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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 夏休みのある日。今日はハーレイは午前中に柔道部の指導があるから、ブルーの家を訪ねて来るのは午後になる。ブルーは母と昼食を食べて、二階に戻ろうとしたのだけれど。
「ブルー。それ、ママの部屋に持って行ってくれるかしら?」
 母が紙袋を指差した。綺麗な色と模様の紙袋。
「うんっ!」
「ドレッサーの所に置いてくれればいいから」
「分かった!」
 化粧品の類なのだろう。小さな紙袋を提げたブルーは足取りも軽く階段を上り、母の部屋の扉を開けて入って、ドレッサーの前に袋を置いて。
(ママの部屋かあ…)
 この部屋に母のベッドは置いてあるのだが、恐らく母は使っていない。隣の父の部屋に置かれた大きなベッドが多分、二人用。幼い頃にはブルーも其処で何度も両親と一緒に眠っていた。今なら二人用のベッドの意味が良く分かる。
(…ぼくとハーレイ、いつになったら一緒のベッドで寝られるのかな…)
 出会った時の百五十センチから伸びない背丈。前世の自分と同じ背丈にならない限りはキスさえ許して貰えない。同じベッドなんて夢のまた夢、いつになるやら見当もつかず。
(…早く結婚したいんだけど…)
 母の部屋に飾られた結婚式の写真。今よりも若い両親が幸せそうな笑顔で写っている。ブルーはそれを羨ましそうに眺めながら。
(ぼくって、ドレスを着るのかな? 二人ともタキシードなんて変だよね?)
 並んで立っている分にはかまわないけれど、これは流石に可笑しいと思う。母を両腕でしっかり抱き上げて立つ父と、その腕の中で笑顔の母と。結婚写真の定番の一つ。このポーズでハーレイがタキシードのブルーを抱いていたなら、さながらコメディ。
(やっぱりドレスしか無さそうだよね…)
 こういう写真は撮りたいもの、と両親の写真を目に焼き付けてブルーは自分の部屋に戻った。



(ドレスかあ…)
 生まれてこの方、ドレスなんかは着たこともない。学校はずっと共学だったし、いくらブルーが可愛らしくても演劇などで女の子の役は回って来ない。小さい頃に「女の子?」と訊かれたことは多かったけれど、ちゃんとズボンを履いていた。
(でも、あの写真を撮りたかったらドレスだよね…)
 ドレスというものの着心地どころか、どうやって着るのかも分からなかった。その辺りはプロにお任せとしても、ああいった服で上手に歩くことが出来るのだろうか?
(踏んづけて転んじゃったりして…)
 それは非常に格好が悪い。かと言って最初からハーレイに抱いて歩いて貰うのも…。
(思い切りルール違反だよね?)
 結婚式が終わるまでは自分の足で歩いてゆくしかない筈だ。これは困った、とドレスの長い裾をどう捌くべきか悩み始めたブルーだったが。
「…あれ?」
 そういえば、と思考が別の方向へ向いた。
「ぼく、一回もハーレイに抱っこして貰ってないよ…」
 ドレス姿でないと似合いそうにない結婚式の写真の定番、新郎の両腕に抱かれた花嫁。
 前の生ではハーレイと結婚こそ出来なかったけれど、ああいう風に抱き上げられたことは何度もあった。ハーレイの逞しい腕に抱えられて運んで貰った。
 なのにハーレイと再会してから、そんな経験は一度も無い。ハーレイはブルーを胸に抱き締めてくれるけれども、あんな風に抱き上げて貰ったことは無い。
(…お姫様抱っこって言うんだっけ…)
 シャングリラに居た頃、若いミュウたちがそう呼んでいた。ハーレイに「お姫様抱っこだね」と言ったら「あなたは私のお姫様ですから」と真顔で返され、二人して大笑いしたものだ。ブルーは実はソルジャーではなく、シャングリラのお姫様だったのか、と。
(あれも大きくなるまでダメなの?)
 キスと同じでお預けだろうか、と考えたけれど、お預けにされる理由が思い当たらない。唇へのキスは大人のものかもしれなかったが、両腕でヒョイと抱き上げるくらい…。
(パパだって抱っこしてくれるよ、うん)
 ブルーが熱を出した時など、父が抱えてベッドに運んでくれたりする。ということは、特に問題なさそうだ。一度ハーレイに頼んでみよう、と決心した。そう、今日ハーレイが来たら、早速。



 間もなくハーレイが訪ねて来てくれ、母が部屋まで案内してきた。母はアイスティーとお菓子をテーブルに置いて階下へと去り、ブルーは勇んで切り出してみる。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「お姫様抱っこはかまわないよね?」
「はあ?」
 ハーレイがポカンと口を開けた。それにかまわず、ブルーは続ける。
「お姫様抱っこ! まだ一回もして貰ってないよ」
「…お姫様抱っこって…。アレか、俺がお前を抱き上げるヤツか?」
「そう! パパもしてくれるし、お姫様抱っこはダメじゃないよね、キスと違って」
 期待に満ちた瞳でハーレイを見詰め、「お願い!」とペコリと頭を下げた。
「ちょっとでいいから抱っこしてみてよ」
「……全く必要無いと思うが」
 つれない返事にブルーは「なんで?」と目を見開いた。
「ぼくがお願いしているんだから、必要はあると思うけど…」
「無いな」
「どうして? 前は抱っこしてくれてたよ? それに前よりずっと軽いよ」
 ぼくの体重、と自分の小さな身体を指差す。
「今の方がずっと軽いのに…。持ち上げやすいのに、なんでダメなの?」
「前より軽いのは知っているさ。俺の膝の上に乗っかっていても軽いからな」
「だったら、どうして! 重くないのに! ちょっとでいいから!」
 ほんの少し歩いてくれるだけでいいのだ、とブルーは強請った。けれどハーレイは「駄目だ」の一点張りで、立ち上がる気配も見せてくれない。
「ハーレイのケチ!」
「ケチでかまわん。とにかく俺はやる気はない」
「…ちょっとだけでも?」
「そのちょっとで、だ。お前は何処へ行くつもりなんだ」
 鳶色の瞳がブルーの瞳を真正面から覗き込んだ。
「俺がお前を運んでいた先は、ベッド以外に無かった筈だぞ」
「えっ…?」
 思いもよらない言葉に暫し考え込み、遠い記憶を探ってみる。お姫様抱っこで連れて行って貰う先には、本当にベッドしか無かっただろうか?



 前の生で何度も抱き上げてくれたハーレイの腕。頑丈だった腕の逞しさと力強さを覚えている。今よりも重かったブルーの身体を軽々と抱き上げ、危なげもなく運んでくれた。ふわりと宙に浮く感覚。自分のサイオンで浮き上がるのとは全く違った心地よさ。
「…ベッドだけってこと、ないと思うけど…」
 それならば青の間かハーレイの部屋での記憶だけしか無い筈だ。ブルーの記憶が違うと告げる。シャングリラの長い通路やブリッジ、公園なども覚えていた。何処でもハーレイの腕にしっかりと抱かれて周りを見たり、高い天井を見上げたり…。
「ハーレイ、絶対、間違ってるよ! 通路も公園もそれで歩いた!」
「いや、間違えているのはお前だ。俺はお前をベッドにしか運んでいないんだが?」
「そんなことない!」
 通路はともかく、ブリッジや公園にベッドは無い。百歩譲って通路の方なら行き先がメディカルルームのベッドということもあっただろうが…。
 懸命に言い募るブルーだったが、ハーレイは「お前が忘れているだけだ」と譲らない。
「俺がお前を運ぶ時には行き先はベッドだ、間違いはない」
「でも…! ブリッジと公園にベッドは無いよ!」
「ああ、ブリッジと公園にはな。せいぜい休憩用の椅子くらいだな」
「だったら、なんで!」
 ハーレイの記憶違いか、お姫様抱っこをしたくないがゆえの逃げ口上か。どちらかだとブルーは思ったのだが、ハーレイがフウと溜息をつく。
「…覚えてないのも無理ないかもな。俺が目的地に着いた頃には、お前、大抵、寝ていたからな」
「寝てた…?」
 そんな記憶は全く無かった。ハーレイの腕に抱かれて移動するシャングリラの通路や公園などは気持ち良かったし、眠ってしまうわけがないのに…。
「ぼくは寝ないよ、せっかくハーレイがぼくを運んでくれているのに」
「その気が無くても寝てるんだ。…俺はお前が倒れた時しか、外でお前を運んではいない。お前、冷静に考えてみろよ? それ以外で俺がお前を運んでいたなら、周りに何と言い訳するんだ」
「あっ…!」
 そう言われればその通りだった。前の生では身も心も結ばれた本物の恋人同士だったけれども、周囲にはそれを隠し通した。ハーレイが理由も無くブルーを抱き上げて運んで歩けば、当然、仲を疑われる。ということは、自分の記憶が抜けているだけで…。
「分かったか? お前は運ぶ途中で寝ちまっただけだ。行き先はベッドだったんだ」
 ハーレイの指摘に反論出来ない。お姫様抱っこで辿り着く先は本当にベッドだったのだ。



「…思い出したか? つまりだ、俺に今のお前を運ぶ理由は無いわけだ」
 お前はピンピンしてるんだから、と鳶色の瞳に笑みの色が浮かぶ。
「気分が悪いわけでもないし、倒れちまったわけでもない。…ついでに、そういう理由以外で俺がお前をベッドに運ぶには早過ぎるしな」
「嘘……」
 あの懐かしい浮遊感を味わえないなんて。今のブルーの身体だったらヒョイと抱き上げて何処へでも運んで貰えそうなのに、行き先はベッド限定だなんて…。
「じゃ、じゃあ…。じゃあ、ハーレイ…」
 ブルーは一縷の望みを託して尋ねてみた。
「もしも学校でぼくが倒れて動けなかったら、運んでくれる?」
「………。それはお姫様抱っこでか?」
「うん。それならいいよね、保健室まで」
 保健室ならば行き先はベッド。いつもは保健委員のクラスメイトや担任に連れられて行っているけれど、ブルーはヨロヨロ歩いてゆくか、あるいは車椅子で運ばれるか。しかしハーレイが倒れた現場に行き合わせたなら、抱き上げて運んでくれるだろう。それだけの力は充分にあるし…。
「お前を保健室までか?」
「そうだよ、保健室のベッドに運んで欲しいんだけど」
 倒れたからには気分は相当に悪いのだろうが、ハーレイの腕で運ばれるのなら悪くない。途中で意識を失くしたとしても、お姫様抱っこをして貰える。ほんの一瞬のことであっても、胸に幸せな記憶が残る。今の生でのお姫様抱っこ。
 赤い瞳をキラキラと輝かせるブルーの姿に、ハーレイは「お前なあ…」と苦笑いをした。
「…その運び方は、普通は嫌がるモンなんだが?」
「そうなの?」
 ブルーは驚いて目を丸くした。あんなに気持ちのいい運ばれ方は無いと思うのに、嫌がるなんて信じられない。クラスメイトの肩を借りて重い足を引き摺って歩くより、ぐらぐらと揺れる身体を車椅子に委ねて運ばれてゆくより、ずっと、ずっと楽で気持ちが良くて…。
 顔いっぱいに「信じられない」気持ちが溢れるブルー。けれどハーレイがプッと吹き出す。
「まあ、女の子なら大喜びだな、なにしろお姫様抱っこだからな? しかしだ、男は全く違うぞ。何処の学校でも俺のクラブのヤツらにとっては罰ゲーム的な扱いだったが」
 注意を守らずに怪我をした生徒をアレで運ぶ、とハーレイは言った。
「やめて下さいと叫んでいようが、知ったことではないからな。下ろして下さいと泣きの涙が定番なんだが、俺は下ろさん。それが究極の罰ってヤツだ」



 男子たるもの、お姫様抱っこで運ばれるなどは屈辱の極み。それがハーレイが顧問を務めてきた柔道部や水泳部の生徒の共通の認識なのだという。自分が注意を守らなかったがゆえに怪我をし、その見せしめとして校内引き回しの刑を食らうのだ、と。
 ブルーは心底、驚いた。ハーレイに抱き上げられて運ばれることを嫌がる者がいるなんて…。
「じゃあ、どうやって運んでいるの? そういう罰にならない時は?」
 きちんと注意を払っていても怪我をすることは少なくない。体育の時間は苦手だけれども、その体育で何度も見て来た。転んだり、誰かと接触したりして怪我をした子を。
 不幸にして怪我をしてしまったハーレイの教え子はどうなるのだろう? ブルーが抱いた素朴な疑問に、ハーレイは「ああ」と事も無げに答えた。
「もちろん、背負うさ」
「背負う!?」
 ハーレイの広い背中だったら、体格のいい生徒であっても背負えるだろう。そして…。
「ぼく、一回もやったことない!」
 ブルーはハーレイの広い背中に背負って貰ったことが無かった。今の生でも一度も無いし、前の生でも経験が無い。あんなに大きな背中なのに。がっしりとした肩幅が頼もしいのに…。
 自分は如何に美味しい思いをし損ねたのか、という気がした。お姫様抱っこも素敵だけれども、背中だってきっと気持ちいい。ハーレイの温もりを感じながら揺られて、支えられて。
 むくむくと湧き上がって来る背中への憧れ。ハーレイの背中に背負われてみたい。
「それ、やって欲しい! 背負って欲しいよ!」
 前の時にもやってないもの、とブルーがせがむと「前は必要無かったろうが」と返された。
「お前は大きくても軽かったしな? 様子を見ながら運ぶ分には抱いた方がいい」
「でも…!」
「お前も背負えと言わなかったぞ、抱っこで満足してたんだろうが」
「……うーっ……」
 言い返そうにも、前の生で背負って欲しいと思ったことが無いのは事実。ハーレイが他の誰かを背負って歩いていたなら思い付いたろうが、生憎と一度も目にしなかった。それでも背中に向いてしまった目は「それもやりたい」とブルーの心をかき立てる。あの広い背中に背負われたいと。
 そう、今度の生では背負って欲しい。お姫様抱っこもやって欲しいし、温かな背中も感じたい。どちらも家では無理そうだけれど、もしも学校で倒れたならば…。



「ハーレイ、背負うか、抱っこか、どっちか!」
 どっちでもいいから、とブルーは強請った。学校の中で倒れていたなら運んで欲しいと。
「分かった、分かった。…いつかその辺で倒れてたらな」
 行き先がベッドだったら運んでやる、とハーレイがパチンと片目を瞑る。
「ただしあくまで学校で、だぞ。この家の中なら運ぶまでもないしな、ベッドは其処だ」
 担ぎ上げたらゴールインだ、と笑うハーレイに、ブルーは「学校でいいよ」と頷く。
「学校でいいから、どっちか、お願い」
「よしきた、俺に任せておけ。…いやはや、今から楽しみだな? どんな噂が立つやらなあ…」
「噂?」
「お前の噂さ、お姫様抱っこで運ばれてったら不名誉だぞ! 一生モノの男の恥だ」
 女の子にも何と言われるやらなあ、とハーレイは可笑しくてたまらないという様子で笑った。
「俺とお前が恋人同士なんていう嬉しい噂はまず立たないさ。お前に笑える名前がつくのが見えるようだな、ブルーちゃんとか」
「ブルーちゃん!?」
「お姫様だぞ、女の子の名前は「ちゃん」づけだろうが」
「…そ、それは……」
 小さな頃には「ブルーちゃん」だった。よく女の子と間違えられていた頃は、お隣のおばさんや郵便配達のおじさんたちにそう呼ばれていたし、ブルー自身も気にしなかった。それがいつからか「ブルー君」に代わり、成長した気になっていたのに「ブルーちゃん」だとは…。
「嫌だよ、ブルーちゃんなんて! 学校で抱っこは要らないよ!」
「なんでだ、して欲しかったんだろう?」
 遠慮するな、と胸を叩いてみせるハーレイに「背負う方でいいよ!」とブルーは叫んだ。
「抱っこの方は我慢するから! 大きくなるまで!」
 そうは言ったものの、少し寂しい。して欲しかったお姫様抱っこ。ハーレイの腕に身体を預けて運ばれる時の例えようもない充足感と心地よさは当分、今の身体では味わえない。
 俯いてしまったブルーの頭をハーレイの手がクシャリと撫でた。
「…分かってるさ、お前の気持ちはな。だがな、今はまだ応えてやれないんだ」
 すまん、と真摯な瞳で謝るハーレイ。さっきまでの笑いが嘘だったように。
「…ハーレイ…?」
「いつかお前が大きくなったら、ちゃんとベッドまで連れてってやる。…意味は分かるな?」
「…うん…」
 ブルーの頬が真っ赤に染まった。いつか望みが叶う時には、自分は、きっと…。



 今は叶わないらしい、お姫様抱っこ。
 けれどブルーには今の生での目標が出来た。前の生では思いもしなかったハーレイの背中。その広い背中に背負って貰って移動すること。
「ねえ、ハーレイ? 背負って貰う方なら学校でやってくれるんだよね?」
「お前の家だとベッドに担ぎ上げて終わりだからなあ、まあ、学校しか無いだろうな」
 だが、とハーレイはブルーの額を指先で弾く。
「それを狙って無理して学校へ来るのは無しだ。お前が寝込む姿は見たくないんだ」
「…だけど…」
「でも、も、だけど、も聞きたくはないな」
 病気になって辛い思いをするのも、苦しくなるのも、お前だろうが。
 背負ってやるのは何でもないが、その前に、お前。行き倒れるなよ、学校で……な。
 しっかり食べて、丈夫になれ。
「……うん……」
 それがハーレイの心からの望みで、ブルーの身体を気遣っての言葉なのだと分かったから。
 ブルーはコクリと頷いた。
 学校で倒れないようにしたい。ハーレイに心配させたくはない。
(…でも……)
 同じ倒れるならハーレイの前で、と子供ならではの欲張り心も顔を出す。
 お姫様抱っこは当分無理でも、ハーレイの背中。其処に背負って貰えるのならば、保健室行きも気にしない。倒れて、寝込んで、学校を休んでしまったとしても…。
(それにハーレイのスープもつくしね)
 ブルーが寝込んだ時には大抵、ハーレイが家まで作りに来てくれる。
 前の生でブルーのためだけに作ってくれていた野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴で優しい味わいのスープ。
 広い背中に背負って貰って、あの懐かしい味のスープが飲めるなら…。
(うん、それだけでとっても幸せだよね)
 ふふっ、とブルーは微笑んだ。ハーレイに心配させたくはないのだけれども、心配してかまって欲しいとも思う。いつか一緒に暮らせるようになるまでの間は、そのくらい…。
(いいよね、ちょっとくらいはね…)
 ねえ、ハーレイ?
 ちょっとくらい我儘を言ってもいいよね、ぼくはハーレイの恋人だから…。




            ぼくを運んで・了


※今はして貰えない、お姫様抱っこ。流石に色々無理がありすぎますね、これは。
 今度は背負って欲しくなったようですが、子供ならではの我儘全開かも…。
 ←拍手して下さる方がおられましたらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv





季節は春。新年度にお馴染みのドタバタも終わって私たちは今年も1年A組、担任はグレイブ先生です。授業も始まって落ち着いてくる時期の筈なんですけど、キース君が朝から浮かない顔。放課後に出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でもイマイチ元気がありません。
「かみお~ん♪ お代わりの欲しい人、手を挙げてー!」
ハイハイハイッ! と手が上がってイチゴのミルフィーユが切り分けられる中、キース君は一人でズズッとコーヒーを。それも冷めかかったコーヒーだったり…。
「あれっ、キースは要らないの?」
手を挙げたのに、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に訊かれて、慌てたように空のお皿を前へ押し出すキース君。やっぱり何処か変ですよ?
「おやおや、キースはどうしたんだい?」
元気が無いねえ、と会長さんが紅茶のカップを傾けて。
「とにかくコーヒーは飲み干さないと冷めたまんまになっちゃうけれど? それでいいなら止めないけどさ」
「い、いや…! コーヒーは美味い方がいい」
熱いのを頼む、と一気飲みしたキース君のカップに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が香り高いコーヒーのお代わりを。それでもキース君はどうも気分が晴れないようで…。
「先輩、今日は変ですよ? 昨日は何かあったんですか?」
法事でしたっけ、と尋ねたシロエ君にキース君は。
「あ、ああ…。まあ……」
「そんなにハードなヤツだったのかよ?」
法事バテなんてキースらしくねえな、とサム君だって不思議そう。元老寺の副住職なキース君は法事も沢山こなしています。春や秋のお彼岸などでは導師と呼ばれる主役を務めることもありますし、今更普通の法事なんかで疲れが出るとも思えませんが…。
「…法事は問題無かったんだ。ただ、親父に出された宿題が……」
「「「宿題?」」」
「ああ。親父にそろそろ取り組んでおけと言われてな…。戒名をつける練習を」
「「「…戒名?」」」
妙な宿題もあったものだ、と顔を見合わせる私たち。あれって練習が要るんでしょうか? そりゃまあ、使っちゃいけない文字があるとか、門外漢には理解できない細かい規則はありそうかな?



「戒名ねえ……」
どういうドジを踏んだんだい、と遠慮ない質問は会長さん。伝説の高僧、銀青様にジロジロと見られたキース君はギクリとした顔で。
「…そ、それが…。そのぅ……」
「言いにくいような失敗をやらかしてしまった、と。アドス和尚が激怒するような」
詳しく聞かせて貰おうか、と会長さんはミルフィーユにフォークを入れつつ、のんびりと。
「みんなも気になるポイントだろう? キースがドジを踏んだとなればね」
「俺は後学のために聞きてえかな。いずれは坊主になるんだからよ」
お前もだよな、とサム君に肩を叩かれたジョミー君が「違う!」と悲鳴を上げましたけれど、他の面子は私も含めて興味津々。頭が良くて優等生のキース君はお坊さんの大学も首席で卒業しています。お坊さんの世界ではエリートの卵に入る筈なのに、戒名くらいで何故に失敗?
「…お前たちには分からんだろうな、俺たち坊主の苦労なんかは」
あれで戒名も大変なんだ、とキース君は溜息をつきました。
「戒名の基本は生前の名前と行いなんだ。どんな人生を送った人か、お寺に功績があった人か。その辺も考慮しながらつけていくわけだ」
「お金次第だと聞きましたけど?」
シロエ君の突っ込みをキース君は軽く一蹴。
「そういう寺も無いことはないが、元老寺ではそれは無い。戒名料だと持ってこられても突き返す。それが親父の方針でもあるし、俺の祖父さんもそうだったそうだ。そういう姿勢を貫くからには過去帳の管理も大変で…」
名付ける時には御先祖様の戒名までチェックするのだ、と聞かされて苦労の一端を垣間見た気分。元老寺は古いお寺だけに檀家さんの御先祖様も多そうです。
「…俺が親父に出された宿題は、言わば架空の戒名で…。親父が適当に考えた名前と経歴を渡されてな。この人に相応しい戒名を考えておけ、と言われたんだ。そして昨日が提出期限で」
「…それで?」
言ってしまえば楽になるよ、と会長さんが先を促し、キース君はガックリと肩を落とすと。
「…ダブルブッキングだ……」
「「「ダブルブッキング!?」」」
飛行機とかレストランの予約だったら分かりますけど、戒名でダブルブッキング? それってどういう意味なんですか?



項垂れているキース君を他所に、会長さんは「あーあ…」とイチゴのミルフィーユをパクリ。
「やっちゃいけないことをやったね、副住職? 過去帳をチェックしなかっただろう?」
「…架空の人間と経歴だから、と舐めていた点は確かにあった…」
失敗だった、とキース君は肩を落としています。
「俺としては会心の出来の戒名だったが、親父に一喝されたんだ。檀家さんの前で大恥をかくぞ、と怒鳴られた上に今朝は境内の掃除を一人で…」
「「「えーーーっ!!!」」」
あの広い境内を一人でですか? いつもは宿坊に勤める人が総出で掃除してるのに? 仰天する私たちに向かって、会長さんが。
「ダブルブッキングの罪は重いんだよ。今回は練習だったから問題ないけど、本当にやったら後が無い。檀家さんの前で大恥どころか、お詫び行脚は必須だね」
「…ダブルブッキングって何なんだよ?」
サム君の疑問に、会長さんは淡々と。
「同じ戒名をつけることだよ、全く別の人に対してね。そういう事態に陥らないよう、過去帳チェックは必要不可欠。今は便利な戒名管理ソフトも存在するだけにアドス和尚の怒りは当然」
「あら、同姓同名ってよくあるわよ?」
スウェナちゃんの指摘に私たちは頷きましたが、首を左右に振る会長さん。
「…別のお寺なら同じ戒名も有り得るさ。だけど一つのお寺でかぶるのはマズイ。お彼岸の法要とかで卒塔婆を回向するだろう? あの時に必ず戒名を読む。卒塔婆を頼んだ人の名前も一緒に読むから、御先祖様と同じ名前が他人様につけられていたら即バレだってば」
赤っ恥な上に怠慢と認定され、お詫びに行かねばならないそうです。あまつさえ戒名をつけ直すとなれば位牌や墓石に刻んだ戒名もパアになりますし、もう色々とド顰蹙。
「それをキースがやっちゃったんだよ、架空の人で練習中だから未遂だけどね。…これは当分引き摺りそうだよ、掃除は今日だけじゃ済まないかと」
「…その通りだ。四月末までやれと言われた。世間がゴールデンウィークに突入しても、俺は四月いっぱい一人で境内の掃除なんだ…」
ゴールデンウィークは五月に入るまでお預けだ、と黄昏ているキース君。気の毒としか言いようがありませんけど、自業自得じゃ仕方ないかも…。



「…そっかぁ、キースはゴールデンウィークの前半、無いんだ?」
ジョミー君が口にした一言でキース君はズーン…と落ち込み、会長さんが。
「そのようだねえ…。悲惨な四月を送ることになるキースのために、ここは一発、慰安旅行!」
「「「けっこうです!」」」
キース君を除いた全員の声が重なりました。ゴールデンウィークは何処のホテルも旅館も満員。マツカ君の別荘に行った年もありますけれど、会長さんが提案した場合はもれなくシャングリラ号で宇宙の旅です。おまけに会長さんが歓迎と称して極悪なイベントを企画することも数多く…。
「えっ、せっかくの慰安旅行なのに…」
断らなくてもいいだろう、と会長さんはつまらなそう。その表情がコワイんです、と誰もが声に出さずに凝視していると。
「心配しなくても行き先はシャングリラ号じゃない。穴場と言えば穴場だけどさ」
「…ロクでもなさそうですけれど?」
遠慮のないシロエ君に、会長さんはチッチッと人差し指を左右に。
「ところがそうじゃないんだな。…行きたくないかい、洞窟温泉」
「「「…洞窟温泉?」」」
それは耳慣れない言葉でしたが、温泉となれば話は別です。キース君も身を乗り出していたり…。
「洞窟温泉は名前のとおり、洞窟の中が温泉になっているんだよ。この前、フィシスと一緒に行ってね…。混浴が売りの場所だったから最高で」
「…おい」
キース君が割って入りました。
「女子が二人もいるというのに混浴の風呂は無いだろう! 俺は却下だ」
「…そうね、混浴は私も嫌だわ」
お風呂に水着はダメでしょう? とスウェナちゃん。私もコクコク頷きましたが、会長さんは「心配無用」と微笑んで。
「いわゆる洞窟温泉ってヤツはゴールデンウィークは満員御礼! だけど穴場は存在する。それこそ貸し切り、水着もOK、普通にお風呂もOKって場所が」
「…何処に?」
今から予約が取れるわけ? と尋ねたジョミー君に、会長さんが。
「予約なんか最初から必要無いよ。そもそも普通じゃ行けない場所だし、第一、立ち入り禁止だってば」
「「「立ち入り禁止!?」」」
それって危険な場所なのでは、と嫌な予感で背筋がゾゾッと。やはり今年のゴールデンウィークも受難で終わってしまうとか…?



恐ろしげな行き先を提案された私たちは震え上がりました。ところが会長さんはニッコリと。
「文字通りの穴場な温泉なんだよ、地上から見れば垂直な穴の底に温泉が…ね」
縦穴の深さは十メートル以上あるだろう、とパチンと指が鳴らされ、壁に現れた中継画面。鉄の柵で囲われた深くて真っ暗な穴が映し出されて、そこから微かな湯気がフワフワ。
「これは鍾乳洞なのさ。地下に温泉が湧いているけど、この状態だから洞窟風呂なんて夢のまた夢というヤツで…。ついでに温泉も奥が深くて洞窟探検のプロでも先へは進めない」
お湯の中を潜って進んで行くのは大変なのだ、と会長さんは教えてくれました。
「ロープを手繰って十六メートルほど進んで挫折だったかな? 現時点ではこの縦穴とお湯が溜まった部分だけしか知られていないわけだけど…。実はこの先に」
中継画面がパッと切り替わり、観光で行くような大きな鍾乳洞が現れました。サイオンで明るさを補っているらしく、天井までもがハッキリ見えます。広大な洞内にはお湯の川が流れ、温泉を湛えた地底湖だか池だかが点々と…。
「「「……スゴイ……」」」
「だろ? ここの存在は誰も知らない。湯加減と泉質はもう最高だし、行くなら穴場だと思うんだけどね?」
地底の温泉で遊び放題、と聞いた私たちは万歳三唱。でも、宿とかはどうするのでしょう? ゴールデンウィークだと何処も予約で一杯なのでは…。
「その心配も要らないさ。マツカ、この洞窟の場所なんだけど…」
最寄りの駅の名前がコレで、と会長さんに声を掛けられたマツカ君が「ああ、それなら…」と執事さんに電話をかけて、間もなく別荘確保です。いろんな所に別荘のあるマツカ君と友達でホントに良かった、と再び万歳。美味しい食事も期待出来ますし…。
「…いいねえ、今年は温泉だって?」
「「「!!?」」」
ぼくも行きたい、とフワリと翻る紫のマント。忘れてましたよ、ソルジャーを! シャングリラ号へ行く時には絶対来ないと分かってますから、ゴールデンウィークの計画は大抵ソルジャー抜き。それだけにキッパリすっかり忘れていたのに、来ちゃいましたか、そうですか…。



誰も知らない洞窟温泉と聞いたソルジャーの顔は輝いていました。おまけにマツカ君の別荘つき。来なければ損だと思ったらしく、キース君のための慰安旅行を乗っ取る気持ち満々で。
「なんだか凄い温泉だねえ…。ブルー、どうやって見付けたわけ?」
「えっ、それは…。フィシスと行った洞窟温泉も良かったんだけど、あっちは普通の洞窟でさ…。どうせなら鍾乳洞だと良かったのに、と調べまくっても無いんだな、これが」
この国で温泉の湧く鍾乳洞はコレだけらしい、と中継画面を縦穴の入口に切り替える会長さん。
「これじゃお風呂にはならないし…。だけど相手は鍾乳洞だ。奥へ行けば広がる可能性もゼロではないな、とサイオンで先を探っていったら巨大な洞窟風呂に出たんだ」
だけどフィシスと行くのはちょっと…、と会長さんはブツブツと。
「ここじゃ設備が足りなさすぎる。ぼくの女神を連れて行くには湯上り用のシャワー完備でアメニティグッズやタオルなんかも充実している施設でないと…。野趣あふれるのはダメだってば」
「…そんなものかな? ぼくは全く気にしないけど」
ハーレイも連れて来てもいいよね、との言葉にズズーン…と落ち込む私たち。バカップルとの旅のキツさは骨身にしみて沁みまくっています。また来るのか、と泣きたいですけど、もはや手遅れというもので…。
「マツカ、ぼくたちが泊まれる部屋もある?」
「ええ、ご用意させて頂きますよ」
広さは充分ありますから、とマツカ君が答え、私たちが涙目になった時。
「…そうだ、ハーレイも呼んじゃおう!」
会長さんが声を上げました。
「ブルーたちが来てしまうんなら、キースの慰安旅行どころじゃないし…。この際、ハーレイを地獄の道連れってね」
「あんた、正気か!?」
教頭先生と風呂に入る気か、とキース君が突っ込むと、会長さんは。
「それはもちろん。…ただしタダでは入らせないよ? ハーレイには娯楽を提供して貰う。見事に温泉まで辿り着けたら一緒に入浴するってことで」
「「「は?」」」
「ケービングをして貰うのさ。いわゆる洞窟探検ってヤツ!」
まずは立ち入り禁止の柵を乗り越えて入るトコから、とブチ上げられて全員が絶句。ケービングといえば洞窟探検、あの縦穴と底に溜まった温泉を突破するのが一緒に入浴の条件ですか~!



教頭先生を巻き込むと決めた会長さん。その夜、会長さんの家でソルジャーも交えての夕食の席に教頭先生が招かれました。夕食のメニューは味噌ちゃんこ。和気あいあいと鍋を囲んで盛り上がった後、会長さんが徐に…。
「ハーレイ、君を招待した理由なんだけど…。ゴールデンウィークは暇だった?」
「ああ、特に予定は入れていないが…。シャングリラ号も問題は無いし」
「それは良かった。ぼくたちと一緒に温泉旅行に行かないかい?」
マツカの別荘に泊まって洞窟温泉、と切り出された教頭先生は二つ返事で即答でした。毎年、春のお彼岸の慰安旅行に同行なさっていますけれども、あの旅は教頭先生がスポンサー。美味しい思いが出来る代わりにお財布の方は大打撃です。でも今回の旅はマツカ君持ち。
「喜んで参加させて貰おう。…気にかけて貰えるとは嬉しいものだな」
「どういたしまして。ただ、行き先がちょっと変わっていてねえ…」
こんな感じで、と壁に昼間見たのと同じ洞窟の入口がパッと。
「ここを乗り越えないと温泉に辿り着けないんだよ。見てのとおりの縦穴洞窟で、底にはこういう温泉プール。これを潜ってずーっと行った先に、こんな場所がね」
映し出された大洞窟に教頭先生が息を飲んでおられます。
「…これは見事な温泉だな…。瞬間移動で行けるわけだな?」
「ぼくたちはね」
君はケービングを頑張って、と会長さんは見惚れるような笑みを浮かべました。
「タイプ・グリーンのシールド能力はタイプ・ブルーに匹敵する。温泉プールを何十メートルも潜って泳いでも全く問題ない筈だ。それに水泳は得意だろう?」
「ま、待ってくれ! 私に自力で辿り着けと!?」
「そういうこと! 入口の柵も乗り越えるんだよ、縦穴もキッチリ下るんだね。まあ、飛び込んだって結果は同じなんだけど…。温泉プールが深いから怪我の心配は全然無いし」
根性で辿り着くように、と告げられた教頭先生は唖然呆然。そこへ会長さんのダメ押しが。
「それとね、お風呂マナーは守ってよ? 辿り着いた後にかかり湯もせずにドボンは禁止! 湯桶とか石鹸も持参して貰う。防水の袋に入れて持ち込むか、シールドするかは御自由にどうぞ」
「……そ、そこまでしないといけないのか……」
「嫌なら来なくていいんだけれど?」
「いや、行く! お前と風呂に入れるチャンスだ、根性を見せて辿り着く!」
行くぞ、と燃え上がる教頭先生の闘志。…洞窟温泉旅行、どんな展開になるのやら…。



こうして決まったゴールデンウィークのお出掛けまでの間、キース君は毎朝、たった一人で元老寺の境内を掃除し続けました。戒名ダブルブッキングのキツさを嫌というほど思い知らされたみたいです。でも実際につけちゃうよりかはマシだと言えるらしくって。
「お疲れ様、キース。いよいよ慰安旅行だねえ」
よく頑張ったよ、と温泉行きの電車の中で会長さんが労いを。
「若干面子が増えちゃったけど、慰安旅行には違いない。もしもホントに同じ戒名をつけててごらんよ、悲惨だよ? 檀家さんの信用は失せるし、悪い噂は流れるし…。それくらいなら境内の掃除と面子が増えた慰安旅行で我慢ってね」
「…分かっている。昨夜、親父にも散々言われた。旅の間に銀青様に叱って貰えとも言ってたな。だが、叱られる前にこの面子では…」
俺は既に罰を受けている、と呻くキース君の視線の先ではソルジャー夫妻が並んで座って駅弁の食べさせ合いの真っ最中。お箸で「あ~ん♪」だけならともかく、口移しまで…。
「はい、ハーレイ。美味しいよ、これ」
「ありがとうございます。あなたの唇ごと頂きますよ」
「「「………」」」
バカップルめ、と睨み付ける私たちとは真逆の反応が教頭先生。涎の垂れそうな顔でソルジャー夫妻のイチャつきぶりを見ておられます。会長さんがチッと舌打ちをして。
「…ぼくまで罰を受けているような気がするよ。ブルーはアレが基本だけれども、見惚れるハーレイに腹が立つったら!」
「だが、誘ったのはあんただぞ?」
「そりゃそうだけど…。洞窟温泉に辿り着くまでは笑いの代わりに涙が出そうだ」
バカップルを見るとハーレイの妄想が更に爆発するのを忘れていた、と会長さんは悔しそう。教頭先生だけは瞬間移動で現地で合流で良かったかもです。
「マツカに手配して貰った貸し切り車両も妄想バカには勿体ないよ。デッキどころか連結部に放り出したい気分」
でなきゃ満席の自由席だ、と文句たらたらの会長さん。ゴールデンウィークだけに乗車率が高いですから、教頭先生が自由席に行ったら通行の邪魔だと思うんですけど…。
「分かってるってば、だからデッキか連結部! 座席なんて贅沢すぎるんだよ、うん」
ここまでボロカスに言われる教頭先生、洞窟温泉に着いたらどうなるのでしょう? 私たちは瞬間移動で素敵な温泉に移動ですけど、教頭先生はケービングですよね?



洞窟温泉に近いマツカ君の別荘に着くと、執事さんが迎えてくれました。山の別荘に似た二階建の洒落た建物には暖炉を備えた立派なホールやダイニングルーム、ゲストルームも充分に。二泊三日の行程ですから洞窟温泉は明日に行く予定。そして…。
「今日は露天風呂に行かないかい?」
会長さんの提案で別荘から近い温泉施設に出掛けることになりました。なんでも洞窟温泉の縦穴に湧いているのと同じ泉質のお湯なのだそうで、これは気分が盛り上がります。
「行く、行く!」
ジョミー君が賛成し、私たちも。マイクロバスを出して貰って露天風呂だの大浴場だのと満喫する間に、ソルジャー夫妻は貸し切りのお風呂に入ったそうです。帰りの車内では至極ご機嫌、夕食の席でも危ない発言が出まくりで。
「素敵だったよ、あのお風呂! 青の間のバスルームも悪くないけど、広いと気分が違うよね」
「ええ、ブルー…。私も身体を存分に伸ばせますからね」
「君のパワーを活かし放題、存分にヤれるって最高だよ、うん」
明日の洞窟風呂にも期待、と大はしゃぎのソルジャーに会長さんが出したレッドカードは十枚を遙かに超える勢い。しかしソルジャーは退場どころか騒ぐ一方、教頭先生は鼻にティッシュで。
「……あのねえ……」
いい加減にしたまえ、と会長さんの地を這う声が。
「ハーレイにどれだけ鼻血を噴かせりゃ気が済むんだい?」
「えっ? 別にいいじゃないか、鼻血くらいは毎度のことだし」
「明日のケービングに差し障るんだよ!」
貧血で倒れられたらケービングどころではないんだから、と会長さんは怒り心頭。
「ぼくはハーレイに大いに期待してるんだ。水を差さないでくれたまえ!」
「…そうなんだ……。一緒にお風呂に入りたいんだね?」
それならやめる、と猥談もどきにストップが。
「君とハーレイの仲が深まるチャンスを邪魔はしないよ、馬に蹴られて死にたくはないし」
ねえ、ハーレイ? とソルジャーが呼んだ相手はキャプテンの方で、その場で始まる熱いキス。喋りが止んだら次はコレか、と額を押さえる私たちなど目に入らないバカップルはイチャつき三昧です。それはともかく、会長さんの教頭先生への期待って……絶対、お風呂じゃないような気が…。



翌日、朝食を終えた私たちは別荘の広間に集合しました。洞窟温泉を満喫するためのタオルやサンダル、昼食用のランチボックス、他にも荷物が沢山です。執事さんはサイオンを持つお仲間ですから、瞬間移動でお出掛けしても全く問題ありません。その一方で…。
「…ブルー、頑張って辿り着くからな!」
待っていてくれ、と決意表明をする教頭先生の荷物はケービング用のロープの他に湯桶などのお風呂グッズで溢れています。その教頭先生が玄関へ向かわれるのを見送った後で…。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
元気一杯の「そるじゃぁ・ぶるぅ」の号令を合図に会長さんとソルジャー、合わせて三人分のタイプ・ブルーのサイオンが。パアァッと青い光が溢れたかと思うと、そこは広大な鍾乳洞でした。
「「「うわぁ……」」」
広い、と叫んだ声があちこちに木霊する神秘の空間。会長さんたちがサイオンで調整してくれているらしく、青の間みたいに美しく照らし出された鍾乳石や地底湖が。
「えーっと…。お湯の川は見れば分かるよね?」
アレは安全、と会長さん。
「深くもないし、熱くもないよ。…地底湖の方はバラエティ豊かだから気を付けて。殆どはさほど深くないけど、向こうのはちょっとヤバめかも」
縁は浅いけど真ん中が底無し、と教えられて背筋に冷たいものが。
「ぶるぅやぼくなら平気だけどねえ、君たちは入らない方がいい。とはいえ、度胸試しで入って沈んでも救助するから、お好みでどうぞ」
「ふうん? そういうヤツならぼくたち向けかな」
貸し切りにしてもかまわないかい? とソルジャーの赤い瞳がキラキラと。昨日の温泉施設でのことを考え合わせるとロクなことではなさそうですけど、追い払えるならそれも良きかな。会長さんもそう思ったらしく。
「…貸し切るんならシールドしてよ? もちろん音もね」
「分かってる。これだけ声がよく響くんだし、本当はシールドしたくないけど…」
ハーレイとの素敵な時間を確保するために譲歩するよ、とウインクしたソルジャーはキャプテンと連れ立って奥の底無し温泉へと。さて、邪魔者は追っ払いましたし…。
「まずは普通にお風呂かな? 女子がそっちで、男子がこっち」
会長さんが指示し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ お風呂の用意だね!」
荷物の中から出ました、着替え用のテントや仕切り用の組み立てカーテンやら。スウェナちゃんと私は「そるじゃぁ・ぶるぅ」も一緒に天然の洞窟風呂に浸かって大満足。ジョミー君たちの歓声も聞こえてきますし、男湯も湯加減、最高でしょうね。



お風呂の次は水着に着替えて大きな地底湖で温水プール。途中でソルジャーとキャプテンもやって来ましたが、泳ぐよりは貸し切り風呂でイチャつく方が良かったとみえて間もなく姿を消しました。そんな中、会長さんがニヤリと笑って。
「…ふふ、ハーレイがようやく入口に着いたようだよ」
「「「え?」」」
まだ入口にも着いてなかったんですか、教頭先生? そういえば別荘からの距離、かなり離れてましたっけ…。それに洞窟の入口までは道なき道の急斜面を登らなくてはいけないらしく。
「急斜面というよりアレだね、道に迷ったみたいだねえ? 地図は渡したけど目印も無いし…。これから柵を乗り越えるらしい」
こんな感じで、と現れた中継画面では教頭先生が洞窟の入口を囲んだ鉄柵を乗り越える所でした。立ち入り禁止の看板を無視して入った教頭先生、背中のリュックから縦穴を下りるためのロープを引っ張り出しておられますけど…。
「「「あーーーっ!!!」」」
運が悪いとはこういうことを言うのでしょう。不安定な足場で作業中だった教頭先生、足を滑らせて真っ逆さまに縦穴へ。ドッパーン! と派手な水音が聞こえ、切り替わった画面では真っ暗な洞内の水面で立ち泳ぎする教頭先生が…。
「…お、おい! 救助しないとヤバイだろうが!」
暗いと荷物も見えないぞ、と叫んだキース君に、会長さんは。
「平気だってば、サイオンを使えば見えるだろ? ほら、ちゃんとリュックを開けてるし」
「「「…本当だ…」」」
教頭先生は立ち泳ぎしながらリュックを開けて中から湯桶を出し、そこに石鹸とタオルを入れると頭の上にしっかりと括りつけました。他の荷物はリュックごと手近な岩にロープで結び、やおらシールドを張ると温泉プールへ。
「あのまま潜って来る気だよ。落ちたはずみに開き直ってしまったらしいね、お風呂グッズさえ揃っていれば問題ないと」
辿り着くのも時間の問題、と呆れた口調の会長さん。中継画面の教頭先生は温泉プールから鍾乳洞に繋がる地下水路を力強く泳いでいます。頭の湯桶が間抜けですけど、泳ぐ姿は逞しいかな?



タイプ・グリーンにしてシャングリラ号のキャプテンでもある教頭先生。サイオン能力は流石に高く、真っ暗闇の筈の水路を迷わずに泳ぎ抜け、私たちがいる鍾乳洞へと辿り着きました。
「おーい、ブルー!!」
来たぞ、と遙か向こうで手を振る教頭先生に、会長さんが大きな声で。
「お風呂マナーは守ってよ? そっちに川があるだろう?」
「分かった! まずはかかり湯だったな」
待っていてくれ、と濡れた服を脱いでおられるのが分かります。やがてザバーッと水音が響き、会長さんがクスクスと。
「引っ掛かった、引っ掛かった。素っ裸で身体を洗っているよ」
ぼくとお風呂に入るためには身体を綺麗に磨かないと、と嘲笑っている会長さんは水着姿。スウェナちゃんも私も他の男子も「そるじゃぁ・ぶるぅ」も、只今、水着を着用中です。なにしろ今日のメインイベントは鍾乳洞の温水プール! 泳いだ後にはもう一度お風呂に入るでしょうけど…。
「会長、これからどうするんです?」
教頭先生、裸ですよ? と尋ねたシロエ君に会長さんが「シッ!」と。
「いいかい、女子は肩まで、男子は腰より上までお湯の中に……ね。水着だとハーレイにバレないように」
「「「……???」」」
奇妙な指示ですが、まあいいか…。これじゃ混浴みたいだけれど、と肩まで沈めると、間もなく腰をタオルで隠して湯桶を抱えた教頭先生が大股でズカズカと近付いて来ました。
「待たせたな、ブルー。…おや、ここは混浴だったのか?」
女子もいたのか、と教頭先生は少し頬を赤らめたものの、湯桶を地底湖のプールの傍らに置くと。
「では、失礼して…。ブルー、お前の隣に入っていいな?」
腰タオルを解き、頭に乗せる教頭先生。スウェナちゃんと私の視界にはモザイクがかかり、真っ裸の教頭先生が会長さんの隣に足を浸けた途端。
「痴漢ーーーっ!!!」
会長さんの絶叫が響き、教頭先生は哀れ尻餅を。頭のタオルが落ちて辛うじて股間を隠しましたが、会長さんはギャーギャーと。
「なんでプールに裸で来るのさ、こっちは温水プールだってば!」
「…ぷ、…プール……?」
なんだそれは、と掠れた声の教頭先生に会長さんがザバーッと立ち上がって。
「ほら、水着! 他の子たちも全員水着さ、混浴なんかじゃないんだからね! その格好で入るんだったら向こう側だよ、ブルーの頭が見えるだろ!」
スケベ、エロ教師、と罵倒されまくった教頭先生は大パニックで駆け出してゆき…。



人間、慌てふためくと周りが見えなくなるようです。会長さんが指差したソルジャー夫妻が入っている貸し切り風呂と、私たちの温水プールの間にはカーテンで仕切られた仮設の男湯と女湯の他にも浅い地底湖が幾つかありました。なのに…。
「し、失礼したーーーっ!!!」
出直してくる、と真っ赤になった教頭先生、タオルで前を隠すのも忘れて一目散に貸し切り風呂へと突っ走り…。
「お邪魔させて頂きますーっ!」
ドボン! と飛び込んだ貸し切り風呂でソルジャー夫妻が何をしていたのかは分かりません。なにしろ音声はシールドされていた状態ですし、姿の方も「いる」としか分からない有様。ですから教頭先生が何を見たのか、何を聞いたのか、分かる人は誰もいないのですけど…。
「ブルーーーッ!!」
ソルジャーの会長さんを呼ぶ大きな声が。
「何さ!?」
「邪魔されたんだよ、お風呂男に!!」
なんかタオルだけ浮いているけど、と聞こえてビックリ仰天の私たち。タオルだけって…それじゃ教頭先生は? まさか底無しの地底湖とやらに落ちたのか、とプールから上がって走ってゆくとソルジャー夫妻がお風呂から頭だけを出しています。
「……困りましたね、ブルー…」
「だよねえ、これじゃ出られもしないや…」
いい所だったのに邪魔をされるし、このまま出たらレッドカードだし…、と文句を垂れるソルジャーに会長さんが。
「服ならサイオンで着られるだろう! それよりハーレイはどうなったのさ!」
「…ん? それがねえ……」
その辺もあって出られなくって、とソルジャーの笑みがニンマリと。
「凄い勢いで飛び込んで来て、足を滑らせてドッパーン! とね。でもって深みにはまる途中で、運よく見ちゃったものだから…」
「何処まで見られていたのでしょうねえ…?」
私はあなたに夢中でしたし、とキャプテンがソルジャーの頬にキスをしています。えーっと、それってつまり、教頭先生は大人の時間なソルジャー夫妻を目撃したと?
「多分ね」
それでもって今も期待に満ちたまま潜水中、と片目を瞑ってみせるソルジャーの言葉に、会長さんの怒りが炸裂。
「ハーレイのスケベーッ!!!」
ザッパーン!!! と噴き上がった水飛沫ならぬお湯飛沫。底無し地底湖でもタイプ・ブルーのサイオンが炸裂した時は思い切り逆流するようです…。



「…で? 何処が潜水中なんだって?」
腰にタオルを掛けられた姿で仰向けに横たわる教頭先生は完全に気絶していました。会長さん曰く、教頭先生の記憶はソルジャー夫妻の貸し切り風呂に飛び込んで以降は真っ白だそうで、探ろうにも中身が無いらしく。
「ぼくが思うに、君たちの姿で思考回路はショートだね。そのまま鼻血コースに走る代わりに底無し池にドボンしちゃったみたいだけれど?」
君たちを観察する余裕なんかは無かった筈だ、と会長さんがツンケンと言えば、ソルジャーは。
「…そうかなぁ? 君のサイオン大爆発のショックで記憶を手放しちゃっただけだと思うよ、持ってたらヤバイ記憶だからねえ…。なにしろぼくとハーレイが」
「その先、禁止!」
余計なことを口にするな、と睨まれたソルジャーの姿は今も貸し切り風呂の中。サイオン大逆流の最中もシールドを張ってキャプテンと共に持ち堪えただけに、出る気は全く無いらしく。
「…どうでもいいけど、こっちのハーレイを連れて向こうへ行ってくれないかな? ぼくたちは邪魔をされたんだからね」
仕切り直しでヤリまくるしか、とキャプテンを引き寄せ、たちまち始まるディープキス。うーん、教頭先生、やっぱり何かを見ちゃったのでしょうか…。
「どうだろう? 沈んだだけならマシなんだけどねえ、絶対に何も見ていないという保証も無いかな、ハーレイの場合」
そこが困ったトコなんだ、と会長さんは深い溜息。
「記憶も飛ぶほどの何かを見たって可能性もゼロではないんだよ。ついでにブルーの心はぼくにも全く読めないし…。もしも本当に潜水しながらブルーたちを観察していたんなら…」
もしもそうなら許せない、と拳を握った会長さんの瞳に激しい怒りの色が。
「疑わしきは罰せよ、だっけね。気絶したまま置いていく! 自力で洞窟、決死の脱出!」
「「「えぇぇっ!?」」」
疑わしきは罰せずでは、という私たちの主張は会長さんに却下されました。
「いいかい、戒名のダブルブッキングと同じで許されないことはあるものだよ。疑わしい戒名は決してつけない姿勢が大切、つけた場合は厳罰ってね。…旅行の切っ掛けが戒名ダブルブッキングなんだし、ぼくもハーレイを許す気は無いさ」
帰る時間までに目覚めなかったら置いて帰ろう、と会長さんは温水プールへスタスタと。ソルジャー夫妻は貸し切り風呂でイチャついてますし、教頭先生、決死の脱出コースでしょうか? そうならないよう、プールで時間を稼ぎますから、なんとか目覚めて下さいね~!




         お風呂な洞窟・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 お風呂な洞窟、実は存在するのです。本当に鉄柵で囲まれた穴の中から湯気がフワフワ。
 ただし、奥がどうなっているかは謎です、まだ探検した人がいないのでした…。
 来月はアニテラでのソルジャー・ブルーの祥月命日、7月28日が来ます。
 毎年恒例、7月は 「第1&第3月曜」 の月2更新でございます。
 次回は 「第1月曜」 7月6日の更新となります、よろしくです~!

毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、6月はソルジャーがスッポンタケを養子にするべく奮闘中…?
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv







「ハーレイの家、楽しかったのに…」
 ブルーは自分のベッドの上で膝を抱えて蹲っていた。今日は初めてハーレイの家に招かれ、母が焼いてくれたパウンドケーキを手土産に提げて出掛けて行った。家の中をぐるりと一周して見せて貰ったり、ハーレイが作ってくれたシチューなども食べた。
 それは楽しい時間を過ごして、明日も行きたいと思ったのに。今日は土曜日だから明日は日曜、ハーレイが家に来てくれる予定だったし、代わりに自分が訪ねて行きたいと思ったのに。
「…もうハーレイの家に行けないだなんて…」
 ブルーの表情が年相応ではなかったから、と大きくなるまで来てはいけないと言われてしまって次の機会は無くなった。ハーレイにバス停まで送って貰う時から、もう悲しくてたまらなかった。
 バスが来て、ハーレイと別れて乗って。手を振っているハーレイの姿が遠くに見えなくなったら涙が零れた。そのまま泣き出しそうになるのをグッと堪えて我慢した。
 ハーレイの家には行けなくなってしまったけれども、それは小さい間だけ。いつか身体が大きくなったら呼んで貰えるのだし、その時はいつかやって来る。ほんの数年待つだけなのだし、何より自分は前の生より幸せだから…。
 懸命に自分にそう言い聞かせて、「今日はとっても楽しかったよ」と両親に告げた。
 夕食の席ではハーレイの家での出来事を笑顔で二人に話して聞かせた。素敵な時間をたっぷりと味わって来たことは事実だったし、話したいことは山ほどあった。
 それでも自分の部屋に戻って、後は寝るだけになると寂しくなる。ハーレイが暮らしている家に明日も遊びに行きたかった、と悲しくなる。
(…でも、明日はハーレイが来てくれるから…。また会えるから…)
 前の生でメギドへ飛んだ時には明日など無かった。
 最後にハーレイの腕に触れた右の手。その手に残ったハーレイの温もりだけを抱いて逝くのだと覚悟して飛んだ。それなのにキースに撃たれた痛みが酷くて、大切な温もりを失くしてしまった。独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと泣きながら死んだ。
 あの時の絶望と悲しみを思えば、今の自分はどれほど幸せなことか。
 明日もハーレイに会うことが出来て、明後日も、その先のずっと先までも…。
 そしていつかはキスを交わして、本物の恋人同士になれる。結婚して共に歩んでゆく。
 ほんの少しの我慢なのだ、とブルーはベッドにもぐり込んで丸くなった。
(…今は一人だけど、大きくなったら…)
 いつかは一人で眠らなくてもいい日が来る。ハーレイの優しい腕に抱かれて眠れる日が来る。
 ハーレイの家に行けるくらいに大きくなったら、そうなる日もきっと近いのだ…。



 そんな思いで眠った次の日。約束通りハーレイが午前中からブルーを訪ねて来てくれた。普段と変わらない顔だったけれど、母がお茶とお菓子をテーブルに置いて部屋から出てゆくと…。
「ブルー、昨日はすまなかったな。…大丈夫か、あれから泣かなかったか?」
 ごめんな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「お前を呼んではやりたいんだが、色々と…な。本当にすまん」
「ううん、ぼくなら大丈夫。泣いていないよ」
 本当は帰りのバスで泣きかかったけれど、ブルーは笑顔で「平気」と答えた。ハーレイがホッとしたのが分かる。自分を心配してくれていたのだ、と感じて嬉しくなる。
(…本当のことを言わなくて良かった…)
 ハーレイを悲しませたくはなかったから。本当のことを告げたところで、ハーレイの家に呼んで貰えるわけではないと分かっていたから。そんな判断が出来る自分がちょっぴり誇らしく思えて、自慢したい気持ちになっていたら。
「そうだ、昨日の約束な」
 ハーレイが胸ポケットに手を突っ込んだ。
「約束?」
 昨日交わした約束と言えば、ハーレイの家へ二度と訪ねて行かないこと。もしかして誓約書でも作って持って来たのだろうか? そんな書類にサインしなくても、約束はちゃんと守るのに…。
(ぼくって、信用されてない?)
 少しガッカリしたのだけれど。
「ほら、ブルー。約束通り持って来てやったぞ」
 ハーレイがポケットから取り出したものは、折れ曲がらないように透明なケースに収めた一枚の写真。日だまりの床にチョコンと座った真っ白な可愛い猫の写真で。
「アルバムにあるか探しておくと言ってただろう? おふくろの猫だ」
「これ、ミーシャなの?」
「そうさ、お前に約束したから探してきたんだ。約束はきちんと守らないとな」
 お前もだぞ、と写真をテーブルに置きながらハーレイが微笑む。
「寂しいだろうが、大きくなるまで俺の家には絶対来るなよ。前とそっくりに大きくなったら、好きなだけ遊びに来ればいいから」
「うんっ!」
 ハーレイが約束を守ってくれたことが嬉しかった。ブルー自身はすっかり忘れてしまっていたというのに、写真を探して持って来てくれた。ほんの小さな約束をきちんと守ってくれたハーレイ。だから自分も応えなければ。ハーレイの家に行けないことは悲しいけれども、約束だから。



 テーブルの真ん中に置かれたミーシャの写真。ハーレイの家で聞いた話に出て来たとおりの白い猫。ハーレイが生まれるよりも前から、ハーレイの母が飼っていた猫。
「可愛い猫だね、ホントに真っ白」
「この頃で何歳くらいだったかなあ…。今のお前よりも年上の筈だが」
「ええっ?」
 ブルーは写真を覗き込んだ。そんな年にはとても見えない可愛らしい猫。
「お前より上には見えんだろう? それがミーシャの凄い所さ、おまけに甘えん坊だったしな? 俺の家に来た客はすっかり騙されていたもんだ。年寄り猫だとは誰も気付かん」
「それでおやつを貰えてたの?」
「可愛いですね、なんて言われてな。撫でて貰って、おやつ付きだ」
「そうなんだ…」
 写真の猫は確かに可愛い。道端で会ったらブルーだって声を掛けずにはいられないだろう。声を掛けて、そっと撫でてみて。甘えてくるなら抱き上げてみて…。
「ミーシャは本当に甘えん坊でな。その辺りはお前にそっくりだったな」
「ぼく?」
「甘えん坊な所がな。…俺の方が後に生まれて来たのに、俺が学校に行き始める頃にはミーシャに甘えられていたもんだ。自分よりでかくて抱っこしてくれれば甘えていいと思ったんだろうな」
 うん、本当にお前に似ている。
 ハーレイは向かい側に座ったブルーを見ながら目を細めた。
「前のお前は俺より年上だったしな? それなのに俺に甘えてばかりで、本当にミーシャそっくりだった。…ミーシャと違うのは俺にしか甘えて来なかったっていう所だな」
「……ソルジャーだったし……」
「それだけか? お前が一番年寄りだったからだろ、ゼルよりもな」
「…そうなのかも……」
 年長者としての遠慮も確かにあった。長老だけしかいない席では冗談なども飛び交っていたが、其処でもブルーは一番年上。砕けた口調で話しはしても、甘えた覚えは一度も無かった。
 前の生でブルーが甘えられた相手はハーレイだけ。アルタミラを脱出して間もない頃から甘えていたと記憶している。誰よりも頑丈で体格の良かったハーレイは、少年の姿で成長が止まっていたブルーを壊れ物のように扱い、何かと言えば「しっかり食べろ」と言っていたものだ。
 ブルーがソルジャーになってからはハーレイも敬語で話したけれども、それまではブルーを年下扱いするかのような言葉遣いが多かった…。



 懐かしく遠い過去へと思いを馳せていたら、ハーレイが「おい」と呼び掛けて来た。
「まさかお前、今度は狙って生まれて来たんじゃないだろうな?」
「えっ?」
「俺より小さく生まれて来ようと、わざと後から生まれなかったか?」
 怪しいぞ、と言われたブルーは「違うよ!」とムキになって反論した。
「そんなわけないよ、ぼくは小さすぎたから困ってるのに!」
 しかしハーレイは可笑しそうに笑う。
「そうか? 小さすぎなければ俺がデカイ方が良かったんじゃないのか、その辺の加減を間違えて生まれてしまっただけで」
 予定ではもっと早く生まれて、充分大きく育った姿で出会うつもりで…、と揶揄われると自信が無くなってきた。十四歳を迎えたらハーレイと出会う運命だったのだろう、とブルーは固く信じているのだけれど、もしかしたら、もっと大きく育った姿で再会するつもりだったかも…。
(…失敗しちゃった? 今のハーレイに出会う時にはもっと育ってる筈だった?)
 前の生での姿そっくりに育っていたなら、待ち時間などは必要無かった。出会って直ぐに本物の恋人同士になれたし、ハーレイの家に来てはいけないと言われることも無かった筈で…。
「……ぼく、計算を間違えちゃった…?」
 シュンとするブルーに、ハーレイが「いいじゃないか」と穏やかな笑みを浮かべて語る。
「たとえ計算ミスだとしても、俺はその方が嬉しいな。今度こそお前を守ってやれるし、俺の方が年上なんだから正真正銘、保護者になれる。教師と生徒じゃなくても、だ」
 自分がブルーを何処かへ連れて出掛けるのならば立場は保護者だ、とハーレイは言った。
「実際は何処にも連れてはやれんが、海でも山でも俺が保護者ということになる。遊園地でもな。そして今は保護者として出掛けられない代わりに、将来は俺がお前の保護者になるんだろう?」
 お前のお父さんとお母さんに代わって、お前をしっかり守らないとな。
 軽く片目を瞑るハーレイに、ブルーの頬が赤く染まった。いつかハーレイと一緒に暮らす時にはハーレイが保護者。保護者と呼ぶのかどうかはともかく、ブルーは守られる立場なのだ。



 小さすぎたのは失敗だけれど、ハーレイに守って貰える立場だと思うと嬉しい。前の生でもそうだったのだが、あの頃はハーレイの方が年下。その事実を思い出す度に心配になった。ハーレイは優しくしてくれるけれど、何処かで無理をしてはいないか、と。
(今度は心配しなくていいんだ…。ハーレイ、ホントにぼくより大きいんだもの)
 ハーレイは今のブルーよりもずっと年上。倍以上も年が離れている。だから甘えても可笑しくはないし、ハーレイにもうんと余裕がある。そういったことを考えていたら、尋ねられた。
「ブルー、お前はどうなんだ? 俺よりも早く生まれていた方が良かったか? 姿は前と同じだとしても、今の姿の俺に出会うには、お前、三十七歳以上でないとな」
 俺は三十七歳だから、とハーレイは自分を指差した。
「…そっか、ハーレイよりも年上だったら三十七歳以上になるんだ…」
 ブルーは赤い瞳を丸くした。
 自分の外見の年は前の姿で止めているにしても、三十七歳のハーレイに会うには自分の年はそれ以上でないといけない計算になってくる。
(んーと…。一歳だけ年上でも今で三十八歳なわけ? ぼくは十四歳だから、今の年に二十四年も足すの? そんなに足さなきゃいけないの?)
 今の生では十四年しか生きていないが、前の生での記憶があるから二十四年という歳月の長さは見当がつく。それだけでも長すぎると思えてくるのに、ハーレイと出会うまでには三十八年という年数が必要なわけで、最小限の年齢差でさえ三十八年。
(…前と同じくらいに年上だったら…)
 想像するのも恐ろしかった。そんなに長い間、一人で待てない。ハーレイに会えずに一人きりで何十年も待ちたくはないし、待てるわけがない。
「ぼく、待てないよ…。ハーレイと会うまで、そんなに待てない! 今が限界!」
 十四年でも長すぎだよ、とブルーは叫んだ。出来るものなら少しでも早く出会いたかった。同じ地球の上で、同じ町で二人とも暮らしていたのに、この年になるまで会えなかった。記憶が蘇っていなかったから平気だったけれど、それでも今から思えば悲しい。
 もっと早くハーレイと出会いたかった。子供扱いの期間が長くなっても、それでも幸せだったと思う。大好きなハーレイと同じ町に住んで、休日になればこうして会って…。



 切々と訴えたブルーに向かって、ハーレイがニヤリと笑ってみせた。
「…俺は三十七年間ほど待ったんだが? 寂しい独身人生ってヤツで」
「ハーレイ、凄い…」
 ブルーは心の底からそう思った。三十七年も待ったハーレイは偉い。今の生がどんなに充実していようと、三十七年という歳月は長い。その間、ブルーは何処にも居なかったのに。十四年前には生まれていたけれど、ハーレイとは出会えなかったのに。
「ハーレイ、一人で寂しくなかった? 独身人生とか、そんなのじゃなくて」
「ん? …そうだな、誰かが家に居てくれたらいいのにな、と思ったことなら何度もあったが…。その先を考えられなかった。俺の家には子供部屋もあるのに、嫁さんはなあ…」
 全く想像出来なかった、とハーレイは不思議そうに首を傾げた。
「親父もおふくろも嫁はまだかとも言わなかったし、そのせいってこともないんだろうが…。どういうわけだか、嫁さんも子供もまるで頭に浮かばなかった。今から思えばお前のせいだな」
 こんな美人を貰う予定ではどうにもならん、とハーレイが笑う。
「俺にとってはお前が最高の美人だからなあ、それ以外は目にも入らなかったんだろう。ずいぶん長いこと待たされた上に、まだまだ嫁には貰えそうもない」
「ごめんね、ハーレイ…。ぼくだったらそんなに待てないと思う…」
 だから急いで大きくなる、とブルーは言ったが、ハーレイは「いや」と優しく微笑んだ。
「ゆっくりでいいさ、焦らなくてもゆっくりでいい。…俺はお前にもう会えたんだし、長い時間を待つのも慣れた。三十七年も待っていたんだ、お前の顔を見ていられるなら何年でも待てる」
「でも…」
「お前が大きくなりたいってか? そうだな、俺の家にも来られないしな、今のままだと」
 だが焦るな、とハーレイの手がブルーの頭をポンポンと叩く。
「俺は小さなお前が好きだし、俺がお前を守れる大人で良かったと思う。前みたいに外見だけってわけじゃなくてだ、中身の方も俺が年上なんだ。…その年上の俺が言うんだ、子供の時間をうんと楽しめ。前に叶わなかった分まで幸せに生きて、ゆっくり大きくなるんだ、ブルー」
「…うん……」
 早く大きくなりたいけれども、ハーレイが「ゆっくり」と何度も繰り返すのだし、それは大切なことなのだろう。
(…だけど、やっぱり早く大きくなりたいよ…)
 どっちの方がいいのかな、とブルーは思う。ゆっくり大きくなるのがいいのか、早く大きくなる方なのか。でも、どちらでもきっと幸せになれる。大きくなったら、きっと幸せに…。



(…ハーレイより後に生まれて良かった)
 テーブルの上のミーシャの写真を眺める。甘えん坊で可愛らしくても、ハーレイより年上で先に生まれていたミーシャ。前の生の自分はミーシャとまるで変わらない。年下だったハーレイの胸に縋って甘やかされて、その温かさに酔っていた。
 けれど今の自分は前とは違う。ハーレイはブルーよりも遙かに年上で、立派な大人。ハーレイの方がずっと大きくて、ブルーは小さな子供に過ぎない。今はその差が悲しいけれども、ハーレイが先に生まれていたから、今度は本当に守って貰える。
 前の生のようにハーレイの負担になっていないかと気にしなくていい。ハーレイは本当に守れる立場に生まれたのだし、ずっと年上なのだから。
(ちょっぴり小さすぎちゃったけど…。でも、いつか必ず大きくなるから)
 そして今は行けないハーレイの家にも、何度でも呼んで貰えるようになる。またハーレイの家に行けるようになったら、本物の恋人同士にもなれる。
(…それまでは我慢しなくっちゃ…。ハーレイの家に行けないのは寂しいけれど、でも…)
 ブルー自身も忘れ去っていた約束を守ってくれたハーレイ。
 アルバムからミーシャの写真を探して、ブルーの家まで持って来てくれたハーレイ。
(ハーレイ、約束を忘れずにいてくれたもんね…)
 だからぼくも寂しいけど、約束を守る。
 いつかハーレイがいいと言うまで、ハーレイの家には行かない約束。
 今のぼくはハーレイよりもずっと小さな子供だから。
 ぼくより年上なハーレイの言うことはちゃんと守るよ、ハーレイはぼくより大人だから…。




         白い猫の写真・了


※今回のお話はシリーズ第9話、「初めての訪問」の後日談でした、今更ですけど。
 これもじっくり書いておきたかったんです。それに、ブルーとハーレイの絆も。
 先に生まれて待っていたハーレイ。今度こそブルーは本当に甘えていいのです。

 そして、このお話。
 管理人的には「すっげえターニングポイント」ってヤツです、どうでもいいですが。
 このお話のプロットを作ろうとしていた日の朝、別のプロットが頭にありました。
 そこで「おっと、牛乳瓶、出しておかないと」と玄関先に向かった管理人。
 牛乳配達用の箱の蓋をパタンと閉めた瞬間、プロットを綺麗に忘れていました。
 どう頑張っても思い出せなくて、「まあいいか」と別の話を作ったわけですけれど。
 あの日、牛乳配達用の箱にプロットを突っ込まなかったら、連載は残り僅かでした。

 牛乳瓶と一緒に突っ込んだばかりに、別の方向へと向かったお話。
 御存知の方は御存知でしょうが、ストック、100話をとっくに超えてます。
 別コンテンツとのしがらみで「出せずにいる」という小心者です、ここ、別館だし…。
 144話目を某ピクシブにフライングでUPしてみました。
 「早くそこまでUPして!」という方がおられましたら、拍手から一言お願いします~!
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 それは十四歳の小さなブルーがメギドでの出来事を夢に見て飛び起きてしまった夜のこと。前の生での悲しすぎた最期をもう何度夢に見ただろう。その度にとても怖くなる。自分は本当に生きているのかと、何もかもが儚い夢ではないかと。
(…怖いよ、ハーレイ…)
 ハーレイに側に居て欲しい。ブルーは確かに生きているのだと、強く抱き締めて教えて欲しい。前世よりも小さな今の身体が本物なのだと、メギドで撃たれた身体の代わりに手に入れたのだと。
 けれどハーレイの家は何ブロックも離れた所で、夜の夜中に一人で行くには遠すぎた。前の生と違って瞬間移動が出来ないブルーには越えられない距離。ハーレイだけに届く思念も紡げない。
(…会いたいよ、ハーレイ…。怖いよ、ハーレイ…)
 側にいてよ、と涙を零してもハーレイが来てくれるわけもない。ハーレイの家はとても遠いし、そうでなくても「来てはいけない」と言われてしまった。一度だけ出掛けたハーレイの家。其処でブルーが見せた表情が年相応ではなかったとかで、大きくなるまでは行けなくなった。
 そういったことを考えてゆけば「今」は確かにあるのだけれど。
 その「今」が揺らぎそうになる。ハーレイとの日々はメギドで死んだソルジャー・ブルーが見ている夢で、十四歳の小さな自分は地球に行きたかった彼の魂が作り出した幻なのではないかと。
 気が付けば全てが消えていそうで怖かった。自分は死んで独りぼっちで、ハーレイも今の両親も誰もいなくて、この部屋も家ごと消えてしまって…。
(怖いよ、ハーレイ…。側にいてよ…)
 会いたいのに、と泣きながらブルーは眠りに落ちていった。前の生の最期にハーレイの温もりを失くして凍えた右の手をキュッと握り締め、その手をいつも温めてくれるハーレイの大きな温かい手を思い浮かべて…。



 怖くて恐ろしくてたまらなかったのに。辛くて悲しくて寂しかったのに、何故か優しい温もりに包まれ、それを求めて縋り付いた。すると温もりはブルーをすっぽり包んでくれて、暖かな眠りが訪れる。温もりが何なのか分からないけれど、恐ろしさも怖さも何処かへ消えた。
(…気持ちいい…)
 それに温かい、と心地よい温もりに身体を擦り寄せ、それに包まれてぐっすり眠った。そうして夜が明け、ぱっちりと目を覚ましてみたら。
「…あれ?」
 夢だとばかり思っていた温もりがまだ側に在る。どうしてだろう、と見回してみるとハーレイの腕の中に居た。これも夢かと瞬きをしたが、ハーレイは消えるわけではなくて。
(そっか、ハーレイ、来てくれたんだ…!)
 怖い夢を見て泣いていたから、気付いて来てくれたのだろう。もう嬉しくてたまらない。幸せな気持ちが溢れ出すままに、ハーレイに向かって微笑みかけた。
「…おはよう、ハーレイ。もしかして、気が付いて来てくれた…?」
 ところがハーレイの答えはブルーが予想だにしなかったもので。
「違う、来たのはお前の方だ。…お前がいるのは俺のベッドで、この家は俺の家なんだが…」
 言われた途端に気が付いた。自分のベッドよりも大きなベッド。ならば自分は飛んで来たのだ。出来ない筈の瞬間移動で空間を超えて、ハーレイの家まで。
(ぼく、飛べたんだ…!)
 ハーレイの家まで飛んで来られた。喜びで胸が弾けそうになる。昨夜見た夢は怖かったけれど、ハーレイはちゃんと目の前にいる。ハーレイの家も本当に在る。この幸せな今が現実。
「ハーレイ…!」
 大きな身体に抱き付き、広い胸に頬を擦り寄せた。もう今度から怖い夢を見ても大丈夫。自分は飛ぶことが出来るのだから、こうして飛んで来ればいい。
 そう言ったらハーレイは「怖い夢を見たらいつでも来い」と許してくれたし、普段は来られないハーレイの家も夢を見た時は例外にして貰えるのだろう。
 嬉しくて幸せでたまらないのに、ハーレイは何処か遠い目をしていて。
「…ハーレイ? どうしたの、何か迷惑だった?」
 心配になって尋ねれば、苦笑いしながら。
「い、いや…。今日は学校は休みだったな、と思ってな」
 朝飯にするか? と訊かれてブルーはコクリと頷いた。そういえば今日は土曜日だった。学校のある日でなくて良かった、とブルーも思う。ハーレイの家で一緒に朝食を食べられるのだから。



「よし、お前のために腕を奮うとするか。これでも料理は得意なんだぞ」
 沢山食べて大きくなれよ、とハーレイがブルーの髪をクシャクシャと撫でてベッドから降りた。そのハーレイが徹夜でブルーへの欲望と戦っていたことをブルーは知らない。だから急いで自分もベッドから降り、ハーレイの腕にギュッと抱き付く。
「こらっ、俺はこれから歯磨きと着替えだ! ついてくるなよ!」
「なんで?」
「お前の視線は心臓に悪い!」
 此処で待ってろ、と二階の寝室から一階のリビングへ連れて行かれた。ソファに座らされ、目の前の床にスリッパが置かれる。
「足が冷たいなら履いていろ。裸足でもいいぞ」
 じゃあな、と出てゆくハーレイは裸足。シャングリラに居た頃と違って、今の生では家の中では靴は履かないのが基本だった。来客用のスリッパをじっと見詰めてから、履かない方を選択する。次はいつ来られるか分からないハーレイの家なのだから、素足で床を感じていたい。
(…ふふっ、フカフカ)
 リビングに敷かれた絨毯の柔らかな感触を味わい、それから部屋をあちこち眺めた。壁際の棚のトロフィーはハーレイが柔道や水泳で勝ち取ったもので、前に来た時に見せて貰った。ハーレイの好みらしい落ち着いた壁紙などは前の生でのハーレイの部屋を思わせる。
 キョロキョロしていると、半開きの扉の向こうからハーレイの声が聞こえて来た。
「ええ、ええ…。はい、怖い夢を見たのが引き金だったようで…」
(あれ?)
 ぼくのことだ、と耳をそばだてた。話している相手は多分、母か父。
「大丈夫です、後で送って行きます。…元々、伺う予定でしたから」
 ご心配なく、という声を最後に会話は終わって、暫く経って。
「待たせたな、ブルー。食事にしようか」
 着替えを済ませたハーレイが来て、「寒くないか?」と訊かれたけれど、パジャマ姿でも風邪を引くような季節ではない。
「うん、平気!」
「すまんな、お前が着られそうな服は無いからなあ…。じゃあ、飯にするか」
 こっちだ、とダイニングに向かうハーレイの腕にブルーはまたしても抱き付いていた。



 ハーレイの家を一度だけ訪ねた時に、二人で昼食を食べたテーブル。そこの椅子の一つに座ったブルーに、ハーレイが隣のキッチンから声を掛けてくる。
「ブルー、オムレツの卵は何個……って、訊くまでもないな、一個だな?」
「ハーレイ、二個なの?」
 驚いたものの、身体の大きなハーレイだったら自分の倍は食べるだろう。そう思ったのに。
「それだけじゃ足らんし、俺はソーセージも焼くんだが」
「……嘘……」
「ということは、お前、ソーセージは要らないんだな? うんうん、分かった」
 すぐ作るからな、と笑いの混じったハーレイの声。やがてホカホカと美味しそうな湯気を立てるオムレツの皿が運ばれて来て、大きい方のオムレツの皿にはソーセージが一緒に乗っかっている。
(…凄いや…。ハーレイ、朝からこんなに食べるの?)
 トーストだってハーレイの分はうんと分厚く、ブルーのトーストは薄くてたったの一枚。そう、ハーレイのトーストは分厚くて二枚。
「ブルー、ミルクはこれに一杯でいいか?」
 温めるか、と出て来たマグカップの大きさにブルーは仰天した。いつも家で使っているカップの倍くらいは入りそうな大きなカップ。そんなカップに一杯だなんて言われても…。
「そ、それの半分くらいでいいから!」
「遠慮しなくていいんだぞ? お前、大きくなりたいんだしな」
 勢いよくミルクを注ぎ入れるハーレイを「ダメ!」と叫んで必死に止めたら、「冗談だが?」とニッと笑われた。
「これは俺のだ。お前にはこっちで充分だろう」
 普通サイズのカップが出て来てホッとするブルーに、ハーレイがクックッと喉を鳴らした。
「お前、これだけしか飲めないのか…。そんな調子じゃ、いつになったら育つやら…」
「もうすぐだよ!」
「どうだかな? 朝食ってヤツは大事なんだぞ、それがこんなにちょっぴりではなあ…」
 俺ならとても昼まで持たん、とハーレイは豪快に食べ始める。オムレツにソーセージ、ミルクもたっぷり。分厚いトースト、サラダもブルーの倍以上はあった。どれもとっても美味しいけれど。
(…あんなに沢山、食べられないよ…)
 幸せだけれど、少し悔しい。お前はまだまだ小さいままだ、とハーレイにからかわれてしまったようで…。



 朝食が終わるとハーレイが手際よく後片付けを済ませ、「さてと、お前を送らないとな」と口にしたものの。自分のベッドから瞬間移動をして来たブルーはパジャマしか着てはいなかった。家の中なら問題は無いが、ブルーの家まで車で移動をするにしても…。
「うーむ…。お前の服をどうしたもんかな…」
 ハーレイはブルーの姿を眺めて考え込んだ。デザインは普通のシャツに見えるし、襟だって一応ついている。一見してパジャマと分かりはしないが、パジャマには違いないわけで。
(…だが、俺のシャツを貸した方が余計に変だよな? 致命的にサイズが違うしな…)
 上から羽織るものでもあれば、と思ったけれども、良いものを全く思い付かない。バスタオルは却って可笑しいだろうし、毛布の類は言わずもがなだ。
「ハーレイ、ぼくはこのままでいいよ?」
 ハーレイの服は着られないでしょ、とブルーが自分のパジャマの襟を引っ張りながら。
「パジャマなんです、って言わなかったら普通のシャツに見えると思うし」
「どうだかなあ…。しかし、それしか無いようだな。仕方ない、堂々と座っていろ」
「うん、そうする」
 裸の王様みたいだね、とブルーはニッコリ微笑んだ。裸という言葉にハーレイの心臓がドキリと跳ねたが、それはブルーがベッドに飛び込んで来てから徹夜で己の欲望と戦い続けていたからで。
(…いかん、童話のタイトルに反応していてどうする!)
 己を叱咤し、ハーレイはブルーの足元に目をやった。スリッパを履いていない裸足の足。小さな足に合うサイズの靴は家には無い。服はパジャマで済ませるとしても、裸足で外には出られない。
「…俺の靴ではデカすぎるしなあ…」
 ハーレイの呟きに、ブルーも自分の足を見た。ハーレイの足より遙かに小さい自分の足。
「でも、ハーレイの靴しかないよね?」
「脱げちまいそうだな、いっそスリッパにしておくか? 一足くらいならダメになっても…」
 ハーレイが言うスリッパは来客用のもの。本来は家の中で履くものなのだが、ブルーのためなら一足くらい外に出しても、と考えた。それならばブルーの足にも合う。けれど…。
「もったいないよ!」
 ブルーが叫んだ。
「それにハーレイの靴、履いてみたいよ、脱げてもいいから」
「履いてみたいって…。お前…」
「ぼく、ハーレイの恋人だもの! ハーレイの靴、履いてみたいな…」
 ダメ? と上目遣いに強請られ、ハーレイは折れた。ブルーの愛らしく小さな素足に自分の靴という美味しい眺めはハーレイ自身も惹かれるものがあったから…。



 こうして履物は決まったのだが、いざ履いてみるとハーレイの靴はブルーの足には大きすぎた。歩けば小さな足だけが前に出てゆき、重たい靴が取り残される。これでは駄目だと最初の案だったスリッパに手を伸ばすハーレイをブルーが「待って」と止めた。
「ハーレイ、あれは?」
 指差す先に大きなサンダル。ハーレイが愛車を洗う時などに履くもので、お世辞にも綺麗だとは言い難い。もちろん綺麗に洗ってはあるが、使用感があると言うべきか。
「あれか? …あれは洗車と水撒き用ので、外に出掛ける靴じゃないしな…」
「あれでいいよ」
 決めた! とブルーはピョコンと飛んだ。サンダルの上に着地し、両足に履いて一歩踏み出す。
「うん、これだったら大丈夫! 引っ掛かるから!」
 でも大きい、と自分の足の周りに余ったスペースをまじまじ見回しているブルー。
「そりゃ大きいさ、底の面積は靴よりもうんと広い筈だぞ」
「そうなの? 靴もずいぶん大きかったけど…」
 脱げちゃうんだもの、と借りそびれてしまった靴を見つつも、ブルーは満足そうだった。たとえサンダルでもハーレイが普段、履いている物。それを自分が履いているのが嬉しいのだろう。
(しかし本当に小さな足だな…)
 ハーレイの唇に笑みが零れる。前の生のブルーも細くて華奢だったけれど、今のブルーはもっと小さい。ハーレイの大きな靴を履かせても、その眺めに胸が高鳴る代わりに愛らしさばかりが目につくほどに…。



 パジャマ姿で、足にはハーレイの大きなサンダルを履いて。ブルーはドキドキしながら離れ難いハーレイの家の玄関から出た。次に来られるのはいつだろう?
(また来たいけど…。でも、どうやって飛んで来たのか分からないしね…)
 恐ろしい夢を見ないと来られそうになく、必ず来られるわけでもない。メギドの夢なら今までに何度も見たのに、飛んで来られたことは一度も無い。
(…当分、来られないのかも…)
 名残惜しげに覗き込んでいた扉をハーレイが閉めて鍵をかけた。
「さあ、行くか。お前、俺の車は初めてだったな」
「うんっ!」
 ブルーの胸のドキドキは車のせい。前に来た時には見ていただけのハーレイの車。学校の駐車場でも目にするけれども、乗せて貰えるとは思いもしなかったハーレイの車。
 ハーレイと二人で庭を横切り、ガレージに行って。助手席のドアを開けて貰ってハーレイよりも先に乗り込んだ。ブルーの身体には些か大きすぎるシートだったが、座り心地はいい。
(…ふふっ)
 まさかハーレイの車に乗れるなんて、と嬉しい気持ちがこみ上げて来る。ハーレイのサンダルにハーレイの車。パジャマ姿でも気にしない。
「おいおい、なんだか嬉しそうだな」
 隣に乗り込んだハーレイがエンジンをかけながら言うから、「うん!」と答えた。
「だって、ハーレイの車だもの」
「なるほど、ちょっとしたドライブ気分か」
 行くぞ、とハンドルを握るハーレイ。
「シャングリラみたいに飛びはしないが、車もけっこう面白いもんだ」



 走り出した車はゆっくりと住宅街の中を抜けてゆく。前にハーレイに「もう来てはいけない」と言われたブルーが、それを告げたハーレイに送られてションボリと歩いて帰った道。あの時と同じ道をまたハーレイと通っている。今度はハーレイが運転する車に乗って。
(…夢みたいだ…)
 ハーレイの車、とドキドキしているブルーはろくに景色も見ていなかった。真っ白な猫が尻尾をピンと立てて道を横切り、ハーレイが「おっ!」と声を上げても生返事。
「ブルー、今の猫、ちょっとミーシャに似ていたな……って、聞いちゃいないか」
 見えてもいないな、とハーレイは苦笑しながら助手席に座った恋人をチラリと横目で眺める。
(まったく、何を見ているんだか…。そんな所も可愛いんだが)
 この小さすぎる恋人を本物のドライブに連れ出せる日はいつのことやら、と考えつつハンドルを握るハーレイの横顔をブルーがドキドキしながら見詰める。
(…かっこいいよね…)
 シャングリラに居た頃は、舵を握るハーレイに見惚れていることは出来なかった。ハーレイとの仲を悟られないよう、常にソルジャーの貌をしていた。
(あの頃もこういう顔だったのかな、キャプテン・ハーレイ…)
 それとも今は自分を隣に乗せている分、優しい顔をしているだろうか? あるいは穏やかで甘い顔なのか、運転中だから厳しいのか。
(…よく分からないや…)
 もっと見ていたい、とブルーは願う。家までの道が少しでも混んでいるように。信号で少しでも長く止まっているように…。



 けれど夢のドライブは呆気なく終わってしまって、気付けば見慣れた住宅街。ブルーの家を取り巻く生垣が見えたかと思うと、ハーレイが車を来客用のスペースに入れる。もう少しだけ、と強く願ったのに、車は停まった。
「ブルー、着いたぞ。…ほら、お母さんだ」
 そう言いながらハーレイが運転席から降りて助手席のドアを開けてくれたから、ブルーは車から出るしかなかった。ハーレイの大きなサンダルを履いた足を地面に下ろせば、扉を開けに来ていた母が「あらっ!」と気付いて声を上げる。
「ハーレイ先生、すみません、ブルーが色々とご迷惑を…。この子ったら、もう、パジャマだけで靴も履かないで…! ブルー、靴を持ってくるから其処にいなさい」
 パタパタと急いで戻って行った母は直ぐにブルーの靴を持って来て履き替えさせた。ハーレイの大きなサンダルがブルーの足から消えて無くなる。
(…ハーレイのサンダル…)
 もう少し履いていたかったのに、と思う間も無くサンダルは消えた。ハーレイの手がサンダルをヒョイと掴んで助手席の床に放り込み、ドアをバタンと閉めてしまった。さっきまでブルーが独占していた乗り心地のいいシートもサンダルと一緒にドアの向こうに消えた。
「ブルー? ハーレイ先生にきちんと御礼を言うのよ」
 そして急いで着替えなさい、と指図する母はハーレイにしきりに謝っている。家の中から父まで出て来た。「ハーレイ先生、すみません!」と謝りながら。
「いえいえ、どうせついでですから」
 今日はこちらに来る日でしたし、とハーレイは両親と挨拶を始めてしまって、ブルーの大好きな恋人の顔ではなくなった。そう、今のハーレイは「ハーレイ先生」。
(…なんだか魔法が解けたみたいだ…)
 ハーレイのサンダルを脱いでしまったら魔法が解けたシンデレラ。お姫様ではないのだけれど、そんな気持ちがしてしまう。魔法のサンダルを探してハーレイの車を覗こうとしたら、母の声。
「ブルー、いつまでパジャマで立ってるの? それとハーレイ先生に、御礼!」
「う、うんっ! …ありがとう、ハーレイ。それに、ごめんね」
 頭を下げると「いいや」と大きな手でクシャリと頭を撫でられた。
「さあ、着替えて来い。俺は後からゆっくり行くから」
「はーい! ハーレイ、また後でね!」
 魔法が解けてしまった小さな足にサイズぴったりの自分の靴。ブルーはハーレイに向かって手を振り、玄関の方へと駆け出した。魔法の時間は終わったけれども、今日は一日、ハーレイと一緒。此処は夢でもメギドでもなくて、青い地球の上。
(ずっとハーレイと一緒なんだよ)
 これから先も、ずっと、ずっと、ハーレイと一緒。いつかハーレイと結婚して……。




            夢のような朝・了


※今回のお話はシリーズ第2話、「君の許へと」の裏話でした、今更ですけど。
 一度じっくり書きたかったのです、あの日の二人の朝御飯とかを。
 ブルーの足には大きなサンダル、パジャマ姿でも幸せな朝。
 ←拍手してやろうという方は、こちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








 前の生の最期にハーレイの温もりを失くしたブルー。メギドへと飛ぶ前、ハーレイの腕に最後に触れた右手に残った温もりを抱いて逝くつもりだったのに、撃たれた痛みで失くしたブルー。右の手が冷たいと、独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ前の生のブルー。
 その悲しみを覚えているから、ブルーは右の手をハーレイが握ってやると喜ぶ。温もりが戻って来たと幸せそうな顔で微笑む。
 凍えた右手が前世の最後の記憶だったから、右手を握ることが一番多いのだけれど。ハーレイと再会した時にブルーの身体に浮かび上がったメギドで撃たれた時の傷痕。小さな身体を血に染めた傷痕が現れた場所に手を当ててやることもブルーは好んだ。
 後ろからそっと抱き締められて、両方の肩に、左の脇腹に、順に当てられてゆくハーレイの手。最後に撃たれた右の瞳に手を当ててから、ハーレイはブルーの右の手を握る。傷の痛みで失くしてしまったという温もりを移してやるために。
 メギドでブルーが撃たれた傷痕。キースが弾を撃ち込んだ数も、容赦なく撃ちながら狙った順もハーレイはすっかり覚えてしまった。
 小さなブルーはもちろんだけれど、ソルジャー・ブルーだった頃のブルーも細くて華奢な身体をしていたというのに、そんな身体に何発もの弾を撃ち込むとは、何処まで残虐な男なのか。獲物を狩るような気持ちで楽しみながらブルーを撃ったのだろうか、と考えてしまう。
 死の星だった地球でキースに再会した時は、ブルーの死の真相など知らなかった。だから冷静に会談に臨むことが出来たが、彼がブルーをどう扱ったかを知っていたなら、どうなったことか。
 キャプテンとしての立場も忘れてキースを罵り、あるいは殴っていたかもしれない。八つ裂きにしても足りないくらいに憎いけれども、あの時のハーレイは知らなかった。目の前の男がブルーを撃ったことも、その傷の痛みのせいでブルーがハーレイの温もりを失くしたことも。
 皮肉なことに、ハーレイが全てを知った時にはキースは何処にも居なかった。遙かに過ぎ去った時の彼方で英雄になってしまっていた。人類とミュウとの和解を促し、SD体制を終わらせた男。遠い日にブルーを撃った男は、生ある間にブルーに心で詫びただろうか。
 それすらも今は分からない。自分もブルーも青い地球の上で新たな生を生きているのだし、前の生での恨み言など口にしても仕方ないのだけれど。過ぎたことだと思いたいけれど、ブルーを抱き締めて傷の痕に順に手を当ててゆく時、ハーレイの胸がキリリと痛む。
 ブルーが味わった苦痛と悲しみ。それをブルーに与えた男を殴ることすらしなかった自分。
 知らなかったからと済ませてしまうには、あまりにも苦しい戻れない過去。
 ミュウと人類の懸け橋となったキースを憎むわけにはいかない。ブルーもまたキースを恨んではいない。
 キースを殴れる機会は二度と来ないし、殴るべきでもないのだが…。



 今となってはどうしようもない遠くへ流れ去ってしまった時間。小さなブルーの身体に順に手を当てる時は温もりを移すことだけを…、と考えていても、たまにこうして囚われる。過去に戻ってキースを捕まえ、力の限りに殴りたくなる。
(…どうして気付かなかったんだ…。あいつがブルーに何をしたのか、あの時、俺が気付いていたなら…!)
 思わず腕の中のブルーを強く抱き締め、愚か過ぎた過去の自分を激しく悔やむハーレイの耳に、遠慮がちな声がかけられた。「…ハーレイ?」と呼び掛けてくるブルーの声。
「ねえ、ハーレイ…。どうかしたの?」
 いつから呼ばれていたのだろうか。我に返ったハーレイの顔をブルーが心配そうに見上げる。
「考えごと? 今日はもしかして忙しかった?」
「…いや、なんでもない。すまん、傷の手当てが途中だったな」
 後は右目か、とブルーの左の肩に当てていた手を離し、その手で右目を覆おうとしたら。
「ハーレイ。…キスは額と頬っぺたしかダメ?」
 唐突なブルーの言葉に、ハーレイは驚いて動きを止めた。
「キス?」
「うん。ハーレイ、いつも言ってるよね? ぼくへのキスは頬と額だけだ、って」
「その通りだが?」
 いきなり何を言い出すのか、とブルーを見下ろす。今はブルーがメギドで受けた傷痕を順に辿る途中で、キスをせがまれるような覚えは無かった。しかしハーレイが暗澹たる思いに囚われていた間に、ブルーの方も考えごとをしていた可能性はゼロではなくて。
(…キスというのが怪しいな…)
 ハーレイが傷の痕に手を当ててゆく時、ブルーはいつも目を閉じている。手のひらから伝わってくる温もりを逃してしまわないよう、余さずその身に取り込めるよう。全身で温もりを感じる内に心地よさに酔い、前の生の自分と重ねてしまうのか、キスを強請ってくることもあった。
 そういう時には腕を絡ませてくるのが常なのだけれど、何度も「駄目だ」と叱り付けただけに、戦法を変えて来たかもしれない。此処は軽くあしらっておくに限る、と判断をして。
「なんだ、手の甲にでもキスしろってか?」
 お姫様か、と冗談めかして言えば、「そうじゃなくって…」とブルーが返した。
「手の甲じゃなくて、右目、ダメかな?」
「右目?」
 ハーレイは思わず目を見開いた。



 ブルーが最後に撃たれた右目。サイオンシールドで防ぎ切れなくて撃たれてしまった。その時の痛みがハーレイの温もりを完全に消してしまったという。
 今は傷痕すら無いブルーの右の目。けれどハーレイは小さなブルーの瞳から流れた血の色の涙を覚えている。あれが全ての始まりだった。ブルーの身体に撃たれた傷痕が浮かび上がって、夥しい血が溢れ出して…。駆け寄り、抱え起こした瞬間、自分が誰かを思い出した。
 メギドで撃たれたブルーは右の瞳も、ハーレイの温もりも失くしてしまった。その痕跡を微塵も留めていない瞳で、小さなブルーがハーレイを見詰める。
「次に温めてくれる場所って、右目だよね? ハーレイの手だと大きすぎるよ、いつも言ってる」
「そうだな、文句を言われるな。肝心の目が温まらないから指で触れ、と」
 ブルーの右目を覆って温めてやるには、ハーレイの手は大きすぎた。顔の半分を覆わんばかりの手は額や頬を温めはしても、窪んだ目には届かない。ついつい忘れて手で覆っては苦情を言われ、指を揃えて瞼を温めることになる。
「…それね、指先だけで温めて貰うよりキスがいいな、って思ったんだけど…」
 ダメ? とブルーは小首を傾げた。
「ハーレイ、キスはやっぱり額と頬っぺたにしかしてくれない?」
「…お前の右目か…」
 ハーレイは暫し考え込んだ。ブルーへのキスは頬と額だけだと決めていたけれど、それは唇へのキスを欲しがるブルーを戒めるため。まだ十四歳にしかならないブルーに唇へのキスは早過ぎた。しかし瞼はどうだろう?
(…前は何度もキスしてたんだが…)
 前の生では宝石のようなブルーの瞳が愛おしくて瞼にキスを落とした。おやすみのキスも幾度となく瞼に落としてやった。頬と額へのキスも、瞼へのキスもさして変わりはないとも思える。
(…それに右目だしな…)
 ブルーが最後に撃たれた右の目。
 小さなブルーがそれを語るまで知らなかったが、キースは薄い笑いさえ浮かべて撃ったという。勝ち誇ったように「これで終わりだ」と言い放って。
 あの頃のキースのやり口からして、如何にも最後に撃ちそうな場所。ブルーの息の根を止めるのではなく、ただ悪戯に傷つけ、貶めるために。無意味に苦しめ、優越感を味わうために。
 強い意志を宿して煌めいていたブルーの瞳。
 深い憂いと悲しみとを底に湛えてもなお、美しく澄み切っていたブルーの瞳。
 それを撃つなど狂気の沙汰だ。どうすれば撃つことが出来るというのだ、あの瞳を。
 あの忌まわしいキースしか撃てない。あの悪魔にしか撃てるわけがない…。



「……ハーレイ?」
 またしても自分の思いに囚われてしまったハーレイの心をブルーの声が呼び戻す。十四歳にしかならない小さなブルーが愛くるしい瞳で見上げてくる。
 ソルジャー・ブルーだった頃とは違うけれども、ハーレイを捕えて離さない瞳。撃たれた痕跡を残してはいない、一対の赤く輝く宝石。その宝石の中にハーレイの姿が映っている。
「ハーレイ、右目はやっぱりダメ?」
 少し悲しそうな色を浮かべる赤い瞳は、前の生で潰れてしまった右目。キースに撃たれて潰れた右の目。それを思うとたまらなくなる。その場を見てはいないけれども、この瞳が潰されてしまうなど耐えられはしない。決して潰してはならないと思う。だから…。
「…分かった。右目はキスがいいんだな?」
「うん」
 嬉しそうにブルーが頷いた。
「キスだけでいいよ、じっと温めてくれなくてもいい」
「当たり前だ。…そういうキスをしろと言うなら俺は断る」
 額や頬と同じキスだからな、とハーレイはブルーに念を押した。触れるだけのキスを軽く落とすだけで、温めるためのキスではないと。



「…じゃあ、お願い」
 よろしく、とブルーが瞳を閉じる。それ自体は普段と変わらないもので、傷痕に順に手を当てる時のブルーの習慣。現にさっきまでも目を閉じていたし、何ら問題無いのだが…。
(…お、おい…。この状態でキスなのか?)
 右目へのキスを承諾したものの、ハーレイは窮地に陥った。
 頬や額へのキスと同じつもりでいたのに、何かが違う。ブルーの瞳が閉じているだけで胸の奥が微かに波立ってくる。
(…こ、これは……)
 額や頬にキスを落としてもブルーは目を閉じてしまうけれども、最初から目を瞑ってはいない。目を閉じてキスを待ってはいない。それなのに今は二つの宝石が見えない状態。
 これでは、まるで…。
(…どう見てもキスを待ってるんだが! いや、本当に待っているんだが!)
 ブルーの注文は右目へのキス。右の瞼に落とされるキス。それを待って瞼を閉じているのだが、ハーレイの心はあらぬ方へと向かってしまう。
 前の生でブルーが瞳を閉じてキスを待っている時、それはおやすみのキスでは無かった。
 頬や額へのキスでもなくて、待っていたのは恋人同士が交わすキス。唇を重ねる本物のキス。
(…ま、まずい……)
 こんな筈では、と焦れば焦るほど前世の記憶が蘇ってくる。ブルーと交わした本物のキス。瞳を閉じて待つブルーの顎を捉え、そうっと唇を重ねた記憶。噛み付くようにキスしたこともあった。
 美しかったソルジャー・ブルー。
 幼い顔立ちの小さなブルーとは違うのだ、と分かってはいても重なって見える。その内面を映し出す瞳が見えないせいで余計に二人が重なってしまう。ソルジャー・ブルーと小さなブルー。前の生で愛したソルジャー・ブルーと、今の愛らしい小さなブルーが。
(…こ、これは厳しい…)
 キスをしなければならない右の目。それなのに唇にキスしたくなる。右の瞼にキスする代わりに唇にしてしまいそうになる。そんなハーレイの心を知ってか知らずか、ブルーの唇が小さく動く。
「ハーレイ、まだ?」
「…あ、ああ…」
 キスだったな、と返して咳払いをするのが精一杯だった。
 ブルーには少し待っていて貰おう。ざわめく心が凪いでくるまで、胸の鼓動が鎮まるまで…。



 無理難題を持ち出したブルーの方には、ハーレイを困らせる気など全く無かった。本物のキスを強請る気も無く、右目へのキスが欲しかっただけ。
 前の生の最期に撃たれた右の目。それまでに撃たれた傷の痛みも酷かったけれど、弾を防ごうと張ったシールドを貫かれるとは思わなかった。弾が飛んで来るのが見えていたのに、避けるだけの力がもう残ってはいなかった。
 右の瞳に走った激痛。真っ赤に塗り潰された視界は直ぐ闇に変わり、右目を失くしたと気付いた時には右の瞳よりも大切なものを失っていた。右の手に残ったハーレイの温もり。最期まで抱いていようと思ったハーレイの温もりを痛みで失くした。
 持てるサイオンの全てをぶつけてメギドを破壊したけれど。
 メギドの制御室に満ちた青い光とサイオン・バーストの光との中で、ブルーは独りきりだった。ハーレイの温もりがあれば一人ではないと思ったのに。ハーレイからは遠く離れた場所でも、心は最期まで共に在るのだと思っていたのに。
 ハーレイの温もりを持っていた筈の右手は冷たく凍えて、ブルーは独りぼっちになった。右手が冷たいと泣きじゃくっても、温もりは戻って来なかった。
 独りぼっちになってしまったと、右手が冷たいと泣きじゃくりながらブルーは死んだ。
 あの時、右目さえ撃たれなければ。
 右の瞳さえ撃たれなければ、ハーレイの温もりを持っていられた。傷の痛みの前に薄れて微かなものになってしまってはいても、まだハーレイの温もりは在った。それがあればブルーは一人ではなくて、ハーレイと共に居た筈なのだ…。
(…右目が最悪だったんだよ、うん)
 だから温めて欲しいと思った。ハーレイの武骨な指で温めて貰うのも好きだけれども、たまにはキスが欲しいと思った。額と頬にしか貰えないキス。それでも心が温かくなる。幸せで胸が一杯になる。ハーレイの温かな唇が降ってくるだけで。柔らかな感触が触れてゆくだけで。
(…まだかな、キス…)
 欲しいんだけどな、と待ちくたびれて「ハーレイ、まだ?」と促した。そうしたら…。
「…あ、ああ…。キスだったな」
 ハーレイらしくない少し狼狽えた声と、咳払い。おまけにキスはまだ貰えない。
(……なんで?)
 いったい何がダメなんだろう、とブルーは懸命に考えた。やっぱりキスは頬と額にしか貰えないもので、右目といえども例外ではないということだろうか?
 日頃から唇へのキスを強請っているくせに、小さなブルーは気付かなかった。今の状況が唇へのキスを待っているのとそっくり同じであることに…。



「…ねえ、ハーレイ…」
 やっぱりダメ? とブルーはパチリと目を開けた。ソルジャー・ブルーの瞳とは違う、無邪気な光を湛えた瞳。それは追い詰められていたハーレイを救うには充分すぎる煌めきで。
「こら、目を開けたらキス出来んだろう!」
「ごめんなさいっ!」
 慌ててギュッと瞑った瞼にハーレイのキスが降って来た。
 キースに最後に撃たれた右の目。瞳と一緒にハーレイの温もりまで失くしてしまった悲しすぎる記憶。その右の目を癒すかのように温かな唇が優しく触れて、心がじんわり温かくなった。ほんの一瞬、触れて離れていった唇。それでもとても嬉しくなる。手で温めて貰うよりも…。
(うん、これからは右目にはキス!)
 それがいいな、とブルーは瞳を閉じたままウットリと考えていたのだけれど。
 ハーレイの方は夢見心地のブルーの顔をまともに見られず、不自然に目を逸らしていた。
(…まずいぞ、やっぱりこのパターンはまずい)
 ブルーが子供らしい表情でダメ押しをしたからキス出来たものの、次回は上手く運ぶかどうか。それに毎回、躊躇してはブルーに強請られてキスということになったら、ブルーもいつかは気付くだろう。何故ハーレイがキスを躊躇うのか、その裏に隠された事情なるものに。
(…そうなったら絶対、こいつは調子に乗ってくるんだ)
 何かといえば「キスしていいよ?」と口にするブルー。普段は鼻であしらっているが、右目へのキスにかこつけて目を瞑ったまま言われたら…。
 自分がそれでキスをするとは思わない。そうしないだけの自制心はある。けれど波立ち騒ぐ心をその度に抑えつけ、穏やかな笑みを浮かべ続けることは拷問に近い。だから…。
「…ブルー、悪いが……」
 お前へのキスはやっぱり、頬と額だけだ。
 そう告げられたブルーは心底ガッカリしたのだが、元々、キスはそういう約束。
「…うん、分かった…」
 とても温かかったのに、と残念がるブルーの右の手をハーレイが握る。
「ほら、ブルー。最後は右手を温めるんだろう?」
「うんっ!」
 ハーレイの温もりを失くした右の手。前の生の最期に凍えてしまったブルーの右の手。
 その手にハーレイは温もりを移す。ブルーが気に入ったらしい右目へのキスをしてやれない分の謝罪をこめて。
 どうかブルーの今度の生が幸せなものであるように。
 この手が二度と凍えないよう、何処までも自分が守ってやるから、と……。




           右目へのキス・了


※ブルーの瞳が閉じているだけで、瞼へのキスを躊躇うハーレイ。無理もありませんが。
 その原因に全く気付かないブルー、まだまだ小さなお子様ですね。

※聖痕シリーズの書き下ろしショート、50話を超えました。何処まで行くのやら…。
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