シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ほら、ブルー。こんなのが出来ているらしいぞ?」
ハーレイが持って来た一枚の紙を覗き込んだブルーは仰天した。カラーでプリントされた紙には青い目玉が溢れている。小さなものから大きなものまで、丸いものやら雫形やら。
今日は休日、ハーレイと二人、ブルーの部屋で向かい合って座っているのだけれど。
「なに、これ?」
「メデューサの目さ。覚えていないか?」
「…メデューサの目?」
何処かで聞いた言葉のような、と改めて紙に刷られた沢山の目玉を眺めてみて。
「あっ…! もしかして、これってヒルマンが言ってた…」
「そうさ、前の俺たちの服の赤い石だ」
あの石の元だ、と微笑むハーレイがプリントアウトしてきた青い目玉は『地球の歩き方』という人気のデータベースから引っ張り出して来たものらしい。
地球の様々な地域へ気ままな旅をする人が情報を得たり、自分が得た知識を付け加えたりもするデータベース。ブルーも存在を知ってはいるが、十四歳の子供には少し敷居が高すぎた。旅の計画すらも立てられない上に、旅行の資金だって無い。
「ハーレイ、此処はよく見ているの?」
「ああ。前の記憶を取り戻す前から、気が向くままにな。適当にデータを引っ張り出すだけだが、これは違うぞ。ヒルマンの話を思い出したから調べてみたんだ」
確かこの辺りの話だったか、とアクセスしてみたら、こいつを見付けた。
地域の独自性にこだわる今の地球なら、きっと作っていると思った。
「こいつが昔のトルコの辺りで、こっちはギリシャだ。写真だけ抜き出して来たんだが…」
凄いだろ、とハーレイが指先でなぞる画像の青い目玉は魔除けのお守り。見た人を石に変えると伝わる遠い昔の神話に出て来る怪物、メデューサの目を象ったもの。
邪視と言ったか、悪意の籠もった呪いの視線を弾き返すための目玉のお守り。悪意のある視線を弾き返すには、相手を石にしてしまうほどのメデューサの目が相応しい。
「前の俺たちが生きた時代には無かったのにな? 人間ってヤツは逞しいよな、地球と一緒に文化まで復活させるなんてな」
「うん…。本当に凄いね、人は。あの頃、ぼくたちは人間扱いじゃなかったけれど」
「その俺たちが今じゃ立派な人間ってヤツだ。分からんもんだな」
ついでに二人で青い地球まで来ちまったな、とハーレイは感慨深そうに言った。あの頃の地球の姿を思うと今の青い地球はまさに奇跡だ、と。
「そんな地球にだ、今はメデューサの目まであるんだ。俺たちはヒルマンの話と古い資料だけしか知らなかったのに、ちゃんと本物が出来てるんだぞ」
「そうだね。あの頃の地球には絶対に無いね」
地球は死に絶えた星であったし、其処に文化など残ってはいない。長い長い時を経て蘇った星に遠い昔のお守りだったメデューサの目が復活していた。それを思うと嬉しくなる。前の生の自分は辿り着けずに終わったけれども、メギドを沈めておいたからこそ青い地球まで来られたのだと。
「メデューサの目かあ…。凄いね、SD体制よりもずっと古いのに、伝わったんだ…」
「きちんとデータが残っていたのが大きいだろうな。…メデューサの目は復活したのに、俺たちの赤い石の理由は伝わらずに終わってしまったな…」
歴史の彼方に消えてしまった、シャングリラに居たミュウの制服の赤い石。誰の服にも何処かに必ず赤い色の石があしらわれていた。大部分のミュウとソルジャーの衣装は襟元に。キャプテンの服はマントの飾りに。長老たちの服でもマントの飾りで、フィシスは首飾りに赤い石。
赤い石が選ばれた理由は確かにあったのだけれど。
「だって、伝わらないと思うよ。…ぼくはジョミーにも話してないもの」
「そうだったのか!?」
ハーレイが驚いた顔をするから「うん」と頷く。
「訊かれなかったから、話さなかった。…恥ずかしいしね」
それに理由を説明したなら、ジョミーがソルジャーになった時点で石の色を緑に変えなくちゃ。
そんな面倒なことはしなくていい。それに…。
「ぼくに縛られる必要は無いんだよ。ただの赤い石でかまわないじゃない」
「…お前は最初からそう言っていたな。ヒルマンが赤を推した時から」
「青でも、緑でも、別にいいもの」
制服の色に似合っていればいい。
ブルーは心からそう思っていたし、そもそもは制服を作ろうという話だった筈。
それが何処かで変わってしまった。変わった理由がメデューサの目玉。
ハーレイが持って来てくれた紙に刷られた、沢山の青い目玉のお守り。遠い昔の地球のお守り。
あの時には多分、実物は博物館くらいにしか無かっただろうと思うけれども…。
シャングリラでの生活が軌道に乗って、制服を作る案が出た。全員一致で作ることが決まると、次はデザインの選定で。
男女で制服のデザインが変わってくるし、ソルジャーとキャプテン、長老も変わる。そこで皆の服に共通な何かが欲しいという話が出て、採用されたものが同じ色の石。ミュウのシンボル。
黒がベースの服が多いから、赤か、青か、緑がいいであろうと服飾部門の者たちが挙げた。
赤と青と緑。その中から一つを選んで使う。
アンケートで決めようかと考えていたら、長老たちを集めた会議でヒルマンが赤を推してきた。根拠になったのが、あのお守り。魔除けのメデューサの瞳のお守り。
青いメデューサの瞳の代わりに、ソルジャーであるブルーの瞳の赤。人類側の攻撃を全て退け、ミュウとシャングリラを守り続けるブルーの瞳。
その赤がいい、と唱えたヒルマンに長老たちが次々と賛同した。同じシンボルなら、意味のある色を使いたい。自分たちにとっての魔除けの色なら赤であろう、と。
「…ぼくはメデューサの青い目でいいと思ったのに…」
小さなブルーは不満そうに唇を尖らせた。
「でなきゃ緑でも良かったじゃない、服の色に似合えば良かったんだし」
「そう言うな。…俺たちは縋りたかったんだ。ヒルマンが言ったメデューサの目に。魔除けの力を持っていそうな、お前の赤い瞳の色に」
「ぼくの目にそんな力なんか無いよ。そう言ったのに…」
それにその話は皆にしないで、と口止めしたのに、みんなで喋ってくれちゃって…。そのせいで赤になっちゃったんだよね、ぼくたちの石。
「賛成しない方がどうかしていると思うがな?」
シャングリラ中のミュウたちの賛成を得て、制服にあしらう石は赤と決まった。そうして制服が作られて配られ、新しく船に来たミュウたちも制服と共に赤い石を貰った。しかし…。
「お前が恥ずかしがって「新しく来た者たちには絶対に言うな」と緘口令を敷いてしまったから、伝わらずに消えてしまったじゃないか。…どうして赤い石だったのかが」
まさかジョミーにも言わなかったとは、とハーレイが指で額を押さえる。
「せっかくの由来を次のソルジャーにも伝えなかったとは思わなかったぞ」
「いいんだよ。ただの赤い石、それだけでいい」
意味なんか何処にも無くていいんだ、とブルーはクスッと笑ったのだけれど。
「…ぼくの目かあ…」
ふと思い出した。いつもいつも、心を掠める前の生の記憶は右の手ばかり。
その手で最後にハーレイに触れた温もりを失くして、メギドで冷たく凍えた右の手。凍えた手が冷たいと泣きながら前の自分は死んでいったけれども、何故、ハーレイの温もりを失くしたのか。
キースに撃たれた傷の痛みが酷くて温もりが薄れ、右の瞳への銃撃が完全に奪い去っていった。最期まで抱いていたいと願った温もりを右手から奪い、消してしまった。
そう、右の瞳。
失くしたものはハーレイの温もりだけれど、ブルーは自分の右目も失くした。
「…ぼくの右目…」
「ん?」
ハーレイはもちろん右目のことを知っているから、心配そうな顔になる。
右の瞳がどうかしたのかと、問うような目を向けて来るから、ブルーは「平気」と微笑んだ。
「…キースに撃たれた、ぼくの右の目。…ぼくの目が本当に魔除けだったら、あの右目がお守りになってくれたかな…。みんなが地球まで行けるように…」
遙かな昔にヒルマンが話したメデューサの目を象った魔除けのお守り。
ガラスで作られていたという青いお守りは、災いから人を守って割れると聞いた。もしも自分の目がミュウたちの魔除けのお守りだったなら、砕かれた右の瞳は皆を守って割れたのだろうか。
「…メデューサの目は人を守ったら割れるんだよ。ぼくの右目もそうだったのかな…」
…それなら、いい。
撃たれた痛みで君の温もりを失くしたけれども、みんなのお守りになったのならば。
「…ブルー…」
ハーレイの手がそっと伸ばされ、ブルーの右の頬に触れ、瞳も包んだ。
「きっとお守りにして下さったさ、神様は……な。だから俺たちは地球まで行けた」
この瞳だ、と閉じた瞼の上から温かい指で優しく撫でられる。
此処に在ったソルジャー・ブルーの赤い瞳がミュウを、シャングリラを守ったのだ、と。
「…お前の瞳。前のお前の赤い瞳は、間違いなくミュウのお守りだったさ」
…もっとも、俺はそんな悲しいお守りを貰うよりかは、お前を連れて行きたかったがな…。
地球へ。
苦渋に満ちたハーレイの顔。
今もなお遠い昔に失くしてしまったソルジャー・ブルーを忘れられないハーレイの苦痛。それを知るから、ブルーは「ぼくは居るよ」とハーレイを見詰める。
ぼくは此処に居るよ、生きているよ、と。
「ねえ、ハーレイ。…ちゃんと着いたよ、青い地球へ。ぼくは地球まで来られたんだよ」
まだ小さいから、君が失くした時の姿じゃないけれど。
もう何年かしたら育つよ、ソルジャー・ブルーとそっくり同じに。
…だから待ってて。ぼくが大きくなるのを待ってて、前とおんなじ姿になるまで…。
ね? と首を傾げれば、「そうだな」と鳶色の瞳が和らいだ。
「…そうだな、お前は帰って来たな…。ついでに地球まで来たんだったな」
「うん。ハーレイと一緒に地球まで来たよ」
青い地球だよ、とブルーは窓の向こうの空に目をやり、それからメデューサの目が沢山刷られた紙を指先でチョンとつついた。
「本物の地球だから、本物のお守りがあるんだよ。メデューサの目の」
ぼくたちの赤い石みたいな、こじつけじゃなくて。
本当に本物の魔除けの目玉で、赤じゃなくて青い目玉のお守り。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物の魔除けの目玉は青いんだものね」
「…それは違うな。お前の瞳も、俺たちにとっては本物だったさ」
これと何ひとつ変わりやしない、とハーレイは青いメデューサの目とブルーの赤い瞳とを何度も見比べてから。
「いや、これよりも強かった。本当に守ってくれたんだからな、俺たちを」
メギドだけじゃなくて、それまでの日々も。
お前の赤いその瞳こそが、俺たちの魔除けのお守りだった。
そんな理由を知らないヤツらが殆どを占める時代になっても、本物で最強だったんだろう。
俺たちを地球まで連れて行ったジョミーも、この目が見付けて来たんだからな。
…違うか、ブルー?
お前の赤い瞳が無ければ、どうにもこうにもならなかったさ…。
「…そうかなあ…?」
ブルーにはあまり自信が無かった。
メギドで失った右の瞳は効果があったかもしれないけれども、それは命と引き換えだったから。
普段、自分の顔に在っただけの瞳に魔除けの力など無さそうなのに…。
「お前が信じないと言うならそれでもいいがな、少なくとも俺にはそうだと思えた。…俺の服には二つあったが、お前がメギドに行っちまった後で何度眺めたか分からない」
こいつがただのお守りではなくて、此処にお前が居るのなら。
居るのならば俺たちを守ってくれ、と何度祈ったか分からない…。
もっとも、うっかり祈る度に謝る日々だったがな。
「なんで謝るの?」
「これ以上、まだお前に頼って縋るつもりか、と情けないじゃないか。…お前はおれたちを守って死んじまったのに、そんなお前に死んでなお重荷を背負わせるのか、と…」
そんなことは出来ん。…断じて出来ん。
たとえお前が許したとしても、俺自身が許せなかったんだ。
お前を守ると誓っていたくせに、守るどころか守られちまった。
そうしてお前は死んじまった…。
「お守りだったら当然だよ? 人を守ったら代わりに割れるとヒルマンは言ったよ」
「割れてしまったお守りに向かってまだ頑張れと言うようなもんだぞ、死んだお前に守ってくれと祈るのは。…何度となくやっちまったがな…」
すまん、とハーレイが謝るから。
多分、ぼくの瞳の色の石には少しくらい効き目があったんだろう。
お守りとしての効果はともかく、気休めとでも言うのかな…。
祈れば救われるような気持ちになるから、ハーレイは祈っていたんだと思う。
ぼくが死んだ後、あの石の意味を知っていたのは長老たちと、ごくごく僅かな年配者だけ。
彼らの支えになっていたなら、それで良かったと思っておこう。
ぼくの瞳の色に合わせて赤かった石。
メデューサの目のお守りを気取るだなんて恥ずかしいけれど、効いていたならそれでいい。
ほんの僅かな人だけのための魔除けの石でも、彼らの救いになっていたなら…。
でも…。
ぼくの瞳の色のお守りはシャングリラに居たミュウを守っただけ。
役目を終えたら時の彼方に消えたというのに、メデューサの目は残った末に復活を遂げた。
本当に本物のお守りだったから、青い目玉は地球の上に戻って来たんだと思う。
青い地球の上に青い目玉の魔除けのお守り。
ぼくの瞳よりずっと効きそうで、きっと本物の魔除けのお守り。
どのくらい効くのか、ちょっと試してみたい気もする。
「ねえ、ハーレイ。…このお守りって、よく効くのかな?」
青い目玉の写真を指差したら、「どうだかな?」と答えが返った。
「なにしろ魔除けのお守りだしな? 除けるものが無ければガラス玉だぞ、青いだけの」
「…んーと…。そういえば今って平和だったね、前のぼくたちの頃と違って」
「そうだろう? 特に出番を思い付かんが、欲しいのか?」
いつか買うか、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「前のお前は自分の瞳を魔除けにされちまってたし、今度はこいつに守ってもらうか? 現地じゃ人気の土産物らしいぞ」
「えっ、そうなの?」
「だから沢山あるんだろうが。…結婚したら此処へ行ってだ、似合いそうなヤツを探すとしよう」
家を丸ごと守るタイプの玄関用の大きな目玉から、手首につけるブレスレットまで。青い目玉のお守りはバラエティー豊かに揃うのだそうで、なんだか嬉しくなってきた。
シャングリラでは由来を思い出す度に恥ずかしくなった赤い石。あの頃の恥ずかしさを帳消しに出来るほど、青い目玉のお守りを沢山買い込んでドッサリ飾るのもいいかもしれない。
「おいおい、家じゅう目玉だらけか?」
「ぼくは時々、そういう気分になってたんだけど? シャングリラで!」
あっちにもこっちにも赤い石。
誰の服を見ても赤い瞳の色のお守り。
それに気付いた時のいたたまれないような気持ちに比べれば、青い目玉のお守りくらい…!
「分かった、分かった。…その頃までお前が根に持っていたら、目玉だらけでも我慢してやる」
赤い石になった責任の一部は俺にもあるし、とハーレイは白旗を高く掲げた。
キャプテンだった上に長老でもあったハーレイの責任は、赤い石に関してはけっこう重い。
そこら中に目玉が溢れ返った気分というのを、ちょっぴり味わって欲しいかも…。
もっともハーレイに本当の意味で思い知らせるには、青い目玉じゃ駄目なんだけれど。
ハーレイの瞳と同じ色をした、鳶色にしないと駄目なんだけれど…。
青いガラスの目玉のお守り、メデューサの目。
魔除けの目玉をいつかハーレイと一緒に買いに行きたい。家じゅうに飾ってハーレイを苛めるかどうかはともかく、ぼく専用に一つは欲しい。
ソルジャー・ブルーの赤い瞳はお守りにされて、ぼくに目玉のお守りは無かった。自分が自分のお守りだなんて何かが違うし、今度の生ではメデューサの目玉のお守りが欲しい。
魔除けなんか要らない平和な世界で、ぼくの手首に青い綺麗な魔除けの目玉。首から下げられるペンダントでもいいし、とにかく自分の瞳とは違う本物の魔除け。
買いに行く時の参考にしようと、ハーレイが刷って来た沢山の青い目玉の写真を眺めていたら。
「こいつが復活するんだったら、俺たちの赤い石の由来も伝わっていて欲しかったが…」
ハーレイが名残惜しげにボソリと呟く。
「嫌だよ、そんな恥ずかしいこと!」
絶対に嫌だ、と文句を言った。
あの石はぼくの瞳の色で、赤い瞳はぼく一人だけ。
自分の瞳の色をしたお守りに囲まれて暮らす恥ずかしさと、いたたまれなさは誰も知らない。
ぼく一人だけしか持たなかった瞳の色だし、誰も分かってくれはしないし、分からない。
「忘れられてて良かったんだよ、あの石の色は!」
そう、今だって忘れられるなら忘れたい。
青い目玉のお守りを買いに行きたい気持ちごと忘れてしまってもかまわない。
「ハーレイに言われるまで忘れてたくらいに、忘れたいと思っていたんだからね…!」
叫んでやっても、ハーレイはまだボソボソと赤い瞳の色のお守りにこだわっている。
やっぱり青い目玉のお守りを山ほど買って飾ってやろうか、家じゅうが目玉だらけになるほど。
そしたら少しはぼくの気分が分かると思うよ、残念どころじゃないってことが。
忘れてしまいたい、赤い石の由来。
神様、青い目玉も忘れてしまってかまわないから、綺麗に忘れられますように…。
メデューサの目・了
※ミュウの制服の赤い石。実はお守りだったのです。前のブルーの瞳の色をした魔除け。
前のブルーには意味が無かったお守りですけど、今度は本物の魔除けの目玉が手に入りそう。
青い目玉のお守りはナザールボンジュウ。検索すると色々見付かりますv
一例は、こちらをクリック→目玉のお守り
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(…まさかね…)
ブルーはキッチンの棚に重ねて置かれた幾つものザルを見上げていた。母が水切りなどに使っているザル。頭に被れそうな大きなものから、グレープフルーツを一個入れれば溢れてしまいそうな小さなものまで。色も素材も様々なそれが、今のブルーの心配の種。
(…被らないとは思うんだけど…)
今日の二時間目、大好きなハーレイの古典の授業。皆が退屈してくる授業時間の半ば頃、絶妙のタイミングでハーレイが持ち出してくる蘊蓄たっぷりの楽しい雑談。遠い昔の伝説だったり、今は失われた習慣だったりと、生徒の心をガッチリと掴み、自分の話に引き戻す。
ブルーも大好きな時間だったが、まさか怖い話になるなんて。
(…あんなの、ただの言い伝えだよね?)
迷信なのだと信じたい。本当だったら恐ろしすぎるし、仮に本当でも自分とは全く関係が無いと思いたい。それほどに怖くて恐ろしい話。あまりに怖くて、こうして見ずにはいられない。
(…ザルを被ると背が伸びない、って…)
ハーレイが話した、SD体制が始まるよりも遙か昔の言い伝え。皆は笑って聞いていたけれど、ブルーには笑いごとではなかった。
学年で一番小さいブルー。三月の一番末が誕生日だから、年も学年で一番幼い。小さくて当然と考えていた日が懐かしい。
(…背が伸びないと困るんだけど…!)
ホントのホントに困るんだけど、と心配の種のザルを見上げる。
ブルーの身長は百五十センチ。前世での恋人、ハーレイと出会って記憶が蘇り、前の生の自分と同じ背丈の百七十センチが目標になった。そこまで伸びないとハーレイはキスも許してくれない。
それなのに全く伸びてくれない背丈。たとえ言い伝えでもザルの話は恐ろしすぎる。
自分は被っていない筈だと思うけれども、背が伸びないだなんて、やっぱり怖い。
(…だけど、子供じゃ届かないしね?)
記憶にある限り、ザルの置き場所は幼い頃から変わってはいない。キッチンの棚の一番上。今のブルーでも手を伸ばさないと取れない場所だし、子供の手は絶対に届かない筈。
(椅子に上っても無理だよね、うん)
第一、幼いブルーは棚の所まで椅子を運べなかっただろう。だから絶対に大丈夫。
背が伸びなくなるという恐ろしいザルを自分は決して被ってはいない、と頷いてキッチンの中を見回し、再びザルを見上げてみる。あそこがザルの定位置なのだから、大丈夫…。
ホッと息をつき、二階の自分の部屋に戻った。暫くして母に「おやつよ」と呼ばれ、読んでいた本に栞を挟んで階下へと下りる。ダイニングのテーブルにシフォンケーキ。キッチンのオーブンに入っていたものはこれだったのか、と納得しながら自分の椅子に座った。
母と二人でのティータイム。今日の出来事などを母に報告していたら。
「ブルー、キッチンで何を見てたの?」
唐突に母が尋ねてきた。ザルに気を取られて気付かなかったが、どうやら見られていたらしい。恥ずかしいから誤魔化そうかとも思ったけれども、考えようによってはチャンスだ。幼かった頃の自分がザルを被っていなかったことを、母なら証言してくれるだろう。
「えっと…。ママ、ぼくが小さかった頃なんだけど…」
ぼくの背、キッチンの棚まで届かなかったよね?
サイオンで浮かんだりもしていないよね、と思い切って切り出してみた。
「なあに? キッチンの棚がどうかしたの?」
「…ザル…。あそこにあるザル、オモチャにしたりはしてないよね、ぼく?」
「ザル?」
ブルーは母が即座に否定するだろうと期待した。なのに…。
「あらっ、もしかして忘れちゃったの?」
幼稚園に持って行ったじゃないの、と思わぬ答えが返って来た。
「ザルにいっぱいボールを貰って帰って来たでしょ、スーパーボール」
「…スーパーボール…」
記憶の彼方から蘇って来る遠い日の思い出。
ソルジャー・ブルーだった頃よりは遙かに近しい記憶だけれども、幼かった幼稚園児のブルー。制服を着て帽子を被って、小さな鞄を肩から掛けて、幼稚園のバスに乗っていた。
幼稚園で人気があったオモチャがスーパーボール。よく弾むゴムで出来たボールで、競い合って投げたり弾いたりした。家にも沢山あればいいのに、と思っていたことを覚えている。夢が叶って山ほど貰って、大喜びで帰りのバスに乗った日のことも。
宝物だった沢山の小さなスーパーボール。きらきら光って、いろんな色で。
そうだ、幼稚園の遊びで貰った。水に浮かべたスーパーボールを掬う遊びにザルを使った。前の日に先生が「素早く沢山掬えない子は、大きいザルを持って来てね」と説明してくれたから、他の子に取られてしまわないよう、大きなザルが要ると思った。
母に頼んで用意して貰った幼稚園の帽子よりも大きなザル。一度に沢山のボールが掬えるザル。これで素早い子にも負けはしない、と喜んだ。
(そのザルを持って行って…。どうしたっけ?)
誰にも負けない秘密兵器の大きなザル。帽子よりも大きいザルが嬉しくて、幼稚園の鞄と並べて眺めた。あれで沢山ボールを掬って貰って帰ろうとワクワクしていた。
何度もザルを手に取ってみて、幼稚園の帽子のサイズと比べて大満足で、うんと得意になって。帽子よりも大きいんだ、と嬉しくなった末に部屋の鏡を覗き込みながら…。
(…被っちゃった…!)
鏡に映った得意そうな顔の幼い自分。帽子よろしく大きな黄色いザルを被って、満面の笑顔。
(…ど、どうしよう…。被っちゃったんだ…!)
思い出してしまった最悪な記憶。顔から血の気が引きそうになる。被ったら背が伸びなくなると教わったザル。それを被った幼い自分。取り返しのつかない過去の過ち。
ブルーの異変に気付いたのだろう、母が紅茶のポットを手にして尋ねてきた。
「どうしたの、ブルー?」
「……ザル……。ぼく、被っちゃった…」
「ああ、そうねえ!」
とっても可愛かったわよ、と母はブルーのカップに紅茶のおかわりを注ぐ。
「幼稚園から帰って来るなり被ってたわねえ、ぼくのが一番大きかったよ、って」
「…か、被ってたの?」
「あらっ、ゲームをした日の話じゃないの? 他の日にもザルを被ってたの?」
「う、うん…。前の日の晩に……」
大きなザルが嬉しかったから、と白状しながらもブルーの気分はドン底だった。ザルは一度しか被っていないと思っていたのに、帰ってからも被ったという自分。この調子では幼稚園でもきっと被っていただろう。誰よりも大きなザルが自慢で、幼稚園の帽子よりも大きいのだ、と。
可笑しそうに笑う母にはザルの言い伝えを話せなかった。母は言い伝えを聞いたことがないのに違いない。知っていたならブルーを止めてくれた筈。「ザルを被ると背が伸びないわよ」と。
(……被っちゃったなんて……)
被ってしまうと背が伸びなくなる呪いのアイテム。遠い昔の言い伝えのザル。
幼稚園の先生たちもザルの言い伝えを聞いたことがなかったのだろう。被ってはいけないと注意されたら覚えている筈。家に帰ってもう一度被るわけがない。
スーパーボールを山ほど貰って御機嫌で家に帰ったけれども、大きなザルで得はしなかった。
一度に沢山掬えるザルで挑むか、普通のザルで素早く何度も掬ってゆくか。結局の所、ボールを幾つ掬えるかは個人の力量であって、遊びが終わると持っているボールの数はまちまち。
ブルーは山のように掬って満足だったが、まるで掬えなかった子も少なくはなくて、そんな子は追加のボールを貰った。先生が公平に数を数えて、足りない子には幾つも追加があった。
(…おんなじだけ貰ったんだっけ…)
自分で掬った分、好みの色のボールが多いという利点はあったのだけれど、貰ったボールの数はみんなと同じ。欲張って大きなザルを持って行っても、遊びで有利だっただけ。
(…被った分だけ、損をしちゃった?)
欲張った者が酷い目に遭う昔話を思い出す。ハーレイお得意の雑談の中でも大きなつづらの話を聞いた。つづらは遠い昔の時代の蓋つきの籠。身体に見合った小さなつづらを選ぶと宝物入りで、欲張って大きなつづらを選べば中身は怪物という話。
(…ホントに怪物だったんだけど…)
大きなザルには「頭に被ると背が伸びない」という恐ろしいオバケがくっついて来た。怖すぎる怪物を追い払いたければ、どうすればいいというのだろう?
相手はSD体制の時代よりもまだ前の古い言い伝え。それだけ古ければ力の方も凄そうだ。
(…確か、言霊だったっけ…?)
ハーレイの雑談で聞いたと思う。言葉には霊的な力が宿るという話。長い年月を生き続けて来たザルの言い伝えがどれだけの力を秘めているのか、考えるだに恐ろしい。
(…言い伝えを消すなら、言い伝えかな…?)
そうでなければ、おまじない。
背が伸びる言い伝えかおまじないを探して実行すれば、とブルーは考えた。幼い自分が知らずに被ったザルの呪いを無効にするには、逆のことをするしかないのだろう、と。
身長を伸ばす効果を持つ言い伝えか、もしくはおまじない。
背が伸びなくなるザルの呪いを自分にかけてしまったらしいブルーは必死になって探し回った。図書館に置いてある本はもちろん、データベースも端から調べた。
それなのに何も見つからない。背が伸びなくなるザルの言い伝えは何処にでもあるのに、伸ばす方は諸説入り乱れて決定打が無い。そもそも言い伝えに入っていないのだ。
(…迷信って呼べるレベルですらないよ…)
背が伸びるおまじないは幾つもあったが、統一性を欠いていた。
目標の身長を紙に書いて枕の下に入れて眠るだとか、「背が伸びますように」と唱えてミルクを飲むだとか。ザルの呪いに比べるとまるで説得力が無い。
(これが一番、それっぽいけど…)
目を付けたおまじないは「ひまわりの種を黄色い布に包んで靴に入れる」という簡単なもの。
身長を書いた紙やミルクよりは幾分、マシに思えた。ひまわりは背丈の高い花だし、黄色い布も色をわざわざ指定してある所が頼もしい。
(…でも、言い伝えの中には入ってないよ…)
何処を探しても言い伝えの中にはハーレイから聞いたザルの話だけ。ひまわりの種は含まれてはおらず、効果のほどは根拠が無かった。
(どうしよう…。ぼくのザルって、無効に出来るの?)
本を調べても駄目、データベースを探しても駄目。
ついに手詰まりとなったブルーが縋れる手段は、もはやハーレイだけだった。ザルの言い伝えを雑談レベルで持ち出してこられるハーレイならば、対抗手段を知っている可能性がある。なにしろ古典の教師なのだし、古い言い伝えにも詳しいだろう。
出来ればハーレイには話したくなかった過去の過ち。素敵な自分だけを見て欲しいのだけれど、そんなことは言っていられない。ザルの呪いで背が伸びなければ、ハーレイとキスを交わすことも出来ずに小さいままで過ごさなくてはならないのだし…。
ブルーは訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座って覚悟を決めた。
「…ハーレイ…。こないだの授業で言ってたザル…」
「ざる?」
何のことだ、と問うハーレイに「言い伝え…」と口ごもりながら。
「ザルを被ると背が伸びなくなる、って言ったでしょ? あれの反対のおまじない、教えて」
「…はあ?」
ポカンと口を開けたハーレイだったが、少しして意味が飲み込めたようで。
「ああ、ザルな。…ザルは頭に被るものじゃない、っていう意味の戒めだったらしいぞ、あれは。食べ物を入れる器を粗末にするな、という意味もあるし、不衛生だという意味でもある」
「…それで?」
「だからだ、ザルを被ると背が伸びないぞ、と怖がらせないと子供ってヤツは悪戯するしな?」
脅すだけだ、とハーレイは笑った。本当に背が伸びなくなるという根拠は何処にも無い、と。
「で、お前も悪戯したクチなのか? あれの反対を知りたいってことは?」
「悪戯じゃないよ!」
ブルーはムキになって反論した。
「幼稚園の時だし、被ってもママは怒らなかったし!」
「なるほど、お母さんも知らなかった…、と。可愛いだろうな、幼稚園時代のお前の頭にザルか」
幼稚園の帽子に負けないくらいに似合いそうだ、とハーレイが目を細めるから。
「笑いごとじゃないよ!」
真剣になって怒りをぶつける。
ザルの言い伝えに根拠が無くても、現に自分の背は伸びない、と。
ブルーにとっては人生が懸かった背丈の問題。前世と同じ百七十センチまで伸びなかった時は、大好きなハーレイと結婚どころかキスも出来ずに終わるしかない。
今の身長は百五十センチ、まだ二十センチも伸ばさなくてはいけないわけで、ザルの呪いなどに捕まったのでは堪らない。事実無根の言い伝えだろうが、言霊なるものも馬鹿には出来ない。現にサイオンなどは霊的と言えば霊的なのだし…。
懸命に言い募るブルーの姿に、ハーレイがフウと溜息をついた。
「分かった、分かった。…それで、お前、ザルを被っちまった頃にはどのくらいのチビだ?」
「んーと…。多分、このくらい……かな?」
幼稚園時代のブルーは眠る時は両親のベッドに行っていたけれど、自分の部屋は今と同じ部屋。当時の視点の高さからしてこのくらい、という高さを右手で示す。
「ふうむ…。安心しろ、確実に背は伸びている」
大丈夫だ、とハーレイは穏やかに微笑んでくれたが、ブルーの心配は其処ではない。
「でも、今、全然伸びないんだけど…! 一ミリも!」
「確かにな…。ザルの呪いが今頃だってか? さて、SD体制の時代よりも古い言い伝えだけに、どうしたもんかな…」
「…もしかしてハーレイも知らないわけ? ザルの反対…」
「残念ながら、俺もそいつは全く知らん」
ハーレイの答えに、ブルーは絶望的な気持ちになった。幼い自分が被ってしまった呪いのザル。それが今まさに祟っているかもしれないというのに、対抗手段が皆無だなんて…。
「じゃ、じゃあ、ひまわりの種は?」
「ひまわりの種?」
「ひまわりの種を黄色い布で包んで靴に入れると背が伸びるって…!」
縋るような思いで口にしてみたが。
「ほほう…。そいつは初耳だな。入れてみたらどうだ?」
「…ハーレイが知らないんだったら全然ダメだよ…」
ザルのパワーの方が強いよ、とブルーはガックリと項垂れる。
呪われてしまった自分の背丈。もしもこのまま、百五十センチで止まってしまったら…。
「こらこら、しょげるな」
ハーレイの大きな手が伸びて来て、ポンポンと頭を叩かれた。
「お前も俺も、前とそっくりの姿になるよう生まれ変わって来たんだろ? 呪われたにしてもだ、ちゃんと百七十センチまでいけるさ。…前世のお前を信じておけ」
ソルジャー・ブルーとそっくりになるなら百七十センチは要るんだからな。
その背に届くまでにどのくらいかかるかは、ザルを被ってしまった分だけ時間が加算されるかもしれないが。
「…ぼく、本当に百七十センチになれる…?」
まだ心配そうな顔のブルーに、ハーレイは「なれるさ」と笑顔を返した。
「いつかはきっと、前のお前とそっくりになれる。…しかしだ、俺は小さなお前も好きだし、今の姿を長く見られるならザルに感謝をしないとな」
「ええっ?」
「何度も言っているだろう? 焦らず、ゆっくり大きくなれと。…お前が焦ってもザルがそいつを止めてくれるのなら俺は嬉しい」
ついでに言えば、とハーレイの鳶色の瞳がブルーを見詰める。
「ザルを頭に被ったという幼稚園時代のお前に会いたかったな。とても可愛い子供だったろうに、俺は会えずに来ちまった。せっかく同じ町に居たのに、残念なことをしたもんだ」
「ぼくも若いハーレイに会ってみたかったよ。公園で会って肩車とか…」
もしもその頃に会えていたなら、とブルーも思う。
言い伝えを知っていたハーレイがいればザルを被りはしなかったろうし、背丈が伸びない呪いの影に怯えなくても済んだだろう。それに何より…。
(…もっと長い時間をハーレイと一緒に過ごせたよ…)
小さな自分を抱き上げて貰って、今よりもずっと小さいのだから、きっと家にも遊びに行けて。文字通り家族ぐるみの付き合いになって、旅行にも一緒に行けたかもしれない。
けれども、それは叶わなかった。
十四年間も同じ町に住んでいたのに、ハーレイとは出会えないままだった。だから…。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくたち、きっと何処かで会っていたよね、知らなかっただけで」
ブルーの言葉にハーレイが頷く。
「そうだな、同じ町で暮らしていたんだしな? すれ違ったりはしてるだろうな」
俺たちだからな、と鳶色の瞳が片方、パチンと閉じて開いた。
「まるで会っていないってことだけは無いさ。前から数えりゃ何年越しの付き合いなんだか」
「うん。…会える時が来ていなかっただけ。きっとそうだよ」
「うんうん、今よりも小さなお前にあの傷痕は背負えんさ」
あれが無ければ記憶は戻らない仕掛けになっていたのだろう、とハーレイの手がブルーの両肩に触れて離れた。聖痕現象と診断されたブルーの傷痕。前世の最期にメギドで撃たれた時の傷痕。
「今のお前でも痛かっただろうに…。小さかったらショック死しかねん」
「…だろうね。だけど、あの傷のお蔭でハーレイに会えた。だから、いいんだ」
とても痛かったけれどかまわないんだ、とブルーは微笑む。
実際、傷痕が現れた時には痛みのあまりに気を失ってしまったけれども、ハーレイに再び会えた喜びもまた大きかった。もう一度会えたと、ハーレイの腕の中に帰って来られた、と…。
「そうか、痛くてもかまわないってか。…よし、その意気でザルの呪いも吹っ飛ばしておけ」
あの傷に比べりゃザルの呪いくらいは大したこともないだろう、と言われればそういう気もしてくる。ザルは幼い自分でも被ってしまえたけれども、あの傷の痛みは耐えられはしない。
「…今のぼくならザルの呪いにでも勝てる?」
「勝てるさ、前のお前が負った傷の痛みも乗り越えたしな。前のお前にきっと追い付ける」
呪いのザルにこう言っておけ。負けやしないと、いつか百七十センチになるんだ、とな。
「うんっ!」
どんな言い伝えよりも、おまじないよりも、ハーレイの言葉が嬉しかった。
死の星だった地球が蘇るほどの長い長い時を越えて、生まれ変わって来たハーレイ。
その言葉にはきっと、力がある。
ザルの言い伝えにも負けない言霊。古い言い伝えよりも強い言霊。
誰よりも好きで、誰よりも頼れるハーレイの言葉。
だからブルーはザルの呪いをもう恐れない。
知らずに被ってしまったけれども、大好きなハーレイが「大丈夫だ」と言ってくれたから…。
呪われた背丈・了
※ザルを被ったら背が伸びないと聞いてしまって、震え上がったブルーです。
背が伸びるおまじないより心強いのがハーレイの言葉。「大丈夫だ」という一言だけで…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
夏休みに入って間もない、暑い日の午後。柔道部の指導を終えたハーレイは、昼食後にプールで軽く泳いでからブルーの家へと向かっていた。身体の弱いブルーはバス通学だが、普通の生徒なら徒歩で充分通える距離。ハーレイも急ぎでない時は歩いて出掛けることにしている。
(今日も暑いな)
眩しい日射しに目を細めつつも、ハーレイは暑さなど物ともしない。濡れたまま撫でつけた髪が直ぐ乾くのも夏ならではだ。
夏は水の季節。水泳が好きなハーレイにとっては最高の季節。ブルーと出会っていなかったなら海へ出掛けていただろう。去年までは頻繁に車で海まで走っていた。
(…今年はあんまり行けそうもないが…)
この夏休みはブルーとの逢瀬が最優先。それでも柔道部の生徒を海へ連れてゆくし、海の側での研修もあった。二回くらいは海で泳げそうだから、贅沢を言えば罰が当たる。
(ブルーも海も両方ってわけにはいかんしなあ…)
焦らずとも、いずれ両立出来る日が来ることは分かっていた。ブルーと暮らせるようになったら二人で出掛けてゆけばいい。その時まで海は暫しお預け、プールで満足しておかなければ。
そんなことを考えながらの道すがら。
アイスクリームの看板を見付けた。普段は見かけない看板があって、子供たちや大人が何人も。誰もがアイスクリームのカップやソフトクリームを手にしている。移動販売車が来ているのだ。
(ほほう…)
見れば、看板と車に自然の中での放牧で知られた農場の名前。産地直送のアイスクリーム。その農場はミルクで名高く、入荷すれば即、売り切れると聞く。
(…ミルクだったら良かったんだがな)
身長を伸ばそうと懸命にミルクを飲んでいるブルー。成果は一向に現れないまま、今もブルーは再会した時と変わらない百五十センチの背丈を保っていた。小さなブルーは可愛らしいが、本人は不満でたまらない所がまた可愛い。少しでも早く大きくなりたい、と頑張るブルー。
此処でミルクを売っていたなら、買うのだが。
からかい半分に「土産だ」と提げて行ったらどんな顔をするのだろうか、と眺めていて。
(…ん?)
ミルクではなく、アイスクリームが頭の隅っこに引っ掛かった。
何故だ、と記憶を探ってみても定かではなくて。
(アイスクリームを買う予定だったか?)
嫌いではないし、夏にはよく買う。しかも先日買ったばかりで、冷凍庫に入れてある筈だ。何か特別なアイスクリームでも買いに行こうとしていただろうか、と考えてみても分からない。
(…買って食ったら思い出せるか?)
食べながら歩いて行くのもいいかもしれない。ブルーの家までは大通りではなく、移動販売車が来られるような道を選んでの散歩道。ソフトクリーム片手に歩くのもいいだろう。
しかし、相手は有名な農場の移動販売車。あの農場は通信販売はやっていないと聞いている。
こだわりの放牧、そして品質。大量生産は不可能だから、決まったルートへの出荷と移動販売車での販売のみ。今日はたまたま出会ったけれども、次の機会は無いかもしれない。
自分一人で買って食べるより、ブルーにも買っていくべきだろうか?
(…待てよ。ブルーにも…?)
クイと記憶に引っ掛かる感触。
ブルーにも。…ブルーにも……。アイスクリーム…。
(そうか!)
そうだったのか、とハーレイは移動販売車に近付いて行った。並んでいる子供の肩越しに車内を覗き込み、どれにしようかと思案する内にハーレイの番。
「二つ下さい」
カップに入ったアイスクリームを二個買った。イチゴやラムレーズンなども並んでいたけれど、定番のバニラ。同じ買うなら素材の良さが一番際立つものがいい。保冷バッグがついてくるから、ブルーの家まで充分に持つ。
ハーレイでさえ忘れてしまっていた記憶の彼方のアイスクリーム。
小さなブルーはきっと覚えていないだろう。
生垣に囲まれたブルーの家に着いて、門扉の脇のチャイムを鳴らして。開けに出て来たブルーの母に「アイスを買って来ましたから」と保冷バッグを持ち上げて見せれば、「それなら最初はお茶だけですわね」と微笑みながら二階へ案内してくれた。
ブルーの部屋に入る時には保冷バッグを背後に隠す。ブルーの母がアイスティーを置いて階下に去っていった後、ハーレイはテーブルを挟んで向かい側に座ったブルーに声をかけた。
「おい、ブルー。今日は付き合って貰うからな」
「えっ?」
怪訝そうな顔をするから、隠してあった保冷バッグを取り出す。
「ほら、土産だ」
「わあっ! 何処で売ってたの?」
保冷バッグに印刷された農場の名前。顔を輝かせて手を伸ばして来るブルーに「待て」と一言。
「歩いてくる途中で移動販売車に会ったんだ。だから土産にと買って来たんだが…。その前にだ、これは俺との約束だからな。…お前、忘れているんだろうがな」
「何を?」
案の定、ブルーはキョトンとしている。ハーレイは保冷バッグをテーブルに置くと、鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
「やっぱり忘れちまっていたか…。俺と一緒にアイスクリームを食う約束だ」
「アイスクリーム…? そんなの、あった?」
ハーレイと一緒にアイスクリームを食べる約束。全く思い出せないらしいブルーに「あった」と自信たっぷりに告げた。
「あったとも。前のお前が逝っちまってから生まれ変わってくるまでの間はカウントしないとしておいても、だ。…お前が俺に約束してから十五年は経つ」
十五年だ、と繰り返すとブルーは「…何、それ…」と目を丸くしたのだけれど。
ハーレイには確かに覚えがあった。
今の小さなブルーではなく、前の生でのソルジャー・ブルー。
気高く美しかったブルーと交わした、アイスクリームを一緒に食べるという約束。
赤い瞳をパチクリとさせて、ブルーの視線はアイスクリームの保冷バッグとハーレイとを忙しく何度も往復したのだが…。
「…ホントに思い出せないんだけど…。ホントのホントに、アイスクリーム?」
「アイスクリームだ。間違いない」
ハーレイはどっしりと椅子に腰掛け、「よく聞けよ?」と昔語りを始めた。
遠い遠い昔、シャングリラがまだアルテメシアの雲海に隠れていた頃。自らの寿命が残り少ないことを悟ったブルーは後継者としてジョミーを選んだ。
けれどジョミーはブルーを拒絶して家に戻った挙句に捕まり、辛くも成層圏まで逃げのびた彼を救い出すためにブルーが出てゆき、シャングリラも囮となるべく人類の前に姿を晒した。
シャングリラの存在を知った人類はミュウを駆逐しようと動き始める。数年後、ついに発見され猛攻を浴びたシャングリラ。致命的な傷を負い、宇宙に出られなくなる前に、とブルーが決断し、重力圏内でのワープという荒技を使ってアルテメシアから脱出したものの。
「宇宙へ出てから暫くの間、あちこちに影響が出ていただろうが。畜産部門も安定しなくて牛乳の量が酷く減ったぞ、動物は環境の変化に敏感だからな」
「…そういえば…」
ブルーもそれは記憶していた。殆どベッドを離れられない日々だったけれど、船内の様子は常に把握し、必要とあらば指示を下した。
食料の確保を最優先に、とハーレイに伝えたことを覚えている。アルテメシアを離れたからには人類側から奪えはしないし、一刻も早く生産体制を元の水準まで戻すように、と。
「確か、ミルクが精一杯だったっけ? 最初の間は」
「ああ。皆が飲む分が採れただけでも幸いだった。バターの備蓄が底を尽く前に、なんとか作れるようになったから良かったが…」
不味い飯は士気が下がるからな、とハーレイは当時を思い返して苦笑した。
アルタミラの地獄を知っている者は何も文句を言わなかったが、それよりも後に来た若いミュウたちは初めて味わう食糧難の時代。食料は充分に足りていたのに口に合わないとの苦情が相次ぎ、厨房担当のクルーたちは頭を悩ませたものだ。
毎日の調理にバターは欠かせず、切りつめて使えば「不味い」と言われる。もしも完全に消えていたなら、どんな騒ぎになっただろうか…。
「ようやっと安定したから、嗜好品も作れるようになってだな、アイスクリームの第一号が」
「うん、それで?」
そういった物も作っていたな、とブルーは懐かしく思い出す。アルタミラから脱出した直後には食料さえも自給出来なかった自分たち。それが文字通り楽園という名のシャングリラを手にして、牛乳どころかアイスクリームまで作って食べられる環境になった。
もっとも、そんな中でもブルーの一番の好物はハーレイの野菜スープだったのだけれど。基本の調味料だけでコトコト煮込んだ、素朴すぎるスープだったのだけれど…。
今の生でもブルーが寝込むとハーレイが作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」。
懐かしいスープの調理人が「いいか、アイスだ」とブルーの瞳を覗き込む。
「せっかく出来たアイスクリームだ。…お前にも食べさせてやろうと思って二人分貰って、勤務の後で持って行ったら、お前は俺に言ったんだ」
「なんて?」
「昼間にジョミーと食べてしまったから、一日に二つというのはちょっと…、と」
「あっ…!」
ブルーの頭に蘇る記憶。青の間でジョミーが持って来てくれたアイスクリームを二人で食べた。やっとアイスが作れたんだよ、と誇らしげだった次の時代を担う金色の髪のソルジャーと。
「思い出したか? お前、明日一緒に食べようと俺に約束しただろう? 明日はジョミーが持って来たって断るから、と」
「…うん…」
「それで、お前はその約束をどうしたんだっけな?」
「……どうしたんだろう?」
其処から先の記憶が無かった。ハーレイと確かに約束をしたが、アイスクリームを一緒に食べた記憶が無い。「明日食べるから、残しておいてよ」と奥のキッチンに仕舞って貰った。キッチンへ向かうハーレイの背中は覚えているのに、アイスクリームはどうなったろう…?
「やっぱり綺麗に忘れちまったか…」
十五年だしな、とハーレイが苦い笑みを浮かべた。
「アイスクリームを片付けた後で、お前は俺と一緒に眠った。…もちろんお前は弱っていたから、ただ腕に抱いて眠っただけだ。次の日の朝、お前は「また夜に」と俺を送り出してくれた」
「……まさか……」
あの頃のブルーのお決まりの言葉。ブリッジに行くハーレイを見送る時には「また夜に」。また夜に会おう、という意味でもあり、「また夜に来て」という意味でもあった。
それをハーレイに言った自分は、もしかして…。
「…そのまさかさ。お前は俺がいない間に眠ってしまって、ノルディに呼ばれて駆け付けた時にはもう思念すらも届かなかった。…お前は目覚めなかったんだ」
アイスクリームを食べる約束もそれっきりになっちまった、と深い溜息をつくハーレイ。
「今日は起きるか、明日は起きるかと…。アイスクリームがすっかりガチガチに凍っちまっても、お前はとうとう目覚めなかった。そして十五年が経って、お前がやっと目覚めた時には…」
アイスクリームどころじゃなかった。もっとも、俺も覚えてはいなかったがな。
だから、とハーレイはアイスクリームの入った保冷バッグを指差す。
「思い出した以上は、俺と一緒に食って貰うぞ。アイスクリームは別物になっちまったが」
「…それでアイスクリームを買って来たの?」
「そういうことだ。お前、普段から右手が凍えただの、冷たかっただのと言ってはいるが、だ。…アイスクリームは別物だろうが?」
再会してから今日までの逢瀬でブルーの好みは把握していた。好き嫌いは無いけれど、食の細いブルー。それでもお菓子は大好物で、暑くなってからはアイスクリームも喜んで食べる。
ブルーはハーレイの予想どおりにコクリと愛らしく頷いた。
「うん、アイスクリームは大好きだよ」
「だったら、付き合え。…十五年越しの約束だからな」
「それと今日までの分なんだね」
凄い約束、とブルーが笑う。
死の星だった地球が青い水の星として蘇るほどの長い歳月、踏み倒されたままで過ぎた約束。
気が遠くなるような年月を越えてきた末に果たされる約束の中身がアイスクリーム。
アイスクリームを一緒に食べよう、という約束が長い長い時を越えるなんて、と。
長すぎる時を越えて果たすにしては馬鹿馬鹿しすぎる小さな約束。
アイスクリームを二人で一緒に食べるだけのこと。
それでも思い出したことが嬉しく、それを果たせることが嬉しく、奇跡のようで。
ハーレイが「ほら」と保冷バッグから取り出したアイスクリームのカップをブルーは笑顔で受け取った。
シャングリラで食べずに終わったアイスクリームとは違う容器に入ったアイスクリーム。いつか行きたいと願い続けた地球に在る牧場で作られているアイスクリーム。
「おっ、ちゃんとスプーンも入ってるんだな」
これで食べるか? と牧場のロゴが刻まれたスプーンが出て来る。地球で育った木から作られた使い捨ての軽いスプーンだけれども、産地直送のアイスクリームにはよく似合う。
「うん、これがいいよ」
小さなスプーンでバニラアイスを掬って、口へ。冷たくて甘い、極上の味。
「美味しい!」
ホントに美味しい、と味わうブルーと向かい合ってハーレイもアイスクリームを食べる。
移動販売車に出会わなかったら、今も忘れていたであろう約束。ブルーと交わした小さな約束。
それが叶ったことが嬉しい。長い時の果てに、こんなにも幸せな光景の中で。
「ねえ、ハーレイ」
ブルーが御機嫌でアイスクリームを口にしながら、右手に持ったスプーンを示した。
「スプーンが右手だから冷たくないよ、ぼくの右の手」
メギドで冷たく凍えてしまったブルーの右の手。最後にハーレイに触れた右手に残った温もりをキースに撃たれた痛みで失くして、右手が冷たいと泣きながら死んだ前の生のブルー。
その右の手が冷たくない、と微笑むブルーがハーレイはたまらなく愛おしい。
「そりゃ良かったな。…踏み倒してくれた約束も思い出せたしな?」
「うんっ! それに美味しいアイスもついたよ」
「ああ、本当に美味いアイスだ。人気が高いのも当然だな」
移動販売車が運んで来たアイスクリームは、遠い約束のアイスクリームとは比べようもなく美味だった。限られたスペースしか無かったシャングリラに居た牛とは違って、地球の広い牧場の青い草の上をのんびりと歩いて育った牛たち。最高の環境で生まれたミルクのアイスクリーム。
ハーレイとブルーが交わした約束は思いがけない形で果たされ、青い地球までがついてきた。
あの日、アイスクリームが再び作れるようになった時には地球など見えもしなかったのに。
何処にあるのか、その座標さえも掴めていなかった星だったのに…。
向かい合わせで二人、アイスクリームを食べながら今の幸せに酔う。
悲しすぎた前の生での別れを越えて、青い地球の上で再び出会うことが出来た。
果たせずに終わった小さすぎる約束をこんなにも素敵な形で果たせて、思い出すことが出来て。
なんて幸せなのだろうか、とブルーはアイスクリームをそっと掬って、口の中で溶かした。
「ねえ、ハーレイ。…こんな風に忘れちゃってる約束って他にもあるのかな?」
「あるかもな」
思い出したら果たして貰うぞ、とハーレイが笑う。
どんなつまらない約束だろうと、思い出したからには果たして貰う、と。
「時効って、無いの?」
「無いな。少なくとも俺は認めてはやらん」
そう言いつつも、ハーレイは「ただし」と付け加えた。
「ただし、幸せな記憶に限り…、だ。前の俺たちだと悲しい約束もしていそうだしな?」
「…そうかも…。ぼくが倒れてても叩き起こせとか、色々あったね」
「そうだろう? その手のヤツは全部時効だ、悲しいことは忘れりゃいいんだ」
約束に限らず忘れてしまえ、とブルーに向かって微笑みかける。
「お前の右手はいつになったら時効だろうなあ、早く忘れて欲しいんだがな…。覚えていても辛いだけの記憶だ」
「そうでもないよ、今は」
大丈夫、とブルーは笑みを返した。
「だって、温めてくれる手が側にあるもの。幸せだよ、ぼくは」
こんな風にアイスクリームを思い出してくれるハーレイとずっと一緒だもの。
ぼくはアイスクリームの約束なんて忘れていたのに。
思い出してちゃんと買って来てくれたハーレイがいるから、幸せだよ…。
アイスクリームはバニラ風味なのに、それは幸せの味がした。
また食べたいと、もっと食べたいと思うくらいに甘くて優しい味わいだった。
すっかり綺麗に食べ終えた後で、ブルーは牧場のロゴが入ったスプーンを名残惜しげにペロリと舐めて。
「ふふっ、美味しかった! …また会えるかな、移動販売車」
「どうだかな? この夏はもう無理じゃないかな、明日はまた別の町だろう」
「そっか…。ちょっと残念」
美味しかったのに、とブルーがカップと保冷バッグを眺めているから。
「なら、いつか二人で牧場に行くか? 作りたてならもっと美味いぞ、こういうものはな」
「ホント!?」
ブルーの赤い瞳が煌めいた。
「じゃあ、約束! 時効は無しで!」
「お前が忘れていなかったらな」
結婚するまでちゃんと覚えていろよ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
「俺たちが二人で出掛けられるようになるのは、結婚してからのことだしな?」
「うん! 今度は絶対に忘れないから!」
「十五年後でもか?」
「それよりも前に結婚してるよ!」
だから行こう、とブルーは強請る。
二人一緒に、ハーレイがハンドルを握る車で、アイスクリームを食べに出掛けてゆこうと。
他の幸せな約束も思い出してくれたら必ずきちんと果たすから、と。
きっとまだまだ沢山ある。
前の生で約束を交わしていながら、忘れてしまった小さなこと。
長い時を越えた今なら、前よりも遙かに幸せな形で約束を果たして幸せになれる。
そう、ハーレイが買って来てくれた、今日のアイスクリームみたいに…。きっと……。
アイスクリーム・了
※前のブルーが眠ってしまう前にハーレイと交わした、小さな約束。また明日に、と。
けれど果たされなかった約束。二人で食べたアイスクリームは、きっと幸せの味。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「あっ…!」
ブルーは小さな悲鳴を上げた。自分の部屋でハーレイと向かい合わせに座ってのティータイム。ハーレイが好きなパウンドケーキを母に強請って焼いて貰ったから、幸せ一杯で過ごしていた。
何でも美味しそうに食べるハーレイだけれど、中でもパウンドケーキは特別。ブルーの母が焼くパウンドケーキはハーレイの母の味と同じなのだそうだ。
「おふくろが焼いてコッソリ持って来たのかと思ったぞ」と前に言っていたくらい、ハーレイの母の味にそっくりらしい。そう聞いたから何度も母に頼んでいたし、今日も頼んだ。それを食べるハーレイを見ているだけで幸せになれる。もう幸せでたまらなくなる。
なんて美味しそうに食べるんだろうと、この味がハーレイの母の味なのかと考えながらの幸せな時間。幸せの味を噛み締めながらパウンドケーキをフォークで口に運んでいたら。
ふとしたはずみに手が滑ったのか、ケーキの欠片を床に落とした。ほんの小さな欠片だけれど、ハーレイの大好きなパウンドケーキ。落とすだなんて、とショックで残念。
(やっちゃった…)
拾い上げて口に入れようかとも思ったのだが、向かいにハーレイが座っている。いくら好物でも床に落ちたものを拾って食べれば「行儀が悪い」と思われそうだ。
(…掃除してあるから綺麗なんだけどな…)
しかし綺麗な床であっても、落とした食べ物を拾って食べればマナー違反。何処かの店でそれをしたなら呆れられるし、とても褒められたものではない。家族と一緒の食卓でしか許されはしない「拾って食べる」という行為。
ハーレイはブルーの前の生からの恋人なのだし、たとえブルーが拾って食べても叱ったりせずに笑ってくれるとは思う。「落としちまったな」と笑うだけなのだろうが、子供らしいと微笑ましく見守る目になっていそうで、それは悲しい。
子供扱いは嫌だったから、床に落ちた欠片は諦めた。一人前の大人ならば床から拾って食べたりしないし、此処は行儀よく振舞わなければ。
「…落っことしちゃった…」
失敗、と椅子から離れて掃除用のシートを取って来た。小さなロールになったシートの表側には細かい埃を貼り付かせるための仕掛けがしてあり、ケーキの欠片をそれにくっつけてからシートを破って屑籠に捨てれば掃除完了。
でも、ゴミにするには惜しいサイズのケーキの欠片。小さな欠片は仕方ないけれど、一番大きな大元の欠片は掃除用シートにくっつけるよりは…。
ブルーは欠片を指で摘むと、窓を開けて二階から庭へと放り投げた。
「はい、お裾分け!」
「お裾分け?」
なんだそれは、とハーレイが訊くから、「お裾分けだよ」と笑顔で答える。
「ハーレイの好きなパウンドケーキ、捨てたりしたらもったいないでしょ? 庭に出しておいたら誰か食べるよ、蟻とか、もしかしたら小鳥とかが」
「なるほどな…。確かにそいつは有意義かもな。食べ物を大切にするのはいいことだ」
遠い昔にシャングリラで食料の確保に苦労した記憶を持つハーレイは窓越しに下の庭を眺めた。
「蟻でも鳥でも、分けて貰ったら喜ぶだろう。美味いケーキだしな」
「でしょ? だけど、こっちはお裾分けは無理…。小さすぎだよ」
残った欠片をシートにくっつけ、零れていないか確認してからシートを千切って屑籠へ。欠片がついた側を中にして包むように丸めて捨てれば密閉状態、虫などは来ない。
「はい、おしまい。…ごめん、話の途中だったのに」
掃除用シートを元の場所に片付けて自分の椅子に戻ると、ハーレイが感心したように。
「慣れたもんだな、お前くらいの年頃の子なら放っておく方が多いと思うが」
「…らしいね、ハーレイも自分で掃除はしなかった?」
「掃除どころじゃなかったからなあ…。柔道と水泳に明け暮れてたから、そういうのはおふくろに任せっ放しの子供だったさ」
「あははっ、理由があるだけマシだよ」
絶対にマシ、とブルーはコロコロと笑う。ブルーの友達は自分で掃除をしない子ばかり。掃除をしろと叱られたってしないで放っておいた挙句に、大切なものをゴミと一緒に捨てられたりする。しかも子供時代のハーレイのように忙しかったわけではなくて、ただ面倒でやらないだけ。
「ぼくの友達、家でゴロゴロしてる日だって掃除はしないよ」
「お前の年ならそっちが普通だ。お前が綺麗好きなんだ」
分かる気はするが、とハーレイの鳶色の瞳が細められた。
「前のお前もそうだっただろ?」
ブルーの前世はソルジャー・ブルー。ミュウの初代の長だった。
アルタミラを脱出した直後は船の中も雑然としていて、ブルーもソルジャーの地位にはいなくて仲間たちの一員というだけのこと。その頃のブルーは自分に割り当てられた部屋を綺麗に掃除し、通路なども率先して片付けていった。
今のブルーと変わらない小さな身体だったブルーが頑張って掃除や片付けをしているのだから、と他の者たちも精神状態が安定した者から順に手伝いをするようになって、船内は予想以上に早く快適な居住環境となった。
そんなブルーだったから、ソルジャーとして青の間に住まうようになっても私的な部分の掃除は自分でしようとした。ベッドの周りや、奥にある小さなキッチンの掃除。部屋付きの掃除係が来てみれば既に掃除が終わった後ということも少なくなかった。
「お前、本当に綺麗好きだったしな。クルーの仕事を奪ってどうする」
「だけど自分の部屋だよ、ハーレイ? 出来ることは自分でしたかったもの」
「それはそうなんだが…」
そうなんだが、とハーレイの声が僅かな翳りを帯びて。
「…綺麗好きなのはいいことなんだが…。お前の言い分もよく分かるんだが、ただ、な……。そのせいで俺は悲しい思いをしたんだ」
「えっ、なんで?」
ブルーは心底、驚いた。前の自分が綺麗好きだったことで、何故ハーレイが悲しむのだろう?
青の間が常に散らかっていたならクルーの仕事が無駄に増えるし、キャプテンの所に苦情が届くこともあり得る。けれど実際は逆だったのだから、何も問題は無さそうなのに…。
遠い記憶を探ってみても答えらしきものは見付からない。いくら考えても分からない。仕方なく尋ねてみることにした。ハーレイに訊くのが一番早い。
「…なんでハーレイが悲しくなるの?」
首を傾げて問い掛けたブルーに、ハーレイは「お前のせいではないんだがな…」と呟いてから。
「お前が逝っちまった後のことさ。…メギドに向かって飛んだお前は二度と帰って来なかった」
「…うん…。そうだけど、それが…?」
悲しかった前世でのハーレイとの別れ。思い出しただけで涙が零れそうになるし、右の手が凍えそうになる。ハーレイの温もりを失くしてしまって、メギドで冷たく凍えた右の手。
その手をキュッと握ろうとしたら、ハーレイの手が伸びて来た。大きな褐色の手がブルーの手を包み、「ほら」と温もりを移してくれる。
両方の手でブルーの右手を包み込みながら、ハーレイは彼方に過ぎ去った時を語った。
「…お前が守ってくれたお蔭で、シャングリラはナスカから逃げることが出来た。だが、ナスカで死んじまった仲間たちもいたし、お前までいなくなっちまった」
シャングリラの中には悲しみと混乱とが渦を巻いていて、それが落ち着くまでハーレイの仕事は多忙を極めた。ジョミーがアルテメシアへの進攻を宣言したため、それに伴う会議や航路の設定もあって、ハーレイは自分のために時間を割けなかった。
「…ようやっとゴタゴタが片付いた後で青の間に行ったら、何があったかお前に分かるか?」
「……ぼくって、何か置いてったっけ?」
そんな記憶はブルーには無い。迫り来る災いから皆を守るため、これが最後だと長い年月を共にした部屋を見回して心で別れを告げた。ハーレイと眠った大きなベッドが何よりも別れ難かった。もう一度だけ其処に腰掛けたい、と願う自分を叱咤し、それきり二度と振り返らなかった。
もしかしたら何か落として行ったのだろうか?
振り向くことをしなかったから、落し物に気付かなかったのだろうか?
(…でも……)
落とすような物を持ってはいなかった。ソルジャーの衣装を纏ってしまえば、戦いに赴くために必要なものは何も無い。それを纏ってベッドを離れた自分に落とすような物は何ひとつ無い。
「…何も無かったと思うんだけど…」
考え込むブルーに、ハーレイは「そうさ」と答えを返した。
「青の間に行っても何も無かった。…綺麗に何も無かったんだ」
ハーレイの顔が苦しげに歪む。まるであの日に、あの場所に引き戻されたかのように。
「…俺はお前に会いたかった。お前がいないと分かってはいても、もう一度会いたかったんだ」
青の間に行けば会えると思った、とハーレイは小さなブルーの手を握り締めた。
「お前が確かに其処に居たんだ、という名残りでいいから会いたかった。お前が腰掛けたベッドの皺でも、出掛ける前に飲んで行った水のグラスでもな」
「…うん……」
何とハーレイを慰めたらいいのか、ブルーには見当もつかなくて。ただ頷いて、ハーレイの手をキュッと握り返すことしか出来なかった。
飛び去ってしまった前の自分を探し求めて青の間に行ったというハーレイ。
ハーレイは其処でブルーの欠片に出会えただろうか?
「…俺はお前に会いに出掛けたのに、綺麗さっぱり何も無かった」
無かったんだ、とハーレイは辛そうに頭を振った。
「…まさかああなるとは思っていなかったんだな、部屋付きのヤツも。…お前はかなり無理をしていたし、帰って来たら直ぐに寝られるように、と気遣って整えたんだろう」
ハーレイが足を踏み入れた部屋に、ブルーの痕跡は何も無かった。
大きなベッドはベッドメイクがすっかり済まされていて、ブルーが眠った跡すら無かった。皺の一つさえ残ってはおらず、枕カバーもシーツも何もかも、洗い立てのものと交換されていた。
枕元に置かれた水差しの水も新しいものと取り替えられて、被せられたグラスも綺麗に洗われてしまった後で。ブルーが最後に水を飲んだのか、飲まなかったのかすらも分からなかった。
「お前は片付いた部屋が好きだったからな…。お前が部屋を出て行って直ぐに、係のヤツが掃除をしたんだろう。…そのせいで何も残らなかった」
お前の髪の一筋さえも、俺には残らなかったんだ…。
項垂れるハーレイはそれを探しに行ったのだろう。ブルーが確かに生きていた証。
ベッドの上に一本くらいは落ちていそうなブルーの髪。銀色のそれを持っていたくて、青の間へ探しに出掛けて行った。それなのに…。
「……ごめん」
ごめん、とブルーは唇を噛んだ。
今と同じで綺麗好きだった前の生の自分、ソルジャー・ブルー。弱り切った身体で戦いの場へと向かった部屋の主が戻ったら心地よく眠れるようにと、部屋付きのクルーが掃除をした。ベッドを整え、水差しの水も新しいものを満たして、グラスを洗った。
もしもブルーが大雑把な性格であったなら。…整い過ぎた部屋は落ち着かないタイプで、部屋の掃除は一日に一度、眠る前のベッドメイクだけで充分な人間であったなら…。
戻ったブルーがリラックスして過ごせるようにと、部屋はそのままだっただろう。眠りの続きに入りやすいよう、ベッドはブルーが眠った痕跡を留め、水差しの水も減ったまま。
そうしておいて、戻ったブルーに尋ねただろう。今から部屋を整えますか、と。
けれどブルーは綺麗好きだったし、整った部屋を好んでいたから、何ひとつ残りはしなかった。ベッドは綺麗にされてしまって、ブルーが気付かずに残したであろう銀色の髪も無くなった。
ハーレイはそれが欲しかったのに。
生きていた間に髪の毛など渡しはしなかったから、青の間に知らず落としていった銀の髪だけがブルーの形見になったのだろうに…。
「…ごめん、ハーレイ…。ぼくのせいだ…」
ぼくが掃除が好きだったから、とブルーは謝る。
まさかそういうことになるとは夢にも思っていなかったから、整った部屋が好きだった。綺麗に掃除をすることが好きで、青の間でさえも自分で出来る部分は掃除してしまう習慣で…。
そのせいでハーレイの手にはブルーの形見が残らなかった。
ブルーがメギドへ飛び立った後に、青の間は掃除されてしまったから。落ちていたであろう髪も掃除されて何処かへ行ってしまって、ハーレイの手には入らなかった…。
「ごめん、ハーレイ…。本当に、ごめん……」
戻ろうにも戻れない、遠すぎる過去。あの日に戻ることが出来るというなら、青の間を出る時、部屋付きの者に「掃除はいいよ」と告げてゆきたい。「直ぐに戻るから、このままがいい」と。
それでも掃除されてしまうのかもしれないけれど、ハーレイのために残しておきたい。
自分が其処に生きた証を、ついさっきまで此処に居たのだとハーレイに教える様々なものを。
どうして気付かなかったのだろう。
ハーレイが自分を求めて来るであろうことに、どうして思い至らなかったのだろう…。
悔やんでも悔やみ切れない、前の生の自分が仕出かしたこと。
今更どうにもならないのだけれど、ブルーはハーレイに「ごめん」と謝る。他には何も出来ないから。謝るより他に何も出来ないから…。
「いや、俺も悪い」
泣くな、と言われて褐色の指がブルーの目元を優しく拭った。知らない間に泣いていたらしい。ハーレイはブルーの涙を拭うと、また右の手を握ってくれた。
「…俺も悪いんだから、もう泣くな。…お前が俺に残した言葉を聞いた後に、直ぐに青の間の係に「部屋をそのままに」と言えば良かった。そうすれば掃除はされなかったんだ」
キャプテンの命令なのだから、とハーレイもまた遠い日の自分の愚かさを悔やむ。
ブルーが二度と戻らないことに気付いていながら、出すべき指示を出さなかったと。
「あの時はそんな発想すらも無かった。お前はメギドへ飛んでっちまうし、ナスカに残った連中は回収し切れていないし、シャングリラの中も大混乱で…。俺の能力の限界をとうに超えてたな」
よくもキャプテンが務まったものだ、とハーレイの瞳に穏やかな色が戻って来た。
「お前のことは頭にあっても、青の間まで頭が回らなかった。すっかり掃除されちまった青の間が誰のせいかと尋ねられたら、俺にも責任の一部はあるんだ。…九割はお前のせいだがな」
綺麗好きめが、とブルーの額が褐色の指にピンと弾かれる。
「割合はともかく、共同責任らしい俺に言わせれば、だ。…俺もお前も自分のことだけで精一杯になっちまったような非常事態の真っ最中にだ、青の間を綺麗にしたヤツの方が余程凄いさ」
自分の責任をキッチリ果たしていたんだからな、とハーレイが笑い、ブルーも笑った。
ソルジャーもキャプテンも自分の責任を果たせたか否か自信が無いのに、青の間付きのクルーは普段と全く変わらず、自分の任務を全うしたと。
シャングリラがどうなるかも分からない中で、きちんと仕事をやり遂げたのだ…、と。
「…よく考えてみたらホントに凄いね、ぼくなら放って逃げていたかも…」
部屋の掃除くらい、とブルーはつくづく感心した。ソルジャーだった自分はともかく、ミュウは大抵、気が弱い。弱すぎて前面に出られない者が部屋係を務めることも多くて、青の間といえども例外ではない。
そういう気弱な部屋係があのナスカでの混乱の最中に仕事をしていた。安全な場所に閉じこもる代わりに青の間を掃除し、ブルーが帰って来る時に備えた。逃げ出したい気持ちを抑えてベッドを整え、水差しの水まできちんと替えて。
「誰だったのかな、あの日の係…」
「さあな? 俺は掃除をされたショックで調べるどころじゃなかったからなあ…」
誰だろうか、と思い当たる顔と名前を二人で挙げてみて、その中の誰であっても凄すぎるという結論に達した。まさに「火事場の馬鹿力」だと。
「…ぼくがメギドを沈めたくらいの勢いだよ、掃除」
「そうだな、そういう感じだな。…メギドと掃除じゃ月とスッポンどころじゃないがな」
そこまで死力を尽くした掃除を恨んでは悪い、と二人揃って笑い合う。
悪いのは自分たち二人であって、部屋係に罪などありはしない、と。
ブルーの綺麗好きが災いしたらしい、ブルー亡き後の青の間の事件。
今でこそ笑っていられるけれども、ハーレイにしてみれば前世での辛く悲しい記憶の一つ。
ブルーを喪い、その形見すらも手に入れられなかった苦しみの記憶。
だからハーレイはブルーに言う。
「おい、ブルー。…綺麗好きもいいが、今度は適当にしといてくれよ?」
「適当?」
「そうだ。ほどほどにしておいてくれ、という意味だ」
お前の気配が綺麗さっぱり無いのは困る、と注文をつければ、ブルーが小さく首を傾げる。
「…たとえば?」
「俺たちが一緒に暮らせるようになったら、ベッドメイクは二人でするとか。食器も二人で一緒に洗うとか、後片付けや掃除はとにかく二人だ」
お前が二人でやりたくないなら俺がやるさ、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「…お前の欠片が見当たらない生活は二度としたくはないんだ、俺は」
片付けは一緒に、少しでも欠片が残るように。綺麗に片付いていても、何処かに欠片。
「えーっと…」
ブルーは少し考えてから、「そうだ!」と顔を輝かせた。
「じゃあ、カップ! ぼくのカップを置いておけば? それがあったらぼくが居るんだよ」
「お前のカップか…。いいな、だったらセットで買うか?」
俺のカップと、お前のカップと。模様が違うカップでもいいし、サイズが違うカップでもいい。
洗う時はいつも二つ一緒で、出すのも一緒だ。
どうだ? と問われて、ブルーは笑顔で頷いた。
「うん。ぼくもハーレイのとセットのカップがいいよ。ハーレイが留守で片方だけを使う時でも、もう片方がちゃんと何処かに置いてあるカップ」
「そして使わなかった俺のカップまで洗うつもりか、綺麗好きのお前としては?」
「出して並べてたらちゃんと洗うよ、ハーレイの分のカップだもの」
ふふっ、とブルーは微笑んだけれど。
ハーレイが使ったカップを洗わずに置いておくのもいいな、と思った。
いつか一緒に暮らすようになって、ハーレイが仕事に出掛けた後に残されたハーレイのカップ。
カップの底に残ったコーヒーや紅茶の跡を眺めて、それを飲んでいたハーレイを想う。
(うん、いいかも…)
胸がじんわりと温かくなる。
綺麗好きの自分がカップを洗わずに置いておくなんて、なんだかとても不思議だけれど。
不思議だけれども、ハーレイが飲んでいた跡が残ったカップだと思うと愛おしい。
(…唇で触ってみたくなるかも…)
どんな飲み心地のカップなのかと、確かめたくなって唇で触れるかもしれない。
きっと唇が温かくなる。ハーレイの温もりが唇に触れる。
(そっか、ハーレイが言ってた欠片って、こういうのなんだ…)
其処に居なくても、欠片がハーレイを連れて来てくれる。
ハーレイはブルーの欠片が欲しいし、ブルーもハーレイの欠片があったら幸せになれる。
お互いがちゃんと生きていてさえ、欠片が欲しいと思ってしまう。
(…ハーレイが仕事に行ってる間だけでも、欠片があったら嬉しいんだから…)
…ごめんね、ぼくの青の間のこと……。
掃除されてしまって、ぼくの欠片が一つも残っていなかった部屋。
(ごめんね、ハーレイ…)
だけど今度は、ぼくは何処にも行かないから。
ずっとハーレイと一緒に居るから、出掛ける時にはハーレイの欠片を置いて行ってよ。
ぼくが寂しくならないように、ハーレイの温もりが分かる欠片を……。
無くなった欠片・了
※前と同じに綺麗好きなブルーですけど、綺麗好きだったせいで形見が無かった前のブルー。
今度はハーレイに悲しい思いをさせることなく、二人で幸せになれますように…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ハーレイの写真、ちゃんとしたのが欲しいんだけどな…」
ブルーは勉強机の前に座って一枚のプリントを眺めていた。月に一回、学校から貰うお知らせを兼ねた学校便り。行事の写真なども載っているから、保存する価値は充分にあるのだけれど。この五月号だけはブルーにとっては特別だった。
貰ったその日がハーレイと出会った五月三日の月曜日。朝のホームルームで配られたそれを何も考えずに鞄に仕舞った。家に帰ってゆっくり読めばいいと思った。
ところがその後、古典の授業の新しい教師としてハーレイが現れ、ブルーは大量出血を起こす。聖痕現象と診断された、前の生での最期に負った傷と同じ場所からの大量出血。それと同時に前の生での記憶も戻って、ハーレイも前世の記憶を取り戻した。
慌ただしく日々が過ぎてゆく中で、忘れかけていた学校便り。ふと思い出して取り出してみて、其処にハーレイの写真を見付けた。転任教師の着任を知らせる小さな記事と小さな写真。
正面を向いたハーレイの写真はカラーではなくて、肌の色はもちろん、瞳の色さえ分からない。そうした記事に使う写真だから笑顔でもなく、スーツ姿で真面目な顔をしたハーレイ。
それでも一枚きりの大切な大切なハーレイの写真。学校便りの五月号はブルーの宝物になった。机の引き出しにきちんと入れて、こうして取り出してはハーレイを想う。
「…前のハーレイの写真も無いしね…」
十四歳になったばかりのブルーと違って、ハーレイはキャプテン・ハーレイだった頃とそっくり同じな姿だったから、前世の写真でもあれば良かった。
教科書に載っている写真は如何にもキャプテンといった風情で、ブルーが好きな表情ではない。ならば、とキャプテン・ハーレイの写真集を探しに出掛けたが、それは存在しなかった。仕方なく前世の自分の写真集を片っ端から調べたのに…。
(…どのハーレイにもソルジャー・ブルーがセットだなんて!)
ブルーが気に入った写真の中のキャプテン・ハーレイはソルジャー・ブルーと対だった。一目で恋人同士と分かる写真ではなかったけれども、ブルーには簡単に分かってしまう。
素敵な表情をしたキャプテン・ハーレイはソルジャー・ブルーのもので、小さな自分は手も足も出ない。見ているだけで腹立たしいから、写真集は一冊も買わずに帰った。
そんなわけで、ブルーが持っているハーレイの写真は学校便りの五月号だけ。歴史の教科書にもキャプテン・ハーレイは載っているけれど、それよりは断然、今のハーレイ。
(…学校便りでもいいんだけれど…)
無いよりは遙かにいいんだけれど、とブルーは深い溜息をつく。
同じ写真ならカラー写真のハーレイがいい。教師らしい顔のハーレイよりも普段の表情がずっといい。そういう写真が欲しかった。
「…失敗しちゃったんだよね…」
ハーレイと再会して直ぐに二人一緒に写せば良かった。再会記念の写真だったら二人で写すのが自然なのだし、両親もきっと快くカメラのシャッターを切ってくれただろう。
けれどもブルーは記念写真の撮影どころか、再会出来たハーレイに夢中で甘えっ放しで過ごしてしまって、気付けばとうに記念撮影に相応しい時期が過ぎ去っていた。
今となっては二人で写せる機会が無いし、かといってハーレイ単独の写真を撮らせて貰って机の上に飾っていたなら、それを見た両親に何事なのかと思われそうだ。学校便りのように引き出しに仕舞う手もあると言っても、写したのなら堂々と飾っておきたいし…。
(そうだ、ハーレイの誕生日!)
八月の二十八日で、まだ夏休みの真っ最中。両親にもちゃんと言ってあるから、夕食の席で皆でお祝いする予定。その時に記念撮影を…、と考えたけれど。
(…ひょっとして、パパとママも一緒に写っちゃう?)
誕生日祝いの席なのだから「みんな一緒に」と賑やかな写真になりそうだった。それはブルーが欲しい写真とは少し違うし、机の上に飾れはしても複雑な気分になるだろう。
(このまま、ずっとハーレイの写真は無しかも…)
いつかチャンスが巡って来るかもしれなかったが、それがいつだか分からない。
今のハーレイの写真が欲しいのに。自分が一緒に写っていたなら、もっといいのに…。
「…あいつの写真は無いからなあ…」
前のあいつなら、此処にあるのに。
ハーレイの書斎の机の引き出し。其処に一冊のソルジャー・ブルーの写真集。
真正面を向いたソルジャー・ブルーの一番有名な写真が表紙で、タイトルは『追憶』。
サイオンの青い尾を曳いてメギドへと飛ぶ前世のブルーの最後の飛翔で始まる最終章は、人類軍が撮影していた映像から起こした写真で埋められていた。爆発するメギドの閃光が最後の写真。
キャプテン・ハーレイだった頃には知りもしなかったブルーの最期。
小さなブルーが口にするまでは、キースに何発も撃たれたことさえ知らなかった。メギドを破壊しに飛んだブルーが何処を翔け、どんな光景の中で逝ったのかすらも。
ソルジャー・ブルーだったブルーの命が潰えるまでを記録した写真に、メギドの中へ入り込んだ後のブルーの姿は無いのだけれど。監視カメラごと失われたから無いのだけれども、最後に写ったメギドの爆発と共にブルーの身体はこの世から消えた。
その瞬間までブルーが生きていたのか、息絶えていたのか、それもハーレイには分からない。
分かることはただ、ブルーが独りきりで逝ってしまったこと。最期まで持っていたかったというハーレイの温もりを失くしてしまって、暗い宇宙でたった一人で、青い閃光に消えてしまった。
数々の写真が突き付けて来た事実があまりに悲しく、声を上げて泣いた。あの日の自分の記憶に囚われ、ブルーを失くしてしまったと泣いた。
それほどに辛い最終章を持った本だが、目に触れない場所に押し込めることはしたくなかった。前の生で守れなかった分を埋め合わせるかのように、こうして引き出しに仕舞ってある。
一日に一度は座る机と、其処で書く日記。引き出しを開けて日記を出せば、其処から『追憶』が姿を現す。ハーレイの日記を上掛けにして眠る写真集。それを開けば前の生でのブルーに会える。
「…前のあいつの写真だったら、此処に何枚もあるんだが…」
今のあいつの写真は一枚も無いな、と小さなブルーを思い浮かべた。
再会した時に記念に写すべきだった。しかし迂闊にもそれを忘れた。再会出来た喜びに酔って、甘えて来るブルーをただ抱き締めて。
小さなブルーの命の温もりを確かめ続けて、気付けば時が過ぎ去っていた。記念撮影をするのに相応しい時期を逃してしまった。もしも早くに気付いていたなら、二人一緒に写せたものを。
理由をつけてブルーの写真を撮るというのも考えたけれど、それではブルーが可哀相だ。きっとブルーもハーレイの写真を欲しがるだろうが、ブルーはそれを飾れない。一人暮らしの自分だけがブルーの写真を飾って、小さなブルーはハーレイの写真を隠し持つのが精一杯。
それでは本当に可哀相だし、堂々と飾れない写真を隠し持たせることはブルーの両親に対しても申し訳ない。いつかはブルーへの想いを打ち明けねば、と思ってはいるが、今は後ろめたいことをしたくはない。
(…学校のデータベースに写真はあるんだが…)
ブルーの在籍を示す証明写真。とはいえ、生徒の写真を引き出して持つのもどうかと思う。誰も気付きはしないのだろうが、教師としてすべきことではない。
けれど、ブルーの写真が欲しい。
十四歳の小さなブルーの写真が欲しい。出来ることなら、自分も一緒に写ったものが…。
お互い、知らずに同じ思いを抱き合って。
夏休みも今日で終わるという日に、ハーレイは普段通りにブルーの家へと向かった。二人一緒に過ごせる平日は八月三十一日で最後。次の機会は冬休みに入るまで訪れない。
ブルーが首を長くして待っているだろうと出掛けてゆけば、二階の部屋で迎えてくれたブルーは母の足音が階下に消えるなり、この世の終わりのような顔つきになった。
何ごとなのかと慌てたハーレイの耳に消え入りそうな声で届いた言葉は、マーマレード。
ハーレイの両親がブルーのためにと持たせてくれた、実家の庭で採れた夏ミカンの実で作られたマーマレードの大きな瓶。昨日、ブルーに渡してやった。
ハーレイがいずれブルーを伴侶に迎えるのだと話したからこそ、両親はマーマレードをブルーに贈ったのだけれど、その事実をブルーの両親には明かせない。だからブルーの母には日頃の礼だと言っておいたし、ブルーもそれは承知していた。
とはいえ、ブルーにしてみれば自分が貰った宝物にも等しいマーマレードだったのだろう。その大切なマーマレードを自分よりも先に両親が開けて食べ始めていたことがショックだったらしい。
ブルーの部屋から庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子に移動してからも、悲しげな顔でマーマレードに関する悲劇を懸命に訴えるブルーが可愛らしくて、可笑しくて。
因縁のマーマレードが盛られたガラスの器に木漏れ日が降る中、焼き立てのスコーンをブルーと二人で食べながら話した。
ブルーのためのマーマレードなら、また実家から貰ってくるから、と。ハーレイの両親は小さなブルーがお気に入りだから、いくらでも分けてくれるだろう、と。
ブルーの機嫌がようやく直って、弾けるような笑顔になった頃。
「うん、いい笑顔になったな、お前。…それじゃ一枚、撮るとしようか」
「えっ?」
キョトンとするブルーに、ハーレイは片目をパチンと瞑ってみせた。
「記念写真さ、俺たちが初めての夏休みを一緒に過ごした記念だ。一枚も写真を撮ってないだろ、せっかく地球で再会したのに」
お母さんにシャッターをお願いしよう、と言ってから、とっておきの言葉を付け加える。
「俺の腕にしがみ付いて写してもいいぞ? ただし、恋人としてじゃないからな。あくまで憧れのハーレイ先生と、だ。そういう写真を撮った教え子なら大勢いるさ」
「ホント?」
「本当だ。柔道と水泳の教え子からすれば、俺はスポーツ選手並みの扱いになるらしい」
その感覚でなら腕にしがみ付くことを許可する、と聞かされたブルーの背中に翼があったなら、空に舞い上がっていたかもしれない。本当に飛んで行きそうなほどに、小さなブルーは狂喜した。
「ねえ、ハーレイ。しがみ付くのって、どっちの腕?」
「左腕だな。俺の利き手を封じてどうする、右腕は空けておいてくれ」
「分かった! ハーレイの左側に立てばいいんだね!」
持って来たカメラを取りに行こうと立ち上がったハーレイの腕に「ちょっと練習!」とブルーが飛び付いて来た。それを「こらっ!」と振り払ってハーレイは庭を横切り、玄関を入る。其処に居たブルーの母に声を掛けてから二階に上がり、置いてあった荷物の中からカメラを出して。
「すみません、お手数をお掛けしますが…」
シャッターをお願いします、と頼むとブルーの母は「ええ」と頷いて庭に出て来た。
日射しがまだまだ強い季節だから、撮るのなら木陰。白いテーブルと椅子のある木の下の日陰がちょうど良さそうで、ハーレイとブルーは其処に並んだ。
母がカメラ越しに光の加減などを確かめ、「その辺りかしら」とニッコリ微笑む。
「それじゃ、撮るわよ?」
「ママ、待って!」
ブルーがハーレイの左腕に両腕でギュッと抱き付き、「撮っていいよ」と笑顔で叫んだ。
憧れのスポーツ選手と記念写真を撮る少年のようなポーズで、身長の差もそれを思わせる。母は笑ってシャッターを切った。可愛い一人息子を撮る母の顔で、頼まれるままに何度も、何度も。
同じポーズで軽く十枚は撮っただろうか。ハーレイがカメラを受け取りに行って、ブルーの母も交えて三人でデータを調べて、いい写真だと確認した。
穏やかな笑顔で立つハーレイと、その左腕に抱き付いた明るい笑顔のブルー。
再会してから初めて二人で過ごした夏休みの記念にと撮った写真は、まさに最高傑作だった。
写真撮影を終えてブルーの部屋へ引き揚げ、昼食を食べて。ブルーの母が食後のお茶のセットを置いていった後で、ハーレイは再びカメラを出した。ブルーと二人で写した写真を詳細に調べて、「これにするか」と選んだ写真をその場で二枚、プリントしてテーブルの空いた所に並べる。
そして自分の荷物の中から二つの包みを取り出した。
「ほら、ブルー。好きな方を選べ。…まあ、どっちでも中身は同じなんだが」
四角くて平たい箱を包んだ包装紙とリボン。ブルーはそれに見覚えがあった。ハーレイの誕生日プレゼントに羽根ペンを買おうと出掛けて行った百貨店の包装紙とリボン。
羽根ペンはブルーの予算ではとても買えない値段で、それでも諦め切れなくて。悩んでいたのをハーレイに見抜かれ、ハーレイと二人で買うことになった。ブルーは予定していた金額を支払い、残りはハーレイが払った羽根ペン。
二人で選んだ白い羽根ペンをハーレイが買いに行き、誕生日に持って来て、ブルーがハーレイに羽根ペンの箱を手渡した。それが八月二十八日のこと。
ハーレイは羽根ペンを買うためにあの百貨店へ行ったわけだが、羽根ペンの箱を包んでいたのと同じ包装紙とリボンがかかった二つの箱は何なのだろう?
首を捻るブルーにハーレイが「いいから、一つ選んで開けろ」と箱を指差す。
「…うん」
手近な方の箱をブルーが選ぶと、もう一つをハーレイが手に取ったから。
(…開けていいんだよね?)
リボンをほどいて包装紙を剥がし、出て来た箱を開けてみた。
「あっ…!」
箱の中に、写真にぴったりのサイズのフォトフレーム。ハーレイの分は、と目をやれば同じ物が箱に収まっていた。飴色をした木製のフォトフレーム。如何にもハーレイが好みそうな、触れれば手に馴染む優しい素材。素朴だけれども温かみのある、木で作られたフォトフレーム。
「羽根ペンを買いに行った時にな、こいつも一緒に買って来たんだ」
ハーレイが自分の分のフォトフレームを示して言った。
「俺たちの写真ってヤツは無かったからな。…夏休みの記念に撮ろうと思った。そして二人で一枚ずつ持とうと思ったんだ」
同じデザインのフォトフレームに入れて、俺とお前とで一枚ずつ…な。
嫌だったか?
「…ううん」
問われたブルーは「ううん」と首を左右に振った。
「ハーレイの写真、持っていないし…。それにハーレイとお揃いの物って、シャングリラの写真集しか持っていないから…。お揃いの写真とフォトフレームなんて、ぼく、考えもしなかったよ」
とても嬉しい、とブルーが微笑むと、ハーレイは「そうか」と頷いて。
「…こいつは俺の我儘でもあるんだがな。お前の写真が欲しかったんだ。どうせだったら、お前と二人で写ったヤツが」
最高の写真が手に入った、と喜ぶハーレイにブルーは「ぼくも」と笑みを湛える。
「ぼくもこの写真が欲しかったよ。…ううん、ハーレイだけの写真でもいいから欲しかったんだ。それで前のハーレイの写真を探しに本屋さんまで行ったのに…。いいな、と思ったハーレイの写真には前のぼくが必ず一緒に居たから…」
腹が立ったから買わなかった、と白状した。ソルジャー・ブルーとセットのハーレイがどんなに素敵でも、其処に一緒に写っている前の自分が余計なのだ、と。
「でも、良かった…。この写真なら今のぼくだし、このハーレイはぼくのだよね」
「そりゃあ、俺はお前の恋人だしな? しかしだ、前の自分に腹が立つとは…。凄いな、お前」
ちょっとお前を見直したぞ、とハーレイが笑う。
小さな子供だとばかり思っていたのに、一人前に嫉妬もするのか、と。
「だがなあ、子供は子供だな? ソルジャー・ブルーもお前なんだぞ。そこで前世を懐かしまずに嫉妬して怒る所がなあ…。アレだ、鏡に映った自分に喧嘩を吹っかける子猫みたいだよな」
「子猫!?」
酷い、とブルーは唇を尖らせたけれど、その顔つきが子供だと更なる笑いを誘っただけだった。鏡の中の自分と喧嘩を始める銀色の毛皮の小さな子猫。一人前に毛を逆立てていても、鏡の相手は決して喧嘩を買ってくれない。傍目にはただ面白いだけで、写真を撮られるのが関の山だと。
「……子猫だなんて…」
膨れるブルーの頭をハーレイが「いいじゃないか」とポンポンと叩く。
「そういう所も俺は可愛いと思うがな? そして、此処に写ったお前も可愛い」
実にいい写真だ、とハーレイは庭で撮った写真を惚れぼれと眺め、一枚をブルーに手渡した。
「お前の分だ。フォトフレームが気に入ったんなら、入れてやってくれ」
「うん」
ブルーが木製のそれを裏返して写真を入れる間に、ハーレイも自分のフォトフレームを裏返し、もう一枚の写真をセットしてみて。
「よし、こうすると写真だけよりいい感じだな」
うん、とテーブルにフォトフレームを置いて眺めるハーレイ。ブルーも自分の分を隣に並べて、お揃いのフォトフレームに同じ写真が収まったものが二つ揃った。
背の高いハーレイと、その左腕にギュッと抱き付いた小さなブルーが写った写真。
「ねえ、ハーレイ。…こんな写真は今のぼくたちしか撮れないね。ぼくが小さいっていう意味じゃなくって、ぼくが大きくなってからでも」
「…そうだな、前の俺たちには無理だったな」
誰にも仲を明かせなかった秘密の恋人同士だったから。
けれど今度はいくらでも撮れる。今はまだ教師と生徒ということになっているから、記念写真も写しそびれたままで今日まで来てしまった二人だけれど。
憧れの先生と生徒で良ければ、これから先も何枚だって写せるだろう。
いつか結婚出来た時には、もっともっと沢山の写真を好きな時に写してゆけるだろう。
「ふふっ、フォトフレームまでお揃いだもんね」
貰っちゃった、と笑みを零すブルーにハーレイが「ああ」と頷き返して。
「お母さんにフォトフレームはどうしたんだ、と訊かれた時には記念に貰ったと言っておけ。俺がタダ飯を食わせて貰っている分、マーマレードくらいじゃ足りないからな。これはオマケだ」
「オマケなの?」
「そういうことにしておくだけだ。本音は俺からのプレゼントだがな、マーマレードがお前用だと言えないのと同じでコイツもマズイ」
まだ早過ぎる、とハーレイは困ったような笑顔になった。
「俺はお前と一緒に写った写真が欲しくて、フォトフレームも同じのにしたくてコソコソ計画していたわけだが、お前のお母さんたちには言えんだろうが。いいか、あくまでオマケだからな」
「うん、分かった。夏休みの記念写真とオマケなんだね」
「そういうことだ」
しかし本当はお揃いなんだぞ、と付け加えることをハーレイは忘れはしなかった。
「今日からは同じ写真とお揃いのフォトフレームを眺めて暮らすわけだな、お前も俺も」
「…うん。ありがとう、ハーレイ。…大事にするよ」
「そうしてくれると俺も嬉しい。そうだ、お前のマーマレードな。ちゃんとおふくろたちに言っておいてやるさ、お前が一番に食べ損なって悲しがってた、ってな」
そして貰って来てやるから、とブルーと「約束だぞ」と小指を絡める。
「俺の未来の結婚相手のお前用に山ほど貰って来てやるさ。だから惜しがらずにどんどん食べろ。でないと大きくなれないからな」
「うん。…うん、ハーレイ…」
大好きだよ、とブルーは小指を絡めたままで並んだ二つのフォトフレームをそっと見詰めた。
今日からはお揃いのフォトフレーム。
片方はハーレイの家に行ってしまうけれど、ブルーの部屋にも全く同じものがある。
フォトフレームの中の写真はこれから色々と変わっていくのか、またハーレイが理由を見付けてフォトフレームごと増やしてゆくのか。
幸せな写真が何枚も増えて、いつかフォトフレームは二人で一つしか要らなくなる。
一番最初のそういう写真は、きっと二人の結婚式。
二人で一つしか要らなくなったフォトフレームを家に飾って、ハーレイと二人で歩いてゆく。
前の生では叶わなかった幸せな未来へ、しっかりと手を繋ぎ、握り合って…。
二人の記念写真・了
※ブルーとハーレイの記念写真。前世では写すチャンスさえも無かったツーショットです。
今度は堂々と飾ってもかまわない世界。お揃いのフォトフレームに写真を入れて…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv