シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうむ…)
週の後半は冷えるのか、とハーレイは天気予報に溜息をついた。まだ紅葉には早いと言うのに、季節外れの冷え込みがやって来る。
昼間は平年並みに上がるが、朝晩がぐんと冷え込むらしい。高い山では初雪だとも。
(こいつはマズイな…)
丈夫な身体の自分はいい。顧問をしている柔道部の方も、冷え込みはむしろ歓迎だった。冷たい朝の空気の中での稽古は気分が引き締まるから。
しかし…。
(ブルー…)
生まれ変わって再び出会った恋人のブルー。十四歳にしかならないブルー。
前の生と同じに弱い身体に、これからの寒い季節は厳しい。両親と共に暮らしているのだから、服装や寝具の心配は要らないだろうと思うけれども。
(あいつの右手…)
それが一番の気がかりだった。
前の生の最期にメギドで凍えたブルーの右手。最後まで持っていたいと願った、ハーレイの腕に触れた時の温もりを失くしてしまって、泣きながら死んでいったと聞く。
独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと。
冷たく凍えた右手の記憶はあまりにも辛くて悲しいもので、ブルーは今でも忘れていない。右の手を握ってやれば喜ぶし、温めてやれば幸せそうに笑う。
(温まってる時はいいんだが…)
右手が冷たく冷えてしまうと、メギドの悪夢がブルーを襲った。秋が訪れて朝夕の気温が低めになったら、ブルーは繰り返し苦しめられた。
なんとか助けてやりたいと願い、思い付いたのがサポーター。手のひらを包む医療用のもの。
薄いけれども通気性に優れ、けして眠りを妨げはしない。その上、締め付ける力の加減も調整が可能だったから。自分がブルーの右手を握ってやる時の強さで注文をした。
そのサポーターは大いに役立ち、ブルーは「メギドの夢にハーレイが来たよ」と喜んだけれど。
メギドの悪夢は、少し軽減しているようだけれども。
(寝てない時がなあ…)
眠っていない時も、ブルーは右手が冷えるのを嫌う。メギドで凍えた悲しい記憶が蘇るから。
何かと言えば「温めてよ」と差し出されてくる、小さな右の手。
暑い夏でも右手は出て来た。「温めてよ」と、「ハーレイの温もりが欲しいから」と。
そんなブルーがこれからの季節、ただでも冷える手をどうするのか。
記憶を取り戻す前であったら、息を吹きかけたり擦り合わせたりと自分で温めただろうけれど。今のブルーはそうはいかなくて、起きている時にもあのサポーターを着けそうで。
(手が冷たい、と思ったら急いで着けそうだぞ)
なにしろ自分が握ってやる時の強さを再現してあるものだから。
「ハーレイに握って貰ってるみたいだ」とブルーが顔を綻ばせたほどのサポーターだから、手が冷たいと感じた時には迷わずに着けてしまうだろう。
けれど…。
(いつもサポーターを着けていたなら、癖になって効き目が薄れてしまうぞ)
人の身体は慣れるものだし、サポーターの締め付けを常のものだと感じ始める。そうなれば夢に対抗できない。メギドの悪夢からブルーを守ってやれなくなる。
それは避けたいし、サポーターを着けっぱなしにしないようにと、ブルーを戒めたいけれど。
ただ「着けるな」と言っただけでは可哀相だというものだ。
あのサポーターが使えないなら、代わりに右手を温める方法を教えてやりたい。起きている間はこうしておけと、この方法で温めておけ、と。
(何かいい手があればいいんだが…)
夜の書斎でコーヒーを口にしながら考える。
マグカップにたっぷりと淹れたコーヒー。厚手のカップを通して手に伝わって来る、その熱さ。
こんな風に触れて右手を温められるカップがブルーの側にあったなら…。
(あいつ、コーヒーは苦手だからなあ…)
ホットミルクがいいだろうか、と思い付いた。冷めにくいカップにホットミルク。
背を伸ばしたいと毎朝ミルクを飲んでいるらしいブルーに言ったら、嫌味なのかと仏頂面になるかもしれないけれども、お勧めではあるホットミルク。
夜に飲むなら、紅茶よりも断然ホットミルクがいいだろう。
ミルクにはカフェインが入っていないし、目が冴えてしまう恐れが無いのだから。
(冷える夜にはホットミルクだ、と教えておくか)
自分で手と手を擦り合わせるより、息を吹きかけるより遥かに優れた方法だと思う。
何もせずともカップを通して伝わる温もりは、きっと優しくブルーの右手を温める筈だ。自然に温め、心を癒してくれる筈。
此処はメギドではなく暖かい家で、温かいミルクもあるのだ、と。右手を温めてくれるミルクのカップが手の中に確かにあるのだ、と。
名案だな、と思ったけれども。
(嫌味なのか、を回避するには…)
ホットミルクを勧めただけでは「それ、嫌味?」と言いそうなブルー。
背丈を伸ばそうと懸命にミルクを飲んでいるらしい小さなブルー。
せっかくの提案を「嫌味なの?」と受け止められるのも何処か悲しい。ホットミルクが一番だと思って勧めているのに、嫌味の意味など微塵も無いのに。
(ホットミルクか…)
ただ温めるだけでは芸が無い。他に何か、と思いを巡らせる。
自分が子供だった頃には、母が蜂蜜をよく入れてくれた。ホットミルクには蜂蜜が合うと、砂糖よりも柔らかな味わいになると。
(蜂蜜なあ…)
ブルーの家でもホットミルクには蜂蜜だろうか?
俺の家ではこうだったんだ、と話せば興味を示しそうではあるけれども。
(俺がガキの頃の話だからなあ…)
その程度でブルーが納得してホットミルクを飲むだろうか、と甚だ疑問ではあった。もっと他に何か無いものか。
ブルーが釣られそうなもの。小さなブルーがホットミルクを飲みそうな何か。
(…待てよ?)
不意に頭を掠めた記憶。
調べ物をするための端末を起動し、思い付いた言葉を打ち込んでみた。
セキ・レイ・シロエ。
そしてホットミルク。
表示された文字たちは求めるものとはまるで違って、歴史に残った少年の名だったり、ミルクの温め方だったり。
(…違ったのか?)
記憶違いか、とデータベースの情報を引き出してみては、端から確認してゆく内に。
(よし!)
見付け出したぞ、と目的の情報を掴んでニヤリとした。
これでホットミルクは大丈夫だろう。
好奇心旺盛な子供でもある小さなブルーは、釣られて挑戦する筈だ。
(しかしだ…。ホットミルクは一時的なものに過ぎんしな?)
飲んでしまって、カップの温もりが無くなった後。
ブルーの右手はまた冷たくなり、温もりを失くして冷えていってしまう。いくら暖房を強くしていても、真冬に半袖で過ごせるくらいの室温にまでは上げられない。外へ出た時に身体に悪いし、虚弱なブルーにそれは出来ない。
つまりは何処からか忍び寄る冷気に右手は冷やされ、凍えてゆく。
遠い昔に、メギドで冷たく凍えたように。ハーレイの温もりを失くして凍えたように。
(もっと何かが無いもんかな…)
いつでも右手を温めることが出来る方法。
ホットミルクを飲み終えた後も、冷たいと思えば出来る方法。
(ブルーが自分で出来る何かで…)
擦り合わせたりするのではなくて、ブルーだけのための特別な方法。
あのサポーターのようにブルー専用の、右手を温めるためだけにある方法。
(まじないでもあればいいんだが…)
腕組みをしながら考え込んでいて、ふと思い出した。
子供時代に父の釣り仲間やその子供たちと、大勢で海まで釣りに出掛けた時のこと。車での遠出だったのだけれど、「車酔いをしそうだ」と不安そうだった父の釣り仲間の子。
車酔いの薬は飲んでいるから大丈夫だ、と言われても心配していた子供。
あの子供は、確か…。
(字を飲んでいたな)
手のひらに指で書いて貰った字を飲んでいた。誰にも見えない、指で書かれただけの文字。あの時は「車」と大きく一文字。
それを飲んだなら克服出来る、と言い聞かされて飲み干す見えない文字。
(人という字を飲むのもあったか…)
大勢の人の前に出る時、あがらないためのおまじない。人を克服するために飲む「人」の文字。
自分が知っているのは二つだけれども、他にも飲む文字はあるかもしれない。
手のひらに書いて、それを飲み込めば苦手を克服出来る見えない魔法の文字たちが。
(ひとつ、こいつを捻ってみるか…)
ブルーの苦手。
それを飲み干し、克服するためのおまじない。
(だが、メギドは…)
最大の苦手はメギドなのだろうが、そんな文字は飲みたくないだろう。いくら苦手でも、それを克服したくても。
そもそもメギドなどという忌まわしい文字を手のひらに書きたくもないだろうし…。
(ん?)
ブルーが書きたくなさそうな文字。
ならば…。
(そうだ、書くんだ)
それがいい、と笑みを深くした。
ブルーのためのおまじない。右手が冷たく凍えないよう、自分で出来るおまじない。
明日は幸い、ブルーの家に寄れそうだから。
二つの対策を教えておこう。
ホットミルクと、おまじない。右手が冷たい時にはこれを、と小さなブルーに。
次の日、仕事帰りにブルーの家に寄ると。
二階のブルーの部屋に入ると、案の定、ブルーは不安そうで。
「ハーレイ、今週…。今日はまだ暖かそうだけど…」
「うむ。冷えるらしいな、後半は」
高い山では初雪だろうという予報だしな、この辺りもぐんと冷え込むだろうな。
「ぼくの右手も冷えそうだけれど…。冷たくなってしまいそうだけど…」
でも、ハーレイに貰ったサポーターがあるものね。
メギドを思い出しそうになったら着ければいいよね、サポーターを。
「おいおい、あれを着けすぎるなよ?」
慣れちまったら意味が無くなる。着けているのが普通になったら効果が無いぞ。
寝る時だけにしておくんだ、と諭せばブルーの顔が曇った。
「寝る時しか着けちゃいけないの?」
「効かなくなったら困るだろうが」
メギドの夢は嫌だろ、お前。寝ている間はコントロールが利かないんだからな。
「でも…」
手が冷たいのは嫌なんだよ。
右手が冷えると、どうしてもメギドを思い出しちゃう…。
「それでもだ」
駄目だ、とハーレイは一つ目の策をブルーに聞かせた。
「いいか、起きている時に右手が冷えたら。冷たいという感じがしたら…」
ホットミルクを飲んでおけ。カップを触れば手が温まるし、身体も芯から温まるからな。
「ホットミルク!?」
ぼくにミルクを飲めって言うの?
毎朝きちんと飲んでいるのに、まだ足りないからホットミルク!?
「怒るな、チビだと言ったわけでは…」
「今、言った!」
チビだと言ったよ、酷いよ、ハーレイ!
ぼくがチビだからホットミルクを飲めって言うんだ、ちょっとくらいは育つだろ、って!
背が伸びないから困っているのに、それって嫌味!?
予想に違わず、怒り出したブルー。
ぷりぷりと膨れっ面になっているから、秘策を披露することにした。データベースで拾い上げた情報、苦労して見付けて来た情報。
「お前に勧めたホットミルクだが…。普通に飲むのは嫌だと言うなら、シロエ風にしとけ」
あれだ、セキ・レイ・シロエのシロエだ。そのシロエ風だ。
「なに、それ?」
シロエ風だなんて、何なの、ハーレイ?
「あまり知られていないんだがなあ、シナモンミルクでマヌカ多めだ」
「えっ…?」
「シナモンミルクにマヌカって蜂蜜を多めに入れる、という意味さ」
そいつがシロエの注文だったそうだ、お気に入りのな。
どういう神様の悪戯なんだか、ステーション時代に一緒だった誰かが覚えていたらしい。これがシロエの注文だったと、こういう注文の仕方だった、と。
いや、思い出したと言うべきか…。SD体制が終わった後にな。
SD体制が在った頃にはシロエに関する記憶ってヤツは端から消されてしまっていたし…。
「そうなんだ…」
凄いね、それを思い出した人。
シロエの友達の誰かなのかな、それともライバルだったのかな…?
「ちょっと興味が出て来たか?」
ただのホットミルクなら腹が立つだろうが、こいつは少し特別だからな。
「うん。シロエのお気に入りだったミルクなら飲んでみたいな」
まるで知らないわけじゃないしね。ジョミーから聞いてて、知ってたし…。
救い出せずにアルテメシアに置いて行っちゃったこと、前のぼくも気がかりだったから。無事に育って欲しいと祈っていたけど、死んじゃった…。
そのシロエの声、前のぼくも聞いてたみたいだから。…地球へ行こう、って。
「なら、今週はそいつを試してみろ。お母さんに頼んでマヌカだな」
「マヌカって、なあに?」
そういう名前の蜂蜜があるの?
「ああ。正確に言えばマヌカハニーだ、マヌカ蜂蜜って所だな」
マヌカって木から採れる蜜だけを集めた蜂蜜らしいぞ、他の木の蜜は入ってないんだ。
「ふうん…。一種類の木だけの蜂蜜だなんて、シャングリラには無かったね」
蜂蜜はいろんな花のが混じって当たり前だったし、選んでられるほどに沢山の花は無かったし。
「うむ、人類は贅沢なもんだな」
教育ステーションで蜂蜜なんぞは採れないからなあ、何処かの星から送ってたわけだ。そいつをシロエみたいな生徒が気軽に注文出来ちまう。
前の俺たちには考えられない贅沢ってヤツだ、蜂蜜をあれこれ選ぶだなんてな。
シャングリラとはまるで別世界だな、と苦笑しながら、ハーレイは小さなブルーを見詰めた。
「いいな、シナモンミルクのマヌカ多めだ。それと、もう一つ」
「まだ何かあるの?」
ホットミルクの特別な飲み方、他にもあるの?
「ミルクとは何の関係も無い。とっておきのおまじないさ」
ちょっと右手を出してみろ。手のひらを上にして、俺の前にな。
「温めてくれるの?」
「いや、おまじないをかけておく」
「おまじない…?」
不思議そうな顔でブルーが差し出した右の手のひら。小さな手のひら。
其処に人差し指の先でゆっくりと大きく書いてやった。
ハートのマークを。
「ハーレイ、これって…!」
頬が赤くなったブルーに向かって優しく微笑む。
「こいつなら単純で忘れないだろ?」
俺が書いた跡、なぞってみろ。お前の指で。今ならハッキリ分かるだろうが。
「うん…」
嬉しそうに、少し恥ずかしそうにブルーの左手の人差し指が右の手のひらの上にハートを描く。ハーレイが書いてやった通りに、見えないハートをなぞるように。
「書けたか? そしたら、そいつを飲んでみるんだな」
「飲む?」
「手のひらを口へ持って行ってだ、其処に書いたハートのマークを飲むんだ」
飲んだつもりになれってことだな、ハートマークを口に入れたとな。
そういう類のおまじないがあるんだ、苦手なものを書いて飲んだら克服出来るというヤツが。
俺が知ってるのは車の字を飲んで車酔いを防ぐのと、人前であがらないように人の字を飲むっていうヤツなんだが…。
そいつを捻ってハートマークだ、俺のオリジナルだ。
克服しろっていうんじゃなくって、俺が書いてやったハートのマークを飲めってことだな。
飲んでみろ、とハーレイに言われたブルーだけれど。
右の手のひらに書かれた見えないハートを飲むように言われたブルーだけれど。
「んーと…」
ハーレイの褐色の指が大きく描いたハートのマーク。目には見えないハートのマーク。
自分の指でなぞったとはいえ、愛の印のハートのマーク。
それを口まで持って行った上に、本当に飲めるわけではなくても飲み込むだなんて…!
ブルーは何度も右手を口許に近付け、眺めては再び離してみて。
「…だ、駄目かも…」
飲もうと思っても飲み込めないかも、このハートマーク…!
「真っ赤だな、お前。耳の先まで赤く染まってしまっているぞ」
それだけ赤くなっているなら、手もいい感じに温まってないか?
いつも「温めてくれ」ってうるさい、お前の右の手。
「う、うん…」
温かいって言うより、熱いくらいかも…。ポカポカを通り越して熱いよ、右の手のひらが…!
「そりゃ良かったな。おまじないをかけた甲斐があったってな」
ホットミルクと、右手にそいつを書いて飲むのと。
サポーターを使わなくても、それで何とかいけそうだろうが、今週の冷え込み。
「いけるかも…」
ハーレイの言う通り、サポーターが効かなくなったら夜中に困るし…。
寝るまでは着けずに頑張ってみるよ、ホットミルクとおまじないで。
冷え込むという予報は当たって、次の日の夕方から急激に下がってしまった気温。今の季節には珍しいほど朝晩は冷えて、そして、週末。
ブルーの右手はどうだったろう、と案じながら訪ねたハーレイは、小さなブルーの苦情と報告を聞く羽目になった。シロエ風のホットミルクについて。
「ハーレイ、マヌカの説明をきちんとしてくれないから…!」
酷い、とブルーは些か御機嫌斜めだった。
マヌカは風邪の予防にいいそうだから、と母にたっぷり入れられたと。そういう蜂蜜だと知っていたなら自分で買ったと、味見もしてから自分で入れたと。
「シロエ風のホットミルクって、変な味だよ!」
ママがたっぷり入れていたから、うんと甘いんだと思ったのに…!
お薬っぽいよ、あのマヌカって!
「おいおい、マヌカは蜂蜜だぞ?」
甘くないわけがないと思うが。そりゃあ確かに風邪の予防にも、風邪薬にもなるんだが…。
あれも蜂蜜には違いないんだし、少しばかり癖があるってだけだろ?
「そうなんだけど…。でも、ママがたっぷり入れちゃうから…」
「シロエ風だと、元からマヌカは多めだぞ?」
ああいう味がシロエの好みだ、と楽しんで味わう余裕は無いのか、お前の舌には?
お前、好き嫌いが無いのが売りだろうが。俺と同じで。
「うー…。好き嫌いはホントに無いんだけれど…」
でも、お薬っぽい味がするのはあんまり…。
お薬なんかが好きな人って、きっといないと思うんだけど…!
あの味は嫌だ、とブルーが膨れる。
右手はカップで温まるけれど、とんでもない飲み物がやって来たと。普通のホットミルクならばともかく、シロエ風。マヌカ多めのシナモンミルクは自分の舌には合わないと。
「ママがすっかり気に入っちゃったよ、風邪の予防になりそうだ、って!」
ぼくは弱くて風邪を引きやすいし、これを飲んでいれば引く回数が減るかも、って…。
冬の間中、飲まされそうだよ、どうすればいいの?
「うーむ…。お母さん、気に入っちまったのか…」
「そうなんだよ!」
ハーレイのせいだよ、責任取ってよ!
あのシロエ風のミルク、毎日、毎日、飲まされちゃったらミルクだって嫌いになりそうだよ!
「そいつは困るな、お前の背丈が全く伸びなくなりそうだしな?」
「そう思うんなら何とかしてよ! あのホットミルク!」
もう嫌だ、とほんの数回で音を上げている小さな恋人。好き嫌いが無い筈の小さな恋人。
相当に運が悪かったのだろう、とハーレイはクックッと喉を鳴らした。
「何とかするのはホットミルクじゃなくてマヌカだな、うん」
「ママはやめてくれないと思うんだけど…。マヌカも、たっぷり入れるのも…」
ぼくが自分で言い出したんだし、飲む気になったと思ってるんだよ、あのお薬を!
「そうだろうなあ、マヌカ多めだしな?」
お前、当たりが悪かったんだ。マヌカの味には色々あるしな、薬っぽいのに当たっただけだ。
お母さんはお前のためにと思って、目に付いたのを買ったんだろうし…。
薬っぽいからこれは嫌だ、とお母さんに説明するんだな。
次は試食をして買ってくれと、薬っぽくないマヌカがいいと。
「そういうマヌカも売ってるの?」
「もちろんだ。個人の好みは色々だからな、薬っぽいのが好きだって人も中にはいるのさ」
薬が好きだというわけじゃなくて、薬っぽいから効きそうだと思って食べるわけだな。
お前の舌には合わなかったなら、普通のマヌカを頼んでおけ。
好き嫌いの無いお前が「これは嫌だ」と言うんだったら、お母さんは急いで別のに変えるさ。
薬っぽい味のマヌカの残りはお母さんに任せるんだな、とハーレイは笑う。
風邪の予防に食べて貰うか、味など分からなくなってしまうように料理に使うか。
「だが、買い替えて貰うまでの間は我慢しろよ?」
お母さんは知らずに買って来たんだし、其処は感謝をしなくちゃな。お前の身体のことを考えてマヌカたっぷりのホットミルクなんだ、恨んじゃ駄目だぞ。
「分かってる…」
美味しいマヌカもあるんだったら、買って貰えるまでは飲んでおくよ。
だけどシロエって、どういう味が好みだったわけ?
あのとんでもない薬っぽいのが好きだったんなら、ぼくには理解出来ないけれど…!
「さてなあ…。其処までは記録に無いんだろうなあ、あのステーションは廃校だからな」
ミュウの思念波通信で汚染されたってことで閉鎖されたし、データも廃棄だっただろう。
どんなマヌカを仕入れていたのか、今となっては知りようもないさ。
シロエの声を聞いたっていうお前が好みを聞いてないなら、もう永遠の謎だってな。
薬っぽいマヌカが好みだったか、普通の味のが好みだったか。
ところで…、と小さな恋人に尋ねた。
自分に会うなり、ホットミルクの苦情を述べた恋人に。あれは嫌だと文句を言った恋人に。
「シロエ風のホットミルクはともかくとして、だ」
おまじないの方はどうだったんだ?
俺がかけてやったハートのおまじない。あれは効かずに終わっちまったか?
「効いた!」
凄く効いたよ、ハーレイがくれたおまじない。
ハートを飲んでも暖かくなるし、右の手のひらにハートを描いたら右手がポカポカ熱いんだよ。
冷えて来たな、って思ったら手のひらにハートを描いたよ、ハーレイのハート。
もっと描いて、と右手が出て来た。小さな右手がテーブルの上に。ハーレイの前に。
もっとハートを、いつも右手が温かいようにハートを描いて、と。
「ふうむ…。こいつが効くんならな」
ほら、とハートを描いてやる。
冷え込みが来る前に書いてやったように、右の手のひらに大きくハートを。
ブルーは見えないハートを嬉しそうに見詰め、それから花が開くように笑んだ。
「これって、愛の告白だよね?」
愛してます、って印のハートマークなんだよね、ねえ、ハーレイ…?
「そう考えるのはお前の勝手だ」
俺がどういうつもりで書いても、お前はそうだと思うんだろうが?
「うんっ!」
ハーレイがぼくにハートのマークをくれるんだったら、愛の告白。
それを飲んだら幸せになれて、心も右手もポカポカなんだよ。
ハーレイにハートを貰った、って。ぼくの右手にハートのマークを描いてくれた、って。
「どう考えるのも勝手だが…。お前の右手がポカポカだったら、俺としては充分嬉しいな」
お前の右手が凍えないなら、それでいい。冷たくないならそれでいいのさ。
このおまじないは効いたようだな、とハートのマークを描いてやる。
メギドで凍えた悲しみを秘める小さな右手に、温もりをこめて。
冷え込みで凍えてしまわないよう、思いをこめて。
褐色の指先でゆっくり、ゆっくり、恋人のために大きなハートの形のマークを…。
温める方法・了
※ハーレイがブルーに教えた、冷えないための二つの方法。シロエ風のミルクと、おまじない。
おまじないの方が効きそうですけど、シロエ風のミルクもブルーの定番になりそうです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
学校から帰って、おやつの時間。ママが焼いておいてくれたケーキと、温かい紅茶。ちょっぴり冷える季節になって来たから、あったかい紅茶は身体も心も温まる。幸せだよね、って。
(パパとママがいて、ちゃんと家もあって…)
おまけに青い地球の上だし、って考えながらケーキを頬張っていたら。
「ブルー!」
キッチンの方からママの声がした。
「なあに?」
「ハーレイ先生のスリッパ、届いたわよ!」
「ホント!?」
何処だろう、ってキョロキョロしてたら壁際に見付けた紙袋。何のロゴも無いシンプルな袋。
だけど…。
「其処にあるでしょ?」
ママがダイニングに入って来た。
それよ、って言われなくても分かる。あの紙袋はシンプルだけれど、特別だから。
早速、紙袋の所まで行って、手を突っ込んだ。
(わあ…!)
中から出て来た、大きなスリッパ。厚手のウールで、底の部分は分厚いフェルト。
模様は市松模様になってて、濃紺と、前のハーレイのマントそっくりな緑色との組み合わせ。
「その模様の生地で良かったのよね?」
「うんっ!」
間違いないよ、ってママに笑顔で返事した。
ぼくが選んだ、ハーレイのスリッパ。寒い季節になったら活躍する筈の冬用のスリッパ。
(ふふっ、スリッパ…)
届いたんだ、って嬉しくなった。スリッパは紙袋の中に戻したけれども、おやつの間中、視線がそっちに行ってしまって困るほど。あそこにスリッパが入ってるんだ、って。
幸せ一杯でおやつを食べ終えて、ママに「御馳走様」ってお皿とカップを渡して。
まだ冬じゃなくて、スリッパの出番は来ていないから。
ぼくの部屋に仕舞っておくね、って紙袋を持ってダイニングを出た。踊り出しそうな足で廊下を歩いて、階段をトントンとスリッパの袋を連れて上って。
部屋に入って、そうっと、そうっと、袋の中からスリッパを出した。
市松模様の大きなスリッパを。前のハーレイのマントの緑と、濃紺が混ざったスリッパを。
それを履く人の足に相応しいサイズのスリッパ。うんと大きな、ウールのスリッパ。
(ハーレイのだよ)
これはハーレイのスリッパだよ、って触って、撫でて。
ウールの手触りに頬を擦りつけたくなる。スリッパに頬っぺたを擦りつけるなんて、って言われそうだけれど、これはハーレイのスリッパだから。
ハーレイのために届いたスリッパ、それだけで嬉しくてたまらないから。
ぼくの家のスリッパ、冬は特別。
他の季節はあまりスリッパは履いてないから、何処で買おうが、どんなのだろうが気にしない。
でも冬だけは違うんだ。寒い季節はみんな夜にはスリッパを履くから、実は決まったスリッパがある。お客様用みたいに高いのを買うってわけじゃなくって、値段は普通。ごくごく普通。
だけどちょっぴり特別、手作り。
(神様のスリッパ…)
前のぼくが生きていた頃にも消えなかった神様。クリスマスに馬小屋で生まれた神様。
その神様の教会で秋のバザーの時に売られる、手作りスリッパ。
丁寧に手作りされてるからなんだろうか、履き心地が良くて、暖かくって、足をすっぽり包んでくれる。一度履いたらもう手放せない、そんな気持ちがしてくるスリッパ。
(寒い冬でもポカポカなんだよ、これを履いたら)
身体の弱いぼくは体温の調節が上手く出来なくて、冬になったら足が冷たくなるのが普通。足の先から冷えてくるけど、スリッパを履いて膝掛けをかけてる間は大丈夫。足がとっても暖かい。
(パパとママもスリッパ、好きなんだよね)
この神様のスリッパが。手作りのウールのスリッパが。
ぼくの家は誰も教会には通ってないけど、パパとママとが結婚した年に貰ったプレゼントがこれだった。冬用に、ってママの友達から。
それですっかり気に入ってしまって、冬のスリッパはこれなんだ。
丈夫だし、丁寧に手作りしてあるお蔭で、何年かは持つ優れもの。ぼくも小さな頃からこれ。
小さすぎた頃にはサイズが無くって、履きたくっても履けなかったから。
初めて子供用のを履けた年には嬉しかった。ぼくのスリッパがやっと出来た、って。
(履いて家中、散歩したっけ…)
ぼくの足にピッタリのスリッパが得意で、履き心地が良くて足が軽くて。
教会のバザー用のスリッパだけれど、注文しておけば作って貰える。
わざわざバザーに出掛けなくても家に届くから、ママに頼んだ。ハーレイのスリッパ、って。
夏の終わりに、秋が来るんだ、って気が付いた頃に。
「ママ、ハーレイの分のスリッパが欲しいよ、冬のスリッパ」
注文するなら秋のバザーの頃までなんでしょ?
パパもママもぼくも、冬になったら履くんだもの。ハーレイだけ仲間外れになっちゃう…。
「そうねえ…。パパもそんなことを言っていたわね、ブルーに訊くか、って」
今年は注文する年じゃないけど、ハーレイ先生の分が要るんだったら早い間に注文を、って。
「じゃあ、いいの?」
ハーレイのスリッパ、買ってくれるの?
「もちろんよ」
ブルーはハーレイ先生のことが大好きだものね。
それにハーレイ先生はお夕食も一緒に食べて頂くくらいで、家族みたいなものでしょう?
ブルーが欲しいなら、パパやママたちと同じスリッパをきちんと用意しなくっちゃね。
ママは色の見本を送って貰ってくれた。
バザーで売るようなスリッパだから、立派なカタログなんかじゃなくて。「こんな色です」って印刷しただけの紙と一緒に、注文用紙。選んだ色とサイズを書き込む注文用紙。
どれにしようか悩んだけれども、前のハーレイのマントの色が入った市松模様に惹かれたぼく。
今のハーレイの車の色だって、こういう緑。きっとハーレイも好きな緑色。
「これがいいな」
ママ、この模様のスリッパがいいよ。紺と緑色。
「あら、先生の車の色ね。この緑色」
「ハーレイのマントの色なんだよ。キャプテン・ハーレイだった頃のマントの」
こういう色でしょ、今も残っている写真。
「そういえば…。ハーレイ先生、あの車をお買いになった時には記憶が無かった筈なのにね」
面白いわねえ、記憶が無くてもマントの色の車だなんて。
生まれ変わっても選びたいほど、お気に入りの緑だったのかしら?
お気に入りだけあって似合いそうね、って言ってくれたママ。
この模様のスリッパはハーレイに似合うって、似合いそうなスリッパになると思うわ、って。
緑だけじゃなくって濃紺、黒に見えるほどの紺も入るし、ハーレイのスーツにも私服にも似合うスリッパが出来てくるだろう、って。
「ハーレイ先生の足だと、サイズは…」
これね、ってママが印をつけてた一番大きなサイズのスリッパ。
ぼくだと子供用なのに。
でなきゃ女性用、そういうサイズのスリッパのぼく。
(ハーレイの靴も大きいものね)
それにお客様用スリッパだって、ママは大きいサイズのを出してる。大きな大人の男の人用。
ハーレイは最初の間こそ履いていたけど、今では履いたり履かなかったり。
その日の気分で決めるらしくて、もう「お客様」じゃない印。
お客様用のスリッパを履いて客間に座るんじゃなくて、家族同様。出されたスリッパを履くのが当然じゃなくて、履かずに歩いていたっていい。
だけど冬用にって注文するスリッパはハーレイ専用、ハーレイだけのスリッパが家に届くんだ。
お客様じゃないから用意するスリッパ、パパやママやぼくと同じタイプの普段のスリッパ。
それもハーレイ用にって生地を選んで作って貰ったスリッパが。
(ハーレイのマントの緑色…)
その色が入った生地がいい、って選んだ緑と濃紺の市松模様。
うんと楽しみにしていたスリッパ。
(忘れちゃってたけど…)
ママに「欲しい」って頼んだことも、選んで注文していたことも。
毎日が幸せで、ハーレイと二人で地球に来られた幸せで心が一杯の毎日を過ごして、スリッパは何処かへ消えてしまってた。ホントに綺麗に忘れちゃってた。
でも、スリッパが家にやって来た。何の飾りも無い紙袋に入って、ちゃんと届いた。
注文通りのハーレイのスリッパ。
前のハーレイのマントの緑が入ったスリッパ。
(大きいスリッパ…)
ちょっとだけ、って足を突っ込んでみた。
肝心のハーレイは試し履きさえしていないけれど、ちょっとだけ。
ぼくが履いたらどれだけ余るか、どんなに大きいスリッパなのか、って好奇心。そうっと両足を入れた途端に、ぼくの頭に蘇った記憶。前のぼくじゃなくって、今のぼくの記憶。
(ハーレイのサンダル…!)
一度だけ借りた、ハーレイのサンダル。車を洗ったりする時に履くって言ってたサンダル。
メギドの夢を見たぼくが寝てる間に瞬間移動でハーレイの家まで飛んじゃった時に、ハーレイに借りて履いたサンダル。裸足じゃハーレイの車の所まで歩けないから。
本当は靴を借りるつもりが、大きすぎる靴はぼくの足からすっぽ抜けちゃって、脱げて。
それじゃ駄目だとサンダルになった。辛うじて引っ掛かってくれたサンダルに。
ハーレイの靴は脱げちゃったけれど、すっぽ抜けない、今度のスリッパ。
足をすっぽり包み込むように縫い上げられてる、厚手のウール地はダテじゃない。持ち主よりも遥かに小さいぼくの足でも、しっかり包んでくれるんだ。
引っ掛かっていただけのサンダルと違って、足の半分くらいをしっかり。
(ぼくの足より、うんと大きい…)
ハーレイの靴と違って逃げて行かない、頼もしいスリッパ。
この冬からはハーレイ専用、ぼくの家で暮らす大きなスリッパ。
(えーっと…)
ぼくのスリッパをクローゼットから出してみた。冬用のスリッパ、神様のスリッパ。
もしも背が伸びて育っていたなら、足も大きくなっていたなら。
新しいスリッパが家に届いて、これと取り替えて履く筈だったんだけれど…。
ぼくの背丈は去年と同じで、足のサイズも変わらなくって。
新しいスリッパは必要が無くて、ハーレイのだけを注文することになっちゃった。ぼくの足には去年の冬のと同じスリッパ、丈夫だから今年も使えるスリッパ。
(やっぱりハーレイのスリッパと全然違うよ)
ハーレイ用のと並べた、ぼくのスリッパ。水色の厚手のウールのスリッパ。
大きさがまるで違いすぎ。
(ホントに大人と子供みたいだ…)
それはちょっぴり悲しいけれども、「まだ子供だ」って言われたみたいで悲しいけれど。
だけどハーレイのスリッパの隣にぼくのスリッパ、心がじんわり温かくなる。
いつかはきっとこんな日が来るんだ、ハーレイの靴の隣にぼくの靴を並べて置ける日が。一緒に暮らして、靴もスリッパも隣同士が普通の日々が。
(こんな風に並んでいるんだよ、きっと)
ぼくの靴やスリッパは今より大きくなるけど、見た目にはきっと、こんな風。ハーレイの大きな足のサイズには敵わないから、大きい靴やスリッパと、それに比べて小さいのと。
そう思ったら、スリッパを一緒に並べておきたくなったけれども。
冬になったらハーレイ用のとぼくのスリッパを、いつも並べておきたいけれど。
でも、ハーレイのは玄関に行ってしまうんだ。ハーレイが来た時、ママが出せるように。
並んだ姿を見ていられるのは冬が来るまで、ぼくの部屋に仕舞ってある間だけ…。
いつまでも並べて眺めたいのに、そういうわけにはいかないスリッパ。
ハーレイの分は冬になったら玄関に行ってしまうから。其処で仕舞われてしまうから。
(並べるんなら、今の間だけ…)
幸せな景色を眺めたかったら、今の間に楽しむしかない。
ぼくのスリッパをクローゼットから出して、ハーレイのスリッパも紙袋から出して二つ並べて。
そうして大きなスリッパと小さなスリッパが隣同士でいるのを眺める。
きっといつかはこんな風にって、ハーレイの靴とぼくの靴とが並ぶんだ、って。
また夜になったら並べてみよう、と小さなスリッパをクローゼットの中に仕舞った。ハーレイのスリッパも紙袋に戻して、ちょっと考えてから勉強机の隣に置いた。
せっかくのスリッパ、見えない所に片付けちゃうのはもったいない。今日の間は見える所にと、紙袋の中に入れてあっても「スリッパがある」と思い出せる所に置いておこう、と。
それから宿題を済ませて、本を読んでいたらチャイムの音。窓から覗くとハーレイの姿。
(スリッパが届いたら、ハーレイが来たよ!)
なんて素敵なタイミングだろう。紙袋を片付けなくて良かった。ハーレイのスリッパを何処かに仕舞い込む前でホントに良かった。
届いたその日に見て貰えるなんて、スリッパだってきっと嬉しいと思う。履いてくれる人の前に出されて、直ぐに紹介されるんだから。
ハーレイがぼくの部屋に来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせ。
お茶とお菓子を運んで来たママの足音が階段を下りてゆくなり、ぼくは心を弾ませて言った。
「スリッパ、買ったよ!」
「スリッパ?」
「うん、ハーレイ用の冬のスリッパ」
ぼくの家のは特別なんだよ、冬の間は。だからハーレイの分を買ったんだ。
模様を選んで、ママに注文して貰って…。
今日、届いたから、ぼくの部屋に置いてあるんだよ。まだ冬までは少しあるから。
これ、って紙袋から出して見せたら。
あのスリッパをハーレイの椅子の横に置いたら、ハーレイの鳶色の瞳が見開かれて。
「ほほう…! なんで分かった?」
「えっ?」
「こいつは俺のスリッパだってこと、どうして分かった?」
訊かれてる意味が分からない。ハーレイのスリッパはハーレイのもので、そのためにスリッパを注文しておいたんだし、ハーレイのものに決まってる。何の質問なんだろう?
ぼくは首を傾げてハーレイに訊いた。
「どういう意味?」
ハーレイのスリッパを買っておいたら、それは絶対、ハーレイのものだと思うんだけど…。
「こいつは教会のスリッパだろう? 秋のバザーで売られるスリッパ」
「うん。ぼくの家は教会に行ってないから、注文して届けて貰うんだけど…」
「俺の家と全く同じだな。誰も教会には行っていないが…」
親父もおふくろもこれが好きでな、ずっと買ってる。頑丈に出来てるスリッパだけに、毎年ってわけではないんだがな。
そして俺のは昔からコレだ。
緑と紺の市松模様だ、初めてスリッパを買って貰った年からこれなんだ。
「嘘…!」
ハーレイ、これを履いてたの?
これとおんなじのを子供の頃から買って貰って、今もスリッパ、使っていたの…?
信じられない素敵な偶然。
ハーレイのスリッパが本物になった。本当に本物のハーレイのスリッパ。ハーレイがまだ隣町の家に居た頃から使っていたのと同じ模様のスリッパだなんて。教会のスリッパだったなんて。
まだ試し履きだってして貰ってないのに、このスリッパは本物なんだ。
「それじゃハーレイ、サイズもこれで良かったの?」
「もちろんだ。履かなくっても一目で分かるさ、俺の足にピッタリ合うってな」
この年になったらもう育たないし、この大きさのと付き合い続けて何年なんだか…。
今でもおふくろが毎年訊いてくるんだ、今年は買うのか、買わないのか、とな。
なにしろこういう身体だからなあ、いくら頑丈に作ってあっても少し短めの付き合いだ。普通の人なら何年間でも使える所を、年によっては一冬でおさらばしちまったりな。
「一冬で駄目になっちゃうの?」
こんなに丈夫なスリッパなのに?
ハーレイ、どういう履き方をしたの、そういう年は?
「おいおい、人を怪獣みたいに言うなよ、スリッパを履きすぎちまっただけだ」
書斎でゆっくり本を読むより、やたら料理に凝ってた年とか。
立ちっ放しだと座っているより体重ってヤツがかかるだろうが。俺の重さでくたびれただけだ、流石の丈夫なスリッパもな。
「そっか…。ハーレイ、ぼくよりもずっと重たいものね」
ずうっとスリッパに乗っかっていたら、スリッパだって疲れて潰れちゃうかも…。
だけど普通に履いていた年は、一冬で駄目にはならないんだよね?
「まあな」
お前もお父さんたちが履いているなら分かるだろう?
こいつは頑丈で、長く付き合えるスリッパなんだっていうことが。
その辺もあって親父もおふくろもお気に入りだな、これは本物のスリッパなんだ、と。
本物のスリッパ、ちょっぴり特別な神様のスリッパ。
神様が作って売っているわけじゃないんだけれども、教会のバザーで売られるスリッパ。
ハーレイも、ハーレイのお父さんとお母さんも、冬になったらそれだと言うから。
おまけにハーレイのは、ぼくが注文しておいたのと同じ模様だと聞いたから。
ぼくは嬉しくなってしまって、ぼくのスリッパをクローゼットから出してきて見せた。
「ぼくの、これだよ」って、水色の小さなスリッパを。
そうしたら…。
「お前、ずっとそれか?」
小さい頃から同じ生地のを選んでいるのか、俺と同じで?
「うん。ぼくのは水色」
どうして水色を選んだのかは忘れちゃったけど、いつも水色。注文する時は水色だよ。
「なら、これからもそいつを買うか」
「えっ?」
これからって…。サイズが変わった時のこと?
多分、大きくなっても水色のスリッパを買うんじゃないかと思うけど…。
「大きくなってはいるんだろうが…。俺と結婚した後のことさ」
俺と一緒に暮らすようになっても、冬に履くならこのスリッパだろ?
一度履いたら手放せないって評判なんだし、出来ればこいつを履きたいんだろう?
「そう!」
ハーレイもおんなじスリッパだった、って分かっちゃったら、変えたいだなんて思わないよ。
これからも神様のスリッパがいいな、教会のバザーで売ってるスリッパ。
ハーレイのは緑と紺色のヤツで、ぼくのが水色。
「よし、分かった。結婚してもこいつを履き続ける、と」
お前も、俺も。
同じ生地のをずうっと続けて、駄目になる度に買い替えて…な。
一生こいつの世話になるとするか、ってハーレイが言って、頷いた、ぼく。
結婚したって冬になったら神様のスリッパ、ぼくのお気に入りの神様のスリッパ。
ずうっと履いていけるんだ、ってハーレイのと並べたぼくのスリッパを眺めていたら、何故だかハーレイが溜息をついた。
「しかし、悩ましい所だな…」
「何が?」
何か問題でもあるんだろうか、って不安が広がりかけたんだけれど。
ハーレイの口から出て来た言葉は、ぼくの予想とはまるで違って。
「結婚してから後にこいつを買う時、どうすべきかが問題だ」
おふくろに頼むか、お前のお母さんに頼んで買うか。そいつが大いに問題だな。
「頼むって…。ぼくたちが自分で注文をすればいいんじゃないの?」
「新規受付をしていればな」
「どういうこと?」
「こいつは人気商品なんだ。バザーの会場で買うならともかく、注文で届けて貰う方は…」
なかなか難しいらしいと聞いたぞ、新規受付があっても順番待ちになるくらいに。
「ハーレイのスリッパ、注文出来たよ?」
色の見本も送ってくれたよ、それを見てこれに決めたんだもの。ママが注文してくれたもの。
「ずっと長い間、買っているからだ」
昔からのお客さんってことになったら、その分の枠があるからな。
だが、俺たちが新しく申し込もうとしたって、空いている分があるのかどうか…。
バザーに行っても欲しい模様とサイズのスリッパがあるとは限らん。
確実に欲しいなら、前から注文し続けてる人に頼むのが間違いないんだが…。
お前のお母さんに頼むか、おふくろにするか、ってハーレイが頭を悩ませてるから。
ぼくも神様のスリッパは手に入れたいから、どうなるのかな、って考えながら訊いてみた。
「ハーレイのお母さん、ハーレイのスリッパを注文したがる?」
「もちろんだ」
ついでに支払いもするんだろうなあ、今と同じで。
そうさ、俺はスリッパの代金を払ったことは一度も無いんだ。親父が支払っちまってな。
「ぼくのママも注文したがりそうだよ…」
お金だって、ぼくは一度も払ってないから、結婚したってパパが支払うことになりそう。ぼくはスリッパを注文して貰って、「届いたわよ」って渡して貰えるだけで。
「うーむ…。それなら別々に注文して貰うか、今まで通りに」
俺はおふくろに、お前はお前のお母さんに。
別々のツテで手に入れるとするか、自分用のスリッパ。
「それは嫌だよ!」
せっかくハーレイと結婚したのに、なんで別々?
小さい頃からのお気に入りのスリッパ、どうして一緒に注文して手に入れられないの?
「だから言ったろ、新規受付をしていないと無理だと。…待てよ?」
だったら、一回おきに頼んでみることにするか?
お前のお母さんと、俺のおふくろと。二人分を頼む代わりに、一回おきで。
「それがいいかも…」
先に頼むの、やっぱりハーレイのお母さんの方になるのかな?
ぼくはハーレイのお嫁さんだし、ハーレイのお母さん、ぼくのママより先輩だもんね…。
誰に頼もうか、どうやって買おうか、ちょっぴり悩ましい冬のスリッパ。
厚手のウールで分厚いフェルトの底が頼もしい、丁寧な手作りの神様のスリッパ。
だけど模様は決まってる。
ハーレイはマントの色とおんなじ緑に濃紺を合わせた市松模様で、ぼくは水色、これは絶対。
そういうスリッパをセットで買おうと、二人分をセットで注文しようと、其処も絶対。
ハーレイのお母さんに頼んで買ったら、次に買う時はぼくのママに。
ぼくのママに頼んで注文したなら、次の注文はハーレイのお母さんに頼んでして貰う。
それが一番いいのかな、って、ハーレイと二人で話をしてた。
まだまだ先の話だけれども、いつか結婚した時は、って。
その夜、帰って行くハーレイを見送った後で。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、寝る前にもう一度スリッパを出した。
ぼくの水色のスリッパじゃなくて、紺と緑のハーレイのスリッパ。紙袋から出して眺めてみた。
ハーレイは試し履きをしていないけど…。
履かなくっても一目で分かると、自分の足にピッタリなんだと自信たっぷりだったけど。
(ハーレイのスリッパ…)
神様のスリッパ、ぼくの家の冬の特別なんだ、って注文したのに。
ハーレイに似合いそうな模様はこれなんだ、って注文したのに、届いてみたら。出来てきたのをハーレイに見せたら、それはハーレイのスリッパだった。
「なんで分かった?」って言われてしまった、ハーレイのお気に入りの冬のスリッパ。
小さい頃から、ハーレイがずうっと履いて来たのと同じスリッパ。
そんなつもりは全然無くって、ハーレイのために、冬のスリッパを注文してみただけなのに…。
ハーレイが冬に家で履くのと同じスリッパを手に入れた、ぼく。
大好きなハーレイの足を包むのと、おんなじスリッパを手に入れた、ぼく。
(ホントにハーレイのスリッパだったよ…)
頬ずりしたかったほどのスリッパは、本物のハーレイのスリッパだった。
ホントのホントにハーレイのスリッパ、ハーレイが冬に履いてるスリッパ。
(んーと…)
頬ずりは流石に、なんだか間抜けで馬鹿みたいだから。
だけどスリッパは特別だから、と、ちょっと迷って、枕の隣にそうっと置いた。
ぼくの足を少しだけ突っ込んだけれど、まだ一回も履いていないから。
履いて歩いたわけじゃないから、ベッドに入れてもきっと問題ないだろう。
ハーレイのスリッパと一緒に眠って、ハーレイの夢を見てみたい。
紺と緑のハーレイのスリッパ、いつかはぼくの水色のスリッパと並ぶ予定の模様のスリッパ。
(結婚した後は、一緒に注文して貰うんだよ。ハーレイのと、ぼくの)
最初は誰が注文してくれるんだろう?
ハーレイのお母さんかな、それともママかな?
想像しただけで胸がドキドキ、枕の隣に置いたスリッパを撫でて、触って。
うんと幸せな夢が見られそうな魔法のスリッパ。
大好きなハーレイの足を包む予定の、神様のスリッパ。
これと一緒に、夢の中に入って行ったなら。
ハーレイと二人で暮らしてる家が、幸せ一杯のぼくの未来が、きっと今夜の夢に出て来るよ…。
スリッパ・了
※ブルーの家で用意した、ハーレイ用の特別なスリッパ。実はハーレイの愛用品でした。
二人で暮らすようになっても、使いたいスリッパ。ブルーが枕の隣に置くのも当然ですよね。
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学校から帰って、制服を脱いで。家で着るシャツに着替えていたんだけれど。
早く着替えておやつにしよう、って。
(あっ…!)
後は袖口、って何気なく留めていたボタン。一番下を留めて、後は袖だけ、っていう所。心の奥から溢れ出して来た幸福感に頬が緩んだ。
(まだ袖口にもボタンがあるよ)
右手と左手、袖口にボタンが一つずつ。ボタン穴をくぐらせて留める、ごく単純なものだけど。
(ボタン…)
前のぼくの服には無かったもの。ソルジャーの衣装には無かったボタン。
それを留められる、この幸せ。小さなボタンを幾つも幾つも、留めて着られる服がある幸せ。
(こんなの、何年ぶりだろう…)
二百年は軽いよね、って考えてから苦笑した。二百年だなんて、前のぼくだ。
でも、前のぼくが幸せそうな微笑みを浮かべてる。ボタンがあるって、まだ袖口のを右と左と、二つもボタンを留められるんだ、って。
(んーと…)
とても嬉しそうな前のぼく。幸せ一杯の、今のぼくの胸。
おやつは早く食べたいけれども、ボタンの幸せも捨て難くって。
(どうしようかな?)
せっかくの幸せ、うんとゆっくり味わってみたいし、噛み締めたい。おやつとボタンの幸せとは両立しないよね、って考え込んで。
(うん、片方だけ留めずにおこうっと!)
そうしたら、きっと。
おやつの後で部屋に戻って、なんで片方留まってないのか、ぼくは気になる筈だから。ボタンを留めようと触ってみたなら、思い出せると思うから。
(ボタンがあるって幸せなんだよ)
忘れちゃ駄目、って自分に言い聞かせながら、右手の袖だけボタンを留めた。左の手でゆっくりボタンをボタン穴へと押し込み、幸せな気持ちでくぐらせる。
ボタンを留めるっていうのはこんな感じで、こうやって服を留めるんだよ、って。
左手の袖口を留めなくっても、おやつを食べるのに困りはしない。
階段を下りてダイニングに行って、ママが用意してくれたおやつを見たらボタンの幸せは消えてしまって、それっきり。袖口なんか気にもしないで、おやつに夢中。
ママも片方の袖口が留まってないなんて気が付かなくって、紅茶を淹れてくれたりして。学校であったこととか、ママと色々お喋りしてたらボタンの幸せはもう出てこない。
御馳走様、ってダイニングを出て、部屋へと階段を上がる時にも。
(今日のおやつも美味しかったな)
勉強机の前に座って、頬杖をついて。
フォトフレームの中のハーレイの写真に、ぼくと二人で写した写真に「今日も幸せ」って報告をしようとしていて、左の袖口が留まっていない、って気付いたけれど。
(外れちゃった?)
ボタンをきっちり留めておかずに、半分だけ押し込んでおいたとか?
急いでおやつ、って思ってたぼくが如何にもやりそうなことだから。慌てんぼだよね、と外れたボタンを留めようと右手で袖口に触れて…。
(違った…!)
慌てて留めたってわけじゃなかった。わざと外しておいたんだった。
ボタンの幸せを噛み締めたくって、おやつの後でしみじみと幸せを味わいたくて。
(…ただのボタンなんだけどね?)
特別なボタンでもなんでもなくって、ありふれたボタン。こういうシャツにはついてるボタン。凝った服だと共布でくるんだボタンなんかもあるけれど…。
今のぼくには当たり前のボタン。毎日のように留めてるボタン。
制服のシャツも、普段のシャツにも、それにパジャマもボタンが幾つもくっついている。開いた袖口、服の前やら襟元やらをボタンで留めて当たり前。
何の気なしに留めてるボタンで、慣れた手つきでボタン穴に押し込んでいたけれど。
今も外してあった左の袖口についてるボタンを、そうっと押し込んでくぐらせたけれど。
(ホントにボタンだ…)
これでいいかな、って留めた袖口を引っ張ってみた。
今じゃ、ありふれたボタンというもの。毎日の服にくっついてるもの。
なのに幸せな気持ちが溢れてくる。ボタンがあるって、ボタンで袖口を留めるんだよ、って。
(これって、何年ぶりなんだろう…)
本当に二百年ぶりくらいかも、って前のぼくが心の中で跳ねてる。幸せ一杯でニコニコしてる。二百年ぶりでは足りないかもって、もっと長いこと出会ってないかも、って。
(制服が出来たせいだしね…)
遠い昔にシャングリラで着ていた、ソルジャーの衣装。前のぼくが毎日、着ていた衣装。
ソルジャーの衣装にはボタンが無かった。
服を着るのに必要なものは、ファスナーとマントの留金だけ。
(効率優先…)
緊急事態に陥った時に、ボタンなんかをのんびり留めてはいられないから。とにかく速さが優先されてて、サッと上げられるファスナーだけ。
マントの留金はあったけれども、これはマントが外れないように別扱いで付けられたもの。見た目の問題とかじゃなくって、必要だったから付いてた留金。
あの衣装の何処にもボタンは無かった。
ソルジャーらしく、と仰々しいデザインになっていたけど、ボタンは無かった。
(ハーレイだって…)
キャプテンの制服にだって無かったボタン。
肩章まで付いた威厳たっぷりの偉そうな服も、ファスナーとマントの留金だけ。
長老たちの服もそれは同じで、他の仲間たちの制服も含めて、誰の服にも無かったボタン。ただファスナーを引き上げるだけの、着脱の早さが求められた服。
そんな調子だから、フィシスが着ていたロングドレスにさえもボタンは無かった。あれは色々と凝った服だったけれど、デザインした仲間の頭の中にはボタンなんてものは無かったんだろう。
普段、使わないものだから。
ボタンなんてもの、シャングリラの仲間たちが着ていた衣装に一つも付いてはいなかったから。
(最後にボタンを留めたのって…)
制服が出来る前のこと。ソルジャーの衣装が出来上がるよりも前。
もうずいぶんと遠い昔で、前のぼくが持ってた記憶の中でさえ、二百年では足りない昔。
(でもって、最初に留めたボタンは…)
そう、最初。
前のぼくが最初に留めていたボタン。
アルタミラの研究所で着せられた服にボタンは無くって、頭から被るだけだったから。
実験動物にお洒落なんかは必要無いから、着せておけばいいっていうだけの服。粗末だった服。それを長年着ている間に、服はどうでもよくなった。どんな服を着て生きていたかも忘れた。
だけど、アルタミラから脱出した船で見付けた服。
小さかったぼくにピッタリのサイズの服を探すのに苦労したけど、見付け出した服。それまでの服とはまるで違って、ボタンで留めるように出来ていた服。
ドキドキしながら、ワクワクしながらボタンを留めた。ボタンをボタン穴にそうっとくぐらせ、それで留まる服に胸が高鳴った。
こういう服が着られるようになったんだ、って。
いちいちボタンで留めなきゃならない手のかかる服を、これからは好きに着られるんだ、って。
留めていったボタンは自由の象徴。
被るだけの単純な服とは違って、一つ一つ留めていくボタン。
もう幸せでたまらなかった。
自由なんだって、ボタンを一つずつ留めて着る服を着られる自由を手に入れた、って。
(いつの間に忘れちゃったんだろう…)
初めてのボタンの幸福感を。
自由になったと、手間暇かけなきゃ着られない服を纏える時代がやって来たんだと幸せに酔った瞬間を。これからはずっと自由なんだ、と。
幸せ一杯で留めていたボタン。初めてのボタン。
それなのに、ぼくは忘れてしまって。
ボタンがあるって、それを留められる幸せってヤツも忘れてしまって、時が流れて。
ソルジャーの衣装に、ファスナーと留金だけの服に変わる時も、何も思いはしなかった。やはりスピードが大切だろうと、服の仕組みに納得していただけだった。
(人間って、慣れてしまうんだ…)
平和が続くと、幸せな時が続いてしまうと、慣れて何とも思わなくなる。
そういった日々は当たり前のことで、特別でも何でもないことなんだ、と日常に変わる。幸せを幸せだと思わなくなり、鈍感になってしまうんだ。これが普通だと、日常なんだと。
(あんなに幸せだったのに…。ボタン…)
前のぼくを幸せにしてくれたボタン。初めてボタンを留めた時に感じた幸福感。
すっかり忘れて、ボタンなんてものは見慣れたものになっちゃってたから。
ボタンの無い服が出来て来たって、これでボタンに「さよなら」なんだとは思わなかった。針の先ほどの寂しさも無くて、それが嫌だとも思わなくって。
今度はこういう服になるのだと、御大層な服だと考えただけ。
重たいマントまでくっついていると、やたら大袈裟で派手な衣装にされてしまったと。
ボタンが無いっていう事実よりも、そっちが問題だったぼく。
ソルジャーの衣装は目立ちすぎだと、もっと控えめで良かったのに、と。
(ボタン、パジャマには一応、あったんだけどね…?)
前のぼくが着ていたパジャマには、ボタンが付いてた。パジャマだから袖には無かったけれど。
だけどパジャマは眠る時に着替えるものだから。
ソルジャーの衣装を脱ぎ捨てて、お風呂に入って、其処で身に着けるものだから。
寝る時はこれだ、と思っていただけ。
何度ボタンを留めていたって、それを留められる幸せを感じはしなかった。
(それに…)
ハーレイに恋をして、恋が実って。
二人で一緒に眠るようになったら着なかったパジャマ。要らなくなってしまったパジャマ。
ハーレイの温もりに包まれていたから、パジャマなんか要らなかったんだ。大きな身体がぼくのパジャマで、すっぽりと包んでくれていたから。
そんなこんなで、今の今まですっかり忘れてしまっていた。
普段に着ている制服やシャツにボタンがあるという幸福。
一つ一つ留めていかなきゃならない、手間のかかる服を着られる幸せ。
(今のぼくの服、ボタンがくっついているんだよ…)
ボタン穴にくぐらせて留めるボタンが。
飾りに付いているんじゃなくって、必要だから付いているボタン。それを留めている時間が今のぼくにはたっぷりとあって、急ぐ必要なんか何処にも無くて。
(遅刻しそうになっちゃった時は別だけれどね?)
ゆっくりと留めていられるボタン。贅沢な時間を持っているぼく。
(ボタンを留めるのに時間がかかる、って考えたこともなかったくらいに時間が沢山…)
ぼくが自由に使える時間。好きに使っていい時間。
それが沢山あるって幸せに、ボタンのお蔭で気付いたぼく。幸せを思い出した、ぼく。
(こんな日にハーレイに会えるといいんだけれど…)
仕事の帰りに寄ってくれたらいいんだけれど。
もしも会えたらボタンの話をしなくっちゃ、と制服のシャツを勉強机の椅子に掛けておいた。
明日に着る分を出して、ボタンのついたシャツを椅子の背に。
ハーレイが来てくれますように、って祈ってからどのくらい経っただろう?
門扉の脇にあるチャイムが鳴って、窓に駆け寄ったらハーレイがぼくに手を振っていた。ママが門扉を開けに出掛けて、ハーレイをぼくの部屋まで案内して上がって来たんだけれど。
お茶とお菓子も持って来たけど、そのママが椅子のシャツに気付いて。
「あらっ、シャツ?」
どうして椅子に掛けてあるの、と訊かれて慌てて誤魔化したぼく。
明日の支度をしようとしていて、シャツのボタンが緩んでいたから付け直したと。畳み直したら皺になりそうだから、椅子に掛けておくことにしたんだ、と。
「あらまあ…。お洗濯していて気付かなかったわ、ごめんなさいね」
畳む時にも気付かなかったわ、ってママは謝って部屋を出て行った。
(ママ、ごめんなさい…!)
ホントはボタンなんか全然、緩んでいなかったのに。
ママがきちんと綺麗に畳んで、仕舞っておいてくれたのに…!
ぼくが心の中でママに必死に謝ってるなんて、ハーレイはまるで知らないから。
言い訳がホントだと信じているから、紅茶のカップを傾けながら。
「そうか、ボタンを付け直したのか…。お前、今度は器用だからなあ、サイオンはともかく」
上手に裁縫が出来るってことは実に立派だ、前のお前と違ってな。
「前のぼくのことは言いっこなし!」
「しかしだ、現に前のお前は俺の制服のほつれさえも上手に直せやしなかったろうが」
俺が笑ったらむきになって、意地になっちまって。
縫い目も針跡も無いシャツを作って俺にプレゼントしてくれたよな?
覚えているか、前のお前が作ったシャツ。
スカボローフェアだ、あの歌に出て来る亜麻のシャツだ。
パセリ、セージ、ローズマリーにタイムって歌だ、スカボローフェアは。
そういうシャツを作っていたろう、不器用だった前のお前は…?
これが藪蛇って言うんだろうか?
前のぼくの裁縫の腕の不器用さを思い出されてしまったけれども、今日の話題はそれじゃない。前のぼくが作ったスカボローフェアに出て来るシャツじゃなくって…。
「えーっと…。あのシャツ、ホントはボタンが違って…」
「はあ?」
違うボタンを付けてあるのか、制服のシャツはボタンも一応、指定だぞ?
まあ、パッと見た目に分からないなら問題無いが…。指定のボタンが家にあるとは限らんし。
「そうじゃなくって…。ボタンを覚えておくために掛けてあったんだよ」
シャツにはボタンが付いているから忘れないよね、って。
制服のシャツにボタンはセットのものでしょ、ボタンで留めなきゃ着られないから。
あのね、とハーレイに話したぼく。
ボタンがあるって幸せだよね、って。
「ぼくの制服のシャツも、今、着てるシャツもボタンなんだよ」
着るのにとっても手間がかかるよ、ボタンを一つずつ留めていくんだから。
ファスナーだったら引き上げるだけで、多分、ボタンの一個分だよ、かかる時間は。
そういう風に手間のかかる服を毎日、毎日、着ていられるって幸せじゃない?
「なるほどなあ…」
確かにそうだな、俺も毎朝せっせと留めているくせに気付かなかったぞ。
その上、服と柔道着とを何度も着替えたりしているのにな。
柔道着にボタンは付いていないが、シャツの方には沢山ボタンが付いているなあ、袖口にまで。そいつを全部留めてる間に、キャプテンの制服なら上着の上からマントを羽織っていられるな。
そう思うと実に優雅なもんだな、たかがシャツでも。
「ね、そうでしょ?」
幸せでしょ、手間が沢山かかる服を普段に着ているなんて。
時間がかかると思いもしないで、ボタンを幾つも留めていられる毎日だなんて。
「うむ」
考えたことも無かったなあ…。
今の俺が毎日のように着ているシャツがだ、時間ってヤツをたっぷり使って着るものだとは。
時間を贅沢に使っているとは、今の今まで思いも気付きもしなかったなあ…。
凄い所に気が付いたな、ってハーレイはぼくを褒めてくれた。
前の自分だって忘れていたと、着るのに手間と時間とがかかるボタンの幸せを忘れていた、と。
「お前、なかなか鋭いぞ。ボタンを留めてて思い出すなんて、俺の年ではもう無理かもな」
今の俺の身体で三十八年も生きちまってるし、お前のようにはいかんかもしれん。
平和ボケが酷いと言ってしまえばそれまでだが。
しかし、ボタンか…。
今度のお前はボタンよりももっと手間がかかる服を着られるぞ。
前のお前にとっては夢みたいな服を、きっと思ってもみなかった服を。
「なあに、それ?」
どんな服なの、ボタンよりも手間がかかるって…?
「花嫁衣裳さ」
ウェディングドレスってヤツを着るには、準備が沢山要るんだぞ?
専用の下着を着けるトコから始まるらしいし、そう簡単には着られないってな。
「あっ、そうか…!」
ドレスのスカート、ただ着ただけでは膨らまないよね。
きっと色々必要なんだね、ドレスのデザインに合わせたものが。
ホントにボタンよりも手間がかかりそう…。肝心のドレスに辿り着く前に。
着る前に準備が必要だっていうウェディングドレス。
一つ一つボタンを留めるどころか、特別な下着まで着ないと着られないドレス。
前のぼくには夢見ることさえ出来なかった「お嫁さん」になるために、今度のぼくは花嫁衣装を着ることになる。うんと手間暇がかかるドレスを、ボタンどころじゃないドレスを。
「前のぼく、ウェディングドレスを着られる日なんて考えたこともなかったよ…」
ハーレイと結婚出来やしないし、そんな夢なんて見られなかった。
ウェディングドレスなんかホントに一度も、ただの一度も想像したことがなかったよ…。
「まあ、シャングリラに豪華なウェディングドレスは無かったんだが…」
今度のお前は着るんだからなあ、どうせだったらボタンで背中を留めるドレスを誂えるか?
俺の友達の結婚式で見たことがあるんだ、そりゃあ沢山の真っ白なボタンが並んでいたさ。
嫁さんのこだわりだったらしくて、わざわざ説明があったんだ。
もっとも、そいつを聞かせたかった相手は俺じゃなくって、嫁さんの女友達だろうがな。
「あははっ、そうだね!」
ハーレイにドレスを自慢したって、全然意味が無いものね。
ぼくがボタンって言い出しちゃったし、もしかしたら役に立つかもだけど。
「うむ。ああいうドレスを作るんだったら、その時は尋ねてみてもいいなあ、何処で作ったか」
背中にズラリと白いボタンだ、幾つ留めたらウェディングドレスを着られるんだか…。
あんなドレスも手間がかかるが、俺のおふくろも着ていた白無垢。そっちも着るのに凄い時間がかかるらしいし、お前はどっちを着てみたい?
「ボタン沢山のドレスか、白無垢?」
どっちがいいかな、どっちが余計に幸せな気分になれるかな…?
「さあな…?」
その時になったら悩めばいいさ。
白無垢にするか、ドレスにするか。
どうせお前はボタンの幸せなんぞは忘れちまって、デザインだけで選ぶんだろうし。
もし奇跡的に思い出したら、ボタンがズラリと並んだドレスになりそうだがな。
背中に一杯、真っ白なボタン。
ハーレイの話じゃ、白いボタンはドレスとおんなじ布でくるんであった、っていう。白い共布でくるんだボタンが飾りみたいに背中に行列してたんだって。
ボタンの幸せを、ボタンを留められる幸せってヤツを、結婚する時に思い出したら。
花嫁衣装を選ぼうって時に思い出せたら、そういうドレスを選ぶのもいい。
今度のぼくには時間が一杯、こんなに沢山のボタンを留めなきゃいけないドレスを作ってお嫁に行ける、って。背中に並んだ真っ白なボタンの行列みたいに、幸せも行列してるって。
次から次へと途切れない幸せ、ズラリと行列している幸せ。
ボタンの幸せがうんと膨らんで列になったと、今度のぼくの幸せはホントに行列なんだ、って。
ハーレイに「ボタンの幸せの行列なんだよ」って話したら、「気が早いヤツだな」って呆れ顔をされてしまったけれど。「思い出せるとは限らないぞ」って額を指で弾かれたけれど。
思い出せたら、そういうドレス。背中にボタンが一杯のドレス。
「ハーレイ、ぼくが思い出せたら、そのドレスを着てたお嫁さんに訊くのを忘れないでよ?」
何処で作ったドレスだったか、何処で注文出来るのか。
ぼくは絶対、そういうドレスを着たいと思っているんだから…!
「分かった、分かった。ちゃんと訊いてやるさ、お前が着たいと言うのならな」
ボタン一杯のウェディングドレスで嫁に来い。
幸せが行列でやって来るという凄いドレスなんだろ、今度のお前にピッタリだしな。
うんと幸せになるといい、ってハーレイは約束してくれた。
途切れない幸せの行列が来るよう、ボタンびっしりのウェディングドレスを着ればいい、って。
「お前を今度こそ幸せにするのが俺の夢だし、ウェディングドレスも注文どおりにしないとな」
欲しいと言われたドレスのためなら、土下座したってあの友達から聞き出してやるさ。
そういう未来の話もいいがだ、これから寒い冬になったら。
重ね着できるぞ、何枚もな。
そいつも前の俺たちには縁が無かったものだろ、一年中、同じ制服で。
「ホントだね」
シャングリラの中の公園とかでは四季を調整していたけれど。
制服は年中おんなじだったね、夏服も冬服も無かったものね。もちろん、薄着も重ね着だって。
シャングリラの公園の四季は穏やかなもので、冬の季節でも寒すぎるなんてことは無かった。
だから無かった、重ね着なるもの。
前のぼくも含めて、誰一人として「冬だから」って服を何枚も重ねた人はいなかった。
だけど今度のぼくは違って、冬になったら色々と着る。手袋やマフラーも着けたりしてる。
そう言ったら、ハーレイは「手袋もいいが…」って笑みを浮かべて。
「何枚も重ね着して着ぶくれてみるか、可愛いぞ、きっと」
コロコロと丸くて、転がりそうで。そういうお前も見てみたいような気がするな。
「どうせ何処へも行けないじゃない!」
丸くなってる、って笑うだけでしょ、ハーレイが!
「そうでもないさ」
俺が来る日に雪がドッサリ積もったなら。
庭で雪遊びくらいは付き合ってやる。雪合戦なんかはとても無理だが、雪だるまとかな。
「ホント!?」
ハーレイ、ホントに付き合ってくれるの、雪遊び?
庭で一緒に雪だるまとかを作ってくれるの、ハーレイが?
本当に、って念を押したら、ハーレイは「ああ」と頷いてくれた。
「だからだ、お前、風邪には用心しろよ?」
風邪で寝込んで遊べません、なんてことにならないようにな、肝心の時に。
「うんっ!」
遊んだ後にも風邪を引かないよう、ちゃんと暖かくして外に出るから。
ハーレイに「丸くて転がりそうだ」って言われそうでも、しっかり重ね着。
「よし。お前がきちんと重ね着したなら、雪遊びに外へ出て行く時にだな…」
マフラーくらいは俺が巻いてやるさ、仕上げにな。
「えっ、ハーレイが巻いてくれるの?」
「お前がいい子にしていれば、だがな」
「…いい子?」
「うむ。子供の世話は大人が責任を持ってしてやらないとな」
外に行くなら、寒くないようマフラーをぐるぐる巻き付けてやる。子供の世話の基本だろうが。
「恋人じゃないの?」
其処で子供なの、恋人の世話をするんじゃなくて?
「お前、チビだろ?」
チビは子供だと思ったが?
だからキッチリ面倒を見るさ、マフラーをしっかり巻いてやってな。
チビだと決め付けられちゃった、ぼく。
酷い、と膨れっ面になったけれども、唇を尖らせちゃったけれども。
(でも、ハーレイがマフラーを巻いてくれるんだよね?)
そんな日が来るなんて、前のぼくは夢にも思っていなくて、想像すらもしなかったから。
この際、いい子でチビ扱いでもかまわないか、って気がしてきた。
前の生では服に付いてはいなかったボタンに、出来なかった重ね着。
だけど今ではボタンは当たり前のように服に付いてて、冬になったら重ね着が普通。
そういう世界でハーレイと会えて、二人で歩いて行くんだから。
いつかは結婚出来る世界で、未来へ歩いて行くんだから。
今はいい子でチビ扱いでもかまわない。
チビのぼくでも、きっといつかはウェディングドレスのお嫁さん。
大好きなハーレイのお嫁さん。
もしも、その時に覚えていたなら、ボタンを留められることの幸せを鮮やかに思い出せたなら。
背中に真っ白なボタンの行列、ボタンで留めて着るウェディングドレス。
ボタンの幸せが途切れないドレスでお嫁に行くんだ、ハーレイと一緒に暮らす家へと…。
ボタンの幸せ・了
※ソルジャーの服には無かったボタン。効率だけが優先されて。けれど今ではボタンのある服。
ゆっくりとボタンを留めてゆける幸せ。ボタン一杯のウェディングドレスも素敵そうです。
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(駄目だあ…)
今日もダメだ、と大きな溜息をついた、ぼく。
ベッドに入る前にちょっとだけサイオンの練習を、と思ったけれども、今夜も駄目。ぼくの隣にクローゼット。ハーレイと出会って間もない頃に、鉛筆で微かな印を付けたクローゼット。
(ぼくの目標も遠いけど…)
書いてある線は床から百七十センチの所にある。前のぼくの背丈と同じ高さに。
其処まで育てばキスを許してやる、って言ったハーレイ。育たないと絶対、出来ないキス。その約束をさせられた日に、測って付けた小さな印。ぼくの目標。
だけどそれから一ミリも育ってくれない背丈は、今も百五十センチのままで。
(おまけに、サイオン…)
とことん不器用になってしまった、ぼくのサイオン。タイプ・ブルーとも思えないレベル。思念すら上手に紡げやしないし、瞬間移動だってまるで出来ない。
クローゼットに付けた印の高さまでヒョイと浮き上がることも実は全く得意じゃない。あの印を書いた日は気分が高揚していたんだろう、「ここまでだよ」って浮き上がれたのに。
ぼくの背丈が百七十センチになったら視点がどうなるか、何度だって浮いて確かめられたのに。
(今日も浮けない…)
全然、身体が浮き上がらない。足でジャンプした方がマシなんじゃあ、っていう感じ。その上、思い通りのタイミングで浮いてもくれないし…。
(ホントにあの日が特別だったんだ…)
前のぼくの視点の高さで見下ろせた床とか、見回した部屋の中だとか。
あの日が奇跡。あの時が奇跡。
練習したって再現不可能、たまに偶然、印の高さまで浮けるけれども、ホントに偶然。浮いたと喜んだ次の瞬間、ストンと落ちていたりもする。
前のぼくと同じ高さの背丈になれる日も遠いけれども、サイオンを扱えるようになる日も遠い。遠いどころか、永遠に来ないような気もする、不器用なぼく。
(印を付けた日だけが特別…)
きっとあの日は、勢いだけで出来たんだ。
この高さまで育ったらハーレイとキス、って胸がときめいて、ドキドキしてて。
サイオンは精神の力なんだし、そういう時には普段よりも強くなるんだろう。
(特別で偶然…)
意識してやれることじゃなくって、意識していないから出来たこと。
ハーレイの家まで瞬間移動で飛んで行っちゃった時と同じで。
メギドの悪夢が怖くて怖くて、泣きながら眠って、知らない間にハーレイのベッドまで瞬間移動しちゃった時と同じで、無意識の産物。
つまりはサイオンを自由に操れない、ぼく。前のぼくのようにはいかない、ぼく。
(とことん、不器用…)
タイプ・ブルーには違いないけど、名前だけ。サイオン・タイプがブルーなだけ。
最強のくせに、他のタイプの友達にだって敵いやしない。グリーンもイエローも、レッドにも。
ロクになんにも出来ない、ぼく。
思念波も駄目ならシールドも駄目で、もちろん空なんて飛べるわけがない。
前のぼくなら呼吸するように簡単に出来たことが一つも出来やしなくて、標準以下。サイオンのレベルを測定されても「危険なし」って出る、人畜無害な今のぼく。
(喧嘩でウッカリ使っちゃっても、怪我もさせられないっていうレベル…!)
怪我と言ったら派手に聞こえるけど、ここで言う怪我は掠り傷。
サイオンが当たって掠り傷だとか、衝撃で転んで掠り傷とか、そんなことさえ起こさない。前のぼくなら指を触れもせずに戦闘機だって落とせたのに。
ぼくの見た目は前のぼくの小さな頃にそっくり、育ってもきっと、前のぼくと同じ。
遺伝子レベルだと違うだろうけど、基本的には前とおんなじ器のつもり。
なのに不器用、サイオンを上手に扱えないだなんて…。
(これって器のせいなんだろうか?)
何処かがちょっぴり、前のぼくとは違っているとか。
遺伝子の配列のたった一ヶ所、それが違うだけで大きく変わってくるかもしれない。見た目には前と同じに見えても、中身の違い。そうだとしたら、ちょっと悔しい。
もっと器用な身体に生まれていたなら、サイオンだって自由自在で。
ハーレイの家に行きたいな、って思ったら一瞬で飛んで行けてしまって、帰りも楽々。
(そんな身体だったら良かったんだけど…)
器用な身体に生まれたかった、って思ってしまう。
でも、どうだろう?
相手はサイオン、精神の力。
器が違えば扱える力も違ってくるのか、器なんかはまるで関係無いのか。
その辺のことは生まれ変わって来た人の例が無いから、分からない。
もしも生まれ変わりの先達がいたら、前に比べてどうですか、って訊けるのに…。
そういった人の体験談を元に、データでもあれば分かるのに…。
生まれ変わりの前例なんか無いから分かんないや、って思ったんだけど。
自分の器を、身体を別のと取り替えて魂を移した人なんか無いし、と思ったんだけど。
(あっ…!)
すっかり忘れてしまっていた。魂を移す、ってことを考えた途端に蘇った記憶。
前のぼくが夢に見ていたこと。
魂と器って関係について、描き続けた壮大な夢。
きっといつかは、って。
いつか実現出来るといいのに、って。
前のぼくの夢。
叶うならば、と抱いていた夢。
(身体っていう器が無くなったなら…)
魂が入った身体という器。前のぼくの魂を縛っていた器が身体というもの。
思念体という形では抜け出せるけれど、戻って行かなきゃならない器。離れるわけにはいかない器。それを離れたら死んでしまうし、思念体になって行ける範囲は限られていた。
思念体でもサイオンは充分使えるけれども、制約ってヤツが多すぎたんだ。身体を出てから戻るまでの時間とか、身体から離れていられる距離とか。
(あれが不自由だったんだよ…)
もう少し、と心で思っても越えられない壁。決して越えてはならない壁。
その壁が消えてしまったならば、と思い描いた。
魂を縛る肉体を失くしてしまったならば。魂が身体から切り離されたら。
それは前のぼくの死を意味するけれども、肉体の死を迎え、魂が自由になったなら。
(身体に戻る必要なんかが無くなったら…)
思念体であった時と違って、何処へでも行けるんじゃないかと思った。
広い宇宙を何処までも飛んで、時間も空間も、もう意味が無くて。
心の赴くままに飛んで、飛び続けて、もしかしたら焦がれた地球へまでも。
(人類全部にメッセージを送ることだって…)
魂を縛る器が無いなら、サイオンも無制限に、無限に広げて全宇宙にぼくのメッセージを。
ミュウと人類とは兄弟なのだと、手を取り合って生きられる筈だと呼び掛けたかった。
誰の心にも等しくメッセージを届けられたなら、きっとミュウへの思いも変わる。思念波ならば誤解は生まれないから。正しく理解して貰えるから。
心と心での対話になるから、どんなに機械が干渉したって、人は人同士で分かり合える。機械による支配を崩すべきだと、ミュウを受け入れようと思って貰える。
(心に直接語り掛けたら、前のぼくの思いも願いも人類側に伝わる筈だったんだよ)
だから伝えようと、いつか伝えたいと思い始めた。
肉体の死を迎えたならば。魂が身体の枷を離れて自由に飛翔出来たなら。
その時が来るのをぼくは夢見て、いつか必ずと熱く願って。
溢れる思いを抑え切れずに、友達だったハーレイに披露した。
まだ恋人同士ではなかったハーレイ。一番の友達だったハーレイ。
青の間を訪ねて来てくれた時に、頬を紅潮させて話した。
ぼくの夢だよ、って。
誰にも話していないけれども、君だけは笑わずに真面目に聞いてくれるよね、って。
「ねえ、ハーレイ。いつか、ぼくが死んでしまったら…」
魂が身体から解き放たれて、何処までも飛んでゆけるようになったなら。
ぼくの思念を宇宙全体に大きく広げて、人類に向かってメッセージを送ってみたいんだ。
ミュウと人類とは兄弟だよ、と。怖くなんかないと、分かり合えると。
思念で送ったメッセージならば、人類の心にも上手く届くと思わないかい?
心と心が触れ合うんだから、誤解なんか決して生まれやしない。
まるで神様のお使いになったみたいに、ミュウと人類とを繋げそうな気がしているんだよ。
やってみないと分からないけれど、これがぼくの夢。
それを思うと、少し楽しみになってくるかな、死んでしまう日が。
「ブルー。本気で仰っているのですか?」
死んだ後のことが楽しみだなどと。
いつか死んだらそれをしようと、その日が来るのが夢だとあなたは仰るのですか?
確かに、そういうことが出来たら。
我々は逃げ隠れする必要も無くなり、人類と共に生きてゆける日が来るのでしょうが…。
その日を見ないで、あなた自身が死んでしまってどうするのです?
いくらあなたが成し遂げた偉大なことであっても、その時、あなたは何処にもいない。
それで満足だと仰いますか?
ミュウの未来さえ拓くことが出来れば、ご自分の命は失くしてもいいと?
ハーレイはぼくが話した夢を笑いはしなかったけれど、眉間に皺を刻んで怒った。
してはならないと、そんな夢など描いていてはならないと。
恐ろしいほど真剣な瞳で叱られ、二度と夢など見るなと言われた。
死んでどうすると、生きてこそだと。
ミュウと人類が手を取り合った時に、其処に居なくてどうするのだと。
ぼくは名案だと思っていたのに。
この夢が叶えば、ミュウの未来は明るいだろうと思っていたのに…。
(だけど…)
いつの間にかハーレイに恋をしていて。
気付けばハーレイに恋をしていて、ハーレイの背中を見詰めていた。
アルタミラから脱出した後、チビだったぼくがくっついて歩いたハーレイの後ろ。大きな背中。
其処に戻りたいと、ハーレイの後ろに戻りたいのだと願い始めて、恋だと気付いて。
その恋が実って、ハーレイの背中の後ろじゃなくって、腕の中がぼくの居場所になった。逞しい腕に抱き締められて、すっぽりと包まれる広い胸の中。いつだって温かかったハーレイの胸。
(あの腕の中で過ごして、一緒に眠って…)
訪れた、幸せでたまらない時間。ハーレイと二人、恋人同士のキスを交わして、愛を交わして。
誰よりも愛する人が出来たら、死にたくなんかなくなってしまった。
死んだらやりたいと夢見たことも忘れてしまって、死というものさえ遠く感じて。
いつまでもハーレイと二人だと思った。ずうっと二人で生きてゆくのだと、離れはしないと。
そうして幸せに包まれていたのに、時の流れは残酷なもので。
見た目はともかく、本当はハーレイよりもずっと年上だった前のぼく。
少し体力が落ちたような、と感じた時には死に向かって歩き始めていた。指の間から零れ落ちてゆく砂粒のように失われていった持ち時間。ぼくの身体が生きて動いていられる時間。
それの残りが少なくなった、と悲しい現実を突き付けられた。ある日、突然。
(…ホントに突然だったんだよ…)
一時的な体力の低下ではなくて、この先は落ちる一方なのだと自覚させられた運命のあの日。
ぼくの寿命が尽きてしまうと分かった日の夜。
ハーレイに縋って泣きじゃくった、ぼく。
死にたくないと、ハーレイと離れたくないと。けれども死んでしまうのだ、と。
「大丈夫ですよ、ブルー。私が側に居ますから」
お一人で逝かせはしませんから、と背中を優しく撫でられ、涙を拭われて安心した。
ハーレイと一緒なんだ、って。
たとえ死神に捕まったとしても、ハーレイも一緒に来てくれるんだ、って。
ハーレイの腕の中、抱き締められて慰められて、いつまでも一緒だと確かめ合って。
死でさえもぼくたちを引き裂けやしない、と安堵の涙を流していた時。
ぼくの中にはとっくに無かった。何処にも残っていなかった。
恋をする前に持っていた夢。
死んでしまったら地球へまでも飛んで、ミュウと人類との絆になる夢。
いつか魂が身体を離れたならば、と抱いていた夢は欠片もありはしなかった。
すっかり忘れてしまっていた。
そんな夢を抱いていたことさえも。いつかはと夢を見ていたことも。
(恋をしちゃうと駄目なんだろうか…)
人は弱くなってしまうのかもしれない。心が弱くなるのだろうか。
一人きりで生きていた時より、二人で生きるようになった時の方が。共に暮らしている方が。
いつも互いに支え合っているようなものなのだから。
二人だったら何でも出来ても、一人では何も出来なくなるとか。
抱き合っていれば、手を握り合っていれば強いけれども、離れてしまえば無力だとか。
(そうなのかも…)
メギドで独り、泣きじゃくりながら死んだぼく。
ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、ただ独りきりで。
悲しくて寂しくて、泣きながら死んだ。
もう会えないと、ハーレイには二度と会えないのだと。
あの時、あの夢を持っていたなら。
肉体という魂を縛る器が消えた時には地球へまでも飛ぼうと、宇宙の果てまでも思念波に乗せて思いを伝えてミュウと人類との懸け橋になろうという夢を失くしていなかったなら。
全ては変わっていたんだろうか…?
前のぼくの思いは宇宙に広がり、ミュウと人類とは手を取り合えていたんだろうか…?
(まさかね…)
いくら前のぼくのサイオンが強くて、自由自在に扱えていても。
其処までの力は無かっただろう。
身体を離れても、肉体の枷から解き放たれても、きっと無かった。
かつて持っていた壮大な夢を叶えられるほどの力は無かったと思う。未来を変えるほどの力は。
(夢は夢だよ)
前のぼくは夢を忘れたままで死んでしまったから、それは数には入らないとしても。
あれから今までの長い長い時の流れの中、何人ものタイプ・ブルーが生まれては、死んで。
タイプ・ブルーも珍しくはない時代が来たけど、それほどの人数が生きては死んでいったけど。
死んでしまった後に強かった人の話なんかは知らないから。
身体という器を失った後に、この世の中に影響を与えた人の例なんかは一つも無いから。
仮に前のぼくが夢を忘れていなかったとしても、夢は夢だったと思うんだ。
前のぼくは夢を叶えられはせず、ただ消えていっただけなんだろう、と。
だから…。
(ぼくがハーレイに恋をしたのは…)
間違いじゃないよね?
そのせいで夢を忘れちゃったけれど。
忘れたどころか思い出しもせずに、泣きながらメギドで死んじゃったけれど。
(ミュウの未来と幸せだけは、それでも祈っていたけれど…)
死ぬ間際まで忘れはしなかったけれど、夢はすっかり忘れ果てていた。
身体を離れたら地球へまでも飛び、宇宙に広く思念を広げてミュウと人類とを結ぶ夢。
(あの夢を覚えていたとしたって、きっと役には立たなかった筈…)
何の役にも立ちはしなくて、死の世界へと旅立っただけだと思うんだけれど。
それなのに、怖い。
やっぱり、怖い。
ぼくが忘れていなかったなら…、って。
ミュウと人類とが争うことなく手を握り合う千載一遇のチャンスを無駄にしたかも、って。
(ぼくのせいなの…?)
もしも覚えていて、メッセージを送っていたならば。
戦いは無くて、誰も死なずに全てはナスカで終わっただろうか。
ナスカが燃えてメギドが沈んだ戦いを最後に、ミュウと人類とは共存の道を歩んだだろうか。
(あんな夢、前のぼくしか持ってはいないよ…)
その上、前のぼくが一番最初に死んでしまったタイプ・ブルーで、あの時が歴史の一つの節目。
もしもあの夢を持っていたなら、叶えていたなら全ては変わった。
恋をしちゃいけなかったんだろうか、前のぼくは…?
ハーレイに恋をしなかったならば、未来は変わっていたんだろうか…?
(どうなの、ハーレイ?)
訊きたいけれども、ハーレイはいない。
まだ眠ってはいないだろうけど、何ブロックも離れた所にある家の書斎か、寝室に居るか。
思念波だって届きやしない。
今の時代は誰もがミュウになっているから、家などには思念波を遮る仕組みが施されているし、ぼくのサイオンが不器用でなくてもハーレイの家に届くような思念は紡げない。
ハーレイが起きていたって無駄。ぼくの疑問をぶつけられないなら無駄でしかない。
(ずうっと昔は…)
SD体制が始まるよりも遥かな昔は、こんな夜中でも声を届けたり聞いたり出来る便利な機械があったって言う。一人一人がそれを持ってて、好きな時に会話が出来たんだ、って。
だけどその機械はSD体制に入ると同時に無くなった。マザー・システムが統治し易いように。人同士が密に連絡を取り合い、結束されたりしないように。
そうしてSD体制が崩壊した後も、いつでも何処でも会話が出来た機械は復活しなかった。
人は人らしく、出来るだけ互いに顔を合わせて話をするのが望ましい、って。
それは分かるけど、ミュウの力…。
特徴だったサイオンの力、思念波でさえも連絡手段に使うことが出来ない世界だなんて。
ハーレイの声を聞きたくてたまらない時に、意見を聞かせて貰いたい時に連絡の取りようが無い世界だなんて、平和だけれども、ちょっぴり寂しい。
(前のぼくなら…)
夜中でも怖い夢を見てうなされたりした時は、ハーレイがそうっと起こしてくれた。
夢が悪い方向へ転がらないよう、思念で、力強い腕で支えて目覚める方へと導いてくれた。あの頃のぼくが見ていた悪夢は、アルタミラで暮らした孤独な檻。過酷に過ぎた人体実験。
それは夢だと、過去のものだとハーレイは優しく抱き締めてくれた。
怖くなくなるまで、ぼくが眠るまで側でずっと起きていてくれた。
(そういうのも全部駄目だったの…?)
恋をして、ハーレイと毎晩一緒に眠って。
側に居て貰って、うんと幸せで、満ち足りていた二人で過ごした時間。
そんなものも全部、本当はいけないことだったの…?
(だからメギドで…)
冷たく凍えた、ぼくの右の手。
最後まで持っていたいと願った、ハーレイの温もりを失くした右の手…。
あれは神様の罰だったろうか?
ミュウと人類の間を取り持つ唯一のチャンスを、大切な機会を忘れ果ててしまったぼくへの罰。それを忘れて、夢を忘れてハーレイとの恋に溺れたぼくへの神様の罰。
忘れたお前がいけないのだ、と。
すべきことすら忘れ果てた者にはもう恋人など要りはしないと、それが諸悪の根源なのだと。
恋さえしなければ夢を忘れず、肉体という器の枷を離れて大きく羽ばたいていただろうに、と。
(そんなの怖い…)
ぼくの恋が間違いだっただなんて。
死んだ後のことを夢見て生きるべきだったのに、恋に溺れて道を踏み誤っただなんて。
(間違いじゃなかったと思いたいけど…)
ハーレイは「生きてこそだ」って怒ったんだし、ぼくは間違ってはいなかったと思う。死んだらおしまい、生きてこそだと、ハーレイと一緒に生きた前の生は正しかったと思うけれども。
それを改めて確かめたくても、ハーレイはいない。
今のぼくの側にハーレイはいなくて、訊きたくってもぼくの声さえ届きやしない…。
ぐるぐると考えたままでベッドに入って、でも、眠れなくて。
怖くて怖くて震えていたのに、いつの間に眠ってしまったんだろう?
気が付いたら朝で、珍しくぼくは昨夜の出来事を覚えていた。
怖かったことを。
前のぼくの恋は間違いだったんじゃないかと、怖くてたまらなかったことを。
(そうだ、土曜日…!)
昨夜はあまりの怖さにすっかり忘れてしまっていたけど、今日は土曜日。ハーレイが朝から来てくれる日で、一緒に過ごせる筈だから。
(訊いてみよう、ハーレイに!)
前のぼくは取り返しのつかない過ちを犯して死んでいったのか、そうじゃないのか。
恋をして夢を忘れちゃったことは、とてつもない間違いだったんじゃなかったろうか、って。
そして、訪ねて来てくれたハーレイに話した。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせの指定席。鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
前のぼくの恋は間違っていたんだろうか、って。
「ぼくの右手、罰が当たったのかも…。ハーレイに恋をしちゃったから」
夢を忘れたままで死んでしまって、何の役にも立たずに終わってしまったから…。
ミュウと人類を繋ぐチャンスをふいにしたから、恋なんかもう要らないだろう、って神様の罰で冷たく凍えてしまったのかも…。
「馬鹿」
「えっ?」
いきなり馬鹿だなんて言われて、やっぱり間違いだったのかも、って一瞬、思った。
だけどハーレイの目はとても優しくて、咎めるような目つきじゃなくて。
「間違ってないさ」ってハーレイの手がぼくの頭をクシャリと撫でた。
自信を持てって、前の自分に自信を持ってやれ、って。
「いいか、お前は何も間違えてはいないんだ。ソルジャー・ブルーは間違えてないさ」
恋をしたことも、夢を忘れてしまったことも。
何もかもお前は間違えちゃいない、前のお前は間違ったことはしていないんだ。
前の俺が言った言葉を覚えていないか、生きてこそだ、と。
夢を忘れてしまったお前は懸命に生きて、シャングリラを、前の俺たちを必死に守り続けて。
生きていたから、死んだ後の夢なんて見ちゃいなかったから、お前は強かった。
死んだ後に夢を託していたなら、もっと早くにお前の命は消えてしまっていただろう。
生きるってことに貪欲でなけりゃ生き残れないし、ナスカまで持ちはしなかったさ。
そうしてお前はナスカまで生きて、メギドに飛んで。
お前の命と引き換えになったろ、ミュウの未来も今の青い地球も。
それでいいんだ、それ以上は誰も望まない。
お前は堂々としてればいいのさ、間違えたなんて思わずにな。
「ホント…?」
ぼく、神様に叱られない?
ハーレイに恋をして夢を忘れてしまっていたこと、神様は怒っていらっしゃらない…?
「ああ。心配無用だ、神様は其処まで厳しいことは仰らない」
恋もしないで、ミュウのためだけに生きろとまでは決して仰らないさ。罰を当てたりもな。
前のお前は充分にやった。お前でなければ出来ないことを全力でやって生きただろう?
シャングリラを、俺たちを守り続けて、メギドを沈めて。
そんなお前がもしも間違っていたんだったら、今、こうして俺と地球にはいないさ。神様の罰が当たってしまって、地球に来るどころか何処へ行ったやら…。
俺とも会えないままなんだろうな、永遠にな。
罰っていうのは、そういうもんだ。いい人生なんか貰えやしないぞ、神様の罰が当たったら。
「ハーレイ、それ…。信じてもいい?」
前のぼくは間違っていなかった、って。
恋をしたけど、夢を忘れてしまっていたけど、間違った生き方はしていない、って…。
「もちろんだ。間違ってなんかいなかった証拠に、お前が此処に居るってことさ」
俺と一緒に、青い地球の上に。少々チビだが、前のお前と同じ姿で。
最高の御褒美ってヤツを下さっただろうが、神様は。
今度こそお前の恋を本当に叶えて、ちゃんと幸せになれるようにと。
前のお前みたいに秘密にしないで、結婚して俺といつまでも一緒に暮らせるようにな。
だから心配なんか要らない、ってハーレイはぼくを抱き締めてくれた。
こっちへ来い、って膝の上に乗せて。
前のぼくはなんにも間違えちゃいないと、恋をしたことも、夢を忘れてしまったことも。
(あったかい…)
ハーレイの腕も、広くて逞しい胸も温かい。
前のぼくが夢を忘れてしまった、とても幸せな腕の中。うんと優しい温もりの中。
(こういう時にキスが出来たら…)
ほんの触れるだけのキスでいいから、ハーレイとキスを交わせたら…。
だけど背丈が足りない、ぼく。キスをするには背丈がまだまだ足りない小さなぼく。
ハーレイとキスが出来ないことが残念で、ちょっぴり悔しくなるんだけれど。
こうしてハーレイと二人、地球に居ることが神様のくれた御褒美だったら、そのくらいは我慢をしようと思う。キスが出来ないことくらい、我慢。
罰が当たったら困るから。
この欲張りめ、って罰を当てられちゃったら困るから。
恋をしちゃって、大事な夢を忘れたぼく。
死んだらミュウと人類を繋ぐ懸け橋になろうと夢見ていながら、忘れてしまった前のぼく。
魂が身体を離れて自由になったらそれをするのだと思っていたくせに、忘れたぼく。
そんなぼくでも許して素敵な御褒美をくれた、神様に叱られないように…。
恋と忘却・了
※前のブルーが恋をする前、「いつか死んだら」と考えた、ミュウと人類の架け橋になること。
けれど恋をして、それを忘れて…。その罰が当たったかと恐れるブルー。大丈夫ですよね。
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(うーむ…)
書斎でコーヒーを飲んでいた最中、短く呻いた。
今日はブルーの家に寄って来たから、いつもより遅めの寛ぎの時間。夜更けと呼ぶにはまだ少し早いかもしれなかったが。
大きなマグカップにたっぷりと淹れた熱いコーヒー、それに心を解き放っていたら。
不意に脳裏に蘇って来た、ブルーの声。小さな恋人が愛らしい声で紡いだ言葉。
「キスしてもいいよ…?」
桜色の唇が歌うように言った。
キスしてもいいよと、キスしていいよ、と。
(俺としたことが…)
油断していたら、久しぶりに食らった可愛い攻撃。禁止してあるキスを強請る言葉。
「キスして」ではなくて、「キスしてもいいよ」。
本当は自分がして欲しいくせに、ハーレイを誘おうとしている殺し文句。
小さなブルーを膝の上に乗せて甘えさせていたら、その唇から飛び出して来た。いきなりに何の前触れも無く。それは愛くるしい笑みを浮かべて。
(だんだん知恵がついて来やがって…!)
出会った頃には嫌というほど聞かされた言葉。
駄目だと叱っても、しかめっ面をしても、会う度に何度もキスを強請られた。時には首に両腕を回し、一人前の恋人気取りで目を閉じたりして。
そうしたこともめっきり減ったが、敵もなかなかしぶといと言うか、逞しいと言うか。
(俺が油断した隙を突いてくるんだ!)
そう、今日のように。
身構えていない時を狙って、まるで警戒していない時を狙って放たれる言葉。
きっとブルーも何度も何度も断られる内に、叱られる内に学習したというヤツだろう。
四六時中、強請って繰り返すよりも効果的なタイミングで言った方がいい、と。
小さなブルーは、そう思っているに違いないのだが。
(チビはチビだけに、外しているがな…)
自信たっぷりに繰り出される攻撃は、確かに絶妙のタイミングではある。
今夜のように心の奥深くスルリと忍び込んでおいて、今頃になってフワリと浮上するほどに。
けれども、タイミングはともかく、ブルーが身に纏う雰囲気の方がズレていた。外している、と思うのは其処だ。
ブルーとしては、前の自分の表情や声を真似ているつもりなのだろうけれど。キスを強請るのに相応しい顔をしているつもりだろうけど、生憎とやはり何処かが違う。
声変わりしていない声もそうだが、その表情。
所詮は子供の顔でしかなく、背伸びしてみても子供は子供。
(今のあいつなら、家に呼んでも…)
大丈夫だろうという気がする。
再会を遂げて間もない頃に、「ハーレイの家に行きたい」と請われて気軽に受けた。生徒を家に招くことは多いし、それと変わりはしないだろうと。
ところが、訪ねて来たブルー。
年相応にはしゃぎ、家のあちこちを見て回ったりして御機嫌だったが、合間、合間にふと見せる顔が幼い子供のそれとは違った。
小さなブルーの面差しの向こうに幾度も透けて揺らめいて見えたソルジャー・ブルー。寂しげな顔の、頼りなげな顔のソルジャー・ブルー。
思わずそれを抱き締めたくなり、腕の中に収めてしまいたくなって。
前の自分が失くしてしまったブルーを手にしたいと強く願ってしまって、懸命に思い留まった。これは違うと、小さなブルーは前のブルーとは違うのだ、と。
(うっかり抱き締めちまっていたら…)
とても止まりはしなかったろう。ブルーを丸ごと手中にするまで、小さな身体を己だけのものにしてしまうまで。
それは決して許されないから、「大きくなるまで家には来るな」とブルーに告げた。前の背丈と同じに育つまで、この家に来てはならないと。
(そうは言ったが…)
今のブルーには、もう出来まい。
自分を恐れさせたあの表情は、ソルジャー・ブルーと同じ表情はもう出来まい。
それくらいブルーは今の小さな身体に馴染んだ。
年相応の愛らしい子供になった。
キスを強請られても「まだ子供だな」と余裕の笑みで見守れるほどの小さな子供に。
(だが、約束は約束だしな?)
いくら脅威が無くなったとはいえ、今更、解いてやることもない。
ブルーの家でしか会えないことには慣れているのだし、お互い、不自由はしていない。ブルーがたまに、教え子を家に招いたと聞いて「いいな…」と羨ましがる程度。
それにブルーはこれから育つ。育てばソルジャー・ブルーの姿に、前のブルーの姿に近付く。
そうなってくれば再び増してゆく脅威。
けれども一度、家に来るのを許してしまえば、もう一度追い払うことは難しい。
ゆえに、このまま遠ざけておくのが一番いい。
家には来るなと、前のブルーと同じ背丈に育つまでは決して来ては駄目なのだ、と。
(しかし…)
俺も忍耐強くなったもんだな、と笑みが零れた。
ブルーと出会って間もない頃なら、あんな台詞を思い出したら。
愛らしい唇でブルーが紡いだ、誘う言葉を思い出したら。「キスしていいよ」と可愛らしい声が蘇ったなら、もう平静ではいられなかった。
(うん、充分にマズかったってな)
こんな所でコーヒー片手に、のんびりと回想しているどころではなかっただろう。
カップの後片付けさえもしないで寝室に直行、けしからぬ行為に及んだことは請け合いで。
(何度、その目に遭ったんだか…)
最近はそういうことも無い。
自分の中の雄がざわめき、頭を擡げることなどは無い。
小さなブルーが膝に座って胸に身体を寄せて来た日も、「キスしていいよ」と言われた日にも。
ただただ愛しく思うばかりで、守ってやらねばと誓いを新たにするだけで。
(年を取ったか…?)
まさかな、と苦笑してみたけれども、この忍耐力。
ブルーの誘いを余裕で躱せる、笑って躱せる今の自分の心の強さが頼もしい。
日頃、ブルーに「ゆっくり育てよ」と口癖のように言っているけれど。前のブルーと同じ背丈に育つ時まで、何十年でも待っていてやる、と繰り返し言っているのだけれど。
この調子ならば、本当に何十年でも待てる気がする。
小さなブルーの身体を欲する自分を叱ることなく、泰然自若として大人の余裕で。
たとえ本当に何十年という時を待たされることになったとしても。
(待てよ…?)
何十年、と考えた所で、ふと引っ掛かった。
前の自分はどのくらいの時をブルーと過ごした…?
今も忘れることが出来ない、前のブルーと。メギドで失くしてしまったブルーと。
(アルタミラから後が三百年だ…)
あの生き地獄から脱出した日にブルーと出会った。
偶然にも同じシェルターに閉じ込められていた、今のブルーと変わらない姿をしたブルーに。
それから長い長い時をブルーと共に過ごして、フィシスが来てからも変わることなく。
青い地球をその身に抱く少女に前のブルーが魅せられた後も、ブルーとの絆は切れなかった。
(しかし、あいつは弱っていって…)
衰え始めたブルーの体力。弱くなっていった命の炎。
虚弱だった身体が急速に弱ってしまった時には、後継者になるジョミーがもう生まれていた。
それゆえの世代交代だろう、とブルーが笑って言ったくらいに。
悲しげな笑みではあったけれども。寂しげな笑みではあったのだけれど。
(寿命なんだよ、と笑いはしたが…)
自らの命が尽きると悟ったブルーは何度も、何度も泣いた。ハーレイの胸で何度も泣いた。
ハーレイと地球へは行けそうもないと、もうすぐ死んでしまうのだと。
泣きじゃくるブルーを強く抱き締め、涙を拭ってやっていた記憶。
その時が来ても独りぼっちで逝かせはしないと、自分も何処までも一緒にゆくから、と。
(あいつ、年寄りだがチビだったんだ…)
出会った時には今のブルーと全く同じにチビだったブルー。小さかったブルー。
その後、育ちはしたけれど。
今の小さなブルーと違って順調に育ちはしたのだけれども、ブルーはチビで。
リーダーとして物資を奪いに出掛けるよりも前は、自分の後ろにくっついていた。隠れてまではいなかったけれど、後ろをついて歩いていた。
まるで幼子がそうするように。親の背中を追い掛けるように。
(心は俺より、ずっと年下…)
そんなブルーと何十年を共に過ごしただろう?
キャプテンの任も、ブルーの補佐役になれるのならば、と喜んで受けた。ソルジャーと呼ばれるようになるよりも前のブルーがそれを望んだから。「ハーレイにならば命を預けられる」と。
ブルーの力になれればと願い、キャプテンにまでなって、ブルーと共に生きていた。
恋人ではなく、友達として。
互いに誰よりも心を許せる、一番の友達同士として。
(おいおい、本当に何十年だぞ?)
前の自分はいったいどれだけ、前のブルーと友達としての時を過ごしたのか。
シャングリラが巨大な白い鯨となって、青の間が立派に出来上がった後も友達同士で。
お互いの部屋を訪ね合ったり、二人でお茶を飲んだりはしても、友達同士。
ブルーへの恋に気が付いた時は、どのくらい経っていたのだったか…。
(考えちゃいかん…!)
何十年では済まないかもしれない、友達同士で過ごしていた時。
縁起でもない、と思った所でハタと思い出した。
(あいつ、自分からは言わなかったぞ…!)
キスしてもいいよ、とは一度たりとも。
互いの想いを確かめ合って恋人同士として初めてのキスを交わすまでの間には、ただの一度も。
ブルーは言いはしなかった。今の小さなブルーのようには。
キスを交わすのが常になってからは、強請って来ることもあったけれども。
ブルーはあくまで控えめだったし、晩熟でもあって。
(そもそも、キスすら知らなかったんじゃないか?)
恋人同士で交わすものだということを。愛し合う者同士、キスを交わすということを。
(嫌なことを思い出して来たような…)
忘れていた、とハーレイは呻く。
今の今まで忘れ去っていたと、前のブルーはキスさえ知らなかったのだと。
アルタミラから脱出した後、ブルーがまだまだチビだった頃に、頬や額にしてやったキス。
年は上だが心が幼いままのブルーに幾度もキスをしてやった。
くすぐったそうに、嬉しそうに笑っていたブルー。キスを貰って幸せそうにしていたブルー。
(可愛かったんだ、あいつ…)
甘やかすように、キスを幾つも。頬に、額に、触れるだけのキス。
けれどブルーが育ってからはご無沙汰だった。
小さかったブルーが育つにつれてキスは間遠になってしまって、いつしか消えた。
ブルーも後ろにくっつかなくなり、ソルジャーとして前を歩くようになった。キャプテンだった自分を従え、堂々と歩いていたブルー。
(青の間が出来てからもそうだったんだが…)
ソルジャーの威厳を高めるためにと作り上げられた、壮大な青の間。ブルーは其処で一人きりの暮らしをしていたけれども、不自由は無さそうだったけれども。
それが何故だか、側に居たがるようになって。
用も無いのにキャプテンの部屋を訪ねて来たり、一日の報告を終えた自分を引き留めたり。
座っていれば隣に腰を下ろして、もたれて来たりもするようになって…。
(うんうん、やたらとくっつきたがるようになったんだった)
もたれたままで眠ってしまったり、ただ幸せそうに寄り添っていたり。
そうした時にブルーが浮かべていた表情。
自分と同じだと、ブルーも同じだと気付いて嬉しかったのだった。
これは恋だと、互いに恋をしているのだと。
焦らずにゆっくりとブルーの本当の気持ちを確かめ、額に落としてやったキス。
何年ぶりだか、もはや思い出せないくらいに長い間、していなかったキス。
ブルーは拒みはしなかった。
次は頬へとキスを落としても、ふわりと花が綻ぶように笑んだ。
(だがなあ…)
それで満足してしまったのが前のブルーで。
恋が叶ったと、想いが叶ったと幸せ一杯だったブルーは本当に晩熟だったのだ。
ただ側に居て抱き締め合うだけ、額と頬へのキスだけで充分。
もうそれだけで満ち足りていたから、その先を望みはしなかった。もちろん唇へのキスも。
思い付きさえしなかった、と表現するのが正しいだろう。
(前の俺も蛇の生殺しか…?)
思い出したくなかったのに、と悲しい気持ちになってくる。
小さな身体のブルーではなくて育ったブルーと恋をしたのに、キスをするなら頬か額に。唇へのキスはブルーが望んでもいないのだから、と我慢でお預けの日々が続いた。
恋人と共に過ごしているのに、抱き締め合うだけ。
頬と額にそうっとキスを落としてやるだけ。
(それに比べれば、今度のあいつは…)
今はキスさえ禁止してある、小さなブルー。
禁じられているのに「キスしていいよ」と、桜色の唇で歌うように紡ぐ小さな恋人。
一人前の恋人気取りで首に腕まで回してくるほど、キスに焦がれているブルー。
前の記憶を持っている分、時が満ちれば簡単に突破出来そうだけども。
キスくらい、きっとブルーの背丈が前と同じになったその日に幾度でも交わせるだろうけれど。
(前の俺は苦労をしたんだった…)
ブルーにキスを教えるのに。
恋人同士のキスはこうだと、唇へのキスを教え込むのに。
(その俺は何処で知ったんだ…?)
キスの仕方を、と思ったけれども、追及したならロクでもないことを思い出しそうで。
今の小さなブルーへの欲望に負けて寝室へ突っ走るのと変わらない記憶が彼方から蘇りそうで。
(俺は最低なヤツだったのか…?)
前の自分を友達だと信じてくれていたブルーを裏切っていたのか、と情けなくなる。大切な友を欲にまみれた目で見ていたかと、あわよくばと狙っていたのかと。
いつか手にするチャンスを夢見て、よからぬ企てをしていたのかと。
しかし…。
(違うな、ライブラリーにあった小説だな)
戯れに手に取った小説の中にそういう描写が在ったのだった、と遠い昔の記憶が教えた。
恋人同士はキスを交わすと、口付けを交わすものだと其処に記されていたと蘇る記憶。
ホッと一息ついたけれども。
ブルーを手に入れようと画策していたわけではないのだ、と安堵したけれど。
恋愛小説などを読んでいた時点で、もう充分に下心だか下地だかが生まれていたかもしれない。
いつか自分も恋をするのだと、こういった恋をしてみたいと。
(キスの先のことも…)
ブルーとの恋が成就した後にライブラリーで調べたのだった、と溜息をつく。
どうすればいいのか、どうするべきなのか。
(その手の資料まで揃っていたっていうのが凄いが…)
お蔭でブルーの身体を傷つけることなく、痛い思いをさせることなく手に入れられたと自負している。もしも資料が無かったならば、初めての夜は一体どうなってしまったことか。
(勉強したのは俺ばかりなんだ…)
晩熟だったブルー。恋に気付いても、頬と額へのキスで満足していたブルー。
要はブルーは、とことん受け身で。
自分の方からは決して動かず、動く必要などは微塵も感じていなかった。
(キスだって、だ。唇にしてやれば充分っていうヤツだったしなあ…)
唇にそうっと、触れるだけのキス。初めての唇と唇が触れ合ったキス。
頬や額へのキスと違って、特別な場所へのキスだったから。
ブルーも他のカップルが交わすキスは知っていたから、それで満足してしまった。恋人同士でのキスはこうだと、唇を合わせるキスを交わした、と。
だが生憎と、前のブルーが知っていたキスは挨拶のキス。
恋人同士が交わしてはいても、触れ合っただけの軽いキス。人前でも恥ずかしくなかったキス。
それよりも深いキスがあろうとは、前のブルーは夢にも思っていなかったから。
(俺はサイオンに感謝するぞ…!)
言葉ではとても言えないから。
本当のキスはこうするものだと、言葉で教える度胸などありはしないから。
肩にもたれたりしているブルーに悟られないよう、そうっと知識を滑り込ませた。安心し切って心まで委ねて来ているブルーの意識の下へと、知識を送った。
キスは唇に触れるだけのものではないと、もっと深くて強いものだと。
繰り返し、繰り返し、そう送り込んで。
ようやっとブルーが物足りなさそうな顔をしたから、初めて本当のキスを交わした。
恋人同士の長い長いキスを、互いの身体の一部を絡み合わせるキスを。
(そこまで行くのにどれだけかかった…?)
思い出すだに物悲しくなる、前の自分が辿った恋路。
きちんと大きく育ったブルーと恋をしたくせに、回り道を延々と歩み続けた前の生。
頬と額へのキスで充分だと思っていたような晩熟のブルーを相手に涙ぐましい努力をしていた。
(育ったブルーだったんだが…!)
今のブルーに「この背丈まで育て」と言い聞かせてある背丈に育っていたブルー。
けれども中身はまるで子供で、恋をしていても全く成長しなかった。
何処までも晩熟で、キスさえ強請りもしなかったブルー。
それに比べれば、今の小さなブルーの方は。
キスだけだったら何の苦労も要らないだろう。
その先のことも、時さえ来れば。
小さなブルーが前と同じに育ちさえすれば自然に解決、愛を交わせる筈なのだけれど。
(前の俺はそっちも苦労したんだ…!)
せっかく知識を仕入れて来たのに、ブルーはといえば唇を重ねるキスだけでもう満足で。
これで本当に恋人同士になれたのだ、と固く信じて疑いもせずに、幸せそうにしていたから。
ただ抱き合ってキスを交わしては、それは嬉しそうに微笑んだから。
(…俺がスケベなだけかもしれん、と自信が揺らいで来たんだ、あれで…!)
ブルーがそれで充分だと感じているのだったら、いっそこのままで居ようかとも思った。優しく抱き締め、キスを交わすだけで過ごそうかという気持ちにもなった。
けれども、やはりブルーが欲しい。
恋が実って手に入れたブルーを、愛おしいブルーを自分だけのものにしてしまいたい。
きっとブルーもそうであろうと、晩熟だから分からないだけであろうと思うことにした。キスが何かも知らなかったように、身体を繋げることもブルーは知らないのだと。
(きちんと教えりゃ、応える筈だと思ったんだよなあ…)
それでもブルーが無反応なら、その時は潔く諦めよう。
キスだけで一生を終えることにしよう、と決意を固めて、キスの時と同じように教えた。触れた場所から知識をそうっと滑り込ませて、ブルーがそれに反応するまで。
物足りなさそうな顔をするまで、ただひたすらに辛抱強く。
キスどころでは済まない深い行為だけに、どれほど苦労したことか。
晩熟なブルーに教え込むのに、繰り返し、繰り返し、意識の下へと送り込むのに…。
苦労を重ねてブルーを手にした、前の自分。
晩熟だったブルーにキスから教えて、ようやく手に入れることが叶ったキャプテン・ハーレイ。
その道のりにかかった時間は考えたくもなく、思い出すまいと記憶に鍵を掛けた。
縁起でもないと、あれほどに待たされてたまるものかと。
けれど…。
(今度はどうやら楽勝だしな?)
まだ幼いのに、小さいというのにキスを強請ってくるブルー。
「キスしていいよ」と自分から言ってくるブルー。
時さえ来れば、ブルーが前のブルーと同じ背丈に育ちさえすれば。
苦労せずともブルーは手の中に落ちて来る。
熟した果実が落ちて来るように、何もせずとも自然と枝から落ちて来るように。
(本物の恋人同士だっけな)
今の小さなブルーの口癖。
最近は滅多に言わないけれども、出会った頃にはうるさいほどに言われたものだ。大きく育って早く本物の恋人同士になりたいのだ、と。
それは結ばれたいという強い望みで、小さなブルーは今すぐにでも、と思っていたほど。
身体も心も幼すぎるのに、前の生で夜毎に交わした甘い睦言を今すぐにでも、と。
(あいつが大きく育ちさえすれば、そっちの方だって簡単だしな?)
誘いさえすれば、今のブルーは直ぐに応じる。
前のブルーのような待ち時間は無くて、何を教える必要も無い。時が満ちれば結ばれるだけ。
ならば、余裕で待てるだろう。
何十年という時を待たされたとしても、時さえ満ちれば今のブルーが言う本物の恋人同士という間柄。何の苦労も長い回り道も要りはしなくて、ブルーとの本当の恋が始まる。
(うん、今度の恋には余計な待ち時間ってヤツが無いんだな)
今の自分の落ち着きの元はこれだったのか、と気が付いた。
何もせずとも手に入るブルー。
手に入れているも同然のブルー。
今は小さくて話にも何もならないけれども、育ちさえすれば正真正銘の恋人になる。
前とそっくり同じ姿に美しく育ち、キスもその先も、全て承知の非の打ち所がない恋人に。
(要は待ってりゃいいんだからな)
そう、今の自分は前と違って待つだけでいい。
ただのんびりと待っているだけ、下調べも要らず苦労も要らない。前の自分の苦労は要らない。
ゆっくりと待つのが自分の仕事で、その日は確実にやって来る。
小さなブルーもいつかは大きく育つ筈だし、焦らずに待っていればいい。
まだ青い果実が熟す日まで。
固くて小さな青い果実が、食べ頃に育って落ちて来るまで。
甘い香りをその身に纏わせ、すっかり熟して枝から離れて落ちて来るまで…。
(まだまだ、あいつは熟してないんだ)
一人前だと主張していても、熟してはいない小さな果実。まだ青い果実。
食べてみれば美味しいのかもしれないけれども、それは許されないことだから。
教師としての自分はもちろん、大人としても許されはしない。
いくらブルーに望まれようとも、十四歳の小さな子供に手を出すことなどしてはならない。
それに、前のブルーのその頃の味など知らないから。
今のブルーと変わらない頃の、アルタミラから脱出した頃のブルーの味など知りはしないから。
食べてみようと思いはしないし、食べたくてたまらないわけでもない。
未熟な果実をあえて食べずとも、熟すのを待てばいいだけのこと。
(うん、待てるさ)
充分に待てる、と大きく頷く。
何年でも、たとえ何十年という時が必要でも自分は待てる。
前の自分のような回り道は要らず、待ち時間も苦労も要らないのだから。
その上、運が良かったならば。
(小さいあいつが嫁に来るかもしれんしな?)
もしもブルーが育たなかったら、育たないままで結婚出来る十八歳になってしまったら。
周りが止めても、ブルーは聞かない。きっと聞かない。
何年間かは我慢したとしても、いずれ強引に嫁入りしてくるに違いない、という気がするから。
(チビのあいつが嫁に来たなら…)
キスは禁止だと、大きくなるまでキスは駄目だと言い聞かせても意味が無いだろう。小さくてもブルーは花嫁なのだし、同じベッドで眠るのだろうし。
そうなったならば小さなブルーと、キスも、その先も…。
(うーむ…)
小さなブルーとキスを交わしたら、結ばれたならばどうだろうか、と思ってしまって。
ついウッカリと考えてしまって、慌てて頭からそれを追い出そうと首を大きく左右に振った。
そうして冷めたコーヒーを一気に飲んだけれども。
(…………)
いかん、と立ち上がり、空になったカップをキッチンへと足早に運んで行った。
辛うじて片付けをするだけの理性は残っていたから、洗って戸棚に仕舞ったけれど。コーヒーの残り香も消えたけれども、もしかすると。
今夜は捕まってしまったかもしれない。
余裕で躱して逃げて来た筈の、小さな恋人がかけた呪文に。
「キスしてもいいよ?」
身体の奥底で熱い熱が疼く。
頭を擡げる情欲の獣。
耳の奥で愛らしい声が囁く。
キスしてもいいよと、ぼくはいいよ、と…。
可愛い誘惑・了
※前のブルーと恋をした後、色々と苦労したらしいハーレイ。…ブルーが奥手だったせいで。
今度は要らない苦労ですけど、その代わり誘惑されるのです。待たされたって、それも幸せ。
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