シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※2011年7月28日に葵アルト様のサイトでUPして頂いた作品です。
続編『奇跡の青から』も宜しくお願いいたします。
「ソルジャーは? ソルジャー・ブルーはいらっしゃらないのか?」
メギドの劫火がナスカを襲ってから暫く後。ハーレイは混乱が落ち着いてきたブリッジを
ブラウたちに任せ、メディカル・ルームを訪れていた。
かつてアルタミラで見た忌まわしい炎がナスカ上空で四散したのは九人のタイプ・ブルーの
シールドがそれを未然に防いだためで、最初にシールドを張ったのはブルー。そのシールドを
強化するべく飛び立ったのがソルジャー・シンとナスカで生まれた七人の子供たちだった。
しかし成長を早めてサイオンを使った子供たちの多くは意識を失い、メディカル・ルームに
収容されたとの連絡が先刻ブリッジに入っている。恐らくブルーも搬送された者たちの中に
含まれているのだろう、とハーレイは足早に其処へ急いだのだが…。
「ソルジャー・ブルーはおいでになってらっしゃいません」
ノルディの答えにハーレイの心臓が凍りついた。ベッドにも、医療用カプセルの中にも
ブルーはいない。
治療する手を休めることなくノルディが報告してくる内容によれば、子供たちを此処に運び
込んだのはソルジャー・シンで、ブルーの姿は無かったらしい。また、ソルジャー・シンは再び
ナスカに向かったとも。
では、ブルーは? ブルーは何処に…?
『ジョミーはまだ若い。君たちが支え、助けてやってくれ』
ブルーはハーレイにだけそう言い残すと、ソルジャー・シンと共にナスカへ降りるシャトルに
乗り込んで行った。あの時、不吉な予感を覚えなかったと言えば嘘になる。けれどハーレイは
それがブルーとの別れになるとは微塵も思っていなかったのだ。
今もなおソルジャーであり続けようとするブルーの目的は、一人でも多くの仲間をナスカから
脱出させること。その結果として命を縮めることになるかもしれない、と覚悟した上での言葉で
あろうと受け止めたから、出てゆくブルーを止めなかった。
どんなに傷つき、弱り果てようともブルーは必ず戻って来る。そうだと確信していたからこそ
メディカル・ルームに駆け付けたのに、ブルーは何処にいるのだろう?
衰弱し切った彼の身体では、メギドの炎を受け止めるのが精一杯だった筈なのに…。
ブルーの姿が見えはしないかと、うろたえ、せわしなく視線を走らせるハーレイの背後から
声がかかった。
「ソルジャー・ブルーはメギドに行ったよ」
「!?」
振り返った先に立っていたのはオレンジ色の髪と瞳の子供。これはトォニィ? トォニィ
なのか? そしてブルーはメギドに行ってしまったと? 自分たちを置いて、たった
一人で…?
嘘だ。そんなことがあるわけがない。ブルーはきっと、ジョミーと一緒にまだナスカに……。
それから何処をどう歩いたのかすら、ハーレイには思い出せなかった。
…ブルーがいない。何があっても守ると誓った、誰よりも大切な……出来るなら腕の中に永遠に
閉じ込めておきたいとも思った、この世の何よりも愛しい者が。
トォニィの言葉を裏付けるように、ブルーの気配を感じない。呼び掛けても返事が返っては
来ない。ブルーが今もナスカにいるなら、その存在と強い思念とが此処に届かない筈がない…。
本当に行ってしまったのだ。仲間たちが脱出するための時間を稼ぐべく、ナスカに狙いを定める
メギドに向かって。
それが何を意味しているのか、考えるまでもなく答えは一つだけしか無かった。
ブルーはメギドから戻れはしない。もうシャングリラにも帰っては来ない。
(ブルー…! どうして行ってしまったのですか!)
血を吐くような叫びがハーレイの胸に木霊する。
力尽きて倒れたブルーを看取ることになるかもしれないという漠然とした不安はあったが、
いなくなるとは想像もしていなかった。
こんな形で自分の腕からすり抜け、手の届かない場所へ行ってしまうとは夢にも思って
いなかったものを…。
ブルーには二度と触れられない。抱き締めることも、その手を握ることも叶わないまま、自分は
ブルーを失うのだ…。
ナスカからの脱出は惑星崩壊の兆しの中で継続しており、ブリッジは緊迫した空気に包まれて
いる。生き残った者たちを収容し終えたら、ワープして人類の追撃を振り切るしかない。
ソルジャー・シンの命が下れば即座にナスカを離れられるよう、ハーレイはシャングリラの
舵を握った。
真に握りたいと望んでいるのは舵輪などではないというのに。この手を伸ばして掴めるもの
なら、ブルーの腕をこそ強く握って胸に抱き寄せ、何処へも行かせはしないというのに…。
(……ハーレイ!?)
メギドの制御室に入り込んでいたブルーは、信じられない思いで残された左の瞳を見開いた。
サイオンを使いすぎた身体に何発もの銃弾を容赦なく撃ち込まれ、右の瞳ももう見えはしない。
最後に残った力を破壊のエネルギーに変えた瞬間、狭くなった視界に飛び込んで来たのは懐かしい
碧の光だった。
タイプ・グリーンのミュウだけが持つサイオン・カラー。そう、ハーレイのサイオンの色だ。
(……何故……)
どうして此処へ、と思う間もなく碧は空間の狭間に消え失せ、ブルー自身が起こしたサイオン・
バーストの青い光が制御室を覆い尽くして膨れ上がってゆく。その中でブルーは確かに見た。
ハーレイと同じ色のサイオンを纏った一人のミュウが、自分を撃った地球の男を背後から抱え、
テレポートしていったのを。
テレポートは並外れたサイオンを持つタイプ・ブルーだけにしか出来ない、空間を越えて
移動する技。今の今までそう思っていた。…だが、あのミュウはそれを目の前でやって
のけたのだ。
キース、と声の限りに叫んでいたミュウ。ブルーが仲間を守るためだけに此処へ来たように、
あのミュウもまた地球の男を…。強い思いはサイオンの限界をも超え、その能力を超えた力を
引き出すことが出来るのか…。
(逃がしてしまった…。あの男を)
キース・アニアンを取り逃がした。自分の命と引き換えに葬り去ろうと思った地球の男を。
彼を此処から救い出したミュウと彼とが、どういう関係なのかは分からない。だが、あの男が
生きている限り、ミュウはまたしても全滅の危機に追い込まれてしまうことだろう。だから。
(ジョミー! みんなを頼む)
このメギドだけは壊して逝くから。…ジョミー、シャングリラを……仲間たちを。…そして…。
(………ハーレイ…)
どうか無事で。さっきの光が君でなくて良かった。君が来てくれたのかと思ったけれど、
君には生き延びて欲しいんだ。
君は生きて…地球をその目で…。
ああ……暖かい。君のサイオンの碧が見える。この碧色の光に抱かれてぼくは眠ろう…。
「キャプテン!」
シャングリラのブリッジに立つハーレイの背後でジョミー…いや、ソルジャー・シンの声が
響いた。
「ソルジャー!?」
ナスカからテレポートしてきたソルジャー・シンが間を置かずに叫ぶ。
「ワープ!」
その指示に従い、ハーレイは迷いなく舵を大きく切った。白い船体の先に拡がる亜空間の奥へ
シャングリラが滑るように吸い込まれてゆき、ナスカの在る時空から切り離される。
シャングリラとナスカを結んでいた糸が消える間際に、ハーレイの心を貫いていった切ない
『想い』。それはブルーの最期の願い。
『……ハーレイ…。どうか無事で…』
(ブルー!?)
ナスカへ降りる彼を見送ってから後、一度も捉えられなかったブルーの思念。逃げろと……
逃げて生き延びてくれと、ブルーはハーレイに伝えてきた。もう意識すら保てないブルーの心の
遮蔽が外れて、碧色の光がその奥底で微かに揺らめく。
自分自身のサイオンと同じ碧が見えた瞬間、ハーレイの中で何かが弾けた。
それからどのくらいの時が経ったのか…。ワープアウトしたシャングリラには深い悲しみと
嘆きが満ち溢れ、啜り泣く声が途切れない。
多くの仲間を、ブルーを喪い、誰もが呆然と立ちつくすだけで、これから何処へ行くべき
なのかを指し示す者の姿さえ無い。
「ブルー…」
ハーレイの頬に堪え切れない涙が伝う。誰よりも愛し、守り抜きたいと願っていた者を守れ
なかった。最期まで自分を想ってくれたブルーを、たった一人で逝かせてしまった。
あの時、自分も声の限りにブルーの名を叫んだ気がするのに。ブルーをシャングリラに連れ
戻してくれと、ジョミーに向かって絶叫したと思ったのに……。
全ては幻に過ぎなかった。
ジョミーは……ソルジャー・シンはワープアウトする直前に倒れ、今はメディカル・ルームに
いる。ナスカでサイオンを使い過ぎたがゆえの一種の過労と言える症状。そんな状態にあった
ソルジャー・シンにブルーを救うことが出来る筈もなく、また、そのような願いをソルジャー
相手に叩き付けられる筈も無かった。
我を失って取り乱したのかと我が身を振り返り、苦い後悔に苛まれたが、周囲の者たちの心の
表面を軽くサイオンで探ってみても、そんな形跡は微塵も無い。それにキャプテンである自分が
恐慌状態に陥ったなら、ブリッジの雰囲気はもっと騒然としているだろう。
(…ブルー…。申し訳ありません。…あなたを失った瞬間でさえ、私はキャプテンとして冷静に
立っていたようです。ですから今は……今は少しくらい、あなたを想うことを許して下さい…)
溢れる涙を拭おうともせず、ハーレイは永遠に失ってしまったブルーを想ってただ唇を噛み
締めていた。
メディカル・ルームから戻ったソルジャー・シンがアルテメシアに向けて出発すると宣言した
のは、その日の内。ハーレイはブリッジで航路設定の指揮を執り、今後についての打ち合わせを
終え、シャングリラの舵をシドに任せて自分の部屋へと引き揚げた。
キャプテンゆえの責任感のみで動いていた身体は鉛のように重く、酷く疲れ果て、歩くことすら
おぼつかない。
船内で一人きりになってしまうと嫌でも思い知らされる。
この船の中にブルーはいない。いくら呼んでも戻ってはこない。ブルーの命が潰えた場所すら、
探すことさえ叶わないほど遙か彼方に離れて遠い…。
(ブルー……)
どうして行かせてしまったのか。一人逝かせると分かっていたなら、何と罵られ謗られ
ようとも、船から出したりしなかったものを。…追い掛け、この両腕に閉じ込めてでも、
シャングリラに留めておいたものを…。
後悔してもし切れぬ思いに胸を押し潰されながら扉を開き、暗い室内に足を踏み入れる。灯りを
点ける気にすらなれず、足許に淡く灯った非常灯に導かれるままに暗がりの奥の寝台へ向かう。
何度、この部屋でブルーと夜を過ごしただろう? 幾度、互いの身体を重ねて熱い想いを
交わしただろう…。
ふらつく足で寝台に倒れ込もうとしたハーレイの瞳がシーツの上に信じられないものを
見付けた。
ぐったりと力なく投げ出された、折れそうに細く華奢な手と足。闇の中に仄白くぼんやりと
浮かぶ、血の気の失せた蒼白な顔と乱れて広がる銀色の髪…。
「ブルー!?」
その姿を見誤るわけがなかった。慌てて点けたベッドサイドの灯りに血まみれの姿が照らし
出される。どれほどの攻撃に晒されたのか、その整った白い顔にも、細い身体にもどす黒い血が
べったりとこびりついている。
「ブルー!!!」
思わず腕を取り、氷のようなその冷たさにハーレイの背筋がゾクリと冷えたが、仮死状態だと
すぐに分かった。身体のあちこちに受けた深い傷から大量の血が流れ出すのを、凍った身体が
防いでいる。ブルーの命は消えてはいない。
(すぐに手当てを…!)
震える指で通信画面を開くとメディカル・ルームのノルディを呼び出し、医療チームを派遣して
くれと怒鳴り付けるように叫んでいた。
慌てていたため、ブルーの名前を告げるのも忘れ、とにかく早くと急き立てたのだが、優秀な
医師は怪我人の状態について幾つか質問を投げかけただけで、すぐに向かうと通信を切った。
今頃は既に長い通路を懸命に走っているだろう。
生きている。ブルーが生きて……この部屋にいる。ハーレイは呼吸すら止めて横たわっている
ブルーの傍らで声を押し殺して泣き続けていた。
駆け付けた医療チームはブルーを見るなり声を失くした。驚いたことも大きいだろうが、
明らかに瀕死の重傷と知れるブルーの外見から受けたその衝撃も、また大きい。
しかし彼らは手際良く応急措置を施し、ノルディが矢継ぎ早に指示を飛ばして手術の準備を
整えながらブリッジの長老たちに緊急連絡を入れる。
ソルジャー・ブルー、帰還。
思いがけない知らせにシャングリラ中に広がってゆく安堵と歓喜の思念の漣。テレポートして
現れたソルジャー・シンですら、大粒の涙を零していた。
やがてブルーはストレッチャーでメディカル・ルームに運ばれてゆき、ハーレイとソルジャー・
シンだけが残される。ここから先はノルディたちの腕に任せるしかない。ブルーの命を繋ぎ止める
ための手術は何時間もかかることだろう。
「…ハーレイ。…ブルーを連れ戻してくれてありがとう」
「ソルジャー…?」
ソルジャー・シンがポツリと口にした意外な言葉に、ハーレイは瞳を見開いた。ソルジャー・
シンは何と言った? 自分がブルーを連れ戻した? …違う。そんなことが出来る筈がない。
第一、自分はずっとブリッジで舵を握っていたではないか。
それなのに、ソルジャー・シンはハーレイに真っ直ぐ視線を向ける。ありがとう、と。
「君がいなければ、ぼくたちはブルーを失っていた。…連れ戻してくれと言っただろう?
ナスカで、ぼくに」
「…えっ?」
あれは夢だと思っていた。混乱の極みの中で自ら紡いだ白昼夢だと。まさか自分は本当に…?
ソルジャー・シンに、ブルーをメギドから連れ戻してくれと懇願したのか…?
「思い切り頭を引っぱたかれたような感じだったよ。あそこに、メギドにブルーが居る。連れ
戻してくれ、ジョミー! とね。それから後はどうなったのか、ぼくにも全く分からない。
…意識を乗っ取られたとでも言うのかな? 君はぼくのサイオンをその意思で支配し、勝手に
使ってブルーを此処まで運んだんだ」
「わ、私には……そんな力は…」
「でも、そうとしか思えないだろう? ぼくはブルーを運んではいない。おまけに意識を失くして
倒れた。ドクターはサイオンの使い過ぎだと言っていたけれど、そこまで使った覚えは無いんだ。
…だけど、ブルーを運んだのなら納得がいく。あれだけの距離を一気に跳ぶのは…とても力を
消耗するから」
淡々と語るソルジャー・シンには結論が見えているようだった。ブルーを救いたいと願う
ハーレイの強い意思の力がタイプ・ブルーの力を凌駕したと。重傷を負ったブルーを仮死状態に
して大量出血を防いでいたのも、ハーレイが無意識にやったことだと。
「ハーレイ。ぼくはこれから忙しくなる。…ブルーにまで手が回らない。君もキャプテンとして
多忙なことは分かっているけど、ブルーを頼むよ」
君の………大事な人なんだろう?
ソルジャー・シンは踵を返してハーレイの部屋を出て行った。ハーレイはふらふらとベッドに
腰掛け、ブルーの体重で窪んだシーツをゆっくりと撫ぜる。
(…知られてしまいましたよ、ブルー…。私があなたに抱く想いを。…私の部屋などに運んで
しまってすみません…。けれど、本当に私がそれをやったのでしょうか? ソルジャー・シンを
操るなどと…)
その実感はまるで無かった。だが、ソルジャー・シンがそう言うのならそれが真実なのだろう。
タイプ・ブルーの力を借りるなど、未だ想像もつかないけども。
それでも、それが事実だとしたら…。
自分はブルーを守れたのだ。今はまだ予断を許さない状態とはいえ、ブルーは戻って来たの
だから。
ノルディたちの長時間に渡る努力と手腕が功を奏して、ブルーの手術は成功した。
銃弾は全て摘出されたが、粉砕された右の瞳は移植再生手術以外に元通りに治す方法が無い。
その手術に耐えられるだけの体力がブルーには無い、と告げるノルディに、ハーレイは拳を白く
なるほど握り締めたが、ブルーが生きているだけで充分なのだ、と懸命に自分に言い聞かせた。
体力を使い果たしたブルーの意識が戻るまでには一ヶ月以上の月日を要し、ハーレイはその
病室に毎日足を運んで、眠り続けるブルーの姿を確認しては祈るようにその手に額をつける。
夜も自分の部屋には戻らず、傍らの簡易ベッドで眠りにつく。
そんな日々を重ね、ブルーの眠りを見守り続けて……ついにその日はやって来た。ブルーが
ジョミーに託した補聴器はこの時に備えて元の持ち主の許へと戻り、その姿はソルジャーの衣装を
着けていないだけで以前と殆ど変わりはしない。
ノルディに呼び出され、ベッドの脇に控えるハーレイの目の前で銀色の睫毛がゆっくりと……
上がる。
(……ハー…レイ……?)
ブルーの唇が形作った自分の名前に、ハーレイは痩せた白い手を強く握った。
「…ブルー、私は此処にいます。…あなたは戻って来たのですよ」
「…………」
片方だけになってしまった赤い瞳がハーレイを見詰め、確かめるように瞬きをして。
『…やっぱり君のサイオンだった…』
伝わって来たブルーの思念に、ハーレイは怪訝な顔をする。何のことを言っているのだろう?
『…ぼくは碧の光を見たんだ。…あのミュウがまた来たのかと思った。でも…ぼくを呼んだのは
君の声だった』
それが限界だったのだろう。ブルーは再び眠りに落ちてゆき、ハーレイはブルーが語った言葉を
思い返してみる。あのミュウというのは誰のことか。この船にいる仲間のことなら、ブルーは
名前で呼ぶ筈なのに…?
ブルーの目覚めは途切れ途切れで、いつその命が消えてしまうかとハーレイは不安で堪ら
なかった。しかしブルーは目覚める度に少しずつ力を取り戻してゆき、ある日、ハーレイに
微笑みかける。
「…ハーレイ…。あまり無理はしなくていいから。ぼくは眠っている時の方が多い」
「何のことです?」
「力だよ。いつもぼくを呼んでいるだろう? 生きてくれ…と。その声が届くと身体に力が満ちて
ゆくんだ。…あれはジョミーにしか出来ないのだと、ぼくは信じていたんだけどね…?」
ふわりと笑ったブルーの思念が、アルテメシアで起きた出来事をハーレイに余すことなく伝えて
くる。サイオンも力も尽きて落ちてゆくブルーの身体をその腕で捉え、「生きて」と願った
ジョミーの思いが自分を生かし続けたのだ……と。
「君にも出来るとは思わなかった。…ぼくが今、生きていられるのは君が願ってくれている
から…。でも、君だって忙しい身だ。ぼくにばかり構っていてはいけないよ」
差し伸べられた手がハーレイの頬に優しく触れる。
「行って。…ぼくはまた眠るから…」
「ブルー?」
すうっ、とブルーの意識が沈んでゆく。眠るまでの間だけ、側にいて…と微かな囁きだけを
残して。
自分の願いがブルーの命を繋いでいると知ったハーレイは、それまで以上にブルーの傍に居る
ようにした。激務の合間を縫って病室を見舞い、夜はブルーの病室で休む。体調が落ち着いた
ブルーが青の間に戻れば、ハーレイの寝台も共に青の間に移された。ソルジャー・シンの命令に
よって。
「…ジョミーは全部知ってるんだね」
勤務を終えて青の間に入ったハーレイを、ブルーの穏やかな笑顔が迎えた。
「君がぼくを生かしていることだけじゃなくて、ぼくたちのことは……全部。さっきジョミーが
教えてくれたよ。恋人を救い出してくれ、とソルジャーを怒鳴り付けたキャプテンの話を」
「私は怒鳴り付けたわけでは…!」
抗議するハーレイに、ブルーが白い指を自分の唇に当てる。
「ほら、怒鳴った。そんな風にジョミーも怒鳴られたんだろうね。…でも…君のサイオンに
包まれた時は嬉しかった。死ぬ間際に見る夢だとばかり思っていたけど、それでも…」
一人ぼっちで死ぬんじゃないんだ、と感じられただけで嬉しかった。
そう呟いて儚く微笑むブルーをハーレイは強く抱き締める。もう二度とこの腕を離しはしない、
とブルーの身体に刻み込むように。
「…苦しいよ、ハーレイ…」
「もっと。…もっと、生きて下さい。いくらでも祈り続けますから。どんなに疲れ果てた時でも、
あなたを想っていますから…」
あなたがまだ弱り切っていなかった頃のように。身も心をも重ね続けて過ごした頃のように、
あなたが力を取り戻すまで…。
そう告げると、ブルーはクスッと小さく笑った。
「…欲張りだね、ハーレイ…。ぼくにそこまで望むのかい…?」
「あなたは望んでらっしゃらないのですか?」
「………。君は……狡い」
フイと顔を背けたブルーの顎を捉えて口付ける。今はまだ、ただ唇に触れるだけ。けれどそう
遠くない日に恋人同士の口付けを交わせる時が来るだろう。
それは願望ではなく、確信だった。ブルーはもっと元気になれる。自分が強く望みさえすれば。
失われてしまった右の瞳も、再生手術の準備が進められていた。ブルーがこの船に戻った
時には、それは不可能だとノルディが判断を下していたし、ハーレイもまた断腸の思いで
その宣告を受け入れたのに。
ブルーの身体は順調に回復し続けていて、じきに元通りになるだろう。片方しかない瞳を見る
度に胸を締め付けられるような思いをするのも、あと少しだけ。
守れなかった自分の不甲斐なさを詫びる度に、ブルーは「ぼくを連れ戻してくれたじゃないか」
と柔らかな笑みを返すのだったが、閉ざされたままの右の瞳がハーレイを映すことは決して
無かった。
それこそが自分の罪な気がして、ハーレイの胸は数え切れないほどの痛みを何度ズキリと
覚えたことか…。
そしてブルーの美しい一対の瞳が蘇る。
麻酔から醒めた紅玉の瞳に映る己の姿に、ハーレイはまた涙ぐんだ。全ての傷が癒えた
ブルーの身体に、もう忌まわしい痕跡は無い。メギドでの惨劇は塗り替えられて、遠い過去の
ものとなったのだ。
ブルーを喪ったと思ったあの日から今日まで、いったい何度泣いただろうか。
けれど、そんな日々ももうすぐ終わる。ブルーの容体は安定していて、生命が危うくなる
ような兆候は無い。その双眸が戻ったからには、次は健康を取り戻せばいい。もう一度、身体を
重ねられるほどに。互いの熱い鼓動と息とを分け合い、心まで一つに溶け合えるほどに…。
「ハーレイ…。君はまた泣いているのかい?」
二つの紅玉が静かに瞬く。
「君がそんなに泣き虫だったとは知らなかったよ」
「…私が泣くのは可笑しいですか? では、泣き顔はこれで最後にしておきます。
その代わり……生きて下さいますね? 私を残して……私の腕が、心が届かない場所で一人
逝ったりはなさいませんね…?」
そう念を押すハーレイに、ブルーは困ったような笑みを浮かべた。
「…届いたじゃないか。腕も、心も」
だから、ぼくはシャングリラに戻って来たんだろう…? 君がジョミーに願ったから。
ジョミーのサイオンを支配してまで、ぼくを連れ戻したいと願ったから…。
「あなたの声が聞こえたからですよ。そして碧の光が見えたと思った。…何度も言っている
でしょう? あの時、あなたも私も奇跡を願った。私はあなたを連れ戻したかったし、あなたは
私に会いたかった。…違いますか?」
「そう……かもしれない」
地球の男を救い出して行った碧の光が羨ましかった。ハーレイが此処に来たのだろうか、と
見誤ったほどのタイプ・グリーン。あのミュウが起こした能力の限界を超える奇跡に、思わず
自分も縋りたくなった。叶うのならばもう一度だけ、自分だけの碧に会いたかった……と。
「……ハーレイ…」
ブルーは両腕を伸ばし、ハーレイはそれを受け止めた。華奢な身体をベッドから起こし、
その腕の中に抱き締める。今はまだこうして抱き締めるだけ。ブルーの体力が完全に戻って
くるまでは…。
ハーレイの温もりに包まれ、夢見るように瞳を閉じたブルーが消え入りそうな声で囁いた。
「ねえ、ハーレイ…。あの時、あのミュウに出会わなかったら、ぼくは此処には戻れなかった。
君の心を引き寄せる程に、会いたいと願わなかっただろうから。……あのミュウは……今、
幸せなのかな…?」
地球の男との戦いは今も続いている。しかし碧のサイオンを持ったミュウの消息は杳として
知れない。生きているのか、実験体として処分されたか、それすらも全く定かではない。
それでも…。
「…ブルー…。ジョミーには全て話してあります。あの男の傍にミュウがいたことも、私が
ジョミーの力を使った切っ掛けがそのミュウが放った碧の光であったことも。……もしも、
あのミュウに出会えたならば…」
悪いようにはならないでしょう、とハーレイはブルーの銀色の髪を愛しげに梳いた。
「あちら側にもミュウがいるなら、対話の糸口になるかもしれない。…あなたが戻ってこられた
ように、奇跡は起こせるものなのですから」
地球を目指して進撃を続けるシャングリラの中で、ブルーはハーレイに守られて生きる。
ハーレイはすっかり過保護になってしまって、ブルーが青の間から外へ出る時には傍らを
決して離れはしない。
「……ハーレイ。もうジョミーだけでなくて、シャングリラ中に知られてしまったみたい
だけれど…?」
ぼくたちがどういう関係なのか、とベッドの上で苦笑するブルーにハーレイは深く口付けた。
「…まだですよ」
唇を離したハーレイが熱を帯びた瞳でブルーを見詰める。
「皆が思っているような繋がりは、まだ持つことが出来ないでしょう? もっと……もっと
元気になって頂かなくては。でなければ…」
私が生きている意味がありません。
あなたが生きていることこそが、私の生きる意味なのですから…。
「…本当に君は欲張りだよね。でも…」
此処に戻ってこられて良かった。…君の腕の中に戻れて良かった…。
そう繰り返すブルーを腕に閉じ込め、ハーレイは今一度、奇跡を願う。願わくば、ブルーが
自分を置いて逝ってしまうことが無いように…。自分がブルーを残して先に逝くことも
無いように、と。
逝くのならブルーを連れて逝きたい。ブルーが逝ってしまうのならば、どうか自分の
命も共に…。
それはシャングリラのキャプテンとして、多分、持ってはいけない願い。この船はまだ戦いの
只中にあり、その果ても見えはしないというのに。
だから、ブルーを置いては逝かない。ブルーにも置いて逝かせはしない。
強い想いは奇跡を起こす。…この戦いを越えて、いつか平和を掴み取るまで……ブルーが
焦がれた青い水の星に辿り着くまで、ブルーを決して離しはしない。
今、腕の中にいる愛しい者を守り抜くためなら幾度でも奇跡を起こしてみせる。タイプ・
グリーンのサイオンにかけて。
あの日、ブルーがその目で捉え、自分の心に送って寄越した奇跡の碧の色に誓って…。
行きましょう、ブルー。
二度とこの手を離しませんから………地球へ。
奇跡の碧に…・了
※葵アルト様のシャングリラに住むブルーとハーレイ、「ぶるぅ」のお話です。
シャングリラ学園シリーズと直接の関係はございません。
内輪で公開しておりましたが、ハレブル別館オープン記念に蔵出ししました。
思い切りおバカ仕様です。
悪戯と大食いとグルメ、ショップ調査が生甲斐の五歳児、「ぶるぅ」。
アルテメシアに花見のシーズンが近づき、花見弁当の下見を兼ねてアタラクシアの街で食べ歩いて
からシャングリラへ戻ってきたのだが…。
「あれ?」
出掛ける前に『おでかけ』の札を下げておいた筈の部屋の扉が無くなっていた。瞬間移動する
先を間違えたのか、と慌てて目印になる居住区へ飛び、そこから出直してみたものの。
「…あれれ?」
やはり扉は見当たらない。これは歩いてやり直した方が良さそうだ。食べ過ぎたせいで瞬間
移動に誤差が生じてしまったのだろう。仕方なく居住区まで戻り、トコトコ歩いて見慣れた
通路に入ったのに。
「……お部屋がない……」
両脇の部屋の扉はちゃんとあったが、自分の部屋の扉が無かった。代わりに壁が広がっている。
曲線を描く天井まで続く無機質な壁で、部屋があったという形跡すら無い。住み慣れた部屋も、
お気に入りの土鍋の寝床も何もかも消えてしまったのだ。
「ど、どうしよう…。うわぁぁぁん、ぼくのお部屋が無くなっちゃったぁ~!」
ポロポロと大粒の涙が零れ、「ぶるぅ」はおんおん泣き始めた。日頃カラオケで鍛えた喉は
半端ではなく、通路がビリビリ震えている。声を限りに泣きじゃくっていると…。
「や、やっぱり…! すまん、気付くのが遅かった」
まだ帰らないと思っていたのだ、と謝りながら走って来たのはハーレイだった。
「つまり、アレだ。…シャングリラ学園のぶるぅの部屋と同じ仕掛けだ」
部屋が無くなったわけではない、とハーレイは壁を指差した。
「よく集中して見るといい。此処に紋章があるだろう? これが転移装置になっている」
シャングリラの船体やクルーの制服にあるのと同じ紋章に褐色の手が触れたかと思うと、
ハーレイはいなくなっていた。慌てて紋章に小さな手を伸ばすとフワリと浮き上がる感じが
あって…。
「あっ、ぼくの部屋だ!」
そこにはいつもと変わらない部屋。いや、一つだけ違うのは扉が無くなっていることで…。
「ビックリさせて悪かった。だが、ブルーは言い出したら即、実行だからな」
「ブルーがやったの?」
「正確には工作班にやらせたと言うべきか…。これは実験用らしい。青の間でやろうとして
いたんだが、ゼルたちが他の場所で安全性を確認すべきだ、と」
「実験用? なんで?」
何をするの、と目を丸くする「ぶるぅ」に、ハーレイは少し困った顔をして。
「青の間の入口の仕掛けは知ってるな? 入られたくない時はロックしておく」
「うん、知ってるよ」
「この前、ブルーが忘れただろう? そこへノルディが様子を見に来て…」
「思い出した、大人の時間をやってた時だね!」
大騒ぎだったから覚えているよ、とニッコリ笑う「ぶるぅ」。この小さな子に目撃された
修羅場を思い返して、ハーレイは深い溜息をついた。
それは一週間ほど前のこと。ソルジャー・ブルーは「長老たちとの花見の宴に備えて酒を
吟味する」という大義名分の元、人類側から失敬した大量の酒を居室の青の間に運び込んだ。
そして利き酒を始めたのだが、酒好きのブルーが利き酒だけで酒瓶を放す筈が無く…。
記録係をしていたハーレイの制止も聞かずにブルーは次々と酒瓶を空にしていった。そこ
まではいい。よくあることだ。だが、その日ブルーが持ち込んだ酒は様々な種類が入り乱れて
いたらしく、いわゆる「ちゃんぽん」状態となった挙句に泥酔、翌日の朝は二日酔い。
流石のブルーも酷い吐き気と頭痛に悩まされた末、メディカル・ルームの扉を叩いた。
ドクターの診断結果は「通常の人間なら急性アルコール中毒レベル」。ブルーは点滴を受ける
羽目になり、安静を申し渡されたのだが…。
「ねえ、ハーレイ」
赤い瞳がハーレイを見上げたのは、その夜のこと。勤務を終えて青の間へ見舞いに訪れて
みれば、ブルーは心なしか潤んだ瞳で。
「…寝てるだけって退屈なんだよ、今日一日で思い知ったさ。なのに明日まで寝てろだなんて…。
退屈な病人を慰めてくれてもいいだろう? ほら、まだ身体がこんなに熱い。…もっと熱くして
くれないかな?」
息があがってしまうほど、と普段よりも熱い手で握り締められたハーレイの手首から熱が
広がる。ブルーの体温は常に低くて触れると冷たく感じるのだが、その日はいつもと異なって
いた。誘うように熱く絡み付き、ハーレイの中の雄を煽ってゆく。後はもう……堕ちるだけ
だった。
「何をしてるんです、あなた方は!」
ノルディの怒声が青の間に響き渡るまでの間に何回昇り詰めただろう? 我に返れば
ブルーは全裸の自分に組み敷かれたまま浅い息をしていて、ぐったりと手足を投げ出して
いる。そういえば見舞いに来たのだった、と思い出した時にはもう手遅れで。
「まったく…。お休みになる前に診察しようと来てみれば…。どうするんです、こんなに
消耗させて!」
「す、すまない…」
「…いい…んだ、ぼくが……ぼくから…誘って…」
「病人は黙っていて下さい!」
長老の皆様にバラしますよ、と脅迫しながらノルディがブルーの腕に栄養剤を注射する。
ハーレイとブルーが「いい仲」なことはシャングリラ中にバレバレだったが、ハーレイは
気付いていなかった。ブルーを診察する機会があるドクターだけが知っている、と頑なに
思い込んでいる。
「いいですか、今度こそ絶対安静です。キャプテンは自制が効かないようでらっしゃいますから、
当分の間、此処へは立ち入り禁止で。…それと、そろそろ服を着て頂けませんか? 私は裸は
見飽きております」
言われて初めて真っ裸なことに気が付いた。ブルーは夜着を着せられているのに自分は裸だ。
足の間には行き場を失った哀れな息子が潮垂れてションボリぶら下がっていて…。
床に脱ぎ棄ててあった服をアタフタと身に着ける最中に、まん丸い瞳と目が合った。ベッドの
傍に置かれた土鍋の蓋が開き、「ぶるぅ」が顔を覗かせている。冷暖房完備の防音土鍋だったが、
あまりの修羅場に誰かのサイオンが乱れ、叩き起こしてしまったのだろう。
ハーレイは思い切り恥ずかしかった。身も世もなく情けなく、いたたまれなかった。制服を
着てマントを着けると「申し訳ない」とだけ言葉を残して、逃げるように走り去ったのである。
そのド修羅場から一週間。
ブルーに反省の色は全く無くて、自分が扉をロックするのを忘れたことのみを悔やんでいて。
「…このシステムが悪いと思うんだよ」
変更すべきだ、とブルーはハーレイに提案した。
「扉があるとロックが要るし、ロックするのを忘れてしまうと悲惨な結果になるからねえ…」
「しかし、扉を無くすわけには…」
「ほら、いい見本があるじゃないか。シャングリラ学園のぶるぅの部屋だよ。ああいう風に扉を
無くせば、入って来る時には仕掛けが必要。ぼくとお前とぶるぅ以外の誰かが仕掛けを使おうと
するとアラームが鳴るっていうのはどう?」
実にいいことを思い付いた、と得意そうなブルーは早速それを実行に移すべく行動中という
わけだ。そのための試験運用の場として普段から人の出入りが少ない「ぶるぅ」の部屋に白羽の
矢が立った。「扉が無いのが当たり前」の部屋が問題無ければ、青の間の扉も廃されるらしい。
そうしたいきさつを聞かされた「ぶるぅ」は「ふうん…」と扉が消えた壁を眺めて。
「で、どうなるの? いつまでこのまま?」
「さあな…。ブルーの気分次第だろう。青の間の扉がどうなるか知らんが、お前の部屋で
実験中だというのを忘れずに思い出して貰えるといいな」
忘れられたらこのままだぞ、と言われて「ぶるぅ」は涙目になった。部屋が好きなのは勿論
だったが、扉に『おでかけ』の札を下げるのも好きなのだ。遊びに出掛けて留守だもん、と
アピールしたいのが子供心というヤツで…。
「…ぼくのドア、返してほしいんだけど…」
「それはブルーに頼むんだな。忘れないように元に戻してね、と毎日土下座するといい」
私がベッドにいない時に、と釘を刺すことをハーレイは忘れはしなかった。あんな修羅場は
二度と御免だ。おませで無邪気な丸い瞳に覗かれるのもお断りだ、と心の中で叫ぶハーレイと
ブルーの『大人の時間』がその後どうなったのか、青の間と「ぶるぅ」の部屋の扉はどう
なったのか…。
答えはブルーが知っている。勇気ある人は直接尋ねてみるといい。
「あの件はその後、どうなりましたか…?」
見るなの扉・了
※猫キックというタイトルについて、少々ご説明をば。
かつて「シャングリラお風呂隊」というハレブル好きの団体がございました。
お風呂隊での作者の仮の姿(?)は三毛猫。
他の隊員の修羅場中において、エール代わりに繰り出す技が「猫キック」です。
タイトルはそこから来ています。
内輪だけで終わるネタの筈でしたが、ハレブル別館オープン記念に蔵出ししました。
では、どうぞ!
「ああ、ハーレイ。ちょうどよかった」
届いたばかりの荷物なんだ、とブルーはテーブルに置かれた箱の中から棒のようなものを取り
出した。
「なんだ、それは?」
「猫の手らしい」
「…孫の手のように見えるのだが」
「でも肉球がついてるよ? それに毛皮も」
言われて見れば孫の手もどきは猫の手だった。猫に手は無いから正確には足と呼ぶべきか。
…とにかく三毛猫の足の形の作りものだ。
ブルーは猫の足でポンとハーレイの尻を叩いて。
「どう?」
「どう、とは?」
「どんな感じかなぁ、と思って」
「…特に何も」
「ふうん? そうか…。じゃあ、こっち」
おやつらしいよ、と差し出されたのは棒状のスナック菓子だった。
「大丈夫、甘くはないらしいから。食べてみて」
そう言う間にもブルーは猫の足でハーレイの尻を叩いてみては「おかしいなぁ…」と呟いて
いる。
猫の足で尻を叩くことに何らかの意味があるのだろうか、と気になりつつも受け取った菓子を
眺めてみれば。
「…エロイ棒?」
「うん。うまい棒っていうスナック菓子のパクリだってさ。それはマカ味。これはスッポンで、
それからこっちがオットセイで…」
「待ってくれ。…その荷物は誰が送って来たんだ?」
「猫だけど? エロは書けないけど大好物っていう三毛猫が、お前のために特注したって…。
茶吉尼天を拝み倒して作ってもらったらしいんだけど、なんかイマイチ」
「…だきにてん…?」
「エロの神様だというから期待したのに効かないようだし、エロイ棒の方を試してみようよ」
とにかく食べて、とブルーはスナック菓子をハーレイに押し付け、期待に満ちた瞳で見ている。
ハーレイは仕方なく食べ始めた。確かに味は悪くない。もっと食べたいという欲求が身体の
奥から湧き上がって来る。マカにスッポン、オットセイ…。次から次へと食べる間に気が付いた。
こんな菓子よりも美味そうなモノが目の前に腰掛けているではないか。
これを食わずになんとする、と猫の手で自分の尻を叩き続けていたブルーの肩を掴んでベッドに
押し倒し、衝動のままにマントを剥ぎ取り、白と銀の上着を毟り取ってアンダーのジッパーを
引き下げて…。
その後はもう獣のように思う様、ブルーを貪り食らう。
未だかつてこんなにも激しくしたことがあっただろうか、というハーレイの勢いに流されてゆく
ブルーは全く気付いていなかったのだが、猫の手とエロイ棒が詰め込まれていた箱の底には注意
書きが入っていた。
++++++++++++++++++++++
『猫の手に即効性はありません。二人のムードを高める時間を大切にするため遅効性となって
おります。焦らず暫くお待ち下さい。何度も続けて叩いてしまうと、叩いた数だけヤリ続けて
しまう恐れがあります。六回を超えても叩き続けるのはおやめ下さい』
『エロイ棒の効果は抜群です。一本で確実に濃いめのエロをお約束します。なお、濃すぎる
エロは翌日のお仕事などに差し支えますので、一度に食べるのは一本までにして下さい。』
『猫の手とエロイ棒には茶吉尼天のパワーが凝縮されております。併用するとR18どころか
発禁処分になってしまう恐れがございます。決して併用しないで下さい』
++++++++++++++++++++++
こういう注意書きは荷物の一番上に入れておくのが常識である。エロ好きの猫が何を思って
荷物の底に突っ込んだのかは分からない。
エロイ棒の山に埋もれた注意書きがブルーとハーレイの目に止まるのは、本当にいつに
なるのやら…。
猫キック・了
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
夜勤のクルー以外は寝静まったミュウたちの船、シャングリラの夜更け。ハーレイはフウと
溜息をついて額の汗を袖で拭った。
(…なんとか間に合いましたよ、ブルー…)
床の上に置かれているのは木目を基調とした船長室にはまるで似合わない大きなカボチャ。
怪物じみた目と不気味に裂けた口とが彫られ、中身を刳り抜かれたジャック・オー・ランタンと
呼ばれるものだ。
それはハロウィンの夜に明かりを灯すカボチャのランタン。木彫りを趣味とするハーレイ
だったが、これだけの大きさのカボチャをたった一人で彫り上げるのは大変だった。以前なら
ハロウィンが近付いてくれば手の空いたクルーが公園などに集まってお祭り騒ぎで作ったもの
なのに、今年はそういうわけにもいかない。
「ギリギリになってしまいましたが、今はこういう時ですから…。このカボチャだって手に
入れるのに散々苦労しましたよ」
分かるでしょう? と誰もいない部屋で一人呟き、ハーレイは用意してあった蝋燭にそっと火を
点すとランタンの中に差し入れた。部屋の明かりを消せば黒々と浮かび上がったカボチャの目と
口からオレンジ色の光が漏れて、文字通りお化けカボチャのようだ。
(見えますか、ブルー? 今夜は死者が帰る夜だと仰ったのはあなたですよ)
ミュウを導くソルジャーがブルーであった時代にシャングリラで始められたハロウィンの
催しは、昨年までは途切れることなく続いていた。ジャック・オー・ランタンや様々な仮装、
「トリック・オア・トリート?」と声を張り上げて艦内を回る子供たち。しかし、地球を目指す
戦いを繰り広げる今、そういう余裕は残されていない。
けれどハーレイはキャプテンの権限を密かに行使し、なんとかカボチャを入手した。ランタン
作りの助手の調達は不可能だったが、彫るのは自分の腕だけで…と決めていたからカボチャさえ
あれば充分だ。もっとも、これほど手強い相手とは予想だにしていなかったため、ハロウィン
当日の夜に至るまで彫り続ける羽目になったけれども。
(これが見えたら帰っておいでになるのでしょう? そうですね、ブルー?)
苦心して彫り上げたカボチャのランタンをベッドから良く見える場所に据えると、ハーレイは
布団に潜り込んだ。
ブルーがシャングリラからいなくなってから随分経つ。
想いを交わし、身体を重ねて長い年月を共に過ごした大切な恋人。
初めの内は思念体となった彼が戻って来るものと固く信じてひたすら帰りを待ち続けたのに、
ブルーは姿を現さなかった。いくら呼んでも応えすら無い。
(あなたの力でも死という壁は越えられなかったということでしょうか…。けれど今夜は戻れる
でしょう? そのためにこれを彫ったのですから)
あなただけのための道標ですよ…、と心の中でブルーに語り掛ける内にハーレイの瞼が重く
なる。キャプテンとしての激務と連日連夜のランタン作りで疲労が溜まっていたらしい。
(すみません、ブルー…。戻っておいでになったら私を起こして頂けますか? 明日も仕事が
忙しいので…)
徹夜するわけにはいかないのです、という思念を最後にハーレイは眠りに落ちていった。
ハロウィンの夜は深まり、此処が古の地球だったなら異界の者たちがそぞろ歩きを始める頃。
「…ハーレイ。これは嫌がらせかい?」
耳に届いた懐かしい声にハーレイは勢いよくベッドから跳ね起き、そこに忘れようの無い
姿を見付けた。
常夜灯とカボチャのランタンだけが灯った部屋でも仄かな光を纏ったブルー。
赤い瞳も銀色の髪も、あの日から全く変わってはいない。
「ブルー…! 戻ってらっしゃったのですね…!」
「嫌がらせかい、と訊いているんだけれど?」
感涙にむせぶハーレイに、しかしブルーは冷たかった。これが数ヶ月ぶりに会った想い人に
対する言葉だろうか、と不安が頭を擡げるほどに。
もしかしたらブルーは、あちらの世界で新たな恋をしたのだろうか?
手が届かなくなった恋人よりも、身近な誰かに目が向くことは多いと聞く。まさか、
ブルーも…?
戸惑うハーレイを見詰めるブルーが突然クスクスと笑い始めた。
「誰が恋人を作るんだって? ぼくは君だけで手一杯だよ」
「………?」
何を言われているのか分からず、ハーレイは怪訝な顔をする。
「まったく…。ずっと君の側にいたというのに、君は全く気が付いてないし! タイプ・
グリーンの力というのも考えものだね。一度シールドを張ったが最後、ぼくの思念も
受け付けやしない」
ブルーはベッドの端に腰を下ろすと、ハーレイの額に指先で触れた。その感触は分から
なかったが、穏やかな思念が伝わってくる。
「すぐに帰って来なかったのが悪かったのかな? だけど仕方が無かったんだよ。ナスカに
取り残された仲間たちを向こうへ送り届けるのもソルジャーの務めの内だろう? それに
ソルジャーというだけで頼られちゃうから忙しかったし」
あっちで色々と用事があって、とブルーが微笑む。
「みんなが落ち着いたのを見届けてから戻ってきたら、君はシールドの中だった。戦いの中で
撒き散らされる断末魔の悲鳴をシャットアウトするために張ったんだろうけど、ぼくの声まで
届かないとは思わなかったな」
「…で、では…」
ハーレイの声が掠れて震えた。
「私はあなたを無視したままでいたのでしょうか? 今日までずっと…?」
「そういうことだね。挙句の果てにランタンなんか彫っちゃって…。こんな嫌がらせを
されるんだったら、君が言うように新しい恋人でも探した方が良かったのかな?」
大袈裟に肩を竦めてみせるブルーに、ハーレイは慌てて懸命に詫びる。
「も、申し訳ありません! シールドはすぐに解きますから! それにランタンは嫌がらせ
などではないのです。あなたがシャングリラを見失っておられるのでは、と道標に…」
「…分かっているよ、ハーレイ」
君の側にいたんだから、とブルーは柔らかな笑みを浮かべた。
「でもね…。君は勘違いをしているようだ。ジャック・オー・ランタンはハロウィンの魔除け。
悪い霊が近寄らないよう、脅かすために置くものだけど?」
「…………」
それで嫌がらせかと訊かれたのか、とハーレイの背中を冷や汗が流れる。ブルーを延々と無視し
続けた上、とどめのように置いた悪霊除けのカボチャのランタン。別れ話を切り出されても
反論できない事態ではないか。
「…馬鹿だね、ハーレイ。ぼくが何処かへ行くとでも…?」
行きやしないよ、とブルーの重さも熱も無い腕がハーレイの首に回される。
「そうするんだったらとっくに行ってる。…君の所へ戻って来たのも、ずっと一人で君の側に
いたのも、ぼくがそうしたかったから。…君に取り憑いていると解釈するなら悪霊だとも
言えるかな?」
「いいえ…。いいえ、決して悪霊などでは…!」
ハーレイは抱き締められない思念体のブルーを胸に閉じ込めるようにして口付けた。唇は決して
触れ合うことなく、互いを求める熱い想いだけが混じり合い高まってゆくだけだけれども。
「ありがとう、ハーレイ。…あのランタンを作ってくれて」
長い口付けの後でブルーが床に置かれたランタンを見遣る。魔除けのカボチャに灯された蝋燭は
消えかかっていて、せわしない明滅を繰り返していた。
「君が道標にしてくれたから、君のシールドを突き抜けられた。戻って来いと願っただろう?
だから波長が合ったんだよ。…でなければ君に声すら届かないまま、ぼくは哀れな浮遊霊だ」
「…もう無視しないでいられるのですか? 私にはシールドをコントロール出来ている自覚が
無いのですが…」
「大丈夫。現にこれだって夢じゃないしね。でも、死んでしまうとジョミーでさえも、ぼくの
姿が見えないらしい。…人目のある場所では話しかけたりしない方がいいよ」
気が狂ったかと思われるから、と綺麗な笑みを宿すブルーをハーレイがもう一度引き寄せた時に
蝋燭の焔が音も無く消えた。
常夜灯だけが灯された闇が薄明へと変わる刻限には、まだ遠い。
ハロウィンの夜が明けると万聖節。
死者たちの霊が戻ってくると伝わる夜に戻って来たのは、幽明を異にする恋人たちを結び
合わせる確かな絆。たとえその手は重ならなくとも、心は常に互いの側に…。
キャプテンのランタン・了
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
人の目に映る其処は機械やモニターが並ぶ無機質な印象の実験室。それ以上でも以下でもありは
しないが、足を踏み入れた者がミュウであったなら一秒たりとも自分の意思で留まることは出来
ないであろう。
壁に、床に、その天井に…余すところなく染み込み、塗り込められた怨嗟の思念。理不尽に握り
潰された命が残した断末魔の悲鳴…。
「今日はここまで…か」
白衣の男が顎で促し、部下の研究員が台の上に仰向けに固定されていた被験者のヘッドギアを
取る。
此処は惑星ガニメデの育英都市、アルタミラに設けられたサイオン研究所という名の実験施設。
サイオンを持つ新人種、ミュウの研究と分析と称して幾多の人体実験を重ねてきた場所。
「こいつは当分、使えないな」
ひくり、と喉を震わせただけの被験者を研究者は鼻で嘲笑った。
「檻を壊してくれたサイオン・バーストは凄まじかったが、お蔭で興味深いデータが取れた。
…だが、あの檻の修理と補強には時間がかかる。こいつのサイオンを封じ込めるにはそれ相応の
設備が無いと…。まあいい、適当に放り込んでおけ」
「それが…。今日、新たなミュウどもが到着しまして、檻は満杯になっております」
「ふむ。では、一匹連れて来て処分するか。…ん?」
研究者の視線が止まった先には時計があった。勤務時間を大幅に過ぎたことを示しているそれを
眺めた彼は忌々しげに舌打ちをして。
「貴重な時間をネズミ退治に費やすというのも腹が立つ。空きが無いなら詰めればよかろう。
適当にな」
後は任せた、と手を振って彼は出てゆき、残されたのは研究員たちと意識を失くした銀髪の
被験者。まだ手足を拘束された状態の被験者は、成人検査を終えて間もないと思われる年頃の
少年だった。
「適当に詰めろと言われてもなあ…。どうする?」
「その辺の檻に詰め込んだって、窮屈になるだけで死にやしないさ。ちゃんと換気はしてるんだ
からな。…そうだ、あいつの所はどうだ? あの体格だ、狭さで言ったら一番だぞ」
「なるほど…。どうせ退屈してるだろうしな」
相談を始めた研究員たちの顔に酷薄そうな笑みが浮かんだ。
研究所の厳重な管理区域に研究員たちが『檻』と呼ぶミュウの独房が並ぶ。
生を繋ぐのに必要な最低限の設備と広さしかない文字通りの檻。外に出られるのは人体実験を
される時だけという檻の一つに放り込まれて、もうどのくらい経ったのだろう?
成人検査に脱落してからの月日を数えることは止めて久しい。ただ、青年と呼ぶのが相応しく
なった自分の身体に、彼………ウィリアム・ハーレイは流れ去った時間の長さを思う。
ミュウは概して虚弱らしいが、ハーレイは聴力が少し弱いという点を除けば身体的な異常は
無かった。そのせいだろうか、最初の頃は頻繁にあった心理探査は殆ど無くなり、今では肉体に
負荷をかける実験に思い付いたように呼ばれる程度だ。
どうやら研究員たちはハーレイを「飼って」データを取ることだけに集中し始めているらしい。
今日も何事も起こらないまま一日が終わる、と毛布さえ無い床に転がった時、ガチャリと檻の
扉が開いた。
「おい、お仲間だぞ」
声と共に乱暴に放り込まれたのは幼さの残る銀髪の少年。
「この馬鹿が檻を壊したんだが、生憎と檻の空きが無い。毎日退屈してるんだろう? 面倒を
見てやるんだな」
「………?」
意図が掴めないハーレイに、研究員は苛立ったように声を荒げた。
「こいつの檻の修理が済むまで同居してろと言っているんだ! 痛めつけてやったから当分は
目を覚まさんだろうが、扱いはせいぜい丁重にな。…こう見えても年はお前より上だ。お前たちの
オリジンだと言えば分かるか?」
「…オリジン…?」
「一番最初に生まれたミュウだ。そしてサイオンは誰よりも強い。悪夢を見たショックで起こした
サイオン・バーストで頑丈な檻を壊した程にな。…何度も繰り返されてはたまらん。今は夢すら
見てないだろうよ」
自我が崩壊する寸前まで実験を続けてやったのだから、と研究員はせせら笑った。
「檻の修理が済んだら引き取りに来る。…言い忘れたが、名前はブルーだ」
一方的に告げられ、檻の扉が再び厳重に閉ざされた。
外の物音は檻の中まで届かない。研究員が立ち去ったのかどうかは分からなかったが、どうせ
檻は一日中、監視されている。それに面倒を見ろと言ったのは研究員だ。意識を失くした少年に
近付き、触れたところで咎められることは無いだろう。
ハーレイはブルーと呼ばれた少年の手首をそっと握った。
激しい人体実験を受けたというブルーは高い熱があり、苦しげに浅い呼吸をしている。細い手首
から伝わってくる脈も速くて、ハーレイの眉が顰められた。ブルーの腕に無数に残る注射の痕。
幼い少年に惨いことを…、と溜息をつくが、研究員の言葉が真実だとしたら…?
(本当に…この少年がオリジンなのか? 私よりも年上だと…?)
少年が目覚めたら言葉遣いに気を付けねば、とハーレイは思う。年長者は常に敬うべきだと彼に
教えたのは記憶も薄れた両親だったか、それとも教師だったのか…。
敬語など長らく使ってはいない。研究員に強制されて使ったことは幾度もあったが、自発的に
使うのは何年ぶりになるのだろうか。人間らしい生活の欠片を取り戻したような気分になった。
(子供相手に敬語で話す、か…。傍から見れば滑稽かもな)
忘れ果てていた笑みを唇に刻んで、ハーレイはブルーの身体を抱え上げた。
研究員が放り込んでいった場所よりも落ち着ける所を知っている。檻の奥に近い、自分の
寝場所。
照明がやや暗くなる其処をブルーに譲り、ハーレイは消えることの無い明かりに背中を向けると
入口付近に横になった。
彼らミュウには人権など無い。監視するのに不都合だからと夜になっても完全な闇は与えて
貰えず、檻の中は黄昏の一歩手前程度の明るさを保つ。心安らぐ闇が欲しいなら光源から遠ざかる
より他に無いのだ。
そんな生活にももう慣れた。だが、深い眠りが心身の回復を促すことを忘れてはいない。
ブルーの身体が少しでも早く癒えるようにと、ハーレイは祈るだけだった。
翌日…と言っても明確な時間の感覚は無いが、檻の扉が開いた音で目が覚める。すっかり
明るくなった照明の下でパック入りの食事が入口に置かれ、扉はすぐに閉じられた。
いつもより多いな、と感じてすぐに思い出したのは昨夜連れて来られた少年のこと。食事の量は
二人分だが、彼は食事を摂れるのだろうか…?
恐る恐る近付いてみるとブルーはぐっすり眠っていた。熱も下がっているようだ。栄養を摂る
べきだと判断したハーレイはブルーの身体を揺すってみる。
「…ブルー? ブルー?」
何度か呼べば銀色の長い睫毛が眠そうに上がり、現れた瞳は血の色を宿したように鮮やかな赤。
驚きに息を飲むハーレイに、ブルーもまた怪訝そうな表情をした。
「……誰?」
細められた瞳が何度か瞬き、それから大きく見開かれて。
「誰? 今度は何を実験する気? そんな格好をしてまで何を…!」
怯えるブルーはハーレイを研究員だと勘違いしてしまったらしい。実験が目的で自分と同じ
簡素な服を着、檻に入ってきたのだ、と。
「違う、私は研究員では…。研究員ではありませんよ」
敬語を使うと決めたのだった、と途中で気付いてハーレイは言葉遣いを改めた。狭い檻の中で
後ずさろうとするブルーの手を取り、もう片方の手で己の首に嵌まったリングを示す。
「私もあなたと同じミュウです。サイオンの制御リングがあるでしょう?」
「…これも実験? ぼくは…今までずっと一人だったのに…」
ブルーは他のミュウに出会ったことが一度も無かった。ハーレイは実験室で何度もミュウを
見かけていたし、他の檻にミュウが一人ずつ入れられている事実も早くから知っていたの
だが…。
なのにブルーは何も知らない。オリジンとして隔離されていたのか、それとも記憶を
失くしたか。ハーレイが語り掛けても返って来る言葉は外見どおりの幼いもので、年上とは
とても思えなかった。
「本当に…何も覚えていないのですか?」
「うん。成人検査を受けて、そのまま射殺されそうになって…。ミュウだとかオリジンだとか
呼ばれているのは知っているけど、ぼくが君より年上だなんて…。そんなの信じられないよ」
嘘だよね? と首を傾げたブルーが覚えていたのは自分の名前だけだった。
「成人検査を受ける前には、ぼくの瞳は青かったんだ。だからブルーと名付けたんだよ、って
誰かが言ってた…。あれは父さんだったのかな? それとも…。駄目だ、なんにも思い出せない。
どうして…」
両手で顔を覆ったブルーを、ハーレイは思わず抱き締めていた。
「大丈夫ですよ、私も似たようなものですから。父も母も顔を覚えていません。…それよりも
食事をしなくては。あなたは酷く痛めつけられていて、身体が弱っている筈です」
堰を切ったように泣きじゃくるブルーの背中を擦って宥め、落ち着いた頃合いを見計らって
味気ない食事の封を切る。それを差し出せば、ブルーがふわりと笑みを浮かべた。
「…ありがとう。此処に来てから誰かと一緒に食事をするのは初めてだよ」
いつもよりずっと美味しい気がする…、と喜びながら食事とも呼べない代物を食べ終えた後、
ブルーはハーレイに問い掛けた。
「そういえば君の名前を聞いてなかった。…なんて言うの?」
「ハーレイです。…ウィリアム・ハーレイ」
「…ウィリアム…ハーレイ? そうか、名前が二つもあるんだ」
ブルーには自分のファミリーネームの記憶が無かった。そしてウィリアムの名は呼びにく
かったらしく、ハーレイと呼びかけて子供のように甘えてくる。
「ハーレイは大きくて温かいね。ずっと一緒にいられたらいいね…」
それはハーレイにとっても心が温かくなる言葉だった。
自分を頼ってくれる者がいるのは何と嬉しいことだろう。起きている間は実験のことを
忘れさせてやろうと他愛も無い話を交わして、食事を摂って…夜は二人で寄り添って眠る。
けれど…。
「ブルー、お前の檻がやっと出来たぞ。さあ、出るんだ」
無情な研究員の一言で穏やかな日々は砂上の楼閣の如く崩れ去った。ブルーは全てを諦め切った
顔でハーレイを見詰め、逞しい褐色の手をキュッと握って。
「…さよなら、ハーレイ。ありがとう…。君といられて楽しかったよ」
忘れたくないよ、と一粒の涙だけを残して、ブルーは白衣の男たちに連れてゆかれた。その先に
待っているのは人を人とも思わぬ実験。記憶も何もかもを失うほどにブルーの心身を苛む絶え間
ない責め苦…。
二度と会うことは叶わないであろうブルーを思って、ハーレイは日夜、胸を痛めた。あんなにも
細い身体を、成長し切っていない心を、研究者たちはどうして罪の意識すらも抱かず切り刻む
ことが出来るのか…。
ハーレイの思いを他所にサイオン研究所での実験は続く。
相変わらずハーレイが引き出されるのは肉体への負荷の実験のみだが、同じ実験をブルーが
あの華奢な身体で受けているのかと考えただけで心臓が凍りそうだった。丈夫な自分でも場合に
よっては起き上がれない程に疲弊する。ならばブルーは? ブルーの身体は…?
研究員はブルーを強いサイオンを持つオリジンだと言った。しかし数日間だけ一緒に暮らした
ブルーは自分よりも幼く、ハーレイという縋れる相手を見付けたせいか、弱音を吐くことも
しばしばで…。
ブルーはあれからどうしただろう? 名前以外の全てを忘れてしまったろうか…?
どうしてもブルーのことを考えずにはいられない。実験に連れ出される時も、檻にいる時も。
その夜もハーレイは膝を抱えて蹲ったまま、銀色の髪と赤い瞳の少年を思い浮かべていた
のだが…。
「…!」
出し抜けに檻の扉が開いて何かがドサリと投げ込まれた。顔を上げたハーレイの目に映った
ものは片時も心を離れなかったブルーの姿。
「お前に仕事だ。こいつを使えるようにしろ」
白衣の研究員が冷ややかな声でハーレイに命じる。
「急ぎの実験が待っているのにダウンされてしまってな。いいか、明後日までに元に戻すんだ。
どうやらこいつは、お前と相性がいいらしい。…ミュウには相性というヤツがある。相性がいい
ヤツと一緒にすれば相乗効果でサイオンが強くなることは分かっていたが、回復まで早くなる
とはな」
この前の時は劇的だった、と研究員は愉快そうに笑ってみせた。
「当分は再起不能なレベルにまで痛めつけてやったというのに、明くる朝にはお目覚めだ。檻の
修理さえ間に合っていればすぐにでも引っ張り出せたほどにな。…今回も期待しているぞ」
実験は明後日の朝に開始する、と言い捨てて研究員は扉を閉めた。
ハーレイの身体が小刻みにガクガクと震え始める。
ブルーを実験動物としか見ていない研究員への怒りもあったが、それ以上に自分自身が憎い。
自分の存在はブルーに害を及ぼしてしまう。側にいるだけで回復を促し、実験室へと送り込む
手伝いをすることになってしまうのだから…。
(私はブルーに触れてはいけない。出来るだけ離れていなくては…)
檻の中では距離を取るのも難しかったが、ブルーには二度と触れまいと誓う。それだけでも
少しは違うだろう。
ブルーが実験に連れ出される日は少しでも先の方がいい。怒り狂った研究員に殴られようとも、
自分はブルーを守りたいのだ…。
ハーレイの悲壮な決意も空しく、翌日の朝にブルーは目覚めてしまった。宝石のような赤い
瞳がハーレイを映し、血色を取り戻した唇が無邪気に名を呼ぶ。
「…ハーレイ? ハーレイだよね?」
会いたかった、と胸に飛び込んで来たブルーをハーレイは強く抱き留めていた。触れては
ならないと昨夜決心したばかりだが、どうして突き放すことが出来よう?
ブルーが忘れているならともかく、今も自分を覚えているのに……縋り付き頬を摺り寄せて
くるのに、温もりを求めていると分かっている手をどうして振り払うことが出来よう…?
「ハーレイのことは覚えていたんだ。忘れたくないって思ったからかな? また会えるなんて…。
しばらくは一緒にいられそうだね」
前の時みたいに、と嬉しそうに身体を預けてくるブルーに、しかしハーレイは言うしか
なかった。ブルーが此処に連れて来られた恐ろしい理由を。二人きりの世界が終わる時間を…。
「………。そうだったんだ……」
ブルーは俯いて唇を噛み締め、伏せた睫毛の端から涙が零れる。ハーレイはブルーが自分から
離れると思い、細い身体に回していた腕を外したのだが、ブルーは一層強く抱きついてきた。
「…ごめん、ハーレイ。…ハーレイは嫌かもしれないけれど……実験の手伝いなんて嫌だろう
けど、ぼくはハーレイの所に来たい。ぼくが実験でボロボロになったら、ハーレイが治して
くれるんだろう? だったら……もう実験は怖くないよ。実験のためにハーレイと引き離される
のは悲しいけれど…」
「…ブルー…?」
戸惑うハーレイの腕が躊躇いがちにブルーの背中に戻され、ブルーが安堵の息をつく。
「やっぱりハーレイは温かい…。また来るから。明日になって連れて行かれても、また来る
から…。だから待っててくれると嬉しい。…ハーレイには嫌な思いをさせるけど…」
「嫌だなどと…誰が言いました…?」
ハーレイはブルーの頬を濡らす涙を武骨な指先で拭ってやった。
「あなたのことをずっと心配していましたよ。…二度と会えないと思っていたのに、どうしても
忘れられなかった。私があなたと一緒にいれば研究者たちを喜ばせるだけだと知った時には
ショックでしたが、それでも…目覚めたあなたを目にしてしまうと、また会いたいと願って
しまう。あなたには酷なだけなのに…」
「実験なんて…大したことじゃないと思うよ、またハーレイに会えるのなら。明日の実験ですぐ
ボロボロになれればいいのに、そう簡単にはいかないだろうな…」
ぼくのサイオンは強いらしいから、とブルーは悲しげに微笑んだ。
「次に会えるのはいつなんだろう? ハーレイのことは忘れないから……忘れていてもきっと
思い出すから、待っていて。ぼくは必ず戻って来るから」
約束だよ、とブルーが指を絡めてくる。その仕草がたまらなく愛おしく思えて、ハーレイは
細く白い指に唇を落とした。
それは再会の約束の証。ブルーが無事に生き延びるように、と願いをこめた祈りの印…。
その翌日、ブルーはハーレイの檻から実験室へと連れて行かれてそのまま戻ってこなかった。
どんな実験が行われたのかは分からない。次にブルーが戻って来るのは心身の限界まで責め
苛まれてボロ布のようになった時だ。
それなのにハーレイはブルーに会いたいと願ってしまう。
自分の檻の中で休ませ、寄り添っていてやりたいと……疲れ果てたブルーの心を癒し、整った
顔立ちが花のように綻ぶ美しい笑みを見守りたいと。
(こんなことを願っていてはいけない。ブルーには会えない方がいいのだ。会えない間はブルーは
元気にしているのだから…)
そう思っても、心は常にブルーを追っている。檻の扉が開かれる度に銀色の髪を探してしまう。
研究者たちはハーレイの力を役立てるべく、幾度もブルーを檻の中に放り込みに来た。
再会する度にブルーは生気を取り戻してゆき、今はもう別れる時に「さようなら」と口に
することはない。「またね」と微笑み、研究員たちに背中を押されて名残惜しそうに去って
ゆくだけ…。
「明日になったら、またお別れだね」
もう何度目になるのだろう。消えない明かりから庇うように抱き込むハーレイの腕の中で
眠りにつく前、ブルーが寂しげな声音で呟くのは…。
やりきれない思いでハーレイは華奢な身体に回した腕に力を籠める。そうした所でブルーを
守れはしないのだったが、少しでも支えになれるのなら…、と。
「早くハーレイの所に来たいよ。なのに実験が終わらない…。ぼくの力がどんどん強くなって
いくから、新しい実験が増えるんだって。この実験が終わればハーレイの所で目が覚めるんだ、
と思っていても、気が付いたらまた実験室で…」
どうしてだろう、とブルーは顔を曇らせる。
「本当に強い力があるなら此処から出られそうなんだけど、出る方法が分からない。外へ
出られたらハーレイといつも一緒にいられるのに。離れなくても済むはずなのに…」
「サイオンのことは私にもよく分かりません。制御リングを嵌められているせいでしょうか?
自分がミュウだと何度言われても、以前と変わった所は何も…」
ハーレイの言葉にブルーは頷き、「ぼくも」と首のリングに触れた。
「成人検査で機械を壊したらしいんだけど、何をしたのか記憶に無いんだ。その後、銃を向け
られたのは覚えているけど……サイオンで弾を受け止めたなんてホントかな? こんな髪と
瞳になっちゃったから、何かあったのは確かだけれど…。ハーレイの所へ初めて来た時、檻を
壊したのが本当にぼくの力だったら…」
外へ出たいよ、と訴えるブルーをハーレイはただ抱き締めるだけ。
この檻から…サイオン研究所から脱出できたら、どんな世界が広がるのだろう?
ブルーも自分も人体実験から解放されて人間らしく暮らせるだろうか? それともやはり
化け物と呼ばれ、何処までも追撃されるのか…。
答えは全く分からなかった。けれど一つだけ確かなことは、研究所から解き放たれたらブルーと
離れずにいられること。研究員たちの都合で引き離されずに、いつも一緒にいられること…。
(…夢物語というヤツか…。どうせ死ぬまで出られはしない)
絶望感がブルーに伝わらないよう、ハーレイは努めて笑顔を作ると銀色の髪を優しく撫でた。
「もしも外の世界へ出られたら…いつまでも一緒に暮らせるのですよ。ですから希望を捨て
ないで。…いつか必ず、此処から出ると……それまで生きると誓って下さい」
「…そうだね…。実験で死んでしまったらハーレイに会うことも出来なくなるし…。外へ出られる
時が来るまで、ぼくは何度でも此処へ戻って来るよ。ハーレイが待っているのが分かっている
から、記憶も消えなくなったんだしね」
以前は過酷な実験の度に記憶を失くしたというブルーだったが、ハーレイと出会ってからの
記憶は鮮明だった。それもハーレイとの相性のせいか、と研究員たちは様々な検査を試み、
ブルーの負担は一層増える。
それでもブルーは耐え続けた。ハーレイが待つ檻の中で目覚め、共に過ごせる僅かな時間の
輝きだけに縋りながら…。
そんな日々がどのくらい続いたのか。
ある朝、ブルーが連れ去られた直後にハーレイも檻から引き出された。
こんなことは今までに一度も経験が無い。ブルーと同じ内容の実験を受けるのだろうか、と
考えながら長い通路を歩いて階段を下り、堅固な扉の前へと連れて行かれる。研究員が暗証番号を
打ち込みながら唇を歪めた。
「あの世への土産話に教えてやろう。お前たちミュウの命は今日で終わりだ」
「なんだと?」
信じ難い言葉にハーレイの瞳が見開かれる。
その前で扉のロックが外され、薄暗い空間に閉じ込められた大勢の人間が視界に飛び込んで
きた。一目でミュウだと分かる揃いの服の男女の群れ。押し寄せてくる悲鳴と怒号。
「このガニメデごと処分してしまえとグランド・マザーが仰った。惑星破壊兵器のメギドが既に
狙いを定めている。俺たちがこの星を脱出したら、お前たちは星ごと焼かれるんだ。お前の
大事なブルーもな。だが…」
ブルーの姿がありはしないかと目を凝らしていたハーレイの背に冷たい銃口が突き付けられた。
「二人一緒に死なせてやるほど酔狂ではないさ、我々は。…入れ!」
突き飛ばされるようにして潜った扉が背後で閉ざされ、それきり開くことは無かった。
部屋にいるのはサイオン制御リングを首に嵌められ、押し込められたミュウたちだけ。
泣き叫ぶ者や啜り泣く者、扉を叩いて喚く者…。
誰もが恐慌状態の中、ハーレイはブルーを探し求める。けれどブルーは見つからないまま、
遠くで爆発音が響いた。
爆発と何かが崩れ落ちる音が間断なく続き、凄まじい揺れが襲ってくる。研究員が言って
いたとおり、この惑星ごと滅ぼされるのだ。
(ブルー…!)
ハーレイの脳裏をブルーの泣き顔が掠めていった。こんな時に側にいてやれない。きっと
何処かで泣いているだろうに、自分はブルーの所に行けない…。
(くそっ、どうしてこんな時に…!)
拳を壁に打ち付けた瞬間、ブルーの叫びが耳に届いた。
『開けろ、ぼくらが何をした! 何をしたって言うんだ!』
「ブルー?」
この部屋にブルーはいないのに…自分の聴力は弱い筈なのに、それは間違いなくブルーの声。
涙交じりに絶叫する声。
何処に…、と周囲を見渡したのと、ひときわ大きな爆発音が部屋を揺るがしたのとは同時
だった。
「……!」
凄まじい爆風と衝撃が突き抜け、首に嵌められていたサイオン制御リングが砕け散る。床に
伏せていた身体を起こすと、部屋は跡形も無くなっていた。
いや、研究所そのものが吹き飛んでしまったと言うべきか…。これもメギドのせいなの
だろうか? だが、ミュウたちは一人も傷ついておらず、その首からはサイオン制御リングが
消え失せている。
(さっきの声…。まさか、ブルーが? ブルーが全てを壊したのか?)
何が起こったのかも分からないまま、ハーレイは声が聞こえたと思った方へと駆け出して
いった。
炎の色に染まった空が頭上に広がり、廃墟と化した研究所からミュウたちが先を争って
逃げ出してゆく。他人を気遣う余裕などがあろう筈もなく、倒れた者は踏み付けられて置き去りに
されてゆくだけだ。
その人波に抗うように進み、ついには誰一人いなくなった廃墟の中を探し続けて…。
「ブルー!」
ハーレイの瞳が求める者の姿を捉えた。
自分の身体を両腕で抱き、蹲っている小さなブルー。青い光をその身に纏い、瓦礫の間に
埋もれるように。
急いで駆け寄り引きよせてみれば、血の気の失せた薄い唇から漏れる言葉は…。
「嫌だ、死にたくない。ハーレイのいない所で死にたくない…」
「ブルー、私は此処にいます!」
細すぎる肩を掴んで揺すると、ブルーは何度か瞬きをしてハーレイを赤い瞳に映した。
定まらなかった焦点が合い、青い光が見る間に薄れ、唇が微かに戦慄いて…。
「…ハーレイ…? ハーレイ…!」
しがみ付いてきたブルーを抱き上げ、ハーレイは炎を掻い潜って懸命に駆けた。
街を、全てを舐め尽くそうとする悪魔の舌が大気を焦がし、噴き上げる火の粉が行く手を
阻む。
アルタミラが燃える。この惑星ごと地獄の劫火に包まれてゆく…。
(死んでたまるか! ブルーだけでも……ブルーだけでも逃がさなければ…)
何処か安全な場所は無いかと必死に考えを巡らせていると、ブルーがハーレイの名を呼び、
炎の彼方を指差した。
「…多分、あっちに宇宙船が…。あそこまで行けば逃げられるかも…」
宇宙船の影が見えた気がする、とブルーはハーレイの顔を見上げた。
「ぼくは出たいと願ったんだ」
ハーレイの負担になるから、と自分の足で走り始めたブルーが息を切らしつつハーレイに
告げる。
「殺されるって分かった時に……ハーレイは別の所に連れて行かれたって分かった時に、
あそこから出たくて泣き叫んで…。気が付いたら全部無くなっていた」
部屋も研究所も首のリングも…、と。
自分のサイオンがそれらを引き起こした事実にブルーは恐れ戦き、その場から動けなく
なってしまった。
ハーレイの名をただ繰り返すだけで、自分の殻に閉じ籠もっていたブルーを見付け、
救い出したのは力強く太い褐色の腕。
「死にたくないよ。やっと自由になれたのに…」
ハーレイと外へ出られたのに、とブルーの声に涙が滲む。
「まだ終わりではありませんよ。宇宙船が見えたのでしょう? そこまで行って
みなければ…」
諦めるのは早すぎます、とハーレイはブルーの華奢な手を強く握った。
「私たちが閉じ込められた場所を粉々にしたと言いましたよね? その力で宇宙船の在り処も
分かったのでしょう。…とにかく今は逃げることです。宇宙船に乗れれば生き延びられます」
もしも脱出できたなら…、とハーレイはブルーの手を引いて走る。
「二度とあなたの手を離しません。あなたの側から離れはしないと約束します」
「そうだね。…二人で自由にならなくっちゃね…」
ハーレイと一緒なら何処へでも行ける、とブルーが涙に濡れたままの瞳で微笑み、ハーレイの
手を握り返した。
宇宙船はまだ見えてはこない。けれどブルーも、そしてハーレイも希望に向かって走り続ける。
滅びゆく星を後に振り捨て、二人で空へと飛び立つために。
共に生きたいと願う気持ちを何と呼ぶのか、二人とも未だ気付いてはいない。互いを求めて
やまない想いが身の内に満ち、密やかに溢れて実を結ぶのは遠い宇宙へ出てからのこと…。
巡り逢いの扉・了