせて、大根彫刻のシャングリラ。
ウナギが出来るかネズミが出来るか、ブルーと二人で笑い合いながらハーレイが彫って。
出来上がったら幾つにも切って、鍋に煮物に、彫った時の欠片は味噌汁などに。
そうして料理を堪能したなら、大根ステーキで慰労会。
ハーレイの酒の肴を作って、大根彫刻の慰労会。
切り分けた大根のシャングリラの上にチーズを乗せたり、バター醤油で絡めたり。
ブルーは酒は飲めないけれども、ハーレイの隣で夜食を頬張る。
大根彫刻のシャングリラが化けた、ハーレイお手製の美味しい大根ステーキを…。
知らない大根・了
※大根を食べる文化が無かった、シャングリラの時代。もちろん大根ステーキも無しで。
今は大根を彫ってシャングリラが作れる時代です。上手く彫れたら綺麗でしょうね。
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(あれっ…?)
ブルーは勉強机の前で首を傾げた。
学校から帰って、いつものように外した腕時計。その瞬間に、感じた違和感。
(なんで?)
部屋に入ったら、まずは一番に鞄を置いて。
次に腕時計を外して机から近い棚の上に置く。制服を脱ぐのは腕の時計を外してから。
そういうコースになっているのだし、自然と身体が動いてゆく。誰に決められた順番でもなく、自分の中で生まれたルール。鞄で、時計で、それから制服。
逆に学校へ出掛ける時には制服を着てから腕時計を付け、鞄を手にして部屋を出る順。
すっかり馴染んだ順番通りに今日も鞄を置いたのに。左腕の時計を外したというのに、どうして何かが違うという気がしたのだろう?
(腕時計のせいかな?)
制服を脱いで着替えながら少し考えてみた。
今でこそ見慣れた腕時計だけれども、前の学校では付けていなかった。
幼稚園の後に入った学校。今の学校に入る年になるまで過ごした学校。幼い子供も多いから、と腕時計は規則で着用禁止。バス通学をするほど遠い距離を通う子供もいないし、時計は要らない。
ブルー自身も前の学校へは歩いて通った。バスには乗っていなかった。
だから腕時計は要りもしなくて、学校の時計があれば充分。登下校の時も、友人たちとの遊びに夢中で時を忘れてはしゃいでいれば、通学路沿いに住む誰かが声を掛けてくれた。
「遅刻しそうだから急ぎなさい」とか、「早く帰らないとお家の人が心配するよ」だとか。
彼らの忠告に従っていれば、時計が無くても大丈夫。遅刻しないし、帰宅が遅すぎて心配されることも無かった。腕時計が欲しいとも思わなかったし、必要だと思いもしなかった。
けれども、春に入った上の学校。十四歳になった子供が通う学校。
其処では腕時計が欠かせないから、今の学校から付け始めた。
バス通学をする子は少なかったが、部活などの時間も長くなる上、給食が無くてランチの時間。各自が時間を管理しなくては上手くゆかない学校生活。
そんな事情で、入学の前に買って貰った腕時計。ごくごく平凡な普通の時計。
(前は付けてはいなかったんだし…)
その頃の自分に一瞬戻っていたのだろうか?
(でも、制服も…)
前の学校には無かったもの。それを脱ぐ時、違和感を覚えはしなかった。
(腕時計で先に引っ掛かったから?)
そう考えれば納得出来るが、どうも違うという気もするから。
鍵は時計だ、という気がするから、一度は棚に置いた腕時計を勉強机の上に移した。
こうしておいたら、目に付いて思い出すだろう。
腕時計だと、腕時計を手首から外した時に妙な感じがしたのだと。
ダイニングで母が用意してくれたおやつを食べて、階段を上がって戻って来て。
部屋に入ると勉強机に腕時計。そうだった、と直ぐに思い出した。
(腕時計だけど…)
あの違和感は何だったのか、と首を捻りながら今一度、左の手首に付けて、外して。
もう一度、と付けた途端に気が付いた。
(無かったんだ…!)
遠い遠い昔、白い鯨で暮らしていた頃。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
前の自分は腕時計など付けていなかった。
手首そのものが手袋の下で、左の手首に時計は無かった。
腕時計を付けていなかった時代があまりにも長く、それが普通であったから。
その頃の記憶が告げて来たのだ、あの違和感を。
腕時計を手首から外したことなど一度も無いと。一度もありはしなかったと。
(腕時計…)
何処にでもあるアナログの時計。
デジタル式の腕時計を付けている友人もいたが、ブルーはこれが好きだった。
両親に連れられて出掛けた売り場で「これがいいよ」と選んだけれども、前の自分の好みも同じアナログの時計。それと知らずに惹かれたのか、と時計のガラスをそうっと撫でる。
長針と短針、秒針が時を刻む時計が前の自分のお気に入り。
ハーレイの好みもアナログだったから、どちらが先に持っていたかと問われれば多分、ハーレイだろう。遠い記憶は定かではないが、前のハーレイはレトロなものを好んでいたから。
せっせと磨いていた木の机もだし、羽根ペンもまたレトロ趣味の極み。
正確な時計が必須の宇宙船の中ではアナログの時計は用を成さないが、ハーレイは部屋に置いていた。これが落ち着くと、好きなのだと。
前の自分も青の間にアナログの置時計を置き、時を刻むのを眺めていた。ゆっくりと時が流れてゆくようで、心癒される優しい時計。
けれど…。
(腕時計なんかは持ってなかった…)
手首に付ければ、いつでも何処でも見られた筈のアナログ式の腕時計。今の自分が学校へ付けてゆく時計。
前の自分は付けていなくて、アナログの時計は置時計だけ。
そもそも前の自分ばかりではなく、シャングリラでは誰も腕時計を付けていなかった。
何かとレトロなものを好んだハーレイでさえも。
アナログはおろか、より正確そうに思えるデジタル式の腕時計すらも見当たらなかった。
シャングリラでは時間は重要なもの。
宇宙船の中で生きてゆくには僅かな狂いが命取りになる。正確無比を要求される。
ゆえに時刻を決めて何かをする時は、ブリッジクルーとコンタクトを取った。
何時なのかと、正確な時刻を知らせてくれと。
ブリッジには常に銀河標準時間を刻んでいた時計があったから。
アルテメシアに辿り着いた後は、アルテメシアの時刻を刻む時計も出来た。
前の自分もそれらが知らせる時間を参考に動いたのだし、腕時計の出番は全く無かった。
そんな中でも、レトロな時計を持っている者はいたけれど。
ハーレイや前の自分が好んだように、アナログの時計を持っていた者はいたのだけれど。
制服の時に、手首に時計は付けられない。
部屋でゆったりと寛ぎたい時まで、腕時計を付けて時間に縛られたくはない。
恐らくはそうした理由からだろう、シャングリラの中で腕時計を見たことは一度も無かった。
誰も付けてはいなかった時計。
手首に付けて眺めていられる、小さな小さなアナログの時計。
それが今では…。
(地球の時計だよ)
今の自分の腕時計。いつも学校に付けてゆく時計。
一分かけてクルリと一周してくる秒針、一時間で一周回る長針、半日かかって回る短針。
それらが刻むのは地球の時間で、銀河標準時間ではない。
前の生で焦がれ続けた青い地球の上に住んでいるという確かな証。
銀河標準時間を腕の時計に刻ませたいなら、遥かな昔にイギリスと呼ばれた地域の時間に時計を合わせてやらなければ。其処との時差が生じてくるのが地球での生活。地球での時間。
ブルーの時計は、地球の、かつて日本という名の島国が在った地域の時間を刻む。
半日かかってようやく一周くるりと回る短針や、もっとせっかちな長針や短気な秒針たちが。
(ちょっとくらいは狂っていたって平気なんだよ)
此処はシャングリラの中ではないから。
僅かな狂いが大惨事を引き起こしてしまいかねない、宇宙船の中とは違うから。
腕の時計が二分や三分進んでいたって、遅れていたって、問題はない。
学校生活に支障がなければそれで充分、大いに役立つ腕時計。
(毎日、時間を合わせなくてもいいんだから)
遅れていようが進んでいようが、付ける自分が把握出来ていればそれでいい。
きちんと時報に合わせておいても、気付けば狂いが出ている時計。
高価な時計なら狂いも滅多に出ないのだろうが、十四歳の子供が付ける時計は狂うもの。
いつの間にやら、ずれが生じてしまうもの。
(自分勝手な時計なんだよ)
遅れがちだから、と少し進めておいたら進みすぎたり、その逆だったり。
シャングリラの中では使えそうもない腕時計。
それが自分の左の手首に、今では一緒にくっついてくる。学校へ行く時はいつも一緒に。
前の自分の手首には無かった腕時計。シャングリラには無かった腕時計。
それを付けられる、今の生活。
自分勝手で気まぐれな時計を持てる幸せ。
どれほど平和な世界に生まれたのだろう、今の自分は。
どれほどに優しい世界に生まれて、其処で暮らしているのだろうか。
(こんな日に、ハーレイが来てくれたなら…)
腕時計の話をしてみるのに。
腕時計を外したはずみに気付いた、今の幸せを話したいのに…。
来てくれないものか、と何度も窓の方へと視線をやる内、チャイムの音が聞こえて来た。門扉の脇にあるチャイム。来客を知らせるチャイムの音。
窓から見下ろせば、庭の向こうでハーレイが大きく手を振っていた。
やがて母がハーレイを部屋まで案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて行ったから。
ブルーはハーレイと向かい合わせに座ると、早速、自分の発見を語った。
「腕時計なんだよ、大発見だよ!」
「腕時計?」
「うん。前のぼく、付けていなかったんだよ」
今は当たり前に付けているけど、シャングリラに居た頃は付けてなかった。
正確な時間にしか意味が無かったから、腕時計なんて必要だとさえ思わなかったよ。
だけど今では腕時計でしょ?
ハーレイも、ぼくも。
ちょっとくらい時間が狂っていたって、今じゃ問題ないものね。
「確かになあ…」
平和な世界に来ちまったんだな、お前も俺も。
一秒どころか一分、二分と狂っていたって気にもしないでいられる世界か、今の世界は。
正確だとは決して言えない時間を腕時計で見ながら、のんびり暮らしていられるんだな。
「ね、そうでしょ?」
シャングリラには腕時計なんか無かったけれど…。誰も付けてはいなかったけれど。
ハーレイ、腕時計、付けたかった?
前のハーレイ、腕時計を付けてみたかった?
「何故だ?」
思い付きさえしなかったんだが、どうして付けてみたいか訊くんだ?
「レトロなものが好きだったから」
木の机だとか、羽根ペンだとか。時計もアナログのが好きだったでしょ?
だから、そういう腕時計。アナログの腕時計があったら付けそう。
「ふうむ…。アナログの腕時計なあ…」
そいつもいいが、とハーレイはパチンと片目を瞑ってみせた。
「持ち歩ける時計でアナログとくれば、アレだ、懐中時計なんかはどうだ?」
「似合いそう…!」
それってハーレイにとても似合うよ、腕時計よりも。
前のハーレイなら断然、それ。懐中時計がいいと思うな、うんとレトロで。
キャプテンの制服に懐中時計。
似合いそうだ、とブルーは思った。
当のハーレイも同じ考えを抱いたようで、顔を綻ばせて。
「ちょっと格好がついたかもしれんな、キャプテンの俺が持っていたなら」
威厳ってヤツがあったかもなあ、時計が正確かどうかは別にしておいて、演出だな。
「凄く似合うよ、ハーレイの制服に懐中時計」
ポケットから引っ張り出して見てたら、かっこいいと思う。
通路で立ち止まって出すとか、公園とかで時間を確かめるとか。
「ブリッジでも様になってたかもなあ…」
銀河標準時間とは別に、俺用の時計。
今日の勤務時間は何時までだったか、と出して見ていりゃ、公私のけじめに良かったかもな。
俺の仕事はもう終わりだから、と時計を取り出して宣言するんだ、そして帰る、と。
もっとも、ブリッジでの勤務時間が終わっても。
前のお前への報告っていう仕事が残っていたわけだが…。
「まあね」
でも…、とブルーはクスクスと笑う。
一日の報告はいつの間にやら名目になっていなかったか、と。
勤務が終わった後に堂々と青の間へ出掛けるための言い訳になっていなかったか、と。
「それを言うならお前もだろうが!」
俺の報告は機密事項のこともあるから、と部屋付きの係を追い払って待っていたろうが。
そんな報告、滅多に無いというのにな?
係がいると何故、困るんだか…。俺の報告のせいではないと俺は思っているんだがな?
「お互い様だよ、報告の後の時間が大切。だけど…」
作れば良かったね、懐中時計。
個人の時間を管理するには、ちょっとお洒落で良かったかも…。
「俺しか持てないことにならんか?」
制服のポケット、他のヤツらは無かったからな。
いや、ゼルたちも持てるのか…。長老の制服はポケット付きか。
俺だけが持つってわけでないなら、懐中時計を作ってみるのも良かったかもな。
キャプテンと長老たちが持つ懐中時計。
威厳もあって良さそうだ、とハーレイも頷いたのだけれども。
懐中時計を作ったとしても、前のブルーはそれを使えはしなかったから。
「ぼくは無理だね、ソルジャーの服にはポケットが無いし」
ハーレイやゼルたちの特権なのかな、懐中時計。
「うーむ…。前のお前が持てないとなると…」
そういうことなら、要らないような気もしてきたなあ、懐中時計は。
「なんで?」
「ゼルだのヒルマンだのと揃いで持っても、つまらんだろうが」
いや、間違いだと言うべきか…。
時計はペアで持つものだからな。二つでセットだ。
「えっ?」
なあに、それ?
ペアとか、二つセットって、なに…?
「知らないか?」
ペアウォッチと言ってな、同じモデルで男性用と女性用とがセットなんだが…。
懐中時計ってわけじゃなくって、腕時計だがな。
「そうだったの?」
二つセットの腕時計があるなんて話、初耳だよ。
「お前の年では知らないかもなあ、そもそも縁が無いものだしな」
ついでにお前くらいの年なら、腕時計自体が男子用と女子用でまるで違うか。
デザインも色も、何もかもがな。
「たまに似たようなデザインも見かけるけれども、基本は違うよ?」
みんなが腕時計を外して並べておいたら、どれが男子のでどれが女子のか、分かると思う。
それくらい違うよ、セットに出来そうもないんだけれど…。
「大人になったら同じモデルが出来てくるのさ」
見た目は同じで大きさが違うとか、女性用が少し華奢だとか。
色は違うが並べて見たならデザインがそっくり同じだったとか、そんな風にな。
「へえ…!」
知らなかったよ、ペアの腕時計があるなんて。
ぼくは腕時計、まだ付け始めてから一年も経っていないもの。
ちょっぴり大人に近付いたよね、って得意だったけど、大人用の腕時計とは違うんだね。
ペアウォッチだなんて…、とブルーは少し想像してみたけれど。
腕時計との付き合い自体がまだ短いから、どんなものだか分からなくて。
「ぼくのパパとママも持ってるのかな?」
二つセットのペアウォッチっていうのを持っているかな、ぼくは見たことが無いんだけれど…。
パパが仕事に付けてく時計と、ママがお出掛けに付けて行く時計。
何処も全く似てはいないし、ぼくの家にはペアウォッチなんかは無いのかな?
「さてな? そいつは俺には分からんが…」
俺の親父とおふくろの場合は、大事に仕舞い込んでて滅多に出してこないな、ペアウォッチ。
「出してこないって…」
せっかくのペアウォッチなのに付けないの?
それって、なんだかもったいなくない?
「結婚祝いに貰った上等の時計らしくて、親父とおふくろの普段の暮らしに似合わないのさ」
親父は何かと言えば釣りだし、おふくろの趣味は庭仕事だしな?
どっちも腕時計を付けていたなら傷みそうだろ、その方がよほどもったいない。
釣りも庭仕事も、腕時計を付けるなら使いやすい普通のヤツがいいんだ、上等なのより。
「ぼくのパパとママもそうなのかも…!」
ブルーの脳裏に蘇った記憶。
幼い頃に両親と一緒に何処かへ出掛けた、お呼ばれの席。
お洒落をした両親の腕の時計がいつもと違っていたような…。
こんな時計があったかな、と不思議に思って眺めていた。ぼくの知らない時計だけれど、と。
「お前のトコでも仕舞い込んでるのか、ペアウォッチ」
俺の家だけってわけじゃないんだな、使ってる人も多いんだがなあ…。
「ぼくのママ、お料理とお菓子作りが大好きだしね…」
腕時計は滅多に付けてないから、あまり出番が無いんじゃないかな。
買い物で街まで行く時の腕時計をお出掛け用にもしてるし、多分、ホントに出番が無いんだ。
パパと一緒にお洒落しなくちゃ、って時だけ出してくるんだよ、きっと。
せっかくあるのに、ちょっぴりもったいない感じ…。
上等の時計ってそんなものかな、仕舞い込まれちゃうものなのかな?
「その辺は人それぞれだろうな」
使ってる人も多い、と俺は言っただろうが。
二人セットで付けるのがいい、と愛用している人も大勢いるんだ、考え方は色々だってな。
「ぼくたちにも結婚祝いにくれるかな、誰か?」
ペアウォッチ、プレゼントして貰えるかな?
ぼくが女性用のになるんだろうけど、誰かプレゼントしてくれるんならペアで欲しいよ。
「さてなあ、そいつは結婚するまで分かりそうもないな」
貰えるかもしれんし、貰えないかもしれないわけだが…。
上等の時計を貰ってしまって、俺の親父たちや、お前のお父さんたちみたいに仕舞い込むより。
大切な時計だと仕舞っておくより、付けられる時計を買わないか?
「えーっと…。普段に使える時計?」
貰った上等の時計を使うんじゃなくて、それとは別に普段用のを?
「ああ。ペアウォッチと言っても色々あるしな、高い腕時計ばかりじゃないからな」
贈り物にするなら高いのを、と選ぶんだろうが、普段使いにしたいんだったら話は別だ。
同じデザインのペアの時計で、気軽に使えそうなヤツ。
そいつを二人で探して、選んで。
普段から二人で使おうじゃないか、俺もお前も腕に付けてな。
「普段からって…。ハーレイが仕事に出掛けてる日も、ぼく、腕時計を付けるわけ?」
「そうさ。俺が出掛ける前にキッチリ、毎朝、二人で時刻を合わせて」
どっちかの時計が進みすぎだとか、遅れてるとかが無いように。
同じ時間を刻んでくれるよう、きちんと時間を合わせておいたら、有意義な一日を過ごせるぞ。この時間だと何をしてるか、と考えるだけで幸せだろうが。
「ハーレイ、今頃、授業かな、って?」
時間割を見ながら考えるんだね、授業中なのか、休み時間か。
「うむ。お前は今頃はおやつかもな、とな」
「おやつなの?」
其処でおやつなの、ぼくの予定だかスケジュールだか。
ハーレイと結婚して家で留守番してるぼくでも、おやつの時間が予定に入るの?
「お前、おやつを食わないのか?」
結婚したなら食わなくなるのか、おやつは子供っぽいってか?
それでお前は我慢出来るのか、嫁さんだからって、おやつ無しで?
「…食べたいかも……」
おやつの時間、って思ったら食べたくなってくるかも、ケーキやクッキー。
ぼくが自分で焼けばいいのかな、自分のおやつ。
ハーレイの大好きなパウンドケーキは上手に焼けるようになりたいんだけど…。
他のお菓子も作れるかな、ぼく。
自分のおやつを作らなくっちゃ、って頑張ったら色々作れるのかな…?
「そんなに心配しなくっても、だ」
ちゃんと用意してやるさ、お前のおやつ。
時間があったら俺が作るし、暇が無ければ仕事の帰りに次の日の分を買って来てやる。ケーキの美味い店もクッキーの店も、帰り道に幾つもあるってな。
それから、昼飯。
こいつは朝に用意をせんとな、朝飯を作るついでにな。
「お昼御飯って…。ハーレイ、ぼくのお昼まで用意してから出掛けるの?」
それくらいは自分で何とか出来ると思うんだけど…。
いくらぼくでもトーストくらいは自分で焼けるし、何か食べると思うんだけど…。
「本当か? しっかり食えよ、と俺が用意をして行くのがいいと思うがな?」
でないと食わずにいそうだぞ、お前。
俺が出掛けて、おやつを食うのが十時頃か?
それですっかり満足しちまって、腹が膨れた気分になって。
飯の時間に気付きもしないで、本を読んでて食うのを忘れて、その内に俺が帰ってくるとか。
「…やっちゃいそう…」
なんだかやりそう、そういう間抜け。
ハーレイが帰って来ちゃってビックリするんだ、もう夕方になっちゃってる、って。
「ほら見ろ、昼飯を忘れずに食える自信さえも無いと来たもんだ」
だから毎日、俺がおやつと昼飯を用意しておいて。
テーブルにメモを置いて行くのさ、お前の今日のおやつがコレで昼飯がコレ、とな。
時間になったらちゃんと食えよ、って。
「そのために時計?」
ぼくが家でも腕時計を付けるの、そのためなの?
ハーレイが何をしてる時間か考える他に、おやつの時間と昼御飯を忘れないように?
「そうなるな。本に夢中でも腕時計なら、たまには目の端に入るだろうしな」
見りゃあ気付くだろう、飯時だって。三時のおやつも思い出すさ。
壁の時計なら綺麗サッパリ忘れちまうかもしれないが…。
存在自体が目に入らなくて、俺が帰るまで全く見ないってこともありそうなんだが…。
「腕時計なら見るよね、きっと」
ぼくの手首に付いてるんだし、お昼御飯の時間の頃にも一回くらいは。
少し早いとか、お昼の時間を過ぎた後でも、とにかく食べればいいんだよね?
「当然だ。お前が昼飯を忘れないよう、俺が作って行くんだからな」
本の世界から現実に戻って食わんと怒るぞ?
俺が帰った時に昼飯がそのまま置いてあるとか、三時のおやつがそのままだとかな。
昼食とおやつを忘れ果てて読書に耽るというのは、如何にもブルーがやりそうなこと。
今は両親と一緒に暮らしているから、きちんとおやつも食べるけれども。
ハーレイと暮らすようになったら、ブルーは忘れていそうだから。
食事もおやつも忘れそうだから、そのために腕時計を買っておこうか、とハーレイが笑う。
結婚祝いに上等のペアウォッチをプレゼントされたとしても、普段使いのペアウォッチ。
それをブルーの手首に付けようと、時間を忘れてしまわないよう、付けておこうと。
(ペアウォッチかあ…)
食事もおやつも忘れそうだ、と言われた件は少し不名誉だけれど。
ウッカリ者だと指摘されたようで恥ずかしいけども、そのためのものだと思わなければ。
食べる時間を忘れないよう、付ける時計だと考えないでおいたなら。
いつかはハーレイとお揃いの腕時計を付けて過ごすのもいいかもしれない。
デザインなどが同じ、二つセットのペアウォッチ。
ハーレイの時計は男性用で大きめ、ブルーの時計は女性用だから少し小さめ。
毎朝、二人で時刻を合わせて、同じ時間を刻むようにして。
ハーレイが仕事に出掛けた後には、互いに相手が過ごす時間を想い合う。
離れている間も気になる恋人、何をしているかと思いを馳せては愛おしさが増す大切な伴侶。
今は授業の最中だろうか、今はおやつの時間だろうか、と…。
腕時計・了
※腕時計をつけることは無かった、シャングリラの時代。今は腕時計をつけているのに。
そして、いつかはペアウォッチをつけることも出来ます。同じ時間を刻んでくれる時計を。
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(新聞か…)
シャングリラには無かったな、とハーレイはまだ暗い庭を眺めた。
生垣の向こうをライトが横切り、新聞配達のバイクが次の配達先へと走り去る音。
こんな休日の朝であっても。
夏ならば明るい時間だけれども、夜の続きの星が瞬く早朝の闇の中でも新聞を配るバイクの音。
今の自分には当たり前のことで、隣町の両親の家に居た頃にも新聞は毎日届いていた。雨の日も雪の日も届く新聞。そういうものだと思い込んでいたが…。
(新聞が届かない人生だったぞ、前の俺はな)
玄関を開けて庭を横切り、ポストから新聞を引っ張り出した。
持って入るとコーヒーを淹れて、新聞を手に取ってみる。朝食にするには早すぎる時間。こんな時には先に新聞、それから朝食の支度というのが習慣だった。
(新聞なあ…)
今でこそ馴染みのものだけれども、前の生では縁が無かった。
アルタミラでミュウと判断される前なら養父母の家で見ていただろう。父が新聞を広げる姿や、母が気になる記事を切り抜く所などを。きっと自分も印を付けたり、色々と。
(子供向けのイベントの情報なんかも多めに載っていたんだろうしな)
アルタミラは惨劇の舞台として歴史に残るけれども、本来はガニメデの育英都市。多くの子供が養父母と暮らし、巣立ってゆくための星だった。
育英都市の主役はあくまで子供。
子育てを終えて引退した夫婦や、子供たちを育てる社会に欠かせない役割を負う者の他は、皆が子育て中の星。ゆえに子供が社会の中心、イベントは大抵、子供がメイン。
(アルテメシアもそうだったからな)
シャングリラに新聞は来なかったけれど、情報は傍受していたから。
人類の新聞がどのようなものかは把握していたから、子供向けの記事も多いと分かる。
(前の俺も子供時代にはきっと…)
そういった記事を養父母に見せては、行きたい場所などを伝えただろう。連れて行って貰って、感動したり、喜んだりもしたのだろうが…。
(消えちまったなあ、記憶ごとな)
成人検査に脱落した後、養父母の記憶は失くしてしまった。子供時代の記憶も消えた。
閉じ込められた檻に新聞は届かず、何の情報も得られなくなった。
外の世界がどうなっているか、自分はどうなってしまうのかすらも。
(研究者どもは新聞も読んでいたんだろうなあ…)
アルタミラがメギドに破壊されるまでは、あの星でも人類が暮らしていた。育英都市を閉鎖する決断が下されるまでは、養父母と暮らす子供たちも居た。
彼らの家には新聞が届いていただろう。
グランド・マザーがアルタミラの殲滅を決定した時も、幾重にも真実を覆い隠した記事が新聞の紙面に大きく刷られて、彼らは納得したのだろう。この星を出ねば、と。
(俺たちにとっては不意打ちだったが、人類は準備してただろうしな?)
子育て中の養父母たちに偽りの情報を告げて、充分な引越し期間を与えて別の星へと。
何の疑いも抱かずに彼らが旅立った後は、グランド・マザーからの命令が出るまで待機状態。
(新聞はいつまであったんだかなあ…)
アルタミラが滅びたその日の朝まで、実は配られていたのだろうか?
寄港中の船もあっただろうから、一般人たちが真実に気付かないように。
あくまで急な決定なのだと、本日付でこの星は滅ぶと、それだけが書かれた新聞が。
(シャングリラの中には、そういう新聞は無かったんだが…)
脱出するのに使った船。まだシャングリラではなかった船。
乗員たちは慌ただしく他の船に移ったらしい、という痕跡はあちこちにあったけれども、それを引き起こした原因は全く見付からなかった。通信も残っていなかった。
(やはり新聞だったのか?)
宙港で急を告げる新聞が配られ、それを握ったまま慌てて船を捨てて行ったか。
足の速い他の船に移れと、直ちにアルタミラから離れるようにと書かれただけの新聞記事。
(そうだったのかもしれないなあ…)
船の中に乗員たちへの脱出命令は何も無かったのだし、そうかもしれない。
もっとも、受けた通信を消去してから脱出したという可能性もゼロではないのだが…。
(前の俺たちには新聞なんかは無かったんだ)
新聞が毎日届いていた筈の、子供時代の記憶は失くした。
研究所の檻に新聞は届きはしなかった。
アルタミラから脱出した後も、定期的に届く刊行物など、何処からも送られては来ない。新聞が届く筈もない。人類の世界から弾き出されたミュウが住む船に新聞は来ない。
もちろん毎日のニュースでさえも。
(ニュースは盗むものだったしな…)
人類の通信を傍受して得た、様々なニュース。
最新版とは限らなかった。通信を交わしている船に左右され、その内容も偏りがちで。
知りたい情報が常にあるとは言えなかった時代。作物の出来や輸送状況、それがニュースになる船などもあった。あるいは客船の予約状況だったり。
アルテメシアに辿り着くまでは、雲海の中に居を定めるまでは、そういう状態。
雲海の星に腰を据えても…。
(ニュースは最新になったんだがなあ…)
いくらでも傍受出来た、アルテメシアの空を飛び交う人類のニュース。
家庭に配られる新聞のための情報も飛び込んで来たのだけれど。
(新聞は刷らなかったんだ…)
人類の世界の出来事などは知りたくもない、という者も多かったから。
アルタミラからの仲間だけでなく、アルテメシアで新しく救出された仲間でさえも。
人類といえば忌まわしいもので、思い出したくもないと思う者たち。
(ニュース映像を傍受したって…)
見ていた者はごく一部だけ。
そう簡単には動揺しない、精神の強い者たちだけ。
(俺やブルーは仕事だったが…)
ソルジャーとして、キャプテンとして、知っておかねばならない情報。
人類の世界が今はどうなのか、どんな方向へ向かってゆくのか。
それを知らねば自分たちの進路も決められないから、ニュースにも目を通していた。
アルテメシアに辿り着く前から。
暗い宇宙を、居場所を求めてあちこち旅をしていた頃から。
(もっとも、情報統制されていたがな)
ニュースといえども、巧みに操作がされていた時代。
支配する機械に、マザー・システムにとって都合がいいように。
裏にある真実を見抜けないように。
そのシステムから弾き出されたミュウだからこそ、見抜けた真実も沢山あった。
(俺たちのことはMだったか…)
アルタミラを脱出した頃から変わらない隠語。
Mの代わりにミュウと呼ばれたなら、明らかな敵意を向けられた証拠。
ミュウという言葉を一般人は知らなかったから。
それを使っているということは、人類が本気でミュウに対する対策を練っている証。
そんなニュースしか見ていなかった時代に比べたら…。
(平和なもんだな)
今、手にしている新聞の中身も。
当たり前のように毎日届くという現実も。
今日だって朝も暗い内から、配達のバイクが走って行った。空にまだ星が瞬く時間に。
(ご苦労様です、と言いたくなるよな)
昔ながらの配達システム。
バイクを走らせて家のポストに配ってゆく。一軒、一軒、配って回る。
朝一番に間に合うようにと。
仕事に、学校に出掛けてゆく前に読めるようにと、その家の人々が目覚める前に。
(朝だけじゃなくて、夕刊もあるし…)
夕刊の方は、帰って来たら届いているのだけれど。
ポストから取り出し、持って入るのが常なのだけれど。
(配達の人に礼を言いたくなってくるなあ…)
早起きして顔を合わせた時には、挨拶を交わして礼を言いながら受け取る新聞。
手渡しで貰ってくる新聞。
その新聞が家に届くことがどれほど平和で嬉しいことなのか、其処に気付いてしまったら。
(どうぞ、と毎朝、菓子をポストに置きたいくらいだ)
お持ち下さいと、配達の途中か終わった後にでも食べて下さいと。
今度、早く起きた日に新聞の嬉しさを思い出したら。
毎朝届くその素晴らしさに、思いを馳せる日があったなら。
熱いコーヒーでも御馳走しようか、配達の人に。
来る時間はほぼ決まっているから、それに合わせてコーヒーを淹れて。
(新聞配達っていうシステムがシャングリラの中にもあったらなあ…)
仲間たちがニュースに向ける視線も変わっただろうか。
毎日、新聞を刷って、配って。
仲間たちの手元に選び抜いたニュースを届けていたら。
アルテメシアで配られる新聞を真似て、ニュースの他にもあれこれと載せて。
(選んだニュースしか載せないとなると、情報統制のようではあるが…)
それでも全く触れないよりかはマシだったろう。
今の人類の世の中はこうだと、こういうニュースがあるようだと。
人類が大多数を占めていた以上、目を逸らしていても弱くなるだけ。彼らを知らねば、と情報を得てこそ強くなれるし、現実に立ち向かう勇気も生まれる。
ニュースだけでは気が滅入る、という者が多いに決まっているから、様々な記事。
シャングリラで起こった愉快な事件や、厨房のメニューのお知らせなど。
書き手を募って連載小説も出来ただろう。
そうした新聞を作っていたなら、娯楽にもなっていたかもしれない。
配達はまだか、と心待ちにする者が少しずつ増えて、外の世界にも関心を持ち始めて。
人類のニュースを多く載せても読めるようになっていたかもしれない。
今はこうだと、今の世の中はこうなのだ、と。
(はてさて、ブルーはどう思うんだか…)
シャングリラで新聞を印刷するなら、まずは会議をする所から。
ゼルやヒルマンたちを集めて、議題を出して。
案が纏まればソルジャーだったブルーが承認を下すわけだが、新聞に賛成してくれたろうか?
小さなブルーに訊いてみよう、と新聞の二文字を頭に叩き込んだ。
新聞を作ってみれば良かったと、作っていれば良かったのに、と。
アイデアの元になった新聞を読んで、朝食を作って美味しく食べて。
時計を見てからブルーの家へと出発した。天気がいいから、もちろん歩いて。
目指す家に着けば、門扉の脇に郵便ポスト。
普段は気に留めていなかったけれど、其処に新聞が届くのだ。
取りに来るのはブルーの母か、それとも父か。
早起きをした日はブルーが取りに出るかもしれない。
「取ってくるよ」と庭を横切り、ポストから新聞を持ってゆく。目を引く記事が載っていたなら読みながら歩いて、両親が待っているダイニングまで。
平和な朝の一コマを思い浮かべながら、ブルーの部屋に案内されて。
お茶とお菓子が載ったテーブルを挟んで向かい合って座り、小さな恋人に微笑み掛けた。
「なあ、ブルー。…新聞が届く生活っていうのはいいもんだな」
「新聞?」
怪訝そうなブルーが外に目を遣る。
新聞というのはポストに届くあの新聞かと、毎日配達される新聞のことなのかと。
「そうだ、幸せだと思わないか?」
毎日、色々なニュースが届く。配達の人が届けてくれる。
そいつを毎日、ゆっくり読むことが出来るんだぞ?
飲み物を片手に読んだっていいし、読むスタイルも好き好きだ。実に贅沢だと思わんか?
最新のニュースが毎日ポストに届くんだからな。好きなだけお読み下さい、と。
「言われてみれば…」
前のぼくたち、新聞は取っていなかったね。
ニュースは人類のを傍受するもので、興味のある人だけが見てたんだよね…。
「その新聞。シャングリラで作れば良かったかもな、と思ってな」
俺たちで載せるニュースを選んで、色々な記事と組み合わせて。
それをみんなに配っていたなら、船の外にも関心を持って貰えたかもな、と思うんだ。
人類のことなど知りたくもない、と逃げていないで、相手のことも知る方向で。
「あの時代も新聞、あったんだよね…」
シャングリラで傍受していた通信の中に、新聞に載せる中身もあったんだっけ。
それを丸ごと印刷したなら、人類が読むのと同じ新聞が出来上がるヤツ。
情報はちゃんと入ってたんだし、新聞、作れば良かったかもね。
ハーレイが言うように、どういう記事を載せればいいかは、きちんと選んで。
真似をしてみれば良かったね、とブルーは微笑んだ。
人類を真似て新聞を作れば良かったと。
ニュースや様々な記事を織り込んで、シャングリラで配れば良かったと。
「毎日、みんなの部屋に届けて、食堂や休憩室にも置いて…。そうだ、人類にも!」
「人類だと?」
なんだ、それは? 人類に新聞を届けるのか?
「うん。ミュウからの定期刊行物だよ、毎朝ぼくが届けに行くんだ」
新聞です、って放り込むんだよ、大勢の人が読んでくれそうな所を狙って。
ユニバーサルが回収する前に読まれてしまいそうな場所に、ミュウが作った新聞を。
「読んで貰うって…。何を書く気だ、その新聞に?」
「ミュウの日常。こういう暮らしをしています、って」
新しい仲間を迎えましたとか、そんな記事もいいね。こういう子です、って紹介記事とか。
「おい、シャングリラの存在がバレるぞ、どんな船なのか」
「肝心の部分はぼかすんだよ。それで大丈夫だったと思うけど?」
ぼくの存在はバレてたんだし、アルテメシアの何処かに隠れ場所があることは確実だしね。
それでもシャングリラは発見されずにいたんだよ?
新聞を作って配っていたって、何処から配りにやって来るかも掴めないってば。
「ユニバーサルとテラズ・ナンバーを刺激するだけだと思うがな?」
また来やがったと迎撃するとか、お前が狙われるだけで何の効果も無いと思うが。
「分からないよ?」
機械にも限度があるんだから、とブルーは笑った。
いくら記憶を処理したとしても、不特定多数が毎日のように目にしてしまうミュウの新聞。
しつこく毎日やっていたなら、人類の方でも覚えてしまうと。
今日もそういう時間ではないかと、自分たちのとは違う新聞が放り込まれる頃ではないかと。
「ミュウからの新聞が届くってか?」
ユニバーサルが血相を変えて回収に来るような新聞が。
存在自体が極秘にされてるミュウが刷ってる新聞なんぞを、人類が毎日読むわけか?
「そう。ミュウっていうのは何だろう、って不思議に思うよ、そして記憶に残るんだ」
記憶をせっせと消しても消しても、新聞は毎日届くんだから。
ミュウって呼ばれる別の種族がいるらしい、って微かに記憶に残るよ、きっと。
そのミュウからの新聞なんだよ、お勧めのレシピなんかも載せて。
「おい、レシピって…。平和すぎないか、その新聞は?」
前のお前の主義主張だとか、そんなのを載せるんじゃなくってレシピか?
「そういう所から始めるんだよ、ミュウに関心を持ってもらうために」
ミュウという存在が意識の上に定着したなら、一歩前進。
レシピなんかを載せた新聞を配ってるんだし、敵じゃない、って思って貰えそうだよ。
ユニバーサルがいくら敵だと言っても、ホントは違うんじゃないかって。
平和な新聞を刷ってるんだし、人類の敵ではなさそうだ、って。
「なるほどなあ…。確かに王道というヤツではある」
流石だな、お前。
ただのチビかと思っちゃいたがだ、やっぱりソルジャー・ブルーだな。
お前が配ると言ってる新聞、やり方としては王道なんだ。
「そうなの?」
「うむ。SD体制の頃にやっていたかどうかは分からんが…」
敵対している相手が勢力を持ってる地域に宣伝用のビラや新聞を撒くって方法があった。
今の支配者は間違ってるとか、自分たちが来たらこういう世の中に変わりますよ、という宣伝。自分たちの地域じゃ生活はこうだと、見本に新聞を撒いたりな。
信じて貰えれば万々歳だし、一般市民を攻撃するより平和な戦法というヤツだ。
「そんな方法、何処で聞いたの?」
まさか古典の範囲じゃないよね、戦争の話みたいだもんね?
「古典ではないな。前の俺だな、ライブラリーで読んでた本の中にあった」
「ハーレイ、言わなかったじゃない!」
そういう方法があるんだってこと!
もしも前のぼくが知っていたなら、絶対、検討してみてたのに!
「あの状況で誰が思い付くか!」
使えそうだなとも思わなかったな、変わった戦法があるものだ、と読んでいただけだ。
いいか、前の俺たちはシャングリラごと雲海の中なんだ。
ミュウの存在すらも知られていない星に居たんだってことを忘れるなよ?
前の俺たちは隠れてたんだぞ、とブルーを諭す。
そんな状況ではミュウの宣伝など出来はしないし、とても無理だと。
けれど、ブルーは残念そうで。
「思い付いていたら、新聞、配りに行ったのに…」
ミュウに気付いて貰うために。敵じゃないんだ、って知って貰うために。
ユニバーサルとかテラズ・ナンバーとの持久戦になるけど、それで人類に知って貰えるのなら。
気長に続けて、ミュウを覚えて貰えるのなら…。
「危険でもか?」
お前が毎日来るとなったら、奴らは間違いなく攻撃を仕掛けてくると思うが。
負けるようなお前じゃないとは思うが、それでも敵地に飛び込むことには違いないしな。
「平気だってば、ソルジャーだしね?」
やられちゃうほど弱くはないよ。逃げ足にだって自信はあるもの、今のぼくとは全く違って。
それに、とブルーは笑みを浮かべる。
いざとなったら瞬間移動で配達できたと、シャングリラから出ずに配れたと。
「ぼくは新聞が印刷できるのを待って、瞬間移動で船の外へと放り出すだけ。行き先を決めて」
人類が集まるターミナルとか、広場だとか。
何処へだって簡単に届けられるよ、前のぼくなら。
瞬間移動で届けてもいいし、空から撒いて逃げてもいいよね、シャングリラ新聞。
「シャングリラ新聞なあ…。そういう名前をつけるからには、俺たちが読むのと共通なのか?」
人類に配ったのと同じ新聞をシャングリラの中でも配るのか?
「それもいいかもね、わざわざ別のを作るよりも」
ホントにホントのミュウの日常、等身大のシャングリラ。
平和に暮らしているんです、って宣伝するなら、同じ新聞が効果的かもね?
「うむ。作ってみていたら良かったかもなあ…」
シャングリラの日々を綴った新聞、まずはシャングリラで評判を見て。
いいようだったら部数を増やして、人類の世界に配りに行って。
ミュウとは何かを知って貰えたなら、アルテメシアからは追われなかったかもしれないなあ…。
前の俺たちの地球への侵攻、アルテメシアから始めたわけだが。
ナスカから舞い戻って始めなくても、アルテメシアから出発できたのかもなあ、ミュウの存在があの星で知られていたならば。
敵じゃないんだと、ミュウもヒトだと、アルテメシアでは認めてくれたのかもなあ…。
もしもシャングリラで新聞を作って、配っていたなら。
それを自分たちだけで読むのではなくて、人類にも配達していたのなら。
ミュウと人類との間の距離は、少しは変わっていたのだろうか?
アルテメシアから追われる代わりに、其処から地球へと旅立てたろうか?
ミュウもヒトだと認めてくれた人類たちに見送られる中、白い鯨は飛び立てたろうか。
隠れ住んでいた雲海から出て、白い船体を煌めかせて。
遥かな地球へと、別の一歩を刻んで飛び立てていたのだろうか…。
「ねえ、ハーレイ。どうだったんだろうね、もしも新聞を配っていたなら」
アルテメシアで人類に新聞を届けていたなら、ぼくたちの道は変わったと思う?
ナスカまでの道を全部すっ飛ばして、地球に向かっていたんだと思う?
「さあな…。そいつはなんとも分からないが…」
それにナスカに寄っていなけりゃ、トォニィたちが生まれていたのかどうか。
トォニィたちがいない状態では、戦ったとしても勝てた自信が無いからな…。
ただ、出発からして別となるとだ、戦いも変わっていたかもしれん。
アルテメシアで何があったか、ミュウとは何かを人類は知ることになるわけなんだし…。
案外、あっさり話し合いのテーブルに着けたってことも有り得るな。
「そうでしょ? 地球がどうなったのかは分からないけれど…」
あんな風に派手に壊れなければ、今の青い地球に戻らないから、其処が問題なんだけど…。
無駄な血を流さずに済んだんだったら、新聞、作っておきたかったな。
せっせと配って、ミュウと人類とは違わないよ、って頑張って宣伝したんだけどな…。
ミュウの日常にお勧めレシピ、とブルーが夢の新聞記事を挙げるけれども。
新聞が実現していたのならば、全ては変わったかもしれないけれど。
ハーレイはフウと溜息をついて、小さなブルーの瞳を見詰めた。
「お前の新聞、悪くないとは思うんだがな…。使えただろうとも思うんだが…」
それを本当に実行していれば、アルテメシアから地球に旅立てて、ナスカなんぞには行かなくて済んで。そうやって旅がまるで変わって、前のお前が死なずに済んでいたのなら。
メギドなんかは出ても来ないで戦いが終わっていたのなら…。
俺は自分の馬鹿さ加減を呪うより他に無いってな。
どうして新聞を思い付かなかったと、知っていたくせに使わなかった、と。
それを後悔するしかないなあ、後悔先に立たずとは言うが。
「じゃあ、無し」
新聞を作って配る話は要らないよ。そんなアイデアだって要らない。
「なんだと?」
お前、配りたかったと言わなかったか?
そういう新聞を作りたかったと、人類に配っておきたかったと。
「言ったけど…。素敵な考えだと思ったけれども、もう過ぎちゃったことだしね?」
作らなかったことをハーレイが後悔するんだったら、新聞は無し。
シャングリラ新聞なんかは無しだよ、実際、作らなかったんだから。
新聞は一度も作らなかったし、誰も読んではいないんだものね、ただの一人も。
だから要らない。
シャングリラの新聞、作らなくてもいいんだよ。
ぼくたちが読むための新聞は今ので充分。
毎日、家のポストに配達されてくる新聞があればそれで幸せ。
新聞は今の平和な世界のがあればいいんだよ、と小さなブルーは歌うように言った。
シャングリラでの新聞は要らなかったと、作る必要も無かったと。
ハーレイが後悔するようなものなら無くていいのだと、夢見る必要も無いものなのだと。
「今は今だよ、無かったものは仕方ないもの」
シャングリラに新聞は無かったんだし、無いものは配れないものね。
夢のお話だよ、ただの夢だよ。
「だが…。あの時、俺が思い付いていたなら…」
「それも無し」
ホントに新聞は今ので充分、毎日届くって幸せだけで充分なんだよ。
今の新聞、ぼくも大好き。
毎日、色々なことが読めるのも楽しくて好きだし、毎日ポストに届くのも好き。
「そうなのか?」
お前が新聞配達を楽しみにしてるというのは初耳だが…?
「えっとね…。怖い夢を見て暗い間に目が覚めた時に、新聞配達、頼もしいんだよ」
メギドの夢で飛び起きた時に、怖くて震えてたらバイクの音が聞こえて来るんだ。
そしたら怖い気持ちが消えるよ、此処は地球だ、って直ぐに分かるから。
新聞配達の人がバイクで走ってる地球で、今日もポストに地球のニュースが届いたよ、って。
「なるほどなあ…」
そいつは確かに頼もしいかもな、前の俺たちには新聞は届きやしないしな。
新聞も無けりゃ、バイクで届くってこともない。
うん、新聞が届くってだけで充分なんだな、青い地球の上で、毎日、毎日。
「そうだよ、いつもニュースを運んでくれるし、それで充分」
前のぼくたちの時代みたいに機械がニュースをコントロールもしてないし…。
今の新聞、読み物としても楽しい記事とかで一杯だものね。
青い地球の上、新聞配達のバイクが配って回る新聞。
今の時代の新聞だからこそ、幸せな気持ちで届くのを待って読むことが出来る。
情報統制をするまでもなくて、平和なニュースしか無い新聞。
人間が全てミュウになった時代の優しい新聞。
たまに悲しい事故などのニュースも載るのだけれど。
そういった時に皆で祈りを捧げられることもまた、平和な時代の証だから…。
いつかはきっと、ブルーとハーレイが共に暮らす家に新聞が届く日が来るだろう。
夏ならば空が明けて来た頃に、夜明けが遅い季節は空に幾つも星がある内に。
表のポストに新聞が届いて、バイクが走り去ってゆく。
朝一番に届いた新聞を取りに出るのはハーレイか、それともブルーの役目か。
二人とも、新聞が届く頃にはまだ夢の中。
幸せな一日の始まりの前の、穏やかな眠りに捕まったままで…。
新聞・了
※今は当たり前のように届く、新聞というもの。それが届かなかった船がシャングリラ。
船で作って人類に配りに行っていたなら、歴史は変わっていたのかも。ミュウも人なのだと。
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