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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「すまん。こういうのはマナー違反なんだがな」
 だが確認しておかないと、とハーレイは財布を取り出した。夕食の後、ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせ。テーブルの上には食後のお茶。
 ハーレイ曰く、「人前で財布を出して中身を数えるのは行儀が悪い」らしいんだけれど、ぼくに断りつつも財布を出したことには理由があって。ハーレイは明日の朝、柔道部員たちのために買い出しをしなければならないという。
「店に行ってから、金が足りていないと悲惨だしな?」
 今の今まで忘れていたのだ、と話すハーレイ。仕事が早く終わりそうだったから、帰りにぼくの家に寄ろうと思って急いでいたら確認するのを忘れてた、って。
 そう聞かされると、なんだか嬉しい。マナー違反なんかどうでもいい。
 でも…。お店で大人が買い物するなら、現金以外にも方法があると思うんだけどな…。どうしてそっちにしないんだろう?
「その買い物って、現金でないといけないの?」
 尋ねてみたら、「ああ」と返事が返った。
「そういう決まりだ、学校に申告したい時にはな」
 もしも申告出来なかったら、ハーレイが私費で支払う羽目になるらしい。それはとっても大変なことになりそうだから、ハラハラしながらハーレイを見守ることにした。
(…お金、足りてるといいんだけれど…)
 財布にお金が足りなかったら、ぼくの家から帰る途中で補充しに行かなきゃならないから。早く帰らなくちゃいけなくなるから、それは嫌。
 せっかく寄ってくれたんだもの、時間ギリギリまで居て欲しいよ…。



 祈るような気持ちのぼくの目の前で、ハーレイは紙幣の数を数えて、小銭もあるか確認して。
「…よし。お釣りで店の人を困らせないでも済むようだな、うん」
「よかったあ…。お金、足りてたんだね」
「ああ、細かいのも持ってたようだ。おっと…!」
 ハーレイの財布からコロンと何かが転がり落ちた。コツン、と床にぶつかる音。
「ぼくが拾うよ」
「すまんな、うっかり落としちまった」
 テーブルの下には、身体が小さいぼくの方が入りやすいから。椅子から下りて床に屈んで、下を覗き込んだぼくは目を丸くした。
(…何、これ…)
 てっきり小銭だとばかり思った、それ。ハーレイの財布から落っこちた、それ。
 テーブルの下にコロンと転がっているんだけれども、ぼくの見慣れた小銭じゃなかった。金色をした小さな亀。
(…亀だよね?)
 お腹の方を上にして転がってるけど、亀だと思う。そういう形で、手足と頭と小さな尻尾。指で摘んで裏返してみたら、ちゃんと甲羅がついていた。どう見てもそれは亀でしかなくて。
(…何処かのお金?)
 亀の形をしたお金なんて、ぼくは初めて見たんだけれど。聞いたことすら一度も無いけど、この宇宙はとても広いから。前のぼくが生きてたSD体制の時代と違って、惑星ごとにいろんな文化があるから、そういう形のお金があっても不思議ではない。
(亀のお金かあ…)
 面白いね、と拾い上げた。
 きっとハーレイのコレクション。ハーレイが他所の星へ旅行をしたって話は聞いていないから、誰かに貰ったお土産なんだ。友達か、それとも親戚の人か。
(ひょっとしたら、お父さんかお母さんが出掛けたのかな?)
 素敵なものに出会ってしまった。ハーレイの財布の中の亀。きっとハーレイの大切な亀…。



「はい、ハーレイ」
 テーブルの下から這い出したぼくは、椅子に座ってから金色の亀を手のひらに乗せてハーレイの前に差し出した。
「ありがとう。小さいってのも便利だな」
 こういう時には、とハーレイの手が伸びて来て亀を摘み上げたから。小さな亀が財布に戻されてしまう前に、と好奇心一杯で訊いてみた。
「それ、何処の星のお金?」
「はあ?」
 亀を摘んだハーレイが変な顔になった。しまった、間違えちゃっただろうか。他所の星と違って地球のだった?
「もしかして、地球の? 何処のお金なの?」
 ぼくの知らない何処かのお金。亀の形をしたお金。何処の地域のお金だろう?
「…金って、こいつか?」
「うん、亀のお金。何処で使われているお金なの、それ?」
「なるほど、亀の形をした金なあ…」
 ハーレイは「はははっ」と亀をテーブルに置いて笑い始めた。
「知らんのか、これを。…まあ、知らなくても無理はないかもな」
 こいつはお金じゃないんだ、ブルー。
 ちゃんと金色だし、財布に入れるものではあるが、だ。
 亀の形に意味があるんだ、こいつを出しても何も買えんぞ。



 銭亀。
 ハーレイがぼくに教えてくれた、金色の小さな亀の名前。
(そんなの、ホントに初めて聞いたよ)
 亀の甲羅についた模様がSD体制よりも遙かに遠い昔の、ぼくたちが住んでる地域のお金の形に見えるらしくて、お金が貯まる金運のお守り。それが銭亀。
 この地域が日本という名前の島国だった頃に生まれたお守り。SD体制が始まった時には、もう銭亀は無かったかもしれないらしいんだけれど。
 SD体制が崩壊した後、地域の文化を復興させる過程で銭亀のお守りも帰って来た。ぼくたちの住む地域に戻った。
 だけど、銭亀はあくまで文化。そういったものが大好きな人たちのもの。
 誰もが知っているわけじゃないし、誰でも持ってるものでもない。古い習慣や昔の道具が好きな人たちが楽しむもの。趣味で集めたり、持ったりするもの。
 ハーレイの財布に入っていたのは、ハーレイが古典の先生だからかな、と思ったんだけど。
 きっとそうだと思ったんだけど、銭亀はハーレイのお父さんたちの趣味だった。
 隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでる、ハーレイのお父さんとお母さん。遠い昔の道具が大好きで、家に火鉢や七輪を持っていたりする。
 しかも銭亀だけじゃなくって、家の玄関には無事カエルっていうのが居るらしい。出掛けた人が無事に帰って来ますように、という願いがこもったカエルの置き物。
 ぼくは無事カエルも初めて聞いた。そっちは「帰る」と「カエル」の語呂合わせ。ずうっと昔の日本のお守り、銭亀と同じで復活してきた文化の一つ。



「…色々あるんだ…」
 ぼくはハーレイの銭亀を指先でチョンとつついてみた。こんなにちっちゃな金色の亀がお守りだなんて。それにカエルまでがお守りになっているなんて…。
 ハーレイが「うむ」と腕組みしながら大きく頷く。
「実に色々とあるようだぞ。…前の俺たちには赤い石しか無かったがな」
「あれは無しだよ!」
 言わないでよ、と悲鳴を上げた。
 前のぼくたちが持っていた、たった一つの大事なお守り。誰の服にもついていた石。高価な宝石などではなくって、ただの赤い石。ぼくは青でも緑でもいいと思ったのに、赤い石。
 赤い石にしようとヒルマンたちが決めた。
 遙かな昔の地球に在ったお守り、メデューサの目。青い目を象った魔除けのお守り。同じ石なら赤にしよう、と推されてしまった。魔除けの青い目と同じように、ミュウたちを守る瞳の色に。
 前のぼくの赤い瞳の色に…。
 あまりにも恥ずかしすぎる理由で決められた赤い石。ミュウたちのお守りだなんて言われても、困る。恥ずかしいから、新しい世代には絶対に言うな、と緘口令を敷いた。もちろんジョミーにも教えなかった。
 シャングリラに制服が誕生した時点で乗ってた仲間しか知らないお守り。
 次の世代には伝えずに終わった、お守りだった赤い石。



 そんなお守りはあったんだけれど。
 瞳をお守りにされてしまった、前のぼくを困らせたお守りは存在したんだけれど。
 でも、銭亀とか無事カエルとかは何処にも無かった。
 それにシャングリラには居なかった、亀。
 本物の亀は居なかった。カエルだって居はしなかった。
 どちらも役に立たない生き物。シャングリラには要らない、無用の生き物。
 閉ざされた船の中だけで生きてゆかねばならなかったから、役に立たない生き物は不要。そんな生き物を飼う余裕はない。シャングリラは生きるための世界で、水族館ではないのだから。



 そういったことを思い出していたら、ハーレイがボソリと呟いた。
「赤い石だけ持つんじゃなくって、カエルは飼っときゃ良かったなあ…」
「カエル?」
 なんで、とキョトンとしてしまった。
 カエルなんかがシャングリラの中でどう役に立つと言うんだろう?
 それとも今だから分かる理由が見付かったとか?
 あの頃はカエルは身近な生き物じゃなかったけれども、今なら雨上がりに庭で跳ねてたりする。キャプテン・ハーレイの視点で見てたら、使えそうな生き物なのかもしれない。
 ハーレイならではの凄い発見をしたんだろうか、と期待していたら。
「いや、お前が無事に帰ったかもしれんと思ってな…。メギドからな」
「………」
 よりにもよって無事カエルだった。凄い発見以前の問題。
 だけどハーレイは大真面目な顔で言うから、ぼくも真面目に訊き返した。
「…そこまでの力、カエルにある?」
「さてな? しかし、頼れるんなら何でも良かった。無事カエルでもな」
 縋れるんなら、それでお前が戻って来るなら、俺はカエルにでも頭を下げたぞ。



「……カエル……」
 ポカンと口を開けたけれども、カエルに土下座するハーレイの姿を想像したら可笑しくなった。それもキャプテンの制服で。
 威厳たっぷりの制服姿で、カエルに土下座しているハーレイ。
(…なんだか凄いよね…)
 そこまでされたら、ぼくも戻っていたかもしれない。
 戻れていたような気がして来た。
 だって、キャプテンがカエルに土下座出来る世界。それも戦闘の真っ只中に。
 そこまで間抜けな光景が広がる世界だったら、とんでもない奇跡もあるかもしれない。
 瀕死のぼくでもカエルに背負われて戻って来るとか…。
 そう言ってみたら、「ははっ、カエルか!」と鳶色の瞳が煌めいた。
「でっかいのがお前を背負って来るのか、そいつは凄い光景かもな」
 ブリッジの連中もビックリだろうが、医療班のヤツらも腰を抜かすぞ。
 前のお前を背負えるくらいのデカいカエルがノッシノッシと来るんだからな。
 そういや、ずうっと古い昔の日本の、忍者ってヤツを知ってるか?
 ものすごくデカいカエルに乗ってた忍術使いが居たそうだ。もちろん、作り話だが…。
 確か、児雷也という名前だったな。かなり人気があったようだぞ、カエルにも変身出来るんだ。
「変身出来るの?」
「そうさ、前のお前にも出来なかったよなあ、変身はな」
「うん。サイオニック・ドリームで変身したように見せかけることは出来ただろうけど」
 思い浮かべて、吹き出しかけた。
 もしもメギドで、ぼくが巨大なカエルに変身してたら。
 キースにサイオニック・ドリームは通用しなかったけれど、もしもキースがかかったならば。
 巨大なカエルで腰を抜かしていたかもしれない。
 その間にメギドを止めてしまって、ぼくは帰れていたかもしれない。
 ハーレイに話したら「そいつはいいな」と大笑いだった。
 うん、やっぱりキャプテン・ハーレイがカエルに土下座出来る世界は凄くて偉大だ。前のぼくがメギドから帰れたりする。
 カエルの背中に背負われて帰るとか、カエルに化けてキースの腰を抜かさせるとか…。



 素敵すぎる世界な、カエルがお守りのシャングリラ。
 二人して散々笑い転げた後で、ハーレイが「それはともかく…」と座り直した。
「本当にカエルを飼っときゃ良かった。…縁起担ぎでも何でもいいから」
 気休めでもいいから、無事カエルだな。
 前の俺たちは知らなかったんだから仕方ないんだが、本当に飼っておけば良かった。
「じゃあ、亀も?」
 ぼくはテーブルの上の金色の亀を指差したんだけど。
「そっちはあんまり意味が無いだろう。いや、全然、無い」
「なんで?」
 銭亀のお守りも良さそうなのに。小さくて可愛い、金色の亀。
 シャングリラで本物のカエルを飼うなら、セットで亀だって飼えばいいのに。
 そう思ったのに、ハーレイに「お前、きちんと考えたか?」と訊かれてしまった。
「無事カエルはともかく、銭亀だぞ。…シャングリラに金はあったのか?」
「………」
 お金。そういえばシャングリラにお金は無かった。そもそも使うような場所が無かった。
「……無かったね、お金」
「ほら見ろ、亀は要らないんだ」
 無事カエルだけで充分なんだ、と銭亀を摘み上げたハーレイだけれど。
「いや、待てよ…。こいつは長寿のお守りってヤツも兼ねてたっけな」
「長寿?」
「そうさ、長生きのお守りだ。ずっと昔は「鶴は千年、亀は万年」って言葉があってな。鶴と亀はとても長生きするんだと思われていた。それにあやかって長寿のお守りってわけだ」
 亀のように長生き出来ますように、と持ち歩くのさ。
 流石に万年は無理だろうがな、本物の亀も一万年も生きるってわけじゃないしな。



 銭亀は金運だけじゃなくって、長寿のお守りだったみたいだ。
 それを思い出したハーレイは「うーむ…」と唸って、銭亀をテーブルにコトリと置いて。
「やはりシャングリラでは亀も飼うべきだったな、前のお前が地球まで行けるようにな」
「…ぼく?」
「お前の寿命が延びりゃ良かった。そうすりゃ地球まで行けてたんだぞ」
「ふふっ、そうかもしれないね。メギドなんかは無かったかもね」
 シャングリラには居なかった、カエルと亀。
 そんなものまで飼える余裕があったとしたなら、本当に何もかもが全て変わっていただろう。
 前のぼくはうんと長生きをして、元気なまんまでジョミーを見付け出して来て。
 ジョミーがぼくの後継者じゃなくて、一緒に戦うソルジャーだったら。
 二人目のソルジャーだったとしたなら、それだけで戦力が倍以上になる。そしたらアルテメシアから宇宙へ逃げ出す代わりに、アルテメシアを落とせていた。
 後はナスカに寄りもしないで、真っ直ぐに地球へ。
 トォニィたちが生まれてなくても、ぼくとジョミーと、二人居ればきっと辿り着けた。
 地球が死に絶えた星であっても、間違いなく地球。人類の聖地。
 ぼくたちは地球を手に入れた上で、SD体制を崩せただろう。ミュウの未来を拓けただろう。
 全ては夢の話だけれど。
 シャングリラにはカエルも亀も居なくて、前のぼくの寿命もナスカまでしか無かったんだけど。



 赤い石のお守りだけしか持っていなかった、前のぼくたち。
 石の由来を知っていた仲間は、ぼくの瞳のお守りを魔除けに持っていたんだけれど。魔物ならぬ人類から守ってくれる赤い石を持っていたんだけれど…。
 ぼくのためのお守りは何も無かった。
 赤い石のお守りは前のぼくの瞳を指してたんだから、瞳の持ち主のぼくの身なんかは守れない。ぼくはお守りを持っていなくて、シャングリラにはカエルと亀さえ居なかった。
 無事カエルも長寿のお守りの亀も、何処にも無くって、居なかった…。
 欲しかったわけじゃないけれど。
 ぼくを守ってくれるお守りが欲しいと思ってたわけじゃないけれど…。
 だけど、こうして目の前に銭亀。
 ハーレイの財布から転がり落ちて来た金色をした小さな亀。
 こんなのを見て、無事カエルが玄関に居る家の話を聞いたら「いいな」と少し羨ましくなる。
 無事に帰れるカエルのお守りと、長生きが出来る亀のお守り。
 ほんのちょっぴり、欲しいと思う。
 とっくの昔に手遅れだけれど。前のぼくは死んでしまったけれど…。



「…ほんのちょっとだけ、欲しかったかな…」
 カエルのお守りと、亀のお守り。
 今のぼくじゃなくって前のぼくだよ、ってハーレイに夢の話をしたら。ハーレイは笑う代わりに「俺もだ」と大きく頷いた。
「あの頃の俺が知っていたなら、お前のためだけに。…誰に何を言われても飼っていただろうな、カエルと亀をな」
「飼うの?」
「もちろんだ。知っていたなら、飼っていた」
 えーっと…。ハーレイの気持ちは嬉しいんだけど…。
「ぼくの恋人だってバレないかな? それ…」
「いや、キャプテンの任務の内だ。ソルジャーの無事と長寿を祈るのもな」
「そうなるわけ?」
 キャプテンの仕事の中に「お祈り」が入るとは知らなかった。
 なんだか凄いこじつけだけれど、きっとハーレイが知っていたなら、飼っただろう。
 ぼくのためだと言うからには公園とかで飼うんじゃなくって、多分、青の間。
 青の間に満々と湛えられた水に、カエルと亀。
 あそこに生き物は居なかったけれど、あの水の中にカエルと亀。
 無事カエルと長寿のお守りの亀…。



 もしも青の間の水に、カエルと亀とが泳いでいて。
 キャプテンのハーレイが世話をしながら、ぼくの無事と長寿を祈っていたら。
 どんな時でも、戦闘中でも、祈り続けていてくれたなら。
 さっきみたいに「俺はカエルにでも頭を下げるぞ」って真剣な表情で言えるハーレイがカエルと亀とに祈ってくれていたなら、ぼくは帰れていたかもしれない。
 あのメギドから、シャングリラへ。
 前のぼくの命が尽きてしまったメギドから、懐かしいシャングリラへ。
 瀕死の重傷を負っていたとしても、メギドでは死なずに生きて帰れていたかもしれない。
 ハーレイが祈るシャングリラへ。
 カエルに土下座して祈り続けるキャプテンの許へ…。
(…そしたら、ハーレイの温もりを失くさなかったね…)
 ぼくの右の手が凍えて冷たくなっていたとしても、死ぬ前に温もりが戻っただろう。
 たとえキャプテンとしての立場であっても、ハーレイはぼくの手を握ってくれただろうから。
 死にゆくぼくの右手を握って、温もりを移してくれただろうから。
 ぼくもハーレイも、恋人同士の別れが出来ない点では同じなんだけど…。
 同じなんだけど、全然違う。
 独りぼっちで死んでゆくのと、ハーレイに手を握って貰って安心しながら死んでゆくのと…。



(…そんな風に死ねたら、前のぼくはきっと幸せだったよ…)
 最期にハーレイの腕の中に戻れて、「ブルー」とは呼んで貰えなくても「ソルジャー」と何度も呼び掛けられて。
 ぼくの大好きな声で何度も呼ばれて、あの大きくて温かな手でぼくの手を強く握って貰って。
 それだけで幸せだったと思う。
 さよならのキスを貰えなくても、抱き合うことが出来なくっても、幸せの中で死ねたと思う。
 メギドで独りぼっちで泣きながら死んでゆくんじゃなくって、幸せの中で。
 ハーレイが居ると、側に居てくれると、きっと微笑みながら死んでいったと思う。
 ぼくは最期まで幸せだったよと、君が居てくれるから幸せだよ、と…。



 だけど、全ては夢物語。
 シャングリラにはカエルも亀も居なくて、カエルと亀とに祈るキャプテンも居なかった。
 無事カエルは無くて、長寿のお守りの亀も無かった。
 前のぼくはシャングリラに帰る代わりに独りぼっちで死ぬしかなくって、ハーレイに手を握って貰うどころか温もりを失くして死んでしまった。右手が冷たいと泣きながら死んだ。
(…欲しかったかもね、無事カエルと銭亀…)
 あんな風に死なずに済むんだったら、欲しかった。
 そう思ってたら、「欲しいのか?」ってハーレイが訊いてくれるから。
 「今はいいよ」って笑って答えた。
 今のぼくは何処へ出掛けるわけでもないから、無事カエルは今すぐに欲しいわけじゃない。
 十四歳のぼくは寿命が足りなくて困っていないし、長寿のお守りの亀も要らない。金運の銭亀が欲しくなるほどお小遣いがピンチってわけでもないしね。
 ハーレイは「そうか」って穏やかな笑みを浮かべて、テーブルの銭亀を摘み上げた。
「だったら、こいつは仕舞っておこう。俺の大事な銭亀だしな」
 頑張って金を貯めておかんと、お前とあちこち旅行に行けん。
 うんと沢山約束したしな、好き嫌い探しの旅とかな?
「そっか、あったね、好き嫌い探し!」
 ぼくとハーレイには好き嫌いが無いから、探しに行こうって話もあった。
 何処かに一つくらいは食べられない食べ物があるかもしれないし、凄く美味しいものが何処かにあるかもしれないから。
 そういう旅に出るんだったら…。
「ねえ、ハーレイ。無事カエル、ぼくたちの家にも置かないとね?」
「そうだな、玄関に置くとしようか、でっかいのをな」
 無事に旅から帰れるように。
 二人揃って、怪我も病気もしないで元気に帰って来られるように…。



 今の所は銭亀も無事カエルも要らないと思う、ぼくだけれども。
 ハーレイにはきちんと持ってて欲しい。
 財布には長寿のお守りの銭亀、ハーレイのお父さんとお母さんの家には無事カエル。
 シャングリラと違って亀もカエルも揃っているから、ぼくは安心。
 ハーレイはうんと長生きをするし、何処へ行っても元気に家へ帰って来る。
 前のぼくみたいなことにはならずに、ぼくの家をいつでも訪ねてくれる。
 だけど、そんなハーレイと一緒に何処へでも出掛けて行きたいから。
 ぼくの家で待ってるだけじゃなくって、手を繋いで一緒に出掛けたいから。
 一日でも早く大きく育って、ハーレイと二人で暮らしたいと思う。
 その時が来たら、ぼくも長生きしなきゃいけないから、長寿のお守りも持たなくちゃ。
 今度こそハーレイといつまでも一緒。
 何処へ行くのも二人で、一緒。
 お互い、財布に銭亀を入れて、玄関にカエルの置物を置いて…。




           亀のお守り・了

※ハーレイの財布から出て来た銭亀。ブルーでなくても間違えますよね、何処かのお金だと。
 正体が分かったら、いつかは欲しいお守りたち。銭亀も、それに無事カエルも…。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




シャングリラ学園の新年はお雑煮の大食い大会から。この大会で優勝すると担任の先生の他に二人の先生を指名し、闇鍋を食べさせる権利が貰えます。1年A組は例年無敵の優勝を誇り、今年もグレイブ先生と教頭先生、それにゼル先生の三人に超絶マズイのを食べさせたのですが…。
「諸君、おはよう」
翌朝のホームルームに現れたグレイブ先生の御機嫌もまた超絶最悪というヤツでした。
「闇鍋の件で私は文句を言うつもりはない。諸君は学校からの指示のとおりに食品を一品ずつ持ち寄っただけに過ぎないからな。…だが!」
グレイブ先生は教室を見回し、一番後ろに机が増えていないことを確認すると。
「ブルーは何処だ? 来ていないのか?」
「「「来てませーん!」」」
一斉に答えるクラスメイトたち。会長さんが出て来る時には机が一つ増えるのです。無いんですから来るわけがなく、来るつもりもないのは自明の理。グレイブ先生もそれは分かっている筈で…。
「そうか、いないなら仕方ない。ブルーは1年A組だったな? それでは諸君にお願いしよう」
「「「???」」」
「昨日の闇鍋は最悪だった。ここ数年でも屈指の出来で、私は今朝までトイレと友達だったのだ! この鬱憤を晴らすためにはトイレ掃除しかないだろう。諸君! 放課後は諸君に全校のトイレ掃除を命じる。終礼までに分担を決めておくから覚悟したまえ」
「「「えーーーっ!!!」」」
それはない、とクラス全員がブーイング。闇鍋は恨みっこなしがルールです。なのに…。
「やかましい! 1年A組では私が法律だ! やれと言ったら必ずだ! ブルーがいたなら一人でトイレ掃除をさせたが、いないからには諸君が連帯責任なのだ!」
分かったな、と言い捨てたグレイブ先生は靴音も高く出てゆきました。教室の中は一気にお通夜な雰囲気です。
「…トイレ掃除かよ…」
「あれって普段は業者さんだよな? 学校中ってトイレが幾つあるんだ?」
「さ、さあ…。職員用のも入るのか?」
「どうするのよ、まさか素手でやれとか言わないわよね?」
手が荒れちゃう、と嘆く女子やら、ひたすら文句の男子やら。私たち七人グループも思わぬ出来事に頭が回らず、会長さんに思念波で連絡どころか休み時間に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ駆け込むことさえ考え付きませんでした。その結果…。



「諸君、覚悟は出来ているかね?」
分担表を作って来たぞ、とグレイブ先生が終礼で黒板に紙を張り出しました。
「各班ごとに受け持ちのトイレとトイレの場所が書いてある。掃除のやり方は別紙を見たまえ。掃除を終えたら順に報告に来るように。業者さんがチェックし、OKが出たら解散だ。一つでも不可の班があったら、完了するまでクラス全員下校は出来ん。そのつもりでキリキリ頑張るのだな」
「「「………」」」
掃除も連帯責任ですか! 各班の代表が黒板を見に行き、項垂れています。一つの班が掃除するトイレは男女別に二ヶ所か三ヶ所、職員用も含まれていて。
「…ウチは本館ばかり二ヶ所だ」
戻って来た班長さんの台詞で私の班がババを引いたことが分かりました。本館のトイレは教職員専用になってますけど、学校に来た偉い人たちも使います。それだけに充実の設備と備品で、掃除の手間は生徒用に比べて何割増しかは考えたくもない所。他の班も落ち込みポイント多数のようで。
「…仕方ない、行くか…」
「行かないと終わらないからな…」
帰るためにはやむを得ない、とガタガタとあちこちで立ち上がる音が聞こえた時です。
「かみお~ん♪」
ガラリと教室の前の扉が開き、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が入って来ました。
「グレイブ、みんなを苛めちゃダメ~! 闇鍋は恨みっこなしだもん!」
「ほほう…。だったらブルーはどうした? まずはあいつが顔を出すのが筋だろう」
お前ではな、と鼻先で笑うグレイブ先生。
「文句があるなら子供ではなく、しかるべき責任者が出て来るものだ」
「だから来たもん! 責任者だもん! コレはぼくしか出せないもん!」
ズイッと突き出された「そるじゃぁ・ぶるぅ」の小さな左手。
「ブルーが押して来なさいって! 気合を入れて丸一日は効く分で!」
「な、なんだと?!」
グレイブ先生が訊き返すのと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び上がったのとは同時でした。小さな左手がグレイブ先生の右の頬っぺたにペタン! と押し付けられて、其処に真っ黒な手の痕が。落款よろしく白抜きで「そるじゃぁ・ぶるぅ」の名前入りです。
「わぁーい、押しちゃったぁー! 左の手形はアンラッキー!」
トイレ掃除をさせるんだったらもっと押すよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコニコ。グレイブ先生はスーツの胸ポケットから取り出した鏡で自分の顔を呆然と眺め、トイレ掃除の刑は取り止めに。クラスメイトは狂喜乱舞で「そるじゃぁ・ぶるぅ」は胴上げですよ~!



得意満面の「そるじゃぁ・ぶるぅ」を先頭に立てて、私たちはいつもの溜まり場へ。生徒会室の奥の壁を通り抜けて入った部屋では会長さんがお茶の用意をしていました。
「やあ。今日は災難だったようだね」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
あんただろうが、とビシィと指差すキース君。けれど会長さんは涼しい顔でアップルジンジャーのショコラタルトを切り分け、ホットココアを配ってから。
「助け舟なら出しただろう? ちゃんとぶるぅを行かせたじゃないか」
「…それはそうだが…。しかしだな!」
「放課後までの間、生きた心地がしなかったって? ぼくに連絡が無かった辺りがパニックぶりの証明だけどさ、たまには普通の学生気分もいいと思うよ」
グレイブの八つ当たりは今に始まったわけじゃなし、と会長さん。
「それにね、黒い手形を披露したいと思わないかい? ぶるぅの手形は有名だけれど、それは右手の赤いヤツ。左手で押された黒い手形の効き目の方もさ、披露しといて損は無い」
生徒相手に使うつもりは無いけれど、と会長さんが言えばキース君が。
「当然だろうが! アレを一般人に使うな!」
「ふふ、究極の破壊兵器だしねえ? 早速始まったみたいだよ」
パチンと会長さんの指が鳴らされ、壁に中継画面が出現。その中ではグレイブ先生が頭からビショ濡れで廊下にへたり込み、バケツを抱えた業者さんが平謝りです。
「拭き掃除中の業者さんと目出度く正面衝突ってね。謝ってるのは業者さんだけど、グレイブが先に足を滑らせてぶつかった。目撃者多数だし、非はグレイブの方に在りだよ」
目撃者は通行人の生徒たち。グレイブ先生は怒るに怒れず、気を取り直して立ち上がったものの、今度は濡れた床で滑って顔からズベーッ! と廊下を磨く羽目に。
「「「……スゴイ……」」」
なんと激しい効き目なのだ、と見ている私たちも衝撃です。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の黒い手形はアンラッキー。押されたが最後、それが消えるまで不運に見舞われる代物ですけど、久しぶりに見た効果のほどは凄まじく…。
「まだまだ続くよ、ぶるぅには丸一日のコースで行けって言っといたしね。明日の終礼くらいまでかな。…他の先生たちも手形に気付くし、災難は増える一方かと」
アンラッキーに加えて人的災難も大いに招く、とほくそ笑んでいる会長さん。あっ、中継画面の向こうにブラウ先生が出て来ました。グレイブ先生の頬の手形を見付けたらしくてニヤニヤニヤ。おおっ、早速、携帯端末で写真を撮って送信ですか! グレイブ先生の不幸、一気に拡散…。



右の頬っぺたに黒い手形をペッタリ押されたグレイブ先生。手形パワーに引き寄せられた不運の数々もさることながら、他の先生方が仕掛ける悪戯や罠も半端ではなかったらしいです。
「…諸君、そろそろ消えただろうか?」
憔悴しきったグレイブ先生。翌日の終礼の席で頬を指差し、私たちが。
「「「まだついてまーす!!!」」」
揃って答えた次の瞬間、黒板の上に飾られていた額が落下してグレイブ先生の頭を直撃。はずみで突っ伏した教卓で顔面を強打し、暫く呻いておられましたが…。
「「「…あっ、消えた…」」」
フラフラと身体を起こしたグレイブ先生の頬から黒い手形が消えていました。グレイブ先生は直ぐにポケットから出した鏡で確かめ、ホッと息をついて。
「…やっと消えたか…。諸君、これが恐ろしい手形パワーというヤツだ。在学中に押されないよう、くれぐれも気をつけることだな」
「「「分かってまーす!」」」
元気一杯のクラスメイトたち。黒い手形が生徒に押されることはない、と私たちが説明したため、1年A組を含めた全校生徒がグレイブ先生のアンラッキーを高みの見物だったのです。おまけに頬っぺたの手形があまりにも見事だったため、その次の日から。



「なんかすげえな、大流行りだぜ」
サム君が言う通り、先生方の間でフェイスペイントが大流行。一日目はグレイブ先生を嘲笑うように全員揃って右の頬っぺたに真っ黒なマーク。手形あり、猫やアヒルの足形ありとバラエティ豊かにキメて来ました。次の日からは思い思いのペイントで。
「これは当分、流行りそうだが…。かるた大会くらいまでか?」
それが済んだら入試前だし、とキース君。
「いくらなんでも下見の生徒が来る時期まではやらんだろうしな」
「さあ、どうだか」
なにしろウチの学校だし、と会長さんが放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でクスクスと。
「自由な校風が売りだからねえ、生徒の服装さえキチンとしてれば逆に好感度はアップかも…。先生方の実力の方は昔から評判なんだしさ。三百年を超える実績!」
「そうだっけ…。じゃあ、当分は続くわけ?」
ジョミー君が今日の先生方のフェイスペイントのユニークさを挙げれば、シロエ君が。
「続いても不思議はないでしょう。…ぼくの読みでは鍵は教頭先生かと」
「「「教頭先生?」」」
「そうです。未だに何も描いてないのって、教頭先生だけですし」
「「「あー…」」」
そういえば、と記憶を遡ってみる私たち。フェイスペイントが流行り始めて一週間ほどになりますけれど、教頭先生だけは一度も描いてらっしゃらないのです。初日の黒いマークで揃えた日でさえ、我関せずと不参加で。
「教頭先生、柔道部の部員に訊かれて「私の柄ではないからな」と仰ってましたけど、相手はウチの学校です。柄じゃないからってやらないでいるとノリが悪いと看做されそうです」
絶対そっちの方向です、とシロエ君。
「ですから、まだまだ続くと思うんですよ。…教頭先生が参加なさるか、あるいは無理やり参加させられるか。先生方が全員揃ってフェイスペイントを披露なさる日まで、ブームは収まらないと見ました」
「そうかもなあ…」
サム君が頷き、スウェナちゃんが。
「有り得るわね。かるた大会の寸劇が済んでも教頭先生が今のままなら、入試シーズンに突入しようとフェイスペイントは続くわよ」
寸劇は弾けるイベントでしょ、とスウェナちゃん。
「それをやってもフェイスペイントをなさらなかったら、ノリが悪いじゃ済まされないわ。強制参加の方に行くわね」
きっとそうよ、というスウェナちゃんの読みが正しかったことを、それから間もなく私たちは知ることになったのでした。



新年恒例の闇鍋と並ぶシャングリラ学園の冬の名物、かるた大会。プールに散らされた大きな百人一首の取り札を奪い合うクラス対抗イベントです。これで学園一位に輝くとクラス担任の他に先生を一人指名し、寸劇をして貰えるという仕組み。これまた1年A組の学園一位がお約束で。
「…諸君、おはよう。昨日は楽しんでくれたかね?」
グレイブ先生、かるた大会の翌朝のホームルームで咳払い。今日は頬っぺたにヒエログリフが輝いています。えーっと、あれって意味があるんですよね、どう読むんだろ?
「今日のペイントは昨日の寸劇に因んでみた。…あの寸劇が誰の趣味かは知らんがね」
うぷぷぷぷぷ…。クラス中が笑いを堪えています。グレイブ先生は自分の右の頬を示すと。
「語学と歴史は私の専門ではないが、笑い物で終わるのは頂けない。これはヒエログリフと言って昨日の寸劇の舞台になった世界の文字だ。それだけではないぞ。この文字を囲む模様にも意味がある。教養の足りない諸君には何に見えるかね? 位牌かね?」
どうだ、と訊かれた模様は位牌のようにも、墓石のようにも見えました。ヒエログリフを取り囲んでいる線のことです。キース君なら知ってるかも、と盗み見れば答えを知っている様子。けれどクラスメイトたちは私と同じで分からないらしく、グレイブ先生は勝ち誇った顔で。
「この模様はカルトゥーシュと呼ばれている。王の名前を囲むためだけに存在している記号なのだよ。ヒエログリフの文章にこれを見付けたら王の名前だと思いたまえ。…そしてカルトゥーシュに囲まれたこの文字はメンフィスと読む」
「「「メンフィス!?」」」
それは昨日の寸劇でグレイブ先生が演じた役名。ピラミッドの国の王の名です。
「昨日の劇は『王家の紋章』という少女漫画から取ったらしいが、男子生徒には知らない者も多いだろう。この機会にカルトゥーシュの存在を覚えることだ。そうすれば少し教養が増える」
馬鹿騒ぎだけで終わらせるな、と靴の踵をカッと鳴らしてグレイブ先生は出欠を取り始めました。寸劇は例によって会長さんの企画です。グレイブ先生は長い黒髪のカツラを被って少女漫画のファラオを演じ、教頭先生がヒロインでしたっけ…。そしてホームルームが済み、一時間目が。
「………おはよう」
チャイムが鳴って入って来た古典の先生。いわゆる教頭先生ですけど、誰もが声を失いました。
「「「………」」」
「そんな顔をしないで欲しいのだが…。私の方も恥ずかしいのだ」
決して私の趣味ではない、と強調している教頭先生。
「これは朝からブラウとエラが…。本当だ、私が描いたのではない!」
違うのだ、と叫ぶ教頭先生を他所に1年A組は爆笑の渦に。教頭先生の顔には両目を黒々と縁取るアイラインやら、濃すぎる緑のアイシャドウやら。昨日のヒロイン、王妃キャロルさながらの派手なメイクはフェイスペイントの一種でしょうねえ…。



教頭先生が無理やり施されたフェイスペイントは悪質なことに油性でした。よほど強力なものを使ったのか、その次の日も取れないまま。その一方で他の先生方はフェイスペイントをピタリと止めてしまっただけに悪目立ち度は群を抜いていて。
「かみお~ん♪ ハーレイ、今日も凄かったね!」
似合ってないね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が子供ならではの遠慮の無さで言い放つ放課後。
「劇と違って服もカツラも無いもんね♪」
「…あった方が怖かったんだが…」
夢に出そうだ、とキース君。
「しかしスウェナが言ったとおりにフェイスペイントは収まりそうだな。教頭先生のメイクも週末までには消えるだろう」
「だろうね」
会長さんが頷いています。
「ぶるぅの手形から思わぬ方向に発展したけど、楽しかったよ。手形を披露した甲斐があった」
「うん、その点はぼくも同意見!」
えっ、会長さんの声が二人分? なんで、と振り返った先で紫のマントがフワリと揺れて。
「こんにちは。なんか凄いね、ハーレイのメイク」
似合わないなんて次元じゃなくて、と言いつつ現れた会長さんのそっくりさん。ソルジャーはスタスタと部屋を横切り、空いていたソファに腰掛けました。
「ぶるぅ、今日のおやつは何があるわけ?」
「えっとね、恵方巻ロールケーキの試作品!」
こんな感じで、と運ばれてきた大皿の上に乗っかったロールケーキはまさしく節分の恵方巻。海苔の代わりに黒いクレープで巻かれた太巻き寿司です。
「「「うわぁ…」」」
こんなケーキもアリなのか、と驚いている間に切り分けられて各自のお皿に。
「シャリの代わりにお米の粉のケーキなの! でね、中の具を何にしようかなぁ…って」
カンピョウとか色々入れるでしょ、と説明してくれる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。色とりどりの具は甘く煮た果物だったりピューレだったり、クリームだったり。
「キュウリは今日は固めのピューレにしたけど、ホウレンソウのケーキで作ってもいいし…。節分までに色々試してみなくっちゃ!」
ケーキ作りの醍醐味だよね、と供された試作品とやらは充分に美味しいケーキです。節分の日にはきっと絶品の恵方巻ロールが出来るでしょう。これは今から楽しみかも~!



恵方巻ロールに感動しながらパクパク食べて、美味しい紅茶やコーヒーも。教頭先生のフェイスペイントのことは誰もがすっかり忘れてましたが。
「…あのさ、ハーレイのメイクだけども」
いきなりソルジャーが口を開いて。
「あれってフェイスペイントだってね、物凄いけどさ。…寸劇のメイクも強烈だったし」
「君のハーレイにもやらせたいとか?」
止めないけれど、と会長さんが言うと、ソルジャーは。
「そうじゃなくって…。せっかくフェイスペイントまで辿り着いたんだ。もう一歩踏み込んでみたらどうかな、と思ったんだよね」
「「「は?」」」
「実は昨日はノルディとディナーで」
ノルディの家で、と悪びれもせずに語るソルジャー。
「いいトリュフが入りましたから、って誘われちゃってさ…。今はトリュフの旬なんだってねえ? トリュフ尽くしで御馳走になって、その時の話題がフェイスペイント」
「…それで?」
嫌な予感しかしないんだけど、と会長さんが先を促せば。
「話が早くて助かるよ。ぼくはノルディに「飾るのは顔しかないのかい?」と訊いたわけ。どうせだったらアソコを飾るとか、そういう系のは無いのかなぁ…って」
「退場!!」
さっさと出て行け、とレッドカードを突き付ける会長さんですけど、ソルジャーは。
「嬉しいなぁ、アソコだけでバッチリ通じるなんてね。…つまりさ、ぼくはハーレイの大事な部分を飾るのとかは難しいかな、ってノルディに訊いてみたんだけれど…」
「退場だってば!」
「人の話は最後まで聞く! ノルディが言うにはアソコにチョコレートを塗ってチョコバナナ風とかが王道だけども、飾るんだったらボディーペイントっていうのがあるんだって?」
「「「ボディーペイント?」」」
なんじゃそりゃ、と首を傾げる私たち。フェイスペイントが顔なんですから、ボディーペイントだと身体でしょうか? 飾るとか言っていますから…。
「そう、身体! これがなかなか凄くってさ」
ノルディが色々と画像を見せてくれたよ、とソルジャーの顔が輝いています。ボディーペイントとやらを吹き込んだ人がエロドクターだけに、ロクでもない画像のオンパレードとか?



ソルジャーがエロドクターの家で見て来た画像について話す前から私たちの警戒感は既にMAX。何を言われても心に耳栓、驚かないぞと決めていたのに。
「服を着ているヤツもあるんだよ」
「「「え?」」」
それは普通に当たり前では? ボディーペイントでも最低限の服は必須というものでしょう。
「あれっ、もしかして通じてないかな? 服を着たように見えるヤツって意味だよ。本当はスッポンポンなんだけど」
「「「えぇっ!?」」」
スッポンポンって…全裸ですか? 裸でボディーペイントですか?
「それが王道みたいだよ? 背景の壁と同じ色に塗って透明人間風を気取るとか、動物なりきりでシマウマみたいに塗っちゃうとか…。服を着ていちゃそうはいかない」
な、なんと…! 服は無いのがデフォですって?
「そうなんだよねえ、中には上半身とかだけっていうのもあるけどさ。…ノルディが言うにはアートの域まで達するためには潔く全身ペイントらしいよ。その一環として服を着ているヤツも」
服と見せかけて実は描いてあるのだ、とソルジャーは解説を始めました。
「もうね、服の模様からボタンとかベルトまでキッチリと描いてあるんだな。近寄って見たらスッポンポンだと気付くだろうけど、遠目には絶対分からないね。ああいう世界をハーレイにやらせてみたらどうかと」
フェイスペイントから踏み込んで、と指を一本立てるソルジャー。
「もちろん自分で出来るアートじゃないからねえ? ハーレイの身体はあくまでキャンバス、ペイントするのは他の人! それをブルーがやると言ったら絶対に釣れる!」
「…あまりやりたくないんだけれど?」
スッポンポンのハーレイなんて、と会長さんは全く乗り気じゃないのですけど、ソルジャーは。
「ううん、やったら楽しいって! 漠然とそういう考えでいたら、恵方巻ロールケーキの試作品なんて素敵なモノがね…。どうだろう、ハーレイの身体をお菓子みたいに飾ってみるとか! イチゴを描いたり、クリームを塗ったり、デコレーションケーキのハーレイ風!」
でね、と微笑んでみせるソルジャー。
「デコレーションケーキなペイントにするなら、画材の方も食べられるヤツで! 上手く描けたら食欲アップで君がハーレイを食べたくなるとか、ぼくが味見とか、こう、色々と」
「却下!!!」
「誰も食べろとは言っていないし、食べるとも言っていないけど? 要するにアレだよ、ハーレイをその気にさせる餌だよ」
飾るだけ飾って後は笑い物、とソルジャーはニヤリ。つまり絵を描くだけなんですか?



フェイスペイントならぬボディーペイント。ソルジャーの提案は実に恐ろしいものでした。教頭先生の身体をキャンバスに見立て、デコレーションケーキ風に仕上げるつもり。あまつさえ食べられる素材で絵を描き、食べて貰えると思い込ませる方向で…。
「いいアイデアだと思うけどねえ? それにさ、万に一つの可能性でさ、君がハーレイを食べたくなるかもしれないし…。食べないなら食べないで笑えばいいしね」
「……うーん……」
会長さんが葛藤していることが傍目にもハッキリ分かりました。日頃から教頭先生をオモチャにしたがる会長さん。フェイスペイントの切っ掛けになった寸劇もその一つです。ブラウ先生とエラ先生にメイクをされた教頭先生の姿も大いに楽しんでいるわけですから、ボディーペイントも…。
「…悪くないとは思うんだけど……」
落とし所をどうするか、と腕組みをする会長さん。
「笑い物にするっていうオチだったら、ボディーペイントをする価値はある。でもねえ、飾って笑ってそれで終わりに出来るかなぁ…?」
ハーレイは諦めが悪いんだ、と会長さんはブツブツブツ。それでも心はかなりボディーペイントへと傾いてしまっているようです。
「面白そうだし、食べられる画材でやるっていうのも楽しいけれど…。全身お菓子なデコレーションケーキに「食べてくれ」って追われるのはねえ…」
それだけは勘弁願いたい、と零す会長さんに、サム君が。
「外へ逃げればいいんじゃねえか?」
「ああ、そうか! 外へ出ちゃったらストリーキングか…」
服を着てないんだったっけね、と会長さんがポンと手を打ち、キース君が。
「いわゆる公然猥褻罪だな、警察を呼ばれても仕方ない。…俺はそこまでやりたくはないし、その前に教頭先生を止めに入るのが筋だと思うが」
「なるほどねえ…。ハーレイがしつこかったら外に逃げる、と。退路があるならやってもいいかな、ブルーのお勧め」
その気になった会長さんに、ソルジャーが至極満足そうに。
「いいねえ、やる気になったんだ? それじゃ顔のメイクが取れそうな頃合いで土曜日はどう? 君がいつでも逃げ出せるようにハーレイの家へ押し掛けてってさ」
「そうだね、ぼくの家では逃げても外の廊下だし…。それにスッポンポンのハーレイを家で拝むのも嬉しくないし」
「決まりだね。土曜日はハーレイをデコレーション! 美味しそうなデザインを考えといてよ、恵方巻ロールの試作ついでに!」
楽しみだなぁ、とワクワクしながらソルジャーは帰ってゆきました。やるんですか、ボディーペイントを? それも食べられる材料で…?



教頭先生の顔のメイクがなんとか消えた金曜日の放課後。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は恵方巻ロールケーキの試作を続けているようですけど、私たちのおやつはフランボワーズのタルトでした。試作品は会長さんと試食した後、「ぶるぅ」に送っているようで。
「あのね、ぶるぅも試食をしたいらしいの! それに一人でうんと沢山食べるしね♪ 一日に三十本でも食べられるよ、って!」
頼もしい協力者の出現で恵方巻ロールは素晴らしい進化を遂げそうです。節分には最高の出来のが出て来るでしょうが、その前に明日が問題で。
「…おい」
キース君が会長さんに声を掛けました。
「教頭先生には言ってあるのか、例の話は」
「言ってないけど? そういうのって基本はサプライズだろ?」
ぼくがハーレイを食べてあげるかもしれないんだよ、と会長さん。
「鼻血を堪えてボディーペイント! 食べられる画材も用意したしね。ね、ぶるぅ?」
「うんっ! お勉強にも行ったんだよ、ぼく!」
「「「お勉強?」」」
何処へ、と尋ねた私たちに「そるじゃぁ・ぶるぅ」はエッヘンと。
「ケーキ屋さん! イラストケーキとキャラクターケーキのお店なの!」
「「「えっ?」」」
なんですか、それは? イラストケーキ…?
「えっとね、写真とか絵とかをケーキの上に描くんだよ♪ 普通のケーキも作ってるけど!」
こんな感じで、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が見せてくれた写真には会長さんとフィシスさんの似顔絵が描かれた大きなケーキが。フィシスさんはもちろん金髪、会長さんの瞳は赤です。二人の似顔絵の周囲にクリームを絞り出し、フルーツなんかもトッピング。
「お勉強に行って作って来たの! ブルーとフィシスと、ぼくと三人で食べたんだ♪」
「フィシスもとっても喜んでくれたよ、沢山写真を撮ったんだけど…。見る?」
けっこうです、と言うよりも先に会長さんがプリントした写真を何枚も。ケーキを前に笑顔の会長さんとフィシスさんやら、ウェディングケーキの入刀式風やら、御馳走様ですとしか感想の出ない甘々な写真が次から次へと…。
「というわけでね、ぶるぅは食べられる画材の知識はもうバッチリ! どんな色でも作り出せるし、ハーレイをデコレーションケーキに見立てるくらいは朝飯前さ」
「かみお~ん♪ この写真だってケーキに描くなら描けちゃうもんね!」
青でも緑でもドンとお任せ! と胸を張りつつ、こう付け加えるのも忘れなかった「そるじゃぁ・ぶるぅ」はプロ中のプロ。
「でもね、恵方巻ロールは自然の色で頑張るよ!」
食用色素は使わないんだ、との嬉しいこだわり、流石です~!



こうして迎えた運命の土曜日。私たちが会長さんのマンションに行くと、ソルジャーが先に来ていました。私服姿で会長さんと一緒にボディーペイントの材料をチェック中で。
「こんにちは。ハーレイのケーキはチョコレートクリームでいくらしいよ」
「素材の色は活かさなくっちゃね? ぶるぅもそういう意見だし」
だからチョコレートクリームたっぷり、と会長さんが指差すボウル何杯分ものクリーム。教頭先生の肌の色を見事に再現してあるようです。
「これをベースにフルーツとかを描いていくわけ。君たちに絵心は期待しないけど、クリームくらいは手伝ってよね」
「「「えぇっ!?」」」
「ムラが出来ないよう、綺麗に塗る! ケーキだとパレットナイフになるけど、相手はハーレイの身体だし…。刷毛を用意したからコレでお願い。細かい部分はこっちの筆で。ノルマは女子が腕を一本ずつ、残りは男子がジャンケンでどうぞ」
両足と顔から下の身体だ、と会長さんに言われた男子は顔面蒼白。ですが…。
「あっ、待って! 大事な部分はぼくが塗りたい!」
一度は練習しておかないと、とソルジャーが名乗りを。
「ノルディお勧めのチョコバナナをねえ、やろうと思っているんだな。もちろん、ぼくのハーレイで! デコレーション用のチョコペンもピンクとか青とか買ったんだよ。だけどベースのチョコを塗らなきゃ」
そのために予行演習を、と燃えるソルジャーのお蔭で男子の役割分担も決まった模様。私たちは会長さんたちの青いサイオンにパァッと包まれ、瞬間移動で教頭先生の家のリビングへと。



「な、なんだ!?」
教頭先生はソファで寛いでおられましたが、突然の来客に腰を抜かさんばかりです。
「御挨拶だねえ…。素敵な提案をしに来たのにさ」
まあ聞いてよ、と会長さん。
「この間からフェイスペイントが流行ってたけど、君の好みじゃなかったようだね。ボディーペイントはどうだろう? 好みだったらしてあげたいな、と」
「…ボディーペイント?」
「そう。君の身体をキャンバスに見立てて絵を描くわけ。…実はブルーのアイデアでさ。君をまるっとケーキみたいにデコレーション! 美味しそうに描けたら食べたい気持ちになる…かもしれない。ブルーは味見をしたいらしいし」
「あ、味見…?」
教頭先生の頭の中では妄想が渦巻いているようです。頬が赤いのがその証拠。そこへ会長さんが更に重ねて。
「ケーキに仕立てようって言うんだからねえ、服も下着も脱ぐんだよ? さっきシャワーを浴びたトコだろ、脱いでくれたら直ぐに描くから!」
「かみお~ん♪ 絨毯が汚れないように、この上に寝てね!」
ケーキだから寝た方が絵になるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言い、会長さんも。
「全身くまなく塗るってボディーペイントもあるけどね…。今回のヤツは寝たままで! 気に入ってくれたら全身バージョンも考えるよ」
「…ほ、本当か?」
「その様子だと好みらしいね、ボディーペイント? どう、やりたい?」
「是非!!!」
教頭先生は即答でした。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がシートを床に広げるとセーターを脱ぎ、ズボンも脱いでお次は下着をいそいそと。スウェナちゃんと私の視界にはモザイクが入り、教頭先生が仰向けに横たわって…。
「こ、こんな感じでいいのだろうか?」
「上等、上等。それじゃベースのチョコクリームから! 君の肌の色にそっくりだろう?」
ぶるぅが頑張ってチョコとかを調整したんだよ、と会長さんがボウルの中身を自慢し、私たちは刷毛を握って自分のノルマを塗り塗り塗り。あっ、教頭先生、くすぐったいのは分かりますけど、身動きしないで下さいますか? クリームがムラになっちゃいます~!



ベースが出来たら会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の出番です。ソルジャーは未だにノルマの部分が上手に塗れないみたいですけど…。
「うーん、ぼくって不器用だから…。ブルー、並行して描いちゃってよ」
「そうだねえ…。そこの飾りは最後でいいかな、食べたい気分になるかどうかも疑問だし」
それじゃお絵描き、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と手分けしてフルーツや絞り出したクリームなどの絵を描き始めました。おおっ、なんだか本格的! 教頭先生の身体が巨大なデコレーションケーキに変身しつつありますよ~!
「…見事なものだな、どうなることかと思ったが」
キース君が感心する横で、マツカ君が。
「確かにこれならアートですね。もうケーキにしか見えません」
「ですね、会長の腕も確かですよ」
シロエ君も手放しで褒めています。でもソルジャーが引き受けた部分の作業は滞り気味で…。
「もうダメだぁ~! ぼくには向いていないよ、コレ!」
ただのチョコバナナじゃダメなのかい、とぼやくソルジャー。
「塗って飾って食べるだけだし、要は食べられればいいんだろう! 塗りが下手でも!」
「ちょ、ちょっと…!」
待った、と会長さんが止めに入ったのに、ソルジャーは。
「ハーレイ、君もそう思うよね? 見た目がどうでも食べて貰えれば嬉しいよねえ?」
「そ、それは…。それは、まあ……」
「だってさ。それじゃ本人のお許しも出たし、少し味見を…」
いっただっきまーす、とソルジャーの口から赤い舌が。私たちはウッと息を飲み、ザッと後ろに下がりましたが…。



「なにさ、ヘタレ!!」
まだ味見だってしていないのに、とソルジャーは眉を吊り上げてプンプンと。デコレーションケーキと化した教頭先生は鼻血を噴いて気を失っておられました。会長さんが大きな溜息を吐き出し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「…こうなる予感はしてたんだよね…。ぶるぅ、例のヤツを」
「かみお~ん♪ お祝いケーキには蝋燭だよね!」
何のお祝いだったっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が取り出した蝋燭の太さは一センチ以上ありそうです。色もピンクや緑などなど鮮やかなそれを会長さんがクスクス笑いながら。
「やっぱりケーキは飾らなくちゃね。ついでにお灸も兼ねるんだ、これは」
「「「お灸?」」」
「ぼくが本気でハーレイを食べようと考える筈がないだろう? そこを読み違える妄想男にお灸で罰を下すわけ。この蝋燭をこうして飾って……と」
刺さらないからサイオンで、と会長さんは何十本もの蝋燭を教頭先生の身体の上に並べ終えると。
『もしもし、ハーレイ? 今からお灸をすえるから! 蝋燭が燃え尽きるまで君をサイオンで縛っておくから、しっかり反省するといい。その色ボケを反省しながら熱さに耐えて頑張って!』
タイプ・グリーンなら火傷はしない筈なんだよね、と艶やかに笑ってサイオンで点火。ほ、本当に大丈夫ですか、蝋燭は熱いと思うんですが!
「だからお灸と言っただろう? タイプ・グリーンだし、お灸程度で済むと思うよ」
じわじわとお灸を一時間、と会長さんは悪魔の微笑み。一時間タイプの蝋燭だったみたいです。
『じゃあね、ハーレイ。それじゃ、さよなら~!』
バイバイ、と会長さんが私たちと瞬間移動で逃げる瞬間に教頭先生の意識が戻りました。サイオンで叩き起こしたに違いありません。
「ま、待ってくれ、ブルー! 私は動けないのだが!」
助けてくれ、という教頭先生の絶叫は中継画面の彼方から。私たちはソルジャーも一緒に会長さん宅のリビングで…。
「あーあ…。お灸が君の趣味なんだ? 食べるんじゃなくて?」
如何にも残念そうなソルジャーに、会長さんが。
「ぼくは君とは違うからね? 落とし所を考えてた時から蝋燭の案は出ていたさ」
食べるなら君の世界でどうぞ、と言われたソルジャー、少し悩んで。
「そうだね、帰って食べようかな? 最高級のチョコバナナ!」
恵方巻ロールも完成したら是非よろしく、とウインクを残してソルジャーは自分の世界へと。デコレーションケーキな教頭先生の上ではお灸な蝋燭がゆらめいています。何のお祝いか知りませんけど、歌った方がいいのでしょうか? 教頭先生、バースデーソングでよろしいですか~?




           素肌を飾ろう・了

※新年あけましておめでとうございます。
 シャングリラ学園、本年もよろしくお願いいたします。
 新年早々、下品な話でスミマセンです、でも、こういうのがシャン学ですから!
 ボディーペイントはホントに凄い世界です、画像はネットに色々あります。
 次回は 「第3月曜」 2月15日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、1月は、スッポンタケの形だという粥杖が欲しいソルジャーが…。
 ←シャングリラ学園生徒会室






 秋の光が優しい午後。
 ハーレイとぼくと、庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子で向かい合わせでお茶の時間。夏の間は午前中から早めのお昼御飯までの間に使っていた場所なんだけれど。今では午後のお茶が定番、それだけ気候も穏やかになった。
(あ…!)
 ひらり。生垣を越えて蝶が一匹、舞い込んで来た。庭に咲いている花の香りがしたんだろうか。午後の日射しを浴びて、ひらひらと飛んでゆく黄色の蝶。モンシロチョウくらいの大きさの蝶。
 夏の盛りにはアゲハ蝶なんかも飛んでいたけれど、秋になったら大きな蝶は見かけない。何処か他所へと移って行ったか、蝶にも好みの花があるのか。幼虫の間に食べる植物が違うみたいに。
 だけど庭に花が咲けば蝶はやって来るし、現に今だって黄色の蝶。お目当ての花がどれかはまだ分からないけれど、薔薇の周りを舞っている。



「いいもんだな…」
 地球だな、とハーレイが蝶の飛んでいる方を眺めながら目を細めた。
(…地球?)
 何が良くって、何が地球だって言うんだろう。ぼくとハーレイは二人で青い地球の上に生まれて来たし、いつだって地球を満喫してる。ぼくの家の庭でお茶にするのも珍しくないと思うけど…。
(…えーっと…)
 何のことだろう、と考えていたら、「分からないか?」と褐色の指が庭を指差した。
「ほら、あそこだ。蝶が入って来ただろう?」
「うん、来たね。薔薇の蜜は吸いにくいんじゃないかと思うけど…。匂いに釣られて来たのかな」
「さてな? 向こうにクローバーとかも咲いているしな、蜜は充分あるだろうさ」
 鳶色の瞳が追っている蝶。ごくごく普通の光景だろうと思うんだけど…。あの蝶、珍しい種類の蝶なんだろうか? それとも今の季節に居るのは珍しいとか?
 ハーレイが言わんとしていることが分からなくって、ぼくが小首を傾げていたら。
「やっぱり、お前でもピンと来ないか…。夏の間は当たり前のように飛んでいたしな、俺もまるで気付きもしなかったんだが…」
 シャングリラでは見られなかった光景だよなあ、花に蝶ってのは。
「…そういえば…。そうだったっけね」
 ぼくもすっかり忘れていた。
 青い地球の上に生まれて、今日まで暮らして来て。
 ハーレイと再会して記憶が蘇ってからも地球はぼくの周りに普通に在ったから、それが日常。
 そういう暮らしに馴染んでしまって、綺麗に忘れてしまっていた。遠い昔にハーレイと暮らしたシャングリラの中の世界のことを。



 花が咲いたら蝶が来るのは当たり前のこと。ミツバチが蜜を集めに来るのと同じで、当然。
 何処の庭でもごくごくありふれた光景だったし、郊外の野原や山に行ったら蝶は沢山見られる。生まれつき身体の弱いぼくはあんまり出掛けないけれど、パパとママに連れてって貰った野原でのピクニックだとか、学校からの遠足だとか。蝶なら沢山、色々見て来た。
 でも…。
 シャングリラに蝶は居なかった。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 楽園と名付けたシャングリラだけど、その楽園に花が咲いても蝶が来ることは決して無かった。どんなに香り高い花が咲いても、蜜がたっぷりの花が咲いても、花から花へと飛んでゆく蝶の姿を誰も目にすることはなかった。
 花の間を飛んでいた虫はミツバチだけ。蜜を集めて、ついでに花粉を運んでくれる働き者の虫。ミツバチはシャングリラに欠かせない昆虫だったけれども、蝶はそういう虫ではなかった。
 居れば野菜や木々の葉っぱが食われてしまうし、花粉だって運んでくれない。少しは運ぶのかもしれないけれども、ミツバチのように目に見えて役立つレベルではない。
 だからシャングリラの花にはミツバチだけ。働き者のミツバチだけ。
 蝶を飼おうとは誰も言わなかった。ただその姿が美しいだけの、役に立たない昆虫だから。



(…花には蝶が似合うんだけどね?)
 ミツバチよりずっと似合うんだけどね、と庭の黄色い蝶を眺める。まだ薔薇の周りをひらひらと飛んで、蜜が吸えないか探しているのか、それとも香りに惹かれているのか。
 こんな当たり前の景色が無かったシャングリラ。蝶が居なかったシャングリラ…。
(前のぼくしか蝶は見ていなかったんだよ)
 外の世界へと出てゆくぼくは見かけていた蝶。
 それが目当てではなかったけれども、蝶が飛んでいる季節にアルテメシアの地上に降りれば目に入る。人類たちの動きを探りに、ある時は新しい仲間を助け出して来るために降りていた。危険を承知で外へ出るぼくに、神様がくれたささやかな御褒美。自然と触れ合える僅かな時間。
 アルテメシアはテラフォーミングされた星だったから、まがいものでも自然があった。地球には遠く及ばないまでも、海もあったし野原も山も。
 その人工の山や野原を風が優しく吹き渡ってゆく。その風に乗って蝶だって飛ぶ。
 前のぼくが何度も目にした、アルテメシアの花と蝶たち。
 作りものの自然でも蝶は飛んでいて、野生の花だって数え切れないほどに咲き乱れていた。
 だけどシャングリラの中が世界の全ての、他のミュウたちは蝶を見られなかった。
 どんなに綺麗な花が咲いても、其処に蝶は居ない。ひらひらと何処からか舞っては来ない。
 少し寂しい、蝶が居なかったシャングリラの春と夏と秋。



 保護してきた小さな子供たちは皆、蝶の居ない世界に簡単に馴染みはしたのだけれど。
 外の世界の方が怖かったのだ、という記憶があるからシャングリラに直ぐに馴染むのだけれど。
 花が咲いたら、ミツバチが飛んで蜜を集めるシャングリラ。
 ぼくたちに蜂蜜をたっぷりとくれて、花粉を運んで実りを助けてくれるミツバチ。働き者の虫が飛び回るだけの、シャングリラの中に咲く幾つもの花。果樹も野菜も公園の花も、ミツバチだけが花から花へと飛んでゆく。それがシャングリラの花たちの世界。
 そういうものだと、そうしたものだと、ちゃんと分かっているのだけれど。役に立たない昆虫を飼うだけの余裕など無いと、誰もが分かっていたのだけれど。
 それでも、子供も、時には大人も。
 蝶を見たいと思ったりもする。シャングリラには無い自然の景色を懐かしく夢に見たりもする。花にはミツバチだけじゃなくって、蝶だって集まるものなのだと。
 だけどシャングリラで蝶は飼えない。そんな環境を作り出せるほどに、船の中の生活に余裕など無い。シャングリラはぼくたちが生きるための場所で、観賞用の植物園とは違うのだから。
 ひらひらと飛ぶ蝶を見たくても、蝶は舞わない。鳥たちが飛んでいないのと同じ。
 シャングリラの公園の上を鳥たちが自由に飛ぶことはなくて、蝶も花には集まらなかった。



(…シャングリラに蝶は居なかったっけ…)
 今のぼくの家の庭には蝶が来るのに。今だって黄色い蝶が一匹、飛んでいるのに。
 蝶を飼うことが不可能だったシャングリラ。花が咲いても、蝶なんか来ないシャングリラ。
 ぼくたちは夢を見るしかなかった。
 いつか大地に降りる時が来たら、青い地球まで辿り着いたら、其処では野原に蝶が飛んでいる。自然の中に降り立つ日が来たら、花の上を舞う蝶が見られる。
 花が咲いたら、ひらひらと何処からか舞って来る蝶。花には蝶が来るものなのだ、と。
 その日が来るまで蝶はお預け。地球に着くまで、蝶はお預け。
(…地球に着いたら、蝶だって居ると信じていたっけ…)
 青い地球が存在しないことも知らずに、信じて夢見た。本物の自然が息づく星を夢に見ていた。
 当たり前の風景が無かったシャングリラ。
 蝶なんか居なかったシャングリラ…。

 夢に見た青い地球が無かったことを、今のぼくはちゃんと知っているから。



 ハーレイたちが辿り着いた頃の地球は死に絶えた星だったことを、知っているから。ぼくたちの夢はどうなったのか、とハーレイに訊いてみることにした。
「ハーレイ、ナスカに蝶は居たの?」
 ぼくは一度も降りなかった星。遙か上空から眺めただけだった赤い星、ナスカ。
 シャングリラのミュウたちは其処で何年か暮らし、自然出産の子供たちまで生まれた。赤い星の土で野菜を育てた。その星に蝶は居たのだろうか、と思ったけれど。
「居なかったな。ナスカはそういう星ではなかった」
 人類が一度入植した後、放棄した星だ。
 俺たちがナスカに降りた時には昆虫は何も居なかった。そういった生物の助けが無くても生きてゆける植物が僅かに残っていただけだ。
「そっか…。じゃあ、最後まで蝶は見られないままだったんだ…」
 花に来る蝶。
 前のハーレイも、地球で死んでいったジョミーやゼルたちも。
 最後まで蝶は見られないままで、命が終わってしまったんだね…。



 ちょっぴり悲しかった、ぼくだったけれど。
 蝶の姿さえ見られないままで、皆、逝ったのかと思ったのだけれど。
 ハーレイが「そうでもないぞ」と微笑んでくれた。
「ナスカに蝶は居なかったんだが、アルテメシアに戻ったら居たさ。それから後に落としていった星でも蝶は見られた。ノアとかでもな」
「良かった…。花に蝶くらいは見られたんだ…」
 ぼくは心底、ホッとした。
 だって、みんな死に物狂いで地球まで辿り着いたのに。沢山の仲間を喪ってまでも目指した先に蝶は居なくて、死に絶えた地球が待っていただけなんて、あんまりだから。
 地球を目指しての旅の途中に蝶を見られたなら、それでいい。
 人類との戦いを始めたことで少しでも自然の世界に近付けたんなら、作り物の自然でも皆の救いにはなっただろう。大地に降りれば蝶が居るのだと、花には蝶が来るものなのだと。



 前のハーレイたちが辛うじて見られたらしい蝶。
 もっとも、ハーレイの目には「居るな」と映っていた程度。キャプテンとしての視線で観察していた程度。
 前のぼくを失くしてしまったハーレイにとっては、蝶なんかどうでも良かったらしい。
「…ごめん…。ごめん、ハーレイ。ぼくのせいだね…」
「気にするな。前のお前は蝶さえ見られずに逝っちまったんだしな」
 だから気にするな、とハーレイの大きな手がぼくの頭を撫でてくれた。
「それに俺は案外冷静に観察してたぞ、シャングリラに居ない蝶が此処には居るな、と」
 地球に着いたら、もっと沢山飛んでいるんだろうと思って見ていたが…。
 まさか居ないとは思わなかったな、蝶どころか生き物が棲めない星のままだったとはな…。
「そうだね…」
 でも、今は居るね。
 ぼくは黄色い蝶を見ながらハーレイに言った。
 あそこに居るよ、って。
 青い地球がちゃんと戻って来たから、ぼくの家の庭にも蝶が来るよ、って。



「ああ、居るな。…お前がミュウを、地球を守ってくれたからだな」
 ハーレイは頷いただけじゃなくって、とんでもないことを言い出した。
「前のお前が命と引き換えにメギドから俺たちを、シャングリラを守ってくれたお蔭で青い地球が在るんだ。蝶が居るのはお前のお蔭だ」
「ぼくが守ったのはシャングリラだけで、地球までは守っていないんだけど…」
 前のぼくは地球が何処にあるのかも知らなかったよ、と言ったんだけれど。
 ハーレイが「いや」と真面目な顔で続ける。
「あの時、お前がメギドを沈めなかったら、シャングリラが沈められていた。そうなっていたら、誰も地球まで辿り着けていない。ミュウの歴史はナスカで終わりで、地球も蘇りはしなかった」
 お前も分かっているんだろう?
 学校じゃ入学式だの新年度だのの定番の挨拶になってるだろうが、その辺の話。
 入学式の時に校長先生に言われなかったか? 「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と。
「……それは言われたけど……」
 そうなんだけど、と、ぼくは右目の奥が初めてツキンと痛んだ日のことを思い出す。
(入学式じゃなくって、入学前の説明会の時だったよね?)
 校長先生の長い挨拶を聞いて、ソルジャー・ブルーの話も聞いて。その夜、初めて右の目の奥に痛みが走った。右目から零れた赤い鮮血。
 怪我をしたのかと酷く驚いて、泣きそうになった。右目が見えなくなるかもしれないとか、入学前に手術するために入院になってしまうのかもとか、考えただけで泣きそうだった。
 あの日のぼくは何も知らなくて、怖くて慌ててしまったけれど。右目の奥に走った痛みと零れた血とが奇跡の始まり。
 そうして、ぼくはハーレイに会った。もう一度ハーレイに会うことが出来た。
 前のぼくが「もう会えない」と泣きながら死んだ、誰よりも会いたかったハーレイに…。



 そのハーレイと二人、青い地球の上。
 ハーレイと二人で生まれ変わって来た、青い地球。
 何故だか、地球が青く蘇ったのは前のぼくのお蔭だという凄い話が出来上がっていた。
 学校に通う子供たちが聞かされる、偉い先生の挨拶の定番。
 決まり文句の「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」。
(…ぼくは地球に何をしたわけでもないんだけどね?)
 ぼくはメギドを沈めただけ。それ以上のことは何も考えてはいなかった。
 シャングリラを守ろうと、守らなければと、ただそれだけ。
 挙句の果てに「ハーレイの温もりを失くしてしまった」と泣きじゃくりながら死んだのに…。
(話が大きくなりすぎちゃったよ)
 死に絶えた星だった、前のぼくが生きていた頃の地球。
 それを思うとなんだか不思議だ。
 沢山の生き物が地球に居るのが、蝶まで当たり前に飛んでいるのが。
 おまけに地球が蘇ったことまでが全部、前のぼくのお蔭だってことになっているのが。
 ソルジャー・ブルーに感謝も何も、ぼくはそこまで偉くなかったと思うんだけど…。



 でも、ハーレイまでが「お前のお蔭だ」と言ったりするから、「違うよ」と訂正しておいた。
「絶対、前のぼくだけの力じゃないよ。神様の力なんだと思うよ」
 神様が何処かに居るんだと思う。
 何処に居るのかは分からないけれど、神様は居ると思うよ、ハーレイ…。
「神様か…。うん、神様は何処かにいらっしゃるだろうな」
 それは間違いないだろう、とハーレイは直ぐに頷いてくれた。
「でないとお前に会えてはいない。…そんな気がする」
「そうでしょ、絶対、神様なんだよ」
 地球を蘇らせた力は神様の力。前のぼくじゃなくって、神様の力。
 神様が青い地球を蘇らせたのなら、あそこの蝶も。
 蝶も神様が作るんだよね?
「まあ…。そうなんだろうな、命を作るのは神様だろうな」
 器だけ作っても命は出来ん。
 蝶にそっくりの形を作り上げても、そいつは空を飛ばないからな。



 ひらひらと庭を飛んでいる蝶。
 生垣を越えてぼくの家に来た黄色い蝶は、クローバーの花が気に入ったらしい。白くて丸っこいクローバの花に止まって蜜を吸ったり、緑色の葉っぱに止まってみたり。
 芝生の間に濃い緑色をしたクローバーの茂み。広がり過ぎないようにパパが刈り込んだりしてるけれども、あの中に四つ葉のクローバーの葉っぱが隠れてる。
 前のぼくには見付けられなかった、幸せの四つ葉のクローバー。前のハーレイとシャングリラで頑張って探していたのに、一度も見付からなかった四つ葉。
 それが今ではぼくの家にも、ハーレイの家にもちゃんとあるんだ。探せば見付かる、幸せの四つ葉のクローバー。今のぼくたちは幸せになれると教えてくれる四つ葉のクローバー。
 そのクローバーがお気に入りの蝶を見ながら、「ねえ、ハーレイ」と訊いてみる。
「ぼくとハーレイの身体も作ってくれたんだよね、神様が。前とそっくり同じ姿に」
「そうだと思うぞ、これは神様にしか作れんだろう」
 ハーレイはぐるりと自分の身体を見回してみて、褐色の大きな手を握って、開いて。
「こいつを作るのは前のお前でも無理なんじゃないか?」
「うん、多分。フィシスを作った仕組み自体は分かったけれども…」
 ちょっとぼくには出来そうにないよ。
 前のぼくの力でも、多分、出来ない。…それに作りたいとも思わないしね、生命も、器も。
「あの技術は失われてしまったらしいな。廃棄されたと言うべきか…」
「前のぼくたちが生まれた人工子宮と一緒にね」
 もう誰も無から生命を作れはしないよ、今の地球では。…ううん、宇宙では。
 生命を作れるのは神様だけだよ、ぼくたちの身体も、あそこの蝶も…。



 黄色い蝶はまだ庭を飛んでる。
 クローバーの上はもう飽きたのか、チャレンジ精神旺盛なのか。今度は薔薇の花の上にひらりと止まった。花びらが沢山重なった薔薇は、蜜を吸いにくいと思うんだけど…。
 案の定、やっぱり無理だったみたい。ふわりと飛び立って、花びらがもう一杯に開き切った花に移って、翅を閉じてる。
(良かった、ちょっとは蜜が残ってたんだね)
 あんなに開いてしまった薔薇では駄目じゃないかと心配したけど、蜜は残っていたらしい。蝶の翅が満足そうにゆっくり開いたり、閉じたりしてる。
 それを見てたら、ハーレイも「ふむ…」と薔薇の咲いてる方を見ながら。
「平和な時代になったもんだな、花に蝶か」
「うん。…シャングリラにも、あの頃の地球にも無かった平和な景色だよね」
 蝶なんか居なかったシャングリラ。
 地球に行けば蝶が居ると信じていたのに、死に絶えてしまった星だった地球。
 あの頃を思えば、今のぼくたちが居るのは楽園。
 シャングリラの公園よりもずっと小さい、ぼくの家の庭でも本物の楽園…。



 そんな感慨に耽っていると、ハーレイが妙な台詞を口にした。
「とりあえず平和で花に蝶だが、イノシカチョウとはいかんようだな」
「イノシカチョウ?」
 なにそれ、とぼくは目を丸くした。聞いたこともない言葉だけれど…。
「知らないか? 花札ってヤツだ。前のお前とは色々ゲームもしてたが、そういえば花札は遊んでいないか…」
「ああ、花札…。あるね、綺麗な模様の札でやるゲーム。それで、イノシカチョウって何なの?」
 花札なら今のぼくでも知ってる。今のぼくたちが住んでる地域の、ずうっと昔のゲーム用の札。SD体制よりも古い歴史があるゲーム。遊び方はよく知らないけれど…。
「あの札の揃え方の一つだ、イノシカチョウは」
 イノシシの札と、鹿の札と、蝶の札とを揃えられたらイノシカチョウになるんだが…。
 蝶ならあそこに止まってるんだが、イノシカチョウはなあ…。
 そう言ってハーレイが難しそうな顔で腕組みするから、「どうしたの?」と尋ねてみたら。
「いや、蝶はいるんだが、イノシカチョウだとイノシシと鹿と蝶とを揃える。考えてもみろ、この庭にそいつが全部揃ったら大変だぞ」
「……庭……」
 ぼくはポカンと口を開けたまま、ハーレイが言ったイノシカチョウなるものを思い浮かべた。
 蝶はともかく、イノシシと鹿。どっちも大きな野生の動物。
(…イノシシと鹿が入って来るの? ぼくの家の庭に!?)
 生垣を飛び越えて入って来るのか、生垣の木をへし折りながらの侵入なのか。入って来るだけで済めばいいけど、ママが手入れをしてる庭。パパが芝生を刈り込んでる庭。踏み荒らされるとか、掘り返されるとか、齧られちゃうとか…。



「ハーレイ、それって、庭はどうなっちゃうの?」
「さてなあ…。イノシシは土の中の虫を食うから、芝生は剥がされちまうかもな?」
 それから、鹿は葉っぱを食うんだ。クローバーが好物かどうかは知らんが、木の葉は食われる。柔らかい葉っぱから齧られちまうぞ、鹿の頭が届く範囲で。
「それって、ママの大事な庭がメチャクチャ…」
「そういうことだな、だから大変だと俺は言ったが?」
「イノシカチョウは要らないよ!」
 蝶だけでいいよ、と叫んだ、ぼく。黄色い蝶だけいれば充分、イノシシと鹿は無くてもいい。
(…イノシシと鹿まで揃えるだなんて…)
 シャングリラで蝶を飼うどころの騒ぎじゃないってことは良く分かった。
 平和になった今の地球でも、個人の家の庭では出来ないことがあるらしい。
 でも、そういうのも何だか素敵だ。
 自然の生き物には自然が似合う。
 蝶も、イノシシも、それから鹿も。
 シャングリラに蝶は居なかったけれど、青く蘇った今の地球。
 きっと山ではイノシカチョウが綺麗に揃ったりもするんだろうな、と夢心地になる。
 ぼくの家の庭では見たくないけど、山なら見てみたい気持ちになる。
 いつかハーレイと一緒に出掛けてみようか、郊外の山に。
 イノシカチョウが揃ったとしても、ハーレイはタイプ・グリーンだから。
 防御力なら前のぼくにも負けていないから、イノシシが来たってきっと平気だ。
 ねえ、ハーレイ。ぼくが見たいってお願いしたなら、イノシカチョウ、見せてくれるよね…?




          いなかった蝶・了

※蝶がいなかったシャングリラ。役に立たない虫は必要無いから、と。蝶は綺麗なのに。
 今の時代は蝶は当たり前、猪も鹿もいるのです。イノシカチョウ、見応えありそうですよね。
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 今日の夕食。テーブルに御飯茶碗とお箸。いわゆる和風。
 ぼくとハーレイの家がある地域は、SD体制よりも昔の時代に日本と呼ばれていた地域。そこの食文化が和食なるもので、ずうっと昔には世界遺産なんかにもなってたみたい。SD体制の開始と共に、そういう文化も消えてしまった。広い宇宙の何処へ行っても同じ食事で、そっくりな文化。
 だけどSD体制が崩壊した後、それじゃいけないっていうことになった。機械に支配されていた時代ならともかく、人間が世界を担ってゆくなら、人間らしく。人の数だけ考え方があるように、文化だって星の数だけあったっていい。地域の数だけあるのが本当。
 機械に消されてしまった文化を取り戻そう、と皆が頑張った。幸い、データは残っていたから、和食も無事に復活出来た。
 というわけで、今のぼくの家には和食に欠かせないお箸がある。御飯茶碗もパパのとママのと、それから、ぼくの。
 残念なことにハーレイの御飯茶碗は無い。何度も和風の夕食を一緒に食べて来たけど、ハーレイ専用の御飯茶碗は存在しない。ハーレイはお客様だから。どんなに親しく付き合っていても、家に何度も訪ねて来てても、ぼくの家族ではないハーレイ。専用の御飯茶碗は無くて当然。
 ハーレイが来た時の食事が和風だったら、お客様用の御飯茶碗と、お箸が出される。お箸だってハーレイ専用のものは無くって、お客様用。パパとママとぼくは自分用のお箸を持っているのに。
(…ハーレイの御飯茶碗とお箸…)
 いつになったら専用のを用意出来るんだろう?
 今はまだハーレイの家にしか無い、ハーレイ専用の御飯茶碗とお箸。それが欲しくてたまらないけれど、きっと結婚するまでは無理。
 こうして和風の食事が出る度、ちょっぴり寂しくなってしまう、ぼく。
 普段の食事だと、朝御飯の時のマグカップくらいしか持ち主が決まっているものは無い。お皿は同じ模様や形で揃っているのを出してくるだけで、どれが誰のということは無い。
 ハーレイが「ぼくの家族じゃない」ことをしっかりと思い出させる和食。お箸と御飯茶碗が並ぶ食卓。もっとも、寂しくなるのはほんの一瞬、直ぐに忘れてしまうんだけどね。
 シャングリラにお箸なんかは無かったなあ、なんて考えたりしても、食事に夢中。
 ぼくは沢山食べられないけど、好き嫌いだけは全く無いから。
 前の生で食事に苦労したからか、ぼくには嫌いな食べ物が無い。食べられるだけで充分、幸せ。美味しかったらもっと幸せ…。



 夕食のテーブルにサンマと秋ナス。こんがりと焼けたサンマと、秋ナスの田楽。
 秋といえばサンマなんだけど。
 皮がパリッと焼けたサンマに大根おろし。とっても美味しいと思うんだけれど、前のぼくは全く知らなかった。焼いたサンマと大根おろしの美味しさなんかは知らなかった。
 サンマという魚も、秋の魚だから秋刀魚と書くらしいことも知っていたけど、食べたことなんか一度も無かった。シャングリラにサンマは無かったから。魚は養殖していたけれども、サンマまで飼ってはいなかったから。
 育てやすくて、早く大きくなる魚。一年中、いつでも食べられる魚。それがシャングリラで飼う魚を選ぶ基準で、魚の旬は関係無かった。サンマみたいに長い旅をする魚なんかは飼えなかった。
 だけど、やっぱり憧れてしまう。
 地球には在るという広い広い海。七割が海に覆われた地球。
 一度は魚影が消えてしまった汚染された海も、今ではすっかり青いというから。其処に魚たちが棲むというから、サンマみたいに旅をする魚、回遊魚だって居るだろう。
 もしもサンマを食べられるとしたら、青い地球に辿り着いた時。
 いつか、と前のぼくが夢に見ていたものの中の一つ。
 秋刀魚と書くくらいに獲れる季節が決まった魚。シャングリラでは飼えない回遊魚。



 そういえば秋ナスも夢に見ていた。
 シャングリラにナスはあったんだけれど、前のぼくの憧れだった秋ナス。
 地球へと辿り着く日を夢見て、母なる地球へ還り着く日を夢見て焦がれ続けた前のぼく。
 まだ見ぬ青い地球を知りたくて、もっと知りたくて、沢山の本を読んでいた。失われてしまった文化のことやら、地球が育む生命のことやら。
 憧れの地球に少しでも近付きたいと思って、出来る範囲でシャングリラで再現しようと思った。これが地球だと、地球にはこれと同じ物が在ると。
 だから農場や公園の果樹にはミツバチ。アルテメシアの人類社会でもやっていた方法だけれど、こだわった。宇宙船の中でも自然は作れると、限られた範囲でも地球の自然に近付けたいと。
 そんな前のぼくが見付けた興味深い言葉。農作物を扱った本に書いてあった言葉。
 遠い昔に「秋ナスは嫁に食わすな」と言っていた地域があるらしい。秋に採れる秋ナスはとても美味しいから、嫁には食べさせなくてもいいと。それ以外の家族で独占すべし、と。
 それほどに美味しいらしい秋ナス。
 秋刀魚のような回遊魚を飼おうというのと違って、ナスならシャングリラの農場に在る。きっと再現出来ると思った。普通のナスより美味しい秋ナスの味を。



 シャングリラではナスは一年中採れるように調整していたけれども、秋ナスを再現したいから。
 「嫁に食わすな」と言うほどに美味しい秋ナスを作りたいから、暦どおりにナスを育てた。秋に収穫出来るようにと、一部の畑を季節通りのサイクルにした。
 だけど、そうやって採れた秋ナス。夏にどっさりナスが採れた後、剪定をしてもう一度、新芽を出させて実を結ぶように育てた秋ナス。
 それだけの手間をかけてみたのに、味は他の畑で育てたナスと劇的に変わりはしなかった。その翌年も挑戦したけど、ナスはナス。とびきり美味しいわけじゃなくって、ただのナス。
 何回か栽培を繰り返した末に、これは無理だと諦めざるを得なかった。
 秋ナスを美味しく実らせる方法は、恐らく、地球。
 母なる地球の本物の気候が必要なのだろうと考えた。
 シャングリラの中では調整し切れない、自然からの恵み。
 前のぼくの夢だった、地球で食べたい朝御飯のホットケーキにかける本物のメープルシロップがシャングリラでは作り出せなかったように、秋ナスも地球でしか無理なのだ、と。



(んーと…)
 ママが作った秋ナスの田楽と、こんがりと焼けたサンマの夕食。
 好き嫌いの無いぼくは、もちろんサンマも秋ナスも好き。秋ナスの田楽だって大好き。
 でも…。
(秋ナスは嫁に食わすな、だよね?)
 前のぼくが秋ナスを夢見た理由の、古い古い昔の言い伝え。今のぼくが住んでいる地域の遙かな昔の言い伝えだった、と思い出した。
 だって、今でもたまに聞くから。
 学校で習う言葉じゃないけど、秋ナスが採れる季節になったら新聞のコラムにあったりもする。秋ナスの美味しさを伝えるための言葉だけれども、ちゃんと今でも生きてる言葉。SD体制が崩壊した後、文化と一緒に蘇って来た言い伝え。
 つまり復活を遂げた言葉で、前のぼくの時代は死語だったけれど、今では有効。
(…どうしよう…)
 ぼくの大好きな秋ナスの田楽。
 ママは普通に食べているけれど、ぼくは将来、どうなるんだろう。
 結婚出来る年になったら、ハーレイのお嫁さんになるんだと決めているぼく。
 いずれは、ぼくはお嫁さん。
(…秋ナスは嫁に食わせるな、って…)
 どうなってしまうんだろう、将来のぼく。
 パパは秋ナスをパパとぼくとで独占しないで、ママにも食べさせてあげているけれど。
 ぼくの場合はお嫁さんになったら、どんな扱いになるんだろう?
 ハーレイだから「駄目だ」と言わずに食べさせてくれるとは思うんだけど…。
(でも、本当に大丈夫かな?)
 もしかしたら「駄目だ」と言うかもしれない。
 ハーレイは古典の教師をやってて、昔の文化にも詳しいから。
 妙な所でこだわりがあって、「秋ナスは嫁に食わすな」というのを実行するかもしれないから。
(…ぼく、食べられなくなってしまうかもしれないの?)
 秋ナスはこんなに美味しいのに。
 前のぼくが夢に見ていたとおりに、地球の秋ナスは美味しいのに…。



 とても心配になってきたから。
 ハーレイのお嫁さんになってしまったら、秋ナスは食べられなくなってしまうのか心配だから。
 次の日、ハーレイが仕事の帰りに寄って夕食を一緒に食べたから、食事の後で尋ねてみた。
 ぼくの部屋で食後のお茶を向かい合わせで飲みながら。
 ハーレイの顔を見ただけで色々なことを綺麗に忘れるぼくだけれども、秋ナスのことはちゃんと思い出せた。忘れずに思い出すことが出来た。
 だって夕食にキノコ御飯が出て来たんだもの。
 秋の味覚を食べた後なら思い出せるし、忘れやしない。
「ハーレイ、秋ナスを食べるのは好き?」
 ドキドキしながら質問したら、「ああ」とハーレイは頷いた。
「焼きナスも美味いし、田楽も美味い。やっぱり秋ナスには和風だな、うん」
(そっか、和風…!)
 今頃になって気付いたぼく。ハーレイの言葉で気付いたぼく。
 秋ナスを美味しく食べるためには、シャングリラの料理じゃ駄目だったんだ。ナスのグラタンやラタトゥイユとかの料理じゃなくって、焼きナスに田楽。他にも色々。
 とにかく和風で、昆布の出汁とか、そういう文化。
 和風の調理法にしないと秋ナスは美味しくならないんだ、と気が付いた。
 とっくの昔に手遅れだけれど。
 秋ナスに憧れた前のぼくは遙かな昔に死んでしまったし、そもそも和食の文化なんかを理解していたかどうなんだか…。



「…前のぼく、思い切り、間が抜けてたよ…」
 ボソリと零したら、ハーレイが「何の話だ?」と訊いてくるから、説明した。
 秋ナスに散々憧れたけれど、シャングリラでは美味しく食べられなくって当然だった、と。文化からして違う世界で、和食なんかは無かったから、と。
「秋ナスなあ…。お前、ずいぶんこだわったよな?」
 何年くらい挑戦していた?
 今度こそ美味しい秋ナスを作ろう、と農作業に口出ししてたよなあ…。
「だってサンマを育てるのは無理だったんだもの。秋ナスくらいは、って思うじゃない!」
 むきになって言い返したぼくだけれども。
(いけない、そういう話じゃなかった…!)
 秋ナスから脱線しちゃってる。
 同じ秋ナスの話でも、ぼくがハーレイに訊かなくちゃいけないことは別のこと。
 ぼくの将来がかかった質問。
 美味しい秋ナスをこれからも食べていけるのかどうか、それをきちんと訊かなくちゃ…。



 「秋ナスは駄目だ」と言われちゃうかもしれないから、しっかりと覚悟を決めて。
 食べられなくなってしまっても仕方ないんだ、と自分に言い聞かせてからハーレイに訊いた。
「…ハーレイ。ぼくに秋ナス、食べさせてくれる?」
「秋ナス?」
 ポカンと口を開けてるハーレイ。質問の仕方が悪かったのか、ぼくの言葉が足りなかったか。
「えっと…。秋ナス、ママは食べてるけど、ぼくはどうかなあって…」
「何のことだ?」
「だから、秋ナス…。ぼく、ハーレイと結婚した後でも、食べてもいいの?」
「…はあ?」
 変な顔をしていたハーレイだけれど、暫く経ったら意味が掴めたみたいで。
「ははっ、秋ナスか、俺の嫁さんになった後の話か?」
「…うん…。秋ナスはお嫁さんには食べさせない、って…」
 ハーレイも、そう?
 古典の先生だからこだわりたい…?
「いやいや、俺の大事な嫁さんだからな。もちろん食わせてやるとも、秋ナス」
「ホント!?」
 ぼくはとっても嬉しくなった。
 秋ナスは諦めなくていい。結婚したって、今と同じで美味しい秋ナスが食べられるんだ…。



 前のぼくが憧れていた地球の秋ナス。ぼくの大好きな美味しい秋ナス。
 「秋ナスは嫁に食わすな」という言葉まで復活しているから、凄く心配だったけど。
 古い習慣とかに詳しいハーレイのお嫁さんになるから、本当に心配してたんだけれど…。
(良かったあ…。ハーレイが優しくて、とっても良かった!)
 ぼくのためなら古い言い伝えも無視してくれるらしい優しいハーレイ。
 こだわりがあるかもしれない古い言葉を、無いことにしてくれるらしいハーレイ。
 ぼくはすっかり感激しちゃって、ハーレイはなんて優しいんだろうとウットリしていた。ぼくをお嫁さんにしてくれるハーレイ。お嫁さんに秋ナスを食べさせてくれる優しいハーレイ…。
(…ふふっ。ハーレイのお嫁さんで良かったよ、ぼく)
 うんと優しい人のお嫁さんになれるんだ、って喜んでいたら。
「おい、ブルー。秋ナスはちゃんと食わせてやるがな、お前、何か勘違いをしてないか?」
「…勘違い?」
「秋ナスは嫁に食わすな、の意味だ」
 そいつは俺がお前に食わせないんじゃなくて、だ。
 俺のおふくろとかがお前に秋ナスを食わせない、っていう意味なんだが…。
「ええっ?」
「嫁いびりという言葉があってな、つまり嫁さんを苛めるんだな、おふくろとかが」
 美味い秋ナスを嫁に食わせてたまるか、という言葉なんだ。
 自分たちだけで食ってしまおう、って意味で言うんだ、「秋ナスは嫁に食わすな」とな。



(………)
 なんて勘違いをしてたんだろう。
 ぼくに秋ナスを食べさせてくれないかもしれない人はハーレイじゃなくて…。
「ハーレイのお母さん、秋ナスは好き!?」
 どうしよう。
 秋ナスがハーレイのお母さんの大好物だったらどうしよう…!
 古い習慣や昔の道具が大好きだというハーレイのお父さんとお母さん。古い言葉だって、きっと大好き。「秋ナスを嫁に食わすな」だって知ってるだろうし、実行するかも…。
 もしも秋ナスが大好きだったら、ぼくには食べさせてくれないかも…!
 縋るような気持ちで叫んだ、ぼく。
 どうかハーレイのお母さんが秋ナスを大好きじゃありませんように。
 ぼくには食べさせるもんか、って思うくらいに秋ナスを好きじゃありませんように…。
「俺のおふくろか? 秋ナスも好きだな、今の時期はあれこれと料理してると思うぞ」
「……そうなんだ……」
 もう駄目かも。
 ハーレイのお母さんが秋ナス好きなら、ぼくは食べさせて貰えないかも…。
 ガックリと項垂れた、ぼくだったけども。ハーレイの大きな手が伸びて来て、ぼくの頭を優しくポンポンと叩いた。
「こらこら、そんなに心配するな。俺のおふくろなら大丈夫さ」
「………ホント?」
「本当だ。俺が保証する」
 お前の分のマーマレードは足りているか、って、心配して訊いて来るようなおふくろだぞ?
 足りなくなったら貰いに行く、って言ってあるのに、しょっちゅう訊くんだ。
 俺がウッカリ忘れていないかと思ってるらしい。
 お前の家のマーマレードが足りてるかどうか、訊くのを忘れていやしないか、とな。



(ハーレイのお母さん、ぼくのこと、心配してくれてるんだ…)
 心がじんわりと温かくなった。
 まだ一回も会ったことがないハーレイのお母さん。
 将来はハーレイと結婚するぼくのために、ってマーマレードをくれたお母さん。
 隣町の庭に大きな夏ミカンの木がある家に住んでて、その夏ミカンの実で作ったマーマレードをくれたお母さん。最初に貰った瓶が空になる前に、ハーレイが新しい瓶を持って来てくれた。
 マーマレードが切れてしまう前に、ちゃんと新しい瓶が届くんだけれど。
 ハーレイが頼んでくれてるんだと思っていたけど、お母さんも忘れずに訊いてくれるんだ…。
 そんな優しいお母さんが意地悪なんかをするわけがない。
 いくら昔の習慣とかが好きでも、「秋ナスは嫁に食わすな」なんて実行したりはしないだろう。
「ぼく、ハーレイと結婚したって、秋ナスをちゃんと食べられるんだ?」
「当たり前だろう!」
 決まってるだろう、とハーレイは笑顔で保証してくれた。
「おふくろはお前が可愛くてたまらないんだ。秋ナスなんぞは山ほど食わせてくれるさ」
 お前が心配すべき所は、おふくろが作った秋ナスの料理を食べ切れるかっていう所だな。
 俺がお前を連れて行ったら、山のように料理が並ぶと思うぞ。
 おふくろは自慢の料理をお前が食べてくれる日をあれこれ夢見ているからなあ…。



 ハーレイがぼくを連れて出掛けたら、凄く沢山の料理が出るらしいハーレイの家。
 料理が得意なハーレイだもの、お母さんの料理も絶対、美味しい。
 秋ナスも食べさせてくれるらしいし、なんだか楽しみになってきた。その秋ナスを食べられるかどうかで悩んでいたのが嘘みたいに。
(…秋ナスは諦めなくて良くって、他にも色々食べられるんだ…)
 今の季節ならどんな料理が出るんだろう、と思っていたら。
「そうだ、料理自慢はおふくろだけじゃなかったな」
 親父もだった、とハーレイがパチンと片目を瞑った。
「俺の親父は釣りが好きだと話しただろう? 釣って来た魚は自分で捌くし、料理もするんだ」
 流石にサンマを狙って釣りには行かんが、もちろん釣れることだってある。
 そして自分で釣って来なくても、秋になったらサンマを焼くのが親父の趣味だ。
 庭に七輪を置いて炭火を熾して、団扇でパタパタ扇ぎながら…な。
「七輪!?」
 ぼくはビックリしたんだけれども、ハーレイのお父さんにとっては七輪は自慢の魚焼き器で。
 炭火で焼いた魚は美味しいから、と昔から使っているらしい。



「…なんか凄いね、七輪なんだ…」
 そんなの、ぼくは使っているのを見たことがないし、七輪だって見たことがない。魚料理専門のお店で使っているって聞きはするけど、お店の表で焼いてはいない。だから知らない。
「親父のこだわりの魚焼き器さ、煙が出るから家の中では使えないがな」
 ついでに美味そうな匂いが庭いっぱいに漂うからなあ、御近所さんが覗きに来るんだ。そしたらお裾分けをする。だから多めに魚を焼くんだ、サンマの時もな。
「庭いっぱいに匂いがするの?」
「そりゃもう、煙が届く範囲は美味い匂いで一杯さ。ミーシャが居た頃はうるさかったぞ」
 ハーレイのお母さんが飼っていた白い猫のミーシャ。
 七輪が庭に置かれたら直ぐに家から出て来て、ミャーミャー鳴いていたらしい。
 魚はまだか、って、まだ焼けないのか、って鳴きながら七輪に置かれた網を覗いたりもして…。
「覗き過ぎて髭を焦がしちまったこともあったなあ、顔の半分、髭無しだったな」
「焦げて無くなっちゃったんだ…?」
 ぼくは可笑しくて吹き出した。
 髭が半分しかついてない猫って、きっと間抜けに違いない。
 大事な髭を焦がしちゃうほど、ミーシャが覗きたがった七輪。その話だけで魚が美味しく焼ける道具だというのが分かる。髭が焦げても覗きたいほど、魚が美味しく焼けるんだろうな…。



 憧れてしまう、ハーレイのお父さんが焼くサンマ。
 庭に置いた七輪に炭を熾して、網を乗っけて、サンマを乗せて。団扇でパタパタ風を送って煙を散らして、美味しそうな匂いが庭に広がる。御近所さんが覗きに来るほど、美味しそうな匂い。
 猫のミーシャの髭だって半分焦げちゃったほどに、美味しそうで覗きたくなる匂い。
「…七輪のサンマ、食べてみたいな…」
 思わず呟いてしまった、食いしん坊の、ぼく。
 沢山食べるのは苦手なくせして、好き嫌いだけは全く無いぼく。
 前のぼくが夢に見ていた、回遊魚のサンマ。シャングリラでは食べられなかったサンマ。それが今ではぼくの好物で、ハーレイのお父さんが趣味で焼く魚。七輪で美味しく焼き上げる魚。
 食べてみたい、とホントに思った。どんなに美味しいサンマなんだろう、七輪のサンマ…。
「おっ、食ってみたいか? 俺の親父が焼くサンマ」
「うんっ!」
「そいつは親父が喜びそうだな、勇んでサンマも釣って来そうだ」
 親父もお前がお気に入りだしな?
 おふくろと一緒に気にしてるんだぞ、お前の家のマーマレードは足りているのか、って。
「ホント?」
「ああ。親父もおふくろも今から楽しみで仕方ないのさ、俺がお前を連れて来る日が」
 だから、お前は安心していろ。
 結婚したなら、秋ナスもサンマもうんと美味いのを食わせてやる。
 おふくろと親父の自慢料理を嫌と言うほど食わせてやるさ。
 俺の大事な嫁さんだからな。



「うん。…うん、ハーレイ…」
 楽しみにしてる、とハーレイと未来の約束をした。
 いつかハーレイと結婚して、ぼくがハーレイのお嫁さんになったら、秋ナスにサンマ。
 ハーレイのお母さんが秋ナスを料理して食べさせてくれて、お父さんはサンマを焼いてくれる。
 「秋ナスは嫁に食わすな」どころか、うんと食べられて、七輪で焼いたサンマまでつく。
(…ふふっ)
 やっぱりハーレイのお嫁さんで良かった。
 優しいハーレイのお嫁さんになることに決めてて、ホントに良かった。
 まだお嫁さんにはなれそうもなくて、ハーレイ専用の御飯茶碗もぼくの家には無いんだけれど。
 だけど、いつかは大好きなハーレイのお嫁さんになれる。
 そしてハーレイといつまでも一緒。
 今日は「また今度な」と帰って行ってしまったハーレイと、いつまでも一緒…。




          心配な秋ナス・了
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 秋の午後、ハーレイと庭の白いテーブルと椅子でのティータイム。穏やかな日射しが暖かくて、ママが世話をしている薔薇の花が盛り。四季咲きだけれど、薔薇の花は夏よりもずっと生き生きとしてる。薔薇も暑いのは苦手なのかな、ぼくと同じで。
 やっぱり春とか秋がいいよね、と思って薔薇の花の方を眺めていたら。
「おい、ブルー」
 あの薔薇の花はジャムにするのか? と、ハーレイがぼくに訊いてきた。
「しないよ、なんで?」
 ママは薔薇の花でジャムなんか作っていない。第一、そんなに沢山の花びらが採れるほど薔薇を植えてはいない。どうして薔薇のジャムなんて発想になるんだろう?
(…普通、薔薇の花っていうのは見るだけだよね?)
 庭で愛でるか、花瓶とかに生けて楽しむか。そういう花だと思うんだけど…。
(なんで薔薇のジャム?)
 ずいぶん変わったことを言うな、と首を捻ってから気が付いた。
(そうか、ハーレイのお母さん!)
 ぼくのママは薔薇のジャムを作らないけれど、ハーレイのお母さんはきっと作るんだ。だって、庭の大きな夏ミカンの木から採れる実でマーマレードを作っているんだもの。沢山マーマレードを作って配って、ぼくにまで分けてくれるんだもの。
 優しいハーレイのお母さん。
 そのお母さんが作るんだろう、と思ったからハーレイに尋ねてみたのに。
「おふくろは夏ミカンのマーマレードが定番なんだが?」
 あれだけで充分、一年分もあるからなあ…。あちこち配っても、お前の家の分が増えても、俺の実家にはマーマレードのでっかい瓶がドッサリだ。
 マーマレードが山ほどあるのに、わざわざ薔薇までジャムにはしないさ。
 イチゴとかリンゴなら、たまに作っているんだけどな。
「じゃあ、どうして薔薇のジャムなんて言ったの?」
「覚えていないか?」
 シャングリラで薔薇のジャムを作っていたのを。
「ああ…!」
 そういえば、と思い出した。
 シャングリラに居た頃、薔薇のジャムが確かにあったっけ…!



 遠い、遠い日のシャングリラ。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 そのシャングリラで一部の女性クルーが薔薇の花びらのジャムを作っていた。せっかくの薔薇の花をただ枯れさせるのはもったいないから、と薔薇のジャム。
 新鮮な花びらを使うんじゃなくて、萎れかけた頃に作るのだけれど。
 それでも充分に香り高かった薔薇のジャム。口に入れれば薔薇の香りが漂った。
 薔薇は花と一緒に香りも楽しむものだと、香りの強い品種を選んで育てていたから、萎れかけの花でもいい香りがした。シャングリラが世界の全てだったミュウたちのためにと育てて咲かせた、観賞用の薔薇の花たち。
 皆が眺めて憩えるように、香りで心が癒されるように。
 そんな目的で薔薇を植えていたのに、いつの間にやら薔薇のジャムなんかが出来ていた。
 もちろん全員に行き渡る分は無いから、作ったクルーと、後は希望者がクジ引きで。
 でも、クジなんかを引かなくっても、貴重な薔薇のジャムを貰える人間が一人だけ居た。それが前のぼく、ソルジャー・ブルー。
 薔薇のジャムが初めて出来た時にも、当然、ぼくには届けられた。



「…ソルジャー、お味は如何ですか?」
 緊張し切っていた女性たちの顔を今でも覚えている。
 それはそうだろう、彼女たちが薔薇のジャムを手にして訪ねて来た場所は青の間だから。ぼくとしては誰が来たって気にしないんだけど、ソルジャーの私室。部屋付きの係や長老たちくらいしか足繁く通う人間はいない。
 彼女たちが持って来た小さな器に盛られたジャム。添えられたスプーンで掬って食べた。薔薇の香りがふわりと口の中に広がる、薔薇そのものを食べたかと錯覚しそうなジャム。
「とても美味しいよ。ありがとう」
 味見だけのつもりだったのに。小さな器に盛られた分だけ、貰えれば充分だったのに。
 女性クルーたちは一気に緊張が解けたみたいで、笑顔になってこう言った。
「良かった…。それでしたら、後で一瓶お届けさせて頂きます」
 えっ。
 そんなに沢山は無いだろうに。薔薇の花の量からしたって少ないだろうに、と断ったけれど。
 彼女たちは「いいえ」と微笑んだ。「ソルジャーのお気に召したなら光栄です」と。



 貴重な筈の薔薇のジャム。それを一瓶もくれると言うから。
 また彼女たちが来るのだろう、と御礼にキャンディーを用意して待った。彼女たちの顔と人数はちゃんと覚えていたから、厨房のクルーに頼んで人数分を個別に包んで貰って。
 なのに、彼女たちは現れなくて。
 代わりに部屋付きの係が薔薇のジャムが詰まった瓶をぼくに届けにやって来た。
 味見用のジャムを持って来た時、緊張していた彼女たち。
 そんなに敷居の高い部屋だったろうか、と申し訳なく思ったから。
 キャンディーは自分で届けに出掛けることにした。彼女たちが集まるお茶の時間を狙って、他にお茶に合うお菓子もつけて。



 ソルジャーのぼくがいきなり訪ねたわけだし、彼女たちはビックリしたようだけれど。
 それでもジャムの御礼を言ったら、「スコーンにも合いますよ」と教えてくれた。お茶のためのテーブルに薔薇のジャムとスコーン。
 お召し上がりになりますか、と訊かれたから、彼女たちと一緒に御馳走になった。思いがけないティータイム。焼き立てのスコーンに薔薇のジャムを添えて。
 ソルジャーとのお茶の席だから緊張していた彼女たちだったけれど、最後の方には本物の笑顔が見られた。普段のぼくなら決して聞けないだろう、寛いだお喋りも聞くことが出来た。
 ソルジャーのぼくが、女性クルーたちとティータイム。まるで昔からの友達みたいに。
 それがとっても嬉しかったから、「薔薇のジャムにはスコーンだ」と決めた。心に残った素敵な時間を思い出しながら味わうために。
 薔薇のジャムにはスコーンが似合う。たまに紅茶にも入れたけれども。



 ぼくと過ごしたお茶の時間に、嬉しそうだった彼女たち。
 まだ緊張が解けない間も、心がキラキラと零れていた。光みたいに弾けていた。
 ソルジャーには薔薇がとても似合うと、お届けしてとても良かった、と。
 彼女たちの目には、ぼくは薔薇のジャムならぬ薔薇の花が似合う人間に見えているらしい。
(…薔薇の花って…。これでもぼくは男なんだけどね?)
 女性に薔薇の花が似合うんだったら、それは普通のことなんだけれど。
 男のぼくに薔薇の花だなんて、ぼくはどう見えているんだろう?
 なんだか恥ずかしかったけれども、そう考えることで幸せなのなら、それでいい。
 彼女たちが幸せに時を過ごせるなら、それでいい…。



 それ以来、彼女たちは薔薇の季節が訪れる度に薔薇のジャムをくれた。
 薔薇の花が似合うソルジャーのために、薔薇のジャムがお気に入りのソルジャーのために。
 だけど、決して青の間には来ない。部屋付きの係が預かって来る。
(…気にしないで届けに来ればいいのに…)
 そうしたら青の間で彼女たちのために、お茶とお菓子を御馳走することが出来るのに。
 何度そう言っても、首を縦には振らないから。
 薔薇のジャムを貰ったら御礼を届けて、一度は必ずお茶の時間にお邪魔した。
 招待状でもくれればいいのに、恐縮して絶対に寄越さないから勝手な時に。それがぼくからの、ソルジャーからの御礼のサプライズ。
 彼女たちは毎回、慌てふためきつつ、ぼくを歓待してくれた。最初は緊張し切った顔で慌てて、だけど心がキラキラ零れる。薔薇の花が似合うソルジャーが来て下さった、と零れて煌めく。時が経つにつれて本物の笑顔とお喋りが溢れるけれども、心はやっぱり煌めいていた。
 お菓子はスコーンの時もあったし、ケーキだったり、それは色々。
 それでも必ず、ジャムを出してくれた。貴重品の薔薇のジャムをガラスの器に盛って。
 ぼくは御礼を言って味わう。「美味しいよ、いつもありがとう」と。



 シャングリラで薔薇の花が咲く度、彼女たちがくれた薔薇のジャム。
 スコーンで食べるのがお気に入りだった薔薇のジャム…。
「思い出したか? シャングリラに薔薇のジャム、あっただろう?」
「うん、思い出した。女の子たちと一緒にお茶を飲んだよ」
 ちょっぴり恥ずかしかったけど。
 薔薇の花が似合うと思われてたから、そんな心が零れていたから、少し恥ずかしかったけど…。
「その薔薇のジャムをだ、似合わない俺が食ってたんだよな…」
「そうだったっけね」
 あれだけは言わぬが花だったよね、とハーレイと顔を見合わせて二人で笑う。
 前のぼくが薔薇のジャムをくれた女性クルーたちとお茶を飲んでいた時、彼女たちの弾む心から零れていた声。ぼくに薔薇が似合うと煌めき零れる心の粒たちに混じっていた声。
「キャプテンには似合わないわよね、薔薇の花もジャムも」
 とても失礼なのだけれど、と本当に悪く思っている気持ちとセットで零れていた心。
 薔薇の花が似合わないハーレイ。
 薔薇の花で作ったジャムだって似合わない、武骨なハーレイ。
 よりにもよって、そのハーレイが「クジを引かずに」薔薇のジャムを食べていたもう一人。
 ぼくの他には居る筈がない、「クジを引かないで貰える」人。
 前のぼくとハーレイとで、青の間で二人、お茶の時間を楽しんでいた。
 薔薇のジャムを塗って、スコーンを食べて。




 ハーレイが庭に咲いている薔薇をチラリと眺めて、「うーむ…」と眉間の皺を深くする。
「いや、実に似合わない食い物だったな、この俺にはな…」
 こうして改めて薔薇を見ても、だ。
 やっぱり似合っていないと思うぞ、薔薇の花もジャムも、まるで似合わん。
「だけど嫌いじゃなかったじゃない」
 食べていたでしょ、と指摘した。
 薔薇のジャムなんか似合わないと言うハーレイだけれど、ちゃんとスコーンに塗っていた。前のぼくと二人で薔薇のジャムを食べて楽しんでいた。証人はぼくで、前のぼく。
「…おい。俺たちに好き嫌いは無いっていうのを忘れるなよ?」
 お前が勧めてくれるから食っていたんだ、申し訳ないことをしたなあ…。似合わない俺が毎回、貴重なジャムを食ってたなんてな。
「だって、ハーレイにも食べて欲しかったんだよ」
 ぼくの大切な恋人なのに。
 ぼくが貰った特別なジャムを、ぼくの大切な人にも食べて欲しいよ…。
「お前の気持ちは嬉しかったんだが…。実に悪いことをしちまったな、と」
 まさか俺まで食っているとは思ってなかっただろうしな。
 薔薇の花が似合うお前のためにと一瓶届けて、半分を薔薇が似合わない俺に食われて。
 作っていたヤツらにも申し訳ないし、薔薇の花にも悪い気がしてな。
 お前のためにジャムになるなら薔薇も本望だったんだろうが、俺ではなあ…。
 精一杯の香りを振り撒いて咲いて、俺の胃袋行きではな?
 お前だったら良かったんだろうが…。



 似合わなさ過ぎていたたまれない、とハーレイが何度も繰り返すから。
 庭の薔薇を眺めては「やはり似合わん」と唸っているから、ちょっとからかいたくなった。
 薔薇の花が今でも似合わないハーレイ。
 似合いそうにないと、薔薇のジャムだって似合いそうにないと今も唸っているハーレイ。
 その薔薇のジャムを前のハーレイが食べるためには、前のぼくが必須だったから。
 前のぼくは居なくなってしまったけれども、ぼくはハーレイの目の前に居るから、言ってみる。
「ハーレイ。薔薇のジャム、ぼくが死んだ後には食べずに済んだと思うけど?」
 薔薇の花とジャムが似合うソルジャーが居なくなったら、誰も届けなかっただろうから。
 青の間に薔薇のジャムは届かず、それを囲んでのティータイムも無かった筈だから。
 こんな冗談は、ぼくしか言えない。
 前のぼくを失くしたハーレイがどんなに辛くて悲しかったか、知ってる今のぼくしか言えない。前のぼくの代わりになることが出来る、今のぼくにしか言えない冗談。
 きっとハーレイなら笑ってくれると思ったのに。
「馬鹿」
 鳶色の瞳がスッと細くなって、「馬鹿」と真面目な顔で言われた。
「そんな頃に誰が薔薇のジャムなんか作る余裕があったと思うんだ、お前」
「……そっか……」
 前のぼくは死んでしまっておしまいだったけど、シャングリラの方はそうじゃなかった。ぼくが死んだ後は地球を目指しての戦いの日々で、それが地球に辿り着くまで続いた。
(…薔薇のジャムどころじゃなかったんだ…)
 薔薇のジャムを作って楽しむどころか、薔薇の花さえ誰も見ていなかったかもしれない。誰にも心の余裕が無くって、薔薇どころじゃない日々がずっと地球まで…。
 もしかしたら薔薇は誰にも知られずに咲いて、知られずに散って。
 枯れさせるのはもったいないから、と萎れかけた頃にジャムに作り替えて貰う代わりに、誰にも愛でて貰えさえせずに庭の片隅で朽ちていったのだろうか。
 前のぼくがメギドで独りぼっちで死んでいったように、薔薇の花たちも独りぼっちで…。



 幸せだった時代のシャングリラの薔薇たち。
 閉ざされた船の中だけが世界の全てだったけれど、それでも愛でて貰えた薔薇たち。
 気高く、あるいは華やかな姿で花開いては皆を楽しませ、その香りで皆の心を癒した。枯らしてしまってはもったいないから、と萎れかけた頃に摘まれて薔薇のジャムになった。
 皆に愛でられて、愛された薔薇たち。大切にされていた薔薇の花たち。
 幸せに咲いてはジャムになっていた薔薇たちが誰にも一顧だにされず、庭の片隅で独り開いて、知られぬままに朽ちてしまって。
 薔薇のジャムにもなれないままに枯れていったかと思うと悲しかったから。
 前のぼくを幸せにしてくれた薔薇のジャムの元になった薔薇たちのその後が、あまりに悲しくて寂しすぎたから、ぼくは俯いてしまったのだけれど。
 ハーレイをからかって遊ぶつもりが、遊ぶどころじゃなくなってしまったのだけど…。



「…分かったか、馬鹿」
 俺をからかうから、そんな目に遭うんだ。
 いくらお前が目の前に居ても、俺は忘れていないんだ。
 前のお前を失くした辛さを、お前を追い掛けることさえしなかった前の俺の馬鹿さ加減をな。
「……ごめん……」
 ごめん、とぼくは頭を下げた。
 前のぼくが居なくなった後にハーレイが独りぼっちで過ごした長い長い時間。
 シャングリラを地球まで運ぶためにだけ、ハーレイは生きた。前のぼくがそれを頼んだから。
 ジョミーを頼むと、支えてくれと言い残したから、ハーレイは独りぼっちで生きた。辛くて長い時間だったと何度も何度も聞いていたのに、つい、からかってしまった、ぼく。
 考えなしの小さな子供で、ハーレイを思い遣れなかったぼく…。
 仕返しされたって仕方ない。
 ぼくの冗談を聞いて笑う代わりに、うんと悲しい現実ってヤツを突き付けられたって仕方ない。
 仕方ないんだ、って俯いていたら、涙がポロリと落ちそうになる。
 幸せだったシャングリラの薔薇たちが、ぼくが死んだ後は幸せでなくなってしまったように。
 薔薇のジャムなんかは作って貰えず、誰にも見られずに朽ちていったように…。



 ぼくの瞳から涙が零れかかった時。
「こら、泣くな」
 頭にポンと大きな手が置かれた。
「俺が苛めたかと思われるだろうが、こんな所で泣かれちまったら」
 お前のお母さんたちから見える場所だぞ、俺の立場も考えてくれ。
 まあ、確かに俺が苛めたんだがな…。だが、その前に俺がお前に苛められたんだがな?
「…ごめん…。ごめん、ハーレイ…」
「泣くな、泣き虫。その涙、一発で止めてやろうか?」
 聞けよ、とハーレイはおどけた顔をしてみせた。
「薔薇のジャムだが、お前、何か勘違いをしてないか? お前が生きてた間から既に、俺の口には入らなかったぞ」
「えっ?」
「お前が眠っちまったのが運の尽きっていうヤツだ。お前にジャムは届かなかったし、当然、俺の口にも入らん。…なにしろクジ引きの話さえ来なかったしな」
「クジ引き…」
 そういえば希望者はクジ引きをしてたんだっけ、と記憶が蘇って来たんだけれど。
 ハーレイにクジ引きの話なんかはあったっけ?
 薔薇のジャムを作っていた女性クルーたちが「薔薇のジャムは如何ですか」って、クジを作ってシャングリラ中を回っていた時、ハーレイにも声を掛けていたっけ?
 クジ引きの時、ぼくはブリッジには行かなかったけれど、青の間からサイオンで様子を見てた。ブリッジでクジを引いていたのは、エラにブラウに…。
(あれ?)
 如何ですか、とブリッジクルーに差し出されるクジが入った箱。
 ゼルでさえもが「どれ、運試しじゃ」と手を突っ込んでいたんだけれども、キャプテンの椅子に座ったハーレイの前を箱は素通りして行った。
 ゼルみたいに「わしもじゃ!」と呼び止めないハーレイが悪いんだけれど、箱は素通り。
 クジ引きの話が来るとか来ないとかそういう以前に、箱は素通りだったっけ…。



「ハーレイ、それ…。クジ引きの話が来なかったって…」
 それ、ぼくが起きてた時からじゃない…!
 ぼくは思わず吹き出してしまって、ハーレイが「ほらな?」と笑顔になった。
「止まっただろう、涙。ちゃんと一発で」
「…と、止まったけど…。止まったけど、ハーレイ、クジが素通り…」
「悪かったな! 似合わない俺にはクジは無いんだ、素通りされて当然なんだ!」
「でも、ゼルだってちゃんと引いてたのに…!」
 ハーレイ、ゼルよりも似合わないんだ?
 薔薇のジャムとか、薔薇の花とか。
「こら、笑うな! ああいうものはな、一度目に声を掛け損なったら二度目は無いんだ!」
「で、でも…。ゼルは毎回、ちゃんと声を掛けてクジを引いてたよ?」
 その内、お馴染みさんになってしまって、声を掛けなくてもクジ引きの箱が止まったよ?
 ゼルの席の前で、「クジ引きをどうぞ」って。
「だから言っただろう、俺には薔薇の花も薔薇のジャムもまるで似合わないんだ、と!」
「そうだね、ゼルより似合わないんだね」
「うむ。…シャングリラで一番似合わなかったらしいな、この俺がな」
 そんな俺が、薔薇の花が似合うお前と恋人同士だったというわけだが。
 美女と野獣どころの騒ぎではないな、薔薇のジャムを作っていたヤツらが腰を抜かしかねん。
「…う、うん…。似合わなさすぎる恋人同士って?」
「シャングリラ史上最低最悪のカップルだろうさ、俺にはクジも来ないんだからな」
「来なかったね…。ゼルでもクジ引きしていたのにね」
 どうやらゼル以下の扱いだったらしい、薔薇が似合わなかったハーレイ。
 薔薇のジャムがまるで似合わないから、クジさえ引けずに箱が素通りしていたハーレイ。
 あまりに可笑しくて、可笑し過ぎて。
 ハーレイと二人で笑い転げた。
 庭の白いテーブルと椅子で、二人して涙が出るまでお腹を抱えて笑った。
 もしも窓からママが見てたら、何の話だと思っただろう?
 薔薇だなんて絶対思わないよね、薔薇の花と薔薇のジャムで笑っていたなんて…。



 シャングリラで一番、薔薇の花が似合わなかったらしいハーレイ。
 でも、今のぼくも薔薇の花は似合いそうにない。薔薇のジャムだって貰えそうにない。
 前のぼくだったから、女性クルーたちの心がキラキラ零れてた。
 薔薇の花が似合うと、薔薇のジャムもとても良く似合うのだ、と。
「…ねえ、ハーレイ…。今のぼく、ハーレイと同じ扱いかもしれないよ」
「俺と同じだと?」
「うん。…クジ引きの箱が素通りしそう。子供たちはクジを引いてなかったよ」
「ふうむ…。確かにそうかもしれんな、クジは素通りするかもな?」
 しかしだ、お前は俺と違って、いずれとびきりの美人になるしな?
 前のお前と全く同じに、薔薇の花が似合う姿に育つさ。
「そしたら薔薇のジャムを買って来て二人で食べるか? 昔を懐かしんでお前と二人で」
「ハーレイには薔薇の花とジャム、似合わないんだけどね?」
「こらっ!」
「でも、ハーレイが自分で何度も言ったんじゃない! 似合わないって!」
 それに薔薇のジャム。
 もしもハーレイが買っていたなら、自分用だとは思われないよ、きっと。
「お店の人がじっと見てそうだよ、似合わないものを買ってるなあ、って」
「お前用だからかまわないんだ!」
 薔薇の花が似合うお前用のジャムだから、俺が買いに行っても問題無いんだ。
 俺のためのジャムじゃないんだからな。



(…えーっと…)
 いつか、ぼくが前のぼくと同じくらいに育って、薔薇の花が似合うようになったなら。
 そうしたらハーレイと結婚して一緒に暮らすんだけれど…。
 ハーレイが薔薇のジャムを買いに行くのか、二人で買いに出掛けるか。
 その頃に薔薇のジャムのことを覚えていたなら、スコーンを焼いて……。
 ひょっとしたら、スコーンはハーレイが焼いてくれるのかな?
 料理が上手な今のハーレイ。パウンドケーキだって焼けるハーレイ。
(…ハーレイが焼くのか、それともぼくか…)
 とにかく、美味しいスコーンを焼いて。
 それから紅茶をたっぷりと淹れて、焼き立てのスコーンで薔薇のジャムを食べよう。
 遠い日にぼくに薔薇のジャムをくれていた、シャングリラの女性クルーたちを思い浮かべて。
 彼女たちの笑顔を思い浮かべて。
 ぼくは青い地球まで無事に着けたと、地球の薔薇のジャムを食べているよ、と。
 薔薇の似合わないハーレイが一緒に来てしまったことは黙っていよう。
 きっと知ったらガッカリされるし、言わずが花って言うんだものね。
 それでも、ぼくはハーレイと一緒。薔薇の似合わないハーレイと、いつまでも一緒……。




         薔薇で作るジャム・了

※薔薇のジャムも花も似合わないと評されていた、前のハーレイ。クジも素通りしたくらい。
 今度も似合いそうにないのですけど、薔薇のジャム、二人で食べるのでしょうね。
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