シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
暑さ寒さも彼岸まで。秋のお彼岸も済んで、これからが行楽と食欲の秋。何処へ行こうか、何を食べようかと早くも相談会な土曜日、会長さんの家へ集合です。今のシーズン、一つ間違えるとまだ残暑だけに、相談会から始まるわけですが…。
「マザー農場には行きてえよなあ、学校からも行くけどよ」
収穫祭で…、とサム君が言えば、ジョミー君も。
「収穫祭だと、あんまり贔屓はして貰えないしね…。幻の肉までは食べられないし」
「あの肉か…。今年も是非とも食べたいものだが…」
美味いからな、とキース君までが。マザー農場の幻のお肉、本来はシャングリラ号のためにと開発された飼育法で育てた牛のお肉です。宇宙空間でも美味しいお肉になるように、とコツが色々、それを地上で実践するともう最高のお肉の出来上がり。
大量生産していませんから、一部のお店に卸しているだけ、ゆえに幻の肉というわけ。会長さんと一緒にお出掛けすると御馳走になれるチャンスもグッと増えますし…。
「マザー農場、行きたいですねえ…」
シロエ君も賛成、他のみんなも大賛成。行き先、一つは決まりました。さて他は…、とリビングで検討していた所へ、明るい声が。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と空間を超えて出て来たソルジャー。空いていたソファにストンと座ると…。
「ぶるぅ、ぼくにもケーキと飲み物!」
「かみお~ん♪ 今日は渋皮栗のカフェモンブランなの!」
マロンクリームたっぷり、ティラミス風! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンに走り、ケーキのお皿と紅茶がソルジャーの前にササッと。
「ありがとう! 今日のケーキも美味しそうだよね」
ソルジャーは早速フォークを入れると、「うん、美味しい!」とパクパクと。
「秋って感じのケーキだねえ…。でもって、秋となったら食欲の秋で、性欲の秋!」
「「「は?」」」
何のことだ、と訊き返してしまった私たち。行楽とは違う言葉が聞こえたような気がしましたけど、聞き間違いですか?
「性欲の秋、と言ったんだよ! 秋は人肌恋しい季節だからねえ!」
「それを言うなら、人恋しいの間違いだろう!」
勝手に言葉を作るんじゃない! と会長さんが突っ込みましたが、ソルジャーは。
「えーっ? ぼくにとっては、秋はそういう季節だけれど!」
人肌恋しい性欲の秋、とソルジャーの方は譲りません。今日もアヤシイ話になりそう…。
困った人がやって来た、と私たちの顔には露骨に嫌そうな表情が。けれどもソルジャー、それくらいで怯む人ではなくて。
「これからが素敵なシーズンなんだよ、ぼくのシャングリラも公園は秋になるからね!」
日に日に秋めいてゆく公園でハーレイとデートなのだ、と言ってますけど、キャプテンとの仲はバレバレとはいえ、肝心のキャプテンにバレてる自覚が無かったのでは…?
「そうだよ、ハーレイはバレていないつもり! ぼくと公園を散歩してれば普通はねえ…?」
誰でもピンと来るじゃないか、とソルジャー、溜息。
「そりゃね、手を繋いだりはしてないよ? でもねえ…。二人で歩いていればねえ…」
「君のハーレイとしては、視察のつもりじゃないのかい?」
会長さんの言葉に、ソルジャーは「そう」と。
「ソルジャーのお供で視察をしているつもりなんだよ、ぼくはデートのつもりなのに!」
まるで分かっていないんだから、と、またまた溜息。
「でもねえ、ムードは高まるしね? 暑い季節より、断然、秋だよ! 性欲の秋!」
いつもの店でも勧められたし…、って、何のお店ですか?
「えっ? 漢方薬の店に決まってるだろう、地球で行くなら漢方薬店!」
ぼくの世界じゃ手に入らないレアものの薬が色々沢山…、と言われてみればそうでした。ソルジャーの世界は地球が一度は滅びてしまった世界です。スッポンでさえも超がつくレアで、他の薬は言わずもがな。
かてて加えて、アルタミラとやらで散々に人体実験をされたソルジャー、薬物への耐性が半端なものではないと聞きます。自分の世界の媚薬の類は殆ど効かない体質なだけに、漢方薬にかける期待も大きく、主な使い道はキャプテンの精力増強で…。
「漢方薬は実に素晴らしいよ! あれこれ試してビンビンのガンガン、定番の薬も大量に買っているんだけれど…。この間、別のを勧められてね」
「…また怪しげな薬かい?」
今度は何だい、と会長さんが一応、相槌を打てば。
「それが薬じゃないんだな! 併せて是非ともお試し下さい、とツボってヤツで!」
「「「壺?」」」
どんな壺だ、と思いましたが、ソルジャーは「そっちの壺じゃなくて!」と指をチッチッと。
「ツボはツボでも身体の方だよ、こう、あちこちに押すツボが!」
「「「あー…」」」
ツボ治療の方か、と理解したものの、何故にソルジャー行きつけの漢方薬店でツボがお勧めされるのか。どっちも発祥は同じ国だけに、併せて使えば効果アップとか…?
ソルジャーが勧められたというツボ治療。お灸か鍼かと思いましたが、そうではないという話。
「そういうヤツなら、わざわざ通わなきゃいけないだろう? 面倒じゃないか」
そんな時間があったらセックス! とソルジャーらしい台詞が。
「ぼくのハーレイは忙しいんだよ、ぼくと違って! 空いた時間は有効に!」
「…それじゃツボ治療はどうするんだい?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「ツボだよ、グッと押すだけだよ! いろんなツボを教えて貰って、元気モリモリ!」
思わぬ所にツボがあってね…、と得々と語り始めるソルジャー。元気が漲ってくるツボだとか、イマイチそういう気分になれない時に便利に使えるツボだとか。
「なんと、足首にもあるんだよ! そういったツボが!」
「「「足首!?」」」
まるで関係なさそうなのに、と誰もが見てみる自分の足首。そんな所にソルジャーの好きそうな目的に使うツボがあるとは思えませんが…?
「それがあるんだな、こう、この辺に!」
此処、とソルジャーはブーツの上から自分の足首を示しました。
「ハーレイの此処をグッと押してやれば、効果抜群、もうビンビンのガンガンで!」
「…はいはい、分かった」
それで楽しく暮らしてるわけだ、と会長さんが纏めにかかったのですけれど。
「そう呆気なく終わらせないでくれるかな? ぼくはツボの素晴らしさに目覚めたわけで!」
「毎日が楽しい秋なわけだろ、はい、終了!」
ツボの話はもう聞いた、と会長さんが終了宣言をしたというのに、ソルジャーは。
「分かってないねえ、いろんなツボがあるんだよ? 全部が性欲ってわけじゃないから!」
「…そりゃそうだろうね、そういうモノなら鍼灸院とかはアヤシイ所だよ、うん」
普通は肩こりなどを治す所だ、と会長さん。
「腰痛だとか、他にも色々…。本来、ツボはそっち方面で使うものだよ」
「らしいね、ノルディに訊いたら、使えそうなツボが一杯あって…!」
「…ノルディってトコがアヤシイんだけど?」
「何を言うかな、ノルディはあれでも医者だから! オールマイティの!」
それだけにツボにも詳しかった、とソルジャー、ニコニコ。
「ぼくには全く縁が無いけど、ミュウは本来、繊細だからねえ…。胃痙攣なんか、しょっちゅうでさ…。それに効くツボも教わったんだよ!」
「なんだ、ホントのツボ治療か…」
真面目な話だったのか、と会長さん。胃痙攣のツボって、そんなの、あるんだ…?
ツボに目覚めたソルジャーがエロドクターから教わったツボ。胃痙攣の他にも咳が止まらない時に使えるツボとか、虚弱なミュウには役立つ代物らしいです。
「ぼくのシャングリラのノルディに言ったら、半信半疑だったけど…。データベースにそれっぽい資料はあったらしくて、試してみたら胃痙攣の患者が治ったそうでね」
ぼくの世界のノルディも乗り気、とソルジャーは笑顔。
「薬はやっぱり、薬だからさ…。使わずに済むなら、それが一番!」
「それはそうかもしれないねえ…。一種の毒だと言えないこともないからね」
その気持ちは分かる、と会長さん。
「健康的に行くんだったら、ツボで治せるものはツボがいいよね。腰痛とかにしたってねえ…」
エレキバンなんかもあるけれど、と出ました、磁石な貼り薬。あれってツボに貼るものですか?
「うーん…。基本はツボに貼るんだけどねえ、大抵の人は自己流だよねえ…」
この辺りだ、と自分が思う所に貼るし、と会長さんが言えば、キース君も。
「それは分かるな、俺の親父もそうだしな。ちょっと貼ってくれ、と言われて出掛けて、説明書の通りに貼ろうとするのに、其処は違うと言いやがるんだ」
もっと右とか左とか…、とキース君。
「あれだけ肉をつけてやがると、ツボもズレるかもしれんがな…。親父が其処だと貼らせてる場所と、本来のツボは常にズレているな、間違いない」
「…それで効くわけ?」
ズレてるのに、とジョミー君が首を捻りましたが、「効くらしい」との答え。
「親父が効いたと言ってるからには効くんだろう。…ズレたツボでも」
「ふうん…。多少ズレていても効くんだ、ツボは…」
ぼくのハーレイでもズレていたっていいのかな、と言ったソルジャーですけれど。
「待ってよ、エレキバンとか言ったかい?」
「言ったけど?」
会長さんが返事し、キース君も。
「言ったが、それがどうかしたか?」
「んーと…。エレキバンってアレだよね、普通の薬局で肩こり用に売っているヤツ」
「あんた、知ってるのか? …って、こっちの世界も長かったか」
「うん。買って使ったことはないけど、エレキバンの存在と使い方なら知ってるよ。でも…」
ツボとは結び付いていなかった、とソルジャーは顎に手を当てて。
「あれって、ツボに貼るものなんだ…? 自己流はともかく、基本としては」
「そうなるな」
説明書を見るとそれっぽいな、とキース君。普段貼ってる人が言うなら、そうですねえ…。
キース君がアドス和尚に頼まれて貼ってるエレキバン。腰なら此処で肩なら此処、と説明書に図解があるらしいです。もっともアドス和尚は自己流、説明書とはズレてるみたいですけど。
「キースのお父さん、エレキバンは効いているんだね?」
ソルジャーの問いに、キース君が「ああ」と。
「効いてなければ買わんだろう。あれもけっこう高いからなあ…。一度貼ったら長く使えるとはいえ、一ヶ月も使えはしないからな」
「えっ、貼りっ放しにするのかい、あれは?」
一晩とかじゃなかったんだ、とソルジャーが言えば、会長さんが。
「貼ってじっくり治すんだしねえ、モノにもよるけど一週間くらいは貼ったままかな。磁石の力でツボ刺激なんだよ、人間の指で押す代わりにね」
「へええ…! だったら、エレキバンを貼っても効くのかな?」
ぼくのハーレイに役立つツボ、と訊かれた会長さんは。
「そういうツボとは別物じゃないかな、そのために貼るって話は聞かない」
「うーん…。ちょっといいな、と思ったんだけどね?」
そのエレキバン、とソルジャーが。
「エレキバンそのものを使うのもいいけど、ぼくの世界にはもっと便利なものがあるから…」
「君の世界にもエレキバンに似たものがあるのかい?」
「医療用のグッズじゃないんだけどねえ…。もっと物騒なモノなんだけどさ」
ついでに今は廃番だけど、って、それは効かないからなんじゃあ…?
「違うね、効きすぎるからなんだよ!」
現にこのぼくに劇的に効いた、と自分の身体を指差すソルジャー。何処かでエレキバン、貼られましたか?
「ずいぶん昔の話だよ。ぼくの最初の記憶と言ってもいいくらい!」
それよりも前の記憶は無いから、ということは…。まさか記憶を失くした頃の?
「その通り! 成人検査で使われたんだよ、エレキバンもどき」
身体にペタペタ貼られたのだ、とソルジャーは説明し始めました。
「今から思えば、機械の思念波を伝達するためのモノなんだけどさ…。そんなモノだと思わないしねえ、ただの検査だと思ってたしね?」
エレキバンもどきを貼られたソルジャー、医療器機に似たモノに送り込まれたらしいのですが。其処で待っていたのが成人検査で、エレキバンと頭に被せられた機械から思念波が届いたとか。
「記憶を手放せ、と言われちゃってさ、それは嫌だと叫んだのが全ての始まりなんだよ」
気付いたら機械は全壊してしまっていて、ソルジャーはミュウになっていたという話。それは確かに物騒すぎます、そのエレキバンもどきな代物とやら…。
ソルジャーの思い出話は壮絶でしたが、今となっては別にどうでもいい話らしく。
「無事にあそこから逃げ出せたしねえ、シャングリラだって今じゃすっかり居心地のいい場所になったし、昔のことにはこだわらないよ。でも…」
あのエレキバンもどきは使えるのでは…、と言うソルジャー。
「なにしろ思念波を伝達するんだ、磁石なんかより効きそうだよ、うん」
「…それはまあ…。磁石と違って、人間の意志が伝わるんだし…」
ある意味、ツボを指で押すのに似ているかもね、と会長さんも頷きました。
「それで、そのエレキバンもどき…? 君の世界で治療に使うと?」
「ちょっといいかな、と思ってね! あれで肩こりとかが治るようなら便利だよね」
まるで考えたことも無かったけれど…、というソルジャーの言葉に、会長さんが。
「試してみる価値はあるかもねえ…。ぼくは作ろうとは思わないけどさ」
サイオンを持つ人間の数も限られているし、エレキバンだってあるからね…、と。
「でもさ、君の言う、そのエレキバンもどき。廃番になった理由が効きすぎっていうのは何?」
「そのまんまだよ、ぼくがミュウになったくらいなんだよ? 思念波を伝えすぎるんだよ!」
あまりにもダイレクトに伝わるせいでミュウが続々、という説明。成人検査に使う機械の思念波、強く伝わりすぎると高確率でミュウになってしまうと判断されたのだとか。
よって今では廃番になって、エレキバンもどきも医療機器もどきの機械も無し。ただのヘルメットみたいなものを被せておしまいらしくって…。
「あのエレキバンもどき、いつから廃番になっちゃったんだか…。データを探すのに苦労しそうだけど、使えそうとなれば頑張らなくちゃね!」
探し出してシャングリラで使ってみよう! とソルジャーは思い切り前向きです。
「そうと決まれば、思い立ったが吉日ってね! 早速、帰って!」
「…お昼御飯はいいのかい?」
「あっ、そうか! 今日のお昼は?」
「かみお~ん♪ チキンのタンドリー風と、カレーピラフだよ!」
食べて帰る? と訊かれたソルジャー、「食べる!」と即答。急いではいても、美味しい食事は話が別だということです。ツボの話で盛り上がる内に、お昼御飯の時間になって…。
「エレキバンもどき、データを探すなら、やっぱりアルテメシアだと思う?」
「「「アルテメシア?」」」
「ああ、ごめん! この町じゃなくて、ぼくの世界の…。星の名前だよ、シャングリラのいる」
そこでも成人検査をやっているから、そういった所で探した方が早いだろうか、という話。そりゃあ闇雲に探すよりかは、成人検査の現場でしょう。危ない場所かもしれませんけど、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言いますしねえ…?
昼食を終えたソルジャーは「じゃあ、行ってくる!」と大急ぎで帰ってゆきました。第一目標がアタラクシアで、第二目標がエネルゲイアとやら。
「…なんと言うか…。不純な目的で行くつもりだねえ、ユニバーサルとやらに」
よりにもよってエレキバンもどきの仕組みを探しに行くなんて…、と会長さんが呆れたように。
「普段は成人検査の邪魔をして仲間を救出するんじゃなかったかなあ、ユニバーサルを相手に」
「そう聞いているが…。思い立ったが吉日なんだと言っていたしな」
俺は余計な話をしたんだろうか…、と自己嫌悪に陥っているキース君ですが。エレキバンの話自体は会長さんが先に持ち出したわけで、それに関しては責任ってヤツは無いのでは…?
「どうなんだか…。多少ズレても効くとか、そういう話は俺だしな…」
もしもあいつに何かあったら…、と心配する気持ちも分からないではありません。エレキバンもどきを探し当てる前に発見されて攻撃されるとか…。
「ブルーだからねえ、その点は心配していないけどね?」
ぼくよりもずっと力が上だ、と会長さん。
「まして相手の邪魔をしようってわけじゃなくって、単なる潜入調査だから…。入り込まれたことにも気付かないままってことも有り得るよ、ユニバーサルの方は」
「あいつ、そこまで凄いのか?」
なら心配は要らないだろうか、とキース君。手首の数珠レットを繰ってますから、本気で心配していることは確かですけど…。
「まず心配は無用ってね。それよりも別の心配ってヤツをしておいた方がいいんじゃあ…」
「「「えっ?」」」
会長さんの言葉に首を傾げた私たち。別の心配って…どういう心配?
「エレキバンだよ、エレキバンもどき! ブルーはツボに凝ってるんだよ?」
普通のツボ治療だけで終わればいいけど…、と言われてサーッと引いてゆく血の気。そういえばソルジャー、元々は漢方薬店でお勧めされてツボ治療にハマッたんでしたっけ…。
「ブルーがエレキバンもどきの仕組みを見付けて、開発させて。…最初は普通に使うだろうけど、効くとなったら何に使うか…」
「「「ま、まさか…」」」
「そう、原点ってヤツに立ち返った挙句、漢方薬店で教わったとかいうツボに使わないという保証はない!」
そうなったら巻き込まれる危険だって…、と会長さん。
「よく効くと自慢しに毎日来るとか、恐怖の猥談地獄だとか…」
「「「うわー…」」」
それは困る、と泣きそうです。ソルジャーがエレキバンもどきを開発したなら、そういう結末?
ソルジャーについて心配するなら別方向で…、と会長さんが言っていたとおり、ソルジャーは無事に帰って来ました。次の日に会長さんの家に集まっていたらヒョイと現れ、おやつを食べ食べ、昨日の自慢話をひとしきり。
「それでさ…、やっぱり情報を持っていたのはユニバーサルでさ!」
しっかり漁ってゲットして来た、とエレキバンもどきの設計図などを見せられましたが、何のことやら意味不明。シロエ君でも分からないそうで。
「…どういう仕組みなんですか、コレ?」
「ん? この部分がサイオンを受け止めるように出来ていてねえ…。エレキバンと言うよりはアレだね、電磁治療器用のパッドの方が近いかな?」
そういうイメージ、と言われて頭に漠然と浮かぶ粘着パッド。アレのサイオン用のヤツか、と思いはしても、具体的にはやっぱり謎で。
「分からなくてもいいんだよ! 君たちが使うわけじゃなし!」
「…それは確かにそうですね」
ぼくは肩こりしていませんし、とシロエ君。機械弄りが大好きですけど、肩がこる前にストレッチだとか軽い運動、肩こり知らずらしいです。
「俺もたまには貼りたくなるが…。まあ、二、三日もあれば治るし…」
「えっ、キース先輩、肩こりですか?」
「馬鹿野郎! 親父に叱られて五体投地をさせられた時だ、三百回とか!」
「「「あー…」」」
南無阿弥陀仏に合わせての五体投地はスクワットに匹敵すると聞きます。素人は百回で膝が笑うと評判なだけに、三百回だと、キース君でも…。
「ああ、明くる日にはエレキバンな気分で間違いないな。だが、筋肉痛には運動だ!」
エレキバンに頼るよりかは運動なんだ、と柔道部ならではの流石な解釈。エレキバンのお世話にはならず、黙々と筋トレするのだそうです。
「なるほどねえ…。ホントに君たちとは縁が無いねえ、エレキバン…」
でも作る、とソルジャーは既に開発に入らせていました。昨日の間に向こうのシャングリラのノルディに相談、サイオン治療に使えそうだとのお墨付きを貰って、今日から開発。
「ぼくのシャングリラは年中無休が売りだからねえ、日曜日だって仕事はするし!」
「あんた、しょっちゅう休んでいないか?」
キース君の指摘に、ソルジャーは。
「いいんだってば、普段の働きが違うから! 今日もしっかり週末休暇!」
今日の御飯は? と居座る気満々、食べる気満々。ソルジャーの世界のシャングリラの中では開発担当のクルーが働いている筈ですが…。そっちは放置ということですね?
かくして開発されてしまった、エレキバンもどき。次の週末、ソルジャーはまたしても自慢に現れました。磁力の代わりにサイオンを届けるエレキバンもどき、好評だそうで。
「水曜日から実用品として医療現場で使ってるんだけど…。なかなか評判いいんだよ」
肩こりのクルーが楽になったと喜んでいて…、とソルジャー、ニコニコ。
「腰痛にも効くと喜ばれてるし、あれはいいねえ!」
「それは良かった。…でもさ、君も肩こりとは無縁そうだねえ…」
効き目を実感できそうにないね、と会長さんが言うと、ソルジャーは。
「そう、其処なんだよ! せっかく開発したというのに、ぼくには御縁が無くってねえ…」
「いいじゃないか、たまにはソルジャーとして皆に喜ばれておけば」
医療部門で喜んで貰えるだなんて、そうそう機会が無いだろう、と会長さん。
「どちらかと言えば戦闘担当、医療なんかは無関係ってイメージが強いけどねえ、君の場合は」
「その通りだけど…。あれの恩恵、ぼくも蒙りたくってねえ…」
「肩こりとか腰痛希望だったら、そこのキースに頼めばいいよ」
アッと言う間に筋肉痛にしてくれるから…、と話を振られたキース君は。
「俺か? あんたの嫌いな南無阿弥陀仏のお念仏は俺が唱えてやるから、運動してみろ」
こんな具合で…、と五体投地の見本が一回。
「あんたの希望の極楽の蓮までの距離がグンと短くなると思うが」
「筋肉痛は要らないんだよ! ぼくが欲しいのは別方面での恩恵で…!」
ツボと言ったら元々はコレ、とソルジャーがピタリと指差す足首。そのツボは、確か…。
「覚えてるかなあ、ぼくのハーレイが元気になるツボ! 今も使ってるんだけど…」
「…それで?」
会長さんの声が震えて、私たちも震えたい気分。会長さんの予想通りに、ソルジャーは良からぬ目的に向かってエレキバンもどきを使いたいらしく…。
「こういうツボにもエレキバンもどきが効くのかなあ、って…。でもねえ、使用例が無いものだから…。下手に使って逆効果だったら困るしね?」
念には念を入れて使いたいのだ、と言うソルジャー。それって、何処かで実験するとか…?
「ピンポーン!」
大当たり! とソルジャーの声が。
「こっちの世界に一人いるじゃないか、ぼくのハーレイのそっくりさんが!」
「「「教頭先生!?」」」
「あれで試すのが一番なんだよ、エレキバンもどきが効くのかどうか!」
ジャジャーン! と取り出されたエレキバンもどきを入れた箱。それって貼るだけで使えるんですか、エレキバンもどきですもんねえ…?
「うーん…。貼るだけと言えば貼るだけ、だけどアフターケアが必要!」
サイオンだから…、と言うソルジャー。
「ある程度のサイオンは乗せておけるけど、パワーは少しずつ落ちてゆく。ぼくのシャングリラなら、その点はあまり心配要らないんだけど…」
微弱なサイオンが常に船の中に流れているから…、という話。ソルジャーが張り巡らせているサイオンの他にもステルス・デバイス用やら何やら、サイオンだらけらしいです。
「そういうサイオンがプラスされるし、落ちたパワーも補えるんだけど…。こっちの世界じゃそうはいかないから、貼りっ放しにするんだったらサイオンのフォローが要るんだよ」
「ああ、なるほど…。それじゃ長時間は試せないねえ?」
会長さんが頷き、ソルジャーも。
「短時間で効果を見極めなくちゃ、って所かな? だけど元々、長時間効いてもぼくのハーレイは長期休暇を取れないし…」
一時的に効けばそれで充分、という話。それじゃ、教頭先生は…?
「ちょっと付き合ってくれればいいんだ、実験に! これをツボに貼って!」
ちょうど暇そうにしているし…、という言葉が終わらない内に、パアアッと光った青いサイオン。私たちは会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」も一緒にソルジャーの瞬間移動に巻き込まれて教頭先生の家へ。リビングにドサリと放り出されて…。
「うわあっ!?」
ソファで仰け反ってらっしゃる教頭先生に、ソルジャーが。
「こんにちは。ちょっとね、君にお願いがあって…」
「…お願い…ですか?」
「うん。ツボ治療ってヤツに凝っていてねえ、ぼくのシャングリラでサイオンを使ったエレキバンもどきを開発したから…」
君に試して貰えないかな、と訊かれた教頭先生、ツボについては素人だったらしく。
「はあ…。ツボ治療だと言われましても、肩こりも腰痛も今の所は特に…」
「そうなのかい? でもねえ、ツボには色々とあって…」
足首に一つ貼ってもいいかな? と指差された教頭先生、「はあ…」と怪訝そうに。
「足首とは、また…。そんな所に貼って、何に効くのですか?」
「元気が出るツボと言えばいいかな、悪いようにはしないよ、うん」
両足首に一つずつ貼るだけ! と言われた教頭先生は「分かりました」とソファに座り直し、ソルジャーが靴下をグイとめくって足首の上の方にエレキバンもどきを一つ、ペタリと。両足首にそれぞれ一個のエレキバンもどき、さて、この後は…?
どうなるのだろう、と見守っている内に、ソルジャーがサイオンを送り始めたみたいです。教頭先生の頬が赤らみ、ソファでもじもじと身じろぎをして。
「あのう…。少し失礼してもよろしいでしょうか?」
「失礼って…。何処へ?」
ソルジャーの問いに、教頭先生が「トイレですが」と答えると。
「やったね、やっぱりそういう気持ちになって来たかい?」
「…は?」
「普通にトイレじゃないんだろう? こう、盛り上がった気分を鎮めに行くんじゃないかと」
君の分身…、とソルジャーが教頭先生の股間を指差し、教頭先生は耳まで真っ赤に。
「…い、いえ…。あのぅ…、そのぅ…」
「遠慮しなくてもいいんだよ! そういうツボに貼ったんだしねえ、エレキバンもどき!」
「ツボですって!?」
教頭先生の声が引っくり返って、ソルジャーは。
「そうだよ、モリモリ元気が出て来るツボってね! ぼくのハーレイもよく使っているよ」
押すだけで男のパワーが漲るツボで…、と教頭先生の足首をグッと掴んでニッコリと。
「ご協力、どうもありがとう! 御礼にトイレに行かなくっても、このぼくが!」
「…あなたが?」
何を、と教頭先生が言い終わらない内に、ソルジャーの手がツボをグッと押し、その手を離すと教頭先生のズボンのファスナーを下ろして…。
「今のツボ押しで元気一杯、漲った君にぼくが御奉仕! 遠慮しないで!」
ズボンの前は見事に全開、紅白縞へとソルジャーが突進しましたが。
「やめたまえ!」
会長さんが怒鳴り付けるのと同時に教頭先生の鼻から鼻血がブワッと。さっきからトイレと仰っていただけに血の気は充分に昇っていたらしく、ソルジャーの突撃がダメ押しになって…。
「…うーん…。せっかく御奉仕してあげよう、って言ってるのにさ…」
失神だなんて、とソルジャーはブツブツ、会長さんはギャーギャーと。
「余計なことはしなくていいんだよ! ハーレイにはトイレが似合いだから!」
「でもねえ、実験に協力して貰った御礼はしたいし、美味しそうだし…」
「もうヘタレたから! 役に立たないから!」
「…それっぽいねえ、残念だけど」
食べ損なった、とソファに沈んだ教頭先生の足首からエレキバンもどきを剥がすソルジャー。エレキバンもどきの効力は証明されたみたいですから、この騒ぎもこれで終わりですかねえ…?
失神した教頭先生を見捨てて、会長さんの家に戻った私たち。ソルジャーはエレキバンもどきが自分の役にも立ちそうだと分かってウキウキで。
「まさかあんなに効くなんて…。思った以上の効き目だよ!」
「…普通に押すより効き目があるとか?」
会長さんが嫌そうに言うと、ソルジャーが「うん」と。
「ツボを押すにはコツがあってね、それなりに効いてはいるんだけれど…。エレキバンもどきを通してやったらコツは要らないし、効果の方も抜群だから!」
これに限る、と嬉しそうなソルジャー。
「下手をしたら逆効果になっちゃうかも、って思っていたから、こっちで実験したけれど…」
「「「逆効果?」」」
「いわゆるEDとかだよね、うん。ツボにサイオンを送り込むんだし、何が起こるか分からないしねえ…。癒し効果で癒されちゃったら、肝心の部分も眠っちゃうから!」
だけど元気になると分かった、とエレキバンもどきを大絶賛。
「此処でのんびりしちゃいられないよ、急いで帰ってハーレイの休暇を取らなくちゃ!」
「休暇って…。まさか、今日の分かい?」
今からなのかい、という会長さんに、ソルジャーは。
「もちろんだよ! 一分一秒も惜しいって感じ! 今すぐ休暇を申請したなら、夕方にはブリッジを出られるからね! そして明日の夜までガンガン!」
このエレキバンを貼ってガンガンやりまくるのだ、とソルジャーは急いでお帰りに。いつもだったらお昼御飯もおやつも食べて、夜まで居座るコースですけど…。
「じゃあねー!」
またね、と消えてしまったソルジャーの姿。私たちはポカンと取り残されて…。
「…教頭先生、大丈夫でしょうか?」
助けに行った方がいいんじゃあ…、とシロエ君が呟くと、会長さんが。
「放っておけばいいんだよ! あんなスケベは!」
「しかしだな…。今回のアレは不可抗力というヤツで…」
何も御存知なかったのだし…、とキース君。けれど、会長さんはツンケンと。
「トイレに出掛けて何をしようと考えてたかが問題なんだよ! どうせオカズはぼくだから!」
「「「…おかず?」」」
「スケベな妄想のお供って意味!」
だからスケベは捨てておくのだ、と会長さん。自業自得とも言ってますから、助ける気など皆無でしょう。まあ、真っ裸でもないんですから、放っておいてもいいですよね…?
キャプテンに休暇を取らせると言って帰ったソルジャーは次の日も姿を見せませんでした。宣言した通り、夜までガンガンとかいうヤツでしょう。鬼の居ぬ間に何とやら…、と私たちは会長さんの家でゆっくり過ごして、美味しい食事やお菓子なども。
週明けも無事にスタートを切って、平穏な日々が流れて行って…。
「…当分、あいつは来ないようだな」
エレキバンもどきの御利益で…、とキース君が合掌している土曜日の朝。会長さんの家へ行こうと集合したバス停でのことです。
「来そうにねえよな、この一週間、見ていねえしよ」
「キャプテンが順調ってことでしょうねえ、アレのお蔭で」
サム君とシロエ君が頷き合って、私たちも揃って「うん、うん」と。ソルジャーがキャプテンとベタベタしようが何をしようが、あちらの世界は全く関係ありません。エレキバンもどきでツボ治療とやら、大いに頑張って欲しいものだ、と思っていたら…。
「こんにちはーっ!」
会長さんの家に着くなり、狙いすましたように湧いたソルジャー。今日はキャプテンと休暇なのではないのでしょうか?
「えーっと…。休暇には違いないんだけれど…。ちょっと君たちに相談があって…」
「「「相談?」」」
「うん。このエレキバンもどきのことなんだけどね…」
こっちで量産出来ないだろうか、と妙な話が。量産って…?
「そのまんまの意味だよ、大量生産出来ないかなあ、と…。ぼくのシャングリラでは限度があって…。そりゃあ、データを誤魔化せば済む話だけれど…」
大量に消費するものだから、と聞かされて会長さんが「それは変だろ」と。
「エレキバンもどきはよく知らないけど、エレキバンは一週間は持つんだよ?」
「俺もそう思うが、そのエレキバンもどきは持たないのか?」
二日か三日で駄目なのか、とキース君が訊くと。
「二日どころか、一日でパアになっちゃうんだけど!」
「「「一日!?」」」
それはあまりに短命なのでは…、と驚きましたが、ソルジャーは。
「普通に使えば一週間はいけるんだよ! でもねえ、ぼくたちみたいな使い方だと駄目なんだ」
「何をしたわけ?」
会長さんの問いに、返った答えは。
「タイプ・ブルーのサイオンをMAX…」
「「「え!?」」」
それってどういう使い方ですか、エレキバンもどきを攻撃したとか…?
エレキバンもどきのパワーの源はサイオンなのだと聞いています。実際、ソルジャーもサイオンを乗せているようですけど、MAXだなんて、どうしてそこまでのパワーが必要…?
「ぼくじゃなくって、ぶるぅなんだよ」
「「「ぶるぅ?」」」
あの悪戯小僧の大食漢が何をしたと?
「エレキバンもどきをハーレイのツボに貼っておいてさ、ヤリまくってたら、ぶるぅが覗きに来たらしくって…。エレキバンもどきにサイオンをサービスしてくれたんだよ」
MAXパワーで乗せてくれた、と言うソルジャー。でもでも、「ぶるぅ」はサイオン全開だと三分間しか持たないのでは…?
「そこがエレキバンもどきの凄さなんだよ、ぶるぅが一瞬放出した分でジンジンとパワーを保つってわけ! ツボ刺激の!」
そしてハーレイは疲れ知らずでヤリまくるんだけど…、と深い溜息。
「エレキバンもどきは、そこまでのサイオンを受け止めることを想定してないし…。結果的に一日で壊れちゃうんだ、そして新しいのが必要になる、と!」
「…君のシャングリラで増産すれば?」
その方が早い、と会長さんが言ったのですけど、ソルジャーは。
「データを誤魔化す暇も惜しいと言うべきか…。エレキバンもどきを貼ったハーレイは実に凄いからねえ、あのパワーに酔っていたいんだよ…!」
無駄なエネルギーは使いたくない、と我儘放題、言いたい放題。あんな代物、こっちの世界で作るとなったら設備も一から要りそうなのに…。
「そこをなんとか! 助けると思って!」
「…エレキバンで代用しておけば?」
これ、と会長さんが投げ渡しているエレキバン。まさか、何処かから万引きしたとか?
「失礼な! フィシスの予言で買っておいたんだ、昨日の夜に! ドラッグストアで!」
エレキバンが必要になるでしょう、とフィシスさんから連絡があったというから凄いです。会長さんの女神はダテではありません。でも、エレキバンは所詮、エレキバン。エレキバンもどきとは違うわけで…。
「…これでどうしろと?」
「効くと思って使えば効く…かもしれない。こっちの世界でフォローできるのはここまでだね!」
後は知らない、と言われたソルジャー、文句を言いつつエレキバンの箱を手にして消えました。本当に時間が惜しいんですねえ、キャプテンは今日も休暇と聞きましたしね…?
会長さんが渡したエレキバン。ただの磁石のエレキバン。ところが、それは劇的に…。
「効くんだよ、アレは!」
ぶるぅのサイオンを乗せるには持ってこいだった、と笑顔のソルジャー。あれから一週間が経ったわけですが、至極ご機嫌麗しくて。
「本物のエレキバンもどきと同じで、磁石は一日でパアになるけど、効果は同じ! それに何より、こっちの世界じゃドラッグストアで買えるからね!」
もう手放せないよ、とドラッグストアの袋にエレキバンの箱がドッサリ山ほど。
「…それは良かったねえ…」
ぶるぅも力の揮い甲斐が、と会長さんが言えば、ソルジャーも。
「そうなんだよ! 覗きをしてても叱られない上、ハーレイの凄いパワーを見放題だしね!」
ぶるぅも大喜びなんだ、と言ってますけど、「ぶるぅ」の覗きは、キャプテン、苦手でらっしゃったんじゃあ…?
「ああ、それかい? エレキバンでパワーアップをしてる間は大丈夫!」
ぶるぅなんか目にも入ってないから、と上機嫌。つまりエレキバン、お役に立っているわけですねえ、ソルジャーの世界のシャングリラで…?
「そうなるねえ! ぼくの青の間限定でね!」
当分はコレでガンガンと…、とご自慢ですけど、もう溜息しか出て来ません。たかがエレキバン、されどエレキバン。ツボの効果はいつまで持続するものでしょうか、慣れれば効かなくなるのでしょうか。ともあれ当分、エレキバン。ソルジャーの買い出し、続くんでしょうねえ…。
貼って元気に・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーが開発したエレキバンもどき。成人検査、昔はシステムが違いましたからね。
あのエレキバンもどきから、とんだ代物が生まれましたが、普通のエレキバンも凄いかも。
次回は 「第3月曜」 9月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、8月といえばお盆のシーズン。今年も棚経が問題ですけど…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(コーヒーフェアか…)
ハーレイが手に取り、眺めたチラシ。ブルーの家には寄り損なった日、夕食の後で。
夕刊に入った折り込み広告、百貨店での特別企画。あちこちの星から集めたコーヒー、もちろん地球産のコーヒーだって。
コーヒーの木の写真まで載せて、購買意欲をそそる仕掛けだけれど。明日から一週間の企画で、催事用のホールを丸ごと使うらしいのだけど。
(まるっきり縁が無いってな)
コーヒー党のくせに、と浮かべた苦笑い。コーヒーと紅茶、どちらが好きかと尋ねられたなら、迷わずコーヒーと答える自分。現に今だって、テーブルの上にコーヒーを満たしたマグカップ。
以前だったら、いそいそ出掛けて行っただろう。試飲が出来るコーナーもあるし、物珍しさで。他の星から来たコーヒーの味はどうかと、たまにはそういう豆もいいかと。
(地球のにしたって…)
普段はお目にかかれない物もあるだろう。それも豊富に。どれを買おうか迷うくらいに。
けれど、無くなってしまった御縁。高い豆でも相手はコーヒー、手が出ないほど小遣いに不自由してはいないのに、行っても仕方ないコーヒーフェア。
(あいつに出会ってしまったからなあ…)
前の生から愛した恋人、十四歳にしかならないブルー。小さなブルーはコーヒーが苦手で、前のブルーもそうだった。「何処が美味しいのか分からないよ」と嫌がるコーヒー。
時間がある日は、小さなブルーに会いに行くのが常だから。ブルーの家を訪ねてゆくから、街に出掛けてはいられない。百貨店に行くより、ブルーの家。
ブルーもコーヒー好きだと言うなら、土産に買う手もあるけれど。今日のように学校を出るのが遅れた日などに、街へと車を走らせて。
(だが、土産にもならないんだ…)
土産話にも出来やしない、とコクリと飲んだ熱いコーヒー。今の自分にはこれで充分だと、街に出掛けてまで珍しい豆は要らないと。
そうは思っても、コーヒー党には違いない。コーヒー豆より恋人の方を選ぶけれども、気になるコーヒーフェアの文字。小さなブルーに出会う前なら、きっと飛び付いただろうから。
(俺しか飲めんというのがなあ…)
前はともかく今度もなんだ、と零れる溜息。生まれ変わってもコーヒーが苦手な、愛おしい人。
この状況ではコーヒーフェアに出掛けて行っても仕方ない。無駄に時間を取られるだけ。いつかブルーと結婚したなら、「ちょっと付き合え」と引っ張って行ってもいいだろうけれど。
いくらブルーは飲めないと言っても、やめる気などは無いコーヒー。毎日必ず飲むだろうから、コーヒー豆だって買いにゆく。だから、たまにはコーヒーフェア。試飲出来ないブルーを連れて。
(嫌そうな顔はするんだろうが…)
興味津々でもあるだろうブルー。こんな飲み物の何処がいいのか、と他の客たちの観察もして。
そういう日まではお預けだな、とチラシをテーブルに置いたのだけれど。
(…待てよ?)
俺の事情は大きく変わったんだった、と再び手に取った百貨店のチラシ。今の自分は前に比べて中身がグンと増えている。キャプテン・ハーレイの記憶が戻って、加わったから。
(今の俺ならではの発見もあるか?)
同じコーヒーフェアのチラシでも、前の自分の記憶が戻った今ならば。
ただの嗜好品であるよりも前に、コーヒーの価値が全く違う。白いシャングリラではキャロブのコーヒー、本物ではなくて代用品。イナゴ豆で出来ていたコーヒー。
人類の船から物資を奪っていた時代ならば、本物のコーヒー豆だったけれど。
コーヒー自体が値打ち物だった、と前の自分になったつもりで眺めたチラシ。さっきより輝いて見える気がする、本物のコーヒーばかりのチラシ。
(コーヒー豆だというだけで値打ちが出るからなあ…)
何度懐かしく思っただろうか、あの船で。キャロブのコーヒーを口にしながら、本物のコーヒー豆があった時代を。カフェインを加えて作る代用品とは違った深みのある味を。
こだわりの豆など無かったけれども、本物を懐かしんでいた。また飲めたら、と。
あの頃の自分の目で見たチラシは、夢の世界を見ているよう。どれも本物ばかりのコーヒー。
(おまけに地球産と来たもんだ)
今でこそ見慣れた数々の銘柄、けれども前の自分は知らない。地球産を謳ったコーヒー豆など、前の自分が生きた頃には無かったから。
(てっきり、貴重品だとばかり…)
前のブルーが奪ったコーヒー豆の中には無かった地球産。希少な豆だから、手に入らないのだと信じていた。人類の聖地だった地球。其処で採れるだろうコーヒー豆は、普通の輸送船で運ぶには価値が高すぎるのだと。…地球産の作物ばかりを扱う輸送船、そういう船があるのだろうと。
まさか、その地球が無いとは夢にも思わなかった。
白いシャングリラで辿り着くまで、赤茶けた死の星を目にするまでは。
無くて当然だったんだ、と今だからこそ分かる地球産。蘇った青い地球で育ったコーヒー豆。
沢山あるな、と見ていった後は、他の星から来たコーヒーたち。多分、その星の自信作。
(アルテメシアにノアか…)
前の自分も飲んだ筈なのに、まるで覚えていない味。飲みたいと願った本物のコーヒーだったというのに、感動すらも覚えなかった。
ブルーを失くした後だったから。地球を目指しての旅の途中で、陥落させた幾つもの星。其処で出されたコーヒーの味は、もはやどうでも良かったから。
何を食べようが何を飲もうが、栄養補給をしていただけ。シャングリラを地球まで運ぶために。ブルーが遺した言葉を守って、ジョミーを支えてゆくために。
だから興味も無かったコーヒー、味も銘柄も知るわけがない、と思ったけれど。
(ん…?)
これは、と目を引いたノアのコーヒー。数量限定の特別輸入。
わざわざ枠で囲まれたそれは、キースが飲んでいたコーヒーだという。銘柄は「マツカ」。
(うーむ…)
そんなものが存在していたのか、と唸ってしまった、伝説の国家主席の御用達。キースが好んだ味のコーヒー、いつもマツカが淹れていたもの。
ノア産のコーヒー豆のブレンド、それが「マツカ」というコーヒー。もちろん後から付けられた名前、キースが国家主席だった頃には名前も無かったマツカのコーヒー。
(キース好みのコーヒーなあ…)
添えられている説明文。国家主席になるよりも前から、キースはこれを好んだらしい。マツカに命じて淹れさせていた味、他の者たちが淹れたコーヒーでは駄目だった、と。
キースもマツカもいなくなった後、マツカが遺した記録のお蔭で分かったブレンド。どんな豆をどうブレンドしたのか、豆の種類や割合などが。
マツカは細やかに気を配り続け、そのブレンドを完成させた。キースが「美味い」と思ったろう味、それをきちんと覚えていて。この豆の味が好きなようだと、この割合で混ぜてみようと。
キースは多分、言葉にもしていなかったろうに。「美味い」とも、それに「不味い」とも。
顔にも出してはいなかったろうに、マツカが作り上げたブレンド。キースのためにと、いつでも美味しいコーヒーを飲んで貰えるようにと。
(心も読まずに、よくやったもんだ)
あんな男の好みなんぞを掴むのは大変だっただろうに、と思い浮かべたマツカの顔。前の自分は会っていないけれど、今の自分は何度も写真を見ているから。
キースは今も嫌いだけれども、マツカのことは嫌っていない。トォニィが殺してしまった仲間。人類の世界で生きていたミュウ。
キースがSD体制に反旗を翻した理由の中には、マツカの存在もあっただろうから。記録は何も無いのだけれども、誰もがそうだと考えている。マツカの存在は大きかった、と。
コーヒー豆をブレンドしていたほどだし、マツカは本当にキースのために心を砕いたのだろう。見えない所まで心を配って、キースの世話をしていたのだろう…。
今の時代まで伝わるブレンド、「マツカ」と名付けられたノア産のコーヒー。キースが好んだ、マツカがブレンドしていたコーヒー。それを見付けたということは…。
(ブルーに教えてやれってことか?)
このコーヒーの存在を。ノア産のコーヒーのブレンドの一つ、マツカの名前を持ったコーヒー。遠く遥かな時の彼方で、キースに仕えた心優しいミュウの名前を。
キースを庇って命を落とした、人類の世界で生き続けたミュウ。キースの元から逃げ出さずに。その気になったら、逃げる機会はきっと何度もあっただろうに。
キースを選んで、ついて行こうと決めたのがマツカ。命ある限り。キースは人類だったのに。
マツカがキースを嫌わなかったように、ブルーもキースを嫌わないから。どちらかと言えば好きらしいから、コーヒーの「マツカ」を知ったら喜ぶことだろう。
「キースがいい人だったからだよ」と、「だからマツカも頑張ったんだよ」と。
教えてやったら、喜ぶに違いないブルー。キースが好んだコーヒーの「マツカ」。
(なんだって、俺が…)
キースは今でも嫌いなんだが、とチラシを睨み付けてみたって、気付いたものは仕方ない。このコーヒーを小さなブルーに教えてやるのが自分の役目。忌々しいけれど、買いに出掛けて。
(人気商品だろうしな…)
その上、数量限定となれば、勤務時間中に抜け出すしか道は無いだろう。週末ともなれば朝から人が並ぶだろうから、確実に手に入れたいなら平日がいい。
なんとか外へ出る用を作って、百貨店の開店時間に合わせて。明日から始まるフェアの期間に、マツカという名のコーヒーを買いに。
心でそういう段取りをつけて、次の日、出勤してみたら。丁度、街まで出られそうな者を探していたから、名乗り出た。午前中に担当の授業が無い上、車も持っているのだから。
「私が行きます」と引き受けた用事、ついでに休憩時間も貰えた。午前中はゆっくりしてくれていい、と。用件自体は、それほど時間がかからないのに。
願ってもない外出の機会。昨日の今日とは運がいい。出掛ける先も百貨店から近かった。
(先にこっちを済ませるべきだな)
コーヒーを買おう、と百貨店の駐車場に車を入れて、急いだ売り場。催事用のホールに行列中の客たち、並んだ後に二人が続いた所で「此処までです」と店員の声。
(凄い人気だな…)
のんびり来ていたら買えなかったぞ、と驚くほどの人気の「マツカ」。果たして人気はマツカの名なのか、それを好んだキースの方か。
(どっちなんだか悩むトコだが、知りたくもないな)
殆どの客がキースのファンなら、情けない気分になるだろうから。「俺もそういう扱いだな」と溜息が心に満ちるだろうから。
キースとマツカのファンが半々、マツカのファンが多めなのだ、と自分を慰める間に来た順番。
(これか…)
残り三個になっていた「マツカ」、同じ店が扱う他のコーヒーは山ほど並んでいるというのに。店員が「こちらですね」と示すパッケージに、刷られたマツカとキースの写真。
(こっちが非常に腹が立つんだが…!)
キースの写真は要らないんだが、と言いたい気持ちをグッと堪えて包んで貰った。買い物の後は学校の用事。そちらは並びもしないで済んだし、休憩はせずに戻った学校。コーヒーは車に残しておいた。持って入って何なのか知れたら、コーヒー党の同僚たちに…。
(味見させてくれ、と言われちまうんだ!)
それもキースの方のせいで、と断言できる。伝説の英雄が好んだコーヒー、その味を是非、と。マツカがキースのために作ったブレンド、それを飲みたいと。
誰がキースの宣伝をするか、と知らんぷりを決め込んだ「マツカ」のコーヒー。小さなブルーに話してやるなら、土曜日だろう。きっと飲みたがるに違いないから、ゆっくり出来る休日に。
土曜日までにブルーの家に寄った日が一度、黙っておいたコーヒーのこと。話したくなる気分を飲み込み、別の話をしておいて。
そして土曜日、コーヒーの「マツカ」が入った紙袋を提げて出掛けたブルーの家。二階の窓から見ていたブルーは、とうに紙袋に気付いていたから。
「ほら、土産だ。お前用ではないんだがな」
ブルーの部屋で向かい合わせに座って、テーブルに置いた紙袋。ブルーは「えっ?」と赤い瞳を丸くした。
「ぼくのじゃないって…。パパかママ用?」
それなら、ママに渡せば良かったのに…。暫く来ないよ、お茶もお菓子も持って来たもの。
晩御飯の時に渡したいとか、そういう物なら分かるけど…。お酒か何か?
「いや、酒じゃないが…。お前用にと買いはしたんだが…」
お前の好きな物じゃないのさ、土産に貰っても困りそうな物だ。
そんな代物を、お前用だと言うのもなあ…。
だが、開けてみろ。…お前への土産には違いないからな。
「ふうん…?」
なんだか変なの、貰っても困るお土産だなんて…。
ぼくの友達、旅行のお土産にヘンテコな物をくれたりすることがあるけど、そういうヤツ?
こんなのを貰っても使えないよ、って思うカップだとか、変な形のキーホルダーとか。
「あるなあ、そういう土産物ってのも」
俺も若い頃にはよく貰ったなあ、何処で着るんだって悩む模様のシャツとかを。
そこまで酷いのを買って来たってわけじゃないがだ、お前には迷惑な物だと思うぞ。
見れば分かる、と促してやって、ブルーが開けた紙袋。中から出て来た「マツカ」のコーヒー。一番最初に目に入るのは、パッケージの模様でもあるコーヒー豆の写真の方だから。
「なに、これ…?」
どうして、ぼくにコーヒーなわけ?
ホントに苦手なお土産だけど…。なんでコーヒー、ぼくにくれるの?
「よく見てみろ。キースとマツカの写真がついているんだ」
その下に説明が書いてあるだろうが。…そのコーヒーの名前もな。
「ホントだ、キース…。それに、マツカ…?」
キースの写真がくっついてるのに、コーヒーの名前、マツカなんだ…。キースじゃなくて。
「そうだ、そいつはマツカと言うんだ」
マツカって名前がついたコーヒー。…マツカが生きてた頃には無かった名前なんだが。
「うん…。そう書いてあるね、キースのために作ったブレンド…?」
キースが好きだったコーヒー豆のブレンド、それの再現…。だからマツカって言うんだね。
いつもマツカがブレンドしていて、キースのお気に入りだったから。
「そのようだ。…こんな所に名を残したんだな、マツカはな」
俺も全く知らなかったが、コーヒーフェアのチラシで見付けた。こういうのがある、と。
お前に教えてやりたかったし、土産に買って来たってわけだ。
キース好みのブレンドって所は腹が立つんだが、これを作ったのはマツカだからな。
…前の俺はマツカには会えずに終わっちまったが、仲間の一人には違いない。
それにだ、お前、マツカがキースに淹れてたコーヒー、あると知ったら見たいだろうが。
キースのためにと、ミュウだったマツカが工夫を凝らしたコーヒー豆が。
お前、キースをちっとも嫌っていないからな。あんな目に遭わされちまったのに…。
どういうわけだか嫌わないんだ、と顔を顰めたら、ブルーにも気持ちは伝わったようで。
「ハーレイ、キースは嫌いなのに…。今でも嫌いなままなのに…」
このコーヒーを買ってくれたの、ぼくが見たがるだろうと思って…?
「ああ、学校を抜け出してな。…一応、用事はあったんだが」
誰か街まで行けるヤツは、と探していたから、俺が出掛けた。この百貨店にも寄れるからな。
「学校のある日に抜け出したって…。そこまでしたの?」
ホントに用事があったにしたって、街までわざわざコーヒーを買いに…?
「こいつは限定品だったんだ。一日に売る数が決まっているから、帰りじゃ買えん」
しかし、お前が喜びそうだと思ったからなあ、このコーヒーは。
…俺の直ぐ後ろで、その日の分は売り切れだったが…。買えて良かったか、このコーヒー?
「うん、嬉しい。…こんなのがあるぞ、って教えてくれるだけでも充分、嬉しかったと思う」
ハーレイが行くまでに売り切れていても、ぼくはちっとも怒らなかったよ。
そのコーヒーの本物だなんて、買って貰えて、とっても嬉しい。…マツカのコーヒー。
だって、キースはマツカを大事にしていたんだな、って分かるもの。
キースに冷たくされていたなら、コーヒーまで作りはしないでしょ?
「コーヒーの味がすればいいんだ」って、適当に淹れていたと思うよ、その辺の豆で。
酷い時にはインスタントで済ませてたかもね、こうしてブレンドする代わりに。
「…やっぱりあいつの肩を持つのか…」
お前らしいとは思うんだが…。このコーヒーで嬉しくなるほど、キースを高く買ってる、と。
俺がキースにコーヒーを出すなら、インスタントどころか泥水を出したいほどなんだがな。
「いつも言ってるでしょ、ぼくはキースを嫌いじゃない、って」
出会った時代と立場が違えば、きっと友達になれた気がするよ。
ナスカでキースと会った時にも、もっと時間があったなら…。話が出来たら違ったかもね。
キースは結局、SD体制を壊す方へと行ったんだから。…考え方を変えたんだから。
考えるための時間さえあれば、ナスカでもキースは変わってた。そういう人間。
だからキースは嫌いじゃないよ。ホントは誰よりも人間らしくて、優しい人類だったんだもの。
ミュウだったマツカが、こんなコーヒーを作っていたのが証拠。キースのためにね。
ハーレイもこれを飲んでみたら、と小さなブルーに勧められた。例の「マツカ」のコーヒーを。
「きっとマツカの心が分かるよ」と、「美味しいコーヒーだと思う」と。
「おいおい…。俺にこいつを飲めってか?」
よりにもよってキース好みのコーヒーを俺に飲めと言うのか、コーヒーの名前はマツカだが…!
しかし、作ったのがマツカだっただけで、この味はキースが好きだった味で…!
なんだって俺がキースと同じコーヒーを飲む羽目になるんだ、俺はあいつが嫌いなんだが…!
お前が飲みたがるだろうとは思ったんだが、どうして俺が…!
「でも、このコーヒー、ハーレイのでしょ?」
ぼくにお土産って言っていたけど、ぼくはコーヒー、苦手なんだし…。
貰っても美味しく飲めるわけがないし、第一、買ったの、ハーレイなんだよ?
学校を抜け出して行列に並んで、手に入れた限定品なんでしょ?
前のハーレイの記憶を持っていなかったとしたら、凄く飲みたいコーヒーじゃないの?
ハーレイはコーヒーが大好きなんだし、行列が出来るほどの限定品なら飲みたくならない?
「それはそうだが…。そう思ったから、学校でも隠しておいたんだが…」
ウッカリ持って入って行ったら、「それは何です?」と訊かれちまって、味見されそうで…。
コーヒー党のヤツらは多いからなあ、開けて飲みたがるに決まってる。なんたってキース好みのコーヒーだからな、伝説の英雄で国家主席の。…どんな味だか知りたいヤツらが押し寄せるぞ。
そうならないよう、車に乗せておいたんだ。開けられちまったら、土産に出来んし。
「ほらね、キースの好きなコーヒーだから、と思わなかったら平気でしょ?」
ハーレイだって何も知らない時に誰かが買って来たなら、飲みたがる方。どんな味なのか。
きっと美味しいに決まってるんだよ、このコーヒー。…飲む人がキースでなくっても。
美味しくなければ、今まで残る筈がないもの。マツカが作った時のまんまで。
ぼくも付き合うから、飲んでみてよ。…ぼくにくれたんだし、決めるのはぼく。
ママに頼んで淹れて貰おうよ、マツカのコーヒー。ね、いいでしょ?
ちょっと待っててね、ママに頼んでくる!
ママー!
コーヒー豆が入った袋を手にして、部屋から駆け出して行ったブルー。階段を下りる軽い足音、母を呼ぶ声。
暫く経ったら、ブルーは息を弾ませて戻って来た。「コーヒー、ママに頼んで来たよ」と。
ブルーが母に「淹れて」と頼んだ「マツカ」のコーヒー。中身はブレンドされたコーヒー豆で、それを挽く所から始めるのだから、昼食の後に出て来るらしい。
コーヒーは苦手なブルー用にと、ミルクや砂糖もたっぷり添えて。甘いホイップクリームも。
「ハーレイ、コーヒー、楽しみだね」
ママが淹れるコーヒーの味は大好きなんでしょ、それに今日のは特別な豆。マツカのコーヒー。
行列が出来て、直ぐに売り切れになっちゃうほどだし、凄く美味しいコーヒーだと思う。ママもビックリしていたよ。「こんなコーヒー、あったのねえ…」って。
キースが好きだったコーヒーの味って、どんなのだろうね、楽しみだよね?
「楽しみって…。お前、コーヒーは苦手なくせに…」
そいつを楽しみにしているだなんて、お前は本当にキースが好きだな。
撃たれた挙句に、お前の右手は冷たく凍えてしまったのに…。今でも夢に見るほどなのに。
せいぜい興味を持つ程度だと思っていたのに、「楽しみ」と来たか。味見よりも上の扱いだな。
俺としては複雑な気分だが…。キースが好きなお前というのは。
「頑張ったんだよ、キースだってね」
人類として、出来る限りのことをしようとしただけ。…メギドを沈められないように。
もしもメギドを壊されちゃったら、ミュウを滅ぼせなくなるし…。それがキースの役目なのに。ミュウを滅ぼして、人類の未来を守ることが。
そうするのに、ぼくが邪魔だっただけ。…だから撃つしかなかっただけ。
ぼくを憎いと思っていたって、それはメギドを沈めに来たから。
ミュウを滅ぼそうと思っていたのも、そういう役目で来たからなんだよ。
前のぼくもキースも、自分の役目を果たそうとして頑張っただけ。違う立場で、仲間のために。
ミュウと人類、それぞれの生きる世界を守らなくちゃいけなかったから…。
残酷なことをしたキースだけれども、それは立場がそうさせただけ、と微笑んだブルー。
ナスカをメギドで滅ぼしたことも、前のブルーを撃ったことも。
「本当なんだよ、ハーレイだって分かる筈だよ。歴史の授業でも習うんだから」
キースはメギドを持ち出したけれど、あの時、マツカはとっくにいたよ?
それよりも前に、キースを助けに一人でナスカに来たんだから。…他の人類は来なかったのに。
マードック大佐も、マツカを一人で行かせたほどだし、キースを助ける気は無かったのに。
だけどマツカは、たった一人で…。もしかしたら、自分も助からないかもしれないのに。どんな敵がいるかも分からない所へ、命懸けでキースを助けに来ちゃった…。
あそこでキースを助けなかったら、マツカは元通り、コッソリ隠れて生きられたのにね。
「それもそうか…。マツカの正体はバレていなかったんだったっけな」
だからソレイドにいられたわけで、ミュウだと見抜いたキースが消えたら安全なわけか…。
なのに助けに出掛けたんだな、自分の正体を知ってたヤツを。放っておいたら、それまで通りに隠れて生きていけたのに…。
「でしょ? マツカは気付いていたんだよ。キースがどういう人間なのか」
自分の役目と関係無ければ、無駄に人殺しはしない人間。本当は優しい人間なんだ、って。
そのことにちゃんと気付いていたから、一人でナスカに来たんだよ。誰も行こうとしないから。
キースを助けて逃げた後だって、マツカはキースを守ってた。ホントに必死で。
前のぼくはメギドで会っているもの、キースを助けに来たマツカに。…マツカが来なかったら、キースは死んでしまっていたよ。前のぼくに道連れにされてしまって。
…ホントのホントに命懸けだよ、あんな所から脱出するのは。一人だけでも難しいのに、キースまで連れて。それでもマツカはキースを助けに飛び込んで来たよ、躊躇いもせずに。
どんな人間か分かってなければ、そうはしないと思わない…?
「…なるほどなあ…。ミュウを皆殺しにしようとしたヤツなんだし…」
血も涙も無い冷酷なヤツだと思っていたなら、助ける必要は無いってか。自分の勝手でメギドに出掛けて行ったわけだし、其処でキースが死んじまっても誰にも責任は無いってわけで…。
むしろ世の中のためかもしれんな、残党狩りの命令を無視したマードック大佐もいたんだから。
同じ軍人でも「やりすぎだろう」と思ったくらいのキースのやり口。そんな野郎は死んじまった方がいいんだろうに、マツカが助けたということは…。
お前が言うのが正しいんだろうな、それでも俺はキースを好きにはなれんがな…。
小さなブルーの意見を聞いても、憎い気持ちが消えないキース。前のブルーを撃ったから。
撃たれた痛みで、持っていた温もりを失くしたブルー。前の自分の左腕から、ブルーは温もりをそっと持って行った。何も言わずに、それだけを持って一人でメギドへ飛び去ったブルー。
温もりがあれば、一人ではないと。最後まで二人一緒なのだと。
(なのに、あいつは独りぼっちで…)
泣きじゃくりながら死んでしまったと、小さなブルーが話した最期。温もりを失くして、右手が冷たく凍えてしまって。前の自分との絆を失くして、独りぼっちになってしまって。
(いくらブルーが許していても、俺は…)
あいつを許す気にはなれない、と心の奥から消えない憎しみが凍った塊。許せないキース。
小さなブルーが何と言っても、それが正しいことであっても。
前のブルーを独りぼっちにさせてしまった男だから。死よりも恐ろしい孤独と絶望の中で、前のブルーは泣きながら死んでいったのだから。
けれど、ブルーには何度も重ねて「許せない」と言わない方がいい。ブルーを悲しませることになるから、「ぼくのせいだ」と。「ハーレイに辛い思いをさせてる」と。
だから飲み込んだ、キースへの怒り。自分一人で抱えておこうと、もう言うまいと。
それからは二人、和やかに話して、昼食の後に出て来た「マツカ」のコーヒー。普段はブルーの部屋では出ないコーヒー、それが二人分。
ブルーの母は、豆の袋も持って来た。「残りはお持ちになりますでしょ?」と。小さなブルーは苦手なコーヒー、猫に小判というものだから。宝の持ち腐れになってしまうから。
きっとブルーも、母にそう言っておいたのだろう。キース好みのコーヒー豆など、自分は少しも欲しくないのに。
そんなわけだから、キースとマツカの写真付きのパッケージまでがやって来た。中の豆ごと。
ブルー用にと、たっぷりのミルクや甘いホイップクリームも揃ったテーブル。
(うーむ…)
飲むしかないか、と腹を括ってコーヒーのカップを持ち上げた。自分が持ち込んだコーヒー豆。それに小さなブルーの望み。「飲んでみてよ」とブルーは言ったし、赤い瞳に期待の色。
コクリと一口、飲んだコーヒー。ふわりと漂う独特の香りは、今の地球産にはとても敵わない。
けれど、あの時代ならば、最高のコーヒーだったろう。味の方は悪くないのだから。
「ハーレイ、どう?」
マツカのコーヒー、ちゃんと美味しい?
「まあ…。美味いんだろうな、あの時代にこの味だったんだから」
キースめ、最高に美味いコーヒーを飲んでいやがったんだな、俺は代用品だったのに…。
本物のコーヒー豆なんぞ無くて、いつもキャロブのコーヒーだったろ、シャングリラはな。
「今の時代だと、どうなるの?」
あんまり美味しくないんだったら、きっと今まで残りはしないし…。美味しいんだよね?
「実に癪だが、美味いってことは間違いないな」
ただ、如何せん、香りがなあ…。物足りないって感じがするなあ、今の俺には。
他の星のコーヒーは大抵こんなもんだが、今は地球産のがある時代だしな?
地球で採れたコーヒー豆の香りにはとても及ばないな、とは言ったけれども。
優しい味に思えるコーヒー、苦味とは別に。
多分、マツカの心遣いが今でも生きているのだろう。懸命にブレンドしていたマツカの心が。
(深い味には違いないんだ、今でも充分、こいつのファンを集められるような…)
きっと「マツカ」の名前が無くても、キースにゆかりのコーヒーでなくても売れる味。ノア産の他のコーヒーよりも「美味しい」と選ばれそうな味。
それをマツカは作り上げた。遠く遥かな時の彼方で、キースのために。
ブルーは「ふうん?」と首を傾げて、自分のカップから飲み始めて。たちまち「苦い」と顰めた顔。なのにミルクを入れようとせずに、カップを口に運んでいるから。
「どうした?」
ミルクと砂糖をドッサリじゃないのか、それにホイップクリームも。…味見した後は。
「このまま飲むのがいいかと思って…。マツカの気持ちがこもっているもの」
それを台無しにしたら駄目だよ、せっかくマツカが心をこめてキースのために作ったのに。
「マツカなら許してくれると思うぞ、お前の飲み方」
台無しだなんて言いもしないで、自分で入れてくれそうじゃないか。ミルクも砂糖も。
「ホント?」
「マツカだからなあ、誰にでもきっと優しいだろう。嫌な顔一つしないだろうさ」
キースはどうだか知らないが…。「そいつの何処がコーヒーなんだ」と言うかもしれんが。
「うん。キースなら、きっと笑うんだよ」
今のぼくがやっても、前のぼくでも。…コーヒーの値打ちが分かっていない、って。
「これだから子供は話にならん」って笑われちゃうのが、今のぼく。
前のぼくだと、「ミュウの長は子供みたいな舌だ」って大笑いだよ、きっと。
そんな酷い舌の持ち主のくせに、なんでメギドを止められたんだ、って呆れられるんだよ。
だけど、苦手なものは仕方ないよね、コーヒー、ホントに苦いんだもの…。
マツカが許してくれるんならいいかな、とブルーがたっぷり注いだミルク。それに砂糖と、甘いホイップクリームも。いつもの飲み方を始めたブルー。「美味しくなった」と。
そんなブルーには猫に小判な「マツカ」のコーヒー。とはいえ、キース好みのコーヒーは欲しい気にならないから、残りの豆は置いて帰ろうと思っていたのに。
数量限定で売るほどの豆だし、ブルーの両親が美味しく飲んでくれればいい、と考えたのに。
「駄目だよ、これはハーレイが持って帰って」
ママも言ってたでしょ、ハーレイが持って帰らなきゃ。ぼくはコーヒー、苦手なんだし。
「それを言うなら、俺はキースが苦手だが?」
あいつが嫌いでたまらないのが俺なわけでだ、キース好みのコーヒーなんぞは嬉しくもないぞ。
だが、美味いのは美味いんだから…。お前のお父さんとお母さんに飲んで貰えばいいと思うが。
「ううん、ハーレイが飲むべきなんだよ」
このコーヒーが美味しいんだったら、余計にハーレイが飲まないと…。
キースに美味しいコーヒーを飲んで欲しくて、マツカが作ったんだから。いろんな豆を選んで、色々な割合で何度もブレンドしてみて。
そうやって頑張ったマツカの気持ち。…キースのために、って頑張ったマツカ。
ハーレイにもマツカの気持ちが分かれば、キース嫌いが少しはマシになりそうだから。
このコーヒーの美味しさが分かるんだったら、マツカの気持ちも分かるでしょ?
「そう来たか…」
しかしだ、コーヒーくらいで気が変わるほどに、俺は甘くはないんだが?
キースを許せる気にはならんと、さっきも話した筈なんだがな…?
そう簡単に変わるものか、と言いはしたけれど、小さなブルーの願いだから。そうして欲しいと赤い瞳が見詰めていたから、コーヒー豆の残りは家へと持って帰ることにした。
その夜、ブルーと別れた後に、自分の家で例の豆を挽いて、それでコーヒーを淹れてみて…。
(いつかキースを許せる日、か…)
傾けた愛用のマグカップ。香り高くはないのだけれども、優しい味の「マツカ」のコーヒー。
熱いコーヒーが喉を滑っていったら、「来るかもしれない」という気がした。
今は許せない、前のブルーを苦しめたキース。悲しすぎる死へとブルーを追いやったキース。
とても許せはしないけれども、憎くてたまらないけれど。
許せる時が来るかもしれない、ブルーと暮らし始めたならば。
小さなブルーが前とそっくり同じに育って、本当にブルーを取り戻したら。
そうすればきっと、憎しみも消えてゆくのだろう。キースの本質とやらも見えて来るのだろう。今の自分には見えない部分。分かってはいても理解したくない、キースの優しさや人間らしさ。
いつか憎しみが消えたなら。…胸の奥にある憎しみの塊が溶けて綺麗に無くなったなら。
(それまでは、マツカには悪いんだが…)
キース嫌いでいさせて貰う、と傾ける熱い「マツカ」のコーヒー。時の彼方でキースに仕えた、優しいミュウが作ったブレンド。
香りは地球産の物に及ばなくても、美味いコーヒーだと。
マツカの思いは時を越えたと、キースにそれだけの値打ちがあったかは俺は知らないが、と…。
マツカのコーヒー・了
※コーヒーに名前を残したマツカ。キースのためにブレンドしたものが、遥か後の時代まで。
地球産に香りは及ばなくても、味は最高だという「マツカ」。彼が遺した、優しさの証。
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(んー…)
大きすぎる目が問題なんだよ、とブルーが覗き込む鏡。自分の部屋の壁にある鏡。
子供っぽい顔の原因はコレ、と。学校から帰って、おやつの後で。
いつもハーレイに「チビ」と言われている自分。前の自分と同じ背丈に育ちたいのに、伸びてはくれない自分の背丈。ハーレイと再会した五月の三日から、ほんの一ミリも。
伸びない背丈も問題だけれど、顔立ちだって子供の顔。せめて顔だけでも少し大人っぽくなってくれたら、ハーレイの態度も変わるかもしれない。
(チビはチビでも、もうちょっと…)
子供扱いではなくて、恋人扱い。キスは許してくれなくても。「俺のブルーだ」と言ってくれる日が増えるだとか。
そうなってくれるといいんだけれど、と思い浮かべる理想の顔立ち。ソルジャー・ブルーだった頃の自分の顔。そっくりそのままの顔は無理でも、もう少し大人びた顔がいいのに、と。
鏡を覗けば、其処に映った子供の顔。丸みを帯びた輪郭も子供、柔らかそうな頬っぺたも。
何処もかしこも子供だけれども、一番の違いは目元だと思う。赤い瞳の色は同じでも、瞳と顔のバランスの違い。クルンと大きな子供らしい瞳、前の自分はこうではなかった。
アルタミラからの脱出直後は、こうだったけれど。今の自分と瓜二つだったけれど。
(育っていったら、こんなに大きな目じゃなかったし…)
それでも、細くも小さすぎもしなかった瞳。大人にしては大きな瞳だったと思う。船で暮らした他の仲間や、キースの瞳と比べてみれば。
(大人にも色々あるけれど…)
今の自分の顔にある目は、誰が見たって子供の目。大人びた目には見えない大きさ。
これが駄目だ、と零れた溜息。この目のせいで子供の顔、と。
なんとかしたい、子供っぽい目。やたらと目立つ大きな瞳。明らかに大きすぎるから…。
(もうちょっと…)
小さくなってくれないものか、と細めてみたら、なんだかキースみたいになった。白目の部分はキースよりかは少ないけれど。
細すぎたかな、と調整したって、前の自分の目にはならない。細めるだけでは駄目らしい。
(縦だけじゃなくて、横も一緒に小さくしないと…)
そうすればきっと、と目元に力を入れてみたのに、狭まってくれない左右の幅。前の自分の目になるどころか、眉間にピッと皺が出来るだけ。
(上手くいかない…)
小さくならない自分の瞳。キースみたいになってしまうか、眉間に皺か。魅力は増さずに、変な顔になる。子供っぽい方がマシなくらいに。
今度こそは、と細めながら幅を狭めようとしたら、さっきより深くなった皺。眉間にくっきりと皺が刻まれ、小さくはなってくれない目。
(これじゃハーレイ…)
眉間の皺は、今も昔もハーレイの顔にくっついている。笑っている時も、消えない皺。
だからハーレイの顔が浮かんだけれども、途端に蘇った遠い遠い記憶。前の自分と眉間の皺。
ソルジャー・ブルーの眉間には、皺は無かったけれど。…そんな写真も無いのだけれど。
でも皺だっけ、とクスッと笑った。あれは確かに眉間の皺。白いシャングリラにいた頃に。
「ちょいと、その顔は頂けないねえ…」
ハーレイみたいになっちまうよ、とライブラリーで声を掛けて来たブラウ。何の本を読んでいた時だったか、考え事をしていたら。
「ぼくの顔がどうかしたのかい?」
何か問題があるだろうか、と本から顔を上げたら、トンとブラウにつつかれた額。
「これだよ、これ」
此処に皺が、とブラウの指がつつくけれども、分からない意味。
「皺だって…? ぼくの額に?」
「出来ちまっていたよ、もう消えたけどさ」
でもね、さっきまでは皺だったんだよ。眉が寄ってて、眉間にくっきり。
ハーレイみたいな顔ならともかく、あんたの顔には皺は駄目だね。絵にならないから。
「…そうなのかい?」
「当たり前だよ、分からないなら自分で鏡を覗くんだね。皺を作って」
まるで似合っちゃいないどころか、酷いもんだよ。さっきも言ったよ、頂けないって。
そんなのが癖になってしまったら大変だからね、皺を寄せながら考え事をするのはやめときな。
みんなも幻滅しちまうから、と笑ってブラウは去って行った。
シャングリラの自慢のソルジャーの額は、滑らかなのが一番なのさ、と。
そういう事件があったんだっけ、と懐かしく思い出したこと。前の自分の眉間の皺。
「分からないなら鏡を見な」と言われたけれども、結局、鏡は見なかった。そんな必要は無いと思ったのか、それとも忘れてしまったのか。だから知らない、眉間に皺を作った前の自分の顔。
(前のハーレイ…)
ブラウが例に挙げたほどだったのだし、白いシャングリラで眉間の皺と言えばハーレイ。他にも何人かいただろうけれど、トレードマークのようだったキャプテン・ハーレイの眉間の皺。
あの皺も含めて、ハーレイの顔が好きだった自分。前のハーレイと恋をしていた自分。
(…前のぼくの顔だと、眉間の皺は駄目なんだけど…)
ハーレイだったら似合うんだよね、と鏡から離れて、座った勉強机の前。どう頑張っても、前の自分の顔は作れないらしいから。瞳は小さくならないから。
無駄な努力をしているよりかは、眉間の皺を考える方がよっぽど有意義。前のハーレイの顔には良く似合っていた、あの皺について。
(最初は皺なんか無かったっけ…)
アルタミラの地獄で出会った頃には、ハーレイの額に皺は無かった。前の自分の額のように。
まだ若かったからだろうか。皺が出来るような年ではなかった、青年時代のハーレイだから。
アルタミラの檻や実験室では、酷い目に遭わされていた筈だけれど、出来なかった皺。耐え難い苦痛を味わった時は、皺だって出来ていたろうに。眉間に寄せていたのだろうに。
出会った頃には無かった皺。前のハーレイのトレードマークの眉間の皺。
(いつ出来たの…?)
あの皺はいつからあるのだろうか、と遠い記憶を手繰ってみる。ハーレイが厨房にいた時代にも皺は無かった。滑らかだったハーレイの額。
前の自分がブラウに指摘された時のように、皺を寄せていることも無かった、と思ったけれど。厨房時代のハーレイはいつも、朗らかだったと記憶していたけれど。
(あったっけ…)
青年だったハーレイの額に見付けた皺。
アルタミラから脱出した船で、食料が尽きると前の自分に打ち明けた時に。船に最初からあった食料、それがもうすぐ尽きてしまうと。一ヶ月分ほどはあるのだけれども、それで全部だと。
せっかく生き延びて脱出したのに、飢え死にするしかない運命。食料が尽きても、補給する術が無いのだから。…何処に行っても、ミュウは追われるだけなのだから。
船の仲間にはまだ明かせない、と話していた時、今から思えば、寄せていた皺。滑らかな額に。
どうすることも出来ないけれども、これからどうしたらいいのかと。
ハーレイの頭を悩ませていた食料問題は、前の自分が解決した。自分でも驚いたほどの強い力を秘めたサイオン、それを使って人類の船から奪った食料。
慣れない間は奪った食料が偏ってしまって、ジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツが溢れるキャベツ地獄もあったけれども、飢える心配は無くなった。
ハーレイは眉間に皺を作らず、せっせと料理を作っていた。ジャガイモ地獄に見舞われた時も、キャベツ地獄になっていた時も。
厨房時代は出来ていなかった、ハーレイの皺。けれども、それを目にした自分。食料が尽きると悩んでいた時、ハーレイの額には確かに皺があったから。
(考え事をする時の癖だったんだ…)
前の自分がブラウに額をつつかれた皺は、たまたま寄せただけだったけれど。普段は皺など全く作りはしなかったけれど、ハーレイは癖。
多分、難しいことを考える時の。手に負えないような難題だとか、全力で取り組む時だとか。
厨房だったら、そこまでの事態は起こらないけれど。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、腕さえあれば乗り切れたけれど。
(ハーレイ、キャプテンになっちゃったから…)
きっと色々あったんだよね、とチビの自分でも想像がつく。前の自分も推したハーレイ。迷っていた所へ出掛けて行って。「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と。
フライパンも船も似たようなものだ、と話したことを覚えている。どちらも命を守るものだと。フライパンで出来る料理も、皆を乗せて宇宙を飛んでゆく船も。
キャプテンの任を受けたハーレイは、それを覚えていてよく言ったものだ。「フライパンも船も似たようなものさ」と、「どっちも焦がしちゃ駄目だからな」と。
けれども、フライパンと船の共通点はその部分だけ。他は全く似ていないもの。
ハーレイはきっと、沢山の苦労をしたのだろう。厨房時代とは違う仕事に就いたのだから。船を纏める役目のキャプテン。そういう者が必要だからと、適任だからと見込まれて。
「船は動かせなくてもいいから」とまで、ヒルマンたちが頼んでいた。操船は慣れた仲間たちがやるから、船を纏めてくれればいいと。
そうだった、と頭に浮かんだハーレイの皺。いつしか眉間に刻まれていたトレードマーク。前のハーレイの額に、またあの皺を見付けたのは…。
(航宙学…!)
亜空間理論や位相幾何学、他にも山ほどハーレイが机に積み上げた本。愛用していた木の机に。
シャングリラを自分で操るために、と専門外の本を読み始めてから、何度も眉間にあるのを見た皺。一度では理解出来ない箇所やら、幾つもの本を調べながら読まねばならない時やら。
そうやって操舵を覚えた後にも、船の中のことを真剣に考える度に出来ていた皺。眉間に何度も刻まれた皺。ブリッジや、ハーレイの部屋や、休憩室で。
腕組みをしたり、目を閉じていたり、ポーズは色々だったけれども、眉間の皺はいつでも同じ。眉を寄せて、深く考え込んで。
(前のぼくの代わりに考えてたんだ…)
ソルジャーだった前の自分は、物資を奪って来るのが仕事。船をシールドで丸ごと包んで守ったこともあったけれども、船の中までは守っていない。様々な設備も、仲間たちの暮らしも。
船を守るのはキャプテンの役目。船体そのものの維持管理から、船での暮らしを守ることまで。食料は充分足りているのか、他の物資は揃っているかと。
眉間に皺を寄せて考えることは、本当に沢山あったのだろう。メンテナンスの進め方やら、前の自分が奪った物資の管理まで。備品倉庫の管理人から報告を聞いて、配分などを決めてゆく仕事。
ハーレイはキャプテンとして船を守って、眉間に皺が出来てしまった。いつの間にやら。
難しい本を何冊も読んでいた頃には、常に刻まれてはいなかったけれど。シャングリラの操舵を引き継いだ時にも、まだ眉間には無かった皺。
けれど、外見の年齢を止めたハーレイの額にはもう、あの皺があった。くっきりと深く。
そうなるまでに、考え事を重ねたから。何度も何度も、眉間に皺を寄せていたから。
(…ハーレイ、考え込むことが多すぎたから…)
キャプテンになったハーレイの前には、難問が山積みだったのだろう。ジャガイモやキャベツが相手の仕事ではなかったから。船の仲間の命を預かっていたのだから。
フライパンなら、料理を作って生きる糧にすればいいのだけれど。船の方だと、そうではない。料理を作る材料を揃えて、料理人を乗せて、出来上がった料理を食べる仲間の安全を守る。
フライパンと船では重みが違う。本当の意味での重量が違うのと同じくらいに。
そんなシャングリラを守り続けて、考え続けて、ハーレイの額に刻まれた皺。眉間にくっきり。
前の自分もちゃんと気付いていたのだろうか?
ハーレイの眉間にいつもあった皺、あの皺が何故出来たのか。
(気付いてたよね…?)
皺が刻まれてしまうよりも前に、眉間を何度も指でつついた記憶があるから。ハーレイの部屋を訪ねた時やら、休憩室で出会った時に。
「考えすぎは良くないよ」と、「此処に皺が」と。
どういう時に出来る皺かを知っていたから、前の自分はそうしたのだろう。ハーレイの気持ちをほぐそうと。気分が変われば、いいアイデアが浮かぶことだって多いのだから。
(でも、普段でも皺が消えなくなるほど…)
ハーレイは船を守り続けた。考え続けたことの証が常に額に刻まれるまで。楽しい気分で笑っていたって、額から消えなかった皺。眠る時にも消えなかった皺。
前の自分がいなくなった後も。メギドへと飛んで、二度と戻らなかった後にも。
歴史の教科書には必ず載っている、偉大なキャプテン・ハーレイの写真。その写真が撮影された時には、前の自分はもういなかった。ミュウの勢力が広がり始めた時代に撮られた写真だから。
その写真でも眉間に刻まれた皺。前の自分の記憶にあるのと、少しも変わっていないけれども。
(前のぼくがいなくなったら…)
皺はきっと、深くなったろう。前のハーレイの孤独を宿して、前よりも深く。
誰も気付いていなかったとしても、写真では見分けられなくても。
前の自分を失くしてしまったハーレイの深い悲しみと孤独、それを何度も聞いているから。前の自分を追うことも出来ず、地球まで行くしかなかったハーレイ。
一人残されたことを思っては、眉間の皺を深くしたろう。どうして自分は生きているのか、と。
(ごめんね…)
独りぼっちにしちゃってごめんね、と前のハーレイに心で謝ってから、ふと覗き込んだ机の上のフォトフレーム。今のハーレイと一緒に写した記念写真。
夏休みの一番最後の日に。庭で一番大きな木の下、ハーレイの左腕にギュッと抱き付いて。その写真の中、とびきりの笑顔のハーレイだけれど。
(今のハーレイも…)
前と同じに、眉間に皺。写真でもそれと見て取れる皺がくっきりと。
今のハーレイも、考え事をし過ぎただろうか。前のハーレイがそうだったように。
けれども、今は平和な時代。前のハーレイが厨房にいた頃でさえも、あの皺は見ていないのに。食料が尽きると打ち明けられた時しか目にしていないのに。
シャングリラの厨房とは比較にならない、蘇った青い地球での暮らし。まるで天国。人間は全てミュウになった世界、争い事はけして起こりはしない。せいぜい、喧嘩。
そういう世界に生まれ変わったのに、何故、ハーレイの眉間には皺があるのだろう。皺が出来るほどの考え事など、今のハーレイには無さそうなのに。
厨房時代のハーレイでさえも癖になってはいなかった皺が、何故、今も…?
謎だ、と考え込んでしまった。今のハーレイの眉間にも皺がある理由。
(今のハーレイに深刻な考え事って、あるの?)
仕事のことは分からないけれど、教師の仕事がそういうものなら、眉間に皺がある教師が多いと思う。考え事をする時の癖が同じなら、ハーレイのようになるのだから。
(そんな先生、いないよね…?)
少なくとも自分は出会っていない。下の学校でも、今の学校でも。
(仕事のせいじゃないんだったら、柔道とか…?)
それなら、プロのスポーツ選手は眉間に皺があることだろう。柔道にしても水泳にしても、癖が同じなら出来る筈。
(…あんまり詳しくないけれど…)
ハーレイが得意なスポーツだから、と新聞記事になっていた時は選手の写真を覗き込んでいる。もしもハーレイがプロの選手になっていたら、と重ねながら。
(見たことないよね、皺がある人…)
まだ一回も見ていないよ、と振り返った記憶。眉間に皺がある選手がいたなら、ハーレイと同じ特徴だけに印象に残っているだろう。「おんなじ皺だ」と。
つまり、スポーツの方でもない。今のハーレイの眉間に皺が刻まれた原因は。
仕事でもないしスポーツでもない、と不思議でならない眉間の皺。どうして今もあるのだろう?
深刻な考え事をしなければならない場面は全く無さそうなのに。今は平和な時代なのに。
(…なんで?)
いったい何が原因だろう、と今度は自分が考え事。遠い昔にブラウに注意されてしまったから、自分の眉間に皺が出来ないよう、気を付けながら。
事の起こりは、自分の眉間の皺だったけれど。大きすぎる目を小さくしようと頑張っていたら、出来てしまった皺なのだけれど。
まさかハーレイがそんな理由で眉間に皺など、作りそうだとも思えない。目の大きさを保とうと努力をし続けた末に、くっきりと皺が刻まれたなんて、きっと無い。
(分かんない…)
あの皺の原因が分からないよ、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、本人に訊いてみることにした。眉間に皺があるハーレイに。
母がお茶とお菓子を置いて去って行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ。皺のことでちょっと訊きたいんだけど…」
「皺?」
なんの皺だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。だから「此処の」と、自分の額を指差した。
「ハーレイ、此処に皺があるでしょ?」
前のハーレイも同じだったよ、若かった頃は無かったけれど…。会った頃には無かったけれど。
だけど、外見の年を止めた時には、皺がくっきり出来ちゃってたでしょ?
今のハーレイにも皺があるよね、って気が付いたから…。前のハーレイとそっくり同じに。
だから訊きたい、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。眉間の皺の近くで穏やかな光を湛える瞳。
「前のハーレイに皺があったのは分かるけど…。考える時の癖だったから」
難しいことを考える時は、いつでも出来てしまっていたでしょ?
前のぼくが何度も注意してたよ、「考えすぎは良くないよ」って。そういう皺が出来るから。
でも、キャプテンの仕事はとても大変で…。考えることが多すぎたから、とうとう皺が消えないままになっちゃった。楽しい時でも皺が消えなくて、寝てる時だって。
…だから、前のハーレイなら分かるんだよ。額に皺が出来たままでも仕方ないって。
だけど、どうして今のハーレイにも同じ皺があるの?
前のハーレイみたいな苦労は絶対してない筈だよ、今はとっても平和な時代なんだから。
「ああ、これなあ…。俺の眉間の、この皺のことか」
出来ちまったのは、癖ってヤツだ。前と同じだ、前の俺の頃と変わっちゃいない。
大した悩みがあるわけじゃないが、考え込んだらやっちまうんだ。こう、眉を寄せて。
ほらな、とハーレイが眉を寄せたら、皺が少し深くなったから。
「…古典、難しい?」
授業で教えてくれる時には、分かりやすく話してくれるけど…。
ぼくたちみたいな子供に教えるためには、うんと勉強しなくちゃいけない?
前のハーレイが航宙学の本を沢山積み上げて読んでたみたいに、いろんな本を山ほど読んで。
「そうでもないが…。好きで教師をやってるんだしな」
学校では教えないような中身の本でも、読みたくなるのが今の俺だし…。難しくなるほど楽しいもんだぞ、意外な発見があったりしてな。
分かりやすく書かれた本だと、深くは読み込めないものなんだ。皮だけしか無い果物みたいで。
難解な本になればなるほど、書かれた時代の作者の世界に近付ける。その時代の空気や、景色や建物。着ていた服やら、食べた物やら…。
全部ひっくるめて分かって初めて、作者の気持ちが理解できるってトコだな、うん。
そんな具合だから、難しい本を読むのも俺は大好きなんだが…。
どういうわけだか、とハーレイは額をコツンと叩いてみせた。
楽しく本を読んでいたって、考え事を始めたら此処に皺が、と。
「この部分はどう読むべきなのか、と悩んだりすると出来ちまうんだ」
学生時代には出来なかったが、いったいいつからそうなったのか…。俺にも分からん。
家を出て、この町で暮らし始めてからの癖ってヤツだな、それまでは言われたことが無いから。
いつの間にやら、そういう癖が出来ちまってた。考え込むと皺を寄せちまう癖。
親父たちの家に帰った時にも、新聞とかを熱心に読んでいたら、つい、やっちまうから…。
おふくろと親父に、何度も注意されたんだがな。前のお前に言われたみたいに、皺が出来ると。
「消えなくなってからでは遅いぞ」と、睨まれたりもしたんだが…。
癖が直らない内に、すっかり皺が出来ちまってた。前の俺だった頃と全く同じに。
「…そんな所まで、前のハーレイの真似、しなくていいのに…」
あの頃みたいな苦労はしてないんだから。
生きていくだけでも大変だった頃とは違うし、大勢の仲間の心配だってしなくていいし。
「まあな。そいつは間違いないんだが…」
今じゃ天国みたいな日々だが、出来ちまったものは仕方ない。…癖なんだから。
ついでに、この皺が無いとお前も困ってしまうんじゃないか?
此処にくっきり、こういう皺が出来ていないとな。
これが無かったら俺らしくないぞ、とハーレイが伸ばしてみせた皺。二本の指でグイと広げて。
滑らかになったハーレイの額。指で押さえているだけなのに、確かにハーレイらしくない。あの皺が消えてしまっただけで。眉間の皺が無くなっただけで。
ホントに変だ、と目を丸くして眺めていたら、ハーレイは「変だったろう?」と元に戻して。
「俺の顔にはコレが無いとな。…自分で鏡を覗き込んでも、皺があるのが普通だし…」
記憶が戻った今じゃ、大切な皺なんだ。無いとキャプテン・ハーレイの顔にならないからな。
それにだ、この皺を褒めてくれた人だっている。俺の眉間に皺が出来たことを。
「褒めるって…。誰が?」
そんな皺を誰が褒めてくれるの、ハーレイのお父さんたちは皺は駄目だと言ってたんでしょ?
褒めてくれそうな人、誰もいないと思うんだけど…。
「それがいたんだ、何人もな。ますますキャプテン・ハーレイに似て来たじゃないか、と」
生まれ変わりじゃないのか、と俺に何度も訊いてたヤツら。そういう連中は褒めてくれたぞ。
学生時代からの友達はもちろん、教師になってから出来た友達もな。
後はアレだな、俺の行きつけの…。話してやったろ、この髪型を勧めてくれた人。
俺の恋人を、ソルジャー・ブルー風のカットにしたいと言ってる人だ。
覚えてるだろう、と訊かれて思い出した、ハーレイ御用達の理髪店の店主。
彼が一番喜んだ筈だ、という話。口に出してはいなかったけれど、心の中で喜んだろう、と。
「…ハーレイのファンだっていう人だよね?」
ぼくは一度も会ったことがないけど、凄く熱烈なファンなんでしょ?
「前の俺のな。…今の俺じゃないぞ」
あくまでキャプテン・ハーレイの方だ、今の俺はただの客なんだから。古典の教師で。
とはいえ、お前の髪までソルジャー・ブルー風にカットしたいと言い出す人だし…。
俺が行くと明らかに喜んでるなあ、まるで本物のキャプテン・ハーレイが来たみたいにな。
そういう人たちや、今のお前のためにも眉間の皺は必要なんだ、という主張。
この皺があってこそ、キャプテン・ハーレイそっくりの顔になるんだから、と。
「いいか、さっきもやって見せただろうが。皺が無かったらどんな風になるか」
前の俺みたいな顔にはならんぞ、瓜二つとはとても言えない顔だ。
似てはいたって、決め手に欠ける。これでいいんだ、俺の眉間には皺なんだ。
「そっか…。ハーレイらしく見える顔には必要なんだね」
とても難しいことを考えなくても、出来ちゃった皺。…考え事をする時の癖だったせいで。
「うむ。この皺は無いと駄目なんだ」
それに前の俺だった頃にしたって、知らない間に癖がついて皺になったんだし…。
作ろうと思って出来た皺じゃないし、出来て困っていたわけでもない。この皺が無ければもっと男前に見えただろうとか、考えたことは一度も無かったな。
前の俺はこの皺が嫌いじゃなかった。いつの間にか出来た、俺の相棒なんだから。
「…前のぼくの代わりに、色々考えてくれていたんだよね…。その相棒と」
ハーレイが考え事をしていた時には、いつだって皺があったんだから。…キャプテンの時は。
厨房で料理をしていた頃だと、その相棒はいなかったんだよ。難しい考え事が無いから。
キャプテンになった後にハーレイの顔に住み着いたんだよ、相棒の皺は。
前のぼくは物資を奪ってただけで、考え事はハーレイの仕事。だって、キャプテンなんだから。
「おいおい、俺はそれほど偉くはなかったぞ」
何か決める時は、前のお前も会議に参加してただろうが。ヒルマンもゼルも、ブラウもエラも。
前のお前や、あいつらも一緒に考えていたし、船のみんなで投票もしたし…。
「でも、ハーレイにしか出来ないことも沢山あったよ」
会議で決めても、最終的には現場の判断に任せる、ってヤツ。
そうなった時は、ハーレイが一人で考えていたよ。航路も、船のメンテナンスとかも。
「そのためのキャプテンなんだしなあ…」
他のヤツらに頼ってちゃいかん、それがキャプテンの仕事ってヤツだ。
万一の時には何もかも一人で決めていくんだぞ、普段から経験を積まないとな?
いざという時に困るだろうが、と今のハーレイが言う通り。シャングリラはそういう船だった。
虐げられたミュウの箱舟、何処からも補給の船などは来ない。遭難した時の救援だって。
白い鯨が出来上がった後も、降りられる地面は何処にも無かった。人類軍に見付かったならば、直ぐに攻撃されるだろう船。会議を開いている暇はなくて、直ちに打たねばならない対策。
前のハーレイはそれを一人でこなした。眉間に皺が刻まれるほどに考え続けた成果を生かして。船を動かすのも、戦闘のために必要な指示も。
(…全部、ハーレイに任せっきり…)
初めての本格的な戦闘、ジョミーがユニバーサルの建物を壊して成層圏へと飛び出した時。前の自分はジョミーを追い掛けて船を出たから、ハーレイが一人で執っていた指揮。
シャングリラの浮上を決めたのもハーレイ、その後の進路や戦法を決めていたのも。
揺れるシャングリラで指揮を執り続けて、額をぶつけて傷まで作って。
白いシャングリラを守り抜こうと、前の自分とジョミーを救いに戦わねばと。
それから後も、ハーレイは幾つもの危機を乗り越え、船を進めた。アルテメシアを逃れて宇宙へ旅立った時も、前の自分が深い眠りに就いていた時も。
赤いナスカが滅ぼされた時も、地球を目指しての長い旅路も。
そう考えていたら、思い出した。ハーレイの眉間の皺のこと。
前の自分がいなくなった後、皺は深まったに違いないと。誰も気付いていなかったとしても。
シャングリラに一人残されたハーレイの眉間に、深い皺があったに違いないと。
「ごめんね、ハーレイ…」
前のハーレイの皺、ぼくのせいで酷くなったよね…。前よりも深くなっちゃったよね。
「なんだ、どうした。前の俺の皺なら、気にしなくていいが」
知らない間に出来ていたんだと言っただろうが。
お前のせいだということはないな、俺にそういう癖があったというだけで。
「ううん、そうじゃなくて…。前のぼくがいなくなった後だよ」
前のぼく、ハーレイがどんな思いをするかは、全然、考えていなくって…。
ジョミーを支えてあげて、って頼んで行ってしまって、ハーレイを独りぼっちにして…。
ハーレイ、何度も言っていたでしょ、地球に着くまで辛かったって。あの船で一人だったって。
きっと皺だって深かったんだよ、辛いことしか無いんだから。…いつも悲しくて辛いんだから。
ごめんね、酷いことをしちゃって。
ハーレイの皺が深くなるような、とんでもない目に遭わせちゃって…。
「そういうことか…。安心しろ、俺に自覚は無かった」
辛いことばかりの毎日だったが、皺を寄せていたという自覚は無いな。
なにしろ魂は死んでいたんだ、皺のことなんか考えちゃいない。淡々と仕事をしていただけで。
「…そうなの?」
皺、深そうだと思ったんだけど…。前よりもずっと深かったよね、って。
「それまでと変わらなかったんじゃないか?」
俺に自覚は無かったんだし、指摘したヤツもいなかったしな。
本当に深くなっていたなら、ブラウ辺りが言う筈なんだ。やたらと目ざといヤツなんだから。
「その鬱陶しい皺、いい加減にしな」と、「勝ち戦の時は返上したらどうなんだい?」と。
不景気な顔をしてるんじゃないよ、と如何にも言いそうな感じだろうが。
それに…、とハーレイが浮かべた笑み。
もしかしたら、その時の分の皺が今の俺の顔にあるかもな、と。
「あの時に深くなる代わりにだ、今の俺の方に来ちまったとか…」
深くなろうにも、限界ってヤツがあるだろうしな、皺だけに。…顔の皮膚は厚くないんだから。
そこでだ、深さを溜め込んでおいて、今の俺の眉間にヒョイと引越しして来たとかな。
「皺の引越しって…。深くなる代わりに引越しだなんて…」
そんなことって、ホントにあるの?
引越しちゃったの、前のハーレイの皺が今のハーレイの顔の上に…?
「その方がお前、気が楽だろ?」
深くなってしまっていたんじゃないか、と気にしているより、引越しの方が。
今の俺の顔に引越しして来て、トレードマークになってる方が。
「うん…。引越しの方が、断然いいよ」
前のハーレイの皺が深くなるより、引越しして来た方が皺も幸せになるもんね。
ぼくは皺があるハーレイが好きだし、前のハーレイにそっくりなハーレイが好きな人もいるし。
キャプテン・ハーレイのファンだっていう理髪店のおじさん、皺のお蔭で大喜びだもの。
自分のお店にキャプテン・ハーレイのそっくりさんが来てくれる、って。
きっと皺だって、喜んでるよ。今のハーレイの顔に引越しして来て良かった、って。
本当に皺が引越すかどうかは分からないけれど、軽くなった気持ち。前のハーレイの眉間に一層深く刻まれる代わりに、今のハーレイの眉間に引越しして来たらしい皺。
ハーレイならではの優しい気遣い、前の自分も、今の自分も傷付けまいと。
こういった気配りなども含めて、皺は深まったのだろう。
前のハーレイも、今のハーレイも、色々なことを考えすぎて。考える度に皺を寄せていて。
そう思ったら、愛おしい皺。今もハーレイの眉間にある皺。
「ねえ、ハーレイ…。キスしてもいい?」
「駄目だと何度も言った筈だが?」
前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと、お前、何回叱られたんだ?
「違うよ、唇じゃなくて、ハーレイの皺に」
引越しして来た皺にキスしたいよ、前のぼくのせいで深くなったんだから。
…深くなる代わりに、こっちに引越しして来たんだから。
「俺の皺にか…」
「そうだよ、皺がある場所も額だよね?」
額にキスをするのはいいでしょ、唇は駄目でも頬っぺたと額は。
「俺が言ったんだっけな、それも…」
断る理由は無いってことか…。皺にキスとは、なんとも不思議な感じだが…。
額ならともかく、皺にキスしたって話は俺も初耳だがなあ…。
そう言いつつも、ハーレイは「駄目だ」と叱りはしなかったから。
「ご苦労様」とハーレイの額にキスをした。眉間に刻まれている皺に。
「前のぼくのせいで、深くなっちゃったよね」と、「だから引越しして来たんだね」と。
それでも、この皺が好きだから。眉間に皺があるハーレイが大好きだから。
キスを落として微笑んだ後に、ハーレイからも額にキスを貰った。優しいキスを一つ
「お前は皺を作るなよ?」と。
皺が出来るような考え事などしなくてもいいと、俺が守ってやるんだから、と。
考え事も悩みも、今度も俺が引き受けるから、と。
「いいな、皺なんか作るなよ?」
お前には似合わないんだから。…俺と違って。
「らしいね、ブラウにもそう言われちゃった」
でも、ハーレイのお蔭で前のぼくには出来なかったし、今度もきっと出来ないんだよね?
「当たり前だろうが、お前の額は滑らかでないとな」
美人が台無しになっちまうぞ、と笑うハーレイの眉間に皺。笑っても、今も消えない皺。
前のハーレイの顔から引越しして来た皺は、やっぱりハーレイに良く似合う。
今度は深くさせてしまわないよう、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。
いつまでも二人、手を離さずに。
青く蘇った水の星の上で、何処までも二人、幸せな道を…。
眉間の皺・了
※前のハーレイの眉間にあった皺。前のブルーがいなくなった後には、更に深くなった筈。
けれど深くはなっていなくて、皺は引っ越したらしいです。今の幸せな、ハーレイの眉間に。
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(あちこち、赤い実…)
沢山あるよね、と小さなブルーが眺めた木の実。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
道の両側、赤い実をつけた木のある家が幾つも。庭だけではなくて、生垣にも。今は秋だから、木の実の季節。艶やかな赤やら、くすんだ赤。鮮やかな色も、濃い色合いも。
びっしりと赤い実が並ぶ生垣の木はピラカンサ。薔薇だって実をつけていたりする。わざとか、それとも花が咲いた後にウッカリ切り忘れたか。
(食べられる薔薇の実もあるんだよね?)
確かローズヒップ。母のお気に入りのハーブティー。綺麗な赤い色だけれども、ローズヒップも赤いけれども。…ハーブティーにした時の赤は、ハイビスカスの赤だと聞いた。薔薇の実だけでは美しい赤が出てくれないから、ブレンドしてあるハイビスカス。
(ローズヒップの薔薇、どれなのかな?)
一重咲きの薔薇だと母に教わったけれど、そういう薔薇を植えている家が近所にあるかは聞いていないから、分からない。一重咲きの薔薇を育てている家なら、道沿いに幾つかあるのだけれど。
(他に食べられる実…)
棗に、グミに…、と数えながら家へと歩いてゆく。赤い実が一杯の帰り道。
名前を知らない赤い実も沢山。小さなものから、目立つものまで。探し始めると幾つも赤い実。垣根に、庭に。石垣の裾に作ってある細長い花壇にも。
赤い実探しを楽しみながら家に帰ったら、テーブルの上にもあった赤い実の枝。制服を脱いで、おやつを食べに出掛けて行ったダイニング。母が生けたらしい、赤い実が幾つもついた枝。
グミの実に少し似ているけれども、違うと分かる真っ赤な木の実。艶のある赤。
「ママ、これ、何の実?」
「山茱萸よ」
「…サンシュユ?」
「春に黄色い花が咲く木よ、前に教えてあげたでしょう。…忘れちゃった?」
あそこの家よ、と母が口にした場所で思い出した。顔馴染みのご夫婦が住んでいる家。
「そっか、あったね、花火みたいな黄色い花が賑やかに咲く木…」
こんな実になるんだ、と見詰めた赤い実。食べられそうな感じだけれども、母の話では薬になる実。生ではなくて、種を抜いてから乾燥させて作る漢方薬。遠い昔の中国の薬。
(赤い実、一杯…)
秋だものね、と山茱萸の実をチョンとつついた。美味しそうなのに、生で食べても美味しくない実。漢方薬もきっと、苦いのだろう。母は「解熱剤になるのよ」と言っていたから。
(薬なんかより、甘くて美味しい実がいいものね?)
こういう赤い実の方が好き、とフォークに乗っけたケーキのベリー。赤く熟した甘酸っぱい実。秋が旬なのか、季節をずらして栽培したのか、そこまでは分からないけれど。
それでも、秋は赤い実が似合う。庭にも、テーブルの飾りに生けるにも、おやつのケーキの飾りなどにも。自然の恵みの塊だから。太陽が育てて、綺麗に赤く熟すのだから。
美味しかった、と食べ終えたケーキ。空になったお皿と紅茶のカップをキッチンの母に返して、二階の自分の部屋に帰って。
窓から覗いた家の庭にも、赤い実が見える。さっき帰って来た道とは別の方にも、赤い実のある家が幾つも。母が山茱萸の枝を貰って来た家も、その中の一つ。
(色々、赤い実…)
こうして窓から眺める辺りだけでも、赤い実をつけた木が何本も。きっと赤い実は、世界に沢山あるのだろう。この地域にだって、山のようにあるに違いない。
山茱萸の実が何か分からなかったように、名前を知らないものも、まだ見たことが無いものも。
なにしろ、世界は広いのだから。同じ地球でも、地域が変われば植物がまるで違うのだから。
地球の反対側の地域は、季節だって此処と逆様になる。秋ではなくて、春を迎えたばかりの所。そういう地域が秋になったら、赤い実の種類も此処とはきっと…。
(違うんだよね?)
園芸用に植えられた木や、栽培されている果樹の赤い実は同じでも。そっくり同じ赤い実の木もあるだろうけれど、知らない木の実も沢山ある筈。その地域では普通の、ありふれたものでも。
世界は本当に広いから。青く蘇った地球の上には、途方もない数の植物が生えているのだから。
前の自分が生きたシャングリラとは、全く違った豊かな植生。本物の地球と箱舟との差。
(シャングリラだと…)
あった木の実は全部分かるよ、と自信を持って言い切れる。
白い鯨に改造した時、導入された植物たち。何を植えるかは、何度も会議を重ねて決めた。船の中だけで全てを賄い、生きてゆくのに必要なもの。
食べられる実も、観賞用の木がつける実にしても、前の自分は把握していた。会議を経ずには、栽培許可は出なかったから。苗の調達も、前の自分がやっていたから。
白いシャングリラは閉じた世界で、知らない場所など一つも無かった。植物が育つ公園や農場、そういったものが何処にあるかも。
もちろん木の実は分かって当然、名前も形も全部分かっていたんだから、と思ったけれど。
(あれ…?)
不意に頭に浮かんだもの。プカルの実と呼んでいた木の実。シャングリラでは広く知られていた実で、ナキネズミの大好物だった。
前の自分たちが作った生き物、ナキネズミ。思念波を上手く扱えない子供をサポートするよう、人間と思念波で話せるようにと。思念波を中継することも。
そのナキネズミが好んだ木の実が、プカルの実。役に立ってくれたら、皆が御褒美に与えた実。頭を撫でて、「ほら」とプカルの実を一つ。
(プカルって、何の実だったっけ…?)
勉強机に頬杖をついて、思い出そうとしたプカルの実。どんなのだっけ、と。
途端にポンと出て来た木の実はサクランボ。真っ赤に熟した美味しそうな実は、シャングリラで実っていたけれど。前の自分も食べたのだけれど。
(…プカルじゃないよ?)
サクランボは、あくまでサクランボ。桜によく似た花を咲かせたサクランボの木。プカルという名で呼ばれはしないし、そんな渾名もあるわけがない。
サクランボは、サクランボなのだから。…プカルの木ではないのだから。
(プカルの実…?)
あれはどういう木の実だっけ、と遠い記憶を探るけれども、バラバラに浮かぶ赤い色の実。
最初がサクランボだったせいなのか、イチゴやリンゴや、様々なベリー。大きさも形も揃ってはいない。共通点は「赤い」というだけ。それから、どれも食べられる実。
たったそれだけ、出て来てくれないプカルの実。リンゴのように木に実ったのか、イチゴと同じ一年限りのものだったのか。あるいは木とも草とも呼べそうなベリー、そういったものか。
(…ぼく、忘れちゃった?)
プカルの木を。でなければ草を、ベリーのような茂みを作る植物を。
白いシャングリラに、プカルは確かにあったのに。…ナキネズミの好物だった実をつけたのに。
(でも…)
忘れるよりも前に、自分はプカルの木を知らない。木なのか草なのか、それさえも。どんな形の実をつけていたか、全く覚えていないのが自分。サクランボが浮かんだほどなのだから。
(…家の近くには生えてなくても…)
他の地域で育つ植物だったとしたって、前の自分の知識がある筈。今の自分が今日の帰り道で、色々な赤い実を見ていたように。この実の名前は…、と考えながら歩いたように。
前の自分もシャングリラのあちこちを視察したのだから、プカルもきっと見ていた筈。公園か、農場か、何処かできっと。
ナキネズミの好物の実が熟していれば、「これがプカル」と。花の季節にも、プカルの花を。
白いシャングリラで目にした筈のプカルの実。その実をつける木だか、草だか。そこから一つ、毟ってナキネズミに与えていたかもしれないのに。「よくやったね」と、御褒美に一つ。
子供たちと遊ぶのを仕事にしていた前の自分なら、そういう機会もあっただろうに。子供たちのサポートをするナキネズミを、何度も労ってやっただろうに。
どうしたわけだか、思い出せないプカルの実。それを実らせていた植物ごと。
木なのか、それとも草だったのか。プカルの実の形はどうだったのか。
(どうしよう…)
ぼく、本当に忘れちゃってる、と愕然とさせられたプカルの実。すっかり消えてしまった記憶。プカルの実という言葉は覚えているのに、実物の方を忘れてしまった。植物の姿も、実の形も。
(機械に消されたわけじゃないのに…)
前の自分は成人検査で記憶を消されて、繰り返された人体実験で何もかも全て忘れてしまった。育ててくれた養父母の顔も、育った家も、誕生日さえも。
けれども、今の自分は違う。前の自分の記憶を丸ごと引き継いだ筈で、切っ掛けさえあれば遠い記憶が蘇るもの。
そうだとばかり思っていたのに、ぽっかりと抜けたプカルの記憶。空白になっているプカル。
もしかしたら他にも、抜け落ちた記憶があるかもしれない。引き継がれずに失くした記憶。
プカルどころか、もっと様々な記憶を幾つも、自分は何処かに落としただろうか?
地球に生まれてくる時に。…今の自分に生まれ変わる時に。
プカルくらいならまだいいけれど、と思い浮かべた恋人の顔。前の生から愛したハーレイ。
二人で地球に生まれたけれども、プカルを忘れてしまっているのが自分だから。
(ハーレイのこと、忘れていたら嫌だな…)
それも、とっても大切なことを。
ナキネズミの好物だったプカルみたいに、前のハーレイの大好物とかを。
(好き嫌いは無い筈だけど…)
今の自分と全く同じで、好き嫌いが無いという今のハーレイ。前の生で酷い目に遭った食べ物、餌と水しか与えられなかったアルタミラの檻で生きていた頃。脱出した後も、ジャガイモ地獄だのキャベツ地獄だのと苦労した時代があったから。贅沢なことは言えなかったから、そのせいで。
前の自分たちの記憶が何処かに残っていたのか、今の生でも無い好き嫌い。ハーレイだって。
そうは言っても、前のハーレイにもあった嗜好品。今も好物のコーヒーや酒。
今の自分はそのくらいしか覚えていないけれども、抜け落ちた記憶があるのなら。プカルの実が思い出せないほどなら、前のハーレイにも何か好物があったかもしれない。
ナキネズミが好きだった、プカルのように。
今の自分が忘れているだけで、前のハーレイが好んだ何か。
それを忘れてしまったかも、と考えたら心配になって来た。心当たりはまるで無いのに、記憶に無いというだけの何か。前のハーレイが好きだった何か…。
恋人の好物を忘れていたらどうしよう、と思わず抱えてしまった頭。プカルの記憶が無い頭。
抱えた所で、何も浮かびはしないけれども。前のハーレイが好きだったものは、欠片さえも姿を見せてはくれないけれど。
(忘れちゃったの、それともハーレイの好物は無いの…?)
どっちなのだろう、と悩んでいた所へ聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、打ち明けた。
「あのね、ぼく…。ハーレイの好物、忘れてるかも…」
忘れちゃったかもしれないんだよ。ハーレイは何が好きだったのか。
「はあ? 忘れたって…」
なんの話だ、俺の好物を忘れたっていうのは、どういう意味だ?
「大好物だよ、ハーレイが好きな食べ物だよ!」
それを覚えていないかも…。すっかり忘れちゃってるかも…。
「俺の大好物ってか? それを言うなら…」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキってトコだな、直ぐに浮かぶのは。
美味いからなあ、おふくろのパウンドケーキとそっくりな味っていうのがいいんだ。
「今じゃなくって、前のハーレイだよ!」
前のハーレイの大好物って、なんだったの?
「なんだ、そっちか。前の俺なら、酒とコーヒーだな」
シャングリラを改造してから後は、酒は合成になっちまったし、コーヒーは代用品のキャロブのヤツになっちまったが…。それでも、好物に変わりはないってな。
ついでに、どっちも前のお前が苦手だった分、余計に美味い気がしたなあ…。
俺にはこいつの味が分かると、満足な気分に浸れたからな。優越感ってヤツかもしれん。
いや、禁断の味と言うべきか…。前のお前が苦手だったせいで、飽きるほど飲めなかったしな。
酒とコーヒー、これに限る、とハーレイは自信たっぷりだった。あれは美味かった、と。
その二つならば、今の自分の記憶にあるのと変わらない。忘れてはいないし、記憶は確か。
けれどプカルのことがあるから、まだ安心とは言い切れなくて…。
「お酒とコーヒー…。ホントにそれだけ?」
他にも何かあったんじゃないの、前のハーレイが好きだったもの。大好物の何か。
「お前なあ…。何を必死になっているんだ、酒とコーヒーだと言っただろうが」
それしか咄嗟に思い付かんぞ、前の俺だと言われても。…俺の好物、お前も知ってる筈だがな?
「でも…。ぼく、本当に忘れていそう…」
お酒とコーヒーは覚えているけど、本当に他には何も無かった?
前のハーレイが大好きな食べ物、お酒とコーヒーの他には何も無かったの…?
「無かったが…。今の俺と同じで、好き嫌いってヤツが無かったからな」
なんでも食えたし、なんでも美味い。そう思っていたのが前の俺だが…。
どうしたんだ、何かあったのか?
前の俺の好物を知りたいだなんて、今更、訊くまでも無さそうなんだが…?
「そうなんだけど…。本当だったら、訊かなくってもいいんだけれど…」
忘れてる例を思い出したんだよ、ハーレイのことじゃないけれど…!
大好物だった物が思い出せなくて、とっても困っていたんだよ…!
だから、ハーレイのことも忘れてしまっているのかも、って…。
前のハーレイが大好きだった食べ物のことも、ぼくは忘れていそうなんだよ…!
プカルの実が何か分からない、と目の前の恋人に白状した。遠い昔に、白いシャングリラで共に暮らしたハーレイに。
「…ナキネズミが好きだったプカルの実だよ」
あれが少しも思い出せなくて、どんな実なのか分からなくって…。
プカルそのものも覚えていないよ、木だったのか、草か、そんな基本のことだって…。
いくら考えても分からないから、前のハーレイの好物だって、忘れていたっておかしくないよ。
「なるほど、プカルか…」
プカルと言ったらプカルじゃないか。簡単なことだ、ナキネズミどもの好物だよな。
「ハーレイ、プカルを覚えているの?」
どんな実だったか、ちゃんと忘れずに覚えているわけ…?
「当たり前だ。…もっとも、お前がプカルと言うまで忘れていたが」
俺も一応、キャプテンだしな?
船のことなら、しっかり把握しておかないとな。ナキネズミも船に乗ってたんだし。
「じゃあ、ぼくにも分かるように教えて」
プカルはどういうものだったのか。…どんな実が出来て、どんな植物だったのか。
「だからプカルだ」
さっきも言ったろ、プカルはプカルだ。ナキネズミが好きなヤツなんだ。
「それじゃ、ちっとも分からないよ!」
もっと詳しく、きちんと説明してくれないと…。ぼくは言葉しか知らないんだから!
忘れているぼくが思い出せるように、プカルのことを説明してよ。
今だと何処に生えているのか、植物園に行ったら見られるのかとか、そういったことを…!
どういう実をつける植物がプカルだったのか。自分は覚えていないけれども、ハーレイは覚えているらしいから。この際、教えて貰わなければ、と意気込んだ。
記憶から抜けてしまったプカルを思い出せたら、他にも何か出て来るかも、と。忘れてしまった様々なことが。小さなことでも、つまらないような出来事でも。
「ふうむ…。プカルは何かと訊かれたら…」
コレだな、とハーレイが指差したケーキ。母の手作りのミルフィーユ。果物といえば、スライスしたイチゴが挟まっているけれど。ホイップクリームの中から覗いて、上にも飾ってあるけれど。
「…イチゴ?」
ハーレイ、これがプカルだって言うの?
「そうだが?」
他に果物は入ってないだろ、そいつがプカルの実なんだが?
「でも…。これ、どう見てもイチゴだよ?」
ママが作る所は見てなかったけど、普通のイチゴ。…変わったイチゴじゃないと思うけど…。
「だが、プカルだ。…お前の知りたいプカルの実だ」
どれがプカルかと訊かれりゃ、これだ。間違いなくこいつはプカルなんだ。
「嘘つき!」
ハーレイの嘘つき、ぼくが覚えていないと思って!
酷いよ、そんな大嘘をついて…!
「誰が嘘をつくか。…俺は真面目に答えてるんだぞ、あのシャングリラのキャプテンとして」
話しているのは今の俺だが、プカルが何かを答えているのは、キャプテンだった前の俺なんだ。
イチゴは本当にプカルだったし、そうだな、今だとプカルってヤツは…。
うん、この季節なら柿もプカルに入るかもなあ、渋柿は駄目だが、富有柿とか。
「柿!?」
渋柿は駄目で、富有柿って…。柿がプカルに入るって、なに…?
今でこそ馴染みの柿だけれども、柿はシャングリラに無かった植物。前の自分が生きた時代に、柿を食べる習慣は無かったから。
SD体制が崩壊した後、蘇った多様な食文化。青い水の星に戻った地球では、遠い昔の国などの特色を取り入れている。この地域だと日本風だから、柿の木を植えて、その実を食べる。
生で食べたり、干し柿にしたり、食べ方は色々。庭で育てる人も少なくない。
とはいえ、本当に今の時代ならではの果物が柿で、シャングリラの時代にある筈がない。なのに柿の実がプカルだなんて、ハーレイは何を言っているのだろう?
「…ハーレイ、ぼくをからかっていない?」
さっきはイチゴで、今度は柿って…。ぼくを騙して面白いわけ?
「騙すって…。お前、ホントにプカルを忘れちまっているのか…」
綺麗サッパリ忘れたんだな、まるで覚えていないんだな?
「だから、そう言ってるじゃない!」
何がプカルか、ぼくに教えて欲しいって…!
植物園にあるんだったら、見に行ったっていいくらいだよ。本物のプカルが見られるんなら…!
「その話も本気だったのか…。植物園って言っていたのも」
見事に忘れちまったか、プカル。…いや、お前が忘れたのはプカルじゃないな。プカルの実だ。
イチゴも柿もプカルだと言っても、お前、嘘だと怒るんだから。
「当たり前だよ、意味がちっとも分からないよ!」
イチゴと柿だと、何処も少しも似ていないじゃない…!
それに、シャングリラに柿の木は無かったんだから!
今の時代の果物なんだし、柿がプカルになるわけがないよ、ハーレイの馬鹿!
嘘をついた上に騙すなんて、とプンスカ怒って膨れたけれど。仏頂面になったけれども、何故か笑っているハーレイ。それは可笑しそうに、クックッと。
「…まあ、普通に考えればそうなるだろうな、柿もプカルだと言われちゃなあ…」
お前が怒るのも無理は無いんだが、本当のことだから仕方ない。俺は嘘なんかついていないし、騙して遊んでいるわけでもない。
いいか、よくよく考えてみろよ?
イチゴは赤くて、柿だって熟せば赤くなる。…それくらいのことは分かるだろ?
大切なのは其処だ、赤けりゃ何でもプカルなんだ。イチゴだろうが、柿だろうが。
「えっ?」
赤いとプカルって…。イチゴも柿もプカルだって言うの、赤い実だから…?
「うむ。そもそもプカルは、人間の言葉じゃなかったからな」
いくら調べても出ては来ないぞ、前の俺たちの時代のデータベースを隅から隅まで探しても。
シャングリラのなら、入っていたかもしれないが。…誰かが後から付け加えてな。
「なに、それ…」
人間の言葉じゃないなんて。…データベースにも入っていないって、プカルって…なに?
暗号だったってことはないよね、赤い実はプカルと置き換えるだとか。
「おい、暗号って…。そりゃまあ、暗号も必要だった時代だが…」
なんだってナキネズミの好物を暗号で呼ぶんだ、シャングリラ中の人間が。
お前、本当に忘れたんだな、プカルのことをすっかり全部。
プカルは赤い実の暗号ではない、とハーレイはイチゴをフォークでつついた。これもプカルで、柿の実もプカル、と。
「…プカルってヤツは、ナキネズミの言葉だったんだ」
人間の言葉じゃないというのは、文字通りの意味というわけだな。…動物の言葉なんだから。
「ナキネズミ…?」
いつも普通に話をしてたよ、ナキネズミは。そうでなきゃ、みんな困るじゃない…!
思念波を上手く扱えない子供に渡してたんだよ、ナキネズミ語じゃどうにもならないよ…!
「その通りだが…。最初から人間の言葉を話してたわけじゃないだろうが」
元はネズミとリスだったんだぞ、ネズミやリスが人間の言葉を喋るのか?
そういうヤツらを色々弄って、出来上がったのがナキネズミだ。…思念波で会話が出来る動物。
開発初期のナキネズミの時代だ、赤い実がプカルだったのは。
ハーレイが言うには、ナキネズミという生き物がようやく姿を現した頃。まだ毛皮の色も様々なもので、青い毛皮を持った血統を育ててゆこうと決まった頃。
ナキネズミたちは、船で自由に生きていた。研究室から解き放たれて、白いシャングリラの中を走り回って。
青い毛皮を持ったナキネズミは子供たちのサポートに向けて、教育を受けていたけれど。毛皮の色が違うナキネズミは、欲しがった仲間のペットになった。思念波で話が出来るのだから。
そういう時代に、ナキネズミ同士が出会ったら交わしていた会話。青い毛皮でも、他の色でも、同じナキネズミ同士で色々。
彼らの言葉と、人間の言葉が混ざったものを。思念波だったり、鳴き声だったり。
「その内にだな…。プカルちょうだい、と厨房に出たんだ」
「プカル…?」
「ああ。チビのナキネズミが一匹な」
青い毛皮のチビではあったが、まだ教育は受けていなかった。ほんの子供じゃ、早すぎるしな。
ナキネズミの社会しか知らなかったチビだ、そいつが厨房に迷い込んだんだ。
美味い匂いがしてたんだろうな、飯を作っている場所だけにな。
チョロッと入って来たもんだから、「何か食べるか」と厨房のヤツらが訊いたんだが…。
そしたら返事がプカルだったわけだ、「プカルちょうだい」と。
「そっか…! いたね、そういうナキネズミが…!」
思い出したよ、プカルが欲しいと言ったんだっけ…。
笑い話になったんだっけね、あの時のプカルも、プカルの実も…!
そうだったっけ、とポンと打った手。チビのナキネズミが欲しがったプカル。
けれど、厨房にプカルは無かった。そういう名前の食べ物は、何も。欲しがられても、プカルが何か分からなかった厨房にいた仲間たち。
優しかった彼らは、ナキネズミの注文を無視する代わりに、ヒルマンとゼルを呼ぶことにした。何がプカルか分からないから、ナキネズミを開発した責任者の二人を。
ナキネズミだけに通じる特別な言葉でもあるのか、と。研究室で使った専門用語だとか。
そういう用事で呼ばれたと聞いて、面白そうだと、ブラウとエラも厨房に出掛けた。前の自分とハーレイも。
丁度、暇な時間だったから。夕食の後の。厨房の者たちは、翌日の仕込みをしていた時間帯。
其処へ行ったものの、ヒルマンとゼルは首を捻った。心当たりが無かったプカル。そんな言葉は教えていないが、と。
謎が解けないまま、チビのナキネズミに尋ねたヒルマン。
「いったい、どれがプカルなんだね?」
プカルちょうだい、と頼むからには、何処かにプカルがあるんだろう?
好きに取っていいよ、私たちにはプカルが何か分からないからね。
どれでもお取り、とヒルマンが促し、ゼルも「そうじゃな」と頷いた。分からないなら、選んで貰えばいいのだから。
もし食べさせてはいけないものなら、「駄目だ」と取り上げればいいだけのこと。ナキネズミにとっては毒になるものや、消化の悪い食べ物だったら。
チビのナキネズミは厨房の中をキョロキョロと見回し、「これ!」と真っ赤なイチゴを抱えた。小さな二本の前足で。
『これ、プカル。…みんな、プカル、言ってる』
プカルはこれ、と届いた思念波。「食べてもいい?」と。
「なんだ、イチゴのことだったのかい…!」
あたしたちには分からない筈だよ、イチゴはイチゴだと思ってたしねえ…。
それがあんたのプカルなのかい、いいよ、お食べ。
ブラウが許してやったものだから、チビのナキネズミはイチゴにガブリと齧り付いた。欲しいと強請ったプカルの実に。
ヒルマンとゼルが呼び出されたプカルは、真っ赤なイチゴ。きっとナキネズミは、何か勘違いをしたのだろう。イチゴという言葉を覚える代わりに、間違えてプカル。
「みんな言ってる」とチビのナキネズミは言ったけれども、「みんな」とはチビのナキネズミ。子供のナキネズミばかりの集団の中で、イチゴをプカルと呼んでいるのに違いない。人間だって、幼い子供は独特な言葉を使うのだから。それと同じで、イチゴがプカル。
変な言葉があるものだ、と皆で笑って散会になった。「一つ賢くなった」と笑い合って終わり。
ところが、暫く経った頃。長老たちが集まった席で、ヒルマンが話題にしたプカル。
「この前のプカルなんだがね…。実は、厨房から昨日、連絡が来てね」
またナキネズミが来たらしいんだが…。リンゴをプカルと言ったそうだよ、これが欲しいと。
もちろんナキネズミはリンゴを食べるし、そのまま与えたらしいんだがね。
…しかし、プカルだ。この間はイチゴがプカルだったのに、今度はリンゴがプカルなんだよ。
「何かおかしくないかい、それ?」
ちょいと変だよ、イチゴとリンゴじゃ味も見た目も別物じゃないか。
あたしだったら間違えないけどね。記憶をすっかり失くしていたって、別の果物は別だろう?
違う名前で呼ぶけれどね、とブラウが不思議がる通り。
イチゴとリンゴは似ても似つかないし、同じプカルでは有り得ない。チビのナキネズミの語彙が足りないか、それとも言い間違えたのか。あるいは、プカルと言ったら貰えるだろうと、リンゴもプカルと呼んだのか。
厨房で初めて貰った食べ物がイチゴだったから。その時に「プカルちょうだい」と頼んだから。厨房で果物を貰う時には、どれも「プカル」と呼ぶのが一番なのだと考えたとか…。
謎が生まれたら、その謎を解いてみたくなるもの。今日は時間もあることだし、と問題のチビのナキネズミを連れて来させた。ナキネズミ担当の飼育係に連絡を取って。
厨房ではなくて会議室だから、ヒルマンが実物の代わりに見せた映像。ナキネズミが好む色々な果物、それを端から映していって。「どれがプカルか、教えて欲しいね」と。
そうしたら…。
『これ、プカル!』
サクランボを見るなり、思念波で叫んだナキネズミ。サクランボの季節ではなかったけれども、ナキネズミの子供時代は長いものだから、食べた経験はちゃんとある。サクランボもプカル。
そうなるのか、と次々に変えていった映像、赤い実が映ると「プカル!」という思念。赤い実はどれもプカルだった。イチゴもリンゴも、サクランボも。赤いベリーも、残らずプカル。
「そうかい、そういうオチだったのかい…」
赤けりゃ全部プカルなんだね、どんな果物も。参ったねえ…。
こりゃ、この子だけの問題じゃないよ、と天井を仰いで困り顔だったブラウ。他のナキネズミも赤い実は全部プカルなんだろう、と。
「ナキネズミ語じゃな、わしらの言葉とはまた違うんじゃ」
仕方ないのう、こいつらにも言葉はあるんじゃし…。ナキネズミ同士で話す間に、言葉が出来ていたんじゃな。…赤い実はプカル、といった具合に。
過渡期なんじゃし、こういうことも起こり得るじゃろ、とゼルが引っ張っていた自慢の髭。今は人間と話す時間よりも、ナキネズミ同士の会話が多い状態だから仕方がない、と。
「人間との接触が増えれば、変わるだろうね」
我々の言葉の方が身近になるから、プカルもイチゴやリンゴに変わっていくだろう。
そうでなければ、子供たちとのコミュニケーションにも困るだろうからね。
今の間だけの現象だよ、とヒルマンもゼルと同意見だった。ナキネズミ語は消えて、人間と同じ言葉が自然に残ってゆく筈だと。
ナキネズミ語だった、プカルの実。赤い実はどれでも、イチゴもリンゴもプカルの実。
その内に直ってゆくだろうから、と無理に直さないで放っておいたら、プカルの方が定着した。人間にとっても覚えやすかったプカル。ナキネズミの言葉で赤い実はプカル、と。
覚えてしまえば、ナキネズミと話していて「プカル、食べるか?」とやってしまいがち。大人も子供も、イチゴやリンゴを手にして「プカル」と言ってしまうもの。
言葉が拙い幼子相手に、そうするように。わざと幼い言葉遣いで話し掛けるように。
そうやって皆が赤い実を「プカル」と呼んでみせたものだから、ナキネズミの言葉が直るわけがない。気付けば赤い実は、全部プカルになっていた。
人間の方がナキネズミに合わせて、プカルはプカル。白いシャングリラに特有の言葉。
「そうだったっけ…。プカル、ナキネズミの言葉だったんだっけ…」
前のぼくもウッカリ言っちゃったんだよ、青の間にヒョコッと出て来た時に。
「プカル、食べるかい?」って、テーブルにあった赤い果物を指差して。
あれじゃ絶対、直らないよね…。みんながプカルって言うんだから。
「そういうこった。…だから柿でもプカルなんだ」
赤く熟せばプカルになるんだ、富有柿とかは。…渋柿だって、いずれはプカルだ。普通の柿より時間はかかるが、あれも熟せば甘いんだから。
「うん、知ってる。実がトロトロになった頃には、甘いんだよね」
パパとママに聞いたよ、干し柿にしなくても食べられる、って。スプーンで掬って。
でも、ナキネズミは、もういないけどね?
人間が手を加えすぎた生き物だから、って弄らないでおいたら、繁殖力が落ちてしまって…。
そのまま絶滅してしまって。
「いいんだ、それで。…生き物は自然に任せておくのが一番いい」
だが、あいつらが今もいたなら、柿は立派にプカルなんだぞ。渋柿は赤くなったというだけじゃ食えんし、プカルと呼びにくい代物だがな。
お前はプカルを忘れてはいたが、言葉だけだ、とハーレイは説明してくれた。プカルそのものは忘れていないと、イチゴもリンゴも、サクランボも覚えているだろうが、と。
「ナキネズミが果物を食っていたことを覚えていれば充分だな、うん」
プカルの実は赤い実のことなんだから。…綺麗に忘れてしまっていたがな、本当に。
「良かった、ナキネズミの好物を忘れていたんじゃなくて…」
どれがプカルか分からなかっただけで、赤い果物は全部プカルなんだし、ホッとしたよ。
覚えていたなら大丈夫だよね、ハーレイの好物もきっと忘れていないと思う。
前のハーレイが好きだった食べ物、ナキネズミ語で呼びはしないもの。
「いや、忘れてるな、今のお前は」
酒とコーヒーだと言っていたよな、なら、間違いなく忘れている。
ナキネズミ語で呼んでたわけじゃないんだが、お前の口から出て来ないからな。
「忘れてるって…。何を?」
ハーレイの好物を忘れているって、どんな食べ物?
「俺の一番の好物ってヤツは、お前だろうが。赤い実も二つくっついているな、目の所に」
美味かったんだ、前のお前はな。…本当に何よりも美味かった。
そいつを忘れて酒とコーヒーだと言ってる辺りが、チビならではだ。
前のお前なら、それは上手に俺を誘ったものなんだがなあ、食って欲しいと。
チビのお前はまだ食えないが、と悪戯っぽい笑みを浮かべたハーレイ。
頬が真っ赤に染まったけれども、一番の好物だと言って貰えたのが嬉しいから。
酒やコーヒーより、ハーレイが好きな食べ物が前の自分だったというのだから。
(…顔の赤い実って、ぼくの目だよね…?)
前の自分とそっくり同じに育った時には、またハーレイに食べて貰おう。
チビの間は無理だけれども、いつか大きく育ったら。
赤い実が二つ、と言われた赤い瞳ごと。
顔についている、ハーレイが好きな赤い実のプカルも、育った身体も、丸ごと全部。
赤い瞳もプカルだから。赤い実は全部、プカルだから。
そして幸せな時を過ごそう、ハーレイと二人。
甘い時間を熱く溶け合って、何度も何度も、甘くて優しいキスを交わして…。
プカルの実・了
※ナキネズミの好物だった、プカルの実。どういう実なのか思い出せずに、焦ったブルー。
けれど「プカル」は、ナキネズミたちの言葉だったのです。赤い実だったら、何でもプカル。
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「ずっと昔の、この地域では、だ…」
香りが重要だった話は前にもしたな、とハーレイが語る古典の授業。遠い昔の日本の話。
SD体制が崩壊した後、燃え上がった地球。それまでの地形はすっかり変わって、大陸の形まで変わったけれど。
今、ブルーたちが暮らす辺りは、かつて日本と呼ばれた小さな島国があった辺りの地域。古典の授業では日本の古典について習うし、香りの話は確かに聞いた。手紙や着物に焚きしめた香り。
また面倒な勉強か、と退屈しているクラスメイトたち。欠伸をしている生徒だって。
けれども、ハーレイが教室の前のボードに書き付けた文字。
「色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰(た)が袖ふれし宿の梅ぞも」。
ついでに「古今和歌集 よみ人知らず」とも。
えっ、と動いた教室の空気。今日の授業は和歌とは関係無かったから。
「…授業の続きだと思っていたな? お前たち」
そろそろ眠いと顔に書いてあるぞ、と笑ったハーレイ。こういう時には息抜きだよな、と。
ハーレイ得意の雑談の時間、今日は古典にも関係があるというのだろうか。なにしろボードには和歌が書かれたし、香りの話も出ていたから。
どういう話をするのだろう、とブルーもキョトンと眺めている中、ハーレイが始めた歌の解説。前のボードに書いてある和歌。
「この歌はだな…。梅は姿よりも香りの方が愛おしく思える、と詠んでいるわけで…」
いったい、この庭の梅は、誰の袖が触れたせいで、こんなに香しいのか、という歌なんだ。
授業でやったろ、衣服に香を焚きしめていた時代だった、と。そのための道具もあったしな。
季節の香りや、流行りの香りを踏まえた上でだ、自分だけの香りを作っていた。作り方や材料に工夫を凝らして、自分らしく。それがだな…。
貴族だけのものではなくなっていった、と広がってゆく話。古典の授業の範囲を離れて。
衣服に香を焚きしめた時代は、特権階級しか持てなかった香。あまりにも高価な物だったから。
けれど、時代は変わってゆく。貴族でなくても、香というものに出会える時代へ。
室町時代には、香を衣服に焚きしめる代わりに、持ち歩く者が増えてゆく。其処で、ハーレイが書いた古今和歌集の歌が浴びた脚光。
この歌を元に名付けた「誰が袖」という匂い袋が流行ったから。香を詰めた袋。
片方の袖にだけ入れることは縁起が良くない、と思われた時代に出来た「誰が袖」。二つを長い紐の両端につけて、首から下げて。着物の中を通すようにして、両方の袂に入れて使った。
それが最先端のお洒落で、歩けば「誰が袖」の香りも一緒についてくる。
古今和歌集の歌そのままに、いい香りがした着物の袖。
それが後の時代の匂い袋の始まり。一個だけでも気にしなくなって、片方の袂や胸元に。
最初は貴族だけが楽しんだ香は、庶民の文化に溶け込んだ。持ち歩いたり、着物と一緒に箪笥に入れて、そっと香りを移したり。
「他の地域だと、サシェってヤツだな」
ハーブや香料を入れておくんだ、匂い袋を作るみたいに。服に香りを移すんだが…。
縫い付けて使うこともあったと言うから、誰が袖とあまり変わらんな。そっちの方も。
…でもって、匂い袋もサシェもだ、自分の匂いを印象付けるのが目的ってトコか。
この歌のように、「誰の袖だろう」と思って貰えたら最高なわけだ。素敵な人に違いない、と。
香りの効果は、昔の話だけではないぞ。今の時代も立派に生きてる。
「これが私の香りなんです」と印象付ければ、相手の中で存在感が増すんだな。
そこでだ、恋人に会う時は、いつも同じ香水をつけて行くとか、使い方は色々あるわけで…。
お前たちにはまだまだ早いが、覚えておいて損はない。…香りってヤツは大切だとな。
「誰が袖」だけでも覚えておけ、と終わった雑談。
匂い袋なら今も買えるし、と。
(…匂い袋…)
小さな巾着のような、布製の袋。ふうわりといい香りが漂う袋。
母が持っているから、見たことはある。わざわざ買いに出掛けなくても。
サシェだって、母がクローゼットに入れていた。「いい匂いがするのよ」と、端っこの方に。
だから、「ふうん…」と思っただけ。今日の雑談は匂い袋とサシェの話、と。
特に何とも思わないまま、ハーレイの授業は終わったけれど。
家に帰って、おやつの時間に母に会ったら、思い出した。ケーキと紅茶を運んで来てくれた母。その瞬間に、「匂い袋だっけ」と。
母の服から、何かの香りがしたというわけではないけれど。香水もつけていないけれども。
匂い袋もサシェも、母の持ち物だからだろう。そういえば、と頭に浮かんだハーレイの雑談。
(恋人に会う時は、同じ香水…)
ハーレイはそう話していたから、「ちょっといいかも」と考えた。自分を印象付けられる香り。雑談では「お前たちにはまだまだ早い」と言われたけれども、チビでもちゃんと恋人はいる。前の生から愛し続けた、ハーレイという恋人が。
だから、「ハーレイに会うなら匂い袋」と。…香水はとても子供向けとは思えないから。
「ママ、匂い袋、ある?」
多分ある筈、と母に尋ねた。あったら持って来て欲しい、と。
「あるけれど…。どうしたの?」
匂い袋なんか、何に使うの?
学校に持って行きたい…ってことは無いわよね?
「んーと…」
持って行きたいわけじゃないけど、学校は関係無いこともなくて…。
「ふふっ、ママにも分かったわ。…ハーレイ先生ね?」
授業で出たのね、匂い袋のお話が。あれも昔の日本のものだし、古典にも出て来そうだものね。
はいどうぞ、と部屋から持って来てくれた母。
絹なのだろうか、淡い色の小さな布袋の香りは優しいけれども、子供の自分にはどうだろう?
香水が似合わないのと同じで、あまり似合わないような気がする。落ち着いた、大人びた香り。これを自分が漂わせていたら、無理をして背伸びしているような…。
(…ぼくには、ちょっと合わないみたい…)
母の持ち物だからだろうか。…匂い袋を扱う店に行ったら、他の香りもあるのだろうか?
「ママ、匂い袋…。子供向けっていうのはないの?」
この匂いは、なんだか大人っぽいから…。もっと小さな子供向けのは?
「そうねえ…。匂い袋は、どれも似たような感じだから…」
子供も好きそうな匂いになるのは、サシェの方かしらね。あれも中身によるけれど…。
これなら少し香りが柔らかいわ、と母が部屋まで取りに出掛けてくれたサシェ。小さな布の袋を手のひらに乗せて貰ったら、ふわりと漂うラベンダーの香り。
(…匂い袋よりはマシだけど…)
ラベンダーもやっぱり、チビの自分には似合わない。ハーレイと会う時につけていたって、失笑されるだけだろう。「お前、俺の話を真に受けたのか?」と、「子供にはまだ早すぎだ」と。
これは駄目だ、と諦めるしかない、匂い袋とラベンダーのサシェ。きっとハーレイは笑うだけ。どちらの香りを纏っていても。
だから…。
「ありがとう、ママ。…これ、返すね」
「…あら、もういいの?」
ブルーの部屋に持って行ってもいいのよ、欲しいんだったら。
「ううん、どんな匂いか分かったから」
ちょっぴり知りたかっただけ。…子供にも似合う匂いなのかな、って。
だけど、思っていたより大人の匂い。サシェだって、ぼくよりも大きな人向けだよね。
匂い袋とサシェの実物を見せてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
勉強机の前に座って頬杖をついた。ちょっと残念、と。…匂い袋もサシェも、家にあったのに。わざわざ買いに出掛けなくても、母が「はい」と出して来てくれたのに。
(…ぼくには似合わない匂い…)
子供向けじゃない、と零れた溜息。チビの自分は、ハーレイに香りで印象付けられないらしい。匂い袋やサシェを使って、いつでも同じ香りを纏って。
せっかく素敵な恋の裏技を聞いたというのに、子供だからまだ使えない自分。匂い袋は無理で、サシェだって駄目。どちらも役に立ってはくれない。
もっと大きくならないと…、とクローゼットに視線を投げた。前の自分の背丈の高さに、鉛筆で微かに引いた線。此処からはまるで分からないけれど、そこまで育たないと香りは無理、と。
ソルジャー・ブルーと同じ姿になったら、きっと香りも似合うだろう。前の自分はサシェも匂い袋も使っていなかったけれど、大人の姿ではあったのだから。
(…似合う匂いも、絶対、あるよね?)
大きくなったら考えなくちゃ、とハーレイの雑談を思い返した。恋人に会う時は同じ香水、と。
前の生から恋人同士の二人なのだし、要らないような気もするけれど。
香りで印象付けるまでもなく、ハーレイは迷わず自分を選んでくれそうだけれど。
「俺のブルーだ」と、今でさえ言ってくれるのだから。…キスを許してくれないだけで。
とっくの昔に恋人同士で、今度は結婚する二人。
匂い袋やサシェの香りを纏わなくても、ハーレイはプロポーズをしてくれそうだけれど…。
(それじゃ、ハーレイは?)
チビの自分とは違って、大人のハーレイ。そのハーレイには、何か香りがあっただろうか。
雑談には出て来なかったけれど、遥かな昔に貴族たちが焚きしめていた香り。男性も自分で香を作ったりしていたほどだし、今の時代も男性用の香水が幾つも売られている筈。
女性だけのものではないのが香りで、男性だって香りで自分を印象付けるもの。今も昔も。
チビの自分は香りがサッパリ似合わないけれど、立派な大人のハーレイなら使いこなせる筈で。
あんな雑談をするくらいだから、ハーレイの香りもありそうで…。
(コーヒーに、お酒…)
直ぐに浮かんで来る、ハーレイが好きな飲み物の匂い。食べ物よりは特徴があるし、ハーレイの側にあっても少しも可笑しくない匂い。コーヒーに、お酒。
それから…、と考えてみるのだけれど。
自分が知っているハーレイの匂いというものは…。
(ハーレイでしかないんだよ…)
お酒でもコーヒーでもなくて、と鼻腔をふわりと掠めた匂い。ハーレイは来ていないけれども、鼻が覚えている匂い。ハーレイの身体はこういう匂い、と。
甘えて胸にくっついていたら、よく分かる。とても心地良くて、心がほどけてゆく匂い。
優しくて、それに温かくて。…幸せな気持ちが、胸一杯に溢れて来て。
(前のハーレイも、おんなじ匂い…)
キャプテン・ハーレイだった頃のハーレイからも、同じ匂いがしたのだろう。
今のハーレイとは全く違ったキャプテンの制服を着ていたけれども、きっと、そう。
くっついた時に、「違う」と思ったことが無いから。
いつでも前と全く同じに、吸い込みたくなる匂いだから。…ハーレイが好き、と。
そう、「好き」という気持ちが溢れる匂い。幸せになれるハーレイの匂い。
前の自分も好きだった。逞しくて広い胸に抱かれて、ハーレイの匂いに包まれるのが。…まるで温かな毛布さながら、くるまっているのが大好きだった。前のハーレイが纏う匂いに。
今もハーレイは同じ匂いがするから、今の自分も幸せに酔える匂いだから。
(あの匂い…)
持ち歩けたらいいのに、袋に詰めて。大好きな匂いを詰め込んで。
雑談で知った「誰が袖」のように。匂い袋や、サシェみたいに。…ハーレイの匂いを詰め込んだ袋。小さいけれども、ハーレイの匂いがする袋。
持って歩けたなら、きっと幸せ。時々、そっと取り出してみては、胸一杯に香りを吸い込んで。
(それだと、ぼくがハーレイになっちゃう?)
自分らしい香りを纏う代わりに、ハーレイと同じ匂いだから。ハーレイの匂いを纏うのだから。香りで印象付けられはしないし、恋人と同じ香りをさせても、意味は全く無さそうだけれど…。
でも、ハーレイの匂いが詰まった袋があったなら。
小さなそれを、持ち歩けたら。
(いつも幸せ…)
ハーレイが側にいない時でも、二人一緒にいるようで。広い胸に甘えているようで。
あの匂いがふわりと漂うだけで。…鼻腔を掠めてゆくだけで。
(ベッドに持って入ったら…)
枕の上に乗せておいたら、ハーレイが隣にいてくれるような気分になれるに違いない。直ぐ側に温かなハーレイの匂い。…前の自分も好きだった匂い。
独りぼっちで眠るベッドでも、きっと幸せなのだろう。ハーレイの匂いがありさえすれば。
母が見せてくれた小さな匂い袋や、サシェに詰まった恋人の匂い。
それがあれば、と膨らむ思い。ハーレイの匂いがする袋、と。
恋人の香りが漂う匂い袋。ハーレイの匂いが詰まった袋。中から幸せな、大好きな匂い。
(欲しいな…)
そういう匂い袋を一つ。ハーレイの匂いを纏った袋。
どうすれば、それを作れるだろう?
本物の匂い袋やサシェだと、中身は香料やハーブだけれど。ハーレイの匂いを作るなら…。
(香水って言ってた…)
自分を印象付けたいのならば、恋人に会う時は同じ香水をつけてゆくのが効果的。
ハーレイは確かにそう言ったけれど、香水を使っているのだろうか。何か好みの香水があって、それを使っているというなら、ハーレイの匂いの袋は作れる。
その香水を買えばいいのだから。ハーレイが使う香水の匂いが、ハーレイの匂いなのだから。
香水の名前を教えて貰って、小さな袋につけるだけ。中の綿とか、袋そのものにつけるとか。
(駄目で元々…)
どんな香水か訊いてみたい、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、香水、使ってる?」
使っているなら、それの名前、教えて欲しいんだけど…。
「はあ?」
香水ってなんだ、それに名前って…。いったい、何の話なんだ?
「ほら、ハーレイの匂い、あるでしょ?」
ハーレイがいつも、させている匂い。それのことだよ、こうすれば分かるよ。
椅子から立って、ハーレイの方へと回り込んで。
大きな身体にギュッと抱き付いて、胸一杯に匂いを吸い込んでみて。…この匂いだ、と身体中の細胞が喜んでいるから、幸せな気持ちが満ちてくるから。
「ハーレイの匂い…」
今もしてるよ、これが欲しいよ。…ぼく、この匂いが欲しくって…。
だから香水、と名残惜しい気持ちで離れて、元の椅子へと腰を下ろした。香水、教えて、と。
「香水って…。なんでそういう話になるんだ」
俺の匂いというのは理解出来たが、其処でどうして香水なんだ?
「今日のハーレイの授業だってば。…誰が袖の話、していたでしょ?」
二つくっついた匂い袋で、名前の元はこの歌なんだぞ、って。
それから、自分を印象付けたいんだったら、恋人に会う時は同じ香水をつけることだ、って。
…家に帰って、ママに頼んで、匂い袋とサシェとを出して貰ったけれど…。
どっちも子供向けの匂いはしなくて、もっと大人の人に似合いそう。…大人っぽい匂い。
それでね、ぼくは匂い袋とかを持っても似合わないみたい、って思ってる内に…。
欲しくなったんだよ、ハーレイの匂いがする袋。…小さいけれども、ハーレイの匂い。
それがあったら、いつでもハーレイの匂いと一緒。ハーレイと一緒の気分になれそうでしょ?
だって、ハーレイの匂いなんだから。
…ぼくの匂いがハーレイの匂いになっちゃうけれども、そういう匂い袋が欲しいよ。
作りたいから、ハーレイの香水の名前を教えて、と繰り返した。買いに行くから、と。
「もし高くっても、お小遣いを貯めて買わなくちゃ。…ハーレイの香水と同じ香水」
ハーレイの匂いは、前のハーレイも今のハーレイも同じだもの。
うんと幸せになれる匂いで、大好きな匂い。…だからハーレイの香水、教えて。
何処で売ってるのかも教えてくれたら、もう最高に嬉しいんだけど…。
なんていう名前なの、ハーレイが使っている香水は…?
「…なるほどな…。それで香水だと言い出したのか」
教えてやりたいのは山々なんだが、俺からもお前に一つ訊きたい。
…前の俺は香水、使っていたか?
キャプテン・ハーレイが香水をつける所を、前のお前は見ていたのか…?
「えーっと…?」
前のハーレイの香水だよね?
つけている所、見ていたのかな…。思い出したら、香水の名前も分かるのかな?
シャングリラでも香水、作っていたものね。…フィシスのために花の香りのとかを。
フィシスのは天然素材だったけど、合成の香水もあった筈だし…。
合成だったら、人類の世界にあった香水と同じ名前をつけてたのかな?
…前のぼくたちの頃の香水の名前、今も使われているのかな…。
とても人気の定番だったら、そういうことも充分ありそうなんだけど…。
ハーレイからのヒントだろうか、と心が弾んだ香水の話。キャプテン・ハーレイが使った香水。
それの名前を思い出せたら、ハーレイが答えを言うよりも前に、手に入りそうな香水の名前。
(…なんていう香水だったっけ…?)
全然覚えていないんだけど、と思いながらも手繰った記憶。前の自分が持っていた記憶。
キャプテン・ハーレイ愛用の香水だったら、青の間にも置いていただろう。シャワーの後には、シュッと一吹きしただろうから。…そうでなければ、指先でそっとつけるとか。
(どんな形の瓶だっけ…?)
大きさはどれくらいだっただろうか、と懸命に記憶を遡ったけれど。まるで記憶に無い香水瓶。バスルームには置いていなかったし、他の場所にも無かったと思う。
(何処に置いてたの…?)
前のハーレイの動きを辿れば分かるのかも、と二人で過ごした夜の光景を思い浮かべてみた。
ブリッジでの勤務を終えた後に青の間に来ていたハーレイ。逞しい胸に抱き締められた途端に、ハーレイの匂いに包まれた。…幸せが満ちる、あの匂いに。
そのままベッドに行く時もあれば、ハーレイがシャワーを浴びに行くことも。
熱くて甘い時を過ごして、ハーレイの腕の中で眠ったけれど…。
(…シャワーを浴びに行ってた時でも、ハーレイの匂い…)
そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。朝まで自分を広い胸に閉じ込めていたハーレイ。
ハーレイの匂いに包まれて幸せに眠ったけれども、シャワーを浴びた後でベッドに来た時は…。
消えてしまっていた匂い。ボディーソープやらお湯の匂いで、すっかり洗い流されて。
あの匂いがする香水をつけてはいなかった。…シャワーを済ませて来たハーレイは。
けれども、いつの間にか、ハーレイが纏っていた匂い。
香水をつけにベッドを出てはいないのに、前の自分を朝まで優しく包み込んだ匂い。
あれは何処から来ていたのだろう、ハーレイは香水をつけに行ってはいなかったのに…?
どう考えても、ハーレイが香水をつけに出掛ける暇は無かった筈。ベッドから出ないのだから、香水は何処からも出て来そうにない。…ベッドの側に置いていたならともかく、それ以外では。
(だけど、香水の瓶は無かったよ…?)
ベッド周りの棚などは部屋付きの係の目に触れるから、置いてはおけなかったと思う。それでも置いていたのだったら、前の自分が目に付かないようシールドを施していただろう。
そうなってくると、ハーレイの匂いだと思っていたのは香水ではなくて、ハーレイそのもの。
(…ハーレイが持ってる匂いなんだ…)
シャワーを浴びて匂いが消えても、朝には纏っていたのだから。まだ服も着ていなかったのに。
あれはハーレイの身体の匂い、と気付いた途端に赤らんだ頬。逞しい身体を思い出して。チビの自分はキスさえ許して貰えないけれど、前の自分はあの身体と…。
恥ずかしくなって俯きながら、それでも目だけはハーレイの方へ。
「…香水、つけていなかった…」
前のハーレイは香水をつけていないよ、ぼくは一度も見ていないもの。
…だけど、いつでもハーレイの匂い。ちゃんとハーレイの匂いがしてたよ。
「そうだろうが。…今の俺も前と同じだが?」
香水なんぞはつけていないし、買ってもいないな。…俺の趣味ではないからな。
でもって、お前のその顔つきからして…。
分かったらしいな、あれは香水の匂いじゃないと。俺の身体の匂いだった、ということがな。
ハーレイの口から聞かされた正解。やはり香水ではなかった匂い。ハーレイの身体が持つ匂い。それが欲しいと思うけれども、香水ではないと言うのなら…。
「じゃあ、ハーレイの匂い、どうすればいいの?」
あの匂いを作るには、どうしたらいいの?
…ハーレイの匂いが欲しいのに…。匂い袋に入れておきたいのに。
「そうだな…。俺の匂いの作り方か…」
まずは、朝起きたら、軽く体操するかジョギング。その日の気分次第ってトコだ。庭の手入れも悪くないなあ、草を毟ったり、芝生を刈ったり。
それから朝飯、分厚いトーストを二枚は欲しい。田舎パンでも、そのくらいの量で。
パンにはおふくろのマーマレードと、美味いバターと。そいつを塗ってる日が多めだな。
卵料理も忘れちゃいかんぞ、オムレツもいいし、スクランブルエッグも、ベーコンエッグも…。固ゆで卵や半熟もいいな、ポーチドエッグもいいもんだ。
ソーセージも焼いて、卵料理と一緒に食うのが好きだな、うん。…新鮮な野菜のサラダとかも。
飲み物はコーヒー、野菜ジュースや牛乳もいい。こいつも、その日の気分で決める。
…朝飯はだいたい決まってるんだが、昼飯と晩飯は色々だなあ…。必ずコレだ、というのは特に無いから、そっちは何でもいいだろう。しっかり食えれば。
後は晩飯の後にコーヒーを一杯、酒も適度に。ウイスキーでもブランデーでも、日本酒でも。
…そんなモンだな、俺の生活。
俺の身体はそういう毎日が作っているから、これを参考にするといい。
前の俺とはまるで違うが、同じ匂いがするというなら、今ので問題無いだろう。
これで出来る、と言われたけれど。…ハーレイの匂いの作り方だと言われたけれど。
ハーレイの匂いは卵料理の匂いではないし、トーストや田舎パンとも違う。焼いたソーセージの匂いもしないし、コーヒーや酒の匂いだって。
全部混ぜたら出来るのだろうか、そういったものを。それとも、何か秘訣があるのか。
作る方法が分からないから、首を傾げて尋ねてみた。
「…どうやって作るの、今、聞いたヤツで?」
どうすればハーレイの匂いが出来るの、トーストとかを全部混ぜるの?
「お前なあ…。それだと、とんでもない匂いになると思わないか?」
コーヒーにブランデーなら、いい匂いにもなるってもんだが…。他はどうだか…。ソーセージを焼く時にブランデーを加えてやったら、ちょいと美味いかもしれないが。
しかし、コーヒーを入れて焼いたら、美味いソーセージにはならないぞ。卵料理にもコーヒーは合わん、混ぜちまったら。別々に食ってこそだってな。味も、匂いも。
つまりだ、俺が言ったヤツを美味しく食うのが俺の匂いの作り方だが…。食べる前の軽い運動も含めて、俺の匂いになるんだろうが…。
お前が全部、その通りに真似をしてみたとしても…。お前の匂いにしかならないだろうな。
俺の匂いが出来る代わりに、お前らしい匂い。…お前は、お前なんだから。全く別の人間で。
「ハーレイの匂い…。作れないの?」
ぼくが頑張っても、ぼくの匂いになっちゃうの?
朝に体操して、ハーレイとおんなじ朝御飯をママに作って貰って食べても…?
「当たり前だろうが、誰だって違うものなんだから」
身体の匂いは人それぞれだし、俺とお前じゃ体格からして違うんだしな?
同じ匂いになるわけないだろ、よっぽど匂いのキツイ料理を揃って食べでもしない限りは。
ハーブ料理だの、ガーリックだの…、とハーレイが挙げた匂いの強い料理。けれども、そうした料理を二人で食べても、同じ匂いはほんの少しの間だけだ、と。
食べ物の匂いは抜けてしまって、元の匂いに戻るから。ハーレイはハーレイの、自分は自分の。
どうやらハーレイの匂いは作れないらしい。…ハーレイにしか。
「…ハーレイの匂い、欲しいのに…」
匂い袋に入れておきたいのに、作れないなんて…。ハーレイの匂い、大好きなのに。
前のぼくだった頃から、ずっと好きな匂い。いつでも側にあればいいのに…
「お前にはまだ早いだろうが。…授業の時にも言った筈だが?」
恋人に会う時は同じ香水をつけるといい、という話。…それと同じだ、俺の匂いもまだ早い。
いずれ嫌というほど嗅ぐことになるさ、俺と一緒に暮らし始めたら。
俺の匂いを作らなくても、お前にも匂いが移るくらいに。…一晩中、側にいるんだから。
「そうかもね…。前のぼく、ハーレイの匂いに包まれて眠っていたし…」
いつもハーレイの匂いがしてたよ、幸せな匂い。…だから大好きな匂いなんだよ。
でも…。匂いが移るって言うんだったら…。
もしかしたら、前のぼく、ハーレイの匂いがしていたのかな?
一晩中、ハーレイと一緒だったし、朝になったらハーレイの匂い…?
「多分な。…シャワーを浴びていなければな」
食事係が変な顔をしたかもしれんな、ソルジャーからキャプテンの匂いがすると。
…朝飯を作りにやって来た時に。
「えっ…!」
前のぼくから、ハーレイの匂いって…。夜の間に匂いが移って、そのままになって…?
朝にシャワーを浴びてなかったら、ハーレイの匂いがしていたの、ぼく…?
まさか、と驚いてしまったけれど。ハーレイの匂いが移ったとしても、一時的なものだと思っていたけれど。
(いつも、朝にはシャワーを浴びていたけど…)
病気で寝込んでしまった時には浴びなかったシャワー。そんな元気は無かったから。
そういう時にも、ハーレイは一晩中、側で眠ってくれていた。前の自分を胸に抱き締めて。夜に具合が悪くなったら、看病だって。
ハーレイの匂いに包まれて眠って、次の日の朝はシャワーを浴びないまま。食事係が朝の食事を作りに来た時も、ベッドに入ったままだったから…。
「ハーレイ…。前のぼく、具合が悪かった時は、朝にシャワーを浴びなかったけど…」
あの時のぼくは、ハーレイの匂いがしていたのかな…?
寝てる間に移ってしまったハーレイの匂い、ぼくの身体に残ってたかな…?
「どうだかなあ…?」
残っていたとしても俺には分からん、自分と同じ匂いなんだから。
…嗅いで確かめたりもしないし、どうだったんだか…。
俺の匂いをさせていたのか、お前の匂いの方だったのか。
考えたことすら無かったからなあ、お前に俺の匂いが移ってしまうということをな。
まるで気にしていなかったから、とハーレイはフウと溜息をついた。
もしも匂いが移ったとしたら、誰か気付いていたかもな、と。
「だ、誰が…?」
誰が匂いに気付いたっていうの、やっぱり食事係とか…?
ハーレイが最初に思い付いたの、食事係のことだったもんね…?
「いやまあ、あれは単なる思い付きで…。朝一番にやって来るのは食事の係だったしな」
食事係は食事を作るのが仕事なんだし、そっちに集中していたんだから大丈夫だろう。…周りの匂いに気を取られていたら、美味い料理は作れないしな。
第一、青の間のキッチンでやっていたのは最後の仕上げだ。トーストを焼いたり、卵料理を注文通りに作ったり、と。最高に美味い匂いが漂うトコだぞ、お前の匂いにまでは頭が回らんだろう。
そうでなくても、人間の鼻では分からないだろうと思うんだが…。
お前に移った俺の匂いを嗅ぎ分けられるほど、鋭い嗅覚は持っていないと思うわけだが…。
これが動物だと、いい鼻を持っているのがいるからな。…ナキネズミだとか。
「ナキネズミ…。そう言えば、たまに遊びに来てたね」
子供たちのサポートをしていない、暇なナキネズミが。朝からヒョイと顔を覗かせて。
…可愛らしいから、「おいで」って遊んでやっていたけど…。寝込んだ時でも、ベッドに入れてやったりしていたけれど。
気付かれてたかな、ハーレイの匂い…。
ナキネズミ、誰かに喋ったのかな、「ソルジャーからキャプテンの匂いがしたよ」って。
「さてなあ…?」
他の人間がいる所までは、喋りに行きはしないんじゃないか…?
食事係は相手にしてはくれんし、他の仲間も朝は忙しくしているヤツらが殆どだからな。
子供たちは時間があっただろうが、ナキネズミを見たら触りに行くから、自慢の毛皮がすっかりクシャクシャにされちまう。…朝っぱらからオモチャになりたい気分じゃないだろうさ。
だから行かんな、あいつらは。…不思議な匂いだと思ったとしても。
せいぜいナキネズミ同士の話程度だろう、と笑うハーレイ。
ねぐらにしていた農場に帰って、「今日はキャプテンの匂いだった」と。
「…バレちゃってたかな、ぼくとハーレイが恋人同士なんだってこと…」
ぼくからハーレイの匂いがするのは、そのせいなんだって気付かれてたかな?
ナキネズミ、ベッドにも入ってたんだし、ハーレイの匂いがするものね…?
ぼくだけじゃなくて、枕もシーツもハーレイの匂い…。
「それはないだろ」
人間だったらピンとくるヤツもいたかもしれんが、ナキネズミだぞ?
鼻がいいから匂いが分かるというだけのことで、其処から推理を始めはしないさ。
動物だしな、とハーレイは即座に否定したのだけれど。
…ナキネズミは思念波の扱いが下手な子供たちのパートナーとして作った動物。ネズミとリスを組み合わせながら、あちこち弄って、思念波が使える生き物を誕生させた。
子供たちと自由に会話出来るように、思念波の中継も手伝えるように。
そういう風に作った生き物、ナキネズミは自分で考えもする。…他の動物たちに比べて、人間に近い考え方を。…人間だったらどうするだろう、と拙いながらも推し量ることも。
人間に近い思考回路を持った動物がナキネズミならば、ただの動物とは違うのだから…。
もしかしたら…、とハーレイと顔を見合わせた。
全部のナキネズミが気付いたことは無かったとしても、一匹くらいはいたかもしれない、と。
勘の鋭いナキネズミ。…ソルジャーからキャプテンの匂いがしている理由を見抜いた一匹。
「…いたんじゃないかな、一匹くらいは…?」
そういえば、ぼくをじいっと見ていたナキネズミがいたよ。…時々、首を傾げながら。
ベッドにもぐってはゴソゴソ出て来て、ぼくの顔を見て何度も匂いを嗅いでた。
…なんていう名前の子だったのかは忘れたけれど…。ハーレイの方も見てたよ、あの子は。
ひょっとしたら、気付いていたのかも…。ぼくに「恋人?」って訊かなかっただけで。
「うーむ…。そいつは怪しい感じだな…。俺の方まで見ていたとなると」
でもまあ、他にはバレてないしな?
多分、俺やお前の心が読み取れなくて、確信が持てなかったんだろう。…恋人同士だと。
もしもしっかり見抜いていたなら、ナキネズミの間で噂になって…。其処から子供たちの耳にも入っていたかもしれん。「内緒だよ?」とナキネズミどもが耳打ちしてな。
そうなっていたら、子供の「内緒」はアテにならんし、シャングリラ中にバレたってか。
…ナキネズミが一匹、お前の匂いに気付いたばかりに、俺たちのことが。
「危なかったね、そんなの思いもしなかったよ…」
ぼくからハーレイの匂いがするとか、ナキネズミがそれに気が付くだとか。
「まったくだ。…とんだ所に危険が潜んでいたってな」
とはいえ、俺たちの仲はバレなかったし、もう心配は要らないわけだ。
今度は結婚するんだからなあ、匂いは心配しなくてもいい。
俺と一緒に暮らす以上は、お前から俺の匂いがしてても、不思議でも何でもないんだから。
たっぷりとお前に移してやろう、とウインクされたハーレイの匂い。
今は作れはしないけれども、匂い袋に入れておくことは出来ないけれど。
(…ハーレイの匂いで、大好きな匂い…)
いつか好きなだけ嗅げる日が来る、温かな胸に抱き締められて。
眠る時はもちろん、ソファで一緒に座る時にも。…床に座っている時でも。
結婚して二人で暮らす時には、幸せたっぷりの中で包まれる匂い。
それを想うと、胸がじんわり温かくなる。
きっといつかは、大好きな匂いを自分にも移して貰えるから。
ナキネズミが首を傾げた匂いを身体に纏って、ハーレイと二人、幸せな朝を迎えられるから…。
匂い袋と恋人・了
※ブルーが欲しくなったハーレイの匂い。前のハーレイも、同じ匂いがしたのですけど…。
前のブルーに移ったハーレイの匂いに気付いたらしい、ナキネズミ。危ない所だったのかも。
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