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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




今年も秋がやって来ました。シャングリラ学園では学園祭に向けての準備が始まってますが、私たちは至ってお気楽なもの。クラスとは全くの別行動で、やることはもう決まっています。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を使ったサイオニック・ドリーム喫茶、それが売り物。
サイオニック・ドリームという言葉は出していなくて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーで出掛ける夢の観光、あちこちの名所を体感出来ると大人気です。私たちの仕事は当日の接客くらいなもので、準備期間は暇なのが基本。今日の放課後もダラダラと…。
「えーっと…。行き先はもう絞り込んだし、メニューは適当に決めるんだよね?」
もうやることは無さそうだよね、とジョミー君。喫茶『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』のメニューは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんが決めることが殆ど、私たちは参考意見くらいで。
「そうだね、ぼくとぶるぅで候補を出すから、その中からで」
ドリンクメニューの他にも何か出そうかな、と会長さん。
「スペシャルメニューもドリンクにするか、ちょっと捻るかが悩む所で」
「かみお~ん♪ 食べる時間も考えないといけないもんね!」
飲み物だけの人と合わせなくっちゃ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。サイオニック・ドリームを使うのですから、夢を見ていられる時間は統一、そこが大事なポイントです。よりリアルな体験が出来るスペシャルメニューも、他のお客様と同じ時間で食べ終われるようにしておかないと…。
「会長とぶるぅに任せておきますよ」
飲食のことは専門外です、とシロエ君。
「ぼくたちは柔道部の焼きそば指導が精一杯ですし」
「まったくだ。…今年のヤツらも実に覚えが悪いと来た」
いい加減にレシピをマスターしてくれ、とキース君がフウと溜息を。柔道部の売りは「そるじゃぁ・ぶるぅ」秘伝のレシピと謳った焼きそば、レシピは全て門外不出の口伝です。キース君たちは毎年、毎年、それの指導をしているわけで。
「今年も苦労してるよなあ…。いい加減、レシピを書いてもいいんでねえの?」
サム君が意見を述べましたけれど。
「駄目だ、そいつは先輩から禁じられている。秘伝だからこそ口伝で、とな」
「「「あー…」」」
ご苦労様、とみんなで慰め、「そるじゃぁ・ぶるぅ」からは「元気出してね!」と焼きそばならぬタコ焼きが。素敵なケーキもいいんですけど、たまにはタコ焼き。新鮮なタコがドンと入って、とても美味しいんですってば…。



熱々のタコ焼きを頬張りながらの話題はやっぱり学園祭。1年A組は今年もグレイブ先生の意向でお堅いクラス展示ですから、大してネタにもならないんですが。
「…ナマハゲが禁止らしいですねえ?」
シロエ君が持ち出したナマハゲ、何処かのクラブの企画だったと聞いています。私たちと同じく教室を使った喫茶らしいですが、客引きにナマハゲを出そうとしたのが駄目だったとか。
「なんでナマハゲ、駄目なんだっけ?」
ぼくは詳しく聞いていなくて、とジョミー君が首を傾げると。
「聞いた話じゃ、仮面がアウトだそうですよ」
「「「仮面?」」」
ナマハゲのアレは仮面じゃなくってお面なのでは、と思ったものの、仮面もお面も似たようなものかもしれません。顔が見えないのが駄目なのかな?
「そうです、そうです。責任の所在がハッキリしない、と先生方から禁止令が」
「へえ…。それじゃアレかよ、ナマハゲのお面が半分だけでも駄目なのかよ?」
仮面だったら半分ってのもアリだしよ、とサム君が。
「おい、ナマハゲの面を半分だけにしてどうするんだ」
それはナマハゲではないような気が…、とキース君。
「ナマハゲは顔を全面的に覆ってこその怖さなんだと俺は思うが」
「だよねえ、半分だけだと間抜けだよねえ…」
上半分でも、顔の右半分とかいう形でも…、とジョミー君も。
「それもアウトじゃないですか? 形によるかもしれませんけどね」
個人が特定出来ない仮面は却下でしょう、とシロエ君。
「チラシ配りをしていたのは誰か、客引きをしたのは誰なのか。後で苦情が出た時なんかに、誰に対する苦情なのかが分かりませんから」
「それは分かるが、ナマハゲはやはりナマハゲでないと雰囲気がな…」
正体が分かるナマハゲなんぞは味が無い、とキース君が言い、会長さんも。
「ぼくも賛成。…でもねえ、先生方の言い分ってヤツも分かるかなあ…」
学園祭で仮面はちょっとマズイ、と会長さん。
「責任の所在ってヤツもそうだし、仮面を被ると心のタガも外れがちだし…」
「なるほどな…。そういえばナマハゲも一時期バッシングされていたような…」
そういう話を聞いたことがあるな、とキース君が。えーっと、ナマハゲをバッシングって…?



ナマハゲと言えば、「泣く子はいねえか!」と家を回って脅すものだと記憶しています。子供の躾に役立つナマハゲ、それがどうしてバッシングに?
「アレだ、いわゆる飲みすぎだ。…酒を振舞われて気分がデカくなった所へ、あのお面だしな」
正体は誰にも分からないであろう、と不埒な行為に及ぶナマハゲが出たそうで。
「ぼくも聞いたよ、旅館に乱入して女湯に行くとか、そういうナマハゲ」
「「「うわー…」」」
会長さんの言葉に、誰かが「ひでえ」と。それは子供の躾どころか、悪い見本と言うのでは…?
「そうだよ、悪い大人の見本。仮面の効果が逆に転ぶとそうなるんだよ」
だから先生方も却下するわけで…、と会長さん。
「客引きついでに何をしでかすか分からないしね、ナマハゲは禁止」
「…ナマハゲがマズかったんでしょうか?」
そういう先例があるんだったら、とシロエ君が尋ねると。
「普通の仮面でも駄目じゃないかな、自分が誰だか分からないとなれば心のタガがね…」
「それなら、サム先輩が言う顔の半分だけがナマハゲな仮面というのも…」
「顔を見て誰だか分からないようなら却下だろうね」
どうせウチには関係ないけど…、と会長さんはクスクスと。
「ぼくたちの喫茶は顔も売り物の内だしねえ? みんなそれなりにファンがついてるから」
「どうだかな…」
たまに指名も入るんだが、とキース君。喫茶『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』はホストクラブではありませんけど、ウェイターを選べる年もあります。ちょっとお値段上がりますが。そういった年は、男子は誰もが指名の対象、みんなもれなく指名されるというのが現実。
要は本当に顔も売り物、仮面なんかで隠してしまえば肝心の顔が見えないわけで。
「会長が言うのも一理ありますね、ウチだと仮面は使えませんねえ…」
「ほらね、関係ないってね。ナマハゲの所は自業自得だよ」
選んだものが悪かったのだ、と会長さんはバッサリと。
「そんなつもりは無かったんだろうけど、顔が隠れるのはいけないよ。ナマハゲだろうが、ごくごく普通の仮面だろうが」
「タガが外れるのはマズイからなあ、先生方にすれば」
仕方なかろう、とキース君も大きく頷いています。ナマハゲを却下されたクラブが何に走るか知りませんけど、仮面系はいくら申請したって先生方に却下されそうですねえ…。



そんな話をのんびりしていた次の日は土曜日、みんなで会長さんの家へお出掛け。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出迎えてくれて、シロップに漬け込んだ栗がたっぷりの焼き栗のタルトをリビングで頬張っていたら…。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、という声が。フワリと翻った紫のマント、ソルジャーがツカツカとリビングを横切り、空いていたソファにストンと座って。
「ぶるぅ、ぼくにも焼き栗のタルト!」
「オッケー、それと紅茶だね!」
ちょっと待ってねー! とキッチンに駆けて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、直ぐに注文の品を揃えて来ました。ソルジャーは「ありがとう」と紅茶を一口飲むと。
「…仮面の話はどうなったんだい?」
「「「は?」」」
何のことだ、と私たちは顔を見合わせました。仮面の話って、何でしたっけ?
「忘れたのかい、昨日の放課後、話してただろう! ナマハゲがどうとか!」
「あー、ナマハゲ…。あれが何か?」
君もナマハゲに興味があるとか…、と会長さんが不思議そうに。
「ナマハゲが君の好みだったとは知らなかったよ。君のシャングリラでやりたいのかい?」
それなら衣装とかの手配をしてあげないでもないけれど…、と会長さん。
「あの手の衣装は地元密着型だからねえ、その辺では売っていないんだけど…。君がやりたいと言うんだったら、相談に乗るよ」
「本当かい!? それじゃ、是非!」
「「「ええっ!?」」」
まさか本当にナマハゲなのか、と私たちは息を飲みました。ソルジャーの世界のシャングリラにナマハゲって、何に使うというのでしょう。あ、でも、子供はいますよねえ…。
「…ぶるぅには正直、効果が無いと思うけど?」
あの悪戯小僧は動じないであろう、と会長さんが一応、注意を。
「でも、他の子たちには効くかもね。…君が子供の躾を真面目に考えるとはねえ…」
「え、子供はどうでもいいんだけれど? それにぶるぅも」
「「「へ?」」」
それなら何故にナマハゲなのだ、とソルジャーを見詰めてしまいましたが。ナマハゲ、確かにやってみたいような返事をしてましたよね…?



ナマハゲは子供を脅して躾けるもの。それをやりたいらしいソルジャー、なのに子供も「ぶるぅ」もどうでもいいらしく。何処にナマハゲの存在意義があるのやら…、と思っていたら。
「ぼくが言いたいのはナマハゲ効果で! タガが外れて女湯にも乱入するだとか!」
「「「ナマハゲ効果?」」」
誰もそういう言葉は発していないのでは、と耳を疑ったナマハゲ効果。しかもナマハゲ効果とやらは、昨日キース君と会長さんが話してくれたバッシングの対象になった事件なのでは…?
「そうだけど? ナマハゲ効果だと、ちょっと限定的すぎるかなあ…。仮面効果かな?」
「「「仮面効果?」」」
それまた謎だ、と思いましたが、ソルジャーの方は得々として。
「自分が誰だか、誰にもバレないお面や仮面の効果だよ! 心のタガが外れるんだろう?」
女湯にも飛び込んで行ける勢い、とニコニコと。
「その勢いを使えないかな、と思っちゃってね! ぼくのハーレイのパワーアップに!」
「「「…パワーアップ…?」」」
もしやソルジャー、キャプテンを女湯に突入させたいと言うのでしょうか? でも、シャングリラに女湯なんかがあったかな、という気がしないでもないですが…。
「えっ、女湯? そんなものがあるわけないじゃないか、ぼくのシャングリラに!」
温泉旅館じゃないんだから、とソルジャー、即答。それじゃキャプテンは女湯への突入を目指すわけではないと…?
「当たり前だよ、なんでハーレイを女湯なんかに突入させると? それじゃ全く意味が無いから、ナマハゲ効果の! …ううん、ナマハゲじゃなくて仮面だっけか…」
「…君は、君のハーレイに何をさせたいわけ?」
ぼくにはサッパリ、と会長さんが真正面から問いをぶつけると。
「心のタガを外すんだよ! 仮面で顔を隠してしまえば、きっと心のタガも吹っ飛ぶ!」
「…それで?」
「欲を言うなら、ブリッジだろうが公園だろうが、もう遠慮なく、ぼくを押し倒して欲しいんだけどね…。キャプテンとしての理性は残りそうだしね…」
「その理性までが吹っ飛んじゃったら最悪だよ!」
「だよねえ、仕方ないから、そこは諦めて…。ぶるぅが覗きをしに来ていたって、気にしないパワーが欲しいんだよ! 自分が誰かはぶるぅには絶対分かっていない、という勢いで!」
仮面をつければきっとそうなる、とソルジャーは読んでますけれど。…「ぶるぅ」が覗きをしている時でも、仮面で気にせず何をすると…?



ソルジャー曰く、ナマハゲ効果だか仮面効果だかいう代物。キャプテンが仮面で顔を隠せば心のタガが吹っ飛んでしまって、「ぶるぅ」がいたって大丈夫なのだと主張していて。
「ぼくのハーレイ、見られていると意気消沈でねえ…。ぶるぅが覗いていると分かると、夫婦の時間が台無しなんだよ!」
その場でヘタレてしまうから…、と嘆くソルジャー。
「もう一瞬で萎えてしまって、どうにもこうにも…。もう一度元気に続きをしよう、と薬なんかを飲ませようとしても、「あそこにぶるぅが…」と怯えちゃってさ」
まるで使い物にならないのだ、とソルジャーは大きな溜息を。
「だからね、そういう時に備えて! 最初から仮面で顔を隠して、他人のふりで!」
「…それなら、ぶるぅに見られてもいいと?」
会長さんが突っ込みを入れると、「うん」と返事が。
「自分が誰だか丸分かりなんだ、と思うからこそ萎えるってね! そこをさ、「どうせ誰だか分からないんだし、気にしない!」って方向に行けば、ハーレイもきっと!」
萎えることなく励んでくれるに違いない、とグッと拳を握るソルジャー。
「その上、心のタガが外れているからねえ…! 普通じゃ出来ないようなプレイも恥ずかしがらずに積極的に! それこそ、ぼくが壊れるほどに!」
「もういいから!」
ヤバイ話はその辺にしておいてくれ、と会長さんがイエローカードを突き付けました。
「君が言いたいことは分かったし、そこまでで!」
「そう言わずに! ぼくは本当に仮面はいけると思うんだよ! ナマハゲだって女湯に向かって突入するんだ、ハーレイだったら、もう、どれほどか…!」
奥の奥まで突入してくれるに違いない、とソルジャー、ウットリ。
「ぶるぅがいようが、ぼくが「やめて」と泣き叫ぼうが、もう本当に奥の奥までズンズンと!」
「退場!!!」
サッサと帰れ、とレッドカードが叩き付けられたというのに、ソルジャーは。
「何を言うかな、仮面の話はまだ途中だから!」
「とっくに最後まで語ったじゃないか!」
怪しすぎる話にも付き合わされた、と会長さんが噛み付くと。
「ぼくのアイデアを話していないよ、もう極上の凄い閃き!」
是非聞いてくれ、とソルジャーは膝を乗り出してますが。ナマハゲ効果で仮面効果な話に絡んだアイデアなんかを、聞かされても理解出来ますかねえ…?



ソルジャーの頭に浮かんだという極上の凄い閃きとやら。あまり聞きたくないような…、と腰が引けている私たちですが、ソルジャーが気にする筈などなくて。
「実はね、あれからナマハゲじゃなくて、仮面の方を色々と考えていてね…。いろんなデザインがあるんだね、仮面」
顔の半分を隠すにしたって色々と…、と話すソルジャー。
「右半分とか左半分とか、そういう仮面もあるけれど…。目だけっていうのも多いんだねえ!」
「それはまあ…。好みで色々選べるけれども、人の顔だと目は特徴が出やすいからね」
身元がバレないように顔写真とかを公開するなら目の部分を隠しておくのが基本、と会長さん。
「その辺もあって目を隠す仮面は多いかな、うん」
「その目を隠す仮面だけどさ…。誰だか分からないようにする他に、ぼくならではの使い方があると気が付いてさ!」
「…どんな?」
会長さんが怖々といった感じで訊き返すと。
「色眼鏡だよ!」
「「「色眼鏡?」」」
それは偏った物の見方のことなのでは、と思うのですけど、ソルジャーは…。
「うん、本来の意味ではね。だけど、ぼくが言う色眼鏡は違うんだな!」
君たちの学園祭の催し物から思い付いたのだ、と言われましても。私たちのサイオニック・ドリーム喫茶からどういうアイデアを得たと…?
「もちろん、サイオン絡みだってば! サイオンを使った色眼鏡を仮面にセットするんだ、目の部分にね! 色眼鏡と言うより、色ボケ眼鏡!」
「「「…色ボケ眼鏡?」」」
「そう! それが嵌った仮面を着けたら、心のタガが吹っ飛んだ上に、ごくごく普通のぼくを見たって、ヤリたい気持ちがMAXに!」
目で見たものがイイ感じに怪しく変換されるのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「ぼくが普通に挨拶したって、誘ってるようにしか見えないとかね!」
「そ、それは…。まるで不可能ではなさそうだけど…」
会長さんの声が震えて、ソルジャーが。
「ぼくのサイオンなら楽勝だね! 閃いたからには色ボケ眼鏡を仕込んだ仮面で、ナマハゲ効果と仮面効果もセットなんだよ!」
そういう仮面を作りたいのだ、と言ってますけど、本気ですか…?



心のタガが吹っ飛んでしまうナマハゲ効果だか、仮面効果だか。それに加えてサイオンで作った色ボケ眼鏡、とソルジャーはやる気満々で。
「ナマハゲの衣装を手配してくれると言ったよね? ぼくは確かにそう聞いたけど?」
どうだったっけ、と会長さんに向けて質問が。
「…い、言ったけど…。あれはナマハゲだと思ってたからで…」
「ナマハゲも仮面も似たようなものだよ、ぼくに仮面をプレゼントしてよ!」
ぼくのハーレイに似合いそうなのを…、とソルジャー、膝をズズイと。
「君たちがいつも贔屓にしている仮装衣装の専門店ねえ、あそこに色々あるんだけれど…」
こんな感じで、とソルジャーの指がパチンと鳴らされ、宙に浮かんだ幾つもの仮面。どうやらお店の商品の幻影を映し出してるみたいです。
「これなんかいいかと思うんだよ。白地に金色の模様付きだし、キャプテンの制服にもハーレイの肌にも映えそうだろう? 目の部分だけが隠れるっていうのもお洒落だしさ」
「う、うん…。まあ…」
「買ってくれないかな、ナマハゲの衣装は要らないから! その代わりに!」
ナマハゲを一式買い揃えるよりは安いであろう、とソルジャーが仮面の値札を示して、会長さんが苦悶の表情で。
「そ、そりゃあ…。ナマハゲよりかは安いけれどさ…」
「じゃあ、買ってよ! 君がプレゼントしてくれないなら、この際、ノルディに…」
「それは困るよ!」
ノルディなんかを巻き込むな、と会長さんは顔面蒼白。それはそうでしょう、エロドクターの耳にナマハゲ効果だの仮面効果だの、色ボケ眼鏡だのが入っちゃったら、乗り出して来るに決まっています。あわよくば自分も美味しい思いを、とアヤシイ下心全開で。
「ノルディに相談されるのが嫌なら、プレゼント! それだけでいいから!」
それ以上は要求しないから、と食い下がられた会長さんは。
「…仕方ない…。ぶるぅ、買い物に行って来てくれるかな? いつもの店の…」
「これだね、ブルーが欲しいって言ってるヤツだね!」
行ってきまぁーす! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿がパッとかき消え、十分ほど経って。
「ただいまーっ、仮面、買って来たよーっ!」
プレゼント用に包んで貰ったの! とリボンがかかった綺麗な箱が。ソルジャーは大喜びで受け取り、中を確認して大満足。これでナマハゲ効果はバッチリ、後は色ボケ眼鏡を装備とはしゃいでますけど、どうなるんだか…。



会長さんに仮面を強引にプレゼントさせたソルジャー。箱から取り出し、自分の顔に当ててみたりして遊んでましたが、善は急げと夕食の前にお帰りに。それきり姿を見ることは無くて、平和に一週間が過ぎ…。今日も土曜日、朝から会長さんの家に来ています。
「例のナマハゲ、顔出しになったらしいですね?」
シロエ君は相変わらずの事情通でした。でも、顔出しのナマハゲって…なに?
「フェイスペイントでいくそうですよ。ナマハゲっぽく」
「…それはオッケーだったのか?」
キース君が訊くと、「ええ」という返事。
「とりあえず、顔出しですからねえ…。一応、個人が特定できるということで」
「らしいよ、証拠写真でも撮られてしまえば容易に特定可能だからね」
会長さんもナマハゲのその後を知っていました。フェイスペイントをしてまでナマハゲだなんて、何処までナマハゲにこだわるんだか…。
「ああ、それはねえ…。衣装が先にあったようだよ、何処かの劇団から貰ったとかで」
「「「あー…」」」
こだわるわけだ、と納得しました。劇団の衣装なら本格派でしょうし、使いたい気持ちは分かります。ナマハゲはけっこう目立つでしょうから、客引き効果もバッチリな筈で。
「そういうこと! 諦め切れずにフェイスペイント、よく頑張ったよ」
先生方も努力を認めたしねえ、と会長さん。ナマハゲは目出度く学園祭にデビュー出来る運びになったようです、顔出しですけど。
「そうか、ナマハゲの方は決まりか…。しかし、あいつはどうなったんだ?」
ナマハゲ効果と言ってた馬鹿は、とキース君。
「あれから見ないが、誰か消息を知らないのか?」
「「「さあ…?」」」
馬鹿と言ったらソルジャーですけど、誰も会ってはいない様子で。会長さんなら、と視線が集中しましたけれども、会長さんも「知らないよ?」と。
「ぼくも一度も会ってないんだ、こっちの世界に来ていないんじゃないのかな?」
「忙しいんでしょうか、ソルジャー稼業が?」
真面目に仕事をしてるんでしょうか、とシロエ君が顎に手を当てた所へ。
「久しぶりーっ! こっちのナマハゲ、認められたって!?」
それは良かった、とソルジャーが降って湧きました。どの辺から聞いていたのか知りませんけど、ナマハゲが学園祭に登場出来ることは祝福するって言うんですかねえ…?



まずはおやつ、とピンク色のスポンジが優しいクランベリーのロールケーキを強請ったソルジャーは目的のケーキを頬張りながら。
「ナマハゲはもちろん祝福するよ! そこのクラブが出て来たお蔭で、ぼくも素晴らしいアイデアを手に入れたしね! ナマハゲ効果!」
とっくにナマハゲじゃないんだけれど、と笑顔のソルジャー。
「今は立派な仮面効果で、色ボケ眼鏡も装備なんだよ! もう毎日が薔薇色でさ!」
あの仮面を着けたハーレイは実に素敵なのだ、とソルジャーは顔を輝かせて。
「毎晩、せっせと励んでくれるし、仮面を着けたまま眠っちゃうから朝にも一発! 寝起きのぼくでムラムラしちゃって、もう一発では済まない朝も!」
ブリッジに遅刻しそうな勢いでヤッてヤリまくるのだ、と得意満面、自慢せずにはいられないといった感じで滔々と。
「ぶるぅが覗きをしていたってねえ、まるで全く気にしてないね! 自分が誰なのか気付かれていない、という仮面の効果は大きいよ、うん」
それと心のタガが外れるナマハゲ効果、とナマハゲ効果なる言葉も定着した模様。本物のナマハゲに失礼じゃないかという気もしますが、その本物がやらかしたという騒ぎから出て来た造語ですから、ナマハゲ効果でもいいのかなあ…。
「いいんじゃないかな、ぼくは大いに恩恵を蒙っているからね! ぼくのハーレイの心のタガは外れまくりで、そこへ色ボケ眼鏡の効果が!」
遅刻寸前までヤリまくろうというのは心のタガが外れているからこその話で…、とソルジャーはそれは御機嫌でした。実に素晴らしいアイデアだったと、もう最高だと。
「ナマハゲには御礼を言いたいくらいだけれども、生憎とぼくは他人だし…。君たちの方から、是非ともよろしく御礼をね!」
「…俺たちも赤の他人なんだが?」
そいつらのクラブも知らんのだが、とキース君が言い、シロエ君も。
「ぼくは何処のクラブか知ってますけど、あそこに知り合い、いませんから…。いきなり出掛けて御礼を言ったら、きっと向こうも困りますよ」
「そうなのかい? それじゃ、御礼は諦めるとして…。もう一つの方を、と」
「「「もう一つ?」」」
「そう! 今日は素敵な提案があって!」
そのためにやって来たんだけれど、とニッコリと。薔薇色の毎日を過ごすソルジャー、いったいどういう提案があると…?



嫌な予感がしないでもない、ソルジャーからの素敵な提案。聞かない方がいいかもしれない、と思いましたが、相手はソルジャー。聞きたくなくても聞かされますし、逃げようとしたって逃げられないのが悲しい所で。
「…なんで悲観的な顔になるかな、君たちは! ぼくは幸せのお裾分けをね!」
この幸せを一人占めしたら罰が当たるし…、とソルジャーが宙に取り出した箱。空間移動をさせて来たのか、何処かから瞬間移動なのか。お裾分けとは聞きましたけれど、ケーキとかではなさそうです。幸せのお裾分けならケーキでいいのに…。
「えっ、ケーキ? そんな平凡なものじゃ駄目だね、心がこもってないからね!」
こういう御礼は心が大切、とソルジャーは箱を会長さんの方へと押しやって。
「はい、プレゼント! 開けてみてよ!」
「…何なんだい、これは?」
「開ければ分かるよ、透視は禁止! まあ、ぼくのサイオンで遮蔽してるし、君の力でも覗けないとは思うけどさ」
「………。あまり開けたくないんだけれど…?」
出来れば開けずに済ませたいけど、と会長さんは遠慮しましたが、ソルジャーが箱を引っ込めるわけがありません。
「そう言わないで! ぼくから君への心のこもったプレゼントだから!」
「…分かった、君の言葉を信じる。幸せのお裾分けらしいしね?」
何だろう、と会長さんが箱を開けにかかり、私たちも覗き込みましたが…。
「ちょっと…!」
これはまさか、と会長さんの指が箱の中を指して震えて、私たちも暫し呆然と。箱の中身は目元がすっかり隠れる仮面で、この前、ソルジャーが会長さんに強請っていたのとそっくりで。
「あ、違う、違う! ぼくが貰った大事な仮面とコレとは別物だから!」
ぼくのハーレイ用の仮面は青の間にちゃんと置いてあるから、とソルジャーは仮面入りの箱をチョンとつつくと。
「これはね、こっちのハーレイのためにと思ってね! ぼくからの御礼!」
あの店に出掛けてお小遣いで買った、と言うソルジャー。お小遣いって、エロドクターから貰っているお小遣いですか…?
「そうだよ、それで買って来たわけ! でもって、きちんと色ボケ眼鏡をつけてあるしね!」
ぼくのサイオン、大盤振る舞い! と誇らしげですけど、色ボケ眼鏡と言いましたか? ついでにこちのハーレイ用って、教頭先生っていう意味ですか…?



薔薇色の毎日を過ごしているらしい、ソルジャーからの幸せのお裾分け。白地に金の模様の仮面で色ボケ眼鏡をつけてあるとか、それがこっちのハーレイ用とは…。
「もちろん、君たちが考えているハーレイで合ってるよ! これをプレゼントすれば、あのハーレイの心のタガも吹っ飛ぶ筈で!」
おまけに色ボケ眼鏡もついてる、とソルジャーは仮面を持ち上げて披露。目の部分には穴が開いているだけ、眼鏡のレンズはありませんけど…?
「本物のレンズは要らないんだよ、色ボケ眼鏡は言わばサイオンのレンズだからね! それもハーレイ限定仕様で、君たちが着けても何も起こらない!」
論より証拠、と仮面がガバッとジョミー君に被せられました。
「「「わわっ!?」」」
これは大変、と慌てた私たちですが、ジョミー君は仮面を着けられたままでキョロキョロと。
「…別になんにも起こらないけど…? キースはキースだし、シロエはシロエで…」
ブルーだっていつもと変わらないや、という声が。
「本当なのかい!?」
ちょっと貸して、と会長さんがジョミー君から仮面を剥がして、着けてみて。
「…本当だ…。ぼくの目で見たって、ブルーはブルーだ…」
何処もちっとも怪しくはない、と会長さん。
「だけどブルーのサイオンらしきものは微妙に感じるかな? 残留思念みたいな感じで」
「それが色ボケ眼鏡なんだよ! ハーレイ限定、ぼくのハーレイでも、こっちのハーレイでも作用は全く同じ筈!」
相手は同じハーレイだから、とソルジャーが言い切り、会長さんは仮面を外して。
「…で、この仮面をどうしろと? 色ボケ眼鏡らしいけど…」
「こっちのハーレイにプレゼントだよ! ナマハゲ効果と仮面効果で心のタガを吹っ飛ばした上、色ボケ眼鏡で君に挑んでいけるようにと!」
「迷惑だから!」
そんな代物を誰が贈るか、と会長さんが怒鳴りましたが、ソルジャーは。
「ダメダメ、幸せのお裾分けだよ? こっちの世界で貰ったアイデア、御礼はしっかり! あの仮面を買ってくれたのは君だし、その御礼もね!」
早速ハーレイにプレゼントに行こう! とソルジャーがブチ上げ、パアアッと迸る青いサイオン。もしやソルジャー、瞬間移動で飛ぶつもりですか、教頭先生の家に向かって、私たちまで巻き添えですか…?



フワリと身体が浮いたかと思うと、ドサリと投げ出された教頭先生のお宅のリビング。真っ昼間から瞬間移動で大勢が出現したのですから、教頭先生、ソファからずり落ちてしまわれましたが。
「こ、これは…! ようこそいらっしゃいました…!」
すぐにお茶を、と我に返った教頭先生、ソルジャーに頭を深々と。キッチンの方へ向かわれるのをソルジャーが「いいよ」と引き留めると。
「今日はね、君にプレゼントがあって…。ナマハゲでもめていたんだってね、君の学校」
「よく御存知で…。生徒の方が粘り強くて、結局、許可を出しましたが…」
「うん、知ってる。お面じゃなくって、顔出しでフェイスペイントだってね」
それじゃナマハゲ効果が無いよ、と言ったソルジャーに、教頭先生は「ナマハゲ効果?」とオウム返しに。
「何ですか、ナマハゲ効果というのは?」
「ぼくが作った言葉だけどねえ、お面や仮面で自分の正体を分からなくしたら、心のタガが外れるだろう? どうせバレないから、何をやってもかまわないと!」
「ええ、まあ…。それもあってナマハゲでもめたのですが…」
「そこなんだよ! 仮面を着けたら何でも出来る、っていう開放感を君にあげたくてねえ…!」
これを見て欲しい、と例の仮面が。
「着けるだけで心が解放されるよ、ぼくのハーレイで実証済みなんだ。君も心のタガを外して、ブルーに挑んでみたくはないかい?」
「ブルーに…ですか?」
「そこにいるだろ、ぼくじゃなくって、君が一筋に惚れてるブルー! この仮面を着けて遠慮の塊の心を解放、そして一気にプロポーズとかね!」
是非とも試してくれたまえ、とソルジャーは仮面を教頭先生に手渡しました。教頭先生はしげしげと眺め、会長さんと仮面を何度も見比べて。
「…本当にこれで心が解放されるのですか?」
「間違いないねえ! ぼくのハーレイはこれで情熱的な毎日だしね!」
君もナマハゲ効果でいこう! と勧められた教頭先生、おっかなびっくり仮面を装着。白地に金の模様の仮面で目元が隠れて、その状態でグルリと見渡して…。
幸か不幸か、最初に目に入った辺りにはキース君たち、何も起こりませんでした。そこから順に顔を追って行って、会長さんの所で視線が止まって。
「…おおっ!?」
これは、と叫んだ教頭先生。何か見えたと言うんですかねえ、色ボケ眼鏡…?



ソルジャーに唆された教頭先生が着けてしまった、色ボケ眼鏡が入った仮面。教頭先生は会長さんを見詰めたままでボーッと立ち尽くしていましたが…。
「そうか、ついにその気になってくれたか…!」
嬉しいぞ、とダッと駆け寄り、会長さんの身体を両腕でギュッと。
「何かとヘタレな私なのだが、力の限りに頑張ろう! せっかく誘ってくれたのだからな!」
「ぼくは誘っていないんだけど!」
失礼な、と会長さんが叫んで逃れようとすると、「そう照れるな」と強く抱き込む教頭先生。
「こういったことは、勢いというのも大切だ。この際、初めてといこうじゃないか」
「初めても何も、ぼくはその気は全く無いから…!」
「照れなくてもいいと言っているのに…。まあ、ここは人目があるからな…」
私の部屋でゆっくり、じっくり愛し合おう、と教頭先生は会長さんをヒョイと抱き上げ、リビングを出て行ってしまいました。会長さんが大暴れするのも照れているとしか見えないらしく…。
「放せってば、馬鹿!!」」
「そういうお前も可愛いぞ、ブルー」
実にそそられる、という声が聞こえて、階段を上がる足音が。二階には教頭先生の寝室があって、大きなベッドが置かれています。放っておいたら大変なことになるんじゃあ…。
「おい、マズイぞ! このままだと真面目にブルーが危ない!」
何とかしないと、とキース君が慌てて、シロエ君も。
「でもですね…! ぼくたちの力で教頭先生に勝てますか!?」
「そ、それは…。勝てる見込みは全く無いが…」
だが行かねば、とキース君がダッと駆け出し、私たちも続きました。ところが二階の寝室の扉は鍵がかけられ、押しても引いても開かなくて。
「誰か、助けてーーーっ!!!」
「実にいい声だ、もっと聞かせて欲しいのだが…」
そして二人で楽しもう、と教頭先生の声と会長さんの声が扉の向こうから。色ボケ眼鏡の効果なんだか、はたまた仮面のナマハゲ効果か。教頭先生はヘタレるどころか、心のタガを外してしまって会長さんを組み敷いているに違いありません。
「いいねえ、これでブルーもついにハーレイと…!」
幸せのお裾分けをしに来た甲斐があった、とソルジャーは扉の前で感無量。劇的瞬間を皆で見ようと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に中継画面を出すように、と指示までが。素直なお子様は言われた通りに中の様子を映し出してくれて…。



「放せってばーっ!!!」
会長さんがベッドの上で足をバタつかせて暴れ、のしかかっている教頭先生。これは本当にヤバイどころか危険すぎです、ソルジャー、こんなのあんまりですよ!
「そうかなあ? ハーレイの心を解放したんだ、正しいお付き合いがこれから始まるかと…」
「あんたにとっては正しいか知らんが、俺たちの世界では間違いだぞ!」
これでは本物のナマハゲの迷惑な方と何も変わらん、とキース君が言い返しました。
「開放的になった挙句に女湯に乱入していったヤツと、全く同じだと思うんだが!」
「それでこそナマハゲ効果だよ! 自分の心に正直になれば、そういうこともね!」
きっとハーレイも今日こそは! とソルジャーは赤い瞳をキラキラと輝かせていましたが…。
「「「…あれ?」」」
どうなったのだ、と画面に見入った私たち。教頭先生がカチンと硬直、その鼻からツツーッと赤い筋が流れ、続いてブワッと鼻血の噴水。
「ちょ、ちょっと…!」
嘘だろう、とソルジャーが慌てた時には、教頭先生はベッドの上に沈んでしまっておられました。もはや意識は飛んだらしくて、会長さんが身体の下から這い出して。
「……た、助かった……」
ショートしたのか、と教頭先生の顔から例の仮面を剥ぎ取り、ベッドから下りてこちらへ歩いて来たかと思うとガチャリと鍵が開く音が。
「…よくもハーレイにこんなプレゼントを…!」
死ぬかと思った、と会長さんが柳眉を吊り上げ、ソルジャーは。
「ごめん、色ボケ眼鏡をもうちょっとソフトにしておけば…。ついつい、ぼくの好みに合わせて、ぼくのハーレイと似たようなのに…」
次回はもう少しソフトにしてくる、とソルジャーが仮面を受け取ろうとすると、パシン! と弾けた青いサイオン。仮面は真ん中から真っ二つに割れて、会長さんが。
「もう二度と作らなくてもいいから、こういうヤツは!」
「えーっ!? ぼくにとってはお役立ちだよ、ぼくのハーレイ、もう本当に凄いんだから!」
「君だけが楽しんでいればいいだろ、ナマハゲ効果だか、色ボケ眼鏡だか!」
お裾分けは二度と要らないから、とギャーギャーと叫ぶ会長さんと、仮面の効果と素晴らしさとを説き続けているソルジャーと。ナマハゲ効果の凄さとやらは分かりましたが、顔がバレない仮面の解放感と色ボケ眼鏡のセットとは…。



「二度と御免だよ!」
もう持ってくるな、と喚く会長さんの後ろで私たちも揃って「うん、うん」と。
あんな迷惑すぎるアイテム、ソルジャーだけが楽しめばいいと思います。「ぶるぅ」の覗きも遅刻寸前も気にしないほどのキャプテンと二人で存分に。
それが一番、きっと一番。ナマハゲ効果も色ボケ眼鏡も、私たちの世界には要りません~!




            罪作りな仮面・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 学園祭で禁止されたナマハゲ、それにヒントを得たソルジャーの欲望が炸裂したアイテム。
 ソルジャーの世界では効果抜群、教頭先生にも贈った結果は、御覧の通りのお約束です。
 そしてシャングリラ学園番外編は、去る4月2日で連載開始から13年となりました。
 あと1年続けば、目覚めの日を迎えられる数字ですけど、どうなりますやら…。
 次回は 「第3月曜」 5月17日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、4月は恒例のお花見シーズン。けれど今年は、開花が早くて…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv












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(わあ…!)
 綺麗、と小さなブルーが眺めた窓の外。土曜日の朝に、目覚めて直ぐに。
 今日はハーレイが来てくれるから、と張り切ってシャッと開けたカーテン。よく晴れてる、と。部屋は二階だから、空も庭も窓から見えるのだけれど。
 窓から近い庭の木々の間、其処に見付けた素敵なもの。夜の間に蜘蛛が張った巣、それに朝露。朝の日射しにキラキラと光る、とても細かなレース模様。
 蜘蛛が紡いだ糸のレースは、露の玉を纏って輝くよう。夢の国から来たみたいに。
(ホントに綺麗…)
 見惚れてしまうレースだけれども、露が幾つもつかなかったら、きっと気付いていないだろう。露を煌めかせる、朝の日射しが無かった時も。
 偶然生まれた、自然の造形。光るレースの芸術品。細い細い糸と、くっついた露と、朝の光と。
(これだったら、虫も大丈夫…)
 蜘蛛が巣を張って狙っている虫。その虫たちも安全な筈。
 露を纏った光のレースは目立つから。これだけキラキラ輝いていたら、遠くからでも蜘蛛の巣があると分かるから。
 罠があるのだと分かっていたなら、きっと引っ掛かる虫などはいない。光のレースがある場所を避けて、上手く躱して飛んでゆく筈。
 蜘蛛に食べられてしまわずに。粘りを持つ糸に絡め取られて、御馳走にされてしまわずに。
 死が待つ罠ではないというなら、蜘蛛が張った巣は芸術品。窓から眺めて楽しめるもの。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
 とても綺麗で素敵だから。蜘蛛が編み上げて、露が飾った自然のレースなのだから。
 そう思ったのに…。



 顔を洗って着替えも済ませて、朝食を食べて戻った部屋。
 窓の向こうを覗いてみたら、もう消えていた蜘蛛の巣の露。太陽の光が消してしまって。幾つもあった露の玉たち、それをすっかり蒸発させて。
 夏の日射しには敵わなくても、太陽の光はやっぱり強い。蜘蛛の巣の露を消せるのだから。
 露の玉たちを失くしたレースは、ただの蜘蛛の巣。細くて、頼りないほどの糸。
(これじゃ、ハーレイには見て貰えないよ…)
 せっかく綺麗だったのに。光り輝くレースが庭を飾っていたのに。
 残念、と溜息をついて始めた掃除。いつもの習慣。
 床を掃除して、窓辺のテーブルを拭いて、ハーレイと自分が座る椅子の位置を整えていて。
(蜘蛛の巣も掃除しちゃおうかな?)
 ふと思い付いた、蜘蛛の巣の掃除。窓の向こうにあるのだから。
 あんなに大きな蜘蛛の巣なのだし、あったら虫が可哀相。露の光は消えてしまったから、今では虫を捕える罠。虫たちの目に映らないよう、細い細い糸で編まれた死を運ぶ罠。
 引っ掛かったらそれでおしまい、蜘蛛に見付かって糸を巻き付けられて。生きたままでバリバリ食われてしまうか、後で食べようと糸で包んでおかれるか。
(あれがあったら、殺されちゃう…)
 蝶とかが食べられてしまうんだよ、と蜘蛛の巣を取ろうと思ったけれど。
 掃除のついでに死の罠の糸を切ろうと考えたけれど、窓からは手が届かない。どう頑張っても、長い物差しまで引っ張り出しても。
(ぼくって駄目だ…)
 掃除出来ない蜘蛛が張った巣。虫たちの命を奪う罠。
 風に揺れるのが見えているのに、自分にはどうすることも出来ない。支える糸を一本切ったら、あの巣は半分壊れるのに。それだけで危険を減らせるのに。
 けれどサイオンもまるで使えないから、こうして眺めているしかない。何も出来ずに。
 虫たちが引っ掛かりませんように、と祈ることだけが精一杯で。



 ハーレイが訪ねて来てくれてからも、気になる蜘蛛の巣。
 向かい合わせで座るテーブル、それは窓辺にあるのだから。ついつい外へと向きがちな瞳。話の合間に、蜘蛛の巣の方へ。虫が引っ掛かったら大変だよ、と。
 何度も視線を外へ遣るから、「どうかしたのか?」と尋ねられた。鳶色の瞳の恋人に。
「さっきから窓が気になるようだが、其処から何か見えるのか?」
 庭に猫でも入って来たのか、俺は全く気付かなかったが。
「えっとね…。蜘蛛の巣があるんだよ」
 あそこ、と指差した大きな蜘蛛の巣。
 ハーレイに見せたかったことも思い出した。「ほほう…?」と外を見る恋人に。
「あれか、けっこうデカイ巣だな」
 ジョロウグモだな、あの大きさだと。
「朝はとっても綺麗だったよ、それで蜘蛛の巣に気が付いたんだよ」
 露が一杯ついていたから、キラキラ光ってレースみたいで…。
 ハーレイにも見せたかったんだけれど、朝御飯を食べたりしてる間に消えちゃった…。露が。
「蜘蛛の巣なあ…。露がつけば確かに綺麗だよな」
 あんな所にあったのか、と見惚れちまうくらい見事なもんだ。宝石で出来てるみたいにな。
「見たことあるの?」
 露でキラキラ光っているのを。…朝早く起きて?
「馬鹿にするなよ、俺が何年生きていると思っているんだ、お前」
 早起きしなくても、何度も見てる。ガキの頃にも、今の家に引越しして来てからも。
 そいつを俺に見せられなかったから、あの蜘蛛の巣が気になるのか?
 朝には綺麗だったのに、と。
「ううん、そっちはいいんだけれど…」
 蜘蛛の巣、虫が捕まっちゃうよ。光っていたなら、目立つから虫も避けるだろうけど…。
 今みたいに見えにくい糸になったら、気付かないままで飛んで来るでしょ?
 引っ掛かったら餌にされちゃう、そんなの可哀相じゃない…!



 蜘蛛の巣を取ろうと挑んだけれども駄目だった、とハーレイに話した。掃除のついでに壊そうとしたのに、糸を切ることも出来なかった、と。
「ぼくの手、届かないんだよ。頑張ったけど…」
 長い物差しも使ってみたけど、糸を切ることが出来なくて…。蜘蛛の巣、そのまま…。
 放っておいたら、虫が捕まって食べられちゃうのに…。引っ掛かったら、おしまいなのに。
「おいおい、蜘蛛も必死なんだぞ」
 あのデカイ巣が張ってあるのは、何のためだと思ってるんだ?
 蜘蛛が獲物を捕まえるためだ。蜘蛛だって虫だ、餌が食えなきゃ死んじまう。
 飢え死にしたら大変だろうが、そうならないよう、せっせと糸を張ってだな…。
「分かってるけど…。でも…」
 食べられちゃう虫が可哀相だよ、あの巣が無ければ大丈夫なのに…。
 ぼくが蜘蛛の巣、壊せていたなら、虫は助かる筈だったのに。
 出来なかったから、虫が引っ掛かったら死んじゃうんだよ、と訴え掛けたら。
「仕方ないな…」
 物差し、此処に持って来い。お前が言ってた長い物差し。
「取ってくれるの?」
 ぼくの代わりに壊してくれるの、あの蜘蛛の巣を?
「蜘蛛には可哀相だがな。…巣作りで腹が減ってるだろうに」
 しかしだ、あそこに虫が引っ掛かったら、お前、泣き出しそうだしなあ…。
 お前の力が足りなかったから、虫が捕まって食べられるんだ、と。
 そうなってから虫を助けてやるのも、あの巣を先に壊しておくのも、大して変わらないからな?
 どっちにしたって蜘蛛は飢えるし、それなら先に壊した方が…。
 壊しておいたら、お前の泣き顔、見なくて済むだろ。



 悲しむお前は見たくないから、と物差しを握って、窓から手を一杯に伸ばしてくれたハーレイ。蜘蛛の巣を支える糸を一本、二本と断ち切り、すっかり壊してしまった蜘蛛の巣。
 ついでに、最後の糸にぶら下がっていた蜘蛛も引っ掛けて、ヒョイと放った。物差しで上手く、遠く離れた木の梢へと。
「壊してやったぞ、もう大丈夫だ」
 こいつは返す、と物差しを渡されたけれど、その物差しが遠くへ飛ばした蜘蛛。ポーンと飛んで行っただけだし、きっと木の葉か枝にしっかり掴まっただろう。死にはしないで。
(…生きてるよね?)
 木にぶつかって死んでしまわずに、木の枝か葉に掴まって。「ビックリした」と目を見開いて。
 蜘蛛は生きているに決まっているから、物差しを片付けて椅子に戻って、眺めた庭。あの辺りの木に飛んでったよ、と。
「今の蜘蛛…。飛んでった先で、また巣を張っちゃう…」
 さっきみたいに大きなのを。あそこだと絶対、手は届かないし…。どうしよう…。
「お前なあ…。殺したいのか、あの蜘蛛を?」
 巣を作るな、ってことになったら、俺が殺すか、獲物を獲れずに飢え死にするかのどっちかだ。
 そういう風にしたいのか、お前?
「えーっと…」
 殺したいとは思わないけど…。飢え死にさせようとも思ってないけど…。
「だろうな、深く考えてはいないんだろうが…」
 あの蜘蛛、お母さん蜘蛛かもしれないんだぞ。お腹に卵を抱えてる蜘蛛。
「え…?」
 お母さんだったの、赤ちゃんのために巣を張ってたの…?
「時期にもよるがな。今の季節に卵を産むかは分からんが…」
 そうだとしたなら、あの巣は一匹だけのためじゃないんだ。これから生まれる沢山の卵、それに栄養をつけてやるために獲物を待っていたってな。
「そっか…。ぼく、悪いことをしちゃったかな?」
「知らなかったんだから、仕方がないと思うがな?」
 それに知っていても、目の前で獲物が食われちまうのはキツイもんだし…。
 蜘蛛だってきっと許してくれるさ、殺されちまったわけじゃないから。また頑張ろう、と。



 ハーレイに巣を壊された蜘蛛。遠くの梢に飛ばされた蜘蛛。
 もしも卵を産む蜘蛛だったら、子供たちのためにと新しく作り直す蜘蛛の巣。獲物を捕まえて、育つための栄養がたっぷり詰まった元気な卵を産むために。
「あの蜘蛛、俺が投げちまったが…。あんなにデカくちゃ、もう無理なんだが…」
 知ってるか、ブルー?
 蜘蛛の子供は空を飛ぶんだぞ、風に乗ってな。翅も無いのに。
「…ホント? さっきハーレイが投げたみたいに?」
 空を飛んで行くの、蜘蛛の子供は?
 小さい間は空を飛べるの?
「うんと小さい間だけだが、飛べるそうだぞ。翅の代わりに、蜘蛛の糸でな」
 卵から孵って、糸を出せるくらいに育ったら。
 一緒に孵化した兄弟が全部、一斉に糸を出すらしい。いい風が吹いている日を選んで。
 自分の身体よりもずっと長い糸だ、それがパラシュートになるってわけだ。糸が風に攫われて、蜘蛛の身体ごと空に舞い上がる。赤ん坊の蜘蛛は小さいからな。
「そうなんだ…。赤ちゃんの蜘蛛だから飛べるんだね。重くないから」
 糸と一緒に飛べるくらいに小さい蜘蛛。それって、どのくらい飛んで行けるの?
「風任せだしな、吹く風の気分次第だが…」
 相当な距離を飛ぶらしい。蜘蛛が自分で歩いていたんじゃ、辿り着けそうもない遠い所まで。
 昔、日本があった頃には、そいつを意味する言葉まであった。
 なにしろ沢山の糸が飛ぶんだ、名前がついても不思議じゃないよな?
 雪がよく降る北の方でついた名前だったから、秋に飛んでいたら「雪迎え」。雪の季節を迎える前だし、雪を呼ぶんだと思われていた。
 逆に、雪が消える春に飛んだら「雪送り」。雪の季節は終わりだと見上げていたんだろうな。
 白い蜘蛛の糸だ、雪を連想しやすいじゃないか。ふわふわと沢山飛んでいたなら。



 地球が滅びるよりも前には、世界中にいた空を飛ぶ蜘蛛。小さい間に、糸を使って。風に乗って遠い、遠い旅をして。
 中国では遊糸という名で呼ばれた、大勢の蜘蛛の子供たちの飛行。文字通り空を飛んでゆく糸。
「地球は一度は滅びちまったが…。今はすっかり元通りだしな?」
 昔と同じに、世界中に空飛ぶ蜘蛛の子供がいるってわけだ。日本や中国だけではなくて。
 地球は広いし、同じように空を飛んでいたって、桁外れな場所もあるからなあ…。
 たまにニュースになったりするんだ、こいつがな。
 雪迎えだとか、遊糸なんていう洒落た名前じゃないんだが…。バルーニングと言うんだが。
 物凄い数の蜘蛛が風に乗って飛んで行ってだ、纏めて着地しちまって…。
 辺り一面、真っ白な糸に覆われるってな、そういう時にはニュースになる。糸だらけだ、と。
「凄い…! 蜘蛛の糸でしょ、あんなに細い糸なのに…」
 それが一杯、ってニュースになるほど沢山の糸。頑張ったんだね、蜘蛛の子供たち。
 人間の目に留まるくらいに、凄い数のグループなんだから。
「蜘蛛としては失敗なんだがな。…糸だらけってのは」
 どんなに見た目が見事だとしても、ニュースになっても、大失敗というヤツだ。
 風任せだから仕方ないんだが、纏めて着地しちまわないよう、いろんな場所に散らばらないと。
「なんで?」
 蜘蛛は縄張りとかは無いでしょ、巣を張って獲物を待つだけだから。
 それとも餌が足りなくなるかな、おんなじ所に沢山の蜘蛛が巣を作ってたら。
「餌の問題も大きいが…。生物としての問題もある」
 上手く分散出来てないから、生き残るのが難しいんだ。散っていたなら、チャンスは増える。
 嵐が来たとか、旱魃だとか。自然の中では色々あるだろ、命の危機が。
 散らばっていれば、一つのグループが滅びちまっても、他のグループが生き残れるから。
「そうだね…」
 兄弟が殆ど死んでしまっても、生き残りがいれば滅びちゃうことはないものね。
 子孫を増やせば滅びないんだし、散らばってる方が安心だよね。離れ離れは寂しいけれど。



 大勢の仲間と一緒にワイワイ暮らせていたなら、楽しそうに思える蜘蛛たちの世界。空を飛んで旅をして行った先でも、仲間たちと一緒だったなら。
 けれども、それは人間だから思うこと。蜘蛛の世界では逆が正しい。兄弟たちと離れ離れでも。空の旅の途中で、皆と別れてしまっても。
 ハーレイは「分かったか?」と、バルーニングの失敗例について教えてくれた。
「俺も何度かニュースで見てるが、馬鹿デカイ布でも地面に被せたみたいだぞ」
 レースと言うより、透ける布だな。そいつが辺り一面だ。塵も積もれば山となる、ってトコか。細い糸でも、物凄い数になった時にはああなる、と。
 だが、蜘蛛の方じゃ、固まっちまったらおしまいなんだ。運が悪かったと言うべきか…。
 風に乗って空の旅に出たなら、あちこちに広く散らないと。
 そういう意味では、シャングリラはリスクが高かったよな。…前の俺たちが生きていた船。
「シャングリラ…?」
 どういう意味なの、シャングリラは蜘蛛の子供たちとは違うけど…。
 乗っていたのは人間なんだし、大勢の仲間と助け合える方がいいじゃない。生きてゆくのにも、食べ物や物資を手に入れるにも。
 みんなで協力し合うのがいいよ、でないとミュウは生き残れないよ?
「それはそうだが、考えてみろ。…バルーニングと同じ理屈で」
 蜘蛛の子供たちは散らばることで、生き残るチャンスを増やしてるんだ。滅びないように。
 しかし、シャングリラはそうじゃなかった。皆、纏まって乗っていだろ、あの船に。
 早い話が、シャングリラが沈めば終わりだったろうが。…ミュウという種族は。
 ミュウを乗せた船は、あの船だけしか無かったんだから。あれが沈めば滅びるしかない。
 なのに、人類はシャングリラを退治し損ねた。何度も攻撃して来たのにな。
 アルテメシアから逃げ出した時もそうだし、ナスカだってそうだ。もちろん旅の途中でも。
 たった一隻しか船は無いのに、前の俺たちは生き残った。…滅ぼされずに。
 進化の必然だったとはいえ、珍しいケースなんだと思うぞ。纏まってたのに生き延びたなんて。



 そう思わないか、と尋ねられたら、頷かざるを得ない運の良さ。前の自分たちとシャングリラ。
 蜘蛛の子供たちは滅びないように散ってゆくのに、纏まったままで旅をしていた。大勢の仲間を乗せた箱舟、白いシャングリラに固まったままで。
 考えてみれば、他の星でも生まれていたミュウ。
 SD体制はミュウ因子を排除しなかったのだし、何処でもミュウは生まれていた筈。前の自分やハーレイがいたアルタミラのように、大勢のミュウが発見された星もあったろう。
 けれど、何処からも第二、第三のシャングリラは出て来なかった。シャングリラとは違う名前の船にしたって、ミュウの仲間が集まる船は。
 そういう船は一つも出て来ないままで、白いシャングリラも増えはしないまま。仲間たちを他の船に移して、艦隊を組むことも出来たのに。シャングリラを艦隊の中心に据えて、何隻かで。
 仲間の数が増えていっても、シャングリラはずっと一隻だった。たった一隻で宇宙を旅した。
 人類軍との本格的な戦闘状態に入った後でも、やはり変わらず一隻のまま。
 船が増えたのは、ソル太陽系が目前に迫ってからのこと。
 ゼルとブラウと、エラが指揮官だった船。その三隻が新たに加わったけれど…。



 ハーレイの口ぶりからして、あの船たちは分散するためではなかったのだな、と思ったから。
「えっとね、ハーレイ…。シャングリラとは違う船…」
 ゼルやブラウが指揮していた船、あったでしょ?
 前のぼくがいなくなった後。…もうすぐ地球だ、っていう頃には。たった三隻だったけど。
 だけど、あの船…。あれを増やしたのは、生き残るためじゃなかったんだよね?
 シャングリラが沈められちゃったとしても、エラたちの船が残ってるから、っていう意味の船。
「そういう船とは違ったな。結果的に、あれがコルディッツを救いはしたが…」
 ゼルの船にステルス・デバイスを搭載していたお蔭で、ミュウの仲間は救えたんだが…。
 あの三隻があるからといって、シャングリラが無くても生き残れるってわけじゃなかった。前と全く変わらなかったな、ミュウの事情というヤツは。
 単に戦力を増やすためにだけ、あの三隻を加えたんだし…。あっちに移った重要人物は、ゼルやエラたちだけなんだから。
 そんな船だけ残っていたって、ミュウの未来は無さそうだろうが。
 ソルジャーは辛うじて生き残っていても、キャプテンだった俺はいないし、二番手のシドも…。
 ブリッジクルーも全滅だろうし、シャングリラを支えたヤツらも同じだ。
 それでどうやって生きて行くんだ、自給自足も出来ない船で。
 たった三隻で命からがら逃げ出したとしても、二つ目のナスカも作れやしない。
 残った船には、戦闘員しかいないんだから。でなきゃ機関部担当とかで、料理の腕も怪しいぞ。
 あんな船だけ残っても駄目だ、ミュウは生き延びられないってな。



 艦隊の形を取った時にも、やはりリスクは分散してはいなかった。空を旅する蜘蛛の子供たち、彼らが滅びてしまわないよう、降りる先を変えて散らばるようには。
 地球を擁するソル太陽系が近付いて来ても、相変わらずシャングリラが核だったミュウ。それを失くせば滅びるのに。生き延びる道は無いというのに。
「…前のぼくたち、間違えてたかな、戦法を…?」
 シャングリラだけに固まってたのは、失敗だったみたいだけれど…。
 たまたま上手く行ったってだけで、一つ間違えたら、ミュウの未来も無かったんだけど…。
「まったくだ。実に危うい道ってヤツだな、シャングリラだけで旅をしていたなんて」
 前の俺も気付きもしなかった。危ない橋を渡ってるんだということに。
 本格的な戦闘なんかは、一度もしないままだったしなあ…。一方的に追われるだけで。
 ジョミーが地球を目指すまではだ、防戦一方と言ってもいい。一度も打って出ちゃいない。
 アルテメシアで前のお前たちの代わりに囮になっても、ただそれだけのことだったしな。
 こっちから派手に爆撃するとか、そんなことはしていないんだから。



 前の俺たちは生存本能が薄かったんだろうか、とハーレイがついた大きな溜息。
 お前でさえも死んでしまったし、と。
「前のお前は、俺たちよりかは逞しかった筈なんだ。身体は遥かに弱かったがな」
 それでも、物資を奪いに行ったり、人類の施設に忍び込んだり…。
 身の危険ってヤツは感じた筈だぞ、お前にとっては大した脅威でなかったとしても。
 そんなお前でさえ、メギドを沈めて死んじまった。…生きて戻ろうとは、思いもせずに。
「あれは、みんなを守るためで…!」
 みんなの命を守るためだもの、生き残るためにやったことだよ。ミュウの未来を守るために。
「そうなんだろうが、死んじまったというのがなあ…」
 普通だったら、ああいう時には、自分も一緒に行き残る道を探すだろうが。
 死んでたまるか、と踏ん張るのが生存本能ってヤツで、実際、出来ないわけじゃなかった。
 一人でメギドに出掛ける代わりに、ジョミーも連れて行くとかな。
「そんなことをしたら、危ないじゃない!」
 トォニィたちは船に戻せたとしても、ジョミーも一緒に行くなんて…。
 もしもメギドで、ソルジャーが二人とも死んでしまったらどうするの!
「お前、それほどジョミーが信用出来なかったか?」
 一緒に行ったら足手まといで、何の役にも立たないだとか。…共倒れになってしまうだとか。
「ううん…。ジョミーだったら、ちゃんと戦えたと思う…」
 二人がかりならメギドを沈めて、キースの船ごと壊せたと思う。指揮官を失くして人類軍が混乱している間に、シャングリラまで逃げることだって…。
「ほら見ろ、お前でもその有様だ。…生きようと思えば生きられたのに」
 ナスカに残った連中だってそうだ、シェルターごと押し潰されてしまったキムやハロルド。
 どうしても生きたい、助かりたい、と言うんだったら、あの連中だって助け出せたぞ。
 メギドに襲われた後にしたって、ジョミーはナスカにいたんだから。
 たった一言、「船に戻りたい」と頼めば良かった。そうすりゃ、どうとでもなった。
 ナスカにシャトルを降ろせなくても、ジョミーの力で皆を乗せることなら出来たんだから。



 惑星崩壊を起こしつつあったナスカの大地。揺れ動き、地割れが走る地面にシャトルを降ろせはしない。滑走路が確保出来ないから。
 けれど、ある程度の高度までなら降りられる。ジョミーが其処まで皆を運べば、収容は可能。
 ナスカに残った仲間たちが皆、シェルターを捨てていたならば。脱出の道を選んだならば。
 なのにそうせず、残ってしまった大勢のミュウたち。崩れゆく星では、シェルターの中も恐らく無事ではなかったろうに。明かりも消えてしまったろうに。
「人間ってヤツはパニックになると、頭が真っ白になっちまってだ…」
 目の前の危機を回避する代わりに、どうでもいいようなことをしようとするらしいんだが…。
 逃げればいいのに、崩れそうな家の掃除を始めちまうとか。
 ナスカに残ったヤツらも同じで、シェルターの中で落ちてくる瓦礫の掃除をしたかもしれん。
 思念波で助けを求めりゃいいのに、汚れちまったから床を綺麗にしないと、と。
 その可能性はあったとしたって、それよりも前に、危機感ってヤツが欠けていた。
 あれだけ危険だと警告したのに、残ってしまう辺りがな。
 …そういうヤツらも仲間だったんだ、生存本能は薄かったかもな。
 前の俺たちが生きた時代のミュウは全員、お前も含めて。



 シャングリラだけに固まって生きていただけあって、とハーレイに指摘されたこと。生存本能が薄い種族だったと、生き残る意欲に欠けていたと。
 言われてみれば、前の自分は思い付きさえしなかった。
 自分が生き残ることはもちろん、リスクを分散することも。一撃で滅ぼされてしまわないよう、仲間たちを散らせておくことも。
「…シャングリラ、一つじゃ駄目だったんだ…」
 沈められたらおしまいだものね。幾つかの船に分けておいたら、他の船が残ることもあるのに。
 前のぼく、全然、気付かなかったよ。
 救命艇は欲しかったのに…。意味なんか無いって言われたけれども、いつかは欲しい、って。
「あれだって、船を分けていたなら、意味は充分あっただろうさ」
 非常事態に陥った時は、それで脱出すればいい。他の船が収容しに来るからな。
 夢物語ってわけじゃなかった筈だぞ、シャングリラの他にも船を持つことは。
 前のお前なら、船だって奪えていたんじゃないか?
 適当な船を見付け出したら、乗ってるヤツらを放り出して。…殺さなくても、意識を奪って押し込めておけばいいんだから。お前が欲しかった救命艇に。
 それごと宇宙に放り出したら、船は貰っておけるだろうが。放り出された人類の方も、救命艇の中で気が付いた後は、救難信号を出せば助けが来るんだからな。
「…そうだったかも…」
 もしも欲しいと思っていたなら、船は貰えていたかもね。物資を奪うのと同じ要領で。
 コンテナを盗むか、中の人類を放り出すかの違いだけだし…。前のぼくなら、出来たんだし。
 武装した船だって奪えた筈だよ、白い鯨が出来る前でも。
 ビクビクしながら隠れてなくても、戦える船を持てていたよね、奪っていたら。



 人類を一人も殺さなくても、きっと奪えただろう船。乗員を全部、救命艇で宇宙に捨てて。
 その手を使えば、艦隊は組めた。シャングリラの他にも船を引き連れ、仲間たちを乗せて。
 船を一隻沈められても、ミュウが滅びてしまわないように。
 空を飛んでゆく蜘蛛の子たちが、生き残るために散らばるように。
 それをしないで、シャングリラだけで旅を続けた前の自分たち。リスクを分散させることなく。
「…前のぼくたち、やっぱり駄目だったのかな…」
 頑張って生きてたつもりだけれども、色々、失敗していたのかな。
 人類は逞しく生きていたけど、ミュウは弱くて、生存本能だって薄くって…。
「駄目だったんだろうな、生き物としては」
 蜘蛛の子供でも、散らばって生きようと旅をするのに。…固まっていたら滅びるから、と。
 前の俺たちには本能どころか、立派な脳味噌があったってのに…。
 誰一人として、其処に気付きやしなかった。前のお前も、ヒルマンも、エラも。
 船を分けようと、そうした方が生き残れるチャンスが増えるから、とは。
 だが、そんなミュウでも神様が助けて下さったんだ。生きろと、無事に生き延びろと。
 そのお蔭で今があるってな。
 人間は誰もがミュウになった世界。戦いなんかは無くなっちまった平和な世界が。
「本当だね。滅びちゃっても、文句は言えなかったのに…」
 生き残るための努力をしていたつもりで、間違ったことをしてたのに。
 シャングリラだけに固まって住んで、他にも船を持つことなんか、一度も考えないままで。
 もしもシャングリラが沈んでいたなら、ミュウはおしまいだったのにね…。



 何も知らずにシャングリラだけで生きていたのに、滅びなかった前の自分たち。本当だったら、船を奪って艦隊を作るべきだったのに。
 ミュウという種族を守りたいなら、そのための手段を講じておくべきだったのに。
 糸を頼りに空を旅する、蜘蛛の子供たちも知っていること。固まってしまったら失敗なのだと、滅びないためには散らばらねば、と。
 幸運だったとしか言いようがない、シャングリラで旅をしていたミュウ。滅びの危機に気付きもしないで、たった一隻の箱舟に乗って。
「…そういえば、蜘蛛もシャングリラにはいなかったよね」
 蜘蛛の巣なんかは見たことがないよ、あの船では。大きなのも、隅っこに出来る小さいのも。
「まるで必要無かったからなあ、蜘蛛なんかは」
 虫を食べるっていうだけなんだし、その虫にしても、ミツバチしかいない船ではな…。
 大切なミツバチを食われちまった、と大騒ぎになって直ぐに駆除だな。役に立たん、と。
 しかしだ、もしもシャングリラに蜘蛛がいたなら、ヤツらは空を飛んだだろうし…。
 あの船の中しか行き場が無くても、散ろうと旅をしたんだろうし。
 そいつを見てれば、前の俺たちだって、リスクの分散というヤツをだな…。
 いや、考え付かないか、前の俺たちじゃ。
 今度の蜘蛛はこんなに遠くまで飛んで行った、と記録を取るとか、その程度だな。
 ブリッジにまで飛んで来たとか、どうやって青の間まで飛べたんだか、と首を捻るとか。



 あんな状態でよく生き残れたな、とハーレイも呆れる、生存本能が薄かったミュウ。
 生き残るために努力していたつもりだったけれど、やり方を間違えていたらしいミュウ。一隻の箱舟を沈められたら、それでおしまいだったのに。
 綱渡りのような危うい航路を、最後まで旅して行ったのに。…地球に着くまで。
 それでも滅びなかったミュウ。蜘蛛の子供でも知っていることを、知らずに旅をしていたのに。
 本当に神が味方してくれたのだろう、さっきハーレイが言った通りに。
 「生きろ」と、「ミュウの時代を作れ」と。
 空を旅する蜘蛛の子供の話を聞いたお蔭で、神の助けに気付いたから。蜘蛛の子供が糸を頼りに空を飛ぶことは、窓の外に巣を張っていた蜘蛛のお蔭で聞けたのだから…。
「…ねえ、ハーレイ。さっきの蜘蛛、ちゃんともう一度、巣を張れるかな?」
 ハーレイに投げられちゃったけれども、あの木の所で巣を作れるかな?
 ちゃんと御飯が食べられるように、虫を捕まえられるような巣。…お母さんの蜘蛛なら、お腹の卵もきちんと育ててあげられるのを。
「おっ、考えが変わったか?」
 虫が可哀相だと騒いでいたのに、蜘蛛の心配、することにしたか。
 俺に蜘蛛の巣、すっかり壊させちまったのにな。
「生きてゆくのが大切でしょ?」
 蜘蛛もそうだし、前のぼくたちだって、そうだったんだよ。
 滅びちゃったらおしまいなんだし、頑張って生きていかなくちゃ。…ちょっと失敗していても。
 固まって生きてちゃ駄目ってことには、気付かないままで旅をしてても。



 生きていくには、食事するのも大事だものね、と微笑んだけれど。
 「だから蜘蛛には巣が要るんだよ」と言ったけれども、また蜘蛛の巣が出来たなら。露を纏って光る姿は綺麗だとしても、虫を捕えて食べるための罠が出来たなら…。
(虫、頑張って助けちゃいそう…)
 死の罠に虫が引っ掛からないよう、物差しを伸ばして、巣の糸を切って。
 ハーレイがやってくれていたように、蜘蛛の巣を壊して、蜘蛛だって遠くへ放り投げて。
(物差しを伸ばしても届かなかったら、またハーレイに頼むとか…)
 でなければ父を呼んで来るとか、もっと長い棒が無いかと探しに出掛けてゆくだとか。
 だから蜘蛛には、見えない所で頑張って欲しい。
 この部屋の窓からは見えない所に、虫を捕える巣を張って。餌の虫たちを捕まえて。
 前の自分たちも、隠して貰って生き残ったから。
 人類に滅ぼされてしまわないよう、神様が広げてくれた袖の中に。
 生き残るための努力を間違えていたのがミュウだったのに、神様に助けて貰ったから。
 神様が助けてくれたお蔭で、固まっていても大丈夫だったから、あの蜘蛛も何処か見えない所。
(そういう所で頑張ってよね)
 巣を壊されずに済む場所で。
 自分の目からは見えない所で、いつか卵が孵った時には、糸を飛ばして空の旅をして。
 シャングリラには無かった蜘蛛の糸のレースは綺麗だけれども、虫の命を奪うから。
 虫の命が奪われる前に、きっと助けてしまうから。
 前の自分たちの姿を重ねて、可哀相になって。
 「生きて」と「早く此処から逃げて」と、蜘蛛の都合も考えないで。
 今の自分は幸せだから。
 虫だって幸せに生きて欲しいから、蜘蛛の巣を壊しておかなくっちゃ、と…。




           蜘蛛の子の旅・了


※旅をする蜘蛛の子供の話から、ブルーとハーレイが気付いたこと。シャングリラのリスク。
 一隻の船に集まったままで旅をするのは、危険だったのです。神の采配で生き延びたミュウ。
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「あっ…!」
 コロン、とブルーが床に落としたコイン。学校ではなくて、自分の部屋で。
 手にした財布の中から一枚、転がっていって、ベッドの下へ。アッと言う間に、コロコロと。
(あーあ…)
 落としちゃった、と零れた溜息。学校から帰って、おやつの後で戻った小さなお城。母に貰った昼食代とお小遣い。それを入れようと財布を出していた時の事故。勉強机の前に座って。
 落ちたコインはベッドの下。取ろうと床に屈み込んだのだけれど…。
(届かないよ…)
 手を突っ込んでも取れないコイン。腕の長さが足りないから。
(んーと…)
 こういう時には長さを足せば、と机から物差しを取って来た。充分に長いし、これで引っ掛けて取ればいいや、と。
 なのに、コインが薄いせいなのか、自分の腕前が悪いのか。物差しを何度入れてみたって、先にくっついてはくれないコイン。少しも上手く引っ掛からない。床にコロンと横倒しのまま。
(ちょっとくらい動いてくれたって…)
 どうして駄目なの、と格闘している内に聞こえたチャイム。まだ早いから、と眺めた時計が示す時間は、思った以上に遅い時間で。
(まさか、ハーレイ!?)
 物差しを床に放って窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。落としたコインは、諦めるしかないだろう。ハーレイが帰ってゆくまでは。
(…拾ってるような時間があったら、ハーレイとお喋り…)
 後にしよう、と片付けた物差し。それに財布も。



 コインは後で、と決めていたのに、やっぱり気になるベッドの下。あそこにコイン、と。
 お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んでハーレイと向かい合わせに座っても。ついつい目が行くベッドの方。コインを拾い損なっちゃった、と。
 きっと何度も見ていたのだろう、ハーレイに「おい」と掛けられた声。
「さっきから何を見てるんだ?」
 心がお留守になってるようだが、何度も見ているベッドの方。…それも下だな、床の方だ。
 あそこに何か隠しているのか、ベッドの下に?
 どうなんだ、と鳶色の瞳が見詰めてくるから、慌てて「ごめん」と謝った。
「何も隠してないけれど…。余所見しちゃって、ごめんなさい…」
 隠すんじゃなくて、落っことしちゃった。ベッドの下に入ってしまったんだよ、コインが一枚。
 ママに貰ったお小遣いを財布に入れてた時にね、床に落としたら転がっちゃって…。
 ベッドの下、と項垂れた首。あの下に入ったままになってる、と。
「拾えばいいだろ、落としたんなら」
 俺が来た途端に落としたとしても…。ちょっと拾うから、と言えばいいだけのことだろうが。
 余所見ばかりをされるよりかは、待たされた方が俺は気にならないがな?
「…拾えないんだよ、手が届かなくて…」
 知っているでしょ、ぼくはサイオンじゃ拾えないこと。うんと不器用になっちゃったから。
 だから手でしか拾えないんだし、それでも頑張ったんだけど…。
 物差しで引っ掛けようともしたけど、コイン、ちっとも引っ掛からなくて…。
「そういうことか…。何処だ?」
 俺なら拾ってやれるだろう。手が届かないほどの場所にしたって、サイオンもあるし…。
 コインくらいはお安い御用だ、どの辺りなんだ?



 ベッドの下は暗くて見えにくいからな、と椅子から立ち上がってくれたハーレイ。拾ってくれるつもりなのだし、「ここ…」と指差したベッドの下。
「この奥の方…。見える?」
「…あそこか、確かに落ちてるな。コインが一枚」
 床に屈んで、「届くかもな」とハーレイが伸ばしてくれた腕。長い腕がしっかり捕まえたから、コインは無事に戻って来た。「ほら」と渡されたコインが一枚。ハーレイの手の温もりつきで。
「ありがとう…!」
 御礼を言って、財布に入れようとしたけれど。…ほんのり温かい、一枚のコイン。拾ってくれた大きな褐色の手から移った温もり、コインは冷たいものなのに。
(ハーレイが拾ってくれたコイン…)
 それに温かい、と気付いた幸せなコイン。これは特別、ハーレイに拾って貰えたのだから。
 ただのコインなら財布に戻しておしまいだけれど、幸せな道を歩んだコイン。落っこちた時には不幸だったのに、今はハーレイに拾って貰って幸せ一杯、幸運なコイン。
(…うんと幸せ…)
 とても幸せなコインなのだし、他のとは別に残しておきたい。使ったりせずに、大切に。
 だから財布に入れる代わりに、引き出しの奥に仕舞っておこうとしたのだけれど…。
「どうして財布に入れないんだ?」
 引き出しなんかに入れてどうする、行方不明になっちまうぞ。きちんと財布に入れないと。
「大丈夫だよ、後で入れ物を探すから。…失くさないように」
 これはハーレイに拾って貰ったコインだもの。特別だから、大事にするよ。
 財布に入れたら無くなっちゃうでしょ、使ってしまって。
「馬鹿野郎!」
 何が特別だ、たかがコインが一枚だ。第一、俺は拾っただけで…。
 元はお前のコインなわけだし、プレゼントとは全く違うだろうが!



 そんなことをするなら、次から二度と拾ってやらんぞ、と睨まれた。腕組みまでして、眉間には皺。「特別も何も」と、「せっかく手伝ってやったのに」と。
「手が届かなくて拾えない、と困っているから、手伝ったんだぞ」
 ついでに、そいつはお前の昼飯代だろうが。それ一枚でランチ、食えるだろ?
「そうだけど…。一日分なら充分だけど…」
 ちょっと足したら、ジュースとかも一緒に買えちゃうけれど…。
「なら、入れておけ。財布の中にな」
 貴重な小遣いというヤツだ。ランチが一回分なんだから。
 貯めて何かに使うならいいが、記念に取っておくには少々、高すぎるってな。
 もっとも、もっと安いコインでもだ…。俺が拾った記念なんかに残しておくのは禁止だ、禁止。
 そういう魂胆でまた落とさないように、今からきちんと言っておく。厳禁だぞ。
 分かったら、さっさと入れるんだな。元の財布に。
「うー…」
 ハーレイのケチ!
 ぼくのコインだもの、どう使っても良さそうなのに…。取っておくのも自由なのに!
 なんで駄目なの、一枚くらい…!
 いいでしょ、と抗議したって出ないお許し。ハーレイは「財布に入れろ」と睨んだまま。
 仕方ないから、「残念…」と財布に戻したコイン。同じコインたちが入っている中に。
 チャリンと入れたら、どれだったのかは、もう分からない。
 コインの見た目はまるで同じで、他にもコインが入っていたから。色々な額のコインと一緒に、紛れてしまった幸せなコイン。同じ種類のコインは三枚、その中にすっかり混じってしまって。



 こういう時に限ってコインが一杯、と嘆いた財布。同じ種類は三枚だけでも、他のコインが沢山あったら、滑り込める場所も多いから。財布を閉じてしまった後には、中で動きもするのだから。
(幸せなコイン、無くなっちゃった…)
 ホントにどれだか分かんないよ、と財布を鞄に戻したけれど。元の椅子へと座ったけれど。
(…作られた年とか…)
 見ておけば良かった、と後悔しきり。コインの製造年が分かれば、目印になった筈だから。運が良ければ「これだ」と見付け出せたから。…他のコインに紛れていても。
(同じ年に作ったコインばかりでも、傷があるとか…)
 ほんの小さな引っ掻き傷。それがあったら分かったのに、と相も変わらず上の空。ベッドの方を何度も見ていた時と変わらないから、「お前なあ…」とハーレイがついた大きな溜息。
「拾ってやっても、拾わなくても、今日のお前は上の空ってな」
 俺よりもコインが気になるらしいな、お前ってヤツは。…まったく、どうしようもないヤツだ。
 恋人よりもコインの方か、と俺が怒って帰っちまったらどうするつもりだ?
 だが、まあ、一つ思い出せたし…。許してやるがな、ボーッとしてても。
「え?」
 思い出せたって…。何の話なの?
「ようやく聞く気になったってか。俺の話を、ちょっとは真面目に」
 コインよりも俺だって気持ちになったか、さっきよりは?
「ごめんなさい…。ちゃんと聞くから、その話、教えて」
 何か思い出があるんでしょ?
 コインか、何かを拾う話か、そういうので。…今のハーレイのお話だよね?



 ぼくにも聞かせて、と興味が出て来たハーレイの思い出。幸せなコインはもう捜し出せないし、考えていても無駄なこと。それを追うより、ハーレイの過去を知りたいから。
(今のハーレイ、ぼくよりもずっと年上だものね?)
 思い出だってきっと沢山、と瞳を輝かせて、思い出話を待っていたのに。
「生憎と、俺じゃないってな」
 前のお前だ、コインのお蔭で思い出したのは。
「…前のぼくって…。何かやってた?」
 コインを落としてしまうなんてこと、前のぼく、しないと思うけど…。
 お小遣いなんかは貰っていないし、お金だって持っていなかったもの。使うことが無いから。
「コインじゃないがだ、俺に拾わせていたってな」
 今日と同じで、「拾ってくれ」と。
「拾って貰うって…。何を?」
 何をハーレイに拾わせていたの、前のぼくならサイオンで拾えた筈なのに。
 わざわざハーレイに頼まなくても、ちゃんと自分で拾えそうなのに…。
「一つだけじゃない、いろんな物だな。お前が俺に拾わせたのは」
 最初は偶然だったんだが…。お前が狙っていたわけじゃなくて。
 俺に拾わせるつもりは無かったんだが、お前、拾えなかったんだ。頑張ったのに。
 青の間のベッドの馬鹿デカイ枠、あれの下に見事に挟まっちまって。
「ああ…!」
 そういえばあったね、頼んだことが。
 ぼくの力じゃ拾えなくって、ホントに困っていた時だっけ…。



 思い出した、と蘇って来た前の自分の記憶。ソルジャー・ブルーだった頃の、遠い昔の。
 もうハーレイとは恋人同士になっていた時代。夜になったら、青の間を訪ねて来たハーレイ。
(でも、キャプテンの仕事もあったから…)
 一日分の報告だったり、キャプテンとしてソルジャーの指示を仰いだり。
 その夜も、ハーレイが来たら訊くべきことがあるかどうか、と書類を見ていた。昼の間に開いた会議。其処で「次回までに」と配られたもの。次の会議で検討する議題や、その資料など。
 順にめくって読んでゆく内に、うっかり落とした一枚の書類。
 それはスルリとベッドの下へと滑り込んでしまって、枠と床の間に挟まって…。
(引っ張っても、ビクともしなくって…)
 何処かに端が引っ掛かったらしくて、動かない書類。無理に抜いたら、きっと破れる。ビリッと真ん中から破れてしまって、真っ二つに裂けてしまいそう。
(瞬間移動で…)
 それなら取れる。一瞬の内に、書類は手の中に戻って来る。
 けれど、エラやヒルマンたちなら言うだろう。「人間らしく」と。安易にサイオンに頼るなと。自分の肉体が持っている力、それを使って拾うべきだと。
 サイオンはミュウだけの力だから。人類には無い能力なのだし、人間らしくあるべきだと。
 だから駄目だ、と瞬間移動をさせるのはやめて、枠を持ち上げようとした。両方の腕で。
(この枠が、ほんの少しだけ…)
 床から離れて隙間が出来たら、足で書類を蹴ればいい。引っ掛かっているのも外れるだろう。
 そう考えて挑んだけれども、重くてとても持ち上げられない。動いてくれないベッドの枠。
 何度、両腕に力をこめても。今度こそ、と歯を食いしばっても。



 どんなに努力を重ねてみたって、ベッドの枠は動きもしない。僅かな隙間も出来てはくれない。
 やっぱり無理だ、とサイオンを使って取ろうとしたら、開いた扉。緩やかなカーブを描いて下へ伸びるスロープ、その端に見えたハーレイの姿。
 恋人が来てくれたのだから、と書類の件は一時中断。なのにハーレイには分かるらしくて、側に来るなり問い掛けて来た。
「どうなさいました?」
 何か困ってらっしゃることでも…?
 気になることでもおありなのですか、そういう風に見えるのですが…。
「分かるのかい? 大したことではないんだけれど…」
 この下に書類が挟まっちゃってね、引っ掛かったらしくて取れないんだ。
 サイオンを使えば直ぐに取れるけど、エラたちがいつも言うだろう?
 「人間らしく」と、肉体の力を使うべきだと。
 ぼくも頑張ってはみたんだけれど…。ぼくの力ではビクともしないよ、このベッドの枠は。
「枠に挟まったのですか?」
「そう、此処の下」
 覗いてみれば見えるよ、これ。…ほら、引っ張っても出て来ないんだ。
「無理に引っ張ったら破れそうですね、真ん中から」
 この枠の下敷きということは…。
 此処だけ浮いたら、引っ張り出せると思いますよ。ですが、あなたの力では…。
 まず無理でしょうね、この枠はとても重いですから。
「そうだよね…」
 サイオンで抜くよ、瞬間移動で。そうしようと思っていた所だから。
「お待ち下さい、私の力なら動かせるかもしれません」
 あなたよりは力が強いですから、このくらいは…。サイオン無しでも、少しくらいなら…。



 やってみましょう、とハーレイが両腕で持ち上げた枠。それは本当に少し浮き上がったから…。
「今です、ブルー!」
 抜いて下さい、今の間に…!
「ありがとう、ハーレイ!」
 取れた、と素早く抜き出した書類。端には皺が残ったけれども、破れずにちゃんと取り出せた。人間らしい方法で。サイオンの助けを借りることなく。
 ハーレイが「もういいですね?」枠を下ろした後に、「君は凄いね」と褒めたのだけれど。
「いえ、それほどでも…」
 馬鹿力だというだけですよ。こういう身体ですからね。
 昔からゼルに言われたものです、「このデカブツ」だの、「独活の大木」だのと。
 この程度のことも出来ないようでは、本当に独活の大木ですから…。
 持ち上げられて良かったですよ。馬鹿力などは、褒めて頂くほどのことでは…。
「馬鹿力って…。凄い力だと思うけれどね?」
 ぼくには出来なかったことだよ、この枠を腕の力だけで持ち上げるのは。
 それを軽々とやってのけたんだし、凄いことだと思うけど…。馬鹿力なんて言わなくても。
「ありがとうございます。…ゼルにかかれば、馬鹿力だろうとは思いますがね」
 ですが、お力になれて良かった。
 こんなことでしたら、いつでもお手伝いさせて頂きますよ。
 人間らしくなさりたいのに、あなたのお力が足りない時には。



 私がお役に立てるのでしたら、と力強い言葉を貰ったから。ハーレイが手伝ってくれるから。
(前のぼく、調子に乗っちゃって…)
 何かを落として取れない時には、いつもハーレイに頼っていた。「ぼくじゃ無理だ」と、恋人がやって来るのを待って。「あれを取って」と、「拾って欲しい」と。
 ベッドの枠の下に挟まるどころか、青の間の巨大な貯水槽に落とした時だって。
(…ハーレイ、どうやって拾ってたんだっけ?)
 思い出せない、貯水槽に落としてしまった時。サイオンを使わずにどうやって、と。
 首を捻って考えてみても、答えが出ないものだから…。
「あのね…。ハーレイが拾ってくれていた話…」
 色々な時に拾って貰ったけれども、貯水槽の時はどうしてたっけ?
 あそこ、深くて、水が一杯だったのに…。手を突っ込んでも、底まで届くわけがないのに。
「頭を使えよ、シャングリラの基本は「人間らしく」だ」
 あの貯水槽の係にしたって、例外じゃない。深いからって、サイオンで掃除するのはなあ…?
 メンテナンスをしてたヤツらが使う道具が奥にあったろ。
 普段はきちんと仕舞ってあったが、貯水槽の掃除をしようって時には出て来たヤツが。
「そうだっけね…!」
 道具、色々、入ってたっけ…。
 ぼくが会議とかで留守の間に、係が掃除をしてたから…。あの貯水槽にも係がいて。



 青の間には部屋付きの係が配属されていたけれど、それとは別にメンテナンスの係がいた。青の間の空調やら貯水槽やら、そういった設備を専門に扱っていた係。
 彼らのための道具を収めた小さな物置。
 貯水槽に何か落とした時には、ハーレイは其処の道具で拾った。網だの、マジックハンドだの。
「…何回、お前に拾わされたか…」
 ベッドの下やら、貯水槽やら。
 俺が青の間に出掛けて行ったら、「あれを拾って欲しいんだけど」と頼まれるんだ。
「さっき、ハーレイも言ったじゃない。人間らしく、だよ」
 シャングリラの基本はそれだったんだし、ハーレイ、手伝ってくれるって言ったし…。
 ぼくの力で拾えない時は、ハーレイが拾ってくれるって。
「そう言っては待っているんだからなあ、俺の仕事が終わるまで」
 ブリッジ勤務が終わって報告に出掛けてゆくまで、お前、拾おうともせずに。
 たまには自分で拾えばいいんだ、「人間らしく」にこだわらずに。
 どうしても出来そうにないって時には、使っていいのがサイオンだったぞ。サイオンってヤツは本来、そうするためにあるんだから。…足りない能力を補うために。
「自分で拾った時もあったよ!」
 何もかもハーレイ任せにしてはいないよ、前のぼくだって!
 ベッドの下なら放っておいても大丈夫だけど、貯水槽はそうじゃないんだから…。
 あそこに書類を落としちゃったら、ハーレイが来るまで待っていちゃ駄目。
 書類はすっかりふやけてしまって、読めなくなってしまうんだから。
 他の物でも、水に落ちたら駄目になっちゃうものはあるでしょ?
 そういう時には拾っていたよ。道具は上手く使えないから、緊急事態だ、ってサイオンでね。



 長い時間、水に浸かっていたなら、使えなくなってしまう物。それをウッカリ落とした時には、サイオンでヒョイと拾っておいた。ハーレイが来るまで待っていないで。
 ちゃんと拾った、と胸を張ったら、「まあな…」と苦笑いしているハーレイ。
「お前の都合で決まるんだっけな、俺に拾わせるか、お前が自分で拾うかは」
 そういや、俺が拾った中でも一番デカイの。
 お前だっけな、大物ってな。
「えっ、ぼくって…?」
 どうしてハーレイがぼくを拾うの、前のぼく、迷子の子猫なんかじゃないよ?
 落ちていないと思うんだけど…。
 いくらハーレイが拾うのを仕事にしてたとしたって、落ちていないものは拾えないよ?
「落っこちたろうが、前のお前は」
 そして間違いなく俺が拾った。…いつも通りに。
「落ちたって…。何処に?」
「いつも通りと言っただろうが、その言葉だけで分からんか?」
 お前が俺に拾わせてた場所は青の間ばかりで、あそこで落ちるとなったなら…。
 貯水槽の他に何があるんだ、お前、あそこに落っこちたんだ。
「…そういえば…」
 ぼくが落ちちゃったんだっけ…。
 いつもと同じで拾って貰って、それを見ていて、今度はぼくが…。



 落っこちたんだ、と時の彼方から戻った記憶。前の自分がやった失敗。
 貯水槽の側に屈んでいたハーレイ。隣で「ハーレイはいつも上手に拾うね」と、感心して眺めていた自分。あの時は何を拾って貰ったのだったか、使っていた道具は何だったのか。
 「拾えましたよ」とハーレイが差し出して来たから、「ありがとう」と受け取ろうとして崩したバランス。貯水槽の直ぐ側だったのに。
 よろめいた身体はアッと言う間に落っこちた。貯水槽へと。
 サイオンで落下は止められるけれど、元の場所へも戻れるけれど。
(人間らしく…)
 拾って貰おうと思ったのだった、ハーレイに。貯水槽に落とした物たちのように。
 そして落っこちた貯水槽。シールドも張っていなかったから…。
(ドボンと落ちて、真っ直ぐ沈んで…)
 水面までの距離があった分だけ、沈んだ暗い水の中。前の自分の身長よりも深く。
 懸命に浮かび上がったまではいいけれど、闇雲に水を掻くしかなくて。
「ブルー!!」
 ハーレイが下へと差し伸ばした腕。青の間の床に腹這いになって。
 けれども、届くわけがない。水面はもっと下だったから。
 そのハーレイの顔を見上げながら必死に水を掻いていたら、サイオンで身体が浮く感覚。自分は使っていないというのに、ふうわりと。
 水から引っ張り出そうとするのは、ハーレイが使っているサイオン。
 落ちた自分を拾い上げるには、マジックハンドも網も役立たない。もっと小さな物のためにと、作られている道具だから。それで人間は拾えないから。



 水の中から救い出そうと、ハーレイが包んだ淡い緑のサイオンカラー。沈む前にと、早く水から引き上げようと。ハーレイの身体も、同じ色の光に包み込まれていたのだけれど…。
「待って…!」
 慌ててハーレイを止めようとした。人間らしく落っこちたのに、これでは何の意味も無いから。
 サイオンで助け上げられたのでは、拾って貰うことにならないから。
「ブルー!?」
 何を、とハーレイのサイオンは揺らがないけれど、伝えなければ。
 どうして自分が落っこちたのか、サイオンを使って此処から出ようとしないのか。
「人間らしく…!」
 ぼくが落ちても、人間らしく…!
 サイオンだったら、ぼくの力でも上がれるから…!
 君が拾ってくれるんだろう、ぼくが落としてしまった時は…!
 自分の力で拾えない時は、いつだって、君が…!
 だから今も、とバシャバシャと水を掻きながら叫んで、ガボッと飲んでしまった水。泳ぎ方など習っていないし、シールドもせずに深い水の中に入ったことは無いから。
 それでもハーレイが拾ってくれると、拾って貰おうと考えたのが前の自分で。
 水を飲んだせいで声も失くして、けれど思念波さえも使わないままで…。
「ブルー!!」
 一刻を争うと気付いたのだろう、貯水槽に飛び込んで来たハーレイ。キャプテンの制服を脱ぎもしないで、マントも背中に背負ったままで。
 ハーレイが上げた水飛沫を頭から被ったけれども、貯水槽の水も揺れたのだけれど。
 沈みそうな身体に回された腕。グイと脇から抱え上げるように。
 「動かないで下さい」と声を掛けられ、ハーレイは前の自分をしっかりと抱えて泳いでくれた。
 スロープに上がれる所まで。水面からスロープが近い所まで。



 泳ぎ着いたら、ハーレイに押し上げられたスロープ。「縁を掴んで下さい」と。スロープの縁を掴むのが精一杯だったけれど、ハーレイは立ち泳ぎしながら背を押してくれて…。
 やっとの思いで這い上がったら、直ぐにハーレイも上がって来た。突っ伏したままの前の自分を気遣うように掛けられた声。
「大丈夫ですか?」
「水、飲んだ…」
 後は言葉になってくれなくて、ただゲホゲホと咳き込むだけ。ハーレイは背中を擦って叩いて、飲んだ水をすっかり吐き出させてから、強い両腕で抱き上げた。前の自分を。
 そのままバスルームに連れて行かれて、頭から浴びせられた熱いシャワー。貯水槽の水で濡れてしまった服を剥ぎ取りながら、ハーレイは熱い湯をせっせと浴びせ続けて。
「とにかくシャワーで温まって下さい、お身体が冷えてしまっています」
 お湯も張りますから、バスタブにも浸かって頂かないと…。
 もう少しだけお待ち下さい、たっぷりのお湯を張ってからです。バスタブの方は。
「…君は?」
 ぼくの面倒を見てくれるのは嬉しいけれど…。
 君も一緒に落っこちたんだよ、あの貯水槽に。君も身体を温めないと…。
「このくらい、なんともありませんよ」
 プールが深いか、浅いかだけの違いです。普段から泳いでいますからね。
 貯水槽で泳ぐのは初めてでしたが、日頃の練習が役に立ちました。あなたを拾えましたから。



 次はこちらへ、と浸けられたバスタブ。湯加減を調べて、手足を擦ってくれるハーレイは濡れた制服を脱いでしまって、バスローブだけという姿。「私は風邪など引きませんから」と。
「でも、ハーレイ…。君の着替えは…?」
 シャワーやお風呂は後でもいいけど、君の服…。その格好じゃ冷えるだろうに。
 誰かに頼んで持って来させるとか、きちんとした服を着た方が…。
「私の服なら、明日の分が置いてあるじゃありませんか」
 あなたと一緒に過ごすのですから、いつも運んでありますが…?
 濡れていない服はちゃんとあります、あなたが心配なさらなくても。
「だけど、バスローブしか着てないし…」
 アンダーくらいは着た方が…。
 でないと君の身体も冷えてしまうよ、ぼくの世話なんかをしている間に。
「大丈夫ですよ、頑丈に出来ていますから」
 アルタミラからの筋金入りです、体力だったら船の誰にも負けませんとも。
 私の身体を心配するより、ご自分の心配をなさって下さい。
 あんな所でサイオンも無しで、溺れそうな目に遭われるだなんて…。
 「人間らしく」と言っても程度があります、私が直ぐに引き上げていたら、こんなことには…。
 あなたがサイオンを使っておられたとしても同じです。
 落下を止めるくらいのことなら、あなたには朝飯前なのですから。



 次からは「人間らしく」は無しです、とバスルームで厳しく叱られた。普通の物を拾うだけなら今まで通りに手伝うけれども、持ち主の人間は別だから、と。
 冷えた身体が温まったら、バスタオルで水気を拭われた。髪に至るまで、ゴシゴシと。
 病気の時しか使っていないパジャマを着せられ、押し込まれたベッド。上掛けを肩まで引っ張り上げたら、ハーレイはシャワーを浴びに出掛けた。「直ぐに戻ります」と。
 戻った時にもバスローブだけで、鳶色の瞳でじっと見詰めてから奥へ入って。
「…此処で作れるのは、これだけですから」
 何の食材も無かったので、と熱い紅茶を淹れて来てくれた。火傷しそうなくらいのを。
 ベッドの上で上半身を起こして飲んでいる間も、冷えないようにと肩に毛布を掛けられた。膝はもちろん上掛けの下で、飲み終わってカップを返したら…。
 カップを片付けに行ったハーレイは、戻るなり言った。「暖かくして休んで下さい」と。
 有無を言わさぬ口調だったけれど、水に落ちた自分を拾い上げてくれたのがハーレイだから…。
「じゃあ、温めてよ」
 ぼくの身体を温めるには、何が一番か知ってるだろう?
 君の身体で温めて欲しいよ、身体も、それにぼくの心も。…いつもみたいに。
「いいえ、今夜は添い寝だけです」
 ご自分に自覚が無いというのは頂けませんが…。
 あれほどの無茶をなさるのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
 まさか「拾ってくれ」だなどと…。
 あなたは物ではないのですから、拾うという言葉は当て嵌まりません。救助に救出、助けるとも言っていいでしょう。
 救助の時まで「人間らしく」とは、エラもヒルマンも一度も言ってはいませんが…?
 御存知でしょう、アルテメシアから子供たちを救出して来る時はどうするか。
 人間らしくサイオンを封じるどころか、フルに使って救出するのが船の基本で鉄則ですが…?
 それも忘れてらっしゃるようでは、ご自分のお身体も分かっておられませんね。
 もう充分に弱っておられて、いつも通りの過ごし方など、無理に決まっていますとも。



 あなたはきっと風邪を引いておしまいになりますから、とハーレイは添い寝しかしなかった。
 パジャマ姿の前の自分を抱き締めるだけで、ハーレイの身体にはバスローブ。
 「これでも風邪を引かれますよ」と、「明日になったらお分かりになります」と繰り返して。
 自分では「まさか」と思ったけれども、翌朝、本当に引いていた風邪。
 水に落ちた結果は発熱と、熱でひりつく喉と。
 ハーレイは「やっぱり…」と深い溜息をついて、朝食の支度に来た係に野菜を持って来させた。前の自分が寝込んだ時には、作ってくれた野菜のスープ。それをコトコト煮込むために。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだ素朴なスープ。
 出来上がったら、スプーンで掬って食べさせてくれて…。
「…熱いですから、気を付けて。それにしても、あなたという人は…」
 本当に弱くていらっしゃる。
 ご自分で落ちた水だというのに、こんな風に寝込んでおしまいになって…。
 私も後から飛び込みましたが、何処もなんともないですよ?
 こうしてスープも作りましたし、この後は仕事ですからね。いつもと同じにブリッジに行って。
「君が頑丈すぎるんだよ!」
 普段から風邪なんか引かないじゃないか、ぼくが引いても移りもしない。
 君と一緒にしないで欲しいよ、ぼくの身体は繊細なんだよ…!
「お分かりでしたら、次からは控えて頂きたいと…」
 昨日も申し上げましたよね?
 物を落としてしまわれた時は、サイオン抜きで拾わせて頂きますが…。
 持ち主の方が落ちた時には、サイオン抜きには致しません。問答無用で救出させて頂きます。
 けれど、あなたは、懲りるということを御存知ないような気もしますから…。
 貯水槽には近付かないで下さい、私が何かを拾う時には。



 あなたを拾うのは二度と御免です、とハーレイに真顔で叱り付けられた。
 それからは側で覗けなくなった、貯水槽での落とし物拾い。網を使うのも、マジックハンドも、離れた所から見るしかなかった。
「ハーレイ、危ないからそっちにいろって言うんだよ」
 もっと丁寧な言葉だったけど、意味はおんなじ。こっちに来るな、って。
「当たり前だろうが!」
 あんなのを見たら、二度とお前を近付かせないのが一番だ。
 落ちないようにするのも、自分の力で上がって来るのも、前のお前なら簡単なのに…。
 今の不器用なお前と違って、半分寝てても出来た筈なのに…!
「そうだけど…。今のぼくだと、ホントに無理だよ」
 ぼくが落っこちても拾ってくれる?
 何処かの池とか、湖だとか…。デートの途中で落っこちた時は。
「もちろん拾うが、サイオンは必ず使うからな?」
 ついでに、お前が落っこちる前。
 そうなる前に、落ちないように俺が支える。
 前の俺は油断していたわけだな、お前が落ちるとは思わないから。
 落ちても自分で落下を止めたり、シールドを張ったり、ちゃんと出来ると信じてたしな…?



 前のお前で懲りているから、俺は決して油断はしない、とハーレイは言っているけれど。
 デートで水辺に出掛けた時には、手をしっかりと握っていそうだけれど。
(…前のぼくが落っこちちゃった時…)
 抱えて貰って泳いだ思い出、あの腕が忘れられないから。
 スロープに自分を押し上げてくれた、逞しい腕の記憶も鮮やかに思い出せるから。
(…落ちてみたいかも…)
 水泳が得意な今のハーレイと、いつかデートに出掛けたら。
 落ちられそうな水があったら、前の自分が落っこちたように、バランスを崩して水の中へと。
 風邪は引きたくないのだけれども、ハーレイに助けて貰いたいから。
 サイオンは抜きで、「人間らしく」とお願いして。
 ぼくを拾ってと、懸命に水を掻いて叫んで。
 きっとハーレイは、「仕方ないな」と飛び込んで拾ってくれるから。
 拾い上げた後も、あの時みたいに、あの時以上に、きっと優しくしてくれるから…。




           拾って欲しい・了


※青の間の貯水槽に落ちてしまった、前のブルー。ハーレイに拾って欲しくてサイオン抜きで。
 望みは叶ったわけですけれど、風邪を引いてしまって叱られた結末。でも、幸せな思い出。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










「こらあっ、そこ!」
 何をしている、と怒鳴ったハーレイ。古典の授業の真っ最中に。
 突然のことにブルーもビックリしたのだけれども、声が向けられた先には男子生徒が一人。彼の瞳も驚きで真ん丸、教室の前でボードを背に立つハーレイをポカンと見ているだけ。
 ハーレイは腕組みをして男子生徒を睨んだ。「そう、お前だ」と。
「さっきから気になっていたんだが…。俺の授業はそんなに退屈か?」
 鏡を見詰めて何をしている、此処からは良く見えるんだが?
「え、えっと…。じゅ、授業はちゃんと聞いてます! でも…」
 この前髪が気になって、と指差す寝癖がついた前髪。あらぬ方へと跳ね上がったカーブ。それを引っ張っていたらしい。鏡を覗いて、なんとか直せないものかと。
「ほほう…。手鏡持参でか?」
 なかなか洒落た鏡だな。わざわざ家から持って来たのか、お前のか、それともお姉さんのか?
「こ、これは…。ぼくのじゃないです、違うんです!」
 だから没収しないで下さい、という叫び。鏡はクラスの女子の持ち物、頼み込んで貸して貰ったらしい。「少しだけ」と。
「なんだ、お前の鏡じゃないのか。つまらんな」
 実につまらん、お前のだったら良かったのに。…没収の件とは関係ないぞ?
「え…?」
「とびきりの渾名、つけてやろうと思ったんだが」
 ずいぶん熱心に鏡を見てるし、お前に相応しいヤツを。もうピッタリの名前があるんだ、お前のように鏡ばかり見てるヤツにはな。



 これだ、とハーレイがボードに書いた「水仙」。冬に咲く香り高い花。寒さの中で凛と咲く花、それが水仙だった筈。
「こういう名前をプレゼントしようかと…。水仙、もちろん知っているよな?」
 今の季節の花じゃないんだが、普通は知っているだろう。白いのとか、ラッパ水仙だとか。
 しかし、お前にくれてやるのは花の名前の水仙じゃない。名前の元になった伝説の方だ。
 水仙の学名ってヤツは、ギリシャ神話の美少年から来ていてな…。
 ナルキッソスという名前なんだが、水鏡に映った自分に恋をしちまったんだ。その少年は。
 ところが相手は自分なんだし、恋が実るわけないからな?
 水鏡ばかり覗き続けて、憔悴し切って死んじまった。そして水仙の花に変身した、と。
 そんなに鏡が気になるんなら、この名前、お前にくれてやるんだが…。
 鏡がお前の持ち物だったら、もう確実に名付けていたな。お前の名前は水仙君だ、と。
「酷いです!」
 ぼくは自分の顔を見ていたわけじゃなくって…。この寝癖が…!
「酷いのはお前だ、今は授業中だ」
 鏡に夢中になれる時間じゃないんだぞ。お前がナルキッソスだと言うなら、仕方ないがな。
 他のヤツらも、しっかり肝に銘じておけよ?
 授業中に鏡で身づくろいをしてたら、遠慮なくコレをつけるからな。水仙だ、水仙。
 ただし、男子の場合に限る。
 女子につけたら、なんの意地悪にもならん。綺麗ですね、と褒めるようなもんだ。素敵な名前をくれてやろうって気は無いからなあ、俺にもな?
 その場合は別のを考えておこう、とても悲しくなるようなヤツを。



 覚悟しとけよ、というハーレイの言葉にドッと笑って、戻った授業。思いがけないタイミングで来た、雑談の時間はこれでおしまい。
 水仙になった美少年。ギリシャ神話のナルキッソス。水鏡に映った自分に恋して、眺め続けて、とうとう窶れて死んでしまって。
(…鏡なんか…)
 ぼくは授業中に見ないもんね、と自分自身を振り返る。
 寝癖なら家を出る前に母に直して貰うし、そのための時間が無かったとしても…。
(ハーレイの授業中には見ないよ、鏡)
 小さな鏡に映った自分と格闘するより、ハーレイを見ている方がいい。「ハーレイ先生」としか呼べないけれども、ハーレイには違いないのだから。
 寝癖なんかはどうでもいい。ハーレイが笑って見ていたとしても、鏡を覗いて直しはしない。
(鏡の自分を覗き込むより、ハーレイがいいよ)
 たとえ寝癖のついた髪でも、それをハーレイに笑われていても、きちんと前を見ていたい。前で授業をしている恋人、鏡を見るより、断然、そっち。
 髪が好き勝手に跳ねていたって、直したい気分になっていたって。
 鏡を覗いて直しているより、ハーレイの姿を見る方がいい。ハーレイの目が笑っていても。



 学校が終わって、家に帰っても覚えていたこと。鏡を見ていた男子生徒と水仙の話。
 もしも自分がやっていたなら、ハーレイは渾名をつけるだろうか。「水仙君」と。
 恋人だけれど、遠慮なく。学校では教師と生徒なのだし、「お前はコレだ」と。
(…つけちゃうのかな?)
 それとも恋人だから免除だろうか、見ないふりをして。そっちだといいな、と考えていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、興味津々で。
「ハーレイ、あの渾名、ぼくにもつけるの?」
 つけてしまうか、見ないふりをして助けてくれるか、いったい、どっち?
「はあ? 渾名って…」
 それに見ないふりって、何の話だ?
「今日の授業だよ、ぼくのクラスで言っていたでしょ。…鏡で寝癖を直してた子に」
 水仙って渾名をつけちゃうぞ、って。…他の生徒も覚悟しとけよ、って。
 だから、ぼくでもつけちゃうの?
 授業中に鏡を見てた時には、ぼくも水仙って名前になっちゃう?
「…水仙って名前、欲しいのか?」
 それとも見逃して貰いたいのか、其処の所が気になるな。お前の希望はどっちなんだ?
 俺としては見ないふりを選びたいんだが、水仙って名前が欲しいんだったら…。
「ちょっと興味があっただけだよ、どっちかなあ、って」
 ぼくが鏡を見るわけないでしょ、ハーレイが授業をしている時に。
 自分の顔なんか見てても仕方ないもの、自分を見るよりハーレイの方!
「そうだろうなあ、お前はな」
 たとえ寝癖がついていようが、俺の方ばかりを見てるんだろうな。
 お前、いつでも見詰めているしな、俺が背中を向けている時も、授業が終わって出て行く時も。



 気配で分かるさ、と笑うハーレイ。「お前の視線は直ぐに分かる」と。
「第一、お前は自分の姿にまるで頓着しないしなあ…」
 前に寝癖で慌ててた時は確かにあったが、あれは俺が訪ねて来るからで…。
 お前が学校に出て来る方なら、寝癖を直している暇が無ければ、そのままだろうが。俺の授業に顔を出す方が大切だしな?
 要するにお前、俺がいなけりゃ、寝癖どころか、どう育っても気にしないだろ?
 ソルジャー・ブルーと瓜二つの姿にならなくても。
 お前の姿で期待されるような顔に育つ代わりに、ごくごく普通の顔になっても。
「うん、多分…。それに、ぼく…」
 そっちの方がいいな、と思っていたみたい…。すっかり忘れてしまってたけれど。
 ハーレイに会って、早く前のぼくと同じ姿になりたくて…。そっちばっかり考えてたから。
 でも、前は…。
 違ったみたい、と白状した。ソルジャー・ブルーと同じ姿は欲しくなかった、と。
 目立ちたいタイプではなかったから。
 見た目でキャーキャー騒がれるよりは、地味な姿の方がいい。何処にいるのか分からないほど、他の人たちに紛れてしまう姿が。
「欲のないヤツだな、せっかく綺麗に生まれついたのに」
 今はまだ可愛いって感じの顔だが、充分、人目を惹くってな。小さなソルジャー・ブルーだし。
 なのに、そいつは要らないと来た。目立たない姿に育ちたかった、と。
 前のお前もそうだったが…。鏡なんか見ちゃいなかったしな。
「だって、どうでもいいじゃない」
 鏡を見たって、何が変わるっていうわけでもないし…。ぼくはぼくだし、それだけだもの。



 前の自分も、顔など気にしていなかった。自分は自分で、それ以上でも以下でもないから。
 外見が気になる女性ではないし、自分の顔がどうなっていようが、どうでもいいこと。
 前のハーレイに恋をするまでは、本当に頓着していなかった。見た目などには。
 恋をしてからも、とうに年を取るのをやめていたから、老けてゆくわけではなかったし…。
「前のぼくが鏡を覗き込んでも、何も変わらなかったでしょ?」
 せいぜい寝癖を直すくらいで、他には何も…。綺麗になるってわけでもないし。
「化粧してたわけじゃないからなあ…」
 鏡を見たって、することが無いな。もっと綺麗になれるんだったら、別だったろうが。
 寝ても起きても同じ美人じゃ、どうにもならん。鏡なんかは見る価値も無いな。
 猫に小判とは少し違うが、前のお前に鏡は全く要らなかったわけで…。
 ん…?
 待てよ、とハーレイが顎に手を当てたから。
「どうかした?」
 何か変なことでも思い出したの、前のぼくのことで…?
「いや、変というわけじゃないんだが…。お前が鏡を覗いてたような…」
 えらく熱心に、鏡ってヤツを。
「自分の顔を見てたってわけじゃないでしょ、それは」
 青の間の鏡は別だってば。
 何度も覗き込んでいたけど、見ていた意味が違うんだもの。鏡の向こうを見ていたんだよ。
 ハーレイだって知っていたでしょ、鏡は別の世界に繋がっているっていう言い伝え。
 それを通って地球に行けたらいいんだけれど、って見ていたよ、いつも。



 青の間の奥で見ていた鏡。向こう側の自分と手と手を重ねて、鏡の世界に入れないかと。鏡から道が開かないかと、一気に地球まで飛べる道が、と。
 前の自分が何度も夢見た、鏡の道。覗いていたのは鏡の道だ、と言ったのに…。
「違うな、もっと昔のことだ」
 鏡の道の時じゃなかった。そっちなら俺も分かっているさ。
「昔って…?」
 いつのことなの、もっと昔って…?
「青の間の鏡を覗くどころか、青の間はまだ無かった頃で…」
 ソルジャーでさえも無かった頃だと思うんだが…。そういう記憶だ、俺のはな。
「なんで、そんな頃に?」
 鏡の道はまだ知らなかったよ、そんなに昔のことだったら。
 だから鏡を覗く理由が無さそうだけど…。チラとは見るけど、それだけだよ。
「俺にも分からないんだが…」
 その辺りは全く思い出せんが、お前、確かに鏡を見てたと…。
「鏡って…。そうだっけ?」
 知らないよ、ぼくは。
 鏡を見ていた覚えなんか無いし、眺める理由も無いんだから。鏡の道は別だけれどね。



 別の世界へ繋がる扉になるならともかく、ただ映し出すだけの鏡は要らない。朝、起きた時に、チラと覗けば充分だった。髪が変な風に跳ねていないか、眠そうな顔をしていないかと。
 たったそれだけの鏡だったし、熱心に覗き込むわけがないよ、と思ったけれど。
 鏡の道を知らない頃なら、きっと見ないと考えたけれど。
(…鏡…?)
 不意に蘇って来た記憶。
 ハーレイの言葉通りに遠い遠い昔、鏡を見ていた少年だった自分。鏡に映った顔は子供で、今の自分と変わらないくらい。そういう顔をした自分が鏡の中にいて、それを覗いている自分。
 じっと眺める鏡の向こう。自分しか映っていないのに。
(なんで…?)
 どうして、と不思議になる記憶。鏡を見ている少年の自分。
 鏡の中を覗き込んでは、大きな溜息。いつも、いつも、いつも。
 そして見回していた他の仲間たち。溜息を零した後には必ず、ぐるりと何かを確かめるように。
(…自分に恋はしていないよね?)
 水仙になった少年のように、自分に恋してはいないと思う。なんて素敵な少年だろう、と。
 鏡の自分に見惚れなくても、特別だったハーレイがいたから。
 恋ではなくても、一番古い友達だと思っていた頃にしても、誰よりも特別だったハーレイ。鏡の自分を見詰めているより、ハーレイの方がずっといい。
 けれど記憶の中の自分は、鏡を覗き込んでは溜息。
 他の仲間たちを見ては溜息、皆の方へと視線を移して見回した後は。
 だから…。



 変な記憶だ、と思いながらも話してみた。それを呼び覚ます切っ掛けになったハーレイに。
「えっとね…。ハーレイの記憶で合ってたよ」
 ホントに鏡を見ていたよ、ぼく。…今のぼくと変わらないくらいのチビだった頃に。
 それでね、ぼく、溜息をついてたみたい…。
「溜息だって?」
 どういう溜息だったんだ、それは?
 溜息と言っても色々あるしな。ホッとした時とか、感心した時にも溜息は出るし。
「そんな溜息とは違うと思う…。多分ね」
 鏡を見ていて溜息をついて、その後は他のみんなを眺めて…。そっちも溜息。
 なんだか自信が無さそうな感じがしてこない?
 どっちを見たって溜息だもの。…鏡の中のぼくも、他のみんなも。
「そりゃ、水仙の話とは逆様っぽいな…」
 鏡のお前が素敵だったら、そいつで満足していりゃいいし…。他のヤツらまで見なくても。
 同じ顔がそっちにいるといいな、と確かめてたなら、「いない」と溜息も零れそうだが…。
 そういうわけでもなさそうだしなあ、お前の話しぶりからしても。
「でしょ? きっとガッカリしている溜息だよ、あれ」
 ぼくってよっぽど、自分の顔に自信が無かったのかなあ…。
 今のぼくだと、ソルジャー・ブルーにそっくりだ、って言われちゃうから大丈夫だけど…。
 普通の顔になりたいな、って思ってたくらいに、顔に自信はあったみたいだけど。
「お前、一人だけチビだったからなあ…」
 大人ばかりの船の中でチビは一人だけだし、チビと大人じゃ顔は違って当然だし…。
 でもまあ、自信は失くしそうだな、どうして自分だけチビなんだろう、と。



 そのせいで溜息だったんじゃないか、と言い終えた途端に、ハーレイがポンと手を打った。遠い記憶を捕まえたらしく、「そうか、アレだ」と。
「アレだったっけな、確かに鏡だ」
 でもって、溜息。お前、幾つもついていたんだ。…鏡を見ては。
「思い出したの?」
 ぼくが溜息をついてたトコまで。鏡のことを覚えていたのも、ハーレイだけど…。
「ああ。お前の目が問題だったんだ」
「ぼくの目…?」
 目だ、と聞いたら蘇った記憶。前の自分がチビだった頃に、何度も覗いていた鏡。
 其処に映った自分の瞳は、いつ見ても赤。今の自分の瞳と同じ。
 今の自分には慣れた色だけれど、前の自分は赤い瞳が気になっていた。船には仲間が大勢乗っているのに、赤い瞳を持つ者はいない。自分だけしか。
 鳶色の瞳や、青や、緑や黒や。
 色々な瞳の仲間がいるのに、赤い瞳は一人だけ。それに…。
(元は水色…)
 最初から赤くはなかった瞳。成人検査を受ける前には、水色の瞳を持っていた。
 忘れていなかった、本来の自分の瞳の色。そして船には、同じ水色の瞳の仲間も乗っていた。
(前のぼくの目、色が変わっちゃった…)
 アルタミラの檻で生きていた頃は、それほど気にしていなかったこと。檻に鏡は無かったから。
 自分の顔が映っていたのは、実験室の設備など。磨き上げられた物の表面。
 たまに目にすることはあっても、成長を止めていたほどなのだし、どうでも良かった。瞳の色が何であろうと、赤い瞳でも、水色でも。
 こういう色に変わったんだな、と思う程度で。
 金色だった髪が銀色に変わるくらいだし、瞳の色も変わってしまうだろう、と。



 けれど、アルタミラを脱出した後。船の仲間に、赤い瞳の持ち主は誰もいないと気付いて…。
(ぼくの目、気持ち悪くない…?)
 一人だけ、赤い瞳だから。血のような色の瞳だから。
 気味悪く思う仲間はいないだろうか、と気になって覗いていた鏡。赤い瞳の自分の顔を。
 サイオンの強さを怖がる仲間もいるのだけれども、この目だって、と。
 血のように赤い色の瞳も気味悪がられそうだと、こんな瞳の仲間は一人もいないのだから、と。
(…水色だったら良かったのに、って…)
 鏡を覗く度に零れた溜息。自分が失くしてしまった色。水色の瞳を持っていたなら、仲間たちと同じだったのに。…青や緑や鳶色の中に溶け込めたのに。
 鏡から瞳を上げて見回すと、目に入る青や緑の瞳。自分も持っていた筈の瞳、赤い瞳に変わってしまう前までは。
 ああいう瞳を持っていたのに、と零れる溜息。
 自分の瞳は水色だったと、あの色のままが良かったと。赤い瞳より、水色がいいと。
 いくら鏡を覗き込んでも、水色の瞳の自分はいない。赤い瞳が映るだけ。
 あの水色が欲しいのに。水色の瞳のままでいたなら、気味悪がられはしないのだろうに…。



 溜息ばかり零していたから、ある日とうとう、ハーレイに訊かれた。「どうしたんだ?」と。
 食堂にあった鏡を覗いて、いつもと同じに深い溜息を零したら。
「お前、溜息ばかりだぞ。…この所、ずっと」
 それも鏡を覗き込んでは溜息だ。食堂でもそうだし、休憩室でも。
 何か気になることでもあるのか、鏡の中に…?
「…ぼくの目……」
「目? 目がどうかしたか?」
 痛むのか、何か入ってそのままになってしまっているのか、目に?
 それならヒルマンに診て貰わないと…。溜息をついて見ているだけでは治らないぞ。
「違うよ、ぼくの目はなんともないんだけれど…」
 ぼくの目、気持ち悪くない?
 ハーレイ、今も見ているけれども、気持ち悪いと思わない…?
「気持ち悪いって…。何故だ?」
 どうしてそういうことになるんだ、お前の目が気持ち悪いだなんて。
「…一人だけ赤いよ、ぼくの目だけが」
 他のみんなは青い目だとか、緑だとか…。ハーレイだって鳶色だよ。
 赤い色の目はぼく一人だけで、他には誰もいないから…。
「俺はなんとも思わないが…」
 気持ち悪いどころか、綺麗だと思うくらいだが?
 お前の目、とても綺麗じゃないか。とびきり澄んでて、キラキラしてて。
「でも、赤くって変な色…」
 血の色みたいな赤色なんだよ、自分でも変だと思うもの。普通じゃないよね、って。



 こんな目の仲間は誰もいないよ、と訴えた。幸い、周りに他の仲間はいなかったから。壁の鏡を見ていた時には、とうに終わっていた食事。皆、持ち場や部屋へと散ってしまって。
 ハーレイの仕事は料理だったから、後片付けはしなくていい。それで残っていたのだろう。
「ぼくの目、ホントは赤じゃなかった…。だから分かるんだよ、変だってことが」
 元は水色だったのに…。成人検査を受ける前には、ちゃんと普通の色だったのに…。
 ぼくの水色、無くなっちゃった。…こんな赤い目になっちゃった…。
「そう言ってたなあ…。ミュウになる前は違ったんだ、と」
 成人検査でミュウに変わるついでに、身体まで変化しちまったんだな。
 サイオンに目覚めるのと引き換えみたいに、色素がすっかり抜けちまって。
「え…?」
 色素って…。それって、どういうこと?
「そのままの意味だな、色素は色素。…色ってことだ」
 俺の肌の色、こんなだろ?
 こいつも色素が作ってるわけだ、この目の色も、髪の色もな。他のヤツらも同じ仕組みだ。肌の色も髪も、目の色だって。
 ところが、お前には色素が無い。水色の瞳をしていた頃には持っていたのに。
 お前みたいなのをアルビノって言うんだ、色素を失くしたヤツのことをな。
「アルビノ…?」
 そういう言葉があるんだったら、ぼくが特別おかしいわけではないの、ハーレイ?
 ぼくみたいな人間、この船には乗っていないってだけで、ちゃんと普通にいるものなの…?
「さあなあ…。俺もそこまでは…」
 聞いちゃいないし、とんと分からん。
 お前がアルビノだってことなら、ちゃんと聞いてはいるんだがな。



 ヒルマンが詳しい筈だから、と連れてゆかれたヒルマンの部屋。「俺もヤツに聞いた」と。
 其処で教えて貰ったアルビノ。色素が欠けた個体のこと。
 人間に限らず、動物にもアルビノは存在するという。ただし、滅多に現れなくて、大抵は弱い。
「生命力自体が弱いそうだよ、アルビノに生まれた動物はね」
 ブルーも虚弱な身体ではあるが…。アルビノのせいではないだろう。多分、元々の体質だ。
 なにしろ、アルビノに変化しただけだし、アルビノが持つ筈の欠点が無い。…ブルーにはね。
 恐らく、無意識の内に、サイオンで補っているんだろう。そう考えるのが自然だと思うよ。
 本当は光に弱いらしいからね、アルビノは。瞳も、肌も。
 宇宙船の中では肌の心配は要らないが…。太陽の光は無いわけだから。
 しかし、光は事情が違う。光が強い場所もあるのに、ブルーは困っていないようだし。
 目が痛むことはないだろう、と話したヒルマン。強い光は目を傷める、と。
「そうなんだ…。赤い目だから?」
 赤い目は光に弱い色なの、他のみんなの目とは違って?
「少し違うね、赤が光に弱いわけじゃない」
 目にも色素を持っていないから、そのせいで光に弱くなる。遮ってくれる色が無いからね。
 その赤は血の色が透けて見える赤で、水色の瞳を持っていた頃には隠れていたんだ。その下に。
「…この目、やっぱり血の色なんだ…」
 ヒルマンは気持ち悪くない?
 血の色の赤の目だなんて…。気味が悪いと思わない?
 アルビノがとても珍しいんなら、この色、普通じゃないんだもの。
 気味が悪いと思ってる仲間、船に何人もいそうだけれど…。



 珍しいと教えられたアルビノ。おまけに瞳の赤は血の色。気味悪がられても仕方ない、と溜息をついてしまったけれども、ヒルマンは「大丈夫だよ」と微笑んでくれた。
「心配しなくても、それも個性の一つだよ」
 青や緑の瞳と同じで、たまたま赤というだけだ。珍しい色でも、瞳の色には違いない。瞳の色は幾つもあるから、赤があってもいいだろう。一人くらいは。
 そうは言っても、水色の瞳だったことを覚えているから、余計に気にしてしまうのだろうね。
 私は赤でもいいと思うよ、水色の瞳をしていなくても。
「俺もそう思うぞ、会った時から赤なんだから」
 むしろ水色に戻った方が、驚いてしまうといった所か…。俺の知ってるブルーじゃない、と。
 赤でいいじゃないか、赤い瞳で。俺もヒルマンも、気味が悪いと思ったことは一度も無いぞ。
「だけど、みんなは…」
 きっと気味悪いと思ってるんだよ、血の色だもの。青や緑じゃないんだもの…。
 ぼくのサイオンが強いだけでも怖がられてるのに、目まで血の色をしているなんて…。
「そんな話は聞かないよ、ブルー」
 少なくとも私は、一度も聞いたことがない。…ハーレイもそうだね、聞かないだろう?
 どちらかと言えば、覚えやすいくらいに思っている筈だよ、この船の皆は。
 赤い瞳は一人だけだし、この先、何かと分かりやすくて便利だからね。



 今は一人だけ子供で小さいけれども、育ったら皆と区別がつかない。大人になってしまったら。
 普通の姿だと皆に紛れてしまうだろうから、赤い瞳の方がいい、と言ったヒルマン。
 銀色の髪なら他にもいるから、一人だけの赤い瞳がいい、と。
「皆が集まった時にだね…。誰でも一目で分かるだろう?」
 赤い瞳ならブルーなんだ、と考えなくてもピンと来る。きっと目立つよ、赤い瞳は。
 子供の姿で目立てる時代が過ぎてしまったら、その瞳の出番が来るわけだ。
「…そうなのかな?」
 他のみんなと区別がつくのが便利なのかな、血の色の目でも?
 ぼくだけ変に目立っていたって、誰も気にしたりしないのかな…?
「目立つのは悪いことではないよ」
 特にブルーは、他の仲間には出来ない仕事をしているのだし…。
 これから先も同じだろうから、その分、目立つ方がいい。何処にいるのか分からないよりは。
「俺もヒルマンに賛成だ」
 お前は何処だ、って捜し回らなくても、誰でも簡単に見分けが付くしな?
 赤い瞳のヤツがいたなら、そいつがお前なんだから。
 どんな隅っこに紛れていたって、赤い瞳でお前だと分かる。便利だろうが、色々な時に。
 こういう顔で…、と捜さなくても、目だけで区別がつく方がな。



 赤い瞳は目印ってことでいいじゃないか、と二人に言われて、そんな気になった。血の色の赤を透かした色でも、目印になるなら、それでいいかな、と。
 気味悪く思う仲間がいたって、この色が役に立つのなら。将来、見分けやすくなるなら。
「…鏡、見るのをやめたんだっけ…」
 ぼくの目は赤がいいんだから、ってハーレイたちが言ってくれたから…。
 ハーレイがヒルマンの所へ連れてってくれて、説明、ちゃんと聞けたから…。
 アルビノのことも、ぼくの目が役に立つことも。…血の色の目でも。
「パッタリとやめてしまったっけな、あの日から」
 鏡は同じ場所にあるのに、もう覗かなくなっちまった。あんなに毎日、覗いてたのに。
 じいっと鏡を覗き込んでは、俺でも変だと気付くくらいに溜息ばかりだったのに。
「大丈夫、って言って貰えたからだよ」
 赤い瞳はぼくの個性で、ぼく一人しかいないから…。
 いつか大きくなった時には目印になって役に立つから、それでいい、って。
 役に立つなら、きっとみんなも喜ぶし…。気味悪い色でも、目印だったら気にしないもの。
 赤い目、一人しかいなくて良かった、って思うでしょ?
 大勢の中からぼくを見付けるには、赤い目を捜せばいいんだから。



 そうして覗くことをしなくなった鏡。食堂で見掛けても、休憩室でも。
 鏡を覗き込むのをやめたら、気にならなかった仲間たちの目。視線もそうだし、あれほど何度も溜息を零した、青や緑の瞳の色も。…自分とは違う、普通の色を湛えた瞳も。
 一人しかいない赤い瞳も、個性だから。血の色を透かした気味悪い赤も。
 いずれ自分が皆に紛れてしまった時には、きっと役立つだろうから。育ってチビではなくなった時に、この瞳だけで捜し出せるから。
「ホントに心が軽くなったんだよ、あれで」
 ぼくの目、目印なんだから、って。赤くて変な色でも、目印。
 目立つんだったら、それでいいもの。小さい間は気味が悪くても、大きくなったら便利だしね。
 ぼくは何処なの、って慌てなくても、赤い目だけで見付けられるから。
「…お前、そう言っていたんだが…」
 俺もヒルマンも、あの時は本気でそのつもりだったんだが…。いい目印だ、と。
 なのに、育ったお前ときたら、とびきりの美人になっちまって、だ…。
 赤い瞳で見分ける必要、無かったってな。
 何処にいたって、どんな隅っこに隠れていたって、誰でも一目で気付くような美人。振り返って見るとか、立ち止まってしげしげ見ちまうだとか。
 …もっとも、お前、ソルジャーだったし、そうそう見惚れちゃいられないんだが…。
 ボーッと突っ立って見てようものなら、エラが飛んで来て叱られるってな。「失礼ですよ」と。
 「それがソルジャーにすることですか」と、「謝りなさい」と。
 その点、俺は恵まれていたな、シャングリラでも一番の美人を一人占めだ。
 堂々と出来やしなかったんだが、好きなだけお前を見ていられた上、恋人に出来た幸せ者だぞ。あの船で最高の美人ってヤツを、俺は独占してたんだから。



 あれほどの美人になるとはなあ…、とハーレイは感慨深そうだけれど。
 今も手放しで褒めているのだけれども、前の自分は水仙になった美少年とは違っていた。自分の姿に見惚れはしないし、鏡を覗き込んだりもしない。
 身だしなみさえ整えられたら、それで充分だと思った鏡。チビだった頃に鏡を何度も覗き込んだことすら、忘れ果ててしまっていたのだから。
 赤い瞳はどう見えるのかと、溜息をついて。気味悪くないかと、仲間たちの瞳の色を気にして。
 鏡を熱心に覗いていたのは、その時だけ。
 育った自分の姿を映して、「綺麗だ」と見惚れた記憶は全く無いものだから…。
「…前のぼく、自分を美人だと思ったことはないけど?」
 船のみんなが言っていたから、そうなのかな、って思っただけで…。鏡なんかは見てないよ。
 もっと綺麗になりたいな、って覗きもしないし、「美人だよね」って見てもいないけど…。
 でも、ハーレイには、好きだと思って欲しかったかな…。
 ハーレイが好きだと思ってくれる姿に育ったお蔭で、恋人にして貰えたんだから。
「そりゃ光栄だな、俺のことは意識してくれていたんだな?」
 お前、自分の姿に興味は全く無かったくせに…。鏡もどうでも良かったくせに。
 鏡を熱心に見ていた時にも、目の色ばかり気にしていたのにな?
 そんなお前が、俺の目にお前がどう映るのかは、一応、気にしてくれていたと…。
 俺がお前にぞっこんだったのは、美人に育ったからなんだ、とな。
「そうだよ、それにね…」
 今のぼくもだよ、ハーレイの好きな姿に育つのが、ぼくの目標なんだもの。
 早く大きくならないかな、って、鏡、何度も見ているし…。大人っぽい顔も研究してるし。
 前のぼくだと、こんな顔だよ、って。
「まだ早い!」
 今から研究しなくてもいい、チビのくせに!
 水仙って渾名をつけられたいのか、お前ってヤツは…!



 チビは鏡を見なくてもいい、とハーレイに叱られたけれど。
 「何度も見るなら、水仙って名前で呼ぶからな」と睨まれたけれど、鏡の中の自分を見たい。
 前の自分とそっくり同じに育った姿を早く見たいから、覗きたい鏡。
 チビの自分が映る鏡を覗き込んでは、「もっと大人に」と。
 赤い瞳の色を気にする代わりに、「前のぼくと同じ」と、赤い瞳に満足して。
(…それって、自分に見惚れてるのとは違うよね…?)
 だから水仙になった美少年とは違うものね、と考える。
 鏡を覗くのはハーレイのためで、早くハーレイにピッタリの自分に育ちたいから。恋人のために頑張りたいから。…一日も早く、ハーレイとキスが出来る恋人になりたいから。
(鏡、これからも覗かなくっちゃね…)
 前の自分と同じ姿を、鏡の中に見付ける日まで。前と同じに育つ時まで。
 ハーレイの授業中にはしないけれども、きっと何度も覗き込む。
(でも、水仙にはならないんだよ)
 水仙になってしまった少年、彼の名前は貰わない。「水仙」の名では呼ばれない。
 授業中には、鏡の自分を覗き込むより、ハーレイの姿を見ていたいから。
 その方がずっと幸せなのだし、きっとハーレイもそうだから。
 自分がチビで、生徒の間は。前の自分と同じに育って、いつか結婚出来る日までは…。




               水仙と鏡・了


※赤い瞳の人間は自分しかいない、と溜息をついていた前のブルー。何度も鏡を覗き込んで。
 けれど目印になるのなら、と納得してから、見なくなった鏡。凄い美形に育ったのに…。
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(なんだ、こりゃ!?)
 どうなってるんだ、とハーレイが仰天した光景。ブルーの家には寄れなかった日、仕事の帰りに入ったパン屋。家から近くて、パンを買うなら其処なのだけれど…。
 花屋と間違えたのかと思った。足を踏み入れたら、辺り一面、花だったから。
 お馴染みの薔薇やら、カーネーションやら、ありとあらゆる種類の花たち。色もとりどり、その香りだって。
(…花だよな?)
 様々なパンが積み上げられた、パン売り場。陳列棚も、パン籠を並べたテーブルの上も、沢山の花が彩っている。所狭しと、誇らしげに咲く幾つもの花。
 パンが積まれたトレイとトレイの間から咲いて、陳列棚の柱にも。パン籠が置かれたテーブルの隙間も、花たちが埋めている有様。もちろん床にも、花屋よろしく花瓶がドッサリ。
(…あっちも凄いぞ…)
 レジを挟んだ向こう側にあるレストラン部門。一見、普通のレストランだけれど、パンが専門の店が手掛けているから、パンを幾らでもおかわり出来る。パン皿が空いたら「如何ですか?」と。何種類ものパンが食べ放題で、そちらも人気。
 そのレストランの方も花だらけだった。入口の両側に花が飾られ、中にも溢れている花たち。
 客たちが座るテーブルはもちろん、カウンター席も、床も花で一杯。
 何事なのかと思ったけれど。
 此処は確かにパン屋だよな、と何度も瞬きしたほどだけれど。
(パンと花の日々…)
 そう書いてある小さな札。気を取り直して、パンを買おうとトングとトレイを取ろうとしたら。札もやっぱり、花に埋もれて。



 いったい何だ、と読んでみた札。文字の周りにも花模様の縁取り。
(酒と薔薇の日々…?)
 昔の映画のタイトルです、という紹介。それをもじって「パンと花の日々」。そういう企画で、「興味のある方はチラシをどうぞ」と、花の下にチラシが隠れていた。二つ折りにして。
(ほほう…?)
 買う前に読んでもいいんだよな、と一枚、引っ張り出してみた。「パンと花の日々」も気になるけれども、「酒と薔薇の日々」にも心惹かれる。酒好きとしては。
 ふうむ、と開いて眺めたチラシ。「酒と薔薇の日々」は、人間が地球しか知らなかった遠い昔の映画。そのタイトルにオーナーが引っ掛けたらしい、遊び心で。「パンと花の日々」と。
(映画の中身は謎なのか…)
 今は失われて、タイトルしか残っていないという。「酒と薔薇の日々」と。
 酒と薔薇の日々があるというなら、パンと花でもいいだろう。たまには、こういうイベントも。
(…まずはパンだな)
 チラシは帰ってゆっくり読もう、とトレイとトングを手に取った。田舎パンを買おうか、焼けたばかりのバゲットもいいし、トースト用のパンだって…、と眺めてゆく棚。
 何処もすっかり花だらけだなと、田舎パンの周りにも花がドッサリ咲いてるぞ、と。



 選んだパンをトレイに載せて運んだレジにも、華やかな花。パン屋ではなくて花屋のように。
 面白いもんだ、とパンの袋を提げて帰って、夕食の後で広げたチラシ。熱いコーヒーを淹れて、書斎の椅子にゆったり座って。
(パンと花の日々なあ…)
 店では映画のタイトルとまでしか読まなかったけれど。オーナーの遊び心なのだ、と溢れる花を眺め回して、買い物を済ませて帰ったけれど。
(…毎日のパンか…)
 パンは毎日食べるもの。御馳走ではなくて、普段着の食べ物なのがパン。それが無ければ、困る人は困る。朝はパンだ、と決めている人だって多い筈。
 遠い昔の人間も同じ。パンが主食の地域だったら、パンが無いのは飢えるということ。食べ物が何も無いということ。…パンは命の糧なのだから。
 けれども、花はそうではない。眺めて楽しむためのもの。心に余裕がある時に。
 パンも無いほど飢えていたなら、誰も花など見向きもしない。花があっても、食べ物が無ければ飢えて死ぬから。花よりもパンが欲しいから。
(生きてゆくのに欠かせないパンと、心にゆとりのある時の花と…)
 意外な組み合わせをお楽しみ下さい、というのが「パンと花の日々」のコンセプト。
 パンを扱う店だけれども、綺麗な花たちも並べました、と。



(確かに意外性はあったんだ…)
 入った時にも驚いたけれど、チラシを手にしてパンを選んでいた時。
 普段とは違って見えたパンたち。ただの食パンも、田舎パンも、焼き立てのバゲットたちも。
 花に彩られて並ぶパンたちは、どれもとびきり豪華に見えた。値段以上の、特別なパンに。
 いつもの値段で売られているのが、不思議に思えてしまったほどに。
(こう、王様の食卓って言うのか?)
 王侯貴族が食事するテーブル、其処に置かれたパンのよう。贅を尽くした料理と一緒に、黄金の皿に盛られたりして。
 晩餐会などで使うテーブルは、花で飾られたらしいから。庭師が咲かせた美しい花を、惜しげもなく切って、豪華な器に生けて。
(有り余るほどの金があったら…)
 テーブルだけと言わず、パンの皿にだって花を飾っただろう。招かれた客の数だけ並ぶパン皿、それを残らず花で取り巻いて。どの客の前にも、美しい花が溢れるように。
(花よりも先に、黄金の皿や銀の皿だとは思うんだが…)
 遠い昔は、季節外れの花も贅沢だったという。今と違って、金持ちの特権だった温室。寒い冬に花を咲かせられる設備は、金持ちしか持っていなかった。
 そんな時代なら、やった貴族もきっといた筈。「パンと花の日々」さながらの宴会を。客たちが度肝を抜かれるような、とても贅沢な冬の宴席。これだけの花を用意するには、どれだけの財産が要るのだろうと、誰もが驚く花が溢れたパン皿の周り。
 屋敷の外は雪なのに。花が咲くなど信じられない、冬景色が広がっている筈なのに。



 今日のパン屋は、その雰囲気を味わわせてくれたという気がする。普段着のパンまで花で飾って楽しむ贅沢、遠い昔の王侯貴族になったような気分。
 オーナーも洒落たことをするな、と花だらけだった店内を思い浮かべていたら…。
(ん…?)
 ふと引っ掛かった、花たちの記憶。花が溢れていたテーブル。
 そういうテーブルを見たことがあった、と花が頭を掠めたから。其処で食事をしていたから。
(…結婚式か?)
 友達か、それとも同僚か。披露宴の時のテーブルだったら、花で飾るのはよくあること。新婦の好みの花を飾るとか、ドレスの色に合わせてあるとか。
 幾つも見て来た披露宴の席。けれど、それよりも花が凄かったように思える記憶。
 テーブルに溢れ返った花たち、まるで今日見たパン屋のように。花も主役であるかのように。
(いつなんだ…?)
 何処で見たんだ、と記憶の糸を手繰ってゆく。花が溢れていたのは何処だ、と。
 そうしたら…。
(シャングリラか…!)
 あの船だった、と蘇った記憶。前の自分が生きていた船。遠く遥かな時の彼方で。
(まさにパンと花の日々…)
 宴会じゃなくて、普通の食卓に花だったんだ、と思い出したから。懐かしい思い出が時を越えて姿を現したから、浮かんだ笑み。あの船で溢れる花を見たな、と。
(ブルーに話してやるとするかな…)
 パンと花の日々を。シャングリラに溢れていた花たちのことを。
 幸い、明日は土曜日だから。ブルーの家へと出掛けてゆく日で、夜までゆっくり過ごせるから。



 一晩眠っても、忘れなかったパンと花の日々。
 いい天気だから、歩いて出掛けた。途中で入った昨日のパン屋。店中に花が溢れている中、二つ選んで買った菓子パン。ブルーの分と、自分の分と。紅茶のお供になりそうなものを。
 チラシも忘れずに貰っておいた。花たちの下から引っ張り出して。
 そしてブルーの家に着いたら、目ざとく袋に目を留めたブルー。それを提げて部屋に入るなり。
「ハーレイ、お土産?」
 買って来てくれたの、何かお土産。…パン屋さん?
「ああ。お前のおやつに丁度いいかと思ってな」
 話している間に、ブルーの母が届けてくれた紅茶と、パンを載せるための皿と。その皿にポンと置いた菓子パン。袋から「ほら」と取り出してやって。
 甘い菓子パンは、紅茶にも合う。前に自分も食べているから、間違いなく。
 ブルーはしげしげと菓子パンを眺めて、首を傾げた。
「このパン、ハーレイのお勧めなの?」
「もちろん美味いが…。そうじゃなくてだ、今日はこっちの方だな」
 こういうイベントをやっていたから、と渡したチラシ。「俺も昨日は驚いたんだ」と。
「…パンと花の日々?」
 なあに、これ?
 昔の映画のタイトルの真似って…。「酒と薔薇の日々」…?
「読んでみろ、何か思い出さないか?」
 酒と薔薇の日々の方とは違って、パンと花の方で。…パンと花の日々だ。
「えーっと…?」
 毎日のパンで、パンと花との組み合わせ…?
 ちょっと想像もつかないけれども、これがどうかしたの?
 パン屋さん、いったい、どうなっていたの…?
「そりゃまあ…。凄い光景だったぞ、間違えて花屋に入ったのかと思ったくらいに」
 何処もかしこも花だらけでな…。パンを並べた棚にまで花だ。
 そういうの、お前、何処かで見ている筈なんだがな…?



 俺は確かに見たんだが、と話してもキョトンとしているブルー。「いつの話?」と。
「…ハーレイが見てて、ぼくも見たなら、前のぼくたちのことだろうけど…」
 シャングリラで花なんか飾っていたかな、パンを並べた棚なんかに…?
 厨房にパン専用の棚はあったけど…。焼き上がったら並べていたけど、其処に花…?
 そんな所に花を飾っても、厨房の人しか見られないじゃない。食堂からは見えないんだもの。
「お前が言うのは、パンの棚だが…。棚じゃなくって、パンの方だな」
 毎日のパンで、誰もが普通に食っていたパン。食べ物ってヤツだ。
 そういう普通に食べてた飯が花だらけだった、と言えば分かるか?
 パンもスープも、何もかもだ。食堂中が花まみれになっていたってわけだが、思い出さんか?
「食堂中に花って…。ああ、あったっけね…!」
 思い出した、と手を打ったブルー。
 前のぼくが失敗したんだっけと、それで食堂に花が一杯、と。



 まだ白い鯨ではなかった時代のシャングリラ。人類の船から奪った物資で皆が命を繋いでいた。食料も物資も、何もかも、前のブルーが奪って来たもの。輸送船を見付けたら、出掛けて行って。
 必要な物資を切らさないよう、仲間たちが飢えてしまわないよう。
 ある時、物資を奪いに出て行ったブルー。輸送船が近くを通過するという情報が入ったから。
 いつもと同じに、コンテナを幾つか奪って戻って来たのだけれど…。
「なんだい、これは?」
 ブラウが呆れたコンテナの中身。奪った物資を仕分けするために、コンテナを運んだ格納庫で。
「…花だらけじゃないか」
 花は食えんぞ、とゼルが覗いたコンテナの奥。「何処まで行っても花のようだが」と。
 ヒルマンが見ても、エラが眺めても、前の自分が覗き込んでも、ものの見事に花ばかりだった。今を盛りと咲き誇るものや、これから咲こうとするものや。
 鉢に植えられた花とは違って、どれも切り花。色も種類も様々なものがコンテナに一杯。
 きっと何処かの星の花屋に運ぼうとしていたのだろう。テラフォーミングの成果が芳しくない、こういった花々を育てられない星へ。
 そういう星でも利用価値があれば、人類は大勢住んでいるから。資源の採掘に適しているとか、他の星への中継地点に向いているとか、理由は色々。
 人間がいれば町が生まれて、町が出来れば花だって売れる。その星で花が育たないなら、余計に花を見たくなるから。
 こうしてわざわざ運んで行っても、花たちは全部売れるのだろう。入荷したと聞けば、買いたい人間が詰め掛けて。アッと言う間に一つ残らず売り切れそうな、コンテナ一杯に溢れる花たち。
 残念なことに、ミュウが奪ってしまったけれど。
 花よりも食料や衣類などがいい、と誰もが考えるような船に運ばれてしまったけれど。



 他のコンテナには食料品。当分は奪いに出掛けなくても済むだけの量の。
 肉や魚や、野菜などや。乳製品だって充分あったし、食べてゆくには困らない。けれど、溢れる花たちの方は…。
「…やっぱり捨てた方がいいかな…」
 捨てて来ようか、コンテナごと。…花なんか、料理したって食べられないし…。
 食料は他にたっぷりあるから、花まで料理しなくても…。昔だったら、別だけれどね。
 奪った食料が偏っていたって食べてた時代、とブルーがついた溜息。
 アルタミラからの脱出直後は、そういう時期も確かにあった。ジャガイモだらけの食事が続いたジャガイモ地獄や、キャベツばかりのキャベツ地獄といった具合に。
 けれども、今では安定している食料事情。ブルーは選んで奪って来るから、食材も物資も偏りはしない。不要だったら、捨ててしまってもいい時代。
 そういう時代になっていたから、ブルーが犯した小さなミス。もう一つ、と欲を出して奪った、中身を調べなかったコンテナ。きっと食料だろうから、と。
 奪って持って帰る途中で、ブルーも気付いていたという。食料ではなくて花だった、と。
 とはいえ、せっかく奪った物資。捨てるかどうかは船に戻ってからでいい、と考えたらしい。
 コンテナを一つ余分に運ぶくらいは、ブルーには何でもなかったから。



 そうは言っても、食べられない花。食料は他に沢山あるから、花まで食べる必要はない。宇宙に捨ててしまうのならば、ブルーに任せれば一瞬で済む。瞬間移動で放り出すというだけだから。
 花の処分はそれでいいか、と前の自分は考えたけれど。
 ブルーも同じに、「捨てた方がいいよね」とコンテナの扉を閉めかけたけれど。
「ちょいと待ちなよ、飾るって手もあるんだからさ」
 花は食べられやしないけどね、とブラウが止めた。これは飾っておくものだろう、と。
「飾るって…。でも、何処に?」
 こんな船で、とブルーは周りを見回したけれど、ゼルも「そうだな」と頷いた。
「モノってヤツは考えようだ。これだけあるんだ、嫌というほど飾れるぞ」
 どうせだったら、派手に飾ってやろうじゃないか。
 人類どもの世界じゃ、こいつを売っているんだから。花屋に並べて、買いに来る客に。
 俺たちは金を払っちゃいないが、こうして頂いちまったんだし…。
 飾ったって別にかまわんだろうが、人類は食えもしない花を贅沢に飾っているんだからな。
 俺たちには花を飾るような余裕はまるで無いのに、こんな風に輸送してやがる。
 見ろよ、コンテナ一杯分だぞ?
 贅沢なもんだ、俺たちの船とは生きてる世界が違うってな。



 だったら真似をしようじゃないか、と言い出したゼル。たまには贅沢したっていいと。
 わざわざ奪ったわけではないから、オマケで手に入れた花なのだから。
「花を飾ってもかまわんだろうが、ミュウの船でも」
 手に入れたものを使おうってだけだ、そいつで贅沢するだけなんだし。
 捨てるよりかは、うんと贅沢した方がいいと思わないか?
「私もそれに賛成だね。有効に使った方がいい」
 捨てるよりも、とヒルマンがエラに視線を向けた。「どう思う?」と。
「飾るべきだわ、捨てるくらいなら。…だって、これは全部、飾る花なのよ?」
 そのために運んでいるんじゃないの、とエラも花を飾りたい一人。飾るための花は、遠い昔には本当に贅沢だったんだから、と。
「花は贅沢だったのかい…?」
 本当に、とブルーが訊いたら、「そうだよ」とヒルマンが即座に答えた。「ずっと昔は」と。
「エラが言った通りに、今よりもずっと昔のことだ。人間が地球しか知らなかった頃だね」
 今のような輸送技術は無かった。星から星へと花を運べるような技術は。
 珍しい花が欲しいのならば、自分たちで育てて咲かせるしかない時代でね…。
 おまけに温室も、一部の特権階級だけの持ち物だった。
 自然の花が咲かない季節に、温室で育てた花で飾るのは、もう最高の贅沢だよ。そういう設備を作れるだけの財産があって、惜しげもなく切って出せるのだからね。
「そうよ、こういう飾るための花は贅沢品だったのよ」
 放っておいても咲くような花とはわけが違うの、余裕が無いと育てられないから。
 それを沢山飾れる人なんて、ほんの少ししかいなかったのよ。
 お金も、花の手入れをする使用人も、山ほど持ってた人間だけだわ。王様や貴族といった人間。



 そういう人間になった気分で贅沢しましょ、というのがエラの提案。ヒルマンも同じ。ブラウは最初から飾ろうと考えていたし、ゼルも贅沢をしようと思っていたわけだから…。
「いいねえ、あたしたちも昔の貴族の仲間入りかい」
 お城ってわけにはいかないけどねえ、こんな船だし…。普段は花も無いわけなんだし。
 だけど、今なら山ほどだ。飾るべきだよ、この花はね。
 捨てるだなんて、とんでもない、とブラウが改めて覗いたコンテナ。「飾らないと」と。
「そうでしょ、ブラウ? こんなチャンスは、そうそう無いわよ」
 飾らなくちゃね、とても素敵に。…今の時代でも、私たちには花は贅沢なんだもの。
 この船に飾っておくべきだわ、とエラも主張したし、誰も反対しなかった。花を飾ることに。
(…飾るだけなら、エネルギーを食うわけでもないし…)
 花を生けておく器や水も、船にあるもので間に合うだろう。備品倉庫には器が色々、水は充分に足りている。コンテナ一杯の花を養える程度には。
「…いいだろう。ブルー、その花たちは捨てなくてもいい」
 飾ろうという意見の方が多いんだ。それに反対する理由もないしな、俺の立場からは。
 せっかく手に入れた花なんだから飾ってやろう、と前の自分が下した判断。
 もうキャプテンになっていたから、自信を持って。船の最高責任者として、「大丈夫だ」と。
 これくらいの花なら積んでおけると、宇宙に捨てる必要は無いと。



 花を飾ると決まった後には、何処に飾るかが問題だけれど。小分けにして船のあちこちに飾るという意見も出たのだけれども、「食堂がいい」と言ったヒルマンとエラ。
 皆が集まって食事する場所で、其処なら誰もが花を見られる。一日に三回、朝、昼、晩と食事の度に。それに広さもあるのが食堂。テーブルに飾って、他にも色々。
 花が贅沢だった時代は、宴席に飾られていたというのも決め手になった。贅沢な食事は出来ないけれども、花を飾ればきっと豊かな気分になれる、と。
 なにしろ、コンテナに一杯分もある色々な花たち。全部を纏めて見られる方が断然いい。分けてしまったら、どれだけあったか分からなくなるし、値打ちも減ってしまうだろう。
 同じ飾るなら食堂がいい、と花たちは食堂に運ばれた。手の空いた者たちを総動員して、使える器を運んで、生けて。
 「これは床だな」とか、「テーブルには、これ」と、相談したり、指図し合ったり。
 次から次へと運び込まれて、生けられていったコンテナ一杯分の花。色も形も様々なものが。
 薔薇やら、百合やら、カーネーションやら、ふうわりと白いカスミソウなどが。
 何種類もの花を一緒に生けた器もあったし、一種類の花で纏めたものも。同じ色合いの花たちを合わせた器も、色とりどりの花を生けた器も。
 前の自分や、ブルーはポカンと見ていたけれども、エラとブラウは張り切っていた。皆と一緒に生けて回って、ああだこうだと器の場所を移動させたり、入れ替えたりと。
 ヒルマンも皆を指図していたし、ゼルは花たちの運搬係。「まだまだあるぞ」と、「これも」と次々にコンテナの中から運び出して。「次はこいつだ」とドカンと置いて。



 そんなわけで、見事に飾り立てられた食堂。テーブルには幾つも花が生けられた器が置かれて、テーブルの無い床にも花が入った器。歩くのに邪魔にならない場所に。
 食堂一杯に溢れた花たち。香りも彩りも実に様々、それに囲まれての食事の時間。誰もが豊かな気分になった。ただ花があるというだけで。普段は見られない花が溢れているだけで。
 いつもと変わらない普通の食事で、いつものパンが出て来ても。
 御馳走ではない料理を作っている者たちも、食堂の雰囲気を楽しんでいた。料理を味わう仲間の表情、それが素敵なものだから。まるで御馳走を食べているように、賑やかな声が飛び交うから。
「花があるだけで違うもんだな、食事ってヤツは」
 いつものパンの筈なんだがなあ、ずっと美味いって気がするんだよな。
 それに料理も、こう、輝いて見えるって言うか…。照明、変えていないのにな。
「まったくだ。同じスープを飲むにしたって…」
 テーブルだけしか無いっていうのと、花があるのとでは違うよなあ…。
 どっちを見たって花が咲いてて、あっちとこっちで違う花だろ?
 ついつい余所見をしながらスープを飲んでるわけだが、こいつが美味い。花のせいだな。
 花は食えない筈なんだがなあ、こんなに飯が美味いとは…。
 いつまでも咲いててくれればいいがな、萎れて枯れてしまわないで。



 皆に喜ばれた、食堂を飾った沢山の花。前のブルーが間違えて奪ってしまった花。
 危うく宇宙に捨てられる所だった花たち、ゼルやブラウが止めなければ。ヒルマンとエラが花の歴史を知らなかったら。…遠い昔は花は贅沢なものだった、と。
 飾る場所を食堂にしたのも良かった。
 食卓を彩る花たちは其処に集まる皆に愛され、散るのを惜しまれ、まめに世話をされて…。
「ハーレイ、あの花…。最後までみんなが見てたんだっけね」
 一番最後まで頑張って咲いてた花が駄目になるまで、船のみんなが。
 毎日、毎日、花を楽しみにして食堂に来て。
「エラたちが、きちんと生け替えてたしな」
 この花はもう萎れちまった、というヤツはどけて、元気な花を纏めて生け直して。
 茎が弱って駄目になっても、花だけを水に浮かべてやって、生き生きと咲かせておくとかな。
 頑張ってたよな、と今も思い出せる、エラたちの努力。花の命を伸ばしてやるための工夫。
 今から思えば、フラワーアレンジメントというものだった。きっと調べていたのだろう。船とは縁の無い花だけれども、手に入れたからには生かそうと。
 美しく生けて、飾って、愛でて。…最後の一輪まで、無駄にはすまいと。



 大切にされた花たちだけれど、造花ではなくて本物の花。いつか命は終わってしまう。花びらの色が褪せていったり、少しずつ萎れていったりして。
 そうして食堂から消えた花たち。一輪、また一輪と数が減っていって、最後の花も。
 見られなくなってしまった花の最期を誰もが惜しんだ。もっとゆっくり見ていたかった、と。
「またあるといいな、コンテナ一杯の花ってヤツが」
 リーダーのミスだっていう話なんだが、もう一度やってくれたらいいな、と思わないか?
 ミスでもなければ花なんて無いし、あれだけの量は無理だしなあ…。
「ああいうミスなら大歓迎だ。山ほどの花を見られるならな」
 食堂に花が溢れるんなら、ミスも大いに歓迎ってトコだ。物資が少々、足りなくてもな。
 そのくらいのことは我慢するさ、と船の仲間たちは言ったのだけれど。
 また花がドッサリ来てくれないかと待ったのだけれど、ブルーはミスをしなかったから、二度と無かった花で溢れていた食堂。豊かな気分になれた食堂。
 いつもと変わらないメニューだったのに、御馳走に思えた素敵な場所。
 パンも料理も、スープも美味しく変えてしまった、食堂を飾っていた花たち。



 それから長い時が流れて、シャングリラは白い鯨になった。自給自足で生きてゆく船、幾つもの公園を備えた船に。巨大な白い鯨の中では、色々な花が咲いたけれども…。
「…俺たちがシャングリラで育てていた花、どれも綺麗に咲いてたんだが…」
 色々な花が咲いたもんだが、あの時みたいな贅沢ってヤツは、二度と出来ないままだったな。
 船で咲いた花を端から集めて、食堂を飾り立てるのは。
「…無かったっけね、そんなの、一度も…」
 シャングリラの花は、咲いているのを公園で眺めるものだったから…。
 摘んでもいいのはクローバーとか、スミレとか…。スズランだって、摘んでいい日は一日だけ。五月一日だけは摘んでいいけど、他の日は駄目だったんだから。
 薔薇とか百合とか、大きくて目立つ綺麗な花だと、ホントに其処で見ているだけ。
 そうでなければ、ちょっとだけ切って、花瓶とかに生けるのが精一杯だよ。
 …パンと花の日々、二度と無かったね。
 あの時は、そういうお洒落な名前は無かったけれども、パンと花の日々。
「そのままだよなあ、あれは本当にパンと花の日々というヤツだったんだ」
 毎日食べてるパンが美味くなる、実に素敵な魔法だったが…。
 俺もすっかり忘れていたなあ、昨日、パン屋に入った時も。
 俺は花屋に来ちまったのか、と見回していても、あそこじゃ頭に浮かばなかった。
 前の俺たち、あれと全く同じことをやっていたのにな…。
 やり始めた理由も、意味も違うが、パンと花の日々。
 最高に美味い飯を食っていたんだ、食堂に花が山ほど溢れていたお蔭でな。



 今の自分は忘れてしまっていたのだけれども、パンと花の日々は確かにあった。白くはなかった頃のシャングリラで、楽園という名を持っていた船で。
 懐かしくそれを思い出していたら、「ねえ」とブルーに問われたこと。
「…トォニィ、やってくれたかな?」
 パンと花の日々、シャングリラでやってくれたと思う?
 平和な時代になってたんだし、コンテナ一杯の花も買えるよ。奪わなくても、お金を払って。
 あちこちの星を回っていたなら、お金、沢山あっただろうし…。
 その気になったら、食堂一杯の花だって。…食堂、ずっと大きくなってたけれど。
「花を買うだけの金は充分、あったんだろうが…」
 パンと花の日々、お前の記憶に入ってたのか?
 ジョミーに残した記憶装置だ、あれにきちんと入れてあったか、あの時の記憶…?
「…入れていないよ、ずっと昔のことだったもの」
 それに失敗した話だから、残しておいても役に立たない記憶でしょ?
 ジョミーが見たって、花が一杯溢れてるな、って思うだけだよ。
 あんな風に食堂を花で飾らなくても、美味しい食事が出来る時代になっていたしね。
 合成品とか代用品を使う料理もあったけれども、シャングリラの食事は美味しかったもの。
「なら、無理だろ。…トォニィが気付くわけがない」
 お前がソルジャーでさえもなかった頃にだ、食堂を花で飾り立てたことがあっただなんて。
 俺も航宙日誌には書いてないしな、あの時のことは。
 お前が失敗しちまったんだし、書き残すのはどうかと思って書かずにおいたんだ。
 みんながどんなに喜んでいても、元はお前のミスなんだから。



 だからトォニィがやるわけがない、と思うけれども、平和になった船だったから。
 前の自分がいなくなった後に、白いシャングリラに花は溢れたと思いたい。
 広い食堂を花で埋め尽くす「パンと花の日々」は無くても、船の中には沢山の花。誰もが好きに切って飾れて、それを愛でられる船になってくれていたなら、と。
 シャングリラはもう無いけれど。…前の自分が好きだった船は、ブルーと共に暮らした船は。
 前のブルーを失くした後には、辛かった白いシャングリラ。
 どうしてブルーは此処にいないのかと、自分だけが生きているのかと。
 前の自分が失くしたブルーは、生まれ変わって帰って来てくれたけれど。土産に買って来た甘い菓子パン、それを「美味しい」と喜ぶ小さなブルーになって。
「ハーレイ、お土産のパン、美味しかったから…」
 前のぼくたちのことも思い出したから、いつか二人でやってみたいね。あの時みたいに。
「やってみたいって…。パンと花の日々か?」
 俺がパンを買って来た店のヤツとは違って、お前と暮らす家でってか?
「…駄目?」
 花で一杯のテーブルだけでもかまわないから。
 床にまで置こうって欲張らないから、テーブルの上に花を沢山。
 置く場所がもう残ってないよ、って思うくらいに、お皿とかの無い場所は花だらけで。
「お前がやってみたいのならな」
 あれをもう一度、と言うんだったら、いいだろう。
 今度はお前のミスじゃなくって、俺が金を出して花を買い込む、と。
 お前は店で端から選べ。「この花がいい」とか、「こっちも」だとか。薔薇でも何でも、お前の好きな花を端から選んじまっていいから。…予算なんかは気にしていないで、好きなだけな。



 いつかブルーと暮らし始めたら、望みを叶えてやるのもいい。遠い昔にシャングリラでやった、パンと花の日々をもう一度。
 毎日のパンや食卓だからこそ、贅沢に。あの時のように、花一杯に。
 華やかにテーブルを飾ってみようか、ブルーが選んだ沢山の花で。置き場所がもう無いほどに。
 けれど、同じに花で飾るなら…。
「…俺としては、お前を飾りたいがな」
 パンと花の日々もいいがだ、同じ飾るなら、お前がいい。…そう思うんだが。
「え?」
 ぼくって…。ぼくを飾るの、いったい何で飾るつもりなの?
「花に決まっているだろうが。…今はそういう話なんだぞ、パンと花の日々」
 お前には花が映えそうだ。パンやテーブルよりも遥かに、飾る値打ちがありそうだがな?
「花で飾るって…。ぼく、男だよ?」
 女の人なら分かるけれども、ぼくを飾ってどうするの。…男なのに。
「お前、薔薇の花、似合うだろうが」
 前のお前は、そういう評判だったしな?
 薔薇の花と薔薇のジャムが似合うと、そういう綺麗なソルジャーだと。
 だから今でも似合う筈だぞ、前と同じに育ったら。
 綺麗な薔薇の花を山のように買って、お前を飾れたら幸せだろうな。



 まさしく酒と薔薇の日々だ、とブルーに向かって微笑み掛けた。
 酒も好きだが、お前と薔薇の日々がいいな、と。
 それが最高だと、俺にとっての「酒と薔薇の日々」ってヤツだ、と。
「酒を片手に薔薇を見るより、お前の方がいいからなあ…」
 お前を綺麗な薔薇で飾って、俺の隣に座らせておく、と。…酒は無しでも、お前に酔える。
 パンと花の日々より、酒と薔薇の日々。
 今の俺なら、間違いなくそれだ。酒じゃなくてだ、お前なんだが…。俺を酔わせる美味い酒は。
「酒と薔薇の日々…。ハーレイもお酒、大好きだけど…」
 その映画、どんなお話だったんだろうね?
 お酒を薔薇で飾るのかなあ、瓶とか、お酒のグラスとかを。
「さあなあ…?」
 とんと謎だな、タイトルしか残っていないんだから。
 知りたくなっても誰も知らんし、データは何処にも無いんだし…。
 そいつが少し残念ではあるな、お前を飾って酒と薔薇の日々が出来るんだから。



 今は失われた、遠い昔の映画の中身。
 それを惜しいと思うけれども、いつかは酒と薔薇の日々。ブルーと薔薇の日々が来る。
 パンと花の日々を味わった筈の前の自分には、最後まで出来なかった贅沢。
 前のブルーは、自分だけのものにならなかったから。
 最後までソルジャーのままで逝ってしまって、失くしてしまった恋人だから。
 けれど、今度の自分は違う。
 帰って来てくれた小さなブルーは、いつか自分のものになるから。
 今度こそ自分だけのブルーになってくれるのだから、その時は酒と薔薇の日々。
 ブルーが望むなら、パンと花の日々も。
 食卓を溢れるほどの花で飾って、ブルーを綺麗な薔薇で美しく飾り立てて…。




            パンと花の日々・了


※リーダーだった頃の、前のブルーの失敗。切り花が詰まったコンテナを奪ったのですが…。
 捨てるよりも飾った方がいい、と床まで花で埋もれた食堂。たった一度きりの、最高の贅沢。
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