シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あっ…!)
学校から帰り、おやつを食べながら眺めた新聞。天気予報欄の上に刷られた青い地球。ごくごく見慣れたコーナーだけれど、ふと思い出した。
フィシスの地球を。前の生の自分が飽きることなく眺め続けた、青かった地球を。
(……地球……)
今のブルーは地球を知らない。知っているけれど、知らないのと同じ。
蘇った青い地球に生まれたブルーだけれども、その地球はいつも足の下にある。前の生で願った「踏みしめる大地」が、ミュウのためどころか自分のために在って、しかも地球。
焦がれ続けた青い水の星。
それなのに、肝心の姿が見えない。青い地球は常に足の下にあって、一粒の青い真珠ではない。海に行けば地球が丸いことが分かる、と言われてはいても、水平線が緩やかな弧を描くだけ。
ブルーが知っている海の景色も水平線と青い空だけで、其処には地球の姿は無かった。
そう、宇宙から見た地球を知らない。暗い宇宙にぽっかりと浮かぶ地球を見たことがない。
(…せっかく地球の上にいるのに…)
天気予報には気象衛星から見た地球が付き物、新聞でも、映像ニュースでも。
夏休みに地球を宇宙から見られるツアーに行こう、と父が約束してくれていたのに、ハーレイと出会って行きそびれた。
旅行などに出掛ける暇があったら再会した恋人と過ごしたかったし、「家に居たいよ」と願った自分。旅行は要らないと父に告げた自分。
けれど…。
(地球…)
見損ねてしまった、宇宙から見る青い地球。
前の自分が焦がれ続けて、幾度となく眺めた青い水の星へと飛んでゆく旅。フィシスの記憶。
あれで見たように、外から見た地球を見てみたい。足の下に在る地球を、地球の外から。
写真や映像などとは違って、ヒトの目が捉えた青い地球。肉眼で捉えた、青い水の星。
それが見たい、と思うけれども、今はもう隣にフィシスはいない。
あんな風に今の地球の姿を、住んでいる星を見てみたいのに、フィシスはいない。地球を見せてくれたフィシスがいない、と溜息をつきかけて気が付いた。
(そうだ、ママ!)
ママ、とキッチンに駆けて行った。
地球が見たいと、ママの記憶の地球を見せて、と。
夕食の支度にはまだ早かったから、母は食材のチェックをしていた手を止めて振り返った。
「…地球?」
「そう、ママが見た地球! ママは地球の外へも旅行に行っているでしょ?」
ぼく、夏休みに行けなかったから…。ママのを見たいよ、ママの記憶に残ってる地球。
「…パパに頼んだ方がいいんじゃないの?」
何度か出張に行っているわよ、ブルーが生まれてからだって。パパの記憶の方が新しいわ。
ママは新婚旅行が最後よ、ブルーが生まれるより前よ?
「それ、この家に帰ってくる?」
「もちろんよ。新婚旅行よ、此処に帰って此処に住むのよ」
「じゃあ、それが見たい!」
お願い、見せて。晩御飯の用意をする前に見せてよ、ママが見た地球。
母は「しょうがないわねえ…」とブルーと一緒にダイニングまで戻って来てくれた。テーブルの上の空いたティーカップや空になったケーキの皿をキッチンに運び、後片付けを済ませて。
「はい、お待たせ」
エプロンを外し、ブルーの隣の椅子に「此処でいいかしら?」と腰掛け、差し出された手。母の白い手。ブルーはキュッと自分の手を絡めた。
かつてフィシスとそうしたように、母と絡め合わせた右手。
前の自分の右の手はメギドで凍えてしまったけれども、今の自分の小さな右手に母の温もり。
「…フィシスになったような気分だわ、ママ」
憧れたのよ、と母が微笑む。
幼い頃にはフィシスがとても羨ましかったと、ソルジャー・ブルーに地球を見せていた女神が。
母にとっては王子様のように思えたソルジャー・ブルー。
フィシスはさながらお姫様といった所で、フィシスになりたかったという。
「…ごめんね、ママ…。ぼくがソルジャー・ブルーだなんて」
ママの夢、叶わなかったのに。
…ママがフィシスになれるどころか、ソルジャー・ブルーのママになっちゃうだなんて…。
「いいのよ、ママはパパに出会って、ちゃんと結婚出来たんだから」
素敵なパパと暮らせる上に、こんなに可愛いソルジャー・ブルーもいるんだものね。
ほら、と目を閉じた母が絡めてくれたサイオン。
「ごゆっくりどうぞ」とクスクス笑って、明け渡してくれた青い地球へと向かう旅の記憶。
「わあ…!」
凄い、とブルーは歓声を上げた。
閉じた瞼の下へと流れ込んで来た、母が見た地球。宇宙船の窓から眺めた地球。
フィシスが見せてくれた地球よりもずっと鮮やかで、地形はすっかり違うけれども青い水の星。蘇った地球の美しい姿。宇宙に浮かんだ一粒の真珠。
宇宙船からシャトルに乗り継ぎ、ぐんぐんと青い海を目指して降下してゆく。
リアリティーのある、本物の地球へと降りてゆく旅。
フィシスの記憶は降下の途中で終わったけれども、母が乗ったシャトルは地球の大地に造られた広い宙港に降りた。ガクン、と揺れてから滑走路を滑り、速度を落として停まったシャトル。
「もっと…!」
ママ、もっと。家に着くまで全部見せて、と願った通りに旅の終わりまで見せて貰った。
ブルーの記憶と殆ど変らない街の通りを車で走って、生垣に囲まれたこの家まで。車のドアから地面に降り立ち、見慣れた門扉の前に立つまで。
「…ソルジャー・ブルー? 如何でしたか?」
母がニッコリ笑ってフィシスを気取るから、どう応えようかと思ったけれど。
前の自分の台詞を口にしたなら、きっと笑い出すに決まっているから、今の自分の言葉にした。溢れ出す喜びを隠さないまま、母にピョコンと頭を下げて。
「ありがとう、ママ!」
綺麗だったよ、ママが見た地球。フィシスの地球よりずっと凄いよ…!
「どういたしまして」
お喜び頂けて嬉しいですわ、と返した母は「はい、フィシスごっこの時間はおしまい」と片目を瞑ってエプロンを着けると軽やかにキッチンの方へと向かった。
楽しかったわ、とブルーに笑みを投げ掛けて。
(…あれがママの地球…)
あんな風に見えるものなんだ、と部屋に戻ったブルーは勉強机の前に座って遠い昔を思い出す。
前の自分が、地球が見たくて攫った少女。
欲しかったフィシス。
青い地球の記憶を抱く少女が、水槽の中に浮かぶ少女が欲しくて欲しくてたまらなかった。
(…偽物の地球の記憶だったなんて、前のぼくは知らなかったしね…)
雲海の星、アルテメシアの育英都市。
偶然入り込んだ研究棟の奥で見付けた、前の自分の宝物。
マザー・システムが無から創った生命だけれど、その身に抱く記憶は本物。流し込まれる膨大な記憶は全て本物、いずれ人類の指導者となるべく機械が送り込む数々の知識。
(だから本物だと思ったんだよ、地球も…)
そういう風に見えるものだと、宇宙を旅して地球に降りる時にはこう見えるのだと。
青く美しい星、母なる地球。
今はまだ何処に在るのかも分からないけれど、これが本物の地球なのだと。
少女が夢見る地球は確かすぎて、実感を伴いすぎていて。
その青い地球に囚われる。見れば見るほど地球に惹かれて、水槽から離れ難くなる。
(…何度見たって、飽きるわけないよ)
あの地球が見たい。幾度でも見たくて、いつまでも見たい。時間が許す限り眺めていたい。
地上に降りる度に通い続けて、通う内にどんどん欲しくなる。地球が、地球の夢を抱く少女が。青い地球の夢を見ている少女はミュウではないのに、人類の指導者になる者なのに。
けれども欲しくて、どうしても欲しくてたまらないから。
(…サイオンは多分、移せる筈…)
水槽の中で眠る少女にサイオンさえあれば、彼女はミュウ。
白いシャングリラへと連れて帰って、ミュウの仲間として保護するべき者。その考えが浮かんだ瞬間、ゴクリと唾を飲み込んだ。
サイオンを移すなどやってみたことは無かったけれども、出来ると思えた。
しかし…。
(…人間じゃない)
ミュウでもない。
無から創られ、今は研究者たちに記号で呼ばれている少女。
いずれ水槽から出された時には、フィシスと呼ばれる予定の少女。
もしもサイオンを移してしまったら、少女が進むべき本当の未来は無くなってしまう。ミュウと判断され、処分される道が待っているだけ。
それを攫って連れ帰ることは簡単だけれど、シャングリラに暮らす仲間への手酷い裏切り。
ミュウの楽園に人類を連れて帰るどころか、人類ですらもない少女。
けれど少女にサイオンを与えてしまったならば、連れ帰る以外に道は無かった。研究所に残せば殺されるだけで、少女は地球の夢ごと消える。泡のように儚く消されてしまう。
自分が少女を欲しがったせいで、サイオンを与えてしまったせいで。
それをやったら、もう後戻りは出来ないから。
少女を失わずに済む方法は仲間に対する裏切りしか無く、それでも欲しくてたまらないから。
どうしても堪え切れなくなってしまったから、勤務を終えて青の間を訪れた恋人の名を呼んだ。
「ハーレイ。…君に相談があるんだけれど」
ぼくは青い地球を見付けたんだよ、地球の夢をいつも見ている少女を。
シャングリラに連れて来たいんだけれど、その子はミュウじゃないんだよ。人類が無から創った生命体。人間じゃないんだ、人間ですらないものなんだよ。
…だけど欲しくてたまらない。
ぼくのサイオンを与えさえすればミュウに出来ると、そうしたら連れて来られると…。
そればかり考えてしまうんだ、ぼくは。
ねえ、ハーレイ。…ぼくはどうすればいいんだろう…?
諦めるべきだと分かっているのに、欲しくて欲しくてたまらないんだよ…。
そう打ち明けた後、ハーレイは腕組みをして長く考え込んでいたけれど。
眉間の皺を常よりも深くし、キャプテンの貌で思案を巡らせていたハーレイだったから、これは駄目だと半ば諦めていたブルーだけれど。
腕組みを解いた恋人の口から零れた言葉は、予想とはまるで違っていた。
「…その少女。…本当に……ミュウに出来ますか?」
「うん、多分」
「ならば、私は聞かなかったことにしておきます」
「えっ?」
何を言うのかと驚くブルーに、ハーレイは穏やかな笑みで応えた。
「あなたは殺されそうだったミュウの少女を救出して来た。それでいいではありませんか」
…いえ、私の記憶も消して下さい。後々を思えばその方がいい。
聞かなかったことにするより、今、聞いた全て。消してしまうのが一番です、ブルー。
「…それは出来ない」
出来ないし、ぼくは決してしないよ。ハーレイにだけは知っていて欲しい。
あの子を船に連れて来ていいと言ってくれるなら、忘れないで覚えていて欲しい。ぼくが連れて来ようとしている少女が何者なのか、どういう存在だったのかを。
「ですが、ブルー…」
「いいんだ、君には知っていて欲しい」
ぼくの我儘を、とんでもない無茶を聞き入れてくれたハーレイだから。
船のみんなを騙すことになっても、ハーレイにだけは相談しようと思ったんだから…。
そうしてミュウにしてしまった少女。サイオンを移してしまった少女。
ハーレイは何度も「まだですか?」とブルーに尋ねてくれた。地球を抱く少女は、あなたの夢の化身の少女はまだこの船に来ないのですか、と。
「まだだよ。…まだかかる」
あの子は水槽の中に居るから。まだ外に出される時期じゃないから。
でも、準備を進めておいてくれるかい?
あの子のために部屋が欲しいんだ。
ぼくがいつでも訪ねられるよう、他の子供たちとは別の部屋がいい。
それに特別な子だからね。地球の記憶を持った子だから、特別扱いでも誰も怪しまないよ。
やがて水槽から出された少女。
盲目のフィシス。
目が見えない彼女を研究者たちは失敗作だと思い始めていたのだけれど。
ブルーが与えたサイオンが何かと結び付いたか、それとも神の気まぐれなのか。彼女がタロットカードで占いをすることを知って、どれほどの喜びに包まれたか。どんなに嬉しく思ったことか。
これで彼女は間違いなく本物のミュウに見えると、それ以上だと。
「ハーレイ、フィシスは未来が読めるよ」
タロットカードというカードなんだ、シャングリラには無い、占い専用に作られたカード。
そのカードで未来を占えるんだよ、とても良く当たると研究者たちが恐れるくらいに。
「それは会える日が楽しみですね」
タロットカードとやらも作らなくてはなりませんね。この船には無いと仰るのなら。
「フィシスの地球は君に一番に見せてあげるよ、約束するよ」
「…まずくないですか?」
何故、私なのか。…私との仲を疑われませんか、そのようなことをなさったら。
「大丈夫。だって、君はキャプテン・ハーレイだから。このシャングリラのキャプテンだから」
ぼくの恋人だとは誰も思わないよ、気が付きはしない。もちろん、フィシスも。
その日が来た朝、死神のカードの上下を入れ替え、救い出したフィシス。
本当は攫って手に入れた少女。そうなるようにと仕向けた少女。
宝物のように大切に両腕に抱いて、白いシャングリラへと連れ帰って。
ミュウの女神だと皆に披露した。
天体の間に船の仲間を集めて、連れ帰った時の白いドレスのままで。
その身に地球を抱く女神だと、それに彼女は未来を読むと。
どよめきの中で、少女の小さな肩に両手を置いて。
「フィシスの地球は…。そうだ、ハーレイ。君に一番に体験して貰おう」
怖くないことを皆に証明するためにもね。どうだい、ハーレイ?
「はい、謹んでお受けいたします」
「ありがとう。こういったことは、やはりキャプテンの役目だからね」
大真面目な理屈をつけて、過ぎた日に交わした約束の通り、ハーレイに地球を一番に見せた。
自分の手よりも遥かに大きな褐色の手を怖がりもせずに、フィシスが差し出した手を握らせて。目を閉じたハーレイの表情が驚きに揺れて、それから一気に引き込まれてゆく。
フィシスが抱く地球の記憶へと、青く輝く水の星へと飛んでゆく旅に。
手が離れた後も、ハーレイの鳶色の瞳はうっとりと夢を見ているかのようで。
「どうでした、キャプテン!?」
「地球は青かったですか?」
口々に問う声に天体の間へと引き戻されたらしいハーレイは「うむ」と仲間たちを見回した。
「…素晴らしかった。本当に地球を見て来たような気持ちがする」
皆もあの地球を見せて貰うといい。
フィシスが疲れてしまわないよう、自己紹介を兼ねて順番に。
「そうじゃな、しかし今日は一人でいいじゃろう」
デカい男で怯えておらんか、見た目は平気そうじゃがな。
ゼルが気遣い、「違いないね」とブラウが頷く。
自己紹介はまたの機会でいいであろうと、今日の所は顔合わせだけにしておこうと。
「お嬢ちゃん。とりあえず、名前だけ覚えてくれるかい? あたしはブラウさ」
「わしはゼルじゃ。そっちがヒルマンで、向こうがエラじゃ」
「よろしくな、フィシス」
「よろしくお願いいたしますね」
このシャングリラへようこそ、フィシス。
エラの言葉が散会の合図。
仲間たちが感嘆の表情で見詰めている中、ブルーはフィシスを天体の間の奥へと導いて行った。
いずれ大切な仲間を迎える予定だ、と改装させておいた部屋まで。
ハーレイがフィシスの正体を伏せつつ、幼い少女が好みそうな部屋にと指揮して作らせた専用の部屋へ。
相部屋で暮らす子供たちとは違って、個室。愛らしい少女に良く似合う個室。
クローゼットに、ベッドに、テーブル。この日に備えてハーレイが用意させたタロットカードを収めた小箱。何もかもが全てフィシスだけのもの、フィシスだけの部屋。
それから彼女の世話係にと、竪琴の得意なアルフレートを側に控えさせて。
フィシスが部屋に馴染むのを見届け、彼女が抱く地球を眺めて戻った青の間。
其処で恋人の勤務時間が終わるのを待ち、やって来たハーレイが一日の報告を済ませるなり抱き付いて「ありがとう」と何度も繰り返した。
「ありがとう、ハーレイ。…君のお蔭だよ、ぼくはフィシスを手に入れられた」
「いえ、ソルジャー…。いいえ、ブルー。私は何もしていませんよ」
あなたが御自分で連れておいでになったのです。全てはあなたのお力ですよ。
「違うよ。君が許してくれなかったら、ぼくは決心出来たかどうか…」
でも、本当は。
ぼくが一番欲しいものは本当はフィシスじゃなくって、君なんだけどね?
「…地球よりもですか?」
「うん。…でも、地球も欲しい。青い地球も見たくてたまらないから、フィシスを攫った」
君も欲しいし、フィシスの地球も欲しい。…ぼくはとっても欲張りなんだよ。
「知っていますよ、本当のあなたがそうであることは」
ソルジャーではない、本当のあなた。
本当のあなたがどんな人かは、ずうっと昔から知っていますよ、そうでしょう…?
(…フィシスの地球かあ…)
懐かしいな、と小さなブルーは勉強机の前で呟いた。
母に見せて貰った記憶の方が遥かに鮮やかで、しかも本物の地球だったけれど。
フィシスが持っていた地球の記憶は偽物だったけれども、それを本物だと信じていた自分。青い地球があると信じて、其処を目指したソルジャー・ブルー。
(…あれはあれで良かったんだと思うけど…)
信じていたから前に進めたし、諦めなかった。仲間たちを、白い鯨を守って命までも捨てた。
(だけど本物の地球は青くなくって、前のハーレイが辿り着いた地球は死の星で…)
ハーレイはどんなにガッカリしただろうか、と考えた所で気が付いた。
今のハーレイは宇宙から見た地球を知っている。見たことがある、と前に話していた。
それも見たい、と欲が出て来た。
母の記憶の地球を見たからにはハーレイの地球も、と。
(ハーレイ、今日は来ないかな…?)
夕食に寄ってくれたらいいのに、と窓の方へと視線をやったら、来客を知らせるチャイムの音。
(来た!)
ハーレイだ、とブルーは窓に駆け寄り、門扉の向こうに佇む人影に手を振った。
母に案内されて来たハーレイと二人、窓辺のテーブルで向かい合う。お茶とお菓子を運んで来た母の足音が階段を下りて消えるなり、ブルーはハーレイに「ねえ」と強請った。
地球が見たいと、宇宙から見た青い地球の記憶が見たいのだと。
「…俺の地球か?」
「うん。それで地球に降りて、ハーレイの家まで行きたいんだけど…」
ママに見せて貰ったのが素敵だったから。
ハーレイのも見たいよ、ハーレイの目が見て来た地球も見てみたいんだよ。
「かまわないが…。お前のお母さんの記憶と同じくらい古いぞ、それでいいのか?」
「えっ?」
ハーレイ、旅行をしてないの?
一人暮らしだから、夏休みとかは旅行に行ってたと思っていたのに…。
「それなんだがな…。どういうわけだか、教師になってからは地球を離れたいと思わなかった」
長期休暇には長い旅行に行ける、っていうのもあって教師を選んだつもりだったんだがな。
最初の一年間は早く仕事に慣れるためにも旅は控えて、次の年からは気の向くままにあちこちの星へ出掛けて行こうと計画を立てていたんだが…。
旅の本まで買ってたんだが、いざ二年目って時になったら地球を離れる気にならなくてな。
しかも此処から、この地域から出たくないんだ。
そういうわけでな、俺は地球から離れるどころか、旅はこの地域専門だ。
今から思えば、お前が生まれちまってたんだな、あの年の終わりに。
お前から遠く離れたくなくて、俺の旅行は狭い範囲になっちまったんだろうな、きっとそうだ。
地球の記憶は古いのしか無いぞ、とハーレイは言う。
自分が最後に地球を離れた頃はまだ両親の家に住んでいて、今の家に戻る記憶ではないと。
ついでに隣町にある両親が暮らす家はまだ秘密だから、其処までは見せてやれないと。
「いいよ、内緒でも。…宙港に降りる所まででいいよ」
「なら、最後のにしておくか。卒業記念旅行の時の。…ソル太陽系からは出ていないがな」
大抵のヤツらは遠い星へと旅をしてたが、俺は行く気にならなかった。
ソル太陽系から出たいと思わなかったんだ。だから同じ趣味のヤツと一緒にフラリとな。
なにしろ同じ星系の中だ、何処へ行っても太陽が遠いか、近いかくらいの違いだったさ。
「他はどういう時に行ったの、地球の外へは?」
「色々だ。親父たちと旅行に行ったり、合宿もしたし、遠征もしたさ」
もっとも、遠征と言っても学生だからな、ソル太陽系の中だけだが。
親父たちと行った旅行もソル太陽系から出ちゃいないんだ。柔道も水泳も、練習を長い間休むと身体がなまっちまうしな?
だから近い所へ行こうと親父たちに言って、帰ってくるなり練習に走って行っていたのさ。
おまけに卒業記念旅行でも外へ出ないで、それから後は出ずじまいで。
結局、俺は地球を離れ難かったってことなんだろうな、記憶が戻っていなくても。
…そしてお前が生まれた後には、もう離れたくはなかった、と。
うんと古いぞ、と苦笑いしながらハーレイが見せてくれた記憶の中の地球。
母の記憶と同じくらいに古いという地球。
けれどもそれは青くて、少しもぼやけた所など無くて。
漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ青い真珠は、前の自分が焦がれた通りの青い水の星。その地球が見る間に近付いて来る。シャトルに乗り継ぎ、青い地球へと降りてゆく記憶。
(ハーレイも見たんだ…)
海面が近くなって、滑るように宙港に着陸するシャトル。窓の外を流れる景色が静かに止まった所で、ハーレイが「この先は秘密だ」と手を離した。
「隣町の親父の家までの道も秘密だ、まだ教えんぞ」
「うん。…ありがとう、ハーレイの地球も綺麗だったよ」
フィシスの地球よりずっと素敵だよ、ぼくも宇宙から地球に帰って来たみたいな気分になるよ。
「そうか?」
「本物なんだな、って分かるもの。ちゃんとシャトルで降りるんだもの」
ハーレイだって知っているでしょ、フィシスの地球。
青い地球に向かって降りて行くけど、絶対、着陸出来ないんだよ。
その前におしまいになってしまうんだよ、スウッと記憶が霞んでしまって。
前のぼくは「この先は秘密なんだな」って思い込んでいたけど、秘密なんかじゃなかったんだ。
青い地球なんかは何処にも無いから、ああしておくしかなかったんだよ…。
だから…、とブルーは微笑んでみせた。
「ハーレイが地球を知ってて良かった。宇宙から見た地球を知ってて、ホントに良かった…」
「何故だ?」
「前のハーレイが見た地球の記憶しか無いんじゃ悲しいでしょ?」
死の星だった地球しか知らなかったら、今のハーレイ、きっと悲しいと思うんだ。
せっかく青い地球の上に生まれて来たのに、ぼくみたいに外から見た地球を知らなかったら。
「…そうかもしれんな」
「それに、ハーレイは前のぼくにフィシスをくれた」
シャングリラに連れて来てもいいんだ、ってハーレイが許してくれたんだよ。
前のぼくが青い地球を好きなだけ見られたのはハーレイのお蔭。
偽物の地球でも、前のぼくにとっては本物の青い地球だったんだ。あの星に行こう、って地球を夢見て頑張れたんだよ、前のぼくは。
ハーレイがフィシスをくれなかったら、ぼくは最後まで頑張れたかどうか…。
だからハーレイには本物の青い地球を見せてあげたいよ、死の星じゃなくて今の地球を。
ちゃんとハーレイが見ていてくれたのが嬉しいんだよ、今の青い地球。
「フィシスか…。俺はお前の我儘を聞いてやりたかったというだけなんだが」
礼を言われるようなことは何もしていないと思うんだがな?
俺が自分のやりたいようにやったってだけで。
「…そうなの?」
「ああ。前のお前が欲しいと言うようなものが、そうそうあったか?」
欲しくて欲しくて、シャングリラの仲間たちまで敵に回そうってほどのものがあったか、それを手に入れるためなら何でもやろうと思うようなもの。
「……無かったかも…」
「そうだろう? 前のお前は、いつだって仲間が最優先で。我儘なんか言いやしなかった」
そんなお前がフィシスを欲しいと言い出したんだ。
仲間を裏切ることになっても欲しいと、どうしてもフィシスが欲しいんだと。
そこまでお前が欲しがるフィシスだ、手に入れさせてやりたいと思うじゃないか。
お前の嬉しそうな顔が見られるなら、俺はそれだけで良かったのさ。
たとえフィシスにお前を盗られる結果になっちまってもな。
「…それだけは無いよ」
無いよ、とブルーは首を横に振った。
「ぼくの一番は、いつでもハーレイ。…フィシスより、地球より、ハーレイが一番」
前のぼくもハーレイに言った筈だよ、本当に欲しいのはハーレイだって。
ホントなんだよ、前のぼくも今も、いつだって、そう。
「…そういや、お前、そう言ってたか…」
「うん。ハーレイがフィシスをくれた時にね」
フィシスよりも、地球よりも、ハーレイが好き。
青い地球もとっても欲しかったけれど、ハーレイのことが何よりも好きで、欲しかった。
そのハーレイと一緒に地球に来られたんだよ、青い地球まで。
だから…、とブルーはハーレイの手にもう一度自分の手を絡める。
小指と小指を添わせて強く絡ませる。
今度こそ二人で地球を見ようと、結婚したら二人で青い地球を見られる旅をしよう…、と。
フィシスの地球・了
※青い地球が見たくて、前のブルーが攫ったフィシス。秘密を知っていたのはハーレイだけ。
今は本物の青い地球へ向かう映像を見られるブルーです。母のも、今のハーレイのも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(今じゃ全く普通なんだが…)
すっかり慣れてしまったんだが、とハーレイは器の中身を眺めた。ホカホカと湯気が立ち昇る、蕎麦。器にたっぷりと入った出汁。
午前中は研修だったから、昼食は外で。それからいつもの、ブルーが通う学校へ。
特に急いではいなかったけれど、早く食べられて満腹感を得られるものを…、と入った店。
丼物やカレーなどにしようか、麺類にしようかと悩むまでもなく、蕎麦を茹でる匂いに惹かれて暖簾をくぐった。
SD体制崩壊後に復活して来た暖簾。日本という小さな島国の文化の暖簾。
そういった古い文化は大好きだったし、暖簾に釣られた部分もかなり大きいだろう。前の生から見慣れた普通のドアを開けるより、暖簾をくぐって入るのがいい。
思った通りに居心地のいい店は賑わっていた。茹でたての蕎麦の美味そうな匂いが漂っている。それに天麩羅や出汁の匂いも。
カウンターに座り、渡されたメニューをざっと眺めて月見天蕎麦に決めた。海老天に卵、これは栄養価も高い。
(此処は天麩羅も美味そうだしな?)
きちんと店で揚げているのが嬉しい所だ。出来合いの天麩羅を乗せるだけの店も多いのに。
(今日の昼飯は大当たりってトコか)
研修さまさま、次にこの辺りで研修があればこの店にしよう、と食べる前から膨らむ期待。店に漂う匂いだけで分かる。質のいい食材を使っているのも、手間暇を惜しんでいないことも。
そうして出て来た月見天蕎麦は思った以上に素晴らしい出来で、蕎麦の茹で加減も出汁もまさに絶品、おまけに海老天も美味かった。卵も、これぞ月見といった趣き。
(これはなかなか…)
次に来る時が楽しみだ、と風味豊かな蕎麦を啜っていた時、不意に浮かんで来た記憶。
(…待てよ?)
こんなものは食べたことが無かった、と前の生での自分が驚く。
こういう食べ物は有り得なかった、と。
(…うーむ…)
今では全く普通なのに。
こうしてフラリと入った店でも、何のためらいもなく注文出来る食べ物なのに。
(…こいつは何とも驚きだな…)
美味いんだが、と再び蕎麦を啜り始めながら、前の生へと思いを馳せて。
(よし、蕎麦だ!)
覚えておかねば、と残り少なくなった器の中身を頭にキッチリ叩き込んだ。大当たりだった、と自分を惹き付けた蕎麦の匂いに感謝する。残りの蕎麦も美味しく食べ終え、勘定を済ませて暖簾の向こうの通りへと出た。
愛車を停めてあった駐車場まで上機嫌で歩き、いざ職場へ。
今日は自分の授業は無いのだけれども、ブルーが通っている学校へと。
研修先で貰った資料などを整理し、明日の授業の準備を済ませて、一息ついたら放課後が近い。柔道部の指導に出掛ける前に…、と今日のあれこれを振り返る内に思い出した蕎麦屋。
(そうだ、蕎麦だったな)
一度思い出したら、もう忘れない。
蕎麦屋でメモを取っても良かったのだけれど、前の生に纏わる記憶だから、と取らなかった。
ふとしたはずみに蘇る記憶は書き留めていたらキリが無いというのもあったけれども、遠い昔の記憶が心をフッと掠める感触が好きだったから。
何度でもそれを味わいたいから、あえて書かずに放っておく。今日の蕎麦だって、今日の間なら忘れないけれど、明日には忘れているかもしれない。
(そうしたら、また楽しめるしな?)
今日の新鮮な驚きを。
月見天蕎麦の器を前にして「有り得なかった」と驚いた時の、前の自分の反応を。
だから書かずに放っておいたが、今日の間は忘れないように。
柔道部で汗を流した後にも忘れないよう、もう一度「蕎麦だ」と繰り返しておいた。
これまた前の生では縁が無かった柔道なるもの。今の生では打ち込んで来た道。
体育館で大勢の柔道部員を指導し、稽古をつけて。共に身体を動かした後も、例の記憶は残っていた。蕎麦屋で頭に叩き込んだ記憶。学校で「蕎麦だ」と繰り返した記憶。
柔道着を脱ぎ、シャワーを浴びて元のスーツに身を包んだ後。
(さて、どうするかな…)
こうした時は、と学校の駐車場に停めた愛車の運転席に座って暫し考えてから車を出した。
ブルーの家に行くまでに少し寄り道、途中の食料品店へ。
専用の籠を提げ、目的の棚の前であれこれ選んで一つ、二つと入れてゆく。
(…こんなもんかな)
全部で六つ。
土産というわけではないのだけれども、これが一番良さそうだから。
ブルーの家の駐車スペースに車を置いて、食料品店の袋を引っ張り出して。
門扉を開けに出て来たブルーの母に「私物ですので」と断っておいた。手土産ではなくて自分の荷物だと、車に置いてはおけないので、と。
ブルーの母は「お帰りになるまで預かりましょうか?」と言ってくれたが、「ブルー君に分けてあげたいんですよ」と笑顔で返す。「実につまらないものなのですが」と。
「あらあら…。いつもお気遣い頂いてしまってすみません」
「いいえ、本当につまらないものなんですよ」
それどころか呆れられそうですが、と袋をポンと叩く。
普通は土産にしないものだと、土産に持ってゆけば礼を失する代物なのだ、と。
「何ですの?」
興味津々のブルーの母に「こんなものですよ」と袋の口を少し開いて見せれば。
「あらまあ…!」
「驚かれるのも無理はないんですがね」
肩を竦めて、「前の私はこういうものを知らなかったんですよ」と苦笑した。
「ブルー君も、今は当たり前に知っているのでしょうが…」
話の種にと買って来ました。ご心配無く、今日の夕食はこれにしたいとは言いませんから。
ブルーの母に案内されて、二階へと。待ち焦がれていたらしいブルーは、母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去るなり、ハーレイが自分の椅子の脇に置いた袋の方へ身体を傾けた。
「ハーレイ、それ…。何の荷物?」
「うん? 軽いぞ、俺の夜食にと買って来たんだが…」
たまにはこんなものも食いたくなる。気に入ったのがあれば譲ってやろうと思ってな。
欲しいんだったら土産に一つ分けてやるぞ、とハーレイは身体を屈めて袋を開けた。「ほら」と声を掛けつつ、一つ、二つとテーブルの上に重ねてゆく。
空いたスペースに大きなものから順に乗せていって、崩れないように。
「えーっと…」
ブルーの瞳が丸くなった。
様々な器に入った味も色々のラーメンやうどん、いわゆるカップ麺なるもの。湯を注いで待てば出来上がる即席麺が合計六個。
「一つやるぞ」と言われたものの、ブルーがおやつに食べられそうなものは一個だけ。積まれたカップ麺の山の横、チョコンと置かれたチキンラーメン、それのミニサイズ。
他のカップ麺はどれも大きく、ブルーにとっては夜食どころか一食分で。
「…うーん…」
チキンラーメンと他のカップ麺の山とを見比べては、ブルーが悩んでいるから。
「それにしておくか?」
お前に向いていそうなサイズはそれしか無くてな。
「貰ってもいいの?」
「ああ。ただし、普通の食事もきちんと食べられそうな時に食べろよ」
そら、とチキンラーメンをブルーに渡してやった。他のカップ麺は「邪魔になるからな」と元の袋に戻して床へ。
テーブルの上にはブルーが貰ったミニサイズのチキンラーメンしか無くなったけれど。ブルーは怪訝そうな顔でチキンラーメンを見詰めて、首を傾げた。
「お土産はとっても嬉しいんだけど…。なんでカップ麺?」
「晩飯が麺類ってことはまず無いからな」
「無いね。お昼御飯だったら、お蕎麦もあるけど…」
「その蕎麦だ」
蕎麦だ、とハーレイはニヤリと笑った。
「えっ?」
「蕎麦でもうどんでも、素麺でもいい。ラーメンでもいいが、閃かないか?」
とにかくその手の麺類ってヤツでピンと来ないか、そのためにカップ麺を買って来たんだが。
「閃くって…。何が?」
まるで分からない、といった表情のブルー。そうだろうな、とハーレイも思う。自分も今日まで気付かなかったし、カップ麺というヒントを出してもブルーには分からないだろう。
そのくらいに今や普通の食べ物。何処の家でも食べているもの。
けれども前は有り得なかった、と気付いた以上は、ブルーにだって教えてやりたい。
だから…。
「俺は今日、昼飯を食いに入った蕎麦屋で思い出したんだが…」
この手の食事は有り得ないってな。
「どういう意味?」
「お前、シャングリラで麺をスープに浸して食ったか?」
「麺…?」
「パスタだ、パスタ」
平たいのとか、貝みたいな形のヤツじゃなくって、スパゲティだとか…。要はヌードル。
そういった長い麺ってヤツをだ、スープに浸して食っていたか、と訊いている。
蕎麦とかうどんみたいにたっぷりの汁で、美味しく食っていたかってことだ。
「…そういえば…」
遠い記憶を遡っていたらしいブルーの瞳が、チキンラーメンの容器に向けられたから。
「どうだ、食ってはいなかったろうが?」
「…うん」
ビックリしちゃった。お蕎麦とかは普通に食べていたから、気付かなかったよ。
「俺もシャングリラの厨房に居た頃、スパゲティの類を茹でてはいたが、だ」
茹で汁を捨てたらキッチリ水分を切っていたな、と思ってな。
水気ってヤツは残っちゃいかんと信じてた。
絡んでくっついちまわないよう、オイルかバターがあったら入れてはいたが…。
麺そのものをスープに浸して食おうって発想は無かったな、と。
「それじゃ、ハーレイが買って来たカップ麺って…」
前のぼくたちが全く知らない食べ物なんだ?
今じゃ何処でも売っているのに、あの時代には何処にも無かったのかな?
「無かっただろうな、あったら前のお前が何処かで奪っていた筈だ」
保存食には便利なんだし、積んでいる船もあっただろう。
しかし、前のお前は奪っちゃいない。
前の俺たちの頃には無かったな、とは何度か思ったことがあるんだが…。
カップ麺自体はハーレイも「無かった食べ物」と認識していた。
前の自分たちはこれを知らなかったと、あったなら便利だっただろうに、と。
けれど、深く考えてはみなかった。今日の昼食に蕎麦を食べるまで、何とも思っていなかった。ただ漠然と「無かった食べ物」、そう思っただけのカップ麺。
ところが実際はカップ麺どころか、蕎麦もうどんも無かったのだ。
前の自分たちが生きた頃には。白いシャングリラで前のブルーと共に暮らした遠い昔には…。
「なあ、ブルー。カップ麺が無かっただけじゃないんだ、この手の文化が無かったんだ」
保存食だの非常食だのにカップ麺どころか、スープに浸した麺が無かった。
いや、驚いたぞ、蕎麦屋で食ってる真っ最中にな。
「ホントに普通の食べ物なのにね、お出汁の入った麺類って」
「うむ。味噌とか醤油が無かったってことは考えていたが、蕎麦やうどんは盲点だった」
考えてみりゃあ、蕎麦もうどんも出汁が要るしな、その出汁の文化が消えていた時代に残ってるわけが無いってもんだ。
味付けにしたって味噌や醤油だ、どう考えても無くて当然なんだよなあ…。
今の俺たちはすっかり慣れて、当たり前のように食ってるんだが。
スープに浸した麺類ってヤツは、前の俺たちは知りもしなかったんだ。
実に不思議な食い物が今や普通になっちまったな、とハーレイは笑う。
こういう麺の食べ方をするのは今の自分たちが住む地域の文化で、SD体制の基本となった地域には全く無かった食文化だと。
「スープパスタってヤツがあるだろ、あれも本来の食べ方とは違うそうだしな」
「お店で普通に食べられるよ?」
「この地域ではな。今じゃいろんな料理が食える時代で、パスタの本場にもあるんだが…」
昔はこういう食べ方は無かった、って但し書きつきの料理なんだと前に本で読んだ。
あれも元々は日本って島国の食べ物らしい。
SD体制が始まるよりもずっと昔にパスタの本場にも伝わりはしたが、日本の料理だ。
麺をスープに浸して食うのが普通の場所だから生まれたんだな、スープパスタも。
「ラーメンは日本生まれじゃないんだよね?」
「あれは違うな、七夕とかと同じで中国から来た食べ物だな」
もっとも、日本で独自の進化を遂げちまったから、日本の食文化の一部ではあるが…。
だからこそカップ麺にもラーメンがあるし、カップ麺は日本生まれだしな?
日本って地域の人はよっぽど、麺をスープに浸して食うのが好きだったんだろうなあ…。
「どの辺まであるの、麺をスープで食べる文化って」
「今はどの辺までだろうなあ…」
他の星でも蕎麦屋が無いとは言い切れないから、宇宙規模かもしれないが。
昔は恐らくアジア限定って所だろうなあ、しっかり定着してたのは。
「アジア限定かあ…。マザー・システムが消しちゃうわけだね」
「SD体制の基礎になった文化はアジアの文化じゃなかったからな」
多様な文化を認めなかったのがSD体制ってヤツだからなあ、統治しやすいよう統一ってな。
文化でさえも消そうってヤツらが、ミュウなんかを受け入れてくれる筈が無かったな…。
「そうだね、消しちゃった文化も人類の文化だったのにね…」
せっかく沢山の文化を築いていたのに、統一して消してしまっただなんて。
それをせっせと元に戻したのがミュウだっていうのが面白いよね、SD体制とはホントに逆。
だから危険視されちゃったのかな、前のぼくたち。
「おいおい、そいつは結果としてそうなっただけでだな…」
前の俺たちは文化の復興なんぞを考える余裕も無かったぞ?
まずは人類にミュウの存在を認めさせよう、って段階だったぞ、文化どころじゃなくってな。
「ふふっ、そうだね」
そうだったね、とブルーは頷いたけれど。
遥かな時を超えて生まれ変わった青い地球では、そんな時代は遥かに過ぎ去った昔だから。今の自分たちには無縁とさえ思える遠い昔だから、今の文化の方に惹かれる。
ハーレイに貰ったカップ麺。ミニサイズのチキンラーメンを指でつついて呟く。
「…和食の文化だけじゃなくって、こういう麺まで消えちゃってたんだ…」
お湯を注いで、たっぷりのスープで食べる麺。スープやお出汁に浸かってるのが普通の麺…。
「前の俺たちには想像もつかん食べ物だろうが」
こいつをゼルが見ていたら、だ。何と言うやら…。
「カップ麺にお湯を注いで、出来上がるのを待ってるトコとか?」
「ああ。あいつだったら、時間が来たら迷わずスープごと湯を捨てちまうな」
「それってカップ麺を間違えていない?」
お湯を捨てるのはラーメンとかじゃなくって焼きそばだよ。
「おっ、知っていたのか、カップ焼きそば」
「友達が買って来てくれて家で食べたよ、全部は食べ切れなかったけれど」
美味しかったけど、こんなミニサイズじゃなかったんだもの。おやつに向いていないよ、アレ。
「そうだろうなあ、それをおやつに食わされたのか」
「計算ずくだよ、「お前、こんなに食えないだろうから先に貰っておいてやる」って」
自分の器に沢山持って行ったよ、ぼくの分のカップ焼きそばを。
「そう来たか!」
「うん」
「いい友人なんだか、ずるいんだか…。で、食い切れたか?」
「ぼくの器に残った分はね」
でも、あれ以上あったら無理。ぼくの分まで食べちゃった友達は凄いと思うよ、本当に。
カップ焼きそばは量が多すぎた、とブルーは嘆いて、でも知っていると自慢して。
「ぼくだってお湯を捨てちゃうカップ麺を知ってるんだよ、ホントだよ」
ドキドキしながらお湯を捨てたけど、ゼルだったら普通のカップ麺でもお湯、捨てちゃうよね。湯切口なんかついてなくても、出来上がったらスープごと全部。
「ブラウでもヒルマンでもエラでも捨てるぞ、まず間違いなく」
具まで一緒に捨てちまわないよう、慎重にな。
「うん。そして「美味しくない」って言いそうだよね」
「美味いスープを全部捨てちまっているからなあ…」
具が残ってても不味いだろうさ。
そういうカップ麺は食いたくないなあ、大いに邪道なカップ麺だぞ。
「だよね、スープと一緒に食べなきゃ美味しくないよね」
カップ麺でなくても、お蕎麦とかでも。
茹でた麺だけドカンと出されて「食べて下さい」って言われちゃったら困るよ。
トロロとかウズラの卵がついていたって、お出汁無しでお蕎麦は食べられないよ…。
「ふうむ…。ゼルたちが蕎麦だのラーメンだのを食うと思うか?」
あいつらの前に、今日、俺が食って来た月見天蕎麦。…置いてやったらどうなるだろうな?
最高に美味い蕎麦だったんだが、あいつらの目には美味そうには映らないんだろうなあ…。
「チャレンジしたら美味しいだろうけど、食べるまでがね…」
疑いの目で見られそうだよ、たっぷりのスープに麺が浸かっているんだから。
「こいつは本当に食えるのか、と訊いてくるのは間違いないな」
「ちょっと茹ですぎじゃないのかい、とかね」
言われそうだよ、茹ですぎだって。茹で汁だって捨てていないじゃないか、って。
「実際、麺は茹ですぎたら不味くはなるんだが…」
それにスープに浸かった麺もだ、早く食べないと伸びちまって不味くなるんだが…。
考えてみると面白いよなあ、スープさえ無きゃ伸びないんだしな?
ざるそばなんかは理に適ってるな、食べる分だけ浸すんだしな。
「…前のぼくだとどうなったかな?」
ハーレイが食べた月見天蕎麦、前のぼくも警戒しちゃってたかな?
美味しそう、って眺める代わりに、変な食べ物だと思って見てるだけかな…。
「俺も正直、前の俺でも食えただろうという自信が無い」
まあ、他に食い物が無いとなったら食うんだろうが…。
そして「意外に美味いじゃないか」と思うんだろうが、月見天蕎麦はいいとしてだ。
前の俺がラーメンを食う羽目になったら、まず間違いなくスープは残していただろうな。これは飲めんと、たとえ味付きでも茹で汁なんぞは論外だと。
「えっ、ハーレイ、ラーメンのスープも飲むの?」
「飲んじゃいかんか?」
スープを飲むために散蓮華だって添えてあるだろうが。
「ぼくも少しは飲むんだけれど…」
残すとか残さないとか以前に、あれって全部飲み切れるもの?
ハーレイ、「残していただろうな」なんて言ってるからには全部綺麗に飲んじゃうんだよね?
「当たり前だろうが、美味いスープは飲まんとな」
ああいうスープは少し作っても美味くならないんだ、でっかい鍋で仕込まないとな。
自分の家では作れん味だし、たまに食うなら飲み干してこそだ。
「…凄いね、ハーレイ…」
ブルーは心底、ハーレイを尊敬したのだけれど。
自分にはとても飲み切れない量のスープを平らげるハーレイを凄いと思ったのだけど。
そのハーレイは「ふむ」と小さなブルーを見遣って、唇に笑みを浮かべてみせた。
「なるほどなあ…。お前、頑固親父のラーメン屋には入れません、ってか」
「なに、それ?」
一体どういう意味なのだろう、とキョトンとするブルーに、ハーレイはこう教えてやった。
「スープに自信満々の店だ。飲み切れないと「不味いのか?」と訊かれるんだ」
そして機嫌が悪くなるわけだな、店の親父の。
「……本当に?」
「いるぞ、昔の日本気取りの頑固な親父」
この辺りが日本だった頃には、そんなラーメン屋が幾つもあって有名だったそうだ。
それを気取っているわけなんだが、そういう店に限ってラーメンが美味い。
本当に美味いラーメンを食わせる店に行きたきゃ、スープは飲み干すのが礼儀だってな。
「……嘘……」
ラーメン屋さんって、そんな仕組みになってるの?
ぼく、ラーメン専門のお店に行ったことが無いから知らなかったよ…!
スープを全部飲まなきゃいけないなんて、とブルーが目を丸くしているから。
赤い瞳がすっかり真ん丸になっているから、ハーレイは「うーむ…」と腕組みをして。
「いつかお前を連れて行くとなったら、美味いラーメン屋は無理だな、蕎麦にしておくか」
美味い蕎麦屋に連れてってやるさ、心当たりは幾つもあるしな。
「…ラーメン屋さんだと、ぼくがスープを飲み切れないから?」
「そういうことだ」
お前、どう転んでも飲み切れないだろ、ラーメンのスープ。
美味い店だと大人相手で、お子様用のミニサイズなんかは無いからなあ…。
「ハーレイ、それ…。スープ、ぼくの代わりにハーレイに飲んで貰ったらどうなるの?」
「俺がお前のスープをか!?」
「うん」
それならスープは残らないよ?
残さなかったらお店の小父さん、機嫌が悪くはなったりしないと思うけど…。
「……そいつは想定外だった。代わりに飲むのはアリかもなあ…」
「ホント?」
「頑固親父に思い切り冷やかされそうだがな」
スープ顔負けの熱いカップルだとか、熱々だとか。
店中の視線が集まりそうなくらい、うんと冷やかしてくれそうな気がするなあ…。
「じゃあ、ラーメン」
「なんだと?」
思わぬ言葉にハーレイは目を剥いたのだけれど、ブルーは澄ました顔で答えた。
「お蕎麦よりラーメンを食べてみたいよ、スープを残したら駄目なお店で」
だって、せっかくハーレイと結婚して二人で食べに行くんだよ?
冷やかされてみたい。熱々だって言って欲しいよ、お客さんが沢山来ている所で。
「お前なあ…」
冷やかし希望って、大勢が見ている場所でか、おい?
「そうだよ、今度はちゃんと結婚出来るんだもの」
前は結婚どころか誰にも内緒で言えなかったし…。
今度は堂々と何処でも二人で出掛けられるから、熱々ですねって言われてみたいよ。
「…そんな理由で頑固親父のラーメン屋になあ…」
それがお前の希望なのか、と頭を抱えそうになったハーレイだけども。
前の生から愛し続けた恋人の望みがそれであれば、と心が幸せにほどけてゆくから。
冷やかされたいと口にするブルーが愛らしくて心が蕩けそうだから…。
まあいいか、とハーレイは笑って希望を受け入れてやる。
「分かった、いつかはラーメン屋だな」
お前がスープを飲み切れなければ、俺が代わりに飲むんだな?
「うんっ!」
「よしよし、そして頑固親父に冷やかされる、と」
それは全くかまわないのだが、と恋人に一つ注文を付けた。
頑固親父のプライドを傷つけないよう、少しはスープを努力して飲めと。
飲み干す練習だけでもしておいてくれと、まずはこのミニサイズのカップ麺からだ、と…。
麺とスープと・了
※SD体制の時代には無かったカップ麺。それにスープたっぷりの麺類たちも。
今なら普通にあるのが麺類、いつかは二人で頑固親父のラーメンを食べに行くのでしょう。
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(ふうむ…)
こういうのに縁は無いんだが、とハーレイは新聞の記事を覗き込んだ。
今日はブルーの家に寄れなかったから、一人で夕食。キッチンの食材を調べてメニューを考え、白米を炊いて、その間に調理。
熱い内に、と出来立てを食べて、後片付けが済めば自由時間だ。SD体制が始まるよりも遥かな昔のこの地域では、教師は家にまで仕事を持ち帰らねばならないくらいに多忙だったと聞く。
しかし今では教師といえども普通の会社員たちと変わらない。むしろ夏休みなどに生徒と同じく長期休暇が取れたりする分、楽な職業と言えるだろう。
遠い昔には大変だったと言われる教師の仕事は技術の進歩とサイオンのお蔭で軽減されて、今や人気の職種だけども。
(…この学校だと、どうなんだろうな?)
教師はハードな仕事だろうか、とリビングのソファで広げた新聞。テーブルの上にはコーヒーを入れた大きなマグカップ。
新聞記事の中、ブルーたちとは違う制服を着た少年たちが明るく笑っていた。別の写真では制服ならぬ作業服。宇宙服を着た写真もあった。
宇宙船のパイロット養成学校の生徒たちの日々を、今日から短期集中連載らしい。
ハーレイが教える学校とはまるで違う世界。
一つ間違えれば大事故になって、自分ばかりか大勢の人々を巻き込みかねないパイロットたち。
(教える方だって命懸けだぞ)
きっと大昔の教師みたいに毎日が大変な学校だろうな、と其処の教師に心でエールを送った。
それからパイロットの卵たちにも。
こういう学校に進んだかつての友人がいた。
同じ道場で柔道の道に励んでいたのに、それは将来に向けてのトレーニングの一環だったからとアッサリと捨てて、パイロット養成学校へ。
柔道は体力と精神力、どちらも欠かせない武道なのだし、責任の大きいパイロットを目指すには打ってつけの世界だったのだろう。
(そこまで読んでの入門なんだし、あいつが選んだ道だしなあ…)
頑張って来い、と笑顔で肩を叩いたけれども、一抹の寂しさが心にあったことは否めない。
自分の方が腕は上だったが、彼も相当な腕の持ち主。
よく大会の代表に選ばれ、何度も一緒に出場していた仲だったから。
その彼は見事にパイロットになり、広い宇宙を飛び回る間に地球よりも好きな星が出来たとかで移り住んで行ってしまって久しい。
宇宙は広くて、パイロットの彼は気の向くままに居を移したのか、あるいは多忙を極めたのか。
いつしか途絶えてしまった連絡。届かなくなった、立ち寄った星からの葉書など。
今では彼が何処に居るのか、住所すらも分からないのだけれど。
(俺の方が先輩だったぞ、おい)
ずっと昔からパイロットだったと、キャプテン・ハーレイだったんだぞ、と記憶の中で今も若いままの友人に向かって語り掛けた。
パイロット養成学校の生徒たちの写真を見ながら、かつての友に。
今も何処かでパイロットなのかと、それともこういう学校で教えているのかと。
(あいつだったら鬼コーチだろうか…)
生徒を怒鳴り付け、訓練に駆り立てる鬼コーチ。教師と呼ぶよりコーチの方がしっくりとくる。
パイロットは命が懸かった職だし、いわゆる教師のイメージではない。
(しかし…)
あいつだったら違うだろうな、と笑みが浮かんだ。
死と隣り合わせの職であっても、彼ならば笑顔を絶やさずに指導するだろう。時には厳しい顔も見せるのだろうが、普段はきっと、生徒たちと一緒に笑い合って、さながら友達付き合い。
(そうなるだろうさ、あいつならな)
自分も穏やかな性格だけども、彼もそういうタイプだった。だから何かと馬が合った。
共に後輩を指導する時も、冗談を飛ばし合いながら賑やかにやった。
道場での練習や試合などは一切手加減しないが、それを離れれば後輩たちとも仲良くやりたい。もっと厳しくするべきだ、と言う先輩もいたのだけれども、そうするつもりはさらさらなかった。
自分も、後にパイロット養成学校に行ってしまった彼も。
指導を請われれば、とことん面倒を見る。
ただし鬼コーチなぞになったりはせずに、年上の良き友、同じ柔道を志す仲間として。
(あいつだったら…)
もしも彼がパイロット養成学校で教師になっているのなら。
不出来な生徒がいたとしたって、怒鳴りはしない。
辛抱強く何処までも付き合ってやって、腕を上げるまで決して投げ出さないだろう。
自分の時間を削ってでも、きっと。
そう思った時、心をフッと掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で持っていた記憶。
(…そういや、俺もそうだったか…)
俺もその手の教師だった、と記憶が浮かび上がって来る。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船。
楽園という名のシャングリラの操舵を、前の自分が教えた者たち。
巨大な船を動かすためには技術だけでなく、才能も要る。操舵士になる、と名乗りを上げた者の全てが適しているとは限らないのだが、とことん付き合って教え込んだ。
なにしろ、シャングリラは大切な船。ミュウの楽園であると同時に箱舟。
失うわけにはいかなかったし、動かせる者は多いほどいい。
一人が病で倒れたとしても、また別の者が。二人目が持ち場を離れる時には、更に次の者が。
交代要員を多く作っておこう、と操舵士を希望した者たちには一通りの技術を身に付けさせた。手ぶらで帰っていった者は一人も無いのが前の自分の自慢でもあった。
(そうやってシドを見付けたんだっけな)
飛び抜けて飲み込みの早かったシドは主任操舵士として船を任せられるほどになったけれども。
シャングリラの操舵が出来る者は他にも何人もいた。
ブリッジどころか農業部門にだって、交代要員として使える者が居たほど。
誰も彼も皆、前の自分が教えた者たち。
どんなに下手でも怒鳴り付けはせず、我慢強く指導し、教えた者たち。
(そして俺は…)
俺も習った方だったっけな、と苦笑した。
船の舵など握ったことさえ無かったというのに、フライパンから舵に持ち替えて。
厨房からブリッジへ居場所を移して、フライパンの代わりに舵を握って。
(フライパンから舵へ、だからなあ…)
実にとんでもない転身。
およそ思い付かない、調理人からパイロットへの百八十度どころではない進路変更。
けれども、やりたかったのだ。
シャングリラを自由自在に操るキャプテンになりたかったのだ。
(今から思えば無茶なんだがなあ…)
正気の沙汰とも思えないのだが、キャプテンの任を受けて最初に申し出たことが操舵の練習。
厨房を離れてキャプテンになろう、と決意した時から決めていたこと。
それは要らない、指揮だけでいい、とゼルやブラウに言われたけれども、譲らなかった。
お飾りのキャプテンなどは要らない。そんな任なら受けてはいない。
ブルーを助けて船を動かせる者になるのだ、と堅く自分に誓っていたから。
とはいえ、いきなり舵を握るわけにもいかないから。また、許しても貰えないから。
最初は暇な時間を見付けてシミュレーション用の部屋に籠った。
シャングリラが人類のものであった頃から備わっていた、パイロットの訓練用の部屋。
かつてコンスティテューションと呼ばれていた船の操縦席を再現したもの。
操縦のために使う舵輪や、星々を映し出す大きなスクリーン。船の位置を教える計器なども。
恐らくは勘が鈍らないよう、非番の者が使った部屋なのだろう。
その部屋に入り、シミュレーターを起動してから舵輪を握る。
ブリッジの者たちがやっているように、「面舵いっぱーい!」などと慣れない声を上げながら、懸命に操縦するのだけれど。
思うように船は動かない。舵を切り過ぎたり、逆に足りなかったり。
(くそっ…!)
避け切れなくて、激突してしまった小惑星。
つい先刻まで鳴り響いていた異常接近を知らせる警告音までが止まってしまって、スクリーンは暗転、無慈悲な「終わり」を告げる文字。
また失敗か、と呻いていたら。
「お疲れ様」
はい、と差し出されたコーヒーのカップ。湯気が立ち昇っている、淹れたてのコーヒー。
自分用の紅茶のカップも一緒にトレイに載せて、ブルーが其処に立っていた。
今の小さなブルーよりも少し育った姿の少年。
ハーレイをキャプテンに推した少年。
キャプテンになってくれたらいいなと、自分の命を預けるのならハーレイがいいと言った少年。
「ハーレイ、休み時間も此処で練習してるわけ?」
見当たらないな、って探していたら、ゼルが教えてくれたんだよ。
ハーレイだったらシミュレーターと格闘している筈だ、と。
「一刻も早く覚えたくてな」
船も動かせないキャプテンなんぞは話にならん。
ゼルたちは指揮さえ出来ればいいと言っているがな、それでは役に立たんだろう。
いざという時、お前の望み通りの場所へと船を運ぶなら、俺がやらんと息が合わない。
「焦らなくても、練習時間は充分あると思うけど…」
「後悔先に立たずと言うだろうが」
あの時、練習しておきゃ良かった、と思う羽目になるのは俺は御免だ。
何が何でもさっさと覚えて、このシャングリラを動かさんとな。
「無理しないでよ?」
キャプテンが倒れてしまったら大変なんだし、ほどほどにね。
でも…。
そんなに難しいのかな、とシミュレーターに向かったブルーはハーレイよりも上手かった。
一通りマニュアルを確認してから始めたけれども、鮮やかな腕。
「面舵」や「取り舵」の掛け声も全く間違っておらず、障害物をかわして避けて船を進める。
それどころか、船の速度を上げた。
ハーレイにはとても操れない速さにスピードを上げて、ぐんぐん船を進めてゆくから。
操船中に私語は良くないというのも忘れて、ハーレイは思わず背後から訊いた。
「お前、いつの間に練習したんだ?」
「初めてだけど」
答えながら大きく舵を切ったブルー。
さっきハーレイが避け損なった小惑星に似た巨大な岩の塊を避け、続いて現れた小惑星をも。
二連続など、ハーレイにはとても避けられはしない。
「初めてで今のは無理だろう!」
俺が何度ぶつかったと思っているんだ、一個目はいけても二個目は未だに無理なんだぞ!
「どうして? ゆっくりしてるよ、このシミュレーター」
「はあ?」
ハーレイはポカンと口を開け、スクリーンに映る星々を眺めた。
ブルーがまたも速度を上げたのだろう、猛スピードで迫る障害物。
「おもかーじ!」
まるでゲームを楽しむかのように、ブルーが操る船はぐんぐん飛んでゆく。
ハーレイにはとても出せない速度で、今までに飛んだどの記録よりも長く遠い距離を。
満足し切ったブルーがシミュレーターを止めた時には、ハーレイは既に酔いそうだった。
速度はとうに最大船速、それで小惑星帯の中を縦横無尽に飛ばれたのではたまらない。
スクリーンの映像を見ているだけで平衡感覚を失ってしまい、目が回ったとでも言うべきか。
「…お前、本当に初めてなのか?」
そうは見えんが、とクラクラする頭を鎮めようと額を押さえつつ訊けば、「うん」という答え。
「さっきも言ったよ、初めてだって。最大船速でもゆっくりしてると思うけど…」
ハーレイの目には凄い速度で飛んで来るとしか見えない、小惑星などの障害物。
それがブルーにはスローモーションのように見えるという。
のろのろと飛んで来るものを避けるくらいは簡単なことで、舵の加減さえ掴めば楽なものだと。
「だって、ぼくはこの船と同じ速さか、もっと速くで飛ぶんだよ?」
そうやって飛んで、物資を奪いに何度も出掛けているんだけど…。
いちいち何かにぶつかっていたら、とてもじゃないけど飛べやしないよ。
「なるほどな…」
そういう理屈か、と腑に落ちたものの、ハーレイには出せない最大船速。
まだ避けられない、二段構えの障害物。
フウと大きく溜息をついて、愚痴を零さざるを得なかった。
「つまり俺はだ、操船でもお前に敵いはしない、と…」
お前に負けているってわけだな、そんなので本当にお前の役に立てるんだろうか…?
「大丈夫。じきに上手くなるよ」
これだけ熱心なんだから。ぼくが保証する。
大丈夫だよ、とブルーは微笑み、空になった二つのカップを手にして去って行った。
ハーレイをキャプテンに推したあの日に、そうしたように。
「ハーレイがなってくれるといいな」と言い残して去った、あの日のように…。
ブルーの期待は裏切れない。
船を操れないキャプテンも駄目だ、と自分自身を叱咤し、シミュレーターと格闘し続けて。
どうにか及第点を出せるようになり、時々様子を見がてらアドバイスに来ていたブリッジの者も「これならいける」と頷いてくれた。
後は実地で慣れるだけだと、船の居心地が多少悪かろうが、皆には我慢して貰おうと。
そうして実際にハーレイがシャングリラの舵を握る日がやって来た時。
ブルーは自分が外に出ると言った。
船は自分がシールドで守るから、操舵にだけ打ち込んでくれればいい、と。
ブルーが瞬間移動で船の外に出た後、ハーレイは生まれて初めて宇宙船の舵なるものを握った。
シミュレーターで使っていた舵輪と同じものだが、問題は船。シミュレーターならば誰も船には乗ってはいない。激しく揺れようが衝突しようが、誰にも影響しはしない。
(…しかし…)
これから自分が動かす船には、ブルー以外の仲間が全員、乗り込んでいる。揺れれば皆の身体も揺れるし、ぶつかれば衝撃。
もっとも、ブルーのシールドがあるから、ぶつかることだけは無いのだろうが…。
けれど、此処で尻込みをするわけにはいかない。
いつかは通らねばならない道だし、シャングリラを意のままに操りたければやるしかない。
「シャングリラ、発進!」
ハーレイは舵輪をしっかりと握り、先導役を務めると言ったブルーを追うべく、シャングリラを自分自身の手で発進させた。
青く強く輝くブルーを追いかけ、暫くは順調な航行だったのだけれど。
(うわっ…!)
取り舵と声を上げる暇さえ無かった。
必死の思いで舵を切ったが、船の行く手に突然、飛び込んで来た小惑星。ブルーがシールドしていなければ派手に激突していただろう。
接近を知らせる警告音は何の役にも立たなかった。
それもその筈、頼みの綱の警告音はもう長い間ブリッジに響きっ放しで、未だに止まる気配さえ無い。上下左右に小惑星や岩の破片が浮かんだ空間。これでは警告は止まりはしない。
(こんな所で練習しなくても…!)
いくら俺がタフでも神経が持たん、と嘆きたくなる心を引き締め、ただ懸命に舵を切る。
ブルーの先導でシャングリラが連れて行かれた先は、障害物多数の空間だった。
行けども行けども次から次へと湧いて出て来る小惑星や岩。ブリッジに響き続ける警告音。
(まだ続くのか…!)
先を飛んでゆくブルーの姿が消えた、と思えば障害物。ブルーが見えている時であっても油断は禁物、ごくごく小さな岩の欠片が航路に鎮座していたりする。
たかが小さな岩であっても、ぶつかった場所が悪かったりすれば宇宙船には命取り。
つまりはそれをも避けて飛ばねばならないわけで、神経が休まる暇が無い。
(習うより慣れろということなのか!?)
そうなのか、とブルーに思念を飛ばす余裕すらもありはしなかった。
終わった後でゼルやブラウまでが「死ぬかと思った」と零したほどのハードな初操舵。
シャングリラは無傷だったけれども、ハーレイは翌朝、死んだように眠りこけて遅刻した。
(あいつは鬼コーチだったんだ…)
やりやがった、と悪態をつきかけたけれど。
(違うか…)
現場で俺をしごいていただけなのか、と思い直した。
考えてみれば船を操っていたハーレイよりも、ブルーの方が遥かに負担が大きかった筈。
シャングリラの船体が傷つかないようシールドしながら、ハーレイを先導していたのだから。
今のブルーより育ってはいたが、まだまだ小さな少年の身体で。
細っこい身体で宇宙を駆けて、ハーレイの技術が及ばない分をカバーし続けていたのだから…。
(そうだな、あいつの方がずっと大変だったんだ)
俺なんかより、とハーレイは呟く。
舵を握っていただけの自分より、船を守らなければいけなかったブルーの方がずっと、と。
ハーレイ自身も「死ぬかと思った」初操舵の日の夜、ブルーは勤務を終えたハーレイの部屋までコーヒーを持って来てくれた。
自分の分の紅茶のカップもトレイに載せて、「お疲れ様」とあの日のように。
シミュレーション用の部屋に差し入れに来てくれた、あの日のようにトレイを持って。
ハーレイが向かっていた木の机の上にカップを並べて、自分用に椅子を引っ張って来ると。腰を下ろすと、ブルーは「ねえ」とハーレイの瞳を覗き込んだ。
「ねえ、ハーレイ。フライパンも船も、焦がさないのが大切だよね」
ハーレイは頑張っていたと思うよ、焦がさないように。
フライパンにはまだまだ敵わないけど、その内に船も上手く動かせるようになると思うよ。
「…知っていたのか、俺の…」
座右の銘とは少し違うが、俺の信条。どっちも焦がしちゃならん、ってヤツ。
「うん。フライパンも船も似たようなものだよ、と先に言ったのは、ぼくだけど…」
半分はぼくが作った言葉だけれども、上手い言葉に仕上がったな、って思ってるんだ。
確かにどっちも焦げちゃ駄目だよ、フライパンも船も。
でもね…。
でも、とブルーはハーレイにコーヒーを勧めて言った。
「本当に焦がさないように頑張ろうという所が凄いよ、お飾りのキャプテンなんかじゃなくて」
ハーレイがシャングリラを動かす日が来るだなんて、思わなかった。
キャプテンになって欲しいと頼みはしたけど、動かしてくれとまでは言わなかったよ。
「お前の信頼、裏切るわけにはいかないからな」
「操舵に慣れた仲間がちゃんといるんだし、任せておいて指揮でもいいのに」
「それだと阿吽の呼吸で動けん」
言ったろ、お前と俺との息が合わないと話にならんと。
ピタリと合わせて動くためには他人任せの操舵なんかじゃ駄目なんだ。
俺がやらんと、俺の思い通りに動く船でないと、お前と息が合わないってな。
「ありがとう。期待してるよ、ハーレイの操舵」
「もちろんだ」
やり遂げてみせるさ、やっと宇宙に漕ぎ出したばかりの俺だがな。
今日はお前の背中を追うのが精一杯だったが、いずれ必ず先回り出来るキャプテンになる。
お前が此処に来るだろう、ってポイントに向けて船を運んで、待っていられるキャプテンにな。
フライパンも船も、焦がさないように。
その一念と、ブルーのハードな指導のお蔭で、シャングリラの癖まで掴むことが出来た。
こう舵を切ればこう動くのだと、こうしたければ此処でこうするのだ、と。
計器に頼っての航行では分からない、シャングリラの癖。
舵輪を回すタイミングだとか、その時々で変わる僅かな力加減だとか。
そういったものを、全て現場で身に付けた。
「今日は此処だよ」と言わんばかりに飛んでゆくブルーを追いかけて飛んで、身体で覚えた。
ゼルたちの「死ぬかと思った」という台詞が少しずつ間遠になっていって、消えて。
もう誰一人として「またキャプテンの練習なのか?」と言い交わさないようになった頃。
ハーレイが舵を握っているのが当たり前になり、名実ともにキャプテンとなった。
そうしてシャングリラの舵を握って、宇宙をあちこち旅して行って。
気付けば誰よりも上手く船を操るキャプテン・ハーレイが出来上がっていた。
どんな場面でもハーレイがいれば安心なのだ、と皆が言うほどのキャプテンが…。
(…何もかもあいつのお蔭だな)
ブルーのお蔭だ、と漆黒の宇宙で青く輝いて先導していた少年の姿を思い出す。
今のブルーよりも少し育った、まだ少年の姿だったブルーを。
(あいつのために、と思ったんだが…)
結局は世話になっていたか、と苦い笑みが漏れる。
ブルーのためにとシャングリラを動かす決意を固めた自分だったけれど。
そのシャングリラの操舵を実地で叩き込むために、ブルーの背中を追いかけて飛んだ。
自分が失敗してしまった時も、ブルーのシールドが助けてくれた。
操舵の練習をしていた間に、シャングリラが焦げかかったことは実際、数え切れないほど。
けれどシャングリラは焦げることなく、ブルーのシールドに守られていた。
だから操舵に集中できたし、フライパンから船の舵へと持ち替えることが出来たのだ。
ブルーが居たから。
まだ少年の姿だったブルーがシールドを張って、いつも先導してくれたから…。
(今度はその分も、あいつに返してやらんとな)
前の生でブルーが自分のために使ってくれた力を、思いを、返してやらねばならないと思う。
シャングリラの操舵からしてブルー無しでは出来なかったし、きっと他にも山ほどある。
前のブルーが自分のためにと、力を、思いを惜しみなく使ってくれた場面が。
(そういったヤツを、今度は返してやりたいんだが…)
返してやりたいと思うけれども、小さなブルーに自分は何をしてやれるだろうか。
今度こそは全力で守ると決めたし、守る力もあるのだけれど。
前のブルーから貰った恩を全て返すには、一生かかっても足りるかどうか…。
(あいつは充分だと言ってくれそうなんだが…)
返さなくてもいいんだよ、と微笑みそうな小さなブルー。
きっと、ブルーは言うのだろうが。
返さなくていいと言ってくれるのだろうが、そう言いそうなブルーだから。
そんなブルーだから、誰よりも幸せにしてやりたいと心から願う。
ブルーを誰よりも幸せにしてやって、守ってやって。
ただ幸せだけをブルーのために。
前の生から愛し続けて、今も愛してやまないブルーを誰よりも幸せにしたいと願う。
そう、今度こそは……きっと。
船長の操舵・了
※操舵に挑んだキャプテン・ハーレイと、鬼コーチだったソルジャー・ブルー。
お蔭でシャングリラを動かせるようになったようです、厨房出身のキャプテンでしたけど。
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(んーと…)
おやつを食べながら、何気なく広げてみた新聞。
歴史の舞台探訪だとか、そういった感じで写真が載ってた、前のぼくたちの記念墓地。
あちこちの星にあると聞くけど、立派だったから、アルテメシアの分かと思った。だけど、下に書いてある注釈を読んだら、アルテメシアじゃなくってノアのヤツ。一番最初の記念墓地。
(あの頃はノアが首都惑星ってコトになってたものね)
今では一応、ぼくが住んでる地球が中心。
ただ、蘇った地球の環境を保護しなくては、というわけで首都としての機能は分散してる。前の首都惑星、ノアをメインにあちこちの星に。全部を纏めているのが地球。
だから前のハーレイが彫った宇宙遺産の木彫りのウサギも地球にあるんだ、正体はウサギなんかじゃなくってナキネズミだけど。
でも、地球にある行政の中枢機能はいわゆるお役所、それの出張所といった趣き。高層ビルとか凄く大きな建物じゃなくて、緑の豊かな広い敷地に幾つもの建物が散らばっている。
それできちんと役に立つんだ、通信手段がしっかりしていて、情報がリアルタイムで入るから。
わざわざ遠くの星まで出掛けなくても、重要な会議なんかも出来るから。
(ノアの頃からそうだったしね?)
前のぼくたちが生きてた頃よりも技術はずっと進歩してるし、首都としての機能は地球で充分。
見上げるような高層ビルなんかは建ってなくても、宇宙の中心。
だけど地球には、前のぼくたちの記念墓地は無い。
かつての首都惑星だったノアのと、前のぼくたちが隠れ住んでたアルテメシアと。その二ヶ所に大きな記念墓地があって、他の星にも実は幾つもあったりする。
英雄になってしまった前のぼくたちのお墓に花を供えたりしたがる人が多いから。
その上、前のぼくたちの身体は回収不能で、お墓には何も入ってないから。
とどのつまりが墓碑さえ建てれば其処がお墓で、どれでも本物。
ノアでも、アルテメシアでも、他の星でも、別に何処でも気にしないんだけど。
ただ、アルテメシアの記念墓地には「シャングリラの森」がくっついている。役目を終えた白い鯨が解体されて時の流れに連れ去られた時、船にあった木を移植したのがシャングリラの森。
木たちはすっかり代替わりをしてしまったけれども、こんもりと茂ったシャングリラの森。
そのシャングリラの森があるって言うから、ぼくとしてはアルテメシアにある記念墓地が好み。
断然、そっちの方がいいな、と思うんだけど…。
ぼくの好みを言っていいなら、ノアよりもアルテメシアがいいんだけれど。
(ちょっと待って…!)
好みも何も、ぼくは生きてた。
ソルジャー・ブルーだったぼくは生まれ変わって、青い地球の上で暮らしていた。
どっちのお墓に入りたいとか、そういう以前に生きている、ぼく。
お墓なんかは当分要りそうにないし、生まれて来てから十四年しか経ってない。
(だけど…)
どっちか一つを選ぶんだったらアルテメシアの方がいいかな。
シャングリラの森があるのが魅力的だし、それに何処よりも長く過ごした星だったから。
漆黒の宇宙を最初は小さな、後は何倍も大きな白い鯨になった船で旅して回った末に辿り着いた白い雲海の星。
シャングリラはずっと雲海に潜んだままだったけれど、前のぼくは地上に下りていた。もちろん自由時間ってわけじゃなくって、ソルジャーの仕事。
もっとも、フィシスを見付け出した後は、こっそり出掛けて水槽のフィシスに会っていたけど。
あれはソルジャーとしての仕事ではなくて、ぼくの我儘。ただの我儘。
そんな思い出までが残った星。今でもちょっぴり懐かしく思う、雲海の星。
だから、入るお墓を選んでいいなら、ノアよりも絶対、アルテメシアがいいんだけどな…。
そうしたいな、と思ったけども。
(入ってしまってどうするの!)
相手は記念墓地に建ってるお墓で、生きているぼくが入っちゃっても何にもならない。
それどころか、困る。
お墓なんかに入っちゃったら出歩けないし、おやつも御飯も食べられやしない。
(ぼくはお墓に入りたいわけじゃないんだけれど!)
生きているのに、と自分の頭を拳でコツンと叩いたんだけど。
よく考えたら、あれは前のぼくたちのために作られた記念墓地だから。
入りたいのは多分、ぼくじゃなくって、前のぼくなんだ。
お墓はあちこちの星にあるけど、空っぽだから。
何処の星にも、前のぼくの身体を収めた本物のお墓は無いんだから…。
(でも…)
もしもお墓に入れたとしても、前のぼくの分のお墓の隣にハーレイのお墓は建ってない。
前のぼくは一番の英雄扱い、記念墓地でも一番奥に墓碑が立ってて、隣には誰もいないんだ。
いくら立派な墓碑を貰っても、独りぼっちの前のぼく。
ジョミーとキースのお墓は仲良く隣り合わせで、前のぼくのお墓の前にあるのに。
そのまた前にはハーレイやゼルや、ブラウたちのお墓が賑やかに並んでいるというのに。
(…やだな、ぼくだけ別扱いって)
どうせだったら、みんな同列で並べておいて欲しかった。
もっと欲を言えば、ハーレイのお墓の隣が良かった。前のぼくたちが恋人同士だったことは内緒だけれども、初代ソルジャーと初代のキャプテン。隣り合わせでも不思議じゃないから。
だけど、そのハーレイのお墓も空っぽ。前のぼくのお墓と同じで空っぽ。
前のハーレイの身体も無くなってしまったから。
燃え上がる地球の地の底に飲まれて、影も形も無くなったから。
お墓の中身が入ってないのは、ハーレイだけじゃなくってヒルマンも、エラも。
ジョミーとキースもお墓は空っぽ、ハーレイたちと一緒で地球の地の底に消えてしまった。
記念墓地は何処も綺麗に空っぽ、だからこそ何処に作ってもいい。
例外は地球で、蘇るまでに長い時間が経ったこともあって、地球には記念墓地が無い。
空っぽのお墓が並んではいない。
(中身がありそうなお墓って…)
この地球にあるマードック大佐とパイパー少尉の分くらいだろう。
二人が乗った人類軍の旗艦は、地球に照準を定めたメギドに体当たりをしてそのまま沈んだ。
燃え盛る地球へと落ちて行ったメギドは、後に発見されたけれども。
すっかり風化してたと聞くから、マードック大佐たちの船もきっと残っていなかった筈。
風化したメギドは危険だからと撤去されてしまい、それが在った場所に今ではお墓。
マードック大佐とパイパー少尉の墓碑が立ってて、恋人たちが訪れるという。
二人の絆にあやかりたい恋人同士や、結婚式を挙げたばかりの新婚夫婦。
森の奥のお墓はちょっと遠いから、森の入口に花輪とかを供えられる場所。
(有名なお墓らしいけど…)
ハーレイに教えて貰ったけれども、そのお墓だって、中身はきっと空っぽなんだ。
もしかしたら二人が乗ってた船の欠片が入ってるかもしれないけれど。
それに乗ってた二人の身体は地球の一部になっちゃっただろう。
メギドが風化するほどの長い歳月に融けてしまって、地球の土や水になったんだろう。
(あれ…?)
そういえば、前のハーレイの身体も地球の一部になったんだった。
前にハーレイとそんな話をした覚えがある。
すると…、と部屋に戻って考えた。
おやつを食べ終えて、キッチンに居たママにお皿やカップを渡してから。
(えーっと…)
勉強机に頬杖をついて、ハーレイとぼくが一緒に写った写真を眺めて考え事。
今のハーレイは今のぼくと並んで、笑顔で写真に収まってるけど。
地球の一部になってしまった、前のハーレイ。
燃え上がる地球に飲み込まれて消えた、キャプテン・ハーレイ。
(もしかしたら…)
その地球で生まれた、今のハーレイが持ってる身体。
地球で生まれて地球で育った、今のハーレイの大きな身体。
前のハーレイとそっくり同じパーツで出来上がっている可能性がある。
DNAとか、細かい所を言い出したら多分、前のハーレイとは違うだろうけど。
でも、前のハーレイだった素材をちゃんと使って、今の身体が出来ている可能性だって…。
(…いいな…)
ちょっぴりハーレイが羨ましくなった。
前のぼくの身体はメギドと一緒にジルベスター星系で消えてしまって、地球からは遠い。
隕石に乗って運ばれてくるとか、彗星の核に取り込まれて宇宙を旅してくるとか。
そんな風にして地球まで辿り着くには、あまりにも遠すぎるジルベスター星系。
ついでに言うなら、前のぼくが死んでからミュウと人類の戦いが終わるまでには何年かあって、トォニィたちがシャングリラでナスカの跡へと向かった時には、前のぼくはとっくに宇宙の藻屑。
見付け出そうにも手掛かりがなくて、宇宙ゴミになったメギドの破片が片付けられただけ。
他の沢山の戦場と同じで、船の航行に支障が出ないよう、後片付けがされただけ。
前のぼくの身体は宇宙に散らばり、消えてしまった。地球からは遠く離れた場所で。
どう考えたって地球には来てない、前のぼくを構成していた物質。
なのに、ハーレイは違うんだ。この地球にちゃんと部品が残って、他の何かに変化して。
それから長い長い時間を地球の上で色々と循環した後、今のハーレイを作ったかも…。
前のハーレイとそっくりな身体を、もう一度作り上げたかも…。
(…ぼくの身体は前のと絶対、違うのに…)
前のぼくの身体は遠いジルベスター星系に散らばったんだし、今のぼくの身体には使えない。
使いたくても、使いようがない。
だけどハーレイは、メイド・イン・ハーレイって言うのかな?
ちょっと間違ってるかもしれないけれども、前のハーレイで出来てる可能性あり。
でも、ぼくの場合はメイド・イン・ブルーにはなりっこないんだ。
今のぼくを作るために再利用しようにも、前のぼくのパーツは地球には無いから。
ほんの小さな、肉眼ではとても捉えられない細胞ですらも、地球まで来てはいないんだから。
(メイド・イン・テラなんだよ、今のぼくは…)
前のぼくとはまるで無関係な、地球の物質で出来ちゃった、ぼく。
そっくり同じ姿に育つんだったら、前のぼくのパーツを使いたかったな、って思ったけれど。
とても残念だったんだけれど…。
(そうだ、ハーレイ!)
地球で育った、地球生まれのぼく。
ひょっとしたら、今のぼくの身体は前のハーレイのパーツを貰っているかもしれない。
地球の一部になってしまった、前のハーレイ。
巡り巡って、この地球で生まれたぼくの身体の一部を作っているのかも…。
もしも前のハーレイの一部を貰ったとしたら。
(結婚してなくても、とうの昔に二人で一人?)
今のぼくの身体に、前のハーレイ。いつでも一緒で、二人で一人。
そう考えたら、今度は得意。
今のハーレイの身体に前のぼくは絶対、入ってるわけがないんだけれど。
ぼくは前のハーレイの一部を身体に取り込んでいるかもしれない。
ちっぽけなぼくの身体だけれども、何処かが前のハーレイの身体で出来ているかも…!
(手とか、指とか…?)
直ぐに見える場所が前のハーレイの一部で出来上がってたらいいのにな。
一目でそれと分かる印がくっついてるとか。
この部分が前のハーレイなんだな、って見るだけで分かればいいんだけどな…。
「おい」
「えっ?」
考え事に夢中だった、ぼく。
いきなり耳に飛び込んで来た「おい」って声にビックリ仰天。耳に馴染んだハーレイの声。
普段だったら、お客さんだと知らせるチャイムの音だけで窓の所まで駆けてゆくのに、ウッカリしていた今日のぼく。
鳴ったチャイムに気付くどころか、ハーレイが部屋にやって来るまで気が付かなかった。
ぼくの目は多分、見事に真ん丸だったんだろう。ハーレイをぼくの部屋まで案内して来たママが「あらあら…」って呆れて笑ってる。
お茶は置いて行ってくれたけれども。
ハーレイと夕食を待つまでの間に食べるお菓子も、テーブルに置いてってくれたんだけども。
大失敗をしてしまった、ぼく。
窓際のテーブルでいつものように向かい合うなり、案の定、ハーレイに訊かれてしまった。
「いったい何を考えてたんだ?」
俺が来たのに気付きもしないで、うわの空で何を考えていた?
「…ぼくの身体のこと…」
そう答えたら、降って来てしまった沈黙ってヤツ。眉間に皺を寄せたハーレイ。
なんで、って首を傾げた途端に思い当たった。
ハーレイは勘違いしてるんだ。ぼくがいつも「大きくなりたい」ばっかり言っているから。早く大きくなってキスがしたいと、本物の恋人同士になるんだ、って。
これはマズイ、と慌てて首を左右に振った。
「ううん、身体のことって言っても、へんてこな意味の中身じゃなくって!」
違うだってば、うんと真面目に考え事をしてたんだってば…!
ぼくは頑張って説明した。
今のハーレイはまるごとハーレイで出来ているかもしれないけれども、ぼくは違うって。
だから今のぼくの身体の中には、前のハーレイのパーツが入っているかもしれないよ、って。
「いいでしょ、ハーレイ入りなんだよ、ぼく」
何処がそうかは分かんないけど。
きっと入っていると思うよ、前のハーレイは地球の一部になったんだから。
「なるほどなあ…。前の俺のパーツで出来てます、ってか」
此処がそうです、って一発で分かるプレートでも付いてりゃ良かったな。
改造前のシャングリラにあったプレートみたいに。
シャングリラの名前に書き換える前は、コンスティテューションって書いてあったプレート。
「うん、心の目でしか見えないプレートが付いてたらいいな」
あったらいいのに、そんなプレート。
そしたら幸せになれるんだけどな、ぼくの此処は前のハーレイで出来ているんだよ、って。
「おいおい…」
その発想は面白いが、ってハーレイの鳶色の瞳が笑ってる。
ぼくは笑われるようなことを言っただろうか、と「どうかしたの?」って訊いてみたら。鳶色の瞳が悪戯っ子みたいな光を湛えて、笑いを含んだ声が返った。
「今のお前に入ってるパーツ、俺だとは限らないんだぞ」
プレートで表示させるのはいいが、だ。
ジョミーとかキースとか、そういうプレート、あったらどうする。
あいつらも地球の一部なんだぞ、充分あり得ることだろうが。
「ええっ!?」
それは困る、と本気で思った。
ハーレイの名前が入ったプレートは欲しいけれども、ジョミーは要らない。
もちろんキースのだって要らない。
ぼくはプルプルと首を横に振り、「嫌だ」と叫んだ。
そんなプレートは要りもしないし、くっついていたら凄く嫌だと。
大慌てで「要らない」と断った、ぼく。
ハーレイは「そうだろうな」と可笑しそうな顔。
「ほら見ろ、無くて良かっただろうが、そういうプレート」
ついちまってたら悲しいだけだぞ、此処はジョミーだの、キースだのと。
「…でも…。ハーレイ限定で表示されるんなら欲しいけど?」
此処はハーレイ、っていう部分だけを表示できます、って仕組みだったら欲しいんだけどな。
ハーレイ以外の部分は非表示に出来るプレート。
「だから、必ずしも俺が入っているとは限らない、と」
赤の他人ってこともあるんだ、そうだろう?
いくら地球でも狙ったように前の俺のパーツが入るとは限っていないんだからな。
「それはそうかもしれないけれど…」
でもね、ぼくにはハーレイ入りの可能性ってヤツがあるんだよ。
だけどハーレイには、前のぼくは絶対入っていないから!
入りっこないし、混ざりもしないよ。
ぼくは二人で一人だっていう可能性がゼロってわけじゃないけど、ハーレイはゼロ。
前のぼくなんかは入っていなくて、二人で一人じゃないんだよ。
だから、と威張ってみせた、ぼく。
今のぼくの身体の方がハーレイのよりもずっとお得で、二人で一人かもしれないと。
ぼくの中には前のハーレイ、結婚する前から一緒に暮らしているのかも、と。
これは今のハーレイには真似出来ないから、「どんなもんだ」って自慢したのに。
「甘いな」
「…えっ?」
甘すぎるな、と不敵に笑ったハーレイ。自信たっぷりに笑ったハーレイ。
どうして「甘い」って言えるんだろう?
前のぼくの身体はずうっと遠くのジルベスター星系で消えてしまって、地球には無いのに。
ありっこないのに、なんでハーレイは「甘い」と笑っているんだろう?
ぼくには全く分からない根拠。
ハーレイの自信が何処から来るのか、全然サッパリ分からないんだけど…!
目をパチクリとさせているぼくに、ハーレイが投げて来た言葉。「甘いな」の続き。
「お前、食物連鎖を知らんのか?」
「…知ってるけど?」
知ってるからこそ言ってるんだよ、今のぼくには前のハーレイが入っているかもしれないって。
「なら、訊くが。…前のお前が死んじまってから何年経った?」
「えーっと…」
何年だろう、と指を折りかけたぼくだけれども。
もちろん指なんかで数え切れるわけがない、とてつもない年数が流れたんだけど…。
「数えなくてもかまわんさ」
其処は問題じゃないんだからな、とハーレイは暗算を始めかけていたぼくにストップをかけた。
そうじゃないんだと、要は流れた年数なのだ、と。
「いいか? とにかく、そう簡単には数えられないほどの時が流れたということだ」
今のジルベスター星系はすっかり様変わりしている筈だぞ、技術が上がってテラフォーミングが成功した星があるんだが…。
聞いたことはないか、今のジルベスター星系の話。
「そういえば…」
あったかな、と思わないでもない。
前のぼくの悲しすぎた最期を思い出すから、今のぼくはジルベスター星系を避けているけれど。
一切調べていないけれども、前世の記憶が戻るよりも前にチラッと何処かで目にした覚え。
ミュウの歴史で大きな意味を持つナスカ。砕けてしまった赤い星、ナスカ。
遠い昔にナスカが在ったジルベスター星系の中に、人が住んでいる惑星があった。
ナスカって名前はついてないけど、人間が暮らしている星が。
「おっ、チビのお前でも知ってたか?」
よしよし、とハーレイの手がぼくの頭をクシャリと撫でた。
嬉しいけれども、チビ扱い。ちょっぴり複雑な気分のぼくに、ハーレイはパチンとウインクしてみせて。
「その星だがな…。けっこう有名になってるようだぞ、牧草地で」
「牧草地?」
それって、牛とかが食べる草のこと?
ぼくはそれしか思い付かないけど、その牧草地?
「うむ。牛を飼うには向いていないが、何故か牧草地には向いていた、ってな」
牛を飼ってみても、とびきり美味い肉もミルクも出来なかった、って話なんだが…。
どういう神様の気まぐれなんだか、いい牧草が採れるんだそうだ。
それでだ、自分たちで牛を飼うのは諦めちまって、牧草を育てる方にした。
とてつもなく広い畑と言うには変かもしれんが、もう一面の牧草地だな。其処で牧草をドッサリ育てて、あちこちの星に輸出している。牛を飼ってる農場向けに、だ。
「…そうだったの?」
「ああ。この地球からはうんと遠いから、牧草は来てはいないだろうが…。その牧草があちこちの星で牛を育てて、名産の乳製品がこれまた宇宙に散って行ってる」
其処の星では肥料用に、ってメギドで大穴が開いちまったジルベスター・エイト近辺で小惑星を削っているらしい。
いいか、ジルベスター・エイトってヤツだ、前のお前は見ている筈だぞ、メギドの近くだ。
そんな所で肥料の採掘をしては、せっせと牧草地の土に鋤き込んでいる。
ということは、だ…。
まだ分からないか、食物連鎖?
「ハーレイ、それって…」
前のぼくの身体、宇宙に散らばったままじゃないかもしれないの?
小惑星の土と一緒に牧草地の星に行っちゃった?
「その可能性もあるってことだな、あくまで可能性だがな」
もしも牧草地の星の一部になっちまっていたら、其処から何処へ行ったものやら…。
この地球までも来たかもしれんな、何処かの星の名産品のチーズやバターに化けちまってな。
「えーっ!」
ぼくは心底、驚いた。
前のぼくの身体は回収不可能、今も宇宙を漂っていると思っていたのに、回収された可能性。
肥料を採掘しているという小惑星から、牧草地の星に運ばれてしまった可能性。
そうなっていたら、前のぼくの身体は牧草になって、何処かの星へ。
牛を沢山飼っている星に運ばれて、牛に食べられて、ミルクやバターやチーズになって…。
(…他の星の名産品です、って書いてある乳製品、けっこうあるよね…)
もしかしたら食料品店の棚に並んでいるかもしれない、前のぼく。
チーズやバターに化けてしまって、お客さんに買われていそうな前のぼく。
すると…。
「ねえ、ハーレイ。もしも、だよ?」
もしハーレイが前のぼくが化けたチーズとかを食べてしまっていたら…。
「俺の一部は前のお前だということだな」
だから言ったろう、「甘いな」と。
食物連鎖の末に俺の中に入りました、って可能性だってあるわけだ。
どの部分が前のお前なのかは分からんがな。
「ハーレイもプレート、欲しくならない?」
前のぼくの名前が書いてあるプレート。
この部分は前のぼくなんです、って一目で見分けが出来るプレート。
「ふむ…。前のお前限定で表示されるなら、なんだか欲しい気もして来たな」
ソルジャー・ブルーと書いてあるのか、ただのブルーか。
その辺も含めて見てみたいもんだな、前のお前は此処にあります、と書かれたプレート。
「でしょ?」
ハーレイだって欲しくなるでしょ、プレート。
前のぼくが身体の中に入っているかもしれないって思ったら、目印のプレート。
一目で分かって便利なんだよ、いつも二人で一人なんだよ、っていう目印。
勢い込んだぼくだけれども、でも…、とハーレイと二人で笑い合った。
此処はやっぱり、地球なんだから。
前のハーレイだけじゃなくって、ジョミーもキースも、ゼルたちも地球の一部になったから。
地球の上に生まれ変わった今のぼくたちの身体は、誰のパーツで出来ているのか全くの謎。
誰も入っていないかもだし、思いもよらない誰かの身体が中に入っているかもしれない。
自分の身体を作っているパーツは誰なのか。
下手にプレートを表示させたら、キースだったり、ジョミーだったり。
あるいはゼルとか、ヒルマンだとか。
ぼくとハーレイ、お互いに前の生での恋人のみを表示出来たらいいんだけれど。
ハーレイならぼくで、ぼくならハーレイ。
それ以外の時は表示しなくて、恋人の名前のプレートだけが見えるんだったら最高だけど。
限定表示に出来なかったら、とっても困る。
困ってしまうから今のままでいいと、プレートは無しのままでいいよね、と。
もしかすると地球まで辿り着いたかもしれない、前のぼくの身体。
食料品店の棚に並んで、ハーレイが買って食べたかもしれない、前のぼくを構成していた物質。
そうしたらハーレイの身体の中には、前のぼく。
地球生まれのぼくの身体の中には、地球の一部になったハーレイ。
ハーレイとぼくと、お互いに入っていたらいいのに、前のぼくたちの身体の一部。
(もしも、そんな風に出来た身体だったら…)
二人で一人の身体だったら嬉しいのにな、と夢が大きく膨らんだ。
そういう身体を持っているなら、今度は本当に二人一緒で、いつでも一緒。
おまけに前のぼくたちだって、結婚式を挙げられるんだ。
前は結婚出来なかったけど、今の新しい身体を使って、前のぼくたちも。
そうだといいな、とハーレイに言ったら、「そうだな」って笑顔で返してくれた。
ぼくが好きでたまらない笑顔で、大好きな温かくて優しい笑顔で。
「よし、俺も頑張って乳製品を食うとするかな、前のお前を取り込まないといけないからな」
お前だけが前の俺と二人で一人じゃ癪に障るし、俺も二人で一人を目指そう。
とっくの昔に取り込んでるとしても、プレートがついてないからな。
「うんっ! ハーレイも二人で一人がいいよ」
そうしておいたら、いつでも一緒。
どんな時でも二人一緒だよ、「前の」って言葉が恋人の前についちゃうけれど。
だけどお互い、生まれ変わりだから、前でも今でも変わらないよね。
前の恋人でも今の恋人でも、相手はおんなじなんだもの。
「違いないな」
今日にでも早速買い出しに行くか、乳製品。
そろそろバターを買わんとな、と思っていたから、地球産じゃなくて他のにしよう。
前のお前が入っていそうな確率がグンと高まるからな。
何処のバターを買うとするかな、って買い物の段取りをしているハーレイ。
前のぼくが入っているかもしれない、バターを買おうというハーレイ。
(…前のぼく、バターになっちゃったかな?)
それともチーズ…、と想像していて、気が付いた。
よく考えたら、ぼくも毎朝ミルクを飲んでる。早く背丈が伸びますように、って。
あの毎朝のミルクと一緒に、前のぼくを取り込んでいるかもしれない。
牧草になった前のぼくの身体で育った牛の子供とか、その孫だとか。
そういう牛のミルクだったら、前のぼくだって入ってる。
ほんのちょっぴりでも、前のぼく。
ミルクになって遠い地球まで旅をして来た、前のぼく。
(…ふふっ)
ミルクになってしまったかもね、と考えたら胸がじんわり温かくなった。
前のハーレイの身体は地球の一部になっているのに、前のぼくの身体は何処にも無いんだな、と思っていたけど、ジルベスター星系に出来ているという牧草地の星。
ジルベスター・エイトの近くで肥料を採掘している星。
前のぼくの身体、牧草地の星になってるといいな、牧草になっているのがいいな。
そしてバターやチーズとかになって、青い地球まで来てるといいな。
前のぼくが辿り着けなかった地球。
乳製品の棚に並んでいてもいいから、前のぼくだって地球に着いてるといいな。
だって、今のぼくは青い地球の上、うんと幸せに生きているから…。
前のぼくの身体・了
※ソルジャー・ブルーのお墓は空っぽ。地球には欠片さえも来ていそうにないと思ったら。
牧草地になった星のお蔭で、来ているのかもしれません。それも素敵なお話かも。
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(今日は予定が狂っちまったな…)
ハーレイは腕時計を眺めて溜息をついた。
予定通りに進んでいたなら、今頃はブルーの部屋に居た筈なのだが、仕方ない。自分も寂しいと思うけれども、ブルーはもっと寂しいだろう。
(…寄ってやれなくてごめんな、ブルー)
約束をしていなかったことが救いと言えた。平日はどうしても仕事があるから、「必ず寄る」と予告出来る日は滅多に無い。
だからブルーもさほど期待はしていないだろう、と考えながら愛車に乗り込んだ。
前の生でのマントの色と同じ色をした、忠実な車。それを自宅に向けて走らせ、近くなった所で普段とは別の角を曲がった。
その先に現れた、レストラン部門を併設している大きなパン屋。駐車場も備えられている。車を其処に滑り込ませて、おもむろに店の扉をくぐった。
早朝から店を開けているから、いつもだったら仕事に行く前に訪れる店。
(ふむ…)
今日はこれにするか、と田舎パンを選んでトレイに載せた。どっしりと目の詰まった田舎パンは大きく、食パンよりもズシリと重い。まさに食事パンといった趣き。
焼いて良し、サンドイッチに使っても良し。この田舎パンはけっこう好みだ。
店の看板商品でもある食パンと暫し迷った末での選択。此処の食パンは窯がいいと評判が高く、わざわざ車で買いに出掛けて来る人もいるほど。
(だが、今日の気分は田舎パンなんだ)
ふんわりとした食感よりも、噛み締めたい気分。歯ごたえのある田舎パン。
料理の得意なハーレイではあるが、流石にパンまでは自分で焼かない。焼こうと思えば焼けないこともなかったけれども、専門の店の窯の味には敵わない。
ゆえにこうして、行きつけのパン屋が近所に存在するわけで…。
「お願いします」
田舎パンを載せたトレイをレジに差し出し、包んで貰った。
レジの向こう側、何段か上って高くなった床の所がレストラン部門の入口になる。カウンターとテーブル席のある其処は、午前中ならば店で買ったパンを持ち込み、食べることが出来た。
しかし、今の時間はそうではない。ごくごく普通にハンバーグやパスタが供される時間、それとケーキなどの喫茶もあるのだったか。
パン屋に併設されているほどだから、気取った所は全く無かった。普段着でフラリと入れる店。いつ来ても客が絶えない店。
とはいえ、特に関心があるわけでもなく、「今日も賑やかだな」と見ていた程度。
支払いの時に店員が袋に入れていたチラシも、新商品の案内などが載ったものだと頭から決めてかかっていた。いつも入っているチラシ。店員の手描きのイラスト入り。
ところが、家に帰ってみたら。
(ん…?)
田舎パンを仕舞おうと覗き込んだ袋に、カラフルなチラシ。
見慣れた茶色の手作り感が溢れるチラシではなく、綺麗に印刷されたもの。しかも写真入り。
(なんだ?)
鳴り物入りで発売される新商品でもあるのだろうか、と田舎パンの後に引っ張り出したチラシ。それを広げて、ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
期間限定、シャングリラ・セットと記された文字と、シャングリラの写真。
レストラン部門で歴代ソルジャーの食べた食事を味わいませんか、というコンセプト。
チラシに刷られたソルジャー・ブルーとジョミーとトォニィ、三人のソルジャーのカラー写真。
(こう来たか…)
今も絶大な人気を誇る三人、こういう企画もありだとは思う。
あの店はこの町に何店舗かある地域密着型のチェーン店だから、全店でやれば客だって呼べる。
そうは思うが、シャングリラ・セット。歴代ソルジャーが食べていた食事。
(レシピは残っていない筈だが…!)
そんな本にはお目に掛かったことがない。データベースでも見たことがない。
おかしい、とチラシの説明文をよく読んでみれば、根拠はあった。
前の自分が書いた航宙日誌。
それとすっかり平和になった後、トォニィが受けたインタビューとやら。
(しかし…)
ランチタイムから供されるという、ジョミーのセットとトォニィのセット。
買ったパンを持ち込んでの食事が許されなくなる、レストランが完全にオープンした後。
(この二人か…)
確かにブルーは食が細かったし、本格的なメニューには向かないだろう。しっかり食べたい客が好むとは思えない。ブルーはモーニングセットの担当。
(で、中身は、と…)
チラシにはジョミーとトォニィの分が先に書かれていたから、そちらから見ることにした。
ジョミーのメニューはサンドイッチセット。
曰く、「ソルジャー・シンが忙しかった時の昼食代わりのサンドイッチを再現しました」。
昼食代わりにとサンドイッチを食べていたことは本当だったから、文句は言わない。
(しかしだな…)
レストランではポットに入った紅茶と共に供されるようだが、ジョミーは適当に何か飲んでいただけ。サンドイッチしか食べられない時にポット入りの紅茶なんぞを楽しんではいない。
肝心のサンドイッチの中身の方も…。
(まあ、まるで間違ってはいないんだろうが…)
分厚く切られたももハムにサラダ菜、キュウリのピクルス。そこが売りの品。
どれもシャングリラにあった食材ではあるが、こういう組み合わせでジョミーが食べた、と記述した記憶は自分には無い。
第一、ジョミーのサンドイッチの好みが何だったのかを聞いてもいない。
(…多分、一回くらいはこういうヤツだって食べただろうさ)
そういうことにしておこう、と納得しておく。
生き証人がいない今では言った者勝ち、これがジョミーの好みのサンドイッチらしい。
トォニィの方は彼が好んだというパスタのセット。
オリーブオイルと塩、胡椒のみで味付けしたスパゲティにおかわり自由のパンのサービス。更にサラダとリンゴのタルトまでがつく。もちろんポットに入った紅茶も。
(…最後のソルジャーだけに、優雅なもんだな)
リンゴのタルトもトォニィの好物だと謳われていた。
サンドイッチだけのジョミーと違って、おかわり自由のパンにデザート。おまけにサラダ。
(こいつは充分、ありそうなんだが…)
ポット入りの紅茶を楽しんでいても不思議ではないが、生憎と自分はソルジャーに就任した後のトォニィを知らない。自分が死んだ後のことまで分かりはしないし、知るわけがない。
(トォニィはこういう飯だったのか?)
どうも分からん、と頭を振ったが、インタビュアーが正しく記述したなら、そうなのだろう。
ではブルーは…、と前の生で愛した人の名前を冠したモーニングセットを見るなり愕然とした。
(何なんだ、これは…!)
どうかと思う、と顔を顰めたセットの中身。プレートのド真ん中に鎮座した品。
謳い文句はこうだった。
「これを食べながら、ソルジャー・ブルーに思いを馳せてみてはいかが」。
思いを馳せたい人を止めはしないが、器の中身。プレートに置かれた器の中身。
それが売りらしい器の中身は、アルタミラ時代の「餌」だった。
オーツ麦のシリアルに必要な栄養素を添加しただけの、餌としか呼びようがなかった代物。
アルタミラから脱出した後、オーツ麦は元々が家畜の餌だったという笑えない話をヒルマンから聞いた。貧しい地域では主食だったが、豊かな土地では馬の餌だと。
それが後世、ヘルシーな食品としてもてはやされてシリアルに化けた。
更に時代が後になったら、アルタミラで再び餌に戻った。ミュウを飼っておくための飼料に。
(不味かったんだが…)
餌だけにとても不味かったんだが、と思うけれども、しかし栄養価は高かった「餌」。それさえ食べさせておけば死にはしない、と毎日檻に突っ込まれた餌。
なまじ栄養価が高いものだから、モーニングセットの餌は少ない。自分たちが食べていた量より遥かに少なく盛られた餌。器に上品に入れられた餌。
ついでに「蜂蜜入りの温かいミルクとレーズンを入れてどうぞ」とある。
(そんなものはついていなかったぞ!)
ミルクさえ無かったアルタミラなのに、前のブルーの名前を冠したモーニングセット。卵二個の目玉焼きとトースト、ポット入りの紅茶までがついてくる品。
(アルタミラでは餌と水だったんだが…!)
誰がこんなに豪華な朝食を、と文句をつけようにも、これが現実。
アルタミラどころかソルジャー・ブルーが生きた時代も遥かな昔で、平和な世の中。
(ソルジャー・ブルーの朝食と混ざっちまったと思っておくか…)
餌だけでは客が呼べないだろうし、こうなるのも止むを得ないだろう。
目玉焼きもトーストも紅茶も、航宙日誌に確かに書いた。ソルジャー・ブルーと摂った朝食。
(卵の数までは書かなかったしな…)
ブルーは二個も食べてはいない、と言いたかったが、書かなかった前の自分が悪い。
朝からしっかり食べたい人のためのセットと思えば卵が二個でも不思議ではない。
(しかし悪趣味な…)
いくらソルジャー・ブルーが絶大な人気を誇るとはいえ、誰が餌を食べたがるだろう?
アルタミラに思いを馳せるのだろう、と思いはしたものの、気になったから。
翌朝、田舎パンの朝食を済ませて出勤前にパン屋に出掛けてみたら、レストラン部門は繁盛していた。昼食用にとパンを買いながらレジで訊いてみると、人気は例のセットだという。
「ソルジャー・ブルーのセットを御注文になる方が殆どですね」
モーニングの時間帯は大部分のお客様があのセットです、とレジの女性が笑顔で答えた。
(餌なんだが…!)
あれは俺たちの餌だったんだが、と心で叫んだハーレイの声が届くわけがない。
女性はテキパキとハーレイが買ったパンを袋に詰め、例のチラシがまた突っ込まれた。
(どうせならブルーに見せてやるか…)
その日は仕事が早く終わったから、ブルーの家に行って、小さな恋人に見せてやったら。
意外にも楽しげにチラシを眺めて、興味津々の小さなブルー。
ジョミーはこれを食べたのだろうか、トォニィはけっこうグルメなのかも、などと。
「おいおい、そいつらは置いといてだな…」
問題はお前だ、前のお前の名前のセットだ。
いいか、メインは餌なんだぞ?
目玉焼きやトーストの方がオマケで、餌を味わって下さいっていうセットだぞ?
しかもだ、前のお前に「思いを馳せてみてはいかが」と来たもんだ。
お前、餌を食べながら前のお前を思い浮かべられて嬉しいか?
これがお前の食ってた味だ、ってウットリするヤツだっているかもしれん。
現に人気だ、こいつが朝には一番売れてるセットなんだ…!
あれこれと文句を並べ立ててみたハーレイだけれど。
小さな恋人は首を傾げて、こう言った。
「別に餌でも悪くはないと思うけど?」
「分かってるのか、前のお前はコレだと宣伝されてて人気なんだぞ、この餌が!」
ソルジャー・ブルーはアルタミラでコレを食ってましたと、この味を是非、と。
そんなので回想されてるんだぞ、前のお前が!
「だけど、一生、餌を食べてたっていうわけじゃないし…」
それに餌だって、案外、こうすると美味しいんじゃない?
温かいミルクに蜂蜜とレーズンがついてくるなんて。
ぼくは文句をつける気はないよ、このセット。
卵二個の目玉焼きは流石に食べ切れないけれど、と可笑しそうに笑っているブルー。
挙句の果てに言い出したことは、こうだった。
「ねえ、ハーレイ。ぼくは朝から食べに行けないから、ハーレイ、潜入して来てよ」
「はあ?」
「レストランだよ、このモーニングセットを食べに行ってみてよ」
それが嫌なら、今度の土曜日。
お昼前までは食べられるんでしょ、ぼくもお店に連れてってよ。
「なんで俺が!」
第一、お前と外で食事をするのはお断りだと言った筈だが。
どうしてお前を連れて行かねばならんのだ、俺が。
「ほら、駄目だって言うじゃない」
ぼくはどんなセットか凄く気になるのに、連れて行く気は無いんでしょ?
だったら、ハーレイが行くしかないよ。
一人で出掛けて潜入レポート、楽しみに待っているからね。
かくしてハーレイは例の餌を食べに行かされる羽目に陥った。
ブルーの命が下った翌朝、家で朝食を食べる代わりにパン屋の奥にあるレストランへと。
扉をくぐってレストラン部門へ繋がる段を上がると、サッと出て来たウェイトレス。
「お一人様ですか?」
カウンターへどうぞ、と案内された。忙しく立ち働く調理人たちが見える席。
渡されたメニューを一瞥した後、「これを」とソルジャー・ブルーの名前を冠したセットを注文してみれば、お洒落な籐のカトラリーケースに入って出て来たカトラリー。
ナプキンの上に置かれたナイフにフォークに、スプーンなどなど。
この辺からして既に間違っている。
(…まあ、シャングリラ・セットだしな?)
あくまでイメージ、平和な時代に創り出されたソルジャー・ブルーなモーニングセット。
目玉焼きまでついてくるのだし、ナイフもフォークも必要だろう。
(…しかしだ、肝心の餌ってヤツがだ…)
明らかに餌を食べるために添えられたスプーンなるもの。
アルタミラでは最悪スプーンも無かったんだが、と顔を顰めても始まらない。
そんなセットが売れるわけもなく、文句を言うだけ無駄というもの。
せっかく食べに来たのだから、とカウンター越しに眺めていればシリアルを器に入れていた。
今ではお洒落なパッケージになって食料品店に並ぶ、忌々しい餌。
(俺にとっては餌なんだが…)
分かるまいな、と眉間に皺を寄せている間に、サッと仕上がる卵が二個の目玉焼き。トーストも焼けてプレートに載せられ、餌と一緒にハーレイの前へと運ばれて来た。
紅茶のポットとカップが到着した後、ウェイトレスが笑顔でプレートを指す。
「お召し上がり方を説明させて頂きます」
彼女が言うものは例の餌。小さめのココット容器に入ったシリアル。
(召し上がり方も何も無いんだが…!)
食ってただけだが、と言いたくなる餌。由緒正しい家畜の餌から生まれたシリアル。
けれども反論出来る筈も無く、ウェイトレスは自分の仕事を微笑みながらこなして去った。
こちらの蜂蜜入りのミルクをかけてどうぞと、レーズンも混ぜて下さいと。
(…来たぞ…)
餌だ、とミルクは入れずに、そのままスプーンで口へと運んで。
(…あれだ…)
あの味だ、と一気に蘇って来たアルタミラの記憶。
独房と呼ぶにもあまりにお粗末な檻の中で一人、黙々と口に運んでいた餌。
ボソボソしていて、どうにも不味くて。
乾いたそれが喉に貼り付く度、水で飲み下した。必要に応じて薬などが混ざったりする、味などついている筈もない水で。
(…此処はアルタミラじゃないんだが…!)
青い地球に来た上、レストランでモーニングセットを食べているのに、アルタミラの記憶。
これではとてもたまらない、と蜂蜜入りのミルクを加えた。
様子を見ながら少しずつ入れようと思っていたことさえすっかり忘れて、全部を一気に。
(不味いんだが…)
蜂蜜とミルクは何処へ行ったのか、とウェイトレスを捕まえて訊きたい不味さ。
食感がマシになったと言うだけのことで、餌の不味さは変わらない。
添えられていたレーズンを全部放り込んでも、まだ不味かった。
(…どう転んだって餌でしかないぞ…)
レーズンを掬えば、ちゃんとミルクで膨らんだレーズンの味がするのだが。
肝心の餌の味は変わらず、ミルクも蜂蜜も何の救いにもなってはいない。
(やはり俺には向かんな、これは)
好き嫌いが無いのが自慢だったが、いわくつきの餌ともなれば多分、別枠なのだろう。
さて周りは、と見回してみれば「美味しくないけど、ヘルシーだから」とリピーターの声。
ソルジャー・ブルーの名前も聞こえる。
彼と同じものを食べられて嬉しいと、期間中にまた食べに来ようと。
ハーレイにとっては信じられない、周囲の反応。餌を食べたいと願う人々。
美味しくないと言っているくせに熱心に通うリピーターやら、再訪希望のソルジャー・ブルーのファンと思しき人々やら。
彼らには素敵な朝食らしいが、ハーレイにはそうは感じられない。
餌は餌であり、ミルクや蜂蜜が、レーズンがあっても餌でしかない。
(少なくとも俺は二度と食わんぞ…)
これはたまらん、とトーストと目玉焼きとに逃げた。
トーストにバターをたっぷり塗って、黄身がトロリと半熟になった目玉焼きを切って頬張って。
それらと餌とを交互に口へと運んでやって、やっとの思いでプレートの上を空にした。
プレートが下げられた後で熱い紅茶をゆっくりと飲んで、ようやく人心地ついたといった所か。
その朝、朝練に出て来た柔道部の生徒たちは普段以上に厳しくハードにしごかれた。
対外試合でも控えていたかと思うくらいに、明日は大会かと勘違いしそうなほどの勢いで。
そう、アルタミラの地獄を食生活だけ追体験して来たハーレイによって。
「こらあっ、グズグズしてるんじゃない!」
もっとキビキビ動かんか! と声を張り上げるハーレイの目には、朝練なんぞはお遊戯だった。
如何にハードな内容だろうが、走り込みだの、組手だので死ぬわけがない。
やればまだまだ出来る筈だと、もっと出来ると怒鳴りたくもなるというものだ。
あまりにも不味かったアルタミラの餌。
オーツ麦を使ったシリアルが売りの、ソルジャー・ブルーなモーニングセット。
(なんだってアレを食う羽目に…!)
早々にブルーに文句を言わねば、と今日の仕事を猛スピードで終わらせ、自分を生き地獄へ送り込んでくれた前の生の上司の家へと出掛けてゆけば。
「ハーレイ、もう食べに行って来てくれたんだ?」
嬉しいな、と小さなブルーはテーブルを挟んだ向こう側で顔を輝かせた。
「で、どうだったの?」
「不味かった!」
二度と食えるか、とハーレイが顔を歪めているのに。
「えっ、でも…」
とっても人気のセットなんでしょ、とブルーはあくまで無邪気に微笑む。
リピーターの人が大勢来ていて、また来たい人もいたんだよね、と。
理解に苦しむブルーの反応。かつての上司の愛らしい笑顔。
自分は地獄を見たと言うのに、この反応は何だろう?
どうにも不満でたまらないから、ハーレイはブルーに「おい」と声を掛けた。
「ブルー、手を出せ」
「なに?」
「俺の記憶を送り込んでやる」
お前も一緒にアレを食ってみろ、俺の気分が分かるだろう。
どれだけ不味いか、気持ちだけでもアレを体験してみるんだな。
「えっ、いいの?」
ホントにいいの?
ハーレイの記憶が見られるんだね、本物の潜入レポートだね!
やたらと嬉しそうにハーレイと手を絡めたブルーは、何の遠慮も無く送り込まれた地獄の朝食の記憶を全て受け取ってもなお、全く変わらず御機嫌だった。
自分だったらとてもこんなに食べられはしないと、プレートを空には出来ないだろうと。
卵二個の目玉焼きだのトーストだったらそれも分かるが、例のあの餌。
蜂蜜入りのミルクを入れても、レーズンを入れても不味かった餌。
あれの記憶を味わった筈の小さなブルーは、どうしてこうも機嫌がいいのか。
分からないから、ハーレイはブルーに訊くしかなかった。
「…何故だ。お前、どうして平気どころか機嫌がいいんだ?」
「えっ、だって…。ハーレイが食べた朝御飯の記憶だよ?」
ハーレイと一緒に食べた気がするよ、あのレストランで。
ぼくは出掛けたことはないけど、居心地の良さそうなお店だよね。
其処でハーレイと一緒に食べたよ、アルタミラの餌。
アルタミラでは一人で食べていたけど、あれも二人で食べていたなら美味しかったかも…。
「俺はお前を朝食デートに連れてったのか!?」
「気分だけだけどね」
御馳走様、とブルーはテーブルに置かれた自分の紅茶のカップを手に取った。
紅茶で喉をコクリと潤し、「うん、紅茶で締めくくりだったよね」と笑みを湛える。
朝食の最後は紅茶だったと、ハーレイも紅茶を飲んでいたよ、と。
「…お前、強いな…」
溜息を漏らすハーレイに、ブルーが「そう?」と首を傾げる。
「記憶だからかな、不味さが少し減っているかも…」
本当にモーニングセットを食べたら、不味いと言うかもしれないよ。
連れてってくれる?
不味いのかどうか、食べてみたいから。
「いや、それは…!」
お前を食事に連れて行くのはまだ早いだろう!
育ってからだと言った筈だぞ、前のお前と同じ背丈に。
「ほら、そう言って断るんだから。絶対、連れてってくれないんだから…!」
記憶しか見せてくれないんだから、仕方ないでしょ。
モーニングセット、美味しかった。
ぼくの感想はそれに尽きるよ、とっても美味しく食べられた、って。
もう嬉しくてたまらない、といった様子の小さなブルー。
ハーレイと一緒に食べた気がする、と朝食デートな気分のブルー。
(…どうしてこういうことになるんだ…)
俺は思い切り不味い思いをしたんだが、と理不尽な目に遭った気がするハーレイだけれど。
(…二人で食べたら美味しいかも、か…)
今朝の自分はカウンターで一人、心で文句を呟きながらのモーニングセット。
不味いと文句を言える相手も、共に語らう相手もいなくて、独りぼっちの朝食の席。
もしも、あそこにブルーが居たなら。
カウンター席でも隣にブルーが居たなら、もっと贅沢にテーブル席で向かい合わせなら。
それでも、あれは不味かったろうか?
ソルジャー・ブルーの名前を冠したモーニングセットは不味かったろうか…?
(…こいつと二人、か…)
目の前で「ん?」と赤い瞳を煌めかせて座っているブルー。
前の生からの愛しい恋人。
不味いと思ったモーニングセットは、もしかしたら。
ブルーを連れて行ったつもりで食べれば、隣にブルーが居るようなつもりで食べたなら。
店で居合わせた人々が喜んで食べていたように、ヘルシーな朝食になるのだろうか?
不味い餌でも「ヘルシーでいい」と思えるだろうか…?
(…いかん、いかん)
どう転んでもあれは餌だ、と心の中で繰り返す。
蜂蜜入りのミルクを入れても不味かった餌で、レーズンを入れても不味かった餌。
二度と食わんぞ、と思うハーレイだけれど。
期間限定のイベント中にもう一度、と囁く声も聞こえて来た。
あれを食べに行こうと、ソルジャー・ブルーのモーニングセットを食べに出掛けようと。
(…餌なんだがなあ…)
アルタミラの餌。元は家畜の餌だったと聞いた、オーツ麦から作ったシリアル。
それが今ではヘルシーな食事。ブルーが「御馳走様」と微笑んだ食事。
(…うん、平和な時代になったもんだな)
いつか、ブルーと結婚したら。
その時に似たようなイベントが開催されたら、ブルーと一緒に食べに行ってみよう。
カウンターではなくて、テーブル席。
向かい合って座って、注文の品が出来て来るまであれこれ話をしながら待って。
それから二人、スプーンを手にして一緒に朝の食事を食べ始める。
アルタミラの餌に、不味かった餌に、蜂蜜入りの温かいミルクをかけて…。
不味かった餌・了
※ハーレイが食べに出掛ける羽目に陥った、歴代ソルジャーの食事の再現イベント。
今の時代はリピーターまで出る人気なのが「アルタミラ時代の餌」って、平和ですよね。
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