シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
連日の曇りと雨模様。いわゆる梅雨の真っ最中です。せっかくの土曜日だと言うのに外には遊びに行けそうもなく、夜までに雨が上がれば出掛ける予定だったホタル狩りもお流れになりそうでした。私たち七人グループは会長さんの家に来ていますけれど、ジョミー君がブツブツと。
「…止みそうにないね、今日の夜までに」
「当分雨だって言ってたぜ。今朝の予報で」
諦めろよ、と分厚い雨雲を眺めるサム君。
「思いっ切りの梅雨前線だしなぁ、こりゃ仕方ねえぜ」
「あーあ、晴れてた間に行きたかったなぁ、ホタル見物…」
木曜日まではそこそこ晴れ間もあったのに、とジョミー君がぼやけば、会長さんが。
「仕方ないだろう、面子が足りなかったんだから…。それともアレかい、キースを放ってホタル狩りかい? 仕事で出掛けていたのにさ」
それじゃあんまり可哀相だ、と会長さん。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も頷いています。
「キース、お仕事だったんだもん! 待ってあげるのがお友達でしょ?」
お出掛け出来ない分はお家で楽しまなくちゃ、と出ました、紫陽花の花の形のカップケーキが。定番のゼリーのお花ではなく、紫芋のクリームを絞った花びらが素敵です。マジパンで作ったカタツムリもくっついていて、なんとも可愛い出来上がり。
「えっとね、下はシフォンケーキになってるの! 口当たりが軽いし一人何個でもいけると思うよ、好きなだけ食べてね!」
夜は焼肉パーティーしようか、と提案されて大歓声。ホタル狩りに出掛けた場合は料理旅館で夕食の予定だったのです。お目当ては鮎の塩焼き食べ放題のプランでしたから、家でやるなら焼肉ですよね。鮎の塩焼き、食べ放題な勢いで焼くって無理そうですし…。
「えっ、出来るよ? …雨が降ってなかったら、だけど」
お部屋が煙だらけになっちゃうから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「屋上を使えば簡単、簡単! バーベキューみたいに竈を置いてね、鮎を並べるだけでいけるし」
いつかやろうね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は楽しそう。鮎の塩焼きパーティー、いいかも…。
「そうだね、次に晴れたらパァーッとやろうか、いっそ鮎から釣りに行くとか」
会長さんも乗り気です。
「鮎釣りもなかなか楽しいよ? 慣れない間は難しいけど、天然モノは美味しいからね」
「そうだな、確かにアレは美味いな」
こないだ食ったのも美味かった、とキース君。
「…鮎は本当に美味かったんだが、その前がな……」
あれさえなければもっと美味さを味わえたのに、とハアと溜息。お仕事で何かありました?
梅雨の晴れ間だった数日の間、キース君はお仕事とやらで欠席でした。欠席理由は法務というヤツ、お坊さんとしてのお仕事です。大きな法事か、総本山の璃慕恩院でのお手伝いかと特に追及しませんでしたが、打ち上げで食べたのであろう鮎がイマイチと聞けば知りたくなるもの。
「何だったんだよ、鮎の美味さが減点になっちまうような法務ってよ?」
璃慕恩院で叱られたのかよ、と尋ねるサム君。
「なんか先輩が怖いって聞くよな、法要の間にドジを踏んだら打ち上げの席でネチネチ言われるみたいだし…。それにアレだろ、ネチネチついでに偉い人の耳にも入っちまうんだろ?」
同じ宴席に居るんだもんなぁ、というサム君の言葉に背筋がゾクッと。それって上司も来ている宴会で吊るし上げを食らうようなモノですか? そうなれば鮎の味どころじゃないでしょう。自分の今後の評価を思うと生きた心地も…って、キース君がドジを踏みますかねえ?
「で、どういうドジをやらかしたんだよ? 鳴り物のタイミングをミスッたとか?」
「俺の評価を勝手に下げるな、俺は完璧にやってきたんだ!」
求められる以上の働きをした、とキース君はカップケーキを一口食べてコーヒーをズズッ。
「それに璃慕恩院に行ってたわけじゃない。俺の同期の寺の落慶法要だ」
「「「は?」」」
「そうか、素人には分からんか…。落慶法要というヤツはだな、寺の建物を新築した時とかにやる法要なんだが、修理や建て替え完成でもやる。今回は本堂の建て替えだった。それはいい。…それは目出度いんだし、そこはいいんだが…!」
目出度いからってアレは無いだろう、とキース君は顔を顰めました。
「派手にお披露目したいから、と招待状が届いたんだ。…法要の格は出席した坊主の位と人数で決まると言ってもいい。俺たちは大した位ではないが、数が揃えば見栄えするしな。同窓会を兼ねて一席設ける、と言われれば遠い寺でも喜んで、だ」
同窓会がてら祝い金を持って電車を乗り継ぎ、遠くまで行って来たらしいキース君。そこで大学の同期の仲間と旧交を温め、落慶法要に出席したまではいいんですけど…。
「なんでアイツだけ紫なんだ! 落慶法要でも有り得んだろうが!」
紫だぞ、と何度も繰り返し言われましても、何のことやらサッパリです。紫だったら目の前のカップケーキも紫芋のクリームの紫陽花ですよ?
「そうじゃない! 坊主の紫は特別なんだ! ブルーの緋色の下の位になるんだぞ!」
「「「…え?」」」
「紫色の衣の上には緋色しか無い。それくらいの地位に居ないと着られないのが紫だ!」
それをアイツが着やがったんだ、と拳を握り締めるキース君。それって同期生の誰かが紫だったってコトですか? キース君は確か萌黄とかいう緑ですよね?
真面目に有り得ん、と愚痴るキース君の話によると、紫の法衣を着ていた人は落慶法要をしたお寺の住職の息子さんで副住職。キース君の同期生です。居並ぶ同期生たちが緑の法衣を纏っている中、自分のお父さんと同じ紫の法衣で法要を務めたらしく…。
「みんなポカンと口を開けたが、法要の最中に文句は言えんしな…。同期会を兼ねた打ち上げの宴会で追求したら、「法要に箔をつけたかった」ときやがった! そりゃまあ箔はついただろうさ、紫が一人増えてれば! しかしだ、紫はそんな理由で着ていいモノじゃないんだぞ!」
修行を積んで位を上げないと着られないからこそ箔がつく、とキース君はグチグチグチ。
「俺の同期たちもずるい、ずるいと言ってやがったし、いっそチクるかという話も出たが…。チクッたら最後、あいつの人生、終わりになるしな。それは出来んという結論で、後はひたすら愚痴祭りだった」
お蔭でせっかくの鮎が不味くて、と鮎の塩焼きまでようやく辿り着きました。けれど、チクッたら人生終わりって、どういう意味? どうしてチクッちゃいけないんですか?
「ああ、それはねえ…。チクられたら本当に終わりなんだよ。ねえ、キース?」
会長さんが横から割り込んで来て。
「…で、本当に璃慕恩院に密告しないんだ? 持つべきものは友情に厚い同期生ってね」
「当たり前だろう! いくら紫が羨ましくても、友人を地獄に落とせるか?」
俺たちはそこまで薄情じゃない、とキース君は力説しています。えーっと、友情はいいんですけど、なんで密告で人生終了?
「お坊さんとして終わりなんだよ」
会長さんが重々しい口調で告げました。
「僧階……お坊さんの位のことなんだけどね、法衣の色はそれに応じて決まっている。この位ならこの色で、という風に。…自分の位よりも下の位の色を着るのはかまわない。ぼくが紫を着ても叱られないし、キースが墨染を着たりするのもそういう関係」
それは全く問題無い、と会長さん。
「でもね、僧階以上の色を着た時は僧籍剥奪になるんだな。お坊さんとしての資格を失う。住職の資格どころか墨染すらも二度と着られません、という死刑同然の刑になるわけ」
「そういうことだ。一度僧籍を剥奪されたら、復帰するのはまず無理だ。…他の宗派に行くなら別だが、二度と坊主に戻ることは出来ん。ブルーが言う通り、坊主には死刑宣告だな」
いくら紫を着たからと言って同期生を死刑に出来るか、と言われて納得。確かに人生終わりです。二度とお坊さんになれないだなんて、お寺に生まれた人にとっては最悪の刑罰ですってば…。
なんという恐ろしい決まりがあるのだ、と驚かされた法衣の規定。会長さんが緋色の衣を自慢するのも無理はない、と私たちは頭を振り振り、キース君の落慶法要での愚痴を聞き…。夕食はウサ晴らしとばかりに焼肉パーティー、大いに盛り上がった次の日も雨。
「今日もホタルは無理そうよねえ…」
スウェナちゃんが会長さんの家のダイニングの窓から雨雲を眺め、私たちも止みそうにない雨に不満を漏らしつつ、海の幸たっぷりのクリームパスタの昼食を。やっぱりキース君に遠慮してないでホタル狩りに行くべきだったでしょうか? 向こう一週間、ものの見事に雨予報ですし…。
「うん、遠慮してたら負けだと思うな」
絶対に負け、とジョミー君がパスタをフォークに絡めて口へと。
「だからさ、ぼくも遠慮はしないってことに決めたんだよ、うん」
「「「は?」」」
ジョミー君ったら、一人でホタル狩りに行く気だとか? 雨でもホタルは飛んでいますし、もしかしたら家に帰ってパパやママと車で出掛けてホタル見物?
「そんな話じゃないってば! もっと人生、前向きに!」
ぼくの前途は大いに明るい、とジョミー君は至極御機嫌です。何かいいことあったんですか?
「うん、あった! この先、二度と悩まなくても済むんだよ。ぼくの人生、これからなんだ!」
もう嬉しくて嬉しくて、と喜びを抑え切れないらしいジョミー君。そんなに素敵なことがあるなら、ここは是非ともお裾分け! 私たちだってあやかりたいです、何かおごってくれるとか…。
「お裾分け? 何かおごるのは別にいいけど、キースとサムはどうだろう…」
「俺は好き嫌いは決して言わんぞ、おごりならな」
「あっ、俺も! おごってもらって文句をつけるほど心は狭くねえってば!」
どんなモノでも是非おごってくれ、とキース君とサム君が身体を乗り出したのですけれど。
「………。ホントにいいわけ? 人生、終わるよ?」
「「「えっ?」」」
いったい何をおごる気なのだ、と私たちまでがドン引きしました。人生が終わるお裾分けって、それ、怖すぎじゃないですか! キース君とサム君で終わりそうなら、私たちだって…。
「ジョミー先輩、ぼくは遠慮させて頂きます」
おごるなら他の皆さんにどうぞ、とシロエ君が逃げ、マツカ君も。
「ぼくもいいです…。ぼくの分は他の皆さんでどうぞ」
「私もいいわよ、みんなで分けて」
スウェナちゃんまで逃げますか! これは私も逃げねばです。おごってもらえば人生終了、デンジャラスすぎるお裾分け。そんなの絶対お断りです~!
上機嫌でパスタを頬張るジョミー君におごらせる話は頓挫しました。とはいえ、デンジャラスなお裾分けとやらが何だったのかも気になる所。みんなで顔を見合わせたものの、訊いたら強引におごられそうで出来ません。うーん、とっても知りたいんですが…。
「こんにちは」
「「「???」」」
誰だ、と振り返った先でフワリと翻る紫のマント。ソルジャーが笑顔で立っています。
「ぶるぅ、パスタは残ってる? 地球はやっぱり海の幸だよね」
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
ちょっと待ってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がソルジャーの分のパスタを手際よく用意。空いていた席に座ったソルジャー、早速フォークでパクパクと…。
「うん、美味しい! 来て良かったよ。でもって、ぼくは自分の未来に自信あり! ハーレイとも結婚出来たんだからさ、地球にもきっと行けるよね」
地球に着いたら海の見える場所に一戸建ての家を建てるんだ、とソルジャーは聞き飽きるほど聞かされてきた夢の未来を語り始めました。
「ハーレイと二人で暮らす家だよ、ぶるぅの部屋もあるけどね。そして庭には桜の木! 春が来る度にお花見するんだ、桜を一人占めしてさ。…ああ、ハーレイと二人占めかな? ぶるぅは放って夫婦でゆっくり! そんな未来が待ってるんだし、ぼくの人生は終わらない」
だからね、とソルジャーはジョミー君に視線を向けました。
「今日はとっても機嫌がいいけど、お裾分けってヤツを貰っていいかな?」
「いいよ、何にする? お小遣いを貰ったトコだし、ハンバーガーでも買いに行く?」
変わり種が出来たんだってさ、とジョミー君が挙げたお店はアルテメシアの南の端っこに近い神社の近く。お稲荷さんで有名な門前町の中らしいです。
「へえ…。そんな所でハンバーガーかい?」
「らしいよ、パパが仕事で前を通って見付けてきたんだ。仕事中だし、買って帰ってくれなくってさ…。ブルーだったら瞬間移動で一瞬だよね、雨でもさ」
「いいねえ、どんなハンバーガー?」
「お狐バーガー!」
だけど狐の肉じゃないから、とニッコリ笑うジョミー君。えっ、ちょっと待って、人生終わるって言いませんでした? なんでお狐バーガーで?
「買いに行くんだったらぼくも欲しいな」
会長さんが手を挙げ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も右手をサッと。
「ぼくも! ぼくにもお狐バーガー!」
えっ、えっ、会長さんたちも人生を賭ける気なんですか? あらら、ジョミー君とソルジャー、瞬間移動で消えちゃった…。
「お、おい…。あんた、本気で貰う気か?」
あんな物騒なお裾分けを、とキース君が会長さんに確認すれば、クスッと笑いが。
「ぼくも人生には自信ありでね。ぶるぅも別に問題ないだろ、六年ごとに人生振り出し!」
「かみお~ん♪ 六歳になる前に卵だも~ん!」
お狐バーガー、とっても楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は浮かれています。人生が終わると噂のお狐バーガー、どんなモノかと思いきや…。
「ただいまぁ~! 瞬間移動ってホントに楽勝! 雨でも全然平気だね!」
「どういたしまして。はい、ブルー。ぶるぅにもお狐バーガー、ジョミーのおごり」
出来たてだよ、とソルジャーが紙にくるんだバーガーを渡し、自分の包みを開けています。ジョミー君も鼻歌交じりに紙包みを開け、中からお狐バーガーとやらが。
「「「…油揚げ…」」」
パンの代わりに分厚い油揚げ、挟んである具は豚カツとレタスで。
「うわぁ、油揚げがパリパリだよ! カツはサクサク! 買いに行けて良かったぁ~!」
みんなにおごっても充分お釣りが来る味だ、とジョミー君は夢中でパクパク。ソルジャーも美味しそうに齧りついていますし、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「美味しいね、ぶるぅ。そうか、アルテメシアにも出来ていたのか、お狐バーガー」
「お稲荷さんの本家本元だしね♪」
出来ていたって不思議じゃないね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。どうやら他所のお稲荷さんの門前町で人気の品だったみたいです。本当に美味しそうなんですけど、でもでも、食べたら人生終わりなデンジャラスなバーガーなんですよ……ねえ……?
「えっ、お狐バーガーが危ないだなんて一度も言っていないよ、ぼく」
ジョミー君が油揚げと豚カツのハーモニーを味わいながら。
「キースとサムにはお裾分け自体がヤバイんじゃないの、って言いたかっただけで…。お狐バーガーじゃなくて稲荷寿司でもヤバイと思うし、普通のハンバーガーでも人生終わるよ」
「どういう意味だ?」
分からんぞ、とキース君が突っ込み、サム君も。
「そうだぜ、なんで俺とキースが終わるんだよ! 他のヤツらは平気なのかよ?」
「…全然平気だと思うけど? なんか勘違いをしてくれちゃったし、ぼくの財布には嬉しいよね」
ブルーが一人増えた分をカバーしたって大丈夫、とジョミー君は御満悦。ひょっとしなくても、私たち、食べ損ないました? 油揚げの匂いが食欲をそそるホカホカのお狐バーガーを…?
ジョミー君の幸せのお裾分け。キース君とサム君以外は、貰っても人生が終わるわけではなかったようです。おごって貰うチャンスとお狐バーガーを逃したショックは大きいですけど、その前に。
「…ジョミー先輩、どうしてキース先輩とサム先輩に限定なんです? 人生終了」
理由を教えて貰えませんか、とシロエ君が切り込み隊長。ジョミー君は「ん?」と最後の油揚げを口に押し込み、モグモグしてから。
「だってさぁ…。坊主終了のお裾分けだよ、キースとサムにはヤバすぎだってば!」
「「「へ?」」」
何ですか、それは? 坊主終了のお裾分けって、何のこと?
「だからさ、ぼくが坊主をやめるわけ! ブルーに無理やり坊主にされてさ、いつかは住職の資格を取れって言われてきたけど、もう終わりだし!」
目出度く坊主を卒業なのだ、とジョミー君は宣言しました。
「ブルーがどんなに頑張ったって、二度と坊主になれなくなったら手が出せないよね? なんだったっけか、僧籍剥奪? その判決を受けるんだってば、死刑宣告!」
「「「えぇっ!?」」」
どうやって、と目を剥く私たちに向かって、ジョミー君は得々と。
「紫の衣だったっけ? それでもいいし、ブルーみたいな緋色でもいいし…。そういうのを着たらアウトで死刑になるんだよねえ? そんな楽勝な手があったなんて、もう嬉しくて」
永遠に坊主の道とはサヨウナラ、と幸せに酔うジョミー君。…そっか、その手があったんだ! キース君の僧籍剥奪ネタから閃きましたか、そりゃあソルジャーにまでお狐バーガーをおごるくらいに心が浮き立つことでしょう。まさに人生バラ色ってヤツで…。
「ま、マジかよ、お前?」
サム君が声を震わせ、キース君も。
「そ、それは…。確かにそういうお裾分けなら欲しくもないが、本気で本気か?」
「もちろんさ! 紫がいいかな、それともパァーッと豪華に緋色かな? 同じやるなら緋色の方かな、最高のヤツを着て僧籍剥奪!」
頑張るぞ! とジョミー君は燃えていました。身体から立ち昇る幸せオーラが見えるようです。パチパチパチ…と拍手が聞こえて、お狐バーガーを食べ終えたソルジャーが祝福を。
「なるほど、それで人生終了なんだ? だったらぼくには無関係! 素晴らしいアイデアが見付かったことを心の底からお祝いするよ。おめでとう」
「ありがとう! お狐バーガー、気に入ってくれた?」
「君のおごりだと思うと美味しさ倍増! 何かあったら遠慮なく言ってよ、今日の御礼に手伝うからさ」
御馳走様~! と軽く手を振り、ソルジャーは姿を消しました。うーん、私たちもお狐バーガー、おごって貰うべきだったかも…。
大盤振舞いをやらかすほどに舞い上がっているジョミー君。その幸せのお裾分けがキース君とサム君限定でヤバイ理由も判明しましたが、お坊さんという点では会長さんも変わらないような…? そこをシロエ君が問い質すと、ジョミー君は明快に。
「えっ、ブルーは緋色の上が無いんだし、人生終了にならないよ。自分よりも上の位のヤツを着るのが重要なポイントになるんだからさ」
「…そうですか…。で、本当にやる気なんですか、ジョミー先輩?」
「決まってるじゃないか! もう明日にでも着たいくらいだよ」
一日でも早く坊主にサヨナラ、と期待に胸を膨らませているジョミー君ですが。
「……いいけどね……」
会長さんが口を開きました。
「紫だろうが緋色だろうが、着たければ好きにすればいい。ちゃんと衣が手に入るならね」
「え?」
怪訝そうな顔をするジョミー君に、会長さんは。
「君は法衣を注文したことが無いだろう? 何処で紫を仕立てるんだい、緋色にしてもさ。法衣は普通の着物とは違う。自作なんかはまず無理だ」
ぶるぅ並みの裁縫の腕が無いとね、と鼻で笑われ、ジョミー君は憤然と。
「通販するし!」
「…ふうん? まあ、今どきはネット通販も出来るけど…。予算はちゃんとあるんだろうねえ、法衣は高いよ?」
「人生のためなら前借りもするよ!」
お小遣いを十年単位で前借りしたって後々を思えば安いものだ、とジョミー君は言い切りました。おおっ、十年単位で前借りですか! お狐バーガーをおごった件といい、お坊さんの道と縁が切れるなら金銭問題は些細なことに過ぎないようです。
「前借りねえ…。借金取りに追われないよう、頑張って返済するんだね。君のパパとママは優しそうだけど、大金を貸したら流石に黙っちゃいないと思うな」
月々の返済計画表を作られたりして、と会長さんはニヤニヤニヤ。
「昔から言うよね、ご利用は計画的に、ってね。返済が滞ったってビタ一文貸してはあげないよ? ぼくが導いてあげた仏の道をチャラにしようと言うんだからさ」
借金で火の車ならぬ火だるまになっても放置あるのみ、と会長さんが冷笑を浮かべ、キース君とサム君も冷たい声で。
「罰当たりめが…。銀青様のお導きを足蹴にするなど、地獄に落ちても文句は言えんな」
「だよな、お念仏さえ唱えていれば極楽に行けるってぇのによ…。信じられねえや」
南無阿弥陀仏、と二人は声を揃えてお念仏。ジョミー君の未来は前借り借金地獄ですかねえ?
そんなこんなで迎えた週明け。最初の間こそ浮かれまくっていたジョミー君ですが、早々に壁にブチ当たったらしく、水曜日にはすっかり意気消沈。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でレモンクリームが挟まれたライチのムースのお皿を前に項垂れています。
「どうしたんだい、君の元気は何処かへ旅に出たのかな?」
会長さんのからかう口調に、ジョミー君はションボリと。
「…捜さないで下さいって気分だよ…」
「それはそれは。だったら是非とも捜さないとね、最後に目撃されたのは何処?」
「………多分、月曜日の夜くらい………」
それから後は行方不明、と嘆くジョミー君が失くした元気はネットの海から旅立って行って帰って来る見込みも立たないのだとか。キース君がフフンと鼻で笑って。
「前借り以前の問題なんだな?」
「……途中までは注文出来たのに……」
注文用のフォームは出たのに、と泣きの涙のジョミー君。
「何さ、あれって酷すぎだよ! 所属する宗派の名前はともかく、なんで番号とかが要るわけ? 思いっ切りの個人情報じゃないか!」
「「「…番号?」」」
それは必須の条件だろう、と私たちは呆れ果てました。お小遣いの前借りが十年単位で必要なほどの高額商品を買おうと言うのです。注文主の電話番号も入力せずに済ませられるわけがありません。個人情報という代物について最初から学び直した方がいいのでは…。
「電話番号くらい入れるよ! でなきゃ連絡つかないし!」
「だったら何の番号なんです?」
シロエ君の問いに、ジョミー君は「知るもんか!」と投げやりな答え。
「番号かもだし、記号かも…。ぼくにも謎な自分の番号!」
「「「はぁ?」」」
ますます分からん、と首を捻りまくる私たちの耳に、会長さんののんびりした声が。
「…知らないだろうね、坊主の道にサヨナラだなんて言い出すようなジョミーじゃねえ…。聞きに来ないんだから知りようもない」
「「「……???」」」
「ジョミーが言うのは僧籍の登録番号だってば、ぼくが総本山に届け出た時についた番号。キースとサムは自分のヤツを知っているけど、ジョミーはねえ…。そもそも番号じゃないかもしれない。ジョミーが言う通り記号かもだし、数字かもねえ?」
それが無くては何も出来ない、と会長さんは高笑い。それって暗証番号ですか?
「…暗証番号とはちょっと違うね。平たく言えば個人識別情報かな?」
そんなところ、と会長さんは教えてくれました。
「なにしろ法衣の色ってヤツはさ、決まりを破れば僧籍剥奪に繋がるくらいの大事なモノだよ? それを素人さんがネットでポンと注文出来ると思うのかい? この人は本当にお坊さんなのか、と店も確認くらいはするさ。そのために番号が必要なんだよ」
本当に総本山に問い合わせたりはしないけど、と会長さん。
「それっぽい情報を書き込んでおけば注文フォームの方はOK、店は即座に制作に入る。だけど相手が番号も知らない素人さんだとうるさいよ? 使用目的は何か、身元はキチンとしているか…。それは色々と聞かれるだろうね、衣の色が凄くなるほど根掘り葉掘りの勢いで」
「「「………」」」
ジョミー君の元気が行方不明になるわけだ、と私たちは顔を見合わせました。この調子では僧籍剥奪云々以前に色つきの法衣ゲットが無理そうです。あんなにバラ色だった未来が今や灰色、それどころか暗黒かドドメ色かも…。
「…そうか、そういうシステムなんだ?」
それは大変、と会長さんそっくりの声が聞こえて優雅に揺れる紫のマント。空間を越えて来たソルジャーはスタスタと部屋を横切り、ソファにストンと腰掛けると。
「ぶるぅ、ぼくにもライチのムース!」
「オッケー! それとレモンティーだね!」
ソルジャーの好みを把握している「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと用意し、嬉々としてムースにフォークを入れるソルジャー。
「通販で壁にぶつかったのかぁ…。お狐バーガーをおごってくれたし、あの時の恩を返そうか、ジョミー? ぼくで良ければ」
「えっ、ホント!?」
ソルジャーの提案にジョミー君の顔が輝き、旅に出た筈の元気がマッハの速さで帰還した模様。
「番号とか突破出来るんだ? そうだね、ブルーは凄いんだもんね!」
SD体制だったっけ、と感心しているジョミー君。
「この世界よりも凄い世界で情報操作をしているんだから、通販くらい楽勝かぁ…。それじゃお願いしようかな? 此処まではぼくでも行けるんだよ、うん」
後をお願い、とジョミー君が部屋に備え付けの端末で法衣専門店のサイトを呼び出し、紫色の法衣のページを開いて注文フォームを。
「緋色は受注生産らしいし、これが限界だったんだ。やるなら緋色でやりたかったけど、早くオサラバしたいから…。もう紫で構わないかな、って」
「了解。この程度ならこうパスを打って…。ん? …あれ? なんで?」
通らない、とキーを叩きまくっているソルジャー。もしや法衣専門店だけに結界が張ってあったりしますか、まさか、まさか…ね……。
別の世界から来た助っ人はプロフェッショナルの筈でした。私たちの世界よりも高度に情報化された世界でセキュリティシステムとかを難なく潜り抜けているソルジャー。そのソルジャーをしてギブアップせしめる法衣店の通販サイト、恐るべし…。
「何なのさ、これは!」
信じられない、とソルジャーは画面を睨み付けました。
「認証は通っている筈なんだよ、なのにどうしてダメなわけ? 自信を喪失しそうなんだけど!」
「喪失してれば?」
この道はぼくの方が上、と会長さんが得意満面で。
「法力ってヤツが最先端の機械にも効くとは夢にも思っていなかったけどね。…正直、君が出て来た時には終わったと思ったんだけど…。買えないんだったら勝ったわけだよ、君の力に」
諦めたまえ、と会長さんは勝ち誇った笑みを浮かべています。
「君とジョミーがタッグを組んでも紫の法衣は注文不可能! 直接出掛けて買うとなったらハードルは今よりもっと上がるよ? ぼくも全力で妨害するから」
そう簡単に弟子を失いたくはないからねえ、と声高に笑う会長さんにはジョミー君の末路が最初から見えていたのでしょう。僧籍剥奪を目指して緋色や紫の法衣を着ようとチャレンジしても、肝心の法衣を手に入れられずにズッコケて終わる惨めな最後が…。
「どうする、ジョミー? お狐バーガーの御恩返しも不発に終わったようだけど…。そろそろ真面目に性根を入れ替えて仏弟子としての自覚を新たに」
「やらないし!」
せっかく道が開けたのに、とジョミー君も負けていませんでした。
「これで終わりって悲惨すぎるよ、地獄の沙汰だって金次第だよね?! お小遣い前借りの覚悟をしたんだ、意地でも紫を着て坊主にオサラバ!」
きっと何処かに道はある筈、と往生際の悪すぎるジョミー君が喚く姿をソルジャーが腕組みをして見詰めています。会長さんに負けたソルジャーの心の中もまた、複雑なものに違いなくて。
「…ジョミー。君が諦めないと言うなら、協力しよう」
ぼくにも意地が、とソルジャーの赤い瞳が会長さんの瞳を覗き込み、バチバチッと火花が散った気がします。「駄目か…」と短く呟いたソルジャー、次はキース君をまじっと見据えて。
「よし、完了。ジョミー、何日か待ってくれるかな? お望みの品を手に入れて来るよ」
お楽しみに、という声を残してソルジャーの姿は消え失せました。えっと、今のって意味があったんですか? 会長さんがダメでキース君なら「よし」って、何が…?
「…正攻法で敗れ去ったら偽物ねえ…」
素人さんには分からないか、と会長さんがクスクスと。ソルジャー、偽物を作る気ですか?
その週末。またしても雨に降り籠められて会長さんの家に集まっていた私たちの前に、ソルジャーが私服で姿を現しました。何やら荷物を抱えています。ラッピングされた箱などではなく風呂敷包みで、それもかなりの大きさが…。
「お待たせ、ジョミー。御注文の品はこれでいいかな?」
どうぞ、と手渡された風呂敷包みを解いたジョミー君は万歳三唱。なんと中身は紫の法衣、会長さんが口にしていた偽物じゃないかとは思いますけど…。
「ぼくの世界で作らせたんだよ、キースの頭に入っていた情報を参考にしてね。糸も布地もぼくの世界で手に入れたヤツだし、もう完全なメイド・イン・シャングリラだけどさ…。アレだろ、見た目にそっくりだったらいいんだろ?」
着ただけで僧籍とやらを剥奪だもんね、と言うソルジャー。
「素材とか手触りまでいちいち確認しないだろうから、これで充分いけると思う。ああ、代金は要らないよ? そこは出血大サービス! ぼくのプライドもかかってたんだし、お狐バーガーで支払い済みってことにしておく」
「ホント!? お狐バーガーだけで坊主にサヨナラ出来るんだ?」
「お伽話みたいな流れだろ? ぼくは鶴とかお地蔵様ではないけどね」
その手の恩返しって多いよね、と語るソルジャーは自分の善行に酔っていました。自分の羽根で織ったわけじゃなし、笠の御礼ならぬお狐バーガーなんですけれども、まあいいか…。ジョミー君ったら、大喜びで服の上から袖を通していますしねえ?
「やったあ、これで坊主にサヨナラ!」
見て、見て! とジョミー君は鼻高々で。
「キースでもまだ着られない色を着ちゃったんだし、これで人生終わりだよね? で、僧籍剥奪って家に通知が届くわけ?」
「…君の家とぼくの家とかな? 師僧にも通達する筈だから」
溜息交じりの会長さんに、ジョミー君がワクワクと。
「そっか、ブルーの家にも届くんだ! それって何日くらいで届くのかなぁ…。まだ六月だし、うんと遅れても棚経までには間に合うよね?」
ついにお盆の苦行にサヨナラ、とジョミー君は喜色満面、お手伝いをしたソルジャーも通販サイトにコケにされた雪辱戦に勝利とばかりにVサインを出していたのですけど。
「…まったく、これだから素人さんは…」
何も分かっていやしない、と会長さんが部屋中を見回しました。
「僧階以上の色衣を着たら僧籍剥奪、それは厳然たる事実。…ジョミーは確かに着てるわけだけど、誰が通報したのかな? まず通報が必要なんだよ」
キースたちは同期生を見逃したよね、と鋭い指摘。そうか、最初に通報ありき…!
メイド・イン・シャングリラの紫の法衣を服の上から華麗に纏って坊主にサヨナラ宣言をしたジョミー君。これで僧籍が剥奪されると狂喜したのに、自分の登録番号だか記号だかすらも知らないジョミー君の登録を抹消するには通報が必要だったのです。
「残念だったね、散々苦労したのにさ。…衣の色で僧籍剥奪は一撃必殺の刑だけどねえ、それだけに適用するまでの審査が厳密なんだな。動かしようがない証拠を提出されない限りは証拠不全でお咎めなしだよ、だから紫がまかり通るわけ」
キースの同期生もその口だ、と会長さんはスラスラと。
「璃慕恩院の目が届かない地方へ行くとね、年功序列みたいな感じでお年寄りのお坊さんが紫を着るのが習慣になってるケースもあるよ。…そんな世界だから、本気で僧籍剥奪を目指すなら証拠の提出! それを着て元老寺の法要に出まくっていたら、いずれ誰かが通報するかも」
「…そいつはいいな」
面白そうだ、とキース君が唇の端を吊り上げました。
「せっかく俺でも着られない紫を仕立てたんだし、俺の家で住み込みで働かないか? そろそろ今年のお盆に備えて卒塔婆書きを始めるシーズンだ。デカイ卒塔婆は住職の資格が無いと書けんし、お前が書いたら法衣とセットでお咎めの対象になると思うぞ」
「そ、そんな…! ぼく、卒塔婆なんて書けないし!」
「書けないだろうな、俺も書かせるつもりはない。…檀家さんに対して失礼になるし、御本尊様にも申し訳が立たん。だから! お前の仕事は俺と親父のサポートだ! 墨を磨れ!」
その有難い紫を着て墨を磨りまくれ、と腰に手を当て、鬼監督の形相で言い放つキース君。
「ブルー、構わないな? こいつを借りるぞ」
「どうぞ、どうぞ。…僧籍剥奪を目指す弟子だし、通報されるまでみっちりと! お盆だけと言わず、秋のお彼岸も年末年始も、来年の春のお彼岸も! 目出度く僧籍を剥奪されるまで遠慮なく顎で使ってやってよ」
アドス和尚にもどうぞ宜しく、と会長さんはペコリとお辞儀を。キース君は「よし!」と頷いて。
「喜べ、師僧のお許しも出たぞ。…俺も同期の紫の法衣でムカついていたし、紫の衣のヤツをいびれるチャンス到来だ。今日から早速! 俺と一緒に帰るよな?」
元老寺にな、とキース君がジョミー君の肩をポンポンと叩き、会長さんが「不肖の弟子を預けるのだから」と一筆書こうとしています。紫の法衣の偽物を作ったソルジャーはコソコソと逃亡するべく「そるじゃぁ・ぶるぅ」にお菓子を包んで貰っていたり…。
「元老寺なんて冗談じゃないよ、ぼくは坊主にサヨナラだってば!」
お願いだから誰か通報してー! と絶叫しているジョミー君には気の毒ですけど、通報用の窓口とかが分かりません。紫の衣も似合ってますから、これを機会に本物目指して修行がいいと思います。それで全ては円満解決、会長さんもきっと喜びますよ~!
さらば坊主よ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ジョミー君が御馳走していた「お狐バーガー」は某所に実在してます、本当です。
お稲荷さんの本家本元でも売っているかどうかは知りませんけど。
今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
次回は 「第3月曜」 3月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、3月は、ソルジャーがスッポンタケのお彼岸の法要を希望で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「ほほう…!」
こいつは美味いな、と向かい側に座ったハーレイの顔が綻んだ。
「思いっ切り、季節外れなんだけどね?」
「いやいや、この時期、貴重だぞ?」
専門の店ならともかく、家庭料理じゃ食えないんじゃないか?
「どうなんだろう?」
ママの自慢の木の芽田楽。
水切りしたお豆腐を焼いて串に刺して、木の芽味噌を上にたっぷりと塗って。
木の芽が採れる山椒の木は庭の隅っこにあるんだけれど。
ぼくの背丈よりも大きな木だから、パパとママとぼくでシーズン中に食べ切れるわけがなくて、もったいないからママが柔らかな木の芽を沢山摘んで冷凍にしておくんだけど。
山椒の木は雌雄別株。雄花が咲く木は花を摘み取って花山椒。実が出来る方は実が熟す前の青い間に摘んで使ったり、熟した後の実の皮を乾燥させて細かく潰して山椒粉にしたり。
小さい頃から馴染んでいたから、ぼくにとっては普通の光景。棘がある山椒の木の枝をわざわざ触りに行きはしないけど、ママに頼まれて木の芽を摘みに行くことならある。摘んだばかりの葉を両手でパンッ! と叩いて香りを出させて、煮物とかお吸い物とかに入れるんだ。
何処の家でもやっていそうな気がしたんだけれど…。
「知らないのか?」
山椒の木はけっこう難しいんだぞ、とハーレイが季節外れの木の芽味噌を指差す。
「庭さえあれば植えておけるってモンじゃないんだ、山椒はな」
「そうなの?」
アゲハチョウが好きな山椒の木。来ると卵を産んでゆくから、幼虫やサナギが居たりする。まだ小さかった頃、サナギから蝶が出るのを見たくて通ったけれども、いつも出た後。翅を広げた蝶が枝に静かに止まってるだけで、出て来る所は見られなかった。
山椒を植えてる家の子供は誰でも観察してるものだと思ってたけど、その山椒の木は庭があれば育つと信じてた。アゲハチョウを見たければ山椒を植えればいいんだ、と。
だけどハーレイは「そいつは大きな勘違いだぞ」と窓から庭をチラリと眺めて。
「山椒の木は土が合わないと溶けちまうんだ」
「溶けるって…。なに、それ?」
「ん? 文字通り溶けるって意味じゃないがな、親父とおふくろはそう言うなあ…。いつの間にか消えてしまうんだ。ちゃんと手入れをしててもな」
現に俺の家の庭では溶けちまうらしい。
親父たちの家には山椒の木があるし、種から小さな木も生えるんだが…。
そういう実生の木を貰って来て植えてみてもだ、元気がなくなって枯れちまう。何度挑戦しても同じで、仕方ないから、今じゃ鉢植えのままだ。親父の家で詰めて貰った土を入れてな。
「ハーレイの家にもあるんだね、山椒」
「鉢植えだがな。やっぱり春は美味い木の芽を食いたいじゃないか」
「そうだね、タケノコも木の芽和えにしたりするものね」
タケノコの煮物にも木の芽を添えるし、春は木の芽が美味しいよね。
花山椒をドッサリ入れてすき焼きもするよ、鶏のすき焼き。
ハーレイと二人、木の芽を使った春の料理を幾つも挙げた。
隣町にあるハーレイのお父さんとお母さんの家にも、大きな山椒の木があるんだって。木の芽を摘んで、花山椒も実山椒も。
ハーレイもぼくと同じような料理を食べて育ったんだと思うと嬉しい。春は木の芽で、今の家の庭では山椒の木が溶けてしまうから、って鉢植えの山椒。
一度だけ遊びに出掛けた時には鉢植えなんかは見ていなかった。ちょっぴり残念。気付いてたら多分、訊いたのに。「なんで山椒が鉢植えなの?」って。
ぼくにとっては庭にあるのが当たり前の山椒。
土が合わないと消えてしまうなんて、思いもしなかった山椒の木…。
季節外れの木の芽田楽。
ハーレイは「美味い」と笑顔で食べて、お皿に乗っかった木の芽味噌じゃない田楽も食べて。
「普通の田楽味噌も美味いな、俺はどっちも好きだな、うん」
何処の豆腐だ? ってハーレイが訊くから。
あそこ、ってママが買ってる店の名前を答えたら「なるほどな」と頷くハーレイ。
ぼくたちが住んでいる町は水がいいらしくて、お豆腐を作ってるお店があちこちにある。ママが買う店も家から近くて、うんと近所に住んでいる人は入れ物を持って行けば入れて貰える。
ハーレイがお豆腐を買いに行くお店も、同じサービスをしているらしい。専用の容器が要らない分だけ、お豆腐の値段が安くなる。もっとも、ハーレイは入れ物を持って出掛けるには少しばかり距離が遠すぎて、駄目なんだって。
「俺の足なら軽い距離だが、豆腐を入れた器を抱えて散歩はなあ…」
「すれ違う人が眺めてそうだね、器の中身」
「うむ。この俺が豆腐入りのボウルだのタッパーだのを抱えて歩いていたら、だ」
「凄く目立つね、似合わないものね」
女の人とか、子供だったら誰も気にしてないだろうけど…。
ハーレイの身体だと大きすぎだよ、お豆腐を持って散歩するには。
お豆腐を自前の容器で持って帰ると、悪目立ちしそうなハーレイだけど。
そのサービスが受けられないだけで、お豆腐を買いに行くこと自体は珍しくないんだって。
「美味い豆腐が近所で買えるのはいいことだぞ」
豆腐は何かと役に立つしな。
酒のつまみにも夏の冷奴は実に美味いし、冬だって昆布と一緒に温めて湯豆腐感覚で食える。
「ぼくもお酒はまだ飲めないけど、お豆腐、好きだよ」
今日みたいな田楽でもいいし、冷奴も湯豆腐も美味しいよね。
豆腐ステーキとか豆腐ハンバーグも好き。
ママが色々作ってくれるよ。
「豆腐ステーキに豆腐ハンバーグと来たか…」
あれも美味いな、とハーレイが田楽を頬張って。
「シャングリラにもあれば良かったなあ、豆腐。まだ肉が作れなかった頃のシャングリラにな」
「豆は貴重なタンパク源だったものね、あの頃には」
「実際、豆のことを貧乏人の肉って言ってた時代もあるらしいからな?」
SD体制以前の地球だが、とハーレイはぼくに教えてくれた。
誰もが肉を食べられるわけじゃなかった時代。人間が飢饉に怯えていた時代。
肉は豊かな人たちが口にするもので、貧しい人たちは肉の代わりに豆だった、って。保存が利く豆を柔らかく煮たり、スープにしたり。
そうやってタンパク質を摂っていたのに、食生活が豊かになったら豆はヘルシー食品になった。肉よりも健康的な食べ物。
似たような話があったっけ、と思い出す。
前のぼくたちがシャングリラで作った代用品のチョコレート。カカオの木は育てられないから、代わりに育てたキャロブの木。その実でチョコレートやコーヒーなんかを作っていたのに、今ではキャロブはヘルシー食品。健康志向の人たちに人気の代用品のチョコレート…。
キャロブの木を植えるどころの話じゃなかった、ごくごく初期のシャングリラ。
自給自足で頑張っていたけど、肉までは手が届かなかった。畑を作るのが精一杯で、家畜の餌は賄えなかった。
貧乏とはちょっと違うけれども、肉が無かったシャングリラ。
タンパク質を摂れるものと言ったら、豆の料理ばかり。
あの頃にお豆腐があったなら…。
「もっと色々と食えたよな。お前が言った豆腐ステーキとか豆腐ハンバーグとかな」
「お豆腐、工夫して作ってみればよかったね…」
ちょっと視点を変えれば色々食べられたのか、と思ったんだけど。
肉が無い分、お豆腐でカバーしておけば良かった、と前のぼくの知識不足を嘆いたんだけど。
ハーレイに「おい」と真顔で訊かれた。
「その豆腐だが、シャングリラに大豆はあったのか?」
「……大豆……」
言われてみれば大豆は植えていなかった。
豆は何種類も育てていたけど、シャングリラの畑に大豆は無かった。
「…大豆を植える所からかあ…」
お豆腐を作るには大豆が必須。
大豆が無かったシャングリラではお豆腐なんかは作れやしない。
「お豆腐、作れなかったんだ…」
「そのようだ。大豆は畑の肉って呼ばれてたほどの豆なんだがなあ…」
これもSD体制よりもずっと昔の時代なんだが、とハーレイが残念そうに言うから。
「そうだったの?」
「そんな名前がついてた時代もあったんだ。普通の豆よりタンパク質が多めでな」
貧乏人の肉どころじゃない、畑の肉だ、って話になった。
凄い豆だと評判になって、あちこちで育てようとしていたようだぞ、その頃の大豆。
「大豆、そんなに凄かったんだ? なのに…」
なんで無かったんだろう、前のぼくたちの時代。
ぼくはシャングリラで育てる豆を人類の農場から盗み出したけど、大豆なんかは見なかったよ?
作物の苗を扱う場所にも大豆は無かったと思うんだけど…。
「山椒と同じだ、土が合わなくて育たなかったんだろう」
SD体制よりも前の地球でもそうだった。
大豆を植えても育たない場所が沢山あったらしいぞ、きっとデリケートな豆なんだ。
今だって俺たちの住んでいる地域が大豆には一番合うんだそうだぞ。
一度滅びたり、地殻変動が起こったりして、すっかり変わった地球なのにな?
もしもシャングリラに大豆があったら。
お豆腐はきっと作れただろうし、他に大豆で出来るものと言えば…。
「ねえ、ハーレイ。シャングリラで大豆を育てていたなら、お醤油なんかも作れたかな?」
「麹菌を探して来なきゃならんが、作れんことはなかっただろう」
そして大豆と麹があれば、だ。それと塩とで味噌も出来るな。
「そっか、お味噌も大豆だっけね」
シャングリラの畑に大豆があっただけで、お豆腐だけじゃなくて、お醤油にお味噌。
大豆って凄い、と改めて思う。
それがシャングリラの畑に植わっていたなら…、と夢を見たくなる。
「前のぼくたちが大豆を育てて食べてたとしたら、凄くない?」
お醤油にお味噌にお豆腐だよ?
どれも人類の世界に無かったものだし、人類よりも豊かな食文化じゃない?
「いいな、グルメなシャングリラか」
大豆を植えてりゃ、酒のつまみに枝豆だって食えるしな。あれは大豆の若い豆だからな。
「枝豆も大豆の内なんだ…。うんとグルメなシャングリラだね、ベジタリアンでも」
「うむ。精進料理の世界だな。追求してみる価値はあったかもな」
肉を作れるようになっても、ベジタリアン向けとそうでないメニューを作ってみるとか。
そういう発想は無かったなあ…。
「凄くゴージャスだよ、ベジタリアン向けのメニューまであれば」
「やりゃ良かったなあ…」
大前提として大豆が要るが、だ。
種になる豆は探せばあった筈だし、土だって改良出来たんだよなあ、俺たちミュウの得意技だ。
長生きする分、時間はたっぷりあったんだからな。
「お味噌にお醤油だと、和風だけれど…。昆布の出汁はどうするの?」
シャングリラで昆布は採れないよ、と言ってみたら。
「合成すれば何とかなったろ」
それにアルテメシアに居た間だったら、天然ものの昆布が手に入ったかもしれないぞ。
前の俺たちが海藻を食べる文化を知らなかっただけで、あそこの海にも色々と生えていた筈だ。
「うん。多分、昆布もワカメもあったんだろうね」
前のぼくは海藻だな、と漠然と認識していただけだったけれど。
大豆を栽培しているシャングリラだったら、きっとデータを調べたと思う。
お醤油とお味噌を使う料理には昆布の出汁だと気付いたと思う。
そしたら昆布とは何なのか調べて、基本は合成。余裕のある時はアルテメシアの海で本物を調達して来て、干して昆布を作るんだ。その昆布から天然ものの昆布出汁。
昆布出汁が出来たら、お味噌汁とか色々作れた。
前のぼくたちの時代には無かった、和食の文化を再現出来た…。
豆だけだった時代に頑張ってみれば良かったかな、と思ったから。
もっと豆を食べる文化を追求してれば、食料事情が変わってたかな、という気がしたから。
「前のぼく、もうちょっと豆を追求しておくべきだったかな?」
タンパク源が豆しか無い、って考えるよりも、豆の良さを調べるべきだったかな?
シャングリラで大豆を育てる方向に行くべきだったかもしれないね、ぼく。
人類も育てていない大豆で頑張っておくべきだったのかも…。
「うむ。シャングリラに大豆は無かったんだが、豆との縁はしっかりあったな」
「えっ?」
「前のお前は眠っていたから知る筈もないが、ナスカでのことだ」
あの星に最初に根付いた植物、豆だったんだぞ。
桃色の花が咲く豆だった。
トォニィの父親が育てていたなあ、ユウイって名前の若いミュウでな。
生憎と事故で死んじまったが、トォニィはあの豆の花を「パパのお花」と呼んでたな…。
「そうなんだ…。トォニィのパパかあ…」
前のぼくが知らない、トォニィの父親。
最初の自然出産児だったトォニィと血が繋がった実の父親。
その人がナスカで豆を育てていたなら、大豆も育てられただろうか。
もしも大豆の種があったなら、ナスカでも大豆が育つようにと工夫をこらしてくれただろうか。大豆に合うよう土を探して、必要とあれば手を加えて。
ナスカは大豆が育つ星になって、あの赤い星でもお味噌やお醤油を作れただろうか。
お豆腐を作って、合成でも昆布の出汁を作って。
独自の食文化を築き上げたミュウが、あの赤い星に居たのだろうか…。
大豆を食文化の中心に据えて、ナスカでも大豆を栽培して。
そんな風だったら面白かったかもね、とハーレイに言ったら「それ以上だ」と返事が返った。
「前の俺たちが人類とは違う食文化を築いていたなら、変わったかもなあ、色々とな」
「変わるって…。何が?」
グルメなシャングリラのことだろうか、と思ったんだけど。
ベジタリアン向けとそうでないメニューが出来ていたって意味なのかな、と思ったんだけれど。
ハーレイがぼくに返した答えは、そんなレベルのものじゃなかった。
「分からんか? 捕虜にしたキースに豆腐田楽を食わせるとか、だ」
「ああ…!」
それって、ミュウの文化を知ってもらうチャンス…。
食べたことのない変な食事が出て来るんだものね、ビックリするよね?
お味噌汁とかもちゃんとついてて、お醤油をかけた冷奴とかも。
不味いんだったら「捕虜向けの餌か」と思うだろうけど、美味しいんだものね。
ミュウを見る目が変わってたかもね……。
「そういうことだ」
キースが同じように逃げたとしてもだ、その後が変わっていたかもしれん。
報告を聞いたグランド・マザーがどう出て来たかは分からんが…。
ミュウを徹底的に排除するよう出来ていただけに、殲滅しろとは言ったと思うが…。
それを命じられたキースの判断がまるで違っていたかもしれんぞ。
最終的にはグランド・マザーに逆らった男だ、ナスカの段階でサッサと見切りを付けてしまった可能性もゼロではないからな。
なんたってミュウはただの異端分子というわけじゃなくて、独自の食文化を持った種族なんだ。そいつを星ごと滅ぼせだなんて、ちょっと判断に迷うと思わんか?
「…同じ攻撃しに来るにしても、メギドを持って来なかったとか?」
「でなきゃ最初から見逃すとかな」
あの星には何もいませんでした、とグランド・マザーに言っても無駄だが、キースは頭の切れる男だった。
俺たちに逃げろと警告してから攻撃してくりゃ被害は防げる。
そのくらいのことは出来た男だ、メギドを持ち出せたヤツなんだからな。
そうなれば俺たちはナスカから逃げて、キースの方でもグランド・マザーに逆らう道へと行っただろう。着実に出世して、昇進して。国家主席になった暁には、俺たちを地球へ呼んでたかもな。
グランド・マザーを倒しに来ないかと、自由な世界を作らないかと。
ぼくはポカンと口を開けてハーレイの話を聞いていた。
確かにキースなら有り得た話。
ぼくをメギドで撃ったキースはグランド・マザーに忠実な地球の男だったけれど、もしも根幹が揺らいでいたなら、どうだったか。
何が真実かを自分の瞳で見極めるまでは、決して流されない男。キースはそういう人間だった。
ミュウが自分たちとは違う種族だと、ただの異端ではないと気付けば命令違反もするだろう。
本当に人類に仇なすものなのかどうか、確かめるまでは動かないだろう。
其処まで行ったら、キースが辿るであろう道筋は国家主席となった後の彼の道筋と同じ。
ミュウの存在を認め、グランド・マザーに逆らう方へと進んだ筈。
彼なら若くても可能だった。
ナスカに来た頃の若いキースでも、ミュウの、人類の未来を変えることが出来た…。
「そっか…。豆腐田楽が世界を救うんだ?」
捕虜のキースに食べさせるだけで。
「これは何だ?」と訊かれて答えるだけでいいんだ、「豆腐田楽です」って。
お豆腐もお味噌も大豆で作って、こういう料理が出来るんです、って…。
「そうなるな」
あいつがメギドを持って来なけりゃ、ナスカの悲劇は起こらない。
前のお前も死なないわけだな、そもそもメギドが出て来ないんだからな?
「…凄すぎる豆腐田楽だけど?」
前のぼくの代わりに豆腐田楽がメギドを止めるわけ?
ぼくより凄いよ、止めるだけじゃなくて出て来ないようにしちゃうんだから。
「どうせなら冷奴に湯豆腐なんかも振る舞って、だ。豆腐尽くしのもてなしでどうだ?」
「やってみたかったね、捕虜のキースにお豆腐尽くし」
熱々の豆腐田楽を出して、冷奴はうんと冷たくして。
湯豆腐はもしも残っていたなら、本物の昆布でお出汁を取って。
「ああ、本当にやりたかったな。どんな風に歴史が変わっていたか、な」
キースが豆腐田楽を美味いと思った瞬間から歴史が変わるんだ。
実に愉快で爽快だったろうなあ、それで歴史が変わっていればな。
シャングリラとナスカで大豆を育てて、お豆腐を作って、お味噌を作って。
そのお豆腐とお味噌で作った豆腐田楽を捕虜にしたキースに出したら、歴史が変わる。
キースが「美味しい」と思ってくれたら、メギドは出て来もしないで止まる。
なんだか凄い。
凄すぎるけれど、有り得たかもしれない一つの可能性。
もしもシャングリラで大豆を育てていたなら、お豆腐とお味噌を作っていたなら。
お醤油も作って、昆布の出汁を使う食文化を前のぼくたちが立派に築いていたなら…。
シャングリラの畑にドカンと大豆。
お豆腐とお味噌とお醤油を作るのに欠かせない大豆。
本当にそれで歴史を変えていたなら、どうなっただろう?
「…その場合、ぼくたちは歴史に残ったのかな?」
「残ったんじゃないか? ミュウと人類との和解に至るって点では同じだ」
ただし、お前は。
メギドを止めた英雄じゃなくて、豆腐で世界を救ったソルジャーってことになるんだろうが。
「じゃあ、ハーレイは?」
「キャプテンだからなあ、大豆畑の最高責任者って所だろうさ」
教科書に載せて貰える写真がキャプテンの制服じゃなかったかもしれん。
大豆畑の責任者らしく、作業服を着て農作業中の写真だとかな。
お豆腐で世界を救ったソルジャー・ブルーと、大豆畑の最高責任者のキャプテン・ハーレイ。
ハーレイが言う通り、教科書に載せられるキャプテンの写真は作業服での写真かもしれない。
前のぼくだって、ソルジャーの衣装を纏ってはいても背景が大豆畑とか。
でなければ、写真の脇に別枠で豆腐田楽の写真がくっついてるとか。
歴史を変えた豆腐田楽はきっと、伝説のレシピになっただろう。
調理実習では必ず教わる定番の料理で、お豆腐屋さんは偉大な職業。
もしかしたらシャングリラからの伝統を受け継ぐお豆腐屋さんがあったかもしれない。気が遠くなるほどの長い歴史を重ねた凄い老舗のお豆腐屋さん。
「…初代の店長がトォニィだったりするのかな? うんと老舗のお豆腐屋さん…」
「いやいや、そこはお前の名前だろ? 最初に豆腐を作ったんだし」
「そうなるわけ? 初代のソルジャーで初代店長なんだ?」
歴史も変わるけど、ぼくとハーレイの扱いまで全く変わってしまいそうな世界。
お互いイメージが全然違うね、と二人で笑い合ったけど。
大豆畑で枝豆の束を抱えて立ってる、作業服のハーレイまで想像して笑い転げたけれど。
そんな「もしも」を語れる世界に来られて良かった。
ハーレイと二人で来られて良かった。
季節外れの木の芽田楽が美味しい世界。
お豆腐が美味しい、いい水が湧き出すぼくたちの町に。
大豆を育てる光と水と土とが揃った、蘇った青いこの地球の上に…。
豆腐の可能性・了
※もしもナスカで大豆を育てて、豆腐を作っていたならば…。それをキースが食べたなら。
全ては夢のお話ですけど、きっと本当に歴史は変わっていたのでしょうね。
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「トマトか…。お前に食わせてやりたかったな…」
ハーレイが唐突に呟いた言葉に、ブルーは赤い瞳を丸くした。
「なんで? トマトだったら、今、食べてるよ?」
ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせの昼食の時間。スープにサラダに、メイン料理のスタッフドトマト。
くり抜いたトマトに米と挽肉、刻んだハーブを詰めてオーブンで焼き上げた、ブルーの母の得意料理の一つ。食の細いブルーには一個で、身体の大きいハーレイには三個。
それを食べている最中なのに、どうしてトマトだなどと言い出すのか。
怪訝そうな顔のブルーに、ハーレイは「すまん、言葉が足りなかったか」と苦笑した。
「お前はお前でも、前のお前だ。これを見たら思い出してしまってな…」
「前のぼく?」
「ああ。トマトだけじゃなくて、キュウリもナスも…。他にも沢山あったっけなあ…」
「前のぼくだって食べてたよ?」
シャングリラで作っていたじゃない、とブルーは首を傾げたのだけれど。
「ナスカだ、ナスカ」
食ってないだろ、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「あの星で採れた、いろんな野菜。お前、食わずに逝っちまったしな」
お前が目覚めた時にはシャングリラ中がゴタゴタしていたからな…。
野菜どころじゃなかったろ、お前?
十五年もの長い歳月を眠り続けたソルジャー・ブルー。
その目覚めは変動の予兆そのもので、ミュウに災いを齎す地球の男からシャングリラを、仲間を守るためのもので。
ブルーに残された時間は少なく、その時間さえもが混乱の中で過ぎて行ったようなもの。僅かな時間しか無かったブルーと、多忙すぎたキャプテンのハーレイと。
二人きりで会える時間は無かった。ろくに言葉も交わせなかった。
それが悔しい、とハーレイは辛そうな顔をする。今でも悲しくて悔しいのだ、と。
「ナスカの野菜を味わうどころか、俺の野菜スープも飲まないままで逝っちまったな、とな…」
俺の野菜スープも、きっと美味かっただろうと思うんだ。
いつだったか、お前が地球の野菜スープが美味い、と言ったみたいに。
レシピを変えてしまったのか、と訊いてたろ?
「そういえば…。美味しいんだよね、今のハーレイの野菜のスープ」
「地球の光と水と土とが育てた野菜だからな。同じ野菜でも美味くなるんだ、不思議なもんだ」
だからナスカで採れた野菜も美味かった筈だと思わんか?
前のお前に食わせたかった。
こんなに美味い野菜が出来たと、野菜スープも美味いんだぞ、と…。
だが、とハーレイの顔が苦しげに歪む。まるであの日に戻ったかのように。
「…俺はお前に野菜スープを作るどころか、一緒に眠ってさえやれなかった。…愛しているとさえ言えなかったな、せっかくお前が目覚めたというのに…」
「仕方がないよ」
気にしないで、とブルーは微笑み、「ぼくなら平気」とハーブ風味の米をスプーンで掬った。
「ぼくはソルジャーだったんだから。そして君はシャングリラを預かるキャプテンだった」
そんな時間は無くて当然、と米を頬張り、健気に振舞うブルーだったけれど。
本当の所は辛くなかった筈がない。
今もブルーは覚えている。
ハーレイとの十五年ぶりの優しい時間すら持てず、いたずらに流れ去った遠い日のことを。
赤い星に迫った災いの時をただ待つだけしかなかった日々を…。
長老たちと一緒の公式な見舞い。
それがハーレイが青の間を訪れた、ただ一度だけの時だった。
キャプテンとしてブルーの身体を気遣い、ゼルたちと共に状況の報告や今後の方針などを伝えただけの短い訪問。私的な会話は一切無かった。ソルジャーとキャプテン、それぞれの立場での言葉のみを交わしてハーレイは青の間を辞し、自分の持ち場へと戻って行った。
非常警戒態勢に入ったシャングリラでは、キャプテンは自室を離れられない。ブリッジに居ない時は自室で待機が鉄則だったし、そのように作られた部屋がキャプテンの私室。ブリッジと緊急の連絡が取れて、指示も下せる設備が整った部屋。
ハーレイは其処から動くことが出来ず、自室に居なければ居場所はブリッジ。
青の間で静養中のブルーの方でも、医療スタッフや医療機器に見守られていては動けはしない。許可を得られれば短時間の外出は可能だけれども、ハーレイの部屋には出掛けられない。
今後のことで相談があるから、と嘘をついて訪ねることは出来ても、恋人同士の逢瀬を持ったら何かあった時に全てが知れる。
長い年月、隠し続けてきたハーレイとの仲が、シャングリラ中に。
そうなることが分かっていたから、ブルーは会いには行けなかった。ハーレイが来られないのも分かっていたから、流れ去る時をただ見ていただけ。
残された時間が減ってゆくのを唇を噛んで見ていただけ。
堪え切れずにフィシスの許を訪ねたけれども、辛さが増しただけだった。
フィシスを抱き締め、慰めることは出来るのに。
どうして自分を抱き締めてくれる逞しい腕は何処にも無くて、恋人の声さえ聞けないのかと。
何故ハーレイとキスさえ交わせず、死に赴かねばならないのかと…。
遥かな昔を思い出して俯くブルーに、ハーレイが「すまん」と謝った。
「前の俺の配慮ってヤツが足りなかったんだ。スープ作りなら堂々と青の間に行けただろ?」
キャプテンとしてな。
前のお前がダウンした時には俺の野菜スープしか飲めないってことは皆、知っていたし。
「そうだけど…。ぼくは普通に食事が出来たし、君にはそんな時間は無かった」
ブリッジに居なければ、キャプテンの部屋か移動中か。
そうだったでしょ?
ぼくにはちゃんと分かっていたよ、とブルーはフォークでトマトをつつく。オーブンで加熱したトマトは皺が寄っていて、それでもトマトの形はそのまま。
中身を殆ど掬って食べてからトマトを食べるのがブルーの好みで、底に残ったハーブ風味の米とトマトとを混ぜながら口へ。けれど、トマトの中にはまだたっぷりと具が入っている。
ハーレイの方は一個目のトマトを食べ終え、二個目の蓋を外しながら。
「いや、通信手段さえ確保していれば行けたんだ。スープを作る間くらいは」
スープを作りに行ってきます、と嘘をつく度胸さえ無かったキャプテンだ、俺は。
お前が独りぼっちだってことは分かってたのにな…。
「ううん、仕事を大切にしただけ。キャプテンの役目を果たしただけだよ」
ぼくが本当のソルジャーだったら、野菜スープを作る間に作戦会議ってこともあるけれど…。
ソルジャーはとうにジョミーだったし、スープ作りの時間は無駄だよ。
ぼくと会うだけの、ただの恋人同士の時間で何の役にも立ちはしないよ。
ハーレイはそれに気付いていたから、来なかっただけ。
青の間でスープを作る代わりに、キャプテンの仕事をしていただけ…。
「それはそうかもしれないが…」
実際そうでもあったのだろうが、とハーレイはトマトに詰まった米を掬って。
「俺がスープを作りに行けていたなら…。そしたら、お前は美味いスープを飲めたんだ」
こんな美味しいスープがあるのか、と言ってくれたかもしれないな。
レシピをこっそり変えたんじゃないかと、今のお前と同じことをな…。
「そうだね。そう言ったかもしれないね…」
それに、最後に食べる食事がハーレイのスープだったら良かった…。
ハーレイが作ってくれたスープを美味しく飲んで、それから死ねたら幸せだったよ。
…それでもやっぱり泣いただろうけど。
ハーレイの温もりを失くしてしまって泣いただろうけど、スープの分だけ涙が減った。
きっと、減ってた…。
本当に減っていたのだろう、とブルーは遠く過ぎ去った日の悲しみを思う。
もしもハーレイと、僅かであっても私的な会話を交わせていたなら。
ハーレイが作った野菜スープを、「美味いと言ってくれただろう」と話すナスカの野菜で作ったスープを味わえていたなら、きっと心に温もりがあった。
右の手が冷たく凍えようとも、思い出は心に残っていた。
ハーレイの姿と声とは確かに記憶に残っていたのに、温もりを失くしてしまった自分。けれどもスープの美味しさを、ハーレイの優しさを心に刻んでいたなら、きっと心が温かかった。
その温かさの分、涙は減った。
独りぼっちなことに変わりはなくても、暖かな思い出に縋れたから。
束の間、味わった幸せに縋れる分だけ、涙は幾粒か減っただろう。
もうハーレイには会えないのだと泣きじゃくりながらも、最後に飲ませて貰ったスープの優しい味と温かさとに少しは救われていただろう。
あれを飲めただけでも幸せだったと、幸せな思い出だけは持って逝けるのだと…。
「お前、本当は何を食ったんだ?」
最後の食事、とハーレイに問われて、ブルーは「同じだよ?」と遠い記憶を手繰り寄せた。
「あの日のお昼御飯でしょ? ハーレイと同じ」
いつも通りの時間に届いたし、特に何か言われた覚えも無いし…。
だから、みんなと同じだよ。
ハーレイが何処で食べたのかは知らないけれども、普通の食堂の御飯だったよ。
「そうか…。ナスカの野菜ですらなかったんだな、やっぱりな…」
「そうだったの?」
何も考えていなかったから、とブルーは遠い遠い記憶を探ったけれど。
迫り来る死に、ハーレイとの別れに囚われていた心は食事の味まで覚えてはいない。ハーレイが美味しかったと語ったナスカの野菜が使われていても、恐らく気付きはしなかったろう。
けれどハーレイが悲しそうな顔をするから、もう一度重ねて訊いてみる。
「あの食事、シャングリラの野菜だったんだ?」
「…ああ。お前が何も訊かれなかったなら、間違いなくシャングリラの野菜だな」
ナスカの野菜は好き嫌いが分かれた。
俺は美味いと思ってたんだが、食いたくないヤツらも中にはいたんだ。
ナスカなんぞで暮らしているより地球へ行こうと主張するヤツらは食わなかった。
だから若い連中向けの料理には使っていた筈なんだが、古株向けはな…。
同じメニューでも素材が違う、というヤツだ。
お前は古株の中の古株なんだし、試食しますかと訊かれなかったならシャングリラの野菜だ。
ブルーは驚いて目を見開いた。
ナスカに居た頃、若い世代との対立があったとは今のハーレイから聞いていたけれど、食事用の野菜までが別にされるほどに激しいものとは思わなかった。
どおりでナスカに残ろうとした者が多かった筈だ、と今になって気付く。明らかに危険が迫っているのに何故逃げないのかと不思議だったが、彼らにとってはナスカこそが居場所だったのだと。
「…野菜まで別にしてたんだったら、ナスカに残りたがるのも無理はないよね…」
「俺に言わせりゃ、馬鹿だがな。一旦逃げてだ、何事も無ければ戻るっていうのが普通だろ?」
それが避難というヤツだ。
安全を確認出来たら戻るって選択も可能ではある。
いくらあの時点で「二度とナスカには戻らない」と言いはしてもだ、安全ならな。
「うん。安全だったら捨てる必要は無いものね、ナスカ…」
「せっかく開拓したんだしな? だが、若い連中には危機感ってヤツが欠けていたんだ」
その結果として、あの惨事だ。
自業自得なヤツらはともかく、俺たちはお前まで失くしちまった。
もっとも俺たち古い世代も努力不足ではあったと思う。
俺はともかく、頑固なヤツら。
ナスカの野菜なんかが食えるものか、と言ってたヤツらの意識を変えておくべきだった。
そうしたら同じナスカを離れるにしても、一時撤退って形を取れていたかもなあ…。
「ナスカの野菜、そこまで嫌われ者だったんだ?」
ハーレイが食べたら美味しかったのに、食べようとしない人、多かったんだ?
「まあな。…ゼルが初めてナスカのトマトを食った時には、お前が居なかったくらいだからな」
「…ぼくが死んだ後?」
ナスカが無くなった後のことか、とブルーは仰天したものの。
どうしてゼルが食べようという気になったものか、ということの方が気にかかる。
それを問えば、ハーレイは「怒るなよ?」と苦い笑みを浮かべた。
「お前のお蔭で逃げ延びた後、俺たちは天体の間に集まってジョミーの指示を待っていた。…俺は緊張の糸が切れたっていう感じでな…。お前の名前を呼びながら泣いていたんだが…」
その時にゼルが食っていたんだ、「こんなに美味かったんじゃのう…。ハロルド」って、死んだ若いヤツの名を呟きながらな。
俺は一瞬、激しい怒りを覚えたさ。どうしてお前の名を呼ばないのか、と。
だがな、殴り飛ばしたくなった途端にゼルの心の奥底が見えた。だから殴らずに見守れたんだ。
「…何か理由があったんだね? ぼくの名前を呼ばなかった理由」
「そうだ。だから怒るなと先に言っておいた筈だぞ」
ゼルはアルタミラで弟を亡くしている分、仲間を亡くした若いヤツらの気持ちも分かった。
それでお前を呼べなかった。お前の名前は俺たちが呼ぶに決まっているからな。
若いヤツらのためにナスカで死んだヤツの名前を呼んでだ、あえてお前を呼ばなかった。
そして初めてのトマトも食うことにしたんだ、厨房から持ってこさせてな。
死んだヤツらが育てたトマトだ、それを味わって食ってやるのが何よりの供養になるだろうが。
ゼルの気持ちは分かったけれども、今度はトマトがブルーの心に引っ掛かった。
母のスタッフドトマトは確かに美味しい。けれど野菜は他にも色々。生で食べるには適しているからゼルはトマトを持ってこさせたのか、それ以外の理由もあったりするのか。
これは訊かねば、とハーレイの鳶色の瞳を見上げる。
「そこでトマトを選ぶんだ? トマトが一番自慢の味の野菜だったとか、そんな意味もある?」
「自慢の味と言うか、ナスカで最初に実った野菜と言うか…。最初に根付いたものは豆だが、豆はそのままじゃ食えんしな? 生で食える野菜としてはトマトが最初だ」
それだけに熟練の味だったな、うん。
ナスカに居た間に劇的に味が向上してたぞ、実に美味かった。
「ぼくもそのトマト、食べたかったよ。野菜が別だって知っていたなら、注文したかも…」
「ゼルとしては供えていたんだと思うぞ、お前にな」
声に出していたのは若いヤツらの名前だったが、心の中ではちゃんとお前を呼んでいた。
俺には分かった。ゼルがお前の名前を呼びながら号泣していたのがな。
…で、食えたか?
ゼルがお前に供えたナスカのトマト。
「さあ…? どうなんだろう、覚えてないや」
でも、そのトマトって、生だよね?
「調理済みではなかったな」
「そっか…。じゃあ、味の違いが際立ったかな?」
食べてみたかったな、ナスカのトマト。
ちょっと生のトマトを食べたい気分がするけれど…。残念、今日のサラダはトマトじゃないね。
「おいおい、メインがコレだぞ?」
サラダまでトマトだとやりすぎだ。
一個しか食わないお前はともかく、俺はトマトが三個分だしな?
ゼルが前の自分にナスカのトマトを供えてくれていた、とハーレイから聞かされたブルーは遠い記憶を探るけれども、生憎とメギドから後は分からなかった。記憶の糸はプツリと途切れて、今の生へと繋がっている。生まれ変わるまでの間に何処に居たのかも定かではなくて。
「…前のぼくって、食べられたのかな? ゼルのトマト…」
「食ってくれていたなら嬉しいが…」
嬉しいんだが、とハーレイは複雑な表情になった。
「その一方で俺としては腹立たしくもあるな。俺のスープは飲んで貰えなかったのに、とな」
お前にナスカの野菜のスープを作ってやりたかったのに。
美味いのを飲ませてやりたかったのに…。
「だったら、ぼくは食べていないよ、きっと。…ゼルのトマトは」
ハーレイの気持ち、伝わっていたと思うから。
どんなにゼルに貰ったトマトが美味しそうでも、食べないよ。
ハーレイがぼくに飲ませたかったスープを飲んでないのに、ゼルのトマトは食べられないよ。
「そうなのか?」
「うん。ハーレイが悲しがるようなことはしないよ、メギドだけで沢山」
勝手に飛んでしまって悲しませたから、と口にする小さなブルーをハーレイが軽く睨み付けて。
「充分に悲しかったがな? そのメギドのせいで」
「だからそれ以上はやらないってば」
ゼルのトマトだけを美味しく食べて、ハーレイを悲しい気持ちにはさせないよ。
ハーレイのスープを飲んでいないのに、トマトなんかは食べないよ…。
決して食べないし食べてはいない、とブルーは笑みを浮かべて言った。
ナスカのトマトは気になるけれども、食べられるものなら食べたかったけれど、ハーレイが作るスープの方が良かったと。
それを最後に飲みたかったし、それが無いならナスカのトマトも要らないのだと。
「…それにね、今は美味しい地球のトマトが食べられるから」
ナスカのトマトにはこだわらないよ。
絶対に地球のトマトの方が美味しいトマトに決まっているもの。
「違いないな」
その点は両方を食べた俺が保証する、とハーレイが大きく頷いてみせる。
「やっぱり美味さが全然違うぞ、シャングリラのとナスカのトマトの違いよりデカイな」
「そこまで違うの?」
「ああ、違う」
それだけ地球のトマトは美味い。
うんと美味いし、いつか俺たちが結婚したら…。
お前の野菜スープ専用の畑を作ろうか、って言ってただろう?
その畑のメインはトマトにしとくか?
ナスカで一番自慢の野菜で、ゼルがお前に供えたトマトだ。記念にどうだ?
「うーん…。記念はいいけど、そうなると野菜スープがトマト風味になってしまわない?」
ぼくが一番好きな味とはちょっと違うかも。
ハーレイ、レシピを変えちゃうつもり?
「確かになあ…。トマトベースだと別物だからなあ…」
塩と野菜の旨味だけっていうのがお前好みの味だしな。
トマトは入れてもほんのちょっぴり、他の野菜が多めだっけな?
畑のメインをトマトにするのはやめておくか、とハーレイは三個目のスタッフドトマトを食べるべく蓋を開けにかかる。
ブルーはと言えば、一個しか無かった自分のトマトの皮と残った米とを混ぜ合わせている最中。普段だったら食べ終えている頃だけれども、話に夢中で手が遅い。
そんなブルーの手元を見ながら、ハーレイがしみじみと先刻の話題を繰り返した。
「…しかしだ、お前に飲ませたかったな、ナスカの野菜で作ったスープ…」
「ぼくも最後に飲みたかったよ、ハーレイのスープ」
ハーレイが言うから飲みたくなった、とブルーはクスクスと小さく笑った。
「だけど、とっくに手遅れだもの。前のぼくは死んじゃって、今のぼくになっちゃったしね」
ハーレイのスープ、今は地球の野菜のスープになったよ。
ナスカの野菜のは飲み損ねたけど、地球の野菜のスープは一生、作ってくれるんだよね?
「そりゃあ、野菜畑まで作る予定だ、作ってやるが…」
いくらでも作るが、他の料理にも開眼しろよ?
最後の晩餐が野菜スープっていうのは悲しいぞ。
前のお前の頃ならともかく、今じゃ料理も素材も食べ放題で選び放題だ。
今度は野菜スープだなんて言わずに、もっとゴージャスなのを注文してくれ。
そういう話題は王道だぞ、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
最後の食事に何を食べたいか、何を食べるかと好物を挙げて楽しむのだと。
学生時代はそうした話に興じたものだし、今でも同僚とああだこうだと笑い合うのだ、と。
「お前の年では、まだやらないか…。飯よりも菓子が挙がりそうだしな、ガキだしな?」
「ガキは酷いよ!」
酷い、と抗議しつつも、ブルーは少し考えてみて。
「…ぼくはハーレイと一緒に食べられるんなら何でもいいよ、最後の晩餐」
「ほう、そうか? 何でもいいのか」
じゃあ、ステーキだ。
食べ応えのある美味いのを食おうじゃないか。
「いいよ? …ぼく、食べ切れないかもしれないけれど…」
「寿司かもしれんが?」
ありったけのネタを端から注文して食っていくんだ、楽しいもんだぞ。
美味い酒があればもっといいな。
前のお前も今のお前も酒は駄目そうだが、最後の晩餐とくれば付き合え。
酒は舐めるだけでもいいから、寿司ネタは端から端までな。
なあに、少し齧って俺に寄越せば制覇出来るさ、お前のちっぽけな胃袋でもな。
難しそうな注文ばかりが挙がるけれども、ブルーは「うん」と笑顔で応えた。
「お寿司でも寄せ鍋でも、何でもいいよ」
ハーレイと一緒に食べられるんなら、ぼくには最高の御馳走だから。
前のぼくは最後の食事を一緒に食べられなかったから……。
それにスープだって飲めなかった。
ハーレイが作る野菜のスープ。ナスカの野菜で作ったスープ…。
「ふむ…。俺の料理でも満足か、お前」
「そうだよ? 別にお店で食べなくっても、ハーレイの料理で充分なんだよ」
だって、ハーレイが作ってくれるだけで美味しいに決まっているんだもの。
ステーキもお寿司も、ハーレイが食べに行きたいんだったら付き合うけれども、ぼくが食べたい最後の晩餐はハーレイの料理。
野菜スープでも何でもいいから、ハーレイの料理が食べたいな…。
「俺の料理か…。よし、思い切り腕を奮うか、何百年後になるかは知らないけどな」
なんたって最後の晩餐だからな、俺たちが何年生きるかによるな。
それまでに腕を磨いておこう。
お前も食いたい料理を増やして、野菜スープだなんてケチな注文するんじゃないぞ?
「うん。それを食べたら…。最後の晩餐を一緒に食べたら、約束通り死ぬのも一緒だよ?」
そしてまた何処かに一緒に生まれてこようね、思い出の味を食べられるようにね。
「ああ。いつまでも、何処までも一緒に行こうな、ブルー」
今度こそ、何処までも一緒に行こう。
次に二人で生まれ変わっても、その次も、そのまた次もな…。
一緒に行こう、と微笑み交わして、約束をして。
指切りをする二人の前に置かれた皿にはトマトのヘタだけが残っていた。
ブルーの皿にはヘタが一個で、ハーレイの皿には三個分のヘタ。
幸せな約束を見届けた四個のトマトは、地球の大地で育ったトマト。
青く蘇った地球の光と水と土とで育ったトマト。
ナスカのトマトよりも遥かに美味しいトマトを育てる母なる地球。
その地球の上に生まれ変わって、恋人たちは幸せな時を生きてゆく。
今度こそ二人離れることなく、何処までも二人、手をしっかりと繋ぎ合って……。
赤い星のトマト・了
※ナスカのトマト。…個人的には非常に恨みがあった代物、アニテラ17話のせいで。
「なんでハロルドだよ! ブルーの名前じゃないんだよ、ゼル!」と。
ようやっと恨みを晴らせた作品、自分語りをしてしまうほどに。…トマトなんです。
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山ブドウのジュース。赤ワインみたいに綺麗な色をしていて、ちょっぴり酸っぱい。
パパが友達から旅行のお土産に貰って来たから、ハーレイにも。
「ほほう…! 山ブドウか、こいつは美味いな」
「でしょ? 美味しいよね、普通のブドウのジュースも美味しいけれど」
ハーレイの笑顔までが「美味しいぞ」って言っているようで、とても嬉しい。ハーレイは何でも美味しそうに食べるんだけれど、やっぱり特別な顔があるから。ホントのホントにお気に入りって味に出会った時には、ちゃんとそういう顔になるから。
たとえば、ぼくのママが焼くパウンドケーキ。ハーレイのお母さんが作るパウンドケーキの味にそっくりらしくて、大好物。パウンドケーキをおやつに出したら、ハーレイの表情はもう最高。
山ブドウのジュースはパウンドケーキには敵わないけど、素敵な評価を得られたみたい。
(ふふっ)
出してよかった、とジュースをストローで飲むハーレイを見ていたら。
「山ブドウなあ…。それも天然のか」
「うんっ! 畑のじゃないってパパが言ってた」
お洒落なラベルなんかは貼ってなかった山ブドウのジュースが詰まった瓶。手作りだって感じが溢れる素朴なラベルに「山ぶどうジュース」の文字と、作った人の名前とかだけ。
パパの友達は旅行先に親しい友達が住んでて、その人から貰って来たらしい。大きな食料品店に卸すだけの量は作れないから、地元でだけ売られているジュース。自然に生えている山ブドウの実だけで作った、混じりっ気なしの天然もの。
パパとママとぼくで飲んでみて、美味しかったから。
ハーレイにも出そうっていうことになった。自然の恵みの山ブドウのジュース。
「ふうむ…。ブドウが自然に育つとはなあ、流石は地球だな」
感心しているハーレイの言葉で気が付いた。天然ものの山ブドウだから自然のブドウ。
「そういえば、そうだね。…なんだか凄いね」
シャングリラでは農園で大切に栽培していたブドウ。
楽園という名の白い鯨に広い畑はあったけれども、手をかけて世話をしてやらなければブドウは実りはしなかった。栗の木みたいに公園や居住区の庭に植えておくだけで沢山の実がなるわけではなかった。
きちんとブドウ専用の区画を設けて、棚を作ったり枝を剪定してやったり。農園専属のクルーがせっせと世話をし、見事なブドウがたわわに実る。
今の地球ではブドウ農園に出掛けてブドウ狩りなんかも出来るけれども、シャングリラの農園で実ったブドウは係のクルーが一房ずつ気を付けて収穫していた。子供たちはそれを見学するだけ。ブドウ狩りなんて夢のまた夢、「美味しそう…」って見ていただけ。
そうやって採れたブドウはフルーツとして食卓に上った。
房で出されるわけじゃなくって、一人ずつ、お皿に何粒か。それがシャングリラの精一杯。
ソルジャーだったぼくは「冷やしておけば日持ちしますから」と一房貰ったりしたんだけれど、「少しでいいよ」と遠慮しておいた。ハーレイと二人で食べる分だけあれば良かった。
だから自分で「このくらいかな」って思う辺りで房をハサミでパチンと切って。
それを青の間にあるお皿に移して、残りのブドウは運んで来たクルーに「これで充分」と返しておいた。新鮮な間に子供たちにでも分けてあげて、と。
一房食べるなんて贅沢すぎたシャングリラのブドウ。
美味しかったけど、ハーレイと二人で食べるにしたって一房は贅沢すぎると思ってたブドウ。
その貴重なブドウでレーズンとかも作ったけれども、子供たちのためにブドウのジュース。
合成品じゃない果物のジュースは身体にいいから、ブドウを作っていた主な目的は果汁を絞ってジュースにするため。それと料理やお菓子に役立つレーズン。
保存が利くジュースやレーズン作りが最優先だから、採れたての新鮮なブドウの実を沢山食べるわけにはいかない。ブドウが実った時にちょっぴり、僅かな量を食べるだけ。
ブドウのジュースをメインに作る傍ら、大人たちのために、ほんの少しのワインを作った。
お祝い事なんて無かったけれども、そういう時に飲むために。
閉ざされた船の中だけの世界に住むぼくたちには誕生日のパーティーすらも無かった。
ぼくも含めたアルタミラからの脱出組には、誕生日そのものが無かったから。成人検査で記憶を奪われた上に、繰り返された人体実験。過酷な日々を過ごす間に、誕生日なんて忘れてしまった。
ソルジャーや長老たちに誕生日が無いから、後で加わった仲間たちは遠慮してしまって。
ちゃんと誕生日を覚えていたって、親しい仲間と個人的に祝い合うだけで誕生日のパーティーは一切無かった。
子供たちのために養育部門が催す誕生日パーティーはあったけれども、ワインは要らない。
お酒を飲めない子供たちのパーティーにワインなんかは必要じゃない。
お祝い事の無かったシャングリラ。
たまにカップルが成立した時にも結婚披露のパーティーは無くて、内輪でお祝い。船を挙げてのお祝い事の席ではないから、ワインはやっぱり出なかった。
お祝い事らしいイベントと言えば、クリスマス。
人類はクリスマスを祝っていたけど、ぼくたちのシャングリラにもクリスマスはあった。一年に一度のクリスマス。成人検査よりも前の記憶が無くても、クリスマスのことは覚えてた。
一緒に祝った養父母の顔もパーティーの御馳走も忘れたけれども、とても素敵な日だった、と。サンタクロースがやって来ることも、ちゃんと記憶に残っていた。
だけど、シャングリラのクリスマスは子供たちのための楽しいイベント。
夜になったらサンタクロースが来てくれる日で、パーティーの主役も子供たち。
そう、サンタクロースもシャングリラに居た。正体は養育部門のクルーだったけど、あの独特の赤い服を着て、真っ白な髭もくっつけて。プレゼントが詰まった白い袋を担いで、夜更けの通路を歩いてゆくんだ。子供たちが眠る部屋を目指して。
ずうっと昔は大人しかいなくて、人類から奪った物資でクリスマスを祝ったこともあったけど。
奪った物資に紛れていた本物のお酒で乾杯して祝っていたんだけれど…。
子供たちが主役になってから後は、クリスマスはお酒抜きでのパーティー。
お祝い事には違いないけれど、ミュウの未来を担う子供たちにうんと楽しんで欲しかったから。
大人たちはパーティーの席ではお酒を一切飲まずに、後で個人的に飲んでいた。
個人的な酒宴には合成品のお酒で充分、貴重なワインは出さなくていい。
シャングリラで採れたブドウのワインは、本当のお祝い事の時にしか出さなくていい…。
クリスマスにも飲まずに取っておいた貴重なワイン。
他にどんなお祝い事があると言うんだ、って誰もに笑われそうだけど。
それは今だからそう言えることで、人間がみんなミュウになった平和な時代だからこそ。
前のぼくたちにはクリスマスよりもずうっと大切なお祝い事の日があったんだ。
楽園という名の白い鯨で暮らしたぼくたち。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
そのシャングリラで採れたブドウのワインは、年越しのイベントの時に使った。
正確な時を刻み続けるブリッジの時計が示す銀河標準時間。二十四時間の一日と三百六十五日の一年が基本の地球の時間を元にした時間。それが一月一日の午前零時になるのをシャングリラ中の仲間たちが待った。それぞれの持ち場で、ブリッジが見える公園などで。
カウントダウンを待つ間に配られるグラスに一人一杯のワイン。
シャングリラのブドウの実から作った赤ワイン。
グラスを手にして待ち受ける仲間たちに新年の到来を告げて、乾杯の音頭を取っていたのが前のぼく。ブリッジの中央に立って、赤ワインを満たしたグラスを高く掲げて。
「シャングリラのみんな、新年おめでとう。新しい年が良き年でありますように。乾杯!」
乾杯! と唱和する声が返って、船のあちこちでグラスを傾けながら皆が喜び、祈る。
新しい年を無事に迎えられたと、また一年間生き延びられたと。
迎えたばかりの新しい年も、生きてゆくことが出来ますように、と。
遠い昔にはワインは神様の血だと言われていたというから。
SD体制が始まるよりも前の時代の暦の始まりの年に生まれた神様、クリスマスに地球の小さな馬小屋で生まれたと伝わる神様の血。
前のぼくたちの時代にはクリスマスだけで、神様も居たというだけで。神様の身体だとされてた儀式用の小さなパンも無ければ、赤ワインを神様の血になぞらえるための儀式も無かった。
だけど、前のぼくは赤ワインが神様の血だった時代が確かにあったと知っていたから。失くした記憶の代わりに詰め込んだ知識の一つとして知っていたから、年越しのイベントに赤ワイン。
神様の血だという赤ワインを飲んで、新しい年の無事を願った。
ぼくたちの船を、仲間たちを守って下さいと。
一人でも多くのミュウを救い出すことが出来ますようにと、ミュウの未来が拓けますようにと。
神様は今じゃ沢山復活しちゃって、お守りなんかも色々あるけど、あの頃は一人。
前のぼくが生きていた時代は神様はたった一人だけだった。
(…なんでだろう?)
人間が住む惑星は沢山あったし、神様やお守りも何種類かあっても良かっただろうに。
神様を一人に絞らなくても、もう少し多くても良かったように思うんだけど…。
だって、データは残ってた。クリスマスが誕生日の神様の他にも居た何人もの神様たち。聖書の他にも色々な本とかが残っていたのに、それを根拠とする神様たちは居なかった。
(グランド・マザーが統治しやすいようにかな?)
神様の種類が増えたら、神様を心の拠り所にする人間の種類もそれだけ増える。
マザー・システムお得意の人間の心を分析したり、場合によっては記憶ごと書き換えて従わせる仕組みを楽に使いたければ、心の種類は少なめがいい。パターンは少ないほど便利。
そのために神様は一人に絞っておいたのだろうか、と推測してみるけれども。
一人だけに絞られてしまったとはいえ、神様という概念が無くならなかったことは凄いと思う。
グランド・マザーにも、マザー・システムにも消し去ることが出来なかった神様。
人間から神様を取り上げることは、あの非人間的なシステムをもってしても不可能だった。
だから神様は居るんだと思う。
クリスマスが誕生日の神様は絶対確実に居るし、復活してきた神様たちも、きっと。
ぼくがハーレイに出会えるように、と聖痕をぼくにくれた神様。
聖痕は本来、神様が身体に負った傷痕そっくりなもの。
SD体制の時代にも生き残っていた、クリスマス生まれの神様が死ぬ時に負った傷痕。
その神様の血だと言われた赤ワイン。
赤ワインを飲んで神様にきちんと祈っていたから、神様はぼくに聖痕をくれたのかもね…。
ハーレイにそんな話をしてみたら、「そうかもな」と頷いてくれて。
「あの頃のワインは貴重だったな、本物は一年に一度だけだしな? しかも一人に一杯だけだ」
「うん。今じゃワインも色々あるよね」
ぼくは飲めないけど、本物のワイン。赤だけじゃなくて、白とかロゼとか…。
シャングリラでは赤ワインだって普段は合成だったのに。
「うむ。酒好きの俺としては実に嬉しい」
前の俺たちの頃も人類はあれこれとワインを楽しんでいたんだろうが…。
前のお前が奪った物資にも白やらロゼやら紛れてたしな?
しかしだ、今は地球のワインだ。地球で作られた美味いワインを飲み放題だ。
いい時代だ、とハーレイは笑顔なんだけど。
小さなぼくはワインを飲めはしないし、大きくなっても飲めるかどうか…。
「ぼく、地球のワインは楽しめないかもしれないんだけど…」
前のぼくはお酒に弱かったもの。
ぼくがお酒を飲める年になっても、ワインなんかは飲めないかも…。
「お前、乾杯で酔っ払えるソルジャーだったしな?」
グラス一杯の赤ワインでも駄目で、ものの見事に酔っ払えたしな?
「そうだよ、そうなるってことが分かっていたから、いつも口だけつけてたよ」
ほんの一口しか飲まなかったよ、一口どころか舐める程度で。
せっかくのワインがもったいないから、残りはグラスごとハーレイに渡して。
「ああ。堂々とお前と間接キスってヤツが出来たんだよなあ、人前でな?」
「そうだったね。年に一度だけの「堂々と」だよね」
間接キスでも、ハーレイとキス。
ブリッジとか公園のみんなが見ている所でハーレイとキス…。
「裏事情は誰も知らなかったがな、間接キスをしているんです、という辺りはな」
「うん。キャプテンがソルジャーの飲み残しを飲みます、っていうだけでね」
ハーレイ、お酒に強かったから。
無駄にするより飲み残しでも飲むべきだよねえ、貴重な本物のワインだものね?
飲み残しまで責任を持って飲まなきゃいけないキャプテンはうんと大変だけどね?
いくらハーレイがお酒に強くて好きであっても、飲み残しを押し付けていたことは事実だから。
ちょっぴり申し訳ない気分だったのが前のぼくなのに、ハーレイは笑ってこう言った。
「知ってたか? あの飲み残し、けっこう熱い目で見られていたぞ」
「なに、それ?」
なんで熱い目?
いったい誰が何の目的で、とぼくはビックリしたんだけれど。
「やはり気付いていなかったのか…。露骨に視線が行っていたがな?」
「そうだったの? ぼくは全然知らないけど、誰?」
ワインを一口飲んだだけで身体が熱かった、前のぼく。
みんなの前では酔っ払えないし、平気なふりをしてグラスをハーレイに渡すことだけで精一杯。周りを見ている余裕なんか無くて、威厳を保って立っていただけ。
誰が飲み残しのワインなんかを見てたんだろう?
それに熱い目って、どうして熱い目?
「お前に想いを寄せる女性陣ってヤツだ、惚れてるヤツらは多かったろうが」
あの飲み残しが貰えたら…、って視線が集中していたぞ。
貰えたらお前と間接キスだし、そりゃまあ、憧れもするだろうなあ。
その飲み残しを飲んでいた俺は、彼女たちを敵に………まあ、回してはいないがな。
「薔薇のジャムが似合わないハーレイだしね?」
キャプテン、お仕事ご苦労様です、としか思われてないよ。
仕事で飲むよりこっちに下さい、くらいにしかね。
「まったくだ。俺が飲んでも絵にならないから助かったんだ」
まさか本物のカップルで間接キスだとは誰一人として思わんさ。
シャングリラ中の誰が眺めても、仕事でソルジャーの飲み残しを片付けるキャプテンだ。
俺たちが恋人同士だったことは最後まで誰も知らないままで終わったしな。
「今もだけどね?」
恋人同士だって誰も知らないよ、と、ぼくは微笑んだ。
「パパとママ、全然、気付いてないよ。ハーレイがぼくの恋人だってこと」
「…バレたら俺は叩き出されるか? 山ブドウのジュースでもてなされる代わりに」
「うん、多分…」
ハーレイは叩き出されてしまうし、ぼくは部屋に閉じ込められちゃうよ。
抜け出してハーレイに会いに行けないようにされてしまいそうだよ、バレちゃったら。
「今も秘密か…。あの頃から進歩してないわけだな、俺たちは」
「そうかも…」
シャングリラに居た頃も、今も秘密の恋人同士。
せっかく平和な地球に来たのに…、とガッカリしかけて、ふと思い出した。
ちょっぴりだけど前より前進してる。
まるで秘密ってわけじゃなかった、って気が付いたから。
「ううん、ハーレイ。ちょっとだけ前より進歩してるよ」
「どの辺がだ?」
「ハーレイのお父さんとお母さん! ぼくたちがいつか結婚するって知ってるじゃない!」
「なるほどな…」
俺の親父とおふくろか。
確かに楽しみに待ってはいるなあ、俺がお前を連れて来る日を。
「ね、そうでしょ? マーマレードだって無くなる前に貰っているもの、大きな瓶を」
「お前のお父さんとお母さんは全く知らないままなんだがな…」
「いつかビックリしちゃうんだろうね…」
ぼくがハーレイと結婚するってことになったら。
腰を抜かすかもしれないけれども、絶対、許して貰わなくっちゃね。
「そうだな、俺も土下座してでもお前を下さいと言わんとなあ…」
でないと幸せになれんしな?
今度こそ結婚式を挙げてだ、堂々と幸せになろうじゃないか。
前のぼくとハーレイにとっては夢でしかなかった結婚式。
今度はパパとママさえ許してくれれば結婚式を挙げて結婚出来る。
ハーレイと結婚出来るんだけれど、結婚式っていうのは確か…。
「ねえ、ハーレイ。結婚式にはワインで乾杯するんだよね?」
「そこはシャンパンだな、シャングリラでは作っていなかったがな」
「シャンパンなんだ…。シャンパンは作ってなかったね…」
白ワインもロゼも無かったシャングリラ。
ブドウの皮と種とを除いて作るような手間のかかるワインは無理だった。本物のブドウで作ったワインは赤ワインだけで、白ワインとロゼはもちろん合成。シャンパンだって合成だった。
でも合成ならあったんだよね、と思い出していたら。
「知ってるか? 遠い昔は本物のシャンパンは地球でしか作れなかったんだ」
それも決まった地域でだけだぞ、SD体制よりも前の時代の話だがな。
「今は?」
「何処の星でも作れるんだが、地球の本物のシャンパンを名乗るヤツだってあるんだぞ」
SD体制よりも前の時代の、フランスって国のシャンパーニュ地方。
ずうっと昔は其処で作ったヤツだけが本物のシャンパンだった。
地球が死の星になっちまった後はシャンパンどころじゃないからなあ…。そういった話も消えてしまったが、今は地球と一緒に文化の方だって復活してる。
俺たちの住んでる地域が元は日本だったっていうのと同じで、フランスだってあるだろう?
そのフランスのこの辺りです、っていう地域があるのさ、シャンパーニュがな。
其処で作ったシャンパンが本物のシャンパンらしいぞ、昔ながらの。
遥かな昔の製造法まで復活させてきてシャンパンを作っているらしい地域。
本物の地球産の、本物のシャンパン。
「それって、高い?」
「まあな」
本当に本物のシャンパンだぞ?
その辺のワインのようにはいかんさ、前の俺たちの赤ワインには及ばないまでも貴重品だ。
「ハーレイは飲んだことがあるの?」
「友達の結婚式でならな」
「結婚式!」
いいな、と思ったから口にしてみる。
「ぼくたちの結婚式でも出そうよ、本物のシャンパン! お祝い事だし、出してみたいよ」
「お前、乾杯で酔っ払うぞ?」
「ハーレイに回すよ、昔みたいに」
今度こそ、うんと堂々と。
だって、結婚したんだもの。堂々と間接キスでいいもの。
「そうだな、口移しで飲んだってかまわないくらいだしな?」
お前が口に含んだ分まで引き取ってやろうか、酔っ払わないように?
みんなが見ている前で堂々とキスだ、お前も酔っ払わなくても済むしな。
「ふふっ、いいかも…」
飲み残しのグラスを渡して間接キスどころか、堂々とキス。
ぼくが少しだけ口に含んだ乾杯用のシャンパンを飲み下さなくても、ハーレイが全部引き取って持ってってくれる。
キスして口移しで、あるだけ全部。
結婚式に来てくれた人たちが見ている前で堂々とキス。
それがいいな、と思ってしまった。
今のぼくがお酒に弱くなくても、全部持ってって欲しいよ、ハーレイ…。
想像してみただけで幸せ一杯、結婚式が楽しみになった。
シャングリラには無かった本物のシャンパンで乾杯をして、飲み残しは全部ハーレイに。
ぼくの口の中に入った分まで、口移しでハーレイが貰ってくれる。
なんて幸せなんだろう。
どんなに幸せな結婚式になるんだろう…。
考えただけでたまらないから、ついつい、ハーレイに強請ってしまった。
「ハーレイ…。せっかくだから久しぶりにキス…」
いいでしょ、と向かい側に座ったハーレイの所へ行って膝の上に座ったのに。逞しい首に両腕を回しておねだりしたのに、「馬鹿っ!」と頭を小突かれた。
「久しぶりも何も、キスは駄目だと言ってるだろうが!」
「……キスな気分なのに……」
「百年早いっ!」
さっさと下りろ、と膝から追っ払われてしまった。
そしてハーレイは「お前にはキスもシャンパンも百年早すぎだ」なんて言っている。
山ブドウのジュースが丁度いいのだと、赤ワインだって飲めやしないと。
(…どうせ子供で、赤ワインだって飲めないよ!)
前のぼくがハーレイに飲み残しを渡した赤ワインですらも遠すぎる、ぼく。
ハーレイとキスも間接キスも出来ないぼく。
(まさか百年は待たなくていいと思うんだけど…)
思いたいけど、相変わらず全然、背が伸びない、ぼく。
ハーレイと出会った春から変わらないまま、ぼくの背丈は百五十センチ。
前のぼくの背丈と同じ百七十センチに育たない限り、ハーレイとキスは出来ない約束。
(神様の血の赤ワインだって飲めないんだけど…)
赤ワインじゃなくって山ブドウのジュースくらいしか飲めないんだけど。
山ブドウのジュースにも神様がいるなら、お願いしたいよ。
ぼくの背が早く伸びますように…って。
そして早くハーレイと結婚式を挙げて、堂々とキスが出来ますように……。
ブドウとワイン・了
※シャングリラでは貴重品だった、本物のブドウで作ったワイン。出番は年に一度だけ。
今は本物のワインが色々、結婚式には本物のシャンパンを使える時代です。
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ぼくの部屋にある勉強机。宿題を終えて、一段落。
(んーと…)
夕食までには時間があるから本でも読もうと思うけれども。
何処で本を広げることにしようか、勉強机か、それとも窓際のテーブルか。どちらも木製。木の温もりが優しい、勉強机とテーブルと。
(えーっと…)
いつもハーレイと向かい合って座る時のテーブル。大きさの割にどっしりと重い。
テーブルも、セットになっている椅子も、ぼくの部屋には立派すぎると子供の頃には思ってた。だけど今ではあって良かったと思う、ハーレイと食事も出来るテーブル。
(あっちにしようかな?)
テーブルもいいけど、ベッドに腰掛けて読むのもいい。コロンと転がって読むのも大好き。
何処にしようかと考えながら、読みかけの本を手に取ってみたら。
(うーん…)
なんだか、軽い。
読んでいた時には丁度良かったけど、もっとずっしりした本が読みたい気分。
何処で読むかは本次第だよね、と本棚をあちこち眺め回して。
「うん、これ!」
これがいいや、とシャングリラの写真集を手に取った。
ハーレイに教えて貰って、パパに強請った豪華版。ハーレイとお揃いの持ち物の一つ。
こういう重たい本を読むなら、似合う場所は勉強机かテーブル。
(…どっち?)
ハーレイと二人で使うテーブルか、ハーレイとぼくとの記念写真が入ったフォトフレームのある勉強机か。ハーレイとお揃いのフォトフレームの中、笑顔のハーレイを見るのも大好き。
だけどハーレイのために在るような椅子とセットのテーブルも捨て難い。ハーレイが座っている方の椅子は、ぼくが座る方よりも座面が少しへこんでる。ハーレイの体重と、何度も膝に乗ってたぼくの体重とでちょっぴりへこんでしまった椅子。
その椅子を前にして座る時間も好きだから。
(やっぱりハーレイの椅子がある方…)
テーブルかな、と本棚の前からチラリと視線を投げた所で。
(…あれ?)
そういえば、前のハーレイの机。
キャプテン・ハーレイの部屋に置かれていた大きな机。
テーブルに行って、ぼくの椅子の方に腰掛けて。それから写真集を広げて確認した。
(…木だったよね?)
うん、と写真集の中のキャプテンの机をまじまじと見た。
白い羽根ペンが小さく写った、前のハーレイが使っていた机。
トォニィが手を触れないで大切に残しておいてくれたから、こうして写真を見ることが出来る。シャングリラは無くなってしまったけれども、今でも懐かしく見ることが出来る…。
前のぼくとハーレイが暮らしたシャングリラ。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
楽園という名の白い鯨の中、キャプテンの部屋に置かれていた本物の木で出来たレトロな机。
羽根ペンと同じでレトロなアイテム。
木の机なんかは古めかしい家具で、もっと便利で使いやすい机が色々とあった。持ち運びが楽で傷がつきにくい丈夫なものとか、劣化の心配が要らないものとか。
シャングリラが名前だけの楽園だった頃、ぼくが人類側からドカンと奪った物資に混じっていた家具の一つだった机。レトロな木製。
そういった家具とかは皆の希望で分け合っていたけど、木の机は誰も欲しがらなかった。だって木で出来ているんだから。
今どき珍しいレトロな素材。磨いたり拭いたり、ずいぶんと手間がかかりそう。
希望者が無いなら倉庫に入れるか、邪魔な物資を増やさないよう処分せねばと思っていたら。
「要らないなら俺が貰っていいか?」
まだ若かったハーレイが控えめに名乗りを上げた。物資を分け合う時には見ているだけのことが多いハーレイ。一つしか無い品物を欲しいと挙手したことなんか無いし、沢山あっても一番最後。他に誰も希望者は居そうにない、って時しか欲しいと言わないハーレイ。
そんなハーレイが欲しいと申し出た、一つしか無い木の机。
どうぞ、と誰一人反対しなかった。
元々、誰も欲しがってないし、反対する理由なんか無い。
ハーレイは大喜びで机を貰って、ゼルやヒルマンに手伝って貰って運んで行った。
名前だけの楽園だった頃でも、ちゃんと個室はあったから。
輸送船だった船に居住用のスペースは少なかったけれど、あちこち区切って個室を設けて、皆が自分だけの部屋を持っていた。個人で自由に使えるスペース。
アルタミラの研究所で押し込められていた檻に比べれば天国のような、宮殿みたいな自分だけの部屋。たとえ充分な設備が無くとも、リラックスして過ごせる個人のお城。
木の机はハーレイが使っていた部屋に運ばれて行って、壁際に据えられて存在感を放っていた。あの頃は内装に手を加えるどころの話ではなくて、壁や床の素材と木とはミスマッチ。
それでもハーレイは大満足で、暇な時には机をせっせと磨いていた。木製品を手入れするための道具は無いから、古い布でキュッキュッと拭くだけだけれど、それは楽しそうに、嬉しそうに。
みんなは「変な趣味だ」と思って見ていた。
ただでも手間がかかりそうな机を手に入れた上に、暇を見付けては手入れだなんて。
変わった趣味だと皆が言う中、ぼくは変だと思う代わりにハーレイらしいと思ってた。
誰も欲しがらなかった机を引き取って、大切に手入れしているハーレイ。
広い心と優しさとを示しているような気がして、素敵だと思った。
何にでも価値を見出せる人は、心が温かい人だから…。
殺風景な個室の中。キュッキュッと机を磨くハーレイ。
「磨けば磨くほどに味が出るんだ、この机は」
「そういうものなの?」
ぼくたちが普通の言葉を交わしていた頃、机の手入れをするハーレイを見ながら話をしていた。まだ背が低くて、今と変わらないほどに小さかったぼく。
ハーレイの部屋の壁にもたれて、あるいはチョコンと椅子に座って眺めていた。ハーレイは机の上や横の面を大きな手で撫でては、ニコリと笑って。
「なんたって木で出来ているからなあ…。船の中では貴重だぞ、これは」
船の中でこんな大きな木は育たない、と言われてみればその通りだけれど。
ぼくにそういう発想は全く無かったから。
「それで貰ったの? 貴重品だから?」
「いや、好きなだけだ」
なんでだろうな。
こういうホッとするものが好きだな、味わいがあって。
成人検査よりも前の記憶は失くしちまったが、ガキの頃から好きだったのかもな。
でなきゃ、俺を育てた養父母だろう。
木で出来た古めかしい家具がある家で育ったかもしれんな、すっかり忘れてしまったんだが…。
机をせっせと磨いていたようなハーレイだから、羽根ペンが来た時も喜んで貰って行った。前のぼくが奪った物資に箱ごとドカンと大量に紛れていた羽根ペン。
まだシャングリラは自給自足の時代ではなくて、船体の改造の目途すらも立っていなかった時期だったけれど、ハーレイの立場はとうにキャプテン。シャングリラの舵を握るキャプテン。
ぼくがハーレイの部屋を覗きに行ったら、羽根ペンで日誌を書くのだと言った。
「日誌?」
「キャプテン・ハーレイの航宙日誌だ、俺の日記だ」
だから秘密の文書なのだ、と日誌を読ませてくれなかったハーレイ。
まだまだ普通の言葉も交えて二人で話が出来た頃。
ハーレイがぼくに敬語を使わず、普通に話してくれていた頃。
もっとも、ハーレイの部屋とぼくの部屋以外では、敬語になり始めていたんだけれど。
ぼくに「ソルジャー」の肩書きはついていなかったけれど、立場はリーダー。
物資を奪えるぼくが居なければ生きてゆけないし、万一の時にも戦えやしない。
リーダーに普通の話し言葉は失礼だから、と誰が言い出したんだろう。気付けばハーレイの言葉さえもが、皆の前では敬語へと変わり始めていた。
白い鯨が出来上がった頃には、ぼくはソルジャー。
ハーレイもカッチリと制服を纏ったキャプテンになってしまって、ぼくへの言葉は敬語だけしか出てこない有様だったけれども。
それでも、ぼくはハーレイが好きで。
船のみんなに公平に接し、気を配るハーレイがとても大好きで、部屋を訪ねては話していた。
今から思えば、とっくに恋をしてたんだろう。
ハーレイの側に居たいと思って、足を運んでいたんだろう。
あの木の机がしっくりと馴染む内装になったキャプテンの部屋に。
其処でもハーレイは木の机をキュッキュッと磨いていて。
「また磨いているのかい?」
昔みたいなボロ布じゃなくて、専用の布で磨くハーレイに声を掛けると、大好きな笑顔。
「この部屋ですしね、磨くだけの甲斐がありますよ」
内装に良く似合うんです。
この机も今にもっと重みが出ますよ、何十年かすれば。
「年数を経た机かい? そういう見た目はサイオンで加工してあげられるんだけどね?」
前のぼくには可能なことで、ごくごく簡単だったから。
やってあげようと提案したのに、断られた。
「それでは値打ちが無いんです。時間の経過も味わいの内です」
ゆっくりゆっくり、時間をかけて机を育ててやるんですよ。
本物の木を苗から育てるみたいに、この机も育ててやりたいんですよ…。
キャプテン・ハーレイこだわりの木で出来た机。
前のぼくたちの楽園だったシャングリラの中で、一番の貴重品だったかもしれない机。
あんな大きな机が作れるような木は、船では育てられなかったから。
(うーん…)
実はソルジャーよりも貴重な机を使っていたらしい前のハーレイ。
前のぼくが青の間で使っていた机は、木じゃなくてベッドの枠とかの素材と同じ。
傷つきにくくて変形もしない素材だけれども、船の中でいくらでも作り出せたもの。ベッドの枠から机や椅子まで、好きな形に仕上げて便利に使えた素材。
希少価値で言えば木の机の方が断然上で、比較にならないくらいに貴重。
(…キャプテンも偉いけど、ソルジャーの方がずっと偉いのにね?)
キャプテンでさえ敬語で話さなければならないソルジャー。そのソルジャーも使っていなかった貴重品の机をキャプテンが私物にしていたというのが面白すぎる。
それは間違っているのではないか、と指摘した仲間はいなかった。
誰も気付いていなかったのだろう、木の机はとても貴重なのだということに。
新しい仲間は合成の木だと思っていたかもしれないし…。
(今で言ったら、どんな机だろ?)
有り得ないほど高価な机。それも木で出来た高価な机。
(…紫檀とか?)
それとも、黒檀?
ぼくは木の種類には詳しくないけど、高価な木だったら多分、その辺。
他にもあるかもしれないけれども、うんと重たくて硬い木だと思う。おまけに地球産の木材で。
(思い切り値段が高そうだよね…)
最高級の木材は、やっぱり地球産。
どの木も元々は地球から生まれた植物なのだし、地球で育ったものが一番だって言われてる。
ぼくたちは地球で暮らしているから輸送費はかかってこないけれども、高い木は高い。早く育つ木から出来た木材は地球産でも高くはないんだけれど…。
(だけど貴重品の机なんだし、材料もうんと貴重でないとね?)
きっとハーレイのお給料では買えないんじゃないかな、そういう机。
ハーレイの書斎にも寝室にも机があるのを見たけれど…。
どっちの机も木だったけれども、あれって貴重な机だろうか?
どうなんだろう、と写真集を見ながら考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれて。
パパとママも一緒の夕食の後で、ぼくの部屋で食後のお茶を飲みながら訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。今の机って、うんと高いの?」
「……机?」
「ハーレイの家にある机! …書斎のとか、寝室のとか、高い机なの?」
勢い込んで尋ねてみたけど、ハーレイは変な顔をして。
「なんでそういう質問になる?」
「前のハーレイのが貴重品だから!」
シャングリラで一番貴重な机だったよ、ハーレイの机。
だって船では作れない机だよ、うんと大きな木が無いと作れないんだよ?
あれと同じくらいに高い机を使っているの、って訊いてるんだよ!
「…あれに匹敵する机だと?」
ハーレイがポカンと口を開けるから、「うんっ!」とぼくは頷いた。
「あれに負けないくらいの貴重品なの、ハーレイの机?」
「お前なあ…。伝説の宇宙船、シャングリラで一番高級だったかもしれない机と比べてくれるな」
そんな高いのが買えるか、馬鹿。
俺の給料では逆立ちしたって買えん机だ、とんでもなさすぎる。
いいか、伝説の高級品で貴重な机なんだぞ、一介の教師じゃ手も足も出んさ。
「そっか…。前みたいに何処かから奪って来られないしね、そういう机」
「今のお前じゃサイオンで机を奪うどころか…って、犯罪だぞ、それは」
お前の年なら捕まりはせんが、凄いお説教を食らうだろうな。
ついでにお前が奪った机をプレゼントされた俺も、派手に大目玉を食らうんだろうな?
今のハーレイの机は貴重品ではないらしい。
おまけに前のと同じくらいに貴重な机も買えないらしい。あんなに大切に磨いていたのに…。
「ハーレイ、今度は凄い机は諦めるんだ? …貴重品の机」
「お前が言わなきゃ忘れていたんだ、前の机が貴重品でも当時の俺にはただの木の机だ」
それに高価な木材も使っちゃいなかっただろう。
調べたわけではないから断言出来んが、木の机としては平凡な部類だったと思うがな?
「そうだけど…。でも、貴重品の机…」
凄い机、と諦め切れないのはハーレイじゃなくて、ぼくの方かも。
ハーレイは「おいおい」と、おどけた表情になって。
「羽根ペンみたいに「持ってほしい」とか言い出すなよ? そんなのを買ったら破産だ、破産」
「……やっぱり?」
「お前の小遣いを全部使って援助して貰っても、机の端っこくらいだな」
いや、端っこすら買えないかもな。
木くず程度が限界かもな?
ぼくのお小遣いでは木くずしか買えない貴重品の机。
紫檀か黒檀か他の木なのかは分からないけれど、地球産の高価な木材の机。
ハーレイが買ったら破産だと言うから、きっと一生、お目にかかれそうもないけれど…。
「そういう机を使ってる人、いるんだよね?」
「偉い人は使っているんだろうなあ、俺の知り合いには居ないがな」
「…前のハーレイ、偉かったしね?」
それで机も貴重品なんだね、今のハーレイなら破産するほどの。
「前のお前も偉かったろうが」
「だけど、前のぼくの机は普通だったよ?」
シャングリラで一番普通の素材。
ベッドもテーブルも椅子も作れて、色も形も自由に仕上げられるヤツ。
ハーレイの机はどんなに頑張ってもシャングリラの中では作れなかったよ、大きな木だもの。
「キャプテンの方がソルジャーよりも貴重品の机を持っていたのか…」
お前、取り上げるべきだったんじゃないか?
船ではやっぱり秩序ってヤツが大切だしなあ、ソルジャーよりもキャプテンの方が貴重な物品を持ってるっていうのはマズイだろうが。
「気付いてなかったからいいんじゃない?」
誰も気付いていなかった上に、ぼくも気付いてなかったよ。ハーレイもでしょ?
それに木の机、ぼくは欲しいと思わなかったし…。
ハーレイはとても大事にしてたし、正しい持ち主が持ってたんだよ、あの机。
「ふむ……」
なるほどな、とハーレイは腕組みをして頷き、微笑んだ。
「大事にするっていう意味では、だ。今の机も気に入ってるぞ?」
なんてことはない普通のヤツだが、書斎の机も寝室の机も俺は好きだな。
「それじゃ、今でも磨いてるの?」
「前の俺ほどじゃないが、やっぱり磨くな」
気分転換に磨いていると落ち着くもんだ。
親父とおふくろが道具の手入れが大好きだからな、その血筋だと思っていたが…。親父は釣竿の手入れが好きだし、おふくろだと昔ながらの砥石ってヤツで包丁を研いでみるとかな。
血なんだとばかり思い込んでいたが、前の俺の趣味まで入ってたのか…。
「ふふっ、ハーレイはハーレイだもの」
それで机を磨いた感じは?
前みたいに味わい、出てきてる?
「そうだな…。家と一緒に買ったヤツだし、かれこれ十五年ほどか。いい感じだが…」
もっと時代がつかんとな?
前の俺が使ってた机にはまだまだ届かん、あっちは百年、二百年だぞ。
うんと頑張って磨かんことには、あの味わいは出ないだろうなあ…。
あれは実にいい机だった、とハーレイが懐かしそうな瞳をするから。
今のハーレイが使っている机が同じ味わいを出すようになるには百年、二百年だというから。
「じゃあ、ぼくと結婚した後も磨くんだね?」
「そりゃまあ…。なあ?」
磨いてやらんと可哀想だろうが、せっかく俺の所に来てくれたのに。
嫁さんにかまけて放りっぱなしじゃ机が泣くぞ。
「そうかもね…」
「まあ、一番はお前なんだがな。机はあくまで家具に過ぎんし…」
そうだ、とハーレイはポンと手を打って。
「今度はお前も木で出来た机を使ってるんだし、嫁に来る時に持って来ないか?」
「机って…」
ぼくはキョトンと目を丸くした。
「勉強机? 勉強机を持ってお嫁に行くの?」
「そっちでもいいが、このテーブル。こいつは俺たちの家に置きたいと思わんか?」
これだ、とハーレイの褐色の指がテーブルをトントンと軽く叩いた。
「いつもお前と使ってるだろう? こんな風に二人で向かい合ってな」
俺たちの思い出が山ほど詰まるぞ、結婚出来るまでに。
今日の机の話も含めて、どのくらいの話をするんだろうなあ、このテーブルで。
そういうのが全部詰まったテーブル、家にあったら幸せだろうが?
「そっか…」
ぼくとハーレイが使っているテーブル。
ハーレイが言うとおり、沢山の思い出が詰まったテーブル。
今でも沢山詰まってるんだし、もっともっと思い出は増えるだろうから、持って行きたい。
それと…。
「テーブルを持って行くなら、ハーレイの椅子も持って行く?」
「俺の椅子?」
怪訝そうな顔のハーレイに「それだよ」と指差してみせた。
「今、ハーレイが座っている椅子。ぼくとハーレイの体重の分かな、こっちの椅子よりもちょっとへこんでるんだよ、ちょっぴりだけど」
結婚する頃にはもっとへこんでいるかも…。
だけどハーレイとぼくが何度も一緒に座った椅子だよ、テーブルと一緒に持って行きたいな。
「へこんだ椅子か…。今よりももっとへこみそうな椅子か」
そいつの座面は張り替えた方がいいんだろうが、だ。
このテーブルとセットの椅子だし、置いておくとするか。
俺の分の椅子だけじゃなくて、お前の分もな。
そうして二人で座ろうじゃないか、今みたいに向かい合わせでな。
ハーレイがパチンと片目を瞑ってくれたから、ぼくは「うんっ!」と元気に返事した。
いつかハーレイと結婚する時は、このテーブルと椅子を持って行くんだ。
ぼくたちの思い出がぎっしり詰まったテーブルと椅子で、ハーレイと二人で向かい合わせで…。
其処まで考えて気が付いた、ぼく。
このテーブルと椅子を持って行くなら…。
「ハーレイ。…テーブルと椅子を「持って来ないか」って、ぼくがハーレイの家に行くわけ?」
「ああ。…お前が嫌でないならな」
俺の家には子供部屋まであるんだぞ?
いつか嫁さんと暮らせるように、って親父が買ってくれた家なんだ。
お前が嫁に来てくれるんなら、親父も喜ぶ。
このテーブルと椅子を持って嫁に来るといい、嫁入り道具はそれだけあれば充分だ。
でもって二人で磨こうじゃないか、テーブルと机。
「…ぼくの嫁入り道具って、たったそれだけ?」
「なんだ、勉強机も一緒に持って来たいのか? あれも磨くか、俺と一緒に?」
お前が持って来たいと言うなら何でも持って来てくれていいがな。
俺も色々と買いたいからな?
貴重品の机を買えはしないが、俺たちにぴったりのいろんな家具を、だ。
うんと幸せな家具を揃えよう、お前と二人で。
前の俺たちが持てなかった分まで、二人分の家具を。
「うん。それもやっぱり全部磨くの?」
「どうだかなあ? …嫁さんを放って家具磨きはなあ…」
今度は適当でいいんだ、うん。
こだわりの家具より、うんと美人の嫁さんがいい。
「…ハーレイ、ぼくまで磨かないでよ?」
「いや、磨く!」
嫌と言うほど磨いてやる、って言われちゃったけれど。
どうやってぼくを磨くんだろう?
ハーレイに訊いたら「子供のお前には早すぎるさ」っていう謎の返事が返って来た。
うんと美人になる方法があるらしいんだけど、何だろう?
肌が艶々になって、うんと美人に。
(…お風呂でゴシゴシ擦られるのかな?)
磨くんだからお風呂だよね、と思うけれども、ハーレイは笑って答えない。
机みたいにキュッキュッと磨かれるのかな、ゴシゴシじゃなくて?
でもきっと、大切に磨いてくれるだろうから。
机みたいに大事に磨いてくれるだろうから、任せておこう。
ハーレイがぼくを磨くんだったら、大丈夫。
きっと大切に磨いてくれるよ、前のハーレイが大事にしていた机みたいに……。
木で出来た机・了
※キャプテン・ハーレイが愛用していた木の机。歴史はかなり古かったようです。
羽根ペンといい、木の机といい、つくづくレトロな趣味ですよね。
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