シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふうん…?)
綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
真っ白なロングドレスの女性と、黒の燕尾服の男性たち。女性はブーケを持っているから…。
(結婚式…?)
様々なデザインの純白のドレス。袖なしのドレスばかりだけれども、ウェディングドレスにしか見えないデザイン。肘まである白い手袋だって。
それに男性は燕尾服だし、結婚式だと思ったのに。ずいぶん大勢のカップルが揃ったものだと、目を丸くして記事を読み始めたのに…。
(オーパンバル…)
社交界デビューのためのイベントらしい。地球が滅びるよりも前の時代に、オーストリアという国があった辺りの地域。其処で二月のカーニバルの頃に開催される舞踏会。
今も、地球が滅びる前にも、オーストリアでは最大の行事だと書かれているけれど。
(SD体制の時代は、無かったんだ…)
消えてしまっていたオーパンバル。そもそも地球が無かったのだし、オーストリアだって宇宙の何処にも無かった時代。オーパンバルがあるわけがない。前の自分が生きた時代には。
(これも復活して来たヤツで…)
死の星だった地球が蘇った後、あちこちの地域で特色を出そうと復活させた色々なもの。これもその一つで、今は立派に地域に定着している行事。
二月になったら、オーパンバル。
純白のロングドレスを纏って、ブーケを手にした女性たち。頭にはお揃いの小さな冠。燕尾服の男性にリードされて。
広いホールに入場したら、始まるワルツ。それは軽やかにステップを踏んで。
オーストリアでは、とても人気のイベントらしい。
人間が地球しか知らなかった時代、「会議は踊る」と言われたウィーン会議が始まりだという。由緒ある行事、オーパンバル。
(一度、消えちゃっているんだけどね?)
いくら由緒があったとしたって、地球と一緒に。人間が地球を離れた時に。
ついでに社交界も今の時代は無い筈だけど、と記事を読み進めたら。王様も貴族もいない筈、と首を捻って読んでいったら…。
(とっくの昔に…)
無くなっていた社交界。地球が滅びる前の時代に。SD体制が始まるよりも、遥かな昔に。
オーパンバルは、イベントと化していたらしい。地球のあちこちから見物の人が訪れるような。
(特訓なわけ?)
舞踏会の最初に踊り始めるのが、燕尾服の男性と白いドレスの女性たち。
社交界があった頃には、社交界にデビューする女性たちが踊っていたのだけれど。その社交界が無くなった後は、これに出るためにダンスの特訓を積んだほど。
最大の行事のオーパンバルで、白いドレスで踊るには。
黒い燕尾服を着て、舞踏会の幕開けを飾るデビュタントの女性をリードするには。
(オーディションなんだ…)
今も昔も、オーディションで選ばれるデビュタントの女性と、お相手の男性。カップルでダンス教室に通って、せっせとダンスの腕を磨いて。
選りすぐりのカップルが踊るわけだから、綺麗に揃ったステップのダンス。
彼らの華やかなダンスが済んだら、他の客たちも踊り始める。見物していた場所を離れて、広いホールで。純粋にダンスを楽しむために。
オーパンバルに踊りにやって来る人は、いいけれど。デビュタントと呼ばれる白いドレスを着た女性たちと、お相手の男性たちのダンスを眺める人はいいのだけれど。
見物される男性と女性、オーディションで選ばれるカップルたち。ダンス教室で特訓を積んで、二人で何度も練習をして…。
(そっちは、とっても大変そう…)
踊りを楽しむどころではなくて、練習だから。それも特訓、ダンス教室に通ってまで。
けれど人気は高いという。オーパンバルは歴史が長くて、由緒もたっぷり。
その幕開けを飾ってみたい、と地球のあちこちからオーディションに挑むカップルが多数。地球だけではなくて他の星からも、受けに来る人がいるくらい。
よほどダンスが上手くなければ、きっと合格しないだろう。大勢の人が受けるのでは。
(ぼくには関係なさそうだけどね?)
お相手の男性はハーレイだけれど、前の生からのカップルだけれど。
白いドレスは結婚式の時に着るだけ、その一度だけ。それにダンスも踊らない。結婚式の時も、他の場所でも。ワルツなんかは、きっと一生。
踊りたいとも思わないから。オーパンバルを目指すつもりも無いのだから。
おやつを食べ終えて部屋に帰って、勉強机の前に座ったら、思い出したオーパンバルの記事。
あれからケーキを食べたりしている間に、すっかり忘れてしまっていたのに。
舞踏会の幕開けを飾るカップル、結婚式かと思ったくらいに綺麗な写真だったけれども…。
(カップルで頑張るわけだよね?)
オーディションで選ばれるのは、ダンスが上手なカップルだから。男性と女性を別々に選んで、組み合わせるわけではないのだから。
(あれに出たいと思ったら…)
恋人と一緒に踊りたいなら、カップルで頑張るしかないダンス。もっと上手くと、今よりもっと上手になろうと。誰にも負けない腕前になって、オーディションを突破しなければ、と。
他の星からも受けに来るカップルがあるというほどのオーディション。この地球の上の、色々な地域からだって。
特訓を積んだカップルばかりが挑むのだろうし、其処で選ばれるほどの腕前になれるレッスン。それを二人で乗り切ってゆくには、愛がなければ…。
(無理だよね?)
きっと物凄い猛特訓。ダンス教室の厳しい指導に、自主練習にとダンス漬けの日々。
楽しくデートに出掛ける代わりにダンス教室、来る日も来る日も二人でステップ。もっと上手に踊らなければと、もっと上手くと。
(喫茶店に行くのも、食事に行くのも…)
きっとダンスの練習のついで。お茶を飲んでから教室に行くとか、教室の帰りに食事するとか。メインはダンスで、お茶や食事の方がオマケになるデート。
二人一緒にオーパンバルで踊るなら。オーディションを突破したいのなら。
ハードなのだろう、ダンスの特訓。デートに行ってもダンスの話題で、きっと何処かで練習も。此処で少し、と二人で踊る。上手にステップを踏むために。
(こんなの嫌だ、と思っても…)
投げ出せはしないダンスの練習。相手は頑張りたいのだから。もっと練習したいのだから。
男性と女性、どちらが「嫌だ」と投げ出したって、喧嘩になってしまうだろう。下手をしたならカップル解消、「もっとダンスが上手な人を見付けたら?」と。
容易に想像出来る結末、片方がダンスを投げ出した時。ダンスの練習ばかりは嫌だと、猛特訓の日々はもう沢山だ、と。
けれど、喧嘩別れになってしまわないで、見事にデビューを果たすカップル。黒い燕尾服と白いドレスで、オーパンバルの幕開けを飾って。
(将来は絶対、結婚だよ…)
あの写真で見たカップルたちは、そういうカップルばかりだろう。二人一緒に越えたハードル、手を取り合って踊り続けて。ダンス教室でも、デートに出掛けた先でも、きっと。
頑張り続けて、オーディションを突破した仲のいい二人。
そんな二人が結婚しない筈がない。二人一緒に頑張った末に、晴れ舞台で踊ったのだから。
記事には書かれていなかったけれど、そうなのだろうと思うカップル。
オーパンバルで踊った後には、いつか二人で結婚式。女性は白いウェディングドレスを纏って、ブーケを持って。男性もお洒落な服を着込んで。
大勢の人たちと踊る代わりに、自分たちだけが主役になって。
きっとそうだ、と思い浮かべたハッピーエンド。あの写真で見たカップルの数だけ、待っているだろう結婚式。揃ってワルツを踊るのではなくて、思い思いの日に、それぞれの場所で。
高いハードルを越えた二人は、それだけの絆があるのだから。
ダンスの練習の日々が辛くても、どちらも投げ出さなかったのだから。
(うんと頑張って、ダンスの練習…)
才能のあるカップルばかりとは限らないのに。二人揃って最初からダンスが上手いのだったら、ダンス教室は要らないと思う。特訓しなくても踊れるのだから。
(どっちかが下手か、二人とも下手か…)
今のままではオーディションには受からない、と思うから通うダンス教室。もっと上手く、と。
そうやって教室に通っていたって、上達の速度は揃いはしない。片方の腕前がグンと伸びても、もう片方は上手くいかないだとか。
(それでも二人で頑張るんだよ…)
二人一緒にオーパンバルで踊りたいから。選ばれてステップを踏みたいから。
挫けそうになっても、負けないで。もっと上手にと、頑張ればきっと出来る筈だと。二人一緒に選ばれるためには、お互いが上手くならなければ、と。
(もっと上手な人と組んだら、選ばれそうだ、って思っても…)
そんな考えは捨てて頑張る。恋人のために、懸命に。自分のことだけを考えないで。
自分の方が上手だったら、相手も上手くなれるようにと積む練習。自分が下手なら、相手の足を引っ張らないよう、猛特訓。もっと上手くと、誰よりも上手く踊れるようにと。
頑張るのだろうカップルたち。オーパンバルで踊った後には、きっと結婚式になる。二人一緒に越えたハードル、しっかりと結ばれた絆。
愛が深いから頑張れたのか、頑張ったから愛が深まったのか。ダンスの練習ばかりの日々でも、ろくにデートも出来ないほどでも、頑張った二人。
(どっち…?)
愛の深さで頑張れたのか、頑張った結果が深い愛なのか。
どちらもありそう、という気がする。深い愛なら、より深く。付き合い始めたばかりの恋でも、二人で踊る間に、深く。この人とずっと一緒にいたい、と。
きっと両方あるんだよね、と考えた恋。踊る間に深くなった恋も、最初から深く愛していたから頑張れたという恋人たちも。
オーパンバルで踊るカップルの中には、きっと幾つもの恋模様。喧嘩になったカップルだって。もう嫌だ、と片方が練習を投げ出そうとして。それでも引き止められて踊って、深まった恋。
やっぱりこの人しかいない、と。
辛くても練習を続けてゆこうと、この人と踊りたいのだから、と。
色々だよね、と思う恋。カップルの数だけ、恋も色々。ハッピーエンドのカップルたちでも。
きっと結婚するのだろうと分かる、高いハードルを二人で越えたカップルでも。
(…前のぼくだと、どうだったのかな?)
ハーレイと二人で頑張ったから恋に落ちたか、恋していたから頑張れたのか。
今の平和な時代とは違う、前の自分たちが生きていた時代。ミュウだというだけで虐げられて、生きる権利さえも無かった時代。
そんな時代を二人で生きた。ソルジャーとキャプテン、そういう立場で。
船を、仲間を守るソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。
いつも二人で頑張り続けた。ミュウという種族が滅びないよう、船が沈んでしまわないよう。
そうして二人で頑張ったから、ハーレイと恋に落ちたのか。
それとも、ハーレイに恋していたから、前の自分は頑張れたのか。
(えーっと…?)
どうだったろう、と思うけれども、きっと最初から特別な二人。
ダンスは踊っていないのだけれど、ダンス教室に通って猛特訓もしていないけれども…。
(出会った時から、命懸けだよ…)
メギドの炎で燃えるアルタミラの地獄で出会った。同じシェルターに閉じ込められて。
前の自分が壊したシェルター、自分でも信じられない力で。
何が起こったのかも分からないまま、呆然としていた前の自分。ハーレイの声が聞こえるまで。「お前、凄いな」と声を掛けられるまで。
(ハーレイが、他にも仲間がいるって…)
同じようにシェルターに閉じ込められた仲間、それを助けに二人で走った。炎を、割れる地面を避けて。崩れ落ちて来る瓦礫を掻い潜って。
(自分が逃げるだけだったら…)
冒さなくても良かった危険。他の仲間を助けに行かずに、真っ直ぐに船へ向かっていたら。
なのに自分も前のハーレイも、二人とも逃げはしなかった。最後の一人を助け出すまで、他にはいないと確認するまで。
これで最後だ、と開けたシェルター。閉じ込められていた仲間を逃がして、それから二人で船に向かった。空まで赤く燃えていた地獄、深い亀裂が走る地面を懸命に駆けて。
一つ間違えたら、無かった命。炎の渦に巻き込まれても、裂けた地面に飲み込まれても。
(ダンスするより、凄く頑張ったんだけど…!)
それで恋してしまったろうか、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくたち、ダンスよりもうんと頑張ったよね?」
「はあ?」
何の話だ、と見開かれたハーレイの鳶色の瞳。鳩が豆鉄砲でも食らったように。
(いけない…!)
ハーレイに通じるわけがない。ずっと考え続けていたから、話を省略し過ぎていた。大失敗、とコツンと叩いた自分の額。「ぼくって馬鹿だ」と。きちんと説明しなければ。
「えっとね…。オーパンバルっていうのは知ってる?」
オーストリアのイベントらしいんだけど…。昔は社交界デビューの舞台だった、って…。
「前に何かで見掛けたな。若いカップルが踊るヤツだろ、一番最初に」
「そう、それ…! 今日の新聞に記事が載ってて、最初に踊るカップルの人たち…」
オーディションで選ばれるんだって。それもカップルで。
だから二人で合格するには、うんと練習しなくっちゃ…。ダンス教室に通って特訓。
地球だけじゃなくて、他の星からもオーディションを受けにやって来るから、とても大変。
デートの代わりに毎日ダンスで、デートに行ってもダンスだよ、きっと。
こんなの嫌だ、って投げ出しちゃったら大喧嘩になって、カップル解消になっちゃいそう…。
「如何にもありそうな話だな。どっちが嫌になっても駄目、と」
合格するぞ、と二人でダンスを頑張るわけか。そいつは仲良くなれそうだ、うん。
「でしょ? 元から仲が良かった人なら、もっと仲良くなるんだよ」
二人一緒に頑張るんだもの、どんどん絆が深くなりそう。…喧嘩別れをしなかったらね。
ダンスの練習を頑張り続けて、オーディションを突破したカップルたち。オーパンバルで踊った二人は、きっと結婚すると思う、とハーレイに話したら「そうだろうな」と返った言葉。
それだけの絆が出来るだろうと、二人で頑張ったんだから、と。
「二人で楽しく遊ぶ代わりに、来る日も来る日も練習だしな?」
もうやめた、と放り出したら、いくらでも遊びに行けるのに…。それをしないで練習なんだ。
戦友と言ってもいいくらいだよな、戦場じゃなくて舞踏会だが。
「ハーレイもそう思うんだ…。あれに出られたカップルは結婚するよね、きっと」
それでね、ダンスを頑張ったカップルだって結婚するんだから…。
前のぼくたちも、それと似たようなものだったかな、って考えちゃって…。
アルタミラで出会って、二人でシェルターを開けて回っていたじゃない。逃げ出さないで、他の仲間を助けようとして。火とか地震とか、とても危ない場所だったのに。
命懸けで二人で頑張ってたから、ハーレイに恋をしちゃったかな、って…。
ダンスの練習なんかよりもずっと、頑張ってたでしょ、ぼくとハーレイ。
「アルタミラか…。確かに二人で頑張っちゃいたが…」
俺はお前に一目惚れしたつもりなんだが?
二人一緒に頑張ったから、というヤツが無くても、お前に出会った瞬間に恋をしてたってな。
もっとも、恋だと気付くまでには、とんでもない時間がかかったわけだが。
「ぼくも…。ハーレイに会った時から、ずっと特別だと思ってたから…」
二人で一緒に頑張らなくても、ぼくたち、ちゃんと恋してた?
頑張ったのと恋は、何も関係無かったのかな…?
「いや、恋をしていたから頑張れたんだと俺は思うぞ」
あんな地獄でも、お前と一緒だったから、俺は頑張れた。もう逃げよう、と投げ出さないで。
時間が経てば経ってゆくほど、どんどん危険になっていくのに…。
そいつに気付いていた筈なのに、俺もお前も逃げ出さなかった。最後の仲間を助け出すまで。
お前とでなけりゃ、俺は逃げたかもしれないな。これ以上はもう危ないから、と。
助け出せなかった仲間がいたかもしれん、とハーレイに言われて気が付いた。前の自分も、同じだったかもしれないと。一緒にいたのがハーレイだったから、最後まで逃げなかったのかも、と。
「…前のぼくも、途中で逃げていたかも…。ハーレイと一緒じゃなかったら」
危ない所へ走って行かずに、途中の何処かで諦めて。…もう充分に頑張ったよね、って。
だったら、ダンスもそうなのかな?
オーパンバルに出ようと思って、ダンスの練習をしてるカップル。
恋しているから、練習、最後まで頑張れるのかな?
もうやめた、って投げ出したりせずに、オーディションを受ける日が来るまで、ずっと。
「多分な。オーディションの日も、朝から二人で練習じゃないか?」
最後の最後まで諦めちゃいかん、と早起きをして。二人一緒に何処かで踊って。
それだけ頑張ったカップルだったら、選ばれなくても、恋はそのまま続くんじゃないか?
「お前のせいで選ばれなかった」と喧嘩になりはしないと思うぞ、片方が失敗したとしたって。
ずっと二人で頑張ったんだし、俺なら「失敗のことは気にするな」と言ってやるだろう。
相手が「ごめん」と泣いていたとしても、「充分、頑張ったじゃないか」とな。
「前のぼくたちも、そうだったよね…」
ハーレイが操舵の練習をする時、酷い目に遭わせちゃったけど…。
一度も喧嘩にならなかったよね、ぼく、怒鳴られても仕方ないようなことをしてたのに…。
最悪なコースばかりを選んで、ハーレイを先導してたんだから。
「お前の気持ちは分かっていたしな」
俺のためを思ってやってるんだ、ということは。
怒るわけがないだろ、死ぬような思いをさせられたって。ゼルたちに苦情を言われてたって。
第一、お前に惚れていたんだ。喧嘩しようとも思わなかったな、あの時の俺は。
そう簡単に恋は壊れやしないさ、とハーレイが微笑む。本物の恋をしていたら、と。
「俺たちの場合は、恋だと気付いていなかったが…」
それでも壊れやしなかった。お前が俺をしごいた程度じゃ。
ダンスの練習を頑張っているカップルだって、本物の恋をしていればきっと大丈夫なんだ。
どんなに辛い練習の日々でも、二人ならな。
「そうだよね…。きっと頑張れるよね」
今は下手でも、上手くなろう、って。デートの代わりにダンス教室でも、毎日練習ばかりでも。
二人で練習出来るだけでも、幸せな気分になれるのかも…。踊る時は二人一緒だから。
だけど、オーパンバル…。前のぼくたちの時代には無かったんだって。
今はとっても有名だけれど、SD体制が始まる前にも、有名だったらしいんだけど…。
「そりゃ無いだろうな、あの頃は地球も死の星だったし」
オーストリアも何も無かった時代だ、オーパンバルがあったわけがない。
「ダンスの方は、あったのかな?」
オーパンバルはワルツで始まるんだって。選ばれたカップルが揃ってワルツ。
「ワルツにダンスか…。俺はシャングリラじゃ踊っていないぞ」
ダンスってヤツとは無縁だったな、今の俺ならガキだった頃に踊らされたが…。
体育の時間に少しやるしな、ワルツは習っちゃいないんだが。
「ぼくも、シャングリラでは踊っていないよ」
今のぼくなら、ちょっぴり習っているんだけれど…。下の学校の体育の授業で。
でも、シャングリラの頃には一度も…。
舞踏会用の部屋だって一つも無かったものね、シャングリラには。
「やろうと思えば、天体の間とかで出来ないこともなかったろうが…」
あそこだったら、公園よりかは舞踏会向きだ。広いし、床もしっかりしてたし。
だがなあ…。
生憎とそんな優雅なイベントは無い船だったな、と笑うハーレイ。
オーパンバルでワルツどころか、そもそもドレスも燕尾服も無かったんだから、と。
「結婚式を挙げるカップルだって制服だったぞ、ウェディングドレスが無かったからな」
舞踏会のために白いドレスを作るくらいなら、そっちを先に作らんと…。燕尾服だって。
「ホントだね…」
ぼくね、最初に写真を見た時、結婚式だと思ったんだよ。真っ白なドレスだったから。
ずいぶん沢山のカップルだよね、って記事を読んだらオーパンバル…。女の人はブーケも持っていたんだけれど…。
シャングリラには無かったっけね、ウェディングドレス。…みんな制服だったから。
あの時代は、きっとダンスも無いよね。誰も踊っていなかったもの。
「そういうわけでもなかったようだぞ」
シャングリラで踊っていたヤツがいたな、と知っているわけじゃないんだが…。
「えっ?」
それじゃ誰なの、誰がダンスを踊っていたの?
シャングリラで踊っていた人を知らないんなら、誰が踊るの…?
「あの船でないなら、人類だろうが」
人類の世界にはあったんだ。ダンスも、それに舞踏会も。…前の俺は知らなかったがな。
ヒルマンもエラも話しちゃいないし、あの二人も知らなかったんじゃないか?
前の俺たちとは縁の無い世界で、調べてみたって国家機密ということもあるし。
「国家機密って…。ダンスなのに?」
どうしてダンスが国家機密なの、暗号入りの踊りだったとか…?
舞踏会で踊るダンスの種類で、何かコッソリ伝えてたとか…。
ワルツの他にもダンスの種類は色々ある、と今の自分は知っているから。同じワルツでも、曲が幾つもあることも知っているものだから。
国家機密と聞いた途端に、頭に浮かんだものは暗号。ダンスの種類や、曲名で作れそうなもの。
「暗号だったの、前のぼくたちの頃のダンスは?」
この曲が流れたら、こういう意味、って。…このダンスだったら、こうだとか。
「お前、発想が豊かだな…。俺は思いもしなかったが」
あの時代にダンスがあったってことを思い出しても、そいつを知った時にもな。暗号だなんて。
ダンスと言ったら、ただ踊るだけだ。
パルテノンのお偉方とかが踊っていたんだ、前の俺たちが生きてた頃は。
ずっと前に読んだ本にあったぞ、読んだのは今の俺なんだがな。
パルテノンは最高機関だったし、内情は極秘扱いということもある。国家機密で。
どういう風に勤務してるか、元老たちの仕事は何だったのか。
あの連中は、パルテノン専用の食器で晩餐会を開いてたんだぞ。食器の話はしたろうが。
そんな世界があったわけだし、舞踏会の方もありそうな気がしてこないか?
「…あったのかもね…。舞踏会だって…」
って、本当に踊っていたの?
ハーレイ、本で読んだんだって言ったよね?
前のぼくたちが知らなかっただけで、人類の世界には舞踏会がちゃんとあったわけ…?
オーパンバルは無かった時代。それは新聞の記事で分かったけれども、舞踏会。
前の自分が生きた時代に、舞踏会があったとは初耳だった。
シャングリラにはダンスも無かったのに。…白いシャングリラでは、誰も踊らなかったのに。
「…舞踏会なんか、何処でやってたの…?」
それにダンスは何処で教えるの、ジョミーは習っていなかったよ?
前のぼく、ずっと見ていたけれども、学校でダンスの授業なんかは一度も無くて…。
もしかして、見落としちゃってたのかな?
「違うな、お前の記憶が正しい」
あの時代には、義務教育では教えちゃいない。今の俺が読んだ本にも、そう書いてあった。
ダンスをしたのは、偉い連中だけなんだ。
パルテノンに入れるようなエリートだけだな、いわゆる特権階級ってトコか。
出世して偉くなった時には、舞踏会に出席できるってな。
その時に備えて、ダンスを教える教育ステーションなんかもあったんじゃないか?
エリートの心得事なんだから、と仰々しく。
…そうだ、あいつなら踊れたかもな。
俺の嫌いなキース・アニアン、あの野郎なら。
国家主席にまでなったんだから、とハーレイが忌々しそうに顰める眉。
キースが国家主席に就任したのは、首都惑星ノアを捨ててからだけれど、その前に元老になっているから。
「元老と言ったらパルテノンだしな、もちろん舞踏会の世界だ」
あいつが行ってたステーションとは、まるっきり違う世界から来たヤツばかりだが…。
同じエリートでも種類が違って、軍人じゃなかったわけなんだが。
其処へ入れと言われた以上は、踊った可能性もある。…舞踏会に出席させられたらな。
「舞踏会って…。キースがダンス…?」
「招待されたら断れないぞ?」
いくら似合わないと思っていたって、上からの命令は絶対だ。出掛けて行くしか無いだろうが。
そして如何にもありそうな話だ。キースは嫌われていたらしいからな、パルテノンでは。
畑違いの軍人なんだし、生え抜きのヤツらには煙たいだけだ。
困らせてやろうと開きそうだぞ、舞踏会を。皆でワルツを踊ったりして。
「ワルツって…。そんなの踊れたわけ?」
マザー・イライザが教えていたってことはないよね、まだ水槽にいた頃に…?
教えておいても、練習しないと知識だけでは役に立ちそうもないし…。
「そういう教育はしなかったろうな、マザー・イライザは」
軍人にしようと育ててたんだし、E-1077も軍人向けだ。メンバーズにも二種類ってな。
キースみたいな軍人になるか、パルテノンに入って元老になるか、その二つだ。
だからキースは、ダンスなんかは習っちゃいない筈なんだが…。舞踏会向きじゃないんだが…。
必要となったら練習するだろ、軍人なんだし飲み込みは早い。
「えーっ!?」
それじゃホントに、キースはワルツを踊ってたわけ…?
舞踏会に出たかどうかはともかく、キースは負けず嫌いな人間だったし…。
パルテノン入りをしちゃったんなら、ワルツ、意地でも覚えていそう…。
招待されてから慌てるよりも、先に自分で覚えてそうだよ。
キースはそういう人間だった、と今の自分にも確信できること。必ず先手を打つ人間。置かれた立場の遥か先を読んで、必要な手を打っておこうとするタイプ。
ならば、ワルツも覚えただろう。パルテノンの元老たちが舞踏会を開く人種なら。いつか自分も招かれる可能性があるのなら。
(ワルツを踊るキースって…)
全く想像出来ないけれども、練習相手も想像出来ない。舞踏会なら、キースが踊る相手は女性。
けれど、キースが女性を相手に、ワルツの練習をするのかどうか。
「えっと…。キースがワルツを練習するなら、相手の人がいないと駄目だけど…」
誰と練習したのかな、キース…?
部下に女の人、一人だけ混じっていたらしいけど…。その人と練習してたと思う?
ひょっとしたら、マツカだったのかな?
部下だった人を連れて来るより、マツカの方が使いやすいから。
「その線は濃いな。俺もマツカだという気がするぞ」
顎で使っていたらしいからな、キースの好きに出来るってもんだ。
オーパンバルのための特訓じゃないが、空いた時間に「来い」と呼んではワルツの練習。
マツカがステップを踏み間違えたら、「馬鹿野郎!」と怒鳴り付けてな。
「…練習してるトコ、見てみたいかも…」
ちょっとでいいから、どんな感じか。キースがワルツを踊っているのを。
「俺もだ、キースは嫌いだがな」
嫌いだからこそ、笑いと話の種ってヤツだ。きっと最初は下手なんだから。
どんなに軍人としての腕が凄くても、それとワルツは別だしな?
柔道と水泳が全く別なのと同じ理屈で、いきなりワルツを踊れと言われても身体が動かん。
思うようにステップが踏めない間に、是非とも見せて貰いたいもんだ。
あの野郎が「くそっ!」と舌打ちするのを、「上手くいかん」と仏頂面になる所をな。
最初から上手く踊るのは無理だ、というハーレイの意見は正しいと思う。銃を撃つのとは、使う筋肉がまるで違うだろうから。色々な格闘技にしても。
(キースがワルツを覚えるんなら、猛特訓…)
新聞で読んだ、オーパンバルを目指すカップルのように。もっと上手くと、練習を積んで。
女性の部下を使うよりかは、マツカを相手に練習をしていそうだけれど…。
「キースのワルツ…。マツカと一緒に練習したって、きっと恋にはならないよね?」
どんなに二人で頑張ってみても、上手く踊れるようになっても。
「当然だろうが、あいつはそういうヤツじゃないしな」
前のお前を撃つようなヤツだ、ミュウだったマツカの扱いだって酷かったろう。
練習の時に失敗したなら、自分のミスでもマツカのせいだな。マツカがミスをしちまった時は、怒鳴るだけでは済まんぞ、きっと。殴るとか、平手打ちだとか…。
そんなやり方で練習していて、どうやれば恋になるって言うんだ。有り得んな。
その上、あいつは軍人としても一流なんだぞ、鍛えた身体はダテじゃない。
運動神経も凄いわけだし、サッサと覚えちまうから…。
努力するも何も、ほんの少しだけ無駄に時間を使わされた、と考えて終わりなんじゃないか?
「…そうなんだろうね…」
完璧なメンバーズ・エリートだから…。きっと覚えるのも早いよね、ワルツ。
でも、キース、本当にワルツを踊ったのかな?
「さてなあ…?」
記録を調べりゃ、残っているかもしれないな。…あいつのパルテノン時代。
誰かが舞踏会に招待したとか、確かに出席していただとか。
だが…。
俺は調べてやらないぞ、とハーレイは今も、キース嫌いが治らないけれど。
調べてくれる気も無さそうだけれど、いつか結婚した後に思い出したら、調べてみようか。遠い昔に、キースがワルツを踊っていたか。舞踏会に招待されたのか。
「ねえ、ハーレイ。…もしもキースが、ワルツを踊っていたんなら…」
ぼくもワルツを踊ってみたいよ、ハーレイと。
オーパンバルに出たいとは思わないけど、前のぼくたちが生きた時代にもワルツなんだし…。
前のぼくたちが知らなかっただけで、踊っていた人がいたんだから。
「俺とワルツを踊りたいってか?」
背丈が違い過ぎるぞ、おい。
新聞で写真を見たんだろうが。身長の差がデカすぎるカップル、写っていたか?
「うーん…。そう言えば、そんなカップル、いなかったかも…」
前のぼくとハーレイみたいに、うんと背が違うカップルは。
あれは揃えたわけじゃなくって、踊りにくいから、そういうカップルがいなかっただけ…?
「そういうことだが?」
上手く踊れやしないからなあ、オーディションを突破するのは無理だ。
当然、俺とお前がワルツを踊ろうとしても、お前が俺の足を踏むどころじゃなくて…。
派手に転ぶか、俺にぶつかるか…、とハーレイが浮かべる苦笑い。
「華麗なステップは踏めそうにないな」と。
チビの自分が育ったとしても、身長の差は今の半分ほどにしか縮まない。前の自分と同じ背丈に育っても。
身長の差が大きすぎるから、難しいかもしれない、ハーレイとワルツを踊ること。
けれど、転びながらでも踊れるのなら、少し踊ってみたい気がする。
ハーレイとなら、きっと息が合う筈だから。
前の生からの恋の続きを、二人で生きてゆくのだから。
どんなに沢山練習を積んだオーパンバルのカップルよりも、しっかりと結ばれている絆。
息はピッタリ合うだろうから、いつか二人で踊ってみたい。
前の自分たちは知らなかったワルツを、青い地球の上で。
転びながらでも、きっと素敵な時間。
ハーレイのリードでくるりと回って、転びそうでも、下手くそでも…。
恋人のワルツ・了
※復活している昔のイベント、オーパンバル。其処で踊るために特訓する間に、強くなる絆。
ブルーとハーレイも頑張れそうなワルツですけど、時の彼方で、キースも踊っていたのかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
巷にクリスマスの飾りが溢れる季節がやって来ました。キース君にとってはクリスマスは修行を思い出させるものらしいですけど、私たちにはまるで関係ありません。今年も会長さんの家で賑やかにパーティーでしょうし、まだ一ヶ月あると言っても楽しみな日々。
「かみお~ん♪ 明日はみんなでお出掛けする?」
それとも遊びに来る? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。金曜日の放課後、いつもの溜まり場での質問です。会長さんの家でダラダラ週末もけっこう定番、それもいいなと思ったのですが。
「…なんか、サル顔なんだよねえ…」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と視線がジョミー君に集中しました。サル顔って、誰が?
「あ、ごめん。昨日の夕刊の記事なんだけど…。植物園便り」
「「「植物園便り?」」」
動物園なら分かりますけど、植物園でサル顔というのは何でしょう。園長さんがサル顔だったとか、植物の紹介をしていた人とか…?
「ううん、サル顔の花だったんだよ」
「「「花!?」」」
何処の世界にそんな花が、と誰もが突っ込む中で、会長さんが「ああ…」と手を打って。
「あれかい、モンキー・オーキッドかい?」
「そう、それ! すっごいサル顔!」
もうサルにしか見えなくて、とジョミー君は興奮しています。なんでもオーキッドだけに蘭だそうですが、花のド真ん中にサルの顔の模様がついているとか。
「それがさ、サルをプリントしたみたいにそっくりなんだよ、そのままサルでさ!」
まさにサル顔、と語るジョミー君と一緒に、会長さんも。
「一時期、話題になってたからねえ…。サル顔すぎるとネットなんかで」
「おい、本当にサルなのか?」
モンキー・オーキッドと言うからにはサルなんだろうが、とキース君が訊くと。
「この上もなくサルだったねえ! ぼくも実物は見ていないけれど」
どの花もサルで、と会長さんが言い出し、ジョミー君も「そうらしいよ」と。
「植物園で咲き始めました、って書いてあってさ…。他にも色々なサルがいるからお楽しみに、っていう紹介でさ」
あのサルを是非見てみたい、という話ですけど。植物園に出掛けてサル顔の花を見物しようというわけですか…?
ジョミー君曰く、サル顔の花。会長さんが「論より証拠」と部屋に備え付けの端末で検索してくれたモンキー・オーキッドは本当にサル顔でした。蘭の花の真ん中にババーンとサルが。
「見に行くんなら、今はこれだけにしておくのがいいよ」
サルのバリエーションは本物で堪能するのがお勧め、と会長さん。
「ぼくも写真でしか知らないけどねえ、それは色々なサル顔があるから」
「…そうなのか?」
俺は初耳だが、とキース君が画面を覗き込んで。
「これだけでも充分にサルっぽいんだが、まだまだサルがいるというのか?」
「ハッキリ言うなら、序の口だね、これは。…ジョミーが見たのも、これだよね?」
「うん。もしかして、心を読み取ってた?」
「まあね。ズバリそのものを見せたかったら、情報はしっかり掴まないとね」
昨日の夕刊の写真はこれだ、と会長さんが言う通り、写真には植物園便りという記事がついていました。アルテメシアの植物園の。
「へええ…。今がモンキー・オーキッドの旬なのかよ」
こんなサルの、とサム君が記事を読み、「他にもサルがいるってか?」と怪訝そうに。
「花だろ、これ? 他の花でもサルなのかよ?」
「モンキー・オーキッドなら、もれなくサルだね。ぼくが保証する」
もう本当にサルすぎるから、と会長さん。
「誰が見たってサルなんだけどね、現地じゃサルではないんだなあ…。これが」
「「「へ?」」」
モンキー・オーキッドという名前どおりにサルじゃないんですか、この花は?
「ドラキュラらしいよ、品種名としては。…サルじゃなくって」
「「「ドラキュラ?」」」
それは吸血鬼ではないのだろうか、と思いましたが、会長さんは大真面目な顔で。
「ドラキュラはドラキュラでも、吸血コウモリ。聞いたことはあるだろ、吸血コウモリは」
「それはまあ…。知らなくもないが」
キース君が返すと、「そのドラキュラ」と会長さん。
「吸血コウモリの顔がついてるってことで、ドラキュラなんだよ」
「「「えーっと…」」」
サルだろう! と総員一致の反論が。されどドラキュラが本名らしいモンキー・オーキッド。これは本物、ちょっと見に行きたい気分ですよね!
というわけで、翌日の土曜日、私たちは植物園へとお出掛けすることになりました。雪が降りそうな寒さですけど、たまには冬の植物園。寒さ除けにも急げ、急げと温室目指してまっしぐらで。
「かみお~ん♪ 温室、あったかいね!」
ここだけ夏だね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。着込んで来たコートや上着はお役御免で、それでも暑い気がする温室。さて、モンキー・オーキッドは何処でしょう?
「蘭のコーナーは向こうらしいな」
キース君が案内板をチェックし、南国の植物が茂った中をゾロゾロと移動。週末なのに人は全くいません、そういえば入る時から誰もいなかったような…。
「植物園って冬は暇なのかしら?」
スウェナちゃんの疑問に、会長さんが「暇だろうね」と即答しました。
「寒風吹きすさぶ中、だだっ広い庭を見て回りたいような人は思い切り少数派だし…。温室の中は暖かいけど、バスや車で横づけってわけにもいかないからね」
最高に賑わうのは冬じゃなくって桜のシーズン、と会長さん。
「いろんな種類の桜が山ほど植えられているし、桜を見るにはいいらしいよ? 見るだけでもね」
「「「見るだけ?」」」
「桜のコーナーは春は飲食禁止なんだよ。お弁当とかは他所で食べて下さい、と」
「それじゃお花見になりませんよ?」
駄目じゃないですか、とシロエ君。
「やっぱりお弁当は桜を見ながら食べたいですし…。桜があっても、お弁当禁止じゃあ…」
「それなりに他の花もあるしね、桜は見るだけ、お弁当は他で! それでも賑わう!」
だけど冬場は閑古鳥、と会長さんはグルリと見回して。
「この温室には他に誰もいないし、外も写真の愛好家が何人かいる程度かなあ…」
「モンキー・オーキッドで宣伝してても来ないわけ?」
ぼくたちしか、とジョミー君が頭を振って、サム君が。
「普通こねえだろ、それだけ見るのに入園料を払って寒い中をよ」
「うーん…。あの記事に上手いこと乗せられたかなあ?」
「いいんじゃないかな、一見の価値はあると思うよ、モンキー・オーキッド」
この植物園は何種類も育てているからね、と会長さんが先に立って蘭のコーナーの方へと向かってゆきます。誰も来ていないとは拍子抜けですが、その分、ゆっくり堪能できそう。サル顔の花のバリエーションってどんなのでしょうね、花の色とかかな…?
それから数分後、私たちは温室の中でケタケタと笑いまくっていました。誰もいないのをいいことにしてゲラゲラ、ケラケラ、これが笑わずにいられようか、といった感じで。
「サ、サルだぜ、本気で! もうサルにしか見えねえって…!」
「これなんか歯をむき出してますよ、威嚇してるのか、笑ってるのか…」
「こっちもサルだよ、なんでこんなにサルだらけなんだろ…!」
見に来て良かった、とジョミー君もお腹を抱えて爆笑中。モンキー・オーキッドのコーナーはサル顔をした蘭がズラリ揃って、あっちもこっちもサルだらけで。
「ドラキュラじゃないわね、やっぱりサルよね?」
「どう見てもサルだな、俺にはサルにしか見えないからな」
だが学名は違うのか…、とキース君が「ドラキュラ属」と書かれた札に呆れ顔。
「…吸血コウモリはサルに似ているのか、そうなのか?」
「どっちかと言えば、ぼくはブタだと思うけどねえ…」
でなければネズミ、と会長さんが。
「誰がドラキュラと名付けたのかは知らないけれどさ、明らかにネーミングのミスだよ、これは」
「だよなあ、サルだもんなあ、これも、これもよ」
サルの顔がついているとしか見えねえしよ、とサム君が言う通り、どの蘭も見事なまでにサル。吸血コウモリだと言われてもサル、サル以外には見えませんってば…。
色も形も様々なモンキー・オーキッド。それと同じにサルの顔も色々、表情のバリエーションが豊かすぎるだけに笑うしかなく、散々笑って笑い転げて、植物園を後にして…。
「凄かったよねえ、モンキー・オーキッド」
あそこまでとは…、とジョミー君が改めて感動している会長さんの家のリビング。私たちは植物園の側のハヤシライスが有名だというお店で食事し、あまりに寒いので反則技の瞬間移動で会長さんの家まで帰って来ました。今は紅茶やコーヒー、ココアなんかで寛ぎ中で。
「あのサル顔は凄すぎたな…。どういう意図でサルなんだかな」
サルの顔にしておけば虫が来るわけでもなさそうだし…、とキース君。
「天敵を追い払うのにサルの顔なら話は分かるが、本物のサルに比べて小さすぎるし…」
「吸血コウモリの顔にしたって、小さすぎだね」
本当に何の意味があるのやら…、と会長さんも。
「揃いも揃ってサル顔なんだし、偶然にしては凄すぎるけど…。蘭の心は読めないからねえ、どうしてサルかは分からないよね」
まだ定説も無いようだ、という話。それじゃ、まさかの遊び心とか?
「遊び心か…。それだと人間に見て貰えることが大前提だし、ウケた所で種の繁栄に繋がるとは限らないからねえ…」
乱獲されて絶滅しそうだ、と会長さん。それは確かに言えてます。植物園で見て貰える間はマシでしょうけど、大流行したらエライことですし…。
「何を思ってやっているのか謎ですね、モンキー・オーキッド…」
ぼくたちは楽しませて貰いましたが、とシロエ君が言った所へ。
「こんにちはーっ!」
「「「!!?」」」
フワリと翻った紫のマント、ソルジャーが姿を現しました。
「遊びに来たよ、今日はなんだか珍しい所へ行っていたねえ!」
「植物園かい? たまにはそういう場所もいいだろ、勉強になるし」
会長さんがそう答えると。
「…勉強だって? 笑いに行った、の間違いだろう?」
サル顔の花で、とソルジャーはしっかり把握していて。
「ぼくも覗き見していたけどさ…。此処へ来る前に瞬間移動で実物も見に行って来たんだけどさ」
あれは凄すぎ、とソルジャーもまたモンキー・オーキッドで笑いまくって来たようです。あれだけサル顔の花が揃えば、そりゃ、見るだけで笑えますしね…。
モンキー・オーキッドを堪能して来たらしいソルジャーは、やはりサル顔が気になる様子で。
「進化の必然ってヤツだろうけど、なんでサル顔?」
「それが分かったら、ぼくは論文を発表してるよ!」
万人が納得するような理由を見付けられたら最強だから、と会長さん。
「銀青として坊主の世界では名が売れてるけど、学者の世界じゃ無名だからねえ…。そっち方面で売り出せるんなら、論文くらいは書いてみせるよ!」
「…つまり、現時点ではサル顔の理由は謎なんだ?」
「これだ、っていう説は出てないねえ…。少なくとも、ぼくが知ってる限りでは」
「ふうん…。だったら、遊び心もいいかもねえ…」
あのサル顔は使えそうだ、と妙な発言。ソルジャー、サル顔が好みでしたか?
「ううん、そういうわけじゃなくって…。サルでなくてもいいんだよね、と思ってさ」
「「「はあ?」」」
モンキー・オーキッドはサル顔だからこそウケたんだろうと思います。会長さんが一時期話題を呼んだと言ってましたし、私たちだって大いに笑ったわけですし…。サル顔じゃないモンキー・オーキッドなんかに、なんの価値があると?
「価値観は人それぞれだからね!」
この顔が好きな人もいる、とソルジャーは自分の顔を指差して。
「サルの顔の代わりに、ぼくの顔! そういう蘭も素敵だろうと思わないかい?」
「「「へ…?」」」
なんですか、そのヘンテコな花は? ソルジャーの顔の蘭ですって?
「そう! 名付けてブルー・オーキッド…じゃ駄目かな、ただの青い蘭だし…。でも、ぼくの顔がついているならブルー・オーキッドで決まりだよねえ?」
そういう花も良さそうだけど、と言われましても。
「…品種改良する気かい?」
君のシャングリラで、と会長さん。
「モンキー・オーキッドを持って帰って、君の顔になるよう細工をすると?」
「まさか。そこまでの手間はかけられないよ。…それに簡単には出来そうもないし」
品種改良となったら何年かかるか…、という指摘。
「ぼくの世界の技術がいくら進んでいたって、今日作って明日とはいかないんだよ」
「そうだろうねえ…」
相手は植物なんだから、と会長さんも頷きましたが、それじゃソルジャーの顔の蘭は夢物語?
モンキー・オーキッドならぬ、ソルジャーの顔をしたブルー・オーキッド。品種改良が無理なんだったら、ただの話の種だろうと思った私たちですけれど。
「作れないことはないんだよ。ぼくの顔のブルー・オーキッドをね」
「…どうやって?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「ごく単純な仕組みだけど? サイオンを使えば一発じゃないか、サイオニック・ドリーム!」
「「「ええっ!?」」」
あのサル顔をソルジャーの顔と取り替えるんですか、サイオニック・ドリームで?
「そう。…でもねえ、サルの顔がベースというのは嬉しくないしね…」
もっと綺麗な蘭にしたい、とソルジャーならではの我儘が。
「上手く嵌め込めれば何でもいいしね、胡蝶蘭でもカトレアでも!」
美しい花でキメたいのだ、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「ぼくは是非とも作ってみたいし、一鉢、プレゼントしてくれないかな?」
「自分で買えばいいだろう!」
お小遣いに不自由はしていないくせに、と会長さんの切り返し。
「ノルディにたっぷり貰ってるんだろ、ランチやディナーに付き合っては!」
「それはそうだけど…。ブルー・オーキッドは使えるよ?」
こっちのハーレイだってウットリするに決まっているし、と笑顔のソルジャー。
「ぼくがブルー・オーキッドを見事に完成させたら、こっちのハーレイにもプレゼントで!」
「迷惑だから!」
そんなプレゼントでハーレイを喜ばせるつもりはない、と会長さんはけんもほろろに。
「ぼくの写真をコッソリ集めているってだけでも腹が立つのに、ぼくの顔つきの花なんて! いくらモデルが君の顔でも、見た目は全く同じなんだし!」
お断りだ、とはね付けた会長さんですが。
「そうなんだ…? それじゃ、君には別の蘭をプレゼントしようかなあ…」
「…ぼくに?」
「そうだよ、最高の蘭を作って君に! 名付けてハーレイ・オーキッド!」
全部の顔がハーレイなのだ、とソルジャーが胸を張り、私たちは頭を抱えました。サル顔の花なら楽しめますけど、教頭先生の顔なんて…。しかも表情がバリエーション豊かにあったりしたら、頭痛の種にしかなりませんってば…!
ソルジャーの顔なブルー・オーキッドどころか、教頭先生の顔なハーレイ・オーキッド。そんな凄まじい蘭は御免蒙る、と会長さんも考えたようで。
「わ、分かったってば、それを作られるくらいだったらブルー・オーキッドでいいってば!」
「じゃあ、お小遣い」
花屋へ蘭を買いに行くから、とソルジャーが右手を出しました。
「蘭は高いと聞いているしね、財布ごとくれると嬉しいんだけど…」
「それは断る! とりあえずこれだけ、これで買えるだけの蘭にしておいて!」
これだけあったら充分だろう、と会長さんはお札を数えて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に持って来させた別の財布に突っ込むと。
「はい、どうぞ。胡蝶蘭だろうが、カトレアだろうが、好きに買って来れば?」
「ありがとう! それじゃ早速、行ってくるね!」
蘭が充実している花屋は何処だろう、とソルジャーは会長さんの家に置いてある私服に着替えてウキウキと。「そるじゃぁ・ぶるぅ」にお勧めの花屋さんを幾つか挙げて貰って、瞬間移動でパッと姿がかき消えて…。
「…行っちまったぜ?」
なんか蘭を買いに…、とサム君が窓の外を指差し、シロエ君が。
「ブルー・オーキッドとやらを作るんですよね?」
「らしいな、あいつの顔がズラリと並んだ蘭をな…」
どういう蘭になるというんだ、とキース君がフウと溜息を。
「モンキー・オーキッドからどうしてこうなる、俺たちは平和に植物園を楽しんだのに…」
「それを言うなら、ぼくもだよ! こんな方向に行っちゃうだなんて思わないから!」
分かっていたなら見に行こうとは言わなかった、とジョミー君も。
「おまけにブルー・オーキッド作りを断った時はハーレイ・オーキッドだなんて言われても…」
「考えようによっては、そっちの方がモンキー・オーキッドに近そうだけどね」
ぼくの顔よりはサルっぽい、と会長さん。
「だけど、ハーレイの顔がくっついてる蘭が部屋にあったら悪夢だし…」
「教頭先生の方がそれっぽい顔には違いねえけどな…」
歯をむき出した顔だって、なんとなく想像つくもんなあ…、とサム君がモンキー・オーキッドと重ねているようですけど、ハーレイ・オーキッドは見たくありません。ソルジャーの顔なブルー・オーキッドだけで充分、表情も一つで充分です~!
蘭を買おうと瞬間移動で出掛けて行ったソルジャーは、半時間ほど経った頃に戻って来ました。それは見事な白い胡蝶蘭の鉢を抱えて、御機嫌で。
「どうかな、これ? お店の人のお勧めのヤツで!」
おつりはこれだけ、と会長さんに返された財布、中身は殆ど消えたようです。
「…思い切り奮発したみたいだねえ?」
「それはもう! ぼくのハーレイにプレゼントするんだし、ケチケチ言ってはいられないよ!」
これだけの数のぼくの顔がついた立派なブルー・オーキッド、とソルジャーは胡蝶蘭の鉢を床にドンと置き、暫し眺めて。
「…全部が同じ顔の花より、バラエティー豊かな方がいいよね?」
「好きにすれば?」
サイオニック・ドリームを使うのは君だ、と会長さんが言い終わらない内に、胡蝶蘭の鉢を青いサイオンがフワッと包んで、スウッと消えて。
「どうかな、ブルー・オーキッド! こんな感じで!」
作ってみたよ、という声で覗き込んでみた胡蝶蘭の花。白い花弁はそのままですけど…。
「「「うーん…」」」
ブルーだらけだ、と声を上げたのは誰だったのか。胡蝶蘭の花のド真ん中の辺り、モンキー・オーキッドで言えばサルの顔がついていた辺りにソルジャーの顔が。何処から見たってソルジャーか、会長さんにしか見えない顔がくっついています。
「素敵だろう? 笑顔のぼくもいれば、真面目なぼくもね!」
憂い顔から色っぽいのまで揃えてみましたー! というソルジャーの言葉通りに、バラエティー豊かな表情の数々。まさにモンキー・オーキッドならぬブルー・オーキッド、よくも作ったと感心するしかないわけで。
「さてと、ぼくのハーレイにプレゼントするには、検疫が必須なんだけど…」
そんなことに時間をかけている間に花が駄目になる、とソルジャーは鉢を丸ごとシールドしちゃったみたいです。
「これでよし、っと…。花には触れるけど、ウイルスとかは通さない!」
ぼくのシールドは完璧だから、と言いつつソルジャーの衣装に着替えて、鉢を抱えて。
「今日はハーレイにこれをプレゼント! 喜んで貰えたら、こっちのハーレイの分も作るよ!」
いいアイデアをありがとう! と消えてしまいました、おやつも食べずに。モンキー・オーキッドに想を得たブルー・オーキッドとやらを披露しようと急いで帰ったみたいです。今日はキャプテン、暇なんですかね、いつもは土日も仕事なんだと聞きますけどね…?
ソルジャーがいそいそと帰って行った後、私たちの方はポカンとするしかなくて。
「ブルー・オーキッドねえ…」
あんなのが果たしてウケるんだろうか、と会長さんが悩んでいます。
「ただの花だし、ブルーの顔がついているってだけで…。モンキー・オーキッドの方が自然の産物なだけに、遥かに凄いと思うけどねえ?」
「俺も同意だが、あいつらの感性は謎だからな…」
案外、あれで大感激かもしれん、とキース君。
「花かと思えば実はあいつの顔が幾つもついているんだ、喜ばれないとは言い切れないな」
「キャプテン、ソルジャーにベタ惚れだしね…」
あんな蘭でもいいのかも、とジョミー君も。
「普通の胡蝶蘭よりもずっといいとか、素晴らしいとか言い出しそうだよ」
「教頭先生でも言いそうだよな、それ」
ブルーの顔がついていればよ、とサム君が頭を振りながら。
「あれがウケたら作りに来やがるんだろ、教頭先生用のヤツをよ」
「そうらしいねえ…」
困ったことに、と会長さんも頭痛がするらしく。
「ウケないことを祈るのみだよ、ブルー・オーキッドは一鉢あれば充分なんだよ、この世界にね」
「会長、細かいことですが…。この世界にはもうありませんよ、ブルー・オーキッド」
持って帰ってしまいましたよ、とシロエ君からの突っ込みが。
「この世界に一鉢と言うんだったら、こっち用に作って貰わないといけないわけですけれど」
「そんな言霊、要らないから!」
お断りだから、と叫んだ会長さん。
「ブルー・オーキッドはさっきの一鉢、それで充分! これでバッチリ!」
増えられてたまるか、と数珠を取り出し、ジャラッと繰って音を鳴らして、それから何やら意味不明な呪文を朗々と。えーっと、今のは…?
「前言撤回の呪文と言うか、お経を間違えた時に使うと言うか…。今の言葉は間違いでしたと、すみませんでしたと罪業消滅の大金剛輪陀羅尼ってヤツで」
「…おい、それで言霊もいけるのか?」
消えてくれるか、とキース君が尋ね、会長さんは「さあ…?」と首を傾げて。
「やらないよりかはマシなんだよ、うん。効いてくれれば御の字じゃないか」
是非効いてくれ、と数珠をジャラジャラ。呪文が効いたらいいんですけどね…?
そして翌日。相変わらずの寒さでお出掛けしたくはない空模様だけに、私たちは会長さんの家に押し掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ってくれた蒸しサバランの柚子風味に舌鼓を打っていました。柚子が美味しい季節だよね、と。そこへ…。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもサバラン! と降ってわいたソルジャー、空いていたソファにストンと座ると。
「ぶるぅ、温かいココアもお願い! ホイップクリームたっぷりで!」
「オッケー! ちょっと待っててねーっ!」
サッとキッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が注文の品を揃えて、ソルジャーは満足そうにサバランを頬張りながら。
「昨日のブルー・オーキッドだけどね…。ぼくのハーレイに凄く喜ばれてしまってね!」
「「「あー…」」」
忘れていた、と誰もが溜息、本当に綺麗に忘れていました。会長さんの呪文が効いたか、はたまた忘れたい気持ちが働いたのかは謎ですけれど。
「なんだい、そのつまらない反応は! あの花の素晴らしさが分かってる?」
ぼくのハーレイは本当に大感激だったのに、と唇を尖らせているソルジャー。
「どの花にもあなたがいるのですね、って端から眺めて、もうウットリと…。見惚れた後には夫婦の時間で、「こういう顔のあなたも欲しかったですね」って!」
「「「はあ?」」」
「分からないかな、真っ最中の顔! もう最高に色っぽいらしくて!」
そういう顔の花もあったら良かったのに、というのがキャプテンの意見だったみたいです。まさかソルジャー、そのリクエストに応えたとか…?
「ピンポーン! それを言われて作らなかったら嘘だろう?」
ちゃんと立派に作って来た、とソルジャーは威張り返りました。
「ぼくのハーレイがグッとくるらしい表情、それをハーレイの記憶から再現、最高に色っぽい花が咲きまくりのブルー・オーキッドが誕生ってね!」
こんな感じで! と胡蝶蘭の鉢がパッと出現、ソルジャーは「是非、見てくれ」と。
「昨日のとは一味違うんだよ! うんと色っぽく変身したから!」
「ぼくは見たいと思わないから!」
「ぼくたちも遠慮しておきます!」
会長さんとシロエ君が同時に声を上げたんですけど、ソルジャーは鉢を引っ込めません。やっぱり見るしかないんですかね、グレードアップしたブルー・オーキッド…。
さあ見ろ、すぐ見ろと迫るソルジャー、断り切れない私たち。仕方なく眺めたブルー・オーキッドの花は昨日とはまるで違っていました。お色気全開、そんな表情のソルジャーの顔があれこれ揃って咲き誇っている状態で…。
「…なんとも酷いのを作ったねえ、君は…?」
昨日のヤツの方が素敵だったのに、と会長さんが文句を言うと、ソルジャーは指をチッチッと左右に振って。
「分かってないねえ、この素晴らしさが! ハーレイの心を掴むにはコレ!」
お蔭で朝から素敵に一発! と満足そうな顔。
「いつもだったら、朝から一発はとてもハードル高いんだよ! ハーレイときたら、ブリッジに行かなきゃ駄目だと言うから、まず無理なんだけど、これを見せたらもうムラムラと…!」
これだけの数の色気たっぷりの顔を見てしまったら我慢も何も…、とニコニコニッコリ。
「本物のぼくでコレを見ようと、一気にベッドに押し倒されてね、それは激しく…!」
「もういいから!」
その先のことは言わなくていいから、と柳眉を吊り上げる会長さん。
「コレの素晴らしさは理解したから、サッサと持って帰りたまえ!」
「言われなくても直ぐに戻すよ、大事なブルー・オーキッドだからね!」
ぼくの青の間に飾っておかなきゃ、と胡蝶蘭の鉢は消えましたけれど。
「…素晴らしさを分かってくれたんだったら、こっちのハーレイにも贈らなくちゃね!」
あれと同じのを作ってあげよう、とソルジャーからの申し出が。
「ぼくのハーレイにウケた時には、こっちのハーレイの分も作ると言ったしね!」
「作って貰わなくてもいいから!」
「そう言わずにさ! ブルー・オーキッドの良さは分かってくれたんだろう?」
「こっちのハーレイにはモンキー・オーキッドで沢山なんだよ!」
サル顔の花をプレゼントくらいで丁度いいのだ、と会長さんは必死の逃げを。
「どうせ値打ちが分からないんだし、ハーレイにはサルで充分だってば!」
「ダメダメ、せっかくブルー・オーキッドが出来たんだから!」
モンキー・オーキッドなんてとんでもない、とソルジャーの方も譲りません。
「君そっくりのぼくの顔だよ、そういう顔でお色気たっぷり、ブルー・オーキッド! それをプレゼントしなくっちゃ!」
それでこそ二人の絆も深まると言ってますけど、会長さんと教頭先生に絆なんかはありません。あったとしたってオモチャにするとか、そういう絆ですってば…。
会長さんとソルジャーはブルー・オーキッドを巡って押し問答。サル顔の花がとんだ方向へ行ってしまった、と私たちは溜息をつくしかなくて。
「…元ネタはサルだったんだがなあ…」
昨日は植物園で笑っていたのに、何をどう間違えたらこうなるんだ、とキース君がぼやいて、ジョミー君も。
「ブルー・オーキッドにしたってそうだよ、最初は色々な表情ってだけで…」
単なるモンキー・オーキッドのブルーバージョンだった、とブツブツと。
「そりゃさあ…。歯をむき出してる顔とかは混ざってなかったけどさあ…」
「そういう顔だとお笑いにしかなりませんしね…」
シロエ君が大きな溜息を。
「教頭先生に贈るにしたって、お笑い系の顔ならまだマシだって気もしますけどね」
「それはブルーが却下するんじゃないですか?」
きっとプライドが許しませんよ、とマツカ君。
「元ネタがモンキー・オーキッドにしたって、自分の顔で笑いを取りたいタイプではないと思うんですけど…」
「確かにな。身体を張った悪戯をしやがることはあっても、笑いを取ったというのはな…」
俺の記憶にも全く無い、とキース君が頷き、スウェナちゃんも。
「無いわね、売りは超絶美形だものね」
「お笑い系で作ってくれ、って頼んだらいけそうな気はするけどよ…」
ブルーのプライドが粉々だよな、と嘆くサム君。
「でもよ、このままだと、作らねえってわけにはいきそうにねえし…」
「お笑い系で纏めて貰え、と助言してみるか?」
駄目元だしな、とキース君が「おい」とソルジャーと会長さんの間に割って入りました。
「なんだい、今は忙しいんだけど!」
「そうだよ、ぼくはブルーを追い返すのに忙しくって!」
ブルー・オーキッドなんかを作らせるわけには…、と会長さんがキッと睨んでいますが。
「それなんだがな…。お笑い系で纏めて貰ったらどうだ?」
「「お笑い系?」」
見事にハモッた、会長さんとソルジャーの声。キース君は「ああ」と答えると。
「お色気路線が嫌だと言うなら、モンキー・オーキッドと同じでお笑い系だ」
そういう顔で纏めて貰えば問題無い、と言ってますけど、会長さんが賛成しますかねえ…?
「…ちょっと訊くけど、お笑い系というのは、ぼくの顔で…?」
このぼくの、と会長さんが自分の顔を指差し、ソルジャーも。
「ぼくの顔で笑いを取れと? そういう意味でお笑い系だと言ったのかい?」
「その通りだが…。具体例は直ぐには思い付かんが、モンキー・オーキッドで言えば歯をむき出していたサルがあったし、あんな具合でどうだろうかと」
「「あれだって!?」」
あのサルの顔か、とまたもハモッた会長さんの声とソルジャーの声。
「なんだって、ぼくがそういう顔をハーレイに披露しなくちゃいけないのさ!」
「ぼくの方もそうだよ、ぼくは歯をむき出してサルみたいに笑いはしないから!」
有り得ない表情のオンパレードは作りたくない、とソルジャーが喚き、会長さんも文句たらたら。
「いいかい、ぼくは超絶美形が売りなんだよ? お笑い路線じゃないんだよ!」
「…そうか…。なら、仕方ないな。普通に作って貰うしかないな、ブルー・オーキッド」
俺はきちんと意見を述べたが却下なんだな、とキース君がクルリと背を向けて。
「…邪魔をした。後は存分に喧嘩してくれ、歯でも牙でもむき出してな」
「当然だよ! この迷惑なブルーを叩き出すためなら牙だってむくよ!」
でも歯を向き出したお笑い顔をハーレイにサービスするのは嫌だ、と怒鳴った会長さんですが。
「…ん? 牙をむくのと、歯をむき出すのと…」
似たようなものか、と独り言が。
「笑いを取るんだと思っているから間違えるわけで、牙をむくなら…」
「「「牙?」」」
牙がどうかしたか、と私たちもソルジャーも首を捻ったわけですけれど。
「そうだ、牙だよ! そうでなくても、あれはドラキュラ!」
「「「は?」」」
「元ネタのモンキー・オーキッド! ドラキュラ属だと言った筈だよ、吸血コウモリ!」
あの顔はサルじゃなかったんだっけ、と会長さんは天啓を受けたらしくて。
「ブルー・オーキッドだと思い込んでるからヤバイわけだよ、正統派のドラキュラ属だったら!」
「…どうなるんだい?」
君の考えが謎なんだけど、とソルジャーが訊くと。
「そのまんまだよ! ブルー・オーキッドを作ると言うなら、是非、ドラキュラで!」
元ネタに忠実にやってくれ、と拳を握った会長さん。元ネタとくればモンキー・オーキッドになるわけですけど、それだとサル顔でお笑いですよ…?
ブルー・オーキッドを作るのであれば元ネタ通りに、と会長さん。元ネタは昨日、植物園で笑いまくったサル顔の団体、お笑い系は嫌だと言っていたくせにどうなったのかと思ったら。
「ドラキュラだしねえ? 吸血コウモリもドラキュラも血を吸うわけでね、牙を使って」
そこを忠実に再現するのだ、と会長さんはニンマリと。
「お色気たっぷりなブルー・オーキッド、大いに結構! ハーレイは絶対、触ろうとする!」
「…そりゃそうだろうね、ぼくのハーレイも触ってみていたしね?」
そしてムラムラと来て本物のぼくを押し倒した、というソルジャーの証言。
「触りたくなることは間違いないよ。こっちのハーレイもハーレイだしね!」
「その先なんだよ、元ネタを使ってくれというのは! 触ったら、こう、牙でガブリと!」
「「「え?」」」
ガブリなのか、と驚きましたが、会長さんは「ドラキュラだよ?」と。
「ハーレイの指に噛み付いて血を吸うわけだよ、ぼくが作って欲しいブルー・オーキッドは!」
「…そ、それは…。サイオニック・ドリームでそれをやれと?」
ソルジャーの声が震えて、会長さんが。
「出来ないことはないだろう? ぼくよりも凄いと日頃から自慢しているわけだし!」
「そうだけど…。血を吸う花なんて、まるっきりのホラー…」
「ホラー路線の何が悪いと? …どうせだったら、もっとホラーな路線もいいねえ…」
血を吸いまくったらブルー・オーキッドがぼくに化けると思い込ませるとか、とニヤニヤと。
「もちろん、ホントに血を吸うわけじゃないけどさ…。ただの夢だけどさ」
「ふうん…? それで最終的には鉢ごと君に化けるように調整しておけと?」
そういうサイオニック・ドリームを仕掛けるのか、とソルジャーも興味を引かれたようで。
「君だと思ってガバッと押し倒したら、鉢がガシャンで正気に返るというオチかい?」
「それもいいけど、この際、ホラーでスプラッタとか」
「「「スプラッタ?」」」
「最後は食われてしまうオチだよ、もっと血を吸わせようと頑張っている内に!」
突然ガブリと指先を噛み砕かれてしまうのだ、と会長さん。噛み砕くって…教頭先生の指先をブルー・オーキッドが?
「そう! 慌てて指を引っこ抜こうにも、もう抜けなくて!」
「いいねえ、そのままハーレイをバリバリ食べてしまうというホラー仕立ても…!」
胡蝶蘭の花にくっついた顔がハーレイを食べるからホラーでスプラッタか、とソルジャーも乗り気になってしまって、会長さんはやる気満々で…。
ブルー・オーキッドの二鉢目は昼食を挟んで作り上げられ、ソルジャーと会長さんが瞬間移動で教頭先生の家へお届けに。私たちは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に中継して貰って見ていましたが、教頭先生は大感激で。
「なるほど、サイオニック・ドリームの花なのですね。そしてドラキュラなのですか…」
「うん。君の血をたっぷり吸わせてやったら、いずれはブルーに化けるかも…」
なにしろブルー・オーキッドだから、とソルジャーが得々と説明を。
「サイオニック・ドリームのブルーだからねえ、どう扱うのも君の自由だよ」
「らしいよ、君の妄想の全てをぶつけてくれても、ちゃんと応える仕様だってさ」
この素晴らしいブルー・オーキッドで楽しんでくれ、と会長さんとソルジャーが二人掛かりで背中を押しまくり、瞬間移動で帰って来て。
「さて、ハーレイはどうするかな?」
「ぼくの読みでは、もう早速に血を吸わせると思うけどねえ…?」
思い込みの激しさはピカイチだから、と会長さん。中継画面の向こうでは教頭先生が白い胡蝶蘭の花をしみじみと眺め…。
「ふうむ…。実に色っぽいブルーだな…。これが血を吸う、と」
どんな感じだ、とチョンと指先で触れた途端に、ガブリとやられたらしいです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が中継画面にサイオニック・ドリームを付け加えてくれ、教頭先生が見ているビジュアルが登場、白い花がやがてほんのりピンク色に。
「ほほう…。血を吸えば花の色が変わるのか。ならば、全部の色が変われば、花がブルーに化ける仕組みかもしれないな…」
是非とも血を吸って貰わねば、と教頭先生は次から次へと花にくっついた顔を指先でチョンと。そうして触ってゆく内に…。
「うわあっ!?」
教頭先生の悲鳴に重なった鈍い音。指先が砕けたみたいです。血も飛び散って、教頭先生は慌てて指を引っ込めようとなさいましたが…。
「ぬ、抜けない!? や、やめてくれ、ブルー!!」
私が誰だか分からないのか、と響く絶叫、ゴリゴリと嫌な音を立てて教頭先生は既に手首まで食われつつあって。
「「「うわー…」」」
思わず目を逸らしたくなる悲惨な光景、教頭先生もサイオニック・ドリームであることを忘れているようです。バリバリ、ボリボリ、骨が砕けて肉が啜られて…。
「…はい、一巻の終わりってね」
ぼくに綺麗に食べられました! と会長さんが高らかに宣言、スプラッタなホラーの時間は終了。食べられた筈の教頭先生が床に倒れていて、ブルー・オーキッドの鉢がその脇に。
「…君もやるねえ、ぼくもここまでのサイオニック・ドリームは久しぶりだよ」
人類軍を相手にホラーな攻撃をお見舞いしたってここまでのは滅多に…、と言うソルジャー。
「でもまあ、君に食べられたんだし、ハーレイも多分、本望だろうね」
「どうなんだろう? 懲りずに触るかな、ブルー・オーキッド」
「血を吸われている間は、極楽気分になる仕様だしね」
気分は天国、と微笑むソルジャーも抜け目なく仕掛けをしていたらしいです。そうなってくると、教頭先生、天国目当てに…。
「…また血を吸わせて遊ぶんでしょうか?」
「でもって、やり過ぎて食われるオチだぜ、バリバリと…」
それでもきっと懲りねえんだよ、とサム君が唸って、私たちもそうだと思いました。モンキー・オーキッドから生まれたブルー・オーキッド、ホラーな鉢と、ソルジャーの世界の美味しい鉢と。二通りのが出来ちゃいましたが、どっちがいいかと言われたら…。
「…美味しい鉢の方だよねえ?」
「教頭先生はそれの存在を御存知ないがな…」
ホラーな鉢でも美味しいだろう、とキース君。またバリバリと食われちゃっても、懲りずに触っていそうです。下手なホラー映画よりもスプラッタな中継、また見る機会が来そうな感じ。ブルー・オーキッドの花が枯れるまで、きっとホラーでスプラッタですね…?
顔を持った蘭・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーがサイオニック・ドリームで作った、ブルーの顔をしている蘭。それも二種類。
教頭先生用はホラーですけど、癖になるかも。なお、モデルの蘭は実在してます、本当です。
次回は 「第3月曜」 6月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGW。シャングリラ号で楽しく過ごした結果は…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(んーと…?)
席は幾つも空いているのに、と眺めたブルー。なんだか変、と。
学校の帰りに乗り込んだ路線バス。学校の側のバス停から。いつものバスで、混み合う時間とは違うのに。今日も座れる、と開いた扉から乗ったというのに、中で立っている若いカップル。
立っている乗客はその二人だけ。吊り革を握って、バスの真ん中辺り。
(…ぼく、座ってもいいんだよね?)
他にも席は空いているのだし、元気そうな若いカップルだから。
松葉杖を支えにしている人とか、赤ちゃんを抱いた母親などではないのだから。
大丈夫だよね、と空いた席の一つにストンと座った。お気に入りの一人掛けの席。通学鞄を膝に乗っけて、抱え直す間も気になること。
どうして二人は席に座ろうとしないのだろう?
座る場所なら幾つもあるよ、と車内をキョロキョロ見回したけれど…。
(そっか…!)
バスが走り出したら気が付いた。ほんの少し、車体が揺れたはずみに。
吊り革を握ったカップルも揺れて、仲良く笑い合っている。「驚いた」とでもいった具合に。
肩を並べて乗っている二人、お互いの顔は直ぐ隣同士にあるけれど。
(…空いている席…)
幾つもあるのに、二人掛けのシートが塞がっていた。友達同士らしい人やら、親子連れなどで。端から埋まって、余っていない。二人掛けのシートに限っては。
自分が座ったような一人用なら、あちこちに空いているけれど。
何人もが横に並んで座れる後部座席も、両端は空席なのだけれども…。
後ろから前まで順に数えても、二人掛けの空席は一つも無かった。一人用の座席か、一番後ろのシートの両端に一人分ずつか。
(席はあるけど、二人並んで座れないんだ…)
二人用の席が空いていないから。後部座席の二人分の空席、それも並んではいないから。
そういうことなら、二人が立っているのも分かる。席が幾つも空いていたって。
せっかく二人でバスに乗ったのに、離れ離れは悲しいから。一人用の座席が前後に並んだ場所もあるけれど、それは並んで乗るのとは違う。前後に分かれてしまうだけ。
(一人は後ろを向いて喋らなきゃ…)
きっと、それだと落ち着かない。二人一緒の気分になれない。顔だけこちらを向いていたって、身体も足も反対向け。首から下は、すっかり全部。
そんな風に分かれて座るよりかは、並んで立った方がいい。二人一緒に。
(一番後ろの席の両端が空いている分も…)
端っこ同士に腰を下ろしたら、話すことさえ出来ない有様。先に座っている人たちが気付いて、詰めてくれればいいけれど…。
(詰めて下さい、って頼めないよね?)
他にも席はあるのだから。前後に分かれて座れる場所なら、ちゃんと空席があるのだから。
その状態で「詰めて下さい」だと、ただの我儘。
二人並んで座りたいから、その席を空けてくれませんか、と言いに行くようなものだから。
これは駄目だ、と気付いた、立っている理由。吊り革を持って並んだカップル。
(ぼくだって…)
ハーレイと二人で乗っていたなら、そうするだろう。座席が幾つも空いたバスでも、立っている人が他に一人もいなくても。
乗った途端に、ハーレイに「お前、座れ」と、空いた座席を指差されたって。丁度いいだろ、と一つ選んで促されたって。
(ハーレイ、ぼくだけ座らせるんだよ…)
並んで座れる席が無いなら、座らせてくれて、ハーレイは側に立つのだろう。前や後ろが空いていたって、座らずに。ハーレイの身体が反対側を向いてしまわないように。
ハーレイの方が立っていたなら、ちゃんと向き合って話せるから。背の高いハーレイは、身体を屈めて。自分はハーレイの顔を見上げて。
(でも、そんな風に座るより…)
一人だけで席に腰掛けるよりは、吊り革を握って二人で立つ。隣同士で、仲良く並んで。
そっちの方が幸せだから。顔も身体も、離れてしまいはしないから。
(疲れていたら、座っちゃうかもしれないけれど…)
弱い身体が邪魔をしたなら、諦めて座るしかないけれど。それが正しいやり方だけれど。
今、カップルで乗っている二人。
女性はとっても元気そうだから、立っていたくもなるだろう。「座るといいよ」と男性が空いた席を指しても、「平気」と笑顔で断って。
下手に離れてしまうよりも、二人。横を向いたら、顔が見える場所で。
それで二人は立っているんだ、と分かったら羨ましくなった。仲の良さそうなカップルが。
席は幾つも空いているのに、座ろうとしない恋人たちが。
(いいな…)
何処かへ出掛けた帰りなのだろう、男性と女性。けして大声ではないのだけれども、耳に届いてくる会話。「楽しかったね」とか、「また行こう」だとか。
チビの自分には、まだまだ出来ないハーレイとのデート。二人一緒にバスにも乗れない。
いつか大きくなるまでは。前の自分と同じに育って、キスを許して貰えるまでは。
(ホントにいいな…)
あんな風にハーレイとデートしたいな、と膨らむ夢。それに憧れ。
早く大きくなりたいんだけど、とカップルの二人を見詰めていたら…。
(あっ…!)
女性が片手で、嬉しそうに持ち上げた紙袋。吊り革を握っていない方の手で。
とても小さな袋だけれど。重さも殆ど無さそうだけれど。
(プレゼントなんだ…)
中身はきっと、男性からの。今日、贈られたプレゼント。
「ありがとう」という声が聞こえるから。
女性はとても幸せそうだし、男性の方も素敵な笑顔を向けているから。
贈り物だ、とチビの自分でも、ピンと来た小さな紙袋。今日のデートの途中の何処かで、女性が貰ったプレゼント。
(二人で見付けて買ったとか…?)
デートの目的は二人で買い物、其処で出会ったお店の商品。ショーケースの向こうに、たまたま何か。女性が惹かれて、「あれ、素敵ね」と覗き込んだら、男性が「欲しい?」とプレゼント。
それとも男性がデートの前に用意していて、食事の時に渡したとか。
誕生日のプレゼントや、記念日だとか。その可能性も充分にある、とても小さな紙袋。
(どっちなのかな?)
カップルはデートの先達なのだし、興味津々、耳を傾けてみたけれど。
どんなデートをして来たのかが、とても気になる所だけれど。
(喜んでることしか…)
二人の会話からは分からない。はしゃぐ女性の輝く表情、プレゼントはまるで宝物。
それと、早く紙袋を開けてみたくてたまらないこと。
家に帰ったら、二人一緒にゆっくり中身を眺めるらしい。幸せな気分に包まれて。
コーヒーを淹れて、テーブルで。二人きりの家は、何処よりも落ち着く場所だから。
(中身、何だか分からないけど…)
きっと素敵なものなのだろう。家に帰るのが楽しみなもので、二人でゆっくり眺めたいもの。
今日のデートの記念品。バスで座席に座れなくても、幸せなデートを締め括る何か。
(うんと幸せそうだよね…)
二人とも、と見ている間に、降りるバス停に着いたから。
まだ立っている二人を見詰めて、振り返りながら降りたほど。
いいなと、あんなデートがしたい、と。ハーレイと二人であんな風に、と。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、思い出すのはバスで見たカップル。
二人一緒に立っていた姿が羨ましかったし、プレゼントも気になって仕方ない。嬉しそうだった女性の顔。「ありがとう」と持ち上げて見せていた紙袋。吊り革を握っていない方の手で。
(アクセサリーかな?)
女性が持っていたバッグよりも小さな紙袋。それに見合ったサイズの中身。
頭に浮かぶものと言ったら、アクセサリーくらい。お菓子の箱なら、もっと大きいだろうから。
女性が一目惚れしたペンダントだとか、「どれがいい?」と二人で相談して決めたとか。
あるいは男性のセンスで選んだアクセサリー。今日のデートに行く前に買って、食事の時とかにプレゼント。「誕生日だよね」だとか、他にも記念日。
(そういうのもいいよね…)
二人で買うのも楽しそうだけれど、サプライズで貰うプレゼント。「似合いそうだ」と見付けて来てくれた何か。
素敵だよね、と思ったけれど…。
(ぼくがつけるの?)
デートに出掛けて、ハーレイに貰ったペンダントを。ブレスレットとか、そういうものでも。
二人一緒に選ぶにしても、ハーレイが買って来て「ほら」と贈ってくれるにしても…。
さっきの女性が持っていたような紙袋。それに収まりそうなサイズのアクセサリー。
(うーん…)
アクセサリーをつける趣味は無かった。
チビの自分はつけはしないし、前の自分もつけてはいない。ペンダントも、他の色々な物も。
前の自分はただの一度もつけなかったし、今の自分もつけてみたいとは思わない。
(ペンダントとか、ブレスレットとか…)
身を飾る物は何も要らない。
欲しいアクセサリーは一つだけ。アクセサリーと呼ぶよりは、むしろ…。
あれは印、と思う物。いつか左手の薬指に嵌める結婚指輪。
ハーレイとお揃いのデザインの指輪、結婚式の日に互いの指に嵌めるもの。ずっと二人、と。
(シャングリラ・リング…)
それだけだよね、と考えながら帰った二階の自分の部屋。
欲しいアクセサリーがあるとしたなら、結婚指輪で、シャングリラ・リング。
でも…。
(シャングリラ・リングは…)
何処かの店へ買いに出掛けるのとは違うらしいから、ああいう風には貰えない。バスで見掛けたカップルのように、デートの時に二人で買ったり、贈られたりは無理。
シャングリラ・リングは結婚するカップルがたった一度だけ、申し込めるという結婚指輪。遠い昔に解体された、白いシャングリラから生まれる指輪。
白い鯨があった記念に、保存されている船体の一部の金属。それがシャングリラ・リングを作る材料、毎年、決まった数の分だけ指輪が出来る。
応募者多数だったら抽選、当たれば費用は加工賃だけ。
結婚指輪を嵌めるのならば、断然、シャングリラ・リングがいい。白いシャングリラの思い出の指輪、それをハーレイと二人で嵌めたい。
けれど人気のシャングリラ・リング、まずは抽選に当たらなければ。
当たった時には、きっと送られて来るのだろう。結婚式に間に合うように。結婚式が抽選よりも先に済んでいたなら、ハーレイと二人で暮らす家へと。
(デートの時には貰えないよね…)
それに二人で買う物ではないし、ハーレイがくれる物でもない。
シャングリラ・リングが入った小さな袋を、デートの帰りに提げられはしない。
プレゼントされる物ではないから。…普通の結婚指輪にしたって、きっと事情は同じこと。
残念、と零れてしまった溜息。勉強机に頬杖をついて。
(プレゼント、持ってみたいのに…)
ハーレイと二人、楽しく出掛けたデートの帰り。街で食事や、買い物をして。
車に乗って出掛けてゆかずに、行きも帰りも路線バス。プレゼントを持つなら、バスがいい。
今日の帰りに見掛けたカップル、あの二人のようにバスに乗る。他にも乗客がいるバスに。
二人並んで座れる座席が無かったとしても、気にしない。二人で立てば済むことだから。
吊り革を握って立つにしたって、空いた席に二人で座るにしたって、きっと見て貰える紙袋。
小さな袋を提げて乗ったら、「プレゼントなんだ」と。
他の人たちも乗っているバスで、プレゼントの入った袋を提げて幸せ自慢。「貰ったんだよ」と声にしなくても、あの女性のように「ありがとう」と少し持ち上げてみせて。
(ハーレイの車でドライブするのも素敵だけれど…)
路線バスに乗って幸せ自慢もしてみたい。
買って貰ったプレゼントを提げて、デートの帰りに。席が無くても、立ちっ放しでも。
ドキドキと胸が高鳴っていたら、足も疲れはしないだろう。
早く帰ってプレゼントを二人で開けようと。袋から出して、包みを解いて、眺める中身。
とても素敵だと、今日のデートの記念にピッタリ、と。
(でも、アクセサリーは…)
二人で選んでも、困るだろうか。ハーレイが買ってくれたとしても。
欲しいアクセサリーは、シャングリラ・リングだけなのだから。前の自分も、今の自分も、身を飾りたいとは思わないから。
(…だけど、デートの帰りに持つなら…)
プレゼントの袋を提げてみたいなら、きっとアクセサリーが一番。重たくはなくて、片方の手で提げられるから。吊り革を握っていない方の手で、ヒョイと持ち上げられるから。
(誰も気付いてくれなかったら…)
今日の女性がやっていたように、「ありがとう」と持ち上げてみせる紙袋。
あんな風に提げて幸せ自慢をしてみたいのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、ぼくって、ペンダント、似合う?」
似合いそうかな、ペンダント…。アクセサリーの。
「はあ? ペンダントって…」
なんだそりゃ、と丸くなっている鳶色の瞳。「アクセサリーのペンダントだと?」と。
「そう。…ブレスレットとかでもいいけれど…」
ぼくに似合うかな、ブレスレットとか、ペンダントとか。
「お前、そういうのが欲しいのか?」
「ちょっとだけ…」
似合わないなら、諦めるけど…。ぼくには似合いそうにない…?
今のぼくじゃなくて、育ったぼく、と付け加えた。チビの自分には似合わないのだし、デートの時に買って欲しいものがアクセサリーだから。
大切なことを言い忘れていたと、其処が肝心だったっけ、と。
案の定、ハーレイは「なんだ、育ったお前のことか」と納得した風で。
「アクセサリーなあ…。まあ、男性用のもあるけどな」
お前がどういうのを想像したかは知らんが、女性用のとそっくりのもあるし、違うのもあるな。
デザインはそれこそ色々だ。同じ男性用と言っても。
「ホント!?」
男の人用のアクセサリーって、ちゃんとあるんだ…。女の人用のを買わなくっても。
「お前の年だと縁が無いしな、知らないのも無理はないだろう」
嘘は言わんが、なんだって急にアクセサリーの話になるんだ?
前のお前は、アクセサリーなんかつけてなかったが…。つけたいって話も聞いちゃいないが…。
まるで初耳だが、今のお前はアクセサリーが好きなのか?
いつかつけたいと思っているとか、お母さんがつけているのを見て欲しくなったとか…。
それとも新聞で何か読んだか?
ラッキーアイテムってヤツもあるらしいしな、幸運のシンボルをあしらったのとか。
「そうじゃなくって…」
欲しいよね、って思っただけだよ、アクセサリーじゃなくって、袋!
アクセサリー入りの袋が欲しいと思ったんだよ、買ったら入れてくれる袋が…!
今日の帰りのバスで見掛けた、と話したカップルとプレゼント入りの小さな袋のこと。
席に座らずに立っていた二人、空いた席には隣同士で座れないから。吊り革を握って立ちっ放しでも、幸せそうだった若いカップル。女性の手には、とても小さな紙袋。
あれがやりたい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、デートの帰りに二人一緒に路線バス、と。
「あの袋、絶対、アクセサリーだと思うんだよ。うんと小さい袋だったから」
このくらいだったよ、きっと中身はアクセサリーだよ。
ぼくも、ああいう紙袋を持って乗りたいよ、バスに。幸せ自慢をしてみたいもの。周りの人に。
「なんだ、そういうことだったのか」
アクセサリーは似合うかだなんて、いきなり言い出すもんだから…。
てっきりお前はアクセサリーが好きなのかと、とクックッと笑っているハーレイ。
今のお前は、つけてみたいのかと思ったぞ、と。
「笑わないでよ、ぼくは真剣なんだから!」
きっと幸せに決まってるんだよ、ああいうのって。
ホントのホントに幸せそうなカップルだったし、立ちっ放しでも幸せ一杯のまま。
だから羨ましくなっちゃって…。ぼくもやりたくなってしまって…。
ぼく、ペンダントが似合いそう?
「ペンダントか…。育ったお前なら美人なんだし、似合うだろうとは思うんだが…」
お前、そういうのは好きだったか?
さっきも訊いたが、つけてなかっただけで、前のお前はアクセサリーが欲しかったのか?
でなきゃ、お前の好みだとか。今のお前は興味があるとか…。
「欲しいと思ったことはないけど…」
シャングリラ・リングだけでいいんだけれど。…当たらなかったら、普通の結婚指輪で。
でも、ハーレイとデートするんなら…。
プレゼントが入った袋を提げて幸せ自慢、と訴えた。幸せ自慢をしてみたいよ、と。
ハーレイの車で出掛けるドライブも素敵なのだけれども、たまには二人で路線バスに乗って。
二人並んで座れる座席が無かった時には、二人で吊り革を握って立って。
「バスに乗ってる人たちにだって、見て欲しいもの…。幸せそうなカップルだよね、って」
あの紙袋にはプレゼントが入っているんだな、って見て貰えるのがいいんだよ。
ぼくも帰りのバスで見てたし、うんと幸せそうだったから…。
いつか大きくなった時には、ああいうデート。…帰りのバスではプレゼント入りの袋を提げて。
それにはアクセサリーでしょ?
吊り革を握っていない方の手で、「これ」って持ち上げられそうなのは。小さくて軽くて。
「ふうむ…。お前が見掛けたカップルの場合は、そうなんだろうが…」
俺もアクセサリーだろうと思うが、お前、勘違いをしてないか?
色々とあるぞ、プレゼントには。
アクセサリーだと決めてかからなくても、他にも色々あるもんだ。
「そうなの? だけど、紙袋…」
こんなのだったし、アクセサリーしか入らないんじゃないの?
もっと大きな袋でなくっちゃ、違うプレゼントは無理なんじゃない…?
「其処が勘違いというヤツだ。アクセサリーだと思ったばかりに、頭が固くなってるってな」
小さな袋で贈れる物も、世の中、色々あるわけで…。
チビのお前でも分かりやすい物なら、文房具の類が一番だろうな。
たとえば、ペン。
お前が俺の誕生日にくれた羽根ペンの箱はデカかったわけだが、あれが特別すぎるんだ。
普通のペンなら、もっと小さい。ペンだけ入ればいいんだから。
現に、俺が使っているペンが入っていた箱、あれよりもずっと小さいヤツだったしな。
こいつだ、とハーレイがポケットから取り出した、瑠璃色のペン。
人工のラピスラズリだと聞いた、金色の粒が幾つも不規則に散っているそれ。宇宙のようだ、と一目惚れして、ハーレイが買った。教師になって直ぐに、記憶が戻るよりもずっと昔に。
なのに、ペンにはナスカの星座が隠れていた。鏤められた金色の粒の中の七つが描き出す星座。赤いナスカで種まきの季節に昇ったという、七つの星たち。
ハーレイはペンをチョンとつついて、「このくらいだっけな」と手で形を作った。
「箱に仕舞おうってことはないから、箱の方が仕舞いっ放しなんだが…」
これが入ってた箱は、こんなモンだぞ。
箱がこうだから、入れてくれた袋も小さかった。そっちのサイズは忘れちまったが…。
「ペンダントの箱くらいだね…」
ママの部屋に行ったら、たまに見掛けるペンダントの箱。
小さい箱に入っている物、アクセサリーだけじゃないんだね…。
「そうだろ? ペンなら、この程度ってな」
羽根ペンの箱が例外なんだ。羽根ペン自体がデカイもんだし、インク壺とかもつくからな。
だから、小さなプレゼントの箱が欲しいと言うなら、ペンはけっこうお勧めだ。
お前にも似合いのペンが見付かるかもしれないぞ。俺と一緒に文房具の店に出掛けたら。
ペンというのもいいよな、うん。
それに腕時計が入ってる箱も、小さい箱だと思わないか?
小さい箱入りのプレゼントってヤツは、探せばいくらでも見付かるわけだ。
探そうというつもりがなくても、偶然、バッタリ出会っちまうこともあるだろう。
それこそデートの醍醐味だってな、お前と二人で見付けて、選んで、俺がその場でプレゼント。
包んで貰って、袋つきだ。お前の憧れになっているらしい、幸せ自慢が出来る紙袋。
大きな袋でもかまわないなら、服だって、とハーレイが挙げるプレゼント。
贈れる物なら幾らでもあるぞと、デートに出掛けて買ってやれる物、と。
「店は山ほどあるからなあ…。売られている物も山ほどだろうが」
小さな袋に入る物から、デカイ袋が出て来る物まで。
プレゼントする物に合わせて袋のサイズも変わるってわけだ、大きかったり、小さかったり。
「そうなるね…。だったら、ぼくがデートで貰ったプレゼント…」
大きい袋を提げてバスに乗ったら、もっと幸せ自慢が出来るかな…。
こんなに大きなプレゼントの袋を貰ったよ、って。
「それはかまわないが、欲張りすぎると、お前、自分で持てないぞ?」
重たすぎるとか、袋がやたらデカすぎるとか…。提げるには邪魔になっちまって。
お前が貰ったプレゼントなのに、お前の代わりに俺が持つことになるとかな。
それじゃ幸せ自慢が出来んぞ、見ている人には持ち主が誰か謎なんだから。俺が持ってちゃ。
舌切り雀の話があるだろ、大きい葛籠と小さな葛籠。
デカけりゃいいってモンでもないから、その辺の所は気を付けてくれよ?
「プレゼント…。買ってはくれるの?」
いつかハーレイとデートに行ったら、大きい物でも、小さい物でも。
アクセサリーじゃなくっても。…ペンとか服とか、腕時計でも。
「もちろんだ。お前が欲しい物があるなら、俺の予算の範囲内でな」
べらぼうに高いのは買ってやれんが、お前、そういう高いのを欲しがるタイプじゃないし…。
きっと大丈夫だろうと思うぞ、俺の財布の方だったら。
何かあるのか、欲しい物が?
今から目星を付けたいくらいに、これだと思うプレゼントが。
「どうだろう…?」
デートに行ったら、買って欲しいと思ったけれど…。
買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、幸せ自慢がしたかったけど…。
欲しい物はあるか、と改めてハーレイに尋ねられたら、出て来ない答え。「これが欲しい」と。
アクセサリーは欲しくない。シャングリラ・リングか、結婚指輪があれば充分。
(ホントに思い込んじゃってたから…)
デートに出掛けたらプレゼントはこれ、と思い込んだから、アクセサリーだと考えただけ。
ペンダントは自分に似合うだろうかと、ブレスレットでもいいんだけれど、と。
男性用のアクセサリーがあると聞いても、少しも弾まない心。欲しいだなんて思わない。
(…どんなのがあるの、って思いもしないし…)
きっと店にも行かないだろう。ハーレイとデートに出掛けたとしても、男性用のアクセサリーを扱う店なんかには。
(前を通って、ハーレイが「前にお前に話したヤツだぞ」って言ったって…)
入ってみるか、と訊かれたとしても、「ううん」と首を横に振りそう。
話の種にと入ってみたって、買わずに出て来ることだろう。欲しいと思っていないのだから。
(ペンも、腕時計も…)
チビの自分には、今、持っている物が似合いの品。大きくなったら欲しいと思う物が無い。
服だって、まるで思い付かない。自分で買いには出掛けないから。
(欲しい物、なんにも出て来ないよ…)
考えてみても、何一つとして。
あんなに「いいな」と憧れたのに、思い付かない袋の中身。
ハーレイと二人でデートに出掛けて、帰りに提げる紙袋。プレゼント入りの袋の中に、いったい何を入れたいのかが。
欲しい物はきっと、プレゼント入りの袋だけ。貰ったんだ、と幸せが心に満ちて来る袋。
それを見て欲しいと、路線バスに乗りたくなる袋。
ハーレイと並んで座れる座席が、一つも空いていなくても。二人で立ちっ放しになっても。
欲しい物なんか何も無い。ただ幸せなデートがしたい。
ハーレイに買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、幸せ一杯の帰り道。路線バスに二人で乗り込んで。並んで座れる席が無ければ、吊り革を握って、二人で立って。
「…欲しい物、今は無いみたい…」
アクセサリーは要らないし…。腕時計もペンも、服とかだって…。
袋が欲しいだけだったみたい、帰りのバスで幸せ自慢が出来るから。貰ったんだよ、って。
「そう来たか…。要はプレゼントが入った袋が欲しい、と」
俺に貰ったプレゼントの袋。小さい袋でも、大きいのでも。
それなら、中身のプレゼントだが…。
選ぶ所から俺と二人でやるのか、俺が一人で決めてプレゼントか、どっちがいい?
店に入って、お前が迷って、俺が「これなんかどうだ?」と言ったりして決めるプレゼント。
そういうのも出来るし、俺が勝手に「これがいいな」と買って来ちまうことだって出来る。
そっちだったら、お前はデートの時に受け取るだけだ。
とっくに結婚していたとしても、隠し方は幾つもあるってわけで…。デートの途中で、いきなり袋が出て来るわけだな、俺が持ってた荷物の中から。「プレゼントだ」と。
そのやり方だと、小さな袋になっちまうがなあ、隠せるサイズの。
お前、どっちが欲しいんだ?
俺と二人で選ぶプレゼントか、俺が決めちまったプレゼントか。
「…どっちだろう…?」
ハーレイと二人でお店で選ぶか、ハーレイが選んだのを貰うかだよね?
選びに行くなら、何を貰えるかは分かるけど…。ハーレイが選んで来るんだったら、貰った袋の中身が何かは、開けてみるまで謎なんだよね…?
どっちがいいんだ、と尋ねられても、それだって悩む。
プレゼントは何かとドキドキしながら開けるのもいいし、二人で選ぶのも楽しそうだから。袋の中身が決まっているのも、自分で決めるのも素敵だから。
「…それも、とっても悩むんだけど…」
ハーレイが選んでくれたのもいいし、二人で選ぶのもいいし…。
欲しい物が何か決まってないから、ぼくの好みが無いんだもの。これがいいな、って思う物が。
「要は決まっていないんだな?」
アクセサリーだなんて言い出したくせに、本当に欲しいプレゼントは。
自分で選ぶか、俺に任せるかも、それさえ選べやしない状態、と。
お前が欲しいプレゼントってヤツは、今の時点じゃ、プレゼント入りの袋だけらしいな。
さっきお前が言ってた通りに、デートの帰りに提げて歩ける袋さえあれば大満足、と。
「そうみたい…」
もちろん中身は入っていないと困るけど…。空っぽの袋じゃ駄目なんだけど。
何を袋に入れたいんだ、って訊かれても思い付かないよ。
多分、ホントに何でも良くって、提げて帰れたらそれで幸せ。
ハーレイと二人でバスに乗れたら、バスに乗ってる人たちに袋を見て貰えたら…。
中身さえあれば、プレゼントは何でもいいんだけれど、と困り顔をするしか無いけれど。
欲しいプレゼントも、自分で選ぶかどうかも決められないのだけれど。
ハーレイは「欲の無いヤツだな」と微笑んだ。「しかし、如何にもお前らしい」と。
「前のお前もそうだったが…。欲が無いんだ、お前はな」
だったら、俺からのプレゼントは、だ…。お楽しみに取っておくといい。
お前が何か思い付くまで。これが欲しい、と言える時まで。
「え…?」
取っておくって、どういうことなの?
ぼくはプレゼントを決められなくって、中身がちゃんと入っているなら、袋だけでいいのに…。
「それじゃ、お前もつまらんだろうが。俺だって張り合いが全く無いぞ」
何でもいいから袋に入ったプレゼントをくれ、と言われても…。
どうせ、俺とデートが出来るようになるまで、そういうプレゼントは贈れないからな。
食ったら消えて無くなる菓子とか、そんな物しか渡してやれないんだし…。
その分、きちんと取っておくんだ、俺への貸しで。
そうしておいたら、初めてのデートの時かどうかはともかく、欲しい物が出来たら買ってやる。
二人で選ぶか、俺が勝手に選んで買うかも、お前の自由で。
お前の好きにするといい。
「こんなのが欲しい」と強請るのもいいし、俺を連れて店に行くのもいいし。
「…いいの?」
ぼく、欲張りで、うんと我儘かもしれないよ…?
今は何にも決まってないけど、欲しい物が出来たらうるさいかも…。
ハーレイに選んで貰うどころか、お店を幾つも端から回って、決めるまでに時間がかかるかも。
もう一軒、ってあちこち引っ張り回して、最後の最後に、最初のお店がいいって言うとか…。
欲張りで我儘で、自分勝手な買い物かも、と心配になった未来の自分。
前の自分には出来なかったことが多すぎたから、その分、今度は我儘かも、と。
ミュウの未来は背負っていないし、ソルジャーでもない幸せ一杯の普通の子供。それが育てば、前の自分とは比較にならない、我儘な自分が出来上がるかも、と。
「…我儘な買い物でもいいの、ハーレイ?」
ぼくの気に入る物が見付かるまで、無駄にあちこち歩き回っても…?
それで勝手にくたびれちゃって、休憩しよう、って騒いでばかりのデートでも…?
「当然だろうが、デートってヤツはそういうもんだ」
我儘な恋人に振り回されて、荷物を持てとか、疲れただとか。
それに付き合えるのも楽しみの内だ、お前と二人で思う存分、デートなんだから。
プレゼントを決めるのに散々迷って、決まったら、そいつを俺に買わせて…。
ついでに帰りはバスに乗るんだな、そのプレゼントが入った袋を見せびらかすために?
「そう! デートの帰りは幸せ自慢!」
デートで買って貰ったんだよ、ってバスの中で自慢しなくっちゃ。
大きな袋でも、小さな袋でも、ぼくが自分で提げるから。
ぼくが持たなきゃ、幸せ自慢にならないもの。ぼくの袋だ、って気付いて貰えないから。
「よしよし、あちこち歩き回って買い物なんだな」
お前がバスで帰れるだけの元気、残しておかんといけないし…。
疲れすぎないように見張るのも俺の役目だな。歩きすぎだぞ、と注意をして。
お前が「疲れちゃった」と言い出す前に、その辺の喫茶店とかに入って休ませる、と。
そっちの方も任せておけ、とハーレイはパチンと片目を瞑ってくれたから。
帰りに乗るバスは、二人並んで座れる座席が空いているといいな、と言ってくれるから…。
「んーと…。ぼくは、立っている方が幸せかな?」
空いている席があるより、そっちの方。ハーレイと二人で立って乗る方。
「何故だ? 座れる方が幸せだろうが」
お前、歩き回って疲れてるんだし、空いている席がある方が…。
俺と二人で座れる方が断然いいだろ、楽なんだから。
「足は楽かもしれないけれど…。立つ方がいいよ、吊り革を持って」
だって、その方が、プレゼントの袋を持っているのが目立つから…。
座っている人にも、立ってる人にも、提げてる袋を見て貰えるでしょ?
沢山の人に幸せ自慢が出来るよ、立っている方が。
その方が絶対、ぼくは幸せ。
「おいおい、無理はするなよ、お前」
散々歩き回って疲れてるのに、帰りのバスでも立ちたいだなんて…。
我儘ってヤツにも程があるだろ、俺はお前と並べなくても、お前を絶対、座らせるからな…!
混んでいたって、誰かに頼んで空けて貰って座らせる、とハーレイは苦い顔だけど。
それが無理なら、バスは諦めてタクシーだ、と眉間に皺まで寄せているけれど。
足がすっかり疲れていたって、プレゼント入りの袋を提げて、ハーレイと二人で立っていたい。
デートの帰りに、「ぼくのだよ」と見せて、幸せ自慢をしたいから。
座ってしまって膝の上の袋が見えにくくなるより、大勢の人に見せて自慢をしたいから。
ハーレイと二人、デートに出掛けて、買って貰ったプレゼント。
それが入った袋さえあれば、きっと幸せ一杯だから…。
提げたい袋・了
※ブルーがバスで見かけたカップル。女性が幸せそうに持っていたのは、小さな紙袋。
そういう袋を、いつか提げられる日が来るのです。ハーレイから貰ったプレゼント入りの…。
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(あれ…?)
学校の帰り、ブルーが見付けた女の子。家から近いバス停で降りて、住宅街を歩いていた時。
下の学校の子で、まだ小さい子。一枚の紙を手にして、それを見詰めては周りをキョロキョロ。少し進んでは、止まったりして。
(道、分からなくなっちゃったんだ…)
地図を見ながら来ているのだし、迷子という歳でもなさそうだけれど。どうにもならないらしい行き先、きっと目的地の欠片も見えていないから…。
「どうしたの?」
何処へ行くの、と声を掛けたら、紙から顔を上げた女の子。ホッとした色を浮かべた瞳。
「友達の家、分からないの…」
遊びに来てね、って地図をくれたんだけど…。遊ぶ約束、したんだけれど…。
「えっと…。その地図、見せてくれるかな?」
ぼくも見ないと分からないしね。行き先が何処か、どう行けばいいか。
「うんっ! はい、これ」
分かるかしら、と差し出された紙。子供らしいタッチで描かれた地図。道らしき線や、大まかな目印、けれど木の絵を描かれても困る。木は何処にでもあるんだから、と見ていたら。
「あのね…」と女の子が指差した木の絵。「この木、公園なんだって」と。
「ふうん…?」
公園といえば…、と心当たりの場所が幾つか。広い公園もあるし、小さいのも。地図に描かれた道の具合や、木の絵のマークと頭の中で順に重ねていって…。
あれだ、と思い浮かんだ公園。下の学校の頃に、友達と何度も遊びに出掛けた。それほど広くはないのだけれども、子供の目には立派な公園。大きな木だって確かにあった。目立つ所に。
解けた、と思った地図の謎。けれど、口では説明出来ない。こんな小さな子供では。大ざっぱな地図しか無いのでは。
「分かったよ。君の友達の家は、こっちの方」
おいで、と笑顔で屈み込んだ。「ぼくと行こう」と。
「連れてってくれるの?」
お兄ちゃん、学校の帰りなのに…。お友達と遊びに行かなくていいの?
「平気だよ。今日は約束、していないから。それに…」
また迷っちゃうよ、この地図だと。描き直すよりも、案内した方が早いから。
ぼくと行こう、と歩き始めた。微笑ましい地図に目を落としながら。
(…これじゃ、絶対、迷うんだから…)
公園までの道もそうだし、その先の道も大いに問題。住宅街の中にありがちな行き止まりの道、それまで自由に通り抜けられるように描いてあるから。
(子供だったら、通れちゃうこと、あるもんね…)
顔馴染みのご近所さんの家なら、庭の端などを遠慮なく。生垣と生垣の間の狭い溝でも、子供の目には道に映るから。
こうなるだろうな、と自分の経験からも分かる、子供らしいミス。
自分が地図を描いて渡すなら、頭の中では道になる場所。逆に自分が貰った時には、どうしても見付けられない道。知らない場所では、家は巨大な壁だから。間に溝が挟まっていても。
小さかった頃を思い出しながら、お喋りしながら歩いて行った。女の子が通う下の学校は、前に自分がいた学校。春に卒業するまでは。
先生のことや、学校の花壇や、幾つでもある共通の話題。相手が小さな女の子でも。
二人で地図を頼りに歩いて、例の公園の側も通って…。
「はい、ここ」
この家なんだと思うけど…。公園が此処で、道がこうだから。
「ホントだ、お兄ちゃん、ありがとう!」
此処、と女の子の顔が輝いた。表のポストに書いてある名前、それが友達のものらしい。地図を渡して招待した子の。
女の子が横のチャイムを押したら、中から出て来た同い年だろう女の子。「いらっしゃい!」と庭を駆けて来るから、「良かったね」と微笑み掛けて手を振った。
「じゃあね、楽しく遊んでね」
「お兄ちゃんも気を付けて帰ってね!」
地図はいいの、と訊いてくれるから、「大丈夫だよ」と頷いた。この辺りでもよく遊んだから、地図が無くても家に帰れる。
女の子たちに何度も手を振りながら角を曲がって、目指した公園。さっきの地図では一本の木になっていたんだっけ、と。
(木だけだったら、どの公園にもあるものね…)
あの女の子が別の公園を見付けていたなら、もっと困ったことだろう。公園はあるのに、繋がる道が違うから。地図に描かれた通りの道は、其処から続いていないから。
(ぼくでも悩んじゃったもの…)
地図を貰っても帰れないよね、と公園の側を通って、家の方へ続く道に入った。此処からだと、家はこっちの方、と。近道するならこの先を…、と考えながら。
家に帰るのは少しだけ遅くなったけれども、してあげられた道案内。友達の家に行く女の子。
今頃はきっと、仲良く遊んでいるだろう。おやつを食べているかもしれない。自分が母の焼いたケーキを、口に運んでいるように。
(良かったよね…)
ぼくが上手い具合に通り掛かって、と嬉しくなった。女の子の役に立てたから。
(あのくらいの年の子供って…)
大人には声を掛けにくいもの。どんなに道に迷っていたって、生垣の向こうの大人には。
自分が顔を知らない人には、自分からは声を掛けられない。忙しそうだ、と遠慮してしまって。趣味の庭仕事と、仕事の区別もつかないで。
あの時間だと、散歩している大人の数は少なめ。もしも自分と出会わなかったら…。
(今も何処かで迷ってたかも…)
目的地を見付けられないで。「公園はあるけど、地図にある道が何処にも無い」とか、「途中で道が消えちゃった」だとか。
そうならなくてホントに良かった、と食べ終えたおやつ。
あの子たちもケーキを食べたかな、などと考えながら。クッキーとかホットケーキとか、と。
二階の自分の部屋に戻って、窓から眺めた公園の方。女の子を案内して行った家も、目印だった公園の木も、此処からはまるで見えないけれど。
(何をして遊んでいるのかな?)
仲良しの二人の女の子。道に迷った子も、帰り道はもう迷わないだろう。大人がきちんと地図を描いてくれたら、自分で歩いて帰ってゆける。行き止まりの道や、謎の公園は消え失せるから。
それに、あの家の人が送って行くかもしれないし…。
遅くなったから、と車を出して。二人がたっぷり遊んだ後で。
(チビのぼくでも、役に立てたよ)
相手は小さな子供だけれども、充分に役に立てたと思う。
謎解きみたいな地図を読み解いて、目的地まで案内したのだから。こっちだよ、と一緒に歩いて案内。自分の家とは違う方まで。
大人の人が相手だったら、遥かに分かりやすいだろう地図。見せて貰って道が分かれば、指差すだけでも大丈夫なのに。
地図を示して「今は此処です」と教えた後には、「この先を右に曲がるんです」とか。
けれど、さっきの女の子。
謎の地図を頼りに歩いている子は、そうはいかない。案内しないと迷うだけだし、通り掛かって本当に良かった。チビの自分でも。
十四歳にしかならないチビでも、自分だってまだ子供でも。
そういったことを考えていたら、チャイムの音。ハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで紅茶のカップを傾けながら、帰り道の話。
「ねえ、子供って面白いね」
ぼくも子供だけど、もっと小さい下の学校の子供。
「はあ?」
面白いって、何かあったのか?
何が、と鳶色の瞳が瞬く。「下の学校、寄って来たのか?」と。
「違うよ、女の子に会っただけ。…バス停から家まで歩く途中で」
道案内をしていたんだよ。友達の家に遊びに行こうとしていた子の。
「ほう…?」
そいつが面白かったのか?
道案内の途中で聞いた話だとか、その子が何かやらかしたとか。
「ううん、面白かったのは地図。友達に描いて貰った地図をね、見ながら歩いてたんだけど…」
子供が描いた地図だったから、ぼくが見たって、まるで謎々。
行き止まりの道が通り抜けられるように描いてあるとか、公園に木が一本だけとか。
もっと育った子供だったら、ああいう地図は描かないよね、って…。
とっても頭を使っちゃったよ、道案内を始める前に。この地図はどう読むんだろう、って。
「なるほどなあ…。謎解きまでして、道案内か」
お前らしいな。うん、前のお前もそうだった。道案内、得意だったしな。
「え…?」
道案内って…。ぼくが?
前のぼく、道案内なんか…。そんなの、別に得意なんかじゃ…。
なんで、と捻ってしまった首。ハーレイは何を言い出すのだろう、と。
前の自分は道案内などしていない。案内する人もいなかった。
いくらシャングリラが巨大な船でも、ソルジャーだった自分は誰も案内しない。シャングリラの中で誰かを案内するなら、それはキャプテンだったハーレイの役目。
もっとも、ハーレイ自身が出てゆくことは少なかったけれど。適任の者に「頼む」と出す指示、それに応じて係が動いた。
船に迎え入れられた子供たちなら、ヒルマンや養育部門の者たち。新しい部署に配属されてゆく者だったら、其処に詳しい仲間たちなど。
案内係は揃っていたから、前の自分はハーレイを従えて歩いていただけ。
(ソルジャーに道を訊こうって人も…)
いるわけがなかったシャングリラ。迷うような子供は一人で歩いていなかったのだし、大人なら迷うことがない。迷いそうな場所なら、まず間違いなく案内係が一緒だから。
(慣れてない人が機関部とかに迷い込んだら大変だしね?)
それに迷っても思念波があった。今の時代は使わないのがマナーだけれども、前の自分が生きた時代は使うのが普通。船の中で迷ってしまったのなら、「何処だろう?」と飛ばせば良かった。
そういう思念が飛んで来たなら、近くの仲間が拾ってくれる。もちろん道も教えてくれる。
思念波という便利な手段を持っていたから、迷っている最中に前の自分が通り掛かっても…。
(訊かないよね?)
雲の上の人にも等しいソルジャー。
エラたちがそう教えていたから、道を訊くなど、とんでもないこと。まして道案内など、頼みはしない。ソルジャーに案内させたりはしない。
(アルタミラを脱出してから、直ぐの頃でも…)
誰にも道は訊かれていない。チビだった上に、ハーレイの後ろをついて歩いたり、ブラウたちと散歩に出掛けていたのが自分だから。
道を尋ねたい仲間がいたなら、ハーレイたちに訊いただろう。チビの子供に尋ねなくても、側に大人がいたのだから。
どう考えても、していそうにない道案内。得意どころか、ただの一度もしていないと思う。
だから、ハーレイにぶつけた疑問。
「前のぼく、道案内は一度もしてないよ?」
忘れたわけでもないと思うけど…。一度もやったことなんか無いと思うんだけど。
道案内をしたことが無いのに、得意だったって、変じゃない?
ハーレイ、誰かと間違えていないの、道案内が得意だった誰かと混ざっちゃったとか。
「お前なあ…。俺がお前を誰かとごっちゃにすると思うのか、よく考えろよ?」
恋人同士じゃなかった頃から、俺の大切な友達だ。一番古くて、大事な友達。
他の誰かと混ざりはしないし、間違えることもないってな。俺の特別だったんだから。
「だけど、道案内…。そんなの一度も…」
「俺の先導、していただろうが」
キャプテンになって直ぐに始めた、操舵の練習。
シミュレーターでの訓練が済んだら、お前が案内してくれたんだ。何処を飛ぶかを。
俺はお前を追えば良かった、シャングリラで。舵を握って、とにかく前へと。
「あれは道案内とは言わないと思う…」
変な所ばかりを選んでたんだし、道に迷わせてるみたいなものだよ。
ちゃんと真っ直ぐな道があるのに、其処から外れて回り道だとか、行き止まりの道に入るとか。
だってそうでしょ、シャングリラは酷く揺れてしまって、ゼルたちが「死ぬかと思った」なんて言ってたほどだもの。
道案内なら、ぼくは真っ直ぐ飛ばなくちゃ。「こっちだよ」って、迷わないように。
船が揺れない道を探して、そっちへ飛んで行かないとね。
前の自分がハーレイを案内して行った先。シャングリラを飛んで行かせた航路。
小惑星が無数に散らばる場所やら、重力場が歪んでいた空間やら。熟練の者でも飛びにくい所、そういう場所で操船させた。船が壊れてしまわないよう、シールドで包んで守っておいて。
「…ハーレイが練習しやすいように、って選んでた進路だったけど…」
船のみんなには酷い迷惑で、ハーレイにだって迷惑だったと思う…。
ちょっとやりすぎてしまったくらいに、スパルタ教育だったもの。
少しずつハードルを上げるんじゃなくて、いきなり高いハードルを飛ばせていたんだから。
「そうか? 充分に役立つ道案内だったと思うがな?」
ゼルやブラウの心臓までは面倒見切れんが…。あいつらにとっては、最悪だっただろうが…。
しかしだ、俺にとっては違った。最高の道案内というヤツだ。
お蔭で俺は操舵を覚えて、あのシャングリラを動かせるようになったんだから。誰よりも上手く操れるように、どんな航路でも飛んでゆけるように。
白い鯨になった後にも、いろんな所を飛んで行けたさ。あの時のお前のお蔭でな。
何度もお前に話してやったろ、三連恒星の重力の干渉点からワープしたヤツ。
あんな判断が出来た理由も、今から思えば、お前のスパルタ教育の成果だろう。どんな時でも、冷静にやれば道は見えると、お前が教えてくれたんだからな。
とんでもない所ばかりを飛ばせて、「こう飛べ」と。俺が新米だった時から。
それにだ…。
お前が皆を導いてたろ、と鳶色の瞳で見詰められた。船だけではなくて仲間たちを、と。
「どう進むべきか、前のお前が導いてたんだ。あの船に乗ってた仲間たちをな」
自給自足の船になった後も、その前も。…お前がソルジャーになってからは、ずっと。
「それは違うよ、ソルジャーは確かにぼくだったけど…」
ぼくの名前で出した通達も多かったけれど、一人で決めてなんかはいないよ。大切なことは。
アルテメシアから逃げる時には、ぼくが一人で決めたけれども…。非常事態だから、話は別。
普段は何でも会議だったよ、ヒルマンたちを集めて決めていたでしょ?
「その結果を皆が認めてくれたのは何故だ?」
「えーっと…?」
何故って訊かれても、どういう意味なの?
ソルジャーの名前で出した通達は、従うのが船のルールだったよ。会議で決まったことだもの。
「其処だ、そいつが重要なんだ」
会議で決めて、それを信じて貰えた理由。誰も文句を言ったりしないで、船のルールだから、と従ってくれた理由だな。
不平や不満が出なかった理由は、お前だろうが。…お前がソルジャーだったからこそだ。
「前のぼくは何も…」
してはいないよ、演説とかも。こう決めたから、っていうのもエラたちが伝えていたし…。
船のことなら、前のハーレイがキャプテンとして発表していたんだし。
「それはそうだが、皆が見ていたものはお前だ」
いざとなったら、お前がいる。桁外れに強大なサイオンを持ったソルジャーが。
どんな目に遭おうが、お前が何とかしてくれる、と皆は信じていたわけだ。
物資や食料を奪って来たのは前のお前だし、それを頼りに生きてた頃からソルジャーなんだ。
お前がいれば何とかなる、と皆が思ったから、ルールも守ってくれたんだな。
そうじゃないのか、白い鯨になるよりも前から、お前は船も、仲間たちも案内してたんだ。
こっちへ行こうと、次はこっちだ、と。
雲海の星、アルテメシアに辿り着くよりも前のこと。漆黒の宇宙を旅していた頃。
青い地球は憧れだったけれども、地球の座標は掴めなかった。目標とする座標も何も無かった。
ミュウを受け入れてくれる星は無いから、何処へも行けない。降りられはしない。
その日任せの宇宙の旅。
障害物などを避けて飛ぶだけ、そういう航路。
けれど、必要な物資や食料の補給。それが無ければ生きてゆけない。
前の自分は、一人で皆を生かし続けた。食料も物資も、他の者には奪えないから。武装した船は持っていなくて、誰も出掛けてゆけなかったから。
「いいか、シャングリラの改造だって…。お前が決めたも同然なんだぞ」
改造しようという話ならあった。アイデアだけなら、誰にでも出せた。理想だってな。
しかし、そいつを実行に移すとなったら別だ。理想だけではどうにもならん。
お前がいなけりゃ、誰も決心出来ていないぞ。
改造中の船をどうするんだ、っていう大問題があったんだから。
修理しながら飛ぶのと違って、まるで無防備になっちまう。…改造する場所によってはな。
「そうだっけね…」
メイン・エンジンを止めてしまったら、船を急には動かせないし…。
ワープドライブの改造中なら、人類軍がやって来たって、ワープするのは無理なんだから…。
船の改造には伴う危険。もしも人類に見付かったならば、全てが終わってしまいかねない。船を動かして逃げる手段が、使えない段階だったなら。
そうは思っても、人類から奪った船のままでは限界があった。元は輸送船だった船だけに、武装してはいない。そのための設備も搭載出来ない。
サイオンの力で船を守るためのシールドやステルス・デバイス、それも現状では搭載不可能。
武装し、シールドとステルス・デバイスを備えられたら、戦える船が手に入るのに。
逃げることしか出来ない船から、一歩前進出来るのに。
船の改造が上手くいったら、自給自足も可能になる。人類の船から奪わなくても、食料も物資も賄える船。そういう船が出来上がったら、何処へでも旅を続けてゆける。
輸送船など飛んでいそうにない、どんな辺境星域へも。
地球を探しての流離いの旅も、この船一つで出掛けてゆける。補給の心配が要らないのだから。
欲しい船なら、もう見えていた。造れることも分かっていた。
そのために改造している間に、船が発見されなかったら。人類の目から逃れられたら。
けれど、何処にでも出没するのが人類の船。輸送船だったり、客船だったり、軍の船だったり。
いきなりワープアウトサインが確認されることも多くて、予見は出来ない。
ワープ自体は充分な距離を保ってするものだから、今までは逃げれば見付からなかった。人類の船のレーダーに映ったとしても、ほんの一瞬。
艦種を識別されるよりも前に離脱したなら、「何かの船」で済むことだから。同じ人類の船だと思って、わざわざ追っては来なかったから。
その手が全く使えないのが改造中。船を何処へも動かせない時。
あれは何か、と人類が確認にやって来たなら、正体を知られてしまうだろう。アルタミラと共に消えた筈の船、コンスティテューションだと特定されてしまったら。
それを動かし、飛び立った者がいるとしたなら、ミュウの他には無いのだから。
直ちに呼ばれるだろう援軍、あるいは人類軍の艦隊。
たった一隻でも、ミュウの船には違いないから。
マザー・システムが存在を知ったら、今度こそ消しにかかるだろうから。
(…人類軍に見付かったって…)
改造後の船なら戦える。一大艦隊を前にしたって、ワープする時間を稼ぐ程度には。
だから誰もが欲しかった船。造りたいと夢を描いていた船。
人類の船に発見されずに、無事に改造出来るなら。そうすることが可能だったら。
それが必要だと考える時期が、来ていた船がシャングリラ。同じシャングリラでも違う船。
白い鯨になるだろう船、ミュウの箱舟とも呼べる船。その船が要ると、造らなければと。
(前のぼくにも分かってたから…)
船はぼくが守る、と仲間たちの前で宣言した。改造するなら、守り抜こうと。
決して人類には見付からないよう、全力を尽くして隠し、守るからと。
発見されない保証があるなら、誰も反対したりはしない。誰もが欲しい船なのだから。夢の船が本当に手に入るのなら、危険が伴わないのなら。
そして取り掛かった船の改造。誰にも反対されることなく。
元の船からは想像もつかない巨大な船が完成するまで、前の自分は一人きりで船を守り続けた。
人類の船が近付いた時は、シールドを張って船を隠して。
惑星上での改造中とか、自力で航行不可能な時。そういう時には、たった一人で。
船を完全に隠してしまえるステルス・デバイス、それは船体が完成するまで搭載出来ない。船を守るための役には立たない。
だから、白いシャングリラが出来上がるまでは、本当に一人で守った船。
誰の助けも借りることなく、借りたくても誰の助けも無いまま。
タイプ・ブルーは一人だけしかいなかったから。他の者では、手伝うことさえ出来ないから。
全部お前の力だった、とハーレイの鳶色の瞳の色が深くなる。「お前が皆を導いたんだ」と。
「お前がいなけりゃ、白い鯨は出来てない。…どんなに皆が欲しがってもな」
安全に改造出来る方法が無けりゃ、誰も賛成しやしない。命の方が大切だからな、夢の船より。
お前が守ると言ってくれたから、皆、安心して取り掛かれた。
同じ造るならこういう船だ、とアイデアだって山ほど出せたんだ。こうしたい、とな。
白い鯨はそうして出来たが、あの船でなけりゃ、アルテメシアにも行けていないぞ。
つまり、ジョミーも見付けられないということだ。…あの星で助けたミュウの子供たちも。
「そうだね…」
若い世代が育ちはしないし、ジョミーも見付けられないし…。
前のぼくたちの代で旅は終わりで、そのまま宇宙に消えていたかも…。
「そうだろうが。前のお前の寿命が尽きたら、俺たちの旅も其処で終わりだ」
もう食料を奪えはしないし、飢えて死ぬしかないってな。
アルタミラからの脱出直後にそうなりかけたが、前のお前が助けてくれた。
しかし、お前がいなくなったら、もう食料は何処からも来ない。みんな揃って飢え死にだ。
自給自足の船でもないから、そうなるより他に道は無い。
何もかもが全て終わっていたんだ、あの船が無けりゃ。…アルテメシアに行ける白い鯨が。
ハーレイの言葉が示す通りに、元の船ではアルテメシアに潜むことさえ出来なかった。
輸送船だった船は、大気圏内を長く航行するには不向き。行きたいと夢見た地球であっても。
改造案には、その点も漏らさず盛り込まれた。大気圏内を飛べる船にしようと。
けれども、いくら案があっても、本当に改造を始めるためには、船の安全の確保が必要。人類に発見されてしまえば、其処でおしまいなのだから。
「全部お前が決めていたんだ、結局はな」
船の改造の時にしたって、お前が守ると宣言したから、やろうと決まった。
お前があれを言わなかったら、誰も改造しちゃいない。元の船のままだ、最後までな。
これじゃ駄目だと分かっていたって、いつか全てが終わっちまうんだと気付いてたって。
「そうなるの…?」
ぼくが決めたってことになってしまうの、シャングリラを改造するってこと。
改造する間は守るから、って言っただけなのに…。改造しようとは言ってないのに。
みんなが会議で決めたことだよ、船を改造することは。
「会議でも何でも、お前が何も言い出さなくてもだ」
決めて導いていたんだ、お前が。
自分じゃ気付いていなかったとしても、俺たちも、俺たちが乗っていた船も。
お前だったから出来た道案内だ、と言われたけれど。「道案内、得意だっただろ?」とも言って貰ったけれども、前の自分は辿り着いていない。皆で目指そうとしていた地球には。
アルテメシアの雲海に隠れて、其処から追われて飛び立っただけ。地球の座標も掴めないまま。
だから…。
「途中までなら、案内したかもしれないけれど…」
だけど、地球には行けなかったよ?
前のぼくは道案内を途中で放り出しちゃって、最後まで出来ていないから…。
道案内をしたとは言えないよ。「この先は他の人に訊いてね」って、道端に置き去りにするのと同じ。今日の女の子を公園の側に一人で置いてくるとか、そんな感じで。
「それは違うぞ。お前は道案内を投げ出しちゃいない」
地球に行けたジョミーは誰が見付けた?
誰が船まで連れて来たんだ、お前の跡を継いだソルジャー・シンを?
お前だ、とハーレイの瞳が真っ直ぐ向けられる。
いつもお前が導いていた、と。
きっと地球まで、と。
「でも、前のぼくは…」
本当に途中で死んじゃったんだよ、地球なんか見えもしない間に。
地球を見たかった、って思ったくらいに、地球が夢の星でしかなかった頃に。
「死んじまっても、それでもだ」
メギドを沈めて守っただろうが、俺たちを。お前はシャングリラを最後まで守ってくれたんだ。
お前が守ってくれなかったら、あそこで旅は終わっていた。飢え死にじゃなくて、メギドの炎に焼かれちまって。
それに、お前が地球を目指していたから、ジョミーも地球に向かったってな。地球に行かないとミュウの未来は開けやしない、と気付いたからだ。
お前は道案内を放り出したんじゃない。道案内の途中で歩けなくなって、目的地までの行き方を説明しただけだ。この先の道をこう行って、とな。
そうやって教えて貰った道。そいつをジョミーが歩いて行った。俺たちを連れて。
時には悩んで、「どうだったっけ?」と思い出しながら、自分の頭で右か左かと考えながら。
お前が教えた道順がちゃんと合っていたから、俺たちは地球に着けたんだ。
今の時代も言うだろうが。
学校の入学式の時には、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と。
学校に通って勉強出来るのも、青い地球があるのも、前のお前のお蔭だとな。
「あれ、褒めすぎだと思うんだけど…」
今の学校でも聞いたけれども、記憶が戻る前だったから…。
ぼく、前のぼくに感謝しちゃった。「ありがとう」って。
だけど今だと、顔が真っ赤になっちゃいそうだよ。褒めすぎなんだもの、恥ずかしくって…。
「俺は正しいと思うがな…?」
褒めすぎてなんかいないと思うぞ、お前は立派に道案内をしたんだから。
俺はお前の側で見たんだ、道案内が得意なソルジャー・ブルーが、どう生きたかを。
もっとも、今じゃ本当の意味での道案内が精一杯のチビなんだが、と微笑むハーレイ。
道に迷った女の子を目的地まで、ちゃんと送り届けたというのがお前らしい、と。
「謎解きみたいな地図だったんだろ?」
その子が持ってた、肝心の地図。どの公園かも分からないくらいの、とんでもないヤツ。
「そうだけど…。誰でも出来るよ、道案内くらい」
この辺りに住んでる人だったら。ぼくでなくても、他の人でも。
「まあな。俺でもその地図、読んでやるんだろうが…」
眺めても意味が分からなかったら、誰か捕まえて訊くんだが…。通り掛かった人とかを。
それで駄目なら、近くの家だな。チャイムを鳴らして、出て来た人に訊くってな。こういう道を知りませんかと、多分、近所の筈なんですが、と。
そうすりゃ分かるし、俺だってその子を連れて行ってやることは出来るんだが…。
やっぱりお前らしいと思うぞ、道案内をしたというのは。
前のお前は、途方もなく長い地球までの道を、最後まで案内したんだからな。
「そうなのかな…?」
ぼくには少しも自信が無いけど、本当にちゃんと案内出来た…?
途中で分からなくなってしまって、「誰かに訊いてね」って逃げ出さなかった…?
「逃げちゃいないさ、お前はな」
さっきも言ったろ、ちゃんとジョミーに教えたと。地球までの道と、行き方をな。
前のお前は頑張ったんだが…。
誰にも真似なんか出来ないような、それは凄くて立派な道案内をしたんだが…。
今のお前の道案内は、迷った女の子を送り届ける程度でいいな、とハーレイが瞑った片目。
お前らしいが、その程度でいい、と。
「今度は俺が案内するから、お前は家の近所にしておけ」
この家から歩いて行ける程度の、道案内だけでいいってな。
「道案内って…。ハーレイが?」
いったい誰を案内するの、ぼくの代わりに?
ぼくは思念波、ちっとも上手に紡げないんだし…。ハーレイを呼ぶの、無理なんだけど…。
代わりに案内してあげて、って呼ぼうとしたって出来ないんだけど…。
「俺が案内するヤツか? わざわざ俺を呼ばなくてもいいぞ」
最初からお前の隣にいるから、呼ばなくてもちゃんと聞こえてる。
ついでに俺が案内するのは、お前だ、お前。
ドライブでも、旅でも、お前の側には俺がいるだろうが。…いつでもな。
行き先が分からなくなってしまったら、俺に任せてくれればいい。
俺が案内してやるから。いざとなったら誰かに訊くとか、方法は色々あるんだから。
お前は俺に尋ねればいい、と優しい言葉を貰ったから。道案内をして貰えるから。
前の自分が頑張ったらしい道案内は、今度はハーレイに任せておこう。
何処へ行く時も、初めての場所を歩く時にも。
「それじゃ、お願い。…ハーレイに全部、任せちゃうから」
此処に行きたいけど、どうしよう、って。…どうやって行けばいいんだろう、って。
「それでいいんだ、俺は責任重大だがな」
「二人一緒に迷わないように?」
おんなじ所をグルグルするとか、違う方向に行っちゃうだとか。
「そういうこった。しかし、俺だって元はキャプテンだしな?」
進路を読むってヤツは得意だ、と頼もしいハーレイ。多分、キャプテンだったからではなくて、今のハーレイも得意なのだろう。記憶が戻る前から、きっと。地図を片手に歩くことが。
だから大きくなった時には、ハーレイに任せて、歩いたり、旅やドライブをしよう。
道案内はして貰えるから。
もしも迷っても、ハーレイが訊いて、正しい道を見付けてくれるから。
二人一緒に、見付けた道を進んでゆこう。初めての場所へ、知らない道を。
「こっちだよね」と微笑み交わして、歩く時には手をしっかりと握り合って…。
道案内・了
※小さな子供の道案内をしたブルー。前のブルーは、もっと凄い道案内をしていたのです。
ミュウたちを地球まで送り届けるために、案内した道。ソルジャー・シンにも道を教えて…。
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(ハーレイの椅子…)
ふと、ブルーの目に留まった窓際の椅子。学校から帰って、おやつを食べて戻った部屋で。
テーブルとセットで置かれた二脚の片方、二脚とも同じデザインのもの。どっしりと重い、木で出来た椅子。背もたれの部分は籐で編まれて、それを木枠が取り巻いている。
座面は淡い苔の緑色、前のハーレイのマントの色を薄めたような優しい緑。ハーレイに似合うと思うけれども、「ハーレイの椅子」は、そういう意味ではなくて…。
(たまにはいいよね?)
こっち、と座ってみたハーレイの椅子。いつもハーレイが腰掛ける側。二つの片方、ハーレイが座るための椅子だから「ハーレイの椅子」。「ハーレイの席」ともいうべき場所。
其処に座ってキョロキョロ部屋を眺め回して、それから向かいの自分の椅子へ。テーブルの横を回り込んで。チョコンと座ってみた感じでは…。
(どっちも、おんなじ…)
見えるものはともかく、椅子の座り心地。ハーレイの椅子は、ほんの少しだけ、座面がへこんでいるのだけれど。
(ハーレイは重いし、ぼくが膝の上に乗ったりもするし…)
そのせいでクッションの厚みが変わった。自分が座っている椅子に比べて、本当に少し。座ったくらいでは分からない程度、見比べて気付くか、気付かないか。
僅かな違いしか無い椅子なのに、ハーレイの椅子の方が胸が高鳴る。腰掛けた時に。
(もう一度…)
ちょっとだけだよ、とハーレイの椅子に戻って座ってみて。
それから自分の椅子に戻って、また「ちょっとだけ」とハーレイの椅子へ。満足するまで交互に座って、嬉しくなった。「どっちもぼくの椅子だもの」と。
ハーレイの椅子も自分の持ち物、この部屋にある椅子だから。ハーレイの椅子と呼んでいても。
二脚の椅子は、両親が買ってくれたもの。テーブルとセットで、来客用にと。
買って貰った時は立派過ぎると思ったけれども、今では自分にピッタリのもの。来てくれる人が出来たから。前の生から愛した恋人、ハーレイが座るのに丁度いいから。
テーブルも椅子も、大人のハーレイには良く似合う。チビの自分には立派過ぎても。
(いつかは持って行くんだから…)
ハーレイの椅子を、ハーレイの家へ。
結婚して二人で暮らす時が来たら、この椅子たちも連れてゆく。いつも二人で座った椅子。間に挟んだテーブルもつけて、沢山の幸せな思い出ごと。
(ハーレイの家でも、ちゃんと二人で座るんだよ)
何処に置くかは分からないけれど、きっとハーレイが素敵な場所を見付けてくれる。椅子たちも居心地が良さそうな場所を。「此処がいいぞ」と運んでくれて。
(引越し屋さんにトラックで運んで貰っても…)
この辺に、と頼んで椅子とテーブルを置いて貰っても、「こっちの方が…」と楽々と持ち上げ、運んでしまいそうなハーレイ。「俺は此処だと思うがな?」と、テーブルも椅子も。
(ハーレイの家は、ハーレイが一番分かってるものね?)
椅子もテーブルも、着いたその日にまた引越しだよ、と可笑しくなる。そうでなければ、何日か経ってから突然に。
「この場所も悪くないんだが…」とハーレイが椅子を抱え上げて。「此処なんかどうだ?」と、別の場所へと運んで行って。「お前も此処に座ってみろ」と、「こっちの方が良くないか?」と。
きっとそうなることだろう。テーブルも椅子も、似合いの場所を決めて貰って。
その光景が目に浮かぶようだから、ふふっ、と笑って立ち上がった。椅子たちの未来。
(ハーレイの椅子も、ぼくの椅子も、一緒にお引越し…)
最初はハーレイの家に引越して、次はハーレイの家の中で。部屋から部屋へと引越しして。早く見てみたい椅子たちの引越し、まずは梱包されるのだろう。この家から運び出すために。
(まだまだ先の話だけど…)
結婚出来る年でもないし、と勉強机の前に座った。ストンと、其処に置かれた椅子に。
勉強や読書に使っている椅子、その椅子から窓辺の椅子を眺めて…。
(ぼくの椅子が三つ…)
全部で三つ、と数えて幸せな気分。三つの椅子のどれにも思い出、幸せな日々も詰まった椅子。
それにベッドにも座っていいから、この部屋には…。
(椅子が四つも…)
あるんだものね、と弾む胸。ただ椅子があるというだけなのに、もう嬉しくてたまらない。
一つ、二つと椅子を数えて、「やっぱりベッドは椅子じゃないかな」と思ってみたり。
どうなのかな、とベッドに座りに出掛けて、「違うかな?」とポンと叩いて…。
(椅子とベッドは見た目が違うし…)
椅子は全部で三つだよね、と戻った勉強机の前。元通りに椅子に座った途端に…。
(あれ…?)
不意に掠めた、ドキドキしながら椅子に座っていた記憶。これはぼくの椅子、と胸を弾ませて。
遠い遠い記憶で、おぼろげなもの。自分は椅子に座っているだけ。
(前のぼく…?)
あれは青の間での出来事だろうか、立派な椅子を貰ったから。やたらと広くて大きすぎた部屋、青の間に釣り合う椅子やテーブル。
でも…。
(ぼくの心、もっとドキドキしてた…)
そういう記憶。今と同じに子供の心で、腰掛けて「ぼくの椅子だよ」と。
(なんで…?)
どうしてドキドキしていたのだろう。子供の心だった頃なら、特に立派でもなかった椅子。船に元からあった椅子だし、平凡なもの。
誰の部屋にもあったような椅子が部屋に二つだけ、最初は一つ。部屋に備え付けの椅子は一脚、それをそのまま使っていた。椅子は椅子だし、座れればいいから。
(後で、もう一個貰って来て…)
二つになった部屋の椅子。
ハーレイが来た時に座れるように、と貰った二つ目。それを貰うまでは、ハーレイと二人で話す時には、ベッドを椅子の代わりにしていた。一人しか椅子に座れないのでは落ち着かないから。
一人は椅子で、一人はベッドを椅子代わりに。
ベッドの方に座っていたのは、自分だったり、ハーレイだったり。
二人並んで、ソファのように使っていたこともあった。ベッドに背もたれは無いのだけれど。
そんな具合だから…。
(二つ目の椅子が嬉しかった…?)
ドキドキしたのは、そのせいだろうか。今の自分と同じくらいに、心も身体もチビだった頃。
やっとお客様用の椅子が出来たから。
椅子の代わりにベッドを使わなくても、ハーレイと二人で座れるから。ちゃんとした椅子に。
そうなのかな、と考えたけれど。きっとそうだと思ったけれど。
(ぼくの分…?)
さっきよりもハッキリしてきた記憶。「自分用の椅子だ」と弾んだ心。自分用ならば、一つ目の椅子。最初から部屋に置かれていた椅子だから…。
(何か特別…?)
平凡な椅子で、自分で選んだわけでもないのに。部屋にあったものを使っただけなのに。
わざわざ誰かが運んでくれた椅子だったならば、少しは事情も変わるけれども。
(ただの椅子だよ…?)
これとあんまり変わらないかも、と今の自分の椅子を眺める。勉強机で使うための椅子を。
座り心地は悪くないけれど、シンプルな椅子。窓辺の来客用とは違って、立派ではない。
(あっちみたいな椅子だったんなら、分かるけど…)
普通の椅子で何故、あんなに心が弾んでいたのだろう?
自分用だと御機嫌で腰掛けていたのだろうか、本当にただの椅子だったのに。
(椅子なんて…)
何処にでもあるし、珍しくもない家具なんだけど、と思った所で気が付いた。椅子は違う、と。
そうじゃなかったと、椅子は特別だったんだ、と。
(…アルタミラ…)
前の自分が長い年月、閉じ込められていた研究所。心も身体も成長を止めて。
あそこでは檻で暮らしたけれども、檻には無かった椅子などの家具。
檻だけがあった、狭くて何も無い檻が。自分用の物があったと言うなら、ただ、檻だけ。
椅子も机も無かった場所。床に転がるしかなかった檻。ベッドさえも持っていなかったから。
アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、
皆で乗り込んだ宇宙船。生き残るために、燃え上がる星を後にした。壊れ、砕けてゆく星を。
命からがら脱出して、直ぐに貰った部屋。一人用の個室。
空き部屋は船に幾つも備わっていたから、その日の内に。「此処を使え」と。
後にシャングリラと名付けた船は、元々は輸送船だった船。あれで脱出した仲間たちは多くて、本当は足りていなかった個室。人数分の部屋は無かった。
けれど、アルタミラの檻で味わった恐怖に加えて、脱出の時の地獄のような光景。空までが炎で赤く染まって、大地はひび割れ、燃えて崩れていったから…。
とても一人ではいられない、と個室を嫌った者が殆ど。区切りさえ無い部屋で皆で雑魚寝でも、その方が心が落ち着くと。毛布などがあれば充分だから、と。
特に希望を出さなかった者だけが個室になった。前の自分がそうだったように。
(部屋の割り振り…)
誰がしたのかは覚えていない。多分、関心も無かったのだろう。
何も注文をつけなかったから、ハーレイの部屋とは隣同士にならなかった。二人部屋もあったと思うけれども、同じ部屋にも入らなかった。前の自分も、ハーレイも個室。
部屋同士の距離は近かったけれど。別のフロアに分かれることも無かったけれど。
(じゃあね、って…)
脱出した日に、皆で食べた非常食ばかりを集めた食事。それでもパンはふわりと膨らみ、温かい料理も食べられた。アルタミラでは餌と水しか無かったのに。
その食事の後、ハーレイと別れて入った部屋。「此処だ」と教えて貰った個室。足を踏み入れ、ベッドがある、と嬉しくなった。眠るためだけに使う家具。
そのくらいの記憶は残っていたから、「もう床じゃない」と喜んだ。夜はベッドで眠れる生活、それを手に入れられたのだと。
サイオンを使いすぎて疲れ果てていたから、シャワーを浴びて戻った後には倒れ込んだベッド。もう恐ろしい日々は終わりで、ゆっくり眠っていいのだから。
疲れた身体に引き摺られるように、沈んでいった眠りの淵。夢も見ないでぐっすり眠って、目を覚ましたら…。
(檻じゃなくって、ぼくのための部屋で…)
自分だけの部屋が周りにあった。檻よりもずっと広い部屋。ベッドの他に椅子も見付けた。一つだったけれど、自分用の椅子。好きに座ってかまわないもの。
(椅子まであるんだ…!)
ベッドだけじゃなくて、と嬉しくて早速、座ってみた。檻には置かれていなかった椅子に。
弾んだ心は、その時の記憶。「ぼくの椅子だ」と、胸をドキドキさせて。
(本当に、ただの椅子だったのに…)
椅子があることが夢のように思えて、座ったり立ったり、椅子無しで床に座ってみたり。椅子のある生活を楽しみたくて。椅子はこんなに素敵なのだと、一人ではしゃいで。
「朝飯だぞ」とハーレイが呼びに来てくれるまで。「今、行くよ」と返事して立ち上がるまで。
それほどに胸が高鳴った椅子。自分のものだ、と喜んだ家具。
(ベッドは寝転ぶ場所だけど…)
のんびり転がってゴロゴロ出来るし、眠る時には心地良い家具。ベッドが自分にくれる安らぎ、それも大好きだったのだけれど、椅子は特別。もっと人間らしい家具。
椅子は座れる場所だったから。座るためだけの家具だったから。
眠るだけなら、ベッドが無くてもなんとかなった。檻の中でも、床で眠れた。柔らかなマットや枕が無いだけ、固い床しか無いというだけ。
檻でも充分、眠れたけれども、座ることは出来はしなかった。椅子というものに。
座るための場所は、床があるだけ。床にペタリと腰を下ろして座る以外に無かった方法。
(椅子みたいなのは…)
実験でならば座らされたけれど、椅子ではなくて実験器具。
突き飛ばされるようにして腰掛けたら直ぐに、手足を拘束されていた。椅子のようなものに。
そうして始まる人体実験、拷問でしかなかったもの。
(あんなの、椅子って言わないよ…)
苦痛を運んでくるだけのもので、苦しかっただけの椅子に似たもの。
本物の椅子は檻には無かったのだし、座れる場所は固い床だけだった。どれくらいの歳月を檻で過ごして、床に座っていたのだろう?
椅子を持たずに生きていたろう、あの狭苦しい檻の中で。
やっと貰えた自分用の椅子。好きな時に座れる、人間らしい暮らしをさせてくれる家具。
それが自分のものになった、と前の自分は大はしゃぎだった。「ぼくの椅子だ」と。
何度も座ったり、立ったりした椅子。初めて貰った自分用の椅子。
ベッドよりもずっと素敵に思えて、座ったままウトウトしていたくらい。此処でも眠れる、と。
(その内に慣れて、忘れちゃったけど…)
当たり前のものになってしまったけれども、一番好きだった家具かもしれない。シャングリラと名付ける前の船では。実験動物ではなくて、人間として暮らし始めた頃は。
そういったことを考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。いつもの椅子に腰を下ろした恋人に。
「あのね、椅子のこと覚えてる?」
「はあ?」
椅子って…。どの椅子だ、前に持って来てやったアレか、キャンプ用の椅子か?
テーブルとセットで何度か持って来てたが、今は白いのになっちまったしな、庭の椅子は。
「それじゃなくって、最初の椅子だよ」
前のぼくたちの、一番最初の。…ハーレイも持っていたじゃない。
「なんだ、そりゃ?」
最初の椅子って、キャプテンの席のことなのか?
「もっと前だよ、アルタミラから逃げ出して直ぐ…。貰った個室に椅子があったよ」
あの椅子だってば、最初の椅子。アルタミラの檻には無かったでしょ?
椅子なんか入れて貰ってないから、座れる場所は床だけで…。
「そういや、そうだな…」
ベッドも無かったし、家具なんてヤツは一つも無かった。…あの檻にはな。
人間扱いしちゃいない、っていう研究者どもの態度が表れてたなあ、そういうトコにも。
家具無しだなんて動物並みだ、とハーレイが顰めてみせる顔。あの檻は酷いモンだった、と。
「無事に逃げ出せたお蔭で、家具のある生活に戻れたってな」
人間らしくベッドで眠って、枕も毛布も…。檻だった頃とは大違いだ。
「でしょ? それでね、ぼくはとっても嬉しかったよ、あの椅子が」
ぼくの椅子なんだ、ってドキドキしてた。何度も立ったり座ったりしたよ、初めての椅子。
「椅子って…。そんなにか?」
お前、それほど椅子があるのが嬉しかったのか…。あんな平凡な椅子ってヤツが。
「うん。ハーレイは?」
ぼくね、あそこの椅子に座ったはずみに思い出しちゃって…。椅子を貰った時のことを。
ハーレイも嬉しかった筈だよ、個室だったから椅子もついていたでしょ?
「ついてたが…。俺の場合は、どちらかと言えばベッドの有難さで…」
椅子もあるな、と思いはしたが…。ベッドの方が素敵に見えたな。寝る場所が出来た、と。
「そうだったの?」
椅子よりもベッドが気に入ってたんだ、前のハーレイ…。
みんな同じだと思ったのに…。椅子があるなんて、とても人間らしいのに…。
「ベッドも充分、人間らしいぞ。床で寝なくていいんだから」
今夜からベッドで眠れるんだ、と思ったらワクワクしたもんだ。もう王様の気分だってな。城は無くても、贅沢なベッドを手に入れた、と。
ベッドの方がいいと思うか、椅子の方がいいと感じるか…。
俺とお前の考え方の違いではなくて、檻にいた年数の違いなのかもしれないな。
お前、とんでもなく長く檻にいたから。…俺とは比較にならんくらいに。
ずっと檻の中で暮らす間に、忘れちまっていたんだろう、と言われた椅子。
座るための椅子の存在を。座る時には椅子を使うと、床に直接座るのではないということを。
「忘れちまっていたんだったら、椅子ってことにもなるだろうなあ…」
人間扱いされているんだ、と感じる家具。…昔は椅子に座ってたことを、椅子を見るまで綺麗に忘れていたんなら。椅子が記憶から消えていたなら。
そりゃあ大切に思うんだろうな、文化的な暮らしが出来るんだから。人間らしく椅子に座って。
「…ハーレイは椅子を覚えてた?」
椅子を使って座っていたこと、ハーレイはちゃんと覚えていたの…?
「多分な。ベッドの方を嬉しく思う程度には」
椅子はオマケだ、ベッドつきの部屋とセットで来たオマケ。あれば便利で、それだけのことだ。
座るだけなら、ベッドで充分、間に合うんだし…。無くても別に困らないしな?
「そうなんだ…。ハーレイがそうなら、他のみんなも椅子よりもベッド…」
ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。あの船の仲間は、きっと全員、ベッドだよね…。
椅子かベッドか、どっちが素敵な家具だったのかを尋ねたら。
…椅子って言う人、いそうにないよね。床で寝るより、ベッドの方がいいもんね…。
「お前、つくづく酷い目に遭ったな」
椅子まで忘れてしまうくらいに、ずっと檻の中か…。
そりゃあ成長も止まっちまうな、心も身体も。育っても何もいいことは無いし、檻の中だし…。
可哀相にな、ベッドよりも椅子だと思ったなんて。
俺たちに椅子を寄越さなかった、研究者どもが悪いんだが…。床だけあれば充分だろう、と。
動物には家具を与えなくても、餌と水だけでいいと思っていやがったんだ。あの連中は。
囚人にだって椅子はあるもんだが…、とハーレイがついた大きな溜息。
今の時代は囚人はもういないけれども、人間が地球だけで暮らしていた頃。囚人の扱いは相当に酷く、扉もすっかり塗り込めることがあったほど。食事を差し入れる窓だけを開けて。
「そういう所に放り込まれて、死ぬまで外には出られなかった囚人もいたんだが…」
椅子くらいは持っていたそうだ。寝るためのベッドと、座るための椅子と。
よほどの酷い牢獄でなけりゃ、囚人にも椅子はあったってな。死刑が決まっている囚人でも。
前の俺たちは囚人以下だ。…人間扱いされちゃいないし、実験動物そのものだな。
いや、待てよ…。椅子が無いのが普通だっていう国もあったか、昔だったら。
「えっ?」
椅子が無いのが普通だなんて…。何処の国なの、うんと貧しい国だったとか…?
「貧しいから椅子が買えないんじゃない。要らないから持っていなかった」
古典の世界だ、昔の日本。俺が授業で教えているだろ、貴族がのんびり平和に暮らしてた時代。平安時代だ、あの時代に椅子はあったのか?
「えーっと…。引き摺りそうな着物のお姫様とかがいた時代だよね?」
あの時代に椅子って…。無かった…かな?
椅子に座ったお姫様の絵は、そういえば一度も見たこと無いかも…。
「まるで無かったってこともないんだがな」
立派な椅子は作られていたが、普段の暮らしに使うんじゃなくて儀式用だな、あの頃の椅子。
一番偉い帝だけが座って、他の人間は使わなかった。椅子があっても無いのと同じだ。
誰も使いやしないんだから。…椅子という物を知っていたって、全く活用しないんじゃな。
帝しか座らなかった椅子。子供が帝だった時には、椅子に上るための専用の踏み台が使われた。それだけでも分かる、儀式用の椅子だということ。普段の暮らしに使う椅子なら、子供用の椅子を作ったろうから。踏み台を作って据える代わりに。
「そっか…。椅子はあっても、使わないんだね」
椅子があったら座りやすいと思うけど…。床に座るより椅子だと思うよ、長い時間なら。
前のぼくでも、椅子で感激してたのに…。椅子があるのに使わないなんて、なんだか不思議。
平安時代の日本人なら、あの檻でも平気だったのかな?
ベッドも無かった文化なんだし、椅子も無いなら、あの檻の中でも大丈夫かも…。
「狭すぎるとは思うんだが…。平安時代の貴族の家はデカくて、仕切りが殆ど無かったからな」
しかし、檻には空調もあったし、考えようによっては天国かもな。
実験と餌ってヤツさえなければ、あれでも立派な家かもしれん。
殺風景でも、うんと狭くても、凍えはせんしな?
貴族はともかく、あの時代の貧しい人間からすれば、きっと本当に天国だぞ。
「檻なんだけどね…。実験動物用の」
「その実験と不味い餌さえ無ければ、だ…。貴族でも入りたがるかもしれんな」
空調システムが故障しなけりゃ、温度はいつでも適温だ。暑すぎもしないし、寒すぎもしない。
寝苦しい夜や寒すぎる日には、「入れて欲しい」と言い出すヤツが多そうだ。
多少狭くても、住めば都と言うんだから。
「うーん…」
空調とかが無かった時代なんだし、それだけでも羨ましがられそう…。
ベッドや椅子はついてないけど、元から使っていなかったんなら、平気かな…。
前のぼくたちは、椅子とベッドの暮らしに慣れていたから、あの檻、相性が悪かっただけで。
人体実験も不味い餌もなくて、其処で暮らすというだけならば。檻でも良かったかもしれない。狭い檻には、ベッドも椅子も無くて床だけでも。
けれども、誰とも会えなかった檻。言わば独房、話し相手もいなかったから…。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちが入れられてた檻…」
もしも自由に出歩けていたら、他の檻の仲間と話が出来たら…。
ベッドも椅子も無いような檻でも、気分、少しは違っていたかな…?
出歩いた後は檻に入って、大人しくしてなきゃいけなくても。…自由時間が少しあったら。
「多分、違っていたろうな」
人体実験と餌の毎日でも、ホッと一息つける時間があったなら…。仲間同士で愚痴を零せたら。
しかし、人類はそいつを認めはしないな、なにしろ相手はミュウなんだ。
ミュウ同士だと、相乗効果でサイオンが強くなるわけだが…。それが無くてもヤツらは許さん。
一人一人は弱いミュウでも、何人か寄れば、考えを纏め始めるからな。
檻にポツンと一人でいたんじゃ、思い付かないようなアイデアってヤツも湧いて来る。ついでに勇気百倍ってトコだな、仲間がいれば。
反乱なんかも考えついたりするだろう。一人じゃ無理でも、何人かいれば、と。
そうならないよう、一人ずつ閉じ込めてあったんだ。誰とも接触出来ないように。
「…その効果、ホントにあったよね…」
顔見知りの仲間は誰もいないし、話したことさえ一度も無かったわけだから…。
前のぼくたち、メギドで星ごと滅ぼしてやるって言われても…。
シェルターに纏めて入れられちゃっても、出るための方法、相談しようともしなかったし…。
「何も出来なかったろ、死んじまうんだと分かっていても」
お前がシェルターをブチ壊すまでは、みんな諦めちまってた。…前の俺もな。
あそこでお前が膝を抱えて諦めていたら、何もかも終わりだったんだ。
額を集めて話し合えるような関係を俺たちが築いていたなら、また違ったかもしれないが…。
あれだけの仲間が力を合わせてぶつけていたなら、シェルターを壊せたかもしれないんだがな。
「そうかもね…」
みんなが必死に頑張っていたら、壊せたかも…。此処だ、って一ヶ所に力を集中させたら。
きっと出来たのだと思う。前の自分が壊したシェルター、それを内側から壊すくらいは。全員が力を合わせていたなら、扉くらいは吹き飛んだ筈。
けれど、幾つもあったシェルター。大勢の仲間が閉じ込められていたのだけれども、自分たちの力で脱出した者はいなかった。前の自分とハーレイが行くまで、皆、シェルターに入っていた。
駆け付けた時には、壊れてしまっていたシェルターも幾つもあった。
入れられた者たちが脱出を試みたならば、そうなる前に逃げ出せたろうに。シェルターごと命を失くす代わりに、外へ出ることは出来ただろうに。
(…みんな、知り合いじゃなかったから…)
纏め上げようという者もいないし、纏まろうとも考えない。自分の隣や前や後ろにいる者たち。それが誰かも分からないのだし、あの状況では自己紹介など始めないから。
(知らない人だ、っていうだけで…)
人間は声を掛けにくいもの。まるで知らない人間には。
前の自分たちを一人ずつ檻に閉じ込めた人類、彼らのやり方は正しかったと言えるだろう。
星ごと滅ぼされそうになっても、団結を知らなかったミュウたち。
そうなることを知っていたから、人類はミュウをシェルターに閉じ込め、自分たちは宇宙へ逃げ出して行った。あの種族はもう滅びるだけだと、計算ずくで。
首のサイオン制御リングも、そう読んだ上で外して行った。それが無くなっても、ミュウたちは何も出来ないから。一人ずつ自分の殻に籠って、震えることしか出来ないから。
希少な金属を使用していた、サイオンを制御するリング。
ミュウたちと一緒に焼き滅ぼすには惜しいものだから、人類はそれを回収した。きっと何処かで売り飛ばしたろう、凄い値をつけて。皆で山分けしたのだろう。
ミュウは滅びたに決まっているから、もう要らないと。売ってしまってかまわないと。
彼らの計算が正しかったから、救えなかった仲間たちがいた。シェルターの扉を壊すサイオン、それを纏めることが出来ずに。
前の自分とハーレイが懸命に駆け付けた時には、シェルターごと瓦礫や地割れに飲まれて。
もしも交流があったとしたなら、もっと早かっただろう行動。何をすべきか、皆で考えて。
前の自分が一人でシェルターを壊さなくても、皆の力で扉を壊して、外へ逃れて。
「…人類の計算、合っていたけど…。誰も逃げようとしなかったから…」
逃げるつもりで頑張っていたら、シェルターごと潰されたりはしないで、生き残れたのに…。
ぼくとハーレイが間に合わなくても、ちゃんと逃げられた筈なのに…。
どのシェルターでも、みんな、閉じ込められていただけ。ぼくたちが扉を開けに行くまで。
そういう仲間しかいなかった割に、あそこからの脱出、上手くいったね。
船はこっちだ、って見付けて離陸の準備をしてたり、逃げて来る仲間を誘導したり。
「一人残らずミュウだったからだ」
シェルターから出られりゃ、余裕も出て来る。出られたんだから、逃げてやろうと。
生きようって気力が湧いて来たなら、サイオンも自然と使えるってな。元々持ってる力だけに。
思念波を飛ばせば、自己紹介なんかは一瞬で済む。
一人が気付けば後は早いぞ、こうやって知り合いを増やせばいいと。みんな仲間だと。
俺とお前がシェルターを開けようと走ってる内に、逃げたヤツらは信頼関係を築いてたってな。
誰が誰かもちゃんと分かるし、得意分野も当然、分かる。
船を見付けて準備したヤツらは、そういうのが得意だったんだ。動かしたこともないような船を前にしたって、なんとかしようと思える連中。
もっとも、基本の知識が無いから、手順通りに実行するしかなかったが…。
そのせいで乗降口を閉めずに離陸しちまって、ハンスの事故が起こってしまったんだがな…。
だが、俺たちはアルタミラから脱出できたんだ、というハーレイの言葉に間違いはない。互いに思念波を遣り取りしての交流、それを始めたら早かった。理解し合うことが。
船で宇宙へ逃げ出してからも、役に立ったのが思念波の存在。
「ぼくたちの部屋割、あの日の内に出来ちゃったのも…」
誰がどういう人間なのか、船のみんながきちんと分かっていたからだものね。
個室を貰っても平気なタイプか、毛布や枕をかき集めて来て何人もで固まっている方が好きか。
「うむ。実に便利な能力だったな、ああいう時にも」
人類ばかりの船だったならば、そうそう上手くはいかないぞ。あれだけの人数なんだから。
全員が納得出来る部屋割、人類には多分、無理だったろう。その日の間に決めちまうなんて。
ミュウだったからこそ、直ぐに決まって、椅子もベッドも貰えたわけだな。
個室でもいい、と思ったヤツらは、もれなくベッドと椅子つきの部屋で。
「…あの時の部屋割…。ハーレイの隣にすれば良かった…」
決めてしまう前に頼んでいたなら、隣同士だったと思うんだけど…。
ぼくたちの部屋は同じフロアだったし、ぼくの隣の仲間とハーレイの部屋を取り替えていても、何も問題はなかったのに。
ハーレイはまだキャプテンとかじゃないんだもの。きっと通った筈なんだよ。…注文すれば。
「俺も、どうして言わなかったんだか…」
チビのお前は言いに行くのに、勇気が必要だったかもしれないが…。
俺にしてみりゃ、部屋割を決めてたヤツらも同じ年頃の仲間なんだし、割り込むくらいは簡単なことで…。横から「ちょっといいか?」と言えば良かったんだよな、俺の部屋割。
お前の隣の部屋にしてくれと、友達だからと、一言、頼んでおいたらなあ…。
失敗だった、とハーレイも自分も思うけれども、隣同士ではなかった部屋。貰った個室。椅子とベッドが備え付けられた部屋は、多分、ほど良い距離だったのだろう。
ハーレイと二人、お互いの部屋に招いて、招かれて過ごしていた。お互い、二つ目の椅子も用意して、来客に備えて。
前の自分が好きだった椅子。人間らしいと思った家具。…すっかり忘れていたけれど。
そして今では、自分のための小さなお城に椅子が三つもあるものだから…。
「えっとね…。前のぼく、部屋に置く椅子を増やしてたけど…」
ハーレイが座る椅子が欲しいな、って二つ目の椅子を貰いに行ったんだけれど…。
今のハーレイの家にも、椅子を増やしてもいい?
前にも頼んでいるけれど…。椅子を二つほど。
「椅子を二つか…。この椅子だろ?」
俺とお前が座っている椅子、こいつを持ってくるんだな?
お前が俺の嫁さんになる時は、この椅子も一緒にやって来る、と。
「そう!」
ハーレイの家に引越すんだよ、椅子と、それからテーブルも。
これにピッタリの場所を見付けて、ハーレイの家でも二人で座っていたいから…。
そっちの椅子がハーレイの椅子で、こっちがぼくの。
ハーレイの家に引越した後も、いい場所があったら、ハーレイ、運んでくれるよね?
引越し屋さんに置いて貰った場所より、素敵な場所が見付かったら。
「もちろんだ。…季節に合わせて引越しもいいぞ」
眺めのいい部屋とか、落ち着く部屋とか。
何処にだって俺が運んでやるさ。前のお前と椅子の話を聞いちまったら、尚更だってな。
任せておけ、とハーレイは約束してくれたから、この椅子たちはいつか引越しをする。
ハーレイと二人で暮らす家まで、大切に梱包して貰って。他の色々な荷物と一緒に。
この椅子たちをハーレイの家に増やして、置いて。
そしてハーレイの家にある椅子にもストンと座ろう、幸せな気分で。
これも今日からぼくの椅子だよ、と。
ぼくをよろしくと、これから一緒に暮らすんだから、と椅子にも挨拶をして。
ハーレイの家にある椅子の全部に、自分を紹介して貰おう。
「俺の嫁さんだ」と、「よろしくな」と。
それが済んだらハーレイと二人、どの椅子に座って話そうか。
手を繋ぎ合って歩く幸せな未来、これから歩いてゆく道にあるだろう夢を。
何をしようか、何処へ行こうかと、二人、いつまでも、尽きることのない幸せな夢を…。
座れる椅子・了
※今のブルーが持っている椅子たち。けれど、前のブルーが檻にいた時には、無かった椅子。
ベッドよりも椅子を嬉しいと思ったくらいに、過酷だった日々。今では座れる椅子が幾つも。
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