シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ほら、土産だ」
ハーレイが差し出す紙袋。ブルーは目を丸くしてそれを見詰めた。
今日は平日、普通に学校に出掛けた日。ハーレイの授業は無かったけれども、ハーレイも学校の帰りの筈だ。なのに、お土産。テーブルに「ほら」と置かれた紙袋。
「…ハーレイ、今日は研修だった?」
知らなかったけど、何処かへ出掛けた?
「いや。こいつはお隣さんから貰ったんだ。俺がお前の守り役だってことを知ってるからな」
出掛ける時に持ってってくれ、と昨日、届けに来てくれた。
チビはこういうのが好きだろう、ってな。
「なあに?」
「さてなあ…?」
お隣さんは何も言わなかったし、俺も透視はしていないんだ。
お前用に貰った土産だからな。
「そっか…。で、何処のお土産?」
「まあ、出してみろ」
袋から出せば一目で分かるさ、誰でもな。
「ふうん…?」
何だろう、とブルーは小さめの紙袋を手元に引き寄せたのだけれども。
「わあ…!」
中に入っていた箱を見るなり、ブルーは思わず歓声を上げた。
紙袋の中から出て来たもの。両手の上に乗っかるくらいの大きさの箱。
それはこの地球で一番大きな博物館のミュージアムショップの包装紙で綺麗に包まれていた。
広い地球の上で、最大と名高い博物館。
決して大都市というわけでもないのに、環境が良かったせいなのだろうか、ブルーの住んでいる町にある博物館。広い敷地に沢山の立派な建物、充実の展示と所蔵品。
学校から見学に行くことも定番だけれど、前世の記憶が戻ってからは一度も行ったことがない。
そうでなくても一日ではとても回り切れない規模を誇る施設。
生まれつき身体の弱いブルーは、全部を制覇したことは未だに無かった。
けれど、憧れの博物館。地球の生き物から宇宙の様々な文化までをも網羅した施設。
ただでも興味の尽きない場所だったのに、今ではもっと惹き付けられる。
そう、その大きな博物館には…。
「ハーレイ、此処って、宇宙遺産の木彫りのウサギ…。ううん、ナキネズミだっけ」
あれがあるんだよね、前のハーレイが彫った。
普段はレプリカが出てるけれども、本物が収蔵庫の奥に入っているんだよね…?
「そうだが?」
「この箱…。軽いけど、ウサギのレプリカかな?」
「箱のサイズからしてそれは無かろう」
縦横はともかく、厚みが足りんぞ。四センチほどしか無いだろうが。
これじゃウサギはとても入らん。
「…ウサギのクッキー?」
「無いとは言えんな、あのウサギはレプリカの展示でも人気だからな」
なにしろ宇宙遺産ってヤツだ、レプリカでもいいから見たいんだろう。
本物のアレを見られる機会は、五十年に一度の特別公開だけしか無いんだからな。
「包装紙には何も書いてないね…」
博物館のシールが貼ってあるだけだよ、マーク入りの。
「開けて見てみればいいだろう」
その箱はもう、お前のだからな。
包装紙を破ってしまわないように、そうっと、そうっと剥がしてみて。
中から出て来た箱の姿に、ブルーの心がドキリと跳ねた。
其処にシャングリラが刷られていたから。
箱の表に、青い地球の写真と合成された白い鯨が浮かんでいたから。
「シャングリラだ!」
白い鯨は青い地球を見られないままに時の彼方に消えたけれども、この手の合成写真は多い。
本物のシャングリラが辿り着いた死の星の代わりに、青い水の星。
なんて素敵な箱なんだろう、と見惚れるブルーの向かい側からハーレイの手が伸びて来て。
「ふむ。ということは、だ…」
箱を手に取り、裏返してみたハーレイの顔が「やはり」と綻ぶ。
「うん、ビスケットだな」
「ビスケットだったら、何かあるの?」
「開けてみりゃ分かる」
お前のものだろ、開けて見てみろ。そうすりゃ、直ぐに分かるってもんだ。
よく言うだろうが、百聞は一見に如かずってな。
「うん」
何だろう、と首を傾げながらもブルーは箱の蓋を留め付けたシールを剥がした。
ごくごくありふれた、お菓子の箱には付き物の透明な何も刷られていないシールを。
オルゴールみたいにパカリと一方向に蓋が開く箱。
白い鯨が刷られたその蓋を開けて、ドキドキしながら覗き込んでみれば、ビスケットが九個。
個別包装のサイズは同じだけれども、色も形も様々な中身のビスケットが九個。
縦横に三個ずつ行儀よく並んで、見た目の違いで存在を主張しているビスケットたち。
「綺麗だね。それになんだか可愛い気がする」
ビスケットが集まって笑ってるみたい。賑やかにワイワイお喋りしてそう。
「言われてみれば、そんな感じもするな。で、そこに栞が入ってるだろう?」
「ビスケットのでしょ?」
「よく見てみろ」
「限定品…?」
二つ折りの栞の表に「限定品」の文字が躍っていた。博物館のマークと一緒に。
「こいつは此処でしか売ってないんだ、博物館の限定品だな」
ビスケット自体は、有名な菓子店のものなんだが…。ほら、此処に店のマークが入ってる。
しかし、この詰め合わせはあの博物館にしか無いって話だ。
「ホント?」
「本当さ。その理由ってヤツも栞に書いてる筈だぞ」
そいつが売りのビスケットだしな?
読んだらお前も驚くぞ、きっと。
「えーっと…?」
箱の中から栞を取り上げ、開いたブルーの目が真ん丸に見開かれた。
「タイプ・ブルー・アソート…?」
なんなの、これ?
タイプ・ブルーって、サイオン・タイプのタイプ・ブルーのこと?
「書いてあるだろ、その説明も」
「んーと…」
読み進めたブルーは「嘘!」と叫んでしまっていた。
可愛らしいと、賑やかそうだと眺めた九つのビスケット。箱に詰まったビスケット。
名付けてタイプ・ブルー・アソートなるそれに添えらえた説明。
ナスカで揃った九人のタイプ・ブルーをイメージしました、という文章。
前のブルーの名前を筆頭に、ジョミーにトォニィ、ナスカの子たち。
どれが誰かはお好みでどうぞ、と。
白いシャングリラが蓋に刷られた箱の中身の、九つの種類が異なるビスケット。
それを九人のタイプ・ブルーに見立ててくるとは…。
「なんだか凄い…」
ビックリした、と改めて中身をまじまじと見詰めるブルーに、ハーレイは笑顔。
「博物館の人気商品らしくてな。限定品な上に、一日当たりの販売数が決まっているそうだ」
だから毎日、昼前には全部売り切れてしまうって噂だぞ。
お隣さんはいつも早起きだからな、朝一番に出掛けて来たんだろうな。
「ハーレイ、これって食べたことある?」
「無いな、売られているのは記憶が戻る前から知っているが」
「ぼくはあるのも知らなかったよ」
学校から見学に行った時には、ミュージアムショップは寄らないし…。
パパやママに連れてって貰った時には見て回るだけで疲れてしまって、ショップよりも御飯とか喫茶室とか…。
それで帰ってしまっていたから、ミュージアムショップは覗いただけ。
見て来た展示の本とか写真集を買って貰って、他のコーナーまでは見てないんだよ。
ブルーが今日まで存在も知らなかったもの。
九人のタイプ・ブルーが詰まった、イメージされたビスケットの箱。
「…どれがぼくだろ?」
ビスケットを端から眺めるけれども、「これがそうだ」という決め手に欠ける。
栞の謳い文句どおりに「お好みでどうぞ」、どれが誰とも判然としない。
ハーレイに訊いても「さてなあ…」と曖昧な返事が返って来るから。
「うっかり食べたら共食いになる?」
「あやかれるんじゃないか、前のお前に」
サイオンの扱いが少しくらいはマシになるとか、そんな感じで。
「それだといいけど、メギドは嫌だよ。食べたらメギドの夢を見るとか…」
ちょっと怖いから、前のぼくのビスケットを詰めるくらいなら。
ハーレイのも一緒に入れてくれれば良かったのに…。
どうせだったら、タイプ・ブルーにこだわってないで、シャングリラ・アソート。
「いいのか、それだとゼルやブラウも増えちまうぞ」
ヒルマンもエラも。
やたら賑やかな詰め合わせになる上、何が何だか分からないことになりそうだが。
「そっか…」
ダメかな、シャングリラ・アソートだと。
いいアイデアだと思うんだけど…。
ブルーは未練がましく九つのビスケットが詰まった箱を見ながら。
「タイプ・ブルーが九人分かあ…」
どれが誰だか、ホントに決まっていないのかな?
「らしいぞ、現に作っている菓子店の方じゃ、普通のビスケットとして売ってるからな」
それぞれに商品名はあるがだ、前のお前やジョミーの名前はついていない。
アーモンドだとか、チーズだとか。
うんと平凡な分かりやすい名前で売られているのさ、どのビスケットも。
「なんでだろ?」
「お前とジョミーとトォニィばかりが売れるからだろ」
他のビスケットも売れるんだろうが、ネーミングだけでこの三種類がバカ売れしそうだ。
「…そうなるわけ?」
「前のお前たちの人気のほどは、お前だって充分に承知してると思うがな?」
そしてだ、俺の名前のビスケットなんぞは作っても売れん。
そういう意味でもタイプ・ブルー・アソートってトコがいいんだろうなあ。
売れそうもない商品なんぞは、開発するだけ無駄だからな。
自分の名前を冠したビスケットなどは売れもしない、とハーレイは決めてかかるのだけれど。
ブルーにはそうは思えないから、「そうなのかな?」と首を捻って呟く。
「ハーレイのだって、売れそうだけど…」
「お前、冷静に考えてみろよ?」
前のお前やジョミーの写真集は沢山あるがだ、俺の写真集は一冊も出ていないんだぞ。
「でも…。ハーレイ入りのシャングリラ・アソートは売れると思うよ、賑やかだもの」
詰まってるビスケットの数も増えるし、お土産にもとても良さそうだけど…。
「そうかもしれんが、一つ間違えたら罰ゲームみたいにならないか?」
「罰ゲーム?」
「これがゼルだの俺だのと決めて、目隠しをしてみんなで取り合うとかな」
前のお前とかジョミーが当たれば万々歳だが、ゼルだったりしたらどうするんだ。
周りが派手に囃し立てるぞ、「引いちまった」と。
「怖いね、それ…」
ゼルには悪いけど、ハズレだってことはよく分かるよ。
「うむ、闇鍋の親戚だな」
「…闇鍋?」
何なの、それ。闇鍋って言うから、お出汁が真っ黒?
「そうか、知らんか…」
いいか、闇鍋というヤツは、だ。
ずうっと昔の、SD体制よりも前の時代に日本って島国にあった鍋でな…。
ハーレイは小さなブルーに教えてやった。
学生時代に仲間たちと遊んだ愉快なゲームを。
日本の文化と一緒に復活して来た、些か迷惑とも言える鍋のやり方を。
「部屋を真っ暗にしておいてやるか、みんな揃って目隠しをするのが闇鍋ってヤツの大前提だ」
もちろんサイオンは禁止だぞ?
使ったりしたらペナルティーだな、一人で二杯食わされるとかな。
でもって、鍋の具材だが…。
食えるものなら何でもいいんだ、美味い不味いは関係無しだ。
そして中には食べられないモノを放り込むヤツまで出たりするんだ、悪戯だな。
流石に食えないモノが当たった時にはパス出来るんだが、そうでなければ食わなきゃならん。
何が出ようが食うしかないんだ、そいつが闇鍋の醍醐味なんだ。
「そんな遊びがあるんだね…」
「まあ、俺みたいな運動に夢中のヤツらが楽しんでいたってわけだがな」
お前みたいに本ばかり読んでるタイプには向かんさ、野蛮すぎるって顔を顰めて終わりだ。
とんでもない鍋を食ってやがると、あいつら馬鹿じゃないのか、ってな。
「何でもかんでも投げ込んじゃうって…。シャングリラだともったいなくて出来ないね、それ」
美味しくなるなら面白いけど、不味くなるのが普通なんでしょ?
「うむ。たまに嘘のように美味いのが出来たりするとも聞いてはいたが…」
俺にそういう経験は無いな、いつも素敵に不味かったもんだ。
あれはシャングリラじゃとても出来んな、食べ物が粗末になるからな。
愉快で楽しいゲームではあったが、今の平和な時代ならではだ。
かつてシャングリラの厨房に立っていた自分としても許可は出来ない、とハーレイは笑う。
シャングリラの仲間たちが闇鍋をやりたいと言っても許可はしないと、キャプテンの権限を行使してでも止めてみせると。
「しかしだ、今はシャングリラの時代ではないし、闇鍋をやっても何の問題も無いってな」
「好き嫌いが無ければ大丈夫、それ?」
ハーレイもぼくも好き嫌いっていうのが全然無いでしょ、闇鍋も平気?
「いや、それは闇鍋には当てはまらん」
好きとか嫌いとか言う以前に、だ。
有り得ない味っていうのがあるんだ、そいつは俺でも御免蒙る。
だが、せっかく思い出したんだ。二人で闇鍋、やってみないか?
「たった二人で?」
いつ闇鍋をしようと言うのだろう?
鍋と言うだけに冬になったらやろうと言うのか、それとも二人で暮らすようになった後なのか。
それにしても、たった二人で闇鍋。
入れる具材が少なすぎて意味が無いのでは、とブルーは思ったのだけど。
「本物の闇鍋をやろうって言うわけじゃないさ、闇鍋ゲームだ」
このビスケットでやろうじゃないか。
ゼルなんていう酷いハズレは入っていないし、闇鍋気分のお遊びはどうだ?
幸い、ビスケットの包装は全部おんなじサイズだからな。
混ぜちまったら触っただけでは分かりゃしないぞ、どれがどれだか。
「いいね!」
サイオン抜きってルールなんだよね、それならぼくでも大丈夫だよ。
ぼくは目隠しして触っただけでは中身が何だか分からないもの。
「よし、やるか」
箱の仕切りを外してやったら、この箱の中で混ぜられるしな?
二人で目隠ししてから混ぜてやってだ、一つずつ掴んでみようってな。
「このビスケット…。どれがぼくかな?」
「まずはそいつを決めないとな?」
前のお前は、この丸くって赤いのはどうだ?
ラズベリージャムか何かの色だな、前のお前の瞳の色だ。
「だったら、ジョミーはこっちの緑の?」
「そいつもいいなあ、金髪だったからチーズの黄色かとも思ったが…」
ジョミーの瞳の色にしとくか、多分ピスタチオのビスケットだろう。
ピスタチオだから、ペスタチオの分のビスケットにすべきなのかもしれないが…。
「そんな子もいたね、ホントにどれが誰だか決まってないんだ…」
赤だって、ぼくの瞳の色ではあるけど、ジョミーのマントも赤だったものね。
「お好みでどうぞ」って言われるわけだね、トォニィはどれに決めたらいいんだろう…?
ああだこうだと案を出し合って、名前が決まった九人分のビスケット。
どれが誰かをメモに書き付け、ビスケットを区切っている仕切りを箱から外した。
こうしてしまえば、後は混ぜるだけ。
個別包装の袋を箱の中で二人でかき混ぜ、元の位置が分からなくなった所で一つずつ選ぶ。
闇鍋ならぬ、闇ビスケット。
ブルーはテーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに「いい?」と念を押した。
「サイオン無しだよ、ズルは禁止だよ?」
「分かってるとも、闇鍋のルールは守らないとな」
でないと闇鍋の意味が無いだろ、それではつまらん。
やるからには真剣勝負ってヤツだ、俺とお前の運試しだな。
手がぶつかって落としてしまわないよう、ティーカップなどを勉強机に避難させてから。
ビスケットの箱をテーブルの真ん中に置いて、二人揃ってハンカチでギュッと目隠しをした。
まずは箱の中身のビスケットを二人でかき混ぜ、まるで分からない状態に。
しっかりと混ぜて、ブルーはハーレイに訊いてみた。
「もう掴んでも大丈夫かな?」
「ああ、充分に混ざったろうさ」
「それじゃ、一、二の三で一つ掴むんだね?」
自分のを一個。何が当たるか、恨みっこ無しで。
「いや、其処はカウントダウンだろう」
「えっ?」
「箱にシャングリラが刷ってあるだろ、それを使わないって手は無いぞ」
シャングリラ、発進! と行こうじゃないか。
「そうだね、カウントダウンがピッタリ!」
懐かしいよね、とブルーは航海長だったブラウの口調を真似てみた。
「カウントダウン開始!」と。
それを合図に、カウントダウン。
ハーレイと二人、声を合わせて「ファイブ、フォー…」と数えていって。
「シャングリラ、発進!」
同時に叫んで、互いに手を突っ込んだビスケットの箱だったけれど。
「…コブだって。どんな子だった?」
ブルーはメモを覗き込み、自分の手の中のビスケットの名前を確認してみた。
ナスカ上空で出会ったコブなら、ちゃんと記憶にあるけれど。
その後のコブも歴史の教科書で見てはいるけれど、それだけだから。
ハーレイのようにコブと一緒に暮らしたわけではないから、どんな子供か尋ねようとして。
「あれっ、ハーレイ、ジョミー持ってる!」
褐色の手の中、ジョミーと名付けたビスケット。
ブルーは前の自分とは殆ど無縁のコブのビスケットを持っているのに、ハーレイはジョミー。
どんなもんだ、と言わんばかりに褐色の手にジョミーのビスケット。
ずるい、とブルーは叫んだけれども。
「言っておくがだ、俺はサイオンは使ってないしな?」
闇鍋のルールは守ると言ったぞ、やろうと言い出した俺が破ってどうする。
こいつが闇鍋の楽しい所だ、何を掴むか分からないってな。
しかし、お前も運が無いと言うか…。
これが本物の闇鍋だったら凄いハズレを引いちまうぞ。
好き嫌いの無いお前の舌でも「とても無理だ」と思うような味の。
「…うん…」
分かってる。
ハーレイが言ってたクリームパンの味噌煮込みとか、そういうのでしょ?
食べられないことはないと思うけど…。
ちょっぴり甘い味噌バター味だな、って頑張ったら、多分、食べられるけど…。
でも、ぼくが引いたビスケットの名前…。
どうしてコブなの、とブルーはガックリと項垂れた。
コブは決して悪くはない。
ナスカを守ろうと幼い身体で懸命だった姿は今も鮮やかに思い出せるし、それからだって。
シャングリラが地球まで辿り着くために、コブも死力を尽くしてくれた一人。
だからこそタイプ・ブルー・アソートの中の一人で、大切な仲間。
分かってはいるが、それでもコブ。
せめてアルテラを引きたかった、と思う。
コブと同じく馴染みは全く無いのだけれども、アルテラが残したメッセージ。
トォニィに宛ててボトルに書かれた「あなたの笑顔が好き」という言葉。
その文字をそのまま写し取ったメッセージカードは今も人気で、恋人宛のカードの定番。
コブを引くより、そんなアルテラを引き当てたかった。
もっと贅沢を言っていいなら、ジョミーかトォニィ。
前の自分と縁が深かった二人の名前のビスケットを引いてみたかったのに…。
運の悪さを思い知らされた闇鍋ごっこの、闇ビスケット。
コブの名前のビスケットを手にブルーがしょんぼりと俯いていたら、褐色の手が伸びて来た。
ブルーの手よりもずっと大きなハーレイの手。その手にジョミーのビスケット。
「ほら、俺のジョミーと換えてやるから、しょげるんじゃない」
俺はコブとも馴染みがあるしな、お前みたいにハズレってわけじゃないからな。
「ホント?」
「ああ。…もっとも、ヤツらも物騒なことを言ってた時期はあったんだがな」
みんな殺してシャングリラを乗っ取っちまおうか、なんて恐ろしいことを言ってたなあ…。
子供ならではの浅はかさってヤツだ、全部筒抜けでした、ってな。
俺は何とも思わなかったが、他の仲間は怖がってたさ。
たかが子供の言うことだ、って聞き流せる度胸は普通のミュウには無いからなあ…。
「ハーレイ、昔からタフな神経が自慢だったものね」
「それもあるがだ、前のお前を失くしちまったら、怖いものなんてあると思うか?」
コブたちに殺されちまったとしても、お前の所へ行くだけだろうが。
その辺もあったな、俺の度胸が据わってた理由。
「…ごめん…。ぼくがハーレイを置いてっちゃったから…」
「いいさ、そいつは気にするな」
話の流れで出て来ちまったが、お前が気にする必要は無いさ。
そんなわけでな、俺はヤツらを怖がらないから、コブたちだって打ち解けてくる。
ジョミーにはちょっと相談し辛い、っていう小さな悩みを聞いてやったりもしていたもんだ。
戦いのことしか考えていないように見えたからなあ、あの頃のジョミー。
お前を失くして抜け殻みたいだった俺でも、ヤツらにしてみりゃキャプテンだしな?
そういうわけで、とハーレイはコブのビスケットをブルーの手からヒョイと取り上げ、代わりにジョミーのビスケットをそっと持たせてやった。
これがお前のだと、お前の分だと。
「俺は昔馴染みのコブでいいから、お前はジョミーを食っておけ」
それに元々、お前が貰ったビスケットだしな?
ジョミーの名前のビスケットを食って、ジョミーにあやかってうんと元気になるといい。
ついでに背丈も伸びるといいな。
「ジョミーだったら、百七十五センチ?」
前のぼくより五センチも高いよ、そこまで伸びる?
「そいつはお前にゃ無理なんだろうが、伸びるのがちょっぴり早くなるかもしれんぞ」
「ありがとう、ハーレイ!」
早く大きくなってみせるよ、とブルーはジョミーのビスケットを開け、齧り付いた。
ジョミーにあやかって背を伸ばすのだと、早く大きくなるのだと。
「こらこら、いつも言ってるだろうが、急がなくていいと」
急ぐんじゃない、とハーレイはコブのビスケットを開けながら微笑む。
ゆっくり幸せに育てばいいと、何年でも待っていてやるから、と。
「待っててやるから、いつかお前と二人で行こうな、博物館」
結婚して、二人で手を繋いで。飯を食ったりしながらゆっくり回ろう、疲れないように。
「うん、ハーレイが彫ったナキネズミのレプリカ、見に行かなくちゃね」
ミュージアムショップでレプリカを買うんだ、ウサギって書いてあるだろうけど。
早めに出掛けて、このビスケットも買いたいな。
「そうだな、タイプ・ブルー・アソートは買わないとな」
前の俺たちの船が刷ってある箱だ、シャングリラの箱入りのビスケットだしな。
「でしょ? 絶対買おうね、ナキネズミを見に行く前に買っちゃおうかな」
売り切れちゃったら悲しいもの、とブルーが言えば、ハーレイも「ああ」と頷いてくれた。
一番にミュージアムショップに寄ろうと、そして展示を見に出掛けようと。
青い地球を背景に浮かぶシャングリラが刷られた、ビスケットの箱。
博物館の限定商品。
いつか行く頃にはハーレイ入りのも出ているといいな、とブルーは夢見る。
ハーレイにブラウ、エラやゼルも入った賑やかな中身のビスケット。
箱に書いてある菓子店に要望を書いて出してみようかと、そういう商品が欲しいんだけど、と。
タイプ・ブルー・アソートがあるなら、シャングリラ・アソートも作って欲しい。
大好きなハーレイのビスケットが入った、心が弾む詰め合わせを…。
博物館のお土産・了
※ブルーが貰った博物館のお土産。タイプ・ブルーなクッキーの詰め合わせセット。
ハーレイと楽しく食べたのですけど、シャングリラな詰め合わせセットも欲しいようです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「今日は、少し範囲から外れるが…」
たまにはこういう話もいいだろう、とハーレイが教卓の上に置いたもの。
鮮やかな黄色の実を付けた枝で、葉は艶やかに濃い緑。ミカンにも似た小さな果実。その直径は三センチくらいといった所か。
家から持参したその枝を前に、ハーレイはぐるりとブルーのクラスを見渡した。
「こいつは何だか知っているか?」
サッと手を挙げた男子生徒。こういった時には必ず出て来る、クラスのムードメーカーの彼。
「ミカンです!」
自信満々で答えた、彼だったけれど。「残念だったな」と片目を瞑るハーレイ。
「柑橘類には違いないのだが…。ミカンではなくて橘ってヤツだ」
「橘ですか!?」
ワッと湧き立つクラスメイトたち。橘なるものは古典の教科書に出て来るけれども、本物の実に出会える機会は少ない。植物園に行けばあるのだろうが。
「遥かな昔には、ときじくのかぐのこのみ、とも言った」
こう書くのだ、と教室の前のボードに大きく伸びやかな文字。「時じくの香の木の実」と。
「ずうっと昔の、この地域…。日本って島国で信じられていた理想郷があってな」
常世の国、と呼ばれていた。
其処に蓬莱山という山がある。その蓬莱山で採れる木の実が「時じくの香の木の実」なんだな。
不老不死の薬になると言われて、それを探しに出掛けて行った人もいるんだ。
苦労した末に見付け出して持って帰った木の実が橘だった、という話だ。
へえ…、と聞き入っているクラスメイトたちと、皆の視線を集める橘の実と枝。
ハーレイは「右近の橘ってヤツもこれだぞ」などと語って、誰もが興味津々だけれど。
不老不死の薬だという橘の黄色に夢中だけれども、ブルーの思いは少し違った。
(…時じくの香の木の実…)
それに、その実が採れる常世の国。
どちらも初めて耳にした言葉。知らなかった、自分が住んでいる地域の遥かな昔の古い伝説。
時じくの香の木の実も、常世の国も今日まで知らなかったけれど、理想郷という響き。
その言葉になら覚えがあった。
(…シャングリラだ…)
忘れられない、懐かしい言葉。
前の生でハーレイと共に暮らした白い船。
あの船の名だ、と思い出す。白い鯨を、ミュウたちの楽園だった船の名前を。
(…シャングリラ…)
帰宅した後も、頭から離れない言葉。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
理想郷と名付けられていた船と、今日のハーレイの授業で聞いた常世の国と。
シャングリラと同じ意味合いを持った、常世の国。
こんな日にハーレイが来てくれたなら…、と勉強机に頬杖をついて考えていたら、来客を告げるチャイムの音。
(ハーレイ!?)
パッと駆け寄った窓の下の方で、庭を隔てた門扉の向こうで見慣れた人影が手を振っていた。
ハーレイをブルーの部屋へと案内して来た母がお茶とお菓子を置いて行ってくれて。
いつもの窓辺のテーブルで二人、向かい合わせに座って直ぐにハーレイの口から出た言葉。
「どうだった、今日の俺の授業は?」
ブルーは「あっ!」と息を飲む。
「…ハーレイ、もしかして狙ってた?」
わざわざぼくに訊くってことは、あの授業、ぼくを狙っていたの?
理想郷だぞ、何かを思い出さないか、って…?
「まあ、そんなトコだ。もっとも、半ば偶然の産物だがな」
親父から連絡があったんだ。
橘の実をくれるという人があるから、授業で使うんだったら届けに行くぞ、と。
せっかくの機会だ、お前の家に寄れそうな日を選んで授業をすることにした。
だから親父が来たのは昨日さ、俺が帰ったら鍵を開けてちゃっかりリビングに居たな。
「一足お先にお邪魔してるぞ」って、俺の菓子まで食ってたわけだが…。
あの親父には敵わないな。
キッチンもしっかり使われていたって始末だ、「ついでに魚も釣って来たから」と。
「あははっ、ハーレイのお父さんらしいね」
「そうか? まあ、美味かったが…。親父の料理も」
お前にも食わせてやりたかったが、そういうわけにもいかんしな?
親父からの土産は橘の実だけで勘弁してくれ。
ほら、とハーレイは荷物の中から橘の実を一つ取り出した。
「なにしろ授業で使うっていう名目だしな?」
他の先生たちも使いたいと言うし、持ってったヤツは枝ごと学校のものになっちまったが…。
こいつは持って行く前にもいでおいたんだ、一つ足りなくても誰も気にせん。
「…ぼくにくれるの?」
「もちろんさ。そのために親父に頼んだんだからな」
親父はシャングリラのことは何も知らんし、お前のための授業用だとしか思っていないが…。
お前が興味を持ってくれたら嬉しいな、と笑って渡してくれたんだが…。
「これ、食べられるの?」
ブルーはテーブルの真ん中に置かれた果実を眺めた。
ミカンの原種か何かだろうか、と思ってしまうほどの小さな木の実。
名前こそ「時じくの香の木の実」と立派だけれども、食べられる部分が少なそうな実。
「食えるらしいぞ?」
俺も食ったことは無いんだが、とハーレイの指が橘の実をチョンとつついた。
父の友人の家の庭で沢山採れるそうだと、皮や絞り汁で菓子やジャムなどが作れるらしい、と。
「ついでに昔のこの地域では、だ。橘は菓子の神様とも関係が…な」
「お菓子の神様?」
「授業で話した、こいつを探しに蓬莱山を目指した人さ」
うんと苦労して、これを見付けて。
帰って来てみたら、探しに行ってくれと頼んだ主人は亡くなってしまった後だった。
主人と言っても天皇だから、日本って島国の王様だな。
王様は死んでしまっていたから、その人もショックで泣きながら死んでしまったんだが…。
橘の実は王様のお墓に半分、もう半分はお妃様に。
その時代には菓子と言ったら木の実だったからな、橘は珍しい菓子ということになる。
それを持ち帰った人ってトコから、その人がお菓子の神様になったって話だ。
「ふうん…」
なんだか可哀相だね、お菓子の神様。
頑張って不老不死の木の実を探して来たのに、間に合わなかったなんて。
「まあな」
挙句に自分も死んじまいました、では神様になっても悲しいよな。
…前のお前も悲しいわけだが…。
今や英雄だが、前の俺たちとシャングリラを守って独りぼっちで死んじまったし…。
「ぼくは間に合ったからいいんだよ」
メギドを沈めて、ちゃんと間に合った。みんなを守れた。
お菓子の神様と違って間に合ったんだからそれでいいんだ、シャングリラを守れたんだから。
でも、シャングリラの名前…。
常世の国は候補に入っていなかったよね。
「聞かなかったな」
それに、桃源郷っていうのも無かったっけな。
「…桃源郷?」
「シャングリラは西洋で生まれた理想郷だが、桃源郷は東洋生まれなのさ」
遠い昔の地球の、東洋と西洋。
今、俺たちが住んでる地域は東洋だよな?
其処じゃ理想郷と言えば桃源郷って考える人が多かったそうだ。
「…前のぼくたち、やっぱり知識が足りなかったかな?」
常世の国も、桃源郷もスッポリ抜け落ちていただなんて。
「いや、ヒルマンとエラなら探せただろう」
そのための時間が足りなかっただけだ。データベースを端から端まで漁る時間が。
「そっか…」
時間不足はそうかもしれない、とブルーは過去へと思いを馳せた。
前の自分が生きていた頃、まだシャングリラがそういう名前ではなかった頃へと。
アルタミラから脱出した後、皆の心が落ち着くにつれて話題に上り始めたもの。
それは船のあちこちに埋められ、取り付けられたプレート。
コンスティテューションと記された、それ。
船の名前を示すプレート。ついでに建造年月日なども。
どういった意味の名前だろうか、と調べた結果、SD体制よりも遥かな昔に同じ名を持つ有名な船があった事実と、コンスティテューションは「憲法」の意味だということが分かったけれど。
どちらも、どうもしっくり来ない。
自分たちの船に似合う名前だとは思えない。
同じ名前ならもっといいのが良かったのにと、もっといい名が良かったのに、と。
コンスティテューションと書かれたプレートを目にする度に、誰もが考えること。
どうしてこういう名前なのかと、別の名前が良かったのに、と。
「せっかく俺たちの船になったんだ。名前を変えればいいんじゃないか?」
「そうだな、うんと立派なのがいいな」
言い出した者が誰だったのかも分からなくなるほど、アッと言う間に広がった話。
名前を変えてしまえばいいと、自分たちの船らしい名前にしよう、と。
そういった話が食堂で、通路で、休憩室で交わされ、いつしか壮大なものへと変わった。
この船をミュウの楽園にするのだと、それに相応しい名前がいい、と。
けれども、何がいいのだろう?
どう名付ければいいと言うのだろう?
成人検査と続く実験とで記憶を奪い去られてはいても、残った記憶というものはある。
誰の記憶にもある楽園。天国とは少し違った、楽園。
それが素敵だと思うのだけれど、しかし、「楽園」という名は洒落てはいない。
意味は最高なのだけれども、船の名前には似合わない。
もっと何か…、と誰もが思う。
楽園らしくて、それでいて船の名前に相応しい何か。
そういった時に頼りにされる者たちは、もう決まっていた。
元々の知識の量が多かったものか、船で一番の物知りと評判の高いヒルマン。
それから、几帳面で記憶力にも優れていたエラ。
この二人と、彼らと仲の良いゼルとブラウといった辺りに、相談事は大抵、持ち込まれるもの。
もちろん彼らの友人であったハーレイ、それにブルーの耳にも入る。
休憩室で揃ってお茶を飲みながら、ヒルマンが「ふうむ…」と首を捻って。
「確か、理想郷というのがあったな」
「どういうヤツだい?」
ブラウの問いに、ヒルマンは「理想だよ」と穏やかな笑みを浮かべた。
「そのままの意味だよ、まさに理想の世界のことだ」
「楽園よりいいんじゃないのかしら?」
エラが応じたけれども、ゼルが不満そうに。
「だが、洒落てないぞ」
楽園と大して変わらないような気がするんだが。
言葉をそのまま付けたって感じだ。
「…それもそうだねえ…」
もうちょっと他の言葉ってヤツはないのかねえ…、とブラウも頻りと首を捻るから。
「調べてみよう」とヒルマンがエラに協力を求め、二人はデータベースに詰まった情報を相手に戦いを挑むことが決まった。
この船に相応しい名前。
楽園そのもので、それでいて洒落た言葉を探しに。
戦場に向かった二人が引っ提げて戻った、船の名前の候補たち。
それは三つで、それぞれに意味と由来とがあった。
まずはユートピア、理想郷を指す言葉だけれども、とある作家の創作だという。
次にアルカディア、これは地球でも古い部類の古代ギリシャで語られていた理想郷。
そしてシャングリラ、同じく理想郷を指すが、これも作家の創作だった。
「どうかね、こんな所なのだが」
ヒルマンが書いて並べた名前を、ブラウが「ふうん…」と覗き込みながら。
「こりゃまた、どれも派手な意味だねえ…」
理想郷と来たよ、三つとも。よくも探して来たもんだよ。
「コンスティテューションよりかは呼びやすそうだな」
ゼルの呟きに、ブラウがフンと鼻で笑った。
「あんなの、誰も呼んじゃいないよ」
とりあえず「船」で通じるからね。
船って言ったらコレしか無いんだ、舌を噛みそうな名前なんかで呼びやしないよ。
ヒルマンとエラが探し出して来た、三つの候補。
ユートピアにアルカディア、それにシャングリラ。
飛び抜けて呼びやすいものがあれば簡単に決まっただろうが、生憎どれも似たようなもの。
一見、決め難く思えたけれども、アルカディアに人気が集まった。
作家の創作に過ぎないものより、地球に古くから伝わるという理想郷、アルカディア。
それがいい、という声が高まる中、念のためにとヒルマンたちが調べてみれば。
古代ギリシャではなく、後の世のギリシャ。
人が乗り物で空を飛ぶようになった時代のギリシャに、アルカディアと呼ばれた地域があった。
けれど、田園地帯はともかく、緑が少ない岩だらけの山に囲まれた場所。
乾燥した気候のせいだったらしく、半ば禿げた岩山は理想郷のイメージに似合わない。
ちょっと違う、と落ちてゆく人気。
本物がこれなら、作家の創作の方がマシだろうか、と。
残った二つの理想郷。
どちらも架空の、作家が捻り出した名前の理想郷。
ユートピア、それにシャングリラ。
この二つに違いはあるのだろうか、とヒルマンとエラは更に調べてみたのだけれど。
ユートピアは架空の国家の名前で、理想郷なのに管理社会らしい。
町と田舎の住民を計画的に入れ替えていたりするくらいに。
おまけに私有財産は持てず、誰もに課された勤労義務。
「管理社会はなんだか嫌だねえ…」
あたしはちょっと、とブラウが頭を振った。ヒルマンが皆を集めて発表していた食堂で。
「そいつはなんだかSD体制みたいだよ。シャングリラの方はどうなんだい?」
「…シャングリラは場所が限定されるのだがね…」
地球のチベットと呼ばれる地域。
其処にあるとされて、「シャンの山の峠」の意味だね、シャングリラは。
そのシャングリラに住む人々は、皆、長生きで、老いる速度が非常に遅いのだそうだ。
「へえ…! なんだか俺たちみたいだな!」
「おまけに場所が決まっているのか、ユートピアより夢があるよな、あるかもしれない、って」
シャングリラがいいな、と昂揚する空気。
管理社会なユートピアよりもシャングリラがいいと、夢があると。
しかもシャングリラにはミュウを思わせる人々が住むという。
おまけに地球のこの辺りにある、と匂わせる名前に誰もが心惹かれた。
「シャンの山の峠」。
チベットとやらの其処を探し当てれば、シャングリラに辿り着けるのだから。
いつか行きたい、青い水の星。
其処に在る筈の理想郷がいいと、此処に在ると示す名前がいい、と。
シャングリラを希望する者たちが一気に増えた所へ、新たに入って来た情報。
管理社会だと皆が嫌ったユートピアだが、それは後世、理想郷の代名詞になっていたという。
元々の創作を読みもしなかった人々の間で、イメージだけが独り歩きをしてしまって。
忘れ去られた創作の中身。管理社会という実態。
ユートピアと言えば理想郷だと、その響きだけで多くの人々を惹き付けた名前。
そういった情報を聞いてしまうと、ユートピアがいいと宗旨替えをする者たちが何人も出た。
ユートピアならば架空の場所で、名前の由来も「何処にも無い良い場所」という造語。
チベットの奥地と決まってしまったシャングリラよりも、そちらの方が夢があるのだ、と。
皆の意見はもはや纏まらず、シャングリラ派が多数とはいえ、ユートピア派も無視できない。
日が経てば逆転するのかもしれず、あるいはシャングリラに落ち着くのかも…。
まるでどうなるかが分からない中、ブルーはヒルマンたちが集まった部屋で尋ねられた。
いつもブルーを何かと気にかけてくれる、褐色の肌のハーレイに。
「ブルー、お前はどうなんだ?」
シャングリラとユートピア、お前はどっちが好みなんだ?
「どっちでもいいよ」
「だが…。お前の一言で多分、決まるぞ」
「なんで?」
どうして、とブルーは首を傾げた。
自分の意見で何故決まるのかと、どうして決まってしまうのかと。
「お前だからさ。…分からないか?」
俺も含めて、この船のヤツら。
お前がいなけりゃ、誰も生きていけん。誰一人として生きられないんだ、食えもしないしな。
だから、お前の一言で決まる。希望があるなら言った方がいいぞ。
「そうだよ、どっちがいいんだい?」
遠慮しないで言っちまいな、とブラウにも勧められたけれども。
「どっちでも…」
ぼくはどっちでも構わないよ。
ユートピアでも、シャングリラでも。
この船が理想郷になるなら、どんな名前でもいいと思うな…。
ブルーは本当にどちらでも良いと思っていた。
理想郷という意味だけで気に入っていたし、船のみんなが呼びたい方を選べばいい、と。
「…ブルーが特に希望しないなら、やはり投票で選ぶかね?」
期限を設けて、というヒルマンの提案に、ブラウたちも揃って賛成で。
ユートピアにするか、シャングリラか。
それとも最初に人気を集めたアルカディアか。
三つの候補から自由に選ぶ、ということになって、投票用紙が配られた。もちろん無記名、船の名だけを書いて食堂に置かれた箱へと投じる仕組み。
蓋を開けてみればユートピア派はごくごく少数、圧倒的多数でシャングリラ。
そうして船の名はシャングリラに決まり、一番最初に行われたこと。
「もうこのプレートは要らないんだよな?」
「この船は今日から、シャングリラだしな!」
船内に鏤められたコンスティテューションと書かれたプレート。
プレートは端から紙が貼られて、コンスティテューションの名が隠された。
代わりに書かれた、手書きの文字の「シャングリラ」。
半ばお祭り騒ぎの熱狂の中で、全てのプレートに誇らしげな文字で「シャングリラ」の名。
この船の名前はシャングリラだと、自分たちの理想郷なのだと。
プレートが正式に書き替えられるまでは、船のあちこちに手書きの文字。
紙をペタリと貼り付けただけの、それでも皆の思いがこもった「シャングリラ」の名が…。
「お前、あの時、どっちを書いた?」
どっちだった、とハーレイが橘の実を前にしてブルーに訊く。
お前はどちらを選んだのか、と。
「…ハーレイは?」
そう言うハーレイはどっちを書いたの、ユートピアだったか、シャングリラか。
ぼくも気になるよ、どっちだったの?
…前のぼくたちの時に訊けば良かったね、今頃じゃなくて。
「その発想は無かったな。投票はあくまで秘密ってな」
訊けば教えてくれたんだろうが…。
で、どっちだ?
「…シャングリラ」
ぼくはシャングリラと書いて入れたよ、食堂の箱に。
「奇遇だな、俺もシャングリラだ」
どうせだったら、実在するかもしれない場所というのに賭けたかったのさ。
地球が滅びてチベットどころじゃなくなっただけに、シャングリラだって消えただろうが…。
それでもそういう場所が在った、と思えば希望が湧きそうじゃないか。
何処にも存在しないなんていうユートピアより、辿り着く目標になりそうだってな。
「ぼくもおんなじ気持ちだったよ、どちらか一つを選ぶんならね」
地球に着いたら、ずっと昔には「シャンの山の峠」だった場所が何処かにあるんだ。
シャングリラは作家の作り話でも、チベットって場所はあったんだから。
同じ幻なら、実在しそうな方がいい。
その可能性が高そうな方がいいよね、ってシャングリラを選んで書いたんだよ。
「…お前、どっちでもいいと言っていたくせに」
ハーレイが深い溜息をつくから、ブルーは微笑む。
「それもホントだよ?」
みんなが選びたい方で良かった。
ぼくの意見で決めるんじゃなくて、自由に選んで欲しかったんだよ。
だって、あの頃のぼくはソルジャーどころか、リーダーですらも無かったしね?
物資を奪う力があるってだけのチビだよ、そんなぼくが決めてどうするの?
みんなが乗る船の名前なんだよ、やっぱりみんなで決めなくっちゃね。
「なるほどなあ…。お前もチビなりに考えていた、と」
そして今だったら選択肢が二つほど増えるようだが。
「桃源郷は似合わないと思うよ、白い鯨には」
「うむ。常世の国もな」
どっちも合わんな、シャングリラには。
あの船は桃源郷でも常世の国でもなくてシャングリラだという、そんな気がする。
「シャングリラって名前で良かったんだよね?」
前のぼくたちが乗っていた船。
最初はコンスティテューション号だった船…。
「ああ。キャプテンの俺が言うのも何だが、シャングリラ以外に考えられんな」
だが、俺たちはシャングリラに乗って、シャングリラがある筈の地球を目指して…。
「空振りだったね、前のハーレイ…」
青い地球は何処にも無かったんだものね。
「お前は辿り着けさえしなかったんだよなあ、あんなに地球を夢見ていたのに…」
俺たちを守って、メギドなんかへ飛んじまって。
「空振りしちゃってガッカリするより、良かったような気もするけどね」
「本当か?」
「…今だから思うことだろうけど。青い地球は無かったってことを知っているから…」
あの時のぼくは、地球を見られずに死んでしまうことが悲しかったもの。
一目でいいから見たかった、ってメギドへ飛ぶ前に思ったもの。
だから、死の星だった地球でも。
もしも着けていたら、「此処まで来られた」って泣いて喜んでたかもしれない。
あれが地球だ、って、青くないけど地球に来たんだ、って…。
どうだったろう、とブルーは呟く。
前の自分が死に絶えた地球に辿り着いていたら、喜んだのか、それとも失望したかと。
「さてなあ…?」
俺にもそいつは分かりかねるが、お前は辿り着けたじゃないか。
前のお前が焦がれたとおりの、本物の青い地球までな。
まさに理想郷って感じの地球だぞ、もう人類との戦いだって無いんだからな。
「うん。…だけどシャングリラじゃなくって、常世の国って所なんじゃない?」
「この地域だと、どうやら理想郷はそいつらしいしなあ…」
「でしょ? 時じくの香の木の実もあるしね」
ほら、ちゃんとテーブルの上に乗っかってる。
常世の国の蓬莱山に生えてるんでしょ、これが採れる木。
「橘か…」
ふむ、とハーレイは笑みを深くした。
「晩飯の時にちょっと食ってみるか?」
「どうやって?」
「柚子とかの代わりに使えないこともないだろう」
親父が言うには、けっこう酸っぱいらしいしな。
菓子を作るなら砂糖を多めに入れてやらんと駄目なようだぞ、だからだな…。
料理に少し絞ってやるとか。
「それじゃメニューによるんじゃない?」
今日の晩御飯、柚子とかレモンが合わないメニューかもしれないよ?
…それにパパとママも一緒に食べているんじゃ、シャングリラな気分になれないし…。
食べるんだったら、今、使おうよ。
「どうするつもりだ?」
「この紅茶だよ。レモンティーの代わり」
おかわりはレモンじゃなくって橘で飲もうよ、いいと思わない?
「なるほどな…!」
そいつはいいな、とハーレイが頷き、ブルーはテーブルの橘の実を掴むと立ち上がった。
キッチンで二つに切ってくるから、少しの間だけ待っていて、と。
階段を駆け下り、母が立つキッチンに飛び込んで行って。
「ママ!」
橘の実を載せた右手を差し出した。
「この実、二つに切りたいから、ナイフ!」
時じくの香の木の実なんだよ、ハーレイがぼくにくれたんだ。
これで紅茶を飲んでみたいから、二つに切りたい!
「あらまあ…。珍しいものを頂いたのね?」
「うんっ!」
「まな板、これから使う所だったから。先に切ってあげるわ」
母は橘の実を綺麗に二つに切って分けてくれた。
小さな皿に載せて貰ったそれをブルーは宝物のように大切に持って、部屋へ戻って。
「ハーレイ、これ」
切って貰って来たよ、橘の実。早く絞って飲んでみようよ、レモンティーの代わりに。
「よし。だったら、紅茶のシャングリラ風と洒落込むか」
「常世の国だよ、此処の地域だと」
「そいつを別の言葉で言ったらシャングリラだろうが、理想郷だぞ」
チベットだの由来だのにこだわらなきゃな。
「そういえばそうだね、どっちも理想郷なんだものね」
「うむ。だから、こいつを絞って、と…」
二つに分かれた橘の実を半分ずつ持って、熱い紅茶を満たしたカップに絞ってみて。
香り高い実の香りが移った指でカップを持ち上げ、口に運んだブルーは素直な感想を述べた。
「酸っぱいかも…」
レモンを一枚入れるだけより酸っぱいんだけど…!
「だが、これがシャングリラの味ってな」
時じくの香の木の実だ、理想郷で採れる木の実の味だな。
「ふふっ、そうだね、常世の国でもシャングリラだしね」
それに地球だよ、とハーレイと二人、酸味が増した紅茶のカップを傾ける。
自分たちは地球に辿り着いたと、長い長い時を経て、ついに本物のシャングリラに。
今、自分たちが住んでいる地域では理想郷と言えば常世の国。
そんな名前のシャングリラに二人一緒に辿り着いたと、蘇った青い地球の上で、と…。
理想郷の名前・了
※楽園という名を船につけようと思ったミュウたち。候補は幾つかあったのです。
そして決まったのがシャングリラ。今のブルーたちが暮らす地域だと、常世の国ですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ブルー、首の所…」
赤いわよ、とママに指差された。学校から帰って、ママとおやつの真っ最中に。
「えっ?」
椅子から立って、ダイニングの壁の鏡を覗き込んだら、ちょっぴりプクッと首に赤いもの。
「…刺されたのかな?」
「どうかしら…」
ママも立ち上がって、近付いて来て。ぼくの首筋を横から覗いてみたんだけれど。
「あら、虫刺されじゃないわね、これは」
毛穴が詰まってしまったのね、と虫刺されの薬を持ってたママが笑ってる。きっとダイニングに置いてたんだろう、庭仕事をすると刺されることだってよくあるから。
「これじゃ薬が違うわね」
取ってくるわね、と吹き出物用の薬を取りに出掛けたママは直ぐに戻って来た。
小さなチューブの塗り薬。
ぼくは薬を塗られたんだけど…。
(うーん…)
簡単には引いてくれない、赤み。
おやつを食べ終わって部屋に戻っても、まだ赤い。壁の鏡を見てみたら赤い。
顔じゃなくって良かったと思う。鼻の頭にプックリと赤く出来てたら嫌だ。
(だって…)
そんな時に限ってハーレイが来るに決まっているんだ、「仕事が早く終わったからな」って。
鼻の頭に赤い吹き出物が出来た顔なんかを見られたら…。
(笑われるんだよ!)
ハーレイだったら絶対に笑う。容赦なく笑い飛ばしてくれる。
出来たのが首で本当に良かった、と思ったんだけど。
(あれ…?)
首筋にプックリ、赤い吹き出物。何かが記憶に引っ掛かる。
(えーっと…)
なんだったっけ、と鏡に映ったぼくを見るけど、分からない。
(…前のぼく…?)
そうなのかな、と一瞬、考えたけれど、それだけは無い。
前のぼくがいつも着ていた服だと、この辺りはきっと隠れてしまうと思うから。
(もっと上の方じゃないと分からないしね?)
同じ首でも、もっと上。服で隠れてしまわない場所。
だから違うよ、さっきから引っ掛かってる首の記憶は前のぼくが持ってたヤツじゃない。
(小さい頃に虫に刺されたとか…?)
家の庭とか、幼稚園とか。
それでとんでもなく痛かったとか、とても痒かったとか。
(何なのかなあ…?)
思い出せないから、余計に気になる。
気分転換したら分かるかな、って空気を入れに窓を開けようとした瞬間に。
(思い出した…!)
首筋にぷっくり、赤い吹き出物。
それは一つじゃなかったんだ。
「…吸血鬼?」
ハーレイの報告に目を丸くした、前のぼく。
一緒に朝食を食べながらの「朝の報告」っていう方じゃなくって、ブリッジでの勤務が終わった後に青の間に来ての真面目な報告。
朝の報告は「一日の予定とかを報告している」とシャングリラ中が思い込んでたけど、ホントは嘘でただの朝食。二人で甘い夜を過ごして、朝御飯を仲良く食べていただけ。
本物の報告は夜にしていた。
ハーレイと二人、ベッドに行く前にきちんと済ませた。
恋人同士としてじゃなくって、ちゃんとソルジャーとキャプテンとして。
ハーレイがその日の出来事をぼくに伝えて、次の日の予定の報告なんかもするんだけれど。
其処で出て来た、吸血鬼。
キャプテンの貌で、大真面目な目をしたハーレイの口から。
「なんだい、それは?」
そうとしか言えなかった、ぼく。
「吸血鬼ですが」
ソルジャーは御存知ありませんか、と吸血鬼の説明を始めたハーレイ。
夜の間に血を吸う怪物。人の生き血を啜る化け物。
やっぱりそれで合っているのか、と自分の知識を頭の中で確認してから。
「それで、その吸血鬼がどうしたって?」
「出るのだそうです」
「何処に?」
「このシャングリラの中にです、ソルジャー」
嘘だろう、と絶句したぼく。
なんでそんなものがシャングリラに…。
吸血鬼なんか、いるわけがない。あれは大昔の作り話で、伝説の怪物なんだから。
「ですが、ソルジャー…」
子供たちの多くが怯えております、次は自分の番なのだと。
「どういうことだい?」
「それが、最初は…」
ハーレイは困惑し切った様子で、キャプテンとしての任務を続けた。
シャングリラに出るという吸血鬼について、ソルジャーであるぼくに報告するために。
保護したミュウの子供たち。
ミュウと判断されて殺される前に、前のぼくや専門の救出班が助けて連れて来た子たち。
年齢に合わせて、保育部や養育部で面倒を見ているんだけれど。
よちよち歩きの小さな子供から、ヒルマンたちが教える教室に通う大きな子まで。
そうした子供が増えたシャングリラは、活気溢れるミュウの楽園。
名前の通りに楽園だったシャングリラの中、元気に駆け回る子供たち。公園も居住区も、子供の声が響いてた。歓声だったり、泣き声だったり、それは賑やかに。
なのに…。
ある日、小さな女の子の首筋に赤い傷痕が出来ていた。それも二つも。
吸血鬼だ、と大騒ぎになった。
如何にも牙で血を吸われたような具合に、二つ並んで出来た傷痕。赤く存在を主張する傷。
吸血鬼が出たに違いない、と決めてかかった子供たち。
ライブラリーにはSD体制よりも前の時代の本も沢山揃ってた。子供向けの伝説の本も沢山。
楽しい話に、ためになる話。それに怖くて不思議な話も。
伝説のドラゴンなんかも人気だったけど、子供たちは怖い話も大好きだから。
怖すぎて夜に眠れなくなっても、ついつい読んじゃう、怖い本。
そういった中に、吸血鬼ももちろん入ってる。
「ハーレイ、それは…」
虫刺されとは違うのかい?
「そういう虫がいますか、ソルジャー?」
シャングリラでは有害な虫は飼っておりません。
刺す虫と言えばミツバチですが、あれは「悪戯をすると刺されて痛い目に遭う」と自然の脅威を教えるための面もありますから…。
あえて針のあるものを飼っておりますが、悪戯をした子供くらいしか刺されませんね。
何もしていない子供の首を二ヶ所も刺すような虫は、シャングリラにはいない筈ですが。
「…ごめん、ぼくは外にも出るものだから…」
外にはいるしね、そういった虫も。
マザー・システムは有害な生物を排除している筈だけれども、あれは一種のご愛嬌かな。
で、その類の虫がいないとなったら、吹き出物じゃないかと思うんだけどね?
たまたま二つ、綺麗に並んでしまっただけで。
「常識で考えればそうなのですが…」
時期と場所とが悪すぎました。
ちょうど吸血鬼の本が流行っていたのと、首筋に二つという所です。
「だけど、一人に出来ただけなら吹き出物だろう?」
「いいえ、ソルジャー。…吸血鬼にやられたと主張している子供は一人だけではないのです」
「えっ…」
まさか、と驚いたぼくだったけれど。
増えているらしい、首に赤い傷痕が二つある子供。
まるで吸血鬼に噛まれたみたいに、首に並んだ二つの傷痕。
そういう子供が増えているのだ、とハーレイが真顔で報告するから。
「…どうしてそんなことに…」
吸血鬼だなんて、君は信じちゃいないだろうね?
「最初に傷痕が出来た子供の友達が酷く怯えていたのだそうです」
次は自分がやられるかも、と。ベッドが隣同士だから、と。
「なるほどね…」
子供たちが小さい間は個室じゃなくって、相部屋とでも言うのかな?
何人かの子供が同じ部屋で寝る。
集団生活を学ぶという意味でも、大いに役立つ共同生活。
隣同士で並んだベッドは普段だったら素敵だろうけど、吸血鬼が出たら話は別。
ハーレイは真面目な顔で続けた。
「吸血鬼が出たと騒がれた次の日の朝、隣のベッドの子供の首にも同じ傷痕が…」
例の怯えていた子です。その子の首に。
「出来過ぎってヤツじゃないのかい?」
「偶然だろう、と養育部の係やヒルマンたちが納得させたのですが…」
その次の朝は、同じ部屋に居た別の子供が。
四人部屋だった全員の首に同じ傷痕が出来たのはその翌朝のことです、ソルジャー。
「それで、現在の状態は?」
「被害は拡大し続けております。被害者は主に女の子ですが…」
最初の間は面白半分だった男子も、小さな男の子が被害に遭ってからは怯えております。
次は自分だと、自分の番かもしれないと。
「もちろんノルディには診せたんだろうね?」
「吹き出物だという診断ですが、原因の方が不明です」
必ず首に二つ並んで。
しかも吹き出物の薬を塗っても効果は見られず、最初に発症した子も治らないままです。
「…心理的なものなのかな?」
最初の子は多分、ホントに偶然だったんだろうけど…。
それから後は恐怖が引き金になって、蕁麻疹が出来るみたいな感じで引き起こされて。
「恐らくは」
治らないのも、思い込みから来ているのでしょう。
吸血鬼に目を付けられたのだと、この傷痕は治らないのだと。
ノルディもそういう見立てですから、いずれ落ち着けば消えるだろうと…。
とはいえ、放ってもおけないようです。
子供たちと接する保育部や養育部の若い女性の間にも恐怖感が次第に広がりつつあり…。
「ミュウの悪い癖っていうヤツだね…」
サイオンを持ち、思念波で会話が出来るミュウ。
心を共有出来る力は、こういう時には裏目に出る。
一人が「怖い」と思えば広がる、「怖い」気持ちが広がってしまう。
枯草に火を放ったみたいに、アッと言う間に燃え広がるんだ、「怖い」気持ちが。
平和だしね、と溜息をついた、前のぼく。
アルタミラの地獄は遠い昔になり、今のシャングリラはアルテメシアの雲海の中。
文字通りミュウの楽園となった白い鯨が、雲の海の中を泳いでいる。
此処しか知らないミュウの方が増えた。
アルテメシアの育英都市から救い出されて、この船で大きくなった者たち。
生き地獄だったアルタミラを体験していない分、精神的には強くない。
そういえば、と思い当たる節なら一応あった。
シャングリラの中に張り巡らせてある、ぼくのサイオン。目には見えないサイオンの糸。
船を守るために、仲間たちのために、見守るために張ったサイオンの糸。
その糸を通してぼくに伝わる、船の中の様子。
漠然としたものに過ぎないけれど。ハーレイの報告で「これだったのか」と気付く程度の。
そうやって感じる、シャングリラの中。
この間から何かザワついてはいた。子供たちの心がざわめいていた。
だけど普通の喧嘩か何かなんだ、と放っておいた。ハーレイに訊きもしなかった。
子供の喧嘩に大人が出るのは良くないから。
ソルジャーともなれば論外だから。
だけど…。
(吸血鬼ねえ…)
本物の吸血鬼に出会ったことはないけど、似たようなのならアルタミラに居た。
実験と称して、ぼくの血を山ほど抜いてくれたヤツら。
透明な管を、ぼくの赤い血が流れてゆく。どんどん、どんどん身体の外へと流れてゆく。
意識が少しずつ遠のいていって、ぼくは「死ぬんだな」って思うんだけれど。
ふと気が付いたら、ちゃんと生きてる。治療用のベッドの上で目覚める。
輸血したのか、抜いた血をぼくに戻していたのか。
そんなこと、ぼくには分からなかったし、意識が無い間に何が起こったのかも分からない。
何のために血を抜いていたのか、何の実験だったのかも。
(あの時は、確か…)
吸血鬼が噛むっていう首じゃなくって、腕とか足の血管から抜かれていたけれど。
成長を止めていた小さなぼくの、細っこい手足に透けて見えていた血管から。
(…首から抜かれたこともあったかな?)
そういう場合もあった気もする。
首に刺された管を通って流れてゆく血を見てた気もする。
吸血鬼に血を吸われた人間は、同じ吸血鬼になってしまうと言うけれど。
ぼくは白衣の研究者なんかにはなっていないし、あれは吸血鬼じゃなかったわけで。
血を抜いていただけの、ただの人間。
ぼくにとっては充分に怖い、吸血鬼よりも遥かに怖くて恐ろしい怪物だったけれども…。
吸血鬼なんて、いやしない。
本物が存在するわけがない、と分かっているからハーレイに言った。
「…そもそも吸血鬼なんて、いないだろう?」
実在するとか、しないとか。
そんな話は置いておくとしても、このシャングリラには乗せていないよ、そういうものは。
「ですから、外から来るのだと」
窓をすり抜けて入って来るのだ、と子供たちは怯えておりますが。
「…外からねえ…」
吸血鬼は蝙蝠の姿に化けて空を飛ぶとは言うのだけれど。
その蝙蝠が飛んで来た上に、シャングリラの窓から入るだなんて。
吹き出物の傷痕が派手に伝染するくらいだから、想像力にはキリが無いらしい。
おまけに今では子供ばかりか、若い女性までが怖がり始めている状態。
放っておいたらマズそうではある。
だから…。
ふふっ、と思い出し笑いをしていた所へ、来客を知らせるチャイムの音。
前のぼくに吸血鬼の報告をしに来たハーレイじゃなくて、今のハーレイがやって来た。
ぼくの先生、ぼくの守り役で、ぼくの恋人。
ママが運んで来たお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせに腰掛けて。
「見て、これ」と首を指差した、ぼく。
まだ赤いままの、ぷくりと小さな吹き出物。
「吹き出物か?」
珍しいな、お前が吹き出物なんて。
「これ、もう一つあったら思い出さない?」
「何をだ?」
怪訝そうなハーレイに「此処」って、吹き出物の横の辺りをつついて見せて。
「…吸血鬼」
「ああ、シャングリラの吸血鬼か…!」
吹き出物が二つ並んで出来たら吸血鬼な。
何でもかんでも共有しちまう、子供ならではの事件だったが…。
楽しかったな、ってハーレイが笑う。
そう、前のぼくたちは、シャングリラに出る吸血鬼を退治することになったんだ。
白いシャングリラの窓という窓に、ニンニクを幾つも束ねて吊るした。
展望室の大きな窓はもちろん、公園やブリッジの上にあるドームみたいな強化ガラスにも。
それだけの窓に吊るすニンニクは流石に船じゃ賄えないから。
栽培してたら間に合わないから、久しぶりにぼくが奪いに出掛けた。
アタラクシアだったか、エネルゲイアの方だったか。
白い雲海の下の都市に潜入して、野菜を流通させるための建物から箱を山ほど失敬して来た。
ニンニクをたっぷり詰め込んだ箱。
蓋を開けただけで強い匂いが辺りに漂う、ニンニクが行儀よく詰まった箱を。
それに、十字架。
前のぼくたちの時代にも居た、唯一の神様のシンボルだった十字架。
これはハーレイが頑張った。
木彫りの腕を生かしてせっせと作った木の十字架。
手先の器用なクルーも総動員して、「早く作れ」と激を飛ばしながら。
その十字架を出来た端から窓に取り付け、子供たちの部屋の扉にも付けた。
「もう大丈夫。これで来ないよ」
ぼくは公園に集まった子たちの頭を撫でながら、上を見上げた。
強化ガラスのドームは遥かな上にあるから、吊るしたニンニクも、付けた十字架も、サイオンを使ってよく眺めないと見えないけれど。
それでもきちんと付けてあるからと、窓という窓は全てこうしたから、と。
「でも、ソルジャー…」
吸血鬼に血を吸われてしまったら吸血鬼になる、とまだ言ってる。
自分たちは吸血鬼になってしまうのだと、いつか吸血鬼になるのだと。
「怖いわ、ソルジャー。吸血鬼になったら、どうなっちゃうの?」
「私たち、死んじゃう?」
「ソルジャー、吸血鬼はシャングリラから放り出されちゃう?」
ねえ、どうすればいいの、ソルジャー。
吸血鬼にならないで済む方法は一つだけしか無いんでしょ?
血を吸った吸血鬼を見付けて退治しないと、私たち、死んだら吸血鬼でしょ…?
怖い、と震えている子供たち。ぼくを見上げている子供たち。
首に二つの吹き出物を並べて、怯えた色が浮かんだ瞳で。
吸血鬼が外から来なくなっても、それじゃ駄目だと言う子供たち。
自分たちは吸血鬼になってしまう、と信じ込んでいる子供たち。
ニンニクを山ほど吊るしてみたって、十字架を沢山付けておいたって、まだ足りない。
子供たちの恐怖を拭い去るには足りないんだ、というわけで…。
(仕方ない…)
前のぼくは子供たちの前で宣言した。
「分かった。じゃあ、ぼくが吸血鬼を退治するから」
アルテメシアに下りて、吸血鬼の墓を見付けて倒すよ。
そうすれば吸血鬼は二度と来ないし、君たちも吸血鬼になる心配が無くなるからね。
「退治するって…」
ソルジャー、ホントに大丈夫?
吸血鬼なんだよ、相手は普通じゃないんだよ?
首に傷痕の無い男の子たちまでが、ぼくを心配してくれたけれど。
「大丈夫、ぼくなら心配要らない」
ソルジャーだからね。
吸血鬼なんかに負けるようでは、ソルジャーをやってはいられないよ。
これがホントの嘘八百。
ハーレイが作った木の杭を持って、ぼくはシャングリラから飛び立った。
吸血鬼を退治するには、墓を暴いて心臓に木の杭を打ち込むこと。
トネリコかサンザシの木で作った杭が一番いいと言うから、それの杭だよ、って。
もちろんそんな木、簡単に用意が出来るわけない。
ただの木の杭、倉庫にあった木材をハーレイが適当に選んで削っただけ。
でも、子供たちは気付きやしない。
ぼくが抱えて持って来たってだけで信頼の眼差し、本物だって信じてる。
吸血鬼を倒せる最強の杭だと、トネリコかサンザシの木の杭なんだと。
杭を抱えて「行ってくるよ」って微笑んだ、ぼく。
いつもは瞬間移動でシャングリラの外へ出るんだけれども、わざわざ船のハッチから出た。
ちゃんと出てった、って印象付けなきゃいけないから。
それから船の周りをクルリと飛んで、展望室に並んで見送る子たちに手を振って、下へ。
雲海の下のアルテメシアへ…。
(吸血鬼退治か…)
人類だってビックリだろうな、とクスクス笑いながら杭を抱えて都市の上を飛んだ。
まさかミュウの長が吸血鬼退治に出て来ただなんて、誰も思いやしないだろう。
ぼくの宿敵の、テラズ・ナンバー・ファイブでさえも。
でも、吸血鬼は退治しなくちゃならない。
思い込みで生まれた吸血鬼だって、退治しないとシャングリラが不安と恐怖に包まれるから。
(さて、と…)
退治した証拠が要るんだよね、と山の中に下りた。
吸血鬼が眠っていそうな墓地じゃなくって、ただの山の中。ハイキング向けの郊外の山。
ぼくのお気に入りの隠れ場所がある山で、潜入する時に時間潰しに下りたりもする。
森の中にぽっかり開けた、小さな空地。木を切り倒した後に生まれた空地。
其処で木の杭をサイオンで燃やして、灰を持って来たハンカチに包んだ。
吸血鬼は死ぬと灰になるから、灰になって散ってしまうと言うから。
それから、ぼくは白いシャングリラへと戻って行った。
ミュウの長が吸血鬼退治をしていたとも知らないテラズ・ナンバー・ファイブが潜む洞窟の奥は覗きもしないで、青く澄んだ空を飛び、雲海の中へ。
瞬間移動で公園に飛び込んだぼくを、遊んでいた子供たちがワッと一斉に取り囲んで。
「ソルジャー、やったの!」
退治して来たの、吸血鬼を!
「うん、もちろん」
木の杭を持っていないだろう?
ちゃんと吸血鬼の心臓に打ち込んだからね。
「吸血鬼は?」
「灰になったよ、ほら、これが証拠」
「こわーい!」
怖い、と子供たちは叫んだけれども、ハンカチに包んだ灰の効果は絶大だった。
吸血鬼は心臓に杭を打ち込まれると死ぬ。灰になって散り、跡形もなく滅びてしまう。
そしてシャングリラから吸血鬼は消えた。
子供たちの首に二つ並んでいた牙の跡も、吹き出物の傷痕も綺麗に消えた。
窓という窓に取り付けてあった、ニンニクと十字架をドッサリ残して。
「ねえ、ハーレイ」
あれから暫く、ニンニクの料理が続いたっけね…。
何かって言えばガーリック風味で、そういう味付けの出来る料理は何でもニンニク。
「どれも美味かったが?」
ローストチキンも、煮込み料理も。炒め物だってニンニクが入ると味が深くなるしな。
「うん、今だってガーリック風味のお料理、美味しいよね」
「ああ、美味いな。しかしだ、お互い…。いや、なんでもない!」
不自然に断ち切られた話。
「なあに?」
何がなんでもないの、と首を傾げたけど、ハーレイの顔が赤いから。
ひょっとしたら、と、ピンと来た。
これは訊いてみる価値があるな、って閃いた、ぼく。
だから、ハーレイの鳶色の瞳をじいっと見上げて、それから不意打ち。
「…お互い、ガーリック味のキスで良かった、って?」
「読んだのか!?」
お前、読めたのか、不器用なのに!?
いつの間に読んだ、俺の心を!
「ふふっ、引っ掛かった!」
無理だよ、ぼくのサイオンは不器用なんだから。
それにハーレイ、タイプ・グリーンでしょ、防御と同じで遮蔽も凄く強いじゃない。
読めやしないよ、って、ぼくが笑ったら、ハーレイは真っ赤。
トマトみたいに真っ赤な顔して、「チビに鎌を掛けられて引っ掛かるとは…」って呻いてる。
俺としたことが、と、チビにまんまとしてやられた、と。
(大当たりだよね、冴えてるよ、ぼく)
吸血鬼のことを思い出したお蔭で、今日は素敵な拾い物。
前のぼくとハーレイが交わしてたキス。
ガーリック味のキスは生憎、全く覚えていないんだけれど。
今夜の料理にもしもニンニクが使ってあったら、ちょっぴり嬉しい。
だって、ハーレイのキスの味。
ハーレイのキスの味の一つはガーリックだよ、って幸せな気持ちで食べられるから…。
吸血鬼・了
※シャングリラで起きた吸血鬼騒ぎ。ミュウならではの出来事ですけど、問題は子供たち。
ソルジャーとキャプテンの吸血鬼退治、そんな事件もあったらしいのがシャングリラ。
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庭で一番大きな木の下、ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子が置いてある。あそこで何度もハーレイと過ごした。ハーレイが来ない日に、ママと座ったことも何度か。パパとだって。
最初は白くなかったけれど。
ハーレイが持って来てくれた、キャンプ用のテーブルと椅子だったんだけど…。
まだ夏休みが始まる前で、だけど季節は光が眩しい、木漏れ日がとっても綺麗な頃。ハーレイと二人、其処に座ってドキドキしながら午前中のお茶の時間を楽しんだ。
テーブルの上にあった、懐かしいシャングリラの姿。白い鯨の形に見えた木漏れ日。ハーレイが見付けて教えてくれた。
お日様が動いて無くなってしまうまで、シャングリラの形が消えてしまうまで二人で眺めた。
遥かな昔にぼくたちが暮らした船の姿を、地球の太陽が作り出してくれたシャングリラを。
(あの日もパウンドケーキだったんだよ)
木漏れ日のシャングリラを映すテーブルで食べていたお菓子。
ハーレイの好物のケーキだから、ってママが焼いてくれた。ぼくのママが焼くパウンドケーキはハーレイのお母さんのパウンドケーキとおんなじ味がするんだって。
(ぼくもハーレイに焼いてあげられるようになりたいな…)
ママと同じ味のパウンドケーキ。ハーレイが自分で作ってみたって、お母さんの味にはならないらしいパウンドケーキ。
それを焼くのがぼくの夢だけど、今はまだ無理。
ぼくの背丈は百五十センチから伸びないままで、ハーレイとキスも出来ないから。結婚どころかプロポーズもして貰えないチビで、結婚の準備にって料理の練習なんかは出来ない。
(絶対、ママに怪しまれるしね…)
今の所は諦めるしかない、ママにパウンドケーキの焼き方やレシピを教わること。
だけどいつかは習わなくっちゃ、と決めている。ぼくの大好きなハーレイのために。
そんな決心までしているぼくの、一番最初のデートの場所。
庭で一番大きな木の下、今のとは違うものだったけれど、テーブルと椅子とを置いて座った。
忘れられない、大切なデート。
ハーレイとぼくの初めてのデート。
光のシャングリラが揺れるテーブルで、ハーレイの好きなパウンドケーキと…。
(それに冷たいレモネード!)
氷が入った涼しげなグラスは、よく冷えて露を纏ってた。
酸っぱくて甘いレモンのジュースをハーレイと二人、ストローで飲んだ。
テーブルの上の木漏れ日のシャングリラに見守られながら、うんと幸せな時間を過ごした。
(庭でレモネードも、あの日が初めてだったんだっけ…)
身体が弱いぼくはパパやママと庭でピクニックしていたことも多いんだけれど。
山や野原に出掛ける代わりに庭でお弁当を食べたりしたけど、レモネードは庭で飲んでない。
庭でピクニックをしてた頃のぼくは小さかったから、レモネードは出ては来なかった。ごくごく普通にミルクだったり、子供向けの甘いジュースとか。
ちょっぴり酸っぱいレモネードはぼくの記憶には無くて、ハーレイと飲んだあれが初めて。
今の季節は、冷たいレモネードはもう似合わないけれど。
飲むならホットで、ってほどに寒くもないから、ママはレモネードを作らないけど…。
(レモネードかあ…)
よく冷えたレモネードが懐かしくなった。
氷を浮かべたレモネード。あの日の、ぼくの初デートの味。
(パウンドケーキは今だって焼いているのにね…)
「ハーレイ先生がお好きだものね」って、パウンドケーキを作るママ。ぼくのおやつにも何度も出て来て、その度に「ハーレイのお母さんの味なんだな」って思いながら食べるパウンドケーキ。
だけど出て来ない、レモネード。
ぼくのおやつにも、ハーレイが来てくれた時のお茶にも、今はレモネードは出て来ない。
もうちょっと寒くなったらママに頼もうかと思ったけれども、温かいのだと少し違うんだ。
ぼくの初デートの思い出の味は、氷が入ったレモネード。
暑い季節が似合う飲み物、涼しさを感じさせてくれる飲み物。
身体の芯から温まるための湯気の立つレモネードとは違うと思うし、それじゃ別物。
ぼくはあの日に飲んだレモネードが飲みたいのに。
冷えたレモネードが飲みたいのに…。
だけど次の夏まで出会えそうにない、あの日の飲み物。うんと冷たいレモネード。
あれが飲みたい、って勉強机の前に座って頬杖をついて考えていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄って見下ろしてみると、やっぱりハーレイの姿があって。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったけれども、いつもの紅茶。お菓子と一緒にママが運んで来た紅茶。
やっぱりレモネードは出やしない。あの日のレモネードは出て来やしない…。
「…レモネード…」
つい唇から零れてしまった、残念な気持ち。
ハーレイが「ん、どうした?」って訊いてくるから。
「レモネードがいいな、って思うんだけど…」
紅茶じゃなくって、レモネード。とっても飲みたい気分なのに…。
「お母さんに頼めばいいじゃないか」
今日は無理だが、明日のおやつにはちゃんと作って貰えるだろう?
明日になったらもう要らない、って気分がするなら、その程度のものさ。
大して重要なわけじゃないんだ、今のお前のレモネード気分。
「それじゃ違うんだよ!」
「はあ?」
何処が違うと言うんだ、お前。
どうしても今でなくては駄目だと言うならただの我儘だぞ、ガキと変わらん。
それともアレか、お母さんの作るレモネードじゃなくて、売ってるヤツが飲みたいのか?
気に入りの味でも見付かったか?
ハーレイが怪訝そうな顔をするから、ぼくは唇を尖らせて言った。
「ママのレモネードには違いないけど、これからの季節はダメなんだよ」
「どういう意味だ?」
「初デートの味のレモネード!」
冷えたレモネードがいいんだよ。それが飲みたいから、ホットじゃダメ!
「あ、ああ…」
アレな、と答えるハーレイの目がなんだか遠い。焦点がずれた鳶色の瞳。
「…どうかした?」
「いや…。そういや冷たいレモネードだったな、あの日はな。…その話か」
なんだか素っ気ないハーレイ。
もっと懐かしんでくれてもいいのに、ぼくたちの初デートだったんだから。それにデートだって言い出したのはハーレイの方で、そのためにテーブルと椅子を持って来たんだ、って…。
ぼくが「いつもと違う場所で食事をしてみたい」って前に強請ったのを覚えててくれて。
それなのに反応が鈍いハーレイ。目の焦点までずれてたハーレイ。
ホントにおかしい。絶対、おかしい。
ぼくは変なことを口にした覚えなんか無いし、レモネードって言っただけなのに。
初デートの日に飲んだのと同じレモネードが飲みたいって言っただけなのに…。
疑問と不満が膨らむ、ぼく。
ぼくたちの記念すべき初デートの日のこと、ハーレイはなんて思っているんだろう?
何を食べたか、何を飲んだか、そんなのどうでも良かったとか?
デートなんだぞ、って言ってくれたのも、お愛想みたいなものだったとか?
「…ハーレイ、懐かしくないの?」
ぼくとハーレイとの初めてのデート。あの日が初めてだったのに…。
「そりゃ懐かしいさ」
懐かしくないわけがないだろ、今のお前との初デートだしな?
「だったら、なんで遠い目、してたの?」
ぼくは見てたよ、ハーレイの目が遠かったのを。
「なんでもない」
ちょっと考え事をしていたもんでな、そのせいだろう。
「そんなことない!」
考え事なんて、嘘に決まってる。だって、直前まで会話は途切れてなかったんだから。
どうして、とぼくは問い詰めた。
冷たいレモネードの何処がいけないのか、初デートの何処が悪いのか、と。
聞き出すまでは諦めない、って気迫が伝わったんだろう。
ハーレイは眉間に皺を寄せると、腕組みをして「うーむ…」と低く唸った。
「お前に言ったら、やたらと喜びそうだしなあ…」
「何が?」
ぼくは怒り出したい気分だけど?
初デートとレモネードを軽くあしらわれて、頭に来そうな気持ちなんだけど。
それがどうやったら喜ぶ方に行ってしまうのか、全然サッパリ分かんないけど!
「…初デートでレモネードな所が問題なんだ」
「えっ?」
「そいつのせいで俺は遠い目になって、お前は知ったら喜びそうだ、と」
いいか、初デートでレモネードだ。
どうやらお前は俺が喋るまでは諦めそうもないからなあ…。
黙ったままだと膨れっ面になって怒りそうだし、仕方ない、腹を括るとするか。
ハーレイはフウと溜息をつくと、まだ腕組みは解かないままで。
「…あの日は何とも思わなかったし、今、ようやっと気が付いたんだが…」
「何に?」
ねえ、ハーレイ。初デートでレモネードって何かおかしな意味でもあったの?
「ずうっと昔の話なんだが…。SD体制が始まるよりも遥かに昔のことなんだが…」
それも、この地域限定だぞ。此処が日本って小さな島国だった頃。
…初めてのキスはレモンの味だ、っていう噂がな。
「ええっ!?」
どうしてレモン?
初めてのキスがなんでレモンの味になるわけ?
「そういう歌詞の歌が流行っていたんだ、「レモンのキッス」ってタイトルのな」
当時の地球で有名だった男性歌手の娘が歌った曲をだ、日本で別の歌手が歌った。
元の曲は「レモンのキッス」ってタイトルでもなきゃ、歌詞も全く違ったらしいが…。
そいつが由来だ、それで初めてのキスはレモンの味ってことになったんだ。
もっとも、レモンの味って噂は、後にはイチゴに変わっちまったそうだがな。
しかし始まりはあくまでレモンだ、初めてのキスはイチゴ味じゃなくてレモンの味だ。
…もう分かるだろ?
初デートでレモネードだと言われた俺の目が一瞬、遠かった理由。
ポカンと口を開けちゃった、ぼく。初めてのキスはレモンの味…。
「…それも古典の範囲なの?」
「少し違うな、古い本なんかを調べていったら偶然出会った情報ってトコか」
面白いな、と思ったから忘れずにいたんだな。あの日は綺麗に忘れ去っていたが。
「…じゃあ、あの日に飲んだレモネードって…」
初めてのキスの味だったの!?
初デートで初めてのキスの味の飲み物を一緒に飲んだの、ぼくとハーレイ?
「そういうことになるようだぞ」
うんと昔のこの地域ならな。初めてのキスはレモンの味だって言うんだからな。
「…もっと味わって飲めば良かった…」
せっかくのレモネードだったのに…。
レモンの味がする飲み物なのに、初めてのキスの味だったのに…。
「おい、落ち込むな」
俺だって綺麗に忘れていたんだ、仕方ないだろ。
それに落ち込んでも、今の季節に冷たいレモネードは多分、作って貰えないだろうさ。
お前が勝手に買うならともかく、お母さんは作ってくれないな。
身体を冷やすと良くないからなあ、お前みたいに弱すぎるチビは。
耳寄りな話を聞いたというのに、過ぎてしまった冷たいレモネードが飲めるシーズン。
それに初デートの時には気付きもしないで飲んでしまった、初めてのキスの味だから…。
「…ハーレイ。あの日、初めてのキスもしました、ってことにしておいてもいい?」
ハーレイ、キスしてくれないんだもの。
初めてのキスの味のレモネードを二人で飲んだし、あれがぼくたちの初めてのキス。
「お前が勝手に想像するのはかまわんが…」
あの時だけだぞ、あの日だけだ。
今後、レモネードを出して来たって無駄だからな。
あくまで初めてのキスの味なんだ、初めてが何度もあったら困る。
あれっきりだ、とハーレイは苦い表情だけど。
それでも瞳は笑ってるから、お許しは貰えたんだろう。あのレモネードが初めてのキス。
だけど…。
「…だけど、レモンの味だったっけ?」
「何がだ?」
「前のぼくたちの初めてのキス」
レモンの味がしてたんだっけ…?
「おっと、そこまでにして貰おうか」
お前の話にはそうそう釣られん。昔話もたまにはいいがな、キスの話はお断りだ。
その先となったら御免蒙る、俺は一切、応じないからな。
聞きもしないし聞いてもやらない、と見事に突っぱねてくれたハーレイ。
前のぼくたちの初めてのキスを語る代わりに、別の方へと行っちゃったんだ。
「そもそも、シャングリラでレモンと言えば、だ」
どちらかと言えば料理用だったぞ、レモネードじゃなくて。
ジュースはオレンジとかブドウとか…。小さな子供でも飲めるジュースがメインだろうが。
「そうだったっけ…」
今のぼくも小さい頃にはレモネードは飲んでいなかったよ。
小さい子供は酸っぱいのとか、炭酸入りでシュワシュワするのが苦手だったりするものね。
「うむ。だからシャングリラでレモネードは決して定番ではない」
いつでも飲めるってわけじゃなかったから、前のお前はレモンの味にさほど思い入れってヤツは無いってな。少なくとも俺の記憶には無い。
レモンよりかはオレンジだったな、前のお前がこだわりを示した柑橘類は。
もっとも、そいつも「シャングリラにオレンジがあって良かった」って言ってた程度だが。
あれがジョミーの好物だから、と。
「ああ、オレンジスカッシュ…!」
ジョミーがシャングリラに連れて来られてしょげていた時、よく運ばせたよ。
厨房に思念を飛ばして作って貰って、お菓子を添えてジョミーの部屋まで。
でも…。前のぼくだってレモネードをたまに飲んでたよ?
「たまにだろうが、レモネードがジュースのメニューに入ってた時に」
注文してまで作らせてないぞ、前のお前は。
親しみがあったレモンってヤツは料理の方だと思うがな?
「…そうなんだけど…」
肉料理にちょっと添えてあったり、魚料理に搾ってみたり。
前のぼくがレモンで思い出すものは、そっちの方が多いんだけど…。
シャングリラでもレモンは栽培してた。だけど、ハーレイが言う通り。
レモネードを作るためのレモンじゃなくって、料理用に育てていたレモン。たまにレモネードになったりするけど、大抵は料理に使われていた。あとは…。
何だったっけ、と考えていたら、とっくに腕組みを解いてたハーレイがニッと笑って。
「そういや、今日の紅茶は助かったな」
「えっ?」
「ミルクティーだしな?」
お好みでどうぞ、とミルクつきだ。こいつは実に有難いってな。
「そうだ、レモンティー!」
シャングリラにもあった、レモンティー。スライスしたレモンが添えられた紅茶。
今のぼくの家でも、ママがお菓子やその日の気分で選んでる。
ミルクかレモンか、どっちを添えて持ってくるかを。
こんな話になると分かっていたなら…。
「…レモンティー…」
ママに頼んでおけばよかった、と項垂れた、ぼく。
もしもレモンティーを頼んでいたなら、ハーレイと二人、レモン味の紅茶を飲めたんだ。
「おいおい、レモンの味ってヤツはだ、初めてのキスに限るんだがな?」
二回目以降はカウントされんぞ、それは初めてじゃないからな。
お前はレモンにこだわっているが、何度お前とレモンティーを飲んだと思っているんだ。
ついでに料理の付け合わせの方でも何度も食ったな、レモンをな。
「それじゃ、初めてのキスの味なのは、あの日に飲んだレモネードだけ!?」
「そうなるな」
「酷い!」
どうして一回きりしかダメなの、ぼくは気付いてもいなかったのに!
「うんと嬉しい偶然だろうが、初めてのデートでレモンの味の飲み物なんだぞ」
初めてのキスの味のレモンだ、そいつを詰め込んだレモネードだ。
「酷いよ、あの時、ぼくには教えてくれなかったくせに!」
「さっきも言ったろ、忘れていたんだ、俺だってな」
「本当に?」
「本当だとも」
覚えていたなら、思い出していたなら、こっそり耳打ちしてやったさ。
こいつは初めてのキスの味だと、初めてのキスはレモンの味って言うんだ、と。
お母さんたちから丸見えの庭のテーブルでもな。
「そっか…。ホントに忘れていたんだ、ハーレイ…」
聞きたかったな、あのデートの日に。
レモネードを飲みながら聞きたかったな、初めてのキスはレモンの味だ、っていう話。
今頃になって分かっただなんて、なんだか残念…。
あの時のレモネード、初めてのデートで初めてのキスの味だったのに…。
「お前には申し訳ないが…。時間は元には戻せないってな」
あの時は俺と一緒にレモネードを飲んだな、って思い出すしかないってことだ。
レモネードだったと、初めてのキスの味だったんだ、と。
「…前のぼくたちの初めてのキスも、ちゃんとレモンの味だった?」
「それに関しては話してやらん、と言っただろうが」
もちろん味なぞ教えてやらん。本当にレモンの味だとしてもな。
「ハーレイ、やっぱり覚えているの?」
「どうだかな?」
お前みたいにチビじゃない分、記憶はハッキリしているかもな?
前のお前とキスをした頃と変わらない姿になっているしな、記憶もうんと鮮やかかもなあ…。
「お願い、教えて!」
前のぼくたちの初めてのキス。
レモンの味だったか、そうじゃないかだけでもいいから教えて、お願い、ハーレイ!
「駄目だな、チビのお前にはレモネードまでだ」
俺とキスさえ出来ない子供のお前に教えられるのは、レモンの味のキスまでだ。
あの日のレモネードは初めてのキスの味だったな、って思い出すだけで我慢しておけ。
「ハーレイのドケチ!」
意地悪でドケチで、ぼくを苛めて遊んでるんだ!
いい思い出を自分一人だけでしっかり抱えて、ぼくには分けてくれないんだから!
プウッと膨れた、ぼくだけれども。
前のぼくたちが初めて交わしたキスの味さえ、思い出せないぼくなんだけど。
(レモネード…)
今のハーレイとの初めてのデート。
庭で一番大きな木の下、木漏れ日のシャングリラを見ていたデート。
幸せだったあの日に初めてのキスの味の飲み物を飲んでいたと分かって、嬉しくなった。
初めてのキスはレモンの味。
そう歌われた、遠い遥かな昔の地球の日本にあった曲。
ぼくとハーレイは日本という島国があった地域に生まれて、其処で出会った。
そして初めてのデートをした日に、一緒にレモンの味を纏った甘くて冷たい飲み物を飲んだ。
初めてのキスは交わせてないけど、キスの代わりにレモンの味がするレモネード。
向かい合って飲んで、二人で話した。
木漏れ日のシャングリラを眺めて遠い昔を懐かしみながら、二人きりの時間を庭で過ごした。
あれがぼくたちの初めてのデート。
初めてのキスの味のレモンをたっぷり使ったレモネードつきで、木漏れ日の下で。
(初めてのデートでレモネードだよ?)
ハーレイが忘れちゃっていたから、あの時には聞けなかったけど。
初めてのキスを交わす代わりに、レモンの味のレモネード。
今のぼくには交わせないキスがどんな味なのか、気分だけでも、ってレモネードがあった。
知らずに飲んでしまったけれど。
気付かずに飲んでしまったけれども、あれが初めてのキスの味。
(ちゃんとレモネードが出て来てたなんて…)
ママが作って、ハーレイの好きなパウンドケーキと一緒に庭まで運んでくれたレモネード。
初めてのキスの味のレモンをギュッと詰め込んだ、甘くて酸っぱいレモネード。
だから…、と胸が温かくなった。
やっぱりぼくとハーレイの間には、きちんと運命の糸があるんだ。
前のぼくたちを結んだ糸は切れてしまったのか、無かったのかは分からないけれど。
それは永遠に分からないけど、今はある筈の運命の糸。
ぼくとハーレイの小指にはきっと、赤い糸が結んであるんだよ。
神様が結んでくれた糸。
いつかはハーレイとホントにキスして、ちゃんと結婚出来る糸。
その日が来るよう、ぼくとハーレイとを繋いでくれてる、小指に結ばれた赤い糸…。
(初めてのキス…)
ぼくがハーレイと初めてキスを交わす時には、レモンの味がするんだろうか?
遠い昔の歌のとおりに、ハーレイが教えてくれたとおりに。
それとも、いつの間にかレモンと入れ替わっちゃったらしいイチゴの味?
どっちなのかな、と心がときめく。
レモンか、イチゴか、どっちの味がするんだろうと。
(…前のぼくは覚えていないものね…)
前のハーレイと初めて交わしたキスの味を覚えていない、ぼく。
ハーレイは覚えているみたいなのに、思い出せない、ちっぽけなぼく。
思い出せたら、レモンかイチゴか、今すぐにだって分かるのに…。
でも、いつか。
(きっと、前のぼくたちの初めてのキスの味だって、ぼくは思い出せるよ)
その時が来たら。
もう一度、ハーレイと初めてのキスが出来たら。
それまでの間はレモネードの味だったってことで我慢しておこう、初デートの時の。
初めての時しか意味が無いみたいだから、これから先にぼくがレモネードを飲んだとしたって、そのレモネードはキスじゃなくって「ただの飲み物」なんだけど…。
冷たくっても温かくっても、レモン味ってだけのただの飲み物なんだけど…。
それを思うとちょっぴり残念な、味わい損ねたレモネード。
初めてのデートで木漏れ日の下で、ハーレイと飲んだ冷たくて酸っぱいレモネード。
だけどやっぱり嬉しくなるんだ、初めてのデートで初めてのキスの味だから。
初めてのキスの味がするという、レモンの味の飲み物だから。
そんなレモネードが出て来たってことは、運命の糸があるって印。
ぼくとハーレイ、お互いの小指に赤い糸。
その糸で繋がって、距離がどんどん短くなって。
いつか必ず結婚するんだ、レモンの味がするかもしれない初めてのキスを交わしてから…。
レモンの味・了
※ハーレイとの初めてのデートの思い出、レモネード。今の季節は冷たいのは無理。
其処へ聞かされたレモンの味とキスの関係、初めてのキスの味が気になるブルーです。
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(ふうん…)
普段よりも早く目覚めたブルーは、朝食が出来るのを待つ間にダイニングのテーブルに置かれた新聞を広げていたのだけれど。
ふと目に留まった占いコーナー。今日一日の運勢なるものが記されていた。
(星座別かあ…)
ぼくの星座は何だったっけ、と確認してから牡羊座の欄をチェックし、ラッキーだと知っていい気分になる。最高にツイている星座。十二個の星座の中でもダントツの一位。今日は一日、最高にツイているらしい。
(ハーレイは、っと…)
いそいそと恋人の星座を確かめ、乙女座の欄を覗き込んでみて愕然とした。誰よりも大切な想い人が属する乙女座は本日、最低最悪の運勢だった。十二星座の中で最下位、要注意という印までがついたアンラッキー。
(……嘘……)
こんな占い、当たりっこない、と思ったのだけれど。
(タロット占いだったんだ…)
よく読んでみれば、それはタロット占いを得意とする人が書いたコーナー。
前の生の頃、フィシスが得意としていたタロット占い。驚くほどに当たったフィシスの占い。
あながち馬鹿に出来はしない、と「タロット占い」との謳い文句に青ざめた。
今現在でも予知能力は神秘の能力。
確実に未来を読める能力者は皆無だったし、フィシスほどの能力は誰も持っていない。
とはいえ、まるで当たらないというわけでもなかった。漠然とした形でなら占える未来。
例えば、人気の恋占い。
今の恋人と結婚出来そうか、まるで希望は無さそうなのか。その程度ならば当たることもある。だから恋人と大喧嘩になってしまった男女が占い師の所へ駆け込んでゆく。
「私たちに未来はあるのでしょうか」と、「謝った方がいいのでしょうか」と。
そして「未来はあります」と聞いて関係修復に努めたカップルは成婚率が高いと聞くから。
占いは当たる時には当たるのだろうし、ましてやタロット占いとなれば…。
(どうしよう…)
とことんツイていないらしい、今日のハーレイ。もう心配でたまらないけれど。
自分が最高にラッキーなことさえ忘れてしまうくらいに、心配でたまらないのだけれど。
(どうツイてないのか分からないよ…)
母が「トーストもオムレツも出来てるわよ?」とお皿を置いてくれても生返事。まだ占いの欄を横目で見ながらトーストを齧り、オムレツを頬張るという始末。
(…アンラッキーって…)
ハーレイの身に何が起こるのだろう?
それさえ分かれば防ぎようもあるのに、と縋るような気持ちで見詰めてみても細かい解説は一切無かった。そもそも占いの結果として出た、タロットカードの記載が無かった。
どういうカードが乙女座に出たのか、それが分かれば…、と考えたのだが。
(カードの意味…)
忘れちゃった、と空っぽになった頭の中の引き出しの中身に衝撃を受ける。
小さなブルーは綺麗に忘れてしまっていた。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが熟知していた筈の、タロットカードが持っている意味を。
これではカードがきちんと書いてあってもどうにもならない。
読めもしない未来、参考にすらも出来ない手掛かり。
(…今日のハーレイ、どうなっちゃうの?)
そればっかりを考えていたら、両親の声が聞こえて来た。
「遅刻するわよ?」
「早起きしたからってのんびりしすぎだ、バスに間に合わないんじゃないか?」
「ええっ!?」
壁の時計はとんでもない時刻になっていた。慌てて二階の部屋に駆け戻り、通学鞄を引っ掴んで飛び出す羽目に。なんとかバスには間に合ったけれど、占いはすっかり頭から消えた。
いつも乗ってゆくバスに揺られて、学校の近くのバス停で降りて。
その頃には普段と全く変わらない気分、背筋を伸ばして校門を入った所で出会った人物。朝練の指導を終えたばかりの、スーツに着替える前の柔道着のハーレイ。
朝一番に会えるだなんてツイている、と思った途端に思い出した。
(アンラッキー…)
今日の自分は最高にツイているのだけれども、ハーレイの方はそうではなかった。
現にこうしてツイている自分。ならば、その逆のハーレイは…。
「…ハーレイ先生?」
おはようございます、と挨拶するのも忘れたブルーだけれど。ハーレイは笑顔を向けてくれた。
「おはよう、ブルー。俺に何か用か?」
「…えっと…。ハーレイ先生、今日は気を付けて」
「何の話だ?」
怪訝そうに問われた所へ、柔道部の生徒たちが「ハーレイ先生!」とワッと走って来たから。
ブルーの持ち時間は其処で終了、占いの結果を告げ損ねたままで終わってしまった。
告げられなかった、ハーレイへの忠告。
今日はとてつもなくツイていないから気を付けて、と注意を促したかったのに。
(言い損ねちゃった…)
大丈夫だろうか、と気もそぞろな内に二時間目になって古典の授業。いつものように扉を開けて現れたハーレイに変わった様子は全く無い。
けれども古典の授業があること自体が、ブルーにとってはラッキーだから。
(アンラッキー…)
ツイている自分とは真逆に位置するハーレイが気になってたまらない。
ハーレイに何が起こるのだろう。どういった風にツイていないというのだろう?
(…もしかして、怪我…?)
放課後に行う柔道部の指導で怪我をするとか。
ハーレイの腕前は生徒とは比較にならないけれども、生徒を庇っての怪我なら有り得る。体勢を崩した生徒を受け止めたはずみに足を捻るとか、腕の筋を傷めてしまうとか。
(カードがちゃんと書いてあったら…)
ツイていないと告げたカードが何だったのかさえ、新聞に載っていたならば。
占いの過程で出て来たカードも全て書かれていたなら、ツイていない中身を絞れただろう。何が災いの元になるのか、どうすればそれを避けられそうかも。
(…でも…)
でも、とガックリと項垂れる。
今の自分はカードの意味を忘れてしまった。タロットカードが書かれていても分からない。
どう読み解くのか、そのカードが何を意味するのかも。
「ブルー君?」
自分の名を呼ぶハーレイの声。
当てられていた、と気付いて慌てて立ち上がった。後ろの男子が囁いてくれる。読むべき箇所は教科書の何処か、どのページの何行目からなのかを。
ハーレイに名前を呼ばれて当てられることは、ブルーにとってはラッキーな出来事。
何処を読むのか教えてくれた友人に心で感謝しながら音読しつつも、ブルーはハーレイを見舞う不幸がどうしても頭から離れなかった。
(…結局、あの後、会えなかったよ…)
家に帰って、おやつを食べて。
もう一度ダイニングのテーブルで新聞を眺めたけれども、変わらない結果。
今日の牡羊座は最高にラッキー、乙女座は逆に最低最悪のアンラッキー。
自分は本当にツイていたのに、ハーレイはどうなってしまったろうか。
今の時間は柔道部の部活の真っ最中。
生徒を庇って怪我をしてしまっていないだろうか?
足を捻ったり、腕を傷めたり、大変なことになっていないだろうか…?
(カードさえ新聞に書いてあったなら…)
二階の自分の部屋に戻って、机の前で考え込んだ。
夏休みの一番最後の日に庭でハーレイと二人、写した記念写真を眺めて。
けれど…。
新聞にカードが書いてあっても無駄なのだった、と思い出す。
タロットカードの解説無しでは、今の自分は読み解けはしない。
すっかり忘れてしまったから。
色々な絵が書かれたカードが持っている意味を、綺麗に忘れてしまったから。
(前のぼくって…)
どうやって全てのタロットカードを頭に叩き込んだのだったか。
熟知していたカードの意味。
カードが正しい向きである時と、上下が逆様の時で意味が変わるといったことさえも。
幼いフィシスを救い出した日、フィシスの心を真っ黒な不安で塗り潰していた死神のカード。
文字通りに死を意味するカードの向きを変え、逆様にしてみせた。
上下が入れ替わってしまった死神のカードは再生の意味。死地からの生還。
もう、それだけしか覚えてはいない。
他のカードの意味は何一つ、正しい向きに置かれた時の意味さえ。
前の生でフィシスがカードを繰っていた時は、眺めながらあれこれ考えたのに。
出て来たカードが何を示すのか、自分なりに読もうとしていたのに…。
けれども、何処で覚えたのだろう?
前の自分はタロットカードが持つ意味を何処で知ったのだろう?
(…シャングリラにはタロットカードなんかは無かったよ…?)
アルタミラを脱出した直後はもちろん、白い鯨が出来上がった後にも無かったタロットカード。
フィシスが来るまで、タロットカードは船に存在しなかった。フィシスの占いに必要だから、とデータベースから情報を引き出し、専用のカードを作らせた。
それまではカードと言えばトランプ、戯れにトランプ占いをしていた者たちもいた。
けれども無かったタロットカード。
では、何処で…?
何処で自分はタロットカードの意味を覚えて来たのだろう?
(んーと…)
遠い記憶を探ってゆく内、「門前の小僧」とハーレイの古典で習った言葉が頭を掠めた。
それだ、と閃いた「門前の小僧習わぬ経を読む」という遥かな昔の古い諺。
教わらなくとも、見聞きする内に知らず知らずに覚えること。
幼いフィシスが水槽から出され、如何にも女の子が好みそうな個室を与えられた後。
何度もこっそり様子を見に忍び込んで、そして覚えた。
フィシスが繰っていた、タロットカードと呼ばれるカードの意味を。
占いのためだけに作られたカードが持っている意味を、それを繰っては一喜一憂するフィシスの心を読み取りながら。
そうやってカードの並べ方までをも覚えていたから。
あの日、占いの一番最後に出て来た死神のカードの上下を入れ替えられた。
フィシスの未来を示すカードを、死を意味していたカードを逆様に変えて意味をも変えた。
死神のカードが示した未来は自分が変えると、変えてみせるとフィシスに教えた。
その後のことは、逆様になった死神のカードの意味そのまま。
フィシスはシャングリラへと迎え入れられ、死の影は二度と近付かなかった。
(でも…)
ハーレイに迫る不幸を退ける力も、避けるための道を教える力も自分には無い。
たとえ新聞に占いの結果を示すカードが載っていたって、今のブルーには読み解けない。
今日は最低最悪にツイていないというハーレイの乙女座。
極め付きのアンラッキーな今日のハーレイ。
どうすればハーレイを救えるだろうか、と「手遅れかも」と悩んでいる間にチャイムの音。この時間に来客を知らせるチャイムが鳴ったということは…。
(あっ…!)
駆けて行って見下ろした窓の向こう側、庭を隔てた門扉の所に見間違えようもない恋人の姿。
ハーレイが夕食を食べに寄ってくれるとは、もう最高にツイているけれど。
(アンラッキー…)
自分が最高にツイているなら、ハーレイは逆。
ツイていればいるほど、その逆のハーレイは不幸の連続…。
(アンラッキー…)
その言葉が消えてくれないから。
夕食が出来るまでの間、部屋で向かい合ってお茶を飲む時、ハーレイに顔を覗き込まれた。
「ん、どうした?」
どうも元気が無いようだが…。何処か具合でも悪いのか?
「ううん。…ハーレイ、今日はいいことあった?」
「おっ、分かるか?」
相好を崩すハーレイにブルーは驚く。
「…あったんだ、いいこと…」
「なんだ、知っていたんじゃなかったのか?」
てっきり地獄耳ってヤツかと思ったんだが…。たまたま来合わせた生徒もいたしな。
職員室でな、研修で出掛けてたヤツが「土産だ」って美味い蕎麦饅頭を配ってくれたんだ。
其処の町でしか売ってないから、行かないと買えん名物でな。
ほら、お前にも貰って来てやったぞ、余った分があったからな。
「わあ…!」
思いがけなく、お土産まで貰ってしまったけれど。本当にツイているのだけれど。
(アンラッキー…)
最高にツイている自分とは逆の運勢を持ったハーレイが心配でたまらない。
「どうした、蕎麦饅頭、食わないのか?」
皮も中身も実に美味いんだぞ。それとも夕食に響きそうか?
「一個くらい、平気」
薄い包装を剥いで頬張れば、香ばしい皮とくどさのない餡。
名物と言うだけのことはある出来の蕎麦饅頭で。
「美味しい…!」
「そりゃ良かった。貰って来た甲斐があったってな」
「ありがとう、ハーレイ!」
とっても美味しいお饅頭だよ、とブルーは貰った蕎麦饅頭を綺麗に食べた。
ハーレイが貰って来てくれたお饅頭だと、喜びと幸せに浸りながら。
お土産に名物の蕎麦饅頭。職員室で配られたもののお裾分け。
普通の生徒なら貰えないもので、おまけにハーレイが貰って来てくれたもの。
ますますもってラッキーだけれど。
(アンラッキー…)
自分がツイていればいるほど、逆のハーレイはドン底だから。
蕎麦饅頭を美味しく食べ終えた後は心配になるし、表情も暗いものになる。
そんな風にくるくると変わるブルーの様子に、ハーレイが気付かない筈などが無くて。
「おい、ブルー。なんだか変だぞ、今日のお前」
舞い上がったり、暗くなったり。
まるで一定していないんだが、何か心配事でもあるのか?
「だってハーレイ、アンラッキー…」
「はあ?」
「アンラッキーなんだよ、今日のハーレイ!」
ぼくは最高にツイているのに、ハーレイはツイてないんだよ。
そしてホントにぼくはツイてるから、ハーレイのことが心配なんだよ…!
「お前なあ…」
アンラッキーの根拠が何かを訊き出したハーレイは、呆れたような顔で笑った。
「その占いがたとえ当たっていたとしてもだ、乙女座のヤツが何人いるんだ」
この地球の上に何人いると思っているんだ、この町だけでも何十人では済まないぞ。
それが全員アンラッキーなら、今日は救急車がてんてこ舞いかもしれないな。
お前はたまたま占い通りに大当たりの牡羊座だったらしいが…。
牡羊座でもドン底のヤツはいると思うぞ、俺たちの学校だけでもな。
今日、上の学年で抜き打ちテストをしたから、あの学年の牡羊座は殆ど不幸な筈だが。
「…牡羊座なのにドン底って…」
そういうものなの、今日の占い。
ぼくの学校でもツイてない人がいるくらい?
あれってけっこう当たるんだな、ってハーレイのことを本気で心配してたのに…!
「おいおい、冷静に考えろよ?」
フィシスほどの予知能力を持った人間は、今の時代までに流れた長い時間にも一人もいない。
そいつはお前も知っているよな?
そのフィシスでさえ、個人の未来をきちんと読むのは無理だったぞ?
シャングリラの未来を占えはしても、乗ってたヤツらを星座別になんか占っていない。
それどころか、前のお前の未来でさえも正確に読めてはいなかったろうが。
「…そういえば…。ただ漠然と読んでただけだね」
「もしも完全に読めていたなら、ナスカが燃えてしまったあの日。フィシスはお前を離さんさ」
どんな理由を付けたか知らんが、とにかく離しやしなかったろう。
離したらお前はメギドに行くって、フィシスには分かっているんだからな。
「見送ってくれたよ、「行ってらっしゃい」って」
ぼくは補聴器を預けたのに。
驚いてはいたけど止めなかったよ、ちゃんと見送ってくれていたよ。
「ほら見ろ、占えていなかったんだ」
フィシスは前のお前みたいに強くはなかった。
お前の未来が見えていたなら、止められないと分かっていたって縋り付いたさ。
見送らなければ、と心で思っても感情がついていかないってヤツだ。
お前はフィシスの腕を振りほどいて行く羽目になったと断言出来るぞ、間違いない。
「…だけど、ぼくがフィシスをシャングリラに連れて来た日の朝…」
死神のカードは確かに出てたよ?
フィシスが占っていた未来。死神のカードは確かにあったよ、ぼくはこの目で見たんだから。
カードを見たフィシスが怯えていたから逆様にしたよ、死神のカード。
そうすれば再生の意味になるから。まるで反対の意味になるから…。
「危機が迫っていたからだろうさ、それもフィシスの上にだけな」
それとも、たまたまだったのか。
偶然に出ただけのカードかもしれんな、その死神は。
「…たまたま?」
「もしも本当に未来を読んで、死神のカードを出せたのならば、だ」
前のお前がどうなるかだって占えた筈だ、同じ理屈で。
あれほどにお前を慕っていたフィシスが、目覚めたお前の未来を占わなかったとは思えない。
だが、死神のカードは出はしなかった。
不吉な予兆を示すカードは出たかもしれんが、死神のカードは出なかったんだ。
だからこそ「行ってらっしゃい」と言えた。
死神のカードを目にしていたなら、「行っては駄目です」と絶対に止める。
お前だって、そう思わないか?
フィシスには「行ってらっしゃい」と送り出せるほどの強さは無かった、ってな。
未だに伝説の占い師と名高い、前のブルーが女神と呼んでいたフィシス。
そのフィシスにさえ確かな未来は読めなかった、とハーレイは言う。
読めていたならフィシスはメギドへと向かうブルーを阻止しようと縋り付いただろう、と。
「…それじゃ、小さかったフィシスが怯えた死神のカードは…」
「本当にたまたまだったのさ。偶然の巡り合わせってヤツだ」
でなきゃ、ナスカでも出た筈なんだ。
フィシスがお前を占った時に、その時と同じように死神のカードが。
「…ぼくはわざわざ、死神のカードを逆にしたのに…」
小さなフィシスが怖がらないよう、逆にしてから連れ出したのに。
「それはそれで別にいいんじゃないか?」
まるで無駄にはなっていないさ、フィシスの信頼は勝ち取れただろう。
前のお前には未来さえも変える力があると、自分を助けてくれたんだ、とな。
助けるから、とカードでメッセージを伝えてみせて、その通りの結果を出したんだから。
「…死神のカード、たまたま出ただけだったんだ…」
「俺の推測に過ぎないわけだが、そいつで当たっていると思うぞ」
占いなんてそういうものさ。
あのフィシスでさえもその有様だ、前のお前の真の未来を読み取れなかった。
だから新聞の占いごときが当たるか、今日の俺はツイているってな。
「ツイているって…。本当に?」
蕎麦饅頭を貰った他にも何かあったの、ツイていること。
「あったとも。…お前が心配してくれた」
一日中、俺を思っていてくれた。俺の心配をしてくれていた。
それだけでもう最高じゃないか、これをラッキーと言わずにどうする。
お前の心を一人占めだぞ、お前は俺のことだけをひたすら考えてくれていたんだからな。
「えーっと…」
そうなのかな、とブルーは考えたけれど。
一日中、心に引っ掛かっていた言葉はやはり心配で、それがポロリと口から零れた。
「だけど新聞には、アンラッキーって…」
ツイてないかもしれないんだよ。
たかが占いってハーレイは言うけど、でも、やっぱり…。
「安心しろって、俺には最強のお守りってヤツがあるからな」
「最強って…。ハーレイ、何か持ってるの?」
凄いお守り、何処かで買って持ってたりする?
「分からないか?」
これだ、これ。
こいつがそうだ、とハーレイが指差す、ブルーの顔。
「…なに?」
「赤い瞳だ、お前のな。前の俺たちの服に付いてた赤い石さ」
魔除けのお守り、付けていたろう?
青いメデューサの目のお守りの代わりに、お前の赤い目。
「ちょ、ちょっと…!」
「そいつが俺を一日中、見守ってくれてました、ってな。どんな不幸でも避けられるぞ」
死神のカードも逆様に変えてしまえたお前だ、アンラッキーを避けるくらいは軽いだろ?
まさに最強のお守りってヤツだな、お前の瞳は。
シャングリラで制服を作った時にシンボルに決まった赤い石。
遥かな昔の地球にあったという、青い魔除けのメデューサの目のお守りに因んだ赤い石。
メデューサの青い瞳の代わりに赤い瞳が皆を守ると、ブルーの瞳が魔除けなのだと。
ハーレイはそれを持ち出した上に、今のブルーの瞳がそうだと言うから。
最強のお守りなのだと言うから。
「でも、ハーレイ…。凄い力を持っていたのは前のぼくだよ?」
今のぼくだと、死神のカードを逆様には出来ても、フィシスを助けられないよ?
だって、サイオン、とことん不器用…。
「俺にとっては今も同じさ、お前の瞳が見ていてくれるなら頑張れる」
不幸なんかは跳ね飛ばさんとな、お前を心配させてはいかん。
だから不幸に遭いはしないし、巻き込まれたりもしちゃいられない。
というわけでな、俺には一生、不幸ってヤツは来そうにないな。
最強のお守りの赤い瞳が俺を見ていてくれる以上は。
「…そうなるわけ?」
だったら、ぼくはどうなるんだろう?
そういうお守り、持っていないよ。ぼくのお守りは何になるの?
今日は最高にツイていたけど、ツイてない日はどうすればいいの…?
「お前は俺が守ってやるさ」
今度こそ俺が必ず守ると言っただろうが。
俺がお前のお守りってヤツだ、目だけと言わずに身体ごとな。
つまり、お前にも不幸は来ない。お前に近付く不幸ってヤツは、俺が端から投げ飛ばすんだ。
柔道でエイッと投げ飛ばすように、不幸も投げてしまえってな。
俺たちの未来にはラッキーしか無いさ、とハーレイは笑う。
不幸を避けるお守りを互いに持っているのだから、と。
ブルーの赤い瞳がハーレイのお守り、ブルーのお守りはハーレイ自身なのだから、と。
ブルーが守って、自分が守って。
互いが互いのお守りとなって不幸を退け、幸せだけを拾ってゆこう、と。
「そっか、お守り…」
ちゃんと二人とも持っているんだ、とブルーは微笑む。
不幸を避けるためのお守りを、互いのために自分自身が持っているのだ、と。
(アンラッキーなんて無いのかもね?)
きっとそうだね、と自分たちの未来を思い描いた。
今はまだ離れて暮らしているから心配だけれど、結婚したならお互いに守り合うのだから。
不幸が近付いて来ることはないし、幸せだけを拾い集めながらハーレイと二人で歩いてゆく。
もっとも、ブルーは見守るだけ。赤い瞳で見守るだけ。
今度の生ではハーレイが守る。
前の生で守れなかった分まで、不幸を端から投げ飛ばしながら…。
占いとタロット・了
※新聞のタロット占いでは、アンラッキーな今日のハーレイ。心配なブルーですけれど…。
ハーレイが言うには、最強のお守りはブルーの瞳。それに占いは当たるとは限らないのです。
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