シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ブルー!」
キッチンからママの声がして。
ドキンと胸を躍らせた、ぼく。おやつを食べてる最中だけれど、ちゃんと予感がしてたんだ。
「揚げ立て、試食するでしょう?」
「うんっ!」
ほらね、やっぱり。
学校から帰って直ぐに覗いたキッチン。いつも通りに綺麗に片付いてたけれど。だけど見付けた揚げ物用のお鍋。油は入っていなかったけれど、あれがある時は…。
(早めに出てたらコロッケなんだよ)
ママのコロッケ。ママが作ってくれるコロッケ。
揚げ立てはホクホクでホントに美味しい。どんなおやつも敵いやしない。カリッと揚がった衣に熱々の中身、匂いだけで齧り付きたくなっちゃう。
おやつじゃなくっておかずだけど。コロッケはおかずなんだけど…。
だけど食べたい、揚げ立てコロッケ。おやつの他にも食べたいコロッケ。
(晩御飯だと、御飯も他のおかずもあるもの…)
いつも夕食の直前に揚げてくれるんだけれど、それだと沢山入らないぼく。他のおかずや御飯が邪魔して、美味しくっても幾つも食べるってわけにはいかない。
だから試食で、おやつの時に冷蔵庫で休ませてるのを一個だけ揚げてくれるんだ。
もちろん充分に休ませてから。
(特別に作ってくれるんだものね)
コロッケのタネを少し取り分けて、小判型じゃなくってまあるく丸めて。
揚げる油も他のを揚げる時より少なめ、ぼくの試食用を一個、揚げられる分だけ。
そのために出ていた、揚げ物用のお鍋。フライとかだと、こんな時間にはまだ出ていない。
(パパが帰ってくる時間に合わせているもの)
コロッケの日だけは、ちょっと特別。ぼくの試食用を揚げるためにだけ早く出るお鍋。待ってる間に漂って来たいい匂い。ママがコロッケを油の中に入れたんだ。
(小さいから、すぐに揚がるんだよ)
流石に一瞬では揚がらないから、待ち時間がちょっぴりあるけれど。冷蔵庫で休ませてたタネにしっかり火が通るまでの間、美味しそうな匂いを嗅ぎながら。
ぼくだけが食べる特製コロッケ、ミニサイズ。
ミートボールよりも、タコ焼きよりも小さなコロッケ。コロンとまあるい小さなコロッケ。
いつだって一個。揚げ立ての味の試食用が一個。
まだかな、まだかな、って首を長くして待ってた間はどのくらいだろう?
「はい、どうぞ」
召し上がれ、ってママがフォークを添えて持って来てくれた。小皿に乗っかったホカホカの揚げ立て、揚げ物用の白い紙を敷いた上にチョコンと一個。
「舌を火傷しないように気を付けてね」
「うんっ!」
大丈夫、ってフォークで刺して、息を吹きかけて、熱さを確かめてから頬張った。
(ふふっ、美味しい!)
ホクホクの熱々、衣もサクサク。たったの二口で無くなってしまうのが惜しいコロッケ。もっと食べたくなっちゃうコロッケ。
今日のおやつも美味しかったけど、ママのコロッケは格別なんだ。
これを食べたら、大抵のおやつは霞んじゃう。特にこういう肌寒い季節になってくると。
御馳走様、ってママにお皿を返して、部屋に戻って。
勉強机の前に座っても、忘れられないママのコロッケ。食べて来たばかりの試食用。
(美味しかったな…)
まだ舌の上とか頬っぺたの内側にコロッケの味が残ってる。それと温かさ。サクッとした衣も、ホクホクの中身も、ぼくにとっては後を引く味。最高のおやつ。
本当はもっと食べたいけれど。試食用なら三個くらいはいける筈だと思うんだけれど。
(だけど、食べ過ぎるんだよね…)
ずうっと昔に強請って強請って、普通サイズのを一個、揚げて貰って食べたことがある。
いつもの試食用じゃ嫌だと、もっと大きいのが食べたいんだ、と。
ママは「晩御飯、ちゃんと食べられるの?」って何度も訊いたし、「さっきおやつも食べていたでしょう?」って言われたけれど。
だけど食べたくて、「平気だもん!」と答えた、ぼく。コロッケが食べたかった、ぼく。
「知らないわよ?」って言いながら揚げてくれたママ。試食用より大きなコロッケ、御飯と同じサイズのコロッケ。ぼくは大喜びだった。「ありがとう!」って齧り付いた。
おやつとは別腹、とっても美味しく食べられたのに。
(本当に美味しかったのに…)
晩御飯にも沢山食べるんだ、って楽しみに待っていたというのに、頼りないお腹。消化に時間がかかる胃袋。
肝心の晩御飯の時にコロッケを一個、それが精一杯。御飯も他のおかずもサラダも、半分ほども食べられなくって、「欲張るからだ」とパパに睨まれた。
「ちゃんとママから聞いているぞ」って、「大きなコロッケを食べたらしいな?」って。
(今なら、きっと普通のコロッケを一個食べても…)
いけるような気がするんだけれど。
あの頃よりもずっと大きくなったし、大丈夫じゃないかと思ったりもする。
普通サイズは難しくっても、試食用の数を増やして貰おうかな、とも思うんだけど…。
問題はその後に待ってる夕食。きちんと食べ切ることが出来るか、そこが大切。
(失敗しちゃったら睨まれるくらいじゃ済まないしね?)
だって、十四歳だから。
義務教育の最後の学校に入学しちゃった、十四歳にもなる子供だから。
「自分の胃袋の限界も分からないのか、お前は?」って、きっとお説教されるんだ。まだ十歳の頃とかだったら、睨まれて終わりだろうけれど。
(それに…)
恋人までいるぼくが強請りに行くのも可笑しいよね、と自分で自分に言い聞かせた。
チビだけれども、ぼくには恋人がいるんだから。ハーレイのお嫁さんになるんだから。
(ただの子供でチビじゃないんだよ)
ちゃんと恋人がいて、お嫁さんになるっていうのは魔法の呪文。
子供っぽい我儘を抑え付けるにはピッタリの呪文。
それを自分に向かって唱えた。おねだりしている場合じゃないよ、って。
(結婚しちゃったら我慢もしないと…)
お嫁さんが我儘を言ったりしていちゃ駄目だろう。
いい子にしなくちゃ、と言うのも変だけれども、いい大人?
とにかく我儘なんかは言わずに、聞き分けのいい人間ってヤツにならなくちゃ。
でも…。
試食用のコロッケ。大好物の揚げ立てコロッケ。
あれの魅力は捨て難くって、結婚したって簡単に忘れられそうにない。
(ハーレイ、作ってくれるかな…)
うんと美味しい揚げ立てコロッケ、ホクホクの熱々のミニサイズ。
ぼくのお気に入り、ぼくの特別。
本当だったらお嫁さんのぼくが揚げるんだろうけど、ハーレイは料理をするって言うから。上手らしいから、任せておいても良さそうな感じ。ぼくが悪戦苦闘するより、きっと美味しい。
だけど試食用まではどうだろう…?
あれはママだから揚げてくれるもので、きっとぼくだけの特別の味。胃袋が元気な普通の子供は試食用なんか要らないだろうし、あんなコロッケを食べている子は、きっとぼくだけ。
もちろんハーレイも試食用コロッケなんかは知らないだろうと思うんだ。
あれが欲しいのに、あれが食べたいのに。
結婚したって、ハーレイのお嫁さんになったって。
(頼むっていうのも子供っぽいよね…)
結婚してから「作ってよ」ってハーレイに頼んだら笑われてしまいそう。
「お前、子供だな」とか、「チビだった頃と変わらんな」とか。
ママにさえおねだり出来ないのに。試食用を増やして欲しい、って頼めないから、我慢しようと自分に呪文をかけたのに。
恋人だっているんだろうと、お嫁さんになるんだろうと。だから我慢、って。
(でも…)
頼んでおくなら今の内だろうか、ハーレイがぼくを子供扱いしている間に。
チビだ、子供だ、って言っている間に、将来のために頼んでおく…?
(試食用のコロッケ…)
揚げ立ての魅力はとても大きくて、もっと食べたいほどだから。
それと永遠に「さよなら」だなんて、今のぼくには耐えられやしない。御飯の時しか揚げ立てのコロッケが食べられないんじゃ、コロッケの美味しさが半減しちゃう。
おやつとは別に試食でちょっぴり、先に食べるからワクワクするんだ。
今日の御飯はコロッケなんだ、って、揚げ立ての熱々を頬張る時間が最高だから。
(だけど、ホントに子供っぽいし…)
いくら子供の間に頼むにしたってあんまりだろうか、と悩んでいたらチャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイムの音。窓から覗いたら、案の定、大きく手を振るハーレイの姿。
よし、とぼくは決心した。
ハーレイが来たのも何かの縁で、きっと神様が頼んでいいって許して下さったんだろう。
試食用のコロッケを揚げて欲しいと頼んでもいいと、今の内に頼んでおきなさい、と。
そうやって決意を固めた、ぼく。
ママがハーレイを案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて。そのテーブルを間に二人で向かい合わせに座って、ぼくは早速、コロッケの話をすることにした。
いきなり「試食用を揚げて欲しい」って強請っちゃホントにただの子供だし、普通にコロッケの話題から。ごくごく自然に、試食用の「し」の字も出さないように。
「ねえ、ハーレイ。今日の夕食、コロッケなんだよ」
「ほう…。楽しみだな」
そう言ったハーレイは本当にコロッケを楽しみにしているみたいだから。
「ハーレイもコロッケ、好きだったりする?」
「揚げ立ては実に美味いからな」
うむ、って嬉しそうな顔。
「揚げ立てが美味しいって、知ってるの?」
「そりゃまあ、な」
美味いだろうが、ってハーレイの顔が綻ぶ。コロッケは揚げ立てがいいんだぞ、って。
揚げ立ての美味しさを知ってたハーレイ。
ぼくみたいに試食用コロッケも食べるんだろうか、って思っていたら。
「自分でも揚げるし、道端で食ってる時だってあるぞ」
「道端?」
なんで、ってビックリしたんだけれど。ハーレイにとっては不思議でも何でもないらしくって。
「歩いてる時とかに美味そうな匂いがしてくりゃ食べるさ」
肉屋の店先で揚げているヤツ。プロの味には家じゃ絶対に勝てないからな。
「そうなの?」
勝てないって、ぼくのママとかハーレイでも駄目?
どうして勝てなくなっちゃうの?
「揚げてる油が違うんだ。肉屋の油はラードだからな。それも出来立てのラードってヤツだ」
そいつを手に入れるには肉屋じゃないとな、売ってるラードじゃ駄目なんだ。
「へえ…!」
知らなかった、と驚いた、ぼく。
肉屋さんのコロッケも美味しいけれども、まさか油が違っただなんて…!
「お前、食ったことないのか、店先で?」
この近所の店でも揚げているだろ、美味そうなのを。通りすがりに見ているんだが…。
「食べ過ぎるから、って駄目なんだよ。ママが買うだけ」
買って来てすぐの熱々の間も、ぼくは食べさせて貰えないんだよ。食事の時間まではお預け。
今日のコロッケはお店のじゃなくて、ママがこれから揚げるんだけど…。
「うーむ…。肉屋のコロッケも美味いんだがなあ、特に店先で食う揚げ立てのヤツは」
「ぼくは無理みたい…。お店に試食サイズは無いもの」
「はあ?」
そういやコロッケの試食は無いか…。カツとかだったら、たまに見かけるが。
「試食に出ているヤツじゃなくって!」
こんなのだよ、ってハーレイに詳しく説明した。
いつも食べてる試食用。ぼく専用の特別サイズのまあるいコロッケ、小さなコロッケ。大きさも指で「このくらい」って作ってみせて。
ぼくのはこんなの、って。こういう試食用なんだよ、って。
「おやつに揚げて貰うんだよ」
ママがコロッケを作った時は。
晩御飯だと沢山食べられないから、おやつに一個。だから試食用で小さいコロッケ。
「優しいお母さんで良かったじゃないか」
なかなかそこまでしてはくれんぞ、おやつの時間にわざわざ一個だけ揚げるなんてな。油だってそのためだけに熱くしなけりゃならないんだし…。
「うん。だけど小さい頃から揚げてくれるよ、「試食するでしょ?」って」
それでね、ハーレイ…。
ぼく、試食用のコロッケが好きなんだけど…。御飯の時とは別に食べるのが好きなんだけど…。
もしもハーレイと結婚しちゃったら、試食用のコロッケ、無くなっちゃうよね…。
ママはもう揚げてくれないもの。
「俺にも試食用を作れってか?」
お前の言ってるミニサイズ。そいつをおやつに揚げろってか?
「駄目?」
やっぱり駄目かな、結婚した時は試食用のコロッケ、諦めておいた方がいい…?
「いや、欲しいのなら作ってやるが…」
どうしてもお前が欲しいんだったら、作ってやらないこともない。
お前のお母さんのと同じ味のが作れるかどうかは全く謎だが、小さなコロッケくらいならな。
ハーレイは腕組みをして「試食用だな」と頷いてくれた。
「ふうむ…。結婚したなら、コロッケを作る時には余分に一個か」
お前がおやつに食べる分を一個。試食用とやらを別に作ればいいんだな、うん。
「いいの?」
試食用サイズのを作ってくれるの、それをおやつに揚げてくれるの?
「ああ。おやつ用だろ、飯とは別に。仕事のある日は無理かもしれんが、休みの日にはな」
おやつの時間にちゃんと揚げるさ、俺の分もついでに揚げるからな。
「えっ?」
ハーレイの分って、ハーレイも食べるの、試食用のコロッケ?
「もちろんだ。揚げ立ては美味いと言っただろうが。道端で食ってることもあるぞ、と」
お前が試食で一個食うなら、俺用のも一緒に揚げて食わんとな。
俺のおやつだ、試食用だ。
どうせ油は熱くするんだし、一個でも二個でも手間は変わらん。
「えーっと…」
ぼくの試食用コロッケを揚げてくれるのはいいんだけれども、自分用もと言い出したハーレイ。そのハーレイは試食用を幾つ食べるんだろう?
ぼくでも一個じゃ物足りないのに、ハーレイ、一個で足りるんだろうか…?
心配になって、訊くことにした。足りないんだったら申し訳ないし、ハーレイの試食用は多めでいいよ、って言っておかなきゃいけないから。
「…ハーレイが自分のおやつに揚げる試食用のって、一個?」
ぼくに合わせて一個だけだと足りないんじゃない?
もっと多めに食べてくれていいよ、二個とか、三個とかを揚げてくれても。
「ほほう、心配してくれるのか? 俺の胃袋」
俺が作って揚げるんだからな、ちゃんと自分で加減をするさ。
そうだな、普通サイズを一個ってトコか…。もしかしたら二個かもしれないが。
「普通サイズを一個か二個って…。そんなに食べるの?」
御飯じゃなくって試食用だよ、おやつだよ?
「悪いか、俺がお前くらいの年の頃には充分、おやつだ」
普通サイズの一個や二個はな。
俺だけじゃないぞ、柔道の道場仲間や水泳を一緒にやってたヤツら。帰り道の肉屋でコロッケを何度も買って食ったな、家に帰るまでの間のおやつ代わりに。
学校帰りに買ってる普通の男子生徒もいたから、コロッケ一個はおやつだろうな。
ハーレイ曰く、ぼくくらいの年の男の子だったら、おやつにコロッケ一個は普通。
それも試食用のサイズじゃないのをペロリとおやつに食べるのが普通。
ママが揚げてくれるような試食用じゃなくって、普通サイズを一個だなんて…。
「…ぼくが変なの?」
試食用のを一個だけ食べてる、ぼくって変なの…?
「変じゃないだろ、沢山食えないってだけだろうが」
単なる胃袋のサイズの違いだ、でなけりゃ消化のスピードだな。
おやつを食ってから晩飯までにだ、胃袋の中身が消えさえしたなら何の問題も無いんだからな。
というわけでだ、俺の試食用コロッケは普通のを一個。もしくは二個だ。
「羨ましいかも…」
思わずポロリと本音が零れた。
「羨ましいだと?」
怪訝そうな顔をしているハーレイ。
俺の胃袋が羨ましいのか、って訊いて来たから、「ううん」と首を左右に振った。
「ハーレイの胃袋じゃなくって、おやつに食べられるコロッケの数…」
試食用、増やしたいんだけれど…。
今の一個じゃ物足りないから、二個か三個に増やしたいんだけど…。
そう思ったけど、頼めないんだよ。ママにおねだり出来ないんだよ…。
前に食べ過ぎてパパに睨まれちゃったし、と打ち明けた、ぼく。
ずうっと昔に強請って失敗してしまったから、増やして欲しいと言いにくい、ぼく。
「お嫁さんになるんだから、って言わずに我慢してるんだけど…」
ハーレイが沢山食べるって聞いたら、つい、羨ましくなっちゃった…。
「嫁さんなあ…。嫁さんになるから我儘は言わずにおこうってか?」
「そう。…ぼくには最強の呪文なんだよ、我慢するには」
お嫁さんになろうと思っているのに、子供っぽいことをしちゃ駄目だ、って。
我慢しなくちゃいけないんだ、って。
「それなのに俺には強請っている、と」
試食用のコロッケを揚げて欲しいと、作って欲しいと強請るわけだな?
「今の内だと思ったから…」
頼むんだったら、ハーレイがぼくを子供扱いしてる間にしなくっちゃ、って。
子供だったら少しくらいは我儘を言っても許されそうだし、今の間に頼んじゃおう、って…。
シュンと項垂れちゃった、ぼく。
いくら子供でも、結婚してから後のことまで我儘を言ったら駄目だったろうか…?
ハーレイに呆れられちゃったかも、って俯いていたら、髪をクシャリと撫でられた。褐色の手でクシャッと撫でられて、「馬鹿」と言われた。
やっぱり馬鹿なことをしちゃったんだ、と思ったんだけど。
ハーレイはぼくの頭をポンと軽く叩いて、もう一度「馬鹿」って、ぼくの髪を撫でた。
「しょげるな、馬鹿。でかくなっても強請っていいのさ」
我慢しなけりゃいけないだなんて、それだと俺の立場が無いぞ。
「なんで?」
「俺の嫁さんになるんだろうが。遠慮しないで我儘も言え」
うんと我儘を言って、強請って。その方がいいな、俺としてはな。
「…いいの?」
お嫁さんなのに我儘言ってて、本当にいいの?
「前のお前は言ってただろうが」
あれが欲しいとか、あれを持って来いとか。
何度ブリッジの俺に思念を飛ばして注文したんだ、あれは我儘じゃないのか、おい?
「そういえば…」
いつも色々言っていたかも、青の間に来る時に持って来て、って…。
前のぼく、我儘言っちゃってたかも…。
「ほら見ろ、言っていたろうが」
前のお前は嫁さんってわけじゃなかったが、ってハーレイは片目をパチンと瞑った。
「俺の嫁さんではなかったが…、だ。嫁さんみたいなものだったろうが」
お前が嫁に来たとしてもだ、あの頃と何も変わりはしないさ。
嫁さんだから我慢しろとか、我儘を言うなとか、俺の都合で縛ってどうする。
お前は好きにしてればいいんだ、嫁に来てやったと威張っていろ。
「…威張るの?」
「威張っていいだろ、うんと美人になるんだからな。誰もが嫁に欲しがるような」
何処へでも嫁に行けたというのに来てやったぞ、と威張っておけ。
そして我儘も言って、強請って。
嫁さんの我儘を叶えてやるのも甲斐性の内だ、叶えてやれるのは嬉しいもんだ。
前の俺には出来なかったことが今度は出来るし、お前を思い切り甘えさせてやるのが夢なんだ。
甘えさせてやって、守ってやって。
そういう生活が俺の夢だぞ、どんどん我儘を言えばいいのさ。
コロッケもだ、って言ったハーレイ。
試食用のコロッケも我儘を言って強請ればいいと。
「コロッケの試食用も我儘の内だ。おまけに、たかがコロッケなんだぞ」
お前のおやつ用に別に作って揚げればいいっていうだけだろうが。
その程度のことも出来んようでは、他の我儘を叶えてやるなど無理に決まっているからなあ…。
いいか、コロッケはちゃんと強請れよ?
作るんだったら試食用もと、おやつに絶対食べるんだから、と。
「じゃあ、結婚したら試食用サイズのコロッケ、増やせる?」
今は一個しか作って貰えないけど、ハーレイ、数を増やしてくれる?
「お安い御用だ。二個でも、三個でも作ってやるが、だ」
ただし、食い過ぎて肝心の飯を食い切れなかったら…。
俺がせっせと腕を奮った飯をすっかり残しちまったら、覚悟しとけよ?
ハーレイの台詞はもっともだから。
ぼくのパパやママでもおんなじことを言うだろうから、覚悟はしてる。
おやつの食べ過ぎで御飯がお腹に入らなかったら、ハーレイだって、きっと…。
「…残したら、怒る?」
それとも、睨む?
「いや」
俺は怒りも睨みもしないが?
「じゃあ、どうするの?」
覚悟しとけ、って言ったじゃない。怒ったり睨んだりしないんだったら、どう覚悟するの?
「お前が残しちまった食事は俺が纏めて食っちまうが、だ」
だから食事は無駄にはならんが、残しちまったお前の方。
食い過ぎた上に運動不足だ、ということになるな。運動すれば腹が減るもんだしな。
運動不足は身体に良くない。
つまり付き合え、と。
俺と一緒に運動して貰う。腹ごなしを兼ねてたっぷりとな。
「う、運動って…!」
まさかジョギング!?
ぼくも走るの、ハーレイと一緒に?
そんなの無理だ、と悲鳴を上げたぼくだけれども。
ただでも走るのは得意じゃないのに、ハーレイと一緒にジョギングだなんて…!
震え上がってしまったけれども、ハーレイはなんだかニヤニヤしてる。
ぼくを苛めるつもりだろうか、とビクビクしてたら、褐色の頬が可笑しそうに緩んで。
「晩飯を食い終わってからジョギングか、おい」
そいつは健康的とは言えんな、夜食が欲しくなっちまう。
ジョギングするなら軽く食う程度だ、腹一杯に食ってからでは身体にも負担がかかるしな。
「じゃあ、何?」
ハーレイ、たっぷり運動って言ったよ、ぼく、運動は苦手なんだけど…!
「なあに、お前でも簡単に出来る運動さ」
前のお前も得意だったし、お前だって充分こなせるだろう。
ただ、チビのお前にはまだ早い。
「えっ?」
「思い切り運動に付き合って貰う。…育ったお前でないと無理だが」
家の中で出来る運動ってヤツだ。寝ながら出来るとも言うかもなあ…。
「寝ながら…?」
首を傾げてしまった、ぼく。
家の中で出来て、寝ながら出来て…。
(マット運動…?)
それくらいしか思い付かないけれども、前のぼくはマット運動なんかはやってない。得意だとかそういう以前の問題。今のぼくはもちろんマット運動も下手で…。
(大きくなったら上手になるっていうこと、ある…?)
うんと下手くそなマット運動、クルンと回って起き上がるどころか転がってるぼく。マットから外れて落っこちたりもするし、前のぼくみたいに育ったとしても多分、無理。
(ハーレイに支えて貰うとか…?)
体育の先生が補助してくれるように、支えてクルンと上手に回らせてくれるんだろうか?
そうやって練習しろってことかな、ハーレイもぼくの身体を支えたりしなきゃいけないし…。
(嬉しくない…)
ジョギングよりはマシだけれども、マット運動だって好きじゃない。
いくら家の中で出来る運動でも嫌だ、と思ったんだけど。
「おいおい、マットが違うんだがな?」
そんな色気の無いマットじゃない、ってハーレイがスッと指差した先。ぼくの部屋の中の何処にマットが、と視線を遣ったら…。
(マットレス…!)
確かにマットはあったけれども、マットレス。ぼくのベッドのマットレス。
あれを使って運動だなんて、それって、もしかしなくても…!
「分かったか、チビ」
コロッケの試食用を食い過ぎた時は、運動だ。俺と二人でたっぷりと…な。
ちゃんと育ったら付き合えよ、って言われて、真っ赤になってしまった、ぼく。
試食用のコロッケを欲張り過ぎたら、食べられてしまうらしい、ぼく。
運動と称してベッドの上で、ハーレイに美味しく食べられてしまう。
だけど、我儘を言ってもいいのがお嫁さんだと言うのなら。
それに待ってる罰がそれなら、強請ってみよう。
うんと優しい、ぼくの大好きなハーレイに。
試食用のコロッケの数を増やしてと、一個じゃとても足りないからと。
ぼくのお気に入りの揚げ立てコロッケ、ミニサイズ。
おやつ用に小さなコロッケを二つ作ってと、三つか、四つか、もっとでもいい、と…。
コロッケ・了
※ブルーが大好きな試食用のコロッケ。結婚した後も食べたいから、と強請るくらいに。
結婚してから食べ過ぎた時は、運動しないと駄目らしいです。とても幸せな運動ですけどね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(月か…)
あいつに似ているな、とハーレイは西の空に浮かんだ月を見上げた。もうとっぷりと暮れた空。
仕事で遅くなってしまってブルーの家には寄れなかったが、空にブルーがいるようだ。
秋の夜空に輝く月。
三日月よりは少し日が経っている。けれども半月まではとてもいかない、細い月。
まだ頼りなげな、細っこい月。
さしずめ、チビのブルーといったところか。十四歳の小さなブルー。
そんな気がする、今夜の月。
同じ月でも前のブルーであったら、満月。
その美しさを余す所なく見せる満月、見る者の目を惹き付けずにはおかない澄み切った光。
十五夜、名月、十三夜。それに十六夜…、と月の名を心で挙げてゆく。
どれもブルーだと、前のブルーだと。
ガレージから、庭から、玄関先からと何度も月を見、名残を惜しみつつ家に入った。
もしや窓から見えはしないか、と覗いてはみたが、予想したとおり無理らしい。
(ブルーみたいだと思っちまうと、離れ難いもんだな)
普段はさほど気にしない月。満ちて来たなとか、欠けてゆくのかとか、その程度の月。
けれども今夜は月が気にかかる。
ブルーに似ている、と見上げた月が。
前の生から思っていた。ブルーはさながら月のようだと。
ずうっと思っていたのだけれども、その思いが一層強くなったのが、ジョミーが来た時。
ソルジャー候補としてシャングリラに迎え入れたジョミーはまるで太陽だった。
明るい金髪、前向きな性格。
太陽そのものな強い生命力と輝きを纏った少年、それがジョミーで。
彼が来てから、ますます「ブルーは月だ」と思った。
次のソルジャーは太陽のようだが、今のソルジャーは月なのだな、と。
そして祈った。
太陽の圧倒的な光の前には儚く弱い月だけれども、その光が消えてしまわぬようにと。
シャングリラに太陽を迎えたとはいえ、太陽と月とは対の存在。
消えてくれるなと、月のような恋人の命の灯がいつまでも消えぬようにと、ただ祈っていた。
太陽と月とは共に在るべきだと、太陽の光で輝く月が消えてしまってはいけないのだ、と。
(だが、待てよ…?)
ジョミーを太陽に例える者たちは多かったけれど、対するブルー。
長い年月をソルジャーとして生きたブルーを、仲間たちは月に例えていただろうか?
ブルーを月だと言っただろうか、と遠い記憶を探ってみて。
(…言わなかったか?)
月だと聞かされた覚えが無い。
そう言った者もあるいは居たかもしれないけれども、シャングリラ中に流布したものではない。ジョミーは太陽だったけれども、前のブルーは月ではなかった。
あれほどに月が似合うというのに、月を見てブルーだと思ったのに。
銀色の髪に真っ白な肌。
印象的な赤い瞳はともかく、他の部分は月だったとしか思えぬブルー。ソルジャーとして纏った上着も白と銀とで、月の光のようだったのに。
(…月ってヤツが無かったからなあ、仕方ないと言えばそれまでなんだが…)
アルテメシアにも、後に降りたナスカにも無かった月。
月が無いのでは、ブルーに例えようもない。身近に無いなら、それは頭に浮かびはしない。
けれど…。
誰も「月だ」と言い出さない中、月なのだと思い続けた自分。月のようだと思った自分。
アルテメシアには無かった月。雲海に遮られて見えないのではなく、無かった月。
前の自分はそれを何処で見たろう?
無い筈の月を、ブルーに似た月を、いったい何処で…?
(天体の間か?)
空が無かったシャングリラ。雲の海の中に空は無かった。もちろん夜空も、夜空の星も。
その代わりというわけでもなかったけれども、地球の夜空を彩る星座を投影していた天体の間。季節に合わせて変わる星座は、地球の様々な場所からの見え方も再現できた。
北極、南極、赤道直下。
標準だった地点はかつてイギリスと呼ばれた場所だと記憶している。
銀河標準時間を算出するための基準とされていた地点。SD体制よりも前の時代にはグリニッジ標準時の名であったそれの由来となった天文台が建っていた場所。
其処から見上げる四季の星座を投影するのが常だったけれど、月も投影していたけれど。
今の地球ではこう見えるのだと、満ち欠けする月も映していたのだけれど。
所詮は機械が映し出す月で、光の像に過ぎなくて。
その美しさまでは伝わらないから、ブルーは月とは呼ばれなかった。
ソルジャー・ブルーは月のようだとシャングリラで言われはしなかった。
(では、何処だ…?)
何処で見たろう。
ブルーさながらの月の光を。
天体の間の月ではないと言うなら、前の自分は何処で本物の月を見たろう…?
(…本物の月はこうじゃないんだ、と思っていたぞ、俺は)
もっと綺麗だと、もっと美しいものなのだと。
それはブルーにとても似ていると、本物の月はブルーのようだと。
けれども何処でそれを見たのか、それが全く思い出せない。前の自分が月を見た場所。
(何処だったんだ…?)
夕食の支度をしながら遠い記憶を手繰り続ける。
肉を、野菜を切ってゆく間に、味噌汁の出汁を取る間に。料理を台無しにしてしまわぬよう気を付けながらも、前の生の記憶を追い続ける。
(アルタミラでは月どころでは…)
脱出した時にはメギドの炎で燃え上がっていて、空は真っ赤に染まっていた。粉塵と煙と炎しか無かったあの赤い空に、月が昇っていたのだとしても。
あの空に月が懸かっていたのだとしても、見上げる余裕はまるで無かった。
(第一、そいつは綺麗な月じゃなかったろうさ)
月が美しく輝く夜には大気は澄んでいるものだから。
そういう季節や、そういった夜に煌々と照るのが月なのだから、燃え盛る空では濁るだけ。その美を損ねる塵に覆われ、ぼんやりと空に浮かぶだけ。
(あの日の月だったってことだけは絶対に無いな)
アルタミラの月ではないと思うが、あるいはあそこで失くした記憶か。
成人検査と、その後に何度も繰り返された人体実験。何もかも消されてしまった記憶。養父母と暮らしていた頃の記憶。
消えて無くなった記憶の何処かに月が潜んでいたのだろうか?
幼かった自分が見上げた月が。アルタミラの空に高く昇った、本物の月が。
(その可能性は有り得るな…)
消された記憶の中の月か、と結論づけて出来上がった料理を盛り付けた。
炊き立ての御飯も茶碗によそって、テーブルに着いて。誰も居なくても「いただきます」と合掌してから食べ始める。今の両親や先輩たちから叩き込まれた礼儀作法で、これは欠かさない。
(こういったことも前の俺だと、何もかも忘れちまっていたしな…)
養父母の顔も、彼らが教えてくれたことも。
それと同じで月の記憶も消えたのだろう、と箸を進めていたけれど。
だが、もっと。
失くしてしまった記憶の彼方のおぼろげな月。それとは違う、と何かが心に引っ掛かる。
もっと確かな月を見たのだと、遠い昔の自分の記憶がざわめく気配。
はっきりと月を見た気がする。
これぞ月だと、ブルーのようだと思った月を。
何処で…、と考え込みながら夕食を終えて、片付けをして。
コーヒーを淹れたマグカップを手に向かった書斎で、腰掛けた途端に鮮やかに蘇って来た記憶。
(シャングリラか…!)
前の自分が見た月の記憶。
それはシャングリラではあったけれども、天体の間に映し出された月ではなかった。天体の間がまだ無かった頃。シャングリラが白い鯨として完成された姿を現す前。
(そうだ、月のある星に降りていたんだ…)
シャングリラを巨大な白い鯨にするべく改造していた最中のこと。
宇宙空間では出来ない作業が幾つも生じた。重力が無いと、星の上に降りないと出来ない改造。そうした過程に差し掛かる度に、無人の星を選んで降ろした。
改造中に降りていた星。
其処に月が在った。
シャングリラが人類に見付からないよう、シールドを張っていたブルーの姿を月明かりで見た。
大気など無い星の上に立ち、涼やかな顔をしていたブルーを。
生身の身体に月の光を浴びたブルーを。
(綺麗だったっけな…)
月光の下に佇むソルジャー・ブルー。
まだ恋をしてはいなかったけれど、その立ち姿に、整った顔立ちに見惚れていた。
モニター越しに見ているだけでは足りなくなって、どうしても肉眼で見てみたくなって。仕事の合間に宇宙服を着て外へも出てみた。ブルーが生身で立つ星の上へ。
(視察してくる、とキャプテンらしい理由をつけちゃいたが、だ)
単にブルーを見たかっただけ。月光の中に居たブルーの姿を。
そうして外へ出て直ぐ側で見た、月明かりに照らされたブルーはそれは美しくて。
銀色の髪に、透けるような肌に月の光を浴びて立つさまは、名工の手になる銀細工のようで。
ただただ、魂を奪われていた。
月が似合うと、まるで銀細工のような人だ、と。
(銀細工なんて、シャングリラには一つも無かったんだがな)
そんな贅沢なものは無かったのに、と苦笑する。
本やデータでしか存在を知らず、美しい宝物の一つなのだと認識していた銀細工。
ブルーをそれに例えていたとは、存外、自分も大したロマンチストだったのだな、と。
今の世界ならば銀もあるのだけれど。
博物館だの美術館だのに行けば、それは素晴らしい銀の細工物を目にすることもあるけれど。
(肝心のブルーがチビではなあ…)
月のようだと、銀細工のようだと思ったブルーは小さくなって帰って来た。十四歳の幼い少年になったブルーと、青い地球の上で再び出会えた。
小さなブルーは銀細工と呼ぶには愛らしすぎて、それらしくない。
まだ幼くて柔らかすぎる頬に、子供らしさの抜けない手足。愛くるしい笑顔。
(ああいうのは何と呼べばいいんだ?)
銀細工ではない、小さなブルー。
滑らかな肌をしているけれども、前のブルーのように白磁の肌というわけでもない。子供の肌に磁器の冷たさは無くて、硬質な光を帯びてもいなくて。
だから磁器製とも呼べないだろう。銀細工でも磁器でもないブルー。
(うーむ…)
あえて言うなら砂糖細工の菓子だろうか。
粉砂糖をベースに作り上げられた細工物。口に入れれば舌の上で溶ける、砂糖細工の甘い菓子。
そんなトコだな、と砂糖細工なるものを思い浮かべていたのだけれど。
(いかん、食いたくなってくるじゃないか)
砂糖細工の薔薇だの城だのといった類ではなくて、小さなブルーを。
幼すぎるブルーを、砂糖細工のようなブルーを食べてみたい、と生まれた欲望。
しかし、砂糖細工の方ならともかく、銀細工だか磁器だかの前のブルーを食べていた自分は…。
(ずいぶんと丈夫な歯だったな、おい)
銀だの磁器だのを食っても欠けない頑丈な歯か、と前の自分の歯の丈夫さに笑う。顎もさぞかし強かったろうと、銀だの磁器だのを食べるのだから、と。
(磁器は大体想像がつくが、銀っていうヤツは食ったらどういう音がするんだ?)
ガチンと冷たい音がするのか、もっと鈍い音か。
そういった馬鹿馬鹿しいことを真面目に考えなければ思考を他へと逸らせない。
砂糖細工の小さなブルー。
味わってみたくても、それは禁忌で。
小さな身体を、幼い身体を食べることなど、教師でなくとも許されなくて…。
(チビのままで結婚したならな?)
もしもブルーが成長しなくて、今の姿のままで嫁に来たならば。
結婚出来る年にはなっているのだから、少し舐めてみるくらいは許されるか、という気がする。
砂糖細工の小さなブルーは甘いか、それとも柔らかいのか。
ほんの少し、舐めるくらいなら。
砂糖細工にそっと歯を立てるくらいなら。
(マシュマロみたいな感じかもなあ…)
白磁の肌ではなくてマシュマロ。ふんわりと柔らかく、甘いマシュマロ。
砂糖細工も悪くないけれど、小さなブルーはマシュマロだろうか?
(食う方向から離れないのか、俺は!)
そいつは危険な思想ってヤツだ、と自分の頭をゴツンと叩いた。けれど離れない砂糖菓子。
頭にしっかり住み着いてしまった、砂糖細工の小さなブルー。
(まずい、こいつは実にマズイぞ)
砂糖細工から遠ざからねば、と銀細工の方へ向かうことにした。
前の自分が食べていたブルー。月のようだと思ったブルー。
白磁の肌は見た目よりもずっと柔らかくて、まるで手のひらに吸い付くようで…。
(うん、滑らかな上生菓子とかな)
上生菓子だ、と前のブルーの肌の感触を菓子になぞらえた。
前の自分たちが生きた頃には無かった和菓子。存在すらも消されていた菓子。今の自分が暮らす地域に遠い昔に在った島国、日本の菓子。
(月も似合うが、上生菓子だってピッタリだぞ?)
前のブルーの肌を例えてやるならば、と馴染み深い菓子たちを思い浮かべる。
月見の頃ならウサギを象ったものだとか。
上質な白餡をたっぷり使って、表面を丁寧に仕上げた練り切り。
でなければ求肥。
どちらも前のブルーに似合う、と味わいと食感に思いを馳せていて…。
(いや、待てよ?)
求肥の菓子は多いけれども、白く柔らかな求肥に透ける淡い桃色の餡や羊羹。
それは小さなブルーの頬っぺたのようで。
薔薇色と呼ぶには淡すぎるブルーの頬の色。ほんのひと刷毛、はいたほどの淡い桃の色。それに似ていると、小さなブルーも求肥なのだと、求肥の菓子だと心が騒いで。
(どう転んでも食う方へ行ってしまうのか、俺は…!)
馬鹿め、と頭をもう一度叩いた。ゴツンと、自分の拳でゴツンと。
食べてはならない、小さなブルー。
どんなにブルーが美味しそうでも、美味しそうな見た目を湛えていても。
けれど、育ったブルーならば…。
(食えるんだがな?)
銀細工のブルーでも、磁器のブルーでも。
歯の丈夫さとはまるで関係なく、顎の強さなども問題ではなく。
それらはあくまで小さなブルーから気を逸らすための冗談であって、歯も顎もまるで関係ない。ブルーを食べるのに、月のようなブルーを味わうために必要なものはただ一つだけ。
ブルーが好きだと、愛しているのだという気持ちだけがあればいい。
それだけがあれば、ブルーを求める気持ちさえあれば、いつかブルーを食べることが出来る。
砂糖細工のブルーではなく、銀細工になってくれたなら。
小さなブルーが大きく育って、細い月ではなく、丸い月になってくれたなら。
(丸い月なら…)
食っていいんだ、と思ったけれど。
何年か待てば食える筈だ、と小さなブルーが育つのを待つつもりだけれど。
(前のあいつか…)
月が映える、と見惚れていた頃のブルーは食べ損なった。本物の月の光を浴びていた頃の、月を思わせる銀細工のブルーを食べ損なった。
ブルーはすっかり育っていたのに、しっかりと満ちた月だったのに。
(まさに十五夜だったんだがなあ…)
月が似合っていたブルー。食べても構わない姿をしていた、あの頃のブルー。
なのに自分は食べ損なった。
まだ恋をしていなかったから。
とうにブルーに恋していたとしても、それと気付いていなかったから。
ただ美しいと見惚れていただけ、月が似合うと眺めていただけ。
ブルーへの恋に気付いた時には、もうシャングリラの上に月は無かった。月の無い星へ、雲海の星へ着いてしまってから前のブルーに恋をした。
月のようだと、銀細工のようだと月の在った星で見惚れたブルーに。
そうして月だと思い続けた。
ブルーは本当に月のようだと、月の光が無くなった後で。
(前のあいつとは、月明かりの下では…)
キスすらも交わしはしなかった。
恋人同士ではなくてソルジャーとキャプテン、せいぜい「一番古い友達」。
月の在る星に宇宙服を着て降りて行っても「来たのかい?」と笑顔で迎えられ、ブルーの案内で船の中からは見られない箇所を視察に回っていた程度。作業中の仲間を労った程度。
(前のあいつとの月の思い出は、それだけなのか…)
月見さえもしていなかった。
空に浮かぶ月はあくまで光源、改造中のシャングリラを照らす月光という名の自然光。人の手で作る必要が無くて、エネルギーが要らない無尽蔵の光。
それが照らしている間に、と作業を急がせ、月見の発想はまるで無かった。
ブルーと二人で月の光の下に居たのに、月の光を浴びたブルーを綺麗だと思って見ていたのに。
(前の俺が次に本物の月を見たのは…)
月のようなブルーを失くした後。銀細工のブルーをメギドで失くしてしまった後。
ブルーに恋をして、思いが叶って、月のようなブルーを手に入れた。
誰にも明かせない恋だったけれど、幸せな時を二人で過ごして、共に暮らして。シャングリラでいつまでも一緒なのだ、と思っていたのに、ブルーを失くした。
月のようなブルーは逝ってしまって、独りシャングリラに取り残された。
(月のある星にも行ったんだろうが…)
かつて追われたアルテメシアから、月の無かった星から始めた地球への侵攻。
幾つもの星を落として手に入れ、ひたすらに地球への道を進んだ。降りた星には月を持つものもあったろう。しかし自分の記憶には無い。月を仰いだ記憶など無い。
(前の俺が見ていた本物の月は…)
この地球の月。それを目にした。汚染された大気で赤く濁った満月を、地球に降りた夜に。
(だが、あんな月は…。月じゃなかった)
ブルーに似合うと思った月。そんな月はあの日の地球には無かった。清らかに澄んだ月の光など何処にもありはしなかった。
遠い日に降りた月の在った地球では、自分の隣にブルーはいなくて。月のようなブルーはとうに彼方へ飛び去った後で、赤い月では思い出しさえもしなかった。
月が似合った美しい人を。
一刻も早く追ってゆきたいと願い続けた愛おしい人の、月のような面影も佇まいも…。
(よし、今度は!)
今度こそは、と心に誓った。
月の映える恋人を、月のようなブルーを、月明かりの下で抱き締めよう。
青い地球を照らす月明かりの中でキスを交わそう。
そして…。
(前の俺が食い損なってしまった分を取り返さんとな?)
月の似合うブルーを、月の在った場所で食べ損なってしまった自分。
ブルーに恋をしていなかったから、見惚れただけで終わった自分。
わざわざ宇宙服まで着て見に出掛けて、その美しさだけを眺めて終わってしまった自分。
(馬鹿としか言いようがないんだが…)
おまけにブルーへの恋を自覚したのも遥か後。救いようのない馬鹿とも言える。
馬鹿で間抜けだった前の自分が食べ損ねた分を取り返さねば、と強く思わずにはいられない。
幸い、今では青い地球の上。宇宙服など要りはしないし、月だって正真正銘の月。
(月と言えば地球の月だしな? 本家本元は)
一ヶ月かけて満ちて欠けてゆく、地球の月。
前の自分が仰いだ頃とは別物のように澄み切った月。
その月の下でブルーを食べる。前の自分が食べ損なってしまった、月の光を浴びたブルーを。
(流石にカーテンを開けっ放しというのはマズイか?)
寝室に射し込む月光の中で、月のようなブルーを食べたいという気がするのだけれど。
カーテンを開け放ったままで抱こうとしたなら、月の似合うブルーは怒るだろうか?
これはあまりに恥ずかしすぎると、せめてカーテンを閉めて欲しいと。
(そう言われそうな気もするんだが…)
ブルーの機嫌を損ねそうだが、月の光の下でブルーを抱きたい。
前の自分が食べ損なったブルーを、月明かりに照らされたブルーを食べたい。心ゆくまで抱いて愛して、味わいたいと思う自分がいる。
(月の光はあいつに似合うに違いないんだ…)
ソルジャーの衣装を纏っていてすら、あれほどに綺麗だったのだから。
余計なものなど何も無ければ、それこそ月の精だと思う。
銀細工の身体に月の光だけ、身に纏うものは射し込む月の光だけ。
どんなに美しく映えるだろうか、と思い描く。ブルーが月だけを纏ったならば。
それを食べられる自分はどれほどの幸せに胸を満たされ、幸福に酔ってゆくのだろうか。
月のようなブルーは自分のものだと、この銀細工は自分一人のものなのだと。
(よしよし、食う方向がズレていったぞ、うん)
食べるならやっぱり育ったブルーだ、と一人、腕組みをして大きく頷く。
月の光の下で抱くなら、其処で食べるなら銀細工の方のブルーでなくては。
前の自分が食べ損なってしまった、あの月の似合うブルーでなくては。
(チビでは、月の光の下ではなあ…)
今の小さなブルーだったら。
砂糖細工のブルーだったなら、月の光の下に置いても。
(美味そうなんじゃなくて、可愛いだけだな)
匂い立つような色香を帯びはしないだろう。しゃぶりつきたくはならないだろう。
銀細工ではなくて砂糖菓子だから。
どんなに繊細に作ってあっても、銀や磁器のように月の光を反射したりはしないから。
その身に月の光を映して、宿して清かに光る代わりに、ほんのりと月に染まるだけ。
月見団子が月の光に白く浮かんでいるのと同じで、ただ愛らしく其処に在るだけ。
砂糖細工の小さなブルー。
月の光の下で食べるには、幼すぎてどうにもならないブルー。
(早い話が月見団子ってことなんだな)
月ではなくて、と笑みが零れる。
月のようでも月ならぬ月見団子なのだと、食べるにはまだまだ早すぎるのだと。
砂糖細工の、月見団子の小さなブルー。
月が似合っても、銀細工のようだとは言ってやれない小さなブルー。
(いつまで砂糖菓子なんだかな?)
砂糖細工のままなんだかな、とハーレイの笑みが深くなる。
(月見団子で砂糖細工か…)
そんなブルーもまた、可愛い。
ブルーに言ったら怒るだろうけれど、砂糖菓子だなどと言ったら膨れてしまうのだろうけれど。
(しかし、そいつが可愛らしいんだ)
一人前の恋人気取りで、キスを強請ったりするブルー。
砂糖細工の小さなブルー。
愛おしいけれど、食べてしまいたい気もするけれども、まだ早い。
月明かりの下で食べるのが似合う、銀細工のブルーのようになるにはまだ早い。
まだ待たねば、とハーレイは小さな恋人を想う。
待ってやらねばと、まだ待たねばと。
小さなブルーを食べられる日は少なくともまだ数年先で、その日まで待ってやらねばなるまい。
満月のようなブルーに育つ時まで、銀細工のブルーに育つ時まで。
どんなに遠くとも、長い道のりになろうとも。
今宵、空に在る細い月。
それが真円に満ちる夜まではまだ遠いように、長すぎる時を待たされようとも、愛おしい恋人が愛を交わすのに相応しい姿に育つ時まで…。
月と砂糖細工・了
※前のブルーは月のような人。それに銀細工。今のブルーは月見団子で、甘い砂糖細工。
いつか大きく育った姿は、美しい月になる筈ですけど…。その日はまだまだ先らしいですね。
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(ほほう…)
こいつは全く知らなかった、とハーレイは鳶色の目を丸くした。
風呂に入って眠る前のひと時、日記を書いたり読書をしたりと書斎で過ごすのが常だけれども。其処に置かれた、調べ物に、日々の仕事にと愛用している端末の前。
シャングリラ・リング。
画面に表示された文字のその部分だけが眩い輝きを放って見えた。
シャングリラだと、懐かしい白い鯨だと。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
あのシャングリラはどうなったのか、と折に触れては調べていた。時の流れが連れ去って行ったシャングリラはもう何処にも無い。映像や写真といったデータだけしか残ってはいない。
なにしろ、相手は宇宙船だから。
宇宙遺産になってしまった木彫りのウサギならぬナキネズミくらいの大きさであれば、博物館や専用の施設などで保存も出来たのだろうが、白いシャングリラは大きすぎた。
人類軍の旗艦ゼウスの何倍もあったシャングリラ。
大勢のミュウが自給自足で生きていくための楽園としては必要だった巨大な船だけれども、船を降りて自由に暮らせる時代にそれは全く必要無かった。残りたい者だけが船に残った。
三代目にして最後のソルジャー、トォニィを乗せて広い宇宙を旅して回って、トォニィの判断でシャングリラの解体が決まったという。もう要らないと、次の世代には残すまいと。
常に大勢が乗っていたなら、暮らしていたなら簡単だった維持管理。それらは希望者が見学するだけの宇宙船となったシャングリラにとっては大きな負担で、とても続けてはゆけないと。
そうしてシャングリラは消えて行った。
最後にトォニィの手から「ありがとう」と労いの酒をその身に注がれ、時の彼方に。
解体されたシャングリラの船体はモニュメントなどになっていたのだけれど。
記念墓地の施設に使われていたり、他にも色々。
ミュウの歴史の始まりとなった宇宙船だけに、その使い道はいくらでもあった。引き取りたいと申し出る星も多くて、それこそ宇宙の至る所に散って行ったと言ってもいい。
しかし…。
(こういうのが存在したとはなあ…)
シャングリラの姿が無くなった時に、その船体が失われた時に取っておかれた一部分。
白い鯨を構成していた金属の一部。
(シャングリラ・リングか…)
白い鯨を形作っていた金属が溶かされ、記念硬貨やグッズになったということは知っていた。
それから長い長い時が流れ去った今、博物館や愛好家の手元に残された品々は高価。青い地球が蘇るほどの時を経て来た骨董品。とてもではないが、一介の教師では手が出ない。
(だが、こいつは…)
もしかしたら、と端末に表示された文字を覗き込む。
今もまだ在るという、その金属。シャングリラを構成していた金属。
キャプテンだった頃の記憶にある名前。
白い鯨に改造する前に採掘して回り、改造した後も補修などの度に探した金属。その金属を示す名前が其処に出ていた。間違いなくあのシャングリラのものだと断言出来る配合比率。これと同じものをわざわざ作りはしないだろう。
(あんな特殊な宇宙船はもう要らないしな?)
サイオン・シールドにステルス・デバイス。
それらを効率よく施すためにと選んだ合金は平和な今の時代には不要。船の強度を追求するなら割合を変えた方がいい。あの比率で作るよりも良いものが出来ると少し詳しい者ならば分かる。
(ということは…)
シャングリラの船体を解体した後、溶解した金属で記念硬貨やグッズを作って、その他に。
(未来へのタイム・カプセルか…!)
メッセージは入っていないけれども、時を越えて来たタイム・カプセル。
白い鯨が在った記念に、今もなお作り続けられているというシャングリラ・リング。
そのために残されたシャングリラの一部。記憶に残る数値で配合された金属。
(ふうむ…)
まだまだ在庫はあるらしい。
手に入れた人は大切に次の代へと受け継いでゆくから、それはその家に。
親から子へと、子から孫へと継がれ継がれて、気の遠くなるような時を旅して今に伝わる品々もあるに違いない。シャングリラの名残だと、あの船なのだと語り継がれて。
そして毎年、作られる数が決まっているから…。
(俺たちの寿命がある間には尽きてしまいそうもないな)
どれほどの量で始めたのかのデータもあった。一番最初に取っておかれた金属の量。
今まで尽きずに作り続けられて来たことを思えば、残りの量も充分にある。
今のハーレイとブルーの寿命がいくら長くても、その間に尽きはしないだろう。
(抽選か…)
欲しければ申し込むしかない。
全宇宙規模での、希望者を対象にした抽選とやらで当てる以外に方法は無い。
たとえ手に入れても血縁者にしか譲渡できない、売ることは出来ない品物だから。
骨董品屋に在りはしないし、転売されることも有り得ない。
(俺の家には無いってことは、だ…)
どうやら当てるしか道は無いらしい。
ブルーの家にそれが無いのなら。
代々伝わって来たそれが無いなら、当てない限りはシャングリラ・リングは手に入らない。
白い鯨の名残を今も残した、あの懐かしい比率の合金は。
その情報に巡り会った週末、ブルーの家を訪ねて行って。
いつものテーブルで向かい合わせに座ってブルーにそれを問い掛けてみたら。
「シャングリラ・リング?」
キョトンとしている赤い瞳の小さな恋人。ハーレイは「ああ」と頷き、重ねて尋ねた。
「お前の家には無いのか、そいつは。…シャングリラ・リング」
「それって、何なの?」
何のことなの、シャングリラ・リングって。
「シャングリラの名残だ。今も在るんだ」
ゆかりの品って所だな。運が良ければ家に代々伝わっていたりもするんだが…。
「そんなのがあったら聞いていると思うよ、パパとママから」
だって、ぼくはソルジャー・ブルーだもの。
パパとママの子だけどソルジャー・ブルーだ、ってパパとママはちゃんと知っているもの。
シャングリラに纏わる何かがあるなら、きっとぼくにも教えてくれるよ。
「それもそうか…。いくら指輪でも話すだろうな」
「指輪!?」
なにそれ、とブルーの声が引っくり返った。
シャングリラ・リングとは指輪なのかと、指に嵌める指輪のことなのかと。
「指輪なんだが…。それがどうかしたか?」
そんな大きな声を出すほど問題があるのか、指輪だったら?
「指輪って…。シャングリラの名残って、もしかして、あの石が嵌っていたりする?」
前のぼくたちの服に付いてた赤い石。
あれが付いているの、前のぼくの目、まだあったりする!?
慌てふためくブルーの瞳。澄んだ二つの赤い宝石。
遠い昔に、その瞳の色をそっくりそのまま写し取った石が存在していた。
シャングリラの中で合成されていた石。白い鯨が出来る前から、制服が出来た時代から。
誰の制服にも付いていた石、赤い色をしたミュウのシンボル。
それは本来、お守りだった。ヒルマンが見付けた遥かな昔の地球に在ったお守り、メデューサの目と呼ばれた青い目玉の形の魔除け。それに倣って魔除けにしようと、ブルーの瞳の赤い色。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーにとっては、そのお守りの由来は恥ずかしいもので。
赤い石の由来を思い出す度にいたたまれない気持ちになったものだから、新しく船に来る者には言うなと緘口令を敷いてしまった。ただの赤い石だと言っておけ、と。
ブルー自身もジョミーにすら伝えず、赤い石の由来は永遠の謎になったのだけれど。
その赤い石が今もあるのかと、シャングリラ・リングに嵌っているのかとブルーは慌てた。
誰も由来を知らないにしても、それは恥ずかしすぎるから。
前の自分の瞳から来た石が今も在るなら、指輪になって存在しているのなら。
「安心しろ、あれとは無関係だ」
お前の瞳の石じゃないさ、とハーレイはブルーを安心させてやった。
あの石ではないと、シャングリラ・リングに赤い色の石は嵌っていないと。
「じゃあ…。なんでシャングリラ・リングって名前なの、その指輪?」
それにシャングリラの名残って、なに…?
「シャングリラそのものだ、船の名残だ」
いいか、シャングリラが解体された時にだな…。
シャングリラの行方を探していた、と小さな恋人に話して聞かせた。
白い鯨が、懐かしい船がどうなったのかを。
トォニィがシャングリラの解体を決断した後、あの船は何処へ行ったのかを。
「引く手あまたの船だからなあ、そりゃもう、あちこちに散って行ったさ」
記念墓地だの何だのでモニュメントになったり、施設を造るのに使われたり。
個人向けだと記念硬貨やグッズだな。ずいぶん沢山作ったらしいが、今じゃ立派な骨董品だ。
「モニュメントとかは知ってたけど…。記念硬貨やグッズもあったの?」
骨董品だときっと高いね、売られているなんて聞いたことがないもの。
「持ってるヤツらは手放さないさ。たまにオークションとかで出るらしいがな」
もちろん俺なんかにはとても買えない値段で、手も足も出ないというヤツだ。
見るだけだったら博物館には置いてある筈だが…。常設展示かどうかは知らんが。
「それ、見てみたいな」
シャングリラが別物に変身しちゃった記念硬貨とか、グッズとか。
あの船から出来たものがあるなら、いつかハーレイと見に行きたいな…。
常設展示じゃなかったとしても、宇宙遺産のウサギよりは多分、見やすいだろうし。
何年か待てば出て来るだろうし、それも二人で見に出掛けようよ。
シャングリラを今でも見られるんなら、欠片だけでも見に行けるんなら…。
「それもいいが、だ」
見に出掛けるより、手に入れないか?
俺たちのためだけのシャングリラの欠片。
「それって、買えるの!?」
ハーレイ、高いって言わなかった?
手も足も出ない値段でとても買えないって言っていたのに、どうやって…?
「さっき言った指輪だ、シャングリラ・リングだ」
シャングリラの船体の残りから指輪を作ると言ったろ、金属だけで出来たシンプルなヤツを。
赤い石なんかはついていなくて、ただの指輪だと。
「高そうだよ?」
今も残っているシャングリラの金属から作る指輪だなんて。
記念硬貨やグッズが凄い値段だったら、その指輪だってうんと高いと思うんだけど…。
「いや、シャングリラ・リングっていうヤツは実費だ」
「実費?」
なんなの、それ?
「そのまんまの意味さ、かかる費用だ」
加工代だけ払ってくれればいいんです、ということらしいぞ。
指輪を作るための加工代のみ。
それだけを払えば手に入るというシャングリラ・リング。
シャングリラの船体の一部だった金属を使って今も作られ続ける指輪。
小さなブルーは「加工代だけ…」と呟いてから、赤い瞳を真ん丸にして。
「えーっと…。それ、指輪よりも安くない?」
お店で売ってる、普通の指輪。金とか銀とか、加工代だけじゃないよね、きっと。
そんな指輪よりも安いんじゃないの、シャングリラ・リング。
「安いとも。加工代しか要らないんだからな」
「なのにシャングリラで出来てるの?」
ホントに本物?
元はシャングリラだった金属から作った本物なの?
「本物らしいぞ、俺はデータを確認したしな」
シャングリラ・リングを作り出すための金属の配合比率ってヤツを。
あれはシャングリラでしか有り得ない。
正真正銘、本物のシャングリラの一部だ、あれは。シャングリラ・リングの元になるのは。
ミュウの歴史の始まりの船。
最後のソルジャー、トォニィが解体を決断した船。
白い鯨が、シャングリラが存在していたことを後世の人々に伝えてゆこうと残された一部。
モニュメントや施設や、記念硬貨やグッズを作るのとは別に取っておかれた金属の塊。
シャングリラの船体を溶かして作った金属の塊、其処から作られるシャングリラ・リング。
地球が蘇るほどの長い歳月、毎年、毎年、決められた数の指輪を作り続けて、これから先も。
その塊が残っている間は毎年作られ、遥かな先の遠い未来へまでも。
シャングリラという船があったと、其処から全てが始まったのだと語り継ぐための小さな指輪。
メッセージは刻まれていないけれども、小さな小さなタイム・カプセル。
此処にシャングリラが、白い鯨が入っていると。
シャングリラの一部で作られたのだと、始まりの船で出来た指輪なのだと。
ハーレイが見付けたシャングリラ・リング。
前の自分が、キャプテン・ハーレイが舵を握っていた船から作られる指輪。
そのシャングリラは前のブルーが守っていたから、小さなブルーに訊いてみる。
「なんてことはない、ただのシンプルな結婚指輪らしいんだが…」
欲しくないか?
シャングリラ・リング。あのシャングリラから出来た結婚指輪。
「欲しい!」
でも、どうやったら手に入るの?
シャングリラの指輪は欲しいけれども、実費だけだなんて何処で買えるの?
「買うんじゃないんだ、俺たちに出来るのは申し込みをすることだけなんだ」
申し込みをした人の中から抽選で当たれば、シャングリラ・リングが貰えるのさ。
指輪のサイズと、入れたいイニシャルやメッセージ。
そういったことを向こうに知らせて、それに必要な実費を教えて貰って支払いをして…。
指輪が出来たら、手元に届くっていう仕組みだな。
ただし、そいつを売ることは出来ん。売ってはいけないというのが決まりだ。
次の代に譲って大切に継ぐか、継ぐ者が無いなら元の塊が在った場所に戻すか。
それがシャングリラ・リングを持つための決まりで、抽選以外の方法で手に入れるには「継ぐ」しかないのさ、それを持っている人からな。
だからお前に訊いてみたんだ、お前の家にはシャングリラ・リングは無いのかと。
残念なことに俺の家には無いからなあ…。
親父とおふくろは持っていないし、祖父さんたちが持っているなら一度くらいは話題になってる筈だからな。なんと言ってもあのシャングリラだ、あるなら家宝だ。
「そっか、抽選で当てる以外に無いんだ…」
ぼくの家にもハーレイの家にも伝わってないなら、抽選なんだね。
シャングリラ・リングが欲しいんだったら、それしか無いって厳しいんだね…。
「だからこそだろ、記念硬貨やグッズと違って今でも実費で手に入るのは」
俺みたいな普通の教師なんかでも買える値段でシャングリラの名残を手に入れられる。
こいつは実に凄いことだぞ、何年経ったか考えてみろ。
シャングリラって船が消えちまってから何年経ったと思っているんだ、記念硬貨とかは骨董品になっているんだぞ?
それなのに加工代だけで同じシャングリラから出来た指輪が手に入る。シャングリラ・リングを思い付いてくれた人に感謝せんとな、誰にでもチャンスがあるんだからな。
「…そうかも…」
骨董品を買わなきゃシャングリラの欠片が手に入らないなら、ぼくたち、絶対、無理だものね。
博物館の展示ケースの中を眺めて「シャングリラなんだ」って思うしかなくて、触ることなんか出来なくて…。
だけどシャングリラ・リングだったら、当てさえすれば指輪よりも安い値段で貰えるんだし…。
もしも貰えたら、シャングリラの欠片がぼくたちの所に来るんだものね。
それでどうやったら申し込めるの、とブルーが訊くから。
今すぐにでも申し込みをしそうな勢いで訊くから、ハーレイは「まだだぞ」と釘を刺した。
「チビのお前にはまだ早い。そもそも資格自体が無いな」
「なんで?」
「結婚指輪だと言っただろう。二人一組で申し込むもので、お前の年が足りなさすぎる」
十八歳で結婚するとしてもだ、十七歳にはなっていないと抽選以前に外されちまうな。
結婚を考えているカップルだったら申し込めるが、流石に年齢不足はなあ…。
「そうなってるの?」
じゃあ仕方ないね、まだ暫くは駄目なんだ…。
「うむ。抽選は年に一回らしいぞ、全宇宙規模でも年に一回きりってことだ」
「一回きりだと、早めに申し込んでおかないと貰えないよ?」
当たるかも、って待ってる間に結婚式の日が来てしまったら…。
指輪の交換が出来なくなっちゃう、結婚指輪が無いんだもの。結婚指輪は別に作って、当たるかどうかを待つっていうのは変だよね…?
「いや? そう簡単には当たらんからなあ、結婚式が近い場合は指輪は用意しておけ、だとさ」
シャングリラ・リングは実費なんだし、大した費用じゃないからな。
用意しておいた結婚指輪と重なっちまったら、一緒につければいいそうだ。
「重なりました」と伝えさえすれば、一緒につけても似合うデザインにしてくれる。そのための費用は向こうの負担で、余分な費用はかからないんだ。
「だったら安心して申し込めるね、重なっちゃっても大丈夫なら」
結婚式の日に結婚指輪がありません、って慌てる心配も無いみたいだし…。
シャングリラ・リング、抽選でもいいから欲しいよ、ぼくも。
もしも当たったら、シャングリラの欠片で作った結婚指輪を貰えるんだもの。
「よし。それなら二人で申し込んでみるか、いつか結婚する時に」
シャングリラ・リングが欲しいんです、って俺とお前の名前を並べて。
「うんっ!」
抽選、当たるといいんだけどな…。シャングリラの欠片の指輪、欲しいな…。
「忘れちまった頃に当選するかもしれんぞ、忘れて指輪を買っちまった後で」
どうせ当たりやしないんだしな、と結婚指輪を選んで、買って。
下手をすると結婚式をとっくに挙げちまった後で当選通知が来るかもなあ…。
そういうケースも無いとは言えんぞ、抽選の日よりも結婚式にピッタリの日の方が優先だろう?
「そうだね…。抽選を待つより結婚式だね」
絶対この日、って思う日があったら外せないものね。
結婚しちゃって、ハーレイと一緒に暮らしている家に「当たりました」って通知もいいかも…。
そんなサプライズも嬉しい気がするし、そうなったらとっても素敵だけれど…。
だけど最初から結婚指輪はシャングリラ・リングで用意してます、っていうのもいいし…。
ねえ、ハーレイはどっちがいい?
結婚してから当選するのと、シャングリラ・リングで結婚式を挙げるのと。
「こらこら、そこまで先走っちまってどうするつもりだ」
当たるとは限らないんだぞ?
むしろ外れる方が可能性としては高いんだからな、そうそう大きな夢を見るなよ…?
ブルーがすっかり当てるつもりで夢を膨らませるのは可愛いけれど。
可愛いけれども、外れた時にガッカリさせても可哀相だから、ハーレイは注意しておいた。
そう簡単に当たりはしないと、全宇宙規模での抽選だから、と。
「いいな、当たる確率は限りなく低い。其処の所を忘れるなよ?」
「分かってるけど…。当てる秘訣って何かあるの?」
抽選が当たりやすくなるおまじないとか、そういう何か。
ハーレイ、そういったものには詳しいんだもの、何か方法とか秘訣を知らない?
「忘れることだ、とよく言うな」
欲を張らずに忘れちまうような人には当たる、と昔は言われていたらしい。SD体制よりも前の話だな、忘れておくのが一番らしいぞ。
「そうなの? だったら結婚する時に外れちゃったら、次の年から駄目で元々で申し込もうよ」
結婚してるんだから幸せできっと忘れてしまうし、当たりそうだよ。
申し込んだことも忘れて過ごしていたなら、その内に、きっと。
「思い付きとしては悪くないんだが…。残念ながら、チャンスは一度きりってな」
シャングリラ・リングは特別だからな、一生に一度しか申し込めない。
一度外れたら二度目は無いのさ、カップルの相手が変われば別だが。
「それって、究極の運試し?」
ぼくとハーレイの名前で申し込めるの、一回だけ…?
「そうなるな」
一回きりだな、其処で外れりゃおしまいだ。
だが挑戦するだけの価値はあるだろ、なんと言ってもあのシャングリラの指輪だからな。
前の俺たちの船で出来た指輪だ、とハーレイは笑みを深くした。
お前が守った白い鯨だと、俺が動かしたシャングリラだと。
「そのシャングリラの欠片を貰えるチャンスだ、挑戦しないって手は無いだろう?」
当たればあの船が手元に来るんだ、結婚指輪に姿を変えてな。
前の俺たちには想像も出来なかった凄い話だ、シャングリラから作った結婚指輪なんだぞ?
結婚なんか出来やしないと諦めてたのに、シャングリラを結婚指輪に出来るとはなあ…。
「うん…。ホントに夢みたいな話だけれど…」
シャングリラ・リング、欲しいけれども、抽選だよね?
そういう指輪が存在すること、大抵の人は知ってるのかな?
結婚する人でシャングリラが好きだと、申し込むのが常識みたいになってるのかな…?
「さてなあ…。少なくとも俺は初耳だったが?」
多分、誰もが申し込むほど知られちゃいないさ、それなら俺も何処かで聞いてる筈だ。
ダテにお前より年は取ってないし、友達や知り合いの結婚式にも何度も出席してるってな。
しかしだ、シャングリラ・リングの噂は一度も耳にしちゃいない。この地域じゃ知られていないらしいな、他の地域や星に行ったら常識なのかもしれないが…。
とはいえ、全宇宙規模で凄い人数での抽選だとしても、挑んでこそだろ?
「外れたらうんとお笑いだけどね」
ぼくとハーレイで申し込みをして、外れちゃったら。だって、相手はシャングリラだよ?
「まったくだ。他のカップルはともかく、俺たちだけにな」
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが申し込みをして外れました、だとお笑い種だ。
せっせと守って動かしてやった船に全く相手にされないんじゃな。
恩知らずな船もあったもんだ、と一生文句を言ってやるしかなさそうだなあ…。
「シャングリラ…。ぼくたちのことを覚えていてくれるといいんだけれど…」
抽選の時にちゃんと気付いて選んでくれるといいんだけれど。
ぼくとハーレイが申し込んだこと。今度は結婚するんだってこと…。
「そうだな、気付いてくれるといいな…」
誰が知らなくても、あの船だけは俺とお前が恋人同士だったことを知ってくれてた筈だからな。
俺とお前の名前で気付いてくれるといいなあ、あの二人だと。
「うん。…そうだ、ハーレイ、シャングリラ・リングの話を忘れないでよ?」
そういう指輪を見付けたってことと、結婚する時には申し込むこと。
ぼくは忘れてしまいそうだから。
悔しいけれども、チビだからかな、一晩寝たら忘れちゃうことが沢山あるんだ。
パパとママとは「子供はそれでいいんだ」って言うけど、シャングリラ・リングも忘れそう…。
「そうだろうなあ、確かに子供はそうしたもんだな」
コロッと忘れて、また別のことに夢中になって。それが子供の特権ってヤツだ。
だが、安心しろ。これだけのネタは俺の方はそうそう忘れんさ。日記にも書くか、少しだけな。
「ホント!?」
「ああ、絶対に忘れないようにな」
シャングリラ・リングだとか、申し込みだとか、そんな風には書かないだろうが…。
俺にだけ分かるヒントってヤツを何処かに書いておくかな、結婚が決まったら忘れずに、と。
忘れないよう、シャングリラ・リングを二人で申し込むように、とな。
「ありがとう! ハーレイ、ホントに忘れないでね!」
ぼくと二人でシャングリラ・リング。
申し込もうね、結婚するってことが決まったら、シャングリラの欠片で出来た指輪を…。
約束だよ、と顔を輝かせる小さなブルーには「日記に書く」と言ったけれども。
ハーレイは机の引き出しに入れた写真集の中にメモを一枚、忍ばせておくか、と考える。
前のブルーが表紙を飾っている『追憶』。
正面を向いた、一番有名なソルジャー・ブルーが表紙になった写真集。
強い眼差しの底に深い悲しみと憂いとを秘めたソルジャー・ブルー。
その彼が寂しがらないように、と自分の日記を上掛けのように被せてやっているけれど。
いつも気にかかっている写真集だから、その中にメモ。
彼と二人で暮らした船から作った結婚指輪を申し込むのだ、と記したメモ。
悲しげな瞳のソルジャー・ブルー。
そんな瞳をしていた愛おしい人を、幸せ一杯の花嫁として迎える時に備えてその指輪を、と…。
未来への指輪・了
※結婚指輪に姿を変えたシャングリラ。抽選に当たらないと貰えないのが問題ですけど。
前のハーレイとブルーが暮らした白い船。指輪の形で手に入れられたら嬉しいですよね。
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(今日は、ハーレイ…)
来てくれやしない、とチリッと痛んだ、ぼくの胸。
学校では顔を見られたけれども、仕事帰りに寄ってはくれない。ぼくと夕食を食べてくれない。ぼくの部屋でお茶を飲んではくれない。
制服を脱いで、おやつを食べて。いつもだったら部屋に戻ると少しドキドキしてるのに。今日はハーレイが来てくれるかも、と窓の方を見たりしてるのに。
それなのに今日は見下ろすだけ無駄な窓の外。鳴らないに決まっているチャイム。鳴ったって、それはハーレイじゃない。ご近所さんか、他のお客さん。門扉の脇についてるチャイム。
ぼくの胸がまたチリッと痛む。微かに、チリッと。
(なんで痛いの?)
ハーレイが来られないだけで。
来られないって分かっているだけで。
生まれつき身体の弱いぼくだけれども、胸が痛くなるような病気なんかは持っていないのに…。
お昼休みに食堂で耳に挟んだ会話。ランチ仲間と食事してたら聞こえて来た。ハーレイの名が。
反射的にそっちに視線を向けたら、体格のいい男子生徒のグループ。ハーレイが顧問をしている柔道部の部員たちだった。ハーレイの名前が出たって何も不思議じゃないんだけれど…。
予知能力は皆無のぼく。前のぼくの頃から殆ど無かった。
でも、ああいうのを「虫の知らせ」って言うんだろうか?
ついつい聞き耳を立ててしまった、柔道部員たちの会話の中身。ハーレイの名前の続きの話。
柔道部に入っている生徒の一人が風邪をこじらせて休んでいる、って。
様子を見がてら、ハーレイがお見舞いに行くんだ、って。
だから来られない、今日のハーレイ。お見舞いに出掛けてしまったから。
ぼくには誰だか見当もつかない、柔道部員の誰かの家。其処にお見舞いに行っちゃったから…。
(来られないって分かっているから辛いんだよ、きっと)
待つ楽しみが無くなったから。もしかしたら、って待つだけ無駄だと分かっているから。
ハーレイと幸せな時間を過ごせる可能性がゼロになったから。
普段だったら、何処かで期待している時間。その時間が最初から全く無いんだから。
(でも…)
そんな日だってまるで無いわけじゃない。
ハーレイが研修で出掛けちゃったり、柔道部の試合で他の学校とかへ行ってる時とか。こういう日は初めてって言うわけじゃなくて、ぼくは何度も経験してる。
チャイムが鳴らないと分かっている日。ハーレイが来ないと決まっている日。
(いつもは痛くならないのに…)
胸が痛んだことなんか無い。チリッと痛んだ覚えは無くて。
(どうして今日は胸が痛いの…?)
なんで、って考えても分からない。ぼくの胸がチリッと痛くなった理由。
ホントのホントに初めての症状、病気じゃないとは思うんだけど…。
症状って言い方は変かもしれないけれども、初めての痛み。チリッと痛くなったぼくの胸。
その原因が分からない。ハーレイがお見舞いに出掛けた先と同じで謎。
(いいな…)
何処に住んでるのか、どんな顔かも分からないけれど、ハーレイにお見舞いに来て貰える生徒。風邪をこじらせた柔道部員。病気はとっても気の毒だけれど、羨ましいと思っちゃうんだ。
だって、ハーレイにお見舞いに来て貰えるんだから。わざわざ家まで。
(…お見舞いだから、手ぶらじゃないよね…)
絶対、何かを持って行ってる。お見舞いに何か。
病気なんだし、男の子でも花束を貰ったりするんだろうか。それとも、クッキー?
柔道部員御用達だぞ、ってハーレイが言ってた近所のお店のお得な大袋。割れたり欠けたりしたクッキーの徳用袋をおやつに用意するんだって聞いているけど、其処の綺麗な詰め合わせとか。
「元気になったら食べてくれよ」って、クッキーの箱。
でなければ、「早く治せよ」って、元気が出そうな明るい色の花を纏めた花束。
特別なお菓子か、素敵な花束。お見舞いに持って出掛けてゆくなら、きっとその辺。
(ぼくは花束なんか一度も…)
ハーレイから貰ったことが無い。
青い地球の上で再会してから、何度も寝込んで学校を休んだりしてるのに。なのに花束を貰っていない。ただの一度も、ほんの小さな花束でさえも。
(…長いこと休んでいないから…?)
一週間も丸ごと休む、ってほどの病気はしていない。風邪をこじらせたりもしていないんだし、深刻な病気じゃないからだろうか?
だから花束も特別なお菓子も無くって、「大丈夫か?」って訪ねて来てくれるだけだとか…?
ぼくが大好きなスープを作りに。
何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープを作りに。
(…野菜スープのシャングリラ風…)
食事なんかしたくない、って気分の時でもあれだけは喉を通るんだけれど。前のぼくもそうで、ハーレイが作るあのスープだけは食べられた、ってくらいだけれど…。
所詮は、スープ。
ぼくが病気で休んじゃっても、ハーレイは野菜スープを作りに来てくれるだけ。
(花束もお菓子も貰えないんだよ…)
途端にチリッと痛んだ胸。
どうせぼくなんか、って思った途端に。
(あれ…?)
不意に頭を掠めた記憶。
前にもこんな思いをした。確かにした、っていう気がする。
(いつ…?)
胸が痛いのなんか、初めてなのに。
こんな風にチリッと痛むことなんか、今までに無かったことなのに。
(前のぼく…?)
ソルジャー・ブルーだった頃のぼくが感じた痛みだろうか?
どうして、と記憶を探ろうとしたら思い出した。
アルテメシアだ、って。
前のぼくの胸がチリッと痛んだ、何度も何度も痛んでた場所は。
改造を終えて白い鯨に変身を遂げたシャングリラ。
宇宙のあちこちを旅して回って、雲海の星を見付けて、雲に隠れて。
いざとなったら人類の世界から物資の調達も出来るのだから、と定住を決めて暮らしていたら。
仲間たちの悲鳴を聞くようになった。
成人検査の途中で、あるいはもっと幼い時代にユニバーサルに見付かってしまった子供たち。
とても放っておけやしないし、とにかくぼくが飛び出して行った。
潜入班なんか無かった時代。悲鳴を聞く度、急いで出掛けて、助け出して…。
そうして白い鯨に迎えたミュウの子供たち。
人類の世界しか知らずに育った、広い地面の上で育った子供たち。
(ハーレイが世話をしていたんだよ)
養育部門も作られたけれど、船に慣らすために。地上とは全く違った世界に、育ての親も友達もいなくなってしまった世界に少しでも早く馴染めるように、と。
救出を始めて間もない頃は。
子供たちを育てることに船のみんなが慣れていなかった、初期の間は。
長い長い間、大人だけで構成されてた世界だから。
養父母と子供が大勢いるのが当たり前の場所から来た子供たちも、ぼくたちの方も、どうすればいいのか手探り状態。
そんな中でハーレイがせっせと積極的に動いていた。
キャプテンだから、っていうのもあっただろうけど、元々がとても面倒見のいい性格だから。
子供たちに慕われたキャプテン・ハーレイ。
おどおどしている子を肩車して歩いてやったり、ブリッジを見学させてやったり。
「どうだ、慣れたか?」なんて話をしながら、食堂で一緒に食事をしたり。
ぼくも子供たちと遊んでやったりしたんだけれども、ハーレイと二人で付くことは無かった。
お相手は一人いれば充分、ぼくが付いたらハーレイは仕事に戻ってゆく。
それとは逆にハーレイが来たら、ぼくの方はお役御免になった。
ソルジャーとキャプテン、シャングリラの頂点とも言える二人が子供の世話も無いだろう、と。一人ずつなら問題無くても、二人一緒だと「やり過ぎだ」ってことになる。
そうならないよう自然に交代、子供たちに付くのはどちらか片方。
白い鯨の中、ハーレイに世話をして貰える子供が羨ましかった。
肩車や、二人一緒の食事や、遊びの時間。
キャプテンに特別扱いされる子供が、親しく面倒を見て貰っている子供の姿が。
(まるで昔のぼくみたいだ…)
流石に肩車をして貰うには大きすぎたから、その経験は無かったけれど。
アルタミラから脱出した後、ハーレイの後ろにくっついてた、ぼく。
何処へ行くのもハーレイと一緒、ハーレイの大きな背中の後ろ。
大きな背中に守られてた、ぼく。
ソルジャーじゃなくてチビだった頃の、心も身体も育つ前のチビの頃のぼく。
いつだってハーレイが話し掛けてくれて、他の仲間たちと馴染めるようにと気を配ってくれて。
そう、今、子供たちにしているように。
シャングリラに迎え入れたばかりの子供たちにそうしているように。
(あそこはぼくの居場所だったのに…)
チリッと胸が痛む。ぼくの居場所に他の子がいると、別の子供が収まっていると。
だけど戻れない、ハーレイの後ろ。大きな背中に守られる後ろ。
奪えない、子供が立っている場所。シャングリラに来た子の安らぎの場所。
あそこはぼくの場所だったのに、と言った所で始まらない。ハーレイはキャプテンなんだから。ぼくがその場所に居なくなってから、ソルジャーになってから、もう随分と経つんだから。
だけど…。
(痛い…)
チリリと痛みを訴える胸。
子供に優しく笑い掛けてるハーレイを見ると。
遊んでやったり世話をしているハーレイを見ると、胸が痛くてたまらなくなる。
ぼくの居場所を失くしてしまったと、別の子供が其処に居ると。
「ソルジャー、どうしたの?」
何処か痛いの、って少し前から船に居る子供たちに訊かれて我に返ることも、しばしばで。
酷い時には当の子供に、ハーレイと二人で面倒を見ている子供に尋ねられたりもした。
どうかしたのと、何か考え事でもあるの、と。
まさか子供に言えやしないから、「なんでもないよ」と誤魔化したけれど。
胸が痛いなんて、羨ましいなんて言えやしなくて、穏やかに微笑み返しておいたけれども。
(ぼくが居た場所…)
帰れない場所。
もう二度と帰れはしない場所。
子供たちが来るまで忘れ去っていた、気にしていなかったハーレイの後ろ。
誰も其処には立たなかったから、すっかり忘れてしまっていた。懐かしい大きな背中の後ろ。
ハーレイの大きな背中に守られ、その後ろに居た頃の安心感と心地良さ。
(あそこはぼくの場所だったんだよ…)
ぼくだけの場所だと思っていた居場所。それを盗られた。盗られてしまった。
取り返したくても、取り返せない。
ソルジャーがそれをすべきではないし、そうでなくても、ぼくは子供じゃないんだから。
分かっているのに、ハーレイの後ろは船に慣れない子供のための場所だと分かっているのに…。
(…まただ…)
新しい子を船に連れて来る度、ぼくの胸が痛む。チリリと痛む。
ぼくの居場所を盗られてしまったと、ハーレイの大きな背中の後ろをまた盗られたと。
(…胸が痛いよ…)
その子がシャングリラに慣れてハーレイがお役御免になったら、痛まないけれど。
チリリと胸を刺してた痛みは綺麗に消えてしまうんだけれど。
でも、また直ぐに次の子供がやって来る。ハーレイの後ろに隠れる子供が、守られる子が。
(養育部門を早く充実させなきゃ…)
キャプテン自ら子供の面倒を見てやらなくても済むように。
これから船に迎え入れるだろう子供たちのためにも、より良い環境を整えなければ。一日も早く船に馴染めるよう、専門の養育スタッフたちを多く育てて配属せねば。
子供たちのためだとか、キャプテンの仕事を減らすためだとかは表向き。立派な理由に聞こえるけれども、ソルジャーの案らしく聞こえるけれども、それはあくまで表向きのこと。
本当はぼくが辛かったから。
ぼくの胸がチリッと痛んだから。
ハーレイの後ろに、ぼくの居た場所に別の子供が収まる度に。
辛くて、悲しくて、チリリと痛み続ける胸。それが嫌だから、養育部門のスタッフたちの選出と養成を急がせた。子供たちのためだと、キャプテンのためだと御立派な理由をしっかりと付けて。
養育部門がきちんと機能し始め、ハーレイが子供たちの世話から解放された後。
(ホッとしたけど…)
胸は痛まなくなったんだけれど。
ぼくの居場所を盗られてしまったと、チリリと胸を刺す痛みはすっかり無くなったんだけど。
今度はどうにも寂しくなって、子供たちの姿が見えなくなった場所を見詰めていた。
(…ぼくはあそこに立っていたのに…)
誰も居ないなら、子供たちがもう立たないのならば、ぼくがあそこに戻りたい。
ハーレイの後ろに戻りたい、って。
大きな背中に守られる場所に。安心して立っていられた場所に。
(もしかしたら…)
あれは嫉妬というものだったろうか?
居場所を盗られたと、ぼくの居場所に別の誰かが収まっていると。
だからチリリと痛んだ胸。嫉妬でチリリと痛んでいた胸。
そして今のぼくも。
ハーレイが他の生徒を大事にしてると、お見舞いに何かを持って行ったと、胸がチリリと。
そう、これは嫉妬。
ハーレイはぼくよりも他の誰かが大切なんだと、そうに違いないと訴える胸。
それは違うと思いたいのに、不安でチリリと痛み出す胸。
今のぼくは「違う」と、ハーレイは他の生徒よりもぼくが大事に決まってる、と知っているのに胸がチリッと痛くなるんだから、それを知らなかった前のぼくだと…。
ハーレイと恋人同士じゃなかった頃の前のぼくだと…。
(あれがハーレイへの恋の始まり…?)
まるで自覚は無かったけれども、嫉妬したなら、そういうこと。
胸がチリリと痛んでいたなら、そういうこと。
ハーレイの後ろに子供が立つ度、ぼくじゃない誰かが収まっているのを見る度、痛んでいた胸。嫉妬でチリリと痛んだ胸。
(子供に嫉妬…!)
よりにもよって子供相手に、と思うけれども、本当に痛くて辛かった胸。
それにハーレイがお役御免になっても、心にぽっかりと開いた穴は埋まってくれなかったし…。
ぼくの場所だと、ハーレイの後ろはぼくの居場所だと思い始めたら止まらなかった。
空いているなら戻りたくって、大きな背中に守られたくて。
気が付いたらハーレイに恋をしていた。
ハーレイの広い背中を目にする度に、振り返ってぼくを見てくれないかな、とドキドキしてた。前みたいに其処に居させて欲しいと、大きな背中で守って欲しいと。
チビだったぼくにしてくれたように、抱き締めて背中を撫でて欲しいと。
(子供のせいで恋しちゃったの?)
ハーレイの後ろを子供たちに奪われたせいで、前のぼくは恋をしたんだろうか?
ぼくの居場所だから返して欲しいと、その場所にぼくが収まるのだと。
まさかね、と苦笑したくなるけど、明らかに嫉妬。
胸がチリリと痛んだ嫉妬。
きっと嫉妬をするよりも前に、とっくに恋をしてたんだ。
前のぼくの居場所を作ってくれてた広い背中に、大きな背中の持ち主だったハーレイに。
ぼくが気付かなかっただけ。
恋をしてると、ハーレイが好きだと気付かずに過ごしていたというだけ。
嫉妬したせいで恋の焔に火が点いた。
まずは邪魔者を排除するべく、ぼくの居場所を奪う子供は養育部門へ。
そうやって邪魔者が居なくなったら、今度は機会を窺っていた。ハーレイの大きな背中の後ろに戻れないかと、ぼくの居場所に戻れないかと。
だけど言えなくて、言い出せなくて。
ハーレイにはとても言えやしないと黙り込んでいたら、抱え込んでいたら夢が叶った。
ぼくに恋してくれたハーレイ。
ぼくの居場所を前よりもずっと広くて暖かな場所に変えて優しく招き入れてくれたハーレイ。
後ろじゃなくって、胸の中へ。
逞しい両腕で強く抱き締めて、すっぽりと包んでくれたハーレイ…。
(うーん…)
せっかく思い出したのに。
前のハーレイとの恋の始まりを思い出したのに、今日はハーレイは来てくれない。
柔道部員の生徒の家までお見舞いに行ってしまったから。きっとクッキーか花束を持って。
そう思うと胸がチリッと痛む。嫉妬でチリリと痛みが走る。
こんな日にぼくを訪ねてくれないだなんて。
恋の始まりをぼくが思い出した日に、他の誰かの家へ出掛けて行っちゃうだなんて…。
(酷い…)
ぼくの居場所を盗られてしまった。柔道部の誰かに、顔も名前も知らない誰かに。
ハーレイの側に居る筈なのはぼくなのに、って子供たちに嫉妬していた昔のぼくみたいなことを考えていたら、チャイムの音。門扉の横にあるチャイムを誰かが鳴らしている音。
どうせご近所さんなんだ、って放っておいた。
窓から門扉の方も見ないで、勉強机に頬杖をついて仏頂面で。
そうしたら…。
「なんだ、御機嫌斜めか、今日は?」
ぼくの部屋のドアをノックしたのも、開けたのもママだと思っていたのに。
ママには違いなかったけれども、お茶とお菓子を載せたトレイを持ったママの後ろで軽く右手を上げたハーレイ。なんでハーレイ…?
ぼくはポカンと口を開けてから、目を丸くしたままでハーレイに訊いた。
「…ハーレイ、今日はお見舞いに行ったんじゃなかったの?」
「おいおい、とんだ地獄耳だな」
何処で聞いた、って笑いながらハーレイはいつもの椅子に座った。ママがテーブルに紅茶とかを並べる間に、ぼくもハーレイの向かいの椅子へと移りながら。
「お昼休みに食堂で聞いたよ、柔道部の人たちが喋っていたのを」
「ふうむ…。そいつで正解なんだがな」
確かに行っては来たんだが、って答えたハーレイは、ママが部屋から出て行った後で。
「そうそう長居が出来るか、馬鹿」
お前の家と他所様の家とをごっちゃにするな。
見舞いに行ったらお茶は出て来るが、親しい家とは違うんだからな。それに相手は病人だ。俺のせいで疲れさせてもいかんし、早めに帰るのが礼儀ってもんだ。
そういうわけでな、こっちにも回って来られたんだが、なんで機嫌が悪かったんだ…?
どうしたんだ、ってハーレイの鳶色の瞳が柔らかい笑みを浮かべているから。
何か気になるなら言えって言うから、もちろん話すことにした。
だって、元々、話したかったし…。なのにハーレイが来てくれないから膨れてたんだし。
「あのね、ハーレイ…。思い出したよ、ぼくがハーレイを好きになった切っ掛け」
「はあ?」
意表を突かれたって表情のハーレイだけど。ぼくは構わず一気に続けた。
「えーっとね…。思い出した切っ掛けはお見舞いなんだよ、ハーレイが行って来たお見舞い」
今日はハーレイ来ないんだ、って思ったら胸が痛かったんだよ、こんなの初めて。
なんでかな、って考えていたら、前のぼくもおんなじだったんだ。
それがどういう時だったのか、って思い出してみたら、シャングリラに来た子供たち。
ハーレイが世話をしていた子供たちだよ、養育部門が本格的にスタートするよりも前に。
あの子供たちに嫉妬したんだ、それが始まり。
ぼくの居場所を盗られちゃった、って、ハーレイの後ろに居るのはぼくの筈だったのに、って。
子供たちを追い払いたくて、ハーレイの後ろに戻りたくって。
気が付いたらハーレイに恋をしてたよ、もう一度あそこに戻りたい、って。
居心地の良かった所に戻りたいんだ、ってハーレイの背中を眺めてた。
ぼくに気付いて、って。
振り返ってぼくを見て欲しいよ、って…。
子供たちに嫉妬したのが恋の始まりで切っ掛けなんだ、って説明したら、ぼくが恋をした相手のハーレイの方は「なんだかなあ…」って呆れた顔になったけれども。
「お前、子供に嫉妬したのか」って笑ってるけど、悪い気はしてないようだから。
上機嫌なのがちゃんと分かるから、ぼくも尋ねてみることにした。
「ねえ、ハーレイがぼくを好きになったのは、いつ?」
「なんでそいつを話さなきゃならん」
お前が思い出話ってヤツをするのは自由だが…。俺まで付き合う義理なんかないぞ。
話さなくっちゃいけない理由は何処にも無いしな、そういった個人的なことをな。
「もしかして、思い出せないとか?」
忘れちゃったとか、ぼくが今日まで思い出しさえしなかったみたいに。
ハーレイも綺麗に忘れちゃったの、それともちゃんと覚えているのに教えるつもりは無いのか、どっち?
「さあな。何かと言えばキスだの何だのとうるさいチビに答えてもなあ…」
「ちょっとくらい…!」
いいでしょ、忘れちゃったのか、覚えてるかくらいは教えてくれても…!
「駄目だ。俺が柔道部員の見舞いに出掛けた程度で嫉妬するようなチビには教えん」
その手に乗るか、って突っぱねられた。
ぼくはただ、ハーレイがぼくを好きになってくれた切っ掛けを訊きたかっただけなのに…。
ハーレイの恋の始まりがいつか、何だったのかを知りたいと思っただけなのに…。
教えて貰えない、ハーレイのぼくへの恋の始まり。恋の切っ掛け。
ぼくの日頃の行いが悪いからだ、って鼻で笑われたけれど。
禁止されてるキスを強請って叱られてるのは本当だけど。
チビになってしまう前の、前のぼくだった頃のハーレイとの恋。本物の恋人同士だった恋。
生まれ変わっても切れずに続いた、ぼくとハーレイとの恋の絆の始まりになった大事な出来事。
ぼくの場合は子供たちへの嫉妬だった、って思い出したけど、ハーレイにだってある筈なんだ。恋の切っ掛け、恋の始まり。恋だと自覚した瞬間。
それをハーレイは覚えているのか、忘れてしまったままなのか。
どうにも気になるし、それだけでも知りたくてたまらないのに、ハーレイは教えてくれなくて。
(…忘れちゃった…?)
ぼくが思い出したのに、自分の方では思い出せないなんて言いにくいのかな、と思ったけれど。
それも思いやりっていうものの形の一つかも、って一旦、納得しかかったんだけれど。
(航宙日誌…!)
前のハーレイが残した超一級の歴史資料。キャプテン・ハーレイの航宙日誌。
ハーレイが前に話してくれた。普通の活字や文字になったものでは駄目だけれども、ハーレイの筆跡をそのまま写した日誌だったら、それを書いた時の出来事を鮮やかに思い出せると。
傍目には単なる記録に過ぎない文の向こうに、その日の自分の思いの全てが蘇るのだと。
(…ということは…)
前のハーレイの筆跡を写した出版物は研究者向けの専門書だから、とてつもない値段だと聞いたけれども。本になっていないデータベースの方にだったら誰でも無料でアクセス出来る。
現にハーレイもその方法で読んで、筆跡の魔法に気付いたんだから…。
(思い出していない筈が無いじゃない…!)
ぼくとの恋の始まりがいつか、その切っ掛けは何だったのかを。
そうした辺りの日誌を読んだと聞いた覚えも確かにあったし、ハーレイは絶対、知っている筈。なのに教えてくれないだなんて…!
「ハーレイ、ホントは覚えてるくせに…!」
思い出したよ、航宙日誌に何もかも全部書いてあるってことを!
普通の人の目には分からなくっても、ハーレイだけは色々なことを読み取れるって!
「それがどうした?」
悔しかったらお前も読めばいいだろう。データベースならタダで読めるぞ、航宙日誌。
俺の解説は付けてやらんが、頑張って読んでみるんだな。
「ハーレイのドケチ!」
恋の始まりと切っ掛けなんだよ、教えてくれてもいいじゃない!
ぼくの切っ掛けはちゃんと話したのに!
「男はそうそう喋らんものだ。そうした大事な思い出ってヤツは」
「ぼくも男だよ!」
だけど喋ったよ、ハーレイに恋をしているんだ、って気付いた時はいつだったのか!
男だけれども喋ったんだし、ハーレイだって!
「お前、男には違いないが、だ。チビだろうが」
一人前の男ってヤツはチビとは色々違うってな。
お前も大きく育った時には、菓子を食いながら恋の話なんぞはしないだろうさ。
それに相応しい時と場面があると言ってみたって、チビのお前にゃ分からんだろうなあ…。
同じ話でもうんと値打ちが変わるってもんだ、時と場面を選ぶだけでな。
「うー…」
きっとハーレイが言っていることは正解で。
お茶とお菓子をお供に語り合うより、もっと似合う時があるんだろう。それから場所も。
今のぼくには漠然としか分からないけれど。
恋人同士でそうした話を持ち出した時に値打ちが出るのは、きっと子供じゃなくなった頃…。
(今のぼくだと無理っぽいよね…)
どんなに頼んでも決して教えて貰えそうもない、ハーレイのぼくへの恋の始まり。
だけどいつかは訊き出してみせる。
ハーレイが言う「値打ちがある」って時を掴んで訊いてやるんだ。
結婚するまで無理かも、っていう気はするんだけれど…。
それでも必ず、いつかは訊く。そして答えを貰ってみせる。
ぼくのハーレイへの恋の始まりは小さな嫉妬。
ハーレイの恋の始まりは何か、ぼくへの恋の始まりは何か、いつか必ず訊かなくっちゃね…。
小さな嫉妬・了
※前のブルーが、ハーレイへの「好き」を自覚したのは、子供たちへの嫉妬から。
他にも色々あるんでしょうけど、自分の居場所を盗られたというのは大きかったかも…。
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(ふうん…)
学校から帰って、おやつの時間。広げた新聞に大きく載ってるオモチャの広告。ぼくより小さな子供向けだから、ぬいぐるみも沢山あるんだけれど。一番人気はナキネズミだって。
青い毛皮のナキネズミ。本物そっくり、可愛く出来てるぬいぐるみ。
(喋るんだ…)
思念波じゃなくて、普通の音声。「こんにちは」とか、買った子供に付けて貰った名前とかを。本当の会話は出来なくっても、ナキネズミを飼っているような気分になれるだろう。
そういう仕組みのぬいぐるみ。可愛がってね、って書かれた広告。幼稚園くらいの年の男の子が肩に乗っけた写真もセット。なんとジョミーの格好で。幼稚園児のソルジャー・シン。
(広告に載るだけあって似てるよ)
まさかジョミーの生まれ変わりじゃないだろうけど、よく似てる。金髪に緑の瞳の子供。明るい笑顔もジョミーみたいで、子供用サイズのソルジャーの衣装も肩のナキネズミも似合ってる。そのナキネズミはぬいぐるみだけど、生きたナキネズミじゃないんだけれど。
(やっぱりジョミーのイメージなんだ…)
ぬいぐるみと一緒にチビっ子のジョミーなモデルを載せてあるくらい、ナキネズミのイメージはジョミーと繋がる。ナキネズミと言えばソルジャー・シンだと、ジョミーなのだと。
(レインだものね…)
ジョミーの肩に乗ってたレインは、人類の世界に出てった最初のナキネズミだから。前のぼくが指示して地上に降ろして、アタラクシアの動物園に送り込んだから。
情報操作をしてレインを送り込むまでは、人類の世界にナキネズミなんかはいなかった。
(宇宙の珍獣って言われてたっけね)
動物園でも人気を集めたレインだったけど、今でも一番有名なナキネズミはあのレイン。
ジョミーとトォニィ、二代のソルジャーがペットにしていた。ジョミーが地球で死んだ後にも、トォニィに可愛がられて長生きしたって伝えられてる。
(…でも、ナキネズミはもういないんだよ…)
ナキネズミは絶滅してしまった。今のぼくが生まれて来るよりも前に、ずっと昔に。繁殖能力が衰えていって、宇宙から静かに姿を消した。
地球が蘇るのと引き換えみたいに滅びてしまったナキネズミ。
最後の一匹だったオスが死んじゃって、それっきり二度と生きたナキネズミは見られなかった。
だけど今でも人気が高いナキネズミ。
本物を見た人はもういないのに。データだけしか残ってないのに。
(見た目が可愛らしいしね?)
それにジョミーとトォニィのペット。英雄だったジョミーと、その後継者のトォニィのペット。人気を呼ぶには充分な要素で、おまけに唯一、思念波が使えた動物だった。
(人間と自由に喋れる動物なんて、今でも存在しないんだし…)
サイオンを使っても、機嫌の良し悪しが分かる程度で、会話なんかは全く不可能。それが現状。
だから人間と話が出来たっていうナキネズミは人気者なんだ。
前のぼくたちが創り出した動物だけれど、ジョミーに渡そうと人類の世界に降ろしたけれど。
でも、元々は…。
(ジョミーに渡すつもりじゃなかった…)
部屋に戻ってから、またナキネズミのことを思い出す。勉強机の前に座って。
ジョミーのためにとナキネズミが存在したってわけじゃなかった。
そうしようと思って創り出した動物なんかじゃなかった。人類の世界に降ろす予定も無かった。
ナキネズミは元々、ミュウのためにと創った生き物。
思念波を使ったコミュニケーションが苦手なタイプの、ミュウの能力を補助するために。
(…もしかして、それって今のぼく?)
サイオンの扱いがとことん不器用なぼく。タイプ・ブルーのくせに、ぶきっちょなぼく。
思念波が基本じゃない世界だから、何も困っていないけど。会話は言葉で、っていう世界だから助かってるけど、もしも思念波での会話が必須だったら、たちまち困ってしまうぼく。
意思の疎通が出来やしないし、身振り手振りで話すしかない。
(そんなことになったら、ナキネズミがいないと喋れないよ…)
前のぼくは思念波を自由自在に扱えたけれど、一度だけレインにお世話になった。ナスカ上空でキースがフィシスを人質に取って逃げて行った時。トォニィが仮死状態になっていた時。
ぼくは長い眠りから覚めたばかりで、キースと対峙するのが精一杯で。
(キースが投げたトォニィを受け止めちゃったら、もう体力が残ってなかった…)
トォニィを抱えて倒れてたぼくに駆け寄って来たレイン。「ブルー、大丈夫?」って。
あの時の有難さは今でもハッキリ覚えてる。
思念波さえ送れない状態だったぼくを、レインがサポートしてくれたから。ぼくの思念波を遠いブリッジまで送り届けてくれたから。
(…あの時は考えてる余裕も無かったけれど…)
今なら分かる。ナキネズミの凄さと、その有難さ。
ナキネズミを貰ったミュウの子供たちが、どれほど嬉しかったのかが。
前のぼくたちがアルテメシアを隠れ場所に選んで、ミュウの子たちを保護するようになって。
ユニバーサルに目を付けられたり、追われたりした子をシャングリラに連れて来たんだけれど。
言葉での会話は問題無いのに、上手く喋れない子供たちがいた。
思念を上手に紡げない子たち。ミュウの特徴で便利な思念波を扱い切れない子供たち。思念波が使えれば一瞬の内に伝達可能な様々なことを、そう簡単には伝えられない子供たち。
もちろん言葉で会話することが基本だったから、それでもかまわないんだけれど。
上手く伝わらないばかりに喧嘩になったり泣き出しちゃったり、そういうことがよくあった。
ある日、ブラウが言い出したこと。
「別に困りはしないんだけどねえ、あたしたちは。言葉があれば充分なんだし」
時間をかけて気長に付き合ってやれば、言いたいこともちゃんと分かるんだからね。
だけど、あの子たちが可哀相じゃないか。
相手が大人なら辛抱強く話を聞いてくれても、子供同士じゃそうなる前に我慢の限界だよ?
思念波さえ使えりゃ、そういった喧嘩も無くなるのにさ。
「うむ。せっかくミュウに生まれたのにのう…」
大いに損をしておるな、とゼルが頷いて、エラも気にしていたみたいで。
「導き手があれば上手く伝達出来るのですが…。私も何度かそういう場面に出会いましたし」
手伝って思念を伝えてやって。それで喧嘩が直ぐに終わるとか、泣き止むだとか…。
「しかし、四六時中、誰かが付くというわけにもいかないものだし…」
それは無理だ、と髭を引っ張って考え込んだヒルマン。
長老たちが集まる会議の席で交わされた話。
思念で上手く話せない子供たちを補助する中継係がいればいいのに、と。
「思念波の増幅装置はどうだろうか?」
ハーレイの提案に、たちまちブラウが噛み付いた。
「あんた、機械をつけられたいのかい? どんな形にせよ、自分の身体に機械ってヤツを?」
そいつは賛成できないね。あたしだったら御免蒙るよ。補聴器くらいだったらともかく。
「子供たちには心の傷でもあるだろうしね、機械というものは」
機械に追われて来たのだから、とヒルマンも言った。
ユニバーサルに発見されて怖い思いをした子供たちには、いくら便利でも機械は駄目だと。
「人間がついてやるのが一番なんじゃが…」
わしが機関長でなければ、纏めて面倒を見てやるんじゃがのう…。
「私もついていてやりたいのですが、常についてはいられないのが実情ですし…」
けれど増幅装置には賛成出来ません、とエラもハーレイの案を否定した。
子供たちには機械ではなく、もっと温かみのあるものを。
思念波を増幅できる仕組みで、親しみやすいものを与えたいのだ、と。
人間が常につくのではなく、増幅装置をつけるわけでもなく。
ならば何だ、ということになって、エラの口から控えめに零れ出た言葉。
「…ペットが使えればいいのですが…」
「ペットじゃと?」
それはいわゆる犬とか猫とか、そういった類の動物かのう?
「ええ、ペットです。人に寄り添い、人の心を癒す生き物。そういうペットを使えれば、と」
「シャングリラにおらんぞ、そんなものは」
犬も猫も乗っておらんわい。第一、動物に思念波なんぞは無いじゃろうが。
「…ですから、そんな能力を持ったペットを作れませんか?」
どうでしょう、ヒルマン。可能性は全く無いのでしょうか?
「ふうむ…。生き物を一から作るのか…」
「それは無理というものじゃろう。皆目見当もつかんわい」
「手を加えたらどうなんだい?」
元からいる動物をちょいと弄れば出来ないのかい、と前向きだったブラウ。
「わしらが動物実験をか?」
アルタミラで散々、えらい目に遭ったわしらが動物相手に似たようなことをするのはのう…。
「あたしもそうは思うんだけどさ、人間様の方が優先だよ」
こっちも生きるか死ぬかって身だし、神様も許して下さるさ。どうだい、ヒルマン?
「…そうかもしれんな…」
我々の特徴はサイオンだ。
思念波を上手く操れるかどうかは、種の存続に関わるものかもしれないし…。
綺麗ごとを言うより、やるべきなのかもしれないな。そういう動物を創り出すことを。
おおよその意見が纏まった所で、ハーレイがぼくに訊いて来た。
「ソルジャーはどう思われますか?」
思念波の中継が可能な生き物を作る。それをペットとして子供たちに与えるという件について。
開発の過程で死んでしまう動物も必然的に出て来るだろうと思われますが…。
「必要ならば、それも仕方のないことだろう。ぼくたちが受けた人体実験とは目的が違う」
殺すためではなくて、生かすための力を生み出す過程での死であれば。
ただし、回避出来るに越したことはないし、細心の注意を払って扱ってやって欲しいけど…。
やってみよう、と決断した、ぼく。
思念波の中継が出来る動物の開発を進めてみよう、と。
ミュウの子供はミュウらしく。
思念波を使うための手助けをしてくれるペットがつくなら心強い、と。
そうして始まったペットにするための動物の選定。
何をベースに開発するかを会議の時に聞かされたぼくは驚いた。
「ネズミだって?」
それがベースになるのかい?
ペットにするなら犬か猫だと思っていたのに、どうしてネズミを選んだんだい?
「ネズミは船が沈む時には逃げると言われているらしくてね」
ヒルマンがネズミを選んだ理由を話した。
遠い昔に人が地球の海を船で航海していた時代。ネズミは沈没しそうな船から逃げてしまうと、沈む船にはネズミがいないと船乗りたちが語り伝えていたらしい。
実際、そうしたケースも多くて、ネズミは船の沈没を予知できるのだと信じられていた、と。
「なるほど…。ネズミには予知能力があるかもしれない、と…」
「そうさ、サイオンが期待出来そうじゃないか」
言い伝えになるほどなんだから、とブラウがパチンと片目を瞑った。
「だけど外見ってヤツがちょいとね。ネズミじゃ誰が見たって可愛いってわけにも…」
「そこでリスなんじゃ、同じネズミの仲間じゃからな」
見た目は全く別物なんじゃが、まるで縁が無いわけでもないからのう…。
ネズミにリスの要素を付け加えるんじゃ、とゼルが言うから。
「掛け合わせるのかい、リスとネズミを?」
「遺伝子レベルで触ることになるね」
そのままでは交配出来ないから、とヒルマンが説明してくれた。
ネズミとリスとの遺伝子を弄って、交配可能な状態にして。それを掛け合わせてベースの動物を創り上げると、その過程で思念波を使えそうな個体が出来たら能力を伸ばす方へと進むと。
新しい動物を創り出すなんて、ぼくは門外漢だから。
どうやってそれを実現するのか、細かいことはヒルマンたちに任せておいたんだけれど。
人間さえも人工子宮で育てていた時代はダテじゃなかった。
データベースにあった膨大な情報を元に、出来上がってしまったナキネズミたち。
そういう名前じゃなかったけれど。名前はついていなかったけれど、後のナキネズミ。
耳が大きくて、ふさふさの尻尾のシャングリラ生まれの新しい生き物。
アルテメシアから潜入班が調達して来た、ネズミやリスをベースに創り上げられたナキネズミ。
ある日、ハーレイが青の間へ定時報告にやって来て。
「ソルジャー。例の動物ですが、ほぼ出来ました。後は血統を選ぶだけだと」
並行して何匹も育てましたので、見た目は実に様々です。基本の姿は同じですが。
「ふうん…?」
「ヒルマンたちが明日、見に来て頂きたいと言っております」
今はまだ実験室で育てておりますが…。
どの血統を選ぶかが決まれば、それ以外の個体は希望者に配るということです。
ハーレイの案内で、次の日に出掛けた実験室。其処は立派な飼育用の部屋になっていた。
広いケージに一匹ずつ入った、色々な色や模様の毛皮を纏ったリスみたいな動物。
リスよりは大きくて小さめの猫と言うべきだろうか、そういう生き物。
ヒルマンに全部同じだと説明された。毛皮の色や模様が違っているだけで、どれも同じだと。
この中から一つの血統を選んで、それを育てると。
集まっていた長老たち。ブラウがぼくに視線を向けて。
「これはソルジャーが選ぶべきだよ、どれにするのか」
「いいのかい?」
ぼくの独断なんかで決めてもかまわないのかい、苦労して開発した生き物なのに。
「ソルジャーがお決めになるべきです。ミュウの未来を担う生き物になるのですから」
選んで下さい、とエラに背中を押された。ソルジャーのぼくが選ぶべきだ、と。
「じゃあ…」
どれにしようかと見回したケージ。その中に見付けた、青い色の毛皮。
(青い鳥…!)
飼いたいと願って「役に立たない」と却下されてしまった青い鳥。飼えなかった幸せの青い鳥。幸せを運ぶ青い鳥と同じ青い色をしたその艶やかな毛皮に惹かれた。
それに、いつか行きたい青い水の星。地球もまた青い星だから。
「この子にしよう」
青い毛皮の、この子を育てていくことにしよう。
対になる子は…。ああ、向こうのケージにいる子かな?
同じ青だね、青い毛皮の子を育てたい。地球と同じ青を纏った子をね…。
ぼくが選んだ、青い毛皮のナキネズミ。
他のナキネズミは希望者に配られ、ペットになった。
まだ思念波は弱かったから、子供たちの補助には使えない。だからペットが欲しいと名乗り出た大人の希望者たちに。いろんな色や模様のナキネズミたちは、其処で一代限りで終わった。寿命もまだまだ短かったし、そんなに長くはいなかった。
青い毛皮のナキネズミの方は繁殖用に回され、最初のつがいが産んだ子供たちは遺伝子レベルで操作をされて、それから交配。近親交配で血が濃くなってしまわないように。
そうやって何度も交配されて思念波もどんどん強くなっていって、ついに完成したんだけれど。
青い毛皮の、思念波で人間と会話が出来たり、中継出来たりするナキネズミが完成したけど。
(…ナキネズミって名前、何処でついたっけ?)
ヒルマンたちは何と呼んでいたのか、それも忘れてしまった、ぼく。
だけど最初から
ナキネズミだった筈が無い。ネズミとリスとを掛け合わせて出来たわけだから。実験段階からナキネズミなんて呼ばないだろうし、そもそも最初はネズミとリス。
(どの辺からナキネズミになったのかな…?)
ぼくは実験室には行かなかったから、ヒルマンたちが名付けていたんだろうか?
どれにしますか、と訊かれた時にはナキネズミって名前だっただろうか…?
(…どうだったんだろう…)
思い出せない、と考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。
ぼくは早速、訊くことにした。ナキネズミは誰が名付けたのかを。
「…ナキネズミだと?」
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。ハーレイは怪訝そうな顔をした。
「ナキネズミがどうかしたのか、今日は?」
「えっと…。ぬいぐるみの広告に載っていたから、色々と思い出したんだけど…」
あの名前、誰が付けたっけ?
レインじゃなくって、ナキネズミ。ナキネズミっていう名前は誰が付けたか覚えてる?
「お前なあ…。忘れちまったのか、あれは投票で決まったろうが」
「そうだった?」
投票なんかで決めたっけ?
「シャングリラじゃ基本は投票だぞ」
船の名前も、前のお前のソルジャーっていう呼び名にしても。
ナキネズミだって投票だ。記念すべき新しい生き物なんだぞ、誰かが勝手に決めてどうする。
「そうだったっけ…」
思い出して来たよ、その投票。
飼育室に投票箱が置いてあったね、投票用紙は一人に一枚ずつ配られて。
お披露目されたナキネズミ。完成品の青い毛皮のナキネズミ。
船のみんなが飼育室まで足を運んで、じっくり考えて投票をした。もちろん、ぼくも。
だけど自分がなんて書いたか思い出せない。
もしかしたら白紙を入れていたかもしれない。船のみんなに任せよう、って。
あの時点ではまだ名前が無かったナキネズミたち。青い毛皮のナキネズミたち。
ペットになって可愛がられてた、違う毛皮のナキネズミたちはとうに名前があったんだけど…。飼い主が好きに名付けた名前で呼ばれて、船の中を走っていたんだけれど。
お披露目されたナキネズミたちは先入観が入らないよう、「ネズミ」という名で呼ばれてた。
シャングリラで創り出された新しいネズミだと、外にはいない生き物なのだと。
飼育係が「ネズミ」と呼ぶから、みんなネズミだと考える。ネズミなんだと思い込む。
それでキューキュー鳴いていたから、付いた名前がナキネズミだった。
圧倒的多数でナキネズミ。
ケージには思念波シールドが施されていたから、キューキューとしか聞こえなかったんだ。
もしも思念波を交わせていたなら、もっと別の名前が付いていたかも…。
それとも思念波で語り合う内容は人それぞれだから、てんでばらばらで纏まらなかった?
自分にはこう思えるんです、って船のみんなが自己主張。
それこそペットに名付けるみたいに、人間並みの名前ばかりが出揃ってたかも…。
(思念波シールドとネズミって呼び名のお蔭なんだね、ナキネズミの名前…)
もめずに決まって良かったけれども、ネズミって名前。
何処から見てもネズミの姿じゃないのに、飼育係が呼んでいた「ネズミ」。それも謎だ、と気になって来たからハーレイに疑問をぶつけてみた。
「ナキネズミの名前が決まる前だけど…。あれって、どうしてネズミだっけ?」
なんでネズミって呼ばれてたのかな、飼育係に。ヒルマンたちもそう呼んでいた?
「うむ。実験に関わっていたヤツらはもれなくネズミだったな、あれの呼び方」
俺も途中から不思議に思って、一度訊いてみたことがあるんだ。
どう見てもリスのように見えるが、どうしてネズミと呼ぶんだ、ってな。
「それで教えて貰えたの?」
「ああ。実験動物の基本はネズミだ、と大真面目な顔で返されたぞ」
リスを使った実験は無いが、ネズミの方ならごくごく普通にあるものだから、と。
それでネズミと呼び始めたから、外見がすっかり別物になってもネズミなんだと言われたな。
「じゃあ、実験動物の基本がネズミじゃなくってリスの方だったら…」
「当然、リスと呼んでただろうな」
「そしたら、投票…。ナキネズミって名前にならなかった?」
「俺が思うに、ナキリスってトコか」
キューキュー鳴くのは同じなんだし、リスかネズミかの違いだけだ。ナキリスだな。
「ナキリスって…。なんだか語呂が悪くない?」
「そいつに慣れれば、どうとでもなっていたんじゃないか?」
俺たちはナキネズミだと思っているから語呂が悪いと感じるだけで。
最初からナキリスって名前だったら、それに馴染んで呼んでいただろうと思うがな…?
そうやって出来た、ナキネズミ。
ナキリスって名前にならずに済んだナキネズミたち。
今のぼくみたいにサイオンが不器用な子供が来たなら、サポートについた。
「好きな名前を付ければいい」と渡されたけれど、けっこう寿命が長いから。ベテランになると「自分の名前はこれなんだ」って主張するのもいたりした。この名前で呼べと、他のは嫌だと。
それを思うと、ジョミーに渡したナキネズミ。「お前」なんて名前で納得したのが可笑しすぎ。若い子を選んで送り出したから当然名前は無かったけれども、「お前」だなんて。
ナスカで「レイン」って名前が付くまで、トォニィよりも後に名付けられるまで「お前」という名前で過ごしてたなんて、のんびりと言うか大物と言うか…。
ともあれ、ナキネズミの仕事は不器用な子供のサポート係。思念波を中継する係。
自分がサポートすることに決まった子供が、思念波の扱いが上手になるまで。
上手になったらお役御免で、家畜飼育部でのびのびと暮らす。
次の仕事がやって来るまで、ナキネズミ専用の快適な小屋を拠点にして。
「ねえ、ハーレイ。ナキネズミ、普段は普通の動物だったよね…?」
思念波でプカルの実を強請ったりはしていたけれども、人間よりも動物に近かったよね?
「文字通りネズミみたいなヤツらだったな、牛の背中を駆け回っていたり」
でかい動物が好きだったんだろうな、牛とは仲が良かったぞ。
「自分の小屋に帰る代わりに、牛小屋の中で寝てたりね…」
「それで踏まれたりもしないんだからな、友好関係を築いていたってわけだ」
牛には思念波は通じないんだし、そこは動物同士だろう。
思念波で人間と自由に話せるにしても、やはり動物には違いない。家畜飼育部の方がヤツらには向いていたかもしれんな、気を遣わなくていいってな。
「あははっ、そうかもしれないね」
人間と一緒だったら、好きな時間に好きな所へは行けないし…。
レインみたいなのが例外なんだね、トォニィの代までソルジャーのペットだったんだから。
シャングリラの中で創り出して育てたナキネズミだけれど。
外へ出すつもりは全く無くって、シャングリラに来た不器用な子たちのサポートをして貰おうと育てていたんだけれど。
ジョミーのサイオンが潜在していて表に出ないから、引き出すためにと地上に降ろした。情報を操作し、新種の動物、宇宙の珍獣という謳い文句で。
ジョミーをシャングリラに迎えた後は、お決まりのコースの筈だったのに。ジョミーが思念波を操れるようになったら、お役御免で家畜飼育部の小屋に帰ってゆく筈だったのに。
そのままジョミーのペットになってしまって、トォニィに継がれて、うんと有名なナキネズミになってしまったレイン。
今でもジョミーの格好をした子の肩に乗っけたぬいぐるみの広告が刷られるほどに。
喋るぬいぐるみが一番人気になるほどに。
あそこまでナキネズミを有名にするつもりは全く無かったんだけど…。
シャングリラの中だけで終わる生き物の筈だったんだけど…。
ナキネズミという生き物を作ろうと思った時には夢にも思わなかった展開。
死の星だった地球が蘇るほどの時が流れても、未だに人気のナキネズミ。
「ナキネズミって、今でもぬいぐるみの定番だよね」
やっぱり可愛く作ったからかな、ネズミだけじゃ駄目だって、リスまで入れて。
あの時にネズミだけにしてたら、此処まで人気にならなかったかな?
いくらジョミーが肩に乗せてても、ジョミーとトォニィのペットになっても。
「うむ。やはり見た目は大切だろう。ナキネズミは元々、ペットなんだしな」
ついでに、レインよりももっと有名なナキネズミってヤツもいるんだが…。宇宙遺産の。
「あれはウサギだと思われてるでしょ!」
前のハーレイの下手くそな木彫り。宇宙遺産はナキネズミじゃなくってウサギなんだからね!
ハーレイが訂正しない限りはウサギで、一番有名なナキネズミはレインなんだってば!
誰も知らない、宇宙遺産のナキネズミ。
キャプテン・ハーレイが彫った木彫りのウサギだと信じられているナキネズミ。
博物館の収蔵庫の奥に仕舞われ、百年に一度しか本物を見られるチャンスは無いんだ。
百年に一度の特別公開、行列が博物館を取り巻くと噂の宇宙遺産の木彫りのウサギ。
だけどホントは、レインよりももっと有名になったナキネズミ。
ウサギってことになっているけど、あれが宇宙で一番有名。
今の所はぼくとハーレイ、二人だけが知ってる、宇宙で一番、有名になったナキネズミ。
五十年後の特別公開の時は、ハーレイと一緒に見に行くんだよ。
手を繋いで二人、展示ケースの直ぐ前に立って。
そうして二人で喧嘩するんだ、「ウサギだ」「いやいや、ナキネズミだ」って、傍から見てたら馬鹿みたいなことで。
もちろんホントの喧嘩じゃなくって、そういうお遊び。
「ウサギだ」「いやいや、ナキネズミだ」って…。
ナキネズミ・了
※思念波が上手く使えないミュウの子供のために、と開発されたのがナキネズミ。
前のブルーの好みで「青い毛皮」になり、名前は投票で決まったのです。今の時代も人気者。
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